※キャラ設定などは極力原作準拠します。
※投稿前に十分に確認はしますが、設定等が誤っている可能性があります。文の質・内容の向上のために積極的に意見・感想受け付けておりますので、お気軽にお書きください。
第1話 星屑の庭に落ちた影
第1話 星屑の庭に落ちた影
その夜、俺は、知らない空の下にいた。
石畳は冷えていた。
夜風は妙に乾いていて、鼻の奥へ入る匂いまで知らない。
耳に入る喧騒も、遠くの灯りも、人の歩幅も、全部が少しずつ噛み合わない。
異国、なんて言葉では足りなかった。
そもそも、ここは俺のいた世界じゃない。
それだけは分かっていた。
理解したくて、何度か呼吸を整えた。
落ち着け、と自分へ言い聞かせた。
だが、落ち着いたところで現実は変わらない。
道端の水溜まりへ映る自分の顔も、夜空の形も、そこを歩く人間の服も武装も、全部があまりに“違う”。
俺は前世で、筋トレが趣味の、考えることだけはやたら好きな大学生だった。
身長は183。
体重78。
骨格筋率37.4%。
数字だけ見れば悪くない。
体を作るのは嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。
鍛えれば変わる。
積めば返ってくる。
その単純さが好きだった。
考えるのも好きだった。
何が最適か。
どこに無駄があるか。
どうすれば崩れずに前へ進めるか。
人の会話でも、街の仕組みでも、遊びでも、気づけば盤面みたいに見ていた。
そんな、どこにでもいそうで少し面倒な大学生が、どういう理屈か、この世界へ落ちていた。
ただし、記憶は綺麗に残っていない。
前世の自分がどう死んだのか。
この世界へ来る直前に何を見たのか。
そもそも何がきっかけだったのか。
そこはひどく曖昧だ。
断片だけがある。
筋肉痛の感覚。
鉄の匂い。
スマホの白い画面。
誰かの声。
考え続ける癖。
そして何より、
動かなければ死ぬ
という、ひどく生々しい感覚だけが残っていた。
もう一つ、消えていないものがある。
この世界についての、断片的な知識だ。
神。
恩恵。
ファミリア。
迷宮都市オラリオ。
イヴィルス。
暗黒期。
アストレア・ファミリア。
断片的だ。
抜けも多い。
順番も曖昧だ。
誰がいつどうなるのか、細部までは繋がらない。
でも、嫌な予感だけは残っている。
この街は、今、ひどく危うい。
そして、アストレア・ファミリアは、まだ始まったばかりのはずだ。
なら。
行く場所は一つしかなかった。
*
星屑の庭へ辿り着いた時、足はかなり重くなっていた。
ここに来るまでに何度も立ち止まった。
道が合っているか確信もなかった。
記憶は断片的だし、街の構造も当然前世の地図みたいには頭へ入っていない。
それでも、探した。
何となく覚えている。
アストレア。
星屑の庭。
まだ誰もいないはずの、小さな始まり。
見つけた時、正直ほっとした。
大きな屋敷じゃない。
豪華でもない。
だが、静かだった。
街の喧騒からほんの少しだけ距離を置いたような、息の浅い夜の中にある庭。
見上げれば星がよく見える。
ここが、星屑の庭。
まだ何も始まっていない場所。
いや、正確には、これから始まってしまう場所。
門を越えた記憶がある。
どうやって通ったかは曖昧だ。
疲れていた。
頭の中では何かが鳴り続けていた。
警戒しろ、と。
でも立ち止まるな、と。
気づけば、庭のベンチへ腰を下ろしていた。
誰もいないと思った。
だから、ほんの少しだけ呼吸を緩めた。
「ここは、私の庭なのだけれど」
声が落ちてきた。
体が先に反応した。
立つ。
振り向く。
呼吸が一瞬だけ止まる。
そこにいたのは、一柱の女神だった。
胡桃色の長い髪。
藍色の瞳。
純白の衣。
夜の静けさと月光を、そのまま人の形にしたみたいな姿。
美しい。
だが、それだけじゃない。
優しく見えるのに、見透かしてくる。
柔らかいのに、曖昧じゃない。
アストレア。
