絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
<< 前の話 次の話 >>

36 / 72
36

 夏休みとなった。

 隼人と詞は毎日のように濃密なデートを楽しんでいる、とはならなかった。高校三年生には進路という問題がある。進学するにしても就職するにしても、なにかと忙しいのだ。

 輝日東高校の三年生は、大半が進学となる。夏休み中、学校で夏期講習会が行われるので、二人は毎日のように登校していた。

 当初、隼人は自分の学力で行ける大学にする予定だったが、詞が一緒の大学を強く勧めたので、彼女のレベルに追いつくために猛勉強しなければならないのだ。夏期講習は自由参加ながら、ほかの生徒も多くがきていたので、三年A組の様子は、いつもとさほど変わらなかった。

 本日の講習は午前中で終わりとなった。大半の生徒は帰り、ヒマをもてあました若干名が教室などでウダウダしていた。

 隼人は化学準備室にいた。もちろん詞も一緒である。

 夏休み中、化学室準備室はカギをかけられているのだが、二人は合鍵の在りかを知っているので問題なく入れた。しかも化学準備室は廊下から中が見えないので、密会にはちょうどよい場所となる。

 詞の手作り弁当を前に、隼人はエサをもらえる子犬のように尻尾を振っていた。以前のような巨大なおにぎりではなく、しっかりとした弁当箱だ。  

 詞がお茶を淹れていると、突然、化学室側からの連絡ドアのドアノブがガチャガチャと回った。二人は一瞬で凍りついた。

「おい、お二人さん、いるんだろう。ちょっと開けてくれないか」

 高橋麻耶教師の声だった。彼女は二人の関係を知っている。隼人と詞はホッと胸をなでおろし、カギを開けた。

「お、手作り弁当か。うらやましいなあ」

 入ってくるなり、机の上にある弁当を目ざとく発見する。

「ここに来てるってことは、もう完全に仲直りしたんだな。一時は心配したぞ」

 担任は、隼人の弁当箱から次々とタコさんウインナーをつまみながら言った。隼人は、全部食べられてしまうのではないかと気が気でなかった。

「そのせつはいろいろとご迷惑をおかけしました」

「ほんとに迷惑だったよ」

 詞は素直に頭を下げた。担任は、またたく間に弁当のオカズを平らげてしまった。隼人は、信じられないという表情で弁当箱と彼女を交互に見ていた。

「おい、十文字。ちょっとジュース買ってこいや。レモンスカッシュが飲みたいんだよ」

「そんな昔の飲み物、自販機にありませんよ。自分で買ってきてください」

 せっかくの手作り弁当を貪られたうえに、パシリにされそうなので、隼人は不機嫌だった。

「いいから買ってこい。グダグダいってると、おまえのあのノート、コピーして両親に見せるぞ」

「はい、行ってきます」

 隼人は跳びはねるようにして出て行ったが、数秒後、ジュースの代金をとりに戻ってきた。

「そんなの、男がだすんだよ。絢辻の分まで買ってこいよ」と言われ抗議するが、「あのノート、ネットに投稿しようっかなあ」と言われると、泣く泣く出て行った。

「そういえば絢辻、ケンカの原因はなんだったんだよ。どうせアイツの浮気だろう」

 担任は椅子に座り、両足を机に置いた。いつになく不遜な態度だったが、夏休みだから本性がでてしまっているのだろうと詞は考えた。

「ははは、浮気だとおもったら私の勘違いでした。ほんとにみんなに迷惑かけちゃって」

 詞は素直に認めた。

「ふ~ん」

 意味ありげな顔で見つめてくる。どうも、いつもの麻耶担任らしくないと詞が思っていると、あまり答えたくない質問が飛んできた。

「あ~や~つ~じ~、おまえ十文字の正体を知ってて付き合い始めたんだろう。あの顔なら、どこに行っても自慢の彼氏だからな」

「それはそのう、ははは」笑って誤魔化すしかなかった。

「噂によると、十文字はけっこうモテはじめているらしいぞ。とくに後輩に人気だ。ヘンタイでもいいって子が多いらしくてな。いや、ヘンタイだからこそメチェメチャにされたいってのもいるらしいからな」

