番外編:間桐慎二の心象風景
そこは、光という概念がとうの昔に死に絶えた、湿った絶望の底だった。
鼻を突くのは、発酵しすぎた納豆と、数十年放置された雑巾を煮詰めたような、肺の奥までこびりつく腐敗臭。見渡す限り、地面はドロドロとした黒い泥濘(ぬかるみ)であり、そこからは毒々しい極彩色のキノコが、死人の指のようにニョキニョキと生え、絶え間なく不気味な胞子を撒き散らしている。
「カカカ……。良い、実に良いぞ。この湿り気、この暗さ。これこそが伝統という名の肥溜めよ」
その庭の主――顔中が蠢く刻印虫の集合体である間桐臓硯が、老いた顔を歪めて笑う。その手には、呪詛という名の汚水がなみなみと注がれた、錆びだらけのじょうろが握られていた。
「さあ、栄養の時間だ。しっかり吸えよ、慎二……。腐って、ふやけて、形を失い、我がコレクションの一部となるのだ」
臓硯がじょうろを傾けると、ドス黒い液体が「一本のワカメ」に降り注いだ。
そう、それは紛れもなく間桐慎二であった。
しかし、今の彼には手も足もない。ただの、ヌルヌルとした、見栄えの悪い海藻――ワカメとして、そのドロドロの土壌に深く、深く根を張らされていた。
「……ぎ……や……めてくれ……っ!」
慎二(ワカメ)は、声にならない悲鳴を上げる。しかし、ワカメの体から漏れ出るのは、気泡の弾けるような情けない音だけだ。
太陽が恋しい。潮風が恋しい。何より、こんなジジイに毎日「熟成が進んでいるのう」と観察される生活から逃げ出したかった。
あまりの不快さに耐えかねた慎二ワカメは、隣でひっそりと、しかし着実に腐食が進んでいる「一本の桜の木」に、必死でそのヌルヌルとしたツルを絡みつかせた。
(一人で腐るのは嫌だ……! 桜、お前もこっちに来い! 一緒にドロドロになれば、少しは寂しくなくなるはずだ……!)
それは、弱者ゆえの、あまりに浅ましくも切実な道連れの抱擁。
慎二ワカメの粘液が、桜の真っ白な幹を汚していく。桜の木は言葉を発しないが、その枝からは、病んだ色の花びらがハラハラと、まるで静かな涙のように慎二の頭上に降り積もっていった。
この不毛な「腐敗菜園」において、植物たちに許されたのは、ただ静かに、共に朽ち果てていくことだけだった。
だが、その時。
閉ざされた庭の「境界」を強引に引き裂くような、野太い、そして暴力的なまでに生命力に溢れた咆哮が響き渡った。
その咆哮は、静止した腐敗の世界を真っ二つに叩き割った。
「――けっ、どいつもこいつも、ツラ貸せや!」
闇の奥から、二つの赤い眼光が猛然と迫りくる。それは『クランの猛犬』の異名に相応しい、青い毛並みを逆立てた巨大な猟犬(クー・フーリン)であった。その口には、庭の暗鬱を切り裂くほどに鋭い「赤い刺突の枝」が咥えられている。
「おい、クソジジイ! お前の趣味が悪いのは知ってたが、家庭菜園のセンスまで最悪とはな。この庭、シンプルに『鼻が曲がる』んだよ!」
犬が吼えると同時に、その背後から巨大な「影」が這い出した。
桜の木を汚すワカメ(慎二)の粘液を見た瞬間、その影が鎌首をもたげる。それは、深紫の鱗に包まれた巨大な蛇(メドゥーサ)。その眼光には、石化すら生ぬるいほどの純粋な殺意が宿っていた。
「……汚らわしい。そのヌルヌルとした身を、これ以上桜に寄せないでください。この――低級な海藻が」
蛇の尻尾が、鞭のごとき速度でしなり、慎二ワカメをベチィィィン! と豪快に叩いた。
「ギャワッ!?(痛い! 僕は植物なんだぞ、叩けば折れるだろ!)」
慎二ワカメが悶絶するのも構わず、蛇は桜の幹にその巨体を巻き付け、結界のようにガードを固める。
対して、自らの「畑」を荒らされた臓硯(虫)が、無数の羽音を立てて激昂した。
「おのれ、野良犬風情が……! ワシが手塩にかけたワカメと桜に、土足で踏み入るか!」
臓硯の姿が崩れ、数万の刻印虫が巨大な「農夫の怪物」へと合体していく。手にしたクワからは、腐敗を加速させる胞子が霧のように噴き出した。
「カカカ! 貴様らもまとめて肥料にしてくれるわ!」
「肥料だぁ? 寝言は寝て言え、干し柿ジジイ!」
犬が地を蹴った。
その動きはもはや動物の域を超え、青い閃光となって虫の群れに突っ込む。咥えた枝を旋回させるたび、破壊衝撃が走り、臓硯の虫たちがミンチとなって撒き散らされる。
一方、蛇は一歩も動かぬまま、迫りくる羽虫をその「眼光」だけで次々と石像へと変えていく。庭には、断末魔の代わりに「カツン、カツン」という無機質な石の音が響き渡った。
「……犬。桜は私が守ります。あなたはその不快なワカメを、どこか遠く……そうですね、この世の果てにでも捨ててきなさい」
「言われなくてもそうするぜ! ったく、このヌルヌル、噛み心地が最悪だ!」
犬は猛然と慎二ワカメに歩み寄ると、その根っこ(?)を土ごとボリボリと噛み砕き始めた。
「ムグッ!?(やめろ! どこを噛んでる! せめて軍手を使え!)」
抵抗するワカメの叫び(気泡音)を無視し、犬は慎二を豪快に咥え上げ、凄まじい脚力で「庭の境界線」へと向かって疾走を開始した。