頭の中の断片が、その名だけをはっきり押し出した。
俺は反射的に立ち上がり、頭を下げた。
「……すみません。勝手に入ってしまって」
「いいのよ」
声は穏やかだった。
「迷い込んでしまったのなら、責めることではないもの」
そこで終わらず、少しだけ首を傾げる。
「でも、ずいぶん疲れた顔をしているのね」
俺は顔を上げた。
視線が合う。
藍色の瞳は静かだった。
だが、その静けさの奥に、確かな観察があった。
「あなた、人間ね」
「はい」
「けれど、ただ迷い込んだだけの人には見えないわ」
その言葉に、少しだけ息が詰まる。
誤魔化せない。
この人は、たぶん最初からそこを見る。
「名前を聞いてもいいかしら」
「レックスです」
「レックス」
彼女はその名を一度だけ繰り返した。
「いい名前ね」
そう言って、アストレアは俺の隣へ腰を下ろした。
距離は近い。
だが、遠い。
手を伸ばせば届く。
でも、その距離は物理だけじゃない。
神と人のあいだには、どうしても埋まらない何かがある。
それを最初に感じた。
アストレアは夜空を見上げたまま訊く。
「どうしてオラリオへ来たの?」
それから、少しだけ声を落とす。
「この街は、今、とても危ないわ」
「知ってます」
言ったあとで、自分でも少し速かったと思う。
だが引っ込める気にはなれなかった。
「……でも、他に行く場所がなかった」
半分は本当だ。
もう半分は、言わない。
この街がこの先どうなるのか。
どんな死が積み上がるのか。
アストレア・ファミリアがどんな終わりへ近づくのか。
知っている。
いや、知っている“気がする”。
そこが厄介だった。
記憶は曖昧だ。
細部は抜けている。
都合よく全部は思い出せない。
けれど、危険な方向だけは妙に濃く残っている。
この人の前でそれを言葉にしたら、全部が変になる気がした。
だから言わない。
アストレアは問い詰めなかった。
ただ、静かに息を吐いた。
「正義って、何だと思う?」
唐突だった。
でも、不思議と驚きはしなかった。
この人なら、初対面でもこういう問いを置く。
少し考える。
考えるが、綺麗な答えは出ない。
「……分かりません」
結局、そのまま言った。
アストレアは沈黙した。
責める沈黙じゃない。
言葉が沈むのを待つ沈黙だった。
「そう」
やがて小さく頷く。
「私も、まだ分からないの」
意外だった。
神なら、もっと迷いなく言い切るのかと思っていた。
「だから、探しているのよ」
藍色の瞳が、少しだけ遠くを見る。
「この街で。血と混沌の中で。それでも“正しい”と思える何かを」
声は優しい。
だが、悲しみも混じっていた。
見てきたのだろう。
この街の暗さも、死も、壊れ方も。
「眷族が欲しいと思っているの」
アストレアが言う。
「一緒に、それを探してくれる子がいたらいいと、ずっと思っていたわ」
俺は黙った。
たぶん、この人も分からないまま立っている。
それでも、立つことをやめない。
そこが、神らしいのかもしれない。
「あなたは、どう?」
アストレアが俺を見る。
「私と一緒に、探してみる気はあるかしら」
待っている目だった。
急かさない。
でも、逃がしもしない。
届かない距離。
けれど、そばにいることはできる。
俺はゆっくり頷いた。
「……はい」
それから、少しだけ言葉を足す。
「俺も、分からないから」
言いながら、自分でもうまくまとまっていないのが分かった。
でも、今はそれでいい気がした。
「分からないままでも、動いてみたい」
アストレアの表情が、ふっとやわらいだ。
「そう」
嬉しそうだった。
派手じゃない。
でも、確かに喜んでいた。
「では、決まりね」
彼女は立ち上がり、俺へ手を差し出した。
「レックス。あなたを、私の眷族に迎えるわ」
その手を見る。
白くて細い。
けれど、弱くはない手だと思った。
少しだけためらってから、握る。
温かい。
神の温もり、なんて大仰な言い方をしたくなるくらい、その温かさは現実だった。
アストレアが少しだけ目を細める。
