次の日、卓郎の仕事は一階の掃除だった。
そして運の良いことに、ハルも同じ場所で掃除をするようだった。
朝の挨拶を済ませた卓郎は、すぐに今日の仕事に取りかかった。昨晩にレミリアから吸血をされたばかりだったが、特に後遺症もなく、箒を持つ手は快調だった。
廊下のごみもだいぶ溜まってきた頃、妖精メイドがやってきた。
「卓郎さん。ちりとり持ってきました」
「ああ、ありがとう」
妖精メイドが持つちりとりに、彼がごみを入れている最中だった。
「あの、一つお願いがあるんですけど……」と、妖精メイドが話しかけてきた。
「んっ。どうした」
「実は、外にいる友達が館に入りたいと言ってきているんです」
「外の友達が?」
「はい。最近、紅魔館がとても良くなってるという噂を聞いたらしくて」
「へえ。そんな噂が流れているのか」
「だから、入れさせてもらえないでしょうか?」
卓郎の返事は即答だった。
「いいよ。ここで働きたいなら、誰でも歓迎するよ」
妖精メイドの顔が輝いた。
「ありがとうございます。近いうちに友達に伝えますね!」
ごみを収めたちりとりを持って、妖精メイドは嬉しそうに去っていった。
その後ろ姿を眺めながら、卓郎は微笑む。
実は、昨日も同じようなことを二人の妖精メイドから頼まれたのである。つまり、この時点で三人の妖精が近いうちに館に来ることが決まったのだ。
自分の頑張りで館に良い噂が立つのは、嬉しいことである。
だが、そのせいで館に入りたいと申し出る妖精が最近になって急増しており、そこは少し手間が掛かりそうだった。実際、昨日の昼にも二人の妖精が館にやってきて、卓郎はその対応で昼の仕事を他のメイドに任せてしまったのだ。
仕事の役割分担表も、新しくやってきた妖精の分も追加しなければいけなかったので、昨日の夕方に慌ててその調整をしたのだ。
今はユキとナツが、入ってきたばかりの妖精に対して仕事を教えている。
ぜいたくな悩みであるのは承知しているが、しばらくはこの流れが続きそうだった。
そして、卓郎にとって最も解決しなければいけない問題がすぐそこに迫っていた。
廊下の掃除もそれなりに進んだ頃、ついに卓郎は彼女を見つけた。
ハルだった。彼女は羽根を使って、廊下の燭台を拭いているところだった。表情はあまり冴えていないようで、以前までの快活な印象はどこにも見当たらなかった。
「ハル。調子はどうだ」
卓郎の声を聞き、ハルはあらかさまに面倒くさそうな顔になる。
「別に、普通よ」
「少し休憩にしないか? 今日は順調に進んでるし」
ハルは作業する手を止めて、卓郎を見下ろす。
やがて、肩をすくめて彼のところに降りてきた。
小休憩なので、わざわざ紅茶を飲むわけにもいかず、卓郎たちは近くの部屋に寄った。用意していた水入れをテーブルに置き、二人は部屋の椅子に腰掛ける。
卓郎が口を開こうとした瞬間、ハルが先に断言した。
「今さら止めたって無駄よ。あたしは今日、館をやめるつもりだから」
彼女の先制攻撃に、卓郎はわずかにたじろぐ。
「やっぱり、辞めちゃうのか?」
「だってさー。あたしの友達とかみんな辞めちゃって、一気に仕事がつまんなくなっちゃったんだもん。こんなところにいても意味ないから辞めるのよ」
確かに辞めていったメイドは、どれもハルと親しいメイドだった。
「でも、親しくしていたのはそのメイドたちだけじゃないだろ。アキとかナツとか、それなりに親しくしていたような気がするけど」
「そうだけど、辞めるのはあたしの勝手でしょ」
ふうん、と卓郎はつぶやく。言うなら今しかない。
「アキとナツはすごく心配していたぞ。最近、お前が他のメイドから悪口を言われているから、どうにかしてくれないかってこの前、僕に相談してきたんだ」
「へえ。アキもナツも急にいい子ぶっちゃって、何を言ってるのかしら」
「僕だってそうだよ。正直、やめてほしくないと思ってる。ユキだって、ハルのことをすごく心配していたんだ。そりゃあ、ハルに不満を持ってるメイドも中にはいるだろうけど、お前を心配してくれるメイドだっているんだ」
「アキとナツはともかく、リーダーとユキがそう言うのは納得いかないわね」
ここでハルは鋭い視線を投げてくる。
「あれだけあたしがいじめてやったのに、今さら味方ぶったような顔をしないでちょうだい」
「味方ぶるって……。同じところで働いているんだから、味方なのは当たり前だろ」
