絢辻詞 ~footage~   作:北海銀
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 夜勤から報告を受けて、女性フロントマネージャーは朝から怒っていた。

 出入りのマッサージ師が彼女の警告を無視して、客とねんごろになり、あまつさえ、そのまま客を連れてホテルを出ていったからだ。

 組合にクレームを入れる前に、本人の口から弁明を聴きたいと思っていた。日頃から彼のことを評価していたので、一度の過ちなら穏便に済ますことも考えていた。彼女がどういう処分を下すかは、彼の言い訳しだいであった。

 隼人は、いつもは夕方に出勤なのだが、その日は午前中の早い時刻にやってきた。彼の隣には詞が付き添っていた。

 二人の仲のよさをみせつけられたフロントマネージャーは、カーッとなってしまった。

「十文字君、これはどういうこと。あれだけ言ったよね、そういうことは厳禁だって。うちのホテルをナメてるの、わたしをバカにしてるの。どういうこと、説明しなさい」

 隼人は、彼の腕をしっかりとつかまえている詞の手をほどいて、フロントマネージャーの前へと歩み出た。サングラスを外して、厳しくまくし立てる彼女をじっと見据えた。

「な、なによ」

 何がしかの反抗があると思ったフロントマネージャーは、少しばかり引き気味になた。

 突然、隼人はその場に落ちた。

「え」と戸惑う女の目の前で、隼人は深々と土下座をしていた。

「大森マネージャー、どうか詞をお願いします」

「へ」

 なんのことかわからず、フロントマネージャーは目を白黒させていた。

「彼女、僕の嫁になる女性で絢辻詞っていいます。フロント係を募集してましたよね。詞は高校時代、ずっと学級委員ですごく優秀なんです。みんなからも頼られて、仕事はきっちりこなします。国立大学もでてます。字もきれいです。きっと役にたちますから、雇ってやってください」

 ホテルはフロント係を募集していたが、適切な人材が見つからず、フロントマネージャーはそのことをよく愚痴っていたのだ。

「え、ええーっ」

 しかしながら、どこの馬の骨ともわからない女を、しかも挙動不審で目をつけていた女を、いきなり雇ってほしいと懇願されても容易に承諾されるものではない。

「ちょ、ちょっと意味わかんない。十文字君、とにかく立とうか。ここでそんなことをされては、すごく目立っちゃうからね」

 フロントマネージャーは人目を気にしていた。ちょうどチェックアウト時と重なり、ロビーに客がチラホラといたからだ。

 しかし隼人は、額を床にこすり付けた。目的を果たすまでは、一ミリたりとも動くつもりはなかった。

「お願いします。詞を雇ってやってください。ほんとに優秀なんです、できる女なんです。詞を雇わないなんて、絶対後悔しますよ」

「なによ、こんどは強迫?」

 自分が責められているように感じて、フロントマネージャーはさらに不機嫌になった。

 ここに至って、詞も前に出てきた。プライドもなにもかなぐり捨てた結婚相手の捨て身の戦法に、自分も動かないわけにはいかないと腹をくくったのだ。

「お願いします。私を雇ってください。後悔はさせません。一生懸命に働きます。身を粉にして働きます。それと、隼人を出禁にしないでください。悪気はなかったんです。私が無理矢理彼を連れ出したんです。いかがわしいこともしていません」

 隼人のとなりで土下座しながら、痩せ細った身体から精いっぱいの声をしぼり出して懇願した。

「も、もう、やめてよ。これじゃあ、わたしが悪者みたいじゃないの」

 許してやれよ、と見物していた客から声があがった。フロントマネージャーがうろたえていた。

「わかった、わかった。とりあえず、社長に話をしておくから。でも、雇う雇わないの権限はわたしにはないからね」

「ありがとうございます」

「よろしくお願いします」

 社長との面接の結果、詞は採用となった。二人のいきさつを聞いて、自身も恋愛に苦労した経験をもつ女性社長は、最後は涙を流して承諾したのだ。しかも詞が国立大出身ということもあり、新人としては高めの賃金を設定してくれた。

 じっさい絢辻詞は、過去のどの新人よりも有能だった。予約の受付から部屋の割り当て、宴会の手配、リネン等の仕切りまでソツなくこなした。優等生な学級委員の実力をいかんなく発揮したのだ。最初は嫌っていたフロントマネージャーも、なにかと頼れる存在の詞に業務を任せるようになった。混雑時などは、詞がいないと仕事が回せないほどの活躍ぶりだった。そして、その力量は社長の耳にもよく届いていた。

 仕事に没頭し、空いた時間は隼人と一緒にいることにより、詞の精神状態は目に見えてよくなり体力も回復してきた。骨と皮だった身体にも肉が付きはじめ、年相応の均整がとれたスタイルとなった。もともとが美形なので、美人フロントとして客の受けもよかった。ものごしが柔らかく、それでいて気の強い一面もあり、くせのある上司と時には言い合いになりながらも、そのホテルには欠かせない人材となっていた。

 隼人はマイペースで仕事に励んでいた。客の入りは相変わずよくなかったが、それでも声をかけ続けた。詞の職場がすぐ近くなので、仕事に張り合いができ、営業スマイルも苦にならなかった。自分は一人ではないという気持ちが、彼の職業意欲をかき立ててていた。それは妻となる女性にも当てはまり、それぞれが相乗的に良い効果を発揮していた。隼人がドラムを叩くことはなかったが、代わりに詞がフルートを吹いた。下手くそではあったけれど、休日には重要な行事となっていた。

 一年ほどが経過し、二人は正式に夫婦となった。諸般の理由で式は挙げないつもりだったが、ホテルの社長が内輪だけでもと宴会場を用意してくれた。身内だけの小さな結婚式であったが、離婚した詞の両親と姉、隼人のほうからは両親と悠美と來未が来てくれた。とくに來未が二人のためにと歌ってくれた曲は皆の胸の奥まで浸透し、感動で涙を落とす者が多かった。田舎の温泉地での小さな結婚式であったが、二人にはかけがえのない思い出となった。

 そして、夫婦はあの古めかしいアパートを出て、木造の一軒家を借りた。なにかと完璧主義的な妻と鷹揚な夫であった。時にはケンカをして数日間は気まずくなることもあったが、いい夫婦としてともに歩んでいた。

 








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