「少し驚いたわ」
「何がです」
「思ったより、ためらわないのね」
「握らないと、眷族になれないでしょう」
一瞬だけ、アストレアが目を丸くする。
それから、小さく笑った。
「そうね」
その笑いは、どこか少しだけ照れて見えた。
*
儀式は静かに行われた。
本館の奥。
余計なものの少ない部屋。
明かりはやわらかく、空気は澄んでいる。
上着を脱ぐ。
背を向ける。
神の気配が近づく。
「少し痛むかもしれないわ」
「大丈夫です」
答えた直後、背中へ針みたいな痛みが走った。
息が詰まる。
だが一瞬だ。
熱が流れ込む。
名前を刻まれる感覚。
皮膚じゃない。もっと内側。
骨の近くへ何かを置かれるみたいな、不思議な感覚だった。
やがて、アストレアの声が降る。
「……終わったわ」
俺はゆっくり息を吐いた。
振り向くと、アストレアは紙へ視線を落としている。
そこに、俺の最初の恩恵が映っていた。
「見てみる?」
「はい」
受け取る。
【名前:レックス】
【Lv.1】
【スキル:一厘直観】
たった一つ。
でも、その一つが重い。
アストレアが静かに言う。
「不思議なスキルね」
「そうですか」
「ええ。不利な状況に置かれた時ほど、判断が研ぎ澄まされる……」
俺を見る。
「きっと、あなたらしいのね」
その言葉に、少しだけ息が止まる。
自分でもまだ分からない。
それでもこの人は、“らしい”と言う。
決めつけではない。
でも、受け取ってくれる言い方だった。
「これから、よろしくお願いします」
俺は姿勢を正して言った。
「ええ。こちらこそ、レックス」
彼女は俺の名をやわらかく呼ぶ。
それだけのことが、妙に胸に残った。
*
儀式のあと、アストレアは中庭を案内してくれた。
本当に小さな庭だった。
だが、空が見える。
風が抜ける。
星もよく見える。
「ここが、星屑の庭」
アストレアが言う。
「まだ誰もいない、小さな始まりの場所よ」
その言い方に、少しだけ現実が増す。
「俺は」
自分でも確認するみたいに訊いた。
「ここに住むんですか」
「ええ」
アストレアは頷く。
「あなたは、最初の眷族だもの」
その一言が重かった。
最初。
まだ誰もいない。
ここから始まる。
それはつまり、まだ何も守れていないということでもある。
「部屋は空いているわ。整ったものではないけれど、今夜を越えるには十分なはず」
「……助かります」
「こちらこそ」
アストレアは静かに言った。
「来てくれて、嬉しいわ」
その言葉を、俺はすぐに返せなかった。
前世の俺は、誰かの期待へこんな真正面から触れたことが、あまりなかった気がする。
筋トレは好きだった。
考えるのも好きだった。
でも、誰かに“来てくれて嬉しい”なんて言われると、妙に困る。
アストレアは、そんな俺の反応も急かさなかった。
「これから、時々ここへいらっしゃい」
「ここへ?」
「ええ」
少しだけ笑う。
「星を見ながら話すのも、悪くないもの」
俺は頷いた。
「はい」
*
まだ何も始まっていない。
ファミリアは小さい。
というより、まだ俺しかいない。
星屑の庭は静かで、仲間もいない。
ここにあるのは、女神と、一人分の恩恵と、曖昧な記憶だけだ。
でも、その曖昧さごと進むしかない。
全部が分かっているわけじゃない。
むしろ、分からないことの方が多い。
前世のことも、この世界のことも、自分がどこまで知っていて、どこから知らないのかすら曖昧だ。
それでも一つだけははっきりしていた。
動かなければ、死ぬ。
たぶん、この街では本当にそうなる。
だから止まれない。
中庭で、アストレアと並んで夜空を見上げる。
神と人間。
距離は簡単には埋まらない。
たぶん永遠に、完全には届かない。
でも、そばにいることはできる。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
星屑の庭に、二人分の場所ができた夜だった。
第1話 星屑の庭に落ちた影 了