フェイトオブエクシリア   作:シュキヨ

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ジュードの後悔

 ――夜。

 

 静寂に包まれたシャール家の庭先は、昼間の豪奢さとは違う顔を見せていた。広々とした芝生は夜の明かりに淡く照らされ、並ぶ木々の影が地面に長く伸びている。涼やかな風が木の葉を揺らし、夜露の匂いが空気に混じる中、一人佇んでいる少年の姿があった。

 

 ジュード。

 彼は両腕を組むでもなく、ただ夜空を仰ぎながら微動だにしなかった。夜空の光は静かに瞬き、しかしその光が彼の胸に射し込むことはない。少年の瞳には、まだ癒えぬ痛みが濃く残っていた。

 

「こちらにいらっしゃいましたか」

 

 背後からの声に振り返ると、シャール家の老執事――ローエンが庭に姿を現していた。夜の明かりに浮かぶその横顔は、いつものように穏やかで、しかしどこか心配げでもあった。

 

「ローエン」

「ジュードさん。ミラさんの容態はどうです?」

 

 問いかけは柔らかいが、その裏にある緊張を少年は感じ取る。ジュードは小さく息を吐き、俯いた。

 

「呼吸自体は落ち着いてるから、そっちの心配はないけど……」

 

「やはり、あの足……ですか」

 

 ローエンの静かな言葉が、夜の空気を一層冷ややかにする。

 ジュードは、ただ一言――「うん」と短く答えるだけだった。

 

 彼の脳裏には、忘れようにも忘れられない光景が焼き付いていた。

 本来あるべきものがなく、そこから噴き出すように流れ出た鮮血。意識を失って倒れ伏すミラ。その姿を必死に押さえつけ、震える手で止血にあたったあの瞬間。

 ローエンもまた、その場にいたのだ。だからこそ、彼もまた、口に出さずともすべてを理解している。

 

「……ごめん。ローエン」

 

 沈黙を破ったのはジュードの声だった。夜風に混じって震えるほどに弱々しい。

 

「どうしたんですか? 急に」

 

 ローエンが眉を寄せると、少年は顔を伏せ、拳を握りしめた。

 

「ずっと……謝りたかったんだ。クレインさんのこと」

「旦那様のことを?」

「僕が……僕があの時、血を流すクレインさんに驚いていなければ……。もっと早くに治療できていれば、助けられたかもしれないのにって……」

 

 絞り出すような声。胸の奥に積もった悔恨が、今になって堰を切ったようにあふれ出す。

 

「ジュードさん……」

 

「……おかしいよね。医者を目指しているんだから、こんな機会が訪れるなんて予想できたはずなのに……。――ううん。ミラと一緒に旅をしようって決めた時から、いつかこうなるって覚悟を決めなくちゃいけなかったはずなのに。……それなのに僕、そんな当たり前の覚悟すら出来てなくて……。ハウス教授の時も見ているだけだったのに……それなのに今度はクレインさんまで……。僕は……僕は……っ!」

 

 高鳴る鼓動を抑えるとでもいうように、胸に当てた両手の力を強めていくジュード。体は震えている。呼吸にもかすかな嗚咽が混じり、星空が滲むほどの涙がこぼれそうになる。

 

 そんな彼に歩み寄ったローエンは、そっとその頭に手を置いた。老いた掌の温もりは、冷え切った夜よりもずっと優しい。

 

「……そういえば。あなたはまだ十代そこらの少年でしたね」

「え?」

「とても立派な方だと、大人びて見えてしまっていたので、ついそんな当たり前なことを忘れてしまっていましたよ」

 

 ローエンの言葉に、ジュードは顔を上げる。だが唇はまだ否定の言葉を紡ごうと震えていた。

 

「僕が立派だなんて……」

「立派ですよ。その歳にして、自分が目指そうとする未来をしっかりと見据えているのですから。私からすれば、それはもう眩しいほどです」

「そんなこと……。それに見据えたところで、結果を出さなきゃ意味なんて……」

「結果なら出ているじゃないですか」

「……え?」

 

 おかしなことを言われたと、ジュードがローエンを見つめると、ローエンは真摯にジュードが成し遂げた功績を告げる。

 

「ミラさんですよ。あなたが止血を正しく行ったからこそ、彼女は出血多量によるショック死を免れた。水や火、風の精霊術を駆使して傷口を処置したことで、彼女の容態は安定したとなれば、間違いなくあなたはミラさんを救った――結果を出したのです」

 

 ローエンの言葉は決して慰めではなかった。事実を静かに並べたもの。それだけに、ジュードの胸を強く打つ。

 

「それは……」

「あなたは確かに未熟でしょう。ですが、その歳で成熟しきった者などそう多くはない。ですから、たとえその間に幾度となく失敗しようとも、それがあなたの最善であるのなら……あなたがベストを尽くした結果、それでも誰かを救えなかったというのなら……私はそれを受け入れますとも」

 

 ローエンの微笑みに、少年は首を横に振る。

 

「それならやっぱり、僕は最善なことなんてできていな――」

「いいえ。あの姿こそがあなたの最善。患者を前にして震えてしまうことさえ含めて、それが今あなたの持ちうる全てなのです」

 

 その言葉に、ジュードは息を呑む。ローエンの声は穏やかだったが、その響きは真っ直ぐで揺るぎなかった。

 

「これが……今の僕の限界ってこと?」

 

 ジュードの声は、夜の明かりの下で風に溶けるようにかすれていた。問いというより、自らに言い聞かせる呟きに近い。

 

