吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【16】第四章

 

 

「少し、絵を見ていてもいいですか?」

 その言葉でようやく客がいることに気付いた卓郎は、慌てて本から目を離す。その拍子にかぶっていた笠が落ちそうになったので、何とかそれを手で押さえる。

「どうぞどうぞ。見ていってください」

 照れながら返す卓郎に、その女性は微笑みながら商品を見始めた。

 

 卓郎の目の前には、何十枚もの絵が置かれている。

 どれも自然と動物を題材にした、はがき程度の大きさの絵である。

 笠をちらりと上げて、卓郎は絵を眺めている女性を見る。

 歳は自分とあまり変わらないだろう。肩まで伸びた黒髪が印象的で、どこか穏やかな雰囲気を感じさせるような女性だった。

 

 彼女がここにやってくるのは、三週間ぶりのことだった。

 たしか、前回は小鳥の絵を買ってくれた。おそらく彼がこの場所でひっそりと露店を開いてから、最も絵を買ってくれている人だろう。いわゆる常連のお客さんだった。

 彼女は草原を題材にした絵に興味を示した。緑に広がる草原の先に、濃い緑に覆われた山々が連なった絵である。つい先日、完成した彼の自信作だ。

 

「すごい……。なんだか、ものすごく引き込まれる絵ですね」

「ありがとうございます」

「でも、ごめんなさい。今日はあまりお金を持ってないので」

「いえいえ。別に無理して買うことはないですよ」

 その言葉を受けて、彼女は「ふふっ」と微笑んだ。その笑みですら、どこか知性を感じさせるところがあり、思わず卓郎は可愛いなと思ってしまった。

 

 しばらく絵を眺めた後、彼女は頭を下げて店を出てしまった。

 彼女が視界から消えてから、卓郎は再び持ってきた本を読み始める。

 呼びかけや宣伝は一切やらない方針である。彼が露店を構えてある通りは、そこまで多くの人が通らないので、あまり売る気がないのは卓郎自身もよく分かっていた。どちらかというと、ゆったりと時間を過ごしたいからだった。

 割と早く本が読み終わったので、今日は早めに切り上げることにした。常連の彼女がやってくる前にすでに一枚売れていたので、成果としては申し分ない。

 

 そもそも、最初から損得のことはあまり考えていなかった。

 以前から趣味でやっていたことの延長として売り始めたので、値段はかなり抑えめにしてある。それに卓郎自身、まだまだ自分の絵はうまい領域に入っていないと自覚していた。

 人里の専門店に売られている絵や、パチュリーの図書館の本に収録されている絵に比べたら、自分はまだまだ素人に毛が生えた程度の出来である。

 

 とはいえ、最近はじわじわと絵が売れてきているなという実感はある。

 先ほどの彼女のように常連客も出来ているし、材料費を差し引いても多少の儲けが出るようになってきた。これは卓郎も純粋に嬉しいことだった。

 せっかくだからお茶でも飲もうと思い、卓郎は人里の食事処に寄った。

 

 隅の席に座り、笠を脱いでからお茶と大福を頼んだ。

 給料がもらえないので、これまでは人里でお茶の一杯すら頼めなかったが、今はこうして稼いだ金でお菓子くらいは嗜むことができる。

 ひっそりと大福を食べながら、卓郎はこれまでの八年間を思い返した。

 

 彼が休日に人里で絵を売り始めるようになったのは、一年半前のことである。

 きっかけは単純なことからだった。メイドたちに自分の絵を見せたところ、予想以上に好評だったので、それならばと思い、こうして人里に売り始めたのである。

 そもそも卓郎が絵を描くようになったのも、単純な理由だった。

 紅魔館で働き始めて一年が経過した頃、ふと卓郎は妖精メイドたちのために何かできることはないかと考え始めた。週に一度のお茶会以外に、何かメイドたちを楽しませるような催しごとを開いていきたい――。

 卓郎はこの提案をユキたちにも言ってみた。

 

 すると、ユキたちもこれには大きく賛成してくれた。

 それ以降、妖精たちの意見も取り入れながら、様々な催しごとが開催されていった。

 その中でもハルが考案した『弾飛ばし大会』は、メイドの中でも特に好評であり、現在でも一ヶ月に一回の間隔で開催されている人気の催しごととなっている。

 だが、中には、大失敗に終わってしまった催しごともいくつかあった。

 

