本編の物語が終わった後の世界、ベル・クラネルが冒険者として走っている頃の話。
暗黒期に何があったのか。誰が戦い、誰が逝き、誰が残ったのか。その答えは本編の中にあります。
今日はまだ、名前を呼びません。
今日はただ、白い花と、風と、石だけがあります。
短いですが、どうぞ最後までお付き合いください。
アストレア・レコード 予告編 「白い花束」
アストレア・レコード 予告編 「白い花束」
悩みなさい。
今はそれでいい。
後悔も悲しみも、全てを手放さず、旅を続けなさい。
そしていつか、貴方の答えを聞かせてほしい。
天上で輝く、あの星屑のような──────正義の輝きを。
その声が、誰に向けられた言葉だったのか。
今はまだ、分からなくていい。
空が、いつもと違う気がした。
ベル・クラネルがそれに気づいたのは、豊穣の女主人へ向かう朝の路地を歩いていた時だった。
空の色が違うわけではない。人の数が少ないわけでもない。市場の声も、石畳を叩く足音も、いつも通りだ。
でも、何かが違った。
街全体が、少しだけ静かだった。賑やかさの中に、薄い膜が一枚重なっているような、そういう静けさだった。
「やあ!ベル君!」
声がした。
振り返ると、ヘルメスが立っていた。いつもの旅人帽、いつもの飄々とした笑顔。ただ一つだけ違うのは、その手に白い花束があったことだ。
白い、小さな花だった。華やかではない。ただ静かに、白かった。
「ヘルメス様」
「今日はね」ヘルメスは歩き始めた。「オラリオ全体で追悼をする日なんだよ。今の平和を残してくれた人たちに、感謝する日」
ベルはヘルメスの隣に並んだ。
「知らなかったです、僕」
「知らなくて当然だよ。大々的に告知するような話じゃないから。でも知っている人間は、みんな今日だって分かってる」
ヘルメスは正門の方へ歩いていた。どこかへ花を持って行くつもりらしかった。ベルはその隣を、何となく離れがたくて歩き続けた。
「暗黒期、って聞いたことある?」
「……少しだけ」
「そうか」ヘルメスは空を見上げながら言った。「今から七年くらい前の話だ。ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが黒龍の討伐に失敗して、都市から消えた。それまでオラリオの最強を支えていた二つの柱がなくなって、街はひどく揺れた」
石畳の上を、白い花びらが一枚流れていった。
「揺れた隙間に、入り込んでくるものがいた。闇派閥と呼ばれる連中だ。正義とは何か、神とは何か、都市とは何かを問いながら、実際には壊すことだけを目的にしていた連中が、街の裏側に巣を作り始めた」
「……それで」
「大抗争が起きた」ヘルメスは静かに言った。「派手な話じゃないよ。英雄譚みたいな話でもない。ただ、たくさんの人間が死んだ。冒険者も、市民も、ファミリアごと消えたところもあった」
ベルは黙って歩いた。
「その中に」ヘルメスは続けた。「アストレア・ファミリアというところがあった」
その名前を、ベルは知っていた。リューさんがいたところだ。
「知ってる顔をしてる」ヘルメスは少し笑った。「そうだね。リュー・リオンがいたファミリアだ。正義の女神アストレアの眷属たちで、暗黒期の中でも特に泥臭く、まっすぐに戦い続けた連中だった」
「今は」
「今は」ヘルメスは一度だけ間を置いた。「主神はいない。アストレアはずっと前にオラリオを離れた。眷属たちも散り散りになった。活動は続けているが、全盛期とは比べ物にならないくらい、小さくなってしまった」
白い花束を持つ手が、少しだけ力を込めた。
「でも」ヘルメスは続けた。「残った連中は、今も戦ってる」
「主神がいないのに、ですか」
「ああ」ヘルメスは静かに言った。「神がいなければステータスは更新されない。成長が止まる。それでも彼らは庭を守り続けた。主を失った星屑の庭で、今日もちゃんと動いている」
ベルは少し考えた。
「それは……どうして」
「さあね」ヘルメスは少し笑った。「でも、神がいなくても続ける理由を持っている人間は、本物だよ。誰かに言われたから動くんじゃない。自分が選んだから動く。それだけだ」
石畳の向こうに、街の喧騒がある。今日も施設は動いている。巡回は続いている。誰かが今日もオラリオの路地を歩いている。
