虎眼転生-異世界行っても無双する- (バーニング体位)
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幼年篇
第一景『転生(てんせい)


 

 三重──美しゅうなった(のう)──

 

 愛娘である岩本三重を見つめるのは、掛川藩剣術指南役である“濃尾無双虎眼流開祖”──岩本虎眼。

 かつての弟子であり、盲目となって更にその怪物性が増した美麗の剣士、伊良子清玄との様々な因縁の果てに行われた立合いは、虎眼流の奥義“流れ星”が清玄の秘剣“無明逆流れ”に敗れる形となり、その決着が付いた。

 

 顔面の半分を切り落とされた(・・・・・・・・・・・・・)虎眼は、立合いの場に現れた娘、三重の白無垢姿を見つめると、それまでの歪な親子の関係が洗い流されていくかのように、慈愛に満ちた表情をその半分となった顔に浮かべる。

 

 大刀が肉を貫く、生々しい音が響く。

 

 顔面の半分を切り落とされても尚、未だに両の足で立つ剣虎に対し、盲龍は止めの一撃を加えた。

 清玄の大刀が、虎眼の腹を貫く。倒れ伏す際、虎眼の大脳はうどん玉のごとく娘の眼前にこぼれ落ちた。

 

 無念、悔恨、増悪、情愛……

 様々な感情が虎眼の心の中を過ぎていく。しかし、虎眼の意識はやがて無へと達していくのであった──

 

 

 

 

 人を超えた怪物(モンスター)、亜人が跋扈する異世界

 

 

 六面世界最後に残された“人の世界”で生きるのは、魔術と闘気という異能を手にした人々

 

 

 そして、無職のニートが今生こそ本気を出すと誓い、転生した世界

 

 

 そこに、濃尾無双と呼ばれた剣鬼が迷いこんだら?

 

 

 いかな常人を圧倒する身体能力、無双と呼ばれた剣技を持ってしても異世界でそれが通用するのであろうか?

 

 

 強大な人外や、異世界の達人を相手に、虎眼流の神技は果たして太刀打ちが出来るのであろうか?

 

 

 

 出来る!

 

 

 

 出来るのだ!

 

 

 

 

 かくして剣鬼の魂は六面世界、人の世界へと──

 

 

 

 

『虎眼転生-異世界行っても無双する-』

 

 

 

 

 

 

 

 


 

(──こは如何なる事ぞ)

 

 突然現れた朧気な視界に岩本虎眼は困惑する。

 伊良子清玄との壮絶な秘剣の応酬の果て、虎眼は確かに己の命運が尽きたことを悟っていた。

 一人娘の三重の目前で、確かに自分は事切れたはずである。

 しかし、気がつけば寝台(ベッド)に寝かされた我が身。

 

 朧気な視界の中、自身を覗き込む南蛮人と思しき女性が見える。

 何かを語りかけているが、日ノ本言葉しか知り得ぬ虎眼にとっては何を言っているのか全く理解が出来なかった。

 

(黄泉路では南蛮人が出迎えてくれるのであろうか……)

 

 ふと、虎眼は既に元和の御世では禁教令が発せられた切支丹信仰の話を思い出す。

 

 人は死ぬとパライソ(極楽)へと送られ、そこでは楽園に誘われた死者の魂が安らかに過ごしているという。

 ならば自分の魂はパライソとやらへ送られたのだろうか。

 

 しかし切支丹でもない自分がなぜパライソへと送られたのだろうか。

 ぼんやりとした思考の中、虎眼はふと違和感を感じる。

 

 妙に、この南蛮人の女性が大きく見えるのだ。

 

 生前の虎眼の身長は当時の日本人の平均身長をやや超える4尺2寸(約160cm)

 どうみても目の前の女性はそれよりも遥かに大きく、まるで仏門の神々の一柱である仁王の如き体躯だ。

 伝え聞いた南蛮人の大きさを考えても、それは虎眼を困惑させるに十分だった。

 

 困惑する虎眼は唐突にその女性に持ち上げられ(・・・・・・)、腕に抱かれた。

 突然の出来事に驚いた虎眼は腕に抱かれた事でようやく自身の身体の異常に気付く。

 

(わらし)……いや、これではまるで乳児(ちご)ではないか!)

 

 鋼の如く鍛え上げられ素手での人体破壊を容易にせしめた以前の肉体は、いまや虫も殺せるかどうかという程小さく、柔らかく、頼りない物となっていた。

 驚愕と困惑の最中、女性は変わらず虎眼に何事かを囁いている。

 

 それはまるで、母親が我が子をあやすかの様に。

 

 言葉はわからずとも虎眼は悟る。

 自分はこの女性の子として生まれ変わったのだと──

 

 心地よい女性の囁きは、正しく子守唄として虎眼の意識を微睡みへと誘う。

 薄れ行く意識の中、剣鬼と称された剣豪は久しく経験していなかった安らぎを覚えていた。

 

 

 

「……あら、寝ちゃったかしら」

 

 ゼニス・グレイラットは腕に抱いた我が子を見つめ、穏やかな微笑を浮かべる。

 そのすぐ足元には、二年前に産んだ、第一子(・・・)ルーデウスが赤子の存在に興味を向けるかのように見つめていた。

 

「かあさま、ウィルは寝ちゃったんですか?」

「ルディ、起こしちゃだめよ?」

 

 ゼニスは愛おしそうに腕に抱いた赤子を見つめた後、やさしくベッドに戻した。

 

 ルーデウスはベッドに乗り出して赤子を見つめる。

 眠る赤子の柔らかい頬をつんつんと突きながら、興味深そうに見つめていた。

 そして赤子の一本多い右手の指(・・・・・・・・)を撫でる。

 

「かあさま、なぜウィルは指が一本多いのですか?」

 

 ルーデウスはウィルと呼ばれた赤子の指を弄りながらゼニスに素朴な疑問を投げかける。

 ゼニスは、少し困ったような微笑を浮かべ、ルーデウスに答える。

 

「そうねぇ……なぜって聞かれても、私にも分からないわ」

 

 でもね、ルディ。と、ゼニスはルーデウスを抱きかかえながら言葉を続ける。

 

普通(・・)とは少し違っててもウィルはルディと同じ。私達の大切な子供で、ルディのたった一人の()なのよ。もしウィルがこの指の事でいじめられる事があったら、ちゃんとお兄ちゃんとしてルディが守ってあげなきゃね?」

「はい! ウィルは僕が守ってあげます!」

「ああ! もうッ! ルディは本当に良い子ねぇ!」

 

 抱えたルーデウスに頬ずりし、くるくると回り始めるゼニス。

 母親の過剰なスキンシップにやや引きつった笑顔を浮かべるルーデウス。

 とても二児の母とは思えない程の瑞々しい肌を惜しみなくルーデウスに押し付けるゼニスは、この全く手がかからない我が子を溺愛していた。

 

「さあ、ルディ! パウロを呼んで御飯にしましょう! 今日はリーリャが作ってくれた美味しいスープがあるからね!」

「はい。かあさま」

 

 抱えられたルーデウスはベッドに眠る弟を見つつ、母親には聞こえない程度にこの世界では絶対に使われていないであろう日本語(・・・)を呟いた。

 

『多指症ってこの世界でも普通じゃ無くて珍しいんだな……しかし弟じゃなくて妹が欲しかったのになぁー……まぁパウロとゼニスには今後も頑張ってもらうか』

 

「なにか言った? ルディ?」

「いえ、なんでもないですよかあさま」

 

 母と子の穏やかな一時。

 眠る赤子の秘めおきし修羅の気質を、母と兄は気づくことは無かった。

 

 

 パウロ・グレイラットとゼニス・グレイラットの第二子、ウィリアム・グレイラットは2歳年上の兄、ルーデウス・グレイラットと同じく異世界の魂を宿した転生者である。

 前世は奇しくも同じ日本人。ただし、大きく違うのはそれぞれが生きた時代が全く異なった事であろう。

 

 ルーデウス・グレイラットは平成日本で所謂穀潰し(ニート)として無為無策な日々を過ごしていた。

 

 片やウィリアム・グレイラットは戦国末期から江戸初期にかけて濃尾一帯にその名を轟かせた剣豪。

 

 生きる時代も違えばその境遇、立場、思想、価値観に至るまで全く異なる二人。

 

 奇妙な因果が働いたのか、本来は生まれるはずでは無かった一つの命に剣豪の魂が宿ったのは、神の悪戯か……あるいは、剣豪の最後を憐れんだ神の慈悲が働いたのか。

 また、その転生先が同じく転生した魂を持つ兄がいる子とは。

 

 この何もかも違う転生者の兄弟が異世界で何を見て、何を成していくのだろうか。

 

 秘めおきし修羅の虎子は、ただ安らかに眠り続けていた……

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二景『目覚(めざ)め』

 

(ウィリアム坊ちゃまは不気味だ──)

 

 岩本虎眼がウィリアム・グレイラットとして生を受け早4年の歳月が経った。

 

 兄のルーデウスと同じく殆ど泣きもせずに手がかからない子として育って来たウィリアム。

 ウィリアムの育児に携わって来たグレイラット家のメイド、リーリャはパウロとゼニスの子供は何か常人には測れない不可解な事があるのでは? と、人知れず不気味さを覚えていた。

 

 しかし兄のルーデウスについては成長するにつれて顕在化して来た知性と、類稀なる魔術の才能……そして何より、パウロと不貞を働いた自分を助けてくれた恩がある。

 

 自分を本当の意味で家族として迎え入れるように、ゼニスを説得してくれた。

 

 ルーデウスに感じていた生理的な不快感と、子供らしくない行動による不気味さはその一件以来、すっかり鳴りを潜め、ルーデウスには感謝と深い尊敬の念を抱くようになったのだ。

 

 

 でもウィリアムは──

 

 

 ルーデウス以上に物静か、言い方を良くすれば大人しい子供。

 また、抱きかかえた時もルーデウスが見せていた厭らしく下卑た表情は無く。

 右手の指が一本多い事以外は、見かけは、大人しい“良い子供”だった。

 

 しかしその“眼”に見つめられると──

 

 どうしようもなく不安に駆られるのだ。

 

 ウィリアムの容姿は母親似であるルーデウスとは違い、父であるパウロに似ていた。

 幼くともどことなく精悍な顔つきを見せ、静かな微笑みを浮かべるウィリアムに、パウロは将来はルーデウスや自分以上の女誑しになるかも──と無邪気にはしゃいでいる。

 

 しかし、リーリャに向ける眼差しは情愛等は一切無い、冷たい視線。

 

 いや、冷たいというより全く省みていないと言える。

 

 ウィリアムの視線を感じる度、リーリャは以前勤めていたアスラ王国後宮付き近衛侍女時代を思い起こす。

 王族や貴族から向けられていた視線とウィリアムのそれは、同じ物であった。

 

 あの時はそれが当然ではあった為、リーリャ自身もさして気にはしていなかった。

 しかしグレイラット家に奉公するようになってから、家族の一員として扱われるようになり、以前感じていた厳格な身分制度を忘れるには十分な扱いをされた。

 特にパウロの子を宿した時からは、ゼニスも以前より親しく接してくれるようになった。

 

 しかしウィリアムだけは、それ以降も変わらず“家に仕える奉公人”という一線を厳格に引いているように感じた。

 

 グレイラット家の侍女として家政を卒なくこなしているリーリャを、まるで一切の手抜かりは許さぬとばかりに自分を見つめる。

 それでいて、身分が上の者が下の者に見せる親愛の眼差しというものは一切無い。

 せいぜいそれまでの“奉公人”から“当主のお手つきの下女”という変化しか感じられなかった。

 

 ある意味ではそれが普通なのだが──

 

 実際、ウィリアムがリーリャに対して使う言葉や態度は、兄ルーデウスと変わらず丁寧な物だ。

 それ故に、パウロやゼニスはウィリアムに対して何ら違和感を覚えず、ルーデウスと同じようにその愛情を注いでいた。

 

 でもリーリャは、パウロやゼニスのような愛情は持てなかった。

 

 ルーデウスも何かを感じているのか、初めて出来た弟であるウィリアムに対して、どこか余所余所しい。

 

 一応は兄として弟の面倒を見ているのだろうが──

 一緒に遊ぶ事もままあるが、ウィリアムのどことなく冷めた態度にルーデウスもどう接していいのか分からなくなっていた。

 

 ロキシー・ミグルディアがルーデウスの魔術の家庭教師として招かれ、師事していた期間は、ウィリアムから逃げるように魔術の授業とパウロとの剣術の稽古に打ち込むようになった。

 

 もっともルーデウスが弟に対して距離を置いている理由は、前世の家族関係もあったが……もちろんリーリャはその様な理由を知る術は無い。

 

 当のウィリアムはというと、一流の魔術師でもあるロキシーが見せる魔術に最初は興味を持っていたようだが、自身が魔術を全く使えない(・・・・・・・・・・・・)事が判明すると、魔術を行使する事について途端に興味を失った様子である。

 しかし魔術自体に興味を失ったわけではなさそうで、時折ロキシーに対して他にどのような魔術があるのか──人を簡単に殺めるような魔術は他にあるのかと、聞いてる様子が見られた。

 

 またパウロの稽古も、兄ルーデウスと共に受けるようにはなったが、これも兄とは違い熱心に受けている様子には見えない。

 パウロが会得している剣術三大流派上級の業前を見ても、最初こそは興味深そうに見ていたが、しばらくすると冷めた目で稽古を受けるようになった。

 

 とはいえ稽古自体はきちんと続けている。

 

 パウロはルーデウスが魔術の道を志しているのを知って、代わりにウィリアムを本格的に鍛えようとしている。

 ウィリアムの年齢を考え、まだ本腰を入れてはいないが、元々男子が生まれたら剣士として育てる事をゼニスと約束していた。

 それ故、ウィリアムにルーデウス以上の熱意を持って指導していたのだ。

 

 しかし、リーリャから見ればウィリアムが剣術の稽古を受けている様子は、どうみても義務的に受けている様にしか見えなかった。

 

 

 それ以外にも、リーリャが感じていたウィリアムの違和感がある。

 時折、幼児とは思えない程の憤怒の形相を見せる瞬間があったのだ。

 

 リーリャは最初は何事かと慌て、どこか怪我をした際の痛みに耐えているかと思い、ウィリアムの元へと駆け寄ったが──

 

 駆け寄ったリーリャが見たのは、どこも怪我をしていないウィリアムがまだ生え揃ってもいない歯を軋ませ、何かを増悪するかのように怒りの表情であった。

 

 リーリャが駆け寄った直後にはその表情は消え失せ、いつもの薄い笑みを浮かべた表情に戻っていたが……

 

 元々あまり感情表現が豊かでない子供が、時折見せるこの異様な様相が、リーリャの疑心に拍車をかける結果となっていた。

 

 さすがにこの事についてはゼニスに相談したが、いざゼニスがその事をウィリアムに問い詰めても穏やかな笑みを浮かべて、『なんでもない』という答えしか返してこなかった。

 

 

 リーリャは生まれてくる我が子をルーデウスに仕えさせる事で、受けた恩を返そうとしていた。

 グレイラット家には多大な恩がある。

 

 特にルーデウスに対しては。

 

 ただウィリアムに対しては、恩義も忠節も無く、使用人としての分別を超えるような接し方をする気にはなれなかった。

 

 

 そこまで考えて、リーリャはウィリアムがなぜここまでルーデウスと違うのだろうかと考える。

 

 あの家族に育てられ、接していればもう少し自分に対しても心を開いてくれるのだろうと思うのだが。

 ルーデウスとは違った意味で、老成したウィリアムの胸中を察する事は、リーリャにとって砂漠で胡麻を見つけるくらい難しかった。

 

(普通の使用人を雇うような家ではウィリアム坊ちゃまが“普通”なのだけど──)

 

 リーリャはいつもの様に、そう結論付けて家事の続きを始める。

 ウィリアムの事をこれ以上考えないように、リーリャは普段と同じように、黙々と家事を続けるのであった。

 

 

 

 

 


 

 リーリャにとってウィリアムは目に見えない隔たりを感じる存在ではあったが、当のウィリアムはそこまでリーリャに対して無下に扱うといった意識は無かった。

 

 晩年の虎眼を知る者、特に曖昧な状態を発するようになってからの虎眼しか知らぬ者には考えられない事だが、掛川藩兵法指南役として禄を食むようになり、屋敷を構えた時から忠節を尽くしてくれている奉公人には存外な優しさを見せる時もあった。

 女中のさね(・・)や中間の茂助等には、その忠節に対して時折労る事もあったのだ。

 

 もっとも心の平衡を失ってからは、虎眼が相対する人間全てが等しくその狂気を当てられ、恐々としていたが。

 

 リーリャがウィリアムに感じた一切の感情は、未知の世界のあらゆる理に、困惑と驚愕を感じた事で、リーリャに対して関心を持つ余裕が無かっただけに過ぎない。

 

 それがリーリャが無言のプレッシャーのように感じていたのは、ウィリアムにとって心外な事ではあった。

 が、使用人が自分をどう思っていようが今のウィリアムにとって全く問題ではなかった。

 

 

 ウィリアム……虎眼は、当初は南蛮のどこかの国に転生したと思っていた。

 しかし、母や兄が使う“魔術”なる摩訶不思議な現象を目の当たりにし、ここは以前とは理が全く異なる──異世界に転生した事を否応なしに認識させられた。

 

 そして年甲斐もなく──いや、年相応に興奮したのだ。

 

 かつて京にいた陰陽師が使う眉唾物の呪いではなく、確かに存在する奇跡の御業の数々──

 負った傷をあっさり治し、何もない所で火や水、風を起こす奇跡に感動した。

 

 それらを自分も思うがままに使ってみたい、と思うのは虎眼だけでなく、魔術が無い異世界からの転生者は皆同じ事を考える物なのだろう。

 

 しかし、虎眼に魔術の才が一切無い事が判明すると、急に魔術を使う事に関しての興味は一切無くなった。

 それからは、魔術師に対してどのように戦っていくか(・・・・・・・・・・・)を考えるようになった。

 

 虎眼は転生してからしばらくの間、己が転生した意義をただひたすら考えていた時期がある。

 

 伊良子との死闘の際、奥義『流れ星』をも上まる剣速を見せた伊良子の斬撃──

 

 あの瞬間を鮮明に思い出す度に、かつて自分を殺した相手に対して増悪の念に駆られた。

 憤怒の表情を浮かべる幼子は、運が良いのかリーリャ以外には見られていない。

 

 そして、その内伊良子の“逆流れ”に対し、どのような技であれば対抗できるかを考えるようになった。

 

 この世界に伊良子はいない。

 しかし伊良子に負けた事実からくる怨念は、虎眼の中で年々大きくなっている。

 復讐を遂げる相手がいない苛立ちが、虎眼の今生の生きる意味を段々と形作っていく。

 

(つまりは、己の“虎眼流”を前世より練り上げる事――)

 

 己を葬った怨敵に対する感情からこのような発想に至ったのは、ルーデウスが5歳の誕生日を祝われた時であった。

 虎眼にとってルーデウスの5歳の記念日は、己の新しい人生の目標が定まった日でもあったのだ。

 

(で、あればこの世界の兵法を学ばねばならぬ)

 

 この世界のあらゆる兵法──以前の世界には無かった魔術について学び、虎眼流の技に組み込もうと考えた。

 

 だが、自身がまったく魔術が行使できない事が分かると、今度は魔術に対して虎眼流がどのようにして抗していくのかをひたすら考えるようになった。

 

 ロキシー・ミグルディアがルーデウスの魔術教師としてグレイラット家に滞在していた事は虎眼にとって都合が良く、ロキシーが手すきの折りに魔術には他にどのような“技”があるのかを熱心に聞いた。

 

 最初ロキシーは、兄に対抗心を燃やした可愛げのある子供と思って、それこそ教本に書いてあるような差し障りない内容しか話をしていなかったが……

 子供が尋ねるにはあまりにも殺伐とした内容になっていくにつれ、その狂気的な執念ともいえる内容に恐怖と戦慄を覚えていった。

 

 今や愛弟子といっても差し支えないルーデウスの事も考えて、答えていいのだろうかと思い悩んだ。

 

 が、結局は虎眼の執念に根負けする形になり、自身が知りうるあらゆる魔術を教え、実践できる魔術に関しては実演して見せる事もあった。

 

 ウィリアムとして、自身が兄になんら異心を持っておらず、単純に自分は魔術を使えないから魔術に相対する心構えを教えて欲しいと言われた事も、ロキシーが魔術の知識を伝授した理由でもあった。

 

 こうしてロキシーによるルーデウスの魔術の修行が終わりに近づいていた短い期間ではあったが、虎眼が魔術師に対抗する為の知識を身に付けていった。

 後の人生で虎眼が魔術師との立会いに対して有利に運べたのは、このロキシーの“授業”が利いていた事は確かであろう。

 

 

 肝心の剣法については、父パウロから剣術の稽古を受けるようになった時に異世界の剣法を取り入れ、虎眼流を更なる高みに練り上げようと考えていた。

 しかしパウロの三大流派上級の腕前では、濃尾無双とまで謳われた剣豪をうならせる事は無かった。

 

 剣神流の剣速は、いくらパウロが上級止まりの腕前とはいえ、かつての虎眼流高弟達とは比べ物に無く。

 水神流の受け技は学ぶ所もあったが、“刀剣は容易く折れる”、“最小の斬撃を最速で打ち込む”という虎眼流の信条に反していた為に結局はそれ程鍛錬に費やす事は無かった。

 北神流に関しては、パウロ自身がそれ程好んで使う事は無かった為、技自体にあまり触れる事は無かった。

 

 もっともパウロが三大流派をそれぞれ上級まで習得するのは並大抵の才気では成し得ない事ではあるが、そのような事は虎眼にとってはどうでもよく。

 

 虎眼がパウロとの稽古で一番興味を持ったのは“闘気”と言われる魔術とは対をなす不思議な力の事であった。

 

 今生の虎眼──ウィリアムは何故か魔術を使えなかったが、内包する魔力は兄ルーデウスと遜色の無いレベルだった。

 とある理由でルーデウス兄弟は内包魔力を常人を遥かに超えるレベルで保有している。

 闘気とは、魔力を魔術で放出する代わりに体内に循環させ、身体能力を強化する術であった。

 ルーデウスは闘気を纏えない代わりに、魔術の行使に関して稀有の才能を持っていたが、相対するかのようにウィリアムは自身の魔力を闘気として発揮する才能を持っていた。

 

 故に、パウロの指南によって闘気を発現してからのウィリアムの鍛錬は、徐々に常軌を逸する様相を見せ始めたのは、正気にては大道を成せない剣豪の宿業なのかもしれない。

 

 それはウィリアムが5歳の誕生日を迎え、ルーデウスがボレアス家に強制送致される1週間前の出来事であった──

 



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第三景『()(かえ)し』

 ルーデウス・グレイラットが7歳になり、弟のウィリアムが5歳になった時分。

 

 昨年に生まれた彼らの妹達──ノルンとアイシャも健やかに育っている。

 当たり前だが、妹達は普通の赤子らしく真っ当に(・・・・)手がかかる子供等であった。

 ルーデウスとウィリアムという異質な子供に慣れていたせいか夜泣き、朝泣きはもちろん、事あるごとに泣くノルンとアイシャにパウロとゼニスは今更ながら育児ノイローゼになってしまっている。

 もっともリーリャだけが

 

『これこそが子育てですよ! ルーデウス様とウィリアム坊ちゃまはイージー(おかし)すぎました! これが普通です!』

 

 と、一人元気良く育児に勤しんでいる。

 

 ルーデウスも時折おしめを替えたりする等の世話を焼いていたが、ウィリアムは生まれた赤子が女だと知るやいなや一切の興味を失った様子を見せていた。

 

 むしろ、おしめを替える兄を見て僅かに困惑の表情を見せている始末である。

 

 ウィリアムの前世の価値観では、武家での赤子の世話は乳母に任せる物で男──ましてや兄自らが世話を焼く等考えられない事であった。

 時折妹達の相手を仕方なしにする程度しか、妹達との接触は無かった。

 それが逆に“兄弟で妹達の世話を甲斐甲斐しく焼いている”と見られたのは皮肉という他ないだろう。

 

 

 もっとも妹が生まれようが弟が生まれようが、ウィリアムは虎眼流を練り上げ、此度こそ濃尾……いや、“異界天下無双”の剣士となるべく己の業を磨き上げる事しか頭になかった。

 前世ではなかった闘気の存在が、剣鬼の魂を大いに滾らせていたのだ。

 

 

 正気にては大道は成せず──

 

 

 5歳の誕生日が祝われた後、ウィリアムの日常はそれまでの周囲の認識を一変させるに十分であり、虎眼流をより練り上げ“最強“へと達する為に行われた狂気の行動は、正しく正気にては成し得ぬ事であった。

 

 ある日の事。

 

 いつものパウロとの“生温(ぬる)い”稽古の後、ウィリアムは『少し遊びに行ってまいります』と一人で出かけて行った。

 折しもパウロと、猟師であるハーフエルフのロールズにより行われた魔物討伐により、ブエナ村付近の安全がより確立されていたのもあってか、ルーデウス含め家族の誰もがウィリアムのこの行動に不審を持たなかった。

 むしろリーリャはようやく年相応に野原を駆け回るウィリアムを想像し、逆に安心してしまう始末である。

 

 ゆえに日が傾き、夜になっても帰ってこないウィリアムを家人や村の若衆総出で捜索するという騒ぎになってしまったのは、誰が悪いという話では無いのかもしれない。

 

 そして漆黒の夜天が白み始めた頃……ウィリアムを発見したルーデウスとその幼馴染、シルフィエットは“剣鬼”の一端を垣間見る事となる。

 

 


 

 割りとシャレにならない事が起こってしまった。

 念願の妹が生まれて、男だと思ってた幼馴染のシルフィエット……シルフィが、実は女の子だと発覚し、異世界光源氏計画を粛々と進めている矢先。

 

 弟のウィリアムが失踪したのだ。

 

 

 思えばウィリアムはどこか変な所がある子供だった。

 

 一緒に遊んでも、作ったかのような笑顔を浮かべるばかりでまるで楽しそうにしている様子はない。

 

 パウロの稽古も一緒に受けるようになったけど、恐ろしく義務的にこなしている印象しかなかった。

 

 ロキシーにはやたら殺伐とした魔術の話をせがんていた。

 

 ロキシーに相談された時は、こいつマジでサイコパスの気があるんじゃないかと恐ろしくなったもんだ……

 

 でも表面上? は俺に対して慇懃に接しているし、毎日大人しく過ごしている。

 逆にそれがなんか不気味であり──

 

 ぶっちゃけ苦手である。

 

 前世の弟とはまた違った意味で接し辛い……いや、子供の頃は前世の弟とはうまくやっていた気がする。

 それだけにウィリアムはマジで何を考えているのかよくわからん……

 可愛がっても、突き放してもリアクション薄いからなぁ。

 もっとも俺以上に溺愛しているパウロやゼニスはウィリアムの異様さに全く気づいている様子がない。

 

 ていうか気づけよパウロ。

 端から見たらウィリアムはおまえさんの稽古“仕方なく付き合ってやってる感”すごいぞ。

 

 パウロはこの世界基準で言ってもすごい達人なんだけどなぁ。

 三大流派上級の腕前だって、一つの流派の上級取得するのに才能ある者が10年ぐらいかかると言われているんだぞ。

 パウロはまだ20代半ばで、それぞれの流派の上級を取得している。

 上級で辞めてしまったというだけで、聖級……下手したらどれかの流派で王級までいってたかもしれない逸材なのだ。

 普通はそんな才能ある人間が見たらウィリアムのやる気が無い事に気づけそうなもんだけどなぁ……

 

 リーリャはなんとなくウィリアムの異様さに気づいている節があるけど、俺や家族に遠慮してかせいぜいゼニスにそれとなく相談するに止めているっぽい。

 

 そんなよくわからない所があるが、普段は大人しいウィリアムが突然失踪したからこりゃ大変な騒ぎになる。

 

 ゼニスが呑気に『ウィルは遅いわねぇ……どこまで遊びにいってるのかしら』なんて言ってたのが

 日が完全に沈む頃には発狂寸前まで取り乱していた。

 パウロはパウロで剣を片手に家を飛び出していくし……せめてどこらへんを探してくるかとか言ってくれ……

 

 ただでさえゼニスが育児ノイローゼになっている所にこの騒ぎだ。

 ゼニスは取り乱すばかりで捜索を手伝う事は出来無さそうだ。

 俺はゼニスと妹達をリーリャに任せてシルフィの家へ向かい、シルフィの親父で村一番の猟師でもあるロールズさんに事情を説明した。

 

 話を聞いたロールズさんはすぐに村の中心部へ向かい、若い衆を集めて付近を捜索する段取りを取り付け、俺とシルフィも捜索隊に加わる事になった。

 

 

 

「ウィールッ! ウィリアムーッ! どこだー! 返事しろ-ッ!」

「ウィルくーん! いたら返事してー!」

 

 普段めったに大声出さないシルフィ。

 シルフィこんなに大きな声を出せたんだな……とそんな事を思ってしまったり。

 

 いやいや!

 それよりもウィルを探さないと!

 

 俺とシルフィは大人達とは別行動でウィリアムを探していた。

 ロールズさんは、俺達がミイラ取りがミイラにならないかと心配していたが……こちとら伊達に水聖級魔術師を名乗っていない。

 シルフィも最近は俺に負けず劣らずの魔術の実力がある。

 パウロとロールズさんがブエナ村近辺の危険な魔物を粗方討伐してくれたし、仮に魔物と遭遇しても危なげなく戦える自信はある。

 

 パウロにくっついて実戦の空気を体験しておいてよかった……

 それにウィリアムとは違い真面目に剣術の稽古も受けているし、パウロから散々俺の話(自慢話)を聞かされていたのもあってかロールズさんは、結局は俺たちの別行動を許してくれた。

 

 そんなこんなで村から少し離れた林を捜索しているのだが……

 

 全然見つからない。

 

 こりゃマジで魔物に食われているんじゃないだろうな……

 嫌な想像ばかり頭によぎる。

 

 

 もし……もし仮に、ウィリアムが死んでしまっていたら。

 パウロやゼニス、そしてリーリャも相当悲しんでしまうだろう。

 ゼニスなんかは立ち直れないかもしれない。

 妹達も、物心付く前に兄と死別するなんて経験をさせたくない。

 シルフィも『ウィルくんウィルくん』って実の弟のように可愛がってくれている。

 

 そして何より、俺もウィリアムには死んでほしくない。

 

 いくら苦手だからといっても、たったひとりの弟である事は変わりない。

 絶対に、絶対に見つけてやるからな。

 お兄ちゃんが、絶対にお前を守ってやるからな。

 だから早く出てきてくれ。頼むから。

 

 

 

 そんな思いを込めて、再び大声でウィリアムを呼ぶ。

 

「ルディ! あそこ見て!」

 

 シルフィが松明をかざした先に、やたら開けた場所が見える。

 やたらと倒木が多い(・・・・・・・・・)その場所は、人為的に開けた場所と見てとれる。

 

「あそこ! ほら!」

 

 ぐいぐい服を引っ張るシルフィが指し示す方向に、何かを振り回す人影が見えた。

 一体なんだろう……まさかゴブリンとかじゃないだろうな……

 いや、ゼニスから教えてもらったがゴブリンはこの中央大陸には生息しておらず、ミリス大陸の森の奥に生息していたはずだ。

 万が一に備えて、ロキシーからもらった杖を握りしめる。

 ごくり、と唾を飲み込み、シルフィと共にその影に近づいていく。

 朝日が僅かに顔を出し、白んで来た事で段々とその影が明るみになっていく。

 

「なんだアレ……」

 

 近づいていくにつれ、何か棒のようなものを一心不乱に木々に打ち付ける人影が見えた。

 

 ガッ、ゴッ、と木々を打ち据える音が聞こえる。

 

 

 そして、打ち付ける人影を、見てしまった。

 

 

 

「ウィル……なのか……」

 

 

 

 それは、紛れもなくウィリアムだった。

 

 裸の上半身は、5歳の少年の物とは思えない程筋骨が隆起していた。

 そして、棒と思っていたのが、2メートルはあろうかという長さ、そしてやたら太い木剣……

 まるでカジキマグロのような木剣を、狂ったように打ち付けるウィリアムだった。

 

 よく見れば、手の皮は破れ血を滲ませている。

 全身を軋ませながら、5歳児とは思えない剣速で木剣を打ち込んでいる。

 

 でも、ウィリアムの目は

 

 異常な程爛々と輝いていた。

 

 まるで、子供が夢中になって遊ぶ対象を見つけたような……

 

 口角が上がり、異様な雰囲気のウィリアムに、俺とシルフィは打ち付けられた木が倒れるまで、その場でただ立ちすくむ事しかできなかった……

 

 

 

 

 

 



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第四景『産声(うぶごえ)

 

 結局ウィリアムは闘気の過剰放出による疲労で気絶するまで“切り返し”を止めなかった。

 糸が切れた人形のように倒れ伏すウィリアムに慌てて駆けつけたルーデウスとシルフィは、その血にまみれた手を治療魔法で治癒しつつ、改めて辺りを見回す。

 

「これ……ウィルくんがやったんだよね……」

 

 未だに信じられないかのように、シルフィは呟く。

 周囲はまるで大型の魔獣が暴れまわったかの如く、木々が無残な姿で横たわっていた。

 ルーデウスは、ウィリアムが振り回していた大型の木剣を見つめる。

 柄はウィリアムの血にまみれ、いかに激しく振り抜いていたのかを物語っていた。

 

「ウィルくんはどうしちゃったのかな……なんでこんな事を突然始めたのかな……」

 

 シルフィエットが横たわるウィリアムを介抱しながら呟く。

 闘気を限界まで放出し、極限まで己をいじめ抜いたその肉体は、一晩で痛ましい程消耗していた。

 見れば、鋼の如く隆起していた肉体は元々のウィリアムが備えていた体に戻っていた。

 

「……分からない」

 

 分かるわけがない。

 なにせ、昨日まで大人しい“普通の子供”だったのだ。

 何がウィリアムをここまでさせたのか。

 悪いものに取り憑かれたのか。

 それともウィリアムがひた隠しにして来た“本性”が具現したのか。

 

 ふと、ルーデウスは以前転生者と疑って日本語で話しかけた(・・・・・・・・・・・・・・・・)事を思い出す。

 

 

 ルーデウスは己が転生者であるように、他者も異界の魂を宿した転生者だと疑っていた時期がある。

 その疑惑は、ウィリアムが成長するにつれて大きく膨らんでいた。

 誰からも教わっていないのに食事をする前に手を合わせる、双鉤法による筆記用具の持ち方、要所で見られる妙に時代がかった所作……

 それらの全ては平成日本人から見ても、同じ日本人としての魂を宿した転生者だと疑いようもなかった。

 転生してから郷里を恋しく思った事は一度も無いルーデウスだったが、弟が同じ日本人の魂を持つ者となれば、腹を割って話したい、日本の事を話したいと思うのは当然かもしれない。

 そして、兄弟でこの異世界を共に生き、冒険し、助け合って生きていきたい……そんな純粋な心からルーデウスは話しかけたのだ。

 

『もしかして、ウィルの前世は日本人だったりするのか?』

『……』

 

 二人きりになる時を見計らい、意を決して問うたルーデウスに対してのウィリアムの応えは沈黙。

 

 否定とも肯定とも取れないウィリアムの態度に、ルーデウスはそれ以上問い詰める事が出来なかった。

 それ以上問えば、それまでのただ苦手だった弟が、得体の知れない怪物に豹変する危険性を感じとったのだ。

 太平の世に慣れ切った平成日本人には計り知れないナニカを感じてしまったのだ。

 

 黙して語らぬウィリアムの表情は、いつもの薄い笑みは見られず、ただ無表情。

 戸惑うルーデウスを見つめるその目は、ルーデウスの臓腑まで透かしているかの如く、ただただ無色の瞳。

 ルーデウスは、その瞳に見つめられ言い知れぬ恐怖を感じてしまっていた。

 

 やがて、いつもの薄い笑みを浮かべながら

 

「兄上、ウィリアムは兄上が今なにを申したのかとんと見当がつきませぬ。一体何の言葉遊びでしょう?」

 

 と、このこの世界の言葉(・・・・・・・)でルーデウスに話しかけた。

 

 

 それ以来、ルーデウスは弟に対して日本語で話しかける事はしていない。

 あの時感じた得体のしれぬ恐怖は、大人しい弟の日常と、兄を敬うその姿により徐々にルーデウスの中から消え去りつつあった。

 

 

 それが今、またルーデウスの中で大きく膨らみ始めていたのだ。

 

(ウィル……お前は一体“誰”なんだ……)

 

 意識を失うウィリアムを見つめるルーデウス。

 この弟のやすらかな寝顔が別人に見えたのは、夜も明け切らぬ薄暗さゆえ。

 ルーデウスはそう自分に言い聞かせる事で恐怖を中和しようとした。

 

 意識を手放したウィリアムを背負い、ルーデウスはブエナ村へと歩を進める。

 後からついてくるシルフィエットとも一言も喋らずに、ただ無言で歩き続けていた……

 

 

 

 この日生まれ()でた怪物は一匹

 

 

 異世界に、剣虎の魂が再び燃え上がった日である。

 

 

 

 


 

 

 ウィリアムを連れ、家に戻ったルーデウスとシルフィエット。

 丁度一時捜索を切り上げたパウロやローデスら村の若衆達もグレイラット邸に集まっていた。

 

「……ルーデウス! ウィルは見つかったか!?」

「はい父様、ウィルは無事ですよ」

 

 ルーデウスに背負われたウィルを一目見るや、即座にルーデウス達に駆け寄り、まるで奪い取るかのようにウィリアムを抱き抱えるパウロ。

 その表情は、見つかった事による安堵と一晩中捜索していた疲労からくしゃくしゃに泣き濡れた表情であった。

 

「ウィル……! ウィル! 心配かけやがって……!」

 

 ぎゅうぎゅうとウィリアムを抱きしめるパウロ。

 ルーデウスはその姿を見て、ふぅっと安堵のため息を漏らした。

 シルフィエットも、ルーデウス同様に安堵の表情を浮かべている。

 パウロの腕の中で眠るウィリアムの表情は、年相応の無垢な寝顔であった。

 その表情を見つめ、シルフィはあの異様な光景は夢だったのかな……と、益体もない考えを巡らせていた。

 

 やがて同じく疲労の色が濃い表情を浮かべたゼニスも、リーリャを伴ってグレイラット邸から姿を現す。

 

「ああ……! ウィル! よかった! 本当によかった!」

 

 駆け寄ったゼニスはパウロと同じく、奪い取るようにウィリアムを抱きしめる。

 力強く抱きしめるゼニスを、パウロは包み込むようにやさしく包容し、共に涙を流した。

 

 

「いやいや、無事に見つかってよかったですよ」

 

 パウロ達の様子を優しい表情で見守っていたルーデウスに、捜索に加わっていたシルフィエットの父、ロールズが声をかける。

 その表情は、同じように安堵の表情を浮かべていた。

 

「ロールズさん、皆さん。本当にありがとうございました。父様と母様に代わってお礼します」

「私からもお礼を申し上げます。ウィル坊ちゃまを探してくださって本当にありがとうございました」

 

 ロールズらに、ルーデウスとリーリャはぺこりと頭を下げる。

 

「いや、パウロさんは普段から我々村の人間を守ってくれているからね。今回でちょっとでもその恩を返す事が出来てよかったよ」

「そうそう、だからルーデウス君やリーリャさんもそんなに気にすんなって!」

「しかしルーデウス君はその年で親に代わってお礼が言えるなんて、マジ偉いわー」

「うちの息子にも見習わせたいよほんと」

「出来ておる喃……ルーデウスは……」

「ルーデウス半端()ねぇ、ガチ半端()ねぇ」

 

 若衆達に褒めちぎられるルーデウスは、苦笑しながらパウロ達を見やる。

 見るとパウロ、そしてウィリアムを抱いたままのゼニスがこちらへ向かってきた。

 

「皆さん……本当にありがとうございました」

「俺からも改めて礼を言わせてくれ。ありがとう」

 

 同じように気にするな、と声をかける若衆達。

 既に朝日は上り切り、爽やかな朝の空気が場を満たしていた。

 

「さあ、そろそろ解散しましょう。夜通しの捜索、お疲れ様でした」

 

 パンパン、と手を叩き、解散の号令をするロールズ。

 若衆達は挨拶もそこそこに、三々五々にそれぞれの家へと帰宅していった。

 やがてグレイラットの家族以外でこの場に残ったのはロールズとシルフィエットのみとなった。

 

「さて、ルーデウス君、シルフィ。帰る前に一つ聞きたい事がある」

 

 ロールズは改めてルーデウスの方を向き、恐らくこの場の誰もが気にかけている事をルーデウスに問いかけた。

 

「……はい。ウィリアムの事ですよね」

「……」

 

 ルーデウスはその疑問を先読みして応える。

 シルフィエットは、先程までの安堵の表情からやや陰鬱な表情を浮かべていた。

 

「ウィリアムは村から少し離れた林で見つかりました……」

 

 ぽつぽつと、ルーデウスは語り始める。

 

 木立に一心不乱に木剣を振るうウィリアム。

 その表情は何かに取り憑かれたかのよう。

 ただ、その眼だけは妖しく輝いていた。

 シルフィエットが『まるで猫みたいな目をしていた』と補足する。

 

 ルーデウス達の話を聞くにつれ、困惑の表情を浮かべるパウロ達。

 まさかウィリアムがそんな事を……困惑するパウロ達で、リーリャだけがどこか納得をしている表情を浮かべていた。

 

「……ウィルは何か悪いモノに取り憑かれているのか?」

「それは……わかりません。母様から見てどうですか?」

 

 ルーデウスはゼニスに話を向けた。

 ゼニスは元S級冒険者で治療術士として治療魔術、解毒魔術をそれぞれ中級まで習得していた。

 現在も村の診療所の手伝いを行っている為、その治療術には衰え無く発揮されている。

 

「……私は神撃魔術を修めてないから何かに取り憑かれているかは分からない」

 

 所謂悪魔憑き、呪いの類は様々な形でこの世界に現出している。

 大抵は魔力の異常により引き起こされる物で、利益のある能力を持つ人間を神子、不利益のある能力を持った人間を呪子と区別されていた。

 それ以外で悪意のある呪いが他者からかけられる事もあるが、その呪いは術師が解除、死亡する事で解呪される。

 呪いの解呪法は古代から研究されていたが、術師に直接的な行動を取る以外でこれらを解呪する手段は未だ見つかっていない。

 

「でも、ウィルには何か憑いているようには思えないわ……」

 

 それでもゼニスは長年の治療師としての勘か、または母親としての勘からなのか。

 やさしくウィリアムの頭を撫でながら、ウィリアムには憑物が無い事を断言する。

 その言葉にルーデウス達は頷くしかなかった。

 

「父様、どちらにせよウィルからはしばらく目を離さないようにしたほうが」

「ああ、言われるまでもないさ」

 

 起きたらまず話を聞いてあげないとな、とパウロはルーデウスに片目を瞑りながら囁く。

 ルーデウスは、以前のパウロとのやり取りを思い出し、再び苦笑を浮かべていた。

 

 

 

 

──────────────

 

 ウィリアムが目を覚ましたのは更に日付が変わり、翌日の日中の事であった。

 ノルンとアイシャの世話をしつつ、ゼニスやパウロと交代でウィリアムの様子を見ていたリーリャが、ウィリアムの体を拭こうとしていた時である。

 丸一日以上眠っていたウィリアムは、覚醒するやいなや飛び上がるようにして外を向かおうとした。

 文字通り突然飛び上がったウィリアムに慌てて声をかける。

 

「ウィ、ウィリアム坊ちゃま!無理をなさってはいけません!まだ横になって……」

リーリャか(・・・・・)

 

 リーリャの言葉を遮るように言葉を発するウィリアム。

 それまでのリーリャに対する慇懃な対応とは違う力強い言葉。

 リーリャを呼ぶ時はかならず敬称をつけていたそれまでとは違い、ウィリアムの豹変ぶりにリーリャはただ戸惑う事しか出来なかった。

 覚醒した虎の眼は、猛禽を思わせる鋭い眼光を放っていた。

 

『湯』

「え…?」

「……風呂だ」

 

 ウィリアムは、前世の感覚で日ノ本言葉(・・・・・)を使ってしまった事を密かに恥じた。

 しかし、反射的に対応していたリーリャにはこの言葉に気付くはずも無し。

 ちなみに風呂はこの世界、ブエナ村でも備えている家はほとんどない。

 グレイラット家は、ルーデウスの趣味と前世の風呂好き日本人の魂が震えたのか、得意の土魔法で風呂場が増設されていた。

 

「すぐにご用意致します。だから、ウィリアム坊ちゃまはまだ横になっていてくださいませ」

「大事無い」

 

 リーリャの気遣いにも素っ気なく対応するウィリアム。

 何はさておき、リーリャはパウロ達にウィリアムが起きた事を伝えるがてら風呂の準備をしに部屋から退出する。

 

 テーブルに置いてあった果物をおもむろに齧りつつ、ベッドの上にあぐらをかき瞑目するウィリアム。

 先程つい日本語を使用した事で、兄から日本語で語りかけられた事を思い起こした。

 

(同じ、日ノ本の民か──)

 

 あの時、兄ルーデウスは確かに日本語で同じ日本人である事を打ち明けた。

 おそらく自分の所作から当たりをつけたのだろう。

 

 最初は、同郷の念から日本語で応えようとはした。

 しかし、ウィリアムは──虎眼は、それをよしとしなかった。

 

(虎眼流の秘奥……何が切っ掛けで漏れるか分からぬ)

 

 ウィリアムは虎眼流を前世より練り上げる為、徹底した術理の秘匿を決意している。

 天下無双に至るまで、それまでに幾度にも及ぶべくであろう強者との立合いをより有利に進めるため、今しばらくは虎眼流の秘奥を秘匿する必要があったのだ。

 術理を再確認する為の奥義の伝書も日本語で認めていた。

 

 故にルーデウスに話しかけられたその日の内に、密かに記してあった虎眼流の伝書の全てを焼却している。

 同じ日本語を解する者から虎眼流の秘奥が流出するのを避ける為であった。

 もっとも旧字体の達筆で書かれたそれにひきこもりニートでしかなかったルーデウスに解読できるはずもなかったので、端から見ればこのウィリアムの行動は無駄であったが。

 

(闘気とは……虎眼流を更なる高みへと達せられる)

 

 ウィリアムは一度全力で闘気を放出し、今の時点での限界を見極めようと森中への稽古へ出かけた。

 当初家人に伝えた通り、それ程時間を掛けるつもりは無かった。

 稽古用の木剣を構え、闘気を練り上げた渾身の一撃は木剣を破砕すると共に、打ち込んだ樹木を4割近くへし折っていた。

 

 そして夢中になった。

 

 最初に用いた木剣は、やがて使い物にならなくなった。

 数刻後には、かつて愛用した“かじき”を模した大型の素振り用木剣を削り出し、猛然と“切り返し”を行った。

 限界を超えても切り返しを止めなかった前世の忠弟を思い起こすかの如く、切り返しを続けたのだ。

 

 その手応えを確かに感じたウィリアム。

 着々と、虎の牙は研がれつつあった。

 

 しばし瞑目した後、バタバタと床を鳴らしながらパウロ、ゼニスが部屋へ入ってきた。

 

「ウィル!」

 

 一目散にウィリアムへしがみつくゼニス。

 ぎゅうぎゅうと締め付ける母の抱擁に、ウィリアムは穏やかな表情を浮かべた。

 が、それも直ぐに収まり虎を思わせる眼に再び戻る。

 それを見たパウロは、一流剣士にしか伝わらない何かをウィリアムから感じ取っていた。

 

「父上……母上……。ご心配をおかけして、真に申し訳ない」

「ウィル……いいの。あなたが無事でいてくれた……それだけで十分よ……」

「……どうして、あんな無茶な事をやったんだ?」

 

 パウロは、しっかりと虎の眼を見据えて問いかける。

 虎は、作ったかのような笑みを浮かべながら答えた。

 

「稽古するのが、つい楽しくて」

「……解った。それ以上は聞かない」

 

 パウロはそれ以上の追及をしなかった。

 ウィリアムが発見された現場をパウロも自身の目で検めている。

 いかに闘気を発現させたとはいえ、その凄惨ともいえる現場は5才の子供が成せる所業ではなかった。

 

 どうやってそこまで

 

 何故あそこまで

 

 様々な疑念が沸く。

 しかし、ウィリアムはそれ以上答えてはくれないだろう。

 下手に聞き出しては、ルーデウスと同じような失敗をするかもしれないとパウロは考えた。

 

「でも、今度から長い時間稽古するならその事をちゃんと言ってくれよな……とりあえず腹減ったろ? リーリャが風呂沸かしてるから飯の前に先に浴びてさっぱりしてこい」

「はい、父上。母上も」

 

 変わらず抱きすくめる母を気遣いつつ、しっかりとした足取りで風呂へ向かうウィリアム。

 言葉使いは変わらねど、それまでとは別人と思える“気”を発するウィリアムを見つめるパウロの表情は、得体の知れない恐怖を僅かに滲ませていた。

 

 

 

「ウィル! お風呂入るなら久しぶりにお母さんと一緒に入りましょ! 洗ってあげる!」

「……一人で入れます」

 

 だが、ゼニスはお構いなしにその愛をウィリアムに向ける。

 後ろ姿からは表情は窺えないが、首筋から耳まで羞恥に染まるウィリアムの姿を見て、先程感じていた恐怖が霧散していった。

 

「まだまだ子供だなぁ……」

 

 ほっと一息ついたパウロは、息子がまだ自分が知らない何かに変わってしまっていないのだと一人安堵していた。

 しかし自分との稽古ではあのような凄まじい姿を全く見せていなかったウィリアムには、相変わらず何か底が知れない物を感じていた。

 

 

「……丁度良いから例の件、ウィリアムにも一枚噛んでもらうかな」

 

 故に、パウロは画策する。

 生き急ぐ兄を、力づくで説き伏せる為の一計を、ウィリアムにも噛ませて見極めようと──

 

 

 

 虎の今生での“実戦”の時が近づいていた──



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第五景『(なが)れ』

 

 ウィリアムの失踪騒ぎから5日後──

 事はいつも通り行われているパウロとルーデウスの剣術の稽古の最中に起こった。

 

「なあ、ルディよ」

「はい、なんでしょう父様」

 

 パウロの言葉にルーデウスは表情を引き締めて耳を傾ける。

 以前にパウロに願ったバイトの話……シルフィエットと共に学校へ通うための資金捻出の為に行うバイトの話と思い込んでいるルーデウスは、前世も含めて初めての“仕事”に気合を入れている。

 

「お前……さ。シルフィと別れろって言われたら、どう思う?」

 

 しかし、パウロの口からは放たれたのは、ルーデウスの予想だにしない言葉であった。

 

「は? 嫌に決まってるじゃないですか」

「だよなあ」

「なんなんですか?」

「いや、なんでもない。話をしたって、どうせ言いくるめられるだけだしな」

 

 そうパウロが言った直後。

 豹変したパウロはルーデウスに強烈な殺気を向ける。

 

「えっ!?」

 

 膨大な殺気を出し、パウロが踏み込む。

 ルーデウスは刹那の時に、明確に“死”をイメージした。

 

 しかし瞬時に魔力を全開にしてパウロを迎え撃つ。

 得意の魔術でパウロとの間に爆風を発生させ、自身も大きく後ろへ飛び距離を取る。

 

(なになに!? なんなの!? 俺がちょっとワガママ言ったから怒ってるの!? ねえパパン!?)

 

 ルーデウスはパウロとの稽古で、日々対パウロとの立ち合いをシミュレート想定していた。

 シミュレート通り、魔術で対抗する為に距離を取る。

 

(何にせよパウロはやる気だ……応戦しなきゃやられる。思い出せ、何度もシミュレートした対パウロ戦を)

 

 しかし、パウロは爆風を全く気にせずにルーデウスに突っ込んで来た。

 反射的にルーデウスは自身の真横に衝撃波を発生させる。

 衝撃波でパウロの猛追を躱し、ようやく距離を取る事が出来た。

 瞬時に最も得意とする土魔法で足元の土を操作し、更に踏み込もうとしたパウロの足を止める。

 

 が、パウロは即座に逆足で踏み込み、またもルーデウスに肉薄する。

 

(両足を止めないとだめなのかよ……!?)

 

 再び足元に“泥沼”を作り出し、パウロの足を止める。

 だが、それすらも刹那のタイミングで沼の縁に足を掛け、三度ルーデウスに肉薄するパウロ。

 

 しまった! と、ルーデウスが思った時には、既にパウロはルーデウスの眼の前に存在した。

 

「う、うああああ!」

 

 慌てて剣で迎撃するルーデウス。

 型も何もない無様な一撃は、“ぬるり”とした感触しか返ってこなかった。

 

(水神流! 受け流された!)

 

 水神流の技で流された直後に来るカウンターの一撃。

 スローモーションのように、パウロの剣がルーデウスの首筋へと伸びる。

 

(ああ、だめだ。……真剣じゃなくてよかった)

 

 来るべき衝撃にルーデウスは目をつむる。

 しかし、いつまでたっても己の意識を刈り取る一撃はやって来なかった。

 

「……?」

 

 恐る恐る目を開けば、パウロの木剣はルーデウスの首筋の寸前で止められていた。

 パウロは木剣を引き、やおら家の方を向く。

 

 

「ウィル、いいぞ」

 

 いつからそこにいたのか、実弟ウィリアムが木剣を手にルーデウスを見つめていた。

 

 

 


 

「と、父様! 一体何なんですか! いきなり本気で……」

「ルディ。次はウィルと立ち合え」

 

 俺の抗議の言葉を遮り、パウロはウィルとの立ち合いを指示する。

 いきなりシャレにならん殺気を出して襲いかかったと思ったら、今度はウィルと立ち合えだって?

 ワケも分からず混乱する俺にかまわず、ウィルは俺へと歩を進める。

 

 一体何なんだこれは……

 

 ウィルと俺を立ち合わせる意図は何だ?

 ていうかそもそもパウロは何で俺に襲いかかって来たんだ?

 

 ふつふつと、理不尽なこの状況に怒りが湧いてくる。

 

 ああー……もう。

 パウロ。

 

 お前さんが何を考えてこの状況を仕組んだかはさっぱりだ。

 だけど、お前さんが立ち合えっていうなら、望み通りウィルとやり合ってやるよ。

 この何考えてるのかよくわからんヒ○カみたいな弟に兄の威厳を思い知らせてやる!

 

 ……ヒソ○は言いすぎたな。ゴメン、ウィル。

 せめて愛○惣右介みたいだと言っておこう。あまり変わらんか。

 

 そんな下らない事を考えていると、ウィルが歩みを止めて木剣をゆっくりと構えた。

 

「……いざ参る」

 

 ウィルは、そう言うと木剣を担ぐように(・・・・・・・・)構え直した。

 

「一太刀……一太刀にて、終わらせまする」

 

「な……!」

 

 ──パウロと俺の差はまだまだ大きい。

 今さっきの戦いで、それが十分身にしみた。

 でも振り返ればそこまで悪い戦いじゃなかったと思う。

 結果的には惨敗したけど……

 

 そんな俺に一太刀で終わらせるだって?

 

 舐めすぎだろ、俺を。

 

 転生してから、俺は毎日毎日体を鍛え、魔術を磨いてきた。

 もう後悔したくない──そんな思いで、毎日努力してきた俺を舐めすぎだろ。

 

 いいぜ、見せてやるよ。

 お前の兄貴が、どれだけ強いかを見せてやる!

 

 ……とはいえ、熱くなったらダメだ。

 一回深呼吸をし──よし。落ち着いた。

 

 先程のパウロとの一戦での反省点は、十分に距離が取れなかった事だ。

 相手が魔術を使ってこないなら、アウトレンジで一方的に魔術を使って戦うのが鉄則──

 十分に距離を取る為、数歩、後ろへ後ずさる。

 

 ウィルは木剣を担いだまま動こうとしない。

 ていうかその構えは、剣神流や水神流にも無い構えだ。

 視線の隅に見えるパウロも、ウィルの構えを眉を顰めながら見ている。

 

 遠い。遠すぎる。これなら掠りもしない。

 

 でも、まさか北神流みたいに剣を投げるんじゃないだろうな……

 

 北神流は、なんていうか型という型が存在しない剣術だ。

 一応北神流の中でも奇抜派、実戦派、魔王派等いくつも門派があるから一概にはそう言えない所もあるけど……。

 ちなみにパウロは奇抜派を習得している。

 

 だけど、どれだけ早く投げつけようが、この距離なら余裕で躱せる!

 

 十分に距離を取った。

 お前が一撃で終わらせるつもりなら、こっちも一撃で終わらせてやる。

 多少強めに魔力を練り──狙いはウィルの頭。

 

 致命傷には至らないように、ある程度抑える必要があるけど、狙い所さえ外さなければ一撃で意識を刈り取れる。

 無詠唱魔法なら、相手の初動がいかに早かろうがおかまいなしに初撃を叩き込む事が出来るのだ。

 

 相変わらず剣を担いだまま静かに動こうとしないウィルに向けて、必殺の一撃を見舞うべく指先を向けた。

 

 

「ストーンキャノ……」

 

 

 

 カッ

 

 

 

 そんな音がしたと思ったら、目の前に壁が現れた。

 

 

 なんだ!? なにが起こった!

 

 

 意識が混濁する。

 目に映る壁が、ひどくドロドロに見えた。

 

 ……ああ、これ、俺が地面に倒れているんだ。

 

 壁だと思っていたのは地面だ。

 つまり、俺が、ウィルの一撃を食らって、倒れたんだ。

 

「ぐっ……ぎ!」

 

 気合で立ち上がる。

 頭がくらくら、ガンガンする。

 景色がドロドロする。

 

 でも、このままじゃ終われない。

 

 そう思い前を向くと、木剣を咥えた虎(・・・・・・・)が目の前に──

 

 首筋に、衝撃を覚え、意識が暗い闇へと落ちていった──

 

 

 


 

 ウィリアムが放った“流れ”という虎眼流の剣技がある。

 

 虎眼流中目録以上にのみ伝授される秘伝の技で、剣を片手で背後に担ぎ、柄の鍔元から柄尻まで横滑りさせながら剣を振る事で、相手の目測を超える射程距離で斬撃を叩き込む必殺の技だ。

 

 通常の間合いでは、この流れを躱すのは至難の業。

 精密な握力の調整が出来なければ、剣はあらぬ方向に飛んで行ってしまうだろう。

 

 ──流れ一閃

 

 ウィリアムが放った“流れ”は、ルーデウスの顎先を掠め、地を這わせた。

 神速の斬撃を目の当たりにしたパウロは、全身から冷や汗が吹き出していた。

 

(もし──俺があの技を受けていたら──)

 

 剣神流に“無音の太刀”という奥義がある。

 上級以上の使い手が習得しているその技は、闘気を乗せ、文字通り風切り音さえ残さない速度の斬撃を見舞う。

 並の使い手では躱せないその技を思い起こすパウロは、ウィリアムが放った斬撃がそれと何ら遜色もない……いや、それ以上の速度で叩き出されたウィリアムの斬撃を、果たして自分でも躱しきれるか──

 水神流の受け流しも間に合わない、その最小の斬撃で放たれた“実戦的な技”に驚愕を覚えていた。

 

(一体いつのまにそんな事ができるようになったんだ?)

 

 パウロとの稽古では全くもって基本通りの稽古しかせず、闘気の使い方を教えた事以外はとりたてて特別な事はしていない。

 なのに、どこの流派にも見られない剣筋を放つウィリアム。

 

 ルーデウスは、毎日の剣の稽古やロキシーとの魔術の修行を見ていたので成長具合がよく見えていた。

 先程の戦いでは危うく一本取られるかと密かに安堵のため息をついたくらいだ。

 

 時間にしてみれば一瞬だったが、完全な奇襲であったにも関わらず、三歩もルーデウスに使った。

 特に最後の一歩を少しでも躊躇すれば、足を取られ一気にやられていただろう。

 

 ルーデウスとパウロの戦いは、内容的には完璧にパウロの負けであった。

 

 我が子ながら末恐ろしい。

 だが、嬉しい。

 パウロは、自分の息子がその才能の片鱗を見せつけた事を、素直に喜んでいた。

 

 そんなルーデウスをただの一振りで打ち負かしたウィリアム。

 自分があずかり知らぬ所で兄以上の実力を身に付けていたウィリアムは、一体何をしてそこまでに至ったのか。

 

 パウロは、ウィリアムが隠しているポテンシャルを見る為だけに、ルーデウスとの立ち合いを画策した。

 

 思えば最初に立ち合って『さすが俺の子』、と思わせる程戦いのセンスを見せたルーデウス。

 しかし、けしかけたは良いがルーデウスに対しウィリアムがまともに戦えるのか……今更ながら立ち合いを仕向けた事を悔やんでいた。

 

 でも、底が見えないウィリアムならそこそこいい勝負をしてくれるのでは──

 そんな淡い期待を込めつつ、ハラハラと子供達の立ち合いを見守っていた。

 

 それが、一撃で葬ると不敵に宣言するウィリアム。

 

 その宣言通りに、見慣れぬ構えから放たれた斬撃でルーデウスは沈んだ。

 

(つーかあの間合いから届くなんて……ありえねえだろ!)

 

 ひと目見ただけではその術理は解明できない。

 僅かに木剣の柄を滑らせたようにも見えたが、どんな稽古をすればそれが出来るのか……

 

 この得体の知れぬ次男坊は、パウロの想像をあらゆる意味で超えていた。

 

「……」

 

 無言で兄を見下ろすウィリアム。

 その瞳はただただ無色──

 

「ぐっ……ぎ!」

 

 必殺の流れを受けたというのに立ち上がろうとするルーデウス。

 その様子を見たウィリアムは、意外にも根性を見せる兄を僅かに驚愕の眼差しで見やる。

 しかし、剣虎は、即座に止めの一撃を加えるべく木剣を振るった。

 

「ッ!」

 

 鋭い一撃を首筋に叩き込むウィリアム。

 今度こそ、ルーデウスの意識は完全に途絶えた。

 

 

 そして虎は、更に一撃を加えんとしたのか、大上段に木剣を構えた。

 

 

「あぶねえ!」

 

 振り下ろそうとする瞬間、即座に割って入り、ウィリアムの木剣を掴むパウロ。

 そのまま木剣を奪い取ったパウロは、ウィリアムの頬を叩いた。

 

「加減しろ莫迦!」

 

 パウロに頬を叩かれたウィリアムは、変わらず無表情に父を見つめる。

 

「兄弟だぞ!」

 

 そんなウィリアムに構わず、ルーデウスを抱き抱くパウロ。

 叩かれた頬を押さえ、しばし瞑目したウィリアムはそのまま無言で頭を下げた。

 

 

「そいつらがお前の子供か」

「ギレーヌ! もう来ていたのか」

 

 パウロが頭を上げると、よく鍛えられた肉体、露出度の高いレザーの服、全身傷だらけで猫耳を生やした女戦士が立っていた。

 片目は眼帯を装着している。

 その豊満な体つきは、歴戦の剣士が持つ“凄味”と女性としての“色気”を備えていた。

 

 ギレーヌと呼ばれた女戦士は、パウロに抱かれたルーデウスと、その隣に佇むウィリアムを交互に見やった。

 

「その子が例の子で……こっちは……」

 

 ギレーヌはその隻眼の瞳で、ウィリアムの瞳を見つめる。

 ウィリアムはいつも通りの色が無い瞳でギレーヌを見つめ返していた。

 

「パウロ・グレイラットが二子、ウィリアム・グレイラットと申します」

 

 ウィリアムはギレーヌにぺこりとおじぎをする。

 端から見れば礼儀正しく挨拶する子供。

 先程まで容赦なく兄を打擲しようとしていた空気は、いずこかへと消えていた。

 

「ほう、パウロの息子にしては礼儀正しいんだな。あたしはギレーヌだ」

 

 ギレーヌはウィリアムをまじまじと見て声をかける。

 この見慣れぬ剣術を使う子供に、剣王級まで上り詰めた獣人剣士は関心を高めていた。

 

「先程から見ていたが……随分変わった剣を使うんだな。パウロ、お前はいつから三大流を止めて無手勝流になったんだ?」

「いや……ウィルのは……」

 

 ギレーヌはこの見たこともない太刀筋をパウロが仕込んだ物と思い込んでいた。

 パウロはギレーヌの問いかけに言い淀む。

 自身が全く教えていないウィリアムの剣筋は、一体いつ覚えたのか。

 むしろパウロの方が聞きたいくらいであった。

 

「まあいい。例の件がなかったら、あたしはこの子に剣術を教え……いや、立ち合ってみたかったがな」

「ギレーヌ……」

 

 剣王級剣士としての性か、僅か5歳の童子にまで闘争本能を滲ませるギレーヌにパウロは何とも言えない表情を浮かべる。

 

 当のウィリアムは己の虎眼流を“無手勝流”などと言われ、むっと表情を膨らませかけたが……初めて見る獣人族の容貌に、怒りより興味が勝っていた。

 マジマジと、ギレーヌの猫のように揺れる尻尾を見て、(猫又?)と、場違いな疑問さえ覚えていた。

 

 

「久しぶりねギレーヌ」

「ゼニスか」

 

 ゼニスがリーリャを伴って家から出て来る。

 ゼニスは、以前自身が所属していた冒険者パーティ“黒狼の牙”元メンバーであるギレーヌと、久方ぶりの再会に言葉を弾ませていた。

 

「ウィル」

 

 そして、ゼニスはウィリアムの目の高さまで屈んでその瞳を見つめる。

 かける言葉は、先程のルーデウスを打擲せんとしていたのを、責める様子は一切感じられず……ただ優しかった。

 

「ウィルは、ちゃんと手加減してた(・・・・・・・・・・)よね。お母さんには分かるよ」

「な……母さん!」

 

 パウロはゼニスの言葉を理解できなかった。

 気絶させたまでは良いとしよう。

 たが、その後更に追撃を加えんと大上段に木剣を振るおうとしていたのを見ていなかったのか。

 

 その事を言おうとしたら、ギレーヌが追従するかのように言葉を添えた。

 

「ああ、それはあたしから見ても感じたな。この子は、まだ本気(・・)で打ちかかってはいなかった」

「なん……」

 

 パウロは女達から次々発せられる言葉に、ただ驚愕するばかりだ。

 

 

 事実、ウィリアムはルーデウスに手心を加えていた。

 前世での弟子達に対してもある程度の手心(・・・・・・・)を加えられるくらいの“優しさ”は持っている。

 今回の事も、“兄と立ち合え”“ただし怪我はお互い無いように”という父の言いつけを忠実に守っただけにすぎない。

 

 ルーデウスを昏倒させた二撃目の打ち込みも、本気であったらルーデウスの首と胴体は綺麗に離れていただろう。

 木剣で畳表を切断する技量を持つ虎眼流剣士は、真剣でなくても──否、例え素手であっても容易に人命を奪える殺傷能力を備えているのだ。

 最後の大上段に木剣を構えた事についても、単純にルーデウスが再び起き上がって来た時に備えていただけに過ぎない。

 

 それを叱責され、頬を叩かれた事については……ウィリアムはさもありなん、と甘んじて受け止めていた。

 どのような言いがかりであれ、父親に歯向かう事はウィリアムの前世での価値観が許さなかった。

 ルーデウスが以前、同様にパウロの“誤解”から叱責され、理路整然と父の誤りを正したのとは正逆の事である。

 

 ここでも平成と戦国末期の価値観の相違が表れていた。

 

 

「ウィルは、ちゃんと手加減して打っていたよね。お父さんは心配性だから、許してあげてね?」

 

 そう言いながら、ゼニスはそっと叩かれたウィリアムの頬を撫でる。

 ウィリアムは、あくまで父の面目を保つため、沈黙を続けた。

 

「しかしそんな事まで見抜けないとは……パウロ。冒険者を引退してから随分と鈍ってしまっているようだな」

「……剣王サマにそう言われちゃあ、なーんも言い返せねーよ」

 

 自身の上級剣士としての目利きは、剣王級には及ぶべくもなく。

 ましてや母親の目にすら劣っていた事に、パウロはまた“間違えた”事を深く反省した。

 

「すまん、ウィル。お前は、ちゃんと俺の言いつけ通りにルディを怪我させないように気をつけていたんだな」

「……」

 

 パウロの謝罪に、ウィリアムは再び頭を下げる。

 間違っていようがいまいが、父親には従うのが武家……それも次男坊としてはあるべき姿であった。

 もっともパウロはそのような仕来りに反発し、“ノトス”という家名を捨ててまで庶民的な家庭を築いたのだが──

 

 

「パウロ、そろそろいいか」

 

 父子の様子を黙って見ていたギレーヌが、痺れを切らすかのようにパウロに声をかける。

 

「ああ、すまん。ギレーヌ」

「しかし、弟に比べて剣術に難があるな」

「まぁな……でも、今回の件はそれも含めて丁度いいんだ」

 

 パウロはシルフィエットの父、ロールズから以前から相談されていた事を語る。

 

 初めて出来た友達のルーデウス。

 最初は仲睦まじく、健やかに過ごしていたが……

 徐々に、シルフィエットのルーデウスに対しての依存度が高まっていった。

 それにつれ、親の言うことも聞かなくなり始めている。

 

 またルーデウス自身も、シルフィエットに依存し始めていた。

 

 このままでは互いの成長に宜しくない……

 

 そのような事から、パウロは縁戚のボアレス家に5年間、ルーデウスを預け

 強制的にシルフィエットと離そうとしたのだ。

 

 もっともルーデウス自身もそこを自覚し、だからこそ学校に通うための資金捻出、及びその為のバイトを申し出ていたのだが……

 肝心のシルフィエットと一緒では意味がない。

 

 だからこその、今回の強制送致。

 丁度、ルーデウスに合った仕事がボアレス家に用意されている。

 5年間、手紙や帰宅を禁じ、まったく新しい環境で様々な事を学び、飛躍する事を祈って。

 

 シルフィエットの事を考えれば、痛ましい事ではあるが、息子の成長を思えばこその行動だった。

 

 

「ああ……ルディ!」

 

 一段落し、ゼニスはパウロに抱えられたルーデウスに抱きつく。

 気絶しているルーデウスの顔に、名残惜しそうに口づけをした。

 

「まだまだ軽いよなぁ……」

 

 パウロはルーデウスの成長ぶりに頼もしさを覚えると同時に、まだまだ成長途中の我が子の軽さに表情を崩した。

 

「それじゃあギレーヌ。宜しく頼む」

「ああ。任された」

 

 ギレーヌが乗っていた馬車にルーデウスを押し込んだパウロは、認めた手紙と共にルーデウスをギレーヌに託した。

 挨拶をそこそこに、ギレーヌは馬車を走らせるよう御者に指示を出す。

 

 遠ざかる馬車を、残された家族は様々な思いを込めて見送っていた。

 

「あぁ、私の可愛いルディが行ってしまう」

「奥様。これも試練でございます」

「わかっているわ、リーリャ。ああ、ルーデウス! 旅立つ息子! そして二人息子の一人を奪われて可哀想なわたし!」

「奥様。もう二人じゃありません」

「そうだったわね。妹が二人(・・)生まれたわね」

「二人……! お、奥様!」

「いいのよリーリャ。私はあなたの子供でも愛して見せるわ! だって、私は、あなたを、愛しているのだもの!」

「ああ! 奥様! わたくしもです!」

 

 ゼニスとリーリャはやたらと芝居がかった口調で馬車を見送っている。

 もっとも、ルーデウスは他人から見ても優秀な子供なので、この二人もそこまで心配しているわけでは無いが。

 

(それにしてもこの二人、仲がいいなー)

 

 もはや馬車をそっちのけで熱い抱擁を交わすゼニスとリーリャ。

 そんな二人を見て、パウロは呆れながら馬車を見送る。

 

 下の子供達が物心付いた時にはルーデウスはいない。

 その時、このウィリアムが果たしてきちんと“兄”として振る舞えるのか。

 

(ま、どちらにせよ可愛い娘からの愛情は、父親で独占することになりそうだけどな!)

 

 そんな下らない事を考えつつ、横に並ぶウィリアムの頭をポンポン、と撫でる。

 

「ルディの……兄ちゃんの代わりに、お前も妹達の面倒を見るんだぞ」

「……父上のご希望とならば」

 

「そうじゃない」

 

 パウロは、先程のゼニスと同じようにウィリアムの目線の高さまで屈んだ。

 

「お前が、お前が心から、ちゃんとルーデウスの分まで妹達を“愛して”あげるんだ」

「愛する……」

「俺達は“家族”なんだ。正直、俺はお前が何考えているか分からない。こんな事でしか、お前を計る機会もなかった。でもな、ウィリアム」

 

 パウロはウィリアムを抱きしめながら言葉を続ける。

 

「お前が何者であれ……俺の大事な息子には変わりないんだ。俺達の、愛する家族なんだ。だから、ウィル。お前も俺達を愛してくれよな」

 

「……」

 

 

 ウィリアムは、前世ではなかった感情が湧き上がってくるのを感じていた。

 真っ直ぐな家族愛を向けられるのは、前の人生では無かった。

 

 ふと、目を閉じると、前世の一人娘……“三重”の姿が浮かび上がっていた。

 

 その表情は──

 

 

 

「ついでに仲良くオレをイジメるのをやめてくれると嬉しいって、母さんとリーリャにお前からも言ってくれないかなー……」

 

 そんなパウロのつぶやきに、ウィリアムは──笑顔を覗かせた。

 

「フフッ……」

 

 人生(・・)で初めて声を上げて笑ったウィリアム。

 前世では“嗤う”ばかりであったウィリアムだが、今、初めて味わうその感覚は、虎の心に爽やかな風を吹かせていた。

 

 

「か、母さん! リーリャ! ウィルが笑ってくれた! 笑ってくれたぞ!」

「まぁ! ウィル! そんな天使のような笑顔を見せてくれるなんて!」

「ウィリアム坊ちゃま……やっと、そんな表情を見せてくれるようになったんですね……」

 

 

(……かの家族は、日ノ本の“武家”とは違うようだ)

 

 

 過剰なまでの家族の反応に、ウィリアムは、再びその表情を崩した。

 

──────────────

 

 ルーデウス……こんなやり方は、オレだって好きじゃない。

 

 けど、お前は言っても聞かないだろうし、オレも言って聞かせられる自信はない。

 かといって、何もせずに見ているのも親として失格だ。

 力不足で他力本願だが、こういう事をさせてもらった。

 強引かもしれないが、賢いお前ならわかってくれるだろう……。

 

 いや、わかってくれなくてもいい。

 お前の行く先で起こる出来事は、きっとこの村では味わえないものだ。

 わからずとも、目の前の物事に対処していけば、きっとお前の力になる。

 

 だから恨め。

 オレを恨み、オレに逆らえなかった自分の無力さを呪え。

 オレだって父親に押さえつけられて育ってきたんだ。

 それを跳ねのけられなくて、飛び出した。

 その事には後悔もある、反省もある。

 お前に同じ思いはさせたくない。

 

 けどな

 オレは飛び出したことで力を手に入れたぞ。 

 父親に勝てる力かどうかはわからないが

 欲しい女を手に入れて、守りたいものを守って、

 幼い息子を押さえつけられるぐらいの力はな。

 

 反発したけりゃするといい。

 そして力を付けて戻ってこい。

 せめて父親の横暴に負けない程度の力をな。

 

 そして、ウィリアムも……

 お前に負けないくらい強くなって、

 生涯切磋琢磨できる関係になってくれれば、

 俺は嬉しい。

 

 

 

 ウィリアムを抱えくるくる回るゼニス、それをハンカチで目元を拭いながら見つめるリーリャ。

 その傍らで、パウロはルーデウスの乗った馬車が見えなくなるまで、息子の事を想っていた。

 

 

 

 

 時に甲龍歴414年

 

 

 ルーデウス7歳、ウィリアム5歳

 

 

 運命の事件より、3年前の出来事──

 

 

 

 

 



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第六景『転移(てんい)

 甲龍歴417年

 ルーデウス・グレイラットが縁戚のボレアス家に預けられてから3年の年月が経った。

 

 

 ウィリアム・グレイラットは8歳となり、健やかに──その牙を研いでいた。

 

 背丈はこの世界の一般的な子供とあまり変わらないが、その密度は着々と生前(・・)のそれを取り戻しつつあった。

 母ゼニス譲りの美しく伸びた金髪はルーデウスの様に短く整えられる事はせず、専らゼニスが(ゆわ)いて整えていた。

 成長しつつあるウィリアムの容姿は父パウロの子供の頃と見紛う程によく似ていた。

 だが、パウロの様な快活とした雰囲気は全く見られず……代わりに研ぎ澄まされた刀剣を思わせる“冷たさ”を備えていた。

 

 ルーデウスが強制送致された日以来、ウィリアムのリーリャを含めた家族に対する接し方は、幾分かやわらかい物にはなってはいた。

 

 が、失踪騒ぎで行っていた尋常では無い“一人稽古”は相変わらず。

 

 朝、起床しパウロと朝の稽古を行い、その後家族と食事。

 パウロが村の警邏に出かけるまで再び稽古をした後、日が暮れるまで一人で鍛錬。

 

 その“密度”は、パウロとの稽古とは比べ物に無らない程濃い物であった。

 

 

 虎眼流に“練り”と呼ばれる鍛錬法がある。

 素振り用の大型木剣を小半刻(約30分)かけ、素振りの一挙動を行う。

 力んだ際に奥歯が粉砕するのを防ぐため、手拭を口に咥えて行わねばならぬ程の過酷な修練。

 

 ウィリアムが行う鍛錬はこの“練り”から始まる。

 大の大人でも持ち上げるのに一苦労する程の素振り用木剣で鍛錬を行うウィリアムは、とても8歳の子供とは思えない有様を見せていた。

 もっとも以前の失踪騒ぎを反省しているのか、その鍛錬は専ら庭先で行っている。

 

 家族は最初こそは、この無茶な鍛錬を行うウィリアムを心配し、諌めてはいたが……

 構わず黙々と鍛錬を行うその姿に次第に慣れていったのか、やがてウィリアムの行動に口を出すことは無くなった。

 

 そんなウィリアムにパウロは一度ウィリアムが“神子”或いは“呪子”では?と疑った事もあった。

 

 魔力の異常により持って生まれた特殊能力が当人にとって利益のある能力を持つ人間を神子……不利益のある能力を持った人間を呪子と言う。

 特殊能力については様々な形で現れるが、特に知られているのは超人的な怪力だろう。

 シーローン王国の第三王子は『怪力の神子』として知られ、幼少時に弟の首を素手で引き千切った(・・・・・・・・・)逸話があり、時折来る行商人によってその逸話はこのアスラ王国内でも広く周知されていた。

 

 しかしウィリアムは大人顔負けの腕力を発揮する事はあるがその力を持て余す事無く己の物としているようである。

 一時はその力で家族を害してしまう事を恐れたパウロであったが……その心配は杞憂に終わっていた。

 鍛錬の時以外のウィリアムは至って大人しく、その力を家族に向ける事は無かったのである。

 

 

 “練り”の後は、ひたすら型稽古を行い虎眼流の太刀筋を確認する。

 もっとも中目録以上に伝授される秘太刀の型は以前決めた術理の秘匿という観点から、夜半に家族が寝静まった時に密かに行う程度に留めていた。

 

 かつてルーデウスが魔術の修行を行った庭で、黙々と虎眼流の型を振るうウィリアム。

 元“アスラ後宮近衛侍女”として剣術の心得があるリーリャがそれを目にする事もあったが、パウロとの稽古で学んだ剣術を自己流にアレンジしていると勘違いし……“練り”という尋常ではない光景に慣れた頃には、ウィリアムのその勤勉な姿勢に感心さえするようになっていた。

 

 もっと注意深く見れば、この世界に存在しないであろう太刀筋を振るっていた事に気づけたかもしれない。

 だが、リーリャは態度を軟化させたウィリアムをなるべく好意的に見るようになったので、結局は“虎眼流”という異世界(・・・)の剣術を感知する事は無かった。

 

 

 

 

 鍛錬が終わり家族と夕食をとった後、ウィリアムはさっさと家の中の過ごしやすい場所を選び、体を休める。

 

 一時は本を読む等して過ごしている時もあったが、グレイラット家にある書物はたった5冊しかない。

 早々に読み切ってしまったウィリアムは体を休めている時は座禅を組み、就寝の時間まで瞑想している事が多くなった。

 パウロやゼニス、リーリャは日々の猛稽古という“奇行”に慣れてしまいウィリアムのこの習慣を特に気にせず、日常の光景として受け止めていた。

 

 もっとも幼い妹達はそのようなウィリアムの習慣等おかまい無しにじゃれついてくる。

 ゼニスの子ノルンはウィリアムの膝の上で丸くなる事が多く、時折顔をぺちぺちと叩いては瞑想の邪魔をしている。

 リーリャの子アイシャはより活発な行動を取る事が多く、最近ではウィリアムの大きいとは言えない背中を登坂する事がお気に入りのようで、結わえられた下げ髪を容赦無く引っ張っては登頂を繰り返していた。

 

「うぃーにい、うぃーにい」と、辿々しい言葉で甘えるノルンとアイシャ。

 そんな妹達を邪険に扱う事は無く、黙ってされるがままのウィリアム。

 その姿に、家族は日々の苛烈な姿を忘れ微笑ましく見守るのが日課となっていた。

 

 偶にその光景に興奮したゼニスが乱入する事もあったが。

 

 パウロは娘の愛情を独占出来ると思っていただけに、やたらと懐かれるウィリアムに嫉妬を隠そうともしなかった。

 だが、それが逆に家族の“団欒”の一助にもなっていた。

 

 

(……邪魔じゃ)

 

 そう思いつつも、ウィリアムは家族達のスキンシップにそこまで悪感情を抱いてはいなかった。

 

 思い起こすは前世の娘、“三重”

 

 このような家族との触れ合いは、当然無く。

 

 三重が可愛がっていた燕の親子を斬り殺した事もあった。

 妻が自害した際も、悲しむ三重を一顧だせず、勝手に死んだ事を謗るだけであった。

 

 全ては掛川藩剣術指南役の家に生まれた“武家の娘”として育てる為

 優秀な種を迎え、お家の為に尽くす事を強いるように“愛娘”を育てた為

 

 

 だが、もし──もしもう一度、三重が小さき時分に戻れるとしたら──

 

 

(少しは構ってやれたやも知れぬな……)

 

 後悔も未練もある。

 だが、最早それは思っても詮無きこと。

 

「うぃーにい、おなかいたいの?」

 

 悔恨を思わせる表情を、膝の上に乗っていたノルンが心配そうに見つめていた。

 フッと微笑んだウィリアムは、ノルンを抱えながらやさしく語りかける。

 

「昔を、想っていた」

「むかしー?」

左様(さよ)。昔の話よ……昔のな」

 

 兄妹の会話は、余人には聞こえぬ程の小さな声で行われていた。

 幼いノルンは、この兄の言葉を理解する事は出来無い。

 だが、この大好きな兄が、何かを後悔しているのを感じる事は出来た。

 

「よしよし。うぃーにいはわるくないです」

 

 ノルンは、ウィリアムの頭を辿々しい手つきで撫でる。

 

 虎は、この幼い妹の優しさを、どう受け止めていいのか分からなかった。

 

 

 力を持て余す事は無いが、この感情は持て余す事しか出来ない。

 虎は、持て余した感情を打ち消すかのように、猛然と鍛錬を繰り返していた。

 

 

 

 


 

 失踪騒ぎ以来殆ど外出する事は無いウィリアムであったが、時折近所の野原に出かける事があった。

 

 ただし、その際は必ずシルフィエットが同行していた。

 これは大人達がウィリアムの無茶な行動を警戒し、お目付け役としてシルフィエットを同行させる事で、以前のような失踪騒ぎの再発を防ぐ意味合いがあった。

 

「ねえ、ウィルくん。今日は何をするのかな?」

 

 小さめの籠を抱え歩くウィリアムの隣で、シルフィエットは声をかける。

 最近では、ウィリアムの身長はシルフィエットと変わらぬ程の高さとなっていた。

 

「……野草を摘みに」

 

 嘘ではない。

 

 前世……戦国の世においてウィリアム──虎眼は、一兵卒として戦場を駆け巡った時があった。

 その際、陣中食の素材として野草を摘み、調理して食していた。

 天正十二年(1584年)“小牧・長久手の戦い”において徳川方で参陣した際も、共に参戦した伊賀者から“巻き菱”なる携帯保存食の作成法を学んでいる。

 “巻き菱”とは“撒菱”の語源であり、鉄製の忍具のイメージが強い代物であったが、元々は水草である“ヒシの実”を乾かした物である。

 これを追手を撒く際に使用するのが本来の使い方であったが、伊賀者は携帯保存食として食す事もあった。

 

 尚、余談ではあるがこの時の虎眼は中入り策で長久手に布陣した羽柴秀次、森長可、池田恒興らの軍勢を迎撃すべく出陣した徳川方、安藤直次隊に所属していた。

 その際、実に五十もの首級を上げ徳川方の武将榊原康政より

『かの者の働き、正に濃尾無双也』と評されている。

 またこの時の縁で、後に掛川城主となった安藤直次に兵法指南役として召し抱えられている。

 

 ウィリアムは今生に置いても武者修行の旅に出る腹づもりであった。

 しかしこの世界は、前世の日ノ本に比べいささか(・・・・)旅人に優しく無い。

 野盗はもちろん、魔物の存在が特に大きいせいか、街と街をつなぐ道中には旅籠のような気の利いた存在は無い。

 必然的に商人や冒険者は道中分の食料を抱え、旅をする事になるのだが……

 

 道中安全に旅が出来るとは限らない。

 何かの拍子に所持していた食料を失うとも限らない。

 故に食える野草の知識を積む事も、“異界天下無双”に至るまでの準備として必要であった。

 

 もっとも当初は上述の理由で食用野草を選別する為に採集を行ってはいたが、段々とこの異世界の野草の味が気に入ってしまい、単純に“食べたいから集める”ようにもなったのだが。

 

 

「また野草摘み? 好きだなぁウィルくんは……」

 

 シルフィエットは大好きなルーデウスの弟を、自分の弟のように可愛がっていた。

 失踪騒ぎに見せた尋常ではない姿から、一時はウィリアムに恐怖を感じていた事もあった。

 だが、ルーデウスがボレアス家に送致されて以来、それまでのそっけない態度から幾分かは自分に柔らかい態度で接してくれるようになった事もあり、ウィリアムを自身の弟としてそれまで以上に思うようになった。

 

 ただ、ルーデウスの弟だから可愛がる、というだけでは無く。

 

 以前……ある事が切っ掛けでウィリアムに深い感謝の念を抱くようになったのだ。

 

 

 

 シルフィエットは元々村の子供達にひどいいじめを受けていた。

 その理由は、髪の色。

 エメラルドグリーンの美しい髪を備えたシルフィエットであったが、その緑色の髪は“スペルド族”を連想させた。

 

 約500年前に起きた歴史上最も新しい人族と魔族の戦争、“ラプラス戦役”

 “スペルド族”は、魔族側の尖兵として高い敏捷性と、額の宝石の索敵能力という一族の特能を活かし、奇襲の達人集団として人、そして魔族双方から恐れられた。

 ラプラス戦役中のある日、魔族側の総大将である“魔神”ラプラスがスペルド族の戦士団を訪問し、槍を下賜した。

 

 しかしラプラスが持ってきたのは呪いの槍であった。

 

 精神を狂わす事で戦闘力を跳ね上げるその呪いは、人族の敵を殺し、魔族の仲間さえも殺し、同じスペルド族の家族をも殺し……

 やがてスペルド族は味方の魔族から裏切り者として扱われ、戦後も迫害を受け続け魔大陸を追われた。

 この呪いの槍による暴走の恐怖から、世界全土で子供を躾けるのに“スペルド族が来て食べられてしまう”と教えるのが定番になっている。

 

 緑髪の魔族、亜人はこれらの理由で謂れのない迫害を受けるようになった。

 シルフィエットも多分に漏れず、村の子供達からいじめを受けていた。

 しかし、ルーデウスがその地獄の様な日々を過ごすシルフィエットを救い出した。

 それから、魔術や勉強を教えてもらうようになり……いつしかシルフィエットはルーデウスにひどく依存するようになった。

 

 “いつまでもルーデウスが守ってくれる”

 

 そんな“甘え”がシルフィエットの心の大部分を占めるようになった。

 それを懸念した父ロールズやパウロによってルーデウスと引き離されたシルフィエット。

 突然の別れにシルフィエットはひどく取り乱し……そして決意したのだ。

 

 自身も成長し、ルーデウスに傍にいるのに相応しい“女”になる事を決意した。

 

 いつしか守ってもらうだけで無く、自分もルーデウスを守れる存在になる事を誓って。

 

 守って、守りあって……そんな関係になったら、きっと、ずっと一緒に入られると信じて。

 

 その為に日々努力を怠らなかったシルフィエット。

 

 しかしルーデウスがいなくなるや、それまで鳴りを潜めていた子供達のいじめも燻り始めていた。

 

 丁度、初めてウィリアムと野草を積んでいた時。

 村の子供達と遭遇したシルフィエットは、またも謂れのない言葉の暴力を受けた。

 

『見ろよ! 魔族が草をとってるぜ!』

『魔族だから草が主食なんだな!』

『牛や馬みたいヨ! ギャハハハハ!』

『ヤツケル。魔族。ヤツケル。』

 

 容赦の無い中傷を浴びせる子供達。

 以前のシルフィエットならば泣きながら耐え忍ぶ事しか出来なかったが、この時は毅然と言い返すべく言葉を紡ごうとした。

 

 しかしウィリアムがシルフィエットの前に出た。

 

 

『人は姿にあらず』

 

 

 たった一言。

 

 その一言が、シルフィエットの心をどれだけ洗っただろう。

 

 虎の強烈な“睨み”と共にその言葉を受け、怯えた村の子供達は捨て台詞をそこそこに早々に退散した。

 シルフィエットはそれ以来人間の価値は、姿形では無く、何を成すかで決まるのだと教えられたのだ。

 

 

 もっともウィリアムはそのような高尚を垂れたつもりは一切無く、単純に前世の価値観で物を言っただけに過ぎない。

 その価値観では、どのような容姿の者であれ、その価値は全て“権威”で決められる。

 故に、何ら権威も持たない村の子供達がいずれは(・・・・)兄、ルーデウスの嫁になるであろうシルフィエットを中傷した事がひどく癇に障ったのだ。

 微妙にシルフィエットの事を想っていないのが、この歪な思想……封建社会の価値観を漠然と表していた。

 “武士道”という封建社会の完成形は、少数のサディストと多数のマゾヒストで構成されるのだ。

 道理や道徳など、権威の前では塵に等しい。

 たとえ蟷螂(かまきり)を思わせるような醜女でも、権威の為なら嫁にしなければならぬのだ。

 

 

「シルフィ殿。あちらの川べりで摘んでまいります」

「……ウィルくん。いい加減その他人行儀な呼び方止めてくれないかなぁ」

 

 いつもの採集場所の小川へたどり着いた二人。

 常に慇懃な態度を崩さないウィリアムに、シルフィエットはもっと気さくな関係を望んでいた。

 

「兄上の大事な人ですので」

 

 そんなシルフィエットに、ウィリアムは態度を改める様子は無い。

 あくまで“他人行儀”に、丁寧な言葉使いを崩そうとしなかった。

 

「だ、大事な人だなんてそんな……それ、もしかしてルディが言ってたの?」

「はい。兄上はよくシルフィ殿を嫁にするとも申しておりました」

「おおおお嫁さんだなんて……! ま、まいったなぁ、えへ、えへへへ」

 

 だらしなく表情を緩めるシルフィエット。

 その様子を冷めた目で見つめるウィリアム。

 どうも、このクオーターエルフの娘はルーデウスの話になると呆けてしまう事が多かった。

 

 ひとしきり照れたシルフィエットは、前々からウィリアムに伝えようと思っていた事を口に出す。

 

 

「あ、あのさ、ウィルくん。もし、もしよかったらだけど……ボクの事、“おねえちゃん”って呼んでもいいんだよ?」

 

 

 呆けているどころか、無意識に外堀を埋めようとするこのクオーターエルフの娘は、存外に冴えているのかもしれない。

 

 


 

 小川の近くに座って、ウィルくんを見つめる。

 ウィルくんは、せっせと籠に野草を摘んでいた。

 

 ウィルくんは、不思議な子だ。

 

 ルディとは、全然違うけど……たまにおじいちゃんみたいな雰囲気を出している。

 今だって、あんな渋くて食べづらい野草を、嬉しそうに摘んでいる。

 ぱっと見、あまり表情は変わらないけど、ボクにはわかるんだ。

 たぶん、今日のお夕飯で食べるんだろうなぁ……“おひたし”にするって言ってたけど。

 

「ルディとはなればなれになって、もう三年かぁ……」

 

 野草を摘むウィルくんを見つめながら、そんな独り言を、ついつぶやいてしまう。

 ルディは今ごろ、どこでなにをしているんだろう。

 すっごい魔術おぼえたり、お友だちもたくさんできてたりするのかな……

 

 お友だちって、女の子もいる……のかな……

 

 いやだな……そんなの……

 

 

 寝る前に、お父さんたちが聞かせてくれた大好きなおとぎ話を思い出す。

 

 “むかしむかし”

 

 “悪い魔女にいじめられていたお姫様は”

 

 “白馬に乗って颯爽と現れた王子様に助けられました”

 

 “そしてふたりは結婚し”

 

 “68歳まで生きながらえたとさ”

 

 ……そういえばなんで68歳なんだろう。あとでお父さんに聞いてみよう。

 

 

 ルディは、そのおとぎ話の王子様そのものだった。

 

 だから──ボクは、ルディと結婚して、ずっと守ってもらえると

 

 ──勝手に思い込んでいた。

 

 もし、ルディにその気がなかったら

 

 もし、ルディに他の女の子ができていたら

 

 

 もし、ルディが、私のことを忘れていたら──

 

 

「そんなこと……ないよね……」

 

 

 ……ねえ、ルディ。

 ボクね、ウィルくんに一つ教えてもらった事があるんだ。

 

 人は、姿で決められる物じゃない。

 だから、人は努力する。

 人の価値は、その人の努力で決まるんだ。

 

 当たり前のことかもしれないけど、ウィルくんに言われると不思議と心の中に広がっていく。

 

 だから、ボクも努力する。

 

 だってボクはおとぎ話のお姫様じゃないもの。

 

 ただ守られるだけじゃ、ダメなんだよね。

 

 ルディの事も守ってあげられるくらい、強くなるからね。

 

 もっと魅力的になれるように、がんばるからね……

 

 

 

「……よし! ウィルくん、ボクも摘むのてつだ──」

 

 

 

 突然、光が津波のように迫ってきた

 

 

 樹木や、草を飲み込みながら、迫ってきた

 

 

 ウィルくんが、光に飲み込まれた

 

 

 私も、光に──

 

 

 

 

 ねぇ

 

 

 

 ルディ

 

 

 

 ボクもっと頑張るから

 

 

 

 次に会えたら

 

 

 

 今度こそ

 

 

 

 今度こそ

 

 

 

 

 

 ずっと一緒に──

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 “フィットア領転移事件”

 

 後にそう呼ばれた大規模魔力災害は、フィットア領に住まう人々を“世界各地へと転移させる”という前代未聞の被害をもたらした。

 

 同じアスラ王国内に飛ばされたのならまだマシな方であり

 小国家が乱立し紛争地帯となっている“中央大陸南部”

 砂漠地帯と強力な魔物が跋扈する迷宮群を擁する“ベガリット大陸”

 ベガリット大陸と双璧を成す危険地帯“魔大陸”

 魔神ラプラスが人族を分断する為に放った赤竜が住まう“赤竜山脈”

 獰猛な海の魔物と亜人が蔓延る“リングス海”

 

 過酷な地へと転移した者も多く、悲惨な運命に見舞われたフィットア領の住民は枚挙にいとまが無い。

 

 転移した先で即死した住民は数知れず、運良く生き延びた者もその過酷な環境で命を落とす事が多かった。

 やっとの事で帰還した住民も、家族や財産の何もかもが失われた故郷の姿に絶望した。

 

 帰る家を失い、愛する家族まで失った者の絶望感はいかほどであろうか。

 ギルドの依頼で各地より集まった支援者ですら途方に暮れる程のこの災害。

 老若貴賤問わず、この災害はフィットア領に棲まう全ての人間に不幸を撒き散らしていた。

 

 

 ルーデウス・グレイラットがエリス・ボレアス・グレイラットと共に魔大陸に転移し、転移後様々な人と出会い痛快な冒険を繰り広げていた事は、 後の世に実妹ノルン・スペルディアが記した『大魔術師ルーデウスの冒険』でも広く伝えられている。

 

 しかしウィリアム・グレイラットがこの転移事件の後、どこに転移し、何をしていたのかは全く伝えられていない。

 

 

 ウィリアム・グレイラットの名が再び歴史の表舞台に登場するのは

 

 

 

 甲龍歴423年

 

 

 

 剣術三大流派“剣神流”総本山

 

 

 

 “剣の聖地”からである

 

 

 

 

 

 



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幕間『駿河城御前試合(するがじょうごぜんじあい)

 全て、奪われた

 

 

 寛永六年(1629年)九月二十四日

 この日、駿府城南広場にて真剣(・・)を用いた武芸上覧試合が行われた。

 通常の武芸上覧試合では木剣を用い、直接身体に打突する事は許されない。

 御前試合に選ばれる程の一能の士を損失する事は、全くの無益だからである。

 しかし、尋常ならざる(・・・・・・)領主のひととき喜ばせる為に、この前代未聞の真剣試合が取り行われた。

 

 駿府藩主“駿河大納言”徳川忠長は増悪(ぞうお)していた。

 

 兄、徳川家光に将軍職を奪われた自身の境遇を。

 祖父、徳川家康が最も愛したこの駿府城を。

 当代将軍家光を傾けんが為、連判を問い、それを拒否した諸大名を。

 天下への野望の為に集められたはずの剣士達の渺渺たる有様を。

 

 出場剣士十一組二十二名。

 

 城内南広場に敷きつめられた白砂の庭で、様々な運命、恩讐、因縁にて集った剣士達が

 この魔王の激情を鎮める為その命を散らしたのだ。

 

 凄惨な真剣試合の結末は、手島竹一郎氏家伝『駿河大納言秘記』にて伺える。

 

 敗北による死者八名

 相打ちによる死者六名

 射殺二名

 生還六名、内二名重傷

 

 魔王の生贄となった剣士達の戦いで白砂は血の海と化し、死臭があたりに漂い、見物した侍ですら嘔吐する者もあった。

 しかし忠長は終わりまで平然とその試合を見届けた。

 

 あまりにも無惨な結末を迎えたこの饗宴は、後に公儀により厳しい詮議がかかり、その追求は忠長に招かれた大名家の重鎮らにも及んだ。

 藩主自ら陪観した肥後熊本藩主、加藤忠広などは領国を没収されている。

 

 そして駿河駿府藩も改易となり、駿河大納言家は取り潰し。

 忠長は将軍家光の命により自刃を申し付けられ、その驕暴な生涯に幕を閉じる事となる。

 

 

 真剣試合に全てを賭して戦った者達の悲哀。

 勝利し、生き残った者が得た物は何だったのだろうか。

 

 そして、その生き残りも後に因果な運命に翻弄されるとは。

 御前試合の出場剣士達に穏やかな終わりなど無かったのだ。

 

 

 “武士道とは死狂ひ(シグルイ)也”

 

 

 残酷な御前試合が残したのは、強烈な階級社会の元で生まれた狂気と悲劇のみであった。

 

 

 


 

 隻腕の剣士藤木源之助は父であり師である岩本虎眼の仇敵、伊良子清玄との真剣試合に臨んだ。

 御前試合第一試合で組まれたその一番へ向かう源之助と虎眼の一人娘、岩本三重。

 伊良子に勝利した後、三重と“重なり合う”という神聖な約束を交わした若き男女の姿は、龍門に挑む鯉の如く美しく、尊いものだった。

 

 白砂の庭で再び宿敵を見つめる源之助。

 桜吹雪の中でやっと……やっと三重と心をつなぎ合わせた源之助が、乙女の胸の内に潜みし魔を断ち、永久の契りを交わすべく運命の妖刀を引き抜く。

 

 “虎殺し七丁念仏”

 

 岩本虎眼が主君である安藤直次から拝領したこの刀は、田宮流の祖、田宮対馬守長勝が辻切りにて斬り試しをしている。

 斬ったはずの乞食坊主が血の一滴も垂らさず、念仏を唱えながら七丁(約700m)も歩いた後、血を噴き出した事から“七丁念仏”と名付けられた。

 拝領の際、虎眼はこの刀を名刀業物では無く所持した者に災いを振りまく妖刀と断じている。

 そしてそれを証明するかのように岩本家は廃れた。

 それまで“七丁念仏”と言われていたこの妖剣は、虎眼の死からは“虎殺し”の名前が付け加えられた。

 

 相対する清玄も自身の愛刀“備前長船光忠(いちのじ)”を抜く。

 

「一」を得て天は清く──

「一」を得て地は安く──

「一」を得て神は霊となり──

「一」を得て王は万民の規範となる──

「一」とは即ち天下人の剣──

 

 己の野心をも映すこの青白い刃の芳香を吸い込み、盲目の怪物は“必勝”の型を取る。

 

 伊良子清玄の奥義“無明逆流れ”

 

 みしり、と、清玄の全身から異常な程の力みが発せられる。

 自身の裂けた足の指で剣先を万力が如く締め付け、体を限界まで捻りながら柄を握り、渾身の力を込める。

 この異様な構えから発射される逆流れの剣速は、術理の元となった虎眼流奥義“流れ星”をも上回った。

 “無明逆流れ”とは、かつて己の双眸を裂いた岩本虎眼ら虎眼流一門に復讐をする為、清玄の怨念が編み出した魔性の技であるのだ。

 

 虎眼流の剣士達は次々とこの逆流れという魔剣の餌食になる。

 牛股権左衛門、近藤涼之助、宗像進八郎、山崎九郎右衛門……そして岩本虎眼。

 手練である虎眼流高弟達、そして岩本虎眼すら一撃で葬り去った逆流れに、唯一源之助だけが“生還”している。

 

 寛永二年(1625年)

 三重が藩庁に届け出た父虎眼の“仇討ち願い”により、源之助は清玄と立ち合った。

 その際、逆流れに対抗すべく繰り出したのは虎眼流新奥義“簾牙(すだれきば)

 兄弟子牛股権左衛門と逆流れ対策で編み出した簾牙は、片手に構えた小刀にて下段から来る高速の逆流れを受け止め、もう片方に手にする大刀にて相手を打ち倒す対逆流れ必勝の技である。

 しかし、伊良子の逆流れは受けた小刀ごと(・・・・・・・)源之助の左腕を切断した。

 左腕からの多量の出血により倒れる源之助に代わり助太刀に入った権左衛門をも逆流れにて葬り、三重の仇討ちは阻止された。

 相対するもの全てを一太刀で葬り去っている逆流れ。

 まさしく、必勝の剣技である。

 

 四年が経った今、源之助は再びこの魔性の剣と対峙する。

 

 白砂の庭にて対峙する二匹の龍。

 片腕を失う事で、その若い命を燃やす虎龍。

 両目を失う事で、その野心を燃やす盲龍。

 

 二匹の龍が再び噛み合ったその戦いは、終わってみればあっけない結末であった。

 

 源之助は振り上げた七丁念仏を試合を見守るいく……かつての虎眼の愛妾で、現在は清玄の“おんな”であるいく(・・)の眼前へ投げることで、“無明逆流れ”に空を斬らせる。

 源之助の魂が込められた七丁念仏の投擲は、盲龍の間合いを見誤らせた(・・・・・)のだ。

 間髪を容れず、脇差を抜いて伊良子の懐に飛び込み、かつて伊良子に打破された自身の得意技“鍔迫り”にてその胴を“(いちのじ)”ごと両断した。

 

 端から見ればこの試合は隻腕の剣士が刀の重量を支えきれず、刀を宙空に投げ出し……盲目の剣士はやはりあらぬ間合いで刀を振るったように見えた。

 しかし、実際には壮絶な秘剣の応酬があった事は確かであった。

 

 

 

 眩しすぎた──

 

 

 源之助は、清玄に対しある種の友情を抱いていた。

 かつては虎眼流後継者争いに敗れ、嫉妬心を抱いた事もあった。

 一方で、決して武家社会という“身分の檻”に屈することなく自らの道を突き進み、登りつめていった清玄を誇りにさえ思えた。

 

 憎しみを超え、屈折した友情は清玄も感じていた。

 清玄は、過去に虎眼流高弟達が自身の知る“身分だけの侍”とは違うと気づき、仲間意識を抱いた事がある。

 しかし、源之助のある一言により自身の生い立ちをまざまざと実感し、屈辱を味わう。

 それから特に源之助には強い恨みを持っていた。

 だが、源之助の実力は誰よりも高く評価しており、忠長や駿府藩重臣の前で源之助を侮辱された時は毅然と言い返しもした。

 

 清玄の何者にも操られぬ自我は、あまりにも眩しすぎた──

 眩しすぎたがゆえ、源之助は斬らねばならなかった。

 清玄と出会った誰もがその輝きに心を奪われ、羨望が悪意に変わって清玄の双眸を斬り裂いたのではあるまいか。

 源之助は斃れ伏す清玄を見つめ、そう想っていた。

 

 投げつけられた七丁念仏を自身の喉に当て、菩薩(いく)も清玄の後を追った。

 その表情は、自身のむざんな宿業から解放されたのか、穏やかなものであった。

 

 三重は──源之助が勝利した姿を見て、自身の深部に潜みし“魔”が跡形もなく消滅していくのを感じ……両の眼から涙を流していた。

 全てが終わった事で、乙女は本来の清らかな心を取り戻していたのだ。

 

 

 

「藤木源之助!」

 

 試合を観戦していた忠長に何事かを囁かれた家老、三枝伊豆守が源之助へ声を掛ける。

 

「よくぞ清玄を成敗致した! 当道者の分際で神聖なる駿府の城へと踏み入れたる無礼! 近々御殿自らお手打ちになさる所存であった!」

 

 そして、源之助は伊豆守が次に発した言葉に我が耳を疑った。

 

 

「獄門(晒し首)に処すゆえ……直ちに清玄の首を切り落とせ!!!」

 

 

 源之助は伊豆守の言葉が理解できなかった。

 

 清玄は……伊良子清玄は、源之助の“誇り”だ。

 決して他者が踏みにじる事は許されない、源之助の“誇り”そのものだ。

 なのに、何故、清玄がそのような恥辱を受けねばならぬのか。

 

 ドクン、ドクン、と、源之助の鼓動が高鳴る。

 伊豆守の言葉受けても、源之助は動くことが出来なかった。

 

「藤木源之助! 合戦の場で敵の首級(みしるし)を奪いたるは武士の習いぞ!」

 

 伊豆守が言葉を続ける。

 

(さむらい)ならば……士ならば、士の本分を全うすべし!!!」

 

(さむらい)……)

 

 その後も伊豆守が何事かを叫んではいたが、源之助の耳には入って来なかった。

 ただ、士という言葉だけが、源之助の体内で反芻されていた。

 

『藤木源之助は生まれついての士で御座る。士は貝殻の如きもの──士の家に生まれたる者の成すべき事は──』

 

『お家を守る。これに尽き申す』

 

 かつて清玄に言い放ったこの一言。

 清玄に屈辱を与えたその言霊は、源之助の心の奥底へと埋伏していた。

 そして再び源之助の心に現れ、“身分の檻”へと捕らえていた。

 

 緩々と、納めた脇差しを再び抜く。

 

 そして、清玄の首に刀を当てた。

 

 源之助は片腕で鉈を圧し当て薪を切る程の剛力を持っていたが、この時は赤子の如く僅かな力しか発揮出来なかった。

 

 蒼白となって震え、鋸のように刀を押し当てる事しか出来なかった。

 

 自分の細胞が、大事な感情が次々と死滅していくのを感じた。

 

 バキュッっと、生々しい音が白砂の庭に響き渡った。

 胴体と離れた清玄の首を、源之助は忠長らの前に掲げた。

 その表情は、幽鬼の如く生気を感じさせない。

 

 “身分の檻”が、源之助の心を壊していた。

 

「計らえ」

 

 忠長はただ一言、そう呟く。

 それを受け、伊豆守は再び源之助に言葉をかけた。

 

「藤木源之助! 此度の働きにより、御殿より有り難き御仰(おお)せを賜った!」

 

 伊豆守が手にした扇子を源之助に指しながら言葉を続ける。

 

「格別の計らいを持ってその方を駿府家中に召し抱えて遣わす! この大恩をゆめ忘れる事無く、本日只今より御殿に命を奉るべし!」

 

 源之助は、平伏しつつ、嘔吐した。

 

 

 

 全て奪われた──

 

 

 源之助に残ったものは、約束だけだ。

 

 乙女との、神聖な約束が──

 

 幽鬼の様なおぼつかない足取りで、三重が控える虎口の間へと向かう。

 

 

「三重様……」

 

 

 三重は源之助の貝殻が再び“権威”という魔に染まったのを見て──

 

 懐剣を自身の喉に突き立て、果てていた。

 

 

 

 武士道は、士とは。

 

 かくも如くこのような悲劇しか生まないのであろうか。

 

 散らさずともよい、若い命を捧げてまで、士とはお家の為に尽くさねばならぬのであろうか。

 

 お家を守る為ならば、己の何もかもを捧げなくてはならないのだろうか。

 

 

 

 源之助は倒れ伏す三重の亡骸を、その一つしかない腕で抱いた。

 

 ふと、顔を上げると、源之助は薄っすらと……虎眼の姿を幻視した。

 

 虎眼は哀しみに満ちた眼差しで源之助を見つめていた。

 

 

「虎眼先生……」

 

 

 源之助は、しばらくそこから動く事は出来なかった。

 

 乙女と、師匠の想いを感じ、動く事が出来なかった。

 

 

 

 

 


 

 駿府藩士、七星(ナナホシ)静十郎は伊良子清玄の後を追ったいく(・・)の亡骸を城内の安置所へと移すべく、清玄側の虎口の間へと入った。

 

 美菩薩は“虎殺し七丁念仏”の剣先を抱え、自分の喉を切っていた。

 静十郎はその不憫な姿を憐れんで静かに手を合わす。

 

「なんとも……憐れな結末になったものじゃ」

 

 反対側の虎口では、藤木源之助の許嫁である岩本三重までも自刃して果てていたという。

 仇を討った。

 だが将来の妻をも失った若い士の胸中は、察するにあまりある。

 

 しかし、この悲劇は文字通りまだ序の口に過ぎない。

 この後控える十組の剣士達も、忠長の為にその命を散らす事になっているのだ。

 静十郎は沈鬱な気持ちを払うように、菩薩の亡骸を見やる。

 七丁念仏にて深々と切り裂かれた菩薩の喉を見て、静十郎は増々気分を沈ませた。

 

「せめて、綺麗なまま弔ってやらねばなるまい」

 

 静十郎は菩薩の亡骸をそれ以上傷つけないよう、丁寧な手つきで七丁念仏を手につかむ。

 

 しかし……

 

 

「な、なんと!?」

 

 

 柄を掴んだと思ったら、突然薄い光を発した(・・・・・・・・・)七丁念仏が徐々に……徐々に透けていった(・・・・・・)のだ。

 

「な、なんとしたことじゃ! かように面妖な事が起りえるのか!?」

 

 やがて、七丁念仏は静十郎の目の前から消え去った。

 ありえない事象を前に静十郎は蒼白となり、恐怖から一歩も動けずにいた。

 もし静十郎がその場で顔を空へと向けていたら、空中に赤い珠(・・・)が浮いていた事を確認出来ただろう。

 しかし、目の前の現実を受け止めきれない静十郎にはその赤い珠を見ることはかなわず。

 また、忠長以外の駿府城にいる誰もが御前試合による凄惨な結末に気分を沈ませ、顔を上げようとはしなかった。

 故に空中の赤い珠には誰一人気付く事は無かった。

 

 そして、七丁念仏が消えた後、追いかけるかのように赤い珠も静かに消え去った。

 

 

 妖刀“虎殺し七丁念仏”

 

 

 まるで、この世界では満足した(・・・・・・・・・・)かのように姿を消した妖刀。

 

 

 その妖しき刃に更なる血を吸わせる為

 

 

 妖刀は、異世界へと時空を越えて飛ぶ。

 

 

 かつての主人の元へ引き寄せられるかのように──

 

 

 

 



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若年篇
第七景『無双(むそう)(ゆる)虎参(とらまい)り』


 他流試合心得

 

 稽古磨きの為の試みとして立合申候上(たちあいもうしそうろううえ)

 勝負の善悪(よしあし)によって意趣遺恨(いしゅいこん)の儀

 決して有之(これある)まじく(そうろう)

 他流のもの丁重に扱うべし

 (たお)す(殺す)ことまかりならぬ

 伊達(派手、ハンサム、男前)にして帰すべし

 かかる者の姿は『虎眼流強し』を世に知らしめ

 道場の名声を高むるに至れり

 

 “虎眼流道場訓”より抜粋

 

 

 

 

 

 甲龍歴423年

 

 “剣の聖地”

 一年中雪に覆われたこの過酷な大地は、初代“剣神”が“剣神流”を起こし、道場を構えた事からそう呼ばれるようになった。

 中央大陸最北西端の岬にある剣神流の総本山。

 流派を問わず、剣士であるなら誰もが一度は訪れたいと思う場所。

 

 剣神流総本山として栄えた剣の聖地であったが、一度水神流にこの地を奪われている。

 百年程前に当時の“水神流”総帥である“水神”が同じく当時の剣神と決闘、勝利してこの地を奪い取ったのだ。

 しかしその水神も次代の剣神に敗れ、聖地は再び剣神流の手に戻った。

 

 それ以降、当代最強の流派がこの聖地に居座って剣を教える場となった。

 最強の剣士に剣を教わり、あわよくばその最強の剣士を倒し、自分が最強となる。

 そんな野望を持つ剣士たちも“剣の聖地”を訪れるようになる。

 

 しかし当代剣神ガル・ファリオンが剣神の称号を継いで以来、挑んできた剣士達を片っ端から斬り伏せた事でその野望をぶつけてくる者はいなくなった。

 現在は将来有望な剣士の卵が各地より集まり、若き才能達が日夜猛稽古に明け暮れる場所となっている。

 

 

 

 

 エリス・グレイラットの朝は早い。

 

 剣の聖地にて日々稽古する剣神流の内弟子達は専用の宿舎で寝泊まりしている。

 誰よりも早く起きて朝の一人稽古に向かうエリスは、道場から一時間程歩いた所にある岬にて剣を振るっていた。

 

 ボレアスの名を捨て、剣の聖地に来て以来欠かさず行っている朝の一人稽古。

 無心に剣を振る。

 型も何もない、ただ無心に剣を振る。

 余計な雑念が無いその素振りは、薄皮を一枚一枚貼り重ねるように乙女を強くしていた。

 

「……ちっ」

 

 エリスは舌打ちを一つした。

 無心に振りつつも、雑念は隙を見てはエリスの中に入り込んでいた。

 

 

 3年前──15の時にルーデウスに“初めて”を捧げた後、“剣王”ギレーヌ・デドルディアに連れられ剣の聖地に来て以来、エリスはルーデウスを思わない日はなかった。

 

 6年前の転移事件の後、共に魔大陸に転移し、スペルド族のルイジェルドに出会い、3人で共に冒険の旅をしたあの日々──

 魔大陸から始まったエリスの冒険の日々は、転移事件から3年後……フィットア領へと帰還した事で、その長い旅路を終える。

 

 フィットア領へ帰還したエリスはそこで両親や祖父を失った事を知った。

 一人ぼっちになってしまった事を知ってしまった。

 共に旅をしたルイジェルドや、フィットア領で再会したギレーヌやボレアス家執事アルフォンスも他人にしか見えなかった。

 でも、ルーデウスだけは違った。

 エリスは冒険の日々で大きな存在になっていったルーデウスを愛していた。

 泥にまみれつつ、常に一生懸命で、困難な事に出会っても決して諦めずに向かっていったルーデウスを愛していた。

 エリスにはもうルーデウスしかいなかった。

 

 だから、エリスはルーデウスと家族になろうとした。

 本当の意味で家族になり、寂しさと悲しみを忘れようとした。

 

 フィットア領に帰還した夜、強引に誘い、初めて“重なり合った”時にエリスは気づいた。

 ルーデウスは、小さかった。

 己を貫く帆柱(・・)こそは逞しいものであったが、ルーデウスの体はエリスより小さかった。

 エリスはそこで初めて大きな存在だったルーデウスが自分よりも年下なのだと理解した。

 行為の途中から、か細く、折れそうになっていったルーデウスが自分より幼かった事を理解した。

 こんなにも幼かったルーデウスが、ずっと守ってくれていた事を理解した。

 

 そして、エリスは自分がルーデウスに相応しくない女だと気づいた。

 このままの自分ではルーデウスの負担にしかならないと感じてしまった。

 自分よりも幼いルーデウスに、家族を失った不安と自分の欲望をぶつけてしまった事を恥じた。

 

 家族にはなれたかもしれない。

 でも、それ以上の関係にはなれない。

 夫婦になりたかった。

 吊り合いが取れる、本当の意味で対等な関係になり、守って守り合える関係になりたかった。

 

 “強くなろう──ルーデウスと肩を並べられるようになるまで”

 

 ルーデウスに勝てなくてもいい。

 でもせめて、吊り合える女になりたい──

 そう思ったエリスは、重なり合った次の日にはルーデウスに黙って姿を消した。

 そしてギレーヌの勧めに従い、この剣の聖地へと赴いた。

 強靭な剣士となるべく、狂気ともいえる鍛錬を己に課すようになった。

 

 剣士(エリス)魔術師(ルーデウス)

 一般的なそれとは男女が逆だが、エリスはそれで良いと思っていた。

 

 成長し、強くなり、もう一度会えたら。

 

 そして、二人であの“龍神”を倒したら。

 

 その時こそ、家族の一歩上、夫婦となるのだ。

 ルーデウスの子供を産んで、幸せに暮らすのだ。

 

 そんな想いが、日々エリスの中で脈打っていた。

 

 

「ふぅ……」

 

 素振りを終え、一息つくエリス。

 入門してからの日々は、この“狂犬”とも言えるエリスの性質()を着々と研いでいた。

 しかし、エリスは己の成長に全く満足していない。

 

 入門し、師匠である剣神ガル・ファリオンから言われた事を思い出す。

 

『ただ無心で剣を振れ。無心で剣を振って、疲れたら座って休んで考えろ』

 

『考えるのに疲れたら、また立ち上がって剣を振れ』

 

 剣神に命じられたそれをエリスは愚直に守って剣を振っていた。

 そして振っていく内にそれまで感じていなかった“剣を振る事の難しさ”を感じるようになった。

 

 小さな頃は、勉強なんかより剣を振る事の方がずっと簡単で自分に向いていると思っていた。

 その考えは今でもそう変わっていない。

 自分には勉強より、剣を振る方が性に合っている。

 

 だが、剣を振る事は勉強より簡単ではなかった。

 思えば人に教えられる分だけ、勉強の方が簡単なのかもしれない。

 

 もっと速く振れるはず

 もっと強く振れるはず

 それが、どうしても上手く出来ない。

 

 3年前の自分よりは、きっと速くなった。

 でも、ギレーヌはもっと速い。

 ルイジェルドはもっと速い。

 剣神はもっともっと速い。

 そして、“龍神”はそれ以上に速い。

 

 エリスは座って考える。

 何十回、何百回、何千回も剣を振っては座って考える。

 己が打倒を誓った強大な存在に届くまで後どれくらい剣を振ればいいのだろう。

 

 疲れた時に、ルーデウスの事が頭にちらついた。

 

「……ちっ」

 

 また舌打ちをする。

 見れば、もう何度目か分からなかったが、手の豆が潰れていた。

 懐から布を取り出し、無造作に巻いた。

 

 エリスは日々の修行を辛いとは思わない。

 3年前、“赤竜の下顎”での事はいつだって思い出せた。

 あれに比べれば、なんでも耐えられる気がした。

 ルーデウスが死にかけ、龍神に手も足も出なかった事で感じたあの時の無念に比べれば。

 

 エリスは冒険の日々で、自分達が死とは無縁だと考えていた。

 ルーデウスは強い。ルイジェルドも強い。

 彼らがいれば、自分も死なない。

 そう考えていた。

 シーローン王国でルーデウスの妹、アイシャ・グレイラットとその母リーリャを助けた後、アスラ王国領へ入る際に通った“赤竜の下顎”で龍神と出会うまでは。

 

 龍神はいきなり自分達を攻撃してきた。

 そしてルーデウスは死にかけた。

 もし、あの龍神の連れの少女が気まぐれをおこしていなければ。

 あるいは龍神が治癒魔術を使えなければ。

 ルーデウスはいなくなっていただろう。

 

 怖かった。

 自分は足手まといで、ルーデウスの荷物になっている。

 エリスはその時、そう感じていた。

 

 それでも尚、エリスはルーデウスを神格化していた。

 殺されかけても、ケロッとしてまたあの龍神と戦う事を想定していたルーデウス。

 

 エリスはそれが理解できなかった。

 理解できず、とにかく怖くなってルーデウスの傍にいた。

 傍にいなければ、この大きな存在となったルーデウスがいなくなってしまう気がした。

 ルーデウスに、置いて行かれてしまう気がした。

 置いて行かれてしまう事を想像し、ひどく辛い思いを感じていた。

 

 だから今の修行は辛くはない。

 痛みも、辛さも、もどかしさも。

 そして今、一人でいることも、傍に彼がいない事も。

 あの時感じた辛さに比べれば、この修業の日々はなんと“生温(ぬる)い”事だろう。

 

 

「ルーデウス……」

 

 ぽつり、とエリスは呟く。

 それ以上は、ルーデウスの事を考えないようにした。

 エリスは考えるのが苦手だからだ。

 深く考えてしまえば、自分が容易く“折れる”であろう事を無意識に理解していた。

 ルーデウスと深く繋がったこの“赤い縄”を手繰り寄せようとすると、エリスは心地良い至福に包まれる。

 しかし、今のエリスにその縄を全て手繰る事は許されなかった。

 

 エリスはまた立ち上がり、剣を振りはじめた。

 強くなる、ただそれだけの為に。

 一切の雑念を、振り払いながら、剣を振っていた。

 

 

 

 

 しばらく剣を振った後、エリスは道場へ戻ろうとした。

 呼吸を落ち着け、汗を拭う。

 手拭いに顔を埋め、しっかりと汗を吸い込ませる。

 

 顔を上げたら、遠くから一人の少年がこちらへ近づいてくるのが見えた。

 徐々にはっきりと見えてくるその少年の姿に、エリスは固まった。

 

 少年は白髪(・・)の総髪を結え、一本のショートソード、そして一本の()を腰に差していた。

 背はエリスよりもやや高く、その所作は鍛え込まれた肉体を感じさせていた。

 よく見れば、右手の指は常より一本多い6本の指(・・・・)をしていた。

 少年の装いはよくある冒険者風ではあったが、一つ大きな違いがあった。

 少年が羽織っていた“羽織”は、エリスが見たこともない装束だった。

 そして羽織りの後ろには、決してこの世界の人間が読めぬであろう未知の言語(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)が書かれていた。

 

 

 “異界天下無双”

 

 

 力強い筆跡で書かれていたこの六文字は、もしこの人の世界で日本語を解する者がいたらそう読めただろう。

 

 しかしエリスにとって羽織りに書かれた文字はどうでも良かった。

 その少年はエリスを固まらせる程の顔立ち(・・・)をしていた。

 

 少年は虎を思わせる冷たい視線でエリスを見つめていた。

 愛する男によく似た少年が発する怜悧な視線に、燃える“狂犬”は凍りついたように動く事が出来なかった。

 

 赤い縄が、エリスに絡みついていた。

 

 

 

 

 


 

 剣神流道場では朝の稽古を行うべく、剣聖の認可を受けた剣神流高弟達が集まっていた。

 当主である剣神がまだ道場に見えてない間、剣聖達は各々稽古前の準備をしている。

 黙想する者、木剣を振り準備運動をする者、仲の良い同門と剣術について語らう者……

 道場の入り口では、その剣聖達の様子を見つめる一人の“ド派手”な装いの男がいた。

 

 北神流“北帝”級剣士“孔雀剣”オーベール・コルベット。

 数週間前、この北帝級剣士は剣神の求めに応じ剣の聖地へと赴いている。

 北帝が剣の聖地へと訪れたその理由は、エリス・グレイラットに北神流剣術を叩き込む為。

 

 七大列強第二位“龍神”オルステッドを倒す──

 入門初日にそう言い放ったエリス。

 剣神は己がかつて屈辱を味わった龍神に打倒を掲げたエリスの心意気を気に入っていた。

 そして龍神打倒という目的を助ける為、あらゆる手段でエリスを鍛えていた。

 剣神流の合理的ともいえる術理はあえて教えずに単純な鍛錬のみを言い付け、その“野生”を極限まで高め、“合理の外にいる存在”を打倒する為の手段を講じていた。

 

 龍神オルステッドは何故だか分からないが、この世界に存在する全ての剣技、魔術を使用する事ができる。

 その全ての技を使える龍神に対し、剣神流のみで太刀打ち向かうには圧倒的に不利。

 ゆえに、剣神はまず北神流に対しての対処法を学ばせる為、北帝オーベールを呼び寄せていた。

 

 エリス一人の為に態々他流の帝級剣士を呼び寄せた事は、他の剣神流門弟達にとって不満を感じさせる事もあった。

 だが、元々北神流とは三大剣術の中ではやや異端扱いされており、中でも“奇抜派”と呼ばれる者達は正当な剣術を扱う剣神流の人間からは見下される事が多かった。

 “孔雀剣”オーベールはその奇抜派筆頭剣士であった為、2日もしない内に門弟達はその不満を感じる事は無くなり、淡々と自身の稽古に打ち込むようになった。

 もっともエリスは道場の中では“浮いた”存在であった為、やっかみは感じさせる事はあっても仲間として見られる事は無いエリスに誰が稽古をつけようと門弟達は知った事では無かった。

 

 

「……戻ってきたな」

 

 オーベールは道場の外を見やる。

 エリスが岬から戻ってくるのが見えた。

 そして、見慣れぬ一人の少年がエリスについてくるのも見て取れた。

 

「ふむ。エリス、そちらの御仁は一体どなたかな?」

 

 挨拶もせず、道場へ入ろうとしたエリスにオーベールは声をかける。

 この不遜な“狂犬”の態度に、オーベールは出会ってから3日で慣れてしまっていた。

 

「道場破りよ」

 

「は?」

 

 しかしエリスが放った一言はオーベールを固まらせた。

 稽古前の準備をしていた剣聖達も、その一言で一斉に空気を張り詰める。

 剣呑な空気が漂う中、エリスはお構いなしに道場へ入る。

 自身の木剣を手に取り、道場の端に座って黙想を始めた。

 道場の入り口に取り残された白髪の少年とオーベールに、門弟達の視線が集まる。

 

「エリスじゃ話にならないわね」

 

 そう言いながら道場の入り口へと進む一人の女剣士がいた。

 “剣聖”ニナ・ファリオン。

 当代剣神ガル・ファリオンの一人娘であるこの可憐な乙女は、現在エリスよりも一つ年上の19歳。

 16にしてすでに並ぶ者のない才を持つと言われた剣聖であり、20歳になる頃には剣王と呼ばれ、25歳になる前に剣帝になるであろうことは間違いないと言われていた。

 

 エリスが来るその日までは。

 

 ニナはエリスが剣の聖地へと赴いた初日、父である剣神から立合いを命じられ、エリスの冒険者仕込みの“野蛮”な戦法に屈辱的な敗北を味わっている。

 エリスの強烈な拳を受け、腹を蹴られ、馬乗りにされ、容赦の無い殴打を受けた。

 小便を漏らし失神し、不様な姿を晒したその日以来、ニナはエリスを憎み、一方的にライバル視していた。

 もっともエリスはニナの事など全く眼中になかったのだが。

 

「御用のおもむきは?」

 

 ニナは入り口に佇む白髪の少年に声をかける。

 その言葉尻は、やや熱いものを滲ませていた。

 

「……剣神ガル・ファリオン殿に、一手御指南つかまつりたく候」

「ッ!」

 

 道場にいる誰もが、白髪の少年が発した言葉に凍りつく。

 少年の透き通るような声色が道場に響いた直後、門弟達が発していた剣呑な空気は猛烈な殺気へと変わり、白髪の少年に突き刺さっていた。

 エリスだけが、我関せずと黙想を続けていた。

 

「へぇ……それで、いつやるのかしら?」

「本日この場──」

 

 少年が言い終える瞬間──

 ニナの拳が少年の顎先へと伸びた。

 刹那の瞬間、無様に伸びる少年の姿を想像したニナはほくそ笑む。

 

 

 だが──

 

 

(え?)

 

 

 次の瞬間、ストン、と腰を落としたのはニナの方であった。

 この状況に戸惑うニナが、自分の拳を上回る速度(・・・・・)で抜き放たれた“虎拳”が己の顎先を掠めたのだと気付いたのは、腰を落としてから数秒経ってからであった。

 この神速の“虎拳”は傍で見ていたオーベールの目をもってしても鮮明ではなかった。

 

「ハァッハッハッハー! ニナ! お前寝ぼけてんのか! 自分から不意打ち仕掛けて尻もちつくとは!」

 

 羞恥で真っ赤に染まったニナを、快活な声で笑う一人の男が道場に入って来た。

 当代剣神ガル・ファリオン。

 ニナの父であり、天衣無縫ともいえるこの剣神は“剣王”ギレーヌ、“剣帝”ティモシー・ブリッツを引き連れズカズカと道場の正面へと設けられた剣神流当主が座る席へ向かう。

 ドカっと腰を下ろした剣神は、その視線を白髪の少年へと向けた。

 

「立合いが望みか」

 

 直後、その快活な空気はガラリと変わり、発せられた言葉は先程まで高弟達が発していた道場の空気をより危険な物に変えた。

 剣神は口元に笑みを浮かべながら、射殺さんばかりに少年を睨みつける。

 少年は道場の入り口にて依然として静かな佇まいを見せていた。

 傍に腰を落とすニナには目もくれず。

 

「久しく道場破りなんて来ていなかったからなぁ……エリスが来てから、剣の聖地も賑わうようになったもんだ」

 

 剣神はくつくつと喉を鳴らし、言葉を続ける。

 少年はただ黙って剣神を見据えていた。

 

「間抜けな娘を一人のしただけじゃ腕前は見れねえし、もう2、3人、相手してもらうぜ」

 

 そんな少年の姿を見てますます口角が上がった剣神は、相変わらず尻もちをついている“一人娘”に視線を向けた。

 

「どいてろニナ」

「……はい」

 

 冷たく、容赦ない言葉。

 道場では親子の情など一切無く、そこにあるのは厳格な師弟関係のみ。

 父の言葉に娘は消え入りそうな声で応えていた。

 

 “剣帝”ティモシー・ブリッツの次男、“剣聖”ジノ・ブリッツが木剣を手に、白髪の少年の元へと向かう。

 やや剣呑な顔つきで少年を見つめた後、少年に木剣を差し出した。

 白髪の少年はジノから木剣を受け取った後、腰の大刀をジノに預ける。

 丁寧な手つきでそれを受け取ったジノは、道場の入り口にある剣立てに大刀を置いた。

 その後、従姉弟でもあるニナの元へ向かい、手を貸す。

 羞恥と悔しさで顔を歪め、涙を浮かべるニナにジノは黙って肩を貸していた。

 

「エリス」

 

 ニナがジノに連れられ道場の隅へと腰を下ろしたのを見て、剣神は黙想を続けるエリスに声をかける。

 声をかけられたエリスは、ゆっくりとその瞼を開いていった。

 

「お前がこの小僧の腕前を確かめてみろ。よーいドンで始めろよ。不意打ちもいいが、ちゃんとした剣の実力も見てみたい」

「……ふん」

 

 剣神の言葉を受け、木剣を手に取りゆっくりと道場の中央へ向かうエリス。

 その表情は、朝方見せていた悩ましげな様子は一切感じられず、ただ目の前の“敵”を倒すべくその獰猛な視線を向けていた。

 白髪の少年は泰然とその視線を流し、木剣を手に道場中央へと向かった。

 オーベールやギレーヌ、ティモシーはそれぞれ剣神の左右に座り、この尋常ではない空気を出している少年をじっと見つめる。

 

「出来ますなぁ……この少年は」

 

 オーベールは少年の中央へ向かう“只者ではない”足さばきを見て、そう呟く。

 横に座るティモシーもそれを受け黙って頷いていた。

 しかし剣王ギレーヌは、道場に来た瞬間からその少年の風貌に驚きを隠しきれないでいた。

 

(似ている……)

 

 9年前。

 あの時、ルーデウスを一撃で昏倒させたあの幼子……

 昔の仲間であったパウロの若い頃の面影を良く見せるこの少年に、ギレーヌは記憶に鮮明に残るあの幼子を思い出していた。

 しかし、記憶にあるあの子の髪の色はゼニス譲りの美しい金髪だったはずだ。

 道場の中央に佇むこの少年は、ギレーヌの記憶に残る金髪の幼子とは違い、真っ白な白髪であった。

 混乱するギレーヌに構わず、少年とエリスの立合いは始まろうとしていた。

 

「そういや流派と名前を聞いてなかったな」

 

 剣神が道場に向かい合う少年とエリスを見ながら言った。

 少年は、木剣を構えながら剣神の言葉に応える。

 

「“無双虎眼流”……ウィリアム・アダムス(・・・・・・・・・・)

「無双……こがん流……?聞いたこと無いな。北神の一派か?」

 

 ウィリアム・アダムスと名乗った少年が言った聞きなれぬ流派に、剣神は北神の門派の一つだと思いオーベールに問いかける。

 

「北神流にそのような門派はありませんな」

 

 しかしオーベールも、“虎眼流”などという流派は聞いたこともなかった。

 虎眼流とは一体どのような剣を使うのか……。

 オーベールのその瞳は、ウィリアムに対する興味で溢れていた。

 

「歳は?」

「14で御座る」

「若いな。いや、俺がお前さんくらいの歳にはもう剣王くらいにはなっていたか」

 

 剣神は見た目より若いウィリアムに増々興味が沸いていた。

 

「ま、歳や流派なんて本当はどうでもいいんだけどな。それじゃ、ウィリアムとやら」

 

 剣神は合理的な発想で物事を進める。

 オーベールと同じように、未知の術理を使うかもしれないウィリアムを楽しげに見つめていた。

 

「その“虎眼流”とやらを見せてくれ……始めっ!」

 

「うらああぁぁぁぁッッ!!」

 

 剣神の号令の直後、弾かれたように猛然と突進したエリス。

 ドガッと、凄まじい音が道場に鳴り響いた。

 

「……ッ!」

 

 しかし突進したエリスに、数歩だけ前に出たウィリアムはその振り下ろし切る前のエリスの猛撃に木剣を合わせる。

 ギリッギリッと、互いの木剣が軋む音が道場に響いていた。

 

(初撃を合わせられたが……エリス! そのまま押し切ってしまえ!)

 

 鍔迫り合いとなった状況に、ギレーヌはエリスの好機を見出す。

 この狂暴な“狂犬”は剣の聖地へと来て剣聖の称号を得て以来、その腕力は同じ剣聖達と比べ物になく。

 単純な力だけでいえばギレーヌと遜色ないレベルにまで来ていた。

 

(潰すッ!)

 

 エリスは木剣ごとウィリアムを倒すべく、渾身の“闘気”を乗せる。

 

「ッ!?……ぐぅッ!?」

 

 しかし、エリスは闘気を乗せようと力んだ瞬間、背骨から煮えた鉛を流し込まれた(・・・・・・・・・・・・・・・)かのような激痛に襲われ、全く動く事が出来なかった。

 

(どうしたエリス! 何故動かない!?)

 

 ギレーヌは突然硬直したエリスに戸惑う。

 剣を合わせながら、脂汗をかき、苦悶の表情を浮かべるエリスは尋常の様子では無かった。

 

(まさか、魔術を使われたのか!?)

 

 ギレーヌは自身の右目を塞いでいる眼帯を外した。

 ギレーヌの右目は『魔力眼』という魔力を直接眼で見ることが出来る魔眼である。

 その瞳は巧妙に隠蔽された魔術の行使もひと目で感知する事が出来た。

 しかし、いくら魔力眼を行使してもウィリアムが何かしらの魔術を使っている様子は一切感じられない。

 増々混乱するギレーヌと同様に、オーベールや剣帝以下の門人達もエリスの様子に戸惑っていた。

 剣神だけが、冷静にウィリアムの指先を見ていた。

 

 この時──木剣を握りしめ、剣を合わせているエリスの拳に、ウィリアムの指先が絡みついていた。

 ウィリアムの指先が押さえているのはエリスの右手の僅か二箇所(・・・・・)に過ぎない。

 しかし、何故かその程度の所作でエリスの動きは完璧に封じられていた。

 

 “骨子術”の一つ“指溺(ゆびがら)み”

 

 異世界の人間には到底考えられぬであろう、日本武道(・・・・)の真髄ともいえる柔の業。

 人体の経路を利用し、指先一つで容易に人を制圧できるこの技術は、剣神でさえ見ただけではその理を解明する事は出来無かった。

 

「ガァッ!!」

 

 バシンッと鋭い音と共に、エリスの人差し指と中指を握ったまま強烈な足払いをしかけるウィリアム。

 エリスの身体は一回転し、道場の床に激しく叩きつけられる。

 ボキッボキっと、生々しい音を立て、エリスの指はへし折られていた。

 

 

「それまで!」

 

 剣神の止めの言葉が道場に響く。

 構わず立上がろうとし、闘争本能を滲ませるエリスだが、ウィリアムはエリスの二本指を掴んだまま、その動きを封じていた。

 

「グッ……ウゥゥゥッ!」

 

 獣のようなうめき声を上げながら這いつくばり、必死に立ち上がろうとしていたエリスであったが、もはや誰が見ても“詰み”であった。

 

「エリス。勝負ありだ」

「……ッ!!」

 

 剣神の言葉を受け、ウィリアムはエリスの手を離した。

 エリスの折れた指は、骨が露出していた。

 

 ウィリアムは悠然とエリスに黙礼する。

 エリスはそれを無視し、血を滴らせながら、道場の端へと向かった。

 同じく道場の端にいたニナの隣に、乱暴に腰を下ろした。

 

「エリス……指の治療を」

 

 ニナはあまりにも痛々しいエリスの指を見て、普段よく思わないこの“狂犬”を思わず労る。

 しかし、エリスはニナすら無視し、歯を食いしばらせてウィリアムを睨んでいた。

 

「エリス……」

 

 ニナは、エリスが涙を流しているのを見てしまった。

 その涙は、決して指の痛みから来るものではないと解ってしまった。

 

 エリスは冒険の旅をしていた頃、何度もルーデウスと模擬戦をしている。

 勝ったり負けたりしていたが、ルーデウスが“予見眼”を取得してからめっきり勝てなくなってしまった。

 エリスはあの時感じた悔しく、辛い思いを、このルーデウスによく似た少年に負けた事で再び催してしまった。

 

 エリスは剣の聖地に来て、初めて涙を流したのだ。

 

 

「いやー強いなぁお前さん」

 

 剣神は未知の体術を行使するウィリアムを見て、増々楽しそうに体を揺らす。

 

「どうだった? その娘っ子は」

 

 涙を流すエリスに構うこと無く言葉を続ける剣神。

 ウィリアムは顔を上げ、ただ一言言葉を紡いだ。

 

 

「縄に繋がれた狂犬(いぬ)に、遅れは取らぬ」

 

 

 エリスは愕然とした。

 何故……何故、この少年は私の“赤い縄”が見えたのか。

 他の剣神流の剣士達、オーベールやギレーヌでさえこのウィリアムの言葉には首をかしげた。

 しかし、エリスだけはその言葉の意味を解っていた。

 だれにも言ったことがない、あの“赤い縄”を……どうしてこの少年は、見えてしまったのか。

 

 エリスは涙で滲む目で、ウィリアムを見る。

 視界が滲んでよく見えなかったせいか、その姿はルーデウスに似ていた。

 愛する男から、エリスは自分の大切な感情を否定されたような気がした。

 

 エリスはやがて俯き、嗚咽を噛み殺すように泣いた。

 ニナやジノ……周りの剣聖達も、エリスの様子をただ黙って見ているしかなかった。

 

 

「おもしれえなぁ。ひと目でエリスの“縄”を看破したか」

 

 剣神だけが、楽しそうにウィリアムに話しかけた。

 エリスの突進を外した体捌き、見慣れぬ体術……剣神はこの未知の術理を使う少年剣士が楽しくて仕方がなかった。

 

「よし! んじゃ、そろそろ俺が相手に」

「師匠。ここは私が」

 

 意気揚々と木剣を掴み、立ち上がろうとした剣神に横に座る“剣帝”が待ったをかける。

 

「ティモシー……おまえな、師匠が出るって言ったら黙って見送るのが弟子の努めだぞ」

「弟子である前に義弟ですので」

 

 剣帝ティモシー・ブリッツは剣神ガル・ファリオンの妹を娶っている。

 弟子であり義弟でもあるティモシーは、剣の聖地で唯一剣神に直接意見を言える存在であった。

 

「偶には弟子(おとうと)に譲ってみてはどうです?」

 

 歯に衣着せぬ物言いに剣神はむすっとした表情で浮かせた腰を下ろした。

 

「……ま、おまえさんがやられたら俺が出ればいいだけの話だしな」

「ご冗談を。今日は師匠(義兄上)の出番はありません」

 

 木剣を掴み、剣帝ティモシーが立ち上がる。

 ギレーヌは剣神に勝るとも劣らない程の不満の表情を浮かべていた。

 

「ギレーヌ、ここは私に」

 

 ティモシーはギレーヌを見て笑みを浮かべながら話しかける。

 ギレーヌは妹弟子の仇を取りたくて堪らなかったが、この兄弟子の笑顔に絶大な信頼を寄せていた。

 

「……剣帝殿。不様な姿は見せないでくれよ」

「承知している」

 

 ティモシーは道場の中央へと進む。

 向かい合った両者の間は、歪みが発生するかのように空気が渦を巻いていた。

 

「剣帝ティモシー・ブリッツと申す」

「虎眼流、ウィリアム・アダムス」

 

 短い言葉を交わし、両者は距離を取り木剣を構えた。

 開始の合図は無い。

 言葉を交わした時点で、既に勝負は始まっていた。

 

「いざ!」

「……」

 

 裂帛の気合と共に剣を上段に構えるティモシー。

 それを見たウィリアムは、木剣の握りを僅かに変えた。

 その握りは、右手の人差し指と一本多い(・・・・)中指の間で剣の柄を挟み、まるで猫科の動物が爪を立てるかのような異様な掴みであった。

 

「シッ!」

 

 凄まじい速度の袈裟斬りがウィリアムに放たれる。

 身体を倒し、その袈裟斬りを躱したウィリアムは、即座に反撃の横薙ぎを見舞った。

 その横薙ぎを見切っていたティモシーは剣の柄でそれを受ける。

 ガッっと柄に木剣が当たる鈍い音が響く。

 響いた次の瞬間には、ウィリアムは次なる斬撃を見舞う。

 再び放たれた横薙ぎは、剣の柄を滑らせながら放たれた(・・・・・・・・・・)事でティモシーの目測を上回る伸びを見せていた。

 

「ッッ!」

 

 しかし、ティモシーの尋常ではない身体能力はその横薙ぎを倒れ込む事で当たる寸前に躱す。

 更に、倒れ込みながらウィリアムの伸びきった右手を狙い剣を振る。

 ウィリアムは即座に右手を引き、その流れ斬りを躱した。

 

 

 体勢を立て直し、再び距離を取る両者。

 この神速の攻防を目視出来たのは、剣神、北帝、剣王の3名のみである。

 ニナやジノら剣聖達……そして顔を上げ、試合を見つめていたエリスにはその攻防を満足に“視る”事は出来なかった。

 

「は、速すぎる……」

 

 ジノは剣帝である父と伍する程の剣速を見せたウィリアムに驚愕の表情を浮かべていた。

 剣神を除けば、父ティモシーは剣の聖地で最も速く剣を振る事が出来る。

 その父と互角の攻防を繰り広げたのは、自分より年下の14歳。

 父に命じられ、特に目標も無く剣術を続けていたジノであったが、自分もそこそこの才気がある事を自覚していた。

 しかしジノはそれまで培ってきた自信が音を立てて崩れるのを感じていた。

 

(あの妙な掴み……速き上に伸び来たる。間合いに入るのは危険か……)

 

 ティモシーは距離を取った事で冷静にウィリアムの戦力を分析する。

 ウィリアムの掴みは全くの未知の術理であったが、百戦錬磨の剣帝は即座に対抗策を導き出した。

 

(狙うは拳……我を打たんと伸び来るあの拳を、奴を上回る速度で断つ!)

 

 ティモシーは木剣を腰に当て、闘気を練る。

 

 剣神流奥義“光の太刀”

 

 剣神流剣聖以上に伝授されるこの奥義は、闘気を乗せる事により文字通り光速の抜き打ちを実現していた。

 そして、剣帝が使う光の太刀の“速さ”は剣聖達が使うそれとは比べ物にならない。

 剣帝より上回る速度で光の太刀を放てるのは、全剣神流剣士の中で剣神のみであった。

 

 

左様(さよ)か」

 

 ウィリアムはティモシーの構えを見て、木剣の構えを変える。

 右手の掴みをそのままに、左手をやや持ち上げ……人差し指と中指で木剣の剣先を挟む。

 

 みしり

 

 左の指で挟んだ木剣が、異様な音を立て軋む。

 ウィリアムのこの構えは、道場の空気を凍りつかせる。

 その場にいる誰もがこの構えに圧倒され……呼吸を忘れるかのごとく引き寄せられていた。

 常人を遥かに超える闘気が練られていく。

 尋常ではないその誘引力は、剣神ですら逃れられなかった。

 

 

「虎眼流“流れ星”」

 

 

(こ、これは……ッ)

 

 この手を見たティモシーは、みるみるその顔に死相を浮かべた。

 脂汗を大量にかき、呼吸が乱れる。

 

 流れ星とは、ティモシーにとっての“死の流星”──

 

 ティモシーは、剣士の本能でそれを感じ取っていた。

 

 

 剣神流の極意を悉く身につけた剣帝級剣士の全細胞が

 

 

 これ以上の戦闘を拒否していた。

 

 

 

 

()……」

 

引き分けで御座る(・・・・・・・・)

 

 

 虎が剣帝の言葉を遮った。

 薄い笑みを浮かべ、剣帝の面目を保ったのは

 いかなる魂胆があってか。

 

 

 虎の不気味な思惑に、道場は水を打ったように静まりかえっていた。

 

 

 

 

 



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第八景『怨剣若虎仕置ノ段(おんけんわかとらしおきのだん)

 

「ルーデウスはズルいわよ」

 

 

 甲龍歴418年、魔大陸最南端の唯一の港町ウェンポート。

 ルーデウス・グレイラットとエリス・ボレアス・グレイラットが魔大陸に転移した後、ルイジェルド・スペディアと出会い冒険者パーティー『デッドエンド』を結成し……ここウェンポートで魔大陸での冒険は終着を迎えた。

 ここからミリス大陸へと渡り……大陸を横断し、ミリス大陸最西端のウェストポートから更に船に乗り、中央大陸へと戻る為の第一歩。

 

 この場所でルーデウスは“魔界大帝”キシリカ・キシリスから“予見眼”なる魔眼を与えられた。ルーデウスはこの数瞬先の未来が見える魔眼を駆使し、それまで“魔術無し”では敵わなかったエリスとの模擬戦による勝利を得た。

 エリスの悪辣なフェイントを織り交ぜた猛撃を悉く完封せしめたルーデウス。

 魔術無しの模擬戦ではルーデウスに負けた事がなかったエリスであったが、近接戦闘でもいいようにルーデウスにあしらわれた事は、エリスにとって己の自信を喪失させるに十分であった。

 肩を震わせ、「帰る!」と大声で言った後、足早に宿へと戻るエリス。ルーデウスはその様子に苦笑しつつ、苦手としていた近接戦闘での確かな手応えを感じると共に漸く『殴られずにエリスの成長具合を確かめる事が出来る』と鼻の下を伸ばしていた。

 

 しかし宿に戻った後、落ち込んだエリスの姿を見てルーデウスは頭を冷やした。

 

「ルーデウスは、ズルいわよ。一人で魔眼なんて手に入れて……私は一生懸命頑張ったのに……」

 

 ズルい。

 

 その一言に、ルーデウスは己が何も努力せずに得た力に“慢心”していたのだと気づいた。ルーデウスはエリスのこの言葉に何も言い返す事が出来なかった。何を浮かれていたのだろう、と己の浅慮な考えを恥じていた。

 エリスはずっと努力していたのだ。ルーデウスが見ていない所で、ルイジェルドと数え切れない稽古を積んでいた。その努力を、何も苦労せずにたまたま得た“力”で打ち負かしてしまった。汗だくになって努力したエリスに勝って、ただ無邪気に喜んだ。

 

 なんという慢心、なんという緩慢。

 

 ルーデウスはこの魔眼を己の成長を妨げるものとはっきり自覚した。いざという時以外は魔眼を使用せず、己をしっかりと戒める。

 大切なのは魔眼の使い道を考える事ではなく、あくまで己の戦闘力を高める事だと改めて意識した。

 

 ルーデウスは重たい口を開き、エリスに謝罪の言葉を述べた。

 

「……すいません」

「謝らないでよ……」

「……」

 

 エリスはそれから言葉を発せず、ただ黙っていた。ベッドの上に膝を抱え、隣に座ったルーデウスに黙って体重を預けていた。

 普段のルーデウスなら、エリスの体温や匂いを感じ……邪な感情が湧き上がってくるところだった。だが、この時ばかりはそのような感情にはなれなかった。

 エリスの高い体温と、仄かに香る汗の匂いがルーデウスを批難しているように感じられた。

 

 重い空気の中、エリスが口を開く。

 

「……ねえ、ルーデウス。ルーデウスは、勝てない相手っているの?」

 

 何気ない問いかけ。

 この重い空気に耐えられなかったのはエリスも同じなのか、大して意味のない問いかけを呟く。ルーデウスは少し間を空けて、エリスの問いかけに応えた。

 

「……そうですね。僕にも勝てない相手は沢山いますよ」

 

 微笑みのような、憂いを帯びた表情でルーデウスは言葉を紡ぐ。

 

「まず、ルイジェルド。彼には“魔眼”を使っても勝てなかった。凄いんですよ? 見える未来が“ブレる”んです。次の一手が見えても、素人が達人に勝てる道理は無いと思い知らされました」

 

 エリスとの模擬戦の後、ルーデウスはルイジェルドとも模擬戦を行っている。その際ルーデウスの未来予知をも上回る速度で攻撃を繰り出し、何もさせずにルーデウスを完封した。

 たかが数瞬先の未来が見える程度では、戦いの圧倒的な経験値の差を埋める事は叶わなかった。

 

「それから、パウロ父様。今戦ったら、そこそこいい勝負は出来ると思います。魔術や魔眼を使えば、もしかしたら勝てるかも。でも、やっぱり父様には勝てないかもしれません」

 

 ルイジェルドの次に思い浮かべたのは実の父、パウロ・グレイラット。三大流派上級という腕前は、冒険者となって場数を踏んでいく内に並大抵の才能ではないことをルーデウスは理解していた。

 あの時の模擬戦……7歳の時、ボレアス家に行く切っ掛けとなったあの模擬戦の記憶は、ルーデウスにとって未だに鮮明に残る記憶であった。あの時はまだパウロの“本気”を引き出せたとは到底思えなかった。

 

 

「……でも、一番勝てないのは……ウィリアムかもしれません」

 

 

 そして思い出す。

 あの“弟”の姿を。

 

 無詠唱魔法はあの時よりも磨きがかかっていた。この1年で様々な魔物と戦い、場数もそれなりに踏んでいた。ルイジェルドやエリスとの稽古も、確かに自分の戦力を高めていた。

 

 しかし、どうしてもイメージ出来ないのだ。

 あの“虎”のような弟の苛烈な圧力を、どうやったら跳ね除ける事が出来るのか。己をただの一撃で打ち負かしたあの神速の打ち込みを、どうすれば躱す事が出来るのか。

 

 最後に見たあのイメージ……弟は……ウィリアムは、とても尋常ではない“気”を発していた。そのイメージを覆す程の実力は、一体いつになったら身につける事が出来るのだろうか。

 いくら魔眼を得たとは言え、それが果たしてウィリアムに対してどこまで通用するのだろうか。

 

 両手を組み、そのまま押し黙ったルーデウス。

 エリスは押し黙ってしまったルーデウスに心配そうに声をかける。

 

「ルーデウス……ウィリアムって、ルーデウスの弟よね?」

「……はい。自慢(・・)の弟ですよ」

 

 やや薄い笑みを浮かべ、エリスに応えるルーデウス。

 

「……そういえば、ルーデウスの弟の話はあまり聞いてなかったわね」

「そうですね……あまり話をする程、ウィリアムの事を知ってるわけじゃないですから」

「どうして? 弟なんでしょう?」

「そう……ですね。……なんていうか、ウィリアムは……」

 

 エリスはじっとルーデウスを見つめる。他の家族を語る時はもっと饒舌なルーデウスであったが、なぜかこの時ばかりは言葉を濁すばかりであった。

 

「……“虎”」

「虎?」

「はい。ウィリアムは、僕なんかより全然大人しい子供でした。でも、虎のような凄みがありました」

「なんだか変わった子ね……」

 

 弟に一撃で倒されたあの立合い。あの立合いの最後に見えたあの木剣を咥えた虎が、ルーデウスの胸の奥に鮮明に刻みつけられていた。

 かつて弟が己の胸の奥に刺した、強烈な(イメージ)──

 

 ルーデウスははっきりと、その棘を認識した。

 

「とりあえずブエナ村に帰ったら、今度こそウィリアムに“兄貴らしい所”を見せたいんですよね。ほら、兄より優れた弟は存在しねえ!って言うじゃないですか」

「なにそれ……」

 

 ルーデウスはやがていつもの笑みを浮かべてエリスを見つめる。

 

 エリスはルーデウスの笑顔を見て……僅かに感知した。

 ルーデウスのその瞳は“虎”に対する畏れが、僅かに現れていた。それを見たエリスは、それ以上ウィリアムの事を聞くことはできなかった。

 

 エリスはルーデウスに体重を預け、自分も離れ離れになった家族に思いを馳せた。

 お祖父様、お父様、お母様、ギレーヌ……

 エリスはボレアスの家族と剣の師匠に思いを馳せ、増々ルーデウスに体を預けた。

 

 

 二人がいる宿の一室は、故郷や家族に思いを寄せる静かな時間が流れていた。

 

 

 

 ルーデウスは知らない

 転移の範囲がロアの街だけではなく、フィットア領全体で発生していた事を

 

 ルーデウスは知らない

 ブエナ村の家族が、シルフィエットが、大切な人達が転移に巻き込まれていた事を

 

 ルーデウスは知らない

 父が家族を探し、フィットア領の住民を救う為に“必死”になって各地を駆けずり回っていた事を

 

 

 ルーデウスは知らない

 

 

 弟が、たった一人で修羅の大地へと転移していた事を

 

 

 背中を預ける仲間もおらず、ただの一人でその孤剣を振るっていた事を

 

 

 グレイラットの名を捨て、不退転の“覚悟”を持たねば生き抜く事が難しかったその過酷な日々を

 

 

 “異界天下無双”となるべく、狂気の日々に身を任せた剣鬼の宿業を

 

 

 

 

 これは、エリスが剣の聖地へと赴く2年前の出来事──

 

 

 

 

 

 虎が、剣の聖地へと参る5年前の出来事──

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

「引き分けで御座る」

 

 

 ウィリアムが流れ星の構えを解き、よく通る声で勝負の中断を申し出る。対峙する剣帝はもとより、道場にいる誰もがこの言葉を理解出来なかった。

 

「……どういう事だ?」

 

 剣帝ティモシー・ブリッツが声を絞り出す。

 あの時点で、自身の敗北は確定的に明らかであった。ティモシーの敗北とは、即ち“死”。死を明確に意識し、生の本能から降参を言いかけた。それを途中で遮り“引き分け”などと抜かすウィリアムの魂胆が、この剣帝には全く想像がつかなかった。

 

「……漸くまことの剣に出会え申した」

 

 ウィリアムは木剣を置き、その場にて膝を折る。

 

「剣帝殿の剣技……それがし、真っ事感服仕りました」

 

 両手を床につき、平伏しつつ言葉を述べるウィリアム。その表情は、へつらう(・・・・)ような笑みを浮かべていた。道場にやって来た時の寡黙な様子とはうって変わり、雄弁と口上を述べるその態度に門弟達は得体の知れぬ怖気(おぞけ)を感じていた。

 

「剣帝殿の太刀筋、いや、それがしの小剣とはまったく比べ物になく──」

 

「うそこけ」

 

 

 いつのまにか、木剣を手にした剣神がウィリアムの前に立っていた。

 尋常ではない怒気を滲ませた剣神の腰には、剣神七本剣が一つ魔剣“喉笛”が差されている。瞬間、ウィリアムのへつらいの笑みは消え失せ、剣神に対し懐疑(・・)の視線を向けた。

 

「小僧。何企んでやがる」

 

 怒気を通り越し、殺気を滲ませた剣神の言葉に道場にいる全ての人間が息を呑む。

 

「道場は芝居をする所じゃねえ……なんで勝負を止めた?」

「……へぇ」

 

 へつらいの笑みはなかった。

 剣神の強烈な覇気を受け、言葉を詰まらせるウィリアム。その様子は、端から見れば剣神の怒りに恐縮する“少年”に見えた。

 だが、この時のウィリアムは予定していた段取りとは違う(・・・・・・・・・・・・・)事態に、動揺を隠し切れずにいた。

 

「……剣神流に、尊信の念を感じますれば」

 

 動揺を抑え、やっとの思いで言葉を発するウィリアム。その様子を黙って見つめていた剣神であったが──

 

「……フ、フハハ、ハーッハッハッハ!!」

 

 唐突に、道場に入ってきた時と同じように快活な笑いを上げる剣神ガル・ファリオン。剣神の笑い声と共に、張り詰めた空気は徐々に緩んでいった。

 

「ハッハッハッハー……いや、そう来るとは思わなかったぜ」

 

 

 

 そして剣神は、平伏するウィリアムの背中に木剣を突き立てた(・・・・・・・・)

 

 

 

「ガァッッ!!!」

 

 ズンッと重い音が響く。

 剣神の突然のこの行動に、道場にいる誰もが凍りついた。

 

「ぐうううッッ!!」

 

 道場の床に這いつくばるウィリアム。

 剣神は無表情にその様子を見ていた。

 

 そして、ウィリアムの背中から木剣を引き抜く。木剣を突き立てられた背中の肉は爆ぜ、真珠のような白い胸椎を覗かせていた。

 

「ッッッ!!!」

 

 瞬間

 

 ウィリアムは腰に差していたショートソードを引き抜く。

 虎眼流の骨子である“掴み”による抜き打ちは、ただの居合にはあらず。神速の抜き打ちは、正確無比に剣神の首を狙って放たれた。

 

「ッ!?」

 

 しかしその神速の抜き打ちは、“ぬるり”とした感触しか返って来なかった。

 刹那の瞬間に剣を抜いていたのは剣神も同様──

 ウィリアムの切っ先が、剣神によって受け流される。

 

 水神流奥義“流”

 

 水神流上級以上が修得するこの技は、水神流全ての技に通じ、極めれば魔術による攻撃も受け流す事が出来る。水神流にとって基本にして最も重要な技。

 故に、水神流では奥義の一つとして数えられていた。剣神ガル・ファリオンはこの水神流を水聖級まで修得していた。

 

 キンッと、剣が弾かれる音が響く。

 ウィリアムのショートソードは道場の端へと飛ばされ、返す刀で“喉笛”はウィリアムの胴を薙いだ。

 

「ぐうッ!」

 

 刹那の瞬間に身を引き、致命傷を逃れるウィリアム。しかし剣神の斬撃は、致命傷とまではいかずともウィリアムを行動不能に貶めるには十分な威力であった。

 斬られた胸を押さえ、片膝を突いたウィリアムは剣神を強烈な視線で睨みつけた。

 

何故じゃッ(・・・・・)!!!」

 

 決して浅くは無い胸の傷、そして背中の深手にも拘らず大音声でウィリアムが叫ぶ。その様相は、正に“手負いの虎”を想起させた。

 

「気に入らねえからだ」

 

 剣神は“喉笛”を下段に構え、ゆるりと間合いを詰める。

 

「てめえは誰の為に剣を振ってるんだ?」

 

 じりじりと、ウィリアムとの間合いを縮める。

 

「てめえの剣は、誰かに言われて容易く矛先を変えるような、つまらん剣なのか?」

 

 ぴたっと、“喉笛”の剣先をウィリアムの喉元に突きつける。ウィリアムは食いしばった歯を軋ませ、鬼の形相を浮かべ剣神を睨み続けていた。

 

「フン…‥いい面構え(ツラ)してるぜ小僧。道場に来た時とは比べもんにならねぇな」

「~~~ッッ!!!」

 

 

 やがて剣神は“喉笛”を引き、ウィリアムを冷たい視線で見据える。

 

「とっとと剣の聖地から()ね。今のてめえは斬るに値しねえ」

「……ッ!」

 

 剣神がウィリアムに僅かに視線を逸らす。顎をしゃくり、道場の入り口を示した。

 

 よろよろと、傷を押さえ、ゆっくりと立ち上がるウィリアム。

 おびただしい血が、道場の床を濡らしていた。

 

 

「……(たわ)け」

 

 ダンッ! と、道場の床を踏み抜き、ウィリアムが跳躍する。相応の深手を負った筈の肉体は、剣神ですら驚愕する程存外に力を残していた。跳躍し、駆け出したその先は、道場の入り口に立てかけられた自身の愛刀。

 妖気が漂うその刀を掴むべく、虎は猛然と剣立ての元へ向かう。

 

 しかし──

 

 

「そうはいかんぞ!」

 

 虹色の上着、膝までの下履き、腰には剣を4本差し、頬に孔雀の刺青を入れ、髪型はパラボラアンテナのように開き、柑橘系の香水の匂いを漂わせているド派手な男……

 北帝“孔雀剣”オーベール・コルベットがウィリアムの前に立ちはだかった。

 

退()けッ!」

「んん! まだまだ元気一杯とみた!」

 

 ウィリアムが渾身の虎拳をオーベールに繰り出す。しかし既に剣を抜いていたオーベールは、即座に剣に魔力を込める。

 

「『剣よ、燈火を!』」

 

 オーベールの魔術が発動し、剣が炎に包まれる。そして剣に向かい、予め口に含んでいた油を噴射した。

 

「ブゥゥゥ!」

「ぬぅッ!」

 

 正面からまともに炎を浴びるウィリアム。羽織っていた羽織に引火し、その体は炎に包まれた。

 

「おのれぇッ!!」

 

 即座に羽織を破り捨て、炎を鎮火すべくその場で転がる。ウィリアムの顔や髪、身体のあちこちが燻っていた。肉が焼ける、不快な臭気が辺りに立ち込める。

 

「まだ動けるか! いや実に天晴! しかし!」

 

 オーベールの刺突がウィリアムを襲う。

 もはやそれを躱せる程の体力はウィリアムに残されてはいなかった。

 

「ぐあッ!」

 

 両の太腿に深々と剣を突き刺す。ウィリアムは膝を尽き、どうっと前のめりになって倒れた。

 

「……おのれ……おのれ……」

 

 床に這いつくばり、尚も呪詛を吐きながら北帝を睨むウィリアム。その視線を流しつつ、オーベールは虎に止めを刺すべく剣を上段に構えた。

 

 

「オーベール」

 

 剣神の声が、オーベールの動きを止めた。

 

「剣神様。こやつ、生かしておくと後々の禍根になりかねませんぞ」

オーベール(・・・・・)

「……まぁ、某が手を下さずとも良い事ではありますがな」

 

 剣神の睨みで、北帝は剣を収めた。

 剣神はこの尋常ではない事態に凍りついていた剣聖達を見やる。

 

「おまえら、こいつを簀巻にして捨ててこい」

 

 非情な命令を下す剣神。

 剣聖達は数瞬躊躇したが、やがて一人、二人とウィリアムの元へと駆け出した。

 

「こいつ!」

「剣神流に歯向かう不届き者め!」

「地獄に堕ちる覚悟も無しに剣神様に同等口(ためぐち)叩くまいぞ!」

「剣神様! やってよろしかですか!?」

「剣神様に是非を問うなッ!!」

 

 ウィリアムに群がった剣聖達は、手にした木剣で容赦の無い打擲を加える。

 既に剣神と北帝に相応の深手を負わされたウィリアムに、抵抗できるだけの力は全く残されていなかった。ニナ、ジノも逡巡していたが、剣聖達がウィリアムに打擲し、縄で縛るのをおずおずと手を貸していた。

 エリスだけが、その場から動かずに剣神を睨んでいた。

 

 

「……おのれ……おのれ……」

 

 殴打され、簀巻にされながら呻くウィリアム。確かな自信を持って剣の聖地へと赴いたウィリアムであった。

 しかしその挑戦は、ウィリアムに今生での最大の屈辱を植え付けた結果となった。

 

 

 

 虎は、敗北したのだ。

 

 

 

 

 


 

 剣神流本道場『当座の間』

 ウィリアムを“仕置き”終え、剣神ガル・ファリオン、剣帝ティモシー・ブリッツ、そして剣王ギレーヌ・ディドルディアがこの当座の間に集まっていた。

 

「師匠ッ! 一体アレはどういうつもりなんだッ!」

 

 ギレーヌが剣神に噛み付く。

 エリスを打ち倒したウィリアムに対し、確かに思う所はあった。しかしこの誇り高い剣王は、大勢で寄ってたかってウィリアムを嬲り者にしたこの仕打ちを、到底許せる事は出来なかった。

 

「おまえは、ほんと頭が筋肉で出来てるよな」

「今はそんな話をしているんじゃないッ!」

 

 剣神の気怠げな物言いに、ギレーヌは増々語気を荒らげる。

 めんどくさそうに剣神はギレーヌを見やる。ポリポリと、耳を掻きながら一つ溜息をついた。

 

「はぁ……ほんと、お前の教育を間違えたよ俺は」

「……」

「あの飢えた虎みてえだったギレーヌが、牙の抜けた子猫ちゃんになっちまって。こんなお小言をいうようになっちまった」

 

 剣神はギレーヌと出会った頃を思い出す。

 あの時のギレーヌは正しく野生の“牙”を持っていた。しかし剣神流の理合を教えていくにつれ、その野生は徐々に失われていた。もし余計な理を教えず、ただひたすらその野生を伸ばすように教えていたら……

 

「今頃剣帝くらいにはなってたのにな」

「師匠ッ! そんな事よりなぜあんな仕打ちをしたんだッ!」

「あんなて……そりゃあ、なぁ」

 

 剣神は横に座るティモシーを見やる。

 ティモシーは、ややあってギレーヌに言葉をかけた。

 

「ギレーヌ。あのまま師匠と、かの少年が戦っていたらどうなっていたと思う?」

「何?」

「……師匠が負ける事は無い。だが、恐らくはあの少年は無事では済まなかっただろう」

 

 ティモシーは能面のような表情でギレーヌに語りかけていた。

 ギレーヌは兄弟子の言葉を聞いて、やや落ち着いた口調になる。

 

「どういう事だ?」

「加減するのが難しい相手……下手をすれば、師匠も不覚を取るやもしれぬ。まともに当たれば確実に死人が出ていた」

「……」

「故に、あの場はああする事でしか少年を守護(まも)る手段はなかった、そうでしょう? 師匠」

「半分正解だな」

 

 剣神は頬杖をつきながらティモシーに応える。

 ギレーヌは増々困惑の表情を浮かべた。そんなギレーヌに、剣神はニヤニヤとした表情を向けていた。

 

「ギレーヌ。剣神になってしまうとな、技を比べる相手がいなくて、そりゃ寂しいもんなんだ」

「……?」

「ま、お前らじゃわからんよ。この領域(レベル)の話は」

「……」

「レイダの婆さんや、カールマンの(せがれ)も、技を比べるには良い相手かもしれねえ。だがお互い立場ってのがある。それに、そこまで付け狙う理由も互いに無え」

 

 剣神は滔々とギレーヌに語りかける。

 圧倒的な強者が感じる一抹の寂寥感が、そこに現れていた。

 

「なんのしがらみもなく、己をただ付け狙う孤高の相手……油断したら、あっという間に食い殺されかねない。そんな、虎みてえな奴がいたら、最高だとは思わねえか?」

 

 剣神の眼は爛々と輝き、口角がつり上がっていた。

 

「次にあの小僧が俺の前に現れた時は……一体どうなっちまうんだろうな」

 

 楽しそうに、剣神は体を揺らす。

 ギレーヌは全くこの剣神の考えが理解できなかった。

 

 

「いやいや、あのウィリアムという少年。中々の暴れっぷりで」

 

 剣神の言葉に続くように、オーベールが当座の間へとやってきた。手にはウィリアムの太刀が握られている。

 剣神の正面に座ったオーベールは、その太刀を剣神の前に差し出した。

 

「お納めくだされ。中々の業物と見ましたぞ」

「……フン」

 

 やや乱暴に太刀を掴む剣神。

 鞘に収められた刀の拵えを、まじまじと見つめた。

 

「ヒルト(鍔、柄)の拵えが独特でしてな。それだけでも美術品としての価値がありますぞ」

 

 オーベールは喜々と語る。この男は剣に対してもある種の“美意識”を追求していた。

 

 

 そして剣神は、ゆっくりと……その刀を鞘から引き抜いた。

 

「これは……」

「なんと妖しい輝き……」

「吸い込まれそうですなぁ……」

 

 ギレーヌ、ティモシー、オーベールの三人は刃の妖しい輝きに陶然と見とれていた。

 一見、この世界でも珍しくは無い片刃の剣に見えた。しかしその焼き、鍛え、研ぎは、この世界には存在しないであろう至高の技術が注ぎ込まれていた。

 刀匠でなくても分かる常軌を逸するその刀身は、異世界の剣豪達を魅了していた。

 

「むうー……これほどの業物、ユリアンですら作れますまい。シシトーや龍皇、鉱神ならあるいは……いや、かの名匠達でも難しいでしょうな」

 

 オーベールは名匠ユリアン・ハリスコや名だたる名匠達が拵えた名剣をいくつも知っている。しかしこの妖しい“気”を発している剣は、そのどの名剣にも無い凄味が感じられた。

 

 ややあって、剣神は刀を鞘に収める。

 剣神は嫌忌の表情を浮かべていた。

 

「これは、名剣業物なんてもんじゃねえよ」

 

 鞘に収めた刀を、ギレーヌに放り投げた。

 

「っと」

「ギレーヌ。そいつも捨ててこい」

 

 剣神は冷然と言い放つ。

 オーベールは、この躊躇ない剣神の行動が理解出来なかった。

 

「剣神様。これ程の剣、世界中探しても中々見つかりませんぞ。“剣神七本剣”でもこれ程の物は……」

「オーベール。これはな、そんな上等な代物じゃねえよ。いうなりゃ妖剣だな」

「妖剣? 呪いがあるとでも?」

「呪いなんて“甘っちょろい”代物じゃねえ……もっと(おぞ)ましい“ナニカ”だ」

 

 剣神が忌避する程の妖剣。一体どれ程の“業”を背負っているというのか。

 オーベールは剣神の言葉を受け、息を呑む。

 

「俺もいろんな剣を見てきたからな。剣を見たらその剣がどんな風に、何を斬ってきたのか……大体“視えて”くるもんだ」

「それでは……一体何が視えたと?」

 

 剣神は一呼吸置き、言葉を続ける。

 

「残酷すぎる、その剣は」

「残酷?」

「斬った相手、使い手……その周囲まで尽く不幸のどん底に落としていやがる。とてもじゃねえが、俺はそんなモン手元に置きたくねえよ」

 

 剣神の言を受け、ギレーヌはギョッとした目つきで刀を見る。震えをごまかすように、剣をギュッと握りしめた。

 

「それはそれは。確かに手元に置けば剣神流に災いが起こるかもしれませんなぁ」

「ケッ。てめえはその方が良いと思ってんだろうが」

「いやいや、そのような事、露ほども思っておりませぬぞ」

 

 剣神と北帝は歯に衣着せぬ物言いを交わす。剣術三大流派は互いの事を決して良く思っているわけではなく。

 剣神と北帝は個人的な友誼があったが、基本的には他の流派がどうなろうが知った事では無かった。

 

「ああギレーヌ殿。捨てるなら街の外れに捨てるのが良いですぞ」

 

 立ち上がり、当座の間を出ようとするギレーヌにオーベールが声をかけた。

 

「丁度先程の若虎もそこに捨てて来ましたからな……おおそういえば」

 

 そしてやや芝居がかった仕草で懐を弄る。懐から取り出した袋をギレーヌに手渡した。

 

「これもついでにそこに捨ててくれるとありがたいですな。いや、それは北神流に伝わる一級品の治療薬なのですがな。ちと古くなってしまって、もはや効能があるかどうか怪しい物でしてな」

「オーベール殿……」

「不要な物はまとめて捨てるに限りますな。ハッハッハッハッ」

 

 快活に笑うオーベール。その様子を白けた顔で見つめる剣神、瞑目する剣帝。

 

 

 ギレーヌはオーベールに一礼し、当座の間を後にした。

 

 

 

 

 

「ギレーヌ」

 

 当座の間を出たら、エリスがそこに立っていた。

 へし折られた指に巻かれた包帯は、僅かに血が滲んでいた。

 

「あの……あいつの所へ行くの?」

「ああ」

「そう……なら、私も行くわ」

「そうか」

 

 姉妹弟子は短い言葉を交わす。

 多くを語らないギレーヌに、エリスは感謝していた。

 

 ウィリアムに何も出来ずに無様に負け、悔しかった。

 大好きなルーデウスによく似ている男に負けて、悲しかった。

 赤い縄を看破され、恥ずかしかった。

 

 しかしその後の剣神のやり方は許せなかった。

 今更綺麗事は言うつもりは無い。自分だって勝利の為ならあらゆる手段を取る事もある。不意打ち、騙し討、多対一など何でもやる。

 

 しかしそれでも、あの孤高の白髪の剣士は、たったひとりでこの地に乗り込んできたのだ。

 その勇気に対し、あの仕打ちは……

 

 

「早くいきましょう」

「ああ」

 

 雪が舞い散る剣の聖地で、姉妹は駆け出した。

 

 

 

 

 


 

 

 

「……おのれ……おのれ……」

 

 剣の聖地にほど近い街の外れにある雪原。

 そこにウィリアムは手足を縛られ、無残な姿で転がされていた。

 

 羽織っていた立派な羽織は既に無く、上半身はボロボロの状態の衣類しか身に纏っていなかった。剣聖達による打擲は、顔や体を腫らし、剣神や北帝に付けられた傷を更に酷い状態へと変えていた。

 真っ白な雪原であったが、ウィリアムの周りだけが赤く染まっていた。

 

 

「ウィリアム!」

 

 白い息を吐き、ギレーヌとエリスがウィリアムの前に辿り着く。

 ギレーヌはウィリアムに駆け寄り、縛っている縄を切ろうとした。

 

「触るなッ!」

 

 突然、大声を出すウィリアム。ギレーヌはこの状態になっても尚、そのような咆哮を上げる虎に内心舌を巻いていた。

 

「……あたしらはもうお前に対して危害は加えない」

「……」

「だからそんなに警戒しないでくれ」

 

 ギレーヌは落ち着いた声色でウィリアムに声をかける。手負いの虎が、目に映る何もかもを警戒する事は、かつて自身も“虎”と呼ばれていたギレーヌはよく知っていた。

 

 

「ウィリアム・グレイラット」

 

「ッ!」

 

 エリスが唐突に言った。

 その言葉を聞いたウィリアムは瞠目し、驚きの表情を露わにした。

 

「あんたは、ウィリアム・グレイラット。ルーデウスの弟なんでしょう?」

「……」

 

 エリスはウィリアムの前に膝を突き、ウィリアムの目を覗き込む。

 

「私はエリス・グレイラット。あんたの親戚ね」

「……」

「ルーデウスから聞いていたわ。虎の様な弟がいるって」

 

 エリスは手にしたナイフで、ウィリアムの拘束を解く。

 丁寧な手つきでウィリアムの体を起こした。

 

「でも、今のあんたはただの負け犬ね」

「ッッ!!」

 

 腫らした顔で、ウィリアムは強烈な視線をエリスに向ける。しかしエリスはどこ吹く風で、その視線を流していた。ウィリアムは歯を食いしばり、血を流しながら俯いた。

 

 ギレーヌが、持っていた刀をウィリアムに手渡す。

 

「これはお前のだ。しっかり持っていろ」

 

 ギレーヌから刀を受け取ったウィリアムは、その刀をしっかりと……抱え込むように握りしめた。

 ギレーヌは北帝から受け取った治療薬を取り出す。エリスと手分けして、ウィリアムの傷を治療し始めた。

 ウィリアムはずっと俯いたまま、されるがままに治療を受けていた。

 

「しかし、何故勝負を止めた?あのままいけばお前が剣帝殿を倒していたはずだ」

 

 ギレーヌが治療しながら、気になっていたことを尋ねる。治療の為に手を動かしていたエリスも、その事は気にはなっていた。

 結局、あの行動は剣神を怒らせただけで何の意味があったというのか。

 たったひとりで剣の聖地に乗り込んできた者にしては、あまりにも迂闊すぎる行動──

 

 

 その何気ない問いかけが、ウィリアムの様子を一変させた。

 

 

「……あの……り……」

「ん?」

 

 俯いたウィリアムの表情はよく見えない。

 丁度、ウィリアムの胸の傷を治療しようと正面に回ったエリスが、その表情を見てしまった。

 

「ッッ!!」

 

 

 ウィリアムは、血の涙を流していた。

 

 全身を軋ませ、鬼の形相で無念の血涙を流していた。

 

 

 そして怨嗟に満ち溢れた声が、辺りに響いた。

 

 

 

「あの折、儂が頭垂れたるはヒトガミが指図(・・・・・・・)ッ!はかった喃……はかってくれた喃ッ!!」

 

 

 

 みしり、と、握った剣が軋んだ。

 

 尋常ではない怒気が、エリスとギレーヌを包んだ。

 

「やってくれた喃、剣神ッ!……はかってくれた喃、人神ッッ!!」

 

 阿修羅を思わせる形相に、エリス達は動くことができなかった。治療の手を止め、ウィリアムから視線を外すことができなかった。

 

「……く、くふふ……くふふふふ……」

 

 やがてウィリアムは俯き、力のない笑い声をあげた。

 エリス達はこの尋常では無い“狂気”と“凶気”に当てられ、心臓を鷲掴みにされたかの如く、全身が竦み上がっていた。

 

 

「む、宗矩に……宗矩に続きヒトガミにまで……やるせ無き(かな)、我が(うつ)け振りよ……」

 

 力なく呟いたウィリアムは、そのまま気を失った。

 

 握りしめた刀から、怨念に満ちた気が溢れていた。

 

 エリスとギレーヌはウィリアムが発する気に呑まれ、しばし呆然と佇んでいた。

 

 

 

 

 雪が、深深と降り積もる

 

 

 虎の怨念を鎮めるかのように

 

 

 剣鬼の魂を慰撫するかのように……

 

 

 

 

 

 

 

 

 


<????視点>

 

 

 やぁ。元気そうだね。

 

 ああ、そんなに怒らないでよ。って、すごい迫力だね……

 

 とにかく、一旦落ち着いて話を聞いてくれないかな?

 

 いや、別に騙すつもりなんてなかったさ。

 

 だってあのまま剣帝をやっつけてたら、その後君は剣神に殺されていたよ?

 

 彼はすごいよー。人族じゃ現状最強じゃないかな?なんてったって七大列強六位なんだから。

 

 あの奥義、流れ星だっけ?あの技じゃ、まだ剣神には届かないよ。

 

 え? 奥義はあれじゃない?

 

 まだ隠し玉もってたんだ。へぇー。

 

 でもそれ、まだ完成していないんでしょ? それじゃぁ、どの道剣神には勝てないよ。

 

 いや、普通に言っても聞かないでしょ君は。

 

 ああいう言い方になってしまったのはしょうがないじゃないか。

 

 でもまぁよかったじゃない。命あっての物種って言うしさ。

 

 失ったのが剣一本(・・・)でよかったじゃないか。

 

 

 ……あれ? まだその剣持ってたの?

 

 ……ふーん。まぁいいか。

 

 ああ、なんでもないよ。気にしないで。

 

 とりあえず、今回の助言は君にとって悪い結果を生んだワケじゃなかったんだよ。

 

 それだけは信じてほしいな。

 

 君の目標は最強の剣士になることだろう? だからこんな所で死んじゃだめだよ。

 

 え? 僕の目的?

 

 そんな大層なものはないよ。君のおもしろい人生を見てて、気に入ったから力を貸してみたくなっただけさ。

 

 君の異界天下無双? だっけ? それを応援したくなっただけだよ。

 

 

 というわけで、また助言を授けましょう。

 

 

 え? もう聞かない?

 

 そんな事言わずにさ、お兄さんの居場所だって分かったんだし、ぜひ聞いてくれないかな?

 

 妹達にも会いたいだろう?……そんな事ない?

 

 またまた、強がっちゃってもー。

 

 

 ……さすがの僕も怖くなるからそんなに凄まないでよ。もう。

 

 まったく……。最初はあんなにへつらってた癖に……。

 

 え? 禍津日神(まがつひのかみ)? 誰だいそれは?

 

 まぁいいや。とにかく、君にとって悪い話じゃないから聞いてみなよ。

 

 

 

 おほん。それじゃあウィリアムよ、よくお聞きなさい。

 

 傷が癒え次第、直ぐにシャリーアへ行きなさい。

 

 そこで、兄のルーデウスに会いなさい。

 

 ルーデウスに会って、決してルーデウスがシャリーアから出ないようにしなさい。

 

 どんな手段を使ってでも(・・・・・・・・・・・)、ルーデウスを止めるのです。

 

 そうすれば、家族全員揃って、きっと幸せになることでしょう。

 

 そしてあなたは更に強くなるでしょう……

 

 でしょう……でしょう……でしょう……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

 ……

 

 

 ……あ……剣……して……でも……

 

 

 

 

 

 

 



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第九景『若虎快復聞書(わかとらかいふくききがき)

 

「……ここは」

 

 剣神流道場にて手酷い“仕置き”を受けたウィリアム。

 雪原に放り出され、その後駆けつけたギレーヌとエリスの治療を受けた。その後、怨みのこもった独白を吐き、眠るように気絶した。

 

 目を覚ましたウィリアムは、自身がベッドに寝かされていた事に気付いた。やや煤けた天井を見つめる。

 

「ぐっ……」

 

 傷んだ体を起こす。周りを見ると、くたびれた調度品が並んでおり、お世辞にもあまり良い等級とはいえない宿の一室である事が伺えた。

 己の体を確認すると、剣神や北帝に受けた傷は包帯が巻かれていた。包帯の上からは確認出来ないが、傷はほぼ塞がっているように思えた。服は着ておらず、下履きしか履いていない。包帯は丁寧に巻かれていた。

 

「……ッ」

 

 立ち上がろうと力を入れる。が、重い体に引きずられ、ベッドに倒れ込んでしまった。

 傷は塞がっていたが、肉体が失った血は存外に多かった。

 

 再び煤けた天井を見つめる。

 自然と、涙が溢れて来た。

 その涙はただの悔し涙ではない。怨恨に満ちた、暗い感情が込められた涙であった。

 

「おのれヒトガミ……おのれ剣神……」

 

 先程まで見ていた“夢”の内容を思い出す。

 思えば、あの訝しすぎる(・・・・・)神は最初に夢に現れた時から思う所はあった。

 あの時はあまりにも唐突な事態であった為、ヒトガミの助言に唯々諾々と従ってしまった。

 

 ウィリアムが受けたヒトガミの助言は、今回のを含め都合四回。

 一回目は素直に従い、実際に助けになった。

 二回目も、一回目が上手くいった事で素直に聞いた。

 

 そして三回目。

 今までの助言に比べて、妙にぼかした言い様だった。訝しみながらも、その助言の通りに事を進めた。

 

 そして、屈辱を味わった。

 

 このような結果になるくらいなら、従わずに剣帝を打ち倒し、そのまま剣神と仕合えばよかった。

 五分の状態で剣神と立ち合えるならば、己の虎眼流が遅れを取ったとは思えなかった。

 

 あの不意打ちさえなければ──

 

「……やってくれた喃」

 

 自身の背に木剣を突き立てた剣神は、完璧にその“意”を消していた。

 剣神の不意打ちにも腹が立ったが、それを察知出来なかった己の未熟さにも腹が立った。

 

 何が異界天下無双か──

 

 反撃の抜き打ちも水神流の技で受け流された。その後、あの“奇抜な”剣士にも遅れを取った。為す術もなく、剣神流の門弟に袋叩きにされた。

 

 結果だけ見たら、己は負けたのだ。

 

 転移してからウィリアムは苛烈な日々を過ごしていた。培った自信と、より練り上げた虎眼流をぶつけんが為、挑んだ剣神流であった。だが、結局剣神には届かなかった。

 まだ挑むのには早かったのだろうか。

 そう思うと、こうして命がある事は僥倖なのでは……

 

 ウィリアムはそこまで考え、かぶりを振った。

 あの助言が正しかったかどうかはもはやどうでもよかった。どちらにせよ、今後はあの怪しい“人神”の言うことは真に受けない方がいい。シャリーアに兄がいるというのも怪しいものだ。

 先程の夢にて告げられたあの助言をまともに聞いて、果たして己の為になるものか。

 そもそもが、兵法者として己が信仰していたのは鹿島香取の神兵、軍神武甕槌神(たけみかづちのかみ)であって、あのような怪しい詐欺師紛いの自称“神”ではない。

 助言を聞く必要は全く無かったのだ。

 

「……うむ」

 

 しばらく横になっていたおかげか、漸く体を起こすことが出来た。なにはともあれ、まずは腹に何か入れたかった。

 虎が本能で“餌”を求めるかのように、ヨロヨロとベッドから這い出る。

 若干の肌寒さを感じた。ふと、ベッドの近くに備え付けられているテーブルを見ると、綺麗に折り畳まれた衣服と自身の“妖刀”がそこにあった。

 衣服を掴み、もそもそと服を着る。

 そして、妖刀を手に取った。

 

「……」

 

 スラリと鞘から刀身を抜く。

 妖しく輝く刃の刃紋を見て、前世でどのような経緯を辿ってきたのかおおよそ(・・・・)察する事が出来た。

 ウィリアムはスゥっと、刃の芳香を嗅ぎ取る。刀身からは、僅かに女人の血の匂いが感じられた。

 いくら手入れをしても落ちぬその無惨な芳香は、剣鬼の魂を鎮撫するのに役立っていた。

 

『藤木……』

 

 この世界の言葉ではなく、日ノ本言葉で呟くウィリアム。

 前世での忠弟が見事に仇を取ってくれたであろう事が容易に見て取れた。

 

 でかした! よう伊良子を成敗いたした!

 

 そう、喝采を上げたくなる程の高揚感がウィリアムの中で湧き上がる。

 しかしその後の残酷な結末までは想像出来たのだろうか。

 濃尾無双とまで言われた無双虎眼流本流が、岩本家嫡流が潰えてしまった事は、剣鬼がいくら刃を見つめても知る事は出来なかった。

 

 クゥ、と、ウィリアムの腹が鳴った。

 存外にこの体は空腹を覚えていたようだと、ウィリアムはやや顔を赤らめる。

 剣を鞘に収め、杖代わりにして部屋から出た。

 

 思えば、この妖刀を再び入手した経緯も人智を超えた“怪異”としか思えないような出来事であった。

 もしかしたら、虎子が“親”を想って、この妖剣を異界へと送り届けてくれたのだろうか……己の窮地を幾度も救ってくれた、この妖剣を見つめウィリアムはそう思考する。

 そう思えば、この妖剣が自身の手に舞い戻ってきた意味が見えて来るのだ。

 

 虎眼流は異界においても“最強”であれ──

 

 弟子からの時空を越えた後押しを感じた若虎は、力強く歩を進めた。

 

『見ておれ……この世界でも、虎眼流は天下無双。無駄にはせぬぞ……』

 

 忠弟の“手柄”に報いるかのように、ウィリアムは呟く。

 虎は一度の敗北では決して折れない。

 

 “異界天下無双”に至るまで、虎は決して歩みを止める事は無いのだ。

 

 

 

 


 

 

 

「もう起きていたのか……」

 

 ウィリアムが起き上がってから小半刻が経った頃、“剣王”ギレーヌ・デドルディアが部屋に入って来た。

 つい先程まで寝ていたはずのウィリアムの姿が無い事で、ギレーヌは虎が思ったより早く回復していた事に驚きを感じていた。

 

 傷ついたウィリアムをここまで運んだのはギレーヌであった。

 剣の聖地に程近い街にあるこの宿屋は、ギレーヌが剣神流に入門したての若い時分に厳しい稽古から“逃げる”為によく利用していた。剣神流の若い門下生が厳しい稽古から逃げる為の一時の逃げ場になるようにと、宿の主は創業時の理念としていたのだ。

 もっとも宿の主自身が剣神流の猛稽古から“こぼれ落ちた”一人であった事から、そのような理念に至ったのだが。

 ギレーヌにとって古くから馴染みのある宿でもあった為、ボロボロのウィリアムを見ても何も言わず、粛々と迎え入れるくらいは気を利かせてくれた。

 

「まだ満足に動ける体ではないのに……無茶をする」

 

 そっとウィリアムが眠っていたベッドに腰をかけ、体温が残るシーツを撫でる。

 ギレーヌはシーツを撫でながらウィリアムとエリスとの立ち合いを思い起こしていた。

 エリスの指がへし折られ、不様を晒したあの試合。エリスの悔しさに満ちたあの表情を見たあの瞬間は、ギレーヌは己のはらわたが煮えくり返る思いを感じていた。

 しかしこうしてウィリアムを宿屋に運び入れた頃には、既にギレーヌはウィリアムに対し何ら遺恨を感じる事は無かった。

 

 あれはエリスの未熟が招いた事──

 

 姉弟子であり、かつてはボレアス家でエリスに剣を教えていた師匠としての立場から見ても、ウィリアムの立合いは堂に入っていた。

 正々堂々と剣神流に乗り込み、剣帝までも圧倒した。

 その姿を見てギレーヌは胸が熱くなる思いを感じた。獣族の本能からか、“強い雄”を見ると気持ちが高ぶるのだ。

 

 もっともウィリアムがパウロの息子だと知り、9年前に見たあの才気溢れる少年だと気付いてから、遺恨など持ちようが無かったのだが。

 

「一体どんな修練を積めばあそこまで到れるのだろうか……」

 

 ギレーヌはウィリアムの残り香を感じつつ、そう呟く。

 転移してからパウロが必死になって家族を探していた事は、各地に残されたギルドの“伝言”を見て知る事が出来た。

 その必死な探索網に全く引っかからずに、あまつさえあのような実力を身に付けていたとは。

 名前を変えた理由、ウィリアム自身が家族を探そうとはしなかったのか、そして剣神流に向かって来た理由とは……

 

 とにかく、ウィリアムには色んな事を聞きたかった。

 ギレーヌはルーデウスから読み書きや算術を教えてもらい、昔に比べて頭は回るようにはなってはいたが、ウィリアムが転移後どのような心境の変化、そしてどのような日々を過ごしていたのかは全く想像する事は出来なかった。

 

「パウロか……」

 

 ふと、ギレーヌは冒険者パーティー“黒狼の牙”時代を思い出す。

 僅か数年でS級へと駆け上がり、中央大陸ではその名を知らぬほどの冒険者パーティーと成った“黒狼の牙”

 リーダーのパウロとメンバーのゼニスが結婚するまで中央大陸で大いに暴れまわったものだと回想する。

 

 エリナリーゼ、タルハンド、ギース……

 

 かつての仲間達は今どこで、何をしているのだろうか。

 あのパウロの伝言を見て、パウロの家族を探しているのだろうか。

 自分も、パウロの家族を探しに出た方がいいのだろうか。

 

 そこまで思考し、ギレーヌは僅かに頭を振る。

 自分にはエリスを一人前の剣士として育てる使命があるのだ。

 そして、大恩あるサウロス様、フィリップ様、ヒルダ様の“仇”を取らなければならぬのだ。

 

 ぎゅっとベッドのシーツを握りしめる。

 転移に巻き込まれ、中央大陸南部の紛争地帯で感じた無念は未だにギレーヌの中で燻っていた。

 フィリップとヒルダの死を確認した時の、あのどうしようもない空虚な思い。その空虚な思いは、フィリップ達を殺した下手人を斬り殺しても晴れなかった。

 フィットア領に帰還した後も、サウロスがアスラ王国上級大臣とノトス家当主によって転移事件の全責任を押し付けられ、処刑された事を知り口惜しさを感じた。

 

 エリスがルーデウスに相応しくなるよう決意した時、ギレーヌもまたボレアス家の人々の無念を晴らすことを決意したのだ。

 パウロには悪いが、この事はギレーヌにとって何よりも代えがたい使命であった。

 

 ボフっと、音を立ててベッドに倒れ込む。

 寂寥感と、申し訳無さがギレーヌの心で広がっていた。

 いつになったら、この心の虚無は埋まってくれるのだろう。

 

 ウィリアムが使っていた枕に、顔を埋める。

 ギレーヌがいくら考えても、陰鬱な思いが晴れる事は無かった。

 

 

「スン……」

 

 ふと、枕に残った匂いを嗅ぐ。

 雄々しくも、どこか懐かしい匂いが感じられた。

 

「パウロの匂いがするな……」

 

 ギレーヌはかつて“黒狼の牙”でパウロとただならぬ(・・・・・)関係を持っていた事があった。

 

 元々無頼の女好きであるパウロが、ギレーヌが発情期になった時をつけ込んで半ば無理やり関係を持ったのだ。

 それからある理由で淫蕩な性格を持っていたエリナリーゼを交え、3人で爛れた生活を送っていた時期があった。

 パウロがゼニスを孕ませてからは指一本、自分やエリナリーゼに手を出してくる事も無くなったが、今にして思えばあれは恥ずかしい淫猥な日々であった。

 快楽に身を任せ、ただ溺れていた自分が情けなく、どうしようもなく恥ずかしかった。剣王として、己の欲を律する事が出来なかったのが許せなかった。

 

 パーティーが解散してから、ギレーヌは発情期になると猛稽古を課すことでその滾った情欲を発散させていた。

 剣の聖地に来てからもそれは変わらず、周りの門弟達は獣族の発情期が近づくとギレーヌの猛稽古に付き合わされる事を想像し、陰鬱な表情を浮かべるようになった。

 もっともギレーヌの猛稽古に付き合わされるのはもっぱらエリスだけであったので、門弟達にはなんら“被害”は無かったのだが。

 

「スン……スン……」

 

 枕に顔を埋め、ウィリアムの芳香を嗅ぎ続ける。

 思えば、既に今年の発情期は始まっていた。どうしようもなく高ぶった感情を鎮めようと道場へ向かった矢先、ウィリアムが来てしまった。

 稽古で発散する事が出来なかった獣慾が、ギレーヌの中で大きく膨らんでいった。

 

「スーッ……ハァー……」

 

 大きく吸い込み、熱い吐息を吐き出す。

 ギレーヌは発情期で高ぶった獣慾を、自分で慰めて鎮める事は殆どしなかった。

 そのような事をする必要が無く、ただ獣の様に剣を振る事で欲を発散することが出来たのだ。

 でも何故か今だけは、この高ぶった感情を剣を振る事以外で鎮めたくなった。

 

「……ンッ……ハァ……」

 

 自然と、下腹部に手が伸びる。

 熱い吐息は、徐々にその熱を高めていった。

 

 ウィリアムの“匂い”は、パウロとの爛れた日々を思い起こすだけでなく、パウロには無かった雄々しい“獣性”が感じられた。

 その匂いは、獣族の“雌”にとって抵抗し難い悩ましい引力を発生させていた。

 

 ギレーヌは下腹部に伸ばした手を動かし、ウィリアムの体を思い起こす。治療をしていた時に見たウィリアムの肉体は、年齢に似つかわしくない程歴戦の古傷が浮かんでいた。

 その肉体は獣族の女にとってどうしようもなく逞しく、美しく、そして淫靡な肉体であった。

 ギレーヌはウィリアムの肉体が発していた残り香に包まれ、増々その獣慾を滾らせていった。

 

「アッ……クゥッ……」

 

 最低限しか肉体を隠していなかったその面積の少ない衣服ごしに、己の乳房を掴む。ギレーヌの悩ましい声が、湿った水音と共に部屋に響いた。

 剣の聖地は常に雪が降り積もる程の寒さであったが、部屋は艶めかしく、淫靡な温度が保たれていた。

 

 もはや、そこにいるのは“黒狼”の二つ名を持ち、剣王の称号を抱く女剣士では無く、欲に負けてしまった一匹の“雌”がいるのみであった。

 

 

 

「……」

 

 

 

 ふと入り口に目を向けると、食事が入った籠を抱えたウィリアムが白い目でギレーヌを見ていた。

 

 

 

「フッッ!!!」

 

 

 ギレーヌは驚きのあまり、全身が硬直する。尻尾はピンッと立って、その毛は逆だっていた。驚愕と羞恥が織り交ざった事で、その顔は一瞬にして朱に染まる。

 行為に夢中になるあまりに、ギレーヌはウィリアムの存在を全く感知することが出来なかった。

 

「……」

「……」

 

 しばし見つめ合う二人。

 立合いとはまた違った、妙な緊張感が辺りに漂った。

 

 

「……ごゆるりと」

 

 

 パタン、とドアを閉める。

 ギレーヌは人生で最も速い俊敏さで扉に向かった。

 

「待てッ! 待ってくれッ! 今のはッ! 今のは違うんだッ!!」

 

 何が違うというのか。

 ギレーヌの顔はゆでダコの様に真っ赤に染まり、先程の行為のせいもあって全身から汗を噴き出していた。ドアノブを掴み、全力で扉を開けようとしたが、向こう側でウィリアムが押さえているのかドアはびくともしなかった。

 

「それがしにお構い召されるな」

「構うわ! ていうか開けろ!」

「存分に戯れ(・・)よ」

「戯れんわ! クソッ! 凄い力だな!」

 

 万力のように締め付けられたドアノブが、音を立てて軋む。

 あれ程の傷を負っていたウィリアムのどこにこのような力が残っていたのだろうか。

 そんなどうでも良い事を思いつつ、半ば錯乱したギレーヌはドアを猛然と叩いた。

 

「あっ!」

 

 破砕音と共に、ドアが縦に割れた。

 剣王と剣虎の剛力に耐えられるドアは、この世界の宿屋には存在しなかった。

 

「……」

「……」

 

 再び気まずい沈黙が流れる。

 互いに、目を合わせようとはしなかった。

 

「……まぁなんだ。ウィリアム。今のくだり、無しな」

「……」

 

 

 破壊されたドアから吹き込む外の風により、宿の一室は適度な温度が保たれていた。

 

 

 


 

 

「そうか、シャリーアに行くのか」

 

 テーブルに備えられた椅子に座り、ギレーヌは言葉をかける。

 ウィリアムはベッドに腰掛け、もくもくとパンを頬張っていた。

 

「確か、以前ウチのニナがラノア魔法大学にいるルーデウスを見に行った事があったな。あの時何があったのか知らんが、ひどく打ちのめされていたようだったが……」

 

 先程の醜態を見られたせいか、やたらと饒舌なギレーヌ。それを尻目に、ウィリアムは調達した食料をただ黙々と喰らっていた。

 ギレーヌもギレーヌでお構いなしに、ルーデウスとの手紙のやり取りで知り得た今のグレイラット家の現状を喋る。

 妹達の名前を聞いても、ウィリアムは表情を変える事無く、黙々と食事に手を付けていた。

 

 最後のひとかけらとなったパンを口に放り込み、水差しを直接口をつけ、喉を鳴らす。

 そこに、一匹のノミ(・・)がウィリアムの目の前を跳ねた。

 

 パチッ

 

 宙空のノミを一瞬にして二本の指が仕留めていた。

 

「見事だな」

 

 ギレーヌはほぅ、と、感嘆のため息をつく。

 復活したウィリアムの肉体は、瑞々しい生命力を放出していた。

 

 やがて人心地が付いたウィリアムは、その場で深々と一礼をする。

 

「遅れ申したが、それがしを()けて頂き真っ事感謝に耐えませぬ。この恩は、いずれ必ずや……」

「ああ、その事は気にするな。あたしも師匠のやり様は気に入らなかったんだ」

 

 深々と腰を折るウィリアムに、ギレーヌはひらひらと手を振る。

 事実、不意打ちをしたあげく嬲りものにした剣神がどのような思惑を持っていたとしても、ギレーヌはそれを許すことは出来なかった。

 

 静かな時間が流れる。

 尚も頭を下げるウィリアムに、ギレーヌは一番聞きたかった事を問いかけた。

 

「ウィリアム……おまえは、ウィリアム・グレイラットで間違いないんだな?」

「……」

「どうして、パウロ達を……家族を探そうとしなかったんだ……?」

 

 白髪の総髪が僅かに揺れる。

 何故、名前を変えたのか。

 何故、家族に会いにいこうとしなかったのか。

 詰問するわけではなかったが、ギレーヌはこの何を考えているのか分からない少年に、真っ直ぐその疑問をぶつけていた。

 

 沈黙が続く。

 やがて顔を上げたウィリアムは、何かに耐えるように僅かに表情を歪めていた。

 

「……ウィリアム・グレイラットは、あの転移で死に申した」

「ウィリアム……」

「ここにいるのはウィリアム・アダムス。それに尽き申す」

 

 ウィリアムの決意を携えた眼差しをじっと見つめるギレーヌ。

 余人には計り知れない思い、くぐり抜けてきた修羅場がウィリアムの眼に現れていた。

 

 やがてため息を一つついたギレーヌは、それ以上の詮索を諦めた。

 

「……わかった。お前が何を思って名前を変えたのかは、もう聞かない。ただ、シャリーアへ行くという事はルーデウスに会いにいくんだろう?」

「……はい」

「ふむ……」

 

 顎に手を当て、ギレーヌはしばし思案する。

 しばらく瞑目していたが、よしっと、意を決してウィリアムを見つめた。

 

「あたしがネリス公国の国境まで送ってやろう」

「え」

 

 ウィリアムは全く予想してなかったギレーヌの言葉に、目を丸くして固まった。

 

「なに、徒歩でもそれ程かかる距離ではない。少しばかり剣の聖地を留守にしても、何も咎めは無いさ」

「いや……」

「何だ? あたしの心配は無用だぞ。帰りは駆けていけば一月で帰れるしな」

「そういうわけでなく……」

「ああ、これは恩返しとか考えなくていいぞ。気遣い無用だ」

「だから……」

「よし! そうと決まれば善は急げだ! さっさと支度しろ! あたしも支度してくる!」

「……」

 

 強引にウィリアムの旅についていく事を宣言し、部屋を後にするギレーヌ。ネリス公国の国境までの短い旅路ではあるが、ウィリアムは何故ギレーヌがついてくる事になったのか、ただ困惑した表情を浮かべるのみであった。

 というか、復活したとはいえまだ傷は完全に癒えているわけでなく、そもそもシャリーアへ行くといっても真っ直ぐ向かうつもりは毛頭無かったわけであるが。

 

「……」

 

 嘆息を一つ吐き、ウィリアムはふと運命の妖刀を見やる。

 妖刀“七丁念仏”──

 ウィリアムはこの妖刀に“虎殺し”の名前が付け加えられた事を知らない。

 だが、“七丁念仏”が招く数奇な運命を感じ取る事は出来た。

 果たしてこの妖刀は、自身の助ける文字通り“助太刀”となるのか。

 或いは、以前と同じように持ち手に仇なす“悪剣”なのだろうか。

 

 シャリーアにいる兄に会い、ヒトガミの思惑に乗って良いのだろうか。

 それとも、真っ向から歯向かい、兄の出立を止めない方がいいのだろうか。

 

 ギレーヌが出立の準備を整える為、部屋を出た後……一人残されたウィリアムは瞑目し、思考する。

 

 いくら考えても、どちらが正しいのか見当もつかなかった。

 逆を張る事が、かえってあの悪神の思惑通りになる事も考えられた。

 素直に従えば、それはそれであの悪神を喜ばせる事になりかねなかった。

 

「已んぬる哉……」

 

 そう呟きながら思考を続ける。

 シャリーアにはルーデウスの他に、ノルンとアイシャ、リーリャがいるという。

 しかし今更どの面を下げて会えばいいのだろうか。

 

 転移した後、しばらくはあの場所(・・・・)で留まっていた為、家族がどうなっていたか皆目見当が付かなかった。

 後にフィットア領へ赴いた際、父パウロが必死になって自分達を探していた事を知った。

 しかし、その時のウィリアムは家族は既に亡き者と思い、苛烈な環境に身を置くことで“異界天下無双”に至る為の日々を過ごしていた。

 何もかもを捨て、一廉の人物となったあの異国の迷い人に倣い、グレイラットの姓を捨てアダムスと改めた。

 それゆえに、今更家族に対して想いを抱く事は“異界天下無双”を目指す虎にはあってはならない事なのだ。

 

 無双の剣士に至るまで己のあらゆるものを捧げなければ、かつて縄で縛られた“牛”に対して背信する事になってしまう。

 前世での忠弟に不誠実な事はしたくなかった。

 

 そのような想いから、ウィリアムはパウロが残した“伝言”を無視した。

 かつては建前で『己の多くを捧げる事で剣の(ひじり)が宿る』という事を宣っていた。しかし今生ではそれがウィリアムの中で確かな真実となって、心に根付いていたのだ。

 転移での様々な“経験”が、虎の前世での価値観を僅かに変えていた。

 

 やがて大きく息を吐き、ウィリアムは決意する。

 

 どちらにせよ、自分は歩みを止める事は無いのだ。

 “異界天下無双”に至るまでに、足りない所は補う必要がある。

 聞けば、ラノア魔法大学にはこの世界でも屈指の強者と言われる“魔王”が逗留しているという。

 また、ラノア魔法大学には魔術だけでなく、軍学や兵法を教えることもあるという。

 ならば、魔王を打ち倒し、更に己の虎眼流を高みに達する為にシャリーアへ赴くのも一興。

 

 そこで兄に会って、どうするかはその時に考えれば良い。

 いや、剣の聖地へと至るまでに伝え聞いた“泥沼”の強さも体感してみたかった。

 強い魔術師ですら、“異界天下無双”の糧となるしかないのだ。

 

 己の使命は、虎眼流を最強の頂きに持っていくことのみ。

 そして、頂きに立つ為には再びあの剣神と刃を交えなくてはならない。

 

『その時は、出鱈目に刻んで盛ってくれるわ……』

 

 怨みがこもった日ノ本言葉を呟くウィリアム。剣虎は地獄の業火ともいえる熱く、そして暗い感情を高ぶらせた。

 決して折れることのないその熱を受け、妖刀もまた妖しく刃を輝かせる。

 

 先程までとは比べ物にならない“熱”が、部屋の中を充満していた。

 

 

「ウィリアム! そういえば路銀は持っているのか!? あたしは生憎持ち合わせが少なくてな! 少しばかり貸してくれると助かるんだが!」

 

 旅装を整えたギレーヌの間が抜けた言葉に、ウィリアムは思わずがくっと頭を垂れる。

 短い間ではあるが、この締まりのない“黒狼”との旅路に待ち受ける“困難”を想像し、ウィリアムは力のない笑みを浮かべるしかなかった。

 

 

 

 

 かくして復活した剣虎と黒狼は剣の聖地を旅立つ。

 シャリーアにて待ち受けるは、虎にどのような運命をもたらすのか。

 まだ見ぬ強者と、断ち切った家族の絆を思い、虎は力強く歩を進める。

 

 

 シャリーアへと続く道は、深々と雪が降り積もっていた。

 

 

 

 

 

 

 



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第十景『虎狼剣客恋唄(ころうけんかくこいうた)

 

 寛永三年(1626年)

 薩摩国川辺郡坊津

 

「ちぇすとおおおおおおッッ!!!」

「きえぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!!」

「うりゃりゃりゃりゃーーッッ!!!」

 

 道場では(ゆす)の木剣が軋む音と共に、門弟達の裂帛の気合が轟いている。そこには上級武士も下級武士も無く、ただただ己を鍛える為に剣を振るう男達の姿しかない。

 道場内は板張りの床では無く、桜島の黒砂が敷き詰められている。その上で門弟達が激しく乱取りを行っていた。

 道場の外では蜻蛉と呼ばれる構えから立木に向かい、渾身の力を込めて木剣を左右に激しく打ち込み、猿叫(えんきょう)とも言われた雄叫びを上げ立木打ちを繰り返す門弟達の姿も見られる。

 

 薩南“示現流”道場

 

 ここでは日々薩摩の武家人(ぼっけもん)達による激しい稽古が繰り広げられていた。

 実戦と変わらぬ激しさで行われる猛稽古。(ゆす)の木剣は互いの体に当たる寸前に留めるようにするのが道場での約定ではあったが、当然の事ながら留めきれず当たる事もままあった。

 稽古着を脱ぐと、門弟達の肌には幾つもの黒々とした痣が走っている。しかし誰一人それを気にする者はおらず、昨日より速く、昨日より強くなる為苛烈な修練を繰り返していた。

 

 

「よか! 本日の稽古はいまずい(これまで)ござんで」

 

 師範代の号令と共に道場内外から門弟達が集まる。門弟達は整列、正座し、黙想を始めた。

 先程までの狂騒とも言える騒がしさとは打って変わり、道場は厳粛な静寂に包まれる。

 

「神前に礼!」

「お師匠どんに礼!」

 

 整列した門弟達が道場上座に座する師範の男に礼をする。

 門弟達の礼を受けた男は穏やかな笑みを携えていた。

 

「皆さぁご苦労さぁでごわした。明日もまた元気ゆうと(元気よく)稽古しもんそ」

 

 男は身分が遥か下の士分に対しても丁寧な言葉で語りかける。粗暴な者が多いとされる薩摩者の中で、珍しくこの男は誰にでも礼儀正しく、穏やかな性格の人格者として知られていた。

 

 東郷“肥前守”重位(ちゅうい)

 

 若き頃体捨流を学んだ重位は京の天寧寺僧侶、善吉から“天真正自顕流”を伝授され、その自顕流を薩摩の地にて練り上げていた。

 体捨流と天真正自顕流を組み合わせ、臨済宗の僧南浦文之より“示現流”という流派名を命名された頃には、示現流は島津家家中で大勢の門人を抱え薩摩一の剣法として完成していた。

 数多の体捨流の手練と果し合い、悉く勝利を掴んだ重位はやがて島津家兵法師範となり、主君島津“中納言”忠恒よりここ坊津の地頭に命じられる。それ以降、坊津は薩南示現流本拠地として栄える事となった。

 

 重位が練り上げた示現流は『一の太刀を疑わず、二の太刀要らず』の信念で剣を振り、初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。

 その初太刀の威力は受けた刀身ごと対象を真っ二つに叩き斬り、後の世に“新撰組局長”近藤勇が『薩摩の芋侍共の初太刀は何がなんでも外し、決して剣で受けてはならぬ』と隊士達に厳命するほどであった。

 正に一撃必殺の示現流。初太刀のイメージが強すぎてあまり知られてはいないが、初太刀からの連続技も伝えられており、外された場合に対応する技法もある。

 熟練した示現流の使い手は他流の剣術家とは比べ物にならぬ程の強さを誇り、島津家の勇壮な武家者と併せ“薩摩隼人”の伝説を彩っていた。

 

 

「お師匠どん、江戸から文が来ておいもす」

「文か。江戸からとは珍しか」

 

 三々五々に帰宅した門弟達を見送り、幾人かの内弟子達と道場の清掃を一緒に行っていた重位に弟子の一人が声をかける。

 この謙虚な剣聖は常に弟子と共に道場の雑事を率先して行っていた。

 弟子から一通の手紙を受け取った重位はその場で胡座をかき、手紙を広げ読み始めた。

 

「誰でん文でごわすか?」

「……」

 

 読み進めていく内に、先程までの穏やかな表情とは打って変わり沈鬱な表情を浮かべる重位。その様子を不審がった内弟子の一人が心配そうに声をかけた。

 

「お師匠どん、良くん事(良くない事)が書いてあったでごわ?」

 

 重位はやがて悲しみを堪えるかのように眉間に皺を寄せ、ため息を一つつくとぽつりと呟いた。

 

「虎眼殿(どん)が逝きもうした」

「虎眼どん?」

左様(さよ)(おい)が京で友誼を交わした、虎のごつお人でごわした」

 

 手紙を懐に仕舞い、黙祷を捧げる重位。道場の清掃をしていた弟子達も手を止め、師に倣い黙祷を捧げた。

 

「合掌ばい」

 

 静かに手を合わせ、友の冥福を祈る。先程とはまた違った静けさが道場を包んでいた。

 

 

「……左近どん。示現流の極意とは何でごつ?」

「極意でごわすか?」

 

 しばし黙祷を捧げた後、重位は左近と呼ばれた弟子の一人に問いかける。左近はうむむっと、腕を組み、しばし黙考する。やがてうぉっほんと、わざとらしい咳を一つ吐いた後、示現流の極意を滔々と語り始めた。

 

「一呼吸を“分”と呼び、それを八つに割ったものを“秒”という。秒を十に割ったものを“()”と呼び、絲の十分の一の速さが“(こつ)”、忽の十分の一の速さが“(ごう)”、毫の十分の一が“雲耀(うんよう)”。雲耀とは稲妻のこと。即ち、示現流の極意とは打ち込む太刀の速さが雲耀に達すること──」

 

 一呼吸で語り終えた左近に、重位は満足そうに頷く。

 

「うむ。それこそが示現流の極意でごわす」

 

 重位の満足げな言葉に、左近は得意げとなって胸を張った。

 

「左近どん! おはんにしてはまともな答えをしちょるばい!」

 

 そこに左近をからかうように弟子達が囃し立てた。

 

「参りもした!」

「てへぺろでごわす!」

「おはんは講釈が得意な“ふれんず”なんでごわすな!」

「なにぃ!?」

 

 額に青筋を浮かべた左近は、木剣を手にし、囃し立てた弟子達を睨みつける。

 

「なんじゃぁその眼はぁ!!」

「そういう眼をしたッ!!」

「チェスト関ヶ原!!」

「ようごわすとも!!」

 

 売り言葉に買い言葉。怒髪天をついた左近達は手にした木剣を構え互いに睨み合い、一触即発の空気が道場に漂う。ちなみに“チェスト関ヶ原”とは島津家の隠語で“ぶち殺せ”という意味である。

 そして、木剣を上段に構えた左近が吠えた。

 

「このガンタレ(馬鹿者)共がッ! そけなおれッ! 叩っ殺しちゃるどッ!」

「ガンタレはおはんじゃ」

「イテッ!」

 

 パシっと、重位は手にした扇子で左近の額を打った。弟子達はこの重位の神速の抜き打ちを全く知覚する事が出来なかった。

 正しく雲耀の速さで、重位は左近の額を打ち抜いたのだ。

 

「全く……そげんに粗忽な振る舞いをしておっては、いつまでたっても剣の悟りはやってくうこたあんよ」

「お、おそれいりもす……」

 

 打たれた額を押さえ、左近は恐縮しながら頭を下げる。重位はやれやれとため息をつき、周りの弟子達を見やった。

 

「おはんらも左近どんをからかいすぎじゃ。そげん事は日新大菩薩(さぁ)(島津日新斎)が(あら)せられた二才(にせ)魂とは言えんと知りやんせ」

 

 重位はやんわりと弟子達を窘める。

 かつて島津忠良(島津日新斎)が唱えた『強固な武士魂を鍛える事以外は一切厳禁』の薩摩式教育、“二才教育”を引き合いにし、同輩をからかう事の愚かしさを穏便に伝えた。二才とは『青二才』『若者』『青年』の意味であるが、薩摩では『質実剛健』『武辺強固な若武士』を意味し、その教育は着実に薩摩の若者達の愛国心と勇壮な武者魂を育んでいた。

 

「ま、参りもした……」

「てへぺろでごわす……」

「左近どん、笑ろうた事許せ……」

「おはんら……」

 

 眼に涙を浮かべた左近は、手にした木剣を収め、囃し立てた弟子達と熱い抱擁を交わした。

 二才教育のもとで育んだお互いを傷つけ合わない“野郎同士の友情”が、確かにそこには存在した。

 

「してお師匠どん。虎眼どんとは一体いかな御仁でごわすか?それと、いけんいう(どういう)意味で左近どんに極意を語らせたんで?」

 

 その様子を重位と共に微笑みながら見つめていた師範代の男が重位に問いかける。抱擁を交わしていた左近達も重位に注目し、その言葉を待った。

 

「そうさなぁ……先も言ったが、(おい)が龍伯(さぁ)(島津義久)が豊太閤どん(豊臣秀吉)の命で京へ上られたるに同道した折、丁度廻国修行中の虎眼殿(どん)と知りおうたんよ」

 

 天正十五年(1587年)

 若き日の重位は、折りしの豊臣秀吉による九州征伐により敗れた島津当主、島津義久の上洛に同行していた。

 そこで天寧寺の僧・善吉に出会い、天真正自顕流に開眼するのだが、剣術修行で諸国を巡っていた若き日の岩本虎眼とも出会っていた。

 

「虎眼殿(どん)はその名の通り虎のごつ空気を纏っていてなぁ……あの頃の(おい)じゃ、全く敵わんと思ったもんよ」

「お師匠どんが敵わんとは……強かお人だったんで?」

「強か。技比べする機会はついぞなかったが、虎眼殿(どん)が開眼した虎眼流剣法を見せてくれた事があったんよ。すごか抜き打ちでごわした……」

 

 重位の実直な人柄は、修羅の如き若虎とも友好を交わす事が出来た。

 奥義こそは見せなかったものの、互いの技を教え合い、充実した剣談を楽しんだ。

 島津勢が薩摩へ帰国する僅かな一時ではあったが、薩摩の剣士と流浪の若虎の間には心を許せた友人としての関係が出来上がっていた。

 

 重位は昔を懐かしむように言葉を続けた。

 

「雲耀の速さとは、(おい)が善吉師父どんから学んだ示現流の極意じゃっどん……実際の“速さ”は虎眼殿(どん)の速さを目指したものでごわした……」

「そうだったんでごわすか……」

「あれから会う機会はついぞなかったが、文のやい取りだけは続けてきもんした。惜しい人を亡くしたもんでごつ……」

 

 国元に戻った重位と虎眼はその後会う機会は無かったが、手紙のやり取りだけは続けていた。

 虎眼が掛川にて仕官した後も文通は続き、他家の家臣同士との手紙のやり取りを公儀があらぬ疑いをかけぬ為、態々江戸にいる島津家縁の商家を介してまでその交流は続いていた。

 虎眼が曖昧な状態になるまで両者は頻繁に文を交わす間柄であったのだ。

 

 そして江戸にいる商家からもたらされた手紙には、虎眼が乱心し、元弟子に討たれた事が記されていた。

 あの鬼神の如き強さを誇った剣士が討たれた事実は、重位にはにわかには信じられぬ事ではあった。

 だが、それと同時にあの剣鬼と称された虎眼の危うさ(・・・)も僅かに感じてはいた。

 どちらにせよ何かしら人知れぬ事情、真実があったのだろう。友の無念を感じ、重位は再び瞑目し黙祷を捧げた。

 

「ま、湿っぽい話はここまででごつ。おはんらも切磋琢磨できる友を得て、日々精進しもんせ」

「あい!」

 

 互いに肩を組み、元気一杯に返事をする示現流内弟子衆。重位はその様子を見て微笑を浮かべた。

 

 

「あ! 忘れてもした!」

 

 道場の清掃が終わりかけた頃、何かを思い出したかのように左近が声を上げた。

 

「お師匠どん! おいはちと出かけていきもす!」

 

 左近の唐突な申し出に、重位は首をかしげながら問いかけた。

 

「なんぞあったんか?」

「いや、浪花から尻小姓が来とっとで、数馬どんと鹿太郎どんとちっと挨拶をしてまいりもす」

 

 そういえばさるやんごとなきお方とそのお供が薩摩にいらしていたな……と、重位は思い起こす。

 

「左様か。あまり失礼の無いんごつよ」

「わかい()した!」

 

 重位の言葉を受け、左近は道場から駆け出していった。

 駆けていく左近の後ろ姿を見ながら、重位は虎眼の魂に思いを馳せる。

 

(虎眼殿(どん)……いずれは(おい)もそちらへ参ろうが……その時はゆるりと積もる話を、したかなぁ……)

 

 東郷重位は空を見上げ、亡き友に思いを馳せる。友の魂が極楽へと向かうよう、静かに手を合わせた。

 剣虎の魂が常世の国へと誘われたと信じていた重位は、まさかこの世とは異なる異界へと転生を果たしていたとはついぞ思いつくはずもなく、ただただ友の冥福を祈るばかりであった。

 

 

 

 桜島から噴く煙が、空を僅かに曇らせていた。

 

 

 

 

 


 

 

 剣の大地を含む中央大陸北部は通称“北方大地”とも言われ、その大地は厳しい自然環境に包まれている。

 一年の三分の一が雪に埋もれるこの大地は農作物の実りが少なく、小国が割拠し少ない食料や資源を奪い合っていた。

 魔物の数も多く、アスラ王国にはいない強力な魔物も多く生息している。故に武者修行者や魔物の討伐を専業とする熟練冒険者が多くがこの北方大地で力を振るっていた。

 そのような北方大地ではあるが、魔法三大国と言われるラノア王国、ネリス公国、バシェラント公国の三ヶ国だけはそれなりの国力を保持していた。三ヶ国は互いに同盟を結び、それぞれ得意な魔術に関わる分野を発展させて国力を高めており、そこに住まう人々は他国に比べて幾分か豊かな暮らしを維持していた。

 

 

「ウィリアム! そっちへ一頭行ったぞ!」

 

 剣王ギレーヌ・デドルディアが剣を振りかざし、総髪の少年剣士ウィリアム・アダムスへと警告を飛ばす。ギレーヌの前には北方大地に生息する魔物“ラスターグリズリー”の死体の山が出来上がっていた。

 ラスターグリズリーとはランクB級の魔物で、熟練の冒険者ならば単体では不覚を取ることはないポピュラーな魔物として知られている。

 白い毛皮を持ち、背骨に沿って黒い線を持つ大型の熊の魔物。普通の熊と違うのが群れで行動をする事、そして冬場は食料を蓄える為人里や街道に出没し、人間を襲う事が多い事だろう。

 

 ギレーヌとウィリアムが剣の大地を出立し一ヶ月の時が経っていた。

 当初は徒歩での移動、そして復活を果たしたとはいえ深手を負ったウィリアムの歩みは遅々としたものであったが、北帝オーベール・コルベットの傷薬の効能は高く、旅をしながらでも一週間も経てばウィリアムの肉体は全快していた。

 

 そこからは高い身体能力を持つ剣豪二人。歩むペースを上げ、途中で立ち寄った街から商隊の護衛に混じり、魔法三大国の西端にあるネリス公国に程近い街道付近にまで到達していた。

 この辺りはネリス公国の依頼を受け、定期的に冒険者による魔物の討伐が行われているので比較的安全ではあった。

 だが、夏場に行われるラスターグリズリーの駆除が芳しくない結果に終わっていた為、冬場の今は例年に比べ多くのラスターグリズリーが出没していた。

 故にこの辺りを通る商人は手練の冒険者を雇い、隊商を組んで目的地に向かうのだ。

 ウィリアム・アダムスはギルドにて冒険者登録を行ってはいなかったが、同行したギレーヌがSランク冒険者、そして“剣王”という絶大なネームバリューを持っていたのですんなり隊商の護衛に混ざる事が出来た。

 

「グオォォォォッッ!!」

 

 口から唾液を滴らせ、ラスターグリズリーがウィリアムに向け突進する。狂暴な魔物を前にしてもウィリアムは泰然とした佇まいを崩さず、ゆるりと七丁念仏を肩に担いだ。

 

 次の瞬間、ウィリアムの“流れ”が一閃した。

 

 神速の流れは8年前、兄ルーデウス・グレイラットに放った流れと比べ物にならぬ程の速さで放たれていた。

 額を僅かに斬られたラスターグリズリーは、その勢いのままウィリアムの前に倒れ伏し、絶命する。

 見ればウィリアムの周りには最小(・・)の斬撃で倒されたラスターグリズリーの死体が散乱していた。

 

(流石だな)

 

 ギレーヌはラスターグリズリーの群れに躍りかかり、次々とその豪剣で斬り伏せながらウィリアムの様子を見やる。

 ウィリアムは隊商の馬車の前から一歩も動かずに(・・・・・・・)、間合いに入ったラスターグリズリーを斬り伏せていた。

 必要最小限の斬撃で仕留めるその業前は、剣王級剣士であるギレーヌから見ても“合理的”且つ“美しい”手並みであった。

 

(綺麗だな──)

 

 新たに襲いかかるラスターグリズリーの一体をまたも瞬時に斬り伏せたウィリアムに、ギレーヌはしばし見とれる。

 胸の奥から熱い何かが、ウィリアムの姿を見て沸き上がった。

 獣人の習性か、それとも剣士としての本能か。

 

 それとも、それまで感じていなかった“女”としての感情か。

 

 旅を始めてから徐々に大きくなるこの感情は、ギレーヌにとって初めて味わうものであり、戸惑いを感じさせるに十分であった。

 

「っと!」

 

 余所見をしていたギレーヌを格好の獲物と見たラスターグリズリーの一体が襲いかかる。しかしギレーヌは即座に反応し、これを難なく斬り倒した。

 

(今は、そんな事思ってる場合じゃない!)

