第8話 積み上げる牙、修練棟計画始動
第8話 積み上げる牙、修練棟計画始動
クノッソスの存在に触れてから、星屑の庭の空気は少し変わった。
穏やかさが消えたわけじゃない。朝の光は同じように石畳へ落ちるし、井戸の水も変わらず冷たい。アストレア様の声も、夜になれば相変わらず柔らかい。
けれど、その全部の下に、見えない緊張が一本通った。
俺たちはもう、ただ裏路地で血の匂いを拾って噛みつく野犬じゃない。獲物を見つけて食らい、危険を嗅いで退き、死にかけても翌日にはまた牙を剥く。そういう生き方でここまでは来た。
だが、それだけじゃ届かない場所を見てしまった。
地下に迷宮がある。
人が攫われ、資材が流れ、命令が飛び、補修が続いている。
あれは隠れ家じゃない。
都市の足元に埋め込まれた、もう一つの戦場だ。
敵は根を張っている。
なら、こっちも場当たりの咄嗟だけじゃ足りない。
俺の『一厘直観』は、不利の底でこそ冴える。だが、冴えた先に動く体がなければ意味がない。ザイロが噛みつく線。パトーシェが止める間合い。俺が縫う隙間。誰が前に出て、誰が半歩遅らせ、誰が生きたまま退くか。
そういう盤面そのものを、体に叩き込まなきゃならない。
つまり、鍛え直しだ。
*
夜明け前。
星屑の庭の石畳にはまだ露が残っていた。空気は冷たく、息を吐けば白い。俺は短剣を握り、誰もいない中庭の中央で構える。
重心。
肩の力を抜く。
足から腰へ。腰から背へ。背から腕へ。腕から刃へ。
一歩。
二歩。
横薙ぎ。
切り返し。
突き。
退く。
もう一度。
地味だ。
ひどく地味だ。
だが最後に物を言うのは、たいていこういう積み上げだともう分かっている。戦場で閃くものは、結局、平地で積んだ反復の総量からしか出てこない。
「遅ぇな」
横から、心底感じの悪い声が飛んできた。
ザイロだ。
庭の端で腕を組み、寝起きみたいな顔でこちらを見ている。だるそうな面のくせに、目だけはやたら冴えていた。
「朝から人の鍛錬にケチつけるとか趣味悪ぃぞ」
「褒めてんだよ。前よりはマシだ」
「それ褒めてないだろ」
「俺基準では十分褒めてる」
面倒くさい男だ。だが、嘘はつかない。こいつが前よりマシと言うなら、少なくとも動きは変わっている。
「なら次は、お前が立て」
俺が短剣の切っ先を少し向けると、ザイロは片眉を上げた。
「朝からか?」
「朝だからだ。頭が冷えてるうちにやる」
「はっ。生真面目だな」
そう言いながらも、ザイロは立つ。素手のまま。構えは低く、重心は深い。気怠げな空気と、全身の静けさが噛み合っていない。そういう男だ。
「三本」
俺が言う。
「先に一本取った方が勝ち」
「安い勝負だな」
「鍛錬だからな」
次の瞬間、ザイロが消えた。
速い。いや、速いだけじゃない。無駄がない。一歩目の沈み込みから懐へ入るまでが短すぎる。正面から来ているはずなのに、視界の端ではもう脇腹にいる。
『一厘直観』が軽く脈打つ。
下がるな。
右へ半歩。
肩じゃなく肘を見ろ。
体が先に動いた。短剣の腹で流し、ザイロの腕筋を外へ逃がす。だが、その次の肘打ちが来る。近い。嫌な距離だ。
防げない。
そう思った瞬間、自分から膝を入れて距離を潰した。まともに受けるんじゃない。崩しに行く。
鈍い音。
二人とも半歩ずつ弾かれる。
「……悪くねぇな」
ザイロが口元を歪めた。
「前なら顔面に入ってた」
「言い方が最悪だな」
「事実だろ」
その時だった。
「朝から何をしているのだ、貴様らは!」
うるさい。振り返らなくても分かる。
パトーシェだ。
