第十七話『ハリーの焦り』
あれ以来、私は度々ハグリッドの小屋に通うようになった。ヒッポグリフのアルブスアーラの世話をする為だ。
今は白い毛並みをより美しくする為にブラッシングをしている。
「……はぁ」
隣でバックビークのブラッシングをしていたハリーが大きな溜息を吐いた。
「あん? どうした?」
「……試合、もう直ぐだなって」
顔色が悪い。どうやら、間近に迫ったハッフルパフとの試合を気にしているようだ。
「賢者の石の事で盛り上がってた時は余裕綽々な感じだったじゃねーか。何を今更……」
「いやー……、もう直ぐだなって思うと、また墜落しないか不安になって来て……」
どうやら、あの墜落事故がトラウマになっているようだ。原因が分からない事で拍車がかかっている。
「まあ、アルブスアーラやバックビークと違って、箒の機嫌は分かりにくいからな。あの時の原因も分かってないんだろ?」
アルブスアーラは実に分かりやすい。今は首の付根が痒いと訴えてきている。ブラシで擦ると気持ちよさそうに目を細めた。
私達は通じ合っている。
「箒なんてやめて、全員でヒッポグリフに乗ればいいのに」
「それはそれで大変な事になりそうだけど……。でも、バックビークの背中に乗ってる時は不安なんか一切感じないのは確かだね」
ハリーは愛おしそうにバックビークを見つめている。
世話を初めて早二ヶ月が経過した。ハリーは相変わらず陰口を叩かれているようで、バックビークの世話の時間を癒やしにしているらしい。
敵意を一切向けず、ハリーに懐いているバックビークが可愛くて仕方がないようだ。
「ただいまー……」
ブラッシングを終えた頃、ハーマイオニーとロンがドラゴンのノーバートの棲家から戻って来た。
ハグリッドが密かに卵から孵したドラゴンの赤ん坊は、ダンブルドアが用意した棲家ですくすくと成長している。
今や、人間を一口で丸呑みに出来そうな程だ。
「……私、次は殺されるかもしれない」
ガタガタと震えているハーマイオニーにロンが力いっぱい頷いている。
「あ、あいつ、僕の腕を食いちぎろうとしたんだ! もう、はやく生息域に帰して欲しいよ! 冬も、もう終わりだろ!」
ロンがハリーに愚痴っている。ノーバートはアルブスアーラ達と違って、人間を肉としか見ていない。
まさに肉食獣の鑑のようなヤツだ。たまにやる餌やりは楽しいけど、ブラッシングしてやる気には到底なれない。
「ああもう! だいたい、どうして僕達があいつの世話なんてしてるんだよ!」
どうしてかと聞かれれば、それはハグリッドの好意だからだ。私とハリーがヒッポグリフの世話を楽しんでいるのを見て、ハーマイオニーとロンにも生き物の世話の楽しさを教えてやろうと思い立ったらしい。
ちなみに魔の手はレネにも伸びたが、アランが全力で払い除けた。「私も助けてよ!」と叫んだハーマイオニーは結局魔の手から逃れられなかったわけだ。
「いやー、残念だ。私はアルブスアーラの世話で忙しくてなー」
「僕もバックビークの世話が忙しくてさー」
私とハリーは涙目になっている二人から目を逸らした。
初めこそ興奮したけど、やっぱり懐いてくれる方がいい。友達が来たと喜んでくれるヤツと餌が来たと喜ぶヤツなら、私は前者と仲良くなりたい。
「……僕もヒッポグリフの世話係になれば良かった」
「私も……」
項垂れる二人に「どんまい」と声を掛けていると、ハグリッドが小屋の方からやって来た。
ハンカチで顔を覆っている。どうやら、泣いているようだ。
「……ロン、ハーマイオニー。残念な報せだ。ノーバートが……、ノーバートが連れて行かれる事になっちまった」
二人はハグリッドに背を向けて満面の笑顔を浮かべた。
「いやー、残念だなぁ!」
