『――ちゃ―!』
何処からか声が聞こえる。だが、自分は今凄く眠いんだ。その声を無視して眠りにつこうとする。
『――くお―て!!』
抵抗の意思を見せようとするが毛布を声の主にひったくられ、為す術なく自身の身体を暖めてくれた存在を失ってしまった。こうなってしまっては起きないという選択肢が無くなってしまったので仕方なくベットから降りる。
『おじちゃん!せっかく、あたしが遊びに来たのになんで寝てるのさ!!』
どうやら、小さなお姫様が直々に起こしに来てくれたらしい。自然と頬が緩む。さて、このお姫様に言い訳を言わせて貰おう。
『ああ、すまんな■■■。だがな、これには物凄く底が見えない程の深ぁーーい訳があってだな…』
『もう、そんな事言って。誤魔化されないんだからね』
フンスッ!と胸を張っている姿は可愛らしい。さて、困ったな。自分の頭を掻きながら反対の手で■■■の頭を撫でる。適当に言い訳を考える。
〔設定……たプログラム……り、……状態を解除……す〕
それから、■■■になんて言い訳をしたのだろうか。
〔おは……ご…います。貴方……目覚めが良いもので……ます…うに〕
その酷くノイズ混じりな機械音声を聞き終わると同時に、視界が暗転した。
・ ・ ・ ・
何かの音で、目を覚ました。痛む身体を起こし、自分の入っていたであろうカプセル?の中から降り、自分が寝ていた部屋から廊下にあたる通路を歩きながら、あるかも分からない出口目指す。通路は薄暗く、明かりが僅かに灯っていることが確認できた。ボンヤリと働かない頭をなんとか動かし、運動不足なのか何度も転びそうになる。声を出そうにも喉からはガラガラな声しか出ない。暫く歩き続け、出口と思われる一つだけ大きな扉を見つけた。しかし、回路が繋がれていないのか近くにある開閉ボタンを押してもビクともしないが、どうやら完全に閉じられている訳ではなく隙間が空いていた。その隙間に無理矢理自分の身体を押し込み、やっとの思いで外に出ることが出来た。
「………ぅ」
外に出た瞬間、暗い所にいたせいか陽の光が眩しすぎて思わず顔を顰めた。少しして、目が慣れてきてから辺りを見渡すとそこには美しい銀世界があった。
「……おぉぅ」
と感動して漸く声を出せるようになった事を確認。身体を解しながら、深呼吸を数回繰り返す。意を決して歩き始めた。
「――ヘックシ!」
歩き始めて暫く経ち、ザクザクと雪を踏む足音を聞きながら足をひたすら動かす。裸足で歩いているため酷く痛む。それに、今着ている服……というには少々疑問に思うがこの際もう服でいいだろう。生地が薄く、それしか着込んでいないこともあり急激に冷え込む身体を何とか暖めようと腕をさする。気休め程度だが、少し和らいだ気がした。
「……何処なんだ?ここは…」
周囲を見るが隙間なく木々が立ち並び、まるで包み込んでいるかのようだ。雪がちらつき、まるでここだけ現実の世界じゃないみたいだ。
(さ、寒いなんて次元じゃない。このままだと、比喩抜きで氷漬けになってしまう!自業自得だが、安易に外に出るんじゃなかった!)
戻ろうにも、来た道を覚えておらず、どの道を戻ればいいのか分からないでいた。
(確実に遭難してしまった。この場合、無理に動こうとせずにこの場にとどまればいいのだが……)
しかし、それには一つの条件がある。
「はたして、自分を探している者がいるのか……」
当然、今の現状を見るにいないだろう。希望的観測も早々に無くなり、肩をガックシと落とす。ため息を心の中でつきながら考える。
(自分がどうしてあそこにいたのかも分からない状況で救助を期待するなんてしない方がいい。そうなると、危険の上でこの場から動いた方がいいな。幸い、まだ明るい。暗くなる前に移動しよう)
一歩前へと歩いた瞬間、背中に悪寒が走る。突然のことにその場に突っ立ってしまう。冷汗が頬を伝った。
(な、何だ?さっきのは……)
言いようのない不安に駆られたが、落ち着こうと息を吸おうとした時、近くから大きな音が聞こえた。
「うぅわぁああ!!」
音の正体が鳥である事に気付き、ほっと息を吐いた。
「……鳥……か………驚かすなよな……」
鳥たちは何かに怯えるように鳴き喚いている。
「……やけに騒がしいな」
何やら様子のおかしい鳥たちを見上げていると、ゾクリっと悪寒が走り、息を吞んだ。得体の知れないナニカに睨まれているような気分になる。
(…またか……一体何だというんだ)
視線を感じる方向を見る。すると、木々の間から大きな黒い物体を見つけた。その物体は大きく、全体的に黒い毛に覆われ2つの赤い点を見つけた。それが目だとわかった瞬間、身体が勝手に動き駆け出した。
(不味い!目が合った!!)
