【完結】Fate/stay nightで生き残る   作:冬月之雪猫

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第三十五話「逆鱗」

 黒い炎が堅く覆い被さる天蓋を焦がしている。幾億の呪いを背負いし魔が現世に生まれ出ずる刻を待っている。

 澱み切った空気は吐き気がする程甘ったるい。壁はまるで生き物のハラワタのように脈動している。この場所は正しく異界。

 

「……ごめんな。もう少しで美味しい御馳走を食べさせてやれるから、もうちょっとだけ待っててくれよ」

 

 少年は少女に語り掛ける。

 応えてくれる事など期待していない。

 己はただ、少女の為に尽くすのみ……。

 

「さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

 

 

 全ての準備が整ったのは夜明けの一時間前だった。月明かりを頼りに士郎達は森の中を歩いている。

 

「こっちであってんのか?」

 

 殿を務めるランサーが前方を歩く凜に問う。

 

「イリヤに聞いた話だと、この辺りの筈なんだけど……」

 

 凜は眉間に皺を寄せながら辺りを見回す。大聖杯のある地下へと通じる路を探る。

 イリヤは衛宮邸に残った。これが最終決戦となる以上、戦闘能力を持たない自分では足手纏いにしかならないからと、彼女自身が言い出した事だ。

 一人残して行くのは不安だったが、宗一郎が警護についてくれる事になった。彼なら多少のトラブルがあっても何とかしてくれるだろう。

 今は目の前の事に集中するべきだ。ここより先は死地。一瞬の隙が命取りとなる。

 

「……あったわ」

 

 凜が小川を辿り、その上流に大きな岩盤を発見した。どうやら、横穴があるらしい。

 

「魔術による偽装が施されているけど、ここで間違い無いわ」

 

 人一人が漸く通れるくらいの細い入り口。その先は直ぐに壁となっている。

 普通の人間はまさか壁の先に道があるとは思わず引き返す筈だ。けれど、凜はその壁に手を伸ばす。

 

「うん……。この壁、すり抜けるわ」

 

 そのまま、振り返らずに暗闇へと身を滑り込ませる。その後にバゼットとキャスターが続く。

 

「士郎……」

 

 セイバーが振り向く。その瞳に宿るのは不安や恐怖ではない。

 

「――――大丈夫だ」

 

 士郎は言った。

 

「俺は大丈夫だよ、セイバー。もう、覚悟を決めたから……」

 

 セイバーは士郎が慎二や桜と戦う事を憂いている。

 決戦の準備をする最中、士郎が彼等との馴れ初めなどを語ったからだ。

 士郎にとって、慎二は掛け替えの無い友であり、桜は大事な家族だった。

 

「――――セイバー」

 

 士郎は少し迷うように視線を泳がせてから静かに呟く。

 

「……俺は正義の味方にはなれない」

 

 少し哀しそうに彼は言う。

 

「士郎……?」

「俺は今まで全てを救いたいと思ってた。何一つ、零す事無く救う事を理想としていた。だけど……」

 

 士郎は首を横に振る。

 

「そんな事は無理だって分かった。アーチャーの過去を知った時点で……、いや、ライダーを殺した時点で分かってた。誰かを救うには誰かを切り捨てなきゃいけない」

 

 士郎は深く息を吐く。

 

「もし、誰かを救う為にセイバーを切り捨てなきゃいけない時が来たら……、そう思うと身の毛がよだつ」

 

 十を救う為に一を切り捨てる。それが“正義の味方”の在り方なら、己には不可能だ。

 

「……俺にとっての一番はセイバーだ。何があってもセイバーを失いたくない。切り捨てたくない。もし、セイバーを失ったら、俺はアーチャーと同じになる。結局、正義の味方には成れない。だから――――」

 

 士郎はセイバーの頬を両手で包み込み、囁くように告げた。

 

「俺はセイバーだけの味方になる」

「……士郎。君は……――――」

 

 セイバーが何かを言いかけるより先に士郎はセイバーにキスをした。

 驚き、目を瞠るセイバーに士郎は言う。

 

「生き残るんだ。二人共……。絶対に、何があってもだ」

「……うん」

 

 見詰め合う。この瞬間を永遠にしたい。二人の思いは一つだった。

 けれど、時間は決して停止してくれない。

 気まずそうな咳払いが響き、二人は身体を震わせた。

 

「……いや、悪いとは思うけどよ。ここでゆっくりしてると夜が明けちまうぜ?」

 

