吸血鬼は紅い血を吐いた   作:個人宇宙

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【06】第二章

 

 

 翌日の朝、食堂の前には館の妖精メイド全員が集まっていた。

「今日からあなたたちのリーダーが変わったわ。名は卓郎。人間よ」

 卓郎の横で、レミリアがメイドたちに説明する。

 

「知っているメイドもいると思うけど、彼は一週間前にここにやってきて、それから紅魔館で働きたいという意思を申し出てきたわ。念のため言っておくけど、彼は能力も何もない普通の人間よ。でも、使用人として見込みがありそうだったから、こうして雇ったというわけ。そういうわけで一ヶ月間、あなたたちも彼が使用人に足る人間がどうか判断してちょうだいね。あなたたちの意思によって、彼を正式に使用人にさせるか決めるから」

 

 ここで、卓郎は頭を下げる。

「卓郎といいます。今日からよろしくお願いします」

 妖精たちの視線が一気に集まる。

 大勢の目が自分の方に向けられ、思わず卓郎は尻込みをしてしまった。

 ここからさらに簡単な説明をした後、レミリアは「じゃあ、あとはよろしくね」と言って、そそくさと去っていってしまった。

 

 食堂の扉が閉められた直後、妖精たちが一斉にざわめいた。

「えーっ。嘘ーっ。ユキに代わって、人間がリーダーになるの?」

「見た感じ、ぜんぜん頼りなさそうじゃない。あんな人間の命令を受けるわけ?」

「なんかめんどくさいわねー。サボっちゃおうかしら」

 あまり歓迎されていない様子に、どうしようかと卓郎は内心焦る。これまでの彼女たちの態度から何となく予想はしていたが、見事に的中してしまったようだ。

 

 すると、彼の隣にいたユキがぱんぱんと手を叩いた。

「ええと、卓郎さんは今日から働き始めるから、まだ分からないことも多いわ。だから、もうしばらくは私が指示していくからね」

 ユキの言葉で大方の妖精メイドは黙ったが、一部のメイドはあからさまに不快そうな目つきで彼女を見ていた。

 ここでユキは、鉛筆と一冊の小さな青い本を取り出した。

 

「じゃあ、今日の仕事を始めるよ。まずは買い出しに行きたい人、手を挙げて」

「はーい。わたしやりますー」「わたしもー」何人かの妖精が手を挙げる。それを見て、彼女は本に書き込んでいく。

 どうやら、仕事の振り分けは任意で行われているようだ。

「次、発光草が少なくなってきたから、それを採取しに行きたい人」

「はいはーい! わたしそれやる!」「わたしもです」これも何人かが手を挙げる。

「次は館の掃除ね。やりたい人いる?」

 だが、これには誰も手を挙げなかった。どの妖精も「あんたが手を挙げてよ」と言わんばかりに、ちらちらと仲間の妖精に視線を向けている。

 

「誰か手を挙げないと、私が勝手に選んじゃうよ。それでもいいの?」

 ユキの問いかけにも、誰も応じる気配はなかった。

 小さくため息を吐いて、ユキは桃色の髪のメイドに目を向けた。

「ハルちゃん。たしか、ハルちゃんはここしばらく館の掃除をしてなかったよね。そろそろやった方がいいんじゃないかな?」

「はあっ? なんであたしなの?」

 

 ハルは不快そうに眉間に皺を寄せると、隣のメイドを指差した。

「館の掃除だったら、アキの方が最近やってないじゃん」

「ええっ。わたし?」

 困惑しながら、アキと呼ばれた茶髪のメイドが答える。

「で、でも、わたしは門の仕事とかあるから……」

「それは知ってるわよ。でも、そっちの仕事をやりすぎて、掃除や洗濯をあんまりしないのは不公平じゃん。だから今日はアキが掃除やってよ」

「そう言うハルちゃんだって、最近よく仕事サボってるじゃん」

「そうよ! サボり魔のハルが偉そうな口を叩くんじゃないわよ!」

 アキにつられて、別の妖精メイドも割り込んでくる。

 