「ああ、もう!」
我慢できないように、ハルは足をじたばたさせる。
「もうあたしに構わないでちょうだい! いい加減、うざったいのよ! どうせ、あたしはもうすぐ消えるメイドなのよ。こんな奴に構ってる暇があったら、新しくやってきたメイドたちの面倒でも見たらどうなのよ!」
「おい、なに勝手に怒ってんだよ」
「うるさいうるさい! もうあたしに構わないでちょうだい!」
そう叫んで、ハルはテーブルに突っ伏してしまう。
その拍子に彼女のひじが水入れに当たり、卓郎は慌ててそれを支える。
幸い水はこぼれずに済んだが、次に返す言葉が見つからなかった。彼女の性格のことだから説得するのは難しいだろうと感じていたが、ここまでだとは思わなかった。
――ハル。ああ見えて、実はけっこう繊細なんです。
これは昨日の夜、ナツが述べた言葉である。
おしゃべりでいたずら好きなこともあり、一見すると軽い印象のあるハルだが、実はけっこう寂しがり屋な一面もあるらしい。それ故に親しくなった相手をとても大切にする傾向にあり、今回の紅魔館を辞める件も迷っているらしいのである。
最初は卓郎も本当なのかと疑ったが、その後のナツの言い分はそれなりに納得のできるものだった。親しくしていたメイドが辞めても、しばらく館に残っていたのは、まだ館に親しいメイドが残っているからである。
その親しいメイドとは、言うまでもなくナツやアキのことだろう。長い付き合いのナツだからこそ分かる、ハルの知らない顔だった。
うずくまっているハルに、卓郎が言葉を掛けようとした時だった。
遠くから凄まじい爆音が聞こえてきたと同時に、館全体が揺れたのだ。その拍子に、壁に掛けてあった絵画が床に落ちてしまう。
これには卓郎だけでなく、机に突っ伏していたハルも顔を上げた。
「なんだ、今のは」
「……もしかしたら」
何かに気付いたように、ハルは立ち上がる。その表情は青ざめていた。
「もしかしたらって、なんだよ」
「妹様が結界を突破してしまったかもしれない。だいぶ昔だけど、前にも同じようなことがあって、その時も今のような大きな音が聞こえてきたのよ」
「妹様が?」
驚きながら、卓郎も椅子から立ち上がる。
レミリアの妹、フランのことについて説明を受けたのはつい昨晩のことだ。まだ彼女のことは詳しく知らないが、深刻な事態が発生したのは間違いなさそうである。
「もし本当に妹様が逃げたのなら、まずいな。早く僕たちも行こう」
「……まあ、そうね」
ハルは迷った顔を見せながらも、最後は承諾してくれた。
二人が部屋を出た直後、ユキが慌てた様子で飛んできた。
「卓郎さん! そちらにいましたか」
「ユキ。何があったんだ」
「妹様が結界を突破して逃げ出してしまったそうです。今、パチュリー様が雨を降らせましたので、おそらく館のどこかにいるかと思います」
「雨?」
窓を見ると、確かに外は雨が降っていた。
ついさっきまで雲一つない良い天気だったのに、今はどしゃ降りの雨が降っているのだ。しかも、降っているのは紅魔館周辺だけのようで、遠くに山に雲は全く掛かっていなかった。
おそらく、フランが館から脱出しないための手段だろう。吸血鬼は雨が苦手なのだ。
ハルとユキを連れて、卓郎は廊下を駆けていく。
「それで、妹様は見つかったのか」走りながら卓郎が問う。
「まだです。今、お嬢様も含めて、メイド総出で探しています」
「もし、見つかったとしても、メイドだけで止められるのかな?」
「分かりません。それも妹様の気分次第です」
「気分か……」
そうなると、力づくで止められるのはレミリア、パチュリー、美鈴くらいになってしまう。卓郎にできることは、せいぜい口で説得するくらいだ。
探している間にも、何人もの妖精メイドと擦れ違う。
その途中、パチュリーと小悪魔に遭遇した。
「どう? 見つかったかしら」息を切らしながらパチュリーが問う。
「いえ、まだ見つかってません」と、卓郎。
「そう、今日は気分がすごく悪いから、早く見つけて――」
言葉の途中でパチュリーは大きく咳き込み、その場にうずくまってしまった。
「パチュリー様!」小悪魔が彼女の体を支える。
その瞬間、外の雨が小降りになった。
小悪魔が卓郎たちに顔を向けて、焦った様子で言い放った。
「今日のパチュリー様はそう長く魔法が使えないんだ。だから、早く妹様を見つけてくれ。早くしないと、取り返しのつかないことになるぞ!」
