では、予告通り、今回はこの娘の視点で。
ドタドタという足音で、私は起こされた。
目を開くと、
どうしたのか問う前に扉は閉まった。
静かになった車内には、夜明け前のかすかな光が、カーテンの
スマートフォンを見ると、もうすぐ午前六時。
寒かった。
外は晴れているようだから、きっと昨夜からの
もう少し毛布にくるまっていようかとも思ったけれど、二人が戻ってきた時に寝顔を見られるのも気恥ずかしいので、起きることにした。
……紅茶でも
お茶
ベッドから降り、キッチンで顔を洗って、着替えた。
なかなか二人は帰ってこない。
……ひょっとしたら、平塚先生の具合が悪いのかしら?
あれだけ強いお酒を飲んでいたのだもの、二日酔いにもなるわよね……全く。
紅茶を淹れ、一人で飲む。
甘いミルクティが、冷えていた身体を温めてくれた。
私の場合、ミルクを先にカップに入れる。英王立化学協会が二〇〇三年に公表した結論をそのまま
実際、このやり方のほうが、味わいがまろやかな気がする。
いい香り。
窓の外、まだ夜が明け切らない青い空気の中で、ほとんど
静かだ。
……暇つぶしに、いま自分は、
ふと気が向いて、一人旅に出た。
誰にも言わず、誰とも会わず、誰とも話さず。
たまたま立ち寄って、海の様子がのどかで気に入ったから、ここに車を
持ってきた道具と適当に買った材料で食事をまかない、その後は、何をするでもなくぼんやりと過ごし、夜が
いま、目に見えるところすべてが、手の届くところすべてが、誰にも
自分以外、誰も入り込めない清浄な世界。
私は今、世界の終わりの時に、世界の果てで、ひとり紅茶を飲んでいる。
……なんて、ちょっと極端かしら。
…………。
なるほど。悪くない気分ね。
私は一つ、深呼吸した。
なかなかいい趣味を見つけたじゃない、
しかもたった一人で準備して。
素直に、すごいと思うわ。
…………。
自分が一人暮らしを始めた時のことを思い出した。
まだ寒さの残る春先だった。
どのような
家具はベッド以外、すべて元からそこに備わっていた。
荷をほどいて、自分以外は誰もいない冷え冷えとしたリビングで、今と同じように、紅茶を淹れて飲んだ。
自分から願い出て、母の反対も押し切って手に入れた生活だったけれど、その時は、自分でも驚くほど、何も感じなかった。
実家から離れられた解放感。一人きりでの新生活への不安。少しはあったかもしれないけれど、それよりも、今日の夕飯は何にしようかとか、そんなことばかり考えていた。
そして、淡々と、淡々と、あの部屋で日々を過ごしてきた。
…………。
分かっている。
あんなもの、本当は一人暮らしなどと
結局は、どれだけ距離を
すべて
住民票は父の意思で、実家から移していない。それは一人暮らしの条件でもあった。
電気代やガス代、水道料金は、全て父に請求が行く。食費と自分で買い足す生活用品の代金以外、あの部屋で暮らすための費用が毎月いくらかかっているのか、私は分からない。
生活費も毎月、十分な金額が口座に振り込まれてくる。小遣いを稼ぐためのアルバイトすら、私はしたことがない。学業に専念せよとの両親の命令のためだった。
だから、お金を稼ぐことがどれだけ大変か、私はまだ、実感したことがない。
…………。
世の中を馬鹿にしていると思われるかもしれない。
高校生が親のお金で、幕張の高層マンションで一人暮らし。
けれど……。
うまく言えないけれど、この、どこまでも長く伸びる
誰にも……平塚先生にも、由比ヶ浜さんにも、打ち明けることができない、私の弱さ。
もちろん、養ってくれている親に、こんなこと、言えるはずもない。
他の誰に言っても、
ただ、
あの人は強い。
境遇は私と同じ……いや、私よりもはるかに強い束縛があるはずなのに、なぜあんなに自由でいられるのだろう。
……本人は、束縛とは感じていないのかもしれない。
それは開き直っているという意味ではない。
後継ぎとして、両親から、雪ノ下の家から、束縛されると同時に期待され、ゆくゆくは依存されることを「知って」いるのだ。
そして、そのことを了承してみせているから、両親は基本的に、姉に対しては何も言わない。
ゆくゆくは、彼らが姉に依存することになるのだから。
彼女は、
……私には真似できない。
私はただの、雪ノ下の次女に過ぎないのだから。
…………。
ふと、外に出たいと思った。
由比ヶ浜さんと平塚先生はまだ帰ってこない。トイレにしては長すぎる。心配になってきた。
……いえ、ちがう。
急に息が
外の空気を、とにかく吸いたいと思った。
こんな早い時間、この寒さだし、他に誰も起きてはいないだろう。少しだけ海を見て、ひと呼吸して、そして戻ってくればいい。たったそれだけ。問題ない。
なんの根拠も保障もない理屈で自分の衝動を担保して、私はショールを肩に巻き、そっと車を抜け出した。
夜明け間近の世界は、全てが青かった。
星々が、太陽へ舞台を
風もなく、波の音がはっきり聞こえた。
肺が、潮の香りを含んだ冷たい空気で満たされる。
ほんの少しだけ、と思っていたのに、私はそのまま立ち尽くしてしまった。
その光景があまりにも
永遠にここにいてもいい。
それが叶わないなら、今すぐ世界が終わってしまえばいい。
そんな気持ちになった。
誰にも分かってもらえないと思う。
分かってもらいたいとは思わない。
ただこの孤独感だけが、私の、
この孤独感だけが――。
不意に、人の気配を感じた。
振り返ると、
***
彼は、私からほんの十数歩離れたところに、ぽかんとした顔で立っていた。
なにも言わず、ただ、ぽかんと、私を見つめていた。
最初の数秒、なにが起きたのか、分からなかった。
波の音が何度か聞こえるうちに、私の意識は現実へと引き戻され、同時に、血の気が体中から引いていくのを感じた。
――しまった……!
