吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【21】

 

 

 優花を里に運び終えてから三時間が経った。

 卓郎は慧音の家の中で、じっと主の帰りを待っていた。

 優花をおぶって運ぶ際、彼女の上半身に付いていた血で思いっきり着物を汚してしまったので、現在の卓郎は伯父の店に余っていた着物に着替えていた。すでに時刻は夜で、唯一の光源は机の上に置いてある小さなろうそくのみである。卓郎自身、ろうそくの明かりは好みだったが、今は何とも言えない虚しさを醸し出しているように見えた。

 

 幸いなことに優花は血まみれだったにも関わらず、軽傷だった。

 すでに意識を取り戻しており、今は伯父の家で静養中である。

「最初は時間との勝負かと思ったが、意外にも傷が少なかった」

 一時間前、医者と一緒にいた慧音が細かいことを卓郎に説明してくれた。

 

 優花の傷は首筋に噛まれたような痕がある以外、一つも無かったそうである。

 では、傷が首筋しか無かったのに、どうして彼女は血まみれだったのか。

 この問いに対して、慧音は腕を組みながら答えた。

「これはまだ推測の領域でしかないんだが、どうやら優花を襲った妖怪はその血を吐きだしてしまった可能性が高いんだ」

「血を吐きだした?」

「首筋に噛まれたような痕があると言っただろう。おそらく、その妖怪は優花の首筋から血を吸った後、そのまま吐いてしまったのかもしれない。血だまりからは少量だが、唾液らしき液体も見つかっている。もちろん、吐きだした理由は私にも分からないがな」

 

 人間の血を吸う妖怪が、どうして血を吐きだした――。

 卓郎の思考はいよいよ混乱してきた。思い当たる節は大いにあるのだが、それを前提にすると、話が大きく矛盾してしまうのである。

 その後、伯父が慧音の家にやってきて、現在の優花の状況を話してくれた。

「もう大丈夫とのことだ。安静にしていれば、すぐに日常生活に戻れるとのことだ」

「そうですか。それは良かったです」慧音が言う。

 

「あの、伯父さん」ここで卓郎は深く頭を下げた。

「この度は申し訳ございませんでした。僕が優花さんと里の外で別れなければ、このようなことにはなりませんでした。明らかに僕の不注意です。申し訳ございませんでした」

「ああ、全くだ」

 断定した伯父の口調に、卓郎は口を噤む。

「いくら妖怪が人間をあまり襲わなくなったとはいえ、夜に女性を一人残して先に帰るとは何事だ。外の危険性を知っているなら、どうして一緒に連れて帰ってこなかった」

 ごもっともなことだと思い、卓郎は素直に謝罪した。

 

「申し訳ございませんでした」

「まあ、いい。優花が生きていたのだから、それ以上のことはない。でもな、卓郎。もし、本気で優花と結婚したいのであれば――」

 伯父はいったん言葉を切る。

「死ぬ気で嫁を守れ。それが男ってもんだろ」

 今の卓郎にとって、その言葉は非常に重たいものであった。

 

 その後、伯父と慧音は状況を確認するということで外に出て行ってしまった。手持ち無沙汰になった卓郎は、思考を再開させて慧音の帰りを待つことにした。

 まず、この事件の犯人は間違いなく、主であるレミリアだろう。

 定期的にレミリアは夜になるとユキ、もしくはナツを連れて外に出ていき、たいがい服を血で汚して帰ってくるのだ。彼女は吸血鬼である。いったい外で何をしているのか、さすがの卓郎もある程度は予想できる。

 しかし、ここで犯人をレミリアとすると、ある一つの矛盾が生じてしまう。

 

 ――なぜ、レミリアは優花を殺さなかったのか。

 もちろん、優花が生きていたという事実は不幸中の幸いである。もし、あのまま彼女が死んでいたら、今ごろ自分はまともな精神状態ではなかっただろう。

 ここで卓郎は一つの仮説を立ててみる。

 レミリアが卓郎の知り合いを獲物にしていると気付いて、あえて殺さなかったという説である。

 だが、すぐにそれは却下した。

 レミリアは優花の顔を知らない。おまけに卓郎も紅魔館の中では、なるべく優花の話をしてこなかったので、レミリアたちが卓郎と優花との関係を知る由もないのだ。

 

 そうなると、レミリアにとって、優花はいつもの獲物に変わりないことになる。

 獲物の首に噛みついて、相手が冷たくなるまで血を吸うのを止めない――。卓郎はこの八年間、常にそうやって主人は人間を襲ってきたのだと思い込んできた。

 思い込んできた?