あの瞳には確実に敵意や殺意があった。あのままなにもせず突っ立っていたなら自分は瞬きする間にもう此の世にはいなかっただろう。そう確信させる何かがあの瞳から読み取れた。
(ゆ、夢だ!それか幻!もしくは仮想空間!こんな馬鹿でかい熊の様なものなんぞ現実にいるわけがないだろう!?)
息を切らしながらけれどもペースを落とさず走る。一直線に走るのは愚行である為、気休めだが右へ左へジグザグになって走る。
(とにかく、逃げなければ!少しでもペースを落としてみろ、喰われてしまう!!)
少しでも距離を取ろうと一心不乱になりながら走り続ける。
「ガルルルルルウゥゥウァァア!」
その時、轟々と力強い獣の咆哮が鳴り響いた。その行為は獲物を見つけ、今から狩るための宣言をしているかのように感じ取れた。そして、自分以外の足音の他にズシリと重い足音が真後ろに聴こえてきた。振り向かず、草木をかき分け木々の間を通りなりふり構わず走り続けた。数分あるいは数十分走っただろうか。何度目かの草木をかき分け、見た光景に思わず顔を引き攣った。
「クソッ!行き止まりか!」
その先に道はなく、あるのは憎らしいほどの絶景とも言える景色だった。まさに断崖絶壁。下を確認するが少なくとも落ちたら良くて重症、悪くて死亡と言った所だろう。他の逃げ道を探そうにもすぐ近くに獣の息遣いが聞こえる。後ろを振り返ると……居た。まるで小さな山の様に大きな体を四つの足で支え、口を大きく開け鋭い牙が前歯から奥歯まで見えており端から涎が溢れている。
(ここで………終わりなのか?)
向こうも学習したのか赤い瞳は此方を見ながらじわじわと近寄ってくる。それに気圧され、一歩後ずさる。崖の先端が崩れたのだろう、体が重力に従いゆっくりと下へと落下した。突然の事に理解が出来ず、やっと脳の処理が追いついた頃には驚いて叫んでいた。
「う、うわあぁぁぁぁああぁあぁ!!」
そうしている間にも地面との距離が縮んでいき、何とか受け身を取ろうとしている間に地面と接触した。大きな衝撃に耐える暇などなく、肺から空気が一気に抜け、全身からの痛みに耐えられずそのまま気を失った。
・ ・ ・ ・
頭が割れるように痛む。呼吸をする動作をするだけで、胸の奥が燃えるように熱く爛れる。だが、指の一本動かせない我が身はただただこの苦しみから解放されたいと願い続けるしかない。
「ア……ツイ」
「――――です」
その時、声が聞こえた。その声はまるですべてを包み込み、永久の安らぎを与えてくれるような。そんな、優しくも慈愛のある声だ。
「……ココ……ハ…」
「―丈夫ですから。お身体に障りますので、余り動かないでください」
聞き間違いなどではなく、今度ははっきりとに聞こえた。
「大丈夫です。私が傍にいますからね?もし、それでも不安に思うのでしたら手を貸してください」
声に導かれるように、なんとか手を差し出す。彼女はそっと自分の手を包み込むように握ると、微笑んだ。その笑顔を薄目で見た自分はなぜだか、ひどく安心して身を預けるように眠りについた。
・ ・ ・ ・
微かに香る薬品の匂いで目が覚める。何がどうなったか知らないがどうやら助かったらしい。
(ココは……自分ハ、確か)
(馬鹿でかい怪物に……襲われテ…崖カら……落チ…………て)
その後のことを思い出そうとするが、思い出すことが出来ない。意識がハッキリとしない頭では到底状況の整理などできようもなかった。
「ッ――!!」
身体を動かそうとすると電流が走ったような痛みで顔が歪む。
(まダ……痛ムが………動け…ル)
動かす度に痛む身体に鞭を打ちながら壁を背におぼつかない足取りで歩く。外の状況を確かめるべく、出口を目指し歩を進める。
(なン…だ?………痛ミ…が……和らいデ…いる…ノか……?)
