赤い髪の少女、アリーゼ・ローヴェルが星屑の庭の門を叩いた。
明るく、まっすぐで、こちらの予定を完全に無視した訪問だった。彼女は『正しいことがしたい』と言い、その場でアストレア・ファミリアへの加入を申し出た。
アストレア様は彼女の中に『火を灯しやすい』性質を見出し、加入を認めた。ファルナ付与の儀式が行われ、アリーゼは正式に星屑の庭の眷属となった。
ステータスは全部I。スキルなし、魔法なし、発展アビリティなし。文字通り、何もない状態からの始まりだった。
それでも彼女は言った。 『じゃあ、ここから全部上げる』
光が庭に来た。 ただし、まだ椅子の音は立てる。
第23話 まだ椅子が一つ多い
星屑の庭の朝食。
長机にはいつもの面子ファミリアメンバーが揃っていた。
パン、卵、豆のスープ、果物が少し。献立は昨日と同じだ。
しかし、確実に変わったものが一つだけあった。
長机の端に、椅子が一つ増えていたのである……。
「(誰が運んだんだろうな、これ……)」
レックスは増えた椅子を見ながら、内心でそう呟いた。
昨日のうちに、住み込み職員ハウススタッフの誰かが奥の物置から引っ張り出してきたに違いない。星屑の庭は、そういう気の利き方が異常に早い。
昨日まではただの空間だった場所に、今日からは『待つ場所』ができている。
不思議なものだ、と思った。椅子一つで、家の地図が書き換わる。
「アリーゼ、まだか」
「寝坊じゃねぇだろうな」
「初日からそれだったら笑うな」
「いや、笑えねぇか」
「どっちなんだよ」
ベートが食べながら毒づき、ザイロが軽口で受ける。
パトーシェは黙々と豆のスープを口に運んでいた。彼女は朝食中はあまり喋らない。喋らない代わりに、音を立てない。軍人とはそういうものだ、と前に言っていた。
「おはよーーー!!」
廊下の方から、爆音の挨拶が飛んできた。
『『『……』』』
星屑の庭の朝食は、平均音量がとても低い。職員たちが配膳の手を止めずに動くため、無駄な大声は文化的に推奨されていない場所だ。
そこに、たった一人の新入りファミリアメンバーが、防音設計を完全に無視した挨拶をぶち込んできた。
ザイロが目を上げた。
ベートが眉をしかめた。
パトーシェは食べる手を止めなかったが、耳が一瞬、ぴくっと動いた。
「遅れたーーー!」
食堂の入り口に、赤い髪が立っていた。
昨日加入したばかりの新人ファミリアメンバー、アリーゼ・ローヴェル。星屑の庭で支給された訓練用の上着を着ているが、丈が少し合っていない。袖がわずかに長い。
「ごめん、起きる時間、よく分かんなくて」
「分かんないってお前」
ザイロが呆れ顔で返す。
「昨日伝えただろ」
「伝えてもらったんだけど」
アリーゼがちょっとだけ眉を下げる。
「目覚めたら、もう外が明るくて」
「明るくなる前に起きるのが、ここの朝だ」
パトーシェがついに口を開いた。声は静かだったが、軍人ガチ勢の芯が乗っている。
「明日からは、暗いうちに起きろ」
「はーい!」
「返事だけは、よく通るな」
「えへへ」
「褒めてないぞ」
「あ、そっか」
アリーゼが増えた椅子の前まで来て、少しだけ立ち止まった。
彼女は『自分の椅子』に対して、まだ自然な距離感を持てていない。一拍、躊躇する。それから、レックスを見る。
「座っていい?」
「自分の椅子だ」
「うん。けど、聞いた方がいいかなって」
「聞かなくていい」
「分かった」
ガタッ。
『『『……』』』
椅子が音を立てた。
星屑の庭の朝の食堂で、椅子の音は通常、立たない。これは決まりではない。慣例ですらない。ただの『生活の癖』だ。
「(……音、立てたな)」
レックスは内心で記録した。怒っているわけではない。彼女がまだ家のリズムに乗っていない、という事実を、参謀の目が拾っただけだ。
「おはようございます、アリーゼさん」
「おはよー!」
厨房職員クックが皿を置く。
「お口に合うといいんですけど」
「合う! 絶対!」
「まだ食べてないでしょ」
ザイロが横から軽く突っ込む。
「食べてからの感想にしろ」
「あ、そっか」