 ハルはそのメイドを睨みつけた。

「はあっ? いつ、どこであたしが仕事をサボったって言うの? その証拠は? 証拠が無いんだったら、どの時間、どの場所であたしがサボっていたのか聞きたいわね」

「そんな細かいところまで分かるわけないじゃん! ただ、ここ最近、仕事中にあんたの姿をあんまり見かけないから、どっかでサボっているな、と思っただけよ」

「それじゃ、あたしが仕事をサボっているということにはならないわね」

 

 挑発的な言動のハルは、ここで「あっ」と何かを思い出したように言った。

「そういえば昨日、四時過ぎくらいだったかしら。あんたがこっそり自分の部屋で隠れて紅茶を飲んでいる所を見かけたわ。たしか昨日、あんたは廊下の掃除当番だったよね。これって立派なサボりじゃないかしら?」

 その妖精メイドは表情を凍りつかせる。

 

「も、もしかして、見られてた?」

「外からまる見えだったわよー。あんたは隙がありすぎるのよ。偉そうな口を叩くんじゃないわって言ってたけど、あんたみたいな奴に言われたくはないわねー」

「てめえっ! 能力を使いやがったなっ!」

 その妖精メイドが、ハルに掴みかかろうとする。

 

 さすがにまずいと察知したのか、ユキが慌ててその間に入り込んできた。

「ちょっと二人とも。喧嘩しないでよ!」

「じゃあさ。ユキはどうなのさ!」ハルが声を荒げて問う。

「ユキは、今日の掃除をアキにやらせたほうがいいって思わないの?」

「えっ、アキちゃんに?」

「そうよ。あたしよりアキの方がやるべきでしょ」

「え、ええと……」

 ハルの強気な言動に押されてか、ユキは口ごもってしまう。

 

 これはやむを得ないと思い、卓郎もユキたちのもとにやってきた。

「ユキ。もういいよ。あとは僕が命令するから」

「卓郎さん……」

「じゃあ、こうしようか」

 卓郎はハルとアキの交互に目を配る。

 これが初めての命令となる。

 緊張はしたが、卓郎は思い切って言い放った。

 

「ハル。今日はお前が館の掃除をするんだ。そしてアキの方は、今日はいつも通りの仕事をするんだ。でも、明日に館の掃除をさせるからな」

「ええっ。あたしが掃除するの?」

 納得いかない様子のハルに、卓郎は反論した。

「でも、ハルだってしばらく掃除をやってないんだろ。サボってるサボってないは別として、しばらく掃除をやってないのはハルもアキも同じじゃん」

「ええー。でも、めんどくさーい。ただでさえこの館、すごく広いんだし」

「そんなこと言うなよ。明日はアキが掃除するんだからさ」

 

 また反論してきたらきりがないので、卓郎は強引に話を進めた。

「じゃあ、ハルは決まったということとして、他に掃除をやりたい人はいるかな。やる人がいなかったら、僕が適当に選んでいくよ」

 何人かの妖精が、面倒臭そうに手を挙げていく。

 それぞれの仕事に向かうまで、ハルは不貞腐ったような目で彼を見ていた。

 

 ※

 

 夜、ようやく一通りの仕事を終えた卓郎は、重たい足取りで部屋に戻った。

 仕事用の着物を床に放り投げ、就寝用の着物に着替える。

 今日は特別に着物での仕事が認められたが、しばらくしたら彼専用の制服が支給される予定だった。着慣れた服装で過ごす生活も、あと少ししかない。

 用意していた水を一杯飲んで、卓郎は重たいため息を吐く。

 

 初日からとても疲れた。とにかく、妖精メイドに翻弄されっぱなしの一日だった。

 買い出しに不備があったり、掃除の行き届いていない所が多くあったり、妖精がなかなか言うことを聞いてくれなかったりと散々な有様だった。

 特に夕食の完成が遅れてしまったのは、一番の失敗だった。

 

 買い出しの不備でユキの調理を始めた時間が遅れてしまい、本来の時間から八分遅れで完成させたのである。幸いレミリアは十分遅れで食堂にやってきたので、咎められることはなかったが、主人が来ないように祈った八分間は冷や汗が止まらなかった。

 ともあれ、不測の事態は多くあったが、初日の仕事はこれで終わりである。さっさと寝て明日に備えようとした卓郎が、ベッドに潜り込んだ直後だった。

 こんこん、と扉が叩かれた。

 

