絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
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 次の日の朝、十文字は時間通りに登校してきた。体調は良くなったようで、張りのある声で純一たちと話していた。  

 授業の合間になっても、絢辻は彼のもとへ行かなかった。十文字としても、身体の具合がよくなったことを報告したかったのだが、なんとなく彼女に近づくきっかけがつかめないでいた。普段も教室内では必要最低限のことしか話さない二人だった。なにかと誤解されたくない絢辻がつとめて距離を保っているのと、そういう空気を十文字も察していたからだ。

 昼休みのチャイムが鳴った。クラス全体がガヤガヤと騒がしくなった。絢辻がたまたま教室の後ろを通りかかった。十文字は純一と梅原、薫とともにパンを食べようとして、誰が買に行くかを決めている最中だった。

 彼女は十文字と視線を合わさないようにしていた。なぜなら、昨日から彼女の胸中には複雑な感情が渦巻いていたからだ。生活苦で可哀そうな彼に憐れみをかけて保護者のように接していたが、じつは貧困ではなかったこと。ブサイク男子だと思っていた十文字の素顔が、びっくりするぐらいの美男子だったこと。それらを思い出すと、恥ずかしかったり驚いたりして、なんとも言えぬ悔しい感情があった。そして最大の懸念は、十文字の存在が、まじめな女子高生の心を熱く切ない気持ちにさせられていることだ。その感情とはどうにも折合いがつかず、昨夜は寝つきが悪くてほとんど眠れなかったのだ。

「あっ」

 絢辻がちょうど横を通り過ぎた時、十文字は床にポケットティッシュが落ちているのを見つけた。そのティッシュは梅原が落としたものだったが、てっきり彼女が落としたと思い込み、すぐに拾った。そしてそれを渡そうと彼女の肘のあたりに手をかけた

「いやあああああ」

 それがスイッチであるかのように、絢辻は大きな悲鳴を上げた。クラスの空気が一瞬で凍りついた。全員がいっせいに震源地を見る。そこには、怯えたように身をこわばらせているか弱き女子と、彼女に掴みかかろうとしているホームレスのような怪しい男子がいた。

「い、いや、違う違う。え、なんで」

 十文字は激しく狼狽した。これではまるで痴漢の冤罪ではないかと思ったのだ。

「いきなり女子をつかむなよ、十文字。あんたはただでさえ誤解されるんだからさあ」

 一部始終を見ていた薫がフォローした。呆然とティッシュを差し出している十文字の手からそれを奪い取り、絢辻に渡した。

「はい絢辻、これ、落としたでしょう」

 あきらかに自分の物ではないが、絢辻は反射的に受け取ってしまった。それを見てクラスメートは納得する。止まっていた教室の時計が、再び何ごともなく動きだした。

 ただ、十文字の動揺は続いていた。昨日はあれだけ親しくしていた絢辻の態度が、今日はよそよそしくて冷たいのだ。腕に触れたときも、まるでゾンビにでも噛みつかれたようなネガティブな反応だった。自分は生理的に嫌われてしまったのだと直感した。なぜそうなったのかわからなかったが、とにかくひどく落ち込んでしまった。

 だが、動揺していたのは絢辻も同じだった。十文字を意識的に避けているのは、生理的にイヤになってしまったのではない。むしろその逆で、男子として惹かれてしまったのだ。彼のことがどうにも気になって仕方ない。近づくと胸がドキドキする。そんな時にいきなり触られてしまったので思わず体が反応し、声が弾けてしまったのだ。

 

