遥かなる水平線と静かな水の音に包まれたその場所には、どこか今まで見た景色とは違った空気が漂っていた。
エメラルドの水辺が柔らかく砂浜を撫で、空の青と溶け合うようにして広がっている。水辺には二本のヤシの木が寄り添うように立ち、風に揺られる葉が穏やかなリズムを刻んでいる。
その先に見えるのは、鋭く天を突くような黒い岩肌。自然の造形とは思えないほど荘厳で、まるでこの地を守る古の守護者のようにも見える。頭頂部からは、透き通るような幾筋もの滝が勢いよく流れ落ちており、遠くからでもその音が静かに響いていた。まるで大地そのものが息をしているかのように、水の気配が濃密に漂っていた。
「ここが婆さんの言ってたキジル海瀑か」
流れる水を見上げ、アルヴィンは軽く言葉を漏らす。
「すごいね、ここ」
ジュードの声は驚嘆の色を隠せない。肌に触れる水飛沫の冷たさも、足もとに広がる透明な水面も、これまで旅で見てきたどの景色とも違っていた。
「はい。水の霊勢に満ち溢れているようです」
マシュは眼を細め、空気の中に漂う目に見えぬ力を感じ取っているようだった。
ハ・ミルの村を出て西へ歩き続けた一行は、やがてこの大いなる瀑布のほとりへとたどり着いた。足を進めるたびに、ぴちゃりと靴裏で水音が跳ね、飛沫がズボンの裾を濡らしていく。
「ここを越えれば精霊の里、二・アケリアだが――連中は追って来てないっと」
アルヴィンは背後を振り返り、しばし警戒の目を巡らせた。ハ・ミルにやって来たラ・シュガル兵が追跡してこないか気にしているらしい。しかし、水飛沫跳ね回るこの道に、人影が迫る気配はなかった。
「村の人……大丈夫かな……?」
ジュードはつい立ち止まり、振り返っては村の方角を見やる。その胸に渦巻くのは、ハ・ミルに残してきた人々への心配だった。
「ラ・シュガル兵が来てるんだ。逃げるが勝ちってな」
「今の我々の戦力を鑑みても逃げるのが最善でした。下手をすれば村の人たちを巻き込みかねません」
冷静な二人の言葉に、ジュードは唇を噛む。
「それはそうだけど……」
「それに、ラ・シュガル兵が来たってだけだろ? ハ・ミルのやつらは何の関係もないんだし。流石に他国の国民に酷いことするような恥知らずじゃねぇさ。あの騎士王様はさ」
「肯定します。おそらくは我々の所在を尋ねられ、いつの間にかいなくなっていたとの証言の後に、彼らの平穏は約束されるものと推測します」
村人の無事を確信するように語る二人に、ジュードの心も少しずつ落ち着いていく。
「……それもそっか」
安堵の息を吐いたその時――。
「気になるのか? ならジュード、君は戻るといい。短い付き合いだったが、君がそうと決めたなら私は何も――」
不意に告げられた言葉に、ジュードは慌てて首を振った。
「う、ううん! 一緒に行くよ!」
「そうか? 別に無理してついてくることはないのだぞ?」
その声音には、どこも迷いも寂しげな響きもなかった。
「大丈夫。こんなことになっちゃったのはあれだけど……それならそれで、今はミラたちと一緒の方が安全な気もするし」
真剣な目で言葉を返すジュード。その眼差しはどこかまだ自分の選択を迷っているかのようだ。
「ハッハッハ。確かにな。って訳で改めてよろしく~! ジュード君」
豪快に笑いながらジュードの肩を抱くアルヴィン。その距離感に辟易とした顔を見せるジュードだが、もう慣れたとばかりに軽くその腕を振りほどいた。
「よろしく」
ぶっきらぼうながらも、確かな意思をこめて告げる。その背中を見て、アルヴィンはやれやれと肩をすくめながらも、どこか楽しげに先へと進んでいった。
そして、立ち止まったままのミラは、小さくなっていく二人の背中を見つめて小さく呟く。
「……そうか。私と一緒に居た方がジュードは安全か……」
その瞳の奥には、得体の知れない感情の色が、わずかに揺れていた。
◇ ◇ ◇
果てしなく続く水音と湿った風に包まれながら、一行はなおも歩みを進めていた。
そのとき、ミラが不意に立ち止まり、真剣な面持ちで言葉を発する。
「――ニ・アケリアの空気を感じる。もうそろそろのようだ」
歩き詰めて疲労を隠せないジュードたちは、唐突なその言葉に顔を上げた。
「へぇ~、そんなのもわかるのか。マクスウェル様は」アルヴィンが半ば感心したように感想を漏らす。
「あの辺りは精霊の活気に満ち溢れているからな」
「ふ~ん、まぁ俺にはよくわからねぇけど……」
アルヴィンの軽口に、マシュが補足を加える。
「我々には無い感覚――いえ、精霊の主であるが故の感覚なのでしょう」
「もうすぐ二・アケリアか……どんな所なんだろう?」