 返事をすると、ユキが慌てた様子で部屋に入ってきた。

「卓郎さん、大変です」

「どうした」

「今日の洗濯物が、まだ洗い切れてないことが分かりました」

「ええっ!」

 卓郎はベッドから飛び起きる。

 ユキの説明によると、二十着ほどのメイド服が洗い場のかごの中に放置されてあったらしい。紅魔館の妖精メイドは卓郎を含め、下着は各自の責任で管理することにしているが、それ以外の仕事服は全てその日の担当者がまとめて洗うことになっている。

 

「今日、洗濯したのは誰だっけ?」卓郎が問う。

 考えられる原因として、今日の洗濯の担当者が仕事をサボってしまったか、もしくは自分たちの過失で、洗濯の仕事を誰にも振り分けなかったことが挙げられる。

「じ、実は……」

 ユキはわずかに体を震わせながら言った。

「その書いた手帳を失くしてしまいまして、誰だったのか分からないんです」

「ええっ。じゃあ、覚えてもないのか?」

「はい。私、覚えることは苦手で、だからいつも手帳に書いているんです」

「じゃあ、誰がサボったのかも分からないじゃん」

「すみません……」

 卓郎はため息を吐く。

 

 今にも泣き出しそうなユキを見ていると、咎める気力も起こらなかった。

「じゃあ、洗えなかった服はどうするんだ」

「明日の朝一に、私が責任を持って全て洗濯します。一応、メイド服はみんな何着か持っていますので影響はないと思いますが、朝一でやりますので、もしかしたら朝食を作る時間に間に合わないかもしれません」

 それを聞き、卓郎はユキがここにやってきた理由を察した。

 

 明日はユキが朝食当番である。彼は朝一でやる仕事はない。

 しょうがないな、と卓郎は呟いた。

「じゃあ、僕も少しだけ洗濯を手伝うよ。朝食が遅れたらどうしようもないしね」

「すみません。私のせいで卓郎さんに迷惑を掛けてしまって……」

「いいんだよ。気にしないで」

「はい。ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げて、ユキは部屋から出ていった。

 

 洗濯自体は農家時代でもよくやっていたので問題はないが、明日は少しだけ早起きしなければならないようだった。

 それにしても、と卓郎は疑問に思う。

 どうしてユキはわざわざ洗濯の手伝いを自分に頼んできたのか。

 自分はまだ紅魔館に入ってきたばかりだ。それだったら経験豊富な妖精メイドに頼んだほうが、自分に頼むよりかはまだ安心できるはずのではないか――。

 

 ※

 

 翌日、ようやく洗濯物を洗い終えた卓郎は、あくびをしながら大広間に向かう。

 結局、朝食を作る時間に間に合わなかったので、先にユキを調理場に行かせて、残りのメイド服は全て卓郎一人で洗うことになったのだ。

 本当は手伝いで何人かの妖精メイドも呼びたかったが、あいにく適当な妖精が見つからなかった。しかも、館のメイド服はなかなか手では洗いにくい代物で、思っていたよりもかなり時間が掛かってしまった。

 

 卓郎が食堂に入ると、すでに十人ほどのメイドがテーブルで食事を摂っていた。

「おはよう」

 メイドたちに向けて、卓郎は声をかける。

 だが、何人かのメイドが一瞬こちらを見たくらいで、誰も挨拶を返そうとせず、そのまま談笑を続けた。

 少し注意しようと思ったが、朝一からそんな気分にもなれず、卓郎は一人寂しくメイドたちから離れた席に腰掛けた。幸い、その直後にユキが「おはようございます」と言って朝食を持ってきてくれたので、少しだけ気持ちが軽くなった。

 

 朝食を終え、卓郎は紅茶を飲みながら一息ついていた時だった。

「あれ、私の分は?」

 ユキが慌てた様子で、メイドたちのいるテーブルまでやってきた。

「ねえ、私の分の朝食はもうないの?」

 その問いかけに、一人の妖精メイドが返した。

「あれ、ユキ。まだ食べてなかったの?」

 

