吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【19】第五章

 

 

「ねえ、ちゃんと聞いているの、卓郎」

 パチュリーの声を聞いて、ようやく卓郎は我に返った。

 彼女は呆れながら、下書きの描かれた紙を揃える。

「せっかく私が協力してやっているのに、上の空な態度をとるなんてね。次も同じような態度をとったら、二度と協力なんかしてあげないからね」

「あっ……はい。申し訳ありません」

 卓郎は深々と頭を下げる。

 

 よりによってパチュリーの前でぼんやりとしてしまうとは、我ながら何をやっているんだと思った。

 現在、卓郎は来たる二ヶ月後の例大祭に向けて、紙芝居の準備を行っていた。

 パチュリー協力のもと、図書館で話の内容や絵の具合を見てもらっている最中だったが、途中で上の空になってしまい、こうして怒られてしまったのである。

 

 優花と出会って、一ヶ月半が経った。

 あの日、あの場所で一緒に手をつないだ瞬間から、卓郎の意識は彼女から離れられなくなってしまった。その原因が分からないほど、彼は鈍い人間ではない。

「それで卓郎、こういった感じの流れはどうかしらね」

 パチュリーの言葉を受けて、卓郎は机に置いてある紙を眺める。

 

 もともと紙には卓郎が考えた物語のあらすじが書かれていた。

 その一部分は赤い線が引かれており、その横にパチュリーが新しく書き直した内容が書かれてあった。その性格を端的に表現するかのように、彼女の字は非常にきれいだった。

「この通りの展開にすれば、物語の中だるみも少しは解消されるんじゃないかしら」

 確かに、パチュリーの修正した内容は悪くなさそうだった。

「そうですね。じゃあ、この展開でいきましょう」

 気を取り直して、卓郎はパチュリーとの話し合いを始めた。

 

 ※

 

 翌日、いつも通りに卓郎は館の仕事を始めた。

 昨日は夜の仕事をメイドたちに任せてパチュリーと物語を作ったが、思いのほか長引いてしまったので、やや睡眠が不足気味だった。

 あくびを噛み殺しながら朝の仕事をこなし、卓郎はいったん休憩に入った。

 

 紅茶でも飲もうと思い、食堂に入ってみると中には誰もいなかった。これならゆったりできるかなと思い、卓郎は適当な席に座って紅茶を作り始める。

 その途中、彼は大きく咳き込んだ。

 ごほっ、ごほっ、と嫌な感じの咳を何回かした後、彼は小さく首を傾げた。

 一体、何が起こったのだろうか。

 だが、数分が経つとそんなことは忘れてしまい、卓郎の頭の中はあっという間に優花の微笑で埋め尽くされていった。それと共に飲む紅茶は格別にうまい。

 

 あれから、卓郎は休日になると必ず里に向かうようになった。

 目的はもちろん、優花に会いにいくためである。レミリアには例大祭に関する打ち合わせをしなければならないと嘘をついて、何とかごまかしている。

 こうして卓郎は一週間に一回の頻度で優花に会い、仲を深めていった。

 

 一緒に休憩処で雑談を交わしたり、絵画の飾られた店を歩き回ったりと内容は様々である。まだ、お互いの関係を進展させるような言葉は交わしていないが、優花も楽しんでいる様子はよく伝わってきた。

 不思議なことだが、彼女を考えている時は嫌な気分を忘れることができるのだ。

 どんなに順調であろうと、今の仕事に対してどうしても嫌な気分を抱える時がやってくる。それを一瞬にしてかき消す力が、今の彼女にはあるのだ。

 

 そういえば、だいぶ昔にこんなことがあった。

 あの事件が起こる数ヶ月前、兄の拓馬がふと卓郎に対して言ったことだ。

 拓馬は幸せそうな顔をしながら、自分は今『ある人』のことで頭がいっぱいで、どうにかなってしまいそうだと話したことがある。事件の半年前までは体調が非常に悪く、精神的にも不安定だった拓馬が急に生き返ったように話しかけてきたのだ。