 詞は、そういう現象があるとの報告を、クラスメートの女子連中から受けて知っていた。だから、担任の言葉にそれほどの衝撃はなかったし、隼人が自分以外の女を好きにならないだろうとの自信もあった。 

「いやあ、美味かった。ごちそうさん」

 担任は弁当の白飯も食いつくしてしまった。ちょうどそのタイミングで隼人が帰ってきた。

「レモンなんたらがないので、サイダーにしました」

 担任はそのサイダーを奪い取ると、ねぎらいの言葉をかけることなくグビグビと飲み始めた。

「ぷはー、うめえ。これがビールだったら最高だったのに」

「ああーっ、俺の弁当がない。まったくない。すっからかんだ」

 詞にジュースを渡しながら、隼人は深く落胆するのだった。

「ところで今日ここにきたのは他でもない。おまえたちに頼みがあるんだよ」

 担任は残りのサイダーを飲み干すと、下劣なゲップの後にそう言った。

「いや、いらないです」

 即座に隼人が返答した。だが、彼女はかまわず話し続けた。

「実はさあ、親戚のおじさんが死んじゃって、その財産をうちの親が相続することになったんだよ。まあ、財産たって、築半世紀のボロ屋なんだけどもさ」

「だから、いらないです」

「あのう、私たちは受験勉強がありまして」

 理由はなんでもよかった。二人は、とにかく係りたくなかったのだ。

「父ちゃんからさあ、そのボロッボロ屋の掃除をしろって言われてるんだわ。でもさあ、ボロ屋を一人で掃除するって大変なわけよ。そこで我が教え子の登場なんだよ。なあに、場所はすぐ近くなんだよ。車ですぐだから、さっそくいこうか」

「いやいや、ですから行きませんって。先生一人で頑張ってくださいよ」

「私もこのあと生徒会の用事を手伝わなければならないんです」

 二人は抵抗を試みる。

「十文字と絢辻がこんなにも仲良くしているのを誰かに言いたいなあ。そうだ、始業式の日、クラスのみんなに報告しようか」

 だが大人は狡知にたけ、当然にように汚い。目的のためなら、かわいい教え子の秘密も暴露してしまおうとするのだ。

「わかりましたよ、行きますよ」

「さすがは十文字、大人だねえ。さて、絢辻はどうかなあ」

「私も行きます。ええ、行かせてもらいますとも」

 弱みをガッチリと握られている二人が抗えるはずがなかった。首尾よく奴隷を確保した担任はご満悦だった。詞の前に置かれていたサイダーを手に取り、勝手に飲み始めた。隼人と詞はお互いの顔を見合って、ため息をつくのだった。

 

「あのう、先生。まだつかないんですか」

 軽自動車の狭苦しい後部座席で、詞は不安になっていた。学校を出てから、かれこれ数時間は経過している。それなのに、いっこうに目的地に着く気配がない。しきりに外を気にしていた。

「もうすぐだよ」

「もうすぐって、さっきから言ってるんですけど。夕陽が見えてきてるんですよ。どう考えたっておかしいよ」

 同じく窮屈な後部座席で、隼人も大いに不満だった。

 詞はケイタイを取り出した。帰りが遅くなりそうなので、自宅に連絡しようとしたのだ。

「あれ、通じない。圏外になってる」

「まわりが山だからな」

 彼らが突き進んでいるのは、シカやイノシシが闊歩していそうな未舗装の山道だ。国道から離れて、すでに一時間以上は経過している。その隘路は一車線の幅しかなく、対向車が来るとすれ違うことが出来ないほどだ。道の両側から背丈ほどもある雑草が覆い被さろうとしている。営林署の職員でも不安になるような道だ。

「おまえたちの家には連絡しておいたよ。泊まりになるからって」

「ええーっ、泊まるなんてきいてないです。私、なんにも用意してないんです。ダメですよ、そんなのムリ」

「いくらなんでも勝手すぎるよ先生。無茶苦茶だって」

 驚いた二人は、当然のように強く抗議する。すると担任は突然軽自動車を止めた。そして後ろを振り返ることなく、ルームミラーをチラリと見てから言った。

「だったら帰れよ。さっさと車から降りて仲良く手を繋いで歩いて帰ればいいさ」

 それはもう、強迫や恫喝のたぐいである。どこともわからない、しかもすぐにでも日が暮れそうな山中を、担任は歩いて帰ろと言うのだ。二人は絶句してしまい返す言葉もなかった。

