悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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前回のあらすじ

 闇派閥の運び屋から奪った黒鍵――ダイダロス・オーブ。
 それはクノッソスへ繋がる鍵であると同時に、星屑の庭そのものを闇へ晒す危険な火種でもあった。
 レックスは迷った末に、それを隠すのでも、差し出すのでもなく、ロキ・ファミリアを本館へ招くことを選ぶ。
 同じ机に座るために。
 その選択が、自分たちの首を締める可能性を知ったままで。


第21話 盤上の天秤

第21話 盤上の天秤

 

 星屑の庭、本館二階の応接会議室。

 

 外部の客を通すために整えられたその部屋は、華美ではないが、静かでよく手入れが行き届いていた。磨かれた長机、余計な装飾のない壁、夜の灯りを柔らかく返す窓硝子。今夜の空気は、そのどれよりも硬かった。

 

 卓の中央に、白鍵がある。

 

 白い球体。人の頭ほどの大きさ。細い金の線が幾重にも走り、その中心に赤い目がひとつ。

 

 光っているわけじゃない。脈打っているわけでもない。ただ、そこに在るだけで、部屋の空気が一段沈む。

 

 ロキ・ファミリアという重要な客を迎える今夜、ベートはこの場にいなかった。

 

 面倒だからではない。アストレア・ファミリア周辺の巡回警備任務に出ている。まだ入って間もないあいつにとって、こういう夜の外周警戒はむしろ一番自然な持ち場だった。

 

 こちら側の席には、俺とアストレア様。その後ろにザイロとパトーシェ。

 

 対面には、フィン・ディムナ。隣にリヴェリア・リヨス・アールヴ。そしてアイズ・ヴァレンシュタイン。

 

 それだけで十分だった。

 

 都市の盤面、その中心寄りにいる連中が、今この部屋に座っている。呼んだのは俺だ。呼んだ以上、もう引き返せない。

 

 膝の上で右手を握る。少し震えていた。

 

 落ち着け。今さら怖がるな、じゃない。怖いまま座れ。昨日、アストレア様に言われた通りだ。

 

「静かな部屋だな」

 

 最初に口を開いたのはフィンだった。

 

 小柄な身体を椅子に預け、長机と窓際を一度見渡す。穏やかな声だった。だからこそ、その穏やかさの下にあるものが余計に分かる。

 

「話をする場所としては申し分ない」

 

「ありがとう、フィン」

 

 アストレア様が微笑む。

 

「でも今夜は、部屋より中身でしょう」

 

「違いない」

 

 フィンの視線が俺に移った。

 

「手紙は読んだ。持っている。見せる。ただし渡さない。話がしたい。要点としては十分だったよ」

 

 喉が少し固くなる。

 

「それで、何を見つけたんだい」

 

 見つけた、か。奪った、抱えた、持ち込んだ。見つけただけで済む代物じゃない。

 

 俺は白布を外し、白鍵を完全に卓上へ晒した。

 

 部屋の空気がわずかに変わる。

 

 リヴェリアの目が細くなる。アイズは瞬きもせずに見ている。フィンだけが、ほとんど表情を変えなかった。

 

「……ダイダロス・オーブ」

 

 低く言ったのはリヴェリアだった。

 

「別名、クノッソスの鍵。確かに、わざわざ私たちを呼ぶ理由にはなる」

 

「驚いたよ」

 

 フィンが続ける。

 

「ロキ・ファミリアも、ガネーシャ・ファミリアも、長く追っていた。それを君たちが保持しているというのはね」

 

「保持してるのは今だけだ」

 

 俺は言った。

 

「今夜の話次第で、意味は変わる」

 

「そうか。では順番に聞こう。どうやって手に入れた?」

 

「西の廃倉庫で運び屋から奪った。少人数で潜った。ベートが臭いを追って、ザイロが退路を切って、パトーシェが制圧した。俺は全体を見た」

 

「運び屋は」

 

「逃がした」

 

 今度はフィンの目が、わずかに細くなった。

 

「意図的に、か」

 

「そうだ」

 

「理由は」

 

「黒鍵を俺たちが持ってると知らせるためだ」

 

 沈黙が落ちた。

 

