悔いなき選択 ※休止   作:Jefflocka

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第4話 血の匂いと、最初の一歩

第4話 血の匂いと、最初の選択

 

 朝。

 

 星屑の庭を出る。

 

 昨日までの準備期間は終わった。

 短剣はある。

 体の使い方も、ほんのわずかだがアストレア様に叩き込まれた。

 恩恵も刻まれた。

 なら次は、迷宮だ。

 

 門の前で、アストレア様が静かに俺を見ていた。

 

「緊張している?」

 

「少し」

 

「それでいいわ」

 

 胡桃色の髪が朝の風に揺れる。

 藍色の瞳は穏やかだ。

 だが、その穏やかさは、現実から目を逸らさせる優しさじゃない。

 

「怖さを持たずに降りる方が危ういもの」

 

「はい」

 

「でも、怖いから止まる必要はないわ」

 

 その言い方が、今の俺にはちょうどよかった。

 

 背中を押すでもなく、甘やかすでもなく。

 進むことだけは、きちんと許す。

 

「行ってきます」

 

「ええ。行ってらっしゃい、レックス」

 

 振り返らずに歩き出す。

 振り返ると、少しだけ鈍る気がした。

 

 

 オラリオの朝はもう動いていた。

 

 荷車。

 露店。

 武器を背負った冒険者。

 眠そうな顔の職人。

 その全部の隙間を、俺は少し早足で抜けていく。

 

 前世の曖昧な記憶の中では、ギルドはもっと明るい場所だった気がする。

 夢や希望や、冒険の始まりに寄った場所。

 だが、現実は違った。

 

 ギルド本部へ近づくほど、空気が重くなる。

 

 血。

 汗。

 酒。

 薬品。

 剥き出しの苛立ち。

 

 暗黒期のオラリオは、昼でも少し薄暗い。

 空の明るさじゃなく、人の心の方がそう見せるのだろう。

 

 巨大な石造りの建物へ入る。

 

 中は騒然としていた。

 

 怒鳴り声。

 舌打ち。

 金属音。

 受付に詰め寄る冒険者。

 担架で運ばれる負傷者。

 書類を抱えて走る職員たち。

 

 誰もがささくれ立っていた。

 明日の命も知れない環境は、人を少しずつ削る。

 ここにいる連中は、みんなその削れた後だ。

 

 俺は新規登録の列へ並んだ。

 

 視線が刺さる。

 

 安物の服。

 腰の短剣。

 まだ馴染み切っていない立ち姿。

 誰がどう見ても素人だ。

 

「おい、またガキかよ」

 

「昼まで持つか?」

 

「一階層で腰抜かす方に十ヴァリス」

 

 下卑た笑いが飛ぶ。

 

 『一厘直観』が微かに反応し、すぐ静まった。

 殺意はない。

 面倒を起こす気も薄い。

 ただのノイズだ。

 

 俺は無視する。

 

 こいつらの言葉は、俺の生存率を1%も下げない。

 構う価値がない。

 

 

 順番が来た。

 

 受付嬢は疲れ切っていた。

 目の下の隈。

 乱れた髪。

 制服の袖には洗っても落ちなかったらしい薄い血痕。

 

「新規登録ですね」

 

 声に覇気はない。

 だが手は速い。

 

「はい」

 

 アストレア様から預かった証明を差し出す。

 

 彼女の目が少しだけ動いた。

 

「アストレア・ファミリア……」

 

 この時代、その名は軽くない。

 だが、今の俺はその名に見合うようには見えないだろう。

 

「レックスさん。本日付で冒険者登録を行います」

 

 ペン先が羊皮紙を走る。

 印が押される。

 

「一つだけ、忠告があります」

 

 顔を上げた彼女の目は冷たかった。

 冷たいが、無関心ではない。

 死にゆく人間を見飽きた側の目だ。

 

