フランの姿が見えなくなった後、妖精メイドが穴から卓郎のもとへやってきた。
来たのはユキ、アキ、ナツ、ハルの四人。
フランの攻撃を受けたハルは、ナツに背負われた状態だった。
「卓郎さん。しっかりしてください!」
ユキの問いかけに、卓郎は大丈夫だと言わんばかりに立ち上がった。
「ちょっと火傷したけど、問題ないよ。それよりハルはどう?」
「ハルちゃんは大丈夫です。軽い虚脱状態になっているようですけど、しばらくすれば良くなると思います」
それを聞いて卓郎は安堵の息を吐く。
だが、急に左腕が痛み出して、すぐに顔をしかめた。
「あっ。嘘いわないでください。けっこう重傷じゃないですか」
アキは能力を発動させて、「卓郎さんが火傷を負ってます。急いで冷えた水を持ってきてください」と、誰かに伝えた。
ユキは慌てて布を取り出すと、火傷の部分に付いてしまった泥をそっと拭き取っていく。
その直後、中から激しく物が激突する音が聞こえてきた。と、同時に派手な破裂音と共に、近くの窓硝子が一斉に飛び散り、卓郎たちはびくっと体を跳ねらせた。
中ではおそらく、吸血鬼の姉妹が激しい戦闘を行っているのだろう。何かが激突する音が聞こえるたび、建物がぎしぎしと嫌な音を奏でた。
卓郎の状態を見ながら、ナツは焦ったように言った。
「まずいわね。ここからだと、中に入るには回り道をしないといけないわ」
「どうしてまずいの?」アキが問う。
「ここから館に入るには、裏口の方まで行かないといけないわ。でも、卓郎さんとハルの状態を考えると、かなりの時間が掛かってしまいそうね。下手したら、卓郎さんの火傷が悪化しかねないことになるわ」
ユキとアキは、「あっ」と同時に声をあげた。
この場所は紅魔館の敷地内では、かなり端の方に位置している。
そのため、最寄りの入口まで結構な距離があるのだ。しかも、今は雨で地面がぬかるんでいるため、一刻も早く治療しなければならない卓郎にとって、それは手痛い時間の消費だった。
だからといって、目の前の穴に入るのは危険である。
「私たちならともかく、人間である卓郎さんが穴を通るには危険すぎるわね」
ナツの言う通りである。最悪、激しい戦闘に巻き込まれて死ぬのが目に見えている。
その時、アキが思いついたように手を叩いた。
「そうだ。美鈴さんに卓郎さんを運んでもらえばいいじゃない。今から私が能力で美鈴さんに伝えるから、もうちょっと待ってて――」
アキが言い終わらないうちに、近くで強烈な爆裂音が聞こえてきた。
直後、卓郎たちの近くにある館の壁が崩落した。
運良く崩落した壁には巻き込まれなかったものの、その規模は先ほどのフランの攻撃とは比べ物にならないほど大きかった。
崩落した壁の先には、張りつめた空気がたちこめていた。
吸血鬼の姉妹がお互いに武器を持って、睨み合っていたのだ。
フランは先ほどの炎を纏った武器を持っており、レミリアの方は紅色の投槍みたいなものを構えていた。卓郎にとって、レミリアの武器を見るのはこれが初めてだった。
彼が見ない間に、中で壮絶な戦闘が行われていたのだろう。
両者とも、すでに肩で息をしている状態だった。天井や壁の至るところにひびが入っており、中の調度品は全て破壊し尽くされていた。
「……久しぶりだわ、この感覚。全身の血が騒ぎに騒いでいるわ」
興奮した目つきでレミリアが口を開く。
「お姉様もずいぶんと平和ボケしちゃったよね」
「それはお互い様よ。あなたもしばらく、こんな派手に戦わなかったでしょ」
「そういえばそうね。この前はいつ戦ったかな。忘れちゃったわ」
「お互い疲れたし、もうあなたもこれで満足したでしょ。悪いこと言わないから、とっととおとなしく地下に戻りなさい。目的の使用人にはもう会えたんでしょ」
「会えたけどさー」
フランの視線が一瞬、外にいる卓郎の方に向けられる。
「なんか腹立たしいのよね。せっかくわたしが遊んでやろうと思ったのに、彼が下手な小細工を使ってきて、遊んでくれなかったんだもん」
「その下手な小細工にやられたのはあなたの方でしょ」レミリアはため息を吐く。
「全く情けないわね。格下に一本取られた時点で、あなたの負けは決まってるのよ」
フランは歯ぎしりを立てた。
「お姉様。今、わたしはものすごく機嫌が悪いの。だからこれ以上、わたしを怒らせないでくれる?」
