おやすみ、バカ兄貴   作:みそそ

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脱出

「――しっかり掴まってろよ(というか噛み付いてるがな)、ワカメ野郎!」

青い犬(ランサー)の喉の奥から、地響きのような唸りが漏れる。

犬は慎二ワカメを口に咥えると、そのまま首を力任せに振り抜いた。

「ベリベリベリッ!!」という、生きた植物を引き剥がすにはあまりに不吉な音が響き渡る。長年、間桐の腐った泥に依存し、深く根を張っていた慎二の「執着」が、物理的な痛みとなって彼を襲った。

「ブクブクッ!?(ぎゃあああ! 根っこが! 僕のアイデンティティ(根)が引きちぎれる!!)」

慎二ワカメが泡を吹いて悶絶するが、犬は止まらない。

背後では、臓硯(虫)が「ワシの……ワシの最高級ワカメがぁぁ!」と、農作物を盗まれた農夫のような執念深さで、黒い触手の波となって追いかけてくる。

「蛇女! あとは任せたぜ!」

「……ええ。一匹たりとも、この境界(さく)は越えさせません」

蛇(メドゥーサ)は桜の木を守るようにとぐろを巻き、迫りくる虫の津波を「石化の魔眼」で次々と静止したオブジェへと変えていく。その背後で、犬は慎二ワカメを咥えたまま、次元の壁とも言うべき「庭の柵」に向かって猛然と跳躍した。

それは、救出というにはあまりに野蛮であり、植え替えというにはあまりに暴力的であった。

「……あ……あががが……」

慎二ワカメの視界を、猛烈なスピードで流れる景色が掠めていく。

犬の牙がワカメの身に食い込み、そこから大事な成分(ワカメの出汁)が漏れ出していく。だが、不思議と恐怖はなかった。

自分を縛り付けていた、あのじめじめとした土の感触が遠のいていく。

鼻を突き刺していた死の臭いが、犬の駆ける風によって吹き飛ばされていく。

「おい、死ぬんじゃねえぞ。てめえの本当の居場所を見せてやる」

犬の言葉と共に、世界が大きく歪んだ。

不毛な庭の柵を突き破り、一匹の動物と一房の海藻は、無限の虚空へと飛び出した。

「(……ああ……そうか。僕は、ただ、外に行きたかっただけなんだ……)」

意識が遠のく中、慎二ワカメは初めて臓硯への恨みも、桜への執着も忘れ、ただ自分を運ぶ「青い獣」の温かさだけを感じていた。

 

「よっしゃ、着いたぜ! ここがお前の『終着点』だ!」

犬(ランサー)が足を止めたのは、切り立った断崖の頂だった。

目の前に広がっていたのは、これまでの暗澹たる庭が嘘のような、どこまでも続く水平線。空と海が溶け合う、圧倒的なまでの「蒼」の世界。

「ブク……?(う……海……?)」

慎二ワカメの瞳(らしき細胞)に、その輝きが映り込む。

だが、余韻に浸る暇など、この野性味溢れる猟犬が与えてくれるはずもなかった。

「腐った根っこも、じめついた過去も、全部ここで洗い流してこい!」

犬は慎二ワカメを高く放り投げると、空中でその鋭い脚を振り抜いた。

「戦士の矜持(ゲイ・ボルク)」を込めた、渾身の……ボレーシュート。

「――いってらっしゃい、ワカメ野郎ッ!!」

「ギャアアアアアアアアアアアアア!!」

慎二ワカメは一筋の青い流星となり、空を切り裂いた。

重力から解放され、吹き付ける風がワカメの表面にこびり付いた虫の卵や呪詛の泥を、一枚、また一枚と剥ぎ取っていく。

そして、運命の瞬間。

 

【挿絵表示】

 

「ドッボォォォォォォォォン!!」

激しい水柱と共に、慎二は冷徹なまでの「真水」ではなく、母なる「海水」へと抱かれた。

「…………っ!!」

冷たい。だが、驚くほどに心地よい。

海水が、傷ついたワカメの体内に染み渡る。

内側から満たされていく感覚。

自分を縛っていた重い泥の記憶が、波に洗われて霧散していく。

(……ああ……これだ……)

深くて、広くて、誰も自分を縛らない自由な世界。

慎二ワカメは、ただ潮の流れに身を任せ、どこまでも沈み、どこまでも浮かんでいく。

もう、腐る必要も、道連れを探す必要もない。

ただのワカメとして、この透き通った青の一部になれた。

(……ああ……気持ちいい……)

その幸福な開放感が絶頂に達した瞬間、慎二の視界は真っ白な光に包まれた。

 

「……ん……っ」

頬を撫でる、さらりとした空気の感触に、慎二はゆっくりと目を開けた。

そこには、ドロドロの泥も、まとわりつく虫の羽音も、自分がワカメであるという悪夢のような事実もなかった。

視界に飛び込んできたのは、冬木の高い空から降り注ぐ、透き通った午後の陽光。開け放たれた窓から入り込む風は、あの夢の中の海のように涼やかで、慎二の鼻腔をくすぐっていた。

「……あ。……なんだ、夢か」

慎二はベッドの上で上体を起こし、自分の「手」を確かめるように握ったり開いたりした。粘液などついていない、どこまでも清潔で、乾いた人間の手だ。

ふと、足元の方で「グー……」という野太い寝息が聞こえた。

視線を向ければ、そこには床に大の字になって爆睡している青い男――クー・フーリンの姿があった。

昨晩、どちらかが音を上げるまでやめないと意地を張った対戦ゲーム。結局、朝方まで騒ぎ散らかして、そのまま行き倒れるように眠ってしまったのだ。

「……あんなに強引に放り投げなくたって、いいじゃないか」

夢の中でワカメだった自分を海へ蹴り飛ばした、その足の持ち主を見下ろして、慎二はふっと小さく吹き出した。

不思議と、心は驚くほど軽かった。

あの湿った、暗い庭の閉塞感はもうどこにもない。

慎二はベッドから抜け出し、窓辺に立って大きく背伸びをした。

「さて……。いつまで寝てるんだ、あのバカ犬は。さっさと起きないと、僕の特上の昼飯にありつけないぞ」

窓の外には、どこまでも続く青い空。

慎二は、自分を「外」へと連れ出した騒がしい同居人を起こすため、心地よい風の中で一歩を踏み出した。

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