第4話 血の匂いと、最初の選択
朝。
星屑の庭を出る。
昨日までの準備期間は終わった。
短剣はある。
体の使い方も、ほんのわずかだがアストレア様に叩き込まれた。
恩恵も刻まれた。
なら次は、迷宮だ。
門の前で、アストレア様が静かに俺を見ていた。
「緊張している?」
「少し」
「それでいいわ」
胡桃色の髪が朝の風に揺れる。
藍色の瞳は穏やかだ。
だが、その穏やかさは、現実から目を逸らさせる優しさじゃない。
「怖さを持たずに降りる方が危ういもの」
「はい」
「でも、怖いから止まる必要はないわ」
その言い方が、今の俺にはちょうどよかった。
背中を押すでもなく、甘やかすでもなく。
進むことだけは、きちんと許す。
「行ってきます」
「ええ。行ってらっしゃい、レックス」
振り返らずに歩き出す。
振り返ると、少しだけ鈍る気がした。
*
オラリオの朝はもう動いていた。
荷車。
露店。
武器を背負った冒険者。
眠そうな顔の職人。
その全部の隙間を、俺は少し早足で抜けていく。
前世の曖昧な記憶の中では、ギルドはもっと明るい場所だった気がする。
夢や希望や、冒険の始まりに寄った場所。
だが、現実は違った。
ギルド本部へ近づくほど、空気が重くなる。
血。
汗。
酒。
薬品。
剥き出しの苛立ち。
暗黒期のオラリオは、昼でも少し薄暗い。
空の明るさじゃなく、人の心の方がそう見せるのだろう。
巨大な石造りの建物へ入る。
中は騒然としていた。
怒鳴り声。
舌打ち。
金属音。
受付に詰め寄る冒険者。
担架で運ばれる負傷者。
書類を抱えて走る職員たち。
誰もがささくれ立っていた。
明日の命も知れない環境は、人を少しずつ削る。
ここにいる連中は、みんなその削れた後だ。
俺は新規登録の列へ並んだ。
視線が刺さる。
安物の服。
腰の短剣。
まだ馴染み切っていない立ち姿。
誰がどう見ても素人だ。
「おい、またガキかよ」
「昼まで持つか?」
「一階層で腰抜かす方に十ヴァリス」
下卑た笑いが飛ぶ。
『一厘直観』が微かに反応し、すぐ静まった。
殺意はない。
面倒を起こす気も薄い。
ただのノイズだ。
俺は無視する。
こいつらの言葉は、俺の生存率を1%も下げない。
構う価値がない。
*
順番が来た。
受付嬢は疲れ切っていた。
目の下の隈。
乱れた髪。
制服の袖には洗っても落ちなかったらしい薄い血痕。
「新規登録ですね」
声に覇気はない。
だが手は速い。
「はい」
アストレア様から預かった証明を差し出す。
彼女の目が少しだけ動いた。
「アストレア・ファミリア……」
この時代、その名は軽くない。
だが、今の俺はその名に見合うようには見えないだろう。
「レックスさん。本日付で冒険者登録を行います」
ペン先が羊皮紙を走る。
印が押される。
「一つだけ、忠告があります」
顔を上げた彼女の目は冷たかった。
冷たいが、無関心ではない。
死にゆく人間を見飽きた側の目だ。
「今のダンジョンは、ただの迷宮ではありません。モンスターだけでなく、イヴィルスの仕掛けや、冒険者同士の襲撃もある」
一拍置く。
「その装備、その経験、その階級。上層でも命の保証はありません。引き返すなら、今です」
親切心だった。
最後の情けだ。
だが、俺に退路はない。
「行きます」
即答する。
受付嬢は少しだけ目を細めた。
「……そうですか」
諦め半分、納得半分という顔で息を吐く。
「では、せめて軽傷用ポーションは切らさないでください。命を安く売らないこと」
「分かりました」
彼女はそれ以上何も言わなかった。
薄いカードを差し出す。
「これがギルドカードです。失くさないでください」
受け取る。
軽い。
