タリム医学校での出会い
「急がなきゃ……急がなきゃ……」
その廊下は、柔らかな黄金の灯火に包まれていた。
壁に取り付けられた燭台が、ゆらめく炎のように温かな光を放ち、その輝きが磨き込まれた床に映り込んでいる。壁面には装飾的な文様が刻まれ、所々に掲示板や額縁が掛けられていた。
奥へ続く道は静まり返っており、聞こえるのは靴音と遠くのざわめきだけ。灯りの揺らぎが天井や床に影を踊らせ、廊下全体を落ち着きと荘厳さで満たしている。
その中を、一人の少年が走ってはいない――しかし歩いてもいない、その中間の急ぎ足で進んでいる。
短く整えられた漆黒の髪が揺れ、真剣さを帯びた栗色の瞳がまっすぐ前を見据える。濃紺を基調に淡い水色と銀色の装飾が走るロングコートは、胸元から裾にかけて流れる文様が灯りを受けて淡く輝き、後ろへ伸びた燕尾の裾が歩みと共に翻った。脚には機動性を重視したブーツが締められ、その姿はどこか焦っているようだ。
なにせ、口元で焦りを含んだ声を零し、額にはうっすらと汗が滲んでいるのだから。
「早く伝えなくちゃ」
――その瞬間、廊下の曲がり角で影が現れた。
「あっ!?」
避けきれず、少年は勢いよく相手にぶつかった。軽い体はあっけなく後ろに弾かれ、尻餅をつく。
だが、ぶつかられた女性は一歩たりとも動じず、まるで壁のようにそこに立っていた。
「ご、ごめんなさいっ! 大丈夫でした……かっ!?」
慌てて顔を上げた少年は、その姿を見て息を呑む。
淡い桃色の髪を背まで編み込み、黒いリボンで束ねた女性。紅の瞳は鋭く、相手を射抜くような眼差しを持つ。鮮烈な赤の軍服に金のボタンと白いベルト、黒いプリーツスカートに高いヒールの白いブーツ――その全てが、隙のない立ち姿と威厳を引き立てていた。
「医師を志す貴方が、誰かを怪我させるような真似をするとは――どういう了見です? Mr.マティス」
「ナ、ナイチンゲール先生?!」
マティスと呼ばれた少年は、跳ねるように立ち上がり背筋を伸ばす。
「ご、ごめんなさい!!」
「まったく……いったい、何をそんなに慌てているのです?」
鋭い眼光が突き刺さる。しかしマティスは怯みつつも、興奮した声で答えた。
「そ、それがその……ハウス教授がハオ賞に選ばれたみたいで、急いでお伝えしなきゃと捜していたんです!」
「ほう、ハオ賞ですか。優れた研究や成果を出した学者に贈られる特別な賞。それを彼が……」
「はい! そうなんです! だから僕、急いで診察を切り上げて……」
「診察を切り上げる?」
「はい。 …………あっ!」
自分の失言に気づき、マティスは口を押さえる。
しかし、ナイチンゲールの表情がわずかに動く。その変化を敏感に感じ取り、マティスの背筋はさらに強張った。
「いや……あの……その……」
「Mr.マティス」
「は、はい!」
「……また貴方は、プロフェッサー抜きで診察していたのですね? 学生の身分でありながら」
「えと………………すいません……」
怒られたことに対してか、それとも自分の犯したミスを誤魔化そうとしたバツの悪さからか、全てを白状した少年は正した姿勢を小さく丸まらせてしまう。
「……全く。分かっていますか? Mr.マティス。貴方はまだ医者ではないということを」
「それはその……僕も何度もハウス教授に言ってるんですけど……」
「言ったところで伝わらなければ、言っていないのと同じです」
「…………はい、仰るとおりです」
肩がしゅんと落ち、背中が小さく丸まるマティス少年。
だが、ナイチンゲールの追及は止まらない。
「やはり、貴方には覚悟が足りない。だから、プロフェッサーにいいようにされるのです」
「……うぅ……」
「無論、彼がそのような役割を貴方に任せているのは、それだけ貴方を高く評価している証左。私自身、貴方に医師としての知識が十分に備わっているのは認めるところですし。――ですが、それと貴方が診察するという話は別のこと。そもそも、貴方は……」
「……まぁまぁ、ジュード君に期待する気持ちは分かりますが、貴方の言うように、彼はまだ研究医。少しずつ医師への道を歩んでいく彼に、いきなりあなたのようになれというのは酷というものですよ。『天使』殿」