 ランサーの言葉に慌てるセイバー。対して、士郎は深く息を吸い、頷く。

 

「ああ、すまない。……行こう」

 

 セイバーの手を握り締めて、士郎は闇へと潜る。セイバーもその後に続く。

 最後にランサーが「やれやれ」と肩を竦めながら続く。

 

 水に濡れた岩肌をゆっくりと歩く。急な斜面になっていて、さすがに手を繋いだままでは降りられない。名残惜しさを感じながらセイバーから手を離す。

 奈落へ通じるかの如く、斜面はどこまでも下に続いていく。百メートル近く下った頃、急に視界が開けた。

 

「遅かったわね」

 

 ジトッと凜が睨みつけて来る。

 

「わ、悪い……」

 

 謝罪しながら辺りを見回す。

 

「思ったより明るいな」

 

 辺り一面に薄っすら緑光を放つ光苔が生えている。

 

「さあ、あまりグズグズしている暇は無いわよ」

 

 セイバーとランサーが合流するのを待ってからキャスターが言う。

 一同頷き合い、暗闇の洞窟を歩き始める。

 

「――――にしても、嫌な空気だな」

 

 ランサーが呻くように呟いた。気持ちは良く分かる。

 この空間に漂う空気は異常だ。吐き気がするような生々しい生命力が満ち溢れている。まるで、生き物の臓物の内側に居るかのような錯覚に陥る。

 歩けば歩くほど、その感覚が高まっていく。向う先こそ、この穢らわしい生命力の源泉なのだろう。

 しばらく歩いていると、大きく開けた空洞に出た。生暖かい空気が体に重く圧し掛かる。

 

「……どうやら、ここが決戦場らしい」

 

 ランサーが前に出る。学校のグランド程もある広々とした空間。その中心に怪物が静かに佇んでいる。

 バーサーカーのサーヴァント、ヘラクレス。暗い魔力を纏いながら怪物は仁王立ちしている。

 

「――――待っていました」

 

 上空から声が降り注ぐ。咄嗟に見上げた先に彼女は居た。暗闇で尚、冴え々々と輝く二つの宝石。

 伝説に曰く、その輝きに呑み込まれたものは身体が石と化したと言う。

 怪物・メドゥーサの魔眼――――、“キュベレイ”。

 

「――――――――ッハ」

 

 けれど、恐れる必要は無い。彼女が如何なる存在であるか、此方は先刻承知。

 神代の魔術師と影の国の女王から教えて請うた騎士。二人が力を併せた以上、如何に凶悪な能力を保有していようと無力。

 僅かな重圧も感じさせず、ランサーは吼える。

 

「テメェの相手は俺がしてやるよ、ライダー!!」

 

 赤き魔槍を振り上げ、狂気染みた殺気を放つランサーにライダーはクスリと微笑む。

 

「生憎ですが、私は貴方と相性が悪い。貴方の相手は彼に任せます」

 

 ライダーの言葉と共にバーサーカーが吼える。莫大な魔力を迸らせ、斧剣を振り上げる。

 

「――――出し惜しみは無しってわけか」

 

 予想はしていた。教会で慎二がサーヴァントを集結させた方法は令呪によるものだとキャスターが見抜いていた。

 慎二がわざわざ長期戦では無く、短期で決着をつけるべく最終決戦を挑んで来た理由もコレだろう。

 令呪による一時的な強化。理性を剥奪したまま、全盛期の力を発揮させる。

 それは嘗て、士郎がセイバーの力を強制的に引き出させた方法と同じだ。

 短期決戦であるが故に出し惜しみをする必要が無くなり、今宵、マキリの陣営は最大最強の戦力を有するに至る。

 

「……となると、作戦はBプランですね」

 

 バゼットがグローブを嵌めながら呟く。

 マキリの聖杯が脱落したサーヴァントの魂を回収して再召喚してしまう以上、下手に倒したり、倒されたりするわけにはいかない。

 最終目標であるマキリの聖杯の討伐が成るまで、戦いを長引かせる必要がある。

 

「分かっているわね? アサシンを常に警戒しつつ、後は作戦通りよ」

 

 キャスターが士郎達に向けて言う。

 彼女もここに残る。ランサーがバーサーカーを抑えなければならない以上、残るメンバーの内、機動力に特化したライダーの相手は遠距離攻撃を行えるキャスターが適任だ。

 とは言え、キャスターは近接戦闘に持ち込まれると脆い。故にバゼットとコンビを組む事となった。

 背中を任せる相手として、両者互いに不満を抱いているが、この奥に待ち構えているであろう残りの敵を考慮すると、この布陣こそ最適だと判断せざる得なかった。

 

