【前回までのあらすじ】
アリーゼ・ローヴェルが星屑の庭に加入してから、ひと月以上が過ぎた。
レックスは団長代理を降り、参謀として定まった。
アリーゼは一晩迷い、団長を引き受けた。
家は三部隊制の方向性を決め、これから人を増やしていく前提で組織を組み直し始めた。
ただ、まだ手続きが、一つ残っていた。
アリーゼは──団長になったにも関わらず、まだ冒険者ですらなかった。
***
第24話 ギルドの机に、名前を書く
朝食の席で、レックスはアリーゼに告げた。
「今日、ギルドに行く」
「ぎるど?」
アリーゼが首を傾げた。
「お前、まだ冒険者登録してない」
「あ……」
『『『……』』』
長机の三人――――ザイロ、パトーシェ、ベート――――が、一斉にスプーンを止めた。
「待て」
ザイロが最初に口を開いた。
「こいつ、団長就任してから、まだ登録してねぇのか」
「してねぇ」
「マジか」
「マジだ」
「……」
ザイロが額に手を当てた。
「レックス、お前、なんでそれ気づかなかったんだ」
「俺も今朝、書類を整理してて気づいた」
「気づくの遅いだろ」
「アリーゼも気づかなかった」
アリーゼが両手を上げた。
「ファミリアに入る時、ファルナをもらう儀式はやったでしょ? あれで全部終わったと思ってた!」
「ファミリアに入るのと、冒険者になるのは、別の手続きだ」
パトーシェが冷静に補足した。
「ファミリアは、神との契約。冒険者は、ギルドとの契約。書類が違う」
「えーー、面倒くさいーー」
「面倒くさいで済ますな」
ベートが食べながら毒づいた。
「ギルドに登録してねぇやつは、ダンジョンに潜れねぇ。潜れねぇなら、冒険者じゃねぇ」
「うっ……」
「うっ、で済ますな」
アリーゼがしゅんとした。
「(……団長就任からひと月以上、ギルド未登録のまま家を率いていた団長か)」
レックスは内心で唸った。
書類上、星屑の庭の現状はかなりおかしなことになっていた。神との契約は済んでいるが、ギルドの記録上、アリーゼ・ローヴェルという冒険者は存在しない。にもかかわらず、彼女は団長として家の決定に参加している。
外部に知られたら、フィン・ディムナあたりが書面で何か言ってきそうな案件だった。
「(やばい、これ、フィンに知られたら、絶対皮肉言われる……)」
今日中に片付けるしかない。
「ベート」
「あ?」
「お前も、ついでに来い」
「俺? 俺は登録済みだろ」
「ヴィーザル・ファミリアの登録のままだろ」
「……」
「転属の手続きをしないと、書類上、お前は今もヴィーザル所属だ」
ベートが舌打ちをした。
「面倒くせぇ」
「面倒くさいで済ますな」
ザイロが先ほどのベートの言葉をそのまま返した。
「うるせぇ」
ベートは舌打ちで返したが、立ち上がる気配は見せた。
彼の中で「行く」と決めた瞬間だった。
***
ギルド本部は、街の中心にあった。
白い石造りの大きな建物。バベルの巨塔の足元に近い場所にある。冒険者が出入りしているのが見える。武器を背負った若者、傷だらけの中年、装備を売りに来る商人、そして手続きを待つ新人。
オラリオの冒険者業界の中心地。
「うわぁ、大きいーーー」
アリーゼが目を輝かせた。
「思ったよりずっと立派!」
「ここが冒険者の管理機関だ」
レックスが説明する。
「冒険者の登録、ダンジョンの探索記録、報酬の精算、討伐依頼の発注、すべてここで管理される」
「すごい……」
「ちなみに、入り口にあの銅像」
レックスはギルドの入り口にある巨大な銅像を指した。
「ウラノス。冥府の神。ギルドの最高責任者」
「神様、いっぱいいるんだね」
「いっぱいいる」
アリーゼは銅像を見上げて、何かを考えるような顔をした。
「お前が今日、書類に書く『アストレア様』も、その中の一柱だ」
「……うん」
「俺たちは、神の名前を書いた人間だ。書いた以上、書いた名前を、汚さない」
「……うん」
アリーゼの返事は、いつもの即答ではなかった。
ベートが先に歩き出している。彼は銅像には目もくれなかった。
「(あいつ、神に関しては、本当に興味なさそうだな)」
レックスは内心で観察した。
ベートが神を信じないわけではない。ただ、神に何かを期待しないだけだ。期待しない人間は、銅像を見上げない。
***
ギルド本部の中は、思ったより混んでいた。
受付の机がいくつも並んでいる。それぞれの机に職員が一人ずつ座り、冒険者の対応をしている。
