公安局の石つぶて 作:もずくスープ
暗い視界。
目を開けようとすると右瞼上に鋭い痛みが走る。
反射的に痛む場所を手で押さえようとするが、手首を拘束する何かによって阻まれそれは叶わない。
仕方なく私は右目を刺激しないように気を付けながら、そっと左の瞼を上げた。
目を開いてもまだ暗い。
視界は霞みながらも、すぐ横に迫る壁の存在には辛うじて気づき、ここが閉鎖空間であることを把握する。
手を動かして周囲を探ろうとするが、後ろに回された手はぎちりと紐のようなもので締め上げられており、出来たのは僅かに身じろぎすることくらいだった。
痛む頭と朦朧とする思考の中で、私はここまでの経緯を思い出そうとしていた。
急に視界が明るくなる。
キンと鳴る耳に少し遅れて届いたのは絹擦れの音、靴の音、重たい金属扉の開く音。
どうやら誰かが私の前に立っていたようで、その人物がこの閉鎖空間の入り口を開けたことで光が目に届いたようだった。
眩んで痛い瞼を細めながら私はその人を見やった。
その表情の微細は分からないが、シルエットはぼんやりと記憶にある意識を失う直前に見たその形と寸分たがわず重なった。
「さっきの公園の時とは逆だな。コマ」
聞こえたのは彼女の声だった。
まだまどろんでいる脳にその声は心地よく響く。
私は改めてその人物を見る。
彼女の表情はいつもの厳めしいものと少し違い、どこか余所余所しさも感じる硬いものだった。
現状をまだ正しく把握できていない私はかすれた声で彼女に尋ねた。
「なんの、じょうだん……を」
「冗談に見えるか? 先に言っておくが気が狂ったわけじゃない」
「ここはどこ、なんですか。なんで私は縛られて」
彼女はかつかつと靴音を高く鳴らしながら近づき、縛られて床の上に膝をつかされた状態の私の数歩先でぴたりと止まる。
まるで形式を重んじる厳格な役人のように、重たい口調で彼女は告げる。
「三黒ササネ。現在お前にはヴァルキューレ警察学校への脅迫、及び第3分校へのテロ行為の容疑が掛かっている。そして更紗シカコ殺害の嫌疑も」
「……いみがわかりません」
あまりに唐突な内容に私は驚くこともできなかった。
脅迫? テロ行為? 殺害? 私が?
ヴァルキューレを脅迫した覚えなんてない。
第3分校には結局行かなかったじゃないか。
更紗シカコの殺害って、今目の前で先輩は生きている。
本当に意味がわからない。なぜそんな出鱈目なことを言うんだ。
次第に明瞭になっていく思考を加速させて先輩の言葉の真意を捉えようとするが、起き抜けの私の頭は未だ鈍重だった。
曇った頭の中が整理されるのを待たず彼女は硬い口調のまま続ける。
「じきに私の部下たちがここに到着する。お前にはこの後彼女たちの一部と共に船に乗ってもらう。まだ果たしてもらうべき役目があるからな」
「部下…………公安局の、みんなですか?」
「いや、あくまで"私の"部下だ」
目の前の彼女の言葉がうまく理解できず、私の混乱は増すばかりだった。
先輩は公安局の部長だ。彼女の部下と言えば公安局員たちの他に誰がいるというのか。
先輩の部下であって、公安局員ではない者。個人的な繋がりだろうか。しかしそれは部下と言うのか。
言葉の表面的な意味だけがぐるぐると空回る私の頭の中に、横から不意に二つの黒い影とぶつかるあの人の姿が割り込んだ。
そうだ、そういえば彼女はどうなったのだろう。彼女は誰かと戦っていたんだった。
私は先の疑問を消化する前に、何の考えもなくその人物の名前をただ口に出した。
「サオリさん、は」
「……あいつなら逃げた。土手っ腹に特注の特殊弾をかましてやったんだが、仕留めるには足りなかったな。あの程度の威力じゃあ、一発で相手を戦闘不能にさせるなんてのは案の定カイザーの誇大広告だ」
逃げた。そうか、良かった。彼女は逃げられたのか。
その言葉を聞いてひとまず安心した私は、その後に続いた言葉の意味を咀嚼してまた疑問にとらわれた。
かました、仕留める、戦闘不能。
つまり、あの時彼女を撃ったのは、先輩で。撃たれたのはサオリさんで。
その後再び目を開けたとき確か私は、銃口を見て、そうだ、それでその奥に彼女の顔が、目が。
途端、それまで細く緊縮していた私の脳の血管が一気に開放され、急激に走り出した血流による刺すような痛みが頭に走る。
それまで散らかっていただけのいくつもの疑問と推測が私の脳内でバチンと一本に繋げられた。
