杠は嘗めていたのだ。この大地を、日本という偉大なる土地に於いて、取り敢えず北に進むという行為の愚鈍さを。
先ず第一に、道という概念が存在しない。道を切り拓く先人の登場はもう少し先の話だったのだろう、文字通り道無き道を突き進むしかない。それが山ともなれば尚更大変であるに決まっている。
第二に、背中の荷物が馬鹿なのかという程重い。武具のみで鎧や甲冑の類は入っていないと記憶しているが、その体感重量は高校生男子をおぶる時のソレ、65キロ近くあるのではないだろうか?そんなモノを持ったまま一日中歩かされたならば疲れるに決まっている。既に肩には決して薄くはないアザの様な跡が浮かんでいた。
そして、そんな事の何よりも、日本という土地は歩くには広大すぎた。
取り敢えず北に歩くと決意して実に1年と135日、500日かけて北進した杠がようやっと辿り着いたのは......
ヒュォォォォォォォ......
「............」
海風が冷たく吹き荒れる岩肌の上、そこからの景色からは薄ぼんやりと大陸の影が伺える。
日本列島最北端、下北半島と後に呼ばれる場所に一人虚しく立つ杠の顔には一切の意味が欠如していた。ただただ目の前の事実を受け入れ、己の行動を悟った彼はこう漏らす。
「......帰ろっかな」
とんだ無駄足だった、と口にはしない。認めてしまっては何か大事なモノを失いそうだからだ。旅というのは一期一会、きっと今から素晴らしい出会いが待っているに違いない。
そんな淡い期待を抱きつつ、回れ右をして来た道を戻ろうと一歩進めた杠だったが.......
「あれ? もう行っちゃうの?」
「ええっと、いつからそこに?」
「さて、いつからでしょう?」
悪戯な笑みを浮かべつつ首を傾げる女性。この笑みだけで並の男達はオトされる、それ程までに魅力的な容姿を兼ね備えている。本当ならば杠も例に漏れず虜になっていただろう。
「貴女みたいな美しい方、側にいたならすぐ気付けてる筈。つまり振り向いた直後からでしょうか?」
「あら、美人だなんて照れるわ」
「ええ、
ただ、彼女の衣服は少々特徴的なものであった。
黒を纏っている、それ以外の表現が浮かばない。一応服として機能はしている様だが、その質感は生涯で見てきたどれとも一致しない。加えてその衣服からは黒い靄が発生している様な錯覚を、いや、間違いなく靄が発生している。
「あれ? もしかして私の闇が見えてる?」
「多分」
「へぇ......コレ、大概の人間には見えない筈なんだけどなー」
「長生きすると色々な事が分かるんです。それにしても闇、闇かぁ......」
「...? どうかしたの?」
「貴女、ルーミアなんて呼ばれてません?」
杠は遠い記憶の知識を引っ張り出す。宵闇の妖怪、中でもリボンの封印を解いたEXルーミア、彼女の特徴はソレと寸分違わず一致していた。半ば確信を持ってそんな質問を杠は投げかける。
「さぁ、誰それ?」
「あらま」
しかし、返ってきたのは意外にも否定の言葉、否定どころか心当たりすらないといった様子である。
「私に名前なんてない。特に仲間がいた訳でも呼ばれる必要性があった訳じゃないから」
「確かに、理に適っていますね」
名前とは自身と他人、若しくは他人同士を識別する為のモノ。自分の力のみで生きる動物には当然必要がない。持っていないというのも頷ける。
「だけど、そのルーミアってのは気に入ったわ。よく分からないけど私の為に用意された名前みたいな気がするの。だから、これから私はルーミアを名乗る事にする。宜しく人間」
だが、先程不必要と言っていたにも関わらず何故だが嬉しそうな表情を浮かべ、自身をルーミアと名乗り始める妖怪。気に入ったのは良いとして、コレが全くの別人だった場合は本当のルーミアに示しがつかない。その時は両方に全力で謝る事にしよう。
「というか、意外でしたね」
「んー? 何が?」
「いや、人喰い妖怪じゃないんだなー、って」
ルーミアの面影のせいか、彼女=人喰い妖怪というイメージが未だに払拭出来ていない。さぞ血飛沫が似合うだろうという妄想まで浮かんでくる。