 その時は、意味がよく分からず「ふーん」と適当に返したが、あまりの豹変ぶりだったので今でも鮮明に覚えていたのだ。

 

 もしかしたら、今の自分はその時の兄と同じ気持ちを抱いているのかもしれない。

 卓郎も今、一人の人間に大きな力をもらっている。

 他人を想う気持ちは、こんなにも力を与えてくれるものなのか。

 その感覚に、卓郎はすっかり夢中になっていた。

 

 それから、半分ほど紅茶が飲み終わった頃だった。

 食堂の扉がゆっくりと開かれ、パチュリーの部下である小悪魔とユキが中に入って来た。意外な組み合わせに、卓郎は少し驚いた。

「あっ、卓郎さん。今、休憩中ですか」ユキが口を開く。

「うん。早めに朝の仕事が終わったんだ」

「ちょうど、あたしとユキも朝の仕事が終わったんだ。だから、ちょっと休憩でもしようかなと思って、ここに来たんだよ」と、小悪魔が説明する。

 彼女の口調はハルとよく似ており、結構くだけた感じである。

 パチュリーの前では丁寧な言葉を使ってくるので、穏やかな性格だと勝手に思っていたが、意外にもさばさばとした性格だったので最初はかなり驚いたものだ。

 

 ユキたちも紅茶を作って、卓郎と向かい合う席に腰掛ける。

 カップに口を付ける前に、ユキが訊いた。

「そういえば、来週のビンゴ大会の景品はどうするつもりですか」

 卓郎はカップを持つ手を止める。

 ビンゴ大会は弾飛ばし大会と同様に、定期的に行う人気の催しごとである。

 以前、パチュリーの図書館で適当に本を読んでいたら、偶然にもビンゴという内容の遊びに目が留まったのだ。そこで試しにメイドたちとやってみたところ、意外と好評だったので、今日まで続いているのである。

 

「いつも通り、ユキが何かお菓子を作ればいいんじゃないかな」

「でも、前回も私がお菓子を作りましたよ」

「ユキのお菓子なら大丈夫だろ」ここで返したのは小悪魔だった。

「うまいし、それにメイドたちが、あんたのお菓子を飽きることなんてないだろ」

「そ、そうかな?」

 照れるユキに、小悪魔は可笑しそうに笑みを浮かべる。性格は正反対のように見える二人だが、様子を見る限りでは割と気が合っているようだ。

 

 二人が話し合っている姿をぼんやりと眺めていると、突然小悪魔が言った。

「なあ、卓郎。あんた最近、妙にぼーっとしてるけど、どうかしたのか」

 卓郎はびくんと体を跳ねらせる。

「な、なんだよ。いきなり」

「昨日だって、パチュリー様と話し合いをしている最中にぼーっとしちゃって、パチュリー様に叱られてたじゃん。あたしが言うのも変かもしれないけど、最近のあんた、すごく変だぞ。もしかして悪質な幽霊にでも憑依されたんじゃないのか」

 卓郎は苦笑いをするしかできなかった。

 

 まさか、人里にいる女性に夢中なんです、とは答えられない。

「最近は紙芝居のことで頭がいっぱいでね。考えることが多すぎて、頭がおかしくなってしまいそうなんだよ」

「ふうん。でも、あんた一人じゃ無理だから、パチュリー様に協力をお願いしたんだろ。パチュリー様の手にかかれば、見に来た客が全員感動するような物語を作れるに決まってるじゃん。だから、あんたは深く考えなくてもいいんだよ」

「物語自体は大丈夫だと思うけど、実際に話すのは僕なんだぞ」

「じゃあ、みなさんの前で紙芝居を練習するのはいかがですか?」

 ここで提案したのはユキ。

 ただ、それくらいのことは卓郎も当初の時点から考えていた。

 

「そうだね。そうしようか」

 とはいえ、ここはユキのために今知ったような感じで答える。

 紙芝居なので、ここぞという瞬間に紙を引いていかなければならない。いったん内容が完成したら、妖精メイドたちを観客にして練習しようとはあらかじめ計画していた。

「それでは、近いうちに練習日の方を決めましょう」

 ユキがそう言った直後、何人かの妖精メイドが食堂に入ってきた。昼の休憩時間も迫ってきたので、そろそろ食堂も騒がしくなってくる頃だろう。

 卓郎たちはカップを持って、片づけを始めた。

 

