戸塚の特訓開始初日。
「なぁ……これ……いつまで……やればいいんだ……!」
「まだたったの50回よ。最低でもこの倍ね」
「50回はたったじゃねぇ……!俺の隣を見ろ……!」
「んっ……くぅ……はぁ……!」
雪ノ下の号令に合わせて腕立てをくり返す俺の横では戸塚が艶めかしい声で吐息を漏らしている。大体20回を過ぎたあたりからペースダウンを始め、今では号令に遅れをとりながらも必死に腕立てを行っている。
「戸塚くんは焦らず徐々に筋力を上げていけばいいわ。それに対して比企谷くんは明確な目標など無いのだから限界までしていなさい。どうせこういう機会でもないと碌に運動しないでしょ、あなた」
「くっそ、このやろう……」
理不尽な内容だが下手に言い返せないところがいやらしい。普段の俺なんて食っちゃ寝生活もいいところだからな。
それにしても現役文化部員に腕立て百回は鬼畜すぎやしないですかね?あかん、腕がぷるぷるしてきたんだが。
そろそろ腕が限界の俺は雪ノ下の掛け声にも付いて行けないでいると、ふと目の前に回り込んできた。
「ふふ、こうしてみると屈辱に耐えながら土下座しているみたいで面白いわね」
「………………」
やだ、この子鬼畜!
× × ×
特訓開始から早数日。
俺は毎日毎日手加減なく行われるスパルタ教育のおかげで腕がもう上がらないほどになっていた。
だがしかし、それも今日で終わりを告げた。今日からはボールとラケットを使った練習が開始されるので俺は特訓からおさらばできるのだ。まだまだ終わりが見えない戸塚には申し訳ないが、俺は俺のできる範囲で応援して温かく見守るとしよう。
「ふっ……ふっ……!」
戸塚の壁打ちをする音がコートに響く。
奉仕部が特訓を手伝うと言っても実際することはほとんどないのでそれぞれが思い思いに昼休みを過ごしている。
雪ノ下は読書をしながら時々思い出したかのように戸塚に叱咤激励を飛ばす。
由比ヶ浜は最初こそ戸塚と一緒に練習すると気合を入れていたが直ぐに止めてしまって、雪ノ下の隣ですうすうと寝息を立てている。
泉は特に何をするでもなく木陰で戸塚の練習を見守っている。
斯くいう俺も特にすることが無い上、温かく見守ると宣言した以上、泉と同じように木陰で休みながら戸塚を応援していた。
「ふっ……ふっ……!」
「……頑張るね、彩加くん」
「…………」
雪ノ下の声には返事をしながら、ひたすら壁打ちを続ける戸塚を眺めていると、不意に泉が言葉を発した。……これは俺に向けて言ってるのだろうか。判断に迷って無言でいると、すぐに続きを話し始めた。
「すごいよね、責任ある立場にいるわけじゃないのに自分で行動して、ここまでできるのって」
「あぁ、まぁそうだな。普通だったらとっくに根を上げてるだろうし。そもそも他人のために頑張ろうなんて考えすらしないだろうからな」
「確かに。でも八幡くんも途中まで彩加くんに付き合って頑張ってたよね?もう少し続ける気はなかったの?」
「ないな。なんで好き好んで自分から苦しいことをしなきゃいけないんだ。人は楽するために生きてるんだよ。歴史がそれを物語ってる。つまり楽を求める俺の生き方は先人から学んだ尊い生き方と言えるんだ」
「いや、言えないでしょ。それただのニートだから」
「人類みんなニートになれば世界は平和だ……」
「人類みんなニートになれば世界は終わりだよ……」
中身のない適当な会話をしながら観戦していると、雪ノ下が動き出した。練習メニューが変わるみたいだ。
雪ノ下がいなくなったことで目を覚ました由比ヶ浜はボールの入った籠を持ってサポートに入る。そして小休止を挟んだ後、すぐに練習は再開された。
「由比ヶ浜さん、もっと厳しいコースに投げて頂戴。これじゃあ練習にならないわ」
雪ノ下はマジだった。マジで性格が悪かった。
……じゃない。マジで戸塚を鍛える気だった。怖いからこっち見んなよ。てかなんで俺の考えてることが分かんだよ。
由比ヶ浜の投げる球は指示のそれより幾分ズレが生じ、余計に厳しいコースとなって戸塚を襲っていた。そして20球を超えたあたりでついに戸塚が転んでしまう。
「さいちゃん大丈夫!?」
「う、うん。大丈夫だから続けて?」
ネット際に駆け寄った由比ヶ浜に戸塚は笑顔を浮かべて返事をする。なんて健気な……!
