翌朝。まだ陽は昇りきらず、町全体が淡い霧のヴェールに包まれていた。港へ向かう道では、潮の香りが微かに漂い、鳥の鳴き声が早起きの空気を震わせている。治療院の玄関先に立つジュードは、背に荷を負い、母エリンの前に立っていた。
「準備はできたの?」
エリンの声は柔らかくも、どこか名残惜しさが滲んでいた。
「うん。なんとか」
ジュードは視線を逸らすように答える。その表情には、旅立ちの緊張と、母を置いて行く後ろめたさが影を落としていた。
「夜になって突然、明日発つなんて言い出すからびっくりしたわ」
エリンがため息をつくと、ジュードは苦笑して肩をすくめた。
「ごめん……」
「ジュードが決めたならいいのよ」
その言葉に、母の愛情の深さが滲んでいた。だが、気になることをつい口にしてしまうジュード。
「……父さんは?」
「まだカンカンよ」
エリンは困ったように首を振った。
「そう……」
ジュードの胸に、小さな棘のような痛みが刺さる。父との距離は相変わらずだ。
そこへ、背後からミラが現れた。いつもの服装をまとった姿は、治療院での静養を終えたばかりとは思えないほど凛としている。
「さて、もう行こうと思うが、いいか?」
ミラの声音はあくまで淡々としていた。
「え? まだ船が出る時間じゃないよ」
ジュードが目を瞬かせると、ミラは朗らかに笑顔を見せる。
「わざわざ見舞いに来てくれたんだ。出発前にローエンやエリーゼに挨拶しておくべきだろう?」
その一言に、ジュードは少し驚いた。ミラが気遣いを見せること自体が珍しかったと。
「う、うん。そうだね。たぶんレイアの宿屋だろうから、そこに行こっか」
「行ってらっしゃい。気を付けるのよ」
こうして、母に見送られ、ジュードとミラは足を進めた。石畳の道を踏みしめるたび、町の喧騒が少しずつ目を覚ましていく。パンを焼く香ばしい匂い、行き交う人々のざわめき――その全てが、旅立ちの気配を一層濃くしていった。
◇ ◇ ◇
宿屋に辿り着くと、そこにはローエンとエリーゼの姿だけでなく、レイアを除く精霊の化石採掘の仲間たちまでもが揃っていた。まだ朝靄の残る空気の中、集った面々の眼差しが一斉にジュードたちへ向けられる。
「みんな」
ジュードが声をかけると、ジャンヌが恭しく頭を下げる。
「おはようございます。我が主よ」
続いてマシュが穏やかな笑みを浮かべながら言葉を添えた。
「おはようございます。その様子では、やはり本日のご出立は変わらないようですね」
「ああ」
ミラは静かに頷いた。その返答に、アルヴィンが肩を竦める。
「相変わらずなのな、おたく」
隣で腕を組んでいたXも、苦笑交じりに口を開いた。
「ま、それがマクスウェル様なんですけど」
「だよな~。ま、知ってたし、もう諦めてるけど」
アルヴィンがぼやくように笑い、場の空気がわずかに和らいだ。
「……」
一方、何故かミラはアルヴィンの顔をじっと見つめている。その視線には少し疑念が浮かんでいるようだった。
「……あん? どうしたんだよ。俺の顔、ジロジロ見て。……まさか、惚れちまったか?」
「なんと!」
アルヴィンの軽口にジャンヌが本気で驚く中、「……ふむ。そうだな。そうかも知れないな」とミラが軽口で反応する。
「は?」
「ミ、ミラ……?」
おかげでジュードは勿論のこと、アルヴィン自身も驚きを禁じ得ないよう。
「……いや、何でもないさ」
そうして、何かを確かめ終えたとミラは、「では、行くとするか」と言うも、背後から静かな声が彼女を引き止めた。
「……本当に向かわれるのですか?」
ローエンだった。その声音には迷いがあり、老練な軍師らしからぬ影が差していた。
「ああ。私には使命を果たす責任があるからな」
ミラの答えは揺るがない。
「責任、ですか……」ローエンは目を伏せ、手を胸に当てる。「あなたは強く、気高い。しかし、それが私の古い傷跡をえぐるようです」
「ローエン?」
ジュードが問いかけると、彼は遠い記憶を辿るように言葉を続けた。
「クレイン様にこの国を救ってほしいと託され、私は悩んでしまった。今の私にできることがあるのだろうか。ナハティガルを止められるだろうかと……」
その名を聞いて、ジュードは思い出す。
「ガンダラ要塞での様子だと、二人は王様と参謀以上の間柄だったみたいだけど」
「友人です。とても古くからの」
ローエンの瞳がわずかに揺らめいた。
「へぇ」
アルヴィンが興味深そうに眉を上げる。
「なるほど。友と戦えるのか……それがお前の悩みか」
ミラの言葉は鋭い。