 その直後、卓郎は大きく咳き込んでしまう。

 しかも、勢いが尋常ではない咳で、喉が潰れてしまうのではないかと思うくらい、彼は激しい咳を何度も繰り返した。

 

 ようやく咳が収まって、卓郎は目を瞬かせる。

 最近、どうも体調が良くないようである。

 おまけに胸もかなり締め付けられる感覚がして、かなり不快である。

 しばらく、貴重な休日を全て里に行くことに費やしていたので、もしかしたらまともに休んでいないことが原因かもしれない。

 卓郎は深呼吸をして、改めて思考の世界に戻ろうとする。

 

 その時、扉が開かれて慧音が家に戻ってきた。

「先生。優花さんはどうでしたか」すぐに卓郎は尋ねる。

「心配するな。命に別条はない」

 そして慧音は、卓郎と向かい合う位置に座った。

「さっき、少しだけだが優花が目を覚ました」

「本当ですか?」

「ああ。本当だ。その時、いったい何が起こったのか覚えているか、と優花に尋ねてみたんだが、どうやら何も覚えていないらしいんだ」

 

「何も覚えていないんですか」

「一人でいる時、いきなり眠気がやってきて、気付いたらこの場所に寝ていたということだ。だから、どんな妖怪が襲ってきたのかすらも分からない様子だった」

「それでは、どうしようもなさそうですね」

「そうだな。目撃者もいないし、このままでは犯人の特定も難しいだろうな。まあ、優花も生きていることだし、今回は夜になったら一人で里から出るな、と注意する程度に済ませておこうかと思っている」

 こればっかりは仕方のないことである。

 

「ところで」と、ここで慧音は声を落としてきた。

「卓郎。今から言う質問に正直に答えろ」

「えっ」

「お前は私や優花に対して、何か大きな嘘をついているんじゃないか?」

 卓郎の体が瞬時に固まった。慧音は腕を組んで続ける。

「あの時は優花のこともあったから何も言わなかったが、私が休憩処に入った時、お前は妖精と一緒に食事をしていた。見たところ、だいぶ洗練された感じの妖精だったな。これは私の直感だが、少なくとも野生にいるような妖精ではなかった」

 

 口を閉ざしたまま、卓郎は視線を下げる。

「そういえば、私と卓郎が久しぶりに再会した時も、あんな感じの妖精がいたよな。あの時は、たまたまお前が介入してきたのだと思っていたが、以前からあの妖精と知り合いだったと考えると、お前が面倒な揉め事に介入してきた理由も分かる」

 卓郎は観念したように頭を落とす。

「……やっぱり、見られていましたか」

 

「当たり前だ。さすがに見逃すほど私の視野は狭くない」

「はい。先生の言う通り、僕は嘘をついてました」

「どうして嘘をついた」

「…………」

「しゃべれない事情があるのか」

 その問いに対し、卓郎は最後まで黙ったままだった。

「まあいい。こんな時にお前の素姓を調べても仕方ないからな」

 ろうそくの火が、ゆらりと揺れる。

 

 ここまで来ると、慧音に紅魔館のことが分かってしまうのも時間の問題だろう。結婚の話もどうなるか、全く予測がつかなくなってしまった。

 それなら好機は今しかないと思い、卓郎は思い切って口を開いた。

「先生。僕からも一つ訊きたいことがあるんですけど、いいですか」

「なんだ」

「優花さんのように、人間が襲われる事件は昔から発生していたんですか?」

 今度は慧音が目を見開く番だった。その表情で卓郎は察した。

 

「やっぱり、昔からあったそうですね」

「どうして知っている」

「いえ、単なる予測ですよ。それに優花さんを見つけた時、先生は驚くほど冷静に対処してくれたじゃないですか。もしかしたら、昔から同じような事件が発生していたのではないかなって思ったんです」

 ろうそくの火に照らされながら、慧音は諦めたように長い髪を掻いた。

 