だが、重い。
これで、正式な冒険者になった。
*
ダンジョンへ向かう前に、防具を揃える。
短剣だけでは足りない。
今の俺に必要なのは、見栄えのいい装備じゃない。
浅い階層の一撃を、即死からズラすだけの最低限だ。
ギルド近くの安物防具屋へ入る。
革鎧。
前腕ガード。
脛当て。
どれも上等じゃない。
だが、使い潰す前提なら悪くない。
「初心者か」
店主が一目で言う。
「そうです」
「なら胸、前腕、脛だけ守れ。全部揃えようとするな。金が死ぬ」
嫌いじゃない言い方だった。
店主が棚から必要最低限だけ引き出す。
「こっちの薄革。動きは死ににくい。防御は期待するな」
「十分です」
「十分じゃねえが、無いよりましだ」
代金を払う。
袋の中身がまた減る。
外で装着してみる。
重くはない。
邪魔でもない。
安っぽいが、今の俺にはちょうどいい。
それから、露店で少しだけ買い足した。
乾燥肉。
硬いパン。
そして、油っぽい芋の携帯食。
ジャガ丸くんそのものではない。
でも、それに寄せた安価な揚げ菓子だ。
前世の記憶とこの世界の知識が、妙にそこで繋がる。
……なんとなく、買っておく。
理由は自分でも曖昧だ。
潜る時の糖分としてでもいい。
そういうことにしておく。
*
バベルの下に広がる巨大な入口を前にした時、さすがに呼吸が少し変わった。
前世の知識では、ダンジョンは富の眠る場所だ。
だが今の俺にとっては違う。
ここは実験場だ。
自分の体がどう動くか。
アストレア様に教わった“連動”が、実戦でどう噛むか。
それを確かめる場。
想像する。
曲がり角。
奇襲。
暗闇。
牙。
計画する。
最小の動きで距離を詰め、急所を突き、余計な傷を負わない流れを。
実行する。
もうそれだけだ。
巨大な穴の縁に立つ。
底知れない闇が、冷たい風を吐き出している。
「……上等だ」
短剣の柄に手を添え、踏み込んだ。
*
第一階層。
湿気。
冷気。
カビと獣臭。
壁を這う燐光苔の薄い光。
前世の文字知識では“初心者向け上層”。
だが、現実の暗闇はそんなに甘くない。
足音を殺す。
呼吸を薄くする。
目だけを急がせない。
最初のゴブリンは、想定よりずっと生々しかった。
緑色の皮膚。
血走った目。
錆びた鉈。
体臭。
影から距離を詰める。
首を落とすつもりで入る。
だが、踏み込みがわずかに浅くなった。
実戦の圧。
無意識の力み。
胸が固まり、肩が入る。
“力の渋滞”だ。
刃がずれる。
ゴブリンが振り返る。
鉈が振り下ろされる。
不利。
だからこそ、『一厘直観』が牙を剥く。
時間がほんのわずかに遅くなる錯覚。
鉈の軌道。
相手の足。
自分の重心。
全部が視界に並ぶ。
下がるな。
前だ。
踏み込む。
鉈の下をくぐり、胸の魔石へ短剣を深く差し込む。
今度は力まない。
足から通し、腰を回し、背を通し、腕ではなく体ごと刺す。
砕く。
短い悲鳴。
灰。
魔石。
これがダンジョンだ。
ゲームじゃない。
文字でもない。
命を奪って、命を繋ぐ場所だ。
その後も何度か死にかけた。
コボルトの群れ。
ゴブリンの奇襲。
曲がり角の死角。
そのたびに『一厘直観』が活路を切り、アストレア様に教わった全身の連動が少しずつ噛み始める。
痛み。
疲労。
恐怖。
全部が、今日の糧になる。
*
そして、階層の少し奥で。
『一厘直観』が、今日一番強く反応した。
前方ではない。
もっと深い方から、血の匂いと風の音が這い上がってくる。
誰かが無茶をしている。
しかも、一人で。
無視して引き返すのが正解だ。
今の俺に必要なのは経験値であって、他人の地獄に首を突っ込むことじゃない。
だが。
短剣を握り直す。