「敵を焦らせ、動かす。そういう意図か」

 

「そうだ」

 

「大胆だな」

 

 フィンはそう言った。褒めたわけじゃない声で。

 

「別の言い方もできる。危うい、だ」

 

「分かってる」

 

「本当に?」

 

 穏やかだ。でも問いは鋭い。

 

「今この瞬間、君たちの拠点には潰す理由が生まれている。それも、闇派閥にとっては十分すぎる理由だ。アストレア・ファミリア、施設、住民、協力者。君の判断ひとつで、全部が盤面に乗った。そこまで理解しているかい」

 

 答える前に、呼吸を整える。

 

「全部は見えてない。でも、軽いことじゃないのは分かってる」

 

「軽いどころじゃない」

 

 パトーシェが一歩前に出た。

 

「私は反対した。今も反対だ」

 

 フィンがそちらを見る。リヴェリアも、アイズも見る。

 

「これは戦利品ではない。敵を呼ぶ鈴だ。持つだけでこちらへ危険を引く。アストレア様の庭も、施設も、住民も、協力者も、全てだ。私はそれを看過できない」

 

「パトーシェ」

 

 アストレア様が名を呼ぶ。止めるためじゃない。言わせるための声だった。

 

 パトーシェは続ける。

 

「この男は盤面を読む。それは認める。だが、盤面を読むことと、背負えることは別だ。黒鍵を持つというのは、敵の視線をこの庭へ集めることだ。私はその危険を、誰より重く見ている」

 

 言い終えても、部屋は静かなままだった。

 

 フィンが俺ではなく、まずパトーシェを見たのが分かった。内部の反対があること。それを隠さないこと。たぶん今、その意味を測っている。

 

「それでも君は、ここに立っている」

 

 フィンが言う。

 

「なぜだい」

 

「決まったからだ」

 

 パトーシェは即答した。

 

「私は反対した。今も反対している。だが、アストレア様が認め、この男が持つと決めた。なら私は反対した者として最後まで警戒する。持つと決めたなら、守る責任も負わせる。それが私の役割だ」

 

 ザイロが後ろで、小さく鼻を鳴らした。

 

「真面目すぎるだろ、お前」

 

「貴様は黙っていろ」

 

「正しいから腹が立つんだよ」

 

「その言い回しを便利に使うな」

 

「便利なんだよ」

 

 少しだけ、張り詰めた空気が緩んだ。

 

 だが、フィンは笑わない。ただ、そのやり取りごと見ていた。

 

「なるほど」

 

 今度は俺の方へ視線が戻る。

 

「君一人の暴走ではない、ということは分かった。では、次だ。君はこの鍵をどうしたい」

 

「渡さない」

 

 はっきり言った。

 

「ギルドにも、ロキ・ファミリアにも、譲渡はしない」

 

 リヴェリアが口を開く。

 

「確認する、レックス。お前は黒鍵を保持したまま、ロキ・ファミリアに情報共有と共同警戒を求めている。そういう理解でいいんだな?」

 

「いい」

 

「発想そのものは理解できる。小勢力が盤面に残るため、札を手放さない。理屈としては通っている」

 

 そこで一度言葉を切った。

 

「だが、それで生き残れるかは別の話だ」

 

「お前は順序を違えている。保持を語るなら、まず保持能力を示せ。理想を語るのはその後だ」

 

「……だろうな」

 

「軽く受け止めるな」

 

 声は低い。だが荒れない。

 

「戦力差を軽んじるな、レックス。敵が奪還に動いた場合、現状のアストレア・ファミリア単独でこれを守り切れる保証はない。そこに反論はあるか?」

 

「ない」

 

「ならば譲渡という選択肢が現実的になるのは当然だ」

 

「当然だろうな」

 

「それでもなお渡さない理由を、今ここで示せ」

 

 言葉を求められた。逃げ道はない。最初からなかったけど、今ので完全に消えた。

 

 俺は一度、黒鍵を見た。

 

「渡した瞬間、俺たちは終わる」

 

 フィンも、リヴェリアも、何も言わない。

 

「ロキに渡せば、ロキが主導権を持つ。ギルドに渡せば、ギルドが管理権を持つ。その瞬間、俺たちは“鍵を拾った小さいファミリア”で終わる。呼ばれた時だけ情報を出す側になる。それじゃ駄目だ」