案の定、槍だけじゃない。木剣まで持っている。嫌な予感しかしない。
「鍛錬だ」
「見れば分かる! そうではなく、何故私を置いて始めている!」
「寝坊したからだろ」
ザイロが即答する。
「寝坊ではない! 祈りの時間が長引いただけだ!」
「長ぇんだよ、その祈りが」
「神への敬意を何だと思っている!」
「少なくとも鍛錬サボる言い訳じゃねぇな」
いつもの応酬。だが今日は少し違った。パトーシェは怒鳴りながらも、ちゃんと木剣を構えていた。最初から混ざる気だ。
「よし、では私も入る!」
「待て」
俺が即座に止める。
「今日は個人戦じゃない。連携だ」
パトーシェが目を瞬いた。
「連携?」
「ああ。クノッソス相手に、もう“自分だけ強い”は通らない。お前の槍、ザイロの近接、俺の差し込み。その噛み合わせをやる」
ザイロが鼻を鳴らした。
「ようやくそこまで言うようになったか」
「前から言ってた」
「言ってたのと、実際にやるのは別だろ」
図星だった。
俺は木剣をパトーシェへ向ける。
「まずお前。一直線に突っ込むな」
「それは私の持ち味だ!」
「だから死ぬって言ってんだよ」
「なっ……!」
「お前の槍は“届くこと”が強みだ。なのに毎回、自分から最短で肉薄して長所を殺してる。まず間合いを支配しろ。届く距離から届かせろ」
パトーシェは露骨に不服そうだった。だが、反論の言葉は飲み込んだ。こいつも分かっている。クノッソスを見た後では、自分のやり方だけで勝てるとは言えないと。
「ザイロ、お前は逆だ」
「何が」
「近すぎる。噛みつくまでが速いのは武器だが、全員がそれを前提に動くと盤面が潰れる。お前は“自分が最初に喰う”以外の噛み方を覚えろ。中衛からでも殺せるようになれ」
ザイロが露骨に嫌そうな顔をした。
「つまんねぇな」
「生き残る方が面白い」
「……それで納得させる気かよ」
「させる」
*
そこから始まったのは、地獄みたいに地味な鍛錬だった。
パトーシェには、前へ出る足を半歩止めさせる。
届く距離から届かせる。
突いて、引く。
押し込まず、線を支配する。
相手を倒す槍じゃなく、“そこへ入れない”ための槍へ変える。
ザイロには、わざと一拍遅らせて動かせる。
パトーシェが作った穴へ滑り込み、俺が誘導した死角へ入る。
単独最速じゃない。
隊列最速へ変える。
そして俺は、その二人の間を縫う。
差し込み、引き、崩れた線を繋ぐ。誰かが不用意に前へ出そうになれば声で止める。
何度も。
何度も。
何度も。
「違う、パトーシェ、一歩深い!」
「ぐっ……!」
「ザイロ、早い! そこはお前が先に喰う場面じゃない!」
「チッ!」
「二人とも俺の位置を見ろ! 自分の戦いじゃなく盤面で動け!」
息が上がる。
汗が落ちる。
腹が立つほど噛み合わない。
だが、それでいい。
連携なんて、一度で綺麗に噛み合うようなものじゃない。自己犠牲の騎士。他人の自己犠牲が嫌いな暴力男。その間で盤面を繋ぐ俺。この歪んだ組み合わせが、一発で美しくまとまるならむしろ気味が悪い。
でも、少しずつ感触はあった。
パトーシェの槍が、前より“生きて戻るための槍”になり始める。
ザイロの暴力が、“自分だけで終わらない暴力”になり始める。
俺の指示も、前より短く、前より通る。
完璧じゃない。全然だ。むしろ失敗だらけだ。
パトーシェは一度、自分が止めた敵へそのまま詰めに行こうとして、ザイロと正面衝突しかけた。ザイロはザイロで、待たせた瞬間に露骨に機嫌を悪くし、あえて逆側へ抜けて盤面を壊した。俺も二人を止めることに意識を割きすぎて、自分の差し込みの角度を一度見誤った。
