吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【20】

 

 

 昼食を済ませてから、卓郎は伯父の家を出た。

 少しながら酒を飲んだせいで、気分は高揚している。昼食は優花を混ぜて四人で非常に盛り上がったものになった。これが夜だったら、もっと楽しくなっていただろう。

 優花は昼食の片づけが終わり次第、約束の休憩処に来るとのことである。

 卓郎は先に休憩処に入り、お茶を飲みながら待つことにした。

 緑茶の苦みを舌で味わいながら、先ほどの伯父たちとのやりとりを思い返す。

 

 もし、僕が結婚したらどうなるのだろう?

 その問いを自分の中でしてみたが、答えは明白だった。

 結婚することになったら、間違いなく紅魔館を辞めることになる。

 逆に紅魔館に残ることを選んだら、優花との結婚はなくなるだろう。一週間のほとんどの時間は仕事で潰れているので、両立は不可能である。

 

 額から汗が流れてきたので、卓郎はそれを拭う。

「結婚か……」

 ふと、ひとりごとを漏らす。

 いったん現状のことを隅に置いて、結婚した場合の生活を何となく想像してみる。

 卓郎にとって結婚は未知の領域である。

 紅魔館のことはほぼ全て知り尽くしたという自念があるが、結婚生活については目の前が霧で覆われているように全く想像ができなかった。でも、優花との生活には大きな期待が持てるし、今までにない新しい幸せが掴めるかもしれない。

 

 では、紅魔館の方はどうか。

 もし、自分はこのまま紅魔館に居続けることになったら、どのような生活が待っているのだろう。もしかしたら死ぬまで、現状のままの生活が続くのかもしれない。

 終着点まで、くっきりと見える人生である。

 先の見えている人生は見えない人生よりかは楽かもしれないが、「それで満足なのか」と問われても、今の卓郎は自信を持って肯定することができなかった。

 

 気付いたら卓郎は湯飲みを持ったまま数分間、微動だにしなかった。

 結婚の話が出てきて、いよいよ人生の重要な岐路に立たされているのだと、実感をせざるを得なくなった。

 

 その時、店の暖簾から誰かが入ってくる気配がした。

 そちらに目を向けた瞬間、これまでの思考が全て吹き飛んでしまった。

 優花は新しい着物に着替えて、卓郎のもとにまでやってきたのだ。

 先ほどの家にいた時と比べて、明らかに値段の高そうな着物を着ていた。紺色の着物は彼女の雰囲気にとても似合っており、どことなく高貴な気配もした。

「ごめんね。遅くなっちゃって」

 優花の姿は、これまでの卓郎の悩みを一瞬にして忘れさせる力があった。

 

 ※

 

 優花との時間は、いつも通りの流れで過ぎていった。

 もともと話が合う方なので、二人はひっきり無しに様々な話題を出しながら人里を歩いていった。時にはお店で飾られている絵画に対して議論を交わしあったりと、高度な話題も平然と繰り広げていった。

 その最中、何度か優花と目を合う瞬間があり、その度に彼女は微笑み返してきた。優花の表情からは、何とも言えない色気が込められているような気がした。

 

 やがて、あっという間に時間も夕方になってしまった頃。

 卓郎たちは、里からやや離れた小道を歩いていた。

 すっかり話に夢中になってしまったので、二人ともだいぶ疲れてしまっていた。

「どこかに休める場所があるといいね」

「じゃあ、少し探してみようか」

 卓郎の提案で二人は迷子にならないように細心の周囲を払いながら、道を進んでいく。遠くから烏の鳴き声が聞こえてきて、だいぶ夜も迫っているようだ。

 

 やがて、二人は目の前に小さな鳥居がそびえ立つ場所にやってきた。

「なんだろう。神社かしら」優花が鳥居を見上げながら呟く。

「でも、人の気配がしないな」

 鳥居をくぐって中に入ると、正面の扉が崩壊している本堂が目に入ってきた。

 人がいなくなってから、だいぶ時間が経っているのだろう。崩壊した建物に潰されて、使いものにならなくなった石像が瓦礫から見えた。

 ここに祀られた神様は一体、どんな気分でこの状況を眺めているのだろう。

 

