濃霧の中、幾度も押し寄せる敵兵を退けながら進んだジュードたちは、やがてウィンガルが示した地図の地点へと辿り着いた。
そこは沼地の中でもわずかに盛り上がった大地で、戦況を一望できる高台となっていた。霧に覆われた空気の中、その場所だけが異様な存在感を放っていた。
──そしてそこに、禍々しい影が鎮座していた。
鋼鉄の塊。地を穿つ巨大な矛のような兵器──クルスニクの槍。まだ運び込まれたばかりらしく、鉄の枷をはめられたまま地面に固定されている。だが、その存在感だけで、空気が押し潰されるように重く感じられた。
「お前はっ……!」
ミラが目を見開く。
槍の影から一人の男が歩み出た。整った身なりに、静かな微笑。ジランドだった。
「ほう……これはこれは、マクスウェル様」
恭しく頭を垂れるその所作は、まるで舞台の幕開けを告げる役者のようだ。
「このような所まで、ようこそおいでくださいまして」
その薄ら笑みに、ミラの怒気が走る。
「貴様……そうか。貴様がアルクノアの──」
「そう、ラ・シュガル軍参謀副総長など、このリーゼ・マクシアにおける仮の姿。本当の私は、アルクノアを統べるリーダ──―ジランドール・ユル・スヴェントと申します。以後、お見知り置きを、マクスウェル様」
両手を広げ、誇示するように名を告げたジランド。
「それじゃあ……あなたが黒匣をナハティガル王に?」
ジュードの声が震える。
「その通り」
ジランドの口元が愉悦に歪む。
「おかげで俺たちの目的は順調に運んださ」
「目的……?」
訝しげにXが眉を寄せる。
「なに、すぐにわかるさ」
ジランドは意味深に笑った。
「……どうやら、新しい『カギ』を生み出したようだな」
ミラが睨む。
「くくくっ……それはどうでしょうね?」
ジランドはさらに唇を歪め、霧に濡れた瞳を細める。
「なに……?」
その不気味な笑みに、ミラの胸に嫌な予感が走った。──だが遅かった。
ジランドが指先で小さく合図を送る。瞬間、霧の帳を割って兵の群れが姿を現した。鎧を軋ませたラ・シュガル兵、そして漆黒の紋章を刻んだアルクノアの戦士たちが次々と影を落とし、ジュードたちを包囲していく。
「なっ……あれは!?」
ジュードの喉が凍り付く。
「アルクノア!?」
レイアが叫んだ。
「おやおや。ラ・シュガルとの関わりを隠す気もなくなったというわけですね」
Xが肩を竦めるが、その瞳には鋭い警戒が光っていた。
「ふふ……お前たちがここで死ねば、口を割る者などいないからな」
ジランドは楽しげに告げる。その声音は、まるで処刑を見物する観客のように軽やかだった。
「くっ……」
ミラが歯噛みする。
「ど、どうしよう、ミラ?」
ジュードの声に、彼女は短く唸るだけだった。
「うむ……」
ミラは短く応じた。だが声に力はなく、胸の奥底で焦燥が渦巻いている。
絶体絶命──。その言葉が誰の心にも浮かんでいた。
四方を埋め尽くす兵の群れ。後ろはぬかるむ沼地、前には不気味な槍が突き立つ。退路も策もなく、重苦しい湿気が全員の喉を締め付けていた。
だが、ジランドはなおも攻撃を命じない。
むしろ、その表情には歪んだ愉悦すら浮かんでいた。
「ハッハッハッ!」
それまでの丁寧な言葉遣いをかなぐり捨て、下卑た笑い声を響かせる。
「ざまあねぇな、マクスウェル! 俺たちを前にして、ビビっちまったってか?」
霧を裂くようなその声に、レイアは身を竦める。
「まぁ、無理もねぇよなぁ? なにせ、ご自慢の四大精霊は、このクルスニクの槍に捕らわれちまってる。しかも、今のお前は片足だけのどうしようもねぇお荷物! そんなお前じゃ、こんな状況をひっくり返せるわけがねぇもんな?」
ジランドは足元の槍を軽く蹴り、響いた金属音が不快に沼野にこだまする。
「ジランド!」
ミラは歯を食いしばる。
「ハッハッハッ! 恨むんなら、四大精霊を捕らえられちまったマヌケな自分を恨むんだなぁ!」
ジランドの笑いは止まらない。
「くっ……」
ミラは悔しげに拳を握るが、四大精霊を奪われた今、力を振るうこともできない。
「ミラ……」
ジュードは彼女を見つめる。焦りが胸を掻きむしり、どうすればいいか答えを見出せずにいる。
「ど、どうしようジュード? 本当に……ピンチなんじゃ……」
レイアは半ば泣き声を漏らし、ジュードの袖を掴んだ。
その緊張と絶望を、ジランドは愉快そうに眺めていた。
「……まぁ? この窮地を颯爽と救ってくれるナイト様でもいれば話は別だったろうが……そんな奴、テメェにはいねぇよなぁ? ……という訳だ! 覚悟しろよ、マクスウェル!! どうやら、テメェをやっても問題ねぇようだし……俺たちが二十年味わった苦しみを、その身に刻み込んでやるよ!!」
「……くっ」
ミラの胸を、焦燥と怒りが同時に突き上げる。
その時だった。
──シュッ! シュッ!
