絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
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 その年の二月十四日は、雲一つない晴れだった。ただ、気温は低くて寒い日だった。

 休日にもかかわらす、詞の目覚めは早かった。目的があるのだ。今日はバレンタインデーとなるので、手作りのチョコレートを隼人にプレゼントしたいと画策していた。だから、朝から少々寒い台所に立って、絢辻詞特製チョコレートを作り始めたのだ。

「うう~ん、今日にかぎってスポンジがうまくいかない。っもう」

 詞の作っているのは、純粋なチョコレートではなくて、チョコレートケーキ風な品物だ。だが、スポンジのふくらみ具合に納得がいかないのか、一人でブツブツ言っていた。その出来具合は、彼女が何度か作ったものとなんら変わらないのだが、今日という特別な日にはふさわしくないと感じていたのだ。

「ちょっとネットで調べてみるかな」

 パソコンでレシピを調べ直すため、詞は台所を離れて自室に戻った。まさかそのスキに、頭の黒いネズミが侵入するとは予期していなかった。

「ううー、今日はちゃぶい」

 詞と入れ替わるようにやってきたのは、姉の縁であった。起きたばかりで朝食にはまだ早いのだが、何やら台所からいい匂いがしたので、ふらふらとやってきてしまったのだ。

「おや、これはなんだかおいしそう」

 縁は、ボールに入っている湯せん状態になった液状チョコレートを、ぺろりと舐めた。

「なんか、甘さが足りないねえ。うん、足りないよ」

 ちなみに、姉は致命的なほど味覚音痴なうえに、料理などしたことがない。

「もうちょっと砂糖を入れたほうがいいね。ええっと、砂糖はどれだろう」

 砂糖と塩の調味料ケースが並んで置いてあった。よくありがちな光景だが、彼女は砂糖を入れようとして塩のケースを取り出した。なんら疑問をもつことなく、またそれを確認することもなく、山盛りになった塩をボールの中に放り込んでかき回した。

「さあってと、どんだけ美味しくなったかなあ」

 縁は、あらためてぺろりと舐めた。一瞬間をおいてから、不機嫌な表情をした。

「あれえ、なんかしょっぱくなってる。これは美味しくないよ、うん。このしょっぱさを消し去るには、これでしょう」

 そういって手にしたのは、粉末コショウの小ビンだった。辛味でしょっぱさを消し去る魂胆だ。斜め上を行く発想だが、本人はいたって真面目に考えたのだ。三回ほど振る予定であったが、跳ね上げキャップであることを忘れて、その部分を回して外してしまったので、内容量のすべてがボールの中へと投入された。

「あらら、なんだよこれは、ちょっとヘンなことになっちゃったよ。とりあえず、味見をしてっと」

 予想通り、そのチョコレートは容赦なく塩辛いものとなった。

「マズい。いろんな意味でマズいぞ。なんとか誤魔化さないと、詞に殺されちゃうよ」

 能天気な天然キャラである縁であったが、さすがに自分が仕出かしたことが妹の逆鱗に触れるだろうと予想できた。

「そうだ、あれを入れればいいじゃないのさ」

 あれとは、酢のことである。ことのほかすっぱいものが大好きな縁は、ことあるごとに料理に酢を入れてしまう。餃子のタレやドレッシングなどはおかしくないのだが、カレーライスやシチュー類、オムレツ、ソバにも酢をかけてしまう。味覚音痴な彼女にとっては、それは魔法の調味料なのだ。

「では、酢をたっぷりと入れましょうか。なにかと品質にうるさい詞のために、純水仕込みの高級黒酢を使おう」

 よせばいいのに、姉の手によってたっぷりの黒酢がチョコレートに注がれた。ツンと酸っぱい匂いが立ち昇ったが、かき回しているうちに大部分が拡散した。味見をし、すっかりすっぱくなったチョコレートに満足すると、縁は自室へと戻った。

「なんだ、このスポンジでよかったんだ」

 姉が姿を消してすぐに妹が帰ってきた。スポンジの出来がそれほど悪くないことを確認して、これからチョコレートを塗ろうとしていた。

「ん、なんかすっぱい匂いがするようなしないような」

 台所が乾燥していたので、詞の鼻は少しばかりつまっていた。臭覚が通常時より落ちていたので、チョコレートの異変にまでは気づかなかった。

「よし、じゃあいくよ~。これは隼人もよろこぶよ」

 隼人が甘いもの好きであることはリサーチ済みであった。詞は、スポンジに縁が調合したジェル状の物質を塗り始めた。さっき味をキメていたので、味見はしなかった。  ふんふんと軽快な鼻歌を口ずさむ彼女の手元では、異様なオーラを放つ逸品が出来上がりつつあった。