「うん。卓郎さんの分で最後だったらしくて、今やっと気付いたの」

「今日はお嬢様たちの分を含めて、どんくらい作ったの?」

「たしか二十食くらいだけど……」

「じゃあ、足りなくなったんじゃない? 今日はけっこうみんな食べに来てたし」

「ああ、そうだよね」しょんぼりとした顔で、ユキは頷く。

 一連の会話を聞いて心配になった卓郎は、ユキのもとにやってきた。

 

「ユキ。大丈夫なのか。何も食べなくて」

 これに対し、ユキは慌てながら笑みを浮かべた。

「安心してください。妖精は何も食べなくても死にませんので」

「そうだけど、せっかく手間かけて作ったのに……」

「いいんです。数が足りなくなるのは、いつものことですから」

「いつものことって、その度にユキは食べられないってことか?」

「あはは……。まあ、そうなりますね。みんなその時の気分でやってきますので、何食作ればいいのか事前に分からないんです。でも、それでいいんです。私が作った料理をみんながおいしく食べているだけで、私は満足ですから」

 その愛想笑いに、わずかな悲壮感が入っているように感じた。

 

「じゃあ、私は残りの食器を洗ってきますので」

 軽く頭を下げて、ユキが調理場に向かおうとした瞬間だった。

 体の向きを変えた拍子に、彼女のメイド服から何かが床に落ちた。

「あっ、なんか落ちたぞ」

 そう言いながら、卓郎が代わりに拾おうとする。

 だが、途中でその手が止まってしまった。

 

 ユキのメイド服から落ちたのは、ひどく汚れた一冊の本だった。そして、その青い色の表紙は卓郎も見覚えがあった。

「あっ……」

 慌ててユキが落ちた本を拾おうとしたが、わずかに卓郎の方が早かった。

 本を手に取って、素早く中身をめくってみる。だが、中身は砂やほこりがべったり付いて変色しており、途中の何項かは乱暴に破られているという有様だった。

 

 わずかに読み取れる項を開いてみると、日付とメイドの名前、その日にメイドが行う仕事内容が書かれてあった。

 予想通り、これはユキの手帳だった。

 おそらく、掃除で使った後の汚水を浴びたのだろう。

 卓郎の記憶が正しければ、昨日は綺麗な状態だったはずだが。

「返してください!」

 強引にユキが取り返そうと手を伸ばすが、卓郎はそれを避ける。

 

「これ、昨日失くしたと言ったはずの手帳だよな。どうしてそれを持ってるんだ」

「今日の朝、見つけたからです」

「どこで?」

「…………」

「ユキ。答えてくれよ」

「ちょ、調理場のごみ箱の中に、です……」

 半ば予想していたことであると同時に、嫌な寒気を卓郎は感じた。

 

 手帳をじっくり見てみると、昨日の日付の部分は完全に破られているようだった。これでは、昨日は誰が洗濯の担当だったのかが分からない。

 卓郎は汚れた手帳を、メイドたちの方に掲げた。

「おい、これに見覚えあるか?」

 メイドたちは一斉に会話を止めて、その手帳に目を向ける。

 

 真っ先に反応したのはハルだった。

「あー。それ、ユキの使ってるやつでしょ」

「今日の朝、調理場のごみ箱に入ってたんだ。たぶん、誰かのいたずらでこんなことになったんだと思う。誰か、心当たりのある人はいないかな」

 いい機会だったので、ついでに卓郎は続けた。

「あと、昨日の洗濯当番が誰だったか覚えてる人はいないかな。昨日の洗濯当番がサボったせいで、僕とユキが代わりに洗ったんだ。覚えていたら教えてくれないかな」

 あまり期待せずに言ってみたが、ここでメイドたちは予想外の反応を見せた。

 

 ほとんどのメイドが、くすくすと小さく笑い始めたのだ。

「あれー。昨日は誰が洗濯担当だったっけ?」ハルが言う。

「ごめーん。わたし分かんないや」別のメイドが言う。

「たしか、あんたじゃなかったっけ?」

「違うわよ。わたしは発光草を採りにいったのよ」

「そうだっけ? じゃあ、誰がやってたのか分かんないわねー」

 卓郎は思わず身震いをした。

 彼女たちを取り囲む雰囲気に、一種の不気味さを感じてしまったからだ。

 