「今のダンジョンは、ただの迷宮ではありません。モンスターだけでなく、イヴィルスの仕掛けや、冒険者同士の襲撃もある」

 

 一拍置く。

 

「その装備、その経験、その階級。上層でも命の保証はありません。引き返すなら、今です」

 

 親切心だった。

 最後の情けだ。

 

 だが、俺に退路はない。

 

「行きます」

 

 即答する。

 

 受付嬢は少しだけ目を細めた。

 

「……そうですか」

 

 諦め半分、納得半分という顔で息を吐く。

 

「では、せめて軽傷用ポーションは切らさないでください。命を安く売らないこと」

 

「分かりました」

 

 彼女はそれ以上何も言わなかった。

 薄いカードを差し出す。

 

「これがギルドカードです。失くさないでください」

 

 受け取る。

 軽い。

 だが、重い。

 

 これで、正式な冒険者になった。

 

 

 ダンジョンへ向かう前に、防具を揃える。

 

 短剣だけでは足りない。

 今の俺に必要なのは、見栄えのいい装備じゃない。

 浅い階層の一撃を、即死からズラすだけの最低限だ。

 

 ギルド近くの安物防具屋へ入る。

 

 革鎧。

 前腕ガード。

 脛当て。

 どれも上等じゃない。

 だが、使い潰す前提なら悪くない。

 

「初心者か」

 

 店主が一目で言う。

 

「そうです」

 

「なら胸、前腕、脛だけ守れ。全部揃えようとするな。金が死ぬ」

 

 嫌いじゃない言い方だった。

 

 店主が棚から必要最低限だけ引き出す。

 

「こっちの薄革。動きは死ににくい。防御は期待するな」

 

「十分です」

 

「十分じゃねえが、無いよりましだ」

 

 代金を払う。

 袋の中身がまた減る。

 

 外で装着してみる。

 重くはない。

 邪魔でもない。

 安っぽいが、今の俺にはちょうどいい。

 

 それから、露店で少しだけ買い足した。

 

 乾燥肉。

 硬いパン。

 そして、油っぽい芋の携帯食。

 

 ジャガ丸くんそのものではない。

 でも、それに寄せた安価な揚げ菓子だ。

 前世の記憶とこの世界の知識が、妙にそこで繋がる。

 

 ……なんとなく、買っておく。

 

 理由は自分でも曖昧だ。

 潜る時の糖分としてでもいい。

 そういうことにしておく。

 

 

 バベルの下に広がる巨大な入口を前にした時、さすがに呼吸が少し変わった。

 

 前世の知識では、ダンジョンは富の眠る場所だ。

 だが今の俺にとっては違う。

 

 ここは実験場だ。

 

 自分の体がどう動くか。

 アストレア様に教わった“連動”が、実戦でどう噛むか。

 それを確かめる場。

 

 想像する。

 曲がり角。

 奇襲。

 暗闇。

 牙。

 

 計画する。

 最小の動きで距離を詰め、急所を突き、余計な傷を負わない流れを。

 

 実行する。

 もうそれだけだ。

 

 巨大な穴の縁に立つ。

 

 底知れない闇が、冷たい風を吐き出している。

 

「……上等だ」

 

 短剣の柄に手を添え、踏み込んだ。

 

 

 第一階層。

 

 湿気。

 冷気。

 カビと獣臭。

 壁を這う燐光苔の薄い光。

 

 前世の文字知識では“初心者向け上層”。

 だが、現実の暗闇はそんなに甘くない。

 

 足音を殺す。

 呼吸を薄くする。

 目だけを急がせない。

 

 最初のゴブリンは、想定よりずっと生々しかった。

 

 緑色の皮膚。

 血走った目。

 錆びた鉈。

 体臭。

 

 影から距離を詰める。

 首を落とすつもりで入る。

 だが、踏み込みがわずかに浅くなった。

 

 実戦の圧。

 無意識の力み。

 胸が固まり、肩が入る。

 “力の渋滞”だ。

 