 放課後、十文字は一人で駄菓子屋にいった。絢辻のことで悶々となった気分を、どこかで脱ぎ捨てようと思ったのだ。 

「ばあちゃんいるかー」

 店の引き戸を開けて、開口一番に店主を呼んだ。今日の不幸を振り払おうと、いつもより力んでいた。

「目の前にいるぜよ」

 老婆はすぐそこにいた。

「あ、うん」

「なんだかシケたツラしてるな。あの娘に逃げられたのか」

 グサッと突き刺さった。

「べ、べつに。何度もいうけど、絢辻さんは俺の彼女じゃないし」

「じゃあ、誰の女なんだよ」

 じつは絢辻がどこかの馬の骨と付き合っているのではないかと、そんな凶事を一瞬考えたが、十文字はすぐに心の中で大きくかぶりを振った。そんなことはあり得ないと言い聞かせ、最後に気合だーと小声で言った。

「あらあ、昨日のボーイじゃないの」

 居間の方から声がした。十文字が老婆を通りこして見ると、そこに二人の女子高生がいた。

「森島さんと塚原さん。なんでいるの」

 森島はるかと塚原響が、居間に上がりこんで卓袱台の前に座っていた。

「なんでって、ばあちゃんにお饅頭作ってもらったから、お茶してんのよ。君こそ一人できたの。昨日の彼女はどうしたのかな」

 そのことには触れられたくないので、なんとか違う話題をふろうとした。

「逃げられたんだとさ」

 だが、老婆が惜しげもなく核心をついてきた。

「へえ、そうなんだ。そういえば、捨てられた子犬ちゃんみたいな感じになってるね」

 グサグサと続けざまに矢が突き刺さる。十文字の気持ちとしては、立っているのがやっとだった。

「はるか、そういうことは言わないの」

 いつものように響が親友をたしなめた。はるかは、それでもなにか言いたそうだった。

「まあ、あがれや。饅頭食ってけ。うんめえから」

 店主に促されて、十文字は居間に上がった。二人の女子高生は、彼女たちの真ん中に彼を誘導した。老婆がお茶と追加の饅頭を持ってきて、卓袱台の上に置く。さっそく、はるかがかぶりついた

「君、失恋しちゃったんだ。ぐすんぐすん、もぐもぐ」

 はるかは、泣く真似をして彼の心中を察しているフリをしていた。

「いえ、ですから、絢辻さんとはもともと付き合ってもいないし、そのう、彼女ってわけでもないですから。だから失恋とかじゃないです」十文字は、少しばかりムキになっていた。

「へえ~」はるかは、アヤシイ犯人を見る目つきだった。

「昨日の彼女、絢辻さんだっけ。たしか生徒会によく出入りしているよね。まじめで可愛いいから、狙っている男子がけっこういるらしいって噂だよ。一年生にも人気があるって」