神の名を冠した庭は、神なしで今日も立っていた。
その頃、18階層にリュー・リオンは一人でいた。
エルフの彼女がそこへ来るのは、今日だけだった。一年に一度、この日だけ、ダンジョンの18階層へ降りる。
セーフティポイントと呼ばれる、穏やかな光に満ちた広い空間。木々が生え、風が吹き、地上ではないのに地上の空気がある。
リューはその中に、小さな石を並べていた。
一つ、また一つ。
数を数えることはしなかった。数えると、その数が目の前に現れる。それに今日は耐えられない気がした。
花を置いた。白い花だった。ヘルメスが街で買うのと同じ、小さな白い花。
リューはしばらく、その前にいた。
「また来ました」
静かな声だった。答える者はいない。
「今年も、オラリオは平和です。あなたたちが残してくれた街で、たくさんの人間が今日も生きています」
風が吹いた。
リューは一つ一つの石を、順番に見た。それぞれに、顔がある。声がある。笑い方がある。
最初の石に手を置いた。
「貴方の声を、まだ覚えています」
次の石。
「貴方が笑う時の癖を、まだ覚えています」
また次。
「貴方が戦う時の背中を、まだ覚えています」
また次。
「貴方が最後に見せた顔を、私はまだ手放せていません」
また次。また次。また次。
石の数だけ、言葉があった。石の数だけ、声があった。
全部の石を見終わった時、リューはそのまま動けなかった。
草が濡れていた。膝が冷たかった。気にしなかった。
「私はまだ、答えを見つけていません。貴方が最後に問うた言葉の答えを、まだ持っていません」
石の並びの中に、一つだけ少し大きな石があった。リューはそこに手を置いた。
「でも」
声が、少しだけ揺れた。
「悩みながら、旅を続けています。貴方が言った通りに」
風がまた吹いた。
18階層の穏やかな光が、白い花びらを少しだけ揺らした。
リューはしばらくそこにいた。立ち上がる気になれなかった。
今日くらいは、ここにいてもいい。
そう思った。
地上では、ヘルメスがまだ歩いていた。
「ねえ、ベル君」
「はい」
「今の平和を当たり前だと思わないでほしいな」ヘルメスは笑いながら言った。いつもの軽い笑顔ではなかった。「誰かが、ものすごく重いものを持って走ったから、今日があるんだ。その誰かの名前を、オラリオのほとんどの人間は知らない」
「……知ることはできますか」
「少しずつね」ヘルメスは花束を少し高く持ち上げた。「今日みたいな日に、こうやって歩いていると、少しずつ分かってくる」
白い花が、朝の光の中にあった。
「感謝してる。本当に」
ヘルメスはそれ以上何も言わなかった。
ベルも何も言わなかった。
二人は並んで、静かな街を歩いた。
悩みなさい。
今はそれでいい。
後悔も悲しみも、全てを手放さず、旅を続けなさい。
そしていつか、貴方の答えを聞かせてほしい。
天上で輝く、あの星屑のような──────正義の輝きを。
その言葉が誰に向けられたものだったのか。
その答えを持っている者が、今日この街のどこかにいる。
まだ答えを見つけていない者も、今日この街のどこかにいる。
神なしで立つ庭が、今日もオラリオのどこかにある。
白い花が、風に揺れた。
アストレア・レコード 予告編 「白い花束」 了
アストレア・レコード 予告編 「白い花束」をお読みいただきありがとうございます。
この話は本編『悔いなき選択』アストレア・レコードの予告編として書きました。本編のネタバレは一切含んでいません。誰が生き残り、誰が逝ったのかは、今日の時点では伏せています。
リューが18階層で石に語りかける場面、名前は一つも出していません。でも石の数だけ、顔があります。本編を読んでいただければ、その石の一つ一つに誰がいるのか、少しずつ分かってきます。
星屑の庭が神なしで今も立っていること。路地の向こうに白い花を持って歩く男がいること。それだけは今日、書いておきたかったことです。
アストレア様のセリフが誰に向けられたものなのかも、本編を読んでいただければ分かります。
アストレア・レコードまで楽しみにお待ちください!またCHAPTER3 沈黙の鍛牙編も楽しんで読んでくださると幸いです。