悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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 これは、本編『悔いなき選択』のアストレア・レコード 予告編です。

 本編の物語が終わった後の世界、ベル・クラネルが冒険者として走っている頃の話。

 暗黒期に何があったのか。誰が戦い、誰が逝き、誰が残ったのか。その答えは本編の中にあります。

 今日はまだ、名前を呼びません。
 今日はただ、白い花と、風と、石だけがあります。

 短いですが、どうぞ最後までお付き合いください。


CHAPTER5 アストレア・レコード
アストレア・レコード 予告編 「白い花束」


アストレア・レコード 予告編 「白い花束」

 

 

 悩みなさい。

 今はそれでいい。

 

 後悔も悲しみも、全てを手放さず、旅を続けなさい。

 そしていつか、貴方の答えを聞かせてほしい。

 

 天上で輝く、あの星屑のような──────正義の輝きを。

 

 その声が、誰に向けられた言葉だったのか。

 今はまだ、分からなくていい。

 

 

 空が、いつもと違う気がした。

 

 ベル・クラネルがそれに気づいたのは、豊穣の女主人へ向かう朝の路地を歩いていた時だった。

 

 空の色が違うわけではない。人の数が少ないわけでもない。市場の声も、石畳を叩く足音も、いつも通りだ。

 

 でも、何かが違った。

 

 街全体が、少しだけ静かだった。賑やかさの中に、薄い膜が一枚重なっているような、そういう静けさだった。

 

「やあ!ベル君!」

 

 声がした。

 

 振り返ると、ヘルメスが立っていた。いつもの旅人帽、いつもの飄々とした笑顔。ただ一つだけ違うのは、その手に白い花束があったことだ。

 

 白い、小さな花だった。華やかではない。ただ静かに、白かった。

 

「ヘルメス様」

 

「今日はね」ヘルメスは歩き始めた。「オラリオ全体で追悼をする日なんだよ。今の平和を残してくれた人たちに、感謝する日」

 

 ベルはヘルメスの隣に並んだ。

 

「知らなかったです、僕」

 

「知らなくて当然だよ。大々的に告知するような話じゃないから。でも知っている人間は、みんな今日だって分かってる」

 

 ヘルメスは正門の方へ歩いていた。どこかへ花を持って行くつもりらしかった。ベルはその隣を、何となく離れがたくて歩き続けた。

 

「暗黒期、って聞いたことある?」

 

「……少しだけ」

 

「そうか」ヘルメスは空を見上げながら言った。「今から七年くらい前の話だ。ゼウス・ファミリアとヘラ・ファミリアが黒龍の討伐に失敗して、都市から消えた。それまでオラリオの最強を支えていた二つの柱がなくなって、街はひどく揺れた」

 

 石畳の上を、白い花びらが一枚流れていった。

 

「揺れた隙間に、入り込んでくるものがいた。闇派閥と呼ばれる連中だ。正義とは何か、神とは何か、都市とは何かを問いながら、実際には壊すことだけを目的にしていた連中が、街の裏側に巣を作り始めた」

 

「……それで」

 

「大抗争が起きた」ヘルメスは静かに言った。「派手な話じゃないよ。英雄譚みたいな話でもない。ただ、たくさんの人間が死んだ。冒険者も、市民も、ファミリアごと消えたところもあった」

 

 ベルは黙って歩いた。

 

「その中に」ヘルメスは続けた。「アストレア・ファミリアというところがあった」

 

 その名前を、ベルは知っていた。リューさんがいたところだ。

 

「知ってる顔をしてる」ヘルメスは少し笑った。「そうだね。リュー・リオンがいたファミリアだ。正義の女神アストレアの眷属たちで、暗黒期の中でも特に泥臭く、まっすぐに戦い続けた連中だった」

 

「今は」

 

「今は」ヘルメスは一度だけ間を置いた。「主神はいない。アストレアはずっと前にオラリオを離れた。眷属たちも散り散りになった。活動は続けているが、全盛期とは比べ物にならないくらい、小さくなってしまった」

 

 白い花束を持つ手が、少しだけ力を込めた。

 

「でも」ヘルメスは続けた。「残った連中は、今も戦ってる」

 

「主神がいないのに、ですか」

 

「ああ」ヘルメスは静かに言った。「神がいなければステータスは更新されない。成長が止まる。それでも彼らは庭を守り続けた。主を失った星屑の庭で、今日もちゃんと動いている」

 

 ベルは少し考えた。

 

「それは……どうして」

 

「さあね」ヘルメスは少し笑った。「でも、神がいなくても続ける理由を持っている人間は、本物だよ。誰かに言われたから動くんじゃない。自分が選んだから動く。それだけだ」

 