背後から、低く穏やかな声が響いた。
振り返ったナイチンゲールの視線の先に現れたひときわ異質な男。
光沢のある深緑のロングコートは、古風でありながらもどこか異国的な雰囲気を漂わせ、裾から覗くチェックのズボンは、ひざ下までピタリと締まり、その男の頭に高くそびえるシルクハットは顔の半分を隠すほど深くかぶられ、陰に包まれた目元からはただならぬ知略と余裕がにじみ出ていた。赤黒くうねる長髪が両肩に滝のように垂れ、口元には常に薄い笑みが浮かぶ。
「レフ教授!」
しかし、そんな存在を見たマティスはといえば、救いを見たように声を上げていた。
「やぁ、授業ぶりだね。ジュード君」
柔らかな口調と落ち着いた笑顔。彼は片手に持っていたシルクハットを軽く持ち上げ、笑みを浮かべてみせる。
しかし、その笑顔にナイチンゲールはわずかに眉を寄せる。
「Mr.ライノール。その呼び方は止めなさいと、何度も申したはずですが?」
「おっと! これは失礼」
軽く頭を下げるレフ。しかし、口元の笑みは微塵も揺らがない。
「それより、先程の話ですが――件の教授がジュード君に代役を任せているのも、彼という代役であってもそれでも多くの者が診察を受けているのも、偏にそれは、彼の働きに不満を持っていないが故。受診した者、施術された者、そんな彼らにそれが無いのであれば、いちいち目くじらを立てる必要も無いのではありませんか?」
「……確かに。我々医術に携わる者にとって、最も大事なことは患者の傷病を全て排する事。ならば、誰も彼もが彼の診察や施術で病が完治しているというのなら、それはそれでいいのでしょう」
「では……」
「ですが、それと覚悟が足りないのは別問題。そもそも優柔不断に誰かの言葉を聞き入れるなど、医者を志す者としては愚かしいにも程があるという話し。特にプロフェッサー・ハウスなどは、自身の研究に没頭するあまり、時々こうしてMr.マティスに診察を押し付け、サボっているようですし。誰かを救うということに、一分一秒たりとも無駄にしていい時間は無いというのに。これも誰かを救うための研究などと屁理屈まで……。そんな彼の言葉を聞くなどと……」
「無駄と言えば、彼の世間話も長いと評判でしたね」
「だからこそ、どんな手合いに対しても、決して揺らぐことの無い信念――『たとえ命を奪ってでも、すべてを尽くして命を救う』。そんな医師として必要な覚悟を持つべきだと、Mr.マティスに話しているのです」
その厳しすぎる言葉に、ジュードは思わず両手を前に振り、否定の仕草を見せた。
「い、命を奪ってでもだなんて、そんな……。そもそも矛盾して……」
レフはそんな少年の様子を見て、くつくつと笑う。
「ハッハッハッ。流石に今の発言を参考にする必要はないさ。その発言は彼女だからこそのもの。君がしたいと思っても土台無理な話しなんだから。なにせ彼女は少々……いや、かなり特殊な部類のお方なのだし」
「それはどういう意味でしょうか? ミスター」
「そのままの意味ですよ。『ファイザバードの天使』殿」
「またその名で……」
「これは失礼。ですが、それは私が名付け親という訳ではないのですから、抗議するなら是非、その名を付けた者に」
「……」
掴みどころのない笑顔を向けるレフに対し、流石に呆れたとナイチンゲール。
「……まぁそれはそれとして。このままではジュード君がおかしな方向へ進みかねないので、私からも助言を一つ。確かに信念を貫くことは大事だけど……時には休むこと。つまりは信念を曲げることだって、私は必要だと思っているよ」
「信念を曲げることも……ですか?」
「そうさ。確かにあまり良い響きの言葉ではないかも知れない。だが山登りを例に考えてみて欲しい。天候が不順な時、体調が不調の時、その場その時に応じて突き進まないという選択もだって必要なはずだろう? なにせ……命を失えば、次に繋げることができなくなるのだから」
「次に繋ぐ……」