「そんな青ざめた顔するなよ。なにもとって食うわけじゃないんだからさあ」

 軽自動車は再び走り出した。運転者は鼻歌まじりにアクセルを踏み込む。後ろの二人は お互いの手を強く握り合うしかなかった。

 道は、さらに険しくなった。砂利道の轍の部分に草が生えている。ほとんど車の出入りがない証拠だ。車の底や両側から繁茂した草が、バシバシと車体を叩いていた。恐怖混じりの不安に苛まれて、隼人と詞は手を握り合っているだけでは物足りず、ぴったりと身体をくっ付け合っていた。

「ほら、着いたよ。ここがそうだよ」

 山道の行き止まりに少しばかりひらけた場所があり、そこに大きな家があった。背後は岩面が露出した険しい山で、左右も鬱蒼とした森だ。ずいぶんと不便な場所に家を建てたものだと、二人は高校生ながらに思った。

「さあ、降りた降りた」

 担任が先に車を降りた。隼人と詞も、あたりの雰囲気の怪しさを確認するようにそっと降りた。

 それは屋敷といっていいほどの大きな家だ。外壁も何もかもが木造の古風な造りで、旧家といった印象だ。ただ人が住まなくなってからしばらく経つのか、家屋は全体的にこすけていて、一目見てわかるほど朽ち始めている。庭も雑草が伸び放題で蔦が壁をはっていた。カビと草の入り混じった古臭い臭いがしていた。

「ねえ隼人、これはなに?」

 異様なのは、家の周りを三メートル以上の板でぐるりと囲んだいることだ。不吉な感じをおぼえた詞は、隼人にぴったりとくっ付いて歩いていた。

「山の中だから、動物が入らないようにするための柵なんじゃないか」

 隼人はそういったが、それにしても不自然であると詞は思った。

「それじゃあお二人さん。先に入って掃除でもしていてくれよ。先生はちょっくら食い物を買いに行ってくるから」

「先生、さすがに暗くなってきたし、今日は無理じゃないか」

「それに、ここって電気が通っているの。だって、電線ないし」

 あきらかに怯えている教え子に対し、担任はなにも言うことなく、さっさと車に乗って行ってしまった。

「ど、どうしようか。陽も暮れてきたし、とりあえず家の中に入ろうか」

 詞は、あらためてその屋敷を見つめた。

「いやよ。家っていうより、もう廃墟じゃないの。お化けがでそう」

「そうだよな。じつは俺も入りたくはないんだ。先生が帰ってくるまで、ここで待っていようか」

 ウンと詞が返事をした時だった。

 突然、奇声が響きわたった。金切り声のような呻きが二度三度と連続した。

「な、なに、なんなの」

「きっと鳥だよ。ハハハ、鳥だよ、鳥」

 隼人は自分に言いきかせているようだった。

 その時、脇の草むらが激しく動いていた。夕闇が迫る山中に風はまったくない。姿は見えないが、確実に何かがいるのだ。

「ちょっと、ここにいたら危ないんじゃないの」

「う、うん。クマだったらマズいな。やっぱり家の中に入ろう」 

 二人は慌てて家の中へと入っていった。少し迷ったが、土足のまま上がることにした。床は埃が積もり、錆びた釘や画鋲の類もある。とてもじゃないが靴を脱いで歩ける状態ではない。

 その家は、廃村によくある捨てられた民家といった佇まいだ。居間や客間、台所は廃墟に相応しく薄汚れて、衣類や茶わんなど、そこでの生活史を語る雑多なものが放り投げられ散乱していた。辛気臭い空気が充満し、やや湿った感触が不快だった。

「隼人、電気を点けてよ」

 陽はもうすぐ沈みきろうとしている。ただでさえ薄気味の悪い廃屋なのに、暗闇になってしまったら、それこそ魔界の魑魅魍魎たちが出てきても不思議ではない。光を求めるのは、人間の本能的な行為なのだ。