 響は生徒会方面の事情に通じていた。

「え、マジですか。チクショウ」

 十文字は素直に反応した。それを両脇で見ている女子高生がニヤニヤしている。

「もう、フラれた女のことを考えてもしょうがないって。第一ねえ、女は顏じゃないんだよ」

「はるかが言っても、まったく説得力がないわ」

 十文字が、ウンウンと頷いた。

「女は顔じゃないのっ」

「だったら何ですか」十文字はお茶をずずーっと啜った。その答えに関しては、たいして期待していなかった。

「それはもちろん」

 はるかは両手を自分の胸に当てた。やや下のほうから持ち上げるようにして、その膨らみを主張した。

「おっぱいよ」

 十文字は、ぶぶーーーーーとお茶を吐きだしてしまった。そして、鼻汁をたらしながら激しく咳き込んだ。

「はるかっ、男子の前で何てこというの」

「え、違うの。ああ、ゴメン。ひびきには、ちょっとむりっぽそうだもね」

 いささか貧乳気味な親友をおもんばかっての発言だった。

「殺すよ、はるか」

 だが、それは逆効果だった。

「わかった。言い直す」

 はるかは立ち上がった。この女、つぎはなにをする気だと、鼻水をたらした後輩男子が見上げた。

「女は、お尻よ」といって、その大桃のような極上ヒップをフリフリと振った。調子にのってどうよどうよと、純真な男子高校生を挑発する。老婆がずずっと茶を啜った。

「いい加減にしろ。このヘンタイ女め」

 響が力ずくで引き摺り下ろす。てへへへ、と舌を出す、はるか。悪びれる様子はなかった。

 それから少しばかり沈黙が続いたが、響が気を利かせて口をひらいた。

「まあ、そういうことだから、君もあまり落ち込まないで。そのうちステキな彼女ができると思うよ」

 ホームレス風なコジキ男を目の前にして、響は心にもない事をいってなだめようとした。十文字は、はい、と小さくつぶやいた。

「もう、なんだか湿っぽい。こういう空気はイヤなの。ばあちゃん、あれ出して、あれ。わたしがおごるから、もうジャンジャンいくよー」

 はるかは自分の財布にあった大量のじゃら銭を卓袱台にぶちまけた。多数の十円玉に、いくつかの百円玉が混じっていた。

「はいはい、ひびきも財布出して」と言って、響をせっついた。

「ちょっと、なんで私もなの。いま自分でおごるって言ったじゃないの」

 ブツクサ言いながらも、響は財布の中身を卓袱台に落とした。内容は、ほぼ親友と同じだった。

「よーし、ばあちゃん、ジョッキでいくよジョッキで」

 老婆は、やれやれといった表情で台所にいった。そして500mlの缶飲料を数本持ってきて、卓袱台の上に置いた。さらにジョッキグラスを人数分そろえた。

「じゃあ、やるかいな」

「ちょっと、これビールじゃないですか。マズいですよ」

「おっと、ボーイ君。これはノンアルコールビールだから、高校生が飲んでも平気なんだよ」

 はるかは早速、缶の一つをつかんでプルを引っぱった。プシューといい音がする。それをジョッキの一つになみなみと注ぎ、十文字の前に置いた。

「まだ飲んじゃだめだからね。乾杯するんだから」

 缶飲料は次々とあけられ、中身がジョッキに移された。ほどよく泡がたったジョッキをそれぞれが持ち、幹事のあいさつを待った。無論、老婆も参加している。

「ええー、それでは後輩男子の心の傷をいやすためにカンパイしたいと思うのね。そうだ、君の名前なんていうの」

「十文字です。十文字隼人」

「それじゃあ、隼人にカワイイ彼女ができますように」

「ど、ども」

 女子に下の名前で呼ばれたことがなかったので、はるかに隼人と言われて少し照れていた。

「かんぱ~い」

「かんぱい」

「カンパイ」

「がんばい」

 四人がいっせいに飲みはじめた。

「ぷひゃあ、うんめえ」と、はるかがオヤジのように唸った。上唇に髭のような泡が付いている。

「ちょっと、これ苦いですね」十文字はチビチビとやっていた。

「慣れれば案外いけるのよ」響はグイグイ飲んだ。

「ばあちゃん、今日のは特別高いやつじゃない。なんか元気が出てくるっていうか、身体が熱くなるっていうか」

 何だかいつものより濃く感じた老婆は、缶飲料の銘柄をチラリとみて、ギョっとなった。ありゃりゃ、これは明日の老人会での宴会用に冷やしていたやつじゃないか。違うのを持ってきてしまったと焦ったが、もう飲んでしまっているので今さらどうすることもできず、まあたまにはええだろうと、じつに老人らしい判断で流れにまかせることにした。

「うー、なんかいい気分になってきた」

「ほんとねえ。はるかじゃないけど、今日のは特別だわ」

 十文字も、相当にほんわかしていた。意味もなく立とうとして、あっけなくよろけてしまった。そのまま響にのしかかる。その時左手が、はからずしも胸の柔らかい個所を、グニューとしてしまった。