重く塞がっていた脳回路が今こそはっきりと覚醒し、私は目を見開いて先輩に食いかかった。
「あなたがッ!」
「遅いんだよ」
立ち上がりかけた私の左頬に鋭い衝撃が加わり、私は硬い床の上に強く頭を打ち付けた。
鉄の容器が鳴動し内部で反響する音が揺さぶられた脳内部に痛いほど木霊する。
殴られたのか、蹴られたのか。顎に残るこの硬い感触は恐らく後者だろう。
這いつくばった状態で苦痛に喘ぎながら私は下から彼女を見上げた。
彼女がこの場所に連れてきた。
彼女はやけにこの場所について詳しかった。
彼女がサオリさんと私を撃った。
直前の記憶が津波のように脳裏に押し寄せてくる。そのどれもが彼女が敵であることを示唆していた。
公安局に潜り込み先輩にメッセージを送った人物、内部事情に精通した私のファンを名乗る人物、私に迫った黒耳さんが接近を恐れていた人物、そして公安局の領収書を持ち出し第3分校に移動させた人物。
曖昧な情報によって暗示されていた実体を持たないそれらの人物たちがただその一人であると仮定すれば、驚くほど瞭然とその仮説は真実の様相を呈していた。
彼女ならその全てを知りえて、彼女こそがその全てが可能な立ち位置にいた。
「先輩が……、貴女が全て仕組んで、私を誘導して……………私を、嵌めたんですね」
「そうだ。私が公安局のスパイで、お前に行動を起こすよう唆したお前のファンであり、黒幕さ。そしてお前はまんまと私の罠に引っかかってまな板の上に上手に飛び込んできた間抜けな鯉だ。驚いたか?」
いや、賢いお前にとっては驚くべきことじゃないな。
彼女はおどけた風にそう言って、私の顔の前にしゃがみ込んだ。
私の顔を覗き込む彼女の目はそれまで見たこともない、冷笑的で人を嘲るような突き放したものだった。
私は何も言えず、ただ下唇を噛んで悔しさに身を震わせていた。
信じたくなかった。嘘だと言ってほしかった。
サオリさんを疑い、尾刃局長を疑い、それでも先輩だけは決して疑わなかった、疑えなかったのは私にとって彼女は無償の救いを与えてくれた存在だったからだ。
私に憧れをくれたのが尾刃局長ならば、居場所をくれたのは先輩だった。
ドジで役立たずの私を見捨てず、なんだかんだと乱暴に文句を言いながらも彼女は私に付き合ってくれた。
どれだけ私が馬鹿をしても先輩は怒りこそすれ無視することはなかった。
パシリだのと理由をつけて私に役割を与えてくれたり、気晴らしと称して私を訓練場に連れ出したり。
実戦で役に立てない私に雑務仕事を教えてくれたのも先輩だ。
先輩が便利な雑務担当として私を役立てたがために他の局員たちも完全には私を見放さなかった。
先輩が私を"コマ"と呼んでくれたから、他の公安局のみんなも私を"雑用"とは呼ばず親しみを込めて"コマ"と呼んでくれたのだ。
私の公安局での二年間の何もかもは、先輩が与えてくれたものだった。
だから、私は先輩だけは疑いたくなかった。
そんなはずはないと。そんなことを考えてはいけないと。自らの願望を守るためだけに認知的フィルターを掛けて過去の否定に繋がるその考えを封じ込めていた。
彼女に対してのみその疑いの矛先を私は意図的に外していたのだ。
それがどうだ。真実はいつも私に都合の悪いことを言う。
私は裏切られたのだ。いや、最初から仲間などではなかったのかもしれない。
私は今更すぎる後悔に自身の愚かしさを呪いながら彼女にそれを確かめた。
「どうして、こんなことを。…………いつ、から。いつから貴女は」
「最初からだ。お前にヴァルキューレの不正領収書の件を懇切丁寧に教えてやったのは誰だ?」
そうだった。忘れていたわけではないが、切っ掛けは確かにそれだった。
尾刃局長から任された任務に不満を抱き敬拝と疑心の間で揺れ動いていた私を、結果的に崖の縁へと追い込んだのは他ならぬ先輩だった。
その時には既に彼女は私を陥れることを計画していたのだ。
尾刃局長だけでなく、最も近しいと思っていた先輩にとってすらも、あの時の私は駒としてしか見られていなかったらしかった。
惨めな現実だ。酷い真実だ。
しかし彼女はそればかりではなく、それよりももっと酷い真実を私に告げてくる。
「より正確に言えば、トロいが頭の切れるお前に目を付けて公安局への配属を上層部に指示したのは私だ。実技がからっきしのお前が"奇跡的"にも希望通りの公安局に所属できたのはひとえに私の判断によるものだ。初めからお前はこうなる運命だった」