綺麗じゃない。
だがその綺麗じゃなさが、逆に現実だった。
*
昼前には三人とも汗だくになっていた。
「休憩だ」
俺が言うと、パトーシェはその場へ座り込み、ザイロは壁へだるそうに背を預けた。
ちょうどそのタイミングで、アストレア様が庭へ出てきた。冷たい水と簡単な軽食を持って。
「お疲れさま」
それだけで少し空気が緩む。神の声ってやつは、こういう時ずるい。
アストレア様は三人を見回し、少しだけ目を細めた。
「形になってきたわね」
「まだです」
俺は即座に否定する。
「地下じゃ、この程度じゃ足りない」
「足りなくても、前より進んでいるなら意味はあるわ」
その言葉に、パトーシェが少しだけ顔を上げた。こいつはアストレア様のこういう言葉に弱い。正義の女神に“進んでいる”と言われるのは、何より効くんだろう。
「……私は、ちゃんと変われているだろうか」
珍しく、弱い問いだった。
アストレア様は迷わず頷く。
「ええ。あなたはもう“自分だけの正しさ”では動いていないわ。仲間と一緒に、正しい結果を作ろうとしている」
パトーシェが少しだけ唇を噛む。それから、静かに頭を下げた。
「……はい」
ザイロはその様子を横目で見て、鼻を鳴らした。
「ま、俺から見ても前よりはマシだな」
「お前は言い方を学べ」
「お前もな」
水を飲みながら、俺は無意識に門の外ではなく、本館と塀の向こうを見た。
星屑の庭の隣。
荒れたまま放置されている小区画。
崩れかけた物置の残骸、伸びた草、積みっぱなしの古材。
以前なら目に入っても、ただの余りの土地にしか見えなかった場所だ。
今は違う。
そこへ、ひどく具体的な形が重なって見える。
細長い別棟。
下三層に会員エリア。
上三層にアストレア・ファミリア専用エリア。
本館は偶然にも四階まである。なら、四階から渡り廊下で専用区画へ繋げられる。
生活の場は守る。
庭の静けさも残す。
その上で、戦うための器だけを隣へ生やす。
しかも、ただの鍛錬場じゃない。
下は外へ開き、運営して稼ぐ。
上は閉じ、牙を研ぐ。
ゴブニュに設計と建築。
ヘファイストスにマシン制作と維持管理。
住民を雇って清掃と安全管理。
責任者はファミリアが交代で立つ。
ゴブニュとヘファイストスには優先利用時間を設定し、その分だけ依頼費を割り引いてもらう。
そしてシャワールーム。
絶対に要る。汗臭いまま本館へ戻るのは論外だ。
あまりに鮮明すぎて、自分でも少し笑いそうになる。
悪い顔、してるな。
内心でそう思った。
「……レックス?」
アストレア様の声で我に返る。
「何考えてるの?」
パトーシェとザイロもこっちを見る。ザイロは露骨に嫌そうな顔をした。
「その顔、また何か思いついたな」
「失礼だな」
「当たってんだろ」
「……まあな」
パトーシェが眉を寄せる。
「何だ」
俺は一度、茶を飲んだ。喉を落ち着かせる。それから、隣地を指した。
「修練棟、作るぞ」
沈黙。
アストレア様が目を瞬く。パトーシェはそのまま固まり、ザイロは数秒遅れて鼻で笑った。
「はっ」
「何だその反応は」
「いや、やっぱりそこ行くかと思ってな」
「お前も考えてただろ」
「少しはな」
パトーシェがようやく声を出す。
「待て、修練棟? 鍛錬のための建物を、わざわざ建てるのか?」
「わざわざじゃない。必要だからだ」
俺は隣地を示したまま続ける。
「今の庭じゃ足りない。三人で連携鍛錬してるだけでも生活空間を圧迫する。今後人数が増えたらもっと無理だ。しかも鍛え方が雑すぎる。走る、振る、踏み込む、終わり。それじゃ弱点を弱点のまま抱える」