比企谷くんに、見つかってしまった……!!
また数回、波が寄せては返した。
私は、私の脳は、その波を数える間に、いくつもいくつも、この場の言い訳を考え出そうとしていた。
けれど、もちろん、どんな言い訳も通用するはずがない。私がここにいること自体、彼にしてみれば、ありえないことなのだ。
それに、ああ、まただ。また私は、言い訳をしようとしていた!
嘘も言い訳も、自分で自分をおとしめるものだと知っていながら。
私はそんな汚い、いやしいものになりたくないのに。なりたくないと思っているのに。
全速力でその場を逃れようと、ごまかそうとする自分の思考に、全力でブレーキをかけた。
――最悪だ。
私が台無しにしてしまった。……私が。
三人での、ここまでの旅の意味を。
何より、比企谷くんの大事な旅の意味を。
身体が震えていた。寒さのせいではない。
悔しくて、情けなくて、涙が出そうになった。
……けれど、負うべき
比企谷くん……、
彼に向き直って口を開こうとしたその瞬間、彼の右手がすっと前に伸び、私が話すのを制止した。
それは見事な
ただ手をかざされただけなのに、完全に不意をつかれた私の呼吸は止まり、体は硬直し、言葉を発することができなかった。
謝罪することさえ、許されなかった。
もう、だめだ。
私はただ黙って、彼が私を
…………。
…………。
波の音とともに、彼がゆっくりと歩いて近づいてくる気配がした。
心臓が、嫌な音で早鐘のように鳴っていた。
とても彼と目を合わせられなかった。
地面に落としたままの、私の視界の
……けれど、彼は黙ったまま、あと数歩のところで立ち止まって、そこから動かなかった。
……?
あまりに沈黙が続いたので、私は恐る恐る、顔を上げた。
彼はまるで、珍しいものでも見るかのように、私をじっと見つめていた。
怒っている様子が、まるで感じられなかった。
二人の間の沈黙は、このまま永遠に続くような気さえした。
……なぜ……?
「……なぜ、なにも聞かないの?」
不安と恐怖に駆られて、私から彼に
私のこと、
なのに、なぜ。
「なぜ……」
彼は、口の中で私の問いかけを繰り返しながら、目線を外した。
少しの間の後、彼は私の目を、今度はしっかり見つめて、少し微笑んで、ぽつりと言った。
「そんなの、どうでもいい……」
穏やかな言葉だった。
その言葉に反応するように、心臓が、血液以外の、何かとても温かいものを、全身に
私を受け入れてくれた。
必死に隠していた、私のみにくさも、あさましさも、いま彼は、全部
何の理屈もなく、「そんなの、どうでもいい」と言って、
ああ、そうか。
彼は、孤独の
私の孤独感が、ふと目の前に人の姿をして現れたのだ。
……なにそれ。
我ながら、頭がおかしくなっていたとしか思えない発想だった。
けれど、私はそのとき、本当にそんなふうに感じた。
寒いことを忘れるほど、顔が熱くなった。
心を
そのとき、初めて気づいた。
水平線の向こうに、富士山が顔を出していた。
晴れた日には、珍しくない光景だけれど、でも。
この、あまりに絶妙なとき、絶妙な場所から、その山はこちらを見つめていた。
比企谷くんも気づいたのか、同じ水平線を見つめて息を呑んでいた。
あの山、まるでこちらを見ているみたいね。
「あの、」
「なぁ、」
彼に思わず声をかけようとしたら、彼も全く同時に口を開いた。
戸惑ってしまって、それ以上言葉を継げなかった。
彼も、同じ。
……きっと、私と同じことを感じて、同じことを言おうとしたのだと思う。
確証はないけれど、きっとそうだと思う。
……彼の言葉がこんなにやさしく響いてきたのは、初めて聞いた気がする。
いつもは部室で、ドッヂボールのようにくだらない言葉の投げつけ合いをしている私達だったから。
そのまま、しばらく二人で並んで、富士山を見ていた。
今こそ、世界が終わっても構わないと、本気で思った。
「雪ノ下」
唐突に、比企谷くんが私を呼んだ。
全身がびくりと震えた。
彼の声は、男の人の、低くて力強くて、真剣な声だった。
「……はい」
ショールをかき寄せ、ドキドキする胸を押さえながら、私は思わず返した。
彼は私をじっと見つめていた。
さっきよりも真剣な目で。
さっきよりも、熱を帯びた目で。
……!