「ふん。まだ気が済んでないなら、かかってらっしゃい。付き合ってあげるわ」
姉の言葉を受けて、フランは武器に纏っている炎を増幅させる。地の底が鳴いているような低い音が、卓郎たちの方にも聞こえてきた。
フランは炎の武器を大きく掲げると、レミリアに向けて振り払った。
すると、炎が自ら勝手に動いてレミリアに迫ってきた。
レミリアは羽根を使って天井まで飛翔する。だが、炎もその後を追うように上昇していく。下から迫ってくる炎に対し、レミリアは瞬時に横に動いて避ける。その瞬間の動きは、卓郎も目で追えなかった。炎はそのまま天井に激突し、消えて無くなった。
火の粉を振り払いながら、今度はレミリアがフランに向けて急降下する。
そして、その紅い剣を縦に振り降ろした。
剣の軌道を見切ったフランは瞬時に横に動いて、剣を避ける。レミリアの剣はそのまま床に突き刺さり、この拍子に周囲の床が大きく陥没した。
剣を避けたフランは、体制を立て直しながら炎を発生させる。
一方のレミリアも床から剣を引き抜き、フランの方を確認しながら剣を構える。
――姉妹の目が合ったのは、ほんの一瞬のことだった。
お互いが同時に真っすぐに動き出して、それぞれの武器を激突させる。
その瞬間、衝撃波が卓郎とメイドたちに襲いかかってきた。
あまりの勢いに全員、その場で転がり込んでしまう。衝撃波は周囲の瓦礫をも吹き飛ばしたが、幸い誰にも当たらずに済んだ。
急いで立ち上がり、卓郎はレミリアたちの方を見る。
すると、卓郎からの位置では二人の姿が見えなくなっていた。
「お嬢様!」
メイドたちも連れて、彼は再び穴から中に入る。
レミリアとフランは肩で息をしながら、両端の壁にそれぞれ背を預けていた。
二人ともすでに武器は持っておらず、お互いに軽く血を流していた。帽子もどこかに吹き飛ばされており、服もところどころが焦げてしまっていた。
「お嬢様、妹様! お怪我はありませんか!」
声を張り上げて、ユキとアキがそれぞれの所へ行く。
アキの手を借りて、レミリアは苦笑いをしながら立ち上がった。
「やっぱり、お互いかなり平和ボケしちゃってるわね。思ってたより体力を消耗するのが早かったわ。まあ、この程度の傷ならすぐ治るから安心しなさい」
フランもユキに体を支えられながら、何とか立ち上がった。
「あーもーっ。体が動かないわ。こんなはずじゃなかったのに」
どうやら、さっきの攻撃で姉妹どちらとも体力が尽きてしまったらしい。あれだけ壮絶な戦いをしていたのだから、いくら吸血鬼でも体力の減りは半端ないだろう。
「妹様。そろそろ地下に戻りましょう。私が運びますので」
ユキの言葉にフランは物足りなさそうな顔をしたが、やがてため息を吐いた。
「……そうね。もう疲れたわ。早く寝たいよ」
ここでフランは顔を上げた。
「ねえ、ユキ。そんなことより、さっきのお姉様との戦いを見てたでしょ。だったら、今のはわたしの勝ちでいいよね。ねっ。わたしの勝ちで」
「え、ええっ……」
ユキは困惑の顔を浮かべる。
助けを請うようにレミリアに顔を向けるが、彼女は意地悪にも口を吊り上げるだけで何も言おうとしない。
「そうですね」
ユキは姉妹の顔を交互に眺めてから、さらっと言った。
「今日は引き分けにしましょう。お嬢様も妹様も全く動けない様子ですので」
※
ユキがフランを連れて地下に潜っている間に、卓郎の治療は行われた。
応急処置を済ませた後、地下の結界を作り直したパチュリーがやってきて、そのまま治療をしてくれたのだ。彼の火傷は左腕の広範囲に渡っていたものの、皮膚の深いところまでには及んでいなかったため、治療自体はすぐに終わった。
彼女の説明によると、何日か安静にしていれば仕事に復帰できるとのことである。もちろん、人間の医療技術ではその何倍もの時間が必要であっただろう。
ちなみに、卓郎以上に容態が深刻になってしまったのは、意外にも治療したパチュリーの方だった。体調が万全ではない中、結界の修復、卓郎の治療を連続して行ったため、全てを済ませた直後、廊下で倒れてしまったのだ。
後で聞いた話によると、そのまま三日間も寝込んでしまい、治った後も一週間くらいは不機嫌だったらしい。
火傷の治療後、卓郎はユキ、アキ、ナツに付き添われ自分の部屋に戻った。ハルはまだ右腕の衝撃が残っていたので、もう少し体を休ませるということだった。
