人たる所以を証明せよ、と魔法師は言った 作:ishigami
誰かの死線。
◆
「あら」
第一高校作戦本部にて、市原鈴音がぽつりと言った。
菓子籠の置いてある中央台の下に、ウサギのミニチュアが落ちている。見覚えのあるお守りだった。しゃがんで手に取ると、モニターを操作していた中条あずさが、小動物めいた仕草で小首をかしげた。「なんですか、それ?」
「あの子のだわ」
自分が贈った物だった。紐が切れている。画面を向くと、祈るようにしている七草真由美が、クラウド・ボール第一試合で着実に得点を重ねてゆくところだった。
少し考える。縁起とか
誰かいないかと見回したところで、暇そうな「彼」が目に付いた。
いまどき珍しいリムレスタイプの眼鏡をかけた、艶やかな黒髪を後ろで結っている美丈夫の、彼。
「御嵜くん」
「……はい?」
「お使いを頼まれてくれませんか」
ぱきり、と小気味いい音を立てて。
煎餅をくわえた少年が、目を丸くしている。
◇
「暑いなあ」
気象予報によれば、今日が今週の最高気温に当たるらしい。強烈な日差しから逃れつつ観戦するべく――レオンハルトには
――「なぜ僕なのでしょう」
問うた少年に返されたのが、「一番暇していそうだから」とのことで。
――そりゃあ、暇でしたけども。
声援が、通路にまで漏れ聞こえてくる。十理は非常用の緑のマークを通り過ぎると、会場へ続く広い廊下を跨いだ。赤丸の表示された端末を片手に、襟元を開いて風を送り込みながら歩く。
「暑い……本当に」
どうにも、少し気分が悪くなってきた。直射日光は遮られているから、外よりも暑くなるなどあるはずがない。現に、廊下は比較的涼しいくらいなのだ。
――でも、なんだろう。妙に、身体が重たい。
「っと……、」
足取りがふらつき、前に倒れそうになった。急に、猛烈な眠気に襲われる。端末の液晶画面が突然真っ暗になったことを驚く間もなく、力が抜けてゆく。脚がもつれ、まぶたが勝手に落ちてしまう。
「トーリ」
崩れそうになった十理を支えたのは、涼しげな浅葱色の着物をまとった、黒髪の
「
いつの間に、「影」から現れたのか。気づけなかったほどに、今はただ
「じっとしてろ」
業物の短刀が、十理の肌スレスレを奔った。剣筋など見切れるはずもない十理は身を任せたままだったが、途端に自身を襲っていた眠気が、まるで木陰から日なたへ出たかのように冴え晴れるのを感じ、目を
「これは」
「トーリ、よく聞けよ。オレたちは今、攻撃を受けている」
織は、ナイフを握ったままでいる。周囲に人気はないが、見られでもしたら
「おい」
今、織は非常に気になることを口にしていた。
十理は素早く眼鏡を外すと、「優先順位」を切り替えた。不穏な雲行きに備えるために。
「……なんだと、
「クロ、できるか」
「わたしを舐めるな……にゃ」
声が聞こえた瞬間、廊下に
時間にして一秒、二秒ほどか。炎は消えていた。床や窓を見回すと、焦げ付いてはいない。しかし、幻覚でもない。
「何をした、――いや何を燃やしたんだ、
黒猫は答えず、唸り声を上げるばかりで。代わりに織が、浮かない表情をして言った。
「蜘蛛の巣だよ。細くてこまかいやつ。トーリが倒れそうになったのも、たぶんこれが理由だ。どうも、こっちの気力を吸い取ってたみたいだな。
「なら、今ので消えたのか。私には見えないが」
「消えてない」忸怩たるという声色で、火艷の尻尾は項垂れている。「燃えてない。張り付いている……まだ」
「見え辛いからな。体調は、トーリ?」
「さっきよりは、気怠くない」
「ほらな。ちゃんと効いてはいる。
人間形態でいるときよりも、手乗り猫の姿のほうが表情が豊かなのは、十理も織も気づいていた。そして本人だけが知らない。そこが彼女の愛嬌でもある。
「それより、スプリンクラーが作動してない」
「そうだな。もし作動していたら今頃は濡れ鼠だ。確かに、水をかぶりたい気温ではあるが」
「火災報知器もだ。偶然だと思うか、このタイミングで?」
「ふむ……こちらも反応がないな」
電源が落ちた状態の端末を弄りながら、考える。これらの故障が何者かの意図だとすれば。とはいえ、あまりにも情報が不足していた。しかし――
どちらにせよ、退屈なお使いが一転して、何やら愉しい予感がする。十理は、口端が吊り上るのを感じていた。
