絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
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 どこの温泉街にもありそうなホテルだった。大きな大浴場とリーズナブルな価格設定で親しまれており、繁忙期には満室となることもある。ただし、夏を前にしたこの時期は、それほど満杯というわけではなかった。ビジネスで利用しずらい僻地にあるのでなおさらなのだ。

 そのホテルに、絢辻は夕方にチェックインした。電車とバスを乗り継いで、遠路はるばるやってきたのだ。

 うつろ気な表情で記帳する絢辻を、フロントマネージャーの女性がじっと見つめていた。館内の説明を一通りきくと、絢辻はキーを受けとって指定された部屋へフラフラと歩きだした。  

「見たかい、あの女の手首」

「リストカットの痕でしたね。やりそうですか」

「チェックアウトしてからやってくれたら、問題ないんだけどさ」

 そのホテルの近くには、自殺で有名な断崖があった。そこから海に飛び込むと、強い潮の流れで沖のほうに流されて、死体があがらないという評判だった。

 絢辻は、その断崖から身を投げて死のうと考えていた。自分の存在を肉体ごと消したいがために、死体が海の底に沈んであがってこない場所を選んだ。自宅から遠いというのもポイントだった。身近な場所では死にづらかったのだ。

 飛び込みは翌日を予定していた。このホテルに宿泊したのは、死ぬ前に温泉に入って身を清めたいと、あまり意味のないことを考えていた。

 部屋に入ると、彼女は持ってきた小さなバックをおいて、しばらくボーっとしていた。夕食なしの宿泊プランだったので コンビニで買ったシュークリームを一つ口にした。濃いめのキャラメルクリームがたっぷりと入っていた。高校生の頃はよく食べていたので、懐かしく思った。 

 部屋で浴衣に着替えて大浴場へと向かった。温泉につかり、洗い場の鏡で自分とまじまじと対面しながら、我ながら骸骨みたいな身体だと感心していた。これならば一度海に沈んだら浮力で上がってくることはないだろうと、薄ら笑いを浮かべていた。

 やや長めの入浴を終えた絢辻は、脱衣所に置かれていたポッドの水を飲んだ。信じられないくらいに飲みやすくやさしい味だった。死ぬ前にこんなおいしい水を飲めて幸運だと感激していた。

 脱衣所を出たところに広めの休憩場がある。ほかの客が涼んだりマンガの本などを読んでいた。そこで一人のマッサージ師が手書きのポスターを見せながら、営業の声掛けをしていた。

「マッサージはいかがでしょうか。ただいまキャンペーン期間中で、お安くなっております。予約をしていただければ、お客様のお部屋にも伺います」

 少しよれたユニフォームで声掛けしているマッサージ師を何げなく見ていた絢辻は、突如、高電圧で身体を打ちぬかれたような衝撃を受けた。

 人生を終結させようと彼女が、最後の最後でとんでもない出会いに遭遇したのだ。 

 そのマッサージ師は十文字だった。

 十文字隼人が、爽やかな営業スマイルで声掛けをしていたのだ。

 彼は視力を失っているので客の姿が見えない。耳と感覚だけで人の往来を察知し、声をかけていた。

 幽霊を見ているような驚愕の表情だった。絢辻は呆然としながら近づいていった。人の気配を感じとった十文字は客がきたかと思い、さっそく営業トークをぶつけるのだった。

「お客様、どうでしょうか。十分のコースもありますよ。ただいまキャンペーン期間でお安くなっております。お忙しいようでしたら、のちほどお部屋まで伺います」

 休憩場の片隅に、マッサージのための簡易スペースが設置されている。風呂上りに気分と財布のひもが緩んだ宿泊客を、十文字がそこに誘いこもうとしていた。客が望めば客室まで出向いての出張マッサージとなる。ただしその場合はロングコースが基本となり、料金も高くなる。十文字はそのことを手早く説明した。

 濃い色のサングラスをかけているので、彼の瞳を見ることはできなかった。絢辻は、相変わらずつっ立ったままだ。目の前から人の気配がなかなか消えないので、マッサージ師は困惑していた。お客であるのか、ひやかしであるのか、判断をつきかねていた。

「兄ちゃん、三十分でなんぼや」

 横から中年の男がやってきた。無言で突っ立ている痩せた女を、怪訝な顔で一瞥した。

「はい、ありがとうございます」

 十文字は、嬉々として料金を説明した。

「なんや高いなあ。いらんわ」

 中年の男は舌打ちしながら去ってしまった。客を逃した十文字は一瞬表情をこわばらせるが、すぐに平常に戻った。

「十文字君、お客さんが入ったよ。ここはわたしが替わるから。303号室に行って」

 そこに年配の女性がやってきて、十文字に指名が入ったことを告げた。同じユニフォームを着ているので、同僚のマッサージ師のようだ。

「はい、わかりました」

 十文字は、付添人に連れられて客室へと向かった。絢辻は、彼のあとを追うかどうか迷ったが、結局その場に留まった。そして再び彼が戻ってくるのを、休憩所で待つのだった。

 






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