レイチェルの家に住むようになってから、すぐにロックは自分でベッドを造った。それまで彼は、「キャロル」のために綺麗に整えられたベッドを使わず、床に寝ていたのだ。
ベッドの完成後、散らばる沢山のおもちゃも、決してぞんざいに扱わずに箱に詰めていった。
そんな様子を見て、クローエはいよいよ密かに決めていたことを、ロックに告げた。
「…ロック、私達…もうおもちゃは買わないわ。…だから、皆処分してちょうだい」
「え?何故。俺はキャロルのために取っておくべきだと…」
クローエは首を横に振った。
「今度こそ、あの子を安心して眠らせてあげたい。いつでも帰ってきたら…すぐにでも遊べるように、そのままにしておいたけど…もう、おもちゃはいらないと分かったの。…あの子の死と、しっかり向き合わなければいけないわ…。私達夫婦が」
ロックは、クローエの緑深い眼を見つめた。その決意が本物だと分かった時、ロックも「分かりました」と、一言だけ答え、おもちゃの箱を全て外に出し、「火葬」した。
おもちゃは、その数とは対照的に少量の灰となり、ロックはレイチェルと両親を連れて、キャロルが眠る丘に向かい、自分達二人で立てた小さな石碑の周りに、散骨するように撒いた。
辺りは、また日が暮れて、コーリンゲンを美しく照らしていた。
…
レイチェルの家に住むようになり、数週間が経過した。
「えーっと、この字は『ありがとう』って読むんだっけ?」
「そうそう!ロックって意外と飲み込みが早いのね!もうすぐ読書できるようになるわ」
「『意外』ってのが引っかかるなぁ…」
「あ、ほら、もう覚えちゃった!」
笑い声が上がる。ロックは、レイチェルの部屋で、彼女に文字を教えてもらっていた。
スタンリーは、レイチェルの部屋のドアを僅かに開け、二人を見守っていた。
…私は、心のどこかで、レイチェルを信じていなかったのかもしれない。
…一番幸せを与えてくれる存在が…こんなにも近くにいたではないか。
スタンリーは、たった一人の我が子を想うあまりに、娘に干渉しすぎていた己を、心から恥じていた。
階段を降りると、ロックと言うあの不思議な少年に…娘を預けてみたいとも…気持ちのどこかで感じるようになっていた。
「で、この字は…『さ、よ…なら』…か。…ちょっと、あまり使いたくないな…」
「できれば…ね。でも、いつかは使わなければならない時が…生きている限り…必ずある…」
「…なるべくなら、その時が来ても、『ありがとう』で…終わりにしたいよな」
レイチェルは、ノートにペンを走らせる、ロックの横顔を見つめた。
…ロックは時々、核心をつくような言葉を口にする。
「ありがとう」で終わらせる。レイチェルは思った。そんな言葉は下手な一流の作家でも、なかなか出てこないのではないか、と。
…
どれほどの時間を掛けていたか。勉強を始め出してから数ヶ月後、ロックはすっかり字を覚え、レイチェルの自宅にある本はおろか、近場の図書館へ向かい、本を大量に借り込み、貪るように毎日読書をしていた。
ある日、二人は、出たはずのトマスの家に戻っていた。
彼は、毎月15日になると、一週間程仕事のために家を出る生活をしていたのだ。
持ち出す本が多すぎる時はその一週間、毎月ロックはトマスの部屋を借りて読書をしていたのである。
元々好奇心旺盛なロックは、読む本読む本、全てに新しい発見を見つけては、その度に驚きと新鮮な気持ちを、心の中で萌芽させていた。
レイチェルは文字を教えつつも、母の隣で覚えていっていた料理を拵えていた。彼女はロックが教えてくれた料理を、ほぼ全てマスターしたのだ。
キッチンから包丁で切り刻む音と、良い香りが広がっている。
本を読み終えたロックは、バンダナを外しながら、「完成」させていたはずの地図に、地名を書き込んでいた。どの国もいつかレイチェルを連れて、旅に出たいとチェックしていたが、その中でもロックが一番興味を持ったのは、砂漠の中心に建つ「フィガロ城」であった。
「フィガロ城は、若い王様が国を統べてるんだよな」
「ええっ?もうそれも覚えたの!?凄い!凄い!」
ロックは木でできた机につきながら、地図を作っていた。そして、駆け寄ってきたレイチェルとその大きな歓声に、ひらひらと手を振る。
「トレジャーハンターを舐めてはいけません。それ以上に凄いのは、その国王だよ。俺と大して歳も変わらないのに国を治めるなんて、よほど頭が切れるんだろうなぁ。まさに爪の垢を煎じて飲みたい!そんな気分だぜ」
「あ…」
レイチェルの言葉が途切れた。ロックはきょとんとした顔で、レイチェルを見つめ、言った。
「『あ…』って、何?俺、なんか変なこと言ったかな…?」
レイチェルは、答えようか迷っていた。彼女はその国の若き国王が即位した理由を、当時の速報の新聞を読んで、知っていたのだ。
その重い理由を、ロックに告げるべきか。
「あ」で止まってしまったレイチェルに、ロックも少しの間困惑していたが、機転を効かせて違う方に差し向けた。しかし、それは。