「これ、点かないぞ」

 隼人は壁にあるスイッチをカチカチさせるが、天井の蛍光灯は微塵も光らなかった。

「先生はまだ帰ってこないの。どこに行ったのよ、もう」

 勝気な詞は、おのれを怯懦な性格ではないと思っているが、今の彼女は存分に怯えており、そんな自分がなさけなくてイラついていた。

「ちょっと隼人、なに持ってるの。ここのモノはあんまり触らないほうがいいって」

 隼人は木箱を両手で抱えていた。みかんの段ボール箱を二回りほど小さくした大きさだ。

「昔の小物入れかな。俺、こういうレトロなものって好きなんだよ」

 隼人はそれを机において、じっくりと検分し始めた。

「すごいぞこれ。こんなに引き出しがあるよ」

 その木箱には、たくさんの引き出しがあった。

「そんなのいじっている場合じゃないでしょう。早く灯りを点けないと真っ暗になっちゃうよ。電気がダメなら、ロウソクかなにかを探して」

 キーキーと、ややヒステリックな声で詞が急かすが、隼人はその木箱に夢中になっており動こうとはしなかった。引き出しを一つ取り出しては机の上におき、そしてまた一つ  を取り出す行為を繰り返していた。

「ああー」

「ひぃ、な、なによっ」

 隼人が突然大きな声を出すので、詞は跳び上がらんばかりに驚いた。

「この引き出しおかしいよ」

「なにがおかしいの。ふつうの古い木箱じゃないの」

「いや、絶対おかしい。見ろよ、この引き出しを取り出したらこんなに長いだろう。ほぼ箱の奥行きと同じくらいだよ」

「それがどうしたっていうの。なんにもおかしくないよ」

「だって、逆側にもまったく同じ形の引き出しがあるんだぞう。ほら見ろよ、これ」

 木箱の正面と後ろにまったく同じ引き出しがあった。しかも、正面側のほうを取り出してみると、木箱の奥行きとほぼ同じ長さだ。だとすると、逆側に引き出しがあるのは物理的にあり得ないことになる。