「そういえばさー。ユキ、また手帳よごされちゃったの?」

 ハルの問いかけに、ユキはうつむいたまま何も言わない。

「これで何回目よ。いい加減、自分の扱うものくらいしっかり管理しなさいよ。あんたがしっかりリーダーの仕事してくれないと、あたしたちが迷惑しちゃうんだからね」

 妖精たちは、さらにくすくすと笑う。

 ユキは体を震わせて、うつむいたまま動かない。

 嫌な予感が確信に変わった瞬間だった。

 

「な、なあ……」

 何か言わなければと思った卓郎だったが、

「卓郎さん。お願いです。手帳を返してください」と、ユキに遮られてしまった。

 どうすることもできず、彼女に手帳を返す。

「それじゃ、私は調理場の方に戻りますので」

 ユキはうつむいたまま、駆け足で調理場に戻ろうとした瞬間だった。

 

 目の前で奇妙な現象が起こった。

 ユキの前に突如、テーブルクロスが出現したのだ。だが、駆け足の彼女がそれを避ける暇はなく、そのままテーブルクロスに足を引っ掛けてしまう。

「きゃあっ!」という声と共に、ユキはその場で尻もちをついて転んでしまった。

 きゃははははっ、とテーブルの妖精たちが一斉に笑った。

 

 卓郎が慌ててユキのもとへ走る。

 痛そうにお尻をさするユキを心配しながら、卓郎は彼女が転ぶ原因になったテーブルクロスに目を移す。当たり前だが、いきなりテーブルクロスが出現するはずない。

「おい、誰だ! こんなことをしたのは!」卓郎は声を荒げる。

 

 考えられるのは、この場にいる妖精メイドの誰かが何らかの能力を使ったことだった。

 卓郎自身も何度か農家時代に、妖精たちの不思議な能力によって農作物を盗まれたりなど、悪質ないたずらを受けたことがあったのだ。

 しかし、ここで彼を制したのは意外なことにユキだった。

「卓郎さん、私は平気です。だから、そんなに怒らないでください」

「でも……」

 困った顔を浮かべる卓郎をよそに、ユキはゆっくりと立ち上がった。

 

「本当に大丈夫です。みんながいたずらをするのはいつものことですので、あまり気にしないでください。それでは、今日も頑張っていきましょう」

 おぼつかない足取りで、ユキは改めて調理場へ進んでいく。

 すれ違う瞬間、彼女の表情が涙ぐんでいるのを卓郎は見逃さなかった。

 でも、かけてあげる言葉が見つからない。

 ユキの後ろ姿を眺めながら、卓郎は言い様のない悔しさを覚えた。

 

 ※

 

 二日目の卓郎の仕事は、館の掃除だった。

 昨日の反応から分かるように、掃除はメイドたちの中では人気のない仕事である。

 そして卓郎も、二日目においてその理由を身を持って体感することになった。

 

「ふう……」

 ようやく廊下のごみを集め終えた卓郎は、ちりとりを使い、溜めたごみを回収する。

 とにかく紅魔館は広いのだ。広すぎると言っても過言ではない。

 一階の廊下のごみを集めるだけでも、かなりの時間が掛かってしまった。

 二階は他のメイドに任せているので、ひとまず廊下のごみ拾いはこれで終わりだが、今度は窓拭きと廊下に設置されている燭台の手入れをしなければならない。しかも、それと同時に、リーダーとして他のメイドにも命令も出していかなければならない。

 自分の仕事をするだけでも精一杯なのに、それ以外のことにも目を配らなければいけないのだ。

 

 お茶の一杯すら飲んでいる暇もない。メイドたちが掃除をやりたくないと言い張っていたのも、今なら少し分かるような気がした。

 ごみ拾いを終え、卓郎は廊下の窓を拭く作業を入ろうとした時だった。

「あらあら。まだ掃除続けてんのねー」

 生意気な声が聞こえてきて、雑巾を持つ手を止める。

 

 やってきたのはハルと、ナツと呼ばれる目に矯正器を付けた青髪のメイドだった。やかましいハルとは対称的の、どこか無愛想な印象があるメイドだ。

 卓郎は顔をしかめた。

「そうだけど、お前たちは終わったのか」

「うん。今日は順調に発光草が集まったからね。予定よりも早く終わって帰ってきちゃったから、どうしよっかなーって考えてたところ」

 ふうん、と答えながら、卓郎は水の溜まった桶に雑巾を入れる。

 