「お前の言う通りだ。優花のような事件は、今日に始まったことではない。昔から定期的に、里の人間が外で襲われる事件が起こっていたんだ」

「定期的とは、もしかして二、三ヶ月に一回くらいの頻度ですか?」

「まあ、だいたいそれくらいだろうな」

「被害者はみんな死んでいなかったということですね」

「卓郎」慧音は険しい表情を見せる。

「一体どうしたんだ。どうしてお前はそこまで一連の事件に対して、分かったような口ぶりができるんだ」

「ごめんなさい。その質問につきましても、答えることができません」

「答えられないという回答ばかりだな」

「……すいません」

「それならば一つ、取引をしよう。お前が抱えている秘密を全て打ち明けてくれたら、私も抱えている秘密を全て話すことにしよう」

 突然のことに卓郎は背筋を張る。

 

 そして、その言葉が意味していることを彼は聞き逃さなかった。

「つまり、先生も何か隠していることがあるんですね」

「それを判断するのはお前自身だ。――さて、どうする?」

 張りつめた二人の視線がぶつかる。

 これ以上の情報を得るには、自分の手札も公開しなければいけなさそうだった。

 そうなると、別の手段を使って情報を得たほうが良いかもしれない。

 その手段とは言うまでもなく、主人であるレミリアに問い詰めることである。レミリアに問い詰めることを優先させると、ここで慧音に全てを打ち明けても自分が不利になるだけではないか。

 そう判断した卓郎は大げさに息を吐いた。

 

「先生。今日はここで止めにしましょう」

 急に話を変えてきたので、慧音は訝しげな表情になる。

「いきなりどうした」

「取引はいったん保留にしまして、今日はお互いに体を休めるということにしませんか。優花さんも生きていましたし、これ以上、起きていても仕方ありませんからね」

「そいつはまだ唐突な提案だな。何か別のやり方でも思いついたのか?」

「判断するのは先生自身ですよ。――さて、どうしますか?」

 先ほどの慧音と同じ言葉を返す。

 

「お前な……。うまいこと言ったつもりだが、話の逸らし方が下手すぎるぞ」

 苦笑しながらも、やがて慧音は頷いた。

「まあ、いい。私もそろそろ疲れて、正常な思考ができるかどうか不安になっていたところだ。今日のところはいったん保留にして、頭を休めることにするか」

「ありがとうございます」

 ふうっ、とあからさまに息を吐いて慧音は立ち上がった。

 

「それじゃあ、私は隣の部屋でいったん仮眠をとるが、お前はどうするつもりだ」

「ここに座布団がありますので、これを使っていこうかなと思います。この部屋で眠っても大丈夫でしょうか」

「別に構わないが、そんな座布団一枚で平気なのか?」

「これくらいなら平気です」

「まあ、迷惑をかけない程度にはしてくれよ」

 ろうそくの火を消してから、慧音は部屋を出ていった。

 途中で投げ出すような終わり方になってしまったが、体力的に限界だったのは事実である。卓郎は用意された座布団に頭を乗せて、すぐに眠りこんでしまった。

 

 ※

 

 翌朝、まだ日も出始めた頃に卓郎は目覚めた。

 家の中を見回してみると、どうやら慧音は不在のようだった。固い床の上で寝てしまったので、すっかり体の節々が痛くなってしまった。それを堪えながら卓郎は書き置きを残して、慧音の家を出た。

 ほとんど人通りのない道を歩きながら、優花の様子を見に行こうかと考えた。だが、こんな時間だとおそらく眠っているだろうと思い、すぐに却下した。

 

 約束の場所に着くと、すでにナツとハルが待っていた。

「おはようございます」二人はそれぞれ頭を下げる。

「おはよう。昨日はいきなりごめんな」

「あれくらいは別に構いませんが……」と、ナツ。

「あの後、どうなったのか、あたしたちにちゃんと説明してちょうだい」と、ハル。

「分かってるよ。帰りながら説明するよ」

 これは仕方ないと思い、卓郎は昨晩のことを説明した。

 

 とはいえ、優花が血を吸われたことは伏せることにしたので、説明がやや曖昧な感じになってしまった。訝しげになりながらも、最後は二人とも納得してくれた。

 歩きながら、改めて卓郎は昨晩のことを思い返す。

 慧音の言動を振り返ってみると、優花が襲われた事件に関して何か隠していることがあるのは明らかだった。そして、そこにはレミリアも大きく関係しているだろう。

 