アリーゼがスープを一口飲んだ。
目がぱっと開いた。
「うまい」
「だろ」
「ほんとにうまい! なにこれ、家の味みたい!」
「うちの味だからな」
ザイロが、何でもないように言った。
「家の味だよ。ここは家だから」
その瞬間、アリーゼのスプーンが止まった。
「(……)」
レックスはそれを見ていた。
彼女は何かを言いかけて、やめた。代わりに、もう一口、スープを飲んだ。
昨日、彼女が玄関で言った言葉を、レックスは思い出していた。
『ここって、暮らしてる場所でもあるんだ』
あの声と、今のスプーンを止めた一拍は、たぶん、繋がっている。
ベートはそれに気づかない顔で、二杯目のパンを取っていた。パトーシェは黙ってアリーゼを見ていた。ザイロは何でもない顔で、果物を皮ごとかじっていた。
星屑の庭の朝は、いつも通りに、回り始めていた。
***
朝食のあと、レックスはアリーゼを連れて中庭に出た。
今日のアリーゼの予定は、施設の動線確認。新人初日に、いきなり剣を振らせるつもりはない。
まずは、家のどこに何があって、誰がどこを動いていて、どの時間にどこが混むのか、を体に入れさせる。
戦うより先に、住む。住むより先に、見る。これが星屑の庭の新人教育マニュアルだった。
「(しかし、なんで俺が案内役なんだ……)」
レックスは内心で愚痴った。
ザイロやパトーシェに任せても良かったのだが、昨日アリーゼに『無理してる顔してるね』と言われた借りがあった。借りは早めに返す。返しておかないと、後で利子がつく――――参謀の鉄則である。
「ここ、中庭」
「うん」
「朝は職員の動きが一番多い時間帯だ。厨房、洗濯、補修、それから外の搬入。八時前後が一番混む。だから、この時間帯に中央を横切るな」
「ふんふん」
「動線は外側を回れ。職員の作業を止めるな」
「了解!」
「ただし、夕方以降の中庭は別の顔になる」
レックスは指を一本立てた。
「中庭は、星屑の庭の実践訓練場でもある」
「えっ」
「昼間は職員の生活動線。夕方以降、職員の仕事が落ち着いた時間帯から、ここで模擬戦と対人訓練を回す」
「同じ場所で?」
「同じ場所だ。だから、新人はまず昼間の中庭を覚える。誰がどこに立って、どこを通って、どこに荷物を置くのか。それを知らずに夕方の中庭で剣を振ると、職員の干した洗濯物に泥をぶつけることになる」
「あ……」
「実際、最初の月にやらかすやつが、毎年いる」
「(うわぁ……)」
アリーゼがそっと自分の足元を確認した。早くも『やらかす側』にカウントされそうな雰囲気を察知した模様である。
「これは、戦闘の動線にも繋がる」
レックスは続けた。
「襲われた時、誰がどこに逃げて、どこに集まるか、考える材料になる」
「あ」
アリーゼが声を上げた。
「そうか。ここの人たちが、どこにいるかを覚えるのって、戦いのためでもあるんだ」
「半分はな」
「もう半分は?」
「邪魔しないため」
「あー……うん。それは、大事だね」
彼女は真面目に頷いた。
レックスは案内を続けた。厨房の入り口、洗濯場の物干し、補修工房、備品倉庫、緊急搬送用の裏口、ガネーシャ・ファミリアの駐在所への通路、ミアハ・ファミリアからのポーション搬入の動線、ディアンケヒトの緊急講習場所――――情報量がとんでもないことになっていた。
「(こんなに一気に覚えられるのか、こいつ……)」
不安になりながらアリーゼの様子を窺うレックス。
しかし、彼女は思ったよりよく聞いていた。騒がしいだけの新人ではなかった。うるさい時はうるさい。けれど、聞かなければならない時は、目が変わる。目が変わる時間が、昨日より少しだけ長くなっていた。
「レックスくん」
「何だ」
「これ、全部、いつ覚えたの?」
「来てから、少しずつ」
「……レックスくんは、ここに来てどれくらい?」
「もう、数えるのも面倒なくらい」
「そっか」
アリーゼがふっと笑った。
「じゃあ、私もそうなるんだね」
「そうなる」
レックスは答えた。
「数えるのが面倒になるくらいまで、ここにいるなら」
「いるよ」
即答だった。