隣からの視線。何か言いたげだが。
「
鋭い制止に、足が止まった。
「……やっぱりお手柄じゃないか、クロ」
「織」
「つられて、出てきたってわけだ」
廊下の向こう側。距離にして、二〇メートルほどか。
十理の前には、仮面をつけた男が立っていた。
表情は分からない。仮面に隠されている。身長、体格からして男のようにも見えるが、十理はすぐに違和感を感じていた。どこか現実にそぐわない、何か不確かなものを見せられているような気分になる。だまし絵を前にしているかのように。
「敵か」
「選手関係者じゃないのは確かだろ、あんなお面してる時点で。疑ってくれって、白状してるようなもんじゃないか」
男の掌が、「炎」に包まれる。
「少なくとも握手は無理そうだな。――まあ、要するに敵ってことだろ?」
腕が振るわれたのと、織がナイフを構えたのは同時であり――
視界を妨げるほど巨大の火焔が放たれていた。見るだけで圧倒する火力が砲弾のように、こちらを呑み砕くべく猛然と奔っている。
「〈
丸みを帯びた深張りの傘が一瞬にして十理の「影」から取り出され、大量の想子を注ぎ込まれた。魔道具は即座に、此の世の魔法理とも一線を画す〈勇者ロザリーの加護〉を発現させる。
〈対物障壁魔法〉を貫通し得る突撃銃の火力を無効化し、あらゆる衝撃を吸収するが故に対戦車ミサイルすらも斥ける〈騎士の加護〉は、襲いくる火焔を前に
僅かな拮抗を経て、炎は眼前に迫っていた。
動き出していた織は咄嗟に壁を蹴り上がって躱すも、十理は瞠目したまま、突っ立ったままでいる。
「あるじ!?」
障壁と共鳴する傘が火を噴いている最中の、爪弾くような声。しかし。
――かたちを得て横溢する無窮の原初
――太陽より毀れ落ちる一しずくの
――
十理は。馬鹿になったように、呆然として。
息すらも止めて。
その「炎」に魅入り、動けなくなっていた。
「あるじ」
だからほんの少し、
強い浮遊感のあと。抱きかかえられた十理は、ようやく自分を抱えているのが、黒髪の、猫耳の、尻尾を持つ少女であることに気が付いた。
日差しを感じる。
「なにを考えてる!?」
激怒する少女の浅い褐色肌は、光沢のない塗料のような黒色で全身を覆われており、首から上の露出している部分には感情と呼応するように、刺青めいた幾何学的な紋様が浮かび上がっていた。
「火艷?」
「あるじは……
「火艷、見たかあれ――」
「なにを……」
一方で織は、粉砕された壁の向こう側の、危うく外へ逃れた十理たちを見向きもせず、跳躍の加速から男へと斬りかかった。燃え盛る
「――!」
男の気配が、変わった。表情こそ見えないが、驚いているのか。男の腕からは、暴々と盛っていた「炎」が、斬撃に沿って消滅していた。
断ち切ったのだ、織が。だがそれも一瞬だった。「炎」は、すぐに蘇ってしまう。何事もなかったかのように。
驚いたのは織もだった。解せない。確かに、斬ったはずだ。炎を構築する
明らかに――
死してなお蘇る、魔法。それは、織にある空想の生物の存在を想わせ、すぐに皮肉な笑みへと変えた。
――〈クロ、無事か〉
――〈大丈夫。ケガはない。ただ、あるじが〉
なんだよ。
――〈……ばかになっちゃった〉
「はあ?」
笑わせるつもりはなかったのだとしても。〈念話〉は久々の、肌が粟立つような感覚に昂っている織を、脱力させるようなことを伝えてきていた。「なら、ばかなマスターを守れ」と言って会話を打ち切り、ため息をつく。
床に転がり残された傘の、柄らしき部分も焼尽したのを目端に捉えつつ、織は向き直った。
「あんた、さ――」
普段は黒曜石の双眸が、今は
わらいながら、言った。
「どうも変だと思ったら、
どうも、この「炎」には
だから厄介なのは、この男の魔法が「それだけ」で終わるはずがないことと――刃が融けて使い物にならなくなったナイフを捨て、予備のもう一本を握りしめる――使い捨てにする場合、ストックがあまりないってことかな。まあいい、気を付ければいいだけだ。今度は上手くやる。
それに
壁を斬り裂いて陽の下へ飛び出すと、十理が絶快の歓笑を上げているところだった。
「融かされた! 一瞬で! 私の
アイスみたいに!! はははははははははは!!