「――――本命をくれてやるんだ。確りやれよ?」

 

 ランサーが槍を構えながら笑みを浮かべて言う。

 

「そっちもドジんないでよね」

「わーってるって」

 

 凜の言葉に軽い口調で答えながらランサーはバーサーカーに向っていく。

 同時にキャスターがライダーへと挨拶代わりの魔弾を放つ。

 その隙に士郎達は大空洞の出口へと回りこむべく走り出す。

 

「――――させません」

 

 ライダーが鎖付きの釘剣を投げ放つ。

 それをバゼットが驚異的なスピードで弾きに向う。

 

「貴様の相手は私だ」

 

 元々サーヴァントに比肩するスペックを持つバゼット。

 キャスターの助力により、その戦闘能力はもはや人の域を超えている。

 

「さあ、付き合ってもらうぞ。彼等が決着をつける――――、その刻まで」

 

 

 大空洞を越えた先には予想通りの人物が待ち構えていた。

 

「――――アルトリア」

 

 静かにセイバーが前に出る。

 

「……まったく、シンジにも困ったものだ。折角、満足のいく戦いの果てに死を迎えたというのに、再び私を目覚めさせるとは……」

 

 その瞳には理性の光が宿っている。

 

「まあ、良い……。私も写し身とは一度剣を交えたいと思っていたところだ」

 

 クスリと微笑み、彼女はセイバーを見つめる。

 

「退屈させるなよ?」

「……ああ」

 

 セイバーは深く息を吸い、エクスカリバーを構える。

 

「士郎……」

 

 凜が士郎に囁く。

 

「……ああ」

 

 士郎はセイバーの小さな背中を見つめながら唇を噛み締めた。

 出来る事なら止めさせたい。代われるものなら代わりたい。

 けど、自分には別の役割がある。アルトリアの事はセイバーに任せる以外に選択肢が無い。

 

「……セイバー」

 

 士郎は手の甲を掲げる。そこには最後の一画となった令呪が宿っている。

 

「大丈夫だよ、士郎」

 

 セイバーは言った。

 

「一緒に生き抜こう。そして――――」

 

 セイバーは朗らかに微笑む。

 

「全部終わったら、結婚しようか」

「……ああ、そうだな」

 

 まあ、資金集めとか色々あるから直ぐには無理だろうけど……。

 僅かに笑みを浮べ、士郎は覚悟を決めた。

 

「セイバー。全ての力を引き出し、アルトリアと戦え!」

 

 令呪が消失する。同時に巻き起こる烈風。

 キャスターの助力により得られた潤沢な魔力。己が内にあるアーサー王の能力。

 最強の英霊として召喚されたセイバー。その真の力が表出する。

 立ち昇る魔力の渦と傷つく事などあり得ない甲冑。圧倒的な存在感が暗く狭い洞窟内を支配する。

 

「――――ああ、それでいい。では、楽しむとしよう」

 

 アルトリアが獰猛な笑みを浮かべ、飛び込んでくる。

 セイバーは静かに剣を振るった。

 

「――――さあ、行くわよ」

 

 凜に手を取られ、士郎は渋々走り出す。

 セイバーを置いて行く事が辛くて仕方無い。

 走り続けながら、令呪のあった場所を反対の手で握り、強く願う。

 どうか、無事でいてくれ――――、と。

 

 

 そして、暗闇の洞窟を更に奥へと進む。生々しい生命の息吹が満ちる通路をひた走る。

 重苦しい空気が圧し掛かって来る。比喩では無く、本当に重い。視覚化出来る程の濃厚な魔力が洞窟の奥から流れ込んできている。

 この先に最後の門番が待ち受けている。残るサーヴァントは二騎だが、アサシンは真っ向勝負をするような英霊では無いから恐らく隠れ潜んでいる筈だ。

 故に待ち受けている敵は唯一人。その門番と戦うのは己の役割だ。

 準備は十全。後は――――、

 

「――――アーチャー」

 

 凜が憂いを帯びた声で呟く。

 通路の出口を背に彼は居た。

 愛する者の未来を切り開く為に命を捨てて戦った男。悲願を遂げた彼を慎二は目覚めさせ、戦いの道具としている。

 眠らせてやるべきだ。そう、士郎は拳を固く握り締める。

 

「――――待ってたぜ、衛宮」

「慎二……ッ」

 

