ハリー・ポッターと虹の女神   作:セバスチャン

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※7/15:Petal13 → Petal13と14に分けました。
※作中の後半に、暴力的な表現、R-15的な表現が含まれます。苦手な方はご注意ください。


Petal14.第二の課題

 いよいよ”第二の課題”の前夜、ハリーは空き教室で、イリスがフィルチに借りた――大きな水槽の中にいた。彼の顔の周りには大きな泡があり、同じ泡を顔にくっつけたイリスが水中人の役をして、”大切なもの”に見立てたファイアボルトの前に立ちはだかっている。イリスはハグリッドから借りた木製の槍を突き出したり、水槽の底に浮かぶ海藻を動かして、ハリーに巻き付けようとしていた。

 

 水槽の縁にはロンが腰かけ、ハリーが練習用にとダース買いしたWWWの商品「鼻食いつきティーカップ」を時々投げ込んだ。それらを避けながら、彼はクルクルと泳ぎ回った。複雑に絡みついた海藻を解くのには、シリウスがクリスマスプレゼントにくれた”魔法のペンナイフ”――何でもこじ開ける道具と、どんな結び目も解く道具が付いている――がとても役立った。水槽の外では、ハーマイオニーが腕時計を見ながら、ロンやイリスに指示を送ったり、じっと観察したりしている。やがてハリーの泡がパチンと弾け、彼は急いで水面に顔を出して大きく息を吸い込んだ。

 

「四十五分三十二秒。ウーン・・・まずまずね」ハーマイオニーが言った。

 

 その時、空き教室のドアを遠慮がちに叩く音がした。――ネビルだ。ふっくらとしてあどけない顔が、ドアの影から四人の様子を興味深げに眺めている。

 

「ごめんね。イリス、一緒に来てほしいんだ。マクゴナガル先生が呼んでるの」

「私?」

 

 ――一体、何のご用事なんだろう。四人は思わず顔を見合わせ、首を傾げた。だが、とにかく行かなければ。イリスはハリーとロンの手を借りて水槽を這い出すと、杖を振って濡れた衣服を乾かし、ネビルの跡を着いて行った。

 

 

 翌朝になっても、イリスは寮に帰って来なかった。三人はイリスの身を案じたが、マクゴナガル先生がやって来て「ゴーントについては何も心配いりません。それよりもポッター、しっかりと試練をこなしなさい」と激励を送って去って行った。ハリーは何とか朝食を終え、重い足取りで湖へ向かった。十一月にはドラゴンの囲い地の周りに作られていた観客席が、今度は湖の反対側の岸辺に沿って築かれている。何段にも組み上げられたスタンドは満席で、下の湖に大きな影を映し出していた。大観衆の興奮したざわめきが、湖面を渡って不思議に反響するのを聴きながら、ハリーは湖の反対側に回り込んで、審査員席に近づいた。水際に金色の垂れ布で覆われたテーブルが置かれ、審査員が着席していた。――クラウチ氏が座る所には、代わりにパーシーがいた。まるで自分の王国を見るような尊大な眼差しを、湖面に向けている。

 

 ――やれることはやったんだ。ハリーは湖の冷たそうな水面を見下ろして、自分に何度も言い聞かせた。ルードが代表選手の中を動き回り、湖の岸に沿って、三メートル間隔に選手を立たせた。ハリーは一番端で、クラムの隣だ。ハリーは他の選手と同じようにローブを脱ぎ、杖を構えた。

 

 ホイッスルが冷たく静かな空気に鋭く鳴り響くと、スタンドは拍手と歓声でどよめいた。ハリーはすぐさま”泡頭の呪文”を唱え、冷たい水の中に飛び込んだ。たちまち凍るような水がハリーの皮膚を鋭く突き刺したが、イリスとハーマイオニーが独自に研究を重ね、彼が水の中で魚のように泳げるようにと――様々な魔法を掛けてくれた”特製の水着”のおかげで、その冷たさは徐々に心地良いものだと感じられるようになっていった。狭い水槽の中から解き放たれた魚のように、ハリーは夢中で水を搔いた。見た事もない、暗い、霧のかかったような景色を下に観ながら、彼は泳ぎ続けた。

 

 時折水魔がやって来て、ハリーの腕を掴んだが、なんとか訓練通りに引っ張って振り解き、彼らをやり過ごした。ハリーは少しスピードを落とし、周りを見回して再び耳を澄ませた。水の中でゆっくり一回転すると、くぐもった静寂が前にも増して強く感じられた。今はもう、湖の随分深いところにいるに違いない。彼は黒い泥地が広々と続く場所を通り過ぎた。水を搔く度に黒い泥が巻き上がり、辺りが濁った。そしてついに、あの耳について離れない、特徴的な”水中人歌(マーピープルソング)”が聴こえて来た。

 

 ”探す時間は、一時間 取り返すべし、大切なもの”♪

 

 ハリーはローブのポケットを探り、懐中時計を取り出した。――しかし、時計は止まっていた。今はもう何時かも分からない。こんな事なら定期点検をした時に、防水処置もしてもらえば良かった。ハリーは唇を噛み締め、急いで泳ぎ続けた。水中人歌を追って、巨大な岩――槍を手に巨大イカを追う水中人の絵が描かれている――を通り過ぎた。

 

 藻で覆われた荒削りの石の住居の群れが、薄暗がりの中から姿を現した。あちこちの暗い窓から覗いている顔は、ハリーが想像していた人魚の姿とは似ても似つかなかった。水中人の肌は灰色がかっていて、海藻のようにボウボウとした長い暗緑色の髪をしていた。目は黄色く、あちこち欠けた歯も黄色だった。一人、二人は力強い尾鰭で水を打ち、槍を手に洞窟から出て来て、ハリーを良く見ようとした。