 

「何が駄目なんだい」

 

 フィンの問いは短い。

 

「安全になるかもしれない。少なくとも、今よりはね」

 

「安全になるだけだからだ」

 

 俺は言った。

 

「俺たちは席を失う」

 

「席?」

 

「同じ机に座る席だ」

 

 そこで初めて、フィンの目が僅かに変わった。

 

「これは扉を開けるための鍵じゃない。今はまだ。これは、大手ファミリアと小さい俺たちが、同じ盤面で話をするための札だ。この札を渡した瞬間、発言権は消える」

 

「つまり君は、発言権のために危険を抱えると」

 

「そうだ」

 

「自分一人じゃなく?」

 

「分かってる」

 

 すぐ答えた。答えたけど、フィンの顔は少しも緩まなかった。

 

「分かっているようには見えないね」

 

 その一言で、右手がまた震えた。

 

 膝の上で握る。止まれ。止まれよ。

 

 視線を上げる。フィンは見ている。リヴェリアもたぶん見えている。アイズも、静かに見ていた。

 

「……怖いかい」

 

 フィンが言った。

 

 真ん中を刺された感じがした。

 

 でも、ここで嘘をつくのは違う。

 

「怖い」

 

 そう言った。

 

「けど、渡さない」

 

「なぜ」

 

「怖いから渡すなら、最初から奪うべきじゃなかった」

 

 声が少し乾く。

 

「奪った時点で、もう後戻りだけで終わる選択はできない。だったら、持つ意味を取りに行く」

 

 沈黙。

 

 今度の沈黙は長かった。

 

 フィンは俺から目を離さなかった。解体しているんだと思う。理屈も、感情も、限界も、どこまで背負えるかも。

 

「危ういな」

 

 フィンが静かに言った。

 

「知ってる」

 

「知っていて止まれない?」

 

「止まれるなら、昨日止まってる」

 

 後ろでザイロが鼻を鳴らした。

 

「ハッタリじゃないのが余計に面倒だな」

 

「黙れ」

 

 パトーシェが刺す。

 

 リヴェリアが、今度はフィンへ向けて言った。

 

「フィン、論点は明確だ。彼らに意志はある。だが現時点では保持能力が足りない。問題はそこだ」

 

「ああ」

 

「譲渡させるか、条件付きで保持を認めるか。あるいは別の形で責任を分けるか。どちらにしても、秩序だった枠組みは必要だ」

 

 その一言で、部屋の空気が少し変わった。

 

 俺はそっちを見た。フィンも、僅かに目を細める。

 

「別の形?」

 

 俺が聞くと、リヴェリアは頷いた。

 

「鍵の譲渡ではなく、管理責任の分担だ。保持はお前たち。だが警戒と実働はロキ・ファミリアも受け持つ。その代わり、情報は閉ざさない」

 

「……共同管理、ってことか」

 

「言葉を飾るな」

 

 リヴェリアが切る。

 

「力関係は変わらない。だが、片方だけに負荷を押しつければ破綻する。だから分担する。それだけだ」

 

 ザイロが小声で漏らした。

 

「言い方が硬ぇけど、要するに共闘だろ」

 

「雑に丸めるな」

 

 パトーシェが即座に刺す。

 

「今の一言で三段階くらい精度が落ちたぞ」

 

「意味は合ってんだろ」

 

「貴様の意味は大抵、途中を省きすぎる」

 

「細けぇな」

 

「大事だから細かいんだ」

 

 リヴェリアが、そのやり取りを遮るように続けた。

 

「フィン」

 

「ああ。確かに、その形が妥当だろう」

 

 フィンは俺を真っ直ぐ見た。

 

「レックス。君たちは鍵を保持する。ロキ・ファミリアは、その保持が破綻しないよう外側を受け持つ。情報は双方向で共有。必要なら共同で動く。ここまでなら、君の言う“席”も消えない」

 

 心臓が一つ大きく鳴った。

 

「それは……」

 

「ただし」

 

 フィンの声が、そこで鋭く締まる。

 

「同盟と呼ぶなら、甘い言葉で考えないことだ」

 

