ある日、群れからはぐれた鶴は、森の奥で罠にかかってしまう。そこに死んだ目をした男が現れて鶴を助け出す。鶴は恩返しのために、若く美しい女に変身し男へ接近する。



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鶴は自殺志願者に恩返しをするそうです

 

 1.

 

 

 ある日、鶴は群れからはぐれてしまった。

 生まれてから10年間、こんなことは初めてだった。

 いくら呼んでも、探しても、仲間の姿は見当たらない。

 そのあと数週間、仲間を探して飛び回ったが、結局は見つからずじまいだった。

 

 仲間は、先に進んでしまったのかもしれない。

 

 鶴は群れの中で一番うすのろだった。

 いつもヒイヒイ言いながら、皆のあとを懸命に飛んで、付いて行く。

 

 だからみんなは自分がいなくなって、本当は喜んでいるんじゃないか。

 そんな根拠のない被害妄想を、鶴は膨らませていた。

 

 自分はひとりぼっちなってしまった。

 どうしよう。どうやって生きていこう。一匹で生きていけるのだろうか? 

 鶴は、寂しさで胸を震わせていた。

 

 

 2.

 

 

 鶴は疲れていた。長時間飛び回っていたからである。

 なので地面に降下して、休むことにした。

 しかし、飛び降りた場所には不運にも罠がしかけてあった。

 人間が仕掛けた罠だった。きっと畑を荒らす野生動物に腹を立てた地主が設置したものであろう。

 鋭くとがった罠の刃先が、鶴の右足に刺さる。か細い足から血が流れていく。

 

 鶴は懸命に抜け出そうとするが、うまくいかない。

 痛みと恐怖から、鳴き声を上げる。その絶叫は、森の中に響き渡った。

 

 そうすると、森の奥の暗がりから一人の人間の男が現れた。

 ボサボサの髪で、無精ひげを生やしていて、希望を失ったような暗い瞳をした男だった。

 男は右手に縄を持っていて、ゆらゆらとゾンビみたいな歩き方で鶴に歩み寄る。

 それからガシャリと、鶴の右足に引っ掛かっている罠を外す。

 男は死んだ魚のような目で、鶴をしばらく見つめた後、また来た道を引き返した。

 

 

 3.

 

 

 数日経って、鶴のケガはある程度マシになった。

 鶴はその間、考えを巡らせていた。

 あの人間の男についてである。

 彼は命の恩人だ。

 助けてくれた恩を返したい。

 せめて一言会って感謝の言葉を伝えたい。

 それに興味があった。

 自分を助けたあの男にである。

 

 鶴は、男の靴の匂いは覚えていた。

 その匂いは、いまだくっきり匂いは残っている。なので痕跡をたどれば男の所へたどり着くだろう。

 鶴は自身の真っ白な翼を広げ、飛び立った。

 

 

 4、

 

 

 緑一色だった眼下の光景が、コンクリートで染め上げられていく。

 鶴は、人間たちが暮らす街にたどり着いた。

 それから男の匂いを追って、飛び続ける。

 

 しばらくして、鶴はとうとう男を見つけた。

 男は町はずれの公園にいた。

 公園は男以外誰もおらず、ひどく寂しげである。

 

 男は公園のベンチに座り、タバコを吸いながら、ぼんやりと空を眺めている。

 そんな男を、鶴は遠くからじっと見ていた。

 

 

 6、

 

 

 鶴は、自分の頭の中で「人間の女」を思い浮かべた。

 すると、鶴は人間の若い女に変身した。

 

 不思議な事に、鶴は物心つく頃から、他の生物に変身する力を持っていた。

 その力は、自分だけが持っており、仲間や、父も母も、鶴のように変身することはできなかった。

 自分はどうしてこんな力を持って、生まれたのだろう? 

 それは鶴が抱いていた疑問であった。

 

 変身し、美しい黒髪の若い女になった鶴は、そのまま男のもとへ歩みよる。

 

 しかしここで問題が発生する。

 男に接近した鶴は、どう話しかけて良いのか分からなかった。

 人間とどう関わればいいのか、そもそも見ず知らずの初対面の相手でさえ

 結局はガチガチに緊張して、そのまま何もせず隣のベンチに座りこんでしまう。

 

 そのまま鶴は押し黙る。男はタバコを吸う。

 いたずらに時間が過ぎて、数時間その状態が続いた。

 

 

 8、

 

 

 チャンスは、訪れた。

 

 ポトリ、と男は手に持っていたライターを落とした。

 落下したライターは地面を転がり、鶴の足元まで移動する。

 

「これ、どうぞ」

 

 鶴はその瞬間を見逃さなかった。

 恐る恐るといった手つきでライターを拾い、男に手渡す。

 男は黙ったまま、ペコリと軽く頭を下げて、受け取った。

 すると、男は口を開く。

 

「どうして、さっきから君はじっと座っているんだい?」

 

 唐突な男の質問に、鶴はびっくりして固まる。

 それから意を決して喋った。

 

「じゃあ、あなたはなんで座っているんですか?」

 

 と、質問を質問で返す。

 緊張していたせいでもあるが、鶴は誰かとのやりとりがめっぽう苦手であった。

 鶴は自分の失言に気が付いて、あたふたと取り乱す。

 その様子を眺めていた男は、気にすることもなく答える。

 

「……暇、だからかな」

 

 鶴はこれは、千載一遇の好機だと悟った。

 男が自分に興味を持っている……気がする。

 なので、今ここで距離を詰めるのだ。

 

「鳥は好きなんですか」

「どうだろ」

「いつも何時に寝るんですか」

「決まってない」

「好きな食べ物は何ですか?」

「……うどん」

 

 鶴は次々と男へ質問を繰り返す。

 質問はどれもこれも脈絡のないものだった。

 必死だったのだ。

 会話が途切れるのが恐かった。

 大物を釣り上げようとする漁師のように、鶴は緊迫していた。

 

 対して、男は質問に嫌な顔をせず、淡々と答え続けていた。

 変わらない顔色からは、心境はうかがえない。

 それが、より鶴を緊張させる。

 

 そんなぎこちないやりとりが長らく続いた。

 

 

 9、

 

 

 空に赤みがかかった頃、男は突然ベンチから立ち上がった。

 

「それじゃあ、僕は帰る」

 

 男はそう言い残し、スタスタと歩み去って行った。

 その頃になって、ようやく鶴は自分の言動のしつこさに気が付いた。

 これは嫌われた。多分、絶対だ。

 変な奴だと思われたのに違いない。

 男はひどくぶっきらぼうな顔で、抑揚のない声音で、答えていたのだし。

 

 鶴は思い出す。

 自分はよく仲間や家族から『頓珍漢な言動をするから気を付けろ』と諫められる。

 いわゆる喋る方のコミュ障であると、自分でも理解している。

 

 もう彼は、ここに訪れないかもしれない

 いきなり変な女が話しかけてきたのだし、警戒するのは当然だろう。

 

 鶴はしょんぼりした。

 

 

 

 10、

 

 ところが翌日、男は公園にやってきた。

 そして案の定、ベンチに座って、タバコを吸い始める。

 

 鶴はとても喜んだ。

 パタパタと羽をはばたかせて、この感情を表現したいくらいだった。

 もちろん鶴は、先日のように人間に変身して、男の隣に座る。

 鶴は昨日と同じように、男に話しかけた。

 前回よりも、緊張感は減っていた。

 