卓郎たちは頷き、パチュリーたちから離れて再び廊下を駆け始めた。
パチュリーは強力な魔法使いであるが、その代わりに身体能力が非常に劣っているのが弱点だった。
肉弾戦だけならば、卓郎にもあっさり負けてしまうくらいである。しかも、喘息持ちなので、今のように症状が出て魔法が長続きしない場合があった。
どうやら、今回はパチュリーの魔法にあまり頼ることはできなさそうだった。
しばらく卓郎たちは一階の廊下を走り回ったが、結局フランを見つけることはできなかった。突き当たりを折り返して、三人は二階への階段前までやってきた。
「ねえ、三人で探すのは効率悪いし、手分けして探しましょうよ」
ハルの提案に卓郎は同意する。
「そうだな。じゃあ、ユキは二階の方。ハルは一階の部屋を探してくれ」
二人のメイドは頷き、各々が動き始めようとした直後だった。
突然、空気が重たくなるような感覚に襲われ、卓郎たちは足を止める。
そして目の前の光景を見て、彼は戦慄してしまった。
ついさっきまで、廊下の先には誰もいなかったはずである。しかし、彼がまばたきした瞬間に、一つの人影が瞬間移動でもしたかように忽然と目の前に姿を現したのだ。
それは、彼にとって初めて見る少女だった。
背丈はレミリアと同じくらいで、髪は金色で白のふわふわの帽子をかぶっている。背中には、宝石のような装飾品の付いた細長い羽根が生えている。
「あなたなの? 最近、妖精たちの中で話題になってる新しい使用人って」
レミリアの妹、フランドール・スカーレットは不気味な笑みを浮かべながら、卓郎たちの前に姿を現した。
※
レミリアいわく、フランは少し精神的に不安定なところがあるらしい。
あなただったら即死でしょうね、という昨晩のレミリアの言葉が蘇ってくる。下手なことを答えなら、一瞬にうちにフランに殺されてしまう可能性だってあるかもしれない。
とにかく無闇に刺激させないよう、卓郎は平静を装って答えた。
「はい。僕は卓郎といいます。一ヶ月前に正式な使用人となりました」
「へえーっ。そうなんだ。わたし、男の妖精メイドって初めて見たわ。というか男っていう存在自体、初めて見たかもしれないわ」
男の妖精?
何だか大きな勘違いをしているようなので、卓郎が指摘しようとした時だった。
「ユキ! 早くお嬢様に伝えにいって!」後ろでハルが叫んだ。
「で、でも、ハルちゃんと卓郎さんが……」
「つべこべ言わないで! どうやら妹様はリーダーに関心があるようだし、ここはあたしたちが何とかするから、あんたは早くお嬢様に伝えて!」
「わ、分かったわ……」
ユキは頷いた後、すぐ横にある階段を上っていった。やや遠回りの道順となってしまうが、フランの横を通り過ぎるのは危険だと判断したのだろう。
フランはそんなユキに目もくれず、卓郎をじっと眺めている。
レミリアとは違う種類の威圧感に、卓郎は目を合わせることができなかった。
金髪の吸血鬼はふうん、とつぶやいた。
「ユキとナツから、いろいろとあなたの話を聞いてるわ。館のために規則を作ったり、お菓子の制度を作ったりとかね。まあ、どれもわたしの知ったこっちゃない話だけど、ユキたちがいつも嬉しそうに話してくるから、嫌でもあなたのことを覚えちゃったのよ。だから、ちょっと気になってね」
「もしかして、地下から出てきたのは僕に会うためですか?」
「まあ、そうなるね。ここしばらくは地下から出てなかったし、たまには上に行くのもいいんじゃないかなと思って、少し苦労したけど結界を壊したのよ」
「……嬉しいと思ったほうがいいのでしょうか」
「あなたが嬉しいと思ったのなら、わたしも嬉しいわね」
微笑みながらフランは答える。
――予想以上に会話がすんなりと進んでいる。
昨晩の話を聞いている限りでは、フランとまともな会話ができるのか心配だったが、一連の会話の中で特にこれといっておかしなところはなかった。
すると、フランは右手を差し出してきた。
「名乗るのが遅れたわね。わたしはフランドールって言うの。よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
握手を求めているのだと思い、卓郎も右手を差し出そうとした瞬間だった。
「だめ! それに触っちゃだめ!」
ハルが叫びながら、卓郎のところまで飛んできたのだ。