昨日と同じ即答の癖だ。でも昨日と違って、今日のそれには、ほんの少しだけ、息の深い場所から出た音が混じっていた。
レックスはそれを聞かなかったことにした。聞かなかったことにする方が、彼女のためにもなる気がした。
「(今、深いところに踏み込むのは早い。家に馴染む前に踏み込まれた人間は、早足で抜けていくからな……)」
星屑の庭は、早足で入ってきた人間をあまり長く保たせない場所だ。これも参謀の経験則である。
***
昼前、レックスとアリーゼはアストレア・フィットネスへ移った。
星屑の庭の隣に建つ、修練棟兼公共施設。一階から三階までは一般会員、四階から六階はアストレア・ファミリア専用エリア。二十四時間、三交代で住民スタッフが回している。深夜帯に何かあれば、アストレア・ファミリアか、ガネーシャ・ファミリアの駐在所から駆けつける契約になっていた。
「うわぁ、立派ーーー!」
扉を開けた瞬間、アリーゼが目を輝かせた。
扉の内側で、ザイロが先に来ていた。彼が午前の補修当番だった。
「お、アリーゼ。早速見に来たか」
「うん! よろしく!」
「俺、教官じゃねぇぞ」
「あ、そうだった」
「分かってないだろ」
ザイロが笑った。
アリーゼがフィットネスの中をきょろきょろと見回した。
巨大な訓練機具基礎強化マシンがずらりと並んでいる。重りを引っ張るやつ、走り続けるやつ、登り続けるやつ、押し続けるやつ――――無心になれそうな代物が並んでいた。
「これ、何の機械?」
「筋トレと、有酸素運動用」
レックスが説明する。
「フィットネスは、基礎体力作りの場所だ。ここで剣は振らない」
「振らないの?」
「実践訓練は、中庭でやる」
「あ、さっき言ってた……」
「そう。フィットネスで体を作って、中庭で技を磨く。場所を分けてる」
「なんで分けてるの?」
「機械相手の動きと、人間相手の動きは、性質が違うからだ」
ザイロが横から口を挟んだ。
「機械は決まったとこに決まった力でかかってくる。人間はそうじゃねぇ。同じ場所で混ぜると、両方が中途半端になる」
「ふむふむ」
「だから、フィットネスは黙々と体作る場所、中庭は人と打ち合う場所、で分けてる」
「ほー」
「あと、フィットネスには一般客もいる。剣を振ったら騒ぎになる」
「あ、それは、うん」
「分かったらいい」
アリーゼがふと、隅の方を見た。
ガラス越しに、住民らしき中年男性が、無心で重りを引っ張っていた。
「あの人、夜眠れない人?」
「違う。あの人、近所の建築職人。仕事終わりに毎日来てる」
「あ……うん。それは健康的だ」
「健康的なやつはここに来る。眠れないやつは、深夜に来る。それぞれ来る時間が違うから、客層が時間帯で分かれてる」
「面白い場所だね」
「面白いというより、必要な場所だ」
レックスは答えた。
「街の人がいつでも体を動かせる場所が、街のどこかに、一つでもあった方がいい。深夜帯に体を動かしたい人間は、それなりにいる」
「夜眠れない人」
「いる。たぶん、お前が思ってるよりたくさんいる」
「……そっか」
「で、深夜帯は人が少ないから、何かあった時の対応が遅れやすい。だから、緊急時は、こっちか、ガネーシャの駐在所から駆けつける契約になってる」
「ガネーシャの人たち、優しいんだね」
「商売だ」
「えー」
「商売だが、優しい商売だ」
レックスは付け加えた。
「シャクティさんたちは、街の治安を仕事にしてる。ここで何かが起きるってことは、街で何かが起きるってことだから、向こうにとっても無関係じゃない。互いに必要だから、こうなってる」
「うん」
アリーゼがフィットネスの構造を、何度か振り返るように確かめていた。
四階、五階、六階。各階に何があるか。器具の配置。医務室との連絡。非常口の位置。
階段の段数まで、彼女は数えていた。数えていることに、レックスはすぐには気づかなかった。彼女が「二十六、二十七」と小さく口にしているのを聞いて、ようやく気づいた。
「お前、階段、数えてるのか」
「うん」
「なんで」
「夜、明かりが消えたとき、段の数が分かってると、降りやすいから」