「キャー、痴漢」

「コラー、隼人、先輩になんてことすんのよ。てか、こっちのほうが大きわよ。ごろにゃ~ん」 

 はるかが十文字と響きに抱きついた。そのまま身体をくっ付けて、ワイワイじゃれていた。両手に華状態の十文字は、でれでれしながら極楽を味わっていた。

 最近の若いのはいいねえと、のんびり見ていた老婆の顔が、突如クワッと厳めしくなった。気づいてしまったのだ。居間の上り口に一人の客がきて、ゆっくりとその不吉な影を前進させていることを。そして、その客が絶対零度な極寒の表情で三人の高校生を見下ろしていることを。

「ごろにゃ~ん、ごろにゃ~ん。どうだボーイ君、絢辻より全然いいだろう」

「はい、絢辻さんより全然いいです」

 はるかは猫のようにまとわりついている。響も真っ赤な顔して、そこはダメダメとふざけていた。至福の十文字は言わずもがなである。

 急にもの凄い重力を感じた響が、何気なく顔をあげて振り向き、即座に凍りついた。すぐに手を伸ばして、はるかを突ついた。

「なによ、ひびき。いまは隼人に絢辻を忘れさせてるんだから邪魔しないの。ほ~らほ~ら、絢辻絢辻飛んでしまえ~、アマゾンの奥地にとんでけ~。ガミラス星までとんでけ~」

 はるかは、十文字のこめかみを両手のゲンコツでグリグリしていた。きゃっきゃと笑っていたが、響がしつこく突つくので仕方なく振り返った。

 そこには一匹の鬼がいた。絢辻詞という鬼女が、宇宙の全ダークエネルギーを凝縮させたような鬼顔で見下ろしていた。

「・・・」

 二人の三年生女子は、そろりと動きだした。尻で畳の上を歩くように這い進み、居間を脱出し、とりあえず台所に行き着いた。そこではすでに老婆が立っていて、洗いものを、いや洗いものがある振りをしていた。忙しそうにガチャガチャやっている。はるかと響が並んで立ち、やはりガチャガチャやりだした。卓袱台の前には、いまだに十文字がいる。

「あれえ、森島さんと塚原さんはどこにいったんだろう」

 十文字はグビグビとジョッキをあおって、右を見て左を見た。二つの華はどこへ行ってしまったのだと、ぼやけた頭の中で考えた。そうだ、上にいるかもしれないと意味不明なことを思いつつ上を向いた。