「ねえ、やっぱり戻りましょうよ」優花が不安そうな顔で口を開く。

「ああ。あまり居てはいけないような場所だな」

 結局、二人は寂れた神社を出て、少し離れたところで休憩することにした。

 いい感じに座れる大きめの石があったので、卓郎たちは着物が汚れないように下に敷物を敷いてから、それぞれ腰掛ける。ただ、その石は横幅が短めだったので、優花と卓郎はお互いに密着する形で座ることになってしまった。

 

「ちょっと、狭いわね」

「うん」

「卓郎さんは、このままでも平気?」

「大丈夫だよ」

「そう」

 そのまま優花は口を閉ざし、しばらく無言の時間が流れた。

 日もそろそろ傾き始めており、橙色の空が名残惜しさを醸し出している。周囲の木々が初夏の生温い風に煽られて、ざわさわと騒いでいる。

 

「……さっきの神社、ちょっと怖かったわね」

 優花は声を落として話題を出してくる。

「たぶん、人がいなくなってからだいぶ時間が経ったんだろうな」

 まだ、昼の時間帯だったら好奇心で探索をしていたかもしれないが、辺りが暗くなり始めると、一変して廃墟は近づく者に恐怖を与える場所に変わってしまう。

「あそこに祀られた神様は一体、どんな気分であれを眺めているんだろうね」

「あー。それはさっき僕も考えたな」

「寂しかったりするのかしら」

「寂しい、だろうね。誰も人が来なかったら、神様の存在意義も無くなっちゃうし」

 

 優花は小さく息を吐くと、「神様ね……」と呟いた。

 遠くの夕日を眺めている彼女をうかがいながら、卓郎は訊いた。

「神様がどうかしたのか」

「ねえ、卓郎さん。いきなりだけど、卓郎さんにとっての神様っている?」

 唐突な質問に、卓郎は目を瞬かせる。

「僕にとっての神様って、なんか急に壮大な話になっちゃったな」

「そ、そうだよね……。ごめんね。急に変なこと言っちゃって」

「いや、別にいいんだけど」

 

 十秒ほど沈黙の後、卓郎は答えた。

「まあ、いるとしたらいるね」

「へえ。例えば?」

「僕の命を救ってくれた恩人」

 優花はきょとんとしたが、やがて理解したように頷いた。

「ああ、そうよね。卓郎さんは、その人のおかげで今の生活があるんだからね」

「じゅあ、逆に訊くけど優花さんにとっての神様はいるの?」

「うん。いるわよ」

 

 優花は遠くを見つめながら断言した。

「私にとっての神様はお父さんと慧音先生、あと八年前、私の家にお金を置いていった人よ」

 卓郎は何も言い返せなかった。

 すると、優花は再び卓郎の方を向いて視線を合わせてきた。

「あのお金が無かったら、おそらく今の生活はなかったと思うわ。少し大げさになっちゃうかもしれないけど、その人のおかげで私の命は救われたのよ」

「でも、その神様とやらはお金を置いていっただけだろ。店を再建できたのは、言うまでもなく伯父さんと優花さんの努力の結果だと思うよ」

「その人が置いていったのは、お金だけじゃないわ」

 ここで優花は懐から一枚の紙を出して、卓郎に渡してくる。

 

 それを開いた直後、卓郎は思わず声が出そうになった。

『このお金をお店のために使ってください。あなたの家族の幸せを願う者より』

 だいぶ傷んではいたが、そこには八年前に書いた自分の文字があった。

「昔から疑問に思っていたの。どうして、この人は私の家にお金を置いてくれたのかなって。理由も分からなかったし、最初は妖精のいたずらかと思ったわ」

 優花は卓郎から紙を取り上げて、その文章を眺める。

 

「結局、誰が置いていったのかも分からないまま、何年か時間も過ぎていったわ。この人が願った通りにお店も立ち直ったし、もしできるなら、その人に立派になった今のお店を見せたいわ。でも、証拠も何もないし、どうしようもなかったのよ」

 なぜ、優花はこの話を詳しく述べてくるのか。

「そんな時、初めて卓郎さんが絵を売っているお店を見かけたの。でも、その時の卓郎さん、熱心に本を読んでいてね。あんまり売る気がないのかなって思いながら、そのまま通り過ぎようとしたんだけど、あるものを見て、つい足を止めちゃったのよ」

「ある物って?」

「『絵、売ります』という看板の文字よ」

 