 空気が一気に張り直した。

 

「信頼で結ぶわけじゃない。利害と必要で結ぶ。君たちが黒鍵を持つ価値を示し、僕らがそれを使う価値を認める。その間だけの共同戦線だ」

 

 パトーシェの眉が僅かに動く。たぶん、一番現実的な落とし所として測っている。

 

 フィンは続けた。

 

「君たちが情報を隠すなら、この話は終わる。僕らが一方的に奪うと判断したら、それも終わる。互いに刃は抜かない。だが、柄には手をかけたままにする。そういう取り決めだ」

 

 ……重い。

 

 でも、ただの監視下で置かれるよりずっと重くて、ずっとマシだった。

 

「一つ聞いていいか」

 

「なんだい」

 

「ギルドはどう扱うつもりだ」

 

 フィンが少しだけ目を細める。

 

「君の方から聞くとは思わなかったな」

 

「この形を結ぶなら、どうせ避けて通れない」

 

「そうだな」

 

 フィンは淡々と続けた。

 

「ギルド――正確には、その背後にいるウラノスは、この件を管理したい立場だ。全てを掌握したいわけじゃない。だが、記録と枠組みは自分たちの手元に置きたがる」

 

「……だろうな」

 

「だから完全に外すことはしない。クノッソスと闇派閥に関する情報は、最終的には上げる。ただし、タイミングと順番はこちらで選ぶ」

 

「先に盤面を作ってから出すってことか」

 

「そういうことだ。報告の前に、こちらの連携を先に成立させる。既成事実を積んでから渡せば、ギルドも全部を差し替えにくい」

 

「飲むのか、それで」

 

「飲ませる」

 

 フィンは静かに言った。

 

「彼は秩序と均衡を好む。ロキ・ファミリアとアストレア・ファミリアが共同で管理線を引いているなら、むしろそれを利用する方を選ぶだろう」

 

 その言い方には、経験があった。たぶん何度もギルドとやり合ってきた側の言い方だ。

 

「ただし、ギルドは味方じゃない。敵でもない。別の盤面からこちらを見ている三つ目のプレイヤーだ。そこは忘れるな」

 

「分かった」

 

「ギルドとの前面窓口は僕が引き受ける」

 

 フィンはそう言ってから、アストレア様を見る。

 

「その代わり、そちらからも確約がほしい。闇派閥に関する情報を抱え込まないと」

 

 アストレア様は静かに頷いた。

 

「約束するわ。この庭が掴んだ闇派閥の情報は、隠さない。ロキ・ファミリアにも、必要なものはギルドにも渡す」

 

 リヴェリアが補足する。

 

「原則として、情報はまずロキ・ファミリアと共有。そこからまとめてギルドへ上げる。その方が混乱が少ない」

 

「例外は?」

 

「都市の安全に直結する危険だ。大規模襲撃、魔石爆弾、毒、避難が必要な類の脅威。その場合は、お前たちから直接ギルドへ通していい。むしろそうしろ」

 

 俺は小さく頷いた。

 

「整理できた。黒鍵は俺たちが保持する。ロキ・ファミリアは警戒と実働の一部を受け持つ。情報は双方向で流す。ギルドには最終的に上げるが、順番はこっちで作る」

 

「そうだ」

 

 フィンが頷く。

 

「そして、これは仲良しごっこの同盟じゃない。限定的な共同戦線だ」

 

 言葉にされた瞬間、その形が少しだけ現実味を持った。

 

 共同戦線。

 

 味方とは言い切れない。だが、敵でもない。少なくとも今夜は、同じ方向を見ると決める。

 

 それでも、楽にはならなかった。

 

「……それでいい」

 

 俺は言った。

 

「本当に?」

 

 フィンの確認は容赦がない。

 

「かなり厳しい形だと思うが」

 

「最初から対等だとは思ってない。でも、ただ守られる側で終わる気もない」

 

 言い切る。

 

「同じ机に座るだけじゃなく、その机で賭ける責任も負う。そういう形なら飲める」

 

 フィンの口元が、ごくわずかに緩んだ。

 

「言葉を選ぶのが上手いな」

 

「褒めてるのか」

 

「半分だけ」

 

「残り半分は」

 