「『あ』って、もしかして…俺のこと『愛してる』とかだったりして?…いや、そんなわけないか!アハハッ!!」
レイチェルは固まってしまった。表情が石膏のように硬くなり、困ることも、笑うこともできない。
…笑っていたロックも、自分が発した言葉に固まった。
二人は、既にキスもした仲…。
何故忘れていたのか。「愛していない」…はずがないのに。
レイチェルは、無言でロックの隣に座ると、目を閉じてロックに顔を近付けた。ロックも、あの丘の時と同じように、レイチェルにそっとキスをする。
そして、僅かにレイチェルの唇が離れた時、ロックは囁いた。
「…レイチェル…今ここにいるって、家族に伝えてきた?」
レイチェルは、再びロックの唇に自分の唇をそっと当てると、答えた。
「…隣のお部屋、電話あったよね…?今から…友達の家に泊まるって…連絡するわ…」
レイチェルが席を立って、電話がある隣部屋に行こうと背中を向けた。
「レイチェル!」
「えっ?」
パシッと言う音と共に、光が放たれた。
ロックは、カメラをこっそり持ち出しており、呼びかけて、振り向いた瞬間のレイチェルを撮影したのだ。
「ちょっ…!ちょっとやだぁっ!何急に撮ってるの!?」
「フフッ、レイチェルが物凄く綺麗だからさ。ほら、満月だし!」
え、とレイチェルは自分達が佇むこの部屋の、大きな窓の外を見た。
「本当だ…綺麗…」
銀色とも、黄金とも言える大きな月が、闇夜の空にぽっかりと浮かんでいる。
「綺麗なのはレイチェルだよ」
そう口にしたロックの方に顔を向けると、彼は大きな目をウィンクして、「電話は?」と書かれたような表情をした。
レイチェルは、すぐに隣部屋へ行き、自宅に電話をかけた。ロックはトレジャーハンティングに行っていると嘘をついたが、もしかしたら見抜かれていたかもしれない。
…だが、彼女はそれでもよかった。
「電話、今終わったわ」
「…それなら、今夜は二人きりでいられるんだな…」
「……うん」
今度はロックが隣部屋に入る。月灯りを浴びながら、二人は今度は深く、長い口付けを交わした。
「…ロック……愛してる…」
その言葉を聞いた瞬間、ロックは酷く哀しくなり、レイチェルを強く抱きしめ、どこにも逃さないように力を込めた。
「ロック、少し…痛い…」
「…ごめん…」
ロックは謝ったが、なかなかその力は抜けなかった。
まもなく全てのカーテンが閉められ、部屋の灯が消された。
…
カーテンの間から、朝の暖かな光が部屋の中に差し込んでいた。
「んん…」
その光から逃れようと、裸に毛布を掛けているだけのレイチェルは、寝返りを打った。ふと、目が開かれると、ロックの優しい笑顔が視界を塞いできた。
「おはよう、お姫様」
と、唇に羽のようなキスをされる。
「ん…ロック…何…?」
「フフフッ、レイチェルがあんまり気持ち良さそうに寝てるから、また写真撮ろうかなって」
その言葉に、レイチェルは飛び起きた。
「や、やだ!恥ずかしい!」
ロックは笑いながら、彼女の両肩を抱き、横たえる。
「半分は嘘。正解は左手にあります!」
イタズラっぽく笑うロックに言われ、初めてレイチェルは、左手の薬指に違和感を覚えた。
そっと左手を浮かせて見ると、薬指に、白銀に輝く輪がつけられていた。
…指輪?いや、これは…。
「これ、キャロルのおもちゃの…?」
「そう!一つだけ燃やさなかった、おもちゃのペンダントについてたリングなんだ」
光に当てると、きらりと小さく光った。
レイチェルは、その光はキャロルの笑顔のように感じ、いつしか自分も微笑んでいるのが分かった。
「本物の指輪ができるまで…しばらく付けててくれ。少し時間がかかるものだから、ちょっと悪いけどさ」
ロックは、レイチェルの左手を掴むと、そっとリングに唇を寄せた。
「…近いうちにトレジャーハンティングで……宝石の原石を探すとか…?」
「御名答!」
レイチェルは、微笑みながら毛布を抱いて上半身を起こした。
「…ウフッ、本当に時間がかかりそうね。まあ…形見には良いかしら?」
「あっ!結構言うな、縁起でもないこと」
「いつも意地悪されるんだから、たまには仕返しするわよ」
レイチェルは、彼女にしては珍しく、少し生意気そうな笑顔を見せていた。
「…レイチェルは、母親譲りだな。同じ色を見つけるの、こりゃ大変だぜ」
「え?同じ色って、何が?」
「さ~ね~?」
「ちょっとぉ、何のことよー」
ロックは、幼子のように振る舞うレイチェルに、つい吹き出してしまい、彼女の頭を撫でた。
「さて!朝食にするか。ほら、服着て。窓開けないと」
「うん。今日も私が作るわ。ロックは本読んでて」
「大丈夫か?頑張れよ」
「はいはい」
カーテンと窓が開かれ、きらきらと部屋が虹色に輝いていた。
水道から滴る水も、宝石のように光っていた。
ロックとレイチェルの目には、この光はどんな財宝よりも、どんなに眩い夕暮れの光よりも、世界で一番美しく見えるようだった。
「…ロック、ありがとう…。…私、この景色…一生忘れません…」
続。