「ぐ……」
パトーシェが少し刺さった顔をする。だが無視して続ける。
「だから切り分ける。動きを分ける。部位を分ける。負荷を分ける。段階を分ける。積み上げを仕組みに変える」
アストレア様が静かに訊いた。
「具体的には?」
来た。
なら、もう止まらない。
「隣地に六階建ての修練棟を建てる。下三層は一般会員エリア。上三層はアストレア・ファミリア専用エリア」
「六階?」
さすがにアストレア様もそこは驚いた。パトーシェは「ろ、六」と口の形だけ動かし、ザイロはとうとう肩を揺らして笑い始めた。
「やべぇ、ほんとに悪い顔してやがる」
「うるさい。細身でいい。豪華にする気はない」
俺は指を折る。
「本館は四階まである。偶然にも、四階からなら向こうの四階へ渡り廊下を繋げられる。下は会員、上は専用。導線を分けるには都合がいい。生活空間からも騒音を切り離せる」
「待て待て待て」
パトーシェが木剣を抱えたまま前へ出た。
「何故そんなに具体的なのだ」
「必要な形が見えてるからだ」
「いや、そうではなく、何故そういう発想になる!?」
「今さらそこ聞くのかよ」
ザイロが笑う。
「こいつ、ずっとそういう奴だろ」
「しかし限度があるだろう!」
「限度を決めるのは地下迷宮じゃなくこっちだ」
言い切ると、パトーシェがぐっと言葉に詰まる。アストレア様だけは黙って聞いていた。藍色の瞳が、俺の顔ではなく、隣地と本館を順番に見ている。もう想像している顔だ。
「一階から三階は会員用です」
俺は続ける。
「設備は全部同系統。四階から六階の専用エリアも、基本は同じ設備を置く。ただし上は俺たち専用。鍛錬内容も連携も外へ見せない」
「設備が同じ、ということは」
アストレア様が静かに訊く。
「下を使って収益を回し、上を維持するのね」
「そうです」
「……なるほど」
その一言が、肯定だった。
俺はさらに畳みかける。
「ゴブニュ・ファミリアに設計と建築を頼む。荷重、基礎、柱、騒音、導線、渡り廊下込みで。ヘファイストス・ファミリアにはマシン制作と維持管理。可動部、滑車、重石、保守契約」
ザイロが感心したように息を吐く。
「そこまで切ってんのかよ」
「当然だろ。建てて終わりの施設にする気はない」
「清掃は?」
アストレア様が今度はすぐに訊く。いい。もう完全に乗ってる。
「住民を雇う」
「安全管理は?」
「同じく住民。ただし責任者はファミリアが交代で立つ。規律と機密は外に丸投げしない」
「シャワールーム」
それを言ったのはパトーシェだった。全員がそっちを見る。
「……要るのか?」
「絶対に要る」
即答した。
「一階に男四、女四。四階にも男四、女四。トイレは男二、女二、一階も四階も同じ。汗だくで本館に戻るのは無理だ」
ザイロが腹を抱えて笑い始めた。
「そこだけ妙に切実で笑う」
「笑いごとじゃない。運営上も衛生上も必要だ」
「いや、分かるけどよ」
「分かるなら笑うな」
パトーシェは少し赤くなっていた。
「そ、そこは確かに……必要かもしれんが……」
アストレア様が口元を押さえて笑っている。何だその顔。
「でも大事ね」
「大事です」
「ええ、そこは本当に大事」
女神がそこを即承認するの、妙に強いな。
少し笑いが混ざったあと、空気がまた静まる。アストレア様がゆっくり言った。
「……行くのね」
「どこへ」
「ゴブニュ・ファミリアへ」
「ええ」
「今日?」
俺は隣地を見る。それからアストレア様を見る。
「今すぐでもいい」