 その代表格が、卓郎が行った紙芝居だった。

 ちょうどその頃、卓郎は小説という娯楽に夢中になっていた。最初は言語の勉強も兼ねて小説を読み始めたのだが、いつしかその魅力に完全に取り憑かれてしまったのである。

 やがて、卓郎もそういった物語を書いてみたいという欲求が出てきた。

 

 ただ、それをハルとアキに打ち明けてしまったのが大きな間違いだった。

 瞬く間に卓郎が物語を書くという噂がメイドたちの間で広まり、なぜか途中で紙芝居を書くという噂に変換されてしまい、最終的には噂を聞いたレミリアにいきなり「紙芝居を書きなさい」と命令されてしまったのだ。

 当たり前だが、それまで卓郎は小説はおろか絵すら書いたことがなかった。とはいえ、主人の命令には逆らえない。

 

 こうして十七歳のある晩に、卓郎は自作の紙芝居を皆の前で発表した。

 自分なりに時間をかけて準備をして発表したのだが、結果としては大失敗に終わった。

 メイドたちからは大不評で、あのユキからも「あまり面白くなかったです」と苦笑いされた時は、思わず涙がこぼれそうになった。

 

 でも、今なら言えるが、あれは大失敗となって当然である。

 なぜなら、あまりに内容も絵もお粗末すぎたのだ。

 具体的には人間の血を吸う三匹の蚊を主人公にした物語だったのだが、なぜあんな物語を書こうと思ったのか、自分でも未だによく分からないでいる。初めて書いたんだから仕方ないと言われればそれまでだが、やはり酷評はそれなりに心が痛む。

 こうして、紙芝居は卓郎の人生の中で最大の黒歴史となった。

 

 だが、物語は書かなくなっても、絵を書くことだけは続けた。

 十五歳の時、美鈴に背負られながら空からの景色を見て以来、すっかり彼は自然の景色が好きになっていた。あの紙芝居の催しごとがあって以来、卓郎は休日になると、館の近くをぶらぶらと歩いて景色を描くようになっていた。

 

 それから時間が経ち――。

 二十二歳になった卓郎はこうして、自作の絵を人里で売るようになったのだ。

 大福を食べ終わった卓郎は、再び笠をかぶって外に出る。

 笠をかぶるのは、極力人目を避けるためである。すでに八年も前とはいえ、例の事件で行方不明の扱いを受けているので、こうして目立たないようにしているのだ。

 今日は大福も食べて、お腹もちょうどいい具合に満たされている。

 このまま、のんびりと館に戻ろうとした矢先だった。

 

 卓郎の視線の先で、妙な人だかりができているのを発見した。

 何気なくその中を覗いてみると、思わず飛び上がりそうになった。

 人だかりの先には、ユキと人間の男性が何やら言い合いをしていたのだ。買い物かごを持ったユキが困った顔になりながら、男性に何かを言っている。

 

「でも、本当に値段が合わないんです。何度も計算したんです」

「そう言われても困るんだよ、妖精のお嬢ちゃん。値札を見たら分かるけど、この値札から計算すると確かにこの値段になるんだよ」

 場所が店の前なので、おそらく相手は店の者だろう。男性の後ろにはもう一人、別の男性がおり、彼は店の中で二人の様子をうかがっているようだった。

 会話から察するに、値段に関して両者の間で食い違いが生じたのだろう。

 

 そして店の看板を見て、卓郎は眉をひそめた。

 ユキがいる店は、彼の手帳において要注意店舗とされていたからである。

 この八年で卓郎は人里にある店の情報を、全て一冊の手帳にまとめていた。

 具体的には、この商品はこの店の方が安いといったことや、この店の方が品質が良いといった情報を細かく記しているのだ。ほとんどはメイドたちの口から集めた情報だが、買い出しの時などにおいては非常に重宝されている代物である。

 

 その卓郎の手帳の中で、目の前にある店は最低の評価を下していた。

 以前、別の妖精メイドがこの店で買い物をして、通常より高い値段で品物を買わされたからである。そのメイドは計算を苦手としており、店の人が提示した金額をそのまま信じてしまったのである。

 だが、どうしてユキはそんな店で買い物をしようとしたのか。

 