「そう――人間は死ねばそこで終わりだ。どれだけ崇高な理念を抱こうとも、どれだけ素晴らしい理想を描こうとも、命を失おうものなら、そこで全てが終わってしまうのだから。だが、逆を言えば、命さえあればそれを叶えられるということ。叶えられないまでもそこに向って歩み続けることができるということだ。リベンジできると言ってもいい。要は引き返すことや、足踏みすることだって、前へ進むと言えるってことさ。だから、無理だと思ったらやめていい。いや、やめるべきだと私は思う。そうして、次に繋げることで再び目標に向かっていけばいい。目標がないというのなら、目標だってそうして見つけていけばいい。なにせ命さえあれば、なんだってできるのだからね」
「命さえ、あれば……」
レフの教師らしいアドバイスを、胸に手を当てながら噛みしめているジュード。
「貴方らしい優柔不断な言葉だ。Mr.ライノール」
一方のナイチンゲールは少し不服そう。
顔色は全く変わっていないが。
「お褒めに預かり恐悦至極。とはいえ、貴方の場合は、天候が悪かろうが体調が悪かろうが、突き進むのでしょうがね」
「当然です。すべての命を救うと決めたのですから。たかが天候の不順や体調の不良がなんだというのです」
「フフフッ。しかしながら、貴方のように常に突き進むことのできる人間は、果たしてどれほどいるというのでしょうね?」
「……なるほど。その辺りのことも含め、しっかりと教育していく必要があると――そういうことですか。あなたにしては含蓄のある言葉です。となれば、悪天候での山登りは必須の科目にすべきか……」
「おや……少々、変なスイッチを入れてしまいましたかな?」
ナイチンゲールの真剣な物言いにやや苦笑いのレフ。
信念を曲げることもまた必要だと説くレフ。
いかなる状況でも突き進むべきだと主張するナイチンゲール。
両者の言葉は真逆だが、どちらにも確かな重みがあったとジュードだったが、
「……とはいえ、少なくともその話しは、今のジュード君にすべきことではないでしょう。なにせ彼には、急ぎの用があるようですし、ね?」
レフの一言に、ジュードははっと顔を上げる。
「え? ……あっ! そういえば、ハウス教授にハオ賞のことを伝えようとしていたんでした!」
そうして恐る恐るナイチンゲールの顔色を窺うジュード。
その意図を察したナイチンゲールは、少年の様子を見やり、やれやれといった風に目を細める。
「……いいでしょう。今日の所はこれぐらいで。ですが、医師抜きで診察したことは、後で反省文として提出するように。後でプロフェッサー・ハウスにも注意しておきますが」
「は、はい! ありがとうございます! それじゃ、その……し、失礼します!」
深々と頭を下げ、ジュードは足早に廊下を駆け抜けていった。今度は誰にもぶつからぬよう、注意を払いながら。
少年の背中が遠ざかるのを見送り、レフは微笑を浮かべる。
「……フフッ。本当に貴方はジュード君を高く評価しているのですね。まるで、彼が次の後継者だとでもいうように」
「Mr.マティス『を』ではなく、Mr.マティス『も』です。ミスター。このタリム医学校に通う生徒は皆、次代の医療を担う者たち。そんな彼らに期待を寄せるのは、当然のことでは?」
「なるほど。ええ、それは確かに」
ふふふっと笑うレフ。
やれやれというように一息ついたナイチンゲール。
そうして、これ以上話すことはないと立ち去ろうとしていたナイチンゲールだったが、ふとその足は去り際に一瞬だけ止まる。視線を前に向けたまま、静かに言葉を置くためと。
「……とはいえ。医師として最も大切なものを彼はもっていると私が認識しているから、つい指導に力が入っていると――そう指摘されるのであれば、或いはそうなのかも知れませんが」
再び歩き出したナイチンゲール。
もう二度と振り返ることはなく。
そんな彼女の背中を見送りながら、レフは再びシルクハットを深々とかぶると笑みを漏らす。
「……フッ。本当、素直じゃないな。天使殿は」
彼女の残した言葉の真意を理解したと言わんばかりの言葉を告げながら。
誤字報告ありがとうございます(≧▽≦)
……っていうのは、どこで言えばいいんですかね?
お聞きしたいのですが、1話何文字ぐらいが読みやすいでしょうか?
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