 

 11、

 

 

 次の日も、その次の日も、男の公園に現れては、ベンチに座ってタバコを吸う。

 どうやら男は、よくこの公園で時間を潰すようである。

 鶴は毎日、人間になって男に話しかける。

 

「君は、なんで毎日こんなところに来るんだ?」

 

 男は質問をした。

 はじめてだった。男から話題を振ってくるのは。

 

「仕事はついていないのかい?」

 

 鶴はほんの少し考える。

 シゴト、とはいうのはなんだろうか。

 とにかくシゴトがあると、ここには来れないらしい。

 なら、

 

「シゴトはやってませんよ」

「そうかい……」

 

 男は空を仰ぎみた。

 

「僕も仕事はやってないね」

 

 男もシゴトをやっていないそうだ。

 昔はブラックキギョウというところへ勤めていて、そこでパワハラを受けて、今ではニートという存在らしい。

 鶴には何を言っているのか、さっぱりだったが、男の表情からその話題はとてつもなく深刻であると感じ取れた。

 

 

 

 12、

 

 

 その日は、珍しく男が来なかった。

 まあ、そんな日もあるかと鶴は思った。

 

 その日は曇りで、いつもより気温が低かった。

 冬の冷気と、雨の冷たさが、鶴の体温を脅かしていく。

 どんよりとした曇り空を見上げていた鶴は、だんだんと不安になってきた。

 

 男が来ない。ひとりぼっちだ。

 ふだん押し殺していた寂しさが、堰を切ったように、溢れてくる。

 

 会いたいな。

 気が付けば、無意識にそうつぶやいていた。

 それから、鶴は思いついた。

 会いたいなら、会いにいけばいいじゃないか。

 寂しいなら、男の元を訪ねればいい。

 鶴は、さっそく実行に移した。

 

 コミュ障な割に、妙な行動力を伴っている。

 かなり厄介なタチである。

 

 

 13

 

 

 男の匂いをたどれば、所在はどこか突き止めるのは容易い。

 鶴は男の住むアパートに辿り着いた。

 アパートは2階建てで、老朽化が進んでいるのか、外観がぼろっちい。

 

 鶴は階段を駆け上り、2階の男の部屋までたどりつく。

 扉の前に突っ立って、男を呼んでみる。しかし反応はない。

 鍵はかかっていなかった。容易くに足を踏み入れられた。

 

 室内は薄暗かった。

 その中央の床に、人影が倒れていた。

 男だった。

 

 鶴は、男の傍に駆け寄る。

 息はしている。ただ眠っているだけのようだった。

 鶴は、ひとまず男をベットに寝かせた。

 

 そこでようやく鶴は、周囲を確認するだけの余裕が生まれた。

 男の暮らす部屋は、整然としている。壁際にはイーゼルと置かれている。

 そんなよくある部屋の中央。

 

 ただ異常なのは。

 そんな光景をぶち壊すように、

 わっかを形作った縄が、ぶらりぶらりと天井から吊り下げられていたことである。

 

 

 14、

 

 

 しばらくすると、男は目を覚ました。

 視線をさまよわせたのち、鶴を目が合う。

 

「大丈夫ですか?」

 

 男は青ざめた顔で、鶴の顔を覗く。

 

「見たのかい?」

「何がです?」

 

 男の視線の先には、天井から吊り下げられている縄が。

 

「そういえば、あれってなんのために使うのですか?」

「……冗談で言っているのかい?」

 

 男は困惑したような表情を浮かべた。

 男の様子に、鶴は首をかしげる。

 自分は何か変な発言をしただろうか? 

 

「え、狩猟用ですよね?」

「どうしたらそんな発想に行きつくんだ……」

 

 まあ、いいか。

 そう男はため息をついて、ベッドから起き上がる。

 

「失敗したんだ。自殺するのにね」

 

 そういって男は、ぽつぽつ語りはじめた。

 今朝、男は自殺衝動に駆られた。

 ところが、いざ実行しようとする寸前で、なぜかためらってしまった。

 結局、無気力になって、めんどくさくなって、その場で寝転がって、気が付けば眠ってしまったという訳である。

 

 

 15、

 

 

「死ぬなんて、そんなの嫌! やめてください!!」

 

 鶴はめそめそ泣き始めた。

 ショックを受けていた。

 男は死のうとしている。

 恩人がそんな悲しい最期を迎えるだなんて、鶴は嫌でたまらなかった。

 

 鶴の態度に、男は狼狽した。

 

「君と僕は赤の他人じゃないか、何もそんなに取り乱さなくても……」

「どうすれば、あなたは死を選ばないのですか?」

「……どうって、それは分からない。死にたいと考えるのは、多分幸せじゃないからだと思うんだ」

 

 男をひねり出すように、告げた。

 

 鶴は必死で考える。

 男は幸せじゃないから、死にたくなってしまう。

 鶴だって、嫌なことがあって、不幸だと感じると激しく落ち込んでしまうときもある。

 気休めかもしれないが、なんとなく男の気持ちも分かる気がした。

 

 その瞬間、鶴は閃いた

 つまり幸せになれば、この男は死なずに済むのだ。

 

 ようやくわかった気がする。自分のやるべきことを。恩返しのやり方を。

 この男を、命の恩人を救うのだ。

 それが自分の恩返し。

 助けられた借りを返すのだ。

 

 鶴は固く決意した。

 この男の自殺を防ぐべく、脳みそをフルスピードで回転させた。

 アイデアはすぐに思い浮かんだ。

 鶴は即座に実行することにした。

 

「ミミズを食べに行きましょう」

「はい?」

 

 男は素っ頓狂な声を上げた。

 

 

 16、

 

 

 落ち込んだ時、鶴はいつも自分の好きな物を食べる。

 鶴の好物はミミズである。

 柔らかい触感と、食欲そそるビジュアルがたまらないのだ。

 

 鶴はミミズを食べると、元気が湧いてくる。不幸な気持ちも吹き飛んでしまう。

 だから男もミミズを食べれば、元気が湧いて、きっと『死にたい』なんて思わなくなるはずだろう。

 

 穴だらけの理論である。

 

 自分はなんて名案を思い付いたのだろう。

 ひょっとすると私は天才なのかもしれない、とちょっぴりうぬぼれる。

 鶴は小躍りしたい気分になった。

 

 そんな訳で、鶴は男を半ば強引に外へ連れ出した。

 そのまま付近の山まで、男を連行する。

 

「あの、冗談だよね?」

 

 男は引きつった笑みを浮かべて、たずねる。

 

「もしかしてミミズ食べるの初めてですか? とっても美味しいんですよ、あのツルツルした触感が喉を潤すんですよ」

「えぇぇ……」

 

 まさか、男はミミズを食べたことがないというのか。

 それはもったいない。

 ならば、彼にはたっぷりと味わってもらおう。

 

「あ、あはは」

 

 男は、顔を思い切りひきつらせた。

 ドン引きである。

 

 

 17、

 

 

 鶴は、目ぼしい場所に見つけた。

 ミミズが潜んでいる場所は、おおよそ匂いで判断できる。

 目星をつけて、土を掘り返せば、ミミズを発見。

 ちょうど2匹見つけた。鶴の分と男の分を確保である。

 

「さあ! これをどうぞ!!」

「うぼげええ! や、やめろぉぉ」

 