 ついでにその疑問も解消させようと思い、卓郎は二人の前まで歩いていった。大切な部下の危機である。いくら目立ちたくないとはいえ、助けないわけにはいかない。

「ちょっといいかな」

 言い合う二人が一斉に彼を見る。

 ユキは驚いたように目を見張るが、卓郎の名前は言わない。人里の中においては、絶対に卓郎の名は出さないとメイドたちと約束していたからである。

 店の男は訝しげな顔になる。

 

「あん? 今、取り込み中なんだ、買い物は後にしてくれないか」

「そういうわけじゃない。さっきまで二人の会話を聞いていたのだが、どうやら値段の食い違いが生じているように見えたので、こうしてやってきたんだ」

「ほう。それで何が言いたいんだ?」

「もし、良かったら、僕が彼女が買った品物の計算しようと思ったんだ。二人で言い争っているよりかは、第三者で甲乙つけたほうが話も早いだろ」

「つまり、お前さんは計算が得意なのか?」

「自慢ではないが、五桁までの暗算くらいならお手のものだ」

「へえ。じゃあ、ちょうどいいや。計算が得意なお前さんに、この愚かな妖精が俺を騙そうとしているのを証明させようじゃねえか」

 自信のこもった男の言葉に、卓郎は疑問を抱いた。

 

 ユキの性格からして、騙すことは絶対にあり得ない。騙しているのは明らかに店の男たちだろう。でも、どうしてあんなに自信のこもった口調で言えるのか。

 ユキの買い物かごの中身を見た後、卓郎は次に店の値札に目を移した。

 値札はどれも薄い木の板で出来ており、棚の取っ手に紐でぶら下げている形をしていた。値段はどれも相場より二割ほど高い。

 卓郎が暗算している間に、隣でユキが小声で「いつものお店が今日が休みでした」と言ってきた。どうやら材料が足りずに、仕方なくこの店に来たのだろう。

 

 暗算の結果、店の人が主張している値段となった。

 この結果にユキが焦ったような声でつぶやく。

「そんな……。絶対におかしいですよ。私が最初にやってきた時は、こんなに値段が高くなかったはずです。計算は私だってできますし」

「おかしいのは値段じゃねえよ。どうやら、お前さんのここの方だったようだな」

 自分の頭に人差し指を当てて、男は笑った。

 

「これだから妖精は困るんだよな。頭が悪いくせに、ちょくちょく人間様にいたずらを仕掛けてきやがる」

 ここで男は首を振った。

「いや、今回はいたずらの範囲じゃ済まねえな。れっきとした犯罪だ。犯罪だぜ、このやろう」

 取り巻く人間も、ユキに対して厳しい視線を向けてくる。

 男はユキに肩に乱暴に手を置いた。

「さあて、俺たちを騙そうとした罰をお嬢ちゃんに与えてやらなくっちゃな」

 体を震わせながらうつむくユキに、卓郎はいよいよ焦りを抱き始めた。

 

 念には念を入れて、暗算は二回行った。だが、結果はどちらも店の人が主張している値段になってしまった。どうして、ユキは間違えてしまったのか。

 最悪、飛んで逃げろとでも命令するべきか、と思った直後だった。

 卓郎の視線が、店の奥にいるもう一人の男に向かった。

 

 その男は不敵な笑みを浮かべながら、外の光景をうかがっていた。右手は棚にぶら下がっている値札を押さえており、その格好が何となく目についたのである。

 値札を押さえる?

 この直後、卓郎は店中の値札を見回した。

 そして半分ほどの値札に、ある奇妙な共通点が見つかったのだ。

 卓郎が行動に移し始めたのは、それからすぐだった。

 

「失礼」

 男たちが止める暇もなく、卓郎はユキたちの横を通り抜けて店に入る。

 そして、おもむろに近くにぶら下がっている値札を掴む。

 店の人が止める間もなく、卓郎はその値札をひっくり返した。

 値札の裏面には、表面と同じように値段が書かれてあった。しかも、裏面の方が表面より安い値段である。卓郎の手帳では、相場以下の値段だった。

 

「てめえ! なにしやがる!」男が卓郎の体を押さえつけてくる。

 その拍子に笠が落ちてしまったが、構わずに卓郎は叫んだ。

「これだ! これがイカサマの正体だ! この店の男たちは妖精の隙を突いて、値札の面をひっくり返したんだ。あらかじめ安い値段の面を表に出しておいて、隙を突いて値段の高い面にひっくり返したんだ!」

