星屑の庭は、都市の底へ通じる重要な鍵を抱え込むことになった。
大きすぎる秘密を前に、レックスは自分一人で背負おうとするが、アストレアから「一人で抱えるな」と静かに釘を刺される。
守るべきものと危険の輪郭がはっきりし始めた翌朝、星屑の庭に一人の少女が現れる。
第22話 この庭に立つ
第22話 この庭に立つ
朝の空気は、昨日より少しだけ重かった。
空が曇っているわけじゃない。
風が冷たいわけでもない。
それでも、星屑の庭の中には目に見えない張りつめたものがあった。
中庭を掃く音がやけに小さく聞こえる。
厨房では朝の支度が進んでいて、裏手では水桶を運ぶ職員たちが静かに行き交っていた。
誰もいつもと違う顔はしていない。
でも、何かが変わったことだけは、みんな分かっている。
俺は本館二階の廊下で、保管室の前に立っていた。
この奥にあるのは、昨日持ち込まれた白い球体だ。
丸く、静かで、見た目だけなら拍子抜けするほど無害そうなそれが、都市の底へ繋がる鍵なんて役目を持っている。
笑えない話だ。
「また難しい顔してるな」
横から声がした。
ザイロだ。
壁に肩を預けたまま、眠そうな目でこっちを見ている。
「してる自覚はある」
「あるなら少しは直せよ」
「直るなら苦労してない」
「そりゃそうか」
ザイロは軽く笑った。
その隣では、パトーシェが引き継ぎ用の紙を確認している。
朝からきっちりした字で、巡回順と持ち場変更が並んでいた。
「昨夜の見張りに異常はない」
パトーシェが言う。
「裏門、中庭、外周、保管室前、すべて予定通り交代済みだ」
「助かる」
「助かるで済む話じゃない」
即座に返された。
「今ここで緩めれば終わる。分かっているな」
「分かってるよ」
「なら顔に出すな」
「無茶言うな」
「無茶を通す状況だ」
正論が重い。
そのとき、廊下の向こうからぱたぱたと足音が聞こえてきた。
住み込み職員の一人が、息を少し切らして立ち止まる。
「レックスさん、パトーシェさん」
「何だ」
パトーシェが顔を上げる。
「表にお客さんが来てます」
「客?」
「はい。アストレア様に会いたいって」
職員は少し言いづらそうに続けた。
「ファミリアに入りたいそうです」
ザイロが目を瞬かせた。
「この朝からか」
「元気だな」
俺がぼそっと言うと、職員は困ったように笑った。
「かなり元気そうな子です」
何となく嫌な予感がした。
悪い意味じゃなく、静かでは済まなさそうな予感だ。
「アストレア様は?」
「もう玄関ホールに向かわれました」
「分かった」
パトーシェが紙を畳む。
「行くぞ」
「俺もか」
「お前が行かない理由がない」
「ある意味では正しいな」
ザイロもそのままついてくる。
朝の静けさを引きずったまま、俺たちは階段を下りた。
◇
本館一階の玄関ホールには、朝の光が差し込んでいた。
その真ん中に、一人の少女が立っている。
赤い髪。
まだ幼さの残る顔立ち。
腰には細身の剣を一本。
装備は軽く、どこか旅の途中みたいな雰囲気があった。
そして、俺たちの姿を見た瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
「初めまして!」
声が大きい。
「私、アリーゼです!」
その勢いのまま、アストレア様へ向かってぴしっと背を伸ばした。
「アストレア様のファミリアに入りたくて来ました!」
真正面だった。
遠回しな言い方も、探るような前置きもない。
そのまますぎて、逆に一瞬言葉に詰まる。
「ずいぶん真っ直ぐだな」
思わず口にすると、アリーゼがすぐこっちを見る。
「回りくどいと伝わりにくいでしょ?」
「初対面で言い切るなあ」
「でも本当だよ!」
勢いが強い。
アストレア様はそんな彼女を見て、やわらかく微笑んだ。
「ようこそ。私に会いたいと聞いたけれど」
「はい!」
アリーゼは元気よく頷いた。