 

 隼人は、伯父の楽器店に時間通りに到着した。すでに麻耶教諭とその甥っ子が来ていて、椅子に座りながらジュースを飲んでいた。

 小学四年生の男子は、ふてぶてしい面構えであり、態度も不遜だった。嫌な予感しかしない隼人だった。 

「甥っ子の健太だ。多少やんちゃなところはあるけど、まあ、よろしくたのむわ」

 麻耶教諭が甥の頭を撫でながら紹介する。その小学生自体にまったく興味のない隼人は、彼をチラッと見ただけだった。

「まあ、ほどほどにやりますよ」

 あきらかにやる気がなかったが、態度には極力ださないようにしていた。

「このホームレスの兄ちゃん、ホントにドラムできるのかよ」

 いきなり容赦のない言葉だった。奥歯をギリギリと噛みながら、隼人は湧き上がる衝動をグッとおさえた。

「こら、健太、そういう言い方はダメだぞ。人を見かけで判断したらイカンよ」

「おばちゃんはカッコイイ男はいい人だって、いっつも見かけじゃんか」

「う、うるさい。生徒の前で余計なこというな。それに、おばちゃんじゃないの」

 これは予想通り厄介な一日になりそうだと、隼人は胸の内で大きなため息をついた。

「こんにちは」

 楽器店に客が一人入ってきた。麻耶教諭が、なにげなく見て、あれー、と声をあげた。

「絢辻さんじゃないか。なんでここに来たの」

 詞も、さも偶然とばかりに驚いた表情だった。

「ええっと、私はフルートの練習にきたんです。先生も来てたんですか。奇遇ですねえ」

 詞は、ケースに入れたフルートを持っていた。

「あら、十文字君も一緒なの。今日は補習でもあるのかな」

 隼人は、あっけにとられていた。

「ほら、この前言ってたじゃない。甥っ子にドラムを教えるために、今日一日、十文字を雇ったのさ。すし食い放題で」

「ああ、そうなんですか」

 詞は白々しく頷いていた。

「いやー、それにしても絢辻さんがフルートを吹くなんて、ぜんぜん知らなかったよ」

 彼女がフルートを吹くことを知っている者はいない。詞自身でさえよくわかっていないのだから。

「え、うそだろう」

 状況が理解できない隼人は混乱していた。今日この場所に詞が来ることを、彼女からは知らされているが、フルートの練習とは初耳だ。どういうことなのか聞こうとするが、詞が必死に目線でサインを送っている。それで、これが彼女のサプライズであるとようやく悟った。ヘタなことを口走って、麻耶担任に付き合っている事実がバレないように、隼人は口をつぐむのだった。

 そのフルートは、近所にいる従妹の中学生から借りたのだ。詞自身も中学生の頃に少しだけ練習したことがある。しかし、ほんのおさわり程度で、今となってはほとんど憶えていないのが実状だ。バレンタインデーである今日この日に、楽器店に来るためにだけに用意した小道具なのだ。隼人もそのことを察知していた。

「フルートっていい音色するのよねえ。ちょっと聞いてみたいわ。絢辻さん、なにか吹いてみてよ」

「ええっ」

 少しばかり困惑気味の詞だった。リクエストされるとは、予想していなかったからだ。

「先生、そろそろドラムをやりたいので、スタジオにいきたいんですけど」

「うんわかった。絢辻さんのフルートを聞いてからね」

 隼人の援護射撃は、あえなくかわされてしまった。彼女の危機にどうしたらよいのかわからず、隼人のほうがオロオロしていた。それに対して詞は、一瞬とまどったものの、なぜか晴れやかな表情をしていた。

「わかりました」

 と、さも自信ありげな表情をした。

「ぼくも聞きたい」

 ドラムの練習をしにきたはずの健太も、詞の演奏を聞きたがった。フルートではなく、きれいな年上の女性に興味があるのだ。

「それでは」と、詞はフルートのケースを開け始めた。

 吹けもしないくせになに強がっているのだと隼人の目が訴えるが、彼女は涼しい顔してフルートを手にした。

「どんな曲がいいですか」

 ここまで自信ありげな態度をされると、本当に吹けるのではないかと思えてきた。隼人には内緒だが、じつはこの日のために猛特訓していたのかもしれない。まじめで頑張り屋の詞なら、じゅうぶん有り得ることだと考えた。そして彼氏として、ぜひ聞いてみたいと願った。