 この言葉に、ユキだけでなく周囲の人間も唖然とした。

 

 卓郎が違和感を抱いたのは、値札を吊るしてある紐がほとんど交差しているからだった。一つ、二つくらいだったらまだしも、半分以上の値札の紐が交差していると、さすがに不審を抱かずにいられない。

 ご丁寧なことに、棚には軽い接着剤みたいなものが貼り付けられてあり、その部分に値札を付けることで、値札が自然に裏返らないような細工も施してあった。

 計算が苦手な妖精の特性を突いた、狡い小細工であった。ただ、今日は計算が得意なユキが店にやってきたので、完全にうまくはいなかったのだろう。

 

「このやろう!」

 店の中にいた男が飛び出していき、卓郎の腹を思い切り殴った。

 体を押さえつけられていた卓郎は為す術なく、その顔を歪ませた。

「適当なこと言ってんじゃねえ! 証拠はあるのか、証拠は! それがなかったら、てめえの言ってることは全て嘘になるんだよ!」

 男の言葉を受けて、卓郎は額に汗をにじませながら微笑んだ。

 

「全ての値札を安い方に戻して、また再計算するんだよ。それでさっきの妖精が言った値段と一致すれば、もう言い訳はできないよ」

「てめえ……」

「どうした? さっきまでの自信あり気な顔はどこにいったんだ?」

「ち、ちきしょう!」

 追い詰められた男は、さらに殴りかかろうとする。

 さすがに暴力には対抗できず、思わず卓郎は目を瞑る。

 

 ――その時だった。

「そこまでだ!」

 この場の空気を一瞬にして停止させてしまうような、鋭い声が聞こえてきた。

 殴ろうとした男は拳を握りしめたまま体を停止させて、卓郎の背後に視線を向ける。その表情は、恐ろしいものに出会ってしまったかのように唖然としていた。

 背後から、何者かが近付いてくる音が聞こえる。

 

「せ、先生。どうしてこちらに」殴ろうとした男が呟く。

「たまたま近くを通りかかったら、人だかりができていたんでな。どうしたものかと思ったら、ちょうどイカサマという言葉が私の耳に入ってきたんだ」

 ここで体を押さえつけていた男の力が緩み、卓郎は解放される。

 そして後ろを振り向いた瞬間、懐かしい感覚が一気に蘇ってきた。

「慧音先生……」

 殴られた腹を押さえながら、卓郎は呟く。

 

 腰まで伸びた白い髪。その上には、赤い織物が巻かれた青い帽子を被っている。凛々しさと知的さを兼ね備えた彼女な顔は、十年前から全く変わっていなかった。

「イカサマとはどういうことか、私に説明してくれないか」

 卓郎の寺子屋時代の恩師、上白沢慧音は鋭い視線で男たちを睨みつけた。

 

 ※

 

「この愚か者が!」

 慧音の勢いある頭突きが、店の男に炸裂した。

「ぐおおおっ!」

 頭を押さえながら地面で悶える男を見下ろしながら、慧音は叫んだ。

「罪もない者を騙すとは、人間として情けないと思わないのか! たとえ相手が妖精だろうと妖怪だろうと、罪を犯すことに変わりはない!」

 そして慧音はもう一人の男にも近づき、同様に強烈な頭突きをかました。

 

 唸るような叫び声をあげながら、その男も地に伏した。

「恥を知れ!」

 その光景を見ながら、卓郎はぶるっと体を震わせてしまう。

 彼も寺子屋時代に授業で居眠りをしてしまった罰で、一度だけ頭突きを喰らったことがある。頭突きは慧音の得意技だ。その威力は絶大で、しばらく衝撃で目の前がぼやけて見えなくなってしまうほどである。それ以来、彼女の前では絶対に眠らないと誓った。

 

 慧音がこの場にやってきた後、ユキがこれまでの事情を説明した。

 そして値札を元に戻して、再計算を行ってみると、卓郎が推理した通りにユキが最初に言っていた値段と一致したのである。

 後が無くなった店の男たちは、土下座までして慧音に許しを請おうとした。だが、彼女がそう簡単に許してもらえるはずもなく、こうして頭突きの罰が下されたのである。

 もちろん、お金はユキが主張した値段で払った。

 