 

 やがて目の前が開け、広場のような場所に突き当たった。そこには大勢の水中人がいて、その真ん中で水中人コーラス隊が歌い、代表選手を呼び寄せている。その後ろに、大岩を削った巨大な水中人の像が立っていた。その像の尾の部分に、四人の人間がしっかりと縛り付けられている。その内の一人を見て、ハリーは声にならない声で叫んだ。

 

 ――()()()だった。ハリーが水中人から取り返さなければならない”大切なもの”とは、彼女の事だったのだ。エロイーズ・ミジョンと、レイブンクローの上級生、チョウ・チャンの間に縛られ、ぐっすりと眠り込んでいる。頭をだらりと肩にもたせかけ、口から細かい泡がぷくぷくと立ち昇っていた。チョウの横にいるのは、小さな少女だった。その銀色の豊かな髪から、ボーバトン校の代表選手、フラーの妹に違いないとハリーは思った。

 

 ハリーは人質の方へ急いだ。そしてポケットからペンナイフを取り出し、イリスの縄の結び目を解いた。イリスは気を失ったまま、湖底から数十センチのところに浮かび、水の流れに乗って漂っている。ハリーは彼女の体じゅうを注意深く観察した。――どこも怪我をしているところはない。彼は安堵して肩の力を抜いた。

 

 イリスを水中人から離れたところに浮かばせると、彼はキョロキョロと辺りを見回した。――他の代表選手が来る気配はない。『何をもたもたしているんだ?』――焦ったハリーはエロイーズの方に向き直り、ペンナイフを取り出した。するとたちまち屈強な灰色の手が数本、彼を抑え込んだ。五、六人の水中人が、緑の髪を振り立て、声を上げて笑いながら、ハリーをエロイーズから引き離そうとしていた。

 

「自分の人質だけを連れて行け」イリスの方へ顎を向け、水中人の兵士が笑った。

「他の者は放っておけ」

「それはできない!」

 

 ハリーは激しい口調で言い返したが、その声は泡の中でわんわんと反響するだけだった。水中人は”一時間を過ぎれば大切なものは二度と戻らない”と歌った。もし他の代表選手達が助けられなければ、エロイーズ達は永久に失われてしまう。――冷静に考えれば、いくら試練とは言っても、ダンブルドアが人質を危険に晒すような事をする筈がないと分かりそうなものだが、この暗く不気味な湖底と、槍を持った恐ろしい外見の水中人に取り囲まれるといった異常な状況に置かれたハリーは、歌の内容は真実であるとすっかり信じ込んでしまっていた。

 

「他の人達を死なせる訳にはいかない!お願いだ!」

 

 ハリーは邪魔をする水中人達を振り払おうともがいたが、彼らはますます大声で笑いながら、少年を押さえつけた。銀色の髪の小さな女の子は、透き通った真っ青な顔をしている。ハリーは必死になって周囲を見回した。――他の選手はどうしたんだ?イリスを湖面まで連れて行ってから、戻ってエロイーズ達を助ける時間はあるだろうか?だが戻った時、また彼女達を見つける事ができるだろうか?

 

 その時、水中人が興奮してハリーの頭上を指差した。見上げると、セドリックがこちらを泳いでくる。同じ”泡頭の呪文”を使っているのだろう、頭の周りに大きな泡が付いていた。彼の顔は、その中で奇妙に広がって見えた。

 

「道に迷ったんだ」パニック状態のセドリックの口がそう言っている。

「フラーとクラムも今来る!」

 

 ハリーは心の底から安堵した。セドリックがチョウの縄を切るのに手間取っているのを見ると、ハリーは躊躇いなく自分のペンナイフを差し出した。セドリックは驚いたように目を見開いて、ハリーに「ありがとう」と口を動かしてお礼を言った。そしてすぐさま縄を解き、チョウを引っ張り上げ、姿を消した。――あと二人。ハリーは油断なく周囲を見回した。

 

 やがて水中人の恐怖の叫び声が聴こえた。思わず振り返ると、水を切り裂くように近づいてくる怪物のようなものが見えた。――水泳パンツを履いた胴体にサメの顔、恐らくクラムだ。クラムは真っ直ぐにエロイーズのところに来て、縄に喰いつき、噛み切ろうとし始めた。しかし残念ながら、クラムの新しい歯は、”ロープを切る”といった繊細な作業に凡そ適していないようだった。このままではエロイーズが怪我をしてしまう。ハリーはまたも飛び出して、クラムにペンナイフを渡した。クラムは大きなサメの頭をこくんと下げるとナイフを受け取り、縄を解いて、エロイーズの腰のあたりをむんずと抱え、湖面目掛けて急速浮上していった。

 

 ――さあどうする?ハリーは必死だった。フラーが来ると確信できるなら・・・。しかしそんな気配はまだない。『もうこうするしかない』――ハリーはクラムが放り出したペンナイフを掴み、少女の元へ向かった。しかし水中人達は少女を取り囲み、彼に向かって首を横に振った。

 

「邪魔するな!」

 

 ハリーは思わず杖を引き抜いて、声にならない声で怒鳴った。すると水中人はハリーの言っている事が分かったのか、急に笑うのを止めて、彼の杖をこわごわと見始めた。――手応えありだ、ハリーは思った。彼らは明らかに杖を持った自分を怖がっている。どうやら彼らは、魔法についてはマグルと同じ程度の知識しか有していないらしい。