 ※

 

 この日の夜、卓郎はレミリアの部屋の中にいた。

 今日は、レミリアから直々に血を吸われる日である。内容は八年前から全く変わっておらず、いつものようにお互い下着姿になって吸血行為に及ぶのである。

「ふふっ。今日もなかなかだったわよ」

 満足気な表情を浮かべながら、レミリアは卓郎の胸に体を預けていた。卓郎はベッドの背もたれに体を傾けながら、背中から彼女を抱いている。

 

 こうして密着していると分かるが、八年前に比べたらレミリアの体はだいぶ小さくなったような気がした。実際は卓郎の体が成長しただけなのだが、そう思うと改めて吸血鬼と人間の寿命の違いを改めて感じてしまう。

 すると、ここでレミリアが卓郎に顔を向けてきた。

「ねえ、そろそろ返事を出してもいい頃じゃないかしら」

 卓郎は首を傾げる。

「何をですか」

「とぼけないでよ。二ヶ月前、あなたの誕生日の日にした誓いの約束よ」

 思わず、びくっと体を跳ねらせてしまう。

 

 すっかりレミリアとの誓いの約束は、頭の隅に追いやられていた。いずれ返答はしなければいけないとは思っていたが、何となく今日まで何も言い出せずにいたのだ。

 レミリアは小さく目を細める。

「もしかして本当に忘れていたのかしら」

「そんなことはありません。まだ完全に結論が出ていない状態でして……」

「でも、もう二ヶ月も待っているのよ。二ヶ月も待たせて『まだ決めてません』などとほざいて、私が納得するとでも思ってるの? あなただって、それくらいのことすら分からないほど間抜けではないでしょ」

「も、申し訳ございません……」

 ぐうの音も言えなかった卓郎は、素直に謝る。

 

「まあ、あなただからそれくらいは許してあげるけどね。自身の生涯に関わることだし、悩むのは仕方のないことね」

 彼女は、頭をそのまま卓郎の体の上に預ける。

「少なくとも、例大祭までには結論を言いなさい。最近は例大祭関連でよく人里に行っているし、忙しいことは私も承知しているわ。分かったわね?」

「かしこまりました」

 レミリアは小さく頷く。

 紙芝居自体は順調に進んでいるので、実はそこまで忙しくはない。だからと言って、本当の理由を打ち明けられるはずもなく、卓郎は多少の罪悪感を抱いてしまった。

 

 その時、レミリアが全く動かなくなったことに気付いた。

「……あの、お嬢様?」

 念のため声をかけてみるが案の定、返事は来なかった。今日もたっぷり血を吸って満足したのか、異様な早さで眠り始めてしまったようだ。

 ――やれやれ、今日もか。

 そう思いながら、卓郎は毛布を掴んでお互いを包むようにかぶせる。

 

 別にこれくらいのことは珍しくなかった。最初の頃は吸血が終わったらすぐに退室していたが、ここ数年はそのまま眠ってしまうという流れがよく起こっていたのだ。

 思わず、ため息を吐いてしまう。こうなると必然的に卓郎はレミリアを起こさないように、そのままの姿勢を維持せざるを得なくなってしまう。

 以前、不用意に主人を起こしてしまったことがあり、機嫌を悪くさせてしまったことがあったからだ。当然、満足に眠れるはずもなく、翌日は必ず寝不足になってしまう。

 卓郎は目線を下げて、彼女の顔を見る。

 

 絶大な力を誇る吸血鬼は今、幼い女の子相応の無防備な寝顔を晒していた。小さく開かれた口の先にある八重歯が、なぜか可愛らしく見えてしまう。

 寝顔を見せてもいいほど、主人は彼のことを信頼しているようだ。

 そこは八年間、がむしゃらに努力してきた成果だと考えていい。非力な自分が、吸血鬼や多くの妖精メイドたちに認められたことは、純粋に嬉しいことである。

 