 

 戸惑いを振り払うかのように、再びラスターグリズリーの群れに飛びかかる。

 

 剣王の豪剣は、心の惑いを感じさせない鋭さで振り抜かれていた。

 

 

 

「……ふぅ」

 

 やがて襲いかかってきたラスターグリズリーの群れを全て斬り伏せたギレーヌとウィリアム。ギレーヌは一息つき、剣を振って血糊を落とした。

 ウィリアムも懐から懐紙を取り出し、丁寧な手つきで妖刀に付いた血糊を落とす。

 

「3人もやられてしまったか……」

 

 馬車二台の小さな隊商の護衛は、その規模に合った少人数で構成されていた。ギレーヌとウィリアムを含め、この隊商の護衛は5人しかいなく、先の戦闘でウィリアム達以外の護衛は全員ラスターグリズリーの狂爪にかかり死亡した。

 目的地が近い為の油断。それに加え、ラスターグリズリーの数の多さが3名の冒険者の命を落とす原因となった。

 二人の剣豪が斬り伏せたラスターグリズリーの数は30を越えていた。

 

「せ、先生方……魔物はもういないんで?」

 

 馬車の陰に隠れていた依頼主の若い商人が、おずおずと顔を出す。

 まだ駆け出しの商人であるこの若者は、今更ながら護衛を雇う資金を惜しんだ事を後悔していた。

 

「安心しろ。もう魔物はいない」

 

 ギレーヌが剣を納めながら辺りを見回す。周囲はラスターグリズリーの死骸が散乱し、濃厚な血の匂いが漂っていた。

 商人も同じように辺りを見回し、実質二人だけでこの死体の山を築いた剣士二名に畏怖の念を覚えていた。

 

「早くここから移動した方がいいな。血の匂いで魔物が寄ってくる」

「へ、へい。でも、他の冒険者さん方の遺体は……」

「放置していくしかないだろうな……」

 

 ギレーヌが諦め気味にそう言いかけた時、いつのまにかウィリアムが冒険者の遺体の傍で屈んでいた。

 手を合わせしばし黙祷を捧げた後、遺体の装備品をいくつか回収し、ギレーヌ達の前に戻る。

 

「遺体の回収は諦めよ。ここで埋葬するも時が惜しい」

 

 3人の冒険者の遺品を抱え、足早に馬車の前に移動する。魔物の襲撃で気が立っていた馬を宥め、早々に出立の準備を整えていた。

 

「そういうことだな。そろそろ日が暮れるし、あたしらがいるとはいえ死体を抱えながらの旅は危険だぞ」

「へ、へい……剣王様と、若先生がそうおっしゃるなら……」

 

 死体が発する匂いは魔物を引き寄せる。まだ若輩とはいえ行商を生業とする商人はようやっとその事実を思い出し、慌てて出立の支度を整えた。

 馬に鞭を入れ、馬車が動き出す。ウィリアムとギレーヌは後続の馬車の御者台に座り、同じように馬車を走らせた。

 

 やや駆け足気味で馬車を走らせるウィリアム。その横顔を見つつ、ギレーヌが声をかけた。

 

「ウィリアム。先程手を合わせていたが、あれはどういう意味なんだ?」

「……死者の魂を弔っておりますれば」

 

 ウィリアムは前を向き、手綱を操りながら応える。

 共に過ごした日々は短いなれど、共に戦った(つわもの)の魂を弔わずに行く事は、戦国の武者としての価値観が許さなかった。

 

「遺体はあそこで朽ち果てなれど、魂はこれらに宿っておりまする。以後はそれに手を合わせ、死者の御霊を慰めるが宜しかろう」

 

 馬車に積まれた冒険者の遺品を差しながらウィリアムは言葉を紡ぐ。

 ギレーヌはふむ、と顎に手をつける。

 

「そういうものか……」

 

 ギレーヌは獣族や人族では聞いたことの無いこの習慣に疑問を覚える。

 

「ミリス教……ゼニスの教えか?」

「……」

 

 ゼニスの名前が出た瞬間、ウィリアムは僅かに眉を顰めた。

 暫し忘れていた母の温もりが、若き剣虎の心を少しばかり乱していた。

 

「あ、す、すまん……詮索はなしだったな」

 

 押し黙ってしまったウィリアムに、ギレーヌは慌てて言葉を取り繕う。

 どうも、この若き虎の前では普段の調子を出せずにいた。

 普段はピンっと立っていたその耳は、今は力なく垂れていた。

 

 夕日が差し込み、ウィリアムの姿が逆光に重なる。ギレーヌは目を細めながら、ウィリアムの表情を見ようとしたが、やがて前を向き、口をつぐんだ。

 

 

 冬の大地を、二台の馬車が駆けていった。

 

 

 

 

 

──────────────

 

 

 ウィリアム達は日が暮れるまで馬車を走らせていたが、やがて辺りは一面の夜の闇に包まれた。

 夜間の移動は昼間以上に危険を伴う為、一行は野営の支度を整える。

 襲撃地点からそれなりには距離を稼ぎ、街まではあと少しの距離であった為、この辺りは野営をするには幾分か安全ではあった。

 

「やれやれ……あそこで襲われなければ日が暮れるまでには街へ着いたのだがな」

 

 薪を抱えながらギレーヌが呟く。ウィリアムは石を並べ、焚き火の支度を始めていた。

 ギレーヌはウィリアムの隣に座り、薪をくべる。そして焚付の藁を取り出し、ボソボソと魔術の詠唱を始めた。

 

『汝の求める所に大いなる炎の加護あらん……勇猛なる灯火の熱さを今ここに』

 

 詠唱が終わり、小さな火の玉がギレーヌの手から放たれる。着火した火が勢い良く燃えだした。

 

「魔術の心得が?」

 

 その様子を見てやや驚きの声をあげるウィリアム。この脳みそまで筋肉がつまっていそうな獣人剣士が魔術を行使するとは、ウィリアムにとっては思い掛け無い出来事であった。

 

「フフン。昔、ルーデウスに教わってな。簡単な魔術なら使えるぞ」

 

 焚付を焚き火に放り込み、ふんす、と得意げになるギレーヌ。外套に隠れても分かる大きな胸を張るその様子は、昼間の修羅の様な剣士とは一変し、まるで褒めてと言わんばかりに尻尾を振る子犬のようであった。

 実際にその尻尾はふりふりと揺れ動いていた。

 ウィリアムはそんなギレーヌをやや羨望の眼差しで見つめていた。

 

 

「先生方、大したもんは用意できやせんでしたがこれを」

 

 焚き火を囲むウィリアム達に、食料を抱えた商人が声をかける。そのまま干し肉とパンをウィリアム達に手渡した。

 

「かたじけなし……」

 

 ウィリアムは受け取った干し肉を頬張る。肉は硬かったが、存分に塩が効いており、疲れた体に染み渡った。

 

「それじゃ、先生方。申し訳ねえですが、あっしは先に休ませてもらいます」

「わかった。見張りはあたしらに任せてゆっくり休むといい」

「へぇ……ほんと、申し訳ねえです」

 

 いそいそと馬車に戻る商人。その表情は魔物の襲撃で存外に消耗していたのか、疲れを滲ませていた。

 

 

「ギレーヌ殿も休まれよ」

 

 ウィリアムはギレーヌを気遣い、先に馬車で休むように促す。

 だが、ギレーヌはそのままウィリアムの隣から動こうとはしなかった。

 

「いや、あたしもここにいるよ」

「……左様か」

 

 パチパチと薪が爆ぜる音がする。日が暮れた冬の大地は、ひっそりと静まり返っていた。

 静寂と共に、夜の冬の大地の寒さが二人を包んだ。

 

 

「少し、冷えるな」

 

 僅かに身震いしたギレーヌが呟く。凍てついた空気の中、やや熱く、白い息を吐き出す。

 

「馬車から毛布を」

 

 ウィリアムは馬車に積んである毛布を取りに腰を浮かせる。

 

「いや、それには及ばないさ」

 

 ウィリアムを制したギレーヌは徐ろに立ち上がり、ウィリアムの後ろへ回る。そしてウィリアムを自身の外套で包み、抱えこむようにして座った。

 

「こうすれば、暖が取れるだろ?」

 

 ギレーヌの熱を持った吐息と体が密着し、互いの体は熱を帯びた。

 いきなりの出来事にウィリアムはやや驚きの表情を浮かべたが、直ぐに常住の表情に戻る。

  

「お戯れを……」

「……嫌か?」

 

 ウィリアムの一言に、切なげな声でギレーヌは返した。

 

「……嫌、というわけでは」

 

 少しばかり困った表情を浮かべたウィリアムは嘆息と共にギレーヌに応えた。

 身じろぎ一つ取らず、獣が暖を取るが如く、不動の姿勢を続けていた。 

 

「じゃあこのままだ」

 

 ギレーヌはニッコリと満足そうな表情を浮かべ、更にウィリアムに体を密着させた。

 再び嘆息を吐いたウィリアムはやがて諦めの表情を浮かべ、ギレーヌのされるがままに体を預けた。

 豊満なギレーヌの肉体を背に感じる剣虎は、己の体温が上昇してくるのを感じていた。

 

 思えば、この獣人剣士は旅をするにつれ、自分との距離を詰めて来たように思える。

 ギレーヌをまったくそのような対象として見ていなかったウィリアムは、今更ながらこの状況に至った理由を考える。

 が、前世でも異性からの率直な好意を寄せられた事がなかったウィリアムには、ついぞその理由を推し量る事は出来なかった。

 

 パチパチと薪が爆ぜる。

 

 静かな夜──

 

 周囲からは魔物の気配はなく、害の無い動物しかいないように思えた。

 ホゥホゥと、フクロウらしき動物の声が聞こえる。

 久方ぶりに風情を感じたウィリアムは、暖かな空気と共に閑静な異世界の自然に包まれ、しばし瞑目した。

 

 と同時に、フゥフゥと頭上からなにやら悩ましげな吐息も聞こえてきた。

 

「……ギレーヌ殿」

 

 嫌な予感がしたウィリアムは目を開き、おずおずと後ろの様子を窺おうとした。

 しかしギレーヌが頭に顔を埋めているせいで後ろを振り向く事は出来ない。

 

「フーッ……フーッ……」

 

 一心不乱にウィリアムの芳香を吸い込むギレーヌの様子は、尋常の様子ではなかった。

 まさかとは思ったが、この様子では未だに発情が治まってない(・・・・・・・・・)のだとウィリアムは察した。

 旅立ってからそのような様子は見られなかったので、ギレーヌがその実、滾った獣慾を鉄の精神で抑え続けていた事は気付きようが無く。

 昼間の戦闘で血の匂いを嗅いだからか、とうとう獣人としての本能が鉄の精神を破り、その滾った獣慾を顕にしていた。

 段々とウィリアムを抱え込むギレーヌの力は強まり、その体をギュウギュウと締め付けていく。

 

(獣かこのおなごは……)

 

 身じろぎも出来ずにウィリアムは黙考する。

 以前、父パウロから教えを受けた獣族の発情について思い起こす。

 といっても、ひどく下世話な話しか聞いていなかったのでこの場合では何も役に立たぬと即座に気付いたが。

 

「ウィ、ウィリアム……すごく……切ないんだ……」

 

 蠱惑的な吐息を吐き、上気した表情でギレーヌは言葉を発した。ウィリアムを抱きしめるその力は、増々強くなっていく。

 やや痛みを感じ始めたウィリアムは、ギレーヌの表情に反し、少し困った表情を浮かべ考えあぐねていた。

 

 このまま相手(・・)をしてやっても良いものか──

 

 ウィリアムは思案を続ける。

 転生してから、この肉体は“女を知らぬ”というわけではなく。また、前世でも散々いく(・・)の体を弄んでいた為、情を発した女人の扱いは十分心得ていた。

 

 だが、恩人に対してそのような行いをしても良いものなのか。

 いや、恩人が困っているからこそ手を出すべきなのか。

 そもそも恩人以前にこのような場所で女を抱くというのはいささか気が緩み過ぎているのでは。

 

 遅疑逡巡と思考を続けるウィリアムにはこの状況を打開出来ず、不動の姿勢を取り続けるしかなかった。

 

「……ウィリアム。あ、あたしは誰にでもこんな事する女じゃないぞ」

 

 吐息と共に、ギレーヌはなにやら言い訳じみた事を宣い始める。

 潤んだ瞳を、ウィリアムに向けて言葉を続けた。

 

「あたしは……最初は、剣神流に喧嘩を売ってきた、威勢の良い奴だなとしか思っていなかった」

 

 ぎゅっとウィリアムの体を掴み、言葉を続ける。

 

「でも、パウロの息子だと分かって……いや、パウロは関係ない」

 

 ウィリアムの体を抱きしめる力は常人では耐えられぬほどに強まっていた。

 それでもウィリアムは身じろぎ一つせず、ギレーヌの言葉を聞いていた。

 

「お前と旅していく内に、お前の強さと、お前の気質がわかって来たんだ……それから、お前の事が段々と……」

 

 やがて意を決したかのように、ギレーヌは言葉を続けた。

 

「お前に……惹かれたんだ」

 

 ギレーヌの熱が篭った告白に、ウィリアムは沈黙を続ける。

 ただ黙って、ギレーヌの言葉を聞き続けていた。

 

「誰かを……好きになった事なんて無かった……だから、この場合はどうしていいのかわからないんだ……」

 

 ギレーヌも男を知らぬ生娘というわけではない。以前の人としての心を持つ前……獣の心を持っていたギレーヌなら、そのままウィリアムを押し倒し、欲望に任せてむしゃぶりついていただろう。

 だが、初めて“好きになった男”にそのような乱暴を働く程、ギレーヌは人の心を忘れたつもりはなかった。

 いや、人の心を持っていたからこそ、以前のような強引さで事を進めることは出来なかったのだ。

 

 やがて押し黙ったギレーヌは、ウィリアムの頭に顔を埋めた。呼吸は熱かったが、先程のようにウィリアムの芳香を吸う事はしなかった。

 

 再び静寂が、二人を包む。

 

 厳つい体躯に似合わぬ可憐な獣人乙女の告白に、剣虎はどう応えるのか──

 

 

(寄残花恋か……)

 

 

 剣虎はかつて前世で西行法師が遺した歌を思い出す。

 武士道での色恋の至極は忍ぶ恋──

 かつての価値観が未だ己の大部分を占めているウィリアムにとって、この獣人乙女の直接的な情愛は理解し難い物であった。

 

(発情したギレーヌ殿は常の判断が出来ぬ)

 

 結局はそう結論付けたウィリアム。素面(・・)に戻れば、この懸想は勘違いであったと気付くだろう。

 それに、ギレーヌは剣神流の高弟だ。下手に男女の関係を持ってしまえば、いずれ片を付けるべき剣神との一番で迷いが出るやも──

 

 そこまで思い至った剣虎は一ヶ月前のあの剣神流道場での出来事を思い出す。

 不様に這い蹲った己の姿──

 それを見下ろす剣神ガル・ファリオン。

 

 ウィリアムはギリッと、歯を軋ませ憤怒の形相を浮かべる。だが、その表情は直ぐに常の表情に戻った。

 

(今は、それどころではなかったわ)

 

 己が置かれた状況を改めて考える。

 ギレーヌは確かに美しかった。健康な男子であれば劣情を催す容姿ではあったが、“異界天下無双”を志す剣虎にとってその程度(・・・・)では己の情欲が揺れ動く事は無かった。

 

 兎に角どうするべきか……この状況を打破するべき手段に考えを巡らす。

 憎むべき剣神の直弟子とはいえ、恩人にはあまり手荒事はしたくない。

 ウィリアムはこのジレンマを打開するべく更に深い思考の海に沈んだ。

 

 

 ふと、前世で友誼を結んだあの薩摩の剣豪の姿が思い浮かんだ。

 

 数瞬瞑目した後、意を決したウィリアムは自身を締め付けているギレーヌの腕にそっと手をかけた。

 

「ウィ、ウィリアム……?」

 

 そのまま腕を掴み、骨子術を用いて容易くギレーヌの締め付けを解いた。

 

「ッ!」

 

 ギレーヌと向き合ったウィリアムは、ドンっとギレーヌを押す。

 ギレーヌは、地面に倒れながらこの突然のウィリアムの行動に顔を上気させた。

 

「な、なるほど。ゆ、床ドンってやつだな!」

 

 ウィリアムが己の告白を受け入れたと思い、ギレーヌはモジモジと体を揺らした。

 

「久しぶりだから、その、や、優しくしてくれるとありがたいんだが……」

「ギレーヌ殿」

 

 そんなギレーヌに構わず、いつのまにか棒きれを持ったウィリアムはその棒きれを手渡しながら言葉を紡いだ。

 

「我らは剣士で御座る。故に、滾ったその情欲は剣で発散するのがよろしかろう」

「……ッ」

 

 ウィリアムの言葉に、ギレーヌは棒きれをぎゅっと握りしめ立ち上がる。

 その表情は、ひどく沈んだものであった。

 

「そう……か。そうだよな。そうなるよな……」

「ギレーヌ殿……」

 

 上気した顔は見る影も無く沈みきっており、その目は悲しそうに半開きの状態であった。耳は元気なく倒れ、首をうなだれ、がっくり肩を落として猫背になったギレーヌ。

 その力のない様相を見たウィリアムは、ふぅっと息を吐き、目を細めながらギレーヌに声をかけた。

 

「その返事、今しばらくお待ち頂くよう」

 

 ウィリアムは存外に優しい声色になった自身の言葉に、内心僅かながら戸惑う。

 剣虎の内心、その深い所で自身の思惑とはまた違った新たな感情が生まれ出ようとしていたのを、剣虎は気付くだろうか。

 

「何故だ……?」

「今はまだ、情に現を抜かす身では無く」

 

 ウィリアムは少しばかり辛そうな表情でギレーヌに思いを受けられぬ理由を説く。

 剣士として、無双の剣豪になるべくして思いを拒絶するウィリアムの表情を見て、ギレーヌもまた剣士としての表情を取り戻していた。

 

 

「……わかった」

 

 しばしの沈黙の後、ギレーヌは顔を上げしっかりとその片目でウィリアムを見つめる。

 先程までの獣人乙女としての顔は既に無く、そこには“黒狼”ギレーヌ・デドルディアが存在した。

 

「で、この棒きれで何をするんだ? 模擬戦でもするのか?」

 

 ギレーヌの精悍な表情を見てウィリアムもまた剣虎としての表情を浮かべていた。

 ウィリアムは近くにある樹木の前に立ち、その手で指し示す。

 

「この木に向い渾身の力で棒を振り抜くが宜しかろう」

 

 やや首をかしげつつ、ギレーヌは言われた通り立木の前に立ち、気迫と共に棒を振りかぶった。

 

「でぇいッ!」

 

 ゴッっと鈍い音を立て、樹木が揺れる。たった一撃で樹皮が無惨に剥がれ落ちていた。

 

「……気合が足りませぬ」

 

 ウィリアムの発破に、ギレーヌはむっとした表情を浮かべるが、直ぐに立木に向かって咆哮を上げた。

 

「でやああぁぁぁぁッ!!」

「まだまだ気合が足りませぬ」

「チェストォォォォォォォォォッッ!!!」

 

 (ましら)のような叫び声を上げ、ギレーヌは更に強烈な一撃を叩き込む。

 轟音を立てたその打ち込みで棒きれはへし折れていた。

 

「うむ! 気迫を込めた立木打ちも中々いいな!」

 

 額に汗を浮かべ、満足げにギレーヌは息を吐く。

 ウィリアムもまた満足気に頷いた。

 

「かように“気”を込めれば太刀筋に粘りが出まする。不動不抜の腰が固められるよう打ち込みを続ければ、何事にも動ずる事はない“不動心”を得ることが出来ましょう」

 

 ウィリアムの講釈を真剣な眼差しで聞き入っていたギレーヌ。瞳の奥にはまだ“熱い”感情を宿らせ、明星を仰ぎ見るようにウィリアムを見つめた。

 

「なるほど、不動の心か……」

 

 ギレーヌは棒きれ新たに拾い、再度立木の前に立つ。

 羽織っていた外套を脱ぎ捨て、その黒肌を外気に晒した。

 

「よし! もう一丁いくか!」

 

 裂帛の気合を込め、立木打ちを続ける。

 黒肌に滴る汗を散らせ、湯気を立ち上らせたその肉体は正しく野生の美しさを備えていた。

 

(綺麗じゃ喃──)

 

 ギレーヌの様子を見つめていたウィリアムは、強き者が発する美しさにしばし陶然と見とれていた。

 やがてはっとして頭を振り、焚き火の前に戻る。

 

(初心な青二才じゃあるまいに……)

 

 ざわざわと、揺れる心を落ち着かせる為座禅を組んだ。

 ギレーヌの猿叫を聞きながら、じっと瞑目し、雑念を除く。

 しかしいくら瞑想してもこの雑念は払う事は出来なかった。

 

 

「せ、先生方……うるさくて寝られないんですけど……」

 

 

 

 馬車から顔を出した商人を、ウィリアムは努めて無視し、瞑想を続けていた。

 

 

 


 

 

 ネリス公国第三都市ドウム。

 国境付近にあるこの街に今朝方たどり着いたウィリアム一行は、早々にギルドに向かい護衛の謝礼を受け取る。その際に死亡した冒険者達の遺品を託した。

 煩雑なやり取りを終え、人心地がついた頃には既に日は中天に差し掛かかろうとしていた。

 

「先生方、ありがとうございやした。これでブルーノのオジキに顔が立ちますわ」

 

 ぺこぺこと頭を下げる商人の若者。想定外の出来事が起きていたが、なんとか荷を運び終えた彼の表情は一睡もしておらず(・・・・・・・・)、疲れた表情を浮かべていた。目の下にはくっきりと隈が浮かび、端から見れば実に辛気臭い表情であった。

 同じように薄っすらと隈を浮かべ、やや青い表情のウィリアムが力なく手を振り、それに応えた。

 

「おまえさんも達者でな。今度は護衛代をケチるなよ」

 

 陰気な表情を浮かべた二人とは対照的に、つやつやと晴れやかな表情のギレーヌが応える。

 この獣人剣士は一晩中剣を振っていたくせに全く疲れを感じさせない表情を浮かべていた。

 

「じゃあ剣王様。若先生。お達者で……」

 

 ヨロヨロと立ち去る商人。彼はこの後荷を恩義ある商人の元へ捌きにいくのだが、果たしてしっかりと商談が出来るのか……

 ウィリアムはその後姿を見つつ、いらぬ心配をしていた。

 

 

「ここまでだな」

 

 ギレーヌはウィリアムに向き合った。

 しっかりとウィリアムを見つめる。

 ウィリアムもまた、ギレーヌの一つしかないその瞳を見つめていた。

 

「あの時の返事は、今は言わなくていい」

「……」

 

 努めて平静に言葉を紡ぐギレーヌ。しかし、注意して聞いてみればややその言葉尻は震えていた。

 

「次に会った時に……聞かせてくれるか?」

 

 淡い微笑を浮かべるギレーヌ。ウィリアムはゆっくりと頷き、やがて浅めに腰を折った。

 

「……かしこまって御座る」

 

 顔を上げ、再会を約束し合う剣虎と黒狼。

 雑踏の中、二人の間だけ静かな空間が出来上がっていた。

 

 やがてウィリアムはその場から立ち去るべく、別れの挨拶を告げた。

 

「ギレーヌ殿。次見えるまで、健やかに──」

「ウィリアム!」

「?」

 

 突然大きめの声を上げるギレーヌ。つかつかとウィリアムの目の前に立った。

 

 

 そして、ぐいとやや乱暴にウィリアムの顔を引き寄せ、口づけを交わした。

 

 

「ッ!?」

 

 不意を突かれたウィリアムは不覚にも硬直してしまう。

 衆目を気にせず、ギレーヌはしっかりとウィリアムの顔を掴み、口を続けていた。

 ウィリアムはみるみる青かったその表情を朱に染めていった。

 

 というか、ギレーヌの強引な口づけで呼吸が困難になっていた。

 

「ぶはっ!」

 

 ようやっと解放されるウィリアム。ゲホゲホとむせるその様子を、満足気にギレーヌは見つめていた。

 

「またな!」

 

 そして踵を返し、ギレーヌは駆け出していった。

 その様子を呆然と見送るウィリアム。

 あっという間にその姿は雑踏の中に消え、見えなくなってしまった。

 

『なんとも……虎のようなおなごよの……』

 

 思わず日ノ本言葉で呟くウィリアム。

 しばらく立ち尽くしていたが、やがて息を一つ吐くと、ギレーヌが駆けていった方角とは逆に歩み出した。

 

 力強く歩みを進める。

 黒狼との一会は、虎に何を残したのだろうか。

 虎は、この異界で前世には無かった新たな感情を芽吹かせていた事に気付いているのだろうか。

 

 

 太陽の光が、ウィリアムを包む。

 異界天下無双を目指す若き虎の表情は、太陽の光に負けないくらい晴れやかなものとなっていた。

 

 

 

 

「いいなぁ若先生……青春だなぁ……」

 

「お、お主、まだおったのか……」

 

 

 

 いつの間にか隣を歩いていた商人に、不覚にも狼狽してしまった虎であった。

 

 

 

 

 

 

 

 







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第十一景『剣獣魔都合戦(けんじゅうまとがっせん)

 

「母親の方はベガリット大陸、迷宮都市ラパンじゃな」

 

 甲龍歴420年

 魔大陸北西部クラスマの町にある酒場

 

 ロキシー・ミグルディアはグレイラットの家族を捜索する為、パウロ・グレイラットがかつて立ち上げた冒険者パーティー“黒狼の牙”の元メンバー、長耳族のエリナリーゼ・ドラゴンロードと炭鉱族のタルハンドと共に中央大陸から遠く離れたこの地へと辿り着いた。

 そして酒場で偶然出会った魔界大帝キシリカ・キシリスの酒代を立て替えた事で、キシリカの“万里眼”によるグレイラット家捜索を依頼する事となった。

 

 ルーデウス・グレイラットは中央大陸北部で冒険者稼業をしながら家族を捜索している。

 パウロ・グレイラットとリーリャ・グレイラット、パウロの娘二人はミリス王国首都ミシリオンにいる事が確認された。

 ゼニス・グレイラットの所在もこうして確認する事が出来た。

 ロキシーは一人か二人は死んでいてもおかしくないと思っていたが、さすがグレイラット家と改めて一家の運の強さに感心をしていた。

 

「じゃが……ちとおかしいのう」

 

 端から見れば魔族の幼女にしか見えないキシリカは、顔をしかめながらくりくりと目を動かす。

 

「何か問題が?」

「いや、よく見えん」

 

 しかめっ面でくりくりと目を動かすキシリカの様子は、実年齢にそぐわぬ程愛らしい姿ではあった。だが、ロキシーは魔界大帝の魔眼を持ってしても見えない大事に巻き込まれているのかと思い、鬼気迫る表情でキシリカに問い質した。

 

「それでは困ります! 何か問題があるなら詳細を!」

「なんじゃ……そんな事言われても、見えんものは見えんのじゃ。まぁ案外迷宮の中におるのかもしれんぞ。迷宮都市じゃし。妾は行ったことないけど」

「迷宮の中は見えないのですか?」

「うむ。ベガリットの迷宮は高濃度の魔力で満ちておるからのう」

 

 ロキシーはキシリカの言を受け、深く考える。

 ゼニスはかつて、パウロやエリナリーゼ、タルハンドと共に迷宮探索をしていたと聞く。彼らと旅をしていたのなら、迷宮にも潜れるだろう。

 しかし、転移事件からもう三年も経つというのになぜ今まで連絡もせずにいたのか。

 

「とにかく、生きてはいるんですね?」

「うむ。それは間違いない」

 

 ロキシーはその言葉を信じることしにした。何らかの理由があって、迷宮に潜り続けなければならない事になっているのだろう。

 そう考えたロキシーは頭を下げた。

 

「わかりました。ありがとうございます」

「よいよい。さて、最後はルーデウスの弟じゃな」

 

 ふんす、とその小さな体を張り、気合を入れたキシリカは再び万里眼を発動させる。

 最後に捜索するのは、ルーデウスの実弟ウィリアム・グレイラット。

 ロキシーはグレイラット家に家庭教師として滞在していた時、ウィリアムがやたらと魔術について質問をしていた事を思い出した。

 と同時に、こんな事なら魔術以外にも生き残る術を教えるべきだったと今更ながら後悔をしていた。

 

 

「うむむ……母親以上に……むぅ……」

 

 先程より深く眉間に皺を寄せ、顔を顰めながらキシリカは魔眼を操作する。

 ロキシーはその様子を心配そうに見つめていた。

 

「う……う……ち……」

「キシリカ様……?」

 

 それまでの魔眼の行使とは打って変わり、額に脂汗を滴らせ、苦悶の表情を浮かべるキシリカ。

 ただならぬその様相に、ロキシーは増々緊張した面持ちでキシリカを見守っていた。

 

 

「ち……ちぇ……チェ……」

 

「チェ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「チィェストォォォォッッッ!!!」

 

 突如大音声の奇声を発したキシリカは盛大に目血(めぢ)を噴出させ、大量の鼻血を撒き散らしながら白目を剥いて倒れた。

 

「ええええええ!?」

 

 行き成り発生したこの凄惨な出来事に、ロキシーは素っ頓狂な叫び声を上げる。

 慌ててキシリカの元に駆け寄り治療魔術を行使すべく魔力を練り始めた。

 血海に沈むキシリカは、悲惨且つ無惨な姿を見せていた。

 

「キ、キシリカ様!? ち、治療を! ああご主人! 水を! 水をください!」

 

 ロキシーの緊迫した様子に、酒場の主人は慌てて水差しとコップを手に駆けつける。

 治療魔術をキシリカにかけながら、ロキシーは酒場の主人を見やった。

 

「コップじゃないです! バケツでください!」

 

 ロキシーの言葉を受け、踵を返して厨房へ向かう酒場の主人。

 ロキシーは混乱の極みに陥っていたが、もう少し冷静であれば自ら水魔術でバケツ一杯分の水を用意する事が出来たことに気づけただろう。

 しかしあまりの出来事に普段は聡明である筈のこの水王級魔術師は治療魔術に専念する事しか出来なかった。

 

 再び駆けつけた酒場の主人からバケツをひったくるように取ったロキシーは、その勢いのままキシリカにバケツの水をぶちまけた。

 

「えいっ!」

「はぅぁ!」

 

 大量の水を乱暴にぶっかけられたキシリカは即座に覚醒する。

 呼吸は乱れていたが命に別状は無さそうなのを確認し、ロキシーは安堵の溜息をついた。

 

「し、死ぬかと思った……」

 

 ゼイゼイと息を吐きながら、キシリカは青い顔で呟く。

 一体何を見て、このような事態に陥ったというのか。ロキシーは再び緊迫した面持ちでキシリカに問いかけた。

 

「キシリカ様……一体何が見えたんです?」

「い、いや……その……」

 

 呼吸が落ち着くにつれ、キシリカの顔色は赤みのある常の状態に戻りつつあった。

 やがてキシリカは2,3回深呼吸をすると、顔を上げ真剣な表情でロキシーを見つめた。

 

「全然わからん」

 

 キシリカの言に、ロキシーは思わず床に突っ伏した。

 即座に起き上がり、キシリカに再び問い詰める。

 

「わからんじゃないですよ! 明らかに異常でしたよ!」

「そんな事言われても全然わからんもん。なんでこんな事になったんじゃろ……」

 

 腕を組み、ウンウンと唸るキシリカ。

 ぶつぶつと何事かをつぶやき、やがてロキシーにおずおずと説明を始めた。

 

「うーん……なんかでかい蛇(・・・・)が邪魔で見えんかったというか……いや、あれは竜か? でもあんな変な竜(・・・・・・)見たことないし……とにかく全然、何されたのかもわからんかった……」

 

 キシリカの予想外の言葉に、ロキシーは凍りつく。

 せっかく……せっかくウィリアム以外の家族の無事が確認できたのに。それなのに、ウィリアムだけが安否不明とは……。

 

 ロキシーは魔族であるにも拘らず、温かく自分を迎え入れてくれたグレイラット家の家族を愛していた。

 分け隔てなく接してくれたグレイラット家の家族に深い感謝の念を抱いていた。

 まるで自分も家族の一員であるかのように接してくれたあの家族は、全員が揃っていなければ駄目なのだ。

 一人でも欠けていれば、あの家族は、あの温かい一家は壊れてしまう。

 最悪の事態を想像し、俯いたロキシーは絶望が入り混じった声で言葉を紡いだ。

 

「そ、それじゃあウィリアム君は……」

「いや、多分生きてるじゃろ」

 

 鼻をほじりながらキリシカは呑気な声を上げる。

 その様子を見たロキシーは顔を上げ、キシリカに鬼気迫る表情で迫った。

 

「多分じゃ駄目なんです! あの家族は……あの家族は全員が揃っていないと駄目なんです!」

「んなこといわれても……」

 

 再び腕を組み、唸りながら熟考するキシリカ。

 目に涙を浮かべるロキシーを見つめ、溜息を一つ吐いた後、再び言葉をかけた。

 

「ていうかな。死んでるならそもそも存在自体が感知できんからな。魔眼が効かない者も見えないだけで存在は感じる事はできる。弟の方は存在は確かに感じる事はできたぞ」

「じゃ、じゃあウィリアム君は……!」

「生きとる。と、思う。ただ覗こうとするとじゃな……ほんとなんじゃあれ。神とかそういうの通り越してよくわからんかったぞ」

 

 あやふやな表現を続けるキシリカに、これ以上問い詰めても意味がないと判断したロキシーは再びキシリカに向かい、深々と頭を下げた。

 

「……わかりました。ありがとうございます」

「よいよい。助けてもらった礼じゃからな。ではまた会おう」

 

 やがてフラフラと覚束ない足取りでキシリカは酒場を出て行く。

 ブツブツと何事かをつぶやきながら歩く後ろ姿に、ロキシーは再び深く頭を下げていた。

 

「しかし、長く生きているがこんな事は初めてじゃのう……ほんとルーデウスといい変な兄弟じゃのう……つーかありえぬじゃろ……妾の魔眼に干渉してくるとか………」

 

 

 

 翌日、盛大に血を出して倒れたとは思えぬ程元気一杯な様子で再びロキシー達の前に現れたキシリカと、その婚約者魔王バーディガーディ。

 大陸を渡る為の段取りを取り付けた魔王の助力を受け、ゼニスとウィリアムの安否を伝える為一行は二手に分かれてそれぞれの目的地を目指す事となる。

 ロキシーはパウロ達にゼニス……そしてウィリアムの事を伝える為、タルハンドと共にミシリオンを目指す。

 エリナリーゼはバーディガーディと共にルーデウスにゼニス達の安否を伝える為、中央大陸北部を目指す事になった。

 

 ミリス大陸行きの船に揺られながら、ロキシーはグレイラット家の家族に想いを馳せる。

 ゼニスは本当に無事でいるのか……そしてウィリアムは……。

 

 

 

 ミグルド族の水王級魔術師の乙女は、あの温かい家族が全員揃って再会出来るよう……静かに祈りを捧げていた。

 

 

 


 

 甲龍歴423年

 ラノア王国シャリーア

 

 “泥沼”ルーデウス・グレイラットは、前年にここシャリーアに移り住んでから順風満帆な生活を送っていた。

 元々北方大地にて転移事件以降、依然として行方知れずとなっていた母ゼニス・グレイラット、そして弟ウィリアム・グレイラットを捜索する傍ら、冒険者としての名声を得て行方知れずの家族に気付いてもらえるよう名を広めていたルーデウス。数年の冒険者活動により“泥沼”の二つ名は冒険者を中心に広く知られていた。

 だがここシャリーアにあるラノア魔法大学に特別生として入学し、魔王バーディガーディ来襲を切っ掛けに更にその名を広める事となる。

 

 シャリーア居住区の隅にあるこの一軒家は、ルーデウスがラノア魔法大学で漸く再会を果たした幼馴染シルフィエットとの結婚の際に購入した。

 ルーデウスはヒトガミのお告げにより、失った己の“自信”を取り戻す為ラノア魔法大学へと入学をしたが、当初は腰を据えるつもりは毛頭なかった。

 しかしシルフィエットとの再会、結婚によりここシャリーアを終の棲家と定め、離れ離れになった家族を迎え入れるべく家を購入した。

 

 幼い頃の“夢”であったルーデウスとの結婚を果たしたシルフィエットは、“無言のフィッツ”として男装し、アスラ王国での政争に敗れたアリエル・アモネイ・アスラ王女の護衛としてラノア魔法大学に入学していた。

 再会したルーデウスに当初は全く気付かれる事は無かったが、1年程の学生生活、そしてルーデウスとの交流で徐々に親密度を上げ……アリエル王女の後押しもあり自身の本当の姿を長年の想いと共に告白した。

 ルーデウスはこれにより失ったはずの男としての“自信”を取り戻し、晴れて二人は結ばれる事となった。

 

 その後は順調な結婚生活、学生生活を営んでいたルーデウス。

 折りしのパウロからの手紙で託された妹達……ノルン・グレイラットとアイシャ・グレイラットの二人の妹達とも再会し、家に迎え入れる事が出来た。

 ノルンとアイシャの確執、アイシャがミリスで妾腹として肩身が狭い思いをしていた事や、ルーデウスやアイシャと比べられ続けた事でノルンが引きこもりを起こした事件等があったが、概ねそれらはルーデウスの尽力により解決している。

 また、シルフィエットがルーデウスの子を懐妊した事もあり、ルーデウスは正にそれまでの“人生”で一番の幸せを感じていた。

 

 ところが、パウロの元仲間でありミリス大陸にて冒険を共にしたギース・ヌーカディアの手紙が、ルーデウスを深く悩ませる事となった。

 

 

 “ゼニス救出困難、救援を求む”

 

 

 同じくパウロの元仲間であり、同じラノア魔法大学に通うS級冒険者エリナリーゼ・ドラゴンロードから母ゼニスの所在はルーデウスにも伝えられていた。

 ゼニスはベガリット大陸の迷宮になんらかの理由で囚われているという。

 それを救出せんが為、パウロとその仲間達は迷宮に挑み続けている。

 しかし、ギースがもたらした知らせはその救出が困難という事であった。

 

 更に、狙いすましたかのように“夢”にヒトガミが現れる。

 “ベガリット大陸に行けば後悔する事になる”

 ヒトガミのお告げはルーデウスを更に悩ませた。

 

 行くべきか、行かぬべきか。

 

 シャリーアからベガリット大陸の目的地までどんなに早く移動するとしても往復2年はかかる。

 どう考えてもシルフィエットの初産には間に合わない。

 その事が、ルーデウスを懊悩させる。

 

 しかしノルンが健気にも一人でパウロ達の元へ向かおうとしていたのを見て、ルーデウスはゼニスの救出に向かう事を決意する。

 先に一人でパウロ達の救援に向かう事となっていたエリナリーゼに自身も向かう事を伝えるルーデウス。

 シルフィエットの“祖母”でもあるエリナリーゼは、最初は生まれてくる曾孫の事を想いルーデウスに残るよう説得をしていた。

 しかしながらルーデウスの決意は固く……エリナリーゼはしばし悩んだ後、ルーデウスと二人で行くことを決めた。

 

 そしてラノア魔法大学で出会った同じ異界の迷い人であるナナホシ・シズカの望外な協力が、ルーデウス達に希望をもたらした。

 

 転移魔法陣。

 ナナホシが絶対の秘匿を条件に、ルーデウスに教えたこの禁術は、遠隔地を僅かな時間で繋ぐ移動法。

 2年はかかるとされたベガリット大陸との往復を、僅か半年で可能としていた。

 

 これならば、シルフィエットの出産に間に合う。

 また、恋人であるクリフ・グリモルとの“別れの情事”を激しく行い「やっぱり二年もクリフと離れ離れになるなんて耐えられませんわ! 不義理とわかっていても、(わたくし)は行きませんことよ!」と、今更女々しくヘタれていたエリナリーゼも、これにより改めてルーデウスと共にゼニス救助に向かう事を約束した。

 憂いを無くしたルーデウスはシルフィエット、ノルン、アイシャにベガリット大陸へ向かう事を告げる。

 

「父さんと母さんを助けに行こうと思う」

 

 転移魔法陣の存在を知ったその日、シルフィエット達にそう告げたルーデウス。

 シルフィエット達はルーデウスの決意を受け、それを後押しした。

 

 自分の事なら気にするな、家の事は任せて心置きなく行って欲しいと健気に言うシルフィエット。

 自信なさげではあったが、シルフィエットの事は任せて欲しいと胸を張るアイシャ。

 自分も及ばずながら力を貸し、シルフィエットとアイシャを支えると誓うノルン。

 

 家族の後押しを受けたルーデウスのその後の行動は早かった。

 ベガリット大陸へ向かうための馬の手配、装備の準備、食料の確保、休学の手続き……

 出発前日の夜、全ての準備を整えたルーデウスは一人寝室のベッドに腰掛けながら未だ見つからぬ“家族”に想いを馳せる。

 

 必ずやゼニスを救い出す。そしてその後は……

 

 

「ウィリアム……」

 

 ルーデウスは弟、ウィリアムの事を想う。

 エリナリーゼから聞いていたキシリカの魔眼による家族の捜索は、ウィリアムだけが不明という結果だったという。

 生きてはいる。しかしどこにいるのか分からない。

 あの虎の様な凄味を備えていた弟がどうしても死んでいるとは思えなかったが、キシリカの魔眼を持ってしても所在が掴めないとはどういう事なのだろう。

 ルーデウスは弟に植え付けられた“棘”を思い出し、自身の顎を触る。

 

「あの時は、見事に完敗したなぁ……」

 

 ロアの街へ向かう馬車の中、虎の一撃から覚醒したルーデウスは、その虎の強烈な剣気に恐怖した。

 そして転移事件を経て、徐々に己の実力が上がっていくにつれ今度こそ“兄”としての威厳を見せつけるべく再戦を誓うも、得体のしれぬ弟に依然として恐怖を覚えていた。

 

 そんな弟がどこにいようが、正直知ったことではない。

 

 生きているならそれでいいし、死んでいても墓でも立てて線香の一つでも上げてやればいい。

 薄情と思われようと、ルーデウスはウィリアムに対しては情よりも得体の知れぬ怖気の方が勝っていた。

 

 しかしシルフィエットと結婚し、自身の“家族”を持つ身になった時から、徐々にその考えは変わっていった。

 

 “家族”とは、誰一人欠けていてはならない。

 

 一緒にいられる事が、どんなに幸せか。

 

 例えどんな“弟”であれ、自分達……グレイラットの家族は、全員揃っていなければならない。

 

 ルーデウス、パウロ、ゼニス、リーリャ、ノルン、アイシャ、シルフィエット……そしてウィリアム。

 

 全員が揃って、初めて“家族”として本当の幸せが始まるのだ。

 

 

 シルフィエットとの甘く、優しい生活を経て、気づけばルーデウスに刺さっていた“棘”は跡形も無く消えていた。

 

 

「母さんの次は絶対にお前を見つけてやるからな……お兄ちゃんが、絶対にお前を見つけてやるからな……だから早く出てきてくれよな……頼むから……」

 

 

 ベッドに横になり、微睡みながら母と弟を想うグレイラットの長男は、家族全員の再会を誓っていた。

 

 

 

 

 


 

 いよいよ今日、ルーデウスお兄ちゃんがベガリット大陸へ向かう。

 昨日まで忙しそうに準備をしていたお兄ちゃんは、朝食の時間になっても起きずに“泥沼”の名の通り、泥のように眠っていた。

 

「アイシャちゃん。ルディは自分で起きてくるまで寝かせておこうね」

「そうだねシルフィ姉。エリナリーゼさんとノルン姉もお昼前に来るって言ってたし。……ていうか、シルフィ姉も休んでいなよ」

「朝ごはんの準備くらいで大げさだよ。これくらいは手伝わせて」

 

 シルフィ姉と朝食の準備をしながらお兄ちゃんの事を話す。

 朝食の準備くらい私一人でもできるし、そもそも私の仕事だし、もっと言えばシルフィ姉は今は大事な体だ。

 休んでてほしいのにこうやって手伝ってくれるシルフィ姉は、ほんとお兄ちゃんにはもったいないくらい良いお嫁さんだ。

 

「ゼニスさん、無事だといいね」

「うん……」

「ルディなら、きっとゼニスさんを助けられるよ」

「そうだね……」

 

 シルフィ姉と、サンドイッチに挟む野菜を切り分けながら会話を続ける。

 ゼニス様……ゼニスお母さんは、私の本当のお母さんではない。

 私の本当のお母さんは、グレイラット家のメイド、リーリャお母さんだ。

 ノルン姉とは腹違いの姉妹ってやつだ。

 

 でも、ゼニスお母さんは私の事も本当の娘として扱ってくれた。

 小さかったころ、ノルン姉と一緒にだっこしてもらった思い出はいつまでも忘れられない。

 

 甘くて、良い匂いがしたゼニスお母さんの温もり……。

 今でもはっきり思い出せるあの温もりは、私の大切な思いで。

 ノルン姉は、きっと私以上に温かい思いを感じているだろうな。

 

 

 そして、私とノルン姉にはもうひとつの大切な思いでがある。

 

 

「ウィル兄ぃ……」

 

 思わず、ウィル兄ぃの名前をつぶやく。

 小さかったころ、ウィル兄ぃはいつも私達姉妹の面倒を見てくれていた。

 といっても、いっしょに遊ぶとかじゃなくて私達がウィル兄ぃで遊んでただけなんだけど。

 

 でも、ウィル兄ぃは嫌な顔をひとつせず私達にかまってくれた。

 ノルン姉といっしょに、ウィル兄ぃの膝の上で眠ったこともあった。

 ウィル兄ぃの髪をひっぱって、背中も登ったこともあった。

 それでもウィル兄ぃは、小さく笑って私達の頭をなでてくれた。

 お母さんが大事に育てていた植木を折った時も、怒られて泣いていた私の頭をずっとなでてくれた。

 

 ウィル兄ぃは、お日様の匂いがした。

 とても安心する匂いがした。

 ウィル兄ぃになでられると、いつもそのまま寝ちゃったっけ……。

 なんていうか、お兄ちゃんというかおじいちゃんに近いかも。

 ちょっと失礼かな……でもあのやさしい感じはミシリオンにいたおじいちゃんには感じなかった。

 

 お父さんが言うには、ウィル兄ぃは生きてはいるけどどこにいるのかはわからないらしい。

 ウィル兄ぃは、いま、どこにいるのかな……。

 

 また、あの手で私の頭をなでてほしいな……

 また、ウィル兄ぃの膝の上でお昼寝したいな……

 

「ウィル兄ぃはいまどこにいるのかな……」

「アイシャちゃん……」

「ウィル兄ぃに、また会いたいな……」

 

 野菜を切る手が止まる。

 

 まな板の上の野菜が、だんだんぼやけてきた。

 

 

 会いたいな……

 

 ウィルにぃに、あいたいな……

 

 

「あいたいよ……ウィルにぃに、あいたいよぉ……」

 

 気づいたら、涙がポロポロこぼれていた。

 

 涙で、前がみえなくなった。

 

 涙が、とまらなくなった。

 

 

「アイシャちゃん……」

 

 シルフィ姉が、私を抱きしめてくれた。

 ウィル兄ぃと同じくらいやさしい手つきで、私の頭をなでてくれた。

 しばらく、そのまま私の頭をなでてくれた。

 ぐすっと、鼻をすすり、シルフィ姉の方を向く。

 

「……ごめんね、シルフィ姉」

「いいんだよ。泣きたいときは、思いっ切り泣いてもいいんだよ」

 

 ウィル兄ぃと同じくらい安心できる笑顔で、シルフィ姉は私に微笑んでくれた。

 気付いたら、涙は止まっていた。

 

「ありがとう、シルフィ姉。もう大丈夫」

 

 そう言って涙を拭う。

 シルフィ姉はにっこりと笑って、私の頭から手を離した。

 

「大丈夫だよアイシャちゃん。ウィル君も、きっと見つかって、また会えるから」

 

 そう言いながら、シルフィ姉は私が切った野菜を手際よくパンに挟んでいく。

 

「それにね、ボクには一個目標があるんだ」

 

 シルフィ姉はサンドイッチを作る手を止めて、少し恥ずかしそうに頬をかいた。

 

「今度こそ、ウィル君に“おねえちゃん”って呼んでもらうんだ。だからそれまでは、絶対にウィル君に会わなきゃいけないんだ」

「そう、なんだ」

 

 少し笑いながら返事すると、シルフィ姉もはにかんだ笑顔を見せてくれた。

 

「ウィル君は、ボクに大切な事を教えてくれたんだ……。ルディと一緒になれたのも、ウィル君のおかげって言ってもいいくらい。だから、そのお礼も言わなきゃだめなんだ」

「大切な事?」

「そう。とても大切な事だよ」

 

 シルフィ姉は人差し指を立てながら話を続けた。

 

「“人は姿にあらず”」

「人は、姿にあらず……」

「その人の価値は、その人の努力で決まる……生まれや、姿形は関係無いって事だよ」

 

 そんな事を、シルフィ姉はウィル兄ぃから教えてもらったらしい。

 努力次第でその人の価値は決まる……。 

 当たり前のようなことかもしれないけど、ウィル兄ぃが言ってたと思うとすごく心に響く。

 

「さぁ、朝ごはんの準備終わらせちゃおう。ルディもそろそろ起きてくるかもしれないし」

「そうだねシルフィ姉」

 

 今の私をみて、ウィル兄ぃはほめてくれるかな……

 私も、けっこう頑張ったんだよ……頑張ったなってなでてくれないかな……

 そんな事を思いながらシルフィ姉と朝食の準備を続けた。

 

 

 

 

 その後は、起きてきたルーデウスお兄ちゃんと一緒に朝食を取り、お兄ちゃんの出発の準備を手伝う。

 準備が終わった頃、ラノア魔法大学の寮からエリナリーゼさんとノルン姉がやってきた。

 エリナリーゼさんも準備万端みたいだ。

 

 玄関で、お兄ちゃんとエリナリーゼさんを見送る。

 

「アイシャとノルンも。頼む」

 

 シルフィ姉と抱き合って別れを惜しんでいたお兄ちゃんが、私とノルン姉に声をかけた。

 言われなくても、シルフィ姉と家のことはまかせて。お兄ちゃん。

 

「兄さん。何も心配しないでください、頑張りますから」

「わかった。お兄ちゃんもご武運を!」

 

 私とノルン姉は神妙な顔で、お兄ちゃんに頷く。

 お兄ちゃんも私たちの言葉を聞いて静かに頷いていた。

 

 その後、エリナリーゼさんが乗ってきた馬の後ろに乗ったお兄ちゃんがちょっとだらしない顔をしていたのは、ご愛嬌ってやつだろう。

 お兄ちゃん、シルフィ姉がかなしむから浮気はだめだよ?

 

 

 

「ノルンちゃん、せっかくだからこのままウチに泊まっていきなよ」

「そうですね……今日は授業お休みしましたし、お言葉に甘えますね」

 

 お兄ちゃん達を見送った後、シルフィ姉はノルン姉にウチに泊まるよう勧めていた。

 ノルン姉が泊まるとなると、ちょっと食材の買い置きが心もとないかな。

 

「私、まだ時間あるから一回市場に行ってくるね。お夕飯の材料とかいろいろ買ってこなきゃ」

「アイシャちゃん、ごめんね。頼めるかな」

「いいよ。私の仕事だし。ノルン姉は、シルフィ姉を見ててね」

「わかった。アイシャも気をつけて」

 

 

 手早く支度をして、市場に向かう。

 なんとなく、家族が揃う予感がした。

 

 ドキドキと高鳴る胸を抑えて、私は市場へ向かった。

 

 

 

 


 

 魔法都市シャーリアでは嘗てより多くの獣族が集うようになっていた。

 元々人族以外の様々な種族が集まる都市ではあったが、獣族の発情期を切っ掛けにより多くの獣族の若者が集まっていた。

 その理由がラノア魔法大学に在籍する獣族の姫、リニアーナ・デドルディアとプルセナ・アドルディアの“ボス”であるルーデウスを打倒し、彼女らの番になること。

 血気盛んな若い獣人達が続々と故郷の大森林を離れ、ここシャリーアへ集まっていた。

 

 しかし彼らの殆どはルーデウスに挑む事は出来なかった。

 前年にラノア魔法大学に特別生として入学した魔王バーディ・ガーディがルーデウスと決闘をせんが為、獣族の若者達をその剛腕で蹴散らしたのだ。

 

 それ以降、獣族の若者達はシャリーアに滞在する事となる。故郷の大森林へそのまま帰る者もいたが、大半の若者達は大見栄切って出発した事もあり、そのままシャリーアにて冒険者稼業や傭兵業に勤しむ者が多かった。

 

 

 しかし、数日前にやって来た8人連れの獣族は、上述した若者達とは一線を画する存在であった。

 街から街へ、村から村へ。流浪を繰り返す8人連れの中には顔に生々しい疵跡が残る者もおり、正しく歴戦の強者の風格が漂っていた。

 しかしながらこの8人は人目無くば辻斬り、追い剥ぎも平気で行う不逞の輩共であった。

 中央大陸南部王竜王国にて手配された8人は、騎士団の追及を逃れる為ここシャリーアへと辿り着いていた。

 

 そしてこの8人の不逞者を率いるのは、“凶獣王”タンバー・アドルディア。

 大森林にて数々の掟を破り、同族を殺して里を追われた極悪の徒であった。

 里を追われて以降、同じように里を追われた若者達を率いて各地で悪行三昧を働いていた。

 体中に刻まれた二十数箇所の疵跡は、悪行をし続け尚も生き残っているタンバーの高い戦闘力を表していた。

 

 

「獣人さん方。待ちなよ。勘定がまだだぜ」

 

 酒場の前にて8人の無銭飲食を咎めたのは、この辺りの飲食店で用心棒を務めているタックス・ヘッケラーという元A級冒険者。

 S級冒険者の凄腕の兄を持つこのタックスは、魔物討伐で負った怪我が原因で冒険者稼業を引退せざるを得ない身持ちであった。が、自身の戦闘力は兄にそれほど引けを取らず。引退した今でも鍛錬はかかさずにいた。

 とはいえギルドを介さずに元冒険者がありつける仕事といえば、このような場末の酒場の用心棒が関の山であったが、本人は存外にこの仕事を気に入っていた。

 

「おお、忘れておったわ」

「シモン、支払ってやれ」

 

 シモンと呼ばれた獣人族の若者は懐に手を入れる。

 一悶着あるかと身構えていたタックスは、存外に素直に応じる獣人の姿を見ていくらか気を緩めた。

 

 次の瞬間、タックスの頭蓋が鈍い音を立てて割れた。

 

 

 鉄 爪 会 計

 

 

 シモンが支払ったのは鉄爪であった。

 タックスが全く反応することが出来ぬほどの速度で抜き撃たれた鉄爪は、シモンがただのゴロツキでない事を証明していた。

 脳漿を撒き散らし倒れ伏すタックスを尻目に、8人は悠々と歩き始める。

 場末の酒場の用心棒如きを手討ちにした程度では治安を預かる三国騎士団は動かぬ。

 よしんば動いたとしても、捕縛される前にシャリーアからさっさと姿をくらませばいい。

 

 この獣人族の不逞の輩共は、そう自惚れていた。

 

 

 

 河岸を変えた8人はシャリーアにある居住区近くの市場にある酒場にて再び酒盛りを始めた。当然の事ながら代金は支払う積りは一切無い。

 酒場の主人は顔をしかめつつも、厄介事に巻き込まれたくない一心で獣人達に酒や料理を給仕していた。

 

「この辺りじゃ“泥沼”ってのが有名らしいな」

 

 我が物顔で酒場の大半に陣取り酒を喰らい、大声で話す8人以外の客は少し離れたカウンターに座る一人の若者のみ。

 若者は粛々とカウンターにて食事を取っていた。

 

「どんな奴よ“泥沼”ってのは」

「なんでも水聖級魔術師でAランク冒険者で、雨の森一帯を凍りつかせたとか赤竜を単騎にて仕留めたとか。あとは魔王をぶっ殺したって話もあるらしい」

「ケッ。うそくせえ」

「そんな話ってのは尾ヒレが付くのが相場ってもんだ」

「赤竜なら俺らでも仕留める事が出来る」

「所詮聖級止まりの魔術師程度じゃんよ」

 

 まるで聖級魔術師を歯牙にもかけぬ物言いであるが、この獣人達にはそれを言わしめる程の実力は十分に備えていた。

 

「リニア、プルセナのお姫様達も“泥沼”にかしずいているらしいわねぇ」

 

 タンバーの隣でしなを作りながら寄りかかるのは、8人の中で唯一の獣人女“愛姫”リンプー・ミルデット。リンプーは蠱惑的な表情でグラスを傾けていた。

 

「目の前で主人と定めた男が嬲り殺しになる様子を見せたら、一体どんな顔をするんだろうねぇ……想像するだけで心が洗われるよ。ウフフフ」

「さすが“凶獣王”タンバー・アドルディアの“愛姫”リンプー・ミルデットだぜ。底意地が悪ぃや」

「どういたしまして」

 

 周りからの囃し立てを不敵な面で流すリンプー。それまで黙って杯を仰いでいたタンバーが声を発した。

 

「つまり、“泥沼”をぶっ殺せば大森林に晴れて族長として舞い戻れるってわけか」

 

 その言に、手下の無頼者共が色めき立つ。

 

「マジっすか!」

「“泥沼”様々じゃんよ。やっと糞騎士団共から逃げ回る生活とはおさらばってわけじゃんよ」

「ちょっと! その場合はあたいはどうなるのさ?」

「そりゃ、今まで通り俺の“女”だぜ? お姫様達は族長になったら用済みさぁ」

 

 タンバーはリンプーを抱き寄せ、舐めつけるようにその体を弄ぶ。

 やがてグラスを高く掲げ、来たるべく洋々とした未来に乾杯の声を上げた。

 

「“泥沼”ルーデウス・グレイラットに乾杯!」

 

 

 “ルーデウス・グレイラット”

 その名を聞いた途端、カウンターを立った白髪の剣士……ウィリアム・アダムスは、ゆるりと獣人達の前に歩を進めた。

 

「なんだぁ小僧」

 

 8人の内、大柄な獣人がウィリアムを睨めつける。

 グラスを片手に、フラフラとその前に立った。

 

「よく見りゃ、可愛い面してるじゃねえか」

 

 この暴虐無道な獣人の男は、仲間内からは衆道家としても知られている。

 発情期を過ぎてもただ己の享楽を満たす為だけに同性を嬲る外道であった。

 

(つぼみ)見してみいや」

 

 下卑た表情を浮かべ、そう言い放った獣人に虎の牙が襲いかかった。

 パキッっと乾いた音が鳴った次の瞬間には、大柄の獣人の首が180度回転していた(・・・・・・・・・・)

 

 ウィリアムが放ったのは、虎眼流の当て技“虎拳”

 手首を用いたこの当て技は、“虎眼流剣士”の拳ならば無刀であろうとも凶器その物であった。

 

 下卑た表情を浮かべたまま絶命した獣人が倒れ伏す事で、固まっていた7名はやっと状況を理解した。

 

「うぇ!?」

「てめぇ!」

 

 倒れ伏す獣人を見て即座にウィリアムを取り囲むよう席を立つ無頼者共。

 殺さんばかりに睨みつける数多の視線を、白髪の剣士は泰然とした佇まいでそれを流していた。

 

「ここじゃ狭え。表に出な」

 

 タンバーがゆるりと立ち上がり、ウィリアムに向けそう言い放つ。

 

 突き刺さる殺気の中、その言を受けたウィリアムは……薄く、口角を釣り上げ“嗤って”いた。

 

 

 タンバーら獣人族の若者達はこの時気付くべきであった。

 

 笑うという行為は、本来攻撃的なものであり

 

 獣が牙を剥く行為が“原点”であるという事を──

 

 

 

 


 

 買い出しに出かけたアイシャは丁度市場へと到着した際、二人の獣人乙女と出会っていた。

 

「リニアさん、プルセナさん、おはようございます」

「お、ボスの妹ちゃんじゃニャいか」

「おはようなの」

 

 リニアーナ・デドルディア、プルセナ・アドルディアの二人の獣人乙女は、ルーデウスと同じラノア魔法大学生であり、大森林にて獣族を束ねるドルディア族の族長の一族である。

 しかし族長一族としての品格や知性が足りないと判断した現族長ギュスターヴにより、ラノア大学の特別生として放り込まれる。入学してからの二人は日々の勉学に……それなりに励んでいた。

 ちなみに以前ルーデウスの怒りを買った二人は手痛い“仕置き”を受け、以後ルーデウスの事を“ボス”と呼び頭を垂れつつ友人関係を築いていた。

 

「お二人は、何をしに市場へ?」

「素行の悪い獣人族の連中がいるからニャんとかしてくれって学校から依頼があったんニャ」

「ファックなの。クソめんどいの。速攻でシメにいくの」

 

 頭の後ろに両の手を組み、気だるげな物言いのリニア。その隣でもくもくと干し肉を食べているプルセナは、二人を知る者から見ればいつも通りの姿であった。

 獣族として高い実力を持つ二人は、こうして獣人族絡みのトラブルの解決を学校を通したギルドから時折依頼されていた。

 

 年相応に何事にも興味深々のアイシャは、二人がこれからゴロツキを相手に大立ち回りをする姿を想像し、目を輝かせながらリニア達に同行を申し出た。

 

「私もついていっていい?」

「あぶねーニャ。アイシャにニャにかあったらあちしらがボスに殺されるニャ」

「でも、私もそれなりに心得があるよ」

 

 アイシャはルーデウスやウィリアムと同じく、剣術や魔術の才気に溢れる少女であった。

 9才にして剣術は水神流の初級を習得。魔術の方は基礎六種を初級まで習得していた。

 

「うーん……まぁ、ゴロツキ共ぶちのめしに行くだけだからそこまで危なくニャいか」

「自己責任でいいならついてきてもいいの。でも危なくなったらすぐトンズラかますの」

 

 日頃から適当な考えを持つ獣人乙女達は、深く考えもせずアイシャの同行を許した。

 彼女らにとって所詮、ゴロツキを誅罰する事はその程度の事なのだ。

 

 とりとめの無い雑談を交わしつつ、3人は目的の酒場の前へと歩を進める。

 

 すると、にわかに人混みが出来ているのが見て取れた。

 

「ム。もしかしてもうおっ始めやがったかニャ」

「ファックなの。私達が来るまで大人しくしててやがれなの」

 

 騒然とする人混みに向け、駆け足で向かうリニアとプルセナ。

 それを慌ててアイシャは追いかける。

 

 

 そして、3人は凄惨な現場を目撃した。

 

 

「マジかニャ……」

半端()ないの……鬼半端()ないの……」

「うっ……」

 

 濃厚な“血の臭い”が辺りに漂う。

 人混みをかき分け、見える位置まで辿り着いたアイシャ達が目撃したのは、無惨な姿で地に倒れ伏す6人の獣人達であった。

 

 デンキ・アドルディア

 右顔面陥没による脳裂傷

 

 シモン・デドルディア

 鼻骨陥没による脳裂傷

 

 スィクル・デドルディア

 肋骨粉砕による両肺破裂

 

 レフティ・アドルディア

 顎部が咽頭に詰まり窒息死

 

 アーミ・デドルディア

 頚椎骨折

 

 リンプー・ミルデット

 顎部破損

 

 悠然と拳に刺さった獣人達の歯牙を抜く一人の白髪の剣士……ウィリアム・アダムス。

 アイシャ達はその後ろ姿しか見えなかったが、明らかにこの凄惨な状況は白髪の剣士が“素手”で成し遂げた事をひと目で理解した。

 

 

「シャリーアに竜……いや、虎が潜んでいやがるとは」

 

 一人残ったタンバーは己の背に抱えた一振りの戦斧を取り出す。

 多くの血を吸ってきたこの戦斧は、かつて水王級の剣士を一撃で葬り去った事もあり、タンバーの破壊力ある一撃が受け流し困難である事を証明していた。

 

 戦斧を構えるタンバーに対し、依然腰に差した刀を抜く気配が無いウィリアム。

 その左手は、右手に蓋をするかの如く(・・・・・・・・・・・)重ねられていた。

 血海の中対峙する二匹の獣の間は、獰猛な殺気が充満していた。

 

「あ! アイツ“凶獣王”じゃニャいか!」

 

 唐突にリニアが声を上げる。それを見たプルセナもまた、忌々しげに声を上げた。

 

「ファックなの。よく見たらアイツ“凶獣王”なの。ボスを呼んでぶち殺してもらうの」

「“凶獣王”?」

 

 声を上げるリニア達に、アイシャは疑問の声を上げる。

 

「里を追われたドルディア族の恥さらしニャ。どす汚れたクソ外道ニャ。あちしらも里を出る時に“凶獣王”見つけたら何が何でもぶっ殺せって言われてるニャ」

「ファックなの。ど許せぬなの」

「でもめちゃ強いニャ。正直あちしらでも勝てるか分からないニャ」

「ファックなの。だからボスにぶち殺してもらうの。当方に迎撃の準備有りなの」

 

 忌々しげに“凶獣王”を睨みつけながら嘯くリニアーナとプルセナ。しかしながらこの二人は自分達で戦う覚悟は全く完了していなかった。

 

「お兄ちゃんもうベガリット大陸に行っちゃったけど……」

「あ」

「あ」

 

 ルーデウスが既にシャリーアにいない事を完全に失念していた二人は固まる。そもそも先日別れの挨拶をしたばかりであった。

 

「ま、まぁあの白髪の小僧がなんとかしてくれる事を期待するニャ!」

「とびこむよりも、とどまるほうが勇気がいるなの。勇気を持って様子を見るなの」

 

 あくまで日和見を決め込む二人をみてやや呆れつつ、アイシャもまた凶獣王と白髪の剣士の立合いを見守る。

 白髪の剣士の後ろ姿に、なぜかアイシャの鼓動は高まりつつあった。

 何かが溢れそうで、何かが千切れそうな想いが、アイシャの中で大きく膨らんでいた。

 

 

 やがて、“凶獣王”が吠えた。

 

「ガアァァァァァッ!」

「ニャッ!?」

「ファッ!?」

「ッ!」

 

 “吠魔術”

 獣人族固有の魔術であるこの技は、特殊な声帯操作により周囲の人間を一時的な行動不能に陥れる獣の咆哮。

 その威は、離れた場所で見守るアイシャ達見物人にも容赦無く降りかかり、辺りは騒然とする。

 

 吠魔術により動きを止め、即座に戦斧による渾身の一撃を叩き込む。

 これこそが、タンバーの必勝の戦法であった。

 

 ウィリアムを両断すべく、タンバーは弾丸の如き速さで飛びかかる。

 

()った!)

 

 まともに吠魔術を浴び、動きを止めていたウィリアムに肉薄するタンバー。獣王が脳裏に浮かべるは、両断された白髪の剣士の躯の上に立つ自身の勝利の姿。

 

 しかし、タンバーはもう少し躊躇するべきであった。

 蓋をした神速の虎拳が、いかに数瞬動きを止めたとはいえ自身の戦斧より“速い”事に、気付くべきであった。

 

 もし奪わんと欲すれば、まずは与えるべし

 

 もし弱めんと欲すれば、まずは強めるべし

 

 もし縮めんと欲すれば、まずは伸ばすべし

 

 (しこう)して

 

 もし開かんと欲すれば

 

 

 まずは、蓋をすべし──

 

 

 戦斧がウィリアムの頭に触れる刹那、神速の“虎拳”がタンバーの下顎目掛け抜き放たれる。

 虎の一撃は、タンバーの下顎を骨ごと削ぎ落とした。

 

「ギィァッ!!」

 

 戦斧を落とし、顔面を押さえるタンバーにウィリアムは即座に追撃を加える。

 闘気を乗せた肘打ちに、タンバーの胸骨は破砕され、砕けた骨は心臓に突き刺さった。

 

 ゴポッと、大量の血を吐き、タンバーは絶命し果てた。

 

 

「野良犬相手に、表道具は用いぬ」

 

 ウィリアムが拳に力を込めると、突き刺さっていたタンバーの牙が生々しい音を立てて抜け落ちる。

 血海に沈むタンバーを、その色のない瞳で見下ろしていた。

 

 その様子を見ていた周囲の人間は、壮絶な殺され方をしたタンバーを見て失神する者もいた。

 

「も、漏れそうニャ……」

「リニア濡れ濡れなの……こっち来んななの……」

「ざ、ざけんニャ! プルセナこそびびって濡れてるニャ!」

「びびってねーし濡れてねーなの!」

 

 キャンキャンと罵り合いを始めたリニア達。

 アイシャは無惨に破壊された獣王の様子を見て、まるで自分は未だ眠りから覚めず、悪夢を見ているのだと恐怖で全身を硬直させていた。

 

 

「ひ、ひぃぃぃぃ」

 

 やがて覚醒したリンプーが、周囲の惨状を見て悲鳴を上げる。

 その様子を、穏やかな笑みを浮かべ見つめるウィリアム。

 リンプーは獣族の本能で漸く気付いたのだ。

 餌を前にした獣は決して唸り声を上げる事無く、穏やかな顔をすることを。

 

 やがてウィリアムはタンバーの死体の前にかがむと、その飛び出た眼球を千切り取った。

 それを己の口に放り込み、リンプーの目の前で咀嚼を始める。

 

 そして、空に向かい口中の眼球を血飛沫と共に噴霧した。

 

 リンプーは恐怖に慄き、失禁して咽び泣きながら気を失った。

 また、かろうじて気を保ちつつ獣王の惨状を見物していた周囲の者も、同様に恐怖に怯えていた。

 リニアとプルセナもまた、この異常な光景に口喧嘩を止め、ぽかんと口を空けながら呆然とその様子を見ていた。

 

 

「え……」

 

 そして、アイシャは見てしまった。

 

 血海の上に佇む、ウィリアムの顔を。

 

 

「待てッ!」

「往来での乱闘騒ぎは厳罰である! 神妙に縛につけぃ!」

 

 おっとり刀でかけつけた騎士団がウィリアムを囲む。

 ウィリアムは全く抵抗する素振りを見せず、大人しく騎士団に捕縛された。

 前世で“魔人”とも言われたウィリアムではあったが、今生においてもある程度の社会性は無視する事は出来なかったのか。

 

 気絶したリンプーと共に連行されるウィリアムの姿を、アイシャは胸に手を当てて見つめていた。

 

 

 

「ウィル兄ぃ、なの……?」

 

 

 

 

 

 

 人か魔か、ウィリアム・アダムス

 

 

 

 (けだもの)か、それ以下か

 

 

 

 

 

 

 鬼か、それ以上か──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十二景『幻惑剣死神演戯(げんわくけんしにがみえんぎ)

 

 魔法都市シャリーア郊外

 

 雪が溶け、春の足音が聞こえ始めたシャリーアでは人々の活気が郊外からも漏れ聞こえている。

 そこに、旅装を纏い騎乗した二名の剣士が残雪残るシャリーア郊外に立っていた。

 

 剣士の一人は体躯こそはしっかりしているものの、その佇まいは平凡な剣士としか見えない。

 年齢も40程に見え、そこだけを見れば巷によく見かける壮年の剣士であった。

 しかしその顔は頬骨が突き出ており、陰気な気配を漂わせている。

 眼帯を付けた右目、生気の無い落ち窪んだ左目……生きる屍の如き頬の陰。

 それは、一言で言い表わせば“骸骨のような顔をした男”であった。

 

 もう一人はフードを深く被り、その風体は窺い知る事は出来ない。

 僅かに見える深い皺は歴戦の剣士の風格を携えていた。

 とはいえ老人という程ではなく、年齢は50程に見えた。

 

「いやいや、漸く凶獣王を捉える事が出来ましたなぁ……」

 

 骸骨のような剣士が気だるげに呟く。さもこの世の全てを憂いているかのような、陰気な空気を吐き出していた。

 

「そうだな。しかし奴を生きたまま捕縛せよとは、中々難しい任務を申し付けられたものだな」

 

 応える壮年の剣士はその陰気な空気を中和するかの如く、春の陽気を感じさせる空気を放っていた。

 黄金の風ともいえる空気を纏う男と、それに対極するかの如く陰鬱な空気を纏うこの二人は、端から見たらひどく対極的な二人組であった。

 

「だからこそアナタに助力を願ったのですよ。私一人じゃ生かしたまま(・・・・・・)捕らえるなんて難しいですからねぇ……お祖父様(・・・・)

 

 壮年の剣士が、同じく壮年の剣士を“お祖父様”などとと呼ぶ。

 他者が聞けばこの二人の会話は奇妙なものであった。

 しかし見た目は同じ壮年ではあったが、この二人は間違いなく“祖父と孫”の関係にあった。

 

「お前の風体で“お祖父様”なんて呼ばれると、何だか色々と複雑な気持ちになるな」

「“可愛い孫の為に一肌脱ぐ優しいお祖父様”とでも言い直しましょうか?」

「やめてくれ。私が悪かった」

 

 そう言いつつフードを脱ぐ壮年の剣士。

 この世界では珍しい黒髪を生やしていた壮年の剣士は、骸骨の剣士を呆れながら見つめた。

 

「そういう妙な所で私をからかうのは、シャイナにそっくりだ」

「おや、お祖母様は意外とお茶目な性格をしていたのですねぇ」

「お茶目というか強かというか。もう300年も前の事だし、私も若かったからな。弄り甲斐があったのだろうよ」

 

 ゆっくりと馬を歩かせながら語らう黒髪の剣士。

 その様子は、見た目からは想像出来ぬ程の“長い時”を生きてきたのだと伺わせていた。

 

「まぁ今回の件は王竜王に比べたら大した事はないと思いますがねぇ」

「だといいがな」

「腐ってもこの七大列強5位と、()7位に勝てる者などそういないでしょう」

 

 骸骨の剣士の言葉は、歴戦の強者としての自身が僅かに感じられた。

 事実、この男の言う通り“七大列強”とはこの世界で最強の称号として知られていた。

 その列強5位を自称する骸骨の男に、黒髪の壮年は胡乱げな視線を送る。

 

「お前はどうかわからんが、私はまだ腐ったつもりはないのだがな」

「おやおや、不死魔族でも腐ったりするのでしょうかねぇ。クフフフ」

「……もう帰っていいか?」

「ああ、すみませんねぇ。お祖父様との二人旅で存外にはしゃいでいるのですよ、これでも」

 

 骸骨の剣士はイヒヒ、と不気味な笑みを浮かべる。

 それを見た黒髪の剣士はこの旅で何度吐いたか分からない溜息を吐き出した。

 構わず骸骨の剣士は言葉を続ける。

 

「まぁ、私はパックス様とベネディクト様に新作料理を振る舞わねばなりませんからね。サッと行ってパッと終わらせましょう」

「気楽に言うなお前は……」

「いやいや。あの“大英雄”アレックス・カールマン・ライバックとならどんな難敵も容易く打ち払えるでしょう。凶獣王如き何するものぞ、ですよ」

 

 骸骨の剣士が放ったアレックス・カールマン・ライバックという名は、この世界で知らぬものはおらぬ程の英雄の名である。

 嘗て王竜山に住まう王竜王を討伐し、その骨を名匠ユリアン・ハリスコに託し48本の魔剣を拵えさせた、三大流派“北神流”の二代目当主の名。

 数多の英雄譚にて語られるその勇名は、ラプラス戦役において“魔神殺しの三英雄”として名を馳せた初代北神に勝るとも劣らない程であった。

 

「私はもう名を変えている」

「ああ、そうでしたねぇ。シャンデリアでしたっけ?」

「シャンドルだ。シャンドル・フォン・グランドール。何回言わせるのだ」

「すみませんねぇ。歳を取ると物覚えが悪くなって」

「私から見ればお前はまだまだ若造だ」

「お祖父様から見れば殆どの人間が若造になるでしょうに」

 

 会話をしている内にシャリーア門外へと辿り着いた二人。

 シャンドルと自称した黒髪の元英雄は、街内から僅かに漏れる“虎の如き獣臭”を感じ取り、緩めていた気を引き締めた。

 

「用心せいよ、ランドルフ」

 

 シャンドルは傍らに立つ骸骨の剣士に声をかける。

 ランドルフと呼ばれた骸骨の剣士は、ニヤニヤとした薄気味悪い笑みを浮かべたままそれに応えた。

 

「いやいや、最大限に用心していますよ私は。もう先程から緊張しっぱなしで」

 

 先程とは真逆の事を嘯く骸骨──否、“死神”ランドルフ・マリーアン。

 七大列強5位にして“北神二世”アレックス・カールマン・ライバックと“死神騎士”シャイナ・マリーアンの実孫。

 北神流は帝級、水神流では王級の腕前を持ち、独自の剣法を駆使する列強の一人。

 この死神は所属する王竜王国の王命により、王国内で暴虐の限りを尽くした“凶獣王”を断頭台の前へと立たせるべく、このシャリーアの地へと赴いていたのだ。

 

 ランドルフのそれまでの陰気な空気が一変し、濃厚な殺気を放出するのを感じたシャンドルはまたも溜息を一つ吐いた。

 

「お前は実の祖父にまで“幻惑剣”を使うつもりか」

「フフフ……油断しつつ、用心しつつ……これこそが“幻惑剣”の妙髄ですから」

 

 “幻惑剣”

 

 これこそが“死神”の代名詞であると、剣に生きる者達は言うだろう。

 三大流派のどれにも属さない独自の剣法であるその幻惑なる剣技は、列強5位に挑戦し続けた数多の剣士を屠ってきた正しく死神の技であった。

 

「ま、私の手の内を知り尽くしているお祖父様に、仮に“幻惑剣”を使ったとしても物の役にも立たないとは思いますがね」

 

 そう言った途端にランドルフが纏わせた殺気は霧散する。

 先程までと同様に陰気な空気をその身に纏わせていた。

 

「……前言を撤回するよ。お前はシャイナに似ていない」

「ひどいですねぇ。クフフフフ」

 

 

 “死神”と“大英雄”

 

 

 相反する性質を持つ祖父と孫は、標的が潜む魔都の門をくぐった。

 

 

 

 獣王の代わりに、剣鬼と称された虎が待つ魔都の門を。

 

 

 

 


 

 

 魔法大都市の治安を預かる三国騎士団は都市の各所に屯所を配し、都市の治安に目を光らせていた。

 市場にて不逞の獣人達と大立回りを演じたウィリアム・アダムスは、遅れて参じてきた騎士団に捕縛され市場に近い屯所へと連行されていた。

 

 一切抵抗する素振りを見せず大人しく連行されたウィリアムは一通りの取り調べを受けた後、夕暮れ時には釈放された。

 自身のウィリアム・アダムスという名、市場にて狼藉を働く無頼者を成敗した事を簡潔に述べただけであるが、同時に捕縛された不逞の輩の一人であるリンプー・ミルデットが覚醒し、役人に対し洗いざらいの顛末を吐き出した事で、ウィリアムをこれ以上屯所に留めておく必要がなかったのである。

 冒険者登録をしておらず、何ら身分を証明する物を持っていなかったウィリアムに対し異例の措置ではあったが、取り調べを行った街の役人がウィリアムの剣気に当てられ、恐怖心からそれ以上の取り調べを行えなかったという事もあった。

 

 夕暮れ時のシャリーアは日中の活気から打って変わり、人気が感じられない静謐な様相を見せていた。

 その中、一人屯所から歩み出すウィリアム・アダムス。

 力強く歩を進めるウィリアムの瞳は、未だ見ぬ強者への渇望が燃えていた。

 

 この街に来たウィリアムの目的はヒトガミによるお告げというのもあったが、シャリーアに逗留している“不死魔王”バーディガーディに挑戦する為でもあった。

 

 剣の聖地にて不覚を取ったウィリアムは剣神に報復せんが為、己の業を更に磨くべく行動していた。

 と同時に、この異界ではなんら偉業を達成していない己の剣名が全く知られていない事も理解していた。

 

 虎眼流に“箔”をつけ、それを提げて再び剣の聖地へと赴く。

 

 有象無象の輩に相対するよりかは、名の知れた剣士として剣神流は己を扱うだろう。故に、あのような無礼な(・・・)不意打ちは行わないはずだ。

 正々堂々と、五分の勝負が出来る。まずは同じ土俵に剣神を引きずりこまなければならない。

 その第一歩として、まずは魔王をその魔剣の餌食にするのだ。

 強者と戦い、勝利し、更に虎眼流の剣名を轟かせた後に剣の聖地へと再び赴くのだ。

 この異界の地では“魔王”を討伐した者は“勇者”としてその名を轟かせる事になるという。

 ならば、“不死魔王”を討ち果たせば虎眼流は三大流派に勝るとも劣らない程の名声を得る事が出来るだろう。

 

 そのような思惑からシャリーアの門をくぐったウィリアム。

 もはやヒトガミによるお告げや、生き別れた“家族”がこの地にいるという事実は、虎の頭の中に存在しなかった。

 

 もっとも当代剣神は歴代きっての現実主義者であり、ウィリアムが考えているような“権威”は全く通用しない男ではあったのだが。

 

 

 

 

「あ、あの……!」

 

 朱を含んだ紫陽花色の夕空の下、歩を進めるウィリアムに声をかける朱い髪の少女が一人。

 ウィリアムが屯所から出てくるのをずっと待っていたのだろうか、その手にはやや活きが悪くなった野菜が入った籠が握られていた。

 

 おずおずとウィリアムに近づく少女。その朱い髪の芳香は、ウィリアムが嘗て嗅いだ甘く、温かな香りを放っていた。

 そしてその顔は、己が安らぎを感じていた家族を思わせる顔立ちであった。

 

(アイシャ……)

 

 虎の恐るべき瞳は少女の美しい内臓までを見透かし、その正体を一目で看破した。

 紛うこと無くこの少女は自身の妹……アイシャ・グレイラット。

 アイシャを見た瞬間から、ウィリアムの心の貝殻がざわざわと波を立てていた。

 

「何用か」

 

 ざわめく心を抑え、冷然たる態度で応えるウィリアム。

 アイシャは予想もしなかった冷たい声色に怯えるも、健気に言葉を続けた。

 

「お、お名前を伺いたくて」

 

 私はいきなり何を言っているんだろうと、アイシャは思う。

 

 獣人共を素手にて血海に沈めた白髪の剣士の顔を見たアイシャは、その精悍な顔つきに自身の父、そしてもう一人の兄の面影を重ねていた。

 記憶に残る兄の髪は、おとぎ話に出てくる王子様のような美しい金髪だった。

 しかしこの剣士は白髪であり、顔が似ているというだけだったのかと、アイシャは早々に見切りをつけていたのかもしれない。

 記憶に残るあの優しい“ウィル兄ぃ”が、あのような修羅の如き様相を見せる事など、アイシャには考えられなかったのだ。

 

 しかし、その右手が常より多い六本の指(・・・・・・・・・)をしていた事に気付いた時、アイシャはリニアとプルセナを置いてウィリアムを連行した騎士団の屯所に向かっていた。

 そして日が沈みかけるこの時まで、ウィリアムを待ち続けていたのだ。

 最初は確認の為に待ち続けていた。

 よく似た他人なのだろうか。それとも、あの大好きなウィル兄ぃなのか。

 しかし、六本の指を持つ人などそういるものなのだろうか。

 

 待ち続けている間にアイシャの中で白髪の剣士がウィリアム・グレイラットなのだと断じてしまった事は、少女の家族と再会したい“願い”を考えれば仕方の無い事なのかもしれない。

 

 会った時になんて言おう。

 待ち続ける間、アイシャはどう声をかければいいかずっと悩んでいた。

 普段は聡明な知性を持つアイシャであったが、この時ばかりは年相応の少女らしく、思い悩んでいた。

 

 ずっと会いたかったよ、ウィル兄ぃ!

 

 見て、私こんなに大きくなったんだよ!

 

 がんばって、立派なグレイラットのメイドになったんだよ!

 

 ルーデウスお兄ちゃんにも、シルフィ姉にも褒めてもらったんだ!

 

 だから、ウィル兄ぃも、昔みたいにまた私の頭を撫でてほしいな!

 

 そのような事を思い、言葉を紡ごうとしたアイシャ。

 しかし記憶に残る大好きな兄とはかけ離れた冷たい声色に、それまでに思い描いていた再会の言葉が全て吹き飛んでしまった。

 

「ウィリアム・アダムス(・・・・)

 

 アイシャの問いかけに、冷然とそう言い放つウィリアム。

 アイシャはアダムスという姓を聞き困惑の表情を浮かべた。

 ウィリアムという名前は同じ。しかし、アダムスという姓は一体……。

 

 困惑するアイシャに構わず、ウィリアムは再び歩を進めようとした。

 

「あ、待って! 待ってください!」

 

 再び歩みを止めたウィリアムは、変わらず冷たい眼差しでアイシャを見る。

 アイシャは数年前、シーローン王国にてルーデウスと再会した際に、何故だかルーデウスが正体を隠していた事を思い出していた。

 もしやグレイラットの兄弟は生き別れた姉妹と会う際は、自身の正体を隠すのが決まりごとなのだろうか。

 そのような見当違いの考えが、一瞬アイシャの中を過ぎる。

 しかしルーデウスは初めて会ったのにも拘らず、アイシャを妹として見てくれた。

 兄として、妹を助ける為にその身を挺して力を尽くしてくれた。

 名を隠していても、兄妹の情は隠しきれていなかった。

 

 では目の前にいるウィリアムの名を語るこの白髪の剣士は、どのようなつもりでアイシャに対し冷たく当たるのだろうか。

 いや、冷たいというより一切の興味がないというのか。

 

 嘗て自身の母親と同じ扱い(・・・・)を受けていた事を知らぬアイシャは、記憶に残る優しい兄の幻影を追い求めていた。

 

 ここで別れたら、もう二度と会えないかもしれない──

 そんな予感に囚われたアイシャは、必死になって言葉を紡いだ。

 

「私は、アイシャ! アイシャ・グレイラット──」

 

 

 そう言った次の瞬間、ウィリアムの刀がアイシャの喉元に突きつけられていた。

 

 

「えっ──」

 

「くどい」

 

 情が一切感じられぬその一言。

 突きつけられたのは剣だけでなく、親愛の情を否定する“拒絶”

 

 アイシャは自身の大事な感情が音を立てて崩れ去っていくのを感じていた。

 もうあの優しいウィル兄ぃはどこにもいないのだろうか。

 

 剣を突きつけられた事が、悲しくて、辛くて、怖くて……アイシャはその可憐な両目から、涙をポロポロと零した。

 涙を流す度に、少女の瞳の光は消えていった。

 

 涙を流す“妹”を見て、ウィリアムは心の奥底の貝殻がちくりと痛むのを感じた。

 しかし6年前、前世での娘“三重”の事を想い、その反省から家族と穏やかな触れ合いを心がけた虎は、この涙を見ても刀を収めようとはしなかった。

 

 “異界天下無双”に至るまで、家族の情などいらぬなり──

 

 転移してからの6年間で、虎はその苛烈な価値観を再び魂の貝殻に刻みつけていた。

 

 ふと、ウィリアムの瞳の奥に前世での忠弟の姿が浮かぶ。

 その忠弟の表情は、アイシャと同じように静かに涙を流し、哀しみの表情を浮かべていた。

 

 “牛”が何故哀しんでいるのか。虎には理解出来(わから)なかった。

 

 

「ッ!」

 

 突然、ウィリアムの拳を目掛けナイフが飛ぶ。

 寸前で手を引き、それを躱したウィリアムはナイフが投げられた方向に目を向けた。

 

 次の瞬間、自身に猛然と斬りかかる“骸骨”の姿があった。

 

「何奴ッ!」

 

 迎撃すべく神速の抜き打ちを放つウィリアム。

 虎眼流の“掴み”から放たれた抜き打ちは、正しく雲耀の速度をもって骸骨を首を切断した。

 しかし確かに切断したと思われた骸骨の首は、甲高い金属音と共に両断された一本のショートソードへと変わった。

 足元に転がるショートソードの残骸を、ウィリアムは苦々しげに見つめる。

 

「“(くら)まし”……だと……!」

 

 一流の剣士の執念が吹き込まれたであろう得物は、虎の目をも欺いたのだ。

 それは、嘗ての虎眼流の──

 

 

「いたいけな少女を泣かすとは、これはいただけませんねぇ」

 

 一体いつからそこにいたのか。

 出現したのか、始めからそこにいたのか。

 眼帯を付けた骸骨が、そこにいた。

 見れば、同じくいつのまにかアイシャを抱きかかえ、ウィリアムから距離を取る剣士の姿もあった。

 

「もう心配いらぬぞ」

「……」

「可哀想に、余程怖い目にあったのだな」

 

 努めて穏やかにアイシャに語りかけるのは黄金の風を纏う黒髪の剣士。

 アイシャは突然の出来事に加え、先程感じた強い喪失感からやや自失状態に陥っていた。

 

(これは夢なのかな……そうだよね……ウィル兄ぃがあんなひどいことするわけないもんね……)

 

 ウィリアムと骸骨が対峙する様子は、アイシャにとってひどく現実感が無い光景であった。

 

 

「変わった剣の握りですねぇ……三大流派じゃなく、独自の流派ですか」

 

 骸骨がニタニタと不気味な笑みを浮かべる。

 ウィリアムは突然現れ攻撃を仕掛けて来たこの乱入者を、七丁念仏を構えたまま射抜くような視線を送った。

 骸骨の剣士は泰然とその視線を流しつつ名乗りを上げる。

 

「私は“死神”……“死神”ランドルフ・マリーアン。以後お見知りおきを」

 

 “死神”──!

 その名を聞いた瞬間、ウィリアムの瞳は爛として輝いた。

 

「七大列強“死神”か」

「はい。列強5位の“死神”とは私の事です」

 

 ウィリアムはこの望外な出来事に、思わず神仏に感謝をした。

 京の都にて吉岡一門を討ち果たし、その剣名を天下に轟かせた宮本武蔵。

 薩摩御留流である体捨流の使い手、東新九郎に打ち勝ち、その武名を九州一円に広げた東郷重位。

 同じ14歳で三島神社にて富田一放と試合して勝ち、その最強の伝説が始まった伊東一刀斎──

 

 嘗て自身が生きた戦国の世で名を馳せた剣豪達も、強者に挑戦し、それに打ち勝って名声を勝ち得ていたのだ。

 それは、濃尾無双と謳われた己も同じ。

 魔王も強者の証を立てるには良い相手。だが、七大列強5位の名は“勇者”の称号より価値があった。

 

 思いも掛けない好機に、ウィリアムは全身の毛を逆立て、闘気を溢れんばかりに放出する。

 さながら、獲物を前にした飢えた虎の如く。

 

「虎眼流、ウィリアム・アダムス……一手御指南仕りたく候」

 

 もはや、ウィリアムの頭の中にアイシャの存在は無かった。

 己が剣名を上げるまたとない好機である。

 妾腹(・・)の妹など、構っている場合ではないのだ。

 

 ゆるりと、ウィリアムは七丁念仏を“担いだ”

 

「ランドルフ、加勢するぞ」

 

 黒髪の剣士、シャンドルが背負っていた棍を構えた。

 この世界では珍しい棍術を駆使するシャンドルの業前は、息子(当代北神)に譲ったかの“王竜剣”が無くとも一流。

 元列強7位の肩書は伊達では無かった。

 

「お祖父様はその娘を見ててください。この狂虎は私が成敗いたしましょう」

「しかし──」

 

 

 そうシャンドルが言いかけた刹那、ウィリアムの“流れ”が放たれた。

 

 

 


 

 時は少しばかり遡り、アイシャが市場でリニア達と別れた時。

 白髪の剣士、ウィリアムを見たアイシャは意を決したかのような表情を浮かべ、リニア達に家族への伝言を頼んでいた。

 

『リニアさん、プルセナさん。私はあの人に会いに騎士団の屯所へ行きます。シルフィ姉と、ノルン姉に伝えてください』

『“ウィル兄ぃが見つかったかもしれない”って!』

 

 そう言い残し屯所へと駆けるアイシャの後ろ姿を呆然と見送るリニアとプルセナ。

 血海に沈む獣人達の無惨な骸を見た後では、この二人が再起動するのにやや時がかかったのは仕方のなき事。

 しばしの間、アイシャの姿が見えなくなるまで獣人乙女達は佇んでいたが、やがてとぼとぼと歩き出した。

 

「とりあえずボスんちに行くかニャ」

「なんだか知らんが、とにかくよしなの」

 

 何はともあれ、一族の宿敵である“凶獣王”は死んだのだ。

 全く何もしていなかったので何ら達成感も感じていなかった二人ではあったが。

 

「しかしあの白髪の小僧とアイシャは知り合いなのかニャ? えらい慌てて行っちゃったけど」

「わかんないなの。でもちょっとボスに似てたかもなの」

「えー、ボスに似てたかニャ?」

「リニアはくそびびりまくってたから気付かなかったなの。リニアのパンツはきっと濡れ濡れなの」

「だから濡れてねーし! つーかプルセナもびびってたニャ!」

「あ」

「なんニャ?」

「私のパンツも濡れ濡れなの……履き替えたいの……」

「はやく言えニャ!」

 

 無駄口を叩きつつ歩く獣人乙女達。端から見れば漫才にしか見えなかったが、これが彼女達の平常運転である。

 

 

 しばらく歩いた後、二人は同じくルーデウス邸へと向かう一人の黒髪の少女を見つけた。

 少女は仮面を付けておりその顔は見えない。

 しかしラノア魔法大学に在籍する獣人乙女達にとって、それはよく見知った()であった。

 

「お、ナナホシじゃニャいか」

「こんにちはなの。パンツよこせなの」

「……いきなり何言ってんのよ」

 

 ナナホシ・シズカ。

 サイレント・セブンスターという名も持つこの少女は、リニア、プルセナと同じ魔法大学の生徒であり、一部の人間の前以外では常に白い能面のような仮面を着けている。

 

 その正体は、ルーデウス・グレイラットと同じく平成日本からの迷い人。

 

 数奇な運命によって“フィットア領転移事件”を機に六面世界へと転移したナナホシの正体は、ルーデウスと“龍神”オルステッド以外は知る者はいなかった。

 ナナホシはルーデウスとは違い転生ではなく転移した人間であった。

 転移直後に出会った龍神の助けがあったとはいえ、“普通の”女子高生でしかなかったナナホシがこの何もかもが違う異世界で生きていくには、素性を隠し、他者との関わりを極力断たねばならぬ程過酷な物であったのは想像に難くないであろう。

 

 そんなナナホシであったが、ルーデウスが結婚し家を構えてからは度々ルーデウス邸へと訪れていた。

 その理由はルーデウス邸に設けられた日本式の風呂。

 平成日本への郷愁からか、同じ日本人であったルーデウスが拵えたこの風呂をナナホシは随分と気に入り、こうして風呂に浸かる為だけにルーデウス邸へと訪れる事があった。

 

「ナナホシもボスんちに行くのかニャ? あちしらも丁度ボスんちに行くところニャ」

「パンツをゲットするなの。ついでにアイシャの伝言を伝えるなの」

「だから何でパンツが必要なのよ……」

「いやーそれがニャー」

 

 リニアは先程の白髪の剣士の大立回りを饒舌に語り始める。

 素手にて屈強な獣人共を撲殺し、あげく目玉を食した件を聞いてナナホシは眉を顰める。

 もっとも『ずぶぶっ』だの『ぬふぅ!』等、難解な擬音を多用していた為いまいちナナホシには伝わっていなかったが。

 

「喰われる感半端ニャかったニャ」

「あんなの見たら天国でアッハーンなの」

 

 とにかく獣人乙女達が言うには凄惨な状況だったのだろう。

 それ故に恐怖で股間を濡らしたのでパンツが必要なのだろう。

 

 そう理解したナナホシは、後半は適当に相槌を打ちながら聞き流していたが……やがて、包みを抱えた一人の商人風の男がこちらへ近づいてくるのが見て取れた。

 

「あの、そこなお嬢さん方」

 

 包みを大事そうに抱えた商人が声をかける。

 獣人乙女と仮面の少女は、いきなり話しかけてきたこの商人の男を怪訝な表情で見やった。

 

「なんニャァ? てめェ……」

「ファックなの。ナンパならお断りなの。半死するか全死するか選べなの」

「な、ナンパじゃないですよぉ……」

 

 知らない人間には辛辣な言葉を投げる獣人乙女達。

 ナナホシに至ってはこの商人を無視して、ルーデウス邸へと歩き出した。

 ひでぇなこのガキ共……と、内心不満を感じていた商人であったが、努めてその不満を表情に出さずに腰を低くして言葉を続けた。

 

「あのぉ、この辺に白髪の若い剣士を見なかったですかね? 変わった剣を差してて目つきが鋭くて……」

「おもっくそ見たニャ」

「忘れようにも忘れらんねーなの」

 

 商人が語る白髪の剣士の風貌に、獣人乙女達は即座に応える。

 商人はそれを見て安堵の表情を浮かべた。

 

「ああ! その人です! よかったぁ……やっと見つかったよ。若先生ったら『シャリーアにいる』としか言ってくれなかったもんなぁ」

 

 で、今どこにいるんです?、と問う商人にリニアが騎士団の屯所の場所を伝える。

 プルセナは先程から大事そうに抱えている商人の包みを興味深そうに見つめていた。

 

「教えたんだから何でそんな事聞いてきたのか聞かせるなの。ついでにその包みの中身も教えるなの。パンツだったらよこせなの」

「パンツじゃないですよ……これをお渡しする為に、態々ネリスから追いかけて来たんですよ」

 

 商人は包みから一着の“羽織”を取り出し、獣人乙女達の前に広げた。

 新品の羽織の背には、とある文言が刻まれていた。

 

「お、なんニャこれ?」

「変わった服なの。おポンチな模様なの」

「ちょ、ちょっと。これ人に渡すもんなんですけど……」

 

 商人が広げる“羽織”をクンクンと嗅ぐリニア。ペタペタと触るプルセナ。

 その二人を苦笑いを浮かべて対応する商人。

 何気なく振り返ったナナホシは、その様子を呆れた顔で見た後、再び歩き出そうとした。

 

「ッ!?」

 

 しかし“羽織”に描かれてある文言を見た瞬間、ナナホシの体は電流が流れたかの如くその場で立ち竦んでしまう。

 

 “羽織”に描かれていた文言──

 それは、ナナホシが良く知る……否、ナナホシの魂に刻まれた言語にて描かれていた。

 

「あなたッ! それは!」

 

 勢い良く商人に詰めかけるナナホシ。

 先程とは打って変わったナナホシの様子を、リニアとプルセナは目を丸くして見ていた。

 

「え、いや、これは」

 

 しどろもどろに応える商人。

 その様子を見たナナホシは少しばかり逡巡していたが、やがて意を決するとこの世界では未知の言語で問いかけた。

 

『篠原秋人、黒木誠司。この名前に聞き覚えは?』

 

「え……?」

 

 日本語(・・・)にて問いかけられた商人は何を言われたのか全く理解していない様子であった。

 それを見たナナホシは仮面の下に困惑の表情を浮かべる。

 

(どういう事……転生じゃない……? でも、これって……)

 

 訝しげに“羽織”を見つめたまま思考するナナホシ。

 一連のこの行動に、リニアとプルセナは可哀想な物を見る目つきで商人を見やった。

 

「オイオイオイ。さっきのは何かの呪いの詠唱ニャ」

「死ぬわアイツなの。やっぱ半端ねぇなサイレント・セブンスターなの」

「えぇ!? の、呪い死にとか勘弁してくださいよぉ!」

「あきらめろニャ。全死しても骨は拾ってやるニャ」

「鞄に入れておくなの。英霊となって末永く暮らすなの」

「鞄!? 英霊!?」

 

 慌てふためく商人にやや憐憫の眼差しを向ける獣人乙女達。

 ナナホシはその様子を見て、商人が本当に“日本語”を解していないことを悟った。

 

(隠しているわけじゃない……つまり)

 

 商人はこの“羽織”を誰かに届けるつもりなのだと言った。

 ということは、この“羽織”を拵えた人間が文言について何かを知っているという事なのだろう。

 あるいは、この“羽織り”を頼んだ人間なのか。

 

「別に呪いじゃないわよ……あれはただの確認。それより、その文様は誰が描いたの?」

 

 ナナホシは尚も狼狽する商人にこの世界で使われている人間語にて話しかける。

 商人はナナホシの“日本語”が何らかの呪いではないと知り、再び安堵の表情を浮かべた。

 

「ええっと、これ描いたのはネリスにいる裁縫職人なんですけど、これ自体は若先生に言われて描いたんでさぁ」

「若先生?」

「これをお渡しする人ですよ。ウィリアム・アダムスって人なんですけどね」

 

 聞けば、商人はアスラ王国からネリス王国へと向かう途中、ウィリアム・アダムスという剣士に護衛を依頼していた。

 道中ウィリアムともう一人の護衛以外は壊滅したらしいが、無事ネリスへと辿り着けた為、この商人は存外に感謝の念を抱いていたのだという。

 報酬以外に出来る事があるかと問うと、ウィリアムはやたらと細かくデザインを指定した“羽織”を拵えるよう依頼した。

 急ぎシャリーアへと届けるように伝え、さっさとネリスを立ったウィリアムに、腕の良い裁縫職人と繋がりがあったとはいえ短い期間で一から“羽織”を拵えた商人の努力は推して知るべしであろう。

 

 ナナホシは商人の話を聞きながら、ウィリアム・アダムスという名前を反芻していた。

 この世界ではさして珍しくもない名前かもしれない。

 しかし、平成日本でとあるアプリゲームにハマっていたナナホシは、所謂“歴女”といっても差し支えない程、日本史……特に、戦国時代の日本史、そして刀剣類を良く知っていた。

 

 そしてこの“羽織”に描かれた文言が、明らかに自身が知る“日本語”にて描かれていた事で、ある歴史上の人物を思い浮かべていた。

 

(ウィリアム・アダムス……三浦按針……まさかね)

 

 偶然にしては気にかかる事が多すぎる。

 ナナホシはやがて商人の方に、その仮面を向けた。

 

「私も一緒に行く」

 

 商人に同行し、“羽織”の依頼主を確かめなくてはならない。

 ナナホシは決意の表情を、その白面の仮面の下に浮かべていた。

 

 

 

 “異界天下無双”

 

 

 

 “羽織”にはサイレント・セブンスター……七星静香の魂を震わせる“言霊”が刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十三景『若虎開腸鬼哭秘剣(わかとらかいちょうきこくひけん)

 

 古来より剣豪の歴史を語る上で、“至高の一戦”とはどの戦いの事であるか、という論争がしばしば行われている。

 

 舟島(巌流島)における宮本武蔵、佐々木小次郎の決闘か。

 あるいは、歌舞伎の題材にもなった“鍵屋の辻の決闘”の河合又五郎一派に対する渡辺数馬、荒木又右衛門の仇討ち仕合か。

 仇討ち仕合なら、討人仇人両人が生き残った掛川における藤木源之助、伊良子清玄の戦いこそが至高の一戦と見る者もいる。

 いやいや、幕末の維新志士の多くを屠った“新撰組”隊士達の闘争こそが至高、という意見もある。

 

 数多の剣談に登場する剣士達の戦いで、至高の一戦を決めるというのは現代になっても難題である事は確かであろう。

 

 

 では異世界──六面世界“人の世界”においての至高の一戦とは、一体どの戦いになるのか。

 

 “北神二世”アレックス・カールマン・ライバックによる王竜王討伐か。

 ラプラス戦役において“魔神”ラプラスと対峙した“七英雄”の戦いか。

 第二次人魔大戦における“黄金騎士”アルデバランと“魔界大帝”との一騎打ちか。

 いや、第一次人魔大戦まで遡り“勇者”アルスの物語における数多の戦いを推す者もいるかもしれない。

 

 吟遊詩人や演劇によって語られる英雄達の戦いは、事実とは異なって(・・・・・・・・)人々に伝わる事も多々あった。だが伝承される英雄譚というのは、偽りはあれ華やかな一面があるからこそ多くの人々の心に残る物なのだろう。

 

 それ故に、英雄達の華やかな戦いの陰に隠れた“究極の一戦”というのも数多く存在した。

 

 

 甲龍歴423年

 魔法都市シャリーアにて人知れず行われた“死神”ランドルフ・マリーアンと若き虎、ウィリアム・アダムスの一戦。

 これもまた、上記の様な歴史の影に隠れた究極の──否、“秘剣の応酬”であった。

 

 

 

 

 

 

「しかし──」

 

 シャンドルがそう言いかけた刹那、ウィリアムの“流れ”が放たれた。

 

 虎眼流必勝形ともいえる“流れ”

 その神速にして最小の斬撃は、死神の頭部目掛けて一直線に放たれる。

 

「ッ!」

 

 しかし死神の恐るべき身体能力は、地を這うように身体を折り曲げる事でその神速の斬撃を躱した。

 

 振り切った“流れ”の握りは、二の太刀を生み出せない──

 

 無防備となったウィリアムの姿を見て“死神”がこの好機を逃すはずもなく。

 即座に無防備な虎に斬撃を見舞うべく距離を詰める。

 

「っと──」

 

 しかし“死神”は寸前で立ち止まり、即座にウィリアムから距離を取った。

 

「危ない危ない、ですねぇ」

 

 後方へと引いた“死神”を見てウィリアムはギリっと歯を軋ませる。

 その左手にはいつの間にか拾ったのか、先程投擲されたナイフが握られていた。

 

(距離を詰めていれば隠し持っていたナイフで抉られていたか……)

 

 シャンドルは虎の狡猾な牙から寸前に逃れた“孫”を見て安堵する。

 と同時に、この少年ともいえる風貌のウィリアムが持つ技量に舌を巻いていた。

 

(あの斬撃は明らかに射程が伸びてましたねぇ……一体誰に教わったのやら)

 

 “死神”ランドルフ・マリーアンもまたウィリアムの業前に感心をしていた。

 この世界で三大流派以外で名の知れた剣士は、恐らく自分以外は殆どいないであろう。

 しかしウィリアムの一手を見て、これほどの技量を持つ“流派”が人知れず存在していた事に驚くとともに、その若き才能にもまた感心をしていた。

 

 対峙するウィリアムを“死神”は改めてその窪んだ眼窩で見つめる。

 

(若いですねぇ。出来れば斬らずに済ましたい所ですが……)

 

 “死神”は少年ともいえるウィリアムの年齢を見透かしつつ、そう思考する。

 虎眼流を前にして斬られる事より斬る事を恐れてしまうのは、いかに七大列強5位とはいえこの世界では“死神”ランドルフ・マリーアンのみであろう。

 もっともウィリアムの前世に於いて同様に虎眼流の使い手に対し、斬ることを恐れた“戸田流印可”月岡雪乃介の“峰打ち不殺剣”のような活人剣は、この死神は持ち合わせていなかった。

 

(ランドルフ、手心を加えられるような相手ではないぞ!)

 

 虎の恐るべき技量をひと目で看破したシャンドルは“死神”に警戒を促すよう視線を送る。

 それを受けた“死神”は相変わらずニタニタとした表情を浮かべていた。

 

「……」

 

 “死神”が泰然と構える様子を見て、ウィリアムはナイフを放り捨て七丁念仏に親指を押し当てた。そのまま、血に染まった親指で自身の唇をなぞる。

 紅を差した唇は、文字通り血の如く赤き熱を纏っていた。

 これは、取られた首が見苦しくならぬよう薄化粧を施す“武士の作法”

 

 死して尚も桜色──

 

 強敵と対峙するウィリアムの不退転の覚悟が窺えた。

 “剣神”と対峙した時は、ヒトガミめの余計なお告げの所為でその覚悟を持つ事が出来なかった。

 故に、あのようなつまらない不覚を取ったのだ。

 

 此度は違う。

 これはヒトガミのお告げにも無い事であり、“剣の聖地”の時とは違い強者に対し決死の覚悟を持って臨んでいるのだ。

 決死の覚悟で必死を回避し、確かな勝利を掴むのだ。

 

 “剣神”と“人神”に対する怨み、そして“死神”に対する覚悟からウィリアムはみしり、と歯を軋ませた。

 

 当然ながら異世界ではこの作法を知る者はいない。

 しかしながらウィリアムの異様ともいえるこの行動に何かしらの執念を感じ取った“死神”はニタニタとした表情を消し、口を真一文字に引き締めた。

 

「少女に狼藉を働く不逞者を懲らしめるだけと思っていましたが、これは予想外な展開ですねぇ……」

 

 “死神”はちらりとシャンドルの傍に佇むアイシャを見やる。

 アイシャの表情からは生気が消え失せており、その光の無い瞳は只々ウィリアムを見つめ続けていた。

 吐息を一つ吐いた“死神”は、その窪んだ眼窩を再びウィリアムへ向ける。

 

「“幻惑剣”……御覧にいれましょう」

 

 “死神”は剣を正眼に構えると、ゆるりと上段に剣を運ぶ。

 それは死神が鎌を構えるかの如く、幽世に迷い込んだかのような幻惑なる威容。

 

 しかし“死神”が剣を最上段に構えると、途端に屹立した剣から殺気が消え失せた。

 

「ランドルフ……!」

 

 見守っていたシャンドルが思わず声を上げる。

 

 隙だらけだ──

 

 “死神”は上段に剣を構えただけ(・・・・・)であり、その両脇には大きな隙が生じている。まるで木こりが薪を切るかのような、凡そ列強剣士にあるまじき所作であった。

 

 

 しかしこれこそが死神の代名詞である“幻惑剣”

 

 

 “幻惑剣”には“誘剣”と“迷剣”の二種類の型があり、誘剣は相手に好機だと思わせ誘導し、攻撃を誘うもの。

 迷剣は敵に攻めるべきではないと思わせ誘導し、窮地を逃れるもの。

 虚実を折り混ぜた幻妙なる“死神”の絶技であり、数多の剣士達を屠ってきた“死神の鎌”であった。

 

 ウィリアムはそれを見て再び七丁念仏をゆるりと担ぐ。

 但し、此度のウィリアムは担ぐだけにとどまらなかった。

 

「なっ!?」

 

 シャンドルは驚愕の声を上げる。

 同様に“死神”もその表情を一変させた。

 

 みりり、とウィリアムは担ぐ姿勢から更に身体をひねった(・・・・・・・・・)

 完全に“死神”に後頭部──急所をさらけ出し、その瞳はあらぬ方向を見据える。

 

「あり得ぬ……!」

 

 

 これは“決闘の光景”ではない──

 

 

 科人(とがびと)が斬首を待つ、“土壇場(どたんば)の光景”だ!

 

 

 シャンドルはウィリアムの異様な構えに驚愕の表情を浮かべる。

 “死神”の無防な構えに対するウィリアムの無謀な構えは、どう見ても自殺行為であった。

 

「この私と“幻惑合戦”ですか……」

 

 “死神”の首筋に一筋の汗が流れる。

 ウィリアムの奇怪な姿を、その窪んだ眼窩で凝視した。

 対峙する“死神”にしか解らぬ事であったが、“死神”はウィリアムが急所をさらけ出した途端、左半身にヒリヒリと強烈な殺気を感じていた。

 

(左から斬撃が来る……と、見せかけて(・・・・・・・)右から……いや、やはり左……?)

 

 “死神”はウィリアムの意図を読むべく必死になってその窪んだ眼で若虎を凝視し続けた。

 敵に対し後ろを向くウィリアムにその困惑する様子は見えないと思われたが、ウィリアムには確かに“死神”の様子をその眼で視ていた(・・・・・・・・)

 

 

 虎眼流“紐鏡(ひもかがみ)

 

 

 (ひも)氷面(ひも)であり、ウィリアムは七丁念仏の刀身を鏡にし“死神”の様子を視ていたのだ。

 

 幻惑剣による誘剣に対し、虎眼流による紐鏡。

 

 “死神”と“剣虎”による虚実を交えた秘剣の応酬を、シャンドルは固唾を呑んで見つめていた。

 傍らに佇む朱髪の少女は、依然その瞳に光は宿らず。

 

「ランド──」

 

 シャンドルが“死神”に声をかけたその瞬間──

 ウィリアムの神速の“横流れ”が、“死神”の右半身(・・・)へと放たれた。

 

 闘気と共に身体を半回転させ放たれた“横流れ”の速度は、通常の“流れ”を凌駕する。

 飛燕の速度で放たれた“横流れ”は、“死神”の半身を両断するべくそのガラ空きの脇腹へと吸い込まれた。

 刃が届く刹那、ウィリアムは死神の両断された半身を幻視し、僅かに口角を上げる。

 

 しかし──

 

「ッ!?」

 

 突如ウィリアムの目の前に現れた壁(・・・・・・・・・・・・・・・・)が轟雷ともいえる金属音と共に“横流れ”の斬撃を阻害した。

 戸惑うウィリアムに対し、容赦無く“死神”の袈裟斬りが襲いかかる。

 

「ヌゥッ!」

 

 しかしウィリアムは咄嗟に構え直した七丁念仏にて真正面からその斬撃を受け止めた。

 七丁念仏の腹を向け、刀身に掌底を添えて“死神”の剣を凌ぐその様子は、さながら念仏を唱える僧侶が如く。

 

 

 虎眼流“片手念仏(しのぎ)受け”

 

 

 虎眼流の数少ない太刀にて相手の斬撃を受けるこの技は、刀身と峰の間にある小高い窪み“(しのぎ)”と言われる部位に掌底を添えて斬撃を防ぐ堅牢なる肉と刃の防御の型。

 刀身にて迎撃していれば“死神”の剛剣は七丁念仏を巻き込みながらウィリアムの頭部を十文字に斬り裂いていただろう。

 ウィリアムはそのまま“死神”を押し倒さんと渾身の闘気を掌底に込める。

 

「ぐぅッ!?」

 

 しかし“死神”の恐るべき膂力は、逆にウィリアムを地面へと縫い付けた。

 馬乗りとなった“死神”は剣をウィリアムへと圧し当てる。

 

「“詰み”です。潔く降参なさい」

「~~ッッ!!」

 

 “死神”に組み伏せられたウィリアムは歯を軋ませ全力で抗うも、“死神”の剛力は虎を起き上がらせる事は許さず。

 この時のウィリアムは知るべくも無かった事だが、“死神”ランドルフ・マリーアンの膂力は“怪力の神子”として知られるシーローン王国第三王子よりも強く、単純な腕力だけでいえば七大列強の中でもトップクラスを誇っていた。

 鍔迫り合いとなった状況から刀身ごと“死神”を地面に圧し当てようとしていたウィリアムであったが、この骸骨の様な男がまさか虎眼流剣士の膂力を上回るとは。

 七大列強の力を決して甘く見積もった訳ではなかったが、この事態を招いたのは完璧に虎の誤算であった。

 

(奇なッ!)

 

 ウィリアムはこの状況下の中、先程の奇怪な現象を思い起こしていた。

 突如現出した“壁”に阻まれた必滅の“横流れ”

 “横流れ”は確かに“死神”の反応を凌駕し、その胴を薙いだはずである。

 しかし現実には“死神”に縫い止められた我が身。足掻けば足掻くほど、己の鳩尾に乗せられた“死神”の膝が重く突き刺さる。

 “死神”が圧し当てる剣を七丁念仏で必死に支える状態で、ウィリアムは焦りと共に増々困惑の表情を深くした。

 

 困惑する最中、ウィリアムは“死神”の顔に違和感を覚える。

 “死神”は先程まで装着していた“眼帯”をいつの間にか外していた。

 瞳には六芒星のような文様が浮かんでおり、怪しげに赤く光るその瞳をウィリアムに向けていた。

 

「“空絶眼”か……」

 

 端から視ていたシャンドルが“死神”の絡繰を見破っていた。

 

 

 “空絶眼”

 

 

 “死神”ランドルフ・マリーアンが備えている魔眼であり、その瞳を向けられた者は突如発生した“壁”を幻視し、自身の行動を阻害される事となる。

 実際には“壁”など発生していないのであるが、幻出した“壁”を本物の“壁”と誤認させることにより、対象は何もない空間(・・・・・・)で虚構を相手に動きを止められるのだ。

 十分に魔力を練った状態ならば、遠距離から大軍の行動をも阻害する事が出来る正に列強に相応しい空絶なる魔眼。

 対象が一人であり、かつ至近距離からならば僅かな時間でも十分に対象の行動を阻害する事が出来た。

 

 シャンドルから見れば、ウィリアムの“横流れ”は“死神”に触れる寸前で、ウィリアム自身の手によりその斬撃が止められていたのだ。

 

(ああまで深く極まれば最早返す事は出来まい……)

 

 シャンドルはウィリアムの“死に体”を見て安堵の息を吐く。

 “孫”の勝利は疑いようもなかった。

 

 ふと、シャンドルはこの勝負の原因となった朱い髪の少女の存在を思い出した。

 勝負が決まり、もはやあの暴虐なる若者は無力化したと言葉をかけるべく、横に佇むアイシャを見やる。

 

「ッ!?」

 

 しかし、シャンドルはアイシャに言葉をかける事は出来なかった。

 

 

 アイシャは幽鬼のような虚ろな表情を浮かべており、元が快活な少女とは思えぬ程“呆けた”空気を纏っていた。

 だらしなく開かれた口から僅かに涎を垂らし、変わらず光の無い瞳で“死神”が“剣虎”を制圧する様子を眺めている。

 芯の抜けたその立ち姿に、シャンドルは見てはいけない物を見たと思い視線を“死神”に戻した。

 

 そしてシャンドルが視線を戻したその瞬間

 

 “死神”の身体が跳ねた(・・・・・・)

 

「ゲボォッ!!」

 

 “死神”は血反吐を噴射し、ウィリアムから人形の如く跳ね上がる。

 

 

 虎眼流“土雷(つちらい)

 

 

 “土雷”は組み伏せられた状態から渾身の踏み込みと全身の反りを用いて瞬時に拳を内臓にめり込ませる柔の技だが、ウィリアムは七丁念仏の柄頭にて“土雷”を放ち、“死神”の内臓をその牙で食い破っていた。

 “死神”の楔から解放されたウィリアムは“土雷”を喰らい、転がる“死神”に止めを差すべく七丁念仏を担ぐ。

 “空絶眼”はウィリアムの姿を捉える事は叶わず、死に体となった“死神”に虎の牙が襲いかからんとした。

 

 しかし、七丁念仏を振り切る寸前にウィリアムはピタリと動きを止める。

 

 ウィリアムは、この絶好の勝機を見送った。

 

 見送らねば、ならなかった。

 

 

(アイシャ──)

 

 “死神”が“土雷”を受け転がり込んだ先は、呆然と佇む一人の朱い少女の前であった。

 ウィリアムは“死神”の真後ろに佇むアイシャを見つめる。

 

 アイシャの姿を視認した瞬間、ウィリアムはそのままアイシャごと(・・・・・・)“死神”を斬るつもりで七丁念仏を振ろうとした。

 グレイラットの性を捨てた自分には、家族などもう関係ない。

 ましてや妾腹の妹など、己の大望の為ならばいくらでも犠牲にしても構わない。

 

 致し方なし──

 

 一瞬でそう判断したウィリアムは、七丁念仏を振ろうとした。

 

 ところがウィリアムの肉体は脳髄の命令に反抗し、その動きを止めた。

 心の貝殻の奥底の、淡く、暖かな“火”が、ウィリアムの動きを止めたのだ。

 

 

 白髪の剣虎と、朱髪の少女の視線が交差する。

 ウィリアムはアイシャの瞳の中に家族と過ごした温かなひと時を幻視した。

 

 “ウィル……偶には父さんとも遊んでくれよー……”

 

 “まぁウィルったら! こんなところで寝てちゃ風邪引いちゃうわよ?”

 

 “ウィリアム坊ちゃま。今日はウィリアム坊ちゃまが好きな野草のスープですよ”

 

 “うぃーにぃ、ご本よんで?”

 

 “うぃーにぃ! うぃーにぃ!”

 

 パウロ、ゼニス、リーリャ、ノルン……そしてアイシャ。

 穏やかなひと時を過ごした、あの時の光景がアイシャの瞳の中に映し出されていた。

 

 

「ウィル……にぃ……」

 

 ウィリアムの視線を受け、アイシャはその瞳に光を取り戻し始めていた。

 その可憐な朱い瞳で、白い若虎を見つめていた。

 涙で濡らした跡が残るその表情に、徐々に熱が戻り始めていた。

 アイシャを見つめる虎の眼は、先程まで“死神”と死闘を繰り広げていたのが嘘のような穏やかな眼をしていた。

 

 アイシャは拒絶され、失った“大好きなウィル兄ぃ”が少しだけ戻ってきたように感じた。

 

 

 やがてアイシャから視線を外したウィリアムは、自身の心の奥底で湧いた感情の揺らぎを悟られまいと後方へ跳躍し“死神”と距離を取る。

 

「参れ! “死神”!」

 

 ウィリアムの凛とした声が辺りに響く。

 自身に生じた“迷い”を断ち切らんが如く、鋭い声を放っていた。

 

「ゲホッ……」

 

 血反吐を一つ吐き、“死神”はゆらりと立ち上がる。

 シャンドルが手を貸そうと駆け寄るが、“死神”はそれを手で制した。

 

「大事ありません……お構いなく」

「ランドルフ、私も加勢するぞ」

「お祖父様は、その少女を連れて離れていてください」

「ランドルフ! らしくないぞ!」

 

 シャンドルはあくまで一人で戦おうとする“死神”に声を荒らげる。

 “死神”ランドルフ・マリーアンは七大列強入りした当初は修羅の如く、向かってくる剣士達を片っ端から斬り伏せて己の剣名を高めていた。

 だがやがて戦う事に疲れを感じ、自身の腕前の衰えを自覚した頃には列強5位の名にさして拘りを持てなくなっていた。

 王竜王国にて親戚の定食屋を継いで、剣の代わりに包丁を持つ日々に満足していた。

 

 そんな“死神”が“北神二世”の助力を頑なに拒む。

 以前の“死神”なら二つ返事でシャンドルの申し出を受け入れ、二人掛がりで虎退治に望んでいただろう。

 いや、むしろ自分からシャンドルに助勢を申し入れていたのかもしれない。

 もはや自身の腕前は列強5位に相応しく無く、三大流派の長にすら及ばないと自覚していた。

 “死神”の剣士としての闘志は、萎えて久しかった。

 

 しかし窪んだ“死神”の眼からは、久しく現れていなかった闘志が燃えていた。

 

「お祖父様……どうか、私にお任せください」

「ランドルフ……」

「包丁以外の刃物を持って“楽しい”と思ったのは、本当に久しぶりです」

 

 “死神”は滴る血を舐め、その口角を上げる。

 得も言われぬ凄味が“死神”の全身から噴き出ていた。

 そのまま幽鬼のような足取りで、ウィリアムの方へ向かう。

 シャンドルはそれを黙って見送っていた。

 

「お待たせしました」

 

 再び“死神”は剣を上段に構える。

 先程とは打って変わり、剣先から噴出する殺気は見ていたシャンドルですら怯む程のものであった。

 

 もはや、“幻惑剣”など使用せず。

 渾身の“死神の鎌”を振り下ろすのみ。

 

 地獄の獄卒が如き猛烈な殺気を、“死神”はウィリアムにぶつけていた。

 

 

(つかまつ)る……!」

 

 それを受けたウィリアムは、右手の掴みをそのままに左手を持ち上げ、人差し指と中指で七丁念仏の剣先を挟んだ。

 

 

 みしり

 

 

 虎はその秘めおきし魔剣を、再びこの異界にて解き放たんとしていた。

 

 

 

 

 

──────────────

 

 

 ナナホシ・シズカはネリスの商人と共に騎士団の屯所へと赴いていた。

 しかし土地勘の無い商人と魔法大学の研究室に篭り滅多に出歩かないナナホシの組み合わせでは、禄に縁が無い騎士団の屯所へと容易に辿り着けるはずもなく。

 リニア、プルセナのいい加減な案内の仕方もあり、散々迷った末ようやっと辿り着いた頃には日は既に傾きかけていた。

 

「しかも肝心のウィリアム・アダムスはもういないって……」

「さーせん! あっしが道に迷わなければぁ!」

 

 ナナホシ達が屯所へと赴いた時には、既に件の白髪の剣士は放免された後であり、全くの無駄足を踏んだナナホシは商人へ呪詛が篭った呟きを吐く。

 なぜか商人は己の股間を押さえており、涙ながらにナナホシへ謝罪していた。

 

(今日はもう帰ろう……)

 

 何もしていないのに勝手に股間を押さえて蹲る商人をゴミを見るかのような目つきで……実際には仮面をつけているのでその目つきは分からないが、ナナホシは商人を一瞥し、魔法大学の寮へと帰宅するべく歩み始めた。

 

「あ、あの、おいてかないで……」

「……」

「無視ィ!?」

 

 喧しい商人をつとめて無視し、ナナホシは歩みを早める。

 傾いた太陽は紫陽花色に染まり、辺りは薄闇に包まれていた。

 散々歩き回った疲労、ウィリアム・アダムスに会えずに終わった徒労、そして商人への倦怠からナナホシの白面の下の表情は三日三晩荒野を彷徨った旅人の如くやつれていた。

 

 

 

 

 しばらく人気の無いシャリーア郊外を歩いていると、商人が唐突に声を上げた。

 

「あ! 若先生ってヴェェッ!?」

「ふぁ!?」

 

 商人の素っ頓狂な声に不意を打たれたナナホシは、同様に頓狂な声を上げる。

 苛立ちもあってか、猛然と商人に詰め寄った。

 

「何よいきなり!?」

「い、いや、若先生がいたんですけど……」

 

 そう言いながら商人はおずおずと指を差す。

 ナナホシは仮面の下に怪訝な表情を浮かべ、商人が指を差す方向に視線を向けた。

 

「ッ!」

 

 そしてナナホシは見た。

 白髪の剣士と、骸骨の剣士が、禍々しい程朱く染まった空の元で剣を構えているのを。

 

「け、決闘!?」

「……!」

 

 商人が驚愕の声を上げる中、ナナホシもまたある事実に気づき、その内心は大きな波が立っていた。

 

 白髪の剣士が持つ得物。

 それはまさしく──

 

(日本刀──!)

 

 ナナホシは白髪の剣士の剣を凝視する。

 反り返った片刃の刃、刀身と峰の間にある鎬、柄巻きが巻かれた柄、切羽にて挟まれた木瓜型の鍔……

 ナナホシが良く知るそれは、日本刀と呼ばれるこの世界では決して存在し得ない異世界(・・・)の業物であった。

 

 ナナホシは自身の心臓が早鐘の如く鳴るのを自覚する。

 とうとうあの転生者以外で……それも平成日本への帰還の手掛かりが得られるかもしれないその刀の妖しい輝きに、ナナホシはしばし我を忘れて見とれていた。

 

「わ、若先生が骸骨……ってあれ七大列強“死神”じゃないっすかぁ!? どゆこと!?」

 

 再び頓狂な声を上げる商人により、ナナホシはハッと我に返る。

 七大列強“死神”

 ナナホシはこの世界の大抵の事柄は、共に旅をした龍神から十分に教えを受けていた。

 七大列強とは即ち、この世界でトップクラスの強者の称号。

 その強者と探し求めていた白髪の剣士……ウィリアム・アダムスが真剣にて立合いを行っている。

 

 一体これはどういう事なのか。

 困惑するナナホシは、ふと“死神”とウィリアムが対峙するのを見つめる黒髪の壮年と朱髪の少女に気がついた。

 そして朱い少女は、ナナホシが良く知るあの転生者(ルーデウス)の妹であった。

 

「アイシャちゃん!」

「ナナホシさん……?」

 

 駆け寄りながら声をかけるナナホシ。

 アイシャはナナホシを見留めると、くしゃりと表情を歪めた。

 

「ウィルにぃが……ウィルにぃの……!」

 

 ポロポロと涙を流し、ナナホシに縋るアイシャ。

 ナナホシは依然この状況を掴めず困惑していたが、自身の腕の中で震え涙を流す少女を優しく抱きしめた。

 

「大丈夫……大丈夫だから……」

 

 変わらず“ウィルにぃ”と繰り返し呟くアイシャの背中を擦りながら、ナナホシは傍らに立つ黒髪の剣士を見やる。

 何はともあれ、まずはあの決闘を止めねば。

 アイシャがここまで狼狽するという事は、あの白髪の剣士はアイシャと何かしらの関係があるという事だろう。

 骸骨の方が“ウィルにぃ”と思えなかったナナホシは、何かしらの事情を知るであろう黒髪の剣士へと声をかける。

 

「今すぐあの決闘を止めてちょうだい」

 

 黒髪の剣士、シャンドルは先程からナナホシ達の存在に気付いているものの、その眼は“死神”と“剣虎”から外そうとしなかった。

 視線を前に向けたまま、ナナホシに応えた。

 

「……無理だ。もう、誰にも止める事は出来ん」

「そんな……なんで!?」

「もはや余人が関与する事は……」

 

 シャンドルは最後まで言葉を発する事はなく、“死神”とウィリアムの立ち合いを凝視し続ける。

 ナナホシもつられて見ると、丁度ウィリアムが刀の切っ先を左手で掴んでいた。

 

「ッ!」

 

 尋常ではない闘気が発せられる。

 平成日本ではただの女子高生に過ぎなかったナナホシでは到底耐えられぬ程の剣圧。

 全身の震えをごまかす為、腕に抱くアイシャをぎゅっと抱きしめる。

 

「ウィル、にぃ……」

 

 抱きすくめられるアイシャもウィリアムの様子をその眼で見つめる。

 先程までの虚ろな瞳では無く、光を宿したその濡れた瞳は確りとウィリアムを見つめ続けていた。

 

 

『……しく』

 

「えっ──」

 

 地獄の底から呻くような声が、辺りに響いた。

 ナナホシやシャンドル、そしてアイシャはその声に本能的な恐怖を覚える。

 

 そしてナナホシは聞いた。

 

 

 呻くような声で発せられる、“日ノ本言葉”を。

 

 

 狂ほしく

 

 血のごとき

 

 月はのぼれり

 

 秘めおきし魔剣

 

 いずこぞや──

 

 

 みしり、と重々しい音が辺りに響く。

 憤怒の形相を浮かべ無念の涙を流しながら(・・・・・・・・・・)刀を構える剣虎……いや、剣鬼。

 尋常では無いその様子に、ナナホシは息を呑む。

 とてもではないが、ルーデウスのような平成日本の転生者(・・・・・・・・)とは思えなかった。

 

『“剣神”……! 貴様の流派、いずれ根絶やしにしてくれん……!』

 

『“人神(ヒトガミ)”! 貴様にかかされた恥、忘れようとて忘れられぬわ……!』

 

 このような怨みが篭った怨念を、目の前の“死神”に向けるウィリアムは果たして正常だろうか。

 そして無念の涙を流す剣鬼は、最大限に怨みが篭った怨嗟を吐いた。

 

 

『清玄ッ!!!』

 

 

 ピシリ、と軋ませた歯にヒビが入る。吐き気を催す程の憎悪を込め、吐かれた日ノ本言葉。

 先程までウィリアムの心の貝殻に灯っていた甘く、馨しい火は、瞬く間にその怨嗟の業火により打ち消されていた。

 

 

 “死神”は死の流星の間合いに入り、猛然と虎へ向かい突進する。

 

 

 向かってくる“死神”に、虎眼流奥義“流れ星”は放たれた。

 

 

 

 

 ──一閃

 

 

 

 

 閃光と共に肉と鉄がぶつり合う重低音が辺りに響き渡る。

 

 眩しさで目が眩んだナナホシ達は流星が“死神”に直撃する瞬間を見る事は敵わず。

 しかし目を開いた瞬間、ナナホシ達は信じられぬ光景を目にする事になる。

 

 

「ウィル兄ぃッ!!!」

 

 アイシャの叫び声が響く。

 ナナホシが抱きすくめるその腕から必死にもがき、朱い髪の少女はウィリアムの元へ駆け出した。

 

 ウィリアムは“死神”の剣により肩口から心臓にかけて斬り込まれていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 と同時に、“流れ星”は“死神”の頸部をニ寸程斬り込んでいた(・・・・・・・・・・・・・)

 剣によって結ばれた二人の剣士は、やがて同時に地に倒れ伏した。

 

「馬鹿な……」

 

 倒れ伏す間際、ウィリアムは“流れ星”が“死神”の頸部を切断し得なかった現実を受け入れる事が出来なかった。

 “()”を出現させる間も無く、死の流星は“死神”に襲いかかったはずである。

 闘気によって高められたその速度、その威力は前世においての“流れ星”とは比べ物になく。

 

 困惑と無念、そして己から大量に流れる血で何も考えられなくなった虎は、やがて意識を手放した。

 

「ウィル兄ぃ! ウィルにぃ!!」

 

 アイシャがウィリアムに駆け寄る。その可憐な手で、ウィリアムの肩口を押さえた。

 

「やだよ、やだよぉ、ウィルにぃが、しんじゃうよぉ」

 

 流れる血を必死で押さえ、治療魔術をかけるべく震える声で詠唱を始めるアイシャ。

 しかし初級魔術しか修めていないアイシャの治療魔術では、深手を負ったウィリアムを完治することは出来ず。

 必死に傷口を押さえるアイシャの手は、ウィリアムから流れる大量の血液で痛々しい程朱に染まっていった。

 

 

「ランドルフ!」

 

 シャンドルもまた“孫”に駆け寄っていた。

 “死神”は頸部に斬り込まれた七丁念仏を抜き、溢れる血を手で押さえていた。

 “死神”はシャンドルに力なく微笑む。

 

「大事、ありません……」

「莫迦いうな!」

 

 シャンドルは懐を探り“北神の秘薬”を取り出す。

 北神流高弟以上でしか持ち得ぬこの秘薬は、初代北神が魔大陸にて発見した治癒効果が非常に高い薬草から作られている。

 門外不出の製法にて作られる秘薬の効力は、例え胴体が千切れても有効な代物であった。

 

 シャンドルは秘薬を“死神”の頸部に充てがう。

 大量に血を失った“死神”は元々の暗い人相を更に青白く変化させ、まさしく幽鬼がこの世に現出したかのような様相を見せていた。

 

「相討ちとはな……」

 

 シャンドルがウィリアムの方を見やりつつ、“死神”の手当を続ける。

 治療を受ける“死神”もまたウィリアムを見つつ、シャンドルに言葉をかけた。

 

「お祖父様。秘薬はまだありますか?」

「あるが、何故?」

「あのウィリアムとやらも治療してください。今ならまだ……」

 

 力なくウィリアムを指差す“死神”。

 アイシャが必死に治療する様子は、見る者の胸を打つ痛ましい光景であった。

 

「いいのか……?」

「あの才能、死なすには惜しい。それに……」

 

 “死神”は震える手を必死に上げ、シャンドルに見せつけた。

 

「お祖父様。これを、見てください」

「うむ?」

 

 “死神”の両手の指にはそれぞれの人差し指、中指に指輪が嵌められていた。

 その指輪はシャンドルが良く知る希少な魔力付与品(マジックアイテム)であった。

 

「ッ!?」

 

 そしてシャンドルは戦慄する。

 “死神”が嵌めていた指輪は“斬撃を軽減する”非常に希少な魔力付与品(マジックアイテム)であり、その効果は帝級剣士の一撃すら無効にする。

 使用者が魔力を込めれば発動するその指輪が、“死神”が手を上げた瞬間みるみる砕け散っていった。

 

「ゆ、指輪4つ分とは……」

 

 帝級の攻撃を4回分、それでも尚防ぎ切れなかった虎の流星の威力を目の当たりにし、シャンドルの背筋は凍りついた。

 

「指輪が無ければ、私の首は即座に胴体と離れていた事でしょう……あの若者は、剣一本で私と戦っていた」

 

 力なく呟いた“死神”は、やがてゆっくりと瞼を閉じ、天を仰いだ。

 

 

 

「私の、負けです」

 

 

 

 “死神”ランドルフ・マリーアン。

 

 

 七大列強5位の座を、若い虎に譲り渡した瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 ウィリアムは夢を見ていた。

 

 ブエナ村で家族と過ごす温かい夢を。

 その夢の中で、成長したノルンとアイシャ……妹達がいた。

 

 幼き日と変わらず、己を慕う妹達。

 そんな妹達を邪険にせず、ウィリアムは黙って妹達の頭を撫でる。

 ニコニコと微笑む妹達を見て、自然とウィリアムの表情も緩んだ。

 

 穏やかで、優しい日々……。

 いつからだろう。こんなにも、穏やかな日常が遠い物になってしまったのは。

 

 転移してから、様々な出来事があった。

 たった一人で、苛酷な日々を過ごしていた。

 その苛酷な日々が、穏やかな日常を忘れさせる程の修羅に、己を変えてしまったのだろうか。

 

 いや、元々が濃尾無双と称された剣の修羅ではなかったのか。

 いつから、己はこんなにも“腑抜け”てしまったのだろうか。

 

 

 気がつけば、妹達の姿はなかった。

 代わりに前世での娘……三重の姿が、そこにあった。

 

『三重……』

 

 ウィリアム……虎眼は、三重の頬を優しく撫でる。

 三重の表情は、薄く……そして、儚い微笑みを浮かべていた。

 

『お父上……』

 

 三重は微笑みを浮かべながら言葉を紡いだ。

 

『今の家族を、大切になさりませ』

 

『三重……!』

 

 三重の姿は、やがて徐々に透けていった。

 三重が消えていく最中、虎眼は三重の後ろに立つ大きな体躯に気付いた。

 

『権左……』

 

 前世の忠弟、牛股権左衛門がそこにいた。

 権左衛門はゆっくりと頷くと、三重と同じように微笑みを浮かべその姿を消していった。

 

 

 

 

 

「ウィリアム兄さん……!」

 

 目を開けると、ベッドに寝かされた我が身。

 痛々しく肩口に巻かれた包帯は、僅かに血が滲んていた。

 傍らにて目に涙を溜め、心配そうにノルンが見つめていた。

 

「ノルン、か……」

 

 ウィリアムは、力なくその右手上げ、ノルンの頬を撫でた。

 ゆっくりと、優しくノルンの頬に手を当てる。

 ノルンはポロポロと涙を流しながら、ウィリアムのその手をぎゅっと握っていた。

 

 ノルンの対面……ウィリアムの左側にて、同様にウィリアムを見つめていたアイシャは、その瞳に涙を浮かべる。

 しかし、ノルンが浮かべた涙とは違う意味で、その少女は涙を溜めていた。

 

(また、ノルン姉だけ……)

 

 ミシリオンにて散々に味わったノルンと自分との扱いの差。

 妾腹の子と、実の祖母に言われたあの時の悲しさ、やるせなさ。

 再び味わうあの哀しみを、アイシャは実の兄にまで感じて、その瞳は光を失いつつあった。

 

 

「……アイシャ(・・・・)

「!」

 

 失意に沈むアイシャに、ウィリアムはその名を優しげに呼んだ。

 ゆっくりと、慈しみを込めた眼を、アイシャに向けた。

 

「美くしゅう、なった喃……」

 

「……っ!」

 

 アイシャは、それまで感じていた哀しみが全て消え去るのを感じていた。

 

 その瞳から涙が溢れた。

 

 嬉しさと、愛しさで、涙が溢れ出てきた。

 

 

「うわあああああああん!!」

 

 

 アイシャは泣いた。

 

 生まれたばかりの、赤子のように。

 

「ウィルにぃ! ウィルにぃ!! ウィルにぃ!!!」

 

 横になるウィリアムに飛びつくアイシャ。

 大好きな兄の胸元に顔を埋め、ぎゅうぎゅうとその体にしがみついていた。

 

 左手にて、ゆっくりとアイシャの頭を撫でるウィリアム。

 アイシャが泣き止むまで、ずっとウィリアムはその朱い髪を撫で続けていた。

 

 

 

 失われたと思われた兄妹の絆を確かめるように、優しく、穏やかな時間が過ぎていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 中央大陸某所

 

「何だ……この紋様は……」

 

 銀色の髪、金色の瞳、何かの皮で作られた無骨な白いコートを身に着けた一人の男が、道端にある石碑の前で立ち止まっていた。

 男はその鋭い三白眼で石碑を睨みつけるように見つめている。

 

 魔力が濃い場所に置かれているこの石碑は、嘗て“技神”が世界各地へと設置した七大列強を示す物であり、石碑の中心部に闘神語で描かれた“7”を現す字の周りを現在の七大列強を表す紋様が囲んでいる。

 そして、“死神”の紋様が刻まれていた箇所に、新たに剣五つ桜に六菱(・・・・・・・)の紋様が刻まれていた。

 

「七大列強が入れ替わっただと……?」

 

 男は訝しげに呟く。

 この男の数多の人生(・・・・・)で、このタイミングで七大列強が入れ替わるのは初めての事であった。

 

「こんな事は今までには無かった……ルーデウス・グレイラットといい、今回は何かがあるな」

 

 やがて男は石碑から視線を外すと、再びその足を動かす。

 男には、全てをかけて果たさねばならない使命があった。

 その使命を果たすべく、今回(・・)もまた様々な“勝利”への布石を積む必要があった。

 それ故、イレギュラーが一度発生すると“勝利”への布石が揺らぎかねない。

 万が一今回が失敗したとしても、その失敗を次回(・・)につなげる為に、この新たな七大列強の正体を探らねばならなかった。

 

 

 もし、新たな七大列強があの悪神の使徒であったら──

 

 

「生かしてはおけぬ」

 

 

 

 悪神打倒を掲げた若き龍神は、その足を止める事無く目的の場所へと歩み始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間『凶剣異界転移奇譚(まがつるぎいかいてんいきたん)

 

「さぁさ。そこ行く皆々様。おひとつ歌を聞いていかないかい?」

 

 人々の生活の活気が満ち溢れる街の中、一人の吟遊詩人が往来の人々に語りかける。

 噴水の縁に腰をかけ人々に声をかける吟遊詩人の様子は、その細指から奏でられる美しい竪琴の音と相まって人魚が船乗りを誘引するかのような光景であった。

 美しい音につられ、あっという間に人だかりが出来上がる。

 

 やがて集まった人々の前で吟遊詩人は本日の演目を高らかに謡い上げた。

 

「さて、今日の物語は運命の出会いを果たしながらも別れを余儀なくされた、緑髪の少女の歌を──」

「詩人のおねいさん! それ昨日も聞いたよ!」

「あり?」

 

 吟遊詩人の前に座っていた少年の言葉に周囲は苦笑いを浮かべる。既に昨日謡った内容を指摘された吟遊詩人も、やや羞恥で顔を赤らめながら居住まいを正した。

 

「ん、おっほん。それじゃあ、今日の物語は恋に恋する少女、運命の出会いを夢みた純白にして蒼穹の魔法少女の──」

「それはおととい聞いたよー」

「あ、あらぁ?」

 

 今度は少年の隣に座る少女が指摘する。周囲に集まっていた大人達も子供達の無邪気な指摘にたまらず笑い声を上げた。

 

「じ、じゃあ、今日の物語は情炎の契りを果たしながらも己の弱さと向き合い、孤高の試練に臨んだ朱色の乙女の──」

「それは三日前にきいたよ」

「ぉ、ぉぅ」

 

 少女の前に座る幼女にまでダメ出しが入る。子供達の容赦の無い指摘に、吟遊詩人は出だしの壮麗な様子から一変し滑稽な様子でまごついていた。その様子を見て周囲は増々笑い声を大きくする。

 

「くそう……ガキんちょだからって中2日程度じゃ誤魔化しきれなかったか……!」

「全部聞こえてんだけど!」

「もっとほかのお話ないのー?」

「しってるよ。こういうのネタ切れっていうんでしょ?」

「ぐぬぬ……」

 

 もはや当初の詩吟とは打って変わり、噴水の前は吟遊詩人と子供達の漫才の会場と化していた。

 ひとしきり周囲の笑い声が落ち着いたのを見計らい、吟遊詩人は再びその居住まいを正す。

 

「はぁー……仕方ないなぁ。あまり子供向けじゃないんだけれど、今日はとっておきの物語を聞かせてあげましょうか」

 

 竪琴を持ち直し、それまでの穏やかな音色から音調を変える。

 その音色は、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な音色を奏でていた。

 

 竪琴の音色に併せ、吟遊詩人の謡声が辺りに満ちていく。

 その謡声は、聞く者全てを現し世とは異なる幻想なる世界へと誘うかのような……まるで、超常の者が放つ霊威に満ちたかのような謡声であった。

 

 

 

 

 

 

 

 さてさて……今日の物語は世界を超越し、怨々たる業を持ちながらも不退転の“火”を鮮やかに燃やす、散華の(かすみ)の歌を歌おうじゃないか──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

「愉快じゃ!」

 

 宿場街を哄笑を上げ闊歩する一人の美女……否、美漢。

 その顔立ちは傾城の麗人とも眉目秀麗な美丈夫にも見てとれる。真紅の総髪を美麗に靡かせ、身に纏う綺羅びやかな陣羽織を揺らし、力強い足取りを見せていた。

 

「狂ほしく愉快じゃ!」

 

 元和二年(1616年)三月

 この日、信州松本城下にて一人の“現人鬼(あらひとおに)が“治国平天下大君”徳川家康が統べる覇府に叛逆を(きざ)しめさせる出来事があった。

 

(流石真田の隠し姫、稀に見る胆力よの!)

 

 上機嫌に体を揺らし歩を進める男女の垣根を超越したこの超人は、先程の博労宿での出来事を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

「現人鬼殿」

 

 “現人鬼様御宿”と看板に記された博労宿の一室。徳利が散乱し、酔い潰れた一人の若者の傍らで一人の乙女が現人鬼と対峙していた。

 乙女はしこたま酒を呑んでおり、その顔は朱に染まっている。しかしその瞳は酩酊したそれではなく、確りとした不屈の意志が宿っていた。

 乙女は仰いでいた酒碗を置き、その懐から紐で括られた六枚の永楽銭を取り出す。

 

(六文銭──!)

 

 現人鬼は六枚の永楽銭──六文銭を眼にした瞬間、その美しい瞳を鋭く光せる。

 三途の川の渡し賃であるこの六文銭を、戦国の世に生きる者達はいつ死んでも良いようにその懐に忍ばせていた。

 いつ果てるとも解らぬ刹那の人生。故に、今を全身全霊を懸けて生き抜く。

 この生き様を旗印にしたのが、かの有名な信州真田家である。

 

 そしてその六文銭を懐から取り出したる乙女は、かの名将真田左衛門佐(さえもんのすけ)信繁(真田幸村)の隠し姫、兵藤伊織。

 大阪の陣にて、負けると分かっていた戦に臨み討ち死にし果てた真田衆の義と無念。

 それらを一身に背負い、日ノ本を統べる“覇府”に対し一矢報いんが為怨身忍者“零鬼(れいき)”こと葉隠谷の化外者カクゴと共にたった二人で孤高の戦いを続けていた。

 

 伊織は六文銭を現人鬼の前に差し出す。

 

 その意味は、命を省みぬ共闘の要請──!

 

「無理スか」

「姫!」

 

 六文銭が差し出された瞬間、現人鬼の空気が一変する。

 手にした盃に殺気を込め、伊織を睨みつけた。

 

「家康の棲まう駿府城を見物したが笑うたわ! 豊臣の残党を掻き集めたところで焼け石に水!」

 

 治国平天下大君の居城駿府城は、覇府の都に永遠の安寧をもたらしむ為、日ノ本各地に燻る不穏分子の掃滅を目的として建造された“大虐殺要塞”

 六重七階の天守閣は有事の際東西に分裂展開し、巨具足(おおぐそく)金陀美(きんだみ)”を発進せしめた。

 また、本丸御殿の地下には大怪鳥“(ちん)”が飼育されており、採取される猛毒は一国を(ほろぼ)す程。

 覇府の強大な力を前に、この真田の姫の共闘要請は現人鬼からみて余りにも無謀な行いであった。

 

 現人鬼が手にする盃中の酒が渦を巻く。

 この現人鬼の神妙なる魔技は、ただの液体でも人体を殺傷せしめる鋭利な刃に変える事が出来た。

 

「派手に死に花咲かせたいなら、この酒で首を撥ねてやるぞ!」

 

 猛烈な殺気が伊織を包む。

 しかしこの可憐な真田の姫は全くそれに怯むことなく、現人鬼に言葉を返した。

 

「違うス」

「どう違う!?」

 

 伊織はその瞳を爛と光らせ現人鬼に胸の内を開陳する。

 

 “金陀美”に抗し得る武田信玄公由来の巨具足“舞六剣(ぶろっけん)”が諏訪湖にて眠っている事。

 祖父、真田昌幸と父、真田幸村が徹底的に鍛え上げた異能軍団“真田十勇士”が日ノ本各地に潜み居る事。

 そして零鬼を始めとした一騎当千の怨身忍者達が各地に現出し始め、その牙を覇府に対し剥いている事。

 

 全くの勝算が無かった訳では無い事に、現人鬼の目もまた爛々と輝きはじめていた。

 

「民草は治国平天下大君にひれ伏しおろがむその鬱憤を、身分無き者を踏みにじる事で晴らしています」

 

 現人鬼を真っ直ぐ見据え、伊織は言葉を紡ぐ。

 

「徳川の天下が続くなら、このおぞましき営みも終わらない……!」

「……」

 

 乙女の真摯な瞳を受け、現人鬼は黙考する。

 

 身分なき者──

 

 この言葉が、現人鬼の胸の中で波を打っていた。

 

 現人鬼の母親は石鏡港(いじか)の漁民が不漁の鬱憤を晴らす為、無惨に打ち殺ろした身分無き者。

 その際、破れた腹の中から骨の無い水蛭子(ひるこ)……未熟児が這い出ていた。

 不吉な物を見た漁民達はその水蛭子を突き殺さんと銛を立てると、たちまち銛は水蛭子へと吸い込まれ玉の如き赤子へと変わる。

 生え揃ったばかりの歯を剥き出しにし、飛びかかった赤子は漁民達を皆殺しにした。

 

 これが現人鬼の出生の逸話である。

 

 当時の漁民達の様子を鮮やかに記憶している現人鬼は、身分なき母の姿もまた鮮やかに記憶していた。

 必死になって己の腹を抱え、最後まで腹の中の現人鬼を庇い続けた母。

 現人鬼は腹の中で見た母の無念を、この乙女の瞳の中に視ていた。

 

 現人鬼は再び黙考する。

 一度は覇府に忠誠を誓ったこの身。己の享楽な振る舞いを許容する覇府の居心地、そして強者との戦いに飢え、その飢えを満たしてくれる覇府に“叛意”を持つ意義はあるのか。

 この現人鬼と民草を同じ扱いにする愚昧な衛府に転ぶ意義は。

 いや、そもそも己はその身分なき者の腹胎から産まれたのではなかったのか。

 

 現人鬼は乙女の瞳を見据える。

 乙女の瞳の中には、覇府に対する浅薄な忠義を遥かに越えた悠久不滅の大義が燃えていた。

 

「……!」

 

 現人鬼は盃の中に光り輝く“龍神”を幻視する。

 光輝を放つ天龍の姿を見つめ、現人鬼は不敵な笑みを浮かべた。

 

「愉快じゃ……!」

 

 

「狂ほしく愉快じゃ!」

 

 

 この日以降、志摩国の現人鬼は覇府に叛意ありと見做され第四の“怨身忍者”として認定される。

 博労宿を立つ現人鬼は真田の隠し姫の魂を懸けた要請を受諾したのであった。

 

 

 

 

 

 

「まずは覇府の都、江戸見物とでも参ろうかの!」

 

 共闘の要請を受諾した現人鬼は零鬼達とは別行動を取る。

 しかるべき時に備え、少しでも“敵”の全貌を把握しておかねばならない。

 

 松本城下から数里離れた人気の無い山道。朝露に濡れた木々の葉が、朝日を反射して綺羅びやかに現人鬼の進む道を彩る。

 強大な覇府に挑むその足取りは、一歩歩く毎に現人鬼の自信が満ち溢れるかのような極美な姿であった。

 

「……うむ?」

 

 やがて現人鬼は上空に一点の赤い珠(・・・)が浮かんでいるのに気付いた。

 現人鬼が足を止め、上空を見つめているとにわかに辺りに乳白色の霧(・・・・・)が立ち込め始めた。

 

「面妖な……物の怪の出る刻限ではあるまいし」

 

 薄ら温かい霧が立ち込める中、現人鬼は突如発生した奇怪な現象に対し全く動じずに辺りを見回す。

 この自信に満ち溢れた現人鬼にとって、たかが妖怪如きではその身に傷をつける事は敵わず。

 乳の味がする霧を舐め、現人鬼はこの現象の正体を探るべく周囲の気配を探る。

 

 周囲は白い濃霧に完全に包まれ、白い闇の中に現人鬼はただ一人佇んでいた。

 

 

 “現人鬼よ!”

 

「ッ!?」

 

 突如、厳威に満ちた竜声と共にに一頭の天龍が現人鬼の目前に現出する。

 光輝くその龍は、先程現人鬼が幻視したまさしく──

 

「衛府の龍神……!」

 

 妖魔の類を警戒していた現人鬼だったが、まさか衛府の龍神が目前に現れるとは想定しておらず。

 動揺を隠し切れない現人鬼に構わず、龍神の竜声が辺りに響いた。

 

 “志摩の現人鬼よ!”

 

 鎌首をもたげる龍神が発する威光に、志摩の凶剣(まがつるぎ)と恐れられた現人鬼でさえ、その威を平常の心で受け流す事は難しく。

 その美しい首筋に汗を一つ垂らした現人鬼は、龍神に視線を向け続けていた。

 

 現人鬼が凝視し続ける中、龍神はその神命を現人鬼に下した。

 

 

 “人神を僭称する悪神を討つ為、この敷島では無くしばし(・・・)異界にてその蛮勇を奮うべし!”

 

 

「なに!?」

 

 龍神の声が響いた直後、現人鬼の体は光に包まれる。

 困惑する現人鬼は為す術もなく光に包まれ、やがてその意識を手放していった。

 

 

 しばしの時が経ち、乳白色の霧が晴れると現人鬼と龍神の姿はどこにも存在していなかった。

 まるで始めから存在していなかったかのように、現人鬼の姿は敷島……この世界から消え失せたのだ。

 

 乳白色の霧が消え去ると同時に、空中に浮かんでいた赤い珠はその役目を終えたかのように静かに消え去った。

 

 

 

 かくして、最凶の怨身忍者は現し世とは異なる異世界へと赴く事となる。

 

 その美瞳(ひとみ)で、何を映すのか。

 

 その美脚(あし)で、どこへ向かうのか。

 

 その美胸(むね)で、誰を包むのか。

 

 その美掌()で、何を掴むのか。

 

 

 

 志摩の凶剣、現人鬼波裸羅(はらら)

 

 

 またの名を、怨身忍者“霞鬼(げき)

 

 

 

 

 

 衛府の龍神の神命を受け、六面世界“人の世界”に現出す──!

 

 

 

 

 

 


 

 

 甲龍歴420年

 魔大陸ガスロー地方ネクロス要塞

 

 世界屈指の危険地帯“魔大陸”でも一、ニを争う苛酷な地ガスロー地方。その中心部に建造されたネクロス要塞は、山間部に五層に区切られ築城された魔大陸屈指の戦闘城塞である。

 下層の三層に分厚い城壁に守られた城下町が形成されており、上層二層は魔大陸最強と謳われる“不死魔王”の親衛隊が駐屯する軍事施設が形成されていた。

 

 その最強の親衛隊を率いるのがガスロー地方を治める魔王“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバックである。

 

 かつて第一次人魔大戦で大いに暴れまわった“五大魔王”不死のネクロスラクロスの娘であり、受け継がれた不死魔族の不死性とその剛力をもってアトーフェ自身も第二次人魔大戦において存分にその戦闘力を発揮した。その絶大な暴力は、魔神殺しの三英雄“初代北神”カールマン・ライバックに敗れるまで人族に大きな損害をもたらしめた。

 “初代北神”に敗れた後、北神の妻となったアトーフェはそれまでの剛力に加え、北神直伝の“不治瑕北神流”を修めている。アトーフェは自身の親衛隊にもその不治瑕北神流を伝授し、いつしか“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバックとアトーフェ親衛隊は魔大陸随一の戦闘力を誇るようになったのであった。

 

 

「立てお前らッ! 今日の稽古はまだ終わりじゃないぞ!」

 

 ネクロス要塞上層“練兵場”

 一人の女魔族が地に伏せる“親衛隊”の黒装備に身を包んだ若者達を見下ろし気炎を吐く。

 青色の肌、白い髪、赤い目、コウモリのような翼……。額から突き出る一本の太い角を生やす女魔族の名は“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバック。

 地を舐める親衛隊と同じ黒鎧を身に纏っており、その鎧は傷だらけで歴戦の風格が漂っていた。

 

「オラァッ! ペルギウスの使い魔共はこんなもんじゃないぞ!!」

 

 アトーフェは剣を肩に担ぎ、倒れ伏す親衛隊に活を入れる。

 自身の宿敵であり、かつてラプラス戦役において“魔神殺しの三英雄”と謳われた甲龍王ペルギウスを打倒するべく、アトーフェは親衛隊に日が暮れるまで容赦のない訓練を加えていた。

 ボロボロになった親衛隊の若者達は、アトーフェの一喝を受けヨロヨロと立ち上がる。アーメットによりその表情は窺えないが、ボソボソと不満の声を上げる若者達は疲労困憊した様相を呈していた。

 

「使い魔達はこんなもんじゃないって、アトーフェ様ペルギウスの使い魔と戦った事ないよな……」

「ていうか昨日はこの時間に終わってたよな。その日の気分で終了時間ころころ変えるのホントやめてほしい」

「治癒スクロールもってる?」

「ありもうはん!」

 

 ぶつくさと文句を垂れつつも、武器を構え直し再びアトーフェの前に整列する親衛隊。

 この不死の女魔王は、たかが疲労如きで訓練を中断する程甘くはなかった。

 

「よっしゃ! もう一丁いくぞ! お前、来い!」

「は!」

 

 整列した親衛隊を無作為に指名したアトーフェは自身の得物を構え、親衛隊の若者と対峙する。

 アトーフェの訓練は北神流の技を仕込む為の物であったが、基本的にはかかり稽古が主であり、もっと言えば『体で覚えろ』を地で実践していた。

 

「であああああッ!」

「ふんッ!」

「ガッ!?」

 

 親衛隊の若者が放つ渾身の袈裟斬りをアトーフェは片手で難なく弾く。勢い良く弾かれた自身の剣で痛烈に頭部を打った親衛隊の若者は、その勢いのまま気絶した。

 “剛力魔王”の異名も持つアトーフェの力は、ただの振り打ちですら必殺の威力を備えているのだ。

 

「次!」

「ごわす!」

 

 続けて大柄な親衛隊隊員がアトーフェに躍りかかる。体格差は倍以上あろう巨漢の隊員は、アトーフェに指名されると重戦車の如き勢いで突進していった。

 アトーフェはその重爆を真っ向から迎え撃つ。

 

「チェストオオオオッ!」

「オラァッ!」

「もす!?」

 

 倍以上の体格差にも拘らず、アトーフェは巨漢隊員の勢い以上のぶちかましを喰らわせた。吹き飛ばされ、地面を転がる巨漢隊員はがっくりと脱力し、そのまま気絶した。

 

「次ぃッ!」

「アトーフェ様」

 

 いつの間にかそこにいたのか、同じ親衛隊の鎧を身に着けた老魔族がアトーフェに声をかける。

 

「ムーアか! オレは忙しい! 手短に済ませろ!」

 

 老魔族……親衛隊隊長ムーアはアトーフェに見えないように溜息を一つ吐く。

 親衛隊の中では最古参であったムーアは、このジャジャ馬のような主君の態度を一時は改めるべく奮闘した時もあった。が、結局のところ“力こそが正義”である魔大陸の習わしを考えてその性格を矯正することは千年前に諦めていた。

 

「お忙しい所申し訳ありませんが、バグラーハグラー様からアトーフェ様に御進物が届いております」

「バグラーだと?」

 

 見ると、ムーアの後ろには布で覆われた物が鎮座していた。大きさはアトーフェの身長と変わりなく、中身がどのような物なのかアトーフェは興味深そうに見る。

 

「酒か? 食い物か?」

「いえ、どうやら石像のようですな」

 

 魔大陸北西部を治める魔王バグラーハグラーは、ラプラス戦役においてアトーフェと共に魔族側の急先鋒を務めた武闘派魔王であり、人族の領地から大量の食料を奪い取った事から“略奪魔王”と呼ばれていた。

 魔族では珍しい美食家であり、時折交易や自領で取れた数々の酒や珍味をアトーフェに届けていた。その逸品の数々はアトーフェを唸らせる物ばかりであり、アトーフェはバグラーからの進物を密かな楽しみとしていた。

 

「そんなもんいらん。酒か食い物に換えろと伝えろ」

「アトーフェ様……」

 

 ムーアはまた一つ溜息をつく。

 この老魔族は親衛隊を束ねる隊長ではあったが、どちらかというとアトーフェの政務全般を補佐する傅役としての側面が強かった。傍若無人、傲岸不遜、無知蒙昧なアトーフェの補佐は並々ならぬ神経では務まらず、第二次人魔大戦以降から仕えているムーア以外には、この役目を担う事は出来なかった。

 

「ともあれ、まずはひと目御覧になってからでも遅くはありますまい」

「ふん」

 

 つかつかと像の前に立ったアトーフェは、被せられていた布を乱暴に取っ払う。

 布の下に現れたのは、アトーフェを模した精巧な石像であった。

 いつもの黒装備姿ではなく、大きく胸元が開かれたドレス姿のアトーフェを模したその石像は、普段の勇壮な姿と相まって官能的に美しい姿であった。

 

「おお……」

「なんと素晴らしい……」

 

 周りの親衛隊から感嘆の溜息が出る。

 素人目から見ても、アトーフェの勇猛さ、妖艶さを良く表した名作といっても過言ではない出来に、ムーアもまたほぅ、と感嘆を新たにした。

 

「バグラーめ、駄作を送りやがったな!」

 

 しかし不死魔王はその石像をひと目みるや“駄作”と斬って捨てる。

 ムーアは主君のあまりにも不遜なこの言い様に諫言を制する事は出来なかった。

 

「アトーフェ様! いくら気に入らぬからといってそのような言い草はあまりにも礼を欠きますぞ!」

「うるせぇムーア!」

「アトーフェ様!」

 

 諌めるムーアは、ふとアトーフェの視線が一点に注がれているのに気付く。

 アトーフェはセクシーに開かれた石像の胸部を親の仇の如く睨みつけていた。

 

「オレの乳はもっとでかい!」

 

「えぇ……」と、周りから呆れた声が上がる。ムーアを始めこの傲岸な女魔王の複雑な乙女心を理解する者は、この場に誰もいなかった。

 

 

「む……?」

 

 ふと、ムーアは石像の頭部にヒビが走っているのに気付く。

 石工職人の完璧な仕事と思っていただけに、それは不自然なヒビの入り方であった。

 

 ムーアが訝しげにヒビを見つめていると、突然ビシリっと音を立て、石像の頭部に深い亀裂が走った。

 

「なっ!?」

 

 ビシ、ビシっと亀裂が縱橫に走る。瞬く間に石像はヒビだらけになり、異様な石像の様子に周囲は息を呑んだ。

 

 

 そして、石像が爆ぜた(・・・)

 

 

「なぁッ!?」

「なんごっしょ!?」

「女!?」

 

 破砕された石像の中から、一人の()が躍り出る。

 真紅の総髪を靡かせ、一糸纏わぬ姿で悠然とアトーフェの前に舞い降りたその女は、己の美しい乳房を惜しみなく周囲に曝け出していた。

 

「刺客か!?」

「ムム! 全裸!」

「ヘンタイか貴様ーッ!」

 

 ムーアを始め親衛隊がアトーフェと闖入者の間に入る。

 アトーフェを討伐し、“勇者”の称号を得ようとする者は未だに後を断たず、大抵の者は正面から正々堂々と挑むのが常であった。だが、稀にこのような奇を衒ったやり方でアトーフェの首を狙う者も存在した。

 

「うふふふ」

 

 石像の中より出た闖入者は自身の股間を妖しい手つきで撫でる。

 そこには、女が持ち得ぬはずの凶剣(・・)が雄渾なる威容で屹立していた。

 

「い、イチモツ……!?」

 

 ムーアは闖入者の股間を凝視する。長い時を生きるムーアは半陰陽の者を見る事は初めてでは無かったが、まさか石像の中から出てくるとは。

 困惑する周囲に構わず、闖入者は雄弁とその美口上を述べる。

 

「魔界に温羅(うら)の雌魔王が居ると聞いて」

 

 流暢な魔神語(・・・・・・)で語る半陰陽者は己の凶剣をひと撫でし、蠱惑的な瞳でアトーフェを見つめた。

 

「犯しに参った」

 

 この一言に、親衛隊が纏う空気が一変した。

 半ば強引に親衛隊として引き入れられた者が大半ではあったが、長くアトーフェと同じ時を過ごす内にその忠誠心は確実に親衛隊に根付いていた。

 自身の主君を汚そうとする不届きな半陰陽者に向け、獰猛な殺気を放つ。

 その殺気を受け、半陰陽者はにやりと不敵な笑みを浮かべていた。

 

「アハハハハッ! お前面白いな!」

 

 半陰陽者の不敵な態度に、アトーフェは快活な笑いを上げる。

 己を倒し名声を得ようとする者は後を断たなかったが、己を犯すなどと宣う輩は長き時を生きているアトーフェにとって初めての事であった。

 ともあれ、こいつはオレと戦いたがっている、と解釈したアトーフェは即座に戦闘体勢に入る。

 

「下がれ! こいつはオレがやる!」

 

 間に入る親衛隊を下がらせ、半陰陽者と対峙する。

 両者の間はヒリヒリとした殺気で渦巻いていた。

 見守る親衛隊はアトーフェのいつもの名乗り口上に備え、剣を前に掲げアトーフェと半陰陽者を挟むように整列した。

 

「オレが“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバックだ! オレに勝てれば勇者の称号をやろう! 負ければ我が傀儡(くぐつ)として息絶えるまで使ってやろう!」

「うふふふふ」

 

 アトーフェの名乗りを受け、半陰陽者……否、“現人鬼”はお返しとばかりにその美声にて名乗りを上げた。

 

「我が名は波裸羅……人は呼ぶ“現人鬼”!」

 

 “現人鬼”波裸羅は悠然とアトーフェに名乗りを上げる。形の整った美しい乳房とイキり立つ凶剣を併せ持ち、その猥褻にして純潔な姿から発せられる妖艶な空気は周囲の者を陶然と惹き付けていた。

 だが、アトーフェにはそのような現人鬼の妖艶な姿に惑わされる程純粋でも無く、ましてや惑わされない程不純でも無かった。

 

「あらひとおに? なんだそれは! 鬼族の新種か!?」

 

 ムーアを始め親衛隊は斜め上のアトーフェの返答に頭を抱えた。「今そこ気にする所じゃないでしょ……いや気になりますけど」と、親衛隊の誰かが言った言葉にムーアは無言で同意の意を示した。

 

「温羅の雌魔王に鬼と呼ばれる筋合いはない喃」

「さっきから『うら』とかわけわからん事言いやがって! 馬鹿にしてんのか!?」

「この異界に転移してから実に三年……雑魚を喰い散らかすのは些か飽きが来おってな」

「ああ!? オレが雑魚だって言うのか!?」

「温羅の雌魔王は“不死魔王”として魔界屈指の実力者らしいの。そんな雌魔王が糞尿撒き散らして身悶えする様は、狂おしくも愛おしいぞ」

「ふざけんな! オレはちゃんと便所でウンコするぞ!」

 

 ムーアを始め親衛隊は現人鬼と主君の会話を聞き、強烈な目眩に襲われる。

 アトーフェも大概人の話を聞かないが、この半陰陽の闖入者はそれに輪をかけて自分のペースでしか物事を言わない。

 会話が成り立っているようで全く成り立っていないこの状況に、頭痛まで覚えたムーアと親衛隊はやがて考えるのを止めた。

 

「おい! お前素っ裸じゃないか! そんなんでオレとやろうってのか!?」

「身に何も纏う事なければ雌魔王と互角! 度し難き退屈よりの解放よ!」

「あああああん!?」

 

 波裸羅の挑発に、アトーフェの青い肌はみるみる朱が浮かぶ。

 先程から渦を巻いていた殺気は、常人なら心臓が止まる程濃く変容していた。

 

「はよ参れ! 阿呆(・・)魔王! その蕾の奥を掻き出してやろうぞ!」

 

 ブチっと、何かが切れる音がする。

 怒髪天を衝いたアトーフェが、猛烈な勢いで腰から剣を抜き放った。

 

「ぶっ殺す!!」

 

 地を抉る程の踏み込みで波裸羅に突進するアトーフェ。

 激烈たる横薙ぎが、波裸羅の脇腹へと吸い込まれた。

 

 ドムッ! と重たい音が練兵場に響く。

 アトーフェの剛剣は波裸羅の脇腹に直撃していたが、その高密度な肉体はアトーフェの剣をギリリと咥え込んでいた。

 

「ッ!? 抜けねぇ!?」

「いかに雌魔王! 波裸羅の締め付け!」

 

 ギリギリと肉が刃を軋ませる音が響く。苦悶の表情を一切浮かべず、余裕に満ちた表情を浮かべる現人鬼。

 アトーフェの剛力すら咥え込む尋常ではない肉体に、周囲は再び息を呑んだ。

 

「今度はこちらが参るぞ!」

 

 尚も剣を握りしめるアトーフェに、波裸羅は勢い良く腕を振りかぶる。

 そのまま、アトーフェの腹部を平手にて打ち抜いた。

 パアンッ!、と乾いた音が鳴り響く。鎧越しにただ平手を打たれただけのアトーフェは、ニ、三歩後ずさるも何らダメージの無いその攻撃に拍子抜けした表情を浮かべた。

 

「なんだその気の抜けた張り手は! 舐めてん──」

 

 そう言った刹那、アトーフェの口内から臓物が勢いよく飛び出した(・・・・・・・・・・・・)

 

「うぶぅッ!」

「アトーフェ様!?」

 

「忍法“渦貝(うずがい)”! その美しい臓物(モツ)、悶えさせてみせよ!」

 

 忍法“渦貝”

 

 大地からの反作用を拇指裏より捻りを加えつつ掌へと伝達させ、臨界寸前の大地力を余す所無く目標へと浸透させる現人鬼の絶技。その威力は鎧越しでも十分にアトーフェへと届いていた。

 

「ゴァアッ!」

 

 しかしアトーフェは口中からまろび出る己の臓物を両手にて掴み、そのまま自身の剛力にて強引に臓物を腹中へと押し戻す。

 

「剛力で臓物(モツ)を引っ込めたか! だが我が螺旋は未だ胎内(なか)で渦を巻いておるぞ!」

「ぐぐ……ギ……!」

 

 苦悶の表情を浮かべるアトーフェ。その体内では現人鬼が放った渦貝が大蛇の如くのたうち回り、アトーフェの内臓をかき回していた。

 

「どう凌ぐ! 雌魔王!」

 

 歯を軋ませ、螺旋に耐えるアトーフェ。その姿を見て波裸羅は愉悦に満ちた表情を浮かべる。

 苦悶の表情を浮かべるアトーフェは、着装していた胸甲を剥ぎ取り、身につけていた襯衣を勢い良く破り捨てた。

 波裸羅に負けずとも劣らない程の美しく、大きな乳房を晒し、片膝を突いたアトーフェは歯を食いしばらせ、己の腹部に手刀を添える。

 

「ガアァァァァァッ!!」

 

 そして、裂帛の咆哮と共に、アトーフェは手刀にて自らの腹を真一文字に斬り裂く(・・・・・・・・・・・・・・)

 

 

 魔 界 で 割 腹 !

 

 

 自ら腹を掻っ捌いたアトーフェは己の腸を引き千切り、その鮮血に濡れた腸を床に打ち捨てる。床に打ち捨てられたアトーフェの腸は、体外に排出されても未だ大蛇の如くのたうち回っていた。

 アトーフェはそれを一瞥し、不敵な笑みを波裸羅に向ける。

 

「成功だ!」

「重傷です!」

 

 不敵に笑うアトーフェにムーアは思わず声を上げた。

 不死魔族の中で特に強力な再生能力を持つアトーフェ。四肢がバラバラになり、上半身を強力な魔術で吹き飛ばされても即座に再生する程の回復力を誇っていたが、流石に臓物を全て抜き出す凄惨な光景は、ムーアにその異常な再生能力を忘れさせる程の衝撃を与えていた。

 

「臓物がまろび出ても死なぬとは! ガチで不死身じゃの!」

「ハッ! お前の技がオレの中に入って、臓物出して帳消しにしただけだ!」

 

 アトーフェの腹部からシュウシュウと煙が上がる。尋常では無いその再生能力は、瞬く間にアトーフェの臓器を再生せしめ、やがてその美しい肢体は常の姿を取り戻していた。

 

「痛くねえ! ものすげえ痛くねえ!」

 

 両手を大きく広げ、大見得を切るアトーフェ。

 

「オレは“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバックだ! この程度じゃ死なん!」

 

 その威容を受け、波裸羅は静かに瞑目し、不気味な嗤いを浮かべた。

 

「うふ、うふふふふ」

「何がおかしい!?」

「“端麗人(きらぎらびと)”と同じく永遠の命を持つ者か……うふふふふ」

 

 波裸羅はその両眼をかっと見開く。

 不死魔王に負けず劣らずの大美得を切った。

 

「よっく聞け! 不死魔王!」

 

 

「地獄に落ちる“覚悟”も無しに、この波裸羅と同等口(ためぐち)叩くまいぞ!」

 

 

「ッ!」

 

 波裸羅の芯を突いた美声が響く。

 不死に胡座をかくアトーフェにとって、その言葉は今まで受けたどの攻撃よりも鋭い一撃であった。

 

「クソがぁッ!」

 

 激高したアトーフェは波裸羅に躍りかかる。その猪突進を波裸羅はひらりと躱し、後方へと跳躍した。

 

「逃げんなこのヤロウ!」

「うふふふ。とはいえ、確かにこのままでは不死を殺すのはちと難しいの」

 

 波裸羅は自身の腹部に埋まるアトーフェの剛剣を引き抜く。鮮血に濡れた刀身をひと撫でし、その切っ先を自身の腹部に押し当てた(・・・・・・・・・・・)

 

「ふむっ!」

「なにッ!?」

 

 ずぶり、と波裸羅は腹腔内に剛剣を埋める。

 ずぶずぶと剣が埋まるにつれ、波裸羅の肉体が徐々に……徐々に異様な様相へと変質を遂げていく。

 尋常ではない波裸羅の姿を、この場にいる全ての者が呼吸を忘れるかの如く見入っていた。

 

「うふふふふ……これは、切腹にあらず……!」

 

 

「無双化身忍法の儀式なり!」

 

 

 アトーフェを始め周囲が困惑する中、波裸羅は構わず己の肉体に剣を埋めていった。

 剣が完全に波裸羅の体内へと吸収される。

 現人鬼に埋まりし刃は、熱血に溶融(まじわ)りその肉体を玉鋼(はがね)へと変えていったのだ。

 

 怨々たる日ノ本言葉(・・・・・)が辺りに響く。

 地獄の底から呻くようなその声色に、魔族達は久しく感じていなかった“恐怖”に苛まれた。

 

 

 忌々しきかな

 

 世に類なき見目形(みためかたち)

 

 百鬼夜行の頂に

 

 魔界に咲く黒薔薇(くろそうび)

 

 おぞましき異界の化外者ども

 

 一日に万頭括り殺さむ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「怨身忍者“霞鬼”見参!」

 

 

 

 突如現出した霞鬼の“睨み”一閃にて、ムーアを含めた親衛隊全員の金玉が縮み上がる!

 それは捕食者に子種を取られまいとする、凡そ全ての生物が持つ防御本能であった。

 

 捕食者(霞鬼)が放つ猛烈な殺気の中、ただ一人血気盛んなのは“不死魔王(アトーフェ)”のみ。

 

「アハ」

 

「アハハハハーッ!」

 

 霞鬼の異形なる姿を見て、快活に笑うアトーフェ。

 その瞳は青白い炎の如く燃え上がっていた。

 

「おもしれえ! 変身するヤツと戦うのは初めてだ!」

 

 アトーフェはムーアから替えの剣を奪い取る。

 正眼に構えたアトーフェは、不治瑕北神流の極意の全てをこの鬼へとぶつけんが為、闘気を全力で解放した。

 

 不死魔王が放つ圧力を悠然と受ける霞鬼。

 いつの間にか現出していた胴田貫を抜き放ち、同じく正眼に構える。

 

 鬼と魔王。

 二匹の怪物はその牙を剥き出しにし、まさに互いの喉笛を喰い千切らんとしていた。

 

「参れ! 雌魔王!」

「応ッ!」

 

 重爆音が鳴り響く。

 

 怪物同士の噛み合いは、地獄が現出したかのような惨憺たる有様を見せていた。

 

 

 

 この日、ネクロス要塞上層部は鬼と魔王の戦いで無惨な姿へと変わり果てた。

 戦闘要塞としての機能が失われる程の激しい戦いは、目撃した下層部に住まう住民が“天地が覆る天災に襲われた”と誤認する程であった。

 

 

 そして、住民達はやがて仰天の事実を耳にする事となる。

 

 

 

 甲龍歴420年

 魔大陸ガスロー地方を統べる“不死魔王”アトーフェラトーフェ・ライバックは、異界からの来訪者“現人鬼”波裸羅の軍門に下ったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

「というお話だったのさ……ってあれ?」

 

 詩吟を終えた吟遊詩人がふと顔を上げると、それまでの人だかりが嘘のように消え去っていた。

 一心不乱に歌う詩人には気づけぬ事であったが、臓物がまろび出たあたりから徐々に聴衆は散ってしまっていたのだった。

 

「トホホ……まぁあの御方の話は万人受けする話じゃないよねぇ」

 

 おひねりを入れる為の容器が空なのを見て、詩人はがっくりと項垂れる。

 今日は砂糖水で凌ぐか……と、消沈する詩人。不死者(アンデッド)のような暗い表情を浮かべながら撤収作業を行っていると、ふと自身を見上げる幼い少女に気付いた。

 

「おもしろかった!」

 

 詩人を見上げる幼女は目をキラキラと輝かせる。

 大人でさえ顔しかめる無惨な内容を、この幼女は純粋に楽しんでいた。

 やがて幼女はポケットの中からいそいそと一枚のアスラ銅貨を詩人に手渡した。

 

「あれま。何ていうか、変わった子だね」

 

 ありがとう、と言って詩人は幼女から丁寧な手つきで銅貨を受け取る。

 幼い手から渡された拙い報酬であったが、詩人は真心を込めて感謝の意を伝えていた。

 

 銅貨を手渡した幼女は、詩人の隣にちょこんと座る。

 変わらずキラキラと目を輝かせ、詩人に物語の“後日談”をせがんだ。

 

「詩人さん、はらら様はいまなにしてるの?」

 

 幼女の無垢な様子を微笑みながら見つめる詩人。

 柔らかい髪をひと撫でし、魔大陸がある方向へと顔を向けた。

 

「そりゃあ、そのまま魔大陸でぶいぶい言わせて──」

 

 

 視線の先に、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な姿を持つ一人の若者がいた。

 真紅の総髪を美麗に靡かせ、身に纏う綺羅びやかな陣羽織を揺らし、力強く立つその人物は、どうみても詩人が知る“現人鬼”その人であった。

 

「久しいの! 詩人の!」

「は、はら、はらららら」

 

 パクパクと口を開け閉めし、震える指で現人鬼を指し示す詩人。

 先程までの壮麗な詩吟姿とは打って変わり、滑稽な様相を見せていた。

 

 現人鬼の姿を見留めた幼女は、その足元にトコトコと駆け寄る。

 無垢な瞳で、現人鬼の美しい顔を見上げた。

 

「あなたがはらら様?」

「然り!」

 

 現人鬼は流暢な人間語で幼女に応える。

 足元に駆け寄る幼女を、勢いよく抱き上げた。

 

「わぁ!」

 

 抱えられた幼女はその美しい髪に顔を埋める。

 花や果実を絞り出したかのようなみずみずしい芳香に、幼女の鼻はくすぐられた。

 

「はらら様、いいにおい!」

「当然じゃ! “えちけっと”は大事じゃから喃!」

 

 肩に幼女を乗せ、その柔い頬を撫でる現人鬼。

 微笑ましいその様子を、詩人は恐ろしい物を見るかのような目つきで見つめる。現人鬼の本性を知る詩人にとってこの状況は全く微笑ましくなく。

 おずおずと、死人の口から出るようなか細い声で現人鬼に話しかけた。

 

「あの、波裸羅様……いたいけな幼女を食べちゃうのは流石にどうかと……」

「戯け!」

「ぎゃふん!」

 

 現人鬼の手刀が詩人の頭に落ちる。

 本気ならば熟した瓜のように詩人の頭は苛まれていたであろうが、この日の現人鬼は多少の戯言で機嫌を損ねるような事は無かった。

 

「ていうかなんでここにいるんですか!? 魔大陸にいるんじゃなかったんですか!?」

「うふふふふ」

 

 頭を擦りながら声を荒らげる詩人に対し、現人鬼は幼女を抱えながら不敵な笑みを浮かべる。

 

「波裸羅は統治はせん。ただひたすら強者と享楽を追い求めるのみ!」

 

 現人鬼の美声が辺りに響く。先程の詩人の謡声とはまた違った誘引力を放っていた。

 

「魔界は温羅の雌魔王にそのまま任せたわ!」

「は、はぁ……」

 

 そういえばこの御方はこういう人だったな……と、詩人は疲れた表情を浮かべる。

 六年前に出会って以来、奔放な生き様を見せ続ける現人鬼にはいつまでたっても慣れる事は出来なかった。

 

「詩人の!」

「は、はい!」

 

 はっと顔を上げる吟遊詩人。

 “現人鬼”波裸羅の美しい横顔は、蒼天の空の元でさらにその壮麗さを増しており、吟遊詩人はしばしその美顔に見とれていた。

 

 

 やがて現人鬼は美笑を浮かべ、この素晴らしい異世界を祝福するかのように空を見上げた。

 

 

 

 

「呑みに参るぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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双兎篇
第十四景『仰天愚息泥沼湯殿(ぎょうてんぐそくどろぬまのゆどの)


 虎と死神の死闘から一週間が経った。

 深手を負ったウィリアムは一度は覚醒するも、その後は野生動物が傷を癒やすかの如く昏々と眠り続けていた。

 

 中々目を覚まさない若虎に、グレイラットの家族はどうしようもなく不安な日々を過ごす事となる。

 特にアイシャは毎日つきっきりで昏睡状態のウィリアムの世話をしていた為、シルフィエットやノルンが逆にアイシャの心配をするほど心身共に擦り減っていた。

 だが、数年ぶりに安らぎを得た虎の寝顔は穏やかな物であり、北神流の秘薬の効果もあってその肉体は徐々に瑞々しい生命力を取り戻しつつあった。

 

 

「ウィル兄ぃ、おはよう」

 

 朝。水を張った桶と手拭を手にしたアイシャが、ウィリアムが眠る部屋へと入る。

 リーリャから仕込まれたアイシャのメイドとしての佇まいは、10歳の少女とは思えないほど落ち着いた物であり、その姿は瀟洒なメイドのそれであった。

 静かな足取りでウィリアムが眠るベッドへと向かう。巣で眠る虎はアイシャが近づいても規則正しい寝息を立て続けていた。

 

「ウィル兄ぃ、ちょっとごめんね」

 

 アイシャはウィリアムにかけられた毛布をそっとめくった。包帯が巻かれた上半身と共に無数の疵痕が露わになる。死神に深々と抉られた箇所以外にも残る疵に、虎の歴戦の痕が見て取れた。

 縱橫に走る疵痕を、アイシャはそのか細い指でそっと撫でる。

 

「何度みても、凄い傷だね……」

 

 湿った手拭でウィリアムの体を丁寧な手つきで拭いながら、アイシャは切なげな表情を浮かべた。

 転移してからの虎の壮絶な生き様を匂わせるその痕と、記憶とは違う抜け殻のような白髪を見て、アイシャの胸に様々な感情が湧き上がる。

 

 どうして、ウィル兄ぃだけこんな酷い目に会うの

 どうして、ウィル兄ぃだけひとりぼっちだったの

 どうして、ウィル兄ぃだけこんなにも変わってしまったの

 

 どうして、ウィル兄ぃは、あの時あたしに──

 

 胸を締め付けるような悲しみが、アイシャの胸に湧き上がる。

 ウィリアムに七丁念仏を突きつけられた際に感じた辛さ、悲しさ、怖さを思い出したアイシャは、ウィリアムの体を拭う手を止めてその可憐な唇をきゅっと結んだ。

 

 目の前に横たわるウィリアムを見つめる。

 その寝顔はもうひとりの兄、ルーデウスより父パウロによく似ていた。だが、ルーデウスやパウロが見せる陽気さは一切感じられない。

 穏やかな顔つきで眠る虎であったが、纏う空気は刀剣を思わせる怜悧さを放っており、獰猛な肉食獣のような近づき難い雰囲気を漂わせていた。

 

(でも──)

 

 アイシャは思い起こす。

 

 アイシャ、と名前を呼んでくれた。

 美しくなったな、と慈しんでくれた。

 泣き喚く自分の頭を、小さかったあの頃のように優しく撫でてくれた。

 

「もう、あんなひどい事しちゃ嫌だよ……」

 

 責めるように、少しばかり力を込めて虎の肉体を磨くアイシャ。

 

 自分に剣を突きつけ、死神と血みどろの死闘を演じたウィリアム。

 自分とノルンを、優しく包んでくれたウィリアム。

 

 どちらが本当の兄の姿なのだろうか。

 いくら考えても、アイシャにその答えを見つける事はできなかった。

 

 

「……よし! 今日も綺麗になったよ!」

 

 やがて虎の肉体を磨き終えたアイシャは、毛布を掛け直しつつそれまでの沈んだ空気を吹き飛ばすような快活さでウィリアムに語りかける。

 アイシャの活気を受けても尚、虎は眠り続けていた。

 

「もう。いい加減起きなきゃダメだよ、ウィル兄ぃ」

 

 朝寝坊する兄を起こすかのように優しく声をかけるアイシャ。

 虎の返事は無い。しかし、アイシャは目を覚まさなくても大好きな兄がそこにいるだけで、どこか満たされるような気持ちになった。

 

 虎の眠るベッドに腰掛け、まじまじとその寝顔を見つめる。

 傷を癒やす虎は少女がいくら見つめてもまったく起きる気配を見せなかった。

 

「……ちょっとだけ」

 

 アイシャはウィリアムに掛けられた毛布の中におずおずと潜り込む。

 親猫の元で子猫が丸まるように、ウィリアムの腕枕に収まった。

 

「えへへ」

 

 アイシャはウィリアムが発するあたたかい匂いを胸いっぱい吸い込む。

 安心感と、多幸感に包まれたアイシャはそのまま目を瞑り、ウィリアムの体温を感じ続けてた。

 

(ウィル兄ぃの匂い、昔と変わらないな……)

 

 傍で眠るウィリアムの横顔を見つめながら、アイシャは物心がついたばかりの幼い頃を思い出す。

 こうしてウィリアムにじゃれつき、腕の中に収まっていた時はそのまま眠ってしまう事が多々あった。

 悪戯がバレた時や、ノルンと喧嘩して母リーリャに叱られた時も、こうしてウィリアムに包まれ、慰められていた。

 穏やかな笑みを浮かべ、ただ黙って自分の頭を撫でてくれるウィリアムに目一杯甘えていた。

 

 優しくて、幸せな時間──

 

 そんなアイシャの幸せな時間は、転移事件を機に唐突に終わりを告げた。

 

 

 アイシャはシーローン王国にリーリャと共に転移し、パックス王子の元で軟禁状態にあった時はひどく落ち着かない日々を過ごしていた。

 王宮の侍女達はアイシャの境遇に幾分か同情し、決して無碍に扱う事はしなかったが、常に張り詰めたリーリャにメイドとしての立ち振舞いを厳しく躾けられていた。

 

 やがて、ルーデウスが颯爽とアイシャの前に現れる。

 一時はルーデウス自身もパックスに囚われる事もあったが、パックス王子の兄であるザノバ王子の協力を得たルーデウスは、逆にパックスをシーローン国外追放に追い込み、無事アイシャ達をパックスの手から救い出した。

 初めて出会ったもう一人の兄は、憧れを抱かせる程頼りがいのあるまさにアイシャにとってヒーローだったのだ。

 

 その後は、ザノバ王子の親衛隊であるジンジャー・ヨークの護衛を受けて父パウロが待つミリスへと向かう。

 行きの馬車の中でそれまでの不安から解放されたリーリャに抱きしめられ、母の愛情を再確認したアイシャはすっかりシーローンでの日々を忘れ、家族が揃う明るい未来に思いを馳せる。

 大好きな兄達にメイドとして仕え、幸せな時間をまた過ごしたいと思いながら馬車に揺られていた。

 

 ミリスでの日々はシーローンよりも辛かった。

 

 自身より明らかに劣るノルンを優遇し続けるラトレイア家の人々。

 リーリャも自分の娘よりもノルンを優先するように、再びアイシャに厳しい態度で接していた。

 パウロは公平にその愛情を注いでくれたが、転移事件の不明者捜索の活動に忙殺されたのもあってか、何かにつけて卒なくこなすアイシャよりノルンに構う事が多かった。

 

 それでもアイシャは粛々とメイドとしてのスキル、そして剣術と魔術、勉学と己を磨き続けた。

 いつかまた、ルーデウス……そして、ウィリアムに褒めてもらうために。

 少女の切なる思いと、優秀な兄に引けを取らない才能がアイシャを辛い日々を支えていたのだ。

 

 そして、ルーデウスを頼ってノルンと共にシャリーアへ来た。

 アイシャにとってノルンはひどく不公平な存在であり、自分よりも遥かに劣るこの腹違いの姉妹が何事も自分より優先されるのが嫌で堪らなかった。

 だから、そんな不公平なミリスからシャリーアへ移った事でアイシャは本当に自分の実力が評価され、兄に仕えながら好きに生きていけると信じていた。

 

 アイシャは優秀だった。

 一を聞き十を知る賢い少女だった。

 そんな少女が、転移事件から芽生え始めた人を評価する時の差別が、シャリーアに来て増々増長したのは仕方ない事なのかもしれなかった。

 

 アイシャは必ず能力で人を判断した。

 そんな他人に対して絶対評価を下すようになった事が、アイシャに“理屈抜きで人を好きになる”という気持ちをわからなくさせた。

 愛がわからなかった。

 だから、ノルンが抱いていたルイジェルドに対する淡い恋心も理解できなかったし、ルーデウスとシルフィエットが一緒になったのも表面的な事実としてしか受け入れられなかった。

 

 ルーデウスは優秀だ。とてもじゃないが、アイシャでは敵わない。

 だから好意を持って接する事ができた。シルフィエットもそう。

 でも、ノルンは優秀じゃない。

 剣術も、魔術も、勉学も何もかもが自分より劣るノルンが、ルーデウス達に“愛されている”という事が理解できなかった。

 

「ウィルにぃ……」

 

 アイシャはウィリアムの顔をそっと触れる。

 ウィリアムは……優秀なのだろう。

 とてつもなく、強い人なのだろう。

 でも、ルーデウスとは全く異なる……いや、自分がシーローンやミリスで出会ってきた人達とは全く違う異質な空気を纏わせていた。

 

 まるで、何かに対して狂気を孕んだ忠誠を誓っているかのような──

 

 死神との一戦を思い出す。あの時のウィリアムは、アイシャを自失させる程の狂気的な価値観を見せつけていた。

 だから、アイシャの絶対評価では測る事は出来なかった。

 あれだけ焦がれていたウィリアムと再会し、そのウィリアムが自分とは異なる物差しを持っていた事に気付いたアイシャは、ウィリアムにどんな気持ちを持てばいいのかわからなくなっていた。

 ウィリアムを見つめ続けていく内に、この“大好きなウィル兄ぃ”の事が好きなのか、それとも嫌いなのか。

 アイシャはわからなくなっていた。

 

 でも、心に宿るこの安らかな気持ちは何なのだろう。

 

 人を好きになる、誰かを愛する……。

 そんな、ふんわりとした物を越えた暖かい“火”が、ウィリアムの体から感じられた。

 

(好きになるって、こういう事なのかな……)

 

 アイシャはルーデウスやノルンの気持ちが、ほんの少しだけ理解出来たような気がした。

 

 やがて、安心しきったアイシャは日々の疲れが溜まっていたのだろうか。

 そのままウィリアムの腕の中で、穏やかな寝息を立てていた……。

 

 

 

 

 

 

「アイシャちゃん、ここにいるのかな?」

 

 ウィリアムの部屋へ行ったきり中々戻らないアイシャを心配し、シルフィエットが部屋へ顔を出す。

 何か不測の事態が起こったかと思い、やや表情を強張らせていたシルフィエットであったが、スヤスヤとウィリアムに寄り添って眠るアイシャの穏やかな寝顔を見て、たまらなく愛しい物を見るかのように表情を緩めた。

 

「ふふ……安心しちゃったんだね」

 

 シルフィエットは起こさないように静かに兄妹が眠るベッドへ近寄る。

 このままこの幸せな光景を見つめ続けたい衝動に駆られたが、今日は生憎と朝から来客が来ているので流石にアイシャの力を借りねばならぬ状況だった。

 

 静かに、アイシャを起こすべくその柔らかい朱髪に手を伸ばす。

 シルフィエットの細い指が、アイシャの髪に触れようとした、その瞬間──

 

 

 みしり

 

 

「ぃッ!?」

 

 シルフィエットの細い腕に、虎の爪が食い込んでいた。

 まるで親猫が子猫を守らんとするかのように、シルフィエットの腕を万力の如き力で掴んでいた。

 

「い、痛いよッ! ウィル君ッ!!」

 

 みりり、と己の腕が軋む音に、シルフィエットは恐怖と驚愕が混ざった悲鳴を上げる。

 アイシャを庇うように体を起こし、シルフィエットの腕を掴むウィリアムの瞳に光は宿っておらず。

 野生の虎が本能で虎子を守るかのようなこの行動に、シルフィエットは痛みと恐怖で狼狽し続けるしかなかった。

 

「ん……シルフィ姉……?」

 

 シルフィエットの喚く声に反応したのか、アイシャがのそりと目を覚ます。

 直後に目に飛び込んで来た光景に、朱色の少女は目を白黒させ大慌てでウィリアムの腕に縋った。

 

「ウィ、ウィル兄ぃ! おはよう! じゃなくて! 手を放して!」

「痛いよ! ウィル君!」

 

 アイシャがウィリアムの腕に縋り、必死になってシルフィエットから剥がそうとするにつれ、徐々に虎の瞳に光が宿り始める。

 やがて、虎ははっとした表情で締め付けていた手を放した。

 

「お、おはようウィル君……寝ぼけちゃったのかな?」

「ウィル兄ぃ……」

 

 自身の腕に治療魔術をかけながらやや引き攣った笑みを浮かべるシルフィエット。

 心根の優しいクオーターエルフの乙女は目に涙を溜めるも、虎の理不尽な暴力に全く憤るような事はしなかった。

 その様子を見つめていたウィリアムは、自身が仕出かした事に気づき、深々と頭を垂れた。

 

「申し訳ありませぬ……シルフィ殿(・・・・・)

「アハハ……ちょっと痛かったけど、もう治ったから平気……って」

 

 掠れた声でシルフィエットに謝罪するウィリアム。シルフィエットは腕を擦りつつウィリアムに苦笑を向けていた。

 義姉に大事が無かった事に安堵したアイシャはホッとした表情を浮かべ、寝台の傍らに置いてあった水差しからコップに水を注ぎウィリアムに手渡す。

 

「ウィル君。よくボクがシルフィだって気づいたね?」

 

 あの頃……ブエナ村でウィリアムと一緒にいた頃は、シルフィエットの髪は緑色であった。

 悪名高いスペルド族を連想させた、あの緑髪。

 それが、転移事件の際にアスラ王宮へと転移しモンスターとの遭遇戦で限界まで魔力を行使した結果、今のシルフィエットの髪色はウィリアムと同じく真っ白な白髪へと変質していた。

 

 アイシャから受け取った水をゆっくりと飲みながら、ウィリアムはシルフィエットの髪に視線を向ける。

 

「……視れば、解りまする」

「ウィル君……」

 

 シルフィエットはあの頃のブエナ村で感じたウィリアムに対するあの想いが、再び湧き上がるのを自覚する。

 本当の意味で自分の事を視てくれたのは、父と母、ルーデウス以外ではウィリアムだけだった。

 心の深い所で繋がった絆を感じたシルフィエットは、慈しむような眼差しでウィリアムを見つめる。

 変質してしまった自分をひと目で気付いてくれたことがたまらなく嬉しく、ウィリアムに乱暴に掴まれた腕の事など最早どうでもよくなっていた。

 

 しかしウィリアムが目の前の白髪の乙女をブエナ村で共に過ごした緑髪の少女だと気づけたのは、そのような感傷的な理由では無く全く別の理由からであった。

 

 骨子術の達人は“透かし”を用いる事が出来る。

 虎眼流はこの骨子術の術理を取り入れ、その剣術を無双の域にまで練り上げていた。

 当然ながらウィリアムの眼力は骨子術の達人のそれと引けを取らず、その慧眼はシルフィエットの髪の色がどう変質しようが関係なくその正体を捉える事が出来た。

 その美しい内臓までも見透かし、シルフィエットが妊娠している事もひと目で見抜いた。

 また、シルフィエットがアイシャと共にいる事で、その子が誰との子なのかも容易に想像がついた。

 

「ウィル兄ぃとシルフィ姉、ほんとの姉弟みたい」

 

 乙女と若虎の白髪を見比べ、アイシャはやや嫉妬が混ざった声色で呟く。

 余人が見れば血の繋がりはアイシャではなく、シルフィエットにあると誤解しかねない程、両者の髪の色は透き通るような白色をしていた。

 髪の色等気にしたこともなかったアイシャだったが、この時ばかりは自身の朱い髪を真っ白に染め上げたくなる衝動に駆られていた。

 

「ここは……兄上の家処で?」

「そうだよ。ルディとボクの家。そして、ウィル君達の家でもあるんだよ」

「それがしの……?」

「うん。ルディが、グレイラットの家族を迎える為に用意した家なんだよ」

 

 慈しみを込めた眼差しでウィリアムを見つめるシルフィエット。

 ゆっくりと、転移事件からの経緯をかいつまんでウィリアムに語りかける。

 ルーデウスと再会し、結婚し、家を買い……そして、ルーデウスがゼニスを救いにベガリット大陸へと旅立った事を。

 シルフィエットの話を無表情で聞いていた虎であったが、母の話が出てきた時は僅かに表情を歪めていた。

 

 しかし、虎は即座に表情を元に戻し、瞑目する。

 瞳の奥に、母……ゼニスの甘く、馨しい温もりを思い出したウィリアムであったが、心の貝殻の深層に燻る“増悪の種火”が即座にその馨しい温もりをかき消していた。

 

「それがしはどうしてここへ……?」

「えっと、それは……」

 

 シルフィエットは死神との果し合い後の顛末を、慎重に言葉を選びながらウィリアムに語る。

 話を聞く内に、ウィリアムはみしりと拳を握りしめていた。

 

(情けをかけられた、だと……!)

 

 またしても己の不甲斐なさ、そして死神を仕果たせなかった事がウィリアムの増悪の種火を瞬く間に憤怒の業火へと変えていった。

 憎しみが、ウィリアムの中で渦を巻いていく。転生してからの増悪の対象達が、虎の心を蝕んでいた。

 

 最大流派の長としてあるまじき卑劣な手を使った剣神。

 憎き柳生と同じように卑劣な諫言で己を嵌めた人神。

 流れ星を封じ己に致命傷を負わせた死神。

 

 憎い、憎いあやつらを、何が何でも妖刀の餌食にせねば気が済まぬ。

 

 死神が負けを認めていた事を知らないウィリアムであったが、一度勝った相手にも吐き気を催す程の増悪をぶつけていた歪な思想が今生でも消える事は無く。

 増悪の対象が生きているだけでも、到底許す事は出来なかった。

 妹と触れ合った事で人として大切な感情を取り戻したかのように見えた剣虎であったが、深層では未だ仇敵を掃滅せんが為にその狂気の炎を燃やし続けていた。

 帰る家があるという事も、復讐の鬼と化した虎にとってはどうでも良いことであった。

 段々と心の貝殻の奥底で沸き上がる増悪の業火が、ウィリアムの表情にも現れ始めていた。

 

「ウィル兄ぃ、怖い顔してる……」

 

 ふと、傍らで泣きそうな顔で自身を見つめるアイシャに気付く。その可憐な手を、ウィリアムの手に重ねていた。

 

「嫌だよ……」

 

 アイシャはポツリと切なげな声を上げる。

 その姿を見て、ウィリアムは己に再び燃え上がった増悪の業火が、みるみる鎮火されていくのを感じた。

 家族の“愛情”を否定しきれない虎の歪な“矛盾”

 前世の負の感情に囚われていた虎の中で、今生で芽生えた新たな気持ちがせめぎ合っていた。

 

 ウィリアムはアイシャの可憐な顔をその鋭い眼差しで見つめる。

 アイシャの顔が、前世の娘“三重”の面影と重なっていた。

 

 

 やがてウィリアムはせめぎ合う二つの感情から逃れるように、のそりとベッドから起き上がった。

 

「ウィル兄ぃ、まだ無理しちゃ! 傷口だって……」

「大事ない」

 

 心配するアイシャを制し、力強い足取りで立つウィリアム。

 深手を負ったとは思えない程、精強な生命力を発する虎の姿にアイシャとシルフィエットは静かに圧倒されていた。

 

「湯」

 

 ウィリアムはボソリと呟く。

 優秀なアイシャはその一言で、兄が何を求めているのかを瞬時に理解した。

 

「お湯……? お風呂のこと?」

「左様」

 

 アイシャの言葉にウィリアムは首肯する。

 それを見たアイシャは沈んでいた表情を打ち消し、喜々とした表情を浮かべた。

 早速ウィリアムの為に働く時が来たと、嬉しそうにウィリアムの手を掴んだ。

 

「ウィル兄ぃ、あたしが案内してあげる! お背中も流してあげるね!」

「いらぬ」

「えっ……」

 

 即座に否定を突きつけられたアイシャはまたも表情を一変させる。

 ころころと忙しく表情を変える妹を見て、ウィリアムは思わず笑みを漏らした。

 

「アイシャ。飯を用意してくれぬか」

 

 優しげにアイシャに話しかけるウィリアム。

 アイシャは再びその愛くるしい表情をパッと輝かせ、元気良くウィリアムに応えた。

 

「うん! 美味しい朝ごはん用意してるね!」

 

 パタパタと台所へと向かうアイシャを、穏やかな眼差しで見つめるウィリアム。

 その様子を、シルフィエットもまた慈愛に満ちた眼差しで見つめていた。

 

「ウィル君、お風呂はあっちだよ」

 

 シルフィエットから風呂場の場所を教えてもらったウィリアムは一つ目礼し、確りとした足取りでルーデウス邸の風呂場へと向かった。

 

 

 一人残されたシルフィエットは一息つくと、ウィリアムが眠っていたベッドに腰掛け、体温が残るシーツを撫でた。

 

「まだまだ話したい事は沢山あるんだ……お礼もまだ言ってないしね」

 

 転移してから必死になって頑張ってこれたのも、ルーデウスと一緒になれたのも幼少期のあの一言がシルフィエットの原動力となっていたのは疑いようもなく。

 また、ウィリアムが転移してから今まで何をしていたのかも聞きたかった。

 そして、ウィリアムが自分と本当の家族になれた事も話したかった。

 

「ふふ……叔父さんになっちゃったね、ウィル君……」

 

 まさか既に妊娠している事を見抜かれていたとは露知らず、幸せそうな顔で自身の腹を撫でるシルフィエット。

 近い未来の幸せな家族とのひと時を想像し、増々その顔を緩めていた。

 

 

 しばらく時を忘れて幸せな情景を思い浮かべていたシルフィエット。

 ふと、何かを忘れている事に気付いた。

 

「あ!」

 

 突然、シルフィエットは素っ頓狂な声を上げる。

 ウィリアムは風呂場へ向かった(・・・・・・・・・・・・・・)

 そして、来客も朝風呂に浸かりに来ていた(・・・・・・・・・・・・・・・)

 来客が風呂に浸かっている間に、来客分の食事もアイシャと共に用意するはずではなかったのか。

 

 みるみる青ざめたシルフィエットは、既に惨劇が幕を開けていたことに気づけぬまま、風呂場にいる黒髪の少女の名前を呟いた。

 

 

「ナナホシ……!」

 

 

 

 

 

 


 

 サイレント・セブンスターことナナホシ・シズカは、ルーデウス邸の風呂へ浸かりに来る事が多々あったが、稀にこうして朝風呂も浸かりに来る事があった。

 朝っぱらから風呂に浸かりに来る事は流石に家人の迷惑になるだろうかと思っていたが、以前ルーデウスにそれとなく朝風呂を浸かりたい旨を話したところ快く許しを得た事から、一週間に一度はこうして朝風呂へと浸かりに来ていた。

 

 あの衝撃的な決闘の日から一週間。

 ルーデウス邸に赴くのは風呂に浸かりに来る事が主たる理由ではあったが、あの日以来転生者と疑わしきウィリアム・アダムスの様子を窺いに来る事が目的の一つとなっていた。

 中々覚醒しないウィリアムにやきもきしていたのはナナホシも同じであり、ウィリアムが本当に日本人転生者なのか、またあの日本刀はどのような経緯で手に入れたのかを早く聞き出したかった。

 

 ともあれ本日もウィリアムは覚醒めてはおらず。

 気長に待つしかないと悟ったナナホシは目的の一つである朝風呂を堪能する為、こうして心地よく湯船に浸かっていた。

 

「で、なんであんた達もここにいるのよ……」

「つれない事言うニャよ」

「ボスから教わったの。“裸の付き合い”はめちゃ大事なの」

 

 何故かリニア、プルセナの獣人乙女達もナナホシと一緒に湯船に浸かっていた。

 湯から覗くドルディア族特有の猫のような尻尾、犬のような尻尾をふりふりと揺らし、横に寝かせた獣耳はリラックスした様子を窺わせていた。

 

 ルーデウス邸の風呂はルーデウス自身の拘りもあり、購入してからの大規模改装でもっとも力が入れられた箇所である。

 ルーデウスがこの屋敷を購入した際は、もともと石窯もないただの洗濯兼厨房部屋と非常に殺風景な間取りであった。

 それが、改装を依頼したバシェラント公国の魔術ギルドに所属する一流建築士“大空洞”バルダの尽力により広く、趣のある風呂場へと作り変えられた。

 床にはタイルが敷かれ、風呂場の端にはたっぷりとお湯の蓄えられた大きな湯船、傾斜の付けられた溝からサラサラとお湯が流れていく。湯船は5、6人が浸かっても尚十分な余裕がある程の大きさであった。

 

 そんな大きな湯船に、何故獣人乙女達と一緒に浸かっているのか。

 リニアとプルセナは偶々授業が休講になった事を良いことに朝っぱらから街へ繰り出さんと魔法大学女子寮から元気よく出てきた。

 丁度その時に、ルーデウス邸へ向かうナナホシを目撃した。

 元々あまり絡みが無いどころか、ルーデウスが来るまでは全くといっていいほど交流がなかったリニア、プルセナとナナホシ。

 ルーデウスを中心に出来た人間関係の輪を獣人乙女達なりに大事にしようとナナホシに声をかけたのか、あるいは単に面白そうだからついていっただけなのか。

 十中八九後者だと思ったナナホシはうんざりとした表情で湯船に体を沈めた。

 

「いやー大きなお風呂ってのもなかなかオツなもんだニャ」

「大森林だと川とか湖で行水してたの。それはそれで解放的だったの」

「あっそう……」

 

 獣人乙女達の呑気な言葉に、ナナホシはじっとりとした眼を向ける。

 リニア、プルセナはお世辞にもお行儀が良いとはいえず、大きく足を伸ばして湯船の縁に体を預けていた。

 そして、ナナホシに見せつけるかのようにその大きなバストを湯に浮かべていた。

 先程から圧倒的な存在感を放つリニア、プルセナの大玉に、自身の貧相なそれと見比べてナナホシは増々表情を暗くしていた。

 

「ナナホシ~。さっきから暗い顔してどうしたんだニャ?」

「リラックスするなの。暗い顔してちゃ寛げないなの」

(あんた達のせいで寛げないのよ!)