レックスは少しだけ、足を止めた。
彼女はそれに気づかずに、さらに数えていた。
レックスは、何も言わずにまた歩き出した。
「(……明るいところに立てる子は、暗いところを知っている子のことだ、ってのは、こういうことか……)」
誰の言葉だったか、思い出せなかった。
ただ、その言葉だけは、覚えていた。
***
アリーゼが星屑の庭に来てから、ひと月ほどが過ぎた。
彼女は四時半に起きるようになっていた。
最初の三日は、ベートに毎朝叩き起こされていた。四日目から、自分で起きるようになった。五日目には、レックスたちより先に厨房の前に立つようになった。厨房の職員に「邪魔だ」と言われて、しゅんとして戻ってくる、ということを二回繰り返した。三回目からは、邪魔にならない位置に立って、配膳を手伝うようになった。
椅子の音は、まだ立てる。
ただ、立てる音が、初日の半分くらいになっていた。半分というのは、レックスの体感だ。パトーシェに同じことを聞いたら「四分の三だ」と言われた。彼女の方が音には正確だ。レックスの体感の方が、たぶん、彼女に甘い。
訓練は、中庭で基礎から始めた。
体の使い方、剣の握り方、足の運び方、呼吸の置き方。彼女は『あちこちで色んな人と打ち合ってきた』と言っていた通り、剣の振り方そのものは、Lv.1の新人としては、上の方だった。ただし、動きに無駄が多い。無駄が多いまま体を動かすと、長続きしない。
パトーシェがその無駄を、一つずつ削っていった。削られるたびに、アリーゼは『えーっ、そこー?』と声を上げ、削られた後で、ちゃんと動きを直した。声を上げるが、抗わない。その性質が、彼女を、たぶん、長く保たせる。
フィットネスでの基礎体力作りも、嫌がらずに続けていた。重りを引っ張りながら『これ、いつ強くなるやつ?』と聞いてくるあたり、本人は機械相手の地味な訓練を半分疑っていたが、それでも黙ってやっていた。三週目あたりで、走り続けるやつの記録が突然伸びた。本人より先にザイロが気づいて『お前、伸びる時に伸びるタイプだな』と言った。
ベートとの相性は、思ったより悪くなかった。
ベートは無駄口を叩かない。アリーゼは無駄口を叩く。二人の間では、無駄口がこちらから一方通行に流れる。ベートはそれを、最初は鬱陶しがった。今は、聞き流している。聞き流す、というのは、同じ部屋にいることを許す、ということだ。星屑の庭では、それで十分だった。
ザイロは、彼女に、一週間に一度くらい、軽口を仕掛けた。彼女は、毎回、半分くらい受け止めて、半分くらい外した。外した時のザイロの顔は、何かを面白がっている顔だった。ザイロが何かを面白がっている時、家は、たいてい、悪い方には進まない。
そして、レックスは――――少しずつ、自分の役目を、見直し始めていた。
***
その日、本館の二階の会議室に、五人が集まった。
主神アストレア様、レックス、ザイロ、パトーシェ、ベート。
アリーゼは呼んでいない。まだ、呼ぶ時ではなかった。
卓の上には何も置かれていない。黒い木箱は、もう別の保管場所に移してあった。今日の議題は、黒鍵ではない。
「集まってもらって悪い」
レックスは先に口を開いた。
「言うことが、二つある」
ザイロが椅子の背に深く沈んで、片足を組んだ。彼の『聞く時の姿勢』だ。パトーシェはいつも通り立ったままだった。ベートは腕を組んで壁に寄りかかっていた。アストレア様は卓の正面に座っておられた。
「一つ目」
レックスは続けた。
「家の組織を、変えたい」
「組織」
パトーシェが繰り返した。
「ああ。星屑の庭は、これまで、明確な団長を立てずに動いてきた。事実上、俺が決定を出してきた。これは、家が小さいうちは、回せた。けど――――」
レックスは一拍置いた。
「黒鍵を抱えて、フィンと机を並べて、これから家がもっと大きくなろうとしている今、団長不在のままでは回らなくなる」
「フィンの書面の話か」
ザイロが目を細めた。
「『正式な代理権を持つ団長級』、ってやつか」
「それも一つだ」