 アーチャーの背後から現れた慎二に士郎は息を呑んだ。

 彼がここに居るとは思っていなかった。桜と共に大聖杯の前で待っているものと思っていた。

 

「思った通りだな。ここまで来るのはお前等だと思ってたよ」

「……良い度胸ね。こんな所にノコノコ現れるなんて」

 

 凜は背中に隠し持つ切り札へと手を伸ばす。それを士郎が制止した。

 

「……慎二。最後にもう一度だけ言う」

 

 凜が咎めるように視線を送るが士郎は無視した。

 

「止まってくれ」

 

 士郎の真摯な眼差しを真っ向から受け止め、慎二は首を横に振る。

 

「無理だな。ここで立ち止まったら、それは桜に対する裏切りだ。僕は最後の一瞬まで――――、桜だけの味方になると誓ったんだ」

「……そうか」

 

 士郎は深く息を吐く。

 桜だけの味方。慎二はそう言った。

 士郎がセイバーだけの味方になると誓ったように、彼も一人の為に全てを捧げる決意を固めたのだ。

 ならば、これ以上、交わすべき言葉は無い。

 

「……遠坂」

 

 慎二は凜に視線を向ける。凜は複雑そうに唇を噛み締めながら慎二を睨む。

 

「桜は奥だ。行きたきゃ行けよ」

「……どういうつもり?」

 

 道を譲る慎二に凜は怪訝な表情を浮かべる。

 

「別に……。ただ、それはそれでありかもしれないと思っただけだ」

「……?」

 

 困惑する士郎と凜に慎二は薄く微笑む。

 

「僕は……結局、アイツのちゃんとした兄貴になれなかった」

 

 慎二の独白に凜が表情を崩す。その表情に浮かぶものが怒りなのか、哀しみなのか、羨望なのか、分からない。

 そんな彼女に構わず、彼は続ける。

 

「アイツの本当の家族はやっぱりお前だけなんだと思う。だから、お前に止められるなら、それは桜にとって幸福かもしれない」

 

 慎二は肩を竦める。

 

「まあ、止められるかどうかは分からないけどな。今のアイツは強いぜ。ぶっちゃけ、生半可な力じゃ到底敵わない。それでも行くって言うなら、僕は止めないよ」

「――――行くわ」

 

 凜は固く表情を引き締めて歩き出す。

 慎二は言葉通り、彼女を止めようとはしない。

 凜は一度だけ慎二の真横で立ち止まり、小さな声で呟いた。

 

「……ありがとう。桜の味方になってくれた事……、それだけは感謝してる」

 

 その言葉に慎二は肩を竦める。

 

「……ただの自己満足だよ。結局、僕はアイツを救えなかった」

 

 その自嘲の言葉に反応を返す事も無く、凜は奥へと進んでいく。

 慎二は凜の背中を見送った後、士郎に視線を戻して言った。

 

「それじゃあ、始めるとするか」

 

 慎二は薄く微笑むと、ポケットから一匹の蜘蛛を取り出した。

 

「――――やれ、桜」

 

 その言葉と共にアーチャーが動き出した。

 しかし、その行動は士郎の予想を裏切った。

 斬りかかって来ると思っていたアーチャーの腕が慎二の心臓を貫いたのだ。

 

「……え?」

 

 困惑する士郎に慎二は口から血を吐き出しながら笑みを浮かべて言う。

 

「……桜に令呪を使わせた」

「令呪を……?」

「残る二つの内……、一つ目で“衛宮を倒すまで戦い続けろ”と命じた。そして――――」

 

 慎二は笑みを深めて言う。

 

「二つ目でこう命じたのさ……。“間桐慎二の存在をその魂に刻み付けろ”ってね」

「……何を言って」

 

 呆然とした表情を浮かべる士郎の前で慎二の魂がゆっくりとアーチャーの中へと移って行く。

 それは本来なら単なる自殺行為でしかない。英霊の魂に自らの魂を刻むなど、大海に一滴の墨を落とすようなものだ。瞬く間に薄れ、消えていくのが関の山。

 

“だが、そうした条理を覆す事こそ魔術師の本懐”

 

 それはセイバーの身に起きた現象に近いものだった。

 今のアーチャーは“この世全ての悪”に汚染され、理性や意志を剥奪されている。つまり、英霊としての情報と外殻のみの状態なのだ。

 そこに慎二の魂を注ぎ込む事で初期のセイバーと同じ状態を再現している。

 セイバーの現状を探り続けていたが故に思いついた反則技だ。

 