 刃がずれる。

 

 ゴブリンが振り返る。

 鉈が振り下ろされる。

 

 不利。

 

 だからこそ、『一厘直観』が牙を剥く。

 

 時間がほんのわずかに遅くなる錯覚。

 鉈の軌道。

 相手の足。

 自分の重心。

 全部が視界に並ぶ。

 

 下がるな。

 前だ。

 

 踏み込む。

 

 鉈の下をくぐり、胸の魔石へ短剣を深く差し込む。

 今度は力まない。

 足から通し、腰を回し、背を通し、腕ではなく体ごと刺す。

 

 砕く。

 

 短い悲鳴。

 灰。

 魔石。

 

 これがダンジョンだ。

 

 ゲームじゃない。

 文字でもない。

 命を奪って、命を繋ぐ場所だ。

 

 その後も何度か死にかけた。

 コボルトの群れ。

 ゴブリンの奇襲。

 曲がり角の死角。

 

 そのたびに『一厘直観』が活路を切り、アストレア様に教わった全身の連動が少しずつ噛み始める。

 

 痛み。

 疲労。

 恐怖。

 全部が、今日の糧になる。

 

 

 そして、階層の少し奥で。

 

 『一厘直観』が、今日一番強く反応した。

 

 前方ではない。

 もっと深い方から、血の匂いと風の音が這い上がってくる。

 

 誰かが無茶をしている。

 しかも、一人で。

 

 無視して引き返すのが正解だ。

 今の俺に必要なのは経験値であって、他人の地獄に首を突っ込むことじゃない。

 

 だが。

 

 短剣を握り直す。

 

 知りたい。

 

 この狂気みたいな殺意の正体を。

 そこに何があるのかを。

 

 好奇心が、理性を少しだけ押しのけた。

 綺麗じゃない。

 でも、このまま見なかったことにしたら、自分の中に濁りが残ると分かった。

 

 なら行く。

 

 

 広間へ出る。

 

 最初に見えたのは、異常な数のモンスターだった。

 ゴブリン、コボルト、ざっと三十。

 

 その中心に、風がいた。

 

 緑色の風。

 金色の髪。

 小さな影。

 

 前世の断片がそこで繋がる。

 

 アイズ・ヴァレンシュタイン。

 

 いずれ剣姫と呼ばれる存在。

 だが今ここにいるのは、強すぎるだけの子どもだった。

 

 速い。

 だが危うい。

 

 防御が抜けている。

 戻りがない。

 命を削ってでも、目の前の敵を殺すことだけへ寄り切っている。

 

 左腕から血。

 足も少し流れている。

 このままだと死ぬ。

 

 背後からコボルトが死角へ入る。

 アイズは気づいていない。

 

 ここで引けば、俺の生存率は上がる。

 でも、踏み込まないとたぶん後で自分に説明がつかない。

 

 だから俺は飛び込んだ。

 

 コボルトの顎を下から短剣で貫き、そのまま蹴り飛ばす。

 

「……っ!」

 

 アイズが振り返る。

 

 金の瞳。

 驚き。

 それから即座に敵意。

 

「何」

 

 掠れた声。

 幼い。

 思っていたよりずっと子どもだ。

 

「死にたくなければ、こっちを見ろ」

 

 慰めない。

 なだめない。

 必要なことだけ切る。

 

「一人で全部殺そうとするな。右を潰せ。左の抜けは俺が埋める」

 

 アイズの眉が寄る。

 

「邪魔」

 

「そうだろうな」

 

 俺も即答した。

 

「でも今のお前、一人じゃ死ぬぞ」

 

 その一言で、空気が少し変わった。

 

 子ども扱いしない。

 優しくもしない。

 ただ、戦場の事実だけを置く。

 

 『一厘直観』が解を押し出す。

 

「右へ二歩飛べ!」

 