「妹様の状態はどうだった?」卓郎はユキに尋ねる。
「今は地下で眠っています。あの状態ですと、しばらく起きないでしょう。あと、これはあまり関係ないことだと思いますが――」
いったん間を置いて、ユキは口を開いた。
「卓郎さんのことを、最後まで人間だと認めてくれませんでした」
がくり、と卓郎は頭を落とした。
「なんでだよ」
「おそらく、人間のことをよく知らなかったからだと思います。妹様はこれまで一度も人間と交流をしてこなかったので」
「四百年以上も生きてきて、一度も人間と交流がなかったのか」
「はい。ほとんど地下で生活してきましたから」
つまり、フランは世間知らずな吸血鬼ということになる。
今回の卓郎に対する誤解も、そこに原因があったのかもしれない。
おかげで、とんでもない目に遭ってしまった。ハルがいなかったら、今ごろ自分は本当に消し炭になっていたかもしれない。
釈然としない所もあったが、とりあえず今回は納得してやることにした。
ユキたちをいったん外に出して、卓郎は着物に着替える。準備を済ませると、そのままベッドに横になり、「入ってもいいよ」と扉に向けて言い放った。
すると、入ってきたのはメイドたちだけでなく、レミリアもそこに含まれていた。メイドたちは、主人の後ろで緊張した顔つきになっていた。
卓郎は慌ててベッドから上半身を起こす。
「お嬢様。体はもう大丈夫なんですか」
「ええ。少しだるいけど、動けるようにはなったわ」
すでにレミリアは新しい服に着替えており、火傷もとっくに治っているようだった。吸血鬼の傷の治りは、人間とは比べものにならないほど早い。
「いろいろと迷惑をかけてしまって、申し訳なかったわね」
「いいえ。気にしないでください」
命の危機であったが、今はだいぶ平静さを取り戻していた。この二ヶ月間で多くの壮絶な経験をしてきたせいか、神経もだいぶ頑丈になってしまったようだ。
「ユキの話によると、すでにフランは地下で眠っているそうね。まあ、今日はあれだけ暴れたんだもの。しばらくは、今日のようなことは起こさないでしょ」
「あの、お嬢様と妹様はたびたび戦っておられるんですか?」
「そうよ。今日は少し派手にやった方かしら。当たり前だけど、さすがに殺し合いになるほどの喧嘩は一度もしてないわ。フランの方だって、いくら精神的に不安定なところがあろうと、そこの所はしっかり弁えてるわよ」
レミリアは腕を組んで断言した。
「なんだかんだで、私と同じ血が通ってるんだからね」
同じ血、という言葉を聞いて、なぜだか卓郎は胸が痛くなった。
「それじゃあ、私は部屋に戻ってもう少し寝るわ。お大事にね」
軽く手を振って、レミリアは部屋から出ていった。
彼女が出ていった後、ナツが呆れたようにため息を吐いた。
「喧嘩するのはお互いの自由ですけど、少しくらいは後始末するメイドのことを考えてくださいよ。あれを修理するのに、いつもどれだけ時間が掛かっているか……」
「ほんと、お嬢様と妹様の喧嘩って、すごく派手だよね」アキも同意する。
「館の修理を加えますと、また仕事も増えそうですね」ユキも頬を掻く。
これじゃまともに休むことはできないな、と卓郎も思った直後だった。
こんこん、と扉が叩かれる音がした。
卓郎が返事をすると、少しぎこちない感じでハルが中に入ってきた。
この場にいたメイドたちの顔に、わずかな緊張が走る。
「ハル。もう大丈夫なのか」
「うん。やられたのが右腕だけだったから、もう大丈夫」
ごきちなく答えながら、ハルは右手を開いたり握ったりする。右腕が無くなった拍子にメイド服も破れてしまったが、今は新しい服に着替えているようだった。
「そうか」卓郎は胸を撫で下ろす。
「お前が体を張ってくれたおかげで、本当に助かった。何度、お礼を言っても足りないくらいだよ。ありがとな」
ハルは目をぱちぱちさせて、卓郎からの視線を逸らした。
「ま、まあ、当然よね。あたしが身代わりにならなくっちゃ、リーダーの腕が吹っ飛んでたんだからね。妖精は死ぬことないし、こ、これくらいは当然のことよ!」
アキはうんうんと頷いた。
「ハルちゃんって、すごく勇気があるよね。いくら妖精が死ななくたって、痛いのは痛いんだからさー。わたしだったら、絶対にできなかったよ」