 

 ハリーが大袈裟な動作で杖を振るうと、水中人は蜘蛛の子を散らしたように逃げて行った。すかさず飛び込んで少女の縄を解くと、彼はイリスと少女の腰をそれぞれの腕で掴んで、湖面を力いっぱい蹴り上げた。

 

 しかしそれは、なんともノロノロとした作業だった。いくらハリーが必死になって足をバタつかせても、イリスとフラーの妹は、ジャガイモをいっぱい詰め込んだ袋のように彼を引きずり下ろした。湖面までの水は暗く、まだかなり深いところにいる事は分かっていたが、ハリーはしっかりと頭上を見つめていた。やがて水中人が一緒に上がって来た。彼が水と悪戦苦闘するのを眺めながら、周りを楽々泳ぎ回っている。――時間切れになったら、水中人は自分を湖深く引き戻すのだろうか?ハリーは疲れて朦朧とした意識で、そう思った。水中人は人を食うんだっけ?泳ぎ疲れて、何度も足が攣った。イリスと少女を引っ張り上げようとしているので、肩も激しく痛んだ。

 

 やがて息が苦しくなってきた。冷たい水がますますハリーの上に圧し掛かり、不気味な笑い声がくぐもって聴こえて来る。”泡頭の呪文”の効果が切れたのか、水が口に、そして肺にどっと流れ込んで来た。――ダメだ、呼吸ができない。今にも力尽きようとするハリーの目に、明るい陽光が飛び込んで来た。湖面に映る銀色の光が太陽のように眩く輝いている。その美しい光景は、彼に”ある情景”を思い出させた。

 

―――――――――

 

 

 

――――――

 

 

 

―――

 

 去年に行われたクィディッチの試合で、ハリーがディメンターに襲われて深い絶望に苛まれた時、イリスは”守護霊”を出して自分を守ってくれた。ハリーは清らかな銀色の光の中で、成長を重ねる中で自分がいつの間にか忘れてしまっていた”大切な思い出”を見た。彼が魔法界に飛び込んでから今までに出会った、大勢の人々との素晴らしい記憶も。

 

 イリスはハリーにとって、人生で一番最初に出来た”友達”だった。ダイアゴン横丁で、彼女は自分に誕生日のお祝いをしてくれた。あの時の感動を、ハリーは生涯忘れる事はないだろう。――イリスは何も知らず、何も持っていなかった僕に、沢山のものを教えて、与えてくれた。僕を本当に愛してくれるシリウスと一緒に暮らせるようになったのだって、間違いなく彼女のおかげだ。僕は今、沢山の人々の愛に包まれて、とても幸せだ。

 

 ――その時、ハリーは”イリスに愛の告白をして振られてしまった事”が、急に()()()()()()()に感じられた。どうして僕はそんな下らない事に心を痛め、傷ついていたんだ?イリスの想いが誰に寄せられてるかなんて、どうだっていいことじゃないか。イリスが僕を大切に想ってくれているのは確かだし、僕だってそうだ。”恋人”だなんて――僕はそんなものよりずっと深く、彼女を愛している。ハリーはやっと、本当に人を愛するという事に気付いた。

 

 ハリーは最後の力を振り絞り、両足を思いきり強く、早くバタつかせて、水を蹴った。筋肉が抵抗の悲鳴を上げている。頭の中が水浸しで、意識がますます遠のいていく。ハリーは歯を食い縛り、二人の少女の腰を強く引き寄せた。止めることはできない、止めてたまるか・・・。

 

 

 その時、ハリーの頭がついに水面を突き破った。素晴らしい、冷たく澄んだ空気が、彼の濡れた顔をチクチクと突き差すようだった。彼は思いっきり息を吸い込んだ。そして渾身の力を振り絞って、イリスと少女を水面に引き上げた。ハリーの周りをぐるりと取り囲んで、ボウボウとした緑の髪の頭が、一斉に水面に現れた。皆、彼に笑いかけている。

 

 スタンドの観衆が大騒ぎしていた。叫んだり、悲鳴を上げたり、総立ちになっているようだ。ハリーの目の前で、イリスが口から水をピューッと吹き出して、明るい日差しに目を瞬いた。そして彼を見ると、にっこり微笑んだ。

 

「お疲れさま、ハリー!助けてくれてありがとう。・・・あれ?」

 

 イリスは目を瞬かせて、少女を心配そうに見つめた。少女はひどく混乱して怖がっているようで、イリスの肩をギュッと掴み、彼女の影にさっと隠れた。

 

「ガブリエル、大丈夫?どうしてハリーと一緒にいるの?」

「フラーが現れなかったんだ。僕、この子を残しておけなかった」

 

 ハリーが咳き込みながら言うと、イリスは驚きの余り目を丸くさせ、それから誇らしげに彼を見て笑った。

 

「さすが、私の自慢の()()()()()!」

 

 イリスは言ってしまってから、気まずそうに顔を赤らめて、俯いた。――いつも兄のように思っているから、つい本当に口に出てしまった。しかしそれを聴いたハリーは、嬉しそうにイリスの頭を撫でてくれた。

 

「そうさ。僕は君の兄で、君は僕の大切な妹だ」

 

 二人は幸せそうに笑い合った。『イリスが僕の妹』――その言葉は何の障害もなく、自分の心の奥にストンと収まった。そうだ、彼女は”僕の妹”なんだ。ハリーは愛おしげにイリスを見つめた。世界でたった一人の―とても大切な―僕の小さな妹。それで充分じゃないか。