待合の椅子で順番を待つ者、書類を書いている者、職員に質問している者。
「えっと、私たちはどこに……?」
「新規登録の受付はあっち」
レックスは奥の机を指した。
「ベートは別の受付。転属手続きは、別カウンターだ」
「あ、別なの?」
「ああ。お前は新規、ベートは更新。手続きが違う」
ベートが軽く手を上げた。
「俺、先終わるから、外で待ってる」
「了解」
「ベートさん、頑張って!」
「お前が頑張れ。お前の方が時間かかる」
ベートは更新カウンターの方へ歩いていった。
彼の歩き方は、いつもより少し、ゆっくりだった。
***
アリーゼの順番が来た。
受付の女性職員が、にこやかに対応してくれた。
「冒険者登録ですね。羊皮紙はこちらです。記入項目に沿って書いてください」
「はい!」
アリーゼが羊皮紙を受け取った。
机に座って、ペンを握る。
名前。
「アリーゼ・ローヴェル」
種族。
「ヒューマン」
年齢。
「十五歳」
所属ファミリア。
彼女のペンが、少しだけ止まった。
「アストレア・ファミリア」
書いた。
書いた瞬間、彼女は一拍、息を止めた。
「(……書いたな)」
レックスは内心で記録した。
神の名前を、書類に書く。これは、ファルナを受けた日とは別の重さの行為だった。ファルナの儀式は、神と眷属の間の私的な契約。書類の記入は、世界に対する公的な宣言。
次の項目。
ファミリア内での役職。
アリーゼのペンが、また止まった。
彼女がレックスを見た。
「私、団長って書いていいの?」
「書け」
「えっ」
「お前は団長だ。書け」
「……うん」
彼女はペンを動かした。
「団長」
書いた。
書いた後、ペンを置いた。
彼女は少しだけ、書いた文字を見ていた。
「(……)」
レックスは黙って見ていた。
書いてしまえば、もう降りられない。それを、彼女は今、書類の上で実感している。
ファルナをもらった日。団長を引き受けた日。今日、書類に書いた日。
三段階あった。
神との契約、家の中の役割、世界に対する宣言。
今日で、ようやく、彼女は「アストレア・ファミリア団長アリーゼ・ローヴェル」という肩書きを、世界に向かって名乗ったことになる。
「アリーゼ」
「うん」
「重いか」
「……うん」
「軽くは、ならない」
「うん」
「軽くならないことを、覚えておけ。慣れろとは言わない。覚えておけ、と言う」
「……うん」
彼女は頷いた。
頷いてから、もう一度、ペンを取った。
残りの項目を、彼女はゆっくり、ひとつずつ書いていった。
***
書類を提出すると、受付の女性は内容を確認し、書類に印を押した。
「これで登録完了です。冒険者証はこちらになります」
小さな金属の板が、机に置かれた。
冒険者証。
アリーゼはそれを、両手で受け取った。
「うわぁ……」
「これがあれば、ダンジョンに潜れます。落としたら再発行手続きが必要ですので、紛失にはお気をつけください」
「はい! ありがとうございます!」
受付の女性が微笑んだ。
「アストレア・ファミリアの方ですね。今、暗黒期で大変だと思いますが……頑張ってください」
その一言は、業務的なものではなかった。
受付の女性が、私的な気持ちで添えた言葉だった。
「ありがとうございます」
アリーゼは深く頭を下げた。
「頑張ります」
声が、いつもより小さかった。
***
ギルド本部の外で、ベートが壁に寄りかかって待っていた。
「終わったか」
「終わったー」
「長かったな」
「お前のは早かった」
「俺のは二枚で済む」
ベートが軽く首を回した。
彼が今日、書いた書類は二枚だった。
所属変更届と、署名。それだけ。
ヴィーザル・ファミリアからアストレア・ファミリアへ。
書類の上で、彼は「アストレア・ファミリアのベート・ローガ」になった。
ヴィーザルの名前が、書類から消えた日。
「(あいつ、何も言わなかったな)」
レックスは内心で観察した。
ベートは手続きが終わった後、何も言わずに外で待っていた。今も、何も言っていない。
言わない、ということが、彼にとっての言葉だった。
彼の中で何が起きているかは、たぶん本人も整理しきれていない。レックスは見て見ぬふりをした。
それが、今日のベートに対する敬意だった。
「帰るぞ」
「うん!」
「ああ」
三人で歩き出した。
ギルド本部から星屑の庭への帰り道。