「……慎二なのか?」

 

 士郎が問う。すると、アーチャーはゆっくりと口を開いた。

 

「……さあ、最後の聖杯戦争を始めよう」

 

 

「――――ここね」

 

 暗い場所。冷たい空気。静かな水音。やがて、視界が広がった。暗闇を抜けたその先に広大な空間が広がっていた。

 果ての無い天蓋と、嘗て見た黒い孔。あれこそ、戦いの始まりにして、終着点。二百年の長きに渡り稼動し続けてきたシステムがそこにある。

 見た目はエアーズロックのようだが、その上部は大きく陥没していて、巨大な魔法陣が敷設されている筈。それこそが大聖杯と呼ばれるものの正体だとイリヤが教えてくれた。

 最中に至る中心。円冠回廊。心臓世界。天の杯。計測不能なまでの魔力を孕むソレは名に恥じぬ異界を創り上げている。

 そして、その中央から黒い柱が天に向かって伸びている。空間内を照らすのは黒い柱が発する魔力の波動。

 

「アレが“この世の全ての悪”……」

 

 大聖杯に満ちている魔力はまさに無尽。世界中の魔術師がこぞって好き放題に魔力を汲み上げたとしても、決して尽きぬ貯蔵量。あれだけあれば、確かにあらゆる願いを叶える事が出来る筈だ。

 頭上を見上げる。そこに彼女が居た。

 しばらく見ない内に随分と風貌が様変わりしてしまっていた。髪は真っ白で、全身の肉が削げ落ちてしまっている。まるで老婆のようだ。

 彼女はうっとりとした表情で自らの腹部を摩っている。

 

「――――久しぶりですね、姉さん」

 

 桜はクスリと微笑んだ。

 既に壊れており、救えない状態となっている筈の桜が微笑み、明確な意思を宿して口を開いた。

 

「……桜」

「見てください。もう直ぐ生まれるんです。私の可愛い赤ちゃんが……、もう直ぐ――――」

 

 肌が粟立つ。桜の腹に宿るソレは彼女が背にしている黒い炎と同じ魔力を迸らせている。

 

「……アンリ・マユなんて怪物を可愛い赤ちゃん呼ばわりするなんて、大したお母さん振りね、桜」

「えへへ、そうなんです。私、お母さんになるんです」

 

 嫌味のつもりで言ったのに、桜は心底嬉しそうに微笑んだ。それがとても恐ろしかった。

 

「私の赤ちゃん……。可愛い可愛い……、私とお兄ちゃんの子供」

「……お兄ちゃん?」

「そうです。ずっと昔……、一度だけ肌を重ねた事があって、その時にお兄ちゃんがくれた精子をずっと吸収せずに保管してたんです。いつか……、時が来たら孕めるようにって……」

 

 頬を赤らめて、桜は満面の笑みを浮かべる。

 

「お兄ちゃんは私をただの妹としてしか見てくれない。でも、私はお兄ちゃんを愛してる。お兄ちゃんとの赤ちゃんを産んで、愛の証にするの……」

 

 ムフフと鼻歌混じりに言う桜に凜は冷たく言い捨てる。

 

「何が愛の証よ……。ずっと、その愛するお兄ちゃんを騙してたわけでしょ?」

「騙してなんかいませんよ」

 

 桜はクスリと微笑んだ。さっきまでのあどけない笑みが鳴りを潜め、妖艶な笑みを浮かべる。

 

「お兄ちゃんは勝手に勘違いしているだけです。でも、敢えて正す必要なんて無いでしょ? 私が壊れているからお兄ちゃんは私に優しくしてくれる。私の味方になってくれる。私が壊れてないって知ったら、きっと、お兄ちゃんは私から離れていってしまうもの。そんなの嫌です。絶対嫌です!」

 

 頬を膨らませる桜に凜は言った。

 

「アンタが壊れてないって知ったら、アイツは喜ぶわよ」

「……嘘ですね」

 

 桜は断言した。

 

「お兄ちゃんが優しいのは私が壊れているからです。でなきゃ……、こんな化け物を可愛がってくれる人なんて居る筈ありません」

 

 途端、桜の顔から表情がごっそりと抜け落ちた。

 無表情で桜は呟く。

 

「私は人の肉を食べてるんです。引き取られてから十年間、精子や人肉の味の違いまで分かるようになっちゃったんです。こんなに穢れ切った化け物、誰が好き好んで一緒に居たがるんですか? 壊れているから仕方無いって、同情心があるからお兄ちゃんは傍に居てくれるんですよ。私は身の程を弁えてるんです」