 事件も一件落着となり、ユキは慧音に向けて頭を下げた。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」

「構わないさ。とりあえず、大きな怪我がなくて良かった」

 ここで慧音は感心するように続けた。

「それにしても、お前のような頭の良い妖精がこの世界に存在していたとはな。妖精を馬鹿にしているわけではないが、驚きだな」

「いえいえ。そこまで褒められるほどではありませんって」

「ははは。妖精の遠慮の言葉なんて、初めて聞いたかもな」

 

 そう呟きながら、慧音は次に卓郎の方に近づいてくる。

「お前さんも大丈夫か? たしか腹を殴られたらしいが――」

 この瞬間、初めて慧音と卓郎は目を合わせた。

 慧音の体が氷のように固まる。

「お久しぶりです。先生」

 腹を押さえながら、卓郎はふらふらと立ち上がる。

 だが、それでも慧音は何も反応しなかった。

 

 卓郎が首を傾げると、ようやく慧音は我に返ったように体をぴくんと動かした。

「お、お前……まさか、あの卓郎か?」

「はい」

「本当に、あの卓郎なのか?」

「はい。卓郎です」

 すると、慧音は頭をかくんと落とし、額を手で押さえた。

 よっぽど彼の出現が衝撃的だったのか、しばらくそのままの状態で佇んでいた。

「そうか。生きていたのか……」

 手を放して、慧音は改めて卓郎と目を合わせる。

 

「寺子屋を辞めて以来だから、十年ぶりだな。てっきり、八年前の事件で死んだと思っていたぞ」

「すみません。なかなか人里に来れる機会がなかったので」

「まあ、いい。積もる話は後にして、今はとりあえず落ち着ける場所に移動しよう」

「はい」と、卓郎は頷きながら、横目でユキを見る。

 

 ユキはこくりと小さく頷いて、かごを持ったまま空へ飛んで行った。

 とりあえず、ユキと卓郎の関係は誰にも判明されなかったようだ。

 卓郎は空を見上げて、太陽の高さを確認する。まだ、日が傾くまで時間がありそうだ。これなら慧音と話し込んでも日没までには館に戻れるだろう、と察した。

「久しぶりの再会だ。私の家へ行こう」

 こうして、卓郎は彼女の後ろを歩き始めた。

 

 ※

 

 慧音の家は寺子屋の近くにある一軒家だった。

 彼女の家に入るのは、これが初めてである。長屋の多い人里では珍しい、独立した住宅のようだった。扉を開けて中に入ると、良い紙の匂いがした。

「少し雑然としてて悪いが、適当に座っててくれ」

 そう言って、慧音は部屋の奥へと向かっていった。

 

 卓郎はちゃぶ台の前に腰掛けて、近くにあった本を適当に取ってみる。

 部屋の至るところには本が積まれており、さながら小さな図書館のようだった。ただ、パチュリーの図書館にあるような、意味不明な文字の本は置かれていない。どれも、今の卓郎でも十分に理解できる内容の本だった。

 それに目を通しているうちに、慧音が二つの茶碗を持ってきてくれた。

 

「その本はけっこう難しいんだが、読めるのか?」

 茶碗を差し出しながら、慧音が尋ねる。

「そうですね。これくらいなら十分に読めます」

「どうやら、成長したのは体の方だけじゃなかったようだな」

 慧音も卓郎と向かい合うようにして、ちゃぶ台の前に座る。

 

 数秒ほど無言の時間が続いた後、慧音が先に切りだした。

「久しぶりだな、卓郎。お前が寺子屋を辞めてからだいぶ時間も経つが、元気そうにしているようだな」

「はい。この十年いろいろとありましたが、元気にしています」

 ここで慧音はうつむき加減で言った。

「いろいろか……。お前の母親と兄が殺されてから八年が経つが、それまで一体どこで何をしていたのだ? てっきり、私はもうこの世にはいないと思っていたんだぞ」

 やはり、慧音も八年前の事件はよく知っているようだ。

「少し話は長くなりますが……」

 さすがに、吸血鬼の館で働いていますとは言えない。

 故郷の村の「ばあちゃん」みたいに、曖昧な言葉では絶対に通用しない相手である。あらかじめ練っていた物語を使って、卓郎は答えることにした。

 