それと同時に、不気味な笑みと共にフランの右手が微かに光り始める。
ハルが横から強引にフランの右手を握った直後――。
ばしゃっ、という肉が潰れるような音と共に、ハルの右腕が爆発したのだ。
突然のことに、卓郎の頭は一気に真っ白になる。
ハルの右腕が何の兆候もなく、まるで花火のようにいきなり爆発したのだ。小刻みにされた肉と血が周囲に飛び散っていく。
この衝撃で、卓郎に寄りかかるようにしてハルは倒れてきた。突然のことでまともに支えることもできず、卓郎はハルを抱えたまま一緒に転んでしまった。
そして次に目を開けた瞬間、卓郎は再び驚愕した。
「あっ……あっ……」
つい先ほど爆散したはずのハルの右腕が、いつの間にか元に戻っていたのだ。
だが、ハルは再生されたばかりの右腕を眺めながら大きく震えていた。辺りはハルの血で汚れてしまい、卓郎も思いっきり血を顔にかぶってしまった。
フランはぺろっ、と顔にかかった血を舐める。
「あらあら。彼に歓迎のあいさつをしようと思ったのに、急に邪魔してきてどうしちゃったのよ。彼は妖精なんだから、この程度なら問題ないでしょ」
今の行為を全く気にしていないような口ぶりで、フランは笑った。
確かに妖精は不死である。右腕が吹き飛んでも、すぐに再生できる。
だが、その痛みや衝撃は人間並みではないとはいえ、ある程度は受けるはずだ。現にハルは今の衝撃で半分ほど虚脱状態に陥ってしまったようで、卓郎に抱かれたまま一歩も動けずにいた。
もし、あのままハルの助けがなかったら――。卓郎は身震いをした。
しかも、フランはとんでもない勘違いをしているようだ。
ハルの体を横に置いて、卓郎はフランの前に立った。
「妹様。どうやら勘違いしているようですが、僕は妖精ではありません」
「えっ」と、フランは初めて驚きの表情を見せる。
「僕は人間です。れっきとした人間です。だから、ハルは身を挺して僕を助けてくれたんです。どうか、これ以上のことをやめてください」
恐怖と緊張で思うように言葉が紡げなかったが、何とか返した。
「あなたは、人間なの?」
「はい。なので、妖精のように生き返ることはできません」
これに対し、フランはぶんぶんと大きく首を横に振った。
「そんなのあり得ないわ。だって、お姉様からよく人間は頭が悪くて死にやすくて、とても弱い種族だという話を聞いたんだもん。わたしはまだ生きている人間を見たことないけど、そんな奴が紅魔館の使用人なんて務まるわけないじゃん!」
「でも、僕は人間です」
ここで卓郎は自分の背中を示す。
「ほら、見て分かると思いますが、僕には羽根が生えてません。これがれっきとした証拠です!」
ふん、とフランは鼻を鳴らした。
「たかが羽根くらいで決めつけないでよ」
そして彼女は右手をかざすと、そこに光の粒が集まってきた。
「だったら、手っ取り早い方法であなたが人間かどうかを確かめてやるわ」
彼女の右手に集まった大量の光の粒が収束し、やがてあるものを形成した。
それは一本の杖みたいなものだった。卓郎が唖然とした直後、その杖は一気に燃え上がった。だが、杖は燃え尽きることなく、その炎を纏うような形になった。
周囲の空気が一気に熱くなり、卓郎は反射的に服から布を取り出して、自らの口と鼻を覆った。そして壁際まで後ずさりする。
フランは炎を纏った武器を素手で握りしめて、口元を吊り上げた。
「これをあなたに思いっきり刺して、本当に人間かどうかを確かめてやるわ。もし、本当に人間だったらあなたは死んじゃうけど、妖精だったらすぐ生き返るしね」
――何を言っているんだ、この子は。
意味不明な言動に、いよいよ卓郎の思考は混乱してきた。ただ、一つだけ分かることはフランは本気で彼を刺そうとしているのだ。
近くで座り込んでいるハルは、顔を歪ませながら卓郎の方を見ている。
卓郎は最後のあがきで叫んだ。
「妹様! さっきまで人間と言ってましたが、それは嘘です! 僕は羽根は付いていませんが、れっきとした妖精です。なので、僕を殺しても意味がありません。それに使用人の僕を刺してしまいますと、この後の仕事に影響しまして、お嬢様にも大きな迷惑がかかってしまいます! だから、僕を殺さないでください!」
「やだ」
卓郎の言葉を一蹴して、フランは彼のもとに駆け出す。
地が震えるような音と共に、炎を纏った凶器が彼にめがけてやってくる。