 発光草とは、館の照明として使われる一種の燃料のことである。

 卓郎の農村では、主に行灯や提灯などが照明として重宝されていたが、紅魔館は発光草と呼ばれる非常に特殊な草を照明として使っているのだ。

 見た目は普通の草と変わらない。

 だが、擦り潰して固めておき、そこに特殊な薬品を混ぜると、激しく紅色に発光するという不思議な性質を持っていた。

 パチュリーいわく、発光草にしか含まれていない成分と薬品が化学反応を起こして発光すると述べていたが、卓郎にはよく理解できなかった。

 その薬品はパチュリーにしか作れないので多少の手間がかかるが、発光時間が非常に長いので、規模の広い紅魔館では重宝されている代物だった。おまけに、ろうそくとは違い、火災の心配がいらないのも大きな利点の一つである。

 

 ただ、紅魔館から遠く離れた湿地帯でしか生育していないので、採取に少し手間がかかるのが大きな難点だった。

 飛行能力を持っている妖精でさえ、朝早く出発しても、だいたい帰ってくるのは昼過ぎになってしまうという。

 それが先日、ユキに説明された発光草についての知識である。

 

 農村時代はろくな照明もなかったので、夜になると基本的に眠っていた卓郎だったが、これのおかげで夜になっても平気で行動できるようになった。その分、仕事の時間も増えるということだが。

 どうやら、今日は予想以上に採取がうまくいったのだろう。

 ある意味、卓郎にとってそれは好都合だった。

 

「じゃあ、ハルたちには掃除を手伝ってもらおうかな」

「えーっ。せっかく早く終わったのにー。自分の仕事がのろいからといって、それをあたしたちにも押しつけるのって、リーダーとして恥ずかしくないんですか?」

「そう言うなって。二日目から、そううまくできるわけないじゃん」

「ふーっ。まったく、しょうがないわね」

 大げさにため息を吐いて、ハルは言った。

「じゃあ、手伝ってあげるわ。ナツもそれでいいわよね?」

 

「まあ、いいけど」ナツは無愛想に頷く。

「で、私たちは何をすればいいのさ」

「窓拭きの方をやってくれないかな。僕は燭台の手入れをやるから」

「はいはーい」

 卓郎から雑巾を渡されたハルとナツは、そのまま羽根を使って飛び、卓郎の身長では届かない高さにある窓を、手慣れた手つきで拭いていく。

 こういう時に限って、飛行能力を持っている妖精をうらやましく感じてしまう。

 

 ほとんどの一階の窓を拭き終わった所で、卓郎は残りの窓拭きをハルに任せ、ナツと一緒に今度は燭台の手入れを行うことにした。卓郎では手の届かない位置をナツに任せて、それ以外の部分を彼が掃除していくというやり方である。

 その最中、周りに誰もいないことを確認してから、卓郎は上にいるナツに目を向けた。

「ナツ。一つ訊きたいことがあるんだけど、いいかな」

「なんでしょうか」淡々とした声で返ってくる。

 

 桶の上で雑巾を絞りながら、卓郎は尋ねた。

「ユキって、いつ頃からリーダーになったんだ?」

 彼の上をひらひら飛んでいた妖精は、わずかに首を傾げた。

「いつ頃だったかな」

「知らないか?」

「ごめんなさい。わたしは詳しく知りません。わたしがここに来た時には、たしかユキはもう妖精メイドのリーダーをやってたと思います」

「となると、ずいぶん長い間、ここのリーダーをやっているのか」

「そうかもしれないですね」

 ふと、ここでナツは作業している手を止めた。

 

「たしか、こんな話を仲間から聞いたことがあります」

「なんだ?」

「ユキは紅魔館に来る前、だいぶ周りの妖精たちからいじめられていたそうです。ユキは何も能力を持っていなかったので、よくいじめの標的にされてたそうですよ」

「いじめか……」

 頭で予想はしていても、いざ言葉で出されると、やはり重たい気分になってしまう。人間の世界と同様、妖精の世界でもそんなことがあるようだ。

 