 

 獣人乙女達の空気の読めない一言に、ナナホシの心は更にささくれる。

 元々一人でのびのびと湯に浸かりに来ていただけに、自身のコンプレックスをガンガン刺激してくるこの獣人乙女達との入浴は、ナナホシにとって全くリラックス出来る状態ではなかった。

 

 チラチラと自分の胸と獣人乙女達の胸を見比べるナナホシを見て、リニアとプルセナはニヤリと厭らしい笑みを浮かべる。

 まるで、存分に嬲れる玩具を見つけた子猫のような、無邪気且つ邪悪な笑みであった。

 

「そんなにあちし達のおっぱいが気になるかニャ~?」

「ボスも悩殺したダイナマイトボデーなの。存分にその眼に焼き付けるといいの」

「な、なによ……」

 

 ナナホシの左右を挟む込むように、邪悪な笑みを浮かべながらじりじりとにじり寄るリニアとプルセナ。

 自分が捕食者に狙われた獲物と気づいたナナホシは、とっさに湯船から上がろうと立ち上がろうとするも、俊敏な獣人乙女達に瞬く間に体を掴まれた。

 

 ちなみにルーデウスが獣人乙女達の豊満な肢体に悩殺されたという事実はない。シルフィエットと結ばれるまで不能だったルーデウスには、乙女達の肉体で劣情を催す事は出来ないという悲しい過去があったのだ。

 

「ちょ、ちょっと!」

「まあまあ。あちし達と楽しくお風呂を堪能しようじゃニャいか」

「スキンシップは大事なの。激流に身を任せるなの」

 

 ニッタリと厭らしい笑みを浮かべ、リニアはナナホシの背後に回り肩を掴む。プルセナは自身の大玉をナナホシの眼前に突きつけ、その細い脚を押さえていた。

 リニアはナナホシの慎ましい胸にスルリと手を滑らせ、思うがままに蹂躙を開始する。

 

「ナナホシはちっちゃいお胸をしてるニャー」

「い、いや! やめて!」

「ほれほれ。ここがええんかニャ?」

「アッ! どこ触ってッ!? あん!」

「感度が良いなの。リニアのガバガバおっぱいとは大違いなの」

「なんニャプルセナ。あちしと戦争したいのかニャ?」

 

 前後から己の肉体を弄ぶ獣人乙女達に、平成日本女子の平均的な体力しか持たぬナナホシでは抵抗しようもなく。

 リニアが背後から胸を蹂躙してくるのを身を捩らせて耐え忍ぶしかなかった。

 

「大人しくするニャ。これもスキンシップの一貫ニャ」

「長いものにはマカロニなの。力抜くなの」

「だ、だめっ! そこだけは!」

 

 プルセナがナナホシの両脚に手をかける。

 強引に、その股を開かせようと力を入れた。

 

「チェック重点ニャ!」

「実際御開帳なの」

「や、やめ……!」

 

 羞恥と湯当たりからか、ナナホシは顔を真っ赤にさせて力の限り抵抗する。

 しかし抵抗むなしく、獣人乙女達の無邪気なスキンシップの前に乙女の蜜壺が露わにされようとしていた。

 

 邪悪な獣達により乙女の秘所が暴かれようとしたその瞬間──

 

 ガラリと、風呂場の引き戸が開け放たれた。

 

「ニャ?」

「なの?」

「ふぇ?」

 

 乙女達は突然開け放たれた引き戸に視線を向ける。

 

 

 そこには、一糸まとわぬ傷だらけの虎が手拭を片手に佇んでいた。

 

 

 突然の出来事に固まる乙女達に構うことなく、パアンッパアンッと、小気味良い音を立て手拭を己の体に打ち付けるウィリアム。

 手慣れた手つきで桶に湯を溜め、勢い良くかかり湯を浴びる。

 全く乙女達を眼中に入れてないウィリアムのその姿は、実に堂に入った立ち振舞いを見せてた。

 

 そして、乙女達の金切り声が浴室に響いた。

 

「ギニャアアアアアッ!! なんで入ってくるニャ!!!」

「ファックなの!! アタマがスットコドッコイなの!!!」

 

 ウィリアムは悲鳴を上げる乙女達に、ギロリとその怜悧な視線を向ける。

 

「静かにせい」

「はいニャ」

「はいなの」

 

 虎の射殺さんばかりのひと睨みを受け、獣人乙女達は即座に口を噤む。

 野生の獣が持つ本能からか、絶対強者による睨み一閃は乙女達に反抗する気概を削ぎ、さながら蛇に睨まれた蛙……もとい、虎に睨まれた犬猫が如くであった。

 

 大股で湯船の縁を跨ぎ、ざぶんと大波を立て勢い良く湯船に浸かった虎は己の股間を隠そうともせず、湯船の縁に体を預けのびのびと寛いでいた。

 

「と、虎のキンタマ……!」

「ごったましかなの……!」

 

 リニアとプルセナは顔を真っ赤にしながら虎の股間を凝視する。

 獣人乙女達は男根を見るのは初めてでは無かったが、虎の凶刃は乙女達を恐れ慄かせるには十分な業物であり、男女の情欲は未だ知らぬ乙女達にとってその剛槍はあまりにも禍々しく。魔法大学のアウトローな番長を初心な生娘へと変えていた。

 

「こんなに黒くて硬そうなのは見たことねーニャ……!」

「ピッカピカのガッチガチなの……!」

 

 虎の剛槍を血走った眼で見つめる獣人乙女達。

 異様な緊張感が辺りに漂う。先程までリラックスしていた乙女達は、さながら処刑場で刑の執行を待つ科人のように震えていた。

 温かい筈の湯は、彼女達を心から暖める事は出来なかった。

 

 ふと、リニアは先程から一言も発していないナナホシに視線を向ける。

 ナナホシは……ウィリアムの肉体を見つめたまま、石像の如く固まっていた。

 

「やべーニャ。ナナホシまばたきしてねーニャ」

「ファックなの。戻って来いなの」

 

 ぺちぺちとナナホシの頬を叩くリニアとプルセナ。

 獣人乙女達の雑な献身により、ナナホシの眼に徐々に生気が宿り始める。

 

 そして、息を大きく吸い全力で叫ばんと口を開こうとした。

 

「しーっ! 大声で喚くと虎にぶっ殺されるニャ!」

「乳首もがれたくなければ静かにやり過ごすなの!」

「~~ッ! ~~ッッ!!」

 

 獣人乙女達が必死になってナナホシの口を押さえる。

 先程のなぶり殺しとは打って変わったこの三人の乙女達の関係は、もはや運命共同体といっても過言ではなかった。

 

「ナナホシ、落ち着いてよく聞くなの」

 

 ナナホシの正面から、その華奢な肩を掴むプルセナ。

 その眼はやや狂気を孕んでおり、ぐるぐると渦を巻いていた。

 

「リニアを生贄に捧げて私達だけでも生き残るなの。クレバーに生きるなの。一言“捧げる”って言うだけの簡単なおしごとなの」

「あのさぁ。あちしそろそろキレていいかニャほんと」

 

 抑揚の無い声で呟くリニア、狂気を孕んだ眼を浮かべるプルセナ、羞恥と恐怖と混乱で再び石化するナナホシ。

 乙女達のみずみずしく、青い花園だったルーデウス邸の風呂場は、今や地獄の釜茹で場と化していた。

 

 ウィリアムはちらりとリニア、プルセナに視線を向ける。

 恐怖でピンと立った耳と、湯船から出ている獣人族特有の尻尾を見てぼそりと呟いた。

 

「犬と、猫か」

 

 ウィリアムの呟きに獣人乙女達は即座に反応する。ぴしりと背筋を伸ばし、虎の尾を踏まないよう最大限に行儀良く言葉を返した。

 

「犬猫じゃないス。リニアっス」

「プルセナっス」

「リニアッス、プルセナッスか……」

 

 リニアとプルセナはウィリアムが何か間違ってるような気がしてならなかったが、虎に対する恐怖心が勝り結局は何も言えず仕舞いであった。

 

 再び沈黙と共に尋常ならざる緊張感が漂う。

 虎と湯船に共にする乙女達の精神はもはや限界に達しており、自身に待ち受ける悲惨な未来を嘆く事しか出来なかった。

 

「あちし達、このまま虎にてごめにされちゃうのかニャ……」

「きっと今夜から不眠不休(寝る暇無し)乱痴気二毛作(ずっこんばっこん)なの……」

「どうして美少女ってひどい目に合わされるのかニャ……」

「うう……うなれ2メートル……とばせ5リットルなの……」

「あちし男性不信になりそうニャ……プルセナ?」

(フォー)(スリー)(ツー)、わん、うっふんなの……」

「プルセナがどっか逝ったニャ」

 

 恐怖と緊張で耐えきれなくなったのか、被虐の妄想の世界へと旅立ったプルセナ。完全に光を失った眼でぶつぶつと意味不明な事を呟き続ける親友の無惨な姿に、リニアはこの世の全ての悲劇を見せつけられたかのような絶望に苛まれた。

 

 心という器は、ひとたび……ひとたびヒビが入れば、二度とは……

 

「って! しっかりいたせニャー!」

「なの!?」

 

 バチイインッ!と、両手でプルセナの頬を挟むリニア。

 親友の健気な精神注入掌に、プルセナは現世へと無事帰還を果たした。

 

「リ、リニア……?」

「プルセナ、戻ってこれたかニャ!? 良かった! 良かったニャ……!」

 

 プルセナを抱きしめながらにゃあにゃあとむせび泣くリニア。

 親友に救われたプルセナもまたリニアを抱きしめ、心を繋ぎ合わせた同胞の腕の中でわんわんとむせび泣く。にゃあにゃあ、わんわんと鳴く獣人乙女達の傍らで、大和撫子は依然石化したままであった。

 

 

「喧しい」

「さーせんニャ!」

「さーせんなの!」

 

 

 

 

 地獄の釜茹では、シルフィエットが大慌てで駆けつけるまで乙女達をぐつぐつと煮込み続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十五景『神君威光封入済(しんくんいこうふうにゅうすまし)女子高生(じょしこうせい)

 

「「ぬふぅ!!」」

 

 双子の北神流剣士、ナクル・ミルデットとガド・ミルデットは、その日も同時に達した。

 

 

「ナクル兄ちゃん。オーベールさんに言われてシャリーアまで来たけど、こんな事してていいのかな?」

「ちょっとくらいはいいじゃないかガド。……そういえば何でシャリーアまで来たんだっけ?」

「オーベールさんが『ぜひ北神流に欲しい逸材がいるから勧誘して来い』って。ちょうど僕らがネリスにいたから手紙が届いたんだよ」

「そっかぁ。ガドはかしこいな」

「へへへ。最近は文字の勉強もしているからね」

 

 淫売宿のベッドの上で、身に何も纏わず和やかに語らう双子の剣士。その傍らには、それぞれの相手を勤めた娼婦達が息も絶え絶えな様子でベッドに横たわっていた。

 娼婦達の身体にはいくつも痣が残り骨を折られた者もいる……事はないが、双子の底知れぬ精力を受け、全身に疲労を滲ませながらベッドに突っ伏していた。

 

「ガド、勧誘する相手ってどんな奴だ?」

 

 (ミルデット)族特有の長い兎耳を揺らしながら兄、ナクルが弟であるガドへとぼんやりとした調子で話しかける。

 それを受けたガドも長い兎耳をぴこぴこと揺らしながら応えた。

 

「ええっと、名前はウィリアム・アダムス。ムソーコガン流って流派を使うらしいよ」

「聞いたことないなぁ」

「でも、オーベールさんの手紙だと剣の聖地に一人で乗り込んで、剣帝の一人を圧倒したらしいよ」

「へぇ……!」

 

 ガドの言葉を受け、ナクルはそれまでののんびりとした調子を一変させ、全身から凍りつくような殺気を滲ませる。

 殺気をまともに浴びた娼婦達はそのまま声も立てずに失神し果てた。

 そのような刺すような殺気の中、ガドは平然とした様子でナクルに声をかける。

 

「ナクル兄ちゃん。僕らは戦いに来たんじゃなくて勧誘に来たんだよ」

「それもそっかぁ。でも、わざわざ僕らが勧誘するくらいなんだから、少しくらいは実力を確かめてみてもいいんじゃないか?」

「それもそうだね。“北王”である僕らがわざわざ勧誘しに来るくらいだもんね」

 

 ナクル・ミルデットとガド・ミルデットの兄弟は“双剣”ナックルガードという通り名で知られており、北神流王級の業前を持つ剣士達であった。が、兄弟一人一人の実力は“北聖”止まりであった。

 だが、二人揃う事で抜群のコンビネーションを見せ、聖級以上の実力を見せていた事で北神三世から“北王”として伝位を授けられた異色の剣士達であった。

 

 “北帝”オーベール・コルベット、“北王”ウィ・ター、そして“北王”ナックルガードの“北神三剣士”は、北神流屈指の実力を誇る実力者としてその剣名を広くこの世界に轟かせていた。

 

「楽しみだねナクル兄ちゃん」

「そうだな。楽しみだなガド」

 

 見た目にそぐわぬ程獰猛な気質を持つ兎達は、虎を捉えるべくその妖しい瞳をゆらゆらと光らせていた。

 

 しかし、この兎達は虎が既に神級の一人を斃していたとは露知らず。

 

 

 無邪気に笑い合う兎達は、どこまでいっても兎でしかなく、肉食獣に捕食される憐れな贄でしか無いのだ。

 

 

 

 


 

 ラノア魔法大学生徒会室

 

 ウィリアムがルーデウス邸で覚醒し、乙女達の入浴に乱入した時からニ日前の事。

 ラノア魔法大学生徒会室では四人の若者が密談めいた話し合いを行っていた。

 

「……では、ウィリアム・アダムスがルーデウス様の御兄弟という事で間違いないのですね?」

 

 生徒会長の椅子に座る一人の女性が言葉を発する。

 机を挟んで立つ二人の女性がその言葉に首肯した。

 

「はい。フィッツ……シルフィも断言していました。ルーデウス・グレイラットの弟、ウィリアム・グレイラットで間違いありません」

「それと、ウィリアムはどうやらあの“死神”を倒したとの事です。今は死神との戦いで深手を負ったらしく、意識は戻っていないようですが」

「それは……凄いですね。七大列強を打ち倒すとは」

 

 美しい金髪を靡かせ、高貴な空気を纏わせながら自身の顎に手を添えるこの女性の名は、アリエル・アネモイ・アスラ。

 アスラ王国王位継承権第二位であり、第一王子派と王宮での権力闘争に敗れ、このラノア大学に“留学”という名目で半ば都落ちをした悲運の王女である。

 

 しかし、その胸中に王位に対する野望の火は消えず。

 虎視眈々と、アスラ王国から遠く離れたこのラノアの地にて捲土重来を誓い、いずれは王位に就く為の“手勢”を集めるべく活動していた。

 

 ルーデウス・グレイラットもアリエルの目に留まった一人であり、元々の“泥沼”としての勇名に加え、学内での数々の武勇伝、そしてあの“不死魔王”バーディガーディを一時的とはいえ瀕死に追い込んだ高い戦闘力は、是が非でも自身の“手駒”として引き込みたいとアリエルは考えていた。

 だが、自身の護衛であり、命の恩人でもある友人のシルフィエットの想い人である事が判明してからはルーデウスを自身の陣営に引き込む事は考えなくなった。

 シルフィエットが無事ルーデウスと結ばれるよう、陰ながら尽力した事もあった。

 

 シルフィエットがルーデウスと結ばれた事はアリエルにとっても大変に喜ばしい事であり、主従関係を超えた友人として素直に祝福をした。

 そして、シルフィエットの境遇に深く同情をしていたアリエルは、これ以上王家の権力闘争に彼女を巻き込む事をよしとせず、結婚を機にシルフィエットの“枷”を解き放っていた。

 

 純粋に、シルフィエットには幸せな人生を歩んで欲しい。

 

 アリエルのこの心情は、為政者としては失格かもしれない。

 だが、この友人を想う気持ちは人として称賛されるべきであろう事を、シルフィエット以外に残った古参の従者達は強く感じていた。

 彼らもまた、シルフィエットの幸せを自身の事のように喜んでいたのだ。

 

 アリエルは机の前に立つ二人の女性をその高貴な瞳で見やる。

 エルモア・ブルーウルフ、クリーネ・エルロンド。

 この二人の乙女はアリエルがアスラから“落ち延びた”際に同行していた従者であり、第一王子派が放った刺客の襲撃からも生き延びた者達であった。

 

 彼女達は普段は一般生徒として魔法大学に通っていたが、本来の任務は情報収集である。

 在校生徒の個人情報、アスラ王国の現在状況、周辺の有力冒険者の情報等を逐一アリエルへと届けていた。

 

「ルーデウスの弟ですか……」

 

 アリエルの傍らに立つ一人の美丈夫が顎に手をやりながら訝しげな表情を浮かべている。

 彼の名はルーク・ノトス・グレイラット。

 アスラ王国ミルボッツ領を治める有力な貴族であるノトス家現当主の次男であり、ノトス家がアリエル王女派の筆頭貴族である為にこうして落ち延びたアリエル王女に付き従っていた。

 

 とはいえ、ノトス家現当主ピレモン・ノトス・グレイラットは転移事件を切っ掛けに第一王子派筆頭でもあるダリウス・シルバ・ガニウスにも取り入り、その立場をどちらに転んでもいいように抜け目なく転換させていた。

 ルークをアリエルに付き従わせたのもピレモンにとって保険でしかなかったが、ルーク自身はアリエルに絶対の忠誠を誓っており、どのような事があってもアリエルの為に身命を賭す覚悟を固めていた。

 

「とにかく、一度お会いしてみたいですね。七大列強の肩書を持つお方とはぜひとも友好な関係を結びたいと思います」

 

 アリエルの言葉に、ルークは静かに頷く。

 エルモアやクリーネもその言葉に確りと頷いていた。

 

「シルフィの事を思うと少し複雑ですが、アダムスという姓を名乗っている事からグレイラット家とは一線を引いているかもしれません。なら、ルーデウスやシルフィに気遣う事なく、ウィリアム・アダムスとは積極的に繋がりを持つべきだと思います。こちらの陣営に引き込む事も……」

 

 ルークがアリエルの内心を代弁するかのようにその口を動かす。

 第1王子派を打倒する為にあらゆる手段を用いる腹黒さを、この主従はシャリーアに至るまでにしっかりと備えていた。

 

「ルーク。私はあくまでウィリアム様と個人的な友誼を持てればそれで良いと思っています。ルーデウス様、なによりシルフィに迷惑がかかる話にするつもりは全く無いのですよ?」

 

 ルークの言葉をやんわりと否定するアリエル。

 その言葉を受け、ルークは苦笑しながら腰を折った。

 

「出過ぎた事を言いました。姫様がそれで良いと仰るならば、私もウィリアムとはあくまで従兄弟として友好を図りたいと思います」

「ええ。そういう事です」

 

 微笑みを浮かべてルークに頷くアリエル。

 確かにウィリアムがこちらの陣営に与する事で、アリエルが王権を得る為の強力な戦力を得る事は間違いないのだが、“七大列強”と“友好関係”にあるだけでも第一王子派を十分牽制する事は出来るのだ。

 

「どちらにせよシルフィの義弟が臥せっているのです。近々お見舞いに行くとしましょう」

 

 そう締めくくるアリエルの表情は、捲土重来を誓う王族としての決意が僅かに浮かんでいた。

 かつて転移事件の際に、己を庇って殺された守護術師の遺志を受け継いだ流浪の王女。守護術師以外にも、己の為に命を散らした者達に報いる為、アリエルは王になるべく静かにその若い血潮を燃やしていた。

 

 

 

 


 

(ウィル兄ぃ、あたしが作ったごはん一生懸命食べてる。うれしいなぁ……)

 

 ルーデウス邸のダイニングにて、はむっはむっと一心不乱にパンを頬張るウィリアムを、アイシャは頬杖をつきながら幸せそうに見つめていた。ニコニコと微笑むアイシャの隣に座るシルフィエットは、少しばかり疲れた表情を浮かべながらウィリアムを見つめている。

 あの阿鼻叫喚の風呂場からなんとかウィリアムを連れ出したシルフィエットは、さながら大型の魔物を討伐したかのような疲労感を全身に感じていた。

 

 シルフィエットによって無理やり風呂場から連れ出されたウィリアムは不満げな表情を隠そうともしなかったが、兄の嫁であるシルフィエットの面目を一応保つため、大人しくこの義姉の指示に従っていた。

 ちなみにウィリアムの乱入により消耗し果てたリニア、プルセナの二人は早々にルーデウス邸から退散している。「リニア……今何時(なんどき)なの……?」「しっかりいたせニャー!」と、虎によって心を蝕まれたプルセナを抱えながらルーデウス邸を後にするリニアの姿は、まるで戦地にて負傷した戦友を担ぐ兵士の如き悲壮感が漂っていた。

 

 そんな獣人乙女達を省みる事なく、ウィリアムは覚醒後初めて食する固形物を存分に噛み締めながら自身の胃に収める。

 妹のアイシャが用意した食事。その中の、焼き立てのパンを一目見た瞬間から、ウィリアムの腹腔は熱を帯び、その胸は高鳴っていたのだ。

 

 噛むべし。存分に噛むべし。

 旨し! パン、旨し!

 

 ウィリアムのこのような食べっぷりを見つめる内に、シルフィエットは疲れた表情を徐々に和らげていた。

 

「ウィル君、今度からお風呂に入る前に誰か入っていないかちゃんと確認してから入ってね。ボク達ならまだいいけど、ナナホシはこれからもウチのお風呂に入る事もあるんだし……」

「……畏まってございます」

 

 シルフィエットの言葉にボソリと呟きながら応えるウィリアム。そんなウィリアムを見てシルフィエットはやれやれと苦笑が混じった笑みを浮かべていた。

 なにはともあれ、こうしてグレイラットの家族……弟のように可愛がっていたウィリアムと再会できた事が、シルフィエットにとって心底喜ばしい事であるのは変わりなかった。

 

 

「……」

 

 そんなアイシャやシルフィエットとは対照的に、じっとりとした暗い感情を浮かべてウィリアムを見つめる一人の少女がいた。ウィリアムの対面に座りながら、もそもそと朝食を食すその少女の名は、サイレント・セブンスターことナナホシ・シズカ。

 風呂場で裸を見られた、そしてウィリアムの逞しい内槍をまざまざと見せつけられた乙女の心境は察するにあまりある状態であった。

 加えて、ウィリアムが風呂場での一件を全く悪びれる様子も無い事が、乙女の怒りを誘っていた。

 

(なんなのよ! 本当に! 普通は誰か入っているか確認するべきじゃないの!)

 

 平成日本では、いやこの異世界においてもウィリアムが取った行動はナナホシにとってあまりにも非常識であった。

 シルフィエットに連れ出され、こうしてリビングで朝食を共にしてもウィリアムからの謝罪も無く、まるでナナホシの事は眼中にない振る舞いを見せるウィリアムに、ナナホシは増々苛立ちを募らせていた。

 

 とはいえ、ウィリアムの感覚ではあのような振る舞いはさして非常識な物ではなく。

 寛政三年(1791年)、“老中”松平定信が江戸での大衆浴場における混浴禁止令を布告するまでは男女混浴が一般的であった。だが、この布告はどちらかと言うと“湯女”が行う売春を取り締まる為の物であり、都市部で男女別浴の習慣が根付くのは明治中頃から終わり頃になってからであった。そして、全国で男女別浴が根付くのは昭和三十年頃まで待たねばならなかった。

 

 ただし上記は銭湯等の大衆浴場での話であり、ウィリアムの前世における岩本家では武士階級でも珍しく屋敷に風呂が造設されており、家長でもあるウィリアム……虎眼はそれこそ家人を気にせず好きなように入浴をしていたが。

 

 またウィリアムがナナホシの事をこの“異世界の人間”と認識していた事も、ナナホシを全く気遣う事無く風呂場へ乱入せしめた一因でもあった。

 長い耳や明らかに人外めいた肌色を持つ人、あげくには犬耳や猫耳を生やした亜人が跋扈する異世界では、日本人のような黄色人種の特徴を持つ人間がいてもおかしくはない。また、ナナホシが現代日本人である事で、ウィリアムが良く知る戦国末期から江戸初期の日本人に比べ西洋的な骨格を持つナナホシが同じ日ノ本の民であろうなどとは露ほども思っていなかった。

 

 もっとも同じ日ノ本の民だからとてウィリアムは遠慮する事は無いのだが。

 

(はぁ……とりあえず、このウィリアム・アダムスが何者かを突き止めないとね)

 

 ナナホシは心中で嘆息すると、改めてウィリアムの顔をまじまじと見つめる。

 ナナホシの視線に気付いているウィリアムであったが、全く意に介さずに黙々と食事を胃袋へと収めていた。

 

 ナナホシはチラリとアイシャ、シルフィエットへと視線を向ける。

 できればウィリアムと二人きりで諸々の事を問い詰めたかったが、風呂場での一件でウィリアムと二人きりになる勇気をナナホシは持つ事が出来ず。

 しばらく黙考していたが、中々ウィリアムへ話かけるタイミングが掴めなかった。

 

(ていうか、本当に同じ“日本人”なのかしら……?)

 

 ナナホシはこの転生者と思わしき白髪の剣士が、果たして本当に“自分が知る日本人転生者”なのか。ナナホシは増々眉間に皺を寄せながら考える。

 もしかしたら日本被れの外国人かもしれない。いや、しかしあの死神戦での一閃を放つ前に呻いた“日本語”は、古風なイントネーションではあったが明らかにネイティブの日本人の発音であった。

 幼少の頃、ルーデウスから日本語を教えてもらった可能性も考えていたナナホシであったが、そもそもルーデウスは自身が転生者である事実を余人に隠していた。

 幼馴染であったシルフィエットや、アイシャやノルンら妹達にすら隠していた事実を、実弟であるウィリアムにだけ教えている可能性は考えにくく。よしんば教えているのなら、ルーデウスはラノア大学で再会した際にその話を自分にしているはずだ。

 ルーデウスからは行方不明の弟がいるとしか聞いておらず、日本人転生者の疑いがあるのなら必ず自分にその存在を共有するはずである。

 もっともルーデウスは当時ウィリアムに対し、得体のしれない恐怖心しか抱いていなかったので、それ以上余人にウィリアムの事を話すのが憚られたのもあったのだが。

 

(やっぱり……私達とは別のタイミングでこの世界に転生した可能性が高いわね)

 

 しばらく考えていたナナホシは、ウィリアムがナナホシやルーデウスが転移、転生した切っ掛けとなったあのトラック事故とは別の要因で転生した魂を持つ可能性を思いつく。

 別の場所……そして、別の時代(・・・・)から転生した魂となれば、ウィリアムの言動やネリスの商人に依頼していた“羽織”に描かれた家紋や文言等に一応の辻褄が合う。

 

(でも、あの刀は転生した時にはなかったみたいだし……)

 

 ナナホシはウィリアムが所持していた日本刀、七丁念仏の妖しい輝きを思い出す。

 ウィリアムが臥せっていた際、ナナホシはアイシャやシルフィエットに、ウィリアムが以前からあの刀を所持していたのか、またはブエナ村にてあのような刀が生産されていたのかを確認していた。

 当然ながら二人共ウィリアムが持つ刀は初めて見る物で、ウィリアムの転生の際に同時に転移して来たわけでは無い事が判明していたが。

 

(となれば、あの刀はウィリアム・アダムスがこの世界で拵えた物なのか……もしくは転移(・・)した物なのかはっきりさせる必要があるわね)

 

 この世界にも刀剣類の名匠は幾人も存在し、それこそファンタジーな業物が何本も存在する。だが、七丁念仏の刀身が放つ怨念めいた凄まじい剣気は、この世界の材質で果たして再現可能なのか。

 刀身部分を構成する玉鋼に加え、柄や鍔等の拵え部分を構成する素材はこの異世界の素材で果たして作れる物なのか。

 

 もし……もし、七丁念仏が日本から転移してきた物体であったのなら。

 

(転移した状況を詳しく聞く必要があるわ。そうすれば、転移魔法陣の確度を上げる事が出来る!)

 

 ナナホシは平成日本への帰還手段である転移魔法陣の研究を、日々ラノア大学にある自身の研究室にて行っていた。

 第二次人魔大戦以降禁術となった転移魔法陣。現在は限られた者でしか知り得ぬその技術を、ナナホシはとある龍族から教えを受けその研究を行っていた。一度は手酷い失敗をし、ナナホシは錯乱する程深い絶望を味わった事もあった。

 だが、ルーデウスやその級友であるクリフ・グリモルらの協力を得て、魔法陣に“プラスティック製のペットボトル”の召喚に成功する事ができた。

 

 平成日本との繋がり。その取っ掛かりが出来た事で、ナナホシの帰還に一筋の光明が差す。

 既に平成日本から無機物を召喚する事に成功していたナナホシであったが、今のところ召喚出来る物体の材質は限られた者でしかなく、複雑な素材を組み合わせた物体の召喚には未だに成功していなかった。

 無機物から有機物を、有機物から生物を、そしてその生物を元の場所へと送還する実験を経る事で、ようやくナナホシの帰還が現実味を帯びてくるのである。

 

 もし、ウィリアムが持つ刀が日本から召喚された物であったのなら。

 自身が進めている転移魔法陣の研究以外で、日本との繋がりが存在するのならば。

 ナナホシは是が非でもその刀の入手手段、そしてウィリアムが何故転生したのかを突き止め、自身の帰還手段の確度を上げる必要があった。

 

(とはいえ……話かけるタイミングがつかめないわ……)

 

 ナナホシはアイシャが調理した温かいスープを啜りながら思い悩む。

 風呂場での一件以外にも、あの死神との一戦で見せたウィリアムの狂気的な感情を目の当たりにしたナナホシは、どうもウィリアムがルーデウスのようにおいそれと日本語で話しかけていいものなのか躊躇していた。

 死神戦でのあの光景。

 あの狂気的な、まさに“死狂い”ともいえるウィリアムが見せた壮絶な光景は、ナナホシの人生においてまるで時代劇に出てくる武士の如き(・・・・・・・・・・・・・)様相を呈していた。

 

(そう、時代劇。時代劇なのよ)

 

 ナナホシはウィリアムがネリスの商人に依頼していた羽織に描かれた文言を思い起こす。

 とてもじゃないが、平成日本人のセンスにしてはケレン味がありすぎる。また、羽織りの正面には明らかに“剣五つ桜に六菱”の家紋が刻まれている。

 ナナホシには見覚えの無い家紋ではあったが、それなりの家格を匂わせる由緒正しい代物に見えた。

 

 故に、ルーデウスに行ったような日本語のコミュニケーションを取る事が、果たしてウィリアムには通用するかどうか。

 もし迂闊に話しかけ、それがウィリアムの逆鱗に触れる事となったら。

 ナナホシはあの流星の如き恐怖の一閃を思い出し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。

 

 

「あ、ウィル兄ぃ。そういえばウィル兄ぃに渡す物があったんだよ」

 

 眉間に皺を寄せながら思い悩むナナホシだったが、ふとアイシャが何かを思い出したかのようにその可憐な口を開く。

 席を立ったアイシャはリビングへとパタパタと可愛らしい足音を響かせながら向かう。そして、間もなくその手にウィリアムがネリスの商人へと依頼した羽織りを抱えながらウィリアムの傍へと駆け寄った。

 

「はい。これ、ウィル兄ぃのでしょ? ナナホシさんがネリスの商人さんから預かってたんだよ」

 

 そう言いながらアイシャが手渡す羽織を、ウィリアムは目を細めながら確りと受け取る。

 鋭い視線を浮かべながら、紋付羽織をゆっくりと広げ、その出来栄えを確かめていた。

 刻まれた“剣五つ桜に六菱”の家紋は、自身が生きた証でもある岩本家の家紋であり、羽織の背面には自身の今生においての生き様が確りと刻まれていた。

 

 “異界天下無双”

 

 力強いその言葉を、ウィリアムは瞳を爛と輝かせながら見つめる。

 僅かの間にウィリアムの要望通り、完璧に羽織を仕立て上げたネリスの商人の仕事に、ウィリアムは満足げに吐息を漏らした。

 

『出来ておる喃……あ奴めは……』

「!?」

 

 思わず、といった風に呟かれた日ノ本言葉。

 もしウィリアムがナナホシが同じ日本語を解する人間だと断じていたのならば、決して吐き出される事はなかったその言葉。

 ナナホシは驚愕を目に表しながらウィリアムを見やる。

 数瞬、躊躇ったナナホシであったが、やがて意を決してその可憐な唇を開いた。

 

『やはり……貴方の前世は日本人なのですね』

『!?』

 

 今度はウィリアムが目を見開いてナナホシへと顔を向ける。

 予想だにしなかった人物から放たれた日ノ本言葉に、ウィリアムは驚愕を露わにしながら黒髪の乙女へその鋭い視線を向けていた。

 

『え、えっと、そんな怖い顔で睨まないで欲しいのだけれども……』

『……』

 

 ナナホシはウィリアムの殺視線に怯むも、勇気を奮い立たせて日本語にて話しかける。

 そんなナナホシに対し、ウィリアムは沈黙を返していた。

 

(ここで殺すか……?)

 

 ウィリアムは静かに殺気を滲ませながら、そう思考する。

 日ノ本言葉を理解する人間に、奥義“流れ星”を見られている。異世界人ではあの術理を解明できるまでに時間がかかるであろうが、同じ日ノ本の人間ならば異世界人より早く虎眼流の術理を解明してしまうかもしれない。

 もっとも“流れ星”以上の奥義(・・・・・・・・・・)を開眼せしめていたウィリアムは、今更“流れ星”を切り札にするつもりはなかったのだが。

 どちらかと言えば、日ノ本言葉を解する人間によってウィリアムが会得する虎眼流の術理流出を防ぐ必要があった。

 

 ウィリアムはいずれはこの世界でも虎眼流の看板を立て、弟子を取りその術理を伝承する腹積もりではあったが、今はその時ではなく、術理が明らかになっていない“有利な状況”の内にこの異世界にて“天下無双”の頂に立とうとしていた。

 この異世界にて全く知られていない日本剣術は、術理が全く知られていないというだけで異世界の剣士達と対するには十分なアドバンテージとなりうるのだ。

 

 ウィリアムは右手を構えナナホシの細い首に視線を向ける。

 虎眼流剣士にとって、たとえ素手であっても人体破壊を容易く行えるのは今更言うまでも無い事であり、ましてや平成日本の一般的な女子高生でしかないナナホシの命を奪うことは、ウィリアムにとってまさに“朝飯前”であった。

 

「ナナホシ。その言葉ってルディも使ってた言葉だよね? ウィル君も知ってるの?」

「あ、いえ、これは、その……」

 

 シルフィエットが唐突に発した言葉に、ナナホシはしどろもどろになりながら応える。シルフィエットの言葉を聞いたウィリアムは、咄嗟に滲ませていた殺気を消し、右手を下ろしていた。

 

「ルディには“同郷”って言ってたよね? 結局あの後ははぐらかされたけど、ルディとナナホシは本当はどういう関係なの? ナナホシが転移する前の世界と関係があるの? それとも龍神が関係しているの?」

「えっと、これは……なんていったらいいのかしら……」

 

 言葉を濁しながら、ナナホシは慌ててポケットから3つの指輪を取り出そうとする。だが、素早くテーブルに身を乗り出したシルフィエットによって、ナナホシはその手を掴まれた。

 

「ッ!」

「ナナホシ。なんで魔道具を出すのかな? 別にボクはナナホシに対して危害を加えるつもりはないよ?」

 

 乱暴に掴まれた事で、ナナホシの指輪がテーブルの上に落ちる。同時に、ナナホシのポケットからとある紋様が描かれた(・・・・・・・・・・)小さなポーチが床に落ちた。

 そのポーチはナナホシが転移前から所持していた物であり、同級生からはややセンスを疑われる程の“渋い”代物であった。

 

 僅かに怯えた表情でシルフィエットに目を向けるナナホシ。抑揚の無い声でナナホシを問い詰めるシルフィエットの表情は固く、その心の奥底ではナナホシがフィットア領転移事件の原因である事を未だに“恨んで”いた。

 ルーデウスと結婚し、披露宴にも呼び、こうして風呂を貸し朝食を共にするようになってから、ナナホシにはそのわだかまりは解けたかのように思えていた。だが、離れ離れになり、やっと再会した“義弟”が殺気めいた警戒心を露わにしていたのを察知したシルフィエットは、再びナナホシに対し怜悧な敵意を向けていた。

 

「シ、シルフィ姉……」

 

 突然発生したこの修羅場に、アイシャはあたふたと狼狽えながらナナホシとシルフィエットを交互に見やる。

 救いを求めるかのようにウィリアムへと視線を向けると、ウィリアムは先程とは比較にならぬ程の驚愕を露わにし(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)、床に落ちたポーチを目を剥いて見つめていた。

 

「ウィル兄ぃ……?」

 

 アイシャの言葉が聞こえていないのか、ウィリアムは大量の脂汗を浮かべ全身を震えさせていた。尋常ではないその様子に、アイシャもまたそのポーチに目を向けた。

 

 ポーチには、“丸に三つ葉葵(・・・・・・)”の紋が描かれていた。

 

「シルフィエットッ!! その手を離せぃ!!!」

「ひぇッ!?」

 

 突如大音声を発したウィリアムに、シルフィエットはビクリと身体を硬直させ、掴んでいたナナホシの手を離す。

 同様にアイシャや、ナナホシまでも雷に打たれたが如く硬直し、ウィリアムが放つ猛烈な怒気にその身体を震わせていた。

 

 ウィリアムは椅子から転げ落ちるように床に這いつくばると、そのまま勢いよく頭を打ち付けナナホシに向け日ノ本言葉を発した。

 

 

『恐れ多くも東照大権現様ゆかりのお方(・・・・・・・・・・・・)とは露知らず! 平に! 平に御容赦をッ!!』

(ええええぇぇぇ!!!???)

 

 

 “丸に三つ葉葵”

 

 通称“徳川葵”が放つ時空を超えた威光に、ウィリアムの前世における魂が強烈な反応を引き起こしていた。

 

 呆然とその光景を見つめるシルフィエットとアイシャに構わず、ウィリアムはひたすらに床に頭をこすり続けている。

 突然シルフィエットに手を掴まれたショックと、いきなりのウィリアムのこの行動で思考停止状態に陥ったナナホシは、やがてバタリと仰向けになって気絶し果てた。

 

 

 半狂乱で謎の言語で許しを請い続けるウィリアム、いきなり倒れたナナホシ、ウィリアムの怒気をまともに浴びて茫然自失となったシルフィエット、それらを見て大混乱に陥るアイシャ。

 ルーデウス邸のリビングはノルンを伴ったアリエル王女一行が訪れるまでカオスな状況が続くのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十六景『鬼島津残酷夢想絵巻(おにしまづざんこくむそうえまき)

  

「姫、静香姫!」

「う……うーん……」

 

 顔面に大きな刀傷が残る精悍な顔付きの老武士が、ナナホシの肩を揺さぶる。

 やや乱暴に揺り起こされたナナホシは朧気な表情でその老武士を見つめた。

 

「やっと起きもしたな姫!」

「え、あ、はい。ていうか姫って。あの、ここはどこですか? たしか私はルーデウスの家で……」

 

 困惑しつつ辺りを見回すナナホシ。

 ルーデウス邸にて徳川葵紋がプリントされたポーチを見たウィリアム・アダムスは、ナナホシが神君家康公ゆかりの者であると盛大に勘違いをし、平身低頭して風呂場での一件を詫びた。

 その自身を奉る過剰な反応により、精神的な負荷に耐えきれなくなったナナホシは失神し果てた。

 だが、覚醒してみれば自身が居るのはルーデウス邸ではなく純和風の座敷であった。

 

 座敷の襖は開け放たれており、そこから見える白砂の庭には(かみしも)を纏った若い侍達が控えている。若侍達と、自身の隣で豪放な気を放つ老武士が纏う裃には“丸に十文字”の紋が繕われていた。

 

(丸に十文字ってたしか島津氏の……それに、この格好は……?)

 

 不可解な現状に困惑しつつ、ふとナナホシは自身が纏う服装がいつものセーラー服とは違う事に気付く。

 見れば、ナナホシは豪華な打掛型の小袖を纏っていた。安土桃山期に武家の女がよく身につけいた“桃山小袖”と呼ばれるそれは、色鮮やかな柄で彩られており、不思議とナナホシに良く合っていた。

 

 しかしながら覚醒した直後のこの行き成りの状況に増々困惑するナナホシ。老武士はそんなナナホシにお構いなく、合戦さながらの勢いで言葉をかけた。

 

「ささ、姫! 姫が待ちに待った“ひえもんとり”がおっ始まるでごわす!」

「ひえもんとり?」

 

 聞きなれぬ、しかしどこか不穏な言葉にナナホシは眉を顰めて老武士を見やる。

 ぐふ、ぐふと不気味な笑いを浮かべる老武士の視線の先に目を向けると、白砂の庭に見知った若武者が褌一丁で鎮座していた。

 

「ウィリアム・アダムス!?」

 

 褌一丁で沈鬱な表情を浮かべながら座しているのはウィリアム・アダムス。

 何がどうしてこのような状況に至ってしまったのか、ナナホシは理解が追いつかずただただ困惑するばかりである。

 

「んでは戦心(いくさごころ)を養う薩摩の軍法“ひえもんとり”をば御覧くいやい!」

「え」

 

 困惑するナナホシに構うこと無く、老武士は“ひえもんとり”の開始を宣言する。その一声を合図に、控えていた若侍達が一斉に立ち上がると裃を脱ぎ放ち、褌一丁となって猿叫を上げながらウィリアムに殺到した。

 

「チェストオオオオオ!」

「ぬわあぁぁぁぁぁぁ!」

 

 血気勇猛な若侍達が生虜(ウィリアム)めがけて突進し、剛力のみでその生き肝を奪い合う!

 多勢に無勢か、ウィリアムはさして抵抗も出来ず薩摩の若侍達の手によりその肉体を四散せしめた。

 彼らが得物を持たぬ理由は、野郎同士が傷つけ合わないようにする為。

 “ひえもんとり”とは“生臭いもの(肝臓)を取る”という薩摩の方言であり、人体の生肝は当時妙薬として売買されていた。ひえもんとりを始めとした様々な薩摩式武練で、若者達は比類なき“武家者(ぼっけもん)”としてその武魂を育むのだ!

 

「ウゲェッ!」

 

 突如現出した凄惨な人体解体の現場に、ナナホシは花も恥じらう可憐な女子高生らしからぬ汚い吐瀉声を発しながら口を押さえる。

 血海に沈むウィリアムの残骸を見て、ナナホシはその顔をみるみる青白く変化させた。蒼白となり必死になって口を押さえていると、若侍の中から両胸に大きな傷跡が残る美麗の若者がウィリアムの生肝を握りしめながら歩み出で来た。

 

「武市千加太郎、ひえもんとりもした!」

 

 血が滴る生肝を、得意げな表情でナナホシと老武士の前に掲げる千加太郎と名乗る若者。

 その異常ともいえる光景にナナホシはまたも卒倒しかけるが、何故かナナホシの肉体は気絶を拒否していた。

 存分に返り血を浴びた千加太郎に老武士は目に涙を溜めながらその勇猛さを讃える。

 

「流石は怪力のお千加! 乳房ひっ千切って野郎の仲間入りしただけのこたぁあう!」

「え!? あの人女性なの!?」

「ひえもんとりもした!」

 

 老武士が言い放つ驚愕の事実に、ナナホシは凄惨な光景を忘れてその姿を見やる。

 言われてみれば、千加太郎はどこか女性的な腰つきをしており、褌に隠された股間は他の若侍達とは違い内槍による盛り上りは一切見受けられなかった。傷跡が残る胸元は、剛力にて己の乳房を引き千切った痕なのだろう。

 

 趣向を凝らした白砂の庭が瞬時に血の海と化した異常な光景に、ナナホシは恐れ慄くばかりであった。が、ふと白砂の庭がざわめき始めたのに気付いた。

 

「ル、ルーデウス!?」

 

 白砂の庭に唐突に現れたのは、これまた武家の裃装束を纏ったルーデウス・グレイラットであった。

 裃には三本の槍を組み合わせたミグルド族の守護紋様が繕われている。

 茶髪に西洋人の顔付きを持つルーデウスが裃を纏う姿は、どうみても日本被れのおのぼり外国人がコスプレをしている姿にしか見えず。

 ナナホシは先程からの怒涛の展開に思考が追いつかず、コスプレ姿のルーデウスをただ呆然と見つめ続ける事しか出来なかった。

 

「それがしの弟の“ひえもん”獲りたるは貴殿でござるか?」

「いかにもおいどんでごわす!」

 

 ゆるりと千加の前に歩み出たルーデウスは、裃をはだけながら殺気を込めた視線を送る。

 その視線を受けても尚、千加太郎は不敵な笑みを絶やすことはなかった。

 

「“泥沼”ルーデウス・グレイラットと申す。素手にてお手合わせ願おうか」

「いやあなたそんなキャラじゃないでしょ」

 

 冷静にツッコミを入れるナナホシを無視するかのように裃を脱ぎ捨て、褌一丁になるルーデウス。

 逞しく割れた腹筋をどこか誇らしげに見せつけるルーデウスに、千加太郎は獰猛な肉食獣の如き笑みを浮かべる。そのまま、ナナナホシの横に座る老武士に顔を向けた。

 

「殿! やってしまってもよかですか!?」

 

 殿と呼ばれた老武士が不敵な笑みを浮かべながら、ぐっと親指を立て力強い薩摩言葉を放った。

 

「チェスト関ヶ原!」

「ようごわすとも!」

「なにが!?」

 

 改めて説明するが、『チェスト関ヶ原』とは島津家の隠語で『ぶち殺せ!』という意である!

 尚余談ではあるが、後に島津家中及び薩摩における『チェスト関ヶ原』は若干の変質を遂げており、関ヶ原の戦いにおける島津義弘の無念の心中を思いながら「チェースト関ヶ原!」もしくは「チェスト行け! 関ヶ原!」と叫ぶ事で諸々の理不尽に耐える薩摩隼人の習慣となっていった。

 また現代においても関ヶ原の戦いがあった九月十四日に島津義弘が祀られた徳重神社で「チェスト関ヶ原!」と叫びながら武者姿で練り歩く“妙円寺詣り”なる催事が毎年行われており、鹿児島市内の小学校でも『チェストいけ!』と書かれた鉢巻を締めた児童達が市内から約30km離れた徳重神社へ行軍する学校行事が毎年行われている。

 

 狼狽するナナホシの横で、ふと聞き覚えのある獣人乙女達の声が聞こえた。

 

「ボスは不死魔王どんを木っ端微塵にしたっちょニャ」

「あれはバーディどんが油断しちょったなの。でもこれはチェスト関ヶ原でごわすからなの」

「だから何であんた達もいるのよ!!」

 

 何故か裃を纏ったリニア、プルセナが怪しげな薩摩言葉を使いつつルーデウス達の立ち合いを分析していた。可愛らしくデフォルメされた犬と猫の紋が入った裃を纏い、ぴこぴこと揺れる獣耳と尻尾が武家装束と併せて中々の趣きを見せている。

 そんな獣人乙女達に思わずツッコミを入れたナナホシであったが、白砂の庭では既にルーデウスと千加太郎の立ち合いが始まっていた。

 

「うおおおおおおおお!」

 

 猛然と千加太郎に向け突進するルーデウス。魔術師らしからぬ肉体言語を駆使するルーデウスに、千加太郎はウィリアムの肝を自身の褌に収納しながら迎撃体勢を整えた。

 血に濡れた両手を広げる千加太郎にルーデウスの拳が襲いかかる。千加太郎はその拳に合わせ鋭い貫手をルーデウスに見舞った。

 

「チィェストオオオオ!」

「ぎゃあああああああ!」

 

 否、これは貫手にあらず。単純な暴力なり。

 千加太郎の強烈な突きを受けたルーデウスは、盛大に肉片を飛び散らせ(はらわた)を破られながら生き肝を奪い取られた。

 ちなみにルーデウスの渾身の拳は千加太郎の顔面を掠める事なく、豪快に空を切っていた。

 

「ひえもんとりもした!」

 

 右手にウィリアムの肝、左手にルーデウスの肝を掴みながら誇らしげにグレイラット兄弟の肝を掲げる千加太郎。

 アヘ顔ダブルピースならぬドヤ顔ダブルレバーである。

 そんな怪電波を受信する程、ナナホシの脳髄は混乱の極地に達していた。

 

()っちくれたごつな千加(ちっかー)!」

 

 はらはらと感激の涙を流しながら千加太郎を褒め讃える老武士。

 褒められたのが嬉しいのか、増々獰猛な笑みを深めながらナナホシへ近づく千加太郎。

 全身を返り血で真っ赤に染めながら近寄る千加太郎に、ナナホシは恐怖の表情を浮かべながら後ずさった。

 

「ひえもんとりもした!」

「い、いやぁ! 近寄らないで!!」

 

 生肝を掴みながらナナホシへにじり寄る千加太郎。その後ろではいつの間にか白砂の庭に降り立ったのか、リニアとプルセナがルーデウスの破られた腹腔内にせっせと生米を詰め込んでいた。

 

「ごったましかチェストニャ!」

「今宵は“泥ころめし”で飲み明かすなの!」

「チェストぐれいらっと!」

「ひえもんとりもした!」

「リニアーナ・デドルディア、炊き上がるまで目瞬(まばた)きせぬニャ!」

「ざまたれなの!」

「よか燃え頃にごつ!」

「琉球ぬ獅子(シーサー)腹空かせと〜ん」

「ひえもんとりもした!」

 

 両手に生肝を掴みながらにじり寄る千加太郎、涙を流しながらサムズアップする老武士、喜々として米を詰め込まれたルーデウスを燃え盛る炎に放り込む獣人乙女達。

 

 (けだもの)の如き薩摩者(さつまもん)が織り成すエキセントリックなこの状況に、ナナホシの自我はついに崩壊の時を迎えた。

 

 

「も、もういやあああああああああああ!!!」

 

 

 絹を切り裂くような叫び声と共に、平成日本乙女の視界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああああああああぁぁぁ!!!」

 

 絶叫と共にがばりと起き上がるナナホシ。

 ぜぇぜぇと荒い息を吐き、全身に汗をかきながらしっとりと濡れた髪をかき上げ、恐る恐る辺りを見回す。

 ナナホシが居る場所はあの血塗れた白砂の薩人現場、もとい殺人現場ではなく、見知ったルーデウス邸の客間であった。

 

『ゆ、夢……?』

 

 深い安堵の溜息を吐きながらナナホシは日本語をぽつりと漏らした。自身が横になっていたソファに体重を預けつつ、客間室に差し込む日の光を目を細めて見つめる。

 見ると、既に日は中天に差し掛かっており、随分と長く意識を失っていたのだと気づいた。

 それにつけても、あの夢は無い。ナナホシはこの異界の地にて、それなりには修羅場を経験して来たつもりではあった。

 絶対強者の龍神の庇護の元ではあったが、異界の地を旅する過程で少なくない血を見てきたつもりである。

 

 だが、素手にて人体を解体し、あまつさえ人間の腹腔内に米を詰めて食そうとする凄惨な光景は、夢とはいえ流石のナナホシもどん引きする内容であった。

 

『御目覚めでござりましょうや』

「ひゃああぁぁぁぁぁ!?」

 

 傍らに、太刀を抱えたウィリアム・アダムスがへつらいの笑みを浮かべながら日ノ本言葉にてナナホシに声をかける。

 不意をつかれたナナホシは素っ頓狂な声を上げるも、ウィリアムは泰然としてそれを受け流していた。

 

『痛ましや……さぞやこの異界の地にて御心労が絶えなかったのでござりましょう』

 

 へつらいの笑みを一変させ、今度はひどく沈鬱な表情を浮かべるウィリアム。

 若干芝居がかった様子ではあったが、困惑するナナホシにそれを見抜くことは出来なかった。

 

『お拾いしておきました』

『あ、ありがとうございます……』

 

 ウィリアムは懐から丁重に葵紋がプリントされたポーチを取り出す。

 丁寧な手つきで差し出すそれを、ナナホシは憔悴しつつ受け取った。

 

(いや、それハンズで500円で買ったものなんですけど……)

 

 などと口が裂けても言えない。

 ナナホシは卒倒前に目にしたウィリアムの葵紋に対する過大な反応から、その前世は同じ日本人であると改めて確信していた。

 ただし、どのような不可思議な現象が働いたのか見当もつかなかったが、恐らく……いや、間違いなくウィリアムは自身とは異なる時代に生きた日本人、少なくとも徳川家の威光が通じる江戸時代辺りに生きていた日本人である事は疑いようもなかった。

 故に、ナナホシはウィリアムのこの強烈な勘違いを是正するべきか否か、起き抜けにして頭を抱える羽目になった。

 

 不逞の獣人共を圧倒的な暴力で叩きのめし、あの死神と壮絶な秘剣の応酬を演じたウィリアム・アダムス。そんな鬼神の如き相手に“自分は徳川家とは一切関係無いただの一庶民です”などと宣うものなら、ナナホシの首と胴体は瞬時に別れる事となるだろう。

 この平成日本女子高生は、本能でそれを感じ取っていた。

 

 頭を悩ますナナホシに、ウィリアムは深々と平伏しながら言葉を述べる。

 

『畏くも東照大権現様に連なる御方とは露知らず……湯殿での御無礼、本来ならば腹を斬って詫びねばならぬ所業でござります』

『え、いや、それは』

 

 沈鬱な表情で頭を垂れるウィリアムに、ナナホシは狼狽える。

 (さむらい)の本能が見せる徳川葵への畏れ抱く様子に、平成日本のごく平凡な乙女は慄くばかりであった。だが、目の前で割腹自殺をされるのは流石にやめてほしかった。というより人間の(はらわた)をこれ以上目にしたくなかった。

 ナナホシはウィリアムの割腹を止めようと懸命に言葉を絞り出そうとした。

 

『えっと、その』

『しかしながら』

 

 しかしナナホシの言葉を遮るように、虎の鋭い声が響いた。

 

『腹を切る前に、仕置きつかまつりまする』

『え?』

 

 ぞっとする程冷えた声色に、ナナホシは思わず身を竦める。

 

『御方をかかる異界の蛮地へと至らしめた元凶めを、仕置きつかまつりまする』

 

 色のない瞳でそうナナホシに宣言するウィリアム。刀を抱えたままナナホシを異界転移せしめた元凶を成敗せんが為、静かな殺気を纏っていた。

 

 ナナホシはその怜悧な殺気を受け息を呑むが──

 

 

(ていうかお風呂の事誤魔化そうとしてるだけじゃないの)

 

 

 その通りであった。

 怜悧な殺気を受けてかえって冷静になったナナホシはまじまじとウィリアムを見つめる。ウィリアムの頬は僅かにひくついており、まるで悪事を働いた子供が親に叱られないよう懸命に話題を逸している印象が見て取れた。

 ナナホシは深い溜息をつくと、ウィリアムに努めて言葉を選びながら口を開いた。

 

『あの、とりあえずお風呂の事は水に流します……』

 

 ぴくりとウィリアムの眉が動く。発していた殺気が霧散し、みるみる安堵の空気が虎の全身から発せられた。

 ナナホシの言葉を受け、ウィリアムは再び平身低頭してへつらいの笑みを浮かべた。

 

『へへぇ』

 

 深々とへつらいの笑みを浮かべながら平伏するウィリアム。

 グレイラットの家族には決してみせぬこの表情は、ウィリアムが前世にて培ってきた上役への処世術であった。

 

 とはいえ、ウィリアムがこの異界の女子高生にここまでへりくだるのは単に徳川葵の権威にひれ伏しただけではなく。

 

 この異界の地に自身の魂が転移せしめ、また兄のルーデウスまでもが同じ日ノ本の民の魂を宿している事、さらにいえば前世の愛刀七丁念仏までもが転移した事実から、日ノ本の民が“そのままの姿で転移”しうる事はあり得ぬ話ではない。

 ナナホシもまたそのような異界転移に巻き込まれたのだろうと、ウィリアムは当たりをつけていた。

 

 だが、その転移人(てんいびと)がまさか“三つ葉葵”の印紋を持ちうるとは予想だにせず。

 葵紋を目にした瞬間、本能的に頭を垂れたウィリアムであったが、直後には冷静にその頭脳を働かせていた。

 

 貴人の、それも絶大な権威を誇る徳川家の子女に対してのあのような無礼な振る舞い。

 当然ながらウィリアムはもとより、ナナホシが無事日ノ本へと帰還を果たした場合、前世での御家、岩本家になんらかの処罰が下る事は疑いようもなく。

 

 この異界の地では徳川家の威光は全くと言っていい程通用しない事はウィリアムも十分承知していた。故に、一時はナナホシを人知れず葬り去って事無きを得ようかとも考えた。

 しかし、卒倒し、うなされながら眠るナナホシの寝顔を見つめていく内に、この異界に女子がたったひとりで生き抜いて来れたのには何れかの強者の後ろ盾があるのではと思い至る。

 それに加え、仮にナナホシの口を封じたとしても万が一己の所業が“あちら”へと伝わってしまったのなら意味がない。

 それどころか貴人を弑逆せしめん事が更に罪を深くするのは想像に難くない。

 ならば、転生前と同じく徳川家へと忠義を尽くし忠功を立てる事で己の所業を帳消しにし、ひいては御家を守る手は他に無いのではなかろうかと。

 

 あわよくば前世では成し遂げれなかった“徳川家直臣”の地位を得て、岩本家を大盤石の重きに導く事が出来れば……。

 ウィリアムはナナホシの寝顔を見つめながらそこまで思い至り、抜きかけた七丁念仏を鞘に納め乙女の覚醒を座して待ち続けた。

 

 前世にて岩本家の行く末を見守る事が叶わなかったウィリアムは、転生しても尚、御家を守らんとする(さむらい)の本能から逃れる事は出来なかったのだ。

 

 

 だが、ウィリアムは知らない。

 

 岩本家が、一人娘の三重が子を成す前に自害し果て、その家名を断絶させていた事を。

 虎眼流も相伝した藤木源之助が“駿河藩槍術指南役”笹原修三郎と御前試合後に様々な因縁の元で立ち合い、その秘奥を他者に伝える事なく絶命し果てた事を。

 免許皆伝者で唯一生き残った金岡雲竜斉が立ち上げた江戸虎眼流も、ナナホシが生きる現代ではその秘奥は失伝して久しかった。

 諸行無常とはまさにこの事であるが、ウィリアムは岩本家や虎眼流の何もかもが途絶えた事実を知る事は叶わなかった。

 

 だからであろうか。

 ウィリアムが此度の人生でこそ虎眼流を天下無双の剣術に押し上げるべく“異界天下無双”を目指していたのは、日ノ本で失われた虎眼流を異界の地へと根付かせ、断絶した岩本家の無念を晴らす為なのだと本能的に察していたからなのではなかろうか。

 

 深々と頭を垂れる若虎は、前世での宿業と悲願を滲ませながら懸命にへつらいの笑みを浮かべていたのだ。

 

 

 頭を垂れ続けるウィリアムを見て、ナナホシは再度深い溜息をつきながら思い悩む。

 この勘違いを如何にして穏便に(・・・)是正するには、一体どのような話術を持ってあたれば良いのだろうかと。

 

(うん、ルーデウスがいないと無理ね)

 

 しばらく悩み抜いた平成日本女子高生は、結局は己一人ではこの強烈な“勘違い”を是正する事は不可能だと結論付けた。

 少なくとも事情を知り得るであろうルーデウスと一緒ならば、穏便に自身が徳川家ゆかりの者でないと説明が付くのではと。よしんばウィリアムが事を荒立てようとしても、ルーデウスがいるならなんとかなるのではと。

 

 ならばしばらくはこの勘違いを利用すれば、気になっていたあれこれを聞き出すには都合が良いのではないかと、この平成日本女子校生は強かにその頭脳を働かせていた。

 もっともルーデウスはウィリアムの前世を知っているわけではなく、またその実力がウィリアムより上であるという保証はどこにも無いが。

 目の前で七代列強“死神”を相討ち同然とはいえ仕果たした若虎の実力を、この平成日本女子はすっかり忘れていた。強烈な“夢”から醒めた衝撃がまだ抜けていなかった為、仕方のない事なのかもしれないが。

 

(そうとなれば、まずはその正体を聞き出さなきゃね……)

 

 居住まいを正し、ウィリアムに頭を上げるよう促したナナホシはぐっと腹に力を込めて日ノ本言葉を発する。

 腹をくくった女子高生に、虎は神妙な顔付きでその顔を上げた。

 

『貴方の……前世でのお名前を、聞いても宜しいでしょうか?』

 

 努めて丁寧な言葉で話しかけるナナホシ。腹をくくったとはいえ、あの恐ろしい立ち合いを見た後ではあからさまに尊大な態度を取る事は、平凡な女子高生でしかなかったナナホシには到底出来る事では無かった。

 ナナホシの丁寧な問いかけに、虎もまた丹田に力を込めて日ノ本言葉を返した。

 

『掛川藩兵法指南役、岩本虎眼』

 

 虎は今生で初めてその前世での正体を余人に明かす。

 それを受けたナナホシは、その偏った日本史知識を総動員してウィリアムの前世での境遇を察知せんとした。

 

(掛川藩って事は少なくとも幕藩体制が始まったって事だから……)

 

 ナナホシの知識は戦国時代から江戸初期、そして幕末から明治初期に偏ってはいたが、“掛川藩”という名称を聞いた事でウィリアムがやはり江戸時代の人間であった事は判明した。

 更に情報の確度を上げるべく、ナナホシは質問を重ねる。

 

『藩主はどなたでしょうか?』

『安藤帯刀先生(たちはきせんじょう)(直次)様であらせますれば』

 

(ええと、安藤って安藤直次でいいのよね。直次が掛川藩主だった時代は江戸初期だから……岩本虎眼?)

 

 ふと、ナナホシは“岩本虎眼”という名に引っかかりを覚える。

 日本で某刀剣擬人化ゲームに嵌っていたナナホシは、影のある美麗の若者に擬人化していた刀剣の由来を思い出し、やや興奮気味にウィリアムへと言葉をかけた。

 

『もしかして、その刀って“虎殺し七丁念仏”ですか!?』

『左様で……』

 

 ウィリアムは丁寧な声色でナナホシに言葉を返したが、直後に呻くような日ノ本言葉を発した。

 

『“虎殺し”と申されましたか』

『ひっ!』

 

 再びウィリアムから怜悧な殺気が発せられる。

 ナナホシは瞬時に己が“失言”した事を理解し、その身を再び竦ませた。

 

(馬鹿! 私の馬鹿! そうよ! 岩本虎眼が亡くなったから“虎殺し”の名前が付いたんじゃない!)

 

 貴人に対し質問を返す事は無礼極まりなく、本来ならばこのような返しは到底許されるものではなかったが、ウィリアムは自身が持つ“七丁念仏”に“虎殺し”なる異名が付いた覚えは無かった。

 鋭い視線で訝しげにナナホシを見やるウィリアムに、乙女は全身に冷たい汗を流しながら必死で言葉を紡ごうとした。

 

『えっと、それは、ええっと』

『……』

 

 虎の射抜くような視線に、乙女はしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。

 もし、この事から自身が徳川家ゆかりの者ではないとバレたら。

 先程想像した己の残酷な未来を思い浮かべたナナホシは、増々その舌をもつれさせていた。

 

 

「アダムス様。サイレント様の意識は戻りましたか?」

 

 訝しげな視線を送るウィリアムに怯えるナナホシであったが、ふとノック音と共に扉越しから響く貴人の声を聞いた。

 

「目覚めましてござりまする」

「それは結構。では、入ってもよろしいですね?」

 

 扉が開かれ、気品な佇まいで客間に入ってきたのはナナホシも良く知るラノア大学生徒会長、アリエル・アネモイ・アスラであった。

 

「あ、アリエル王女!?」

「ご機嫌ようサイレント様。こうして会うのはルーデウス様の披露宴以来ですね」

 

 微笑を浮かべつつナナホシを見やるアリエル。思いもかけない人物の登場に、ナナホシは違う意味で再び狼狽していた。

 アリエルに続き、シルフィエット、アイシャ、ノルンも客室に入る。最後に入ってきたのは何故か大きく腫らした顔を押さえるアリエルの従者、ルーク・ノトス・グレイラットであった。

 何故ここにアリエルがいるのか、また何故ルークは痛そうに顔を腫らしているのか。

 再び現出した不可解な現実に、ナナホシの思考は停止寸前であった。

 

「ナナホシ、その、ひどい事してごめんなさい……」

「え?」

 

 シルフィエットが沈鬱な面持ちでナナホシに言葉をかける。困惑するナナホシに、恐らくこの状況に至った理由を知るウィリアムに目を向けるも、虎は澄まし顔でその様子を見るばかりであった。

 

「それにしても、まさかサイレント様が神の血筋(・・・・)を引く御方だとは思いませんでした。知らなかったとはいえ、今までの非礼をお許しくださいませ」

「は?」

 

 突然アリエルが放った爆弾に、ナナホシは再び固まる。

 虎はどこか誇らしげであった。

 

「あたしも知らなかったよ。ナナホシさんがそんな凄い血筋の人だったなんて」

「セブンスター先輩もお姫様だったんですね」

「ナナホシ、ほんとにごめんなさい……」

 

 アイシャとノルンもナナホシへ向けどこか敬いの念がこもった瞳で見つめている。

 その隣で鬱々とした表情を浮かべるシルフィエットも、自身がしでかした事を反省しっぱなしという面持ちであった。

 

(ウィリアム・アダムス!!!)

 

 きっとウィリアムを睨みつけるナナホシ。この若虎は、自らの勘違いを余人にまで広げていたのだ。

 乙女の責めるような視線を受けても尚、虎は泰然としていた。

 

「しかし神の血筋とは一体どの神の事なのでしょう? 詳しく知りたいところですね」

 

 追い打ちをかけるようにアリエルがナナホシへと言葉を向ける。残酷な夢から覚め、その直後に虎と危険な綱渡りを演じていた乙女の精神は、もはや限界であった。

 

「今はまだ、覚めてから御心が覚束ない御様子。暫し時を置かれるよう……」

「それもそうですね。セブンスター様、いずれまた詳しくお話をお聞きしたいと思います。ではアダムス様、お話の続きを」

「承知つかまつりました」

 

 しかし限界を迎えた乙女を気遣うようにウィリアムがアリエルへ言葉を返す。

 それを受けたアリエル達は、挨拶もそこそこにルーデウス邸のリビングへ向かうべく客間を離れる。

 立ち上がったウィリアムは呆然とソファに座るナナホシに一礼し、アリエル王女達に続いた。

 

 一人残されたナナホシは、魂が抜け落ちたような白い顔で日本語を呟いた。

 

 

『ルーデウス、はやくもどってきて』

 

 

 この瞬間、グレイラット家の誰よりもルーデウスの帰還を待ち望んでいたのは、虎の強烈な勘違いを受けたナナホシ・シズカのみであった。

 

 

 

「あの、ウィルくん……。ナナホシとウィルくん、それにルディって結局どういう関係なの……?」

「“秘”です」

「えぇ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第十七景『異界転移甲州超鋼(いかいてんいこうしゅうちょうこう)

 

 永禄四年(1561年)

 信濃国北部

 川中島八幡原

 

「え、越後勢じゃあ!!」

 

 日が登りきらぬ払暁時。

 白色の濃霧に紛れ、“毘”の旗印と共に黒色の軍勢が現出する。

 

 上杉弾正少弼政虎……後に“軍神”とまで謳われた越後の龍、不識院謙信によって率いられた精鋭軍団が、粛々と千曲川を渡っていた。

 対岸にて陣取る赤色の軍団、甲州武田軍は、濃霧に紛れ突如現れた上杉軍に動揺の色を隠せない。

 

 唵 吠室囉 縛拏野 莎賀(オン ベイシラ マンダヤ ソワカ)

 

 唵 吠室囉 縛拏野 莎賀(オン ベイシラ マンダヤ ソワカ)

 

 唵 吠室囉 縛拏野 莎賀(オン ベイシラ マンダヤ ソワカ)

 

 “軍神”毘沙門天の真言が、川中島一帯におどろおどろしく木霊する。

 万を越す上杉の軍勢が一心に真言を唱え、粛々と渡河を進める。馬の嘶きさえ聞こえない、その異様にして不気味な光景。

 精強無比で知られた甲州兵ですら得体の知れない恐怖を感じずにはいられず、身に着けた甲冑を震わせるしかなかった。

 

「御館様、申し訳ありませぬ。政虎めに裏をかかれ申した……」

「策士策に溺れるとは。大笑(おおわら)(のう)、勘助」

「面目次第もござりませぬ……」

「是非も無し。事に至っては、もはや正面から戦い抜くまでよ」

「ははっ!」

 

 軍扇を手にし、陣中にて備えられた床几に腰を下ろしながら黒色の軍勢を睨みつけるは甲斐の虎、武田徳栄軒信玄。

 脇に控えるは信玄無二の軍師、山本勘助晴幸。出家してからは“道鬼斎”と号していたが、主君である信玄からは出会った当初から勘助と呼ばれ続けていた。

 勘助もまた、真言を唱えながら進軍を続ける上杉軍をその隻眼にて見やる。

 自身の秘策が謙信の慧眼によって破られた事で、勘助は渋面を浮かべていた。

 

 北信濃の覇権を巡り、川中島の地にて四度目の激突と相成った甲越両軍。

 武田の智将、山本勘助が献策した上杉軍撃滅の秘策“啄木鳥戦法”は、高坂昌信、馬場信房らが率いる武田軍別働隊が妻女山に陣を敷く上杉軍を背後から奇襲し、追い立てられた上杉軍を信玄率いる武田軍本隊が挟撃、包囲殲滅せしめる必勝の策であった。

 まるで啄木鳥が樹木内に潜む獲物を捕獲するかの如き巧妙な作戦。だが、事前に別働隊の動きを察知した上杉軍が先手を打って信玄率いる本隊を強襲する事で、勘助必勝の“啄木鳥戦法”は失敗に終わる。

 上杉軍を掃滅するどころか、逆に主君を窮地に陥いれる事態となり、勘助は増々渋面を強めていた。

 

「勘助。妻女山へ向かった昌信らが戻ってくるまで、(みな)には守りを固めるように伝えよ」

「ははっ!」

 

 使い番を呼び寄せ各将へと下知を飛ばす勘助。

 武田軍本隊八千に対し、上杉軍一万三千。

 妻女山へ向かった武田軍別働隊一万二千が到着するまで、数に勝る上杉軍の猛攻を耐え凌ぐ事が出来るか。

 

 信玄は軍扇を握りしめ、再び上杉軍へと視線を向ける。

 上杉軍は真言を唱えるのを止め、獣の如き喊声を上げながら武田軍前衛へと襲い掛かった。

 武田軍本隊は別働隊との挟撃を効果的に行うため、包囲殲滅陣となり得る“鶴翼の陣”を敷いていた。それに対し、上杉軍は“車懸りの陣”にて薄く広がった武田軍前線へと波状攻撃を仕掛ける。

 たちまち戦場では甲越両軍により弓、槍、鉄砲が入り乱れ、前線では足の踏み場も無い程の混沌が生まれた。

 

 武田軍本陣ではその混沌とした戦場を信玄、勘助主従が険しい表情で見つめていた。

 

「せめて、“人間城(にんげんじょう)”が落成しておれば……」

「言うな勘助。あれは上洛し、武田が天下一統を成し遂げる為の切り札よ。政虎如きに使う代物では無いわ」

 

 山本勘助が拵えし武田軍の切り札、巨具足(おおぐそく)舞六剣(ぶろっけん)

 人間城とも称されたその巨大人型機動兵器は、信州諏訪の地にて諏訪神党が建造に従事していたが、完成は元亀三年(1573年)まで待たねばならなかった。

 

 川中島全体を包んでいた濃霧が晴れる。日が中天に差し掛かるにつれ、戦況は徐々に武田軍不利へと傾いていった。

 時が経つ程、信玄の元へは味方の苦戦、将帥の戦死報告が舞い込む。

 

「初鹿野源五郎様、諸角豊後守様、討ち死に!」

典厩(てんきゅう)信繁様、討ち死に!」

「太郎義信様、前線にて孤立!」

 

 次々と舞い込む使い番からの戦況報告。“風林火山”の旗印の元、信玄は瞑目しながらそれを受けていた。

 実弟武田信繁の戦死、嫡男武田義信の窮地を聞いても尚、甲斐の虎は不動の姿勢を貫く。

 さながら、不動(うご)かざること山の如し。

 

 信玄の傍らにて同様にその報告を受けていた勘助は、やがて何かを決意したかのように信玄へとその隻眼を向けた。

 

「御館様。某は一隊を率い太郎様の助太刀に参りまする」

「勘助……」

「上手く運べば、そのまま政虎めの本陣をつけるやもしれませぬ」

 

 一礼し、不具と成った片足を引きずりながら自身の馬へと跨る。馬上にて、再度その隻眼を信玄に向ける勘助。その瞳は、僅かに潤んでいた。

 

「御館……いえ、晴信様。永らく、お世話になり申した。しからば、御免」

「……」

 

 馬首を翻し、戦場へ向け駆ける勘助。その様子を信玄は黙って見送っていた。

 勘助が生きて戻るつもりが無い事を、信玄は理解していた。しかし、決死の覚悟で戦場へ向かう隻眼の軍師を止める事は、甲斐の虎には出来なかった。

 

(すまぬ……勘助……)

 

 瞑目し、軍扇を握りしめる信玄。天下統一の為の西上作戦を成功させるには、後顧の憂いを絶つべく北信濃における上杉の勢力を打ち払わねばならない。

 だが、それを成し得る為の犠牲はあまりにも大きく。

 甲越両軍の兵士達の屍が積み上げられていった戦場へ、隻眼の軍師は主君の大義を背負い馬を走らせていった。

 

 

「拡充具足を持てい!」

 

 付き従う配下の士に向け大音声を発する勘助。それを受けた従士は驚愕の眼差しを勘助へと向ける。

 

「道鬼斎様! 拡充具足はひとたび着装すれば寿命が五年縮む武具! 左様なお体で着装すればもはや二度とは……!」

「戯け! ここが勘助の死に場所と心得よ!」

 

 従士の忠告を一蹴する勘助。拡充具足は戦場に於いて強力な兵器となり得ていたが、その着装者には身体を蝕む程の過負荷を強いる事になる。

 勘助の肉体で再び拡充具足を纏う事は、即ち死を意味していた。

 

「越後の者共よ! 道鬼勘助の威容しかと拝め! 石火着装!」

 

 勘助の後方にて追従する打込式鎧櫃の砲口から具足の各部位が射出される。

 撃ち出された具足は勘助の身体へと“瞬着”し、馬上には神武の超鋼を纏った鎧武者が現出した。

 その威容は、正に鬼神の如く。

 全身を鋼で覆われた勘助の大音声が、戦場へと響き渡った。

 

「閃獄拡充具足“不動”! 皆の者! 此度の勘助の武勇、夢忘るる事なかれ!」

 

 

 超鋼を纏いし鬼武者を先頭に、上杉軍へ向け赤色の軍勢が突貫する。

 

 軍師山本勘助晴幸、最期の奉公であった。

 

 

 この山本隊の突撃により前線にて孤立した武田信玄が嫡男、武田義信は窮地を脱し、逆に上杉軍本陣を強襲せしめる事となる。

 また、妻女山へ向かった高坂昌信らの別働隊が川中島へと到着した事で、それまで劣勢だった武田軍は息を吹き返し、形勢不利となった上杉軍は川中島北部に位置する善光寺へと撤退していった。

 撤退する最中、武田軍本陣へと直接切り込みをかけた謙信は信玄に手傷を負わす事に成功するも、結局は戦局を打開するまでには至らなかった。

 

 甲越両軍による壮絶な死闘となった“第四次川中島の合戦”にて、武田信玄は多くの優秀な将を失う事となる。

 特に実弟武田信繁、軍師山本勘助を失った事は、その後の信玄の西上作戦にも大きな影響を与え、上洛する為の遠征軍の編成は当初の計画より大幅に遅れる事となった。

 

 武田義信を救出し、上杉軍本陣へと逆襲を果たし、川中島の地にて討ち死にし果てた山本勘助。だが、その遺体は誰にも見つかっていない。

 一説には勘助は生き延びて武田信玄の影となり、様々な諜報活動に従事したとも伝えられている。また、元和元年(1615年)に現出した怨身忍者“霧鬼”が巨具足“舞六剣”を得る為の手助けをした、との伝説も残っている。

 

 しかし、勘助が川中島の合戦にて着装した拡充具足“不動”は、後の世になっても終ぞ発見される事は無かった。

 

 合戦の後、戦場清掃に駆り出された付近の農民達は、勘助が討ち死にしたと思われる場所に乳白色の霧(・・・・・)が立ち込めるのを目撃した。

 

 

 また、その上空には、妖しく煌めく赤い珠(・・・)が──

 

 

 

 

 


 

 甲龍歴423年

 ベガリット大陸南部

 転移の迷宮

 

「パウロ! 今回はもうだめだ! 引き返そうぜ!」

 

 撹乱用の煙幕弾を放りながら猿顔の冒険者が鬼気迫った表情を一人の剣士へと向ける。

 通路から無数に湧き出る魔物の群れを剣で薙ぎ払いながら、パウロと喚ばれた剣士が猿顔の冒険者へと応えた。

 

「クソッ! ギース! お前なんでマッドスカルがいるのに気づかなかったんだ!」

「んなこと言われてもよぉ!」

 

 剣士──元S級冒険者パーティー“黒狼の牙”のリーダーであり、ルーデウス・グレイラット、そしてウィリアム・アダムスら転生者兄弟の父パウロ・グレイラットが、悪態をつきながら目前の魔物アイアンクロウラーへと渾身の剣撃を放つ。

 

「おらぁ!」

 

 生々しい音と共にアイアンクロウラーはその重戦車のような体躯から黄土色の体液を噴出させ息絶えた。

 

「パウロ! まだまだ出てくるぜ! 気をつけろ!」

 

 ギースと呼ばれた猿顔の冒険者──魔大陸の魔族、ヌカ族最後の生き残りであるギース・ヌーカディアが、通路奥から新手のアイアンクロウラーが湧き出るのを見て警告を発する。

 アイアンクロウラーの後方では泥で覆われた人型の魔物、マッドスカルが魔物の群れを統率する様子が見て取れた。

 マッドスカルは非常に知能が高い魔物で、周囲の魔物を呼び寄せ統率するという習性を持っており、泥の怪物に率いられた無数の魔物の軍団が迷宮の深部から現出していた。

 

「パウロさん! ギースさん! 伏せてください!」

 

 パウロ達の後方から蒼髪の魔法少女、水王級魔術師ロキシー・ミグルディアが杖を振りかざし、その可憐な唇から魔術の詠唱が唱えられた。

 

「落ちる雫を散らしめし、世界は水で覆われん。『水蒸(ウォータースプラッシュ)』!」

 

 ロキシーの周囲に無数の水玉が浮かび、弾丸の如く魔物の群れへと飛散する。水弾の威力は魔物を仕留めるまでには至らなかったが、怯んだ魔物達はその足を止めた。

 

「タルハンドさん!」

 

 間髪入れず横に立つ炭鉱族(ドワーフ)の男へと合図する。

 炭鉱族、元“黒狼の牙”のメンバー、厳しき大峰のタルハンドが杖を振りながら、その厳つい声を張り上げた。

 

「大地の精霊よ! 我が呼び声に応え堅甲なる壁となれ!『土壁(アースウォール)』!」

 

 パウロ達の目前に魔術により形成された土の壁が現出する。

 通路内から湧き出る無数の魔物はこの土壁に阻まれ、パウロ一行の追撃を困難にせしめた。

 

「今の内じゃ! とっとと退くぞ!」

 

 タルハンドの号令により、一行は即座に撤退を開始する。

 パウロは暫し土壁を睨みつけていたが、やがて踵を返して迷宮上層へ続く道を駆けていった。

 

(クソッ! また失敗か……! ゼニス……!)

 

 苦杯をなめるかのように唇を噛み締めながら迷宮内を駆けるパウロ。忸怩たる思いを抱えながら、またも迷宮攻略に失敗し、愛する伴侶を救い出せなかった事がパウロの心を蝕んでいた。

 

 迷宮深部にて囚われた伴侶、ゼニス・グレイラットを救い出すべく、転生者兄弟の父親は1年以上この転移迷宮に挑み続けていた。

 が、ベガリット大陸でも屈指の難易度であるこの“転移の迷宮”は、迷宮攻略で名を馳せた“黒狼の牙”元メンバーが3名揃っても尚、その深部へと到達する事は叶わず。

 水王級魔術師であるロキシーの助力を得ても、迷宮攻略を成し得るまでには至らなかった。

 

「クソオォォォォッッ!!!」

 

 咆哮と共に、無念の表情を浮かべ、転生者兄弟の父親は迷宮を脱出せんと駆け抜けていく。

 愛する伴侶と、家族と再び再会するまで、転生者兄弟の父親はその脚を止める事は無かった。

 

 

 

 

「やれやれ……これで何度目の失敗かのう」

 

 迷宮都市ラパン

 

 “転移の迷宮”から脱出し、迷宮攻略の拠点である迷宮都市へと帰還した一行は、根城にしている宿屋へと辿り着くと、装具をそのままに各々休息を取り始めた。

 どっかりと宿屋食堂に設けられた椅子に腰を降ろすタルハンド。ロキシーもまた疲れた表情を浮かべながら腰を下ろした。

 

「予想以上に迷宮の魔物が強力ですね……そもそも転移魔法陣があれだけあると、どの魔法陣が深部につながっているかわかりません……」

「ギースのマッピングも芳しく無いしのう……困ったことじゃ」

 

 転移の迷宮は迷宮内部に無数の転移魔法陣が設置されており、その魔法陣を潜らねば迷宮深部へと到達する事は叶わず。

 また、迷宮内部の魔物はこの転移魔法陣を熟知しているのか、転移魔法陣の先には魔物が群れを成している事も多々あった。

 巧妙に偽装された転移魔法陣も存在し、罠にかかった冒険者達は魔物の群れに囲まれ、その贄となる。

 嘗て高名な冒険者、アニマス・マケドニアスがこの転移迷宮に挑んだ際も、迷宮深部まで到達する事なく転移魔法陣の罠にかかり、仲間を失った事で攻略を断念した事はあまりにも有名な逸話であった。

 

「旦那様、ご無事で……」

「リーリャ……。すまない、また失敗した」

「いえ、旦那様がこうして無事に戻ってきた事がなによりです。きっと、奥様も無事に救い出せると思います」

「ああ……そうだな……」

 

 パウロ・グレイラットの第二夫人、グレイラット家のメイド、リーリャ・グレイラットが、同じく憔悴したパウロを気遣いながら言葉をかける。

 転移事件の後、実子アイシャ・グレイラットと共にシーローン王国へと転移したリーリャ。シーローン王国第七王子パックス・シーローンの策略により軟禁生活を強いられていたが、フィットア領へ帰還途中のルーデウス・グレイラットにより救出され、そのままパウロが待つミリス王国王都ミシリオンへと向かう事となる。

 実子アイシャ、ゼニスの子ノルンを世話をしつつ夫であるパウロに献身し続けたリーリャであったが、ギースがベガリット大陸の迷宮にてゼニスが囚われているとの情報を得た事でパウロ一行はゼニス救出の為の行動を起こすこととなる。

 

 ルーデウスが居を構えるシャリーアへ護衛であるジンジャー・ヨーク、ルイジェルド・スペルディアと共にアイシャとノルンを送り出し、夫を支えるべく救出行に同行したリーリャであったが、ゼニス救出に失敗し続けるこの1年はパウロと同様にリーリャもまた相応に疲れ果てていた。

 

 転移事件が発生してから6年。リーリャにとって主であり、親友と言っても差し支えないゼニスは、生存が確認されているとはいえ未だ迷宮深部に囚われたままであった。

 

「旦那様。奥様を救い出した後は、ウィリアム坊ちゃまも見つけなければなりません。気をしっかり持ってください」

「ああ、そうだな……ウィルも、見つけなきゃだな……」

 

 リーリャの言葉に力なく応えるパウロ。伴侶を救い出した後、愛する次男も見つけねばならない。

 だが、居場所が判明しているゼニスはともかく、ウィリアムの居場所は転移してから6年経った今でも不明のままであった。

 ゼニス救出に失敗し続けるパウロにとって、ウィリアムの捜索は後回しにせざるを得ない。その事が、パウロの心を蝕む一因にもなっていた。

 

「ウィル……ウィルかぁ。あいつは今、どこで何しているんだろうな」

「旦那様……」

「きっと、俺に似て、イイ男になっているんだろうなぁ」

「……そうですね。きっと、旦那様に似て素敵な殿方になっていますよ」

 

 薄く笑みを浮かべながら優しげに応えるリーリャ。リーリャの笑顔を見て、パウロは僅かながらに気力を復活せしめた。

 パウロは幼少の時分に見せたウィリアムの精強さを思い浮かべる。

 兄、ルーデウスを一撃で打ち負かしたあの斬撃。また、常軌を逸した鍛錬を課していた武の権化ともいえる次男坊が、生半可な事では絶命しない事は想像に難くない。ロキシーがもたらした“魔界大帝”の情報でも、その生存が確認されている。

 この世界のどこかにいるであろう次男坊の成長した姿を想像する事が、迷宮攻略に失敗し続け憔悴したパウロの数少ない慰みにもなっていた。

 

 

「ところで、ギースの奴めはどこへ行ったんじゃ?」

 

 パウロ達の様子を見やりつつ、タルハンドは食堂にギースの姿が無い事に気づき怪訝な声を上げる。パウロの傍らに寄り添っていたリーリャが、その疑問に応えた。

 

「ギース様は『軍資金の調達に向かう』と仰っていましたが……」

「なんじゃ、もう賭場に行ったのかあやつは。元気が良いのう」

 

 ギースは不足しがちな資金を調達する為、迷宮で得た魔物の素材や迷宮内部の情報をラパンにて売却していた。しかし、それらよりも手っ取り早く稼げる賭博での資金調達を行う事が多く、黒狼の牙時代からのギースの資金調達法であった。

 もっとも苦しい時は確実に資金を増やしていたが、平時におけるギースの博打の勝率は暗澹たる有様であった。

 

「物資を購入するにも、攻略メンバーを雇う為にも、お金は必要ですからね」

 

 続けてロキシーが言葉を発する。迷宮攻略は数日、長い時は数週間は迷宮に潜り続けなければならず、必然的に食料等の物資を抱えて迷宮攻略に挑む必要があった。

 それらの消耗品に加え、パウロ一行は現地にて冒険者を雇い入れて迷宮攻略を行っていた。

 だが、転移の迷宮は難易度の高い迷宮で知られ、命を惜しんだ現地の冒険者達は中々パウロ達の攻略メンバーに参加する事は無く。

 中には命知らずな冒険者達が参加する事もあったが、そもそも一攫千金を狙うそれら冒険者達にとって、人命救助目的で迷宮攻略に挑むパウロ達と目的が一致しないというのもあり、参加しても直ぐにメンバーから外れる事が多々あった。

 パウロ達にとって、攻略メンバー集めは当初からの難題であったのだ。

 

「そうじゃな。今のままでは迷宮攻略の戦力が足りん。せめて、ロキシー並みの魔術師と、それなりに腕の立つ前衛がそれぞれもう一人欲しいとこじゃのう」

「もう私達に協力してくれる冒険者はラパンにはいませんからね……」

「悩ましいのう。暫くは攻略を控えたほうがいいかもしれん」

 

 深々と溜息を吐くタルハンド。ロキシーは俯きながらもそれに頷こうとしたが、少しばかり逡巡した後、自身の胸の内を明かした。

 

「いえ、近いうちにもう一度迷宮へ向かいましょう」

 

 ロキシーの言にタルハンドは目を丸くしてその可憐な瞳を覗く。

 離れたテーブルでその言葉を聞いたパウロもまた、蒼穹の魔法少女の瞳を胡乱げに見つめた。

 

「何じゃ。何ぞ気になる事でもあったか?」

「はい。実は、迷宮内部に白いモヤ(・・・・)が出ているのを見かけました」

「白いモヤ? パウロ、モヤなど迷宮内に出てたかのう?」

「俺はそんなのは見てないな」

 

 訝しげにパウロに尋ねるタルハンド。攻略パーティー前衛として常に最前線に居続けたパウロであったが、迷宮内部にてそのような不審な現象は目撃していなかった。

 

「三層の転移魔法陣の近くで発生していました。丁度、皆さんが休憩を終えて出発する時です。すぐに消えてしまったので、私もしっかり確認したわけじゃないのですが……」

「ふーむ……。じゃが、今までそのような現象は発生しておらんかったからのう。何か、重要な物があるのかもしれぬな」

「迷宮攻略の糸口になるかもしれません。それに、時間が経つと迷宮内部の構造も変化してしまうかもしれません」

「というわけじゃ。どうするパウロ?」

 

 タルハンドの言葉を受け、パウロはしばらく考え込むように瞑目していたが、やがてしっかりとした口調で方針を述べた。

 

「わかった。一応ギースの意見も聞きたい所だが、4、5日くらい休息を取ったら迷宮に行くとしよう。どのみち行くとしてもまた準備しなきゃならねえし」

「そうじゃな。ロキシーもそれでいいか?」

「はい。それでいいかと思います」

 

 パウロの方針に頷くロキシーとタルハンド。

 攻略失敗し続ける一行であったが、その闘志に陰りが差す事は無かった。

 

(ルディが来るまでにゼニスさんを救い出さないといけませんしね……来るかどうかはわかりませんけど)

 

 ロキシーは愛弟子であるルーデウスを思い浮かべる。

 シャリーアに居を構えるルーデウスへ向け、ギースが勝手に救援要請を出した事はパウロを始め迷宮攻略メンバーにとって既知の事実ではあった。

 だが、ルーデウスがその救援要請に応え向かってくるかどうかは不明であり、よしんば向かったとしてもシャリーアからここベガリット大陸まで1年以上はかかる。

 

 されど、長く攻略に失敗し続ける一行にとって、1年という時間は決して長いものではなく。

 ルーデウスが到着するまでには、ゼニス救出は成し遂げなければならなかった。

 

(ルディはどんな風に成長しているんでしょうかねえ……)

 

 ルーデウスが5歳の時に別れてからそれきりであったが、成長した愛弟子の姿を想像した蒼穹の魔法少女は、その表情を僅かに緩める。

 別れてから11年。人族の成長は早い。きっと、凄腕の魔術師になっている事だろう。

 

(それに、ウィリアム君も……)

 

 ロキシーはルーデウスの姿と共に、寡黙な幼子の姿も思い浮かべる。

 成長した虎子の姿は、一体どのような……

 

 そのような事を思いながら、ロキシーはぎゅっと拳を握りしめた。

 

 

(ゼニスさんも、ウィリアム君も、きっと無事に見つかります……きっと……)

 

 

 ロキシーは、幾度となく繰り返されたグレイラット家族の無事を静かに祈る。

 祈りながら、迷宮に囚われしゼニスの救出を固く誓うのであった。

 

 

 蒼穹の魔法少女を待ち受けるは迷宮の無数の怪物

 

 深部には魔力結晶から生まれし異界の大蛇が鎌首をもたげる

 

 囚われし菩薩は、救い手を導く事は叶わず

 

 

 そして、甲斐の鬼軍師の武魂が封入されし鎧もまた、迷宮にて異界における着装者を待ち続けていた……

 

 

 

 



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第十八景『王国崩学徒姫(おうこくくずれがくとのひめ)

 

 世評と実態の乖離については往々にして発生しがちなものであり、世界が違えど人の営みが続けられている以上避けられぬ事象である。

 

 例えば、幕末の維新志士と凄絶な死闘を繰り広げた“新撰組”

 彼らが隊内で処刑した朋輩の人数は、誅戮した維新志士達よりも多いという実態があり、商人を強請って活動資金を調達したり、証拠もなく疑わしき者を連行し拷問するなど、凡そ“誠忠”とは程遠い醜悪な一面を持っていた。

 実態を知らぬ者は新撰組浪士達が尊皇敬幕を掲げ、新たなる時代の胎動に逆走し、滅びゆく徳川幕府に殉じた清廉な義士集団と映るだろうが、現実には悪辣な行動を平然と行う物騒な集団であった事は確かである。

 

 六面世界においてもそれは同様で、アスラ王国第二王女アリエル・アネモイ・アスラは、ラノア大学留学時代貞淑な乙女として生徒達から慕われる人物で知られていた。

 だが、アリエルがアスラ貴族が持つ倒錯的な性的嗜好を持ち得ていたのは周囲のごく親しい人間にしか知り得ぬ事実であり、大半の人間はアリエルがそのような悍ましい性癖を持っていた事は終ぞ知る事は無かった。

 

 ある種の二面性を持っていたアリエルの人間性であったが、それとは別に王族が持つべき強かな腹黒さも、ラノア大学留学時代に培われていた事はごく親しい人間の中でも限られた者でしか知り得ぬ事であった。

 

 アスラ王都に“王”として舞い戻るべく、己の“大望”を燻らせていたアリエル。

 嘗て都落ちをせざるを得なかったのは、権謀を知らぬ己の無知と、自身が掌握していた武力が足りなかった為。

 身を挺して己の為に殉じた守護術士の無念を抱え、アリエルは日々強者との繋がりを求めていた。

 

 もう二度と、己を慕う忠臣を失わない為に。

 己の為に、命を落とした者達の悲願に報いる為に。

 落ち延びたアスラの姫君は、世間での印象とは真逆の苛烈な想いを胸に、着々とその牙を研いでいた。

 

 

 

 

 魔法都市シャリーア

 ルーデウス・グレイラット邸

 

 ウィリアムとナナホシとの奇妙な邂逅があった後、見舞いに訪れたアリエル・アネモイ・アスラとルーク・ノトス・グレイラット主従はウィリアムとルーデウス邸のリビングにて対座していた。

 アイシャが用意した来客用の茶を王族らしい優雅な手つきで口をつけたアリエルは、人心地ついた後ウィリアムへ向け嫋やかな笑みを向けた。

 

「さて。改めてご挨拶致します。私はラノア大学生徒会長、アリエル・アモネイ・アスラと申します。こちらは同じ生徒会のルーク・ノトス・グレイラットです。私共々お見知りおきを」

「ルークだ。宜しく頼む」

「……ウィリアム・アダムスと申す」

 

 ウィリアムはアリエル達へ向け一言、言葉を返す。

 あえてアスラ王国王族である事を名乗らずにラノア大学の一学徒である事を述べるアリエル王女であったが、虎は敏感に“アスラ”という姓に反応し、慇懃に言葉を返す。

 だが、同席していたシルフィエット、アイシャは、ウィリアムがグレイラットの姓を名乗らなかった事にやや悲しそうな表情を浮かべる。同席しているノルンも困惑した表情をウィリアムへと向けていた。

 そんなグレイラットの家族達の表情をちらりと見たアリエルであったが、構わず虎との会話を続けた。

 

「ルークはアダムス様の従兄弟に当たります。宜しくしてやってくださいな」

「そういう事だ。仲良くしてくれると嬉しい」

 

 柔らかに接するアリエル主従に対し、ウィリアムは変わらず無表情に言葉を返した。

 

「アスラ王家の御方とノトスの御子息に(まみ)える事が出来、光悦至極……」

 

 形式通りの言葉を返すウィリアム。大国アスラ、大貴族ノトスの名を聞いても虎は必要以上にへりくだる姿勢を見せなかった。

 もし、虎が神君の血筋を引く異界の女子高生と出会っていなかったら、また違った反応が見られたかもしれない。

 そのような事情は知らぬアリエルは、ウィリアムの反応を目敏く察知し、ほんの少し目を細めた。

 

「アダムス様。そのように格式張らなくても構いません。私達には普段通りに接してください」

「はっ……」

 

 アリエルの気遣いを受けても虎は変わらぬ態度を保ち続ける。

 慇懃な態度を保ち続ける虎に対し、アスラの王女はやや困ったような微笑を浮かべていた。

 

「今日はアダムス様の御見舞に伺ったのですが、お元気なご様子で安心しました」

 

 気を取り直し、紅茶に口を付けつつ気品のある表情を向けるアリエル。ルークは先程から頬を擦りながら、虎へやや固い表情を向けていた。

 

「あの、アリエル様。ちょっといいですか?」

「どうしましたシルフィ」

 

 ウィリアムとアリエル主従との会談を黙って見ていたシルフィエットであったが、堪りかねたかのようにその口を開いた。

 

「なんでルークは顔を腫らしているの?」

 

 ルークの顔を指差しながら怪訝な声を上げるシルフィエット。ルーデウス邸に来た時からルークの顔は何者かに殴打されたのか、痛々しく腫れていた。

 

「いや、まあそれはだな……」

「ほっとくと後引くよ。治してあげるよ」

「いや、これは戒めとして……」

「いいからいいから。アリエル様の手を煩わせたくなかっただけでしょ?」

 

 シルフィエットはルークの傍へ行くと、その腫れた頬に手を当て治療魔術を行使した。

 無詠唱魔術により即座に発揮された治癒効果により、ルークの頬の腫れは瞬く間に引いていく。

 ルークは完治した自分の頬を擦ると、シルフィエットに深々と頭を下げた。

 

「すまん……」

「いいよ別に。で、なんでそんな事になっちゃったの?」

 

 ひらひらと手を振りながら、シルフィエットはルークの怪我の原因を尋ねる。

 相変わらず逡巡し続けるルークであったが、アリエルが従者の代わりに口を開いた。

 

「実は、ここに来る途中二人組の獣族に絡まれまして。というか、絡まれたのはルークだけでしたが」

 

 アリエルはラノア大学からルーデウス邸へ向かう途中、二人組のミルデット族に因縁を付けられた事を簡潔に語る。

 丁度絡まれた場所は人の往来が少なく、二人組のミルデット族はルークの姿を見てしつこく絡んでいた。

 

「『お前はこがん流か?』と、しきりに言われてな。違うと言ったのだが、あまりにもしつこいし、アリエル様にも害があってはいけないと思って追い払おうとしたのだが……」

 

 力なく語るルークを見て、その後の顛末を何となく察したシルフィエットは微妙な表情を浮かべる。

 アリエルの守護騎士として常にアリエルの傍らに控えるルークであったが、ゴロツキ相手に不覚を取るのもどうかと思い訝しげにルークに視線を向けていた。

 

「ルーク。そういう時は穏便に済ませる物ですよ。相手の実力が分からないのに下手に強気に出たら、痛い目に会うのは分かってたでしょうに」

「申し訳ありません……」

 

 アリエルはルークをやんわりと窘めるように言葉をかける。幸いミルデット族の二人組はルークを殴打した後、そそくさと退散したが、一つ間違えればアリエルの身にも危害が及ぶ事態であった。

 ことアリエルが絡むと向こう見ずな行動を取りがちなルークに、シルフィエットは窘めるような目つきで見続けていたが、一つ溜息を吐くとアリエルと同じように労りの言葉をかけた。

 

「最近は物騒な獣族の人が増えたもんね。災難だったねルーク」

「そうだな……不甲斐ない事だが」

 

 共にアリエルに忠誠を誓うシルフィエットは、ルークの行動を徒に謗る事は出来ず。もし同じ状況なら自分も不逞な獣族に真っ向から立ち向かっていただろう。

 もっとも、単騎で強力な魔物を滅しうるシルフィエットと、あくまで凡庸な戦士でしかないルークとの実力の差は雲泥であった事は確かであるのだが。

 

 ウィリアムはアリエル主従とシルフィエットのやり取りをさも興味が無さそうな様子で聞いていたが、“虎眼流”の名がルークから出た事でピクリとその鋭い眼尻をひくつかせた。

 

「ところでアダムス様。“こがん流”とはアダムス様の流儀ではありませんか?」

 

 そのようなウィリアムの様子に目ざとく反応するアリエル。無双虎眼流の名は、徐々にこの異世界に浸透しつつあった。

 

「……左様で」

「やはりそうでしたのね。三大流派以外で七大列強に叙されたのは、とても凄い事です」

 

 ウィリアムは虎眼流の名を聞いた以上に“七大列強”という言に反応する。啜ろうとしていた茶を置き、鋭い視線をアリエルへと向けた。

 

「それがしが七大列強と?」

「ええ。アダムス様は“死神”に代わり新たな七大列強に叙されています。この紋様に見覚えはありませんか?」

 

 アリエルは懐から一枚の紙を差し出す。

 そこに刻まれていたのは、剣五つ桜に六菱の紋様。

 前世の家、岩本家の家紋を眼にした虎は、驚きの表情を隠せないでいた。

 

「ご存知かもしれませんが、七大列強の碑石は列強に叙された御方のシンボルが刻まれています。アダムス様のお召し物にも同じ紋様が描かれていたのでもしやと思いましたが、その御様子ではやはりアダムス様縁のシンボルのようですね」

 

 虎はテーブルの上に置かれた岩本家の家紋を凝視し続けていたが、やがてゆっくりと瞼を閉じ、深く瞑目する。

 アリエルは変わらずウィリアムへ向け言葉をかけていたが、虎の耳にはアスラ王女の言葉は耳に入ってこなかった。

 

 あの死神との一戦。

 相討ちしたばかりか、相手に情けをかけられ命を繋いだ虎にとって、己が死神に代わり新たな七大列強に除された事は正しく寝耳に水であり……それ以上に、虎の中である種の寂寥感が広がっていた。

 

(これしきか……)

 

 完勝とは言い難いあの戦いで得た称号は、虎にとって価値がある物では無かった。

 みしり、と拳を握り瞑目するウィリアムに、周囲はやや困惑した表情を浮かべていた。

 

 アリエルもまた沈黙し続けるウィリアムにやや困ったような表情を浮かべるが、やがて居住まいを正し、ルーデウス邸から退去するべくルークへと声をかけた。

 ウィリアムの様子伺いという目的を達した以上、これ以上グレイラットの家族の団欒を邪魔する程アリエルは不粋では無かった。

 

「……そろそろお暇しましょうか、ルーク」

「はい、アリエル様」

 

 ルークもまた同じ気持ちだったのか、アリエルへ頷くと立ち上がり、主君の椅子を引く。

 ルーデウスとはまた違った意味で距離が測り辛いウィリアムは、ルークにとってやや苦手な部類の人間であった。

 

「ではまたお会いしましょう。アダムス様。シルフィも体調には気をつけてくださいね」

 

 アリエルはルーデウス邸玄関へと向かうべく立ち上がると、優雅な一礼をウィリアムへ向けた。

 ウィリアムは僅かに頭を下げ、それに応える。

 

「ノルンさんやアイシャさんもまたお会いしましょう。サイレント様にも宜しくお伝えください。それでは」

 

 見送るグレイラットの家族に一礼し、落人の姫君はルーデウス邸を後にした。

 

 

 

 

「ルーク。貴方から見て、アダムス様はどのような御方と見ましたか?」

 

 ルーデウス邸を出たアリエル主従は無言でラノア大学学生寮へ歩いていたが、おもむろに後ろに控えるルークへアリエルが声をかける。

 ルークはしばらく考えるような素振りを見せた後、しっかりとした口調でアリエルに応えた。

 

「アリエル様。私はこのシャリーアへ来てから様々な人間と出会ってきました。ルーデウスも変わった男でしたが、ウィリアムは特に余人と一線を画する男かと思います」

 

 良く言えば寡黙。悪く言えば不遜な若者。ルークがウィリアムに対し抱いた印象は概ねそのような物であった。

 

「ただ……我々に対して興味が無いように見えました。権力や権威が通用しない相手かと」

「私は違う印象を受けました」

 

 ルークのウィリアムへの印象を聞き、アリエルは即座にその意見を否定する。

 アリエルはアリエルでウィリアムの一挙一動をつぶさに観察し、虎が隠し持つ本質をある程度見抜いていた。

 

「ルークはあまり知らない事かもしれませんが、王宮で似たような御方が何人かいたのを覚えています」

 

 嘗てアスラ王宮にて自儘に振るっていた時分、宮廷政治の舞台において海千山千の輩がいた事を思い出すアリエル。王位継承を争った第一王子派の貴族達……特に、己をこのような境遇に陥れた元凶であるダリウス大臣の顔を思い起こしたアリエルは、僅かに顔を顰めていた。

 第二王女派の旗頭として擁立されたアリエルに、リストン卿を始めアリエルに忠誠を誓っていた貴族も多くいたが、それらの貴族はダリウス大臣の狡猾な奸計によって権力の座から叩き落されている。

 転移事件が発生した際、転移した魔物から身を挺してアリエルを守った守護術士デリック・レッドバットの遺志と、アリエルに賭けて没落した貴族達の無念を、落人の姫君はそのか細い肩に背負っていたのだ。

 

「仕えるべき主人に対し、狂信的な忠誠を誓える御方……権勢を求めていて、その権勢を認める者にしか忠誠を誓わない……絶対的な強者にして、被虐的な従者の気質……例えるならそのような感じでしょうか。ルークやデリックとは違ったタイプですが、本質的には同じですね」

「はあ……」

 

 滔々と語るアリエルにやや気の抜けた返事を返すルーク。自分とあの不遜な若者が同じ扱いをされるのに納得がいかない様子であった。

 

「確かに、あの御方は今の(・・)私には露ほども興味が無いでしょう」

 

 歩きながらルーデウス邸でのウィリアムの様子を思い起こすアリエル。権力闘争に敗れた弱者であるアリエルに、虎は一切の興味を抱かなかった。

 虎が興味を示すのは、強者のみ。

 

「ですので、今はそれとなく友誼を図るだけでいいのです。わかりましたね、ルーク」

「はい。アリエル様」

 

 アリエルの言葉にしっかりと頷くルーク。どのみち、あの虎を“こちら側”に引きずり込むにしても、しばらくの時がかかりそうであった。

 

(終始“アダムス”というお名前で呼び続けるのに拒否感を見せなかった……やはりルーデウス様達とは距離を置いていますね……)

 

 アリエルはウィリアムがシルフィエット、ノルン、アイシャに対して見せていた態度も目ざとく観察していた。

 ルーデウスは、おそらくシルフィエットの為にある程度は協力をしてくれるだろう。

 だが、出来ればルーデウスとシルフィエットにはアスラの政争に拘らず穏やかな人生を過ごして欲しい……そのような想いがあったアリエルは、グレイラット家と一線を引くウィリアムという強者がいる事は、ひどく都合の良い事であり。

 虎を配下に収める事は、ルーデウスに比べて何ら抵抗感を抱かなかった。

 

(欲しい……なんとしても……)

 

 “しかるべき日”の為に、流浪の強者を配下に収めるべく、捲土重来を誓うアスラの姫君は強かにその頭脳を働かせていた。

 

 

 

 

 


 

 一流の剣術者は常日頃から刀の手入れを怠らない。

 戦国の世に生きる侍達は想像以上に己の刀を大切に扱っていたものである。

 

 アリエル達との対面を終えたウィリアムはしばし瞑目していたが、やおら立ち上がると“七丁念仏”が置かれている客間へと向かった。

 シルフィエットら家族の者達へは簡潔に刀の手入れをするとだけ伝え、さっさと客間へ篭り刀の手入れを始めるウィリアム。

 アイシャが置いたのか、七丁念仏はウィリアムの荷物と共に丁重に安置されていた。

 

 ウィリアムは床に胡座をかき、鞘に納められた七丁念仏をゆっくりと引き抜く。死神戦で付着した血糊を落とすべく、水に濡らした布にて刀身を拭う。

 本来は即座に血脂を取り除かなければ鞘の中が生臭くなってしまうものだが、不思議と七丁念仏からは生臭い臭いは発しておらず。

 代わりに、濃厚な鮮血の香りが漂っていた。

 

 ウィリアムは乾いた布で水気を良く拭った後、荷物から“打ち粉棒”を取り出す。そのまま丁寧な手つきでポンポンと七丁念仏の刀身へ粉を軽く振りかけた。

 振りかけられているのは砥石を砂状に砕いた粒であり、この細かな粒子が刀身に残る古い油を除去する上で必要な代物であった。

 打ち粉にて古い油を除去した後、和紙に似た材質の紙を取り出し、ゆっくりと刀身を拭う。完全に油が除去された後、再び紙を用い、椿油によく似た性質の油をたっぷりと染み込ませ刀身に塗布する。

 常に新しい油を塗布しておくのも、鋭利な切れ味を保つための必要な条件であった。

 

 これら刀の手入れ道具をウィリアムは転移してからの旅路の途中、似たような素材から自らの手で作り出している。

 一流の剣術者であり兵法家でもあったウィリアムは刀工の知識も十分に持っており、異世界においても刀の手入れ道具を調達するのは難しくなかった。

 だが、七丁念仏は以前から大した手入れをせずともその妖しい輝きを保ち続けていた。妖気が漂う七丁念仏は、明らかに前世の時に比べ異様な変質を遂げていたのだ。

 

 一通りの手入れを終えたウィリアムは、七丁念仏の刀身をじっと見つめる。妖光を放つ七丁念仏の刀身は、前世を含め長い時を共に過ごしたウィリアムでさえ吸い込まれそうな程の魔力(まりき)を放っていた。

 

(七大列強……)

 

 刀身に映る自身の顔を見つつ、アリエルによりもたらされた七大列強に叙されたという事実を深く反芻していた。

 シャリーアへ来た当初の目的を見事に達成したウィリアムであったが、その心の貝殻は空虚な想いで満たされていた。

 

(あの死神の剣境は、明らかに剣神より劣っていた……)

 

 七大列強五位“死神”。普通に考えれば、列強六位の“剣神”と同格かそれ以上であろう。

 だが、両者と対峙したウィリアムは、死神の業前が明らかに剣神より劣っていた事を明確に感じ取っていた。

 ウィリアムは知るべくもなかったが、死神は長らく剣から遠ざかった生活を送っており、ウィリアムと立ち会った時は久方ぶりの“実戦”であった。

 全盛期にくらべ遥かに劣った実力であった死神と相討ち紛いの勝利しか掴めなかったウィリアムは、果たして己が本当に列強に相応しい実力なのかと自問する。

 少なくとも、剣神と同格以上になったとはとても思う事は出来なかった。

 

(己の業を、更に練り上げねばならぬ……)

 

 七丁念仏を鞘に納めながら、虎は再度己の業を磨く事を誓う。

 名を得ても、己の力は向上した事にはならず。

 もっと疾く。もっと強く。

 さもなくば、到底剣神とは渡り合えぬ。

 

『剣神……首を洗うて待っておれ……いずれ出鱈目に斬り刻んでくれるわ……!』

 

 怨嗟の日ノ本言葉を吐きながら宿敵との再戦を誓うウィリアム。あわよくば死神とも再戦し、完全勝利せしめて名実共に列強五位となり、剣の聖地へと赴き剣神流の何もかもを根絶やしにしたい怨嗟の衝動に駆られていた。

 

 

「……」

 

 だが、剣神流への怨嗟の激情にかられたウィリアムの心に、ふと黒き狼の姿がよぎる。

 僅かな間ではあったが、共に旅をしたあの女剣士は、真っ直ぐな恋慕を己にぶつけて来た。

 何故あそこまで慕われたのか皆目見当もつかないウィリアムであったが、口づけを交わした時、清々しい風が己の心に吹いた事は確かであった。

 

「あんな女子(おなご)だけは嫁にしたくないのだが喃……」

 

 優れた剣技と身体能力を持ち得ているにも関わらず、どこか抜けた様子があった剣王の姿を思い浮かべていく内に、ウィリアムは己の中の怨嗟の炎が鎮火していくのを感じていた。

 

「……うむ」

 

 平静となったウィリアムは改めて己が七大列強入りした事実を受け入れる。

 何はともあれ、列強入りした事によって己を狙う強者が増える事が想像に難くなく。

 その強者を片っ端から斬り伏せ、虎眼流を更なる高みに引き上げるのは、剣神を打倒し異界天下無双を目指す若虎にとって望ましい状況ではあった。

 

 

 七丁念仏を床に置き、静かに瞑目するウィリアム。瞑想するうちに先程まで対面していたアスラの姫君の姿を思い起こした。

 転移してからのウィリアムはとある事情(・・・・・)で暫くは一箇所に留まり続けていたが、こうしてシャリーアへ至る途上でそれなりに世の中の情勢を見聞きする機会はあった。

 アリエルはアスラ王国内の政争に敗れ、このシャリーアへと落ち延びた身分であり、列強入りしたウィリアムが必死になって売り込むべき相手ではない。

 とはいえ、今後あの姫君がどうなるのかは予想できる物では無かったが。

 

 ウィリアムの前世の日ノ本に於いて、没落した状況から再起を図り、天下に号令をかける例は室町の世の足利尊氏、鎌倉の源頼朝など枚挙にいとまがない。

 もっとも、それらは確かな実力と強力な運、そして支えてくれる優秀な家臣に恵まれていたから成し遂げられたのであって、大抵の没落者はそのまま歴史の影へと消え去っていったのも十分理解していた。

 

(いずれはあのアスラの姫君に己を高く売りつけるのも悪くない……が)

 

 王都へ舞い戻り、見事王権を奪取するか。それとも、このまま歴史の影に埋没していくのか。

 どちらにせよ、ウィリアムにとって今のアリエルへ仕官するという選択は現時点では全く考えられなかった。

 それよりも先に、虎には宿敵を滅するという宿命があるのだ。

 ウィリアムはそこまで思考した後、アリエルの一切を脳内から排除した。従兄弟と名乗ったルークについては、端から虎の脳内には存在していなかった。

 

 

 しばらく座して思考していたウィリアムであったが、ふとドアの向こうに人の気配を感じ取る。

 ドアの向こうから僅かに香る少女の匂いを嗅ぎ取った虎は、実妹である少女の名前を呼んだ。

 

「ノルンか」

「は、はい」

 

 ドアの向こうから、妹のノルンの上ずった声が上がる。

 緊張した声色で応えるノルンに、ウィリアムは少しばかり眼を細めていた。

 

「あの、入ってもいいですか……?」

 

 恐る恐る尋ねるノルンの声を聞いたウィリアムは、やや身体の力を抜いてそれに応えた。

 

「良い」

「あ、ありがとうございます……」

 

 ゆっくりとドアを開き、おずおずと半身を覗かせながら部屋へ入るノルン。

 ウィリアムは七丁念仏を自身の背後に置き、敵意が無い事を無意識に示していた。

 

「あの、ウィリアム兄さんに、ちゃんとご挨拶してなかったから……」

 

 モジモジと手を組みながら呟くノルンに、ウィリアムはそういえばそうだなと思い実妹の顔をまじまじと見つめる。

 成長したノルンはまだ幼さを残しているものの、記憶に残る幼女とは違いしっかりと乙女としての器が出来つつあった。

 うつむきながら尚も逡巡している少女に、虎は優しげに言葉をかける。

 

「近う寄れ」

「は、はい!」

 

 ウィリアムの言葉を受け、パッと顔を輝かせた少女はとてとてと小走り気味にウィリアムへ近付く。

 胡座をかくウィリアムの隣へと座ったノルンは、また手をこまねいてチラチラとウィリアムの顔へ視線を向けていたが、やがて意を決したように可憐な唇を動かした。

 

「あの、ウィリアム兄さん……」

 

 おずおずと言葉を紡ぐノルンに、ウィリアムは黙って少女の言葉を受けていた。

 

「あの、その、えっと……」

 

 尚もモジモジと手をこねながら言葉を濁すノルンに、ウィリアムはちらりと視線を向ける。

 少女の頬は朱を差しており、親猫に甘えようとする子猫のような仕草を見せていた。

 

「えっと、その……」

 

 うつむきながらチラチラとウィリアムを見やりつつ、か細い声を上がるノルン。だが、やがて勇気を振り絞って自身の願望を虎へぶつけた。

 

「お、お膝の上に乗っても、よろしいでしょうか……?」

 

 後半は蚊の鳴くような声でしか紡がれなかった言葉であったが、ウィリアムの耳は最後まで少女の願いを聞く事が出来た。

 ノルンは顔を真っ赤にしながら俯いてしまい、ぎゅっと自身のスカートの裾を握りしめる。

 

 ウィリアムはそんな妹の様子を眼を細めて見つめていたが、ひとつ溜息を吐くと短い言葉を発した。

 

「良い」

 

 ウィリアムの言葉を受け、再びパッと顔を輝かせながら笑顔を浮かべるノルン。

 再会した時は、血に塗れた修羅のような様相を見せていた兄であったが、今共に過ごすこの兄は記憶に残る優しい兄であった事を再確認し、ノルンは花が咲いたかのような可憐な笑顔を浮かべていた。

 

「じゃ、じゃあ、しつれいします……」

 

 内心、きゃーっと小躍りしながらおずおずとウィリアムの膝の上へと腰を下ろすノルン。

 妹の温かい体温を感じた虎は、久方ぶりに感じたあの優しい時間を思い出し表情を緩めていた。

 

「重くなった」

 

 ノルンが小さき時分に、同じように膝の上に乗っていた事を思い出したウィリアムは、あの時とは違い少女が成長していた事を密かに喜ぶ。

 死神との一戦から、虎は再び家族を慈しむ心を取り戻していた。

 

「……ウィリアム兄さん。女の子にその言葉はデリカシーが欠けてます」

「む……」

 

 そんなウィリアムの言葉に、ノルンは僅かに頬を膨らませながらウィリアムへと顔を向ける。

 少女の咎めるような視線を受け、虎は誤魔化すかのようにノルンの頭を撫でた。

 

「母上に似ておる」

「……お父さんにも、言われました」

 

 ウィリアムの手から伝わる温かい体温を感じ、ノルンは気持ちよさそうに目を細める。

 昔と同じように甘えさせてくれるウィリアムの身体に、少女はゆっくりと体重を預けていた。

 

 母ゼニスと同じ、美しい金髪を持つ少女の柔らかい髪を撫でるウィリアムは、ブエナ村での温かい営みを思い出し、再び瞑目する。

 己はあの時と同じような温かい時間を、果たして過ごす事は出来るのだろうか。

 ノルンの髪を撫でながら、虎は自身の中で己の野望と家族の慈愛がせめぎ合っているのを感じていた。

 

「ウィリアム兄さんと、こうしてまた会うことが出来て、嬉しいです」

 

 ウィリアムに体重を預けながら、ノルンは無垢な喜びを見せていた。

 転移してから六年。長兄ルーデウスと初めて会った時は、父パウロに対して暴力を振るった事もあり、潜在的にルーデウスという兄へ恐怖を覚えていた時期もあった。

 だが、次兄ウィリアムは幼い頃さんざん甘えていた事もあり、ゼニスと同じくらい再会を焦がれる存在であった。

 

「これも、聖ミリス様の……神様のお導きだと思います」

 

 両手を組み、静かに聖ミリスへと祈りを捧げるノルン。

 母ゼニスが嘗てそうであったように、ノルンもまたミシリオンで過ごす内に人の世界で一大宗教であるミリス教へと深く傾倒していった。

 こうして敬愛する兄と再会した事は、ノルンにとって神の導きによるものである事は疑いようもなかった。

 

「ノルン」

 

 そんなノルンにウィリアムはやや硬い声を上げる。

 その声は、ミシリオンにいた祖母クレア・ラトレイアがノルンを“叱る”時のような、厳しい声色であった。

 

神仏(かみさま)は尊びこそすれ、祈り願うべきものではない」

 

 だが、その言葉は祖母クレアが信ずる信仰と真逆の思想が現れていた。

 

 神罰など存在せぬ。あるのは人と人との摩擦から生ずる“災い”だけであり、“天災”とは自然の摂理也。

 

 言外にそのような思想を見せつけた若虎に、少女は僅かに慄きながら押し黙る。

 優しかった兄が、唐突に見せたその強烈な価値観は、ミシリオンで育んだ少女の清廉な価値観を根底から揺るがす物であった。

 ルーデウスや、パウロは少女のこの価値観に入り込んだ教育はしておらず。敬虔なミリス教徒の祖母による熱心な教育を受け続けたノルンにとって、ウィリアムの一言は素直に肯定出来るものではなかった。

 

 あまりにも現実主義者的な価値観であったが、当のウィリアムにとってそれはさほど異常なものではなく、戦国の世に生きる者達が普遍的に持つ価値観の一つであった。

 

 そもそも、神道の成立や仏教の伝来等、日ノ本の宗教は時の為政者達の“都合”によって根付いた性格が強い。

 戦国の世に瞬く間に日本中に広まったキリスト教も、高山ユスト右近、小西アウグスティヌス行長、細川ガラシャ珠、明石ジュスト全登ら狂信者達を除けば、支配者層が入信する理由は南蛮人との交易目的が殆どであった。

 布教活動を行っていた伴天連宣教師達も、本国からの密命を受け日ノ本を宗教侵略し、その隷下に治めるのを主目的としていた為、侵略行為を察知した豊臣秀吉、徳川家康によってキリスト教は“禁教”として弾圧の対象となる。

 

 このような神罰を恐れぬ行為を平然と行っていた戦国の武士達が、本心で神罰の類を信じているのならば、元亀二年(1571年)織田信長の手によって行われた比叡山延暦寺の大虐殺は起こり得ないはずである。

 信長はその11年後、本能寺にて明智光秀によって弑逆される運命にあるが、当時からしてそれを仏罰だと断じる者はいれど信じる者は皆無であった。

 もっとも延暦寺の仏僧達は仏法に外れた生臭坊主達であったという世評があり、信長が堕落に塗れた教団に鉄槌を下したという側面もある。

 比叡山の主は正親町天皇の弟である覚恕法親王であったが、この延暦寺の焼き討ちについて正親町天皇や朝廷勢力からの抗議は一切上がっていない。

 神罰を心から信じる者は、当時からしても少数派であったのだ。

 

 ウィリアムがヒトガミによる思想侵略から逃れる事が出来たのも、この前世における価値観が功を奏したのは言うまでもない。

 ウィリアムに言わせれば、ヒトガミとは端から盲信出来る相手では無かった。

 それだけに、己がまんまとヒトガミの術中に嵌っていた事が許せぬ事ではあったのだが。

 

 

 ノルンはしばらく押し黙っていたが、やがて躊躇いがちにその可憐な口を開く。

 兄の宗教的価値観に思う所はあったが、それだけにウィリアムが何を信じ、何を大事にしているのかが気になっていた。

 

「……じゃあ、ウィリアム兄さんが信じるものは何ですか?」

 

 ノルンの言葉を受け、ウィリアムはその胸の内を妹へと明かした。

 

「己が力と、“家族”のみよ」

「自分の実力と、家族……」

 

 ノルンはウィリアムの言葉をゆっくりと咀嚼する。

 信仰を否定された事はショックではあったが、やはりウィリアムは……大好きなウィリアム兄さんは、私達家族を大切に想ってくれている。

 その事を再確認したノルンは、片膝に置かれたウィリアムの手にそっと自身の手を重ねた。

 虎の手からは、嘗て覚えたあの温かいぬくもりが感じられた。

 

 だが、ここでも虎はあくまで前世での価値観から物を言ったまでに過ぎない。

 戦国の世において、主君、家臣、盟友といった“他者”は服従こそすれ信ずるに値する物では無く、数少ない心を許せる“他者”は血を分けた肉親のみであった。

 もっとも前述の織田信長や、武田信玄、斎藤義龍のように親兄弟に手をかけてまで己が覇道を突き進む者もいたが、当時の価値観からしてもそれは修羅の道といっても過言ではなかった。

 

 前世において忠弟の忠誠心すら疑ったウィリアムの苛烈な猜疑心は、今生においてもいまだ心の奥底に燻り続けていた。

 転移してから六年。あの地獄の様な日々の中、己の心の隙間に巧妙に入り込んだヒトガミを、一時とは言え全く疑っていなかった事が、却って虎の前世で培われた“猜疑心”を増大させていた事に、ウィリアム自身も気付いていなかった。

 

 現に、妹を膝の上に乗せている虎は、突然の襲撃が発生した際、そのまま妹を盾にしうる(・・・・・・・・・・・)姿勢を無意識の内にとってしまっている。

 本人ですら自覚していない、嘗ての乱世の覇王達と何ら変わらぬ修羅の如き気質は、前世の娘の幻影を見ても尚、虎の心の奥底に埋伏し続けていた。

 妹を慈しみながら、妹を盾にせんとする虎の歪な矛盾を、少女は察する事は出来なかった。

 

 

「ウィリアム兄さん」

 

 しばらく兄妹の間に沈黙が漂っていたが、やがてノルンがしっかりとした口調でウィリアムへと言葉をかける。

 ノルンには、ウィリアムと再会してからずっと疑問に思っていた事があった。この疑問は、ノルンだけではなくシルフィエットやアイシャまでも感じていた。

 

 その事を、迂闊に聞いてしまうと、大好きだったウィリアム兄さんがいなくなってしまうかもしれない。

 

 少女は本能的にそう思っていたが、ウィリアムが家族を想う気持ちを見せてくれた事で、少女の中でその心配は杞憂に終わっていた。

 

「兄さんは、何でグレイラットの名前を名乗らないんですか……? 転移してから、何があったのですか……?」

 

 きゅっとウィリアムの手を握りながら、ノルンはウィリアムが転移してからの経緯を尋ねる。

 転移した前と後で、兄は異様な変質を遂げてしまっている。自身と同じ、母譲りの美しい金髪が、空虚な程白く染まってしまった兄の変化は、転移した先が余程の苛酷な環境であった事は想像に難くなく。

 

 兄のそれまでを気遣う痛ましいまでの妹の想い。

 虎は、それを受け、ただ一言。

 

「地獄」

「えっ……」

 

 

「あれは、この世の“地獄”よ……」

 

 

 感情の一切が死滅したかのような虚ろな声色。

 ウィリアムの膝の上に座るノルンからはその表情は見えないが、グレイラットの家族が持つある種の感性が、兄が持つ本質を見抜いていた。

 ノルンの背筋に、ぞわりと悪寒が走る。

 急に、それまでの日向のような甘く馨しい温もりが失せ、極寒の地に裸で投げ出されたかのような不安が、ノルンの全身を貫いていた。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん……」

 

 言葉を震わせながら、ゆっくりとノルンはウィリアムへと顔を向ける。

 ノルンは、今日初めてウィリアムの“眼”を見た。

 

 その瞳は──

 

 

 

「あっ! ノルン姉ずるい!」

 

 突然、朱髪の少女の快活な声が響いた。

 はっと振り向いたノルンの視線の先に、先程のノルンと同じように頬を膨らませ腰に手を当てたアイシャの姿があった。

 

「あたしもウィル兄のお膝の上に乗りたい!」

「え……」

 

 おずおずと入室したノルンとは打って変わり、ずんずんとウィリアム達の元へ向かうアイシャ。

 アイシャが入室した瞬間、ノルンは背中に感じていた悪寒が霧散し、再びウィリアムに温かい空気が戻っているのを感じていた。

 

「ウィル兄! あたしもお膝の上に乗せて!」

 

 子犬がじゃれつくようにウィリアムの首に抱きつくアイシャ。そんな妹を邪険に扱う事もなく、されるがままのウィリアム。

 ぐいぐいと抱きつくアイシャに、ウィリアムの膝の上からやや押しのけられたノルンは“怨み”の篭った呟きを吐いた。

 

「アイシャは添い寝してたじゃん……」

「えっ!? どこでそれを!?」

 

 驚きながらノルンへ振り向くアイシャ。

 昏昏と眠り続けたウィリアムへ密かに甘えていた事を、ノルンに知られていた事はアイシャにとって完全に予想外であった。

 

「シルフィさんから聞いたもん。アイシャの方がずるいよ」

「ぐぬぬ……でも、あたしまだウィル兄のお膝の上に乗ってない!」

 

 無抵抗な虎を良いことに、アイシャは強引にノルンを押しのけてウィリアムの膝の上に座る。

 両膝に妹達を乗せた虎は窮屈そうに身を捩らせていたが、さり気なく膝からこぼれ落ちそうなノルンをしっかりと抱きとめていた。

 

「ウィリアム兄さん……」

 

 ノルンは腰に感じる兄の温かい手を感じ、再びその瞳を覗く。

 困ったような表情を浮かべていたウィリアムの瞳は、ノルンの記憶に残る温かい火を宿していた。

 

(あれは、見間違いなのかな……)

 

 ノルンは先程垣間見えた孤高の憤怒とも言うべき業火と、目の前の穏やかな火を宿す兄が同一の存在である事が信じられず、やがて先のウィリアムの瞳を記憶から消した。

 

 あれは、白昼に見た夢。

 少女は自己防衛本能から、そう思う事にした。

 

「えへへ。久しぶりのウィル兄のお膝だ!」

 

 そんな思いを抱くノルンにお構いなく、アイシャは全力でウィリアムへじゃれつく。

 ぐりぐりとウィリアムの胸に自身の頭をこすりつけ、ぐいぐいとノルンを押しのけようと占領地を広げていた。

 

「ちょっとアイシャ! ウィリアム兄さんから離れなさいよ!」

 

 思わず抗議の言葉を上げるノルン。アイシャは不満げに口を尖らつつ反撃の狼煙を上げた。

 

「ノルン姉が離れなよ!」

 

 口撃を飛ばしつつ、見せつけるかのようにウィリアムにくっつくアイシャ。

 それを見たノルンも対抗すべく、ぐいとウィリアムへと密着する。

 虎の土俵の上で繰り広げられる少女達の苛烈な闘争は、激しさを増していった。

 

「アイシャがくっつきすぎなんだよ!」

「ノルン姉だってベタベタしすぎだよ!」

「アイシャの方がベタベタしてるじゃん!」

「ノルン姉だって!」

「アイシャだって!」

 

 膝の上でぎゃあぎゃあと喚く妹達を、やや疲れた表情で見つめるウィリアム。

 だが、不思議と不快ではなく、どこか懐かしさを感じる安らぎが、ウィリアムの中に広がっていた。

 

 栄達の為でも無く。

 ましてや求道の為でも無く。

 異界天下無双に至る為、孤高の憤怒に身を任せる若虎。

 そのような“魔剣豪”ともいうべき宿業を、無垢な姉妹が穏やかに鎮めていた。

 

 ルーデウス邸にて、六年ぶりに兄妹の穏やかな時間が流れていく

 

 虎のこれまでを、労るかのように

 

 

 虎のこれからを、慈しむかのように……

 

 

 

 

「あ、いいなあ。ノルンちゃんとアイシャちゃん。ボクもご相伴に、なーんて」

「駄目っス」

「駄目っスか……ていうかウィル君、ボクにだけなんか厳しくない……?」

 

 

 

 

 

 



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第十九景『奇抜派剣法双子兎(きばつはけんぽうふたごのうさぎ)

 

 “瞬間移動”という手品がある。

 マジシャンが姿を消すやいなや、ありえない速度で舞台上の別の地点に出現するのだ。

 

 これら瞬間移動手品の種明かしをすれば、実はマジシャンが“双子”である事が往々にしてある。彼らは双子であることを決して他者に気付かれないよう、日々の生活からトリックを仕込む必要があった。

 

 このように相手を欺くことが重要なのは剣術にとっても同様で、決闘の場に於いて相手の予想外の事態を引き起こし、これを出しぬくのが“秘剣”の骨子である。

 

 魔法都市シャリーアにて虎が遭遇せし奇抜なる双子の兎剣士。

 

 この兎剣士達もまた、相手を出し抜く為に奇々怪々な剣法を多用せし“魔剣豪”の素質を備えていた。

 後に“異界虎眼流四天狗”に名を連ねる双子の獣人剣士ナクル・ミルデッド、ガド・ミルデッドの二人と、若き虎ウィリアム・アダムスとの邂逅は、決して穏やかなものではなく……。

 それは、魔剣豪同士による血腥(ちなまぐさ)きものであった。

 

 

 栄達の為でなく

 

 まして求道(ぐどう)の為でなく

 

 ひたすら孤高の憤怒(ふんぬ)を晴らす為に剣を磨きし者共

 

 

 魔剣豪(まけんごう)と呼ぶべし──

 

 

 

 

 

 

 

(なんだか……イメージが変わったわね……)

 

 ルーデウス邸からラノア大学学生寮へと続く街路。

 ナナホシはウィリアムとノルンが手を繋いで歩いている姿を見て、それまでのウィリアムが見せていた苛烈な印象とは真逆の姿に困惑しつつ、グレイラット兄妹の後ろを歩いていた。

 武芸者の足取りは得てして常人のそれより速いものであるが、この時のウィリアムは妹に歩調を合わせるべくゆるりと歩を進めている。

 

 手を繋ぎながらはにかんだ笑顔を見せるノルンの手を、そっと握り返すウィリアム。ウィリアムの表情はナナホシがそれまで目にしていた峻険なそれとは一変しており、無表情ではあったが柔らかい空気を纏わせていた。

 そんなウィリアムの様子を見たナナホシは、まるで“孫娘と手をつなぎ散歩をする祖父”のようだと、その白い仮面の下で密かに表情を崩していた。

 

(まぁ、妹さんだけに甘いのかもしれないけれど)

 

 妹に対し存外な優しさを見せるウィリアム。だが、あくまでそれは例外中の例外であり、この虎は余人に対し滅多に心を開くような事はしないだろうとも断じていた。

 溜息を一つ吐いたナナホシは、ルーデウス邸からこれまでの顛末に思いを巡らしていた。

 

 

 ウィリアムとの奇妙な邂逅により、心身共に消耗し果てたナナホシ。

 異界の地にてこびりついた疲れを癒やすはずの入浴は、虎と獣人乙女達によって無残に蹂躙されており、それに加えてウィリアムの過剰なまでの“葵紋”への反応、トドメと言わんばかりの薩摩者共による血塗れた狂宴、おまけのアリエル王女達の訪問で、ナナホシは胃は短時間で荒れ果てていた。

 

 まさかアリエル王女までウィリアムに会いに来ていたとは予想だにしていなかったナナホシは、痛む胃を押さえつつ虎を取り巻く各人の思惑に思考を巡らす。

 おそらくアリエル王女は七大列強と成ったウィリアムを配下に納めんが為、態々ルーデウス邸まで足を運んだのだろう。

 それは別に良い。というより、平成日本への帰還を目指すナナホシにとって、この異世界の政争は何ら興味も無く、自身には全く関係ない事であった。

 

 だが、問題はウィリアムがナナホシを徳川家縁の者だと断じ、敬い奉っている事であった。

 

(ほんと、面倒臭いことになったわね……)

 

 ウィリアムが七丁念仏を手にした経緯を詳しく聞き出し、平成日本への帰還の手掛かりにしたいナナホシであったが、ウィリアムへこれ以上関わるとややこしい事には巻き込まれる事は必然であった。おそらくは、アリエル王女からの接触も増えるだろう。

 そこまで思ったナナホシは、一旦ウィリアムから距離を置くことを決め、ラノア大学の寮へ戻りしばらくは引き篭もる腹積もりでいた。

 

 シルフィエットら家人に帰宅を告げるべくリビングへ顔を出したナナホシであったが、何故かノルンとアイシャを両腕にぶら下げながら現れたウィリアムに面喰らい、変わらず謝り倒すシルフィエットをなんとか宥め、慌ただしくルーデウス邸を後にしようとした。

 

「御逗留場所へとお送り致しまする」

 

 間髪入れずナナホシに追従するウィリアム。有無を言わせない虎の迫力に気圧され、断る事が出来なかったナナホシは早くも己の意図が破綻したことに諦観の表情を浮かべていた。

 これ幸いと自身も学生寮へと帰宅するべく引っ付いてきたノルン。そんなノルンへ恨みがましい視線を送るアイシャと、尚も申し訳なさそうにするシルフィエットに見送られ、こうして転生武士とその妹、そして転移女子高校生の奇妙な組み合わせはラノア大学学生寮へと向かう事になったのだ。

 

 

「あの……ウィリアム兄さん」

 

 しばらく穏やかに歩んでいた兄妹と女子高生であったが、ふとノルンがおずおずとウィリアムへと視線を向ける。

 

「ウィリアム兄さんは、ずっとシャリーアにいるんですか……?」

 

 妹の無垢な視線を受け、ウィリアムはしばし考えるような素振りを見せる。

 ちらりとナナホシへ視線を向け、やがてしっかりとノルンの瞳へ視線を返した。

 

「静香姫の御帰還の目処が立つまでは」

 

 ウィリアムの言葉に、ノルンは悲しげに俯いた。

 

「そう、ですか……」

 

 ナナホシの帰還の目処が立つまでは。つまり、それ以降は一緒にいられない。

 言外にそう伝えたウィリアムに、ノルンは一抹の寂寥感を感じてしまう。

 

 “ずっと、一緒に、シャリーアにいてください”

 

 喉元まで出かかったその言葉を、ノルンはぐっと飲み込んだ。

 甘く、馨しいその想いを飲み込み、少女は兄に言わねばならぬことがあった。

 

 ノルンはウィリアムが七大列強に叙された事を知り、ある思いが胸の中から湧き上がっていた。

 そのことを言う資格は、自分には無いことも理解していた。

 そのことを言えば、アイシャから顰蹙を買うことも理解していた。

 だから、こうしてウィリアム以外の家族がいないタイミングで、言う必要があった。

 

 意を決したように表情を引き締めたノルンは、ウィリアムへ再びその可憐な瞳を向けた。

 

「ウィリアム兄さんは……ルーデウス兄さんと、お父さんを……お母さんを、助けに行かないんですか?」

 

 少女の切なる思い。

 それは、“家族全員”が再び揃って、穏やかに、幸せに暮らすこと。

 

 痛ましいまでの少女の願いに、虎は無表情に言葉を返した。

 

「父上と兄上がいるなら、問題なかろう」

 

 短く言葉を返すウィリアム。その言葉を受け、ノルンは再び押し黙ってしまう。

 後ろで見ていたナナホシは、その薄情とも言えるウィリアムを見て眉を顰めていた。だが、ナナホシには思い至らない事であったが、このウィリアムの言葉はあながち間違っているわけではなかった。

 

 ウィリアムの父であるパウロは、確かにウィリアムに比べ剣術の業前に雲泥の差があった。しかし、事は単純な戦闘力がものを言う世界ではない。

 特に、“迷宮”という厄介な場所をよく知っていた(・・・・・・・)ウィリアムは、パウロが迷宮探索を専門としていた冒険者であった事実も知っており、自分が態々加勢せずともパウロならばゼニス救出はいずれは果たすであろうと思っていた。それに、一角の冒険者となったルーデウスがいるのならばゼニス救出の確度はより上がるというもの。

 

 シャリーアに来るまでは“泥沼”が兄ルーデウスであったことを知らなかったウィリアムであったが、“泥沼”の評判、そしてその強さを聞いたウィリアムは、余程の事がない限りあの父子がゼニス救出を問題なく果たすであろうと断じていた。

 

「……ウィリアム兄さんがいたら、お母さんを助けるのにもっと力になると思います」

 

 ノルンはきゅっとウィリアムの手を握る力を強める。

 

 パウロお父さんや、ルーデウス兄さんの力は信じている。きっと、お父さん達なら、お母さんを助けることができる。

 

 でも、万が一……万が一、失敗してしまったら。

 お母さんが、お父さんが、ルーデウス兄さんが……死んでしまったら。

 

 そのような最悪の想像に囚われたノルンは、ルーデウスが旅立った今でも自分が駆けつけ、ゼニス救出の一助になりたいと思っていた。

 だが、ノルンは無力である。

 剣術も、魔術も、体力も年相応の少女のそれでしかない。

 自分がベガリットに行くことで、逆にパウロ達の足を引っ張るのが容易に想像することが出来た。

 

「お願いします。お母さんと、お父さんを……ルーデウス兄さんを、助けてあげてください……」

 

 だから、ノルンは懇願する。

 自分の不甲斐なさと、やっと出会えた次兄への慕情。そして父や、母、長兄への憂慮。

 様々な感情が少女の中で混じり合い、どうしようもない思いに囚われた少女が“七大列強”という大強者と成った兄に縋るのは、誰が責められるのであろうか。

 

(ノルンちゃん……)

 

 少女の切なる想いは、平成日本女子高生の胸を打つ。

 己の無力を棚上げしても尚、いじらしく懇願するノルンの姿は、この異世界に一線を引くナナホシですら心を動かされる光景であった。

 

『あの、岩本さん』

 

 ナナホシから発せられた日ノ本言葉に、ウィリアムは少しばかりの驚きを浮かべ、その白い仮面を見る。

 仮面の下で、ナナホシはきりりと表情を引き締めていた。

 グレイラット家の者には少なからず恩がある。特にルーデウスには。ならば、その妹の苦悶を少しでも和らげてあげるのが人情ではなかろうか。

 

『もし……もし、ベガリット大陸に行くのなら……後で、私の研究室へ来てください』

 

 ルーデウスへ伝えたあの転移魔法陣の在処を、ナナホシはウィリアムにも伝えようとしていた。

 通常の手段でベガリット大陸へ至るには、片道で一年以上の時がかかる。

 だが、龍神が使用し、その存在を秘匿していた転移魔法陣を使用すれば、半年でシャリーアとベガリット大陸の往復を可能たらしめていた。

 

『それは、将軍家御連枝様からの御指図でありましょうや』

 

 ウィリアムはナナホシの白い仮面を色の無い瞳で見やる。虎の怜悧な瞳に気圧されたナナホシは身を竦ませるも、絞り出すように言葉を返した。

 

『……いいえ。私、個人の、助言みたいなものです』

 

 仮面の下で冷えた汗を垂らしながら、ナナホシはウィリアムの瞳を真っ直ぐ見据えていた。

 変わらずウィリアムの手を握っていたノルンは、突然不可解な言語で話し出したウィリアムとナナホシへ困惑とした表情を浮かべている。

 

 ウィリアムは目を閉じ、黙考する。

 不安げにウィリアムを見つめるノルンとナナホシ。

 妙な沈黙が、虎と少女達を包んでいた。

 

 やがて、ウィリアムはゆっくりと瞼を開くと、ノルンへと視線を向けた。

 

「母上に、会いたいか?」

「……はい!」

 

 ノルンはウィリアムの言葉に確りと頷く。

 少女の可憐な瞳を見て、虎は小さな溜息を一つ吐くと、ナナホシへ深々と頭を下げた。

 

「御助言、承りたく……」

 

 ノルンは兄のこの言葉に相好を崩し、思わずその腰へと抱きついた。

 

「ウィリアム兄さん!」

 

 ぎゅっと抱きついてくるノルンへ、ウィリアムはやや嘆息混じりにその頭を撫でる。

 妹にはどうも甘くなってしまったと、虎は自身の心境の変化に戸惑いを覚えていた。だが、ノルンが放つ日向のような暖かさを感じていく内に、ウィリアムは気乗りしないベガリット大陸行きにそれなりの意義を見出し始めていた。

 

(ベガリットは魔大陸と双璧を成す強者が集う地……己の業を磨くには、丁度良き哉)

 

 あくまでゼニス救出は二の次であり、優先すべきは己の修行。

 虎は、ノルンの柔らかい髪を撫でつつ、そう自分に言い聞かせていた。

 

 

 

 

 

 


 

 ラノア魔法大学は中央大陸北部に位置する魔法三大国と魔術師ギルドが共同で出資し、魔術を志す者が世界中から学びに来る、まさに魔術のメッカともいえる教育機関である。

 人種や国籍問わず広くその門戸は開かれており、世界中から集まった在籍学生の人数は一万人を超える。

 

 魔法大学では魔術だけではなく、軍学や商学も科目に取り入れており、異世界の総合大学といっても差し支えない教師陣を擁していた。

 また、出資しているのは魔法三大国だけでなく、アスラ王国やミリス神聖国、王竜王国などの列強各国も出資しており、各国の有力貴族の子弟もこの大学へ通っている。

 故に、貴族子弟達による学生外交も水面下では活発に行われているのが、この大学の暗黙知となっていた。

 

 学内を囲む高い塀は全て対魔レンガで建てられており、有事の際は要塞として稼働できるほどの威容を誇っている。もっとも、そのような剣呑とした思想を学校運営側は持っているわけではなく、単純に危険度の高い魔術を実習で使用する為、学外へ魔術の被害が及ばないようにする為の内向きの措置であった。

 

 学生達は先述の通り世界中から集まっており、大抵の学生は学内に併設された学生寮で暮らしている。

 中にはシャリーア出身の者で自宅から通学する者や、シャリーアの知己を頼り下宿先から通う者もいたが、通学に圧倒的な利便性がある学生寮以外を選択する者はごく少数に留まっていた。

 

 既に日は中天に差し掛かっていたが、大学構内は次の授業を受けるべく校舎間を移動する学生達の活気に満ちあふれている。

 学生達は前年にナナホシによって提案された共通の学生服を身に着けており、その意匠はナナホシが平成日本で着ていた高校の制服を模したものとなっている。男子は詰め襟の学生服、女子はスカートとブレザータイプの制服だ。

 

 そのラノア大学の構内で、二人の男子学生、二人の女子学生、そして一人の幼女が連れ立って歩いている。

 二人の女子学生は猫耳、犬耳を生やしており、スカートの隙間から獣族特有の尻尾をふりふりと揺らしている。

 

 男子学生の方は、一人は痩身でありながら大柄な体躯を持っており、面長で丸眼鏡を着用している。傍ら小人族用のサイズの制服を纏った幼女を付き従わせている姿は、やや犯罪的な光景ではあったが事情を知る者にとっては見慣れた光景であった。

 ちなみに幼女はちんまりと可愛らしい人形のようで、彼女が男子学生の奴隷である事実を忘れさせる程の愛嬌を持っていた。

 

 もう一人の男子学生は小人族の血が混じっているのか、大柄な学生に比べてその低身長が目立っている。

 だが、気の強そうな面持ちはプライドの高さが滲み出ており、彼が気難しい性格を持っていることを窺わせていた。

 もっとも最近出来た淫靡な伴侶や、ルーデウス・グレイラットとの出会いを経て、彼の性格はラノア大学に入学した当初より穏やかなものへと変化している。元々、彼が持っていた性格に戻ったというのが正しいのかもしれないが。

 

 ルーデウスの同窓であり、友人達である獣族の姫君リニアーナ・デドルディア、プルセナ・アドルディア、大柄な学生のシーローン王国第三王子ザノバ・シーローンとその奴隷である炭鉱族の少女ジュリエット、そしてミリス教団教皇の孫であるクリフ・グリモルは、次の授業が行われる魔法大学内の校舎へと連れ立って歩いていた。

 

 

「それにしても、ルーデウスに弟がいたなんてな」

 

 何気なしに呟くクリフ。

 この二人の獣人乙女達が、午前の授業が休講だったことでルーデウス邸に遊びに行っていたことはクリフも知るところであったが、ルーデウスに弟がいて、尚且つこのシャリーアに来ていることは初耳であった。

 その弟……ウィリアムと一悶着あった獣人乙女達は、尻尾と獣耳を逆立てながら憤慨する。

 

「ボスの弟はとんだスケベ小僧だったニャ!」

「ファックなの。乙女の入浴中にキンタマ見せつけるドブぬめりクソ野郎なの」

「キンタマて」

 

 虎がこの場にいないのをいいことに、獣人乙女達は思う存分悪態をつく。

 乙女達の口汚さには慣れているクリフであったが、いきなり男性器が話に出てきたことで戸惑いを隠せなかった。

 

「ますた。キンタマとはいかなるものなのでしょうか?」

「おお、ジュリ。あれだ、キンタマというのはだな……」

 

 ジュリエットがザノバの制服の裾を引きながら無垢な瞳を浮かべてその顔を見上げる。獣人乙女の口から聞き慣れぬ言葉が出てきたことで、その意味をいじらしく覚えようとするジュリエットの姿は大変愛らしいものであった。

 そんなジュリエットに、ザノバは懇切丁寧に男性器について教える。未だ人間語に慣れぬジュリエットの為、身振り手振りを交えての説明だ。

 これは自身の奴隷である前に、共にルーデウスを師匠に抱く妹弟子への惜しみない愛情の一つであり、懸命に諸々の知識を得ようとするジュリエットに快く応えるザノバの優しさでもあった。

 

 獣人乙女達がギャアギャアと喚き散らす為、この小さな惨劇をクリフが察知することは無かった。

 

「まじありえんからニャ! 助平なボスですらもっと紳士的だったニャ!」

「ファックなの。ボスに全然似てないなの。出歯亀ドブ虫ゴミ助平丸なの」

「まぁ、本当ならひどい奴だな……」

 

 既に獣人乙女達に付き合いきれなくなっていたクリフは溜息混じりに適当な相槌を打つ。

 本当ならさっさと授業が行われる校舎へと向かいたいところであったが、ルーデウス抜きでの学内ヒエラルキーでは獣人乙女達より下であるクリフが、このワガママな乙女達を置いて一人で行くことは許されなかった。

 

「ところで、師匠の弟殿はどのような御容姿だったのですかな?」

 

 唐突に、ザノバが乙女達に割って入る。クリフとしても似ていないと断じられたルーデウスの弟の容姿についてはそれなりに興味があった。

 ザノバの後ろで顔を真っ赤に染めながら俯いているジュリエットへ若干訝しんだ視線を向けるも、クリフはザノバと同じように乙女達を促す。

 

「爺みたいな白髪だったニャ! ドスケベ白髪小僧ニャ! あとまうで虎のごつ雰囲気だったニャ!」

「ファックなの。きっと白髪になるまで助平根性発揮してたの。えげつん精力なの」

 

 ほぼ悪態しか言わない獣人乙女達に、クリフはやや目眩がしつつも我慢する。

 何故か得心がいったという風のザノバは深く頷きながら、やおら正門の方向へ指差した。

 

「ふーむ。なるほど。丁度、あのような感じですかな?」

 

 ザノバが指差した先に、白面の女子生徒、そして見慣れた泥沼の妹の姿があり

 

「そうそう。あんな感じのセクハラタイガー……ニャ」

「あんな感じの助平虎なの。まじファック……なの」

 

 

 その傍らには、獣人乙女達が先程まで悪態をついていた虎……ウィリアム・アダムスが、憮然とした表情で佇んでいた。

 

 

「助平と申したか」

 

 

 抑揚の無い声が、暖かな日差しに包まれた魔法大学構内を絶対零度まで引き下げる。

 そこからのリニアは、後日ジュリエットがいたく感心してザノバの従士であるジンジャー・ヨークに語る程、飛燕の如き素早い動きを見せた。

 

「ギニャアアアアアアアアア!! あ、あちし達、さようなつもりはぁ!!」

 

 どのようなつもりだったのだろうか。

 ひぃー! と、一瞬で腹を曝け出すように仰向けになるリニア。これは獣族が強者に対し絶対服従を誓う姿勢であると同時に最大限の謝意を表す、いわゆる獣族版の土下座である。仰向けになった際、スカートから覗くリニアのパンティはしめやかに濡れ塗れていた。

 さーせん! さーせん! と、涙目になりながら必死になって謝り出すリニアに、ザノバ達は呆気に取られた表情を浮かべている。

 

「プ、プルセナ! 何してんニャ! プルセナも早く謝って……」

 

 リニアは顔と股間を濡らしつつ、仰向けになりながら未だ棒立ちのプルセナへと視線を向ける。

 視線を向けた瞬間、リニアはプルセナの下半身から聞きたくなかった水音を聞いてしまった。

 

「ミギャァッ!?」

 

 じょぼぼぼぼぼぼぼぼぼ。

 盛大にスカートを濡らし、止めどなく尿を漏らすプルセナ。リニアは同胞(はらから)の無残な姿を見て素っ頓狂な叫び声を上げる。

 突如現出した凄惨且つ衝撃的な光景に、ザノバ達はただ呆然とその光景を見つめていた。

 

「まずは黄色のご挨拶なの……思わずおもらしでございますなの……」

「プルセナー!?」

 

 目のハイライトが消え去ったプルセナの無残な姿に、リニアは悲壮感を溢れさせながら同胞の名を叫ぶ。

 

「赤は目出度たい目出度い日には金色おおきになの……お兄さんお代ちょうだいなの……」

「プルセナー! しっかりいたせー!」

 

 色の無い瞳……否、残酷色の瞳を浮かべ、再び被虐の妄想へと旅立ったプルセナ。リニアは勢い良く立ち上がり同胞の肩をゆさゆさと揺するも、プルセナの意識は滅法の世界へと誘われたままであった。

 

「めっぽううまいめっぽうそば」

「洒落にニャらんわコレ!」

 

 相変わらず意味不明なことを呟くプルセナ。リニアは覚醒を促すべくバシーン! バシーン! と乱暴に往復ビンタをかましていたが、いくら頬を叩かれてもプルセナは現世へと帰還することは叶わなかった。

 

 棒立ちになり、失禁しながら被虐の世界に囚われたプルセナ。

 そのプルセナを、失禁しながら往復ビンタをし続けるリニア。

 

 控えめにいっても大惨事となったこの状況に、ウィリアムを除く全員が思考を停止させていた。

 

 

「……」

「ウィ、ウィリアム兄さん?」

 

 惨劇の最中にある失禁乙女達に構わず、ウィリアムは鋭い視線で構内のある一点を睨む。

 ウィリアムが僅かに殺気を纏わせ始めたことで、ノルンが不安げにその裾を掴んだ。

 乱痴気騒ぎに捕らわれていたザノバ達、そしてナナホシも、ウィリアムが放つ怜悧な空気で一瞬にして素面に戻り、その視線の先へと目を向けていた。

 

「何奴」

 

 出現したのか。

 始めからそこに居たのか。

 虎の視線の先に、兎耳を生やした一人(・・)の獣人剣士が、不敵な笑顔を浮かべて佇んでいた。

 

「北神三剣士が一人、“双剣”ナックルガード」

 

 邪気を感じさせない声色が、逆に剣士の異様さを際立たせている。その黄ばんだ眼球は内臓の不調からではなく、獣人剣士が孕む精気の漲りによるもの。

 蓬髪から覗く兎耳は、強者を求め、その存在を感知する野性の器官なり。

 

 構内ではザノバ達以外にも学生達がいたが、現出した異様な光景に皆足を止めて見入っている。

 たちまち人だかりが出来上がり、渦中の虎はそっと七丁念仏の鯉口を切っていた。

 

「“双剣”ナックルガード……」

「知っているのかザノバ?」

「余も名前くらいしか知り得ぬ者ですが、たしか北王の伝位を授けられた北神流高弟の一人と聞いております」

「なんだってそんな奴が魔法大学に……?」

 

 緊張した面持ちで語るザノバに、クリフもまた現出した“双剣”の姿を見て固唾を呑む。

 人だかりが出来上がっていたが、辺りは妙な静寂に包まれており、リニアもまたプルセナの胸ぐらを掴んだまま身を固くしてその姿を見つめる。

 ちなみにプルセナはリニアの張り手が良い所に入ったのか、白目を剥いて気絶し果てていた。

 

「……!」

 

 “双剣”の姿を見るウィリアムの瞳孔が、猫科動物の如く拡大する。

 その虎眼で、“双剣”の正体をいともたやすく看破していた。

 

「双子か」

 

 ウィリアムの一言に、ナックルガードは僅かに驚いた表情をするも、直ぐに獰猛な笑みを浮かべた。

 

「すごいや。先生達以外で最初に僕達が双子だって気づいたのは、キミが初めてだよ」

 

 そう言うないなや、ナックルガードの肉体が二つに別れた(・・・・・・)

 幻術めいた光景を見てざわめく周囲の人間とは対照的に、ウィリアムは冷静に双子の剣士の様子を見ていた。

 

 双子の剣士。

 嘗て己が下した舟木一伝斎の息子達、日坂最強の剣士であった舟木兄弟を連想したウィリアムは、一伝斎への憎悪が再び燻るのを感じ、ぎりりと歯を食いしばらせていた。

 

「ナクル兄ちゃん。やっぱり魔法大学で探してよかったでしょ?」

「そうだなガド。ていうかちょっとやりすぎだな。もうお尋ね者スレスレになってないか俺達」

「だって、オーベールさんが描いた人相書きが下手くそすぎるんだもん」

「そうだなガド。だいたいオーベールさんのせいだな」

 

 兎耳をぴくぴくと揺らしつつ、双子の獣人剣士達はウィリアムへ粘ついた視線を送る。

 

「それに、人相書きなんか見なくても一発で理解(わか)るしな」

 

 獰猛な兎達は虎が纏う怜悧な剣気を感じ取り、目当ての剣士であることを本能で感じ取っていた。

 ウィリアムは兎達の粘ついた殺気を受け、眉を顰めながら言葉を返す。

 

「あらかじめ時と場所を告げずに立ち会うのが、北神流の作法か」

 

 七丁念仏の柄に手をかけ、双子へ強烈な殺気を飛ばすウィリアム。

 常人なら気絶するほどの殺気を受けても尚、双子の剣士は笑みを浮かべていた。

 

「我ら一人は半人前!」

「二人で一人の一人前!」

「二対一にてその実力!」

「検分成就つかまつる!」

 

 大音声を張り上げた双子の剣士達は抜刀し、ウィリアムと間合いを詰める。

 ウィリアムは傍らにて不安げに己を見つめるノルンへ、静かに声をかけた。

 

「下がれ」

「で、でも……!」

 

 不安げに声を震わせながらも、ウィリアムから離れようとしないノルン。

 無頼の兎剣士に二体一で挑まれたウィリアムの助太刀になろうと、健気に己を奮い立たせていた。

 

 ウィリアムは妹の気概に微笑を浮かべつつ、くしゃりとその柔い髪を撫でた。

 

「これは、戯れよ」

 

 頭の上で兄の暖かい体温を感じ、ノルンは自身の不安が霧散していくのを感じていた。

 ウィリアムはナナホシへ視線を送る。視線を受けたナナホシは戸惑いながらも頷き、ノルンの手を引いた。

 

「ノルンちゃん。こっちへ」

「……」

 

 ナナホシに手を引かれつつ、ノルンは尚も兄の顔を見つめている。

 既に虎は臨戦態勢を取っており、その肉体に濃厚な闘気を纏わせていた。

 

「ナクル兄ちゃん。一応名前聞いておいたほうがいいんじゃないかな?」

「そうだなガド。一応名前聞いておいたほうがいいな」

 

 臨戦態勢を取った虎を見て、双子の剣士はウィリアムがまだ名乗りを上げていない事に気付く。

 北神流に勧誘する目的でウィリアム・アダムスを探していた双子であったが、剣士としての本能からか単純に立ち合うのが目的となってしまったことに、双子自身も気づいていなかった。

 

「お前の名は!」

「名を言え!」

 

 剣を構えつつ、双子の兎剣士達はウィリアムへと蛮声を浴びせる。

 虎は、七丁念仏を悠然と引き抜くことでそれに応えた。

 

「「もう言わなくていい!!」」

 

 

 脱兎の如く、双子の北王級剣士達は虎へ襲い掛かっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十景『不惜身命一虎双兎(ふしゃくしんみょういっこそうう)

 

 早速お(ひけ)えくだすって誠に有難うごぜえやす。

 手前、生国は遠州の森町、姓名の儀、石松と発しやす。

 見苦しい一眼(かため)は気にしねえでくだせえ。初めから一つだったと思えばどうってことはありやせん。

 

 さて、金刀比羅宮(こんぴらさん)から清水港(しみずのみなと)へ戻る途上、縁があって居合わせたこの旅籠(はたご)堅気(かたぎ)(みなさま)による賑やかな武芸談義。この石松、先ほどから押鮓(おしずし)喰いながら黙って聞いておりやした。

 

 ほうほう、なんでも海道一の大剣豪を決めようってぇのは、なるほど、日ノ本一を決めるにゃキリがありやせんから、まずはここらで一番強えお武士(さむれえ)を決めるってぇのは道理がいった話だと思いやす。

 

 本多忠勝に北畠具教、中条長秀に柳生兵庫助、岩本虎眼に舟木一伝斎。

 どいつもこいつも随分と昔の奴なのに名前が挙がるんだから(てぇ)したもんだ。偉くて強えお武士(さむれえ)なんだろうよ。

 

 でもね、堅気衆(あんた)

 要は斬った張ったの修羅場の話。だったら(わっし)博奕打(ばくちうち)の名前が一人も挙がらねえのはおかしくねえかい?

 

 駿河国は清水港に一家を構える山本長五郎、人呼んで“清水の次郎長(じろちょう)

 この親分に喧嘩で敵う奴はいねえよ。

 

 ひとまず(わっし)武士(さむれえ)とやり合った話を聞いてくんねえ。

 相手は二人、元は講武所の師範だったってんだから決して弱くはねえ。これが商売敵の用心棒になって(わっし)らの縄張りを荒らしやがるから謝るわけにもいかねえ。

 

 川に呼びつけて向かい合ったところで(わっし)に斬りかかる武士(さむれえ)二人。

 左右同時に斬りかかるんだから並の奴はイチコロだろうよ。

 

 だから(わっし)はつんのめるように倒れ込んで片方の武士(さむれえ)の脛を長脇差(ながどす)でぶった斬った!

 武士(さむれえ)の切り株からビューっと赤いのが出て地面が泥濘(ぬかる)む。

 

 もう片方が(わっし)の顔にガツンと刀をぶつけてきたが、折れたのは向こう。

 これが木樵(きこり)だったお()っつぁんの斧だったら流石の(わっし)もお陀仏だったろうぜ。

 

 脛をぶった斬った武士(さむれえ)頭震(ずしん)と頭突きをかまし、うどん玉を撒き散らせながらそいつはおっ()んだ。

 (わっし)の顔に刀をぶつけた武士(さむれえ)は脇差抜いて来やがったから、空いた片手で思い切り握りしめて使えなくしてやった。

 

 武士(さむれえ)ってのは不思議なもんで、どんなに(やべ)えことになっても決して刀を手放そうとはしねえ。

 だからそのまま、片方の手に持った長脇差(ながどす)柄頭(つかがしら)武士(さむれえ)の頭を思い切りぶっ叩いてやった。花火みてえに武士(さむれえ)の頭は()ぜたよ。

 

 要は肝っ玉よ。何があっても浮足立たないように、下腹にでっけえイチモツをぶら下げてるかどうかよ。

 

 ん? いつ次郎長が出て来るかって?

 

 

 篦棒(べらぼう)めッ!

 

 

 喧嘩の始まりから終わりまで、石松さまの腹ん中で次郎長親分が不動明王みてえにじっと睨んでくださるのが分からねえのか!

 

 おっと、大きな声を出して悪かったな。

 ささ、堅気(かたぎ)(しゅう)

 

 

 飲みねえ、飲みねえ、(すし)食いねえ。

 

 

 

 

 


 

「ウィリアム兄さん!」

 

 ノルンの叫び声が響くと同時に、抜刀したナックルガードがウィリアムへと襲いかかる。

 闘気により高められた身体能力は、脆弱であるはずのミルデッド族のそれを遥かに上回り、双子の魔剣豪が並々ならぬ鍛錬を積んでいたことを伺わせていた。

 

 飛燕の如き疾さで、ウィリアムの上下左右から斬りかかる双子。

 瞬速の双兎を前に、虎は七丁念仏をゆるりと目の前に掲げ、まるで祈るような姿勢を取った。

 

「疾ッ!」

「噴ッ!」

 

 闘気を十分込めた高速の剣撃が、全く同じタイミングでウィリアムへ放たれる。

 兄ナクルの剣はウィリアムの頸部へと流れ打たれる。

 弟ガドの剣はウィリアムの心臓部へと突き打たれた。

 見守る観衆は、直後に現出するであろう虎の無残な姿を幻視し、ノルンはぎゅっと身体を硬直させ目を瞑った。

 

「「ッ!?」」

 

 重金属音が鳴り響き、辺りが閃光に包まれる。

 刹那の時間の後、観衆の目に飛び込んできたのは、三名の剣士が刃と肉で結ばれた姿であった。

 

「なんと……!」

「け、剣の柄で受けてる……!」

「脇で咥え込んでるニャ!」

 

 ザノバとクリフ、そしてリニアが驚愕の眼差しで虎の姿を見やる。

 

 ウィリアムはナクルの高速の斬撃を七丁念仏の柄頭で受け止めていた。

 そしてガドの高速の刺突を、身体を僅かにずらし、その刀身ごと脇にて挟み込んでいた。

 

「く……ッ!?」

「抜けない……ッ!?」

 

 みしり、と鋼の軋む音が響く。

 双子の剣士は自らの得物を引き抜こうと力を込めるも、万力の如き虎の剛力により兎の牙はびくともしなかった。

 

「柄で受け止めるとか、半端()ねえニャ……虎半端()ねぇニャ……」

 

 リニアは剣の柄にてナクルの斬撃を受け止めたウィリアムの技量に戦慄し、首筋に冷えた汗を一つ垂らす。

 

 虎眼流“(なかご)受け”

 

 (なかご)とは刀身下部の柄で覆われている部分の名称であり、木剣稽古で突きを払う際に柄頭を用いるのことがあるが、真剣の斬撃を受け止める為にこれを用いるのは虎眼流剣士のみである。

 高速の一閃に柄頭を合わせるのは、飛来する弾丸を弾丸で撃ち落とすに等しき無謀であったが、ウィリアムはそれを恐ろしいまでの胆力、そして技量を持ってそれを実行していた。

 

 七丁念仏の茎はナクルの剣を一寸程めり込ませており、まるで獲物を咥えた肉食獣のようにナクルの剣を固定していた。

 

「このぉッ!」

 

 必殺の刺突を虎に捕獲されたガドが、裂帛の気合と共に剣に力を込める。

 しかし、ガドがいくら闘気と力を込めても剣は微動だにせず。

 みしり、と肉が刃を咥え込む音が響くのみであった。

 

「くッ!」

「くそッ!」

 

 埒が明かないと思ったのか、双子は剣を持ったままウィリアムへと蹴撃を放つべく僅かに身を引く。

 だが、双子が身を引いた瞬間、拘束の力が緩んだ。

 

 ウィリアムは七丁念仏を躊躇いも無く手放し(・・・・・・・・・)、素早くナクルの懐へと入る。

 

「なッ!? ギャッ!!」

「ナクル兄ぃッ!? ぐぇッ!!」

 

 ウィリアムはそのままナクルの頭部へ肘鉄槌を叩き込むと同時に、ガドへ強烈な横蹴りを見舞う。

 生々しい肉弾音と共に、ガドは血反吐を吐きながら弾丸のようにウィリアムから吹き飛んだ。

 

「ギッ……!」

「ゲボッ……!」

 

 地を這う双子の兎。兄のナクルは虎の足元で呻きながら這いつくばっており、その頭部は常の倍以上膨らんでいる。片目は潰れており、白濁とした液体をその眼窩から垂れ流していた。

 また、弟のガドも肋骨が粉砕しており、砕けた骨が片肺に突き刺さったのかぼたぼたと口から血を吐き出していた。

 

「戯れなれば、当て身にて……」

 

 ナナホシ達に向け、薄い笑みを向けるウィリアム。

 圧倒的な暴力を前に、周囲の学生達はその暴虐を恐れただ息を飲んで虎を見つめていた。

 悠然と七丁念仏を拾い上げ、鞘に収める虎の様子を、ノルンもまた怯えながら兄を見つめる。

 

「む……?」

 

 どん引きした妹達の様子を見て、ウィリアムはややきょとんとした表情を浮かべていた。

 この時のウィリアムの心境を推し測れる者は残念ながらこの場にはいなかったが、ウィリアムはこれでも大分加減(・・)して双子と相対していた。

 仮にも主君筋であるナナホシが通う神聖な学舎を、獣人共の血で汚すつもりは毛頭なく。

 故に、斬り合いを避け打撃にて双子を無力化しようとしていた。

 

 もっとも虎眼流剣士の素手による殴打は真剣さながらの威力である為、その気遣いは何ら意味を成していなかったが。

 

「……シュゥゥゥゥ」

「ッ!?」

 

 不意に、ウィリアムの足元で蹲るナクルが深く息を吸い込む。ひくひくと長い兎耳を蠢かせ、潰れていない片方の瞳には確たる闘志を宿らせていた。

 未だ闘志が萎えていない兎の剣士の様子に、ウィリアムは僅かに悪寒を感じ、即座に止めとなる虎拳をナクルへ放つ。

 

「──────ッッッ!!!」

 

 だが、ウィリアムの拳が届く寸前に、ナクルの空気を切り裂く咆哮がウィリアムへと放たれた。

 

「ガハッ!」

 

 咆哮をまともに浴びたウィリアムは目と耳から鮮血を噴出し、吐血した。

 

 吠魔術“兎歌七生撃”

 

 魔力を込めた咆撃を放ち、対象を行動不能たらしめるのが吠魔術であり、本来は獣族でもドルディア族のみが備える特殊な声帯がなければ使用出来ない特殊な魔術である。が、その原理を解し、訓練を施せば他種族でも使用することが出来た。

 ミルデッド族であるナクルはこの吠魔術を独自の技として練り上げており、特殊な呼吸にて大気力を体内に取り込み、長い兎耳を操作することで咆哮に指向性をもたせ、本来は無差別に放たれるその音撃を特定の対象にのみ叩き込むことを可能としていた。

 対象は体内に兎の咆哮が反響し、凄まじい激痛に苛まれ行動不可能となる。

 

「ガドッ!」

(ゴロ)っしゃッ!!」

 

 ナクルの声を受け、ガドが全身をしならせながら跳躍する。

 動きを止めた虎を仕留めるべく、背後からその腕を虎の頸部へと這わせた。

 

「ぐうッ!?」

「“ガド固め”だ! 容易には外れぬぞ!」

 

 倒れ込みながらウィリアムの片腕を巻き込み、頸部を圧迫させるガド。いわゆる現代柔道における“肩固め”を極めたガドは渾身の力を持って虎を絞め上げていた。

 北神流剣士は得物を持たずとも対手を仕留めるべく、様々な武錬を己に施している。特に“奇抜派”と呼ばれる門派は剣に拘らず多種多様な戦技を会得しており、徒手による戦闘もまた得意としていた。

 

 人とも獣ともつかぬ凶暴な攻めに、ウィリアムはその呪縛から逃れんと全身に力を込める。

 しかしガドはその細腕からは考えられぬ程の剛力でウィリアムを絞め上げ、その抵抗を封じていた。

 虎と兎の二匹の獣は膠着状態に陥り、血泥に塗れながらもつれ合っていた。

 

「いいぞガド! 首(しぼ)い効いている! そのまま絞め殺──」

 

 めりっ

 

 ナクルがガドに声をかけた瞬間、生々しい音と共に絞め上げていたガドの肘が柘榴の如く割れた。

 

「うぇッ!?」

 

 ガドは己の肘から肉片と共に鮮血が噴き出る様を見て短い悲鳴を上げる。

 尋常ならざる鍛錬により虎眼流剣士の握力は常人より遥かに強力である。それに加え、今生におけるウィリアムの握力は闘気により生前のそれより更に強力になっており、締め上げるガドの肘をウィリアムは“握撃”により破砕せしめていた。

 虎の爪が、兎の肉を削ぎ落としていたのだ。

 

「おのれッ!!」

 

 己の腕が爆ぜのたうち回るガドを見て、ナクルは激高しながら自身の剣を拾い、ウィリアムへ斬りかかる。

 吠魔術とガドの絞め技により酩酊状態にあったウィリアムであったが、即座に傍でのたうち回るガドの腕を掴みその剛力にて引き起こした。

 

「ギャッ!?」

「やっべ!?」

 

 ガドの肉体を盾にし、ナクルの斬撃を防ぐウィリアム。ナクルは寸前に剣を引くも、ガドの肩口にはニ寸程剣が埋まっていた。

 

「うぬらの技量(うで)、中の上」

「ッ!?」

 

 弟に“誤爆”し戸惑うナクルの脛を蹴り上げ、体勢を崩した兎を捕獲する虎。

 ナクルの頭部を腕に抱え込み、そのまま頸部を絞め上げた。

 

「ウィリアムを試すには、稽古が足らぬ」

「カッ……!」

 

 いわゆるフロントチョークの姿勢となり、虎は万力の如き力でナクルの首を締め上げる。

 みし、みしと兎の脛骨が軋む音が響き、ナクルは血を吐きながら顔面を青白く変化させていった。

 

「ウィリアム兄さん……」

 

 ノルンは阿修羅の如く血涙を流し、血に塗れた兄の姿を見て恐怖で顔を強張らせていた。

 先程までの日向のような柔和さを見せたウィリアムと、今目にする修羅の如き異形を見せるウィリアム。

 ノルンはアイシャと同じように、兄の変貌に戸惑いと恐怖を隠せず、ナナホシの制服の裾をぎゅっと握りしめていた。

 

 少女の戸惑いに構わず、虎は兎の首をへし折るべく腕に闘気を込めた。

 

(つかまつ)る──!」

 

 

 

「そこまで!」

 

 虎が兎を斬首せんとしたその瞬間、張りのある明朗な声が響いた。

 

「その試合、そこまでだ!」

「貴殿は……」

 

 一人の壮年の剣士が学生達をかき分けて現れる。ウィリアムはその剣士を見て、ナクルの拘束を解いた。

 

「お、大先生(おおせんせい)……?」

「先代様……?」

 

 地を這う双子の兎が、壮年の剣士を見て弱々しい声で驚きを露わにする。

 壮年の剣士は驚く双子に構わずウィリアムの前に出た。

 剣士の名は、北神二世アレックス・カールマン・ライバック。今はシャンドル・フォン・グランドールと名乗っていた。

 

「門人達が粗相をしたようだが、ここは前途有望な学徒達が通う学び舎。殺生沙汰は控えてもらえないだろうか」

 

 深々とウィリアムへ向け頭を下げるシャンドル。ウィリアムは血にまみれた顔を拭いつつ、鷹揚にそれを受けた。

 

「……承知仕った」

 

 短く言葉を返すウィリアムを見て、シャンドルは安堵の溜息を一つ吐く。

 そして、満身創痍の双子の姿を見て嘆息を吐いた。

 

「シャリーアを発つ前に久々にフラウの学校を見物しようかと思って来てみれば……一体何をしておるのだお前達は」

「いや……」

「その……」

 

 シャンドルは血泥に沈む双子達へ呆れたような声を上げる。ナクルとガドはそれを受け心底バツが悪そうな表情を浮かべこれまでの経緯を話す。血塗れとなり重傷を負った双子の兎であったが、会話は可能な程余力は残っていた。

 

「そうか、オーベールが……。あ奴め、もう少し穏便な方法を伝えられなかったのか……」

 

 シャンドルは双子の前に屈みこみ、傷付いたその身体を治療をしながら呆れた声を上げる。双子も双子だが、あの奇抜な男の考えもシャンドルには理解に苦むことであった。

 シャンドルは双子の治療を進めていたが、先の虎と死神の死闘で手持ちの治癒薬を使い切っており、治癒魔術もそれなりにしか使えないシャンドルは、困った表情を浮かべ見守っている学生達へと声をかけた。

 

「申し訳ないが、治癒魔術が使える者は手伝ってもらえないだろうか?」

「あ、じゃあ、僕が手伝います」

「わ、私も」

 

 シャンドルの声を受け、見守っていた学生達がおずおずと前に出る。シャンドルと共に双子の治療を始めた。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん。大丈夫ですか……?」

 

 尚も恐怖で顔を歪めつつも、未だ血で顔を汚しているウィリアムに心配そうに駆け寄るノルン。

 

「大事無い」

 

 そんな妹を短い言葉で制するウィリアム。事実、吠魔術によるダメージは虎の体内に残っていたものの、行動に支障が出る程のものではなかった。

 ウィリアムはシャンドルへ向け改めてその鋭い視線を向ける。

 アイシャとシルフィエットに死神戦のその後を聞いていたウィリアムは、この壮年の剣士が己の命を救っていたことを理解していた。

 故に、シャンドルの制止する言葉を素直に聞いていたのだ。

 

「シャンドル殿」

 

 ウィリアムがシャンドルへ声をかける。

 北神二世は孫弟子の治療の手を止め、ウィリアムへと視線を返した。

 

「これで、貸し借り無しで御座る」

「……左様か」

 

 ウィリアムの言に、シャンドルは短く頷いた。

 シャンドルにとってウィリアムを治療した事は“貸し”にしたつもりは毛頭無かったのだが、虎が尚も兎を仕留めんと再び牙を剥くことも想定していたシャンドルは、虎のこの申し出に密かに安堵していた。

 

「ウィリアム兄さん……」

 

 尚も心配そうに傍らに寄り添うノルン。

 ウィリアムは健気な妹の様子に目を細め、その柔い髪を撫でようと手を伸ばした。

 

「……っ」

 

 だが、ウィリアムは一瞬逡巡し、伸ばしかけた手を引いた。

 虎の手は、兎の血と自身の血で朱く染まっていた。

 

 やはり己には、情愛は似合わぬらしい──

 

 自嘲気味な笑みを浮かべ、ウィリアムはノルンから目を逸し、僅かに瞑目する。

 目を閉じると、前世最後の光景である白無垢姿の三重の姿が浮かんだ。

 血海の上で三つ指をつく三重の白無垢は、朱く染まっていた。

 

 せめて、この無垢で穏やかな妹は、血で汚したくない。

 その様な不器用で、歪な情が、虎の心をかき回していた。

 

 木漏れ日の中、手を繋いで歩いた妹との一時。

 甘やかな兄妹の情は、虎兎の一戦にて脆くも霧散していた。

 

 武士の心は闇を孕めり。

 

 惨たらしくも艶めいた剣の魔物に愛されし若虎は、妹達の愛情に触れても尚、憎み合い、斬り合い、殺し合う宿業の螺旋に囚われたままであった。

 

 

「静香姫。件の魔法陣の在処、御教示頂きたく」

「え? あ、はい」

 

 急にウィリアムに話しかけられたナナホシはまごつきながらも頷いた。

 

「えっと、じゃあ、そういうことだから……」

 

 そそくさとその場を後にしようとするナナホシ。それに黙して追従するウィリアム。

 残されたザノバ達は呆気にとられてその後ろ姿を見ているしかなかった。

 

「ウィリアム兄さん!」

 

 兄の心の変化を僅かながらに感じていたノルンは、切なげな声を上げウィリアムへと縋る。

 だが、ウィリアムはそれを一顧だにしなかった。

 

「……待っておれ」

 

 ただ、一言だけ、妹に言葉を残すウィリアム。

 母を、父を、そして長兄を助けよう。だが、全てが終わったその時は、そこに己はいないだろう。

 妹の、家族の幸せを、遥けき彼方より見守らんとする虎の不器用な情愛。

 ノルンは恐怖と、親愛と、哀しみが混ざった表情を浮かべ兄の後ろ姿を見続けるしかなかった。

 

「……いいのかしら」

「……」

 

 歩きながら、ナナホシはウィリアムへと言葉を向ける。

 虎はただ黙ってナナホシの後を歩くのみであった。

 

 

 

「ふむ……妙なところで、心に澱を抱えておるな」

 

 双子の治療をしながらシャンドルがウィリアムの後ろ姿をみてそう呟く。

 そして、ある程度回復した双子へ改めて呆れた顔を浮かべた。

 

「しかしお前達。いくら二人がかりとはいえ、七大列強に挑むとは無謀がすぎるぞ」

「えっ!?」

「な、七大列強!?」

 

 シャンドルの言葉に双子は驚きの声を上げる。

 

「なんだ知らんのか。あの御仁……ウィリアム・アダムス殿は、先日“死神”ランドルフ・マーリアンを下し列強入りしておる。私も見届けたが、アダムス殿の剣境はお前達よりも遥かに高みにいるぞ」

 

 双子はオーベールから目当ての剣士が剣神流と渡り合った猛者とは聞いていたが、まさか七大列強に叙されていた絶対強者とは露程も思わず。

 自分達が死地から生還していたことに気付いた双子の兎達は、ぶるりとその身を震わせていた。

 

「ううむ。師匠の弟殿が七大列強とは……」

「ルーデウスも凄い奴だが、弟も大概だな……」

 

 傍で聞いていたザノバとクリフも、虎が七大列強だと知り驚きを露わにしていた。

 特にリニアは顎が外れんばかりの驚愕を露わにし、ただでさえ凶獣王を素手で撲殺したウィリアムが想像以上の強者だと知り、悪態をついていた事を死ぬほど後悔していた。

「やべえニャ……やべえニャ……」とブツブツと呟きながら、虎の報復を恐れ恐怖に打ち震えるリニア。震えをごまかす為、未だ気絶し果てているプルセナを強く胸に抱き締めていた。

 ちなみにプルセナはリニアの豊満な乳房に顔面を圧迫され「うぅ……両巨乳重爆(ダブルゼットカップボンバー)なの……」と苦しげに呻いていた。

 

「ますた」

「む? どうしたのだジュリよ?」

 

 ザノバの制服の裾をぎゅっと掴み、不安げな表情を向けるジュリエット。ジュリエットもまた虎の剣気に当てられ、その柔い頬を青ざめさせていた。

 

「ぐらんどますたの弟さん、とてもこわいです……」

「……」

 

 多感な炭鉱族(ドワーフ)の幼女は、虎の血塗れた外面の内に秘めた修羅の性質を敏感に感じ取っていた。

 ザノバもまた薄々であるがウィリアムの異常性を感じ取っており、怯えるジュリエットに対し何も言うことが出来なかった。

 

 

「し、しかし大先生。大先生と死神様は……」

 

 ナクルがシャンドルへと疑問の声を上げる。

 北神流の剣士達の間では有名な話であったが、当代北神と共に北神二世の元で修行していた“死神”ランドルフ・マリーアンは、剣術の方向性の違いや当代北神との軋轢により北神二世、シャンドル・フォン・グランドールことアレックス・カールマン・ライバックにより破門されている。

 その破門されたランドルフの名前がシャンドルの口から出るとは思わず。ガドも痛めた胸を擦りながら、同様に疑問の表情を浮かべていた。

 

「……不死魔族の寿命は長い。わだかまりも、時間が経てば解けるものだ」

 

 シャンドルはかつて己の元で修行した息子と孫の姿を思い浮かべる。

 自分と孫は和解する事はできた。だが、あの息子が孫と分かり合える日は来るのだろうか。

 

(あれも私に似て頑固なところがある。ランドルフと和解する日はまだまだ先であろうな……)

 

 息子であり、王竜剣を受け継ぎし無双の剣士は、父を超える英雄となるべく苛烈な修練を己に施している。

 その生き方は己が認めた他者以外の存在を許さない、強者にありがちな偏屈な生き方であった。

 

(人は誰でも英雄になれる素質を備えていると、確かにアレクに教えた。だが、英雄とは成るべくして成るものだと、肝心なところを教えていなかったな……あの若虎は、どうなのだろうか)

 

 シャンドルがそう思っていると、回復した双子が互いに顔を寄せ合い何事かを呟き合っている。

 シャンドルと学生達の治療の甲斐あってか、ナクルとガドは相応に快復していた。だが、虎に潰されたナクルの片目は痛々しく潰れたままであり、それを完治せしめる程の治療魔術の使い手はこの場にはいなかった。

 

「ガド」

「うん」

 

 やがて双子は改めてシャンドルを見据え、その決意を開陳した。

 

「大先生」

「我ら本日より“北王”の伝位を返上致しまする」

「なに?」

 

 いきなりの双子の申し出に、シャンドルは怪訝な表情を浮かべる。

 双子がシャンドルを見る視線の先は、立去ったウィリアムの方へと向けられていた。虎の剣気に当てられた双子の兎は、この僅かの間に自分達が真の剣に出会えたことを、本能で理解していた。

 シャンドルは双子の表情を見て、その胸の内を察する。

 

「アダムス殿に師事するつもりか?」

「はっ……」

「どうか、お許しを……」

 

 神妙な顔つきの双子に、シャンドルは再び大きな溜息を吐く。

 

「ならば、それはアレクに許可を得るべきだろう。私はもう北神流のあれこれに口を出せる立場ではない。というより、アレクとはもう何十年も会っていないし、私は死んだ扱いになっているだろうしな」

 

 シャンドルは当代北神、アレクサンダー・カールマン・ライバックの名を出す。北神流の当主であるアレクサンダーが北王級剣士の伝位返上を知らぬ事は流石にはばかられる事であった。

 

「先生は、我らのことをお認めになっておりません……」

「それに、僕達の実際の師匠は先代様です」

 

 そう言ったシャンドルに対し、双子は沈鬱な表情を浮かべ言葉を返す。

 当代北神のアレクサンダーは、祖父であり開祖のカールマン・ライバックが興した不治瑕北神流以外を認めておらず、数ある北神流門派の中で特に奇抜派と呼ばれる者達を唾棄していた。

 双子は北神流に入門し、当初は実戦派ともいわれる不治瑕北神流を学んでいたが、その後シャンドルの教えを受け奇抜派に傾倒、北王の伝位を受ける程の使い手になった経緯がある。

 

「ううむ。そういうことならお前達の申し出を受けるが……本当に良いのか?」

 

 シャンドルの言葉に、双子は確りと頷く。その瞳には固い決意が浮かんでいた。

 双子の決意を見て、シャンドルは何度目になるかわからない溜息を吐いた。

 

「致し方ないか……しかし、アレクのことは良いとして、オーベールには何と伝えるのだ?」

「オーベールさんはほっといていいです」

「あの人も本気じゃないでしょうし」

「そ、そうか」

 

 双子のドライな対応にやや戸惑うシャンドル。実際、北神三剣士は奇抜派の業を練り上げんと互いに切磋琢磨する間柄であったが、だからといって相応に仲が良いというわけではなかった。

 

「まったく……ああ、学生諸君。お騒がせして申し訳ない。治療を手伝ってくれた方は、後日何らかの礼をさせてもらうよ」

 

 シャンドルの声を受け、尚もたむろしていた学生達が三々五々に散っていく。彼らには受けるべき講義があり、突然の乱闘騒ぎで休講するほど不真面目ではなく。

 ザノバ達もまた、次ぎの講義を受けるべく虎と兎の死闘の余韻が抜け切らぬまま移動しようとしていた。

 

 

「ウィリアム兄さん……」

 

 一人残ったノルンが、ウィリアムの名前を寂しそうに呟く。

 少女はウィリアムが家族の救助へ向かうことを決断し、それを頼もしく思っていた。

 と同時に、もう二度と、ウィリアムと暖かい日向のような時間を過ごすことが出来ないのではと。

 

 そんな、不安な思いが、少女の中で大きく膨らんでいった。

 

「ウィリアム兄さん……」

 

 不安な思いを打ち消すように、少女は兄の名を再び呟いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十一景『現人鬼残酷忍法帖(あらひとおにざんこくにんぽうちょう)

 

 この(もの)

 

 ちから強くして自儘を極め

 

 勢い大盤石を覆すがごとし

 

 男女の垣根を越えし天衣無縫、唯我独尊の超人なり

 

 怪異六畜を爪裂く現人鬼(あらひとおに)といふもの

 

 

 名よりも、見るはおそろし──

 

 

 ブラッディ・カント著

『世界の偉人・英雄別巻』より抜粋

 

 

 

 

 


 

 

 最初は、イライラした。

 

 

 会う度に、ヘラヘラして、意味のない作り笑いばかり浮かべて。

 苗字を持ってる、貴族のボンボン息子が、何も苦労もせずに豊かな暮らしが出来る権利を放り出して、半端な気持ちで冒険者になったと思って。

 それでいて、実力だけはあるから、余計癇に障って。 

 

 貴族は嫌いだった。父も母も、貴族の怠慢と足の引っ張り合いで死んでしまった。

 だから、グレイラットの苗字を持っているアイツ……ルーデウスのことが、大嫌いだった。

 

 でも、会う度に、彼のことがそんなに嫌いになれなくなっていた。

 

 ラスターグリズリーの群れを、一人で倒してしまった時。

 ガルガウ遺跡で、スノウドレイクを一人で足止めしてくれた時。

 

 そして、トリーアの森で、アイスフォールトゥレントに捕まって、死にかけていた私を助けてくれた時。

 

 目を開けたら、おとぎ話の王子様のように、ルーデウスは私を助けてくれた。

 大切な物を扱うように、傷ついた私を治してくれた。

 

 それから、ルーデウスと良く話すようになった。

 一緒に冒険をして、一緒に打ち上げして。ルーデウスのことが、どんどん好きになっていった。

 ルーデウスも、一緒に過ごしていく内に、私の事を好きになっていったんじゃないかなって思った。

 

 だから、あの時精一杯のオシャレをして、デートに誘って、お酒の力も借りて。ルーデウスを誘った。

 直接告白するのが怖かったから、助けてくれた時のお礼の形をとって。

 それで、結ばれたら、本当の自分の気持ちを伝えようと思って。

 

 

 それからは、最悪だった。

 

 

 最初は、ルーデウスが私の身体に全く魅力を感じてなくて、出来ないものだと思って。

 ルーデウスが自分の事を、好きじゃないんだって思って。

 自分の初めてを台無しにされたと思って、ルーデウスにひどい嘘をついて。

 ルーデウスが、あの後娼婦とキスをしているのを見て、最低な奴だと思って。

 

 でも、それは、全部私の勘違いだった。

 

 あの後……娼婦の、エリーゼさんに全てを聞いて。

 ルーデウスが、私の為に、自分の病気をなんとかしようとしてたのを知って。

 

 そんなルーデウスを、私は拒絶してしまった。

 こんな私を、ルーデウスは拒絶してしまった。

 

 悲しかった。

 辛かった。

 一晩中泣いた。

 

 そして、私の初恋は終わったのだと気付いた。

 それからは、ただルーデウスに謝りたかった。

 ルーデウスだって傷ついていたのに、私だけが被害者だと勘違いして、怒って、喚いたことを。

 

 今でも、その気持は変わらない。

 スザンヌ達と別れて、こうして冒険者を続けていても、その気持は変わらない。

 

 ルーデウス……

 もし、またルーデウスに会って、それで、心から謝って。

 

 許してもらえたら、また……

 

 

 私達、また、やり直せるのかな?

 

 

 

 

 

 

 北方大地

 ネリス王国第三都市ドウム郊外

 

 

「ふぅ。これで、採集完了っと」

 

 透明度の高い泉の辺りで、A級冒険者、弓使いのサラは、依頼品である薬草を採取していた。

 かつて所属していた冒険者パーティ“カウンターアロー”は、リーダーのティモシーと副リーダーのスザンヌが結婚したことで解散し、今はあちこちの冒険者パーティに参加しながらソロで活動していた。

 だが、都合良く既存のパーティに臨時参加する機会はそうあるものではなく、こうしてランクフリーの低難度な採集依頼をソロで請け負うことも多々あった。

 小遣い稼ぎの、簡単な依頼。低級冒険者御用達の依頼であったが、サラは選り好みをせず淡々と依頼をこなす日々を過ごしていた。

 

 

「はあー……」

 

 深く、長い溜息を吐く。

 あれから、二年の歳月が経っていた。

 カウンターアローを解散する前。ルーデウス・グレイラットと共に冒険した日々から、二年。

 ルーデウスとひどい別れ方をした乙女は、この二年間、時折狂おしい程のもどかしい思いを感じ、鬱々とした日を過ごすことがあった。

 

 ルーデウスと、一線を越えようとしたあの日。

 ルーデウスが不能だった事を、乙女は気付く事が出来なかった。

 それが原因で、好きだったルーデウスとひどい別れ方をしてしまったのを、乙女はずっと後悔していた。

 

「流石に引きずりすぎかなぁ……」

 

 サラは鬱屈した空気を纏わせながら、透明度のある泉をまんじりと眺める。

 既に採集ノルマは達成しており、あとはギルドに採集品を納品するだけ。

 だが、美しい泉を見ている内に、もう少しこの自然を見ていたい気持ちが沸き上っていた。

 

「きれいな泉……」

 

 泉の縁で、しゃがみ込んで水の中を見る。

 滋養のあるこの水源では様々な生物の活気が見て取れ、サラはしばしその生命の輝きをぼんやりと見ていた。

 こうして、何も考えずに自然を見ているのが、ルーデウスを忘れられるひと時であるのをサラは自覚していた。

 時刻は昼過ぎ。生命の輝きが、もっとも輝いて見える時間帯であった。

 

「いい加減、前向きにならなきゃだめだよね」

 

 そう独り言を呟くサラ。

 最近、とあるパーティと共に依頼をこなし、その功績を認められてA級に昇格したサラ。そのパーティ“アマゾネスエース”から熱心な勧誘を受けるようになったサラは、これを機に再び固定のパーティに参加しようかなと、ぼんやりと思考する。

 アマゾネスエースは女だけのパーティで、もう二度と、あのような辛い思いを感じる事がないだろうと思ったのも、参加に前向きな理由のひとつでもあった。

 スザンヌ、ティモシー、パトリス、ミミル……そして、ルーデウス。

 かつての仲間達のような関係は、もう二度と築く事は出来ないだろう。

 

 そう、自嘲しながらの考えでもあった。

 

 

 

「よし。帰ったらティーナとメラニィに話を……」

 

 立ち上がり、採集品が入ったずた袋を担ぎ直したその時。

 美しい自然が広がるサラの視界に、不自然な光景が現れた。

 

「……?」

 

 サラが泉に目を向けると、こぽこぽと水面に奇妙な水泡が沸き立っていた。

 サラは不自然なその現象に訝しみつつ、目を凝らしてそれを見つめる。

 

(魔物……? でも、この辺に水棲の魔物なんていないはずだし……)

 

 自然と警戒態勢に入る。

 A級冒険者と成ったサラは、どんな些細な違和感も見逃さない。たとえ絶対に安全と思われる場所でも、簡単に命を落とすのがこの北方大地の常である。

 背負っていた弓を構え、いつでも射てるべく弓弦に矢を当てた。

 静かに水泡へと狙いを定め、その弦を引き絞る。

 

 

 そして、水柱と共に水中から一人の若者が現れた。

 

 

「うっひゃあ!?」

 

 突然、真紅の総髪を濡らした全裸の美丈婦が激しい水音を立てて現れる。

 あまりにも突然の出来事に、サラは思わず警戒態勢を解き尻もちをついた。

 

「ああ、よく寝た……」

 

 そんなサラに構うことなく、紅髪の若者は濡れた髪を掻き上げて気持ち良さそうに身体を伸ばす。

 その美しい乳房を惜しみなく晒し、水滴がその美肌をつたう。

 正しく泉の水虎、もとい精霊の如き美麗かつ壮麗なその姿に、サラは驚愕と共に目を奪われた。

 

「え、女の人……」

 

 サラは突如現出した若者の過剰にして無謬、猥褻にして純潔な姿にしばし見惚れる。

 

「はぅ!?」

 

 が、直ぐにその下腹部にある雄渾なる逸物に気付く。

 その剛槍は大自然の精気を存分に吸ったのか、天を貫かんばかりに屹立していた。

 つまるところ、寝起きの朝勃ちである。

 

「ななななななんで? その、お、おっぱいあるのに、その、アレ、お、おち、おちん……!」

 

 若者の真紅の総髪のように顔を真っ赤に染め、震えた声で若者を指差すサラ。指の先には、筋肉質ではあるが均整の取れた美麗な肉体に相応しからぬ剛槍が屹立していた。

 サラの18年の人生で半陰陽の者はこれまで目にした事が無く。またルーデウスの機能欠落したアレとは違い、このような凶悪な逸物を目にするのも初めての事であった。

 いや、そもそもこの人はずっと水の中にいたの? いつから? 息続くの? 私結構前からここにいたよね? などの当たり前の疑問が全て吹き飛ぶ程の衝撃。サラの脳内は混乱の極致にあった。

 

「拙者、雄にあらず」

 

 自身の濡れた乳房を蠱惑的に撫で回し、紅髪の若者はゆっくりとサラへ近付く。

 慄くサラはショックで腰が抜けたのか微動だに出来ず。

 

「まして牝にあらず」

 

 バチイイン! と、灼熱の熱棒がサラの頬を叩く。

 サラは自身の頬に伝わる艶めかしく熱い温度を感じ硬直状態になるも、数瞬してから若者の肉棒が自身の頬に押し付けられたのに気付いた。

 

「ギャアアッ!?」

「うふふふふ」

 

 乙女らしからぬ汚い悲鳴を上げたサラの悲惨な反応を、愉悦に満ちた表情で見やる紅髪の若者。

 乙女のあんまりな反応に満足したのか、満を持して名乗りを上げた。

 

 

「我が名は波裸羅(はらら)! 人は呼ぶ、“現人鬼”!」

 

 

 現人鬼波裸羅が発するその苛烈な威勢に、弓兵の乙女は完全に腰が抜けてしまっていた。

 

「小娘、冒険者か?」

「ひぃ!?」

 

 相も変わらず乙女の顔面にゴリゴリと熱棒を押し当てる現人鬼。

 涙目となったサラは抵抗する気力がごっそりと抜け落ち、ただ震えて現人鬼の美声を聞くだけであった。

 

「男女あらば情欲あり。男女交合の愉悦は真理からの賜物なり」

 

 慄くサラを増々愉悦に満ちた表情で見やる現人鬼。

 その雄渾なる剛槍も、増々硬くイキり立っていった。

 

「冒険者ならばこのイキった刃、鞘に入れて鎮める“冒険”でもしてみせろ」

 

 そんな冒険なんてしたくない。

 そう抗議をあげようとしたサラであったが、現人鬼の剛直が発する熱気の所為でまともに口を動かす事が出来なかった。

 

 ああ、私の初めて、こんなトンデモない状況で失われるんだ。

 ごめんなさいルーデウス。なんだかしらんけどわたしが全面的にわるかったです。

 

 そんな虚無感に満ちた謝罪を、この場にいないルーデウスに向けるサラの心情は、見るもの全てが胸を打つ凄惨な情景ではあったが、現人鬼はそんなのお構いなしで乙女に肉薄する。

 

 

 サラが全てを観念して、目を瞑ったその瞬間──

 

 

「ふんッ!」

「ウゲェッ!!」

 

 肉を貫く音と、何者かの悲鳴が聞こえ、サラの顔面に鮮血が飛び散った。

 

「え……」

 

 目を開けると、陽炎のような半透明の人型を、その手刀で刺し貫く現人鬼の姿があった。

 

「ガハッ……! ど、どうやって見破った……!」

 

 血を吐きながら徐々に実体化する人型。

 黒装束に身を包み、面布で顔を隠した魔族の男が現出していた。

 男は手首に“身体を不可視化”する魔道具を装着しており、隠形による不意打ちを仕掛けるべく現人鬼の背後に忍び寄っていた。

 しかし、その企みはあっさりと現人鬼の手刀により打ち砕かれていた。

 

「そ、そうか、水面(みなも)に仕掛けが……」

「勘。」

 

「勘て」と呟きながら、襲撃者は絶命した。

 

 

「現人鬼!」

「主命により(うぬ)首級(みしるし)、貰い受ける!」

 

 隠形の襲撃者が絶命すると同時に、周囲から次々と新手の刺客が出現する。全員覆面で顔を隠していたが、牛頭、馬頭、豚頭……人族ならざる異形異類の特徴が良く現れた集団が、瞬く間に現人鬼を囲んだ。その数は三十は超える。

 

「囲め!」

「逃さんど!」

 

 剣や斧、魔杖など様々な得物を構え、己に突きつける刺客の集団に囲まれても尚、現人鬼は不敵な笑みを崩さなかった。

 

「うふふふ……貴様ら、バグラーの手の者か? それともケブラーか? 心当たりが多すぎて分からぬわ」

 

 分からぬと言いつつ、刺客の正体に大凡の当たりを付けた現人鬼はゆっくりと己の乳房を弄ぶ。

 己の命を狙う刺客を前にしてもこの扇情的な態度を崩さない現人鬼に、刺客達は面布の下で憎々しげに表情を歪めていた。

 

「大名ばりの波裸羅の路銀供出に苦しくなったか。ケチな主君を抱えて難儀な事よ喃」

 

 煽る現人鬼に業を煮やした刺客達は、口々に現人鬼へ罵声を浴びせ襲い掛かった。

 

「ええい! 問答無用!」

「お命頂戴!」

「ていうか一日金鉱銭200枚とか普通に財政破綻するわ!」

「加減しろ莫迦!」

 

 最前線にいた刺客十数名が一斉に現人鬼へと襲いかかる。

 華麗に跳躍し、刺客の凶刃を躱した現人鬼は即座に反撃の一撃を見舞った。

 

「ヴェッ!?」

 

 足刀が刺客を頭から真っ二つに断ち割る。

 刹那の瞬間、現人鬼は独楽の様に己の身体を回し、その足刀で次々と刺客を裁断し始めた。

 刺客が放つ必殺の剣撃を美麗に躱し、刺客が持つ剣ごとその足刀で胴を断つ。

 現人鬼を滅するべく魔術を詠唱中の刺客に、一瞬で間合いを詰めその足刀で首を断つ。

 

 これぞ現人鬼の絶技、旋風美脚“熟瓜(ほそぢ)

 

 熟した瓜の如く人体を苛む脚技に、刺客の五体はたちまち断裂せしめる。

 美麗に回転しながら人体を細切れにする様は、一種の倒錯的な美しさがあった。

 

「あ、ありえない……!」

 

 現人鬼が舞う度に、返り血がサラにも降りかかる。サラの目からみても刺客達の実力は相応に高いものであり、少なくとも剣術、そして魔術で聖級以上の実力を持つ者が何人かいた。

 だが、それらを難なく殺害しうる現人鬼の絶大な戦闘力。

 血海に沈む実力者達の無残な姿を見て、サラは恐怖と驚愕に苛まれるも、その残酷美麗な光景を見ていく内にある種の憧憬的な感情が沸き上がっていた。

 

(凄い……!)

 

 圧倒的な強さ、そしてその美しさに、弓兵の乙女はしばしその惨劇に魅入っていた。

 

 

「ゴッツァン!」

 

 

 興が乗った現人鬼が、自身の肉棒で襲撃者の頭部を一刀両断せしめた光景には流石にドン引きしたが。

 

「嘘でしょ」

 

 この時、サラは悟った。

 現人鬼波裸羅。この凶剣(まがつるぎ)を収める鞘など、この世(・・・)には存在し得ぬ!

 また、自分が知らなかっただけで男性器とはこのような凶器に成り得る事があり、ルーデウスは本当の意味で自身の身体を気遣ってあえて不能の振りをしていたのでは? と、見当違いな方向に思い至ったのは、混乱の極みに達した乙女であるからして、サラは普段はこのような残念な思考を持っていないことをここに記しておく。

 

「イチモツでゴッツァンしやがった!」

「聞いてねーぜ困難(こんなの)!」

 

 困惑するのは乙女だけでなく刺客達も同様。

 刺客の中には魔族では無く人族の刺客も紛れており、これらは現人鬼討伐の為、魔族達が現地で雇った暗殺者であった。

 だが、雇われた暗殺者達はここまで非常識な強さを持つ標的だとは聞かされておらず、その戦意をみるみる萎えさせていった。

 

「ぬぅ! 退け! 退け! 出直しじゃ!」

 

 形勢不利と見た刺客達の長が撤退の号令をかける。

 三十以上いた刺客の数は、既に十を割っていた。

 

「こげなくそ! おいは退かんぞ!」

「現人鬼のタマ取るまで死ぬまでゴッツァンするぜよ!」

「おいはここで鬼に喰われうー!」

「ええい! いいから退くぞ!」

 

 尚も戦意旺盛な一部の魔族達を宥め、散開した刺客達は苛まれた同胞の遺体を担ぎ、現れた時と同様に瞬く間に姿を消した。もっとも、細切れにされた遺体も多かった為、大部分の臓器(パーツ)はそのまま置き去りであったが。

 

 後に残されたのは、返り血を存分に浴びた現人鬼と弓兵の乙女、そして刺客達の血と残骸で無残な状態に変わり果てた大自然の姿だけであった。

 

 

「ふん、毒面(ブス)共。(ワタ)もきっちり持って帰らんか」

 

 美しく括れた腰に手をあて、仁王立ちしながら遁走する刺客を眺める現人鬼。

 返り血にまみれても尚、その美麗な立ち姿は一種の美術品の如き気品を漂わせていた。

 ショッキングな光景を見せられ続けた弓兵の乙女は、魂が抜け落ちたかのように呆然とその美姿を見つめている。

 ちなみに戦闘中も現人鬼の剛直は立派に屹立し続けており、今も圧倒的な存在感を放っていた。

 

「さて、小娘。ぼちぼち波裸羅の情けをくれて──」

 

 そう言いかけた現人鬼は、ある方向を見つめるとピタリとその動きを止めた。

 

「……ふむ。中々に強烈な“龍気”が立ち込めておる。カントめが言ってたのは、あれのことか……」

 

 顎に手を当て、何やらぶつぶつと独り言を呟く現人鬼。

 現人鬼の視線の先には、魔法都市シャリーアが存在していた。

 

「うっふっふっふ。凶剣がイキる時が来たようじゃ……!」

 

 現人鬼は舌舐めずりをした後、サラへと顔を向けた。

 

「小娘。波裸羅は急用が出来た。ケツ(・・)拾いした喃」

 

 サラへ残虐な笑みをひとつ向け、血にまみれたまま現人鬼は踵を返す。

 尚も呆然とするサラに構わず、現人鬼は自身の美尻を豪快に叩いた。

 

「あば!」

 

 バチイイイイインッ! と快音を響かせ、現人鬼は跳躍し忽然とサラの前から消え去った。全裸で。

 

 

 

「……」

 

 一人残され、地べたにへたりこんだサラが再起動するのは、もうしばらく後のことであり。

 美しかった自然の営みは、現人鬼と刺客達の戦闘により地獄の光景へと変わり果てており。

 透明度がある美しい泉は、刺客達の血液により血の池と化し。

 大自然の活力を感じさせた瑞々しい木々は、刺客達の四肢や(はらわた)などの残骸によって無残な装飾が施され。

 柔らかで太陽の香りを感じさせた草々には、刺客達の指や臓物などが散らばり、臓物から発せられる悪臭が漂っていた。

 

 そして、失恋の哀しみにいじらしく悶える乙女の可憐な姿は、血泥に塗れた無残な姿へと変わり果てていた。

 

 

 サラが虚ろな瞳で冒険者ギルドに帰還し、全身血まみれのその姿にギルド内が騒然としたのは、また別のお話。

 

 

 

 

 

 


 

 魔法都市シャリーア

 ルーデウス・グレイラット邸

 

 ラノア魔法大学にて双子の獣人剣士の襲撃を受けたウィリアムは、難なく双子を蹴散らし、目当ての転移魔法陣の在処をナナホシから教示されると足早にルーデウス邸へと戻っていた。

 

「あ、ウィル兄! おかえりなさい!」

 

 アイシャが喜々とした表情を浮かべウィリアムを出迎える。直ぐに大好きな兄に飛びつこうとするも、手に包丁と馬鈴薯を持ったままなのに気付いたアイシャは慌てて台所へと踵を返した。

 

「飯を、作っておるのか」

 

 そんな慌てたアイシャに目を細めつつ、ウィリアムは優しげに声をかける。

 不自然な程柔らかいその声色に、アイシャは一瞬だけ違和感を覚えるも、直ぐに明るい笑顔を返した。

 

「うん! 今日は、お芋さんが安かったから!」

 

 快活な笑顔を次兄へと向けるアイシャ。その陽だまりのような暖かさに、ウィリアムは僅かに表情を崩していた。

 ウィリアムは台所へと足を向けると、そのまま籠に積まれた馬鈴薯の前へと立つ。

 

「ウィル兄……?」

 

 台所へと入ったウィリアムを不思議そうに見つめるアイシャ。

 ウィル兄は何をしようとしているのかな? もしかしてつまみ食いでもしに来たのかな? と、ほのぼのとその様子を見つめる。

 ウィリアムが包丁と馬鈴薯を手に取った時は、慌ててその横に駆け寄ったが。

 

「あ、いいよウィル兄! お料理はあたしが──」

 

 そう言った刹那。

 風を切るような音と共に、一瞬にして皮が剥けた馬鈴薯がウィリアムの手の中にあった。

 

「わっ! すごい!」

 

 感嘆の声を上げるアイシャに構わず、次々と馬鈴薯の皮を剥くウィリアム。

 精密機械の如き正確さで包丁を操り、飛燕の如き疾さで馬鈴薯の皮を剥く。その姿は、料理に慣れたアイシャの目からしてもまさに“料理の鉄人”といった風格を漂わせていた。

 アイシャは綺麗に繋がった馬鈴薯の皮を手に取り、「おぉ……」と目を輝かせそれを見る。

 僅かの間に、籠に積まれた馬鈴薯は全て皮が剥かれていた。

 

「次は」

 

 ウィリアムは興奮気味のアイシャに優しく語りかける。

 妹の料理を手伝う次兄の優しさに、アイシャは今日一番の笑顔を浮かべていた。

 

「えへへ! じゃあ、次はー……」

 

 望外なところで兄に甘えることができた少女は、そのまま最後まで料理を手伝ってもらい、ホクホク顔で夕餉の支度を整えていった。

 

 大量の芋料理を持て余すシルフィエットの苦笑と共に、グレイラット家では家族の暖かい団欒が営まれていった。

 

 

 

 

 深夜。

 グレイラット邸にて穏やかな一時を過ごしたウィリアムは、旅支度(・・・)を整えアイシャが眠る部屋の前に立っていた。

 家人が完全に寝静まってからの支度であったが、元々大した荷物を持たないウィリアムの旅支度にはなんら支障もなく。

 

「……」

 

 ウィリアムはそっとアイシャの部屋のドアを開ける。

 少女を起こさないよう、静かにそのベッドの前へと歩み寄った。

 

「うーん……」

 

 むにゃむにゃと寝返りを打つアイシャ。

 その様子を穏やかな表情で見つめるウィリアムは、この天真爛漫な少女が健やかに成長しているのを改めて感じていた。

 

「アイシャ……」

 

 そっと、その朱髪に触れようと手を伸ばすウィリアム。

 

「……」

 

 だが、寸前でウィリアムはその手を引いた。

 血塗れた己の手で、少女の無垢な寝姿を汚さまいとする兄の心情。それでも、その成長をその手で感じ取りたい兄の心情。

 二つの心が、ウィリアムの中で狂おしい程の葛藤を見せていた。

 

「ん……」

 

 眠るアイシャが身じろぎする。

 切なそうに表情を歪めるアイシャの寝顔は、虎の心を更にかき乱した。

 

「おかあ……さん……」

 

 だが、アイシャがふと発した寝言に、ウィリアムは心の葛藤が鎮静していくのを感じた。

 

「……」

 

 一筋の涙が、アイシャの頬をつたう。

 ウィリアムはその涙をそっと指で拭い、丁寧な手付きで少女に毛布をかけ直した。

 

「……待っておれ」

 

 小さく、しかしはっきりとした口調で、虎は少女へと声をかける。

 母、リーリャを想い涙を流すアイシャは、年相応に母の情を求める幼い少女でしかなく。毎晩、こうして母を、そして家族を想い、涙を流していたのだろうか。

 今生の虎は、その姿を不憫と思わない程、薄情ではなかった。

 

 ウィリアムは入ってきた時と同様に、静かにアイシャの部屋から退出する。

 そのまま、廊下に置かれていた自身の荷物を担ぐと、玄関へと足を運んだ。

 

 

「ウィル君」

 

 忍ぶように家から出ようとしたウィリアムに、寝間着姿のシルフィエットが声をかけた。

 どこかで、泥沼の嫁は義弟の不自然な態度に違和感を感じていたのだろう。ウィリアムがそれとなく自身の荷物を気にしていたのを、目敏く察知していたシルフィエットは、予想通り黙って家を出るウィリアムを悲しげな瞳で見つめる。

 

「ルディのとこに行くの?」

「……」

 

 義姉の問いかけに、沈黙を返すウィリアム。

 暗に肯定を示す義弟の不器用なその姿を、心優しいクオーターエルフの乙女は溜息を一つ吐いて諦めの表情を浮かべた。

 

「何言っても行くのは止めないのだろうけど、ひとつだけ言わせて」

 

 シルフィエットはウィリアムの前に立ち、その右手を優しく包んだ。

 

「絶対、必ず、この家に帰ってきて。そのままいなくなったら、絶対にだめだからね。ノルンちゃんや、アイシャちゃんに、悲しい思いをさせないで」

 

 瞳を潤ませながら、両手でウィリアムの右手を包むシルフィエット。

 真っ直ぐで、純粋に己を想う義姉の気持ちに、虎は少しだけ表情を歪ませた。

 

「……」

「あ……」

 

 ウィリアムはシルフィエットの手を尊い物を扱うように退ける。シルフィエットは、それが虎の“拒否”だと感じ、増々悲しげな表情を浮かべた。

 

 ウィリアムはそのまま玄関の扉を開けると、振り返る事なく歩を進める。

 辺りは夜の帳が下りており、グレイラット家の玄関先は悲哀を感じさせる程の静寂に包まれていた。

 

「ウィル君……」

 

 シルフィエットは悲しげに義弟の後ろ姿を見つめる。本来ならば、ルーデウスの、愛する夫の助太刀に向かう頼もしき義弟の旅立ち。

 だが、永遠の別れを思わせるウィリアムの立ち振舞に、シルフィエットはどうしようもなく不安な思いに囚われる。

 

 せっかく会えた、義弟。

 せっかく会えた、家族。

 それなのに、再び離散してしまうかもしれない。

 どうしようもない哀しみが、クオーターエルフの乙女を苛んでいた。

 

 

「……義姉上(・・・)

「ッ!」

 

 ウィリアムが立ち止まる。

 ゆっくりと、その顔をシルフィエットへと向けた。

 

「どこにも、行き申さぬ」

「ウィル君……!」

 

 そう言うと、ウィリアムは再び歩み始める。

 その背中は、様々な宿業を背負った剣士の悲哀、そして不器用な優しさが滲んていた。

 シルフィエットは泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな笑顔を浮かべながら、ウィリアムの後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。

 

 やがて虎の姿が完全に見えなくなると、シルフィエットは静かに玄関の扉を閉める。

 哀しくも、優しい義弟の言葉を、シルフィエットは静かに反芻していた。

 

「……おねえちゃんって、呼んで欲しかったな」

 

 寂しげに呟くシルフィエットの言葉が、静まり返ったグレイラット邸に響いていた。

 

 

 

 

 

 ウィリアムがグレイラット邸から出立してしばらくして。

 徐々に白み始めた空のもと、魔法都市シャリーアの外門をくぐった虎は、ラノア大学にて蹴散らした双子の姿を目撃した。

 双剣ナックルガード。

 兄ナクルの片目は虎に潰されたままで、巻かれた包帯は痛々しい様を見せている。弟ガドの片腕も包帯で吊られており、その布下では虎の爪痕が生々しく残っていた。

 

「お主らは……」

 

 意趣返しか、と僅かに怒気を滲ませるウィリアム。武芸者同士の尋常な仕合にて遺恨を残すとは、北神流の剣士とは呆れ果てた輩。虎は、殺気と共に腰に差した七丁念仏の柄に手をかけた。

 

 だが、双子の兎はウィリアムの姿を見留めると、即座に膝を突き頭を垂れる。

 神妙な顔付きの双子の兎は、その胸中を虎へ明かした。

 

「アダムス殿……いや、若先生」

「どうか我らを弟子に」

「見込みがなければ」

「この場にてお手討ちを」

 

 平伏する双子の兎を、冷めた目で見つめる虎。どれだけ言葉で飾ろうと、双子の魂胆は己の虎眼流を盗むつもりなのだ。そう断じだ虎は、望み通りその肉体を妖剣の餌食にせんべく、ズズッと七丁念仏を引き抜く。そのまま、頭を垂れる双子へ剣先を突きつけた。

 

「……」

 

 だが、七丁念仏の刀身が怪しく煌めくと、ウィリアムの脳裏に前世での忠弟達の姿が浮かんだ。

 己の為に、虎眼流の為にその若い生命を燃やした虎子達。その儚く、瑞々しいまでの生命の輝きが、虎の脳裏に浮かんでいた。

 

 しばしの間、虎と兎の間で沈黙が漂う。

 尚も頭を下げ続ける兎達に、虎は深い溜息をひとつ吐いた。

 

「……ッ!」

 

 そして、神速の斬撃が双子の頭上に放たれる。

 音を、そして光を置き去りにするその斬撃の余波で、双子は思わず顔を上げた。

 

「え……」

「なんだ……」

 

 ひらりと、一本の“毛”が双子の手のひらに落ちる。

 双子は、それが自身らの兎耳に生える“毛”であることを視認し、訝しげにそれを見つめた。

 

「「ッ!」」

 

 見つめていると、兎の毛が十文字(・・・)に割れた。

 超極細の獣毛を、刀剣にて縦に割る(・・・・)ウィリアムの技量。

 それはまさしく、前世にて行われた虎眼流入門儀式を遥かに超える、神技への扉。

 

 

 異界虎眼流入門の儀“紡ぎ綿毛”

 

 

 後にそう呼ばれる事となる異界(六面世界)敷島(日ノ本)紡ぐ(ツムグ)この神聖な儀式に、双子は戦慄、憧憬、そして歓喜の声が混ざった獣声を上げた。

 

「お美事!」

「お美事にござりまする!」

 

 双子の心からの賞賛を受けるウィリアム。そのまま歩みながら、双子へと声をかけた。

 

「ついてまいれ」

「ッ! は、はい!」

「どこまでもついていきまする!」

 

 白んでいた空に、僅かに朝日の光が覗く。

 力強く歩む異界虎眼流の剣士達を、その儚い光で照らしていた。

 

 

 かくして、虎と双子の兎は砂漠の大地、ベガリット大陸へと赴く事となる。

 若き虎の、父と、母。そして、兄を助ける為に。

 その道中に、様々な困難が待ち受けるとは知らずに。

 確りとした足取りの武芸者達は、その困難に打ち勝つ事が、果たして出来るのだろうか。

 

 

 

 転移魔法陣の前で、鬼と、龍が待ち受けているのを、虎は気づくことはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間『常州魔剣豪戯劇(じょうしゅうまけんごうぎげき)

 

 

 

 

 剣聖、老いたり──

 

 

 

 

 

 天正十八年(1590年)

 常陸国筑波山

 

 廻国修行中の若き日の岩本虎眼が、ここ常陸国筑波山へ至ったのは山中での修行の為にあらず。

 獣道を押し進む若き虎の目的は、筑波山にて隠遁生活を送る一人の老剣聖を訪ねる為であった。

 

猿飛陰流(さるとびかげりゅう)の秘奥、尽く我が虎眼流の糧にすべし!)

 

 虎の目当ては、剣術“猿飛陰流”の開祖、愛洲(あいす)小七郎宗通。

 隠居してからは“元香斎”と号している老剣聖は、父である愛洲移香斎久忠が興した剣術三大源流である“陰流”を相伝し、猿飛陰流と名を改めた頃には陰流を無双の流派へと練り上げていた。

 元香斎の弟子にはあの戦国最強の剣聖、上泉伊勢守信綱がおり、その信綱が猿飛陰流や様々な流派を組み合わせ“新陰流”を興したのはあまりにも有名である。その新陰流を柳生一族が天下の一大流派まで押し上げたのは言うまでもない。

 

 その猿飛陰流の秘奥を盗み、上泉信綱と同じように己の虎眼流の糧にせんが為、この若き虎は野心を隠そうともせず筑波山へと赴いていた。

 

 

(いくさ)の場を踏むこと三十九度、一度も不覚を取らず。真剣の仕合二十度も尽く勝利を収めた、か……」

 

 虎眼は山中を歩きながら元香斎の逸話をぼそりと呟く。虎はこの無比の逸話を微塵も恐れてはいなかった。

 

「佐竹の家臣である元香斎は身分高き者。雑兵の槍が届く場所に配されなかったから手傷を負わなかっただけ」

 

 常陸の金山から得られる潤沢な資金を背景に強大な軍事国家を築き上げ、後北条氏と関東の覇権を巡って争った“坂東太郎”こと佐竹義重。その佐竹義重に臣従していた元香斎は、当然のことながら佐竹家における兵法指南役として任じられており、戦場での役割は専ら主君の身辺警護に留まっていた。

 故に、前線に配置されていない元香斎が一度も手傷を負わなかったのは万人が納得する理由であろう。

 

 だが、一対一の真剣仕合に二十度も勝利し続けたという逸話だけは一笑に付す事は出来なかった。

 

「一対一の仕合に勝ち続けたのは術理の賜物。己の虎眼流を更に練り上げる為には、それを盗まねばならぬ」

 

 虎は己の目的を改めて呟くと、粛々と元香斎が隠遁する山中の庵を目指して歩き続けた。

 

 

 

 しばらく虎眼が山中を歩いていると、茨に覆われた侘しい庵が見えた。

 周囲に人はおらず、虎眼は元香斎が本当にこの庵にいるのかと、少しばかり不安な思いに囚われる。だが、庵から炊事の煙が上がっていたことから少なくとも人がいる気配はあった。

 

 虎眼は無遠慮にその庵の中へと押し入る。

 すると、一人の老人が囲炉裏の前で座していた。老人の白髪は碌に手入れがされていないのか所々黄ばんでおり、口元は無精髭を生え散らかしている。

 老人は入ってきた虎眼を見やるも、直ぐに興味を失せたかのように囲炉裏の灰をかき混ぜていた。

 

「愛洲元香斎殿とお見受け致す」

 

 全く存在感を感じさせない老人の出現に、虎眼はやや戸惑うも短く腰を折り言葉をかける。

 老人……元香斎は、ぼうとした表情で虎眼を見やり、か細い声で言葉を返した。

 

「おお……常陸介(ひたちのすけ)様。よくぞ参られました……」

 

 元香斎は曖昧な表情を浮かべ虎眼へ言葉を返す。

 虎眼をかつての主君、佐竹義重と誤認した元香斎の口元は涎で濡れており、その視線は定かではなかった。

 

「いや、それがしは──」

「なんじゃ、源五郎か。何しに参った」

 

 今度はかつての弟子、上泉信綱と見紛う。

 虎眼は戸惑いつつも元香斎の無精髭が涎で濡れているのを見て、その脳が曖昧な状態である事を察した。

 

「神州無双の猿飛陰流の秘太刀、御指南頂きたし」

 

 虎眼は狡猾な笑みを隠そうともせず元香斎へと言葉をかける。己を上泉信綱と誤認し続ける曖昧な状態の老人から秘奥の術理を聞き出そうという魂胆である。

 

 しばらくぼんやりと囲炉裏の灰をかき混ぜていた元香斎であったが、やがてぽつりとか細い声を発した。

 

「疾きこと……」

 

 虎眼の問いに、ゆっくりと時間をかけて応えた元香斎。

 元香斎の言葉に虎眼は訝しげな視線を送りながらそれに応えた。

 

「天稟のある剣士が日夜修練に励めば、疾さの優劣などつきますまい」

 

 これは虎眼の実感から出た言葉である。

 一流の剣士の剣速は実戦の場においてそれほどの差は出ないものであり、であるからこそ虎眼は一流の先を目指すべく、己の剣速を更に疾く、神速の域へと練り上げんとしていた。

 それを成す為には、撃剣原祖の猿飛陰流の秘奥を是が非でも知らねばならぬことであった。

 

「疾き為には、まず遅きこと……」

 

 訝しげな虎眼に構うことなく、元香斎は緩慢な動作で灰をかき混ぜながら言葉を続ける。

 

「平素よりゆるりと歩き、ゆるりと箸を持ち……御主君や親兄弟にも愚鈍と映るくらいで丁度良い……」

 

 蚊の鳴くような声で紡がれる老剣聖の言葉を、一言も聞き逃さまいと耳をそばだてる虎眼。

 気づけば元香斎が囲む囲炉裏の向かいに腰を下ろし、身を乗り出すようにその言葉を聞いていた。

 パチパチと囲炉裏の薪が爆ぜる音が鳴る中、老剣聖の言葉は続く。

 

「いざ仕合となればゆるりと対手を眺め、ゆるりと歩を進め……」

 

 灰をかき混ぜる元香斎の眼が細まる。老剣聖から発せられる言葉は、逃れ難い誘引力を発していた。

 元香斎が灰をかき混ぜる手を止めると、虎眼は増々耳をそばだてた。

 

「ゆるりと剣を抜き──ゆるりと剣を担ぎ──」

 

 

 

 

 

 

 「石火の一刀を浴びせるッ!!」

 

 

 

 

 

 

 元香斎の一喝に虎眼の睾丸が縮み上がる!

 いつの間に抜いたのか、元香斎の手には抜き身の真剣が握られており、その切っ先を虎眼の喉元に突き付けていた。

 幻術めいたこの光景を前に、虎眼は全身から冷や汗を噴き出し、かちかちと歯を鳴らしながら老剣聖の姿を見やる。

 慄く虎眼に向け、元香斎は口角を耳元まで引き攣らせ、黄ばんだ歯を覗かせながら残虐な笑みを浮かべた。

 

「撃剣の一太刀の為だけに平素より我以外、(みな)を欺く……その疾きを、蓋をして隠すべし……」

 

 

 

「はっ、はっ……!」

 

 筑波山の山中を駆け足で下山する虎眼。庵が老剣聖の“間合い”であり、迂闊にも己が死地へと入り込んでいたことに気付いた虎眼は恐慌状態へと陥っていた。

 

 元香斎が見せた曖昧な状態は、老剣聖の擬態。

 

 痴呆を装った武神の比類なき剣技がいまだ健在であると看破した虎は、即座に踵を返し、老剣聖の猟場から這々の体で逃げ出していた。

 

(恐るべし猿飛陰流! 恐るべし元香斎!)

 

 虎が死地より生還せしめたのは、死体を片付ける面倒を嫌った老剣聖の気まぐれにすぎない。

 恐らくは、己と同じように猿飛陰流の秘奥を盗もうとした兵法者の尽くを、元香斎はその撃剣にて斬り伏せ秘奥を守っていたのだろう。

 

(元香斎め……!)

 

 庵から離れていくと、虎眼は元香斎の残虐な笑みを思い出し増悪の念が沸き起こる。

 だが、しばらく走る内に、不様に逃げ出した己の未熟を恥じる思いの方が強まっていった。

 

「元香斎の擬態を見破れなかったのは己の未熟。真の強者の実力とは、容易に推し量れぬものなのか……」

 

 息を切らせながら麓に辿りついた虎眼は、元香斎との邂逅によりただ己の未熟を痛感し、屈辱と畏怖の念が混ざった複雑な思いを抱くようになっていた。

 

 

 

 濃尾無双とまで称された大剣豪が伊良子清玄の手によりその生涯を終える時まで、唯一“完敗”と痛感したのはこの一件のみである。この日以降、虎眼は虎眼流をより練り上げるべく、増々死狂うた修練を己に課すこととなった。

 必死の修行の後、虎眼は秋葉山昆嶽神社にて虎眼流奥義“流れ星”を開眼するに至る。

 

 だが、この時強者とは己の武威を誇示する者ばかりでなく、狡猾に己の牙を隠す者もいると学んだ虎眼であったが、奥義を開眼し、剣名を上げる内にこの時の迂闊さを忘却してしまったのは、虎眼の本来持っている傲慢な性質という他はないだろう。

 

 筑波山での一件から五年後、虎眼は柳生但馬守宗矩と木剣にて立ち合っている。

 己に深く刻まれた猿飛陰流への屈辱を、新陰流の伝承者である宗矩の剣技を尽く完封せしめることで大いに溜飲を下げることとなるのだが、その直後、更に耐え難い恥辱を味わうことになるとは、この時の虎眼は全く予見していなかった。

 また元香斎のような擬態ではなく、己が真に曖昧な状態に陥るとは、虎眼は終ぞ思い至ることは無かった。

 

 虎眼は後年、この逸話を数少ない友人である近藤伝蔵に語っている。

 それは、他者を顧みない虎眼にしては珍しく対象への畏怖の念が篭った言葉であった。

 

 

 

 

 

 

 元香斎ハ兵法ノ名人ニテ御座候

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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迷宮篇
第二十ニ景『天下無双異界龍神(てんかむそうのオルステッド)


 

 やぁ。元気かな?

 

 ……いや、今まで色んな人の夢に出てきたけどノータイムで襲い掛かられたのは初めてだよ。

 

 いやだから無駄だって。これは君の夢の中なんだから、僕に対して直接危害を加えようとしても無駄だって。

 

 一旦落ち着こう、ね?

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……あ、やっと話を聞く気になった?

 

 ていうか前にも話したと思うけど、今君の前にいるのは僕の思念体みたいなものであって、本体は全く別の場所にいるからね?

 

 ……今度は無視かい。 まあいいや。勝手にやらせてもらうよ。ったく、これだから転生者は……

 

 とりあえず七大列強入りおめでとう。まさか死神を倒すとは思わなかったよ。

 

 君が納得していなくても、あれは疑いようもなく君の勝利だよ。ランドルフ……ああ、死神ね。ランドルフは、剣撃無効の魔道具を身に着けていたんだ。だから、君の方が間違いなく……

 

 あ、知ってたんだ。シドウフカクゴにはあたらない? まぁ、君が七代列強に成ったのはもう事実だからねぇ。

 

 ふふふ。これから大変だよぉ? カッコいい二つ名も考えないとね。

 

 まぁ、妹さん達にも会えたし、実際シャリーアへ来てよかったでしょ?