先程よりも痛むことのない身体に驚きつつ、外へとでる。
(何処……なノだろウか?………ココは)
雪が降りしきり、息を吐くたびに白くなる。分厚くうす暗い雲を見やる。どうやら今まで起きた出来事は夢幻の類ではなかったらしい。
(ああ……気持ちノ…いい)
まとまらない頭を穏やかな吹雪が顔にあたりヒンヤリと熱をゆっくり覚ましてくれている。少しの間、このままでいようと立ち止まる。
「えっ?」
ふと、困惑した声が聞こえた。そちらの方に身体を向けると、少女がいた。
「そ、その、まだ動いたらダメですよ。傷口が塞がってませんし、そのままですと、本当に危険ですから」
「いや…もウ……大丈夫ダ…」
「大丈夫なわけがないじゃないですか。まだ完治もしていないのに」
「……しかシ」
「心配なんです。貴方の事が」
「だが……迷惑になってシ…まう…」
「迷惑と思っているのでしたら、安静にしてください」
「…………」
「お願いですから、戻りましょう。肩に掴まっていてくださいね」
消え入りそうな少女の言葉に従い肩を借りながら寝ていた場所まで戻る。少女はテキパキと自分を寝かせて看病してくれている。
「すマない」
小さく呟くように口にした謝罪はどうやら少女に届いていたらしい。困ったように眉を下げて、優しい笑みを浮かべていた。
「謝ってほしいわけじゃないです」
「そうカ…」
「謝られるよりも、ありがとうってお礼を言ってほしいです。そっちの方が嬉しいですから」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
「君が…自分を?」
「いえ、手当てをしたのはリーアスさんで私は何もしてないんです」
「それでも、今は君に助けられている。ありがとう……本当に」
そう言うと少女の頬は少し赤みを帯び、落ち着きなく動いていたのが噓のように固まった。数秒、気まずい空気が漂う。
「……君の名前を教えてくれないか?」
「そう言えば、まだ名乗っていませんでしたね。私の名前はアマネと言います、貴方のお名前はなんて言うんですか?」
「自分の名前は……」
「はい」
「自分の……名前ハ…」
「どうしました?」
「自分ハ……」
少女、アマネに尋ねられ答えようとした時、頭にモヤがかかったような感じがした。自分の名前が分からない。今まで何をして生きてきたのか、家族や友人はいたのか思い出そうとすると鋭い痛みが走り頭を抱える。何も覚えていない。その事実を認識すると焦燥と恐怖でごちゃ混ぜになった。
「自分は、誰なんだ?」
「へ?」
「思い…出せないんだ。自分が何者でどんな名前だったのかも……」
「そんな…」
アマネが言葉を失っていると戸を開ける音が聞こえた。
「おや、目が覚めたんだね」
「長おさ!」
「アマネが居なくなったとリーアスから聞いてね。もしかしてと思って来てみたんだが……彼は一体どうしたんだい?」
「それが……」
長と呼ばれる人に何やら話し込んでいる間、軽い放心状態でにあった。
「ふむ、酷な話だが失った記憶はいつ思い出すかも分からない」
「そんな……」
「今はまだ、休んだ方がいいだろう。話はその後にでもできることだ」
「…そうですね」
「自分…は…」
「なに、あまり落ち込む事は無い。そのうち思い出すかもしれないからね。今は身体を治すことに専念するといい」
「………わかりました」
「明日またここに来るとしよう。行こうか、アマネ」
「はい。また来ますので」
「ああ…」
「それでは、お休みなさい」
・ ・ ・ ・
激痛が走り、強制的に目が覚める。
「……痛…ゥ」
辺りを見渡すが、どうやらここには自分しかいないようだ。痛みに悶えていると足音が聞こえてきた。
「まだ、痛みますか?」
「ああ…」
「少し汚れていますから拭きますね」
水が張った桶に布を浸し自分の顔を拭う。暫くして、身体の調子も全快とは言えないがだいぶ良くなってきた。
「良かった。顔色も良くなってきていますし、体調も安定してきています」
「随分と世話になってしまったな」
「助け合うのが大切なことだと教わりましたので」
「それは、いい教えだ」
上半身だけ起き上がり、軽く動かしてみるが痛みは前ほどない。どこかに出歩く分には大丈夫だろう。
「もう、平気だ。心配をかけたな」
「………出歩くなんてダメですからね」
まるでこちらの行動を先読みしているかの如くピシャリと言い放った。
「ほ、本当だぞ?それにだな、いつまでも世話になりっぱなしでは流石に居心地が悪いというか…」
「……それで傷でも開いたらどうするんですか?」
(痛いところを突いてくる…)
恨めし気に視線を送るとぷいっと顔を逸らされる。このままでは最悪数日間何もできない。何もしないというのは願ってもない事だが、こちらもここまで世話になっている手前、居たたまれない。せめてここのお偉いさんに礼でも言っときたいところなのだが……。
「昨日より元気そうで何よりだ」
「貴方は確か…」
「名乗るのが遅れてしまい申し訳ない。私はモルネアという、ここの長だが、名ばかりでね。ただの老いぼれに過ぎないさ」
そう言って穏やかに微笑む長と名乗る老人……ではなくモルネアさん。挨拶を程々にかわし、礼を口にする。
「見ず知らずの自分を助けてくださり、感謝します」