「ショパンなんかがいいな」

 彼氏のリクエストに、彼女がニッコリと微笑んだ。輝日東高校でも美少女の上位にランクする可愛らしい顔が、手垢一つないきれいなフルートを口元まで近づけた。そして、穏やかな表情で息を流した。 

「・・・」

「・・・」

「・・・」

 それは、少なくともショパンではなかった。

 あえて例えるなら、まったくやる気のない豆腐売りのラッパか、あるいは体調が芳しくない豆腐売りのラッパか、さらにはラッパそのものが吹けない豆腐売りのラッパ、といったところだろうか。なんとか音は出ているのだが、音色はひどくトンチンカンであり、聞きようによってはコケティッシュでもあるのだが、一方ではどこか人をバカにするようメロディーだった。

 隼人にはその曲がすぐにわかった。とある国民的な長寿アニメのエンディングテーマである。以前、ドラムで冗談半分に彼女に聞かせた曲だ。それを指の操作ではなく、ほぼ息遣いだけでやっているのだった。

 麻耶教諭は、本心としては爆笑しながら転げまわりたかったのだが、相手があの絢辻詞であるので極力自制していた。まじめな学級委員である彼女のことだ。何らかの政治的な意図をもっているのかもしれないと、不要な深読みしていたのだ。傍らに座る甥っ子がにやけた顔をしているので、そうか、クラッシックなど理解しない小学生に気をつかって、あえてふざけた曲をワザと下手くそに演奏しているのだと、ファンタジー過ぎる忖度をするのだった。

 演奏が終わると、詞は聴衆に向かって深々と礼をした。胸に抱えたフルートが、心なしか小さく見えた。

「ブラボー、ブラボー」

 麻耶教諭は、万雷の一人拍手で詞の労をねぎらった。

 可愛い顔をしているが、音楽のセンスがまったくない自分の彼女に、隼人はどういう言葉をかけてよいのかわからなかった。

「ちょっと緊張しちゃった」と舌をだす子猫に、いい演奏だったと心にもないことを言うしかなかった。

 詞は、本心からフルートを吹いてみせたと思っているようだ。あの演奏のどこに満足するポイントがあるのか不明であるが、とにかく納得していた。生まれついての音楽音痴なのか、すべてを承知でやっているのか、彼女のみぞ知るだった。

「このお姉ちゃん美人だけど、楽器めっちゃ下手。ゲロレベル」

 子供は正直すぎて手強い存在である。麻耶教諭は、俺の笛のほうがマシと強く主張する甥っ子の首根っこを掴んだ。

「健太と先にスタジオに入ってるよ、十文字」

 二人はスタジオへと行った。

「俺もすぐに行きます」

 隼人と詞は、店の隅で二人きりになった。他に客はいないし、店主も奥にある自宅へ戻っていた。

「はい、これ」

「あ、うん」

 詞が持ってきた黒い紙袋に入っているのは、バレンタインデーのプレゼントである。当然、隼人はそれを予期していた。

「いちおう、私の手作りだから」

 正確には、絢辻姉妹の合作となる。

「詞の手作りなら間違いないな。すごく食べたい。いま食べていい」

「ダメよ。高橋先生がいるし、ちびっ子に食べられちゃうでしょう。これは隼人だけに食べてほしいの」

 あの、こしゃまくれた小学生に分け与える気など微塵もなかったので、隼人は家に帰って食べることにした。

「ありがとう。大事に食べるよ」

「うん」と、詞は笑顔で頷いた。

「ところで今日はどうするよ。俺は、この通り高橋先生とその甥っ子に捕まって、ここから出られそうもないし」

「私もここにいるよ。だって、フルートの練習にきてるんだもん」

 詞は、さも自慢げに吹く仕草を見せた。そのあと、すぐにクスクスと笑った。

「ははは。ところでそのフルート、どこで手に入れたんだよ。なんか、高そうなんだけど」

「中3の従妹が持っているの。事情話したら、貸してくれるって。今度隼人を紹介することになってるんだよ」

「へえ、それは楽しみだな。詞の従妹なんだから、カワイイんだろうなあ」

「そりゃあ、カワイイわよ。私のことを忘れるくらいに」

 意地の悪そうな瞳が、キッと隼人を睨んだ。

「ハハハ。そういう意味じゃないんだよ。そのう、めちゃめちゃカワイイ詞の親類だから、詞の次ぐらいにカワイイのかなって」

 妙な汗をかきながらの言い訳だった。

「ふ~ん。まあいいわ。それより、はやくスタジオに行かないと。ぐずぐずしていると怪しまれちゃうよ」

「あ、そうだ。あの小学生にドラムを壊されたらたまらないからな」

「先生がついているのだから、それは大丈夫よ」

「まあ、そうだけども」

 一抹の不安を抱えつつ、隼人はスタジオへと向かった。

 