 

 それから二人は少女を引っ張り、岸へ泳いで行った。二十人の水中人が、ハリーを祝福するかのように歌いながら、その跡を護衛兵のように付き添った。岸辺ではマダム・ポンフリーがスニッチのように素早く動き回り、セドリック達の世話をしている。ダンブルドアとルードがハリー達を岸に引き上げ、にっこりと笑いかけた。

 

「ガブリエル、ガブリエル!」

 

 マダム・マクシームの制止を振り切って、フラーが真っ青な顔で、寒さに震える少女をしっかりと抱き締めた。ツンと取り澄ました普段の姿からは想像もつかないほど、今のフラーはひどく取り乱していた。美しい顔や白い腕は切り傷だらけで、ローブもあちこちが破れていたが、全く気にもかけていない様子だった。

 

「水魔なの、私襲われて・・・ああ、ガブリエル・・・もう駄目かと・・・」

 

 フラーの美しい目が、ハリーを見つめた。

 

「あなたは私の妹を助けてくれました」フラーは声を詰まらせた。

「あの子があなたの人質ではなかったのに。ああ、メルシーボーク(ありがとうございます)!」

 

 感極まったフラーは身をかがめて、ハリーの両頬に二回ずつキスをした。そのタイミングでシリウスとロン、ハーマイオニー、ジニーがやって来た。ジニーは勿論、その様子を見てぷんぷん怒っていた。シリウスが大型犬のようにわしわしとハリーの頭をかき混ぜていると、ルードの魔法で拡大された声が辺り一帯に響き渡った。

 

 ハリーは代表選手の中で一番最後に到着し、一時間の制限時間も大きくオーバーしていたが、水中人の長の報告によれば――なんと彼は最初に人質が囚われた場所に到着していて、そして遅れたのは自分の人質だけでなく、全部の人質を安全に戻らせようと決意したためだという事が解り、ほとんどの審査員がその気高い行為に高得点を付け、なんとハリーはセドリックと()()()()()となった。観客や審査員、代表選手の皆は、ハリーを暖かな目で見つめ、惜しみない歓声と拍手を送った。唯一、カルカロフだけが、仏頂面で彼を睨み付けていた。シリウスはますます喜び勇んでハリーを抱き締め、彼は恥ずかしがって必死にもがいた。

 

 

 それから月日は平和に流れた。シリウスにホグズミード村を隅々まで観光案内してもらったり、”ダービッシュ・アンド・バングズ魔法用具店”でハリーの時計を修理してもらったりした。スキーター女史は、あの事件以降、ホグワーツ関係の人間を取材するのにすっかり懲りたようだった。その代わりに、彼女は熱心に魔法省についての記事を書き立てるようになった。

 

 ハーマイオニーから借りた今朝の新聞にも、”クラウチ氏の不可解な病気”、”魔法省の魔女バーサ・ジョーキンズ、いまだに行方不明、いよいよ魔法省大臣自ら乗り出す”という大きな見出しが踊っている。イリスはフレンチトーストを切り分けながら、記事の内容をざっと読み込んだ。――”クラウチ氏は十月以来、公の場に現れず”、”家に人影はない”、”聖マンゴ魔法疾患傷害病院はコメントを拒否”、”魔法省は重症の噂を否定”・・・。

 

「まるでクラウチが死に掛けてるみたいだ」ハリーは考え込んだ。

「イリス、大変だぞ。君の継父が危篤みたいだ。いや、夫か?」ロンはソーセージを齧りながら首を傾げた。

「どうせ過労で臥せってるんだろ。”クラウチは働き過ぎだ”ってパーシーが嘆いてたし」

「ウィンキーをクビにした当然の報いじゃない?」

 

 ハーマイオニーは冷たく言い放ち、素知らぬ顔でトーストにマーマレードを塗り始めた。――イリスは”炎のゴブレット”が代表選手の名前を吐き出した日に見かけた、クラウチの姿を思い出した。彼は遠目にも分かるほどに、げっそりと痩せこけていた。本当に大病を患っているみたいに。イリスは今頃地下にいて、せっせと朝食を作ってくれている筈のウィンキーを思い出し、心を痛めた。――もし彼女がこの事を知ったら、どんなに嘆き悲しむだろう。

 

 

 やがて冬は雪解けと共にゆっくりと去り、暖かな春がやって来た。これまでになく穏やかな天気が続き、イリス達はきつく巻き付けていたマントを脱いで、肩に掛けている事の方が多くなった。ハグリッドはあの事件以来、生徒の心を掴む魔法動物は”牙も毒もない生き物に限る”という事をやっと理解してくれたのか、今度は”ニフラー”――光るものが大好きな、フワフワの黒い可愛らしい生き物。もぐらに似ている――を使った、面白い授業を行った。生徒達がそれぞれ選んだニフラーに、畑の中に埋めた金貨を探させ、一番多くの金貨を持ってきた者にご褒美を与えるというものだ。

 

 それは今までの「魔法動物飼育学」の中で、最高に楽しい授業となった。ニフラーはとても可愛く、土の中を魚のように自在に泳ぎ回って、這い出しては、自分の主人達の手に金貨を吐き出した。ロンのニフラーが特に優秀で、授業の終わりに彼は賞品として”ハニーデュークス”の大きな板チョコをもらった。終業のベルが鳴った後、四人は残ってハグリッドがニフラーを箱に戻す作業を手伝った。そしてハグリッドの小屋で、紅茶と一緒に板チョコを皆で山分けして齧っている時、ロンがうっとりとした顔でこう言った。