「他にも?」
「外と話す時、団長がいない、というのは、家にとって不利だ。フィンに限らない。ガネーシャでも、ヘファイストスでも、ヘルメスでも、相手は『団長』を要求する場面がいずれ来る」
パトーシェが黙って頷いた。ザイロが肩を竦めた。ベートが何も言わずにこちらを見た。
「で、もう一つの話だ」
レックスは卓に手を置いた。
「俺は、団長には、なれない」
『『『……』』』
部屋がしんとした。
ザイロが片足を組み直した。組み直して、また組んだ。彼の癖だった。何かを咀嚼している時の癖。
「お前、それでいいのか」
ザイロが最初に聞いた。
声が、軽口の温度ではなかった。
「いい」
「即答だな」
「即答するくらい、考えた」
「……」
「俺は、参謀だ。盤面を見て、組み立てて、決定を出す。その役目に、自分の手と頭を全部使いたい。団長の役目は、別の重さだ」
「重さ、というのは」
「家の顔になる、ということだ」
レックスは少しだけ声を低くした。
「家の中で決定を出すのと、家の外に向かって家を背負うのは、別の仕事だ。俺は、外に出る顔としては、たぶん向いていない」
「向いてる、向いてないの話か?」
「向いてない、ということを自覚している、という話だ」
レックスは続けた。
「俺が外に立つと、家の温度が下がる。盤面を見る顔は、外向きには冷たすぎる。家を背負う顔には、別の熱が要る」
「熱、ね」
ザイロは、ほんの少し、笑った。
「で、誰だ。お前が考えてるのは」
レックスは答えた。
「アリーゼだ」
ベートが初めて口を開いた。
「あいつ、入って一月だぞ」
「分かってる」
「家のことも、半分しか知らねぇ」
「分かってる」
「……」
ベートはそれ以上、何も言わなかった。
言わなかったが、首を振りもしなかった。ベートが首を振らない、ということは、彼の中で、選択肢として残っている、ということだ。
「パトーシェ」
レックスは彼女に向き直った。
「お前は、どう思う」
パトーシェはしばらく黙っていた。
黙ったままレックスの顔を見て、それから卓の上の、置かれていない一点を見ていた。
「アリーゼは、まだ未熟だ」
彼女がようやく口を開いた。
「Lv.1で、ステータスは全部Iで、家の動線も半分しか頭に入っていない」
「分かってる」
「だが――――」
パトーシェは続けた。
「家の顔として、あれ以上の人間を、私はすぐには思いつかん」
「……」
「あの娘は、立つ場所を知っている。たぶん、子どもの頃から、立つ場所だけは、ずっと見てきた人間だ。立ち方が、最初から、団長の立ち方をしている」
レックスは頷いた。
「俺も、そう思う」
「ただし」
パトーシェは付け加えた。
「Lv.1の団長を立てる、ということは、家全体でその娘を支える、ということだ。決定の重みを、団長一人に背負わせるな。決定の組み立ては、参謀のお前と、私たちで、分けて持つ」
「分かってる」
「分かっているなら、いい」
彼女はそれで頷いた。
「ザイロは」
レックスは最後にザイロに聞いた。
「俺か」
ザイロは果物を皮ごとかじりたそうな顔をしていたが、果物はなかった。代わりに自分の指を軽く噛んだ。
「俺は、お前が決めたなら、それでいい」
「それだけか」
「もう一つだけ、言わせろ」
「どうぞ」
「お前が参謀に下りる、っていうのは、降格じゃねぇぞ」
ザイロはレックスをまっすぐ見た。
「お前は、団長代理だった。今度から、参謀になる。それは、お前の役目を、お前が選び直した、ってことだ。降りる、じゃなくて、定まる、だ」
レックスは一拍、息を止めた。
止めて、それから頷いた。
「……ありがとう」
「礼を言うな。気持ち悪い」
「悪かった」
「悪かった、もやめろ」
ザイロが笑った。
部屋の温度が、少しだけ上がった。
アストレア様が初めて口を開かれた。
「みんな」
彼女の声はいつも通りだった。ただし、いつもより少しだけ、深いところから出ていた。
「あなたたちが、選んだのね」
「はい」
レックスが答えた。
「私は、止めません」
彼女は微笑んだ。
「ただ、一つだけ、言わせてちょうだい」
