公安局の石つぶて 作:もずくスープ
「い、……以上の理由を持ちまして、辞表の提出という判断に、あぃ、あいなりました!!」
全てを言い尽くしもはや何も言うべきことが無くなった私は、それまで押し留めていた恐怖心や緊張というものが汗やら涙と一緒に体の内側から一気に噴き出てくるのを感じた。
直立不動の姿勢で尾刃局長の前に立つ私は今更追いついてきた焦りによって穴という穴から汁が漏れ、ついでに漏れてはいけない穴からもイケない汁が漏れ出そうになっていた。
警察官としての正義より先に人として守るべきラインが決壊しそうな私は一刻も早くこの場から立ち去りたくて仕方がなかった。
あ、あの……、早く何か言っていただけると助かるのですが。
私のその情けない内心を知りえない尾刃局長は机にもたれ掛かったまま私が提出した辞表をじっと見つめ、しばらくの間黙りこくってしまった。
長い、長い沈黙の後、ようやく尾刃局長はその口を開いた。
「…………お前の考えは分かった。辞表はこちらで預からせてもらう」
「ありがとうございます」
「もう、下がっていい」
「了解しました、失礼します……」
尾刃局長の許可に私は一つ尋常に頷いた後、お辞儀をして彼女のデスクの前から立ち去った。
自分の机まで辿り着き、ふと尾刃局長の方を振り向くと彼女はしばらく私を見ていたようでしたが、やがて視線を切って椅子に座り直し、私の提出した辞表を一番上の引き出しに仕舞い込んで再びゆっくりと書類整理を再開させました。
私は何時もの雑用係席に座り、深い、深い息を吐いて強張りっぱなしだった肩の力を抜きました。
うおぉぉぉ、うおああぁぁ…………。
やったったぜ、やってしまったぜえ。
もとより覚悟していたこととはいえ、これでもう二度と後戻りはできない。賽は投げられたのだ。
さらば、私の公安局での日々、青春の友たちよ。
毎日ぴかぴかに磨き上げた先輩のデスク、互いに酷使されすっかりボロっちくなった急須と湯呑たち、丹精込めて作った私渾身作のスクラップブック『キヴォトス事件簿 〜無能の青春〜』。
達者でやれよ、お前たち……。もう私が面倒見てやれないんだから、しっかりと自立するんだぞ……。
私は既に望郷の思いでこの公安局のオフィス、そして物言わぬ盟友達への別れを述懐していました。
さてと、では、逃げますか。
このオフィスでやるべきことの全てのことをやりおおせた私は、そそくさと机の上を片付け初めた。
みんながまだ先程の事態に気を取られて放心している今が絶好のチャンス。
もし彼女らが正気に戻れば私は上官及び同僚に対する反逆者として引っ捕らえられ公開処刑にあうに違いありません、今度ばかりはいくら靴を舐めても許してはもらえないでしょう。
今はまだ私の虚仮威し説教ショーに圧倒されてみんな呆然としているが、いつそれが怒りの感情に変わるか。
「偉そうなこと言ってたけどあいつそもそも警察としての職務全う出来てねえじゃん」とか、「ほとんど仕事してないへっぽこのくせに主張だけは一丁前か」とか、「じゃあお前が金回りの問題解決してくれるってのかア"ァン?」とか、とかとか。
概ね先輩の声で脳内再生されてしまいますが、これはこの場にいる公安局員全員が思って然るべきことで蓋然性の高い展開だと私は考えます。
そうなったら一巻の終わりである、「哀れ、無力な無能は公安局の床のシミとなったのだ」みたいな結末を迎えることは想像に難くない。
それに一刻も早く逃げ出すべき理由はもう一つある。
尾刃局長は私の辞表を一応受け取ってくれたが、何だかんだと理由をつけて拘束もしくは軟禁される可能性は非常に高い。
ヴァルキューレ警察に都合の悪い情報を持っているというだけでもあまり自由にさせたくはないだろうに、そのワンランク上の危険物までうっかり背負ってしまっている私の身柄を、尾刃局長はおそらくどうあっても放っては置かないだろう。
仮に真っ当に退学を果たせたとしても、保護と監視の両方の目的で尾刃局長は私を目に届く場所からは絶対に離そうとしないはずだ。
それに加えて人一倍責任感の強い尾刃局長のことだから、仮に私がそういう厄介な事情を抱えていなかったとしても、口では立ち行かなくなると脅しておいて実際辞めたら私が生活に困らないだけの必要最低限の援助は譲らないに違いない。
でもそれでは全く意味がないのだ。
それは今までの私の警察生活とほとんど何も変わらないだけでなく、私が今しがた表明した決意すらもなかったことになってしまうからである。