 

「ねえ、ハグリッド。あのニフラーって奴、ペットとして飼えるのかな?」

「おふくろさんは喜ばねえぞ、ロン」ハグリッドはニヤッと笑った。

「家の中を掘り返すからな、あいつらは。おふくろさんのペンダントをお宝だと持って来たって、それを売る訳にはいかないだろうが?」

 

 ロンはがっくりして落ち込み、ハグリッドは明るい調子で笑った。――やっといつものハグリッドに戻ってくれたような気がして、イリス達はホッと安堵して笑い合った。

 

 

 やがてイースター休暇が始まった。先生方がイースターエッグの代わりに与えた、山盛りの宿題をやっつけながら、イリス達は休みの日々を精一杯楽しんだ。ある朝、いつものように大広間で食事を摂っていた四人は、フクロウが重そうによろめきながら運んできた――モリー夫人お手製のチョコレートエッグと手紙を受け取った。イリスの卵はドラゴンの卵よりも大きく、中には手作りのヌガーがぎっしり入っていた。口いっぱいにヌガーを頬張りながら、イリスは自分宛に届けられた”もう一つの手紙”を読んだ。

 

 朝食を終えると、イリスはハリー達に断りを入れて、一人で医務室へ向かった。そこにはマダム・ポンフリーと共に、リーマスとコマイ、そしてアステリアが待っていた。――イリスの心に、もう迷いはなかった。

 

「私、協力します」

「イリス。本当に、私・・・」

 

 アステリアは青ざめた顔に涙を湛えて、言い淀んだ。イリスは微笑んで、彼女の手を握った。――もう後悔はない。あの特別な夜の思い出は、私の心の内で燃え盛る”新しい魔法の炎”になった。本当にドラコを愛してる。だから私は、彼が幸せになる未来を望む。

 

「あなたの呪いはきっと治るよ、アステリア。そしてしわしわのおばあちゃんになるまで長生きして、好きな人と一緒に暮らすの。・・・幸せになってね」

 

 アステリアは顔をくしゃくしゃに歪めて泣き出して、イリスにしがみ付いた。――その日以降、イリスはリーマスに”付き添い姿くらまし”をしてもらって、定期的に聖マンゴへ通い、コマイの研究に協力する事となった。

 

 

 いよいよ”第三の課題”が一ヶ月前に迫ると、ハリーは他の代表選手達と共に呼び出され、最後の課題は――クィディッチ・ピッチに創り出された”魔法の迷路”を突破し、迷路内に仕掛けられた様々な障害を掻い潜り、”炎のゴブレット”を一番最初に掴む事だと、ルードに説明された。かくしてイリス達は再び、空き教室に集い、危険な迷路を潜り抜けるための様々な呪文を練習するようになった。

 

 そして課題が行われる日がますます近づいたある日の夕方、聖マンゴでの定期検査を終えたイリスは、ホグワーツの校門前でリーマスと別れを告げ、城へ向かって歩いていた。コマイは検査中、魔法薬学に関する新しい知識をたっぷりと与えてくれた。イリスはいつも夢中で聴き込み、その様子に感心した彼は今日、”将来、魔法薬学者になってはどうか”と勧めてくれたのだった。

 

 『魔法薬学者、良いかもしれない』――イリスは嬉しくなって、顔を綻ばせた。今度、授業の終わりにスネイプ先生に相談してみようかな。先生は、一体なんて言うだろう。イリスが想像を膨らませながら、”禁じられた森”の傍を通り抜けようとした時、視界の端で何かが動いた。――木立の中で、何かが蠢いている。イリスは反射的にその方向を見て、大きく息を飲んだ。

 

 大きな樫の木の影から、突然、男がヨロヨロと現れた。一瞬、イリスには誰だか分からなかったが、やがて気付いた。――信じられない、()()()()()だ。彼は何日も旅をしてきたように見えた。ローブの膝が破け、血が滲んでいる。顔は傷だらけで、無精髭が伸び、疲れ切って灰色だ。きっちりと分けてあった髪や口髭は、無造作に伸び、汚れ放題だった。しかしその奇妙な格好も、クラウチの行動の不可解さに比べればなんでもない。絶えずブツブツと何かを呟きながら、身振り手振りで、彼は自分にしか見えない誰かと話し込んでいるようだった。――明らかに普通の状態ではない。イリスは急いで駆け寄った。

 

「それが終わったら、ウェーザビー、紅茶を一杯もらおうか。妻と息子がまもなくやって来るのでね。今夜はファッジご夫妻とコンサートに行くのだ」

「クラウチさん!」

 

 イリスは大声で呼びかけ、クラウチの肩を小さく揺さぶった。彼はイリスに目も向けず、木の幹に向かって話していたが、やがてよろめいて、膝を突いた。イリスが再度呼びかけたが、反応はない。正気を失った目はグルグルと回り続け、涎が一筋、だらりと顎まで流れている。――この人は病気なんだ。イリスが慌てて杖を引き抜き、スネイプに”守護霊”を送ろうとした瞬間、突然クラウチがイリスのローブをぐっと握って引き寄せた。その目は彼女を通り越して、あらぬ方向を見つめている。

 

「ダンブルドア!」クラウチが喘いだ。

「私は――ダンブルドアに――会わなければ。馬鹿な事を――してしまった」

「立てますか、クラウチさん。一緒に行きましょう」

 

 ――クラウチは一言一言、言葉を発する事さえ苦しそうだった。イリスはクラウチに声を掛け、立ち上がらせようと力を込めた。すると、クラウチの目の動きがピタリと止まり、こちらを見た。