「強くなりたいんです。ちゃんと正しいことがしたいし、そのためにここで始めたいです」
その言葉に、ホールの空気が少しだけ変わる。
綺麗事と言えば綺麗事だ。
でも、不思議と軽くは聞こえなかった。
本人が本気だからだろう。
「どうしてここなの?」
アストレア様が問う。
「噂を聞いたからです」
「どんな噂かしら」
「正しいことをやろうとしてる場所だって」
アリーゼはそこで一拍置いてから続けた。
「それに、綺麗なだけじゃなくて、大変そうだって聞きました。だから自分の目で見たくて」
ザイロが小さく笑う。
「ふわっとしてるようで、見てるとこは見てるな」
「褒めてる?」
「半分くらい」
「半分かあ」
そこで、回廊の奥からベートが姿を見せた。
話を聞きつけて来たらしい。
面倒そうな顔でアリーゼを見る。
「で、入りたいって?」
「はい!」
「何ができる」
遠慮がない。
けれどアリーゼはひるまなかった。
「まだそんなにできません!」
即答だった。
一瞬、沈黙が落ちる。
次の瞬間、ザイロが吹き出した。
「言い切ったなあ」
「だってできないことをできるって言っても仕方ないでしょ!」
アリーゼは胸を張る。
「でも、できるようになるつもりで来ました!」
その目だけは、冗談じゃなかった。
ベートは鼻を鳴らす。
「威勢だけはいいな」
「威勢、大事だよ!」
「知らねぇよ」
パトーシェがアストレア様へ視線を向ける。
「中を見せますか」
「ええ」
アストレア様は頷いた。
「見るだけになるけれど、それでもいいかしら」
「もちろんです!」
返事だけは本当に迷いがない。
◇
中庭へ出ると、朝の風が少しだけやわらいでいた。
厨房前では朝食後の片付けが進み、裏手では備品を運ぶ職員たちが忙しく動いている。
洗濯場では干し布が揺れ、物干しの間を抜ける風が白い布をふわりと持ち上げた。
アリーゼはそれを、きょろきょろではなく、意外なくらい真面目な目で見ていた。
「思ったより、ちゃんと人がいる場所なんだね」
「どういう意味だ」
パトーシェが聞く。
「もっと冒険者ばっかりの拠点かと思ってた」
アリーゼは中庭を見回す。
「でも、ここって暮らしてる場所でもあるんだ」
その言い方は、妙にしっくり来た。
星屑の庭は戦うための拠点だ。
それは間違いない。
けれど剣を持つやつだけで回ってるわけじゃない。
食事を作る手がある。
洗濯をする手がある。
補修をする手がある。
そういう手の上に、ようやく俺たちの戦いが乗っている。
「へえ」
ザイロが感心したように言う。
「ちゃんと見える子なんだな」
「見えてるよ?」
アリーゼがすぐ返す。
「だって大事でしょ。誰がこの場所を支えてるのかって」
言われて、少しだけ胸に引っかかった。
昨日のことがまだ頭に残っているのかもしれない。
危険も責任も、自分が前に立って受けるものだと思い込みすぎていた。
でも本当は、庭はもっと多くの手で成り立っている。
「レックスくん」
「何だ」
「君、ちょっと無理してる顔してるね」
「初対面でそういうこと言うな」
「でもしてるでしょ?」
否定しようとして、やめた。
多分、顔に出ている。
「してる」
「だよね」
アリーゼはあっさり頷いた。
「じゃあ一人で抱えすぎない方がいいよ」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないけど、そう見えたから言ったの」
さっきまでの勢いとは違う、少しだけ静かな声だった。
「ここって、一人で抱える場所じゃなさそうだし」
その言葉の先に見えるのは、中庭を行き交う職員たちだ。
朝の仕事を止めずに続ける人たち。
俺たちが戦ってるから回るんじゃない。
回っているから、俺たちも立てている。
そんな当たり前のことを、改めて突きつけられた気がした。
アストレア様が、そこで足を止める。
「アリーゼ」
「はい!」
「あなたはこの庭で、何をしたいの?」
問いは静かだった。
