第2話 動く前に、知ること
翌朝、目が覚めた時、天井は木だった。
知らない天井。
だが、昨日までの路地裏よりはずっとましだ。
小さな部屋だった。
ベッドが一つ。
机が一つ。
窓が一つ。
それだけしかない。
けれど、壁がある。
屋根がある。
朝まで誰かに蹴られず、荷を盗まれず、寒さで何度も目を覚まさずに済んだ。
それだけで十分すぎた。
体を起こす。
背中が少しだけ熱い。
昨夜刻まれた恩恵の痕だ。
手を回して触れる。
神聖文字の輪郭は自分では見えない。
だが、そこに“ある”ことだけははっきり分かる。
触れても痛みはない。
けれど、ただの傷跡じゃない。
自分がもう、昨日までのただの流れ者ではないという感覚だけが、そこに残っていた。
レックス。
アストレア・ファミリア最初の眷族。
肩書きにすると大したことはない。
いや、むしろ重い。
最初ということは、まだ俺しかいないということだ。
失敗も、空振りも、今は全部そのままこの小さな始まりへ返る。
窓の外を見る。
朝の星屑の庭は静かだった。
夜より少し輪郭が柔らかい。
だが、その静けさは“何もない”静けさじゃない。
始まりの前の、薄い緊張があった。
*
朝食を終えた頃、アストレア様が部屋を訪ねてきた。
純白の衣。
胡桃色の髪。
藍色の瞳。
夜に見た時と同じ人のはずなのに、朝の光の下だと少し印象が違う。
夜は静かな女神だった。
朝の彼女は、柔らかいのに、どこか仕事へ向かう顔をしていた。
「おはよう、レックス」
「おはようございます」
アストレア様は小さく頷く。
「よく眠れたかしら」
「はい。かなり」
「それならよかった」
言ってから、彼女は小さな袋を差し出した。
受け取る。
ずしりと重い。
中で硬貨が触れ合う音がした。
「当面の生活費よ」
「……こんなに」
「多くはないわ。でも、何も持たずに歩かせるわけにもいかないもの」
俺は袋を見下ろした。
神に金を渡される、という状況にまだ慣れない。
恩恵だけじゃない。
衣食住まで含めて、ここから先はこの人が背負うことになる。
「今日からギルドへの登録も進めたいのだけれど、その前に一つ」
アストレア様は穏やかに言った。
「武器を用意しなさい」
「自分で、ですか」
「ええ」
迷いなく頷く。
「冒険者は、自分の武器を自分で選ぶものよ。誰かに与えられたものより、自分で選んだものの方が、ずっと手に馴染むわ」
その言い方が妙にしっくり来た。
前世の俺も、器具や重さは結局、自分の感覚で選ぶ方だった。
数字や理屈は大事だ。
でも最後に握るのは自分の手だ。
「市場は東の通りよ。初心者向けの武器屋が何軒かあるわ」
アストレア様はそこで少しだけ目を細めた。
「ただ、気をつけて。暗黒期のオラリオは、昼間でも油断できない」
「……はい」
昼でも油断できない。
その一言が、この街の空気をよく表していた。
*
市場は賑やかだった。
食料。
布。
薬。
魔道具。
武器。
声が飛び交い、荷車が通り、客引きが笑う。
表面だけ見れば、よくある活気ある街だ。
だが、その賑やかさの下に、ひどく嫌な匂いが混じっている気がした。
笑顔が浅い。
目が忙しい。
誰もが少しだけ周囲を見すぎている。
路地の入口に立つ男の数。
店先の会話が、不自然に途切れる瞬間。
鎧姿の冒険者が、無意識に背中側を気にしている癖。
暗黒期。
その言葉が、断片的な前世知識と現実の風景を無理やり繋げる。
イヴィルス。
闇派閥。
街のどこかに潜んでいる敵。
そして、表で平然と回っている日常。
俺は東の通りへ入った。
初心者向けの武器屋は、思ったよりすぐに見つかった。
小さい店だ。
看板は少し傾いている。
だが、店先へ並んだ武器はきちんと整えられていた。
安っぽいが、雑ではない。
それだけで十分だった。
店主が俺を見た。
「初めてか」
「そうです」
「Lv.1か」
俺の背中を見たわけじゃない。
たぶん雰囲気で分かるのだろう。
慣れている顔だった。
「どんな戦い方をしたい」
少しだけ考えた。
前世知識では、初心者は短剣から始めることが多い。
軽い。
扱いやすい。
リーチは短い。
だが、取り回しはいい。
今の俺に必要なのは、格好よさじゃない。
まず振れること、持てること、壊れずに覚えられることだ。
「短剣を」
「こっちだ」
店主が何本か並べる。
一本ずつ持った。
重さ。
握り。
刃の長さ。
バランス。
頭で選ぶつもりだった。
だが最後は、体で決まった。
一本だけ、妙にしっくり来る。
刃渡りは短い。
高級品でもない。
むしろ安物だ。
でも、重すぎない。
軽すぎない。