 しかし、今の卓郎には「このまま紅魔館にいてもいいのか」という思いがあった。

 つい先日までは自分の命を救ってくれたレミリアに対し、生涯を捧げる決意をしていたのだが、優花と出会ったことで、その決意が一瞬にして崩壊してしまった。

 それくらい、彼女との出会いは彼にとって衝撃的だったのだ。

 出来ることなら、優花と毎日会える環境に身を置きたい。でも、紅魔館での仕事の関係で、優花に会えるのは良くて一週間に一度である。

 

 今は何とか理由を付けて里に行っているが、もし優花との関係に何らかの進展があったら、卓郎は覚悟を決めなければいけないのかもしれない。

 それは、自分が紅魔館を辞めるということである。

 だが、それは主人に対する裏切りでもある。もちろん、命を救ってくれた恩は感じているし、これからもレミリアのために働きたいとも思っている。でも、いったん誓いの約束を交わしてしまうと、優花との関係は間違いなく終わりを告げるだろう。

 

 卓郎は小さく歯ぎしりをたてた。

 自分は今、重大な選択を迫られているのかもしれない。

 主人との忠誠のために、優花への想いを殺したほうがいいのか。それとも、紅魔館の住人たちの信頼を壊してまで、自分の欲求に忠実になるべきなのか。

 現時点では答えが全く浮かんでこなかった。

 

「ごほっ、ごほっ――」

 その時、眠っていたレミリアがいきなり咳を始めたので、卓郎の思考が遮断された。しかも、その咳はやたら激しく、口から血を吐きだした瞬間、思わず鳥肌が立った。

「お嬢様!」

 窒息させないように、慌てて彼女の血を吐き出させる。目覚めたレミリアはしばらく吐きだした血を呆然と眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。

 

「……あらら。盛大にやっちゃったようね」

「お嬢様。具合はいかがでしょうか」

「今日は少し体調がよくなくてね。悪かったわね、驚かせちゃって」

「いえ、大丈夫です」

 初めての事態に動揺はしながらも、卓郎はなるべく平坦な口調で答えた。

 

 すっかりベッドも血で汚れてしまったので、誰がメイドを呼んでこようと卓郎は立ち上がった。幸い、卓郎の方は血をかぶらずに済んだ。

「あら、どこへ行くつもりなの」

 すっかり疲れた様子のレミリアに、卓郎は答えた。

「メイドを何人か連れてくるため、いったん着替えようかと」

「別に、あなた一人だけでも後片づけはできるでしょ」

 ここで卓郎はレミリアの全身を眺める。

 

 盛大に血を吐いたことで、すっかり彼女の下着は血まみれになっていた。キャミソールの胸元には大きな斑点のような血だまりができており、着替えは必須だろう。

 すると、レミリアは微笑んだ。

「今さら何を気にしているのかしら。あなたは変質な趣味を持った人間でないことは、とっくの昔に分かっているわ。別にあなたが私の下着を洗っても一向に構わないのよ」

「ですが……」

「命令よ。あなた一人で処理をしなさい」

 卓郎はしばらく言葉を噤んだが、やがて仕方なく動き始めた。

 

 普段、レミリアの下着等の洗濯を行っているのはユキとナツである。

 それをあっさり許してくれたのは、言うまでもなく卓郎に対する信頼の表れだろう。だが、今の彼にとってはその信頼が少し重たいものに感じてしまった。

 ひとまず服を着て、洗濯用の道具を取りに行く。

 戻って来ると、すでにレミリアは寝巻用の服に着替え終わっていた。

「下着はベッドの上に置いておいたわ。じゃあ、頼むわよ」

「承知しました」

 ベッドの布を新しいものに取り換えてから、卓郎は洗濯を始める。一刻も早く処理をしないと、後で残ってしまう可能性があるからだ。

 