ベートが少し前を歩いていた。
いつもより、ゆっくりだった。
ゆっくりだったが、立ち止まりはしなかった。
***
午後、アリーゼをアストレア・フィットネスに連れて行った。
今日が、筋トレ初日。
本来、加入してすぐにやっておくべきだったが、これまでは中庭での体作りと動線確認が優先だった。ようやく、機械相手の基礎強化を本格的に始める日。
担当はザイロ。
「初日は、軽くしか回さねぇ」
彼は最初に告げた。
「器具の使い方と、自分の限界の見極めだけだ」
「うん!」
「張り切るな。初日に張り切ったやつは、二日目に動けなくなる」
「……はい」
「返事だけは、よく通るな」
「えへへ」
「ベートと同じこと言ってるぞ」
「えっ、ベートさんも同じこと言うの?」
「初日のお前に言うことは、誰でも同じになるんだよ」
ザイロが肩を竦めた。
「(こいつ、新人が初日に何を言われるかを、完璧に把握してるな)」
レックスは内心で感心した。
ザイロは教官には向いていない、と本人は言うが、実際には新人扱いがかなり上手い。理由は単純で、彼自身が「新人だった時に何を言われて、何が嫌だったか」を覚えているからだった。
覚えている、ということは、教えられる、ということだ。
***
筋トレが始まった。
最初は、重りを引っ張る器具。
アリーゼが座って、両手で取っ手を握る。
「重さ、最小から始めろ」
「これで最小?」
「最小だ」
「……これでも、重いかも」
「だろうな」
ザイロが頷いた。
「お前、剣の握力はあるけど、引く力はまだ弱い。剣で振る筋肉と、引っ張る筋肉は、別のものだ」
「えー、別なの?」
「別だ」
アリーゼは重りを引っ張った。
十回、ゆっくり繰り返す。
十一回目で、彼女の腕が震え始めた。
「うわ、これ、思ったよりきつい……」
「これで本気出してねぇぞ」
「えええ」
「初日は軽く、と言っただろう」
「これで、軽いんだ……」
「初日の感覚を、覚えておけ。明日、お前の体の悲鳴で、自分の限界が分かる」
次の器具。
走り続ける器具。
「これは、足の持久力を作るやつだ」
「ダンジョンで走る用?」
「正解」
「ダンジョンって、走るんだ……」
「走る。逃げる時も、追う時も、走る。走れないやつは、死ぬ」
ザイロの声が、急に低くなった。
アリーゼが、それに気づいた。
彼女は何も言わずに、器具に乗った。
走り始める。
最初の五分は、平気だった。
次の五分で、息が上がり始めた。
十分を超えたあたりで、彼女は喘ぎ始めた。
「……む、り……」
「降りていいぞ」
「……まだ、いける……」
「無理するな。初日は軽く、と言っただろう」
「……あと、もうちょっと……」
「降りろ」
ザイロが、少しだけ強い声で言った。
アリーゼが、ようやく止まった。
器具を降りた瞬間、彼女は床に座り込んだ。
「(やべ、止まれない……)」
「水、飲め」
ザイロが水筒を渡した。
「初日に粘ろうとするのは、いい。けど、粘りすぎると、明日動けなくなる。それは、家にとって損だ」
「……うん」
「お前が動けない日は、家の戦力が一人減る日だ。団長が一日いない日と、新人が一日いない日は、家にとっての重さが違う」
「……」
「分かったら、降りろ。次に来る時に、また続きをやれ」
「……はい」
アリーゼは水を飲んだ。
飲みながら、彼女は何か考えるような顔をしていた。
「(こいつ、団長としての責任の重さを、ちょうど今、体で覚えてるな)」
レックスは内心で観察した。
書類で「団長」と書いた朝。
筋トレで「動けない日は家の戦力が一人減る」と言われた午後。
今日一日で、アリーゼは「団長としての自分の体の意味」を、二段階で受け取っていた。
***
筋トレを終え、フィットネスを出た。
夕方の光が、街を斜めに照らしていた。
アリーゼの足は、もう少し震えていた。
帰り道の階段で、彼女は手すりにつかまっていた。
「大丈夫か」
「……だいじょうぶ」
「嘘だな」
「……うん、嘘」
「素直でいい」
レックスは、彼女の歩幅に合わせて、少しだけゆっくり歩いた。
「(明日、たぶん筋肉痛で動けないな、こいつ)」
予測通りになることは、たぶん確定している。
明日の朝食、アリーゼが食堂に来るかどうか。来たとしても、椅子に座れるかどうか。
予測の幅は狭い。
「明日、起きられるかな……」
「起きられない」
「即答」
「経験則」
「経験あるの?」
