吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【25】

 

 

 宿に戻って待機していると、扉が叩かれた。

 念のため「どなたですか」と尋ねると、外から「優花よ」と返ってきた。

 卓郎は安心して、優花を迎えることができた。

 

「しばらく、ここに滞在する予定なの?」中に入った彼女が問う。

「うん。今のところはね」

「でも、仕事の方は大丈夫なの? 卓郎さん、これまで週に一回しか里に来れないくらい忙しかったんでしょ」

「知り合いの同業者に家を任せているから、しばらくは平気だよ」

「なんだ。それなら良かった」

 お互いに部屋の小さな机に向き合う形で座る。

 

 机の上には、周りを和紙で囲った発光草の皿が置いてある。

「なんか、その行灯。すごく明るいよね」優花が何度もまばたきをしながら言う。

「そうかな? 僕は普通だと思うけど」

「でも、私の家の行灯より全然明るいわよ。絶対高いわよね。これ」

「まあ、そうだね。かなり奮発して買ったからね」卓郎は苦笑する。

 さすがに人里では発光草は売られていない。

 発光草の存在を隠すために、わざわざ和紙を使って行灯風味にしたのだが、少し勘付かれてしまったようだ。

 

 多少の雑談をした後、しばらく無言の時間が続いた。

 前回会ったのは昨日の午前中だったので、これといった新しい話題もなかったからだ。外から聞こえてくる鈴虫の鳴き声だけが、ささやかに二人の間に流れていた。

 

 優花の視線が机に置いてある紙に留まり、ぽつりと言った。

「そういえば、例大祭までもうすぐね。紙芝居の方は順調かしら」

「おととい、伯父さんに内容をまとめた紙を持っていって、了承してくれたよ。でも、それからは全く手を付けていないな。この三日間、いろいろあったし」

「ああ、そっか。お父さんが了承してくれたのって、まだおとといの話だったんだよね。なんかこの数日間、いろいろなことがありすぎて一週間くらい経ったと感じてたわ」

 優花もまた、卓郎と同じ時間の流れを感じていたようだ。

 

 すると、優花はふうっと息を吐いた。

「ねえ。卓郎さん」

「なに?」

「私、おとといの夜、もしかしたら死んじゃってたかもしれないのよね」

「ど、どうしたんだよ、いきなり。優花さんらしくない」

「私、おとといの夜のことはよく覚えてないの。卓郎さんと会った後、急に眠気がやってきて、気付いたら布団に寝かされていたのよ。お父さんや先生に何があったのか尋ねてみたけど、二人とも細かいことは話してくれなかったわ。妖怪に血を吸われたとは聞いたけど、いまいち実感が湧かなくてね」

 優花の声が、どんどん弱々しくなっていくのが分かった。

 

「実は、私ね。昔からょくちょく里の外に散歩に出かけていたの」

「外に出てた?」

「うん。四年くらい前からかな。仕事に疲れた時とか、のんびりしたい時とかにね」

「でも、危険じゃなかったのか」

「うん。お父さんは危険だから出ない方がいいと言ってたけど、それまで悪い妖怪に襲われたことも無かったから続けてきたの。山の景色だとか、流れる川なんかを眺めているとね――。なんか不思議と今まで考えてきた嫌なことが、急に小さいことに思えてきちゃうのよ。だから、ちょっと危険かもしれないけど、今まで続けてきたの」

 優花の言っていることは、卓郎にも理解できた。

 仕事のことで悩んでいた時、彼も何度か近くの湖をぼんやりと眺めて気分転換をしたことがあったのだ。

 

「でも、今はね。少しだけ外に行くことが怖くなっちゃったのよ」

 視線を手元に落として、優花は手を震わせる。

「いえ、外に限ったことじゃない。寝るのも少し怖くなったのよ。もし、自分が寝ている隙に、また妖怪に襲われちゃったらどうしようって思っちゃって。だから、昨日もあんまりよく眠れなかったのよ……」

 ぽとり、と机の上に一滴の水が落ちた。

「私、怖い。とっても怖いの……。妖怪に殺されたくないよ……」

「優花さん!」

 叫びながら、卓郎は優花の手を握る。

 