 そんな彼の姿をレミリアは横の椅子に腰掛けて、じっくりと眺めている。とりあえず血まみれになったキャミソールを洗おうと、手を動かそうとした瞬間だった。

「んっ?」

 思わず、手元を凝視してしまった。

 なぜか、そのキャミソールに付着した血に妙な既視感を抱いてしまったのだ。

 この血は間違いなく、先ほど卓郎から吸った血だろう。でも、どうしてこんなにも見たことのあるような形になってしまったのか。

「どうしたのかしら」

 レミリアの問いで我に返った卓郎は、急いで洗濯を始めた。

 

 ※

 

 例大祭まで残り一ヶ月となった、この日の朝。

 卓郎は紙芝居の内容をまとめた紙を整理していた。今日も人里に行くのだが、そろそろ伯父に紙芝居の内容を確認してもらわないといけない。なので、今日は早めに館を出発して事を済ませてから、優花と一緒に遊ぼうと考えていた。

 とはいえ、下手したら帰りが夜になってしまう可能性も無くはない。

 

 なので、卓郎は出発前にユキとナツに護衛を頼むことにした。

 夜の幻想郷は昼とは打って変わって、悪質な妖怪が多く出現しやすい。

 よほどのことが無い限り、卓郎のような人間が人気の少ない道を歩くのは非常に危険なのだ。下手したら、妖怪に襲われて命を奪われることも十分に考えられる。

 

 紅魔館にやって来たばかりの頃は、主に美鈴に護衛を任せていた。

 最近はメイドたちの実力も徐々に上がってきたので、ハルやナツなど実力のあるメイドを何人か連れて行けば、ひとまず安心して帰れるようにはなっていた。

「それなら構いませんよ」

 朝食後、卓郎の頼みにナツはあっさり承諾してくれた。

 紙芝居のことで話が長くなりそうだと説明したら、すぐに納得してくれた。

 

 だが、ユキの方は困ったような顔を浮かべた。

「すいません。実は今日の夜、お嬢様と外に出ることになっているんです」

「そうか。じゃあ、別のメイドに頼むよ」

 今度はハルの方に護衛を頼んでみると、彼女はすぐに承諾してくれた。

「護衛ならあたしに任せなさいって。それで、何時頃に行けばいいの?」

「十八時頃かな。お菓子をごちそうしてやるから、その後、ゆっくり館に帰ろうか」

「やったーっ! よく分かってんじゃないの」ハルは拳を握って喜ぶ。

 これで今日は時間を気にすることなく、人里での休日を過ごせそうだ。

 残りの準備を済ませ、卓郎は数人のメイドに見送られながら館を出発した。

 

 ※

 

 紅魔館を出て数時間後、卓郎は伯父の家にお邪魔していた。

「ふむ、なかなか良い出来ではないか」

 内容をまとめた紙を読み終わって、伯父は満足そうに頷いた。

 伯父の隣には慧音も座っている。先に内容を確認をしたのは慧音であり、彼女から大丈夫だという言葉をもらって伯父も読み始めたのだ。

 

「私からは特に言うことはない。これなら公の場に出しても問題はないぞ」

「ありがとうございます」卓郎は頭を下げる。

 内容はパチュリーの指摘を受けながら書いた、動物の世界を舞台にした物語である。

 例大祭は多くの子供も参加するということだったので、子供にも大人にも取っつきやすいような話にしてみたのだが、どうやら反応は上々のようである。

 あとは本番に向けて、話し方や紙を引く瞬間を見極める練習をするだけだ。まだ一ヶ月も時間があるので、これなら余裕を持って準備ができそうである。

 

「ところで卓郎」紙芝居の紙を返した直後、伯父が口を開いた。

「話が変わるんだが、今日の昼飯の予定はすでに決まっているのか」

「いえ、まだ決まってはおりません」

「そうか。それなら、ここで食べていくか?」

「えっ。よろしいんですか」

「別に遠慮することはない。まだ昼だからそんなに多くは飲めないが、せっかくの休日なんだ。お前も立派な成人になったんだから一緒に飲もう」

 隣の慧音も「せっかくの機会だ。少しくらいいいだろ」と誘ってきた。

 特に断る理由もなかったので、卓郎はすぐに乗った。

 