二本の閃光が闇を裂いた。
鋭い音と共に、ジランドの足元に突き立つ二本のナイフ。泥を弾き、霧にその銀光を放つ。
「……あん?」
ジランドが振り返る。
「今のは!?」
ジュードが声を上げる。
直後、霧を震わせるような大声が響いた。
「はーっはっはっ!」
「えっ、この声……」
レイアが目を瞬かせる。
「とうっ! そこまでだ!」
そして、霧を割って現れた影。
舞台に乱入するかのように、胸を張り、満面の笑みを浮かべて立つ男。
それは――
「イバル……!?」
ミラが思わず名を呼んだ。
「何故ここに……」
「ミラ様! ご安心ください! この頼れる男──あなたの最初の巫子にして、唯一無二のあなたの守護者たるこの俺、イバルが! あなた様のお力となってみせましょう!」
イバルは胸を張り、声を張り上げる。
「イバル……お前、何を言って……」
困惑に眉を寄せるミラ。
対照的に、ジランドの唇は不敵な笑みに吊り上がっていた。
「ふっ……ようやく来たか」
しかし、ジュードにはその声は聞こえず、イバルを見つめ続けている。
だが、アルヴィンだけは目を伏せ、苦悶に満ちた表情を作っていた。まるで予期していたかのように──。
「さぁ、ミラ様!」
イバルは天に向けて手を掲げた。
「本来のお力を取り戻し、その者たちを打ち倒してください!!」
その掌に握られていたものを見て、ジュードが息を詰める。
「あれは……っ!」
金色の冷たい光を放つ何か──ミラがラフォート研究所から持ち出した、クルスニクの槍を起動させるための『カギ』。
「イバル! それは──!」
ミラの制止は届かない。
次の瞬間、イバルがカギをクルスニクの槍に当てはめる。
すると、槍が低く唸りを上げ、湿った空気が振動し、地面の泥水が波紋を広げる。
「はははっ! どうだ偽物! 四大様のお力が今、蘇る! お前にはできなかったことを、俺は成し遂げたのだ! ……そうだ。俺こそが本物の巫子! 俺だけが! ミラ様のお役に立てるんだあぁぁ!!」
イバルは勝ち誇ったように笑い声を上げる。
歓喜に震えるイバルをよそに、ジランドは冷静に手を振り下ろした。
「今だ! エネルギー充填!」
兵士たちが槍の砲口を空へと向ける。次の瞬間、槍は辺りの生命から容赦なくマナを吸い上げ始めた。
「ぐっ……! これは……」
ジュードは胸を押さえ、呼吸を乱す。
「また……あの時と同じ……!」
ミラの頬に冷や汗が伝う。
「あ、ちょっ……これは……」
Xの声が震え、次第に掠れていく。
「マズい……か、体が……維持できな……」
水面に落ちる雨粒のように、Xの体が揺らめき──やがて霧散し、水滴となって地に散った。
「嘘っ!? Xちゃん!?」
レイアが悲鳴を上げる。
「な、なんだこれは……」
イバルの顔から歓喜が消え、四つん這いで泥に手を突いた。理解できない現実に、怯えと絶望が滲む。
「ハッハッハッ! ありがとよ! これでようやく、俺たちの悲願が叶う!」
その姿を見て、ジランドは嘲笑した。彼は腕を振り上げ、兵に命じる。
「照準固定! クルスニクの槍──断界殻(シェル)に向けて発射だぁぁ!!」
瞬間、天を裂く轟音が響いた。
槍の先から迸る光が一直線に駆け抜け、暗雲を割り、世界そのものを砕くかのような衝撃が空へ突き進む。
大気が震え、泥の地が跳ね上がる。
ジュードたちは立っていられず、身をすくめ、押し潰されるような圧力に必死で耐えた。
やがて衝撃が過ぎ去ると、重苦しい沈黙が訪れる。
「はぁ……はぁ……」
ジュードは地に手をつき、荒く呼吸を繰り返す。
「な、なに今の……? 体から……力が抜けていくみたいで……」
レイアは震える声で呟いた。
空の彼方にはまだ、槍が穿った道の名残のような光の残滓が淡く揺らめいている。