「えー! 友達とケンカしなきゃいけないのー?」
ティポの声が場の空気を揺らすが、ローエンの苦悩は晴れない。
「決断に必要なのは時間や状況ではない。お前の意志だ」
ミラの声音はどこまでも真っ直ぐで、どこか冷たいほどに澄んでいた。
「意志……。果して私に、そのようなものが、想いが残されているのかどうか……」
ローエンの瞳に迷いの影が深まる。
そんな彼を見つめ、ミラは静かに告げた。
「……私たちと共に行かないか? ローエン」
「ミラさん?」
驚いたように顔を上げるローエン。
「悩むのもいい。だが人間の一生は短い。時間は貴重なものだろう。なら悩みながらでも進んでみてはどうだ? 人とはそういうものなのだろう?」
その言葉にジュードも頷いた。
「ローエン。そうしてみたら? 僕も心強いし」
「……ふふふ」ローエンの口元にようやく微笑が戻る。「確かにジジイの時間はとても貴重。立ち止まってはもったいないですね」
「じゃあ……」
ジュードが顔を明るくする。だが、ローエンはすぐに表情を引き締めた。
「ただ、その場合だとお嬢様が心配ではありますが……」
その瞳の奥に浮かぶのは、彼が抱え続けてきたもう一つの心残りだった。
年嵩の軍師としての冷静さと、長年仕えてきた主への思い。その板挟みの言葉に、場の空気が一瞬揺らぐ。
だが、それをあっけらかんと切り裂いたのは、Xの軽やかな声だった。
「あ~、それなら大丈夫ですよ。うちのアルトリアちゃんが居ますし、連絡もつきましたので」
朗らかに言い切るその姿に、ローエンは思わず片眉を上げる。
「そういえば、あなたは騎士王さんと交流が図れるのでしたね。いや……同一人物でしたか?」
その問いにXは肩をすくめ、からかうように笑った。
「根底にアルトリアちゃんの意志があるってだけで、ほとんどは湖の大精霊である私が主ですので、ほぼほぼ別人ですよ~? 前と違って」
混じり合う人と精霊の境界。理解しがたい在り方にアルヴィンが呆れ顔で口を挟む。
「難しい状態なのな、おたく」
しかし、ローエンの顔はもはや晴れやかだった。
「……ですが、それならもはや憂いは何もございません。是非、同行させてください」
その声音に込められた決意を、ミラはしっかりと受け止める。
「ああ、よろしく頼む」
その瞬間、小さな少女の声が割り込んだ。
「わ、わたしも一緒に行く……です!」
エリーゼだった。両の手を胸に当て、勇気を振り絞るように声を上げる。
「エリーゼ?」とジャンヌが驚きに目を丸くする横で、ティポが跳ねるように叫んだ。
「お友達は一緒がいいよー!」
だが、ジュードはすぐに首を振った。
「ダメだよ。エリーゼだって見たでしょ? 僕達と一緒に居ると、今度はどんなことに巻き込まれるか」
言葉を詰まらせる少女。それでも消えない意志が瞳に宿っていた。
「それは……そうですけど……でも」
迷いを打ち払ったのは、またしてもアルヴィンだった。
「別にいいんじゃね?」
「アルヴィン?」と驚くジュード。
軽い調子で彼は笑う。
「流石にこの流れでエリーゼ嬢ひとり返すのはかわいそうだろ? 十分戦えるしさ」
ローエンは険しい顔で言いかける。
「しかし、アルヴィンさん……」
その言葉を遮るようにアルヴィンは肩を叩いた。
「いざとなりゃ俺が守ってやるからさ。頼むよ、ローエン」
「頼むよー、ローエン君ー!」とティポが叫びながら、勢いよくローエンの顔に噛みついた。
「ごもも!」と情けない声が漏れ、皆の笑いが弾ける。
「ロ、ローエン!?」と慌てるジュードの横で、ミラは口元をわずかに緩めた。
「……ふっ。ティポが取れないのなら仕方あるまい」
アルヴィンがしたり顔で言う。
「OKだってよ」
「やったー!」とティポが勝ち誇ったように跳ねる。
ジャンヌが微笑みながらエリーゼを見つめる。
「ふふっ。また一緒ですね、エリーゼ」
少女はぱっと顔を輝かせ、力強く頷いた。
「はい!」
ローエンはティポを引きはがしながら、むせるように咳き込む。
「ごほっ、ごほっ……まさかの力業。流石に油断しましたね」
それを見届けたXが、軽やかに言葉を継ぐ。
「OKです。アルトリアちゃんにもそのように伝えておきました。『子守をせずに済むから好きにしろ』だそうですよ」
ローエンは深々と頷いた。重荷がひとつ外れたように、胸の奥の迷いが晴れていくのを感じながら。
そして、ミラの澄んだ声が場をまとめた。
「では、イル・ファンに向かうとするか」