 

 エッヘンと胸を張る桜に凜は言葉を失った。

 壊れてはいない。だけど、決定的に――――、壊れている。

 意思や感情は辛うじて維持しているけれど、他が致命的なまでに壊れ切っている。

 

「……桜」

 

 凜は涙が零れそうになるのを必死に耐えた。

 

「止まりなさい」

「駄目ですよ。姉さんの事は割りと好きですけど、お兄ちゃんとの赤ちゃんは絶対に産みます! 私とお兄ちゃんの愛の結晶なので、これだけは譲れません!」

 

 拳を高々と振り上げる桜。

 

「……それを産ませるわけにはいかないのよ」

 

 それがただの赤ん坊なら産ませてやりたかった。割りと……、というのは気になるが、好きと言ってくれた妹の望みを叶えてやりたい気持ちはある。

 だけど、アンリ・マユをこの世に出現させる事だけは……。

 

「……こっちにはキャスターが居る。アンタの身体を清めて、ちゃんとした子供を産めるようにしてもらう事も出来る筈なのよ! だから、お願い! その子供だけは諦めて!」

 

 血を吐くように凜は懇願する。これが最後のチャンスなのだ。

 壊れていないなら救いようはある。キャスターに頼めば、きっと救える。その為ならどんな代償でも喜んで払う。

 命を差し出せというなら差し出そう。桜の過ごした苦しみの十年を体験しろというなら喜んで体験しよう。

 

「お願いよ、桜」

 

 地面に頭を押し付けて懇願し続ける。

 

「……だ、だって……、お兄ちゃんの精子はこの子の分しかないんですよ……」

「どんな手を使ってでもアイツから精子を搾り取って、アンタにあげるわよ!!」

 

 僅かに動揺する桜に凜は畳み掛けるように叫んだ。

 本心からの叫びだ。そんな事で桜を救えるなら慎二が干乾びるまで搾り取ってやる。

 

「……本当?」

「約束するわ!! だから――――」

 

 桜が心変わりしかけている事に喜色を浮かべる凜。

 その時だった。

 大空洞にしわがれた老人の声が響いた。

 

「――――それはならん」

 

 凜は言葉を失った。桜が悶え苦しみだしたのだ。

 

「この土壇場で心変わりをするなど、儂が許すと思ったか?」

「ぞ、臓硯!?」

 

 身の毛のよだつような悪寒に襲われ、凜は走り出した。

 

「桜!!」

 

 凜が叫ぶ。しかし――――、

 

「ああ、もう済んだ故、幾ら呼び掛けても無駄だぞ。遠坂の娘よ」

 

 そう、桜の口から声が飛び出した。

 

「さく、ら……?」

「親心として、聖杯を手にする栄誉は譲ろうと思っていたのだがな……」

 

 カカと嗤う桜に凜は立ち止まった。

 

「最後の最後で儚い希望を抱かせ、妹を絶望という名の奈落へ突き落とすとは、酷い姉も居たものよ。まったく、貴様のせいで孫娘を喰らうなどと非道な真似をせねばならなくなった」

 

 乗っ取った桜の喉を震わせ、老魔術師は呟く。

 

「……臓硯」

 

 身体が震える。愛する妹を後一歩で救えた筈だったのに……。

 感情が冷えていく。あらゆる思考が一つに纏まっていく。

 後一押しだ。後一押しあれば、最後の一線を越える事となる。

 凜は乾いた声で臓硯に問う。

 

「――――アンタ、人の妹に何をしたの?」

「……ふむ、貴様の事を過大評価しておったようだ。思ったより聊か頭の巡りが悪いらしいな」

 

 臓硯は桜の顔でいやらしい笑みを浮かべて言う。

 

「単に首をすげ替えて乗っ取っただけの事だ」

 

 その言葉が最後の一押しとなった。

 

「――――アハハハハハハハハハハハハ!!」

 

 けたたましく、凜は嗤った。

 腹を抱え、涙を滲ませ、嗤った。

 その狂態に臓硯は僅かに困惑の表情を浮かべる。

 

「……壊れたか?」

 

 その問いに対し、凜は笑みを一変させて言った。

 

「アンタ、私をここまで怒らせて、まさか――――」

 

 臓硯の表情から笑みが消える。広々とした大空洞が寒気のするような殺気で満たされる。

 齢二十にも満たない小娘に臓硯は恐怖した。

 

「――――ただで済むと思ってないわよね?」


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