 ローエンは、少しだけ目を細め、夜空を仰いだ。夜空の瞬きがその瞳に映り込む。

「悪く言えば。……ですから、受け入れるしかありません。あなたも。そして、私も」

 

 冷たい夜風が二人の間を抜け、庭木の葉をざわめかせる。

 ジュードは言葉を失い、ただ視線を落とす。自らの足元に映る影が揺れ、その揺らぎが彼の心そのもののように見えた。

 

 やがて、ローエンがふっと微笑んだ。

「ふふっ。認め難い気持ちもわかります。人間なんてそんなものです。理想と現実の乖離。自分はもっとできたかもしれないという虚飾からくる苦悩。自分はこんなものではないという自惚れた虚栄。そんなもの、誰にだってあるのです。無論、私にだって……」

 

「ローエンにも?」

 ジュードが顔を上げる。疑わしげというより、どこか縋るような響きだった。

 

「ええ。こう見えて、私も失敗続きなのですよ。後悔など、数えきれないほどに演じてしまったものです。その現実を認め難いと、見て見ぬふりをしたことだって、もう何度も」

 

「そんな……あの指揮者(コンダクター)イルベルトが?」

 

 ジュードの驚きに、ローエンは静かに笑みを深める。

「それだって、若い時分に頂いた名ではありません。幾度となく失敗を経験し、幾度となく挫折を繰り返し……それでも前へ突き進み、その数を減らしていって、ようやく得た名なのですから。――しかし、それでも私は今もまだ失敗を続けている。旦那様を救えなかったという後悔を」

 

 ローエンの深い悲しみに満ちた響きに、ジュードは一瞬言葉を詰まらせる。

 

「ローエン……」

 

 その名を呼ぶ声は、先ほどまでの震えを含まず、少しだけ穏やかだった。

 

「だというのに、あなたのような若者が完璧を演じてしまえば、私の立つ瀬がないでしょう?」

 茶化すように言うローエンの言葉に、ジュードは心に温かいものを感じている。

「ですから、肝心なのは自分の未熟さを認めることです。それが今の自分でしかないのなら、それを改善しなければと前へ進む。もっとできる、できなくてはいけないと思うのならば、もっとその先へ……そうして、あなたはこれからも医学を学んでいけばいいのです」

 

「前へ……」

 

 ジュードはその言葉を口の中で転がし、遠いものを追いかけるように呟いた。

 

 ローエンはしばし彼を見つめ、そして表情を引き締める。

「それに、私の見立てですが……あの状態の旦那様は、例え最高の医師――噂に名高きナイチンゲール様であったとしても、生き長らえさせることは不可能であったかと。悔しいですが、狙撃手の腕を褒めざるを得ない程に」

 

「そんなこと……っ!」

 ジュードが顔を歪める。悔しさと無力感が再び心を突き上げる。

 

 ローエンの声は冷静で、それでいて厳しかった。

「なかったと? 数多の亡骸を戦場で見てきたこの私――『指揮者(コンダクター)』の名を頂くこの私の見立てよりも、目の前で血を流して倒れる人を見て、意識を正常に保てなかった小童の見立ての方が正しいと?」

 

「それは……」

 

 ジュードの言葉が途切れる。胸の奥で否定したい気持ちと、受け入れざるを得ない現実がぶつかり合っていた。

 

 ローエンはふっと目を閉じ、柔らかな声を落とす。

「……ふふっ。失礼、今のは言い過ぎでしたね。ですが……結局その後悔は無意味なものなのです。失ったモノは帰ってこない。いくら後悔しようとも、取り返しなんてつく訳がない。――だけど、それでも私たちは生きている。これからも生きたいと願うのならば、苦しい今を受け止めながら、まだ見ぬ未来を必死に生きなければならないのですから。だからこそ、過去を悔いる暇があるのなら、過去を糧にして前へお進みなさい。それで、多くの人を救えるような、立派なお医者さんになってください。それがきっと……旦那様の望みでもあるでしょうから」

 

「ローエン……」

 

 ローエンの言葉の重みには、優しさ以上の何かが込められていた。

 期待、憂慮、信任、情愛。

 

 ジュードに同じ末路を辿ってほしくないという後悔からくる彼の切実な想い。

 

「……ありがとう」

 

 おかげでそれを受けたジュードの声は、どこか吹っ切れたように静かだった。

 

「お役に立てたのでしたらなにより。……さぁ、もうお休みなさい。いつミラさんが目覚めてもいいようにしなければ、でしょう? それなのに、あなたが倒れては元も子もありません」

 

 柔らかな微笑みは、まるでジュードの父親と言わんばかりの優しさがあって。おかげでその笑顔に全てを許されたと言わんばかりのジュード。

 

「……そうだね。そうさせてもらうよ。おやすみ、ローエン」

「はい。おやすみなさい」

 

 ゆっくりとした足取りで、ジュードは屋敷の中へと歩みだす。背筋はまだ完全には伸びきらず、それでも先ほどよりは確かに前を向いていた。

 

 その背中を見送りながら、ローエンは夜空に視線を移す。空の光が瞳に映り、深い影を落とす。

「……あんな子にすら悔いを背負わせる結果になるとは。やはり、あなたは私よりも立派ですよ。ジュードさん」

 

 吐き出された独白は、夜風に溶け、夜の明かりの下で儚く消えていった。

 

お聞きしたいのですが、1話何文字ぐらいが読みやすいでしょうか?

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