「私はただ了承したに過ぎない。礼はリーアスかアマネに言ってくれ」
「…しかし」
「それでもと言うのなら、自分の足で礼を言いに行くといい」
「!!」
驚くアマネと戸惑う自分にまるでいたずらに成功したかのように静かに笑うモルネアさん。
「歳をとると耳が遠くなってしまうと聞くのだが、どうやら私は例外なのかもしれないね。気を悪くしてしまったなら申し訳ない」
「自分はまだ、何も返せていませんから」
「…私は反対です」
「いい返事だ。彼が心配ならば、アマネ。お前が彼の監視役になって無茶をしないように見張るといい。また倒れでもしたら大変だからね」
「……へ?」
「アマネ、頼んだよ」
モルネアさんの言葉に顔を赤くし、慌ただしくなるアマネから身体ごと自分へと向き一つ咳をして話し始めた。
「さて、出歩くのはいいがその裸同然では行くに行けないだろう?」
言われて気付く。薄着に隠れているが身体の至る所に包帯が巻かれている。衣服らしい物を何一つ身に着けていない状態であった。
「そのままだと寒いだろう。息子の古着を持ってきているんだが、君がいいのなら着ていきなさい」
「いいんですか?」
「ああ、もう随分と使われていなくてね。多少汚れているが、気にしないでくれ」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「なに、困った時は助け合いさ。アマネ、彼の着付けを手伝ってくれ」
「はい」
立ち上がり、両手を上げモルネアさんとアマネの二人に着付けをさせてもらう。最後の帯をアマネが結び、離れる。着込んだ姿を見た二人は満足そうにしていた。
「少々背丈が合わないかと心配だったが、これなら安心だ」
「それでは、自分はもう行きます」
「ああ、行ってきなさい。くれぐれも体には気を付けるんだよ。それとアマネ、彼のことを頼んだよ」
「無理しないようにしっかりと見ておきます」
「ああ、しっかりと頼んだよ」
アマネに支えてもらい立ち上がり、玄関の扉を開けようとして、モルネアさんに呼び止められる。
「呼び止めてすまないね」
「いえ。どうしたんですか?」
「君の名前だよ」
「自分の?」
「ああ。君の名前はコハク。これからはそう名乗りなさい」
「……はい」
「これで貴方の名前を呼べますね、コハクさん!」
アマネから自分の名前を呼ばれる。胸の奥からじんわりと温かな想いが溢れるようなものを感じた。
「ありがとうございます、モルネアさん」
「気に入ってもらえて何よりだ。くれぐれも無茶をしないようにね」
「ええ、分かっています」
「本当ですか?」
アマネの言葉に苦笑いを浮かべながら頷き、村の探索を開始した。
・ ・ ・ ・
雪が降り積もる緩やかな坂をゆったりと歩く。そこでふとアマネの耳に目がいった。人の耳にしては尖っている。俗に言うエルフ耳と言うやつだ。今更になって気付いたのだがコスプレなのだろうか?しかし、ピコピコと僅かに動くその耳はコスプレにしても少し不自然だと感じてしまう。そんな光景を見ている内に、触りたいという欲求と触れては駄目だと思う理性とが頭の中で揺れ動いていた。
「今日はいい天気ですねぇ」
(コスプレ…にしては自然すぎる。まさか、本物なのか?)
「どうしました?まだどこか痛むんですか?」
「いや、なんでもない」
「……ならいいんですけど」
「それにしても、支えてくれるのはいいが、疲れるだろう?」
「そんな事ないですよ。それに、私は見た目程か弱くありませんので」
「そうか、ならいいんだが」
チラッとまた盗み見る。ピコピコと耳が動く。触りたくてウズウズする。そして、また見る、動く、ウズウズするのを何回か繰り返した時。ついに、好奇心に勝てずそっと彼女の耳を優しく触れる。
「ふぁぁ……いやッ!」
ビクンッ!と体全体が震え、顔を赤く染め蕩けきった顔をしたかと思えば、軽く自分を突き飛ばした。
「……あっ」
受け身が取れず、思わず尻もちを着いてしまう。ハッと我に返ったアマネが慌てて近寄ってくるのを見て意地の悪い笑みを浮かべる。
「確かに、見た目程か弱くはないな」
「もう!急に女の子の耳を触るからですよ!」
「…本物だったのか」
「なに…言ってるんですか?」
「うん?いや、深い意味は無いんだ」
「そう、ですか」
戸惑いながら自分を見つめるアマネ。咄嗟にでた言葉で誤魔化し、服に着いた汚れを手では叩いて落としながら立ち上がり、再び歩き出したが、気まずい空気に耐えられなくなり、謝罪する。
(まさか、付け耳なのではなく本物の耳とはな……不思議な事もあるもんだな)
「その、だな。急に触って悪かった」
「もういいです。ですが、特に女性にはさっきと同じことをしないでくださいね?」
「や、約束する。もう触らない」
「ならいいんですけど。ただ…」
「ただ?」
「……いえ、なんでもありません」
アマネがなにか言いかけたのか気になるが、触らぬ神に祟りなし。これ以上詮索するのはやめておこう。ゆっくりと坂を降りているとアマネが息を切らしていた。
(大の大人を一人で支えているんだ。そりゃ疲れても仕方がないか…)
「アマネ、そろそろ休もうか」
「お疲れでしたか?」
「いや、自分はこの通りピンピンしてる。アマネの方が疲れているんじゃないかと思ってな」