ここまでやってきた経緯は決して良いものとは言い難かったが、それでも精霊の主を育んだ場所と聞けば別とばかりに、ジュードはどこか期待に胸を高鳴らせていた。
「瞑想すると力が研ぎ澄まされる気がする、落ち着けるところだ。私は気に入っている」
「そうなんだ」
そんな会話の直後だった。
突如、ミラの足元が青白い光を放ち始めた。
「ん?!」
「ミラ!」
「危ねぇ!!」
叫ぶ暇もなく、複雑な紋様が地を走り、魔法陣のような光がミラの体を縛り上げた。おかげで彼女の身体は瞬時に拘束され、まるで見えない鎖に絡め取られたかのように動けない。
「ふふっ。お疲れかしら? 油断し・す・ぎ」
すると、目の前の高い位置から不気味な声が響いた。
現れたのは金髪を揺らし、薄い眼鏡の奥で妖しく瞳を光らせる美女。しなやかな肢体に密着する漆黒と蒼の衣装は、まるで夜空に溶け込むような妖艶さを持ちつつも、俊敏な動きを前提とした機能美を兼ね備え、彼女の肉体美を余すことなく強調すると、上半身の中央部、ならびに下半身のサイド――太ももから膝までにかけて、地肌が見える程のスリットが入っていた。
鋭く切れ長の瞳は、見る者に一瞬の油断も許さない冷徹さと知性を宿し、腰には大きな本を携えている。淡い桃色の長髪が風に靡き、背からは白くふさふさとした尾が覗く。尖った耳と尾を持つ彼女は、その素性は定かではないが、彼女の放つ気配は明らかに尋常ではない。
おかげで周囲の空気が一瞬にして張り詰めるものの、凍りつくような冷たさを孕む微笑みを携えた彼女はといえば、拘束したミラを精霊術で浮かせながら、彼女が自身のもとへ来るよう操っていた。
「な、何者だ?」苦悶に顔を歪めながらも、ミラが問いかける。
「うふっ。教えてあげない」
女は答える代わりに、苦しむミラの身体をなぞるように指を這わせ、次々と懐のアイテムを取り出しては無造作に地に捨てていく。
「ちょっ……!?」
「おやおや……」
おかげでその見る者によっては少し卑猥なやり取りに、男性陣は各々の反応を示している。
「なんのつもりだ」
「どこかしらね? あなたの大事なものは」
ミラの脅し返すような低い声に、女の指先は止まることなく執拗に探りを続け、そのたびにミラは苦しげに声を洩らす。ジュードは胸の奥に強い不快感を覚え、たまらず声を上げた。
「あ、あの! あなたはいったい何して……」
しかし女の視線はジュードではなく、横に立つアルヴィンへと向けられる。
「……ふ~ん。今は、この娘にご執心なのかしら?」
「え?」
ジュードは困惑してアルヴィンを見た。だがアルヴィンはその問いには答えず、ただ静かに返事をする。
「何の話かは知らねぇが、放してくれよ。彼女、俺の大事な雇い主(ひと)なんだ」
「大事な、ねぇ?」
女は鼻で笑い、退屈そうに視線を逸らす。
「――まぁ別にいいわ。それよりも、随分と綺麗じゃないこの子。虐めがいありそう」
その言葉とともに、女はミラの体をなぞるように撫でる。ジュードは見てはいけないものを見ているような感覚に陥るが、ミラは強い意志を湛えながら歯を食いしばっていた。
「くっ……」
「ミラ!」
「このっ!!」
アルヴィンが銃を構えて撃とうとした瞬間、女は冷笑を浮かべた。
「動かないで。あなたの大事な人、どうなっちゃうかわからないわよ?」
張りつめた空気の中、マシュが冷静に判断を下す。
「アルヴィン、今は向こうの指示に従った方がよろしいかと」
「……ちぃ」アルヴィンが舌打ちして銃を下す。
「ふふっ。……どう? 痛いでしょ? 素直に例の物のありかを言った方がいいわよ?」
「例の物、だと?」ミラの瞳が細まる。
「そう。持ってるんでしょ? ◆◆◆◆◆の◆」
女は妖艶な笑みを浮かべ、ミラの耳元へと口を寄せる。ささやかれた言葉に、ミラの表情は一瞬だけ揺らいだ。
「……何の話だ?」
無論、揺らいだのは一瞬だけで、すぐさまいつものミラに戻る。
「あら? そういう態度? ……なら」
女の手が再び動き、拘束の精霊術が強まった。ミラの身体がきしむように震え、彼女の呼吸は荒くなる。
「くっ!」
「ミラ!」
「頑張るじゃない?」
女は面白がるように唇を吊り上げた。だがミラは毅然と顔を上げる。
「当然だ。私にはなすべきことがある」
「なすべきこと?」女の声が揶揄の色を帯びる。
「だからこそ……こんなことに屈する道理は……ない!!」
強気に声を張り上げるミラ。その凛とした眼差しは、拘束の光に締め付けられてなお、決して折れることはなかった。
ジュードはその姿を、思わず息を呑んで見つめる。彼女の強さに、ただただ圧倒されるばかりだった。――羨望。胸の奥で小さく燃えるその感情が、彼を突き動かす。