知りたい。
この狂気みたいな殺意の正体を。
そこに何があるのかを。
好奇心が、理性を少しだけ押しのけた。
綺麗じゃない。
でも、このまま見なかったことにしたら、自分の中に濁りが残ると分かった。
なら行く。
*
広間へ出る。
最初に見えたのは、異常な数のモンスターだった。
ゴブリン、コボルト、ざっと三十。
その中心に、風がいた。
緑色の風。
金色の髪。
小さな影。
前世の断片がそこで繋がる。
アイズ・ヴァレンシュタイン。
いずれ剣姫と呼ばれる存在。
だが今ここにいるのは、強すぎるだけの子どもだった。
速い。
だが危うい。
防御が抜けている。
戻りがない。
命を削ってでも、目の前の敵を殺すことだけへ寄り切っている。
左腕から血。
足も少し流れている。
このままだと死ぬ。
背後からコボルトが死角へ入る。
アイズは気づいていない。
ここで引けば、俺の生存率は上がる。
でも、踏み込まないとたぶん後で自分に説明がつかない。
だから俺は飛び込んだ。
コボルトの顎を下から短剣で貫き、そのまま蹴り飛ばす。
「……っ!」
アイズが振り返る。
金の瞳。
驚き。
それから即座に敵意。
「何」
掠れた声。
幼い。
思っていたよりずっと子どもだ。
「死にたくなければ、こっちを見ろ」
慰めない。
なだめない。
必要なことだけ切る。
「一人で全部殺そうとするな。右を潰せ。左の抜けは俺が埋める」
アイズの眉が寄る。
「邪魔」
「そうだろうな」
俺も即答した。
「でも今のお前、一人じゃ死ぬぞ」
その一言で、空気が少し変わった。
子ども扱いしない。
優しくもしない。
ただ、戦場の事実だけを置く。
『一厘直観』が解を押し出す。
「右へ二歩飛べ!」
怒鳴る。
「正面二匹を斬れ! 左の抜けは俺がやる!」
アイズは一瞬だけ躊躇した。
だが、その躊躇は短い。
右へ飛ぶ。
風が巻く。
剣が二体を裂く。
俺は左から来た一匹の膝を蹴り折り、首を切る。
「前だけ見ろ!」
さらに怒鳴る。
「背中は俺が見る!」
その瞬間、アイズの動きが変わった。
信頼ではない。
ただ、死角を一瞬だけ預けた。
それだけで、彼女の剣はさらに鋭くなる。
荒い。
危うい。
でも噛み合う。
アイズは何度かこっちを見た。
確認だ。
警戒はまだ消えていない。
それでいい。
数分後、最後の一匹が灰になった。
静寂。
アイズがふらつく。
俺は肩を支える。
軽い。
驚くほど軽い。
「……全部、殺した」
小さく呟く。
「ああ」
俺は返す。
「でも次は、死ぬ前に止まれ」
褒めるだけで終わらせない。
勘違いする顔をしていたからだ。
「止まったら、弱くなる」
「そのまま死んだら終わりだ」
言葉はぶつかる。
綺麗には噛み合わない。
でも、それでいい。
水筒を出しかけて、アイズの体が強張るのを見る。
肩が跳ねる。
瞳に明確な嫌悪と恐怖。
……水か。
俺はすぐ下げた。
「分かった。無理に使わなくていい」
湿らせた布だけ渡す。
アイズは警戒しながら受け取る。
顔の血を不器用に拭う。
その横で、俺は袋から芋の携帯食を取り出した。
露店で買った、安価なジャガ丸くんもどき。
油と塩の匂いが少し強い。
「食え」
アイズの目がそちらへ向く。
そこで初めて、顔から戦闘の硬さが少し抜けた。
「……それ」
「嫌なら戻す」
「食べる」
即答だった。
ひったくるように受け取る。
一口齧る。
その瞬間、目の色が少しだけ変わる。
さっきまでの狂気が、ほんの少し薄れる。
ただの、疲れた芋好きの子どもに戻る。
その変化があまりに露骨で、少しだけ呆れた。
「……おいしい」
「そうか」
俺はそれ以上言わなかった。
だが、アイズは食べながら、少しだけこっちへ寄る。