私は辞表を提出した瞬間から私自身の足で自らの正義と責任を果たす義務を負ったのだ。他ならぬ自分のための義務を。
先ほどの文句の中にもあった通り、私に都合の良い悪いは関係なく今後一切たりともヴァルキューレのお世話になることがあってはいけない。
今まで公安局におんぶにだっこだった分、そこだけは私の中で守り通さねばならないラインだった。
そういうわけで、こうして私なりのケジメを果たした以上、今日この場限りで私はヴァルキューレとは無関係の人間になるべく、全力で行動に移す次第なのであります。
デスクの横に掛けていた鞄に手を掛け音を立てないよう気をつけながら膝の上に置き、深呼吸して息を整える。
私はオフィスの現在の状況を確認するためにそれとなく首を回しながらチラチラと周囲を窺いました。
先ほど書類整理を再開していた尾刃局長は、今や一点を凝視したままめっちゃ手が止まっていましたがまだ視線は机の上に向けられています。
他の先輩方や同僚達も思い思いに仕事をしている様子でしたが皆項垂れたり黄昏たりと、どうやら現在私に注目している人間はいないようです。
これは好機、逃すべくもない。
私最大の天敵である先輩の姿が見えないのは不安要素ですが、ほとんど理想に近い状況である今を逃しては勝機は薄い。
「今だ行けっ……! 走れッ……!」と私のゴースト改め、心の中のセコンドもここぞとばかりに叫んでいる。
よしと短く息を吹いて決心した私は鞄の紐を肩に回し、勢いよく椅子から跳ね上がって猛然とオフィス内を駆け抜けた。
地上にありながら溺れるような挙動で走る私のばたばたとみっともない音が大きく鳴って、他の全員の思考に一瞬の空白を生んだ。
私の脱走の目論見に一番に気付いた尾刃局長が咄嗟に私を大声で呼び止め制止しようとします。
しかしもう遅い。この一瞬のアドは私の勝率を格段に引き上げた。
既に私の体はオフィスの出口目前、そして公安局のみんなは未だ誰も立つことすらできていない。
私は今日という日で必ずこのヴァルキューレ警察学校からオサラバし、キヴォトスの広い大地とランデブーと洒落込むのだ。
そしてわたしは今此処よりしてキヴォトスの風となる。体力が尽きるまで、いや尽き果てても走るのだコマ!
RUN! KOMA! RUN!
多数の声が慌ただしく行き交い俄かにオフィスを騒然とさせる中、半開きのオフィスの扉に体当たりをかましながら廊下に飛び出した。
倒れそうになる体勢を必死で立て直し脇目も振らず廊下を全力ダッシュする。
局員達がやっと廊下に出てきた頃には、私は既にT字路の角を曲がった後。
タイムラグによって捕まる可能性が高いエレベーターは素通りし、私は階段を転がるように駆け降りた。
さて、まずはこのヴァルキューレ本部ビルからの脱出ミッションをクリアしなければ。
私はすれ違う生徒たちとぶつからないように注意深く階段を降りながら、頭の中で本部ビルの各階層のフロアマップを開いた。
ヴァルキューレ警察ビルは緊急出動用のヘリポートの設置を前提としていることが多く、本部であるこの建物にも当然それが備え付けられていた。
そしてそれを有する高さを保つためにビルは無駄に縦に引き伸ばされ、部署ごとのエリア分けも兼ねてエレベーターは三つの階層で管理されておりそれらを縦断するシャトルエレベーターも本ビルには設置されている。
シャトルエレベーターは公安局のオフィスのあるフロアと警備局の詰所があるフロアの二つに設置されているため、まず間違いなく公安局の追手はこれを使ってエントランスに降り立ち、正面入り口を固めた後に複数ある裏口を固めるだろう。
当然一階まで階段を使っていてはこのスピード競争に勝つことは不可能である。
かといって各階層のエレベーターを使うなどと悠長なことはできないし、階層間の引き継ぎエリアで待ち伏せされたらお終いだ。
ならばどうするか。
驚くことなかれ、体格の小さい私にしか使えない最強最速のエレベーターの存在を私は知っている。
私は警備局の管轄フロアまで降りると、現在使われていない適当な会議室を選んでそこに入り込んだ。
部屋の窓際隅に走り寄り腰あたりの位置を確認すると、……あった。
通気パイプの横に寄り添って伸びる太めの管と、金属の蓋で閉ざされているその入り口というか投入口。
小柄な人なら頑張れば入れそうなそれはまるで私を待っていたかのように窓から差し込む光に反射して輝いた。
そう、それはダストシュート。
一度降りれば地上階を突き抜けビル全体から出たゴミの集積場がある地下階へと直通です。