「それは、逆側がきっとお飾りなのよ。引き出しに見えるだけで、じつは金具だけなんじゃない」

 そういって、詞は後ろ側の引き出しの取っ手にをつまんだ。 

「あれ、あれあれあれ」

 それはやはり引き出しだった。詞がスルスルと取り出すと、正面側と同じ寸法だった。

「あり得ない。どうなってるの」

 今度は詞が驚いていた。ためしに二つとも元の場所に収納してみると、ぴったりと入った。

「なにこれ」

「ほかの引き出しも出してみよう」

 木箱の引き出しがすべて取り出された。隼人が空になった内部を見ようとしたが、手元が暗くて構造を調べられない。

「隼人、なにか入ってるよ」

 取り出した引き出しの一つに、何かがあることに詞は気が付いた。ただし暗いので、それが如何なるものであるのか、はっきりとはわからなかった。

「なんだろう」

 隼人が手を伸ばした。

「触らないほうがいい」

 叱咤するように詞が言ったが時すでに遅く、隼人はそれを指でつまんでしまった。そのまましばし目を凝らして見ていた。

「なんなの」

「ええーっと、これは歯だな」

「歯?」

「たぶん奥歯だよ」

 つまんだそれを、今度は詞の目の前に持ってきて見せた。

「どうして歯なんて箱に入れるの」

「昔の習慣だろうさ。小さな子の乳歯をとっておいたりしたんじゃないのかな」

「なんか気持ち悪い」

 詞が目を背けた時だった。

「うわあ」

 突然、隼人が悲鳴をあげたのだ、しかも、つまんでいた歯を放り投げてしまい、図らずしもそれが詞の鼻頭に当たって床に落ちてしまった。

「ちょっ、な、なによ、驚かさないで」

「だって」

 隼人の表情は凍りついていた。かなり暗くなっていたが、彼の狼狽ぶりがはっきりと見てとれた。

「あの歯に血がついていた」

 あまりの戦慄に詞の背筋が凍りついた。

「な、なにバカなこと言ってるの。私を怖がらせて面白がっているんでしょう」

 隼人はズボンのポケットをゴソゴソやり始めた。ケイタイを取り出して、バックライトで自分の指先を照らした。

「ほら、これ血だろうよ」

 親指と人差し指の先端が赤くなっている。しかも、みずみずしかった。

 歯に血がついているということは、それがとても新鮮であるとの証だ。血液はすぐに固まるので抜いてから十分も経ってないだろう。

「誰かがここにいて、歯を抜いて箱の中に入れたんだ」

 隼人がそう言うなり、詞は彼の手を引っぱって歩きだした。

「どこに行くんだよ、詞」

「決まってるでしょう。外にでるの。こんな薄気味の悪い家なんて、絶対にイヤ」

「そんなこといたって、外にはクマがいるかもしれないだろう」

「お化けよりマシでしょう」

 より直接的な殺傷力で考えると、実体のしれない幽霊の類よりも、野生の肉食獣のほうがよっぽど危険なのだが、人は未知なるものにより恐怖を抱くのだ。

「いや、お化けじゃなくてふつうに人がいるんだよ。だって、先生のおじさんの家なんだから。ここにいたほうが安全だって」

 動物のほうが怖いと、隼人は現実的な判断を下していた。

「おじさんは死んだって言ってたじゃないの。それに、ここはどうみても十年以上前に放置された廃屋よ。人が住んでいるほうがおかしいし、もしいたのならそれは人じゃない何ものかよ」

 玄関を出ようとしたところで、隼人はトイレの前の床に転がっていた懐中電灯を見つけた。詞は点くわけがないというが、スイッチを押すと即座に光った。 

「な、やっぱり誰かいるんだって」

「とにかく出るの」

 詞はイラついたように隼人の腕を引っぱった。二人が玄関を出た時には、もう夕闇は終わり本格的な夜が始まっていた。

 山中の夜は容赦なくやってくる。月も星も出ていないために、まさに一寸先は闇となっていた。さっきまでまだ少し明るかったのにと、詞は不思議に思った。偶然見つけた懐中電灯がないと、足元がおぼつかない状態だった。

「あれえ」

 いつの間にか先頭を歩いていた隼人が素っ頓狂な声を出し、急に立ち止まった。

「な、なによ、いちいち大声をださないで」

「だってほら、出口がないじゃん」

「えっ」

 懐中電灯の灯りが壁に当たっていた。この廃屋を囲むように設置された木板の柵だ。

「この柵って、ここにはなかったじゃないの。だって、先生の車が入ってきたんだから」

「おかしいなあ。どこにも隙がない。俺たち、どうやってはいってきたんだ」

「これではまるで象の檻じゃないの」

 二人はためしに建物の逆側へと行ってみるが、やはり柵に出入口はなかった。

「さっきは気づかなかったけど、この木の板、文字が書いてあるぞ」

 隼人は、木版にうっすらと文字が書かれていることに気がついた。懐中電灯の灯りをポイントしながら、ゆっくりと近づく。彼の服を握り締めながら背後を歩く詞は、存分にへっぴり腰だった。

「ホントね。全部の板にあるみたい」

「あれえ、この文字日本語じゃないや。なにかの記号かな」

 懐中電灯の光が、木版の文字を上下に追っている。隼人はその意味するところを掴みとろうと、無駄な努力をしていた。

「これって梵字じゃないの」

「大木のことかい」

「それは凡人。悪いけど冗談に付き合える気分じゃないの」

 詞の緊張を和らげるためのギャグだったが、あえなくフラれてしまった。

「その梵字ってはなんだよ。詞は読めるのか」

「読めるわけないじゃないの。古代のインド文字だったと思ったけれど」

「インドの文字がなんでこんなところにあるんだよ。インド人でも住んでいたのか」

「梵語を書くための文字じゃなかったかしら。仏教関係なはずだから、お坊さんが書いたのかも」

「ははは、だったらこの家に悪霊でも憑りついていて封印でもしていたのかな」

 そういってから、隼人はハッとした。この柵が悪霊のたぐいを閉じ込めておくために作られたことを悟ったからだ。詞もほぼ同時にそれを確信した。二人は、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「隼人、どうしよう。この家、きっと心霊的に良くないんだよ」