 

 頼もしい弟子達も出来たし……ほんと、君は獣人に好かれるよねぇ。酒場の一件を見ても君には獣人を惹きつける何かがあるのかもね。リニアとプルセナはアレだけど。

 

 ただ、肝心のお兄さん……ルーデウス君に会えなかったのは“残念”だったけどね。

 

 君がギレーヌとイチャイチャしてないで、一直線にシャリーアへ向かってればギリギリ間に合ったんだけどねぇ。

 

 ……いや、だから攻撃しても無駄だって。

 

 君、神様は尊ぶものだって妹さんに言ってたくせに、なんでそんなに僕に対して攻撃的なのさ。

 

 悪神? ひどい言い草だなぁ。ほんと、あの時、あの“地獄”で、僕の助言がどれだけ役に立ったのかもう忘れちゃったのかい?

 

 いや、剣の聖地の件は謝ったじゃないか。だからそろそろ機嫌直してくれよ。

 

 余計なお世話? あのねぇ、剣神にはまだ及ばないって、君自身も思ってたじゃない。

 

 もう一度言うけど、あのままやり合ってたら剣神に殺されてたよ?

 

 よしんばマグレ当たりで勝てたとしても、その後弟子達に袋叩きにされて、どのみち君はあそこで死んでるよ。

 

 死は覚悟の上? 君、大層な野望を持ってる割には随分と自分の命が惜しくないんだねぇ……。

 

 それが前世の君の価値観、ブシドーってヤツかい? 変わった死生観だよねぇ。騎士道とは似ているようで全然違うのが面白い。

 

 

 たださ。

 

 前から言おうと思ってたけど、いい加減そういうのはもうやめたほうが良いと思うよ?

 

 前世の価値観を引きずるのは、まあ少しはあるかもしれないけどさ。

 

 でも、君の場合、ちょっと異常だよ。

 

 前世の家とか、主君とか、もう関係無いじゃないか。もっと他の人と合わせて、柔らかく生きた方がいいんじゃい? 上手く言えないけどさ。

 

 ほら、『郷に入りては而ち郷に随い、俗に入りては而ち俗に随う』って言うじゃない……え? なんでそんな言葉知ってるかって? そんなのどうでもいいじゃないか。

 

 まぁ、そうやって上手に生きていけばさ、ギレーヌはもちろん、リニアやプルセナだって君のハーレムに……

 

 ごめん。ほんっとごめん。だからそのシャレにならない殺気飛ばすのやめてほんと。

 

 あのさぁ……僕を本気でビビらせるその胆力は、ほんとに何なの……君の生きてた世界の人達って皆そんな感じなの? どんだけ修羅の世界に生きてたの?

 

 え? カマクラブシの方がヤバかった? な、なんだかすごい世界で生きてたんだねぇ……

 

 ふぅ。まぁいいや。冗談はこれくらいにして、さっさと本題に入ろう。

 

 丁度いいタイミングで妹さんからも“お願い”された事だし、君にとって悪くない“お告げ”だと思うよ。

 

 ……

 

 もう、大人しく聞いてくれないなら勝手にやらせてもらうよ。

 

 

 

 ん、コホン。ではウィリアムよ。よーくお聞きなさい。聞いてなくても聞きなさい。

 

 ベガリット大陸へ行ったら、なるべく時間をかけて準備してから転移迷宮に挑みなさい。

 

 準備無しで迷宮に行くと、大切な人を失うハメになります。

 

 決して、無茶な行動はせず、慎重に物事を進めなさい。

 

 そうすれば、家族は全員“無事”に揃って、君達は幸せになるでしょう……

 

 でしょう……

 

 でしょう……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……比……さ……死ね……

 

 

 

 

 

 

 


 

 魔法都市シャリーア南西

 ルーメンの森

 

 

「……」

「あ、若先生。おはようございます」

 

 鬱蒼とした森から僅かに漏れる旭日が、大樹に寄りかかる虎を浅い眠りから覚醒させた。

 ウィリアム・アダムスと双子の兎、“双剣”ナックルガードが魔法都市を出立してから一週間。兄であるルーデウスと、父パウロの元冒険者仲間エリナリーゼ・ドラゴンロードが馬で五日かけてこの森に到達した事を考えると、徒歩一週間で到達したウィリアム達はまさに異界の魔剣豪に相応しい健脚と言えた。

 当面の目的地である転移魔法陣が存在するこのルーメンの森へと到着した魔剣豪達は、到着したのが夜間というのもあり、森から少し入った開けた場所を選び夜営する運びとなった。

 

 顰めっ面を浮かべながら、ウィリアムはのそりとその身体を起こす。やや凝り固まった体をほぐしていると、僅かに香る朝露に濡れた草の匂いが虎の嗅覚をくすぐっていた。

 本来ならば爽やかな起床となるはずであろう環境。だが、生憎と虎の目覚めはずこぶる悪い。

 

 理由は二つ。

 ひとつは、悍ましいまでの“胡散臭さ”を感じさせる悪神が己の夢に出てきた事。

 もうひとつは、草の香りに混じって臓物の悪臭(・・・・・)が漂っている事だ。

 

「……幾つ斬った」

「二十は」

 

 ウィリアムの傍で片膝を立てそう応えるのは、魔物の血の香りを全身から漂わせる“双剣”ナックルガードの弟、ガド・ミルデット。その直ぐ後ろでは夜陰に紛れ襲って来たであろう魔物の死骸を片付ける兄ナクル・ミルデットの姿があった。

 緑色の猪のような魔物がニ十匹、その(はらわた)を無残に晒している。ウィリアムは魔物の死骸が全て斬殺体であることを確認すると、ガドへ低い声で声をかけた。

 

「魔術は使わなかったようだな」

「はい。剣のみで十分な相手でした」

 

 ガドは神妙な顔をしつつ、どこか得意げな声色でウィリアムに応える。

 草食動物でしかない兎が、肉食動物の如き獰猛さで夜間の魔獣退治を行っていたのは、師匠(ウィリアム)の言いつけを忠実に守ったからにすぎない。

 

 

 シャリーアにて神技の門を叩いた“双剣”ナックルガードこと、ナクル・ミルデットとガド・ミルデット。本来ならば一箇所にて腰を据え、その剣技を練磨していくのが常ではあった。だが、生憎と師匠であるウィリアムは母であるゼニス救出の旅上の身。必然、旅すがらウィリアムから虎眼流を教授されることとなった。

 

 ウィリアムはことのほか丁寧に双子へその剣技を伝授していた。

 シャリーアから当面の目的地であるルーメンの森への途中、時間を見つけては双子へ稽古をつける。最初は、剣の効果的な振り方から。

 北神流、特に奇抜派は剣術の枠に囚われない自由な剣技を体現しており、もっと言ってしまえば魔術も使用した総合戦闘術といった側面が強かった。故に、“四足の型”など奇妙奇天烈な剣技は虎眼流を学ぶ上で全て捨て去る必要があった。

 双子の場合、基礎的な剣の振り方をイチからやり直すこととなり、その習得には元北王級のプライドやウィリアムが自分達より年下である事が邪魔をして捗らないかに見えた。だが、先述の通りウィリアムが体捌き、筋肉の使い方など具体的な指導を行うのもあってか、存外に未知の剣術を学ぶ“楽しさ”を見出し、双子は熱心に稽古に打ち込むこととなった。

 

(はい)と胸の筋を意識して使うべし』

『肺腑から全ての息を吐き出し、丹田に闘気を充実すべし』

『柄は柔らかく握り、闘気を剣先にまで込め、無駄なく振るべし』

『剣先にネバり(・・・)を込め、必要最低限の斬撃を最速の剣速で打ち込むべし』

 

 ウィリアムがこの異世界に転移してから培った“異界虎眼流”ともいえる剣法の基礎を、この一週間で双子へ叩き込んだウィリアム。

 寝食を忘れ熱心に稽古に打ち込む双子を見て、ウィリアムは前世における忠弟達の姿を思い浮かべていた。

 

 伊吹半心軒、根尾谷六郎兵衛、金岡雲竜斎、牛股権左衛門……そして、藤木源之助。

 前世における虎眼流皆伝者達が、その剣技を一心に習得しようとする情熱を、ウィリアムは双子にも見出していた。

 

 そうしている内にルーメンの森へと到達した魔剣豪達。夜営の準備を整えたウィリアムは、双子へ夜番を申し付ける。

 自身も事態の急変に備え七丁念仏を抱えながら身体を休めていたが、双子の底知れぬ体力は自身の師匠の安眠を妨害する魔物を全て斬り伏せており、いつしか虎は微睡みの中へと落ちていった。

 双子の努力に関わらず、虎の目覚めが最悪であったことは不幸でしかなかったが。

 

 

「……」

「あっ」

 

 ウィリアムはガドが腰に差す直剣に目を向けると、素早くそれを引き抜いた。

 やや戸惑うガドに構わず、ウィリアムは手にしたガドの剣を鋭い眼で見つめる。

 

「剣先がめくれて(・・・・)おらぬな」

「は、はい。存外に(やわ)い魔物でしたので……」

 

 双子が使う得物はこの世界では珍しくもない両手持ちの両刃剣で、その刃は湾曲しており、ウィリアムの前世世界におけるエチオピア帝国皇帝親衛隊が主に使用していた“ショーテル”に酷似していた。その拵えは名匠ユリアン・ハリスコが49本の魔剣には及ばないものの、王級剣士に相応しい業物であった。

 とはいえ、片刃である日本刀の術理である虎眼流を、このような“奇抜な”両刃剣で習得するには勝手が違いすぎる為、ウィリアムは当面基本的な術理以外は教えるつもりはなかった。

 

 代わりに、双子の得意とする北神流奇抜派剣法の内、剣を使用しない“魔術”に関してはむしろ積極的に使わせる方針を立てていた。

 

 ウィリアムは魔術を特別忌避しているというわけではない。

 魔術のような異世界の“兵法”を使えるならばいくらでも使い、対手に対し勝利を手繰り寄せるのは至極当然の発想。魔術はこの異界の立派な“兵法”の一つである以上、ただ己が魔術の素養が無いだけで忌避する理由にはならなかった。

 

 それだけに、魔術師に対し己がどれだけ優位に立ち回れるか。

 転移事件の後、虎眼流を異世界流に練り上げていくウィリアムの中で、それは一つの命題となっていた。

 

(無詠唱……)

 

 ガドに剣を返しつつ、ウィリアムはルーデウス邸に滞在していた僅かの間に義姉シルフィエットが無詠唱魔術を使用したことを思い出す。一切の詠唱もせずに、自身と従兄弟ルーク・ノトス・グレイラットの傷を治癒した義姉の手際。ウィリアムはそれが己に向けられた攻撃魔術である事を想像すると、苦虫を噛み潰したような渋面を浮かべた。

 魔術師と剣士の立ち合いでは、魔術師が詠唱中に必殺の剣撃を浴びせるのが常道。しかし、対手が無詠唱魔術の使い手ならばどうか。技の“起こり”が全く見えぬ状況で、果たして剣士が魔術師に対し勝利を得る事が出来るのだろうか。

 幼き時分、兄ルーデウスと木剣にて立ち合った際は、ルーデウスが未熟ゆえに難なく勝利を掴み取る事が出来た。だが、今のルーデウスならばどうだろうか……。

 

(鎧が欲しい……魔術の速射に耐えうる、ウィリアムの外骨格(ほね)が!)

 

 膨大な魔力量、そして無詠唱魔術を駆使する魔術師が、己の射程外から一方的に攻撃性の高い魔術を繰り出す。いかに闘気で身体を防御しようと、いずれは競り負ける事態が容易に想像出来た。ならば、それに耐えうる“鎧”を纏うのは、異界天下無双を目指す若虎がたどり着いた一つの答えであった。

 

 甲冑が防ぎたるは雑兵の刀刃のみ。だが、この異界の地ならばその理は通じない。遥けき異世界の英雄譚では、神武の超鋼を纏い強者と渡り合った者もいる。

 己もそれに倣い、数多の魔術師を征する最強の盾を手に入れることが出来れば……

 ウィリアムはしばし瞑目しつつ、異界天下無双に至るまで対峙するであろうあらゆる使い手との立ち回りを、黙々と思考し続けていた。

 

 

「朝餉のご用意はこちらに」

 

 瞑目するウィリアムに、ガドが声をかける。丁寧な手付きで、布に包まれたウィリアム分の朝食を差し出した。

 干し肉と、硬いチーズ、日持ちがするよう固く焼き絞められた黒パン、そして皮袋に入った果実水。ウィリアムは思考を中断し、それらに手を合わせるとモソモソと頬張り始めた。ルーデウス邸で実妹アイシャが丹精込めて拵えた朝飯には比べ物にならない程の簡素な食事であったが、その日の食事も事欠く場合もある旅人にとってこれらは充分に贅沢な朝食であった。

 

(いずれにせよ、己が大望は何も変わらぬ)

 

 ナイフでチーズを削り取り、それを黒パンに乗せ噛み締める。固形物を咀嚼しながら、虎はそう思考した。

 怨敵を尽く誅戮した後、無双虎眼流をこの異界の地に根付かせる。虎眼流を三大流派ですら霞む“天下の御留流”に引き上げ、己の名を千年の後……いや、万年の後まで謳われる武名にするのだ。

 魔神殺しの三英雄、黄金騎士アルデバラン、勇者アルス……この異世界の英傑達すら凌ぐ、真の“武神”として、ウィリアム・アダムス(・・・・)の名を異界の地に轟かせるのだ。

 

 そこには、家族の情など一切無用。

 孤高の憤怒、飽くなき功名に燃える虎は、その野心をふつふつと煮えたぎらせる。

 

 だが、今まさにその家族を救うべく砂漠の大陸へ向かう虎に、一切の情が無いと言えるのだろうか。

 

 修羅の如き義弟を、その温かい手で包んだ白髪の乙女の優しさ。

 家族を想い日々涙を流す朱色の少女の痛ましさ。

 自身の非力にやり切れない思いを抱き、それでも虎に懇願する金髪の少女のいじらしさ。

 

 それらが虎の心に全く残っていないと、果たして言えるのだろうか。

 

『今の家族を、大切になさりませ』

 

 夢に見た、前世の娘三重の言葉。虎はそれを無視するかのように、黙々と朝餉を咀嚼していた。

 

 

「祠へ向かう前に、ひとつ稽古をつける」

「はい!」

「宜しくお願い致します!」

 

 朝食を摂り終えたウィリアム達は、転移魔法陣が存在する祠へ向かう前にこの一週間で習慣となっている朝の稽古を始める。

 一睡もしておらぬだろう双子の体力は存外に余っており、むしろこれから始まる師匠との朝稽古に増々気力を漲らせていた。

 

「二人掛かりで良い。掛かって参れ」

「はっ!」

「いざ参ります!」

 

 木剣を手にした虎と双子が対峙すると、辺りはピンと張り詰めた空気が漂う。

 じりじりと虎を囲む双子は、その獰猛な野性を剥き出しに虎に襲いかかった。

 

「シッ!」

 

 兄ナクルの高速の袈裟斬りがウィリアムへと浴びせられる。僅かに体を開き、それを躱したウィリアムは即座にその胴へ横薙ぎを見舞った。

 

「ッ!」

 

 ナクルの胴体へ寸止めされる木剣。真剣ならばその胴は真っ二つに断ち切れていただろう。瞬間、弟ガドの斬撃がウィリアムの後方から浴びせられる。

 

「ッ!?」

 

 が、虎は後頭部にも眼があるかの如く、その剣が振り下ろされる寸前にガドの喉元へ木剣を突きつけた。

 

「お、お美事……!」

「もう一本お願いします!」

 

 双子の気合に、ウィリアムもまた己の身体から気力が充実するのを感じる。木剣を構え直したウィリアムは、再び双子の人とも獣ともつかぬ苛烈な攻めを受けていく。森の中は魔剣豪同士による木剣の軋む音が響き渡っていった。

 

 

「これまで」

「は、はい!」

「ありがとうございましたばっ!

 

 小一時間程経った後、ウィリアムは朝稽古の終了を告げる。何故かガドは全身に鉄球を撃ち込まれたかのごとく血反吐を吐いていたが、常人ならば八度死ぬ程の苦痛を味わっているというわけでは無い。

 全身に疲労を滲ませる双子と打って変わって、ウィリアムは額に僅かに汗を浮かべる程度であった。

 

「稽古の質が良ければ短期間でも上達するもの。良く良く己の気魂(けだましい)を練り上げよ」

「はい!」

「精進致します!」

 

 ウィリアムは双子の様子を見て満足げに頷く。双子は前世における虎子達と同様に師匠の教えに必死に食らいつき、その剣境を高めるべく健気に師事していた。

 ならば、もっと教えねばなるまい。

 ウィリアムは一生懸命な双子に応える為、先程の稽古で気になる点を指摘しようと声をかけた。

 

「ガド」

「は、はい!」

 

 ウィリアムに呼ばれ顔を上げるガド。肩で息をするガドに、ウィリアムはその腹に手を伸ばした。

 

「お主はまだ丹田に闘気が充実しておらぬ。息をもっと吐いて──」

 

 そして、おもむろにガドの腹に手を当てた途端。

 

「は、ぬっふぅッ!!」

「……」

 

 いきなり恍惚とした表情で気持ち悪い声を出すガド。ウィリアムは『こやつ正気か?』といった目でガドを訝しげに見やった。

 

「妙な声を出すでない。気色(キショ)いわ」

「は、はい。申し訳ありません……」

 

 萎縮し、赤面するガドに、兄であるナクルもまたウィリアムと同じように気色悪い物を見るような目つきで弟を見やる。

 

「ガド……」

「い、いや違うよナクル兄ちゃん!? 僕はそっちの趣味はないからね!?」

 

 慌てて弁明するガドであったが、ナクルは何かを察したかのように生温い視線を送った。

 

「いいんだガド……。ずっと一緒にいたのに、全然気付かなかった俺が悪いんだ……」

「だから違うってば! 若先生に触られると、こう、なんていうか、芯にくるっていうか」

 

 尚もわけの分からぬ弁明を続けるガド。ウィリアムは溜息を一つ吐くと、兄であるナクルにも同様の指摘をしようと思い、その腹へ手を伸ばした。

 

「ナクル。お主の場合も同様に──」

「ぬっふぅうッッ!!!」

「……」

 

 

 この日からしばらくの間、ウィリアムは双子から一定の距離を取るようになった。

 

 

 

 

 

 


 

「なあガド。若先生って、どうやってあれ程の使い手になったんだろうな」

 

 休息を終え、再び目当ての転移魔法陣が存在する祠へと向かう異界虎眼流師弟。ナナホシに渡されたメモを見ながらずんずんと獣道を歩むウィリアムの後ろで、ナクルはガドへと何気ない疑問を投げていた。

 

「うーん……確かに、とても十四歳とは思えないよね。まるで、何十年も修行した達人みたいだ」

 

 双子の前を歩く若虎は、自分達より一回りは年下の十四歳。

 いかに才気あふれる若者が死に物狂いで修練を科していたとしても、その剣境は十四歳にしては余りにも達し過ぎている。

 これが長寿命の亜人や魔族であったのなら、ウィリアムの神域まで練り上げられた剣技に説明が付くのであるが、どうみてもウィリアムは人族でしか無く。

 謎めいた年若の師匠の後ろ姿を、双子は訝しみながらも確りと追従し続けていた。

 

 

「……」

「若先せ……」

「如何なされま……」

 

 獣道を歩く魔剣豪達の前方から、一人の男が歩いてくる。

 

 旅人同士がすれ違う様な場所では無い。明らかに、その男はウィリアム達が目指す転移魔法陣の祠から歩いて来るのが見て取れた。

 男が近づくにつれその風貌がはっきりしていく。銀髪、金色の瞳、無骨な白いコート……。

 動きを止めたウィリアムは、その風貌をじっと見つめていたが、後ろに控える双子の様子が明らかにおかしい事に気付いた。

 

「どうした?」

「わ、若先生……!」

「こやつは……!」

 

 剣の柄に手をかけ、闘気を猛然と噴出させ臨戦態勢を取る双子。男が一歩近づくにつれ、カチカチと歯を鳴らし、ふるふると柄を握る手が震える様は、まるで天敵に出会った被捕食動物の如き有様であった。

 

「双剣ナックルガード……。何故お前達がここにいる? 今の時期はアスラ王国か王竜王国にいるはずだ」

 

 男はウィリアム達の前に立つと、双子の兎を訝しげに見やる。ピンと張り詰めた空気を纏わせた男は、その怜悧な三白眼をウィリアムにも向けた。

 

「で、お前は誰だ? この先に何があるのか知っているのか?」

「……名を訪ねるなら、まずはそちらから名乗るのが筋で御座ろう」

 

 ウィリアムはその怜悧な視線を泰然と受け流す。だが、後ろに控える双子の怯えようは尋常では無く。

 双子がこの男と何かしらの因縁があると予想したウィリアムは、双子を庇うように一歩前に出た。また、ナナホシが秘匿する転移魔法陣の在処を知っている節があるこの男を油断ならぬ眼で見る。いつでも妖刀を抜けるよう、やや半身で男と対峙していた。

 

 男はウィリアムの姿をまじまじと見つめていたが、やがて不愉快そうにその口を開いた。

 

「オルステッドだ。で、お前の名は?」

「……ウィリアム・アダムス」

「聞いたことが無いな。双剣と共にいるということは、お前は北神流か?」

「否」

 

 素っ気なく言葉を返すウィリアムに、オルステッドと名乗る男は増々訝しげな視線をウィリアムに向ける。敵愾心こそ相応に出すウィリアムであったが、双子の様に得体の知れない怖気を感じているわけではない。平静を保つウィリアムの様子に、オルステッドもまた警戒心を露わにしていた。

 

「お前は、俺が怖くないのか?」

「何をいきなり……」

 

 ウィリアムはやや嘲りを込めた笑みを向ける。確かにオルステッドの風貌はこの世界では珍しい銀髪で、纏う空気は常人のそれと一線を画していたが、だからといって恐怖心を感じる程では無く。

 緊張感が漂う森の中で、双子はオルステッドと対峙するウィリアムを震えながら見ているしかなかった。

 オルステッドはウィリアムが自身に恐怖心を抱いていないのを見て不思議そうに首をかしげたが、再び鋭い視線をウィリアムへ向けた。

 

「まあいい。だが、お前達はこの先に何があるのか知っているようだな。どこでここを知った?」

「……“秘”です」

 

 ひくりとオルステッドの眉が歪む。ウィリアムはナナホシが申し付けた転移魔法陣の秘匿を忠実に実行していた。

 だが、オルステッドは秘匿を貫く若虎の態度を見て、自身が掃滅を誓う悪神の使徒である可能性を見出してしまった。

 もし、ナナホシが自身の庇護者である“龍神”の存在をウィリアムに教えていたら、また違った状況が生まれていたのかもしれない。だが、ラノア魔法大学で繰り広げられた虎と兎の戦闘を目の当たりにし、その血腥さに慄いてしまった女子高生は、動揺からか肝心な情報をウィリアムに伝え忘れてしまっていた。

 

「ッ!」

 

 尋常ならざる殺気がオルステッドから噴き出る。

 ウィリアムは即座に七丁念仏の柄に手をかけ、いつでも妖刀を射出せんべく闘気を纏わせた。

 オルステッドは対峙するウィリアムの装束を見て、ギラリとその三白眼を光らせる。

 

「その紋様……そうか。お前が新しい七大列強なのだな」

「……」

 

 ウィリアムが纏う羽織に刻まれた“剣五つ桜に六菱”の家紋。それは、七大列強の石碑に刻まれた新たな七大列強の紋様と全く同じ意匠であった。

 オルステッドは臨戦態勢を取るウィリアムを見て、最後通牒と言わんばかりにその龍声を響かせた。

 

 

「お前は、“人神(ヒトガミ)”という名に聞き覚えはあるか?」

 

 

 刹那──

 

 

 ウィリアムの神速の抜き打ちが、七大列強第二位“龍神”オルステッドへ向け放たれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十三景『超人外大龍神(まじですごいオルステッド)

 

 アスラ王国

 王都アルス

 剣術“水神流”宗家道場

 

 

 人気の無い道場の中央で、二人の剣士が互いに木剣を構え対峙している。

 一人は、齢六十は過ぎようかという白髪の老婆。厚手の道着を纏い、木剣を手にするその所作は隙が無く、剣術者として相当な領域に達していることが見て取れた。だが、木剣を構える老婆からは一切の殺気が感じられず、半目となり対手を眺めるその姿は、刺繍や編み物が似合うであろう穏やかな老婆のそれであった。

 

 もう一人は齢二十程の若い乙女。対峙する老婆とどことなく顔立ちが似ており、青みのある美しい黒髪と凛とした表情は、老婆の若い頃を知る者がこの場にいたら瓜二つだと評していただろう。

 だが、その凛とした美しい顔は、老婆と対峙していく内にみるみると冷や汗で塗れていった。

 

「ッ!?」

 

 老婆の木剣が、ゆっくりと乙女の首元に近付く。老婆は相変わらず半目を浮かべており、その眼は乙女の姿では無く、その後ろにある道場の壁を見ている様でもあった。

 乙女は先ほどから老婆へ剣撃を繰り出すべく木剣を振ろうとしていた。しかし、どう打ち込んでも老婆からカウンターを取られる自身の姿しか思い浮かばない。

 

 技の“起こり”が見えない──

 

 乙女は全身から汗を噴き出し、呼吸を荒げながら、必死で老婆の隙を探っていた。

 

「ッ!」

 

 ふと、一瞬ではあるが老婆に隙が出来る。刹那の瞬間、乙女はこの絶好の機会を逃さぬべく、その木剣を老婆へと放った。

 

「ほれ、一本」

「ッ!」

 

 が、乙女の剣が届く寸前に、トン、と老婆の木剣が乙女の首に当てられる。呆気にとられつつ、悔しそうに肩を落とす乙女を見て、老婆はあくまで穏やかな空気を纏わせながら声をかけた。

 

「イゾルデ。あんたは有利な“後の先”であたしに打ちかかった。でもあんたの剣よりあたしの剣が先に届いた。この意味が分かるかい?」

「……分かります」

 

 イゾルデと呼ばれた乙女が言葉を返す。それを見た老婆は小さく頷きながら言葉を続けた。

 

「こないだ教えた“目付け”がまだ甘いね。もっとぼや~っと対手の後ろの方を見るんだ。その方が対手の心を感受し易い」

「ぼや~っとですか?」

「そうさね。もっと顔の力を抜いて、口を半開きにして、アホみたくぼや~って見るのさ」

「ア、アホみたくですか……」

 

「アホみたく……アホみたく……」と真面目な顔をしてうんうんと考え込む、弟子であり孫娘でもあるこの乙女を、老婆は微笑を浮かべて見守っていた。

 

 老婆の名は“水神”レイダ・リィア。

 剣術“水神流”当主であり、当代水神でもあるこの老婆は、実の孫娘である“水王”イゾルデ・クルーエルへ日々水神流の極意を伝授していた。

 

「さて、今日はこれくらいにしようかね」

「はい。お師匠様」

 

 レイダとイゾルデは互いに礼をし、道場に隣接された自宅へと戻る為片付けを始める。

 既に門人達の稽古は終えており、レイダはイゾルデを更に鍛える為居残りで稽古をつけていた。

 

(この娘にも好敵手になる相手がいればもっと伸びるんだけどねぇ……)

 

 木剣を片付け、道場の清掃を始めたイゾルデを見ながら、レイダはふぅと溜息を一つ吐く。

 イゾルデは若くして水王級の印可を受けるほどの才気を見せており、その実力は同門の水神流剣士達では太刀打ちが出来ない域に達していた。故に、実力が拮抗した相手との稽古が出来ず、こうしてレイダ自らがイゾルデに稽古を付ける日々が続いていた。

 

 もっとも、これにはいくつかの理由がある。

 まず、水王級以上に認定された水神流剣士はイゾルデの他にも幾人かいる事はいるのだが、それらは各地に設けられた水神流道場で指導をする師範代であり、当主レイダがいる宗家道場で水王級以上に認定されているのはイゾルデのみであった。

 

 これには水神流がアスラ王国“御留流”であることが大きく関係している。

 受け太刀とカウンターが主体の水神流は、その特性故に貴族や騎士団に多くの門弟を抱えている。彼らの中にも才能ある者も何人かはいるが、基本政務や任務の合間を縫って稽古をする者が殆どであり、その才能を十全に発揮して水神流高位の印可を受ける者は少なかった。

 在野で剣技の才能がある者も、“貴人御用達”の水神流の門を叩くことは稀であり、才能がある若者たちの多くは剣神流や北神流へ入門していた。

 

 水神流の骨子である奥義“(ながれ)”を上級で習得出来るというのも、水神流高位の印可者が少ない理由の一つである。

 極めればどんな攻撃でも返すことが出来る“流”は、水神流の全ての技に通じると言われる程、水神流で最も重要な剣技とされている。とはいえ、余程の手練を相手にするというのなら兎も角、常の相手ならば上級相当の“流”で十分という、剣技の優秀さ故に“奥義を極める必要を無くす”という皮肉な結果を生んでいた。

 実力ある冒険者の多くは水神流を上級まで習得すると、さっさと剣神流や北神流の技を磨くべく水神流から離れていくのが常であった。

 

「どっこらしょっと」

 

 レイダは億劫そうに道場の上座へと座るが、その所作は水の様に流麗であり、当代水神の名に恥じぬ動きであった。

 腰を下ろしたレイダはせっせと片付けをしているイゾルデをじっと見つめる。

 この才気溢れる孫娘は、一見真面目に稽古に取り組んでいるようにも見えた。だが、水神の慧眼はこの孫娘がやや天狗になっている事も見抜いていた。

 

(まあ、仕方ないことかもしれないけどねぇ……)

 

 相手が強ければ強い程、水神流はその威力を発揮する。であるからこそ、互いに切磋琢磨できる実力伯仲のライバルがいない現状では、イゾルデの伸びしろが止まるのはやむを得ない状況であった。

 イゾルデは良く言えば謙虚、悪く言えば欲が無い。これが野心に溢れる若者であったのなら、明日にでも水神の名を奪い取るべくレイダへ苛烈な修練を挑んでいただろう。イゾルデ自身もいずれは己が水神の名を襲名するべく、真面目に修行に取り組んでいたが、実祖母であるレイダへ遠慮してかその野心を剥き出しにすることは一切無く、あくまで上品に水神流を修行する日々を過ごしていた。

 

「ま、水神流の剣士らしいといえばらしいんだけどねぇ」

「? 何か仰りましたか?」

 

 思わず漏れた声にイゾルデが反応する。レイダは「なんでもないよ」と、ひらひらと手を振って孫娘へ苦笑を向けていた。

 水神流は対手の感情の起こりを見極め、その攻撃に対し確実なカウンターを返す事を旨とする。であるならば、明鏡止水の心を常に持ち、対手に感情の揺らぎを悟らせない事が水神流剣士として最も必要な心構えであった。

 

 だからこそ。

 だからこそ、イゾルデの野心を、ほんの少しでも良いから刺激せしめる“狂犬”のような好敵手がいれば、この孫娘の才能を更に伸ばせるのにと、レイダは一人頭を悩ませていた。

 

 

「イゾルデ。こっちへおいで」

「はい。お師匠様」

 

 片付けが一段落したのを見計らい、レイダはイゾルデを呼び寄せる。レイダの前で正座するイゾルデは、神妙な顔つきで師匠であり祖母である水神の顔を見つめた。

 

「今日は面白い……いや、あまり面白く無い話をしようかと思ってね」

「面白くない話ですか……?」

 

 レイダが唐突に始めた話を、イゾルデは不思議そうな表情を浮かべそれを聞く。孫娘の表情を見て、レイダは眼を細めながら話を続けた。

 

「イゾルデ。あんたはあたしの実力をどう見る?」

「お、お師匠様の実力ですか?」

 

 突然振られた祖母からの問いに、乙女は数瞬考え込むも、直ぐに答えを返した。

 

「水神、そして水神流当主として相応しい実力だと思います」

 

 杓子定規的な孫娘の返しに、レイダは思わず笑みを零した。

 

「それじゃあ、初代様と比べても、あたしの実力は水神として相応しいかい?」

「そ、それは……」

 

 イゾルデは思わず言葉に詰まる。

 水神流開祖であり、水神流剣士にとって伝説の存在である初代水神レイダル。

 古代王国を滅亡の危機に追い込んだ海竜王を討伐し、想い人である王姫と添い遂げたレイダルは、開眼した水神流の奥義に加え水魔術も“水神級”まで習得していたという。

 大海原をも瞬時に凍てつかせる大魔術と、全ての攻撃を受け流し必滅の斬撃を返すその武威は、歴代水神が必死になってその領域へ辿り着こうと研鑽を積むも、未だに初代水神を超える実力者は現れておらず。

 レイダもまた水神流の秘奥である五つの奥義の内二つを組み合わせた“剥奪剣界”という新たな奥義を編み出す快挙を成し遂げてはいたが、それでも初代水神の武に届くことは叶わなかった。

 

「イゾルデ。あたしは初代様が今までで一番強い水神だと思っているよ」

「……はい」

 

 イゾルデの心を代弁するかのようにレイダは優しげに語りかける。事実、水神流の奥義を尽く修め、それに加えて水魔術を水神級まで習得出来る人間など余程の才気がなければ成し遂げられず。一流の先にある超一流ですら到達困難な領域は、まさしく“神代の時代の御伽噺”といっても差し支えなかった。

 

「でもね、そんな初代様でも敵わない相手っていうのも、世の中には存在するんだ」

「初代様でも? そんな使い手がいるとはとても思えませんが」

 

 レイダの言葉にイゾルデは訝しげな表情を浮かべる。各流派の開祖はそれこそ人外の領域にまで達した者達であり、そのような超越者ですら敵わない存在など乙女は想像する事が出来なかった。

 

「龍神の名前は聞いたことあるだろう?」

「七大列強第二位で、魔神殺しの三英雄の一人、龍神ウルペンから“龍神流”と龍神の名を継いだ古代龍族の末裔とまでしか知りませんが……」

 

 淀み無く応える孫娘の如才無さに、レイダはやや固い声色で言葉を続けた。

 

「そこまで知っていれば十分さね。あたしはね、その龍神と立合った事があるんだよ」

「お師匠様と龍神が!?」

 

 初めて聞くレイダと龍神との立合い。驚愕を露わにするイゾルデに構わず、レイダは滔々と話を続ける。

 

「あの頃は若かったねぇ……戦力差なんて考えずに、ただ己の蛮勇を見せつける為に強者に挑んでいたよ。そんな時分に、ガルの坊やと二人がかりで龍神に挑んだのさ」

「お師匠様と剣神様が……」

 

 若き日のレイダと剣神ガル・ファリオン。レイダが水王、ガル・ファリオンが剣聖だった頃に、無謀にもこの二人は龍神に挑みかかった事がある。

 結果は惨敗。龍神の本気を一切引き出せずに、文字通り瞬殺劇を喰らっていた。

 レイダは初めて明確に“死”を意識したが、何故か龍神はレイダ達を見逃し、その命を奪うことなく姿を消している。

 イゾルデは穏健なこの祖母の意外な一面を垣間見て、目を丸くしてその柔和な表情を見つめていた。

 

「あたしもガル坊も未熟だったからねぇ。なぁーんも出来ずに、けちょんけちょんにされたよ。ガル坊は、まあ多少は食い下がっていたけどね」

「でも、今のお師匠様と剣神様なら……」

「結果は同じさね。まあ、少しは戦えるようになったかもしれないけど、アレの本気を引き出せるとは思えないね」

「じゃ、じゃあ初代様が戦ったとしたら?」

「本気は引き出せるかもしれないね。だけど、さっきも言ったが初代様でも龍神に勝つのは難しいだろうね」

 

 レイダから語られる龍神の壮絶な実力。イゾルデは未知の大強者の実力にただ慄くばかりである。

 

「世の中には想像も出来ないくらいとんでもなく強い相手がいるもんだ。今の自分に満足せず、より自分の剣技を磨くのを忘れない事だね」

「はぁ……」

 

 イゾルデはレイダから語られた内容を咀嚼しきれていないような、なんとも釈然としない表情を浮かべている。レイダは孫娘の向上心を煽る為に龍神の話をしたのだが、どうも話のスケールが大きすぎたようだと、苦笑しながら乙女の様子を見つめていた。

 ややあって、イゾルデは再度レイダへと問いかける。

 

「あの、お師匠様。もし、龍神に勝てるとしたら、それはどのような存在なのでしょうか?」

 

 イゾルデの問いに、レイダは「ふむ」と考え込むように顎に手を当てる。

 龍神はこの世のありとあらゆる剣術、魔術を神級以上の技量で使用する事が出来る。加えて龍族固有の魔術、そして先代龍神ウルペンが開眼せし龍神流奥義“龍聖闘気”をも使用する事が出来、その攻撃力と防御力は文字通り地上最強といっても過言ではなかった。

 そのような出鱈目な存在に対抗するには、同じく出鱈目な存在をぶつけるしか無い。

 レイダは自身の考えを、ゆっくりと孫娘へと聞かせた。

 

「アレは理合の外にいる存在だからねぇ。あたしらが想像も出来ないような……剣術や、魔術ではない、未知の技法の使い手なら、もしかしたら勝てるかもしれないね」

「未知の技法ですか……」

 

 固定観念に囚われないというより、それこそ龍神が認識しない異界の技法(・・・・・)の使い手ならば……

 レイダですら想像がつかない程の、合理とは対極に位置する存在なら、龍神を掃滅せしめる可能性がある。

 イゾルデは難しそうな表情を浮かべ、うんうんと考え込むも、直ぐに諦めたように息を一つ吐いた。

 

「私にはさっぱり想像出来ませんね」

「そうだろうね」

 

 レイダは予想通りの返答をするイゾルデを見て溜息を一つ吐いた。自分より遥かに若いイゾルデが、毒にも薬にもならない答えしか返さないのを見て、憂いを込めた表情を浮かべた。

 

「そんなんだから浮いた話が一つも無いんだよねぇ……」

「な!? お、おばあちゃん!」

 

 やや頬に朱を浮かべながら狼狽するイゾルデに、レイダは増々物憂げな表情を浮かべる。

 この水王は、この年齢になっても未だ男の影が一切無く。器量良しなだけに、このまま行かず後家となりえる孫娘の将来が、水神レイダの目下の悩みの一つでもあった。

 

 

 流麗なる水の剣士達。

 彼女らは、あくまで合理の内にいる存在であった。

 

 そして

 

 アスラより遠く離れた北方大地、ルーメンの森では、合理とは対極に位置する人外達による狂宴が、今まさに始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 


 

 信じられない──

 

 双子の兎が、突如現出した光景を見てそう思ったのは詮方無き事かもしれない。

 

 ルーメンの森にて魔剣豪師弟が遭遇せしオルステッドと名乗る人物。双子はこのオルステッドとは全くの初対面であったが、その姿をひと目見た瞬間得体の知れぬ恐怖心、そして嫌悪感が沸き立つのを感じていた。

 怯え竦む双子の兎の前に立った虎は、いくつか言葉を交わすと突然その妖刀を抜き放ち、オルステッドへと斬りかかった。

 刹那の瞬間、妖刀はオルステッドの首へと吸い込まれる。

 

 然し

 

「「若先生ッ!!」」

 

 双子の悲鳴が、森の中に響き渡る。

 妖刀がオルステッドへ放たれた次の瞬間、ウィリアムの肉体は砲弾の如き勢いで後方の大樹へと叩きつけられた。

 その爆発力は凄まじく、叩きつけられた大樹は轟音と共にへし折れ、ウィリアムの肉体は倒木に巻き込まれ双子の視界から消失した。

 

「チッ……」

 

 オルステッドは舌打ちをしつつ、吹き飛ばされたウィリアムの方へその怜悧な三白眼を向ける。

 見ると、その右手の親指は拇指球からごっそりと切断されて(・・・・・・・・・・・・・・・)おり、どくどくと血液を噴出させていた。

 

「この俺に手傷を負わせるとは……!」

 

 オルステッドは切断された手の部位を拾い上げると、即座に治癒魔術を行使して接合する。

 忌々しそうに魔力を消費するその様は、予定外の“出費”を強いられたからだろうか。

 

 刹那の瞬間に繰り広げられた龍虎の攻防。

 オルステッドはウィリアムの抜き打ちが届く寸前、素手にて水神流奥義“流”を行使し、その剛剣を流麗に流している。神級レベルの“流”は、ウィリアムの抜き打ちをその猛烈な剣勢そのままに跳ね返し、虎は自身から発せられた剣圧によって吹き飛ばされていたのだ。

 

 だが、受け流されたと思われた虎の牙は、確りと龍の拇指を喰い千切っていた。

 オルステッドは龍神流の極意である“龍聖闘気”を纏っている。その纏気は帝級相当の攻撃魔術ですらかすり傷程度の損害しか与えられず。かつてウィリアムの兄であるルーデウスがオルステッドと相対した際、この龍聖闘気によってルーデウスは有効な一撃をオルステッドへ与える事が出来なかった。

 しかし、ウィリアムの渾身の闘気による一撃、そして妖刀“七丁念仏”の凄まじい斬れ味は、龍聖闘気を貫通し、その肉体へと確りと届いていた。

 

「う、うあああああああッッ!!」

 

 呆然と龍虎の攻防を見ていた双子の弟ガドが気炎と共に抜刀し、龍神へと吶喊する。蹴散らされた師匠の仇を討たんべく、なけなしの勇気を振り絞っていた。

 その後方では突撃する弟を援護するべく、兄ナクルが吠魔術を放たんと“息吹”を始めていた。

 

乱魔(ディスタブ・マジック)

「シュッ──!? あ、あれ!?」

 

 だが、オルステッドが右手をナクルへ向けた瞬間、蓄えられた魔力が瞬く間に霧散した。

 

 龍族固有魔術“乱魔”

 

 先代龍神ウルペンが編み出したこの魔術は、発動前の同系統の魔力を放つことでその魔力を相殺し、使用不可能にせしめる。

 魔術師にとって悪夢としか言いようがないこの絶技。オルステッドは獣族固有魔術である吠魔術も習得しており、ナクルが使用する吠魔術にも十分有効な代物であった。

 

「兄ちゃん! 何やって──」

 

 来るべき吠魔術の援護が皆無なのを見て、ガドは一瞬だけ躊躇する。

 その隙を、老練(・・)なオルステッドが見逃すはずもなく。

 

「がぁッ!?」

「ぐぅッ!?」

 

 瞬時にガドの鳩尾に強烈な打撃を叩き込み、返す刀でナクルの側頭部に苛烈な蹴撃をカチ入れる。

 その動きの尋常ならざる疾さは、龍族である優れた身体能力に加え、オルステッドの万年にも及ぶ(・・・・・・)弛まぬ鍛錬によって生み出されていた。

 

 地を這う双子の兎を、龍神は冷めた三白眼で見やる。

 

「お前達は殺さん。ヒトガミの使徒で無いのは分かっているからな」

「うぅ……」

「……」

 

 ガドは腹を抑えて蹲っており、ナクルは一撃で意識を刈り取られたのか大の字で倒れ伏していた。

 オルステッドは双子を一瞥した後、吹き飛ばされたウィリアムの方へと視線を向ける。

 

「だが、ヒトガミの手先であるあのアダムスとやらは殺す」

 

 暴力的な殺気を纏わせながら、オルステッドは一歩づつウィリアムへと近づく。ヒトガミの名を出した瞬間、斬りかかって来たウィリアムがヒトガミの使徒である事は、オルステッドにとって疑いようもない“事実”であった。

 

「む?」

 

 ふいに、オルステッドがその動きを止める。

 ウィリアムが吹き飛ばされた先で、オルステッドに勝るとも劣らない程の殺気、そして“怒気”が、猛然と噴出していた。

 

 

『この儂を、人神の手先と抜かしたか……!!』

 

 

 怨嗟に溢れた日ノ本言葉が響き渡る。

 悪鬼羅刹の如き憤怒の形相を浮かべた、血塗れのウィリアムが現出していた。

 

「ッ!」

 

 瞬間、オルステッドの眼前に巨大な倒木が射出される。それは、へし折られた倒木をウィリアムが蹴り飛ばす事で放たれていた。

 三十尺はあろうかという倒木を、瞬時に蹴り上げるウィリアムの凄まじき脚力。

 鍛え抜かれた肉体、練り上げられた闘気に加え、自身を悪神の手先と断じられたことからの“怒り”で、虎の身体能力は通常よりも格段に跳ね上がっていた。

 

「チィッ!」

 

 オルステッドは即座に闘気を込めた拳にて倒木を迎撃する。

 

「ッ!?」

 

 だが、ウィリアムは破砕された倒木に紛れて跳躍し、身体を回転させながらオルステッドへ斬撃を浴びせる。

 

 闘気を限界まで込め、更に遠心力をもぶち足した必滅の斬龍刀!

 

 その撃剣は、オルステッドの頭部へと一直線に向かっていった。

 

「ッ!?」

「くッ!」

 

 雷鳴ともいえる重金属音と共に、凄絶なる爆裂音が鳴り響く。

 

 二振りの刀(・・・・・)が、龍と虎の間に交差していた。

 

 オルステッドの左手から突如現出した一本の“刀”

 それは、使用するのに多大な魔力を必要とする龍神が切り札“神刀”であった。

 古代五龍将が一人、“狂龍王”カオスが拵えし神威の神刀は、魔術の行使と並んで龍神が温存せし必殺の得物であり、龍聖闘気をも貫通する七丁念仏に対抗する為、不本意ながらもオルステッドは神刀の使用を瞬時に決断していた。

 

 だが、交差する“妖刀”はその神威の神刀と打ち合っても折れず。

 世界を越え、衛府の龍威(・・・・・)が込められし悲劇の妖刀は、龍界の神刀と十分に渡り合える程の変質を遂げていたのだ。

 

 共に超越した神通力を持つ二つの刃が交差し、その衝撃は周囲の植物を薙ぎ倒す程の圧力を放つ。

 

「ぐぅッ!?」

 

 しかし純然たる人族の身でしかないウィリアムにその圧力に耐えきれる力は無く。オルステッドもまた少しばかりその圧力に怯むも、この好機を逃さぬべく身体に力を込め踏ん張る。

 刃が交差した瞬間、姿勢を崩してしまったウィリアムは、即座にオルステッドにより“捕獲”されていた。

 

「ガァッ!」

 

 ウィリアムの首を掴み、そのまま勢いよく地面へと打ち付けるオルステッド。

 苛烈な龍の猛威に、ウィリアムは七丁念仏を手放してしまい、その身を地に縫い付けられた。

 

「殺す前にいくつか聞きたい事がある」

「ぐ、うぅぅッ!」

 

 みしり、とウィリアムの胸骨が軋む音が響く。

 オルステッドはウィリアムを地面に押し当てると、その脚でウィリアムの胸を踏みしめ、その動きを封じていた。

 同時に、手から衝撃波を繰り出し、七丁念仏をウィリアムの手の届かぬ場所へ吹き飛ばす。

 ウィリアムはオルステッドの脚を両手にて掴み、必死になって抗うが、龍聖闘気により守られしその龍脚はびくともしなかった。

 

「あの剣は、どこで手に入れた」

「ぐぅっ!」

 

 六面世界最強ともいえる神刀に伍する程の妖刀。その存在はオルステッドにとって少なくない衝撃を与えており、自身の、そして龍族の宿敵でもある人神の手先がそれを持つことは、龍神の悲願成就の大きな壁になり得ていた。

 

「ヒトガミに、何を囁かれた」

「がぁぁっ!」

 

 めりり、と更にウィリアムの胸骨が軋む。

 容赦なく虎の胸骨を踏みしめる龍神。その力は、人神によって滅ぼされた龍界の怨念が篭っているのかの如き重圧であった。

 

「先程言ったあの“言葉”……あれは誰から教わった」

「カッ……!」

 

 ウィリアムが憤怒と共に言い放った日ノ本言葉。それは、かつて共に旅をしたナナホシ・シズカが使用していた“日本語”と酷似していた。

 フィットア領転移事件が発生したあの日。中央大陸某所で光と共に現出したナナホシを、オルステッドは即座にその保護下に置いている。突然異世界に迷い込んだこの何も力を持たぬ女子高生を憐れんでの事であったが、自身の“他者に嫌悪される呪い”が効かぬ異世界人であるナナホシは、オルステッドの深層にある“孤独”を癒やす存在でもあった。

 当初は全く六面世界の言語を理解していなかったナナホシは、オルステッドと試行錯誤しながらこの世界の言語を習得している。それ故、少なからず日本語を解していたオルステッドは、ウィリアムが言い放った日ノ本言葉を聞き逃すはずが無く。

 

 ナナホシにまでヒトガミの魔の手が伸びている可能性をも見出したオルステッドは、更に怒気を強めてウィリアムへ問い詰めていた。

 

「き……様……が……!」

「うむ?」

 

 ウィリアムは血がにじむ程オルステッドの脚を強く握り絞める。呼吸すら満足に出来ぬ有様であったが、その血走った眼でオルステッドに睨みつけていた。

 己が忠義を捧げる神君の血を引きし異界の姫君。明らかにその存在を知っている節があるオルステッドは、その言い様からナナホシに対する忠義が全く感じられず。それ故に、猜疑心に塗れたウィリアムにとってオルステッドは誅戮すべき“逆賊”と言えた。

 同時に、オルステッドの口から人神の名が出たことで、ウィリアムはオルステッドが人神と何らかの関係を持っているとも断じていた。あの狡猾な悪神なら、意識していなくてもオルステッドをその下僕として仕立て上げるのは容易いだろうとも。

 

 前世からの“身分の檻”による因縁、そして今生でも虎の貝殻に巣食う粘ついた猜疑心が、ウィリアムが正常な判断を下すことを妨げていた。

 

 

「貴様が……貴様こそが、人神の手先ないならんッ!!」

 

 

 そして、虎は盛大に龍の尾を踏み抜いた。

 

 

「この──」

「ガァッ!」

 

 みり、みりり

 オルステッドはゆっくりとウィリアムを踏み抜く力を強める。胸骨がひしゃげ、肺腑に骨が突き刺さり、ウィリアムは黒く濁った血反吐を吐いた。

 

「この俺が、ヒトガミの手先だとッッッ!!!」

「グガァァァァァァァァァァァァッッッ!!!」

 

 怒りの龍神による酷烈たる責め苦。

 先ほどとは比べ物にならぬ剛力で、ウィリアムの胸を踏み抜く。

 筆舌に尽くしがたい激痛により、森に虎の血反吐が篭った絶叫が響き渡っていた。

 

 

「……もういい。死ね」

 

 オルステッドは満身創痍の虎にとどめを刺すべく、掌に魔力を込める。

 冷然とした三白眼で虎を見やり、その処刑を実行しようとした。

 

 

 だが──

 

 

 

「ほほう! これは珍しい!」

 

 

 突如、森の中に艶美な美声が響き渡った。

 オルステッドは不意に聞こえたその美声の発生源に眼を向ける。

 

 

「人の形をした龍と虎が!」

 

 

 その視線の先に、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な──

 

 

「闘犬の如く咬み合うておる!」

 

 

 美麗な陣羽織を揺らし、はだけた胸からその美しい乳房を覗かせる、一人の美丈婦……いや、美丈夫。

 まるで、最初からそこに存在したが如く、龍虎の前にその美しい立ち姿を見せていた。

 

 志摩の凶剣

 魔界の現人鬼

 

 そして怨身たる業の化身

 

 

 現人鬼波裸羅

 

 

 龍虎相争の樹海に現出す──!

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十四景『変化御用波裸羅(へんしんにんじゃはらら)

 

 志摩国に現人鬼といふものありけり

 ひととなり容姿秀美(すがたうるは)しく

 風流れ(みやび)なること(たぐひ)なかりき

 翡翠の如き華やかな如来にして

 鬼神の如き益荒男なり

 

 いかな天上の神々も、これには(かて)るべきかや──

 

 

 

 

 

 

「何だお前は……人か?」

 

 突如現出せし志摩の現人鬼波裸羅。

 その美麗な立ち姿に、オルステッドは訝しげな表情を向ける。

 現人鬼は泰然とした美笑を浮かべてそれに応えた。

 

「ああ、拙者におかまいくださるな」

 

 悠然とその美麗な総髪を揺らし、オルステッドへ美笑を向け続ける現人鬼。

 そのまま、ゆっくりと地に横たわり片肘をつく。

 

生命(いのち)賭けの二人を引き裂くような残酷(こと)、この波裸羅にはできぬ」

 

 まるで物見遊山にでも来たかのような現人鬼の呑気な態度に、龍神の困惑は増すばかり。現人鬼はそんな龍神見て更に美笑を強めていた。

 

美形(イケメン)龍殿は存分に虎を懲らしめたまえ」

「……」

 

 オルステッドはこの自由気儘な現人鬼を不審げに見やる。

 修羅場に突然現れたかと思えばリラックスした様子で龍虎の争いを眺める現人鬼の魂胆が読めず、オルステッドはやや当惑した様子を見せていた。

 だが、まずは目下のヒトガミの使徒である虎を誅戮せねばと、オルステッドは現人鬼から虎へ意識を向ける。

 

 が、オルステッドは現人鬼から違和感を覚え、再びその美麗な寝姿へ視線を向ける。他者に嫌悪される呪いを持つ龍神と平然と会話をする(・・・・・・・・)現人鬼。ナナホシやルーデウス・グレイラット、そしてウィリアム・アダムスと同じく、オルステッドに全く嫌悪を抱かないこの現人鬼の正体が気になり、その怜悧な口を開いた。

 

「お前は、俺が──」

 

 怖くないのか

 

 そう言いかけた刹那

 虎を踏みしめるオルステッドの右足に“トラバサミ”が喰い込んだかのような激痛が走った。

 

「ッ!?」

 

 現人鬼に気を取られた一瞬の隙を突き、ウィリアムはオルステッドの脹脛の経絡点を突いていた。

 “骨子術”による打点は、僅かに空いた龍聖闘気の間隙を鋭く射抜く。

 

「くッ!?」

 

 骨子術によりオルステッドの踏みつける力が緩むと同時に、ウィリアムは全身を躍動させ龍の脚へと絡みつく。

 

 虎眼流“巨兵哭(きょへいごろし)

 

 所謂現代格闘術におけるヒールホールドに似たこの技は、甲冑を纏った体格差のある相手との組討ちを想定した虎眼流体術の一つ。龍聖闘気という装甲に守られし龍の脚ですら、その柔技からは逃れられない。

 

 野生の虎は、手負いの方が強いのだ!

 

 折れた胸骨を軋ませ、血反吐を吐きながら全筋力と闘気を動員し、龍の脚首靭帯をねじ上げる若虎。オルステッドは初めて味わうその激痛に一瞬怯むも、即座に虎を振りほどくべくその龍脚に力を込める。

 

「浅知恵だッ!」

「ぐぅッ!?」

 

 オルステッドはウィリアムに絡みつかれたままの脚(・・・・・・・・・・)を勢い良く蹴り上げる。

 自身より小柄とはいえ、この世界の一般的な体躯を持つ若虎ごと蹴り上げるその剛力に、ウィリアムは思わずオルステッドの脚を手放し宙空へと投げ出された。

 

「ガァッ!?」

 

 投げ出されたウィリアムへ向け、オルステッドは瞬時に跳躍し痛めた脚(・・・・)で虎へ蹴撃を放つ。

 オルステッドの猛烈な重爆蹴に、ウィリアムは身体をくの字に折りながら地面に叩きつけれた。

 

「わ、若先生……!」

 

 ウィリアムが倒れる先へ、ガドが這いつくばりながら近付く。

 血反吐を吐き蹲るウィリアムの盾にならんと、必死になって龍と虎の間に割って入った。

 

「若先生……!」

「ぐ……うぅ……」

 

 地を這う虎と兎を、オルステッドは冷めた眼で見やる。

 

「双剣ナックルガードの弟ガド……それほどその男が大事か?」

 

 オルステッドの無慈悲な問いかけ。ガドは恐怖心を懸命に抑え、濡れた瞳で龍神を睨みつけた。

 

「わ、若先生は、この世に二人といない剣術者……! この命に代えても……!」

 

 蹲るウィリアムに覆いかぶさり、ガドは師の盾にならんと血走った眼でオルステッドを睨む。

 自身に強烈な憧れを抱かせた、あの神技の扉。北神流では味わえなかったあの高揚感は、ガドや兄ナクルにとって何よりも代えがたい剣の情熱を燃え上がらせてた。

 例えその身が朽ち果てようとも、この剣の火は絶やしてはならない。

 自身が滅びようとも、兄であるナクルと、そしてウィリアムが健在ならば、この異界虎眼流の火を守ることが出来る。

 

 そのような兎の健気で、死狂うた忠誠を見て、オルステッドは溜息を一つ吐いた。

 

「そうか……」

 

 兎の睨みを受け、オルステッドは僅かに寂寥感が篭った表情を浮かべる。しかし、例えどれだけ優れた剣術者であっても、人神の使徒ならばその存在は全て葬り去らねばならない。

 龍族は、人神の悪意とその醜悪な欲求により全てを奪われた。

 古代五龍将を始めとした龍族郎党の非業、そして父である初代龍神の宿怨、母である半神の無念。

 かつて古龍から聞かされし悲劇の昔話は、若き龍神に人神とその眷属の完殺を誓わせる揺るがなき信念となってその魂に刻みつけられていた。

 オルステッドはその手に魔力を込め、虎眼流師弟に向ける。

 

「ヒトガミの使徒は全て殺す……恨むなら、ヒトガミを恨め」

 

 ガドごとウィリアムを滅殺すべく、オルステッドは掌に光弾を纏わせる。

 ガドはぎゅっと目を瞑り、全てを観念したかの如く身体を強張らせた。

 

 

 もはやこれまで──

 

 

 そう、ガドが思った時。

 

 

「今、何と申した」

 

 

 傍観していた現人鬼が、その美声を発した。

 

 

「なに──」

 

 オルステッドは突如纏わりついた悍ましい程の殺気を感じ、思わず虎眼流師弟の処刑を中断した。

 そのまま、その美声がする方向へと振り向く。

 

人神(ヒトガミ)と、そう申したか」

「ッ!?」

 

 振り向けば、怨々たる殺気を纏わせた現人鬼が、オルステッドへ残虐な笑みを向けていた。

 先程までの呑気な様子とは打って変わり、まるで待ち望んでいた獲物を見つけたかのような、獰猛な肉食獣の如き“嗤い”を浮かべている。

 

「くふ……くふふふふ……! ようやく悪神掃滅への手がかり(・・・・)を得たわ……!」

 

 現人鬼はオルステッドと十歩程離れた場所に立ち止まると、勢い良くその美麗な装束を破り捨てた。

 

「なぜ脱ぐ!?」

 

 突如全裸になった現人鬼を、警戒しつつ困惑した様子で見やるオルステッド。

 強敵を前に昂ぶった逸物が強烈な自己主張をしているのを見て更に困惑を強めていたが、そのようなオルステッドに構わず、現人鬼はオルステッドへ向け高らかに宣戦を布告した。

 

 

(なれ)が持つ悪神の知識、洗いざらい吐き出してもらうぞッ!」

 

 

「ッッ!!」

 

 ぞわりと、森の空気が異質に変化する。

 現人鬼の周囲が、異界の怨念によって禍々しく変質していた。

 

最初(はな)から本身でいかせてもらう……!」

 

 現人鬼は鬼迫が篭った美声を呟くと、両腕をその美顔の前に交差させる。

 

 そして、残酷美麗たる日ノ本言葉が、現人鬼の美唇から発せられた。

 

 

『摩・骸・神・変!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 () ()

 

 

 

「ひぃっ!?」

「なっ!?」

 

 深緑の樹海に敷島の装甲軍鬼が剛臨!

 その鬼気を受け兎の弟(ふん)漏らし恐慌す!

 

 虎と龍の間に割って入った勇敢な姿とは打って変わり情けない姿を見せるガドであったが、ウィリアムは弟子の醜態や霞鬼の威圧よりもその口から発せられた日ノ本言葉に驚愕を露わにしていた。

 

「何なのだお前は……!」

 

 異様な怨身(変身)を遂げた現人鬼に増々困惑を強めるオルステッド。

 現出した霞鬼は怨々たる殺気を纏わせながらオルステッドににじり寄る。

 

「強き龍よ! 大人しく全てを吐くか、この霞鬼の鬼技(おにわざ)味合うて悶死するか、どちらか選べぃッ!」

「ッ!?」

 

 獰猛な肉食獣の如き勢いで、霞鬼は龍神へと吶喊する。

 選べと言っておきながら猛然と攻撃を開始する霞鬼の理不尽。戸惑うオルステッドに一瞬で肉薄した霞鬼は、その両腕を思い切りしならせた。

 

「怨身忍法“双手渦貝(もろてうずがい)”!」

「ぐッ!!」

 

 霞鬼の強烈な両手掌打をまともに受け、オルステッドの肉体は弾丸の如き勢いで吹き飛ばされる。

 だが、華麗に受け身を取ったオルステッドは血反吐をひとつ吐くにとどまり、凛然と霞鬼を睨みつけた。

 

「何をした……!」

 

 霞鬼は「おや?」と意外そうにオルステッドを見やる。

 不死魔王アトーフェ・ラトーフェの内臓すら撹拌せしめた忍法“渦貝”

 それを鬼の力で、更に両手(もろて)にて放ったのにもかかわらず、龍神の臓器は僅かに震えただけであった。

 怨身(こんしん)の両手螺旋、鉄壁の龍聖闘気を貫通すること不能(あたわず)

 

「硬い喃! だが、この霞鬼の忍法、これだけに(あら)ず!」

 

 霞鬼は片手にて“印”を組むと、その怨気を猛然と噴霧させる。

 

「怨身忍法“伐斬羅蝶(ばざらちょう)”!」

「今度は何だ……!?」

 

 美麗に流した霞鬼の総髪が無数の“蝶”に変化し、瞬く間にオルステッドの肉体へと纏わりつく。

 だが、オルステッドは冷静に対抗策である秘術を唱えた。

 

「何をしても無駄だ。乱魔(ディスタブ・マジック)

 

 オルステッドは纏わりついた蝶を霧散させるべく秘魔術“乱魔”を唱える。万年にも及ぶ知識を持つオルステッドですら“知らない技”を使う霞鬼であったが、この世のあらゆる魔術(・・)を無効にせしめるこの乱魔ならば、纏わりつく不快な蝶は瞬時にいなくなるだろう。

 伐斬羅蝶を未知の固有魔術と認識したオルステッドは、冷静に霞鬼の次の一手に備えるべく身構える。

 

 だが、オルステッドは消えるどころか増々増える蝶(・・・・・・)を見て驚愕の表情を浮かべた。

 

「何ッ!?」

「うっふっふっふっふ……!」

 

 これは、異世界の魔術(不思議)に非ず。

 敷島の、無双怨身忍法(摩訶不思議)なり!

 

 怨身忍法“伐斬羅蝶”

 

 伐斬羅とは怨身忍者の血液中、そして体組織の金属成分。

 魔力由来の成分では無く、純粋な生体成分によるその金属蝶は、いくら対滅させる魔力を放っても消滅するはずもなく。

 すなわち、伐斬羅蝶とは、金属粉塵を充満させ辺り一帯もろとも──

 

 

 ズ ド ド ン !

 

 

 大爆発を発生せしめる!

 

 

「わあああッ!?」

「くっ!?」

 

 僅かに回復したガドに介抱され、反撃の機を伺っていたウィリアムはその爆風をまともに浴びる。

 神刀と妖刀のぶつかり合いで発生した衝撃波の何倍もあろうかという爆発力。

 ガドは遥か後方に吹き飛ばされてしまったが、ウィリアムは全身に闘気を漲らせていたおかげでなんとか鬼と龍の戦闘圏内に踏み留まることが出来た。

 濃厚な緑に包まれていた森林は、爆発によりウィリアム達の周囲数ヘクタール程が荒廃とした更地へと変わっていた。

 

「覚えたか! 我が伐斬羅、爆ぜるなり!」

 

 霞鬼の得意げな美声が響き渡る。

 爆煙が漂う中、ウィリアムは霞鬼の異様な姿を見て憎々しげに顔を歪ませる。

 

妖怪(かいぶつ)め……!)

 

 突如己と龍の争いに乱入したかと思えば、魔術以上に摩訶不思議な術を使う怨身忍者霞鬼。

 更に日ノ本言葉(・・・・・)操るとなれば、その正体は敷島の魑魅魍魎異形異類に他あらず。

 ウィリアムは霞鬼を見て、中世日本に跋扈し人里を襲い足弱を喰らう“鬼”の存在を想起していた。

 時の政府が大軍を差し向ければ姿を隠し、少数で攻めれば返り討ちにする凶悪さを持つ鬼。

 それゆえに、(いにしえ)より神州無双の豪傑のみが鬼征伐を成し遂げる。

 

 ウィリアム……いや、岩本虎眼は、前世ではそのような眉唾は喰わず。

 だが、この異世界に転生して以来、幻想世界(ファンタジー世界)異形(モンスター)、そしてその奇跡の御業(異世界の魔法)を目の当たりにし続け、前世世界の伝説の存在をも受け入れる余地が生まれていた。

 

 ウィリアムは霞鬼の姿を見ていく内に、自身に眠る神州無双の遺伝子がふつふつと燃え上がるのを感じる。

 源頼光、坂上田村麻呂、そして“軍神”桃太郎こと孝霊天皇皇子大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)

 鬼に向かう者、千年の後うたわれり。

 ならば、己は異界に現出せし鬼や龍、そして神をも成敗し、かつての豪傑達を超える万年うたわれる武神とならん。

 

 とはいえ、傷ついたウィリアムはあえて鬼と龍の戦いを、先ほどの霞鬼と同じ様に傍観すべく身を固める。

 

(龍と妖怪が咬み合って、もろとも血海に沈んでくれれば眼福──!)

 

 よしんば片方が生き残ったとしても、相応の深手を負うのは間違い無し。

 ならば、手負い同士五分の勝負が出来る。

 強かにそう頭を働かせる若虎は、残った人外を掃滅するべく、再び身体に闘気を漲らせ痛めた肉体の応急処置に努めていた。

 

 

 爆煙が晴れ、霞鬼の姿が鮮明に浮かび上がる。

 そして、その対面には、大健在の龍神オルステッドの姿があった。

 

「やってくれたな……」

 

 衣服や皮膚を焦がしながらも、龍聖闘気に守られしオルステッドは未だ両の脚で大地に立つ。それを見て、霞鬼は愉しげに哄笑する。

 

「アッハッハッハ! そうでなくては喃!」

 

 必滅の粉塵爆破を受けても尚、大したダメージを与えられないオルステッドの存在は、霞鬼にとって久しく出会えなかった手応えのある好敵手であった。

 更なる追撃を加えんと、霞鬼は両手を大きく広げた。

 

「待て」

「あん?」

 

 襲いかからんとする霞鬼に、龍神は待ったをかける。

 先ほど霞鬼が言い放った“悪神掃滅の手掛かり”という言葉。

 オルステッドはその言葉を咀嚼し、加えてあまりにも異質すぎる霞鬼が、ヒトガミの使徒である可能性は低いと思考する。

 これまでの万年にも及ぶ“繰り返しの生涯”において、ヒトガミがこのような異常な刺客を自身に放つことは一度たりとも無かったのも、使徒では無いと断ずる材料のひとつでもあり。

 というか、そもそもこんな魔術ですらない妙な術を使う存在など目にした事がなかった。

 

 オルステッドは従来通り、初めて対峙する対手の手の内を探るべく、あくまで霞鬼への反撃を控えその攻撃を受け続けていた。

 様子を窺う内に、先ほどの言葉と併せ、オルステッドは霞鬼にある可能性を見出す。

 

 もしかしたら──

 もしかしたら、この異形は、共にヒトガミ掃滅を目指す“同志”なのでは?

 

 普段はこのような発想を絶対に抱かない孤高の存在であるオルステッド。だが、先ほどから頻発する異常事態が龍神の凝り固まった思想を解したのか、オルステッドは霞鬼への対話を密かに決意していた。

 

「お前は、ヒトガミを──!?」

 

 しかし、霞鬼はオルステッドの言葉を遮り容赦なく手刀を繰り出す。咄嗟に構えた神刀にて水神流奥義“流”を発動し、その手刀を受け流すオルステッド。

 更に繰り出される手刀を受け流しつつ、オルステッドは声を荒げながら霞鬼の暴挙を咎めた。

 

「待てッ! 俺はお前と──!」

「ぃやかましいッ! この霞鬼を止めたくば、その実力で止めてみせよッ!!」

 

 次々と繰り出される霞鬼の神速の連撃。オルステッドは霞鬼の連撃を全て水神流で受け流し、必死になって霞鬼に呼びかけ続けた。

 

「だから待てと言っているッ!」

「ええい! ヌルヌルとうっとおしいッ!」

 

 もはや完全に目的を忘れている節がある霞鬼こと現人鬼波裸羅。だが、それも仕方のないことかもしれない。

 波裸羅はこの異世界に転移して以来、その血を昂ぶらせる相手に出会えど、己の全力をぶつけられる相手には終ぞ恵まれず。

 久しく、いや、日ノ本でも出会えなかったその狂おしくも愛おしい存在を、波裸羅は全力で“愛でていた”。

 “衛府の龍神”は全てを伝える事無く波裸羅を異世界に飛ばしており、抱え続けていた不親切な龍神への鬱憤を晴らすのもあってか、波裸羅は喜々としてオルステッドへ攻撃を加え続けていた。

 

「この……ッ!」

 

 オルステッドは全く話を聞かない霞鬼に対し、段々と怒りを滲ませる。とうとう額に青筋を立てるまでに至ったオルステッドは、霞鬼の手刀を受け流したその神刀を大上段に構えた。

 

「人の話を、聞けッッ!!」

 

 理が通じぬ霞鬼に堪忍袋がキレたのか、オルステッドは怒りと共に神刀を霞鬼にぶち込む!

 

 剣神流奥義“光の太刀”

 

 剣神ガル・ファリオンが使用する光の太刀以上の疾さ、そして威力で放たれた神滅の一閃。

 その威力は凄まじく、轟音と共に霞鬼が立っていた地面は局地地震が発生したかの如く盛大に抉れていた。

 

「……ッ!」

 

 鬼と龍の戦いを見守っていたウィリアムは、オルステッドが放った一閃を見てその瞳を業と燃え上がらせる。

 

 龍の剣技は、純然たる異界の武芸として申し分なきもの。

 だが、その技は、己が憎むあの剣神流の──!

 

(剣神……!)

 

 みしりと、ウィリアムは増悪を込め歯を軋ませる。龍神の姿に憎き剣神の姿を重ねた若虎は、もはやオルステッドがヒトガミの使徒であるなどということはどうでもよく。

 この場にいる何もかもを斬り殺したくなるほどの異常な怨念が、ウィリアムの心の貝殻を侵食していた。

 

 だが、ウィリアムの手元には愛刀である七丁念仏は存在せず。

 霞鬼が放った粉塵爆破に巻き込まれたのか、ウィリアムの視界に妖刀はどこにも存在せず。

 怨念を燻らせながら、ウィリアムは再び鬼と龍の戦いへ眼を向ける。

 

 

「しま──ッ!」

 

 光の太刀を放った当のオルステッドは、怒りに任せ思わず必殺剣を放ってしまったことを後悔するも、神刀の手応えが全く無い事に気付き警戒を強める。

 光の太刀は霞鬼へは届いてはおらず、その生存を確信したオルステッドは、霞鬼が神滅の一閃を跳躍して逃れたと思い上空へ視線を向けた。

 

「何ッ!?」

 

 だが、空中に霞鬼の姿はどこにも無く。

 文字通り忽然と姿を消した霞鬼。不可解な事実を前に、オルステッドは今日何度目か分からぬ困惑に陥る。

 

(馬鹿な! 消えたとでも!?)

 

 否

 

 跳躍でも、消失でもない──!

 

 

「後ろじゃッ!」

「ッ!?」

 

 

 潜陸(せんりく)だ!!

 

 

「怨身忍法“(くぐ)(つち)”!」

「ぐッ!?」

 

 怨身忍法“潜り土”

 

 第三の怨身忍者“雪鬼(せっき)”が得意とするこの忍法は、本来ならば雪鬼が持つ金剛石より硬い掘削腕が無ければ実現不可能な荒業。

 だが、霞鬼の驚異的な身体能力は短距離ならば掘削腕が無くとも瞬時に地中に潜る事を可能たらしめ、光の太刀を躱すべく霞鬼は地中に活を求めていたのだ。

 

「チィッ!」

「ぬぅッ!」

 

 そのままオルステッドの真後ろへと現出した霞鬼は旋風美脚を龍の顔面へと叩き込む。

 しこたま顔面を叩きつけられたオルステッドであったが、蹴撃と同時に神刀を振り霞鬼へ斬撃を返す。

 接近しすぎていた霞鬼はその神刀を躱しきれず、その美腕を斬り飛ばされた。

 

「やるな! 龍よ!」

 

 斬り飛ばされた美腕を即座に掴み、霞鬼は獰猛な笑みをオルステッドへ向ける。見ると、腕の切断面は伐斬羅で沸騰しており、霞鬼は悠然とその切断された腕を接合する。

 一瞬でその美腕が元通りになりオルステッドは呆気に取られるも、霞鬼へ向け神刀を構えた。

 

「本当に、何なのだお前は……!」

 

 オルステッドは終始出鱈目なこの霞鬼との対話を諦めつつあった。

 霞鬼が、現人鬼がどこから来て何を目的としているのか。本当にヒトガミ掃滅という目的を同じとしているのか、それを探りたいオルステッドだったが、こうも対話不可能な状況が続くとならば致し方なし。

 オルステッドは不本意ながら霞鬼を撃滅すべく、神刀を握る力を強めた。

 

 

「わ、若先生……」

「ナクルか」

 

 鬼と龍の争いを油断無く注視していたウィリアムの元へ、覚醒したナクルが駆けつける。

 頭部を強かに打ち、やや酩酊した状態ではあったが、意識は思いのほかしっかりしていた。

 その姿は鬼と龍の戦闘の余波を受けてなのか、ウィリアムと同じく傷だらけであった。

 

「お拾いしておきました……!」

 

 ナクルは大事そうに抱えていた妖刀七丁念仏をウィリアムへ差し出す。

 抜き身の刀身を掴んでいたからか、その手は血に濡れていた。

 鬼龍の戦火を掻い潜り、健気に師匠の得物を運んできた兎の兄を、虎は熱の篭った瞳で応えた。

 

「でかした」

 

 前生の忠弟が届け、今生の忠弟が繋いだその妖刀を、ウィリアムは万感の想いを込め確りと握りしめる。

 ナクルの血を吸った刀身は妖しく煌めき、霞鬼が発する怨念に共鳴するかのように猛然と妖気を噴出させていた。

 束の間の別れの後、妖刀は主の元へ再び舞い戻る。

 

 ウィリアムwith七丁念仏

 

 こうでなくては、始まらない──!

 

「下がっておれ!」

 

 気合十分のウィリアムはナクルを自身の後方へ退避させると、胸の痛みを無視して確りと立ち上がる。そして、妖刀の柄をその一指多い右手にて掴んだ。

 その掴みは、猫科の動物が爪を立てるかの如く。

 

 

「龍よ! 埒が明かないのでそろそろ決着(ケリ)をつけるぞ!」

 

 虎が戦闘態勢を整えると同時に、霞鬼はオルステッドへ向けその美声を轟かせる。霞鬼は両手にて“印”を組み、その肉体からおどろおどろしいほどの怨念を轟然と噴出させた。

 

『戦術天誅!』

「ッ!?」

 

 霞鬼から怨々とした日ノ本言葉が発せられる。すると、快晴であった空に陰鬱とした黒雲が瞬く間に現出した。

 オルステッドは訝しげにその黒雲を睨みつける。

 

豪雷積層雲(キュムロニンパス)……? いや、これは……!)

 

 現出した黒雲は水聖級魔術“豪雷積層雲”と酷似していた。だが、豪雷積層雲と違い雨は一滴も降らず。また、広範囲に雷雲を発生させる豪雷積層雲と違い、その黒雲はウィリアム達の頭上の限定された空間にしか発生していなかった。

 

(かすみ)を見せてやろう……!」

 

 怨気を噴出させた霞鬼がその怜悧な指先を天に向ける。

 刹那、黒雲から五束の凄まじい豪雷が、霞鬼の身体へと落ちた。

 

「なッ!?」

 

 雷撃の余波で僅かに身体を焦がすオルステッド。水王級魔術“雷光(ライトニング)”をも凌ぐ凄まじき雷電。

 当然、霞鬼は塵一つ残らず焼失していると思われた。

 

 だが

 

「怨身忍法“雷神羽衣(あまのはごろも)”!」

 

 正しいから死なない!

 

 怨身忍法“雷神羽衣”

 

 霞鬼が内包する怨念を放出させ、空中に雨雲にも似た怨気を滞留させるこの忍法は、黒雲から放たれし雷電をその身に宿し、驚異的な身体能力の向上を実現する。

 更に帯電したその肉体の攻撃力は今までとは比較にならず、雷神の雷槌はオルステッドの鉄壁の龍聖闘気すら貫通する可能性を秘めていた。

 

「……ッ!」

 

 神刀を構え霞鬼と対峙するオルステッド。その瞳は、もはやこの鬼とは対話不可能なことを悟り、冷然とその息の根を止めるべく怜悧な光を宿していた。

 

 

 みしり

 

 

 対峙する鬼と龍の間に、妖刀の軋む音が響く。

 霞鬼とオルステッドがその方向へと視線を向けると、死の流星を放たんとウィリアムが“流れ星”の構えを取っていた。

 瞬間、霞鬼とオルステッドは流星の間合いへとその身が置かれているのに気付く。

 

「邪魔するか! 虎小僧!」

 

 身体を捻り、溜めに溜めた必滅の螺旋を放たんと構えていた霞鬼は、虎の刃圏に入ったことで次の一手を打つ事が出来ず。

 滅技“螺旋渦貝(トルネードうずがい)”を放てば目の前の龍は仕留められるかもしれない。

 だが、その直後にはがら空きの首元に虎の流星が襲い掛かってくるだろう。

 先に虎を仕留めようとすれば、今度は龍の神刀の餌食になることは必然。

 予想外の事態に、霞鬼はその身に雷神を宿しながら一歩も動けずにいた。

 

「チッ……」

 

 オルステッドもまた膠着状態となったこの状況に舌打ちをひとつする。神刀を取り出した時点で、オルステッドは相当の魔力を消費している。数十年後に復活せし魔神戦、そしてその先にある怨敵ヒトガミの掃滅の為、オルステッドはこれ以上魔力を行使する事が出来ない。

 オルステッドは呪いにより魔力回復力が極端に少なく、既に霞鬼との戦いで魔力使用量の許容値を超えようとしていた。

 だが、眼の前の霞鬼の螺旋、そして虎の流れ星をも封殺するには更に相当の魔力を行使する必要がある。半端な力では鬼か虎のどちらかを討ち漏らす可能性もあり、直後に不覚を取ることは十分に考えられた。

 憎々しげに表情を歪める若き龍神は、鬼と虎へ射抜くような視線を送りその身を固くしていた。

 

「に、兄ちゃん……」

「ガド……」

 

 奇妙な三すくみの状態を、怯えた表情で双子の兎が見つめる。

 もはや王級剣士如きでは崩せるレベルではなかった。

 

 いつ果てること無く続けられる鬼と、龍と、虎の睨み合い。

 永遠に続くかと思われたこの均衡は、思わぬ形で破られることとなる。

 

 

 

「「「現人鬼ぃぃぃぃぃッッッ!!!」」」

 

 

 

 突然、荒野と化したルーメンの森へ怒声が響く。

 見ると、残った森林部から面布で顔を隠し、武器を構えた集団が続々と飛び出して来た。

 

「またかい!」

 

 霞鬼はわらわらと湧くその集団を見て思わず悪態をつく。どうみてもそれらは自身を討ちに来た魔族の刺客達に他あらず。

 先の泉での戦闘で数を減らしたはずの刺客達であったが、援軍と合流したのかその数は五十を超えていた。

 

「くッ!?」

 

 既に詠唱済の魔術師の一隊もいるのか、霞鬼へ向け放たれた無数の火球弾が辺り一帯へと降り注ぐ。

 ウィリアムは咄嗟に“流れ星”の構えを解き、降り注ぐ火球を躱した。同時に肉薄する刺客の一人へ妖刀を叩き込む。

 一瞬で額部を二寸程斬られた刺客は、その死を認識することなく絶命した。

 

「ガドッ!」

(ゴロ)っしゃーッ!!」

 

 目撃者を残さぬ為なのか、刺客達はウィリアム達にも襲いかかっていた。双子の兎は闘争本能を剥き出しにし、曲剣を振りかざしながら果敢に応戦する。

 

「なにっ」

「殺しちゃるぅクソボケがーっ!」

「なめるなっオスウサギィッ!」

「しゃあっ! ヒートハンド!」

「アサルトドッグを放てっ」

 

 たちまち荒野は戦場の如き混沌が生まれ、魔術、剣、怒号が入り乱れた騒乱に包まれた。

 

「ウィリアム・アダムス!」

「ッ!」

 

 混乱の最中、オルステッドは凛とした龍声をウィリアムへと放つ。

 神刀は既にその手には無く、オルステッドは戦闘態勢を解除していた。

 

「お前は、いずれ殺す。ヒトガミにもそう伝えろ」

「ッ!? 待てッ!」

 

 オルステッドはそう言うと踵を返し瞬く間にこの場から消え去った。追撃せんとするウィリアムであったが、刺客達に阻まれ龍神の逃走を許してしまう。

 刺客達はオルステッドの呪いのせいか、その恐怖心や嫌悪感から逃れるようにウィリアム達へ苛烈な攻撃を加えていた。

 ウィリアムは刺客を斬り伏せながら、オルステッドが逃走せし方向へ増悪が篭った眼を向け続けていた。

 

 

毒面(ブス)共! 汝らいい加減しつこすぎる故、全員孫の手握らせぬ!」

 

 既に刺客を十名以上屠っていた霞鬼の美怒声が響き渡る。強敵との血湧き肉躍る戦いを邪魔された霞鬼の凄まじき怒威。刺客達は睾丸を縮ませながらに霞鬼への包囲網を敷く。

 

「纏めて雷神の贄にしてくれるわッ!」

 

 霞鬼は紫電を纏わせた自身の肉体を震わせる。同時に、ウィリアムへその美視線を向けた。

 

『跳べ!』

『ッ!?』

 

 突如霞鬼から発せられた日ノ本言葉を聞き、ウィリアムは傍らにいる双子の首根っこを掴むと勢い良く上空へと放り投げる。

 

「わぁッ!?」

「若先生ぇッ!?」

 

 虎の凄まじき膂力は双子を高々と空へと放り投げ、直後にウィリアムも勢いをつけて跳躍する。

 虎眼流師弟が上空へ“退避”したのを見届けると、霞鬼はその拳を思い切り地面に突き刺した。

 

「怨身忍法“土焦がし”!」

 

 瞬間、轟音と共に百雷が縦横に地を走り、この場にいる全ての生物を感電させその肉体を焦がし尽くす。

 

 怨身忍法“土焦がし”

 

 第ニの怨身忍者“震鬼(しんき)”が得意とする怨身忍法“土沸かし”に酷似するこの忍法は、震鬼が持つ分子振動の特性を電撃に変えた霞鬼独自の残虐技。“土沸かし”は振動を地中へと伝達し、範囲内にいる全ての生物の血液を振動沸騰させその肉体を爆発四散せしめたが、霞鬼は帯電した雷電を伝達させることで“土沸かし”と同じように人体爆散を実現していた。

 

 

 刺 客 完 殺

 

 

「ふぎゃ!」

「あいた!」

「ッ」

 

 落下した双子は無様な着地を見せたが、ウィリアムは危なげなく軟着陸。

 周囲には黒焦げとなった刺客達の死骸しか無く、この場に生息する生命体は虎眼流師弟と現人鬼のみであった。

 

 

 

 灰燼と化した荒野の中、怨身体を解除し、一糸まとわぬ姿で仁王立ちする現人鬼波裸羅。

 不敵な表情を浮かべ、ウィリアムへとその美声を発した。

 

『やはり日ノ本言葉が通じた喃』

『……』

 

 美しい乳房を晒し、猛々しく剛槍を屹立させながらウィリアムを見やる波裸羅。

 ウィリアムは警戒態勢を崩さず、七丁念仏の刀身を指で挟んだ。

 ギラつく刀身を見て、波裸羅はその笑みを更に強める。

 

『この異界の地で日本(ポン)刀差しているのは汝だけよ。南蛮人の風体じゃが、汝もこの異界に飛ばされた口か?』

『ッ!?』

 

 波裸羅は七丁念仏へ美麗な視線を送りつつ、ウィリアムを舐め回すように美視線を這わす。波裸羅を日ノ本由来の妖しと断じたウィリアムは増々警戒を強め、刀身を挟む力を強めた。

 

『うっふっふっふ。やっと毛が生えたくらいの童貞(わらし)かと思えば、よく見れば中々に整った顔立ち』

 

 波裸羅は悠然とウィリアムへ歩を進める。みしり、と妖刀の軋む音が響いた。

 

『美味そうじゃ……!』

『……ッ!』

 

 猛然と殺気を噴出させ、舌舐めずりをしながらウィリアムへ肉薄する波裸羅。

 下腹部にそびえ立つ剛槍からも発せられる悍ましいまでの殺気を受け、ウィリアムは首筋に一筋の汗を垂らす。そのまま、渾身の闘気を込め流星を射出するべく迎撃態勢を取った。

 

 鬼と虎の殺気で、その間にある空気は禍々しく渦を巻く。

 ウィリアムが、死の流星を放たんとしたその瞬間──

 

『ま、今日はもうヤらん。波裸羅はちとくたびれた』

 

 波裸羅から発せられた殺気が霧散する。肩の力を抜き、括れた腰に手をやる波裸羅からは一切の戦意は感じられず。

 ウィリアムは波裸羅を不審げに見やるも、掴んでいた妖刀の刀身から手を離した。

 

『中々の胆力よの虎小僧。拙者、波裸羅と申す。汝の名は?』

『……ウィリアム・アダムス』

『アダムスっスか……アダムス?』

 

 突如戦闘態勢を解除し、友好的な態度を見せる波裸羅の魂胆が読めず、ウィリアムは妖刀を鞘に収めることなくその美姿を注視し続ける。

 波裸羅はウィリアムの口から聞き覚えのある名称が出てきたことで、その美顔を訝しげに歪めた。

 

『治国平天下大君のお抱えにそのような名の南蛮人がいた喃。たしか、和名は三浦按針といったか』

『ッ!?』

 

 “治国平天下大君”という名称を聞き、ウィリアムは驚愕の表情を浮かべる。妖怪から大神君の名が出たことで、ウィリアムはやや警戒態勢を和らげた。

 元来、女型(・・)の妖魔は権力者側に属すことも多々有り。

 平安の世の玉藻御前しかり、源平合戦時の海御前しかり、鎌倉の世の鈴鹿御前しかり。傾国の美貌を持つ彼女らは、その美しい姿で権力者を籠絡するのが常であった。

 もっとも、波裸羅の股間に屹立する大逸物を見て、ウィリアムは緩めた警戒を即刻引き締め直したが。

 

 警戒しつつ、ウィリアムは波裸羅へその所属を問う。

 

『いずれの御家中か?』

『波裸羅はどこにも属さぬ。前は九鬼守隆のところに厄介になっていたがの』

『志摩鳥羽藩の……』

 

 ウィリアムは戦国の海原で暴れまわった九鬼水軍に波裸羅なる将がいたかと首をひねるも、当の波裸羅はそれに構わずウィリアムへ言葉を返した。

 

『ふむ。アダムスの。汝は伊斯巴尼亜(イスパニア)の産か? にしては日ノ本剣法に秀でておる喃』

 

 波裸羅の問いに、ウィリアムは困惑しつつそれに応える。波裸羅からはどうも得も言われぬ“魅力(カリスマ)”が感じられ、その魅力は自身の貝殻から鬼征伐の野心を鎮火せしめていた。

 また、あの非常識な強さを持つ龍と渡り合った鬼との戦闘を避けたいという気持ちもあり。更に言えば、波裸羅が乱入しなければ自身はオルステッドの前に屍を晒していたかもしれないと、波裸羅に僅かに恩を感じていた。

 一度は鬼征伐を誓ったウィリアムであったが、よくよく考えてみればこの“異界”で鬼を征伐しても何らステイタスにもならないという思いもあり、ウィリアムは妖刀を鞘に収めることはしないものの鬼との対話を継続していた。

 

『それがしは……』

 

 ウィリアムは簡潔に自身の身の上話を波裸羅へ語る。

 かつての己の名、自身が掛川藩剣術指南役であったこと、そしてこの異界に転生し、その剣技をこの世界に根付かせる為に剣を磨きしこと。

 そして、生き別れた母親を救う旅の途上であることを滔々と語った。

 波裸羅は終始興味深そうにそれを聞いていたが、ウィリアムが転生する前のくだりを聞きある疑問が浮かんだ。

 

『ほう。それは数奇な。して、汝はいつ(・・)ここに来た?』

 

 波裸羅の疑問に、ウィリアムは短くそれに応える。

 

寛永四年(・・・・)

『寛永?』

 

 聞き慣れぬ元号が出てきたことで、波裸羅は増々疑問の表情を強める。

 

『岩本……いや、アダムス。元和の世ではないのか?』

『元和の御世はとうに過ぎて(・・・・・・)おりまする』

 

 妙な質問を返す波裸羅に、訝しげな表情を向けるウィリアム。

 波裸羅は顎に手をあて、しばらく黙々と思考を続けていた。

 

『ッ!?』

 

 だが、ウィリアムが持つ七丁念仏の刀身から光輝の天龍(・・・・・)を幻視すると、その美顔を蒼穹の空へと向けた。

 

『成る程喃……衛府の龍め、ややこしいことをする……』

『……?』

 

 空を見上げながら、何やら得心がいった様子の波裸羅を、ウィリアムは不思議そうに見やる。

 しばらく空を見上げていた波裸羅は、その美瞳を爛と輝かせるとウィリアムへにやりと美笑を浮かべた。

 

『互いに聞きたい事がまだまだありそうじゃ喃。が、その前に』

 

 波裸羅は先程から虎と鬼の対話を不安げな様子で見守っていた双子の兎へと美視線を向ける。

 ナクルとガドは突然謎の言語で語りだした師匠に困惑しつつも、次第に虎と鬼の双方から殺気が収まっていくのを見て大人しくウィリアムの背後に控えていた。

 

「おい。そこな兎」

「え、お、俺?」

 

 唐突に声をかけられたナクルは戸惑いつつも、ウィリアムが妖刀を鞘に収めるのを見て自身もその曲剣を収納し、波裸羅へと怯えた視線を返した。

 

「近う寄れ」

「え、えっと……」

 

 ナクルはちらりとウィリアムの顔を伺う。ウィリアムもまた僅かに当惑していたが、波裸羅から一切の“害意”が無いことを感じると小さくナクルへ頷いた。

 師匠の促しを受け、ナクルは波裸羅の前へおずおずと歩み出る。波裸羅の美しい乳房を見てやや顔を赤らめるも、直後にその凶悪な剛槍を見て顔を青ざめさせた。

 

 そして、兎を前にした鬼の無慈悲な一声が響いた。

 

「服の寸法は“える”じゃな?」

「へ?」

 

 

 

 数分後。

 現人鬼によって裸にひん剥かれたナクルが、地べたにへたりこみながらメソメソと泣いていた。

 

「ちと胸がきつい喃」

 

 ナクルの冒険者装束を強奪した波裸羅は、その美麗な乳房をはだけさせながら傲岸に仁王立ちする。

 ウィリアムは弟子が陵辱されるのを防ごうとしたが、現人鬼の有無を言わせない迫力に気圧されその暴虐を止めること能わず。

 

「う……うう……ひ、ひどい……」

「に、兄ちゃん。とりあえず、僕の下履きを使いなよ」

「うう……ありがとう、ガド……くっさ!」

「ひどい」

 

 悲惨なやり取りをする双子を尻目に、波裸羅は今日一番の美声を高らかに謡った。

 

「さぁ()くぞアダムス! 汝の母者を救いに、共に砂の魔窟へ参ろうぞ!」

「は?」

 

 哄笑を上げながら大闊歩せし現人鬼波裸羅。

 その後姿を、ウィリアムは呆気に取られながら見つめていた。

 

 

 

 異世界にて、虎と兎、そして鬼による大虐殺パーティが、虎にとって不本意ながら結成された瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




以下ウィリアムパーティ内訳
ウィリアム【剣士・アタッカー】
ナクル【剣士・アタッカー】
ガド【剣士・アタッカー】
はらら様【ニンジャ・アタッカー】

以上。


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第二十五景『砂漠淫夢幻能(さばくゆめしばい)

 

 ベガリット大陸

 

 六面世界“人の世界”南西に位置するこの大陸は、大部分が砂漠地帯となっている不毛の地である。僅かに存在する森林地帯が力を持たぬ民の拠り所となっていたが、砂漠地帯には強力な“魔力溜まり”が点在し、そこに形成される迷宮の産出品を目当てに多くの冒険者や商人が在住していた。また、古来より砂漠に住まう戦士達の部族もおり、それらは砂漠を行き交う隊商の護衛や迷宮に潜る冒険者の護衛を生業としていた。

 

 ベガリットには強力な魔力溜まりがあるせいか、棲まう魔物は魔大陸には及ばぬものの中央大陸の魔物とは比べ物になく強力である。それゆえに、各地から集まった迷宮目当ての冒険者は手練れが多く、砂漠の戦士達の戦闘力もまた相応に高いものとなっていた。迷宮産出品やベガリット産の魔物の素材は希少性が高い為、一攫千金を狙う商人達もまた野心に溢れ、危険地帯で商いを行う胆力を十分に備えていた。

 

 連綿と続く人々の営みはベガリットの社会基盤をある程度は構築せしめており、その一つが砂漠の各所に設けられているバザールなる小規模の集落である。迷宮都市や交易都市間の物流の中継を担っているバザールは、灼熱の大地を旅する者にとってまさにオアシスともいえる休息の地であった。

 

 また、苛酷な土地に住まう人間の多くが屈強な亜人や魔族では無い“人族”である為なのか、ベガリット大陸にはアスラ王国のような広域王朝は存在せず、各都市の自治による社会行政が施行されている。迷宮産出品や魔物の素材を加工する技術力も高く、ベガリット産の物品は一種のブランドとなって世界中で取引されていた。流通する通貨もベガリット独自の貨幣“シンサ”が使われており、扱われる言語も“闘神語”という独自の言語が使われている。

 ベガリットは政治、経済、文化、気候など様々な面で独自性の強い大陸となっていた。

 

 茫漠と広がる砂の海。

 日中は全てを焼き尽くさんと灼熱の太陽が身を焦がし、熱風がその骨を溶かさんと吹き荒れる。だが、日が沈み夜の帳が下りると、砂漠は全てを凍てつかせんと氷点下の酷寒世界へと変わる。

 乾燥した砂の大地は地熱を保つことが出来ず、昼夜の温度差を非常に大きいものとしているのだ。

 

 

 時刻は深夜。

 砂の海にぽつんと存在する“転移魔法陣の遺跡”にて、静寂にして厳冷な夜の砂漠に相応しからぬ熱情に溢れた声が響いた。

 

「イヤアアアアアアアッッ!!」

 

 絹を引き裂くかのような哭声が響く。

 しかしこれは救いを求める女性(にょしょう)の悲鳴ではなく、ましてや空手技を叩き込まんとする忍者の咆哮でもない。

 

「わ、若先生! お気を確かに!」

「アッハッハッハ! アダムス! 汝は衆道(・・)も嗜んでおったか!」

 

 目に涙を溜め狼狽するは兎の弟、ガド・ミルデット。

 目に涙を溜め哄笑せしは霞の鬼、現人鬼波裸羅。

 

 そして双方が視線を向けしは、曖昧な状態(・・・・・)の若き虎ウィリアム・アダムスと、今まさにその虎に陵辱されかけている兎の兄ナクル・ミルデットであった。

 

「い、いくぅ……」

「わ、若先生! ナクルでございます! いくではござりませぬ! いくでは!」

 

 ナクルをうつ伏せに組み伏せ、曖昧な表情を浮かべる異界の若虎、ウィリアム・アダムス。

 涙を浮かべながら必死に虎の拘束から逃れようとするナクルであったが、七大列強に相応しきその剛力は兎兄の一切の抵抗を封じていた。

 

「種ぇ」

「やめてぇ!」

「兄ちゃぁぁぁぁぁん!」

「アッハッハッハッハ!」

 

 必死になってウィリアムから逃れようとするナクル。しかし虎は確りと兎兄を押さえつけその逃走を許さない。

 師である虎に対し、実力行使でその暴虐を止めるわけにはいかないガドは悲惨な程の狼狽を見せ、現人鬼は爆笑した。

 

 

 幻想的な異世界の砂漠で繰り広げられし阿鼻叫喚の地獄絵図。

 一体何がどうしてこのような惨劇の幕が上がったのか。

 その理由を探るには、少しばかり時を遡る必要があった。

 

 

 

 

 


 

「ほう! これが“転移魔法陣”なる物か!」

 

 龍神、そして魔族の暗殺部隊との激戦を終え生き永らえた虎眼流師弟一行。ルーメンの森は緑豊かだったその景観を一変させ、終末世界の如く荒れ果てた姿を晒していた。

 とはいえ、転移魔法陣の在処である祠の周囲は戦闘圏内から離れた場所にあった為か、存外に森林としての原型を留めている。

 なぜかウィリアム達に同道することとなった現人鬼波裸羅は、眼を輝かせながら茨に覆われた石碑へと近づく。

 

「アダムス! この石碑が魔法陣か(のう)! 随分と小振りじゃな!」

「いやそれは……」

 

 ウィリアムはべしべしと石碑を叩きながら御機嫌な様子の波裸羅を見てうんざりとした表情を隠そうともせず。

 互いに戦う理由は無くなってはいたが、それでも波裸羅の謎めいた素性はウィリアムに疑念を抱かせるのに十分であり。そもそも、あの“怨身忍法”なる怪しげな術は今生に於ける魔術との類似性は一切無く、まして前世世界でもそのような荒唐無稽を目にしたことは無く。加えて、弟子の衣服を強奪せしめる程の傍若無人っぷりを見せた波裸羅はあらゆる意味で傍に近づけたくない存在であった。

 上記の理由で既に敵対することは無くなったが、かといって味方にもしたくないウィリアムは波裸羅の同道を一度は断ろうとしていた。

 

 だが、オルステッドと伍するほどの実力を持つ波裸羅の戦闘力、そして前世世界である程度の地位にいたであろう波裸羅の社会的立場を鑑みたウィリアムは、転移魔法陣の絶対秘匿を条件にその同道を許可していた。

 弟子達、特に裸に剥かれたナクルの猛抗議を完全に無視した、断腸の思いではあったが。

 

「現人鬼殿! それはただの石碑で魔法陣は結界でかもふられているだけです!」

「何も知らぬなら勝手な行動は謹んで頂きたい!」

 

 双子の兎、ナクルとガドははしゃぐ波裸羅を嗜めるように声を荒げる。

 ナクルはガドの上衣を腰に巻き、そのしなやかな肢体を無防備に晒している。ガドは近くの小川で己の糞便が付着した下履きを洗ったばかりであり、その下半身はびしょびしょに濡れ塗れていた。

 波裸羅は無惨な姿で喚く双子の兎を、先程のウィリアムと同じようにうんざりとした表情を向ける。

 

「煩い。素っ裸兎に(くそ)漏らし兎」

「あんたが剥いたんじゃねーか!」

「洗ったからもうウンコついてねーし!」

「あ?」

真心謝罪(すいませんでした)!」

(ナマ)言ってさーせん!」

 

 食って掛かる双子の兎を即座に威圧する波裸羅。ウィリアムはその様子を何かを諦めたかのような寂寥感が篭った眼差しで見つめた。

 僅かの間に双子との明確な身分の檻(ヒエラルキー)を確立させた波裸羅の自儘ぶりは留まることを知らず。

 

稻羽之素菟(いなばのしろうさぎ)みたく皮を剥かれたわけじゃあるまいし。喃、アダムスの」

「……」

 

 ウィリアムへ扇情的な美笑を向ける波裸羅。それを沈黙で返すウィリアムは、ワニザメよりも凶悪なこの波裸羅の笑顔を見ても全く揺れることはなく。

 泰然自若のその心胆は、背中に背負いし“異界天下無双”に相応しき代物。波裸羅はその言霊を見て美笑を強めた。

 

「ふふふ……異界天下ゴッツァンか。見上げた下克上よの」

「……何か」

 

 波裸羅の美声に、ウィリアムは顔を顰めながらそれに応える。己の大望を鼻で笑われたように感じた虎は、波裸羅へ向け僅かに怒気を露わにした。

 

「別に何もないわい。波裸羅を差し置いて天下ゴッツァンを宣うのは大いに結構。波裸羅はこの異界、愉しみこそはすれ骨を埋めるつもりは無いのでな」

「……」

 

 奔放な発言を続ける波裸羅に、ウィリアムは諦めたかのように溜息を吐くのみであった。

 

「ナクル」

「は、はい!」

 

 ウィリアムは石碑の前で恐々としているナクルへ声をかけ、懐から呪文が書かれしメモを取り出した。

 転移魔法陣の石碑に特定の詠唱呪文を唱えねば、転移魔法陣の遺跡は現出せず。

 ナナホシから授かった呪文のメモをナクルへ手渡すウィリアムを見て、波裸羅は不思議そうな表情を浮かべる。

 

「なんじゃ、なんぞ(まじな)いが必要か。アダムスは魔術なる幻法は使えぬのか?」

「それがしは魔術の素養はありませぬゆえ」

 

 これは転移魔法陣の存在を教授したナナホシも知らぬことだったが、ウィリアムは魔術を一切使えぬ者であり、兄ルーデウス・グレイラットが膨大な魔力量を用いて魔術を行使するのとは真逆の性質を有していた。

 その分、ウィリアムは内に秘める膨大な魔力を闘気として発するのを可能としている。

 ナナホシはルーデウスと同じ様にウィリアムも魔術の素養があると勘違いし、転移魔法陣の起動呪文のメモを渡してしまったが、ウィリアムは旅すがら適当な魔術師を雇って転移魔法陣の起動を行おうと考えていた。当然、口封じに用済みとなったその魔術師の斬殺も。

 シャリーアで双子を弟子にしたのはウィリアムに、そして無惨な骸を晒したであろう魔術師にとっては僥倖だったといえるだろう。もっとも双子は“吠魔術”しか使えない武辺者ではあったが。

 

「不足を知る者は足る者じゃ。魔術がつかえぬからとてヘコむ必要は無いぞ」

「元から気にしておりませぬ……」

 

 ウィリアムは努めて平静に波裸羅へ言葉を返す。虎の地雷原を悠々とぶち歩く現人鬼の自儘ぶりを受け、兎達は首筋に冷えた汗を垂らしてた。

 

「ええっと……その龍はただ信念にのみ生きる。広壮たる(かいな)からは……」

 

 ナクルはメモへ目を通しながら石碑に手を置くと、おずおずと呪文を詠唱し始める。

 ナクルの手から石碑に魔力が注がれていくと、石碑の先にある空間が歪み石造りの建屋が現出した。

 

「ほぉ……」

「すっげ……」

「こんなの見たこと無い……」

「……」

 

 結界が解除され転移魔法陣の遺跡が現出すると、四人はそれぞれ感嘆を新たにする。

 現出せし遺跡の内部には、目当ての転移魔法陣が存在していた。

 

「よっしゃ。()くぞ魔剣豪共!」

 

 ずんずんと大股で先を進む波裸羅。それを見たナクルとガドは感動に震えた興奮がみるみる萎えていき、げんなりとした表情を浮かべて後に続く。ウィリアムもまた一瞬戸惑うも、直ぐに無表情となりそれに続いた。

 このような摩訶不思議なる建物の内部では、どのような罠があるか分かったものではない。が、波裸羅ならば致死性の高い罠でもおそらくは大丈夫だろう。よしんばそれに引っ掛かって命を落としたとしてもなんら感慨もなく。

 弟子を先行させるよりは遥かに有義であるこの隊列は、ウィリアムにとって何ら不満に思う所は無かった。波裸羅には恩もあり、妙な魅力もあり、前世世界を同じくする同胞でもあったが、だからと言って胡散臭いその存在を完全に信用したわけでも無く。ウィリアムは波裸羅に何かしら不穏な動きを察知すれば即座に成敗する腹積もりであった。

 もっとも、既にルーデウスがこの魔法陣を使用してベガリット大陸へ行っている為遺跡内部の安全は保証されており、そもそもナナホシが指示した場所ならばウィリアムにとって悪意がある場所とは思えなかったのだが。

 

 

「中は大して広くない喃」

 

 先行する波裸羅は興味深そうに遺跡内部を眺める。

 遺跡内部は薄暗く、石造りで建てられたその壁面には縦横に蔦が生い茂り樹木の根が覗いている。入って直ぐに四つの扉が見え、その内二つは何もない空き部屋であった。

 

「あ、服がある」

 

 もう一つの部屋にはクローゼットが設置されており、その中には男物の防寒具が保管されている。ナクルは目敏くそれ見つけ手を伸ばそうとするも、ウィリアムが即座にそれを制した。

 

「ナクル。ここの品に手を付けるな。ナナホシ姫の御意向である」

「は、はぁ……」

 

 しゅんと兎耳を垂らし名残惜しそうにクローゼットを見るナクル。ウィリアムはナナホシから転移魔法陣の存在を教授された際、その内部にある物品はそのまま安置するよう申し付けられていた。

 その物品の本来の持ち主の事を全く伝えていなかったのは、ナナホシのうっかりでは済まされない程の失態であったのだが。

 

「この奥じゃな」

 

 波裸羅は無遠慮に最後に残った扉を開くと、扉内部にある階段をずんずんと進む。

 先のルーデウス達が慎重に歩を進めたのとは違い、自信満々に闊歩する波裸羅。しかしこれは冒険ではなく蛮勇である。発せられる蛮勇引力に引かれ、虎眼流師弟は現人鬼の後に続く。

 

「ほほう。らしいのがある喃」

 

 進んだ先には、ぼんやりとした青白い光を発する魔法陣が現れる。それを目にした波裸羅は増々眼を輝かせていた。

 

「若先生。こちらへ」

「うむ」

 

 ナクルがウィリアムを魔法陣の中心へと導く。転移魔法陣を複数人で使用する場合、それぞれの肉体が接触していなければ同時に転移することは出来ない。ナクルはガドと手をつなぎ、空いた手でウィリアムへと手を差し出した。

 ちなみに、この双子の兎は隙あらば波裸羅をそのまま置き去りにしようと画策していた。

 

「手を繋げばいいのじゃな!」

 

 が、双子の企みはあっさりと頓挫する。

 波裸羅は残虐な笑みを浮かべながら強引に双子の間へと割って入り、それぞれの手をみしりと握りしめた。

 

「いだだだだだだだッ!?」

「や、ヤメローッ!」

(やわ)(たなごころ)じゃ喃。もそっと鍛えんか」

 

 ウィリアムは目の前で繰り広げられる無惨な光景を極力無視し、溜息を一つ吐くとそっとナクルの肩に手を置いた。すると、魔法陣が活性化されウィリアム達の意識が一瞬途切れる。

 

 気付いた時には、ウィリアム達は砂漠の大地、ベガリット大陸へと到達していた。

 

 

「なんとも味気ない喃。本当に転移したのか?」

 

 波裸羅は入って来た時と同様にずんずんと部屋の出口へと歩む。扉を開けると、焼け付くような熱風がウィリアム達へと纏わりついた。

 明らかに森とは違う環境の変化を受け、波裸羅は好奇心に溢れた美笑を浮かべ遺跡の外へと足を運ぶ。

 ウィリアム達は熱さと波裸羅の自儘ぶりに顔を歪めながらそれに続いた。

 

「ほう! 因州の砂丘とは比べ物にならぬな!」

 

 遺跡の外は、膨大な熱砂に溢れた砂漠が広がっていた。砂の大地から照り返す太陽光がウィリアム達を焼き、その酷暑は容赦なく虎と兎兄弟を苛む。

 ただ一人元気いっぱいの現人鬼だけが、その茫漠な砂の大地を眼を輝かせて見ていた。

 

「よっしゃ! 征くぞ魔剣──」

「現人鬼殿。今日はこれ以上進まずここで夜を明かしましょう」

 

 勇んで飛び出そうとする波裸羅に、ウィリアムは待ったをかける。見ると、ウィリアムはやや苦しそうに自身の胸を押さえていた。

 先の戦闘で折れた胸骨は完治しておらず、本来ならばしかるべき治療を受けねばならぬほどの負傷を負っていたウィリアム。いかに強靭なその肉体とはいえ、休息を挟まずに苛酷な砂漠を走破出来るほど、虎の体力は残されていなかった。

 まだ日は中天を指していたが、ウィリアムはこれ以上の行軍はせず、素直に休息を取ることを決断していた。

 

 波裸羅はウィリアムを見て鼻息をひとつつくと、つまらなそうに遺跡内部へと美足を向けた。

 

「ふん、だらしない喃。ま、()いては事を仕損じるとも言うしな」

 

 不満げな波裸羅へ向け僅かに頭を下げるウィリアム。とにかく、虎には休息が必要だった。双子の兎は波裸羅を見て「そのまま彼方へ消えてくれればいいのに……」と、波裸羅に負けず劣らず不満げな表情を浮かべていたが、宿営準備を整えるべく波裸羅に続き遺跡内へと戻る。

 

 ウィリアムはちらりと砂漠へと眼を向ける。虎が見つめる先は、迷宮都市ラパンが存在していた。

 僅かに表情を歪める若虎。

 それは、砂漠の熱さや、胸の痛みからでは無かった。

 

 

 

 深夜。

 酷暑の砂漠は極寒の砂漠へと変わっていたが、遺跡の内部ではややその寒さが和らいでいる。ウィリアム達は森でしこたま薪を集めてはいたのだが、室内で火を起こすのを避けた為、魔剣豪達は僅かな暖を取りながら身体を休めていた。

 ナクルとガドは身を寄せ合い互いの体温を求めるようにして眠りについている。ウィリアムはその少し離れた場所で妖刀を抱えながら壁面にもたれ掛かり身体を休めていた。

 

「……?」

 

 ふと、微睡むウィリアムの鼻孔を“甘い香り”がくすぐる。同時に、虎の心臓が早鐘の如く鼓動を強くしていた。

 

(奇な……)

 

 自身の肉体の異常を察知し、眼を開いたウィリアムは鋭く周囲へ視線を向ける。

 部屋には双子の兎の姿しかなく、現人鬼波裸羅の姿はどこにも無かった。

 

「んん……」

「うー……」

 

 もぞもぞと身じろぎをする双子の兎。ナクルの上半身は汗で濡れており、艶かしくそのしなやかな肉体を晒している。

 ガドもまたあどけない寝顔をしっとりと濡らし、どこか中性的な色気を発している。

 ウィリアムは妙に色っぽい弟子達の肢体を見て、ごくりと生唾を飲み込んでいた。

 

 このウサギ……すけべ過ぎる!

 

(九郎右衛門ではあるまいし!)

 

 前世の虎眼流高弟の一人、山崎九郎右衛門の顔を思い浮かべたウィリアムは、煩悩と共に現れた九郎右衛門の顔を打ち消すかのように頭を振る。九郎右衛門が同門の美少年剣士、近藤涼之助を想い夜な夜な自慰行為に耽っていたのを、見て見ぬふりをする情けが虎眼流師弟に存在した。

 ウィリアムは双子の艶めいた肉体から眼を逸らしのそりと身体を起こす。前世の価値観からか男色には一定の理解を持つウィリアムであったが、だからといって自身が男に欲情するつもりは毛頭無く。

 これ以上この場にいてはよからぬ間違いを仕出かすと思ったウィリアムは、その滾った肉欲を発散させるべく遺跡の外へと赴いた。一歩外に向かう度に、甘い香りはウィリアムの脳髄を痺れさせ、肉体は淫欲に支配されていった。

 

「……」

 

 外に出ると、満天の星空が綺羅星の如く輝きを放ち、夜の砂漠を幻想的な雰囲気に演出していた。が、ウィリアムはそのような景観に浸るほどの精神状態ではなく。

 やや息を荒くし、血走った眼を浮かべながら自身の下履きへと手をかけようとした。

 

「む……?」

 

 だが、下履きに手をかけたところでウィリアムは動きを止める。見ると、視線を向けた先には、遺跡からいなくなっていた波裸羅と淫靡な雰囲気を醸し出した女姓の姿があった。

 酷寒の砂漠には相応しからぬ薄手の布を身に纏い、妖艶な笑みを浮かべている女性。波裸羅と女性は向かい合わせに対峙しており、ウィリアムからは波裸羅の後ろ姿しか見えておらず。

 薄手の布の下では女性の乳房が透けて見えており、僅かに浮かぶ桜色の蕾が若虎の肉欲を刺激する。くびれた腰つきと相まって得も言われぬ魅惑を放つ女性を、ウィリアムは血走った眼で見つめていた。最早、波裸羅と女性が何故真夜中の砂漠で対峙していたのか、という事など虎にとってどうでもよくなっていた。

 

「うふふふふ……」

 

 眼が合う若虎と女性。女性は蠱惑的な笑みを浮かべると、その手を自身の乳房へ淫猥に這わせ、虎を誘うべく手招きをひとつした。

 夢遊病患者の如く、ウィリアムは女性の胸元へとふらふらと誘われていく。依然仁王立ちする波裸羅の横を通り過ぎ、ウィリアムはその肉欲をぶつけんと女性へと手を伸ばした。

 

 虎が、砂漠の淫花に手を伸ばした、その瞬間。

 

 

「忍法“柘榴砕き”!」

「ギュエアァァァァァッ!!」

 

 

 波裸羅の美気迫一閃!

 直後に女性の心臓は柘榴の如く割れ、全身から血を噴き出し凄まじい形相を浮かべ絶命する!

 

 忍法“柘榴砕き”

 

 現人鬼が纏う怨気は常人ならば心臓が破裂する程の威圧を放っており、その怨気に指向性を持たせることで対象の肉体を完全破壊せしめることが出来る。

 波裸羅の心臓破裂闘気をまともに浴びた女性は一瞬で心臓が破裂し、その淫靡な肉体を無惨な姿へと変えていた。

 ちなみにこの忍法は波裸羅との実力差が相当に開いていないと効果が出ず、仮に双子の兎達が同様の忍法を喰らったとしても動悸が乱れる程度に収まる威力であった。

 

「何をするッ!」

 

 いきなりの残虐行為で“餌”を台無しにされた虎は怒りを顕にし波裸羅に食って掛かる。胸ぐらを掴まれた波裸羅はウィリアムへ気だるげな表情を浮かべながら女性の死体を指し示した。

 

「戯け。よう見い」

「ッ!?」

 

 女性の死体はその艶美な美貌を一変させ、蝙蝠のような醜悪な面貌へと変わっていた。官能的な肉体がそのままなのもあってか、その死体はひどく歪であり、まさに異形異類の死骸という有様である。

 ウィリアムはその姿を見て一瞬顔を顰めるも、自身の内から沸き上がる“獣欲”に苛まれその場に蹲ってしまった。

 

「ムーアから聞いていたが、これがサキュバスなる魔物なのじゃ喃……」

 

 ベガリット大陸に棲まう淫魔、サキュバス。

 女型の魔物であるサキュバスは特殊なフェロモンを撒き散らし男を狂わせ、自身を性的に襲わせてその体力、そして精力を絞り尽くす魔物。衰弱した男を巣へと持ち帰り、その肉体を貪り喰らうのがサキュバスの主な生態である。

 男にとって抵抗し難い誘引力を発するサキュバスのフェロモンであるが、女にとっては鼻がひん曲がる程の悪臭に感じられ、元々の戦闘力がそれほど高くないのもあってか男女で討伐難易度が激変する珍妙な魔物であった。元々は魔大陸に少数生息するサキュバスであったが、ラプラス戦役の際に魔神ラプラスが増殖させ、ベガリット大陸の人族撹乱の為に大量に放っている。今ではベガリットの固有種となったサキュバスを警戒し、砂漠の戦士達は男女ペアになって行動するのが常であった。

 

「クソ生意気にもこの波裸羅を誘惑しおってからに。じゃが、波裸羅が雄にも牝にもなれるとは思わなんだろうな」

 

 くつくつと蠱惑的に喉を鳴らす波裸羅。

 身体を休めるウィリアム達の中で、最初にサキュバスが発するフェロモンに気付いた波裸羅は、その臭いの発生源を確かめると即座に自身の肉体を操りサキュバスの反応を探っていた。

 サキュバスは男かと思ったら急に女の肉体になった波裸羅を見て混乱し、波裸羅はそれを見て面白くなったのか自身の剛槍を出し入れする。つまるところ、サキュバスの反応を見て遊んでいただけである。

 そろそろ飽きてきたので適当なところで殺害してやろうかと思っていた矢先に、フェロモンに誘われたウィリアムが現れたといった次第であった。

 

「うぅ……!」

「なんじゃアダムス。淫魔の淫気に当てられたか?」

 

 蹲るウィリアムを首をかしげながら覗く波裸羅。

 覗き込む際、その美しい胸の谷間が露わになり、その肢体からは先程の甘い香り以上の性臭が漂う。ウィリアムは脂汗を浮かべながら沸き上がる獣欲を必死になって抑えていた。

 

 現人鬼は。

 現人鬼だけは、無い。

 

 若き血潮を滾らせる虎の貝殻の中で、理性と本能が激しく鎬を削っていた。

 波裸羅はそれを見て愉悦に満ちた表情を浮かべており。つまるところ、虎を弄って再び遊んでいるだけであった。

 

「わ、若先生!」

「如何なされ……何だこのバケモン!?」

 

 波裸羅の殺人闘気の余波を受け覚醒したのか、おっとり刀で駆けつける兎兄弟。直後に飛び込む醜悪な淫魔の死体を見て当惑を隠せなかった。

 

「兎共、早よその淫魔を焼け。臭くてかなわん」

 

 波裸羅の一声を受け、双子は弾かれたようにサキュバスの焼却を開始する。即座に集めていた薪をくべ、淫魔の死体を燃やし始めた。

 

「け死めバケモン!」

「ざまたれが!」

 

 夜の砂漠にてごうごうと淫魔の死体が燃える。サキュバスが発していたフェロモンは良い感じに双子を興奮せしめており、まるでサバトの如く狂乱した様相を呈していた。

 

 やがてサキュバスが完全に灰となり、双子の兎もやや落ち着きを取り戻す。幸か不幸か、フェロモンの残り香程度では兎を発情させるには至らず。

 未だに蹲るウィリアムを見た双子は灰の始末をそこそこに師匠の安否を確かめるべくその傍に駆け寄った。

 

「若先生……お体の具合は……?」

「……ぃ」

 

 満点の星空が輝く夜の砂漠。蹲るウィリアムの表情を伺うにはその光量が足りないのか、ナクルは心配そうに虎の表情を覗き込む。

 

「……ね」

「わ、若先生?」

 

 覗き込むナクルの腕を取り、俯きながら何かを呟くウィリアム。戸惑うナクルは、その掴む力が徐々に強まっていくのを感じ取り、増々困惑した様子を見せる。

 

 そして、ナクルは見てしまった。

 

 虎が、理性と本能の激烈な争いの果てに、曖昧な領域へと迷ってしまったのを。

 

「種ぇ……!」

「ッ!? ぎゃああ!?」

 

 

 地 獄 開 始

 

 

 

 

 


 

 そして時は冒頭の惨劇へと戻る。

 

「い゛~~」

「やだぁ!」

 

 ナクルが腰に巻いていたガドの上衣が無惨にも破り捨てられる。完全に生まれたままの姿となったナクルに、虎が猛然と襲いかかっていた。

 ガドは相変わらずけらけらと笑う波裸羅へ必死の形相を向ける。

 

「ゲホッ……ああ、よく笑った」

「現人鬼殿! 笑い事じゃねえっス!」

 

 しこたま笑いを上げた波裸羅は涙を拭いつつ、笑い疲れたのかやや気だるげにガドへと応えた。

 

「ねえっスか……別に師匠が弟子の尻を掘るなぞ何の問題もなかろうに」

「問題しかねえよ!?」

 

 声を荒げるガドを見て、増々面倒くさそうな表情を浮かべる波裸羅。こうしている間にも、ナクルの蕾は儚く散らされつつあった。ガドは虎を止めるべく必死になって波裸羅へ懇願する。

 

「現人鬼殿! 若先生を止めるには現人鬼殿の御力が必要なんです! どうかお助けを!」

「ええ……めんどくさい喃……」

 

 こうしている間にも、ナクルの蕾は……

 既に手遅れになりつつある状況ではあったが、まだ最後の一線はぎりぎり越えておらず。

 波裸羅はその惨劇を眺めつつ、やおら重たい腰を上げた。

 

「ま、波裸羅も野郎同士の乳繰り合いは見たくは無いしな。是非も無し」

 

 腰を上げた波裸羅は捕食を継続する虎へ向けて美声を発した。

 

「おい、アダムス」

「あ、ああ……?」

 

 波裸羅は蠱惑的な笑みを浮かべつつ、胸元へ手をかけちらりとその桜色を覗かせた。

 

「ほれほれ。むさ苦しい兎のケツより、ここに甘い果肉があるぞ」

「あ、あああ……!」

「ひぎぃッ!」

 

 まさに花蜜に誘われる蜜蜂のように、ふらふらと波裸羅の胸元へと吸い寄せられるウィリアム。波裸羅の元へ向かうウィリアムに臀部を蹴り飛ばされたナクルは情けない悲鳴をひとつあげていた。踏んだり蹴ったりとはこのことか。

 

「ふふふふ……」

「あ、ああ……」

 

 波裸羅の濡れた胸元へと顔を埋めるウィリアム。波裸羅はそれを優しく受け止め、その美手で虎の顔を包んだ。

 サキュバス以上に淫靡で、扇情的な波裸羅の美姿を見て、ガドはごくりと生唾を飲み込む。

 

 美鬼が若虎の口元へと、その唇を近づける。虎と鬼の花びらが、僅かに触れ合おうとした。

 

 が

 

「ふんッ!」

「ガッ!?」

 

 頭 振(ズシン)

 

 夜の砂漠に、地震が発生したかの如く破壊音が響き渡る。至近距離から放たれた波裸羅砲(頭突き)により、ウィリアムは額から噴水のような血液を噴出させる。びゅうびゅうと血を噴き出しながら、虎は気絶し果てた。

 

「あ、現人鬼殿……もう少しこう何というか、手心というか……」

 

 血海に沈むウィリアムを見て、慄きながら怖々と抗議の声を上げるガド。波裸羅は気絶したウィリアムを乱暴に担ぐと、やや困惑した表情を浮かべた。

 

「おかしい。手加減したはずなのに」

「鬼かあんたは」

 

 鬼である。

 

 

 

 

 


 

 惨劇から一夜明けた朝。

 

 かんかんと照りつける太陽は容赦なく砂漠の気温を上げ、出発する魔剣豪一行をその熱気で苛む。現人鬼波裸羅は依然意気軒昂といった様子で砂の大地を闊歩していた。

 ウィリアムは出血は止まっていたものの、身体のダメージが回復し切れていなかったのか未だ意識を落としており。日よけの敷布を被り気絶し続けるウィリアムを背負うガドは、昨晩の衝撃が抜けていないのかその表情は暗い。いや、昨晩の衝撃だけなら、ガドはここまで表情を暗くしていなかったのかもしれない。

 

 暗然とした表情を浮かべ続ける理由は、師匠による兄への強姦未遂の衝撃からでは無かった。

 

「ガドォ。疲れたらいつでも交代するワ。少しでも早くラパンにイカないとネ!」

「うん……そうだね……兄ちゃん……」

 

 ガドはウィリアムを背負いながら一筋の涙を流す。無惨に変わり果てた兄を直視出来ず、ただただ涙を流しながら砂の大地を踏みしめる。

 

 ナクルは、虎による強姦未遂の衝撃により、心という器にヒビが入っていた。

 

 しなを作り、尻をふりふりと揺らし、敷布をサリーのように纏わせながら歩くナクルの姿は、控えめに言ってものすごく気持ち悪く。

 正視に耐えぬその無惨な姿に、ガドは砂漠では貴重な水分である己の体液が流失していくのを止めることが出来なかった。

 

(あれは夢……夢だったんだ……)

 

 ガドは自己防衛本能からか、昨晩発生した現実から眼を背けることで心の平衡を保とうとしていた。

 

 

 ナクルが心の平衡を取り戻すのと、ウィリアムが正常な状態で覚醒するのには、あと二日程の時間が必要であった。

 

 

 

 

 

 

 



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第二十六景『再会女中夫人(さいかいのリーリャ)

 

 甲龍歴417年

 アスラ王国フィットア領ブエナ村

 パウロ・グレイラット邸

 

「アイシャ! あなたはまたウィリアム坊ちゃまの御髪(おぐし)を掴んで!」

 

 私はリーリャ。グレイラット家のメイドである。

 今、私の娘のアイシャが、読書中のウィリアム坊ちゃまの束ねた後ろ髪を引っ張って、その背中をよじ登ろうとしている。ビクリと身体を震わせたアイシャは、涙目になって私を見つめていた。

 毎日の見慣れた光景……いつもは、静かに瞑想しているウィリアム坊ちゃまだけど、たまにこうして本を読み返している。特に気に入っているのか、“三剣士と迷宮”は何度も読み返していた。

 ノルンお嬢様やアイシャを膝の上に乗せたり、背中を登らせているのはいつもの光景だ。とはいえ、坊ちゃまの読書を邪魔してまで甘えているのは流石に見過ごせない。

 

「ウィリアム坊ちゃま、申し訳ありません。アイシャが粗相を」

「……」

 

 ウィリアム坊ちゃまはアイシャが髪を引っ張っていたのを気にしていないのか、黙々と読書台に置かれた本を読み続けている。まるで、大きな猫……いや、小さな虎が、泰然と小動物をじゃれつかせていたように。

 

「アイシャ。あなたはウィリアム坊ちゃまの妹である前に、グレイラットのメイドなのですよ。分をわきまえなさい」

「……だって、うぃーにいが、いいって」

 

 涙目になり、声を震わせるアイシャ。

 ウィリアム坊ちゃまの視界に入るように、おずおずと私の前に立って。

 

 我が娘ながら、妙に聡い子だ。

 本気で涙を浮かべているわけではないのだろう。幼子特有のずる賢さといえばそうなのかもしれないけど、わざわざウィリアム坊ちゃまに見せつけるように涙目を浮かべているのは、流石に姑息すぎやしないだろうか。

 だって、こうすれば、坊ちゃまは必ず……

 

「良い。リーリャ」

 

 ほら。

 予想通り、お許しになられた。

 アイシャはその言葉を聞くやいなや、パッと顔を輝かせてウィリアム坊ちゃまの膝の上に座る。

 

「えへへ!」

「こ、こら! アイシャ!」

 

 にこにこと笑いながら勝手にページをめくり、思いっきり読書の邪魔をし始めたアイシャ。

 そんなアイシャを叱るわけでもなく、ウィリアム坊ちゃまは膝の上に乗せたアイシャの両頬に手を当てた。

 

「これはな、三大流派の初代が、迷宮に挑む話よ」

「めーひゅう(きゅう)?」

「眉唾だ。だが、面白い」

「ふーん」

 

 もみもみとアイシャの柔らかい頬を揉むウィリアム坊ちゃま。やはり、読書の邪魔をされて怒っているのでは……

 そう思っていたけれど、どうやら怒ってはいないみたいだ。ほんの僅かだけれど、ウィリアム坊ちゃまは優しげに表情を綻ばせている。

 

「ウィリアム坊ちゃま。あまりアイシャを甘やかさないでくださいませ」

 

 ため息をつきながらそう言うと、ウィリアム坊ちゃまは静かに言葉を返した。

 

「お父上の子は、家族だ」

 

 家族。

 ウィリアム坊ちゃまは、アイシャの頬をグニグニとつまみながらそう言った。「ぷー」と、アイシャの口から息が漏れると、坊ちゃまはフッと優しげに微笑んでいた。

 

 ウィリアム坊ちゃまは、あの日から随分とお変わりになられた。

 三年前のあの日。ルーデウス様がボアレス家に送致されてから、本当にお優しくなられた。以前の、悍ましいまでの不気味さを見せていた時とは大違いだ。

 相変わらず無茶な鍛錬は積んで、あまり感情を表に出さないのだけれど……でも、こうしてアイシャや、ノルンお嬢様の相手をされている時などは、穏やかな表情を見せるようになった。旦那様や奥様の過剰なスキンシップには、相変わらず困り顔を浮かべているのは、坊ちゃまらしいというか。

 

「……リャも」

「え?」

 

 小さく呟いたウィリアム坊ちゃま。

 膝の上に乗せたアイシャに隠れるように顔を俯かせているので、その表情はよく見えない。

 でも、少しだけ、耳が赤くなっているような気がした。

 

「なんでもない」

 

 顔を上げたウィリアム坊ちゃまは、いつもの澄ました表情を浮かべていた。

 

 前言撤回。

 やはり、大きな猫だ。

 気まぐれで、家族に優しい、大きな猫。

 少なくとも、今はまだ。

 

「……今日は、ウィリアム坊ちゃまがお好きなスープをご用意致しますね」

「スープはお父上の好みでいい」

「いいえ。坊ちゃまの分は坊ちゃまのお好みでご用意させていただきます」

「……左様(さよ)か」

 

 ウィリアム坊ちゃまは何かにつけて旦那様を立てる。

 でも、少しくらい旦那様に遠慮せずに、我儘を言ってもいいのだけれど。

 

 だって、家族なんだから。そうでしょう、ウィリアム坊ちゃま。

 

 私が笑顔を向けると、ウィリアム坊ちゃまは少しだけ微笑みを返してくれた。

 

 私は、ルーデウス様と違って、ウィリアム坊ちゃまには恩義を感じていない。

 旦那様と不貞を働き、アイシャを身ごもったあの時。

 ルーデウス様は、アイシャと私を機知を効かせて救ってくれた。思えば、わざと子供らしい振る舞いを見せてまで奥様を説得したのは、グレイラットの家庭崩壊を恐れていたからだろう。奥様もそう感じていたのか、子供達の為に旦那様をお許しになられた。

 あの時のウィリアム坊ちゃまは、ただ黙って事の成り行きを見ていただけだった。当然だろう。あの時の坊ちゃまは、僅か四歳の幼子でしかなかった。丁度、目の前のアイシャと同じ歳。ルーデウス様のような賢くて聡明な振る舞いを、あの時のウィリアム坊ちゃまに求めるのは酷な話だ。

 

 私は、最初はルーデウス様を避けていた。ルーデウス様が赤ん坊の頃、抱き上げたら中年親父のような下卑た笑みを浮かべ、赤ん坊の愛らしさなど一欠片も感じさせないその有様に、生理的な嫌悪感を抱いていた。ご成長されてからも、必要以上に近づきはしなかった。ルーデウス様も、どこか私が避けていたことに気づいていたのだろう。

 

 それなのに、ルーデウス様は、私を救ってくれた。

 身重の奥様を裏切り、旦那様を誑かしたあげく、妊娠した私を、許してくれた。

 それが、どんなに嬉しく……そして、今までルーデウス様を避けていた自分が、どんなに恥ずかしい存在だったことかと思い知らされた。

 

『リーリャさんがやめちゃったら、僕だって困るんです』

 

『だって、リーリャさんがいなかったら』

 

『毎日淹れてくれる、このおいしいお茶。飲めなくなっちゃうでしょう?』

 

 はにかんだ笑みを浮かべて、ルーデウス様はそう言ってくれた。

 ルーデウス様は尊敬すべきお方だ。死ぬまで仕えるべきお方だ。この恩は、一生を持って尽くしたとしても返しきれない。

 だから、アイシャ共々ルーデウス様に仕えることで、この恩を返そうと思っていた。ルーデウス様には家族としての情愛より、恩義や、忠義が勝っていた。

 

 でも、ウィリアム坊ちゃまとは……

 出来れば、家族として共に過ごしたいと思うのは、私の我儘なのだろうか。

 ウィリアム坊ちゃまの母親になろうなんて思わない。坊ちゃまには、ゼニス奥様という素敵なお母様がいる。

 私は、あくまでグレイラット家の一員として、共に過ごせれば……それで良いのだ。

 

 静かにそう想っていると、いつのまにかウィリアム坊ちゃまの背中をよじ登っていたアイシャの声が響いた。

 

「おやだんな、おとこのせなかだねえ!」

「大根か……どこで覚えた、その言葉」

「おとーさん!」

「……左様か」

 

 ……もう少し、旦那さまに遠慮しなくてもいいのだけれど。

 とにかく、夕食にはうんと苦いスープを用意しよう。

 その方が、ウィリアム坊ちゃまのお好みの味になるのだから。

 

 

 その日の夕食は、ウィリアム坊ちゃまと旦那様の分だけが、野草をたっぷり入れた苦いスープだった。アイシャの分には、少しだけ野草を足していた。

 美味しそうにスープを召し上がるウィリアム坊ちゃまと、今度こそ本当に涙目になってスープを啜るアイシャ。

 旦那様が涙目を通り越して盛大にむせてしまったのを見て、ちょっとやりすぎたと思った。

 

 

 

 私は、リーリャ

 

 グレイラット家のメイドであり、ルーデウス様に仕えるメイド

 

 そして──

 

 

 グレイラット家の……ウィリアム坊ちゃまの、家族である

 

 

 

 

 

 


 

 甲龍歴423年

 ベガリット大陸

 迷宮都市ラパン郊外

 

 砂の大地にこつ然と現れた迷宮都市の外観は、十二柱の湾曲した巨大な白色の柱に囲まれている。よくみると、その柱は巨大な生物の肋骨で出来ていた。

 都市をまるごと覆う巨大な肋骨は、かつて北神二世アレックス・カールマン・ライバックが、仲間と共に討伐を果たしたベヒーモスの死骸が朽ち果てて出来た物である。

 街は土色の建物が林立し、近くにオアシスがあるのか存外に街は緑で彩られていた。街からはツンとした辛い匂いが漂っており、粗野な街の雰囲気を良く醸し出していた。

 

 ベヒーモスが討伐され、死骸から膨大な魔力が漏れ染みたせいか、この地を中心に多くの迷宮が現出し始める。以来、小振りなオアシスでしかなかったラパンは、迷宮に挑む冒険者達や商人達が世界中から集まり、欲望からの活気に満ちた大都市へと変貌していた。

 

「ようやく着いたか。なかなかに愉快な道中であったが、いい加減砂には飽き飽きしたな」

「アッハイ」

「ソウッスネ」

 

 転移魔法陣を潜り、砂漠の大地にて狂乱の初日を過ごした異界虎眼流師弟と現人鬼。

 それから一ヶ月程の時が経過しており、当初は初めて目にする砂漠にはしゃいでいた波裸羅であったが、代わり映えしない砂漠の景観に三日で飽きていた。

 感慨深げに美声を発する波裸羅とは対照的に、無感動にハイライトの消えた瞳を浮かべながら抑揚のない声を返す双子の兎。

 一行はそれぞれが騎乗の身であり、砂漠の民が纏うターバンや、現実世界でいうところの“ガラベーヤ”によく似た白布の貫頭衣を身に付けていた。所々、その白布は血で汚れていたが。

 

「アダムス。ここに(なれ)の身内がおるのじゃな?」

「……はい」

 

 波裸羅は、同じく馬に跨りながらラパンを静かに見つめるウィリアムへと声をかける。

 短く波裸羅に応える若虎は、迷宮都市へ向け、僅かに濡れた瞳を向けている。

 そんな若虎へ向け、現人鬼は()力に溢れた笑みを浮かべていた。

 

「母者に、会いたいか?」

「……」

 

 シャリーアを発つ前、愛しい妹へ向けた言葉と、同じ言葉を発する波裸羅。普段の残虐な笑みとは違い、如来尊の如く慈愛に満ちた笑顔を向ける波裸羅。ウィリアムは沈黙をもってそれに応える。

 黙して語らずのウィリアムを見て美笑(びしょう)をひとつ浮かべた波裸羅は、傍らに控える双子へと美視線を向けた。

 

「しかし砂漠とは難儀な所よ。もう二度と訪れたくは無い喃……そう思わぬか、兎共」

「「俺(僕)はあんたとは二度と旅をしたくない……」」

「何か言ったか兎共」

「「イエ、ナンデモアリマセン」」

 

 満身創痍といった体の双子の兎は、波裸羅へ向け見事に揃った双声を上げる。彼らはラパンに至るこれまでの旅路を思い出し、ふるふるとその身体を震わせ青ざめた表情を隠そうともしなかった。

 

 ルーデウス・グレイラットとエリナリーゼ・ドラゴンロードが転移魔法陣からラパンへと向かう際、バザールにて隊商の護衛に混ざりラパンへと赴いている。砂漠を移動する冒険者にとって、それは常の手段であり、手堅い方法といえた。

 

 しかしこの尋常ならざる一行は、尋常ならざる手段で迷宮都市へと到達していた。

 

 

 

 

 転移の遺跡から出立した一行は、迷宮都市ラパンの方角へと歩み出す。道中、襲いかかる砂漠の魔物を難なく蹴散らす波裸羅を先頭に、意識を取り戻したウィリアムもまた滾った獣欲を発散させるかのように魔物へと襲いかかっていた。

 獰猛な双尾のサソリ(ツイン・デス・スコルピオ)をぶった斬り、巨大な砂の芋虫(サンド・ワーム)の臓物を悶えさせ、喉が渇けばサボテンに擬態した樹魔(カクタス・トゥレント)の体液を啜る。途中、数千匹はいるであろう大きな軍隊アリ(ファランクス・アント)の行進列に襲いかかろうとした若虎と現人鬼を、双子が必死になって止める一幕もあった。

 幸か不幸か、一行はベガリットでも一位二位を争う強大な魔物、ベヒーモスには出くわすことは無かった。後にベヒーモスの存在を聞いた波裸羅は、たいそう悔しそうにその美顔を歪めていたのだが。

 

 ともあれ、普段は人間を襲う魔物を、逆に見つけ次第全殺し(サーチ・アンド・デストロイ)しながら休息地であるバザールへと辿り着いた一行。

 魔物の血を存分に浴びた為か、その頃にはウィリアムの性欲も随分と落ち着いており、手頃な娼婦でも充てがって虎を鎮めようとしていた双子を密かに安堵させていた。

 

 が、一行はここで最初にして最大の落とし穴に嵌まる事となる。

 

「どいつもこいつも砂の民の言葉を話せぬとは! (うぬ)らマジでつっっかえぬのな!」

((知んねーし……))

 

 さもありなん。

 ウィリアム一行の中で、ベガリット大陸での言語“闘神語”を喋れる者は皆無だったのである。

 ウィリアムは中央大陸で広く使われている言語“人間語”と、もうひとつの言語を習得していたが、生憎と闘神語を修めているわけではなく。波裸羅も人間語と魔大陸での言語“魔神語”を習得していたが、こちらも闘神語を修めてはおらず。双子は双子で人間語以外で習得をしている言語は、故郷の大森林で扱われている“獣神語”しか無く。

 揃いも揃って肝心の闘神語を話せる者がいなかったのを受け、波裸羅は憤懣遣る方無しといった様子を見せていた。

 

「むぅ……」

 

 ウィリアムは背負うズタ袋の中から路銀を入れてある小袋を取り出し、その中身がアスラ貨幣しか入っていないのを見て顔を顰める。

 ベガリットで流通する貨幣“シンサ”を持たぬのも、一行が途方に暮れる理由の一つであった。このバザールからラパンまではまだまだ日数がかかる以上、食料を始めとした物資の補給が出来ないことには話が始まらず。

 言葉を通じずとも、金さえ払えばとりあえず物品を購入できると思っていただけに、バザールでアスラ貨幣が全く使えぬ事実を受け渋面を強めていた。

 

「言葉を話せずとも物の交換は出来よう。適当な品を見繕って……」

「若先生。言いにくいのですが、我々は交換できるような物は何も……」

 

 ナクルが言いづらそうにウィリアムへ言葉を返す。

 基本的に着の身着のままのウィリアム一行。換金できる品物といえば、各々が持つ得物ではあるが、剣士にとって命とも言える剣を気軽に物々交換に出せるわけがなく。道中蹴散らした魔物の素材を売ることも考えられたが、性欲を持て余したウィリアムが必要以上に滅多斬りにしたせいで売買可能な部位は残されておらず。波裸羅は基本的に魔物を爆散させていたので言うに及ばなかった。

 

「水も食料も手に持てるだけじゃ足りませんし、そもそも食料は尽きておりますし。どっかの誰かさんのせいでな! 物資と一緒に、荷運び用の馬かラクダも調達しなければなりません」

 

 ナクルに続きガドも困ったように声をあげた。小声で現人鬼をdisるのも忘れていない。

 オアシスの水で飲料水の補給は出来るが、それでも手持ちの水袋では到底ラパンまでは持たない。豊富な水を内包するカクタス・トゥレントも、そうそう都合良く現れるとも限らず。

 そして、持参した食料は底をついていた。残っていれば中央大陸産の食料は高値で売れるのだが、員数外の波裸羅が参入したせいで予定よりも早く食料が枯渇していた。とはいえ、もしここで食料が補給出来たとしても、手持ち分だけでは目的地まで到底足りるとは思えず。

 波裸羅が無遠慮に干し肉を頬張っていた姿を思い出した双子は、恨めしげな視線をその美姿へ向けていた。

 

「ええい、こうなったら適当な隊商にでもカチ込んで荷をかっぱらうぞ!」

「いやいや現人鬼殿。そんな物騒な話じゃなくてもっと建設的な話をしましょうよ」

「そうっスよ。どうにかして隊商の護衛に参加してラパンに行くとか」

「そうっスか……虐殺陣地を拵えて全殺しにすれば良いのじゃな?」

「誰が建設しろと言った!」

「非常識もいい加減にしろよコノヤロー!」

 

 不穏な物言いの波裸羅へ向けギャンギャンと吠える双子の兎。シャリーアでウィリアムを探し求めていた際、誰構わず襲いかかった事を棚に上げていた双子であったが、天衣無縫傍若無人な波裸羅と出会ったことでそのモラルは幾分か常識を取り戻していた。もっとも、ウィリアムが命じればいかな悪逆非道であれ双剣を血で染め上げるのを厭わないのだが。

 少ない衣服を分け合ったのか、半裸の兎達は砂漠の強烈な日差しを受け続け、その肉体を赤く染めている。このときは波裸羅の傍若無人っぷりに顔を赤くして憤っているのだけれど。

 

 目を離した隙に喜び勇んで隊商へ襲いかかる波裸羅の姿を想像するは、ウィリアムにとっても難くなく。あまつさえ、波裸羅の実力ならば目撃者を残さずに皆殺しにするのは容易いだろうとも。

 ウィリアムは前世と同じくある程度の社会性を持っていた為、不必要な殺人はしないよう心がけていた。というより、自身が野盗の真似事をしたくないというのもあった。

 己の悪行により、この世界で主君筋と認めるナナホシの顔に泥を塗るわけにはいかず。とはいえ、いよいよとなれば波裸羅の言う通り目撃者を残さずに隊商を襲撃せんことを頭の片隅に留めていたが、下手に襲いかかりヤケになった隊商が荷を破棄することも十分に考えられた為、おいそれと実行に移すのは躊躇われた。

 

「万事休すだなアダムス!」

「いだだだだ!」

「ヤメローッ!」

「……」

 

 みしり、と生意気な口を叩く双子の頭を絞め上げ(アイアンクロー)ながら、やけに明るく言い放つ波裸羅。どうみてもこの状況を愉しんでいるとしか思えず、ウィリアムもまた憎々しげに波裸羅を睨みつけていた。

 

「おや?」

 

 そんなウィリアムの睨みを普通に流した波裸羅は、にわかに騒がしくなったバザールの中心部へと目を向ける。天幕が林立するバザールの中心部は、商売の活気とは違い異様な熱気が渦巻いていた。

 ウィリアムが波裸羅につられて視線を向けると、明らかに襲撃を受けたであろう隊商の姿がそこにあった。その惨状を見たウィリアムは、まるで負け戦から逃れた落人の集団のようだと、僅かに眉を顰めた。

 

「魔物……ではなさそうじゃな。こんな砂漠しか無いところでも、匪賊はいるもんじゃ喃」

 

 遠巻きに隊商を見つめる波裸羅。見ると、惨憺たる様子の隊商の何人かは矢傷を負っており、毒矢を受けたであろう者は瀕死の状態で介抱を受けている。刀傷を受けたものも少なくなかったが、存外に生存者が多くいるのを見て、元は規模の大きい隊商であったのを窺わせていた。

 

「ざっと見た所、隊商は五十はいるの。襲撃を受ける前は百はいたかもしれんな。あれを襲うとは、賊共はなかなかの多勢のようじゃな」

「……」

 

 波裸羅の分析に無言の同意を返すウィリアム。言われるまでもなく、隊商を襲った野盗の規模は隊商と同等か、それ以上に思えた。

 

「規模の大きい隊商を組めば、匪賊が棲まう地域を突っ切れるとでも思ったのか……運が悪い連中よ」

 

 負傷者を手当する為に奔走するバザールの住民や、隊商の元締めであろう恰幅のよい商人の青ざめた表情を見て、波裸羅は憐れみが篭った言葉を吐く。しかし、その表情は獲物を見つけた肉食獣のような嗤いを浮かべていた。

 

「連中は北から逃れて来たようじゃ喃……ちょうど、迷宮の都がある方角じゃ。で、どうする。アダムスの」

 

 ニヤニヤと嗤いながら顎に手を当て、ウィリアムを何かを期待するような目で見つめる波裸羅。

 嫌な予感がした双子は、くっきりと鬼の指跡が残るこめかみをさすりつつ波裸羅の嗤い顔を見やる。

 

 やめろよその表情何思いついたんだ。いや、何思いついたのか薄々分かるけど。

 

 双子は波裸羅が賊を逆に襲うつもりであるのを、気づきたくなかったが気づいてしまった。

 確かに、隊商を襲撃するのは正道に反する外道の行いではある。ならば、その隊商を襲った賊から収奪せしめるのは、天道に則った大義に溢れる行い也。交易路の安全保障を担い、更にはウィリアム一行の物資不足の解消、移動手段の確保も成し得る。まさしく、誰も困らない妙案である。

 

「いやいやいやいやいや」

「そういう問題じゃないし」

 

 どうか、早まったマネはしないで。

 

 そんな双子の儚い願いが、虎の一声にて無惨にも粉砕された。

 

「……よし」

 

 チャキ! と妖刀の鍔を鳴らし、ウィリアムは北へと確りと歩き出す。

 我が意を得たりと上機嫌な波裸羅は「行くのか」とカラカラと嗤いながら後に続き、青い顔を俯かせた双子は「死ぬなよ」と互いに声をかけ合いトボトボとそれに続いた。

 

 その様子を偶々目撃したバザールの商人は、虎と鬼に追従する双子の兎を、まるで邪神の生贄に捧げられる哀れな獲物のようだと、後に商売仲間に述懐していた。

 

 真に哀れなのは、これから虎と鬼による大殺戮劇を演じるハメになる、匪賊の集団であるとも知らずに。

 

 

 

 

 地獄だ。

 

 一人生き残ってしまった賊は、目の前の惨劇をみてそう思った。

 圧倒的な、死と破壊。音もなく現れた一頭の虎と、一匹の鬼。

 百人以上はいた盗賊団を、虎と鬼は瞬く間に殺戮し尽くしていた。

 その様は、まさに瞬殺無音。

 

「言葉は分からなくても理解は出来るだろ? まだこの辺を根城にしている仲間に、この事をようく伝えておけよ」

「お前ら盗賊連中は横の繋がりが太いからね。この辺りじゃもう仕事は出来ないぞ。ほら、行けよ!」

 

 兎耳を生やした獣人達が、やや哀れみが篭った眼差しを浮かべ生き残りの賊に話しかける。

 賊は、獣人達が闘神語ではない言語で話しかけていた為、何を言っているのか理解が出来なかった。だが、何を言われているのかは、よく理解していた。

 涙に濡れた顔を勢いよく縦に振り、大小便を撒き散らしながら、賊はほうぼうの体でその場から遁走した。

 

 日が沈み、厳寒の地へと変わった砂の大地。

 篝火がごうごうと焚かれている匪賊の宿営地では、明かりに照らされた無惨な死体がそこかしこに散らばっている。必要最小限の斬撃で息絶えた者と、不要なまでに痛めつけられた惨殺体。この正視に耐えない地獄の光景を、虎と鬼は僅かの間で現出させていた。

 

「やっぱ半端ねえな若先生と現人鬼殿」

「討ち漏らした奴らを斬れって言われたけど、全然出番無かったね僕たち」

 

 双子は妖刀の血糊を落とすウィリアムを見て、その凄まじき技量に感嘆を新たにする。

 大規模の隊商を襲い、積財を強奪せしめた匪賊集団。この一帯で、もっとも大きな集団である彼らは、久方ぶりの大きな戦果に酔いしれており、街道からいくらか離れた場所で酒宴を行っていた。

 この辺りで匪賊征伐を行うような治安組織は存在せず、討伐依頼を受けた冒険者が来るまで時間的な猶予はいくらでもある。また、戦利品が多い為か、いくらかはここで消化しようと横着に至った賊達。油断しきった賊の集団を、虎と鬼が狩り尽くすのは赤子の手をひねるより簡単であった。

 

 ウィリアムは賊集団の側面から音もなく斬り込んで行った。最初にウィリアムに気付いた賊は、声を立てる間も無く妖刀により喉を貫かれる。続けて傍で酒盃を傾ける賊の顔面を瞬時に斬り裂く。さらに、周囲の賊の額や小手を斬り下げる。次々と最小限の斬撃を急所に打ち込み、一太刀にて賊を屠っていった。

 すわ敵襲かと賊が迎撃態勢を整えた頃には、虎の刃圏は百を超える賊共を捉えていた。

 七間(約12m)先の弓をつがえる賊へ、一足飛びに斬撃を打ち込み、その頭蓋へ刃を斬り入れる。虎にとって七間は一跳躍。瞬きひとつする間に爪をかける。あとは暴れまわっていた波裸羅と共に、残る賊共を屠殺するのみ。

 

 百名を見るな、ウィリアム・アダムス

 (おの)が間合いに入りし者を、ひたすらに打て

 脈所を斬り下げたる敵、背を向けたとて害なす恐れ無し

 

 集団の中心へと斬り進むウィリアムの撃ち、足運び、呼吸、拍子は、まさに虎眼流の極意を顕していた。

 

「若先生を前にしたら目瞬き出来ないな!」

「うん。僕たちも早くあの剣境に達したいね」

 

 荷の選定を行い、比較的汚損が少ない衣服を死体から剥ぎ、残った馬やラクダへ荷を載せる双子。奪った物資で出立の準備を整えながら、双剣は改めて虎眼流を極め尽くさんと決意を新たにしていた。

 

 

「ふん、つまらん。もそっと歯ごたえがある獲物が良かったぞ」

 

 波裸羅は返り血を拭いながら辺りを睥睨する。賊の中で波裸羅に手傷を追わせる使い手は皆無であり、あまりの手応えの無さにつまらなそうに鼻を鳴らしていた。

 

「……あまり蛮勇が過ぎるのもいかがなものかと。明日もありますゆえ」

 

 ウィリアムは妖刀を鞘に収めつつ、波裸羅をやや責めるような眼で見やる。オルステッドとの戦闘の際も感じたが、この現人鬼はあまりにも好戦的すぎる。

 ウィリアムもその大望の為に強者に挑むのは厭わない。もちろん、その場限りの命であったとしても。死を覚悟して強者に挑むのは当然といえよう。

 だが、誰構わず向けられる波裸羅の旺盛な戦意は、さながら鎌倉の世の武士を想起させる刹那的すぎる代物であった。

 

 波裸羅は眉を顰めるウィリアムを一瞥すると、その美顔を更に美しく輝かせた。

 

「ハッ! 何を申すかと思えば!」

 

 美得を切り、翻る美しい肢体が、若虎の心を震わす。

 

「この波裸羅、明日の事など考えておらぬ!」

 

 その美声は、若虎の臓腑へと染み渡る。

 

「今、ここ、自己(おのれ)! それで良いではないか!」

 

 今、ここ、自己(おのれ)

 

 その言葉は、若虎の貝殻に熱き血風となって染み込んでいった。

 明日も知れぬ我が身。それゆえに、今を全力で生き抜く。

 この異世界を、現人鬼は全力で愉しむのみ。

 

 古の武者魂を色濃く残す、“一所懸命”の生き様を見せつける波裸羅。その美姿を見て、ウィリアムは眩しそうに両の虎眼を細めていた。

 

(今、ここ、自己(おのれ)……か)

 

 ウィリアムは波裸羅の言魂をゆっくりと咀嚼する。

 今の己は、家族を、母を救うためにここにいる。

 ならば、それに全身全霊をかけて臨むのは、今の己が成すべき“儀”だ。

 どこか身の入らぬ此度のゼニス救出行であったが、波裸羅の言葉を咀嚼する内に、ウィリアムの中で何かが溢れそうな想いが湧き上がっていた。

 

 “今の家族を、大切になさりませ”

 

 三重の言葉が、虎の貝殻に木霊していった。

 

 

 

 

 

 


 

 迷宮都市ラパン市内

 

「じゃあリーリャさん。私達は先に宿に戻っていますね」

「はい、ヴェラ様。宿の方はお任せしますね」

「リ、リーリャさん。やっぱり、私も買い出しを手伝いますよ……?」

「ありがとうございます、シェラ様。でも、食料と日用品を少し買い足すだけですから、大丈夫ですよ」

 

 ラパン市内ではフィットア領捜索団の団員であるヴェラとシェラの姉妹、そしてグレイラット家のメイドであるリーリャの姿があった。

 

 ルーデウスとエリナリーゼがラパンに到着してから、三日。

 転移迷宮内で転移魔法陣の罠にかかり、迷宮内に取り残されていたロキシーを見事に救出したルーデウス達は、ロキシーの回復を待って再び迷宮に挑んでいた。

 今度こそ、深部に囚われた母であるゼニスを救うために。

 迷宮入り口にてその姿を見送ったリーリャ達は、一行が無事に戻った時に備えるべくラパンへと戻っていた。ロキシーの時以上に衰弱しているであろうゼニスを出迎える為に、抜かり無く準備を整えなくてはならない。

 

 通常、迷宮に挑むパーティは、サポートの人員を迷宮の入り口にて待機させる。しかし、転移迷宮はラパンから馬で一日、駆ければ半日の距離にある。わざわざ危険な迷宮付近で待機する必要はない。

 リーリャ達、特にリーリャ自身は元アスラ王国近衛侍女であり、まだノトス家の御曹司であった若き日のパウロと水神流道場で同門だったので、それなりに武芸の心得があった。とはいえ、魔物が出没する市外で待機するより、ラパン市内で待機しているほうが安全である。

 迷宮から帰還するルーデウス達、そしてゼニスを出迎える準備を整えるのが、今のリーリャの使命であった。

 

「ふぅ……」

 

 街の外周にある厩舎にて馬を預け、ヴェラ達と別れたリーリャは、そのまま市内の市場へと歩き出す。

 ラパンに来てから一年。やっと、ゼニス救出の目処が立った。

 シーローンで再び自身と、娘のアイシャを救ってくれたルーデウス。あの頃よりも更に逞しく成長したルーデウスがいるならば、ゼニスはきっと……

 

「……そういえば、ロキシー様は本当に大丈夫なのかしら」

 

 そこまで考えたリーリャは、ふと迷宮から帰還したロキシーの姿を思い浮かべる。

 救出した際に一悶着あったのか、ルーデウスはやたらロキシーの体調を気遣っていた。十年以上出会ってなかった師弟だ。弟子は師匠を気遣うのは当たり前なのかもしれないが、それにしては過保護がすぎる。

 また、ロキシーが衰弱から回復した際、妙に右目を気にした様子(・・・・・・・・・)を見せていたのも気がかりであった。

 体調や精神状態も本調子を取り戻したロキシーであったが、唐突にケレン味のあるポーズを取ることもあり、リーリャは本当にロキシーが回復している状態なのか疑わしかった。

 

 更に言えば、ロキシーが見たという謎の鎧(・・・)も……。

 

「旦那様と……ルーデウス様を、信じるしかありませんね」

 

 リーリャは信じて待つだけだ。

 主人であり、家族を。

 疲れた表情を浮かべながら、リーリャはそう呟いた。

 

 この一年、迷宮に挑むパウロ達と同様に、リーリャもまた疲れて果てていた。だが、それでも主人を支え、メイドとしての本分を果たすべく、パウロ達を支え続けていた。

 身につけたエプロンドレスは清潔に整えられてはいたが、ベガリットの過酷な風土に晒され、相応にくたびれている。

 エプロンドレスの摩耗に比例するかのように、リーリャ自身の肉体もまた消耗していた。

 

 

 

 市場へとたどり着いたリーリャは買い物を手早く済ませる。ヴェラ達には物資を少し買い足すと言っていたが、それでも両手が塞がる程の量になってしまった。

 ルーデウス一行を見送り、休む間もなく市場での買い出し。

 リーリャは市場にあふれる人の波に揉まれながら、ややふらついた足取りで宿へ向う。自身が気づかぬ程の、疲労した身体を酷使して。

 

「あっ──」

 

 故に、普段のリーリャならば回避出来たはずの、荷を満載した馬車との接触を避ける事が出来なかった。

 前方不注意。抱えた食料と日用品が、無惨にも散らばる。

 

「馬鹿野郎! 気ぃつけろこのスットコドッコイ!」

「も、申し訳ありません……」

 

 軽い接触で済んだのは不幸中の幸いだったのだろう。荷馬車の手綱を握る御者の男は、べらんめえ口調の闘神語でリーリャをなじると、時間の無駄とばかりにそそくさと馬車を走らせていった。

 

「はぁ……」

 

 ため息を一つつき、リーリャは散乱した食料日用品を拾い集める。

 忙しなく行き交う周囲の人間は、リーリャのことを全く気にしていないのか誰も手伝おうとしなかった。

 エプロンドレスを砂で汚しながら、リーリャは地べたを這うようにして品を拾い集めていた。

 

 丁度、果実(デーツ)を拾おうと手を伸ばした、その時。

 

「……」

「あ、申し訳……」

 

 リーリャの前に、果実が差し出される。

 礼を言おうと顔を上げたリーリャは、差し出された右手の指が一本多いのに気づいた。

 

「え……」

 

 見上げると、貫頭衣を身に着けた一人の若者が、片膝をついてリーリャの瞳を覗いていた。

 

「旦那……様……?」

 

 白髪を束ねたその若者の顔立ちは、水神流道場で共に汗を流したあの頃のパウロに瓜二つだった。

 だが、パウロとは異なるのは、その眼だ。怜悧な刀剣を思わせるその眼が、瞳の奥底に暖かい火を宿しながら、じっとリーリャを覗き込んでいた。

 

「あ……ああ……!」

 

 若者の顔を見つめる内に、リーリャの視界が徐々にぼやけていく。

 若き日のパウロと瓜二つの顔立ち、そして一本多い右手の指。

 リーリャの脳裏に、ブエナ村での穏やかな営みが想い起こされる。

 

 幼いアイシャを、慈しんでくれた虎子

 家族として認め合った、あの幼子──!

 

 

「ウィリアム……坊ちゃま……!」

 

 

 リーリャは涙で濡れた顔を拭おうともせず、若者……ウィリアムの胸に、その顔を埋めた。

 嗚咽を漏らし、ウィリアムの胸に縋り付くリーリャ。虎は、そっと女中の肩に手を置いた。

 

「わかせ──ぐぇッ!」

「何すん──!?」

「空気を読め兎共。折角の家族との再会、水を差す無粋は許さぬ」

 

 何事かと声をかけようとした双子の首根っこをむんずと掴む現人鬼。

 鬼は、虎が纏う暖かい空気を、その鬼眼を細めて見つめていた。

 

「……少し、痩せたか?」

「はい……はい……!」

 

 穏やかにリーリャへ声をかけるウィリアム。消耗した女中を労るように、虎は優しくその肩を抱いていた。

 

「苦労をかけた」

「そんな……そのような……!」

 

 どうか、そのようなことは仰らないで。

 リーリャは、グレイラット家のメイドとして務めを果たしているだけです。

 

 そう言おうとしたリーリャだったが、上手く言葉が出ない。

 やっと、やっと出会えた、家族。グレイラットの家族が、やっと揃う。

 リーリャの胸の奥から万感の想いが溢れ出し、涙を流すことしか出来なかった。

 

「ああ……こんなに……こんなにも逞しくなられて……ああ、その御髪はどうなさったのですか? ちゃんと、毎日お食事は召し上がっていますか? どこか、お身体に不調はございませんか?」

「……一度に言わなくても良い」

 

 顔を上げたリーリャは、ウィリアムの身体のあちこちに手を伸ばす。変わり果てたその髪を撫で、細身ながらもしっかりと筋肉が付いたその肉体に触れ、精悍な面構えを見せるその顔を包む。

 ウィリアムはリーリャの抱擁に困ったような顔を見せるも、その眼は暖かい火を宿し続けていた。

 

「坊っちゃま……本当に、よく……」

「……」

 

 感極まったリーリャはぎゅっとウィリアムを抱き締めると、再びその両目から涙を流す。

 ウィリアムはただ黙ってリーリャの背中に手を回し、ぽんぽんと叩きながら女中の暖かい体温に身を委ねていた。

 

 

 

「申し遅れました。私はグレイラット家のメイド、リーリャと申します」

 

 リーリャが落ち着くまで暫しの時が経っていたが、双子の兎と波裸羅は大人しくウィリアムとリーリャを見守っていた。

 波裸羅は相変わらずその眼を細めており、双子は師匠と女中の再会を見てドバドバと涙と鼻水を垂れ流している。

 慎ましく挨拶を述べるリーリャに、波裸羅は蠱惑的な笑みを浮かべて返礼した。

 

「波裸羅じゃ。そっちの兎共は捨て置いて良いぞ」

「ひどっ!」

「横暴だ!」

「鼻汁を飛ばすな、気色(キショ)いわ」

 

 涙と鼻水を撒き散らしながら抗議の声を上げる兎達を、波裸羅は心底嫌そうな眼で見やる。

 リーリャは波裸羅達を見てやや困惑しつつも、ウィリアムとの間柄を遠慮がちに問うた。

 

「あの、つかぬ事をお伺いしますが、坊っちゃま……ウィリアム様とは、一体どのようなご関係なのでしょうか……?」

 

 リーリャの問いを受け、波裸羅は増々美口角を引き攣らせる。

 つかつかとリーリャの傍らにいるウィリアムの前に立つと、おもむろにその頭を自身の美胸元に引き寄せた。

 

「肉体関係!」

「違う」

 

 みしり、と虎と鬼の間で肉が軋む音がする。

 全力で波裸羅の抱擁から逃れんとするウィリアムを、波裸羅は鬼の剛力にて押し止める。

 互いに血管が浮き出る程肉を盛り上がらせているのを見て、リーリャは増々困惑の表情を浮かべていた。

 

「そ、そうですか……ずいぶんと個性的なお方と……」

「だから違うと……!」

 

 みし、みしと肉を軋ませながら、虎の否定は空しく砂漠の空にかき消えていった。

 

「さっきと言ってる事違うじゃねーか!」

「空気読めやこの鬼! ……鬼だった!」

 

 鬼なのだ。

 

 

 

「リーリャ。父上達は何処に?」

 

 波裸羅の戯れも一段落したところで、ウィリアムはリーリャへ現状の確認をする。

 波裸羅の奇天烈ぶりに戸惑いつつも、リーリャは有能なメイドらしく淀み無くウィリアムへ説明を始めた。

 

「旦那様方は、奥様を救いに迷宮へ向かわれました」

 

 既に兄ルーデウスがラパンへと到着し、不明だったロキシーを救い出し再び迷宮へと潜ったことまで聞いたウィリアムは、その瞳を爛と燃やした。

 

「寸前で間に合わなかったようじゃなアダムス」

 

 同じくリーリャの状況説明を聞いていた波裸羅の言葉を受け、双子もやや残念そうに肩を落とす。

 ともあれ、追いかけるにせよここで待つにせよ、まずは砂漠の旅の疲れを癒やす必要があった。

 

「征くぞ」

 

 だが、ウィリアムは貫頭衣を翻すとラパン市外へと足を向ける。

 それを見たリーリャと双子は慌ててウィリアムへと声をかけた。

 

「ウィリアム様! お待ち下さい! せめて休息を取ってからでも──」

「そ、そうですよ若先生!」

「何の準備も無しで迷宮に潜るのは蛮勇です!」

 

 足を止めたウィリアムは、業と燃え上がった瞳を女中と弟子へ向けた。

 

「喉が渇きければ魔物の血を啜れ」

 

「腹が減りければ魔物の肉を喰らえ」

 

「そうでなくては迷宮内、斬り進むこと叶わず」

 

 虎の苛烈な言葉に、リーリャ達は呆然とその後姿を見やる。

 一人現人鬼だけが、戦意を轟然と噴出させ応えていた。

 

「リーリャ」

「は、はい」

 

 歩みだしたウィリアムは、後ろを振り返ることなくリーリャへと声をかける。

 その声色は、凛とした勇武を纏わせていた。

 

「待っておれ」

 

 静かにそう言い放つウィリアム。

 娘と同じ言葉をかけられたリーリャは、逞しく……本当に逞しくなった虎の姿に、再び涙を滲ませていた。

 

「はい……!」

 

 一筋の涙を流し、儚げな笑顔で虎を見送るリーリャ。

 

 長子の加勢を受け、再び精強さを取り戻したパウロ。

 強力な魔術に磨きをかけ、再び家族を救いに参上したルーデウス。

 

 そして、千軍万馬の勇士に成長したウィリアム。

 

 この三人が揃えば、一体何の憂いがあるというのか。

 

 リーリャはただ待つだけだ。

 主人と、終生の主と、大切な家族の、その強さを信じて。

 

「何だか知らんが!」

 

 双子の襟首を掴みながら、虎の後に続く現人鬼。

 その美声は、リーリャの心にさらなる活力を与えていた。

 

 

「とにかくよし!」

 

 

 引くものか、ウィリアム・アダムス

 いざ無双せん、異界虎眼流──!

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十七景『魔法少女捨奸(ロキシーだってチェストります!)

  

 迷宮にて牙折れたる蒼穹の魔法少女

 絶望に打ちひしがれし少女の瞳に映るのは、破滅の暗闇ではない

 

 牙折れたる少女の瞳が、その敗滅(ほろび)の際に映すのは

 

 

 

 永遠(とわ)に朽ちること無い、装甲の輝きだ!

 

 

 

 


 

 ウィリアム一行がラパンへと至る数日前の事。

 転移迷宮深部では、転移魔法陣の罠にかかり、一人迷宮内に取り残された蒼髪の魔族の少女……ロキシー・ミグルディアの姿があった。

 

 一ヶ月前。

 パウロらと迷宮攻略に挑んでいたロキシーは、魔物との戦闘中に迂闊にも未知の転移魔法陣を踏み抜いてしまった。

 一人魔物の真っ只中に転移したロキシー。

 それから一ヶ月。少女の生存を賭けた、孤独な戦いが始まった。

 

 転移先で魔物を掃滅し、増え続ける魔物を避ける為、新たに発見した転移魔法陣を渡り歩く。

 だが、転移した先々では魔物の群れが待ち構えていた。ロキシーは、それらと死力を尽くして戦い続けていた。

 

 魔力が枯渇しかけた。できるだけ安全な場所で、じっと身を潜めて魔力の回復に努めた。

 持参した食料が尽きた。解毒魔術を使いながら、毒性のある魔物の固い肉を喰らい続けた。

 喉が渇いた。なけなしの魔力を振り絞り、生き延びる為の雫を自ら絞り出した。

 

 極限の一ヶ月。

 迷宮を脱出するべく、一人魔物と戦いながらさまよう少女。見覚えがある通路に出ても、出口に繋がるはずの道は壁面で閉ざされていた。

 

 そして、とうとう可憐な水王級魔術師の少女に限界が訪れようとしていた。

 

「魔物……!」

 

 脱出するべく、一縷の望みをかけて踏み抜いた新たな転移魔法陣。

 だが、ロキシーの希望をあざ笑うかのように、転移先で魔物の群れが待ち構えていた。

 ロキシーは魔物の姿を見留めると、即座に戦闘開始の詠唱(狼煙)唱え(上げ)た。

 

「落ちる雫を散らしめし、世界は水で覆われん。『水蒸(ウォータースプラッシュ)』!」

 

「天より舞い降りし蒼き女神よ、その錫杖を振るいて世界を凍りつかせん! 『氷結領域(アイシクルフィールド)』!」

 

「霜の王。大いなる雪原の覇王。純白を纏い、一切の熱を刈り取る零の王。死を司りし冷たき王が凍てつかせん! 『氷槍吹雪(ブリザードストーム)』!」

 

 ウォータースプラッシュで水弾を散布し、アイシクルフィールドで効率良く凍てつかせる。

 間髪入れずブリザードストームを唱え、無数の氷の槍を放つ。氷槍は瞬く間に凍てついた標的を破砕せしめる。

 これが、水王級魔術師であるロキシーの必勝形である。

 

 だが、それでも魔物の群れは止まらない。

 巨大装甲芋虫(アイアンクロウラー)が、少女の必死な魔術に怯むことなく仲間の死骸を踏み越えて突進する。

 朱凶蜘蛛(タランチュラ・デスロード)が、少女の抵抗を奪うべく大量の蜘蛛糸を吐き散らかす。

 巨大泥人形(マッドスカル)が、魔物の群れを統率し狡猾に少女を追い詰めていく。

 

「あっ……!」

 

 果敢に魔術を駆使して応戦するロキシー。

 しかし、魔力が枯渇しかけているのか、足元がふらつく。

 そのまま地べたにへたりこんだロキシーは、肉薄するアイアンクロウラーの群れを見て絶望の表情を浮かべた。

 

「いやっ……死にたくない……!」

 

 接近するアイアンクロウラー。

 まるで、手を焼かせた獲物を嬲り尽くさんと、その醜悪な虫面を蠢かせた。

 

「いやぁ……!」

 

 涙を浮かべて後ずさるロキシー。

 ロキシーの脳裏に、それまでの人生の様々な思い出が過ぎ去る。

 

 魔大陸の故郷で、自分だけ念話が使えず、寂しい幼年時代を過ごした事。

 両親が少女を哀れに思い、必死になって魔神語を習得し、少女に教えた事。

 故郷にやって来た、未知を追い求める冒険家に、初めて魔術を教えてもらった事。

 故郷を飛び出し、リカリスの町で初めて冒険者になった事。

 お調子者の人族が、途方に暮れていた自分をパーティに誘ってくれた事。

 お調子者のリーダーが、不慮の死を迎えた事。

 口は悪いが仲間想いの馬面の仲間と、寡黙だが気は優しい豚面の仲間と別れた事。

 別れた後、魔法大学に入学し、その魔術と知識の研鑽を積んだ事。

 魔法大学で師事した師匠と喧嘩別れした事。

 

 その後で、何気なく応募した、家庭教師の依頼。

 それで、あの暖かい家族と、出会った事。

 

 それからも、色々あった。

 教え子の才能に嫉妬し、自身を鍛え直すべくシーローンに行った。

 転移事件の事を聞き、あの暖かい家族の捜索に加わった。

 やっとの思いで見つけた、家族の母親。それを救うべく、砂の迷宮に挑んだ。

 

 そして、今。

 

 ああ、これが走馬灯なのか。

 私は、これから死ぬのか。

 

 諦観の念がロキシーの中で沸き上がる。

 同時に、死への恐怖が、少女の中で膨れ上がっていた。

 

「誰か……誰か助けて……」

 

 冷たい迷宮の床を掻き、魔物の群れから逃れようとするロキシー。

 しかし雪隠詰めのこの状況では、ロキシーが逃れることは不可能だった。

 

 ゆっくりと、死が少女を包む。

 少女は、恐怖で身を竦めることしか出来なかった。

 

(お父さん……お母さん……カント先生……パウロさん……ルディ……誰か……誰か……助けて……)

 

 泣きはらし、顔をくしゃくしゃにしながら、ぎゅっと目を瞑るロキシー。

 死の恐怖に怯えた少女に、魔物達は容赦なく這い寄る。

 

 

 少女が全てを観念した、その瞬間。

 

 

「……え?」

 

 

 這い寄る魔物の殺意が霧散する。

 来るべき終焉が来ず、恐る恐る目を開けるロキシー。

 

 そして、ロキシーは視た。

 魔物を締め上げ、轟然と仁王立ちする“一領の鎧”を。

 

「キュイイイイッ!?」

「ッ!?」

 

 甲高い断末魔を響かせ、アイアンクロウラーが体液を撒き散らしながら絶命する。

 鎧は瞬時に距離を詰め、ロキシーに襲いかからんとしたアイアンクロウラーをその超鋼の拳で撃ち抜いていた。

 

 超鋼の拳足を縦横に振るい、瞬く間にロキシーを囲む魔物達を鏖殺せしめる鎧。

 ロキシーは呆気にとられてその無双劇を見つめる。それは、ロキシーが見たこともない鎧だった。胴や脛当、手甲などは、およそこの世界では見受けられない異質な意匠であり、ロキシーは増々困惑を強める。

 

 ロキシーはそれが鎧を纏ったアンデッド、アーマードウォーリアーかと思ったが、直後に鎧の面頬の中が空洞だと気づく。明らかにそれは魔物達とは一線を画す存在であった。

 いや、例え鎧がアーマードウォーリアーの変種だとしても、そもそも魔物同士の同士討ちなどよほどの事がない限り起こりえない。まして、マッドスカルに統率された魔物の群れならば尚更だ。

 マッドスカルは、鎧が現出した直後にその胸部に埋め込まれし核骨を握り潰されていた。

 

「な……に……?」

 

 周囲の魔物を一掃すると、鎧はロキシーの前に立つ。

 すると、その空洞の面頬から薄い光が輝いた。

 怯えと混乱の中、ロキシーはその光に吸い込まれるような感覚を覚える。

 

 光に照らされていく内に、ロキシーの意識は深い闇に落とされていった。

 

 

 

 

 


 

「どうしたルディ? 何か見つけたのか?」

「父さん、神の気配がします……!」

 

 ゼニスを救うべく、迷宮都市ラパンへと辿り着いた俺とエリナリーゼ。

 到着した俺達を迎えたのは、憔悴したパウロ達、そしてロキシーが迷宮内部に取り残されているという事実だった。

 俺達は休息もそこそこに、すぐさま迷宮へと向かった。

 俺とパウロ、エリナリーゼにタルハンド、そしてギースの五人。俺とエリナリーゼが、今まで攻略に参加していたシェラとヴェラと交代する形だ。

 

 攻略する上で、魔法大学から持参した“転移の迷宮探索記”が非常に役に立った。

 パーティの斥候(シーフ)であるギースは目を輝かせてそれを読み込んだ。曰く、これさえあれば迷宮六層までは攻略したも同然だ、と。

 正直ラパンの転移迷宮に通じるか不安だったけど、役に立って安心した。長期貸出を許可してくれたジーナス教頭に感謝しよう。

 

 早々に準備を整え、迷宮攻略を開始した俺達。ギースの言葉通り、迷宮三層まで10時間余りで到達するほど順調に攻略を進めていった。

 だが、探索を続けるもロキシーの姿はどこにもなかった。

 

 ひとまず休息を取るべく野営の準備を始めた俺達。

 タルハンドが土魔術“土壁(アースウォール)”でかまどを作り、ギースが食事の支度を始める。

 皆が準備を始めている中、一人野営場所の探索を続けていた俺は壁面に違和感を覚えた。

 

 ここの壁だけ少し色が違う……ということは!

 

 魔術で出来た岩や土は、自然に出来たそれとは少し違う。アイアンクロウラーの足跡が壁面に向けて不自然に途切れているのは、土魔術で壁面を形成していたからだ。

 

「ああ? 神の気配? ルディ、お前何言って──」

「『岩砲弾(ストーンキャノン)』!」

 

 壁に向けストーンキャノンを放つ。一発で壁面は崩れ、崩れた先から新たな通路が出現していた。

 そして、俺は(ロキシー)の気配を濃厚に感じ取った。

 

「うおッ!? ってなんだこりゃ!?」

「壁の先に道がありますわ!」

「うっそだろぉ!? 隠し扉の気配なんてなかったはずだぜ! ここは、確かにただの壁だったはずだ!」

 

 パウロ、エリナリーゼ、ギースが素っ頓狂な声を上げる。特にギースはベテランシーフの目すら欺いた魔術の壁があった事にショックを感じているようだった。

 正直、俺もタルハンドがアースウォールでかまどを作ってなかったら気づけなかった。魔術師とシーフの視点の違いなのだろう。きっと。

 

「そうか、アースウォール……。魔物が魔術で通路を塞いでおったのじゃな」

「マジかよぉ……魔物がんなことするなんて聞いたことねぇぜ……」

 

 タルハンドが感心したようにそう言うと、ギースは増々困惑を強める。

 迷宮に出没する魔物、マッドスカルは他の魔物を統率する知性がある。そして、土魔術を多用する魔物でもある。

 だから、こうして土魔術で通路を隠蔽するくらいの知恵が回る個体もいるのだろう。

 

 わざわざ魔術を使ってまで通路を隠す理由はひとつしかない。

 それは、“獲物”を逃さない為──!

 

「この先にロキシーがいます! 急ぎましょう!」

「お、おい! 先輩! 待てよ!」

「ハハッ! 流石俺の息子だ! 面白くなってきやがった!」

「ルーデウス! ギース! パウロまで! もうっ、追いかけますわよ!」

「やれやれ。昔から変わらんのう、パウロは」

 

 俺達はロキシーを救うべく通路を駆ける。

 直ぐに大きめのフロアに出ると、そこには無数の魔物の群れが蠢いていた。

 

「うおッ!? なんだこりゃ!?」

「フロアを埋め尽くさんばかりの大軍団ですわ!」

「だめだこりゃ! 先輩! 一旦通路に引き返して迎え撃とうぜ!」

 

 ギースが俺の肩を引きながら切迫した様子を見せる。

 パウロ達も予想外の魔物の数にたじろいていた。でも、俺はここで引くわけには行かない。

 

「新入り! 部屋の隅に魔物の死体が重なっている! ここで戦ってたんだ!」

「マジかよ! じゃあ、この奥にロキシーが……!?」

 

 魔物の蠢く音に混じり、僅かに魔物の断末魔も聞こえる。

 少なくとも、ここで誰かが戦っているのは間違いない。

 

「俺が突破口を開きます!」

 

 今まで若干セーブしていたけど、ここは全力だ。

 

「『フロストノヴァ』!」

 

 瞬間、大量の冷気が魔物の群れへ放たれる。

 ウォータースプラッシュとアイシクルフィールドの混合魔術、フロストノヴァ。

 帝級魔術に匹敵するその魔術は、フロアにいた魔物の大軍団を瞬く間に凍りつかせた。

 

「マジか……全部凍りつきやがった……」

「ううむ。今までは前衛を巻き込まぬよう抑えておったのじゃな」

「あが……あがが……」

「ギースが凍りつきましたわ!」

 

 しまった。ギースが巻き込まれてしまった。

 でも、今は回復してやるヒマは無い。

 

「父さん! ここは任せます!」

「あ、おい! ルディ!」

 

 凍ったギースをパウロ達に任せ、俺はカチカチに凍った魔物の中を駆け抜ける。

 

 そして見つけた。

 

 魔物の氷像に囲まれた、力なく頭を垂れる蒼い髪の少女を──!

 

「ロキシー……!」

 

 小柄で抱きしめたくなるような華奢な身体、大きくて可愛らしいとんがり帽子、“可愛い”が天元突破した三つ編みの蒼い髪!

 あぁん! ロキシーだ! 久しぶりのロキシー師匠だ!

 あ、師匠って言ったら怒られるな。先生って呼ばないとな。怒ったロキシーも可愛いけど、再会していきなり怒らせることもないもんな。

 何はともあれ。

 

「よかった! 無事で!」

 

 俺はがばりとロキシーに抱きつく。

 ロキシーはぷりちーな片目を瞑って(・・・・・・)おり、少し驚いたように俺を見ていた。

 

「スーッ……クンカクンカ」

 

 うん、プリンシパル! じゃなかった、ロキシーの匂いだ!

 一ヶ月も迷宮に籠もっていたからか、ちょっと香ばしくてスパイシーな臭いのロキシー。でもその臭いの中に、ロキシー特有のフローラルな香りがスーッと効いてこれは……ありがたい……。

 

『う……』

「クン……え?」

 

 そんなミグルディア家御用達ロキシー別格スメルを伝承していると、もぞりとロキシーが動いた。

 何かな? と思った瞬間

 

『うぜえ!』

「ぐえっ!?」

 

 水月経由脊髄着!

 

 ロキシーの積極直蹴りを受け、俺は腹を押さえながらのたうち回る。床を転がる俺を、ロキシーは片目をギョロつかせて睨んだ。

 

『ベタベタすんじゃね! 気色(キショ)いわ!』

 

 気色いわ!

 

 気色いわ!

 

 ベタベタすんじゃね気色いわ!

 

 もひとつついでに気色いわです!

 

 ロキシー先生が……ロキシーが……

 俺のこと、キショいって……。

 ……そりゃそうか。11年振りに再会して、いきなり抱きついたんだものな。

 でも、それはそれとして。

 

「ウ、ウエエエエエエッ!」

 

 俺は吐いた。そりゃもう盛大に。

 みぞおちを蹴り飛ばされたからじゃない。いや、みぞおちもかなり痛いが、それよりもロキシーに……神に否定された自己嫌悪で吐いた。

 神に否定されるのが、これ程と辛いものだとは思わなかった。正気辛い。とても辛い。

 もう、明日からどうやって生きていけばいいんだってくらい辛い。

 ああ、シルフィに会いたい。会って全力で慰めてもらいたい。

 

(うぬ)など知らぬ! 失せい!』

 

 ロキシーの苛烈な追撃が俺を襲う。

 ロキシーが、ロキシーが俺のこと知らないて……。

 もうダメだ……。今すぐシャリーアへ帰ろう……。

 ゼニスは、ルイジェルドかバーディ陛下かゾルダードあたりに依頼して救出してもら……

 

 ん?

 

『に、日本語!?』

 

 そうだ。何故気づかなかったのだろう。

 ロキシーは、人間語ではなく、俺の前世で使われてた言語……“日本語”を話していた。

 

『うむ? 日ノ本言葉を解すか。昨今の異人の若造にしては見上げた心得よの』

 

 驚きを隠せない俺に、ロキシーは意外そうにその片目を向ける。

 腰に手を当て、ケレン味あるポーズで不敵に笑うロキシー……いや、いい加減、俺でも気づく。

 

 これ(・・)は、ロキシーじゃない!

 

『お前、ロキシーじゃないな!?』

 

 アクア・ハーティアを構えながらそう言うと、ロキシーのようなナニカは俺の言葉をじっくりと咀嚼するように口角を引き攣らせた。

 

『ろきしぃ……それがこの娘の名か。よかろう!』

 

 ニヤリと嗤ったソイツは、おもむろに足元に転がるタランチュラデスロードの足指を拾い上げる。

 人間の人差し指サイズに千切れているそれは、俺が凍結させて倒した魔物じゃなかった。

 

『呑んだる!』

 

 ボリ、ボリ、ボリ。

 目の前のロキシーのようなナニカは、タランチュラデスロードの足指をまるでスティック菓子のようにボリボリと咀嚼し始めた。

 

 ロキシーが魔物を生食している、悍ましい光景。

 

 どれだけおなかがすいていたんだ、というありえない発想が頭を過る。

 それだけ、目の前の光景はショッキングだった。

 

『殺るか、異人小僧』

 

 慄きつつも、なおも警戒態勢を取る俺に、諧謔味たっぷりといった表情を返すロキシーのようなナニカ。

 こいつは一体何なんだ……。ロキシーに擬態した偽物なのか、それともロキシーに憑依した何者なのか。

 

 そして、それが日本語を話すのは、一体どういうことなのか。

 ヒトガミが、べガリットに行けば後悔すると言っていたが、これのことなのだろうか。

 困惑する俺に、ソイツはタランチュラデスロードの足指を咥えながら増々不敵な笑みを強めた。

 

『くっふっふっふ……異人小僧。煮るなり焼くなり好きにしてみい!』

「く……!」

 

 くそ。

 やはり、こいつはロキシーに憑依した日本の悪霊か何かだ!

 何故日本の悪霊が、なんてことはこの際どうでもいい。

 こいつは、ロキシーをこのまま人質にするつもりなんだ。

 きっと、悪辣な要求を俺に出すに違いない。

 

 そう思って警戒を強めていたら、ロキシーに憑依したナニカは予想の斜め上の言葉を吐いた。

 

『“熱い”と思った刹那、やつがれは刀を振り下ろす!』

 

 

『それで必ず心中(しんじゅう)よ!』

 

 

 えぇ……

 なんだその捨て身すぎる発想は。

 不死身のバーディ陛下でもそこまで刹那的じゃないぞ。

 

『しかし!』

 

 若干引いている俺に構わず、ロキシーのようなナニカは豪快に身を翻す。

 その視線の先には、異世界に存在しないはずの“鎧”が存在していた。

 

 鎧……いや、甲冑!?

 

 これも、なんで今まで気づかなかったのか。

 視線の先に存在する鎧……いや、造形から見て明らかに戦国武士の鎧、武者甲冑が、不気味なオーラを放って鎮座していた。

 ただ、俺が知る武者甲冑と大きく違うのは、そのサイズだ。

 2メートルの大男が着てもまだ余裕がありそうな大型の甲冑。

 それは甲冑というより、ボト○ズに出てきそうなATを和風にしたような、およそ戦国時代ではあり得ないシロモノだった。

 

『この拡充具足“不動”があれば心中御無用(しんぱいごむよう)! 妖魔も異人小僧も(おか)すこと火の如しよ!』

 

 つかつかと甲冑の前に立つロキシーのようなナニカ。

 そして、再び身を翻し、仮○ライダーのようなケレン味溢れるポーズを決めた。

 

『異人小僧! よう見ておけ! 神武の超鋼が、再びその武威を発する姿を!』

「なっ!?」

 

 そして、それに呼応するかのように甲冑は光を放つ。

 薄暗い迷宮に光り輝く武者甲冑。

 その光に包まれたロキシーのようなナニカは、両手を交差して大音声を轟かせた。

 

 

『瞬着!!』

 

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 だが、なにも起こらなかった。

 どこぞの聖衣みたいな装着ギミックを起こすわけでもなく、甲冑は一瞬光っただけで特に動いた様子はなかった。

 

『……』

「……」

 

 ニヤリと口角を引き攣らせるロキシーのようなナニカ。

 それを訝しげに見つめる俺。

 数瞬、俺とソイツの間には奇妙な沈黙が漂っていた。

 

『瞬着!』

 

 やり直した!

 でも、甲冑は相変わらず無反応だ。

 

『なんでじゃい!』

 

 三度振り返り、甲冑に詰め寄るロキシーのようなナニカ。

 ほっぺを膨らまし、ぷんすかと怒っている様子はちょっと可愛かった。

 

『ええい! 纏え! 纏わぬか不動!』

 

 ポカポカと杖で甲冑を殴り始めるロキシーのようなナニカ。

 ……なんか、子供が癇癪を起こしているような、そんな妙な微笑ましさを感じる。

 

『異人の娘の、肉体では、纏えぬと! そう申すか!』

 

 ゼイゼイと息を切らせながら悪態をつくロキシーのようなナニカ。

 どうやら甲冑と意志疎通しているようにも見えるが、傍から見ると少女がガニ股で甲冑を殴っているシュールな光景にしか見えない。

 

『ぬッ!?』

 

 しばらく甲冑を杖で殴っていた憑依ロキシー。

 だが、甲冑は突然、薄い光に包まれてその姿を消失させた。

 甲冑が鎮座していた場所を見ると、やや煤けた転移魔法陣が存在していた。

 

『失せたじゃと……!?』

 

 初めて動揺を見せる憑依ロキシー。

 そういえば、転移迷宮には休眠状態の転移魔法陣がいくつも存在するんだった。

 おそらくだが、俺やロキシーの魔力に反応して、その機能を一時的に復活させたのだろう。

 憑依ロキシーは慌ててその魔法陣に飛び乗るも、転移は発動しなかった。

 

『い、いかん……不動が近くに無ければ、分霊たる儂は……!』

 

 フラリとよろめいた憑依ロキシーは、キッと鋭い視線を俺に向けた。

 

『異人小僧!』

『ア、ハイ』

 

 つい反射的に応える俺。

 なんか、こいつが敵なのか味方なのかよくわからなくなってきた。

 戸惑う俺に構わず、憑依ロキシーは切迫した様子で言葉を続ける。

 

『不動を探し出し、不動を纏うに相応しき武士(もののふ)を連れてまいれ!』

 

 そう言うと、憑依ロキシーは俺にもたれかかる。

 ふわりと香る匂いが、その身体の持ち主が確かにロキシーだと証明していた。

 

『それまでは、儂はしばし眠る……よいな、必ず連れて参れよ……!』

 

 言い切った憑依ロキシーはがっくりとうなだれると、そのままスウスウと寝息を立て始めた。

 

「何だったんだ……」

 

 困惑しながらロキシーを抱き支える。

 ロキシーに憑依したこの悪霊は、一体何者だったのだろうか。

 あのパワードスーツみたいな武者甲冑は、一体何物だったのだろうか。

 

 いや、ひとつだけ分かることがある。

 あの甲冑に刻まれていた、あの紋様。

 某ヴィジュアル系ロックシンガーが出演した大河ドラマでは、ネットでもずいぶんと話題になっていたので俺も毎週観ていた。

 戦国武将が無双するゲームもよくやってたし、あの紋様には見覚えがある。

 

「武田菱……だったっけ……」

 

 菱形の四角形が四つ並んだシンプルなデザイン。

 それが、あの甲冑の胸部に刻まれていた。

 そういえば、あの大河ドラマでは隻眼の軍師も登場していた。

 

 ……いや、まさか。そんなはずが。

 

「何なんだ……本当に……」

 

 スウスウと寝息を立てるロキシーを抱きながら、俺はただ困惑し続けるしかなかった。

 

 

 

 

 その後、パウロ達と合流した俺は意識を落としたロキシーを抱えラパンへと帰還した。

 宿に到着した頃には、ロキシーは無事意識を取り戻していた。

 意識を取り戻したロキシーは、ロキシーだった。何を言っているのかと思うが、ちゃんとロキシーだった。

 そのロキシーからも初対面の人間だと思われたのには、ややショックだったけど、あの壮絶な光景を目にした後ではそれほどダメージは無い。

 ……うん。ダメージは無いよ?

 

 ロキシーは宿に到着すると直ぐにリーリャによって風呂に入れられた。

 汚れを落としたロキシーからは香ばしい香りは失せ、元のフローラルな香りを存分に発散させていた。

 ちょっとだけ神の入浴をこの目に焼き付けようかと思ったけれど、あの悪霊の存在がチラついたせいでそんな気分は直ぐに失せてしまった。

 部屋の外で臨戦態勢を取りながらロキシーの入浴の番をする俺に、パウロはニヤニヤとした目を向けてきたが無視だ。

 あの悪霊が、いつ飛び出してくるかわかったものじゃない。

 

 だが、あの悪霊は終ぞ表に出てくる事は無かった。

 とはいえ、全く油断は出来ない。あの悪霊は、しばらく眠ると言っていた。つまり、まだロキシーの中に潜伏している状態なのだろう。

 

 一ヶ月も迷宮に取り残されていたロキシーは少し衰弱してはいたが、目立った外傷も無く存外に元気そうだった。美味い飯を食って、よく眠れば直ぐに復帰出来ると豪語するほど。

 とにかく、今日はしっかり休ませよう。

 

「本当に、ありがとうございましたルディ……いえ、ルーデウスさん、とお呼びした方がいいのでしょうか」

「やめてくださいよロキシー先生。前みたいにルディって呼んでください。でも、俺の事すっかり忘れていたなんてちょっとショックでしたよ」

「い、いえ、忘れていたわけでは……あの頃のルディと今のルディが結びつかなかっただけで……」

 

 部屋のベッドの上でアワアワとした様子を見せるロキシー。その姿は、間違いなくブエナ村で教えを受けていたあの頃のロキシーだった。

 

「とにかく今は身体を休めてください」

「……はい。ルーデウス……ルディ」

 

 疲労が溜まっていたからか、ロキシーは横になると直ぐに寝息を立て始めた。

 俺はロキシーの世話をしていたリーリャと共に静かに部屋から出る。

 

「じゃあリーリャさん。ロキシー先生をよろしくお願いします」

「はい。ルーデウス様」

 

 俺はリーリャにロキシーを任せると、すぐにエリナリーゼの部屋へ向かった。

 あの時の事はパウロ達には話していない。ロキシーにも少し聞いたが、謎の鎧を見たという程度しか覚えていなかった。

 俺はパウロ達になんて説明したらいいのか、ラパンに戻る途中ずっと考えていた。

 日本語……この世界にとって、異世界の言語を話す悪霊なんて、流石に荒唐無稽すぎる。

 

「エリナリーゼさん。ルーデウスです。ちょっといいですか?」

 

 だから、俺はまずエリナリーゼに相談しようと思った。

 長耳族のエリナリーゼは、その外見からは想像も出来ないくらい長寿命の種族だ。

 年の功からか俺の知らない事を沢山知っている。女性に年齢の事を言うとキレられそうだけど、エリナリーゼに関してはその心配は無い。パウロの事を息子って言うくらいだしな。

 また、エリナリーゼは自身が呪い持ちというのもあって古今東西の呪術にも詳しい。ロキシーの事でも何かしらのアドバイスをくれるかもしれない。

 

「はいはい、何ですの~……」

 

 ノックした扉が開き、気だるげな声を上げつつエリナリーゼが顔を出す。

 肌着にショーツのみというものすごくラフな格好のエリナリーゼは、その淫靡な肉体を惜しみなく晒している。

 その頬は少しだけ赤く染まっており、息はちょっと酒臭かった。

 こいつ……部屋で一杯ひっかけていやがったな。タルハンドもそうだけど、どうもパウロの元仲間達は酒好きが多い。

 そういえば、ギレーヌはそっち方面だとどうだったのだろうか。弱そうなイメージしか無いけど。ボレアス家のパーティーでも酒を飲んでいる様子は無かったし。

 

「ちょっと相談したいことがあるんですけど、今大丈夫ですか?」

「相談~……? ……はっ!? ルーデウス、いいからお入りなさいまし!」

 

 エリナリーゼはほろ酔い気分から一転し、表情を引き締めると俺の腕を掴んで部屋に引き入れる。

 部屋の中はむっとした酒の臭いで満たされていた。案の定、テーブルの上には酒瓶が散乱している。

 エリナリーゼは扉の外に誰もいないのを確認すると、静かに扉を閉め、俺の方を向いた。

 

「まあお座りなさいな……。ルーデウス。相談というのは、ロキシーのことですわね?」

「!? そ、そうです! ロキシー先生のことです!」

 

 おお、エリナリーゼもロキシーに違和感を覚えていたのか。

 流石は熟練の冒険者。ささいな違和感も見逃さないとは、ほんとうに凄い。

 思わず椅子の上で背筋を伸ばし、ベッドの縁に座るエリナリーゼに尊敬の眼差しを向ける。

 

「実は、ロキシー先生が……」

「みなまで言わないでくださいまし。わたくしには全てお見通しですわ」

 

 おおお! 凄え! 一を聞いて知るどころか零から答えてしまうとは!

 俺はキラキラした目でエリナリーゼを見る。

 なんだか、エリナリーゼから後光がさしているようだ。思わず拝みたくなるくらい。

 その姿は、まさに女神(ビーナス)といっても過言ではなかった。

 

「ルーデウス」

「は、はい」

 

 居住まいを正し、改めて向き合う俺とエリナリーゼ。

 頬に朱を差したエリナリーゼの真剣な眼差しが、俺の瞳を真っ直ぐに捉えていた。

 

「あなたはシルフィの夫……大切な孫娘の、たった一人の伴侶。だから、シルフィが悲しむようなマネは出来ませんし、させませんわ」

 

 うん?

 ロキシーの話なのに、なんでそこにシルフィが出てくるんだ?

 眉を顰める俺に構わず、エリナリーゼの言葉は続く。

 

「でも、あなたは大切な孫娘の夫。つまり、わたくしの義孫であり、大切な家族でもありますわ」

 

 うん。それは知っている。

 エリナリーゼがお祖母ちゃんっていう実感は全然ないけど。

 ていうか、エリナリーゼは一体何の話をしているんだ……。

 

「大切な家族の為にひと肌脱ぐのもわたくしの努め……お触りは許しませんが、わたくしを使う(・・)のは許しますわ。クリフには内緒ですわよ」

 

 ん? 使う?

 そしてクリフ先輩が何だって?

 尚も訝しむ俺にお構いなしに、エリナリーゼはやや熱がこもった言葉を続ける。

 

「ルーデウス。ロキシーを見て催した性欲が、どうしても我慢出来ないというのなら……!」

 

 そう言ったエリナリーゼは、唐突に自身のシャツの裾を掴むと、そのまま勢いよくたくし上げた。

 

「わたくしでヌキなさいましーッ!!」

 

 ……

 

「『ウォーターボール』」

「ひゃんっ!?」

 

 俺はエリナリーゼの頭上にバスケットボール大の水弾を落とす。

 一瞬でずぶ濡れになったエリナリーゼは俺に抗議の声を上げた。

 

「ひどいですわね!」

「だいぶ酔っ払っているようでしたので」

 

 こいつ、なにも理解していなかった。

 というか、俺が期待しすぎた。

 何が女神だよ。過言だったわ。淫乱女神だったわ。

 

 ぶーたれ続けるエリナリーゼ。その上半身は濡れそぼっており、水気で張り付いたシャツからは形の良い乳房と、桜色の突起が薄く浮き出ている。

 ……ノーブラでしたか。こりゃ失礼。

 そんな扇情的な姿のエリナリーゼは、訝しむようにじっとりとした目を俺に向けた。

 

「ルーデウス……あなた濡れシャツフェチもあったなんて、わたくしちょっと引きますわ」

「俺はさっきのあんたの発言にどん引きしましたけどね」

 

 どこの世界に義孫のオカズになろうなんて義祖母がいるんだ。

 エロゲーでもなかなか無いぞそんなシチュエーション。

 ていうか義孫の公開オ○ニーなんて見たくないだろ普通。

 

 結局、この日はエリナリーゼと碌な相談も出来ずに終わった。

 

 

 

 数日後、回復したロキシーを加え再び転移迷宮に挑む俺達。

 俺はロキシーの同行に難色を示したが、パウロ達、それにロキシー自身に反対され、結局はロキシーと共に迷宮に挑むこととなった。

 なんでも、迷宮で凄絶な体験をした冒険者は、また直ぐに迷宮に潜らないと使い物にならなくなってしまうそうだ。

 それはそうなのだろう。でも、今のロキシーは……。

 

 ロキシーの悪霊のことは、誰にも話していない。

 あの甲冑……異世界(・・・)の鎧のことも、誰にも……。

 

 

 

 

 

 


 

 ルーデウス達が復活したロキシーを加え、再び迷宮に潜ってから数刻後。

 転移迷宮の入り口では、旅装そのままのウィリアム一行の姿があった。

 

 グレイラット家のメイド、リーリャとの再会。

 女中の抱擁を受けたウィリアムの面構えは、大戦(おおいくさ)に臨む荒武者さながらの精悍な表情が浮かんでいた。

 その様子をニヤニヤと見つめる、現人鬼波裸羅。

 

 愛という名の後方支援。

 現人鬼は得心す。

 

「ならば、拙者らも気合を入れるとするか。喃、兎共」

「いえ」

「結構です」

 

 波裸羅は傍らに控えるナクルとガドへ向け蠱惑的な笑みを浮かべる。

 嫌な予感がした双子は波裸羅から離れようと後ずさるが、現人鬼は即座に兎の兄、ナクルを捕獲した。

 

「波裸羅の胸はお前たちを包む為にあるぞ。気()を注入してくれるわ!」

 

 そう言うやいなや、波裸羅はみしりとナクルをその美胸で包んだ(圧迫した)

 

「ウワアァーッ! 現人鬼殿の乳が硬くて痛いよぉぉぉ!」

「兄ちゃんを離せ! 兄ちゃんを離せ!」

「全死したいかクソ兎共」

「ウワアァー。現人鬼殿の乳が柔らかくて暖かぁい」

「どうぞごゆるりと兎兄を嬲り尽くし給へ」

 

 悲鳴を上げるナクル、兄を助けんと足掻くガドを一瞬で黙らせる波裸羅。

 ナクルは魂が抜け落ちたかのような虚ろな表情を浮かべ、ガドは波裸羅の威圧を受け若干口調がおかしくなっていた。

 

「戯れはそれまでにせよ」

 

 悲惨なやり取りをため息をつきつつ見やるウィリアム。

 波裸羅は諧謔味がある笑みを浮かべながら、ナクルを放り捨てるように突き離した。

 

「いてて……いつか殺す。あ、あの、若先生。やはり、一度引き返して態勢を立て直しませんか?」

「そうですよ。せめてラパンで魔術師なりを加えてから挑んだほうが。現人鬼はくたばりやがれ

 

 やや不穏なつぶやきをしつつ、双子はウィリアムに迷宮挑戦を思いとどまるよう再度促す。

 だが、若虎はその嘆願を一刀に切り捨てた。

 

「時が惜しい。それに」

 

 迷宮入り口に向けゆるりと歩を進める若虎。

 たった一人の母を救うべく、若虎の足取りからは不退転の決意が滲み出る。

 

「どのような迷宮であれ、身共は引かぬ」

 

 そして、双子へ向け強烈な戦意を注いだ。

 

「それが七大列強だろう」

 

 七大列強という大強者の、絶大なる自信。

 我が身さえも忘れ果て、真一文字に狂い征く(ことわり)

 たとえ単身でも迷宮に挑まんとするその姿勢は、戦意が萎えかけていた双子を大いに奮わせていた。

 

 若虎に続き闘争心を滾らせる双子兎。

 その様子を見て、現人鬼もまた血を滾らせていた。

 

「ふっふっふ……まるで薩摩隼人のチェストよの」

「サツマ? チェスト?」

「何スかそれ?」

 

 聞き慣れぬ言葉を聞き、ナクルとガドは波裸羅へ疑問の表情を向ける。

 波裸羅は自信たっぷりにその疑問に応えた。

 

「チェストはチェストよ! チェストの意味を聞くような者にチェストは出来ぬわ!」

「「えぇ……」」

 

 チェストとは知恵捨てと心得よ。

 言外にそう述べる現人鬼に、双子の兎は唖然とするばかりであった。

 

 

 

 そして、転移迷宮一層に潜る一行。

 既にルーデウス達が魔物を掃討していたのか、存外に魔物と遭遇する機会は無く。

 気合十分で挑んだウィリアム達であったが、その道中はウィリアム達を拍子抜けさせるに十分であった。

 

「つまらん喃。ばけもん共がうじゃうじゃいると思っておったのに」

「ううん、流石は若先生の御家族ですね」

「こりゃ深層まで楽勝かも」

「……」

 

 武芸者達の足取りは軽く、疾い。

 障害となり得る魔物の数は少なく、双子兎の高度な索敵能力はルーデウス達の足取りを的確に捉え、全く道を違えずにウィリアム一行を導いていた。

 呑気な様子の現人鬼と双子を見て、ウィリアムは少しだけ苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。

 

 そうこうしている内に二層へと至る転移魔法陣の部屋へ到着したウィリアム一行。

 そこには二つの転移魔法陣が存在しており、どちらも薄い光を放っている。

 転移魔法陣の近くでは魔物との戦闘があったのか崩れた壁面が見え、多量の石材が散乱していた。

 

「ふむ。二つあるが、虎の兄めらはどちらの魔法陣で飛んだのかの?」

 

 波裸羅は顎に手を当て、二つの転移魔法陣を見ながら双子兎へ声をかける。

 兎達はそれを聞いた瞬間、その赤眼を怪しく光らせた。

 

「現人鬼殿! 右の魔法陣です!」

「なんだか濃厚な魔物の気配がします! きっと大軍が待ち構えているかと!」

 

 双子が囃し立てるように波裸羅を右の魔法陣へ誘導する。

 魔物の大軍と聞き、波裸羅もまたその鬼眼を怪しく光らせた。

 

「よっしゃ! 者共! この波裸羅に続けぃ!!」

 

 勢い良く転移魔法陣を踏み抜く波裸羅。

 その肉体が光に包まれ、瞬く間に波裸羅の姿が消え去る。

 

 

「「今だあぁぁぁぁぁぁぁッ!!」」

 

 

 そして、双子は波裸羅が転移した魔法陣の上に猛然と石材を積み始めた。

 

「「オラァーッ!!」」

 

 どこにそのような剛力があったのか。

 自身の何倍もあろうかという巨大な石材まで迅速に積み上げる双子兎。

 その必死な様子を、ウィリアムは呆気にとられた表情で見つめていた。

 

「よし逝った!」

「若先生! 左の魔法陣が正しいです! そこから行きましょう!」

「……」

 

 石を積み終え、息を切らせながら眼を輝かせる双子。

 だが、ウィリアムはそれに応えることなく、黙って双子の後方を指差した。

 

「え……?」

「後ろ……?」

 

 

 振り向くと、そこには怒気を漲らせた現人鬼の姿があった。

 

 

「虎の威を得て身の分際を忘れ腐ったか兎共……!」

 

 恐るべきは現人鬼の身体能力。

 双子の瞬速の石積みですら、波裸羅の帰還を阻む事叶わず。

 ちなみにウィリアムは途中で波裸羅が帰還しているのをしっかりと目撃していたが、双子のあまりにも残念な姿を見て声をかけられずにいた。

 

 双子は波裸羅の姿を見留めると、死んだ魚の眼を浮かべながら抑揚の無い声を上げた。

 

「おや? 迷宮の悪霊の仕業かな?」

「不思議な事もあるもんだね兄ちゃん」

 

 

 直後、双子の断末魔が迷宮内に響き渡った。

 

 満身創痍の双子を伴い、虎と鬼は迷宮二層へと進軍す──

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第二十八景『異界大蛇成敗要覧(ヒュドラをチェストる)

 

 

 むーざん

 

 むーざん

 

 

 とーらのととさま ず~んずん

 

 とーらのかかさま みーっけたら

 

 

 あーかいたーすき さ~いた

 

 

 むーざん

 

 むーざん

 

 

 

 

 

 転移迷宮第六階層

 迷宮守護者前の転移魔法陣

 

「エリナリーゼさん! 大丈夫ですか!?」

「かすっただけですわ」

「そんな……肩がごっそり削られているじゃないですか!」

「あの鱗にやられましたわ。おろし金みたいですわねぇ……!」

「とにかく、治癒魔術を使います!」

 

 肩を負傷したエリナリーゼを治療する、俺の息子……ルディ。

 その後ろでは、心配そうにルディ達を見つめるロキシー。

 そして、疲れた表情で壁にもたれかかるギース、腕を組み難しい表情で赤い魔法陣を見つめるタルハンド。

 

 俺は、つい先ほどまで繰り広げていた戦いを思い出していた。

 

 

 

 俺達は転移迷宮最下層、ガーディアンの間へと到達した。

 そこにいたのは、荘厳な最下層を守護する巨大な魔物。

 ずんぐりとした巨大な胴体、エメラルドグリーンの鱗に、九本の首……多頭竜(ヒュドラ)

 赤竜(レッドドラゴン)の何倍もあろうかという巨大なヒュドラの後ろには、2メートルを超える巨大な魔力結晶。

 

 その中にいる、彼女──ゼニス。

 俺の大切な家族、大切な伴侶。

 それが、大きな結晶の中に閉じ込められていた。

 

 俺は、俺達はゼニスを助ける為にヒュドラに挑んだ。

 だが、魔術が効かねえヒュドラに後衛連中は有効な攻撃を与えられなかった。

 俺がヒュドラの首をぶった斬っても、ヒュドラは直ぐに新しい首を生やしやがった。

 俺は必死になってゼニスを救おうと戦った。だが、形勢不利と見たギースの野郎が撤退を決断する。

 

『おらパウロ! 一旦逃げんぞ!』

『馬鹿言ってんじゃねえ! ゼニスが目の前にいるんだぞ!』

『馬鹿言ってんのはお前だパウロ! 魔術が無効化されるせいで後衛の援護がマトモに出来てねえんだよ! このままじゃ全滅すんぞ! 息子を殺してえのかよ!』

 

 俺はただゼニスを助けてえだけだ。

 息子を殺してえだぁ?

 たとえルディが死んだとしても俺は……!

 

 ……いや、それは、だめか。

 

『わかった……』

 

 こうして俺達はギースが放った煙幕弾に紛れ、ガーディアンの間へと続く赤い魔法陣へと戻った。

 

 

 

「くそ!」

 

 壁に拳を打ち付ける。

 間違いねえ。さっきのヒュドラの後ろにいたのは、確かにゼニスだった。

 魔力結晶の中に閉じ込められて……ありゃ生きてんのか?

 もし死んでたら俺はどうすりゃいい! どうすりゃ……!

 

「父さん」

「ありゃゼニスだ、間違いない!」

「ちょっと落ち着いてください」

「……ああ、悪かった。今は落ち着いている」

 

 落ち着いて……落ち着いてられるか!

 ゼニスがあそこにいたんだ! お前の母さんが!

 なんでお前はそんなに落ち着いていられるんだよ!

 

「母さんは、あれで生きているんでしょうか?」

「ああっ!? 生きてるかどうかなんて関係ねえだろうが!」

「……そうですね」

 

 ルディ! なんでお前はそんなことを言うんだ!

 ようやく、ようやくゼニスに会えるっていうのに!

 

「やめろや喧嘩は!」

 

 ギースが何か言っている。

 でも、それよりルディだ。

 このガキ、本当に状況を理解しているのか!?

 

「ルディ、あそこにゼニスがいたんだぞ! お前の母さんが! なんでそんなに落ち着いていられる!?」

「もっと慌てたほうがいいんですか? 取り乱して何かが解決するんですか?」

「そうは言ってねえ!」

 

 胸ぐらを掴まれても、ルディは怯むことなく正論を吐く。

 

「とりあえず現状の整理をしましょう」

「はぁ!?」

 

 俺の手を払ったルディは、淡々とした調子で説明を続ける。

 

「あのヒュドラには魔術が効かなかった。凄まじい再生能力も持ち、触れただけでエリナリーゼさんの防御を突破するほど攻撃力も高い。そして、母さんは石の中に閉じ込められている……正直、生きているかどうかもわからない」

「んなこたぁ俺だって分かってるんだよ! 母親を見つけた時の態度がそれかって言ってんだ!」

「だからやめろっつってんだよ! 親子喧嘩はラパンに戻ってからやりやがれ!」

 

 再びルディに掴みかかる俺を、ギースが割って入って止める。

 くそ、ふざけやがって!

 なんなんだよ、このルディの落ち着きっぷりは! 気に食わねえ!

 ゼニスが、ゼニスが目の前にいたんだぞ! お前の母さんが!

 もう七年も行方知れずだった、お前の母さんがよ!

 

 

「はい。喧嘩はそこまで。ヒュドラの対策を練りますわよ」

 

 エリナリーゼが手を叩きながら言う。

 見ると、ロキシーが心配そうにルディに声をかけていた。

 

「ルディ、大丈夫ですか?」

「ええ……大丈夫です。ありがとうございます、ロキシー先生」

 

 ……よく見りゃ、ルディも焦った顔をしているな。

 落ち着いて見えるのは、あくまでそう取り繕っているだけってことか。

 それに気づかねえなんて、俺は焦り過ぎているのか……。

 

 ……くそ、ざまあねえな。

 落ち着け、パウロ。深呼吸をしろ。

 ルディに当たっても、何も解決にもならねえ。

 ここまで来て、失敗は出来ねえんだぞ……!

 

「え~……ごほん。あの、ゼニスさんの結晶化についてですが、なんとかなると思います」

「ほ、本当か!?」

 

 ロキシーが唐突に言った言葉に、俺は思わず食いついた。

 あの状態で、ゼニスが助かる可能性があるのか……!

 

「は、はい。たまに強力なマジックアイテムが、ああして結晶内に取り残されている場合があります。ガーディアン……ヒュドラを倒せば、結晶化が解け、中にあるものが無事に取り出せるはずです」

「そういう話はわたくしも知っていますわ。似たような状態になった人物をわたくしは一人知っていますけど、今もちゃんと生きていますわ」

「うーむ……にわかには信じられねえが、ゼニスが無事な可能性があるだけマシってことだな」

 

 そうか……あんな状態でも、ゼニスが無事な可能性があるのか……!

 よし……! よし! 少しは希望が見えてきた!

 

「問題はあのヒュドラ……わたくしも初めて見る種類ですわ」

「そうだなぁ。あんな鱗を持つヒュドラなんて聞いたこともねえ」

「しかも再生までしよった。なんなんじゃアレ……反則じゃろ……」

 

 確かに、あのヒュドラは厄介なんてもんじゃねえ。

 ヒュドラはただでさえ強え魔物なのに、再生するヒュドラなんてどうすりゃ倒せる……。

 

「あれは恐らく魔石多頭竜(マナタイトヒュドラ)です」

 

 ロキシーが滔々とあのヒュドラの正体について説明を始める。

 曰く、第二次人魔大戦の頃に目撃され、魔力を吸収する鱗に覆われた悪魔の竜。

 ロキシーが読んだ文献によると、(ゼロ)距離で魔術を撃ち込めば通じるらしいが、あの鱗に近づくのは困難だ。あの巨体を押し付けられただけで、身体中ズタズタにされるのは目に見えている。

 

「しかし仮に魔術が効いたとしても再生が厄介じゃ。どうしたもんか……」

 

 タルハンドがため息をつきながらそう言うと、全員が無言で同意を示す。

 しかし倒さねえことには話しにならねえ。

 かなり厳しい相手だ。だが、魔術が通用しなくても俺の斬撃は通じた。

 一本一本首をぶった斬ればいい……いいんだが、再生されちゃまた一からやり直しだ。

 どうすりゃいい……?

 

「一応、案があります」

 

 俺を含め全員が悩んでいると、ふとルディが声を上げる。

 ルディ曰く、なんでもとある英雄が再生するヒュドラと戦った時に、傷口を松明で炙れば再生はしなかったと。

 

「なるほどのう……傷口を焼く、か……」

「松明は持っていませんけど、傷口なら鱗に魔術が弾かれる心配はありませんわね」

「試してみる価値はありそうだな……うし、じゃあそれで行ってみっか」

 

 俺が悩んでいる間に、ルディがあっさりと方針を決めちまった。

 ……情けねえ。

 俺がゼニスゼニスって言ってる間に、こいつはずっと冷静にヒュドラを倒す方策を考えていたのか。

 

「おいパウロ。それでいいよな?」

「お……おう」

「気のねえ返事だな! あいつの首を斬れるのはお前しかいねえんだぞ!」

 

 ギースに言われるまでもなく、このパーティでヒュドラの首を斬れるのは俺しかいない。

 俺が首を落として、ルディが即座に傷口を焼く。

 タルハンドとエリナリーゼが俺とルディをガードする。

 負傷者が出たら、ロキシーが治療。

 場合によっちゃ、ルディに攻撃が集中して死ぬ可能性だってある。

 

 ……ふう。

 気合、入れてかねえとな。

 ゼニスが助かっても、ルディがいなくなっちゃ何も意味がねえ。

 

「エリナリーゼ、タルハンド、ギース、それにロキシー」

 

 俺は改めてパーティメンバーを見る。

 全員、しっかりとした目で俺のことを見つめ返していた。

 

「お前らには随分と世話を掛けた。フィットア領の転移事件が起きてから、もう随分と経った。魔大陸を縦断してもらったり、北方大地でルディを見つけてもらったりもした……本当に、考えられねえくらい凄え尽力をしてもらったと思ってる。でも、これでようやく一区切りだ」

 

 ゼニスが、仮に助からなくても……これで、俺の家族で、見つかっていないのは後一人。

 

「まだ一人……俺の次男坊が見つかってねえ。でも、あいつはどこかで必ず生きている……魔界大帝の魔眼とかそんなの関係なしに、俺にはそうとしか思えねえんだ」

 

 そうだよな、ルディ。

 俺が視線を向けると、ルディは深く頷いた。

 兄貴のお前なら、よく分かるよな。

 あいつ……ウィルなら、きっとどこかで生きている。

 ウィルは、ルディとはまた違った才能に溢れていた。剣術の腕前も、どこで覚えたのか俺よりとっくに凄え領域に達している。

 

 だから、ウィルはそう簡単には死なねえ。

 お前が魔大陸で必死になって生き延びたように、あいつもどこかで必死になって……いや、案外余裕なのかもしれねえな。

 それこそ、気のいい仲間でも見つけて、楽しい冒険の旅をするくらいには。

 

 ……もしそうだったら、ちょっとくらい怒ってもいいよな?

 もちろん、思いっきり抱きしめて、無事を喜んだ後で。

 

「だから……だから、これが実質最後の山場だ。力を貸してくれ」

 

 真っ直ぐに、全員の目を見ながらそう言うと、エリナリーゼが微笑みながら言葉を返した。

 

「かしこまるなんてアナタらしくもありませんわ。でも、分かりましたわ。全力を尽くしましょう」

「ふっ、ここまで来て力を貸さん阿呆はおらんわい」

「へっ! パウロも随分と丸くなっちまったなぁ! ま、俺に出来ることはあんまねえが、やれることは全部やらせてもらうぜ」

「勝ちましょう……この戦いに勝てば、私達の旅も報われるというものです。その後で、一緒にウィリアム君を探しましょう」

 

 エリナリーゼに続き、タルハンド、ギース、ロキシーが応えてくれる。

 こいつら……なんでこんなにあったけえんだ……。

 決して短くねえ時間を、俺達家族の為に費やしてくれたのに、文句のひとつも言いやがらねえ。

 

 俺は皆にうなずくと、ルディの方を向く。

 改めて見ると、ルディの奴でかくなったよな……。

 いつまでも成長しねえ俺と違って、中身の方も……。

 いや、こいつも昔から優秀な奴だった。

 

「ルディ。お前は、本当に頼りになる息子だ」

「そういうお世辞は母さんを助けて、ウィルを見つけた後にしましょう」

「お世辞じゃねえ! 本当にそう思っている!」

 

 俺はお前みたいに冷静にもなれねえし、アイディアも出せねえ。我武者羅に突っ込むことしか考えてなかった馬鹿だ。

 息子のお手本にもなれねえ、ダメな親父さ。

 

 でもな……それを理解(わか)った上で言わせてもらう。

 親として言うべきことじゃないのも、理解った上で言わせてもらう。

 

「ルディ、いいか」

「はい、父さん」

 

 こいつは眼の前しか見えねえ俺より、ずっと先を見据えていた。

 もう俺なんかよりとっくに凄え奴になっているのかもしれない。

 

 でも──

 

 でも、今は俺と同じ気持ちで戦ってほしい。

 俺と同じ気持ちで。

 俺と同じ覚悟で。

 

 

「死んでも母さんを助けるぞ!」

「はい!」

 

 

 待ってろよゼニス。お前を必ず救い出してやるからな。

 そして、ゼニスを救い出した後は……

 

 ウィル

 父さんが、お前を必ず見つけ出してやるからな。

 

「おし! 行くぞぉ!!」

「「「オオオオッ!!!」」」

 

 そして、俺達は赤い転移魔法陣を踏んだ。

 

 ヒュドラが、そしてゼニスが待つ、迷宮の最深部へ──。

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

「は?」

「うそ……」

「ま、マジかよぉ!?」

「ヒュ、ヒュドラが……!」

「やだ、おっきぃですわ」

 

 俺を含め、全員が魔法陣の上で固まる。

 気合十分で臨んだ俺達の目の前に現れた、信じられない光景。

 

 滅多斬りにされた、ヒュドラの死体。

 

 全ての首が無くなり、巨体を横たわらせてヒュドラが死んでいた。

 

 そのヒュドラの死体の上に佇む、血まみれの、素っ裸の女……じゃねえ、ありゃ男か?

 なんだあの、えげつねえイチモツ……

 見ると、ヒュドラの死体の傍らには、同じく血まみれの兎耳を生やした獣人達もいる。

 

「──ッ!?」

 

 そして、魔力結晶があった場所に横たわるゼニス。

 

 そのゼニスを抱きしめる、白髪の男──!