「私はまだまだ大丈夫です」
「辛くなったら言うんだぞ?」
「はい!」
(うーむ、こいつは勘だが自分が言わんと休まないぞ。ここいらで何処か一息つきたいもんだが……)
休めるような場所を探していると遠くからアマネを呼ぶ声が聞こえてきた。
「おーうい!!」
「オロスさん」
「アマネ!………っと誰だ、あんた?」
(何だ?この感覚…まるで自分を通して別の何かを見ているような…)
「このヒトはこの前の」
「…うん?………ああ!」
訝し気にこちらを見ていた男は少し考えた後、思い出したかのように手を叩いて大きな声を上げた。
「いやー忘れちまってたぜ。兄ちゃんが大きな怪我で運ばれてきったていう?」
「そうですよ」
「そうかそうか、俺はオロスっつうんだ。よろしくな!」
「こちらこそよろしくお願いします」
「おう!」
「オロスさん、仕事は終わったんですか?」
「おうさ…と言いてぇとこだが腹が減っちまって仕事になんねえよ」
ガッハッハッと豪快に笑うオロスさんに呆れ顔でため息を吐くアマネ。オロスさんは斧を肩に担ぎながら、片手で腹を擦る。
「真面目にやっているのかと思って来てみたら、アンタ!!また仕事サボって何してるんだい!」
「げぇ、母ちゃん!」
「リーアスさん」
「おや、アマネじゃないか。ちゃんとあたしが言った事を守ってるかい?」
「はい!」
「ならばよろしい。ところで、どこに行こうってんだい?」
「ちょ、ちょいと仕事に行こうと……」
そっと逃げようとしていたオロスさんは引き止められると顔を引き攣らせそっと顔をそむける。そんな態度に女性はにこやかに、しかし額に青筋を浮かべ、肩を振るわせながら思い切りオロスさんの耳を引っ張った。
「いっっででででで!!!痛てぇよ!母ちゃん!」
「あんたがちゃんと仕事してれば、アタシもこんな事する必要はないんだよ!」
「そ、そんな事言ったってよォ」
「あ”?」
「なんでも…ナイデス」
凄まれてカタコトになるオロスさんを見ながら、この女性を怒らせるのはやめておこうと思う。鼻を鳴らしながら、乱暴にオロスさんの耳を離した。痛いのか、涙目になりながらオロスさんは耳を擦っている。女性はオロスさんに目もくれず、キッと自分を睨んだ。
「あんたがこの前の?あたしはリーアスってんだ。見ての通り隣にいる馬鹿の妻さ」
「ひっでぇよ、母ちゃん!」
「事実を言ったまでさ。それとも、何か間違った事でも言ったかい?」
「ぐっ、間違っちゃねぇけどよォ…」
「ならいいじゃないか。それと、本来ならまだ動いていいだなんて口が裂けても言えやしないんだけどね。長に感謝するんだね」
「貴方達には感謝してもしきれないですが、リーアスさん、貴女が自分を治療してくれたとアマネから聞きました。改めてありがとうございます」
「…いいさね。元々、アタシが好きでやった事さ」
「んな事言ってェっけど、素直になれないヒトなんだよ。うちの母ちゃんは……」
「言い残すことは、それでいいんだね?」
「いぃぃっっっっでででででででぇぇ!!!」
「さてと、アタシ達はもう行くよ。それにしても、あんなに奥手だったアマネがこんなにも積極的になるなんてねぇ」
「………はえ?」
リーアスさんはまた乱暴にオロスさんの耳を引っ張り、引きずるように去っていった。オロスさんが可哀そうだと思いながら苦笑いを浮かべてオロス夫妻を見送る。ふと、アマネの方を見ると目をパチパチと瞬きをして、自分の顔と支えてもらっている肩を交互に見た後に顔を真っ赤にしながらピコピコと耳が激しく動いている。
「………うぇぇっと…その、あの、ち、違うんです!け、決してそう言うことでは無いんです!」
「どうした?もう、リーアスさん達はいないが…」
「あぅぅぅ…」
湯気が出そうなほど赤い顔を手で隠しながら、なにやら唸っている。
(もしや、ひどく疲れてしまったか……なら、早く休まないとな)
「この辺りに休める場所を知ってるか?」
「……は、はい」
「すまんが、案内をお願いしてもいいか?」
「ま、任せてください!」
その場から離れ、少し歩いた先には付近には小川が流れる場所にたどり着いた。ちょうどいい木にもたれ掛かりながら座る。ふとアマネを見ると、彼女は申し訳なさそうにしていた。
「どこか痛みませんか?」
「いや、少しだけ疲れただけだ」
「私が無理をさせたんじゃ」
「自分の意志で歩いてきたんだ。だから、アマネのせいじゃない」
「でも…」
「自分は大丈夫だ。だから、アマネが気に病むことは無いぞ?」
「…分かりました。では、ここでひと休みしたら家に戻りますよ」
「ああ、分かった」
目を瞑り、ひと息つく。そうするだけで疲れが取れるのを実感した。暫くの間そうしていると、すぐ近くに犬の様な荒い息遣いが聞こえてきたのでそっと目を開けると、そこには視界いっぱいに白い毛を纏った生き物がいた。それは段々と数が増え、自分の腹や肩に埋もれる様に顔を擦り寄せてきた。突然の状況に何が何だか分からず軽くパニック状態に陥った。
「な、何なんだこの生き物は! ?」
「この子達はガルフと言って、私達と生活を共にしているんです。主に狩猟のお供をしたり警備の手伝いなどしてくれるヒトを襲わない子達なんですよ」
(ほ、本当なのか?信じていいんだろうな!!)