「俺も、初日にやらかした」
「えっ」
「張り切るな、と言われたのに、張り切った。二日目、本当に動けなかった。三日目も動けなかった。四日目で、ようやく階段を降りられた」
「……うわぁ」
「だから言ってる。お前は、二日目に動けない程度で済ませろ。三日目までいくと、家の予定が狂う」
「……はい」
アリーゼは頷いた。
頷きながら、何かを考える顔をしていた。
「レックスくん」
「何だ」
「私、思ってたより、ずっと弱いね」
「最初は、誰でも弱い」
「うん。けど、思ってたより、弱い」
「……」
「団長なのに」
彼女の声が、初めて少しだけ沈んだ。
「団長なのに、こんなに弱くて、いいのかな」
レックスは、答えるのに、少し時間を取った。
答えるべきことは、頭の中にすぐあった。ただ、それを彼女に届く形にするには、言葉の選び方が要った。
「いい」
彼は答えた。
「団長は、強さで決まるんじゃない。役目で決まる。お前の役目は、家の真ん中で家を明るくすることだ。筋力じゃない」
「……うん」
「ただ、強くなることは、役目を長く続けるために要る。弱いままだと、お前は早く折れる。早く折れるな。長く折れるな」
「長く、折れるな……」
「お前が長くいてくれる方が、家のためになる。だから、強くなれ。少しずつでいい」
「……うん」
彼女は頷いた。
頷いた後で、少しだけ、笑った。
「レックスくん、たまに優しい」
「優しいんじゃない。家のための判断だ」
「ふふっ、そういうとこも、優しいよ」
「……」
「えへへ」
彼女は、また少しだけ歩く速度を取り戻した。
夕方の光が、彼女の赤い髪を、少しだけ橙色に変えていた。
***
家に戻ると、夕食の時間だった。
食堂の長机の端に、団長の椅子。
アリーゼがそこに座った。
椅子の音は、もう、立たなかった。
ひと月半で、椅子の音は完全に消えた。
「いただきます」
全員で同じ言葉を口にした。
今日、アリーゼは羊皮紙に「団長」と書いた。
その肩書きを持ったまま、彼女は同じ食堂の、同じ椅子に座っている。
書類の肩書きと、家での席は、別物だった。
別物だが、繋がっていた。
書類の肩書きは、家の席を支える。
家の席は、書類の肩書きを意味あるものにする。
レックスはそれを、見ていた。
見ながら、スープを一口飲んだ。
スープの味は、今日も同じだった。
同じ味だが、味の前の風景が、少しずつ変わっていく。
家とは、たぶん、そういう場所だった。
ベートが、いつもより少しだけ多く、パンを取った。
パトーシェがそれを見て、何も言わずにバターを取って渡した。
ベートも何も言わずに受け取った。
今日、ベートはヴィーザルの名前を、書類から消した。
消した日の夜に、彼が何を考えるかは、本人にしか分からない。
ただ、家のメンバーは、何も言わずに、彼の隣で食事をしていた。
それが、星屑の庭の流儀だった。
第24話 ギルドの机に、名前を書く 完
【あとがき】
アリーゼ
羊皮紙に「団長」と書いた団長。
書いた瞬間、少しだけ手が止まった。書いてしまえばもう降りられない。
筋トレ初日で全身が震えている。明日の筋肉痛は確定。
帰り道で「団長なのに、こんなに弱くていいのかな」と初めて沈んだ。
レックス
団長候補に「団長と書け」と命じた参謀。
ベートの背中の小さな変化に気づいたが、見て見ぬふりをした。
それが今日のベートへの敬意だった。
帰り道のアリーゼに、初めて少しだけ優しい言葉を口にした。本人は「家のための判断」だと言い張った。
ザイロ
筋トレ担当。初日のアリーゼに「張り切るな」と忠告。
言うことが新人ベートの時と同じになっていることに、本人も気づいている。
ちなみに彼自身は、新人時代に張り切りすぎて三日動けなかった経験者。
ベート
ヴィーザル・ファミリアの名前を書類から消した日。
手続きは短かった。書類二枚、署名、それで終わり。
歩く速度がいつもより少し、合わせる方向に変わっていた。
夕食でパンをいつもより多く取った。パトーシェが何も言わずにバターを渡した。
パトーシェ
ファルナとギルドの違いを冷静に説明する役。
ベートにバターを渡した手は、何も言わなかったが、確かに渡された。
受付の女性
ギルドの新規登録カウンターの職員。
業務的な対応の最後に、私的な気持ちで一言添えた。
「アストレア・ファミリアの方ですね。頑張ってください」。