木組みの街を訪れてから早数ヵ月。当初はどれもこれもが新鮮で、圧倒的で、もしかすると海外にでも来てしまったのかとさえ思っていたあの頃。道行く中にある街灯や屋台店、すれ違う現地の住民一人一人に魅力を感じざるを得ない程だった。が、人の慣れというのは恐ろしく、そのどれもが当たり前になっていって今ではすっかり一木組みの街の住民へと成り代わってしまった。
何というか、侘しいものがある。とはいえ、過ぎたことを一々気にしていても仕方がないというのも事実であり、人はそういう生き物なのだと言われればそれまでなのだ。ただの高校生に出来ることと言えば、勉学に励むだとか、バイトに明け暮れるだとか、若しくは大好きな人とイチャイチャしたりだとか。そういった高校生らしいこと必死になって楽しむだけ。人生云々について考えるにはまだまだ早いのである。そういうのは、もっとこう、大人になってからするべきだ。あの頃の
そう。結局のところ、今を大切に生きられればそれで良いのである。
「っていうのを考えてみたんだが、どうだリゼ?」
「奏斗……何だかじじくさいぞ、お前」
「えっ、嘘だろ」
相当自信があったのか、リゼの口から発された言葉にあからさまに肩を落とす奏斗。
現時刻は学校帰りの放課後、その道中。隣を歩くリゼは意にも介していない様子でお前らしくもない、と更に付け加えて言った。
「まぁでも、奏斗の言ってることは分からなくもないぞ?最近のココアなんかは見違えたよな」
前までは道に迷ってばっかりだったのに、と我が事のように微笑んでみせるリゼ。
確かに、今のココアは特に危なっかしい出来事にも遭っておらず、寧ろ順調なのではないかと思われる。ラビットハウスでの仕事も板に付いてきているようだし、ココアのあの性格からして学校生活について何か不安があるというわけでもないだろう。
「いや、アイツのことだ。どうせまたトラブルでも持ち込んでくるぞ」
「奏斗のココアに対する視点が垣間見えた気がする」
「お前だってそう思ってるだろ?」
ぐぬぬ、と押し黙ってしまうところを見るとどうやらリゼも心中ではトラブルメーカーな奴とでも思っていたらしい。改めてココアがどういう扱いをされているのかを確認した奏斗は、その不憫さからか無意識のうちに掌を合わせていた。
「そ、それはそれとして。奏斗は実家宛てに手紙とか書かないのか?」
「何だよ、藪から棒に。親父に書くことなんかこれっぽっちもないぞ」
「とんだ親不孝者じゃないか!?」
「最低限度として、あの裏切り者には業務連絡程度で良いと思ってる」
「奏斗の親父さんはお前に一体何をした!?」
未だ復讐の念消えず、という訳でもなく。ただ単に近況を報告すれば絶対に揶揄ってくるに違いないと思っただけのことだった。彼も自覚はしているが、何とも身の回りには女性が多い。当然、奏斗は沢山の女性と仲良くなった、などと報告するわけにはいかないのだが、そうせずとも父には知られているのが腹立たしいのである。皆もご存知の通り、奏斗を例のお嬢様学校に推した人物というのが彼なのだから。
悔しさからか、呆れからか再び肩を落とし大きな溜息を吐く奏斗。そんな事もいざ知らず、何か事情があるのだろうと純粋な気持ちでその様子を眺めていたリゼは無言のまま彼の背中をぽんと叩く。彼に向ける眼差しはまるで子をあやす母の如し。
「ほら、後でコーヒー淹れてやるから元気出せって」
「…?あ、ああ」
「ふふ、とっておきのを淹れるから覚悟しておけよ」
何か重大な勘違いをしている、奏斗はそう思った。
△
「チノちゃん、笑っ、て……」
「「何故こうなった」」
所変わってラビットハウス。涙ぐみながら何かを訴えるココアとツッコミを入れる奏斗とリゼの姿があった。
やはりラビットハウスで落ち着きながら優雅にコーヒーを飲むということは不可能らしく、これもまたやはり、ココアを起点とした愉快な出来事が起ころうとしていたのであった。
事の成り行きはこうだ。
ラビットハウスに着いた奏斗一行。先に帰宅していたチノとココアに出迎えられながら、ひと先ずは約束のコーヒーを頂こうと奏斗はカウンター席に座り、リゼは制服を着替えに店の奥へ。その間にココアとチノ、奏斗も交えて他愛もない世間話をするのだが――――恐らく、ここでこの店の静寂を破る決め手となったのだろう。奏斗はココアから実家に送る手紙を書いていること、そして一緒に送るための写真を撮っている最中だ、という話を聞く。
写真を撮らせてほしいと迫られたのでこれを快く受けた奏斗であったが、この時、ココアが思い出したように彼に一つの質問を投げ掛けたのだ。