「どうぞ」
「アリーゼに団長を背負わせるなら、あなたたちが、彼女の足元を、誰よりも見ていなさい」
レックスたちは頷いた。
「あの子は、前へ出る子よ。前へ出る子は、足元を見ない癖がある。誰かが見ていてあげなければ、躓いた時に止まれない」
その言葉は軽くなかった。
軽くないが、悲しくもなかった。ただ、神が人の足元のことをちゃんと考えている、という言葉だった。
***
二つ目の議題に移った。
「組織の話を、もう一段、進めたい」
レックスは卓に、何も置いていない手で、何かを描く真似をした。
「家を、三つの部隊に分けたい」
「三つ」
パトーシェが繰り返した。
「ああ。今すぐ部隊長を決めるわけじゃない。今日決めたいのは、方向性だけだ」
レックスは続けた。
「一つ目。正面の部隊。槍と盾の役割。家の前で踏ん張って、敵を止める。守りと、初撃の受けが主任務だ」
「私の系統だな」
パトーシェが言った。
「お前を含めて考えてる」
「分かった」
「二つ目。裏の部隊。退路潰し、足止め、暗部対応、情報戦、外部折衝。表に出ない動きを主にする」
「俺の系統だな」
ザイロが言った。
「お前を含めて考えてる」
「了解」
「三つ目。機動の部隊。敵の懐に飛び込む、敵を追う、嗅ぎ取る。家から最も遠くまで届く牙だ」
「……俺か」
ベートが初めて嫌そうな顔をした。
「お前を含めて考えてる」
「俺は、部隊長の器じゃねぇぞ」
「分かってる」
「分かってて言うのか」
「分かってて言ってる」
レックスは彼の方をまっすぐ見た。
「ベート。お前は、星屑の庭で、一番、家から遠くまで届く脚を持ってる。それは、戦力の話だけじゃない。お前は、家から離れた時に、家を一番強く意識する人間だ。これは、機動部隊の頭に必要な性質だ」
「……」
「お前は、二度目は家を失わない、と決めてる狼だろう」
ベートの目が、わずかに揺れた。
揺れたが、表には何も出さなかった。壁に寄りかかったまま、舌打ちをした。
「……あとで文句、言うからな」
「いつでも聞く」
「ちっ」
ベートはそれで口を閉じた。
閉じたが、首を振らなかった。
「で、部隊名は」
ザイロが聞いた。
「決めてない」
「決めてないのか」
「考えはある。けど、今日は方向性だけ決めたい」
レックスは付け加えた。
「部隊名と、部隊長の正式決定は、もう少し先にする。アリーゼが団長として、家の中での自分の役割を見つけてから、改めて、四人で詰める」
「四人?」
「アリーゼ、お前、ベート、パトーシェ」
「俺は」
「お前は参謀として、四人の議論を組み立てる役目」
「ふん」
ザイロは笑った。
「降格じゃなくて、定まる、ってのは、こういうことか」
「そういうことだ」
パトーシェが頷いた。
「方向性は、了承する。ただし、一つだけ確認させろ」
「どうぞ」
「三部隊制にした場合、家の規模は、今のままでは小さすぎる」
「分かってる」
「人を、増やすのか」
「増やす」
レックスは答えた。
「アリーゼが団長になり、三部隊制を敷くなら、家はこれから、もう一段、増える。すぐには増やさない。けど、少しずつ増えていく前提で、組織を組む」
「了解した」
パトーシェはそれで議論を畳んだ。
アストレア様がまた微笑まれた。
「家族が、増えていくのね」
彼女の声は嬉しそうだった。
嬉しそうだったが、その奥に、別の色がほんの少しだけ混じっていた。レックスはその色のことを、すぐには口に出さなかった。たぶん、出すのは今日ではない。
***
会議のあと、レックスは中庭で、洗濯物を取り込む職員を手伝っているアリーゼを見つけた。
白い布を、きれいに畳んでいた。畳み方がぎこちなかった。ぎこちなかったが、職員は何も言わずに彼女に畳ませていた。
「アリーゼ」
「あ、レックスくん!」
彼女は顔を上げた。
「ちょっと、いいか」
「うん」
彼女は職員に小さく頭を下げて、布を置いて、こちらに来た。
レックスは中庭の隅の、洗濯場の影になる場所に彼女を連れて行った。
「話がある」
「うん」
「家の組織を、変えることになった」