 明るくなってきた空を見上げながら、卓郎は一つの仮説を立てる。

 もし、今まで自分が思っていたことが全て間違いだったらどうなるか――。

 この仮説に立った瞬間、決定的な証拠が頭に浮かんできた。昨晩の事件も、まさにその証拠が優花の体に残っていたではないか。

 卓郎は自分の左肩に振れる。もう何十回も彼女に噛まれたところだ。

 

 頭の中で何度も自分の推理を確認してみたが、これ以上はレミリアに問い質さないと分からないことだった。そして、それは非常に危険な行為であることも承知していた。自尊心の高い彼女のことだ。何らかの反発は免れないだろう。

 だが、レミリアに何も問い質さないという選択肢はなかった。

 自分が好きになった女性を傷つけられてしまったのだ。それで何も言わないのは、男として人間としてあまりにも情けないことである。今回のことばかりは、さすがの卓郎も感情を抑えることができなかった。

 

 もしかしたら、これで長い間、疑問に思っていたことが解消するのかもしれない。もう、紙芝居や結婚のことを考えている余裕はなかった。

 卓郎は逸る気持ちを抑えながら、館へと歩き続けた。

 

 ※

 

 紅魔館に帰ってきた卓郎は、ひとまず朝の仕事に入った。昨日はまともな睡眠がとれなかったので気分は冴えなかったが、気合いで何とか済ませた。

 日もだいぶ昇ってきた頃、レミリアは食堂に入ってきた。

 

「おはようございます。お嬢様」

 真っ先に卓郎が挨拶をする。周りのメイドもそれに従う。

 レミリアはいつも通りの澄んだ顔で、「おはよう」と答えた。

 すでに他のメイドは全員、食事を済ませている。

 以前はメイドの食事時間は各自の自由となっていたが、そうなると食事当番の負担が大きくなってしまうので、五年前からメイドたちの食事の時間を統一させることにしたのだ。朝食の場合は、必ず九時から十時の間に済ませるようにメイドたちに命令をしている。

 なので、レミリアが食事をする時は必ず一人になってしまう。

 彼女の朝食時間はいつも十一時過ぎである。とはいえ、結果的に誰にも邪魔をされずにゆったりと食事ができるようになったため、レミリア自身は「これはいいわね」と答えてくれた。

 

 レミリアは席に腰掛けると、卓郎に目を向けてきた。

「あまり顔色が良くなさそうね」

「昨日、あまりよく眠れなかったですので……」

「ふうん。じゃあ、昨日はどうして帰ってこれなかったのかしら。ハルとナツに問い詰めてみたけど、彼女たちもよく状況を把握してない様子だったわ。まさか紙芝居のことで議論になってしまった――なんて馬鹿な言い訳はしないよね」

 レミリアは挑発的に目を細めてくる。

 

 卓郎は唾を飲み込む。もう逃げることはできない。

「昨晩、僕の知り合いの女性が何者かに襲われたという知らせを聞いたからです」

 それを聞いて、レミリアの体がわずかに反応する。

「へえ、あなたに女性の知り合いがいたなんてね。意外だわ」

「その女性は、よく僕の絵を買ってくれる常連客でした」

「なるほど。それは運が悪かったわね」

「でも、その女性は生きていました」

「不幸中の幸いね」

「その女性の首筋には噛まれたような痕がありました」卓郎は自分の首筋に触れる。「そして、その痕はお嬢様が吸血をなさる時にできる噛み痕と全く同じでした」

 その言葉に、レミリアは何も答えない。

 

 二人の重たい雰囲気を感じ取ってか、どのメイドもその場で固まったように動かなかった。彼女たちのことも考慮して、卓郎はメイドたちに言った。

「悪い。みんな少しの間だけ外で待っていてくれないか」

 食堂のメイドたちが出て行った後、卓郎はおもむろに言った。

「お嬢様。どうして今まで僕に嘘をついていたのですか」

 レミリアは体を卓郎に向けてくる。

 

「嘘をついていたとは、どういうことかしら」

「どうしてお嬢様はこの八年間、いかにも人間を殺してきたような振る舞いをしてきたのでしょうか。それが気になって訊いているんです」

 彼女の視線が鋭くなる。

「振る舞い? この私が?」

「昨晩、僕の知り合いの女性が襲われました。犯人は間違いなくお嬢様――あなたです。でも、その女性は死んでいませんでした。そして別の知り合いによりますと、これまでも同様の事件が人里でかなり起こっているという話を聞きました」