ザイロが「出たよ」と呆れたように言い、パトーシェは半ば本気で引いていた。だがアストレア様だけは少しだけ目を細め、それから笑った。
「そういうところ、好きよ」
思わず黙る。真正面から来ると不意打ちなんだよ、それ。
「……でも、神に会いに行くなら礼は通しましょう」
「当然です」
「初対面なのだから、まずご挨拶。それから本題。そこは崩さないこと」
「分かってます」
「本当に?」
「本当に」
アストレア様はそこで小さく息をつき、でも嬉しそうに頷いた。
「なら、行きましょう」
その言葉に、胸の奥で歯車が噛み合う音がした。
ただ鍛えるだけじゃない。
ただ思いついただけでもない。
今ここで、星屑の庭の外へこの構想を持ち出す。
それだけで盤面が一段進む。
*
昼過ぎ。
俺たちは職人区画へ向かった。
道中、パトーシェは妙に口数が少なかった。珍しい。ザイロは露骨に面白がっている。
「緊張してんのか、騎士女」
「していない!」
「声でかいぞ」
「していないと言っている!」
「してるやつの反応だな」
「貴様は本当に……!」
「まあ落ち着け」
俺が言うと、パトーシェは少しだけ頬を膨らませた。
「何だ」
「いや……お前は緊張していないのか」
「してる」
二人とも一瞬黙る。
「してるのかよ」
ザイロが言う。
「当たり前だろ。初対面の神相手に、大規模建築と面倒な設備導入と金の話を持ってくんだぞ」
「じゃあ何でそんな平気そうなんだ」
「平気じゃない。必要だから行くだけだ」
それを聞いて、ザイロが少しだけ笑った。パトーシェも、ようやく肩の力を少し抜く。
職人区画の熱気は相変わらずだった。焼けた鉄の匂い。木を削る匂い。油。汗。人の手で街を回している場所の音だ。
*
最初に向かったのは、ゴブニュ・ファミリア側の工房群だった。
通された作業場の奥にいた神は、大柄だった。装飾は少ない。だが、ただ座っているだけで“積み上げる”という行為そのものの重みを持った存在感がある。
ゴブニュ。
神の視線が、俺たちを静かに見た。
「アストレア」
低い声。地鳴りみたいに落ち着いている。
「久しいな」
「ええ、ゴブニュ。今日はお願いがあって来たの」
アストレア様が一礼する。俺たちもそれに倣う。
「アストレア・ファミリア、レックスです」
「パトーシェ・キヴィアである」
「ザイロだ」
ゴブニュは順に見て、最後に俺の方で少しだけ目を止めた。
「……この少年か」
「鍛えるための棟を建てたいそうだな」
「はい」
「しかも、ただの増築ではなく」
「設計から噛ませたいです」
そこでゴブニュの口元が、ほんの少しだけ動いた。
「物を知らぬ者ほど“ただ建ててくれ”と言う。最初から設計を欲しがるなら、まだ話はできる」
第一印象は悪くない。
アストレア様が柔らかく続ける。
「生活空間と鍛錬空間を分けたいの。けれど、ただの物置ではなく、今後の運営も含めて機能する棟が必要なのよ」
「ほう」
「そして言い出したのは、この子」
アストレア様が俺を見る。その視線が妙に信頼に満ちていて、少しだけ腹がくすぐったい。
「なら語れ」
神の前で語る。やることは同じだ。
俺は一歩出て、隣地、本館四階、渡り廊下、六階建て、下三層会員、上三層専用、設計建築、シャワー、トイレ、住民雇用、責任者当番、優先利用時間まで一気に話した。
途中でザイロが横で「全部言うのかよ」という顔をしていたが、止まる気はなかった。ここは最初から全札を切るべき場面だ。
ゴブニュは最後まで聞き、それから静かに言う。
「……面白い」