 

 

「ゼニスゥゥゥゥゥッッッ!!!」

 

 

 俺は、全力でゼニスの元へ駆けた。

 汚されようとする彼女を救う為、剣を抜きながら──

 

 

 

 

 

 

 


 

 ルーデウス一行が転移迷宮最深部にてマナタイトヒュドラと死闘を演じていたその頃。

 ウィリアム達虎眼流師弟、そして異界の現人鬼のパーティは迷宮内の魔物を殺戮しつつ、無事迷宮第五階層まで到達していた。

 

「ガド……(おれ)の顔はどうなっている……? 鼻はあるか……? 耳はあるか……?」

「兄ちゃんの顔……まるで稚児(やや)のよう……」

 

 もっとも、索敵兼追跡役の双子兎の顔面はボコボコに腫れており。互いを気遣いつつ呻き声を上げるその姿は、目を背けたくなるほどの悲惨な光景であった。

 しかし、これは迷宮内で魔物に負わされた手傷に(あら)ず。

 

 第二階層に至る際、隙きを見て波裸羅を亡き者にせんべく暗闘を繰り広げた双子達。

 だが、尋常ではない現人鬼の心技体を出し抜くには、双子の力量はあまりにも頼りなく。

 当然の事ながら波裸羅に強烈な折檻を喰らい、第二層に至った直後などは「前が見えねえ」などと前方を視認するのも困難な状況ではあった。

 

 それ故に。

 双子兎の反骨の炎は、未だ鎮火せず。

 

 第三階層に到達した頃には、双子は再び対現人鬼への闘争を開始する。

 休息の際うっかりを装って食事に致死毒性のある魔物の血液を混ぜる、魔物との乱戦の最中不慮の同士討ちを装い不意討ちを仕掛ける、道を間違えた振りをして波裸羅を誘導し魔物が群れる部屋へ置き去りにするなど、共に迷宮に挑むパーティメンバーに対する仕打ちとは思えない程直接的な反逆行動を取っていた。

 

 だが、これらの必死な双子の攻撃を波裸羅は尽く封殺していた。

 強力な魔物を相手にしながら、決して弱くはない双子の襲撃を封じ続ける波裸羅の実力は推して知るべしであろう。

 実力差があまりにもありすぎるせいか、波裸羅は苛つきこそすれ双子の暗殺行為を小動物がじゃれついてくる程度にしか感じていなかった。

 故に、双子の命を取らずに多少の折檻で済ませていたのだろう。常人ならば即死する程の折檻に耐えうる双子の耐久力も、また推して知るべし。

 

「……」

 

 そんな双子を見て、ウィリアムはやや眉を顰める。

 一刻も早く最深部にいるであろうゼニスを救い出さねばならぬ身。

 双子と現人鬼の漫才に費やしている時間は無い。

 

 しかし、第四階層までは双子と現人鬼の闘争が迷宮攻略に支障を来す事は無く、ウィリアムもまた波裸羅の自儘振りに辟易していたのもあり、双子の反逆行為を咎めることはせず半ば黙認していた。

 それに、それらとは関係無く第五階層に至ってから、一行の歩みは四階層までの順調な足取りとは打って変わり鈍いものとなっていた。

 

「……出たぞ」

「ッ! ガドッ!」

「当方に迎撃の用意あり!」

 

 ウィリアムの一声に即座に迎撃準備を整える双子。

 見れば、長い手足と鋭い爪、そして男性器を想起させる醜悪な頭部を持つ迷宮深部に潜む魔物……イートデビルの群れが、ウィリアム一行の前に現れた。

 シュー、シューと不気味な鳴き声を漏らし、その口器から粘度の高い涎を垂らす。通路の壁面、天井を這い、ジリジリと一行との距離を詰めていた。

 

「「──────ッッッ!!!」」

 

 肉薄するイートデビルへ、兎兄弟の吠魔術が轟然と放たれる。

 直後、イートデビルの群れは体内が焼け破れた様な激痛に苛まれ、その動きを止める。

 屋内での吠魔術の行使は野外より格段に効果が高く、兎の咆哮は十全に迷宮の魔物へと浸透していた。

 

「シッ!」

 

 すかさず七丁念仏を“担いだ”ウィリアムが動きを止めたイートデビルへとその撃剣を放つ。

 

 一振七斬──!

 

 脳髄へ刃を入れられたイートデビル達は、その死を認識する間も無く絶命し果てた。

 

「波裸羅の分も残しておけよ!」

 

 一瞬で仲間を殺され、怯む残りのイートデビルへと躍りかかる波裸羅。

 距離を詰めた波裸羅は一頭のイートデビルの胴体へその美掌を圧し当てる。

 

「前略!」

 

 生々しい音と共に、イートデビルの臓物がその口器から勢いよく射出される。

 悪臭を放つ臓物が迷宮壁面へと飛散し、残り数頭となったイートデビルは種の本能から目の前の虐殺パーティから遁走を開始した。

 

「逃すか──!」

「現人鬼殿、深追い無用」

 

 即座に追撃戦を始めようとした波裸羅へ待ったをかけるウィリアム。波裸羅はつまらなそうに鼻息を一つつき、戦闘態勢を解除した。

 既に五階層へ至ってから、何度も何度も繰り返された光景である。

 

 双子兎が吠魔術で動きを止め、虎の爪と鬼の牙が動きを止めた魔物を鏖殺せしめる。

 ウィリアム一行では自然とこのような必勝型が生まれており、いかな魔物ですらその死からは逃れられなかった。

 

「数が多い……」

 

 しかし第五階層のイートデビルの出現数は尋常では無く。

 虐殺された仲間の死骸を踏み越えて襲いかかる個体も多く、度重なる魔物の襲撃を受けウィリアム達に相応の疲労が溜まる。一行で元気一杯なのは波裸羅のみ。

 

「……ッ」

 

 また、ウィリアムはここに来てひどく胸の痛みが増すのも感じていた。

 龍神にへし折られた胸骨は完治しておらず。

 過酷な砂漠の旅を終えて間もなく迷宮に潜り、数多の魔物を屠り続けるとあっては、いかな強靭な肉体を持つ虎でも胸の負傷が回復するはずも無く。

 ウィリアムは双子や現人鬼に傷んだ胸を気取られぬ様、喉からせり上がる血液をぐっと飲み込んでいた。

 野生の虎は、得てして己の不利を他者に悟らせぬものである。ましてや、七大列強たる大強者ならば尚更。

 

「うーん……若先生の御家族は、どうやら特殊な香を使って魔物を避けていたみたいです」

 

 床に手をつき、鼻をひくひくとさせたガドが魔物が大量出現する原因を分析する。

 イートデビルは食用として売られているタルフロの木の根の匂いを非常に嫌う習性かあった。タルフロを香として焚くと、天井から地面に降り、そのまま煙から逃れようとするのだ。

 ルーデウス一行のシーフ、ギースが事前にこの香を多量に準備していた為、ルーデウス達は特に苦労もせず第五階層を突破している。対して、着の身着のまま迷宮へ挑んだウィリアム一行がこの階層で苦戦するのは必然であろう。

 

「うう……匂いが混ざってるから追跡がうまくいかない……ガド、そっちはどうだ?」

「こっちもあんまし……つーか現人鬼が臓物ぶちまげすぎなんだよ

 

 ここに来て問題がもうひとつ。

 双子によるルーデウス一行追跡が、魔物との戦闘で著しく困難に陥ってしまったことだ。

 これまではルーデウス達の痕跡を眼、耳、鼻で的確に捉え、その足取りを容易に辿ることができた。

 だが、第五階層ではギースが使用したタルフロの香効が薄れていたのか、数多のイートデビルがウィリアム達に襲いかかり、その歩みを鈍くする。

 波裸羅が必要以上に魔物を爆死せしめていた為、散らばった死骸が僅かに残るルーデウス達の痕跡を一切消し去っていたのが主な原因ではあったが。

 

 双子は恨みがましい視線で波裸羅を睨むも、現人鬼はお構いなしに自儘振りを発揮する。

 

「つっっかえぬ兎共じゃ(のう)。もそっと気張らんかい」

「あれ? もしかして喧嘩売られてる?」

「買う? 買っちゃう兄ちゃん?」

「あ?」

誠心誠意真心謝罪(まじですいませんでした)!」

「ナマ言ってまじでさーせん!」

 

 これも、もう幾度となく繰り返された光景である。

 

 

「しかし、このままじゃ埒が明かぬのも事実じゃ喃……“迷う宮”とはよく言ったものよ」

 

 波裸羅は双子に腹パンをぶち込みつつそう呟く。

 第五階層はそれまでの階層と同じく入り組んだ作りになっており、優秀なシーフがいないウィリアムパーティでは第六階層に至る道順を見つけ出すことは困難であった。

 

「というわけで兎共」

「ぐぐぐ……な、なんスか?」

「痛くねえ。ものすげぇ痛くねえ」

 

 苦しげに腹を擦りつつ波裸羅に応える双子兎。

 そんな双子を、波裸羅は蠱惑的な笑みを浮かべて見やる。

 

「気付いているか? この迷宮、魔法陣を(くぐ)る度に地下深くへと(もぐ)っているのを」

「そら、迷宮ですし……」

「直下に潜り続けてるわけじゃないんでしょうけど、まあ基本は……」

 

 この世界に点在する迷宮。

 かつて古代魔族が楽園を築く為、人為的に作られた魔物の一種とされており、迷宮を構成する領域もまた様々な形態が存在する。

 単純に地下に領域を広げ続けるのもあれば、領域内で城塞めいた形態を取る迷宮もある。

 ラパンの転移迷宮は階層を越える毎に転移魔法陣を踏まなければならないが、波裸羅は微妙な気圧の変化を感じ取り、この迷宮の最深部が地中深くに埋まっていると当たりをつけていた。

 

「そしてぼちぼち最深部に近づいておる……」

 

 周囲へ美視線を向ける波裸羅。

 第四階層からはそれまでと違い石造りの壁面、床で構成された通路になっており、また出現する魔物の質も相応に手強くなっている。

 現人鬼の第六感が、虎の母親が囚われし最深部が近いことを明確に感じ取っていた。

 

「故にこの床を掘れば最深部に到達出来るというわけじゃ! 波裸羅の勘がこの真下に最深部があると告げておる!」

「「いや、そのりくつはおかしい」」

 

 思わず否定の声を上げる双子。

 自信たっぷりに、愉悦の表情で足元を見る波裸羅に、「やっぱやべえわコイツ……」といった表情を向けていた。

 

「あの、さっきガドが直下に潜っているわけじゃないって言ってましたよね?」

「迷宮はそんな単純な作りじゃないんですがそれは。そうですよね、若先生?」

 

 整然と波裸羅へ説明しつつ、ガドがウィリアムへと救いを求めるような眼を向ける。

 それを受けたウィリアムは、静かに瞑目する。

 しばらく瞑目していたウィリアムだったが、やがて何かを決意したかのように両の眼を開いた。

 

「……いや、ここは現人鬼殿の勘を信じよう」

 

 双子は師匠から発せられた言葉を受け愕然とした表情を浮かべる。

 多少刹那的な所があるウィリアムだったが、まさかここまで脳みそが筋肉になっているとは信じ難く。

 ウィリアムの考えを是正すべく、大慌てで兎口を動かした。

 

「いやいやいや! 下手に床を掘れば迷宮が崩落する可能性がありますよ!」

「実際そういう例はいくつもありますよ! ここは正規のルートを見つける方が!」

 

 双子の必死な説得にもかかわらず、ウィリアムはゆっくりと首を振る。

 

「正規の道順を見つけるのは難し。道中罠にかかる恐れあり。ならば、知恵を捨て現人鬼に先を託すべし」

 

 師匠の有無を言わさぬ言葉に、双子は即座に口をつぐんだ。

 もっとも、双子の覚悟は完了していなかったが。

 チェストとは、知恵捨てと心得たり。

 

「波裸羅がそのようなヘマをするか! まあ見ておれ! 現人鬼の(スコップ)の冴えを!」

 

 轟然と身を翻し、血管が浮き出るほど拳を握りしめた波裸羅。

 そのまま、床に拳を撃ち付けるべく身構えた。

 

「かうんとだうんじゃ……! 五!」

「いやいやいやいやいやいやいやいや」

「やめてまじにやめて頭おかしい事やめて本当やめて」

 

 双子の必死な呼びかけに構わず、波裸羅は思い切り拳を振り上げた。

 

「零!」

「「こらァッ!!」」

 

 面倒臭くなった波裸羅の秒読み短縮!

 轟音と共に迷宮の床が破砕され、双子の抗議の声と共に一行は転移迷宮を“潜陸(せんりく)”せしめた。

 

 

 

「あいたたた……って!?」

「ま、まじで最下層に……なんだあのバケモン!?」

 

 瓦礫に混ざりに尻もちをつく双子。

 粉塵が舞う中、双子は床を抜けた先が凄まじく広い空間だと気付く。

 荘厳にして広大な宮殿の如き広間。広間の隅には何本もの太い柱が立っており、天井は見上げる程高い。

 床は整然とタイルが敷き詰められており、一つ一つが複雑なレリーフが刻まれていた。

 

「グルルルル……ッ!」

 

 そして、鎌首をもたげる、巨大な魔石多頭竜(マナタイトヒュドラ)

 既に何者かと戦闘をした後なのか、その巨体は臨戦態勢を整えていた。

 

八岐大蛇(ヤマタオロチ)……!?」

 

 ウィリアムもまた即座に戦闘態勢を取り、迷宮の守護者を見上げる。

 かつて高天原(たかまがはら)を追放された須佐之男命(すさのおのみこと)が討伐せし伝説の怪物。

 八つの頭を持ち、八本の尾を持つ八岐大蛇に酷似したその威容。

 八岐大蛇より頭がひとつ多い、巨大な竜が、ウィリアム達の前で低い唸り声を上げていた。

 

「──ッ!?」

 

 そして、虎は視る。

 

 竜の後ろに存在する、巨大な魔力結晶に囚われし菩薩の姿を。

 

「母上ッ!」

 

 ウィリアムは即座に抜刀し、結晶へと駆ける。

 当然、ヒュドラはそれを阻止すべく巨体を震わせた。

 

「珍しき(かな)! 異界のオロチ! 貴様の相手はこの波裸羅じゃ!」

 

 そこに躍り出る現人鬼波裸羅。

 巨大な“獲物”を前にし、その凶剣(まがつるぎ)は大いに滾っていた。

 

「まずは小手調べ! 簡単に死んでくれるなよオロチ! 死んだら殺すぞ!」

 

 嬉々としてヒュドラに飛びかかる波裸羅。絶技“旋風美脚”を叩き込むべくヒュドラの前に跳躍した。

 

(ふん)ッ!」

 

 虚空にて四連撃──!

 鱗と肉がぶつかり合う音が広場へと響く。

 強敵を前にした波裸羅の技は、龍神と対峙した時と変わらぬ程の冴えを見せていた。

 

 しかし

 

「シャアアァァァァ!」

「ぬぅッ!?」

 

 ヒュドラは無傷。

 そのまま、纏わりつく波裸羅を振り払うべくバラ鞭の様に多首をしならせる。

 それを華麗に躱す波裸羅。だが、波裸羅の脛は肉が抉れ、おびただしい程の血を滴らせていた。

 

「まるでおろし金! 瓜にはならぬか!」

 

 流血など意に介さずヒュドラを見上げる波裸羅。

 予想以上に硬いヒュドラの外皮に、驚愕と驚喜が混じった嗤いを浮かべていた。

 

「わ、若先生!」

 

 双子の兄、ナクルが悲鳴を上げる。

 ヒュドラは魔力結晶へと駆けるウィリアムへ猛然と巨体を迫らせた。

 

「邪魔だ!」

 

 七丁念仏を担ぎ、撃剣をヒュドラへ叩き込むウィリアム。

 闘気を乗せし一閃は、血しぶきと共にいとも容易くヒュドラの首を斬断した。

 

「バケモンの首なで斬り!」

「一本()いもした!」

 

 喝采を上げる双子。

 しかし、これしきで音を上げるヒュドラでは非ず。

 

「シャアアアァァァッ!」

「くっ!?」

 

 切断された首に構わず、残りの首をしならせヒュドラはウィリアムへ攻撃を開始する。

 一本の首がウィリアムへまともにぶつかり、その猛烈な勢いに虎の肉体は吹き飛ばされた。

 ウィリアムは咄嗟に“片手念仏鎬受け”の構えにてその攻撃を防いでいたが、かろうじて急所を防御しただけに過ぎない。

 双子の元へ転がり込んだ虎の肉体は、全身から真紅の液体を吹き出す。

 

「若先生!」

「ご無事で!?」

 

 慌ててウィリアムへ駆け寄る双子。

 全身から血を噴き出す虎の瞳は、依然闘志の炎が燃えていた。

 

「大事ない……!」

 

 片膝をつくウィリアムは、その瞳に業火を宿しヒュドラの方向を睨む。

 その瞳は、ヒュドラの後ろ──母、ゼニスの姿を捉えていた。

 

(母上……!)

 

 結晶内で身に何も纏わず、その蜂蜜色を晒している母、ゼニス。

 結晶内でうずくまるように身を屈め、生きているのかどうかさえ分からないゼニス。

 

 何故あのような姿で。

 何故このような場所で。

 ヒュドラに対する敵愾心、そして母の無惨な姿を見て、虎の瞳は潤む。

 潤んだ瞳で母を見つめるうちに、虎の中である想いが湧き上がっていた。

 

 この時、ウィリアムは知った。

 囚われし母の、無惨な姿を見て知った。

 

 己が、この世界に存在せし情由。

 この世界に二人といない、大切な母親の存在。

 己の為に挑んだ迷宮は、決して己の為だけに挑んだ訳ではなかった。

 

 約束した。

 可憐な妹達、そして慈愛の女中に。

 自身と、そして家族達にとって陽だまりである、ゼニスを必ず連れて帰ると。

 

 無惨に散りゆく母親などあってはならぬ

 ならば、討たねばならぬ

 己の剣名の為ではない

 この現し世(・・・)の、家族の為に

 

 ウィリアム、ヒュドラを討つ!

 

 

「グルアアアァァァァァッ!!」

 

 虎が健在なのを受け、ヒュドラは怒気を込めた咆哮を上げる。

 そして、切断された首から勢い良く新しい首を再生せしめた。

 

「き、切り株から新しい首が生えやがった……!」

「若先生の斬撃(チェスト)でもバケモンはくだばらないのか……!」

 

 ヒュドラの異常な再生能力に、双子は慄きが籠もった声を上げる。

 ヒュドラはジリジリとウィリアム達と魔力結晶の間に陣取り、囚えたゼニスを逃さんべく一行の前に立ちはだかった。

 

「ふっふっふっ……見えたぞ、異界オロチの攻略法!」

 

 膝をつくウィリアムの後ろで、両脛からどくどくと血を流しつつも美然と屹立する現人鬼。

 頼もしき哉、不敵に嘯くその美姿。

 

「ま、まじっスか!?」

「一体どんな!?」

 

 双子は食い気味に波裸羅へ眼を向ける。

 その双子の視線を受け、波裸羅は口角を美麗に引き攣らせた。

 

「再生せしめる(いとま)与えず尽くオロチの首を()ぐべし!」

「ただのゴリ押しじゃねーか!」

「脳筋もいい加減にしろよテメー!」

 

 清々しい程単純明快な策を打ち立てる波裸羅に、何度目か分からぬ抗議を上げる双子。

 だが、物理一辺倒(アタッカーオンリー)のこの面子ではそれしか攻略法が無いのも事実。

 

「兎共! 指咥えてよう見ておけ! この波裸羅の鬼技(おにわざ)を!」

 

 美笑を浮かべ、波裸羅はヒュドラの前に跳躍する。

 そのまま、その人差し指を美麗に突きつけた。

 

「聞けぃ! 異界のオロチ!」

 

 波裸羅の異様な迫力に、ヒュドラは思わず後ずさる。

 ヒュドラにとって矮小な存在であるはずの現人鬼。であるはずなのに、ヒュドラは本能的な畏れを波裸羅に抱いてしまっていた。

 

母子(おやこ)再会、邪魔立て致すその大無粋!!」

 

 波裸羅は轟然と怨気を放出させる。

 広場は瞬く間に(かすみ)の怨念が篭り始めた。

 

 

「ど許せぬ!!!」

 

 

「ゴアァァァァァァァッ!!」

 

 怨気を噴出しつつ大見得を切る波裸羅に対し、ヒュドラは口腔内に熱気を溜める。

 

「ッ!?」

 

 ヒュドラの口中から猛烈な勢いで火炎が吹き出る!

 魔石多頭竜(マナタイトヒュドラ)の必滅の火炎放射(ブレス)だ!

 

「モーレツ!?」

「至近距離で直撃!?」

 

 凄まじい火炎が波裸羅を包み、双子は慄きつつも期待を込めた叫びを上げる。

 双子の前には黒焦げとなった波裸羅の死体が出来上がっているのは必定。

 

 ヒュドラの業火炎。

 類稀なる魔術師が十名揃っていてもレジスト出来ぬ威力。

 その温度、鉄の融点を遥かに超える4000度!

 竜の火炎放射は、鬼の五体をこの世から焼失せしめてしまったのか。

 

 (いな)

 

 

 断じて否!!

 

 

「「吸収合体!!??」」

 

 

 やはり正しいから死なない!!!

 

 

「これで拙者はファイヤー波裸羅!」

 

 火炎を纏わせた波裸羅は大美得を切り、敢然とヒュドラへ向け吶喊する。

 熱した伐沙羅を体内に巡らせる怨鬼。

 すなわち、高温の火炎を喰らわせるなど、餌を与えるに等しい愚挙なのだ。

 

「合わせろやアダムスッ!」

「応ッ!」

 

 波裸羅に呼応し、ウィリアムもまた身体を奮い立たせ、ヒュドラへ吶喊する。

 虎と鬼が、ヒュドラの両側から果敢に突撃を開始した。

 

「しゃあッ!」

 

 波裸羅の重爆蹴がヒュドラの首へ炸裂する。

 その疾さ、そしてその重さは、先ほどの旋風美脚とは比べるまでもなく。

 

「ッ!」

 

 すかさず怯んだヒュドラの首を目掛け、ウィリアムの“流れ”が放たれる。

 ずずんと鈍い音を立て、ヒュドラの首が落ちた。

 

「まずひとつ!」

 

 続けざまに両手掌底を叩き込む波裸羅。

 ヒュドラの首に電撃が走り、その直後に首が爆散せしめた。

 

「ふたつ!」

 

 返り血を浴びながら勇躍する波裸羅。

 しかし、ヒュドラもただ黙って殺られている訳では無かった。

 

「後ろッ!」

「ぬぅッ!?」

 

 ヒュドラの頭部が波裸羅へ肉薄する。

 その硬い外皮に包まれた頭部で波裸羅の肉体を破砕せんと猛然と突進した。

 刹那の瞬間、波裸羅はヒュドラの頭部と接触する。

 

 だが

 

「忍法“抱え首”!」

 

 そこには大きなヒュドラの頭部を抱えた波裸羅の姿。

 そして頭部無き首を波裸羅が抱えた己の頭部に突き立てる(・・・・・・・・・・)ヒュドラの姿。

 

「遅いぞオロチ!」

 

 そのままバックブリーカーの要領でヒュドラの頭部を圧壊する波裸羅。

 飛散したヒュドラの肉片を纏い、残虐な嗤いを浮かべた波裸羅の動きは、まさに眼にも止まらぬ疾業であった。

 

「ッ!?」

 

 だが、それでも怯まぬ迷宮の守護者、マナタイトヒュドラ。

 未だ健在な首を縦横にしならせ、波裸羅を捕食せんと大口を開ける。

 数本の首に翻弄され、一瞬動きを止めた波裸羅は、一口でその肉体を丸呑みにされた。

 

「食われた!」

「現人鬼殿!」

 

 思いがけず声を上げる双子兎。

 いかな強靭な現人鬼とはいえ、ヒュドラの大口に呑まれたとあってはその生存は絶望的。

 

 だが!

 

「忍法“生襦袢(いきじゅばん)”!」

 

 当然の事ながら生還!

 波裸羅を飲み込んだヒュドラの頭部が爆散し、肉片と共に全裸の波裸羅が現出する。

 その股間、完全怒張。

 

()()れだぜ! 現人鬼殿の忍法(アドリブ)!」

「共喰い期待してさーせんっした!」

 

 波裸羅の圧倒的な雄姿を見て、双子はそれまでの因縁を忘れ大喝采を上げる。

 この戦い、勝機は我らにあり!

 

断超鋼(だんちょう)!!」

 

 ついでとばかりに接近していたヒュドラの首に大手刀を落とす波裸羅。

 大美得を切ってから僅かの間に、ヒュドラは六本の首を失っていた。

 

「残り三本じゃ! 纏めてぶった斬れぃアダムスッ!!」

 

 波裸羅が大暴れしている間、ウィリアムはひたすらに闘気を練り妖刀を構えていた。

 七丁念仏の切っ先を左手に挟み、その握りは猫科の動物が爪を立てるがごとく。

 

(つかまつ)る──!」

 

 失うことから全てを始め

 異界天下無双を目指し孤高の憤怒に身を委ねし若虎

 だが、今この時は、ただ母を救う為に剣を振るいし若者

 

 

 みしり

 

 

 死の流星が、極限の溜めと共にヒュドラへ向け放たれた。

 

 

 一 振 斬 殺 

 

 

「虎眼流──“流れ星”」

 

 

 残心。

 そして納刀。

 

 鍔が鳴る音と共に、ヒュドラの全ての首が大きな音を立て落ちる。

 死の流星はヒュドラの首を落とすだけではなく、その斬撃の余波で胴体をズタズタに寸断せしめた。

 

「すっげ……」

「こんな……」

 

 ヒュドラの返り血を全身に浴びつつ、虎の流星を眼にした双子は呆然とその剣技に見惚れる。

 双子が修行せし異界虎眼流の秘奥。

 その一端を垣間見た双子は、感動に打ち震えそれ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。

 

「迷宮最後の刃、異界のオロチ黄泉に帰す!」

 

 ひらりとヒュドラの死体の上に舞い降りた現人鬼、波裸羅。

 そして、再び天に向け自身の指を突き立てた。

 

 

救母成就(ざまたれが)!!」

 

 

 異界虎眼流、マナタイトヒュドラを滅す──!

 

 

 

 

「母上!」

 

 ヒュドラが死亡すると同時に、ゼニスを囚えし魔力結晶が決壊する。

 床に転がったゼニスの元へ、ウィリアムは即座に駆け寄った。

 

「母上……!」

 

 意識無きゼニスの首元に手を当て、脈を確かめる。

 頼りないが、トクン、トクンと脈動を感じ、ウィリアムは深く安堵の溜息を吐いた。

 

「……」

 

 そっと、ウィリアムはゼニスを抱き抱く。

 その柔らかい髪に顔を埋め、静かに眼を瞑った。

 慟哭はしない。

 だが、その無事を喜ばぬ程、虎の貝殻は冷めていなかった。

 

 記憶に残る、母の暖かく、芳しい香り。

 虎は、母の無事を静かに喜び、在りし日の安らぎを思い出し瞑目し続けた。

 

 

 

「ゼニスゥゥゥゥゥッッッ!!!」

 

 突然、男の絶叫が響く。

 顔を上げたウィリアムは、男が剣を振り上げながら駆け出す姿を見留めるとゼニスを床へ横たわらせ、即座に妖刀の柄へと手をかける。

 母を守らんと、慮外者を斬り殺さんと殺気を噴出させた。

 

「ッ!?」

 

 だが、虎は気づく。

 その男の顔が、この世に二人といない大切な存在であるのを。

 

「父……上……」

 

 抜刀し、己に迫るその男は、紛れもなく父、パウロだった。

 

「てめええええぇぇぇぇッッ!! ゼニスから離れろォォォォッッ!!!」

「待て……! 」

 

 極度の興奮状態に陥っているのか、パウロの眼はウィリアムをゼニスを犯す不届き者としか映しておらず。

 ウィリアムの声も、パウロの耳には届いていなかった。

 

 稲妻の如き疾さで迫るパウロを、双子兎も、現人鬼も止めることは出来ず。

 いや、止めることが出来たであろう現人鬼は、この時パウロのことなど見ていなかった。

 鬼は、足元に存在するヒュドラの死体の、ある一点(・・・・)を凝視し、その身を固まらせていた。

 

(父上……!)

 

 パウロの剣が、ウィリアムへ向け振り下ろされる。

 刀で受けるか。

 しかし受けた際に刃が折れ、その刀刃がゼニスの柔肌に落ちる可能性がある。

 

 ならば躱すか。

 否。

 躱せば、それこそパウロの剣はゼニスに振り下ろされ、凄惨な結末が生まれることは明白。

 前世世界にその名を轟かせた剣聖よろしく、無刀取りを果たすのは己の状況を鑑みて不可能。

 

 ならば、受け止める

 

 この身を持って、父の剣を

 

 母を守る為

 

 妹達の笑顔を守る為

 

 女中の愛に応える為

 

 そして、グレイラットの、自身の家族が、再び暖かい時を過ごす為

 

 

 そこに、己の姿は──

 

 

 

 斬

 

 

 

 虎の肩口から肺腑にかけ、熱い鮮血が飛散した。

 

 

 

 

 

 

 いーかいおーろち こ~ろころ

 

 

 とーらがかかさま すーけたら

 

 

 

 あーかいたーすき さ~いた

 

 

 

 むーざん

 

 

 

 むーざん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




誤チェストにごわす


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第二十九景『迷宮合戦怨剣乱舞(おんらぶ)

 

 戦場のあらゆる乱暴狼藉を記録した“大坂の陣図屏風”

 描かれた五千体以上の人物に目を凝らすと、時折不可思議な光景に出喰わす。

 

 例えば、雑兵足軽を蹴散らかす裸形の怪男児。

 更に、身の丈八尺(約2.4m)以上はあろうかという巨大な鎧武者。

 弓槍鉄砲を物ともせず、それらの異形が戦場で暴れまわる姿が描かれていた。

 

 連装斉射銃、西洋大筒、生き甲冑、拡充具足、巨具足……

 ありとあらゆる兵器が投入され、数多の将兵が命を落とした大坂の陣。

 中でも各大名家が秘蔵せし拡充具足の無双ぶりは凄まじく、大筒弾の直撃すら耐えうるその装甲(あつみ)は常の手段で攻略することは不可能であった。

 

 

 甲州武田家が秘蔵せし拡充具足“不動”

 海を隔てた遥か遠国、東勝神州傲来国(とうしょうしんしゅうごうらいこく)由来の希少鉱“神珍鉄(しんちんてつ)”で拵えしこの拡充具足は、甲州武田家が天才軍師、山本勘助が心血を注いで作り上げた狂気の逸品。

 だが、武田信玄の覇業を支えし拡充具足“不動”は、第四次川中島の合戦にて山本勘助と共にその姿を消した。

 

 数奇な運命で異世界に現出せし神州無双の超鋼。

 妖魔の血を糧とする破邪の鎧は、異世界にて()の着装者を待ち続けていた──

 

 

 

 

 

 


 

 眼の前に、父がいる。

 

 今生での、父がいる。

 

 転移事件から、七年越しに見る父の姿。

 焦がれたわけではない。だが、その顔を見つめていると、どういうわけだか説明のつかない安心感に包まれる。

 

 その父が、己の肉体に剣を──

 

 必死の形相で己に剣を突き立てる父──パウロの顔が、徐々にぼやけていく。

 視界が暗くなる。上手く声が出せない。

 ああ、このまま、己は死ぬのか。

 せめて、母の無事が確認出来ただけでも、良しとするべきなのか。

 

 未練だらけだ。

 まだ、己の異界天下無双は道半ば。

 己が生きた証……そして前世での忠弟達に報いる為、虎眼流をこの異界の地に根付かせるべく、まだまだ剣を振るわなければならないのに。

 恥辱を味合わせた、あの剣神への復讐も済んでいない。

 人心を惑わす、あの悪神の成敗もまだ……。

 

 増悪の怨念に囚われた若虎。だが、ぼやけていくパウロの顔を見つめる内に、虎の中で増悪の炎が鎮火していくのを感じる。

 後に残るのは、今世で関わった人々への未練だけだった。

 

 ノルンや、アイシャ……妹達も、もう一度だけこの眼に収めたかった。

 学校に通うノルンは、内に秘めた不安を拭いきれていなかった。

 ルーデウス邸で家事をこなすアイシャも、メイドとしての責務を気負いすぎていたようにも見えた。

 無垢な妹達は、穏やかに、健やかに成長して欲しいのだが。

 己が死んだ時、妹達はどんな顔をするのだろう。

 

 リーリャは、己が死んだと聞いて、どんな顔をするのだろうか。悲しんでくれるのだろうか。

 シルフィは、どんな顔をするのだろう。いや、己の死には構わず、あの義姉には無事に兄の……グレイラットの跡継ぎを産んでもらわねばならない。

 ナナホシ姫には碌に御奉公をする事が出来なかった。せめて、無事に日ノ本へ帰還するのを見届けたかったのだが。

 ナクルとガド……兎の忠弟達も、まだまだ鍛え足らない。才はともかく、熱意は前世の虎子達となんら遜色もなかった。

 そういえば、あの黒狼……ギレーヌは、己が死んだらどのような行動に出るのだろうか。こんなことなら、あの真っ直ぐな恋慕に応えてやれば良かったのだろうか。

 

 視界の隅に、兄、ルーデウスの姿が見える。

 九年振りに見た兄の姿は随分と変わっていた。背丈も己より少し高く見える。伸ばした襟足を結わえ、魔術師のローブを纏っていた。

 そのルーデウスが、己の姿を見て、顔を青ざめさせていた。

 

「これ……で……」

 

 力なく、パウロの手に己の右手を重ねる。

 これで、グレイラットの家族が全員揃った。

 だが、己だけは、ここで死ぬ。どうしても、それだけが申し訳なく。

 息を荒げるパウロは、謝意が込められたその手を即座に振り払おうとした。

 

「てめっ、何を──ッ!?」

 

 そして、パウロは呼吸が止まったかのように、その身を固まらせた。

 

「え──?」

 

 その右手の指は、常よりも一本多く。

 掴むその男の顔は、己によく似た、愛する息子の、次男の面影が──。

 

「頼み……ます……」

「ッ!?」

 

 その顔は、力のない笑みを浮かべていた。

 そして、己の代わりに愛しい家族を見守るよう、父に託す息子の願いが込められていた。

 

「あ……ああッ!」

 

 剣を引き抜くパウロ。虎は左肩からどくどくと血液を噴出させ、がくりとその身を崩した。

 

「なんで、なんで……!」

 

 ウィリアムを抱きとめるパウロ。その身体より噴き出る赤い鮮血がパウロの顔にもかかる。血に塗れたパウロの表情は、この世の全ての絶望を垣間見たような悲痛な表情を浮かべていた。

 

「なんでウィルがここにいるんだよッ!!!」

 

 思いもよらぬ親子再会。しかし、かつてゼニスが結わえし美しい金髪は幽鬼のような白髪に変わり果てており、自身が慈しんだ幼子の風貌もまた然り。

 だが、変わったのはそれだけだ。

 自身がよく想像した、逞しく成長したウィリアムの姿が、パウロの目の前にあった。

 

「なんで、なんで、なんで……ッ!!」

 

 ウィリアムを抱き、震える手で流出する温血を抑える。

 カチカチと歯を鳴らし、泣きだしそうな表情を浮かべ自身の手を赤く染めるパウロ。自身が仕出かした無惨な行いが、パウロの心を蝕み始めていた。

 

 

「父さんッ!」

 

 

 ルーデウスの叫び声が響く。

 直後、パウロの肉体に焼け付くような激痛が走った。

 

「ガハッ!?」

 

 突如襲った激しい衝撃。パウロはウィリアムを抱く手を離し、口や耳、そして目から流血し、その痛みに悶えた。

 

「──」

「ッ!?」

 

 衝撃の発生源に目を向けると、兎兄弟が弟、ガドがパウロへ曲剣を振り下ろそうとしていた。その後方では、パウロへ吠魔術を放った兄、ナクルの姿。

 彼らの表情は意志がまったく感じられず、傀儡(くぐつ)の如き無表情。その瞳は色を失っていた。

 

「『水流(フロードフラッシュ)』!」

 

 曲剣がパウロの首元に届く刹那、ルーデウスの水魔術が発動する。

 発生した水流がパウロを押し流し、ガドの曲剣は空振る。

 

「父さん!」

 

 押し流されたパウロに駆け寄るルーデウス。

 パウロは吠魔術のダメージで流血しその顔面は蒼白となっていたが、ふるふると身体を奮わせるその様は吠魔術の衝撃からではなかった。

 

「なんで……なんで……」

「父さん! しっかりしてください!」

 

 ルーデウスに肩を揺すられても尚、色の失った瞳で震えた声で何故を繰り返すパウロ。

 ヒュドラに挑む前の勇壮であったその姿とは全く違うパウロの姿に、ルーデウスもまた声を震わせて父の名を呼んでいた。

 

「ルーデウス!」

「ッ!?」

 

 エリナリーゼの切迫した声が響く。

 吠魔術を放ったナクルが曲剣を“担ぎ”、その撃剣をルーデウスへ叩き込まんとしていた。

 

「あ──」

 

 曲剣を担いだナクルの姿に、ルーデウスの心の奥底に埋没せし“棘”が熱を帯びる。

 幼少の頃に植え付けられし恐怖が、再びルーデウスの内に蘇りその身体を硬直せしめた。

 

「汝の求めるところに大いなる氷の加護あらん、氷河の濁流を受けろ!『氷撃(アイススマッシュ)』!」

「ッ!」

 

 ルーデウスとナクルの間に割って入ったエリナリーゼが水魔術を放つ。

 向かってくる氷の塊を、ナクルはしなやかに肉体を折り曲げて躱した。

 

「ッ!?」

 

 直後、俊敏な兎は地を這うように身体を折り曲げエリナリーゼへ“流れ”を放つ。

 双子は虎と出会ってから僅か一ヶ月の間に虎眼流中目録相当の剣技を会得しており、元々の王級剣士としての腕前と合わせてその剣境は以前と比べるまでもなく高みに達していた。

 ナクルの曲剣は精妙な握力操作により、正確無比にエリナリーゼの頭部へと吸い込まれる。

 

「大地の精霊よ、我が喚び声に応え彼の者に怒りを叩きつけよ! 『土落弾(アースピラー)』!」

 

 だが、既に詠唱を開始していたタルハンドの土魔術が放たれ、寸前にナクルの曲剣が岩塊に弾かれた。

 

「助かりましたわ!」

「なんの、お主こそいつの間に魔術なんぞ覚えおって」

 

 油断なく双子兎と対峙する長耳の淑女と炭鉱の偉丈夫。

 双子は相変わらず能面のような表情を浮かべ、倒れ伏す師匠とその母親を守らんと曲剣を構える。

 双子が発する殺気は悍ましい程の“冷たさ”が感じられ、対峙するエリナリーゼとタルハンドは首筋に冷えた汗を垂らしていた。

 

「先輩! 一体何がどうなってんだよ!?」

 

 慌てた様子でルーデウスとパウロに駆け寄るギース。その猿顔は困惑からかひどく滑稽に歪んでいた。

 転移魔法陣を潜り、此度こそゼニス救出を果たさんとヒュドラへ挑んだルーデウス一行。

 だが、勇んで来てみれば既にヒュドラは骸と化し、正体不明の徒党がいるのみ。

 その内の一人がゼニスを抱えている姿を見て、激高したパウロが抜刀し襲いかかる。

 そのパウロの剣を受けることも避けることもせず、何かを悟ったかのような表情で受け止めた白髪の剣士。

 直後、白髪の剣士の仲間と思わしき獣人の襲撃。

 

 突如発生したこの凄惨な修羅場。経験豊富なギースですら困惑するのも致し方なし。

 

「あ、ああ……こんな、こんなのって、ありかよ……」

「先輩! あの白髪頭は一体何者なんだよ! パウロは一体どうしちまったっていうんだよ!!」

 

 倒れ伏す白髪の剣士の姿、父が叫びし弟の名、そして双子が構えし“流れ”の型。

 全てを悟ったルーデウスは表情を青白く変化させ、呟くようにギースへ応えた。

 

「あれは、ウィル……父さんの息子で、俺の弟、ウィリアムだ……」

「なっ……! マジかよ……!」

 

 ルーデウスが言った驚愕の事実。

 ギースは僅かの間に現出せし残酷無惨な事態、そして心という器にヒビが入りしパウロの姿を見て、それ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。

 

「そ、そんなことって……!」

「なんとしたことじゃ……!」

 

 双子と対峙するエリナリーゼらにもルーデウスの言葉が届く。

 両名も首筋に汗を垂らしつつ、やりきれないといった表情を隠せずにいた。

 

「まだ……まだ間に合う……!」

 

 心が折れたパウロを支えながら、ぐっと唇を噛み締めることで気力を復活せしめたルーデウス。

 弟を、大切な家族を救う為、倒れ伏すウィリアムへその濡れた瞳を向けていた。

 

「新入り、父さんを!」

「お、おう!」

 

 ルーデウスは虚ろな瞳を浮かべるパウロをギースに託し、後方へと退避させる。

 泥沼の魔術師は、己が今成すべき事を十分に理解していた。

 

「あの獣人達を止めて下さい!」

 

 ルーデウスが声をかけし相手。

 ヒュドラの死骸の上に佇む裸体の美丈婦……いや、美丈夫。

 惨劇を傍観せし現人鬼波裸羅へ向け、必死で声を上げていた。

 

「彼らは貴方の仲間なんでしょう!? まだ間に合います! ウィリアムを治療出来るよう、彼らを止めて下さい!」

「……ふん」

 

 必死に叫ぶルーデウスをつまらなそうに一瞥する波裸羅。その股間の凶剣もどこかイキが悪かった。

 波裸羅はギースが支えるパウロへと美視線を移す。その蒼白の顔は、見知った虎の顔とよく似ていた。

 そのまま、波裸羅は血海に沈むウィリアムへと美視線を移す。

 

「家庭崩壊じゃ喃、アダムス」

 

 愉悦とも受け取れしこの言葉。しかし、波裸羅の声色は哀れみが籠もっており、憐憫の眼差しでウィリアムを見つめていた。

 

「なんとも残念な……さて、どう収めるか……」

 

 続けて、波裸羅は無言で曲剣を構える双子へと美視線を移す。

 双子が抜いたのか。あるいは、物言わぬ虎が抜かせたのか。

 怒りで我を忘れ、冷えた殺気を纏わせる双子に、もはや現人鬼の言葉は届かず。

 双子はおそらく死ぬまでこの場で剣を構え、虎と菩薩を守り続けるだろう。

 

 ならば、実力で双子を排すか。

 だが、普段のじゃれ合いとは違い此度の双子は死にもの狂いで波裸羅に抗するだろう。

 その先に待つのは、残酷無惨な結末でしかない。

 故に、苛烈果断であるはずの波裸羅ですら、このような状態の双子を実力で排すことに躊躇いを感じていた。

 それに、それ以上に、波裸羅が動けなかった理由がひとつある。

 

 足元の、ヒュドラの死骸に埋まりし超鋼(・・)

 この世界では決して存在せぬはずの異形の鎧。更に、その胸部に刻まれし四つの菱形紋様(・・・・・・・)が、現人鬼の身を固めさせていた。

 

 

 

「ふふ……うふふふふ……ぬはははははははッ!」

 

 

 

 唐突に、それまで黙していたロキシーが不気味な嗤い声を発する。

 

「な、なんだぁ!?」

「ロキシー!?」

「狂うたかロキシー!?」

 

 ロキシーの嗤い声を聞き、ルーデウス一行は驚愕の表情をロキシーに向ける。

 哄笑を上げしロキシーは片目(・・)を閉じており、残虐にその口角を引き攣らせていた。

 

「ロキシー先生!?」

 

 戸惑う周囲と同じく驚愕を露わにするルーデウス。ロキシーの歪んだ嗤いを見て、ルーデウスは先のロキシー救出行を思い出す。

 蒼穹の魔法少女に憑依せし日ノ本由来の怨霊。

 ここに来て、いや最悪のタイミングで、怨霊は再びロキシーの精神を乗っ取っていた。

 

「ぬわっはっはっはっはっはっはぁッッ!!」

 

 小さな身体を大きく反らし、大哄笑を上げる憑依ロキシー。その豹変ぶりに慄くルーデウス達はもちろん、現人鬼波裸羅もまた怪訝な表情を浮かべていた。

 

「ちと想定とは違うが頃合いよ! 眠っている間に異界言葉も覚えた! もはや自重するに及ばず!」

 

 普段の知的で可憐な様相が一変し、諧謔味たっぷりといった表情を浮かべヒュドラの死骸へ片目を向ける憑依ロキシー。

 異常事態が続き、ルーデウス達は混乱の極地に達していた。

 

「ルーデウス! ロキシーは一体どうしたんですの!?」

「ロ、ロキシー先生は、何かに取り憑かれています……!」

「なんじゃとぉ!?」

「なんでいきなり……っ、こんなことなら、無理してでもクリフを連れてくるべきでしたわ……!」

 

 油断無く双子を牽制しつつ、エリナリーゼとタルハンドが切羽詰まった表情を浮かべる。

 ルーデウスから語られしロキシーの異常事態。この状況を打開出来うる神撃魔術の使い手はこの場にはおらず、エリナリーゼは思わず聖者の恋人の名前を呟いていた。

 

「くそ……!」

 

 ルーデウスは先ほど復活した気力がみるみる萎えていくのを感じ、ただ言葉を震わすことしか出来なかった。

 困惑する周囲に構わず、憑依ロキシーは大音声で超鋼の名を叫ぶ。

 

「不動ッ!!」

 

 叫び声と同時にヒュドラの死骸が蠢く。みし、みしと生々しい音を立て、徐々に鋼の姿が現出し始めた。

 

「ッ!?」

 

 そして、死肉を糧に(・・・・・)現界した甲州の超鋼が、轟然と現人鬼へ襲いかかった。

 

「ちぃッ!?」

 

 高速で旋回せし鉄腕を寸出で躱す波裸羅。

 跳躍し、ヒュドラの死骸から降り立った波裸羅は美然と憑依ロキシーへ美視線を向けた。

 

「その一眼、そしてこの武田菱! もしや貴様は甲州武田家が天才軍師、山本──」

「その名を言うてくれるな若僧。あやつは川中島でくたばり果てた。政虎に敗れたのではない、味方に足を引っ張られてな……!」

 

 口角を引き攣らせながら波裸羅へ応える憑依ロキシー……いや、甲斐の鬼軍師。

 そのまま不敵な嗤顔を波裸羅へ向けた。

 

「信玄公への忠義は尽くした! ならばもう儂は誰の為にも働かぬ!」

 

 とんがり帽子をかなぐり捨て、三つ編みを乱暴に解きながら絶唱せし鬼軍師。

 蒼髪を乱しながら、その暴威ともいえる独善を現人鬼へ向ける。

 

「胸の思うまま勝手に生きる! 不動と一緒ならこの異界の強者とて止められまい!」

「笑止! 異界の娘に憑依(とりつ)いただけのくたばり損ないが!」

「じゃかあしい! この娘の身体は(もろ)たるわ!」

 

 蒼髪の鬼軍師はヒュドラの死肉に憑着した不動を見やる。

 一体いかなる理で超鋼が起動したのか。ヒュドラに残留せし魔力が作用したのか。または、守護者を斃されし迷宮の意志が働いたのか。

 あるいは、同じ敷島の者共が持つ“怨念”に反応したのか。

 

「ちょうど良い“肉襦袢”が出来ておる! このちんちくりんの娘の肉体でも十二分に纏えるわ!」

 

 しかし、怨霊軍師にとってそのようなことはどうでもよく。

 不便な魔法少女の肉体を補う強靭なヒュドラの死肉を内包せし超鋼は、“異界自由三昧”を望む怨霊軍師にとってひどく魅力的な“肉”であった。

 

女郎(めろう)成敗ッ!」

「ヌッ!?」

 

 跳躍し、怨霊軍師へ向け足刀を放つ現人鬼波裸羅。

 異界に現出せし怨霊をロキシーごと黄泉へと返すべく、その美脚を旋風させた。

 

「ッ!? 『岩砲弾(ストーンキャノン)』!」

「ぬっ!?」

 

 即座に魔術で迎撃するルーデウス。憑依されたとはいえ、その身は大切な身体であるのは変わらず。むざむざ殺らせるわけにはいかない。

 寸前に身体を捻り岩砲弾を躱した波裸羅は、ちょうど双子とエリナリーゼ達の中間地点に舞い降りた。

 

「邪魔するな小僧!」

「でかしたぞ小僧!」

「なんなんだよ……ッ!」

 

 現人鬼と怨霊軍師が同時に激声を発する。

 だが、ルーデウスはそのどちらにも応えることはなく、倒れ伏す虎へと視線を向ける。

 

(ウィル……!)

 

 大量に出血せし虎の余命、残り数分。

 その救助を阻みしは、皮肉にも虎の忠弟、双子の兎。

 そして──

 

「では今より不動が捕えし竜の肉へ“怨着”する!」

 

 自由の為、他者を蹂躙するのを厭わない、怨霊軍師。

 

「あばっ!!」

「ッ!?」

 

 豪快に(ロキシー)の尻を叩き、その小柄な身体を宙空へと跳躍させる。

 同時に、ヒュドラの死骸の上で佇む不動から触手の如き“肉の蔓”が射出され、憑依ロキシーへと絡みついた。

 

「ロキシー先生!?」

 

 宙空にてミグルド族の少女と敷島の怨身具足が憑着し、眩い光が辺りを包む。

 

 

「ぬははははははははッ!!」

 

 

 光が収まり、哄笑と共に超鋼の威容が現出する。

 甲州の大鎧を身に纏いし少女の姿が、一同の目前へと現れた。

 

「下郎共! 不動の“試し”じゃ! その血肉を潔く献上せい!」

 

 大きく腕を広げ周囲を威圧する怨身拡充具足“不動”。その巨体はゆうに3メートルは超えており、日ノ本での姿から大きく変質を遂げていた。

 面頬の隙間から見えるその顔は、無数のミミズが群れを成しているかの如く肉がグロテスクに蠢いていた。

 地獄の底から発せられたかのような怨声で処刑宣告を言い放つ不動に、ルーデウス一行はただただ困惑しその身を硬直させる。

 

「俄然濡れてきたぞ勘助! ならば拙者も本身(マジ)で相手をしてくれる!!」

 

 ただ一人、その宣告に真っ向から挑むのは志摩の凶剣、現人鬼波裸羅。股間の凶剣は大いにイキり勃っており、強敵を前にその血潮を煮沸させる。

 波裸羅は大きく両腕を広げると全身から怨気を放出させ、その肉体を鋼へと変質させた。

 

「え──」

 

 そして、ルーデウスは聞く。

 

 怨嗟に満ちた、日ノ本言葉を。

 

 

 穿ってやる

 怨霊武士の眼──!

 

 砕いてやる

 怨身具足の鋼──!

 

『我が名は──』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『怨身忍者“霞鬼(げき)”!!』

 

 

 軍 鬼 剛 臨

 

 

「なっ!?」

「なんだありゃ!?」

「姿が変わりおった!」

「んんぅっ!!」

 

 霞鬼の威を受け一同心胆震わせ恐慌す!

 霞鬼の威を受け一名身体震わせ絶頂す!

 

「あ、現人鬼殿……」

「こ、これは……」

「やっと戻ってきたかクソ兎共。はよアダムスを手当せんか」

「「ッッ!!」」

 

 現出した霞鬼の睨み一閃にて我に返る双子兎。慌てて戦闘態勢を解除し、倒れ伏すウィリアムに駆け寄り傷口の応急手当を始めた。

 

「ウィ、ウィル……!」

 

 霞鬼の威圧は放心状態であったパウロすら覚醒せしめる。

 双子が必死に手当をする愛息子へ、その濡れた瞳を向けていた。

 

「妖魔絶滅刀“轟雁奏怒(ゴーガンソード)”用意!」

 

 霞鬼の威圧を受けた怨身具足は、それに応えるかのように腕部を変形させ大太刀を現出させる。

 面頬の下で不敵に嗤い、具足は大太刀を大上段に構えた。

 

「ここで日ノ本由来の妖魔に出会うとは思わなかったぞ! 怨身忍者とやら!」

「その台詞! そっくりそのまま返してくれるわ!」

 

 霞鬼は轟然と床を踏み砕き具足へと突撃する。

 

「らしゃいッ!」

「ッ!?」

 

 瞬間、超鋼へ肉薄する霞鬼に向け凄まじい剣圧が迫る。

 その巨体からは考えられぬ程の疾さで振り下ろされし大太刀を、霞鬼は寸前に躱しながら手刀を放った。

 鬼と鋼が交差し、鈍い音が響いた直後には両者は再び間合いを取り対峙する。

 

「勘助! なかなか良い拵えの刀じゃ喃!」

 

 見れば、霞鬼の手の甲がべろり(・・・)とめくれており、皮膚の切断面からは伐斬羅(ばざら)の血が沸騰していた。

 対して、不動の装甲は現人鬼の手刀を受けても傷一つ付かず。

 

「血が沸き立つか怨身忍者! その怨身体(からだ)、興味が湧いた! 不動の“活人剣(かつにんけん)”にてゆっくりと活造りにしてくれるわ!」

「手足をつめて首と胴を生かすのが“活人剣”と抜かすか! 見上げた“殺人剣”よ喃!」

 

 霞鬼の摩訶不思議な肉体を目にしギラリと面頬の奥を光らせる不動に、霞鬼は残虐な笑みを浮かべ応える。

 六面世界の住人を蚊帳の外に置いた敷島の異形共の戦闘熱は、早くも煮沸寸前に沸き立っていた。

 

「い、一体どっちに味方すればいいんですの!?」

「エリナリーゼ! あの鎧の中身はロキシーじゃぞ!」

「そんな事理解(わか)っていますわ! だからですのよ!」

 

 股を濡らしつつ、エリナリーゼは狼狽しながら鬼と鋼を見比べる。

 双子兎との戦闘直後、今度は何者かに取り憑かれたロキシーが、これまた正体不明の大鎧を身に着け一同へ向け宣戦布告。そして、その鎧に対抗するは怨念を纏いし異形異類。

 経験豊富なエリナリーゼですら狼狽するのも致し方なし。

 

「そんなの決まっています!」

 

 困惑するエリナリーゼ達に構わず、ルーデウスは己の愛杖“傲慢なる水竜王(アクアハーティア)”に魔力を込める。

 

「凍らせます! フロストノヴァッ!!」

 

 怜悧な凍気が敷島の異形共へ向け放たれる。

 狙いは両者の腰から下。下半身を凍結させ、その動きを封じる魂胆であった。

 その隙に、ウィリアムの治療。そして、その後にロキシーの救出。

 僅かの間にこの方針を打ち立てたルーデウスの冴えは、転生してからの数々の修羅場を潜った経験が生きた証であろう。

 ルーデウス若干16歳にしてこの決断。だが、精神年齢はアラウンドフォーティー。

 

「ヌッ!?」

「ぬぅッ!?」

 

 放たれた凍気により瞬く間に霞鬼の下半身は凍りつく。

 

「なっ!?」

 

 だが、不動へ放った凍気は鋼を凍結させること無く、その超鋼に吸い込まれた(・・・・・・)

 

「応報ッ!」

「ッ!?」

「ぬおッ!?」

「きゃあッ!?」

 

 直後、不動は吸い込んだ凍気を“応報”する。

 ルーデウス達の身体は強烈な冷気に晒され、その身を床に這わせた。

 

「な、なんだよありゃ……! まるでヒュドラの鱗じゃねえか!」

 

 後方にてパウロを支えるギースの驚声が響く。ルーデウスの魔術を跳ね返した不動の様は、まさに先ほど手を焼かせたマナタイトヒュドラの特性そのものであった。

 

「甘いぞ小僧! (うぬ)が生み出せし凍気! 凍てつかせるは汝と知れ!」

「ぐ……!」

「が……あ……!」

「うぅ……!」

 

 以前傲然と仁王立ちする不動。

 身体の節々を氷結させたルーデウス、タルハンド、エリナリーゼ。倒れる彼らはまるで芋虫のようにその身体を悶えさせていた。

 

「き、奇跡の天使よ、命の鼓動に天なる息吹を──」

「させんわ!」

「がぁッ!?」

 

 這いつくばりながら治癒魔術の詠唱を始めたルーデウスに、不動は即座に鉄脚を叩き込む。

 サッカーボールのようにルーデウスの身体は跳ね、迷宮の壁に叩きつけられると同時にその意識を手放した。

 

「ルディッ!?」

「よ、よせパウロッ! あいつら(なん)かヤベえッ!!」

 

 蹴り飛ばされたルーデウスを見て、パウロは即座に駆け寄ろうと身を捩る。それを、ギースは必死になって止めていた。

 

「このような氷! 伐斬羅で内より溶かし尽くしてやる!」

 

 不動がルーデウス達に気を取られる隙に、霞鬼が轟々と伐斬羅を沸騰させる。

 瞬く間に氷結していた下半身が解凍されると、霞鬼は稲妻の如き疾さで不動の後ろへと回り込んだ。

 

(しゃあ)ッ!」

「グゥッ!?」

 

 不動の背面に回り込んだ霞鬼は鬼の剛力にて不動の腰部を締め上げる。

 みし、みしりと鋼の軋む音が響いた。

 

「拡充具足の弱点は“万力”で締め上げること! やがて鎧は歪み中の者は潰れるのじゃ!」

「ぐぬううッ! 小癪なぁッ!!」

 

 背後に回る霞鬼に対し、不動は即座に振り払うべく鉄腕を回す。だが、霞鬼は締め上げる力を更に強め、そのまま身体を反らし不動の巨体を勢い良く持ち上げた。

 

怨身固め(星義スープレックス)!!」

「ヌワッハ!?」

 

 がっちりと手をクラッチさせ、一流レスラーの如き美しいフォームでジャーマンスープレックスホールドをぶち込む!

 轟音と共に迷宮の床が破砕し、不動はその巨体を頭から床に突き刺し固定された。

 

「このまま絞め殺してくれ──!?」

 

 ブリッジしながら中にいるロキシーごと不動を圧壊せんと力を込める霞鬼。

 だが、霞鬼はその力を込めることが出来なかった。

 

 不動の背、いや、その中にいるロキシーの身体。

 そこから光り輝く天龍(・・・・・・)を幻視した霞鬼は、驚愕と共に締め上げる力を緩めた。

 

「エイシャァッ!!」

「ッ!?」

 

 霞鬼の拘束が緩んだ瞬間、不動は気合と共に身体を独楽のように回転させる。

 遠心力で振りほどかれた霞鬼と体勢を立て直した不動は再び間合いを取り、互いの双眸を睨んだ。

 

「詰めが甘いぞ怨身忍者!」

「チッ……」

 

 不動を忌々しげに睨む霞鬼。

 先程視えた天龍──衛府の龍神。

 その存在が、不動の内にいるロキシーから視えた意味。

 

(この娘が悪神打倒に必要とでもいうのか……!)

 

 物言わぬ衛府の龍神の意志を正確に汲み取った霞鬼は、それまでの苛烈な攻めを控えジロリと超鋼を睨む。

 霞の鬼眼は超鋼をひと睨みしただけで、その内部に宿る怨念の根源を見透かした。

 

「成る程喃、具足が本身か」

「左様! だが鋼我一体を成し遂げた儂をこの娘から剥がすことは不能(あたわぬ)ぞ!」

 

 甲斐の鬼軍師の怨念が宿りし拡充具足“不動”。

 その怨念の受肉先はミグルド族の魔法少女、ロキシー・ミグルディア。

 つまり、この鎧を破壊(・・)せねばロキシーが己を取り戻すことは不可能であった。

 

「ぐふふふふ……! 深く深く肉蔓(にくづる)が娘の肉に絡みついておるぞ! 疲れもせぬし痛くもない! イキっぱなしとはこのことよ!」

「変態か貴様は!」

「さっきまでモロ出しだった汝が言うかッ!!」

 

 憤怒が籠もった大太刀の横薙ぎが霞鬼へ放たれる。瞬間、ドズゥと鈍い音が響く。見れば、霞鬼は己の肘にて(・・・・・)不動の大太刀を受け止めていた。

 

「怨ッ!」

「ヌォッ!?」

 

 上腕まで深々と刃で抉られし霞鬼の肉体に紫電が宿る。肉と刃で結ばれた伝導から迅雷が迸ると、不動の巨体を感電せしめた。

 

「アダムスッ!!」

 

 電流を流し不動の動きを止めた霞鬼は、倒れ伏したウィリアムへ向け美声を発する。

 この場にいる百戦錬磨のつわもの達。だが、取り憑かれしロキシーを傷つけず、神州不滅の超鋼を斬鉄せしめる神技を放つことが出来るのは、唯一人。

 

「……ッ!」

 

 倒れ伏した虎は、鬼の一声にてその意識を覚醒せしめた。

 

「わ、若先生!?」

「動いちゃだめです!」

 

 必死で虎の手当をしていた双子の悲鳴めいた叫びが響く。意識を取り戻したウィリアムは傍らにいるナクルの肩を掴み、その背を起こす。

 肩口から肺にかけて深々と斬り裂かれた肉体から、びゅうびゅうと噴水の如き血潮が噴き出る。

 だが、瀕死であるはずの虎の瞳は、まるで灼熱の太陽のような“火”が爛々と燃え盛っていた。

 

「アダムスッ! 肺腑を抉る程の斬撃、常の者なら十分に死したる一撃よ!」

 

 覚醒した虎へさらなる撃声を放つ霞鬼。

 

「だがッ!」

 

 その美声は、まさに“不退転”

 

超一流(われら)にはその先がある!!」

 

 その言霊は、まさに“肉弾幸”

 

 

「立てい! アダムスッ!! 汝の家族を救う為、再びその妖剣を振るうべし!!」

 

 

 限られた“火”を燃やし、敷島の怨念を打ち払うべく虎は立つ

 

 宿業の妖刀を携え、愛しい家族を守るために

 

 

 そして、虎は構える

 

 

 かつて己を葬り去った、無明の魔剣技(・・・・・・)を──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十景『無明逆流れ(むそうさかながれ)

 

 ああ……

 

 あれこそは伊良子さま必勝の構え……

 

 

 

 無明逆流れのお姿──

 

 

 

 

 

 無明という言葉がある。

 成り立ちは仏教用語であり、真理に暗く、智慧の光に照らされていないという意であるが、広義では“暗闇”を意味する。

 そして、人間の心の奥底には無明という闇が存在し、その闇を抱え人は生き続ける。

 それは現世でも異界でも同じことだろう。

 

 べガリット大陸

 転移迷宮深部

 迷宮の守護者魔石多頭竜(マナタイトヒュドラ)を討ち、己の母親を救いし若虎。

 愛すべき家族を守らんと、愛すべき家族の刃をその身に受けし若虎。

 その心の貝殻は、一切の光明も無い、闇に……

 

 否、宿業の闇に囚われていた。

 

 

 

「わ、若先生……!」

「動いては……!」

 

 半死半生のウィリアムが、自身の愛刀を杖にし、みしりとその身を起こす。

 付き従う双子の兄弟は、自身の師匠の(かお)を見て困惑を強める。

 その表情は、一切の生気を感じさせず

 

「ひっ!?」

「あ、ああ……!?」

 

 だが、瞳は灼熱の憎悪(ぞうお)の炎が燃えていた。

 双子はその熱気をまともに受け、小便を漏らしながら現出した剣鬼(ウィリアム)の背中を見つめ震える。

 重傷を負ったウィリアムを止めようとした双子であったが、今この若虎を止めようとすれば、双子の胴はウィリアムの手により真っ二つに切断されその(はらわた)を迷宮の床に撒き散らすだろう。

 双子は、本能でそれを理解していた。

 

 この時のウィリアムは、曖昧でも正気でもなく。

 己の行動を阻害する者を片っ端から斬り伏せる憤怒の“魔人”と化していた。

 その様は、あの岩本邸での──

 

「……ッ!」

 

 血涙を流し、憤怒の形相で甲斐の怨身具足を睨む若虎。

 虎は、自身が最大の屈辱を味わったこの怨讐の構えを取っていることに、果たして気づいているのだろうか。

 双子によって応急処置がなされた肩口の包帯は朱く染まり、その熱き血潮が怒りによって止めどなく流出し、己の生命を縮めているのに、果たして気づいているのだろうか。

 憤怒の魔人と化した魔剣豪の内心を知る術は、この場には無い。

 

「ウィ、ウィル……」

 

 若虎の父、パウロ・グレイラットが消え入りそうな声で愛息子の名を呟く。

 杖のように剣をつき、異形と化した蒼穹の魔法少女へ憎悪の念を向けるその姿は、かつて己が愛した次男の面影は欠片もなく。

 得体の知れない恐怖が、虎の父の中で渦を巻いていた。

 

「あ……」

 

 だが、パウロはウィリアムの傍らに倒れる愛妻の姿を見ると、その恐怖心が幾許か和らぐのを感じた。

 ウィリアムが纏っていた血染めの貫頭衣に包まれ、意識を落とす妻、ゼニス。

 そのゼニスを、魔人と化しても尚守らんとするウィリアムの姿。

 パウロは、僅かに残る虎の家族を想う心に触れ、その唇を固く噛み締めた。

 

「ウィル……!」

 

 再度、次男の名を呟く。

 直ぐにでもウィリアムの、そしてゼニスの元へ駆け出したい気持ちを必死で抑える。

 三大流派上級の業前を持つパウロは、剣を杖のようにつく瀕死の次男が、既に構えていることに気付いていた。

 

「ギース。今の内にルディ達を助けるぞ」

「お、おう」

 

 思いの外冷静な声を上げるパウロに、ギースは戸惑いつつも頷く。

 敷島の異形共が噛み合っている現状、倒れ伏すルーデウス達を救う好機。

 そして、その異形共へ剣を構えるウィリアムの“邪魔”をするのは、父として、そして一流の剣士として憚られることであった。

 

 愛息子に手をかけた事は、今は捨て置く。

 今はただ、家族、そして家族を救うために無償の助太刀をしてくれた仲間達を救うのみ。

 息子に、生命を懸けた贖罪は、その後。

 

 刹那の想いを込めた覚悟を、泥沼、そして剣虎の父は胸に秘めていた。

 

 

「っだコラァッ!!」

「ぐッ!?」

 

 霞鬼が流した電流にて動きを止めていた怨霊具足“不動”の激声が響く。その声は蒼穹の魔法少女、ロキシー・ミグルディアの声。だが、その精神は甲斐の鬼軍師、山本勘助が怨霊。

 僅かの間に再起動した不動は、己を繋ぎ止める霞鬼へ重爆の如き前蹴りをカチ入れる。

 蹴り飛ばされ膝をつく霞鬼は、業と瞳を燃やしその鉄身の五体を睨んだ。

 

「小癪な真似をしおって! 蛇雷(くちなわいなび)かこのフタナリ忍者が!!」

「駿府の蛇雷よりは上物ぞ! このちんば軍師が!!」

「このガキャァッ!!」

 

 怒気を纏った不動が霞鬼に吶喊する。暴風の如き勢いでボディブローを叩き込まんと鉄腕を振るう。

 再び不動の動きを止めるべく、霞鬼はその鉄腕を瞬時に掴んだ。

 

穿(つらぬ)け! 泳ぎ盾ッ!!」

「ぬッ!?」

 

 だが、掴んだ不動の腕部が可変し、大筒弾の如き勢いで“泳ぎ盾”が射出される。

 拡充具足が備えし可変式防護盾“泳ぎ盾”

 本来は伊賀忍者が使用せし生物兵器のひとつであり、対手からの攻撃を半自動で防ぐ堅牢なる忍虫防御機構ではあるが、不動が備えし泳ぎ盾は高速で射出し、まるでパイルバンカーのように対手を撃ち抜くことを可能としていた。

 その勢い、動くこと雷霆(らいてい)の如し。

 

「田楽刺しじゃ! 無様よ(のう)! 怨身忍者!」

「ぐぬ~~~ッ!!」

 

 零距離で高速射出された泳ぎ盾に腹部をまともに貫かれ、迷宮壁面に縫い留められた霞鬼。

 龍神の必滅の剣技をも躱した霞鬼の俊敏さでも、流石に密着状態では躱せるはずもなく。

 槍状に伸びた泳ぎ盾が霞鬼を貫通し、その腹部からぐつぐつと伐斬羅が沸騰していた。

 

「おのれ……抜けぬ……溶けぬ……ッ!」

「不動が備えし武具は全て“神珍鉄”で出来ておる! 花果山の溶岩より生まれし超鋼、容易には溶けぬぞ!」

 

 血反吐を吐き、身を捩らせながら己を縫い留めし泳ぎ盾を溶かさんと伐斬羅を沸騰させる霞鬼。

 だが、超鋼“神珍鉄”で拵えし泳ぎ盾は、いかな怨身忍者の燃える血潮でも溶解不能(とけることあたわず)

 また、泳ぎ盾の鉄甲にはかの有名な“武蔵拵え”の如き“返し”が施されており、霞鬼の腹中にてしっかりとその牙を食い込ませていた。

 

「いい様よ! しばらくそこで繋がっておれ!」

「ぐぬぅぅ~~~~ッ!!」

 

 怨嗟が籠もった鬼眼で不動を睨む霞鬼。

 余裕綽々といった様子で霞鬼の睨みを流した不動は、やおら自身の後方へと巨体を翻した。

 

(うぬ)の活造りは後回しよ……!」

 

 巨体の先にいるのは、怨念籠もりし魔剣技を構える、魔人……ウィリアム・アダムス。

 

「死に損ないの雑草武芸人(ぶげいにん)にしては中々の鬼気よ喃……!」

「ちんば軍師ッ! 雑草などという草は無いッ!」

「いちいち茶々入れんじゃねッ!」

「ギャウゥッ!!」

 

 減らず口をたたく霞鬼へ二発目の泳ぎ盾射出!

 更に大きく腹腔の穴を広げられた霞鬼は、たまらず苦悶の叫び声を上げた。

 

「汝如き武芸人を千人束ねても揺るがぬのが“武将”たる才覚! ましてやこの拡充具足“不動”の前にして孤剣ひとつで何が出来るッ!」

 

 大太刀を下段に構えウィリアムを威圧する不動。

 甲斐の天才軍師の執念が籠もりし超鋼の威容を前に、ウィリアムは依然曖昧でも正気でもない形相を浮かべる。

 杖のように七丁念仏を迷宮の硬い床に突き立て、身じろぎひとつせず不動の前に対峙していた。

 

「アダムス……ッ!」

 

 昆虫標本のように迷宮壁面へ杭打ちされ、血反吐を吐く霞鬼がその鬼貌をウィリアムへ向ける。

 怨讐に囚われし若虎の姿は、動きを止めた霞鬼の眼を眩ます。

 

(アダムス……ッ! (なれ)の宿業、今この場にて晴らす時ぞ……ッ!)

 

 前世での因縁を断ち切りし時、若虎は真にこの世界に根を下ろす。

 その様を見届けるのは、同じ敷島の怨念を纏う、現人鬼波裸羅。

 

「アダムスッ! 敷島の超鋼を断ちし時、汝の真の“異界天下無双”の開幕ッ! この波裸羅の眼が眩むほど鮮やかに燃えてみせいッ!!」

「……ッ!」

 

 霞の怨声が迷宮最深部に響く。

 その声を受けた若虎の眼の炎は、不退転の“火”に変わる。

 その火は、限られた生命の、最期の輝き──

 

 

 そして、ウィリアムは七丁念仏を己の足の甲に突き刺した。

 

 

「ぬぅッ!?」

 

 ウィリアムの鬼気迫る構えを見て、不動はうめき声をひとつ上げる。

 みしり、と虎の肉体、そして足甲が軋む音が響き、虎の全身から血風が吹き荒れる。

 突き立てた足甲から血流が溢れ、貫通した刀刃は迷宮の硬い床にも突き刺さる。

 己の五体を使用した渾身の溜めは、奥義“流れ星”をも超える、あの盲目の龍の──!

 

 否!

 ひとつだけ違う!

 

 虎が掴む七丁念仏の柄、その右手。

 その右手の握りは、虎眼流骨子の掴み、まるで猫科動物の──!

 

「馬鹿な……! 何故(なにゆえ)御館様が……!」

 

 不動の内部に囚われしロキシーの、更に奥に潜む軍師勘助。

 勘助は虎の姿を見て“甲斐の虎”と称されたあの名将の姿を幻視する。

 

(雑草武芸人ごときが将たる資質を備えるとでもいうのか……!)

 

 勘助の中で、在りし日の主従の語らいが想起される。

 

 人は城

 人は石垣

 人は堀

 情けは味方

 (あだ)は敵なり

 

 武田の家訓、勘助は家臣民草の絆こそ(いくさ)(かなめ)と解した。

 だが、かつての主君、武田徳栄軒信玄はこう返す。

 

 荒野(あれの)に我一人なりとも、難攻不落の砦と成りて天下一統為遂(しと)げる也

 情け無用、仇は糧、化けるやいざ、人間城(にんげんじょう)──!

 

「ぬは……ぬははははははははッ!!」

 

 不動は大哄笑を上げると大太刀を大上段に構え直す。

 若虎の姿に甲斐の虎、大信玄公の威容を幻視した怨念軍師は、自身もまた前世からの宿業に囚われていることを自覚していた。

 

御旗(みはた)楯無(たてなし)が無ければ自由を得られる! そう思っていたが間違いであったわ!」

 

 ぎしりと超鋼が軋む。

 不動の鉄骨を総動員した渾身の溜めは、若虎が構えし無明の魔剣技と伍する程の威。

 両者の間に、時空の歪みが発生したかの如く渦が巻き起こる。

 

「汝の“異界天下無双”、儂の“異界自由三昧”で制してこそ真の自由が得られよう!」

 

 そして、超鋼は装甲弾となってウィリアムへ襲いかかった。

 

「勘助の下剋上、いざ開幕ッッ!!!」

 

 急 落 真 刃 斬 !

 

 大上段からの不動の袈裟斬り!

 ウィリアムの頭部へ大太刀が振り下ろされる。

 

「ウィルッ!?」

 

 ルーデウス達を介抱するパウロが悲鳴を上げる。

 時間が止まったかのように、ゆるりと大太刀がウィリアムの頭部へ吸い込まれる。

 刹那の瞬間、パウロは愛息子の肉体が真っ二つに裂ける姿を幻視した。

 

 だが──

 

 

 

『清玄──』

 

 

 

 虎が、日ノ本言葉を呟いた

 怨念は籠もっていない、清流のような声色で

 

 虎の中で、前世の記憶が想起される

 

 あれは、いつだっただろうか

 美麗の剣士……伊良子清玄が、虎眼流の門を叩いたのは

 

 曖昧な記憶の中、はっきりと覚える清玄の芳香

 深く、そして眩しすぎた、あの黒い瞳

 

 伊達に帰される事なく、清玄はみるみる虎眼流を己の物としていった

 清玄が虎眼流を会得する度に、弟子達の心も黒い瞳に眩惑されていった

 

 清玄が、愛妾いく(・・)との不貞を働いた時

 虎の仕置を受け、盲目となった剣士は、不屈の闘志で己の技を磨いた

 

 当道者と手を組み、虎眼流剣士達に復讐を始めた盲龍

 次々に斃れる無双の剣士達

 

 そして、岩本邸にて、清玄と対峙したあの時

 盲目の龍が内包せし過剰な欲望、そして階級社会への過剰な反骨が、老いた虎を終わらせた

 

 

 死に際に見た、愛娘、三重の白無垢姿

 

 もう、愛娘の顔はよく思い出せない

 

 そして、清玄の顔も──

 

 

 

 めりっ

 

 

 

 それは、若虎の足が裂ける音

 

 

 

 みしっ

 

 

 

 それは、妖刀が風を斬り、光を斬る音

 

 

 

 ぎりっ

 

 

 

 それは、神武の超鋼が、構えし大太刀ごと割れし音

 

 

 

 ひとつひとつの音が鳴る度に、若虎の(とが)が浄化される

 

 若虎を囚えし、前世での宿業が、今──

 

 

 

 

 

 異 界 虎 眼 流

 

 無 双 逆 流 れ

 

 

 

 

 

美事(みごと)……」

 

 全てが止まったかのように、迷宮深部は静寂に包まれる。

 ただ、霞の呟きだけが、その場に響いた。

 

「まだやるか、勘助」

「……」

 

 七丁念仏を振り抜いたウィリアム。

 そして、大太刀をウィリアムの髪先へと当て、その動きを止めた不動。

 声をかけし霞鬼へ、不動……勘助は、短く応えた。

 

「儂の、敗けよ」

 

 刹那、不動の超鋼がその大太刀と共に縦に割れる。

 ガラガラと鋼と刃が崩れ落ち、その鉄身から裸身のロキシーがこぼれ落ちた。

 

 同時に、ウィリアムの身体もまた、超鋼と共に崩れ落ちた。

 

「ウィルッ!」

「あ、おいパウロ! っ、先輩! エリナリーゼ! タルハンド! 早く起きてくれよ!」

「……」

「うぅ……」

「ぬぐ……」

 

 ルーデウス達を介抱していたパウロがウィリアムの元へ駆け出す。

 未だ意識を落とすルーデウス、自力で立ち上がれぬエリナリーゼ、タルハンドに、ギースは懸命に呼びかけを続けた。

 

「ウィルッ! ウィルッ!!」

 

 くしゃくしゃに顔を歪め、倒れ伏すウィリアムを抱くパウロ。

 ウィリアムは全身を朱に染め、その表情は完全に生気が失せていた。

 

「わ、若先生ぇ……」

「う、うう、ううぅぅ~……」

 

 師匠の凄絶な剣技を目の当たりにした双子の兎は、パウロと同じ様にウィリアムの元へ寄る。

 だが、百戦錬磨の北王は、血海に沈むウィリアム姿を見て既に“手遅れ”だと気付く。

 双眸からただ涙を流し、嗚咽を漏らすことしか出来なかった。

 

「ギースッ!! ルディのスクロールを出せッ!!」

 

 だが、パウロは諦めない。鬼気迫った表情でギースへ声をかける。

 ルーデウスが事前にロキシーから譲り受けた中級治癒魔術スクロール。

 魔術の素養が無い者でも、内包せし魔力を注げばその効能は現れる治癒の守り札。

 

 一縷の望みをかけたパウロの叫び。

 だが。

 

「だ、だめだパウロ……破れちまってる……多分、さっきの鎧に蹴られた時に……」

「クソッッ!!」

 

 ギースの無慈悲な一声。

 ルーデウスの懐から取り出した治癒スクロールは、使用不可能なほど破れていた。

 まるで、鋭利な刃物(・・・・・)で断ち切られたかのように。

 

「じゃあロキシーの分は!?」

「ちょ、ちょっと待ってろ!」

 

 慌てて倒れ伏すロキシーへと駆け寄るギース。

 だが、ロキシーが身につけていた何もかもが不動の内部にて溶け出しており、治癒スクロールの切れ端すら見当たらない状態であった。

 

「こっちもだめだ、溶けちまってる……ロキシーは無事だが、意識が……」

「クッソォォッッ!!」

 

 迷宮の床へ拳を叩きつける。

 スクロールが使えず、治癒魔術が使えるルーデウス、ロキシーの意識も覚醒せず。

 若虎の余命、残り僅か。

 

「ウィルッ! ウィルッ!! ちくしょう、ちくしょう……ッ!!」

 

 血まみれの虎を、涙と鼻水を垂らしながら必死で抱き抱くパウロ。

 愛する息子を死に追いやろうとする罪業が、パウロを苛む。

 

「うああああああああああッッッ!!!」

 

 パウロの慟哭が、迷宮深部に響く。

 やっと見つけた、愛妻。

 やっと出会えた、愛息子。

 やっと揃った、家族。

 

 それが、このような残酷無惨な結末を迎えるとは。

 

 誰か、誰か助けてくれ。

 俺達を、ウィルを、助けてくれ。

 

 慟哭と共に、パウロの切なる想いが木霊する。

 ルーデウスも、ロキシーも、ギースも、双子の兎も、エリナリーゼも、タルハンドも。

 

 もう、誰も、その想いに応えることは……

 

 

 

「うう……ぐぬぅぅぅぅ……ッ!」

 

 

 

 いや、一人! 否、一体だけいる!

 

「ぐぬううううぅぅぅぅッ!!」

 

 第四の怨身忍者、霞鬼!

 杭打ちされた泳ぎ盾を、更に自身の腹に埋める!

 霞の肉が、生々しい音を立て千切れる!

 否! これは自虐行為ではない!

 

「ぐがあああああああああああッッ!!!」

 

 脱出しているのだ!!

 

「た……!」

 

 人間(ひと)よりも気高く尊く咲いて散る魂、現人鬼!

 その究極の肉体は、やはり──!

 

 

「他愛もないッ!!」

 

 

 正しいから死なないッッッ!!!

 

 

 

「退け、虎の親父」

「な、なんだよお前はッ!」

 

 怨身体を解除し、その腹腔に大穴を開けた波裸羅が、若虎父子の元へと歩む。

 一歩歩くごとに伐斬羅が滴り、腹腔内から(はらわた)がまろび出る。

 その異様な光景に、パウロは思わずウィリアムを抱え後ずさる。

 

「二度言わせるな」

「……ッ!」

 

 だが、その凶剣は依然大健在、いや、大屹立。

 波裸羅の猛威を受けても尚、パウロは息子を守るべく身構えていた。

 

「……お主は、細君の面倒でも見ておれ」

「ッ!?」

 

 身構えるパウロへ、凄絶な姿の波裸羅は努めて優しげに語りかける。

 その雄大なる慈悲の言葉に触れたパウロは、まるで川が海に行き着くかの如く、自然と波裸羅の存在を受け入れていた。

 

「助けて、くれるのか……?」

「ふん……」

 

 ゆっくりとウィリアムを横たわらせ、パウロは波裸羅の美瞳(ひとみ)を見る。

 少しだけ口角を上げ、波裸羅は片目を瞑った。

 それを受け、パウロはゼニスの元へと向かう。

 

「まだ聞こえるかアダムス」

「……」

 

 物言わぬウィリアムへ美声をかける波裸羅。

 ゼニスを抱えたパウロ、ルーデウスらを介抱するギース、そして涙と鼻水に塗れた双子兎は、その様子を固唾を呑んで見守っていた。

 

「聞け、アダムス」

 

 もはや返事も叶わぬウィリアムへ、波裸羅は美声をかけ続ける。

 ウィリアムの瞳は、前世の宿業から解放されたのか、ただ澄んだ色を浮かべていた。

 

「このまま苦しみのない常世国にて、此度こそ菩薩の慈愛に包まれるか」

 

 波裸羅は自身の手首を撫でる。

 すると、その手首が裂け、内から煮えた伐斬羅が噴き出した。

 

「あるいは」

 

 ゆるりと、虎の肉体へ手をかざす。

 

「我が伐斬羅をその身に宿し、再びこの異界にて修羅の剣を振るうか」

 

 僅かに、ウィリアムの瞳が揺れる。

 それを見た波裸羅は、美麗に口角を吊り上げた。

 

「汝はこのまま人の身で無双を目指せ……鬼にはせぬ」

 

 そして、煮えた伐斬羅がウィリアムの肉体へ滴る。

 雫が落ちる度に、虎の肉体からジュウジュウと肉の焼ける音、そして匂いが立ち込めた。

 

「お、おい! 何してんだよッ!」

「黙って見ておれ」

 

 怨血を注がれしウィリアムの肉体。

 肉の焼ける音が響くと、パウロは思わず波裸羅へ食って掛かる。

 だが、よく見ると、伐斬羅が注がれた箇所の傷口が蠢き、みるみるその肉体を再生せしめていた。

 

「……ッ!」

「ウィルッ!?」

 

 僅かにうめき声を上げるウィリアム。

 死に体の虎が、霞の怨血にて復活を遂げていた。

 

「ウィル、ウィル……ッ!」

 

 ゼニスを抱えながら、ウィリアムも抱きしめるパウロ。

 それは、幼少の虎が、ブエナ村郊外で死狂うた修練を己に施し、兄によって連れて帰られた、あの時の……。

 ゼニスは、夫の腕の中で柔らかな呼吸を繰り返している。

 ウィリアムも、父の腕の中でか細いが火のような熱い息を吐いていた。

 

 パウロは、妻と息子をぎゅうと抱きしめ、嗚咽を噛み殺しながら涙を流し続けていた。

 

 

「ナクル、ガド」

「「は、はい」」

 

 床に座り込み、やや疲れた様子を見せる波裸羅。事の成り行きを見守っていた双子兎の名を喚ぶ。

 そして、双子の兎へ、その美拳を差し出した。

 数瞬戸惑ったナクルとガドであったが、やがて頷くと現人鬼の美拳へ自身の兎拳を当てる。

 三匹の人外は拳を突き合わせ、互いの眼を見ると、やがて誰ともなく爽快な笑顔を浮かべていた。

 

「狂ほしく……!」

 

 

 

「愉快じゃッ!!」

 

 

 

 

 砂の魔窟

 ラパン転移迷宮

 

 菩薩を救うべく招かれし泥沼一行、そして虎と兎、鬼の一行。

 迷宮の様々な苦難。

 多頭の竜、さらに現出した異界の怨念。

 それらを尽くを討ち払い、一行は見事菩薩の救出を果たす。

 

 後に残りしは、前世の宿業を払い、無明の闇から明けた虎。

 

 

 

 そして、後に虎の無双の体枷となる、神武の超鋼──

 

 

 

 

 


 

「う……」

 

 べガリット大陸

 迷宮都市ラパン

 

 時刻は深夜。

 一筋の月明かりが、窓から差し込む。

 その光に照らされ、泥沼の魔術師……ルーデウス・グレイラットは目覚めた。

 

「ここ……は……?」

 

 霞がかったルーデウスの意識が、徐々に覚醒する。

 鉛のように重たい身体が、その身を起こすのを拒否している。

 唯一動かせる首をまわし、ルーデウスは自分がパウロ達が拠点とする宿の一室にいることを認識した。

 

「助かったのか……」

 

 ぼふん、と枕に頭を埋め、ルーデウスは安堵のため息をひとつつく。

 己がここにいるということは、迷宮での戦いは全て終わったということ。

 

 倒れ伏す母親の姿。

 敷島の怨念に取り込まれた恩師の姿。

 そして、父の剣を受け、血海に沈む弟の姿。

 

「そうだ、母さん、ロキシー……それに、ウィルは……!?」

 

 ぐっと力を込め、全身の筋肉を叱咤させ身を起こすルーデウス。

 時刻は深夜だが、迷宮での顛末を直ぐにでも知るべく、なんとかベッドの縁に腰をかける。

 傍らに置いてあった愛杖(アクア・ハーティア)を手にし、文字通り杖にして全体重を預けていた。

 

 

「まだ寝ておれ、小僧」

「ッ!?」

 

 不意に聞こえる、ロキシーの声。

 だが、その言霊は、ロキシーのものに非ず。

 

「お、お前ッ!?」

「だから寝ておれって」

 

 ルーデウスが声の発生源に眼を向けると、そこにはベッドの上であぐらをかく、ロキシーの姿。

 先程まで寝ていたからだろうか、普段の三つ編みではなく、ややボサボサとした蒼髪をなびかせ、薄手のローブを身に着けている。

 その片目は瞑ったままであり、諧謔味のある笑みを浮かべていた。

 

「傷は癒えておるが身体は疲れておる。そういう時は寝るに限るものよ」

「く……!」

 

 アクア・ハーティアを構えようとうするルーデウスであったが、存外に消耗した身体は言うことを聞かず。

 憔悴しつつも警戒を強めるルーデウスを見て、ロキシー……いや、勘助は寂寥感が籠もったため息をひとつ吐いた。

 

「安心せい。もう儂は程なく消え失せる」

「え……?」

 

 唐突に言い放った勘助の言葉に、ルーデウスは呆けた声を上げる。

 勘助からは敵意は感じられず、戦に敗れた武将の哀愁が漂っていた。

 

「今の儂の意識は、いわば残滓のようなもの。最早一刻も持たぬであろうよ」

「……」

 

 ルーデウスは勘助の言葉に懐疑的な表情を浮かべていたが、どちらにせよ今この状況ではこれ以上何かを出来るわけでもなく。

 そのようなルーデウスを見て、勘助は静かに言葉を続けた。

 

「誰も、死んでおらぬよ」

「ッ!」

 

 誰も、死んでいない。

 ゼニスも、パウロも、ウィリアムも。

 誰一人として、死んでいない。

 

 勘助の言葉の真偽は不明だが、どういうわけだかルーデウスは勘助が嘘をついているようには思えなかった。

 

「詳しくは小僧の仲間にでも聞くのだな。さて、小僧。儂が消える前に、少し付き合え」

 

 勘助はゆるりと立ち上がると、そのままルーデウスの隣へ腰掛ける。

 ルーデウスは尚も警戒心を露わにし身を固めるが、蒼い髪の少女の芳香を嗅ぐと、不思議とルーデウスの中で得も言われぬ安心感が沸き起こる。

 怪訝な表情を浮かべていたが、ルーデウスは静かに勘助へ言葉を返した。

 

「……あんたは、あの山本勘助でいいのか?」

「然り。そして、小僧はそもそも儂がなぜこの異界に、そして“不動”がなぜこの異界に現出したか、興味津々(しりたくてたまらぬ)じゃろう?」

「それは……!」

 

 ルーデウスへにやりと笑みを向ける勘助。

 何故、この日ノ本の怨霊がこの世界に現出したのか。

 何故、あのような、自身が知り得ぬ武者鎧が存在したのか。

 

 そして、ウィリアムと共にいた、あの“怨身忍者”とやらの正体は。

 

「全ては衛府の龍神の仕業よ」

「衛府の、龍神……?」

 

 龍神、という単語を聞いたルーデウスは、直ぐに自身のトラウマでもあるオルステッドの姿を想起する。

 しかし、あのオルステッドと、目の前の敷島の異形共との関係性は全く想像出来ず、直ぐにオルステッドとは無関係の存在であると認識した。

 少女の芳香を嗅ぎ、いくらか会話のする気力を復活せしめたルーデウスは勘助へと言葉を返す。

 

「……衛府って、何なんだよ? それと、あの“怨身忍者”って一体何者なんだ?」

「衛府とはまつろわぬ民の棲まう幻の都。そして怨身忍者は奴らの尖兵」

「……じゃあ、その龍神様とやらは一体なんであんたや怨身忍者をこの世界に転移させているんだ?」

「ふむ。一言で言うならば、“後始末”じゃな」

「後始末?」

 

 勘助の口から語られし異界の龍神の存在。

 その内容を咀嚼しきれず、困惑しながらも言葉を返していたルーデウスであったが、何かとてつもない大きく、超越した存在を感じ取り、それ以上言葉を返すことは出来なかった。

 一瞬、ルーデウスはあの夢に出てくる神……ヒトガミの存在を思い出す。

 衛府の龍神とは、あの人神と何かしらの関係があるのかと──

 

「いずれ分かる。あの龍神がなぜ敷島の強者、そして武具をこの異界に送り込んでいるのか……」

「はぁ……」

「ま、儂も今際の際で知り得た事じゃがな。これ以上詳しくは知らん」

「何だよ、それ……」

 

 気の抜けた勘助の言葉に、ルーデウスはふぅと疲れを吐き出すように息をする。

 同時に、勘助もまたベッドに深く腰を落とし、眼を細めて天井を見つめた。

 

「異界自由三昧……短い夢であったわ……」

 

 乱世の中、強烈な階級社会でその辣腕を振るった軍師、山本勘助。

 忠義を誓った武田信玄の覇業を支えるべくその智謀を振り絞り、数多の敵を屠って来た。

 だが、その心の奥底には、何人にも遮られることのない、自由な人生への羨望があった。

 ルーデウスはそんな勘助へ咎めるような視線を向ける。

 

「勝手すぎるだろ……」

「ぬふふ、そうさな。だが、誰しも一度は勝手気ままに生きてみたいと思うじゃろう?」

「……」

 

 理解は、出来る。

 それは、平成日本人の価値観を持った、ルーデウスにしか持ち得ぬ同情めいた感情。

 恩師の精神を乗っ取り、家族や仲間に手をかけようとした甲斐の軍師を、ルーデウスは憎み切ることは出来なかった。

 

「さて。敗軍の将は全てを奪われるものだが、生憎儂に差し出せるものはもう何も残っておらぬ。不動も最後は儂の言うことを聞かなんだ。新たな主(・・・・)の存在でも感じたのかな」

「不動って、あの甲冑か?」

上物(じょうもん)だぜ」

「いや、上物っていうか、あんな大きさの甲冑は……」

 

 ルーデウスの前世日本で、拡充具足のような甲冑は存在せず。

 ましてや、怨身忍者などという非常識も。

 今更ながら、ルーデウスは自身が知る山本勘助と、目の前の少女に憑依した山本勘助が果たして同一の存在(・・・・・)なのか懐疑の念を強める。

 

「というわけで……」

「……?」

 

 だが、そのようなルーデウスに構わず、勘助はギシリとベッドを軋ませるとルーデウスにその体重を預けた。

 

「代わりと言っては何じゃが、この小娘……ろきしぃの想いを、少しばかり手助けしてやろうかの」

「は?」

 

 ゆっくりとだが、蒼い髪の少女は押し倒すようにルーデウスへ身体を預ける。

 消耗したルーデウスはたまらずベッドの上に仰向けになって倒れた。

 

「ちょ、ロキシーの想いって何だよ!?」

「なんじゃ、鈍感な小僧じゃ喃。ろきしぃは小僧に惚れておるぞ」

「なぁっ!?」

「五十路を過ぎても尚生娘じゃぞろきしぃは。不憫じゃからカキタレにしてやれ」

「ちょっ!?」

 

 ベッドに倒れるルーデウスに跨がり、少女は素早い動きで身につけた衣服を脱ぎ散らかす。

 馬乗りとなったロキシーの肉体が月明かりに照らされ、その純潔の柔肌が露わになる。

 あどけない少女の桜色の蕾。そして、純潔にして神聖なその白い布。

 己が神聖視している少女の純白の下着が視界に入ると、ルーデウスは顔に火がついたかのようにその頬を朱く染めた。

 

「ちょ、ちょっとま──!」

「お、結構鍛えておるな小僧。ろきしぃがそそられるわけよ!」

「だからまてって──!?」

 

 獰猛な肉食獣の如き嗤いを浮かべながら次々とルーデウスの服を剥く中年(おっさん)少女。

 その逞しく鍛えられた胸筋を、か細い指で撫でる。

 少女の暴力的なまでの愛撫に、ルーデウスはろくな抵抗が出来ずされるがままであった。

 

「心配無用! 優しく犯したる!」

「そういう問題じゃない!」

 

 僅かに身を捩らせ、抵抗するルーデウスを安心させようと可憐な口を歪める少女。

 それを見て、ルーデウスは先程少女の芳香を嗅ぎ安心した感情がみるみる霧散していくのを感じていた。

 

 そして、最後の一枚(ぱんつ)を剥ぎ取られ、生まれたままの姿になったルーデウス。

 少女もまた、自身の下着(神器)を乱暴に破り捨てた。

 

 

「では参るぞ……異界性交三昧、いざ開幕ッ!」

「や、やめ──!!」

 

 

「やめろおおおおおぉぉぉッ!」

 

 

 ずしん!

 

 ばずずずずずずず!

 

 ぐあーーっ!

 

 

 

 蒼穹の魔法少女、泥沼の魔術師を強姦す──!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




Q.避妊具は?
A.ないんだな、それが


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第三十一景『灰鼠家族愛情在(グレイラットになさけあり)

 

 甲龍歴414年

 アスラ王国フィットア領ブエナ村

 パウロ・グレイラット邸

 

「あーうー」

「うー……」

「はいふたりとも、こっちこっち」

 

 よちよち、てちてちと二人の赤ちゃんが、一生懸命ハイハイをして私を目指している。

 朱髪の赤ちゃん……アイシャ、そして金髪の赤ちゃん、ノルンの二人は、競うようにしてその小さな手足を動かしていた。

 

「ふたりともとーってもハイハイが上手ねー。ここまでこられるかなー?」

「あうー!」

「うー……」

「はい、ついたー。アイシャはすごいわね!」

「あうー!」

 

 アイシャがノルンより先に、私の膝にその小さな手をかける。

 抱き上げると、アイシャはうれしそうに「きゃあきゃあ」と声を上げていた。

 

「う……ふぇぇ……」

 

 見ると、置いてきぼりにされたノルンがくしゃりと顔をゆがめた。

 

「ノ、ノルンお嬢様──」

「ああ、いいわリーリャ。私にまかせて」

 

 泣き叫びそうなノルンを見て、思わず腰を浮かす我が家のメイド、リーリャ。

 それを止め、私はアイシャを抱きつつノルンへ向け手を広げた。

 

「さあノルン。お母さんは待っているわ。こちらへいらっしゃい」

 

 ノルンは私を見て涙をこらえつつ一生懸命私の元へ向かうノルン。

 この様子だと、負けず嫌いな娘に育つのだろうか。アイシャと姉妹仲良くしてほしいのだけれど。

 

「はいついたー」

「う~……」

 

 ぐずぐずと涙ぐみながら、私の胸元へ顔を埋めるノルンを抱いていると、不思議と愛しさがこみ上げてくる。

 腕に感じる子どもたちの存在は、日に日に重くなっていた。

 

 私はゼニス・グレイラット。

 この子達二児(・・)の母である。といっても、アイシャは私の子ではない。

 

「こらアイシャ! ノルンお嬢様の先を越すとは何事です! 分をわきまえなさい!」

「あうー?」

「そしてハイハイはもっとスマートに! 美しく! 瀟洒に這いつくばりなさい!」

「そ、それはちょっとまだ無理じゃないかしらリーリャ……ていうか這いつくばるて……」

 

 アイシャを抱き上げながら厳しい言葉をかけるリーリャ。アイシャは、きょとんとした表情で自身の母を見つめていた。

 紅髪のアイシャはリーリャの子で、金髪のノルンは私の子。アイシャとは異母姉妹ということになる。

 

「うー……」

「あら、ノルンはおねむかしら?」

 

 うとうとと目をしょぼつかせるノルン。

 もう、そろそろ眠る時間かしら。

 

「じゃあ、私たちはいつもどおり(・・・・・・)二人で寝るわ。お休みなさい、リーリャ、アイシャ」

「はい。お休みなさいませ奥様」

「あうー!」

 

 リーリャが抱えるアイシャにキスをし、私とノルンは寝室へ向かう。

 すると、リビングの片隅からあの男(・・・)の声が聞こえてきた。

 

「あー母さん、そろそろ俺も一緒に……」

「そうですかそうですか。自分がやった事忘れて一緒のベッドに入ろうとしちゃいますか」

「か、母さ~ん……」

 

 この男の名前はパウロ。別名、性欲のパウロ。

 私が妊娠中にリーリャに手を出した最っ低な男!

 情けない声を上げる性欲の権化を俄然無視し、私とノルンは寝室へ向かう。

 

 一応私の夫ではあるが、現在家庭内別居中です!

 

 

 

「あら、ウィル」

「……」

 

 ノルンを抱えて寝室へ入る。すると、ちょうど私達の寝室に、次男ウィリアム……ウィルが木剣を手に座っていた。

 ウィルはいつも夕飯を食べた後、家の中で一番過ごしやすい場所を選んで黙想をしている。今日は私達の寝室がお気に入りだったようだ。

 別に、ウィルとの家族仲が悪いわけじゃない。ウィルは、なんだか猫のようなきまぐれな気質を持っているだけだ。

 ルディとはまた違った意味で変わった子……でも、愛すべき、我が子。

 

「ウィル……?」

 

 じっと木剣を見て、彫像のように動かないウィル。

 まるで、熟練の鍛冶師が剣の出来栄えを確かめるかのように。

 

「……ッ!?」

 

 ふと、一瞬、ほんの一瞬だけ、ウィルの姿が透けた(・・・)

 

「え……?」

「……お母上」

 

 私に気付いたウィルがぺこりと頭を下げる。

 驚く私に構わず、ウィルは悠然と木剣を床に置いていた。

 

「あーうー」

「ノルン?」

 

 すると、さっきまで眠そうにしていたノルンが、急に身を乗り出してウィルに手を振る。

 

「お兄ちゃんのところに行きたいの?」

「あうー!」

 

 もぞもぞと腕の中で身を捩らすノルンに導かれるように、私はウィルの前へ座る。

 

「ウィル、ノルンが抱っこしてほしいって」

「かしこまりました」

 

 ウィルは表情を変えずにノルンを受け取る。

 ルディと違ってあまり妹たちに興味がなさそうにしているウィルだけど、ほんの僅かにウィルの口元が緩んでいるのを見て、私も自然と笑みが零れた。

 

(やわ)い」

「きゃうー!」

 

 なんだかんだで、ウィルは面倒見の良いお兄ちゃんをしている。

 ボアレスの家で家庭教師をしているルディが、ちょっとかわいそうなくらい。

 ウィルや、妹たちの成長を見れないなんて……。

 

 しばらくウィルとノルンが戯れる様子を眺めていたけど、ふと先程のウィルの姿が気になり、なんとなしに声をかけた。

 

「ねえ、ウィル。さっき、ウィルが一瞬消えたように見えたんだけど、あれは──」

「お母上」

 

 私の声を遮るように、ウィルの研ぎたての剣のような鋭い声が上がる。

 ピシャリと遮るように投げかけられた言葉に、思わず肩を竦めた。

 

「そろそろ、お父上をお許しになってください」

 

 でも、次にかけられた言葉は、穏やかで、暖かな口調だった。

 

「それは……」

 

 私は敬虔なミリス教徒。

 ミリスの教えでは、結婚した男女は生涯一人の伴侶を愛すべしとある。

 だから、私は私を裏切ったパウロが許せなかった。

 いや、パウロだけじゃない。パウロと不義を交わした、リーリャも。

 二人はミリス教徒ではない。だから、子供ができてしまったのは仕方ないのかもしれない。

 

 でも、なぜよりによってパウロとリーリャが?

 信じていたのに、ずっと二人で騙していたの?

 ひどい、よくも、裏切り者。

 許せない。

 許せない。

 許せない……!

 

「お父上が我慢できなかったのは、お父上の責任です。リーリャも我慢できなかったのは、リーリャの責任です」

 

 ウィルは、あくまで穏やかに言葉を続ける。

 まるで、癇癪を起こした私を宥めるかのように。

 

「でも、お父上とリーリャは、お母上を愛しています」

「……」

 

 愛している。

 パウロと、リーリャが、私のことを。

 理解っている、それは。

 でも──

 

「それに、兄上のお気持ちも」

「ルディの、気持ち……」

 

 私の長男、ルーデウス。

 あの時、リーリャの妊娠が発覚した時。

 賢くて聡明なルディは、子供らしい“演技”をしてまで私達の間を取り持っていた。

 理由は簡単だ。

 

『僕にとっては、両方とも家族で兄弟です!』

 

 恐れていたのだ、ルディは。

 家族が離れ離れになる事を。

 だから、必死になってその場を収めようとした。

 

 私はルディに免じてリーリャを許した。

 でも、パウロのことは、まだ……

 

「お母上は、リーリャがお嫌いですか?」

「そんなことないわ!」

「お父上は?」

「……そんなこと、ないわ」

 

 絞り出すように言葉を紡ぐ。

 パウロのことを大嫌いになったわけではない。でも、不倫は許せない。

 ウィルは、ただ真っ直ぐに私の眼を見ていた。

 

「お母上だけが我慢することになるのは、不憫だと思います」

「……子供のあなたが気にすることじゃないわ」

「はい。ですが……」

 

 ウィルは、そう言うと少しだけ俯いた。

 

「ウィリアムは……」

 

 そのまま、細い声で言葉を紡ぐ。

 

「お母上を、守ります。いかなる嵐にも屈しませぬ」

 

 ウィルの、真っ直ぐな気持ち。

 神聖で、尊いその約束は、私の心に染み込む。

 ああ、本当に、成長したんだ……

 ルディとは、また違った形で。

 

「……ありがとう、ウィル」

 

 そういうと、ウィルは少しだけ照れたように俯く。

 少しだけ、耳が赤くなっていた。

 

「……寝たようです」

 

 ウィルの腕の中で、ノルンがスヤスヤと寝息を立てている。

 起こさないよう、ウィルはゆっくりとノルンをベッドに移した。

 

「ウィル、こっちへいらっしゃい」

 

 膝をぽんぽん、と叩きながら、ウィルを手招きする。

 思えば、ノルン達が生まれてからウィルと二人だけの時間を過ごすことは無くなっていた。だいたいパウロと稽古しているか、それ以外は一人で過ごしている。

 今日くらい、私が独り占めしてもバチは当たらない。

 

 少しだけ戸惑っていたウィルだけど、やがておずおずと私の膝の上に腰を下ろした。

 

「ふふ、重くなったわ」

「……」

 

 癖の無いさらさらな髪を撫でる。

 膝に感じる我が子の重み。それが、たまらなく愛おしい。

 あと何回、こうしてウィルを膝の上に乗せることが出来るのだろうか。

 ウィルの顔はここからじゃ見えない。だけど、耳元まで赤く染まっているのを見て、思わず抱きしめる力を強めた。

 

「……重いです、お母上」

「あ、あら。ごめんなさい」

 

 私の胸に埋まるウィルの苦しげな声を聞いて、つい力を緩める。

 見ると、耳元どころか首筋まで真っ赤に染まっていた。

 ……胸が大きいのも考えものね。喜ぶのはパウロとルディくらいだし。

 

「ウィルはおっぱいが大きい娘が好き?」

「は?」

 

 なんとなくそう呟いたら、ウィルが驚いた表情で振り向く。いたずらが成功したような笑顔を浮かべると、ウィルはむすっとした表情で前を向いた。

 ふふ、これは“一本”取ったってところかしら。

 ウィルは、ただ黙って私に体重を預けていた。

 

「……」

「……ウィル?」

 

 ふいに、ウィルがドアの方を向く。そのまま、するりと私の腕から離れた。

 

「ウィル?」

 

 ドアの前にそそくさと向かうウィル。さすがに恥ずかしくなったのかしら、と思っていたら、ウィルがドアノブに手をかけた。

 

「あー……邪魔するつもりはなかったんだけど……」

「……」

 

 ドアが開くと、ばつが悪そうに佇むパウロの姿。

 ……聞き耳立てていたなんて、いい趣味しているわ。

 さっきまでのウィルみたいに頬を膨らませ、パウロを無視するように顔を背ける。

 

「……」

「あ、おい、ウィル」

 

 すると、ウィルがパウロの手を引いて寝室に入ってきた。

 

「あ、おい」

「あっ」

 

 そのままパウロを立たせると、今度は私の手を引く。幼い子どもとは思えないほどの力で引っ張られ、私の身体はパウロの胸の中に押し付けられた。

 

「ウィ、ウィル?」

 

 戸惑うパウロと私。ウィルは、いつもの澄ました表情を浮かべていた。

 

「仲良く。万事仲良く」

 

 そう言い残すと、ウィルは静かに寝室から出ていった。

 

「あー……母さん。ウィルもああ言ってたことだし、そのー……」

「……私達ってずるいわね。何でも子供を言い訳にして」

「母さん……ゼニス……」

 

 パウロの腕の中で、私はそうつぶやく。

 子供たちに変に気を使わせるなんて、親としてどうなのだろうか。

 

「ゼニス。俺はもうお前を裏切らない。これだけは信じてくれ」

「嘘ばっかり」

「本当さ。今度は絶対に裏切らない」

「……」

 

 お互いの眼を見つめる。

 しばらく黙って見つめ合っていると、やがてどちらともなく唇が触れ──

 

 

「ふ……ふぇぇぇぇぇ」

 

 

「あらやだ! どうしたのノルン!?」

「ぐえッ!?」

 

 全力でパウロを突き飛ばし、ノルンの元へ向かう。見ると、おしめが濡れていた。

 

「あらあら大変」

 

 替えのおしめを取り出しつつ、私はお腹をさすっている()へと顔を向けた。

 

「何突っ立ってるのよ。“お父さん”なんだから手伝って」

「か、母さん……!」

 

 パッと顔を輝かせるパウロ。

 その笑顔を見て、私は少しだけパウロを許す気持ちになれた。

 これ以上、ルディや、ウィルに心配かけたくなかったから。

 

 私は、ゼニス・グレイラット

 家族との、この幸せなひとときが、ずっと続くと

 

 

 そう、思っていた

 

 

 

 

 


 

 甲龍歴423年

 ベガリット大陸迷宮都市ラパン

 

 ベッドに腰をかける一人の女性、そして横たえる一人の若者。

 美しい金髪を備えた妙齢の女性は、張りのある肌を僅かに湿らせており、無表情に傍らにいる男へと視線を向けている。だが、その焦点は合っているようには見えず、ぼうと虚空を見つめているかのようであった。

 もう一人。ベッドに横たわる若者は、全身に刻まれた痛々しい疵痕を隆起させ、緩めではあるが熱い呼吸を繰り返す、白髪の若武者。

 うっすらと汗を滲ませるその身体は、ぐつぐつと煮えたぎる溶岩の如き熱を放っていた。

 

「旦那様……いい加減おやすみになっては……」

「リーリャ。おれは、ウィルに謝らなきゃならねえんだ」

「でも……」

「謝って許されるとは思ってねえ。でも、ウィルが目覚めたら、直ぐに謝らなきゃならねえんだ」

 

 若者の寝姿を憔悴した表情で見つめる一人の男。男は傍らの女性の傍らに腰をかけ、その手をしっかりと握っていた。だが、それでも女性は男に対し何も反応を示していなかった。

 女性……ゼニス・グレイラットの夫であり、若武者、ウィリアム・アダムスの父であるパウロ・グレイラットは、己の仕出かした罪に苛まれながらも、その贖罪をするべく若武者の覚醒を待ち続けていた。

 その姿を、パウロの第二夫人でありグレイラットのメイドであるリーリャは、切なそうな表情を浮かべて見守るしかなかった。

 

 ラパンの転移迷宮での一戦。

 マナタイトヒュドラ、そして現出した超鋼“不動”を討ち倒した一行。

 誰一人、命を落とすこと無く成し遂げられたゼニス救出。だが、代償としてウィリアムが深手を負った。

 生命に関わるほどの重傷を負ったウィリアムであったが、同道せし志摩の現人鬼、波裸羅が注ぎし怨血によってその生は繋ぎ止められる。

 しかし、かの死神戦と同じように、虎は昏々と眠り続けるのみ。

 一行がラパンへ帰還してから、既に三日が過ぎようとしていた。

 

「なんじゃ、まだウィリアムは目覚めておらぬのか。ていうかお主もいい加減休め」

「謝る前に貴方が倒れたらそれこそ本末転倒ですわ」

「お前ら……」

 

 懊悩するパウロの前に、元“黒狼の牙”のメンバーで、共にゼニス救出に尽力した厳しき大峰のタルハンド、エリナリーゼ・ドラゴンロードが軽食を片手にずかずかと入室する。

 応接しようとするリーリャへ手を振りつつ、二人は部屋に備え付けられている椅子へどっかりと腰を下ろした。

 

「まあ何にせよ飯でも食え。ラパンへ戻ってからロクに飯を食っておらんと聞いたぞ」

「……すまねえ」

 

 タルハンドが差し出すパンを力なく頬張るパウロ。今は、仲間の気遣いがただありがたかった。

 

「……ギースは、何してんだ?」

 

 ゼニスの手を握りながら、パウロは黒狼の牙結成前からの相棒の姿が見えないのに気づく。

 憔悴したパウロは、ミリスにおけるルーデウスとの一件のように、何事も卒なく助言を与えてくれる猿顔の相棒の姿を無意識に求めていた。

 

「あやつは迷宮の戦利品を売り捌いておるよ」

「貴方がゼニス達につきっきりの間に迷宮へ戻っていきましたわ。ラパンから持ち帰れない分だけを売りに行ったようですけれど、それでも相当の額になりそうですわねえ」

「そうか……そりゃすげえな……」

 

 タルハンド達の説明を聞くパウロ。迷宮の戦利品の売値にも興味が湧いていたが、話を聞く内に、パウロの脳裏にあの者共の姿が想起された。

 

「で、あの……あいつらは、どうしているんだ?」

 

 パウロの脳裏に浮かぶ双子のミルデッド族の若者、そして奇々怪々な半陰陽者の姿。

 迷宮から出た途端、挨拶もそこそこに双子の襟首を掴みいずこかへ消え去った男女を超越せし超人。

 志摩の現人鬼波裸羅と、双剣ナックルガードは、明確な目的を持ってパウロ達の前から姿を消していたのだ。

 

「知らん。ラパンにはいるようじゃが……」

「リーリャから少し聞いたのですけれど、あの双子はウィリアムの弟子らしいですわね。瀕死の師匠の側にいるよりも優先することがあるとは思えませんけど」

「そうか……ウィルに弟子が……とりあえず、ちゃんとお礼言いたかったんだけどな……」

 

 自身が知らぬ内に弟子まで取るほどの成長を見せたウィリアムに、パウロはふっと笑みを零す。と同時に、瀕死の愛息子を救いし現人鬼へ対し礼を欠いていた事を今更ながら恥じていた。

 

「まあいずれ戻ってくるじゃろ。ゼニスを救うという目的は一緒じゃったとはいえ、一時的に敵対しておったしな。ワシらもきちんと話をしたい。特にあの波裸羅という男には色々と聞きたいことが……いや女……男……? なんじゃあれ、あれどっちなんじゃ?」

「多分男ですわよ。多分。恐らく。きっと。……リーリャ、貴方は一度彼らに会っているんでしょう? 何か聞いてませんこと?」

「いえ、私も詳しくは……」

 

 持参した軽食をつまみながら、一行は奇々怪々な存在である現人鬼へと思いを馳せる。正直、あのような出鱈目な存在とは出会った事は無く。

 長い年月を生き、世界中で放蕩の限りを尽くし、あらゆる人間を眼にしていたエリナリーゼですら、現人鬼の存在は異常の一言に尽きていた。もっとも、エリナリーゼが覚えているのは現人鬼の股間に屹立する凶剣の凶悪さぐらいであったが。

 

「ロキシーに憑いた悪霊の正体、それにあの鎧についても何か知っておるようだしのう。ほんと、ようあんなよく分からん奴を仲間にしておったのうウィリアムは」

「双子の方はともかく、わたくしもあの御方はちょっと……流石にアレは無いですわ。致している最中に大怪我しそうですし」

「まあ、それは分かるけどよ……」

 

 あまり悪く言うもんじゃない、と諌めようとしたパウロであったが、冷静に思い返してみれば波裸羅の存在はパウロにとっても異常すぎた。

 苛烈にして意味不明な言動、迷宮にて演じた超鋼との異質な一戦。そして一行を恐慌せしめた怨念の塊ともいえる異形の姿。

 何もかもがまともではない波裸羅は、経験豊富なパウロ達ですら当惑せし存在であった。

 

 しばらく波裸羅の正体に思いを馳せる一同であったが、ふと寝室の扉をコンコン、と控えめにノックする音が響いた。

 

「父さん、ルーデウスです」

「ルディ!? もう身体は大丈夫なのか!?」

「はい。おかげさまで」

 

 見ると、やや疲れた顔をしたルーデウス・グレイラット、そしてその隣に寄り添うようにして佇むロキシー・ミグルディアの姿があった。

 

「ロキシーも、もう大丈夫なのか?」

「は、はい。えっと、もう私の中にいた悪霊はいません……」

 

 いつもの魔術師のローブを身に着け、トレードマークである三角帽子を摩りながら応えるロキシー。

 傍目ではいつものロキシーであるが、少しばかり頬を赤く染めており、やや挙動が不審だ。そんなロキシーを胡乱げに見つめるエリナリーゼ。どうみても、ロキシーはルーデウスを過剰に意識している素振りが見て取れた。

 

「ふむ。ロキシーは、あの悪霊が憑依していた事を自覚しておるのか?」

「はい。ほとんど記憶は、ありませんけど……」

 

 タルハンドが何気ない問いかけに言葉を返しつつ、更に顔を赤らめたロキシーはルーデウスの顔をちらりと覗く。

 あの悪霊、山本勘助に意識を乗っ取られていた時も、ロキシーの意識は薄っすらとではあるが覚めていた。

 まるで、微睡みの中で見る夢のような、嫋やかな意識の中。それが、徐々にはっきりとしていき、完全に覚醒した時──ロキシーは、全裸でルーデウスの上に跨っていた。

 驚愕と混乱、そして張り裂けんばかりの愛情が一気に湧き上がり、ロキシーはそのままルーデウスとの行為を継続した。行為中のルーデウスの上気した表情がたまらなく愛おしく、行為を止めることが出来なかった。

 そして全てが終わり、ベッドの上でお互い気まずそうになりながらも、これからの事を話し合った。ルーデウスが既に妻帯している事を知ったのもこの時だ。

 最初は全て無かった事にしようとしたロキシー。だが、深く懊悩したルーデウスはやがて何かを決心したようにロキシーの手を取り、こうしてパウロ達の前にやってきた。

 

「父さん。あの、大事な話があるんです」

「ルディ。何を言うつもりなのかわかんねえけど、先に母さんに挨拶しろよ」

「あ、はい。母さん──」

 

 そこまで言ったルーデウスは、ベッドに腰をかけるゼニスを見つめる。母ゼニスは相変わらずぼうとした表情を浮かべており、その視線は定かではなかった。パウロの様子に少々の不審を覚えたルーデウスであったが、再会した喜びがじんわりと湧き上がり、その側へと向かう。

 

「母さん、ルーデウスです……母さん?」

 

 ゼニスの前に座り、声をかけるルーデウス。だが、ゼニスは息子の声にすら何も反応を示さず、ぼんやりとルーデウスへと視線を向けるのみ。パウロは、その様子を見て泣きそうな表情を浮かべ唇を噛み締めていた。

 

「ルーデウス様。奥様は──」

 

 ためらいがちにリーリャがルーデウスへと声をかける。パウロを始め、タルハンドもエリナリーゼもその表情は暗い。その様子を見て何かを察したロキシーは、同じように表情を暗くし俯いていた。

 

「そんな……」

 

 リーリャの口から語られしゼニスの現状。それを聞いたルーデウスは絶句する。

 ゼニスは、感情の一切が死滅していた。

 声をかけても「あー」「うー」と、赤子のような反応しか示さず。

 リーリャの献身的な介護により食事や用を足すのは一人で出来るようになったものの、夫の声掛けにはろくな反応は示さず、ただぼんやりと視線を虚空に彷徨わせるのみであった。

 

「……クソッ」

 

 短く悪態をつくパウロ。ぎゅっと手を握る力が強まり、ゼニスはちらりと伴侶の顔に視線を向けるも、やがて虚空を無感情に見つめるだけであった。

 

「……とにかく、無事を喜びましょう。探せば治す方法もあるかもしれません」

「そうだといいがな……」

 

 疲れた表情のパウロはそれっきりただ黙ってゼニスの手を握り、眠るウィリアムを見つめていた。

 

「ウィルは、大丈夫なんですか?」

「ウィリアム様は深手を負っていますが、シェラ様が治癒魔術を使ってくれました。もう傷は完全に塞がってはいるのですが……」

 

 パウロと同じくウィリアムへ視線を向けるルーデウス。リーリャ曰く、ウィリアムの傷は迷宮でパウロに負わされた刀傷以外にも、肋骨がひしゃげており、その一部は肺に突き刺さっていた。それも迷宮に至る前に負ったものであり、重傷を負いながらも母ゼニスの救出にかけつけていたウィリアムの姿に、リーリャは説明しながら目尻に涙を溜めていた。

 

「そんな状態で……」

 

 ルーデウスは弟の寝姿をじっと見つめる。得体の知れないところがある弟であったが、家族を想うその心根、そして覚悟を見せつけられ、兄として複雑な想いを抱く。と同時に、弟と無事に再会出来た喜びもまたルーデウスの心に湧き上がっていた。

 

「ひとまず無事で良かったということですわ。これからのことはこれから考えるとしましょう」

「そうじゃな。とりあえずロキシーに憑いた悪霊やあの鎧の正体も気になるが、それはおいおいとして」

 

 それまで黙っていたエリナリーゼ、タルハンドが努めて穏やかな声を上げる。ゼニスが自失している状況は無残ではあったものの、その生命は失われていない。

 誰一人、失う事無く旅の目的は達せられたのだ。

 ルーデウスはエリナリーゼ達の言葉を聞き、ようやく心に活力を取り戻していた。

 

「さて、ルーデウスの話を聞く前に……パウロ」

「ああ、何だよ」

 

 ふと何かを思いついたようにタルハンドがパウロへと声をかける。

 じっとウィリアムを見つめながら、パウロはぶっきらぼうに言葉を返した。

 

「いやな、そこにあるウィリアムの剣を少し見せてほしいのじゃが……」

「ウィルの、剣を?」

 

 パウロのみならず部屋にいる全員がウィリアムが眠るベッドの側に立てかけられた刀剣を見やる。独特の拵えを備えたその剣、いや刀。ルーデウスはその形状を見て、はっとした表情を浮かべており、ロキシーもまた眼を見開いてウィリアムの刀を見つめていた。

 

「持ち主の許可を得ずに勝手に触るのはどうかと思うが……その剣、ちとヒルト*1が傷んでおる。そのままじゃ握りが甘くなりそうでな」

 

 タルハンドは刀を見つめながらやや興奮を隠せないかのように言葉を紡ぐ。見ると確かに刀の柄巻は傷んでいた。だが、タルハンドの内心は鉄細工や鍛冶が得意な炭鉱族の血が騒ぐのか、見知らぬ剣に対する興味が渦を巻いていた。

 

「……壊すなよ」

「アホウ、今までお主の装備を修繕して来たのは誰だと思っておるんじゃ」

 

 仕方なしに刀……七丁念仏を手に取り、タルハンドに差し出すパウロ。丁寧な手付きでそれを受け取ったタルハンドは、おもむろに七丁念仏を鞘から引き抜いた。

 

「ほぉぉ……間近で見ると一層……これは……」

「吸い込まれそうですわねぇ……」

「なんだか不思議な感じがします……」

 

 タルハンドはもとよりエリナリーゼ、リーリャも感嘆の声を漏らす。七丁念仏の刀身は怪しい輝きを放っており、見るもの全てを惑わす妖力が発せられていた。

 

「よし、ではヒルトを外してみるかの」

 

 いつの間にか取り出したのか、刀剣の手入れ道具を片手に七丁念仏の柄を握るタルハンド。おおよその形状をひと目で理解したタルハンドは、目釘が打たれている箇所にポンチを当て丁寧にハンマーで叩く。

 コン、コンと叩くと、目釘が外れ七丁念仏の(なかご)が現れた。

 

「ふむ。ヒルトは新しく繕うとして……なにやら妙な文様が描かれておるのう。これは文字か?」

「なんて書いてあるのかしら。これ、人間語でも魔神語でも無いですわ」

 

 茎に書かれた異質な文様。それを見て不可解な表情を浮かべるタルハンドとエリナリーゼ。それは、決してこの世界のどの種族でも読めない、異界の言霊が刻まれていた。

 

「ロキシー、貴方なら何か分かりまして?」

「いえ、私にも……ルディはどうですか?」

 

 ルーデウスはロキシーを見た後、茎に刻まれた文字を見る。旧字で書かれたその文字は、かつて己が生きていた前世世界……日本語で書かれていた。

 

「えっと……」

 

 しかし、ルーデウスはその文字についてどう説明すればいいか言葉に窮した。以前から疑念を抱いていた弟ウィリアムの正体。そして、先の迷宮にて出会った日ノ本の異形、ロキシーに憑いていた甲斐の鬼軍師。

 何か得体の知れない大きな存在を再び感じ取ったルーデウスは、この文字について説明することが出来なかった。

 

(つーか旧字体過ぎて読めないし……)

 

 もっとも、前世でロクに勉学に励まなかったルーデウスの知識では、そもそもその文字を読むことは不可能であったのだが。

 

 

 

被鎧袈裟落重ね七つ胴(かぶせよろいけさおとしかさねななつどう)裁断ッ!!」

 

 

 

 突如、過剰にして無謬、猥褻にして純潔な声が響く。

 ルーデウス達が視線を向けると、扉を開け蠱惑的な表情を浮かべる一人の偉丈婦、いや偉丈夫の姿。

 傍らにさも仏頂面を浮かべる双子の兎を引き連れ、ルーデウス達にその美姿を見せる。

 

「堅物被せの試しとは、中々の珍宝(ちんぽう)よ喃!」

「あ、あんたは……」

 

 現人鬼波裸羅。

 困惑する泥沼一行の前に現出し、簡素な冒険者装束を纏いながら荘厳な鬼風を漂わせていた。

 

「あの、貴方はあれが読めるのですか?」

「あん?」

 

 呆気にとられる一同の中で、ロキシーだけが即座に反応する。

 波裸羅はロキシーの姿を訝しげに見つめるも、直ぐに蒼髪の少女へ不敵な嗤いを浮かべた。

 

「ふふふ。憑き物は落ちたようじゃ喃、微乳以下娘(イカ娘)

「び、微乳!?」

 

 直後、あんまりな波裸羅の言い草に、蒼穹の魔法少女はその可憐な頬を膨らまし猛抗議を上げる。

 

「な、何なんですかいきなり! 失礼すぎますよ!」

「ふん、ちんちくりんな姿でイキっても滑稽なだけぞ前略以下娘」

「誰がイカ娘ですか!? ていうか略す程の胸だって言いたいんですか!?」

 

 尚も憤るロキシーを無視し、波裸羅はずんずんと部屋に押し入る。

 

「イキるならせめて──」

 

 そして、椅子に座るエリナリーゼの前に立ち──

 

「これくらいの美乳を目指さんかいッ!」

「んんんんぅぅぅーッ!?」

 

 そのまま、長耳淑女の美しく整った乳房をむんずと掴んだ。

 いきなりすぎるこの惨状に、ルーデウス達は凍りついたようにその身を固まらせる。

 

「やめろッ! こんなことーッ!」

「信じられないことをするなッ!」

 

 だが、波裸羅の傍らに控えていた双子の兎、ナクルとガドが即座にその暴虐を止めるべく行動を開始する。

 渾身の力を込めてエリナリーゼから波裸羅を剥がそうとするも、現人鬼の剛体は双子の力ではびくともしなかった。

 

「だからやめろって! このスカタン野郎がァーッ!」

「んんぅぅぅぅぅー! わ、わたくしにはー! わたくしにはクリフという愛しの伴侶がぁ~ッ!」

「!? いや大丈夫そうだよ兄ちゃん! この女もなんか変だ!」

 

 よくわからない悶え方をするエリナリーゼを見て、ナクルは「お、そうだな」と即座に思い直した。

 

「スカタンと申したかこのすくたれ者共。半蔵率いる伊賀忍者共と同じようにど頭カチ割ったろか」

「あい゛だだだだだだだ!!」

「ヤメロー! ヤメロー!!」

 

 その直後、エリナリーゼから手を放した波裸羅のアイアンクローが双子を襲う。

 突如現出したこの乱痴気騒ぎに、ルーデウス達はただ呆然と見ていることしか出来なかった。

 

 

「……」

 

 

 故に、ゼニスの目元が僅かではあるが優しげに細まるのを、ルーデウス達は気づくことは無かった。

 

 騒ぎの中、虎は未だに覚醒せず。

 

 ただ安らかに、その熱い呼吸を繰り返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
剣の柄。グリップ全体の事を指す



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第三十二景『合力返上志摩悪鬼決別譚(ジャイアントさらば)

 

 宮本武蔵という剣豪が最強の剣術者として世に知れ渡っているのは、姿や性別までも変え様々な創作物に登場しているからに他ならない。だが、それらは彼自身が自伝を書き残しておらねば成立し得なかったであろう。

 

『自己の剣術は究極の(ことわり)を体現するものであり、精神面においても煩悩を始め欲望の一切を無にするのが妙諦也』と記す武蔵。とはいえ、少なくとも名誉欲だけは捨てきれていなかったのではないか。

 

 生涯妻帯すること無く、俗世の執着(とらわれ)から解脱し、孤高の剣に生きたとされる武蔵。しかしその本心は、死後千年に渡り己の武名が謳われることを願っていたのではないかと──

 

 鎧兜の武装姿で埋葬された武蔵の死に様は、自己の剣生を後世に刻みつけんと欲する執念に満ちた業火が滲み出ている。

 

 そして、それは異世界に渡った虎も……

 

 家族の情に触れ、前世の因縁を払っても尚、剣の魔物に愛されし虎はその宿業の火から逃れることは出来ない。

 

 だが、唯一、その火から解放される道がある。

 

 

 それは、真紅の鬼火が、新たなる“火”を繋ぐこと──

 

 

 

 

 

 

 


 

 少女の尊厳ゴッツァン!

 淑女の美乳ゴッツァン!

 双子の頭骨ゴッツァン!

 ゴッツァンゴッツァンゴッツァ──

 

「ああ! もう! いい加減にしてください!」

 

 魔法少女の可憐声ゴッツァン!

 唯我独尊、傲岸不遜を体現した現人鬼波裸羅の暴虐(ゴッツァン)に面を喰らっていたルーデウス達であったが、ロキシー・ミグルディアの神の一声により一同正気ゴッツァン。

 

「ふん、そうイキるなイカ娘」

「だーかーらー!」

「これは戯れに過ぎぬ。(のう)、糞兎共」

「イデデ……そ、そうですね現人鬼殿。野郎ナメやがって……

「いやー現人鬼殿のお戯れはいささか身に堪えますなぁ。クソはお前だぁ……

 

 ロキシーへ軽口を叩きつつ、双子から手を離した波裸羅は悠然とルーデウス一同を睥睨する。双子兎はコメカミをさすりつつへつらうような笑いを浮かべていた。

 エリナリーゼは乳を揉みしだかれたショックから立ち直りつつあるのか、キッと睨みつけるように波裸羅を見据えている。が、波裸羅は長耳淑女の殺視線を意に介さず。

 

「ふふふ……あの猿めの姿が見えんが、猿以外は集まっておるし改めて名乗っておくとするか喃」

 

 そして、波裸羅は美麗にその究極の肉体を翻した。

 

「我が名は波裸羅ッ! 人は呼ぶ、現人鬼ッ!!」

 

 波裸羅の鬼声(おにごえ)が響き渡る。その美姿に圧倒されたルーデウス達はポカンと呆気に取られたかのように波裸羅の美姿を見つめ──

 

「いや、自由すぎるだろ」

 

 否、ルーデウスのみが、波裸羅の自儘にかろうじてツッコミを入れていた。ツッコミを入れつつ、ルーデウスはどこかこのノリが不死魔族の魔王、そしてそのフィアンセである魔界大帝の姿と重なり、なんともいえない表情を浮かべていた。

 

「うぬ?」

「え、な、なんですか……?」

 

 波裸羅は己へ白けた視線を向けるルーデウスの前にずいと寄り、その顔をじいっと見つめる。

 

「う……」

 

 波裸羅の燃ゆる瞳で自身を覗き込まれたルーデウスは、自己(おのれ)の睾丸が鋼の拳で掴まれたかのような悪寒に苛まれる。さながら、捕食者を前にした哀れな獲物の如く。

 波裸羅はルーデウスの芳香を嗅ぎ取ると、美麗に口角を釣り上げた。

 

「濡れたな、虎の兄よ。イカ娘と秘忍具(避妊具)無しの乱痴気泥遊び(ゴッツァンゴッツァン)かましたか」

「なっ!?」

「ちょっ!? ち、違います!」

 

 狼狽し赤面するルーデウス、そしてロキシー。波裸羅はそんな二人を見て「嘘つきは肉棒の始まり」と益々嗤いを深めた。

 その様子を見て、エリナリーゼ、そしてリーリャが怪訝な表情を浮かべるも、波裸羅の独壇場が続く為それ以上疑念を持つことは出来なかった。

 

「まあ今はイカ娘の具合より虎の具合よ」

 

 赤面するルーデウス達を尻目に、波裸羅はベッドに眠るウィリアムを見る。

 穏やかで、熱い息を吐くウィリアムの寝顔を見た波裸羅もまた穏やかで燃ゆる視線を向けていた。

 

「若先生はまだ目覚めていないのか……」

「申し訳ありません若先生……」

 

 双子の兎が心配そうに自身の師匠の寝姿を見つめる。

 負傷した師匠の側にいることが出来なかった申し訳無さで、その兎面を歪めていた。

 

「まだ夜ではないか!」

「昼だぞ」

「何言ってんだこの鬼」

 

 鮮やかな鬼声を上げる波裸羅に、直後の双子のツッコミ。鬼は無慈悲の鉄拳制裁を喰らわせていた。

 

「……波裸羅さん、でいいのか」

「あん?」

 

 一連のやり取りを黙って見ていたパウロがぼそりと声を上げる。パウロは波裸羅へ沈痛な表情を浮かべながら深々と頭を下げていた。

 

「ウィルを、助けてくれてありがとう。親として本当に感謝している。それと、俺の仲間があんた達へ剣を向けたのも謝らせてくれ。すまなかった」

「……」

 

 深々と頭を下げるパウロを見下ろす波裸羅。諧謔味のある笑みを浮かべつつ、パウロへ言葉を返した。

 

「ふふん。ゴチャゴチャの戦場(いくさば)では運悪く味方を斬りつけることもある。が、息子までも斬りつけるのは拙者もどうかと思うが喃」

「それは……」

「この場合、普通は指を詰めて(・・・・・)ワビを入れるものよ」

「指を、詰める?」

 

 聞き慣れぬ風習にパウロは疑問を返す。そんなパウロに、ますます諧謔味を深めた波裸羅は己の小指を立て、それを手刀で斬るような仕草を見せた。

 

「いやそこまでしなくても」

「鬼かアンタは。鬼だけど」

 

 全員がドン引きする中、双子も双子で思わず辛辣なツッコミを入れる。ルーデウスもまた「ヤクザかよ……」と一人呟いていた。

 とはいえ、近世日本で生きる荒くれ者共にとってこの自虐行為はさして珍しいものではなく。

 “指切り拳万”という約束事の遵守を誓う風習から見受けられるように、小指を差し出すというのは時として最大の誓約、そして謝罪、処罰として扱われた。

 その風習は鎌倉期から見られ、戦時において“御方討”と言われる同士討ちを仕出かした者は“指切り”の刑に処されたとの記録も残っており、室町期からは庶民を対象とした刑罰としても指切りは行われていた。

 それが近世、近代、そして現代へと筋者らの風習として受け継がれているのは言わずもがなである。

 

「……そうか、指を斬るんだな」

「旦那様!?」

「父さん!?」

 

 波裸羅の仕草を見て、おもむろにナイフを取り出し己の小指を裁断しようとしたパウロを、リーリャとルーデウスが慌てて止める。

 肉体切断を容易に治癒できる魔術がある世界とはいえ、その行為は六面世界の住人、そして平成日本の価値観を持つ者にとって非常識極まりない行為であった。

 

「いいんだ。俺は、ウィルに謝らなきゃならないんだ……!」

「そんなことをしなくてもきっとウィリアム様はお許しになってくれます! だから指を切るなんてお止めくださいませ!」

「そうですよ父さん! 父親の小指なんてもらってもウィルも困りますよ!」

 

 懸命にパウロの腕を抑えその自虐行為を止めるリーリャとルーデウス。その様子を見て、波裸羅は高らかに哄笑を上げた。

 

「アッハッハッハッハ! 虎の父御はまっこと愉快じゃ!」

「全然笑えねえ!」

「加減して差し上げろ莫迦!」

 

 双子に瞬速の腹パンをぶち込みつつ、波裸羅は慈愛の眼差しをパウロ達へ向ける。

 

「ま、拙者もそこまでせんでも良い気がするがな。なんのかんので情に厚い甘き男よ」

 

 そのまま眠るウィリアムを見やりつつ、波裸羅はパンと手のひらを合わせた。

 

「拙者らの遺恨は元より一切無し。あとはお主ら家族の問題。余人が口を挟む道理は無し」

「……すまねえ」

「善き哉。兎共もそれでよかろ?」

「はぉぉ……」

「ウギギ……」

 

 波裸羅の一声を受け力なくナイフを仕舞うパウロ。それを見て、波裸羅は再びニヤリと美笑を浮かべた。

 手打ち完了。

 多少強引ではあるが、腹を抑え蹲る双子の兎もそれについては異議を唱えるつもりは毛頭なく。そもそも、ウィリアムへ斬りつけたパウロへ反撃したのは双子達であり、師匠の肉親へ刃を向けた事実は到底許されるものではない。むしろこちらが詫びを入れなければならないと思っていた双子は、蹲りながらパウロ達へ改めて謝罪を入れていた。

 もっとも、波裸羅の裁定に異議を唱えた瞬間、再び鬼の鉄拳が腹腔に飛び込んでくるのは必定であったが。

 

「やれやれ。なんとも破天荒な御仁よの……」

「無茶苦茶ですけれど、妙な説得力がありますわね……」

 

 やや蚊帳の外に置かれたタルハンドとエリナリーゼが嘆息混じりにそう呟く。

 事実、その行動や言動は常人の理外の外にある代物であったが、波裸羅の美口上はその是非を説くのを躊躇わせるものであった。

 

「あの、ところで貴方はあの“鬼族”なのですか?」

 

 ふと、落ち着きを取り戻したロキシーが波裸羅の姿を見てそう疑問を上げる。

 自らを“鬼”と称す波裸羅の姿。であるが、頭部に備えしはずの角が見当たらず、どうみてもこの世界の“鬼族”には見えない。

 

「とても鬼族には見えませんけれど……」

 

 同様の思いを抱いていたエリナリーゼの呟きに、ルーデウス一行はもちろん、双子の兎達も「そういえばこいつ何者?」と今更な疑問を浮かべていた。

 双子の師匠であるウィリアムが波裸羅の素性について特に言及もしていなかったのもあり、この理不尽かつ非常識の存在と同行していた不自然に、今更ながら気づいていたのだ。

 

「ふん。拙者を鬼ノ城(きのじょう)温羅(うら)共と一緒にするでない」

 

 相変わらず六面世界の住人には皆目見当もつかない弁を述べる波裸羅。唯一、ルーデウスだけが“鬼ノ城”という単語に反応し、困惑した表情を浮かべていた。

 

「この波裸羅、ただの鬼に(あら)ずッ!」

 

 獣、魚、虫、樹木、菌類に至るまであらゆる生命にとって“火”は死をもらたすもの。

 だが、志摩の現人鬼の火は、紅蓮の炎の中で更にその雄渾なる輝きを増す。

 その様は、この六面世界の“鬼”に非ず。

 

 まさしく、“現人鬼”と呼ばれる“怪異”である。

 

「……ッ!」

 

 轟然と鬼合を発する波裸羅の威容に、一同はその身を竦ませる。さして広くもない宿の一室は、鬼が発する怨気に包まれ、男は睾丸を縮ませ、女は女陰をしめやかに濡れそぼらせた。

 

 

「……現人鬼殿。もう少しこう、手心というか」

 

 

 唐突にベッドから発せられたか細い声。

 一同がそこへ眼を向けると、現人鬼の鬼気に当てられ覚醒したウィリアムが、ゆっくりと上体を起こそうとしていた。

 

「ウィルッ!」

「ウィリアム様!」

「「若先生!!」」

 

 パウロ、リーリャ、そして双子の兎が覚醒したウィリアムの側へ駆け寄る。

 

「ウィルッ! ウィルゥッ!!」

 

 泣きそうな表情でウィリアムの身体を支えるパウロ。そんなパウロを気遣うように、虎は僅かに眼を細めた。

 

「御父上……」

「ウィル、俺は、俺は……!」

 

 くしゃくしゃに顔を歪めながら、パウロは愛息子へ言葉にならない謝罪を繰り返す。

 それを、ウィリアムはただ黙って聞いていた。

 

「すまねえ……すまねえ……!」

「……」

 

 涙を流し、愛息子をぎゅうと抱き抱くパウロ。嗚咽混じりの謝罪に、虎は一言も発することなくただ父の抱擁を受け止めていた。

 

「ウィル……」

「兄上……」

 

 心配そうに、ルーデウスが弟へ声をかける。

 虎は少しだけ眼を見開くと、そのまま静かに頭を下げていた。

 

「皆様。ウィリアム様は目覚めてからまだ御心が覚束ない御様子です。まだ、ゆっくり休ませてあげては……」

「元より承知しておる。行くぞ糞兎共」

「ハイ」

「ワカリマシタ」

 

 ウィリアムの様子を見て、リーリャがそれとなく波裸羅達へ退出を促す。

 波裸羅は双子の襟首をむんずと掴むと、そのままずるずると部屋の外へ引きずって行った。

 

「わたくし達も出ていった方が良さそうですわね」

「そうじゃな。ああ、ウィリアム。お主の剣は後ほど修繕させてもらうぞ」

 

 エリナリーゼ、タルハンドもまた波裸羅達へ続き腰を上げる。

 タルハンドは手慣れた様子で七丁念仏の刀身を厚手の布で包むと、丁寧な手付きでウィリアムの前へ置いた。

 

「……」

 

 武士にとって刀は命。決して余人に対し容易に触らせる事は無い。

 だが、炭鉱族であるタルハンドは、剣術者が己の得物を大切に扱っているのを良く知っていた。それ故、その扱いに礼を欠かす事はしない。

 タルハンドはある事情で鍛冶自体は不得手であった。だが、鍛冶に対する情熱は、あの同族の男に対する恋慕と共に埋火のように静かに燃えていた。

 七丁念仏をひと目みた瞬間、タルハンドの中でその火が再び燃え上がっていたのだ。

 ウィリアムはそのようなタルハンドの内心を見透かしてか、炭鉱族の偉丈夫へ静かに黙礼を返していた。

 

(やっぱりあいつは……ウィルも、やっぱり……)

 

 ルーデウスは波裸羅の後ろ姿、そして弟の得物を見て固い表情を浮かべていた。やはりかの者達は“同郷”ではないかと──。

 

「ルディ……どうしました?」

「あ、いえ……」

 

 そんなルーデウスを心配そうに覗くロキシー。

 その可憐な姿を見たルーデウスは、自身の中で渦巻く様々な困惑が洗い流されていくような思いを感じていた。

 

「……あの、父さん。話というか、相談があります。あとで俺の部屋に来て下さい」

 

 いまだウィリアムを抱きすくめ涙を流すパウロに、ルーデウスは意を決したかのように言葉をかける。

 己が仕出かした一晩の過ち。敬愛が性愛に化けたそれを、ルーデウスはどう決着をつければ良いのか。この手の話ならば、パウロは非常に頼りになる男であるのを、ルーデウスは幼少の頃から良く知っていた。

 ルーデウスはロキシーと共にパウロへ一礼すると、そのまま部屋を後にした。

 

「旦那様もそろそろ。後は私が」

「あ、ああ……そうだな……ウィル、また、後でな」

「……はい」

 

 リーリャに促されパウロもまた名残惜しそうに部屋を後にする。

 絞り出すかのように返事をしたウィリアムは、そのままベッドの上でじっと身を固めていた。

 

「リーリャ」

「はい、なんでしょう」

 

 ふと、親愛なる女中の名を呼ぶ若虎。

 ゆっくりと眼を開いた虎の視線の先に、相変わらずぼうと座るゼニスの姿があった。

 

「御母上のご容態は」

「……」

 

 若虎の問いに、リーリャは一瞬言葉を詰まらせる。

 だが、数瞬した後、哀しみを押し殺すようにリーリャはその口を開いた。

 

「奥様は、失っております……」

 

 そこからは先のルーデウス達と同様の説明をするリーリャ。よどみ無く説明するリーリャであったが、言葉の節々に嗚咽を噛み殺すような声を滲ませていた。

 

左様(さよ)か」

 

 一通り聞き終わったウィリアムは、そう短く述べただけであった。余人が聞けば実母の惨状に対し余りにも淡白過ぎる反応。

 だが、虎の拳は固く握りしめられており、僅かではあるが何かを悔いるかのように表情を歪めていた。

 

 遅かったか──

 

 そのような悔恨の念に囚われるウィリアム。もっと早くゼニスを救助していたら、このような事にはならなかったのではないかと。

 

「ウィリアム様は何も悪くありません」

 

 そのような若虎の悔恨をきっぱりと否定する女中。

 そっとベッドの縁に腰をかけると、ウィリアムを優しくその腕で抱いた。

 

「こんなに……こんな姿になっても、ウィリアム様……ウィリアム坊っちゃまは、奥様、そして旦那様方を助けてくれました」

 

 傷ついた若虎の肉体を、慈しむように胸の中に包むリーリャ。

 先程の父の力強い抱擁とは違い、慈愛に満ちた柔らかで、優しい暖かさがあった。

 

「奥様を、旦那様方を救っていただき……ありがとう、ございます……」

「……」

 

 枯れ草のようなウィリアムの白髪頭に、口づけをひとつ落とすリーリャ。

 彼女は恐れていたのだ。ゼニスを失うことを。そして、救いを果たさんと迷宮に挑む、パウロ達の誰かが欠けることを。

 そして、感謝していた。死に体になっても尚、約束通り家族全員を連れて帰った、ウィリアムに。

 震え混じりの声で感謝を表すリーリャに、ウィリアムは身じろぎ一つせずそれを受け止めていた。

 

 救い出されし菩薩は、ぼうとした表情でその様子を見つめていた。

 

 

 

 

「ところでお主ら。それは一体何じゃ?」

 

 部屋から出たルーデウス達は、何やら大きな荷物を背負う双子の兄、ナクルの姿を見留める。

 いわゆる甲冑櫃のようなものを背負い、弟ガドの補助を得てようやく背負えるそれは、傍から見ても尋常ではない重量を感じさせていた。背負ったナクルが少し動いただけで宿の床が軋むほど。

 疑問の声を上げるタルハンドに、ナクルは歯を食いしばりながら応えた。

 

「こ、これは、若先生の、新しい外骨格(ほね)です……!」

「ほね?」

 

 みしりと床を軋ませながら双子へ割り当てられた部屋に向かうナクル。後ろで支えながら、ガドが補足の説明を述べた。

 

「現人鬼殿に言われて迷宮で拾いました。あの鎧の中にあった、一回り小さい鎧と言いますか」

 

 双子らが不在だった理由。それは、死闘を演じた拡充具足“不動”の残骸回収であった。

 ウィリアムに斬断された不動であったが、それは外部装甲のみを裁断されただけに過ぎず。一旦は地上に出た一行であったが、波裸羅が双子と共に密かに迷宮へ戻り、不動の内部装甲を回収していたのだ。

 双子が師匠の容態よりも回収を優先したのには、珍しく波裸羅が真剣な表情でそれを厳命したから。

 

 “何が何でも余人より先に回収すべし。件の超鋼、アダムスの新たな外骨格(はがね)なり”

 

 波裸羅の鬼気迫る表情を受け、双子は再び転移迷宮に潜行せしめる。もっとも、迷宮内の残党ともいえる魔物共は波裸羅に刻みつけられた鬼の剛強さに怯えたのか、以前程の苛烈な攻勢は全く無く。鬼と双子はさして労せず、最速で最深部までたどり着くことが出来た。

 

「あ、あの鎧の一部って……大丈夫なんですの?」

 

 用心深く身構えながら甲冑櫃へ眼を向けるエリナリーゼ。

 その後ろでは、ロキシーもまた自身の髪色と同じように顔を青くさせながら甲冑櫃を見つめていた。

 

「現人鬼殿は心配無用と言ってましたけど……」

「よしんばまた誰かに憑くようなら、またぶちのめせばよかろって言ってたましたけどね……」

 

 簡潔すぎる鬼の言魂。その是非を説くことは許されない。許されないのだ。

 

「うむむ。ひとまずその鎧の安全性は置いておくとしてもじゃ。その重さでは誰にも纏えんと思うのじゃが……」

 

 当然の疑問を投げるタルハンドに対し、双子は自信ありげにこう応えた。

 

「誰にも担げぬものほど、若先生に相応しいです」

「誰にも纏えぬものこそ、若先生に相応しいです」

 

 狂信的ともいえるウィリアムに対する双子の信頼、そして忠誠。おそらく、双子はウィリアムの為ならどんな悪辣非道も平然と行うであろう。

 死狂うた魔剣豪達の一面を垣間見たタルハンドは、その太い首に冷えた汗を垂らしていた。

 

「そういえば、その現人鬼さんとやらはどこへ行ったんですの?」

 

 当の波裸羅の姿が見られないのを見て、エリナリーゼは再び疑問を上げる。

 

「現人鬼殿は疲れた、寝るって言ってどっか行きました……」

「ちょっとは手伝えやまじで……」

 

 怨嗟混じりの双子の言葉に、ルーデウス達は苦笑いを浮かべるのみである。

 

「俺も少し疲れたな。ルディ、悪いが話はまた後でいいか?」

「え、あ、はい。父さんもゆっくり休んでください」

 

 疲れた表情でそう述べるパウロ。ろくな休息もせずウィリアムを看護していたパウロを見て、ルーデウスは己の相談事より父親の休息を優先せざるを得なかった。

 

「ルディ。私のことは、本当に気にしなくて良いんですよ」

 

 愛弟子の心情を察してか、ロキシーがおずおずと言葉をかける。

 自身の不甲斐なさに、ルーデウスは忸怩たる思いを噛み殺すように敬愛する師匠へ応えた。

 

「そういうわけにはいきませんよ」

 

 敷島の異形共にかき乱された人間関係を、ルーデウスは悶々とした感情で噛み締めていた。

 ロキシーもまた自身の感情に整理がつかないのか、同じように表情を暗くする。

 

 ルーデウスの脳裏に、最愛の妻、シルフィエットの儚い笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

 


 

 若虎が覚醒してから一ヶ月程。

 ルーデウスら一行は、ラパンから遠く離れたベガリット大陸の砂漠を進んでいた。

 

 この間、ルーデウス達は諸々の雑事に追われつつ、シャリーアへの帰還の準備を整えていた。

 ウィリアムは本調子とはいえないものの、過酷な旅路に耐えられるくらいには快復しており、回収した迷宮戦利品の分配、旅に必要な物資の確保、ゼニスを乗せる馬車の手配などは敏腕シーフであるギースがつつがなく整え、一行はラパンを出立するに至った。

 当然、鬼と双子も一緒である。

 

「ヴェ、ヴェラ姉さん……この人どこまでついてくるの……」

「私にも分からないわよシェラ……」

 

 フィットア領捜索団の一員であり、初期の活動からパウロを支えてきた冒険者姉妹ヴェラとシェラが、悠々と先行する波裸羅の姿を見つつ慄きがこもった声を上げていた。

 特にシェラの怯えようは尋常ではない。理由は推して知るべしである。幸いといっていいのか、波裸羅は姉妹に全くといっていいほど興味を示していなかったのだが。

 

「まあ気持ちは分かるけどよ、あれがいるおかげで楽に旅できるってもんだぜ。見ただろ、あの出鱈目な強さ」

「それは、そうですけど……」

「魔物を倒す度にスプラッターな光景見せつけられるのもどうかと思う」

 

 労るように姉妹へ声をかけるギースであったが、常時鮮血の匂いを発している波裸羅の姿は姉妹のような常の者にとってひどく戦慄すべき姿である。

 ヴェラは死んだ魚のような眼を浮かべながら、昨日遭遇した砂漠の猛牛、ベガリットバッファローの群れとの一戦を思い出していた。

 

 

 

「ッ!? 魔物だ! ベガリットバッファロー!」

 

 鋭利な索敵能力を備えるギースが突進せしめる猛牛の群れを察知する。即座に警鐘を鳴らすと、ルーデウス達は戦闘態勢に移行し各々が武器を構える。

 が、気づいた時には既に残虐な笑みを浮かべた波裸羅の“逆突進”は始まっていた。

 

(にん)ッ!」

「ブモオオオオオオオッ!!!???」

 

 鬼の突進撃(ぶちかまし)ずどん!

 まともに受けし魔物の群れ、爆散死確実(いただき)。その四肢と臓物撒き散らせ絶命す。

 猛牛共の(はらわた)と獣血で全身を染め上げた波裸羅の美姿は、何人たりとも(おか)すこと不能(あたわず)

 

 螺旋を秘めた掌だけが威力では非ず。

 波裸羅が目標を目指し突進する時、鬼の全身これ威力!

 

「波裸羅に触れる者、無事には済まさぬッ!」

 

 即ち、“打撃技波裸羅”なのだ!

 

 

 

「いや冗談でしょ」

 

 そんな出鱈目かつ凄惨な光景を思い出したヴェラの独白は、砂漠の荒野に空しく響き渡るのみであった。

 

 

「ウィル、大丈夫か?」

「大事、ありませぬ……」

 

 ルーデウスがウィリアムを気遣うように声をかける。弟は兄へ心ここにあらず、といった風に短く言葉を返した。

 シャリーアへ帰還の途上、ウィリアムは終始このような調子でルーデウス達に接していた。

 双子へ稽古をつけることもあれど、その心はどこかうわの空であり、時折ゼニスと同じようにぼうと虚空を見つめることもあった。

 パウロはそんなウィリアムに過保護に構っていたが、リーリャがウィリアムが激戦の直後に患う、いわゆる一種の心神喪失状態にあるのではと思い、過度な接触を控えるようそれとなく主人を諌めていた。

 

「はぁ……」

 

 ルーデウスはチラチラとウィリアムへ振り返るパウロを見て、浅い嘆息をひとつ吐く。

 帰還途上、ルーデウスは件の一件を父パウロへと相談していた。

 

 事故のような姦通とはいえ、自身が最愛の妻、シルフィエットに対し不義を仕出かしたこと。

 敷島の怨霊軍師の事は伏せ、悪霊に憑依かれたロキシーに強姦されたことも上手にぼかした上での相談であったが、パウロは如才なく息子が言わんとすることを理解していた。

 

 “これからどうすればいいのでしょう”

 

 ルーデウスの話を最後まで聞いたパウロは、実に率直な意見を述べた。

 

 “ルディ。ロキシーと寝たのが、そんなに悪いことなのか?”

 

 純粋なミリス教徒でも無いパウロにとって、いわば妾を囲うことの是非は説くに能わず。

 戸惑うルーデウスに対し、自身の経験を交えて息子に助言を続けた。

 

 “リーリャの時は、そりゃあ大変だったぜ。母さん、お前がロアに行った後もロクに口を聞いてくれなくてなぁ……でもよ……”

 

 そこまで言ったパウロは、ルーデウスの眼をしっかりと見据え言葉を続けた。

 

 “母さんもリーリャも、決して不幸にしたつもりはねえ。ふたりとも、俺の大切な妻だ”

 

 パウロの真っ直ぐな瞳に幻惑されたルーデウス。父の言葉は、軟派な男の言葉ではない。

 二人の女を幸せにせんとする、一人の男の言葉だった。

 

 “お前は、シルフィ、そしてロキシーのことをどう思ってる? 彼女達の気持ちも大事だが、お前にとって一番大事なのは、お前の気持ちじゃないのか?”

 

 パウロはそこまで言った後、あとは自分で考えて決着をつけろと言い残し、それ以上ルーデウスの相談に乗ることはなかった。

 

「自分の、気持ちか……」

 

 ルーデウスは隣を進むロキシーの姿を見る。

 旅の途中、ロキシーは恋人のようにルーデウスに寄り添い、ルーデウスの何もかもを支えようと尽くしていた。

 魔物との戦闘しかり、バザールへ逗留した際の世話など、実に甲斐甲斐しくルーデウスを補助していた。

 だがそれは、シャリーアへたどり着くまでの旅路の間だけ。

 そう言ったロキシーは、涙まじりにルーデウスへ笑いかけていた。

 

「……」

 

 ロキシーの健気な笑顔を見て懊悩するルーデウス。元々、ルーデウスはロキシーに対し、恋慕にも似た尊敬を抱いていた。だから、ロキシーと関係を持ったことは、申し訳無さと共に歓喜にも似た感情も抱いていた。

 しかし自分は、妻シルフィエットを、彼女以外を愛さないと誓った。その誓約が、ルーデウスへ深く伸し掛る。

 そして、もうひとつ。

 

 “ロキシー、あの日が来ていないそうですわよ”

 

 パウロと相談した後、エリナリーゼから告げられた事実。

 ロキシーの胎内に、新しい命が宿っていた。

 ある程度の事情をロキシーから聞き出していたエリナリーゼは、深く悩むルーデウスの姿を見て、己がすべき事を理解していたのだ。

 

 “そのまま、ロキシーを娶りなさいな”

 

 シルフィエットの実祖母とは思えない言葉を、長耳の淑女は平然と言いのけた。

 困惑するルーデウスに、エリナリーゼは淡々と“男の責任”を語った。

 

 曰く、これはシルフィエットに残された唯一の肉親である自分だからこそ言えること。

 曰く、自分はロキシーとは転移事件からの親友だ。

 曰く、だからロキシーには不幸になってほしくない。

 曰く、あのまま別れたらきっとロキシーは不幸になる。

 曰く、シルフィエットとロキシー、二人を幸せに出来るのは、ルーデウスしかいないと。

 

 ルーデウスは想う。

 自分は、シルフィエットが好きだ。ロキシーも、好きだ。

 二人が悲しむ所は見たくない。ロキシーを娶ることを告げれば、シルフィエットは許してくれるかもしれない。

 いや、実は見えないところで悲しむのかも。

 でも、ロキシーと別れたら、きっとロキシーは自分の知らないところで悲しみに暮れるかもしれない。

 慎み深い彼女達は、きっと自分のことより余人を優先してしまう。

 もし彼女達に、自分の初めてを捧げたあの紅髪の乙女のような強引さが少しでもあれば、もう少し楽に終わる話なのかもしれないけれど。

 

 でも、もう迷ってはいられない。

 自分が、終わらせないといけない。

 自分の、責任で。

 自分の、気持ちで。

 

「……うん」

 

 砂漠の熱風が、栗色の髪を撫でる。

 その風に後押しされるように、ルーデウスは決意した。

 

 結婚しよう。ロキシーと。

 男としての、責任を取ろう。

 シルフィと、しっかり話をしよう。

 

 ルーデウスは、今夜にでもロキシーと話をしようと思った。

 そこでロキシーに振られても、その時はその時だ。

 ややヤケ気味な決意でもあったが、それでもルーデウスはこれ以上迷うことはしなかった。

 

 ちなみにルーデウスはロキシーの妊娠が発覚した際の動揺で、何を血迷ったのか波裸羅にも件の事を相談している。

 

 その時の現人鬼の鬼言は、ただ一言。

 

 

 “知らん。勝手にせい”

 

 

「……なら、勝手にさせてもらうよ」

 

 一度くらい、勝手をしてもいいじゃないか。

 自由を求め勝手三昧した、あの甲斐の鬼軍師のように。

 

 敷島の大強者である波裸羅の姿を見つめながら、ルーデウスはそう想っていた。

 波裸羅はルーデウスの視線に気づくと、ニヤリと美口角を引き攣らせた。

 

 

 

「では波裸羅はここで別れるとするか喃」

「は?」

 

 

 

 だが、唐突に放たれた波裸羅のこの言葉。ルーデウスはそれまでの想いが吹き飛ぶほどの衝撃を受けた。

 

「はあ!?」

「正気かお前!?」

「砂漠のど真ん中ですわよここ!」

 

 各々が異口同音に驚愕の声を上げる。

 現在地は迷宮都市ラパンとルーデウスが砂漠の戦士と出会ったバザールとの中間地点であり、当面の目的地である転移魔法陣の祠まではまだまだ距離がある。

 全員の困惑した様子に、現人鬼は依然不敵な笑みを浮かべていた。

 

「心配無用じゃ。それに、拙者は元よりお主らの仲間になったつもりはない」

「「えぇ……」」

 

 困惑を通り越して呆れきった声を上げるのは双子の兎。

 若き龍神との一戦以降、苦楽を共にしてきた存在から放たれた実に淡白な一言。双子は思いとどまるように声を上げようと──

 

「ま、別にいっか。今まであざっしたぁ」

「こういうのは本人の自由だしね兄ちゃん。あざっすと言わせてもらおう」

 

 否、苦苦の元凶でもあった波裸羅の離脱を、双子の兎は赤眼を輝かせて歓迎していた。

 とはいえ、その瞳の奥には、戦友との別離を惜しむ穏やかな光が灯っていた。

 それを見た波裸羅は、双子の頭を軽く小突いた。

 

「で、でも、なんでまた急に……」

 

 双子とは違い尚も戸惑いが抜けぬルーデウスに、波裸羅は美然とした風に応える。

 

「波裸羅にはすべき事がある。故に、ここにはもう用は無い」

 

 分配された迷宮産出の珍宝を抱えながら、変わらず不敵な笑いを浮かべる波裸羅。

 

「それに、魔界に戻りヤキを入れねばならぬ者共もおるし喃……」

 

 笑みを浮かべつつそう述べた鬼の美貎は、見るもの全てが説明のつかない魅惑と畏れに溢れていた。

 その様を、ルーデウス達はただ呆然と見つめることしか出来なかった。

 

「現人鬼殿……」

 

 そんな中、ウィリアムが波裸羅の前に出る。

 かつての自分……日ノ本武者であった自身の武者魂を奮い立たせた鬼へ、深々と頭を下げた。

 一度は討滅を図った相手ではあったが、鬼との旅は虎の心に淡い変化をもたらしていた。

 旅の終わりを告げたこの時、虎の心に残るのは現人鬼への深い感謝のみ。

 波裸羅は頭を下げるウィリアムの姿を見て、菩薩の如き慈愛の眼差しを向ける。

 

「アダムス。孤剣での超鋼裁断、波裸羅の胸中(むね)はきゅんきゅん丸であったぞ」

「きゅんきゅん丸て」

 

 思わずツッコミを入れるルーデウス。

 それに構わず、頭を上げた虎は鬼の眼を謝意を込めた眼差しで見つめ返していた。

 

「現人鬼殿……いく久しくお健やかに」

「心配無用!」

 

 片目を瞑り虎へ応える現人鬼波裸羅。

 ひらりと身を翻し、騎乗の身となった波裸羅は、馬首を魔大陸がある方向へと向けた。

 そして、再び若虎の姿を見つめる。

 

「アダムス!」

 

 去り際に、ウィリアムへ美笑をひとつ浮かべた波裸羅。

 

『今、この時代(とき)を味わえ──』

「……」

 

 美笑と共にかけられし日ノ本言葉。

 虎は、それを咀嚼するかのように深く眼を閉じていた。

 

「ひとまず此度はこれ切にて。美笑(フフ)

 

 そう言い残し、波裸羅は砂漠の彼方へと去って行った。

 

 

「……」

 

 ルーデウス達、そしてウィリアムに強烈な輝きを残した波裸羅。

 ウィリアムの胸中は、波裸羅が残した言霊が渦を巻いていた。

 

 この時、ウィリアムは思った

 

 (パス)が来たと

 

 そして、自分(おのれ)はその“火”を運ばねばならぬ

 

 

 異界天下無双の、魔剣豪となりて──

 

 

 

 鬼との決別の後、一行はベガリット大陸を縦断し、祠に在りし転移魔法陣を踏む。

 

 

 

 そのまま北方大地を経て、ルーデウスが終生の住処とし、グレイラットの家族が待つ都……

 

 

 

 魔法都市シャリーアへと辿り着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

 ウィリアム達から離れしばらくした後、砂漠を一人進む現人鬼波裸羅。

 騎上にて鬼身を揺らすその姿に、いつもの苛烈さは無い。

 

「……っ」

 

 つう、と、一筋の鮮血が、波裸羅の美鼻から垂れ出る。

 それを乱暴に拭った波裸羅は、傲岸に口角を吊り上げた。

 だが、その美瞳に映るのは砂漠の鮮やかな青空ではなく、灰色の曇天のみ。

 それは、あの龍神との一戦以降、続いていた。

 

「さて……後どれほど保つのやら……」

 

 衛府の神命を受け悪神掃滅を目指す志摩の悪鬼、現人鬼波裸羅。

 またの名を、怨身忍者霞鬼。

 

 来るべき悪神らとの大戦(おおいくさ)を前に、その限りある伐沙羅を燃やしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間『柳生十兵衛秘剣録(やぎゅうじゅうべえひけんろく)

 

 “濃尾無双”虎眼流。

 この大言壮語とも言える流派の謳い文句は、虎眼流開祖である岩本虎眼が天正十二年(1584年)小牧・長久手の戦いにて大量の兜首を上げ、徳川方の武将、榊原康政がその武勇を讃えた言葉から発する。

 岩本虎眼が濃尾から掛川へ本拠地を移しても、その勇名は変わらず諸国へと鳴り響いていた。

 

 さて、後年の武芸達者な者達が、虎眼流の存在、そしてこの濃尾無双という言葉を初めて聞いた時、誰もがある疑問を浮かべる。

 

『濃尾に於いては“尾張柳生”こそが無双に相応しき流派では無いのか』と。

 

 剣術界の巨大棟梁(だいとうりょう)でもある柳生、それも江戸柳生とは違い、正統なる新陰流を受け継ぐ尾張柳生を差し置いての濃尾無双。

 なぜ、尾張柳生はこの事を放置していたのか。

 新陰流開祖上泉伊勢守信綱から柳生石舟斎宗厳へ、そしてその正統新陰流を相伝した柳生兵庫助利厳が、尾張徳川家へ剣術指南役として召し抱えられる以前から虎眼流は濃尾無双を謳っており、兵庫助がこの事実を放置し剣術指南役へ就いたのはいかなる理由があってのことか。

 

 これは当時を生きる武士達も同様の疑問を抱いていたようで、ある時同僚の尾張藩士が兵庫助へこの疑問をぶつけたことがある。

 それによると、兵庫助はただ黙って笑みを浮かべるのみで、まるで虎眼流を一種の禁句として扱っていた節があると、当時の尾張藩士は語っていた。

 

 虎眼流自体は寛永五年(1628年)開祖岩本虎眼の死によって正統は途絶えており、脇流ともいえる江戸虎眼流も濃尾無双という文句は一切使用していないことから、そもそも尾張柳生はこのことを問題視していなかったという説がある。

 

 また、虎眼が剣術指南役として仕えた当時の掛川藩は、御三家と同格以上の将軍家光が実弟、徳川大納言忠長の駿河藩支藩であることから、将軍家御連枝に遠慮していたとの説も。

 だが、この説はいかな駿河藩の支藩とはいえ、所詮は譜代大名の一つでしか無い掛川藩へ、親藩である尾張藩がそこまで慮る必要が果たしてあるのかと、信憑性に欠ける説ではある。

 

 大半の人間が信じる通説では、太平の世では“どちらが上か”などという剣術比べを大名家、それも将軍家に連なる家の剣術指南役ががおいそれと行うわけにはいかないという、尾張柳生の良識が働いたというものがある。故に、柳生兵庫助は岩本虎眼、そして虎眼流を相手にしていなかったと。

 

 事実は、違う。

 

 真相は、江戸柳生の当主にして将軍家剣術指南役、柳生但馬守宗矩が長子、十兵衛三厳が、同族である柳生兵庫助利厳が三子、七郎兵衛厳包を訪ねた時に語られる。

 

 “柳生新陰流、無双虎眼流に及ばざるが如し”

 

 後に連也斎と称し、尾張柳生の最盛期を築いた柳生厳包は、十兵衛から語られしこの言葉を生涯忘れることはなかったという。

 

 

 これは、尾張柳生が、いや当代最強流派である柳生新陰流が、なぜ掛川に潜む虎を相手にしなかった──

 否、できなかったのかを知る、秘闘録であり

 

 そして、持つ者全てに災いをもたらすとされた日ノ本屈指のあの妖刀が、異界へと渡る秘剣録である。

 

 

 

 


 

 寛永七年(1630年)

 尾張国名古屋

 

「十兵衛(あに)さま!」

「七坊! 元気にしていたか!」

 

 大地を踏みしめるかのように歩く隻眼の若武者の腰元へ、前髪もあどけない武家の少年が飛びつく。

 まるで子犬のようにじゃれつく少年を、若武者はその片目しかない眼を細めながらワシャワシャと頭を撫でた。

 

「んふふ、相変わらず元気いっぱいだな七坊は」

「はい! 兄さまもお変わり無く!」

 

 少年の名は柳生七郎兵衛。後の柳生連也斎厳包。

 そして、隻眼の若武者は柳生十兵衛三厳。

 十兵衛は元々は三代将軍徳川家光の小姓であったが、寛永三年(1626年)に家光の勘気を受け蟄居を命ぜられ、そのまま諸国を放浪する身となった。

 そんな十兵衛を七郎兵衛の父、柳生兵庫助利厳は度々自身の尾張屋敷へと招き、天才の名をほしいままにする十兵衛の剣質を息子へ学ばせていた。七郎兵衛は十兵衛を兄のように慕っており、十兵衛もまた七郎兵衛を弟のように可愛がり、剣の柳生一族としての大切な気質を伝えていた。

 それは、七郎兵衛にとってある種の安らぎの日々でもあった。

 

「兄さま。お父上が屋敷で待っています。早くいきましょう」

「ああ、そう急くな。景色を見ながらゆるりと参ろう」

 

 使いの者と共にわざわざ名古屋の町外れへ迎えに来た七郎兵衛に、十兵衛は不敵ともいえる笑みを浮かべながら応える。とても将軍の勘気を受け蟄居を命ぜられた武士とは思えないほどの不自然なそれは、十兵衛にとって常の姿であり。まるで権力者に媚びない孤高の剣士ともいえる姿を、七郎兵衛は憧憬が混ざった眼差しで見つめていた。

 

「兄さまが尾張を訪れてくれたこと、お父上は大変喜んでいます」

「兵庫殿は俺の従兄だからな。誘ってくれて嬉しいのは俺もさ。もっとも、兵庫殿と俺の親父殿の仲は悪いがネ」

 

 飄々とした足取りで屋敷へ向かう十兵衛にくっつきながら歩く七郎兵衛は、ふと十兵衛が発した父親達の確執について気になり、そのあどけない顔を十兵衛に向けた。

 

「前から聞きたかったんですけれど、どうして但馬様とお父上は仲が悪いんですか?」

「んん、そりゃあれだ。流派継承の絡みよ」

「流派の継承?」

 

 ややバツが悪そうに顔をしかめる十兵衛に、七郎兵衛は小首をかしげる。

 そんな七郎兵衛を見てふっと笑みを漏らした十兵衛は、父親達の確執について滔々と語った。

 

 戦国最強の剣聖、上泉伊勢守信綱から新陰流を相伝した柳生石舟斎宗厳。

 その秘奥の悉くは、本来石舟斎の長子である柳生新次郎厳勝が受け継ぐはずだった。

 だが、戦傷にて下半身が不具となった厳勝は新陰流を相伝する身体ではなくなり、自然と周囲は厳勝の弟の又右衛門、つまり十兵衛の父である柳生但馬守宗矩へと新陰流が相伝されるものと思っていた。

 

 だが、石舟斎は厳勝の子、実孫である兵庫助へ新陰流を相伝した。

 諸国を遍歴した宗矩が様々な流派を自身の剣に取り入れ、石舟斎が望む正統なる新陰流から大きく逸脱していたというのがもっぱらの理由であったが、どうであれこの事は既に将軍家剣術指南役に就いていた宗矩の面目を失わせるに十分であった。

 

 石舟斎没後、宗矩は兵庫助へ陰湿な報復を開始する。

 豊臣家に奪われていた大和国の柳生領を、徳川家の威勢を借りて取り返していた宗矩は、そのまま柳生領を己の物とし一石たりとも兵庫助へは継がせなかったのだ。

 兵庫介にしてみれば逆恨みともいえるこの所業。故郷を宗矩に奪われたと感じた兵庫助は、失意に塗れながら柳生の里を後にしていた。

 それ以降、江戸柳生と尾張柳生は表立って敵対することは無いにせよ、互いに粘ついた敵愾心を抱くようになった。

 

「なんだかかなしいですね」

「名門にはよくある話よ」

 

 寂しそうに俯く七郎兵衛に、十兵衛は変わらず不敵な笑みを浮かべる。

 

「七坊。親父達の確執は我らには関わりないことだ。おことは石舟斎のひ孫、俺は孫。共に剣の柳生を抱く者には変わりない」

「はい! 十兵衛兄さま!」

 

 ぐりぐりと七郎兵衛の柔い頭を乱暴に撫でる十兵衛。

 彼らには江戸と尾張の確執は無く、ただ純粋に柳生一族として共に歩んでいた。

 

 

「あ! 兄さま! 見てください!」

 

 相変わらずゆるゆると歩む十兵衛の袖を引っ張り、何かを指差す七郎兵衛。見ると、街道脇を流れる川沿いに植えられた桜が、見事な開花を見せていた。

 季節は春。生きとし生けるものが、もっとも輝く季節である。

 

「……」

「兄さま……?」

 

 だが、見事な桜を見ても十兵衛は難しそうに顔をしかめるのみであり。七郎兵衛はそんな十兵衛を心配そうに見つめた。

 

「死桜か……」

「?」

 

 嘆息めいた息をひとつ吐くと、十兵衛は眼下にある川沿いへと隻眼を向けた。

 

「丁度いい。そこの川べりでちと休もうか」

 

 十兵衛は七郎兵衛を伴い、桜の木の下に腰を下ろす。

 七郎兵衛の伴をしていた従者達は、二人を気遣ってか遠巻きに見守っていた。

 

「あの、十兵衛兄さま……?」

 

 七郎兵衛は唐突に休憩を申し出た十兵衛の意図を図りかね、その無垢な瞳を隻眼の若武者へと向ける。

 

「七坊。おことは柳生が誇りか?」

 

 七郎兵衛の瞳を、隻眼で覗き返す十兵衛。十兵衛の問いかけに、七郎兵衛は戸惑いつつも健気に応えた。

 

「はい。曾祖父さまの御名にかけて」

 

 小さな首を縦に振る七郎兵衛。十兵衛は表情を緩めることなく言葉を続ける。

 

「なら、柳生はこの日ノ本で一番だと思うか?」

「はい! 曾祖父さまより伝えられし新陰流は天下無双です!」

 

 十兵衛のさらなる問いかけに、今度は迷わず即答する七郎兵衛。子供ながらの純粋な想いで応えたそれに、十兵衛は微笑むことはせず。

 

「七坊。我ら柳生、日ノ本剣術に於いて仁道たる模範となるべき存在。故に、天下無双を謳う者も一門の中におる」

 

 言葉を発するにつれ、十兵衛の表情は険しいものとなっていく。

 まるで、何かを恐れるような十兵衛の険しさに、七郎兵衛はその小さな喉を上下させた。

 

「それは、まっこと危うい……」

 

 ふと、十兵衛は頭上の桜を見上げた。

 すると、ひらりと一枚の花弁が舞い落ち、十兵衛の肩に止まる。

 ふっと息を吹きかけると、花弁は川へ飛び去っていった。

 

「剣術とはつぐつぐ峻烈な世界だ」

 

 険しい表情で語り続ける十兵衛。闘戦態勢にも似た無言の気圧が発せられる。その圧に当てられた七郎兵衛は、ただ黙って十兵衛の言葉に耳を傾けていた。

 

「七坊。世の中は広い。この日ノ本には、まだまだおことが知らぬ強者で溢れかえっておる。故に、新陰流が無双を名乗るのは烏滸がましいことなのだ」

「え……」

 

 兄と慕う十兵衛から発せられた言葉は、七郎兵衛に少なくない衝撃を与える。

 自身が信仰する柳生新陰流こそが最強無敵。その想いが、十兵衛の口から否定されるとは。

 

 十兵衛は衝撃覚めやらぬ七郎兵衛を見て、隻眼を細めながら自身の秘闘譚を語り始めた。

 

 

「あれは、二年前の春……丁度、このような桜が咲き乱れる季節であった……」

 

 

 

 

 


 

 寛永五年(1628年)

 駿河国安倍郡某所

 

 柳生十兵衛が将軍家光の勘気うけ蟄居してから二年、そしてあの狂気の仕置、岩本虎眼が伊良子清玄の両眼を斬り裂いた日より四年が経過していたこの年。

 この時期、虎眼流の高弟達は手分けしてある任務を遂行していた。

 

「……」

 

 顔面に刀瘡を這わせた一人の剣士が、巨大な木刀袋を片手に街道を歩む。まるでカジキマグロのような大きな素振り用木剣が入ったそれを、重量を感じさせない素振りで道を踏みしめる。

 

 剣士の名は宗像進八郎。

 元は掛川宿の侠客の出身であったが、虎眼流中目録の印可を“術許し*1”で授かった身。その剣技、そして身体能力は虎眼流高弟を名乗るに相応しきもの。

 全身に刻まれた刀傷の痕は戦国の荒武者さながらで、進八郎の傷だらけの肉体は向かってくる刀剣を素手で掴み取るほどの強握力を備えていた。

 

 現在、進八郎は虎眼流内弟子衆で手分けして行っている恒例行事、“無双許し虎参り”からの帰還途上であった。

 これは若き日の虎眼の金策である他流への道場破り、つまり道場主に負けを認めさせ多額の金子をせしめる行為を、そのまま技術指導の名目で継続している虎眼執念の残酷行事である。

 本来は盛夏期に行われるものであったが、既に曖昧な状態の虎眼は時として初春から虎参りを行うよう弟子達に指示する事もあった。

 ある意味抜き打ちで虎参りが行われるこの状況に、各地の道場主は日々戦々恐々としていたのは言うまでもない。

 

「……」

 

 ともあれ、進八郎は安倍郡の道場を片っ端から回り、大型木剣“かじき”を振り回しながら金子を調達し終え、掛川への帰還の道を粛々と進んでいた。

 他の内弟子より先んじて帰還しようとその健脚を動かす進八郎。師匠である岩本虎眼への忠誠心からか、進八郎は誰よりも早く虎参りを終えるのを目標としていた。

 

 

「素振り用の木剣とお見受けするが?」

 

 ふと、人気のない街道を急ぐ進八郎へ向け、武張った声がかけられる。

 進八郎は声がした方向を向くと、街道脇の樹木に背を預け浪人傘を目深く被った一人の剣士の姿があった。

 

「何用か?」

 

 油断なく浪人剣士を見つめながら言葉を返す進八郎。

 剣士の風貌はよくある浪人姿ではあったが、その佇まいは一流の剣客が備える“気”を備えていた。

 

「いや、なに。そのような大きな木剣を携えているからには、さぞ高名な流派の士であろうかと思い声をかけた次第」

 

 ゆるりと浪人傘の縁を押し上げながらそう嘯く剣士。

 剣士の表情が晒されると、その片目は生々しい刀傷痕があり完全に片方の視力が失せているように見えた。

 

「何用か?」

 

 再度、進八郎は隻眼の剣士へ問いかける。

 だが、物腰は穏やかではなく。即座に戦闘態勢に移行できるよう、“かじき”を地面に置き、腰に挿した大刀に手をかけていた。

 進八郎が柄を握るそれは、虎眼流秘奥の骨子である、猫科動物の如き掴み──。

 

「んふ。そう構えなさるな」

 

 進八郎の剣気を受けても尚、隻眼の剣士は不敵な笑みを浮かべていた。そのまま、進八郎の間合いへと歩を進める。

 

「近頃は狂暴な虎が剣術道場で金子をせしめると聞いてな……どれ、その不貞の虎はどのようなものか見てみたく──」

 

 隻眼剣士がそこまで言った刹那。

 

(物狂い浪人がッ!)

 

 進八郎は石火の抜き打ちを放つ!

 進八郎は城務め、いわゆる城士の身分ではなく、あくまで掛川在住の郷士身分でしかなかったが、それでも帯刀を許された士分であることには変わりない。

 故に、暗に虎眼流を侮辱した正体不明の素浪人など成敗自由。そう算段しての凶行である。

 

「ッ!?」

 

 だが、抜いたと思った瞬間、ずしんと音が鳴り進八郎は天地が逆転したような感覚に陥る。

 数瞬してから、己が肉体が無様に大地へ縫い留められているのに気づいた。

 

「んふ、凄まじき抜き打ち。流石は濃尾無双虎眼流」

「がぁッ!」

 

 余裕綽々といった表情で進八郎の腕を抑え、その身体を拘束する隻眼剣士。

 その手には先程進八郎が抜いた大刀がいつのまにか握られており、不覚を取った進八郎の顔面はみるみる憤怒の朱に染まっていった。

 

「ところでいかがかな、俺の“無刀取り”の味は」

「お、おのれぇ……ッ!!」

 

 刹那の瞬間、隻眼の剣士はいかなる術を用いて進八郎の大刀を奪ったのか。

 進八郎が大刀を抜いた瞬間──隻眼剣士は雲耀の如き疾さで進八郎の懐に入り込み、大刀を抜き放つ間際にその柄を捻り取っていたのだ。

 

「ッ!?」

 

 骨子術で身体を縫い留められていた進八郎は、ふと己を押さえつけていた重力が無くなったのを感じる。

 

「それまで」

「──ッ!」

 

 即座に立ち上がり、拳を隻眼剣士へ叩き込もうと体を起こすも、己の喉元に突きつけられた白刃を見てその動きを止める。

 隻眼剣士はニヤリと諧謔味のある笑みを浮かべながら、進八郎へ刃を返した。

 

「これはあくまで戯れ……そう心得よ」

「……」

 

 やや呆気にとられつつ、進八郎は返された己の大刀を受け取る。隻眼剣士の所作に一切の隙は無く、進八郎はどう斬り込んでも再び刀を取られ、無様に転がる己の姿しか想像出来ずにいた。

 

「その握り、剣を疾く振るには実に合理的。だが、まだ十分に会得していないと見える」

「なっ!?」

 

 虎眼流の“握り”の仕組みをひと目で看破され、進八郎は再び動きを止めた。

 そして、その握りを己がまだ十分に体得していないことも。

 かつての伊良子清玄仕置の日。同門であり、今や虎眼流大目録許し*2を授かった藤木源之助が見せた奇な掴み。

 それを見た虎眼流高弟達は、その掴みが凄まじき剣速を生み出すことを看破し、己のものとすべく日々この掴みを練り上げていた。

 だが、自ら開眼したものではなく、所詮は他者の猿真似。

 源之助が見せた疾さには、未だ及ぶべく代物ではなかった。

 

「精進なされよ……んふふふ」

 

 そう言い残し、浪人傘を被り直した隻眼剣士は進八郎の前から去っていった。

 

「……ッ!」

 

 後に残された虎眼流高弟、宗像進八郎。

 みしりと拳を握りしめ、拳から血を滴らせながら隻眼剣士の後姿を睨んでいた。

 

 隻眼剣士の名は、柳生十兵衛三厳という。

 

 

 

 

「さて、親父殿を手玉に取った虎眼流、あの程度ではあるまい」

 

 進八郎を新陰流奥義“無刀取り”にて翻弄した十兵衛は、数日後には掛川宿へと辿り着いていた。

 かの剣士の目的は、かつて自身の父を完封せしめた岩本虎眼、そして虎眼が興した虎眼流へ挑戦する、ただそれのみ。

 父親の意趣返しなどという想いは一切なく、ただ自身の飽くなき修行の一環として、十兵衛は虎眼流を求めていたのだ。

 

「しかし肝心の虎眼殿はいささか尋常ならざる状態とはな……」

 

 だが、掛川にてそれとなく虎眼流の動静を探ってみると、当主の岩本虎眼は既に曖昧な状態へと陥っており。

 師範の牛股権左衛門は愚鈍、師範代の藤木源之助は口も聞けぬと、散々な評判を聞いていた。

 

「田舎剣法ならぬいかれ(・・・)剣法とは、うまいこと言いよる」

 

 くつくつと喉を鳴らしながら、そう独り言を呟く十兵衛。

 虎眼流の膝下である掛川宿にて、このような不遜な呟きを行うのは自殺行為に等しいが、自身の技量に絶大な自信を持っているからか十兵衛は実に飄々とした体で掛川宿を闊歩していた。

 

「だが十兵衛、余人の評価は当てにせぬ」

 

 しかし、飄々とした体でありながらこの柳生に生まれし天才、決して虎眼流を侮ることはせず。そも、先日相手取った宗像進八郎の技量から、虎眼流の戦力をある程度推測せしめているのだ。

 

「表疵の士は上の下……ならば、牛股、藤木はそれ以下ではあるまい」

 

 進八郎と対峙した十兵衛は、虎眼流の評価を正確に下していた。

 その上で、この天才剣士はたった一人で虎眼流に挑もうとしているのだ。

 

「……」

 

 ふと、十兵衛は背後からただならぬ気圧を感じる。

 気づかぬ風に歩きながら、十兵衛は圧力の元を探ると、粗末な小袖に身を包んだ若者の姿が見て取れた。

 

「……んふ」

 

 十兵衛は変わらず不敵な笑みを浮かべている。

 若者が自身を人気のない所へ誘導しようとしているのを察知し、あえてその誘いに乗り歩を進めていた。

 

 

「ここらで宜しいかな」

「……」

 

 やがて掛川宿から少し離れた野原へ辿り着いた十兵衛と若者。

 両者にとって同条件となったこの野原は、互いの間に一本の桜の木が満開の花弁を芽吹かせていた。

 若者は無言で十兵衛を見つめており、その所作は幽鬼の如く揺蕩ったものとなっている。

 

「虎眼流、藤木源之助」

 

 ふと、若者が短く名乗りを上げた。その名は、濃尾無双虎眼流師範代、藤木源之助。

 三年前、師範牛股権左衛門より大目録術許しを得た源之助の技量は、先日相手取った進八郎とは一線を画するもの。

 ずずっと大刀を抜き、刀身を肩に“担いだ”源之助を見て、十兵衛もまた言葉を返した。

 

「故あって名乗るわけにはいかぬ身の上なれど、御容赦されたし……」

 

 狙っていた獲物が釣れたと言外に喜ぶ十兵衛は、腰に挿した三池典太を抜き、新陰流“無形”の構えを取る。

 ぶらりと刀を下段に構えるそれは、対手のいかなる刀勢にも対処できる新陰流極意の構え。

 

「……」

 

 源之助は十兵衛の構えを見て、その剣境の深みを悟る。

 宗像進八郎からもたらされた虎眼流を狙う浪人ずれ。掛川に現れるであろうそれを、源之助は“伊達にして帰す”べく日々掛川宿の索敵を行っていた。

 

「伊達にするは難し……」

 

 だが、進八郎から伝えられた十兵衛の外見を見留めた源之助は、ひと目で容易ならざる相手だと悟る。

 少なくとも、表道具を用いる必要のない野良犬浪人とは一線を画していた。

 

「すまぬな。既に伊達男なのだ、俺は」

「……」

 

 十兵衛の挑発とも取れる言葉を、源之助は無視した。

 

「ッ!」

 

 瞬間、源之助の“流れ”が放たれる。

 

「ッ!?」

 

 同時に、“流れ”は十兵衛の額を捉える事無く、三池典太の刀身に受け止められる。

 刀身同士がぶつかり火花が飛び散った次の瞬間には、源之助は渾身の力を込め十兵衛を受けた刀身ごと圧し倒そうとした。

 

「ぬんッ!」

「ッ!?」

 

 が、ふい(・・)に力を抜いた十兵衛は、三池典太の柄を跳ね上げ源之助の大刀を弾く。

 返す刀で面打ちを叩き込まんと、三池典太を源之助の頭部へ真っ逆さまに斬り下ろした。

 

「ッ!?」

 

 直後、空いた片方の手で咄嗟に脇差を抜いた源之助は“(なかご)受け”にて三池典太の刀身を防ぐ。

 そのまま力を込め十兵衛の得物を巻き取ろうと柄を捻り上げた。

 

「なんのッ!」

「ぐッ!?」

 

 が、源之助が力を込めた直後、十兵衛は源之助へ強烈な横蹴りを放つ。腹部へ受けた衝撃を流しきれず、源之助の肉体は宙空へと放り出された。

 しかし、追撃をかけんと体勢を整え直した十兵衛は、猫のように身体を捻り受け身を取り、蹴撃を受けても手放さなかった大刀を再び構える源之助を見て動きを止める。

 

「やるな、藤木源之助」

「……」

 

 三池典太を挟んだ脇差を除きながらニヤリと笑みを深める十兵衛。源之助は変わらず沈黙を保つ。

 刹那の瞬間に繰り広げられた一連の攻防。

 源之助が繰り出した虎眼流“流れ”に対し、十兵衛が繰り出したのは新陰流“(まろばし)

 流祖上泉信綱が山から岩石が転げ落ちる様を見て開眼せしこの技は、対手のいかなる攻勢にも柔軟に転化、自在に受ける返し技の極致。

 だが、妙を得た“転”の極みは虎眼流“茎受け”にてその転回を止められる。

 共に流派の極意を悉く身に付けた一流の使い手。そう改めて認識した両者は、互いの間合いを測るかのようにじりじりと対峙していた。

 

(流石は濃尾無双虎眼流……げに凄まじき剣速……だが)

 

 十兵衛は隻眼を光らせ源之助へ視線を向ける。

 刹那の攻防で、その戦力を冷静に分析していた。

 

(これしきならば上の中。俺の新陰流の方が強い)

 

 源之助の戦力を宗像進八郎の一枚上と判断した十兵衛は、さらなる返し技を繰り出す為、三池典太をゆるりと構える。

 新陰流“十文字”

 “無形”より更に受け技に特化したこの構えは、刀身にて半身を防御しながら対手の撃剣を誘う巧妙達者な構え。

 更に、この構えを取った十兵衛の心は水面に映った月のように実体の無き虚影へと変化する。

 これは、新陰流“水月”の剣境。静寂無我の境地である。

 

「……ッ!」

 

 だが、十兵衛が構えし三池典太からは、源之助の心臓を引き裂くような気圧が火炎の如く噴出していた。

 源之助は一瞬、己の心臓が停止したのを覚える。だが、舌を噛み切ることで気力を復活せしめた源之助は、口元から血を滴らせながら十兵衛の気圧を跳ね除けていた。

 

「……」

 

 そして源之助は、ゆっくりと大刀の刀身を、己の指先で摘んだ。

 

 みしり

 

 刀身を摘む指先から鋼の軋む音が響く。

 その音を聞いた十兵衛の心境は、静寂な水面に石が投げ込まれたが如く揺らめいていた。

 

「上の上……ッ!」

 

 源之助が構えし虎眼流の秘奥、“流れ星”を視た十兵衛は、思わず目の前の若武者の戦力を再評価していた。

 刹那の攻防で相手の力量を測っていたのは源之助もまた同じ。絶対の秘匿をせねばならない奥義の使用を決断するほど、十兵衛の力量はそれまで対峙し続けていたどの使い手よりも高かった。

 そして、奥義を見たこの隻眼の剣士の抹殺は、源之助にとって何よりも果たさねばならない使命へと変化していた。

 

「……」

「……」

 

 再度沈黙を保つ両者。

 みしり、みしりと刃が軋む音が鳴るにつれ、“死の流星”が解き放たれる瞬間が近づいていた。

 奇しくもかつて江戸道三河岸にて互いの師父、柳生宗矩と岩本虎眼が対峙した時と同じ状況に……。

 否、ひとつだけ異なる点がある。

 

 柳生十兵衛三厳、父但馬守宗矩とは違い、降参の声は上げず!

 

 死の流星を前にしても尚、研ぎ澄まされた戦意は決して萎えることは無い天才剣士に、源之助もまた“中断”の声を上げようとはしなかった。

 

 

 秘めおきし魔剣、いずこぞや──

 

 

 両者の間に、微風に乗った桜の花弁が降舞した瞬間。

 重厚な空烈音と共に“流れ星”が放たれた。

 

「ッ!」

「ッ!?」

 

 斬撃直後。

 鋼を裁断する金属音が鳴り響くと共に、源之助は信じられぬ光景を目にする。

 

 十兵衛は、三池典太の切っ先を流れ星に合わせ(・・・)ていた。

 二尺一寸の刀長はそのまま十兵衛を守る装甲と化し、死の流星を防いでいたのだ。

 

「くっ!」

 

 だが、柄本まで迫った“流れ星”の威力をまともに受け止めた十兵衛の両腕は、三池典太の重量を支え切れず力なく刀を手放す。

 

(今ッ!)

 

 その瞬間、源之助もまた大刀を手放し、十兵衛の息の根を止めるべくその顎先へと虎拳を放つ。

 また十兵衛も、最後の力を振り絞り己の脇差──千子村正(・・)へ手をかけた。

 

 

「それまでッ!」

 

 

 突然、野原に野太い声が響く。

 その声を聞いた直後、両者は雷に打たれたかのように動きを止めた。

 源之助の虎拳は十兵衛の顎先に僅かに触れたまま停止し、十兵衛の村正は源之助の首元へ突きつけられた状態で止まっている。

 

「ぐ……」

 

 だが、十兵衛の切っ先は源之助が這わせた拳よりも僅かに遠く、このまま“止め”が入らなければ己の顎はこそぎ落ちていたと──

 声がかかった瞬間動きを止め、拳を下げた源之助を見て、十兵衛もまた震える手で小刀村正を納刀した。

 

「源之助、それまでだ」

「牛股師範……」

 

 野太い声の主は六尺(約180cm)ほどはあろうかという巨体を揺らしながら源之助の肩へ手を置く。

 巨漢の名は牛股権左衛門。虎眼流師範であり、当主岩本虎眼に代わり虎眼流の一切を指導する皆伝者であった。

 義兄ともいえる権左衛門の言葉を受け、源之助は戦闘態勢を解除していた。

 

「柳生家御曹司、柳生十兵衛三厳殿とお見受け致す」

「む……」

 

 権左衛門は十兵衛へ巨体を折りながら礼をする。

 己の正体を看破された十兵衛は、驚きを隠せずに巨体を見つめていた。

 

「此度の事、我らは一切目にしておりませぬ」

「……」

 

 更に投げられた権左衛門の言葉に、十兵衛は沈黙を持って応えていた。

 突然の物言い。常なれば、果たし合いを邪魔されたに等しいこの行為を黙って見過ごす事はしない。

 だが、権左衛門の一声で己が“助かった”のも事実。

 十兵衛は沸き上がる様々な感情からか、しばらく声を上げることはできなかった。

 

「これは夢……白昼に見た、夢でござる」

「……」

 

 権左衛門の言葉に無言を貫く十兵衛。

 そんな十兵衛に、権左衛門は斬り裂かれた両頬を引き攣らせながら歪な笑みを浮かべていた。

 

 何故、権左衛門は十兵衛の正体を見破り立ち合いを止めたのか。

 この時の十兵衛は知らぬ事であったが、権左衛門は掛川藩のある伝手から、宗像進八郎と立ち合った隻眼の剣士が柳生十兵衛であると伝えられていた。

 その知らせを受けた直後、権左衛門は十兵衛の行方を探す源之助を止めるべく、大慌てで虎眼流道場を飛び出す。

 蟄居中の身であれ、十兵衛が将軍家剣術指南役である柳生家の御曹司であることは変わりなく。

 その十兵衛を、いかな尋常な立ち合いの元で打倒したとしても、巨大組織である柳生一門からの報復は免れない。

 濃尾無双と謳っていても、所詮は掛川の一剣術流派でしかない虎眼流が、それを跳ね返せる実力は無きに等しく。

 故に、権左衛門は大事に至る前に、全てを“無かったこと”にするべく奔走していた。

 これは、当主岩本虎眼が“曖昧”な内に成し遂げなければならない、権左衛門必死の工作であった。

 全ては、虎眼流を守る為である。

 

 だが十兵衛は、ただ己の“敗北”を認識し、ぎゅっと唇を噛み締めるのみであった。

 

「お返し致す」

「……かたじけなし」

 

 源之助が縦に裂かれた(・・・・・・)三池典太を拾い、十兵衛へ差し出す。

 もはや刀剣としての機能を失ったそれを、十兵衛は不調法に受け取っていた。

 

「では……」

 

 権左衛門と源之助は一礼すると、桜花が舞う野原を後にする。

 その様子を、十兵衛は黙って見送っていた。

 

「虎眼流……恐るべし……」

 

 十兵衛は、己の蛮勇がなんと愚かであったことかと深く認識しながら、掛川の虎達を見送っていた。

 

 

「……」

 

 そして、権左衛門の後ろを歩く源之助もまた、天才柳生十兵衛の剣技に畏れを抱いていた。

 最強の奥義が封じられたショックが抜けきらぬのか、掛川の龍は幽鬼のような足取りで義兄の後に続く。

 

 この日以降、源之助はある幻を見るようになる。

 それは、己の姿を模した若武者が、奥義“流れ星”を仕掛ける、悪夢の如き幻。源之助はしばらくこの幻に悩まされる事となる。

 その後、伊良子清玄に“流れ星”を放たれた際、“茎受け”にて死の流星を防いだのは、この時の十兵衛が見せた“流星封じ”が潜在意識化で働いたのか……

 

 それを知る術は、もはや誰にも分からぬことであった。

 

 

 

 

 


 

「とまあこんな具合よ」

「……にわかには信じられません」

 

 川べりにて腰を下ろす柳生一族の若者達。

 十兵衛の秘闘録を聞いていた七郎兵衛は、名古屋から近い掛川にてそのような強者がいた事実を受け入れられず、ただ困惑した様子で俯いていた。

 

「でも、良いんですか?」

 

 七郎兵衛は十兵衛が語った秘話が、文字通り墓まで持っていかねばならぬ話であるのに気づき、恐る恐る隻眼を見つめる。

 それに、十兵衛が虎眼流に“敗れた”ことを大して気にしていないのにも不満を覚えていた。

 新陰流が、それも天才と称された十兵衛が、さして有名でもない他流の使い手に敗れる。

 その事実を、七郎兵衛は到底受け入れられるものではなかった。

 

「気持ちはわかるがな、七坊。もはや虎眼流はこの世に存在せぬ。故に、これは秘話であり無話でもあるのだ」

「え……」

 

 十兵衛はぽんぽんと七郎兵衛の柔い頭を撫で、桜を見つめながらそう言い放つ。

 虎眼流当主岩本虎眼は既にこの世に無く。

 そして、今より一年前、駿府にて行われた狂乱の宴。

 魔王を喜ばせる為だけに行われた、惨劇にも似たその御前試合で、参加した剣士達が“死桜”の元凡て斃れたことを、十兵衛は滔々と語っていた。

 

「唯一残った皆伝者である藤木源之助殿も、御前試合の次の日に逐電を図り、駿府藩士の手により討ち取られた」

「そんなことが……」

 

 十兵衛は遺恨を晴らす相手が既にこの世にいないことを寂しげに語る。

 無常観が漂う十兵衛の言葉に、七郎兵衛はやりきれぬといった表情を見せていた。

 

「あれ? でも十兵衛兄さま。江戸にも虎眼流の道場があると聞いたことがあるのですが……」

 

 ふと疑問を上げる七郎兵衛。

 十兵衛の言葉では虎眼流皆伝者は一人もいないはずであったが、父柳生兵庫助から聞かされし諸国の剣術情勢では、虎眼流皆伝者、金岡雲竜斎が江戸虎眼流を興していた。

 ならば、遺恨を晴らす相手は、江戸柳生の膝下に存在するのではと。

 

「んふ。雲竜斎殿ではせいぜい上の中。掛川の虎に及ぶべき相手ではない」

「えぇ……」

 

 十兵衛の嘯きに、七郎兵衛はやや呆れが混じった声を上げる。

 この隻眼剣士、既に江戸虎眼流を相手取り人知れず軍門に下していたのだ。

 くつくつと喉を鳴らす十兵衛の姿を見ながら、七郎兵衛は死闘を繰り広げた天才剣士の腰にある大小を見留めた。

 

「三池典太、もったいなかったですね。それと、その小刀があの村正だったなんて」

 

 感慨深げな七郎兵衛に、十兵衛はとぼけたような口調で言葉を返した。

 

「いや、これは数打ち品の脇差だぞ」

「え?」

 

 再び呆気にとられる七郎兵衛。

 名刀三池典太は虎の爪により引き裂かれたのは事実であれ、村正は無事ではなかったのか。

 そんな疑問を投げる前に、十兵衛は“後日談”を語った。

 

「実はな、あの後名古屋の兵庫助殿に鍛え直してもらおうと掛川を発った時にな、俺は“永江院の龍”に出会ったのだ」

「龍?」

 

 いきなりの超自然的な言霊に、七郎兵衛は何回目か分からぬ当惑を覚える。

 それに構わず、十兵衛は滔々と言葉を続けた。

 

「人気のない街道を歩いていると、俺は乳色の霧(・・・・)に包まれた……そして、目の前に“龍”が現れたのだ。すわ妖魔の類かと村正を抜いたら、龍がこう言ったのだ。『その妖刀、現し世には過ぎたるもの也。故に、異界へと解き放つべし(・・・・・・・・・・)』とな」

「……」

「気づいた時には霧が晴れ、俺の手にあった村正は消え失せていた。すぐに刀屋へ走ったよ。三池典太は使い物にならぬし、苦労して手に入れた村正は無くなるし、さんざんであった」

「……ほんとですかそれ?」

 

 十兵衛の空言ともいえるそれに、七郎兵衛は懐疑的な視線を向ける。

 ぽりぽりと顎を掻いた十兵衛は、ふっと笑みを漏らしながら幼年剣士へ隻眼を向けた。

 

「信じるか信じないかはおこと次第……ま、俺もにわかには信じられぬがね。それに……」

 

 桜を見ながら十兵衛は語る。

 死の桜の先にある、超常の存在を感じ取りながら。

 

「俺が恐れるのは藤木源之助の剣技だけに非ず。藤木源之助、いや虎眼流は永江院の龍、“龍神”に守られている。なにかとてつもない大きな存在を感じた」

「……」

 

 そして、十兵衛は七郎兵衛へ訓戒ともいえる言魂を放った。

 

 

「柳生新陰流、無双虎眼流に及ばざるが如し。その流派、超常の存在に守られしなり。故に、一切関わるべからず。覚えておけ、七坊」

「は、はい」

 

 

 孤高の天才剣士、柳生十兵衛三厳。

 そして、その後姿を追いかけ続け、無為自然の剣境へと至った柳生七郎兵衛、後の柳生連也斎厳包。

 語られし秘剣録を生涯胸に秘め、若き柳生の才能達はその剣技を磨いていた。

 

 そして、十兵衛の手より離れし、日ノ本最凶の妖刀、村正。

 

 先に異界へと飛んだ“妖刀”に引き寄せられるかのように、妖気を纏わせ時空を超えていった。

 

 “龍神”は、いかな思惑で妖刀を異界へと解き放ったのか。

 

 

 それを知る術は、誰にも分からぬこと……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
純粋な技量で印可を授ける事。術許し以外では主君筋など縁故を理由に印可を授ける“義理許し”、多額の金銭を受け取り印可を授ける“金許し”がある

*2
免許皆伝



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北神篇
第三十三景『転生虎(てんとら)(みそ)ぐ!』


 

「ふぅ……」

 

 人気の無い森の奥。そこにある泉で、一糸纏わぬ裸体を晒すデドルディア族の女。

 その美しく豊かな毛並みはシルクのような手触りを感じさせ、艷やかな唇から紡がれる音色は春情めいた情感が漏れ出る。

 張りのある豊かな乳房に伝う水滴は、釈迦の白毫(びゃくごう)の如き煌めきを放つ。

 眼帯に隠されていない左眼はルビーのような輝きを見せており、瞳は熱情を思わせる熱い火が灯っていた。

 凛とした立ち振舞いを支えるしなやかで逞しい筋肉、そこかしこに刻まれた刀疵は女の魅力をより一層優美に引き立て、濡れた尻尾は扇情的に踊り見る者全てを魅了する。

 

「む……」

「……」

 

 とはいえ、この泉にはディドルディア族の女の他に、女より生々しい刀疵痕が全身に刻まれた一人の若者しかいない。

 ディドルディア族の女……ギレーヌ・デドルディアは、泉の縁に身体を預ける若者を見留めると、茶褐色の肌が上気するのを感じる。

 僅かに頬も染めながら、若者の隣へと近づいた。

 

「隣、いいか?」

「……」

 

 水面に半身を沈め瞑目する若者。ギレーヌが泉に至る前からそこにいたのか、その白髪の総髪はしっとりと濡れそぼっている。

 若者はちらりとギレーヌを見やると、また直ぐに目を閉じる。否定とも肯定ともとれるその態度にギレーヌは一瞬躊躇するも、構わず若者の隣に腰を下ろした。

 

「なんだか……変わったな。お前」

「……」

 

 ギレーヌは久方ぶりに見る若者の姿を、その隻眼にてマジマジと見つめる。

 以前、剣の聖地にて出会った若者の全身は、苛烈な炎を思わせる獣熱を纏っていた。

 だが、今目の前にいる若者からはそのような熱気は発せられておらず。

 少し目を離すと、そのまま背景に同化してしまいそうな自然(じねん)に満ちた姿を見せていた。

 

「あ……」

 

 “空”の境涯ともいえるその姿を見つめる内に、ギレーヌは己の憤怒ともいえる闘魂が鎮まるのを感じる。

 内に憤怒を燻らせる黒狼の剣王は、二つの使命があった。

 ひとつは、恩人であるサウロス・ボレアス・グレイラットの仇討ち。転移事件の全責任を理不尽にも押し付けられた主の無念を晴らすこと。

 もうひとつは、妹ともいえる存在……エリスを守ること。エリスを強く育て、そしてエリスが想いを寄せ続けるルーデウスの元に託す。

 その二つの使命が、今のギレーヌが生きる上での全てであった。

 

「ん……」

 

 だが、若者の存在が、その二つの使命とはまた違った“火”をギレーヌに灯していた。

 かつて若者が見せた未知の技法による剣技。それは、剣士としての本能が鋭敏に反応した。

 そして、かつて若者が放った峻烈な獣性。それは、獣族としての本能を、淫靡に刺激した。

 ギレーヌは己の唇、胸、そして下腹がじわり(・・・)と熱を帯びるのを感じ、思わず思いの丈をぶつけていた。

 

「……お前は、誰かと(つがい)になるつもりは無いのか?」

 

 率直過ぎるこの物言いに、若者は僅かに目を開きギレーヌを見つめる。

 ギレーヌは、三十余年の人生で色恋沙汰にとんと無縁であった。故に、気の利いた口説き文句など言えるはずもなく。

 ギレーヌにあるのは、修羅の如き剣生のみ。

 唯一、色恋めいたものがあるとすれば、あの男……パウロ・グレイラットとの一時のみである。

 

(いや、あれは気の迷いだ)

 

 雑念を払うように頭を振るギレーヌ。“黒狼の牙”時分は、自分もまだまだ未熟であった。故に、発情期をうまく付け込まれ、パウロと関係を持ってしまった。

 今、パウロに出会ってもあの時のように尻尾を振るような真似はしない。いや、例え発情の真っ最中であってもそれは無いだろう。

 なぜなら、剣士としても、雌としても、パウロ以上にそそる(・・・)相手がいるのだから。

 

 ギレーヌの言葉に、若者はしばし沈黙していたが、やがて短く言葉を返した。

 

「今は、まだ……」

「そ、そうか」

 

 ある、と答えれば即座に“ならあたしはどうだ?”と告げるつもりだったギレーヌ。

 密かに決意していた求愛を躱されたことで、黒狼の女剣士はますます羞恥で頬を染めていた。

 

「ですが」

「え?」

 

 ふいに、若者がギレーヌの腕を引く。そのまま、ギレーヌの大柄な肢体を自身の膝に乗せた。

 

「身共は、生涯不犯を貫くつもりはありませぬ」

「あっ……」

 

 若者はギレーヌを力強く抱きしめると、その耳元に囁くように呟く。ギレーヌは恋人と睦言を交わした生娘のように上気し、茶褐色の肌色が臙脂色に変わった。

 豊満な乳房から伝わる若者の体温は、黒狼の身を焦がすかのような熱が感じれる。

 木々の隙間から木漏れ日が差しており、泉に浸かる雄虎と雌狼を柔らかに包んでいた。

 

「いくつに……」

「え……」

 

 若者から紡がれた疑問。ギレーヌーは一瞬答えに躊躇しつつも、絞り出すように言葉を返した。

 

「……もう三十過ぎた。年増だな、あたしは」

 

 ギレーヌはシュンと猫耳を垂れ下げ、自嘲めいた表情を浮かべで若者へ応える。

 エリスを守るため、そしてボレアス家一党の無念を晴らすため、とうに捨てたはずの“女”だったが、若者と出会ったことでギレーヌはその捨てたはずの女を再認識していた。

 若者は十代半ば。その若い肉体と、(とう)が立った自分の肉体が、果たして釣り合うのか。

 

(よわい)は関係ありませぬ」

 

 だが、直後に放たれた若者の言葉は、ギレーヌの艶かしい懸念を払拭する。

 

「強い器を備えるのに、齢は関係ありませぬ」

「あ、あぁっ……!」

 

 再度ギレーヌを抱き寄せる若者。力強く、熱い抱擁に、ギレーヌの下腹は増々湿り気を帯びる。

 下腹部に当たる若者の内槍もまた、固く、艶かしい熱を放っていた。

 

「強い種を宿すのに、齢は……」

「あ、ん、んぅ……!」

 

 唇を塞がれ、ギレーヌは悩ましい吐息を漏らす。

 若者の首に手を回し、貪るように互いの口中に舌を這わせる。

 黒狼の雌は、その熱い肉体を雄虎に委ねていた。

 

「ああ……ウィ……」

 

 熱を帯びた互いの性の象徴が、あるべき所に収まる時。

 

「ウィリアム……!」

 

 ギレーヌは若者の名を喚ぶ。

 ウィリアムはただ無言でギレーヌを抱きしめ、己の身体ごと泉の中へ引き入れた。

 

(ああ、なんて……なんて強いんだ……)

 

 背丈は己より少し低い、ウィリアムの小柄な身体。

 それが、とてつもなく大きく、強い存在に感じ、ギレーヌが秘める被虐心をくすぐる。

 獣族の女は、己より“強い”雄にしか身体を許さない。

 ウィリアムが見せた情熱的な獣性は、ギレーヌにとって求めて止まない蠱惑を放っていた。

 

「ああ、ウィリアム……ッ!」

 

 悩ましい律動を繰り返す一頭の虎と、一頭の狼。絡み合う肉体の蠕動が、獣の呼吸を荒くする。

 水面から差す日差しが水中の虎狼を照らし、獣達の営みを柔らかく包んでいた。

 

「ウィリアム、い、イ……ッ!」

 

 そして、虎狼は、同時に達しようと──

 

 

 

 

 

 

 

 

「息が出来ないッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「夢か」

 

 北方大地の果て、剣の聖地。

 剣神流総本山にある内弟子衆が住まう宿舎の一室に、朝日の光が差す。光に包まれたベッドの上で、剣王ギレーヌ・デドルディアはボサボサの髪を掻きながら気だるげに茶褐色の裸体を起こしていた。

 

「死ぬかとおもった」

 

 危うく酸欠で死ぬところだったと、寝汗と共に冷えた汗を浮かべるギレーヌ。

 夢で良かった、と思いぴょこんと猫耳を立てる反面、内容の生々しさを思い出し気鬱げな表情を浮かべた。

 

「なんて……都合の良い夢なんだ……」

 

 へなりと猫耳と尻尾が垂れる。

 寝起きの剣王からは普段の勇壮な気質は全く感じられず、羞恥と未練で全身を弛緩させていた。

 あのような夢を見るとは、また発情期が近づいて来たということか……。

 そう思ったギレーヌは、夢に出てきたウィリアムの姿を再度思い起こす。

 

(あいつは、あたしをそんな目で見ていない)

 

 ウィリアムが剣の聖地へと挑んだ後、ギレーヌはウィリアムと共に旅をした事を思い出す。

 あの時は、発情した自分がウィリアムに迫ったが、当のウィリアムはまったく淫気を催さず、慇懃に黒狼の発情を受け流していた。

 

 “またな”

 

 そう言って、半ば斬り捨てるように口付けを交わした。だが、その“また”は、果たしてあるのだろうか。

 

「ウィリアム……」

 

 ぼそりと、虎の名を喚ぶ。

 ああ、やはり夢は夢。実現しない、夢であり己の浅ましい願望だ。

 ウィリアムの名を呟くと同時に、そのような切ない想いが、ギレーヌの心の貝殻に沸き起こっていた。

 

「……エリスは、もう起きたのか」

 

 ふと隣接されたベッドに目を向けると、綺麗に折り畳まれた寝具があるのみで、同室である妹弟子の姿は無かった。

 ギレーヌと寝食を共にするエリス・グレイラットは、姉弟子が悩ましげな夢にうなされている間、とっくに起床し日課である一人稽古に出向いていたのだ。

 

「う……」

 

 そして、エリスがいなかったことは、ギレーヌにとって僥倖だった。

 ギレーヌは下腹部に冷気を感じ、恐る恐る毛布をめくる。

 

「おぉぉ……」

 

 絶望の呟きと共に、毛布の下から現出せしは見事な地図(・・)が描かれたシーツ。

 布地にじわりと染みたギレーヌ領の版図は、まるで戦国の日ノ本を際限なく侵略せしめた織田家全盛期が如き広がりを見せていた。

 当然、寝小便をするような年でもないし、寝小便をするような年にもなっていない。

 

「なんてことだ……」

 

 寒冷地では就寝する際、裸のまま寝具に潜り込む者が多い。

 これは地肌が発する体熱を衣服が阻害せず、効率良く熱を寝具内に留まらせる利点があり、また裸で寝ることにより脳内ホルモンが分泌されレム睡眠に入りやすいという利点がある為であったが、今現在のギレーヌにとって裸で寝た事は欠点以外何物でもなかった。

 

「うぅ……」

 

 気色悪さで顔を顰めつつ、もそもそとベッドから這い出る裸の剣王様。

 ともかく、今は一刻も早くこの事態を隠蔽せねばならない。

 エリスとは共に行水を行うほど、いわゆる裸の付き合いともいえる明け透けな関係を築いてはいたが、流石にシーツを、それも小便以外の体液で濡らした事実は見られるわけにはいかず。いや、よしんば小便でも深刻な事態なのは変わりない。

 

「……よし」

 

 先程とはまた違った羞恥で頬を染めたギレーヌは、いそいそとシーツを引っ剥がそうとベッドの縁に手をかける。

 

「むんっ!」

 

 そして勢い良くシーツを剥ぎ、そのまま滅多斬りにし証拠隠滅を図らんべく、ベッドの脇に立てかけられた師より賜った愛刀、剣神七本剣“平宗”を取ろうとした。

 

 が。

 

 

「ギレーヌ! 朝ごはんよ!」

「フゥッッッッッッ!?」

 

 

 バアンッ! と勢いよく部屋のドアが開かれ、両手に朝食が乗せられたトレーを掲げた朱色の乙女が現れる。

 剣の聖地へ至ってから、乙女はそれまで培った貴族作法の一切を忘れ、ただその獣性を磨くことだけを胸に抱いていた。故に、両手が塞がった状態で扉を開けるのに、足を使うという横着っぷりは全く気にせず。また、姉弟子であるギレーヌもその辺りのマナーについては無頓着であり。

 元気良く入室した乙女は、北帝オーベール・コルベットにより“北聖”の印可を授けられたばかりからか、その心気は充実しており。そして、その自信に満ちた表情は着実に乙女の剣境が深まっているのを感じさせた。

 

 ギレーヌは乙女の自信に満ちた表情に、これほどの衝撃を受けたのは初めてであった。

 ちなみにその尻尾は驚愕でギンギンにおっ立っている。

 

「いつまで寝ているの! もう皆とっくに道場に──」

 

 元気一杯に現れたエリス・グレイラットは、目前に広がる惨劇を正しく認識出来ず、そのまま朝食を抱えながら硬直した。

 

「……」

「……」

 

 両手に朝食を乗せたトレーを持つ、稽古着姿のエリス・グレイラット。

 両手に水玉を刻んだシーツを摘む、全裸姿のギレーヌ・デドルディア。

 両者は互いの姿を正しく認識出来ず、その正体を探るかのように見つめ合っていた。

 

「そ……」

 

 だが、永遠に続くかと思われた均衡は破られる。

 先に動いたのは、朱色の乙女だった。

 

「そういう日もあるわね!」

「!?」

 

 どういう日があるのか。

 そのような疑問を返す間も無く、エリスは現れた時同様にバアンッ! と大きな音を立てながら稲妻の如き疾さで戦略的撤退を果たした。

 激しく打ち付けられた扉は、エリスの激しい蹴撃にも関わらず存外に原型を保っていた。

 

 独り身の姉弟子である。

 エリスの中に、ギレーヌのこのような惨状を、見て見ぬ振りをする情けが存在した。

 

 大好きなギレーヌおねえちゃんのこの姿、見るに耐えぬ──!

