爽やかな朝。間桐桜は浮き足立っていた。
想い人の家で一晩を明かしたのだ。特に色気のある事があったわけじゃない。それでも高校生の女の子としては一大事だった。
昨日の疲れが出たのか、いつも朝食の支度を始める時間に士郎は起きてこなかった。数少ないキッチンを占領出来る好機に桜はご満悦だ。
腕に縒りを掛け、完璧な朝食を作る。会心の出来だった。
「先輩!」
桜は幸せを噛み締めていた。つい昨日まで己を縛り付けていた老獪が消え、解放された事を実感した。
後ろめたい気持ちを抑えこむ必要も無く、ただ士郎の為だけに生きる事が出来る。その事のなんと嬉しい事か!
そうして、浮かれ調子の桜は士郎の部屋を訪れる。ちょっとした冒険。朝食を準備し、旦那様を起こしに行く妻の気分を少し味わってみたかった。
その結果……、
「……あれ?」
そこにオカシナ光景が広がっていた。
士郎が寝ている。そこは普通だ。おかしな点などない。彼を起こしに来たのだから、寝ていてくれなくては逆に困る。
整理整頓が行き届いた和風の部屋。時々掃除をする時に入るけれど、いつもと殆ど変わりない。
だが、一点だけおかしなものがある。
「……あれー?」
おかしいな……。
どうして、ここに
センパイを抱きしめて、幸せそうに寝ている。
「いけないんだー、先輩」
幸せな気分が一気に急落してしまった。
「男の人と女の人は結婚するまで一緒に眠っちゃいけないんですよー」
感情の乗らぬ声。士郎は体を震わせている。実は起きていたのだ。起きていたのだが、アストルフォに抱きしめられた状態のままだった為に抜け出す事が出来なかったのだ。
決して、彼女に抱き締められている感触があまりにも心地よいから抜け出したくなかったわけではない。
「先輩……」
士郎は恐怖した。そこにある桜の瞳は闇を何重にも重ねたような禍々しい光を宿していた。
「……ち、違うんだよ、桜」
疚しい事などしていない。それでも、言い訳せずにはいられなかった。
「違うって、何の事ですか? 私、バカだからわかりません」
ニッコリと微笑む桜。どうしてだろう……、いつもなら心癒される彼女の笑顔が今日はどこまでも恐ろしい。
「さ、桜はバカなんかじゃないぞ!」
とりあえず否定しておくが、今の問題点はそこではない。
「そうですか? バカじゃないなら、私の考えている事って勘違いじゃなくて……、事実ですか?」
「な、なんの話だ……?」
「先輩が昨日召喚したばかりの
途端に桜の表情が崩れた。
「さ、桜……?」
アストルフォに抱き締められている士郎の姿があまりにも衝撃的過ぎたのだろう。
ポロポロと涙を流す桜。士郎が何かを言う前に走り去って行った。
「さ、桜……」
「……貴様というヤツは」
呆然とする士郎を入れ違いのように入って来たアーチャーが見下ろした。
「あ、アーチャー……」
アーチャーはまるで汚物を見るかのように顔を歪めた。
「……一応言っておくけど、疚しい事はしてないぞ」
「だろうな。あの光景を見た直後にそんな事をする神経があるならこうはならんだろうさ」
アーチャーは溜息を零した。
「やっぱり、あの夢はお前のせいかよ……」
「……感想を聞くつもりだったが、アフターケアを受けた後では意味がないな」
再び深々と溜息を零すアーチャー。
「まったく……。マスターのメンタルケアなどサーヴァントの職務規定には書いてないぞ」
「職務規定なんてあるのかよ……」
「さあな……。折角桜が作ってくれた朝食が冷めてしまうぞ。さっさと起きて来い、未熟者」
そう呟くとアーチャーは立ち去った。
士郎は溜息を零す。
「……疚しい事はしてない。けど……、うーん」
間近にあるアストルフォの寝顔をずっと見ていた事は果たして疚しい事の内に入るのだろうか?