アマネは近くにいるガルフを優しく撫でながら説明してくれた。その説明を聞き、わちゃわちゃと自分の周りにいる沢山のガルフの一匹を恐る恐る撫でる。すると、勢いを増してこちらにすり寄ってくる。
「なぜ、自分の周りに集まってきているんだ?……これが、普通なのか!?」
「普段ならそんな風にならないんですが、もしかしたらコハクさんは懐きやすい体質なのかもしれませんね」
「嬉しいような、悲しいような…」
なんとかして、このもふもふの塊から脱出しようと考えていると突然、周りにいるガルフ達がピタッと動きが止まり去っていった。ほっと息を吐き、去っていった方向を見ると大柄な男がいた。
ガルフ達に何かを言い終えると、此方に近づいてくる。心なしか、ガルフ達が申し訳なさそうにしているように見えた。
男は、眉間に皺を寄せて口を開いた。腰を下ろし、目線が合う。綺麗な
「…彼らが、困らせた……申し訳ない」
「いや、驚いただけで何かしてきたという訳ではない。だから、謝らなくて大丈夫だ」
「ムッ……感謝する」
(感謝される事を言ったわけでもないんだがな…)
「……」
口元を歪め、笑みを作ったかと思えば、すぐに口を横一文字に閉じ何やら考え込んでいる。話しかけられない雰囲気に困っていると、アマネが助け舟を出してくれた。
「ええと、コハクさん。この人が貴方をこの村まで運んでくださったムーさんです。運ぶのがあと少しでも遅かったら死んでいたかもしれないってリーアスさんがおしゃっていたほどに危険だったんですよ」
「そうだったのか。ありがとう、あんたのおかげで自分は今を生きていられている」
「……礼など…不要だ。無事なら、それでいい」
「ムーさん、コハクさんは今日からここの住人になるので、これから色々とここの事を教えていきましょうね」
「……ああ、勿論だ」
「教えてくれるのはありがたいが過度な期待は止めてくれ、緊張で押しつぶされてしまうからな」
自分の言葉に、アマネは楽し気に、ムーは静かに笑った。穏やかな雰囲気が辺りを包んだ。
「そうだ」と自分は疑問に思ったことを二人に話す。
(まるで、ムーの言葉を理解しているように見えたが)
「さっき、そのガルフ達に何か話していただろう?あれは、理解を示しているように見えたが意思疎通が出来るものなのか……」
「いえ、彼らと意思疎通が出来るのはムーさんしかいません」
(ムーにしかできないだって……一体どういうことなんだ?)
「……ムーにしか?」
自分の疑問にアマネは頷き、その理由について説明し始めた。
「はい。ムーさんは
「
「
「……
ムーはそう言ってガルフを撫でた。その顔は優しく、どこか儚げな笑みを浮かべている。アマネは悲し気な顔をして、ムーを見つめ、こちらに振り替える頃には悲し気な顔は笑みを作っていた。
「つまりですね、ムーさんは物凄いヒトなんです。私の説明で少しでも伝わっていると良いんですけど……」
「十分に伝わっているさ。自然を大事にし、ガルフ達を敬愛してる少し無口で心優しい漢だってことがな」
「本当ですか!嬉しいです。ね、ムーさん!」
「……ぁぁ」
自分とアマネのべた褒めに余り褒められ慣れていなくたじろいでいるのか、はたまた、恥ずかしがっているのか少し朱に染めた頬で小声で同意をするムーにアマネが更に褒めていると、ガルフがムーの袖をクイックイッと引っ張った。
「……時間か」
「時間?何か、あるのか?」
「ムーさんは毎日、この村周辺の見回りをされているんですよ」
「……ああ……彼らと、共にな」
「そっか。久しぶりに、ムーさんとこんなに長く話をしたから、気付かなかったや」
「…そう、だったか」
「そうですよ」
「ムッ……行って、くる」
「ええ、行ってらっしゃい。気を付けて」
そう言って、ムーを見送ったアマネ。所々口調が崩れていたが、あれが本来の彼女の喋り方なのだろう。楽しげに話す彼女に見ているこっちも自然と笑みが零れた。
「では、私たちも帰りましょうか。歩けますか?」
「十分休めたから、また歩けるさ」
「行きましょうか」
「ああ」
またアマネに支えてもらいながら、結構、歩いてきたのだと思いながら景色を見ていると突然、「あっ」とアマネが声を上げた。
「実は、当分は貴方の面倒を見てくれと頼まれていまして……それで、その…」
「言いにくい事なら、無理に言わなくていいだぞ?」
何やら、言いにくそうにしているアマネにそう言うと
「その、ですね。『今は空き家がなく、診療所もいつも空いているわけではないから暫くはアマネの家で暮らしなさい』と長がですね…」