 ところが、ミミズを食べさせようとすると、男は真っ青な顔で首をブンブン横に振る。

 これだけ美味しいのにな。なんで食べてくれないのだろう。

 

「食べたらきっと幸せになって、死にたいなんて思わなくなりますよ」

「むしろ、自殺したくなるよ!」

 

 もしかして、ミミズは人間の口に合わないのか。

 

「まあ、嫌なら仕方がないです。他人の強要するのは、よくないことです」

「いや、そんな次元の話じゃないよね」

 

 男はゼイゼイ言いながら、冷静にツッコミを入れる。

 

 うーん、残念だな。

 鶴は、次の策を練り始めた。

 

 

 18、

 

 

「……とりあえず、僕はもう帰る」

「ダメです! このままじゃ、あなたはまた死のうとする! だから、あなたが幸せになるまで、私は恩返しをやめません!!」

 

 鶴は必死で呼び止める。

 彼を少しでも放ってはおくわけにはいかない。

 自分のあずかり知らぬところで、また死のうとするかもしれないのだ。

 

 

 19、

 

 

 それからも頭を悩ませた後、鶴はようやく思い立った。

 自分はミミズが好きだからといって、男がそうだとはいえない。

 鶴が幸せを感じるとき、相手もそう思うとは限らない。

 

 まず、彼どんな時に幸せを感じるのか、それを知る必要があった。

 

「あなたは、どんな時に幸せを感じるのですか?」

「……ここ最近はずっとないね」

「じゃあ、以前は!?」

「……唯一、絵を描くことだけが楽しみだったね」

 

 素っ気なく男は答えて、それから鶴に背中を向けて、歩き出す。

 鶴は、男の後をちょこちょこと付いて行く。

 

「じゃあ、今から絵を描きましょう」

「なんでさ」

 

 声音が硬い。

 背中を向けて、男の表情は鶴にはうかかがえない。

 

「あなたは今、死にたい気持ちで一杯。だから絵を描いて、幸せになる。そうすれば死にたいなんて思わなくなるはずです」

 

 鶴は力説する。

 男は、くだらないと鼻で笑った。

 

「無理さ」

「どうしてです?」

「僕には描く気がないのだから」

 

 男は、あっけらかんと答える。

 

「モチベーションの問題だよ。誰も見てくれないし、自分でもつまらない絵だって思ってしまう。しだいに描く気力がなくなって、今じゃ燃え尽きた残りカスみたいな状態さ」

 

 男はしだいに歩調を速める。

 鶴は、そんな男の後についていく。

 

「私、見てみたいです!」

 

 男はハッとしたように顔をゆがめて、鶴を見つめる。

 すぐに振り向き、また歩き出す。

 

「適当なことを言ってるじゃない」

「本気ですって!」

 

 男の否定し、鶴が本気ですと訴える。

 そのやりとりがループするように続き、ついに男のアパートの部屋まで到着するに至る。

 

「だから、絵を描いて欲しいです!! 見たい! 見たいです!」

 

 鶴は『見たい』と連呼する。

 親にダダをこねる子供みたいに、何度も繰り返す。

 

「……はぁ、分かった分かった。描くから」

 

 男は根を上げた。

 鶴の執拗なまでの懇願に、ギブアップしたのである。

 

「一回だけだからな」

 

 鶴はガッツポーズして喜んだ。

 そんな彼女の様子に、男はため息をついた。

 

 

 20、

 

 

「では、そこの椅子に座ってくれ」

 

 鶴は男の指示通り、部屋の中央に置かれた四脚の椅子に座る。

 

「もう少し、顔を上げてくれ。よしそれでいい」

 

 男はキャンバスの正面に座る。

 手には、パレットと筆を持っている。

 

「いいと言うまで、動かないでくれ」

 

 そう言って、男は真っ白なキャンバスに筆を立てて、描き始める。

 

 

 最初、男はあまり乗り気ではないようだった。

 けれど、いざ絵を描くとなったとき、男の表情は真剣さを帯びていた。

 

 まるで、別人に切り替わったみたいだ。

 鶴は、なんとなく直感で感じとった。

 

 男は、ただ真摯に絵を描いている。

 それは目の前に具現化していく自分の魂と向き合う行為。

 

 鶴は、確かに見た。

 その瞬間だけ、男の瞳に強い光が宿っていたのである。

 

 

 21、

 

 

「よし、もういいぞ」

 

 と、筆を置いて、男が口にする。

 三時間は経過していた。

 

 鶴はホッと息をついて、姿勢を崩した。

 

 男が絵を描いている最中、何度も動いてしまいたいという衝動がこみ上げた。

 しかし、その度に鶴は滝に打たれる修行僧のように、必死でこらえた。

 男の仕上げた絵が見たかった。

 

 それに、鶴は見惚れていた。

 絵を描く男の姿は、今までにないくらい生き生きとしていたのだ。

 

 鶴はぴょいと立ち上がって、男の元へ近寄る。

 

「絵はどうですか?」

「あんまりいい出来じゃないさ、期待しないでくれ」

 

 そうして、鶴は食い入るように男の描いた絵を見つめた。

 

 

 22.

 

 そこには人間の女がいた。

 もちろん、それは鶴の人物画である。

 水彩画で描かれた絵は、全体的な透明感を鑑賞者に与える。

 椅子に座った彼女が、キャンバスいっぱいにありありと描写されている。それはまるで絵の内側の世界で、彼女が呼吸しているように錯覚させられた。

 

「……どうだい?」

 

 男の声は震えていた。

 そこで、鶴は気が付いた。

 男は緊張している。

 自分の絵がどう思われているのかを。

 否定されるのを、何よりも恐れているようであった。

 

「正直、よく分からないです」

 

 鶴は、あっさりと返す。

 鶴は、絵を見るのは初めてなので、良い悪いという価値基準は持ち合わせていない。

 何を美しいと感じるのか、それさえも基準がない鶴には判断のしようがなかった。

 

「けれど、すごく嬉しかったです」

 

 だから、だからこそ、

 

「私を絵で描いてくれて、とっても嬉しかったです」

 

 彼女の言動は、何一つ嘘が含まれていない。

 どこまでもストレートな、真実の言葉だった。

 

「そうか」

 

 男はぶっきらぼうな口調で、返す。

 

 鶴の忌憚のない感想だった。

 男にとって、それは何よりも心を打つものだったのかもしれない。

 

「どうですか?」

「……なにが?」

「今、幸せな気分ですか?」

 

 男は、出来上がった自分の絵を見つめながら、言う。

 

「さあ、自分でもよく分からない」

 

 心なしか、彼の声音は、ほんのちょっぴり弾んでいた。

 

「けれど、また今度描いてみるのもいいかもしれない。そんな変な気分だ」

 

 男の瞳は、ほんのかすかだが光が宿っていた。

 

 

 23.