 怒鳴る。

 

「正面二匹を斬れ! 左の抜けは俺がやる!」

 

 アイズは一瞬だけ躊躇した。

 だが、その躊躇は短い。

 

 右へ飛ぶ。

 風が巻く。

 剣が二体を裂く。

 

 俺は左から来た一匹の膝を蹴り折り、首を切る。

 

「前だけ見ろ!」

 

 さらに怒鳴る。

 

「背中は俺が見る!」

 

 その瞬間、アイズの動きが変わった。

 

 信頼ではない。

 ただ、死角を一瞬だけ預けた。

 それだけで、彼女の剣はさらに鋭くなる。

 

 荒い。

 危うい。

 でも噛み合う。

 

 アイズは何度かこっちを見た。

 確認だ。

 警戒はまだ消えていない。

 それでいい。

 

 数分後、最後の一匹が灰になった。

 

 静寂。

 

 アイズがふらつく。

 俺は肩を支える。

 軽い。

 驚くほど軽い。

 

「……全部、殺した」

 

 小さく呟く。

 

「ああ」

 

 俺は返す。

 

「でも次は、死ぬ前に止まれ」

 

 褒めるだけで終わらせない。

 勘違いする顔をしていたからだ。

 

「止まったら、弱くなる」

 

「そのまま死んだら終わりだ」

 

 言葉はぶつかる。

 綺麗には噛み合わない。

 でも、それでいい。

 

 水筒を出しかけて、アイズの体が強張るのを見る。

 肩が跳ねる。

 瞳に明確な嫌悪と恐怖。

 

 ……水か。

 

 俺はすぐ下げた。

 

「分かった。無理に使わなくていい」

 

 湿らせた布だけ渡す。

 アイズは警戒しながら受け取る。

 顔の血を不器用に拭う。

 

 その横で、俺は袋から芋の携帯食を取り出した。

 

 露店で買った、安価なジャガ丸くんもどき。

 油と塩の匂いが少し強い。

 

「食え」

 

 アイズの目がそちらへ向く。

 そこで初めて、顔から戦闘の硬さが少し抜けた。

 

「……それ」

 

「嫌なら戻す」

 

「食べる」

 

 即答だった。

 

 ひったくるように受け取る。

 一口齧る。

 その瞬間、目の色が少しだけ変わる。

 

 さっきまでの狂気が、ほんの少し薄れる。

 ただの、疲れた芋好きの子どもに戻る。

 

 その変化があまりに露骨で、少しだけ呆れた。

 

「……おいしい」

 

「そうか」

 

 俺はそれ以上言わなかった。

 だが、アイズは食べながら、少しだけこっちへ寄る。

 触れるほどじゃない。

 でも、距離がひとつ縮む。

 

 完全には懐いていない。

 でも、“敵ではない”の線が一気に太くなったのは分かった。

 

 

 そこへロキ・ファミリアが来る。

 

 フィン。

 リヴェリア。

 数名の団員。

 

 広間の惨状を見て、一瞬だけ全員が止まった。

 灰。

 血。

 生き残ったアイズ。

 その隣にいる、見知らぬLv.1。

 

「アイズ」

 

 リヴェリアの声は低い。

 怒りと安堵が半分ずつだ。

 

 アイズはそちらを見た。

 それから、少しだけ俺の方へ身体を寄せる。

 

 裾を掴むほどではない。

 でも、明らかに立ち位置が近い。

 

 やめろ。面倒だ。

 

 フィンの目が細くなる。

 

「君が助けたのかい」

 

「助けたというより、巻き込まれた」

 

 俺は答える。

 

「放っておいたら死んでた。それだけです」

 

 空気が少し硬くなる。

 だが、言い換える気はない。

 

 リヴェリアがアイズへ歩み寄る。

 

「勝手に突出したのか」

 

 敬語ではない。

 知的で、冷たい。

 だがそれだけじゃない。

 叱る側の痛みが少しある声だ。

 