だが、それを聞いて雪ノ下は顔を顰めた。
「まだ、やるつもりなのかしら?」
「うん、みんな僕のために手伝ってくれてるんだし、やれるだけ頑張りたい」
「そう……それじゃあ後は頼んだわね由比ヶ浜さん。泉さんは適当な対処をお願い。比企谷くんは……余計なことをしないように」
雪ノ下はそれだけ言うとさっさと校舎の方に去って行ってしまった。
「……何で俺だけ注意されてるんでしょうかね」
「だって八幡くんだし」
「僕、何か怒らせるようなことしちゃったのかな……」
不安そうな表情の戸塚がぽつりと呟く。
「大丈夫だよ彩加くん、たぶん雪乃ちゃんは救急箱を取りに行っただけだから。安心して。それで、まだ練習を続ける?」
「……うん、お願いします」
「そっか、なら擦りむいたところを水で洗って来たら練習再開しよっか。八幡くんはボール集めたら結衣ちゃんと代わってあげて。結衣ちゃんは彩加くんに付き添ってあげて、終わったら休憩してていいよ」
泉のテキパキとした指示に従い、各々動き始める。ぽけ~っとしているようで案外リーダーシップの取れる泉だった。
× × ×
「あ、テニスしてんじゃん、テニス!」
戸塚が水飲み場から戻っていざ再開といった時にきゃぴきゃぴとした雑音が混じって来た。渋い顔をした由比ヶ浜が見てる方へ顔をむけると、金髪縦ロールと爽やかイケメン……確か三浦と葉山を中心としたクラスのトップカースト連中がいた。
さらに無遠慮にも勝手にコートに乱入してきた。
「ねーねー、あーしたちもここでテニスしていいっしょ?」
「えっと、でも今は僕たちが使ってて」
「そっちの使ってないコートがあんじゃん」
「そうだけど、コート使うには先生の許可がいるから部外者は……」
「別にいいっしょ。てかそこにも部外者いるじゃん」
戸塚の言葉に耳を貸す様子はなく、ひたすら自分の意見を押し付けてくる。まるで我が儘を言う子供みたいだ。
対応に困った戸塚が視線を彷徨わせた挙句、俺をロックオンした。……え、なんで俺?
そんなのは由比ヶ浜……はこいつらとよくつるんでたはずだからやり難いことだろう。泉……は雪ノ下には強いが話が通じないタイプは苦手そうだ。その点俺は特に失う物がないから堂々と論破できる。結局俺なのか。
「あー、悪いが俺たちは部外者じゃない。戸塚の練習に付き合っているから一緒にここを使っているだけだ」
「は、誰あんた。何しゃしゃり出てんの、キモいんだけど」
喋っただけでキモイって言われるとかどんだけキモいんだよ俺。漆黒のGといい勝負しちゃうのかしらん。
「まぁまぁそんなケンカ腰にならないでさ」
「俺はケンカする気はねぇよ。ただお前らが大人しく帰ってくれればな」
「はぁ?なんであーしらが帰んないといけないんだし!」
「ま、まぁまぁ落ち着いて」
怒る三浦を葉山が必死に宥める。
正直この感情論でしか動かない霊長類から外れたバカの相手は難しい。扱えるのは精々同じランクに立っている葉山と先生くらいのものだろう。今から先生を呼ぶのは難しいから狙いはお前だ、葉山。
「なあ葉山、お前はサッカー部のエースだ。さらに勉強までできて友達も多いし優しいし、お顔までよろしいときたもんだ。さぞ女にモテることだろう」
「な、なんだよいきなり……」
「そんな色々と持ってる優しいお前が、何も持ってない俺からテニスコートまで奪うっていうわけじゃあないよなぁ?」
「う、うわぁ。すごいゲスな顔だ……」
後ろで絶句しているような由比ヶ浜の声なんか無視だ、無視。
実際、葉山には効果があったようで困ったように頭をがしがしと掻いている。これで葉山が良心を働かせて帰ってくれれば無事にミッションは完了だ。