――ッたく、あいつは。
馬鹿になるスイッチが入ってしまったらしい。声を裏返して爛々としている
それらを一瞥し、織は疾走した。
すぐ後ろで、男も動いていた。炎を纏うのではなく、炎そのものが等身大の鉤爪と化した一撃が顕現し、一振りで壁を消滅させた。まるで空間ごと削り消されたかのように、一瞬で蒸発させると、体躯に反して獣の如き俊敏さで織に肉薄する。
爪撃が来た。男の掌が届かずとも、炎そのものである鉤爪が間合いを埋めて、襲い掛かってくる。だが速度を競うのなら、こちらのほうが速かった。そして身軽だ。
転瞬、躱す。宙へ。地へ。
虚空を抉り、大地を抉る斬撃と火焔。
躱した――間断挟まず、二撃目が来た。袈裟懸け。速い。反撃に移れなかった。途端に、男の背後に燃え盛る鉤爪が
「おお」
一つ一つが必殺とは即ち、一つたりとも受けてはならないことを意味していた。目の前の男が普遍的な魔法師の定義から逸してるのは、炎を構築する魔法式の形態を見ても明らかである。それに、長槍二本分と短刀じゃあ、流石にちょっと分が悪いかな。
しかし、この場にいるのは織ひとりではなかった。
「―――」
横合いから、真っ黒な「獣」が男に襲い掛かった。それは御嵜十理の「影」を彷彿とさせる色をした「獣」であったが、食らい付く寸前、巨大な二つの鉤爪の炎とは別の、変色する炎の壁が立ち上がり瞬時に「影」を弾き融かした。
――オレには視えてるぞ、おまえの「死」が。
男の意識が僅かに逸れた隙を突き、織はナイフを振るった。鉤爪に存在する
燃え盛る片腕は、一瞬で幽霊のように消滅した。
「おおお……」
刃は、今度は融けていない。「炎」に組み込まれた「意味」ごと解体したナイフは、続けて蒼い双眸が射抜いているもう一つの鉤爪へ、死の軌跡を刻むべく迫り――
直前で、飛び退いていた。
男の気配が急速に弾けようとしたからだ。そしてその直感は、正しかった。
「■■■■」
爆轟と「炎」が、視界を埋め尽くした。
織は瞬時に波濤を裂いて逃れ、火艷は召喚した「影」を障壁として、衝撃からあるじを守っていたが。
すぐに、「炎」は消えていた。男の周囲が、陽炎のように屈折し、うねっている。熱分布測定装置があれば、とてつもない温度上昇を計測していたことだろう。
このままでは近寄れない、呼吸すらも。常人であれば、そうだった。しかし両儀織の能力は、そんな
一閃。ただ、それだけでいい。「死」は、そこに視えているのだから。
異常な空気層は、夢が弾けるように斬り裂かれ、環境は本来の状態に戻っていた。
「多芸だな」
冷や汗が伝うのを、織は感じていた。近寄るたびに
「素晴らしい」
だが。
少年にとってはそれすらも、いたく興奮させる光景でしかなかった。
「見事な〈炎〉だ、なんという輝きだ……あの輝き……素晴らしいよ、
声を、
御嵜十理は絶賛していた。
張りつめた空気に、ときめくような拍手が響き渡る。
次回、やらかします。