 そこには見慣れた顔があった。よく知ってはいるが、なぜか心霊写真にしか見えない顔が見下ろしていた。

「うわああああ、あ、絢辻さん」

 十文字は、反射的に跳ね上がった。ノンアルコールビールと称する飲み物の酔いが、一気にさめていった。

「森島はるかより全然よくない絢辻詞ですが、何か」

 大きな声だった。台所にいる女子高生が、ヒエッと呻いて首をすくめた。ナマンダブナマンダブと老婆が呟く。

「アマゾンの奥地にでも飛んでいこうかしら。よろしければ十文字君も一緒にいきませんか」腐った魚の目をした女子高生が言った。

 不穏な空気にいたたまれず、台所の三人は、ひとまず勝手口から外へと脱出した。屋内には絢辻と十文字だけが残された。

「いや、これは、そのう、なんていうか、ははは」

 笑って誤魔化すことが無理な状況なのだが、そうするしかなかった。

「三年生の先輩たちと一緒に私の悪口を言ってたわけね。ヒドいよ」

「いや、それは誤解だよ。絢辻さんの悪口なんかいうわけないじゃないか」

「言ってたじゃないの。ガミラスとなんとか」

「それは、今日俺が絢辻さんにイヤなおもいをさせてしまって、それを気にしていたら森島さんたちが慰めてくれたんだ」

 十文字は正直に話した。そのことは絢辻も承知しているし、逆にクラスで行き過ぎた態度をとったのは彼女の方なので、それ以上責める気はなかった。

「それより、なんなの、この匂いは。ひょっとしてビールを飲んでいたの」

 卓袱台の空き缶とジョッキを見て、飲酒していると思ったのだ。学級委員としては、見逃すことができない行為だ。

「違う違う、これはノンアルコールビールだよ。ただのジュースなんだ。お酒じゃないから高校生が飲んでも平気なんだよ」

 ノンアルコールビールの存在は知っている。だが、絢辻は実際に飲んだことがなかった。

「ちょっと、それよこしなさいよ」

「えっ」

「私も飲みたいっていってるの。ずるいじゃないの、みんなで楽しそうにしちゃてさ」

 十文字が自分の悪口を言ってないことはわかったが、校内一の美女と彼が楽しそうにじゃれ合っていたことが癪にさわっていた。その事実を闇に葬るには、彼女自身がより以上に楽しむしかないと考えた。

 絢辻は、響が飲み干したジョッキを手にとって、十文字の横に正座した。

「ほら、注いでよ」といって、それを彼の前に差し出した。

 ノンアルコールビールと称する老婆が老人会に持っていくはずだった飲み物を、十文字は絢辻のジョッキグラスに注いだ。

「なんだかホントのビールみたいね」

「味はけっこう苦いよ」

 ジョッキには、その黄金色をした飲み物が絶妙な泡具合で盛られた。

「ねえ、カンパイしないの」

「そ、そうだね。なんにしようか」

 なにか嫌味を言われるのではないかと、十文字の顔が引きつっていた。

「今日は大げさに驚いちゃってゴメンナサイ、っていうことにカンパイ」

 絢辻は、今日この駄菓子屋に入って、初めて笑顔を見せた。わだかまりの消えた温和な笑顔だった。

 十文字は、そのことについては何もかえさなかった。絢辻に嫌われているわけではないと悟り、腹の奥に溜まっていた重さがすーっと軽くなった。今まで愚痴っぽくなっていた自分がバカみたいに思えた。