 卓郎の声が高くなる。

 

「これがどういう意味になるか分かりますか? つまり、お嬢様は以前から人間を襲ってはきましたが、どれも止めは刺していないんです。でも、お嬢様はこの八年間、常に僕の前では人を殺してきたかのような振る舞いをしてきました。どうして、わざわざ僕を恐れさせるような言動をしてきたのですか?」

「言っている意味が分からないわ」

「とぼけないでください。僕だって一人の人間です。いくら赤の他人であろうと、人間が殺される話を聞いて良い気持ちになれるはずがありません。本当は人間を殺していないのなら、どうしてその事実を僕に話してくれなかったんですか。まさか、僕を怖がらせるために、わざとあのような言動をされてきたのでしょうか」

 すると、ここでレミリアは笑ってみせた。

 

「また来たわ。あなた得意の詭弁。話を聞いてると、私が実は臆病者だったような言い方をするじゃない。あなたじゃなかったら、その場で殴り殺しているところよ」

「臆病者なんて……そんなこと一言も言ってないじゃないですか」

「あなたはそう思っていたとしても、私はそう思ってしまうのよ。それに証拠もないのに、臆病者の扱いをされるとは心外ね」

「物的な証拠はありませんが、状況的な証拠ならあります」

 卓郎は自分の胸元に手を当てた。

 

「血だまりです。お嬢様は人間の血を吸ってきた後、いつも胸元のところに血だまりを残して帰ってきますよね。これまでは人間の血を吸う時に付着してしまったものかと考えてきましたが、状況的にそれは不可能なんです」

「はっ?」

「昨晩、襲われた女性の上半身にも血だまりがありました。そして、そこからは唾液らしきものも見つかりました。普通に血を吸うだけでしたら、唾液は首筋の辺りにしか残りません。ここで考えられる説は一つです。それはお嬢様は女性の血を吸った後、その場で吐きだしてしまったからです」

 レミリアの表情が固まる。

 

 以前、一度だけ血の付いたキャミソールを洗う機会があった。卓郎から吸血をした後に誤って、その血を吐きだしてしまった時のことである。

 その時のキャミソールは、胸元に大きな斑点のような血だまりができてしまい、少量の唾液も付着していた。

 唾液の有無はともかく血だまりの形はまさに、レミリアが人間の血を吸い終えて帰ってきた時、服に付いていた血だまりの形とよく似ていたのだ。もし、服を洗う機会がなかったら、卓郎は今日の事実に気付くことはなかっただろう。

「お嬢様」

 卓郎は気持ちを落ち着かせてから、言葉を紡いだ。

 

「たとえ、今のことが事実でありましても、僕がお嬢様をお慕いする気持ちに変わりはありません。ただ、僕は本当のことが知りたかっただけなのです」

 すると、ここでレミリアが席から立ち上がる。

 腹部に重たい衝撃が走ったのは、その直後だった。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 衝撃で後ろに吹き飛ばされた卓郎は、そのまま後方の壁に背中から激突してしまい、がはっ、と呻き声をあげて、そのままうずくまってしまう。あまりの衝撃に胃の中身が出そうになったが、何とかそれは抑えた。

 

 ここでようやく、卓郎は腹部を殴られたことを理解した。

 先ほど立っていた場所から壁までは、大人の身長三人分ほどの距離がある。拳一つで成人の男をここまで吹き飛ばしまうとは、やはり吸血鬼の力は並大抵ではなかった。

「卓郎。調子に乗るのもいい加減にしなさい」

 レミリアが顔を歪めながら、こちらに向かって歩いてきた。

 

「さっきからいろいろとわけの分からないことをほざいているけど、つまりあんたは私のことを馬鹿にしているということね」

「そんな……こと、ありません……」

「さっきも言ったけど、あんたは馬鹿にしていなくても、私にはそう聞こえるんだよ。これは明らかに私に対する侮辱ね。少しばかり周りから評価されているからと言って、人間風情が吸血鬼を馬鹿にするなんて百年早いんだよ」

 殺気立った様子で、レミリアは背中の羽根を大きく広げる。

 その拍子で、横に置いてあったテーブルが羽根に引っ掛かって吹き飛んだ。

 