 

 それからというもの、男は時々絵を描くようになった。

 風景画、油絵、水彩画、人物絵。

 もちろん鶴をモデルにして描くこともあった。

 わずかに回復した創作意欲が、男をキャンバスへと駆り立てたのだ。

 

 鶴は、男の元に訪れて、彼が描いた絵を見せてもらう。

 そして、その度に鶴は感想を述べる。

 

 鶴は言葉で説明するのが下手くそだった。

 いつも「すごい」「キレイ」「カッコいい」と小学生レベルの語彙力で言語化するしか出来ずにいた。

 

 それでも男は真剣なまなざしで、鶴の感想に耳を傾けた。

 男には伝わっていた。

 言葉足らずではあるが、真摯に絵を鑑賞している鶴のことを。

 

 一方、鶴はある予感を覚え始めていた。

 きっと少しづつ、男は自分の幸せをつかんでいくだろう。

 そんなかすかな、予感。

 濁った男の瞳は、流水で洗浄されていくみたいに、その濁りが薄れていっているのだから。

 

 

 男が吸うタバコの本数は、わずかに減った。

 

 

 

 24.

 

 

 いつも、男は自分のアパートで絵を描く。

 だが、今回は外で描くことつもりらしい。

 

 街の中心には、高台があって、男と鶴はそこへ足を運んだ。

 高台は見晴らしが良く、街の景観を四方八方見渡せた。

 

「今日はなんだかいつもより寒いですね」

「ああ」

 

 男は描くことに集中しているせいか、返事が上の空だった。

 それをなんとなく察した鶴は、黙って男の背中を見つめ続けた。

 

 

 25.

 

 

 いつのまにか青空は薄暗い雲に覆われていた。

 チラチラと雪が降り始める。

 

「今日は、中断だな。雪が降って来たし」

 

 男がそういって作業を中断する。

 鶴と男は、高台から降りることにする。

 来た道を下っていった。

 

「正直言うと、君のことがよく分からない」

 

 男は唐突に切り出した。

 

「いきなり公園に現れて、なぜか僕の家の場所も知っているし、さらにはミミズを食わせようとする。頭のイカれた女だ」

「嬉しいです! 褒めてくれているのですね!」

「一体僕の発言をどう聞けば、そんな感想が飛び出てくるんだい?」

 

 降雪はいっそう強くなり、パラパラと二人に降り注ぐ。

 

「……けどまぁ、悪くないかもね」

 

 男は小さく、そう呟いた。

 

 

 男が吸うタバコの量は、めっきりと減った。

 

 

 26.

 

 

「付いてきてくれないか?」

 

 ある日。

 男は、唐突にそう言った。

 

「どこにですか?」

「美術館」

 

 ビジュツカンとはなんだろう。

 鶴はそこがどこなのか分からなかった。

 なんだかオシャレな響きだし、楽しそうな場所だ、などと鶴はぼんやり思案していた。

 

 それから二人はアパートから出て、バスに乗って、電車に乗って。

 1時間ほど移動して、目的地である美術館にたどりついた。

 

「そういえば、もう5年くらい来てないな」

 

 男は懐かしむように、ごちた。

 

 

 27.

 

 

 美術館に足を踏み入れて、鶴は驚くばかりだった。

 ホール全体には、たくさんの絵画が並びし、様々な展示物がその姿をさらしてる。

 

 鶴にとっては何もかもが新鮮であった。

 男が描いた絵しか見たことがなかったのだ。

 

 

 それから美術館を出て、一匹と一人は帰り道を歩く。

 

「どうだった?」

「面白かったです。見たことのない絵がたくさんありましたし」

「それはよかった」

 

 けど、と鶴は続けて言った。

 

「あなたが書いた絵じゃないと、どうもしっくりこないのです」

 

 鶴の言葉を聞いて、男は目を丸くする。

 それから薄ら笑いを浮かべて、返す。

 

「買いかぶりすぎだよ。所詮、僕は凡百の絵かきで、美術館に飾られることも、誰かに評価されることもないだろうね」

「私は、評価しますよ! 最高ですって!!」

 

 鶴はせいいっぱい、声高に叫んだ。

 そんな鶴の奇行。

 男が「やめろ、周りに迷惑がかかる」と抑え込む。

 けれど、男は嬉しいのか、気恥ずかしいのか、はたまたキレているのか、表情がクルクルと変わる。

 

 

 男は、タバコを買いに行かなくなった。

 

 

 29.

 

 それ以来、男はますます絵を描くようになった。

 一日中、キャンバスと向かい合う日も送った。

 

 鶴は変わらず、男の元へ訪れて、じっと部屋で過ごす。

 

 

「最近、なんだか顔色が良くなってきてませんか?」

 

 鶴の質問に、男は「ああそう言えば」と答える。

 

「タバコを吸うのはやめたんだ。もしかしたら、そのおかげかもしれないね」

 

 男はあれだけ吸っていたタバコをやめてしまった。

 

「ほら、体に悪いからね」

 

 男はキャンバス前に腰を降ろす。

 それから筆を手に取って、描き始めた。

 

「今度さ、仕上げた作品をコンテストに出品しようと思っているんだ」

 

 男は手を動かしながらも、その目はどこか遠くを見つめていた。

 それは、きっとずっと将来。

 

「最近、なんだか楽しくなってきたんだ」

 

 男は未来に希望を持っていた。

 とてもつい最近まで、死を望んでいたのに、見違えるほど活力が溢れていた。

 

 そんな男の様子を見て、鶴は確信した、

 

 もう男は、自殺しようなんて考えない。

 

 きっと彼は幸せを見つけたのだ。

 男の瞳の奥には、光が灯っていた。

 それは生きる意志を表明するかのような光。それが輝き続ける限り、男は倒れない。

 

 男は幸せになった。自殺しようと思わなくなった。

 自分ができることは、きっとこれ以上にない。

 

 恩返しはもう終わり。

 自分は目的を果たしたのだ。

 それならば、もう自分は男に会う必要はないはずである。

 

 元の姿に戻ろう。

 立ち去ってしまおう。

 鶴はそう思うと、なぜか無性に泣きたくなってしまった。

 

 どうしてだろう? 

 鶴は一晩中考えたが、理解できなかった。

 

 

 

 30.

 

 

 今日で男と会うのは最後しよう。

 鶴は、そう決意を固めていた。

 男との決別と、もう会わないという心の契りを、涙と共に飲みほして、男のアパートに立ち寄る。

 

 相変わらず、男は絵を描いている。

 真摯に筆を走らせ、自分の世界を表現しようと没頭している。

 

 鶴は、声をかけることもなく、ただじっと静かに男の後ろ姿を見つめる。

 

 ふぅ、と男が一息ついた。

 それが、いつも絵の完成を知らせる合図であった。

 

「どうしたんだい。いつもより元気がないじゃないか」

 

 男は俯きがちな鶴の様子から、違和感を感じ取っているようであった。

 眉をひそめて問うが、鶴は「なんでもないです」と返し、不承不承に納得する。

 

「この絵は、どうだい?」

 

 男は、完成したばかりの絵を鶴に見せた。

 

 それは、ありえなかった。

 だってそれは──。

 

 絵の世界は、白銀で彩られている。

 雪景色の中で、翼を広げて飛び立とうとする存在。

 ──鶴だった。

 

 絵の中の鶴は、上空を見据えている。

 飛び上がろうと躍起になっているのか、はたまた躊躇しているのか、その感情はうかがえない。

 けれど、その絵は鶴の共感に深く結びついた。

 今、鶴の決心は揺らいでいた。

 

 男の元を去ろうと、覚悟を決めたのに、どうして……。

 

「正直、あんまりうまくいかなかったんだよな」

 

 男の言葉は、耳に入らなかった。

 鶴は唇をわななかせて、ようやく絞り出すように話し出す。

 