 頭を殴られるような衝撃を受けた。

「卓郎さんの字って、すごく素敵だよね。絵も素敵だけど、この整った感じの文字もとっても素敵」

 優花が何を言いたいのか、いよいよ卓郎にも分かってきた。だが、それはあまりにも核心を突きすぎる内容だったので、得体の知れない恐怖感すら出てきてしまった。

 優花は、卓郎の左手にそっと右手を重ねてくる。

 

「ねえ、卓郎さん」

「はい……」

「卓郎さんを拾ってくれた農家の人ってお金持ちだったの?」

 一ヶ月前にも尋ねてきた質問を、優花は繰り返してきた。

 卓郎は唾を飲み込む。

 ようやく、彼女が一ヶ月前に奇妙な質問をしてきた理由が理解できた。

 

 彼女は、お金を置いていった人は卓郎かもしれないと思っているのだ。

 八年前、何気なく書いたあの紙切れ一枚でここまで核心に近い推理をしてくるとは、鋭い女性だとは認識していたが、ここまでだとは思ってもみなかった。

 卓郎は一瞬、優花に全てを打ち明けたい衝動に駆られた。

 しかし、すぐにそれは否定した。自分が吸血鬼の館に住んでいると知った時、いくら賢い優花でも受け入れるのは難しいだろうと思ったからだ。

 

 それに、彼女はまだ自分の推理に自信を持っていない様子である。

 彼は笑いながら返した。

「ははは。また、その質問か。何度も言っているけど、僕を拾ってくれた恩人は普通の農家の人だよ。それに優花さんの言った通り、僕が本当にお金持ちの人に拾われたとしても、どうやったら現金を用意できるんだ。あの時、僕はまだ十五歳だったんだぞ」

「ああ、うん。そうよね」

 さらに卓郎は、彼女の持っている紙を見ながら続けた。

 

「その文字も、確かにぱっと見ると僕の字に似ているかもしれないけど、細かいところは全然違うよ。僕の字はここまで丸まった感じじゃないよ」

 本当はこの八年で文字を書く機会が多くなったので、単純に文字の書き方が微妙に変わっただけである。

 優花はくすっと微笑んだ。

 

「卓郎さん、おかしい。どうして、そこまで必死な顔で否定するのかしら」

「いや、別に必死に否定なんか……」

「まあ、その話はもういいわ」ここで優花は卓郎から手を離した。

「少し話を戻すけど、卓郎さんのお店にあった看板がきっかけで、私は卓郎さんのお店に来るようになったのよ。最初の頃はあまり絵画に興味はなかったんだけど、卓郎さんのお店に通っていくうちに、どんどん絵画が好きになっていったのよ」

「へえ。それは光栄だね」

「もちろん、あなたのこともね」

 この瞬間、卓郎の心臓が大きく跳ね上がった。

 

 二人は至近距離で目を合わせる。と、同時に甘い匂いも伝わってくる。

 優花の言いたいことが、じわじわと卓郎の脳内に浸透していった。

 彼女の頬は夕日色に染まっている。妖精メイドたちやレミリアとはまるで違う、こちらの感情を掻き回してしまうような表情だった。

 八年前のことは全く関係ないのだ。

 きっかけはどうあれ、卓郎と優花が仲良くなれたのは紛れもなく、この数ヶ月間で着々と付き合いを重ねてきた結果である。

 

 どのくらい見つめ合っていただろうか。

 二人の間に余計な言葉は必要なかった。

 同時に目を瞑って、二人はささやかな口づけを交わした。

 時間はほんの数秒間――。風のように何てことのない、自然とした口づけだった。

 口を離してから、二人はまた前方に体の位置を戻した。

 

 辺りも暗くなってきており、夕日もそろそろ完全に山に隠れようととしている。

「夜も近いし、そろそろ里に戻ろう」卓郎が提案する。

 だが、優花は首を振った。

「もうちょっとだけ、一緒にいて」

「えっ」

「お願い」

 優花の甘えるような視線に、卓郎は否定できるわけがなかった。

 しばらく二人は沈んでいく夕日を眺めながら、残りの時間を過ごしていった。

 その間に二回、口づけを交わした。

 ほんの少しだけ心に余裕ができたせいか、二回目の口づけで、初めて優花の唇はとても柔らかいことを実感できた。

 