「組織?」
「ああ」
レックスは続けた。
「家の中で、団長を立てる」
アリーゼが首を傾げた。
「団長って、レックスくんじゃないの?」
「俺は、団長じゃない」
「えっ」
「これまで、団長代理として動いてきただけだ。今日、家のみんなで話して、正式に、別の人間を団長に立てる、と決めた」
「……誰?」
レックスは答えた。
「お前だ」
アリーゼの動きが止まった。
止まったまま、何度か瞬きをした。それから口を開きかけて、閉じた。また開きかけて、閉じた。三回目に、ようやく声が出た。
「……えっ」
「お前だ」
「ええっ」
「お前だ」
「ええええっ」
「三回も繰り返すな」
「だって!」
アリーゼは慌てた。
「私、入ったばっかりじゃん!」
「分かってる」
「Lv.1だよ!」
「分かってる」
「ステータス全部Iだよ!」
「分かってる」
「家のこと、半分しか知らないよ!」
「それも分かってる」
レックスは淡々と彼女の言葉を受け続けた。
彼女はしばらく、口を開けたままレックスを見ていた。何かを言おうとして言葉が見つからない顔だった。昨日までの彼女の即答の癖が、今は全部止まっていた。
「……レックスくん」
ようやく彼女が声を出した。
「うん」
「私、向いてる?」
「向いてるかどうかは、分からない」
「……」
「ただ、お前以外に、家の顔を任せたい人間は、今、いない」
「他のみんなは」
「ザイロは、軽口で家の温度を作る人間だ。家の顔にすると、家が騒がしすぎる」
「うん」
「パトーシェは、規律で家を立てる人間だ。家の顔にすると、家が硬すぎる」
「うん」
「ベートは、家の最遠まで届く牙だ。家の顔にすると、家が外を向きすぎる」
「うん」
「俺は、盤面を見る人間だ。家の顔にすると、家の温度が下がる」
「……」
「お前は、家の真ん中で、家全体を、明るくできる」
レックスは彼女をまっすぐ見た。
「これは、家のための判断だ。お前を試すための判断じゃない」
アリーゼはしばらく何も言わなかった。
彼女の手が無意識に洗濯場の柱に置かれた。手が、少し震えていた。震えを、彼女は隠さなかった。隠さない、というのが、彼女の昔からの癖なのか、ここに来てから身につけた癖なのか、レックスにはまだ分からなかった。
「……怖い」
彼女がぽつりと言った。
「だろうな」
「みんな、私より、ずっと先輩で、ずっと強くて、ずっと家のこと知ってて」
「うん」
「その人たちの、団長になるって、言われても」
「うん」
「すぐには、はい、って言えない」
「言わなくていい」
レックスは答えた。
「即答する話じゃない。少し、考えろ」
「……どれくらい?」
「明日まで」
「明日……」
「明日の朝、食堂で、答えを聞きたい」
「……うん」
彼女は頷いた。頷いたが、まだ目の焦点が定まっていなかった。
「アリーゼ」
「うん」
「一つだけ、言わせてくれ」
「うん」
「お前が断っても、俺は、お前を恨まない。家も、お前を責めない。これは、家がお前に背負わせる話じゃない。俺が、お前に、選択肢を出しているだけだ」
「……」
「選ぶのは、お前だ」
彼女はしばらく黙っていた。
黙ったまま、洗濯場の白い布が夕方の風に揺れるのを見ていた。布の影が、彼女の顔の上をゆっくり動いた。影が動くたびに、彼女の表情が少しずつ変わっていった。怖い顔から、考える顔へ。考える顔から、決めようとしている顔へ。
でも、まだ決めてはいなかった。
「……一晩、考える」
彼女はようやく言った。
「ああ」
「ちゃんと、考える」
「ああ」
「逃げないから」
「分かってる」
レックスは頷いた。
彼女はもう一度、洗濯場の白い布を見た。それから深く息を吸って、吐いた。
「レックスくん」
「何だ」
「私、頑張ったら、団長になれるかな」
彼女は聞いた。昨日、家に立った時の即答の彼女ではなかった。今日の、考える顔の彼女だった。
レックスは答えた。
「頑張ったら、なれる、じゃない」
「……」
「なってから、頑張る人間が、団長だ」
彼女はその言葉を、しばらく口の中で繰り返していた。