触れるほどじゃない。
でも、距離がひとつ縮む。
完全には懐いていない。
でも、“敵ではない”の線が一気に太くなったのは分かった。
*
そこへロキ・ファミリアが来る。
フィン。
リヴェリア。
数名の団員。
広間の惨状を見て、一瞬だけ全員が止まった。
灰。
血。
生き残ったアイズ。
その隣にいる、見知らぬLv.1。
「アイズ」
リヴェリアの声は低い。
怒りと安堵が半分ずつだ。
アイズはそちらを見た。
それから、少しだけ俺の方へ身体を寄せる。
裾を掴むほどではない。
でも、明らかに立ち位置が近い。
やめろ。面倒だ。
フィンの目が細くなる。
「君が助けたのかい」
「助けたというより、巻き込まれた」
俺は答える。
「放っておいたら死んでた。それだけです」
空気が少し硬くなる。
だが、言い換える気はない。
リヴェリアがアイズへ歩み寄る。
「勝手に突出したのか」
敬語ではない。
知的で、冷たい。
だがそれだけじゃない。
叱る側の痛みが少しある声だ。
「無茶をするな。お前一人の命ではない」
アイズの肩が少し強張る。
怒られている。
でも、言葉の芯はちゃんと届いている顔だった。
俺はそのやり取りを見て、前世の断片と今の現実が、少しだけズレながら重なるのを感じた。
リヴェリアは厳しい。
だがただ怖いだけではない。
フィンがこちらを見る。
「アストレア・ファミリアだね」
「レックスです」
「覚えておくよ」
穏やかな声。
でも、忘れないと言っている。
リヴェリアはアイズの傷を見ながら、こちらへ一瞬だけ目を向けた。
「礼は言う。だが、次は自分の命も勘定に入れろ」
短い。
その言葉は、助けた礼でもあり、無茶への牽制でもあった。
「分かってます」
本当は、分かっていて飛び込んだ。
そこまでは言わない。
アイズがスナックの袋をまだ握っているのが見えた。
気づくなよ、と思ったが、たぶんもう遅い。
「……それ」
リヴェリアが袋を見る。
アイズは少しだけ背を向けた。
守る気か。
そこまで行くと笑いそうになる。
俺は踵を返した。
これ以上ここにいると、余計な線が増える。
後ろで、アイズが小さく何か言った。
だが拾わない。
振り返らない。
選ばない。
それもまた選択だ。
*
ギルドへ戻る頃には、体はかなり重くなっていた。
血。
灰。
汗。
革防具にも匂いが移っている。
今度は換金の列に並ぶ。
こっちは登録列より少し空気が違う。
生きて帰った者たちの列だ。
疲労が濃い。
袋から魔石を出す。
数は多くない。
初日としては悪くないが、誇れるほどでもない。
換金担当の職員が数を確認し、小袋へヴァリスを入れて返してくる。
「初潜入?」
「分かりますか」
「魔石の数と顔で」
そりゃそうか。
「無茶しないで」
「できるだけ」
「“できるだけ”って言う人は、だいたいするのよ」
疲れた顔のまま、少しだけ笑った。
その笑いが妙に現実だった。
受け取ったヴァリスは重くない。
だが、初めて自分の手で迷宮から持ち帰った金だ。
命を削って得た現金。
そう思うと、生々しい。
*
夜。
星屑の庭へ戻る。
井戸で血と灰を洗い流す。
水が赤く濁り、石畳を伝う。
自分の血も少し混じっている。
だが大半は奪った側の痕跡だ。
恐怖は遅れて来なかった。
代わりに、現実感だけが濃く残る。
殺した。
生き残った。
換金した。
戻ってきた。
それだけだ。
でも、それだけで十分重い。
中庭へ出ると、アストレア様がいた。
手には、温かい茶器が二つ。
「おかえりなさい、レックス」
「ただいま戻りました、アストレア様」
藍色の瞳が、俺の姿を静かに見る。
「……濃い匂いがするわね」