「……どうして鶴を描いたのですか?」

 

 男は顎に手をあてて、少しうなり、それから言う。

 

「僕にとって、ある種、象徴的な存在だからね」

「象徴的……?」

「僕は死のうとしていた。というのは君も知っているだろう」

 

 男は絵を見つめながら、静かに語り出した。

 

「その日は、冬にして異常なまでに温かい日だった。けれどそれに反して、僕の心は冷めきっていた。その日、僕は縄を片手に、郊外の樹海に足を運んだ。そこで人知れず、首をつって死のうと思ったんだ」

 

 鶴は、あの日のことを回想する。

 仲間とはぐれたあの日からのことを。

 

「森の中、鳴き声が響いた。僕はつられるように声がした方向へ向かった。そこには罠にかかった鶴がいた。罠の凶刃が鶴の足をえぐっていた」

 

 男が現れた。死んだような目をした男が、鶴に歩み寄って来た。

 

「僕はその鶴を助けた。助けた理由は自分でもよく分からなかった。多分、どうせ死ぬ前に善行を積んでおきたい。死後の世界があるのなら、きっと自分は天国に行ける。そんなくだらない考えだった」

 

 男は鶴を罠の魔の手から、解放する。

 自由になった鶴は、痛みにこらえながらも、翼を広げて、飛んでいく。

 

「けれど、どうでもよかった。美しかったんだ。空へ飛んでいく鶴の姿が、どうしようもなく尊かったんだ」

 

 男は目を見開いて、鶴を凝視する。

 この世のものではないものを見たかのように。

 

「そうするとね、生きてみようって少しは思えたんだ」

 

 もしかしたら、鶴はあの時、ほんのちょっぴりだけ男を救いかけていたのかもしれない。

 

「そしたらさ、君に出会った」

 

 男は鶴に向かって、笑う。

 今までにないくらい、くしゃりと破顔して。

 

「あの鶴には、いつかありがとうって言いたいのさ。もしあの鳥と出会わなければ、きっと僕は死んでいた。絵も描き続けることもなかった。君と出会うこともなかった。人生に希望を持つこともなかった」

 

 きっと男は恩返ししたかった。

 鶴と同じ気持ちだった。

 

「だから、きっとこの絵は恩返しなんだと思う。僕はあの鶴へ向けて、自分の気持ちを込めて描いた恩返し」

 

 男の言葉を聞いて、鶴は今まで散々悩んできたことがバカらしくなってきた。

 なんだ、簡単なことだった。

 私は恩返しがしたくて、男と居続けたのではない。

 男の事が愛おしいからにほかならない。

 

 恩返しは確かに、済んだ。

 だからさよならバイバイで終わりじゃない。

 一緒に居たいから、一緒にいる。それだけそれだけだった。

 鶴は手を叩いて、笑って、それから泣いた。

 嬉しいのやら、おかしいのやらで、情緒がめちゃくちゃになった。

 

 

 ──私は、恩返しなんて初めからするつもりはなかったんだ。

 

 ひとりぼっちが嫌で、誰かと一緒にいたかった。

 ただ、それだけのことだった。

 仲間とはぐれて、寂しくて、今にも泣いてしまいそうだった。

 罠にかかって、誰も助けてくれなくて。そんな時に、あなたが森の奥から現れた。

 

 鶴は嬉しかったのだ。

 男と時間を過ごし、互いの孤独を分かち合うことができて。

 

 それはどうしようもなく──。

 

「──ずっと一緒にいてください」

 

 気が付けば、鶴はその言葉を零していた。

 体中が震える。

 まるで親を探す迷子みたいに、男へ向かって、自身の右手を付きだしていた。

 

 瞬間、鶴の手に温かい何かが触れる。

 それは男の両手だった。

 男の両手は、鶴の右手を包み込むように、握っていた。

 

 大丈夫だよ。

 そう鶴に語り掛けるように、男の体温が鶴に伝わってきた。

 

「もし君がいなくなったら、僕はとても困る」

 

 男が口を開く。

 澄んだ瞳が、鶴を映す。

 

「なぜなら、僕の絵を見てくれる人が誰もいなくなっちゃうからね」

 

 男は気恥ずかしそうに、茶化して。

 ポリポリと頬をかきながら、つぶやく。

 

「ちょっ、うわっ!」

 

 嬉しくてたまらない。

 鶴はいっぱいの笑みを浮かべて、男に飛びついた。

 

 

 

 

 31、

 

 それから一人と一匹は、一緒になることにした。

 互いの孤独を埋め合うように、一人と一匹は磁石みたいにくっついて、仲良く過ごした。

 

「最近、私、料理を覚えたんですよ」

「うげっ! なんじゃこりゃ!!」

「ミミズの丸焼きです。焼き加減も最適で、中までジューシーです」

「うぅわぁっ! やめろ、そいつを近づけるな!」

 

 鶴は人間のことを知らない。

 どんな風に生まれてきて、どうやって育って、何を考えて生きているのか。

 何も知らない。

 

 鶴は人間に対して、そこまで関心はなかった。

 けれど男を通して、人間に対しての理解を少しづつ深めていく。

 知らない何かを、自分の目で見て、手で触れて、理解する。それが生きるということなのだろう。

 

 

 春が終わり、夏が訪れる。

 秋になり、冬が来る。

 

 くるくると季節が移り変わる。

 一匹と一人はそれから数年間、つつましく暮らした。

 

 

 32.

 

 

 珍しく、男がテレビを見ている。

 テレビで放映されている番組は、動物の寿命についての特集だった。

 

「ホッキョククジラって200年近く寿命があるらしい」

 

「僕たちは70年、80年もすればおだぶつだけど、もし数百年生きられたらって、思う時があるんだ」

 

 鶴は、何か冷たい氷を差し込まれたような気分になった。

 寿命。

 考えたこともなかった。

 鶴の寿命は種によっても異なるが、推定20年~30年らしい。

 それはすなわち、確実に男より先に、鶴が死んでしまうということである。

 

 自分はあと何年、生きられる? 

 10年ほどだろうか? 

 

 しばらく鶴は、考え込んだ。

 けれど答えは出なかった。

 

 一晩寝た後、鶴は考えてもしょうがない、と割り切った。

 今、悩んでも打開できないのであれば、考えを張り巡らせても無駄なのだ。

 向き合うのが恐くて、必死に思い込んで、なんとか忘れようとした。

 

 

 33.

 

 

 男の携帯電話に着信がかかった。

 男が電話に出て、電話相手とやりとりを交わす。

 しばらくすると、男は目を見開いて、飛び上がるほどに喜んだ。

 

「僕の作品が、コンテストに入賞したんだ」

 

 それは以前、男が投稿した作品である。

 審査員の目に止まり、見事に受賞したのである。

 

 数か月後に、表彰式が執り行われる。

 最優秀賞をとった男は、そこで登壇する予定となっていた。

 

 

 34.