 怯えた優花の目つきが彼を捉える。いつの間にか彼女は大量の汗をかいており、額にへばりついた黒髪が何とも言えない疲労感を映し出していた。

「優花さん。落ち着いて。今は、大丈夫だから」

 優花の目から涙があふれたのは、それからすぐだった。

 机を回り込み、優花の目の前にやってきた瞬間、彼女は卓郎の胸にうずくまって叫びながら泣き始めた。

 

 てっきり立ち直ったのかと思っていたが、全然そんなことはなかった。

 昨日は平気そうに振る舞っていたが、やはり精神的に衝撃を受けたのは間違いない。

 卓郎自身もそうである。

 八年前の事件が起こって以来、たまにあの日の光景が夢に出てくるのだ。

 彼もずっと事件の見えない悪夢に襲われ続けているのだ。

 今は少しながら症状も緩和されてきているが、死ぬまでこの悪夢は消えないだろうと思っている。パチュリーも言っていたが、時間は感覚を鈍らせるだけで、本質的な解決には至らないのだ。

 

 ようやく落ち着いてきた彼女に、卓郎は水を飲ませた。

「ごめんね……。情けない姿を見せちゃって」優花は袖で涙を拭う。

「いや、いいんだ。それで少しでも気が楽になれば」

「うん、大丈夫。私、こんなことで絶対に負けないから」

 もしかしたら彼女はこのことを打ち明けるために、卓郎のところまでやってきたのかもしれない。これが彼女にとって良いきっかけになれば、と卓郎は思った。

 

 優花は、自分の着ている着物を眺めながら言った。

「あーあ。本当はこの前の着物でここに来たかったんだけど、血がなかなか落ちなかったし、着るたびに事件のことを思い出しそうだったから、処分しちゃったのよね」

「そればっかりは仕方ないよ」

「うん……。実は目覚めた後、洗う前の浴衣をちらっと見ることができたんだけど、けっこう血が付いててびっくりしちゃった。あれ全部、私の血だったんだよね」

「話によると、妖怪が吐きだしてしまったらしいね」

「あれだけの量の血を見るのは、かなり久しぶりだったわ」

「へえ。昔も大量の血を見てしまったことがあるんだ」

「うん、そう。確か八年前くらいだったかしら。家に帰ってきたら、お父さんが血まみれの着物を洗っていてね。あの時も本当にびっくりしたわ」

 八年前、という単語が卓郎の中で妙にひっかかってしまった。

 

「血まみれの着物って、どういうこと?」念のため訊いてみる。

「私も同じようなことを訊いてみたけど、あの時のお父さん、すごく怖い顔をしていてね。このことは絶対に誰にも話すんじゃないぞ、って強く言ってきたから、詳しくは訊けなかったの。体のあちこちに切り傷があったし、何かあったんだとは思うけどね」

 何か嫌な予感がした。

 

「それって、いつ頃に起きたのか覚えてる?」

「えっ。もう八年も昔の話だから、さすがに覚えてなんか――」

 すると、ここで優花は言葉を切って、考えるような目つきになった。「ちょっと待ってて」と言った後、「あっ」と思いだしたように顔を上げた。

「そうだわ。卓郎さんの事件が起こる一週間前だったと思うわ。卓郎さんの事件が起こった時、立て続けに嫌なことが起こるなって思って、日付を確認したからきっとそれで間違いないよ」

 卓郎の頭の中で、雷が落下してきたような衝撃を受けた。

 

 記憶が正しければ、その日は卓郎の母親が伯父の家を訪れていたはずである。しかし、伯父の家でそのような事態が起こったことなど、全く卓郎は知らなかったのだ。母親の話では、伯父からは金は貸せないと言って門前払いを喰らったとしか聞いていない。

 だが、その時の母親の沈んだ表情と、手にぐるぐると巻かれていた布があまりに印象的で、今でも日にちを覚えていたのだ。

 

 着物に染まった血? 伯父が負った切り傷?