繰り返してから、頷いた。
「……うん」
「明日、待ってる」
「うん」
レックスは彼女に背を向けて、本館の方へ歩き出した。
数歩進んだところで、彼女の声が後ろから飛んできた。
「レックスくん」
「何だ」
「ありがとう」
レックスは振り返らなかった。
振り返らずに、片手だけ軽く挙げた。
それで十分だった。
***
その夜、本館の二階の廊下で、レックスはアストレア様と会った。
彼女が一人で回廊の手すりに寄りかかって、中庭を見ていた。中庭にはもう人はいなかった。月だけが控えめに石畳を照らしていた。遠くの方、フィットネスの方角からは、深夜帯の住民スタッフが交代する時間の、わずかな足音が聞こえていた。星屑の庭の夜は、完全には眠らない。眠らないことで、街の眠りを少しだけ支えている。
「レックス」
「アストレア様」
「あの子に、伝えたのね」
「はい」
「すぐに返事は」
「もらっていません」
「そう」
彼女は月を見ていた。月はいつもより少しだけ欠けていた。
「あの子は、明日、引き受けるわ」
「分かりますか」
「ええ」
彼女は微笑んだ。
「あの子は、一晩ちゃんと迷う子よ。迷って、それから引き受ける。即答する子じゃないの。ちゃんと迷ってから立つ子なの」
「俺も、そう思いました」
「ふふ」
「だから、明日まで、と言いました」
「いい判断ね」
彼女は振り返ってレックスを見た。
「レックス」
「はい」
「あなたは、団長を降りたわね」
「はい」
「降りた、というより、自分の場所を選び直したのね」
レックスは頷いた。ザイロが午後に同じことを言っていた。神も同じ言葉を選ばれた。
「参謀の重さは、団長の重さと違うわ」
「分かっています」
「分かっているなら、いい。ただ、参謀は、家の決定の重さを誰よりも知ってしまう役目よ。あなたはこれから、団長より先に、家の傷の場所を見ることになる」
「……はい」
「それでも、選んだのね」
「はい」
「いい子ね」
彼女はそれでまた月を見た。
「家族が、増えていくのね」
今日、二度目のその言葉だった。
「嬉しいわ。それから――――少し、怖いわ」
彼女は初めて、自分の感情をそういう言葉で口にした。
「怖い、というのは」
「家族が増えるということは、失う名前も増えるということだから」
月が少しだけ雲に隠れた。
レックスは何も言わなかった。
言える言葉がなかった。彼女の言葉はたぶん、答えを求めていない言葉だった。神が、人の言葉で言ってしまった、本音だった。
しばらく、二人は黙って月を見ていた。
星屑の庭は、今日、組織の形を変えた。
明日、たぶん団長が立つ。団長が立てば、家はもう一度、家らしくなる。
ただ、家が家らしくなるほど、家を失うことが重くなる。
その重さを、神はたぶん、誰よりも知っている。
レックスはそれを見ないふりをした。
今日はまだ、そこまで考える日じゃなかった。
今日はただ、椅子の数え方が変わった日だ。
長机の端の、増えた椅子。
それは明日から、団長の椅子になる。家の真ん中ではなく、端にある団長の椅子。星屑の庭らしい配置だった。
それでよかった。
それで十分だった。
第23話 まだ椅子が一つ多い 完
レックス
団長代理を降り、参謀として定まった少年。アリーゼに団長を打診したあと、夜にアストレア様と月を見た。本人は『役目が定まった』だけだと思っているが、肩の重さは少し変わった気がしている。
アリーゼ
加入してひと月の新人ファミリアメンバー。椅子の音は四分の三まで小さくなった。団長就任を打診され、人生で初めて『一晩考えます』を口にした。
ザイロ
レックスに『降りる、じゃなくて、定まる、だ』と言った人物。気持ち悪い、と言いつつ、たぶん少しだけ嬉しかった。
パトーシェ
規律の槍。アリーゼの団長就任に賛成しつつ、家全体で支える条件を出した冷静な軍人ガチ勢。
ベート
文句を言いながら、首は振らなかった狼。あとで本当に文句を言うかは未定。
アストレア様
神が初めて『怖い』と口にした夜。それでも、家族が増えていくことを嬉しいと思っている。