 

「誰だ、君は?」囁くような声だ。

「・・・イリス・ゴーントです」

 

 『自分の名前を言って、クラウチさんが怖がってパニックになったらどうしよう』――そう案じながらも、素直にイリスが自分の名前を告げたとたん、クラウチの口からか細い悲鳴が漏れた。そして彼ははっきりとした声で、こう叫んだ。

 

「今すぐ――ここから――逃げなさい!これは――()()!」

 

 クラウチの言葉が終わるか終わらないかの内に、イリスの背後から赤い光線が襲い掛かった。イリスは反射的に杖を振り、”守りの呪文”を展開して辛くも防いだ。木立の奥に、自分に杖先を向けた、一人の魔法使いが立っている。彼女は目を凝らし、そして息を飲んだ。

 

 ――()()()()()()だった。杖先を一ミリもずらす事なく、彼は確かな足取りでイリスに迫った。『どうして先生が私に攻撃を?』――イリスは余りのショックに頭がぼうっとなり、身体が氷のように冷たくなっていくのを感じた。

 

「ゴーント。お前を()()()()()()へ連れて行かねばならん。杖を捨てろ」

 

 ムーディはクラウチに一瞥をくれた後、イリスを見据えた。『恐らくムーディは、君を警戒しているのだろう』――かつてスネイプ先生に掛けられた言葉が、心の中で残酷に響き渡った。きっと先生は、私がクラウチさんに害を成したのだと思っているのに違いない。イリスは今にも倒れそうなほどに震える足を何とか踏ん張って、ギュッと唇を噛み締めた。”然るべき場所”――それはアズカバンの事だ。イリスは必死に考えを巡らせて、口を開いた。

 

「先生、私はクラウチさんを傷つけていません。突然、森の奥から現れたんです。彼はダンブルドア先生に会いたがっています。早く連れて行かないと」

「杖を捨てろと言っているのだ、ゴーント」ムーディは冷ややかな口調で、そう繰り返すだけだった。

「お前を傷つけたくはない」

 

 ムーディの青い目は、かつてクィディッチ・ワールドカップで”闇の印”が打ち上げられた夜、クラウチ氏が自分に向けた目と、”同じメッセージ”を放っていた。――自分を悪い魔女だと信じて疑わない目だ。イリスは観念して、杖を下ろそうとした。これ以上、ムーディと膠着状態を続けても埒が明かないし、クラウチさんの心身の状態が一番心配だ。きっと私はムーディに失神術を掛けられるけれど、身の潔白はスネイプ先生やダンブルドア先生がいずれ証明してくださるだろう。クラウチさんは医務室で然るべき治療を受けられる。この方法が一番良いんだ。

 

 『心の内が見えぬ者は信じるな。そしてそれは、私も含めてだ』――その時、イリスに警告を放つかのように、スネイプの言葉がふと耳元でこだました。イリスは杖を握り直し、ムーディの心を”盗み見”しようと試みた。しかし見えない壁に弾かれ、進む事ができない。――心を閉じられている。

 

 『表面上は優しい笑顔を浮かべているが、その裏で悪しき事を考える者は、吐いて捨てるほど存在する』――カルカロフの愛想の良い笑顔が蘇り、イリスはごくりと唾を飲み込んで、ムーディを見据えた。それから彼女は勇気をもって、口を開いた。

 

「先生が隠した心を見せていただけるのなら、私は杖を捨てます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、クラウチを観察していたムーディの魔法の目が、プルプルと揺れながらゆっくりと動き、イリスを射抜いた。鋭く突き抜けるような視線だ。やがて歪んだ口元に、ゾッとするような笑いが浮かんだ。

 

「そうだな」

 

 ムーディの声が不意に高くなり、いつもの唸り声ではなくなった。

 

()()()()()()()()()()

 

 ムーディはそう言うと、淀みない動きで杖を振るった。たちまち淡い輝きが杖先から大量に噴き出て、見る間に空を覆い、真珠色にきらめく大きなドームを創り上げた。まるで鳥籠のようだ。警戒心も露わに杖を構えたイリスは、ムーディの普通の目の奥に”虹色の煌めき”を見出した。

 

 ――イリスの知らない男性が、ピーターの抱えている赤子のようなものの小さな手に、恭しく口付けている。恍惚とした表情で左袖をまくり、”闇の印”を見せている。男性はピーターと共にムーディを襲い、彼の髪の毛を切り取って、瓶の中に入れて飲んだ。すると彼は見る間に、年老いた魔法使いの姿へと変身していく。――イリスは全身が総毛立った。この人はムーディ先生じゃない、”ポリジュース薬”を飲んだ()()だ!

 

「あなたは誰?!」

 

 イリスは叫んだ。しかしムーディは応える事無く、イリスに”失神呪文”を放った。再びそれを”守りの呪文”で弾き飛ばすと、イリスは素早く木の裏に逃げ込んで救援信号を放った。しかし赤い光はスネイプに届く事無く、ドームの内側で儚く砕け散った。――とても強靭な結界だ。イリスは恐怖の余り、木立の中で震え上がった。この人は何が何でも、自分達をここから出させない気なんだ。彼女は杖を握り締め、自分の心の炎に問い掛けた。誰も助けてくれる人はいない。私は一体、どうするべきなの?