「呪文で、悪霊を封印してるんだよ」

「早く出ましょう」

「さっきは入り口があったのに、急になくなっているってどういうことだ」

 出口はどこにもない。協力して柵をよじ登ることも可能だが、文字が印された木板に触ることがためらわれた。

「そうだ、あの箱をイジッたからだよ。引き出しを全部出してままだから、俺たちを出してくれないんだ」

 血の付いた歯が収納してあった木箱のことを言っていた。なんら根拠のない見解だが、この異常な状況ではなぜか説得力を有していた。

「きっとそうよ」

 二人はすぐに廃屋へと戻り、居間に入って木箱の引き出しを元通りに納めようとした。

「なんだよ、これ。さっきはキッチリと収納できたのに、今度はできないぞ」

 隼人が引出を元通りにしようとするが、片面が入ると、もう一方はまるっきり入らなくなった。

「これがふつうなんじゃないの。だって構造上、そうなんだもの」

「さっきはキッチリいったんだから、絶対いけるはずだって。詞、ちょっと懐中電灯を持っててくれないか」

 懐中電灯を詞に渡し、隼人は引き出しを嵌めにかかる。

「ちょっと、なにかが指に絡まってるんだけど」

「おい、こっちを照らしてくれよ」

 自分の指に違和感があった詞は、隼人の手元を照らすことを忘れていた。

「なんなのよ、もう」

 指に絡みつく何かが邪魔でしょうがない。詞はヒモかと思っていたが、懐中電灯に照らしだされた自分の左手を見て一瞬で凍りついた。

「な、な」

 彼女の左手には髪の毛があった。それこそ五本の指が満足に見えないくらいに、びっしりと巻きついているのだ。

「いやああああああ」

 けたたましい悲鳴があがった。張りつめた静寂の中で突然大声を浴びせられた隼人は、驚いてひっくり返ってしまった。

「な、なんだ、どうしたんだよ」

 彼氏の呼びかけに詞は応じない。懐中電灯でひたすら左手を照らしながら、必死になって絡みついた髪の毛を解こうとしていた。

 彼女の手がどういう事態に陥っているのか、隼人はすぐに理解した。素早く起き上ると、髪の毛が絡みついている左手を掴んで毟り取ろうとした。詞は、隼人に左手を差しだしたまま、いまにも泣いてしまいそうな表情をしていた。

「なんだよ、なんでとれないんだよ。すっごい固い」

 その髪の毛は、まるで巻きついてやろうとの意志をもっているかのようだった。

「今度は俺の手に絡んできたぞ。どうなってるんだ」

「隼人、どんどん増えてる、増えてるよ」

 どこからわき出しているのか、二人の手は大量の髪の毛に覆われていた。お互いの手が髪の毛でいっぱいになり、離れられない状態になっていた。

 その気配は突然感じられた。ハッとして詞が見ると、女の子が立っていた。浴衣を着た十歳くらいの女の子が居間の隅に立っていた。

 隼人も気づいたが、突然のことでなにも言えなかった。女の子は暗がりに立っていたが、恐ろしさのあまり、詞は懐中電灯の光をまともに向けることができないでいた。

「箱の中に入らなきゃ」

 女の子は、そう言って二人のすぐ近くまでやってきた。詞も隼人も存分にのけ反るのだが、お互いの手がガッチリと繋がっているので、逃げるタイミングを逸していた。

「箱、その箱」

 大きな瞳の可愛らしい女の子が、隼人がいじっていた木箱を指さした。

「いや、無理だろう」

 隼人がやっとのことで言葉を発することができたが、それ以上は言えなかった。

少女といえども、人間がその箱に入ることは物理的に不可能だ。

「きっと暗いから。一人になるから」

 しかし浴衣姿の女の子は、ひとり言をつぶやきながらその箱の中へと入ろうとしていた。

 そこに入ったらダメだと詞は思った。少女のいうとおり、箱の中は底なしの暗闇しかない。足を踏み入れてはいけない場所なのだ。

 木箱の空いた引き出しの一つに、少女はその身を入れた。まずは左足を入れて、次に右足を入れた。もう腰のあたりまで見えなくなった。女の子の身体は意外なほどスムーズに呑みこまれていく。自分の身体が箱の中にあるように詞には感じられた。逃げ場がない暗闇の中で、このまま絶え間なく孤独に苛まられるのは絶対に嫌だと焦った。言いようのない不安で気が狂いそうだった。パニックに陥り、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。

 






※この小説はログインせずに感想を書き込むことが可能です。ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に
感想を投稿する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。