 

 その日の晩、突然男は鶴を抱きしめて、涙した。

 鶴は動転するが、すぐにその温もりを受け入れた。

 

「僕は、今とても幸せなんだ」

「そうですね。あなたが絵がたくさんの人に認められたのですから」

 

 鶴はうなずく。

 

「違う、そうじゃない」

 

 男は首を振った。

 そうじゃない、そうじゃないと言い続ける。

 まるで子供みたいに男は泣いた後、そのまま寝てしまった。

 

 翌朝、男は「恥ずかしいから、昨晩のことを忘れてくれと」と懇願した。

 対して、鶴はこう返す。「無理です。忘れません。だってあなたが泣いた顔を見るはじめてだったから」

 そんな訳で、一人と一匹と日常は流れ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ブロロロロ。

 どこかで車輪の駆動音が鳴った。

 

 

 

 

 35.

 

 

 来たるべき日が訪れた。

 表彰式の日である。

 

 男はスーツ姿に着替えて、その衣装を見た鶴が「似合ってます」と騒ぎ立てた。

 外は、暖かい日差しと冷たい風が吹いていた。

 冬の終わりと、春の訪れを感じる日だった。

 

 

 ブロロロロ。

 どこかで車輪の駆動音が鳴る。

 

 一人と一匹は、交差点で止まる。赤信号が光っている。

 

「……帰ったら、君に渡したいものがあるんだ」

「え、プレゼントですか? 一体なんですか?」

「秘密。授賞式が終わったらね」

 

 信号が青に変わる。

 一人と一匹は、交差点を進む。

 

 ブロロロロ。

 車輪の駆動音は、しだいに近づいてくる。

 

「じゃあ期待しておきます」

 

 一人と一匹はそれから、互いの顔を見て、笑いあった。

 

 ブロロロ。

 ブロロロロロロロ。

 

 誰かが「危ない」と声を張り上げた。

 猛然と迫るトラックの姿が。

 車輪を駆動させて、すぐ眼前で鉄の塊が、衝撃をともなってやってくる。

 

「……あ」

 

 まずい。

 鶴がわずかに思考するうちに、全てが終わっていた。

 トラックが、男の体にぶつかる。男の体が、宙を舞う。

 激進するトラックは、そのまま自分の鼻先を通り過ぎる。

 浮遊した男の体は、重力にゆだねるまま、地面にたたきつけられて。

 血だまりが溢れる。道路が真っ赤に染まる。

 

 しだいに周囲は、悲鳴と混乱で騒然とする。

 

 鶴は、立ち上がることも、声を出すこともできなかった。

 

「……え、なんで」

 

 絞り出すように、ぽつりと言い放った。

 

 

 36.

 

 

 車にはねられた男は、すぐさま病院に搬送された。

 

「あなたの恋人は、どうにか一命をとりとめることができました」

 

 医者はそう言って、続ける。

 

「しかし彼の意識は回復していません。目が覚めるのは、数日後なのか、数か月後なのか、はたまた数年後なのか。それは我々にも見当がつきません」

 

 どうしてこうなったのだろう。

 鶴は、頭がよく回らないまま呆然と思考していた。

 

 翌日、鶴は男のもとへ訪れた。

 病院の隅っこの部屋の中。

 男は目を閉じたまま、ずっとベッドに寝たきりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 36.

 

 

 次の日も、その次の日も、鶴は男のところへ訪れた。

 しかし男は目覚めない。

 話しかけても、呼びかけても、名前を呼んでも、彼はぴくりとも反応しない。

 まるで動かぬ石像のようであった。

 

 

 

 1か月が経っても、男は目覚めなかった。

 

 男が眠り続けるようになって、鶴はまるで片翼をはぎとられたような気分だった。

 病院を出た鶴は、適当に街中をぶらついて、気を紛らわせていた。

 

 日が暮れるまで、辺りをほっつき歩いて、いつも最後に辿り着くのが町はずれの公園であった。

 そう。この公園のベンチで、鶴と男は初めて言葉を交わした始まりの場所。

 

 鶴は、男に隠している。

 自分が人間ではないこと。鶴であること。

 だから、いずれ自分は男を置き去りにして、この世を去ってしまうだろう。

 

 ベンチに座った鶴は、深まる夜の帳に身をゆだねる。

 そのまま目を閉じて、鶴は眠りに落ちた。

 

 

 37.

 

 

 ──半年が経った。

 まだ男は目覚めない。

 

 最近、ミミズがあまりおいしく感じない。

 どうしてだろう? 

 鶴は首をかしげた。あれだけ好きだったのに、ひどく味気なくなっている。

 まるでしなびれた雑草みたいにまずくて、吐き出してしまった。

 

 

 ──一年が経った。

 男はいまだに目覚めない。

 目覚める兆しさえも、見せてくれない。

 

 

 

 ──二年が経った。

 やっぱり男は目覚めない。

 呼吸はしているが、ほんとうに男の肉体には、意識が宿っているのだろうか。

 鶴はひどく落胆し、悲嘆にくれた。

 

 

 38.

 

 

 ──三年が経った。

 

 最近、鶴はよく眠るようになった。

 なにもしていないのに、とても疲れが溜まってくるのだ。

 どうしてだろうと考えても、答えは浮かんでこない。

 

 

 

 39.

 

 

 その日は、雨が降っていた。

 水たまりにが出来て、鶴の顔が水面に映った。

 

 鶴は自分の顔をまじまじと見つめる。

 自分の瞳は、うつろで、光を失っていた。

 どこかで、見たことがある。振り返れば、すぐに思い当たる。

 初めて出会ったころの男の薄暗い目。それとそっくりだった。

 

 鶴は、座り込んで、さらに水の中の自分を見つめる。

 自分は今、不幸な気持ちだ。

 絶望の海で、溺死しまいと抵抗している。

 それが、いつまでもつか、鶴には見当がつかなかった。

 

 

 40.

 

 

 ──五年が経った。

 ちっとも男は目覚めない。

 鶴は、ますます疲れやすくなってきた。

 元の鶴の姿に戻って、飛行してみるが、以前よりも急激に体力が落ちてきている。

 飛行したその日は、半日眠りにつくほど疲弊していた。

 

 ひょっとすると、残された自分の時間はずっと少ないのだろうか。

 鶴の寿命。

 それは人間よりはるかに短命で、だからこそ共に生きるのなら、確実に鶴側が先に亡くなってしまう。

 

 それにこれは、人間であり続けた罰でもあるかもしれない。

 人間に姿を変えるという鶴だけが持ちうる力。

 力というものは、それ相応の代償がともなう。

 なら、今の状態が能力を酷使しつづけた代償なのではないか。

 

 結局、鶴には分からない。

 待つことしかできないのだ。

 

 

 41.

 

 

 ──七年が経った。

 それでも男は目覚めない。

 

 男はすっかりやせ細っていたが、それでも元気に呼吸していた。

 これだけ生命を感じられると言うのに、なぜ男と言葉を交わせないのだろう。

 その手を触れることしかできないのだろう。

 と、鶴はしみじみ思った。

 

 鶴は、自分の体の異変を

 活動する気力もどんどん落ちてきている。

 

 おそらくそう遠くない内に、自分は男より先に飛び立ってしまうだろう。

 それが、たまらなく怖い一方、それでもいいんじゃないか、という気持ちが心の片隅で存在する。

 

 彼はこのまま目覚めない可能性。

 期待を胸に、永遠に訪れないその時を死ぬまで待ち続ける。

 それもまた恐ろしい。

 

 鶴は静かに、心の奥底で葛藤していた。

 

 

 42.