ああ、だめだ、だめよ、比企谷くん。
それ以上、何か言ってはいけない。
私はいま、おかしくなっているから。
いまの私は、……何を言われても、了承してしまいそうだから。
けれど、私……、
私、由比ヶ浜さんのことを裏切ることはでk
「……ちょっと、トイレ行ってくる……!!」
「……はい?」
……了承、になるのかしら、これ……?
***
淡々と波が寄せては返す、寒い朝の浜辺。
太陽の光が徐々に増し、世界には色が戻りつつあった。
比企谷くんが必死の形相で早足でトイレに向かって歩き去っていった後、私はまだ
私は何をしようとしていたのだろう……。
身体の震えが止まらない。寒さのせいでも、ときめきのせいでもない。
盛大な恥ずかしさと
……そんなわけ、ないでしょ!!
うわああああ!! なにやってるの私は!! バカ!! バカ
滅びろ! 今すぐ滅びろ世界!!
……などと、心の中で
私はしばし、顔を両手で
ううううう……!!
……けれど、危ないところだった。もしあの時、変なことを言われていたら……。
思い返すだけで顔が燃えそうになる。
自分がこんなに雰囲気に呑まれやすい人間だなんて、信じられなかった。
でも、大丈夫、セーフよ。さっきはセーフだったわ!
何が!?
……完全にアウトよね……だいたい、比企谷くんに見つかってしまったし……。
「あ」
はたと、私は気づいて顔を上げた。
比企谷くん、トイレに行って……、
まずい、由比ヶ浜さんたちが……!!
トイレに
「……お……、おっはろー……!」
冷や汗をだらだら流して、由比ヶ浜さんはつとめてにこやかに、比企谷くんに声をかけた。
「おい、これ以上ヘンな
みんなの中で一番
「ひ、比企がゃおぶぅ……っ!!」
何か言おうとした平塚先生だったが、急に口元をタオルで押さえ、また女子トイレの奥に駆け込んでいった。
「せ、先生――っ!」
由比ヶ浜さんは先生を追いかけて、再びトイレの奥へ消えた。
なんなの、これ。
取り残された比企谷くんは、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……と、とりあえず……いろいろと説明してもらえるか……?」
彼は完全に混乱していた。無理もないけれど……。
「……私達の車へ来て。話はそこで。案内するわ……」
私は彼を、私達のキャンピングカーへ案内した。
***
……私達の秘密のキャンプ旅行は、こうして失敗に終わったのだった。
その後のことは、……あまり語りたくないのだけれど、少しだけ。
平塚先生の回復を待つ間、私と由比ヶ浜さんは、車内でひたすら落ち込んで過ごした。
比企谷くんがキャンプ場を去るのを見たとき、由比ヶ浜さんが泣き出してしまったので、慰めるのが大変だった。
帰りの旅路は、高速を使ったこともあるけれど、行きよりもはるかに早く感じた。
休憩の回数も少なかったのだけれど、全員、ほとんど言葉を発さずにいたからかも知れない。
由比ヶ浜さんを送り届け、私のマンションの前で平塚先生と別れ、
疲れ果てて、その日じゅう、眠ったり起きたりを繰り返したせいだと思う。
……月曜、改めて比企谷くんに謝ろう。きちんと謝らなければ。
そんな、
【いちおう解説】
①
「ミルクティは、カップの中にミルクを先に入れるか、紅茶を先に入れるか」という論争が、イギリスでは昔から盛んだったようですが、王立科学協会の結論により、争いはいちおうの終止符が打たれたようです。
どうでもいいですが私、コンビニに売ってるリプトンのミルクティ、大好きです。
②
雪乃の私生活に関する記述は、完全に私個人の解釈と創作設定です。じっさいのところどうなのかは、今は未発表の原作第12巻以降で明らかになるのかも知れません。
とはいえ、全くの無根拠というわけでもなく、原作第2巻の第25刷、228〜229ページ、雪乃がバーにて川崎から、実家について指摘されるシーンなどを参考にしています。
……それにしても、川崎はなんで、雪乃の父親が県議だってこと、知ってたんだろ。
ひょっとしたらですが、川崎の父親も建設関係の仕事をしてて、雪ノ下の家(建設会社、県議)については少し話を聞いてたり……? とか、勝手に解釈してみたり。
まぁ、どちらかというと、同じ学年に県議の子供がいるってなれば、そこそこふつうに目立つものなのかもしれませんね。