 

 もっともこの時のエリスはただ思考を放棄しただけとも言えた。

 

「……」

 

 後に残されたギレーヌは、己は一体今何をしているのだろうか、そしてシーツを摘む己は一体何者なのだろうかと、普段の脳筋ぶりには似合わない哲学的な思考に耽っていた。

 だが、腐っても剣王。

 再起動するにはそれほど時は掛からず。

 

「……ふっ」

 

 やがて、乾いた笑いをひとつ漏らすギレーヌ。

 剣王は、ただやるべき事をやるだけだ。そう、改めて決意した。

 

 剣の聖地で修行に明け暮れ、その後冒険者になって、ボレアス家に拾われ、転移事件で紛争地帯に飛ばされ、フィットア領難民キャンプでアルフォンスを手伝って、そしてエリスを伴い再び剣の聖地へ戻って。

 ギレーヌは同時に三つ以上の事が出来ない。同時に出来るのは、二つだけ。

 今までも、そしてこれからも。

 

 そうだ。己には何よりも代えがたい二つの使命があるのだ。

 エリスを立派に育て、信頼出来る男に託す。

 そして、サウロスの名誉を守る為、その生命を奪った仇敵を滅するのだ。

 

 ウィリアムに抱く想いは、剣士としての憧憬めいた感情しかない。

 狼は、ただ虎の牙を見て、倒錯しただけだ。

 

 それが、剣王ギレーヌ・デドルディアの今。

 孤高の黒狼は、己に課せられた使命を再認識し、虎に対する想いを封印した。

 

 それが、剣王ギレーヌ・デドルディアの、今なのだ。

 

 

 

 そしてギレーヌはシーツを細切れにし、翌日風邪を引いた。

 

 

 

 

 

 


 

 魔法都市シャリーア

 ルーデウス・グレイラット邸

 

 剣術者の朝は早い。

 夜も開けきらぬ暁闇の中、ウィリアムはいつものように静かに起床し、ルーデウス邸の庭にて朝の一人稽古をこなしていた。

 右足をやや引きずる(・・・・)ようにして大地を踏みしめるウィリアム。

 先の迷宮での一戦以降、ルーデウスがいくら治癒魔術を行使してもその裁断された足甲は癒着せず。ウィリアムの右足甲は裂けたまま外皮が再生していた。

 

 余人の前ではなるべく常の足取りを見せるウィリアムであったが、未だ微妙な重心の変化に慣れておらず。こうして以前の感覚を取り戻すべく稽古に勤しんでいた。

 以前のウィリアムであれば対手の油断を誘うべく、ことさら跛足を装っていただろう。だが、盲目の龍が見せたそれとは真逆であるのは、家族に余計な心配をかけさせまいとする虎の優しさか。

 あるいは、あの不退転戦鬼との旅が、虎に僅かな変化をもたらしていたのか。

 どちらにせよ、前世の虎からは考えられぬ変化ではある。

 

 北方大地に位置するシャリーアの春は遠い。雪深い朝の空気は、氷点下の厳寒に包まれている。

 だが、ウィリアムが身につけているのは薄手の汗衣に麻のズボンのみ。加えて素足である。ウィリアムは、熱く白い息を吐きながら木剣を振るっていた。

 面打ち、下段、袈裟、逆袈裟、車斬り、下段払い。それらの基礎的な型を半刻程。

 十分に身体が温まった後、虎眼流奥義に関わる秘太刀の型を振る。飛燕の如き疾さで繰り出されるその素振りは、ウィリアムが吐く白い息と合わさり宙空に一輪の白薔薇が咲いたように見えた。

 

 その後は汗衣を脱ぎ、庭に設けられている井戸を用い二十杯のみそぎ。

 桶に薄い氷が張り付く程の寒さの中、冷水を浴びるウィリアムの肉体からはもうもうと湯気が立ち上る。

 

「……」

 

 ほんのりと桜色を浮かべた濡れた肉体。水滴を拭う虎の心気は、精気が十分に漲っているように見えた。

 

「……ッ」

 

 再度汗衣を纏ったウィリアムは、再び木剣を正眼に構える。しかし先程の様に激しく木剣を振るわけでもなく、そのまま彫像の様に不動の姿勢を保っていた。

 みそいだ肉体からは汗が引いていたが、静止し続けるウィリアムの肉体からはじわりと熱気が噴き出しており、僅かに照らされた朝日に照らされゆらゆらと陽炎めいた空気の歪みが発生していた。

 まるで、この世界に溶け合うように、ウィリアムの肉体の境界は曖昧なものとなっていた。

 

 

「おはよう、ウィル」

 

 不動のまま小一時間経過した頃、ふいに声をかけられたウィリアムは、おもむろに声の元へと視線を向ける。

 

「……おはようございます、兄上」

 

 視線の先には、ウィリアムの実兄であるルーデウスの姿があった。愛妻シルフィエットのセレクトウェアであるラインの入ったトレーニングウェアに身を包んだルーデウスへ、行儀よく頭を下げるウィリアム。

 ルーデウスはひらひらと手をふりながら弟へ応えていた。

 

「お、おはようございます……ウィリアム兄さん……」

 

 ルーデウスの後ろには兄弟の実妹、ノルン・グレイラットの姿もあった。ルーデウスと同じく動きやすい長袖長ズボンの上下、ラノア魔法大学指定の体操着に身を包んだノルンは、朝の冷えた空気を受けその言葉尻を震わせながら次兄へ挨拶していた。

 普段はラノア大学の学生寮で生活するノルンであったが、週の何日かはこうしてルーデウス邸にて寝泊まりをしている。

 そして、とある理由にて、兄弟……いや、次兄であるウィリアムに、剣術を習っていたのだ。

 

「じゃあウィル。俺は走り込みに行ってくるから、ノルンをよろしくな」

「はい。兄上」

 

 やや怯えたように身を竦ませるノルンの頭を撫でながら、ルーデウスは自身の日課であるランニングへ向かうべく弟へ妹を託す。

 家族が再び揃った事で、ルーデウスは長兄としての自覚をより一層芽生えさせていた。

 

「……ほどほどにするんだぞ」

「はい。兄上」

 

 幼少期の苛烈な稽古ぶりを見ているからか、ルーデウスは毎日このような注意を弟へ言い含めていた。

 何回も繰り返されたであろうこのやり取りを、ウィリアムもまた生真面目に繰り返していた。

 

「いってらっしゃいませ、兄上」

「い、いってらっしゃい。ルーデウス兄さん」

「うん。いってきます」

 

 自宅の門をくぐり、白い息を吐きながら走り出すルーデウス。そのまま、街中へと走っていった。

 早朝のシャリーアの街並みは静かなものであるが、大きな商会や冒険者ギルドの前では眠たげに目をこすりながら活動を始めている人間がちらほらと見える。

 

(……大丈夫かなぁ、ウィルとノルン)

 

 そのような光景を見つつ、ルーデウスは浅い呼吸を繰り返しながら弟と妹を想う。

 

(あの時は、まあ俺のせいでもあるけど……)

 

 家族が再び揃った、一ヶ月前のあの日。

 それは、決して穏やかなものでは無く。

 

 ルーデウスは、やはり弟が転生者であった事を再確認し、そしてその苛烈な価値観を見せつけた日を思い出していた。

 

 

 

 

 


 

「ルディ、おかえりなさい」

 

 そう言って、シルフィはそっと俺の背中に手を回した。

 シルフィのか細く、温かい手。

 大きくなったお腹からも、優しい暖かみを感じる。

 

「……ただいま」

 

 息を切らせた俺を、優しく包むシルフィ。

 今はその優しさが、甘く、辛い。

 

 ヒトガミは旅に出る前、“後悔する”と言っていた。

 振り返ってみると、確かにゼニスは廃人になり、ロキシーと望まぬ関係を持ってしまった。

 あのままヒトガミの助言に従いシャリーアに残っていたら、ゼニスはともかく、ロキシーとは何事もなかったのではないか。

 あの山本勘助が憑依していたんだ。わざわざ俺が助けにいかなくても、あの時のロキシーは無事に生き延びる事が出来たんじゃないか。

 ウィル達がいたのなら、ロキシーは無事に自分を取り戻していたのでは。

 

 そう思いながら、シャリーアに着いた時。俺は急に悪寒を感じた。

 後悔とは、何も旅先で起こるわけではない。

 シャリーアに残るシルフィ達に、何か良くない事が起こったかもしれない。

 もしシルフィや、アイシャや、ノルン……皆に、何か良くない事が起こっていたら。

 

 そう思ったらいても立ってもいられず、俺は家へ……シルフィの元に駆け出していた。

 そして、アイシャとノルンが出迎えてくれて、その後シルフィが迎えてくれて。

 何事もなく、全員が無事だったのにホッとした。

 

 そう、全員が無事。

 パウロも、ゼニスも、リーリャも。そして、ウィルも。

 家族全員が、無事に揃ったんだ。

 

「おいルディ! 急に走りだして一体どうしたんだよ!」

 

 パウロが大声を上げながら追いかけてきた。見ると、その後ろにはギース、タルハンド、リーリャ、ヴェラ、シェラ、エリナリーゼ、ロキシー、ゼニス……そして、双子の兎と、ウィルがいた。

 

「お父さん、お母さん、ウィリアム兄さん!」

「お……おかえりなさいませ、旦那様、奥様……ウィリアム様」

 

 パウロの姿が見えると、ノルンが涙を浮かべながら駆け出す。アイシャも一緒に駆け出そうとするも、すぐにメイドの顔になり深々と頭を下げた。

 

「ノルン、アイシャ! ああ、久しぶりだなあ! 大きくなったなあ!」

「お父さん! お父さん!」

 

 パウロも大粒の涙を浮かべながらノルンを抱き上げる。

 ノルンはパウロに抱きつきながら、えぐえぐと涙を流していた。

 そんなパウロとノルンを、ゼニスは相変わらずぼんやりと見つめていた。

 

「……アイシャちゃん。遠慮しなくていいんだよ」

「で、でも……」

 

 その様子を羨ましそうに見ていたアイシャへ、シルフィが優しく声をかける。

 見ると、リーリャもまたアイシャの方を見て、優しげに微笑んでいた。

 

「アイシャ……立派に、グレイラット家のメイドとして働いているようですね」

「お母さん……」

 

 アイシャが不安気な表情で俺とパウロ、そしてリーリャを交互に見る。

 最後にウィルの方を向くと、何かを感じたのか、アイシャは見る見る目に涙を浮かべていった。

 

「アイシャ……」

 

 ウィルが、アイシャの名前を呼ぶ。それがきっかけになったのか、アイシャは先程のノルンと同じ様に、リーリャの元へ駆け出した。

 

「う、うえ゛ぇぇん!」

 

 大泣きしながらリーリャに抱きつくアイシャ。リーリャは、黙ってアイシャの頭を撫でていた。

 

「お゛があざん! おどうざん! ウィルに゛い! みんな、みんな無事でよがっだ! よがっだよぉ!」

 

 わんわん泣きながら、アイシャはぎゅっとリーリャに抱きついていた。

 そうか。そうだよな。アイシャも、家族だ。

 皆を心配する気持ちは、ノルンに負けていないんだよな。

 

「ウィルにいも、黙っていなくなって、しんじゃったらって! おかあさんも、おとうさんも、しんじゃったら、どうしようって!」

 

 わああああんと大きな声で泣くアイシャ。

 そんなアイシャを、ウィルは黙って見つめていた。

 何を考えているのかよくわからないけど、どこかその眼は優しげだ。

 

 ……そうだよな。

 誰がなんと言おうと、アイシャ・グレイラットは俺の、俺たちの、大事な妹だ。

 妾の子なんて、負い目を感じる必要はどこにもない。

 

「なんだか、俺らはいねえ方がいいかもな」

「そうですわねえ……わたくしも早くクリフの所に行きたいですし。もうだいぶ、かなり、ギリギリですし。あ、シルフィの事も大事に思っていますわよ」

「何にせよ家族水入らずの所に水を差すのも野暮じゃしな。儂らはさっさと退散しようかのう」

「それもそうですね」

「ま、また後できちんとご挨拶に伺うのがいいと思います……」

 

 ギース達もやれやれ、といった感じで俺たち家族の事を見ていた。

 本当に、彼らにはすごく助けられた。

 感謝してもしきれない。

 

「皆、改めて礼をする。本当にありがとう。後できちんと礼をしたいから、またウチに来てくれ。つっても、俺ん家じゃねえけど」

「水くせえ事言うなよパウロ。なげえ付き合いじゃねえか。ま、今は家族としっかり向き合ってやれや……先輩とロキシーのこともあるしな」

「ああ」

 

 ノルンを抱えたパウロがギース達へ頭を下げる。

 パウロも、本当はギース達と語らいたい事もあるのだろう。

 でも、今はその時じゃない。

 

「ナクル、ガド」

「はっ」

「はい」

 

 ウィルが双子達へ声をかける。

 双子はウィルの前に膝をつき、神妙な表情を浮かべながらウィルの言葉に兎耳を傾けていた。

 

「……ぐす」

 

 見ると、ノルンが目を赤く腫らしながら、双子を警戒するかのように睨んでいた。

 そういえばウィルから聞いたけど、この二人はラノア大学でウィルと派手にやり合ったんだっけ。

 一緒に旅をしている間は、とてもそんな風には見えなかったけどなぁ。

 

「ギース殿に万事差配を頼んである。しばらく旅の疲れを癒せ」

「はっ!」

「若先生も、どうぞごゆるりと……」

 

 短い言葉を交わすウィル達師弟。

 なんだか、ちょっとかっこいいな。まさに剣豪って感じで。

 

「そういうわけだ。じゃ、またな。パウロ、先輩、ゼニス、リーリャ、それと、若センセ」

「皆さん。長いこと僕たちを手伝ってくれて、ありがとうございました」

「親子揃って水くせえなぁ。それに、冬が明けるまではここらにいるからよ、またゆっくり話そうぜ。先輩」

「新入り……」

「そうそう。そうやって、俺のことは新入りって呼び捨てればいいんだよ。ジンクスだからな……若センセは、まあ今のままでいいけどよ」

 

 そう言ったギースは、にやりと笑っていた。

 ウィルは、ただ黙ってギースに頭を下げていた。

 そうして、皆それぞれ、俺の家を後にしていった。

 ただ一人を除いて。

 

「ルディ……」

 

 ロキシーが、俺のことを不安げに見つめていた。

 俺は、そんなロキシーに黙って頷く。

 シルフィもまた俺とロキシーを見て、やや不安げな表情を浮かべていた。

 

「とにかく、中に入りましょう。いつまでも玄関先にいるわけにもいかないですし」

 

 そう言って、俺たち家族は家の中に入る。

 今回の旅の事も、詳しく話さないといけない。

 ゼニスのことも、詳しく話さないといけない。

 

 そして何より、ロキシーと、俺のこと。

 

 これから始まる、大切な話し合いを。

 

 

 

 家族会議が、始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十四景『転生虎(てんとら)(はか)る!』

 

 戦国時代、男女の恋愛というのは特に武士階級では全く無く、結婚を決めるのは親同士、生家同士の都合でしかないというは万人の共通認識である。

 だが、蓋を開けてみれば武家の恋愛話というのは我々が思っている以上に多く残っていた。

 その中でも有名なのは、貧農から関白太政大臣という戦国史上、いや日本史上最高の出世を遂げた豊臣秀吉と、その正妻である高台院(おね)であろう。

 

 当時としては異例の恋愛結婚で夫婦となった秀吉とおね。

 身分の差から周囲は反対するも、それを押し切って結婚を遂げた両名の間には確かな“愛”が存在したのは想像に難くない。

 しかしそんな情熱的な結婚をし、夫の出世を献身的に支え続けていたおねであるが、一度夫の“浮気”に大激怒し、主君である織田信長を巻き込んだある騒動を起こしている。

 

 近江の雄、浅井長政を虐滅した魔王信長。

 その浅井掃滅に功を成し、浅井家旧領である北近江と長浜城を与えられた秀吉は、一国一城の主となった喜悦からか城下の眼麗しい女人を片っ端から手篭めにするという大浮気を敢行した。

 来る日も来る日も取っ替え引っ替えに女漁りをする秀吉に対し堪忍袋の尾が切れたのか、おねは夫の主君である信長に直訴するという、これまた当時としては異例の大暴挙を敢行した。

 

 だが、身分の差を弁えぬおねの嫉妬めいた愚痴を、信長は咎めるどころか実に寛大で紳士的に応対した。

 後日、信長がおねに対し送った手紙に、その誠実で気配りに満ちた心が現れている。

 

 “仰せの如く、今度はこの地へはじめて越し、見参に入り、祝着に候”

(この前はわざわざこちらを訪ねて来てくれて、本当に嬉しく思う)

 

 “殊に土産色々美しさ、中々目にも余まり、筆にも尽くし難く候”

(その上、貰った土産の見事さも、とても手紙には書ききれないほどだ)

 

 “祝儀は仮に、この方よりも何やらんと思い候はば、その方より見事なる物、持たせ候間、別に心さしなくのまま、まずまずこの度はとどめ参らせ候。重ねて、参りの時、それに従うべく候”

(何かお返しにと思ったが、そなたが贈ってくれた土産があまりにも見事なので、何を返したらいいのか思いつかなかった。また今度会いにきてくれた時に渡そうと思う)

 

 “就中、それの見目ぶり、形まで、いつぞや見参らせ候折節よりは、十の物廿ほども見上げ候”

(ところで久しぶりに会って、そなたが増々美しくなっていた事に大変驚いた)

 

 “藤吉郎、連々不足の旨申のよし、言語同断、曲事候か”

(故に、秀吉がそなたの魅力を不足に思っているのには、言語道断、大変けしからん事だと思う)

 

 “何方を相尋ね候共、それさまの程のは、又二度、かの禿ねずみ、相求め難き間”

(どこを探してもそなた程の女性を、あのハゲネズミ(秀吉)が再び見つけることは難しいだろう)

 

 “これ以後は、身持ちを良う快になし、いかにもかみさまなりに重々しく悋気などに立ち入り候ては然るべからず候”

(なのでこれからは奥方らしく堂々と振る舞うと良い。そなたがやきもちなど妬く必要はどこにもない)

 

 “ただし、女の役にて候間、申すものと申さぬなりにもてなし、然るべく候”

(ただし女房として言いたいことは、なるべく言わずに心に留めておくように)

 

 “尚、文体に羽柴には意見、請い願うものなり”

(尚、この手紙は必ず秀吉にも見せること)

 

 織田家公文書の証である“天下布武”の押印がされたこの手紙は、織田信長の直筆という説もある。

 途中から筆が乗ったのか後半の行間が詰められて書かれているこの手紙は、信長の優しさ、そして人間味が感じられる暖かい文章であるのは間違いない。

 しかし、この手紙は同時に“武家の妻”としての心構えを冷静に語った、当時の厳酷な価値観が現れている文章でもあった。 

 

 つまるところ、女房は夫を立て、その立ち振舞をいちいち咎めてはならぬ、ということである。

 現代ではとうに廃れたこの価値観。

 

 その価値観の相違が、時空を越えた異世界にて現れていた。

 

 

 

 

 


 

「どうも……ロキシー・ミグルディアと申します……」

 

 居間に設置してある大きめのテーブル。そこに俺、シルフィ、ウィルが並び、その対面にはパウロ、ゼニス、ノルン、そしてロキシーが座る。

 アイシャは皆のお茶を用意したりと忙しく立ち回り、リーリャはゼニスの傍で甲斐甲斐しく世話をしている。

 シルフィが手伝おうとしていたけど、「奥様は座っててください」とリーリャとアイシャにきっぱりと断られ大人しく座っていた。

 ウチの広い居間は、これだけの人数が入ってもまだまだ余裕がある。

 空間の余裕とは対照的に、俺の心の余裕はどんどん少なくなっていった。

 

「ロキシーさんって、いつもルディが自慢しているお師匠様のロキシーさん?」

「はい一応……自慢されるほどではありませんが」

「そんな、いつもルディから聞いていますよ。シルフィエットです。よろしくお願いします」

「は、はい……よろしくお願いします……」

 

 シルフィが気まずそうにしてるロキシーに挨拶をしている。

 俺も、多分同じ様に気まずい顔をしているんだろうな。

 ノルンやアイシャもロキシーに挨拶したが、その気まずそうな空気は晴れない。

 

「ところでなんでロキシーさんだけ……?」

 

 ノルンが少し目を腫らしながら、隣に座るロキシーをやや訝しげに見ていた。そりゃそうだろう。ノルンにとって、ロキシーはまだ家族じゃないのだから。

 対照的に、アイシャは大泣きした後とは思えないほど澄ました表情で皆のお茶を用意していた。とはいえ、チラチラとロキシーの顔を窺っていたが。

 

「ノルン。それは後で説明する」

「はぁ。わかりました、ルーデウス兄さん」

 

 でも、とりあえずは旅の報告と、ゼニスの状態からだ。

 俺はパウロへこれまでの事を説明してもらうよう促した。

 

「父さん」

「ああ。じゃあノルン、アイシャ、それにシルフィちゃん。順を追って説明するぞ」

「はい、パウロさん……あ、ボクのことはシルフィって呼び捨てでいいですよ。パウロさんは、ボクのお義父さんなんですし」

「そ、そうだな。なんだか変な感じもするけど……」

「ふふ。パウロさん久しぶりだから緊張してるみたいですけど、もっとリラックスしてください。ここはルディが用意してくれた、パウロさん達の家でもあるんですから」

「そ、そうか……ありがとう……」

 

 所在なさげに顎を掻くパウロ。本当は、子供の頃から可愛がっていたシルフィが息子の嫁になり、そして初孫が出来た喜びでテンションを上げたいんだろう。

 だけど、これから始まる話し合いの内容を思ってか、複雑そうな表情でシルフィに応えていた。

 ……ごめん、パウロ。子供の頃、ゼニスからも口を酸っぱくして言われたけど、似てほしくないところが思いっきり似てしまった。

 そういえばパウロには俺からも一緒に住むことを提案していた。当初は俺やシルフィに気遣って、ゼニスとリーリャと三人で別の家を借りると言っていたが、ゼニスの現状を考えたら家族全員で面倒を見た方が良い、と説得したら折れてくれた。

 我が家の部屋はまだまだ余裕があるから、パウロ達と一緒に暮らす上で不便は無い。

 

 ウィルには……好きなだけいろと伝えたけど、今後はどうするつもりなんだろう。

 俺がシャリーアを離れている間、シルフィがここにいるよう引き止めてくれたみたいだけど、それでも目を離すとふらりとどこかへ旅立ってしまいそうな雰囲気ではある。

 まぁ、ウィルにはウィルの人生があるから、そこは無理に引き止めるつもりは無いけど、しばらくは一緒に暮らしたいな。色々と話したいことも、まだまだ沢山ある。

 

「じゃあ始めるぞ。まず、俺達はラパンでルディ達と合流して、母さんが囚われている転移迷宮へ向かった」

 

 そう思っていると、パウロの報告が始まった。

 俺とエリナリーゼがシャリーアから出発し、無事パウロ達と合流した事。

 そこから、転移迷宮へ挑んだ事。

 ゼニスが囚われている最深部に到達するも、ガーディアンのヒュドラに苦戦し一度は引き返した事。

 

 そして、再びヒュドラに挑むべく、魔法陣を潜った俺たちが、目にした光景。

 

「そこで……俺達は、ウィルに出会ったんだ……」

 

 そこまで言って言葉を詰まらせるパウロ。あの時、ウィルを誤って斬ってしまった(誤チェスト)事を思い出しているのだろうか。

 あの場にいた、ウィルと、双子の兎。そして、あの……現人鬼。

 そういえばウィルや双子の兎はともかく、波裸羅様のことはなんて説明すればいいのだろうかと、俺もパウロと同じ様に悶々とした表情を浮かべた。

 いや、ウィルもウィルでいつの間にか七大列強なんてとんでもない存在になっているけど、そこはおいおい聞いていけばいい。問題は波裸羅様だ。

 

 迷宮で出会ってから、シャリーアへ帰る僅かな間だけしか一緒にいなかったけど、あの人……いや、あの鬼は、どう考えてもナナホシと同じ転移者だ。

 それもあの山本勘助と同じ、過去からの……いや、一種のパラレルワールドの日本から来た存在なのだろうか。彼らの何もかもが、俺が知る過去の日本の者ではない。

 この辺りの考察は、今度ナナホシと会った時に詰めようか。なにせ、ウィルの“前世”にも関わることでもあるのだから。

 とにかく、それだけでも説明し辛い存在なのに、波裸羅様からはバーディ陛下やルイジェルドには無い、妙な凄味が感じられた。

 どちらかというと、俺のトラウマでもあるあの龍神オルステッドと同じ感じか。いや、それもちょっと違うな。

 

 波裸羅様の戦いぶりは少ししか見ていないけど、予見眼を駆使したらその動きはオルステッドとは違い、ちゃんと視えた。

 視えたんだが、仮に波裸羅様が俺に攻撃をしかけてきたとして、予見眼でその攻撃を避けられるかと言われると、無理だ。

 なぜだかわからないけど、波裸羅様の攻撃を避けられる自信は全く起こらない。何をどうしても、必ず内臓をひっくり返される光景しか浮かばない。

 そんなよくわからない存在を、どう説明すればいいのか。

 

 そこまで考えていると、パウロの震えた声が聞こえてきた。

 

「それから……お、俺は……ウィルを……」

「お父さん……?」

 

 手の震えをごまかすように、拳をきつく握りしめるパウロ。

 その様子を、ノルンが心配そうに見つめていた。

 ああ……やはり、あのことはパウロのトラウマになってしまっていたか。

 罪に苛まれるように、パウロは唇をきつく噛み締めて、拳を握りしめている。

 こんな時はどう助け舟を出せばいいかと悩んでいると。

 

「父上」

 

 ふと、それまで一言も喋らなかったウィルが、短い声を発した。

 

「あれは、夢です」

「ウィ、ウィル……」

 

 パウロを慮ってか、ウィルがあの時の事を無かったかのように語った。

 不思議そうに首をかしげるアイシャやノルンに構わず、ウィルはそこまで言ったあと再び眼を閉じて沈黙を保つ。

 シルフィだけが何かを感じ取ったのか、少しだけ悲しそうに俯いていた。

 くしゃりと顔を歪めていたパウロは、鼻をひとつすすると、気を取り直して話を続ける。

 

「……それで、ウィルがヒュドラを倒しちまってたんだ」

「ウィル君が……」

「流石ウィリアム兄さんです!」

「ウィル兄、マジ半端()ない!」

 

「アイシャ」と、変な言葉を使うアイシャを嗜めるリーリャ。ぷーっと口を膨らませるアイシャは、久々にリーリャのお小言が聞けてちょっと嬉しそうだ。

 ノルンも嬉しそうに表情を綻ばせていた。そういえばさっきシルフィから聞いたけど、ウィルがラパンへ来てくれたのはノルンのお願いがあったからだったな。

 ほんと、妹想いに育ってくれてお兄ちゃんはうれしいよ。一緒に来た面子はアレだけど。

 

「あれは現人鬼殿の合力があってこその勝利。我らだけでは勝ち得ぬ相手」

 

 でも、シルフィ達の称賛に即座に冷水をかけるかのように否定するウィル。現人鬼、という聞き慣れぬワードが出てきたことで、シルフィ達は再び戸惑うような表情を浮かべた。

 

「あらひとおに?」

「人ならざる異形異類。故あって、共に旅をしました」

「そ、そうなんだ……」

 

 そこまで語り、再度沈黙するウィル。シルフィはウィルの説明に戸惑っていたけど、それ以上疑問を返すことは無かった。

 なんだか説明し辛い時、こういう有無を言わさずなウィルの言葉がちょっとありがたいな。

 

「で、母さんを救い出したんだが……」

「お母さん、一体どうしちゃったんですか?」

 

 ノルンがそう言うと不安げにゼニスの方を見つめる。

 再会してから一言も喋らず、ぼんやりと虚空を見つめるゼニスの様子に、ノルンは薄々何があったのか察していたのかもしれない。

 パウロは悲しそうにノルンの方を向き、ゆっくりと説明を始めた。

 

「ノルン。母さんはな、ちょっと難しい病気にかかっちゃったんだ」

「病気?」

「そうだ。治るかどうかわからない……いや、必ず父さんが治してみせるけど、いつ治るかわからないんだ」

「そう……なんですか……」

 

 記憶喪失、心神喪失、精神崩壊。

 どの症状が正しいのかわからないけれど、ゼニスはもう健常な人間とは言い難い状態だ。

 リーリャの献身的な介護のおかげで、食事をしたり用を足したりなんかはある程度一人で出来るようにはなっている。

 だが、これからも介護は必要だし、なによりゼニスとの意思疎通は困難というか、不可能だ。何を考えているのかわからないし、何も考えていないのかもしれない。

 近い内に医者に診せるつもりだが、正直快復するかどうかもわからない。

 

「……」

 

 ふと、ウィルがゼニスを見て、少しだけ首をかしげた。

 

「どうした、ウィル?」

「……いえ」

 

 ウィルも何か思う所があったのか、ゼニスをじっと見つめたあと再び眼を閉じていた。

 何か、治す手段でも考えているのだろうか。

 ゼニスは、ぼんやりと虚空を見つめていた。

 

「母さんについてはそんなところだ。問題は、母さんを助けた後でよ……」

 

 パウロはゼニスについて一通り語った後、ちらりとロキシー、そして居間の片隅に置いてある俺たちの荷物を見る。

 雑嚢の中に、ひときわ大きな木箱……いや、甲冑櫃を見たパウロに、アイシャが目ざとく反応した。

 

「あ、お父さん、それウィル兄の荷物だよね。ものすごく重いから持てなかったんだけど、何が入っているの?」

「鎧だよ、アイシャ」

「鎧? ウィル兄、鎧なんて持ってたっけ?」

「迷宮で手に入れたんだが……それがなぁ……」

 

 そこから、困ったような表情で説明を続けるパウロ。

 突然ヒュドラの死体から現れた、巨大な武者甲冑。

 それに憑いていた、驕慢な怨霊軍師。

 ロキシーが取り憑かれ、甲冑に取り込まれ、それをウィルが斬って助け出したこと。

 パウロがそれらを滔々と語っている間、ロキシーは沈鬱な表情で俯いていた。

 

「そうだったんだ……ロキシーさん、大変だったんですね」

「え、ええ……本当に大変だったのは、むしろその後ですけど……」

 

 ロキシーが消え入りそうな声で呟き、俺を見つめた。

 そう。大変なのはここから。

 ゼニスの現状を聞き、悲しそうに俯くノルン。

 何かを敏感に感じ取り、複雑な表情を浮かべるアイシャ。

 そして、大きくなったお腹を抱え、心配そうにロキシーを気遣うシルフィ。

 

 それらが、これから言うことを躊躇わせる。

 でも、俺には、責任がある。ロキシーも、いずれはシルフィみたいになるのだ。

 仮にここでシルフィに拒否をされたら、ロキシーは一人で子供を産み育てることになる。

 そうなったら、俺は……いや、そんなことにはさせない。

 

 胃にずしりと重量を感じる。でも、逃げちゃだめだ。

 恐れ知らずの波裸羅様を見習って、勇気を出すんだ。

 

「俺は……ここにいるロキシーを、二番目の妻として迎えようと思っている」

「えっ?」

 

 戸惑いの声を上げたのはシルフィではなく、ノルンだった。

 キョトンとした表情のシルフィに構わず、ノルンは立ち上がると俺とロキシーの顔を交互に見る。

 

「ど、どういうことですか!? ルーデウス兄さんには、シルフィ姉さんがいるじゃないですか!?」

「ノルン。まずはルディの話を聞いてやってくれないか」

 

 パウロがノルンを宥めつつ、俺を見る。

 パウロはこの件に関しては賛成よりの中立、といった立場だ。リーリャも同じ気持ちなのか、黙って俺を見つめている。

 二人とも言い方はアレだが、ゼニスに対して不義を働いたという事実がある。だから、下手に発言せず、こうしてそれとなくフォローするに留めていた。

 

「俺は、憑依されたロキシーと、関係を持ったんだ」

「ッ!?」

 

 逆レイプされた、というのはオブラートに包み、俺はロキシーと何があったかを説明した。

 悪霊に身体を乗っ取られ、望まない関係を築いてしまった事。

 その後、ロキシーが妊娠してしまったのかもしれないということと、そして男としての責任を取る為、ロキシーを妻になってもらいたいということ。

 なにより、俺自身がロキシーを尊敬し、愛しているということ。

 

「シルフィを裏切るつもりはなかったけど、結果として約束を破ってしまった。すまない」

 

 そう言って、俺は床に這いつくばりシルフィに向かって土下座をした。

 

「え、ちょっ、ルディ!?」

「シルフィのことは変わらず愛している。でも、俺はロキシーを妊娠させたかもしれない。責任を、取らなきゃならない」

 

 言葉を重ねれば重ねる程、俺の言葉は安っぽい懺悔であるように聞こえる。

 でも、ロキシーへの気持ちは本心だ。困った顔をしているシルフィは、唐突な事実に困惑しているだろう。

 もし、シルフィと俺の立場が逆だったら、俺は泣き喚きながら糾弾するだろう。

 

「シルフィ、許してほしい」

 

 だけど、こればかりは、無理をしてでも言わなければならない。

 それが、俺の責任だから。

 

「許せるわけないでしょ!」

 

 そう叫んだのは、ノルンだった。

 バンッ! とテーブルを叩き、彼女は俺とロキシーを交互に指差しながら糾弾を続けた。

 

「最低です! 二人とも!」

 

 普段のおとなしいノルンからは考えられないくらい、彼女は激情を露わにしていた。

 

「シルフィ姉さんがどんな気持ちでルーデウス兄さんを待っていたか知っているんですか!? 毎日毎日ルディは大丈夫かな、ルディに会いたいね、ルディも今頃ご飯食べているのかなって、寂しそうに言ってたんですよ! ロキシーさんは、しょうがないのかもしれないけど、ルーデウス兄さんだって抵抗できたはずでしょう! シルフィ姉さんのことを想っていたら、抵抗できたでしょう! それなのに、それなのに!!」

 

 大きな声でまくしたてるノルン。俺は、それを黙って受け止める。

 あの時は抵抗しようとしても出来なかったんだけど、それはただの言いわけでしかない。

 

「かわいそうだとは思わなかったんですか!? シルフィ姉さんの気持ち、本当に考えているんですか!? そもそも二人も妻を娶るなんて、ミリス様はお許しになりません! 大体なんでこんな小さい子なんですか! 私とそんなに変わらないじゃないですか!」

「ノ、ノルン。ルディとロキシーはミリス教徒じゃないし、それにロキシーはミグルド族で、これでも立派な成人で……」

「お父さんは黙っててください!」

 

 パウロに一喝するノルン。

 まるで、あの時のゼニスのように。だからなのか、パウロはそのまま押し黙ってしまった。

 ノルンはそのままロキシーの方を向き、糾弾を続けた。

 

「じゃあロキシーさんに聞きますけど、成人なら図々しいとは思わないですか!? ずかずかと入り込んできて、悪いとは思わないですか!?」

「ノルン、言い過ぎだ。ロキシーを妻に迎えると決めたのは俺だ。ロキシーは、そもそも自分の意思で俺と関係を持ったわけじゃ──」

「ルーデウス兄さんも黙っててください!」

 

 強い口調で反論するも、ノルンは止まらない。

 ロキシーも、ずっと俯いてノルンの責めを受け止めていた。

 

「自分の意思じゃないのなら、どうしてそのまま身を引こうとしなかったんですか! 結局、ルーデウス兄さんの言葉に甘えただけでしょう!」

 

 思わず、ノルンを叩こうかと腰を浮かせた。

 でも、ここでノルンを叩く資格は俺にはない。

 叩いたら、本当に最低な男になる気がした。

 

「そもそも、憑依してたとか、本当は嘘なんじゃ──」

 

 

 そう、ノルンが言いかけた時。

 

 

「ノルン」

 

 

 黙っていたウィルが、言葉を発した。

 

 

「少し黙れ」

「っ!?」

 

 全身に、刀剣を突きつけられたかのような悪寒が走る。

 睾丸が、みるみる窄んでいくのがわかる。

 暖炉で暖められた居間の温度が、急速に冷えていくのを感じる。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん……」

 

 ウィルは不機嫌そうな表情を隠そうともせず、ノルンを睨みつけていた。

 まるで、獰猛な虎が、獲物を前にして唸り声を上げるかのように。

 ノルンは恐怖からかカタカタと震え、涙目でウィルを見つめていた。

 

「……」

「お、奥様?」

 

 すると、ふらりとゼニスが立ち上がる。

 そのまま覚束ない足取りで、ウィルの前に立った。

 

「母上……?」

「……」

 

 ゼニスはゆっくりと、ウィルの顔へ手をかける。

 

「む……?」

 

 そのまま、ゼニスはウィルの頬をつねった(・・・・)

 いや、つねるというより、つまむと言ったほうがいいかもしれない。

 そんな、頼りなく、柔らかい仕草。

 ゼニスは相変わらず無表情だったけど、その目はまっすぐウィルの瞳を見つめていた。

 ウィルは、少しだけ驚いたようにゼニスを見つめ返していた。

 

「ウィルくん、なんていうか、もうちょっとこう、手加減してくれないかな。その、お腹の赤ちゃんにも悪いし……」

「……失礼致しました」

「う、うん。ゼニスさんも、ありがとう」

「……」

 

 冷や汗を浮かべながら、ウィルを嗜めるシルフィ。まるで、ゼニスの気持ちを代弁するかのように。ゼニスは、無表情のままだけど、ほんの少しだけシルフィの大きなお腹を気にしているようにも見えた。

 そんなシルフィに頭を下げ、ウィルはゆっくりと立ち上がると、恭しくゼニスの手を取り、リーリャの方へ向かった。

 

「リーリャ。母上はお疲れのご様子。別室でお休みになっていただくように……」

「は、はい。かしこまりました」

 

 ゼニスをリーリャに託すと、ウィルは再び着席する。

 先程の冷えた空気が嘘だったかのように、部屋は再び暖かさを取り戻していた。

 

「ノルン」

 

 ウィルからの強烈な怒気は無くなったが、厳しい声色はそのままだ。

 ノルンは変わらず青ざめた表情を浮かべながら、ウィルの言葉を黙って聞いていた。

 

「許す許さないはお主が決めることではない。分を弁えよ」

「……」

 

 ポロポロと涙を流しながら俯くノルン。

 正直、ちょっと加減しろ莫迦と言いたくなったが、ぐっと堪える。

 少しだけ違和感を感じるけど、ウィルは堂々と俺の味方をしてくれた。その想いを無碍にするわけにはいかない。

 そう、思っていると。

 

「そも、側妻を迎えるのは兄上の自由なり。義姉上もまた許す許さないは言うに及ばず」

「え?」

 

 ウィルが、唐突に持論を語り始めた。

 

「側妻を迎えても、兄上は義姉上を一番に立てる。義姉上もまた兄上を一番に立てる。それのどこが不満か」

 

 それは、古めかしい価値観だった。

 この世界では、それは珍しくもないかもしれない。

 でも、ウィルはあくまで自身の価値観で物事を言っているように見えた。

 ノルンに怒ったのは、俺やシルフィやロキシーを憚ってではなく、自分の価値観にそぐわないから。

 でも、それは俺の本意じゃない。

 

「ウィ、ウィル、それは──」

「ウィル君」

 

 思わず否定しようとする俺の言葉を、シルフィが遮った。

 

「そういうの、価値観の押し付けじゃないかな」

「……」

 

 毅然とした表情で、シルフィはウィルをまっすぐ見つめていた。

 

「たしかに、これはボクがどうこう言える話じゃないかもしれないけど……でもそれは、ルディの気持ちじゃないよ」

「……差し出がましい真似をしました」

 

 ウィルは、僅かに視線を落とすと、そのままシルフィに頭を下げた。

 シルフィはふうとため息を一つつくと、今度はノルンの方を向いた。

 

「ノルンちゃんも、さっきから言葉が過ぎるよ。そもそも、ボクは最初から嫌だとは思っていないよ」

「え……」

 

 シルフィに泣きはらした目を向けるノルン。

 ロキシーもまた、驚いた様子でシルフィを見ていた。

 

「ボクはロキシーさんを歓迎するよ」

 

 そこから、シルフィは滔々と自分の想いを語った。

 俺から聞いていたロキシーは、到底自分では敵わないくらい凄い人だと思っていたこと。

 でも、実際に会ったら自分と同じで、ただ俺に恋する乙女だったと気づいたこと。

 自分と同じだと気づいたら、そんな嫉妬めいた感情が無くなったこと。

 俺の懺悔を聞いて、すぐにロキシーと一緒に俺のことを支えようと決心したこと。

 

「一緒にルディを支えていこう。よろしくね、ロキシー」

「ありがとう……ございます……シルフィ……」

 

 ロキシーの手を取りながら、シルフィは優しくそう言った。

 ロキシーは涙を浮かべながら、しっかりとシルフィの手を握り返していた。

 そんな彼女達の様子を見て、俺はほっと息を吐いた。

 良かった、大丈夫そうだ。そう思っての、安堵のため息だった。

 

「まーあたしはノルン姉の気持ちも少しわかるけどね。ウィル兄が来るまで毎日お父さん達が無事に戻ってくるよう、教会でお祈りしてたし」

 

 ふと、一連の流れを黙って見ていたアイシャが、少しくだけた調子でそう言った。

 

「……アイシャ、なんでそれ知ってるの?」

 

 ノルンが鼻をすすりながら、アイシャへ複雑そうな表情を浮かべていた。

 なんだ、ノルンもノルンで、俺達を真摯に想っていてくれたんだな。妹の真心に、胸が暖かくなる。

 

「クリフさんから聞き出したリニアさんとプルセナさんから聞いた」

「……」

 

 直後、あの獣人娘達の残念な表情が頭によぎり、その想いは霧散したが。

 というか、クリフ先輩もノルンの面倒を見てくれていたんだな。今度会った時にきちんとお礼をしよう。

 

「ていうか、あたしはルーデウスお兄ちゃんが新しい女の人連れてくるの時間の問題だと思ってたしねー。連れてくるのはリニアさんかプルセナさんかナ……の、どっちかだと、思ってたけど」

 

 アイシャは妙な言い回しをしつつ目を泳がせながらそう言った。

 一瞬、ウィルの方を見た後、何か特大の地雷を回避したかのような、そんな達成感をにじませながら。

 ウィルは、じっと瞑目したままだった。

 

「それに、ノルン姉はお父さんとあたしのお母さんにも同じこと言うの?」

「それは……ごめん、アイシャ」

「いいよ。ノルン姉、よく考えずに物事を言ってるの知ってるし」

「そんな言い方──!」

「まあウィル兄がきついお灸すえてくれたから、あたしはこれ以上なにか言うつもりはないけどさ。ていうか、あたしも似たようなことされたし」

「……」

 

 そこまで言ったアイシャは、ウィルへ茶目っ気たっぷりといった感じでぺろりと舌を出した。ウィルはそれを見て、僅かに口をへの字に曲げていた。

 俺がいない間に何をしたんだ、ウィル……。

 

「ま、まあ何にせよ、これで一件落着だな! はい、この話は終わり!」

 

 途中から全く存在感を感じさせなかったパウロが雑に締めた。

 父親らしいところを見せようとしたんだろうけど、ちょっとその言い草は残念すぎるぞパウロ……。

 ともあれ、ノルンもしぶしぶ、といった感じで頷いていた。

 まだロキシーがこの家族に溶け込めるのは時間がかかるのかもしれないけれど、パウロの言う通りひとまず一件落着といったところか。

 

 ……結局、俺はシルフィの度量に助けられただけだったな。

 

「では……」

 

 話が終わると、ウィルがすっと立ち上がる。

 見ると、窓の外はもう真っ暗だ。ウィルも疲れが溜まっていたのか、用意された客間へ向かおうとする。

 

「あ、あの、ウィリアム兄さん……」

 

 そんなウィルを、ノルンが引き止めた。

 何かを決心したかのように、ぽつりと呟いていた。

 

「私……強くなりたいです。ウィリアム兄さんみたいに。だから……」

 

 そして、ノルンはまっすぐにウィルを見据えた。

 

「私に、剣術を教えてくれませんか?」

 

 ノルンは、この話し合いで堂々と己の意見を言い放ったウィルに何かを感じたのだろうか。

 それとも、パウロの報告を聞いている内に、ウィルの凄まじい強さに憧れを感じたのだろうか。

 そんなノルンに、ウィルは複雑そうに眉をひそめた。

 

「お主では無理だ」

「そう……ですよね……」

 

 短くそう言い放つウィル。

 これは正直俺もそう思う。

 なにせ、ウィルの剣術はこの世界の剣術とは一線を画す。

 そもそも、この世界の剣術ではないし、その稽古は俺が見た中で一番狂った鍛錬だ。

 そんな死狂いな稽古を、果たしてノルンがついていけるのだろうか。

 王級剣士だったあの双子ですら、ヒーヒー言いながらこなしているレベルだ。

 よほどの覚悟があっても、ノルンの身体じゃついていけない。

 

 ウィルの残酷な言葉に気落ちしたのか、ノルンは悲しそうに俯いた。

 だが、ウィルは短く言葉を続けた。

 

「……基礎なら教える。明日から励め」

「!? は、はい!」

 

 そう言ったウィルはさっさと居間から出ていった。

 なんとなく照れくさそうにしているのを見て、少しだけ安心した。

 この様子なら、無茶な稽古はつけないだろう。多分。

 

「ノ、ノルン。剣術なら俺が教えるぞ」

「私、ウィリアム兄さんみたいに強くなりたいんです」

「ノ、ノルン~……」

 

 速攻で振られるパウロ。

 なんだか、ゼニスと同じようなやり取りをしているのが、容易に想像ができるな。

 

「お父さんさ、今すっごく情けないよ?」

 

 ごもっとも。パウロはアイシャに言い返すわけでもなく、しょんぼりと肩を落としていた。

 

 でも……

 

 なんかブエナ村を思い出して、懐かしい気持ちになった。

 

 ツンとしてパウロからそっぽを向くノルン。

 ニヤニヤしてパウロをイジるアイシャ。

 そしてそんな娘達に、情けない顔をしつつ笑顔を浮かべるパウロ。

 

 そして、それを見て、笑顔を浮かべるシルフィと、ロキシー。

 

 今、やっと

 

 

 家族が揃ったと、実感した。

 

 

 

 

「お兄ちゃんもね」

 

 アッハイ。

 返す言葉もございません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十五景『転生虎(てんとら)(きたえ)る!』

 

 “痛くなければ、覚えませぬ──”

 

 

「止め」

「は、はい……!」

 

 柔らかく粉っぽい朝日の光を浴びながら、ノルン・グレイラットは汗に塗れた額を拭う。課せられた素振り五十本を終え、少女は玉のような汗を滴らせていた。

 細い肩を揺らし、ぜいぜいと息を吐くノルンの様子を、兄であるウィリアムは半眼で見つめていた。

 

「まだ腕と肩で振っている。それでは剣先に“気”が籠もらん」

「は、はい……!」

 

「深呼吸をしろ」とノルンへ短く告げ、ウィリアムは自身の木剣を手に取る。

 生真面目に深呼吸し、息を整えたノルンは真剣な眼差しで次兄の次の言葉を待つ。

 

 ちなみにノルンは元々素振りを五十本もこなせるほど体力がある娘ではなかった。

 ウィリアムの剣術指導が開始された当初、素振りを終えるのに数刻の時を要していた程である。だが、ウィリアムはノルンが素振りを終えるまで、じっと妹の姿を見つめながら待っていた。

 

 叱りもせず、褒めもせず。ただ出来るまで待つ。

 ウイリアムの不器用な優しさは、確りとノルンへ届いていた。

 

「ノルン。正眼に構えろ」

「はい!」

 

 ノルンはふうと息をひとつ吐くと、木剣を正眼に構える。

 この一ヶ月、ウィリアムの剣術指導を受けてきたノルン。偉大な兄に一歩でも近付こうと、健気に鍛錬を続けている。

 そんな妹に、ウィリアムは日々自身の稽古、そして双子への稽古の合間を縫ってノルンに稽古をつけていた。

 傍から見たら仲睦まじき兄妹の剣術稽古。だが、その稽古内容は生々しいほど“実戦的”でもあった。

 

「構えていろ」

「はい!」

 

 ウィリアムはノルンが構えた木剣へ、軽く払うように自身の木剣を横打ちする。

 カン、カンと、乾いた音が鳴る度に、ノルンが構えた木剣は揺れに揺れた。

 

「柄の握りが甘い。これでは簡単に打ち負ける」

「はい!」

「もっと肩の力を抜き、脱力しろ」

「はい!」

「木剣はそっと握り、締めるのは小指だけにせよ」

「はい!」

 

 ひとつひとつ具体的な指摘をする内に、横打ちされる木剣のブレ幅は少なくなっていく。ノルンはウイリアムの指導効果に驚嘆しつつ、より一層稽古に打ち込んでいた。

 

(もっと、頑張らなきゃ!)

 

 この一ヶ月、木剣を振りに振ったノルン。だが、次兄がここまで実践的な指導をしてくれるとは、当初は思いもよらず。

 最初は走り込みと素振り程度しかやらせてもらえないと思っていたノルンは、素振りを十分にこなせるようになった頃から始められたこの指導内容に驚きを隠せずにいた。

 と同時に、次兄の期待に応えるべく、懸命に剣を振るっていた。

 

「ノルン。そのまま思い切り振り下ろせ」

「はい! ……え、このまま?」

 

 ふと、ノルンが構える木剣の前に立ったウイリアム。そのまま、自身に打ち掛かるよう指示をする。

 木剣とはいえまともに当たれば流血は避けられないことに、ノルンは思わず躊躇した。

 

「構わん。頭をかち割るつもりで来い」

「は、はい!」

 

 だが、そんな妹に、ウィリアムは冷断に木剣を振り下ろすよう告げる。ノルンは戸惑いつつも、意を決してウィリアムへ打ち掛かった。

 

「やあああッ!」

 

 彼女を知るものが聞けば実に微笑ましい気合声と共に、ノルンの木剣がウィリアムの頭上に振り下ろされる。

 だが、ノルンの木剣はウィリアムの頭上10センチ程で停止した。

 

「え──?」

 

 見ると、いつのまにかノルンの左脇下に、ウィリアムの木剣が押し当てられていた。

 少女に木剣が当たる前に寸止めされ、優しく押し当てられた木剣。ノルンはそれによりそれ以上木剣を振り下ろす事が出来なかった。

 

「肩の力と腕力だけで振るとこのように打ちが遅くなる。振りは背と胸の筋を使え」

「は……はい……」

 

 ウィリアムの剣速はノルンの目では到底捉えきれず、わけも分からぬ内に自身の振りが止められたのに、少女は戸惑うばかりである。

 

「ゆっくりで良い。背筋と胸筋を意識して振ってみろ」

「は、はい!」

 

 ウィリアムはノルンを叱ることなく、淡々と指導を続ける。

 ノルンは言われた通り背筋と胸筋を動かす事に集中し、木剣を上段に構えた。

 そのまま、ゆっくりと木剣を下ろす。

 だが、まだ兄の指摘を十分に理解していないのか、その振りは先程と変わり映えしない振りであった。

 

「まだ胸筋が使われていない」

「ひゃぁぁっ!?」

 

 すると、ウィリアムは唐突にノルンの慎ましい乳房に自身の手を当てた。

 未だ咲ききらない未成熟な蕾。とはいえ、乙女に変わりつつある少女の肉体は余人が思う以上に敏感である。

 ノルンは突然乳房を触られた羞恥で顔を真っ赤に染め、素っ頓狂な声を上げながら胸元を抑えた。

 

 尚余談ではあるが、ノルンは異母妹アイシャとは違い実の兄弟にも肌を晒すのを躊躇うほど、ある種の身持ちの固さがあった。

 これはノルンらの祖母であるクレア・ラトレイアの“貞淑な乙女はこうあるべし”という教育があったのもあるが、どちらかといえばノルンが本来持つ羞恥心によるところが大きかった。アイシャがルーデウスやウィリアムの入浴に全裸で乱入し背中を流すのとは雲泥の差である。

 

 尚余談中の余談ではあるが、ウィリアムの入浴時、最近はリーリャまでが入浴介助を行うようになった。これはゼニスの入浴時、誤ってウィリアムが浴室に入ってしまったのが事の発端だが、リーリャはついでとばかりにそのままウィリアムの肉体を嬉嬉として磨くようになった。

 リーリャは性的な昂ぶりを覚えているわけではないのだろうが、ウィリアムの裸体のあんな所やこんな所にまで手を這わせ、恍惚(うっとり)とした表情を浮かべる実母の様子を目撃したアイシャは「どん引きしましたけどね!」と、後にルーデウスに語っている。ちなみにウィリアムは何かを諦めたかのような表情を浮かべ、リーリャのされるがままになっているのが常であった。

 父パウロが嫉妬めいた眼差しで風呂を覗いていた事は、ここでは割愛する。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん! いきなり胸を触るなんて──」

「ノルン」

 

 だが、そんな少女の可憐な抗議を冷然と遮るウィリアム。

 ウィリアムは全く下心無く、あくまで指導の一環で少女の肉体に接触しただけである。

 

「え……あ……ご、ごめんなさい……」

 

 そんな兄の様子に、ノルンは過剰な自意識に羞恥を覚え、更に頬を染めていた。

 だが、恐縮するノルンに構わず、ウィリアムは唐突に自身の汗衣に手をかけた。

 

「ウィ、ウィリアム兄さん?」

 

 朝日が差したとはいえ、ルーデウス邸の庭は未だ氷点下の寒冷に包まれている。

 そんな冷えた空気の中、ウィリアムはその傷だらけの上半身を妹の前に晒した。

 

「ゆっくり振る。手を当てて確かめてみろ」

「は、はい」

 

 一切の無駄のない次兄の肉体。その体躯は、ともすると筋力トレーニングを欠かさずに続けている長兄ルーデウスよりも華奢である。

 だが、剣術には不要な筋肉が一切削ぎ落とされたその肉体は、ダイヤモンドの如き密度が備えられており。更に、(かすみ)の鉄血が交わってから虎の肉体の密度は以前よりも遥かに増していた。

 そして、その高密度の肉体が備えし凄まじき剛力は、生半可な筋力トレーニングでは決して得られぬもの。

 

 ウイリアムに促され、ノルンは頬を染めつつおずおずとその胸に手を当てた。

 

(……あったかい)

 

 朝の冷えた空気とは違い、兄の肉体からはじわりと暖かい温度が感じられる。そして、強硬度と思われたその肉体は、少女が思っていたよりも柔らかく、指先がやや埋まるほどである。

 

「ふわぁ……」

 

 ノルンは少しだけ陶然とした表情を浮かべ、先程の自身を棚に上げるかのようにもみもみと虎の胸板を堪能していた。

 

「戯け。筋の動きを確認せい」

「は、はいぃ!」

 

 ここで初めて叱責を受けたノルン。

 残念なものを見るような兄の視線に、ノルンは何度目かわからぬ羞恥を覚え額に汗をかいた。

 

「……」

 

 ウィリアムはため息をひとつ吐くと、ゆっくりと木剣を上段に構える。

 そのまま、へそと水平の位置になるまで剣を振り下ろした。

 

「わかるか」

「は、はい。わかります」

 

 脇がしっかりと締められ、剣が下ろされると同時に胸筋が盛り上がる。

 その様子を文字通り肌で感じたノルンは、兄が言わんとした事をやっと理解できたことで目を輝かせていた。

 

「このように振れば剣先は胸につかえてこれ以上下には行かぬもの。また、それ以上の下は無駄。無駄な動きは一切排除し、剣を振ることのみを考えよ」

「はい! ウィリアム兄さん!」

 

 ノルンはウィリアムの指導を念頭に、脇を締めゆっくりと木剣を振る。

 先程とは比べるまでもなく改善されたその振りを見て、ウィリアムは小さく頷いていた。

 

「……でも、ウィリアム兄さん。これじゃ、威力が足りなくないですか?」

 

 何度か木剣を振った後、ノルンはふと疑問を浮かべる。

 たしかに合理に則った剣の振りではあるが、果たしてこの振りが兄が見せる凄まじい威力を生み出す元となるのかと、疑問を覚えずにはいられなかった。

 

「……しばし待て」

「……?」

 

 そんなノルンに、ウィリアムは黙って家の中へと戻る。不思議そうに首をかしげるノルンであったが、しばらくして一本のショートソードを手にしたウィリアムが戻り、庭に設けられた立木の前へと進んだ。

 立木には藁が巻かれており、前世での試斬台のごとき造りを見せている。

 これは、ウィリアムがルーデウスの許可を得て、アイシャと協力して作り上げた代物である。もっとも、一人で拵えようとしていたのをアイシャが勝手に手伝ったというのが本当のところであるが。

 

「ノルン」

「はい」

 

 ウィリアムはノルンを呼び寄せると、ずずっと鞘から剣を引き抜く。

 朝日に照らされた刀身の光が眩しく煌めき、ノルンは思わず目を細めていた。

 

「これで斬ってみろ」

「え、あ、はい」

 

 すると、ウィリアムは柄をノルンへと差し出し、試斬するよう促した。

 戸惑いつつも、ノルンはぐっと背筋と胸筋に力を込め、立木の前に立つ。

 

「やあっ!」

 

 ショートソードは数打ち品の粗剣であったが、きちんと手入れがされているのかノルンが思っていた以上に良く斬れた。

 掛け声と共に袈裟斬りを放つと、立木の上部が裁断される。ノルンは満足そうにウィリアムへと振り返った。

 

「斬れました!」

 

 なるほど、正しい振り方をすれば威力はきちんと出るんだ──。

 そのような思いを抱きながら、まるで子犬のような笑顔を見せるノルン。

 

「ノルン」

 

 だが、ウィリアムはそれを否定するかのように厳しい声を上げた。

 

「剣術は試斬(しざん)ではない」

「え──」

「貸してみろ」

 

 呆気に取られるノルンから剣を受け取ると、ウィリアムは先程のノルンと同じ様に立木の前に立ち、剣を構えた。

 

「……ッ」

 

 剣を水平に固定したまま体のみを動かし、立木へ刃を入れる。当然のことながら立木は両断されず、刃は四分目のところで停止した。

 

「あ、あの、全然斬れてないですけど……」

 

 更に疑問を浮かべるノルンに、ウィリアムはショートソードを鞘に仕舞いながら答える。

 

「これは普通の人間の首と同じ手応えになるよう拵えた」

「はい」

「それを踏まえて聞くが、ここまで首を斬られた人間はどうなる?」

「……死にます」

 

 ノルンは急に立木が人体に化けたかのように見え、己の背筋に冷えた汗が伝うのを感じる。常の人間であれば四割ほど首が裁断された時点で死は免れず、例え治癒魔術を行使してもそれは変わらないだろう。

 もっとも、高位の治癒魔術を使えば話は変わるだろうが、そのような優れた治癒術師がそうそういるわけではなく。

 

「手首をやられたら?」

「血が沢山出ます……」

「股の下や脇の下は?」

「血が沢山出て、死にます……」

 

 淡々と述べるウィリアムに、重たい表情を浮かべながら応えるノルン。

 己が習う兄の剣術は、悍ましいほどの生々しさが感じられた。

 

「切断に拘泥すれば術理から離れてしまう。今見せたように体だけを動かして、腕や肩に頼らないようにしろ。それが良い稽古になる」

「は、はい。わかりました」

「ただし」

 

 瞬間。

 ウィリアムはそれまでの肉親に見せる顔から、孤高の憤怒を抱える魔剣豪の表情を見せる。

 

「堅甲利刃なる魔物、闘気を十全に備えし使い手、そして類稀なる魔術師と相対する時は、これ以上の術理が必要となる」

「……」

 

 声色こそ変わらぬも、言い放つ言霊はノルンの背筋を凍らせる。

 確かに威力は刀剣が備えしもの。女子供の膂力でも、十二分に対手を討ち果たすことが出来る。魔力が封じられし業物なら尚更であろう。

 

 だが、この世界に潜みし強者(つわもの)共は、その程度で討ち果たせる存在に(あら)ず。

 全ての技を修めし神人、不死身の肉体を持つ魔王、超速の剣を振るいし武侠、無為自然の神域に達した名人、重力を操りし英雄剣豪──そして、不退転の炎を鮮やかに燃やす、散華の(かすみ)

 それらと相対するには、“その程度”の術理では到底太刀打ち出来ないのだ。

 

 そして、その言葉を聞いたノルンの脳裏に、なぜだかわからないが長兄ルーデウスの姿が浮かんだ。

 

(……それは、ルーデウス兄さんにもですか?)

 

 この言葉を口に出したら、グレイラット兄弟が骨肉の争いを演じてしまうかもしれない。

 そう思ったノルンは、その言葉を必死で飲み込んだ。

 口に出したら、それが現実になってしまうかもしれないのだから。

 それほど、今の次兄の姿は、ノルンにとって得体の知れないナニカに映っていた。

 

「以上。今日の稽古はここまで」

「は、はい。ありがとうございました」

 

 稽古の終わりを告げるウィリアムからは、それまでの悍ましい空気は霧散していた。

 

 必要最小限の斬撃で対手を打ち倒す虎眼流の極意は、異世界に於いても変わらず。

 しかし、ノルンに教えたそれはあくまで虎の中で基礎でしかない。

 これ以上の術理とは、剣を糧にし、数多の強者と戦う為の、死狂いなる剣道。

 さらなる高みを目指すには、己の何もかもを捧げねばならない、修羅の道であった。

 

 

「あの、ウィリアム兄さん」

 

 稽古後の柔軟体操をしつつ、ノルンはウィリアムを見つめる。

 虎は変わらず上半身を冷気に晒していたが、全く寒さを感じさせない泰然とした佇まいを見せていた。

 

「なんだ」

 

 短く応えるウィリアムに、ノルンは数瞬躊躇うも、やがてその可憐な口を開いた。

 

「人を斬るって、一体どんな感じなんですか?」

 

 剣術とは、己の身を護るものであると同時に、他者の生命を容易に奪うもの。

 今日、改めてそう感じたノルン・グレイラット。

 ならば、兄はどのような想いで剣術を修め、その“暴力”を行使していたのだろうか。

 そう思ったら、ノルンは自然とそのような疑問を口にしていた。

 無垢な少女では想像すらつかない、虎が潜ったであろう様々な修羅場とは、一体どのようなものなのだろうかとも──。

 

「濡れ手ぬぐいを(はた)くが如く」

「え、えっと、あの、感触じゃなくて、ウィリアム兄さんが、どう思ったかなんですけど……」

 

 妙に生々しい文言が飛び出したことで、ノルンはやや顔を引き攣らせながら訂正する。

 感触も気になるところではあったが、流石にそこまで具体的な話を聞けるほどノルンは残酷無惨な話に耐性を持っていなかった。

 

 ウィリアムはノルンの様子に少しだけ首をかしげるも、やがて何かを思い出すかのように眼を閉じる。

 しばしの瞑目の後、虎は小さく呟いた。

 

「……初めて人を斬った時は、二十あった」

「二十?」

 

 今世において数年前の記憶。

 そして、今世を含めて数十年前の記憶。

 それらを噛みしめるかのように、虎は静かに語り出していた。

 

「恐怖、驚愕、憐憫、気鬱……それらが二十」

「……」

 

 もはや、最初に誰を斬ったのかは思い出せない。

 しかし、その時の感覚だけは、艶かしいほど鮮明に覚えていた。

 静かに語るウィリアムに、ノルンは息を飲み込みながら次兄の言葉に耳を傾ける。

 

「次に人を斬った時は、それが半分の十に減った」

 

 ふと、ノルンはある筈のない鮮血の香りを吸い込む。

 それは、ウィリアム……否、かつて剣鬼と称された魔剣豪から放たれていた。

 

「その次に斬った時は、その半分の五に……その次もまた半分……また半分……」

 

 そして、虎は今生の妹へ、その瞳を向けた。

 

「段々感じなくなる」

「……」

 

 憂いを帯びた瞳。

 しかし、その瞳からは死者を哀悼する感情は発現していない。

 

「もう聞くな」

「は、はい……ごめんなさい」

 

 ウィリアムはそこまで言った後、ノルンから視線を外した。

 虎は、無垢な妹をこれ以上修羅の道に引きずり込むことはせず。

 ただ孤高の憤怒、そして受け継がれし不退転の炎を燃やすのみである。

 そこに、家族の姿は無かった。

 

(ウィリアム兄さん……)

 

 ノルンはその姿を見て、なんとも言えない哀愁の念が浮かんだ。

 次兄が背負う宿業は、無垢な少女では想像もつかない。

 そして、その業を分かち合うことも、許されないのだ。

 

 唯一許されるとしたら、それは共に並び立つ程の実力を身に着けなければならない。

 そう思ったノルンは、それ以上ウィリアムに言葉をかけることが出来なかった。

 

 

「ウィル兄! ノルン姉! 朝ゴハン出来たよ!」

「ウィル、稽古するなら父さんも混ぜてくれよな~」

 

 ウィリアムがさてそろそろ戻ろうか、と思っていた矢先、庭先に異母妹アイシャ、そして実父パウロの姿が現れる。

 

「おはようございます、父上、アイシャ──」

「ウィル兄! 朝ゴハン冷めちゃうから早く戻ろ!」

「ウィル〜! いい加減父さんにも稽古つけてくれよな〜! 頼むよ〜!」

 

 挨拶をするウィリアムに構わず、コロコロと子犬のようにウィリアムの腰元へ抱きつくアイシャ。

 ついでと言わんばかりにウィリアムの後ろからガバリと覆いかぶさるパウロ。

 朝っぱからからグレイラット父娘にもみくちゃにされた虎は、即座に諦観の表情を浮かべ、されるがままである。

 

「ちょっとお父さん! アイシャ! ウィリアム兄さんが困っているじゃないですか!」

 

 そんな虎に思わず助け舟を出すノルン。

 実際、ノルンの言葉を聞き、ウィリアムの瞳に生気が宿り始めた。

 

「そんなこと言っても説得力ないよノルン姉。ウィル兄のおっぱいもんでたくせに」

「なっ!? い、いつから見てたの!?」

「なにっ! ノルンばっかずるいぞ! ウィル、俺にも揉ませろ!」

「お父さん!?」

 

 直後、虎の眼は死んだ。

 

「朝っぱらから賑やかだね」

「そ、そうですね……少し賑やか過ぎな気もしますけど……」

「旦那様ばかりずるいわ……」

「……」

「あ、シルフィ姉、ロキシー姉、お母さん、ゼニス様! おはようございます!」

 

 騒々しい親子に誘われてか、ルーデウスを除くグレイラット家の人々が顔を出す。

 アイシャはくるりと踵を返し、シルフィ達の前へ元気良く挨拶しに行った。

 父パウロは相変わらず虎の胸板を揉んでいたが。

 

「……」

「奥様?」

 

 すると、ふらりとゼニスが歩き出す。

 幽鬼のような足取りだが、まっすぐとウィリアム達の元へ向かった。

 

「は、母上……?」

 

 そのままパウロに羽交い締めにされたウィリアムの前に立つと、ゆっくりとその両腕を突き出す。

 

 もみり

 

 そして、ゼニスは無表情のまま、無言で虎の胸を揉み始めた。

 

「……」

「……」

「ぶ、母さんも好きだな!」

 

 笑いながらウィリアムを後ろから抱きしめるパウロ。そして、前から愛撫するゼニス。

 虎は両親のシュールな愛情を受け、この世の全てを諦めたかのような無常感溢れる表情を浮かべていた。

 

「なんだか私も触りたくなってきました」

「ボクもボクも。なんか、気持ち良さそうだよね」

「シルフィ姉、ロキシー姉。ウィル兄ってとっても柔らかくて、お日様の匂いがするんだよ!」

「へえー。そうなん──」

「アイシャ。それは少し違います。ウィリアム様のお身体は女童(めのわらわ)と見紛う程の柔肌(やわはだ)ではありますが、内に秘める逞しさは益荒男(ますらお)のようで、その香りは陽射しに照らされた草花の如く青々しく瑞々(みずみず)しい香り。そしてウィリアム様の香りに包まれると安らかな気持ちになりまるで桃源郷に(いざな)われたかのような得も言われぬ至福が沸き起こり思わず母性が刺激されるその美事(みごと)な肉体は娘を献上いえ(わたくし)を捧げても構わぬほどで(かえ)ってアクセントになっているその傷だらけの柔らかく暖かいお肌をゆっくりと優しく撫でつつ手取り足取りメロメロキュンキュン丸──」

「ちょっちょっちょっと待ってお母さん!」

「倒錯しすぎだよリーリャさん!」

「あの、メロメロキュンキュン丸というのはいかなるものなのでしょうか……」

 

 女 中 仏 契(リーリャぶっちぎり) !

 

 虎の肉体にドハマりせし眼鏡メイド、変なスイッチが入り性癖全開!

 その狂気に当てられし娘共、ただ狼狽す!

 

 朝飯前とは言い難い、実に混沌とした家族の風景である。

 

「あ……あはは……」

 

 もはや乾いた笑いを浮かべるしかないノルン。

 しかし、ノルンの胸の奥底から、段々と暖かい感情が生まれていた。

 

(やっぱり、ウィリアム兄さんは、ウィリアム兄さんだ)

 

 幼い頃の、おぼろげな思い出。

 それと寸分違わない、暖かい光景が、ノルンの目の前に現れていた。

 そこには、狂おしい程の激情を内包した魔剣豪の姿はなく。

 

 ただ、家族と触れ合う、若武者の姿しかなかった。

 

 

 

「ノルン……なにこの……なに……?」

「あ、ルーデウス兄さん……えっと、見ての通りです……」

 

 走り込みから帰宅し、困惑に満ちた表情を浮かべるルーデウスを、ノルンはなんとも言えない表情で出迎えていた。

 

 

 

 

 

 


 

 

「ではこれより稽古を始める」

「はっ!」

「よろしくお願いします!」

 

 ルーデウス邸の朝の騒動から数刻後。

 ウィリアムの姿はシャリーアから少し離れた雪原に、双子の兎、ナクル・ミルデットとガド・ミルデットと共にあった。

 

 ルーデウスやノルン、そして先頃からラノア大学の教師に就任したロキシーが通学通勤する中、ウィリアムもまた弟子へ稽古をつけるべく出かけていた。

 パウロと同じく、通勤も通学もしないウィリアムの立場は、有り体に言えば無職そのものである。

 だが、先のベガリットでの戦利品が親子の不労所得を莫大なものにせしめており、特にマナタイトヒュドラを直接仕留めたウィリアムの取り分は十分すぎる程であった。

 

 とはいえ、ウィリアムは金品の管理のほとんどをパウロに任せ、自身の持ち分はアスラ金貨10枚ほどに留めている。

 パウロもパウロで自分の取り分を全てウィリアム、そしてルーデウスに預けるつもりであったのだが、ゼニスの治療に専念すべし、というウィリアムの言葉を受け、その資金を使用し、ゼニスの治療法を探す毎日を送っている。

 ベガリットで得た財産はグレイラット家が生活する上でなんら不足なく、ウィリアムもまた自身の“すべき事”に専念していたのだ。

 

 ちなみにシャリーアへ帰還した当初、ウィリアムはその出自を盛大に勘違いしているナナホシ・シズカの元へと帰還の挨拶に出向こうとしていた。だが、心の準備が整っていないナナホシから“出仕無用。今は家族と旧交を温めるべし”との言伝をルーデウスから受け、その訪問を控えていた。

 

 現代日本への帰還魔法陣の研究が佳境に入っていたことなどで、平成日本女子高生に虎の訪問を受ける余裕が無かったというのもあるが、ナナホシから事のあらましを相談されたルーデウスが一旦会うのを控えるように提案していたのもある。

 

 ルーデウスは、近い内にウィリアムとの“日本語による話し合い”を行う腹積もりでいた。その時に、弟の前世での正体やナナホシに対する勘違いの是正、そして怨身忍者ら衛府の龍神一党について問い質そうとしていた。

 これは同じ日ノ本からの転生者として、避けては通れぬ禊でもある。そのような決意をしつつ、今日までその話し合いが実行されなかったのは、下手に事を急ぐとウィリアムがどのような行動を取るか予測出来なかったから。

 やっと再会を果たし、穏やかな日常を営む家族。それが、再び離散してしまうのを恐れたルーデウスは、日々の学業や雑事をこなしつつ話し合いのタイミングを慎重に図っていたのだ。

 

 そんな兄の想いを知ってか知らずか、ウィリアムは淡々と弟子の戦力増強に努めていた。

 

 既に日は中天に差し掛かっていたが、変わらず深い雪が残るシャリーア郊外の雪原は厳寒に包まれている。

 そのような気温にも関わらず、ウィリアム、そしてその前に膝をつく双子の兎が身につけているのは、朝のウィリアムと同じく薄い汗衣に麻のズボンのみであった。

 

「二人同時で良い。かかってまいれ」

「はっ!」

「はい!」

 

 互いに木剣を携えた異界虎眼流師弟。

 だらりと木剣を下げたウィリアムへ、双子は殺気を込め木剣を“担ぐ”。

 だが、双子の殺気を受けた虎は憎悪にも似た感情を発露した。

 

「殺の気が足りぬ。殺すつもりで来い……手加減いたせば、その方らを撃ち殺す──!」

「は、はい!」

「……ッ!」

 

 ウィリアムの苛烈な言葉。

 それを受けても尚、双子は仕掛けることができない。

 ウィリアムから発せられる炎のような剣気に圧迫され、それ以上動く事が出来なかったのだ。

 

「……すげえな、おい」

 

 そんな師弟の様子を少し離れた所で見つめるは、元“黒狼の牙”のシーフ、ギース・ヌーカディア。

 シャリーアに滞在する間、ギースは双子のシャリーア滞在を世話していたのだが、偶にこうして師弟の稽古を見学することもあった。

 ギースは師弟から発せられる悍ましい程の殺気を受け、背筋に冷えた汗を流す。

 そして、懐に忍ばせた幾枚かの上級治癒魔術が込められたスクロールを握りしめていた。これは稽古後、双子の治療(・・・・・)の為に用意されたものである。

 双子もベガリットの戦利品を換金し懐に収めてはいたが、その使途のほとんどはスクロール代に消えていた。

 

 中々打ち掛かれずにいる双子に、虎は苛立った吠声を上げる。

 

「武芸者なら、剣で死ぬるを冥加(みょうが)といたせッ!」

「ッ!?」

「ッ! う、うわあああああッ!!」

 

 直後、双子は弾かれたようにウィリアムへ打ち掛かった。

 左右同時に放たれる“流れ”

 いかな虎眼流開祖とはいえ、この双撃を躱せるとは──

 

「ギッ!?」

「グッ!?」

 

 否。

 双子の木剣が届く直前、ウィリアムは双子を上回る剣速で“流れ”を双子の顎へと放っていた。

 脳を僅かに揺らされた双子は、途中まで振り抜いた木剣を落とし、その身を地に這わせる。

 

「……お、恐れ入り──!?」

 

 僅かに顔を上げたナクルに、ウィリアムは無慈悲に木剣をその首筋へ圧し当てた。

 

「ガッ──ッ!」

「ナ、ナクル兄ちゃん……!」

 

 ナクルに馬乗りになり、容赦無くみぞおちに膝を突き刺す。

 脳を揺らされたガドは立ち上がることが出来ず、地に縫い止められた兄が虎に蹂躙されているのを見ていることしか出来ない。

 

「……」

「カッ──」

 

 みしり、と肉と木剣が軋む音が響く。

 頸部を圧迫され、ナクルの顔面は細胞が壊死したかのような重篤なそれへと変わっていった。

 かつてウィリアムに潰された片目は肉が隆起し、残った片目からも血涙が漏れ出る。

 みしりと膝が捻り入り、腹膜を潰されたナクルは尿道や肛門からも鮮血を垂れ流していた。

 

「お、おい! やりすぎだぜ!」

 

 思わず、ギースがそう叫ぶ。

 虎眼流の猛稽古をある程度は見慣れているとはいえ、ここ最近のウィリアムの虐待稽古ともいえる激しさは、流石のギースも目を背けたくなるほどの惨状である。

 そのようなギースに対し、ウィリアムは短く応えた。

 

「痛くなければ覚えませぬ」

「なっ……!」

 

 ウィリアムの冷然たるその言葉。

 それを聞き、ギースはそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。

 

「──ッ、ガアアアッ!!」

「ッ!?」

 

 瞬間、ウィリアムの肉体が宙に浮く。

 ナクルの肉体はバネのように反り返っており、ウィリアムは地雷を踏んだかのように兎兄の肉体から弾き飛ばされていた。

 

 虎眼流“土雷”

 

 兎兄が習得せし、虎眼流の妙技が放たれた瞬間であった。

 

「……」

 

 ウィリアムは土雷の衝撃を咄嗟に腕で防御せしめていたが、ナクルの拳が当たった箇所には早くも青い痣が浮かんでいた。

 上腕部にじわりと広がるその痛み。虎は僅かに口角を引き攣らせ、その痛みを味わっていた。

 

「や、やった……!」

「ナクル兄ちゃん、お美事……!」

 

 双子が喜悦に満ちた表情を浮かべるのを見て、ウィリアムは即座に口元を正す。

 

「立て」

「は、はい……!」

「もう一本、お願いします……!」

 

 虎は、この程度では褒めはしない。

 まだまだ、この双子には強くなってもらわねば困るのだ。

 なぜなら、双子が強くならねば、己が稽古にならぬから(・・・・・・・・・・)

 

 未だあの仇敵を討ち果たす憤怒は消えぬ。

 しかし、その剣神の神妙なる剣境に至るには、あと一歩足りない。

 独り稽古ではその剣境に達するには難しく。

 故に、双子を己の剣境に少しでも近づける。

 

 妹へは、いずれは目録程度の義理許しは行うつもりでいた。

 しかし、この双子へは、義理許し、ましてや金許しなど到底許すはずもなく。

 術許しでしか、その奥伝を伝えることは、許されないのだ。

 

 ウィリアムは、更に双子へと猛稽古を加える。

 

「ガッ!」

「ギィッ!」

 

 渾身の力を込め立ち上がる双子へ、激しい打擲を加えるウィリアム。

 稽古の時間が経つにつれ、双子の肉体は無惨な姿へと変わり果てる。

 肉が腫れ、骨が折れ、血管(ちくだ)が破れ。

 それでも、双子は死に物狂いで稽古を続ける。

 

「……イカれてるぜ、あいつら」

 

 それは、双子に向けてなのか。それとも、ウィリアムを含めてなのか。

 ギースは青ざめた表情を浮かべながら、日が暮れるまで続けられた稽古を、ただその双眸で見つめていた。

 

 

 

 

「……」

 

 そして、いつ果てるともなく続けられた稽古が終わりを告げる。

 死に体ともいえる双子をギースへ託したウィリアムは、一人ルーデウス邸への帰路へついた。

 既に日は完全に暮れており、シャリーアの街中は夜の帳が下りている。

 

「……まだ、足りぬ」

 

 暗い夜道を歩きながら、ウィリアムはそう呟く。

 双子は、本日もウィリアムへ碌な有効打を放つこと無く稽古を終えた。

 双子の才能はこの世界でも有数のものであったが、虎眼流の真髄を修めるにはやや不足。まだまだ時がかかる剣質に、虎は焦れったい思いを想起させていた。

 

「……」

 

 ふと、ウィリアムはかつての弟子、伊良子清玄が瞬く間に虎眼流を己のものとした事を思い出す。

 曖昧の最中、天才美剣士の業に満ちた生き様を視たかつての虎。その有様を思い出した虎は、じわりと怨嗟の感情を滲ませる。

 だが、不思議とその怨恨の火はそれ以上燃え広がず、静かに鎮火していった。

 

(あれは……盗み癖さえなければ喃……)

 

 どこか諦観めいた表情で、そう思考するウィリアム。

 道義を違えなければ、あの剣士は虎眼流の跡取りとして申し分ない才能。

 それは、実子同然に可愛がっていた、あの藤木よりも──

 

「……」

 

 ウィリアムは頭を振ると、それ以上思考するのを止めた。

 それは、いまさら思っても詮無きこと。

 前世での事は、あくまで前世。今世には何ら関係無きこと。

 そう思って、虎は思考を中断していた。

 

 だが、虎は気づいているのだろうか。

 前世の宿業に未だ囚われ、ありもしない徳川家の威光にひれ伏していた事実を。

 そして、その宿業ともいえる身分の檻を、あの不退転戦鬼の火が解きほぐしていたのを。

 

 歪な矛盾を抱える虎は、沸き上がる複雑な想いを抱え、今世の家族が待つルーデウス邸へと歩を進めていた。

 

 

「ウィル兄、おかえりなさい」

「……?」

 

 玄関で出迎えたのは、アイシャだった。

 いつも通りといえばそれまでだが、妙にそわそわとしているアイシャの姿を看破し、ウィリアムは不思議そうに首をかしげる。

 

「なにか、あるのか」

「ふふーん。あのね、ウィル兄」

 

 アイシャはくるりと可愛らしく身を翻す。

 そしてエプロンドレスの裾をつまみながら、恭しく頭を垂れた。

 

「本日はウィリアムお兄様の、十五歳のお誕生日でございます。わたくしは元より家族一同、謹んでお祝い申し上げます」

 

 貞淑なメイド口調でそう述べた後、花が咲いたかのような笑顔を浮かべるアイシャ。

 それを見たウィリアムは、やや呆気にとられつつ、自身がまたひとつ齢を重ねていたことを自覚した。

 

 ああ、そうか。

 己は、もう十五になったか。

 今更ながらそのような感慨にとらわれたウィリアム。いそいそと手を引っ張るアイシャを見て、僅かに笑みを零した。

 

「そういうわけでウィル兄! 主役がいないと始まらないから、はやく行こ!」

「……そう引っ張るな。どこにも行きはせぬ」

 

 そして、虎は可憐な少女に連れられ、暖かい日だまりの中へと向かっていった。

 

 

 栄達の為でなく

 

 まして求道(ぐどう)の為でなく

 

 ひたすら孤高の憤怒(ふんぬ)を晴らす為に剣を磨きし者共

 

 魔剣豪(まけんごう)と呼ぶべし

 

 

 然るに、その宿業

 

 

 情愛に触れし間、未だ狂咲(くるいざき)ならず──

 

 

 

 

 

 

 


 

「いやーマジでお疲れさん」

「イエイエ」

「ドーモ」

 

 ウィリアムがルーデウス邸へ帰途についた頃。

 双子の兎はギースと共に根城にしている安宿に設けられた酒場にて酒を酌み交わしていた。

 既に治癒スクロールにて全快していた双子は、稽古の疲れを癒やすかのように勢い良くエールを傾け、大きい皿にドカ盛りされた肉の煮込みに舌鼓を打っていた。

 

(はふ)(はふ)

(ムシャ)

「あれだけぶっ叩かれたってのに、よくそんだけ飲み食いできるな……」

 

 双子の食いっぷりにやや呆れつつ、ちびちびと酒を呑むギース。

 先程までの死にかけ姿とは打って変わり、ムシャムシャと肉を頬張りグビグビと酒を呷る双子の姿は元気一杯。双子の底しれぬ体力に、ギースは驚きを通り越して呆れるしかなかった。

 

 しばらくはとりとめのない雑談を交わしつつ、ギースはさり気なく双子から視線を外す。

 客はギース達以外存在せず、酒場の亭主も厨房内に引っ込んでいるのを確認したギースは、双子を気遣うかのように柔らかい声をかけた。

 

「ほんとおまえさん達、よくあんな稽古についていけるよな」

「ふぇんふぇんひょゆうっふ!」

「あらへあいむひおっにほんまへほひあんはうぇア!」

「ちゃんと食ってから喋ろよナクル……あと一瞬目離した隙に泥酔するのやめろよガド……」

 

 ガツガツと肉を食い続けるナクルに、ガブガブとエールを飲み干すガド。

 その残念な双子の様子に、全く体を動かしていないはずのギースの方が疲れ果てた表情を浮かべていた。

 

「ま、いいか。ところでナクルよ、おまえさんにいくつか聞きてえ事があるんだが」

「なんスか?」

 

 既に泥酔し、曖昧状態となっているガドを捨て置き、ギースはやや真剣な表情でナクルに話しかける。

 

「お前さん達がベガリットで一緒にいた……あの現人鬼なんだけどよ。ありゃ一体何者なんだ? 結局、一緒にいた時はロクに話すことが出来なかったし、先輩らに聞いても何もわからねえしよ」

 

 前から聞きたかったであろう疑問を口にするギース。

 事実、あのような人間……いや、異形は、経験豊富なギースですら見聞きしたことのない特異な存在であった。

 ナクルはギースの疑問を受けしばし考える素振りを見せるも、やがて素っ気なく答えた。

 

「知らねっス」

「し、知らねってお前……」

「若先生が特に気にしてないっぽいんで、現人鬼殿が何者とか興味ねーっス。いつかぶっ殺してやりてえけど……

「そ、そうかよ……」

 

 呪詛の念を吐きつつ恨めしげな表情を浮かべるナクルを見て、ギースはそれ以上現人鬼について聞く事を止めた。

 

「じゃ、じゃあよ。お前さん達はどういった経緯で若センセに弟子入りしたんだ? たしか、お前さん達は元々北神流だろ?」

「あー、それはー……」

 

 ナクルは隣で爆睡している弟ガドを見つつ、師匠であるウィリアムとの初遭遇時を滔々と語る。

 元々は同門である北帝オーベール・コルベットから連絡を受け、北神流門下へと勧誘しようとしていた事。

 そして相まみえた時、虎の牙に圧倒された事。

 そのまま弟子となり、共にベガリット大陸へと旅立った事。

 要所要所で現人鬼をディスりつつ語ったナクルの言葉に、ギースは深く頷きながら聞いていた。

 

「って感じっス」

「なるほどなぁ。北王を問題にしねえのか……」

 

 ギースは顎をさすりつつ、ウィリアムの戦力を分析するかのようにナクルの言葉を反芻する。

 

「そういや、若センセは死神をぶっ倒して七大列強になったなんだってな?」

「そうスけど」

「俺も迷宮での戦いぶりを見てたけどよ、ありゃぁすげえよな。列強ならヒュドラもあの不動ってバケモンも簡単にぶった斬れるんだな」

「いやぁ、それほどでも……」

 

 ギースがウィリアムを褒める度、ナクルはまるで自分の事のように喜ぶ。

 弟子として師匠が持ち上げられるのは、やはり悪くない気分である。

 

「それに、あの剣もすげえよな。タルハンドも夢中になってたけど、あれも相当の業物だぜ」

「ナナチョウネンブツって銘らしいっス」

「ナナチョウネンブツか。変わった名前だなぁ」

「実際変わってるっス。あんなめちゃくちゃ鍛え込まれた剣、見たことねえっス」

「だよなぁ。ありゃあの有名な剣神七本剣よりすげえぞ」

「いやぁ、それほどでも……」

 

 師匠の愛刀の話題になると、ナクルはちらりと王級剣士の顔を覗かせる。

 一流の使い手ですら目にしたことのない七丁念仏の焼き、鍛え、砥ぎは、やはりこの世界では特異な代物であった。

 

 ギースはしばらくウィリアムを褒め殺すかのように言葉を続ける。

 気分を良くしたナクルは、増々嬉しそうにギースの言葉に応えていた。

 

「ところでよ。もしもの話なんだけどな」

 

 和やかな雰囲気の中、ギースはふと話題を変える。

 ナクルは相変わらずにこやかにギースの言葉を聞いていた。

 

「もし──もしもよ」

 

 ギースはほんの少し、躊躇うように言葉を続ける。

 ナクルはその様子に気づかないのか、相変わらず笑顔であった。

 

 そして──

 

 

「若センセが負ける(・・・)としたら、それはどんな相手──」

 

 

 そう、ギースが言った瞬間。

 

 

「殺すよ、オマエ」

「ッ!?」

 

 

 覚醒したガドが、ギースの喉元に曲剣を突きつけていた。

 

「ガド」

 

 感情が一切死滅したかのような平坦な声で、ナクルは弟を諌める。

 それまでの和やかな空気が一変し、ギース達の周辺は絶対零度まで凍てついていた。

 

「……チッ」

 

 ガドはナクルに諌められ、ゆっくりと剣を引く。

 ガドは先程まで泥酔し惰眠を貪っていたとは思えないほど、冷めた表情を浮かべていた。

 

「ギースさん。ガドはちょっと酔ってるみたいだ」

「ッ! あ、ああ……」

「まあもっとも──」

 

 そして、双子はゆるりと席を立つ。

 その赤色の瞳を、ギースの猿顔へと向けた。

 

「ガドが抜いてなきゃ俺が抜いてたけどな。ガドは俺よりちょっとだけ疾いし」

「そういう兄ちゃんは僕よりちょっとだけ力が強いんだよね。鍔迫り合いになったら勝てないや」

 

 やがていつも通り和やかな空気を纏わせる双子の兎。

 だが、ギースはその様子を見て得体の知れない悍ましさを感じ、全身から脂汗を噴出させていた。

 

「若先生ほどの強さじゃないけどな」

「若先生ほどの疾さじゃないけどね」

 

 同時にそう言い放つ双子。そのまま、部屋へと戻る為酒場の二階へと足を向ける。

 

「ああ、ギースさん」

「な、なんだ」

 

 去り際にギースへ声をかけるナクルの双眸は、紅く、妖しく歪んでいた。

 

「若先生に、負けは無い。これまでも、そしてこれからも」

 

 あの時。

 あのルーメンの森での出来事。

 それは、双子にとって忘れがたき屈辱の記憶。

 師匠が味わいし敗戦の恥辱は、双子にとって決して甘受できるものではない。

 

 死狂うた双子の忠誠心は、決して他者には理解できぬ、ある種の狂信的な崇拝の域へと達していた。

 

 

「……」

 

 一人残されたギース。

 双子兎の狂気に当てられ、茫然自失とした様子を浮かべ──

 

「……へっ、へへへ」

 

 否

 ギースは、唐突に不敵な嗤い声を上げる。

 双子に勝るとも劣らない程、不気味に口角を引き攣らせたギースは、ぎしりと椅子にもたれかかり、何かを思案するかのように天井を見上げた。

 

「うまいことあいつらを操って共喰いさせようと思ったが、ありゃ無理だな……七丁念仏や不動も盗めるとは思えねえし……」

 

 ぶつぶつと独り言を呟くギース・ヌーカディア。

 七丁念仏や不動の発音が、やけに日本語(・・・)の発音に近いことが、猿面の男の不気味さを一層引き立てていた。

 

「迷宮じゃスクロールに細工してもくたばらなかったしなぁ……つーか怨身忍者って、反則だろありゃ……列強クラスをぶつけるにしても、あの霞鬼ってのが出張ってきたら勝ち目薄いしよ……いざとなったら、パウロや先輩達も……どっちにしろ長期戦になりそうだなこりゃ……」

 

 ギースはテーブルの上に置かれたグラスを摘むと、ゆっくりとグラスを傾け酒を呷る。

 熱く、太い息を漏らしたギースは、酒を呑んだとは思えないほど冷たい声色で呟いていた。

 

「ったく、大変だけどやるしかねえんだよなぁ……アイツは俺の恩人で、俺はアイツの恩人になるんだからよ……パウロや先輩は好きだけど、別にあいつは好きでもなんでもねえしな……どっちに付くかっていったら、決まってんだろ」

 

 やがてギースは席を立ち、ポケットから銅貨を出してテーブルに置く。

 フラフラと酒場の出入り口へ向かう様子は、まるで何者かに操られている様相を呈していた。

 

 

「猿が仲間を集めて、虎退治ってか」

 

 

 ヌーカディア族の唯一の生き残りは、己の運命(ジンクス)に従い、夜の街へと消えていった

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十六景『転生虎(てんとら)(うた)ぐ!』

 

「つまり、ウィルの前世は戦国時代の剣豪ということか」

「ええ、そうよ」

 

 魔法大学

 ナナホシ・シズカの研究室

 

 ルーデウス・グレイラットは魔法陣が描かれたスクロールに魔力を込めながら、研究室の主であるナナホシ・シズカを見る。

 ナナホシはいつもの白面マスクを装着しておらず、その可憐な表情を鬱々げに沈めていた。

 

「コホッ……ウィリアムの前世での名前は岩本虎眼。剣術虎眼流開祖にして掛川藩剣術指南役。私達……平成日本人の私達とは全く違う価値観を持っていると考えた方がいいわ」

「岩本……虎眼……」

 

 風邪でも引いているのか、時折咳き込みながらそう述べるナナホシ。ルーデウスもまた弟の正確な正体を知り、複雑な表情を浮かべていた。

 

「ナナホシを徳川のお姫様と勘違いしてるって聞いた時はなんだそれ? って思ったけど、納得したよ……」

「それは私も想定外だったわ……」

 

 ルーデウスがべガリット大陸へと赴いている間に起こったシャリーアでの出来事。

 その事の顛末を聞いたルーデウスは、弟ウィリアムが巻き起こした複雑な人間関係の構築に頭を抱えていた。

 とはいえ、ナナホシ以外の友人、知人達には直接悪影響を及ぼしているわけではないので、これは概ねナナホシとウィリアム、そしてルーデウスの問題に収まっていた。

 リニアーナ・デドルディア、プルセナ・アドルディアが被った心的外傷後ストレス障害(PTSD)については、どう聞いても彼女らの自業自得なので考慮はしていない。

 

「実はご先祖様が徳川家の人だったりしないのか?」

「それは無いわ。駿府藩の藩士だったのは確からしいけど、そんな大層な家じゃないし……むしろ家格では向こうの方が上よ」

「じゃあ、いっそのこと実は違いますって訂正するとか」

「私に死ねと?」

 

 短い間ではあったが、あの苛烈な価値観を見せつけたウィリアムに対し、身分を騙るというのはナナホシにとって自殺行為に他非ず。

 

「今のウィルなら大丈夫だと思うけどなぁ……」

 

 そんなナナホシに、ルーデウスはやや楽観めいた口調で応える。

 事実、ベガリットで共に死線をくぐり抜けたウィリアムからは、ルーデウスが幼少の頃に感じていたある種の“悍ましさ”は鳴りを潜め、今はただ家族に対し不器用な優しさを見せる弟でしかなく。

 

「……まあ、私としてはこのまま勘違いをし続けてもらった方が都合が良いわ」

「えっ?」

 

 騙り通す、と宣言したナナホシに、ルーデウスは驚きが籠もった眼差しを向ける。

 ナナホシはルーデウスの視線を受け、滔々と理由を語り始めた。

 

「私達はあの事故がきっかけで転移、転生した。でも、ウィリアムはあの事故以外の要因で転生した。つまり、何か別の“力”が働いて転生したとみていいわ」

「……」

 

 ナナホシの言葉を受け、ルーデウスの脳裏に山本勘助の言葉が蘇る。

 

(衛府の龍神……)

 

 人智を超えた超常の存在。ルーデウスが知覚できずとも、それは確かに存在する。

 ウィリアム、七丁念仏、拡充具足不動、山本勘助……そして、現人鬼波裸羅。

 あれらは、超常の存在、衛府の龍神がこの世界に遣わした存在なのでは。そう考えると、非常識な彼らの存在が腑に落ちるのだ。

 もっとも、彼らからしてみれば魔術や闘気、魔物が存在するこの世界の方が非常識なのかもしれないが。

 

「つまり、この研究以外の方法で私が平成の日本に帰れる手段があるのかもしれない。だから、ウィリアムの協力が必要なのよ。それも、積極的な協力が」

「ウィルは自分が転生した原因は知らないと思うぞ」

「本人が認識していないだけで、彼は明らかに何らかの超常現象で転生しているわ。あの日本刀がその証拠よ」

「というと?」

「あれは明らかに日本の物よ。この世界の刀工じゃ作り様がないもの。詳しく調べたい。転生した時じゃなく、その後に入手した物なら尚更だわ」

 

 ナナホシはウィリアムから七丁念仏をどの様に入手したのか、未だ詳細は聞いていない。だが、転移事件後に入手していた事はルーデウスの証言もあり明確である。

 日本からこの世界へと物品を任意に転移せしめる方法があるのなら、その逆もまた可能。

 希望的観測も多分に含むも、ナナホシのこの推測はルーデウスにとっても説得力のあるものであった。

 

「……あの、ナナホシ……実は」

 

 ここでルーデウスは未だ話をしていないベガリッド、山本勘助の話を共有しようと口を開いた。

 ナナホシの推測を補強、いや証明するその話は、異世界へ転移した女子高生の瞳を爛と輝かせる。

 

「……という事があって」

「……」

 

 ルーデウスの話を咀嚼するかのように黙って聞いていたナナホシ。

 そして、ふとある文言を口にした。

 

「パラレルワールド」

「え?」

 

 ナナホシの言葉に、ルーデウスは僅かに驚きが籠もった表情を浮かべる。

 

「ウィリアム……岩本虎眼は私達がいた世界の過去から転生した。それは間違いない。でも、その波裸羅って人と、不動、そして山本勘助の怨霊は、どう考えても私達の世界から来ていないわ」

「ナナホシ。波裸羅じゃない。波裸羅()だ。あと人じゃない。現人鬼だ」

「え? あ、はい」

 

 妙な訂正が入り、ナナホシは一瞬素の表情を出す。

 ルーデウスはいたく真剣な表情を浮かべ、女子高生の間違いを指摘していた。

 

「んんっ……とにかく、その波裸羅……様は、それこそその“衛府の龍神”が何らかの手段でこの世界に送り込んだ可能性が高いわね。私達がいた元の世界、この異世界、そして私達がいた世界とは別次元の世界……それらを自由に介入できる方法があるなら、是が非でも知りたい」

「うん……それにしても、やっぱりパラレルワールドだよなぁ……」

 

 濃度やジャンルの差はあれど、そこはお互いオタク気質。

 ルーデウスにとって、ナナホシの話を理解するのは容易かった。

 

「ルーデウス。波裸羅様とは連絡を取れないの?」

「取るも何もいきなりいなくなっちゃったしなぁ。ウィルも知らないらしいし……」

 

 平成日本への帰還が、今進めている研究以外で現実味を帯びてきたことに、ナナホシはやや食い気味でルーデウスへ問いかける。

 だが、困ったように肩をすくめるルーデウスを見て、ナナホシは落胆めいた溜息をついた。

 

「そう……なら、人探しが得意な知人がいるから、その人に頼むわ。ていうか、もしかしたらもう知ってるかもしれないし」

「マジか。でも、波裸羅様がナナホシに協力してくれるかなぁ……」

「そこは出たとこ勝負ね」

「やめたほうがいいと思うけど……」

 

 ルーデウスは傲岸不遜、天衣無縫な波裸羅の姿を思い浮かべる。

 あの暴虐を絵に描いたような存在が、果たしてナナホシに進んで協力してくれるのだろうか。よしんば協力してくれるとしても、所詮ただの平成日本女子高生でしかないナナホシが波裸羅の強烈なキャラクターに耐え切れるのだろうか。

 ルーデウスは波裸羅がナナホシと絡む様を想像し、暗澹たる表情を浮かべていた。

 

「ルーデウス。貴方はこの世界の人間として転生した。だからこの世界に骨を埋める気でいる。でも、私は平成日本の人間なのよ」

「……」

「絶対に帰りたい。帰りを待ってる家族がいる。友人も。だから、私は絶対に帰らなくちゃいけないのよ」

 

 真剣な表情を浮かべ、ナナホシは絞り出すように言葉を紡ぐ。

 痛ましいまでのその姿に、ルーデウスはそれ以上何かを言うことが出来なかった。

 

 しばし研究室に沈黙が漂う。

 ふと窓の外を見ると、日が傾き、空は朱色に染まっていた。

 

「……とりあえず、今日は家に帰るよ」

「……分かったわ」

 

 帰り支度を始めたルーデウスに短く応えるナナホシ。

 それは、焦りを含んだ切迫感を押し殺した様相を呈していた。

 

「帰ったら、ウィルと話をするよ。お互いの前世の事や、衛府の龍神の事も。あと、ナナホシの事も上手いこと話を合わせておく。同じ日本人として徳川家の令嬢の為に協力しているとかそんな設定で」

「ちょっと苦しいかもだけど、それでお願いするわ。どうであれ、七丁念仏を調べたいのは変わりないし」

「ああ。任せろ……ところで、今日はウィルの誕生日パーティーがあるんだけど、よかったらナナホシも来ないか?」

「今までの話を聞いてよく私を誘えるわね。まだ気持ちの準備が整ってないから、私は遠慮しとく」

「そりゃ、残念」

 

 最後に軽い調子で話しかけるルーデウスに、やや顔を引きつらせるナナホシ。

 身分を騙り続ける事を決意したとはいえ、今ウィリアムに会うと余計なボロが出かねない。

 ルーデウスはそんなナナホシにひらひらと手を振り、研究室のドアノブに手をかけた。

 

「ルーデウス、気をつけて」

 

 背にナナホシの言葉を受け、ルーデウスは愛すべき家族の元へと向かっていった。

 

 

 

 


 

 昔の人はどんな感じで誕生日を祝っていたのだろう。

 たしか、七五三や年賀の祝宴会が誕生日会代わりだったとか、そんな感じだったような気がするけど。

 まあ今更そんな事を思ってもしょうがない。

 今は、この世界の風習に従うべきなのだ。

 

「じゃあ、僭越ながら俺から乾杯の音頭を取らせてもらう」

 

 パウロが杯を片手に、我が家の食堂に集まった全員を見回す。

 食堂は横断幕などの大層な飾り付けはしていないが、花や燭台を飾り付けそれなりに祝いの雰囲気を出している。

 テーブルには白いクロスがかけられ、花瓶や皿が載っている。

 テーブルの端、いわゆるお誕生日席には、我が弟ウィリアムが鎮座していた。

 いつもの無愛想な表情は浮かべておらず、柔らかい表情を浮かべている。

 

「転移事件から七年……ようやく家族が集まった。それも、無事に、全員が。それで、全員が集まったら、パーティーを開こうと、ずっと前から思ってて……」

 

 パウロが上ずった声でそう言い、鼻をひとつ啜る。もう既に感極まっているのか、目尻には涙を浮かべている。

 ノルンとアイシャがこの家に来た時、パウロの手紙も同時に届いた。その手紙で、家族が再会したら盛大に祝おうとパウロは書いていた。

 その念願がようやく叶ったんだ。涙のひとつやふたつは出るもんだろう。

 パウロはリーリャから差し出された手ぬぐいで鼻をかむ。ズビビーッ! と盛大に鼻をかむ音が響き、全員が苦笑を浮かべていた。

 

「ウィルの誕生日と一緒に祝う形になってしまったけど、そこは許してほしい。とにかく、我がグレイラットの家族が無事に再会出来た事、そしてウィルの十五歳の誕生日を喜びたいと思う」

 

 この世界では毎年誕生日を祝う風習は無く、五歳、十歳、十五歳になった時に盛大にお祝いをする風習がある。

 俺も五歳の時はブエナ村の家で、十歳の時はロアのボレアス家でお祝いしてもらった。十五歳の時は……うん、なんかほろ苦い思い出しか浮かばない。

 まあでも、去年シルフィと結婚した時に盛大にお祝いしてもらったので、寂しい気持ちはこれっぽっちも湧かない。なんだかんだで、俺も祝い事には恵まれているのだ。

 

 ちなみにノルンとアイシャも既に十歳になり、そろそろ十一歳になろうかという所。彼女達の誕生日会はまだ開いていない。

 とはいえ、ウィルと一緒くたにするのは可哀想だという話になり、ノルンとアイシャの誕生日会は別で行う事をパウロと決めた。

 サプライズ感は薄れてしまったけど、そこは許してほしい。なにせウィルが十歳の時は転移事件が発生して、誕生日を祝う事が出来なかったのだから。

 

「じゃあ、そろそろ始めっか。今日は目一杯ハメを外そう! 乾杯!」

 

 パウロの音頭とともに、全員がグラスを持ち上げ乾杯を唱和する。

 それから、リーリャとアイシャが料理を運び、宴が始まった。

 皆がそれぞれ料理や酒を楽しみ、和やかな空気が食堂を包んでいた。

 

「ウィル、これは俺と母さん、それからリーリャからだ」

「……ありがとう、ございます」

 

 パウロがおもむろに包装された小さめ箱をウィルに手渡す。

 ウィルは少し驚いたようにそれを見つめ、パウロ、ゼニス、リーリャへ向け深々と頭を下げていた。

 

「ウィル、開けてみろよ」

「はい」

 

 パウロに促され、ウィルは丁寧な手付きで箱を開封する。すると、中から“刀の鍔”が出てきた。

 

「これは……」

 

 ウィルは鍔を手に取ると、まじまじとその姿を見つめる。鍔は時代劇でよく見る“木爪型”ではなく、丸型に動物の意匠が刻まれていた。

 よく見ると、それは“虎”の姿を象っていた。

 

「ど、どうだ、ウィル」

 

 じっと鍔を見つめたまま黙ってしまったウィルに、恐る恐るといった感じでパウロがウィルの顔を覗き込む。

 ウィルの愛刀、七丁念仏に元々付いていた鍔は、ベガリットの激戦を経て所々欠けたり歪んだりして、鍔としての機能が失われているように見えた。

 なので新しい鍔をプレゼントしよう、という話になったらしいのだが。

 もしかしたら、ウィルは元々付いていた鍔にものすごい思い入れがあったのかもしれない。

 今更ながらそれに気づき、これは余計なプレゼントだったのでは……。

 と思っていると

 

鉄味(てつあじ)強靭で意匠に隙がござらん。強くて美麗な鉄味と錆色が出て、線に絶妙な間と張りがある。肉置(ししおき)にも一片も隙がない。これはただならぬ禅味(ぜんみ)……かように優れた物を作れる鍔工がいるとは……」

 

 ウィルは僅かに手を震わせ、瞳を爛と輝かせながら鍔を凝視していた。

 うん。予想以上に喜んでいるみたいだ。安心した。なんかウィルの素が出てて、ものすごく珍しい物を見れた感じだ。後半何言ってるのかよくわからなかったけど。

 

「そ、そうか! これはな、タルハンドに頼んで作ってもらったんだ。結構上等な素材で作ってもらったんだぞ」

「タルハンド殿が……」

 

 シャリーアへ帰還してから、タルハンドはちょくちょく家に来て七丁念仏の修繕を行っていた。

 刀身以外は相当使い込まれていて、素人目から見てもボロボロだった。それをタルハンドが鍔以外をキレイに修繕していたのだが、鍔は別で作っていたのだろう。

 

「家宝にします」

「そ、そうか。喜んでくれて何よりだ」

 

 ややオーバーリアクションのウィルに一瞬戸惑ったパウロだったけど、すぐに笑顔を浮かべウィルの頭をぐりぐりと撫でつけた。

 リーリャも微笑みを浮かべそれを見つめており、ゼニスは相変わらず無表情だったけど、どこか柔らかい空気を出している。

 

「ふむ。ウィリアム殿はこのような細工にも造詣が深いのですな。流石、師匠の弟御。御兄弟揃って芸道に達者であらせられる。ジュリも見習うと良いぞ」

「はい、ますた」

 

 ふと、我が学友であり人形作りの一番弟子でもあるザノバが感心したようにそう言った。隣ではその弟子、つまり俺の孫弟子でもあるジュリがちんまりと座っている。

 今更ではあるが、このパーティーにはウチの家族以外にも何人か招待している。

 

「意外といえば意外ですわね。ベガリットじゃ剣を振ってる姿しか見てませんでしたし」

「一流の剣士だから、自分の道具にも相応に拘りがあるんじゃないかな。リーゼはどうなんだい?」

「わたくしは自分の得物にそこまで拘っていませんわねぇ……」

 

 ザノバの隣にはクリフ先輩、そしてその恋人のエリナリーゼの姿がある。こんな時でもべったりとくっつきながら話をしている姿は、なんというかもう慣れた。

 

「あちし剣なんて使わないからよくわからんのニャ」

「マニアなの。正直何言ってるのかよくわからなかったなの」

 

 その向かいには獣人コンビ、リニアとプルセナの姿がある。

 アイシャに聞いたけど、この二人はウィルと浅からぬ因縁があるらしい。なので誘っても来ないと思ったけど、何故かノリノリでパーティーの招待を受けていた。ちなみに二人ともPTSDは克服したようである。

 

「なるほど、アダムス様は剣のガード()に拘りをお持ちと……ルーク、メモを」

「はっ。アリエル様」

 

 末席ではアリエルとルークが何やら真剣な表情で話をしていた。

 実は、アリエル達を誘うつもりは当初は無かった。

 理由としてはパウロが嫌がるかもと思ったからである。

 アスラ貴族の慣習に嫌気が差し、ノトスの家名を捨てたパウロ。そんなパウロが、アスラ貴族、それも王族であるアリエル、そしてノトスの御曹司であるルークがいる状態で、果たしてパーティーを楽しめるのだろうかと。

 そう思っていたけど、意外にもパウロの方からアリエル達を誘っていいと言ってくれた。

 

 なんでもシルフィやアイシャから聞いたらしいが、ウィルが七大列強になった際、重傷を負った時にお見舞いに来てくれた事で、パウロはお礼がてらパーティーに招待したかったらしい。そこは俺も同じ思いだったので、こうしてアリエル主従にもご足労願ったわけだ。

 アリエル達も貴族としてではなく、あくまで俺の学友としてのスタンスで来てくれたので、パウロも普段通りの振る舞いで過ごす事ができた。テーブルの末席に座っているし、なんだか逆に気を使われているみたいでちょっと申し訳ない。

 

「アリエル王女、ルーク君。今日は来てくれてありがとう。ウィルに代わって感謝する」

「いえ、私達もアダムス様の誕生をお祝いしたいと思っておりました。招待してくれて感謝致します」

「パウロ叔父上。私も同様に感謝致します」

 

 パウロがアリエル達はお互いにそう言って、深々と頭を下げていた。

 パウロはルークに声をかけたとき、ちょっと複雑そうな表情を浮かべていたけど、まあノトスの事で色々と思うことがあるのだろう。

 ルークもルークで、少し所在なさげにパウロを見ていた。

 アリエル様は、そんなパウロ達を目を細めて見つめていた。時折、ウィルへ視線を向けており、ウィルもまたアリエル様へ深々と頭を下げていた。

 

 ともあれ、ウチの家族以外ではザノバ、クリフ、エリナリーゼ、リニア、プルセナ、アリエル、ルークがパーティーに参加していた。

 パウロはタルハンドやギース、ヴェラやシェラも呼びたかったらしいけど、タルハンドは遠慮してか不参加、ギースとヴェラ達姉妹は都合がつかなかったらしい。ちょっと残念だけど、仕方ないか。

 もっとも、これ以上の人数はウチの食堂じゃちょっときついけど。

 

 ちなみに、ウィルの弟子であるミルデッド兄弟にも声をかけたけど、曰く「一日でも早く上達するのが若先生への最大のお祝いです」と言い、パーティーへの参加を辞退していた。

 ストイックすぎるその姿勢がとても眩しい。俺ももっと頑張らないとな。

 人間満ち足りていると、どうしてもストイックさに欠けてしまう。

 

 

「ウィル兄! 次はあたし達からだよ!」

「ウィリアム兄さん、お誕生日おめでとうございます」

 

 今度はノルンとアイシャがウィルへ、少し大きめの箱を手渡す。

 

「出来ておる喃……」

「えへへ」

「ど、どういたしまして……」

 

 ウィルはノルン達の頭を優しく撫でる。嬉しそうにはにかむノルン達に、皆も笑顔を浮かべていた。

 パウロ達のプレゼント同様、ウィルは丁寧な手付きで包装を剥がす。すると、中から一着のコートが現れた。

 ウィルは厳しい寒さの中でも、外套どころか上着すらろくに身に着けず、いつも見てるこっちが寒くなるような格好で外出している。

 なのでノルン達は小遣いを出し合い、ウィルに外出用のコートを見繕っていた。

 ウィルはふっと笑みを漏らし、コートに袖を通す。

 

「どうだ?」

「わぁ……よ、よく似合います!」

「カッコいい! すっごく似合ってるよ!」

 

 コートは黒色をベースに所々金色のボタンが付けられている。ボタンは猫のような意匠がされており、ちょっと愛嬌が混じった良いデザインだ。

 多分、女の子だけど無骨な物を好むノルンと、女の子らしく可愛い物を好むアイシャで色々せめぎ合いがあったのだろう。

 でも、姉妹の折衷案は絶妙なバランスでウィルにマッチしていた。個人的にはこれに大きめのハットとサングラスを添えたいところだ。ウィルは快賊の頭領じゃないけど。

 

 

「じゃあ、最後は俺達からだな」

 

 和やかな空気の中、満を持して俺とシルフィ、ロキシーからのプレゼントを取り出す。

 

「ありがとうございます」

 

 パウロ達のプレゼントと同じ大きさの箱を受け取るウィル。

 丁寧な手付きで包装を剥がすと、中からペンダント状に繕われたメダルが現れた。

 

「これは……」

 

 メダルを手に取り、まじまじと見つめるウィル。

 メダルの表にはウィルのシンボルである“剣五つ桜に六菱”の文様が刻まれ、裏にはミグルド族の文様が刻まれている。

 

「お守りだよ、ウィル君」

「馴染みが無いかもしれませんけど、メダルは私の故郷で作られているお守りと同じ意匠になっています」

 

 ミグルド族に伝わるお守り。俺も昔ロキシーからペンダントのお守りをもらったけど、今はルイジェルドが持っている。大切なものだからこそ、大切な人に渡した。

 だから、大切な人にプレゼントするにはもってこいだと思ったのだ。

 とはいえ、ただのお守りではつまらないので、シルフィとロキシーと協力してある機能を盛り込んでいる。

 

「メダルとチェーンの接続部分、指輪になっているだろ? それ、剣撃を無効にする魔力付与品(マジックアイテム)なんだ」

 

 接続部分にそれぞれ取り付けられた二つの指輪。魔力を込めると王級相当の剣撃を無効にする効果が現れる魔力付与品。結構、手に入れるには苦労したもんだ。

 ベガリットの戦利品にも魔力付与品は相当あったけど、あいにく剣撃無効の品は無く、俺とロキシーでシャリーア中を駆け回って手に入れた代物だ。そして手に入れた代物を、シルフィが丁寧に加工して仕上げたのだ。

 七大列強でもあるウィルには必要ない物かもしれない。でも、土壇場でウィルを守ってくれるよう、三人で願いを込めて用意したプレゼントだ。

 気に入ってくれるといいけど。

 

「……かたじけなし」

 

 ウィルはゆっくりとペンダントを着け、メダルを大事そうに胸元へしまい込んだ。

 よかった。とりあえず気に入ってくれたみたいだ。

 

 

「さ、料理が冷めるぞ。皆ジャンジャン飲んでモリモリ食べてくれ!」

 

 パウロがグラスを掲げながらそう言うと、皆それぞれパーティーを楽しみ始める。

 たちまち、我が家の食堂は宴会の様相を呈していく。盛り上げ役のバーディー陛下がいなくても、パウロがいるだけで場はいい感じになる。

 こういうの、やっぱ手慣れているな。流石はパウロ。

 こうして皆それぞれ語らい、食べて、飲んで。楽しそうに騒ぎ始めた。

 

「虎のおやびん、どうぞどうぞですニャ」

「たくさん呑んでたくさん食べるなの」

 

 気づけばリニアとプルセナがウィルの隣に座り、お酌をしたり料理を取り分けていた。

 さっきまではノルンとアイシャがそれを行っていたけど、いつの間にか交代したらしい。ノルンはジュリが持ってきた“ルイジェルド人形”に夢中になっており、アイシャは皆へ飲み物を注いだりしてせわしなく動いている。

 しかし妙に甲斐甲斐しいな。リニア達はウィルの事嫌ってると聞いていたけど。

 

「かたじけなし。リニアッス、プルセナッス」

「リニアッスじゃないス。リニアっス」

「プルセナっス」

「リニアッス、プルセナッス」

 

 ちょっと噛み合ってない気もするけど、まあいいか。

 にしても獣人コンビがガバガバ注いでくる酒を、ウィルは途切れなく飲み続けている。

 顔色ひとつ変えずに飲み続けるウィルって、結構酒が強かったんだな。

 

「ウヒヒ……こうやって取り入って、油断したところをブスリ、ニャ」

「下剋上なのウィリアム・アダムス。正攻法じゃどう考えても勝てないから謀略を駆使するなの。私達の知謀を思い知るがいいなの」

 

 そう思って眺めていたら、獣人コンビから物騒だけど残念な会話が聞こえた。

 お前ら、そんなしょうもない理由でパーティーの招待を受けていたのか……。

 というか、ウィルにもばっちり聞こえている気がするけど。

 ウィルは残念な物を見るようにリニア達を見ていた。

 

「ウィル、いいなぁ。こんな可愛い子達にモテモテだなんて」

 

 ウィル達の様子を見て、パウロが茶化したように声をかける。

 ウィルはますます残念そうに顔を歪めていた。

 

「そんニャ、かわいいだなんて当然ですニャ」

「それほどでもないなの。お肉おいしいなの」

 

 パウロの言葉に調子に乗ったのか、よく分からない自信を漲らせながら応えるリニア、プルセナ。

 そんなリニア達を見て、ふとパウロがある疑問を口にした。

 

「そういやリニアはデドルディアのお姫さまなんだってな。もしかして、ギレーヌのことも知っているのか?」

「知ってるもなにもあちしの叔母ですニャ」

 

 そうリニアが言った瞬間、ウィルが飲んでいた酒を吹き出した。

 

「まじか。ていうかウィル、どうしたんだ急に」

「い、いえ……」

 

 やや焦った様子を見せるウィル。

 ギレーヌの名前を聞いた瞬間、ウィルの額からは汗がにじみ出ていた。

 

「しかしギレーヌの姪っ子かぁ……世間は狭いなぁ。なあ、ウィル?」

「は、はい……」

 

 ダラダラと汗をかきつつ、何かをごまかすようにグラスを傾けるウィル。

 

「ギレーヌはなぁ、昔はどうしようもないくらいアホな奴でなぁ……まあベッドの上じゃ可愛らしい奴だったけど」

 

 再度、盛大に酒を噴出するウィル。

 

「きったねえニャ!」

「おもっくそかかったなの! ファックなの!」

 

 隣にいたプルセナが直撃を喰らい、リニアと一緒にギャーギャーと抗議の声を上げる。

 

「……許せ」

「はいニャ。許すニャ」

「はいなの。何も気にしていませんなの」

 

 そんな獣人コンビに、ウィルはやや剣呑な調子で謝罪を述べる。その剣気に当てられたのか、リニアとプルセナは即座に謝罪を受け入れていた。

 その様子が可笑しくて、全員が笑い声を上げる。

 下剋上を果たすのは、どう見ても無理そうだな。

 

 

 そんなこんなで宴もたけわな、といった感じで時間が流れていく。

 パウロは何やらリーリャと熱心に何かを語っており、なかなか白熱した議論を交わしていた。ゼニスはそれをぼんやりと眺めている。

 

 ザノバはノルンとジュリに人形について熱く語っており、ノルンはやや顔を引きつらせてザノバの話を聞いていた。クリフ先輩はエリナリーゼを膝の上に乗せてイチャイチャしている。こちらは平常運転だ。

 

 アリエルとルークはウィルと他愛の無い話をしていた。少しウィルを見るアリエルの表情が気になったけど、まあ仲良くしているみたいで何よりだ。「まあ! その現人鬼様という御方はとても素敵な御方なのですね! ぜひ一度お会いしたいものです」と、意味不明な会話も聞こえてきたけど。

 

 ロキシーは相当酔っ払ってしまったのか、歌を歌い始めた後力尽きたかのようにシルフィに膝枕されていた。時折、シルフィの大きいお腹をさすりながら「元気な赤ちゃんが生まれるといいですねぇ……」とうっとりとしている。シルフィは苦笑いを浮かべてロキシーの頭を撫でていた。歌は、その……個性的な歌声だったと言っておこう。

 ちなみに、シルフィとノルン、アイシャとゼニスだけはお酒ではなく、果実を絞ったジュースを飲んでいる。ノルンとアイシャはまだ酒は早いし、シルフィは妊婦だ。ゼニスについては酒を飲ませても大丈夫なのか不安だったので、念の為ジュースを飲んでもらっている。

 

 宴会が終わりに近づき、俺もほろ酔い気分でぐったりと椅子にもたれかかる。

 ……いや、けっこう酔ってるな。あとで酔い冷ましの解毒魔術をかけなきゃ。そろそろお開きだろうし。

 と思っていると、パウロが俺のところまでやってきた。

 

「ルディ。そろそろお開きにするけど、俺達は先に上がるよ。後は任せていいか?」

「はあ、わかりました父さん」

「すまねえな。じゃあ、ウィル、また明日な」

 

 そう言葉を交わし、パウロはウィルの頭をゴシゴシと撫でる。リーリャもウィルに挨拶をし、ゼニスを伴って食堂を後にした。

 去り際に「だからウィルの一番気持ちいい所は二の腕だって!」「いいえ旦那様。ウィリアム様の一番心地いい箇所はふくらはぎです。ここは譲れません」などとしょうもない会話が聞こえてきた気がするけど、聞かなかったことにした。

 

「そろそろお開きですな。師匠、ウィリアム殿。お先に失礼しますぞ」

「ぐらんどますた、おとうとさま。おさきにしつれいします」

 

 ザノバがジュリと一緒に挨拶をしに来た。ジュリはウィルを怖がっていてほとんど近寄らなかったけど、最後の挨拶はしっかりこなしていた。いい子だ。

 

「僕たちも帰るとするよ。またな、ルーデウス、ウィリアム。こんど、きちんとした祝詞を……」

「クリフ。ウィリアムはミリス教徒じゃないから、祝詞は不要ですわよ」

 

 酔っぱらい、足元がフラついているクリフ先輩を横で支えるエリナリーゼ。

 解毒魔術をかけようとしたけど、エリナリーゼが「酔ったクリフってすごく可愛いんですのよ。わたくしの愉しみを奪わないでくださいまし」と、やんわりと断っていた。

 去り際に「そろそろクリフのステーキが食べたいですわねぇ……(レア)でね」と、ニタァと嗤うエリナリーゼも、多分シラフじゃない。

 ……うん。このあと色々とお愉しみをするんだろうな。がんばれ、クリフ先輩。

 

「我々もお暇いたしますね。本日はお誘いいただき、ありがとうございました」

 

 やや頬を赤く染めたアリエルが、上品な姿勢でお礼を言ってくれた。

 やはり酒の席でも、王族らしい気品さは失われていない。こういうところは流石だな。

 

「ルーク、今日は決闘を申し込まなくていいの?」

 

 ロキシーに膝枕をしながら、シルフィがいたずらっ子のような笑顔でルークに話しかける。

 

「馬鹿いうな。命がいくつあっても足りん」

 

 ばつが悪そうにそう応えるルーク。まあ、あの時のようにルークが俺じゃなくてウィルに決闘を申し込む理由はこれっぽっちも無い。

 あの時は、俺とルークが決闘する理由が、ちゃんとあったのだ。

 

「ではごきげんよう……アダムス様、またお会いしましょう。また、ぜひ現人鬼様のお話を聞かせてくださいな」

 

 そのまま退出するアリエルとルーク。というか、アリエルはえらく波裸羅様の話題に食い付いていたな。何が琴線に触れたのか分からないけど。

 俺はアイシャと一緒にアリエル達を玄関まで見送り、さあ片付けでもしようか、と思い食堂へ戻る。すると。

 

「なんニャら~! まだ序の口じゃないかニャァ~!」

「ゴッツァンですなの。まだまだ宵の口なの」

 

 質の悪い酔っぱらいが二人ほど残っていた。

 特にリニアの泥酔っぷりはひどい。顔をゆでダコのように真っ赤に染め、ろれつが回っていない。

 見かねたアイシャが水を差し出しつつ、たしなめるように口を開いた。

 

「リニアさん、ちょっと飲み過ぎだよ。はいお水」

「あちしは全然飲んでねーニャ! むしろシラフと言っても過言ではないニャ!」

「じゃあ2+2は?」

「……よん?」

 

 過言だったみたいだ。

 仕方ない、さっさと解毒魔術をかけて……

 

「プルセナクーイズ! なの!」

 

 え、今?

 ていうかもう帰れよお前ら。

 

「フィッツの○○○○(ぴろりろ)はちょっとくさいなの。 何がくさいのか当ててみるなの」

 

 赤く染まった鼻をちょんちょんとつつきながら、プルセナがドヤ顔でクイズを出題する。アドルディア族のプルセナらしい問題というか何だその問題は。シルフィに臭いところなんてどこにもないぞ。

 むしろ全身これフローラル。それは間違いない。なにせこちとらシルフィのアンドロメダどころか尻の穴だって嗅いだ事があるんだ。ちょっと嫌がられたけど。

 そう思い抗議の声を上げようとすると

 

「おま○こ! おま○こじゃないかニャ!」

 

 いきなり直球をぶん投げるんじゃあないドラ猫!

 

「リニア、退場! ウィル君ッ!」

 

 シルフィが顔を真っ赤に染めながらそう言うと、ウィルが素早くリニアの首根っこをつまみ上げる。

 「そんニャー」と言いながら、リニアはウィルによってどこかへ連行されていった。獣医へ連れて行かれる猫みたいでちょっと微笑ましい。

 しかし片手でリニアの全体重をつまみ上げながらも、体幹が一ミリもブレないのは流石だ。

 

「あの、おま○こって何ですか?」

「聞かなくていいから! ノルンちゃん退場!」

 

 シルフィが額に汗を浮かべながらそう言うと、いつの間にか戻ってきたウィルが手早くお姫様抱っこでノルンを抱き上げる。

 「わぁ……!」と言いながら、ちょっと恥ずかしそうにモジモジと身をよじるノルン。「ノルン姉だけずるい! あたしも!」と、アイシャがウィルの背中にぴょんと飛びつき、ウィルはそのまま姉妹を前後に抱えながら連行していった。兄妹仲がよろしくてちょっと微笑ましい。

 しかしノルンを抱えながらアイシャに飛びつかれても、体幹が一ミリもブレないのは流石だ。

 

「おま○こ……人間語で言うところの女性器の俗称で……」

「解説もいらないから! ロキシー退場!」

 

 シルフィが顔を引き攣らせながらそう言うと、いつの間にか戻ってきたウィルが恭しくロキシーの両手を取る。

 「ああ、どうも……」と言いながら、ロキシーはウィルに両手を引かれ、フラフラ、ヨタヨタと連行されていった。千鳥足のロキシーが可愛くてちょっと微笑ましい。

 しかしフラフラに酔っ払ったロキシーを誘導しても、体幹が一ミリもブレないのは流石だ。

 

 ていうかウィルはさっきから皆をどこへ連れて行ってるんだろう……?

 

「答えはくつ下だよ! くつした! そうでしょプルセナ! そうだよねルディ!?」

 

 半泣きになりながら俺に縋り付くシルフィ。

 一滴もお酒を飲んでいないはずなんだけど、頬を赤く染めながら潤んだ瞳で見上げるシルフィは()天変(てんぺん)

 俺はシルフィの頭をよしよしと撫でながら、愛すべき妻の名誉を守る為にプルセナへ顔を向けた。

 

「そうだぞプルセナ。シルフィのおま○こは臭くない。むしろ良い匂いだ。ご褒美だ。ついでに丸一日履いたシルフィのくつ下も香ばしくて良い匂いが」

「ルディ、退場ッッ!!」

 

 そんなー。

 そして俺はウィルにお米様抱っこをされながら連行された。

 体幹が一ミリもブレていなかったので、とても安定していた。

 流石だ。

 

 

 

 

「ちなみに正解は?」

「おま○こなの」

「退場ッッッ!!!」

 

 

 

 

 




※原作のシルフィは臭くないです。


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第三十七景『転生虎(てんとら)(こく)る!』

 

 “残酷鬼哭剣(オニキュンソード)

 

 むかしむかし。

 まだ天下統一が成されておらず、日ノ本の国々が地方豪族によって統治されていた時代。

 吉備国(きびのくに)の村落にて、凶作の鬱憤を晴らすべく、罪女(おんな)の牛裂きの刑が執行されていた。

 桃の如き尻から葡萄色の体液を溢れさせ、(おとがい)まで肉を裂かれた女の断末魔を聞き、村人達は黄色い歯を覗かせながら大いに溜飲を下げる。

 

 処刑場に打ち捨てられた女の残骸を処理するのは、堕胎を生業とする老夫婦が引き受けていた。

 妙薬の材料を得るべく、切り分けた女の内蔵を川で洗濯していると、何やら(はらわた)の影で蠢く肉塊を発見。

 

 胎児だ!

 

 牛に裂かれた女は、胎児を孕んでいたのだ。

 

『神の(わらし)にちげえねぇ!』

 

 老夫婦は血泥に塗れる赤子が産声を上げると、その奇跡の生誕を涎を垂らしながら喜悦する。赤子を“桃太郎”と名付けると、崇め奉るように養育した。

 桃太郎は物心がつくと、老夫婦を己の奴婢として扱い、堂々と世話を焼かせるのであった。

 

 これが、後に神州無双、軍神とまで謳われた桃太郎の出生秘話である。

 成長した桃太郎は自らを孝霊天皇皇子大吉備津彦命と称し、近隣村民が家財を投げ売ってまで献上した豪奢な武具を纏い、温羅(うら)退治を懇願する村民達へ鷹揚に頷くのであった。

 

『桃太郎様、鬼ノ城に棲まう温羅を成敗してくだされ』

 

 ところで、温羅の正体は海を隔てた遥か西方(ヨーロッパ)を故郷とする異国の流浪民である。故郷を追われた彼らは安住の地を求め、この日ノ本に流れ着いていたのだ。

 だが、色鮮やかな毛髪、白磁のような白い肌、天狗の如き尖った鼻、宝石めいた青い瞳を持つ彼らは、日ノ本の民にとってまさしく異形異類に他(あら)ず、被差別民として分類されていた。

 このような被差別民は天災人災問わず、あらゆる災禍の原因と見做され、謂れなき罪を被せられるのが常であった。

 

『温羅ども! うぬらの悪行もこれまでじゃ!』

 

 乏しい食糧事情で痩せ衰えつつも、慎ましく穏やかに暮らしていた流浪民の集落へ、栄養満点の若武者が白刃を振りかざし襲いかかる。

 抵抗する者を一刀に裁断し、命乞いの涙を流す者も容赦なく斬殺する。女、幼子に至るまで尽く虐殺せしめた桃太郎は、略奪した流浪民の珍宝を豪族共に買収させ巨万の富を得た。

 桃太郎は己を養育した老夫婦へ顎が外れるほどの財を褒美として与えると、老夫婦は人生を見失い一気に痴呆が進んでしまった。

 

『温羅征伐こそ、民草を安寧に導く天道なり。千年前の民も、千年後の民も、神州無敵と問われて答えるは麿の名であろう』

 

 そのような老夫婦を顧みず、桃太郎は温羅、つまり“鬼退治”を天命と心得え、国々を行脚して更に武名を高める。大和朝廷を始め時の為政者達も合力し、桃太郎と共にまつろわぬ民を殺戮しその武威を全国津々浦々まで轟かせた。

 そして桃太郎は置き血を得て不老不死となり、向後千年に渡り異形異類の征伐で武勇を馳せるのであったとさ。

 

 

 現代の価値観では鬼畜外道ともいえる大理不尽ですら、このように時代を遡れば人を英雄たらしめる行為と成り得る。

 これは世界が違えど、残酷なまでの不変の(ことわり)である。

 桃太郎の物語とは、つまるところ大和民族による侵略行為の寓話化であり、鬼退治とは容赦なき弾圧により先住民族の文化や歴史を奪い尽くす行為に相当する。

 そしてそれらは英雄譚として後世に語り継がれるのだ。

 

 生まれながらの軍神にして純粋なる侵略剣。

 

 英雄三太郎が一人にして、綺羅の如く輝く珠玉の魔剣豪。

 

 桃太郎こそ、比類なき“英雄剣豪”とも言えよう。

 

 

 そして──

 

 

 六面世界、人の世界に棲まう若き英雄剣豪。

 

 偉大なる祖父、そして父を超えるという野心を燻らせる、無垢なる侵略剣。

 

 王竜王を由来とする四十九本目の魔剣が、家族への情愛を深める若虎へと迫りつつあった。

 

 

 

 重力剣法、御披露仕り候──

 

 

 

 


 

 

 結局その日はろくでもない酔っぱらいのせいでウィルと話が出来なかった。

 いや、その後も話そうと思えば話せたかもしれないけれど、それどころではない事態が発生してて。

 

「お生まれになりましたよ、ルーデウス様」

 

 リーリャの手の中にある、小さな命。

 元気な産声を上げる、俺と同じ髪色をした、可愛い女の子。

 リーリャは抱き上げたその子を、丁寧な手付きでシルフィに渡した。

 

「生まれた……」

「うん……」

「よかった……髪の色、緑じゃなくて……」

「そうだね……お疲れ、シルフィ」

「うん……ありがとう、ルディ……」

 

 女の子を抱きながら、疲れた様子でほっと息をつくシルフィ。

 俺は出産という一大事を終えたシルフィの頭を撫でる。

 元々、緑色だった、その白くて綺麗な髪を梳きながら。

 

 宴会の後、リニアとプルセナに解毒魔術をかけて見送り、片付けを始めようとした時。

 シルフィが産気づいた。

 慌ててそう報告して来たアイシャと共に、すぐに全員に解毒魔術をかけ回り、パウロと共に家中を駆け回り布やらかき集める。

 そんな俺達に、ウィルが静かに声を上げた。

 

「ノルン、アイシャの時より安泰に御座る」

 

 その一言で、俺は幾分か落ち着きを取り戻した。パウロは相変わらずオロオロしていたが。

 考えてみれば、我が家にはリーリャという頼もしい助産婦がいる。あの時はそのリーリャのお産だったから、すっかり頭から抜け落ちていた。俺やウィルの時もリーリャがお産を助けていた。そういえば、ノルン達の時もウィルは落ち着いていたな。布やら産湯に使う桶を黙々と用意していた気がする。

 というわけで、リーリャはテンパる俺達に構わず、アイシャにお産のイロハを叩き込む余裕を見せながら惚れ惚れするような手さばきでシルフィのお産を助けていた。

 

「ご安心ください、ルーデウス様。シルフィ様は大丈夫です。さ、旦那様とウィリアム様、ノルン様はお部屋の外で待っていてください」

 

 パウロ達を部屋から追い出し、俺はシルフィの手を握り、がんばれ、がんばれと声をかけ続ける。

 万が一に備え治癒魔術を行使できるよう待機していたロキシーも、シルフィにがんばれと声をかけ続けていた。

 

 そして。

 元気な女の子が生まれた。

 

「ほら、ルディも抱いてあげて」

 

 シルフィから渡された、小さな命。

 うるさいくらい泣いているその子。

 俺の、子供。

 

「ああ……」

 

 思わず、涙を流す。

 小さいのに、生命が溢れているその存在に、胸の内から何かが溢れそうで、何かが千切れそうな想いが張りつめていく。

 パウロも、同じ様な想いを抱いていたのだろうか。

 

「ルディ! 生まれたのか!」

 

 リーリャが部屋の扉を開けると、慌てた様子のパウロが飛び込んできた。

 真っ先に俺の方へ来ると、涙まじりに俺の肩を抱いた。

 

「はい。無事に生まれました。女の子です」

「そうか、そうかぁ! よかった、よかったなぁ!」

「はい……父さんも、抱いてあげてください」

「ああ!」

 

 そう言って、おくるみに包まれた赤ん坊をパウロへ差し出す。

 危なげなく赤ん坊を受け取るパウロ。流石にこの子を含めて五人の赤ん坊を抱いているだけあって、傍から見ても安心できる手付きだった。

 

「はは……小さいなぁ……可愛いなぁ……」

 

 腕の中で泣く赤ん坊を、パウロは涙を流して見つめている。

 ……視界がぼやける。目を拭うと、パウロに負けないくらい大粒の涙が、指先に残っていた。

 

「ほら、母さん……」

 

 パウロはぼうとした様子で見つめていたゼニスの前へ行く。ゼニスが見えやすいよう、赤ん坊の小さな体を抱えながら。

 

「俺達の、孫だ……ルディの子供で、俺達の……」

 

 ゼニスは無表情で赤ん坊を見つめていた。

 自分の初孫というのをきちんと認識しているのだろうか。そんな思いが、ふとよぎる。

 

「……」

 

 でも、泣きわめく赤ん坊をじっと見つめるその瞳は、確かに暖かい光が宿っているように見えた。

 一時は感情の一切が失われた、いわば痴呆老人のような状態になっていると思っていた。

 でも、ノルンやアイシャ、そして何よりウィルに対する振る舞いが、それを否定していた。

 ゼニスは、失われている。でも、全て失われたわけじゃない。

 だから、きっとパウロと同じように孫の誕生を喜んでいるのだろう。

 そう思うと、また少し、涙が溢れてきた。

 

「ちっちゃいですね……」

 

 ノルンも興味深そうに赤ん坊を覗き込む。

 「いつか私も……」なんてノルンが言うと、「まだ早いと思うぞ……」と、泣き笑いながらパウロが応える。その様子を見たアイシャが吹き出し、リーリャにぺしりと頭を叩かれていた。

 そんなアイシャ達に、皆が笑い声を上げる。ウィルも、少しだけ表情を崩していた。

 

「ルディ、この子の名前、考えてくれた?」

「もちろんだよ、シルフィ」

 

 ベッドに横たわるシルフィの頭を撫でながら、俺は赤ん坊の名前を言う。

 

「ルーシー。俺とシルフィの頭文字を取って、ルーシーだ」

「ルーシー……良い、名前だね……ルーシー……ルーシー……」

 

 シルフィはルーシーという名前を咀嚼するかのように、ゆっくりと目を閉じながらそう言った。

 よかった。とりあえず、シルフィは気に入ってくれたみたいだ。

 

「ちょっと安直じゃオホーイ!?」

 

 ふとアイシャがそう言いかけた瞬間、ウィルがアイシャの両脇腹をむんずと掴んだ。

 

「安直と申したか」

「はぎぎぎぎぎ! ウィ、ウィル兄! そこダメ! 脇! あたし脇弱いからンアッーーー! むりむりむり! しんじゃう!!」

 

 後ろから抱き抱えるようにアイシャの脇腹を責めるウィル。

 パウロの腕の中でルーシーが泣き、ウィルの腕の中でアイシャが哭く。

 「懲!!!」とリーリャに怒られるまで、ウィルとアイシャは仲良くジャレ合っていましたとさ。

 

 

 その後、リーリャは再び俺達を部屋から追い出した。もうちょっとシルフィとルーシーと一緒にいたかったけど、なんでも色々とやる事があるらしい。

 赤ん坊もこの世に生まれる時は、うんと体力を使う。だから、シルフィ共々ゆっくり休ませないといけないとか。

 居間には俺とロキシー、ウィルが残った。それ以外の皆は休んでもらっている。ノルンもアイシャも、いい加減眠そうだったし、パウロ達も静かに初孫が出来た喜びを噛み締めたいのだろう。

 

「人が生まれる瞬間を初めて見ました……凄いですね……」

 

 ロキシーが疲労を隠せないといった調子でため息をついていた。

 でも、ぶっちゃけロキシーも何もしてないんだよな。気疲れってやつだろう。

 

「俺は四度目です。でも自分の子供だとやけに疲れますね」

「そういうものですか……わたしも、ああして産むことになるんですよね」

 

 赤らんだ顔で俺を見上げるロキシーに、ソファの上で正座して向き合った。

 

「はい。よろしくお願いすることになると思います」

 

 ロキシーともそういう性活、もとい生活が始まると思うと、色々と期待が抑えられない。

 ちなみに、ラパンでの乱痴気焼畑農耕(ずっこんばっこん)はロキシーを妊娠させるには至らなかった。エリナリーゼは嘘をついていた事になるが、今はその嘘がありがたい。

 あの怨霊軍師には……うん、あざっすと言わせてもらおう。

 

「ロキシー先生の赤ちゃんなら、神の子供に違いありません」

「何言っているんですか、もう」

 

 更に顔を真っ赤に染め、ロキシーは俺の方を小突く。

「ルディ、エッチな顔をしていますよ」と言うロキシーも、ちょっと扇情的な表情を浮かべていた。

 俺がスケベなのは、生まれつきだからしょうがないのだ。

 いや、生まれる前……前世から、そうなのだ。

 

「……」

 

 そんな俺達を特に気にせず、ウィルはもらったプレゼントの品々を鑑賞していた。

 テーブルの上に広げられたそれらをまじまじと見るウィルが、誕生日プレゼントをもらって喜びを隠せない子供みたいでちょっと可愛い。

 

「ふわぁ……ごめんなさい、ルディ。わたしももう休みますね」

「はい。ロキシーも、お疲れ様でした」

 

 そうしている内に、ロキシーが眠たげにあくびをひとつかくと、フラフラとした足取りで寝室に向かった。

 俺も、そろそろ休もうかな。もう遅いし。

 

「一先ず、祝着至極」

 

 そう思っていると、ウィルが俺の方を向き頭を下げていた。

 

「ああ、ありがとう、ウィル。なんか悪いな。今日はウィルの誕生日だったのに」

「いえ……」

 

 そういえば、ウィルとこうして二人っきりになるのは、ブエナ村の時以来だ。

 なんだか、もう少し起きていたい気分になってきたな。

 あの話も、しておきたいし。

 

「……ウィル、寝る前に、少し付き合えよ」

 

 アイシャが用意してくれたお茶をカップに注ぎ、ウィルの前に出す。少しぬるくなっていたけど、乾いた喉を潤すには丁度いい温度だった。

 

「ウィル……その……あのさ……」

 

 いざウィルと二人っきりになると、緊張してうまく言葉が出ない。

 何から切り出せばいいのだろうかと、あれこれ考えてしまいうまく思考が纏まらない。

 ナナホシの話からか。あるいは、転移事件が発生した後、どこにいて、何をしていたのか。

 グレイラットじゃなく、アダムスと名乗っている理由は。

 

 お互いの前世の話。

 そして、波裸羅様……衛府の龍神の話。

 

 話したい事がありすぎて、どう話せばいいのか。

 

「何か聞きたい事があるなら、遠慮なく」

 

 言葉を詰まらせていると、ウィルが真っ直ぐに俺の目を見てそう言った。

 俺はソファに座り直し、ウィルの瞳を見返す。

 瞳は、透き通るほど透明だった。

 

『……ウィリアム・アダムスって、やっぱ三浦按針の名前から取ったのか?』

 

 少しだけ、悩んで。

 思い切って、そう言った。

 この世界の人間語じゃなく、日本語で。

 

『……左様(さよ)

 

 ウィルは少しだけ驚いたように俺を見ながらそう返した。

 左様か。

 つまり、ブエナ村のあの時みたいに、正体を隠すことはもうしないんだな。

 少しだけ、気持ちが楽になった。

 

『あの、前世のことは──』

「兄上」

 

 ふと、ウィルが待ったをかける。この世界の、人間語で。

 

「今は、互いにこの世界に根を張る者……この世界の言葉で」

「……そうか。わかった」

 

 根を張る、か。

 今更だけど、ウィルも俺と同じようにこの世界の人間として生きていくつもりなんだな。

 ナナホシとラノア大学で遭遇した時を思い出して、ちょっと警戒していたけど、なんだか安心した。

 

「掛川藩兵法指南役、岩本虎眼」

 

 短く、ウィルはそう告白する。

 

「俺の前世の名前は──」

 

 俺も、ウィルへ自分の前世の名前を告げる。

 そして、ウィル……岩本虎眼より、四百年先の未来の人間であることも。

 

「四百……」

「ピンとこないかもしれないけど、本当だぞ」

「……時を越えるのは、浦嶋子の物語のみと思うておりました。ましてや、世界をも越えるなど」

 

 ウィルは顎に手を当てながら、考え込むようにそうつぶやいていた。

 ていうか、浦嶋子って浦島太郎の事だよな。

 考えてみれば、日本には昔からタイムスリップめいた寓話があるから、昔の人でも理解し易いのか。ちょっと納得。

 

「ちなみにナナホシも同じ時代の人だよ」

「ナナホシ姫が……」

 

 ウィルは更に驚きを深めるように眉間に皺を寄せていた。

 ナナホシとウィルの関係性は、嘘というか勘違いの上で成り立っている。

 でもその勘違いを正すのは、ナナホシの都合上よろしくない。

 でも、時代が違う人間だというのは、ウィルにも理解してもらった方がいいと思う。

 少なくとも、今後のナナホシの負担が少し減るだろうから。

 

「……一つ、聞いても」

 

 少し間をおいて、ウィルがこう聞いてきた。

 

「四百年先……徳川の世は、(さむらい)の世は、まだ続いているのでありましょうや」

 

 少し、縋るような目でそう聞いてくる岩本……いや、俺の弟、ウィリアム。

 俺は、短く応えた。

 

「終わったよ。徳川幕府も、武士の時代も」

「……左様、ですか」

 

 ウィルはやはり、といった感じでそう応えていた。

 驚くかと思っていたけど、意外と冷静だな。

 

「あまり驚かないんだな」

「……栄枯盛衰は世の理です。鎌倉も、室町も、永遠に続く事はありませんでした。士の世が終わったのは、少し残念ではありますが」

 

 滔々とそう述べるウィルは、何か諦観めいた表情を浮かべていた。

 それから簡単ではあるが、俺は四百年の歴史をウィルへ語った。

 あやふやな知識もあったけど、戦国時代、江戸時代、明治、大正、昭和、平成に続く歴史を。

 ちなみに、武家の末裔は現代でもそれなりに名士である事も付け加えておいた。

 こう言っておかないと、ウィルはナナホシに対する態度を変えかねない。まあ多少は変わっても仕方ないかもしれないが、過剰にへりくだかれるよりはマシだろう。

 実際、今でも高名な武家の末裔は王子様、お姫様と言っても過言ではないしな。ナナホシはただの女子高生だけど。

 

 ウィルのせいで、アリエル達がナナホシを貴人扱いしているのも、これで多少はフォローできるだろう。

 よく考えてみれば、実は平民でしたなんて言える状況じゃなかった。

 ほんと、どうしてこうなったのやら。

 

 ウィルは、黙って俺の話を聞いていた。

 

「あの、前世の家の事は、気にならないのか?」

 

 黙っているウィルにそう聞くと、ウィルはゆっくりと首を振る。

 

「気にならないといえば嘘になり申す。ですが……」

 

 ウィルは薄く目を明けながら、何かを噛みしめるように言葉を続けた。

 

「少しばかり、それがしは前世に囚われすぎていた気がします」

 

 前世への囚われか。

 そういえば、俺も引きこもりだったコンプレックスを抱えていた。

 でも、ロキシー先生や、シルフィ……様々な人に出会い、前世のコンプレックスを解消して、こうして今を生きている。

 異世界行ったら本気出すと誓って、もう十六年……いや、そろそろ十七年か。

 ウィルは、何に囚われていたのかわからないけど、何か踏ん切りがつくような事があったのだろう。

 

「……娘がいました」

 

 何かを思い出すように、何かを後悔するように、ウィルは言葉を続ける。

 

「もう顔も思い出せません。ですが、もっと愛してやればよかったと……少し、後悔しています。今は、それだけが心残り」

 

 そして、ウィルは再び目を閉じる。

 俺は、何も言えなかった。

 

「……話は変わるけどさ、どうしてウィルはグレイラットの苗字を名乗らないんだ? 転移して、何があったんだ?」

 

 なんとも言えない空気になってしまったので、俺は話題を変える。

 ウィルも、居住まいを正していた。

 

「とある迷宮に転移しました」

 

 ゼニスと同じ、でもゼニスとは違い、ウィルは五体満足のまま転移していたんだな。

 

「そこで、魔物を斬り伏せ、喰らいながら生きながらえておりました。この剣は、転移した折、それがしの目の前に」

 

 ウィルは七丁念仏の柄を握りながらそう言った。

 かなり壮絶な転移だったようだ。少なくとも、俺の時みたいに頼れる味方も無く、たった一人で生き抜く為に戦い続けていたのだろう。

 

「……気に食わぬ事ですが、とある悪神の助言もあり、こうして生きておる次第」

 

 悪神。

 思い当たる存在は、ひとつしかない。

 

「ヒ──」

 

 でも、俺はそれ以上言葉を紡ぐことは出来なかった。

 ウィルは、この世の全てを恨むような、増悪に満ちた表情を浮かべていた。

 

「……申し訳なし」

「あ、ああ……」

 

 俺がビビっていると思ったのか、ウィルは表情を元に戻していた。いや、実際ビビっていたけど。

 ……ウィルもヒトガミの助言を受けていたんだな。

 でも、何があったのか知らないけど、ウィルはヒトガミを相当恨んでいるようだ。

 まああいつも神様を名乗っている割には胡散臭い奴だったし、ウィルとは相性が悪かったんだろう。

 今度あいつが夢に現れたら、何があったか聞いてみよう。

 

 というか、なんでウィルの事を教えてくれなかったんだあの野郎。俺もなんかムカついてきた。

 なんにせよ、ウィルにはヒトガミの話題を出すのは止めたほうが良いな。オルステッドの時みたいに、変な地雷を踏みかねん。

 あの時とは違い、今の俺には大切な家族がいるんだ。もちろん、ウィルもその一人だけど。

 だから、家族が嫌がる話題は、極力避けた方がいい。

 波裸羅様からもらった蛮勇は、家族会議で使い果たしてしまったし。

 

「必死の思いで迷宮を抜け出し、とある御仁の世話になり……こうして中央大陸に戻ってまいりました。それから、中央大陸の剣術道場を回っておりました」

 

 ウィルがゆっくりと話を続ける。

 今生で出来た、目標を。いや、野望を、滔々と語りながら。

 虎眼流の名前をこの世界に轟かせ、異界天下無双となる。

 その為に、この世界の剣術と真っ向から勝負してきたのだと。

 

 正直、兄としてはそんな無茶は止めてほしい。でも、剣士として最強を追い求める気持ちもわかる。

 実際、ウィルは死神を下し七大列強にまでなったのだ。俺の心配は、それこそ余計なお世話というものだろう。

 ウィルにとって虎眼流とは、前世の囚われというより、前世からこの異世界へ共に来た、たったひとつの同胞なのだ。

 だから、ウィルの想いを止めることは、俺には出来ない。

 

「家名を変えたのは、その時分に」

 

 それから、ウィルはグレイラットの苗字を名乗らなくなった理由を語った。

 三浦按針という、自分と同じように、知らない世界に漂着したイギリス人。

 自分の実力だけで、日本でのし上がった異国の人間。

 それにあやかって、ウィルはアダムスを名乗った。

 

 でも、それ以上に、名前を変えた理由が、ひとつあった。

 

「剣術の世界はつぐつぐ峻烈な世界です。恨みを買うことも、多々あります」

 

 ウィルは、俺達家族を巻き込まない為に、グレイラットの性を捨てたのだ。

 俺達家族に、迷惑をかけないようにする為に。

 

「不本意ながらも、それがしは七大列強と相成り申した。故に、その首を狙う者も、遠からず現れましょう」

 

 今は冬だから、シャリーアへの人の往来は少ない。

 でも、雪が溶けたら、シャリーアを訪れる人間はこれまで以上に増える。

 

「雪解けを待って、シャリーアを発ちます」

「……そうか」

 

 思えば、ウィルが俺達の家族だと知っているのは、身内を含めてもあまりいない。

 だけど、このままウィルがここにいたら、グレイラットの一員であるのが公になるのも時間の問題だろう。

 

「別に、このままいてくれてもいいんだぞ。俺も、父さんも、シルフィも、ロキシー先生も、そこらの剣士には負けないよ。多分」

「……野心溢れる者は、時に悪辣な手段を用います。的になるのは、兄上達だけではござらん」

 

 ウィルはゼニスやリーリャ、ノルンやアイシャ……そして、ルーシーの心配をしていた。

 ……人質か。

 今は四六時中パウロが家を守ってくれているけど、それでも王級以上の実力者が現れたら厳しいだろう。

 七大列強に挑むくらいだから、相応の実力者が現れる確率が高い。

 もっとも、そんな実力者が卑怯な手段を取るとは考え辛いけど。

 ともあれ、ウィルがこのままシャリーアにいれば、そういう事も起こり得るのだろう。

 

 ……ノルンへ剣術の基礎しか教えないのも、基礎しか教える時間しか残されていなかったからか。

 

「わかった。父さんには、この事を伝えたのか?」

「今は、まだ」

「ちゃんと自分の口で伝えた方がいいと思うぞ。ノルンや、アイシャ達にも」

「……はい」

 

 少しだけ哀しそうな表情で頷くウィル。

 でも、これは俺が言うより、ウィルが言わなければならない。

 

「アリエル様達には俺から伝えとくよ」

「はい」

 

 口止めという程でもないけど、アリエル達にもウィルがアダムス性を名乗る理由を話した方がいいだろう。

 もっとも、あのリニアやプルセナですら、なんとなく察してウィルをアダムスの名前で呼んでくれていたので、大丈夫だと思うけど。

 

「前世の事は……俺は、まだナナホシ以外には話さない方が良いと思う」

「……」

 

 ウィルは俺の提案に沈黙を返していた。

 家族に前世の事を秘密にする理由は特にない。だけど、それはお互いにウェットな案件だから、今はまだ話さない方が良いだろう。

 ……いつか、俺もシルフィやロキシーに前世の事を打ち明ける日が来るのだろうか。

 

「……」

「……」

 

 しばらく俺とウィルの間には沈黙が漂う。

 ふと窓の外を見ると、もう空が白み始めていた。

 ずいぶん長い事話をしていたな。

 もう、今日は切り上げた方がいいか。

 まだ聞きたいことは沢山あるけど、明日というか、今日もあるし。

 

 でも、最後にこれだけは伝えておこう。

 

「ウィル。シャリーアにいる間だけで良いから、ナナホシに協力してくれないか」

 

 一番肝心なことを伝えると、ウィルはしっかりと頷いてくれた。

 

「はい。ですが、何故兄上はそこまでナナホシ姫に協力するのです?」

 

 ウィルは不思議そうに俺を見つめる。

 何故、か。

 そんなの、決まっている。

 

「お前だって、異世界で困っている日本人を見つけたら、見捨てることなんてできないだろ? それが徳川のご令嬢だったら尚更さ」

 

 そう言うと、ウィルは少しだけ苦笑していた。

 

 

 

 


 

 中央大陸北西部

 魔法三大国バシェラント公国

 第三都市ピピン近郊

 

「ティーナ! メラニー!」

 

 雪深き北方大地。

 ピピン近郊に位置する雪原。そこに、五人の女冒険者達が魔物と死闘を繰り広げていた。

 否、既に二人の冒険者は重傷を負ってか雪原に倒れ伏しており、雪面を赤く染めている。

 見れば、彼女達以外にも何名かの冒険者が倒れており、それらは臓物を露出させながら息絶えていた。

 

「なんだってこんな所に赤竜(レッド・ドラゴン)が出てくるんだい!」

「あいつらが余計な事するからよ! お姉さま! 煙幕を張るわ!」

 

 筋骨隆々とした大柄な女が大剣を構え、そう悪態をつく。それに応えつつ、杖を持った十五歳ほどの少女が詠唱を開始する。

 彼女達が相手取るのは、中央大陸最強の魔物、赤竜。

 赤竜は本来中央大陸を分断するようにそびえ立つ赤竜山脈に生息する魔物だが、稀に“はぐれ竜”が赤竜山脈以外に生息している。

 それ故、赤竜が現れた地域では、即座に複数の高ランク冒険者パーティが討伐に赴くのだ。

 

 しかし、彼女ら……女性だけのS級冒険者パーティ“アマゾネスエース”は、別件の依頼の最中、別の冒険者パーティが赤竜を発見し、これを討伐せんとした場面に遭遇する。

 止めようとしたにも関わらず、その冒険者パーティは欲に負け、蛮勇を振りかざし赤竜へ襲いかかった。

 赤竜は単独でもSクラスの魔物に分類され、その死体の部位は高額で取引されるほどの希少価値がある。だが、欲に駆られた冒険者パーティは、赤竜を討ち果たす実力もなく、あえなく全滅した。

 そして、残ったアマゾネスエースへ、赤竜の牙が襲いかかっていたのだ。

 

「汝の求める所に大いなる炎の加護あらん、勇猛なる灯火の熱さを今ここに! “ファイアボール”!」

 

 目の前の雪原へ向け火球が放たれ、赤竜とアマゾネスエースの間に大量の水蒸気が発生する。

 

「リーダー! アリサ! 今のうちにティーナとメラニーを!」

 

 そこに、弓をつがえた一人の乙女が、赤竜へ向け剛弓を放った。

 

「サラ! 無茶だよ!」

「無茶しないと全滅するよ! いいから早く行って!」

 

 矢を放ちつつ、赤竜をアマゾネスエースから引き剥がすべく、背後の森へ誘導する。

 弓兵の乙女の名は、サラ。

 彼女はアマゾネスエースの中衛として加入し、全体の戦況を管理する役割を担っていた。

 こうして自分を犠牲にしてでも、パーティの生存を優先させるくらいには、彼女の冷徹な戦略眼はルーデウスらとパーティを組んでいた時より冴え渡っていた。

 

「くッ!?」

 

 サラの渾身の力を込めた矢は、赤竜の重装甲の如き鱗を貫通せず弾かれるばかりである。だが、それでも小癪な乙女を抹殺せんべく、赤竜は目標を乙女に定め猛然と森の中へ突進する。

 サラは果敢に応戦しつつ、森の奥へ、奥へと赤竜を誘引した。

 

「グルアアアアアッ!!」

 

 灼熱のファイアブレスが放たれ、間一髪でそれを躱すサラ。

 だが、木々に炎が燃え移ると、サラの周りは火炎に包まれ、それ以上の行動を封じられてしまう。

 

「グルルルルルルッ……!」

「こりゃ、まずい、ね」

 

 火炎を漏らしながら、サラの前へ鎌首をもたげる赤竜。

 サラは高温に晒されつつも、全身から冷えた汗を流していた。

 

(あーあ……ここで、終わりかぁ……こんなことなら、あの波裸羅様に処女を捧げて……いや、それはないか)

 

 単独で赤竜を討伐出来る実力は、弓兵の乙女には無い。

 圧倒的な実力差に、サラは諦観めいた想いに囚われる。

 少なくとも、己が純潔のまま死ぬということを、後悔するほどには。

 

「あ──」

 

 そして、必滅の竜爪が、サラの目の前に振り下ろされた。

 

 

 ずしん!

 

 

「え……」

 

 死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑った乙女は、直後に何かが圧壊する音を聞く。

 そして目を開けると、高重力に潰され(・・・・・・・)、轢き潰された蛙の如き骸を晒す、赤竜の姿が存在した。

 

「間一髪だったね、お嬢さん」

 

 そして赤竜の死体と乙女の間には、大剣を担いだ黒髪の少年が佇んでいた。

 背丈はサラとそう変わらない、どこか幼さを残した少年の顔立ちを、乙女は呆然と見つめる。

 

 ボーイ・ミーツ・ガール。

 物語の始まりは、こうありたいもの。

 

「え、えっと……その、ありがとう」

 

 突如現れ、己の窮地を救ってくれた少年剣士に、サラはおずおずと礼を述べる。

 少年は、微笑みをもってそれに応えていた。

 

「礼はいらない──?」

 

 だが、少年は辺り一帯に尋常ではない気圧を感じ取る。

 上空へ目を向けた少年につられるように、サラもまた頭上へと視線を向けた。

 

「な!? も、もう一匹!?」

 

 みるみる迫り来る、新たな赤竜。

 サラは絶望的なこの光景を目の当たりにし、再び身を竦ませた。

 

「グルアアアアアアアアアッッ!!!」

 

 同胞を殺された恨みか、それとも殺された赤竜は新たに現れた竜の番だったのだろうか。

 圧死した赤竜よりも一回り大きいその竜は、怒りの咆哮を上げサラ達の前へ降り立った。

 

「に、にげ──!」

「何も心配いらないよ。君も、君の仲間も」

 

 しかし、少年は悠然と大剣を構える。

 先程見せた、赤竜を単独で討伐せし実力者の余裕。

 少年と竜が対峙するその様子は、まさしく神話の如き光景。

 サラは目の前の光景がどこか現実味がないように思え、ただ呆然とその後姿を見つめていた。

 

「世に“七大列強の英雄譚”と称される(くだり)──血眼(ちまなこ)しておろがむが良いさ──」

 

 赤竜の前へ歩を進める、黒髪の少年剣士。

 英雄に焦がれ、その重剣を振るい続ける、若き剣豪。

 それはまさしく、この世界における大強者の姿であった。

 

「僕の名は──」

 

 そして、少年は名乗る。

 偉大なる祖父、そして英雄たる父から受け継いだ、誇り高き剣名を。

 

 

 

「“北神三世”アレクサンダー・カールマン・ライバックだ!」

 

 

 

 甲龍歴424年

 

 英雄剣豪、北方大地に現出す──!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第三十八景『転生虎(てんとら)(ちち)る!』

  

 人生というのは後悔の連続だ。

 大きいことも、小さいことも、人は何かしらの後悔を抱えて生きている。

 

 あの時ああすればよかった、この時こうすればよかった。

 なんてことは、ナンセンスかもしれないけど、考えずにはいられない。

 

 前世は、その思いに文字通り死ぬ瞬間まで囚われていた。

 今生では、後悔した瞬間は沢山あったけど、それでも失敗を糧に前向きに生きてこれた。

 もちろん、出会った人達に支えられたから、というのもあるけど。

 

 でも──

 

 俺は、あの時

 

 ウィルを、魔法大学へ連れて行ったことを

 

 

 多分、死ぬまで

 

 

 ずっと、後悔していくんだろう

 

 

 

 


 

 我が弟ウィリアムの誕生日、そして我が娘ルーシーの誕生から、はや二ヶ月が経過した。

 シャリーアはまだまだ寒いが、雪が少しづつ溶け始め地面が露出するようになってきた。

 

 ルーシーは健やかに育っている。おとなしいが、身体は丈夫そうだ。

 おとなしい。そう、非常におとなしい。夜泣きもほとんどせず、ぐずったりもほとんどしない。

 あまりにもおとなしく泣かない子だったので、思わずルーシーも転生者なのでは? と疑うほどには。

 

 そんな不安からか、俺はルーシーに『本当は気づいているんだろう……ここが異世界だってことを……!』とか『I have a pen! I have a apple!』だとか『チェスト関ヶ原!』などと日本語や英語や薩摩語を織り交ぜながら話しかけるという凶行に及んだ。

 その様子を陰から見ていたウィルが「兄上……」と、残念なものを見るような視線を向けるほど、俺の様子は怪しさ満点だったのだろう。

 

「あうー」

 

 でも、そんな俺にルーシーはきゃいきゃいと嬉しそうに笑うだけだ。少なくとも『ようごわすとも!』なんて返してくることはない。

 転生者だと隠しているのかもしれないが、自身を鑑みて赤ん坊ロールをここまで徹底できる大人はそういない。ウィルなんてウンコを漏らしても全く泣かなかったからな。よくゼニスがウィルのかぶれたお尻に治癒魔術をかけていたのも、今となってはいい思い出だ。

 とにかく、よしんばルーシーが転生者だとしても、この愛らしい姿を見たらどうでも良くなってくる。

 中身が転生者であったとしても、パウロが俺にしてくれたように、俺はルーシーを大事に育てるだけだ。

 

「ルーシーたん、おじいちゃんでちゅよ~」

 

 そのパウロであるが、毎日毎日ルーシーのベビーベッドの傍でだらしない表情を浮かべていた。

 ルーシーはパウロのちょっと気持ち悪い顔を見ても、相変わらずキャッキャと笑い声を上げている。

 

「本当に可愛いなぁ! 本当に可愛いなあぁ!!」

「そ、そうですねお義父さん……」

 

 シルフィがちょっと引くくらいには、ルーシーを溺愛しているパウロ。

 うん、予想していた光景だ。でも、気持ちはすごいわかる。

 だって、俺の娘は、世界一可愛いんだもの。

 

「こんなに可愛いのは、ママが可愛いからだろうね」

「え? え、えへへ。ありがと、ルディ」

 

 シルフィを後ろから抱きしめ、さらさらの髪に顔を埋めながらそう言うと、シルフィは顔を赤らめながら俺の手をさすってくれた。

 僅かに香るミルクの匂い。天然の香水が、愛しさを高めてくれる。

 母親になったからなのか、最近のシルフィはぐっと女らしさが増していた。

 伸びた髪は彼女の魅力を以前より一層引き立てており、毎日眺めていても飽きない。

 美人は三日で飽きると言うけど、シルフィに限っては全くそんな気持ちは沸かないな。

 

「むぅー……」

 

 そんな俺達を、少しだけ頬を膨らませ、ものほしげな目で見つめるロキシー。

 おっといけない。

 愛しのもう一人の妻にして、我が敬愛すべき唯一神を忘れていた。

 

「もちろん、ロキシーも可愛いですよ」

「な、何言っているんですか……もう……」

 

 俺はシルフィを抱きつつ、ロキシーの小さな体も抱き寄せる。

 可愛らしいおでこにキスをすると、ロキシーも顔を赤らめながらモジモジと恥ずかしそうに身を捩らせていた。

 

「おやおや、仲がよろしいことで」

「あ、スザンヌさん。おはようございます」

 

 そんな朝のグレイラット家の居間に、この頃雇った乳母のスザンヌがやってきた。

 スザンヌは、昔俺が組んでいた冒険者パーティの一人だ。

 十二歳だった当時、エリスと別れ、失意に塗れて北方大地にやって来た時。

 自暴自棄だった俺の前に現れたのが、スザンヌのパーティ“カウンターアロー”のメンバーだった。

 カウンターアローは俺が抜けた後解散したらしく、スザンヌは冒険者を引退。そのままパーティリーダーだったティモシーと結婚し、こうしてティモシーの実家方のシャリーアに移り住んでいる。

 

 そもそもスザンヌを雇った経緯は、シルフィが産休明けでアリエルの護衛に復帰しなければならず、リーリャもゼニスの介護もありルーシーの面倒を見るのは少し厳しいというのがあった。

 パウロも今は四六時中家にいるわけでもなく、ゼニスの治療法を探すべくあちこちに出かけている。最近はギースにも協力してもらっているみたいだ。

 アイシャは、まあ面倒は見れるかもしれないけれど、当たり前だがまだおっぱいは出ない。なのでルーシーが腹を空かせていると対応が利かない。

 一度シルフィが所用で出かけた時なんかは、お腹を空かせたルーシーが泣き、テンパったアイシャが「ルーデウスお兄ちゃん! ルーシーがあたしのおっぱいをちゅうちゅう吸ってるよ! あ、母乳(ちち)は出ねえぞよ?」と、よく分からない感じになってたのが、かわいそうで見ていられないという事もあった。

 この世界は、粉ミルクなんて便利なものは開発されていないんだ。悔しいだろうが仕方ないんだ。

 いや、似たような物はあるのかもしれないけれど、少なくともシャリーアには無かった。

 

 一時はシルフィのおっぱいを瓶に溜めておく案も考えた。魔術を使えば冷蔵保存も利くし。

 でも、母乳を無理矢理絞り出すというのは、思ったより辛い作業らしい。特にシルフィの慎ましいお胸なら尚更とのこと。

 俺が治癒魔術をかけながら乳搾りをしてあげてもよかったんだけど、そのまま種搾りを生搾りして一番搾りする恐れがあったので止めた。

 まあそういうわけで、乳母兼ベビーシッターを募集したところ、俺の名前を見たスザンヌが応募してきたのだ。

 

 カウンターアローの時は、まあ酸いも甘いも色々あった。

 スザンヌから聞いたが、彼女はまだ冒険者をしているらしい。

 彼女は……サラは、元気にしているだろうか。

 いや、向こう気が強い彼女のことだから元気にはしているだろうけど、妙に不運気質なところがあるので変な奴に絡まれてたりしていないかちょっと心配だ。セクハラとかされてなきゃいいけど。

 

「スザンヌさん、今日もよろしくお願いします」

「はいよ、ルーデウス。ああ、その妙な敬語はやめてもらってもいいんだよ? アンタは雇い主なんだからね」

「まあ、親しい仲にも礼儀ありってことですよ」

「そういうもんかね……あ、大旦那様。お嬢様をあやすくらいアタシがやりますよ」

「やだ! ルーシーたんは俺があやす!」

「泣いているんですがお嬢様は」

 

 ふと見ると、パウロがルーシーを抱きかかえながら泣いているのか怒っているのかよくわからない表情を浮かべ、ルーシーはいい加減付き合いきれなくなったのか「ふええ……」とガン泣き秒読み段階に入っていた。

 

「はいはい、ちょっとお借りしますよ」

「ぐぬぬ……」

「まあ、その姿勢はウチの旦那にも見習わせたいんですがねぇ……はい、よしよし。お嬢様はお腹が空いたのかねぇ?」

 

 ルーシーをあやしながら、スザンヌは服の裾をまくり大きなおっぱいを晒そうとする。

 

「あ、じゃあ俺達はもう出ますね」

「別に見てても構わないんだけどねぇ」

「そういうわけには……行こうか、シルフィ、ロキシー」

 

 知っている人とはいえ、人妻のおっぱいを見るのはちょっと抵抗があるしな。

 パウロはスザンヌのおっぱいよりおっぱいを飲むルーシーに夢中なので問題ないだろう。あのおっぱい星人なパウロが随分と変わったものだ。息子の俺が言うのもなんだけど、ちょっと感慨深い。

 というわけで愛娘は優秀な乳母さんに任せ、我らは神聖なる学び舎へ向かうとしよう。

 

「ボクもあれくらいあったらなぁ……」

「微乳以下娘(イカ娘)……う、頭が……」

 

 見ると、我が妻達は二人揃ってその慎ましいお胸を触りながらしょんぼりしていた。

 いや、俺はシルフィやロキシーを胸で選んだわけじゃないし、そこまでヘコむ必要は無いというか、ロキシーまだ波裸羅様にイカ娘って言われたの気にしていたのか……。

 我が神の御神体にゲソ、もといケチをつけるとは、普通なら文句のひとつでも言ってやりたいところだ。だけど、生憎相手はあの現人鬼である。言った瞬間に俺の臓物は螺旋を描いて飛んでいくことになるだろう。

 まだ死にたくないので、俺はロキシーを慰めることしか出来ることがない。

 なので今夜たっぷり慰めてあげよう。いろんな意味でな!

 

「兄上、お待たせしており申す」

「ああ、ウィル。ていうか、今日くらいは休んでもいいと思うぞ」

「そういうわけには……」

「でも、ナクル達に稽古をつけないといけないんじゃないのか?」

 

 ウィルもまたノルン達からもらったコートを羽織り、七丁念仏を腰に挿し支度を整えていた。

 あの話し合いから、ウィルは週に何日かは一緒にラノア大学へ通うようになった。といっても、授業を受けにいくわけじゃない。

 ナナホシの転移に関する研究の協力をしに、ウィルはラノア大学へ通っているのだ。

 特にここ数日はナナホシの強い希望で連日大学へ通っている。

 双子達に稽古つける時間を削ってまで通っているので、流石に今日くらいは休んでもバチは当たらないだろう。

 

「弟子共は夕刻ラノア大学へ向かうよう申し付けております故」

「あ、そうなんだ」

 

 ストイックな我が弟は、既に弟子達を放課後に呼びつけていたらしい。

 実は当初ラノア大学側は学内で大立ち回りをした双子とウィルを出禁にしようとしたらしいのだが、双子の元師匠がラノア大学創設者の知己であったのと、アリエルが色々と根回ししてくれたらしく、出禁云々は取りやめとなっていた。

 ついでにウィルが俺の弟であるのを広まらないように動いてくれたので、ウィルがグレイラットの家族であるのを知っているのは、学内ではアリエル達と特別クラスの数人、ノルン、ロキシー、そしてナナホシしかいない。

 アリエルはこの事を貸しにしているみたいだけど、そもそもナナホシの件がなかったらウィルが大学へ通うことはなかったし、双子は双子で大学には用は無いので、その辺りはあまり気にしてなさそうなのがちょっと不憫だった。

 

「それに、例のことも」

「あ、そうだった……」

 

 そう言ったウィルは、甲冑櫃……“不動”を背負って、支度完了していた。

 あれ、本当にやるのか……気が進まないけど、やるしかないか……。

 

「あ、アレ試すんだ。ボクも見学していいかな?」

「あの、わたしも見学してもいいですか?」

 

 シルフィとロキシーも興味深そうにウィルに背負われた不動を見る。

 そう。ウィルが言った例のこととは、あの怨霊軍師が纏っていた鎧、不動の魔術耐久テストである。

 最初はウィルに模擬戦を申し込まれたんだけど、それは断固として断った。

 だって勝てる気が欠片もしないんだもん。娘が出来たルーデウスは勝てない戦はしないのだ。

 まあ、折衷案で鎧を着込んだウィルに、俺が魔術を撃ちまくってどれだけ耐えられるか試そう、という話になった。

 大学内にある修練場なら、聖級治癒魔術の魔法陣があるので大事にはならないしな。多分。

 

 甲冑櫃に納められた不動は、ロキシーに取り憑いていた時のような大きなパワードスーツめいた外見から大幅にサイズダウンしている。例えると、和風のATから和風の聖衣といったところか。ウィルは思いっきり武器を使うけど。いや、天秤座と射手座あたりは例外だったか。

 ともあれ、ゴテゴテした外部装甲が剥がれ、不動は随分と身軽な見た目になっている。見た目だけは。

 ウィルが今日の今日までロクに不動を装着しなかった理由は、この見た目に反した“重さ”がネックだったらしい。試しにパウロが装着したところ、速攻で腰をやったくらいは、不動は相当重い。

 パウロは俺が治癒魔術を行使して事なきを得たけど、ウィルはそれを見て自身の戦法と真っ向から反発するこの鎧の装着を躊躇っていた。

 

 しかしながら、パウロから魔術を無効化した特性を聞いたウィルは、本当に魔術を無効にするのか、そしてどこまで魔術に耐えうるのか試してみたくなったらしい。

 そこで、俺に模擬戦を申し込んできたというわけだ。断ったけど。

 模擬戦を断わられたウィルはちょっと残念そうだったけど、お前七大列強なんだから俺みたいな雑魚魔術師に勝っても何もステイタスにはならないからな? って言ったら、なぜかシルフィ達に「謙遜しすぎ!」って怒られた。

 ちなみにロキシーは不動のせいで色々あったので、その存在自体を忌避するもんだと思っていたが、不動が持つ魔術無効の特性に対する興味の方が勝り、とくに忌避感を抱いてない様子だ。

 流石ロキシー。その知的探究心は留まるところを知らない。さすロキ。

 

「俺も見に行きてえなぁ。おいルディ、あの時のリベンジマッチだな!」

「いやだから模擬戦じゃなくて、あくまで鎧の耐久テストですから」

 

 あまり理解してなさそうなパウロが呑気にそう言った。

 ほんと、孫が出来てから知性が随分下がっている気がするぞパウロ……。

 

「では行ってまいります。父上」

「おう! お互い怪我しないように気をつけてな!」

「あうー!」

「……ルーシーも、粗相のなきよう」

「あう!」

 

 粗相をするのが、赤ん坊の仕事なんだけどなぁ。

 というか、もしかしてバレるのが恥ずかしかったから泣かなかったのかウィルは……。

 お兄ちゃんは、その頑張りの方向はちょっと違うと思うぞ。

 

 

 そんなわけでラノア大学へ到着した俺達。

 職員室に向かうロキシーと、生徒会室に向かうシルフィとは一旦お別れだ。

 ウィルの目的地であるナナホシがいる研究棟は、俺が通う特別クラスがある学舎と少ししか離れていないので、途中まで一緒に歩くことになる。

 ウィルはずっと不動を担いでここまで来たが、少しも重そうにしておらず、軽々と担いでいた。

 うーん、やっぱ重量はそこまで問題じゃないのだろうか。といっても、ウィルが歩く度にみしりと足音が響いているので、やっぱ重いのは変わらないのだろう。

 

「あ、ルーデウス兄さん、ウィリアム兄さん!」

 

 しばらく歩いていると、大学指定のトレーニングウェア、つまり芋ジャーを着込み、木剣を抱えたノルンがとてとてと走ってきた。

 

「あっ」

 

 む!

 ノルンが転びそう!

 と思った次の瞬間。

 

「ッ!」

 

 ズダン! と地面を踏み抜く音が聞こえ、ノルンを抱き止めるウィルの姿があった。

 凄い瞬発力というか、やっぱ重さは問題ないだろそれ。地面にはがっつりとウィルの踏み跡が残っていた。

 

「あ、ありがとうございます、ウィリアム兄さん……」

 

 僅かに頬を染めながら、おずおずとお礼を言うノルン。

 最近はすっかり学生寮で生活しているから、こういうおっちょこちょいな所をフォロー出来ないのがちょっと心配だ。ウチに泊まりに来るのも週一くらいに減ってしまったし。

 まあ、それだけ学校が楽しくなってきたのだろう。良いことだ。

 それにしても、芋ジャーでもノルンが着ていると可愛らしいな。セーラー服めいた襟が実にキュートである。

 

「ノルン、外では若先生って呼びな」

「え? あ、そうでした……」

 

 やんわりとそう伝えると、申し訳なさそうに俯くノルン。

 ノルンもウィルがアダムス性を名乗っている理由を知っており、少々寂しそうだけど理解はしてくれている。

 なので、双子達と同様に外ではノルンも若先生と呼ばせるようにした。

 剣術の先生だし、自然といえば自然だしな。

 

「ウィ……わ、若先生。あの、コート、すごく似合ってます!」

 

 そう思っていると、ノルンがウィルのお出かけ姿をキラッキラした目で見ていた。

 コロコロと表情を変えるのは、ちょっとだけアイシャに似ている。やっぱ、姉妹だな。こういうところは。

 

左様(さよ)か」

左様(さよ)て」

 

 思わず塩対応なウィルにツッコむ。でも、ちょっとだけ照れたように目を伏せるウィルを見て、なんだかんだ照れ隠しが下手な弟に苦笑いしてしまう。

 

「……修練は怠っておらぬようだな」

「はい! 若先生に教わったこと、毎日復習しています!」

 

 ノルンはグラウンドがある方向から走ってきた。つまり、朝の一人稽古を行っていたのだろう。

 うんうん。真面目だな、ノルンは。

 ウィルはノルンの頭を撫でながら、少しだけ表情を柔らかくしている。ノルンも嬉しそうだ。

 ……しかしキミ達は、もう少しルーデウスお兄ちゃんの事もかまってくれてもいいのよ?

 べ、別に寂しくなんてないんだからね! 寂しくなんてないのである! ないのだ。ないのか? ごめん、やっぱちょっぴり寂しいからかまって。

 

「……」

 

 俺の寂しげな視線を受けてか、ウィルがものすごく仕方なさそうに俺の頭を撫で始めた。

 いや、そうじゃない。

 そうなんだけど、そうじゃない。

 

「兄さんと若先生は仲が良くて、ちょっと嫉妬しちゃいます」

 

 ノルン……お前……お前ってやつは……。

 

「……」

 

 ふと、俺の頭を撫でていたウィルが、若干険しげな視線を向ける。

 すいません、いい年こいてちょっとカマチョすぎました。と謝ろうとしたけど、ウィルの視線は俺の頭の向こう側に向けられていた。

 振り返り、視線の先を見ると、数名……いや、十数名ほどの男子生徒がたむろしていた。

 なんだろ。なんかの集まりなんだろうか。

 

「若先生、ちょっといいですか? この前教わった、胸筋の使い方なんですけど……」

 

 そう思っていると、ノルンが真面目な表情でウィルへ質問していた。

 

「あの、今度でいいので、もう一度教えてくれませんか?」

 

 真面目なノルンは少しでも疑問に思った事はとことん追究しないと気がすまないのだろう。

 少しくらいアバウトでもいい気がするけど、まあ剣術だしな。俺も多少は使っているから、違和感があったらそこを修正したくなる気持ちも理解できる。

 ノルンも日々成長しているんだなぁ。良いことだ。

 

「またお胸……触りたいですし……」

 

 ノルンがちょっぴり陶然とした表情でそう呟いたのを、俺は聞かなかった事にした。

 お兄ちゃん、お前のそういうところちょっと心配。

 

 なんて思っていたら。

 

「なら、今教える」

「え?」

 

 脱衣(クロス・アウ)!?

 

「ぴゃああ!?」

 

 ウィルは素早い動きで不動を地面に下ろし、コートを脱ぎ、シャツすらも脱いでそのしなやかな上半身を晒す。その早業にはノルンも素っ頓狂な叫び声を上げるしかない。

 正直、瞬脱装甲弾の如き速さで脱ぎやがったので止める間もなかった。七大列強ってすごい。

 ていうか、いきなり脱ぐとかただのヘンタイだぞウィル。

 

「な、なんで今脱ぐんですか!」

「今日はこの後教える暇が無い」

「そうなのかもしれませんけど! 今度でいいって言ったじゃないですか! 人に見られたら変に思われますよ!」

「大事ない」

「大事ないんですか!?」

 

 顔を真っ赤に染めたノルンが狼狽しながらそう言うと、涼しげな表情で応えるウィル。

 うん。ウィルが俺達の家族だというのを、秘密にしておいてよかった。ありがとう、アリエル様。

 

「ノ、ノルンちゃんから離れろ! このヘンタイ!」

「!?」

 

 ふと、いつの間にか先程の男子生徒達が俺達の前にいた。

 どいつもこいつも敵意に満ちた眼差しをウィルに向けている。うん、事情を知らないと確かにウィルが痴漢しているようにも見えなくもない。

 とはいえ、いきなりヘンタイ呼ばわりはどうかと思……ごめん、俺もヘンタイ呼ばわりしてた。

 

 というか、実にモテなさそうな集団だな。いわゆるナードな集団ってやつだ。

 でも、どこか見下す気にはなれない。俺はもう二人も嫁がいるリア充だけど、こいつらは前世の俺だ。俺と同じ、非リア充なのだ。

 なので、ここは穏便に対処しよう。

 

「あの、何か御用ですか?」

 

 慇懃にそう聞くと、ヒートアップした集団の中でひときわヒョロっとした男が前に出る。目つきが悪く、頬骨が出っ張っているのは、自信の無いザノバって感じだ。もしくはカ○フサか。

 

「お、お前はノルンちゃんの何なんだ!」

「は?」

 

 何と言われれば家族ですが。

 あ、でもウィルは公じゃ他人だったな。うーん、こういう時はちょっと申し訳ない気持ちになるな……。

 

「俺はこの子の兄ですが」

「あ、あんたのことは知ってるよ! この学校で一番強いやつだってのも!」

 

 先頭の男に続き「そうだそうだ!」と声を荒げるナード集団。

 

「そ、そうだ! 俺達が聞きたいのは、そっちのヘンタイのことだ!」

「ノルンちゃんにひどいことするなら、僕らだって容赦しないぞ!」

「その言葉、準宣戦布告と認識させてもらう!」

「いや、この人は兄って言っただけじゃないかな……」

「ほら、こいつ“俺がノルンちゃんの兄貴になる!”っていつも言ってるし……」

「あ、そっかあ……その言葉、準宣戦布告と判断する!」

「お前もかよ」

 

 ちょっと小さな声も混じっているのを見るに、こいつらはいよいよ俺が知るナード集団そのものだ。

 威勢のいい連中も、どこか及び腰なのを隠せていない。

 こういう連中って集団になっても弱いんだよな……。

 とは言いつつも、黙っているウィルに対し、ナード集団は更に声を荒げていった。

 

「いきなり裸になるなんてお前正気か!」

「男のくせに妙にエロい乳首見せてんじゃねえよ! ノルンちゃんが怖がってるだろ!」

「何だその乳首は! 早く隠せ!」

「ふざけた乳首しやがって」

 

 荒ぶる男達を前に、当のノルンはウィルの腰にしがみつきながら「うるるるる……!」と、よく分からない怯え方をしている。よく分からない感じになるのは、アイシャと似ている。やっぱ姉妹だな。こういうところも。

 まあ、確かにこれ以上ノルンを怖がらせるわけにもいかないな。ウィルの乳首も、ちょっと艶めかしい感じではあるけど……。

 ていうか、本当にエロいな。

 いや、エロいな。

 

 何だ? この感じは……。

 俺はゲイじゃない。

 断じてゲイじゃない……が。

 

 ……

 

 ……はっ、いかん。

 ウィルに対する誤解を解かねば。

 

「えーっと……こちらは、この子の剣術の先生です。というか、そもそもあなた方こそ何なんですか? うちの妹とどういったご関係で?」

「えっ!?」

 

 そう言うと、急に押し黙るナード集団。

 なんだかお互いに顔を見合わせ、「お、おい……どうする……?」みたいな声も聞こえてきた。

 

「い、いや、僕らはノルンちゃんが一年生のときから一生懸命だったから、ずっと見守ってて、応援している感じというか……」

「と、というか、優しいノルンちゃんに無理やり剣術を教えようとするのは、あんまりというか……」

 

 さっきまでの威勢はどこへやら、しどろもどろでそう述べる男ども。

 

「俺は半年前に見かけて、それから目が離せなくなったというか……」

「俺は実習で一緒だったんだけど、火魔術で何度も失敗しているのを見てというか……」

「俺は教官に叱られて涙ぐんでいるのを見て、思わずというか……」

「俺はなんとなくノリで」

 

 なんとも要領を得ない説明だけど、理解は出来た。

 つまるところ、こいつらは──。

 

「あ、あの……先輩方……若先生は、怖くないです……」

「あ! ノルンちゃんが声をかけてくれたぞ!」

「ノルンちゃん! 今日も可愛いよ!」

「お疲れ様! ノルンちゃん!」

「ノルンちゃーん! ノ、ノーっ、ノルアアーッ!! ノアーッ!!」

 

 ものすごく怯えた感じでノルンがそう言うと、男どもは息を吹き返したかのように気持ち悪くなった。

 うん、こいつらは、いわゆるファンクラブってやつだ。

 シルフィからそういうのがあるってちらりと聞いていたけど、実際に目にすると色々危ういな。

 

「「「世界一! かわいいよっ!!」」」

「ど、どうもありがとうございます……」

「「「うおおおおおおおおお!!!」」」

 

 いや、ここまで練度が高ければそこまで危うくはないか?

 いやいや。まだ、こいつらにはファンのルール、いわゆる親衛隊の掟というものが無い。このままじゃ、いずれノルンによからぬ事を仕出かす奴が現れんとも限らない。

 

「……」

 

 あ、やばい。もっと危うい事態が起こりそうだ。

 黙ってたウィルが、そろそろキレそう。

 なんか、殺気を必死で抑えている感じだ。

 学内で問題を起こさないように大人しくしていたんだろうけど、やっぱノルンに危機が迫るとウィルも本気だすんだな……。

 

 よし。

 学内に血の雨を降らせるわけにもいかんので、ここは兄の威厳を見せつつ、こいつらには色々と教えねば──

 

「お、ボスじゃニャいか。何してんニャこんなとこで」

「なんか気色(きしょ)い連中と一緒にいるなの。ファックなの」

 

 なんでおまえらこんなややこしいタイミングで現れるの?

 

「ゲェ!? 虎のおやびん!?」

「お、お勤めご苦労さまですなの!」

「リニアッス、プルセナッスか」

「リニアッスじゃないス。リニアっス」

「プルセナっス」

 

 ウィルに気づいたリニア達は、即座に腰を九十度に曲げて挨拶する。まさか学内で出会うとは思いもしなかったのだろう。恐縮しっぱなしといった体で頭を深々と下げていた。

 というか、考えてみれば最近は結構な頻度でウィルは大学に来てるけど、リニア達と大学で会うのは双子の一件以来初めてだったな。運が良いのやら悪いのやら。

 とにかく、リニア達は戦々恐々とウィルの顔色を伺っていた。

 ……いや、そんなことより、このノルンファンクラブもどきをだな。

 

「お、おい……あの獣人コンビが頭を下げているぞ……」

「あいつ、もしかしてただのヘンタイじゃないのでは……」

「いや、あの乳首は只者じゃねえな」

 

 しかし。

 俺と同じく、いやある意味俺以上に学内では悪名高いリニアとプルセナ。

 

「へへぇニャ」

「へへぇなの」

 

 その二人が、ウィルに畏怖の念というか、女の子がしちゃいけないようなへつらいの笑みを浮かべる処世術をかましているのを見て、ファンクラブもどき……いや、もうナード集団でいいか。ナード集団は、ざわざわと困惑を顕にしていた。

 

「やい! おめーら! こちらにおわすお方をどなたと心得るニャ!」

「恐れ多くも先の七大列強、“武神”ウィリアム・アダムス卿であらせられるの!」

「ものども! ずが高いニャ!」

「控えおろうなの!」

「あの、先じゃなくて、現役なんですけど……」

 

 ノルンの怯えがちな訂正を入れられつつ、獣人コンビはどっかで見たようなディレクションでナード集団を威圧する。

 ちなみに“武神”という称号は、アリエルが名付け親だ。

 曰く、齢十四にして独自の剣術を用い死神を下し、転移迷宮でヒュドラを成敗したウィルは、まさしく武の権化。

 故に、武神を名乗るのにふさわしいと。

 ただ、これについてはウィルは否定気味にしており、少なくとも自分から名乗ることは一切していない。

 まだ己はそこまでの境地に至ってないからとのことらしいが、個人的には十分武神を名乗ってもいいと思う。

 なにせ、前世から武を糧にし、武に生きてきた男なのだから。

 

「「「は、ははーっ!!」」」

 

 リニア達の言葉を聞き、まるで地面に縫い止められたかのようにナード集団は土下座をかましていた。

 ていうか、ノリいいなおまえら。

 

 ていうか、そろそろ授業が始まってしまうんだけど……。

 

「ニャーハッハッハッハッ! いまこそ武神の威を思い知るがいいニャ!」

「恐れ入りやがれなの! 武神万歳! なの!」

 

 すげえ。虎の威を借る狐、もとい犬猫を地で行ってやがる。

 ほんとどうしようもないこの光景に、すっかり毒気を抜かれた俺とウィル。

 

「……行こうか」

「はい」

「は、はい……」

 

 ナード集団を前に高笑いを上げ続けるリニア、プルセナを尻目に、ウィルはいそいそと服を着直し、甲冑櫃を担ぎ直すと、俺とノルンと共にひっそりとその場を後にした。

 ファンクラブのルールとかは、また明日でいいか。

 なんか、朝っぱらからどっと疲れた。

 ウィルとの耐久テスト、また今度にしてもらおうかな……。

 

「ではこれで。また後ほど」

「ア、ハイ……」

 

 お兄ちゃんを逃がすつもりは、武神様にはないようである。

 ナナホシが待つ研究棟へみしみしと歩いていくウィルの後姿を、俺は諦観の念を込めて見送るのであった。

 

 

「……ノルンも、また後ほど」

「あ、はい!」

 

 なんだ、時間あるじゃないか。

 妹思いな武神様で、お兄ちゃん大安心である。

 

 ちなみに、リニアとプルセナは普通に遅刻した。

 

 

 

 

 

 

 



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第三十九景『転生虎(てんとら)(まと)う!』

 

「コホッ……ウィリアムさん。今日も宜しくお願いします……」

 

 ラノア魔法大学

 研究棟

 ナナホシ・シズカ研究室

 

 ルーデウスらと別れたウィリアムは、一人このナナホシの研究室へと赴いていた。

 ナナホシが現代日本へ帰還するべく、異世界間の転移を目的とした研究への協力の為である。

 

「御身の調子が優れぬのなら……」

「いえ、大丈夫です。ちょっと、咳が出るだけですから」

 

 咳き込むナナホシを気遣うウィリアムであったが、ナナホシとしては少々の体調不良で中断するつもりは無く。

 とはいえ、魔術を使えぬウィリアムにとって、ナナホシの研究に直接手を貸す事は無く。

 出来る事は、帰還の手がかりとなる物品の貸与のみである。

 ぶつぶつと独り言を呟き、時折咳き込みながら魔法陣に記述を重ねるナナホシ。作業机に置かれた七丁念仏の刀身を調べ、また独り言を呟きつつ作業を続ける。

 その様子を、ウィリアムは黙して見つめるのみである。

 

(不憫……)

 

 しかし、ナナホシを見つめる虎の眼は憐憫が籠もった眼差しであり。

 前世を含めると、孫のような年の差があるウィリアムとナナホシ。年若に対する情も多分に感じている。

 そして、そのような年若のナナホシが、こうして人知れず現代日本へ帰還するべく必死になっている姿は、苛烈な気質を備える虎ですら憐れみを禁じ得ないのだ。

 

 自身や兄ルーデウスは、この世界に新たな生を受けその身を根付かせている。

 故に、前世世界への望郷は多少あれど、この世界で生き抜く決意は生まれた瞬間から芽生えていた。パウロ、ゼニスら今世の両親が、惜しみのない愛情を注いでくれたのも大きい。

 

 異世界に生まれ落ちた日が、兄弟の出陣の時

 後方支援は、家族の愛

 蛮勇異世界、何するものぞ

 

 だが、ナナホシは違う。

 それまでの穏やかな日常から、突然身一つでこの苛酷な異世界へと投げ出されたのだ。

 転移直後に龍神に保護されていなければ即死しかねない状況。言葉も通じず、生活環境も違うこの世界で、ナナホシが生き抜くには厳しすぎる現実があった。

 

「コホッ……」

 

 日本人らしい美しい黒髪を揺らしながら作業を続けるナナホシ。

 その姿が、朧気な記憶となった前世の娘、三重と重なる。

 

 “お前だって、異世界で困っている日本人を見つけたら、見捨てることなんてできないだろ?”

 

 ルーデウスの言葉が、虎の中で反芻される。

 娘と同じ美しい黒髪を持つ、平成日本からの迷い人。不憫で、健気に帰還への道を歩むこの少女に、葵紋の呪縛が無くとも己の手を差し伸べるのは厭わない。

 若虎は、そう想っていた。

 

「……ちょっと休憩してもいいですか?」

「……」

 

 だが、そのような憐憫の眼差しとはいえ、黙って見つめられているとどうも緊張度が増すナナホシ。先程から地味に胃の辺りが軋むのを感じていたナナホシは、たまらず休憩を申し出る。

 ウィリアムは相変わらず黙していたが、ゆっくりと首肯して少女の瞳を見つめていた。

 

「あ、お茶飲みますか?」

「かたじけなし」

 

 作業机からウィリアムが座るソファの対面に座り、ティーポットから注いだお茶をおずおずと差し出すナナホシ。

 ウィリアムがゆっくりとカップに口をつけるその様子を、少しばかりそわそわと見ている。

 虎は、ふくよかな香りとトロリとした甘みがある茶を、じっくりと味わうように口をつけていた。

 

「あ、あの……今日も、色々お話を伺ってもいいですか?」

「……御話引き受け候」

 

 先程の緊張した様子から、やや好奇心を抑えられぬといった表情を覗かせるナナホシ。

 ナナホシの第一の目的は、ウィリアムの日ノ本由来の物品の調査であり、調査用の魔法陣でその転移の根源を調べ帰還の手がかりにすることであるのは変わらない。

 だが、それに加え、平成女子高生……いや、この刀剣女子には、もうひとつの目的があった。

 

「え!? じゃあ井伊直虎って女性じゃなかったんですか!?」

「井伊侍従殿の養父は関口越中守殿が息子の井伊次郎直虎殿。れきっとした男子(おのこ)でござる。築山殿は侍従殿の従叔母で、井伊谷城の城主だった事実はござらん」

「はぇ~……大河ドラマって嘘だったんだ……」

「ドラ……?」

 

 ナナホシはいわゆる戦国や幕末をモチーフとしたゲーム、アニメ、コミック等のコンテンツを親しんでおり、戦国時代の生き字引きともいえるウィリアムの“生”の情報を聞くのを密かな楽しみとしていた。

 明かされる驚愕の事実の数々に、平成日本女子高生は思わず素の自分をさらけ出して感心するばかり。

 とはいえ、廻国修行で全国を行脚していた時は一介の剣術修行者の身分でしかなく、歴史の裏ともいえる戦国武将達の生情報を知れるのは、ウィリアムがある程度の身分を持ち得た掛川藩兵法指南役時代且つ東海道周辺に限定されてはいたが。

 

「えっと、じゃあ徳川四天王で実際会った人とかいます? 本多忠勝って本当に強かったんですか?」

「拝謁の栄を賜ったのは榊原式部大輔殿のみでござる。本多中務大輔殿は旗本先手役*1に任じられるに相応しき御仁とは聞いております」

「はぇ~……やっぱホンダムってすんごい……」

「ダム……?」

 

 ウィリアムの言に、ナナホシは目をキラキラと輝かせて聞くばかり。

 先程の緊張感はどこへやら、ただ知的好奇心を満たすべく興奮気味に話をせがんでいた。

 ウィリアムはウィリアムで、このように自身が生きた時代についてこれほど食い気味に聞いてくる存在は初めてであり、ところどころナナホシから飛び出してくる聞き慣れぬフレーズに首をかしげつつも、珍しく饒舌気味に受け応えていた。

 

「えっと、じゃあ……」

「……」

 

 興奮気味に次の質問を考えているナナホシに、ウィリアムは微笑を持って見つめている。

 前世のことはもはや過去の事。囚われは捨てている。

 だが、こうして知識として開陳する分には、存外に楽しいものである。

 目を細めながらカップを傾け、少々乾いた口を潤しつつナナホシの次の質問を待つウィリアム。

 

「本多繋がりで、本多正信とか、本多正純って会ったことありますか?」

「──」

 

 瞬間、カップを傾けていた手がぴたりと止まる。

 ウィリアムの貝殻に、あの忌まわしい記憶がじわり、じわりと滲み出していた。

 

「……」

「あ、あの、ウィリアムさん……?」

 

 超特大の地雷を踏み抜いたに等しき愚挙。

 それに気づかぬナナホシは、いきなり表情を険しくするウィリアムを訝しむように見つめる。

 

「くふ、くふふふふ」

「ウィ、ウィリアムさん?」

 

 そして、唐突に不気味な嗤い声を上げるウィリアム。

 その変わりぶりに、ナナホシは困惑するのみ。

 

「……上野介殿は、柳生但馬同様、嫌な奴でござった」

「そ、そうなんですか……はぇぇ~……なんでそこで柳生宗矩が出てくるの……?」

 

 やがて皮肉めいた笑みを浮かべながら応えるウィリアム。

 前世の囚われから抜け出したと思っていたが、屈辱と憎悪の記憶は中々晴れぬもの。

 

(やはりあの時、但馬めの下顎を撥ね飛ばしてやれば良かったわ!)

 

 とはいえ、以前のような粘ついた憎悪を抱くことはなく。

 江戸道三河岸にて、柳生宗矩と立ち合った時分を思い出したウィリアムは、カラリと晴れやかな気持ちで、しかしやはり恨みを持って当時を思い起こしていた。

 虎の矮小な部分は、不退転の火を受けても中々変わらぬものである。

 もっともそのような虎の複雑な心境を、ナナホシが知る術は無かったのであるが。

 

「じゃ、じゃあ作業に戻りますね……」

「……」

 

 少々気まずい空気が流れた所で、逃げるように机の上に広げられた魔法陣へ向かうナナホシ。

 ウィリアムは後世の人間に、自分の主観で怨敵への風評被害を植え付けたことで、やや満足げな表情を浮かべている。

 このような器の小ささは今生では鳴りを潜めていたが、やはり虎の本質は中々の偏屈者であった。

 素をさらけ出していたのは、ナナホシのみならず、虎もまた同じ。

 

「……」

「……」

 

 再び研究室には沈黙が漂う。

 作業を継続するナナホシを、黙って見つめるウィリアム。

 魔法陣の素養が無いウィリアムであったが、進捗状況は気になるところ。しかし、邪魔をしてはならぬと沈黙を保ち続ける。

 

「ふぅ……」

 

 やがて難しい箇所を終えたのか、深くため息を吐くナナホシ。

 窓の外へ目を向けると日は中天に差し掛かっており、ナナホシを含め学生達は昼休みの時間である。

 

「まだ、時はかかりそうですかな」

「そうですね……七丁念仏のおかげで、ある程度の成果は上がりつつあるんですけど、基本的に魔法陣の構築には時間がかかるんです」

 

 ナナホシが現代日本に帰還すべく取り組んでいる転移魔法陣の研究は、複数の段階を経て構成されている。

 まず、ルーデウスがシルフィエットと結婚した時分に成功させた第一段階“無機物の召喚”

 その後、植物等の有機物の転移召喚。更に、昆虫等の小動物の転移召喚。その後、哺乳類等の大型動物の転移召喚。

 それらを繰り返し相転移の確度を上げ、最終的にはナナホシ自身が現代日本へ"転移召喚”し帰還せしめる。

 

 一度は挫折しかけたこの研究も、ルーデウス、そしてザノバ、クリフらの協力により着々と成果を上げている。

 先に成功したペットボトルの召喚に加え、そのペットボトルのキャップの召喚にも成功していたナナホシは、第二段階である有機物、つまり植物由来の物品の召喚に着手していた。

 

 では、ここで七丁念仏は具体的にどのようにしてナナホシの研究に貢献していたのだろうか。

 

 当初、ナナホシは七丁念仏に残された魔力等の超常現象の痕跡を分析し、その力の根源を解明し転移魔法陣へと転用する腹積りであった。

 だが、七丁念仏の転移した原因を探り当てることは不可能。転移した際に残された魔力の痕跡は見受けられるも、もっと別の力学が働いているようにも見受けられた。それを、ナナホシは満足に解析することは出来ず。

 ならばとアプローチを変え、七丁念仏を媒介とした日本からの物品の召喚を試行する。

 

「その成果が、今飲んでもらってるお茶なんですけどね」

「……」

 

 ナナホシの言を受け、ウィリアムはカップに波打つ濃緑色(・・・)の液体へ視線を向ける。

 先程ナナホシがウィリアムへ淹れたお茶。

 それは、この世界で普遍的に飲まれている、いわゆる紅茶等の西洋茶ではない。

 それは、純然たる日本茶。

 つまるところ、緑茶である。

 更に、産地は静岡県掛川市。

 

「これで、帰還先の固定(・・)は、ある程度は確立できたと思います」

 

 茶葉のパッケージを手に取りながら、瞳を爛と輝かせる平成日本女子高生。

 ナナホシが当初から懸念していた帰還先の固定問題。

 何もかも上手くいき、いざ現代世界へと帰還したはいいが、転移先が生存困難な場所では目も当てられない。

 一応、未だ理論段階ではあるが、転移成功判別魔法陣の構築で転移した先のある程度の海抜高度の選定はできる。恐らくは、海抜10mから30m以内の陸地へと転移することは可能であろう。

 だが、日本国内ならばまだしも、国外、それも紛争地域等の危険地帯の真っ只中に転移すれば、そのまま即死する恐れも十二分にある。

 故に、七丁念仏だ。

 

「ほんと、七丁念仏のおかげです。改めてお礼を言います。ありがとうございます、ウィリアムさん」

「礼には及び申さぬ」

 

 七丁念仏に残された魔力の残滓を解析し、媒介とした現代日本からの物品召喚。

 召喚されたのは、掛川市内のとあるメーカーで生産された緑茶であった。妖刀ゆかりの土地と何かしらのつながりがあったからなのか、数度の実験を経て転移召喚先を掛川へ固定することに成功する。

 

 魔法陣に現れたパッケージを見た瞬間、ナナホシは発狂せんばかりに狂喜乱舞する。ちょうど実験の為魔力を供給していたルーデウスが「またかよ!」と大いに焦ったほど、平成日本女子高生の常軌を逸した喜びぶりは想像に難くない。

 ナナホシが落ち着き、赤面して恐縮しているのを見たルーデウスは「帰ったらちゃんと買い取りに行けよ……今のままじゃただのダイナミック窃盗だからな……」と、疲れた様子で釘を差していた。

 無論、ナナホシは帰還後、虎の子の貯金を崩し製造メーカーの緑茶を箱買いする腹積もりではある。

 ちなみに、恒例となりつつある物品の召喚成功祝いは盛大に行われたのだが、その様子はここでは割愛する。

 

 ともあれ、こうして物品の往来は静岡県掛川市内に限定された。

 あとは、自身が帰還可能になるまで転移魔法陣の水準を上げるのみ。

 興奮を隠せないナナホシの様子を、ウィリアムは緑茶を飲みつつ眼を細めて見つめていた。

 

「……あの、不躾で申し訳ないんですけど、お願いがあるんです」

「?」

 

 ややあって、何かを決心するかのように表情を固めるナナホシ。

 不思議そうにするウィリアムに、平成日本女子高生は意を決してその可憐な口を開いた。

 

「七丁念仏を、ニ日……いえ、一日だけでいいので、貸してくれませんか?」

「む……」

 

 乙女の可憐で、悲壮な要請。若虎は、それまでの穏やかな表情を変化させ、やや渋面を浮かべていた。

 

「今、研究がすごく良いところまで来ているんです。だから、集中して調べたいんです……」

「……」

「剣術家が他人に愛刀を預けるなんてありえないですよね……でも、それでも……お願いします……」

「ナ、ナナホシ姫」

 

 尚も渋面を続けるウィリアムに、ナナホシは悲壮な表情を浮かべ床に手をつく。

 乙女の痛ましい土下座姿。ウィリアムは思わず乙女の肩を掴み、その身を起こしていた。

 

「お願いします……お願いします……」

「……」

 

 それでも尚、頭を下げ続けるナナホシ。悲痛なその姿に、若虎の心は揺さぶられる。

 剣術者の命ともいえる刀を、一日とて手放すのは耐えられぬ。

 しかしこの痛ましい姿も、これ以上見ていられぬ。

 

 しばし床を這うナナホシの姿を、黙って見つめるウィリアム。

 やがて、虎は深い溜息をひとつつき、乙女の肩に手を置いた。

 

「丁重に、扱って頂きたく……」

「ウィリアムさん……」

 

 虎の一言に、ナナホシは深く頭を下げ、感謝を捧げてた。

 虎は、慈愛の気を纏わせながら、ゆっくりと頷いていた。

 

 

「本当は、その“不動”も調べてみたいんですけどね」

 

 しばしの時が経ち、落ち着いたナナホシがふとウィリアムの傍らに置かれた甲冑櫃へと目を向ける。

 鎮座する拡充具足“不動”

 その存在感は、櫃の中で妖しい“気”を発する程。

 

「ナナホシ姫単独での不動の検分は、兄上が固く禁じております」

「そ、そうなんですけどね……確かにちょっと……いえ、結構危ない気はしますけど……」

 

 やや浮ついたナナホシを嗜めるように言葉を返すウィリアム。

 七丁念仏はウィリアムの前世、つまりナナホシと同じ時空を共有する日本由来の品。

 貸与し、召喚実験の媒介としない理由はない。

 しかし、不動は日本由来の品ではあるが、ナナホシ達の日本(・・・・・・・・)の品ではない。

 

「兄上の言を借りれば、迂闊に媒介にすればどのような魑魅魍魎が現れるとも限りませぬ」

「はい……」

 

 しょんぼりと肩を落とすナナホシ。

 不動とは、別次元の日本からの迷い品──。

 六面世界の魔術(不思議)ですら解明できぬ、敷島の仰天具足(摩訶不思議)は、迂闊に実験に使用するには実に危険な代物。

 故に、安全性が確立できぬ以上、不動を使用した相転移実験はもとより、その調査自体が見送られていた。

 その出鱈目の一端を垣間見たルーデウスが、不動を媒介とした召喚実験を必死で押し止めるほどには。

 

 ウィリアムは別次元の日本の存在をやや咀嚼しきれていなかったのであるが、兄ルーデウスの言葉には素直に従っていた。

 時間移動や異世界間移動の概念は理解できても、並行時空の概念は、流石に中近世に生きた人間には理解し辛いものがあった。

 現人鬼や不動の存在も、非常識な存在であれ非現実ではない。実在する以上、それは虎にとって真実の存在なのである。

 時として中近世の武士が現代人よりも現実的なのは、命投げ打つのが当然の武士道という死生観から来ているからか。あるいは、単に目に見える事実しか許容出来ないからか。

 

「……あの波裸羅──様に、協力してもらえば、もしかしたら……。でも、簡単に協力してくれる人じゃないんですよね?」

 

 その現人鬼の名が、ナナホシの口から不意に発せられる。

 根拠は無きに等しいが、聞く限り暴虐無敵の存在である現人鬼の合力があれば、不動を安全に調査できるのではないかと。

 そのようなナナホシの言葉を、ウィリアムはしばし瞑目した後、ゆっくりと口を開いた。

 

「至誠にして動かざる者は 未だ之れ有らざるなり」

「え?」

「誠心を持って尽くせば、動かぬ人はおりますまい。という意味です」

「な、なるほど……あれ? でも、それって吉田松陰の言葉ですよね? どうしてウィリアムさんが吉田松陰を知っているんですか?」

 

 幕末の思想家が残した金言は、幕末をモチーフとしたコンテンツにも十全に取り入れられている。

 それ故に、ナナホシはその言葉を知ってはいたのであるが、幕末よりはるか以前の時代に生きたウィリアムがそれを知り得るとは思えず。ナナホシはやや困惑した表情を浮かべていた。

 

「吉田松陰? 誰ですかなそれは」

「えっと、幕末の思想家で……」

「これは孟子。離婁章句(りろうしょうく)*2の一節にござる」

「な、なるほど……孟子なんですね……パクりましたね吉田松陰」

「パク……?」

 

 吉田松陰は単純に時代に合わせて孟子を引用しただけである。

 だが、意図せずに後世の人間へあらぬ風評被害を植え付けてしまうウィリアムなのであった。

 

 

「もっとも、かの御仁は人ではなく鬼。好き勝手の類にござれば、常人の道理が通じる相手ではござらん」

「なんで今取れ高零の話したんですか……?」

 

 

 そして身も蓋もない話で締める、ウィリアムなのであった。

 

 

 

 


 

 来てほしくない時間というのは、容赦なくやってくるものである。

 

「では……一手御指南仕り──」

「いやだから模擬戦じゃないからな?」

 

 練武場で、拡充具足“不動”を纏ったウィルと対峙する俺。

 重厚な鋼を纏ったウィルの姿。面頬があるので表情は見えないが、全く重さを感じさせないその佇まいは、まさに武神と呼ぶにふさわしい威容だ。

 

 目方三十四貫(127.5kg)、手甲は一寸(3cm)の厚み。

 並の人間なら一歩も動けない、鎧というよりは枷。

 そんな体枷……いや、ウィルの外骨格(ほね)は、黒々とした装甲の輝きを見せていた。

 

「ルーデウス様。そのようなご無体は仰らずに、一度手合わせをしてみてはいかがでしょう?」

 

 練武場に気品のある声が響く。

 にこやかにそう言い放つのは、アリエルだ。

 実は、練武場にはシルフィやロキシー以外にも、何名かの見学者が来ていた。

 

「え、えっと、ルーデウス兄さん、ウィリアム兄さん! 二人とも頑張ってください!」

 

 まず、ノルン。

 この後ウィルのプライベートレッスンがあるので、放課後にそのまま来ていた。

 ただ、「ウィリアム兄さんの……お胸……」というウットリとしたつぶやきは、お兄ちゃんほんとどうかと思うぞ。

 ちなみにこの場にいるのはウィルがグレイラット家の家族であるのを承知している人間しかいないので、ノルンはウィルをいつも通りの呼び方で呼んでいた。

 

「うーむ……やはりあの鎧は……」

「マスタ。グランドマスタはおとうと様と戦うんですか?」

 

 ザノバとジュリ。

 ジュリは単純にザノバにくっついてきたのだが、ザノバに関しては実は俺が誘っていた。

 というのも、不動の重量を鑑みて、怪力の神子であるザノバなら問題なく使用出来るのではと思い、試しに着装させてみたかったのだ。

 で、先程実際に着せてみた。

 

 結果は、着装不能。

 

 曰く、重量は問題無かったらしいのだが、着た瞬間魔力とは別の悍ましいナニカが流し込まれ、一歩も動けなくなったらしい。慌てて脱がした時のザノバは、全身冷や汗でグッショリだった。

 ウィルは問題無く着装しているので、やはり何らかの力が作用しているのか、調べてみないとわからない。とりあえず分かったことは、不動はウィルの専用装備だということだけだ。

 ただ、これに関してはクリフ先輩が一枚噛みたがっている。

 

「不動……ぱっと見ただの鎧にしか見えないな……」

 

 そのクリフ先輩とエリナリーゼ。

 クリフ先輩は不動の特性を聞き、その力の根源を調べてみたくなったらしい。恐らくだが、あの山本勘助のような“怨念”めいた力が作用していると考えられる。なら、神撃魔術の使い手であるクリフ先輩が調べるのが安全確実だろう。召喚実験ではないから、波裸羅様みたいな変なのが飛び出してくることも無いだろうし。

 天才肌のクリフ先輩のことだ。きっと何かしらの答えを導きだしてくれるはずだ。問題はそこまでウィルがシャリーアにいるかどうかだけど。

 

「迷宮で……モニュ……見た時より……メリ……随分小さく……チュプ……なっていますわねぇ……ナポ……」

 

 んで、ドスケベエルフの方はさっきからクリフ先輩の耳をごきげんな朝飯を食べるようにねぶり倒している。クリフ先輩を後ろから抱きしめつつ時々制服の上から乳首も弄っており、公衆の面前で堂々とドセクハラをぶちかましていた。とりあえず下品な音を立ててんのは気が散るし、顔を赤くしたノルンがチラチラと見てて情操教育にとても悪いのでやめてほしい。

 

 だが、クリフは流石だった。

 

 エリナリーゼの執拗な性攻を受けても泰然自若としており、冷静に不動を纏ったウィルの姿を分析していた。なんていうか格が違う。俺ならとっくにアヘ顔晒している。

 流石だ。クリフ先輩といると、ラノアの魔術研究がまだ死んでいないということを確信できる。でも、エリナリーゼを止めようとはしていないので倫理観は死んでいた。慣れって怖い。

 

「いけーっ! ボスの弟!!」

「ぶっちゃけボスが勝てる未来が見えないなの。忌憚の無い意見ってやつっス。なの」

 

 たわけた事を抜かしているのはリニアとプルセナ。

 こいつらはこの魔術耐久テストを完全に見世物感覚で見に来ていた。

 うん。かなり調子に乗っているな。後でボスが誰なのか、もう一度理解らせてやる必要がありそうだ。

 ていうか、俺は戦わないぞ。

 

「ルーデウス様。ここには聖級治癒魔術の魔法陣があります。模擬戦ですし、お互い本気で当てないようにすれば問題ありません。そうでしょう、ジーナス教頭?」

「ええ。簡単な怪我はすぐに治療されます。お互い実力者ですし、加減は利くでしょう。そうですよね? ルーデウスさん?」

「ルーデウス。いい加減腹をくくれ」

 

 最後にアリエル、ルーク、そしてジーナス教頭。

 ルークもある意味アリエルとセットなのでいてもおかしくない。で、ジーナス教頭なのだが、どうもロキシーから色々聞いてここに来ているみたいだ。

 まあ実際、彼も学者肌なところがあるから、不動に興味があるのだろう。元弟子のロキシーは、こういうところも影響されていたのだろうか。

 ジーナス教頭にはウィルの件を含めて色々恩があるから、まあ別にいてもらう分には構わないけどな。

 

 ちなみにナナホシは来ていない。

 研究室に籠もり、七丁念仏をじっくり調べているんだとか。

 それにしても、よくウィルはナナホシに愛刀を貸したな。そこまで入れ込んでるとか、これはいよいよ『実はあいつただの一般人なんだぜHAHAHAHA』なんてカミングアウトするわけにはいかなくなった。

 実際綱渡りをするのはナナホシだけど、ちゃんとフォローしていかないとな。

 

 でも、どうして皆俺とウィルを戦わせたがっているんだろう……。

 

「あの、アリエル様。なんでそこまで模擬戦をやらせたがっているのですか?」

 

 なのでストレートに聞いてみた。

 俺の言葉を受け、アリエルはさも当然といった体で言葉を返す。

 

「それはもちろん、私を含め皆アダムス様の戦うお姿を見てみたいからです。実際目にしたお方もいらっしゃるようですけど、私はまだ見ておりません」

「左様ですか……」

「模擬戦とはいえ七大列強に除された“武神”アダムス様、そして超一流の魔術師である“泥沼”ルーデウス様の戦いは、まさしく神話を目の当たりにしていると言っても過言ではありません」

「いや、俺に関しては過言ですよそれ……」

 

 要するに、皆新しい七大列強の戦いが見たいんだな。

 ぶっちゃけそれは俺も見たい。迷宮じゃウィルが戦うところは見れなかったし、シャリーアに帰る途中も基本的に波裸羅様が大暴れしてたからウィルの出番は無かったし。

 でも、相手をするのは残念ながら俺だ。そこが大問題なのだ。

 七大列強と戦うなんて、あのオルステッドとの一戦だけで十分だ。いや、あの時は戦いにすらなっていなかったけど。

 

「ルディ。ウィル君のお願い、かなえてあげたら? ルディのカッコいいところ、ボクも見たいな」

「そうですよルディ。何かあってもシルフィとわたしがいるから大事には至りません。そ、それに、わたしも、ルディのカッコいいところが見たいですし……」

「う……」

 

 ダメ押しの我がワイフ達のこの言葉である。

 確かに、シルフィもロキシーも治癒魔術を十分に使えるし、シルフィに至っては無詠唱でそれを使える。

 魔法陣の機能を超える負傷を負っても、万全な治療体制が整えられてはいるのだ。

 

「兄上……」

「うぅ……」

 

 トドメのウィルの平身低頭の“お願い”が炸裂する。

 ウィルは不動の性能を試すのと同時に、多分無詠唱魔術の使い手の戦闘経験を積みたいんだろうけど、もっとほかに相手がいるんじゃないのかね?

 いや、シルフィとは絶対に戦わせないけど。シルフィに模擬戦をやらせるくらいなら、それこそ俺が……

 

「はぁー……わかったよ、もう」

「感謝……!」

 

 ウィルは眼を爛と輝かせて木剣を構える。

 瞬間、ピンと張りつめた空気が練武場を包んでいた。

 

 ……よし。

 俺も、いい加減腹をくくらなきゃな。

 パウロの言葉を借りるわけじゃないけど、十年越しのリベンジマッチだ。

 やるからには、勝ちを拾いにいくぞ。

 覚悟しろよウィル。

 でも、手加減してねウィル。

 

「では、僭越ながら私が開始の合図を取らせていただきます」

 

 そう言って、アリエルが手を挙げる。

 俺は静かに右目に魔力を込め、予見眼を作動させる。手には、愛杖傲慢なる水竜王(アクア・ハーティア)

 

 そして、静まり返った場内に、気品のある声が響いた。

 

 

「始め!」

 

 

 次の瞬間

 

 弾丸のように突進したウィルが、俺の目前に迫っていた──

 

 

 

 


 

「ねえ兄ちゃん。流石にまだ早いんじゃないかな」

「うーん……でも、若先生は夕方までには来いって言ってたし……」

 

 アリエルの開始の合図が響いた時。

 魔法大学の外では、異界虎眼流が兎弟子、ナクルとガドの姿があった。

 

「でもまだ昼過ぎだよ。まだ時間あるし、少し僕らだけで遊んでから来ようよ。ギースさんも用事で出かけているし」

「うーん……でもなぁ……」

 

 時刻は昼過ぎ。

 指定された夕刻まで、まだまだ時間がある。

 ウィリアムは双子に自主稽古を申し付けることもなく、稽古前、稽古後には自由な時間を与えていた。

 これは、虎の前世における内弟子衆、虎子達と同様の扱いである。

 もっとも、虎子達は一名……いや、二名を除き、稽古外の時間でも己を苛め抜き、その剣技を鍛えてはいたのだが。

 

 とはいえ、下手な時間の潰し方をして稽古に遅参したとなれば、双子にとって自決物である。

 兄のナクルは腕を組み、うんうんと悩ましげに呻くのみ。

 弟のガドもそこは十分に理解しているのだが、やはり連日の猛稽古に堪えているのか、この時間からの女遊びを兄に提案していた。

 

 元来、この兄弟は非常に性欲が強い。

 ミルデット族は獣族ではあるが、他の獣族とは違い通年で発情している。これは兎獣人らしいといえばらしいのだが、双子は同族の中でも特に助平な気質を備えていた。

 ベガリット大陸で得た資金は、双子の稽古で負った負傷を癒やす以外に、その欲望を満たすには十分な金額であった。

 女を抱いた後でも猛稽古をこなせる双子の体力は、やはり元王級剣士といったところではあるが。

 

「じゃあ、ちょっとだけ行こうか」

「へへっ、そうこなくっちゃ!」

 

 ウキウキとした体で歓楽街へ足を向けるガドに、ナクルは少々苦笑を浮かべてそれに追従する。

 獣性を滾らせる兎達の凄春(せいしゅん)は、苛烈な鍛錬を己に課すか、女を抱く以外存在しないのだ。

 

 

「……あ」

「どうした? ガド」

 

 魔法大学から歓楽街へと通じる人気のない路地を進む双子。

 だが、唐突に前を歩くガドが足を止める。

 ナクルはそれを不審げに見やりつつ、ガドの視線の先へ赤目を向けた。

 

「あ、ああ……!」

「そ、そんな……なんで……!」

 

 双子の前から歩みを進める、一名の剣士。

 フード付きの外套を纏い、その表情は見えない。

 だが、剣士から発せられる重厚なる気圧、そして背に抱えし一振りの大剣が、双子の身体を氷像の如く凍てつかせていた。

 

「ナックルガード」

 

 その透き通る声は、少年とも少女とも思えた。

 だが、双子にとってその声は、奈落の底から聞こえし獄卒の呟き。

 

「奇抜派に鞍替えしたのは、まだ許せた。でも、北神流を捨てたのは許さない」

 

 

 

「自決はさせない」

 

 

 

 殺意が込められし重力が、双子の兎を包んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

*1
徳川家の軍制。簡単にいうと米軍海兵隊のような即応部隊

*2
中国戦国時代の儒学者孟子が編纂した儒教正典“孟子”の一篇。簡単にいうと孟子が書いた自己啓発本



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第四十景『転生虎(てんとら)(ため)す!』

 

 さあさ皆々様、聞きたい(うた)はございませんか?

 魅了の瞳を持つ魔術師と魔族の乙女の切ない恋歌?

 それともとあるギルドの人妻受付嬢、見守る冒険少年との一夜の過ち?

 あるいは魔大陸で繰り広げられし異形異類が真剣勝負、荒ぶる凶剣懲罰戦争、叛逆せしは打倒怨鬼で血盟魔王連合軍、果たして勝つのは鬼か魔か、仰天大忍法合戦いざ開幕──

 

 ……おや、皆様は北神英雄譚がお望みで。

 ん。では、流れの吟遊詩人が奏でる北神英雄譚、王竜王国の章をお聞かせしましょう……

 

 険しき霊峰“王竜山”

 麓にあるのは人の里

 生まれて間もない王竜王国

 

 王国東は大街道

 王国西は死の荒野

 全てを殺す、死の荒野

 

 そこを旅するひとりの青年

 ザンバラ刈りの黒髪の

 背には大剣、胸に夢

 抱きし夢は英雄譚

 荒唐無稽な英雄譚

 

 大胆不敵な竜退治──

 

 

 

 


 

「『岩砲弾(ストーンキャノン)』!」

 

 重装甲を纏い特攻せしウィリアムの姿。己の肉体へ一直線に襲いかかるその装甲弾を、予見眼にて事前に視ていた(・・・・・・・)ルーデウスは、即座に先制の魔弾を放つ。

 

(やっぱりスピードは今朝と変わらない!)

 

 登校時に見た妹の転倒を防止した弟の疾さ。それを間近で見て、事前にその疾さに慣れていたのも、先制弾を放つ上で功を奏したのだろう。

 ルーデウスの岩砲弾は、虎の出足を挫くかのようにその顔面へ放たれる。

 

「ッ!?」

 

 が、ルーデウスが放った岩砲弾は、甲高い音と共に不動の装甲に吸い込まれた。

 

「やばッ!?」

 

 直後。

 吸い込まれた岩砲弾は、そのままルーデウスへ向け“応報”された。

 

 だが。

 

「ファッ!?」

「プルセナー!?」

 

 応報された岩石弾はルーデウスに直撃することなく、僅かに頬をかすめた後、後方の結界魔法陣を貫通し、観戦していたプルセナのおでこに直撃(ゴツン)

 

「アチャ〜……もろニャ……」

「ファック……な……の……」

 

 昏倒せし犬乙女。猫乙女は合掌す。

 

「む、流石は師匠の魔術。結界を容易く貫通するとは……ジュリ、危ないから余の後ろに」

「はい、マスタ」

「ちょっと注意しておかないと危ないですわね。ゾボボボボボッッ!!」

「大丈夫だよリーゼ。リーゼが怪我したら僕がすぐに治してあげるよ。耳たぶ吸うのやめて」

「すごい……不動……アダムス様の無双の体枷……是が非でも……」

「アリエル様。涎が出ております」

「おお、本当に魔術を弾くとは。それにしてもやはり上級結界魔法陣では強度不足ですね。結界担当の者と早急に対策を取ることにします」

「あちしが言えた口じゃニャいけどおめーらもうちょっとプルセナを心配してくれてもいいんじゃニャいかニャ?」

 

 観戦せし一同、口々に不動の性能、そしてルーデウスの卓越した魔力(まりき)に感嘆を新たにする。

 ちなみに倒れ伏すプルセナを介抱するリニアは、気絶した犬乙女が大した怪我でないのを見留めると「安泰ニャ」とそのまま放置し、模擬戦の観戦を継続した。

 

「あの、シルフィ姉さん。どうしてウィリアム兄さんのお超鋼(はがね)はルーデウス兄さんの魔術を弾いたんですか?」

「へ? え、えっと、それはアレだよ、うん。ボクが思うに、アレがアレして……どうして弾くのロキシー?」

「……恐らくマタナイトヒュドラの特性を受け継いだのでしょう。何故特性を受け継いだのかは分かりかねますが……というか、ヒュドラの鱗は魔術を吸収して無効化するだけでした。何故反射の特性まで……?」

 

 不動が備えし吸魔、そして反魔の性質は、水王級魔術師であり魔術に精通するロキシーですら不可解極まる代物。実際にその出鱈目の被害に遭ったロキシーは、うんうんと考え込むように顎に手をあて、その不可思議を見つめていた。

 

「……!」

 

 当のウィリアムは、不動の反魔を体感し、何かを確かめるようにぐっと木剣を握り締める。確信めいた表情を面頬の下に浮かべ、杖を構えし兄の姿を見やった。

 

「兄上」

「な、なんだよ」

 

 抑揚の無い声をかけられたルーデウス。聖級治癒魔法陣が作動し、頬の傷は即座に癒えたが、実弟の装甲から発せられる悍ましい怨気に気圧され、応える声にやや震えが混じっていた。

 

「ぜひ、もそっと」

「ッ!?」

 

 だらりと木剣を落とし下段に構え、そう嘯くウィリアム。

 不敵な弟のその言葉に、ルーデウスはアクア・ハーティアを握る力を強め気合を入れ直す。

 

(言われなくてもッ!)