「絢辻さんに、カンパイ」と言って、十文字は自分のジョッキを掲げた。

「じゃあ、アマゾンの絢辻さんにカンパイね」

 意地悪そうに笑みを浮かべて、彼女は相手のジョッキグラスに自分のグラスをカチンと合わせた。

 学級委員という肩書を持つ女子としては、その飲みっぷりは豪快だった。ゴクゴクと喉を鳴らしながら、あっという間に飲み干してしまった。

「苦いけど、すごくノドごしがいい」

「すごいね、絢辻さん。もう飲んじゃったんだ」

「頭に血がのぼって、ノドがかわいちゃったのよ。だから、もう一杯」

 はるかと同じように、上唇に泡の髭をつけながら、さも嬉しそうに言った。

 十文字はまだ開けていない缶のプルタブを引っぱって、その中身を催促する学級委員のジョッキに注いだ。

「やだ、なによこれ。コーラなの」

 真っ黒な液体が、琥珀色の泡をもくもくわ湧き上げながらジョッキの中を満たしていた。

「黒ビール風のやつだよ」

 老婆が老人会の宴会で飲むはずだった黒ビール風とおもわれる飲料だ。絢辻はやや躊躇いながら半分くらいまで飲んだ。

「これはすごく苦いけど、コクがあるね。それに、なんだか熱くなってきちゃった」

 絢辻の顔はすでに真っ赤である。真冬なので、居間にはポータブル石油ストーブが唸っているが、それが熱いのか飲料のせいなのかは定かではない。

「はははは、熱い熱い、なんだか熱くて気分がいいぞー」

 絢辻が、はしゃぎだした。隣にいる男子のボサボサ頭をいじったり、巨大色眼鏡を強引に奪い取って、自らかけたりした。

「ちょっと、絢辻さん、それ返してくれよ。ってか、大丈夫かよ。なんだか変だぞ」

「ヘンなのは、おまえだ。おまえのその髪型と服装がヘンだっていってるの。言ってるんだよー」

 絢辻が絡み始めた。普段は凛々しく知的な瞳が、いまは場末の酒場でグダをまくオヤジみたいにトロンと落ちている。

「ちょっと絢辻さん、やっぱりおかしいよ。あれえ、ひょっとしてこれ本物のビールじゃないのか」

 あきらかに酔っぱらいな様子だった。十文字が確かめようと、空き缶の一つを手にとったが、絢辻がすかさずそれを奪ってコンコンと彼の頭を叩いた。

「いたい、痛いって、やめなさいって」

「痛いのは私のここ、ここだっちゅうの」

 そういって絢辻が身体を押しつけた。より正確に記せば、彼女の胸の膨らみを十文字の腕に、ぐいぐいと押し当てているのだ。

「こ、こ、・・・」

 はるかの時とは違う、三ランク上の悦楽が十文字を襲った。この幸運な男子高校生は、ブロンズ像のように固まったまま身動き一つできなかった。

 僥倖はさらに続いた。絢辻が、その身をあずけるように十文字の胸の中へ倒れ込んできたのだ。十文字は、とっさに手を回して受けとめた。ちょうど、やさしく抱きかかえる体勢となった。

「ゴクン」と生唾を飲む音が三軒先まで響いた。なにかを勘違いした十文字は、彼女の頬にそっと手を当てた。

「絢辻さん。いや、つかさ」

 スースーと軽やかな呼吸音がした。おやっと思った十文字が聞き耳をたてた。

「あれえ、絢辻さん、ひょっとしたら寝てるの」

 絢辻はすでに微睡の海をおよいでいた。ただでさえ寝不足気味なところに催眠効果のでるものを飲んでしまったので、落ちるようにいってしまったのだ。

 十文字は迷っていた。本能にまかせるまま口づけくらいはいいのではないかと、彼の内なる悪魔がささやいていた。いや、それはしてはいけないことだとかぶりを振る良心がいた。彼の瞳の奥で白と黒が激しく点滅する。この胸の鼓動を抑えなければと思った時、視線を感じた。

 その光景をじーっと見ているのは、森島はるかと塚原響、そして老婆だった。台所の引き戸の陰から、雨の日のカエルのように重なり合いながら凝視していた。

 そのままするのよ、唇を奪うのよと、はるかが小声で怒鳴っていた。自分の唇をタコチュー状にして十文字を急かしている。その顔の下にいる響は、ダメよ、眠っている間にそんなことをするのは卑怯よと、両手の人差し指を交差させて小さなXを作った。十文字はためらうことなく、はるかの案を却下した。

「もう、じれったい」と言いながら、はるかがやってきた。響と老婆も続いて卓袱台の前に座った。

 絢辻は、クークーと静かな寝息を立てながら寝ている。せっかく気持ちよさそうに眠っているので、できることなら起こしたくはないと思っていた。だから、十文字は動けずにいた。

 老婆が座布団を二つ折りにして持ってきた。眠り姫を三人がかりで押さえると、十文字はするりと抜けた。そのまま重力を感じさせることなく、そうーっと寝かせた。枕のかわりに座布団を置き、布団ではなくてタオルケットをかけた。

「少し寝かせてやれ。ワシが見とるから、おまえさんたちはもう帰れ」老婆にそう言われて、高校生たちは帰宅することにした。

 十文字は残っていたかった。絢辻ともう少し話したかったし、彼女がわざわざこの駄菓子屋に来た理由も聞きたかった。

「今日はそっとしときなよ。あんまりがっつくと、また逃げられちゃうわよ」

 だが響にそう言われてしまったので、十文字はあきらめた。それでも、いつまでも絢辻を気にしていた。そんな後輩を元気づけるように、はるかはイカ味のスナック棒を無理矢理彼の口の中へと突っ込んだ。 

「これ、おいしいんだよ」と言って、抜群の笑みを浮かべていた。

 



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