 

 『戦うしかない』――やがて魔法の炎は、静かにそう応えた。イリスは覚悟を決め、騎士のように杖を顔の前で構えて、木の影から飛び出した。その構えはスネイプとの戦闘訓練の時、彼が良くしていたものだった。イリスは多くの呪文と一緒に、その動作も無意識の内に習得していたのだ。しかしそれを見たとたん、ムーディは激しい嫉妬に狂ったような顔で、憎々しげに叫んだ。

 

「あの卑怯者と同じ構えだ。お前のローブには、あの陰気臭い薬草の匂いが染みついている!」

 

 二人の杖先から眩い光線が迸り、中空で激しくぶつかり合った。最初は拮抗しているように見えたが、見る間にムーディの呪文がイリスの呪文を喰らい尽くしていく。力量差は歴然としていた。今にも自分の杖先をムーディの光線が舐めようとした時、イリスは辛くもスニジェットに変身して木立へ逃げ込んだ。彼女はすぐさま人間の姿に戻ると、茂みの中からそっと杖を出して、ぼんやりと佇むクラウチに”守りの呪文”を唱えた。

 

「本来は俺が教える筈だった。あの裏切り者の蛆虫ではなく、この俺が!」

 

 余りの悔しさに歯噛みするムーディの魔法の目がグルグルと激しく動いて、茂みの中に隠れたイリスを射抜いた。ムーディは茂みを跡形もなく吹き飛ばし、恐れおののくばかりの少女を引き摺り出すと、その腕を掴んで強く捩じり上げた。腕に強い痛みが走り、杖を落としてしまったイリスは、思わずムーディの目を見て、恐怖に喘いだ。――その目は、激しい劣情と嫉妬の感情に渦巻いている。

 

「まさかお前は()()()()の事を、奴から学んでいるのではあるまいな?」

 

 その言葉の意図は分かり兼ねたが、イリスはムーディが創り出した縄に縛られる前に、何とかスニジェットに変身して擦り抜け、人の姿に戻って杖を回収し、再びスニジェットになって飛び去る事で難を逃れた。――考えちゃダメだ、そんな暇なんてない。イリスは必死になって、どこかに抜け道はないかとドームじゅうを飛び回った。ムーディは狂気に満ちた笑みで、その様子を見つめている。

 

「飛び回ったところで意味はない。お前の可愛いシーカーの友人は助けに来てくれんぞ」

 

 しかしイリスは、ただ逃げ回るためだけに飛んでいたのではなかった。戦闘訓練の中でスネイプが教えてくれた、”三つの教え”を一生懸命思い出していたのだ。

 

 スネイプは戦闘時において、イリスにこれから教える”三つのルール”を遵守するようにと命じた。一つ目は『敵と決して正面で打ち合わない事』。これはあくまで訓練であり、本番とは全く違う。スネイプはイリスの身の安全を第一に考えて戦うが、敵はそんな気遣いをしてくれない。戦いの技術は様々な場数を踏んでこそ、磨かれるものだ。まだその経験が浅い内は、敵と真正面から向き合うのは危険だと、スネイプは説いた。

 

 二つ目は『スニジェットと人間の姿とに”交互変身”して呪文を繰り出し、変則的な動きを見せる事』。イリスが”動物もどき”として変身するスニジェットは、常人の目にも留まらぬ超スピードで動き回る事が出来る。それに着目したスネイプは、その姿で高速移動して敵の攻撃から身を守り、そして人間の姿に戻って攻撃する、というパターンをイリスにしっかりと覚え込ませた。このトリッキーな動きは敵に読まれにくい。

 

 そして三つ目は『戦いを長引かせない事』。まだ戦い自体に不慣れなイリスは、力の抜き所を知っている敵と異なり、一つ一つの呪文や動作に全力を注ぎ込んでしまう。人間とスニジェットとに”交互変身”する方法は魔法力を食うため、長期戦になればイリスの方が力尽きる。おまけにいくら変則的とは言っても、卓越した能力を持つ魔法使いなら、いずれはイリスの行動パターンを読んでしまうだろう。そうなれば、彼女は負ける。

 

 ”正面から打ち合わない”、”スニジェットに変身して逃げ、元の姿に戻って攻撃”、”短期決戦で終わらせる”――イリスは、これらのスネイプの教えを心の中にしっかりと叩き込んだ。半透明のドームの外に、懐かしい城の灯りが見える。絶対に生き残って、ハリー達のところに帰るんだ。小さな涙を散らし、スニジェットは関節を切り替えて方向転換し、ムーディに向かって飛んだ。――さあ、作戦開始だ。

 

「ステューピファイ、麻痺せよ!」

 

 イリスはスニジェットから人間の姿に戻り、ムーディに”失神呪文”を放った。あえなく呪文は弾かれたが、すぐさまスニジェットに変身したおかげで、彼女は自分に向けて放たれた呪文をひらりと避ける事が出来た。そうしてイリスはドームじゅうを自在に飛んで逃げ回り、時折人間の姿に戻ってはムーディに呪文を繰り出した。

 

「ええい、ちょこまかと・・・!」

 

 ムーディの魔法の目は、高速移動するスニジェットの跡を追って、とても忙しそうにグルグルと回っている。――その様子を見た時、イリスは”ある事”に気付いた。あの魔法の目はあらゆるものを見透かすと授業でムーディ先生が言っていたけれど、その目が捕えきれないもの――例えば、”視界の外にあるもの”までを見通す事はできないんだ。

 

 イリスはポケットからWWWの商品「だまし杖」をありったけ掴み取り、ムーディに投げつけた。それらには”錯乱の呪文”が掛けてあった。『ムーディが自分を握った魔法使いだ』と勘違いした杖達は、それぞれ様々な動物を模したブリキの人形に変身して、彼に襲い掛かっていく。それらを打ち払った後、ムーディは再び魔法の目でイリスを探し、やがて頭上を振り仰いで、大きく目を見開いた。