「実はあの事件の後、運良く通りすがりの農民に助けられたんです。あの時、例の妖怪から何とか逃げ切れたんですが、その後、近くの湖の前で力尽きてしまったんです。今、振り返りますと、その人が助けてくれなかったら、僕は間違いなく死んでいたと思います。事情を話したら、嬉しいことにしばらくここにいてもいいと言ってくれたんです」

「通りすがりの農民だと? それは人里の農民なのか?」

「いえ、人里から離れた場所にある村の住人です」

「その助けてくれた農民とやらは、どんな人なんだ?」

「普段は厳しいですけど、たまに優しい所を見せてくれる人でした。僕が十七歳の時に、その人は病気で亡くなってしまいましたが」

「病気だと?」

「はい。流行の病にかかってしまい、そのまますぐに亡くなってしまいました」

「そうか。お前にとって、まさに命の恩人だったんだな」

 

 亡くなるという言葉が出てきてか、慧音はこれ以上、追究してはこなかった。やや強引ではあったが、うまくはぐらかすことができたようだ。

 その後、卓郎と慧音はお茶を飲みながら、互いの現状を報告し合った。

 慧音は現在も寺子屋で教師を続けているらしく、相変わらず子供たちに理解しやすい授業が実現できなくて困っている、と苦笑いをしながら話してくれた。

 卓郎は現在もその村に住み続けており、細々と農業をやっていると話した。

 細かく突っ込まれても対応できるように、故郷の家でやっていた農業をそのまま続けているということにしておいた。

 

「じゃあ、今日はどうしてわざわざ里にやって来たんだ」慧音が問う。

「これを売るためです」

 卓郎は風呂敷をほどき、何枚かの絵を渡す。

 それを見ながら、慧音は「ほう」とつぶやいた。

「なかなかうまいじゃないか」

「仕事の合間にちょくちょく書いてまして、たまに里に行って売ってるんです」

「つまり、趣味の一環というわけか」

「そういうことになりますね」

 すると、慧音は一枚の絵を手で掴み、間近でじっと鑑賞する。

 

「いや、これは明らかに趣味の領域ではないだろ。私はそこまで絵に詳しいわけではないが、明らかに素人の絵ではないぞ。いつ頃から描き始めたんだ」

「十七の頃から描き始めました」

「ほう。六、七年でここまでか……」慧音はあごを撫でる。

「卓郎、もしかしてお前、芸術的な才能があるんじゃないのか。我流でここまでの領域に到達するのは、純粋にすごいことだと思うぞ」

「そんな大げさな」

 苦笑いをしながら、卓郎は右手を横に振る。

 

「ありがとうございます。ただ、絵に関しましては、これからも趣味のつもりで描いていくつもりです。もちろん、もっとうまくなりたいとは思っていますが」

「そうか。お前がそう決めたのなら、それでいいだろう」

「これからも、里にはちょくちょく絵を売りに来ようと思っています。最近は少しずつですけど絵も売れるようになってきましたので、いい小遣い稼ぎになってきました」

「なんだ。それなりに評価されているじゃないか。それだったら、もう少し絵の方面にも本気を出してもいいんじゃないのか。もったいない」

 

 苦笑いをしながら、卓郎は絵を風呂敷に戻す。もし、本当にただの農民だったら一念発起する可能性はあったかもしれかったが、今の境遇ではまず不可能だろう。

 ふと、窓から外の様子を確認してみると、陽もだいぶ傾いているようだった。歩いて館に戻るまでの時間を考慮すると、そろそろ出たほうが良いだろう。

 

 これでお開きかな、と思った直後だった。

「ところで、少し尋ねたいことがあるのだが……」

 慧音はやや顔を落としてから言った。

「八年前の事件について、お前はどの範囲まで知っているんだ?」

 卓郎は強く口を結んで、慧音を凝視した。

「辛い記憶を掘り返すことだから、もし嫌だったら答えなくても構わない。でも、もし私だけしか知らない情報があったら、それをお前に教えようかと思っている」

「先生にしか、知らない情報ですか?」

「ああ。そして身内のお前より、私の方が事件の詳細を知っている自信がある」

 卓郎の表情が強張る。どうしてそんなことが断言できるのだ。

 