腰に差した時の位置も想像しやすい。
「これをください」
店主は少しだけ目を細めた。
「目は悪くないな。安物だが、初心者には十分だ」
代金を払う。
袋の中身が目に見えて減る。
その減り方が、妙に現実だった。
短剣を腰へ下げる。
自分で選んだ。
それだけで、ほんの少しだけ前へ進んだ気がした。
*
星屑の庭へ戻ると、アストレア様が中庭で待っていた。
見られていたのかと思ったが、そういう感じではない。
たぶんただ、帰るのを待っていたのだろう。
「買えたのね」
「はい」
短剣を見せる。
アストレア様はそれを受け取り、ほんの数度、手の中で重さを確かめた。
「悪くない選択だわ」
返される。
「少し時間があるなら、試してみなさい」
「今からですか」
「今からよ」
アストレア様は少しだけ首を傾げる。
「待つ理由があるの?」
確かに、その通りだった。
俺は少しだけ笑った。
「ないですね」
短剣を抜く。
構えた。
だが、自分で構えながら分かる。
知らない。
前世知識で、こういうものだろうというイメージはある。
けれど、体は戦い方を知らない。
筋トレはしていた。
考えるのも好きだった。
だが、人へ刃を向ける体の使い方なんて、当然知らない。
ぎこちなく、剣先を前に向ける。
「そのまま、一度動いてみて」
アストレア様が言う。
踏み込む。
前へ出る。
横へ薙ぐ。
空気を切った。
何の手応えもない。
当たり前だ。
何もない場所を切っただけだ。
だが、それ以上に嫌だったのは、動きが妙に浮ついていることだった。
重心が安定しない。
腕と足が別々に動いている。
もう一度。
今度は突く。
駄目だ。
やはり、ふわつく。
足が地面へ噛んでいない。
上体だけが先に出る。
何度か繰り返すうちに汗が出てきた。
体力そのものはある。
だが、体力があることと、戦う体であることは違う。
その事実が嫌なほどよく分かった。
「止まりなさい」
アストレア様が言う。
俺は動きを止めた。
呼吸を整える。
短剣を下ろす。
「気づいたことはある?」
「……重心が定まってないです」
「そうね」
「踏み込む時、上体が先に出てる」
「正確だわ」
アストレア様は俺の周りをゆっくり歩いた。
品定めではない。
観察だ。
どう崩れているか、どこがまだ真っ直ぐか、そういう見方だった。
「あなたは体力がある」
静かに言う。
「素直な体もしているわ」
そこで一拍置く。
「でも、戦いを知らない体ね」
「知らないです」
即答した。
そこは誤魔化しようがない。
「知らないことは、恥ではないのよ」
アストレア様は俺の正面へ立つ。
「重心からいきましょう。足を肩幅に開いて。膝を少し緩めて。背筋は伸ばしたまま」
言葉は短い。
だが、一つずつが的確だった。
聞いたそばから体へ落ちる。
「そう。今のまま」
少しだけ近づく。
手で位置を示す。
「剣を持つ手に力が入りすぎているわ。握り込まないで。添えるように持って」
「添える……」
「剣は、腕の先にぶら下がる物ではないの。体の延長よ。力で押さえつけると、動きが死ぬわ」
少しだけ力を抜く。
不思議と、短剣が軽く感じた。
「踏み込む時は、上体より先に足。体はあとからついてくる」
言われた通りにやってみる。
足。
それから体。
さっきまでと明らかに違った。
地面が少しだけ近い。
浮いていたものが、ほんの少し噛んだ感覚がある。
「……あ」
「分かった?」
「少し、安定しました」
「ええ」
アストレア様が微笑む。
「頭で理解しようとするのも大事。でも、それだけでは足りないわ。体に聞きなさい」
その言い方が、妙にしっくり来た。
「あなたのスキルは、不利な状況で輝くのでしょう」
「たぶん」
「でも、基礎がなければ、輝く前に崩れる」
その一言は重かった。
「……土台、ですね」
「そういうことよ」
*
一時間、繰り返した。
重心。
足運び。
握り。
踏み込み。
戻り。
また重心。
単純だ。
でも単純なことほど、逃げ場がない。
できていないことがそのまま出る。
汗が止まらない。
肩も張る。
脚も重くなる。
だが、動きは少しずつ噛み合ってきた。
アストレア様の言葉は短かった。
余計な修飾がない。
でも、一言ごとに意味があった。
武闘派の神、というのは、たぶんこういうことなのだろう。
ただ綺麗なだけじゃない。
人へ動きを渡す言葉を持っている。
昼前になって、アストレア様が言った。
「今日はここまでにしましょう」
俺は短剣を下ろした。
腕が重い。
だが嫌な重さじゃない。
ちゃんと使ったあとの重さだった。
「一つだけ、見せるわ」