「それじゃ、お言葉に甘えていただきます」

「決まりだな」

 ここで伯父が大声で娘の名前を叫ぶ。

 呼ばれてやってきた優花が襖を開けた瞬間、卓郎は小さく胸が高鳴った。実は伯父に会う直前、すでに紙芝居に関する話が終わったら一緒に会おうと約束をしていたのだ。

「なんでしょうか。お父さん」

「うむ。お前の分を含めて、今から四人分の昼飯を作ってくれないか。卓郎と慧音先生もここで食べることになったんだ」

 

 すると、ここで優花は口元を吊り上げてきた。

「やっぱりそうなりましたか」

「どういうことだ」

「実はこんなこともあろうかと、先に準備をしておいたのです。もうお昼の時間になっていますし、それなら卓郎さんたちもここで食べるのかと思いまして」

「ほう。それなら、あまり先生たちを待たせず完成しそうだな」

「もう少々お待ちください」

 襖を閉める直前、優花は卓郎に目を合わせてきて微笑んできた。

 突然のことに胸が高鳴る卓郎を尻目に、襖はゆっくりと閉められていった。

 

「優花もだいぶ賢くなりましたね」慧音が言う。

「これも慧音先生の教えのおかげです。本当にありがとうございます」

「いえいえ。私はただ知識を教えただけですよ」

「何を謙遜されているのですか。あなたのおかげで優花は変わりました。知識だけではなく、人として大切なことも教えてくれました。あなたほど先生にふさわしい人物は、この里にはいませんよ」

「そこまで褒めていただけるとは……。恐縮です」

 慧音は困ったような笑みを浮かべながら、軽く頭を垂れた。

 

 遠くから、優花が調理をしている音が聞こえてくる。

 それを聞きながら、伯父は卓郎に顔を向けた。

「ところで卓郎」

「はい」

「最近、優花とずいぶん仲良くやっているようじゃないか」

 いきなりの発言に、卓郎はぽかんと口を開けてしまう。

 

 伯父は苦笑いをしながら手を振った。

「別に悪い意味で言っているわけじゃない。これまで男性に対して消極的だった優花が、いきなりお前の話ばっかりしてくるようになってな。最初の頃は少し驚いたりもしたが、最近の優花を見ていると、どうもお前に対して好意を抱いているようなんだ」

「好意、ですか」

 いざ、他人の口から言われると、妙に新鮮な気持ちを抱いてしまうのはなぜだろう。

 

「それで、お前の方はどうなんだ。お前は優花に対して好意を抱いているのか」

「そうですね……」卓郎は着物を軽く握る。

 もし、ここで認める発言をしたら、もう二度と後戻りができないような気がしたからだ。でも、自身の中で溢れる感情を最後まで抑えることはできなかった。

「はい。僕は優花さんのことが好きです」

 ゆっくりと、そして力強く断言をした。

 

 その答えに伯父と慧音は満足そうに頷いた。

「そうか。それなら良かった」

「相手が卓郎なら、私も歓迎できそうです」と、横から慧音も言う。

「優花の将来に関しては私も気になっていましたが、これで心配は無くなりそうですね」

 

 意味深な言葉に、思わず卓郎は訊いてしまった。

「将来? どういうことですか」

「ああ。実はまだ優花には言っていないことなんだが――」

 そう前置きしてから、伯父は質問した。

「卓郎、念のため訊いておくが、まだ独り身であるか」

「当たり前じゃないですか」

「そうか。それなら話は早い」

 すると、ここで伯父は深々と頭を下げてきた。

 

「卓郎。どうか、優花を嫁にもらってくれないか」

 

 突然のことに、卓郎の思考は一瞬にして真っ白になってしまった。

 伯父は卓郎を真っすぐ見据えてから続けた。

「娘もいい歳だ。血は繋がっていないが二十年間、大事に育ててきた自慢の娘だ。まだまだ未熟な所もたくさんあるが、ぜひ優花を嫁にもらってくれないか」

 返そうとするが、口が震えてうまく動かない。

 