(ああ、なるほど)
合点がいった。確かに、素性がわからない男と一緒にいても、アマネからしたら気分のいい話ではないだろう。それに、アマネの家族にも多大な迷惑をかけてしまう。
「自分がいると、迷惑になるだろう?今からでも遅くはないかもしれん。ここはモルネアさんに話して……」
「迷惑じゃ、ないです!!」
「そう…か」
「あっ……す、すいません。急に大きな声を出してしまって」
「いいんだ。自分も知らぬ間に、意地の悪いことを言ってしまったらしい」
「コハクさんは何も…」
(そんな顔をさせたくはなかったんだがな……)
女の子を困らせてはいけないと心に決めていたんだが……いかんな、自分はまた、困らせてしまったのか。また、どやされてしまう。
「はい!これから、よろしくお願いします!」
「こちら頼む」
それからアマネの家にたどり着く道中、自分はアマネの他に家族はいるのか聞いた。見知らぬ男性とこれから住むことになるんだ、いろいろと不安になるだろう。
「両親は早くに亡くしました。今は妹と二人で住まわせて貰っています。そ、その妹の事なんですが……少し……と言うより極度の人見知りでして。もしかしたら、不快な思いをされるかもしれません」
「自分はそのくらいで不快に思う事は無いから、安心してくれ」
「そうですか?なら、良かったです」
「その子の名前は?」
「ミノリって言うんです、とっても優しくて素直ないい子なんです。ですから、きっと仲良くなれますよ」
「それは、頑張らないとな」
アマネより一回り小さい少女というにはまだ幼さが残る彼女は物陰に身を隠しながら物珍し気に自分をじーっと見つめている。
「ミノリ、お出迎えありがとう」
「……ん」
「紹介しますね。コハクさん、この子が妹のミノリです。ミノリ、この人がこれからしばらくの間だけど住むことになったコハクさん」
「これからはここで暫くだが世話になる身になった。よろしくな」
上からでは怖いだろうと思い、屈んでその気だるげな目を合わせると瞬間、ピクリ反応したかと思えば、すぐさま部屋の奥へと消えてしまった。聞いてはいたが、仲良くなるには骨が折れそうだ。
「……行ってしまったか」
(こうなることは想定していたが……中々堪えるものがあるな)
「すみません」
「いいんだ。見知らぬ大人というのは、子供にとって怖いもんだ」
不安そうに眉を八の字にしているアマネにそう言って、彼女を安心させるように微笑みながら「だから」と言葉を続ける。
「これから知ってもらえばいい。自分の事を、少しずつ」
「…そうですね!」
「とは言ったものの、自分はまだこの村のことも、村の人たちのことも、君達のことも知らないのだがな」
「お互いに少しずつ、ですね」
「そうだな」
そこで一旦話を区切り、支えてもらいながら居間に着く。適当な場所に座り一息つくと、アマネが夕食の支度をし始めた。
「ゆっくり寛いでくださいね」
「ああ」
「今日の夕餉はシノリカのお肉を煮詰めたものです。他にも山菜など用意してあるので腕によりをかけて作ります!」
「楽しみにしている」
言われた通り寛いでいると奥の方でガタガタッと物音がしたのでそちらに顔を向けると、扉に隠れているミノリがいた。チラッと自分を見ると目が合うと、サッと隠れてしまう。その一連の警戒しているのか興味があるのか分からない行動に何だか可愛らしいなと思いながら夕食を待つ。待っている間暇なので、ここら辺の事を聞こうとアマネに話しかけた。
「それにしても、いつの間にか吹雪が降り始めてきたな。いつもそうなのか?」
「はい。ここは雪が降りやすく、日が傾きやすいので家で過ごすことが多いんです。ですから、ある程度の蓄えをしながら生活しているんです」
「なるほど」
「その蓄えもあまり多くはないのですが……」
「なにかあるのか?」
「実は、この周辺を治めているセキノツという國にその月の半分以上の蓄えを納めるよう言われているんです」
「……納税か。だが、ここの村は見た限りではあるが余り裕福とは言えないと思うが…」
「はい。最近は更に納める量も増えてきていまして、このままだと納めることも難しくなってしまいます」
「そこまで増やすものでもないだろうに」
「それでも、私たちには納めるしかないので」
何か言ってやりたいが、未だ部外者に等しい自分の言葉では慰めにも一時の気休めにもならないだろう。それが解っているから何も言えない自分がもどかしくなる。