「気味が悪い」

 

 ザイロが堪えきれずに笑った。

 

「勇者と同じ感想だな」

 

「ザイロ」

 

 パトーシェが低く名を呼ぶ。

 

「お前は少し黙れ」

 

「正しいこと言うなよ。腹が立つだろ」

 

「それはもう聞いた」

 

 その時だった。

 

「……静かだ」

 

 ぽつりと、アイズが言った。

 

 全員が一瞬だけそちらを見る。

 

 アイズは窓際の方を見ていた。

 

「ここ。ロキの応接室より、息がしやすい」

 

「アイズ」

 

 リヴェリアが呼ぶ。

 

 低いが、咎めるだけの声じゃない。

 

「感じたことを口にするなとは言わない。だが今は交渉の最中だ。必要なことを話しなさい」

 

「……うん」

 

 アイズは素直に頷いた。そして少しだけ、卓の端を見る。

 

 視線の先を追って、俺は気づいた。

 

 紙袋が少し見えてる。

 

「……じゃが丸くん」

 

 小さい声だった。でもこの部屋では全員に聞こえた。

 

 俺は目を閉じた。

 

 よりによって、そこを拾うのか。

 

「レックス」

 

 フィンが言う。

 

「この場で説明してもらおうか」

 

「糖分補給用だ」

 

「交渉の席に?」

 

「長引くと思った」

 

「読みは当たっているな」

 

 フィンが淡々と返す。

 

 そこでザイロが肩を揺らした。

 

「むしろ一番盤面読めてたの、そこじゃねぇか?」

 

「黙れ」

 

 間髪入れず、パトーシェが斬った。

 

「白鍵とじゃが丸くんを同列に語るな」

 

「いや語ってねぇよ。でも空気読んでも腹は減るだろ」

 

「貴様の空気の読み方は雑だ」

 

「お前の正論はいつも腹に重いんだよ」

 

「今はちょうどいい」

 

 リヴェリアが低く差し挟む。

 

「少なくとも、お前よりはな」

 

 ザイロが口を閉じた。

 

 アイズはその間も、紙袋を見ていた。

 

「……食べちゃ駄目?」

 

「アイズ」

 

 リヴェリアが呼ぶ。

 

「交渉は終わっていない」

 

「うん」

 

 一拍置いてから、アイズは続けた。

 

「じゃあ、終わったら食べる」

 

 ザイロが吹き出しかけ、今度は俺まで少しだけ息を漏らした。

 

 フィンが額を押さえる。

 

「……なるほど。君たちの庭が妙に息苦しくない理由が、少し分かった気がするよ」

 

「知りたくなかったな、その感想」

 

「はは。褒めているつもりだ」

 

 空気が少しだけ緩む。けど、本筋はまだ終わっていない。

 

 フィンが立ち上がる。

 

「今日のところはここまでだ」

 

 リヴェリアも立つ。アイズも続く。

 

「白鍵の保持は君たち。警戒と実働は必要に応じてこちらも噛む。情報は共有。ギルドへの線も引く。これが今夜の合意だ」

 

「分かった」

 

「忘れないでほしい」

 

 フィンの目が細まる。

 

「これは信頼の証じゃない。互いに、相手を必要だと判断しただけだ」

 

「十分だ」

 

 俺が言うと、フィンは一瞬だけ黙った。

 

 それから、ほんの少しだけ笑った。

 

「そう言えるなら、今夜ここへ来た意味はあったな」

 

 扉の前で、フィンがもう一度だけ振り返る。

 

「レックス。黒鍵を抱えたまま立つと決めたなら、次は見せてくれ。その手が、誰の血で滑る前に、何を守るのかを」

 

「……そっちもな」

 

 言ってから、少し言いすぎたかと思った。

 

 だがフィンは怒らなかった。

 

「もちろん」

 

 それだけ言って、フィンは先に出ていった。リヴェリアも一礼だけ残して続く。

 

 最後にアイズが、扉のところで少しだけ止まった。

 

 視線は、やっぱり紙袋に向いていた。

 

 俺は一瞬だけ迷って、それから紙袋を持って立ち上がった。

 

「……持ってくか?」

 

 アイズがこっちを見る。

 