「そうですね」
「でも、生きて帰ってきた」
「はい」
ベンチへ座る。
隣にアストレア様。
届かない距離。
でも、温もりはある。
茶を飲む。
熱が内側へ落ちる。
「初めてのダンジョンは、どうだったかしら」
「予定通りでした」
少し考えて言い直す。
「死にかけました。でも、生き残りました」
アストレア様は静かに頷いた。
「初めて命を奪った感触は?」
「重かったです」
事実だけを置く。
「文字やゲームみたいにはいかなかった。肉は硬かったし、血は熱かった。でも、迷いはなかった」
アストレア様は怒らない。
ただ、その重さごと受け取る。
「それが現実の重さね」
「はい」
「そして、あなたはそこから目を逸らさなかった」
少し間を置く。
「他には?」
俺は息を吐いた。
「……少し厄介な拾い物をしました」
アストレア様が首を傾げる。
「拾い物?」
「芋で釣れる野良猫みたいなのを」
アストレア様の目が少しだけ丸くなる。
そこから、今日のことを話した。
アイズ。
イレギュラーな群れ。
連携に近い形で死角を埋めたこと。
芋の携帯食で空気が変わったこと。
ロキ・ファミリアの首脳陣に見つかったこと。
聞き終えたアストレア様は、小さく息を吐いた。
「……アイズ・ヴァレンシュタイン」
その名を静かに繰り返す。
「ロキが大切にしている子ね」
「そうらしいです」
「その子もまた、深いところを見すぎているのかもしれないわ」
「深いところ?」
「ええ。痛みや憎しみだけを見つめ続けると、視野は狭くなるもの」
少しだけ、アイズの金色の瞳を思い出す。
狂気と幼さが同居していた。
「あなたは、助けるつもりで踏み込んだの?」
「最初は違います」
俺は即答する。
「計画外でした。無視して引き返す方が、俺の生存率は高かった」
「でも、行ったのね」
「ええ」
少しだけ言葉を探す。
「そこで九歳の子どもを見捨てて戻るのは、たぶん俺の中で駄目だった」
アストレア様は黙って聞く。
「立派な正義とかじゃないです。ただ、その選択をしたら、次から自分の刃が鈍る気がした」
それが本音だった。
アストレア様が、やわらかく微笑む。
「……そう」
「それが、あなたの今日の選択だったのね」
「はい」
「悔いはある?」
少し考える。
疲労。
面倒。
ロキ・ファミリアに目をつけられた可能性。
全部ある。
でも。
「……ないです」
そう答えると、アストレア様は静かに頷いた。
「なら、それでいいのよ」
その一言が、妙に深く落ちた。
「ロキ・ファミリアからは目をつけられたかもしれません」
「構わないわ」
アストレア様は少しだけ悪戯っぽく笑う。
「必要なら、神会でロキの文句くらい受けて立つもの」
その言い方に、肩の力が少し抜けた。
「レックス」
「はい」
「あなたはこれからも、分からないまま進むのでしょうね」
「そうだと思います」
「怖くはない?」
「怖いです」
正直に言う。
「でも、止まる方がもっと怖い」
アストレア様は少し黙った。
それから、夜へ溶けるみたいに呟く。
「……あなたがいると、私も怖くないわ」
俺はその言葉を、そのまま受け取る。
疑わない。
謙遜しない。
受け取る練習だ。
「明日も潜ります」
俺は言った。
「もっと強くなる」
「ええ」
アストレア様が頷く。
「約束よ、レックス。必ず生きて、ここへ帰ってきて」
「はい」
星明かりの下、自分の核が少しずつ固まっていくのが分かる。
1%の正義。
好奇心。
動かなければ死ぬという感覚。
そして、選んだことは消えないという実感。
今日の選択は綺麗じゃない。
でも、悔いはない。
それでいい。
今は、それでいい。
第4話 血の匂いと、最初の選択 了