 ちっとも大丈夫ではなかった。隼人がスタジオに入ると、すでに健太がドラムを叩いていた。いかにも無軌道な小学生らしく、じつに乱暴で無遠慮に叩きまくっていた。

「わああ、そんなに乱暴にしたらダメだって」

 十文字が慌てて止めに入る。健太からスティックを取りあげようとするが、こんな面白いオモチャを手放すものかと、頑として譲らなかった。

「おー、きたか十文字。あんまり遅いんで、健太に叩かせていたところだ。どうだ、我が甥っ子の叩きは。才能あるだろう」

 隼人の意見をきくまでもなく、その小学生に才能はまったくなかった。健太は調子にのって、ただ叩きまくっているだけだ。リズムもへったくれもないデタラメさだった。

「ちょ、ちょっとまって。叩けばいいってもんじゃないから」

「いや、まず叩かなきゃダメだろう」

 麻耶教諭もスティックを持って、シンバルを叩いていた。甥っ子と同じく、ドラムを楽しんでいる様子だ。

「ああ、そんなとこ叩いたら、傷つくから」

 隼人は気が気ではない。ただでさえ鳥の巣な頭を、さらにぐしゃぐしゃと掻き毟っていた。

「ちょっとお邪魔していいかしら」

 そこに詞がやってきた。店に一人でいても退屈なので、彼氏の様子を見にきたのだ。

「おや、絢辻さんも来たのかい」

「ええ、せっかく先生たちにあったのだから、ちょっと見学していこうかなと思って」

「それは大歓迎だよ。そうだ、ドラムとフルートでセッションしてみないか」

 余計なお世話だと、隼人は心の中で叫んでいた。

「ああ、それはいいかも」と、詞は笑顔だった。

「と、とりあえず、俺が見本をみせるから、先生と健太は離れてくれないか。つか、いや、絢辻さんも聴いててよ」

「私のフルートも、ご一緒してもよろしくて」

 本気か冗談かわからなかった。隼人は苦笑して丁重に断った。罰として、麻耶教諭と健太が帰った後、本格的に抱きしめてやろうと心に誓った。

「それでは、まず基本から」

 隼人がドラムを叩きだした。腕前はたしかなものなので、麻耶教諭も詞も黙って聴いていた。健太は一分ほどおとなしくしていたが、自分が叩けないことに退屈したのか、その辺をうろつき始めた。

 スタジオの隅の棚に隼人の荷物があった。そこには、さっき詞にもらったバレンタインデーのプレゼントが置いてあった。暇をもてあました健太は、その紙袋を勝手に開け始めてしまった。