 ハルたちとの約束の時間も迫っていたので、卓郎は先に里に戻ることにした。

 優花はしばらくその場にいるとのことだった。「大丈夫か」と卓郎は心配したが、優花は苦笑いをしながら「別に里から遠くない場所だし大丈夫よ」と返してくれた。

 また一週間後に来ると約束して、卓郎は優花と別れた。

 帰り道、卓郎は自分の唇に触れながら、先ほどの出来事を何度も頭で繰り返した。

 

 ※

 

 午後六時、約束の場所にはすでにハルとナツがいた。

「お疲れ様です、卓郎さん」

 ナツの言葉に卓郎は「ああ」と、ぼんやりと答えた。

「紙芝居の方は順調に進みましたか?」

「うん。あとは本番を想定して練習するだけだね」

「ねえねえ。そんなことはいいから、早く食べにいこうよ!」ハルが急かしてくる。

「ああ、そうだな」

 早速、卓郎たちは近くの休憩処に寄ることにした。

 

 席に座ってからすぐにハルはお汁粉を、ナツは団子を頼んだ。

 意地悪なことに二人とも少し値段が高めの品物を頼んできたので、卓郎はお茶一杯で我慢することにした。ただでさえ、優花との付き合いでお金を消費しているので、なるべく節約をしなければいけない。

 おいしそうに頬張るメイドたちを尻目に、卓郎は先ほどのことを思い返す。

 まだ、頭の中は先ほどの甘い出来事に心を奪われていたのだ。

 

「あの、どうかしたんですか」

 ナツの言葉に、ぴくんと卓郎の体が跳ねる。

「さっきからずっと上の空になってますけど、何かあったんですか」

「い、いや……。別になんでもない。気にしないでくれ」

「私ではたいした力になれないかもしれませんが、何か悩みごとがありましたら相談に乗りますよ」

 心配そうに見つめてくるナツに、卓郎は少し胸が痛んだ。どうやら、深刻な悩みを持っている風に捉えられたらしい。ある意味、それも当たりではあるが。

 

「心配してくれてありがとう。でも、大丈夫だから」

「そうですか……」

 ナツはそう言ってくれたが、横で様子を見ていたハルが口を開いた。

「大丈夫だと言ってもさー。一人で抱えてて大丈夫なの?」

「ああ。これは僕一人で解決しなくちゃいけない問題だから」

「ふーん。リーダーがそう言うんなら、あたしはそれでいいんだけどね」

 ハルはそう呟いてから、お茶を飲んで口直しをする。

 これも彼女なりに、卓郎を心配しての言葉だったのだろう。

 

 卓郎もお茶を飲んで、長い深呼吸をする。

 二人のおかげで、少しだけ冷静さを取り戻すことができたようだ。

 自分は例大祭まで、紅魔館に残るか結婚をするかを決めなくてはいけないのだ。

 いくら優花との付き合いが順調に進んでいるとはいえ、レミリアに対する忠誠が完全に無くなったわけではない。

 まだ、結論を出せない状態でいるが、もう少し冷静になってから、真剣に考えていこうと卓郎は心に決めた。

 

 その直後、前方の暖簾が開いた。

 中に入ってきたのは、あろうことか慧音だった。

 あっ、と軽く声をあげた瞬間、卓郎と慧音の目が合う。

 妖精メイドと一緒にいる状況で、慧音に出くわしてしまった。まずいと思ったが、もうどうしようもなかった。慧音は早足で卓郎に近づいてくる。

 

「良かった。まだ、里にいたか」

 だが、慧音は二人のメイドをちらっと見ただけで、何も言及してこなかった。しかも、いつも冷静沈着な慧音にしては、どこか落ち着きのない様子だった。

「先生。どうかしたんですか」

「お前、優花とはいつ別れた?」

 唐突な問いに、卓郎は訝しげな顔になる。

 

「一時間前くらいですけど、優花さんがどうかしたんですか」

「実は、優花に用があって着物屋に行ったんだが、まだ帰ってきていないようなんだ。だから、こうして優花がよく訪れる場所を回っていたんだ」

「優花に用って、どんな用だったんですか?」

「なんてことない。優花に貸した本が急に必要になったから、返しに行っただけだ。――それで改めて訊くが、優花とは本当に一時間前に別れたんだな?」

「そうです」

「そうか。そうなると、おかしいな。思い当たるところは全て回ったんだが、ここにもいないということは……一体、優花はどこに行ったんだ」

 ここで初めて卓郎は嫌な予感を抱いた。ハルとナツがいる中で優花の話をするのはわずかに抵抗があったが、そんなことを気にしている暇はなかった。

 