「ねー、隼人まだー?あーし早くテニスしたいんだけど」
もう少し、というところでクソビッチの急かす様な横槍が入る。
そのせいで葉山が一瞬思考を諦めることから切り替えてしまい、それがよくなかった。
「あ、じゃあこういうのはどうだ?部外者同士でテニス勝負をして、勝った方が今後戸塚の練習を手伝うんだ。そっちの方が戸塚のためにもなるし、どうかな?」
「テニス勝負……?何それ超楽しそう!」
葉山の隙のないロジックに加え、俄然乗り気になってしまった三浦が加わると、もうどうしようもない段階になってしまう。
「じゃあ勝負は僕とヒキタニくんでいいかな?」
「えー、隼人出んの?あーしもテニスしたいんだけど」
「でも向こうはきっとヒキタニくんが相手だよ?男子相手だとちょっと不利じゃないかな」
「あ、じゃあ男女混合ダブルスにすればいいじゃん!やばいあーし超天才かも!」
あぁ、お前はまぎれもなく超級の天災だわ……。もう自然現象と割り切った方が良いのかもしれない。
とりあえず男女混合なので男は俺で確定。もう一人は由比ヶ浜か泉か……。なんで戸塚は女の子じゃないのだろう。あんなに可愛いのに。
「由比ヶ浜、お前テニスはできるか?」
「えっと、マリオテニスならやったことあるよ!」
「ああ、うん。気合だけは受け取っとくよ」
これで泉もダメだったらどうしようなどと頭を悩ませながら、泉が休んでるはずの木陰を見やる。
「ッ!泉!」
やけに静かだなと思ってはいたが、こいつらと関わりたくないだけだろうと適当に考え、思考の脇に置いていたのが悪かったのだろうか。
――泉は荒い呼吸をくり返しながら倒れ込んでいた。
「どうしたんだ泉!」
「大丈夫詩乃ちゃん!?」
「泉さん、大丈夫!?」
「はぁ……だ、大丈夫だよ……みんな」
「どうみても大丈夫じゃないだろ。とりあえず保健室に運ぶぞ」
自分で動こうとしたのか、泉が倒れてた位置は木陰から少し離れた場所だった。まだ春が感じられる季節とはいえ、日差しが照り付ける中で倒れていたのは相当まずいだろう。
急いで泉を保健室に連れていかなければならないが、どうみても歩けるようには見えない。
「緊急事態だ。許してくれ」
一言断りを入れた後、泉を背中におぶる。泉の身体は想像以上に軽く、いつの間にか消えてしまうような危うさをはらんでいた。
コートを出る途中、諍いの真っただ中だった葉山が駆け寄ってくる。
「ど、どうしたんだその子は!?大丈夫なのか!?」
「葉山、今は構ってる暇はない。とりあえず今日のところは帰れ」
返事も聞かずに再び足を動かす。
何か大きな病気かも分からないから、できるだけ揺らさないように注意を払いながら急ぐ。
「は、八幡くん……」
「なんだ。急用じゃないならあまり口を開くなよ」
「き、教室……。教室の鞄に、薬が……」
「……分かった。でもまずはお前を保健室で寝かせてからだ。薬の場所と形だけ教えてくれ」
「うん……」
今まで聞いたことのないような弱々しい泉の声。不安に駆られながらも俺は急いで足を動かした。
予定調和のように10月になってからの投稿。
前回の話から一か月以上も経ってしまい、誠に申し訳ない。
ついに詩乃さんが倒れちゃいました。某デュエルの予告のように言うと、『次回、泉詩乃、死す!』です。死にませんけど。
ここあたりから原作に沿いながらもオリジナル成分が増えていきます。
それに比例して執筆時間も増えていきます。
次こそは一ヶ月空けないように書いていきたいと思うので、どうか見捨てないでください!