「いいの?」

 

「会議終わったからな」

 

 袋から一つ取り出して差し出す。

 

 アイズは少しだけ目を丸くして、それから両手で受け取った。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 ザイロが後ろでぼそっと言う。

 

「今夜の一番平和な合意だな」

 

「茶化すな」

 

 パトーシェが刺す。

 

「そこだけ切り取るな」

 

「でも揉めてねぇぞ」

 

「論点が違う」

 

「お前の論点、いつも多いんだよ」

 

「貴様のが少なすぎる」

 

 リヴェリアが扉の外から、半歩だけ振り返る。

 

「アイズ、帰るぞ」

 

「うん」

 

 そう返しながらも、アイズは手の中のじゃが丸くんを見ていた。

 

 フィンがその様子を見て、わずかに口元を緩める。

 

「……なるほど。本当に少しだけ分かった気がするよ」

 

「あんまり理解されても困る」

 

「安心してくれ。全部は無理だ」

 

 リヴェリアが低く言う。

 

「フィン、行くぞ」

 

「ああ、すまない」

 

 アイズは小さく会釈した。

 

「……また来る」

 

 それは社交辞令というより、ただ思ったことをそのまま置いた声だった。

 

 リヴェリアは何も言わなかった。止めもしない。でも認めたわけでもない。その沈黙が、今はちょうどよかった。

 

 ロキ・ファミリアの三人が出ていく。重い扉が閉まる。音がやけに大きかった。

 

 静かになった。

 

 本当に静かになったのは、その扉が閉まってから数秒後だった。

 

 俺はようやく背もたれに身体を預けた。力が抜ける。肩が重い。喉が焼けるみたいに乾いていた。

 

「……首の皮一枚だな」

 

 ザイロが壁から背を離しながら言う。

 

「一枚あるなら十分だ」

 

 そう返したが、声に力はなかった。

 

「ハッタリにしては悪くなかった」

 

「ハッタリじゃない」

 

「だから余計に危ねぇんだよ」

 

 それはその通りだった。

 

 パトーシェが前に出る。

 

「良くはない」

 

 その一言で、また空気が締まった。

 

「黒鍵は残った。だがそれは勝利ではない。ロキ・ファミリアと共同戦線を結んだだけだ。それも、互いに刃を引っ込めたわけではない形でな」

 

「分かってる」

 

「本当にか」

 

「本当に」

 

 パトーシェは少しだけ黙った。

 

「……ならいい」

 

 でも、それで終わらなかった。

 

「だが私はまだ反対だ。そのことは忘れるな。共闘は危険を薄めるが、消しはしない。今後、誰か一人でも余計に危険へ晒すなら、私は何度でも止める」

 

「止めてくれ」

 

 即答した。

 

「俺一人だと、多分見落とす」

 

 パトーシェが一瞬だけ言葉を失った顔をした。やがて短く返す。

 

「当然だ」

 

 ザイロが口の端を上げる。

 

「素直だな、お前ら」

 

「貴様は黙れ」

 

「正しいこと言うな。腹が立つ」

 

「自分で言うな」

 

 今度はパトーシェより先に、俺が突っ込んでいた。

 

 ザイロが少し目を丸くして、それから笑う。

 

「お、やっと余裕出たな」

 

「出てない。反射だ」

 

「なら上出来だ」

 

 少しだけ空気が緩む。本当に少しだけだった。でもそれで十分だった。

 

 アストレア様が黒鍵を布で包み直す。

 

「今夜はここまでにしましょう」

 

「保管は予定通りでいいのか」

 

 パトーシェが聞く。

 

「ええ。本館の保管室へ。触れる人間は限定。警戒線はシャクティへ共有。保管方法の細工はアスフィへ相談。それから、闇派閥情報の整理も明日やるわ」

 

 それから俺を見る。

 

「レックス、まとめられる?」

 

「やる」

 

「今夜じゃない」

 

「……分かった」

 

「分かってない顔をしている」

 

「気合いでやれると思ってる」

 

「そういう時のあなたは大抵やりすぎるの」

 

 ぐうの音も出なかった。

 

 アストレア様は柔らかく笑う。

 

「今日はよく座っていたわね」

 

 その一言が、妙に胸に来た。

 