「私たち吸血鬼は常に誇り高く、周囲のあらゆる種族の頂点に立っていかなければいけないの。対立する者は容赦なく叩き潰す。同調する者は絶対的に服従させる。私たちスカーレット家は、常にそのようにして頂点に立ち続けてきた。それを否定する奴は、どんな奴だろうと許さないわ。でも、まさか私に忠誠を誓ったはずのあなたから、そんなことを言われるとは夢にも思わなかったけどね」

「……本当に、頂点に、立ってきたのでしょうか」

 搾り出すかのような卓郎の言葉に、レミリアは大きく目を見開く。

 

 額に脂汗をかきながら、卓郎は思わず微笑んでしまった。

 彼にとって先ほどのレミリアの言葉は、なぜか強がりにしか聞こえなかったからである。これも長い間、常に彼女の横で働いてきたからこそ何となく分かるものだった。

 ようやく腹の痛みも収まってきた。

 壁に背を預けたまま、卓郎は口を開いた。

「この八年間、常に僕はお嬢様と一緒に過ごしてきました。でも、その中で一日たりとも、お嬢様が名誉ある吸血鬼にふさわしい行動をとっているところを見たことがありません。紅茶を飲みながら、のんびりとしている姿ならよく見かけましたけどね」

 

 レミリアは歯ぎしりを立てて、鋭く尖った爪を構えてくる。

 ああ、もしかしたら本当に殺されるかもしれないな、と卓郎は思った。

 でも、殺される恐怖以上に、レミリアに言葉を伝えたい気持ちが先行した。

「お嬢様。少しだけ肩の力を抜いたらどうでしょうか」

 卓郎は口調を柔らかくして言った。

 

「僕から言わせてもらいますと、お嬢様は『自分の家がどう見られているか』ということに意識が傾きすぎていると思うんです。少しは自分に正直になられた方がいいのではないでしょうか。お嬢様はスカーレット家の長女であると同時に、レミリア・スカーレットという吸血鬼でもあるんです。周りの目ばかりを気にしていますと、いつかは自分を苦しめることになってしまいますよ」

「黙れ!」

 瞬間、鼓膜が破れんばかりの破壊音が響いた。

 

 卓郎の顔のすぐ横には、彼女の左腕があった。レミリアの腕はそのまま壁を貫通していた。さすがの卓郎も、これには思わず体を震わせた。

 彼女は眉をひそめながら、至近距離で顔を合わせてくる。

「青二才が分かったような口ぶりしてるんじゃないわよ。まだ生まれて二十年そこらしか経ってない人間に説教されるほど、私は落ちぶれていないわ」

 ここでレミリアは左腕を引く。ほこりが舞った。

 

「今回ばかりは、お仕置きという言葉で許すわけにはいかないわね。いくら相手が卓郎であろうと、スカーレット家を侮辱した罪は重い」

 彼女が卓郎から一歩引いた直後、腕から紅い光が集まってくる。

「制裁よ」

 紅い光は徐々に剣のような形を作っていく。

 いよいよ卓郎の中で、本気でまずいと思った時だった。

「お嬢様。どうかお止めください!」

 騒ぎを聞きつけたのか、外で待機していたメイドたちが中に入ってきたのだ。メイドたちはユキを筆頭に、卓郎とレミリアの間を割り込むようにしてやって来た。

 

 レミリアはメイドたちを睨みつけて、紅い剣を握りしめた。

「ユキ。そこからどきなさい」

「お嬢様。どうか攻撃を止めてください」

「二度は言わないわよ、ユキ」

 レミリアの圧倒的な雰囲気に、卓郎の前にいた全てのメイドが震えた。

「だ、大丈夫です。何があっても、卓郎さんだけはみんなで守りますから……」

 彼の耳元でアキが小さくつぶやくが、その顔は今にも泣きそうだった。

 

 何人かのメイドたちも卓郎をかばうかのように、彼の周りを囲っていた。

 腹の痛みは収まってきたとはいえ、まだまともに動ける状態ではない。

 ユキは気丈にも、卓郎の前から離れなかった。

「お嬢様。どうか落ち着いてください」

「あなたたちは細かい話を聞いてないから分からないと思うけど、あそこの人間は生意気にもスカーレット家を侮辱したのよ。それで何も制裁を加えないことになったら、その時点でスカーレット家は人間に屈したことになるのよ」