 そして、これまで卓郎が得てきた事実を思い浮かべた瞬間――。

 卓郎の中で何かが弾けた。

 ばらばらになっていた断片が合わさって、ある一つの結論を与えてくれたのだ。

 だが、それは彼にとって最も残酷な結論であった。

 

「卓郎さん?」

 彼の急激な変化を敏感に感じ取ってか、優花は首を傾げる。

 すぐに我に返った卓郎は、慌てて手を振った。

「あっ、いや、何でもない」

「でも、急に顔色が悪くなったよ。どうしたの?」

「え、ええと……」

 その瞬間、大きく彼は咳き込んだ。よりによって、こんな時に襲ってくるとは――。

 

 何度も続く激しい咳に、慌てて優花は立ち上がった。

「卓郎さん、大丈夫?」

 心配そうに背中をさすってくる優花に、ぽつりと卓郎は言った。

「ごめん、優花さん。そろそろ体力の限界かもしれない」

「でも……」

 卓郎は困ったように苦笑いを浮かべた。

 

「最近、いろいろなことがあって少し疲れているんだ。実は今日の朝、医者に診てもらったんだけど、軽い風邪を引いてしまっているようなんだ」

「じゃあ、どうして部屋にやってきてもいいって言ったのよ」

「少しくらいなら平気だと思ってたんだ。ごめん……」

 顔色の悪い彼を見て、優花は納得してくれたようだ。

 それから彼女は看病したいという理由で、部屋に残りたいと希望してきた。

 もちろん、そこはやんわりと断った。風邪が治ったら必ず会いに行くと約束を交わして、優花は部屋を出て行った。帰る際、名残惜しそうな優花の表情が妙に印象的だった。

 

 一人になって数分後、再び扉が叩かれた。

 また優花が戻ってきたのかと思いながら「どなたですか」と言うと、「美鈴です」と聞こえてきた。卓郎は慌てて扉を開ける。

「先ほどの女性が帰りましたので、戻ってきました」そう言って、美鈴は部屋に入る。

「今までどこにいたんですか」

「ずっと部屋の前にいましたよ。他のお客さんが通りかかる時や女性が立ち去る瞬間だけは気配を察知して、こっそり物陰に隠れてましたけどね」

 つまり、優花が号泣した時も彼女は扉の先にいたということになる。

 どこかで護衛をしているとは思っていたが、まさかそんなに近くにいるとは予想外だった。

 

「で、卓郎さん。あれはどういうことでしょうか」

「えっ」

 壁に背を預けた美鈴は、真剣な眼差しを向けた。

「あの女性との関係ですよ。卓郎さんと遭遇した時、あの女性、すごい動揺していたじゃないですか。何となくまずいと思いまして、あの時はすぐにその場を離れましたけど、あの女性が卓郎さんを見る目は、明らかに普通ではありませんでしたよ」

 あの状況では、さすがに追究されるのはやむを得ない。

 

 今はそんなことで時間を使いたくなかったが、仕方なく卓郎は答えた。

「美鈴さんが予想していることで、だいたいあってると思いますよ」

「ということは、あの女性と卓郎さんは恋愛関係にあるのでしょうか」

「そうなりますね。まだ付き合い始めたばかりですけど」

 美鈴は「うーん」と唸ってから、言いにくそうな感じで口を開いた。

「まだ肉体的な関係には至っていない、と考えていいでしょうか」

「ええ、そうなります。そして、今以上の関係にはならないとも断言します」

 美鈴は虚を突かれたような顔になる。

「えっ。どういうことですか」

 これに対し、卓郎は暗い表情でうつむく。

 

 おそらく、体の変調に気付いているのは自分自身だけだろう。でも、一方ではその事実を認めたくない自分自身もいた。美鈴に打ち明けるべきなのか、彼は迷った。

 結局、勇気が出てこなくて、打ち明けることはできなかった。

「……とにかく、これ以上の関係になることはないと断言しておきます。だから、館のみなさんに迷惑をかけることはないと思います」

「そうですか」

 美鈴はふうっと息を吐くと、夜になりつつある外の景色を眺めた。

 

「そういえば、あの女性が先日、お嬢様に血を吸われたんですよね。もしかして、襲われたのがあの女性じゃなかったら、卓郎さんはお嬢様を問い詰めるということはなかったんでしょうか」

