吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【15】間章

 

 

 大きな疑問を抱くようになったのは、いつ頃からだっただろうか。

 具体的な時期は彼自身もよく覚えていない。もしかしたら、何年も彼女と接しているうちに、疑問を抱くための要素が少しずつ溜まっていったのかもしれない。

 

 しかし、彼はその疑問を彼女にぶつけることはできなかった。

 なぜなら、もし彼がその疑問をぶつけた瞬間、今の平穏な生活が崩れてしまうんじゃないかと危惧したからである。

 彼女は館で最も地位の高い者である。彼女の手にかかれば、いとも簡単に彼の首は切られてしまうだろう。

 

 そう思うと、彼はこの事実を認めざるを得ない。

 自分はこの館にやってきて、本当に良かったと思っていることに――。

 彼がこの館で働き始めて、すでに七年が経過していた。

 周りの妖精メイドや吸血鬼は、七年前から全くその姿を変えなかったが、人間である彼はすっかり立派な大人に成長していた。

 

 とはいえ、彼がどんなに体を大きくさせても、館の仕事や生活に関しては七年前と大きな変化はなく、相変わらず仕事は忙しくて、妖精メイドたちはいろいろと問題を起こしていたが、毎日は充実はしていた。

 強いて変わったことを挙げるなら、妖精メイドの数が増えたことだった。

 この七年で館で働きたいと希望する妖精は衰えることを知らず、ここ数年は常に館の最高記録を更新している状態が続いていた。

 ただ、館の妖精をまとめる彼にとって、急激な数の増加は大きな問題だった。

 毎日の仕事の振り分けをほぼ一人で行っている彼にとって、人数が多くなるということはその分、手間も増えるということである。

 

 そこで彼が考えたのは、妖精たちを四つの班に分けることだった。

 彼が信頼できる四人の妖精を各班のリーダーにさせて、ある程度の権限をリーダーに与えるという形式だった。

 これが功を奏して、館の仕事はさらに効率的に行われるようになった。彼自身も仕事が早い段階で終わるようになり、ここで初めて仕事と勉強以外の時間が生まれた。いわゆる、余暇の時間ができたのである。

 

 これによって新しい趣味も生まれ、彼の生活はさらに豊かになっていった。

 だからこそ、なおさら主に対して何を言えなくなるのだ。

 館にやってくる前、農業を行っていた時の生活は悲惨であった。

 あの頃は大切な家族に囲まれていて、今とは違う種類の幸せを感じてはいたが、やはり過酷な生活をしていたと思う。朝から晩までくたくたになるまで働いても、家族三人が何とか食べていけるだけのお金しかもらえなかったのである。

 あの頃は、とにかく生きていくことだけで頭が必死だったのだ。

 

 それに比べると、今の生活はとても豊かであると感じる。

 種族こそ人間ではないが、彼の周りには信頼できる部下が多くいるし、食べ物に困ることはないし、気軽に紅茶やお菓子を嗜むことができる。時間が余れば、勉強や趣味に興じることだって可能だ。

 

 もし、自分が館を出ていってしまったら、どうなるだろう?

 たまに、そんな問いが頭をよぎることがある。

 だが、自分が再び農民に戻った時の姿が、今の彼には全く想像できなかった。それくらい、彼は今の豊かな生活に体が慣れてしまっていたのだ。

 だから、恐いのである。

 主である彼女に、逆らうかのような疑問を投げることに。もし、それが原因で館を出ていかなければならなくなったら、冗談ではなく自分は死んでしまうかもしれない。

 もう、自分は農家時代の生活に戻りたくないのだ。

 

 ※

 

 ある日の夜、いつも通り彼は門の前に佇んでいた。

 今日は雲一つない天気で、空は数々の星と月が輝いていた。

 空の景色を眺めながら待っていると、やがて空から何者かが彼の方に向かって降りてきた。一方は彼の部下である白い髪の妖精、もう一方は彼の主の吸血鬼である。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ええ、ただいま……」

 血まみれの服を着た彼女は、疲れたような声で返した。

 また、彼女の吸血欲の犠牲になった人間が増えてしまったようだ。たまに彼の血を吸うことがあるが、彼一人だけでは彼女の欲を満たすことはできないようだ。

 

「あら。どうしたのかしら」突然、彼女が口を開く。

「えっ」

「一瞬、私を睨みつけたように見えたけど、気のせいかしら」

 彼女の指摘に、彼は虚を突いたような目になる。

 ほんの一瞬のことだとはいえ、思っていたことが顔に出てしまったようだ。

 

「申し訳ありません。少し血の匂いがきつかったので……」

「まあ、仕方ないわね」

 あっさりと納得した様子で、彼女は館に向けて歩き始めた。

「とっとと服を洗うわよ。ついてらっしゃい」

 彼は「はい」と頷き、部下の妖精と共に彼女の後ろをついていく。

 歩いている途中、ふと彼は空を見上げる。

 

 今日の月も綺麗である。一瞬、今日は満月かと思ったが、右端がやや欠けており、そういえば満月は昨日だったと、彼は皮肉げな笑みを浮かべた。

 彼は今、彼女に対していつまでもこの疑問が言えないでいるのだ。

 ――お嬢様、あなたはどうしてここまで積極的に人間を襲えるんでしょうか?

 

 


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