「……奏斗君ってチノちゃんが笑ったところ、見たことある?」
狼狽えるチノ。質問の意図が分からず当然だ、と言いながら素直に頷く奏斗。口を大きく開けながら静止するココア。時既に遅し、といった様子で額に手をやるリゼ。
そこからの展開は凄まじかった。ココアはギラギラとした目をチノに向けながら、体感一時間、実に数十分に渡り笑って笑ってと懇願し続ける。そこまでして粘るココアは呆れを通り越して賞賛に値するが、頑なに拒み続けるチノもこれまた凄い。
「あの時のココアさんはまるで獣のような眼をしていました」
後にチノは語る。
そういった経緯があって冒頭に戻る訳なのだが、如何せんチノが笑わない。笑ったと思えばココアはパンの焼け具合を確かめに行っていたりなど間が悪く、遂に奏斗は運の悪さを指摘し始めた。
「私、今日の星座占いは一位だったよ!」
「ココアさん、占いなんて信じているんです?」
「コーヒー占いしてるチノちゃんが言ったらダメだろ」
情けない声をあげながら脱兎の如く逃げだしていくココアを尻目に、奏斗はすかさず抗議する。心なしかチノの頭に乗っているティッピーが悲しんでいる様にも見えたが敢えて見て見ぬふりをした。知らぬが仏、である。
「ほら、チノ。本当は恥ずかしいから照れてるだけなんだろ?」
いつの間にチノの背後に回っていたのか、そうチノに諭していたのはリゼだ。
擽ったら笑うだろー、と心底楽しそうな表情で横腹を中心に擽っている。一方チノは微かに身を強張らせ、身体を右往左往する細長くも力強い手にされるがまま、与えられる刺激に身を捩じらせ――――。
「リゼ、アウトだそれ」
「……ああ、私にはこれ以上は無理みたいだ」
直ぐさまチノから離れて自分の持ち場に戻っていくリゼ。あそこで踏みとどまれたのはリゼの類い稀なる忍耐力のおかげというべきか。いや、しかし。あれ以降続けていたとなると、もはや犯罪の匂いしかしない。とはいえ、奏斗にとっては眼福この上ない絵面であったのは間違いないのだ。一方的だったとはいえ二人の美少女が組んず解れつしていたのだから。
「奏斗さん…?どうかしましたか」
考えていたことがそのまま顔に表れていたのか、不思議そうに見上げてどうしたのか、と問うてくるチノ。奏斗は慌てて口許を押さえ顔を背けるものの、その行動が尚更疑惑を抱かせたのか更に近寄っては逃がさぬようきゅっと服の裾を掴んでくる。
「いや、何でもないぞ?」
「…むぅ、怪しいです。隠し事はよくありませんよっ」
「だから言ったろう、何でもないって。それに見てみろチノちゃん、リゼがニヤニヤしながらこっちを見てるぞ?」
奏斗に指摘され、はっと後ろを振り返るとリゼが何やら微笑ましい目で見ていることに気づく。
ニヤニヤしてたのはお前だろ、この変態!と奏斗がリゼに怒号を浴びせられているのも二の次に、自分のしていた行為を反芻していくうち、徐々に頬が熱くなるのを感じるチノ。そこに追い打ちをかけて、
閑話休題。いつしかほとぼりは冷めるもの。
ようやく落ち着いてきたラビットハウス店内に、これ以上一体何が来るというのか。いや来ない。
「千夜ちゃん連れてきたよ~、今からコントで笑わせるね!」
「本当に間が悪いなお前」
「千夜は仕事中じゃないのかそれ!?」
「ココアさん、空気読んでください」
「帰ってきて早々にこの言われ様っ!?」
上から順に奏斗、リゼ、チノ。リゼ以外は酷い言い草である。
「いきなりなんだけど、私のおばあちゃんには好きな食べ物があるらしいの」
「千夜は千夜でマイペースだ!?」
こうなるとここには法も秩序も存在しない。今この瞬間、ラビットハウスはココアと千夜の独壇場となる――――!
「でもその名前をちょっと忘れたらしくて…」
「あはは、おっちょこちょいさんなんだね」
「そうなの~、それでね?その食べ物っていうのが」
「お汁粉でしょ!」
「……正解~!」
「ちょっと待て」
思いも寄らない所でリゼが横槍を入れ、はてと首を傾げる
そもそも、こういった漫才は序盤に正解を示してはいけないのだ。この際、漫才として成立しているかどうかは置いておくが。
「……こういうのも、悪くないですね」
漫才とは何たるかを力説するリゼの声が響く中、ボソッと本音を零すチノ。
そこがまた不器用な彼女らしいというか、何というか。どうせならばココアの前で聞かせてやればいいのに、そう思うと同時に今この瞬間だけは目に焼き付けたい。そんな淡い願望を叶えるが為に奏斗はただ無言を貫き、新たなメンバーを迎え入れた漫才トリオのコントを静かに、それでいて笑顔で見つめるチノを穏やかな気持ちで見つめていたのであった。