「無茶をするな。お前一人の命ではない」

 

 アイズの肩が少し強張る。

 怒られている。

 でも、言葉の芯はちゃんと届いている顔だった。

 

 俺はそのやり取りを見て、前世の断片と今の現実が、少しだけズレながら重なるのを感じた。

 リヴェリアは厳しい。

 だがただ怖いだけではない。

 

 フィンがこちらを見る。

 

「アストレア・ファミリアだね」

 

「レックスです」

 

「覚えておくよ」

 

 穏やかな声。

 でも、忘れないと言っている。

 

 リヴェリアはアイズの傷を見ながら、こちらへ一瞬だけ目を向けた。

 

「礼は言う。だが、次は自分の命も勘定に入れろ」

 

 短い。

 その言葉は、助けた礼でもあり、無茶への牽制でもあった。

 

「分かってます」

 

 本当は、分かっていて飛び込んだ。

 そこまでは言わない。

 

 アイズがスナックの袋をまだ握っているのが見えた。

 気づくなよ、と思ったが、たぶんもう遅い。

 

「……それ」

 

 リヴェリアが袋を見る。

 

 アイズは少しだけ背を向けた。

 守る気か。

 そこまで行くと笑いそうになる。

 

 俺は踵を返した。

 これ以上ここにいると、余計な線が増える。

 

 後ろで、アイズが小さく何か言った。

 だが拾わない。

 振り返らない。

 

 選ばない。

 それもまた選択だ。

 

 

 ギルドへ戻る頃には、体はかなり重くなっていた。

 

 血。

 灰。

 汗。

 革防具にも匂いが移っている。

 

 今度は換金の列に並ぶ。

 こっちは登録列より少し空気が違う。

 生きて帰った者たちの列だ。

 疲労が濃い。

 

 袋から魔石を出す。

 数は多くない。

 初日としては悪くないが、誇れるほどでもない。

 

 換金担当の職員が数を確認し、小袋へヴァリスを入れて返してくる。

 

「初潜入?」

 

「分かりますか」

 

「魔石の数と顔で」

 

 そりゃそうか。

 

「無茶しないで」

 

「できるだけ」

 

「“できるだけ”って言う人は、だいたいするのよ」

 

 疲れた顔のまま、少しだけ笑った。

 その笑いが妙に現実だった。

 

 受け取ったヴァリスは重くない。

 だが、初めて自分の手で迷宮から持ち帰った金だ。

 

 命を削って得た現金。

 そう思うと、生々しい。

 

 

 夜。

 

 星屑の庭へ戻る。

 

 井戸で血と灰を洗い流す。

 水が赤く濁り、石畳を伝う。

 自分の血も少し混じっている。

 だが大半は奪った側の痕跡だ。

 

 恐怖は遅れて来なかった。

 代わりに、現実感だけが濃く残る。

 

 殺した。

 生き残った。

 換金した。

 戻ってきた。

 

 それだけだ。

 でも、それだけで十分重い。

 

 中庭へ出ると、アストレア様がいた。

 手には、温かい茶器が二つ。

 

「おかえりなさい、レックス」

 

「ただいま戻りました、アストレア様」

 

 藍色の瞳が、俺の姿を静かに見る。

 

「……濃い匂いがするわね」

 

「そうですね」

 

「でも、生きて帰ってきた」

 

「はい」

 

 ベンチへ座る。

 隣にアストレア様。

 届かない距離。

 でも、温もりはある。

 

 茶を飲む。

 熱が内側へ落ちる。

 

「初めてのダンジョンは、どうだったかしら」

 

「予定通りでした」

 

 少し考えて言い直す。

 

「死にかけました。でも、生き残りました」

 

 アストレア様は静かに頷いた。

 

「初めて命を奪った感触は?」

 

「重かったです」

 

 事実だけを置く。

 