「あ、ちょっと、それはダメだよ」

 小学生の暴挙に気づいた隼人が演奏をやめた。すぐに立ち上がり彼のもとへ行こうとしたが、慌てていたので足がもつれて転んでしまった。

「はや、、、とっと、ええーっと、十文字君、大丈夫」

 詞が、やや遠慮気味に彼に手を貸した。

「大丈夫じゃないよ。あれあれ」

 小学生が黒い紙袋に手をかけているのを見つけて、詞も思わず声をあげてしまった。

「それ、ダメ」

「こら健太、人の物を勝手にいじくるんじゃない」

 麻耶教諭が甥っ子に駈けよって叱ったが、健太は気にする様子もなかった。

「ダメだって言ってるだろう。それは十文字のなんだから。こっちによこしな」

 甥っ子が掴んでいる黒い紙袋をとろうとしたが、いきおい余って中身が落ちてしまった。

「ああーああ」

 床に落ちたそれを麻耶教諭が拾って、しばし見つめていた。

「あれえ、なんだよこれ」

「それチョコレートだ。食べよう」健太が目ざとく言った。

「そっか。今日はバレンタインデーだったな」

 麻耶教諭は、愛情のこもったチョコレートを渡す男がいないので、今日という日をそれほど重要視していなかった。

「ひょっとして、絢辻さんが十文字に、そのう、あげたのかな」

 その包みの固さを確かめるようにまさぐりながら、女は怪訝な顔で訊ねた。

「いえ、知らない知らない。私のじゃないですよ。そんなことあるはずないですよ」

 詞は即座に否定した。それはもう、すがすがしいまでのおとぼけだった。

「そりゃそうだよな。絢辻さんにかぎって、十文字にチョコなんぞやらんよな」

 その当人の目の前でいうべきことではないのだが、思わず本心を言ってしまっていた。

「そ、それ、俺が作ったんです。俺の手作りチョコレート。はは」

 麻耶教諭が隼人の傍に立った。彼の肩に手をおいて、しみじみと言った。

「十文字、おまえはなんて悲しいやつなんだよ。いくらチョコレートがほしいからって、バレンタインデーに男子が手作りしてはイカンだろう。言ってくれれば、わたしが持ってきてあげたのに」

「それは、そのう、ははは」

 隼人は笑って誤魔化そうとした。詞は、知らん顔でアッチのほうを向いている。

「よし、わかった。今日の帰りにわたしが美味しい生チョコをプレゼントしよう」

「それは、ありがとうございます。うれしいです」

 ちっとも嬉しくはないが、そういう態度をする隼人だった。

「だから、この手作りチョコレートをみんなで食べよう。自作のチョコを一人で食べるより、みんなで味わったほうが十文字も作った甲斐があるだろうよ。絢辻さんも、男子の手作りチョコって食べてみたいだろう」

「えっ、ま、まあ。それは、そうですね」

 思わぬ展開になってしまった。隼人は、もちろん自分一人で食べたかったが、状況がそれを許しそうもない。麻耶教諭をねじ伏せるだけの力量を、彼は持っていないのだ。

「決まりだね。じゃあ食べよう。ちょうど甘いものがほしかったんだよね」

 大人のお許しがでたので、健太は丁寧にラッピングされたリボンと包装紙をベリベリと無作法に破った。横目でそれを見つめていた詞は、自分の心が破られているような気分だった。

「なんだよこれ、ハートの飾りチョコまでついているよ。十文字さあ、これ悲しすぎるだろうって」

 そのハートの飾りは、詞が何度も失敗して、ようやく作ったのだった。

「でも、この兄ちゃんが作ったのって、なんかやだなあ。マズいんじゃない」

 正直すぎる小学生だったが、隼人は、その発言だけは許容できないのだ。

「なにを言ってるんだよ。味は最高だって。ぜったいに美味いに決まってるんだ。死ぬほど美味いんだ。ほんとだからな」

 隼人には自信があった。料理上手な詞が作ったチョコならば、その味は天にも昇る甘さであろう。愛情に裏打ちされた味を確信できた。マズいわけはないのだ。

「わかった、わかったよ、十文字。健太も悪気があって言ったんじゃないんだ。許してやってくれ。な、な」

 少しばかりキレてしまった教え子を、麻耶教諭はまあまあとなだめた。

「こら、健太。このお兄ちゃんは見かけはヘンだけど、料理の腕はいいんだぞ。ドラムだってこれだけ上手なんだから、このチョコだって美味いんだよ」

 麻耶教諭は、各人にチョコレートケーキを配った。飲み物がほしいと健太が催促したので、小銭を渡して店の自動販売機から人数分のジュースを買ってくるように命じた。小学生は忍者のごとく走り去り、約二分後、ジュースを抱えて帰ってきた。

「それじゃあ、みんなで食べよう。いただきまーす」

 麻耶教諭の号令で、全員がほぼ同時に食べ始めた。もちろん詞は自分が作ったものに自信があった。食べてみるまでもなかったので、口をつけることなく、みんなの反応を見ていた。 

「ほほー、これはまた甘くて・・・。ん、いや、酸っぱいか。ちょっと違うな辛いぞ。ちょっとどころでないな、なんぞこれは」

 麻耶教諭の額に深い皺がよった。苦悶の表情だった。 

「うげーー。ゲボだ、ゲボ」

 健太は、食事中には極めて不謹慎な言葉を連呼しながら、口の中に入れたものを吐きだした。すぐにジュースをグビグビ飲んで、口の中のけがれを清めようとしていた。

 隼人はコンクリートのように固まってしまった。詞の手作りチョコレートケーキが、衝撃的に不味かったからだ。こんなひどい味の食べ物を味わったことはなかった。しかも、それを作ったのが詞であり、よりによって恋人同士には最も重要なイベントの一つにぶつけられたのだ。通常なら怒りをあらわすか不機嫌に沈黙するかであるが、隼人の場合は違った。 