そう言って、アストレア様は俺の手から短剣を取った。
構える。
それだけで違った。
同じ短剣のはずなのに、俺が持っていた時とは別のものに見える。
力んでいない。
けれど抜けてもいない。
剣先が、空気へ自然に溶け込んでいた。
次の瞬間、アストレア様が踏み込む。
一歩だけ。
たったそれだけなのに、空気が変わった。
圧があった。
神の気配が、ほんの一瞬だけ剥き出しになったような感覚。
理屈より先に、体が反応する。
後退しろ、と本能が言った。
アストレア様はすぐに力を抜き、短剣を返す。
「これが、目指す先の一つよ」
穏やかな声だった。
「……遠いですね」
「そうね」
そこで彼女は少しだけ笑う。
「でも、動いた分だけ近づくわ」
その言葉が、やけに真っ直ぐに残った。
*
夕方、また中庭へ出た。
一人で、今日習った動きを繰り返す。
重心。
足。
踏み込み。
戻り。
また足。
何度もやる。
何度も崩れる。
何度も直す。
筋トレに似ていた。
一度でできるようにはならない。
だが、積み上げは裏切らない。
少なくとも、今の俺はそう信じている。
日が落ち始めた頃、アストレア様がまた中庭へ来た。
ベンチへ座る。
俺も少し遅れて隣へ腰を下ろす。
少し間があって、アストレア様が口を開いた。
「今日、どうだったかしら」
「……知らないことが多すぎるって分かりました」
「それは大きな収穫ね」
「収穫ですか」
「ええ」
アストレア様は星の出始めた空を見上げる。
「知らないことを知るのは、最初の一歩だもの」
俺もつられて空を見る。
星が少しずつ増えていく。
「強くなるのに、一番大事なことって何ですか」
訊いたあとで、少しだけ子どもっぽい質問だったかと思った。
けれどアストレア様は笑わない。
「素直でいること、かしら」
「素直」
「ええ。体の声を聞くこと。間違いを認めること。教わったことを、まずはそのままやってみること」
少し考える。
「プライドが邪魔するってことですか」
「それもあるわ」
アストレア様は頷いた。
「でも、それより怖さの方が邪魔をする時も多いの」
「怖さ」
「間違えることが怖い。できないと認めることが怖い。だから、動く前に止まってしまう」
俺は黙った。
それは分かる。
考えるのが好きな人間ほど、時々そこへ落ちる。
考える。
考える。
考えて、結局、動く前に疲れる。
「あなたは今日、ちゃんと動いていたわ」
「でも、全然できてなかった」
「できていなくても」
アストレア様の声は静かだった。
「動いたことは消えないのよ」
その言葉が、夜へ落ちた。
動いたことは消えない。
成功したことだけじゃない。
ぎこちなかったことも。
崩れたことも。
格好悪かったことも。
全部、次の土台になる。
俺は少しだけ目を閉じた。
「……明日もやります」
「そう言うと思っていたわ」
アストレア様が微笑む。
星が増えていた。
まだ何も始まっていない。
ファミリアは小さい。
仲間もいない。
俺はまだ、戦い方も碌に知らない。
それでも、一歩は動いた。
分からないまま。
整っていないまま。
でも、昨日の自分よりは前へ出た。
それでいい。
今はまだ、それでいい。
第2話 動く前に、知ること 了
この作品を書くにあたって、一つだけ打ち明けておきたいことがあります。
主人公レックスの行動原理の根っこには、進撃の巨人のエルヴィン・スミスがいます。
エルヴィンはこう言いました。
「よせ、後悔をするな。後悔の記憶は次の決断を鈍らせる。そして、決断を他人に委ねようとするだろう。そうなれば後は死ぬだけだ。結果など誰にも分からないのだ。一つの決断は、次の決断のための材料にして初めて意味を持つ」
この言葉に、私はずっと縛られています。
答えが出なくても決断する。後悔を引きずらず、次の一手の材料にする。分からないまま、動き続ける。
レックスというキャラクターは、そういう問いに対する私なりの一つの答えです。
そしてもう一つ、胸に刺さったエルヴィンの言葉があります。
「いや違う!あの兵士に意味を与えるのは我々だ!……我々はここで死に、次の生者に意味を託す!それこそ唯一!この残酷な世界に抗う術なのだ!」
動いたことは消えない。
誰かの動きが、次の誰かを動かす。
1%の正義が積み重なって、いつか何かを変える。
この物語のテーマは、全部エルヴィンから来ています。
ダンまちの温かさと、エルヴィンの哲学が交わる場所に、この物語があります。
レックスがまだ答えを知らないまま動き続ける姿を、どうか見届けてください。
最後まで、よろしくお願いします。