「あははは! 私の手にかかれば、これくらいはお手のものよ」
ハルは口を大きく開けて笑うが、次第にその声は小さくなっていった。
しばらくして、ハルは「ふうーっ」とため息を吐いた。
「なんかさー。すごく言いにくいことなんだけどさー」
ハルは天井に目を向ける。
「あたし、結局どっちを選んだほうがいいのかな……」
その言葉は、まさにナツが言ってくれたことを証明するものだった。
館に残るか否か――。親しくしていたメイドたちが辞めても、しばらく館に残っていたのは、まだ館に親しいメイドが残っているからだ、とナツは説明してくれた。
フランの騒動が起こる前は「ここを辞める」と断言していたハルだったが、やはり本当の気持ちは、館に残るか否かでまだ迷っているようだった。
すると、ここでナツが矯正器を上げた。
「ハル。私からはっきり言わせてもらうわ」
「ナツ?」
「ここを辞めないで。お願い」
ナツのあまりの真剣な表情に、さすがのハルもたじろいだ。
「辞めないでって……。それはあたしの勝手じゃない」
「私はここで大切な友達を失いたくないのよ」
目を見開いて驚くハルに、ナツはゆっくりと続けた。
「ほら、私ってこんな性格だから、紅魔館にやって来ても、しばらく親しいメイドがいなかったのよね。だからといって、他のメイド仲間にいたずらされていたわけでもないし、仕事もつまらなくはなかったけど、何か物足りないなって気がしてたの」
「ちょっと、なに言ってんのよ……」
「その時、私に話しかけてきたのが、ここに入ってきたばかりのハルだった。最初はうるさいメイドだなってくらいしか思わなかったけど、次第に一緒にいるのが楽しくなってきてね。だいたいはハルの話を私が聞いているような感じだったけど、ハルの話はいつも面白くて、そこで初めてここで仕事するのもいいかもしれないって、思うようになったの」
ナツは改めて、真っすぐな視線をハルに向けた。
「だからお願い、ハル。紅魔館を辞めないで。ハルから見ると、私はただの友達の一人にすぎないかもしれないけど、私にとっては誰よりも大切な友達なのよ」
普段は無愛想なナツが、感情を込めて言い放った。
「また、私と一緒に仕事やろうよ。ハル」
ナツの視線に耐え切れないように、ハルは顔を下げる。
しばらく、何とも言えない沈黙が続いた。
「……ユキはどうなのさ」
やがて、ぽつりとハルが言った。ユキが反応する。
「リーダーがやってくる前は、よくあんたのこといじめてたよね。まあ、いじめていたメイドは、あたし以外ほとんどいなくなっちゃったけど、ユキはどう思ってるのさ。あたしもいなくなった方が都合がいいと思わないの?」
挑発的なハルの口調に、ユキは静かに首を横に振った。
「別に、そんなこと思ってないわ」
「へえ。またいじめちゃうかもしれないけど、それでもいいの?」
「その時は――」ユキは微笑みながら言った。
「ハルちゃんにちょっと仕返しをしちゃうかもね」
この場にいた全員が固まったように動けなくなった。
周りの反応に、ユキは焦ったように手を振った。
「ちょ、ちょっと、そんなに驚かなくていいじゃない」
「あんた……知らないうちにだいぶ変わったわね」ハルが呟く。
「そんなことないよ。私はいつも通りだよ」
「いや、絶対にそれはないわ」
ハルは頬を掻いてから、改めてナツと目を合わせる。
そして大きく息を吐いてから、ぽつりと口を動かした。
「分かったわよ。ナツがそこまで言うなら、館に残るわ」
ナツの目が明るくなる。
「本当に?」
「こんなところで嘘をつくほど、あたしはひねくれてないわよ」
ナツの体が震えてきた。
「ありがとう、ハル!」
喜びを爆発させて、ナツは親友に飛びかかってきた。
「ちょ、ちょっと……苦しいわよ、ナツ」
抱きしめられて困惑するハルだったが、まんざらでもなさそうで、苦笑いをしながらナツを受け入れているようだった。
様子を眺めながら、卓郎はベッドに横になる。
どうやら、ハルの説得に関しては自分は全く役に立たなかったようである。ナツがいなければ、間違いなくハルは紅魔館に残ってくれなかっただろう。
本来は自分の仕事だったのに、今回はメイドたちにかなり助けられてしまった。
――使用人の仕事は難しいな。
そう思いながら、はしゃぐメイドたちの姿を眺めた。