 その時、彼の中である推測が生まれた。

「もしかして、先生が妖怪退治の人だったんですか?」

 慧音がぴくんと反応する。

「なんだ。知っていたのか」

「いえ。単なる予測です。妖怪退治を行う人がいるとは聞いてましたが、具体的に誰がやったのかまでは僕も分かりませんでした」

 八年前、まだ彼が紅魔館に来たばかりの頃を思い出す。

 その時、レミリアとユキが妖怪退治をする者に関する話をしていたのだ。

 

 慧音は腕を組んで、真っすぐに彼を見た。

「お前の予想通りだ。私が八年前、お前の母と兄が殺された事件の調査を行ったんだ。里の長からの命令でな。調査の当初はなかなか事件の目撃者がおらずに苦労したが、最終的には犯人も見つかって事件は解決した。そして犯人に対して私が制裁を行った」

「慧音先生が行ったんですか!」卓郎は声を張り上げる。

「当たり前だろ。制裁しなかったら、何のための妖怪退治になる」

「そうですか……」

 目の前にいる先生が、自分の人生を狂わせた犯人を裁いた。

 

 そうなると、卓郎はこの質問をせざるを得なくなる。

「どんな制裁を行ったんですか?」

 この問いに、慧音は考え込むように目を閉じた。

「その質問に関しては具体的に答えられない。ただ、その妖怪が今後、人間を襲うようなことは絶対にないと断言しておこう。私から情報を教えると言ったくせに、こんな解答になってすまないな。許してくれ」

「いえ、もうだいぶ昔のことですし、別に構いませんよ」

 慌てて手を振りながら、卓郎は窓の外を確認する。

 

 時間的にそろそろ厳しかったので、風呂敷を持って立ち上がった。

「帰るのか?」

「すいません。話の途中ですが、そろそろ戻らないと」

「分かった。話はまた次の機会にしよう」

 玄関の扉を開けて、改めて卓郎は慧音と向かい合う。

 すると、慧音は彼の肩にそっと手を置く。

 たったそれだけのことなのに、卓郎は妙な安心感を抱いてしまった。

 

「何はともあれ、お前が生きていて本当に良かった。また時間があったら、ぜひ私の家に遊びに来てくれ。勉強のことでも悩み相談でも、何でも引き受けるぞ」

「ありがとうございます」

 すると、慧音はここで口元を吊り上げた。

「実を言うとな、私は寺子屋時代からお前のことが気に入ってたんだ」

 

 えっ、と卓郎は声をあげる。

「もちろん優秀な生徒だから、という意味でだ。周りの生徒が何年もかけて習得する知識を、お前はたったの一年で全て理解し終えた。入ってきたばかりの頃は簡単な計算も分からずに戸惑っていたお前が、恐ろしい速度で知識を習得していく様子は、教える側の私も見ていて気持ちが良かったよ」

「そんなことありません。結局、歴史は最後まで苦手なままでしたし」

「苦手な教科があったとはいえ、お前が優秀だったという事実に変わりはない。お前が家の事情で寺子屋を辞めると言った時は正直、かなり心が痛んだ。もし、あのままお前が学問を続けていたら、きっと優秀な学者になっていただろうな」

 

「またまた大げさなことを」

「私が簡単に人を褒める奴ではないことは、よく分かっているだろ。もし、お前が構わないのなら、今すぐ私の弟子としてここに住んでもいいのだぞ」

「あはは……。そこまで褒められるとは恐縮です」

「それで、次はいつ里に来るのだ?」

「まだ新しい絵ができたら来ます」

「そうか。待っているぞ」

 別れの挨拶を済ませて、卓郎は慧音の家を出た。

 

 まだまだ人通りの多い人里の道を歩きながら、彼は小さく息を吐く。

 紅魔館に来てから、ここまで人里で会話をしたのは初めてのことだ。

 この八年間、外ではあまり目立たないように行動してきたが、ついに自分の顔を知る者と出会ってしまった。しかも、相手は八年前の事件と深く関わった恩師である。

 また、次の機会があるようだったら、もう少し事件に関する詳細を聞きたい。

 

 ――その時、小さな胸騒ぎを感じた。

 卓郎は「んっ?」と目を瞬かせて、自分の胸に触れる。

 一瞬、体の奥底から奇妙な感覚が襲ってきたのである。見えない手がそっと心臓に触れてきたような、何とも漫然とした気持ち悪い感触である。

 だが、それは一瞬のことだったので、特に気にすることなく歩き続けた。

 

 


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