 

 瞬間。

 ウィリアムの目前が、轟音と共に爆砕!

 泥沼の魔術師が放つ無詠唱(ノーモーション)の『爆発(エクスプロージョン)』だ!

 

「ッ!」

 

 だが、爆発に怯まず吶喊するウィリアム。

 爆炎を斬り裂きながら一直線に己へと迫るウィリアムに、ルーデウスは額に汗を浮かべながらも、ニヤリ(・・・)と口角を引き攣らせた。

 

「『泥沼』!」

 

 丁度ウィリアムとルーデウスが立つ魔法陣の間。魔法陣の効果が及ばないその隙間に、ルーデウスの代名詞ともいえる水魔術と土魔術が混合魔術『泥沼』が発動する。

 

「ッ!?」

 

 土、木、石などあらゆる地形を無視し、即座に泥濘地帯を現出させるこの魔術。これにより、重装甲を纏う虎の肉体は一瞬にして胸元まで浸かってしまう。

 三十四貫の重りは、どろりと虎を深い泥の沼へと引きずり込んでいた。

 

(よし! やっぱり直接魔術を当てなければ弾かれない!)

 

 先程放った『爆発』はウィリアムを直接狙った魔術にあらず。十センチ程の至近距離、宙空にて爆発を発生させたに過ぎない。

 不動の装甲に直接触れさえしなければ、魔術は吸収反射せず効果は常在し続ける。泥沼は、あくまで不動ではなく修練場の床を対象に発動したもの。

 すなわち、床面を泥に変えた『泥沼』は不動の認識外(・・・)である為、吸収反射されずにその重量を捕え続けていたのだ。

 

 爆発を“晦し”にした、ルーデウスのこの狡猾な罠。

 まさか修練場の床まで泥沼に変えられるとは思わなかった虎は、まんまと兄の罠に嵌っていた。

 

(このまま雪隠詰めだ!)

 

 虎が泥に嵌っている間、ルーデウスは次の妙手を繰り出すべく杖に魔力を込める。

 魔術を直接当てても片っ端から無効化、あまつさえ反射してくるという理不尽。

 常の者なら匙を投げる状況であるが、ルーデウスは僅かの間にある勝ち筋を立てていた。

 

 泥沼にて虎を捕らえた後、土魔術『土砦(アースフォートレス)』を発動しその土の檻にて囚える。

 互いに“参った”を言わせるしかないこの模擬戦。

 ルーデウスはウィリアムを泥と土の監獄にて封印兵糧攻めにし、降参を引き出す魂胆であった。

 

「アース──」

 

 しかし。

 土砦が発動する直前、ルーデウスの目の前に泥の間欠泉(・・・)が発生する。

 

「マジかッ!?」

 

 ずどんッ! という爆音と共に、ウィリアムはその驚異的な脚力で泥の沼から射出(脱出)

 

「くっ!」

 

 宙空に飛翔する虎。ルーデウスは冷静に予見眼を駆使し、虎の軌道を捉える。

 格闘において跳躍は避けるべき行為であり、その軌道は重力に支配される故、繰り出される攻撃は例え予見眼が無くとも容易に予測可能なのだ。

 

「ッ!?」

 

 だが、予見眼越しに視るウィリアムの姿がブレる。

 ルーデウスは三方向(・・・)からの斬撃を予見し、有効な迎撃手段を取れない。

 

「ッ! 『真空突風(ソニックブラスト)』!」

 

 ウィリアムが肉薄するその間際、ルーデウスの苦肉の風魔術が放たれる。

 当然、その真空波は不動により吸収、反射される。

 

「ぐッ!?」

「ッ!?」

 

 だが、この反射はルーデウスの計算通り。

 至近で弾き返された真空波は、ルーデウス自身を衝撃で弾き飛ばした。

 

「ぐぅ!」

 

 全身を強打しながら、ルーデウスは目論み通りウィリアムと距離を取ることに成功する。

 辛うじて受け身を取り、虎の更なる追撃に備えようと杖を構えた。

 

「──!?」

 

 だが、虎の追撃は無い。

 訝しむように視線を上げると、やや半身を崩しながら佇むウィリアムの姿があった。

 

「……ッ!」

 

 宙空から着地したウィリアムは、装甲の隙間から玉の様な汗を滴らせ、その呼吸は常の状態よりも大いに乱れていた。

 泥濘からの強引な跳躍、闘気の過剰放出による宙空動態制御、更に三十四貫を背負う宙空身体操作によって、ウィリアムの肉体は瞬時に一万キロカロリーを消費。

 過酷なる運動飛行である。

 

「……」

「……」

 

 グレイラット兄弟は互いに体勢を立て直すと、じっと睨み合うように対峙する。

 瞬く間に繰り広げられた両雄の攻防。

 見つめる観衆は、兄弟が発する熱闘に当てられ、手に汗を握り興奮気味に観戦する。

 

「流石ルーデウスですわね! 七大列強相手に一歩も引きませんわねぇ!」

「そうだねって駄目だよリーゼ、流石にズボンの中は、んぅ!? 」

「ッ!?」

「色々と滾ってきますわねぇ! 思わず声が出ちゃいますわねぇ!」

「あ゛っ、はう゛、だめっ、リーゼ、だめぇ、はぅぅ!」

「ッッ!?」

「出ちゃいましたねぇッッ!!」

「あぅ……リ、リーゼぇ……」

「ッッッ!?」

 

 興奮の極みに達した長耳淑女、小人族クオーター少年の小人を直揉み(シコリ)

 切なげな声を漏らす少年、粥の如きものを漏らす(トロリ)

 グレイラットの少女、血眼(ギロリ)してそれをガン見(ジロリ)! ついでに喉も鳴らす(ゴクリ)

 

 手に汗握り、(ぎょく)握り

 愛しの君の、手にモロり

 

 果つる少年、敏感青春

 仕果たす淑女、快感凄春

 食い入る少女、多感思春

 

 満悦淑女(レディ)に悶絶少年(ボーイ)

 淫魔の乱舞に少女(ガール)出歯亀──

 

「何やってんのおばあちゃん!?」

「加減知らないんですかアナタは!? ノルンさんに何てもの見せるんですか!!」

「てへぺろですわ!」

 

 尚、グレイラットの嫁達は普通にキレた。

 

 

「ノルン……色を知る年齢(とし)か……」

「いやツッコむ所そこじゃないしそもそもそんなしみじみする事じゃないからな!?」

 

 妹ノルンの成長(性徴)に、面頬から僅かに覗く両眼を細める次兄ウィリアム。それをいちいち咎める長兄ルーデウス。

 義祖母(ドスケベ妖怪)に加え、実弟の倫理観まで中々の迷子となっているこの状況に、ルーデウスは肉体的な疲れ以上に精神的な疲労を感じていた。

 ちなみに、義祖母の良人であり敬愛する先輩少年は以後天国でアッハーン(絶頂昏睡)

 

「──ッ!」

 

 クリフ昇天直後。

 ウィリアムは木剣を指で弾き(・・・・)、ルーデウスへ向け射出!

 

 虎眼流“飛燕弾き貫き”

 

 前世の虎が廻国修行中にて江戸へ立ち寄った際、罪人の処刑現場で偶然目にした“丹波流試刀術”の極み。

 公儀御様御用(こうぎおためしごよう)である谷衛友(これとも)が見せた神業を貪欲に盗んだ虎は、独自の改良を加え丹波流“弾き貫き”を虎眼流秘技の一つに加えていた。

 種子島より疾い木剣弾の射撃。

 相手から見れば“点”でしかないこの突きを、泥沼の魔術師はいかにして躱すか。

 

(それも視た!)

 

 だが、ルーデウスはその秘技すら事前に予見する。

 魔界大帝より与えられし魔眼は、ルーデウスの戦闘力を驚異的に向上せしめていた。

 即座に風魔術を発動し、木剣を弾く。

 

「ッ!?」

 

 だが、直後に予見眼に映るのは、木剣を“晦し”にし、自身の四肢を捕捉するべく突進する虎の姿であった。

 

「『泥沼』!!」

 

 即応の『泥沼』が発動。

 再び泥の沼に嵌ったウィリアムの身体は、深く泥沼に沈む。

 

(こうなりゃ根比べだ!)

 

 刹那の間に立てたルーデウスの次なる勝ち筋。

 『泥沼』はウィリアムの驚異的な身体能力には無効。

 しかし、三十四貫を背負いつつの泥沼からの脱出には相当の体力を消耗する。

 ならば、ウィリアムの体力が尽きるまで同じ事を繰り返せば良い。

 

 つまるところ、“泥沼”ルーデウス・グレイラットは、得意の“泥仕合”へと持ち込もうとしていた。

 自身の膨大な魔力が尽きるが先か。それとも弟の反則なまでの体力が尽きるが先か。

 先程のウィリアムの消耗ぶりを見て、ルーデウスはこの悪戦法に確かな勝機を見出していた。

 

「え──」

 

 しかし。

 ルーデウスは、ウィリアムの死狂うた戦法を目の当たりにし、その身体を硬直させる。

 

 瞬 脱 装 甲

 

 虎は、不動の着装を解除(・・・・・)し、身一つで泥沼から脱出していた。

 

「ッ!」

 

 瞬時に着脱した不動を捨て置き、陰部を隠す下帯のみとなったウィリアム。

 その疵だらけの肉体を露出しながら、虎はルーデウスの脹脛を蹴り上げる。

 

「ぐあっ!?」

 

 やや呆気にとられていたルーデウスは予見眼を発動するのを忘れ、その下段蹴りをまともに受けてしまう。

 虎の下段重爆の衝撃は、ルーデウスの脳までも震盪させた。

 

「かは──ッ!?」

 

 身体が浮き、回転するルーデウスを全身を使い捕獲するウィリアム。

 艶めかしく汗を滴らせた肉体を躍動させ、しかとルーデウスの背後から頸部へ腕を、そして下半身に脚を絡ませる。

 いわゆる現代格闘術におけるグラウンドチョークスリーパーの体勢となり、酸素供給が困難となったルーデウスはもがくようにウィリアムの腕を掻いていた。

 

「む、流石は師匠の弟御。勝利の為なら己を守る鎧さえも捨てるとは……しかし師匠はこれから!」

「グランドマスタ! がんばって!」

「嫌ですわねぇ、男同士でもつれちゃって。ねぇ、クリフ?」

「──」

「すごい……アダムス様の無双のお美肉体(からだ)……是が非でも……」

「アリエル様。涎が出ております」

「いやあ、素晴らしい戦いですね。しかしこの状態からルーデウスさんはどうやって逆転するんでしょうか」

「あちしはこのままボスが絞め落とされて終わりだと思うニャ。プルセナはどう思うニャ……し、しんでる」

 

 極めが浅いのか、ルーデウスは呻きながら虎の肉体を掻く。その様子を固唾を呑んで見守る一同。

 ちなみにプルセナが白目を剥き気絶し果てているのを忘れていたリニアは、慌ててプルセナの片乳をむんずと掴んで脈を確かめるも、犬乙女の脈動が元気よく波打っているのを確認し「安泰ニャ」とそのまま放置し、模擬戦の観戦を継続した。

 

「ルーデウス兄さん! ウィリアム兄さん! 二人ともがんばってください! ……兄さん達、ちょっとえっちです

「ルディ! まだまだ逆転できるよ! 諦めないで! ノルンちゃんは後でボクとお話しようね?」

「瞬脱した? やはりあの鎧は意思を……? というか、鎧のテストはいいのでしょうか……? あ、ル、ルディ! 頑張ってください!」

 

 グレイラット家族もまた激闘する両者を見守る。

 唯一ロキシーだけが不動の不可思議を観察し続け、その根源にある鎧の意思めいたものを感じ、愛する夫の応援を忘れかけるほど考察に耽っていた。

 

「ぐ、ううッ!」

「……ッ」

 

 みしりと、徐々にルーデウスを絞める力を強めるウィリアム。

 瞬時に強烈な絞めを行った場合、相手は“必死の力”を発揮し逃れようとする。

 故に、虎は緩やかに、まるで母の手の如く穏やかな裸締(チョーク)を実行していた。

 

(なんか……優しいな……)

 

 徐々にもがく力を失うルーデウス・グレイラット。

 朧気になりつつある意識、そして目や鼻、口や陰部、肛門から体液が滲み始める。

 

 安息せよ──兄上──

 

 このような締めを行い続ければ脳へ供給する血液が遮断され、意識喪失と痙攣の後、脳細胞が死滅するのだが、当然ウィリアムは意識喪失段階で絞めを解除する予定であった。

 

 だが、泥沼の泥足掻きはこれから──!

 

(たたか)うとは、一生分の力、一瞬で燃やす!』

 

 かつて現人の鬼が魅せた、知恵を捨てた本能の煌めき。

 べガリットで共に旅をした僅かの間ではあったが、その全身全霊の生き様、そしてその美しい武魂は、確かにルーデウスの魂へ伝播していた。

 

 そして、敬愛する伴侶、ロキシー・M・グレイラットより伝授された新たなる魔術。

 霞の雷撃に引けを取らないその雷光を、ルーデウスは己独自の電撃として身に付けていた。

 それを、今使う時。

 

 たかが身内の模擬戦。

 されど、兄として、列強の弟に意地と覚悟を見せる。

 

 知恵を捨て、身を捨てる時──!

 培った技を、一瞬で燃やす──!

 

「ッッ!!??」

 

 

 チェスト電撃(エレクトリック)!!!

 

 

 刹那の瞬間、ウィリアムの肉体に稲妻の如き電流が迸る!

 

 水魔術『電撃(エレクトリック)

 水王級魔術『雷光(ライトニング)』のデチューン版ともいえるこの魔術は、『雷光』発動条件である前提魔術『豪雷積層雲(キュムロニンパス)』を必要とせず、闘気を貫通する電撃を直接発生せしめるルーデウス独自の魔術。

 浴びせる電量は調節が可能であり、一時的な麻痺から感電死に至るまで威力調節が可能であった。

 今のウィリアムに、不動という対魔の装甲は無い。

 生身ならば、十二分に通じる。

 

「ガッ──!」

 

 ただし、密着状態であった為、その電撃はルーデウス自身にも襲いかかる。

 威力を抑えていたとはいえ、失神寸前の電圧で放たれた電撃の余波は、既に脳への血流が滞っていたルーデウスを酩酊状態まで陥らせた。

 とはいえ、この捨て身の戦法により虎の拘束は解かれるはず──

 

「──ッ!」

「う──!?」

 

 (いな)

 それでも堕とせぬ虎の牙城。

 一瞬絞める力は緩むも、即座に体を入れ替えて再びルーデウスの絞首刑を継続する。

 

「ガアッ!?」

 

 膝立ちになったルーデウスを、前面から覆いかぶさるように頸部へと腕を這わせ、勢いよく立ち上がるウィリアム。

 いわゆる現代格闘術におけるフロントチョークの体勢となった両者。

 ウィリアムは電撃のダメージにより眼、鼻、口、耳、尿道、肛門から血潮を噴き出しつつも、野性の本能で兄を絞首せしめていた。

 

(つかまつ)る──」

 

 そして、みしりと腕の力を強めた。

 

 

「止め!」

 

 

 兄弟の死闘。その終了の鐘は、凛とした気品のある声によって鳴らされた。

 

「アダムス様。もういいでしょう」

「……」

 

 アリエル・アネモイ・アスラの貴声を受け、ウィリアムは兄ルーデウスを解放した。

 へたりと尻もちをつく兄へ、弟は慇懃に一礼する。

 闘いを終えた二人の男を、聖級治癒魔法陣が癒やしていた。

 

「虎のおやびん。こいで許せニャ」

 

 ふと、リニアが神妙な顔つきで相変わらず白目を剥いているプルセナをズルリと引きずり、ウィリアムの前へ差し出す。

 獣人乙女達がボスと慕うルーデウスのピンチ。乙女達は、己の身を捧げルーデウスの助命を嘆願していた。

 乙女達の心はただひとつ。

 己が純血を生贄とし、虎の獣性を鎮めるなり。

 もっともリニアはプルセナが気絶してるのを良い事に自分が生贄になる事を回避していたが。

 

「兄上。良い“試し”でござった」

「は……はは……」

 

 そんな獣人乙女達を俄然(ガン)無視し、ウィリアムは兄ルーデウスへ不敵な笑みを浮かべる。

 ルーデウスは弟の表情を見て、魔法陣の上でばたりと仰向けに寝転んだ。

 

「ウィル、()え……」

 

 負傷は癒えるも、身体の芯から泥濘のような疲れがルーデウスを包む。

 半目となり、下帯姿の弟を見つめ、その強さに憧れめいた想いを抱いていた。

 

(……結局、模擬戦じゃなくて“試し”か)

 

 虎はあくまで実戦形式での耐久テストを望んでいただけであり。そもそも、不動の性能試験は最初の岩砲弾を受けた際にほぼ完了している。

 岩砲弾を受けてからのウィリアムは、不動を纏った上でどれだけ己の肉体が動けるか“試して”いただけに過ぎなかった。

 

 ルーデウスは限られた状況であれ、己の全力をぶつけていた。だが、その全力は、無双の装甲を纏う虎には全く届かず。

 否、例え鎧を纏っていなくとも、現時点でのルーデウスでは本気のウィリアムと勝負にならない。

 本気なら、最初の一撃で神速の斬撃が撃ち出され、意識を刈り取られていたはずだ。

 虎眼流の神技は、例え予見眼であっても捉えられぬ神武の剣速なのだ。

 

(俺も、鎧とかこさえた方が良いかな……ザノバあたりに協力してもらって……)

 

 疲れからかぼんやりとした意識で、ウィリアムが纏う拡充具足“不動”を見つめるルーデウス。

 その性能をまざまざと見せつけられたルーデウスは、己を身を守る装甲の有用性に気付く。盟友ザノバ・シーローンとならば、きっと不動にも負けない魔導の鎧を作れる事だろう。魔術師だって、鎧を纏っても良いじゃないか。

 とはいえ、それは一朝一夕で出来るものではなく、あくまでぼんやりとした展望ではあったが。

 

「ルディ、大丈夫?」

「傷は……大丈夫そうですね」

 

 愛する妻達、シルフィとロキシーが、ルーデウスの元へ駆け寄る。

 心配そうに顔を覗き込む妻達に、ルーデウスは力の無い笑みを浮かべて応えていた。

 

「ああ、大丈夫。ちょっと、疲れたけど」

「すごい激闘だったからね。ほら、肩貸すよ」

「惜しかったですねルディ……でも、カッコよかったですよ」

 

 シルフィとロキシーの肩を借り、ヨロヨロと立ち上がるルーデウス。

 力強く両の脚で立つ、弟の姿を見つめながら。

 

(いつか……俺も……)

 

 ルーデウスの独白は、かつて植え付けられた心の棘を、熱い憧憬へと変えていた。

 

 

 

 

「今日の兄さん達、すごくカッコよかったです!」

 

 模擬戦から数刻後。

 グレイラット家が長女ノルン、そして次男ウィリアムは、連れ立って魔法大学の正門の前にいた。

 既に日は傾き、辺りは朱色の光が包んでいる。

 学生達は学内の寮、もしくは近隣の住処に帰宅したのか正門周辺には人気はなく、夕陽は兄妹を静かに包んでいた。

 

「ルーデウス兄さんの泥沼から抜け出したのもすごかったですし、ウィリアム兄さんと風魔術で間合いを取ったのもすごかったです!」

「……」

 

 目を輝かせながら激闘について語るノルンに、不動の甲冑櫃を背負うウィリアムはやや苦笑を浮かべていた。

 事実、兄が見せた意外ともいえる根性は、ウィリアム自身にも少なくない衝撃を与えていた。

 

(兄上も中々の武辺者。伊達に死線は潜ってはおらぬか……)

 

 特に終盤に見せた『電撃』による特攻。

 その死中に活を求める姿は、まさに前世における武士の如く──。

 遠い未来の日ノ本においても“士魂”が受け継がれている事に、ウィリアムは深い感慨をもって兄の姿を思い浮かべていた。

 

「そういえば、ルーデウス兄さん達はまだ残っているんでしょうか?」

 

 ふと、ノルンがこの場にいないルーデウス達に意識を向ける。

 

「そうさな……」

 

 やや気のない返事をするウィリアムは、その後の一同の動向を思い出していた。

 

 模擬戦の後、ウィリアムはそのままマンツーマンでの剣術稽古をノルンと行うべく修練場を離れた。

 当初は模擬戦にて荒れた修練場の修繕を手伝おうとウィリアムも残ろうとしたのだが、興奮冷めやらぬノルンに急かされ、またアリエルの粘ついた秋波から逃れるべく修練場を後にしている。

 

 消耗したルーデウスは大事を取りシルフィとロキシーを伴って医務室へ。

 ザノバとジュリはルーデウスの代わりに修練場の修繕を買って出て居残り、それをジーナス教頭が補佐していた。

 ドスケベ妖怪とその毒牙にかかった哀れな少年は、人気のない空き教室へ第二ラウンドへと赴いており。

 アリエルはウィリアムに袖にされると、ルーデウスを労った後、これ以上は用は無いとばかりにルークを伴い早々に撤収している。

 リニアは尚も意識を戻さないプルセナの両足を両脇に抱え「重てーニャ! 肉食い過ぎニャ!」と、ずるずると乱暴に引きずりながら女子寮へと帰宅していった。

 

 ちなみにルーデウスはとっくに帰宅可能なほど体力を回復させていたのだが、丁度医務室担当の治癒魔術教師が不在なのを良いことに、一度やってみたかった“保健室プレイ”なるものを両妻に懇願し己の性癖を満たしていた。当然、シルフィはボーイッシュ幼馴染同級生、ロキシーはロリっ子保健医という設定でのイメージプレイである。

 夫への愛ゆえか、シルフィとロキシーはやや困惑しつつも健気にロールプレイを実践していた。ルーデウスはノリノリである。

 

 熱戦で滾った血潮は、乙女達の柔肌でしか慰められぬもの。もしくは、ルーデウスの性に対する貪欲さが時と場所を選ばずに発現したか。

 どちらにせよ、ルーデウス夫妻はいつまで経っても正門に現れる事はなく。エリナリーゼの乱痴気ぶりを批判していたのは何だったのかという体たらくではある。

 ウィリアムはこの後双子兎へ稽古をつけねばならず、元々ルーデウス達と帰宅を共にする事はなかったので問題は無かったのではあるが。

 

「……双子さん達、遅いですね」

「うむ……」

 

 本日のノルンは実家ではなく女子寮の自室へ泊まる予定であり、双子を待つウィリアムに付き合う為、こうして正門へと共にいる。

 だが、待てど暮らせど双子が現れる気配はない。

 

「あやつら、どこをほっつき歩いておる……」

「え、えっと、もしかしたら道に迷ってたり……」

「あり得ぬ」

「そ、そうですか……えっと、じゃあ捨てられた子犬を拾ってたりとか」

「捨て置け」

「そ、そうですか……えっと、じゃあ……」

 

 段々と不機嫌を露わにするウィリアム。ノルンは先程までの無邪気な熱狂はどこへやら、戦々恐々と兄の顔色を窺っていた。

 

 

「……」

 

 どれほど時が経ったか。

 夕日が傾きつつある中、魔法大学の正門へ向かう一人の少年の姿があり。

 その姿を見留めたウィリアムは、訝しげに表情を歪める。

 

「ッ!?」

 

 そして、虎は目撃する。

 

 少年の手の内にある、二対の兎耳(・・・・・)を。

 

 

「ランドルフを倒したのは、君か」

 

 

 その透き通る声は、少年とも少女とも思えた。

 

 

「……僕達の(たたか)いは、剣士同士の試合じゃない」

 

 

 フードを目深く被り、その表情は見えない。

 

 

「列強同士の果し合いだ──!」

 

 

 ただその背に背負う大剣が、少年の傲慢なまでの正義を主張していた。

 

 

「名は」

 

 ウィリアムは心の奥底から湧き上がる憤怒を抑え、努めて平静に少年の名を尋ねる。

 少年はゆっくりとフードをめくり、その黒髪を赤い夕陽の元に晒した。

 

 

「北神三世……アレクサンダー・カールマン・ライバック!」

 

 

 我は北神

 

 

 無双の流派の長にして

 

 

 綺羅の如く輝く英雄剣豪

 

 

 衆生惑わす魔剣豪よ

 

 

 正義の重剣受くるべし──!

 

 

 

 

 

 


 

 さあさ皆々様、もう一曲聞きたい詩はございませんか?

 下界に焦がれる小国第三王女、おてんば姫の大冒険?

 それともとあるギルドの人妻受付嬢、見守る冒険少年の汗と獣欲に溺れた背徳の昼下がり?

 あるいは魔大陸で繰り広げられし異形異類が真剣勝負、怨鬼が懲教魔の軍団、対魔忍鬼に完堕ち間際のその瞬間、剛臨するは龍の王、出たな龍王! 討つぞ怨身忍者! 甲龍神秘が鬼退治! 黒薔薇開腸血風録いざ大開幕──!

 

 ……おやおや、皆様は北神英雄譚の続きがお望みで。

 ん。ではでは、流れの吟遊詩人が奏でる北神英雄譚、北方大地の章をお聞かせしましょう……

 

 凍てつく大地“北方大地”

 棲まう民は魔法の達者

 寄り添い栄える魔法三大国

 

 三国一の魔導国

 三国一の大学府

 不思議を伝える、大学府

 

 そこを訪ねるひとりの少年

 ザンギリ頭の黒髪の

 背には大剣、胸に夢

 抱きし夢は英雄譚

 荒唐無稽な英雄譚

 

 

 残酷無残な虎退治──

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十一景『転生虎(てんとら)(うず)く!』

 

 あらゆる闘技で成立する“重量級有利の法則”は、剣術においても然りであり。

 同じ技量の剣士が同時に仕掛けた場合は、手脚長き方の攻撃が先に届くという身も蓋もない結論が判明する。

 また、同じ技量、同じ筋力を持つ者同士が鍔迫り合い等の拮抗した状態に陥った場合、これもまた体重の重き方が優勢を勝ち得るという面白みの無い現実がある。

 

 だが、ここは六面世界“人の世界”という奇なる物理法則に支配された異世界。

 身体の不足を補って余りある様々な不可思議(魔術・闘気)が、重量級有利の法則を根底から覆していた。

 

 重量とは、異世界の戦士にとって勝利への利点ではない。

 否、時と場合によっては、窮地に陥りかねない弱点にもなり得るのだ。

 

 更に、この異世界では万物が逃れられぬ絶対法則“重力”ですら操る大強者が存在する。

 もはや重量の多寡など問題にしない大理不尽を前に、敷島の転生剣者はいかなる手段を持って抗えばよいのであろうか。

 

 “命、鴻毛(こうもう)の如く軽くすべし

 

 理不尽な戦力に対抗するには、同じく理不尽で、狂気の思想を持って対抗するしかない。

 かつて東亜を支配した大帝国が、その終焉の際に見せた狂気の桜。

 敵対する連合国との圧倒的な戦力差に抗するべく発動された特攻作戦。

 命じられる兵士達は、ただひたすらに国家に服従し、その若い命を桜の如く散らしていった。

 

 その蛮行ともいえる狂気の根源となるのは、“武士道”という封建社会の根本を成す死狂いなる思想。

 当時対峙した連合国の兵士達は、民草に至るまでこの自殺攻撃を行う蛮勇思想を恐れ、戦後数多の心的外傷患者を出す事になる。

 世界最強の軍隊ですら逃れられぬこの重篤な病毒効果は、世界が変われど相対する者に遺憾無く発揮せしめるであろう。

 

 単なる刹那的思考を持った狂戦士とは訳が違う。

 生き永らえる為の知恵を捨て、身を捨てる兵法を駆使し、只人には理解不能な“儀”を背負う武士(もののふ)とは、生半可な覚悟で立ち合ってはならぬのだ。

 

 覚悟なき者が立ち合えば、常人にあらざる狂気が伝搬し、生涯に渡り得体の知れぬ悪寒に苛まれることになるのだから──

 

 

 

 

 ラノア魔法大学正門前にて対峙する両剣豪。

 一人は、大きな大剣を背負う黒髪の少年。

 もう一人は、大きな甲冑櫃を背負う白髪の少年。

 背丈はそう変わらない、二人の少年。

 だが、彼らの実年齢(・・・)はその外見とは大きく乖離している。

 黒髪の少年は不死魔族の混血児。あどけない外見とは裏腹に、その実年齢は四十を超えていた。

 白髪の少年は肉体年齢こそ相応のものであるが、その精神は数十年に及ぶ年輪を重ねていた。

 

「……その後ろの女の子は、君の関係者か?」

 

 黒髪の少年。否、北神三世アレクサンダーは、白髪の少年、ウィリアムの後ろにいるノルンの姿を見留める。

 怯えがちに両雄を見つめる可憐な少女は、不安を誤魔化すようにひしと兄のコートの裾を掴んでいた。

 

「だとしたら」

 

 冷然とした態度でそう言葉を返すウィリアム。

 ノルンがアレクサンダーの視界に入らぬよう、庇うように半身を前に出していた。

 アレクサンダーは訝しむようにそれを見ていたが、やがてウィリアムの瞳へその双眸を向けた。

 

「まあ、その子はどうでもいい。僕の一番の目的は、あくまで君だけだ。ああ、それと」

 

 これは返すよ、と言い、アレクサンダーは手にしていた二対の兎耳を放り投げる。

 ウィリアムは一瞬殺意を込めた視線でアレクサンダーを睨みつける。だが、直ぐに足元へ視線を向けると、懐から布地を取り出し、丁寧な手付きでそれを包んだ。

 

「場所を変えよう。列強同士の果し合いは、街中でやるものじゃない」

「……」

「僕の挑戦から逃げる“武神”じゃない事を祈っているよ」

 

 そう言い放つと、アレクサンダーはスタスタと郊外へ続く道を歩く。その後姿を見て、ウィリアムは傍らにいるノルンへと視線を向けた。

 

「ノルン」

「は、はい」

 

 ウィリアムは背負っていた甲冑櫃を下ろし、纏っていたコート……妹達から贈られた、大切なコートを脱いだ。

 

「ウィリアム兄さん……?」

 

 ウィリアムはそのまま包むようにノルンへコートをかける。

 そして、布地に包まれた双子の一部を手渡した。

 

「頼む」

 

 兎耳の切断面は、未だ生々しく血を滴らせていた。

 それを見たウィリアムは、双子の生命の灯が消えていないのを確信する。

 どこかで、満身創痍の身体を横たえさせているのだろう。

 

「ウィ、ウィリアム兄さんは……」

 

 言外に双子の救護を託されたノルンは、兄の姿を不安げに見つめる。

 その視線を受けたウィリアムは、ふっと笑みを浮かべて妹の瞳を見つめた。

 

「案ずるな」

「ウィリアム兄さん……」

 

 ウィリアムはノルンの頬を撫でると、甲冑櫃を背負い直した。

 

「しばし預ける。終わったら、取りに行く」

 

 そのまま、アレクサンダーを追いかけるように郊外へと足を向ける。

 列強同士の果し合い。それに、妹達から贈られた大切なコートを巻き込むわけにはいかぬ。

 予測されていた強者からの挑戦も、逃げるわけにはいかぬ。

 そのような強い意思を込めた兄の後ろ姿を、ノルンは未だ不安げな視線を送り続けていた。

 

(ウィリアム兄さん……)

 

 案ずるなと言われたノルン。撫でられた頬に手を当てながら、兄の後姿を見送る。

 だが、見つめる内に、少女の胸の内に不穏なざわめきが沸き起こっていた。

 

(ウィリアム兄さんは、強い人……あの人にも、きっと負けない。でも……)

 

 何故だかわからないが、ノルンはウィリアムの後ろ姿が陽炎の如く揺らめいているのを幻視していた。

 まるで、これが兄との別離のように。

 どこか遠い所で行ってしまうような、どうしようもない不安。

 

「……行かなきゃ」

 

 ウィリアムの後姿が見えなくなるまで見つめていたノルンだったが、やがて頭をひとつ振ると、踵を返し魔法大学の門を潜った。

 どちらにせよ、ノルン一人では双子を救護するにはもままならない。双子の救護も、ウィリアムの援護も、長兄ルーデウスの協力が必要だ。

 ノルンは布に包まれた兎耳を抱えながら、ルーデウスの元へと駆けていった。

 

 

 


 

「ところで、何故剣を持っていないんだい?」

 

 シャリーア郊外。

 残雪が残る平原では、アレクサンダーとウィリアム以外の人影は存在しない。

 互いを遮る物は何も無く、両雄にとって同条件の場所。アレクサンダーは対峙するウィリアムが無刀なのを見留めると、咎めるように言葉を放つ。

 

「……何故、弟子共を襲った」

 

 ウィリアムはアレクサンダーの言葉を無視し、双子への襲撃を詰問する。

 アレクサンダーは質問を質問で返された事にむっとした表情を浮かべるも、直ぐに言葉を返した。

 

「彼らは北王の位階を持っているにもかかわらず当主である僕に無断で流派変えした。元々奇抜派の連中は気に入らなかったんだ。北神流の名を貶める奇抜派は、いずれ粛清するつもりだった。だから、けじめをつけた。元同門の誼で命だけは奪わなかったけどね」

 

 雄弁と語る少年を、虎は怒気を孕んだ、そしてある種の共感を込めた眼差しで見つめる。

 前世武家社会では城士等ある程度の身分を持つ者であれば無断の流派変えは不問とされている風潮があったが、身分低き下士身分、かつ内弟子の分際で流派の長に無断で他流へ鞍替えするのは確かに咎められる不義理。それは流派に対する裏切りにも等しい。

 かつての内弟子、興津三十郎の裏切りを聞き、同様の疑惑を持つ牛股権左衛門と藤木源之助を容赦なく打擲し、両師範に命懸けの弁明を強いた前世の虎。

 だからなのか、ある程度はアレクサンダーの暴挙に納得をしていた。

 

 だが、双子は直接の師匠ではないが、北神流の大所であるあの人物には義理立てをしている。

 その事を思い出したウィリアムは、アレクサンダーへ射抜くような視線を向けた。

 

「弟子共は北神二世殿へ筋を通している」

「何だって? 父さんが?」

 

 ウィリアムの言葉に、やや驚きが籠もった言葉を返すアレクサンダー。

 簡潔ではあるが、ウィリアムは弟子達の名誉を守る為、シャリーアでの顛末をアレクサンダーへ語った。

 

「そんな……父さんが……」

 

 ウィリアムの言葉を聞いたアレクサンダーは、驚きを隠せないように身体を強張らせる。

 とうに死別したと思っていた父、そして目指すべき英雄の名を耳にしたアレクサンダー。

 僅かに身体を震わせ、俯きながらぶつぶつと独り言を呟く姿は、ともすれば見た目相応の少年の姿である。

 

「ふ、ふふふ……」

 

 やがて、アレクサンダーは不気味な嗤い声を上げる。

 その瞳は、常の状態とは言い難い、ある種の狂気を孕んでいた。

 

「実子の僕を蔑ろにして、よりにもよってランドルフとね……」

 

 顔を上げたアレクサンダーの瞳からは狂気は消えていたが、その表情は諧謔味を孕んだ不敵な笑みを浮かべていた。

 

「まあいい。君を倒して、改めて父さんに問い正すとするよ」

「……何故、身共を狙う?」

 

 ウィリアムはアレクサンダーが己を狙う理由を問う。共に列強に叙されるほどの実力者。だが、この世界で新興流派とも言える虎眼流と、既に全世界に門下生を抱える北神流では、比べるまでもなく格が違う。

 その格上の流派の長が己を狙う理由が今ひとつ理解出来ぬ虎は、尚も不遜な笑みを浮かべるアレクサンダーを油断無く見つめていた。

 

「そんなもの」

 

 そして、アレクサンダーは背負う大剣を構えた。

 

「決まっている」

 

 大剣をウィリアムへ向け構えるアレクサンダーからは、轟然と戦意が噴出していた。

 

「君が“悪”だからだ」

「何……?」

 

 唐突なアレクサンダーのこの決めつけに、ウィリアムは訝しげな表情を向ける。

 それに構わず、驕慢な北神の口上は続く。

 

「三十四名」

「?」

「君が中央大陸で打ち倒した北神流の人数だ」

 

 ウィリアムは剣の聖地に至る前、中央大陸各地で道場破りや果し合いを行っていた。だが、それは武門の作法を遵守した尋常な他流試合である。

 だが、北神曰く、その試合によって二度と剣を持てなくなった者も多く。ある道場主の北聖などは、門人が他流に流れ、生活が成り立たなくなり家族共々悲惨な末路を辿ったという。

 故に、凶刃漢ともいえるウィリアムの存在は北神流当主として見過ごせない。そして、列強ならば尚の事。

 かつて人族相手に大規模な戦乱を起こした列強四位、魔神ラプラスですら、魔族に一定の地位を与えた魔族史上最高の偉人と崇められている。

 つまり、ラプラスですらある意味では列強に相応しき英雄。英雄とは、決して道義に反した行動を取ってはならぬと。

 

「英雄は、悪を倒すもの。悪の列強を倒した正義の列強は、未来永劫語り継がれるんだ」

 

 ウィリアムはアレクサンダーのその口上に、怒気を孕んだ言葉を返す。

 

「正悪はともかく……武芸者同士の尋常な果し合いで遺恨を残すとは……この戯けが……!」

「ッ!」

 

 ウィリアムは怒気を孕んだ殺気をアレクサンダーにぶつける。一瞬、その圧に怯むアレクサンダーであったが、即座に腹に力を込め、その威圧を受け流していた。

 

「……それに加え、僕は君が本当にあのランドルフを倒したのか、いささか疑問視している。僕は運の良さも不意打ちによる勝利も否定するつもりはない。だけど、君が本当に死神を倒したのか」

「……」

「人には全盛期というものがある。近年のランドルフは、明らかに全盛期よりも衰えていた。その衰えたランドルフを倒して悦に浸るのは、君が悪人じゃなくても見過ごせない」

「……」

「だから、君を試す。そして、北神の名を列強七位から五位にした英雄となるのさ」

 

 それが本音か、北神三世。

 しかし、それを表立って批判することは出来ず。

 己もまた数多の強者を打ち倒し、“異界天下無双”を目指す身上。功名の為ならば、相手の“人生”など知ったことではない。

 もはやこれは正悪を超えた、頂きを目指す流門の宗家同士の果し合いなのだ。

 

 そこまで思ったウィリアムは、己が目指すべき異界天下無双が、決して家族という陽だまりの中に居ては成し得ぬ事だと再認識した。

 パウロ、ゼニス、リーリャ、ノルン、アイシャ……ルーデウスやシルフィエット、ロキシー……そして、ルーシー。

 彼らとの生活は、暖かい綿(ワタ)に包まれた至福の時。

 だが、己が目指すべき頂きには、その綿は纏えぬ。

 纏うのは、己の流派の意地と、刃向かう敵を一太刀で十万億土へ送り込む気概のみ──。

 それが、兵法者としての宿命なのだ。

 

 ウィリアムは少しだけ寂しげな笑みを浮かべると、滾る北神へ向けゆっくりと口を開いた。

 

「勝利と敗北。それを決めるのは、技量の差と、人の運、天の運。そして──」

 

 時の運

 

 ウィリアムはそこまで言い切ると、これ以上の問答は不要とばかりに甲冑櫃を下ろした。

 

「……その四つが勝敗を決めるのは同感だ。ランドルフは運が無かった。悦に浸ると言ったのは訂正しよう」

 

 アレクサンダーが存外に素直なのを受け、ウィリアムは僅かに口角を引き攣らせた。

 

「じゃあ、始めようか……と言いたい所だけど、もう一度聞くよ。何故剣を持っていない?」

 

 再度ウィリアムの無刀を咎めるアレクサンダー。

 ウィリアムは列強という強者を前に無刀である己の迂闊さを後悔するも、これもまた“運”であると甘受していた。

 アレクサンダーの問いかけに、虎は更に口角を引き攣らせ、不敵な“嗤い”を浮かべる。

 

「剣は無くとも、武器は至る所にある。棒きれ、石ころ……それもなければ──」

 

 

「己の五体が武器──!」

 

 

 そして、ウィリアムは“不動”を纏うべく、甲冑櫃に拳を突き立てた。

 

 

 石 火

 憑 着

 

 

「ッ!」

 

 見よ、北神!

 武神が纏う、神武の超鋼を!

 敷島の武魂が込められし、装甲の輝きを!

 

 己は確かに無刀

 しかし、己には虎眼流

 そして、鉄身の五体がある!

 

「……不治瑕北神流、アレクサンダー・カールマン・ライバック。見せてもらうよ、五体の武器を!」

「虎眼流、ウィリアム・アダムス──」

 

 改めて名乗り合い対峙する北神と武神。

 王竜の魔力が籠められし破邪の大剣と、敷島の怨念が籠められし無双の体枷。

 それぞれの得物が放つ武威により、両者の間はグニャリと空気が歪む。

 

「仕る──!」

 

 空間の歪みを切り裂くように、“拡充具足不動”纏った虎が、“王竜剣カジャクト”を構える北神へと吶喊した。

 

 

 

 


 

「ルーデウス兄さん!」

 

 息を切らせた様子で、我が愛妹ノルンが走って来る。

 

「ノルンちゃん、どうしたのかな。あんなに慌てて」

「何か良くない事でも起きたのでしょうか……」

 

 そんなノルンを見て、心配そうに呟く我が愛妻、シルフィとロキシー。

 医務室で思わずエロエロな一戦をしてしまった俺達だけど、ノルンのただならぬ様子を受け表情を引き締める。

 

「ノルン、どうした?」

 

 ぜいぜいと息を切らせるノルンを見て、嫌な予感が走る。

 ノルンは、血が滲んだ布を持っていた。

 

「ル、ルーデウス兄さん……」

 

 顔を上げたノルンは、泣き出しそうな表情を浮かべていた。

 普段からおっちょこちょいで、頼りないノルン。

 でも、この子がここまで焦るのは、普通じゃない。

 

「ウィリアム兄さんが──」

 

 そして、ノルンは事の顛末を語った。

 

 北神三世の来襲。

 双子兎の重傷。

 それらを大急ぎで語り終えたノルンは、震えを誤魔化すように兎耳が包まれた布を胸に抱いていた。

 

「分かりました。ノルンさん、わたしと一緒にナクルさんとガドさんを探しましょう。そう、遠くにはいないと思います」

「ロキシー、ボクはナナホシの所へ行くよ」

「お願いしますシルフィ。急いでください」

 

 俺がノルンの話を咀嚼している間に、シルフィとロキシーは迅速に行動を開始していた。

 シルフィはロキシーに頷くと、ナナホシがいる研究棟へ走って行った。

 それを、俺は黙って見送る。

 

「あの、ロキシー。ウィルの事だし、大丈夫なんじゃないか? それこそ、北神なんか返り討ちに──」

「ルディ! ウィリアムさんは武器を持っていないんですよ! あの北神を相手に、いくら不動があるとはいえ危険すぎます!」

 

 ロキシーの剣幕を受け、俺は頭にガツンとした衝撃を感じた。

 

「あ……」

 

 ウィルは、武器を持っていない。

 不動を纏ったウィルは強かった。

 でも、それはウィルの万全じゃない。

 

 ウィルの愛刀“七丁念仏“は、今はナナホシが持っている。

 その事実に今更気付き、唇を噛む。

 

 ……くそ、情けない。

 いくらウィルに絞められたとはいえ、脳みそへの血の巡りが悪すぎた。

 平和ボケ、しすぎだ。

 

「ロキシー、ごめんなさい。俺は、ウィルの所へ行きます」

「いえ、ルディも気をつけて。わたし達も後から行きます」

 

 列強同士の果し合い。

 それに乱入するのは、下手をするとウィルから軽蔑されるような行為かもしれない。

 でも、大切な弟の危機を、黙って見過ごす程俺は薄情じゃない。

 

「ルーデウス兄さん……」

 

 不安そうに顔を上げるノルン。

 俺も、列強同士の戦いに介入できる程の強さを持っているとは思っていない。

 でも、援護くらいなら出来る。治癒魔術で回復する事だって出来るし、隙きあらば魔術で攻撃する事も出来る。

 不死身のバーディ陛下にも通用した土魔術なら、北神にだって通用するはずだ。

 

「ノルン。ウィルは大丈夫。お兄ちゃんが、助けるからな」

「……はい」

 

 コクリと頷いたノルン。

 すると、いつの間にかロキシーが通勤で使っている騎乗魔獣、アルマジロのジローを連れてきた。

 ジローも俺達の切迫した様子を受け、普段の倍以上の機敏さを見せていた。

 

「ルディ、わたし達は先に行きます。決して無茶はしないで」

「分かってます。危なくなったら、ウィルを連れて逃げます。最悪、魔法大学に逃げ込めば北神だって無茶はしないでしょうし」

 

 ノルンをジローに跨らせ、ロキシーもノルンを抱えるようにしてジローに跨る。

 騎乗する時、ロキシーのスカートの裾からパンツがちょっと見えた。俺は、その純白にして神聖な光景を見て、身体の芯から勇気が湧いてくるのを感じていた。

 

「……よし」

 

 駆け出すジローの後ろ姿を見つつ、気合を入れ直す。

 七代列強第七位、北神三世。

 噂でしか聞いたことがないけど、きっととんでもない強さを持っているんだろう。

 俺もルイジェルドやバーディ陛下、そしてあの龍神オルステッドと戦った。

 だから、列強の恐ろしさも十分に理解できる。

 

 ウィルも、強い。

 でも、それは万全の状態だったらの話だ。

 あの模擬戦だって、ウィルも相当に消耗しているはずだ。

 

「ウィル、死ぬなよ……!」

 

 魔法大学の門を潜り、郊外へ向けて走る。

 もしかしたら、俺も死ぬかもしれない。

 そう考えたら、シルフィやロキシー、そしてルーシーの姿が思い浮かぶ。

 

「……」

 

 それでも、俺は走るのを止めない。

 ここでウィルを見捨てたら、俺は一生後悔する。

 俺が行かなかったせいでウィルが死んでしまったら。

 アイシャやパウロ、ゼニスやリーリャだって悲しむ。

 

 そんなのは、見たくない。

 せっかく幸せに暮らしている今の(・・)家族を、不幸にしたくない。

 だから、俺は行く。

 

 弟を助けない兄貴なんて、どこの世界に存在するっていうんだ?

 

「ッ!?」

 

 そう、思った時。

 

 

 シャリーアの郊外から、火山が噴火したような、大きな爆発音が聞こえた──

 

 

 

 


 

 夕陽が沈みつつあるシャリーア郊外。

 そこに、天変地異に匹敵する“ぶつかり”が発生し、大地を波打たせていた。

 周囲一帯は地中貫通爆弾を投下したかの如きクレーターが現出し、衝撃波で周囲の植物は全てなぎ倒され、荒れ野へと変わる。

 

「ガッ──!?」

 

 クレーターの中心では、王竜剣カジャクトをウィリアムへ圧し当てるアレクサンダーの姿。両腕に装着された手甲で、アレクサンダーの剣圧を必死に耐えるウィリアムの姿。

 闘気を十全に込めたウィリアムのガチタックル。カルバリン砲の水平射撃に等しいその威力は、アレクサンダーへと届かず。

 

「これが、王竜剣の威力だッ!」

「ッッ!!」

 

 ぎしり、と、鋼が軋む音が鳴る。

 猛烈な高重力がウィリアムを襲い、至近で爆弾の衝撃波を受けた者同様、ウィリアムの眼球はやや飛び出し、全身の穴という穴から血が噴き出ていた。

 まるで、黄泉平坂の巨岩(おおいわ)を支えるが如き有様。

 

 “王竜剣カジャクト”

 

 魔族の名匠ユリアン・ハリスコが心血を注いで拵えし珠玉の逸品。

 中央大陸で猛威を奮った魔物、王竜王カジャクトの素材で作られたこの剣は、王竜の固有魔術“重力魔術”の性能を付与した北神流最強の魔剣。

 単純な剣の性能も凄まじいが、王竜剣の真の威力はその重力魔術を駆使した攻撃力、そして防御力にある。

 重力力学を無視したその剣威は、相対するあらゆる者を容易に攻略せしめた。

 

「グウゥッ!!」

 

 ウィリアムのアタックは、寸前にてこの高重力により阻止されていた。

 まともにぶつかればアレクサンダーを肉塊へと変えるその威力が、王竜剣から放たれし重力と共にウィリアム自身へ跳ね返る。

 

何故(なにゆえ)──!?)

 

 ウィリアムはこの理不尽な現象を、即座に魔術によるものと確信する。

 だが、反魔の性質を持つ“不動”を纏いし己が、何故このような理不尽に晒されているのか。

 

「このまま、潰すッ!」

「グゥッ!?」

 

 全身から圧力を発し、アレクサンダーが王竜剣に力を込める。

 ウィリアムは膝立ちになりながら、必死でその圧力に耐えていた。

 

「ッ!?」

 

 ふと、ウィリアムは己の体液とは違う、真紅の滴りを見る。

 それは、アレクサンダーの鼻孔から流れ落ちていた。

 

「アアアアアアアッッ!!」

 

 北神の咆哮。

 眼から、鼻から、口から鮮血を迸らせる。

 

 不動の反魔は、確かに発動していた。

 だが、それをねじ伏せた(・・・・・)アレクサンダーの気魂。

 反発する重力を、更に高圧力を持った重力で圧倒する。

 

 刹那の瞬間で発せられた北神の荒業。

 不死魔族の血が混じった冠絶たる肉体、そして北神流の極意を悉く身につけた武才。

 それらを十全に発揮した無垢なる侵略剣は、敷島の理不尽を力技で封じていたのだ。

 

(強い……!)

 

 ウィリアムは思わずこの驕る北神の戦力を再評価していた。

 思い上がった列強づれなどと侮るなかれ。北神が持つ大戦力は、増長した独りよがりな正義を押し通すには十分なり。

 対する当方の、迎撃準備やや不足。

 不動の性能は申し分なきもの。しかし、その性能を十全に発揮出来ておらず。

 否、ウィリアムが万全の状態であれば、この鎧はその潜在能力を完璧に発揮し、この高圧力を跳ね除ける事が出来たのかもしれない。

 

(ッ!?)

 

 ウィリアムは高重力に晒された中で、己の肉体、そして不動の変調に気付く。

 

(噛み付いて──!?)

 

 不動が、ウィリアムの肉体に噛み付いている。

 着装された各部位が、微細の刃を食い込ませる。

 

 突然の不動の造反ともいえるこの現象。

 ウィリアムは一瞬困惑するも、即座にその意図に気付く。

 否、気付かされた。

 

(引けというのか……!)

 

 撤退せよ、転生虎。

 北神の重剣に対し、盾あれど矛なき虎では勝機なし。

 捲土重来、期すべし。

 

 そのような強い意志を感じ取ったウィリアム。

 不動は新たなる主に対し、その生存を優先するべく苛烈な忠義を示していたのだ。

 物言わぬ超鋼(はがね)の忠義に、虎は──

 

 

(いな)ッ!!)

 

 

 見くびるな、不動。

 我は無双の流派、虎眼流の長。

 これしきの不利、物の数ではない。

 

 それに──

 

「ッ!!」

「ッ!?」

 

 剣を圧し当てるアレクサンダーの身体が僅かに浮く。

 ウィリアムが放つ得体の知れぬ圧力に、北神の重力は徐々に押し返される。

 

「甘いッ!!」

「グゥッ!?」

 

 だが、再度魔力と闘気を込めた北神の重圧。

 みしりと肉が軋み、虎の肉体は再び苛烈な圧力に晒される。

 互いの肉体から血潮が噴き出し、両雄の周りは赤い霧が滞留していた。

 

「ッ!?」

 

 だが、それまでの状況とはひとつだけ違う事がある。

 両腕を交差させ王竜剣を防いでいたウィリアム。だが、今の虎は左腕で(・・・)重剣を防いでいた。

 アレクサンダーは自由となったウィリアムの右腕が、己の腹に押し当てられたのを目撃する。

 

(現人鬼──)

 

 刹那の瞬間、ウィリアムはあの過剰にして無謬、猥褻にして純潔なる現人の鬼を想う。

 想い出せ。

 砂の大地で眼にした、あの美しく、残酷な指先を。

 悍ましい殺害忍法の、あの凄まじき威力を。

 

 

 その霞の超絶美技を、今こそ盗む時──!

 

 

 この身既に不退転

 

 

 我に霞の魂あり

 

 

 (たたか)うとは

 

 

 一生分の力

 

 

 一瞬で燃やす

 

 

 驕れる北神よ

 

 

 臓腑ぶちまけて

 

 

 死ねい

 

 

 

「渦貝──」

 

 

 

 北方大地の空に、北神の臓物が舞った。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十二景『転生虎(てんとら)(へき)る!』

 

 ああ、君か。

 久しぶり、というには余り年月が経っていない気がするけどね。

 こんな死にかけの年寄りに、一体何の御用かな。

 

 ……ああ、あの御方の話を聞きに来たんだね。

 あの御方は、なんていうか色々とショッキングだったから、あまり人に話すような事じゃないのだけれど……。

 まあ、君になら話してもいいか。

 

 あれはいつだったかな……ああ、確かフィットア領の転移事件が起きた時だったか。

 そう。君の父親にとって、最初のターニングポイントともいえる日。

 世界に異物が交わった日。そして、君の運命と、使命が定められた日。

 

 当時、私は“世界の偉人・英雄”を執筆していたのだけれど、その為にとある人物にもう一度会いたくて魔大陸へ赴いてたんだ。

 もうその時は五十を超えていたけれど、何度も訪れた土地だし、その人物が棲まう場所は魔大陸でも比較的安全な所だったからね。

 まあ、なんだかんだでその人には無事に再会出来たんだけど。

 帰る時にね……

 

 あの御方……現人の鬼に出会ってしまったんだ。

 

 私は現人鬼を見た時、驚きと、恐怖と、憧憬が混じった感情で一歩も動けなかった。

 今まで色々な種族、色々な英雄、色々な豪傑とは数多く出会ってきたけど、あんなイキモノには出会った事は無かったよ。人族もなかなか狡猾で残酷だけど、あの現人鬼に比べたらとてもとても。

 

 男でもあり女でもあり、過剰でありながら無謬、猥褻にして純潔なる肉体。

 怨々たる怨念を抱え、葡萄色の液体に塗れた不退転の戦鬼。

 傲岸不遜、唯我独尊、自由三昧、好き勝手の類。

 でも、言葉に出来ない魅力を放つ、現人の鬼。

 見惚れてしまったよ。それまでの人生で、一番センセーショナルな出会いだったね。

 

 で、呆然としている間に犯されたんだ。

 

 え? いやだから犯されたって。レイプだよレイプ。いや食われるかもって思ってたけど、まさか喰われるとは思わなかったね。

 いや、気持ちは分かるよ。(とう)が立った年増にすらイキった凶剣(まがつるぎ)を向けるとか、普通では考えられないよね。でも、残念ながら普通じゃないんだあの鬼は。

 まあワケも分からずいきなり転移させられてムシャクシャしてたんじゃないかな。でもムチャクチャにされたけどムシャムシャされなかったのは幸運だったと思っているよ。ムシャクシャだけにね。ウフフ、こやつめ。

 

 うーん、このジットリとした目は実に母親譲りだね。嗚呼(ああ)、無情。

 まあそれはそれとして、私はあの燃ゆる口づけを受けてただの年増ではいられなくなるくらい色情(おんな)を取り戻し、そりゃあもう不眠不休(寝る暇無し)乱痴気二毛作(ずっこんばっこん)からの初めてのA感覚で放心状態に……

 え? もう聞きたくない? そんな、盛り上がりどころはこれからなのに。

 歳を考えろ? あのねえ、年老いたとはいえ私は冒険家だよ? 冒険家が冒険譚を語らなくてどうする。

 

 んん。とにかく、それから私と現人鬼はしばらく魔大陸を一緒に旅したんだ。旅すがら魔神語と人間語、そしてこの世界のあらゆる事を教えながらね。

 道中とある魔族の吟遊詩人とも一緒になって、まあなんというか痛快な冒険の旅だったよ。

 枯れかけた花弁が瑞々しく潤いを取り戻すくらいには、美しく、残酷で、狂ほしく愉快な日々だった。

 ああ、ちなみに吟遊詩人も出会った直後に慰みものにされてたよ。私と彼女はいわゆる竿姉妹ってやつだね。いやーまさかあの歳であんな一線を超える体験が出来るとはとてもとても……

 

 そんな話はどうでもいいから“渦貝”について聞きたい?

 どうでもいいとか失礼だね君は。まったく、君の母親はちゃんと敬意を持って接してくれてたのに。ビンタされたけど。

 まあいいか。“渦貝”だったね。あれは、数ある現人鬼の大忍法の中でも大の得意技だったね。といっても、私はそこまで詳しくないけど。

 あれは魔術でもないし、闘気を用いた技でもない。原理は教えてもらったけど、見ただけじゃ到底真似は出来ない、現人鬼だけが使える必死技。

 

 曰く、大地からの反作用、大地の威力(ちから)を拇指裏より足首、膝、内股、体幹へとひねりを加えつつ伝達させ、脱力した肉体は水の如くその威力を伝える。

 更に肩、肘、手首へと幾重にもひねりを加え、掌へと辿り着いた頃には体内のひねりは臨界点に達し、大地力は爆発寸前の状態。

 そこから弓を射るが如くひねりを解放。掌を相手に密着させ、余す所なく目標に威力を浸透させる。

 そして、体格の例外なく“渦貝”を喰らった相手は果てるのだよ。

 うん、何を言っているのか良くわからないと言うのは分かる。でも、是非を説くのは許されないのさ。

 

 ……ああ、見ただけじゃ真似は出来ないってさっき言ったけど、一人だけ真似出来た人がいたね。

 何故だかわからないけど、後にも先にも“渦貝”を真似出来るのはあの人だけだろう。

 誰って、君がよーく知っている人物だよ。そうそう。あの虎のようなお人さ。君も知ってるだろうけど、あの人は色々と特別な人だと思うよ。

 もちろん、君の父親や母親も特別だと思うけどね。

 

 ともあれ“渦貝”についてはこんな所だよ。

 ところで、何故現人鬼の話を聞きたいと思ったんだい?

 

 ……ふうん。そうか。君も大変だね。

 彼らは君の敵でもないが、味方でもない。でも、君の懸念通りなら、最終的には敵になるのかもしれないね。

 君の弟……そして、あの時現れた、あの三体の鬼も……

 

 心配いらない? ああ、君にはとても強い味方がいるんだっけ。そして、それはこれからも増えていくんだろうね。そういえば、あのジャジャ馬、もといあのジャジャ虎娘は元気かい?

 いや、君の父親は実に大したものだ。多くの物を遺してもらっていると感謝しておきなさい。って、まだ亡くなっていないんだっけ。

 

 ……うん。私も若い頃に故郷を飛び出してから、一度も帰る事は無かった。親の死に目にも会えなかった。

 でも、後悔はしていないよ。君はどうなんだい?

 ……フフ。そうか、その杖とローブがね。洗っても匂いが落ちない? でも、その匂いは嫌いじゃないんだろう?

 それと、その帽子……。いや、良く似合ってるよ。

 一人前の魔術師は、やっぱり三角帽子だよね。大切にするんだよ。いや、こっちの話さ。フフフ。

 

 まあ、君は大丈夫だよ。多分、現人鬼は君だけは手を出さないと思うし……

 いやちょっと待って。胸の事を言ったんじゃないよ。やめなさい。その大きな犬をけしかけようとするのはやめなさい。微乳以下娘(イカ娘)なんて一言も言ってないからやめなさい。

 まったく……君ねえ、私はもう死にかけのお婆ちゃんなのだよ? もう少し年寄りを労る気持ちをだね……

 

 

 

 甲龍歴460年頃

 とある老いた冒険家と、とある蒼髪の少女の会話より抜粋。

 

 

 


 

 甲龍歴424年

 魔法都市シャリーア郊外

 

 血潮と共に、北神三世アレクサンダー・カールマン・ライバックの五臓六腑が、そのあどけない口中からまろび出る。

 食道が捲れ、胃、肺、腎臓、肝臓、小腸、大腸。生命維持活動に必要不可欠な様々な臓器が、螺旋を描き冷たい大地に散乱していた。

 臓物が放つ悪臭が鼻孔をくすぐり、ウィリアムは僅かに顔を顰める。

 

「ッッ!!!」

 

 驚愕で血走った目を剥き出しにしながら、アレクサンダーはそのまま仰向けに倒れた。

 

「ガハッ!」

 

 ウィリアムもまた、四足獣の如き有様で地を這い、血反吐をひとつ吐く。

 喘ぐように呼吸を荒げ、消耗した肉体は両の脚で立つ事能わず。

 不動の重量が肉体に食い込み、更に虎の体力を消耗せしめていた。

 

「グゥゥ──!」

 

 ウィリアムは飛び出した己の眼球へ指を当て、眼窩へと押し戻す。

 生々しい音と共に激痛が走り、うめき声をひとつ上げる虎。両眼からは鉛の如き重たく熱い血涙が溢れ、虎の視界は朱に染まる。

 

「……」

 

 しばし、呼吸を落ち着け、ウィリアムは傍らに四肢を投げ出すアレクサンダーを見やる。

 朱い霧がかかったかのようなぼやけた視界の中、アレクサンダーはピクリとも動かなかった。

 

 仕果たしたか──

 

 ウィリアムは物言わぬ骸と化した北神を見て、深い溜息と共に己の勝利を確信した。

 惨たらしく臓物を曝け出し、葡萄色の体液を目や鼻、口から垂れ流すアレクサンダーの姿は、余人が見ても生命活動が停止しているように見えた。

 

「……」

 

 下半身に力を込め、ウィリアムは重たい身体を起こす。

 土壇場で放った“渦貝”。現人鬼が使うそれとは遠く及ばないものの、その絶大な威力にウィリアムは僅かに慄きを覚える。

 ベガリット大陸で幾度も眼にした現人鬼の虐殺忍法。大凡ではあるが、その忍法のからくりは看破している。

 大地の威力を身体操作によって対手へと浸透させるそれは、ある種の骨法とも見て取れた。骨子術を修める自身にも、それが模倣出来るとも。

 完璧に模倣できたとはいえないが、それでも列強七位を滅するには十分な威力。

 

(扱い、誤らなければ中々に強力……)

 

 ぐっと拳を握り、ウィリアムは“渦貝”をモノにした手応えを噛み締めていた。

 

「……」

 

 だが、ウィリアムは拳を握りしめながら頭を振る。

 己の本分は、あくまで剣術家。

 剣を用いずとも戦える術は備えるも、それはあくまで最後の手段。必勝の備えではない。

 備えを怠っても北神に勝てたのは、それこそ運が良かったから。

 無刀で実力者と相まみえる状況に陥ったのは、己の不覚ゆえなのだ。士道不覚悟と謗られても否定は出来ない。

 

 (いくさ)感、鈍ったか。ウィリアム・アダムス。

 

 そう自嘲する程、己の強者への警戒心は大分鈍っている。

 それほど、家族という陽だまりは、虎にとって至福の時だったのだ。

 

 己は、未だ頂きに登り詰めた身の上にあらず。

 故に、安息に浸かるには、まだ早い。

 それに──

 

「凶刃漢か……」

 

 先程言い放たれた北神の言。

 それはある意味では正しいと、ウィリアムは認識していた。

 異界天下無双という頂きの途上。その道のりは、決して外道の輩のみを斬って進んでいたわけではない。

 斬り伏せた者達の中には、愛すべき家族が持つ者もいただろう。残された遺族が仇討ちを果たしに来る可能性も十分にある。

 だが。

 

「……返り討ちもまた、武門の名誉である」

 

 物言わぬアレクサンダーへ向けそう言い放つウィリアム。

 己に向けられる怨恨を全て斬り伏せ、築いた屍山血河の先に己が目指す異界天下無双の頂きがあるのだ。

 

 そして、その血腥き執着(とらわれ)に、家族を巻き込むわけには──

 

「うぬ……!」

 

 ウィリアムは重たい足を引きずるようにシャリーアへ歩を進める。

 心なしか跛足となった右足がうずき、余計に足取りを重くせしめる。

 

 離別の時が来たのだ。

 

 そう想いながら、ウィリアムは歩を進めていた。

 パウロは、薄々であるが己との別離が近いことを察していたのだろう。あの過剰なスキンシップは、それを察していたから。

 ゼニスも同じ。いや、ゼニスの様子を見たから、パウロもその事を察する事ができたのかも知れない。

 リーリャは、多少個人的な性癖に従ったようにも見える。だが、彼女はパウロの第二夫人とはいえ、転移事件後もずっとグレイラット家に献身的に奉公してきた。だから、報いる為にも好き勝手やらせていた。

 ノルンは、もう十分だ。あの可憐な少女に、あれ以上の武を修める必要は無い。むしろ、己がいると、少女の成長の妨げにもなりかねない。

 アイシャは、聡い子だ。己がおらずとも、立派にやっていけるだろう。シャリーアへ帰ってきてから、己の食事は必ずアイシャが拵えていた。少々、その味から離れるのは惜しいが。

 

 そして、本当の意味で同胞となった、兄ルーデウス。

 前世の事を打ち明けてから、ルーデウスとの心の距離は縮まっていた。そして、彼が本当に弟である自分を気にかけてくれた事も。

 

 ありがたい──

 

 だが、その優しさに甘えるわけにも、また巻き込むわけにもいかぬ。

 ルーデウスは少々抜けている所もあるが、土壇場での度胸、そして家族を守る為なら死狂うた気魂を発揮出来る男である。

 少々の無謀は、それこそ兄の良妻であるシルフィエット、そしてロキシーがいれば正しく支えてくれるであろう。

 元より、何も心配はいらぬのだ。

 

「……」

 

 一歩一歩シャリーアへと進む虎。

 その胸中は、家族への想いが、複雑に渦を巻いていた。

 

「許せ」

 

 ふと、ウィリアムは妹達から贈られた大切なコートを、ノルンへ預けている事を思い出す。

 事に至っては、それを着て修羅の道を進むのは憚られる。このまま家族の前から黙って去る以上、それを回収する気にはどうしてもなれなかった。

 嘘をついた事になってしまった。それを、ノルンや、アイシャは許してくれるのだろうか。

 

 否。

 頂きに登り詰め、真に虎眼流をこの異世界に根付かせる。

 それまでは、決して己のような魔剣豪に安住の地があってはならぬのだ。

 愛しい妹達とは、今生の別れと思わねばならない。

 

「……ナナホシ姫には、暇願いを出さねばな」

 

 そして、ウィリアムはあの敷島の迷人たるナナホシ・シズカを想う。

 彼女の日ノ本帰還へ、もうしばらく助力するのは吝かではない。だが、状況がそれを許してはいなかった。

 神級の使い手がそうそう現れることはないだろうが、己の剣名は予想以上にこの世界の強者に知られている。

 故に、このまま己がシャリーアへ逗留し、ナナホシとの関係性まで露呈すれば、直接的な害が及ぶ可能性も否定出来ない。

 

 愛刀は、回収させて頂く。

 申し訳なし。ナナホシ姫。

 

「……ああ、あやつらも連れていかねば」

 

 ウィリアムは双子の兎、ナクルとガドも想う。

 弟子共は全てを捨てて虎眼流に殉じる覚悟を背負っている。

 傷が癒えない内に修羅道へ連れ回すのはやや酷であるが、ここで置き去りにするのはもっと不憫だ。

 密かにシャリーアを発つ腹積りの虎は、兎兄弟をどう連れ出すか思考しながら、重たい歩を進めていた。

 

 

「……?」

 

 ふと、ウィリアムは前方に陽炎のような二人の人影を姿を見留める。

 朧げではあるが、その姿に見覚えがあったウィリアムは、思わずその名を呟いた。

 

『三重……源之助……』

 

 日ノ本言葉でそう呟かれた名前。

 虎の眼の前に、前世での娘と息子(・・)の姿があった。

 

 質素な着流しを纏い、儚げな表情を浮かべる前世の娘、三重の姿。

 その隣では、同じく質素な小袖姿の、前世の息子……いや、息子同然と想っていた、藤木源之助の姿。

 

『何故……』

『……』

『……』

 

 ウィリアムの問いかけに、無言を貫く二人。

 顔も思い出せないと思っていたが、徐々に二人の表情が鮮明になる。

 

 なんと美しく、儚いのだろう。

 

 三重と源之助の姿は、まるで龍門に登ろうとする鯉の番の如く、美しく、儚い姿。

 ウィリアムは見惚れるように眼を細める。

 だが、二人が浮かべる憂いげな表情が、虎の心をかき乱す。

 

 “今の家族を──大切になさりませ──”

 

 かつて見た、三重の幻像から言われた言葉。

 それを思い出したウィリアム。だが、大切に想うからこそ、己は家族と離れなければならぬのだ。

 そのような不器用な父親の姿を見たからなのか、三重と源之助は更に表情を暗くさせていた。

 

『……!』

 

 そして。

 三重と源之助は、突如両眼を開き、ウィリアムを凝視した。

 突然の表情の変化に、ウィリアムは僅かに戸惑い、二人を見つめる。

 

「ッ!?」

 

 源之助が左腕(・・)を上げ、ウィリアムの後方を指差す。

 その意味を察知したウィリアムは、即座に後方へと振り返った。

 

(馬鹿な──!?)

 

 青天の霹靂の如き衝撃がウィリアムを襲う。

 

 虎の視界に、飛び出した臓物を咬み千切り、両の脚で立つアレクサンダーの姿あり。

 

 血反吐を口中から溢れさせ、両手持ちにて王竜剣を大上段に構える。

 そして、呻くようになにかを呟いていた。

 

「ッ!!」

 

 何故あれで動ける、北神三世。

 ウィリアムはそのような疑念を持つ間も無く、最後の力を振り絞るようにアレクサンダーへと吶喊する。

 しかし、それは悪あがきにも満たない、虎の無意味な抵抗。

 容赦なく、北神の究極奥義が発動されようとしていた。

 

 右手に剣を──

 

 左手に剣を──

 

 両の腕で齎さん──

 

 有りと有る命を失わせ──

 

 

 一意の死を齎さん──!

 

 

 アレクサンダーの血反吐混じりの言霊。

 ウィリアムは、それが死刑執行宣告のように聞こえた。

 

 

 ズドドッ!!

 

 

 次の瞬間。

 雷が落ちたかのような爆音と閃光と共に、とてつもない重力の波斬が、ウィリアムへと襲いかかった。

 

 

「“重力破断”──北神()切り札(エクセレント)さ──!」

 

 

 血肉と装甲の破片を撒き散らせながら彼方へと吹き飛ぶウィリアム。

 それを見て、北神三世アレクサンダー・カールマン・ライバックは、そう嘯いていた。

 

 

 

 


 

「……何かしら」

 

 ナナホシ・シズカはラノア魔法大学の研究室に備え付けられている窓ガラスが振動するのを見て、妖刀の調査を中断する。

 僅かではあるが空気の振動も感知し、またぞろ居残りの学生が無茶な魔術でも行使したのかとうんざりとした表情を浮かべる。

 

「……?」

 

 だが、直後に妙な違和感を覚えたナナホシ。違和感の正体を探るように、部屋の隅々まで目を向ける。

 また、得体の知れない悪寒がナナホシの肉体を急速に包んでおり、幾ばくかの怖気が漂い始めていた。

 

「……あ」

 

 しばらくして違和感の正体が判明する。

 それは、まさに先程まで入念に調べていた七丁念仏。

 妖刀は転移魔法陣を応用したスクロールの上に置かれており、少し目を離した間に悍ましいまでの冷気を放っていた。

 尋常ではない様子を、ナナホシは驚愕と共に見やる。

 

「な、何が」

 

 鞘に収められた刀身を僅かに震えさせながら、冷気を発し続ける七丁念仏。

 その異様な光景を、ナナホシは身を竦ませながら凝視していた。

 

「きゃあっ!?」

 

 そして、妖刀から光が放たれる。

 閃光手榴弾(フラッシュバン)の如き強烈な光を受け、ナナホシは一時的な失明を引き起こし腰が抜けたように床にへたり込む。

 虹色の光が研究室を突き抜け、周囲一帯を光の柱が包んでいた。

 それは、遠くからでも容易に確認が出来る程の、異常な事態。

 

「な、何なの!?」

 

 光に眩惑されたナナホシ。

 だが、妖刀が引き起こす異常事態はそこで終わった。

 

「……?」

 

 平静を取り戻すのと比例するように、ナナホシの視力は戻り始める。

 徐々に戻る視界に、スクロールの上にある七丁念仏の姿が映り出す。

 

「──ッ!?」

 

 そして、ナナホシは信じられぬ光景を目にする。

 

「うそ……」

 

 七丁念仏が安置された研究机の上。

 大きめに拵えられたその机の上には、七丁念仏。

 そして、もう一振りの刀。

 七丁念仏より小振りのそれは、いわゆる脇差──大刀と対を成す、武士の差料であった。

 

 だが、ナナホシを驚愕させたのは、脇差の出現からではない。

 

「お、女の人!?」

 

 その大小を抱える、裸身の乙女。

 身に何も纏わず現出した乙女は、ナナホシの研究机の上に静かに佇んでいた。

 

「……」

「え、えっと、あの……」

 

 瞑目しながら、二振りの刀を抱え続ける乙女。

 その風貌を見て、ナナホシの脳内は再び混乱に陥る。

 まるで平安貴族のような眉化粧(・・・)を施したその顔立ち。

 生えていた眉毛を抜き去り、墨で描かれた楕円の眉。垂髪を美麗に流し、美しく整った乳房に二振りの刀を埋める乙女。

 鞘の影に隠れるは、胸の谷間に刻み付けられた十字(・・)の焼印。

 眉化粧のせいもあってか、一切の感情が死滅したかのように見えるその姿は、ナナホシを困惑と恐怖の感情を抱かせるに十分な異様な光景であった。

 

 そして──

 

 

『──はれるやは』

 

 

「えっ──?」

 

 僅かに目を開き、そう呟いた乙女の言葉。

 それは、この世界では決して使われる事が無い、そしてこの世界では決して存在しない神への感謝を表す言葉。

 それを聞いたナナホシは混乱の極地へと陥っていた。

 

 

「ナナホシッ!!」

 

 突如、研究室のドアが開かれる。

 そこには、泥沼ルーデウス・グレイラットが妻、シルフィエット・グレイラットの姿があった。

 

「今の光は──って、な、何!?」

 

 シルフィエットは異常事態が発生したこの部屋の状況を見て硬直する。

 しかし、裸身の乙女が刀──ウィリアムの七丁念仏を抱える姿、そしてそれを見て尻もちをつくナナホシの姿を見て、シルフィエットはサングラスの下に怜悧な光を宿す。

 

「それは、ウィル君の剣だぞッ!!」

『ッ!?』

 

 刹那。

 シルフィエットは杖を振り、無詠唱魔術を発動させる。

 風魔術“真空突風(ソニックブラスト)”の威力をまともに受け、裸身の乙女は壁面へと叩きつけられた。

 

「ナナホシ、大丈夫!?」

「え、あ、え──」

 

 突如発生した修羅場に、ナナホシは困惑しきった様子でシルフィエットを見やる。

 油断無く裸身の乙女に目を向けつつ、白髪の乙女は状況確認の為、震えるナナホシへと声をかけた。

 

「一体何が──!?」

 

 直後。

 操り人形のように跳ね起きた乙女は、そのまま煮えた鉛(・・・・)の如き指先をシルフィエットへ向けた。

 

「あぐぅッ!!」

「シルフィ!?」

 

 乙女の指先から赤い爪弾が連射される。

 一発が肩を射抜き、尖頭弾の威力はシルフィエットの肉体を先程の乙女と同じように壁面へと叩きつけていた。

 

「シルフィ! シルフィ!!」

 

 蹲るシルフィエットの元へ、床を這いつくばりながら向かうナナホシ。

 身体を震わせ、目に涙を溜めるナナホシの様子は、この騒乱状態にただ慄く女子でしかなかった。

 

『……嗚呼、神様。レジイナは、まだ赦されていないのですね』

 

 その様子を見て、乙女は寂しげに日ノ本言葉を呟く。

 二振りの剣を、まるで十字架のように抱える。

 それは、あの二天一流の剣士が見せた、神の姿のように。

 

『南無さんたまりあ』

 

 そして。

 乙女の血液──煮えた鉛の如き鉄血が妖刀に反応し、その肉体を玉鋼(はがね)へと変えていった。

 

「ひっ──」

 

 徐々に異形へと変身(怨身)するその姿を見て、ナナホシは引き攣った悲鳴を上げ股間から小水を漏らす。

 黄色い水たまりの上で、平成日本女子高生は恐怖を誤魔化すかのように倒れ伏すシルフィエットへ縋り付いていた。

 

 

 雹鬼(ひょうき)

 

 

 純潔な乙女の皮膚は硬質の鎧へと変化する。

 頭部や身体の各部位には左右対称の翼が生え、まるでかつてナナホシがいた世界で信仰される宗教の教典──聖書に一編に登場する、悪魔(ルキヘル)の如き威容。

 

『ッ!』

 

 雹鬼はそのまま研究室の窓を突き破り、魔法大学から去っていった。

 妖刀“七丁念仏”

 そして新たに現出した、妖刀──“千子村正”を抱えながら。

 

「な……何が、何だって言うの……!」

 

 残されたナナホシ。

 意識を落とすシルフィエットを抱えながら、ナナホシは現出したこの異常事態を咀嚼しきれず、ただ恐怖に震えるしかなかった。

 

 

 新たに現れた敷島の怨鬼。

 現し世の苦しみから解放されたはずの怨鬼は、神の残酷な意志により新たに生を受け、この六面世界へと現出していた。

 乙女が垣間見た神様(デウス)は、乙女を檻の無い自由な世界へと導く事はせず。

 

 (いな)

 神が、このような残酷な十字架を乙女に背負わせるはずがない。

 

 嗚呼、無情なり。

 赦し、赦されたはずの乙女を、再び過酷で血腥い世界へと叩き込んだのは。

 平穏なる常世国(とこよのくに)より背を向けさせ、再び荒神をおろがむ鬼にさせたのは。

 

 異世界へ、その禊を済ませる為、超常の刃を送り込む衛府の龍神。

 

 そして──

 

 現出した怨鬼は、一体に非ず。

 

 双子兎の救助に向かうロキシー、ノルン。

 弟の助太刀に向かう、ルーデウス。

 

 

 彼らの前にも、甦りし衛府の怨念が現出せんとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十三景『転生虎(てんとら)、チェストる!』

 

 魔法都市シャリーア

 ルーデウス・グレイラット邸

 

「ふんふんふーん♪」

「……」

 

 ルーデウス邸の庭の隅に設けられた一画。

 レンガで囲われた菜園スペースに、ルーデウスとウィリアムの異母妹アイシャ、そして実母ゼニスの姿があった。

 

「キミはもう逃げられない~♪ あたしが一生ブチブチしてあげる~♪ キミが泣いても叫んでも~♪ 絶対許さない勘弁しない逃さない~♪ 一生むしりとってあげる~♪ キミが枯れて動かなくなっても~♪ ブチブチブチブチブチブチ~~♪」

「……」

 

 妙にネチネチした歌を口ずさみながら、アイシャはご機嫌な様子で小さな耕地に生える雑草を毟っていく。

 ゼニスはアイシャの隣で黙々と雑草を毟っており。

 夕陽に包まれたルーデウス邸の庭は、穏やかで、優しい時間が流れていた。

 

「こんな時間まで手伝ってくれてありがとね、ゼニス様!」

「……」

 

 ゆっくりではあるが、手慣れた様子で草を毟るゼニス。それを見て、アイシャは顔を錆色の土で汚しながら花が咲いたかのような笑顔を浮かべる。

 

「ゼニス様って庭いじりが上手だよね。あたしももっとがんばらなきゃ」

「……」

「わぷ、ゼニス様」

 

 そんなアイシャに、ゼニスは無表情のまま手にした手ぬぐいでアイシャの顔を拭う。

 アイシャの顔を拭うゼニスからは慈しみに満ちた柔らかい空気が漂い、少女は気持ちよさそうに目を細め、菩薩の慈愛を受け入れていた。

 

「それにしても、これどんな感じで実るんだろうね。ゼニス様は知ってる?」

「……」

「なんかルーデウスお兄ちゃんが言ってたけど、ウィル兄がとっても喜ぶ食べ物なんだって。どんな作物なんだろうね?」

「……」

 

 少しだけ照れを隠すようにゼニスへ話しかけるアイシャ。アイシャの問いかけにも無言のままのゼニスであり、傍から見れば全くコミュニケーションは取れていないように見えた。

 だが、それでもアイシャは楽しそうにゼニスに話しかける。まるで、本当の親子のように。

 アイシャは実母リーリャの言いつけ通り、ゼニスを「お母さん」と呼ぶ事はしない。それでも、リーリャと同じように、母親へ向ける愛情をゼニスにも向けていた。

 

 ちなみに、この菜園スペースに植えられているのはルーデウスが持ち込んだサナキア王国産の種籾、つまり稲である。

 中央大陸南部の温暖な気候でしか栽培出来ぬ代物ではあったが、この菜園スペースに敷設されているのはルーデウス渾身の土魔術で作られし土壌。米作に適さない寒冷地の陸作でも、魔力が籠もった滋養のある土ならば十分に稲が育つ素地があった。

 

「お花とか咲くのかな。あたし、林檎とか水仙のお花が好きなの」

「……」

 

 アイシャは稲の存在は知っていたものの、その生育過程がどのようなものかは知っておらず。

 ミリシオンからシャリーアへは弾丸行での旅路であり、途上にあったサナキア王国へはロクに滞在しておらず、サナキア米を食す機会も、また目にする機会もなく通り過ぎている。

 故に、こうして未知の作物への期待感を込めながら、楽しく土をいじっていた。

 

 

「……」

「ゼニス様?」

 

 ふと、ゆっくりとゼニスが立ち上がる。そして、ラノア魔法大学の方向へと視線を向けた。

 不意に取ったその行動に、アイシャもまた訝しげにゼニスの視線の先へと目を向けた。

 

「わっ!?」

 

 そして、彼方から屹立せし虹色の光。

 遠く離れたルーデウス邸、いやシャリーアのどこにいても視認することが出来たであろう大きな虹の光が、茜色の空へ広がっていた。

 

「な、何今の? お兄ちゃん達が何かやったのかな……?」

「……」

「ゼニス様?」

 

 やがて光が収束し、シャリーアの空は常の空模様へと戻る。

 突然発生した事態に困惑を隠せないアイシャであったが、直ぐにゼニスの異常に気づいた。

 

「……あー」

「ゼ、ゼニス様!?」

 

 ゼニスは、光が収束したと同時に、その足をルーデウス邸の外へと向ける。

 突然のゼニスの行動に、アイシャはますます困惑を隠せず、やや狼狽してゼニスの腕を掴んだ。

 

「ま、待ってゼニス様! 一人で外に行くのは危ないよ!」

「あー、うー」

 

 アイシャが止めようとしても、ゼニスは歩みを止めない。

 痴呆老人のように呻き声を上げながら、ゼニスはラノア大学へと真っ直ぐに向かって行った。

 

「待って、待って! お、お父さん! お母さん!!」

 

 たまらず、アイシャは大きな声で家の中にいる両親を呼ぶ。

 敬愛する二人目の母親ともいえるゼニスの腕に必死でしがみつくも、ゼニスはアイシャに構わず歩くのを止めなかった。

 

「どうしたアイシャ!?」

「アイシャ、一体何事です!?」

 

 やがて慌てた様子で家から飛び出してくるパウロ、リーリャ。

 即座にゼニスの異常に気付き、その身へと駆け寄っていった。

 

「お父さん! お母さん! ゼニス様が!」

 

 アイシャの悲痛な叫びを聞き、パウロは韋駄天の如き疾さで曖昧な伴侶の元へ向かう。

 外へ向かうゼニスを正面から抱き止め、菩薩の動きを止めた。

 

「母さん! どうしたんだ!」

「あー、うー」

 

 パウロの腕の中でもがくゼニス。

 夫にも目もくれず、ゼニスの瞳は外へ、外へと向けられていた。

 

「母さん!」

 

 ゼニスの肩を掴み、正面からその瞳を見つめるパウロ。

 そして、ゼニスは夫の目を見る。

 

「うー、うぃー」

「か、母さん!?」

 

 ゼニスは、その双眸からポロポロと涙を流す。

 まるで、何かが失われようとしているのを、悲しむかのように。

 

「うぃー、うぃー……」

「母さん……」

 

 ベガリット大陸から帰還して以降、ゼニスがここまで感情を露わにする事はなく。

 パウロはゼニスのたどたどしい言葉を聞く内に、妻の内なる悲しみを察しようとしていた。

 

「ウィルに、何かあったのか?」

「あー……あー……」

 

 ウィル、という単語を聞き、ゼニスはもがくのを止める。

 そして、縋るように夫の腕の中でポロポロと涙を零し続けていた。

 

「ッ!」

「ア、アイシャ!?」

 

 そして、その言葉を聞いた瞬間、アイシャが駆け出す。

 リーリャが止める間もなく、少女はラノア魔法大学へと向かおうとしていた。

 

「アイシャ!!」

「ッ!?」

 

 しかし、パウロの怒声にも似た大きな声が響くと、アイシャは動きを止めた。

 振り返り、泣きそうな顔を父親へと向ける。

 

「アイシャ、お前はここで待っていろ」

「で、でも!」

「お前はルーシーを頼む。母さんがこんな状態じゃ、リーリャ一人じゃ無理だ」

「あ……」

 

 パウロに諭され、アイシャはゼニスに寄り添うリーリャを見つめる。

 変わらず涙を流し続けるゼニスに、リーリャもまた表情を暗くしていた。

 

「リーリャ、母さんを頼む」

「だ、旦那様!?」

 

 アイシャが落ち着くのを見たパウロは、素早い動きで家の中へ戻る。

 そして再び家の中から出てきたパウロの手には、ラパンで入手した魔力付与品の両刃剣が握られていた。

 

「リーリャ、アイシャ。ウィルは、皆は俺が連れて帰る。安心しろ」

「は、はい」

「……わかった」

 

 パウロはリーリャとアイシャに頷くと、そのまゼニスの前に立つ。

 そして、その可憐な身体をぎゅっと抱き竦めた。

 

「ゼニス……」

「……」

 

 パウロはゼニスが何を感じ取り、ここまで取り乱したかは分からない。

 それでも、何かしらの異常事態が発生したのは理解していた。

 

 愛息子の危機。

 もう二度と、己の目の前であのような惨劇は見たくない。

 いや、惨劇を起こしてはならぬのだ。

 

「行ってくる」

「……」

 

 そして、パウロは走る。

 虹色の光が発生した、ラノア魔法大学へと。

 

 

 

 


 

 同刻。

 ラノア魔法大学付近。

 

「い、今の光は」

 

 騎乗魔獣、アルマジロのジローに跨るロキシーとノルン。ロキシーに抱えられるようにして跨るノルンは、ラノア大学から発生した光を見て困惑を露わにしていた。

 裏路地にて双子の捜索をしている最中に発生したこの異常事態。

 しかし、光が直ぐに収束したのを見たロキシーは、それに構わず双子の捜索を続行するべく手綱を握った。

 

「ノルンさん。今はナクルさんとガドさんを探すのが先決です」

「は、はい」

 

 ロキシーは注意深く路地へと視線を巡らす。

 双子の影は無い。今しばらく、捜索には時間がかかりそうであった。

 

「ノルンさん。北神は、ナクルさん達について何か言っていませんでしたか?」

「え、えっと、特には……」

「何でもいいです。ウィリアムさんに何て言ってましたか?」

 

 ロキシーの言を受け、ノルンは双子の耳が包まれた布地を抱え、次兄と北神の会話を思い出す。

 しかしいくら思い起こしてもナクル達の居場所に繋がるような言葉は思い出せなかった。

 

「……ごめんなさい。ナクルさん達の事は何も。北神は、ウィリアム兄さんが一番の目的だって言ってました」

「一番の目的……」

 

 ノルンの言葉に、ロキシーは何かを考え込むように手綱を握りしめる。

 黙して思考するロキシーに、ノルンは今更ながらある種の“気まずさ”を感じ、同様に黙り込んでいた。

 ルーデウス邸にて、長兄ルーデウスとの不義を糾弾した少女は、その後その事をきちんと謝罪したわけでもなく。

 少しづつ打ち解けていたとはいえ、それは他の家族が間に立ってこその話であった。

 

「……北神は、どうしてウィリアムさんの事を知っていたのでしょうか」

「え?」

 

 そのようなノルンに構わず、ロキシーはある疑念を口にする。

 思いがけないその言葉に、ノルンもまた思考を中断していた。

 

「ウィリアムさんは確かにここシャリーアで死神を倒して七大列強になりました。でも、列強になった直後にベガリットへ向かっています」

「……」

「その後シャリーアに戻ってからも、特にウィリアムさんは自分が列強であることを喧伝していたわけではありませんでした。ではどうして、北神はウィリアムさんが、武神ウィリアム・アダムスがシャリーアに、それも今日、ラノア大学にいると分かっていたのでしょう」

「あ……」

 

 ロキシーの疑念。

 何故、北神アレクサンダーは、ウィリアムの居場所をピンポイントで突き止めていたのか。

 北神流の長が持ち得る情報網を熟知しているわけではなかったが、それでも余人がウィリアムの動向を知る術は少ない。

 明らかに()()()()()()()()()()()()()の存在なくしては知り得ぬ事実である。

 

「ノルンさん、これは──」

 

 そうロキシーが言葉を続けようとした時。

 

「ッ!?」

 

 路地の影に蠢く二体の獣人あり。

 

「ナクルさん! ガドさん!」

 

 ロキシーとノルンはジローから降りると、双子の元へと駆け寄る。

 散々折檻された後なのか、双子の姿は目を背けたくなる程の無惨な有様であった。

 

「ノルンさん! 治療します! 彼らの耳を!」

「は、はい!」

 

 ノルンから包みを受け取ったロキシーは、大急ぎで治癒魔術の詠唱を開始する。

 程なくして、双子の耳は癒着し、身体の負傷もある程度は回復せしめていた。

 

「う……」

「ぐ……」

 

 しかし、呻き声を上げる双子は常の状態へと復帰したわけではなく。

 この場ではこれ以上の治療は困難と判断したロキシーは、しかるべき治療設備が整った場所へ双子を搬送すべく行動に移る。

 

「ナクルさん、ガドさん。まだ無理をしては駄目です。ノルンさん、二人をジローへ」

「は、はい……え」

 

 ロキシーに促されたノルンが、双子を介抱しようとしたその時。

 

「え……?」

 

 ノルンは、路地の先に佇む一人の少女の姿を見留めた。

 

「……」

「ノルンさん、何が……えっ!?」

 

 ノルンの呟きを受け、ロキシーもまた少女の姿を見留める。

 同時に、その姿を見て驚愕した。

 

「は、裸!? それに、何てひどい……!」

 

 少女は、一糸まとわぬ裸体を寒空の下に晒していた。

 そして、その裸体に縦横に走る疵痕。

 縫い目のような切創痕が身体中を走り、まるで割れた皿の如き様相を呈している。

 それは、先程の双子は比較にならぬ程の痛々しさを見せていた。

 

「こっちへ!」

「……」

 

 ロキシーは少女が何かしらの犯罪に巻き込まれたのだと思い、茫然と佇む少女の傍へ駆け寄る。

 少女はロキシーの言葉に反応せず、虚空を見つめたままであった。

 

「……ッ!?」

 

 ふと、少女が視線をノルンへ向ける。

 そして、ノルンが纏うウィリアムのコートを見た。

 

『グルルルルルルルッ……!』

「ッ!?」

 

 瞬時にして異様な気配が辺りを漂う。

 雀のような可憐な少女が、大型の肉食獣の如き唸り声を発する。と同時に、ロキシーとノルンは得体の知れぬ悪寒に苛まれる。

 その悪寒の発生源は、少女の肉体。

 そして、少女の視線はある一点に注がれていた。

 

 雀が見つめる先。

 グレイラットの少女が纏うコートに刻まれし、()()()()()()()()()()

 武神の、いや、()()シンボルであるその紋様が、雀の内なる怨念を刺激していた。

 

 

 よしわら、かたき~~

 

 

 怨々たる日ノ本言葉と共に、少女の無垢なる肉体が異形の怪物へと深化(しんか)する。

 みしりと肉が軋む音が鳴り、あどけないその肉体が、徐々に虎のようで、鰐のような骨格に変化。その大きさも猛獣のそれへと変わる。

 異形は二足歩行から四足獣の如き姿勢となり、大きな目玉に武骨な面をグレイラットの乙女達へ向け、凶悪なまでに変わり果てた牙や爪を剥いて威嚇していた。

 まるで能楽にある霊獣“獅子”の如き威容。

 まさしく、この世界には存在し得ぬ、異界からの怪異である。

 

「ひっ!?」

「あ、ああ……!?」

 

 ロキシーとノルンは怪物へと変化した少女の姿を見て、この世のあらゆる怨念に晒された様にその身を竦め、恐怖した。

 アルマジロのジローは身を丸ませて震えている。

 ロキシーはそれを見て、目の前の怪物が残酷な捕食者なのだと認識していた。

 

 それは、あの現人の鬼のような──

 

 

 虹鬼(ななき)

 

 

『グルルァァァ!!!』

「ッ!? 危ない!!」

「ロキシーさん!?」

 

 虹鬼の蠍の如き尖頭尻尾が、稲妻の如き疾さでノルンへ向け射出される。

 ノルンを庇うべく、ロキシーは少女の身体を突き飛ばす。

 そして、その直後に来るであろう刺突。

 ロキシーは刹那の瞬間、ぎゅっと目を瞑り、身体を強張らせた。

 

『グルアァ!?』

「ッ!?」

 

 しかし、穂先はロキシーへは届かず。

 

「き、気色悪(きしょ)いなこいつ……!」

「恨みますよ、北神様……!」

 

 絶句。

 双子の兎の、死狂いなる盾。

 重なり合うように双子の腹部を貫通する虹鬼の尻尾。それを、双子は決死の思いで掴んでいた。

 

「ナクルさん! ガドさん!!」

「ロ、ロキシー殿……!」

「僕たちが抑えている間に……!」

 

 みしりと双子が掴む尻尾が軋む。見ると、肉が焼ける臭いと共に双子の手はみるみる焼け爛れていき、鬼の体温がぶち上昇(あがっ)ているのが見て取れた。

 

『ゴアアアアッッ!!』

「ぐッ!?」

「がぁッ!?」

 

 しかし、双子の決死行にもかかわらず、虹鬼は尻尾を大きく振り双子を振り飛ばす。

 壁面に思い切り叩きつけられた双子は、そのまま意識を手放した。

 

「汝の求める──流れをいまここに! 『水弾(ウォーターボール)』!」

 

 ロキシーは双子を巻き込まないよう、虹鬼の頭部を狙った水魔術を発動する。

 初級の水魔術とはいえ、ロキシーレベルの魔術師が放つそれは並の物であれば上半身が消し飛ぶ程の威力。

 水王級魔術師による必滅の水弾。

 しかし。

 

 ズドン!

 

 鬼の火炎放射である!

 

「なっ!?」

 

 火炎により水弾を相殺され、ロキシーはさらなる困惑に陥る。

 辺りは水蒸気に包まれ、視界は悪化する。

 

『グルルルルル……!』

 

 しかし、火炎を口中より燻ぶらせた虹鬼の姿が現れると、ロキシーは再び魔術の詠唱を開始するべく身構える。

 だが、前衛なき魔術師とは、裸でニューヨークのスラム街を歩くのに等しい蛮行である。

 無詠唱魔術の使い手ではないロキシーにとって、単身での鬼退治は困難極まりない戦いであった。

 

 虹鬼はロキシーを仕留めるべく、唸り声を上げながら距離を詰めようとした。

 

『グルル……?』

 

 だが、歩みを止め、ふと空を見上げた虹鬼。

 その視線の先には、()()の姿が──

 

「な、何が……ッ!?」

 

 急に動きを止めた虹鬼に困惑するロキシーであったが、直後に虹鬼は大音声の咆哮を上げた。

 

『グルアアアアアアァァァァッッ!!!』

「ッ!?」

 

 そして、素早い動きで倒れる双子を抱え、跳躍する。

 そのまま屋根伝いに飛び、シャリーア郊外へと消え去っていった。

 

「ロ、ロキシーさん……」

「ノルンさん。怪我は無いですか?」

「わ、私は大丈夫です。でも、双子さんが……」

「……」

 

 震えるノルンの肩を抱き、ロキシーは虹鬼が去った方向を見つめる。

 その方向は、自身の愛する伴侶が向かった、義弟が戦っている戦場があった。

 

「ノルンさん。私はこのまま郊外へ向かいます。大学に戻って、シルフィ達へ伝えてください」

「ロ、ロキシーさん!」

 

 虹鬼を追いかけるべく、ロキシーは郊外へと走る。

 

(ナクルさん……ガドさん……ウィリアムさん……ルディ……!)

 

 駆ける水王級魔術師の乙女は、双子の兎、ウィリアム……そして、この世で誰よりも愛している、ルーデウスの無事を祈っていた。

 

 

 

 


 

 無惨なり、武神アダムス。

 北神の絶技に敗れしか。

 

 否。

 

 神武の名に於いて、その身斃れる事赦さず。

 

 死狂いなる思想を持って、再び戦備を整えるべし。

 

 

 異界の英雄剣豪よ。

 

 傲慢なる三世北神よ。

 

 

 死に方──用意せよ──

 

 

 

 魔法都市シャリーア郊外

 

「ガァッッ!?」

 

 二百メートルは吹き飛ばされただろうか。

 ウィリアムは北神の奥義“重力破断”をまともに受け、四肢が引き千切れるような激痛と共に大地へと叩きつけられていた。

 

「グ、ガゥゥ……!」

 

 割れた面頬の隙間から、大型の肉食動物が苦痛に喘ぐかのように呻き声を上げるウィリアム。ウィリアムの負傷に比例するかのように、拡充具足不動の装甲もまたダメージを受けていた。

 

「ガッ……アアッ……!」

 

 東勝神州は花果山由来の超鋼ですら防ぎきれなかった北神の滅技。その威力は、若虎の肉体に深刻なダメージを与える。

 腹部を守る装甲は抉れ、皮膚や筋肉は破れ、骨や臓器が露出。頭部からダラリと暖かい血液が流れ、破鐘の如く脳髄を揺らし、鈍い痛みが絶え間なく沸き起こる。

 脇腹からとめどなく流れる血液と共に、肉を突き破った骨の隙間から一片の臓器がまろび出ており、冷えた空気に晒されたのか生々しい湯気が立っていた。

 

「ゲボォッ!!」

 

 ウィリアムは鮮血混じりの吐瀉物を吐き出しながら地を這う。

 だが、顔面を赤色の反吐で汚しながらも、肉体の被害状況を冷静に分析していた。

 

 腹部切創

 肋骨開放骨折

 両大腿部開放骨折

 両前腕部複雑骨折

 内臓割創、内臓出血

 頭部挫創、頭蓋底骨折

 全身に裂傷、及び打撲による内出血

 

 並の者なら致命傷にも等しい重傷であったが、ウィリアムは予想外に己の負傷が()()であるのを認めた。

 そして、己の首にかけられた、メダルが取り付けられたペンダンドが、金属音と共に地に落ちるのも。

 

「……」

 

 重力剣の威力を受け、兄達から貰ったメダルは、無惨な有様を呈している。メダルとチェーンの接続部分にある指輪は跡形もなく崩れていた。

 中央部分からひしゃげてしまったメダルを、ウィリアムは大地に手をつきながらぎゅっと握りしめる。

 

 土壇場で救われた──

 

 兄ルーデウス、そしてその妻シルフィエットとロキシー。

 彼らから願いを込めて贈られたその品は、その願い通りの加護を虎に与えていた。

 メダルとチェーンの接合部分に取り付けられた二つの魔力付与指輪(マジックアイテム)

 王級相当の剣撃を無効にするそれは、致命に至るギリギリの所で重力剣の威力を減殺していたのだ。

 

「兄上……義姉上……ロキシー殿……」

 

 ルーデウスらの想いが、虎を首の皮一枚で踏み止まらせた。

 その想いに、感謝。

 

「……?」

 

 ふと、ウィリアムが纏う破損した不動が、微量ではあるが妖しい光を発する。

 まるで『我も忘れるな』とでも言わんばかりの超鋼の可憐な抗議に、ウィリアムは口角を僅かに引き攣らせた。

 

「ぐ、ぬうぅ!」

 

 ウィリアムは溢れる(はらわた)をたぐり寄せ、強引に腹腔内へねじ入れる。そして、渾身の力を込めて両の脚で立ち上がった。

 全身が激しく痛むが、丹田から闘気を漲らせ鎮痛に努める。更にウィリアムの脳髄は過剰なストレスを受けエンドルフィンやアドレナリン等の神経伝達物質を大量に分泌。損壊した肉体に活力を与える。

 手足を軽く動かしたウィリアムは、己の肉体に麻痺等の障害が無いことも確認した。

 

 問題なし。

 死ななければ、まだ戦える。

 北神入魂の重力剣法を、我は乗り越えた。

 北神に、これ以上の滅技(わざ)は無い。

 

「くふ──」

 

 口中から鮮血を滴らせながら、残酷な嗤いを浮かべるウィリアム。しかしその嗤いは自嘲から来るものであり。

 そしてその眼には、狂気ともいえる不退転の火が宿っていた。

 

 士道不覚悟とはまさにこの事。

 何が、離別の時が来た、だ。

 難敵を前に、明日の事を考える余裕など、本来はあり得ぬ。

 

 愚かなり、ウィリアム・アダムス。

 覚悟完了せよ。

 一命投げ打たねば、この難事乗り越える事能わず。

 

「くふ、くふふ──!」

 

 再度嗤い、否、笑いを上げるウィリアム。それは、捨て身の兵法を駆使する虎の笑い。

 笑うという行為は本来攻撃的なものであり、獣が牙を剥く行為が原点。

 ましてや、手負いの虎ならば尚更のことであった。

 猛獣は、手負いの方が強い──。

 

「──ッ!」

 

 ウィリアムは全身に闘気を漲らせ再び臨戦態勢を取る。

 もはや恐れるものは無い。

 この身既に不退転。

 不惜身命、捨て身にて仕る。

 

 

 いざ、逆襲の時──

 

 

「クレイジーだ。まだ生きてるなんて」

「ッ!?」

 

 背後から突然聞こえし北神アレクサンダーの声。

 ウィリアムはその声に脊髄で反射、即座に反撃体勢に入る。

 

「ッ!!」

 

 瞬時に全身を回転させ放たれた裏拳(バックハンドブロー)

 まともに当たればアレクサンダーの下顎はこそげ落ちる事必至の虎拳。

 しかし。

 

「ッ!?」

 

 ウィリアムの虎拳は空を切る。

 否、空を切るというより、()()()()()()()

 

(重力操作──!)

 

 本来であれば高速の拳速にて放たれる虎拳。

 しかし、その速度はまるで()()()()()かの如き鈍いものへと変わり、アレクサンダーへの肉体へは届かず。

 

「シッ!」

「ッ!?」

 

 直後に返される北神の斬撃。

 袈裟斬りで放たれるその斬撃を、紙一重で躱すウィリアム。

 一寸の見切りを持って斬撃を躱し、アレクサンダーへ距離を取らせない。

 

(しゃあ)ッ!」

 

 石火の肘鉄。

 しかしアレクサンダーの脳天を狙う肘爆撃(エルボーボム)は、またもや当たる寸前に鈍重な速度へと変わり、虎の空爆は回避される。

 

「無駄だッ!」

「ッ!」

 

 北神の逆袈裟。

 これも寸前で躱す。

 だが、此度の北神の旋風はこれで止まらない。

 

「しぃッ!」

「ガッ!?」

 

 追撃の宙空回転脚(スピンキック)だ!

 アレクサンダーは撃剣を隠れ蓑に重たく、そして素早い回し蹴りを放つ。

 まるでルチャドールの如き軽快な空中殺法。とてもではないが、剣撃を放った直後の人体がして良い動きではない。

 まさに重力を無視した神級の身体操作(アクロバット飛行)である。

 身体を回転させながら超重力を込めたヘビーアタックは、虎をガードの上から薙ぎ倒した。

 

「ッ!!」

 

 弧を描くように回転し、頭部を地面に打ち付けるウィリアム。しかし咄嗟に受け身を取り、ダメージを最小限に留める。

 そのまま倒れ込みながら北神の右足首へ向けぬるりと手を這わせた。

 

「い゛ぃッッッ!!??」

 

 アレクサンダーの足首に“トラバサミ”が食い込んだが如き激痛が走る。同時に背骨に煮えた鉛を流し込まれたかのような激痛も走り、アレクサンダーは文字通り指一本動かすことすら困難な状態に陥る。

 アレクサンダーが初めて味わう、異世界の絡め手。

 

 骨子術。

 日本古流柔術の極みにして、剣術者が徒手空拳にて戦う必殺の術理である。

 

 滑り込むようにアレクサンダーの足首へ食い込んだ虎の爪は、然とその足首に点在する経絡を突き、身体の自由を完封せしめる。

 

(このまま括り殺してくれる──!)

 

 指先へ殺意を込めるウィリアム。刹那の間に分析した北神の重力操作に対抗するべく繰り出された骨子術。

 神速の打撃技は尽く重力を操作され、その疾さを減殺される。

 不動の反魔性質がなければ、己の手脚がひしゃげていたであろうその超重力を掻い潜り打撃をぶち入れるのは至難の技。

 

 ならば、“打”ではなく“極”を使うまで。

 

 アレクサンダーの関節という関節を全てへし折り、手足の自由を奪った上で頚椎をもへし折る。

 もちろん、内臓を全て噴出しても復活した相手に、首を折っただけで殺害出来るとはウィリアムも思っていない。

 だが、しばらくの間は行動不能に陥らせることが出来るはずだ。

 その上で、四肢を捥ぎ、首すらも捥ぎ取り、二度と復活出来ないよう徹底的に人体を破壊するのだ。

 

 そこまでの戦略方針を打ち立てたウィリアムは、アレクサンダーを虎眼流の泥沼(サブミッション)へと引きずり込むべく(かいな)に力を込めた。

 

「ガアアアアアッッ!!」

「ッ!?」

 

 だが、アレクサンダーは思わぬ方法で骨子術から脱出せしめる。

 グラウンドポジションへ移行する刹那、僅かに骨子術の束縛は緩む。その一瞬の隙を突き、アレクサンダーは()()()()()()()()()()()()()()

 

「ガアッ!!」

「ぐっ!?」

 

 ウィリアムは直後に放たれる撃剣を後方へ跳躍して躱す。ウィリアムの手には、クリスマスのターキーのようにアレクサンダーの脚が握られていた。

 

「ふ、ふふふ……ここまで苦戦した相手は初めてだよ……!」

「……ッ!」

 

 再度対峙する両雄。

 アレクサンダーは片足になりながらも、まるで見えない支えがあるかのように、その立ち姿は全くバランスは崩れておらず。見ると、切断部はぎちりと肉が締められており、重力操作による止血が施されていた。

 かようにまで神妙な北神の重力操作。それは、片足を失ってもまるで意に介さない、絶大なる理不尽である。

 

「……ッ」

 

 対するウィリアムは、破損し防御力が低下した不動を纏い。そして、損壊した肉体は限界に達しようとしている。

 腹部からの出血は多量。北神を睨みつける虎の足元は、まるで血の池地獄の様相を呈する。

 北神を睨むウィリアムの視界は、出血多量により徐々に照度を失っていった。

 

「右手に剣を──」

「ッ!?」

 

 アレクサンダーは再度絶技“重力破断”を放つべく王竜剣を上段に構える。

 このままウィリアムの失血死を待てば容易く虎退治を成し遂げる状況ではあったが、あくまで王竜剣による決着に拘る北神はそれを許さず。

 

「ちぃッ!!」

 

 ウィリアムはアレクサンダーの脚を打ち捨てると、なけなしの力を振るい突進する。

 一度は耐えた北神の重力剣法。

 しかし、この状態では二度目の破斬には耐え切れるはずもなく。

 ウィリアムは先程の“重力破断”が魔術の如き詠唱が必要であるのを看破しており、その言霊が終わりきらぬ内に距離を詰め、再び肉弾戦に持ち込むしか出来なかった。

 接近戦にて骨子術を使用すれば、至近距離からの重力操作もある程度は無効に出来るとも。

 

「左手に──!?」

 

 瞬く間に距離を詰めるウィリアムを見て、アレクサンダーは一瞬驚愕の表情を浮かべる。

 

 

「──かかったな」

 

 

「ッ!?」

 

 だが、接近したウィリアムは直後にアレクサンダーの口角が引き攣るのを目撃する。

 

「くわッッ!?」

 

 刹那。

 アレクサンダーの腰に備えられたひとつの袋が、重力操作によりウィリアムの顔面へと打ち付けられる。

 間合いを取っていれば容易に躱せたはずのそれを、接近しすぎていたウィリアムはまともに食らってしまう。

 打ち付けられた袋は爆ぜ、中に詰められた粉末が虎の呼吸器へと吸い込まれた。

 

「ッッッッ!!??」

 

 直後に訪れる虎の不調。

 大型の魔物にすら有効な強烈な刺激が粘膜にまとわり付き、咳、クシャミ、落涙などの症状が一気に現れる。

 ウィリアムが初めて味わう、異世界の絡め手。

 

 落涙弾。

 北神流の上達者が備える特別な香辛料を混ぜ合わせた催涙弾にして、文字通り隠し玉である。

 

「この僕に奇抜派ごときの技を使わせるとはね!」

「ギッッ!?」

 

 アレクサンダーは修得はしていれど、決して認めることは出来ない北神流奇抜派の技を使う。それは、不治暇北神流の長としてあるまじき醜態。

 このような邪道技を使わざるを得ない程、追い込まれた自身に対しての怒りからか。

 顔面を朱に染めたアレクサンダーは、ウィリアムの腹部を王竜剣にて刺し貫き、その身を地に縫い止めた。

 

「このッ! このぉッ!!」

「がふッ! ぐふッ!!」

 

 複数回、ウィリアムの肉体へ大剣を突き立てるアレクサンダー。

 アレクサンダーは、あくまで北神の象徴である不治瑕北神流にて虎を成敗しなければならない。

 それなのに、奇抜派の技を使ってしまった。

 英雄としての勝利に拘るアレクサンダーは、己が理想とする勝ち筋を成し得なかった理不尽な怒りを、残虐にウィリアムへとぶつけていた。

 

「北神は常に先代を超えていく流派だ! 僕は当代北神にして、歴代最強の北神なんだッ!」

 

 北神流とは、他流とは違い常に当代が最強であらねばならぬ流派。

 剣神流や水神流は、人外の域に達した初代に少しでも近づく為に研鑽を積む。しかし、北神流だけは、当代が先代の技量、そして偉業を超えて継承を果たす流派だ。

 であるならば、三代目であるアレクサンダーは、先代らをも超える英雄にならねばならない。

 その偏執的な矜持が、今まさに行われている残虐行為を正当化たらしめていた。

 

 正義に敵対する悪には、いかな残虐な暴力を行使しても許され、称賛される行為へとなり得る。

 歴史を紐解いてみても分かる事ではあるが、これは勝利者だけに許された理不尽な理屈であり、残酷な事実であった。

 

「はぁ……はぁ……ッ!」

「……」

 

 呼吸を荒くしながら、アレクサンダーはもはや苦悶の叫びを上げなくなり、動きを止めたウィリアムを見下ろす。

 

「……君は、もう拳すら握れなくなった」

 

 やや呼吸を落ち着けながら、冷静にそう告げるアレクサンダー。

 しかし。

 

「なのに、何だ! その眼はッ!!」

 

 ウィリアムの眼は、依然としてアレクサンダーを睨み続けていた。

 その瞳の奥に燃える、不退転の火。

 

「──ッ!?」

 

 轟々と燃えるその瞳に、アレクサンダーの心胆は射抜かれる。

 虎の余命は残りわずか。

 にも関わらず、その闘志、未だ萎えず。

 

 死狂いなる、(さむらい)の闘魂──!

 

「ウアアアアアアアアッッ!!」

 

 アレクサンダーは得体の知れぬ怖気を感じ、その恐怖心を誤魔化すように叫ぶ。

 そして、決着をつけるべく、ウィリアムの肉体へ王竜剣を振り下ろした。

 

 

「ア──?」

 

 

 瞬間。

 アレクサンダーの喉に、鋭利な()()が突き刺さった。

 

「ゴッ──!?」

 

 ごぽりと、アレクサンダーの口中から粘ついた血液が漏れ出る。

 同時に、アレクサンダーは己の喉を貫通する()()の正体に気付く。

 否、気付いてしまった。

 

 肋骨だ!

 

 ウィリアムの肋骨が、アレクサンダーの喉を射抜いていたのだ!

 

 虎眼流“飛燕弾き抜き”

 

 倒れるウィリアム、最後の闘気。

 己の肋骨をぶち抜き、アレクサンダーへと射出する。

 その渾身の気合、そして知恵を捨て、身を捨てた敷島の兵法は、六面世界の英雄剣豪を大いに慄かせていた。

 

「ひぐ……ッ!?」

 

 宣言通り五体の武器にて刺し貫かれたアレクサンダーは、口中から鮮血を噴出させつつ、よろりと後方へと後ずさる。

 北神の万有引力をも凌ぐ、武神の蛮勇引力。

 その気圧に圧倒されたアレクサンダーの片脚は、恐怖からかやや震えを見せていた。

 

「く、があああああああああッッ!!!」

 

 恐怖を打ち払うように、アレクサンダーは王竜剣を構える。

 喉から流れる血液が迸り、血染めの北神が、恐怖の根源へと破邪の大剣を振り抜こうとしていた。

 

「……ッ!!!」

 

 ウィリアムもまた、口角を血に染めながら立ち上がる。

 最後の闘気、その最期まで、北神へぶつけんが為に。

 

 そして──

 

「──!?」

「ッ!?」

 

 ウィリアムとアレクサンダーの間に、()()()()()が投げ込まれた。

 大地に突き刺さる抜身の二刀。

 ウィリアムは、それを本能で引き抜く。

 

「──」

 

 暗い視界は、目の前のアレクサンダーを映していなかった。

 代わりに、ある剣士の姿が映っていた。

 

『──藤木』

 

 物言わぬ藤木源之助の姿を幻視する、ウィリアム・アダムス。

 同様に二刀を手にする藤木の姿を模すように、ウィリアムは七丁念仏……そして、村正を構えた。

 

 

 虎眼流、“簾牙(すだれきば)”──

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十四景『泥沼(どろぬま)、デジャヴる!』

  

「虹色の光……」

 

 中央大陸某所。

 その、遥か高き空の上。

 雲海の上に浮かぶ巨大な城塞。まさしく天空城ともいえる異世界の神秘。

 その城塞の中に設けられた謁見の間。玉座に座るは、一人の男。

 

「八年前とはいささか異なるな」

 

 男は水晶球に映し出されるシャリーアの光を睨みつけ、そう呟いていた。

 輝かしい銀髪を靡かせ、相手を威圧するような三白眼。そして、金色の瞳。全身から立ち上る王者の威厳。

 

 人は、彼を甲龍王ペルギウス・ドーラと呼んだ。

 かつてのラプラス戦役で英名を上げた、魔神殺しの三英雄。その一人である。

 

「あの時とは魔力の質……いえ、魔力とは別の、何か得体の知れぬ悍ましい力を感じます」

 

 傍に侍る白き(カラス)の仮面を付けた天族の女──ペルギウスが第一の下僕(しもべ)、空虚のシルヴァリルが、ペルギウスへやや怯えが混じった声でそう言った。

 備える大きな黒い翼も緊張からかやや震えている。

 その様子を特に気にする風でも無く、ペルギウスは変わらず水晶球を睨み続けていた。

 

「ラプラスめの復活か……いや、違うな」

 

 ペルギウスには使命があった。それは、地上の監視。

 かの甲龍王が宿敵と定める魔神ラプラス──志半ばで倒れた、兄とまで慕った英()達の憎き仇。いつかは復活するであろう魔神ラプラスを復活直後に殺害せんべく、こうして地上の監視を続けている。

 そして、シャリーアから奇妙な光が発生するのを見留めたのだ。

 

「あれは、あの時……お前がアレを拾った時と似ている」

「ですが、あの者は」

「確かめてみれば分かる事だ。アルマンフィ」

 

 やがて虹色の光が収束したのを見て、ペルギウスは自身の使い魔の名を喚ぶ。

 

「ここに」

 

 直後、ペルギウスの前に黄色の狐面を被った白衣の男が現出する。

 アルマンフィと呼ばれた人外は、跪き頭を垂れながら主君の次の言葉を待っていた。

 

「調べよ。怪しき者がいたら、殺せ」

「はっ」

 

 主君の命を受け、光輝の使い魔は現れた時と同様、一瞬にして姿を消す。

 やがてペルギウスは水晶球から視線を外し、何かを思案するように静かに瞑目していた。

 

「……」

 

 瞑目し続ける主君と同じ様に、シルヴァリルもまた黙すのみであった。

 

 

 

 


 

「うわなんじゃアレきもち悪っ」

 

 同刻。

 魔大陸ビエゴヤ地方リカリスの町。

 

 岩壁に囲まれた町の門前にて、レザーのボンテージ衣装を纏い、ボリュームのあるウェーブのかかった紫色の髪と、山羊のような二本の角を生やした幼女の姿あり。ともすれば奇抜なお洒落ともいえる格好ではあったが、その身なりは薄汚れており残念極まりない。

 何やら遠くを見つめながら、幼女はオッドアイをギョロリと剥き、不快げな様子でそう呟いていた。

 門番の魔族の男はその様子を不審げに見やるも、薄汚い幼女の様子をさして気にする風ではなく。

 

「ヌ゛ッ!」

 

 故に、幼女が唐突に汚い喘ぎ声を上げても「なんか変な子だな……」と不審げな眼差しを向けるだけである。

 

「ファーハッハッハッハッハ! また目血(めぢ)を出してぶっ倒れるところじゃったわい! しかし妾は同じ過ちを二度繰り返さぬ! なにせ妾はかしこいかしこい魔・界・大・帝! じゃからのう! ファーハハハハハ!」

 

 故に、幼女が唐突に大音声で哄笑を上げても「なんかかわいそうな子だな……」と憐憫が籠もった眼差しを向けるだけである。

 

「なんじゃっけ、ルー、ルーバー、ルンバウス! ルンバウスの弟の時と同じ感じがしたのう! またあの変な龍の仕業かな! まあ妾にはどうでも良いことじゃがな! ファーハハハハハ!」

 

 幼女は変わらず意味不明な事を宣いながら哄笑を上げ、門番は変わらず意味不明な事を宣う幼女に憐憫の眼差しを向けている。

 やがて門番はようすがおかしい欠食児童の如き不憫な幼女が存在し、偉大なる指導者を失った魔大陸の現状を憂いるかのように天を仰いだ。

 門番の視線の先にある門上には、妙齢の美しい女性……かつてこのリカリスを本拠地とし、魔族を率い二度の世界大戦を巻き起こした魔大陸の大棟梁(だいとうりょう)、魔界大帝キシリカ・キシリスの姿を模した石像が備えつけられていた。

 

「ファーハハハハー……はぁ」

 

 ふと、幼女は哄笑を上げるのを止め、がっくりと肩を落とす。

 

「なんで妾がこんなガキの使いみたいな事をせねばならんのじゃろ……妾は魔界大帝じゃぞ……えらいんじゃぞ……」

 

 先程とは売って変わり沈痛した様子でそう呟く幼女の姿は、薄汚い身なりと相まって見るもの全ての哀愁を誘う痛ましい姿であった。

 もっとも、門番は変わらず天を仰いでいた為、この時の幼女の姿を見ることは叶わなかったのだが。

 

「つーかあいつ絶対弱ってないじゃろ。ちんちん勃ってたし。そのくせ妾の慧漏(えろ)いバディーには手を出さないとか失礼すぎるじゃろほんと。まあ妾にはバーディ(フィアンセ)がいるけどな。バディ(相方)だけにな」

 

 渾身の魔界大帝ギャグもキレが悪いどころか盛大に滑っている事にも気付かぬ幼女。その様子は捨てられた子犬の如き有様を呈しており、事実幼女からは洗ってない犬の臭いが漂う。そして、それを拾う魔神は絶賛封印中である。

 ちなみにかの者は幼女趣味などなく、先程の弁はただの自意識過剰であった。

 

「くそう……妾が万全だったらあんなおっぱいとちんちんが両方ついとる妙ちくりんな奴に顎で使われる事もないのに……でもあいつに歯向かうと至近距離からアキラされて脳天がバッキャムだし……くそう……くそう……」

 

 やがて門を潜ろうとトボトボと歩き出す半ベソ幼女。

 全身から負のオーラーを放出するその姿は、暴君に虐げられている被支配者そのものであり、とてもではないが魔界大帝を自称する者には見えなかった。

 

「……」

 

 「あべし!」と、石に躓き顔面を強打する幼女の姿を、岩陰から複数の黒鎧姿の魔族が、妖しげに目を光らせ見つめていた。

 

 

 

 


 

 

 惜しかったな、谷さん

 狼の腹は、思ったより痩身(ガリ)なんだ──

 

 

「光……?」

 

 シャリーアの門を潜るルーデウスの背後から、凶兆の如くそびえ立つ虹色の柱。

 実弟ウィリアムを救うべく駆けるルーデウスは、その光を見て足を止めた。

 

「また──いや、違う」

 

 すわ、またもや転移事件か。そう思い一瞬身体を強張らせる。だが、虹の光が直ぐに収束したのを見て、ルーデウスは頭を一つ振った。

 妙な胸騒ぎを感じるが、今は──

 

(ウィルの事が第一だ!)

 

 愛杖傲慢なる水竜王(アクア・ハーティア)を握り、ルーデウスはシャリーア郊外へと足を向ける。

 互いに前世世界を同じとする異界への迷い人。しかし、今は唯一無二の、故郷を同じとする本当の意味での同胞(はらから)

 肉親以上の絆をウィリアムへ感じていたルーデウスは、武神と北神の決闘の場へと急ぐ。

 例え乱入をした非を咎められようとも、弟の危機を放置する兄はいないのだ。

 

「──ああ、なんでこんな時に」

 

 駆けるルーデウスの脳裏に、ふと前世での肉親の姿がよぎる。

 かつて腐っていた己に差し伸べられていた前世の家族の手。それを無粋に振り払っていた自身の所業。

 

(ああ、なんで、くそ)

 

 血を分けた肉親の絆。例え惨めに落ちぶれようとも、前世の兄弟姉妹は、家族は何度も手を差し伸べてくれた。

 それを、薄情にも払い除けていた。あまつさえ実父の葬儀にすら参列せず、姪の写真を用い自慰をする始末。

 

 最低だ。人として。

 

 そう自省するルーデウス・グレイラット。

 まるであの時の過ちを改めるように、ルーデウスは今生の兄弟を救うべく、シャリーアの荒野を全力で駆け抜けていた。

 今生の弟を救うことで、その罪を償うかのように。

 

 

 

「──?」

 

 そして。

 

(え──っ!?)

 

 駆けるルーデウスの前に、一体の怨鬼の姿あり。

 

 まるで始めからそこに存在していたかのように、一体の鬼がルーデウスの前に佇んでいた。

 左右非対称の鬼甲を纏い、手には室町期の名刀、孫六兼元を下げている。

 ルーデウスには知り得ぬその刀の価値ではあったが、拵えは素人目から見ても明らかに日本刀のそれであった。

 

「波裸羅様……?」

 

 ふと、ルーデウスは目の前に現出した怨鬼の姿が、自身がよく知るあの現人の鬼の姿と重なるのを感じる。

 しかし、見れば見るほどあの現人鬼のような暴虐、そして蛮性は感じられない。

 

 鬼、というよりは。

 思ったより、ずっと剣客です。

 

 

 霓鬼(げいき)

 

 

『ま、待ってください!』

 

 ルーデウスを一瞥した霓鬼は、そのまま踵を返し立ち去ろうとする。

 その方向は、ルーデウスが目指す決闘の場。

 慌てて日ノ本言葉で呼び止めるルーデウスに、霓鬼はゆっくりと振り返っていた。

 

『あ、貴方のそれって、お面ですか?』

 

 正体不明の怨鬼。

 しかし、現人鬼と同族ならば、この問いかけには当然。

 

(かお)だ』

 

 こう応える。

 

『……同様の問答、以前にもした』

 

 霓鬼は何かを思い出すように宙空へと視線を向ける。

 だが、直ぐにルーデウスへと視線を戻した。

 

(なんじ)はこの異界の住人か』

『え?』

 

 霓鬼の言葉に、一瞬言葉を詰まらせるルーデウス。

 一体、この鬼は何が目的で、どうして現れたのだろうか。

 そのような思考を巡らす内に、霓鬼の次の言葉が放たれた。

 

『……聞きたいことがある』

『な、なんでしょう』

 

 怨気が籠もった霓鬼の言葉に、ルーデウスの言葉尻はやや震える。

 霓鬼は手にした孫六兼元の柄に手をかけていた。その所作が、場の緊張度を更に上げていた。

 

『汝は人神(ヒトガミ)という名に聞き覚えはあるか』

『ッ!?』

 

 ヒトガミ。

 その言葉を聞いた瞬間、ルーデウスは戦慄す。

 

 同じだ。

 あの時と、同じだ。

 

 そう思考する。

 あの赤竜の下顎での一件。

 龍神に無惨に戮殺されかけた、あの一件を思い出したルーデウスは、即座に杖を構え、予見眼に魔力を込めた。

 

『……ありません』

 

 嘘である。

 しかし、この場に於いてはこの回答が適切──。

 そう判断しての返答。

 

『左様か』

 

 ルーデウスの言葉を受け、鬼の怨気は霧散し、柄にかけた手を放した霓鬼からは穏やかな空気が漂う。

 それを見て、ルーデウスは安堵のため息をひとつ吐いた。

 

『……ならば、孝霊天皇皇子大吉備津彦命は()()()おるか?』

『へ?』

 

 霓鬼の更なる問い。

 聞き慣れぬ単語の羅列を受け、ルーデウスは思わず素の表情を浮かべる。

 

『桃太郎、と言えば分かるか?』

 

 児童文学で親しまれ、日本国民ならば誰もが知る神州無敵の英傑の名。

 平成日本人ならば、この問いかけには当然。

 

『ああ、それなら』

 

 よく()()()います──

 

 そう、ルーデウスが答えた瞬間。

 

「ッ!?」

 

 ルーデウスの予見眼に、複数の剣風刃が映る!

 

「くっ!」

 

 先制の岩砲弾(ストーンキャノン)。無詠唱により発動されたその魔術は、鬼の先の先を制する。

 刹那の時間で練り込まれた膨大な魔力と共に、岩石弾は霓鬼の顔面へと一直線に放たれる。

 

 しかし。

 予見眼に映る霓鬼の姿がブレる。

 

「なっ!?」

 

 岩 石(ストキャ)

 截 断(せつだん)

 

 予見眼に鮮明に映らぬ程の抜刀速度。

 高速で飛来する岩石弾を、刀剣にて十文字に割る。

 この世界の剣士、特に剣神流の上達者ならば闘気を用いた剣法を用い魔術を斬り払う事など造作も無い事。

 しかしこの鬼剣士は、鬼の力はあれど純粋な技量のみでルーデウスの岩砲弾を斬り落としていた。

 

 霓鬼の恐るべきこの剣技。

 権力者達の過剰な要求(無茶振り)に応え続けた末に到達した、一子相伝の“丹波流試刀術”の極みである。

 

『我は声無き者、舌無き者らの怨身』

「ッ!?」

 

 刀を下段に構え、霓鬼はルーデウスへゆるりと距離を詰める。

 鬼の剣圧に押され、ルーデウスは数歩、後ろへと後ずさった。

 

『冥府より二度甦りし此度は──』

 

 半身にて刀剣を構える霓鬼の姿。

 背中に冷えた汗を流すルーデウスは、斬首を待つ科人の如き土壇場を味わっていた。

 

『異界にのさばる覇府の犬……そして悪神を討つ、衛府の(つるぎ)なり!』

「泥沼──!」

 

 霓鬼の足を止めるべく、ルーデウスは泥沼を発動させようと──

 

 した、その瞬間。

 

「なっ!?」

『ッ!?』

 

 乱入者の刃!

 鬼の心臓を背後から穿く(ずぶり)

 

 しかし、その刃は致命には至らず。

 

「むっ!?」

 

 刺突を躱そうともせずあえて受けた霓鬼は、即座に手にした刀をまるで耳かきのように回転させ反撃。

 乱入者の手首は截断され光の粒子となり消失。そして、大振りのダガーが地に落ちた。

 

『ぬぅ!?』

 

 だが、乱入者は手首を斬り落とされながらも曲芸師のような動きを見せ、即座にもう片方の手でダガーを拾う。

 そして、乱入者の肉体から光輝の光が放たれ、鬼の目を晦ます。

 

『効かぬ!』

「ッ!?」

 

 しかし、霓鬼の両目は発光し、閃光による失明を無効化。

 距離を取ろうとする乱入者へ撃剣を放つも、またもや乱入者は人外めいた動きでそれを躱した。

 

「器用だな」

『貴公もな』

 

 距離を取り、異なる言語にて言葉を交わす両人外。

 言葉は通じずとも、お互いに言わんとしている事が分かるのは、実力者同士の戦いでは往々にして起こり得る事である。

 

『お前の手並みは鮮やかで切り口は美しい……あの壬生浪(おおかみ)の如くに……』

「?」

『だが』

 

 話をしている間に、刺突された傷口から火が噴き出す。

 

『鬼の肉体(からだ)には有り難い!』

「チッ……」

 

 完全に傷跡が修復された霓鬼を、狐面の乱入者は舌打ちをしつつ睨んでいた。

 

(あ、あいつは──!?)

 

 ルーデウスは乱入者の姿を見て、七年前のあの時を思い出す。

 転移事件が発生する直前。あの時、同じ様に突然現れた狐面の男の名を思わず呟く。

 

「光輝のアルマンフィ……!」

 

 またもや既視感に苛まれるルーデウスの呟きを受け、アルマンフィは油断なく霓鬼と対峙しつつ、面越しにルーデウスへ視線を向けた。

 

「お前があの光を起こしたのか?」

「い、いえ、俺は」

 

 慌てて首を振るルーデウスを見て、アルマンフィは鼻息をひとつ鳴らし、霓鬼へと視線を戻す。

 アルマンフィが自身の事を覚えていないのを察したルーデウスは、僅かに警戒を緩める。

 

「なら、手を貸せ」

「は、はい」

 

 ルーデウスを即席のタッグパートナーに指名したアルマンフィの思惑は分からない。だが、この目の前の異形は、明らかにこの世界の者ではない。

 その事を見抜いたアルマンフィ。故に、()しき者は誅戮せよとの主命を守るべく、既に霓鬼と戦闘を開始していたルーデウスとの共闘を即断していた。

 共闘の要請を受諾したルーデウスは、アルマンフィと挟む込むように霓鬼の後ろへと回る。

 

『妖術使いと妖狐。そのようなモノを試刀(ため)すのは流石に初の試み』

 

 二対一となった状態でも、霓鬼は微塵も揺るがない。まるで後ろにも目が付いているかのように、ルーデウスとの間合いを保っていた。

 

「一瞬で良い。奴の視界を封じろ」

 

 アルマンフィがそう言うと、超高速移動にて霓鬼へ吶喊した。

 

「『土壁(アースウォール)』!」

 

 間髪入れずルーデウスの土壁発動。

 霓鬼の正面に屹立し、その視界を封じる。

 視界を封じられた霓鬼はアルマンフィの姿を見失い、その身体を硬直させた。

 ルーデウスの予見眼には、高速移動にて霓鬼の側面に廻り、その刃を突き立てんとするアルマンフィの姿が見えた。

 

 だが。

 

 

『土塀越し妖狐四ツ胴截断!』

 

 

 アルマンフィの速度を超える剣風が発生し、土壁ごと光輝の胴体は四つに切断される。

 断末魔を上げる間もなく、アルマンフィの身体は光の粒子となって消え失せた。

 

「早すぎんだろ!」

 

 実弟ウィリアムと伍する程の霓鬼の剣速に対してなのか、それとも突然現れたかと思えば瞬殺されたアルマンフィに対してなのか。あるいは、その両方か。

 ルーデウスは悪態をつきつつ、霓鬼の次なる攻撃を予測するべく、更に予見眼に魔力を込めた。

 

「ッ!?」

 

 直後、己に一直線に放たれる刀身。

 見えた時には、既に刀弾は肉薄していた。

 

「くぅッ!!」

 

 寸出で風魔術を発動し、それを弾く。弾いた際に刀刃が僅かに掠るも、致命に至る傷では無い。

 

『我が突きを弾くか』

 

 弾かれた刀身を掴みながら、霓鬼はやや感心したようにそう言った。

 

 丹波流“弾き抜き”

 

 指弾の要領で刀身を弾く丹波流の絶技は、つい先刻、ルーデウスの実弟ウィリアムが見せたあの突き技に酷似していた。そのスピード、その威力。ともすれば、ウィリアムが放った突き技の方が勝るやも。

 故に、堅実に弾き返す事が出来たのだ。

 

『日ノ本剣法と立ち合うた経験(こと)があるか、妖術使い!』

「ッ!? 『泥沼』!」

 

 距離を取らせぬべく霓鬼自身がルーデウスに肉薄。

 だが、即応の泥沼が発動し、鬼の両脚は取られる。

 

「『電撃(エレクトリック)』!』

 

 電撃の追撃(おかわり)

 模擬戦で使用した時とは違い、致死レベルの電量で放たれたそれにより、鬼の肉体からみるみる水分が蒸発せしめる。

 ルーデウスと霓鬼の間には、鬼の水蒸気による白煙が立ち込めた。

 

『無意味!』

「なっ!?」

 

 しかし、その電撃をものともせず霓鬼は泥沼から脱出。

 白煙を隠れ蓑に即座に距離を詰め、霓鬼はルーデウスの首をみしりと掴んだ。

 

『学べ、妖術使い。我に稲火(いなび)は効かぬ』

「がっ……!」

 

 みしり、みしりと肉が軋む。

 口腔から血の泡を噴き出しながら喘ぐルーデウスに、霓鬼は止めを刺すべく肘に備えられた歯車の如き回転刃を作動させた。

 

『妖術、截断──!?』

 

 刹那。

 

「雄大なる水の精霊よ! 飛沫の(やじり)にて敵を穿(つらぬ)け! 『水鏃(ウォーターアロー)』!」

 

 水の鏃! 鬼の側頭部を穿く(ぶすり)

 レーザービームのように放たれた水魔術により、霓鬼はたたらを踏むようによろめく。同時に、ルーデウスの拘束は解かれた。

 

「ルディ! 大丈夫ですか!」

「げほ……ロ、ロキシー……?」

 

 寸前で援軍に駆けつけたのは、ルーデウスが愛してやまない二番目の妻、ロキシー・M・グレイラット。

 尻もちをつき咳き込む夫の元へ、水の乙女は駆け寄る。

 

「逃げて、ください」

「何を言っているんですか!」

 

 退却を推奨するルーデウスを一喝したロキシーは、負傷を癒やすべく治癒魔術の詠唱を開始する。

 

『休戦の約定を交わした覚えはない』

「ッ!?」

 

 しかし、その詠唱は霓鬼の一声にて止められた。

 

「ッ! 天より舞い降りし蒼き女神よ──!」

『させぬ!』

 

 詠唱を開始したロキシーに、霓鬼は刃を突き刺すべく肉薄。

 

「『 水蒸(ウォータースプラッシュ)』!」

 

 だが、今度はルーデウスの水魔術が放たれる。

 無詠唱により放たれた無数のウォータージェットナイフは、鬼の五体を穿つ。

 

『学べと申した(はず)だ!』

「ッ!?」

 

 しかし五体に無数の穴を開けられても、尚も健在の鬼。

 肉体にはコイン大の穴がいくつも空き、鬼の臓器を僅かに覗かせるも、これしきで鬼は止まらない。

 全身を水で濡らしながら、霓鬼は孫六兼元を大上段に構えた。

 

「──いて世界を凍りつかせん!」

 

 だが、ルーデウスの狙いはダメージに非ず。

 ロキシーの詠唱時間を稼ぎ、その後放たれる魔術を確実に浸透させる。ただそれのみであった。

 

「『氷結領域(アイシクルフィールド)』!」

 

 凍気炸裂!

 異形異類ですら凍結死確実(いただき)の技ありである。

 

「や、やったか……?」

「ルディ、ひとまず治療を」

 

 刀を構えたまま、水滴を浴びた霓鬼の肉体がビシビシと音を立て凍りつく。

『水蒸』と『氷結領域』を組み合わせ、混合魔術『フロストノヴァ』に相当する夫婦の連携魔術。

 ルーデウスならば単独にて行使可能な魔術であったが、その威力はロキシーすらも巻き込みかねない広範囲のもの。

 だが、ロキシーが使う『氷結領域』は範囲を前方に固定出来る。故に、この場ではこの段階を踏んだ氷結魔術が最適解であった。

 

 阿吽の呼吸にてそれを成し遂げたグレイラット夫妻……いや、神とその忠実なる信徒の連携は、即席タッグを組んだアルマンフィとの連携より遥かに安泰である。

 神の電波(ロキシーが思っている事)を受信する事など、ルーデウスに取っては造作もない事であり、得体の知れぬ使い魔の思惑を汲むのとは比べ物にならぬのだ。

 

「ルディ、あれは……あれらは一体何なんですか」

「あいつは、多分波裸羅様と同じ……ていうか、ロキシーの前にも現れたんですか?」

「はい。タイプは大分違いますが、同じような身体付きをしていました。ノルンさんは無事ですが、ナクルさん達が拐われて……」

 

 霓鬼が凍結し動きを止めたのを見て、ロキシーはルーデウスの治療をしつつ、己の前にも目の前で凍りつく鬼と同様の異形が現れ、双子が拐かされた事を告げていた。

 

「ロキシー、俺はもう大丈夫です。ウィルの所へ行きます。ロキシーはシャリーアへ戻ってください」

「いえ、わたしも行きます。ナクルさん達を拐った怪物は、ウィリアムさんが戦っている方向へ向かいました」

「でも──」

「ルディ。あれが波裸羅様の同族かどうかは分かりかねますが、少なくとも北神の仲間である可能性は無いと思います。三つ巴になるなら、戦力は多い方が良いです」

 

 地鳴りが鳴り響く武神と北神の決闘の場と思われる方向を、ロキシーはその可憐な瞳で睨む。

 そしてその方向は、追跡していた虹鬼が去った方向と同じであった。

 ルーデウスはこれ以上ロキシーを巻き込みたくないと思いつつも、ある意味では親より信頼する師匠であり妻の言葉を聞き、やむを得ないとばかりに頷いていた。

 

「分かりました。なら、俺の援護を──」

 

 そう言いかけた時。

 

 

 無意味──無意味だ、妖術使い共──

 

 

「なっ!?」

「えっ!?」

 

 怨鬼復活。

 容鉄の如き伐沙羅が、鬼の肉体を解凍(とか)す。

 

「しま──!?」

 

 容鉄炉の如き熱血をその身に宿す怨鬼に、氷結は無効。

 ベガリットの迷宮にて現人鬼が同様の手口で氷結地獄から脱出せしめていた事を、ルーデウスは今更ながら思い出していた。

 

『我が不死身を知り心折れたか、妖術使い』

 

 勃ってます。

 そう言い返せる士魂は、ルーデウスは持ち得ず。

 

「ロキシー! 下がって!」

「ルディ!?」

 

 だが、愛する妻を守る度胸は備えている。

 ルーデウスは傍らにいるロキシーを庇うように霓鬼の前に立った。

 

「『岩砲弾』!」

(ゆる)い!』

「ぐあっ!?」

 

 至近距離からの岩砲弾を躱し、霓鬼は逆袈裟にて剣風刃を飛ばす。

 肩口へまともに受けてしまったルーデウスは、その剣風に圧倒され、尻もちをつく。

 

『我が燃ゆる怨血──感じながら死ねい──!』

「あ──」

 

 肩を抑えながら霓鬼を見上げるルーデウス。

 

 死──

 

 ルーデウスの脳裏が、死の恐怖に染まる。

 逃れる術は、無い。

 

「ルディッ!!」

「ッ!? ロキシー!!」

 

 だが、救いの神はいる。

 ルーデウスに覆いかぶさるように身を挺して庇うロキシー。

 魔術が通じぬならば、せめて愛する人の盾になりたい。

 そう思っての、痛ましいまでの献身である。

 

「──ッ」

 

 ルーデウスは覆いかぶさるロキシーを抱きしめ、ぎゅっと目を瞑る。

 もはやルーデウスに残された手段は、祈ることだけだ。

 

 

「……?」

 

 寸刻。

 来たるべき斬撃が来ないのを受け、ルーデウスは恐る恐る目を開く。

 

『──』

 

 目を開けると、刀を上段に構えながら停止する霓鬼の姿。

 その表情は鬼の貌ゆえ分かりかねるが、僅かに動揺している様子が伺えた。

 

『……今日は、止めにいたす』

「え──?」

 

 そして。

 

「がぁっ!?」

「あぅっ!?」

 

 峰打ちである。

 

『……』

 

 ルーデウスとロキシーが気絶し果てたのを見届けると、霓鬼は踵を返す。

 歩む先は、ウィリアム・アダムスとアレクサンダー・カールマン・ライバックが相争の場。

 鬼の上空には、頭部より翼を生やし、二振りの刀剣を抱える鬼の乙女の姿──

 

『一子相伝の丹波流試刀術……此度は無力にさせぬ』

 

 上空を見上げながら、鬼はそう呟いていた。

 

 

 異界に現れた鬼、“霓鬼”

 またの名を、公儀刀剣御試役(こうぎおためしやく)谷衛成(たにこれなり)

 

 身分の檻から解き放たれし鬼は、前世世界の無念を背負う。

 その歩みは、憂いを帯びた重い足取り。

 そして、時空を超えた大義を背負う、武士(もののふ)の足取り。

 

 鬼の行く手、その先に待つは──

 

 

 

 

 

 

 



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第四十五景『転生虎(てんとら)(やけ)る!』

 

 ああ──

 駄目だ、その構えでは──

 

 揺蕩う意識。

 その中で、ウィリアムはかつての弟子、藤木源之助が二振りの刀を構えているのを幻視する。

 そして、藤木と対峙する一人の剣士の姿も。

 

 伊良子清玄。

 藤木と同じく、かつての弟子であり、己を葬り去った盲目の龍──。

 刀身を大地に突き立て、掛川の虎龍を截断すべく必滅の奥義“無明逆流れ”の構えを取る。

 対する藤木は、二刀の構えにて盲龍と相対する。

 

 虎眼流“簾牙”

 

 右手にて虎眼流骨子の握りにて大刀を構え、左手にて腕部を防御するように脇差を構える。

 伊良子清玄の無明逆流れが、下段にて凄まじき威力を持って放たれる事を想定して練られたこの技。

 脇差にて清玄の下段を封じ、そのまま大刀にて仕留める。

 これは、藤木が兄弟子である牛股権左衛門と共に練り上げた簾牙。牛股が逆さ吊りになり、渾身の力を持って放つ下段を、藤木は簾牙にて見事に防いでおり。

 故に、無明逆流れ対策は万全。少なくとも、藤木、牛股両名はそう捉えていた。

 

 だが、ウィリアムはそれをひと目見た瞬間、その技は決して無明逆流れに勝てぬと看破する。

 

 清玄の下段は、()()()()で防げる代物ではない。

 

 老いた虎を終わらせた無明逆流れ。

 その剣速、その威力を十二分に知っていたかつてのウィリアム。

 片腕で容易く防げる程度の技ならば、そもそも自身はあの時不覚を取るはずもないのだ。

 

 そう想っていると、藤木と伊良子両名の間合いは撃尺に入っていた。

 烈火の如き勢いで伊良子に迫る藤木。

 それを迎え撃つべく下段を跳ね上げる伊良子。

 

 双龍相撃。

 藤木の簾牙は、伊良子の逆流れを防ぎ、大刀を繰り出す。

 だが、ギリギリの所で躱されたのか、盲龍に深手を与えることは能わず。

 余人には両者の攻防をそのように見えていただろう。

 

 だが、ウィリアムはその攻防の真実を視ていた。

 瞳が猫科動物の如く肥大し、刹那の攻防を余すことなく捉える。

 

 ああ、やはり

 

 達観したように、虎はそう想う。

 伊良子の下段を受けた、藤木の左腕。

 それが、脇差ごと藤木の左腕を截断していた。

 鋭利過ぎる切断面は藤木の左腕を即座に断裂することはなく、そのまま癒着せしめる。

 だが、少しでも力を込めれば、その腕部はずるりと分断されるだろう。

 微かに身を震わせる藤木を、ウィリアムは色のない瞳で見つめていた。

 

 

 茫漠とした視界が開ける。

 ウィリアムの眼前には、既に藤木と伊良子の姿は無く。

 代わりに、己の喉仏に突き刺さった虎の肋骨を乱暴に引き抜くアレクサンダーの姿があった。

 

「──ッ!」

 

 荒い呼吸を繰り返し、毅然とウィリアムを睨みつけるアレクサンダー。穿孔した喉からどろりと赤黒い血流が漏れ出ている。

 だが、アレクサンダーはその負傷を全く構うことなく虎を睨んでいた。

 

「……」

 

 睨みを受けるウィリアム。その溢れた(はらわた)が、外気に触れ湯気を立てている。

 呼吸はアレクサンダーとは違いひどく浅い。否、もはや虎の心肺機能は停止寸前まで低下していた。

 

 血風に身を晒す、異界虎眼流の若き武神。

 血界に身を置く、不治暇北神流の若き北神。

 シャリーアの地は二人の列強にとってやんぬるか(どうしようもない土壇場)の地となり果てる。

 その決着は近い。

 

「オオオォォォッッ!!」

 

 喉から血液を噴出させながら、アレクサンダーは怒唄歌のような気合を発する。

 悲鳴にも似たその叫び。否、事実アレクサンダーは恐怖していた。

 

 幾度致命傷を与えれば、この虎は斃れるのだろう。

 幾度北人流の奥義を繰り出せば、この武神を屠れるのだろう。

 もはや何者かが大小を投げ込んだことは、アレクサンダーにとってどうでもよく。

 ただ、ウィリアムの“不死性”に恐怖していた。

 

 なぜまだ死なない。

 お前は、ただの人族のはずだ。

 

 そのような得体のしれぬ恐慌が、アレクサンダーの心にじわりと広がる。

 ウィリアムが己と同じある程度の不死性があるならば、この異様な耐久力は納得は出来る。

 だが、目の前のウィリアム・アダムスはただの人族のはずだ。

 尋常ならざる鎧を纏っているとはいえ、その耐久力は常を逸している。

 なぜ腸を溢れさせながら、虎はまだ死んでいないのだ。

 

 士魂だ。

 常人には、六面世界の住人には理解出来ぬ敷島の死狂うた士魂。

 それが、瀕死の虎を可動せしめているのだ。

 

 侍の本懐とは、ナメられたら殺す。

 己の名誉の為ならば、死ぬ覚悟で相手を殺すのだ。

 そこに、慈しみなど無い。

 

 古の鎌倉武士の気概を色濃く感じさせるその執念は、若き北神にとって恐怖そのものでしかなかったのだ。

 

「──ッ!」

 

 恐怖心を克己するかのように、アレクサンダーは下げた王竜剣を斜め後ろに構える。

 

 北神流“順法・下段構え”

 

 これは“重力破断”のような奥義とは違い、ともすれば中級程度の等級で伝授される、不治暇北神流の極めてありふれた型である。自身よりも大型の魔物へ下段から斬り込む想定で練られしこの技。

 それは、この局面で繰り出すような技法ではない。

 

 だが、アレクサンダーは最後にこの技を選んだ。

 偉大なる父が、英雄たらしめる契機となった王竜王討伐。

 寝物語に聞かされたこの英雄譚で、父はこの技を用い王竜王カジャクトへ致命を与えていた。

 

 故に、縋ったのだ。

 北神三世は、北神二世の伝説に。

 そうすれば、この身体は再び勇気を取り戻すことが出来るのだから。

 

「──」

 

 そのようなアレクサンダーを、変わらず色のない瞳で見やるウィリアム。

 上半身の防御を一切無視した隙だらけの構えを取るその姿に、僅かに目を細めていた。

 父の幻影に縋るように下段の構えを取るアレクサンダーであったが、それは己の特性を十全に発揮した勝算のある構えである。

 

 アレクサンダーの真骨頂は、重力魔術や王竜剣を用いた絶技ではない。

 祖母譲りの不死魔族の特性──己の不死性を活かした、相打ち覚悟の捨て身の剣法である。

 がら空きの面や胴に打ち込めば、即座に北神流の返し技が繰り出されるのは必定。

 相打ったと思って斃れた対手が見る最期の光景は、刃をその身に受けながらも両の脚で立つアレクサンダーの姿なのだ。

 

「──る」

 

 アレクサンダーが渾身の闘気を込めて待ち構える刃圏に、ウィリアムは重傷を感じさせないほどの足取りで間合いを詰める。

 だが、簾牙の構えは藤木が用いた型から微妙な変化を見せている。

 左に構える小刀をより下段へ下げ、それに並行させるように大刀を握る。

 

 虎眼流“本家・簾牙”

 

 藤木が小刀のみで逆流れを受けようとしたその術理は、虎の眼から見て不完全なもの。

 小刀だけではなく、大刀も添え、両腕の力を用いなければ逆流れは防げぬ。

 防いだ後、がら空きとなった対手を存分に仕果たせば良いのだ。

 このような術理を、ウィリアムは曖昧な思考で導き出していた。

 

 みしりと、不動の牙が虎の肉体へ食い込む。噛みつかれた箇所から、ぬるりと粘ついた血液が流れ出る。

 死に体となった虎へのあまりにもなこの仕打ち。だが、これは不動の虎に対する慈しみの発露である。

 

 その意味は──

 

「ガアアアアアッッ!!」

「──ッ」

 

 撃尺の間合いに入った両雄。

 咆哮と共に、アレクサンダーの下段が跳ね上げられる。

 簾が牙を剥き、王竜の牙を迎え撃つ。

 ウィリアムの大小が、王竜剣に触れる。

 

 決闘の場が、鋼が交わる閃光に包まれる。

 

 そして──

 

「カハッ」

 

 アレクサンダーの手刀が、ウィリアムの破れた腹腔を深々と抉っていた。

 その手はウィリアムの心臓にまで達しており、虎の心臓を鷲掴みにしたアレクサンダーはぎしりと締め上げる。

 

「おわりだッ!」

 

 血反吐を吐きながらそう唱牙するアレクサンダー。

 その首には、二振りの妖刀が斬り入れられている。だが、切断までには至らず。

 不死の肉体は、アレクサンダーの断首を後一歩のところで踏みとどまらせていた。

 

 刹那の攻防。

 簾牙にて下段を封じたウィリアム。

 王竜剣の上を滑るように、並行した妖刀二振りをアレクサンダーの首へと振る。

 だが、妖刀が首へ入った瞬間、ウィリアムの肉体は停止した。

 

 王竜剣を捨てたアレクサンダーの貫手。

 無手で列強との戦いに挑んだウィリアムへ返礼するかのように、拠り所であった王竜の剣を捨てていた。

 恐怖を克服した、英雄の死狂うた奥の手である。

 

「死──ッ!?」

 

 しかし。

 止めを刺すべくウィリアムの心臓を握り潰そうとしたアレクサンダーの肉体に、めくるめく悪寒が(はし)った。

 

「あ、ああ……?」

 

 ずるりと生々しい音を立てながら、アレクサンダーは手刀を引き抜き、両膝を地につけた。

 見ると、その不死の肉体は瞬く間に糜爛が進行していった。

 

「な……?」

 

 みるみる爛れるアレクサンダーの肉体。毒物など効かぬはずの肉体が、なぜこのような病変に苛まれるのか。

 答えを求めるように、アレクサンダーはウィリアムへ視線を向ける。

 停止したウィリアムは、腹腔を抉られながらも未だ両の脚で立っていた。

 

「なぜ……?」

 

 幾度も対手に見せてきた光景を、今度はアレクサンダーが見る。

 爛れる肉体を這いつくばらせながら、アレクサンダーは突如発生した肉体の変化に慄き、その原因となったであろう虎へも慄く。

 

「何を……した……?」

 

 全身を激痛に苛まれたアレクサンダーへ、虎の応えは無かった。

 

 

『るきへるの毒が回ったのです』

「ッ!?」

 

 突如、アレクサンダーの後方から日ノ本言葉が響く。

 

『その者は人でありながら(るきへる)の血が交わっています』

「何を、言っている……!?」

 

 突如現れし異形。

 頭部から大きな翼を生やし、全身が鋼の如き鱗に覆われた、一体の女型の鬼──雹鬼。

 雹鬼はアレクサンダーを無視するように立ち尽くすウィリアムへ近づく。

 

『血を分け与えた鬼が、血に毒を仕込んだのでしょう。この者を守護(まも)る為に──』

 

 戦い抜いた虎を慈しむように、その胸に抱く雹鬼。

 抱き抱かれた虎は脱力し、雹鬼の胸にもたれかかるように身体を預ける。

 そして、その呼吸は既に停止していた。

 

『全ては龍神(どらご)の意志……この“いんへるの“を“ぱらいそ”へと変える、龍神の意志なのです……』

 

 慈しむように、呼吸が止まったウィリアムを包む雹鬼。

 血に汚れたその頭を、優しく撫でる鬼。

 ささくれた虎の髪を梳くように、鬼は虎を撫でていた。

 

『だから、この者はまだ死んではいけない。龍神が、死なせない』

 

 つうと、雹鬼の指先が血に染まる。

 じゅうと音が鳴ると、漏れ出た怨血がウィリアムの顔を伝い、その顔面は焼き爛れていた。

 

『私が、死なせない』

「……っ」

 

 雹鬼はそのまま怨血に染まった指を、ゆっくりとウィリアムの腹腔内へと入れる。

 僅かに呻く虎。その呼吸は、浅いが確かに復活していた。

 

 

「ぐ……ぐぅぅぅッ!!」

 

 アレクサンダーは渾身の力を込めて立ち上がる。

 糜爛が進行した肉体をよろめかせながら、己の首を這う妖刀を引き抜いた。

 

「怪物め……ッ!」

 

 大量の血を流しつつも、王竜剣を拾うアレクサンダー。

 だが、構える力は残されておらず、剣を杖のようにして身体を支えていた。

 

「僕は、僕はまだ──ッ!」

 

 負けていない。

 そのような意志が、若き北神の瞳に宿る。

 だが、一度は打ち払った恐怖心が、糜爛の進行に比例するかのようにアレクサンダーの全身へと広がっていった。

 

『……貴方は、争いのないぱらいそへ行きなさい』

 

 鬼の貌の下に、僅かに憐憫の表情を浮かべる雹鬼。

 片手でウィリアムを抱きながら、残った片手をアレクサンダーへ向けた。

 その指先は、煮えた鉛の如く沸騰している。

 

神様(でうす)よ、お赦しください──』

 

 満身創痍となった北神へ、雹鬼の爪弾が放たれようとしていた。

 

 死──

 

 敷島の怨念が、六面世界の北神を包む。

 生涯初めて味わう死の気配に、アレクサンダーの睾丸は縮み上がり、股下は漏れた水により濡れている。

 

「あ……あ……」

 

 奮い立たせた戦意が萎え、アレクサンダーの腰は砕ける。

 英雄に焦がれた北神三世の命運は、今まさに尽きようと──

 

 そう、なるはずであった。

 

 

「させぬ」

 

 

 アレクサンダーへ向けられた雹鬼の腕が、怨血を撒き散らせながら宙を舞う。

 

『ッ!?』

 

 片腕を切断された雹鬼は、現出した新手の乱入者へと視線を向ける。

 その視線の先には、荘厳な気風を漂わせる、一人の龍族がいた。

 

「あ、貴方は……?」

 

 へたり込むアレクサンダーは、己にとって救世主であるその姿を、涙まじりの瞳で見つめる。

 輝く銀髪。

 金色の三白眼。

 貴人にしか許されぬ、壮麗な白い衣装。

 

「アルマンフィを屠ったのは貴様か?」

『……』

 

 決闘の場に現出した甲龍王ペルギウス・ドーラ。

 その金色の三白眼で、同じく現出した雹鬼を睨む。

 変わらずウィリアムを抱きながら、雹鬼もまたペルギウスを睨み返していた。

 

「ふん、黙して語らぬか……まあ良い。しかし、おかしな事になったものだな。カールマンの孫よ」

「ペ、ペルギウス様……」

 

 油断なく雹鬼と対峙していたペルギウスは、ふと倒れるアレクサンダーへ目を向ける。

 

親友(とも)の孫が得体のしれぬ異形に滅ぼされるのも忍びなし……余が助けてやろう」

「ペルギウス様……!」

 

 助命を確約するペルギウスを涙を流しながら見つめるアレクサンダー。

 絶望の縁に立たされた者が救済に現れた者を盲信するのは、往々にしてありふれた光景である。

 

「……貴様か」

 

 瞬間。

 場の空気が、更に淀む。

 濃厚な敷島の怨念が、辺りを悍ましく包んでいた。

 新たな怨念の発生源に、甲龍の王は三白眼をギロリと向けていた。

 

『公儀刀剣御試役、谷衛成』

 

 一体いつの間に現出したのか。

 新たな鬼が、甲龍王の前に現れていた。

 

「その言葉……そして、そこの女型が抱える虎の小僧……なるほど、読めたぞ」

 

 前後を雹鬼と霓鬼に挟まれながらも、ペルギウスは威厳のある態度を崩さない。

 そして、日ノ本言葉、雹鬼に抱えられるウィリアムを見て、何やら得心がいった表情を浮かべていた。

 

『我らが大義、邪魔立てさせぬ』

 

 ずずっと、霓鬼は大刀を引き抜く。

 同時に、雹鬼は切断された己の腕を拾い、鬼の血にて癒着せしめる。

 不敵な笑みすら浮かべるペルギウスへ、じりじりと間合いを詰めていた。

 

「ふん。何を企んでいるのか知れぬが──」

 

 間合いを詰める鬼二匹。

 弾吹雪を装填する雹鬼、そして剣風刃を射出せんべく大刀を上段に構える霓鬼。

 対するペルギウス。その右手が、膨大な魔力により白い輝きを放つ。

 

 白光に包まれる決闘の場。

 怨鬼と龍王の勝負は、一瞬だった。

 

「トロフィモス」

『ッ!?』

 

 強烈な波動が二匹の鬼へ放たれる。

 完全に意識外からの攻撃。霓鬼はもちろん、咄嗟にウィリアムを庇うように身を晒した雹鬼は、その攻撃を躱すことは出来ず。

 見ると、ペルギウスの使い魔の一人──“波動のトロフィモス”が、両腕を鬼共へ向けていた。

 

 己の前方へと弾き飛ばされた鬼共へ、ペルギウスは右手を上げた。

 

「小僧。もし生きて再び出会う事があれば──」

 

 そして。

 

「その時は、ゆるりと酒でも酌み交わしたいものよ」

 

 甲龍王は輝く手刀を振りかざした。

 

 

「甲龍手刀“一断”」

 

 

 溜められた光がまっすぐと疾る。

 鬼と虎へ、容赦の無い奔流が巻き起こる。

 

 轟音。

 閃光。

 

 直後、鬼と虎の姿は、決闘の場から消え失せていた。

 

「シルヴァリル」

「はい」

 

 “一断”により大きく抉られた大地。

 積もった雪がすべて吹き飛び、むき出しとなった大地に、トロフィモスと共にペルギウスの脇へ跪くのは、同じくペルギウスの使い魔“空虚のシルヴァリル”。

 主の言葉をじっと待つシルヴァリルへ、ペルギウスはつまらなそうに言葉を発した。

 

「そこのカールマンの孫を手当してやれ。不死魔族の血を引くとはいえ、このまま放置すると死にかねん」

「はい」

 

 ペルギウスの言葉を受け、シルヴァリルは後方にて気絶し果てるアレクサンダーへ向かう。

 介抱する様をちらりと見たペルギウスは、やがて鬼と虎が吹き飛ばされた方向へと視線を向けた。

 

「……異物共め」

 

 そう呟く、甲龍王ペルギウス・ドーラ。

 その表情は、余人には計り知れない、深い懊悩が滲み出ていた。

 

 しばらくして、アレクサンダーと共に姿を消す甲龍王一行。

 クレータのように陥没した大地、そして隕石が衝突したかのように抉られた大地。

 終りを迎えた人外共の饗宴。

 残されたのは、変わり果てたシャリーア郊外の地。

 

 そして、六面世界の大地に取り残された、二振りの妖刀のみであった。

 

 

 


 

「……すっげえなおい」

 

 生物の気配が無くなった決闘の場。

 それを遠方から遠眼鏡のような魔道具にて見つめる一人の男の姿があった。

 蹲りながら林立する木立に身を隠し、外套のフードを目深く被る男の表情は見えず、その正体は不明。

 だが、少なくとも男はウィリアムとアレクサンダーの戦いを始めから見ていたのは確かであった。

 

「しかし、やっぱ半端ねえなあいつ……ハンデあっても列強下位クラスじゃ仕留め切れねえとかよ……」

 

 魔力を込めれば魔眼を用いずとも数里先まで望遠出来る魔道具を懐に仕舞いつつ、男は呆れたような口調でそう述べる。

 パンパンと膝についた雪を払い、億劫そうに立ち上がった。

 

「しかも新手の鬼が追加とかよ……こりゃアイツも後手に回っている感じだよなぁ……」

 

 ぶつぶつと文句を言いつつ、凝り固まった背筋を伸ばす男。

 そして、改めて決闘の場へ目を向けた。

 

「ペルギウスも出張ってくるとか、こりゃ相当慎重に動かねえと……下手すりゃ北神まで敵に回す事になるな」

 

 せっかく苦労して騙くらかしたしな、と、飄々とした体で男は呟く。

 そのまま決闘の場へと足を向けた。

 

「ま、あれしきで死ぬとは思えないし、こりゃいよいよもって長期戦だな。せめて妖刀を回収出来るだけでも今回は良しとするか……」

 

 男は残された二振りの妖刀を回収するべく歩き始める。

 男の任務は、その巧みな弁舌で若き北神を虎へぶつける事であった。

 だが、その企みは奇々怪々な乱入者達により木っ端微塵に崩壊していた。

 謀略に長けたこの男でも、まさか()()()()()()()()()とは予想だに出来ず。

 ただ、残された結末を甘受するしかなかった。

 

 だが、男が忠義ともいえぬ捻くれた恩を感じているあの悪神が、最大に警戒する妖刀が残されたのは僥倖。

 それを回収し、破壊ないし封印できれば、ある意味では目的を達成したともいえる。

 気だるそうに歩みを進める男は、そう思っていた。

 

「うん?」

 

 つらつらと考えつつ、十歩ほど歩みを進める。

 そして、決闘の最中、ずっと息をひそめていた森林部から、ちょうど出ようとした時。

 ふと、決闘の場に蠢く影を見留めた。

 

「げっ!? まだいるのかよ!」

 

 慌てて木立へと身を隠す男。

 懐から遠眼鏡を取り出し、その影を探る。

 

気色(キショ)いなあの鬼……あ、ありゃ双子か?」

 

 見ると、昏倒する双子の兎……ナクルとガドを背負った、一匹の鬼の姿あり。

 虹鬼。

 四足獣の如き有様で、荒れた大地を這い回っていた。

 

「何して……オイオイオイ」

 

 その様子をじっと身を潜めて見つめる男。

 すると、虹鬼が何かを掴む。

 鬼の手の内にある二振りの刀。

 それは、男の目的である妖刀七丁念仏、そして千子村正であった。

 

『ゴアアアアアアアアッッ!!』

 

 虹鬼は身の毛がよだつような咆哮を上げると、その場から立ち去っていった。

 

「……あーあ。妖刀取られちまった。ま、しゃーねえか。元々ダメ元な作戦だったし」

 

 ため息をつきながら、再度遠眼鏡を仕舞う男。

 諦観の念を浮かべながら、夜の闇に閉ざされようとする厚ぼったい空を見上げた。

 

「さて、こっからどうするよ」

 

 白い息と共に吐き出された問いかけ。

 一筋の風が吹き、男のフードがめくれる。

 

 

「ヒトガミ様よ」

 

 

 寒気にさらされた猿顔が、皮肉げな笑みを浮かべて歪んでいた。

 

 

 

 

 

 

 



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幕間『前略衛府龍神様(ぜんりゃくえふのりゅうじんさま)

 

 前略

 衛府の龍神様江。

 

 当節、島原は原城における覇府が尖兵“鬼哭隊”との血戦、一応の落着の由、一筆計上仕る。

 復々、我らが棲まう竜宮船喪失の件、龍神様御既知なれど、改めて御概説申し上げ候。

 

 異なる国に生まれ、異なる肌色を持ち、異なる神をおろがむ者らが、血を流すことなく命ふるわせ、生命(いのち)謳歌せし楽土、竜宮船。

 然し、鬼哭隊襲撃の折り竜宮轟沈の憂き目に至り、我ら鬼族、まつろわぬ民は、皆流浪の身となりし候。

 

 幾年の後、四郎時貞なる救世の化身と邂逅、“でうす”なる宗門に共感せずも、その身分なきものを踏みにじる“悍ましき営み”に終止符を打つ思想に共鳴するに至れり。

 種まきを終えたばかりの田畑を踏みにじられ、裁判なしに男が処刑され、奴隷として女が連れ去られる。

 

 元和偃武、未だ日ノ本に浸透せず。

 而、そのような人の世の残酷が一切無い世にするべく、我ら天草救世軍の尖兵と相成りまして候。

 

 然るに、覇府の苛烈なる圧殺は日毎激しさを増し、終には島原の古城に追いやられし由。

 鬼の忍法、信玄公由来巨具足“舞六剣”、南蛮由来の最新火器にて悪戦するも、覇府十万の兵力、各大名家の拡充具足巨具足の群れ、そして神州無敵率いる鬼哭隊はげに手強き相手。

 幾度の合戦を経て、唯古城に籠もるに至れり。

 城内、矢玉兵糧尽き果て、寄り添うまつろわぬ者共、皆草木を喰らい命を繋ぐ有様。

 

 地獄暫く続くも、突として“異界帰り”の現人の鬼現る。

 我ら鬼族と鬼哭隊の“七番勝負”の段取り、華麗に整えたり。

 如何様に伝手を辿りしか、禁裏より立会人を招致する始末。

 

 立会人烏丸少将曰く、勝てば大赦、負ければ族滅。

 尚、烏丸少将の胸の内覗くと、此度の勝負、倒幕の一助とせんとする腹積もりなれど、利害一致の為、当方これに関知せず。

 

 簡潔明瞭の布陣整えたる現人鬼の御美事なる手腕、“異界”にて培ったとの由、我ら一同首をかしげるばかり。

 ともあれ、死合場と成った原城内、鼠一匹に至るまで尽く退去せしめ、唯一残るは見届け人を買って出た四郎時貞含む郎党数名のみ。

 

 かくして、七忍対魔剣豪による七番勝負、いざ開幕にて候。

 以下、死合の仔細報告申し上げ候。

 

 

 第一番

 零鬼カクゴ 対 伊東一刀斎景久

 

 一番槍務める零鬼、真田幸村が隠し姫伊織姫の気愛受け気合十分。

 万端にて一刀流開祖、伊東一刀斎と死合う。

 零鬼、得意手の忍法多種使用するも、一刀斎、中条流奥義“妙剣”“絶妙剣”“真剣”“金翅鳥王剣”“独妙剣”の五剣にて零鬼完封す。

 然し、真田家秘蔵大鉈を大斧に変えし零鬼、一刀斎が秘剣漸く破る。

 直後、一刀斎独自の秘剣“瓶割”発動。

 気合一閃、厚鉄切断と併せ、零鬼左腕切断。

 魔剣技による切断、鬼の回復力持ってしても修復能わず。

 すわ零鬼死亡と思われた時、零鬼渾身の“因果”発動。

 右腕を犠牲に一刀斎秘剣“瓶割”破る。

 胴体貫かれし一刀斎、切れ間から納豆の如く(はらわた)垂らし、呪詛吐きながら絶息。

 零鬼、両腕喪失なれど確と大地に立つ。

 

 零鬼カクゴ生存、伊東一刀斎景久死亡。

 まずは鬼族一勝也。

 

 

 第二番

 霹鬼タケル 対 塚原卜伝高幹

 

 第二番は二魂一体の琉球鬼と卜伝流開祖の剣聖との死合。

 置き血得た老剣聖、妖魔の如き威容なるも、霹鬼意に介さず。

 然し、死合開始直後、霹鬼既に魔剣技“一之太刀”の術中に嵌りし候。

 黒曜石が如き血風刃、尽く通じず。

 真剣の仕合十九ヶ度、軍の場を踏むこと三十七ヶ度、一度も不覚を取らずの逸話、真実也。

 卜伝、幻術めいた剣技にて霹鬼翻弄し、その肉縦横に斬り刻む。

 深手負いし霹鬼、獅子眼にて漸く卜伝幻術見破る。

 捨て身の血風刃、薩摩示現流が如き威力にて、卜伝の肉体、腰部まで割断す。

 なれども、卜伝が一之太刀、既に霹鬼が生命奪いし候。

 霹鬼、先にニライカナイに行くとの言、我ら鬼族に残したり。

 

 霹鬼タケル死亡、塚原卜伝高幹死亡。

 両者相討ちにて、第二番は引き分けにて候。

 

 

 第三番

 震鬼レン 対 宮本武蔵玄信

 

 第三番、開始直後に死合場にて雷鳴が如き爆音と共に地震い発生。

 否、震鬼と武蔵のぶつかり合いにて発生した音震に候。

 震鬼の拳、無双体枷“実高”貫くも、武蔵致命に至らず。

 武蔵、“神童殺し”にて反撃。

 震鬼が拳を破砕、けだし神技なり。

 壮年武蔵、天下無双に相応しき剣境なるかな。

 忘八の意地見せる震鬼、再度“震え貫き”使用、此度こそ二天一流の体躯貫通す。

 震鬼が貫通拳、武蔵心の蔵握るも、胸の十字、突と神気注入し、震鬼腕部焼失す。

 武蔵血反吐撒き散らし、震鬼の背後取り、鬼首絞る。

 震鬼、流行り病にて亡くした女房、銀狐太夫の名を呟き安息す。

 

 震鬼レン死亡、宮本武蔵玄信生存。

 鬼哭隊の一勝也。

 

 

 第四番

 雪鬼リッカ 対 沖田総司房良

 

 素性不明剣士沖田総司曰く、逐電中の身なれど年貢の納め時との由。

 柳生列堂率いる伊賀忍軍に捕捉され、覇府探題に出頭。

 服部半蔵殺害容疑かかるも、鬼一頭成敗条件に恩赦と、飄々と語りし候。

 置き血得ずとも不老なる沖田身の上話、雪鬼深く頷くも、突と年貢米の味品評宣いし候。

 年貢という言以外聞く耳持たぬ雪鬼、我ら鬼族一の阿呆の仔(アホの娘)也。

 苦笑しそれを静聴の壬生狼、蝦夷化外者と相性抜群と見受けられ候。

 両者暫し歓談するも、不意打つ壬生狼、種子島の如き突き技披露。

 三段総て命中するも、雪鬼致命に至らず。

 雪鬼、飛州おろしにて反撃。

 沖田、俊敏なる動きにてこれを躱すも、雪鬼生命を削り凍気噴射継続。

 死合場、氷河の如き様相を呈す。

 直後、沖田吐血。

 不治の病、不老の肉体に於いても侵食止まず。

 雪鬼、腕部を独楽の如く回転させ、死合終幕図るも、沖田捨て身の突き技にて腕ごと心肺へ刃突き立てられ候。

 ゆるりと立ち上がる沖田、突としてその身紫電に包まれ、愛刀菊一文字則宗と共に死合場から消失。

 摩訶不思議なる現象に遭遇するも、技量の差思い知り、雪鬼自ら負け認むる。

 

 雪鬼リッカ生存、沖田総司房良消失。

 雪鬼降参にて、鬼哭隊二勝。

 

 

 第五番

 霧鬼ツムグ 対 坂田怪童丸金時

 

 英雄三太郎の先鋒努めしは、頼光四天王にして相模国足柄山にて山姥と赤竜との間に生まれし者、金太郎。

 竜の血活性化し、その体躯百尺を優に超える威容也。

 十勇士仇討ち燃える雷鬼諌め、霧鬼ツムグがこれを迎撃。

 人間城舞六剣最後の奉公、死合場巨体同士の相舞場と成り果て候。

 陪観せし烏丸少将以下、一時的に退避する始末なれど、四郎時貞蛮勇にて死合場留まる。

 地割れ、炎舞い、凡そ地獄の光景現出し、原城が戦闘要塞の機能喪失したりと覚えるも、やがて舞六剣の鉄身、尽く崩壊す。

 長年の酷使、太陽の整備持ってしても修復能わず。

 霧鬼、七星軍扇にて奮闘するも、金太郎の巨躯攻略不能。

 すわ霧鬼圧殺と思われし時、陣馬鬼鹿毛特攻す。

 鉄馬の献身受け、霧鬼怒涛の攻め、侵すこと火の如し。

 金太郎、口中から臓腑侵入され、その巨体大地に倒す。

 腹部より霧鬼生還。

 背中の菩薩、大蛇の如き臓物に塗れるも、ネムセなる悪態ひとつ。

 太陽、霧鬼出迎え鼻摘む也。

 

 霧鬼ツムグ生存、坂田怪童丸金時死亡

 鬼族の二勝目にて候。

 

 

 第六番

 雷鬼キョウマ 対 水江日下部首浦嶋子

 

 互いに二勝二敗一分に持ち込んだ此度の勝負、六番目と相成り候。

 浦島太郎、我ら鬼族と和解した後、遊郭竜宮にて悠々自適な日々を送るも、神州無敵に端麗人の務め果たせと迫られ、已む無く死合場へと足運びし由。

 深堀りするに、乙姫なる唯一無二の伴侶を人質に取られたとの事情あり。

 雷鬼、これを無視。

 鬼の勝利という忍務遂行すべく、真田忍法十全に駆使し戦闘開始。

 暫し闘争続けるも、互いに決め手無し。

 つと雷鬼、真田忍法“他心通”にて浦島太郎の肚の中探る。

 浦島に勝利もぎ取る気皆無なり。

 その実、既に乙姫救出は密かに行われており、その時間稼ぎを行う肚也。

 一昼夜合戦の様相を呈すも、朝日が上ると浦島、死合場崖より跳躍。

 乙姫、潜水艇にて浦島迎え、両者そのまま蓬莱へと遁走す。

 雷鬼、浦島心中察し、また竜宮譲渡の恩に報いるべく、勝ち名乗り辞退。

 

 雷鬼キョウマ生存、水江日下部首浦嶋子逃走。

 勝負水入りにつき、引き分けにて候。

 

 

 第七番

 霓鬼ハララ 対 大吉備津彦命

 

 二勝二敗二分けにていよいよ迎えた結びの一番。

 鬼哭隊大将にして英雄三太郎が真打ち、神州無敵桃太郎。

 勝敗決めしこの一戦、迎え撃つ鬼族は志摩の現人鬼。

 神州無敵の宝剣抜き払いし桃太郎卿、現人神美笑もって泰然自若と怨身。

 三柱の神獣討滅せし現人鬼、桃太郎卿と浅からぬ因縁持つも、両者それに拘る様子無し。

 序盤、桃太郎卿怒涛の攻めにて、現人鬼瞬く間に劣勢。

 然し、致命に至る斬撃、複数回受けても現人鬼倒れず。

 現人鬼身につけし宝物、“異界由来”の斬撃無効なる宝玉との由。

 こは奇々怪々なる代物受け、桃太郎卿僅かに動揺。

 然るに、現人鬼奇なる呪符と玉石取り出し、無から岩弾射出す。

 曰く、“泥沼至極の岩砲弾なり”との由、理解不能也。

 動き止めし桃太郎卿、胸部に大穴空くも、その身安泰変わらず。

 反撃の大刀勢、現人鬼回避不可。

 斬撃無効の宝玉、神州無敵の残酷剣防ぐこと能わず。

 曰く、神級をも防ぐ代物なれど、本身の桃太郎卿には紙に等しき等級也。

 現人鬼、胸部截断するも未だ生存。

 直後、渾身の渦貝発動。

 桃太郎卿、吐血するも胎内にて渦分散させ安泰。

 難攻不落の神州無敵、もはや攻略不能。

 桃太郎卿、つと懐より吉備団子取り出し、勇戦せし現人鬼を従属させんと欲す。

 現人鬼、怖気走る程美なる笑いもって応答。

 吉備団子食す。

 直後、燃ゆる口吻にて桃太郎卿と密着。

 桃太郎卿、胎内に伐斬羅侵入し、軈て神州無敵の肉体爆散す。

 現人鬼、両の脚にて立つも、その美魂黄泉へ旅立つ。

 烏丸少将、天晴なる戦いぶり受け、現人鬼の勝利を裁定する也。

 

 霓鬼ハララ散華、大吉備津彦命散体。

 

 鬼族の勝利にて、七番勝負決着にて候。

 

 

 これにて鬼族恩赦と相成り申す。

 然し、覇府の暴虐、これに極まり。

 満身創痍の我らに対し、弓槍鉄砲の雨降らせたる。

 四郎時貞以下郎党、我ら庇い尽く絶命。

 唯一生き延びたる森宗意軒なる忍びの者、四郎時貞の呪詛受け、いずれ覇府転覆を誓い逃走す。

 転生法なる忍法秘めたるも、我ら生存必死にて関知せず。

 烏丸少将、覇府暴虐に知らぬ振り、我ら一同失望するも、胸の内は義憤に燃えたる由、我ら不問にす。

 

 いよいよ年貢の納め時と相成った状況なるも、魔改造梟による爆薬特攻により、我ら亡命に成功す。

 以下、生き残り鬼族の顛末を持って、此度の七忍の物語に終着を報じ奉る。

 

 零鬼カクゴ。

 浦島太郎により潜水艇にて救助、真田幸村落胤伊織姫と共に呂宋へ渡る。

 以後消息不明なれど、両腕無くした夫に寄り添うやんちゃ妻ありとの風聞あり。

 

 雪鬼リッカ。

 同じく浦島潜水艇にて救助、皆と別れ蝦夷の地へと向かう。

 後、蝦夷の惣領が起こした寛文蝦夷蜂起に参加し、その無垢なる生涯に幕下ろす。

 

 霧鬼ツムグ。

 潜水艇にて救助後、太陽と共に故国朝鮮へと渡る。

 鬼の力封印し、只人として太陽と共に暮らすも、丙子胡乱の煽り受け疲弊せし李氏朝鮮、霧鬼らの楽土と不成。

 疫病により太陽墜ち、菩提を弔う日々を過ごす也。

 

 雷鬼キョウマ。

 零鬼らと行動暫く共にするも、此度こそ雷鳴となりて砕け散る生き様実施せんと、南蛮船に乗り広き世界を見聞す。

 鬼哭隊に代わる強者、未だ見つけられぬも、世の不可思議を目の当たりにする日々也。

 

 

 当文、南蛮国いすぱにあが支配する南海にて筆進め候。

 奇縁にて私掠船(ぷらいべてぃあ)に同乗するも、中々に愉快な乗組員らに候。

 えげれす籍の海賊船なるも、乗り込む者ら皆異なる国、異なる肌色持ち、竜宮の船を彷彿させたる様相。

 中でもだんぴあなるえげれす人、他者に偏見持たず、ただ純粋に世の探求を求めし者にて、好意に値する也。

 暫し此の美味しい冒険、共にしたく候。

 

 無念多くあれど、日ノ本の事、遠き昔と成りて候。

 異国の地で見聞きする全て、我が血震わせし冒険。

 何れこの身朽ち果てるも、その時まで精一杯生き抜く所存也。

 嘗て末席に連ねた真田衆の義、十勇士が兄弟達に生かされた身を鑑み、“生き抜く事”が我が生涯と考えたり。

 願わくば、この生涯、見守って頂きたく存じる。

 末筆ながら、龍神様には増々の健勝、切に願い申し上げ候。

 

 

 

 追伸。

 生前の現人鬼殿より承った言伝あり。

 曰く、役に立たぬ竜の勾玉、せめて異界に送られたしとの事。

 七つの竜玉、六面の世における五龍の秘宝に相当するものと確信せり。

 悪神()()に必須の為、時遡りて送られるべし。

 尚、使い道見い出せぬ鬼三頭、これにて有為なる存在になると美考す。

 

 

 草々。

 

 差出人

 黒須京馬

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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魔界篇
第四十六景『魔界大忍法合戦(まかいだいにんぽうがっせん):(いち)


 

 弟のウィルが再び俺達の前からいなくなってから、二ヶ月が経った。

 この二ヶ月は、色々あったけど……今は、あまり思い出したくない。

 俺を含めてウィルに関係する皆が、ウィルがいなくなった事、そのせいで起こった出来事から、目を背けたかったからだ。

 穏やかな日常……それも、ただの現実逃避だったと、今は思ってしまう。

 

 だから、目の前の現実も、悪い夢にしか思えなかった。

 

「シルフィ……」

 

 ベッドに横たわる、大切な人。

 大切な、妻のシルフィが、苦しげな表情を浮かべながら眠っていた。

 

「ルディ、大丈夫ですよ」

 

 俺の隣で、そっと手を握るもう一人の大切な人……ロキシーが、心配そうにそう言った。

 だけど、俺はそれに応える事は出来ない。

 ただ、シルフィの汗を拭ってやることしか出来なかった。

 

 思いつく限りの治療を施しても、シルフィの容態は良くならなかった。

 どんな解毒魔術も、治癒魔術も効果は無かった。医者にだって見せた。クリフ先輩にも診てもらった。

 でも、どんな手を尽くしても、シルフィの肩に刺さる()は抜けず、彼女の綺麗だった身体は、痛々しい腫れが縦横に広がり、痛々しいほど痩せ細っていた。

 誰にも抜けない、()()()

 

 どうしてこうなったんだろう。

 何が間違っていたんだろう。

 誰のせいで、こんなことに……。

 

「ウィル……」

 

 薄暗い感情に囚われる。

 ウィルが、ウィルがいたからこんな事になってしまった……なんて、短絡的な苛立ちを覚えているわけじゃない。

 でも、こんな理不尽な事が起きるなんて、思いもしなかった。

 だから、どうしたらそれを回避出来たのか、ずっと考えてしまう。

 

 もう起こってしまった事は、やり直す事なんて出来ないのに。

 

 

 

 ウィルと北神が果し合いをした日。

 謎の鬼が三体現れたあの日。

 俺とロキシー先生は、剣客のような鬼と戦い、力及ばずそのまま意識を失った。

 何故あの鬼が俺達を殺さなかったのか、色々考えたが結局わからないままだった。

 

 気絶する俺達を、パウロ父さんが助けてくれた。

 ウィルを探しに来ていた父さんは、シャリーア郊外で倒れる俺達を見つけると、そのままウィルの捜索を中断して俺達の救助を優先した。

 その後、ウィルを探しに再び郊外へ向かったみたいだけど、激闘の跡地にはウィルの姿はもちろん、双子や鬼共や北神の姿も無かったらしい。

 

 現れた鬼は三体。

 ナナホシの研究室に現れた鬼。

 ロキシーの前に現れた鬼。

 そして、俺の前に現れた鬼。

 

 シルフィはナナホシを守る為、鬼と戦った。

 一発で気絶させられたらしいけど、大した怪我は無くてよかった。そう言って、この時のシルフィは笑っていた。肩を気にしていた彼女を、もっと気遣えれば良かったんだけどな……。

 ナナホシも気まずそうにしていたけど、ウィルがいなくなり、正体不明の鬼が現れたのを受け、研究を中断していた。

 シルフィの怪我も気にしていたけど、今はウィルを探すのが先決だと、そう言ってどこかへ出かけていった。何か探すアテでもあるのだろうか。

 

 数日してから、パウロ父さんが神妙な面持ちで俺達家族を集めた。

 ギースとタルハンドも同席したその場で、父さんは旅に出ると言った。

 ウィルを探す、二回目の旅。

 本格的な冬が訪れる前に、シャリーアを発つ必要があると。

 そして、ウィルとまた一緒に暮らす事は出来なくても、せめて居場所だけは確認したい。

 せめて、年に一度くらいは、家族と過ごす時間を作りたい。

 そんな想いを、俺達家族の前に語ってくれた。

 

 “ウィルは死んじゃいねえ。だから、俺が探す。父親だからな”

 

 そう言って、父さんは惚れ惚れするような笑顔を見せてくれた。

 俺もこんな風に子供を想える父親になれるのだろうか……この時は、どこか呑気にそう思ってた。

 それから、父さんはギースと一緒に。タルハンドも別行動で捜索してくれると言ってくれた。

 なんでも、“黒狼の牙”結成時を思い出すんだとか。少し楽しそうに言ってたのは、ウィルの生存を確信していたからだろう。

 七大列強の石碑。それには、ウィルの紋章──岩本家の家紋は、まだ刻まれていたからだ。

 北神の紋章も刻まれていたので、ウィルの消息の手がかりもあると。

 

 俺も一緒についていくと言ったけど、意外な事にアイシャに止められた。

 曰く、あたしだって我慢してるんだから、お兄ちゃんも我慢してよと。

 ただ、後から聞いたけど、アイシャも最初はついていくと聞かなかったらしい。でも、リーリャさんが滔々と“父さんが帰ってくる家を守る”という役割を説いたおかげで、アイシャは思いとどまり、俺の事も止めてくれた。

 もちろん、俺も本心ではついていくつもりはなかったし、父さんも俺の同行をきっぱり断っていた。

 シルフィやロキシー、ルーシーを置いて旅に出るなんて、考えたくもないし、父さんもそこまでさせるつもりは無いのが本音だろう。

 

 ノルンはグズるかと思ったけど、こちらも意外な事に父さんの背中を押していた。

 ウィルが戻ってきたら、びっくりするくらい剣術の腕前を上げるんだって。

 だから、早く連れてきてくださいって。

 

 こうして、父さん達は旅立っていった。

 俺達はシャリーアの門まで父さん達を見送っていた。

 父さんは俺達家族を順番に抱きしめていた。

 ノルンとアイシャを同時に抱きしめて、“誕生日、一緒に祝えなくてごめんな”って、悲しそうに言った。

 ノルンとアイシャは堪えきれなくなって、ポロポロと涙をこぼしていた。

 最後に、父さんはゼニス母さんを抱きしめた。

 ぎゅっと抱きしめ、しばらくして、父さんは旅立っていった。

 

 それからしばらくは、俺は大学に通いながら家族と過ごしていた。時々冒険者ギルドにも顔を出して、ウィルの捜索も依頼していた。

 また鬼と戦う羽目になるかもしれないとも思い、ロキシーの教えを受け、水王級魔術師にもなった。

 

 ああ、そういえばクリフ先輩とエリナリーゼの結婚式もあった。

 クリフ先輩はウィルに祝詞を上げたかったと残念がってたけど、ともあれ二人は無事夫婦となった。

 それから間を置かずして、ノルンとアイシャの誕生会を開いた。

 父さんとウィルがいないけど、俺がきちんとお祝いしたかったから、シルフィとロキシーにも協力してもらった。

 二人は少し複雑そうな表情だったけど、それでも喜んでくれた。

 母さんやリーリャも、少しだけ寂しそうにしていたと思う。

 

 ……クリフ先輩の結婚式の時もそうだったけど、この時のシルフィが。

 シルフィが、肩の傷を包帯で隠し、決して俺達に見せようとしなかったのを、もっと注意しておけばよかったと。

 今は、後悔しかない。

 いや、もっとはっきり気付ける瞬間もあったから、それは余計俺の心に重くのしかかっていた。

 

 アリエル王女が、ラノアの王族がシャリーアに滞在中、会見の場を設けようとした時だ。

 ロキシーが魔法大学の依頼を受けて、ラノア王族の護衛に駆り出されたので、当然シルフィもアリエル王女の護衛で同行する事となった。

 それで、俺も一緒に行く事になったのだけど、途中でシルフィが体調不良を訴え、俺と一緒に帰宅した。

 後でロキシーに聞いたけど、護衛の中には昔懐かしい顔もいたらしい。

 

 でも、それよりも。

 “ただの風邪だよ”と笑っていたシルフィの容態が、その日からどんどん悪くなっていった。

 

 この時、もっとなりふり構わずシルフィの治療に動けてたら、こんな事にはならなかったのではないかと。

 そう思ったら、後悔の念しかわかない。

 

 それから、どんな解毒魔術も、どんな治癒魔術も。シャリーア中を駆けずり回り、沢山の医者に診てもらっても。

 シルフィは、回復する事は無かった。

 

 俺はその日から大学を休学して、シルフィの看病をする毎日だった。

 いつのまにか、俺は十八歳になってたけど、そんな実感を抱く余裕は無かった。

 大学では卒業式が行われいた。俺は出席日数が少し足りなかったけど、ジーナス教頭が気を利かせてくれて四回生にはなれた。

 シルフィと一緒に通えない大学なんて、もうあまり未練は無かったので、これもあまり嬉しいという気持ちはわかなかった。

 

 そういえば、リニアとプルセナが卒業したけど、二人揃ってシルフィの見舞いに来た時に、何か言いたそうにしてた。

 でも、空気を読んだのか、シルフィを励まして、二人は去っていった。

 後からナナホシに聞いたけど、二人は卒業と同時にケジメをつける為、決闘を行ったらしい。それで、俺かウィルにその立会人をしてもらいたかったんだと。

 

 “ボスかおやびんにあちしがリニアよりの方が強いのを見届けてほしかったニャ”

 “あーっ何言ってるかわかんねえよなの。私の方が強いなの”

 

 なんて二人の会話を伝えてきたけど、これも正直今はどうでもよかった。

 結局プルセナが勝ったらしいけど、二人共今はシャリーアにはいない。出来るなら、シルフィと二人で見送りたかったけど。

 

 ナナホシは毎日どこかへ出かけてから、シルフィのお見舞いに来ていた。

 “今日も空振りだった”と肩を落として、毎日俺に伝えていた。なんでも、人探しが得意な人──そして、恐らくシルフィの治し方を知っている人と会う為に出かけているが、会える手段が特殊で、その手段を用いても迎えが来ないと。

 

 ナナホシはシルフィに怪我をさせ、ウィルがいなくなった事にも責任を感じているのだろう。

 もっとも、ウィルがいないと──ウィルの妖刀がないと、ナナホシの研究が進まないという事情もあるのだろうけど。

 体調を崩しがちだったので、解毒魔術をかけながら“あまり無理はするな”と伝えていた。

 それでも、ナナホシは毎日出かけて、その人物にコンタクトを取ろうとしていた。

 

 正直、期待が持てるかどうか分からない。

 でも、藁にもすがる思いだったので、ナナホシがその人物とコンタクトを取れるのを期待するしかなかった。

 

 どこか喪失感を感じる日々。

 喪失感が、段々増していく日々。

 

 ルーシーも母親の不調を察しているのか、泣き喚く回数が増えた。

 母さんが拙い手であやしても、ルーシーは泣くのを中々止めなかった。

 

 もう、どうすればいいのだろう。

 どうすれば、シルフィは助かるのだろう。

 

 ……どうしたらよかったのだろう。

 あの日、ウィルを止めてれば……少なくとも、シルフィが怪我をする事が無かったんじゃないか。

 いや、そもそも、ウィルがシャリーアに来たから、こんな事に──

 

 また、薄暗い感情に囚われる。

 どうして、俺はこんなにも弱いのだろう。

 ウィルが原因だとしても、ウィルが悪いわけじゃないのに。

 でも、どこか誰かのせいにしたいと、この時の俺は思っていた。

 誰かのせいにすれば、少しはこの後悔の念から逃れられると思ったから。

 

 もう、誰か。誰でもいい。

 シルフィを……俺達を、助けてください。

 

 そう思った時。

 

 

 夜、夢に。

 あいつが出た。

 

 

 

 


 

 魔大陸

 リカリスの町

 

 魔大陸ビエゴヤ地方に位置する魔都リカリス。大勢の魔族が棲まうこの街は、現在戒厳令下の如き物々しさを見せていた。

 行き交う冒険者や商人は鳴りを潜め、往来を歩くのは漆黒の鎧を装着した兵士の姿が多数。

 

「ええい、まだ見つからんかっ」

 

 その兵士達の中で、配下に気合を入れる魔族の女兵士がひとり。

 その風貌は魔族らしく、凡そ人族とはかけ離れたものであり。女性特有の高い声色と、少し盛り上がった胸部装甲がなければ、その性別すら判断しかねるだろう。

 爬虫類を彷彿させる黄色い鱗、針のような髪、突き出た鼻先。そして、それらに走る無数の疵痕。

 歴戦の勇士の風格持つ漆黒の女戦士の名は、魔王アトーフェラトーフェ親衛隊が四天王、“風のカリーナ”。

 主君であり剣の師匠でもあるアトーフェから北神流王級の印可を授かりし名人であり、配下の親衛隊にも多くの弟子を抱える女剣客である。

 

「早く探せ! 今日中にあの御方を探すのだ! 早く早く早くぅっ!!」

 

 自身の兜を脇に抱えながら、配下の親衛隊らに激を飛ばすカリーナ。その下知は何者かの捜索を指示しているのだが、肝心の捜索場所などの指示は無い。配下でありカリーナの弟子でもある兵士共は、皆困惑しつつも、とりあえずその辺を捜索するべく散開せしめる。

 

「うむ! 流石は我が弟子共だ! これはもう見つけたようなものだな! うむうむ!」

 

 既に勝利を確信しているのか、満足げに頷くカリーナ。であるのだが、親衛隊を束ねる隊長ムーア曰く、カリーナは四天王一の馬鹿者であり。

 否、そもそも四天王自体が親衛隊から選りすぐった馬鹿との言なので、カリーナ自身が特別馬鹿というわけではない。

 ただし、その戦闘力は親衛隊四天王を名乗るに相応しきもの。彼らの名誉の為、それだけは付け加えておく也。

 ちなみに、カリーナは主であるアトーフェよりは賢かった。

 

「まあカリーナよ、そう急くでない」

「左様。急いては事を仕損じるとも言うしな」

 

 イキるカリーナをそう諌めるは、同じくアトーフェ親衛隊四天王、“水のベネベネ”、そして“火のアルカントス”だ。

 

「腐ってもあの御方は魔界の大帝。そう簡単に見つかるとは思えぬ」

 

 そう呟くベネベネ。

 粘族とヘア族のハーフという特殊な生い立ちの彼は、兜の隙間から白い毛を溢れさせている。

 スライム状の肉体はあらゆる斬撃が無効。そして、その肉体に生やす体毛は、主の意思に従い自在に稼働せしめ、対手は硬軟入り混じった不可思議な立ち合いを強いられる。

 剣技は北聖級止まりであるが、それを補うほど、ベネベネの肉体は特殊であった。

 もちろん、ベネベネはアトーフェよりは賢い。

 

「うむ。しかし、捜索には我が使い魔達も加わっておる。どうせリカリスからは出ておらんのだ、捕縛は確実に行うが良策よ」

 

 ベネベネにそう応えるアルカントス。

 アルカントスはこれといって特異な種族というわけでもなく、いわゆる一般的な魔族でしかないのだが、彼は五体の使い魔を使役する北神流の剣士である。

 毛の長い大型犬のような使い魔は、アルカントスの意思に従い、主より先に対手へ襲いかかる。

 そして、この使い魔達は本能で対手の戦闘力を計る事が可能であり、主より弱者であればそのまま四肢を食い千切らんとする程の獰猛さを見せるのだ。

 もっとも、対手を主より強いと断じれば、そのまま大型犬のように懐いてしまうのが運用上の難点なのだが。

 このようなピーキーな使い魔を持つアルカントスでも、当然アトーフェよりは賢かった。

 

「……」

 

 ちなみに、四天王最後の一人“土のペリドット”もこの場にいるのだが、寡黙な性格を持つが故に、他の四天王との会話には一切加わっておらず。

 炎と風の魔術を操る魔法剣士。その妙手は、多対一でも十全に渡り合えるほど。

 魔術で一方を攻撃し、剣術で一方を攻撃せしめる。火魔術と風魔術を乱れ撃ちながら撃剣を放つペリドットの実力も、四天王に相応しきものであった。

 なぜ火と風の魔術を使用するのに“土のペリドット”であるのかは、本人にもよくわかっていない。

 よくわかっていないが、ペリドットはアトーフェよりは賢いのだ。

 

 そして、四天王が主共々本拠地ガスロー要塞から、わざわざリカリスまで出張って来た理由はふたつ。

 ひとつは、かの魔界大帝キシリカ・キシリスの捜索、捕縛である。

 これには複雑な事情があり、様々な勢力の思惑も絡むのだが、ここでは一旦割愛する。

 ともあれ、キシリカがこのリカリスに身を潜ませているのは確かであり、キシリカへ個人的な怨みもあるアトーフェの苛烈なる捜索号令が、このリカリスに響き渡っているという次第であった。

 

 そして、もうひとつの理由。

 そのキシリカを──魔界大帝ですら顎で使う、現人の鬼の身柄確保である。

 

「しかし何故現人鬼殿を探すのにキシリカ様を探す必要があるのかな! 私にはさっぱりだ!」

 

 カリーナの言葉を受け、ベネベネとアルカントスはため息をひとつ吐く。

 四天王随一のアホの娘は、未だ捜索命令をよく理解していなかった。

 

「キシリカ様は現在現人鬼殿と行動を共にしておる。ウェンポートでお二人が共にしているとの目撃情報があったのだぞ」

「しかし現人鬼殿はビエゴヤ地方に入ってからぱったりと目撃情報が途絶えてしまった。キシリカ様の目撃情報がこのリカリスであった故、未だ行動を共にしているであろうと踏みこうしてキシリカ様を探しているのだ」

 

 滔々と説明する両者に、カリーナはうむしと力強い相槌を打つ。

 

「そうか! しかし何故現人鬼殿を探しているのかな!」

 

 こいつマジかよと、そもそもの目的すらよく理解していなかったカリーナに絶望的な視線を向ける四天王二名。

 いや、それでも主であるアトーフェよりは話が通じるのは確かなので、二人は色々我慢しつつ説明を続ける。

 

「……アトーフェ様以外の各魔王様方が、現人鬼殿打倒の同盟を結成したのは流石に覚えておるだろうが」

「アトーフェ様は()()は現人鬼殿の軍門に下ったのだ。つまり、現人鬼殿を狙う魔王様方より先んじて、その鬼身(御身)を守護らねばならぬと、ムーア隊長が仰せになってたであろうが」

「そうか! 納得!」

 

 うむしうむしと首肯するカリーナ。

 多分伝わってないだろうなと、ベネベネとアルカントスは諦観の念を持って残念爬虫娘を見つめる。

 ともあれ、アトーフェよりは話が通じているのは確かなのだ。

 

 たった三年で魔大陸中の魔王達を軍門に下し、魔神ラプラス以来の魔大陸が帝王となった現人鬼波裸羅。

 君臨すれども統治せずを地で行い、上納金を納める事以外は魔王達へは特に要求する事は無かった現人鬼なのだが、その上納金の金額が良くなかった。

 各魔王達に課せられたその額は、国家予算の四分の一にまで達しており。人族の国家程でないにしろ、それなりの行政が敷かれていた魔王領は、このみかじめ料に苛まれ、当然そのしわ寄せは魔王領に棲まう民衆へと向けられる。

 突然重税を課せられた民衆は各地で抗議活動を展開、所によっては武装蜂起にまで発展する有様。

 元より魔王達も、理不尽極まりない現人鬼の暴虐からは逃れたい思いは同じ。密かに暗殺を試みる魔王も何名かいたのだが、尽く返り討ちに遭う始末。

 

 しかし、魔大陸へ帰還した現人鬼が、暗殺を試みた魔王達へ報復をせず、一直線にリカリスへ向かっているとの報を受けし魔王共。

 あれこれバレてないんじゃね? ていうかこのままイケんじゃね? と誰が言ったかは不明であるが、ともあれ現人鬼を討ち取る千載一遇の好機なのではと、誰ともなく叛逆の同盟結成を呼び掛ける。

 

 ラプラスの支配以来、纏まりがまったく無かった魔王達が、初めて自らの意思で血盟を結んだのは、後世の歴史家が“魔大陸史上稀にみる奇跡”と評する程であり。

 実際にはやけくそ気味な反乱ではあるのだが、ともあれ不死魔王アトーフェとその弟、不死魔王バーディ・ガーディ以外の魔王達が、反現人鬼の旗のもとに集い、リカリス地方へと軍勢を差し向けていた。

 

「しかし何故アトーフェ様は叛乱に加わらなかったのか……」

 

 ふと、ベネベネがそう呟く。

 実際、アトーフェもこの叛乱に加われば、ワンチャン鬼退治できる確率が、勝ち確も見えてくるレベルで勝率が上がるのは確かであり。

 

「確かに、あの決闘は我ら親衛隊抜きで行われたもの。アトーフェ様と我らが力を合わせれば、現人鬼殿など……」

 

 そう応えるアルカントス。四年前にガスロー要塞で行われたアトーフェと現人鬼の戦い。

 結果として、アトーフェは現人鬼に負けたのではあるが、アトーフェの本領は麾下の親衛隊の支援を受けてこそ発揮されるもの。

 真の実力を発揮せずに負けた事を、親衛隊全員が不服を覚えるのもむべなるかな。

 

「まあアトーフェ様のことだ。我らには分からぬ何かがあるのだろうな」

「アトーフェ様であるからな。何かしら現人鬼殿に思う所があるのかもしれん」

「アトーフェ様何も考えてないと思うよ」

「真顔でなんてこと言うのカリーナちゃん」

 

 久しぶりに発言したペリドットですら、アトーフェの思惑は推し量れぬもの。

 しかし、主命に従うは親衛隊の義務であり使命である。

 無理やり親衛隊にさせられた他の者達とは違い、四天王はアトーフェに対し至高の忠誠を誓っている、まさに親衛隊の手本となるべき存在なのだ。

 理不尽な命令ですら粛々と遂行せしめる“死狂うた忠誠心”こそが、彼らが四天王である所以だった。

 

 

「しかし中々見つからぬな……本当にリカリスにいるのだろうか」

「うーむ……我が使い魔からの反応もない。もしや既にリカリスを発ったのでは……」

「いや、それは無いだろう。門は親衛隊がしっかりと見張っておるし」

「いやしかし……」

 

 遅々として進まない捜索活動に、ベネベネとアルカントスは若干の焦燥感を見せる。迷いから抜けられない衆生の住むこの世の如く、焦りが募るばかり。

 簡単に見つからぬと思ってはいたのだが、それにつけても親衛隊の大穢土捜査網を潜り抜けるキシリカの隠密性は予想だにせず。

 既に飽きが来てその辺の露店を物色するカリーナを眺めつつ、水と火の四天王はどのようにして主命を達成するか頭を悩ませ続けていた。

 

「お、美味そうだな! 親父! 一つくれ!」

「へ、へい」

 

 小腹が減ったカリーナは、そのような同僚達を俄然無視。我が道を征く風の四天王は、串焼き屋の前へとずいと進んでいた。

 魔大陸産の香辛料を豊富に使用した魔物肉の串焼きは、じゅうじゅうと肉汁を垂らしながら香ばしい匂いを発しており、空腹覚えたる者全てを誘引する、抗い難い魔力も発していた。

 

「どうぞ」

「うむ! ──あっ!」

 

 待ちきれぬといった体で串焼きを受け取るカリーナ。

 しかし、勢い余ったのか肉片のひとつが串からこぼれてしまう。

 ぽろりと地に落ちる肉を見て、しゅんと肩を落とすカリーナ。

 

「しゃあっ!」

「!?」

 

 そして、突然現れた乞食娘が、シュンと機敏な動きでその肉を拾いせしめる。

 ボロを纏いみすぼらしい事この上ない出で立ちの小娘が、土に塗れた肉を貪り食らう様。

 鬼気迫るその様子に、流石のカリーナも驚愕と憐憫を隠せずにいた。

 

「はむっはむっはむっ……! な、なんじゃ! 落としたものだからこれは妾のものじゃ!」

 

 全部食ってからそう弁を振るう乞食娘。

 今日日ここまで飢餓感を見せる欠食児童はそうおらず、カリーナはただ困惑を露わにするばかりである。

 

「妾が前食べた肉に似とるしなぁ……これ妾のものじゃないか?」

「えっ違うぞ」

「妾のじゃ……」

「お……お前、変なクスリでもやってるのか」

 

 ぶつぶつと意味不明な論理を展開する乞食娘。カリーナの困惑は深まるばかりなりけり。

 すると、不自然なほど唐突に一陣の風が吹きすさぶ。

 

「あっ」

 

 ひゅうと風が吹き、乞食娘のフードが舞い、その風貌が露わになる。

 膝まであるブーツ、レザーのホットパンツ、レザーのチューントップ、青白い肌に鎖骨寸胴ヘソふともも。

 極めつけはボリュームあるウェーブかかりし紫髪と、山羊のような角。

 

「……」

「……」

 

 しばし見つめ合う魔族娘二匹。

 時が止まったかのような空間に包まれるも、その静寂は長く続かなかった。

 

 

「いたぞおおおおおおおおおおッッッッ!!!」

 

 

 アトーフェ親衛隊四天王風のカリーナ。

 その卓越した探索能力にて、遂に魔界大帝キシリカ・キシリスを発見す──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十七景『魔界大忍法合戦(まかいだいにんぽうがっせん):()

 

「やめろぉなにすんじゃい!」

 

 リカリスの町

 旧キシリカ城

 謁見の間

 

 かつて魔界大帝キシリカ・キシリスが君臨せしキシリカ城。その外観は、実に魔王が統べるに相応しき威容であり、悠久の時が流れても尚、天守の黒金の輝きは褪せることはない。

 しかし、魔界大帝が第二次人魔大戦にて封印され、人魔偃武が成った頃には、キシリカ城を治める者は誰もおらず。

 魔界大帝に代わり魔大陸を統べた魔神ラプラスも、このキシリカ城を本拠とせず、第二次人魔大戦以降キシリカ城はリカリスの観光資源として保存、活用される事となる。

 玉座の間などは一般公開されている故、入城料さえ支払えば誰でも立ち入る事が出来るが、保全の都合上、関係者以外立ち入り禁止箇所も存在する。

 

 そして、現在その謁見の間では、不死魔王アトーフェラトーフェ・ライバックと配下の親衛隊が揃い踏みであった。

 

「久しぶりだなぁキシリカ……!」

 

 整列する親衛隊に挟まれ、配下と同じ漆黒の黒装備に身を包み、大剣を床に突き立てながら睥睨する女魔王。

 不死魔王アトーフェラトーフェ・ライバックは、眼下に蠢く芋虫の如く簀巻きにされた幼女魔帝を、その美しい赤眼にて憎々しげに睨みつけていた。

 

「久しぶりもクソもあるかい! 御託は良いからはよこの縄をほどかんかーっ!」

 

 対し、簀巻大帝と成り果てながらも、アトーフェへ果敢に抗弁する幼魔──否、魔界大帝キシリカ・キシリス。

 不死魔王直々の尋問が開始されるとあってか、キシリカは全身を簀巻きにされつつも付けられていた猿轡は外されている。

 が、外された途端、キシリカはぎゃあぎゃあと悪態を喚き散らしており。

 そのザマは“これがかつて魔界を尽く統べ、人界を恐怖のどん底にまで陥れた魔界大帝なのか”と、現在の力を封じられたキシリカを初めて見る者にとって、それは残念極まりない光景となっていた。

 

「ゴタクってなんだ! オタクのいとこか!?」

「ああそうじゃった。こやつは馬鹿じゃった」

「なにっ!? オレは馬鹿じゃねえ!!」

「や、やめんかーっ! おぼっおぼぼぼぼぼっ!!」

 

 うがあとキシリカへ迫り、その身をむんずと掴みブンブンとぶん回すアトーフェ。

 魔界随一の剛力を備えるアトーフェのスイングにより、キリシカの肉体は遠心機にかけられたが如く強烈な重力加速度がかかる。

 

「このまま餅になるまで回してやろうか!」

「おぼーっ!」

 

 常人であれば眼球が飛び出し、眼孔耳孔鼻孔口腔から鮮血を撒き散らす凄惨な光景が見られたであろうが、そこは腐っても魔界大帝。魔眼をぐるぐると回し吐瀉物を撒き散らすだけに留めている。

 第二次人魔大戦により滅した肉体が復活し、はや数百年。この間、目を背けたくなるような痛ましいサバイバル生活を経たキシリカ。

 故に、キリシカの肉体は全盛期とまではいかずとも、それなりの逞しさを備えていたのだ。

 

「汚ぇッ!!」

「おぼぁッ!!」

 

 飛び散った大帝汁が腕に付着し、思わずスイングを止めるアトーフェ。

 そのまま床に打ち捨てられたキリシカは、顔面を吐瀉物に塗れさせながらのたうち回っていた。

 

「……アトーフェ様。お戯れはそろそろ宜しいかと」

 

 魔王と魔帝のプロレス。ふと、それまで黙って見つめていた一人の老魔族が、頃合いを見計らうようにアトーフェへ声をかけた。

 

「何はともあれ、まずはキシリカ様が居場所を御存知であろう現人鬼殿を……」

「ムーア! こいつはオレの酒を横取りしたんだぞ!」

 

 親衛隊長にしてアトーフェの補佐役でもある不死魔族ムーア。

 その老獪な戦手腕と巧みなる魔術は、不死魔王アトーフェの武威を魔大陸中に轟かせる一助となっていた。

 

「いや、それはまた別件でございますので、まずは本来の目的を」

「うるっせぇ!!」

 

 斬、と肉が断ち切られる。

 アトーフェの怒りの咆哮と共に、老魔族ムーアの首がごろりと床へ転がった。

 戦闘に於いては剛力に頼りがちな大雑把な戦法を駆使するアトーフェであるが、本身の実力は亡夫カールマンより伝授された不治瑕北神流の妙技である。

 石火の抜き打ちは、老練なムーアをしても躱しきれる代物ではなかった。

 

「……わかりました。ではキシリカ様、アトーフェ様に申し開きがあればどうぞ」

 

 しかし、同じ不死魔族であるが故、斬首程度は物ともせず。

 何事もなく己の首を拾い、胴体との接着面からぶすぶすと煙を燻ぶらせながら、ムーアは転がるキシリカへ声をかけていた。

 

「うぐぐ……わ、妾はあの酒がアトーフェのものだとは知らなんだ。あと現人鬼が飲んで良いって言ってたし」

 

 かろうじて会話可能なまで回復したキリシカ。吐瀉塗れになりつつも健気に言い訳をかましている。

 

「だそうですアトーフェ様」

「現人鬼は関係ないだろ! 現人鬼は!」

「めっちゃ関係あるわ! つーか相変わらず話が通じんのな!」

 

 あくまで己の理に従うアトーフェ。余人には理不尽極まりないその有様に、キリシカはもちろんムーア達親衛隊ですら密かに頭を抱える始末である。

 そして、アトーフェがここまでキリシカへ向け憎悪を滾らせる理由。

 それは、アトーフェに向け届けられた進物──上質な酒が、届けられる途中で現人鬼とキリシカに強奪された事にある。

 現人鬼御一行が丁度ガスロー地方を通過した際、荷馬車に積まれた酒樽を発見したのが運の尽きであり。そして、御者が事の次第をアトーフェへ報告した際、美味そうに飲むキリシカの姿を詳細に伝えた事で、此度の騒ぎとなった次第であった。

 

「……アトーフェ様」

 

 尚もイキるアトーフェに、ムーアは然りとした口調で言葉をかける。

 

「キリシカ様への制裁は後ほど行うとして、件の現人鬼殿の身柄確保が先決。ここは抑えるよう……」

「むっ……うむ」

 

 断首されても尚このような諫言を行うムーア。

 ゲロまみれになったキリシカを見て多少は溜飲が下がったのか、珍しくムーアの言葉に頷いていた。

 

「わかった。こいつの仕置きは後回しにしよう。で、現人鬼の居場所はどこだ!?」

「や、やめんか! そこは妾のデリケートゾーン(アンドロメダ)じゃぞ!」

 

 仕置きを後回しにすると言いつつ、アトーフェはキリシカの下腹部辺りをゲシゲシと踏みつける。

 身悶えするキシリカを見て、親衛隊は若干の憐憫の眼差しを向けていた。

 

「ところでなんで現人鬼殿を守護らねばならぬのかな? あの御仁、そこらの魔王様方に負けるとも思えないのだが……放っておけば良いではないか」

 

 ふと、その光景を見ていた親衛隊四天王が一人、カリーナがそのような疑問を浮かべる。

 もっともな疑問を受け、他の親衛隊も同様の思いでキリシカを見つめる。

 確かにアトーフェは現人鬼の軍門に下り、その支配下にあるといっても過言ではない。

 しかし、あの決闘以来、特にアトーフェに干渉していなかった現人鬼波裸羅。アトーフェも現人鬼個人に対しその傘下に入っている立場なので、他の魔王が叛逆を企もうが放っておけば良い、というスタンスでも誰も文句を言わないのだ。

 

「うーむ……ムーア隊長は何か御存知であると思うのだが……」

「噂によると、どうも現人鬼殿は病を患っているとか。それ故、魔王様方が鬼退治を始めたという話らしいぞ」

 

 そう応える四天王ベネベネとアルカントス。

 それを聞き、なるほどとカリーナは一つ頷く。アトーフェがこの叛逆に加わらなかった理由も察せられた。

 

「おらっ! さっさとゲロじゃなくて居場所を吐け!」

 

 気炎を上げつつキリシカを責めるアトーフェ。

 アトーフェも実の所、他の魔王よろしく現人鬼に再戦を誓う者であり。しかし、それは正々堂々たる戦いをもってして果たさねばならぬと、実に魔王らしい論理に従っていた。

 魔王に挑む勇者は、仲間達と共に多勢をもってして戦うのは道理。しかし、魔王が勇者を多勢で袋叩きにするのは、アトーフェの矜持が許さないのだ。

 それは、亡き父の背を見て育ったアトーフェの誇りであり、(まこと)

 

 かつて繰り広げられし一度目の人魔の大戦。

 その終局、五大魔王不死のネクロスラクロスが勇者アルスに討ち取られた様を、アトーフェは生涯忘れる事はなく。

 その時、アトーフェは誓ったのだ。父であり、偉大なる魔王であるネクロスラクロスのような魔王になるのだと。

 魔王らしく圧倒的に強大な存在になろうと。そして、人族の天敵たらしめ、時々姫を攫って勇者と戦うのだと。

 

 とはいえ、かの現人鬼は到底勇者とは言えないメンタルの持ち主であり、アトーフェの暴力性は生まれ持っての性質ではあったのだが。

 

「吐け! 吐けコラッ!」

「があああああッ!!」

「アトーフェ様。それ以上いけない」

 

 尚もぐりぐりとキリシカのアンドロメダを踏みつけるアトーフェに、ムーアはたまらず制止の声を上げる。

 というよりいい加減話を進めるべく、やや強引に話に割って入っていた。

 

「キリシカ様。現人鬼殿はどちらにいらっしゃるのです? それと、病を得たという噂は真なのですか?」

 

 そう言ったムーアに、キシリカはぜいぜいと喘ぎながら言葉を返した。

 

「うぐっ……あ、現人鬼はリカリスの町外れに身を潜めておる……あと、病を得たのは本当じゃ。アレで弱ってるとは思えんけど」

 

 キリシカの弁を受け、謁見の間は僅かにざわめく。

 現人鬼弱体の報。

 にわかに場は反現人鬼の気運が高まる。

 

「なにっ!? 病気なら治すぞ! オレは万全の現人鬼と戦うんだ! 何の病気だ! 吐け!」

「言うから踏んづけるのをやめんかバカタレーっ!」

「オレは馬鹿じゃねえッ!!!」

「があぁーーッ!!」

 

 もっとも、主であるアトーフェが当面は現人鬼側に付くのを表明した為、その気運はみるみる窄んでいった。

 踏まれ続ける(電気按摩)キリシカへ、ムーアは淡々とした声を上げた。

 

「してキリシカ様。現人鬼殿の病とは?」

「あががっ……ド、ドライン病じゃ……」

 

 ぴくぴくと震えつつも、懸命に言葉を返すキリシカ。

 ほぼ自業自得とはいえ、その姿は見る者全ての哀愁を誘う姿であった。

 そのような無惨なキリシカを俄然無視し、ムーアは顎に手を当て思考する。

 

「ふむ……なるほど、それでリカリスへ。確かに、安全にソーカス草を入手できるのはここ以外ありませんからな。しかしドライン病とは……」

 

 何やら得心がいったムーアに、親衛隊もまた深く頷く。

 ドライン病。魔力を持たぬ者が必ず患う不治の病。

 かつて人族が現在より魔力を持たぬ頃に猛威を振るったこの病は、大気中に漂う魔力が体外から侵入し、抗体となる魔力を備えぬ者の肉体をじわじわと蝕む病変であり。

 現在では魔力を持たぬ者など、それこそ()()()()()()()者以外は皆無である。故に、現人鬼が敷島から直接来訪したが故に、この病を患ったという次第であった。

 

 そして、このドライン病は完治する事は能わずとも、対処療法としての治療法は確立されている。

 それが、魔大陸にて栽培されるソーカス草だ。

 この草を煎じた茶を飲むことにより、体内に溜まった魔毒は便となり排出され、罹患者の肉体は復調する。

 しかし、当然ソーカス草の服用を止めた時点で、病毒は再び罹患者を蝕む。

 つまるところ、このソーカス草は現人鬼のアキレス腱ともいえた。

 

 かつては入手困難な地域に自生するソーカス草であったが、煎じて飲む茶は非常に美味であり、その味を好んだキリシカにより、魔大陸各地で栽培される事となる。

 しかし、叛逆者である魔王の元では安全確実にソーカス草を入手し難く。故に、叛逆魔王の支配が及ばぬこのリカリスへ、現人鬼はソーカス草を求めに来たのだ。

 

「ムーア、つまらん事考えるんじゃないぞ」

 

 ふと、アトーフェが低い声を上げる。

 普段は頓痴気な思考を持つアトーフェではあるが、極々稀にその頭脳が冴える瞬間があった。

 

「いえ、我らはアトーフェ様の御心に従うまで」

 

 慇懃に頭を下げるムーア。

 ソーカス草を用い現人鬼を逆支配せんと企むムーアを、アトーフェは暗に窘めていた。

 

「んじゃ、妾は草を届けねばならぬので、これにて──」

「ソーカス草はオレが届ける。お前はオレの酒を飲んだ償いをしろ」

「ご、ご無体な……!」

 

 芋虫の如く這いながら、さりげなくその場から退出しようとするキリシカ。

 不死魔王は無慈悲の待ったをかけていた。

 

 

「アトーフェ様! ご注進!」

 

 ふと、配下の親衛隊の一人が謁見の間へと入る。

 慌てたその様子に、一同は注目す。

 

「リカリス郊外に各魔王様の軍勢あり! 加えて、現人鬼殿がそれに対峙しておりまする!」

 

 ざわりと、謁見の場はざわめく。

 所在不明だった現人鬼登場の報。

 そして、現在の現人鬼では、まさしく多勢に無勢となる状況。

 

 不死魔王の決断は早かった。

 

 

「そうか! じゃあ見物と洒落込むか!」

 

 

 えぇ……と全員が呆気に取られる中、アトーフェはキリシカの足を掴み、ずるずると引きずりながら城外へと歩を進めていった。

 

 

 

 


 

 リカリスの町外れにある荒野。

 荒れ野は魔物が跋扈する魔境であり、魔大陸を旅慣れた者ですら命を落としかねない危険地帯。

 現在その荒野では、万を超える魔の軍勢の姿があり、百鬼夜行さながらの光景が現出していた。

 ひしめく異形の軍団の目的はひとつ。

 (異形)退治である。

 

 そして、魔の軍勢を率いるは、叛逆の物語を始めんとする五人の魔王。

 

「ほ、ほんとうにやるのか」

 

 勇んで出陣したものの、この後に及んで怖気づく魔王の一人。

 醜悪な豚面を備える、略奪魔王バグラーハグラーだ。

 

「こ、ここに来てビビってんじゃないヨ!」

 

 バグラーに応えるは妖艶魔王パトルセトル。

 半透明の肉体を薄衣でローブで隠す妖魔は、ことさら肉体を透過させつつ勇気を振り絞っていた。

 

「グブブ……臭うぞ、鮮血と酒の匂い……現人鬼の匂い……!」

 

 その隣では、汚物の如き悪臭を漂わせる球体状の魔族。

 不快魔王ケブラーカブラーは、身体中の穴という穴から悪臭を漂わせ、鬼退治への気合を入れていた。

 

『現人鬼、我の蔵書を持ち去った。返して欲しい』

 

 ケブラーの隣では巨大なスライムが蠢いており。発声器官を持たぬ粘族の頭領の名は、巨大なる図書迷宮を支配する圖書魔王ベートベトベータ。

 無数に生やした触手のひとつが紙片を持ち、その物言わぬ意志を表明していた。

 

「ふん。現人鬼め、此度こそ我が鉄毛にて絡め取ってくれる!」

 

 そして、五名の魔王の中で一際戦意を昂ぶらせるは、鋼鉄魔王ケーセラパセーラ。

 かつて斬鉄の勇者アトモスに敗れし魔王は、全く関係ない現人鬼へその復讐心をぶつけていた。

 ちなみに、ケーセラは直接現人鬼と相まみえた魔王ではなく。

 ケーセラの領地は魔大陸の僻地にある為、現人鬼の支配が及ばない唯一の魔王であり。

 そして、裏から手を回し、魔大陸を“解放”せんと各魔王へ激を飛ばしたのも、このケーセラであった。

 他の魔族と同じく、割とノリで生きる魔王である。

 

「うう……バーディがこの場にいてくれたら、もう少し勝ち筋が見えるのだが……」

 

 ふと、バグラーが悲観めいた表情を浮かべながらそう呟く。

 旧知である不死魔王バーディガーディの絶大な戦闘力は、対現人鬼への切り札にもなりえる。

 しかし、自由闊達なバーディの行方は知れず。

 魔眼封じの秘薬を服用している為、千里眼や万里眼の魔眼を持つ者ですら捜索不可能であった。

 

「バグラー! いい加減やる気出さぬか!」

 

 うじうじと煮え切らないバグラーに気勢を上げるケーセラ。

 魔大陸を鬼の支配から解放せんとする義憤に燃えているのか、その声色は鋼鉄の如く堅い。

 

「あのアトーフェが敗れた相手ぞ! 討ち取れば我らが魔名は魔大陸、いや満天下に轟くというものよ!」

 

 その実、ケーセラは己の武名を上げる事しか頭になかった。

 アトーフェが魔族一の武闘派としてぶいぶい言わせているのを、忸怩たる思いで見つめていたケーセラ。

 己が勇者アトモスに敗れてさえいなければ、その勇名は未だに己のものだったのだろうにと。

 だからといってアトーフェに挑戦する勇気もないケーセラは、実際小物の気質を備えていた。

 

「いやお主は現人鬼の実力を知らんから……」

「思い出すだけで身体が透けるワ……」

「グブブ……臭うぞ、負け犬の臭い……!」

『我、本返してほしい』

「ええい、ごちゃごちゃ抜かすな! 腹をくくれ腹を!」

 

 いまいち統率が取れてない反現人鬼連合軍は、烏合の衆よろしくモタモタとリカリスの町を包囲せしめる。

 しかし、現人鬼との決戦は近いのを受け、各魔王も渋々ではあるがふんどしを締め直していた。

 

「ま、魔王様! あれを!」

 

 そして、配下の魔族が荒野の一方を指差す。

 

「ようやっと見つかったか──」

 

 気合十分のケーセラがそれに応え、指差す方向へ視線を向ける。

 

 その、瞬間。

 

 

 

 

 

「なっ!?」

 

 魔王達に伸し掛かる得体の知れぬ怨気。

 怖気にも似たその重圧に、ケーセラの戦意は一瞬にして霧散する。

 

 視線の先に佇む、異形異類の姿。

 男でもあり。

 女でもあり。

 過剰でありながら、無謬なる肉体。

 猥褻にして、純潔なる存在。

 

 現人鬼波裸羅。

 叛逆魔王の前に現出す。

 

「あ、あらひとおに……!!」

 

 魔王、そして配下の魔軍が凍りつく中、震えた声を上げるバグラー。

 その声を受け、ゆるりと歩を進める現人鬼波裸羅の美姿。

 遠目ではその身、病に冒されてるとは到底思えず。

 雄大な魔の大地を確りと踏みしめ、叛逆魔王共へと間合いを詰めていた。

 

「ぬ、ぬぅぅ……!」

 

 現人鬼の歩みを止める者、誰一人としておらず。

 遠巻きに囲むことしか出来ぬ配下の軍勢に、ケーセラは冷や汗と共に顰めっ面を浮かべていた。

 

「くふふふ……」

 

 不気味な嗤いを上げる現人鬼。

 気付けば、魔王達が陣取る陣所の前へと歩みを進めていた。

 

「何とも眼福。人非ざる異形異類、魔族の王が揃い踏み──」

 

 そう嘯く現人鬼。

 固まる魔王達を前に、その美声を発し続ける。

 

「いや魔王は言い過ぎた。愚王かな」

「い、今何と申した、現人鬼!」

 

 かろうじて言葉を返すケーセラ。

 矜持を傷付けられた魔王に、現人鬼は一言。

 

「畜生と申した」

 

 いかな魔族の長であろうとも、現人鬼にとっては畜生同然。

 そう暗に──否、直接言い放った現人鬼に、ケーセラは萎えた戦意を怒りで震わせていた。

 

「抜かしたな! 現人鬼ぃッ!!」

 

 ケーセラの激声を受け、囲む魔族の軍勢、一斉に襲いかかる。

 喚声を上げながら突貫せし魔族の群れが、現人鬼へ剣を、斧を浴びせた。

 

 舞う血しぶき。

 飛び散る肉片。

 

 そして、血煙の中、悠然と佇む現人鬼。

 

「は?」

 

 数百にも及ぶ魔族が、一瞬にして()()()()()と成り果てたのを、ケーセラ以下魔王達は呆然とした表情で見つめていた。

 

「覚えておけ、畜生」

 

 雄弁と口上を述べる現人鬼。

 その美口上、何人たりとも止めること不可能(あたわず)

 

「畜生如きでは、この波裸羅に触れること──」

 

 

「誰にも不可能(できぬ)!」

 

 

 魔界大忍法合戦、いざ開幕──!