 

 

 ある晩、鶴は夢を見た。

 夢の中では、まるで走馬灯のように今までの思い出が次々と、鮮明に浮かび上がった。

 

 そこは彼と初めて赴いた、思い出の場所。

 

 ──懐かしいな。

 あのとき、彼はそうつぶやいていた。

 

「……懐かしいな」

 

 半ば無意識のように、鶴はつぶやていた。

 

 今、彼の気持ちが痛いほどわかった気がする。

 館内に足を踏み入れた瞬間、自分の中の記憶が濁流のように溢れて、どうしようもなく懐かしさを呼び起こすのだ。

 

 展示された美術品に、目を通しながら、鶴は思う。

 今ここにあるものは、美しく、きっと誰かの心打つ、まさしく芸術の集約なのだろう。

 だが、鶴にはどうもしっくりこない。

 どうしてだろうと、しばらく考えながら練り歩いていると、視界の片隅に一つの絵が入り込む。

 

 その絵を見て、鶴は「あっ」と声を漏らした。

 そこに展示されていたのは、男の絵だった。

 彼がコンクールで入賞した、あの作品であった。

 

 

 43.

 

 

 絵は、表現者の心象風景そのものである。

 

 男が描いた絵に、鶴の視線を吸いこまれていく。

 

 絵は、切り立った崖と、それを昇る男が描かれている。

 どこまでも高くそびえたつ絶壁。その難攻不落の壁を昇る男。

 男の頭上からは、大小さまざまな岩が降り注ぎ、まるで男を昇らせまいとする悪意そのものであった。

 

 鶴は感じ取る。

 彼の歩んできた人生。そして切り立った崖を這い上がろうとする足掻くその姿を。

 絵を通して、必死に男の魂と触れ合おうとする。

 

 気が付けば、絵に向かって手を伸ばしていた。

 

 男は、壁を登っていた。

 暗い穴に落ちてから、また険しい崖を登りつづけた。

 

 今の自分はどうだろう。

 絶望に浸って、全てを投げ捨てたいと思い込んでいるではないか。

 

 それに気が付いて、鶴は自分の頭を、思いっきり叩いた。

 このあんぽんたんめ、と壊れたテレビを復帰させるかのように、ぽこぽこ叩いた。

 

 もしこのまま自分がいなくなれば、男はどうなる? 

 目が覚めた男は、きっと心細くなるだろう。寂しくなるだろう。孤独な気持ちになるだろう。

 ずっと長い間眠りっぱなしなのだ。

 だから、自分が帰る場所になる。彼を待ち続けなければならない。

 

 そうと決まれば、鶴がやるべきことはたった一つであった。

 

 ☆☆☆

 

 

「ねえ、外を見てください。とっても綺麗な桜が咲き誇ってますよ」

 

 鶴は、眠りこける男へ優しく語りかける。

 ぴくりとも動かない男の手を握って、その体温と鼓動を感じながら。

 

「もうじきすればあの桜も舞い散るでしょう。けれど例えなくなっても、次の春にはまた咲き誇る」

 

 病院の外の並木道には、桜の木がずらりと並んでいる。どれもピンクの花びらをいっぱいにしている。

 

「死ぬまで、私はあなたを待ちます。それが──」

 

 あの日、罠から助けてもらった恩は返した。

 けれど、男へ返す恩はもう一つ残っている。

 

 鶴は幸せだった。

 なぜ幸せだったのか。

 それは好物のミミズを食べた訳ではない。

 

 男の存在だった。

 男と過ごした日々は、鶴にとってかけがえのないものだった。

 

 それは、返そうにも返しきれない。

 けっして言葉でも計算でも図れない、感情。

 

 それが、鶴の恩返しだった。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 ──10年という歳月が経とうとしていた。

 

 

 男はコールドスリープに入ったみたいに、目が覚めてくれない。

 鶴は、それはそれで彼らしいと考えて、ちょっぴり愛おしいと思う。

 

 鼻歌を歌いながら、鶴は待ち続けた。

 その頃になると、常に睡魔が襲ってくるようになった。

 一度、眠りこけると、自分はもう永遠に眠り続けてしまうかもしれない。

 だから、鶴はびっちりと目を見開いて、睡魔に耐え忍んだ。

 

 鶴は、今日も待っていた。

 

 男が壁を登ってくるまで、鶴は暗く深い谷底を見下ろして、男の姿を確認する。

 昨日も今日も、男の影はチラリとも見えない。

 それなら明日まで待とう。明日も来なければ、明後日も明々後日も。

 来年も、再来年も、いつまでも。

 

 鶴は、思った。

 男が目を覚ましたら、なにもかもを話そう。

 これまでの自分の全てを。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 長い冬が終わって、春が訪れる。

 

 

 鶴は、いつものように病室を訪れた。

 昨年と同じ、病室の窓からは、咲き誇る桜が映り込む。

 

 鶴が椅子から立ち上がった瞬間だった。

 

「ぁ……ぅ……」

 

 今まで閉ざされていた目が、薄く開いて、鶴を見る。

 あの頃から変わらない、澄んだ瞳だった。

 

 男は帰って来た。

 

「おかえりなさい」

 

 鶴は、そう言った。

 まるで仕事帰りの夫にかける風に、いつも通りに。

 鶴は男が帰還するのを信じていた。だから驚くことはなかった。ただ涙を流すだけだった。

 握った男の手が、弱々しい力でわずかに動く。

 十年も寝たきりだったのだ。弱りきった筋肉では、動くことは一苦労だろうに。

 

 言いたいことがたくさんある。

 伝えたいことが山ほどある。

 

 けど今は、今はあなたの澄んだ瞳をもう一度見ることができた。

 それで十分だった。

 

 鶴は安堵して、それから深呼吸した。

 肺に空気を取り込んだ瞬間、鶴は脱力し、その場に倒れた。

 

 意識が遠のいていった。

 

 

 44

 

 

 目が覚めると、鶴は病院のベットで眠っていた。

 自分はどれくらい眠っていたのか。

 丸一日どころか、何日も眠っていたような気がする。

 いや、そんなことより今は男の事が大事である。

 

 ベッドから、上体を起こした瞬間、病室のドアがガラガラと開いて、誰かが入ってくる。

 

「お邪魔します」

 

 枯れ木みたいな声だった。

 耳をすませていないと聞き取れないような声量だったが、鶴はその声で誰なのかすぐさま判別できた。

 

 男だった。

 松葉づえをついて、看護師の助けを借りて、男が入室する。

 

「ただいま」

 

 男は衰えきった頬骨筋をどうにか動かして、笑みを作る。

 その様子がぎこちなくて、なんだか愉快である。

 

「おかえりなさい」

 

 鶴はもう一度、言った。

 

「ずっと、待っていてくれたんだね。十年間も」

「私があなたを見捨てると思って? 心外ですね」

 

 はは、男は力なく笑って、隅に置いてあった四脚の椅子に座る。

 看護師は、個人的な話をするであろう男と鶴を察して、退室する。

 部屋は、男と鶴だけ。窓から吹く風が彼らの頬を撫でる。

 

「それに、まだ伝えていないことがあるのです」

「なんだい?」

 

 鶴は、男の目をまっすぐに見つめて、言った。

 

「私は人間じゃありません。──私は、鶴です」

 

 鶴は全てを話した。

 これまでの経緯を出し惜しみせず語った。

 

 男はただ頷き、耳を傾けていた。

 鶴は、その様子を疑問に思った。

 その男の姿勢に。驚愕もせず、疑いもしないその様子に。

 