 ごほん、と強引に咳をしてから卓郎は言った。

「で、ですが、優花さんは伯父さんの娘なんですよ」

「そこの所は心配いらない。もし、お前と優花が婚姻した暁には、義理の娘としての関係を解消するつもりでいる。もちろん、関係が解消されても、死ぬまで私の娘であることに変わりはないがな」

「とはいえ、いきなり結婚しろと言われましても……」

「最初に結婚を提案したのは私だ」

 ここで口を開いたのは慧音だった。

 

「お前と優花が休憩処で親密に話し合っているところを初めて見た時、ものすごい衝撃を受けたんだ。卓郎と優花――ここまでお似合いの二人は絶対にいない、と私の直感がささやいたんだ」

「そう言われましても、ええと……なんて言ったらいいんでしょうか」

「突然のことだから動揺するのは仕方ない。ただ、昔から優花を見てきた私にとっては、お前ほど相性の良い奴はいないと思ってる」

 いったん間を置いてから、慧音は語り始めた。

 

「私が優花に知識を教え始めたのは五年前からだ。八年前の事件をきっかけに知り合って以来、よく彼女からは悩み事を相談されていてね。その頃からの付き合いだから、彼女の性格はよく知っているつもりでいる。優花はああ見えてなかなか鋭い娘だから、自分に釣り合わない人だと判断すると、すぐ消極的な態度をとってしまう癖があるんだ。決して本人は意識してやっているわけではないんだが、その癖が今日まで結婚できなかった原因だと私は考えている。綺麗な容姿をしているから言い寄って来る男は多いが、ほとんどがうまい具合にはぐらかされて終わってしまうんだ」

 ただ、と慧音は強調して言った。

「その優花がお前に対しては、非常に親密に接してくるのだ。おそらくこれを逃したら、次の機会はないだろう。だから、私は卓郎と優花の結婚を提案したんだ」

 

「私も最初に慧音先生から言われた時は、思わず腰が抜けそうになってしまった」

 ここで伯父は苦笑いをしながら口を開いてきた。

「優花もいい歳だから、数年前から私も『そろそろ身を固めろ』と散々言ってきたが、その時はかなり動揺してしまってな。つい反対してしまったんだが、最終的には卓郎なら大丈夫だろうと受け入れることにしたんだ」

 ここで慧音は手を握りしめながら断言した。

「私は、お前と優花には幸せになってほしいんだ」

 慧音の言葉には、妙に鬼気迫るようなものが込められていた。八年前に大きな不幸があったから、ここまで気持ちが入ってしまったのかと卓郎は解釈した。

 

「勝手な提案であるのは承知している。でも、お前と優花なら結婚しても、幸せな生活を掴めるような気がするんだ」

「もちろん、結論は急ぐ必要はないぞ」ここで伯父が言った。

「まだ優花にも相談していないことだし、お前だってこれまでの生活があるからな。せめて、例大祭が終わった後に具体的な結論を出してくれればありがたい」

「例大祭の後ですか?」

「ああ。優花にも近いうちに相談するつもりだ。まあ、両想いなのは間違いなさそうだから、私は何も心配してないけどな」

 大きく口を開けて笑う伯父に対し、卓郎は視線を床に下げる。

 

 まさか、ここまで話がとんとん拍子に進むとは夢にも思わなかった。

 優花が好きだという気持ちは紛れもなく本物であるが、結婚という発想までには至らなかった。自分には縁のないことであると、勝手に諦めていたのだ。

 それが今、慧音たちの手によって間近に迫っているのだ。

 紅魔館の使用人として生活していくのなら絶対に得られない、新しい生活にである。

 

 その時、足音が卓郎たちのいる部屋に近づいてきた。

 襖が開けられ、優花が皿の置かれたお盆を持ってきた。

「お待たせいたしました」

 そう言って部屋に入った瞬間、優花は首を傾げた。

「あら。みなさん、どうかしたのですか?」

「いや、少し世間話をしていただけだが」慧音が何事もなかったように答える。

 釈然としない様子ながらも、優花は皿を机に置いていく。

 卓郎は、無言で優花の様子を眺めていた。

 

 


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