「文字やゲームみたいにはいかなかった。肉は硬かったし、血は熱かった。でも、迷いはなかった」

 

 アストレア様は怒らない。

 ただ、その重さごと受け取る。

 

「それが現実の重さね」

 

「はい」

 

「そして、あなたはそこから目を逸らさなかった」

 

 少し間を置く。

 

「他には?」

 

 俺は息を吐いた。

 

「……少し厄介な拾い物をしました」

 

 アストレア様が首を傾げる。

 

「拾い物?」

 

「芋で釣れる野良猫みたいなのを」

 

 アストレア様の目が少しだけ丸くなる。

 そこから、今日のことを話した。

 

 アイズ。

 イレギュラーな群れ。

 連携に近い形で死角を埋めたこと。

 芋の携帯食で空気が変わったこと。

 ロキ・ファミリアの首脳陣に見つかったこと。

 

 聞き終えたアストレア様は、小さく息を吐いた。

 

「……アイズ・ヴァレンシュタイン」

 

 その名を静かに繰り返す。

 

「ロキが大切にしている子ね」

 

「そうらしいです」

 

「その子もまた、深いところを見すぎているのかもしれないわ」

 

「深いところ?」

 

「ええ。痛みや憎しみだけを見つめ続けると、視野は狭くなるもの」

 

 少しだけ、アイズの金色の瞳を思い出す。

 狂気と幼さが同居していた。

 

「あなたは、助けるつもりで踏み込んだの?」

 

「最初は違います」

 

 俺は即答する。

 

「計画外でした。無視して引き返す方が、俺の生存率は高かった」

 

「でも、行ったのね」

 

「ええ」

 

 少しだけ言葉を探す。

 

「そこで九歳の子どもを見捨てて戻るのは、たぶん俺の中で駄目だった」

 

 アストレア様は黙って聞く。

 

「立派な正義とかじゃないです。ただ、その選択をしたら、次から自分の刃が鈍る気がした」

 

 それが本音だった。

 

 アストレア様が、やわらかく微笑む。

 

「……そう」

 

「それが、あなたの今日の選択だったのね」

 

「はい」

 

「悔いはある?」

 

 少し考える。

 

 疲労。

 面倒。

 ロキ・ファミリアに目をつけられた可能性。

 全部ある。

 

 でも。

 

「……ないです」

 

 そう答えると、アストレア様は静かに頷いた。

 

「なら、それでいいのよ」

 

 その一言が、妙に深く落ちた。

 

「ロキ・ファミリアからは目をつけられたかもしれません」

 

「構わないわ」

 

 アストレア様は少しだけ悪戯っぽく笑う。

 

「必要なら、神会でロキの文句くらい受けて立つもの」

 

 その言い方に、肩の力が少し抜けた。

 

「レックス」

 

「はい」

 

「あなたはこれからも、分からないまま進むのでしょうね」

 

「そうだと思います」

 

「怖くはない?」

 

「怖いです」

 

 正直に言う。

 

「でも、止まる方がもっと怖い」

 

 アストレア様は少し黙った。

 それから、夜へ溶けるみたいに呟く。

 

「……あなたがいると、私も怖くないわ」

 

 俺はその言葉を、そのまま受け取る。

 疑わない。

 謙遜しない。

 受け取る練習だ。

 

「明日も潜ります」

 

 俺は言った。

 

「もっと強くなる」

 

「ええ」

 

 アストレア様が頷く。

 

「約束よ、レックス。必ず生きて、ここへ帰ってきて」

 

「はい」

 

 星明かりの下、自分の核が少しずつ固まっていくのが分かる。

 

 1%の正義。

 好奇心。

 動かなければ死ぬという感覚。

 そして、選んだことは消えないという実感。

 

 今日の選択は綺麗じゃない。

 でも、悔いはない。

 

 それでいい。

 今は、それでいい。

 

 第4話 血の匂いと、最初の選択 了

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