「……驚かないのですか?」

「いや、内心結構びっくりしているのだけどね」

 

 男はコホンと咳払いして、それから続ける。

 

「けど、もしそれが真実なら、全部合点がいくんだ。君の変なところとか、非常識なところとか、君が人間じゃなくて、鶴なら、全て納得がいく」

 

 男は、それにね、と付け加える。

 

「君は嘘をつかないじゃないか」

 

 男にとって、それだけで信じるに足りたのだろう。

 

 ここからだ。

 鶴が言うべき、ほんとうに重要なことはここからだ。

 

「私は、もう長くありません。きっと近いうちに亡くなるでしょう」

 

 鶴は、もう隠さずにはいられなかった。

 自分に命の残り火は、きっともう少しでかき消えてしまうだろう。

 目覚めた男に伝えるには、あまりにも残酷な話であった。

 

 鶴は男の顔を直視することができなかった。

 男はどう感じるだろうか。

 いきなり目覚めたら、十年の時が過ぎていて、しかも長年連れ添った恋人が鶴で、しかも余命いくばくかときた。

 とても受け止めきれないだろう。

 

 そんな鶴の予想に反し、男を飄々としていた。

 

 

「そういえばさ、覚えているかい?」

「はい……?」

「あの日のことさ。帰ったら渡したいものがあるって」

 

 事故の当日、男はそんなことを言っていたような……。

 鶴は、どうにか思い出す。それからふいに懐かしんでしまう。

 懐古するたびに、胸が締め付けられた。

 

「それって?」

 

 あの日から、きっと自分たちの時間は止まってしまっていた。

 男がいない日々は、なんて寂しくて、辛いのだろう。

 孤独とは、どこまでも胸をえぐってくる。

 

 ようやく男は目覚めて、時間は動き出したのに、失われた尊い時間を取り戻すことは叶わない。

 残された時間は、ほんのわずかだけだった。

 

 鶴は、泣くまいとこらえる。

 別にいい。死ぬまでに、男と言葉を交わすことができて、それで満足だった。

 なのに、やっぱり悲しい。

 

 男は力をこめて、立ち上がり、それから鶴の傍まで歩む寄った。

 腰を降ろして、ポケットから手のひらサイズのケースを取り出した。

 

「あけてごらん」

 

 鶴は、ゆっくりとした手つきで、ケースを開くと……。

 

「なんで……」

 

 ケースの中には、指輪が入っていた。

 病室の蛍光灯が、指輪をより一層輝かせていた。

 

「なんでって、あの日渡せなかったからさ」

「そうじゃなくて……」

 

 鶴は言葉を詰まらせるしかなかった。

 彼は、自分の話を聞いていたのだろうか。

 

「私は、人間じゃないんだよ」

「分かってる」

「もうあと少ししか生きられないんだよ」

「承知の上だよ」

 

 男は指輪を手にして、鶴の薬指に通す。

 

「結婚して下さい」

 

 と、一言添えて。

 

 言葉はいらなかった。

 一匹と一人は、抱き合った。

 

 

 二人は、最後に幸せなひと時を過ごした。

 

 

 

 ☆☆☆

 

 

 

 それから最後の夜が訪れた。

 静けさに包まれた闇の中、しんしんと雪が降っていた。

 

 病院の屋上には、男と女がいる。

 男は女をじっと見つめていて、そんな男に対して、女は微笑んで返す。

 次の瞬間、降り注ぐ雪に混じって、白い羽が吹雪のように吹き荒れた。

 男の視界は白一色で染まり、やがてそれらが収束する。

 

 その中心には、鶴がいた。

 先端が黒く染まった純白の翼を広げ、一声鳴く。

 

 かつて男は、そのこだまを耳にした。

 暗い、暗い森の奥。まるで自分を死に引きずり込むようなそんな鬱蒼とした世界。

 助けを求める呼び声が、男を死から一時的に引っ張り上げた。

 

 そしてもう一度、聞いた。

 きっとこれが二度目で、最後だ。

 男は、ほんの少し悔いた。

 ああ、彼女の本当の声を、もっと聞きたかった。そして彼女の本当の姿を、もっとこの目で見たかった。

 

 鶴は、最後の力を振り絞る。

 頭上に広がる夜空を見上げて、勢いよく飛んでいく。

 今なら、どこまでも行ける。鶴はそんな風に思った。

 

 男は、しだいに遠ざかっていく鶴の姿を、この目でしかと見届けた。

 必ず忘れまいと、目に焼き付けた。

 

 やがて、鶴は消えてしまった。

 それでも、男はいつまでも鶴が消えていった空を見ていた。

 夜が明けて、雪が止むまで、ずっと。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 平日の正午、美術館は、とても空いていた。

 人気のないギャラリーを、老人が杖をつきながら歩いている。

 老人は、並ぶ作品に目を通しながら歩みを進めていた。

 ところが、老人は急に静止する。目の前に展示されていた一枚の絵に釘付けになったからだ。

 

「あ! 先生、ここにいらっしゃったんですか」

 

 若い青年が、老人に声をかけながら、歩み寄ってくる、

 

「おお、悪い悪い、少しぼーっとしておったわ」

 

 老人は、はにかんでそう答える。

 そうして青年は、老人の隣に並んで、さきほどまで彼が鑑賞していた絵に視線をやる。

 

「この絵、昔、先生が描いた作品ですよね」

 

 青年は、そう言うが、老人は聞いていないみたいで、ただじっと絵を見つめている。

 

「先生は、どうして絵を描くんですか?」

「どうして……か」

 

 青年の唐突な質問に、老人はほんの少し考える。

 それからどこか遠い目をしながら、つぶやいた。

 

「……多分、愛だな」

 

 老人の言葉に、青年は思わず吹き出しそうになった。

 それを見咎めた老人は、顔をしかめる。

 

「なんじゃい、せっかく人が真面目に答えてやったのに」

「だって、愛ってなんだか先生らしくないじゃないですか。もっとこう情熱とか執念とか、答えると思っていたのに」

 

 老人は歩き出した。青年もその後を付いていく。

 二人が立ち去った後も、彼らが鑑賞していた絵は、いつまでも存在感を放っていた。

 

 雪降る夜の中、空高く飛び去る鶴と、地上から見上げる男。

 一匹と一人の別れの一幕が、そこには描かれていた。

 

 

 ☆☆☆

 

 

 いつものように、男はキャンバスに向き合っている。

 鶴は、静かに男の後ろ姿を見ていた。

 

 男の手が止まる。

 ちょうど絵を一枚完成し終えて、張った肩を緩めて、リラックスし始めていた。

 そんな折、男は話し出した。

 

「絵を描くのってすごく疲れるんだ」

 

「体力も集中力もゴッソリと持っていかれる。それに地味な作業だし、すぐに飽きる」

 

「創作するよりも、鑑賞したほうがずっと楽しい」

 

 男の話に対して、鶴は疑問をぶつけた。

 

「どうして、絵を描くのですか?」

 

 本当に、純粋な疑問だった。

 男は質問に答えずに、完成した絵を鶴に見せる。

 それから、くしゃりと笑って、答えた。

 男の回答に、鶴は納得したように、笑みを浮かべた。

 

 

 これは、ほんのちょっと前の昔話。

 一人と一匹だけ知っていた、おとぎ話。

 






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