「そうね、すごく悲しいわ! ああ、ノーバートと会えなくなるなんて!」
すごく嬉しそうだ。
「そうか! 二人も寂しいんだな! よし、分かった!」
「え?」
「なにを?」
「もう少し……、せめて夏休みが始まるまで待ってもらえんか、ダンブルドア先生に交渉してくる!」
二人は声無き絶叫を上げた。
善意100%で二人を地獄に叩き込もうと校舎に向かって走っていくハグリッド。その顔には使命感が輝いていた。
「……さーて、アルブスアーラと遊覧飛行でもしてくるか」
「ぼ、僕達も行こうか、バックビーク!」
真っ白になって項垂れる二人を置いて、私とハリーはホグワーツの外周をグルグル回った。
気分はヒッポグリフを題材にした最古の物語、《狂えるオルランド》に登場するロジェロだ。
「そう言えば、さっきの話で思い出したんだけど」
湖の畔で休憩をしていると、水を飲んでいるアルブスアーラとバックビークを見ながら、唐突にハリーが口を開いた。
「あん?」
「賢者の石は大丈夫なのかな?」
まだ引き摺っていたみたいだ。
「考えたんだよ。ハグリッドはドラゴンの卵を賭けで貰ったって言ってたじゃない?」
「そう言えば言ってたな」
ノーバートを初めてみた時、ハーマイオニーが問い詰めたのだ。
ドラゴンを飼う事は法律で禁止されているのに、どうやって卵を手に入れたのかって。
バーで賭け事をして貰ったらしい。
「変じゃない? 法律で禁止されているものを賭けの対象にするなんて……。そもそも、ドラゴンを欲しがっているハグリッドの下に偶然ドラゴンの卵を持っている人が現れる可能性って、どのくらいだろう……」
言っている内に危機感が募ってきたらしい。ハリーは青褪めた表情を浮かべている。
「まあ、十中八九、そいつがグリンコッツを襲撃した犯人だろうな」
「……気付いてたの?」
「ハーマイオニーも気付いてたぞ。だって、なぁ? いくらなんでも都合良過ぎるしよ。大方、ケルベロスの攻略法が分からなかったんだろうな。地獄の番犬って呼ばれてるくらい、ケルベロスはヤバイ奴なんだよ。そんな怪物を手懐けてるハグリッドが凄いだけだ」
「なっ、なんでそれをはやく言わないんだよ!」
「言ったぞ」
「え?」
「だから、ハーマイオニーがすっ飛んでった」
「え?」
「ダンブルドアに自分の考えを話したんだよ。まあ、全部ダンブルドアも分かってたみたいだけどな」
「そうなの!?」
そもそもの話だが、ノーバートの棲家を作ったのはダンブルドアだ。ハグリッドがドラゴンの卵を孵した事も知っている。
つまり、私達が持っている情報をダンブルドアも全部持っているわけだ。
「生徒が気付く事をダンブルドアが気付けないわけないだろ」
「……僕達に話してくれても良かったんじゃない?」
「わざわざ話す事でもねーだろ。なんで、そんなに気にしてんだ?」
ハリーは重い口調で言った。
「きっと、賢者の石を狙っているのはスネイプだ」
「根拠は?」
「アイツ、ハロウィンの日にこっそりと大広間を抜け出していたんだ。きっと、四階に向かったに違いないよ! あのトロールもきっと……」
スネイプが犯人と聞いて、とくに驚きはなかった。なにしろ悪そうな顔をしている。
それに、
盗賊行為程度ならやってもおかしくない。
「それで?」
「え?」
「スネイプが犯人だとして、ダンブルドアに勝てるのか?」
「……えっと」
入学してから半年近くだった。
その間、ダンブルドアの偉業の数々を嫌でも耳にしている。
学術面、政治面に秀でてるだけじゃなくて、史上最悪と謳われたゲラート・グリンデルバルドを倒した英雄という側面まで併せ持っている。
「……アイツ、スリザリンを贔屓したり、グリフィンドールに意地悪したり……、小物臭いし、ダンブルドアに勝てるとは到底思えないぞ」