でも、まっすぐ芯を射抜く。
アリーゼは少しだけ考えてから答えた。
「強くなりたいです」
それは迷いのない声だった。
「今の私はまだ何もありません。できることだって少ないし、助けられる側だと思います」
自分を大きく見せる気はないらしい。
そこは好感が持てた。
「でも、それで終わりたくないです」
アリーゼは拳を軽く握る。
「ここで始めて、ここで強くなりたいです」
ベートが腕を組んだまま言う。
「みんな最初はそんなもんだ」
あまりにあっさりした言い方に、逆にアリーゼがきょとんとした。
「そうなの?」
「当たり前だろ」
ベートは面倒そうに続ける。
「最初からできるやつなんざいねぇよ」
「……じゃあ、今できないのも普通?」
「普通だ」
「よかった!」
「安心するところかよ」
ザイロが笑い、パトーシェは小さく息を吐いた。
でも、その空気はさっきまでより柔らかい。
この時期の俺たちは、まだ完成した集団じゃない。
それぞれが積み上げの途中で、アリーゼだけが特別下ってわけでもない。
だからこそ、背伸びしないその言い方は収まりがよかった。
アストレア様が静かに頷く。
「なら、受け入れましょう」
アリーゼの顔が一気に明るくなる。
「本当ですか!」
「ええ。ただし、今日から始める子としてよ。焦らず、一つずつ覚えなさい」
「はい!」
「強さだけじゃない。この庭のこと、人のこと、自分のこと。全部を知って、それでも立ちたいと思えるかを、これから確かめていきなさい」
「はい!」
返事が、今度は少しだけ震えていた。
嬉しさだけじゃない。
重さも分かったんだろう。
「それでも来る?」
「来ます!」
即答だった。
「なら歓迎するわ。アリーゼ」
◇
加入の儀式は、本館の静かな一室で行われた。
派手な飾りはない。
けれど不思議と、その場所だけ空気が違う。
日差しの入り方も、物音の遠さも、少しだけ神聖に感じられた。
アストレア様が椅子へ腰を下ろし、その前にアリーゼが座る。
俺たちは少し離れて見ていた。
さっきまであれだけ元気だったアリーゼも、今はさすがに落ち着かないらしい。
膝の上に置いた手に力が入っている。
「緊張している?」
アストレア様が問う。
「……してます」
「逃げたくなった?」
「それはないです」
少しだけ間を置いてから、アリーゼは続けた。
「怖くないわけじゃないけど、ここでやめたくはないです」
「いい子ね」
アストレア様が微笑む。
「背を向けて」
アリーゼはこくりと頷き、ゆっくりと姿勢を変えた。
まだ何も刻まれていない背中が見える。
当たり前だ。
ここから始まるのだから。
アストレア様の指先が、そっとその背へ触れる。
部屋の空気が変わった。
神の恩恵が降りる瞬間を、言葉でうまく説明するのは難しい。
光が見えるわけじゃない。
大きな音が鳴るわけでもない。
それでも確かに、世界の層が一枚だけずれるみたいな感覚がある。
アリーゼの肩が小さく震えた。
「痛い?」
「ちょっとだけ」
「我慢できる?」
「できます」
「偉いわ」
静かなやり取りのあと、アストレア様の手が止まる。
ほんのわずかに、その表情が変わった。
「……なるほど」
小さな声だった。
けれど部屋にいた全員が気づいた。
ザイロが目を細める。
パトーシェも顔を上げた。
俺も、思わず息を止める。
「何かありましたか」
パトーシェが尋ねる。
「ええ」
アストレア様は穏やかに答えた。
「この子は、火を灯しやすいわ」
アリーゼがきょとんとする。
「火?」
「今はまだ、小さな芽のようなもの。でも前へ出る意志とよく馴染む質をしている」
その言葉に、アリーゼ自身はよく分かっていなさそうだった。
でも、悪い意味ではないことは伝わったらしい。
「えっと……よかった、ですか?」
「ええ」
アストレア様は即答する。
「ただし、強くなれることと、正しく強くなれることは別よ」
アリーゼの表情が引き締まる。
「はい」