「ぼ、煩悩退散。おーい、アストルフォ! 起きろ! 朝だぞ!」
「うーん、もうちょっと……」
「駄目だ、起きろ!」
自分に言い聞かせるように士郎はアストルフォを起こした。
正義の味方を目指す者なら、もうちょっと堪能していたいなどと考えてはいけないのだ。
◇
結果的に言い訳大会が開かれる事は無かった。むしろ、朝食の席につくと桜に開口一番で謝られてしまった。
どうやら、アーチャーが士郎の悪夢について簡単に説明してくれたらしい。
あくまでも桜のメンタルケアの為だが、士郎は胸をなでおろした。
「ぅぅ……、とんでもない勘違いをしてしまいました」
真っ赤になって縮こまる桜。
「そう自分を責める必要は無い。一人で立ち直れないこの未熟者が全て悪いのだ」
「元を正すとお前が原因だけどな……」
悪夢を見せた張本人に反論するもその語気は弱々しい。
疚しい事はしていない……。だが、何故か少し後ろめたい。
「未熟者」
「……うるせぇ」
そうこうして、なんとか平穏無事に朝食を終えた士郎は道場にやって来た。
今日も学校がある。大河は支度を終えると学校に向かった。士郎と桜も本来ならば登校しなければならないのだが、聖杯戦争中という事もあって二日連続のズル休みをした。
道場の真ん中で士郎は瞼を閉じている。
「
昨日の夢はただの悪夢ではない。
これから衛宮士郎が歩む
「……出来た」
夢の中でアーチャーが握っていた二振りの短剣を手の中に造り出す。
出来る事は解っていた。だが、実際に手の中で双剣の重みを感じると思考が乱れそうになる。
今まで殆ど上手くいく事の無かった魔術がアッサリと成功し、夢の中で見ただけの双剣を造り出すことが出来た。
これはあの夢が事実である何よりの証だ。
「……ッハ! ッフ! ッタァ!」
夢の中の
剣を使う経験など殆どない。昔はこの道場で義父に稽古をつけてもらっていたが、ここ何年か竹刀をまともに握っていない。
なのに、シックリときた。剣の柄に掌が吸い付き、重い筈の双剣を軽やかに操る事が出来る。
「おー! 凄い! かっこいい!」
壁際で士郎の剣舞を見ていたアストルフォが絶賛する。だが、士郎の表情は優れない。
これは単なる模倣に過ぎない。ある程度は真似をする事も出来る。だが、この剣技はアーチャーの積み重ねがあって初めて完成されるものだ。
力も理解も技術も足りない。
だが、それでも何もしないよりはマシだと思い、士郎は剣を振るった。
「やめておけ……」
その声に士郎は動きを止める。
道場の入り口にアーチャーが立っていた。
「アーチャー」
「貴様が何を考えているか、当ててやろうか?」
アーチャーの視線には苛立ちが混じっている。
きっと、己の視線にも同じものが混じっているのだろうと士郎は思った。
「自分が戦う。あの夢を見て尚、私と同じ徹を踏もうとしている。違うか?」
「え?」
アストルフォが戸惑い気にアーチャーと士郎を見る。
「どういう事?」
首を傾げるアストルフォにアーチャーは言った。
「聖杯戦争では当然ながら敵と戦わなければならない。だが、この男は君に戦いをさせたくないと考えているのさ」
「……俺は別に」
顔を背ける士郎。
「あー、そっか! だから、いきなり道場で素振りを始めたんだね!」
「……俺は」
「もう! もう、もう、もう!」
いきなり、アストルフォが士郎に抱きついた。
目を丸くする士郎とアーチャー。
「な、なな、なんだ!?」
「ボクを守りたいってわけ?」
「……いや、えっと……その」
しどろもどろになる士郎にアストルフォは言った。
「このこのー! 可愛いヤツめー!」
朗らかな笑みを浮かべながら士郎を振り回すアストルフォ。
「お、おい、いいのか? この男は身の程知らずにも程がある事をしようとしているんだぞ。それに、サーヴァントである君にとって、この男の考えは誇りを汚すものなんじゃないのか?」
「え? どうして? ボクを守りたいっていうシロウの気持ちとボクの誇りが汚れる事に何か関係があるの?」
アーチャーの言葉に不思議そうな顔をするアストルフォ。
「ボクとシロウは