「小物って……、ああ、うん。そういう見方もあるんだね」
ハリーが溜息を零した。
「お前、本当は焦ってるだけだろ」
「え?」
ハリーとはアルブスアーラやバックビークの世話でそれなりに長い時間を過ごしている。
その間にいろいろと話もした。それで、分かった事がある。
「慣れたっての、あれ、嘘だろ」
「……どういう意味?」
「陰口叩く周りを見返したいんだろ? だけど、墜落のトラウマでクィディッチに自信が持てない。そこに来て、賢者の石の危機に気付いた。もしかしたら、自分なら守れるかもしれない。賢者の石を守りきれば、周りはきっと自分を見直す。そんな所だろ?」
「……レイブンクローって怖いね」
「叡智を尊ぶ寮だからな」
当たっていたようだ。
「……自分でも気付いてなかったよ。僕、焦ってたんだね」
「みたいだな」
「たぶん、居場所が欲しかったんだ」
ボソリと呟くように言った。
「居場所?」
「うん。ロンや、エレイン達と一緒の時はいいんだけど、一人になるとどうしても疎外感を感じるんだ。少し前なら気にもならなかったけど、皆が僕を……その時の事なんて覚えてないのに、すごいすごい言ってくれて、それなのに、今は名前だけのヤツとか、箒も制御出来ない出来損ないとか、そう言われて……、折角見つけられた居場所が無くなっちゃったみたいに感じてさ……」
ポツリポツリと自分の境遇を語るハリー。静かな湖の畔で、私はアルブスアーラやバックビークと一緒にハリーの話を黙って聞き続けた。
数少ない知り合いがよく愚痴を零すヤツで、こういう時の対処法は知っていた。とにかく聞いてやる事が大事だ。
――――アメリア、聞いてよ! わたしの事、お気に入りって言った癖に、結婚するからもう来ないって言うのよ!
毎回似たような愚痴を零してくる女だった。相手は私よりも五歳年上だったし、お互いに偽名を名乗り合っていたから、友達と呼ぶのもおかしな関係で、それはアイツが性病拗らせて死ぬまで変わらなかった。
「……ありがとう、エレイン」
少しセンチメンタルな感傷に耽っていると、ハリーが言った。
「少し、楽になったよ」
「良かったな。なら、次は勇気を出せ」
「勇気……?」
「墜落のトラウマなんて捨てちまえ。次の試合、何が何でも勝てよ」
「……うん」
「声が小せえ! 本気で勝つ気あんのか!?」
「あ、あるよ!」
「だったら、もっと大きな声で宣言しろ!」
「……ああ、もう! 勝つよ! 次の試合は絶対に勝つ!」
「言ったな! よーし、聞いたぞ。絶対って言ったんだから、絶対に勝てよ!」
「分かってるってば!」
◆
後日、ハリーは本当に勝った。
しかも、歴代最速タイムでスニッチを掴み取る偉業を為した。
周りが掌をドリル回転させる中、ハリーはレイブンクローの観客席まで来て言った。
「言っただろ? 絶対って!」
輝かんばかりの笑顔に釣られて笑ってしまった。
「後でバックビーク達にも教えてやんないとな!」
「うん!」
どうやら、ハリーの焦りは完全に解消されたようだ。
その後は賢者の石の事などすっかり忘れて、バックビークやアルブスアーラとノーバートの世話に忙殺されながら期末試験を迎え、やがて一年が終わろうとしていた。
それは今度こそノーバートとの別れを意味していた。
みんな、泣いている。
「……長かった」
「何度……、何度死ぬかと……」
「アイツの目……、最後の最後まで餌を見る目だった……」
実に名残惜しいが、これで二度と会う事は無いだろう。
「聞いてくれ! 実はな! ノーバートが賢者の石の守り手に抜擢されたんだ! 来年もノーバートの世話が出来るぞ!」
ハグリッドの嬉しそうな声に、全員言葉を失った。