「あなたは勢いのある子だわ。前へ出ようとするでしょう。だからこそ、止まることと見ることを覚えなさい」
「……はい」
「正しさだけで届かないものがあると知っても、それでも手を伸ばすかを、何度も選ぶことになる」
静かな声だった。
でも、その分だけ重い。
アリーゼはしっかり頷いた。
「それでも、選びます」
アストレア様の指先が最後の印を結ぶ。
それで儀式は終わった。
「終わったわ」
アストレア様は、刻まれたばかりの恩恵を静かに見つめていた。
「どうでしょうか」
「まだ数値としては、まだ何も積まれていないわ」
アストレア様が静かに読み上げる。
力量 I
耐久 I
器用 I
敏捷 I
魔力 I
「魔法、スキル、発展アビリティも、現時点ではなし」
部屋が一瞬だけ静かになる。
「全部、まだ同じなんだ」
アリーゼが目を丸くする。
「当然だ」
ベートが腕を組んだまま言う。
「今日入ったばかりだろ」
「そっか……いや、そりゃそうか」
アリーゼは自分で言って、自分で少し納得したように頷いた。
「何かこう、最初からちょっとくらいすごいのが出たりするのかと思った」
「夢見すぎだ」
ベートが即座に切り捨てる。
ザイロが肩を揺らした。
「でもまあ、そう思う気持ちは分かる」
「分かるでしょ?」
「分かるけど出ねぇもんは出ねぇな」
アリーゼは口を尖らせかけて、それからすぐに表情を戻した。
「じゃあ、本当にここからなんだね」
「ええ」
アストレア様が頷く。
「ここから一つずつ積み上げていくの」
その声は穏やかだった。
「ただ、器は悪くないわ。前へ出る意志もある。焦らず鍛えれば、きっとあなたらしい形になっていく」
アリーゼはその言葉を聞いて、背筋を伸ばした。
「……はい」
「最初はみんな、こうして空の状態から始まる」
アストレア様は微笑む。
「だから恥じることはないわ。何もないことは、まだ何にでもなれるということでもあるのだから」
アリーゼは一度だけ、自分の手を見た。
まだ細い手だ。
剣を握ってきた手ではある。
でも、恩恵を得た冒険者としては、今日が本当の最初になる。
「よし」
小さく、でもはっきりとアリーゼは言った。
「じゃあ、ここから全部上げる」
ベートが鼻を鳴らす。
「軽く言うな」
「軽くないよ」
アリーゼは顔を上げた。
「最初が空なら、伸びるだけでしょ?」
その言葉に、ザイロが笑う。
「前向きだなあ」
「悪くない」
パトーシェが短く言った。
「数字を埋めるのは明日からだ。まずは規律と基礎から覚えろ」
「はい!」
返事は迷いなく響いた。
その声を聞きながら、俺はほんの少しだけ息を吐く。
力量も、耐久も、器用も、俊敏も、魔力も、まだ同じだ。
今のアリーゼは本当に何者でもない。
でも、だからこそここから始まる。
今日、この庭に立ったのは、完成した誰かじゃない。
数値すらまだ空白の、一人の新入りだった。
◇
部屋を出ると、昼前の光が少し高くなっていた。
中庭では相変わらず人が動いている。
厨房の煙が立ち、洗濯場の布が揺れ、職員たちが足を止めずに働いている。
庭は、今日もちゃんと回っていた。
その中へ、アリーゼが加わった。
まだ小さい。
まだ何者でもない。
でも、ここで始めると自分で決めた。
ザイロは面白がるだろう。
ベートは容赦なく振り回すだろう。
パトーシェは厳しく教える。
アストレア様は見守る。
そして多分、俺も無関係ではいられない。
守るものが増えた、と言えばそうだ。
面倒が増えた、とも言える。
でもそれだけじゃない。
昨日まで少し重たすぎたこの庭に、新しい風が一つ入り込んだ。
騒がしくて、真っ直ぐで、少し眩しいやつだ。
俺は中庭の向こうで職員に何か話しかけている赤い髪を見ながら、短く息を吐く。
今日、この庭に立ったのは、完成した誰かじゃない。
今から強くなる一人だ。
それでいいのかもしれないと、少しだけ思った。
第22話 この庭に立つ 完