ジュードは苦しげに息を吐きながら答える。
「僕たちのマナが抜かれたんだ」
「マナが!?」
レイアの顔から血の気が引く。
「でも……どうしてそれを空に向かって……?」
ジュードは空を見上げる。
「ア・ジュール兵はもっと下なのに……」
「まさか……」
ミラの目が大きく見開かれる。
「奴らの真の狙いは──!」
その言葉に呼応するように、暗雲に穿たれた穴から閃光が奔り、やがて巨大な複数の空飛ぶ船──黒々とした鉄の影が、悠然と大空を滑ってくる。
「……破られてしまった……そうか……クルスニクの槍は敵を殲滅するための兵器ではなく――」
ミラの声は、普段の威厳を失い、わずかに震えていた。
「な、何あれ……」
レイアは目を見開き、空を漂う異様な艦影に呑まれる。
「空飛ぶ……船……?」
ジュードも言葉を失った。
その傍らで、アルヴィンはひとり下を向き、顔を見せまいとする。肩が小さく震え、胸中の葛藤を隠すように。
「ついにやった……」
ジランドが低く呟き、次の瞬間、狂気に染まった笑い声が響く。
「くくく……くはははははっ!!」
「な、なんだ!? どうなってる!? 四大様は!? 四大様ぁぁぁ!!」
イバルは取り乱し、空を仰いで叫ぶ。しかし返事はなく、その姿はあまりに哀れだった。
「おっと」
ジランドは冷ややかに振り返る。
「雑魚は用済みだ。ご退場願おうか」
「イバル! 逃げろ!」
ミラが叫ぶ。
「え……? ……ぐあっ!」
鋭い氷の矢が宙を裂き、イバルの体に襲い来る。
短い悲鳴とともに彼の体は泥の中に崩れ落ちてしまう。
「イバル!!!」
ジュードの叫びが虚しく響く。
その直後、ミラは鋭く息を呑んだ。
「なんだ!? 何故、今大精霊の気配がした!?」
「そういや、てめぇにはまだ見せてなかったな。……出てこい」
ジランドは口角を上げ、不気味に笑う。
彼の腕に巻かれた装置が蒼白い光を放ち、そこから凍てつく気配が溢れ出す。
そして現れたのは、氷を纏った女神のような姿──透き通るような白銀の肌と、冷たい輝きを宿した瞳を持つ存在だった。
「こいつは俺の精霊──セルシウス」
ジランドの声は勝ち誇り、誇示するように響き渡った。
「セルシウス……?」
ミラの瞳が鋭く光る。
「バカな。そいつは太古の昔に人を見限ってから、姿を見せなくなって――」
言葉を遮るように、レイアが蒼白な顔で空を指差す。
「ミラ! あれ!!」
頭上から影が次々と降り注いだ。裂けた空から飛び出した飛空船の側部から、無数の兵士が滑り落ちるように舞い降りてくる。鉄の鎧に覆われた影が降下するたび、沼地の泥が跳ね、湿った風に冷たい金属音が響き渡る。
その中のひとりがジランドに駆け寄り、恭しく頭を下げる。
「アルクノアのジランドさんですね?」
「ああ、そうだ」
ジランドは口元を歪め、すぐに顎でミラを指す。
「あれが例の女だ」
「なるほど」
「……くくくく。とはいえ、あいつをやるのは俺たち──散々あいつに煮え湯を飲まされてきた俺だからな。お前らは他の雑魚でも狩っててくれ」
ジランドは愉悦を隠さず言い放つ。
「了解。──装甲機動兵、前へ!」
鋭い号令と共に、全身を黒い甲冑で覆った兵が前進する。手にした黒匣は不気味に脈動し、まるで命を吸い上げる心臓のように微かに音を立てていた。瞬く間に、ジュードたちは四方を包囲される。
「くっ……!」
ミラの額に汗が滲む。
「仕方あるまい……ミュゼ!!」
その名を呼ぶと同時に、空の裂け目から光が差し込む。
風が唸りを上げ、ひと筋の眩い影が降り立った。
次の瞬間、飛空船の一隻が凄まじい光に呑まれ、軌跡を残す間もなく虚空に掻き消える。
「なにっ!?」
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