アストレア様が少しだけ微笑み、パトーシェは明らかにほっとした顔をした。だが俺はまだ気を抜かない。
「ただし、お前」
神の視線が刺さる。
「言っていることの半分は面倒だ。六階。渡り廊下。会員と専用の導線分離。衝撃吸収。重量区画。浴室。全部、ただの増築では済まん」
「分かってます」
「分かっていて言っているなら、なお面白い」
ゴブニュの太い指が机を叩く。
「アストレア、お前の子は悪い意味で図々しいな」
アストレア様がふっと笑う。
「ええ。でも、嫌いじゃないでしょう?」
「嫌いではない」
神同士の、妙に分かり合った空気があった。
「いいだろう。設計と建築、こちらで預かる。見積もりは厳密に出す。だが、その前に実測と現場確認だ」
「ありがとうございます」
俺が頭を下げると、ゴブニュは鼻を鳴らした。
「礼は早い。まだ高いぞ」
「承知してます」
「しかもお前、割引まで言ったな」
「言いました」
ザイロが吹き出しかけ、パトーシェが肘で止めた。ゴブニュは完全に呆れていた。だが、その呆れは悪いものじゃない。
「優先利用時間を作るから、その分だけ割り引け、と」
「はい。完成後、ゴブニュ・ファミリア側が下層会員エリアを優先的に使える時間帯を設ける。それを報酬の一部へ組み込めないか、と」
「神相手に商売するか」
「必要なので」
沈黙のあと、ゴブニュが笑った。深く、重く、愉快そうに。
「気に入った。そういう遠慮のなさは嫌いではない」
アストレア様が少しだけ目を細める。今のでまた好感度が上がった顔だ。
*
次に向かったのは、ヘファイストス・ファミリアの工房区画だった。
こちらはゴブニュ側より鋭い。火と鉄と意地の温度が高い。
案内された奥で、赤い髪と瞳の女神がこちらを見た時、空気が少しだけ変わった。理知的で落ち着いている。だが、その静かさの奥に火床みたいな熱がある。
ヘファイストス。
アストレア様が微笑む。
「久しぶりね、ヘファイストス」
「ええ。あなたがわざわざこちらへ来る時は、大抵何か面白い話を持ってくる時だと思っていたわ」
「今日はお願いよ」
「でしょうね」
視線がこちらへ移る。
「初めまして。アストレア・ファミリアの子たちかしら」
礼を取り、名乗る。
「レックスです」
「パトーシェ・キヴィアである」
「ザイロ」
「で、何を作らせたいの?」
単刀直入。ありがたい。
「修練棟のマシン群よ」
アストレア様が答える。
「ゴブニュには設計と建築を。あなたたちにはマシン制作と維持管理をお願いしたいの」
ヘファイストスの目が少しだけ細くなった。
「……へえ」
「面白いでしょう?」
「面白いわね。ずいぶんと思い切ったことを考えるもの」
俺は一歩出た。
「器具は全部導入する方針です」
ヘファイストスの片眉が上がる。
「全部?」
「はい」
そこからは、一つずつ話した。背中、肩、胸、腕、腹、脚、臀部。有酸素。フリーウェイト。ファンクショナル。下層と上層で同系統設備。維持管理前提の設計。滑車。重石。交換部位。
ヘファイストスは途中で一度も止めなかった。ただ、必要な箇所でだけ問う。
「左右独立にこだわる理由は?」
「初心者用補助機構はどこまで安全を優先する?」
「重石の切り替えは細かさ優先か、壊れにくさ優先か?」
「保守周期はどう考えている?」
「利用者の汗や汚れを前提にするなら、交換前提部品はどこへ置く?」
鋭い。
全部、“作った後も生きるかどうか”に向いている。
話し終えた時、ヘファイストスは静かに言った。
「……なるほど。あなたの中には、奇妙なくらい具体的な鍛錬思想があるのね」