「あの、先生」

「どうした」

「実は僕が優花さんと別れたのは、里の郊外だったんです」

 慧音の表情は急激に険しくなる。

「郊外だと?」

「はい。ここから北の方に、もう使われていない神社がありますよね。その近くで優花さんと駄弁っていまして、その後に別れました。優花さんが『もうちょっとここにいる』と言いましたので、僕が先に里に戻ったんです」

「となると、まだ外にいるということか」

 嫌な沈黙が二人の間に流れた。

 

 いくら人里に近いとはいえ、夜の外は危険であるのはお互いに承知している。

 しばらくしてから、慧音は卓郎にぽつりと言った。

「……卓郎。そこに案内しろ」

 彼もこくりと頷き、何も言わずに立ち上がった直後だった。

「ねえ、ちょっと。もしかして、里から出ようとしてるの?」

 二人に向かって声をかけたのはハルだった。卓郎は目線で「止めろ」と指示したが、ハルの目は慧音に向けられていて伝えられない。

 

「外に出るのは危険だわ。もし、外に出ている途中に凶悪な妖怪に襲われたりしたら、どうするつもりなの。人間だけじゃ対処できないわよ」

「お前、妖精か」慧音は目を細める。

「見るからに並みの妖精とは違う感じがするが、いったい何が言いたいんだ」

「あたしがあんたたちの護衛をしてやるってことよ。自分でも言うのも難だけど、あたし、これでも結構そういったことに自信はあるのよ」

 慧音の返事は即答だった。

「気持ちはありがたいが、今回はやめておこう」

「ええーっ! なんでよ」

「万が一、凶悪な妖怪に襲われたとしても、切り抜けられると思っているからだ」

 これにはハルだけでなく、横にいた卓郎も言葉を目を見開く。

 

 彼女の言葉に、並々ならぬ自信が込められていたからだ。どうしてそこまで断言できるのか卓郎には分からなかったが、ハルを黙らせるにはそれだけで十分だった。

 ハルは慄きながらもつぶやいた。

「あんた、いったい何者なのよ……」

「ただの寺子屋の教師だ。――卓郎。時間がない。急ぐぞ」

 慧音がこちらに背中を向けたと同時に、卓郎はナツの耳元で「明日、朝五時にここで」とささやいた。今日は里に泊まって、早朝に館に帰ることにしたのだ。

 

 店を出てから、二人は神社の方向へと走り始めた。

 その間に、卓郎はあることを思い出して不安で一杯になった。今日の朝、護衛をユキに頼もうとした時、彼女はあることを理由に護衛を断ったのである。

 今日の夜、ユキはレミリアと一緒に外に出ていくからという理由だ。

 ――まさか、そんなことは。

 自分の中で考える最悪な結末を必死で否定しながら、卓郎は足を動かしていく。

 

 里の外は明かりのない漆黒の暗闇が全てを支配しており、彼らは事前に用意した松明を片手に夜の道を駆け抜けていった。

 そして外に出てから数十分後、彼の予測は最悪の形で迎えてしまった。

 つい一時間ほど前まで、卓郎と優花が話し合っていた場所――。

 

 その近くの草むらで、一人の女性が仰向けに倒れていた。

 

 いかにも高級そうな紺色の着物を着ている女性の上半身は血で染まっており、その首筋には何かに噛まれたような痕があった。

 慧音と卓郎は数秒ほど、時間が止まったようにその場から動けなかった。

「あっ……あっ……」

 松明を持つ手が、どんどんと震えていく。

 

 ついさっきまで魅力的な笑顔を浮かべていた彼女が、血まみれで倒れていたのだ。

 自分の中で大切にしていた何かが、今にも壊れようとしていた。

 だが、ここで横から慧音の手が伸びてきた。

「卓郎。ちょっと待て」

 慧音はゆっくりと倒れた優花の体へと近づいていく。そして、おもむろに優花の首筋に手を当てる。慧音の目が大きく見開いたのは、その直後だった。

 

「……急げ、運ぶぞ」

「えっ」

「まだ脈がある。急げ。早く医者のところへ運ぶんだ」

 慧音の冷静な言葉を受けて、卓郎も体を動かし始めた。

 

 


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