そんな彼女だ、人間を見かけたら即座に喰い殺そうと襲い掛かってくるモノだと勝手にイメージしていた為、杠はこうやって談笑出来ている事に違和感を感じていた。
「いや、人喰い妖怪だよ? 人間の肝とか大好き」
「んん? あれ?」
杠のイメージはやはり合っていた。返り血も滴るいい女、EXルーミアであるというのもほぼ確定だろう。だからこそ気になる。
「じゃあ、何で襲って来ないんですか?」
「なに? 食べて欲しいの?」
「いえ、そういう訳じゃ無いんですけど......」
「簡単な話よ、それのせいだわ」
ルーミアは背中のリュックを指差す。
「嫌な気配がその鞄からビンビン伝わってくるの。私と真逆というか、闘ったらタダじゃ済まなそうというか。ねぇ、それ何なの?」
「素戔嗚から預かっている弓と剣、ですかね」
「あぁ、道理で。御免被るわ。それに......」
ゾワリっ
「...!」
「普通の人間ならこの殺気で気絶するのよ。でも君はそうじゃ無い」
殺気慣れとでも言うべきか、狼達や妖怪の長、更に言えば素戔嗚等々を相手取っていた結果、いつの間にか人間の域を超えていたようだ。若干寂しい気持ちもあるが、それのお陰で助かったのだから文句は無い。
「私にとって人間は捕食対象なの。気絶させて、起き上がった時の恐怖に歪む表情を見ながら肝を戴く...あぁ、お腹すいて来ちゃった♡」
「......それはまた、大層な趣味をされてますね」
「妖怪の性よ。ともかく、私がしたいのは捕食であって殺し合いじゃない。怪我もしたくないし。てなワケで見逃してあげるわ。良かったわね」
「ええ、良かったです......それでは失礼しますね」
幸運だった。相変わらずスロースタートという弱点は克服していない。果し合いなら未だしもルールなしの殺し合いとなると圧倒的に不利、やはり幸運だったと言う他ない。早く相手の気が変わらないうちに立ち去ってしまおう。
杠は一礼し、回れ右してその場を立ち去ろうとする。
........グゥゥゥゥゥ、という如何にもな空腹音が鳴り響く、当然彼女のお腹から。普通の乙女であるならば羞恥心で顔を赤らめるのだろうが、残念ながら背後にいるのは妖怪なのだ。
先程とは真逆に恐る恐る背後を見る。
ルーミアは間の抜けた表情のまま自身の腹部を見つめていた。その小さな口からは脱水症状になるのでは無いかと疑うレベルの量の唾液を垂らし続けている。そして......
目と目が逢う、瞬間、ヤバイと気付いた。
「クソォ!」
全力で逃走を始める。何が食べないだ、何が見逃してあげるだ。アレは完全に飢えた獣の目、標的とあらば何が何でも食らいつく野生の目ではないか。
「ま〜〜て〜〜」
杠の見立ては正しかった。ルーミアは杠を見逃す気はさらさら無いらしく、妖怪らしい脚力を以って杠を追いかける。
「何でさ! 見逃してくれるんじゃないのかよ!?」
「腕一本でいいからぁー」
「嫌に決まってるだろ‼︎ てか早過ぎ...ぐわぁ!?」
重荷を背負っているハンデ以上にルーミアが桁違いに速い。50メートルのアドバンテージが5秒もしないうちに消滅し、ルーミアのショルダータックルが杠に炸裂する。
「ちょ、ちょっと話し合いましょう。自分が本気出したらルーミアさんもタダじゃすみませんよ?」
「にく」
「この剣凄いんですよ? きっとルーミアさんも真っ二つ」
「にーくー」
先程のお姉さん的余裕は欠片も見られない。脅しにも全く応じないようだ。揺ら揺らと杠に近づいてくる様子は、さながら貞子の井戸のシーンを彷彿とさせる。それ程までに怖い。
「い、いいのか!? 俺を倒したら色んな人が黙ってないぞ‼︎ えっと...そう、永琳とか! 月から遥々お前を殺しにやって来るぞ‼︎」
「よぉーこぉーせぇぇえ!!!!!!!」
「ヒィ!? 分かった! 人間よりも美味しいものを食べさせてあげます! だから許して!」
小物臭漂う命乞いを続ける杠、既にこの地点で杠の運命はフラグ的な意味で決まった。冗談抜きで絶命してしまうと、そう思われた。しかし......