恐怖で卓郎は目を閉じる。
その直後、凄まじい爆音と熱風――そして焼けるような痛みが彼を襲ってきた。その強烈な音に、卓郎の両耳は一瞬だけ聞こえなくなってしまった。
だが、いくら時間が経っても意識を失うことはなかった。
恐る恐る目を開けてみると、眼前にはフランの訝しげな顔があった。
そして、横の方に目を移した瞬間、卓郎は唖然とした。
彼の数十センチ左には、巨大な穴がぽっかりと空いていたのだ。しかも、穴の周囲は黒こげになっており、焦げたような嫌な臭いがした。この攻撃によって、卓郎の左腕の制服は完全に燃えてしまい、さらに左腕の大部分が火傷してしまった。
穴の方をうかがいながら、フランは大きく後ろに下がる。
「あれ。わたしの見間違いだったのかな」
意味が分からず、卓郎は首を傾げる。今の爆音で耳がかなり遠くなってしまったが、何とか彼女の言葉は聞き取れた。
フランは目を擦りながら続けた。
「だって一瞬、あなたの姿が見えなくなったんだもん。そのせいで少し手元が狂って、外してしまったじゃん。ねえ、今の見えなくなったのって、あなたの能力なの?」
能力、と聞いて、初めて卓郎は近くにいるハルに目を向ける。
彼女は相変わらず苦しそうな表情している。
だが、彼と目が合った瞬間、ハルは小さく口元を吊り上げた。
ようやく卓郎は理解した。
ハルは『あらゆる物を見えなくさせる程度の能力』を持っている。具体的には対象のものを周囲の景色と同化させるだけなのだが、それが結果的に彼の命を救ったのだ。
フランが攻撃する直前に、ハルが能力で卓郎の姿を見えなくさせることで彼女の目を撹乱させ、わずかに攻撃の軌道を逸らせることに成功したのだ。
だが、それは単に運が良かっただけの話である。
いくら最初の攻撃をかわせたとはいえ、状況が好転するわけではなかった。
「まあ、いいわ。見えなくなる前に攻撃すればいいんだもの」
そう言って、フランは再び攻撃の構えをとる。
今度こそまずい、と卓郎は思った。
相手は強大な力を持つ吸血鬼である。
その相手に、同じ手が二度も通用するとは考えられなかった。ハルの能力は所詮、対象を見えなくさせるだけである。
フランのことだから、おそらく気配だけで察知されるだろう。後ろに下がってくれたとはいえ、人間の卓郎が吸血鬼の攻撃を避けることなど不可能である。
――後ろに下がった?
この時、卓郎の中で一つの疑問が浮かび上がった。
どうして、フランはわざわざ後ろに下がったのか。
現在、卓郎とフランの間には、かなりの距離が空いてしまっている。武器を構えるにしては、少し後ろに下がりすぎではないか。
その瞬間、卓郎の中でこの状況を打開する方法を思いついた。
時間はない。一か八かの勝負だった。
卓郎はハルに向けて叫んだ。
「ハル、今だ!」
その言葉に釣られて、フランの視線が一瞬だけハルの方を向く。
時間稼ぎに成功した。
この隙に、火傷の痛みをこらえて卓郎は体をある方向に投げだす。
それは、先ほどフランが空けた巨大な穴だった。穴の先は館の庭である。
火傷している左腕から、そのまま卓郎は館の庭に突っ込んだ。ちょうど彼が倒れたところには水たまりがあったので、飛び込んだ拍子に盛大に水しぶきが舞った。
泥だらけになりながら中を見ると、穴の先にはフランの呆然とした顔があった。
今、パチュリーの魔法で外は雨が降っている。
吸血鬼は流れる水――もしくは雨を越えることができない。
つまり、フランは卓郎がいる庭に踏み込めないのである。だから、フランは先ほど大きく後ろに下がったのだ。穴から雨が漏れてきたため、それを避けるために下がったのだ。
これでフランの攻撃を受ける心配は無くなった。
顔に付いた泥を拭い、卓郎は言った。
「どうしたんですか妹様。攻撃してこないんですか?」
卓郎の挑発に、フランは凶器を握り締めながら、憎悪を含んだ視線を向けてきた。どうやら、卓郎の目論見は見事に当たったようである。
使用人としては非常に不謹慎であるが、ざまあみろと思った。
「ハル。卓郎。時間稼ぎ、よくやったわ」
その直後、ようやく待ち望んでいた声が中から聞こえてきた。
フランの顔が横に向けられる。
卓郎からでは中の様子はよく確認できないが、何とか間に合ったようだ。
「フラン。私の所有物に何をしていたのかしら?」
紅魔館の主、レミリア・スカーレットの威厳に満ちた声が確かに聞こえてきた。