「ミラ……」
思わず口をついて出た名を、ジュードは慌てて飲み込む。
「って、そうだ。ボーっとしている場合じゃない。何か……何かこの状況を打開するアイデアを考えなくちゃ」
彼は鬢の髪を指先で弄りつつ、必死に頭を巡らせながら周囲を素早く見回す。滝の轟音。霧のように舞う飛沫。湿った空気の中で視線が引き寄せられたのは、滝の側面に貼り付くように存在する大きな岩だった。
「……ん? あれって、もしかして……」
ジュードは小さく息を飲むと、隣のアルヴィンへ声を潜める。
「アルヴィン、そのまま聞いて」
アルヴィンもその声色に合わせるように小声で「どうした?」と問いかける。
「右上の岩……撃てる?」
アルヴィンは目線だけで確認し、眉を上げた。
「右上……あれか。撃てはするが、何をする気だ?」
「もしかしたら、ミラを助けられるかもしれない」
一瞬の逡巡の後、アルヴィンは覚悟を決める。
「……了解。すぐ撃っていいのか?」
「お願い」
短いやり取りの後、アルヴィンはゆっくりと銃を構え直した。
「あら? この娘は見殺し? 酷い人ね」
アルヴィンの振る舞いに女が嘲笑を浮かべたその瞬間――銃口はミラではなく、滝の上方へと向けられる。
鋭い銃声が連続して轟いた。しかし、弾丸は正確に岩に当たるも、硬い表面に弾かれてしまっていた。
女は訝しげに視線を上へ。
「え? あなた、いったい何を……」
ゴゴゴゴゴッ。
その問いが終わる前に、岩の表面から不気味な触手が二本、ぐにゃりと生え出した。まるで長い眠りから覚めた魔物のように蠢き始める。
「な、なに?!」
女の瞳が大きく見開かれる。次の瞬間、触手を広げた岩の塊が滝壺を揺るがす勢いで飛び降りると、すぐさま女性へ向かって突進してきた。
「キャァァ!!!」
衝撃音と共に女の体は後方へ吹き飛ばされ、悲鳴を残して滝壺へと消えていく。
「ぅおっ!?」
同じ衝撃に巻き込まれたミラの体も宙を舞うが、寸前で拘束を解かれていたと、地に足をつきながら何とか体勢を整えた。
「ミラ!」
「おいおいおい、マジか! なんだありゃ!?」
ジュードとアルヴィンの声が重なる。
而してそれも無理はない。
それは、まるで深海より這い出た異形の化身であった。全体的にヤドカリのような巨躯は、苔むした岩のように重厚で、甲羅のように盛り上がった背中は自然の造形物とも錯覚するほどだった。中央には冷たく光る青白い瞳が怪しく輝き、仮面のように硬質な顔面は感情の読めぬ不気味さを漂わせている。
だが、もっとも恐るべきは、その両腕──いや、「翼」とも「鎌」とも形容できぬ、異様に伸びた四肢である。根元は節くれ立ち、中央から先端にかけては鋭利な刃のように変化しており、内側は不気味な赤で染まっていた。その色はまるで、今しがた無数の命を奪い取った証であるかのようだった。
地面に叩きつけられれば、地割れを生むであろう圧倒的な質量と、触れたものすべてを切り裂く鋭さを併せ持つその腕は、まさに死を振るう大鎌。そして、それがゆっくりと持ち上がるたび、周囲の空気が軋みを上げるような錯覚すら覚えさせる。
そんな化け物がこの場で幅を利かせていくなら、誰だって警戒以上の感情を抱くと、ミラは荒い息を吐きつつも、すぐさま姿勢を立て直しジュードたちのもとへと駆けていく。
「……むぅ。まったく、乱暴だな。助かりはしたが」
ジュードは慌てて駆け寄り、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんね。あの時はこれしか思いつかなくて……」
しかしミラは首を振り、わずかに柔らかな声を返した。
「いや、そういうことなら構わない。君には助けられてばかりだな」
その言葉に、ジュードの胸は熱くなる。照れと安堵が入り混じり、思わず頬が赤らむ。
「はいはい、和やかな会話は後でにしてくれよ」
一方そんなやり取りに対し、呆れたようにアルヴィンが割り込む。すぐ後ろではマシュも険しい表情で言葉を継いだ。
「アルヴィンに賛同いたします。睡眠の邪魔をされた魔物が、我々を敵とみなす確率100%」
辺りの空気がわずかに張り詰める。湿った風に混じり、獣の息遣いのようなものが確かに漂っていた。
「……そうだね」
ジュードは短く頷き、ミラに視線を向ける。
「行こう、ミラ!」
「ああ」
二人の声が重なり合い、四人の足音が新たな敵へと向かっていった。
お聞きしたいのですが、1話何文字ぐらいが読みやすいでしょうか?
-
1000文字以内
-
1~2000文字以内
-
2~3000文字以内
-
3~4000文字以内
-
4~5000文字以内
-
5000文字以上