「ええ」
「それはどこで覚えたの?」
ここは嘘をつかない。
「妙に鮮明な記憶があるんです。夢みたいな断片です。でも鍛えることに関してだけは、器具も使い方もやけに残ってる」
ヘファイストスは驚かなかった。ただ静かに頷いた。
「そういうこともあるのでしょうね」
そして俺をまっすぐ見た。
「いいわ。受けましょう」
パトーシェが小さく息を呑む。ザイロが肩を竦める。俺は一歩だけ頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただし、全部を一度に完璧にはできない。最初は核から入る。保守も契約制。大きい修理や追加は別料金。そこは譲らない」
「問題ありません」
「それから」
ヘファイストスの口元がわずかに柔らかくなる。
「優先利用時間の話、面白いわね」
アストレア様がそこで笑った。
「でしょう?」
「ええ。こちらが制作と維持管理を担う以上、実際に使って確認する時間があるのは理にかなっている。むしろ好都合だわ」
「では」
俺が言う。
「その分、依頼費を少し割引してくれますか」
パトーシェが「言った!」みたいな顔をし、ザイロが肩を震わせた。アストレア様は笑いをこらえている。ヘファイストスは一瞬だけ目を丸くしたあと、ふっと笑う。
「遠慮がないのね」
「必要なので」
「アストレア」
「何かしら」
「あなた、この子気に入ってるでしょう」
「ええ、かなり」
真正面から返されて、今度は俺が黙る番だった。やめろ。二柱がかりでそういうのは反則だ。
ヘファイストスは椅子にもたれ、静かに頷いた。
「いいわ。優先利用時間の設定を契約へ組み込む。その分、初期費用は多少見直してもいい」
「助かります」
「ただし、壊された時は別よ」
「それは当然です」
「それと、マシンの使い方を理解しないまま乱暴に使われるのも困る。利用規則と責任者教育はきちんとやりなさい」
「やります」
「ならいい」
*
そうして、ヘファイストス側も通った。
帰り道、夕焼けがオラリオの屋根を赤く染めていた。パトーシェはまだ少し夢見心地で、ザイロは明らかに上機嫌だった。アストレア様は、隠そうともしない柔らかい笑みを浮かべている。
「……何だよ」
居心地が悪くなって言うと、アストレア様は首を傾げた。
「何が?」
「その顔」
「どの顔かしら」
「妙に嬉しそうな顔」
「嬉しいもの」
さらっと言う。
もう少し濁せ。
「あなたが、鍛えることも、運営することも、街と繋がることも、ちゃんと全部まとめて考えていたから」
「必要だっただけです」
「そういうところが好きなのよ」
まただ。しかも今度は前より真正面だった。ザイロが肩を揺らし、パトーシェは何故か自分が褒められたみたいな顔をしている。やめろ。
「……帰るぞ」
ぶっきらぼうに言うと、アストレア様はくすくす笑いながら頷いた。
星屑の庭へ戻る頃には、空はもう藍色へ沈み始めていた。
本館四階の窓から見える隣地。そこへ、まだ影もない修練棟の形を重ねる。
一階から三階が一般会員エリア。
四階から六階がアストレア・ファミリア専用エリア。
本館四階から渡り廊下。
上下同系統の設備。
シャワー。トイレ。責任者席。住民スタッフ。会員導線。専用導線。
全部、まだこれからだ。
だが、もうゼロじゃない。
ゴブニュも、ヘファイストスも、アストレア様も、呆れながら笑っていた。
それでいい。
気に入られたならなおいい。
剣はまだ届かない。
されど、届かせるための器はもう動き始めた。
第8話 積み上げる牙、修練棟計画始動 了