「し、しかし、サーヴァントを相手にこの男がまともに打ち合えると思うのか?」
「どうかなー。そこはシロウの頑張り次第だと思うよ。でも、まともに打ち合う必要なんて無いさ!」
「なにを言って……」
「シロウの足りない部分はボクが補うんだ! そして、ボクに足りない部分はシロウに補ってもらう! 一人で出来ない事は二人でやればいい。ボクでも解る簡単な話だよ」
「論点がズレている。そもそも、この男は君に戦わせるつもりがない。助け合いなんて殊勝な考えは抱いていない」
「それこそズレてるよ。だって、ボクはボクで勝手にシロウを守るもの」
話が噛み合っていない。アーチャーは疲れたように溜息を零す。
「この男の考えは君の足を引っ張るだけだぞ」
「誰かを守りたいっていう気持ちが誰かの足を引っ張るなら、ボクはその背中を押すだけさ」
その言葉に士郎とアーチャーは息を呑んだ。
違う。論点はズレてなどいない。話も噛み合っている。
この英雄は士郎の無謀を肯定している。そして、その手助けをしようとしている。
「馬鹿な……。そこまでする必要があるのか?」
普通なら止める。もしくは諦めて好きなようにさせる。
それほど、士郎の考え方は無謀なだけで愚かだ。
「あるに決まってるよ。だって、ボクがそうしたいんだもの」
アーチャーはもう何も言えなかった。
「シロウ。キミがボクを守ろうと立ち上がってくれた事がとても嬉しい。だから、ボクはキミがボクを守る事に力を貸すよ!」
「……アストルフォ」
手を取り合う主従。その光景をアーチャーは黙って見つめていた。
「……おい、未熟者」
アーチャーは言った。
「貴様は昨日言ったな。《超えてみせる》……、と」
「あ、ああ……」
それは食事の席での会話。単なる冗談のようなもの。
「超えてみせろ」
アーチャーは言った。
「言っておくが、私の猿真似をしても私を超える事など出来んぞ。所詮、アレもコレもと手を出した挙句、何一つ芯を持てなかった半端者の
「で、でも……」
アーチャーの剣技は衛宮士郎が理想の末に至った一つの極みだ。それ以上のものなど……。
「私の剣技は確かに衛宮士郎にとって最適なものだ。だが、最強ではない」
「最強ではない……?」
「そもそも、私の技術は手数で敵を仕留める為のもの。今の貴様では精々一つの技術を身につける事が出来るかどうかだ。ならば、一つの最強を見つけてみろ」
「……けど」
それが容易な事では無い事を士郎も……無論、アーチャーも理解している。
そもそも、彼には才能と呼べるものがない。才能が無いから手数を増やし、工夫するしかなかった。
「けど、これが
手元の干将莫邪を見つめ、士郎はつぶやく。
人生を費やして得たもの。それ以上のものに手を伸ばす事など出来る筈がない。
「限界なんてないよ」
それはアストルフォの言葉だった。
「え?」
戸惑う士郎に彼女は言った。
「ボク達人間はどこまでだって行けるんだ! 限界なんてどこにも無いよ! ねえ、忘れちゃった? 昨日、ボク達は限界を超えたんだよ! 雲の上のそのまた上、人が決して立ち入る事の出来ない世界に二人で行ったじゃない!」
「それはライダーが連れて行ってくれたからだろ……?」
「なら、一緒に限界を越えようよ!」
「一緒に……」
「言ったでしょ? 一人でダメでも、二人でなら出来るって! キミにはボクがいるんだよ! だから、出来ない事なんて何もない! 限界なんて言って、諦める必要はないんだよ!」
諦める。そうか、限界っていう都合のいい言葉を使って、諦めようとしていたのか、俺は。
立ち止まらない。諦めない。歩み続ける。そう決めていた筈なのに……。
「俺にとっての最強か……」
「……私の過去を見た筈だ。それをお前の中の
「簡単に言いやがって……」
言いたい事だけ言って立ち去るアーチャーに文句を言いながら、士郎はアストルフォを見つめた。
「アストルフォ」
「なーに?」
「……ありがとう。これからもよろしくな」
「うん! もちろん!」
だけど、一度己に絶望した筈の彼が己を超えてみせろと言った。その意味を士郎は噛み締めた。