「……っと夕餉が出来ました。今、そちらに運びますね」
話を終わらせるように話題を夕食に変えたので、自分もその話題に乗っかる。
「これは、美味しそうだ」
「味は保証しますので、安心して食べてくださいね」
そう言って、食卓に少し豪華な料理が並べられた。その香りに釣れられたのか、隠れていたミノリが眼を輝かせ開いた口から涎が出ていることを気にした素振りを見せること無く行儀良く座る。時折、ソワソワと身体を左右に動かしているがよほど食べたいのだろう。
「…ミノリ?まだお祈りしてないから、食べちゃ駄目だからね」
「ん!我慢する」
「お祈り?」
「自然の恵みを与えてくれるこの大地に感謝をするお祈りです。古くからこの地に根付いている儀式……のようなものです」
「おねぇちゃん、早く」
「もう、せっかちなんだから」
ミノリの急かす声にアマネは咳払いをする。背筋を正し胸に近い位置で手を組み、目を閉じた。
「雄大なる自然よ、母なる大地よ。我らに恵みを与えたもう偉大なる
そこまで言い切ると、少し間をおいて
「深く喜び、ありがたくいただきます」
とお祈りを締めくくった。瞬間、アマネの隣にいるミノリが目にも留まらぬ速さで口に料理を突っ込んでいる。余りの速さに唖然としていたがその光景が当たり前なのかアマネは黙々と料理を口に運んでいる。それに見習い、自分も料理を口に運んだ。
「――美味い」
「お口に合って良かったです」
この美味さを言語化して説明できるような言葉が思い浮かばない自分が恨めしくなる程に。自然と食べる手が早くなる。アマネの隣でさっきまで食事を口に頬張るだけ口に運んでいたミノリが喉を詰まらせてしまい、ミノリに気付いたアマネがそっと背中をさすりながらミノリに水を飲ませた。
「食べ物は逃げないからゆっくり食べなさいっていつも言ってるでしょ?」
「……美味しいから」
「もう!美味しいって言ってくれるのは嬉しいけど、ミノリはお姉ちゃんとの約束は守れないの?」
「…ん。これから気を付ける」
「本当?約束守れる?」
「…約束する」
「なら、いいの」
そんな姉妹の和やかな雰囲気を感じていると、何やらミノリがじっとまるで捕食者の目で自分のまだ食べている料理を見てきた。彼女はまだ、お腹が空いているのだろうか?
「まだ、腹が減ってるのか?」
「!!っ……ん」
「もし良かったらなんだが、半分いるか?」
「…いいの?」
「ああ。自分はもう腹がいっぱいで食べれそうにないからな」
「………ありがと」
「どういたしまして」
なんとかミノリと話すことが出来て安堵した。嫌われているわけではなさそうだ。もっとも、それが自分の勘違いであるならば別だが。
「あの、コハクさん」
「ん?」
「ありがとうございます。あの子も喜んでいました」
「そりゃ、良かった」
「それとですね、あまり気を遣は無くていいんですよ」
(バレていたか……)
「そうか。気を遣うだろうと思い、自分なりに接していたつもりだったがまさか、逆に気を遣われていたとはな」
「不快に思ってしまったのなら謝ります」
「いや、此方こそすまなかった。ここに住むとなっているのにずっと堅苦しいままでは息も詰まるというものだ」
「ではっ」
「いつまで経ってもよそよそしくてはいかんからな。これからよろしく頼む」
「ふふ、頼まれました!」
・ ・ ・ ・
食事を食べ終わり、片づけを手伝いながら暫くしてミノリがコクコクと舟をこいでいたので、寝床に入ることになった。アマネは休んでいて良いと言っていたが自分が手伝いたいという趣旨を伝えたところ渋々だが了承、布団を敷いていく。その途中でミノリが寝てしまい、先に彼女を寝かすことになった。
「余分に布団があってよかったですね」
「ああ、まったくだ。最悪、そのまま床に寝ることになるところだった」
「夜は更けますから、暖かくしないと死に至るまではいかないですけど、それでも身体の節々に激痛が走ったりしますから」
「……想像しただけで背筋が凍りそうだ」
「では、そろそろ寝ましょうか?」
「そうだな。寝るとしよう」
たった一日だけだが、凄く濃厚なものになった。これからのことに不安に思うことや記憶を失ったことによる負い目はある。ただ、それ以上に何とかなるとなぜだか思うのだ。病も気からという言葉もあるくらいだ、気楽に行こう。
(当分の目標は恩をできるだけ早く返すことだな)
「さてと、明日のことは明日の自分に任せるとするかね」
瞼をそっと閉じ、微睡みへと誘われていった。