 雑巾を絞り終えた卓郎は、再び燭台を拭いていく。

「じゃあ、今日の朝にユキが受けたいたずらは誰の仕業だったんだ?」

「ああ、それはですね――」

 その瞬間、ナツは目を大きく見開かせ、言葉を止めた。

「ナツ?」卓郎は首を傾げる。

 

 彼女の視線は、卓郎から少し左を向いていた。

 卓郎もそこに目を向けてみると、奇妙なことに気が付いた。

 いつの間にか、卓郎のすぐ横にあった桶が無くなっていたのだ。つい数十秒前まで、そこで雑巾を絞っていたはずの桶がである。

 おかしいな、と思いながら辺りを見回した瞬間だった。

 

 頭上に突然、逆さまになった桶が出現した。

 そして、桶の汚れた水が、そのまま彼にめがけて降ってくる――。

 抵抗する暇もなく、卓郎は汚れた水を頭から盛大にかぶってしまった。

 その拍子に体の平衡を崩し、尻もちをついて転んでしまう。同時に桶も大きな音を立てて床に落ち、あたりは一瞬にして水びだしになってしまった。

「きゃはははは! 大成功、大成功!」

 びしょ濡れのまま呆然とする卓郎の前にやってきたのは、ハルだった。

 

「おどろいた? これがあたしの『あらゆる物を見えなくさせる程度の能力』よ。まあ、種明かしすると、周囲の色に合わせてその物の色を変えるだけだから、目を凝らせばすぐばれちゃうんだけどね。でも、見事に引っかかったわね!」

 それを聞いて、彼はハルを睨みつける。

「じゃあ、朝のテーブルクロスはお前の仕業なのか?」

「そうよ。ユキの奴、きれいに転んじゃうから、すごくいい気分だったわ。あっ、きれいに転んだといったら、この前の朝食の時もなかなかだったわね。皿が割れて、あいつが呆然としている姿を見た時は笑いを堪えるのに必死だったわ。あいつ、リーダーのくせにすごく間抜けだから、いたずらのしがいがあるのよねー」

 

 哄笑するハルを見て、卓郎の中で一瞬何かが切れそうになった。

 しかし、理性が寸前で握った拳を抑えた。

 ここでハルを殴ってはいけない。もし、暴力を振るってしまったら、もう二度とハルだけでなく、館のメイド全員が自分に従わなくなると理性が叫んだからだ。

 だが、それでも卓郎は腹の底から湧き上がる怒りを抑えることはできなかった。

 そばに落ちていた桶を掴み、やけくそ気味に妖精たちとは逆方向に投げた。桶は勢いよく壁に激突し、その強烈な音にハルとナツはびくっと体を跳ねらせた。

「ちょ、ちょっと、なにやってんのよ」

 焦った様子のハルに、卓郎は低い声で放った。

「おい。ちゃんとやっとけよ」

 

「えっ?」

「掃除だ、掃除! 誰がここを水びだしにしたと思ってんだ!」

 その怒鳴り声に、ハルは小さく悲鳴をあげた。

「そ、そんなに怒ることないじゃない……」

「何か言ったか?」卓郎はハルに鋭い視線をぶつける。

 彼のただならぬ雰囲気に、さすがのハルもまずいと察したようだ。

「あはは……。すいませんでした。掃除しときます」と、素直に従ってくれた。

 

 ここでようやく、卓郎はびしょ濡れの体をどうにかしないと思った。持っていた布で試しに頭と顔を拭いてみると、布にびっしりとごみが貼りついていた。

 この野郎、と心の中で思いながら、卓郎はなるべく平静を保って言った。

「ちょっと部屋に戻って着替えてくるから、後は頼んだ。ちなみに、もし僕が戻ってきてからも床がびしょ濡れだったら、ちょっとした罰を与えるからな」

「はい?」ハルは目を見開く。

 卓郎は微笑みながら、自分の額に手を当てた。

 

「頭突き。言っておくけど、僕、すごく石頭だから」

 その罰は、寺子屋時代に一度だけ恩師から受けたものである。それ以来、その罰が怖くて必死で勉強していたことを覚えている。

 ぽかんと口を開けるハルたちを背にして、卓郎は前に進む。

 早く着替えないと風邪をひいてしまう。

 びしょ濡れのまま、卓郎は駆け足で自分の部屋に向かった。

 

 


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