彼女の言葉を聞いてそれを理解し、私は目の前が真っ暗になった。
私が唯一自らの力で手にしたと思っていた公安局への配属は私を利用しようとした彼女の手回しだった。
公安局への大抜擢は私の努力と意欲とそれを認めた上の判断によるものなどではなかったのだ。
ただ彼女が描いたこの画のためだけに用意された偽りの栄誉だった。
つまり私は最初から公安局という組織には不適格な存在で、彼女たちの輪に加わる資格などもとよりあるはずもなかったということ。
自惚れのままに厚顔無恥にも私はその席を我が誇りの依拠として、勝手な仲間意識を抱いて、自分を特別な存在だと勘違いしていた。
思い上がりも甚だしい、空威張りの恥知らずそのものだ。
あまりにもあっけなく、私は信じてきたものをまた一つ失った。
代わりに残ったものは、私の身体の芯を貪り喰らおうとする強い虚脱感だけだった。
強張った四肢から力が抜けていく感覚が嫌にはっきりと脳に伝わる。
「お前が尾刃カンナに辞表を叩きつけたあの日、お前のもとに一番に私が現れたのも偶然じゃない。お前が自力で逃げられそうもない場合は私がお前を逃がす手筈だった。その後にお前が公安局から逃げ続けられたのも私が裏で手を回していたからだ。あの女に拾われたのは予定外だったが、むしろお前の行動を縛るのに丁度いい鎖になった。協力者、なんてお前も思ってはいないだろうが、あの露骨に怪しい
「……なんの、ために」
「分からないか? 自発的にお前を真実に向かわせ、代償に私たちに都合の良い巨悪人になってもらうためさ。勝手な正義の名のもとに平和をかき乱す危険な犯罪者にな。こういうのなんて言うんだっけか、
そんなことはどうでもいい。
どうであれ彼女が私を利用するために全てを計画したのは間違いなかった。
疑いの余地など欠片もなく、彼女は完璧に公安局を欺いて私の行動を裏で操っていた。
「……嘘だったんですか。再会してからのやり取りも、公安局での日々も、…………私が先輩と出会ってからの一切が、私を道具に仕立て上げるための……」
「ああ、そういうことになるな。人に強い動機を植え付けるのに必要なのは永続的な苦しみと程よく垣間見える希望。私は常にそれをお前に与え続けるように動いてきた。お前を理想の体現者たる尾刃カンナに近づけ過ぎず、また理想と乖離した自らの現状にうっかり絶望してしまわないよう、適度に人間の良心や善性に触れさせた」
まさか、そんな。
尾刃局長は私なんかが近づくには畏れ多い存在で。
理想と乖離した私の身の上は私自身の思い違いが原因で。
それでも絶望しなかったのは私が公安局の一員として曲がりなりにも役に立てて、誰かが必要としてくれたからで。
まさかそんなことまでが、彼女の掌の上だったと?
「お前には到底無理な任務を与えて期待と失意を同時に与え、悲惨な境遇に慣れを感じさせないように痛みと叱責を刺激として加えて、決してお前を見捨てない私という世話役に感謝を抱かせた」
あの時嬉しそうに任務が下ったと私に笑いかけたのは先輩だ。
鬱陶しいから腐るなといつも乱暴に蹴って立ち上がらせたのは先輩だ。
偶には褒美をくれてやるとお気に入りの煎餅を分けてくれたのは先輩だ。
先輩が、先輩が、先輩が。
次々とそこに浮かんでくる先輩の姿を私は幻視した。
そのいくつもの心像の中にある先輩の表情は、今目の前にある彼女の表情とは一つたりとも重なってくれない。
その事実が私にこれ以上ない程の絶望と喪失を感じさせた。
「大事に大事に育ててきたさ。繊細なお前を壊さないように、かといってぬるま湯に浸からせることもないように。成功は与えず失敗だけを吸収させ、お前の望むものを見せながらそれが得られることは永遠にないと刻み込む。そうして私への依存心を強めながら、絶妙なバランスでより深い所へとお前を落としていった。自分の子供を育てるかの如く、慎重に丁寧に愛情深くお前を導いてきた。そしてお前は私の思い通りに成長し、危うい希望に取り憑かれた妄執的で完璧なる小さな反逆者として完成した。ああ、間違いなくお前は私の一番の自信作だ。誇らしいぞ、コマ」
彼女はそう言って妖しく笑った。
それはまるでそれまで覆い被さっていた『先輩』という皮を拭い去るためかの如く、下卑た悪辣な笑みで。