しかし、そんな歩き始めたミラに対し、ローエンが一歩前へ進み出ると、その声音はいつになく慎重だった。
「申し訳ありません、ミラさん。少し宜しいでしょうか?」
髪を揺らしながら振り返ったミラが、不思議そうに片眉を上げる。
「ん? 今度はなんだ?」
「イル・ファンへ向かうためのルートですが、少し考えがあるので、行き先は私に任せてもらえないでしょうか?」
まっすぐに投げかけられた視線は、老練な軍師としての覚悟を宿していた。
「お前にか?」とミラは探るように問い返す。
「はい」
短く、だが重みのある返答。その声にミラは「うむ……」と悩んでいる。
その空気を和ませるように、マシュが穏やかな笑みを浮かべて言葉を添える。
「ラ・シュガル一の軍師、Mr.イルベルトのお言葉です。ここは彼にお任せした方がよいのではないでしょうか?」
「うん、そうだね。僕もそれがいいと思う」ジュードもすぐに頷いた。
「だな」アルヴィンは肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべる。「おたくだと強行突破しか考えなさそうだし。それもその足じゃ流石にな」
ミラは一拍置いてから、わずかに唇を弧にした。
「……いいだろう。お前に任せる」
その言葉にローエンは深々と頭を垂れる。
「ありがとうございます。では、まずは海停に向かいましょう」
「了解です」Xが軽快に応じると、仲間たちはそれぞれ腰を上げ、装備を整えはじめた。
ざわめきの中で、ジュードだけは落ち着かず、視線をあちこちに彷徨わせていた。
それに気づいたミラが、声を潜めて尋ねる。
「……ん? どうした、ジュード」
「あ、うん。レイアの姿、見かけないなって思ってさ」
「そういえばそうだな」ミラも周囲を見回すが、やはり気配はない。
その時、不意に奥から快活な女性の声がした。
「あら? もう出発かい、ジュード」
現れたのは、淑やかさに気高さを漂わせた恰幅の良い妙齢の女性だった。
「こんにちは、ソニア師匠(せんせい)。レイアの姿が見当たらないんですけど……」
「それが……自分の部屋に閉じこもって何かしてるのよ、あの子。家の手伝いも放りだして、まったく」
ソニアはため息まじりに言いながらも、その眼差しには娘を案じる色が滲んでいた。
すると奥から、屈強な体格の男が笑いながら現れる。
「なぁに、夕飯までには出てくるさ。今晩はあの子の好きなフルーツ焼きそばだからな」
「こんにちは、ウォーロックおじさん」ジュードが頭を下げる。
「おう、ジュード。すっかり見ない間に大きくなったな」
「それ、もう帰ってきてから何度も聞いてますから……」
思わず頬を掻くジュード。そのやり取りにミラが口を開く。
「うむ。レイアにも世話になったし、礼を言いたかったのだが……流石にこれ以上は待てないぞ、ジュード」
「うん……。それじゃあ、師匠、代わりにレイアによろしく言っておいてください」
ソニアは微笑み、静かに頷いた。
「そう……。わかったわ。レイアには伝えておくから、気をつけて行ってらっしゃい」
「はい。いってきます」
だがウォーロックは、その背に小さく嘆息を投げかける。
「ジュードがいなくなると、またレイアが落ち込むなぁ……」
「それを見て、レイア以上にあなたが落ち込むのよねぇ」ソニアが呆れ顔で返す。
「だって、かわいそうじゃないか」
「一番かわいそうなのは、いじけた亭主と娘をもった、わ・た・し!」
「まったく、腕っ節だけじゃなく口も達者なんだから……」
「あら、そんなところに惚れたんでしょ?」
「それはそうだが……レイアに似て欲しくないと思うのはなぜなんだろう?」
「なんですって?」
夫婦の掛け合いに、ミラが口元を緩める。
「……ふふっ。なるほど、これが夫婦漫才というものか」
「相変わらずロランド家は仲がいいですね」
ジュードが微笑むと、ソニアがすかさず返す。
「ジュードの家だって同じでしょ。たまには手紙を書いてあげなさい。きっと喜ぶわよ」
「ついででいいから、うちのレイアにも」ウォーロックも続ける。
「は、はい」ジュードは苦笑しながら頷いた。
やがて、ソニアとウォーロックの温かな視線に見送られ、ジュードたちは宿を後にした。外に出れば、朝の光が石畳を照らし、旅立ちの空気を一層強く背に押していた。
お聞きしたいのですが、1話何文字ぐらいが読みやすいでしょうか?
-
1000文字以内
-
1~2000文字以内
-
2~3000文字以内
-
3~4000文字以内
-
4~5000文字以内
-
5000文字以上