 

 ――妖しい輝きを放つ月の前に、スニジェットから人の姿に戻ったばかりのイリスが、金色の粒子を散らしてふわりと浮かんでいた。重力に従って落下しながら、彼女は顔のすぐ横に杖をしっかり添えて、”突撃の構え”を見せた。

 

「力比べか、面白い!」

 

 ムーディは悠々とした笑みを浮かべると、イリスが放った光線に、自らの光線を克ち合わせた。かくして二つの呪文は中空で激しくぶつかり合い、やがてムーディの呪文がイリスの呪文を喰らい始めた。

 

 勝利を確信したムーディの体勢が、不意にグラリと大きく傾いだ。ずぶり、と生温く不愉快な感触が、自分の下半身を覆っていく。訝しんだ彼が思わず下を見ると、自分の膝半分までが、なんと()()に沈んでいた。――それはイリスが「だまし杖」の群れに紛れて、彼の足元に放り投げた「携帯沼地」だった。優秀なWWWの悪戯商品は、()()()()()、ムーディの注意を逸らした。だが、たったそれだけで、戦局は充分に変化した。

 

 次の瞬間、ムーディは自分の杖腕に熱い痛みが走り、ハッと我に返った。彼の注意を逸らし、呪文の威力が一時的に弱まった事で、イリスが放った”武装解除呪文”が勝ったのだ。かくしてムーディの杖は遠くの方に弾き飛ばされ、イリスの杖先から噴き出した魔法の縄が彼をきつく縛り上げて、沼地から地面へ放り上げる。イリスは頭上を覆う魔法のドームが少しずつ薄れていく様子を確認してから、ムーディに杖を向けた。すると彼は抵抗するどころか、地面に転がったまま、笑い始めた。

 

「素晴らしい、グリフィンドールに五十点与えよう。縄を解いてくれないか?頑張ったお前にキスをしてやりたい」

「ふざけないで!」

 

 イリスは疲労困憊の余り、今にも倒れそうなほどに霞んだ意識を何とか奮い立たせ、ムーディに怒鳴った。――ムーディは丸腰で、自分は杖を持っている。圧倒的に有利なのはこちら側である筈だ。しかし、イリスが自分にそう言い聞かせても、安心できないほどの――底知れない狡猾さと不気味さを、彼はまだ充分に有していた。

 

「あなたは誰ですか?」

「そう急かすな」ムーディがあやすように優しく言った。

()()()()()

 

 『直に分かる?』――その言葉の意図が分からず、イリスが躊躇って身じろぎしたとたん、ムーディの顔が変わり始めた。傷跡は消え、肌が滑らかになり、削がれた鼻は正常な形になり、白髪交じりの鬣は頭皮の中に引っ込んで、代わりに豊かな薄茶色の髪が生え揃った。木製の義足がゴロンと転がり、健康な足がその場所に生えて来た。次の瞬間、魔法の目が男の顔から飛び出し、本物の目が現れた。――恐らくシリウスよりやや若い位の年頃だろう、白い肌に少しそばかすの散った、精悍な雰囲気を持つその男は、イリスをじっと愛おしそうな目で見つめ、笑った。

 

「俺はバーテミウス・クラウチ。お前の夫となる男だ」

 

 次の瞬間、イリスは背後から襲った赤い光線に撃たれて、意識を失った。――少女の背後には、老いたクラウチがぼんやりと立っていて、杖先を少女に向けている。重力に従って力なく倒れ伏した少女を、縄から抜け出したクラウチが優しく抱き寄せて、その白い頬をゆっくりと撫でた。激しい熱を帯びた目が、イリスに注がれている。

 

「この時をずっと待ち望んでいた。俺がどれほどに、お前を愛しているか・・・」

 

 クラウチは苦しそうに顔を歪めてそう囁くと、かすかに開いたイリスの唇に力強く口付けた。――積年の想いを刻み込むかのように、長く深い接吻を終えた後、名残惜しそうに離れた二つの唇の間には銀の糸が細く伝っていた。

 

「お、お前は狂っている!」

 

 不意にか細い悲鳴が上がり、クラウチは眉を顰めて振り返った。自分の父親が死人のように青ざめた顔でこちらを睨み付け、口の端から涎を散らしながら泣き喚いた。

 

「その子は()()()()()()の子供だ!私が・・・私が、間違っていた。その子は”闇の魔女”ではなかった。お前達のしている事は、常軌を逸している!お前は、あの人に取り憑かれている!呪われたまま、時間が止まっている!狂っている!」

「ああ、そうさ。俺は狂っている」クラウチは悪びれもなく応えた。

「だがそうしたのは、()()()

 

 老いたクラウチはその言葉を聴いた瞬間、絶望に呻いて、その場にうずくまった。クラウチはイリスをそっと地面に横たえると、老いたクラウチに杖を向け、一切の躊躇いも見せずに”死の呪文”を唱えた。恐ろしい緑の閃光が迸り、命を吸い取られた魔法使いはどさりと地面に倒れ伏した。――たった一人となったバーテミウス・クラウチはしばらくの間、じっと父の亡骸を眺めていた。その様子を、妖しい輝きを放つ月だけが静かに見下ろしていた。




原作読んでたら、クラウチが一人で頑張り過ぎてて、泣けてきた…。なんでディメンター魂吸うてもうたん…。
もしイリスと結婚しても、クラウチさんなら上手くやると思います。ウィンキーもいるし。

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