 これはひょっとして、彼女への愛を試されているのではないかと、やや斜め上の考えに至っていた。あえて自分に試練を課すことで、二人の激愛が本物であるかどうかを問うているのだ。生真面目な優等生の詞らしい、じつに知的な計略だ。しかし度量の小さい男ならすかさず逆上して、痴話げんかの果てに破局してしまう可能性がある。そんなリスクを覚悟してまで、詞は俺たちの愛のために冒険している。ならば、最愛の彼氏として為すべきことはただ一つ。食べるしかない、いや、喜び勇んで思いっきり食べるのが男の本懐というものだろう、とポシティブすぎる結論に達していた。

「うん、これは我ながら美味いなあ。あはははは」

 その発言をきいてギョッとしたのは、麻耶教諭と健太だ。この激マズチョコレートを、モリモリと嬉しそうに食べる隼人を信じられない目で見つめている。

「もうこのヘンタイ兄ちゃんイヤだよ。俺、帰る」

 激烈な味のチョコレートにキレてしまって、健太は出ていってしまった。

「あ、健太、どこ行くの」

 慌てて麻耶教諭が後を追った。

「あの二人、どうしたのかしら」

 詞は、自身の料理が原因だということに気づいていない。

「ねえ隼人、このチョコレートケーキ、どう。早起きして作ったの。スポンジがイマイチな感じがするんだけど、味は自信あるの」

 イマイチどころか、胃袋をバラバラにするほどの破壊力があるのだが、そこはグっとこらえるのが男というものだ。あまりの不味さに涙目になりながら、それでも詞を傷つけまいと必死に演技をする隼人だった。

「すごく美味しいよ。もう、涙が出るくらい美味しい」

「そう、よかった。まあ、私が作ったのだから当然ね。私の分もあげるから、先生たちが戻ってくる前に食べちゃってね」

 ぐぐぐっとこみ上げるものがあったが、隼人は素直にそれを受けとって、しばし見つめた後、苦い薬を飲み込むように口の中へ放り込んだ。

「う~ん、う~ん」

 あまりの美味しさに唸り声をあげていると思い込んでいる詞は、嬉しそうに彼氏を見ていた。

 スタジオのドアノブがガチャガチャと動いた。誰かが入ってくる予感がしたので、二人は自然と距離をあけた。

「おじゃましま~す」

 スタジオに入ってきたのは、麻耶教諭やその甥っ子ではなく隼人の妹、來未だった。

「なんか、伯父さんにきいたら二人で来てるっていうから」

 もちろん來未は、兄たちをひやかしに来たのだ。

「わあ、なにそれ。ひょっとしてチョコレート。ほしいほしい、一口ちょうだい」

 隼人の分はもうなかったが、麻耶教諭の食べ残しが椅子に置いてあった。目ざとく見つけた來未は二人の許可を得るまでもなく、すでに手に持っていた。

「それは先生の分だけど、戻ってきそうもないし、いいんじゃない」

 詞は許可を与えた。自慢の一品を來未にも食べてもらいたかったのだ。

「あは、これ手作りでしょう。まあ、絢辻が作ったのだから、マズいわけないね」

 キャッキャと騒ぐ妹を、兄は悲しそうな瞳で見つめるのだった。

「いただきます。うーん、これは甘くて、、、。ん・・・」

 若くて張りのある美少女の眉間に、大きな皺ができた。突然、來未は部屋の真ん中まで走った。そして思いっきり叫んだ。

「ざけんなよー、テメーはなんだよ。わたしのお兄ちゃんを何だと思ってるんだー。わあああ」

 泣き喚きながら、來未はスタジオを出ていった。なにがなんだかわからず、詞は呆気にとられてしまった。隼人は妹の奇行を理解していたし、彼自身もそうしたい衝動があった。

 結局、麻耶教諭は戻らなかった。はるか地平の彼方へと逃亡した甥っ子を追いかけていたのだ。

 非常に後味が悪かったが、そのことはひとまず忘れて、隼人は詞との二人っきりの密室を楽しもうと思った。できれば、バレンタインデーのこの日に、もう一度熱いキスをしたいと下心を出していた。だが、店主である伯父がやってきて、急な客が入ったのでスタジオをあけてほしいと言われたので、二人は出ることになった。その後のデートはグズグズになってしまって、隼人と詞は早々に帰宅することとなった。

 






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