 立たなかった。逃げなかった。それだけだ。でも、それを見ていてくれた人がいる。

 

「……怖かった」

 

 気づいたら口に出ていた。

 

「知ってる」

 

「全部見抜かれてる感じがした」

 

「ええ」

 

「勝った感じが全然しない」

 

「そうでしょうね」

 

 アストレア様は頷く。

 

「今日のは勝ち負けじゃないもの」

 

「……胃が重い」

 

「健全だな」

 

 ザイロが言った。

 

「勇者相手に胃が軽かったら気持ち悪い」

 

「それはそうだ」

 

 パトーシェも珍しく否定しなかった。

 

「軽かったら私が殴っていた」

 

「怖いな」

 

「今さらか」

 

 黒鍵は残った。フィンは去った。ギルドも、もう盤面の外にいるわけじゃない。何一つ終わっていない。

 

 むしろ始まったんだと、全員が分かっている。

 

 同じ机には座れた。しかも今夜、机をひっくり返さずに済ませるための線まで引いた。

 

 だが、その机の下には最初から刃がある。

 

 俺は布に包まれた黒鍵を見た。

 

 静かだった。昨日と同じく、ただそこに在るだけなのに、もう昨日とは全然違って見える。

 

 これは拾ったものじゃない。保持すると言ったものだ。共同戦線の核にすると決めたものだ。責任ごと抱えると決めたものだ。

 

「行くか」

 

 ザイロが言った。

 

「どこへ」

 

「保管だよ」

 

「一人で持たせるな」

 

 パトーシェが即答した。

 

「分かってる」

 

「いや、お前じゃなくて俺に言ったんだろ」

 

「そうだ」

 

「ひでぇな」

 

「事実だ」

 

 アストレア様が首元の鍵を指で押さえる。

 

「じゃあ、みんなで行きましょう」

 

 それで決まった。

 

 一人じゃない。その当たり前が、今夜はやけに重かった。

 

 応接会議室の灯りが落ちる。本館の廊下は静かで、夜の冷たさが少しずつ床から上がってくる。

 

 その静けさの中を、四人で歩く。

 

 星屑の庭は黒鍵を渡さないと決めた。

 

 その代わり、ロキ・ファミリアと限定的な共同戦線を結ぶと決めた。

 

 それは安心じゃない。救済でもない。むしろ、危険を互いに認めた上で交わした、冷たい握手だ。

 

 怖い。重い。胃が痛い。

 

 それでも俺は、黒鍵から手を離さなかった。




あとがき

 第21話でした。

 今回は「勝った」回じゃなくて、「同じ机には座れたけど、その机の下に刃も増えた」回です。

 レックスはフィンを出し抜いたわけではなく、危うさも未熟さも全部見抜かれた上で、それでも切り捨てるより組んだ方がマシだと判断された形にしています。なので着地はあくまで限定的な共同戦線です。仲良し同盟ではないです。

 パトーシェは今回かなり大事でした。味方だから黙って従うんじゃなくて、味方だからこそ反対する。その上で、決まったなら最後まで警戒役をやる。この立ち位置がないと黒鍵保持が軽く見えてしまうので、しっかり言わせました。

 リヴェリアは前よりかなり整理役に寄せています。否定のために否定するんじゃなく、論点を切り分けて順序を正す役です。あの人はああいう圧の方が似合う。

 あとアイズとじゃが丸くんは、さすがにあの空気をずっと張り詰めたままにしすぎると逆に読みにくくなるので、少しだけ呼吸を入れる意味でも残しました。ただし本筋を壊さない範囲で。

 ベートはサボりではなく巡回警備任務です。まだ入って間もないからこそ、今夜は会議室より外周の方が自然だろうなと。

 そしてギルドについても、今回は盤面の外ではいられない存在として明示しました。ロキ・ファミリアと組んだ以上、そこも避けては通れないので。

 次は、この冷たい握手のあとに来る別種の光を書いていきたいです。重い机に、真っ直ぐなやつが来るとどうなるのか、たぶん次はそこです。

誤字修正報告・お礼

 感想、誤字報告、口調の指摘、毎度かなり助かってます。前回もすぐ直せました。ありがとうございます。
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