ピクリ
"美味しいもの"という単語にルーミアが反応する。
「ほんとうに?」
「...え?」
「ほんとうに、おいしいもの?」
「え、ええ。今迄食べた事のないようなすっごく美味しいものです!」
「今すぐだよ...? じゃないと手足を」
「一瞬! もう幾らでも一瞬で出てきますよ!」
足から創り出した熱々の牛ステーキを差し出す。杠が生涯食べてきた中で一番の上物の味を再現した一品、の筈。
ルーミアはそんな皿の上の肉を素手で掴み取り、なんと一口で頬張る。咀嚼を五度程繰り返し、ソレを飲み込み空になった口でこう一言。
「......もっと」
「もっと? て事は喰われなくても...」
「早くしないと君も食べるよ?」
「りょ、了解しました! どうぞ次!」
やはり小物臭は拭えていない。
◆◇◆◇◆
闘いは長きに渡って続いた。出しては一口で食べ、出しては一口で食べを繰り返すこと実に100回、妊婦のようにお腹を膨らませたルーミアが遂にストップをかけた。
「ふぅー、食べた食べた!」
「............」
杠はげんなりとした表情のまま下を向いている。それもその筈、ノンストップで精製を繰り返したのだ。精神力は使い果たし、オマケにカロリーもすっからかん、お腹が減ったレベルなど既に通り越している。
「因みに今のなんて食べ物? 何の肉?」
「牛ステーキ、牛の肉を使ってます」
「いやー、人間の肉とは本質的に違うっぽいけどコレはコレでありだね! ピリッとした辛さとかが何とも言えない美味しさだったよ!」
「......ご満足いただけたようで何より」
そう口にしつつ、残りの力で携帯食料を創り出し無理やり口に詰め込む。食材関連は創造の燃費が非常に悪いものの、食べてしまえばその不足分は補える仕組みになっている。創ったモノしか口にしなくても生きていけるというのは非常に有難い恩恵だ。
「さて、そろそろ行きますね」
体力も立てるまでには回復した。既に一年半も掛かっているのだ。餌付けして大人しくなったルーミアともう少し話していたい気はするが一刻も早く届けなければならない。
「ねぇ、行くってその背中の荷物を届けに行く、って事でしょ?」
「ええ、オオナムチという神様に届けに行かなきゃなんです」
「ならさ......」
「...?」
「何で出雲に行かなかったの?」
その言葉を受け、杠が5秒程停止する。
「こんな大陸の端っこ、神様なんてそうそう居ないよ? 普通に考えてその神様がいるのは出雲なんじゃない?」
「............あ」
「...あ?」
「あああああああ!!! やっちまったぁぁぁぁぁ!!!!!」
絶叫と共に杠が再始動、頭を抱えその場に崩れこむ。隣ではツボったらしきルーミアが腹を抱えて大爆笑している。
知ってはいたのだ。日本の神話なんてモノは大半が出雲に関わっており、大国主もその例に漏れないことを。更に言えば出雲大社の祭神が大国主である事もちゃんと知っていた。にも関わらず、何故か青森まで来るという失態を犯してしまった。コレにはショックを隠せない。
「あぁ...有難うございますルーミアさん。このままだとあと二年は彷徨うところでしたよ」
「いいって事さ、美味しいものを食べさせてくれたお礼だよ」
「あぁ、ここから出雲まで何年かかるんだろ......」
「何年って大袈裟だなぁ、飛んでいけば5日で着くだろうに」
「ノォォォォォォォ!!!!」
再度絶叫と爆笑が辺りに響く、杠に至っては己の無能さに涙を流していた。この500日のどれを取っても無駄でしか無かったという事だ、それは泣きたくもなるだろう。
「......それじゃあ、失礼しますね」
「うん、頑張って」
『では』
30分程泣き続けた杠は能力を以って空を飛ぶ。3分という制限があるものの徒歩に比べれば遥かに効率が良い。結局出雲まで3日で辿り着いてしまった杠は、再び袖を涙で濡らしたという。
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