「もしかしたら、そうかもしれませんね」

 卓郎はその場に座り込む。

「でも、いずれは分かってしまうことだったと思います。お嬢様が人間を殺さなくなって、もう何十年も経っているんですからね。それに僕自身、本当にお嬢様は人間を殺しているのかという疑問は昔から抱いていました」

「確かに、いずれはやってくる問題だったんでしょうね」

 そう言って、美鈴も壁際に背を預けて腰掛ける。

 長い夜が始まろうとしていた。

 

 ※

 

 翌日の午後、伯父の家を出た卓郎の表情は沈んでいた。

 昨晩、卓郎が思いついた結論は、どうやら正しい方向に固まりそうだった。

 頭の中では予想していたとはいえ、いざ本当のことになると、やはり心に受ける衝撃は半端なものではなかった。浴びるほど酒を飲みたい気分だったが、後でみじめになるのは明白だったので、すぐにそれは振り払った。

 

 先ほど、卓郎は優花がいない隙を狙って伯父の家にやってきた。

 そして八年前のことについて、強く詰問をした。

 最初は彼の異様な態度に困惑しながらも、伯父はなかなか口を開こうとしなかったが、粘り強く説得し続けた結果、ついに打ち明けてくれたのだ。

「あの日のことは、今でも後悔している自分がいる」

 話し終えた後、伯父はうつむいたまま言った。

 

「結局、あれが私の見た彼女の最後の姿になってしまった。喧嘩別れのままで二度と会えなくなるのは、いくら何でも辛い。もし、ほんの数十秒だけでも天国にいるお前の母親と話せるのであれば、すぐに頭を下げて謝りたいよ」

「いえ、伯父さんがそこまで自分を責める必要はないと思います」

 卓郎の言葉に、伯父は顔を上げる。

 

「八年前は伯父さんの家もかなり厳しかったんですよね。だったら、仕方ないことだと思います。伯父さんの選択は間違いではないと思いますよ」

「ああ。お前の言う通り、理屈では分かっているんだがな……」

 苦しそうな様子で、伯父は額の汗を拭う。

「あんなことを目の前でされると、嫌でも自分のせいだと思ってしまうんだ」

 卓郎は伯父を責める気など毛頭なかったが、さすがにあれだけのことを起こされると、人の良い伯父にとっては自分を責めざるを得なかったのだろう。

 

 礼を言って、卓郎は伯父の家を出た。

 次の目的地までの通りを歩いている途中、何人かの子供たちが彼の横を走り抜けていった。鬼ごっこを行っている最中なのか、先を走っている子供たちがやたら高い声で「鬼さんこちら!」と叫んでいた。元気そうな子供たちである。

 ほとんどは黒髪の子供だが、中には金髪の女の子も混じっていた。

 

 さらに歩いていると、威勢の良い商人の声が聞こえてきた。そのうちの一人が「酒でもどうですか」と話しかけてきた。もちろん、やんわりと断った。

 その先には、九尾の狐の妖怪が買い物をしていた。

 背中にある九つの特徴的な尻尾を除けば、あとは人間の女性とたいして変わりない。

 おそらく人里に来ることを考慮して、わざと人間に近い姿をしているのだろう。商人と世間話を交わしながら、妖怪は現金を渡していた。

 

 今日も人里は活気に満ち溢れているようだった。

 だが、これでも七年くらい前までは深刻な食料危機が発生しており、人里もかなり厳しい状況に追い込まれていたのことである。天候不良でろくに作物が作れず、多くの餓死者を出してしまったらしい。

 今は従来の生産を取り戻しており、食料危機を教訓とした新しい農業改革も少しずつだが順調に進んでいるとのことだった。

 

 もしかしたら、母親と兄もその食料危機の犠牲者なのかもしれない。

 空を見上げながら、そう考えた。

 ふと、ここで卓郎は足を止める。

 そして来た道を引き返すと、先ほど話しかけてきた商人の店まで戻って来た。

「すいません。お酒ください」

 つい数分前に話しかけた客だと気付いた商人は一瞬、呆然とした顔になったが、すぐに商人の顔に戻ると、威勢の良い声で酒を渡してくれた。

 準備を済ませた卓郎は深呼吸をしてから、再び目的地へと向かう。

 行き先は慧音の家である。

 今日、彼女から全てを聞きだそうとしているのだ。

 

 


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