絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
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 とりあえず絢辻が死ぬことは、絢辻詞の中では保留となった。十文字隼人と再会できたのだ。彼の近況を知ってからでも遅くないと、気持ちが急転回してしまったようだ。

 十文字は、この温泉街のマッサージ組合に所属しているマッサージ師となっていた。マッサージ師としては日が浅く、収入も低いがなんとか自活していた。絢辻と出会った休憩所では、最近は客の入りが悪く歩合が少ないので、積極的に営業活動していたのだ。休憩場での施術の場合、ショートがほとんどでたいした金にならない。客室に呼ばれたほうが稼ぎになるので、不特定多数の客に自分を売り込もうと頑張っていた。

 絢辻は宿泊を延長して、彼をストーキングすることにした。ただし声をかけようなどとは微塵も考えていない。死ぬ決心はできても、昔の恋人に声をかける勇気は、まだないのだ。

 彼女はことあるごとに大浴場へと通っていた。休憩場で営業している彼を見るためだ。マッサージを利用する客は夜のほうが多い。大浴場はほぼ一日中あいていて、日中は日帰り客なども多いが、夜のほうが商売になる。だから、十文字は夕方頃になるとやってきて、往来する客に声をかけていた。一度客室に呼ばれると一時間くらいは戻らないので、絢辻もいったん部屋に帰ることにしていた。そして頃合いを見計らって、また大浴場へと向かうのだ。

 

「あの女、また風呂に行きましたよ」

「これで何回目だっけ」

「さあ、十回は行ってるんじゃないですか」

 絢辻が宿泊している客室から大浴場に行くには、一度フロントの前を横切らなければならない。幽霊みたいに青白く痩せっぽちの女が、ふらふらとした足取りで何度も執拗に大浴場に通っている。フロントの従業員に、かっこうの話のネタを提供していた。

「てっきり、あの崖から飛び降りて自殺でもすると思ったけどね」

「温泉の入りすぎで自殺するんじゃないですか」

「それは迷惑だなあ」

 フロントマネージャーの女性が意地悪そうに言う。

「あいつ、いつまで連泊するんだか」

「毎朝、更新にきますね」

「まあ、いま時期はどうせ暇だからね。泊まってくれるだけありがたいんだけどさ」

 この時期は客の入りが多くないので、ホテルとしては連泊客は歓迎なのだ。

「トラブルさえなければいいんですけどね」

「まったくだよ」

「なんか仕出かしそうな雰囲気はありますね」

「イヤなこと言うなよ」

 ホテルの従業員は、問題を起こしそうな、あるいは問題を抱えている客を嫌う。日々のルーチンワークに忙殺されるのに、予想外の厄介事に巻き込まれ、心身をすり減らしたくないのだ。

 数日間、ホテル内で十文字をストーキングしていた絢辻は、もっと彼のことを知りたくなった。どこで暮らしているのか、彼女はいるのか、そして幸せなのか、知りたくて知りたくてたまらなくなっていた。

 もし十文字に付きあっている女性がいて幸せに暮らしているのなら、絢辻は予定通り海に身を投げようと思っていた。かりに彼に特定の女性がいなく、一人だった場合はどうするのか。その先の解答は、彼女自身もわからなかった。

 レンタカー屋に行き、絢辻は軽自動車を借りた。自動車学校以来となるので、ひどく緊迫した運転となった。ただ、温泉街はそれほど広くなく数分もすれば走りきってしまう。あとは信号がほとんどない山道なので、初心者でもなんとか運転することができた。そうして十分ほど慣らし運転をした後、ホテル前の駐車場に停めた。

 絢辻はホテルのロビーで椅子に座っていた。すでに時刻は夜十時を過ぎていて、フロント周辺の照明は最低限まで落とされていた。薄暗いロビーで新聞を読むフリをして、十文字が帰る時を待っていた。その怪し気な様子を、フロントマネージャーが事務所のモニターでイヤそうな表情で見ていた。

 ホテルの正面玄関の前に一台のワンボックスカーが止まった。その車にはマッサージ組合の文字がある。エレベーターが降りてきて、付添人に連れられた十文字が出てきた。そのままフロントを通りすぎ、玄関を出て車に乗り込む。今日の彼の仕事が終わったのだ。

 絢辻は、さっそく借りていた軽自動車に乗り込んだ。マッサージ組合の送迎車を尾行するためだ。ただし発進はスムーズではなかった。ギアをバックに入れてアクセルを踏んだり、ウインカーを逆方向に点灯させて焦り、ライトが点かなくてクラクションを鳴らしたりと、初心者らしく騒がしかった。多少のトラブルに見舞われたが、それでもなんとか尾行を始めることができた。

 マッサージ組合のワンボックスカーは、組合事務所を通りすぎて、温泉街のはずれにある年代物のアパートの前に止まった。付添人とともに十文字が降りてきて、古めかしいアパートの一階手前の部屋へと入った。そこが彼の住まいなのだ。

 組合の送迎車が帰った。十文字は部屋の入ると、すぐに照明を点けた。カーテンを閉めないので、居間の大きな窓から彼の動作が丸見えだった。部屋を明るくする必要は彼には別段ないのだが、防犯対策としてそうするようにと言われていた。それに、この古アパートは温泉街の外れに位置して、周辺に住宅はほとんどない。好んで覗く者などいないのだ。

 絢辻は少し離れた場所にレンタカーをおいた。アパートには塀や垣根がないので、居間の窓のすぐ前までやってくることができた。そして真正面に立って、十文字を見つめていた。十文字以外に、このアパートに住人はいない。彼女は心ゆくまでのぞき見することができた。  

 彼はリモコンでテレビをつけた。番組を視るわけではなくて音を拾っているのだ。遅めの夕食は、おにぎり二つに唐揚げが三つほど付いた安い弁当だった。電気ポットでお湯を沸かし、カップ麺に器用に注いだ。誰と会話することなく、一人での寂しい食事だった。

 仕事をしてアパートに帰り、テレビを聴きながら簡単な食事をとるのが、彼の生活のほとんどだった。絢辻が見る限り、十文字隼人は一人で暮らしていたし、その部屋には女がいる様子はなかった。。

 絢辻は、彼が就寝するまでじっと見つめていた。鼻をかんだり、食後の紅茶を飲む様子に笑みを浮かべ、歌番組の曲に合わせて十文字が歌うと、思わず彼女も口ずさもうとした。

 慌てて口を閉じた時、絢辻は卓袱台の上に置かれていた彼のケイタイを見つけて、ハッと息をのんだ。そのガラケーにはストラップが付けられていた。それは、高校生の時に絢辻がクレーンゲームでとって十文字にプレゼントしたものだ。細い組み紐の先に大吉と書かれた木片がついていた。ケイタイは変わっていたが、そのストラップは不変だった。 

 絢辻は、まるで幽霊が生前に未練のあった人間に執着するみたいに、暗闇から灯りの中を恋い焦がれていた。やがて照明が落ちて彼が就寝するのを見届けてから、ようやく帰るのだった。

 






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