 レミリアはユキの胸元に剣を向ける。

 

「痛い思いをしたくなかったら、そこからどきなさい。いくら妖精は死なないからと言って、ものすごく痛いのは嫌でしょ?」

「そ、そうですけど……」ユキは手を握ってから断言した。

「でも、ここを離れるわけにはいきません。お嬢様。どうか剣をお引きください」

 レミリアは舌打ちをした。

 

「ユキ。あんたの卓郎に対する忠誠ぶりには恐れ入ったわ。でも、そこにいる彼はスカーレット家を侮辱しただけでなく、生意気にもこの私を臆病者扱いしてきたのよ」

 レミリアは剣を持っていない左手を胸に置いて、声を張った。

「この館の頂点は私なのよ! 誰も逆らうことは許されないわ! 逆らう奴は容赦なく制裁を与える。――だから、ユキ。私の命令に従いなさい」

「もし、私がここから離れたら、卓郎さんを殺してしまうのでしょうか」

「当たり前じゃない」

「卓郎さんは死んでしまったら、もう二度と戻ってこれないんですよ」

 さっきまで余裕のあった彼女の表情に、わずかな動揺が生まれる。

 

「卓郎さんは妖精ではありません。人間です。命を失ってしまったら、もう二度と戻ってこれないんです。それでも、お嬢様は卓郎さんに制裁を加えるつもりなのでしょうか」

「黙れ! 妖精の分際で偉そうな口を叩くな。お前も消し炭にするぞ!」

 紅い剣の周囲に、異様な光が纏わり始める。

 場の緊張がいよいよ頂点に達した瞬間だった。

「そこまでよ、レミィ」

 食堂の入口の方から、淡々とした声が聞こえてきた。

 目を向けると、扉の前にはパチュリー、小悪魔、美鈴の三人が立っていた。

 

 レミリアは剣を強く握りしめて、扉の方に顔を向けた。

「あら。パチェがこんな所に来るなんて珍しいわね」

「アキが能力で教えてくれたのよ。かなりまずい状況だと聞いてね」

 パチュリーは呆れた素振りで、レミリアの前までやって来た。

 

「細かい事情は分からないけど、そこまでにしておきなさい。当事者である卓郎はともかく、メイドにまで迷惑をかける必要はないわよ」

「それじゃあ、私の気が済まないわ」

「あのね……。人間の挑発にまんまと引っ掛かってんじゃないわよ。この館の主人なんだから、そこは主人らしく寛大な態度を見せておきなさいよ」

「パチェ。もしかして、あんたも卓郎に肩入れするつもり?」

「別にそういうわけじゃないわよ」パチュリーはあからさまに大きな声で返した。「細かい事情は私もよく分からないからね。ただ、こんなところで血生臭いことを起こっても後処理が面倒なだけだし、卓郎だって決して役立たずではないし、死なれると困るからここまでやってきたのよ」

 食堂にいる全員の視線がレミリアに集まる。

 

 無言の時間がしばらく続いた。

 やがて、その沈黙を破るかのようにレミリアは大きく息を吐いた。

「……どうしてかしらね」

 天井を見上げながら、持っていた紅い剣を消滅させる。

「能力も地位も名誉も財産も何もかも全て、こんな人間より勝っているはずなのに、どうしてみんな私の言うことに従ってくれないのかしら」

 ここでレミリアは卓郎に視線を向けて、ぽつりと言った。

 

「出て行きなさい」

「えっ」

「今すぐ、ここから出て行きなさい。今日付けであんたを解雇するわ」

 突然のことに、卓郎とメイドたちがどよめく。

「お嬢様! いくら何でもそれは……」ユキが言う。

 

「卓郎はスカーレット家を侮辱した。その事実に変わりはないわ。ある程度は館に貢献していたことは認めるけど、忠誠心の無い奴に紅魔館の使用人を務めさせるわけにはいかないわ。だから、解雇することにしたのよ。本当なら体を切り刻んでいるところだけど、周りがうるさいからそれは止めることにしたわ」

 周囲が唖然とする中、レミリアはゆっくりと扉に向かっていく。

「さようなら、卓郎。せいぜいどこかで幸せに暮らしていくことね」

 最後にそう言い残して、レミリアは食堂から出ていった。

 

 


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