どのエレベーターよりも早く下層へ向かうという、安全性さえ考慮しなければ最高のエレベーターがそこには存在していました。
はい嘘ですね、これは昇降機ではなくただの片道専用垂直自由落下コースターです。
私はその金属蓋を挙げて入口の大きさからギリギリ入れそうなことを確認すると、縁に足を掛けた。
管の中から響く「コオォォ……」という音がまるで獣が口を開いて待っているような威圧感を放ち、私の足は堪らず震え出した。
「いや、いやいや、大丈夫。流石に死にはしない。最後にゴミ回収されたのは一週間前ってちゃんと確認したから、ちゃんと一週間分のゴミがクッションになるはずだし。行ける、行けるぞお、頑張れ私。死なない、死なない、死なない、絶っっっ対に死なない。…………あ、やっぱ死ぬ気がしてきた」
悩んでいる時間はないと言うのに私の膝は震えるばかりで全く動こうとしない。
馬鹿な、私は今まで散々死ぬほど怖い思いをして来たではないか。
パトカーで銀行に突っ込んだ時も、連行中に後ろから襲撃された時も、肉盾としてランチャーを真正面から受け止めた時も、死ぬかと思ったが結果的には生きていたではないか。
今更こんなゴミ穴ごときに負ける私ではない。
しかしそんな脳内での励ましも虚しく私の体は微動だにしなかった。
ならばこういう時こそ例に倣って発想を逆転させるのだ、コマ。
なぜ私はこんなところで恐怖を感じて立ち止まっているのか、それは命に執着しているからだ。
ならば私が思うべきことはこうだ。
「死んでも良いじゃないか」
そう、何を臆することがあるのだ。
とにかく飛び込めばいい、死んだらそれはその時考えれば良いのさ。
元々私は公安局のゴミ局員、であればダストシュートに飛び込むのもごく自然なことです。
たとえ死んだとしても私の死体がゴミに埋もれて焼却場にて灰となるだけです、何の問題もありません。
ふふふ、私に相応しい最期ではありませんか。あ、涙が出てきた。
感情を置き去りにして滲み出た涙を袖で拭いた後、次第にどんどん湧き上がってくる根拠不明の勇気に私はその身を任せた。
「よっしゃあとにかくいい、行ったりましょう! ひぃ、ひゃはあぁっあっあっあぅあぁあああ"!!」
掛け声と共にその足を完全に穴の中へと滑り込ませる、と同時に感じたのは浮遊感と充満した鉄臭さ。そして落下。
無駄に叫ぶんじゃなかった。狭い管内で私の悲鳴が反響しまくり耳が痛くなるほどの轟音となって私の耳に返ってきた。
鼓膜が破れそうな思いをしながら目を回して落下していると三秒ほどで私の体は狭い管から放出され大量の紙屑やプラスチックゴミの上に背負っていた鞄と共に着弾した。
ゴミの山に首から下がすっぽり埋まり、さながら恥ずかしがり屋のつくしんぼ、いえ私にそんな可愛げな表現は似合いませんか。犬神もしくは晒し首ですね。
と、とりあえず生きてはいました。
ほとんど一瞬だったので想像していたよりは怖くありませんでした。
大量のゴミの中で手足をバタバタと必死に動かして脱出し、服やら髪についたゴミを払いながら自身の無事を確かめます。
体にもどこも正常で擦り傷が少しと問題はなさそうなのでした。とんだ恐怖の感じ損でしたか、やれやれ。
どこぞの自殺厨ではありませんので「また死ねなかったか」みたいな感情は一切ありません、ひたすらに生きててよかった。
一緒に落ちてきた鞄の無事も確認したところで私は身体中に付いた紙ゴミやら埃やらを改めて叩いて払い、ゴミの山から降りると業者専用扉を開いて外に出た。
集積場は地下一階にあるために通常なら建物から出るためには一階まで階段で登って正面玄関もしくはその他の出入り口から出る必要がある。
しかし今の私に態々そんなリスキーなことをする余裕はないので、私は地下から直接地上へと出れる業者用の車両搬入口の方へと向かった。
ガラス張りの明るい地上階と対照的に重く薄暗い廊下を進んでいくと、それほど歩かないうちに赤色のランプで照らされた搬入口に出た。
なだらかな坂になった向こう側には地上からの光が漏れており、薄汚れたコンクリートに反射する汚い光が今の私にはまるで天から伸びる救いの光のように神聖なものに感じられた。
すぐにでもここから出ようと駆け出そうとした私は、しかし後ろから掛けられた馴染み深い声に引き止められた。
「おい、待てやコマ。お前部長に挨拶もなくどこいくつもりだ、あぁ?」
その声は私が今最も聞きたくなかった声でした。
神様、救いはないんですか?