文句を言いながらも実直に任務をこなすかつての先輩の背中に、私は尾刃局長とはまた違う正義をそこに見ていた。
私の理想とは違っても、尾刃局長のように眩い光ではなくとも、先輩のそれは暗い夜道に足元を照らしてくれる行灯のような頼もしさがあると心の底から信じていた。
信じていたのだ。信じていたのに。
私は一抹の縋る思いで彼女の目を下から覗いた。
そこに彼女の本心はないと思いたかった。
何か特別な理由があって、今の彼女の態度も本当は演技だと思いたかった。
しかし彼女は無慈悲にも、私のそれにそれまで一度も見せたことがない酷薄な嘲笑をもってそれに返した。
「そんな目で見るなよ、コマ。おままごとはもうおしまいだぜ。お前が自分で選んできたつもりの道は全て私が考えた脚本だ。自分で得てきたつもりの情感は全て私が加えた演出だ。お前の全ては私が作ってやったんだよ。お前は私の用意した舞台上で演じるだけの人形だ。自分を人間だと思い上がった、哀れで傲慢な人形さ」
そう言って微笑んだ彼女が私に手を伸ばす。
何の不思議もなくお前は自分の物だと言わんばかりに、躊躇いもなく私の髪に触れようと。
私の身を慮って優しくなでてくれたあの人の手とは全く違う、どこまでも支配的なその手で。
私の心をその爪で引き裂いておきながら。
私の魂すらもが我が物だと主張せんとばかりに。
「違うッ!!」
彼女の手が触れる寸前、冷たい床の上に私は吠え立てた。
そんなことがあるわけがない。あっていいはずがない。
「わたしは人形なんかじゃない!! ぜんぶっ、ぜんぶ自分の意思で選んできた道です! 惨めな自分も捨てたもんじゃないと思えた自分も私が私だからそう感じられたんだ! そんな私だからあの日あの行動を起こすことを決心できたんです! 馬鹿で無能で役立たずでもっ、張りぼての『私』なら少しは立派に見てもらえるって……! 一度も仲間として見てもらえなかった私でも、『私』なら皆見てくれると……! どうしてっ、どうしてそんなことまでが全部貴女の作り物だなんて言えるんです!? 貴女の思い通りなんかじゃない! 貴女の人形なんかじゃ! せんぱいにっ……! 貴女に私の何がッ……、……」
あの時の意地は、叫びは、願望は、絶対に私自身のものだった。
卑怯で独善的で寂しがりで甘ったれな、どうしようもなく隠したい私の汚らしい部分を曝け出してでも彼女たちにぶつけたかったそれを、簡単に彼女に奪われたくなかった。
それがまるで水槽の魚を育てるように、培養室の植物を育てるように、誰かの思うがまま掌握され絡繰られていたものだなどと。
そんな事実を、到底受け入れられるわけがなかった。
私という人間は決してそんな粗末な存在じゃない。
人間というものが、人間の心というものが、彼女のような者に容易く弄ばせていいものだなんて事実を、私は絶対に認めない。
その場凌ぎで継ぎ接ぎした咄嗟の虚勢を張って、私は彼女に悲憤の叫びをぶつけた。
しかしやはりと言うべきか、この期に及んで未だ考えの甘い私の期待を裏切ってそのなけなしの義心に彼女が返したのはどこまでも冷たく侮るような嗜虐的な嗤笑だけだった。
「わからないガキだな。それが全部私の演出だって言ってるんだよ。追い込まれたときに自分勝手な理屈に逃げるのも、そうやって駄々をこねるのも、私がそうあるようにお前を矯正してきたからだ。お前が自分の意思で決めてきたことなど一つもありはしないよ」
彼女は何の感情も乗せずにそう吐き捨てた。
路傍の石を気まぐれに蹴突くくらいの軽々しさで、彼女は再び私の全てを否定した。
彼女にとって私のそれはその程度の感想しか引き出すことのできないつまらないものだった。
私の感情も、行動も、思想も、精神も、存在に至るまでもが。
徹頭徹尾それは予測できた当然の結末であり、どこまでいっても私という人間は彼女によって生み出された予定調和の成果物でしかなかったのだ。
私の根幹を辛うじて支えていた反抗心や自尊心といったものが、今度こそ根元から音を立てて崩れていく。
気づけば空っぽに刮ぎ落され寒々とした器だけが冷たい床の上に転がっていた。
心にはもう何も信じ得るものなどありはしない。
自分自身の在り方さえも、それを培ってきた幼い私の記憶さえも。
何も残りはしなかった。
「癇癪はそれくらいでいいか? さて、お楽しみの答え合わせはまだ終わってないんだ。ここまで来たからには義務として付き合ってもらうぞ」