 石畳の向こうに、街の喧騒がある。今日も施設は動いている。巡回は続いている。誰かが今日もオラリオの路地を歩いている。

 

 神の名を冠した庭は、神なしで今日も立っていた。

 

 

 その頃、18階層にリュー・リオンは一人でいた。

 

 エルフの彼女がそこへ来るのは、今日だけだった。一年に一度、この日だけ、ダンジョンの18階層へ降りる。

 

 セーフティポイントと呼ばれる、穏やかな光に満ちた広い空間。木々が生え、風が吹き、地上ではないのに地上の空気がある。

 

 リューはその中に、小さな石を並べていた。

 

 一つ、また一つ。

 

 数を数えることはしなかった。数えると、その数が目の前に現れる。それに今日は耐えられない気がした。

 

 花を置いた。白い花だった。ヘルメスが街で買うのと同じ、小さな白い花。

 

 リューはしばらく、その前にいた。

 

「また来ました」

 

 静かな声だった。答える者はいない。

 

「今年も、オラリオは平和です。あなたたちが残してくれた街で、たくさんの人間が今日も生きています」

 

 風が吹いた。

 

 リューは一つ一つの石を、順番に見た。それぞれに、顔がある。声がある。笑い方がある。

 

 最初の石に手を置いた。

 

「貴方の声を、まだ覚えています」

 

 次の石。

 

「貴方が笑う時の癖を、まだ覚えています」

 

 また次。

 

「貴方が戦う時の背中を、まだ覚えています」

 

 また次。

 

「貴方が最後に見せた顔を、私はまだ手放せていません」

 

 また次。また次。また次。

 

 石の数だけ、言葉があった。石の数だけ、声があった。

 

 全部の石を見終わった時、リューはそのまま動けなかった。

 

 草が濡れていた。膝が冷たかった。気にしなかった。

 

「私はまだ、答えを見つけていません。貴方が最後に問うた言葉の答えを、まだ持っていません」

 

 石の並びの中に、一つだけ少し大きな石があった。リューはそこに手を置いた。

 

「でも」

 

 声が、少しだけ揺れた。

 

「悩みながら、旅を続けています。貴方が言った通りに」

 

 風がまた吹いた。

 

 18階層の穏やかな光が、白い花びらを少しだけ揺らした。

 

 リューはしばらくそこにいた。立ち上がる気になれなかった。

 

 今日くらいは、ここにいてもいい。

 

 そう思った。

 

 

 地上では、ヘルメスがまだ歩いていた。

 

「ねえ、ベル君」

 

「はい」

 

「今の平和を当たり前だと思わないでほしいな」ヘルメスは笑いながら言った。いつもの軽い笑顔ではなかった。「誰かが、ものすごく重いものを持って走ったから、今日があるんだ。その誰かの名前を、オラリオのほとんどの人間は知らない」

 

「……知ることはできますか」

 

「少しずつね」ヘルメスは花束を少し高く持ち上げた。「今日みたいな日に、こうやって歩いていると、少しずつ分かってくる」

 

 白い花が、朝の光の中にあった。

 

「感謝してる。本当に」

 

 ヘルメスはそれ以上何も言わなかった。

 

 ベルも何も言わなかった。

 

 二人は並んで、静かな街を歩いた。

 

 

 悩みなさい。

 今はそれでいい。

 

 後悔も悲しみも、全てを手放さず、旅を続けなさい。

 そしていつか、貴方の答えを聞かせてほしい。

 

 天上で輝く、あの星屑のような──────正義の輝きを。

 

 その言葉が誰に向けられたものだったのか。

 その答えを持っている者が、今日この街のどこかにいる。

 

 まだ答えを見つけていない者も、今日この街のどこかにいる。

 

 神なしで立つ庭が、今日もオラリオのどこかにある。

 

 白い花が、風に揺れた。

 

 

アストレア・レコード 予告編 「白い花束」 了




アストレア・レコード 予告編 「白い花束」をお読みいただきありがとうございます。

 この話は本編『悔いなき選択』アストレア・レコードの予告編として書きました。本編のネタバレは一切含んでいません。誰が生き残り、誰が逝ったのかは、今日の時点では伏せています。

 リューが18階層で石に語りかける場面、名前は一つも出していません。でも石の数だけ、顔があります。本編を読んでいただければ、その石の一つ一つに誰がいるのか、少しずつ分かってきます。

 星屑の庭が神なしで今も立っていること。路地の向こうに白い花を持って歩く男がいること。それだけは今日、書いておきたかったことです。

 アストレア様のセリフが誰に向けられたものなのかも、本編を読んでいただければ分かります。

 アストレア・レコードまで楽しみにお待ちください!またCHAPTER3 沈黙の鍛牙編も楽しんで読んでくださると幸いです。
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