 

 

 

 

 

 



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第四十八景『魔界大忍法合戦(まかいだいにんぽうがっせん):(さん)

 

 中央大陸の最北東端に位置する秘境の中の秘境“天大陸”。

 人の世界に前人未到の地数多あれど、魔境“魔大陸”の深部以上に到達困難な場所は、この天大陸を以て他に無いだろう。

 標高三千米以上はある断崖絶壁の上に位置するこの大陸。道らしい道もなく、只人の往来は皆無であり。

 かつては賞金稼ぎ等に追われる罪人が逃げ込むべく天大陸を目指し、無謀な岩壁登攀に挑んでいたというが、尽くその生命を散らす結果となっている。高所における薄い大気は、余人が思っている以上に身体的な過負荷を人体に与えるのだ。

 酸素が薄い場所で効力を発揮する瘴気避けの魔道具等、十全な登攀装備を用意して挑んだ者もいた。

 しかし、登攀途中で満足に休息できるような場所は少なく。そして、休息をとっている者の上空では、常に飛行能力を備えた魔物が跋扈しており、安全な登攀とは言い難い極限の状況といえよう。

 

 故に、天大陸を目指す者は、各種装備を用意せしめるほどの財力、登攀を支援する為の人材、極地を物ともしない身体能力、そして類まれな戦闘技能が必須となる。

 しかし、それを必要とせず、天大陸まで容易に辿り着ける者も存在する。

 

 天大陸

 アルーチェの丘

 

 翼を持つ亜人、天族が棲まうアルーチェの町。そこからさほど離れていない場所に位置するアルーチェの丘。

 なだらかな丘陵は牧歌的な光景を見せており、中腹には白い花が咲き乱れる。花畑を越えた先には、古代龍族の遺跡が存在していた。

 

 朽ちかけた祠の内部。寂れた外見とは裏腹に、祠の内部は定期的に手入れがされているのか、廃墟めいた荒れ方はしていない。

 とはいえ、所々砂埃が積もっているのを見るに、ここを訪れる者はそういない事を暗に示している。

 そして、最深部に位置する大きな広間。広間の最奥では、青白い光を発する泉があり、煌々と部屋全体を幻想的な光で包んでいた。

 

「……」

 

 その泉の前に佇む一人の龍族の男がいた。

 そして、男の側に侍る天族の女が一人。

 

「ペルギウス様」

 

 仮面を付けた天族の女が男の名を呼ぶ。

 両腕を交差させ、翼を折り曲げながら跪く天族の女──甲龍王ペルギウスが十二の使い魔の一人、空虚のシルヴァリルだ。

 

「カールマンの孫は()ったか」

 

 龍族の男──甲龍王ペルギウスは、シルヴァリルに視線を向ける事なく、じっと泉を見つめながらそう応えた。

 

「はい。準備万端というには些か頼りないとは思いましたが」

「ふん。どうせ虎の若僧に対抗心を燃やしたのであろう。カジャクトのみで“地獄”に挑むとは、中々の蛮勇ではあるがな」

「はい……」

 

 ペルギウスとシルヴァリルはかの列強の姿を思い起こす。

 地獄から“生還”せしめた虎の姿と、“制覇”せんとする北神の姿を。

 

 過日に行われた列強同士の果し合い。

 “北神”アレクサンダー・カールマン・ライバックと、“武神”ウィリアム・アダムスとの凄絶なる死合い。

 終盤に介入した甲龍王は、同じく乱入せし鬼共を蹴散らした後、アレクサンダーを保護している。

 かつてラプラス戦役で共に戦列を組んだ初代北神カールマン・ライバックの実孫を、ペルギウスは見捨てる事なく。

 兄とも慕ったカールマン。その孫が、異界の稀人の手にかかるのを良しとしない、甲龍王の慈悲が働いたのだろうか。

 

「それにしても、迷宮“地獄”を制覇するとは……」

 

 だが、その救った旧友の孫が秘めおきし憤怒を抱え、人界最高難度の迷宮に挑戦するとは。

 流石の甲龍王も、これは予想だにせず。

 とはいえ、本人の意志を尊重し、ペルギウスはアレクサンダーを“地獄”へと送致していた。

 アレクサンダーはウィリアムに対する怨念、そして恐れを克服しようと、英雄らしい勇気──否、蛮勇を発露していたのだ。

 

 天大陸迷宮“地獄”

 世界三大迷宮の一つにして、世界最凶の迷いの宮。

 棲息する魔物の等級はAランク以上であり、内部ではあまりにも巨大な質量の罠が幾重にも仕掛けられている。

 どのような手練であれ、単身挑んで良い場所ではない。最奥へは列強に叙された者ですら容易に辿り着けぬほどなのだ。

 

 そして、かの武神ウィリアム・アダムスが、転移事件の際にこの地獄に容赦なく叩き込まれ、文字通り魔物の血肉を喰らいながら迷宮脱出へ藻掻いていたのを、ペルギウスはアレクサンダーへと伝えていた。

 数年間、超常の力にて現出した妖刀一振りのみにて地獄を生き永らえた虎。

 直接的な戦闘力もさることながら、ウィリアムのその悍ましいまでの魔力(まりき)は、この地獄にて培われたのは疑いようはない。

 満身創痍で地獄を脱出し、アルーチェの丘にて倒れる若虎を、()()()()()にて訪れていたペルギウスが救助したのは、これもまた超常の者が引き起こす命運というものなのだろうか。

 もっとも、かの甲龍王は運命論者ではない為、あくまで彼の中ではもののついででしかなかった。

 

「気になりますか?」

「気にならぬといえば嘘になるが……カールマンの孫が地獄で討ち死にしたとしても、所詮それまでの男だったということよ」

 

 口ぶりとは違い、旧友の孫を密かに案じる甲龍王。

 慈悲深いというわけではない。単に、ペルギウスはカールマンに恩義、そして深い友情、敬慕の想いを抱いているのだ。

 アレクサンダーの実祖母は唾棄すべき嫌悪しか抱いていないが、旧友の面影を色濃く残すアレクサンダーには、ペルギウスもそれなりの情が湧くのを自覚していた。

 

「まあカールマンの孫はよい。今回は彼奴めをわざわざ地獄に落としに来たわけではないのだからな」

 

 そう言うと、ペルギウスは泉を再度注視する。

 泉は変わらず淡い光を放っており、揺らぐ水面は甲龍王の尊顔を映し出していた。

 

「此度は……」

 

 主の目的をそれとなく尋ねるシルヴァリル。

 しかし、ペルギウスは黙したまま泉を注視し続ける。

 

「……」

 

 そして。

 

「……?」

 

 シルヴァリルは、泉の発光量が僅かに増すのを知覚した。

 

「ペ、ペルギウス様……!」

「……」

 

 慄くシルヴァリルに構わず、冷静に泉へ目を向けるペルギウス。

 泉の発光量が増すにつれ、泉の上にぼんやりとした幻像が浮かび上がる。

 やがて広間全体が光に包まれると、泉の上では一頭の“龍”が佇んていた。

 

「竜……いえ、これは……!?」

 

 シルヴァリルは泉に浮かぶ幻像が、自身が知る竜族の魔物と認識するも、即座にそれを否定する。

 頭部こそは見知った竜であれ、その形骸は水竜の如き流麗なる姿。

 そして、その佇まいは知性無き魔物とは一線を画する、瑞獣の如き神秘性を備えていた。

 

「現れたか」

 

 ペルギウスは龍が現出するのを予め分かっていたのか、さして驚きを見せず、その龍姿を見つめる。

 もの言わぬ龍に、甲龍の王もまた黙して視線を向けていた。

 

「……!」

 

 ペルギウスと龍だけに通じる念話が繰り広げられていたのか、はたまた単に睨み合っているだけなのか。

 長い時間、両者が視線を交わす様を、シルヴァリルは声ひとつ上げずに見守り続ける。

 主が得体の知れぬ化生に悪影響を受けているとも思えたが、不思議と泉の龍からは害意は感じられなかった。

 

「あっ」

 

 そして、龍が赤い光を発すると、広間は光の渦で満たされる。

 仮面の下で目を瞑るシルヴァリル。

 だが、閉じた目を開けると、泉は常の姿に戻っており。

 龍の姿はどこにもなかった。

 

「ペルギウス様、今のは……!?」

 

 おずおずと主に問いかけるシルヴァリル。

 同時に、シルヴァリルは主の目の前に不思議な形の石──翡翠とも水晶とも違う、何か異様な材質で作られた“勾玉”が浮かぶのを目撃した。

 その数、七つ。

 

「ッ!?」

 

 直後。

 七つの勾玉の内六つが、転移魔法にて転送されたが如く忽然と姿を消した。

 後に残された一つの勾玉。

 ペルギウスは、それをゆるりと手を伸ばし、掴む。

 

「余を使い走りにするか、衛府よ」

「え?」

 

 手中の勾玉を見ながら、そう嘯くペルギウス。シルヴァリルは尚も訝しむも、主の不機嫌そうな様子に、それ以上言葉を紡ぐ事は能わず。

 

「シルヴァリル。お前は何も知らなくて良い」

「は、はい」

 

 勾玉を懐に仕舞い、ペルギウスは居城である空中要塞ケイオスブレイカーへと足を向ける。

 追従するシルヴァリルは主の言に頷くだけだ。

 

「古の龍族の盟約……余を縛る不快な盟約よ……」

「……」

 

 故に、シルヴァリルはペルギウスのこの呟きを聞かぬ振りをした。

 ペルギウスの使い魔として生きると決めた日から、シルヴァリルは主への余計な詮索は戒めていたのだ。

 

「シルヴァリル。ケイオスブレイカーへ着いたら転移魔法陣を使う」

「はい。どの転移魔法陣をご使用なされますか?」

 

 途中、ペルギウスは低い声でシルヴァリルへ転移魔法陣の起動を命ずる。

 如才なく応えるシルヴァリルへ、ペルギウスは短く伝えた。

 

「魔大陸だ」

 

 

 

 


 

 リカリス郊外に地獄現出──!

 

 生き残りし魔族共、皆一様の思いを抱く。

 魔兵の躯により、荒れ野は屍山血河が如き凄惨な光景が現れており。

 雑兵も将兵も区別なく赤黒い肉片と化したその地獄。

 屍体の山の中、僅かに息ある者も発狂し、糞小便を垂れ流す有様であった。

 

 まさしく、魔大陸におけるやんぬるかな(絶望)の地が現出していた。

 

「これしきか」

 

 兵死の山の上で胡座をかく鬼一頭。

 冒険者装束は血に塗れ、葡萄酒を零したかのような赤々しい滲みが走っている。

 現人鬼波裸羅。

 襲いかかる敵兵を総てその華麗な鬼技で粉砕しており、魔王連合軍の将兵は現人鬼を包囲こそすれ、それ以上攻め込むことは出来ずにいた。

 魔術も剣も、礫も矢も。

 尽く封じ、近接する敵兵を屠り続けた現人鬼。

 その様、魔を滅する怪異なり。

 

「こ、これ程とは……!」

 

 バクラーバクラーが慄きながらそう呟くと、周囲の魔王共も同様に戦慄す。

 この時の現人鬼の戦闘力、以前魔大陸中を蹂躙した時と()()が違っていた。

 そも、現人鬼弱体の報は誤報なのか。

 バクラー以下魔王共、早くも後悔の念に苛まれるばかりである。

 

 否。

 一人だけ気炎を上げる魔王有り。

 

「グハハハハッ! 流石は現人の鬼! 我が精鋭鋼鉄軍団では相手にならぬとは!」

 

 全身を鋼質の体毛にて武装する鋼鉄魔王ケーセラパーセラ。

 蛮勇引力に惹かれし蛮種也。

 

「いやお前だけの手勢じゃないぞ」

「ていうかアンタの手下は開幕で逃げ出してるワヨ」

「グブブ……臭うぞ、烏合の衆……!」

『我、本返してほしい』

「やかましい! 余計な茶々を入れるでない!」

 

 蛮勇振るうケーセラへ雑な激を飛ばす魔王共。

 血盟、早くも崩壊の兆し也。

 

「腰抜け共め! そこで我の勇戦を指咥えて見ておれぃ!」

 

 ともあれケーセラ、彼我の戦力差を省みぬ特攻に出陣(打って出る)

 大将同士──ケーセラは決して叛逆者達の頭目というわけではないが、現人鬼との一騎打ちに挑んでいた。

 その勇姿を受け、魔王共。

 

「お、おう。がんばれよ。……そろそろ土下座の準備でもするか」

「アンタなら勝てるワ多分。……真心込めて謝罪すればきっと許してくれるヨ」

「グブブ……お体大切に!」

『本返してほしい』

 

 この後の展開をなんとなく察しつつ、雑な声援を以て送り出していた。

 

「改めて名乗るぞ! 現人鬼ぃ!!」

 

 蛮勇なる魔王ケーセラは、屍体の山に座る現人鬼の前へと躍り出る。

 硬質化させた体毛が縦横に伸び、現人鬼を射程圏内に収めていた。

 

「我が名は鋼鉄魔王ケーセラパーセラ! 魔大陸の和を乱す現人の鬼よ! 我が鉄毛の錆となれぃ!!」

 

 堂々たる宣戦布告。

 それを受けた現人鬼、さして興味のなさそうな表情で応える。

 

「和?」

 

 そのまま屍体の山からひらりと舞い降り、ゆるゆるとケーセラと対峙する。

 

「人外蠢く魔の地にて和を尊ぶとは。そんなもの、夜に影を探すようなものだの」

「なにぃ?」

 

 挑発をするような現人鬼の言。

 ケーセラの体温は徐々にぶち上がりせしめる。

 

「喰ってやろうか……鋼鉄(はがね)の体毛──!」

「そんな貴様を──!」

 

 そして。

 ケーセラは鉄毛を纏い、砲弾の如き勢いで現人鬼へ吶喊した。

 

「我が喰らうッ!!」

「ッ!!」

 

 魔王ケーセラ渾身の肉弾幸(ぶちかまし)

 鬼の体躯にぶち当たる瞬間。

 

「渦貝ッ!」

 

 現人鬼、即座に得意手の忍法渦貝にて迎撃。

 しかし。

 

「効かぬわ!」

「ぬぅ!?」

 

 ケーセラの装甲、渦貝の威力を()()す。

 ぶちかましの勢いで積み上げられた屍体が爆散し、鬼と魔王はもつれ合いながら地を抉り抜いていた。

 

「これ……もしかしてイケるんじゃないか?」

「ワンチャン勝てるかもしれないワ……」

「グブブ……紛れ幸い」

『本返して』

 

 予想外の健闘を見せるケーセラに、寝返る準備を着々と進めていた魔王共も腰を浮かせる。

 現人鬼必滅の忍法渦貝。

 いかな装甲を纏いしとも、深部へと螺旋の衝撃を余すこと無く浸透させるこの忍法。

 しかし、ケーセラの装甲は現人鬼の魔技すらも防ぐ超鋼なるか。

 

「ぬうぅッ!!」

 

 ケーセラの肉弾撃を完璧(まとも)に受けし現人鬼。

 しかし、百戦錬磨の鬼はただでは転ばぬ。

 

「グハッ!?」

 

 現人鬼の腕断首(ギロチンチョーク)

 屍体の肉片が降り注ぐ中、猛撃タックルをガードポジションにて受け止め、威力をかろうじて減殺する鬼の姿有り。現人鬼はフロントチョークの体勢にて魔王ケーセラの首を捉えていた。

 そのまま断首刑を実行せんべく、現人鬼は(かいな)鬼力(おにぢから)を込める。

 

(なれ)がいかに硬かろうとも、首を極められて永眠生物(眠らぬいきもの)はおらぬ!」

「グググ……ッ!」

 

 鋼鉄の体毛ごと首に腕を絡める。肉と血管がみしりと音を立て、背筋が異様なまでに盛り上がる様。

 現人鬼は己の勝利を確信し、悍ましいまでの美笑を浮かべていた。

 

「やっぱりダメじゃないか!」

「寝返る準備は万端ヨ!」

「グブブ……年貢の納め時」

『本返』

 

 尚、変わらず風見鶏な魔王共は忙しなかった。

 

「グ……グフフフ……!」

「何が可笑しい!?」

 

 首を極められ、苦しげに呻いていたケーセラ。

 しかし、ふと不気味な嗤い声を上げる。

 

「わ……罠に嵌りしは貴様だぞ……!」

「ッ!?」

 

 瞬間。

 ケーセラの鉄毛が()()()と超鋼化する。

 

「シャアアアッ!!」

「ッッ!!??」

 

 直後に聞こえる肉を穿(つらぬ)く生々しい音。

 音が響いた後、現人鬼の腕、肩、胸を穿く銀の(たてがみ)の姿。

 

「グハハハッ! 魔技“銀闘髪”とでも名付けようか!」

「ぐぁッ!!」

 

 ケーセラは首周りの体毛を剣山の如く変質させていた。

 絞め技を仕掛ける現人鬼を串刺しにし、鬼の血を存分に浴びながら勝ち誇ったような嗤いを浮かべる。

 鬼の鉄血は灼熱の温度なるも、ケーセラはそれを意に介さず。

 見ると、微細の鉄毛が鬼の怨血を十全に防御していた。

 鋼鉄すらも容易に溶解せしめる鬼の血を防ぐケーセラの鋼鉄毛。

 その性能、魔王を名乗る似相応しきもの──か。

 

「鬣こそは王者の証! この魔大陸を統べるのは我以外他在らぬ!」

「ぐぅぅッ!!」

 

 串刺し状態の現人鬼を放り投げ、哄笑を上げし魔王ケーセラ。

 形勢は現人鬼の不利に傾く。

 穿れた損傷箇所から怨血が噴きこぼれ、現人鬼はごぼりと口中から血を溢れさせていた。

 

「うむむ……現人鬼殿があれほど攻められるとは……」

 

 一方。

 鬼と魔王の戦いを離れた高台から観戦するはアトーフェ一行。

 親衛隊長のムーアがそう呟く。

 魔大陸で魔王を名乗る者、相応の実力者であるのは疑いようもなく。

 しかし、それにつけても、あの現人鬼がケーセラに対しこの苦戦ぶり。

 現人鬼の実力をよく知るムーアにとって、やはり弱体化の報は信憑性あるものだった。

 

「冴えん!」

 

 ムーアの言を受け、アトーフェは腕を組みながら不機嫌な表情を隠さずにいた。

 美しい顔に備えるその赤い瞳に苛立ちを覗かせる。

 

「なんじゃ、現人鬼は負けそうではないか。ええぞーケーセラ。そのままいったれ」

 

 その足元ではケーセラへ雑な声援を送る魔界大帝キシリカの姿。

 変わらず簀巻き状態な為、もぞもぞと芋虫の如く身体をうねらせていた。

 

「るせぇ!」

「はぅッ!!」

 

 そのキシリカをずんとふんづけるアトーフェ。

 みぞおちにモロのキリシカは、そのまま呼吸困難に陥っていた。

 

「ハララァァァァァッ!!!」

 

 直後、戦場に響き渡る不死魔王アトーフェの大音声。

 

「アトーフェラトーフェか!?」

「牝魔王……」

 

 その場にいる総ての魔の者がアトーフェへ注目する。

 ケーセラは不意の乱入を想定し、油断なくアトーフェを見やる。対する現人鬼、出血に構わず不敵な笑みをひとつ浮かべる。

 

「何故変身(怨身)しねぇ!? オマエの実力はそんなもんじゃねえだろッ!!」

 

 そう激声を飛ばすアトーフェ。

 生身で戦い続ける現人鬼。しかし、本身での戦闘力は、アトーフェすらも封殺せしめる圧倒的なもの。

 それを十分に知るアトーフェは、異世界行っても本気を出さない現人鬼に焦れに焦れていたのだ。

 

「アトーフェ! 貴様、現人鬼側に付くつもりか!」

「うるせぇ! オレはこの喧嘩はどっちにもつかねえ!」

「なにぃ!?」

 

 ケーセラはアトーフェの思惑が読めず。

 元々アホの魔王()として慣らしていたアトーフェだけに、ここに来て中立を保つ理由が分からなかった。

 

「オレは!」

 

 その疑問に応えるかのように激を発し続けるアトーフェ。

 その言霊、現人鬼は変わらず口角を引き攣らせながら聞く。

 

「カールマンやラプラス以外にオレを倒したハララが負けるのが許せないだけだ!」

「何を言って……!」

 

 言うだけ言った後、アトーフェは再び腕を組み地蔵の如くその場に直立する。

 射抜くような赤い視線は、現人鬼にのみ注がれていた。

 

「素直に応援してるって言えばよかろうに……」

「るせぇっつってんだ!」

「はぅぉッ!!」

 

 再度キシリカをふんづけるアトーフェ。

 剛力魔王の踏みつけに二度も耐える魔界大帝も大概である。

 

「くふふふ……!」

 

 アトーフェの言葉を受け、ゆらりと立ち上がり、凍りつくような美笑を浮かべる現人鬼。

 その魔性を受け、周囲の者総てが背筋に冷えた汗を垂らしていた。

 

「牝魔王は我が怨身が見たいとな……!」

 

 そして、現人鬼波裸羅は、腕をゆるりと交差させた。

 

「見や──!」

 

 

 

 

 

 

 

『怨身忍者──霞鬼見参!』

 

「なっ!?」

「色がくすんでおる!」

「チッ……」

 

 怨鬼現出。

 しかし、その姿、常の有様に非ず。

 五色の鷹のような美しくも残酷なその姿とは程遠い、蛹のようなくすんだ色姿。

 明らかに変調が見て取れる、異様な鬼姿であった。

 

「グハハハハハッッ! 何だそのくたびれたボロ衣のような様は!」

 

 対峙するケーセラ、霞鬼の姿を見て哄笑す。

 生身の時よりも“威”が消え失せたのを受け、増長するのもむべなるかな。

 

「くふ、くふふふ……!」

「何が可笑しい!?」

 

 立場が逆なれど、先程と同じやり取りと交わす鬼と魔王。

 不敵な嗤いを浮かべる霞鬼に、ケーセラは滾った血を鉄毛に乗せる。

 ハリネズミのような鋼鉄魔王に、霞鬼は牙を剥き出しにしながら両手を広げた。

 

「覚えておけ……美しくなければ──!」

 

「王とは呼べぬ!」

 

 人間(ひと)、そして魔族(ひと)よりも気高く尊く咲いて散る魂。

 病冒され毒に蝕まれるも、その気魂に陰りは無い。

 

「今の貴様がそれを言うか!」

 

 減らず口を叩く霞鬼に、ケーセラは止めを刺すべく再吶喊。

 全身を剣山の如く先鋭化、両脚に全闘気を込め射出。この時のケーセラ、霞鬼が己の鉄毛にて田楽刺しになる未来が見えていた。

 

「死ねぇぇぇぃぃッッ!!」

 

 時速1420kmはあろうかという音を置き去りにした鉄肉弾。

 刹那の瞬間。

 避けるか、避けられるのか、霞鬼。

 

 否。

 

「ッッッ!?」

 

 

 捕球(キャッチ)

 

 

「ぐふッ!!」

 

 ケーセラの必殺タックルを両手で抱えるように受け止めた霞鬼。その勢いに押され、数十メートルは後退するも、鉤爪の様に変化させた両足先にて地を掴み耐える。

 だが当然、その鬼体は無事では済まない。

 剣山は先程とは比べ物にならぬ程、鬼の身体を網目の様に穿いていた。

 怨血が噴き出し、血は鬼の熱血にてじゅうじゅうと音を立てる。

 

「ぐおおおおッ!!」

 

 苦悶の呻きを上げるのはケーセラも同様。

 先程は未然に防ぎし鬼の熱血。

 しかし、流石に弱体化したとはいえ、怨身体での血は格別なりや。

 

「もうひとつ覚えておけ、畜生!」

「ぐがッ!?」

 

 そして、霞鬼は渾身の鬼力(おにぢから)を振り絞り、ケーセラの鉄身を絞め上げた。

 

()の仕事は──!」

「グギギギギッッ!!」

 

 抱え込むようにケーセラを絞め上げる霞鬼。

 絞める力を強める程、剣山が肉を穿き、さらなる怨血を零す。

 みしり、みしりと音が鳴るにつれ、霞鬼の肉体は損傷を深める。

 しかし、ケーセラの身を守る鉄毛こそは折れずとも、その下にある肉体は無事ではない。

 鉄毛に圧迫され、肉は挽かれ、その骨は粉砕。臓物が破れ、眼球は溢れる。終いには肛門含む体中の穴という穴から血液を噴出させる始末。

 

 そして、霞の美声が響き渡った。

 

 

「やせ我慢!!」

「ギャアアアアアアッッッ!!!」

 

 

 ばきゅっという、生物が圧潰する不快な音が響く。

 ずるりと鉄塊が霞鬼の両腕から溢れ、血海にぼちゃりと落ちる。

 それが鋼鉄魔王ケーセラパーセラの成れ果てであった。

 

「──ッ!」

 

 ケーセラの絶命を見届けると。

 ようやく現人鬼波裸羅は失神(勃起)した。

 失神間際、現人鬼は呟く。

 

 鋼鉄魔王の最期、心からお悔やみ申し上げます

 

 この鬼、不敬につき──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第四十九景『魔界大忍法合戦(まかいだいにんぽうがっせん):()

 

「ヨシ!」

 

 鋼鉄魔王ケーセラパーセラ滅す。

 怨身せし現人鬼波裸羅による鬼の万力絞め。鋼鉄の体毛備えるケーセラ、四肢胴体を柘榴の如くひしゃげさせ、その身圧壊す。

 後に残りしは、戦場に響く不死魔王アトーフェラトーフェ・ライバックの美声。

 

「よくねえよ!」

「現人鬼は気絶してるヨ! ぶち殺すチャンス!」

「グブブ……漁夫の利!」

『現人鬼、我の本返してもらう』

 

 しかし造反魔王共、闘争の果てに気絶した現人鬼を見て千載一遇の好機と捉える。尚、誰もケーセラの仇討ちを仕果たそうとは考えていなかった。

 

「者共! 功名を上げるは今ぞッ!」

 

 バグラーの激声ひとつ。生き残った麾下の軍勢へ向け、意識手放す美魂に終止符を打たんと激を発した。

 

「オラァッ!!」

「ッ!?」

 

 しかし。

 不死魔王アトーフェの大音声が響き渡ると、気絶し果てる現人鬼とイキり立つ魔王共との間に降り立ち、叛逆軍勢を美しくも苛烈な面持ちにて睥睨した。

 

「こいつは──」

「わ、妾はもうあんまし関係ないじゃろ! 速やかな解放を要求する!」

「るせぇ! 今オレが喋ってるんだッ!」

「あいたー!?」

 

 尚、相変わらず縛り上げたキシリカを伴っていた為、やや締まりが悪いのは確かである。

 緊縛魔帝に蹴りをひとつ入れたアトーフェは、傲岸なる気炎を上げた。

 

「こいつはオレが倒すッ!」

 

 そう言うと、アトーフェは気絶する現人鬼を指差す。

 少々指の角度が下向きだった為、指し示す先には現人鬼の雄渾なる美根があった。

 締まりが悪い。

 

「だからお前らはもう退けッッ!!」

 

 ふんすと鼻息を荒くし、赤い瞳を爛と輝かせる不死の女魔王。

 相変わらず語彙が乏しい。しかし、魔王達はアトーフェが言わんとしている事は少なからず理解はできた。

 

「いや金玉を指差しながら言われても……」

「ていうかなんで気絶しているのにおっ立ててるノ……」

「グブブ……勃起!」

『我、下ネタ嫌い』

 

 理解できたというのだ。

 

 

「魔王様方」

「うおびっくりした!」

 

 すると、いつのまにかアトーフェの懐刀(保護者)、親衛隊長ムーアが戸惑う魔王連中の側に現れる。

 驚愕するバグラーに、ムーアは声を潜めながら言葉を続けた。

 

「ここはアトーフェ様の言う通り、一旦兵を引かれるよう……」

「う、うむむ……しかしここで引いたら一体何の為に挙兵したのか……」

 

 逡巡するバグラー以下造反魔王共。

 ここでアトーフェら魔大陸随一の戦闘集団と戦端を開けば、それこそ壊滅的な被害を被る事は必定。アトーフェ軍団も相応の損害を受けるだろうが、なにせ不死魔族が多い親衛隊。相手の戦力が一向に漸減し得ぬ理不尽はもとより、そもそも大将アトーフェの不死性、そして戦闘力がずば抜けている。既に造反魔王最強のケーセラが討ち死に(圧壊死)した現状、残った造反魔王軍が圧倒的不利であるのは自明であった。

 しかし、だからとて此度の義戦──現人鬼が課す重税(みかじめ料)の軽減という、切実極まりない本来の目的を果たさなければ、魔王共は支配する民草の反乱を抑える事は出来ない。

 

 引くも地獄。

 進むも地獄。

 雪隠詰めなこの状況、懊悩するばかりの魔王共。

 

 だが、ここでムーアの双眸が光る。

 老練な不死魔族は、まずはプルプルと巨体を震わせる粘族の長、圖書魔王ベートベ・トベータの前へと進んだ。

 

「ベトーベ陛下。僭越ながら私が現人鬼殿に代わり、陛下の御本をお返し致します」

 

 懐から革張りの本を取り出し、ベトーベの前に差し出すムーア。

 それを巨大な眼球で見た瞬間、ベトーベはぬるりと触手を這わせ、強奪するように本を掴み取った。

 

『本、汚れ無い。我、現人鬼を許す』

 

 自身の蔵書のに汚損が無い事を確かめ、存外に丁重に蔵書を扱っていた現人鬼に安堵したのか、ベトーベは巨体を震わせながら配下のスライムや蟻型魔獣を引き連れ彼方へと去っていった。

 

「いやそれでいいんかい!」

「アイツ、本さえあればどうでもいいんだワ」

「グブブ……本好きの下剋上」

 

 戦力の一角を担うベトーベ軍の撤退に、バクラーらは狼狽とも呆れとも言えぬ微妙な表情を浮かべていた。

 

「ていうかなんでお主が本を持っていたのだ!」

 

 そして、バクラーはしれっと澄ました表情の老魔族へと豚面を向ける。

 ムーアは淡々とバクラーへと答えた。

 

「いえ、あの本は元々現人鬼殿が我らが居城、ガスロー要塞に滞在していた折に置いていかれた物だったのですよ。どうも古代龍族が遺したこの世界の成り立ちについての考察本を読んでいたようですな」

「本の内容なんざどうでも良いわ! く、くそ~! ベトーベめ!」

 

 身も蓋もないベトーベの手仕舞いに憤るバクラー。そも、ベトーベは魔王と称されるも、所詮は図書迷宮の主でしかない。他の魔王達と違って領地経営等一切行っていないのだ。

 元々差し出せる物が本しかなかった故、それを取り戻したらあっさりと造反から離脱した、という次第である。

 

「ところでバグラー陛下、パトル陛下、ケブラー陛下。御懸念の現人鬼殿御徴税金についてなのですが、私にひとつ案が」

「なに?」

 

 そして、ムーアは増々双眸を光らせると、更に声を押し殺して魔王共へと語りかける。

 魔族一の知恵者と謳われたバーディ・ガーディの係累でもあるムーア。その智謀、かつて人魔大戦にて知略を大いに振るったバーディには及ばぬものの、アトーフェの補佐と尻拭いは何とか果たせる代物ではある。

 こと政経に関しての知恵は、現状の魔大陸では十指に入るほどなのだ。

 

「魔王様方の私財売却、領民への課税も最早限界。そこで……」

 

 ムーアの分析はバグラーを始め、造反魔王共の台所事情を的確に捉えていた。

 特に略奪魔王として知られるバグラーは、自領の商家を育成し魔大陸外、友好関係である海人族を通して人族との交易に熱心であり、交易で得た利益を蓄財し魔王一の財産を誇っている。

 それ故、現人鬼のみかじめ料負担はバグラーが一番重い。

 既に個人資産の半数、内大半は人族の商家に安く買い叩かれている事情があるバグラーは、是が非でも鬼退治を成し遂げねばならぬ訳があったのだ。

 全ての負担を領民へ強いるような事はしないバグラーは、通称に似合わない民草に優しい名君の資質を持っているのかもしれない。

 

「そこで、手形を発行してはどうでしょうか?」

「手形ぁ?」

 

 ムーアの提案に、バグラーは何を馬鹿なと醜悪な豚面を歪める。

 

「借金しろというのか、この儂に」

 

 略奪魔王としての矜持からか、バグラーは他者に金の無心をするという行為が屈辱めいたものであると感じており。その心境は、ムーアにとっても理解できるもの。

 欲しければ奪う。それが本来魔族としてあるべき姿なのだ。頭を下げて乞い願うものではない。

 もっとも、私財を買い叩かれている現状では、略奪魔王の説得力は皆無であるのだが。

 

「そもそもワタシ達の手形なんて誰も割ってくれないワ」

 

 渋面を浮かべるバグラーに同調するように、パトルがそう言い放つ。

 魔大陸の商業経済は人族の領域と比べ未熟。大型借款を引き受けられる資金力を持つ大商家など、この魔大陸では存在しない。

 そもそも、中央大陸のアスラ貨幣やミリス大陸のミリス貨幣と比べ、魔大陸で流通している魔界銭は弱いのだ。物価も数倍の差がある。

 加えて、強力な魔物が跋扈する危険地帯が故に、魔大陸の流通インフラは非常に貧弱である。さらに、魔力災害による天候不順が頻発する魔大陸は、まさしく不毛の地。農業生産量は人族領域と比べ粗末なものである。

 魔大陸の食糧事情の劣悪さは、かの“泥沼”ルーデウス・グレイラットをして『野菜が高い』と主婦めいた文句を言わしめるほど。もっとも、発育途上のエリス・グレイラットの食育に日々頭を悩ませていたルーデウスは、実際主婦めいた苦労をしていたのだが。

 食糧事情の乏しさは人的資源にも大いに影響するも、魔族特有の長寿命のおかげでそれなりにはある。が、それでもアスラ王国など人族の大国に比べ少ないのは確かだ。

 

 これらの様々な負の要因が、魔大陸の経済成長を阻害しているのだ。

 

「それは重々承知しております。ですので」

 

 当然、これらの事情はムーアも把握している。

 しかし、老練な不死魔族は僅かに口角を歪めた。

 

「人族の……そうですな、アスラやミリスの大商家に手形を発行してはどうでしょうか?」

「はぁ?」

 

 ムーアの提案に、またしても怪訝な表情を浮かべるバグラー達。

 とても知恵達者の言葉とは思えず、即座に反論を述べる。

 

「それこそ足元見られるに決まっておろうが。あやつらとは何度か取引しておるが、儂ですらどん引きするくらい強欲だぞ」

「額面通りに割ってくれるワケないワ。ただでさえみかじめ料で苦しいのに、利息の支払いでワタシ達破産するワヨ」

 

 海千山千の人族商人。己の命をかけてまで利益を追求するその姿勢は、強欲な魔王ですら毒気を抜かれるほど。

 だが、これは短命な人族だからこその有様であり、長寿命の魔族から見れば生き急いでいるとも言える人族の生き方とは相容れないものなのだ。

 

「足元を見られれば宜しいではないですか」

「何言ってんだお前」

「他人事じゃねえんだゾ」

 

 思わず素になるバグラーとパトルであったが、構わずムーアは言葉を続ける。

 

「もちろん交渉は必須でありましょうが、額面の半分程度で割ってくれれば上等でしょう。なぜなら」

 

 知恵者、というには些か狡猾な笑みを浮かべるムーア。

 そして、狡猾極まりない弁を言い放った。

 

「全額返す必要はないからです」

「なにっ」

 

 悪辣な手段を提示するムーアに、今日何度目かわからぬ驚愕を露わにするバグラー。

 パトルも唖然とした体で老魔族を見やる。

 

「十年、二十年建てで手形を発行し、二、三年は利息払いを真面目にやればよいでしょう。それ以降は何かと理由をつけて払いを先延ばしにすればよろしい。それを延々と続ければ、いずれ人族の寿命は尽きます」

「いやツッコミ所満載なのだが」

 

 長寿命の魔族らしい弁済遅延戦法。しかし、バグラーの指摘はムーアも予想済。

 

「商人の寿命は尽きても商家の寿命は尽きず。また、大国が背後にいる以上強引な返済を迫る事もあるでしょう。しかし、それの何の問題が?」

「問題だらけなのだが」

「人族の国にいる魔族の信用がガタ落ちになるわヨそれ」

 

 当然ながらそのような強引な手法を行えば、各地に棲まう同胞魔族に多大な迷惑がかかるのは必至。

 ただでさえ数百年前までは大戦争を行っていた者同士。ミリス王国などでは未だに魔族への迫害が酷く、それ以外の人族国家でも魔族の地位は決して高いとはいえない。

 

「気奴らが武力で返済を迫る気概はありますまい……それに、我々に元々失うような信用があるとお思いで?」

「そんな身も蓋もない」

 

 だが、ムーアはそれについてはあえて黙殺した。これ以上迫害が酷くなろうとも、他大陸へ渡った同胞達はきっと逞しく生き永らえるだろうと、割と無責任な考えを持っていた。

 それに、魔族の戦闘力は人族のそれと比べ総合的に高い。各個での戦闘力は人族でも十分に対応可能であるが、その強力な戦力を統率する将帥の存在があれば、魔族はこの世界を統べる事すら不可能ではない。

 先のラプラス戦役でそれを痛感していた人族諸国家。ラプラスは封印されているとはいえ、魔大陸に積極的に干渉しようとする人族国家は皆無なのだ。

 

「しかしこちらが踏み倒す満々なら、そもそも交渉に乗るような商家はおらんと思うぞ」

 

 とはいえ、不渡りになる可能性が高い手形取引に応じるほど、人族商家は愚かではない。

 その可能性に言及したバグラーに、ムーアはまたしても不敵な笑みを浮かべながら応える。

 

「それに関してはご安心めされよ。取引に応じる商家はこちらが紹介します。これでも不治瑕北神流の大家ゆえ、人族商家ともそれなりに伝手がございます」

「いや、それだとお主らはもちろん、北神流に迷惑がかからんか?」

「心配御無用。紹介する商家は大商いをするが故に、金を余らせている輩ばかり。むざむざ税に取られぬよう、隠し金を作るのに執心しておる者を選び渡りをつけます。返済が滞ればそれなりに嫌がらせを受けるかもしれませぬが、元々汚れた金をこちらが引き受けているようなもの。武を以て返済を迫る商家などおりますまい」

「お、お主……意外と(ワル)よのう」

 

 悪辣な提案をするムーア。

 各国の行政で最も重要な機関は徴税吏であり、彼らは日々民草からいかに税を搾り取るかを尽力している。そして、民草がそれらを躱す為に必死になるのもまた然り。

 それ故、大商家が隠し財産の行方に苦心している状況は、資金調達に苦心する魔王達にとって都合が良いのだ。商家にとっても都合が良いのは同様で、一応は他領の領主が発行した公的債権である。資金清浄の手口としては実に手堅い。

 また、仮に隠し財産の全て失っても、商家にとってそれは痛手こそあれ致命傷とはならず。そして、それらを狙い撃ちにしたムーアの金策は、商家の泣き寝入りを前提としたあくどい手段といえよう。

 とはいえ、正常な手段で資金を調達するのは、現状のバグラー達では不可能である。

 

 渋々、とではあるが、バグラーとパトルはお互いを見やると、ムーアへぼそりと言葉を返した。

 

「……仕方あるまい。お主の策に乗ろう」

「それしか手段はないワネ。すっごく不安だケド」

 

 やや先行き不安な提案ではあるのだが、それしかあるまいと首肯するバグラーとパトル。

 そうと決まれば撤収あるのみと、配下へ号令をかけようとした。

 

 

「ムーア! いつまで小難しい話をしているんだッ!」

 

 すると、先程からムーア達の会話を仁王立ちにて聞いていたアトーフェの激声が響く。

 当然、アトーフェにそれらの会話は一切理解出来ていなかった。理解しようともしなかったが。

 

「いえ、もう終わりました。魔王様方は撤兵に応じると」

「そうか! わかった!」

「話終わった? じゃあ妾をふんづけてるこの足どけてもらってもええか?」

 

 とはいえ、結果さえ聞ければアトーフェは満足である。

 猪突猛進の超武闘派魔王とはいえ、魔軍相撃という事態は、やはり避けたいものであり。

 心なしかやや安堵の表情を見せるアトーフェ。その足元には相変わらず踏みつけられ、かわいそうな感じの魔界大帝の姿があった。

 

 結果としてケーセラが全くの犬死だったのはさておき、これにて一件落着──

 

「グブ、グブブ……!」

 

 しかし。

 バグラー達が撤兵の号令をかけようとしたその時、それまで黙していた不快魔王ケブラーカブラーが呻き声に似た嗤いを上げる。

 

「グブブ……ムーアよ……お主の策、大きな穴があるぞ」

「なんですと?」

 

 ムーアの借金踏み倒し案に物言いをつけるケブラー。

 一同、球体状の身体をボロ衣のようなコートで包むケブラーの姿を注視する。

 

「グブブ……そもそもそのような策、現人鬼がいなければ行う必要は無い!」

「お前なんで話を蒸し返すかなぁ!?」

 

 思わずツッコミを入れるバグラー。

 相変わらず気絶(勃起)している現人鬼を、その不快な眼窩で舐めつけるように見やるケブラーの意見はもっともではあるのだが、せっかく纏まった話を蒸し返されてはたまらない。

 

「ケブラー……テメェ、またオレにボコにされたいのか?」

「グブブブッ!?」

 

 すると、アトーフェはケブラーへギラリと赤い瞳を向ける。往生際の悪いケブラーに苛立っているのか、こめかみには青筋が浮かぶ。

 以前、アトーフェとケブラーは些細な事から紛争を起こしており、アトーフェの実力を侮ったケブラーは案の定ボコボコにされていた。

 元々粘着質な球体でしかなかったケブラーの肉体を、アトーフェは文字通り穴だらけにしており。

 恐怖と苦痛の記憶が蘇ったのか、ケブラーは分かりやすく狼狽えていた。

 

「グブブッ、アトーフェと争う気はない……」

 

 不死魔王の暴威を受けすごすごと引き下がる不快魔王。

 しかし。

 

「……だが、我が手を下さずとも、現人鬼は程なくその身滅するであろう」

「あん?」

 

 不敵に嘯くケブラー。

 アトーフェを始め、一同不快魔王へと注目す。

 

「グブ、グブブ……現人鬼が患っている病……それはドライン病」

「ッ」

 

 秘匿にしていた現人鬼の病変を言い当てたケブラー。

 何かしらの病毒に苛まれているという情報は、叛逆魔王達の間では既知であったが、ケブラーは病名をずばりと言い当てており。

 なぜ知っている、という周囲の疑問に応える前に、ケブラーはぐぶぐぶと不快な声を出し続けた。

 

「グブ……それを治すにはソーカス草を煎じた茶を服用すれば良い……しかし、逆に言えばソーカス草がなければ不治の病と化す……」

「何が言いたいんだコラ?」

「グブッ」

 

 変わらず青筋を浮かべながらケブラーへ聞き返すアトーフェ。

 若干ビビりつつも、不快魔王の言葉は続く。

 

「グブブ……キシリカ城を空けたのは悪手だったな、アトーフェ」

「あぁ?」

 

 ケブラーの言葉に首をかしげるアトーフェ。

 しかし、懐刀のムーアは即座にその意に気付く。

 

「地下へッ!」

 

 ムーアの命を受け、慌てて飛び出す親衛隊数名。

 そして、ムーアは不快魔王へその老眼を向ける。

 

「ケブラー陛下……まさかとは思いますが」

「グブブ……我は何も知らぬぞ? リカリス城のソーカス草が残らず枯れていても、我は何も知らぬ」

 

 空々しくそう嘯くケブラー。

 元より此度の紛争には不介入を貫くつもりであったアトーフェ軍。しかし、不測の事態に備える為、親衛隊全員がキリシカ城を後にしている。そして、不快魔王の体液はありとあらゆる有機物を腐食させる性質を持ち、配下の眷属も隠密性に長けた者たちが多いのを思い出したムーアは、してやられたという思いで目を細めていた。

 

「その分だと我がガスロー領はもとより、他領のソーカス草にも手を回しているようですな」

「グブブ……魔大陸中のソーカス草が一斉に枯れるなど、不思議な事もあるものよ……」

 

 狡猾な不快魔王の工作は、既に他の魔王領までに及んでいる。

「え、儂らのも?」と目を丸くしているバグラー達を見るに、ケブラー独断での謀略だろう。

 文字通り腐っても魔王を名乗る実力者ケブラーカブラー。入念に準備を進めていれば、各魔王が所持栽培しているソーカス草を残らず枯死させる事も不可能ではない。

 

「こりゃあケブラー! お主なんてことするんじゃ! あれ妾もたまに飲んでるんじゃぞ!」

 

 すると、アトーフェの足元で芋虫の如くのたうち回りながら抗議を上げるキシリカの姿あり。

 元々、ソーカス草は第二次人魔大戦の折、その群生地ごと海の藻屑となっているのだが、キリシカはソーカス草を煎じた茶を大変気に入っており、予め群生地から株ごとソーカス草を採取、各魔王達へ栽培を命じている。

 一般魔族には出回っていない希少なソーカス草は、魔大陸の支配階級に好まれる嗜好品でもあったのだ。煎じた茶の効能はドライン病の治癒に有効だが、そもそもの味も良く、また寿命を延ばす効能も認められていた。

 

「グブブ……我は何も知りませぬよ、キシリカ様」

「堂々とシラを切るとかとんでもないモラルハザードじゃな!」

 

 恐らくキシリカ城のソーカス草も既に腐敗しているだろう。そして、それをケブラーがやったという証拠も、恐らく出ない。

 ケブラーの嘯きはほぼ自白しているようなものだが、魔王を証拠もなく罰するのは難しい。無法地帯と思われる魔大陸であるが、一応はキリシカ統治時代、そしてラプラス統治時代を経て、魔王達の間にはある種の協定が結ばれている。

 不要な紛争を防止する為の諸々の取り決めは、現時点ではケブラーに優位に働いてた。

 

「ムーア、草が枯れるとどうなるんだ?」

 

 ここで疑問をひとつ浮かべるアトーフェ。

 まさかここに来て今更な質問というか、今まで話を聞いていなかったのかと愕然とするムーアであったが、気絶しそうになるのをぐっと堪えて主の疑問に応える。

 

「現人鬼殿が身罷ります」

「あぁ!?」

「恐らくケブラー陛下の仕業でしょうが、何分証拠が無く──」

 

 ムーアの言葉を最後まで聞かず、アトーフェはつかつかとケブラーの前へ進んだ。

 

「ケブラー! 草枯らしたのはテメェだな! “ハイ”と言え!!」

「グブブブブッッ!?」

 

 すると、突然ケブラーのボロを掴み、ガンガン揺り動かすアトーフェ。

「いきなり凄い取り調べ方じゃな……」と、流石のキシリカも若干引くほど、アトーフェの苛烈な追求が繰り広げられた。

 

「グブッ、しょ、証拠でもあるのか、アトーフェ!」

「知るか! “ハイ”と言え! 言えと言ったら言えッ!!」

「アトーフェ様、それ以上は……」

「うるせえッ!!」

「ぐッ!?」

 

 見かねたムーアが止めようと間に入るも、不死魔王必殺の肘鉄を受け顔面を陥没させるムーア。

 直後には自己修復が始まるも、回復した表情は諦観の念を浮かべていた。

 

「うむむ、しかしどうするか……」

 

 ともあれムーアは腕を組み考えを巡らす。

 流石に魔大陸中のソーカス草が全て失われたとは考えられず、ある程度はケブラーのハッタリもあるだろう。しかし、容易に手に入らなくなったのは確実。

 もしこのままソーカス草が手に入らず、現人鬼が病死するような事があれば。

 反乱魔王共は大いに喜ぶだろうが、再戦の機会を永遠に損なわれたアトーフェが、その鬱憤から何を仕出かすかわからない。最悪、魔大陸中を巻き込んだ大内戦に発展しかねず。

 ムーアは最悪のシナリオを回避するよう、キシリカ城へ向かった部下達へ一縷の望みをかけていた。

 

 渦中の現人鬼は、変わらず不敵な笑みを浮かべながら勃起(気絶)していた。

 

 そして。

 

 

「テメェ、マジで──ッ!?」

 

 尋問を続けるアトーフェは、ふとリカリス方向へと赤目を向ける。

 何を見つけたのか。その表情は親の仇を見つけたか如く、美しい顔を猛獣のように歪めていった。

 

「何やら騒々しいな。これだから魔族というものは……」

 

 リカリス城門から、悠然と歩を進める貴種人の姿あり。

 配下であろう使い魔達を従え、輝く銀髪を靡かせる金色の三白眼。

 乱痴気騒ぎを見て尊顔を顰めるは、古代龍族の末裔にして、魔神殺しの三英雄が一人。

 それを視認した不死魔王アトーフェ・ラトーフェ・ライバックは、大音声にてその名を叫んだ。

 

 

「ペェェルギィウゥスゥゥゥゥゥッッッ!!!!」

 

 

 

 甲龍王ペルギウス・ドーラ。

 魔の饗宴に現出す──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十景『魔界大忍法合戦(まかいだいにんぽうがっせん):()

 

 甲龍王ペルギウス・ドーラ。

 魔神殺し三英雄の一人にして、古代龍族は伝説の五龍将、初代甲龍王ドーラの実子。

 現代の甲龍王を受け継ぐ男は、かの天大陸にて龍族秘術“転生法”によりこの世に生まれ落ちた。

 以来、ペルギウスは人族の英雄としての龍生を歩むこととなる。

 現在世界中で使用されている暦“甲龍歴”は、ペルギウスがラプラス戦役において魔神討伐を成し遂げ、人族の安寧に貢献した事を讃えて制定された。

 

 仁智勇を兼ね備えた稀代の英雄として讃えられ、世界中の権力者達ですら畏怖する甲龍王ペルギウス。

 しかし当然の事ながら、かの英雄は初めから英雄たる実力を備えていたわけではない。

 ペルギウスが英雄たらしめたラプラス戦役。

 そこで、ペルギウスは幾度も半死半生の目に遭っている。

 

 今でこそ空中城塞や十二の使い魔、そして類まれなる魔術を駆使し、列強に引けを取らぬ戦力を備えるペルギウス。しかし、当時のペルギウスは資質は備えるも戦闘力は未熟者であり。

 先達の英雄達の背中を追いかける若き甲龍王。その生命を最も多く脅かしたのは、魔族側の急先鋒に立った不死魔王アトーフェラトーフェ。

 幾度も半殺しにされたペルギウスが、アトーフェに憎しみを抱くのは必然であり、アトーフェもまた幾度も己を虚仮にするペルギウスを憎悪するのは必然であった。

 しかし、アトーフェが初代北神カールマン・ライバックに敗れ、その妻となってからは、カールマンは妻と弟分それぞれに不殺の約定を課し、双方の“殺し合い”を禁じていた。

 

 しかし、その約定が無くとも。

 一触即発の事態は避けられぬほど、両者の因縁は浅からぬものであった。

 

 

 

 

「ペェェルギィウゥスゥゥゥゥゥッッッ!!!!」

 

 怒髪天を衝くとはまさにこの事。

 今日一番の大音声が戦場に響き渡る。

 血走ったアトーフェの眼球の先。赤い瞳に映るは、当代甲龍王ペルギウス・ドーラの姿があった。

 

「喧しい。相変わらず知性の欠片もないな貴様は」

「うがぁぁぁぁッッ!!」

 

 ペルギウスが憎々しげにそう言うと、“挑発”されたと感じたアトーフェは抜刀。両脚に力を込める。

 

「アトーフェ様! 御夫君が定めた盟約をお忘れか!」

「ッ!?」

 

 しかし、吶喊しようとするアトーフェに待ったをかける親衛隊長ムーア。

 最愛にして最強の夫、カールマンの姿が頭に過ぎったアトーフェは、その声を受け即座に突進を止めた。

 それを見たムーアは、安堵のため息ひとつ。

 主の因縁の相手であるペルギウスは、ムーアにとっても敵。しかし、この場においてペルギウスと総力戦を行う意図はない。

 負ける、という気は毛頭ない。むしろ因縁の相手を完殺する気構えは常に備えている。

 しかし、初代北神カールマン・ライバックは、ムーアにとっても唯一無二の存在。敗滅寸前のアトーフェを人族陣営に突き出そうともせず、庇うどころか己の伴侶にしてしまうその度量。

 大切な主君を救われた恩義もあり、カールマンはアトーフェと同様に、ムーアが永久の忠誠を誓う存在でもあったのだ。

 

 そのカールマンの遺志は、最愛の妻アトーフェと親友であるペルギウスとの殺し合いを禁ずるというもの。

 その遺志は尊重されて然るべきものなり。

 もっとも、せっかく()便()に纏まりかけた話を台無しにされてはかなわんという、ムーアの切実な想いもあったのだが。

 これ以上魔王級の流血は避けねばならぬのは、魔族全体にとっても切実な状況でもあった。

 それに、よしんば人界の英雄たるペルギウスを弑逆するような事があれば、今度は人族との全面戦争の危険がある。

 ラプラスという超越者無き今の魔族では、人族との戦争に打ち勝てる可能性は限りなく低かったのだ。

 

「……テメェ、何しに来やがった」

 

 抜身の刀身と己の赤い瞳をギラつかせながら、アトーフェはペルギウスが突然現れた理由を詰問する。

 アトーフェが我慢したのは政治的な理由は一切なく、あくまで亡夫カールマンの遺志を尊重しての事。

 故に、珍しく“話し合い”をしようと、剥き出しの殺意を抑えぬままであったが、ペルギウスへ対話を試みていた。

 

「貴様には関係ない。さっさと余の目の前から失せろ愚か者」

「うっがぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

「アトーフェ様! 抑えてくだされッ!」

 

 もっとも、当の甲龍王は亡き親友との盟約を遵守こそすれ、不死魔王と対話をする気はさらさら無かった。

 

「ペルギウス様」

 

 そうこうしている内にペルギウスの使い魔が一人、光輝のアルマンフィが音も無く現出する。

 その両脇には鉢植えが二つ抱えられており、植えられている植物は当然。

 

「グブ!? ソ、ソーカス草!?」

 

 アルマンフィが抱えるソーカス草の鉢植えを見て、不快魔王ケブラーは狼狽す。

 

「申し訳有りません、地下にいた魔族と戦闘になり……この二つしか確保できず」

「いや、これで十分だ。カロワンテ」

 

 ペルギウスは鉢をひとつ受け取ると、そのまま使い魔の一人、洞察のカロワンテへと渡す。

 カロワンテはそれを恭しく受け取ると、鉢植えをまじまじと見つめた。

 

「株分けは出来そうか?」

「はっ。空中城塞でも栽培は出来ると思います」

「そうか。ならば良し」

 

 使い魔の分析を受け鷹揚に頷く甲龍王。

 その表情は固いままであったが、目的の()()()を達成したのか、言葉尻は満足げなものが伺えた。

 

「な、何故ソーカス草を……」

 

 亡夫の想いが働いているおかげか、アトーフェはいつもの力技を発揮せず。故に、かろうじて主君アトーフェを抑えられているムーアが疑問を浮かべる。

 この場においてソーカス草は、現人鬼と鬼に虐げられた魔族以外にはさして重要な代物ではない。

 なのに何故、いきなり現れたペルギウスがソーカス草を確保せしめているのか。そもそもドライン病とは、七千年も前に根絶した病。その治癒に必須であるソーカス草の効能を、ペルギウスが知り得るはずもないのに。

 そのような疑問を浮かべるムーアに、ペルギウスはつまらなそうに怜悧な視線を向ける。

 

「……貴様らには関係ない。が、一つだけ答えてやる」

 

 そう言うと、ペルギウスは引き連れた使い魔の一人、暗黒のパルテムトへ目配せをした。

 

「貴様らには想像もつかない存在がいるのだ。余はその者との“盟約”を果たすだけよ」

「な、何が」

 

 余人には推し量れぬ言を述べるペルギウス。

 当惑せし魔族共に構わず、ペルギウスは荘厳なる龍声を発した。

 

「パルテムト」

 

 そして、暗黒のパルテムトの能力が発動した。

 

「えっ」

「なにっ」

「なんだぁっ」

 

 さらなる混沌。

 突如戦場を包む暗闇。

 視界を封じられた魔族共は、一様に混乱の坩堝へと叩き込まれる。

 

 だが、それはごく短い時間──数分にも満たない内に、唐突に終わりを告げた。

 

「い、一体何が──ッ!?」

 

 いち早く混乱から回復したムーア。

 周囲の状況を確認するべく、明けた視界にて周囲を見渡す。

 すると。

 

「ペェェルギィウゥスゥゥゥゥゥッッッ!!!!」

 

 再び響き渡るアトーフェの怒声。

 当のペルギウスら甲龍王一行の姿は既になく。

 そして、もう一体。

 

「ハララをどこへやったぁぁぁぁぁッッッ!!!」

「ッ!?」

 

 真っ先に異常に気付いたのは、この場ではアトーフェであった。

 傍らにて失神し果てた現人鬼波裸羅。

 その姿が忽然と消え去る──否、連れ去られた。

 鬼誘拐犯は、アトーフェですら察せた。

 

「うがぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

「い、いかん! アトーフェ様をお止めしろッ!」

「あっぶな! ひ、引き上げじゃ!」

「撤退! 撤退ヨ!」

「お主ら妾を置いていくなぁ! 妾魔界大帝じゃぞ! 偉いんじゃぞ! あいだ!? やめんか阿呆ーッ!!」

 

 落着したはずの魔族の饗宴は、再び戦場の如き混沌に包まれる。

 堪忍袋の緒が切れたアトーフェが暴れまわり、此度こそ抑えられぬアトーフェ親衛隊の絶叫が響き、暴威の余波から遁走せんと叛逆魔王軍の必死の撤退戦が繰り広げられた。

 

 

 結局のところ、魔王連合軍による鬼征伐は、甲龍王ペルギウスの乱入により有耶無耶の内に終わってしまった。

 とはいえ、送金先を都度指定していた現人鬼が、以後消息不明となった為、多くの者が迷惑を被る“魔王大借款”は実行されず。

 みかじめ料を徴収される事が無くなった魔王領は、この後数十年は安寧の時を過ごす事となる。

 結果だけ見れば、魔王共の決起は決して無駄では無かったのだ。

 

 

 不死魔王の暴風吹き荒れるリカリス郊外にて、不快魔王ケブラーカブラーがいつの間にか姿を消した事は、誰も気付く事はなかった。

 

 

 

 

「グブ、グブブ……! 甲龍王が出張るとは聞いておらぬぞ……!」

 

 僅かに残った手勢を引き連れ、自領へと敗走するケブラーカブラー。

 何者かに呪詛めいた文句を垂れるその様は、まさしく不快であり、異様な有様。

 配下の異形共も、主君のただならぬ様子に、かける言葉は見つからず。

 

「グブブ……我はもう知らぬ……ソーカス草は()()()()()根絶やしにした……我は務めを果たした……()()の意に沿った……」

 

 不気味にそう呟く不快魔王。

 何者か──いずれかの超常の者に課せられた“使命”は果たしたと、自己弁護めいた言葉を吐く。

 

「グブ……あとはそちらで何とかされよ……」

 

 

「ヒトガミ」

 

 

 不快魔王は、そう呟いていた。

 

 

 

 

 


 

 夢にアイツが出た。

 何もない、白い、白い場所。

 そこで、アイツは──ヒトガミは、開口一番にこう言った。

 

「ね? 言った通りでしょ? ルーデウスくん」

 

 ヒトガミは俺に呆れたような、小馬鹿にしたような……そんな空気を出していた。

 白いのっぺらぼうのような顔は、相変わらずモザイクがかっててよく見えなかった。

 

「君がベガリットに行ったせいで、シルフィエットはああなってしまったんだ」

 

 ベガリットに行く前。ヒトガミは、べガリットへ行けば必ず後悔すると言った。

 でもなんで……なんで、こんな事になってしまったんだ。シルフィが、なんであんな目に遭わなければならないんだ。なんで俺がベガリットに行ったせいで、こんな事になったんだ。

 声を荒げる俺に、ヒトガミはため息をつきながら言葉を続けた。

 

「まあ順番に説明するけど……あのまま君がベガリットに行かなければ、君の弟、ウィリアムがシャリーアに来る。それで、彼は死神と戦い、無事七大列強“武神”になる。そのままミルデット兄弟を弟子にして……ここまではあまり変わらないね」

 

 ヒトガミは続ける。

 

「その後、彼はアリエル王女の配下になるんだ。いつまでも“無職”でいる弟を君が心配して、アリエルに仲介する形でね。ウィリアムの性格からして、兄である君の仲介は断れなかった」

 

 俺がアリエルにウィルを紹介するのか。

 ウィルがナナホシを差し置いてアリエルに付くとは思えないが。

 

「君がシャリーアにいるから、ウィリアムが出会う人々の“因果”が変わった……いや、正しい形になったってところかな。ともかく、程なくして彼はアリエル達と共にアスラへ向かう。アリエルが王権を奪取する為にね」

 

 ヒトガミは続ける。

 

「まああの武神が一緒なんだ。さして苦労もせず、アリエルはアスラの女王となる。そして、ウィリアムはアスラ王国近衛隊長となり、自分の流派を国中に広めるんだ。そのままこのウィリアムはアスラの民草に親しまれ、六十八歳まで生きながらえたとさ」

 

 そうか。ウィルは人生を全うしてたんだな。

 ちゃんと、仕えるべき主君に出会ってたんだな。

 

「君もリニアかプルセナを二人目の妻に迎えて、沢山の子供たちに囲まれて幸せに暮らしていたよ」

 

 あの二人はそういう目で見てないけど、お前が言うならそうなっていたんだろうな。

 でも、それじゃあパウロ達は……転移迷宮に囚われたゼニスはどうなるんだ?

 

「もちろん、両親や妹達も一緒に幸せに暮らしていたよ。君達が行かなくても、君の父親は何とかして君の母親を助けていた」

 

 じゃあ、ロキシーはどうなるんだ?

 ウィルや波裸羅様がいなかったら、ロキシーはあの悪霊に取り憑かれたままじゃないのか?

 

「ロキシーは君達が行かなかったら、確かにあの()()の悪霊に取り憑かれたままだね。でも、それもしばらくすれば解決したよ」

 

 そう言って、ヒトガミは説明を続ける。

 俺が来なかった場合、ギースが迷宮攻略の地図を手に入れる事ができて、その後地図を複製。格安で販売して、迷宮に潜る冒険者の絶対数を増やし、攻略の難易度を下げようと画策したと。

 

「そこで、たまたま神撃魔術の使い手がいるパーティが、君の父親達と同行する事になってね。そのまま、彼らはロキシーと無事に再会し、神撃魔術師が悪霊を除霊するんだ。晴れてロキシーは元通り。君の母親も無事に救出されるって寸法さ」

 

 そんなにうまく行くものなのか。

 

「そんなもんだよ。運命ってのは」

 

 ……運命か。

 じゃあ、どうして……どうして、俺がベガリットに行ったせいで、シルフィがあんな事になってしまったんだ?

 

「一言で言うなら、異界の品物が一箇所に、それも複数が長く留まりすぎたせいかな」

 

 品物?

 それって、ウィルの七丁念仏や不動の事か?

 

「そ。あれらは本来この世界にあってはいけない物なんだ。どうしてこの世界に来てしまったのか僕にもわからないけど……ともかく、ただでさえあってはいけない物なのに、それが二つも一箇所に留まってしまった。あれらが()び水になって、どんどん良くない()()が異界から現れたみたいだね」

 

 それじゃあ、ウィルが……ウィルがシャリーアにいたから、あの鬼達が現れてシルフィが襲われたって事なのか?

 

「そういうことになるね」

 

 ……なんだよそれ。

 

「さっきも言ったけど、君がベガリットに行かなければ、ウィリアムはさっさとアスラへ向かっていたんだ。ベガリットで異界の鎧も手にする事もなくね。七丁念仏だけだったら、異界のものはそうそうこの世界には出現出来ないだろうし」

 

 ……じゃあ、結局全部俺のせいなのか。

 俺が、お前の助言を無視して、ベガリットに行った“因果”ってことなのか?

 

「そうだね。残念だよ」

 

 ……くそ。

 こんな事になるなら、お前の言う通りベガリットに行かなければよかった。

 でも、何で教えてくれなかったんだ?

 こんなひどい事になるなんて、なんで教えてくれなかったんだよ?

 

「教えたら本当に行かなかったのかい?」

 

 行かなかった。

 シルフィがあんな事になるくらいなら、俺は行かなかった。

 

「でも、それだとロキシーと結婚出来なかったよ?」

 

 ……それでも、行かなかった。

 だって、ロキシーは無事に生き延びるんだろう?

 彼女が無事なら、それでいい。

 

「そうだね……まあ君も知っている通り、僕はウィリアムにも助言を与えていた。君がベガリットへ行かないように、君をシャリーアに留めるようにね。結果だけ見たら無駄だったけど」

 

 なんだって?

 ウィルが俺を止めるって、そんな事を助言してたのか。

 

「うん。でも、ウィリアムは間に合わなかった。これは僕のミスだね。一人でさっさとシャリーアへ行くように言えばよかった」

 

 どういう事だ?

 

「君も知ってるギレーヌが途中までウィリアムについて行っちゃったからね。まあ仲良くしすぎて、ウィリアムの到着が遅れちゃったってところかな」

 

 なんだそれ。ウィルとギレーヌってそんな仲だったのか。

 ていうか、なんで俺にウィルの事教えてくれなかったんだよ。

 

「君達兄弟、家族が再会できるのは運命だからね。僕がわざわざ伝える必要はないよ」

 

 ……じゃあ、ウィルにも助言を与えてたって事は、今のウィルにもお前は会えるんだよな?

 今、ウィルはどこにいるんだ?

 

「わからない」

 

 わからないって、お前はカミサマなんだろう?

 何でも見通せる力があるんじゃないのか?

 

「ベガリットの迷宮までは見えてたよ。でも、彼が異界の悪霊と戦った後、急に見えなくなった」

 

 なんで急に見えなくなったんだ?

 

「逆に聞くけど、心当たりはないのかい?」

 

 ……ある。

 ウィルは、波裸羅様の……鬼の血を受けて回復した。

 鬼の血を、身体の中に宿していた。

 

「じゃあそれだね。僕には見えなくなるような呪いが異界の()()にはあるってことだ。あの“龍神”みたいにね。君の“眼”を通してなら存在は見えるんだけど、直接は無理だね」

 

 呪いで見えないってことか。

 じゃあ今のウィルは、生きているのか死んでいるのかもわからないんだな。

 

「そうだね。まあウィリアムが簡単に死ぬとは僕も思えないけど」

 

 同感だな。

 

 ……なあ、ヒトガミ。

 

「なんだい?」

 

 俺の夢に出てきたって事は、今回も俺に助言してくれるんだろう?

 

「そうだね」

 

 じゃあ、シルフィを助けられるんだな?

 シルフィを治せる助言を、お前は与えてくれるってことなんだよな?

 

「そういうことになるね」

 

 頼む。

 シルフィを助けくれ。

 シルフィが助かるなら、シルフィを救えるなら、俺はなんでもする。

 

「ん? 今なんでもするって」

 

 そういうのはいいから早く言えよ!

 

「いや、ただの確認なんだけど。ていうか少し落ち着きなよ」

 

 落ち着いていられるかよ!

 シルフィが死にそうなんだぞ!

 早く助けないと、シルフィが死んでしまうんだぞ!

 

「あのさぁ……君は立場ってのを少し考えてほしいな。僕はこの世界の神様なんだよ一応」

 

 ……すまん。

 いや、ごめんなさい。

 ヒトガミ……ヒトガミ様。

 どうか、どうか……シルフィを助けてください。

 

「……まあ、僕は退屈だから面白いものは見たいってのはあるけど、可哀想なものを見る趣味はないよ。君とは長い付き合いだし、助けたい気持ちもある。でもね」

 

 でも、なんですか?

 

「いや敬語はもういいよ気持ち悪い……なんでもするって事は、どんな残酷な事でもやれるってことだよね」

 

 ああ。

 なんでもする。

 どんな残酷な事でも。

 

「そうか……じゃあ、ルーデウスよ。よく聞きなさい」

 

 はい。

 

「ロキシーのお腹を思い切り殴りなさい」

 

 は?

 

「殴ったらロキシーの下腹部から溢血(いっけつ)が出ます」

 

 お前、何言って

 

「それをシルフィエットに飲ませなさい。そうしたら、彼女を蝕む鬼の爪は跡形もなく消え去るでしょう」

 

 お前ふざけてんのか?

 

真面目(マジ)だけど」

 

 いや、どうしてロキシーの腹を殴らなきゃならないんだよ。そんなこと出来るわけ無いだろ。

 それに、なんでロキシーの血がシルフィを治せるんだよ。

 

「別に殴った後は治癒魔術を使えばいいだけだよ。ロキシー()何の問題もない。それに、君は奥さんのいやらしい所から出た血を集めるのは得意だろう?」

 

 そういう事を聞いているんじゃない!

 どうしてロキシーの溢血がシルフィを治せるか聞いているんだ!

 

「教えてあげる前に、そもそも君はミグルド族についてどれだけ知っているんだい?」

 

 どれだけって……ロキシーの種族で、寿命が長くて、髪が蒼くて、歳を取っても見た目があまり変わらなくて、魔大陸の片隅で暮らしてて、念話が使える魔族だろ?

 

「そうだね。で、君の妻であるロキシーは念話は使えたかな?」

 

 使えない。

 ロキシーは念話が使えないミグルド族だ。

 

「そう。そして、それはとてもとてもレアケースだというのは知っていたかな?」

 

 ……ロキシーのコンプレックスに入り込むつもりは無いから深くは聞いてないけど、かなり特殊だというのは知ってる。

 

「うん。念話の使えないミグルド族はここ数百年、ロキシー以外には現れなかった。それくらい彼女は特殊で、特別なミグルド族なんだ」

 

 そうか。

 で、それが何でシルフィを治す事に繋がるんだ?

 

「簡単に言うと、念話が使えないミグルド族の血……それも不浄とされる女の下腹部からの血は、不治の病すら癒やす万能薬になるんだ」

 

 はぁ?

 嘘だろそれ。

 

「本当だよ。そもそも、何故彼らが魔大陸の片隅でひっそりと暮らしているか考えた事はあるかい?」

 

 ……血を求めた連中の迫害を受けたから、って事か?

 

「その通り。念話が使えないミグルド族なんて傍から見たらわかりっこない。だから、片っ端からミグルド族の女を捕まえて……」

 

 やめろ。

 それ以上は聞きたくない。

 

「あっそ。ま、ミグルド族が虐げられていたのは何千年も前の事だし、今の彼らはもちろん、今生きてる魔族でこの事を知ってるのはほとんどいないんじゃないかな。当然ロキシーもこの事は知らないよ」

 

 いや、でも信じられない。

 人の血が病気を治すなんて。

 

「いや、ミグルド族以外にも似たような話はあるよ。例えば、中央大陸の密林地帯に棲まうチルカ族とかね。彼らは頭に花を生やす植物みたいな種族でね、この花が不治の病に効く妙薬の材料になるんだ」

 

 チルカ族?

 じゃあ、わざわざロキシーを殴らなくてもそいつらを見つければいいんじゃないのか?

 

「残念。彼らはとっくの昔に滅ぼされています」

 

 ……本当に、念話が使えないミグルド族はロキシーしかいないのか?

 

「君、酷な事言うねえ。自分の奥さん以外のミグルド族ならひどい事をしてもいいんだ?」

 

 言うな。

 自分でもわかっている。

 でも、俺は……

 

「いや、気持ちはわかるよ、うん。でもそれも残念。今現在、中央大陸にいるミグルド族は、君の妻であるロキシーしかいないんだ。まあ仮にロキシー以外に念話の使えないミグルド族がいたとしても、果たして魔大陸からシャリーアまで往復している間にシルフィエットは保つかな?」

 

 ……くそ。

 くそっ!

 俺は、俺は……!

 

「……ルーデウス。僕はね、君が助言を無視したのも運命だと思っているんだ」

 

 ……どういう事だ?

 

「君はとても強い運命に導かれているということさ。そして、それは決して悪い事じゃない。現に、シルフィエットを治せるロキシーという存在が、都合よく君の妻になったじゃないか。どちらに転んでも、君が不幸になる事はないんだよ」

 

 ……俺の運命は、とても強いってことか。

 どんなひどい事が起こっても、なんとかなってしまうくらい。

 

 ……ありがとう。

 少し気が楽になった。いや、腹が決まった。

 

「いいんだよ。それに、お礼を言うのはまだ早いと思うよ」

 

 そうだな。

 シルフィが治ったら、改めてお礼を言うよ。

 でも、ロキシーになんて説明すれば良いんだ?

 いきなり殴りかかるわけにもいかないし……

 

「じゃあもうひとつ助言を与えましょう。ルーデウス、ロキシーを問答無用でぶん殴りなさい」

 

 いや、だからそれをするわけにはいかないって言ったんだが。

 

「大丈夫だよ。確かにロキシーは最初は戸惑い、悲しい思いをするけど、それはシルフィエットが治ったのを見たら笑い話に変わるんだ」

 

 本当か?

 ていうか、それなら尚更事前に説明した方がいい気がするんだが。

 

「……事前に説明すると、ロキシーは君を狂人扱いし、そのまま家出しちゃうんだよ」

 

 は?

 ロキシーがそんな事するのか?

 

「あのねえ……いくら治療の為とはいえ、いきなり下腹を殴らせてくれなんて言ってくる夫に、恐怖を覚えない妻なんていると思ってんの?」

 

 ……いないと思う。

 

「だろう? それに、君も言ってたけど、ぐずぐずしているとシルフィエットは保たないよ」

 

 時間が無いのか?

 

「今夜が山だろうねえ。だから僕がこうして出てきたのさ」

 

 今夜が山って、お前なんでもっと早く出て来なかったんだよ!

 

「君になんて伝えるか考えてたんだよ。ひどい事を言っているのは自覚しているし」

 

 ……お前、カミサマなのに、なんか妙に人間くさいよな。

 

「よく言われるよ。でも、その方が親しみが持てると思わないかい?」

 

 親しみは持てるかわからないけど、話し易いとは思う。

 

「そうかい。ま、とにかくこれ以上おしゃべりしている時間は無いってことさ。ルーデウス、目を覚ます時が来たよ」

 

 ああ。

 ロキシーの腹を殴るのは辛いけど、心を“鬼”にしてやってみせる。

 いや、必ずやる。

 シルフィを、助ける為に。

 

「うん、その意気だ。それじゃあルーデウス」

 

 

 

 うまくやるんだよ

 

 

 

 

 

 


 

 ルーデウス邸

 シルフィエット・グレイラットの寝室

 

「……」

 

 ロキシー・M・グレイラットは、ベッドに横たわるシルフィエットの汗を拭いつつ、その肩に食い込む異形を見て眉を顰めていた。

 元々線の細かった肉体は衰弱せしめ、枯れ枝の如き痛ましい様相を呈する。

 なぜ、このような事に。

 最愛の夫、ルーデウスと同じ様に、ロキシーもまた親愛する家族の惨状に、日々忸怩たる思いを抱く。

 そして、シルフィエットの看護、治療法を探すべく駆けずり回り、憔悴するルーデウスの惨状にも。

 

「……シルフィ。必ず治してあげますからね」

 

 肌着から覗く赤黒い肉の盛り上がり。

 突き刺さる“鬼の爪”を見て、ロキシーは悲しげに呟く。

 ロキシーの呟きに応える事はなく、シルフィエットは苦しげに表情を歪ませながら、昏々と眠り続ける

 。

 シャリーア中の医者、治癒術士が匙を投げたシルフィエットの病状。

 肩に喰い込んだ鬼の爪は、肉体内部にて根状の蔓を伸ばし、乙女の臓器を蝕んでいる。魔術はもちろん、手術にてそれの剥離を試みるは困難。無理に引き剥がせば、鬼の根はシルフィエットの臓器を容赦なく断ち、乙女は即死するだろう。これを剥がせる外科技術を持っている医者は、この世界に果たしているのだろうか。

 

「……神なる力は芳醇なる糧、力失いしかの者のに再び立ち上がる力を与えん……『ヒーリング』」

 

 痛ましい様子のシルフィに、ロキシーは思わず、といった体で治癒魔術を唱える。

 淡い光が患部を包むも、それは幾度となく繰り返された、全くの無意味な行いであった。

 

「シルフィ……」

 

 ヒーリングを受けても、シルフィエットを蝕む鬼の爪は未だ深々と白き乙女の肉に食い込んでいた。

 ロキシーはシルフィエットの痩せ細った手を、その少女のような柔らかな手で包む。

 

「早く元気になってください。一緒にルディを支え合おうと言ったじゃないですか」

 

 薄っすらと、ロキシーの目に涙が浮かぶ。

 ぼやけた視界の中、ロキシーは静かに声をかけ続けた。

 

「それに、ルーシーはどうするのですか。母親のいない子なんて……」

 

 そこまで言って、ロキシーは言葉を詰まらせる。

 大切な家族を襲う惨状に、心を痛ませる。

 

 現在、シルフィエットの看護はグレイラット家総出で行っている。

 しかし、家政の柱であるリーリャは、曖昧な状態に陥ったゼニスの介護にかかりきりであり。

 アイシャは、母に代わり家政の全般を担い、更にルーシーの世話に忙殺されている。また、シルフィエットの惨状に加え、ウィリアムが行方不明という状況。時折沈鬱な表情を浮かべるのは、アイシャが見た目以上に消耗している証左である。

 家長であるパウロは、ウィリアムの捜索に旅立ち、シルフィエットの現況を知らない。ギルドを通し一報を送ってはいるが、パウロがこの事を知り帰還するまでもうしばらくかかるだろう。

 ノルンは、魔法大学に通いつつ、毎日学業の終わりにルーデウス邸へ赴き、義姉の看護やリーリャやアイシャのサポートに従事している。大学寮とルーデウス邸の往復、学業の合間に行う義姉の看護。さらに、ウィリアムを失った喪失感はアイシャと同様。可憐な少女もまた、日々消耗し、痛ましい様子を見せていた。

 

 そして、ルーデウス。

 大学を休学し、シルフィエットの治療法を探すべく駆けずり回る日々。

 方方手を尽くしても、シルフィエットは日々衰弱し、死の空気を漂わせる。報われない日々は、ルーデウスの精神を蝕みつつあった。

 もちろん、シルフィエットの実祖母であるエリナリーゼら、魔法大学の友人達、そしてシャリーアで知己を得た人々も、ルーデウスに協力していた。

 しかし、それらもまた現状では徒労で終わっている。

 

「ルディ……」

 

 ロキシーはシルフィエットに対する心配と同時に、夫であるルーデウスの状態も憂いていた。

 あのままでは、何か良からぬ者に良くない事を吹き込まれ、取り返しのつかない事になるのでは。

 そうロキシーが思うほど、ルーデウスの状況は余人が見て“危うい”状況であった。

 

 それに、相談したい事もある。

 自身の体調の変化。

 このような時では、非常に言い辛くもある。

 だが──

 

 

「……あ、ルディ」

 

 ふと、寝室の扉が静かに開けられるのを見て、ロキシーは顔を上げる。

 見ると、ルーデウスが寝室に入って来た。

 

「ルディ。今夜は私が見ていますから、もう休んでていいのですよ」

「……」

 

 ロキシーの問いかけに、ルーデウスは黙したまま。

 薄明かりに照らされたルーデウスの表情はよく見えない。だが、何か思いつめたような空気を纏わせていた。

 

「ルディ……?」

 

 ルーデウスはベッドに横たわるシルフィエットの元へ行くと、その蝋細工のような白い頬を撫でる。

 何かを呟いていたが、ロキシーには聞こえなかった。

 

「ルディ?」

 

 そして、ルーデウスはロキシーへと振り向く。その表情は見えない。

 何かただならぬ気配を感じたロキシーは、立ち上がり、夫の表情を覗き込もうとした。

 

「あ、ルディ」

 

 すると、ルーデウスはロキシーを抱きしめた。

 ぎゅっと、慈しむように──力強く、ロキシーを抱きしめていた。

 

「ど、どうしたのですかルディ」

「ロキシー」

 

 夫の腕の中で少しだけ藻掻くロキシー。

 しかし、強く抱きしめられているせいで、華奢なロキシーでは満足に身動き取れず。

 

「ロキシー……愛しています」

「えっ?」

 

 唐突に呟かれた夫の愛の囁き。

 目を丸くするロキシーは、直後に夫の腕から解放される。

 

「ルディ、一体──」

 

 そして。

 

 ロキシーは見た。

 己の下腹部へ向け、ルーデウスの拳が放たれるのを。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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幕間『幼虎地獄変(ようこじごくへん)

 

 甲龍歴417年

 ブエナ村

 ウィリアム・グレイラット八歳の時分

 

「えへ、えへへ……ルディったらもう……ダメだよぉ、そんなところ……えへへへへ……」

 

 シルフィエットが時折このような妄想にふけるのを、見て見ぬふりをする情けがウィリアム・グレイラットにも存在した。

 背中越しに悶えるシルフィエットの声を受けつつ、ウィリアムは本日の夕餉用の野草を黙々と摘んでいる。

 ブエナ村に流れる用水路は、長閑な村の様子と比例するように、穏やかな水の流れを保っている。

 その川べりにて、ウィリアムは腰を落とし、籐籠へ食用野草を採取していた。

 

(それにしても……)

 

 ちらりと緑髪の少女の姿を見やる。

 何やら幸せな妄想に浸っているのか、もじもじと両手を合わせ、ぴこぴこと両耳を揺らすシルフィエット。

 それを見たウィリアムは、なんとも長閑な光景に毒気を抜かれるばかり。

 

(……)

 

 だが、それは存外に心地良い風景でもあり。

 前世での人生。

 幾度となく繰り広げた峻烈な真剣勝負はもちろん、生き馬の目を抜くような殺伐とした武家社会、そして残酷なまでに強烈な階級社会を生き抜いて来たウィリアム。

 兵法家として名を上げるべく、濃尾一帯にてその剣名を轟かせていたかつての自分に、果たしてこのような安らかな時はあったのだろうかと。

 

 慈しい所だ。

 この世界は。

 

 かつての虎を知る者が見れば、紛うことなき別人となったウィリアム。

 外面はもちろん、内面もまた前世とは比べ物にならぬほど穏やかなものへと変質していた。

 それは、今生で出会った人々──家族が、虎に慈しみの心を与えていたのだろう。

 

 パウロ、ゼニスら両親からの惜しみのない愛。

 リーリャによる、家族として認めあった親愛の情。

 幼い妹達……ノルンやアイシャからの、混じりけの無い、純粋な信頼。

 

 兄のルーデウスは……恐らく、いや間違いなく自分と同じ前世がある、それも同じ日ノ本の人間だろう。それ故、互いに妙な距離が出来てしまったが……

 

(いずれは胸隠さず、素直な心を開陳したいものよの)

 

 虎眼流術理の秘匿という観念から、兄ルーデウスとの日本語での会話は拒絶したウィリアム。

 しかし、術理というのは日進月歩。

 他流の技を盗む事もあれば、逆に盗まれる事もある。

 むしろ、己が練り上げた虎眼流もまた、他流の良き所を学び、取り入れて“深化”してきたのだ。

 この異世界の剣士達が、虎眼流を盗むのも、ある程度は止められないだろう。

 

(もっとも……タダではやらぬが)

 

 虎は僅かに前世での──魔剣豪の顔を覗かせる。

 奥義を盗もうとする輩には、それ相応の報いを受けてもらう。

 “伊達”にして返すのは、この世界に於いても“虎眼流強し”と流門の名声を高めるに至るだろう。

 

 それに──

 

(闘気という摩訶不思議なる力……可能性は底しれぬ)

 

 野草を摘みながらそうほくそ笑む幼虎。

 魔力を源泉とした異能は、この世界では普遍的に扱われる能力である。

 

 父パウロが巨木、巨石を一刀両断せしめたあの力。

 前世に於いても石灯籠を一刀にて寸断せしめる技能を持つウィリアムであったが、そのような技量を持ち得ぬパウロですらいとも簡単にそれ以上の絶技を発揮していた。

 そもそも、三大流派をそれぞれ上級まで修めたパウロの才能も並々ならぬものではあるのだが、それでも闘気という異能は、前世での剣技を凌駕せしめる、この世界での“可能性”だ。

 

 兄ルーデウスは闘気を纏えない代わりに、その膨大な魔力量を魔術という才能で発揮している。

 翻って、己には魔術の才は無い。しかし、兄ルーデウスと劣らぬ程の魔力量を備えているように思える。

 

 その闘気を十全に虎眼流に取り込み、さらなる境地へと至らん。

 虎は、技を磨くという、それこそ前世の若き時分以来の“感動”を覚えいた。この未知なる世界に剣ひとつで飛翔せんと、若き野心を滾らせる。

 

(……今はその時ではないがな)

 

 とはいえ、それはもう少し後の事。

 いずれブエナ村を出る腹積りではあるが、少なくとも兄ルーデウスの帰還を待ってからでも遅くはない。

 

(手のかかる妹達だが……長兄の顔を知らぬままなのは不憫……)

 

 ウィリアムの脳裏に、幼い妹達の姿が過る。

 妹達が赤子の時分には、散々世話を焼いていた長兄ルーデウス。

 しかし、彼女達が物心が付く前に、ルーデウスはロアの街へ奉公する事となった。

 流石に帰還するまで一切の連絡、里帰りをパウロが禁じたのは、ウィリアムも思う所があったが、家長の決定に異を唱えるつもりは無い。

 パウロへはロアのボレアス家から定期的に連絡が入っているようだが、ウィリアムはパウロの意思を尊重し、実兄の現状を聞き出すような事はしなかった。パウロの様子を見る限り、ルーデウスに特に大事は起こっていないようだとも。

 

 それに、シルフィエットの自立を促すというのも分からんでもない。近頃はルーデウスとの再会に備え、リーリャに礼儀作法諸々を習い、逞しく己を磨いているシルフィエットを見れば、ルーデウスと引き離した効果は如実に現れていた。少女の成長、

 もっとも、父パウロのもうひとつの真意が、ルーデウスを遠ざけ娘達の愛情を独占するというしょうもない事なのも気付いてはいたが。そして、それは己のせいで目論見が潰えているのは、ウィリアムは気付かぬ振りをしていた。

 

 ともあれ、兄も妹達も不憫ではあるが、しばしの我慢。もう二年もすれば、兄のボアレス家奉公の年季が明ける。

 だからこそ兄が帰還した際、己が間に入り、妹達には存分に長兄に甘えさせるのだ。

 過剰に懐かれているのに疲れているわけでは決して無い。

 

(……ボレアス家が余計な事をせねば良いが)

 

 ふと、ウィリアムは兄の奉公先、ボレアス・グレイラット家の存在が、ルーデウスとシルフィエットの“恋路”の障害になるのではと懸念を抱く。

 伝え聞く所、ロアのボレアス家は分家筋であり、男子が生まれた場合は本家へ差し出さねばならないとか。

 分家の男子を本家で養育するのは、武家社会においても珍しい事ではない。しかし、一族郎党の結束を強めるという建前の向こう側に、分家の離反を防ぐ“人質”としての意味もあるのだろうとも、ウィリアムは看破していた。

 

 分家、臣下が当主の家、または従属先の家へ男子を人質として差し出す例は、それこそ戦国の世では枚挙にいとまがない。

 有名な所では、大坂の陣にて“日の本一の兵”とまで讃えられた真田幸村の存在がある。

 幸村の父、真田昌幸は、生涯で七度も主君を変えた“表裏比興の者”と言われる程、戦国の世をその鬼謀にて渡り歩いていた。その“手段”として、幸村は各大名家へ人質として差し出され、人生の大半を他家の元で過ごす事となる。

 幸村が信州上田に帰還し、第二次上田合戦に参戦出来たのも、人質先である豊臣家の混乱──太閤秀吉の死去というどさくさに紛れ、半ば強引に帰還できたからこそ。

 

 通常、人質として差し出された男子が、無事に生家へ帰ってくるという事は、人質としての価値や意味が無くなった時でしかなく。

 恐らくではあるが、ロアのボレアス家の元に、フィリップの子が戻ってくる可能性は限りなく低いだろう。

 故に、ルーデウスの存在は、ロアのボレアス家にとって都合が良いと言えた。

 

 ロアのボレアス家当主フィリップが()()()()の男かは分からぬが、もしルーデウスの優秀さに目を付け、ボレアス家の養子として囲ってしまう事となったら。

 跡継ぎを奪われたフィリップが、本家筋への下剋上を企み、その旗頭としてルーデウスを担ぐという荒業を目論んでいたら。

 フィリップには娘が一人いるという。その娘とルーデウスを婚姻させ、既成事実を作られては──所詮騎士階級でしかないパウロが異議を唱えても、もはやどうにもならぬのだろう。

 

(不憫だが……)

 

 もしそのような事になれば……不憫だが、シルフィエットにはルーデウスの事を忘れてもらうしかない。

 残酷ではあるが、それが貴族社会というものなのだ。

 少数のサディストが多数のマゾヒストを支配するという階級社会の現実は、世界が変われど不変の事実であった。

 

 

「『シルフィ! 君はなんて魅力的な女性なんだ! 結婚しよう!』なんて言われてりして……えへ……えへ……」

 

 どうやら妄想も佳境に入ったようだと、ウィリアムは見て見ぬふりを続ける。

 しかし、この少女も随分と兄を気に入ったものだ。

 自由恋愛とは程遠い世界で生きていた虎にとって、それはとても眩しく……慈しいものに見えた。

 

(せめて、何事もなく兄上が帰還し……再会するまでは、見守りたいもの)

 

 実際はシルフィエットがウィリアムの保護観察めいた立場にいるのだが、ウィリアムにとってそれは瑣末事である。

 兄の将来の嫁御としてシルフィエットを認識しているウィリアム。兄不在の間、シルフィエットの健やかな成長を見届けるのは、弟としての責務なのだ。

 

 だからこそ、兄は無事に帰還せしめて欲しい。

 この慈しいブエナ村に棲まう者達は、幸福な人生を歩んでもらいたい。

 

「くふ……」

 

 思わず、自虐めいた笑いが溢れる。

 刃向かう敵を十万億土へと送り続けて来たかつての自分。

 その自分が、今更他者の幸福を祈るとは。

 

(いや……)

 

 文字通り、自分は生まれ変わったのだ。

 この異界にて虎眼流の意地を突き立てる。

 しかし、あのような凶刃漢の如き振る舞いは、なにもしなくても良いのでは。

 

 そして、前世の一人娘、三重。

 跡目として迎えた、藤木源之助。

 苛烈なやり方でしか接する事の出来なかった前世での家族。

 

 あのような無残な関係は、もう二度とは──

 

 

 

「ウィルくん、私も摘むのてつだ──」

 

 しばらく野草を摘んでいると、シルフィエットの声が聞こえた。

 もう夕餉の分は十分採取しているので、それには及ばないと返事をしようとした。

 

 その時。

 光の津波が、地平の彼方よりウィリアムへ向け迫って来た。

 

「シル──」

 

 守護らねば。

 瞬時でそう判断した幼虎。

 しかし、ウィリアムが動く暇も与えず、光の津波は無慈悲にその身を奔流に飲み込む。

 

「──ッッッ!!」

 

 どこかへ引きずり込まれるような激しい流れ。ウィリアムの未成熟な肉体は、それに抗える事は出来ず。

 耐えるという行為すら許されない、その理不尽な光の奔流は、幼虎の意識を一瞬で刈り取っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!?」

 

 一瞬だろうか。それとも、もっと長い時間、意識を落としていたのだろうか。

 ウィリアムは落とした意識を覚醒せしめる。

 もし、ウィリアムが置かれた状況が、もう少し()()なものであれば、そのまま意識を落とし続けていただろう。

 つまるところ、幼虎が覚醒せしめた原因は──

 

「ギッシャアアアアアアッッ!!」

「っ!?」

 

 鋭利な爪による刺突。

 眉間に放たれたそれを、ウィリアムは咄嗟に身体を転回させ躱した。

 

(何奴──ッ!)

 

 地を蹴り、即座に襲撃者と距離を取るウィリアム。

 辺りは暗闇に包まれており、己を襲う襲撃者の正体は不明。

 しかし、ウィリアムの瞳孔は瞬時に猫科動物の如く肥大化し、網膜の視神経を十全に刺激。闇に包まれた周囲を可視化せしめる。

 

「なに……?」

 

 そして、ウィリアムはやや呆けたような声を上げた。

 

 眼の前に広がる、異様な光景。

 先程までの長閑な光景とは真逆の、悍ましき異形共の巣窟。

 じめりとした地面、鋭角にささくれ立つ岩肌。光源はほとんど無く、不快な洞窟と言える、殺伐とした光景。

 そして、今まさに獲物を喰わんと欲する、異形──否、魔物。

 しゅうしゅうと威嚇音を発する首の長い蜥蜴。しかし、その体長はただの蜥蜴に非ず。

 ウィリアムの数倍──凡そ二十尺(約7メートル)はあろうかというもの。

 

「シャアアアアアアッッ!!」

「くぅッ!?」

 

 首が伸び来たる!

 そう認識すると同時に、ウィリアムは脚部に闘気を込め、魔物の攻撃から逃れんと後方へと跳躍する。

 

「ぐぅッ!?」

 

 不完全な見切り。幼い虎は魔物の攻撃を躱しきれず、腹部に鋭利な切創を負う。

 行住坐臥、常に戦場の心得を持つ剣術者であったウィリアム。

 しかし、若草と清流に彩られたブエナ村での生活は、虎の戦闘本能を些か鈍らせるに十分な程、ぬるま湯の如き暖かい綿であり。それに包まれていた直後、このような修羅場に遭遇しては、虎が持つ本来のポテンシャルを発揮出来ぬとしても致し方ないであろう。

 

「ッ!!」

 

 故に、この場に於いてウィリアムが取るべき策はただ一つ。

 脱兎の如く逃げ出すのみである。

 

「──ッッ!!」

 

 呼吸すらも忘れ、全力で疾走するウィリアム。

 足場の悪い洞窟内。時折四足になって走る必要があった。その様はまさしく猫──否、小さき虎の如き有様。

 成体の虎の最大戦速は時速約60km。生存本能を全開にしたウィリアムも、それと同等の速度が出せ、魔物はどんどん引き離されていった。

 同時に、走りながら必死になって身を隠す場所を探す。

 

「ッ!?」

 

 そして、岩盤の亀裂を発見せしめると、即座にそこへ飛び込む。

 ウィリアムは己の小さい体躯を、岩盤の亀裂へと押し込む。

 その後、静かに息を整えると、まるで即身仏の如く“気”の一切を消した。

 

「シュー……」

 

 岩盤の近くを先程の魔物が通るのを、肌で感じ取るウィリアム。

 威嚇音を鳴らすそれは、しばらくの間見失った“獲物”を探すべく、周囲を徘徊する。

 

「シュウ……」

 

 だが、やがて諦めたのか、魔物は不機嫌そうな音を漏らし、その場から去っていった。

 

「……」

 

 ウィリアムはその後半刻程、気配断ちを継続する。

 周囲の安全を完全に確認するまで、幼虎は全身全霊をかけて警戒を続けた。

 

(……こは何事ぞ)

 

 変わらず岩盤の隙間に身を潜めながら、ウィリアムは突として発生したこの異常事態について思考を巡らす。

 あの穏やかなブエナ村から、瞬時にして異形蠢く洞窟内に“転移”をする。そして、蠢く魔物のレベルは、ブエナ村近郊で出現する魔物とは比べ物にならぬ程。

 もし魔物のレベルがブエナ村近郊レベルであったのなら、初撃を容易く躱し、即座に反撃の虎拳を叩き込み、その脳髄をひしゃげさせていただろうに。

 しかし、対峙したあの蜥蜴の如き魔物は、その程度で絶命するようなものとはとても思えなかった。

 

(何かしらの超常現象が働き、ブエナ村ではないどこかに転移せしめたというのか……)

 

 己の置かれた状況についてそう思考するウィリアム。

 魔術や闘気という異能が蔓延るこの異世界。何が起こっても不思議ではない。

 だが、それにつけても、これはあまりにも……

 

(……シルフィエット殿)

 

 ふと、先程まで共にいたルーデウスの幼馴染、シルフィエットの姿が浮かぶ。

 もし、シルフィエットもこの場所に転移していたのなら。

 

(不憫)

 

 転移直後にあのような魔物にかち合わせたら、シルフィエットの即死は疑いようもない。

 守るべき対象の生存が絶望視されるこの状況。

 しかし、今の己と同じように、運良く身を隠せる場所を見つけられたのかもしれない。

 

「……」

 

 そのような可能性を見出したウィリアムは、そろりと亀裂から身を出す。

 相変わらず暗い洞窟内であったが、野生動物の如き警戒心をもって周囲を索敵。ひとまずの安全を確認する。

 

(父上……母上……)

 

 忍び足にて洞窟内を進むウィリアム。

 シルフィエットの他に、脳裏に父母の姿が浮かぶも、これは安息を求めての逃避に非ず。

 

(リーリャ……ノルン……アイシャ……!)

 

 慈しい家族達もまた、このような“地獄”に叩き込まれてしまったのではないか。

 生き延びている可能性は限りなく低い。S級冒険者として慣らした両親でさえ、この鉄火場を無事に切り抜けられるとは思えない。

 そして、己がそこへ駆けつけたとしても、状況は大して良化するとも思えない。

 しかし。

 

(待っておれ……!)

 

 探さずにはいられぬのだ。

 己の“人生”に慈しみを与えてくれた、ブエナ村の人々は。

 

 こうして、ウィリアムは唯一人、洞窟内を彷徨う事となる。

 そこは、天大陸迷宮“地獄”。

 六面世界人の世界にある、やんぬるかなの地である。

 

 

 

「……」

 

 転移してから二日が経過した。

 跋扈する魔物をやり過ごしながら、家族を求め彷徨うウィリアム。

 

「フー……」

 

 ウィリアムは周囲に魔物の姿が無いのを見留めると、大きく深呼吸をした後、そのまま眼を瞑り脱力する。

 

「……ッ」

 

 しばしの後、覚醒。

 僅か四十秒程の眠りではあったが、幼虎の肉体は熟睡した後のように全身がスキッ! としていた。

 訓練された剣術者は、僅かな休息でも身体の回復を可能としている。

 しかし言い換えれば、この地獄ではこのような休息しか取れないのだ。

 迂闊に長時間睡眠を取ってしまえば、徘徊する魔物に生命を奪われるのは必然といえた。

 

「クッ……」

 

 そろりと歩みを進めるウィリアムだったが、猛烈な渇きを覚え、喉奥をかすれさせる。

 謎の転移から既に二日。

 この間、ウィリアムは一切の食事、水分補給を行っていない。

 もちろん、行えないともいえた。

 出会う魔物の体液を啜ろうにも、己より強大な存在をいかに捕食すれば良いのだ。

 この地獄の中、ウィリアムは己が食物連鎖の底辺に位置しているのを、この三日間で自覚していた。

 

「……ッ」

 

 忍び足にて進むウィリアムは、くらりと立ち眩みを覚え、壁面に寄り掛かる。

 人間の肉体を構成する水分量は凡そ60%。内、3%から5%程が失われれば、喉の渇きはもちろん、身体に様々な不調が現れる。

 そして、8%から10%が失われれば、身体同様、痙攣などの深刻な症状が現れ、やがて死亡に至る。

 いわゆる脱水症状と呼ばれるこの重篤な状態は、一切の水分補給を行っていなければ、凡そ三日で人体を死に至らしめた。

 

 ウィリアムは魔物との戦闘を避ける為、神経を過敏に尖らせ、また休息もほとんど取らず行動を続けている。

 迷宮内は不快な湿度、温度に包まれており、何もしなくても身体は水分を失っていく。

 いかに闘気で身体を頑強に保っていても、補給がなければいずれ野垂れ死にするのは確実といえた。

 

(ああ……)

 

 己はここで死ぬのか。

 とうとう座り込んでしまったウィリアムは、そう諦観の念を抱いていた。

 

(……否)

 

 しかし、幼虎の執念にも似た凄まじい激情が、身体の内々より湧き上がった。

 このような場所で、魔物に喰い殺されるような無残な死に方。剣術者として、そして武士(もののふ)としての矜持が許さぬ。

 ならば、精一杯抗って、そして華々しく死のう。

 己を喰い殺そうとする魔物を、せめて一体は道連れにしてくれん。

 

 このような極限状態に陥った人間は、得てして“利己的”な思考に陥りがちである。

 もはやブエナ村の人々の事は、ウィリアムにとってどうでも良く。

 ただ、己の“死に様”に、その全精力を傾けようとしていた。

 

「ギチ……ギチ……」

「……?」

 

 ふと眼を向けると、いつのまにか巨大な芋虫が、ウィリアムへむけ醜悪な顔貌を向けていた。

 カチカチと顎を慣らし、粘液を分泌させながら、腹脚を蠢かせウィリアムへ近付く。巨大な蛾の幼虫にも似たそれは、怖気の走る程の不快感をウィリアムへ与えていた。

 魔物の接近を許してしまった。

 しかし、ウィリアムは不敵な嗤いを一つ。

 

「くふふ……」

 

 どうやら“地獄”の道連れは決まったようだ。

 そう思ったウィリアム。

 思った後は、己に残された唯一の武器──五体の武器を用い、果敢に芋虫へ吶喊した。

 

「捨ッ!!」

「ギッ!!??」

 

 なけなしの闘気を込めた虎拳。

 芋虫の顔面を強く打つ。

 捕食可能な獲物の急な反撃に、芋虫は一瞬驚愕めいた鳴き声を上げた。

 

「ギチチッ!!」

「がぁ!?」

 

 が、芋虫の顔面は、厚い装甲が施されたかのように硬く。頭部をへこます事は出来ても、致命に至るダメージは与えられなかった。

 芋虫は円筒形の体躯をしならせ、ウィリアムへ体当たりをかます。

 

「ぐぁ……ッ!」

 

 腹部へ強烈な打撃を受けたウィリアムは、血反吐を撒き散らせながら地を這う。

 決死の覚悟で放った一撃が、全く通用しない現実。

 消耗した肉体に過大なダメージが加えられ、さらに抗う術さえ封じられた現状。

 

「おのれ……おのれ……ッ!」

 

 もはや恨みが籠もった双眸を芋虫へ向けるしかないウィリアム。

 武士らしく死ぬ事も叶わぬのか。

 芋虫はあくまで己の生存本能に従って、ウィリアムを捕食対象としてしか捉えていない。

 その残酷なまでの現実に、ウィリアムは無念と増悪の念を、その幼い肉体から発し続けていた。

 

「ギチ……ギチ……」

 

 再度、ゆるりとウィリアムへ近付く芋虫。

 予想外の反撃を受けても尚、空腹を満たさんと幼虎の肉体へ顎を突き立てようとした。

 

 死──

 

 ウィリアムの柔らかい腹腔に、芋虫の牙が刺さる。

 ずぶりと、数センチ。幼虎の肉体に黒い顎が埋没する。

 もう少しで臓器へと達するその醜悪な捕食を、ウィリアムは憎悪が籠もった眼差して見つめていた。

 

 

「ギチィッ!?」

 

 憎悪の視線を向けていたウィリアム。

 しかし、芋虫は突如その肉体を震えさせ、苦悶の叫び声のような鳴き声を一つ上げた。

 

「なっ……!?」

 

 信じられぬものを見た。

 芋虫の体躯に、突として突き刺さる一本の剣。

 黄土色の体液を撒き散らしながらのたうち回る芋虫を、ウィリアムはしばし呆然として見つめる。

 

「──ッ!」

 

 しかし、数瞬してから、ウィリアムは最後の力を振り絞る。

 芋虫に突き刺さる剣を掴み、それを引き抜く。

 その掴みは、猫科動物の如く。

 そして、掴んだ剣柄は、ウィリアムの手に予想以上に馴染んていた。

 

「ギチ──ッ!!」

 

 三度、芋虫がウィリアムへ向け顎を向けた時。

 芋虫は己の頭部が斬り落とされるのを知覚する。

 

「ギ……」

 

 そのまま絶命し果てる芋虫。

 斬り落とされた胴部から、どろりとした体液がとめどなく溢れていた。

 

「ぐ……ぅぅ……!」

 

 剣を杖のようにして身体を支えるウィリアム。

 鞘無き抜身の刀身は、芋虫の体液を吸い、艶めかしい程濡れていた。

 

「……」

 

 ウィリアムは何故、突然剣が現出し、己の窮地を救ったのか。

 その思考を巡らす前に、生物としての本能に従い、絶命した芋虫の胴体へ近付く。

 

「じゅる……」

 

 黄土色の体液をひとつ啜るウィリアム。

 直ぐに貪りたい衝動に囚われるも、嚥下せずそのまま口中に留める。

 

「……じゅるッ」

 

 舌に刺激等が無い事を確かめ、“可食”であると判断したウィリアム。やがて芋虫の体液を勢い良く啜り始めた。

 じゅる、じゅる、ぼり、ぼり。

 二日ぶりの水分、栄養補給は、ウィリアムの肉体に活力を与えていた。

 

「……」

 

 人心地がついたウィリアムは、ようやく己が手にした剣を、まじまじと見やる。

 そして、その剣──刀の正体に気付いた。

 

「七丁念仏……」

 

 前世、安藤直次より預かった宝刀──否、妖刀。

 それが何故、ここにあるのか。

 不可思議な現象に、幼虎は戸惑いの念を露わにする。

 

「……」

 

 しかし、何故という疑問は直ぐに霧散した。

 そもそも、このような転移──いや、己がこの世界に転生した理由すらも分からぬのだ。

 何が起こっても、ウィリアムにとって現実として受け入れるしかない。

 ともあれ、戦える術を手に入れたのだ。もうしばらく“生きて良い”という許可を得たのだ。

 ウィリアムはそう想うと、再び魔物に見つからぬ箇所を探し、芋虫との闘いで消耗した肉体の回復に努めた。

 

 ウィリアムと七丁念仏の“再会”は、このような淡白なものであり。

 極限環境下であっては、感動的な情感は望むべくもないのだ。

 

 

 

 転移して二週間が過ぎた。

 七丁念仏を携え、徘徊する魔物……狩りやすい獲物を見定め、斬り伏せ喰らう。

 妖刀を手にした状況でも、ウィリアムより強い魔物はそれこそ星の数程生息しており、食物連鎖の底辺から少しばかり逃れられただけにすぎない。

 故に、油断無く、“捕食者”から逃れ、“被捕食者”を狩る。

 

 そして、この頃には、ウィリアムは家族達の生存を……再会を諦めていた。

 生きている人間──否、人間の死骸すら見つからぬ現状。

 出会う生き物は、皆凶悪な魔物ばかり。

 この地獄で、己はただ一人なのだと。

 

 転移して一ヶ月が過ぎた。

 激しい生存行動により、ウィリアムが纏っていた衣服は、それこそボロ布といっても差し支えないほど消耗していた。

 腰部のみを隠し、垢まみれの裸体をさらけ出しながら迷宮内を彷徨うウィリアム。

 一向にこの地獄の出口が見つからぬのは、闇雲に彷徨っているせいもあるが、出現する魔物が強力ゆえに、意図した道筋を進めないという現状もあった。

 妖刀を携えし幼虎は、本日も闇の中を彷徨い続けていた。

 

 転移して半年が過ぎた。

 狩れる魔物がいない日々が続き、魔物が残した糞尿から栄養水分を補給するウィリアムの現状は、もはや幼虎に正常な思考を保つのを難しくしており。

 そして、母ゼニス譲りの美しい金髪は、壮絶な日々──過剰なストレスからか色素が抜け落ち、老人のような白髪に変わり果てていた。

 

「……」

 

 色の無い瞳で、地に残された魔物の糞便を啜るウィリアム。

 転移してからまともな休息は取れていない。短眠を繰り返し、移動し、魔物と戦闘を続ける。

 この地獄は、一体いつになったら終わるのだろうか。

 

「くふ」

 

 いや、元から己は、とっくに地獄に落ちていたのではないだろうか。

 伊良子清玄との秘剣の応酬により、己は死んだ。

 そして、この世界に転生したのではなく──地獄に落ちていたのではないかと。

 

「くふ、くふふ……」

 

 ブエナ村での生活は、地獄に堕ちる前の束の間の安らぎ。

 六道輪廻の途上、仏の気まぐれが起こした、幻想ともいえる出来事であったのでは。

 僅かに残った思考にて、そのような結論に至ったウィリアム。

 

 ここは修羅道、いや畜生道か。

 三悪道の入り口に過ぎぬのなら、この地獄に終わりはまだ無い。

 

「くふふふふふ……」

 

 狂気に包まれたウィリアムは、糞便を咀嚼しながら不気味な嗤いを浮かべ続けていた。

 やんぬるかなの地に於いて、ウィリアムは人としての思考──そして、慈しみの心を失っていた。

 

 

 その日、ウィリアムは久方ぶりに熟睡をした。

 ここ数日、全く魔物に出会わなかった事、そして地獄の中で“死”を恐れる馬鹿馬鹿しさに気付いたのもあり、七丁念仏を抱えながら、迷宮の片隅にてその身を猫のように丸めていた。

 

 擦り切れたウィリアムの肉体は、危険な迷宮内であるにもかかわらず、その身を深い眠りへと誘っていた。

 

 

 やあ、初めましてかな。こんにちは、ウィリアム君

 

 

 熟睡したウィリアムの夢に、神を名乗る詐欺師が現出した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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地獄篇
第五十一景『(わか)れ』


 

 シルフィが死んだ。

 

 優しくて、綺麗で、何事も一生懸命で。

 

 俺の病気を直してくれて、結婚してくれて、子供まで産んでくれて。

 

 そんな、俺の……俺の、大切なシルフィが。

 

 

 目を覚ます事なく、死んだ。

 

 

 あの後。

 ヒトガミに言われた通り、ロキシーの下腹を殴った。

 みちっと、嫌な感触。未だに脳裏から離れない、嫌な音。

 ロキシーは小さな悲鳴を上げた後、その場で蹲った。

 そして、床に広がる、ロキシーの血。

 

 それを見て、涙が溢れた。

 泣きながら、ロキシーに治癒魔術をかけた。

 ごめんなさい、ごめんなさいと、泣きながら謝った。

 

「どうして……」

 

 ロキシーが掠れた声でそう言った。

 血は直ぐ止まった。でも、床に溜まった血が多くて、ロキシーは立ち上がれず、そのまま震えながら蹲っていた。

 いや……今思うと、ロキシーは恐怖心で動けなかったんだと思う。

 

 俺は涙を拭いて……ロキシーから逃避するように血をかき集めて、土魔術で作った器に移した。

 どろりとした、ロキシーの血。自分がしでかした行為と、自分に対する嫌悪感。そして、ロキシーに対する罪の意識……そして、生々しい血の触感。

 吐きそうになるのを堪えて、俺は血を集めた。

 その後、シルフィの身体を起こして、血を飲ませた。

 抱き起こしたシルフィの身体は軽かった。腕に感じるシルフィの重さは、明らかに死にかけの人間の重さだった。

 

「……ルディ?」

 

 朦朧とした表情のシルフィは、少しだけ意識を覚醒させていた。

 でも、生気が無い。

 

「シルフィ。薬だよ」

 

 急いで血を飲ませる。

 やや強引だけど、ゆっくり……血が肺に入らないよう、ゆっくりと血を飲ませた。

 

「ん……」

 

 シルフィは少しだけ戸惑うような視線を向けていた。

 でも、すんなりと血を飲み込んでいた。

 ……もう、味覚すら曖昧な状態なのだろうか。

 血に対する嫌悪感を出さず、細い喉を上下させて、血を飲み込む。

 

「……」

 

 でも、それだけで体力を使い果たしたのか。

 シルフィは、そのままぐったりと意識を落とした。

 

「シルフィ!?」

 

 慌ててシルフィの顔を覗く。

 すると、浅いけど、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。

 心なしか、肌の血色も良くなっているように見えた。

 鬼の爪はまだそのままだ。でも、腫れが少し引いているようにも見えた。

 

「効いたのか……」

 

 まだ予断は許さないけど、とりあえずは峠を越した──

 俺は、その時はそう思って、安堵のため息を吐いた。

 

「ルディ……」

 

 ロキシーの声が聞こえた。

 俺は直ぐに振り返って、勢いよく土下座した。

 

「ル、ルディ?」

「……ロキシー。訳を聞いてください」

 

 戸惑うロキシーに構わず、俺は滔々と説明を始めた。

 ある神のお告げがあって、ミグルド族の血……女性の下腹部から出た血が、シルフィの治療に有効な事。

 その神は、俺が魔大陸に転移してから、的確な助言を与え続けてくれた事。

 ベガリット行きはお告げを無視して行った事。

 そのせいで、シルフィが鬼の爪を受けて、重篤になった事。

 

「……」

 

 ずっと頭を下げていたので、ロキシーの表情は見えない。

 でも、俺の話を、ずっと黙って聞いていた。

 

「ミグルド族の血が不治の病に効くなんて、俺は信じられませんでした。でも、チルカ族の例もあるし……なにより、このまま何もしなければ、今夜にでもシルフィが死んでしまうって……そうお告げを言われました。だから……」

「……」

「突然こんな事をして、本当に申し訳ないと思ってます。でも、シルフィを救うためには、一秒も無駄にはしたくなかった。ロキシー、許してください……」

「……」

 

 俺の言い訳がましい謝罪を、ずっと黙って聞いているロキシー。

 ヒトガミは、ロキシーは笑って許してくれると言っていた。

 でも、誠心誠意謝らないと、俺は許されない気がした。

 シルフィが快復しそうなのを見ても、俺はまだ漠然とした不安……胸の内に、とてつもなく大きな後悔が湧き上がっていた。

 

 まだ、ロキシーを殴った感触が、手に残っている。

 ……俺は、シルフィを救う為とはいえ、とんでもなく……悍ましい事をしてしまったんじゃないか。

 そう思って、また吐き気がこみ上げてきた。

 

「……ルディ」

「は、はい」

 

 顔を青くさせている俺に、ロキシーは抑揚の無い声を上げた。

 

「少し、疲れたので……申し訳有りませんが、今夜はこのままルディが代わってくれませんか」

「……わかりました」

 

 そう言って、ロキシーは覚束ない足取りで扉へ向かう。

 俺はようやく頭を上げて、ロキシーの後ろ姿を見た。

 

「ルディ」

 

 そして、ロキシーは扉を開ける前に……俺へ振り向いた。

 

「眉唾です」

「え──」

 

 ロキシーは、泣いていた。

 泣いた顔で、俺を憐れむような……そんな、悲しい表情を浮かべていた。

 

「チルカ族の花は不治の病に効く万能薬ではなく……()の特効薬ですよ……」

「そ……そんな」

 

 そう言い残して、ロキシーは寝室に戻っていった。

 

 ……ヒトガミは、何か間違えたんだろうか。

 そんな、呑気な事を考えてた。

 

 俺はこの時は……まだ、シルフィが助かると思っていたんだ。

 

 

 

 そして、朝になって。

 シルフィの呼吸が、止まっていた。

 

 

 

「ルディ……」

「……」

 

 呆然とシルフィの傍らで座っている俺に、戻ってきたロキシーが声をかけた。

 そして、ロキシーはシルフィの様子を見留めた。

 

「シルフィ……」

 

 そのままロキシーは、眠ったように……死んだシルフィの頭を、そっと撫でた。

 

「ごめんなさい……助けてあげられなくて……」

「……」

 

 ロキシーの目から、涙が零れた。

 見ると、目の下にうっすらと隈が浮かんでいた。

 ……あの後、ずっと起きていたんだろうか。

 

「……」

 

 俺は、ロキシーがシルフィを撫でているのを、ぼんやりと見続けていた。

 

 

 

 

 シルフィの葬式をした。

 

「祈り給え、彼の者が安らかに眠らんことを。祈り給え、彼の者が死者の道を踏み外さぬことを。祈り給え──彼の者に、聖ミリス様のご加護があらんことを」

 

 司祭が祝詞を唱えきると、十字を切って手を組み、頭を下げる。

 俺はそれを、ルーシーを抱きながら、無表情で見ていた。

 お墓は、町外れにある貴族用の墓地だった。管理が行き届いているから、シルフィも安心して眠れる。

 本当はブエナ村でお墓を作った方が良かったんだろうけど……ロールズさん達の名前も墓石に入れてあげた方がいいのかな。

 こういうの、誰に相談すれば良いんだろう。

 

 葬儀中、ロキシーは、ずっと沈鬱な表情で下を向いていた。

 抱きかかえていたルーシーは、ずっと泣き止まなかった。さっきミルクをあげたばかりなのに、ずっと泣き叫んでいた。

 ノルンもぐしゃぐしゃに泣きながら、シルフィの遺体から離れようとしなかった。

 アイシャも泣いていた。涙を拭いながら、シルフィの棺に花を手向けていた。

 リーリャも、ハンカチで涙を拭きながら、ゼニスの手を引いてシルフィとお別れをしていた。

 ゼニスは相変わらずぼんやりしていたけど……でも、花を、自分の手で手向けていた。

 パウロは、まだシャリーアに帰ってきていない。知らせによると、ウィルの捜索でバシェラント公国まで足を伸ばしていたらしい。でも、もうすぐ帰ってくるとか。

 

 ……ウィルは、どこで何をやっているんだろうか。

 せめて、義姉の葬式くらいには顔を出してほしいのだが。

 薄情だな、あいつ。

 生きてるのか、死んでるのかも、もうわからないけど。

 

 シルフィに縁のある人達も参列してくれた。

 エリナリーゼが泣き崩れて、クリフが支えていた。クリフはずっとエリナリーゼを支え、慰めていた。

 墓地にシルフィを埋葬する時、ザノバも一緒に棺を運んでくれた。あいつ、本当は一人で担げるくらい力があるのに、俺達家族と一緒に運んでくれた。

 ジュリは、ジンジャーと一緒に、悲しそうな顔で棺を見つめていた。

 そう言えば、どこで知ったのか、卒業後に商人になったリニアも駆けつけてくれた。珍しく、言葉少なく……シルフィの死を、悲しんでくれた。

 プルセナは大森林に帰ったからここにはいないけど、いつか必ず墓参りに来るよう、リニアが手紙を出したらしい。

 そして、皆が俺達……俺に気遣ってくれた。

 

 アリエルとルークも、葬式に参列してくれた。

 ルークは花を手向ける時、シルフィに何かを呟いていた。何かを覚悟したような、そんな表情で。

 アリエルは、シルフィの頬にキスをして……嗚咽を噛み殺して、泣いていた。

 それから、俺を励ますように、「力になります」と言ってくれた。

 ……アリエルは、本当にシルフィの主君であり、友人だったんだなって。そこで初めて実感した。

 ルークも同じ事を言ってくれて、シルフィの同志であり友人だったと、改めて実感した。

 それから、魔法大学の関係者やシルフィの同僚、世話になった街の人達……多くの人が参列してくれたと思う。

 

 シルフィは、本当に死んだとは思えないほど、穏やかで、綺麗な顔をしていた。

 肩に刺さった鬼の爪……本当は、それを外してあげたかったけど、無理に剥がすとシルフィの身体がひどい事になりそうだったので、少し厚めのフューネラルドレスを着せてあげた。

 

 それから、シルフィが埋葬されて。

 俺は、ずっと、この光景が現実味の無いように思えた。

 だって、家に帰ったら、シルフィが迎えてくれて。

 今日も大変だったね、お疲れ様って、俺を労ってくれて。

 ルーシーは元気だね、将来美人になるねって、幸せそうに……。

 

 

 

 

 家に帰っても、シルフィはいなかった。

 ルーシーは泣き疲れて、顔を真っ赤にさせて眠っていた。いや、ルーシーだけじゃない。

 皆、目を腫らして、暗い表情を浮かべていた。

 

「……」

 

 一人、着の身着のまま、リビングでソファに座る。

 そんなだらしない俺を叱る家族は、誰もいない。

 ルーシーはアイシャが見てくれて、他の家族も、皆別の場所にいて、リビングには俺しかいない。

 静かな、我が家。

 

 ……家族が一人減っただけで、この家はこんなにも静かになるんだな。

 そういや、ウィルやパウロもいなかったけど、寂しさを感じる暇は無かったな。

 

「……ルディ、大丈夫ですか?」

 

 ぼうと、宙を眺めてる俺に、ロキシーが声をかけた。いつの間にか、俺の隣に座って、俺の方を向いてくれるロキシー。

 あんな事をしでかしたのに、ロキシーはいつもと変わらず……俺を気遣ってくれた。

 

「……本当、俺って救いようがないですよね」

「ルディ……」

 

 しばらくして、俺はロキシーにそう自嘲した。

 

「得体の知れない神様の言う通りにして、ロキシーにひどい事をして、結局それが全部無意味で……いや、もしかしたら俺が何か間違ってたかもしれないですけど」

「……」

「でも、不思議ですよね。今でも、こうして後ろを振り返ったら、シルフィがいるような気がするんです。だからかな、俺、葬式でも全然涙が出なくて」

「……」

「おかしい、ですよね。俺、シルフィが死んじゃって、凄い、悲しい、はずなのに」

「……」

 

 気付いたら、涙が溢れていた。

 ボロボロと泣きながら話す俺を、ロキシーはずっと、黙って聞いてくれた。

 

「ロキシー……」

 

 無性に寂しくなった。

 それでも、ロキシーは俺の側にいてくれた。

 あんなひどい事をしたのに、ロキシーは俺の側にいてくれている。

 

 シルフィを失った悲しみと、ロキシーへの罪悪感、そして感謝の気持ち。

 思えば、ブエナ村でも、ロキシーは俺を導いてくれた。

 俺が大変な時に、いつも手を差し伸べてくれた。

 

 だから。

 俺は、ロキシーの手を、握ろうと──

 

 

「ヒッ──」

 

 

 ロキシーが、びくりと身体を震わせた。

 見ると、怯えた表情で、ロキシーは俺を見ていた。

 

「ロキシー……?」

 

 ふるふると震えるロキシー。

 どうして、そんな風に怯えているんだろう。

 俺は、涙で濡らした顔で、そう思って、ロキシーを見ていた。

 

「い、いえ、違うのです、ルディ、これは」

 

 弁解するようにそう言うロキシー。

 でも、決して、俺の手を……俺の身体を、触れようとしなかった。

 青ざめたロキシーを見て、俺は……

 

「……ごめんなさい。少し、頭を冷やしてきます」

「あっ……」

 

 俺は、ロキシーを極力見ないようにして、席を立った。

 そのまま、洗面所へと進む。

 

「……ううっ」

 

 こみ上げてくるモノを抑えきれずに、俺は吐いた。

 

「えぅ、えうぅ……」

 

 涙と、鼻水と、ゲロと、胃液と。

 吐くものが無くなっても、俺はずっとえずいていた。

 

「うあ、うあぁぁぁ……!」

 

 情けない声を出しながら、俺は泣いた。

 シルフィが死んだ。もう彼女はいない。

 ロキシーにひどい事をした。もう、彼女は、俺に手を差し伸べてくれない。

 

 耐え難い喪失感。

 シルフィがいない。ロキシーに拒絶された。

 それが、全部俺のせいで起こった、現実なんだ。

 

「うあぁぁぁぁぁッ!!」

 

 俺はそのまま、意識を落とすまで。

 狂ったように泣き喚いていた。

 

 

 

 

 

 

 シルフィの葬式が終わって、一夜が明けた。

 

「……」

 

 俺は、喪服のままベッドに横たわっていた。

 誰かが運んでくれたのか、あのまま寝入ってしまったらしい。

 ……情けない。

 

「……」

 

 身体を起こして、部屋の中を見渡す。

 窓の外を見ると、朝焼け……いや、夕日が傾いていた。

 ああ、俺、夕方まで寝てたのか。こんなに眠ってしまうなんて、前世でニートやってた時くらいだな。

 

「シルフィ……ロキシー……」

 

 当たり前だけど、シルフィはいない。ロキシーの姿も。

 一人ぼっちだ。

 

「……うぅ」

 

 胸が苦しい。喉もカラカラだ。

 唇も、顔もカサカサになっている。

 きっとひどい顔をしているのだろう。

 でも、顔を洗いに、立ち上がる気にはなれない。

 

「うぐっ」

 

 水魔術で、グラスに水を差して、それを呷る。

 喉は潤ったけど、渇きは満たされなかった。

 

 これから、どうしたらいいのだろう。

 ロキシーに、なんて言って謝ったら、許してくれるのだろう。

 ずっと、そんな事を考えていた。

 

「ルーデウス」

 

 考えていると、ドアの向こうから声が聞こえた。

 

「……エリナリーゼさん?」

「起きているようですわね。入りますわよ」

 

 そう言って、エリナリーゼはドアを開いて寝室に入って来る。

 どうしてエリナリーゼが?

 そんな疑問を浮かべる間も無く、エリナリーゼはつかつかと俺の前へと立った。

 心なしか、険しい顔をしている。

 見ると、エリナリーゼは旅装をしていた。

 ……どうしてなんだろう?

 

「ルーデウス」

 

 厳しい声色のエリナリーゼは、じろりと俺を見下ろしていた。

 ……葬式ではろくに話が出来なかった。だから、エリナリーゼが言いたい事も分かる。

 

「……俺は、シルフィを助ける事が出来なかった」

 

 我ながら薄っぺらい贖罪だと思う。

 でも、エリナリーゼは、大切な孫娘が俺みたいな奴に預けてしまったから、死んでしまったと思っているのだろう。だから。

 

「申し訳──ッ!?」

 

 頬に激痛。

 数瞬して、俺はエリナリーゼに平手打ちを喰らったのだと理解した。

 ……そうだよな。引っ叩きたくなるよな。

 大切なシルフィを助けられなかった俺が、許せないよな。

 

「エリナ」

「ルーデウス。ロキシーに何をしたのです?」

 

 もう一度謝ろうとしたら、エリナリーゼは俺の言葉を遮って詰問する。

 呆然とする俺に構わず、エリナリーゼは言葉を続けた。

 

「シルフィは……残念でしたわ。でも、救えなかったのはわたくしも同じ。貴方だけが気に病む必要はありませんわ」

 

 そう言って、エリナリーゼは悲しそうに俯いた。でも、直ぐに顔を上げ、俺を睨みつける。

 

「だから、わたくしはせめて、シルフィが死んだ原因を調べようと思いましたの」

「原因?」

「そう。原因を探り、同じ“被害者”が生まれないようにするのが、わたくしなりの供養だと思ったのですわ。できれば、そのまま原因を“断つ”事も……」

 

 そう言って、エリナリーゼは鋭い視線を浮かべる。

 ……すごいな。葬式が明けてすぐ、こういう行動起こせるのは。

 増々自分が情けなくなる。

 仇討ちなんて発想すら抜けていたなんて。

 でも、そんな気も、正直起きないくらい、やる気が起きなかった。

 

「シルフィはナナホシの研究室で、あの現人鬼と同族と思われる鬼と戦い、傷を負い……死にましたわ」

「……」

「だから、まずナナホシに事情を聞こうと思いましたの。でも、ナナホシはここ数日、研究室どころか魔法大学から姿を消していましたわ」

「……ナナホシが?」

 

 そういえば、葬式にナナホシの姿は無かった。

 あいつ、この間までは俺と一緒にシルフィの治療法を探して駆けずり回ってたのに。

 どうして急にいなくなったんだろう。

 

「正直、わたくしはシルフィが死んだのはナナホシのせいだとは思っていませんわ。でも、何かしら鬼と関りがあるのではと思って」

「……」

「それで、ロキシーと一緒にナナホシの足取りを調べていたのですわ。そこで……」

 

 そこまで言って、エリナリーゼは言葉を詰まらせた。

 しばらくして、エリナリーゼは、ようやく口を開いた。

 

「……ロキシーの様子がおかしいのに気付きましたの」

 

 ああ……。

 そうか。エリナリーゼは……。

 

「最初はどこか具合が悪いだけだと思っていました。でも、体調とは別に、明らかに様子がおかしいと思いましたわ。それで、少し強引でしたけど、何があったか聞いてみたのですわ」

「……それで、ロキシーは何て言ってたんですか?」

「……ルーデウスが怖いと」

 

 息が止まる。

 ロキシーに、怖いと言われた事実が。

 俺は、その事実が受け止められなくて、思考が停止した。

 

「何があったかは具体的には聞けませんでしたわ。でも、ルーデウスが怖いと、ロキシーは泣いていましたわ……それに……」

 

 エリナリーゼは再び言葉を詰まらせる。

 逡巡したエリナリーゼは、さっきよりも重たそうに、口を開く。

 エリナリーゼの言葉。

 それ以上、聞きたくない。

 

「……ルーデウスとの子を、流してしまったと」

 

 そう言ってから、エリナリーゼは唇を噛み締めていた。

 ……何を言っているんだ。

 ロキシーが、俺の子供を、流した?

 何を、言って、いるんだ。

 

「そんな……うそでしょう?」

「わたくしも信じたくありませんでしたわ。でも、ロキシーが身籠っていたのは確かでしょうね。今のわたくしもクリフの子供を宿していますし。色々と覚えがありますのよ」

「そんな……」

 

 信じられない。そんな事、あっていいのか?

 だって、それだと、俺は……。

 

「ルーデウス。ロキシーはまだ貴方の事を愛していると。でも、愛した貴方との子を流してしまった、その事が怖いと。そして、貴方が怖くなってしまったと、ずっと泣いていましたわ」

「……」

「ルーデウス。もう一度聞きますわ。ロキシーに何をしましたの?」

「……俺は」

 

 俺は……俺は……

 

 自分の子供を、殺してしまったのか?

 

「俺は……俺は……」

 

 また、胸が苦しくなる。

 胃がムカムカする。

 動悸が収まらない。

 心臓が破裂しそうになる。

 

 ロキシーが、俺の子供を妊娠していた。

 そのロキシーを殴って、子供を流産させた。

 

「あぁ……」

 

 顔を覆う。

 もう、何も考えたくない。

 今すぐ死にたい。

 この世界から、消えてしまいたい。

 

「……ルーデウス。馬鹿な事を考えるんじゃありませんわよ」

 

 部屋に、エリナリーゼの言葉が響く。

 少しだけ、柔らかい言葉だった。

 

「ルーデウス。よくお聞きなさい」

 

 エリナリーゼは俺の肩を起こして、俺の瞳を覗き込んだ。

 エリナリーゼの瞳に、俺の顔が映る。

 でも、ぐちゃぐちゃしていて、よく見えなかった。

 

「勝手だと思いましたけど、リーリャとわたくしで相談して、ロキシーをしばらく貴方から離す事にしましたの」

「え……」

 

 エリナリーゼは、何を言っているんだろう。

 

「本当はパウロが帰って来てから決めようと思っていたのだけれど、ロキシーは思ったより深刻な状態ですわ。だから、今夜の内に、わたくしはロキシーを連れてシャリーアを発ちますわ」

 

 エリナリーゼはそこまで言ってから、俺を突き放した。

 

「ルーデウス。ロキシーと離れている間、考えなさい。ロキシーへどう償えば良いか」

 

 そして、エリナリーゼは出ていった。

 

 

 俺は、ヒトガミに騙されて。

 それで、シルフィを失って。

 ロキシーにも、拒絶されて、離れ離れになって。

 

 ロキシーの、俺の子供を。

 

 俺が、殺した。

 

 そんな事実を突きつけられて、もう、何も考えられなくなって。

 

「あぁ……」

 

 

 俺の心は折れた。

 

 

 その日は、そのまま、また眠ってしまった。

 

 

 夢にヒトガミは出なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十二景『父子(おやこ)

 

 雪が溶け始め、春の足音が近付く魔法都市シャリーア。

 その門を潜るパウロ・グレイラットは、門番との手続きを終えた後、馬を駆け足で走らせる。その表情は焦りに加え、憂鬱なものが浮かんでいた。

 

 “シルフィ姉危篤。スグ戻レ”

 

 バシェラント公国は第二都市ローゼンバーグにてこの知らせを受け取ったパウロは、それまでの次男捜索を中断。急ぎシャリーアへと引き返していた。

 そもそも、パウロが何故シャリーアから離れ、ローゼンバーグへと捜索の足を伸ばしていたのか。

 これは、捜索に同道するパウロ無二の友、ギース・ヌーカディアの判断によるものである。

 

 

 ウィリアムが北神三世アレクサンダー・カールマン・ライバックとの死戦を繰り広げた折。

 その時のパウロは、自身の妻ゼニスの異常行動を受けシャリーア郊外へ向け走っていた。

 そこで、郊外に至る途中、長男ルーデウス、そして第二の妻ロキシーが倒れているのを発見する。

 二人を介抱し、ルーデウス邸へと運び、再び郊外へと取って返す。当然、パウロが武北相撃の戦場へたどり着く頃には、全てが終わった後であった。

 

 パウロが戦場跡を捜索するも、次男の姿は影も形もなく。その場はそのまま帰宅するしかなかった。

 そして、しばらくはルーデウス邸にて生活しながらウィリアムの捜索に従事するパウロ。ルーデウスもロキシーも目立った外傷は無くすぐに復帰しており、同じく正体不明の鬼との突発戦闘により負傷したシルフィエットも()()を負っただけで、特に問題ないように思われた。

 故に、パウロはある決断をする。

 

「ウィルを探しに、しばらく家を空ける」

 

 家族を集め、そう宣言するパウロ。

 己がいなくても、家族はきっと健やかに過ごせるだろう。そう確信し、パウロはシャリーアを発った。

 愛娘達の誕生日を祝う事が出来ないという去りがたい想いもあるが、愛娘達が懐いている次男を連れてくる事こそが一番の祝いになると信じて、パウロは旅立った。

 

 

「ギース。調べはついたか?」

 

 そして、パウロに同行するは一人の男。

 

「ああ。ここ数日調べたが、闇雲に探すよりゃ、多少はマシな情報を仕入れてきたぜ」

 

 そう応えるは、パウロが冒険者として駆け出しの頃からの付き合いである、ギース・ヌーカディア。一流のシーフとしてのスキルを持つギースは、様々な伝手を用いウィリアムや北神の目撃情報を集めていた。

 ギースが仕入れた情報によると、ウィリアムも北神もその行方は全くもって不明。しかし、妙な出で立ちをした三人組の男女が、大きな荷物を三つ程抱え、アスラ方面へと向かう姿が目撃されていたという。

 

「アスラ方面……バシェラント公国か」

「だな。まあそいつらが若センセに関係あるかわからんが、それ以外はこれといった情報はねえし、とりあえず行ってみるしかねえと思うぜ」

「ああ……」

 

 ギースの能力はパウロも全幅の信頼を置いている。こと索敵、捜索能力にかけては、おそらく世のS級冒険者の中でも随一のものであるだろうとも。

 そのギースが()()()()集めた情報だ。多少はあやふやなものでも、現状はそれに縋るしか無かった。

 

「わしは一旦故郷へ戻るが、道中ウィリアムの事を調べながら行くとしよう」

「ああ……すまん、タルハンド。ありがとう」

「なに、わしもウィリアムの事が気になるからのう。礼には及ばぬよ。では、達者でな」

 

 バシェラント公国国境付近までは、元“黒狼の牙”のメンバー、厳しき大峰のタルハンドも同行していた。

 ここで二手に分かれウィリアムを捜索する。頼もしい昔の仲間の助力に、パウロはただひたすら頭を下げるばかり。

 ひらひらと手を振りながら、峻厳なドワーフの男は、豪雪をかきわけるようにミリス大陸──大森林は青竜山脈へと向かっていった。

 

「パウロ、焦るなよ。元々この辺りは人の往来も厳しくなるくらい雪深い土地だ。ミイラ取りがミイラってわけじゃねえが、俺達まで行方不明になるのは避けたい」

 

 厚い外套に身を包んだ猿顔の相棒の言葉に、パウロは無言で頷く。

 もう少し若ければ、無茶な行程も辞さないほど蛮勇溢れる気質のパウロであったが、愛する家族、孫娘がシャリーアで待っている身の上だ。

 ウィリアムの事も心配だが、ギースの言うことももっともであり。

 逸る気持ちを抑えつつ、パウロは寒波に覆われた北方大地を、次男を求め歩み始めた。

 

 

 それから三ヶ月が経過した。

 パウロ達は行く先々でウィリアムの情報を集めながら、出立して約一ヶ月ほどでバシェラント公国は第二の都市、ここローゼンバーグへと到達していた。

 アスラ王国国境から最も近くに位置し、北方大地の入り口ともいえる都市ローゼンバーグ。ここで、パウロ達は悪天候により実に二ヶ月も足止めを喰らう。

 

「こうなったら仕方がないぜパウロ。滞在しつつ、じっくり情報を集めようや」

「ああ……くそっ……」

 

 滞在している宿にて、そう提案するギースに、パウロは難しい表情を浮かべながら同意を示す。

 吹雪が舞う街中の様子を、窓際にて見つめるパウロの表情は冴えなかった。

 

 そして、ローゼンバーグにて情報収集の日々を過ごすパウロとギース。

 しばらくして、ある有力な情報を得る事となる。

 

「これはどう聞いても若センセとナクル達だよな……」

「……」

 

 寒波が過ぎ去り、幾分か天候が落ち着いた頃。酒場にて集めた情報の整理をしていたパウロ達は、たまたま席が近い行商人達の会話を聞く。

 アスラ王国からの交易商隊がローゼンバーグに至る途中、街道ですれ違った一行の姿かたち。それに、パウロ達のよく知るものが含まれていた。

 眼鏡をかけた痩身の青年、なにやら妙な引き眉を描いた女性、表疵が生々しい少女。

 

 そして、兎耳を生やした獣族の若者二頭と、白髪を結わえた虎の如き若武者が一頭。

 

 彼らは一言も発する事なく、黙々とアスラ王国の方角へと向かっていったという。奇妙な一行だっただけに、商人達は酒の肴にその一行を話題に上げていた。

 

「やっぱりアスラ王国か。しかし、なんだってアスラなんかに……」

「ギース。出発の準備をしろ」

「え? あ、おい、パウロ!」

 

 即座に立ち上がり、出立を宣言するパウロ。

 何故、ウィリアムが得体の知れぬ一行と共にしているのか。何故、双子達もそれに従っているのか。何故、シャリーアへと戻らず、アスラへと向かうのか。

 そもそも、目撃された一行が、本当にウィリアム一行なのか。真偽は不明である。

 しかし、ローゼンバーグ滞在中にこれ以上有力な情報を得ていなかったパウロ。己の勘を信じ、行動を起こす。

 

(ウィル……どうしてなんだ……?)

 

 パウロにとって、ウィリアムの生存は己の中で確定となり。

 そして、次男の思惑が全く読めない事が、パウロの焦りを強くしていた。

 

 直接会う必要がある。

 会って、確かめたい。

 ウィル、お前は──もう、俺達家族の事は、どうでも良くなっちまったのか?

 

 そんなはず、無いよな。

 

 

「ちわーす。パウロ・グレイラットさんはいらっしゃいますかー?」

 

 早々に出立の準備を整え、酒場のドアへと進むパウロとギース。すると、外から扉が開けれられ、呑気な声を上げる能天気そうな男が現れた。

 厚い防寒着に身を包んだ男を見留めたパウロは、少し怪訝な表情を浮かべつつ応じた。

 

「俺だが」

「お、貴方がパウロさんっスね。いやーギルドの職員からこの宿にいるって聞いて来たんスけど、見た所出発寸前って感じスね。間に合ってよかったっス。郵便っス。サインおなしゃす」

「あ、ああ……」

 

 そうまくし立てると、男は鞄から一通の手紙と受領証を差し出す。変わらず怪訝な表情でそれらを受け取ったパウロは、サラサラと淀みなくサインを書いた。

 そして、緊急速達便で届けられたであろうその手紙の差出人を見た瞬間。パウロの表情は更に険しくなる。

 

「アイシャ……?」

 

 差出人は、シャリーアで待つ家族……愛娘、アイシャの名前が記されていた。

 

「あざーーっス! パウロさんのおかげで割の良い収入になったっス。あ、でもここに来るまで魔物が怖くて護衛を雇ってるから……なにっ!? 収益がまるでない!! こ……こんなの納得できない」

 

 雑な金勘定をしながら立ち去る郵便屋の声は、もはやパウロには聞こえておらず。

 何か嫌な予感を感じつつ、手紙を開封した。

 

 “シルフィ姉危篤。スグ戻レ”

 

 速達便特有の短い文章。

 それを読み、パウロの身は固まった。

 

「どうしたパウロ。なんて書いてあったんだ」

「……」

 

 覗き込むギースに、無言で手紙を渡すパウロ。

 ギースもまた、手紙を読み表情を固くさせた。

 

「お、おいおい……こりゃあ日付が一ヶ月も前だぜ」

 

 大切な長男の嫁。その危急の報。

 積雪期よりは多少マシとはいえ、残雪期の街道は未だに固い雪がそこかしこに残されている。そのような現状を鑑みると、郵便屋の仕事は決して遅くはない。あまつさえ、雪解けのこの時期は冬眠明けの魔物の活動が活発になる。各都市に駐屯している騎士団や討伐クエストを受注した冒険者が魔物を掃討し、都市周辺や街道沿いの治安を回復させるのも、まだまだ時間がかかるだろう。

 そのような状態でも、郵便物を速達せしめる郵便屋の努力は推して知るべしである。

 

「……」

 

 しかし、それでも一ヶ月も前の出来事を告げられるとなれば、パウロの思考が滞るのは仕方がないといえた。

 

「俺は……」

 

 大切な家族。行方不明のウィリアムも大事だが、シルフィエットもまたパウロにとって大切な家族だ。

 そのシルフィエットが病に倒れている現状。

 どうしてそのような事態になったのか、パウロには分からない。だが、如才ないアイシャが、冗談でこのような知らせを送ってくる事は無いのは分かる。

 

 故に、迷う。

 せっかく掴んだ次男の情報。それを追うか。

 それとも、義娘(むすめ)の大事に駆けつけるか。

 

「パウロ。お前はもう戻れ」

 

 逡巡するパウロに、ギースはきっぱりとそう言った。

 

「いや、しかし」

「しかしもカカシもねえだろ。長男の嫁が大変だって時に、親父のお前が家にいないでどうする」

 

 なるほど、ギースの意見も尤もであり、それが普通なのだろう。

 しかし、己の息子は……ルーデウスは、自分より遥かに優秀な男だ。

 難事があっても、きっと何とかするのでは。

 

「でもルディなら」

「アホかおめえは! まだミリシオンでの事反省してねえのかよ!!」

「ッ!」

 

 しかし。

 そのような事を述べる前に、ギースが一喝した。

 そして、パウロの脳裏に、かつての親子再会が思い起こされる。

 

 あの転移事件の後。

 フィットア領捜索団を組織し、ミリスを中心に捜索活動を続けていた、あの時。

 捨てたはずの家名、冒険者時代の名声、妻の実家の権力。それら使えるもの全てを用いても、一向に家族の消息が掴めなかった。

 

 そのような時に、長男ルーデウスと再会した。

 優秀な息子なら、きっと生きていて──各地に残した己のメッセージに気付き、ゼニス達を探しているだろうと……思い込んでいた。

 自己弁護するわけではないが、あの時は一向に見つからぬゼニス達が既に死亡しているという絶望に苛まれていたから、そのような先入観で息子と接してしまった。

 

 事実は違った。

 魔大陸という最悪な土地に転移し、必死になってエリス・グレイラットを守りながら、ミリシオンへようやく辿り着いたルーデウス。己ですら生き延びられるかどうか怪しい過酷な旅を続け、健気に父を求めて来た、大切な長男。

 それを、遠足気分の呑気な冒険と断じ、理不尽な叱責を飛ばし、殴りつけ、あまつさえ軽蔑の眼差しを向けてしまった。

 売り言葉に買い言葉。すれ違った末の喧嘩というには、あまりにも切ない軋轢が、あの時にはあった。

 

「そりゃあ先輩だってあの時に比べたらもう立派な大人だ。てめえの嫁さんの事くらいてめえで何とかするだろうよ。でも、それでも先輩はお前の息子だ。息子が、家族が大変な時に、親父のお前が支えてあげなくてどうすんだ」

「……」

「何考えているか分からねえ次男坊を追いかけるより、困っている長男夫婦の側にいてやれよ。パウロ」

「……ああ」

 

 思えば、あの時もギースに説教を受け、ルーデウスとの和解の切っ掛けとなっていたのを思い出したパウロ。

 故に、縋るような目を朋友へ向ける。

 

「ウィルの方を任せてもいいか?」

 

 助けられてばかりだ。

 この男には。

 

「おう。任せろ」

 

 ギースはパウロへ(しか)と頷く。

 駆け出しの冒険者として中央大陸南部で燻っていた時分から、パウロとギースはこのように互いに助け合い、今日まで生き抜いて来たのだ。

 言葉は少なくとも、通じ合うものがある。

 

「すまねえ……本当に」

「気にすんなっての。お前がシャリーアに戻っている間に、こっちはこっちで上手くやるよ」

 

 そう言って、猿面の男は諧謔味に溢れた笑みを浮かべた。

 パウロはただひたすら感謝するのみであった。

 

 

 こうして、パウロは一人シャリーアへと帰還する事となった。

 買い付けた馬へまたがり、風のように馬脚を走らせるパウロを見ながら、残されたギースは一人呟く。

 

「……ま、こっちはこっちで上手くやるよ。悪いな、パウロ」

 

 ギースはそのような諦観とも憐憫ともつかない、不可思議な呟きを漏らしていた。

 

 

 

 


 

 一路ルーデウス邸へと駆けるパウロ。

 ここに至るまで特に障害となるような出来事は発生せず、通常よりも格段に早くシャリーアへと到着していたパウロであったが、それでも内にある焦燥感は拭いきれなかった。

 

(急がねえと……!)

 

 義娘の危急。

 今更、己が駆けつけた所で何か出来るというわけではない。

 だが、息子の支えに、家族達の心の支えにはなれるはずだ。

 否、支えにならなければならぬのだ。

 たとえどのような結末になろうとも。

 

「……?」

 

 ふと、パウロは市街地中心部にへ入る前、街外れの墓地に、見知った人影を見留めた。

 

「アイシャ……?」

 

 赤髪の少女。遠目でも分かる、愛娘の姿かたち。

 その表情は見えないが、何かを入れた籠を携えている。

 

「……」

 

 嫌な予感。

 だからこそ、パウロは躊躇わずアイシャの元へ馬を走らせた。

 

「アイシャ!」

「……お父さん?」

 

 数瞬遅れて、アイシャは父に気付く。

 

「アイシャ……」

 

 パウロは愛娘の姿を間近で見ると、僅かに息を呑む。

 若草の如き瑞々しい生命力にあふれていた少女とは思えない程、今のアイシャからは生気は感じられない。その様子に、パウロの悪感は強まる。

 

「遅いよ……」

 

 ぼそりと、アイシャは父へか細い文句を垂れる。

 いや、アイシャ自身も、パウロが驚異的な速度で帰還せしめたのは十分理解している。

 しかし、言わずにはいられない。

 

「アイシャ、シルフィちゃんは──」

「こっちだよ」

 

 パウロの言葉を最後まで聞かず、アイシャはすたすたと墓地へと足を向けた。

 やや呆気にとられつつも、パウロは馬を降り、娘の後に続く。

 いくつかの区画を通り過ぎると、アイシャは最近になって作られたであろう墓石の前に立ち止まった。

 

「おい、アイシャ」

「ここだよ」

 

 そう言ったアイシャ。

 墓石に刻まれた文字。それを見て、パウロは背中が凍りついたように立ち竦んだ。

 

 ここにルーデウス・グレイラットの優しい妻

 シルフィエット・グレイラット夫人の遺体が眠る

 彼女は人生の絶頂を生き

 より大きな悲しみのなかで亡くなった

 

「……」

 

 パウロは目の前の墓石銘を見て、どこか現実味が感じられないように思えた。

 これは、タチの悪い冗談か何かではと。

 そのような逃避気味の思考に囚われる。

 

「シルフィ姉、お父さんが来てくれたよ」

 

 アイシャは墓石を慈しむように撫でると、持参した花を供える。

 よく整備された墓。それは管理人の清掃だけではなく、少女が毎日のように墓参りしたからこそであろう。

 そして、そのようなアイシャの様子が、決してこれが冗談ではない事を、雄弁と物語っていた。

 

「今日はね、あたしの好きな水仙のお花を持ってきたんだよ。シルフィ姉も気に入ってくれるといいな」

 

 アイシャは努めて明るい声色で花を供え、墓石の清掃に勤しむ。しかし、その表情は暗く、陰鬱とした空気を纏わせていた。

 パウロは、ただ黙ってそれを見つめ──静かに黙祷した。

 

「じゃあね、シルフィ姉。また明日」

 

 そして、アイシャは腰を上げると、パウロへと向き合った。

 

「シルフィ姉、だめだったよ」

「……」

 

 涙を堪えるようにそう言ったアイシャ。

 哀しみに耐え、健気に家政を助けてきた少女の、痛ましい姿。

 

「アイシャ」

 

 パウロは腰を落とすと、アイシャをぎゅうと抱きしめた。

 

「あのね、ルーデウスお兄ちゃんも、みんなも、シルフィ姉を助けようとしてね」

「ああ」

 

 パウロの首に、アイシャの細い腕が回される。

 救いを求めるかのように縋る少女を、パウロはその逞しい腕で包んでいた。

 

「ロキシー姉もいなくなっちゃって」

 

 涙声で言葉を発し続けるアイシャ。

 パウロの肩に、少女の涙が零れ落ちた。

 

「お兄ちゃん、それで、お兄ちゃんが」

「アイシャ。もういい」

 

 抱きしめる力を強めるパウロ。

 これ以上、愛娘の、家族の辛い姿を見るのは、耐えられなかった。

 

「もういいんだ」

「……」

「父さんが……父さんが、全部なんとかしてやる」

「ぅ……」

 

 力強いパウロの言葉。腹の底から響く父の言葉。

 それを聞いたアイシャは、とうとう抑えられないといったように、大きな声で泣いた。

 

「わあああああああん!」

 

 赤子のようにしがみつくアイシャが泣き止むまで、パウロは抱きしめ続けていた。

 

 

 

 

 しばらくして、涙で目を腫らしたアイシャを連れたパウロは、ルーデウス邸へと帰宅した。

 

「……」

 

 アイシャだけではなく、家全体が喪に包まれており。

 快活で、幸福な家族の営みがあったとはとても思えないほど、今のルーデウス邸は暗澹たる空気に包まれていた。

 心なしか、玄関を守るトゥレントのビートも元気がない。

 

「ノルンはいないのか?」

「ノルン姉はまだ大学だよ」

「そっか……」

 

 短く応えるアイシャに、パウロもまた短く応える。

 そのまま、玄関の扉を開けた。

 

「……ただいま」

 

 扉を開くと、気重げな空気がより強まるのを感じる。

 この空気が、慈しい家族が一人減ったという事実を、如実に表していた。

 

「旦那様、おかえりなさいませ」

「……」

 

 リーリャがゼニスを伴ってパウロを出迎える。

 伴侶の帰還を受けても、瀟洒な女中婦人の表情も影が刺しており。

 正妻であるゼニスも、変わらずその表情は白痴美であった。

 

「旦那様、あの……」

「大体はアイシャから聞いた。ルディは部屋か?」

 

 帰宅途中に大凡の顛末を聞いていたパウロ。

 シルフィエットの急逝、ロキシーの夜逃げという事実も衝撃であったが、まずは息子の状態をこの目で確かめねばならない。

 パウロの言葉を受け、リーリャはやや辛そうに俯く。

 

「はい……ルーデウス様はお食事の時ですら部屋から出てきません」

「そうか……」

 

 シルフィエットの葬儀が行われ、ロキシーが家を出た後。ルーデウスの心の器には、ひびが入っていた。

 アイシャ曰く、食事は盆に乗せて部屋の前に置いているとの事だが、ロクに手を付けている様子は無い。

 用便の時には部屋から出ているらしいが、家族の誰とも目を合わせようともせず。

 ルーシーの様子を時折伺っているらしいが、それも短時間のみであり、ルーデウスは一日の大半を二階の夫婦の寝室──自室に籠もって過ごしていた。

 その様子は、幽鬼のようだとも。

 

「あの、旦那様。ロキシー様の事でお話が……」

「……」

 

 リーリャはためらいがちにそう言いつつ、アイシャへ視線を向ける。母と同じように、アイシャもまた辛そうに俯いていた。

 アイシャからはロキシーが家を出たという事実しか聞かされていないパウロ。

 しかし、詳細は知らないのだが、何があったのかは、敏いアイシャは察する事が出来た。

 故に、口憚れる。それを言うのは。

 だから、母親である私が伝えねばならないと、リーリャは思っていた。

 

「ああ。でも、それは後にしてくれ」

「で、ですが」

「リーリャ」

 

 リーリャの言を遮るパウロ。

 その瞳は、父親としての貫目が備わっていた。

 

「今はルディの側にいてやりてえんだ」

「……」

 

 そう言って、パウロはリーリャの肩を優しく抱く。

 やや軽佻浮薄な気があるパウロ。それ故に、詳細を知らぬままルーデウスと会わせては、またミシリオンのような致命的なすれ違いが起こり、事態はもっと悪化するのでは。

 そう思ったリーリャだったが、主人の瞳を覗くと、その懸念は霧散した。

 

「大丈夫だ。俺が、全部なんとかしてやる」

 

 娘と同様に、力強い主人の言葉を受けるリーリャ。

 

「……」

「奥様……」

 

 見ると、リーリャの裾を僅かに引くゼニスの姿があった。

 じっとリーリャの瞳を見つめるゼニスの瞳もまた、パウロと同じ。

 子を想う親の情愛が、瞳に表れていた。

 

「……畏まりました」

 

 そう言って、リーリャはパウロへと頷く。

 アイシャと同様に、リーリャにとってもパウロは縋るべき存在だった。

 

「お父さん」

「アイシャ、大丈夫。大丈夫さ……父さんに任せておけ」

 

 ふと、アイシャがルーシーを抱え、パウロへ不安げな瞳を向ける。

 すうすうと眠るルーシーを撫でながら、パウロは安心させるように、努めて優しい言葉をかけていた。

 

 

 家族を一階へ残し、パウロはルーデウス邸の二階へと上がる。

 そのまま角部屋に備えられた息子の部屋へ進んだ。

 

「……」

 

 途中、三つの部屋、その扉に目を向ける。

 ウィリアムが滞在していた客室、ロキシーの部屋、そしてシルフィエットの部屋。

 どれも、今は空室である。

 

「……ルディ。入るぞ」

 

 そして、ルーデウスの部屋の前へと立つパウロ。

 ゆっくりとノックをした後、ノブへと手をかける。

 意外なことに、部屋には鍵はかかっていなかった。

 

「ルディ……」

 

 ドアを開け、中へ入るパウロ。

 そして、目をそむけたくなった。

 

 乱雑に放置された衣服など、部屋は散乱としているのは、そこまで気にならない。

 だが。

 

「……ああ、父さん。おかえりなさい」

 

 じっと、彫像のように、ベッドの縁に座るルーデウスの姿。

 そして、抑揚の無い声で返された無機質な挨拶。

 それらが、パウロの心を苛む。

 整えられた髪は寝腐れ髪のように乱れきっており、清潔を常に心がけていたその容姿は、今は薄汚れた畜獣のような様子を見せている。何日も着古した部屋着は垢染みており、不潔極まりない。

 

 そして、そのような己の様子を全く気にも留めない、ルーデウスの生気の無い表情。

 その目、その瞳は、この世の全ての絶望に苛まれたような、亡者の如き暗闇に包まれていた。

 

「……隣、いいか」

「……」

 

 父の言葉に無反応なルーデウス。

 ある意味ではゼニスと似たような症状と思われたが、根本では違うだろう。

 そう思いつつ、パウロは息子の隣へ腰を下ろした。

 

「……」

「……」

 

 しばしの沈黙が漂う。

 隣に座っても、ルーデウスは特に言葉を発せず、虚空を見つめ続けていた。

 

「……」

 

 パウロは、ここに来るまで、ルーデウスがここまで“病んでいる”とは思ってもいなかった。

 いや、相応に気落ちし、痛ましい姿を見せている事は予想していた。

 とはいえ、これは一体どうすれば良い。この長男に、どうすれば立ち直ってもらえるのか。

 

 一発殴って精神注入をし果たすか。

 否。

 もうあのような短慮極まりない行動は、二度と起こしてはならぬ。

 

 滔々と慰めの言葉をかけるか。

 否。

 今のルーデウスには、そのような“薄っぺらい”言葉は届かない。

 

 いっそ、娼館にでも引っ張り、女でも抱かせて辛い思いを忘れさせるか。

 否。

 己ならともかく、妻を、同時に二人も失ったルーデウスに、そのような行いは悪手極まりない。

 よしんば連れて行けたとしても、今のルーデウスにはそのような手段が有効とはとても思えなかったし、ノルンからは軽蔑され親子関係が断絶状態になるのは目に見えていた。

 

「……」

 

 だから、パウロは。

 ルーデウスの肩を抱くと、そのまま己の胸に寄せた。

 

「……」

 

 父の胸に頭を預ける形になったルーデウス。

 父の頑健な匂いを嗅いでも、ルーデウスの表情は変わらず、人形のように父に体重を預けるだけだった。

 

「……」

「……」

 

 パウロは、ルーデウスを頭を優しく包む。

 ただ黙って、息子を胸に抱く。

 かつてベガリットで再会した時とは逆となった親子の姿。

 しかし、本来はこのような形こそが、父親としてのあるべき姿なのだろう。

 

 そう思い、パウロは黙ってルーデウスを抱き続けていた。

 

「そういや、ラパンの時を覚えてるか? あの時はリーリャと三人で駄弁ってたよな」

「そうですね……」

「俺、ルディとああいう話が出来て、すげえ楽しかったよ」

「そうですね……」

「その後、母さんを助けるまで大変だったよなぁ……俺も、ウィルにヤベえ事しちまったし」

「そう……ですね……」

 

 パウロの独白は続く。

 今のルーデウスに、父の言葉が届いているのだろうか。

 

「ルディ……大丈夫だからな……大丈夫……」

「……」

 

 息子の顔を見つめる父。

 虚空を見つめ続ける息子。

 空虚で、残酷で、優しい時間が、親子の間に流れていた。

 

 

 

「旦那様……」

 

 しばらくして、パウロは一階のリビングへと戻る。

 沈鬱な表情を浮かべるリーリャに、パウロは短く応えた。

 

「時間がかかる。でも、きっとルディを立ち直らせてみせる」

「はい……」

「リーリャ。ルディとロキシーの間に何があったか聞かせてくれ」

 

 アイシャはダイニングでルーシーを寝かしつけており、リビングはリーリャとゼニスしかいなかった。

 

「……エリナリーゼ様の話と、私が知る限りの話で、憶測も含まれておりますが」

 

 そして、リーリャは訥々と語り始める。

 ロキシーが妊娠していたであろう事。

 そして、シルフィエットが亡くなった日に、ルーデウスが()()してロキシーの子が流れてしまった事。

 ショックを受け、精神的に不安定となったロキシーを、エリナリーゼと相談してルーデウスから離した事。

 

「そうか……」

 

 一通りの顛末を聞いたパウロは、深いため息を吐きながらそう呟いた。

 愛する妻を立て続けに失い、あまつさえ生まれてくるであろう子供を、自身の選択の誤りで喪ってしまった。

 哀しみや悔恨など、様々な負の感情がルーデウスを苛み、あのような廃人へと変えてしまったのだろう。

 

「さっきも言ったが、時間はかかる。でも、きっとルディを……」

 

 そう言ったパウロは、それ以上言葉を紡ぐ事が出来なかった。

 一体どのようにすれば長男は立ち直れるのだろう。

 何度目とも分からぬ自問。

 想像した以上に深刻な事態だったのを受け、パウロもまた懊悩していた。

 

 しかし。

 

「……俺は、父親だからな」

「旦那様……」

 

 父としての自責、自覚。

 それは、子を想う親としての、最低限備えるべき覚悟であり、最大限発揮すべき愛情なのだ。

 

「……」

「……母さん」

 

 ふと、呆としていたゼニスが、パウロの隣へと座り、夫の手へ自身の手を重ねた。

 

「……」

 

 パウロはゼニスの手を取り、大切な宝物を扱うように己の頬に当てた。

 

「旦那様……」

 

 見ると、リーリャも、パウロの空いた手に自身の手を重ねていた。

 パウロは、その手を確と握る。

 

「大丈夫さ……大丈夫……」

「……」

「……」

 

 己に言い聞かせるように、瞑目しながらそう呟くパウロ。

 グレイラットの親達が過ごす、久方ぶりの夫婦の時間。

 しかし、それはひどく湿っぽくあり、暗い感情に包まれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十三景『狂犬(くるいいぬ)

 

「パウロ、もう帰ってましたのね」

 

 パウロ・グレイラットがシャリーアへ帰還してから幾日か経っていた。

 早朝、諸々の雑事を片付けるべく、ルーデウス邸の門を潜ろうとしたパウロ。

 そこへ、旅装のままのエリナリーゼが現れていた。

 

「エリナリーゼ……お前……」

「色々とお話をしたいのはわたくしも同じですわ。上がっても宜しくて?」

 

 何か言いたげなパウロを遮り、エリナリーゼは玄関口へ目配せをする。

 諸々の雑事といっても、急いで行う必要は無かったパウロは、とりあえずはエリナリーゼを家の中へ促した。

 

「どうぞ、エリナリーゼ様」

「ありがとうリーリャ。ゼニスも元気そうですわね」

「……」

 

 ルーデウス邸のリビングにエリナリーゼを通したパウロ。

 丁度ゼニスとお茶をしていたリーリャは、直ぐにパウロ達へも茶を差し出す。

 エリナリーゼの挨拶に、ゼニスはぼうとした表情を返すのみだった。

 

「……」

 

 ふと、パウロはエリナリーゼの横顔を見る。

 差し出されたティーカップへ口をつける長耳族の女は、憂いを込めた瞳を覗かせていた。

 

「わたくしの顔に何か付いていまして?」

「いや……」

 

 じっと見ていると、エリナリーゼは剣呑な顔つきでパウロを見やる。

 パウロは少しだけ頭を振り、短く応えた。

 

「……ありがとうよ。色々、気を使ってもらって」

「……いいえ。わたくしも、事前に相談もしないで勝手にしてしまって」

 

 そう言って、エリナリーゼは頭を下げる。

 パウロは、決してこの長耳族の女が独善的に行動を起こしたのではないと──大切な友人の為に、その優しさから行動を起こしたのだと、エリナリーゼの瞳を見て理解していた。

 

 人の傍らに憂いと書いて優しいと読む。

 憂いを持って接する事こそが、優しさの第一歩になるのだ。

 

「それで、ロキシーの事なのですけれど」

 

 一呼吸置いてから、エリナリーゼはパウロへ事の顛末を簡潔に伝えた。

 精神的に不安定となったロキシー。

 彼女が安寧に過ごせる場所は、ルーデウスの側以外だと、魔大陸はビエゴヤ地方にある実家──ミグルド族の村しかない。

 そこで、エリナリーゼはロキシーを連れ、一路魔大陸を目指した。

 

「ですが、わたくしも身重の身……流石に国境付近までしか付いていけませんでしたわ」

 

 既に愛する夫、クリフの子を身籠っていたエリナリーゼ。

 安定期に入っていたとはいえ、往復に二年はかかる魔大陸への旅路は、流石に豊富な出産経験を持つエリナリーゼですら躊躇う所業。

 故に、エリナリーゼは旅すがら出会えたある冒険者パーティへ、ロキシーを託していた。

 

「アマゾネスエースか。聞いたことないな」

「女性だけの冒険者パーティでしてよ。丁度、彼女達がフリーだったので、そのまま依頼をかけましたわ」

「大丈夫なのか?」

「彼女達はSランクのパーティですのよ。魔大陸まで安全にロキシーを送り届けてくれると思いますわ」

 

 既に男性に対する恐怖心まで芽生えていたロキシー。

 手練のパーティはいくつか知っている。しかし、今のロキシーに()()冒険者パーティは、アマゾネスエース以外に存在しなかった。

 アマゾネスエースが王族の外遊護衛任務を終えた時、たまたま国境付近の街で英気を養っていた所に、運良く巡り会えたのは、運命が味方したのか。

 あるいは──。

 

「本当はわたくしが送り届けたかったのですけれど……」

「いや、それは仕方ないだろ。お前はよくやってくれたよ」

 

 本来、エリナリーゼは親友ともいえるロキシーを、自らの手で故郷まで送り届けたかったのだろう。

 しかし、今のエリナリーゼは重ねて言うが身重である。愛しい聖者の少年との子を孕む長耳族の女は、愛情深いその性質上、伴侶と親友の天秤に懊悩したことは想像に難くない。

 

「……ルーデウスは、まだ」

「ああ。すまねえ、エリナリーゼ」

「貴方が謝る事じゃありませんわ。時間がかかるのは、ルーデウスもロキシーも同じですし」

「そうだな……」

 

 重たげな空気が場を包む。

 パウロはひとしきりこめかみを揉むと、エリナリーゼへ向け居住まいを正した。

 

「ともかく、今までありがとうエリナリーゼ。これ以上は」

「ええ。わたくしもクリフの元へ帰りますわ」

 

 そう言って、エリナリーゼは席を立つ。

 このような時に、愛すべき伴侶との幸せを、どこまで噛み締めて良いのか。

 そう、憂いを帯びた瞳を浮かべていた。

 

 それを、パウロは申し訳無さと共に見送っていた。

 

 

 

 それから、しばしの時が流れた。

 転移迷宮で得た財は、家族が数年は不自由なく暮らせる程の量であったが、パウロはこの間精力的に働いた。

 ゼニスの介護をリーリャと共に行い。

 ルーシーの世話をアイシャと共に行い。

 大学を辞め、家事を手伝うというノルンに対し、滔々と説得をして大学へ通わせ続け。

 空いた時間で、冒険者ギルドへ赴き、ギースからの便りが来ていないか確認。併せて、ソロでもこなせる討伐依頼をこなし、金子を得る。

 金はいくらあっても困らない。

 このような、家族が難事に出くわした時は、特に。

 

 ザノバやクリフ、そしてアリエルら、ルーデウスの友人達も、時折ルーデウス邸へ訪れていた。

 だが、それらの訪問にも大した反応は見せないルーデウス。

 延々と部屋に引きこもり、虚空へ視線を彷徨わせていた。

 日に日に長男の精神がすり減っているのを、パウロはただ傍らで見守る事しかできなかった。

 

 

「お父さん、ご飯できたよ」

「ああ。ありがとう、アイシャ」

 

 パウロがシャリーアへ帰還して以降、夕食は家族全員──ルーデウスを除く、家族全員が食卓を囲むようにしている。乳を飲み終えたルーシーも、食卓の傍で揺り籠に揺られていた。

 家の外は夜の帳が降りており、閑静なルーデウス邸はある種の侘しさに包まれていた。

 

「ルーシーは、今日はおとなしいですね」

 

 そう言ったのは、大学から帰宅したノルンだ。

 シルフィエットを喪ってから、ルーシーは特に泣くようになった。赤子とは本来そのようなものであるのだが、パウロ達にとって、それは母を喪った慟哭に見えてしまい、ことさら哀しみを増す事となっていた。

 ノルンは変わらず学生寮へ籍を置いていたが、この頃はルーデウス邸から大学へ通っていた。

 しかし、大好きな父親と食卓を共にしても、ノルンの表情は晴れる事はない。

 いや、ルーデウス邸に棲まう者全員が、明るい空気を取り戻す事は、未だ──。

 

「さあ、飯を食おう。今日もうまそうだ」

 

 努めて明るい声を上げるパウロ。

 無理をしているわけではないが、その空元気に、家族の表情は少しばかり緩んだ。

 

「お父さん、お祈りが先ですよ」

「ああ、わかっているよノルン」

 

 食前祈祷を促すノルンに、パウロは苦笑をひとつ浮かべる。

 今日の献立は、パンにベーコン、豆と芋のスープ、そして大きめのソーセージ。

 同じ献立が乗ったトレーが、ルーデウスの部屋の前にも置かれていた。

 

「……」

 

 ふと、パウロは何かを思い出すように表情を緩ませた。

 

「どうしたの?」

「いや……」

 

 アイシャの言葉に、曖昧な返事をするパウロ。

 近頃は、昔の事をよく思い出すようになった。そう自嘲していた。

 リーリャとの浮気がバレた折、自分にだけ空の皿を出され、ゼニスから「あなた、美味しそうでしょ?」と、冷ややかな視線を浴びせられていたのも、今となっては懐かしき思い出。

 だが、もはやそのような“戯れ”すら、今は望むべくもなかった。

 

「……」

 

 ぼんやりとした表情で、ゆるりとスプーンを運ぶゼニスを見て、パウロは自身の胸が締め付けれられるのを感じていた。

 

 

「……あれ、お客さん?」

 

 食事をしていると、唐突にルーデウス邸のドアノッカーが鳴らされた。

 

「こんな時間に誰だろ?」

 

 アイシャが気付き、応対すべく席を立つ。

 少しばかり荒々しい音を立てる玄関へ、少女は手早く身だしなみを整えながら向かっていく。

 

「アイシャ、俺も行くよ」

 

 何かある、というわけではないが、パウロも娘の後に続いた。

 治安の良いシャリーアでも、押し込み強盗の類はそれなりに発生している。

 アイシャは如才無い娘であるので、招かれざる客には即座に対応可能ではあったが、それでも現状のグレイラット家最大戦力である自分がいたほうが、安全はより保証されるというものである。

 もっとも、実質的な門番であるトゥレントのビートが、特に警戒シグナルを送って来ないので、この来客者には敵意が無いのは明白であった。

 

「はい、どちら様ですか?」

 

 そう言いながらドアを開けるアイシャ。

 ドアが開かれ、家の明かりが漏れると、宵闇に溶け込んだ二名の来訪者の姿を映し出した。

 見知らぬ大人が二人。それも女性。

 訝しげな表情を浮かべるアイシャであったが、後ろに控えるパウロは、女性の一人を見留めると、驚きが籠もった声でその名を呼んだ。

 

「ギレーヌ!?」

 

 黒毛皮の外套に、褐色の美しい筋肉を隠す、獣族の女性。

 そして、剣術三大流派は剣神流において、王級の伝位を授かり、“黒狼”の二つ名を持つ剣術者。

 

「ああ、久しぶりだな、パウロ」

 

 剣王ギレーヌ・デドルディアは、旧知の男へ、そう素っ気のない挨拶を返していた。

 

 そして、もう一人──

 

「ど、どうも……は、はじめまして」

 

 ギレーヌの隣に立つ、真紅の乙女。

 アイシャの赤髪とはまた違う、力強い赤髪を揺らしながら、たどたどしくそう挨拶を述べた。

 黒を基調としたインナーは、鍛え抜かれた肉体と豊満な胸を隠しきれず。

 しかし、剣神流の高位者だけが纏うことを許された伝統的な外套は、乙女の武者姿をより勇壮なものとしていた。

 

 愛した男と情熱的な情交を交わし、そして愛する男と共に並び立たんと、狂気的な修練に身を投じた乙女。

 流門の長から直々に教えを受け、その虐待稽古に耐え抜き、姉弟子と同じ伝位を授かると同時に皆伝を言い渡された乙女の気質は、幼少期に増して狂犬めいた──否、野獣の如き様相となっている。

 餞別に授かった魔剣、そして数年来の愛剣を腰に差す乙女の威容は、“狂剣王”の称号に恥じぬ獅子の如き風格を備えていた。

 

 そして、真紅の鬣を揺らす雌獅子は、愛する男の父親へ、借りてきた猫のような緊張した面持ちで自らの名を名乗った。

 

 

 

「エリス・グレイラットです」

 

 

 


 

「エリスは今頃“想い人”の所へ辿り着いたのでしょうか」

 

 峻険な赤龍山脈。

 その峰の隙間を縫うようにして開かれた、赤龍山脈で数少ない常人の生存を許された道──赤龍の上顎。

 北方大地と中央大陸西部を繋ぐ唯一の安全路であるこの場所に、アスラ王国への途上であろう二名の剣術者がいた。

 

「そうさねえ……」

 

 二名の剣術者──齢二十前後であろう乙女と、六十は過ぎたであろう老婆。

 老婆が乗る馬を引きながら、剣の同輩とまでなった真紅の乙女を想う水王イゾルデ・クルーエルへ、馬上の身である水神レイダ・リィアは、どこか気のない返事を返していた。

 

「エリス、ちゃんとお風呂に入ったのかしら。臭いままで再会して嫌われないと良いのですけれど」

「そうさねえ……」

「まあ、臭いのがお好きな殿方らしいですし、大丈夫だとは思いますが。にしても、度し難い変態ですね」

「そうさねえ……」

 

 弟子にして孫娘であるイゾルデのとりとめのない言葉を、とりとめのない返事で応える師匠にして祖母であるレイダ。

 剣の聖地にて出会った真紅の乙女と、剣神の娘と友誼を交わし、共に切磋琢磨した水神の乙女。

 それ故、別れた後もこうして気にかけていた。

 

 剣神ガル・ファリオンが、北帝オーベール・コルベットの次に呼んだエリスの指導者。

 レイダは、剣神の招聘に応じると共に、愛弟子であるイゾルデの稽古もつけるよう申し出ていた。

 剣神流のイキの良い若者と剣を交えれば、イゾルデのやや天狗になった鼻っ柱を折り──伸びしろを更に伸ばせると踏んだ、老骨の強かにして愛が籠もった提案。

 それを受諾した剣神は、エリス、そして娘であるニナを、イゾルデの稽古相手として充てがっていた。

 

 剣の実力においては、奇妙な三すくみとなった彼女達──水王イゾルデ・クルーエルと、剣聖ニナ・ファリオン。そして、狂剣王エリス・グレイラット。

 結局、エリスはイゾルデに一本を取れなかった。だが、いずれ再び相まみえた時、彼女の剣境はどこまで伸びているのか──。

 

 己もうかうかしていられない。そう想うイゾルデ。

 同時に、イゾルデはエリスが“家族”の元へ帰るのをニナと共に見送った後。

 そのまま自分達もアスラ王国へと旅立つ事となり、別れた後でエリスの事が少々心配になっていた。

 

 エリスは、家族──愛した人、想い人と、ちゃんと再会できるのかしら?

 

 そのようなお節介を焼ける程、乙女達の間には確かな友情が育まれていたのだ。

 

「まあ大丈夫だろうよ。アレは素直で強かだ。収まる所に収まるだろうさ」

「そういうものですかね」

 

 おざなりな結論を述べるレイダに、イゾルデは少し怪訝な顔で応える。

 しかし、師匠の言葉は絶対。同時に、その洞察は、自分から見ても正しいもの。

 ふむと頷くイゾルデに、レイダは眼を細めていた。

 

「そういうものさ。それより、イゾルデ」

 

 ふと、レイダはイゾルデにやや硬い声を上げる。

 

「なんでしょう?」

「いや、なに。少し稽古でもしようかと思ってね」

「ここで稽古ですか? 私は構いませんが……」

 

 このような場所で、唐突な稽古を申し出たレイダ。

 どっこらしょと馬を降り、腰を伸ばす師匠の意図が読めず、乙女は今度こそ怪訝な表情を浮かべていた。

 

「あんたは剣神流の娘らと随分泥臭い稽古をしてたね」

「はあ。泥臭いと言われれば、そうですが」

「だからね、それを忘れてほしくないので──」

 

 そう言って、レイダは前方へと指を差し向けた。

 

「ちょいと走ってもらおうか」

「え?」

 

 唐突すぎる稽古、というより、シゴキに近いレイダの物言い。

 イゾルデはあっけに取られたような返事をひとつ。

 

「走るって、走るんですか? ここで?」

「そうだよ。体力をつけるのも、立派な修行さね」

「はあ……」

「そうだねえ、一刻ばかり、そのまま全力で走ってごらん。あたしは後から馬でゆっくりと後を追わせてもらうよ」

「は、はい……では」

 

 訝しみつつも、師匠の言葉は絶対であるが故に、素直に応じるイゾルデ。

 厚手の外套は疾走するのに不向きな出で立ちであるが、これも稽古の内だろう。それに、整備されているとはいえ、通常の街道よりは悪路である赤龍の上顎。

 ここを走るのも、良い鍛錬になるのだろう。

 

 そう思うことにしたイゾルデ。

 友人の汗臭さを気にかけていたが、まさか自分も汗に塗れることとなろうとは、とも思っていた。

 

「ではお師匠さま。後ほど」

 

 そう言い残し、イゾルデは少しだけ息を整えると、全力で赤龍の上顎を駆けていった。

 ちなみに、乙女は師匠を一人残すのを躊躇せず。

 自分より遥かに強いレイダの心配をするほど、乙女は惚けていなかった。

 

「……チョロすぎるねえ。ちょっと心配さね」

 

 しばらくして、イゾルデの姿が見えなくなった頃。

 レイダはため息を吐きながらそう言った。

 そして、所在なさげに佇む馬の尻を、ぽんぽんと叩く。

 

「あんたも行きな」

 

 優しげに声をかけられた馬は、プルルと嘶くも、その場を動こうとはしなかった。

 賢い馬なのだろう。

 老婆の意図を、乙女より正確に感じ取っていた。

 

「ほら、行きな」

 

 それでも急かすように尻を叩くレイダに、観念したかのように馬は蹄を走らせる。

 先を走るイゾルデを追いかけるように、尾を靡かせながら駆け抜けていった。

 

「ふぅ」

 

 レイダは短く、息を一つ吐いた。

 そのまま手頃な岩に腰をかけ、自身の剣を杖のように立てる。

 そして、眼を瞑った。

 その様子は、縁側に腰をかけ、日向ぼっこをしているご隠居といった体であり、峻険な赤龍山脈には似合わない、どこか長閑な空気を発していた。

 時折聞こえていたはぐれ竜の嘶きすらも途絶え、辺りは不自然な程、緩い静寂に包まれていた。

 

 更に時が経つ。

 イゾルデが駆けていったのと反対側、つまりレイダ達が歩んで来た後方。

 そこから、複数の人影が現出した。

 

「……」

 

 人影は三つ。

 一つは、眼鏡をかけ、冒険者装束を纏った痩身の男性。腰に剣を一振り。

 一つは、見慣れぬ引眉を描いた、これもまた旅装束の女性。得物は無い。

 最後の一つは、顔や身体に生々しい傷痕を残す、小柄な少女。こちらも肩に荷を担ぐも、非武装である。

 

「……」

 

 レイダは薄目を開け、三名の旅人の姿を見留めた。

 自身の前へ近付くのを、じっと待つ。

 

「……」

 

 レイダの座り姿は、三名からも視認できた。

 しかし、そのまま歩む速度を変えず、長閑な空気を発し続けるレイダの前へと至る。

 通り過ぎる際、痩身の男と引眉の女性が、レイダへ会釈をしていた。

 疵だらけの少女は、じっとレイダを見つめるも、しばらくしてそのまま二人の後を追う。

 

「お前さん達……“人間”じゃあないね」

 

 そして、レイダの声が響いた。

 レイダの言葉を聞くと、三人はピタリと動きを止めた。

 

 否。

 動きを止めたのではない。

 

 止められたのだ。

 

 

 グルルルルル……ッ!

 

 

 三人──三頭の異形。

 地獄の底から響いくような、悍ましい唸り声を上げる。

 旅装束が、炎に包まれる。

 異界の怨念を纏わせた三頭の異形──鬼。

 

 静謐なる水神の前に、その兇悪な本性を現した。

 

 

 霓鬼

 

 

 雹鬼

 

 

 虹鬼

 

 

「おやおや、とんだ怪物が現れたもんだ。夢のお告げはこういうことかい」

 

 異形を前にしても、どこまでも自然(じねん)のままであるレイダ。

 しかし、いつの間に抜いたのか。

 その手には剣が握られていた。

 

 そして、抜いた時には。

 既に三頭の鬼は、水神の秘奥に嵌っていた。

 

「悪いが」

 

 怨身を果たした鬼三頭。

 だが、身動きが取れず、忌々しげにレイダを睨むのみ。

 

「このまま退治させてもらうよ──!」

 

 レイダの言葉。

 発せられた瞬間、水神流の秘奥は発動せしめた。

 

 

 “剥奪剣界”

 

 

 異世界の理合を極めた、至極の術理。

 

 

 水神流の、けだし神技かな──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十四景『怒死(どし)

 

 執着(とらわれ)がある内は奥義開眼は至難の道。

 風、空、地、火、そして水。

 五大に関わる全てを敵刃に見立て過ごすべし。

 常人ならば気がふれるやもしれぬが、それを成す為にあらゆる執着を捨てよ。

 魂を解脱した無為自然──正しく水の如き境地へ至れば、水神の妙諦は自ずと歩み寄るもの也。

 

 

 

(執着ね……)

 

 水神レイダ・リイアは、初代水神レイダルが残したこの教えを静かに反芻していた。

 剥奪剣界という初代を除く歴代水神が成し得なかった神業。しかし、そのような快挙を成し遂げたレイダですら、レイダルの技量、その生き様には遠く及ばないと自覚していた。

 無論、この教えを忠実に守ったからとて、レイダルに勝さる技が身につくとも思っていない。

 そもそもレイダルに言わせれば、斬ろう、勝とうという気すら邪心であり、不要な執着と断じていた。

 深い海の如きレイダル剣境は、常人の枠から逸脱しきれぬレイダでは推し量れぬものだった。

 

「勝負が終わり……命があればアラ不思議と思えるくらいじゃ駄目ってことなんだろうねぇ……」

 

 そう独りごちる老女剣客。

 まだまだこの年齢(とし)になっても心気の修行は続いている。死ぬまでそうなのだろう。

 その表情は、つい先程まで人外と死闘を演じていたとは思えない程、穏やかなるものだった。

 

「やれ」

 

 岩くれに腰を下ろすレイダ。穏やかな表情には戦闘に()()したという達成感は感じられない。

 内心、勝とうという執着は捨てきれていなかったと、密かに自省をしていた。

 

「ガルの坊やなら鼻で笑いそうな心構えだね」

 

 ふと、若き頃共に切磋琢磨した剣神の姿が思い浮かび、苦笑をひとつ漏らす。

 かの剣神に言わせれば、執着こそが勝利の核心となる。

 飢餓感にも似た執着。何かを得る為の、その野心の全てを一刀に込め、対手を屠る。

 これも、ひとつの真理なのだろう。

 言わば、最強という頂きを、それぞれ違う道から歩んでいるだけにすぎない。

 

 もっとも、相性というのもあるのか、剣神と自身が仕合えば五回に一回は勝ちを拾えるかどうか、といった有様なのは、レイダも十分に自覚していた。

 現時点では人族最強の男なのだ。剣神ガル・ファリオンという大剣客は。

 そういえば、カールマンのせがれはどうなんだろうね。

 ガルの坊やより単純明快なのかも。あの英雄小僧は、まったく。

 

 益体もない事を思考し続けるレイダの眼前には、およそ原型を留めていない鬼三頭の屍が存在していた。

 

 雹鬼。

 胸部を十文字に截断。幾重の斬撃により切断面の癒着間に合わず。

 

 虹鬼。

 脳天から真っ二つに截断。爪牙、水神に届かず。

 

 霓鬼。

 胴を袈裟から截断。丹波流、水神流に敗北。

 

 剥奪剣界という異世界の絶技を前に、衛府の鬼共は敗滅した。

 生気を喪った霓鬼──谷衛成の死に顔は、何か諦観めいた哀愁を漂わせていた。

 思えば、彼らはどうにも手応えが無いような──レイダはそのように戦闘を振り返っていた。

 例えるのは難しいが、必死であり決死の戦いに赴く者特有の特攻精神のような──結果が何も変わらない無益な戦に臨む者のような。そして、死を必然として受け入れ、その死を粛々と受け入れるような。

 そのような無常観。そして、どこか安寧を思わせる死に様であった。

 

 列強に準じる実力者を前に為す術もなく敗れた異形異類。しかし、もし彼らがもっと生命(いのち)を燃やすような戦いを見せていたら。加え、時と場所が(たが)えば、躯を晒していたのは己であったかもしれぬ。

 此度の戦いは、言わば不意打ちのようなものだ。相手に臨戦態勢を取らせず、己の最強技の術中に嵌めた結果。

 そう思考するレイダ。とはいえ、レイダにとってこの鬼共との戦いは、あくまで前哨戦でしかなく、それは必定の結果でもあった。

 かの神のお告げでは、本当に討ち果たすべき存在は、この後に──

 

 ズシ

 

 と、大地を踏みしめる音。

 視線を向けるレイダ。

 老女剣豪の(まなこ)に、白毛を靡かせた虎の姿が映った。

 

「……」

 

 体躯から蒸気のような気炎を発する若虎。

 追従する兎二羽の姿が陽炎の如く揺らいでいる。

 旅装束の下にひしゃげた鉄を纏う二本差しの虎は、鬼共の惨状をひと目見た後、レイダをじっと見据えていた。

 

「名乗りはしないよ。これは尋常の立ち合いじゃあないからね」

 

 一体いつの間に立ち上がったのか。腰掛けていたレイダは剣を構え、虎と兎を剥奪剣界の射程に収めていた。

 対する虎──ウィリアム・アダムスは、弟子であるナクルとガドへ控えるよう目配せをする。

 兎達は師匠を信頼しているのか、黙ってそれに従っていた。

 

「抜きな。それくらいは待ってやる」

 

 歩みを止めたウィリアムに対し、レイダは剣士としての矜持を慮ってか、そのように言葉をかける。

 事実、抜刀するまでは、水神の秘奥は発動しないつもりだった。

 その後は、まあいつも通りだ。

 一ミリでも動きを見せたら、膾斬りにするまで。

 

「……」

 

 しかし、ウィリアムは剣の柄を握るのみ。抜刀はせず、半身立ちのまま不動を保つ。

 

「どうしたんだい? この後に及んで臆したとでもいうのかい?」

 

 挑発するレイダを無視し、ウィリアムは不動を保ち続ける。

 その後もいくらか言葉をかけるも、虎は石仏の如く沈黙不動を貫いていた。

 

「……」

「……」

 

 死臭が漂う中、妙な静寂が辺りを包む。数瞬、あるいは数刻か。

 時間の流れすら曖昧になるほど、水神と若虎の対峙は続いていた。

 

 更に時は流れ。

 老女の首筋に一筋の汗が噴き出た時、レイダはようやく己が虎の術中に嵌り、不利な状況に陥った事を自覚した。

 

「随分……」

「……」

 

 呟くレイダを、変わらず無視するウィリアム。

 その表情は曖昧なものであり、目の前のレイダを敵として認識しているかどうかも怪しいものだ。

 同時に、レイダの両碗が少しだけ震えた。

 剣を構えるレイダの両碗。老境に差し掛かったその身で、長時間剣の重みを受け続けるという()()。無論、六面世界の剣士が闘気を巡らせている状態ならば、それは全く問題とはならない。

 

 問題は、レイダが剥奪剣界という究極奥義を発動待機状態にしているという点だ。

 それは常の構えより遥かに体力を消耗せしめる行為であり、まったく構えを見せないウィリアムに比べ、大いに不利な状態であるのは明白。

 

 虎は待っていたのだ。

 レイダが消耗し、自ら剥奪の結界を解くのを。

 姑息な戦法である。

 しかし、兵法者としては堂々たる振る舞いであった。

 

(仕掛けるか、こちらから)

 

 一瞬、そう思考するレイダ。

 しかし、レイダはこの長い対峙の間、ウィリアムの戦力を正しく分析していた。まったく構えていないウィリアムであったが、僅かに半身に開いた所作は、いつでも撃剣を放てる事も。

 剣術者の戦いでは後の先を取った方が有利であるのは、この異世界に於いても不変の(ことわり)である。レイダの剣先が伸びた瞬間、ウィリアムの神速の抜き打ちが返されるのは必定。

 

 それを防ぐ?

 いや、無理だろうね。

 光の太刀程ではないが、あれの剣速は、多分あたしより速い。なんだい、あの猫のような握りは。

 ま、よしんばあたしの方が速くても、先の先じゃあね。

 

 剥奪剣界とは対手の初動に反応し、幾重もの斬撃を返すカウンターの剣法。

 後の先を極めた剣技である以上、こちらから仕掛けてはその優位性が崩れてしまう。

 加えて、仮にこちらの先の先が速かったとしても、相手がそれに耐えきってしまえばこちらの敗北は確定的となる。

 

「……」

 

 レイダはじっとウィリアムの損耗した鉄身──傷ついた拡充具足不動を視る。この超鋼(はがね)に、水神の魔剣技は通るのか。これは、やってみなければ分からない。

 加えて、既に不動の重さは、虎の俊敏性に微塵も影響を与えていないようだ。むしろ、鎧に込められた怨念じみた意思が、虎の身体能力を向上せしめる始末だった。

 

 つまるところ、対峙した瞬間から趨勢は虎に傾いていた。

 恐らくではあるが、ウィリアムは視ていたのだろう。

 鬼三頭と水神の戦いを。そこで、水神の剣理も看破していたのだろう。

 

 加勢にも行かずただ傍観していたウィリアムを非情者として詰るのは筋が違う。

 ウィリアムは手を出さなかった理由はひとつ。

 鬼達を、同じ日ノ本由来の武芸者として扱っていたのだ。

 武芸者同士の戦いに乱入するのは無粋。

 ウィリアムはそう断じていた。

 

 それに。

 

 彼らは、既に終わっていたのだ。

 彼らの使命は、もはや果たせなかったのだ。

 ウィリアムは生前の鬼達にそう伝えられていた。

 救世の魔子の気配が完全に消失した時点で、彼らの存在意義は無くなってしまったとも。

 ならば一矢報いる為と、この世界に散らばるとある“龍神の勾玉”を集め、悪神への道筋をつける旅路に同行したのは、生命を救われた恩義と同時に、ウィリアムもまた悪神への意趣返しを誓っていたから。

 

 だが、鬼の躯を見て、ウィリアムは無常なる想いを抱いていた。

 己の執着(とらわれ)が。

 それが、またひとつ消え失せた。

 ならば、己は──。

 

 水神流と虎眼流。

 共に無念無想と水月の心境を併せ持つ、けだし剣技。

 相手の出方を読み、その意図を察知して先手を取るのが常道としているのならば、この場合先に仕掛けた方が不利になるのは明白だった。

 

 かくして。

 両者は長い間、立木のように佇立したままだった。

 

「……」

「……」

 

 チリリリと、この辺りに生息する岩雲雀が数羽現れ、両者の肩に止まり呑気に羽繕いを始めた。

 鳥たちにとって心気の消えた人間は石仏と同じ。

 だが、両者は戦闘を完全に停止していたわけではなかった。

 互いの観受の気を、水面下で探り合う。

 

 ほんの僅かな()()()があれば──

 

 

「お師匠様ッ!」

 

 

 突として響く水王乙女の声。

 分厚い旅装束を纏い全力で駆けて来たからか。

 それとも、実祖母が死臭漂う得体のしれぬ死体の周りで、これまた得体のしれぬ若者と対峙する異様な光景に出くわしたからか。

 息を荒げ、混乱する水王イゾルデ。

 

 そして、彼女が現れたと同時に、両者は動いていた。

 

 火花が飛び散った。

 それから、金属が重なる音。肉が斬られる、生々しい音。

 勝負は、一瞬で決まった。

 

「ああ、惜しかった……」

 

 先に仕掛けたのはレイダだった。

 そして、斬られたのも、レイダだった。

 

「あらら……」

「お師匠様ッ! おばあちゃんッ!!」

 

 腰を落とすレイダに駆け寄るイゾルデ。イゾルデはレイダの腹部が真一文字に斬られ、血流と共に臓物(はらわた)がこぼれ落ちる様を目の当たりにしていた。

 腹部の切断だけでは中々に死ねぬもの。半日以上は苦悶に苛まれるだろう。

 だが、半日は生き永らえる事ができる。

 イゾルデの判断は早かった。

 

「ッッ!!!」

 

 刹那の抜刀。

 師匠の仇討ちを果たすべくウィリアムと対峙するイゾルデ。

 

(やめ──)

 

 レイダは刹那のその光景を見て、制止の声を上げようとした。

 水神流の上手は、カウンター剣法を駆使してこそ。

 しかし、イゾルデの激情に任せた撃剣は、ウィリアムに確実に届こうとしていた。

 静謐な激闘は、虎もまた激しい消耗を強いられていたのだ。故に、乙女の剣を防ぐ事能わず。

 

「──ッッ!!」

「ぐぁッ!?」

 

 だが、それはこの場でウィリアムしかいなかったらの話である。

 後方に控えるナクルとガドの獣人兄弟。

 精密射撃の如き吠魔術が乙女の身体を射抜く。

 

「あ……ぐぅ……ッ!」

 

 すとんと地に倒れ、奥歯を軋ませながらウィリアム一行を睨むイゾルデ。

 常の状態であれば水神流の妙技で吠魔術ですら受け流す事が出来ただろう。

 だが、結果はイゾルデの敗北である。

 水王乙女の継戦能力は失われていた。

 

「その子は……!」

 

 余命僅かの水神。必死に声を上げ、愛しい孫娘の生存を乞う。

 尋常ならざる果し合い。敗者側が要求するには道理が立たぬ申し出。

 

「……」

 

 しかし、ウィリアムはレイダの要求を受諾した。

 虎の鉄身から殺意が霧散したのを受け、レイダは安息をひとつ漏らす。

 ああ、不甲斐ない結末だ。

 でも、水神の命脈はこれで──

 

「ナクル、ガド」

 

 薄れゆく意識の中。

 レイダは初めてウィリアムの肉声を聞いた。

 そして。

 

 

「犯せ」

 

 

 冷酷な虎の一声。

 レイダは、己の意識が粟粥の様に煮え立つのを感じた。

 

「……はい」

「承知しました」

 

 ナクルとガドは師匠の言葉を、傀儡の如き表情で受けていた。

 

「なに……を……!」

 

 瀕死の老女の前で、兎二羽は粛々と乙女の陵辱を開始した。

 

「いや……やめて……!!」

 

 既に抵抗せしめる力は失ったイゾルデ。乱暴に分厚い旅装束を剥ぎ取られるも、か細く恐怖と嫌悪の声を上げる事しか出来ない。

 

「……ッ!!」

 

 その様子を今際の際で見せつけられるレイダ。

 地獄が。

 地獄が、老女の目前に現出していた。

 

「いやぁッ!!!」

 

 寒空の中、裸身に剥かれた乙女を、兎は獣性に従い喰らっていた。

 それを見たレイダは、血涙を流し、怒死した。

 かかる最期を遂げた者の魂は、四百余州に仇を為すと言い伝えがあるが、六面世界に於いては定かではない。

 

 

 

 

「……」

「……」

「……」

 

 憤怒の形相で屍を晒すレイダと、純潔を奪われ、全裸で放心するイゾルデ。それらを捨て置き、ウィリアム一行は再びアスラへと歩み始める。

 

「……あの、若先生」

「お、おい」

 

 ふと、たまりかねたように、ガドが恐る恐るウィリアムへ声をかける。

 ナクルが制止しようとするも、ガドはそのまま震えた言葉を続けた。

 

「なぜ、あのような無体な」

 

 調教された猛獣のように、師匠の命令には絶対服従であるナクルとガド。

 しかし、己の中に残された良心が、先程の行為を糾弾していた。

 拒否する事は出来なかった。

 でも、あまりにも非道な行い。

 死にゆく老女の目の前で、その孫と思われる乙女を陵辱するなど。

 

 だから、せめて納得が欲しかった。

 ナクルも、言外に弟に同意をしていた。

 

「……これで」

 

 容赦の無い折檻が来ると思い、身をすくめていたナクルとガドだったが、ウィリアムは平坦な声を上げた。

 滔々と、言葉を続ける。

 

「世の水神流門弟は我らを付け狙うだろう」

 

 まるで世間話をするように、度し難い事を宣うウィリアム。

 ナクルとガドは一瞬青ざめるも、ふつふつとした虎の熱気を受け、耳の裏を赤く染めていた。

 

「我らは剣術者だ。僧侶が求道する無為自然とは異なる」

 

 五大要素を全てを敵刃に見立てて過ごす程の狂気。しかし、剣術者ならばもっと現実的な修行をすべきと、ウィリアムは続ける。

 百聞は一見に如かず。

 そして、百見は一触に如かず。

 空想の産物で心気を練るより、いつ襲いかかるかも知れぬ実際の敵を増やせばよい。

 生き残るだけで、己の剣境はより高みへと達する。

 そのような死狂いなる修練を施さねば、鬼共が目指した悪神成敗は到底成し遂げられぬ。

 

 虎眼流に挑んだ者、伊達にして返すべし。

 異世界に於いても、ウィリアムはこの信念を貫き通していた。

 伊達にして返された者は、虎眼流強しと世に喧伝し、より強大な敵を誘引せしめるだろう。

 

 全ては異界天下無双の頂きに立つ為。

 そして、敷島の──衛府の怨念を晴らす為。

 

 虎は、只人である事を放棄した。

 人を超えた魔人──否、鬼となるべく。

 釈迦の誕生より遥かな太古。

 人にとって、鬼こそが神だった。

 神域へ辿りつく為、悪鬼羅刹の道を歩まん。

 

 狂気を滲ませながら弟子達へ語るウィリアム。

 その瞳には、家族を慈しむ暖かみは消え失せ。

 

 虎に、今生の家族。

 そして、前世の家族の姿は。

 もう視えていなかった。

 

 

 

 それからしばらくして。

 アスラ王国上級大臣ダリウス・シルバ・ガニウスが、何者かに惨殺されるとの知らせが世を巡る。

 護衛どころかダリウス邸の使用人が残らず斬り殺された根切り事件は、殺害されたダリウスの立場も相まって王都に深刻な政情不安をもたらしていた。

 ダリウスが近々で入手した、とある宝玉が行方知れずになっていたのは、もはや誰も気にする者はいなかった。

 

 第一王子派の領袖の急死を受け、アスラ王国政界は揺れに揺れる事となり。

 その混乱は、王女アリエルのアスラ帰還を持って最高潮に達しようとしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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第五十五景『赤縄(あかなわ)

 

 エリス・グレイラットはこの時の自分の感情をどう表現して良いのか分からなかった。

 

「ルーデウス……」

 

 薄暗い部屋の中、ベッドの縁に腰をかける一人の青年。

 結わえ整えていた髪は乱雑に伸ばされ、滲む無精髭とよれた衣服は彼が大事にしていたはずの清潔感を全く感じさせない。そして、表情に生気は無く、ただ虚空を見つめるようにして茫と座していた。

 一瞬、エリスは目の前の廃人ともいえる男が、自身が恋い焦がれた存在と同一であるのか疑わしい気持ちとなる。名を呼ばれても無反応のままのルーデウスは、ただ虚空を見つめ続けていた。

 

「ルディ、エリスちゃんが来てくれたぞ」

 

 傍らに立つパウロがそう言った。閉じられていた窓布を開け陽の光を部屋に入れる。そうするとルーデウスと呼ばれた男の現在の容姿が能く見えるようになった。

 あの頃自身と冒険を繰り広げた快活な姿。

 そして自身を守り慈しみ、そして愛し愛されたその姿。

 それらと目の前の男の姿は、年輪を重ね成長した姿とはいえ、エリスが知るルーデウスとはかけ離れていた。

 

「ほら、エリスちゃんとは久々に会うんだろ? 挨拶しろよ」

「……」

 

 変わらず無心の息子の隣へ座り、その肩を優しく抱くパウロ。陽の光に照らされ、よりルーデウスの状況が能く見える。たパウロの表情も精彩を欠いていた。生活に疲れた男の容貌は、実年齢よりも十以上は老けて見えた。

 出会った時からパウロへ好感情を抱いてはいないエリス。ミシリオンでルーデウスへ行った仕打ちを、赤髪の乙女は決して忘れたつもりはない。

 しかし、目の前の光景を見て、エリスはパウロへ幾ばくかの同情心を抱いていた。

 

 同情、同情ですって。

 

 乙女は想起した感情に戸惑い、そして多大な努力を以て否定しようとした。

 同情を向けた先が、パウロの隣で屍のように座るルーデウスにも向けられていた事に気付いてしまったからだ。

 

 かれはそんな薄っぺらい同情を向けるような男じゃない。少なくとも、わたしが知っているルーデウスは、そんな弱い男じゃない。

 

 そう想うも、目の前の慈しく残酷な光景は、乙女の思考に切ない矛盾を与え続けていた。

 

「エリスちゃん、ごめんな。ルディは、もう少し時間がかかりそうだ」

「……」

 

 息子の代弁者と成った父は、そう申し訳無さそうにエリスへ言った。

 エリスは無言のままだった。

 

 

 

「そうか」

 

 応接間にてグレイラット家に起こった悲劇を聞き、剣王ギレーヌ・デドルディアは泰然とした態度でただ一言そう言った。

 説明したリーリャは剣王の素っ気ない態度を見て眉根を寄せるも、すぐに常の表情に戻した。

 かの剣王は元からこのようなセンシティブな話に何か気の利いた事を言える人間ではない。それに、彼女の尻尾が力なく下げられているのを見て、リーリャはギレーヌの心情を大凡察していた。

 そして、その隣で沈鬱した様子で俯く赤髪の乙女。姉弟子が不得手な感情表現を、まるで自身が代わりに担うと言わんばかりに気落ちしていた。

 

「それで、どうするんだ」

「どうするって」

 

 主語がないギレーヌの問いに、リーリャは数瞬の沈黙後に応えた。

 

「御快復を待つしかないと思います。心という器は、ひとたび()()が入れば」

 

 そう言って言葉を詰まらせるリーリャ。それ以上言えば、彼女が目を背けて続けている現実を否応なく認識してしまうから。

 リーリャもまた疲れていたのだ。いや、この家で元気なのは乳飲み子であるルーシーだけで、心神喪失状態のゼニスは無論、最近はアイシャも空元気すら見せなくなっていた。魔法大学の寮で暮らすノルンは言うまでもない。

 

「ウィリアムはどうする」

「ウィルはギースが追っている。あいつならその内居場所を知らせてくれるだろう。アスラへ向かったとだけしかまだ分からねえけど」

 

 ギレーヌはグレイラット家の次男について尋ねると、今度はパウロがそう応えた。

 

「アスラか」

 

 ギレーヌはそう言って沈黙した。何か考えているようで、何も考えていないような。しかし、纏う空気は、彼女が何かを決意した様子を見せていた。

 

「……」

 

 それから、隣に座るエリスを見る。

 思いつめた表情の乙女。その心中はギレーヌですら察して余りある。

 エリスの心の中ではどれほどの辛さ、哀しみ、失望が渦を巻いているのだろう。

 一方通行とはいえ、将来を誓い約束した男が既に所帯を持っていた事実は、実のところエリスにとってそれほど問題ではなかった。いや、ルーデウスが二人も妻を持っていた事実は相応にショックではあったが、それ以上にルーデウスの現状に衝撃を受けていた。

 ()れはしなかった。ただひたすら()がれ続け、そして苛酷な修練に耐え続けていた。

 その結果がこれとは。

 エリスには妹のような感情を持っていたギレーヌ。彼女が嘗めた辛酸を能く知っていただけに、この結末はあまりにも不憫だった。

 

「お前さん達はどうするんだ?」

 

 しばらく沈黙が漂う中、パウロがふとそう言った。エリス達がここへ来た理由はギレーヌによって既に述べられている。修行が終わり、ルーデウスと共にかの龍神へ意趣返しを果たし、そしてルーデウスと共に生きる為にシャリーアヘ来たと。

 

「パウロ」

 

 ギレーヌは唐突に立ち上がり、パウロへ目配せした。

 黒狼の牙時代に培った無言の連携は今も尚有効だった。

 パウロは頷くと、そのままエリスらを残しギレーヌと共に屋外へ出ていった。

 

「……」

 

 応接間を出る時、ギレーヌは無言で座るゼニスへ視線を向けた。

 僅かに瞳が動き、グレイラットの母親はどこか縋るような視線を剣王へ向けた。

 それだけでギレーヌとゼニスの会話は終わっていた。それだけで十分だった。喪失(うしな)ったとはいえ、ゼニスもまた黒狼の牙のメンバーだったからだ。

 

 

「何かお召し上がりになりますか?」

 

 残されたエリスへそう言ったリーリャ。急ぎ旅をしてきた彼女は疲労も溜まっているし腹も減っているだろう。

 例えどれほど疲れようが、如才無きメイドであるリーリャは、その程度の気遣いを忘れたつもりはなかった。

 

「……」

 

 対し、エリスは無言のまま。常の彼女を知る者が見れば驚愕を隠せぬほど気落ちし続けており。

 そのような彼女へ、リーリャは黙って厨房へ向かった。簡単な軽食を用意し、新しい茶を淹れに行った。エリスの前に置いてあるカップからは、もう湯気は立っていなかった。

 

「あー」

「あ、ダメだよルーシー」

 

 依然として気落ちしたままのエリス。すると、ルーシーが彼女の元へよちよちと近付いた。

 同席するも一言も発していなかったアイシャは、慌ててこの幼い姪を制止しようとする。アイシャもまたエリスとはシーローン王国での一件以来久方ぶりの再会であったが、旧交を温める空気ではなく。気落ちするエリスへどう声を掛けてよいのか分からないまま、まんじりとした時間を過ごしていた。

 とはいえ、アイシャはこの赤髪の乙女が激しい気性の持ち主であるのことも知っており。流石に乳児へは手を上げないだろうが、恋敵の娘ともいえるルーシーへエリスが良い感情を持たぬのは明白であった。

 

「あう」

「……」

 

 しかし、アイシャの懸念とは裏腹に、エリスはルーシーを見つめると、おずおずと抱き上げた。「あ、あの、エリスさん」と戸惑うアイシャ。エリスは明らかに乳児を抱き慣れておらず、傍目から見て危なっかしい手つきでルーシーを抱いていた。

 

「かわいい……」

 

 ぽつりと呟かれた言葉。エリスはルーシーのぷくっとした頬を指先でつついた。きゃいきゃいと嬉しそうに笑うルーシー。

 幼子の小さな指が乙女の指先を掴むと、胸中に暖かな気持ちが広がる。

 

「……」

 

 ふと、乙女の脳裏に現実では起こらなかった情景が浮かんだ。

 小さな子供を抱く自分。ルーシーではない。男の子だろうか。自身と同じ、赤い髪の男の子。

 その隣には、ルーデウスがいる。

 毎日、剣の稽古に付き合ってくれるルーデウス。

 魔術無しなら自分の方が余程強い。でも、ルーデウスの強さはこんなものじゃないわ。そう思いながら、容赦なく良人を叩きのめす。

 それでも、ルーデウスはいつものように笑いながら降参の声を上げていた。

 結局、どこにいるとも分からない龍神へのリターンマッチは果たされなかった。二人っきりで旅をしていく内に、龍神への復讐心は鳴りを潜めていった。

 自然とどこか小さな町に腰を落ち着ける事になった。

 それから決められた事を守るように、二人は結婚していた。

 二人の生活には、大きな屋敷も、豪勢な食事も必要なかった。

 たまに町の冒険者ギルドに顔を出して、依頼を受けたり、素材を売りさばいたりして生計を立てていく。

 

 そうして、授かった子供。

 この子が大きくなったら剣士にするわ! 

 そう言って、エリスはルーデウスとの間に授かった我が子を抱いていた。

 ルーデウスは苦笑しながら「ほどほどにね」と、エリスを後ろから抱きしめた。

 エリスは愛する夫に頬をこすりつけながら、「大丈夫よ」と言った。

 だって、わたしとルーデウスの子供なんだから。

 

「あ……」

 

 突然、幸せな生活は消え去った。

 妄想した彼女の子はどこにもいない。己を見つめる無垢な笑顔は、愛する男の(むすめ)。だが、自身の(むすこ)ではない。

 その事実が、エリスを様々な感情で苛んでいた。

 

「可愛いわ……本当に……」

 

 五年前。あの時、ルーデウスが龍神の手にかかり、命を落としかけた時。

 それ以来決して流さぬと決めていた涙を、エリスは流していた。

 

 

 

「エリスを……お嬢様を頼む」

 

 庭に出た後、ギレーヌからそう言われたパウロ。彼女は無言のまま、深く頭を下げていた。

 パウロはそれを見て小さく息を吐く。

 

「お前はどうするんだ」

 

 応接間で言った問いを、もう一度口にする。

 ギレーヌはすぐに答えた。

 

「アスラへ行く」

「ウィルを探してくれるのか?」

「いや……ウィリアムは関係ない」

 

 ウィリアム、という名前を言った瞬間、ギレーヌは僅かに切なげな表情を浮かべた。

 

「じゃあなんで」

 

 パウロはその表情の変化に気付いた様子も無く聞き返した。

 

「……けじめだ。アタシの」

 

 ギレーヌは少し間を置いて、そう言った。

 

「……そうか」

 

 パウロはそれ以上聞く事はなかった。

 気心知れたとは言い難い関係だったが、それでも彼女の今の心情は察することができた。何かを決意した戦士を押し止める無粋は出来ない。

 出来る事といえば、戦士が抱える後顧の憂いをいくらか軽減してやるのみ。

 

「分かった。エリスちゃんはウチで面倒みるよ」

「すまない。ありがとう」

 

 そして、ギレーヌはそのまま立ち去ろうとする。

 

「お、おいギレーヌ。エリスちゃんへ別れの言葉くらいはかけてやれよ」

 

 慌てるパウロ。別れの言葉すら無いのはいくらなんでもあんまりだろう。

 しかし、ギレーヌは首を振る。

 

「いいんだ……じゃあな」

「ギレーヌ!」

 

 ギレーヌは背中越しに手を振りながら、グレイラット邸を後にした。

 剣王ギレーヌ・デドルディアの人生。この時、彼女の人生では二つの使命があった。

 一つは、エリスを立派に鍛えた後、想い人の元へ送り届け、その後の人生を幸せに暮らしてもらうこと。

 これについては果たして幸せに暮らせるか疑問があったが、それでもエリスなら何とかするだろう。ギレーヌは妹の心の強さを信じていた。

 そして、もうひとつの使命。

 

 復讐だ。

 自分を暖かく迎え、慈しんでくれたボレアス家。その家族を殺した憎き仇を見つけ出し、殺す。

 フィリップとヒルダの復讐は果たした。

 残るは、当主サウロスの仇のみ。

 ウィリアムは、ギレーヌにとって色々と無視できぬ存在だった。色恋めいたものとは違う、何か焦がれるような想いを抱いていた。

 しかし剣王の復讐心の前ではそのような感情など些細なものだった。

 サウロス様は処刑に追い込まれていた。だから、処刑に追い込んだヤツを必ず殺す。たとえどれだけ高貴な人間であっても。

 

 シャリーアの街道を歩むギレーヌ。

 覚悟を完了せしめたギレーヌの足取りは、重たく切なかった。

 

「ギレーヌ……」

 

 小さくなっていく背中を見つめ、そう呟いたパウロ。

 かつて肉体関係を持っていただけに、彼の心中は複雑であった。

 その多難な前途を想うと、どうしてもため息が出てしまう。

 

 しかし、この時のパウロも、そしてギレーヌも予想していなかった。

 彼女が仇と見定めた相手。

 その相手を守るように立ちはだかる剣鬼。

 これより二年後、ウィリアム・アダムスとギレーヌ・デドルディアは生死をかけた斬り合いを演じる事となる。

 

 


 

 エリスがグレイラット家の居候となってから一月ほどが経過していた。

 ルーデウスが気鬱の病を得た衝撃に追い打ちをかけるように、姉とも慕ったギレーヌが自身をおいてどこかへ行ってしまった事実。

 流石のエリスも数日は立ち直れなかった。

 すぐにギレーヌを追いかけたい気持ちもあった。でも、このような状態のルーデウスを放ってはおけない。

 葛藤に苛まれたエリス。しかし、彼女は強かった。剣の聖地にて培った精神的なタフネスは尋常ではなく、タフという言葉は彼女の為にあるといっても過言ではなかった。

 やがて立ち直ったエリス。それからグレイラット家に溶け込む努力を始めた。どうするにせよ、行く宛もない以上、しばらくはここで厄介になる他なかったからだ。

 

 とはいえ、彼女の努力は尽く空転する事となる。

 料理を手伝おうとしたが自身は料理のりの字も知らない。ならば皿を洗おうとすれば力加減を間違えて食器を割り、掃除をしようとすれば箒で家具を破壊し、洗濯をすれば衣服を引き裂く。

 つまるところ、エリスは家事が壊滅的にできなかった。

 もっとも、彼女のこれまでの人生に於いて家事スキルは全く必要なかったのだから、これは仕方ないとも言える。

 ボレアス家での生活は貴人であるが故に家事は全て使用人任せ剣の聖地では文字通り剣の修行しかしていなかった。

 

 しかし、良い事もある。

 

「エリスさんは座ってて!」

 

 アイシャは手のかかる子供が一人増えた事で純粋に活力を取り戻していた。流石に以前程の快活さを見せているわけではないが、それでも一時の彼女に比べて随分と元気になったように見える。

 

「はい……」

 

 そのようなアイシャに、エリスは意外にも素直に従っていた。反発するような真似はせず、大人しくアイシャに世話を焼かれる日々。

 ともかくアイシャが凄まじいのは、乳飲み子と生活破綻乙女の世話を同時並行して行っている点であった。

 繁忙というのは、時として人に瑞々しい活力を与えてくれる。

 そして、その活力は周囲へ波及していくものである。鬱々とした空気を漂わせていたグレイラット家は、徐々にではあるが以前の明るさを取り戻していった。

 

 しかし、それはあくまでルーデウスを除く家族たちの話である。

 エリスという新しい家族(パウロは縁戚であるエリスを快く迎え入れていた)が加わったという変化があっても、ルーデウスは相変わらず塞ぎ込んでいた。

 エリスは時折ルーデウスの元へ向かうも、その顔はいつも暗く、そして無反応だった。それは日を追うごとに酷くなり、最近は食事すらまともに取れなくなっていた。

 そのような痛ましいルーデウスを見るだけで、エリスの胸は締め付けられるような感覚に襲われる。

 

 いっそのこと見限った方が楽になれるのに。

 

 だが、乙女は愛する人の側を離れられない。

 理由などない。

 ただそうするべきだと思ったからだ。

 ルーデウスの隣に立つ。しかし、ルーデウスは折れてしまった。

 ならば、再び立ち上がるまで待つ。立ち上がれるように支えてやる。

 それだけが、エリスのただひとつの想いだった。

 

 そして。

 

 結果からいえば、エリスはルーデウスの精神が深い場所で狂気に苛まれていることを勘案するべきだった。

 尊崇の域にまで達した盲目的な愛情に少しばかりの疑問を持つべきだった。

 パウロが所用で出かけており、リーリャもゼニスを伴い街の薬師の元へ向かっていたこと、それからアイシャもジローに跨りルーシーとお散歩に出かけていることを気付いていなければならなかった。

 しかしエリスはそうした全てを無視していた。気付きもしなかった。

 小胆な者が狂を発した際、余人の気配にひどく敏感であり、そして色情を危険な程に滾らせていたことも、気付いていなければならなかった。

 

 ルーデウスの部屋へ入り、いつも以上に鬱々げにしている彼の隣へと腰掛けたエリス。

 それからの結果は見えていた。

 

 わけの分からぬ叫びを上げながら伸し掛かるルーデウスに、エリスは抵抗しなかった。

 痩せ細ったルーデウスを跳ね除けることは乙女にとって容易きことであったが、そうはしなかった。

 子供のように泣きながら始めた行為。エリスにとって二度目の神聖な行為はひどく倒錯したものと成り果てていた。

 しかし、エリスの肉体は不思議とそれを素直に受け入れていた。

 そっと彼の頭を撫でた。

 優しく、慈しみを込めて。

 

 行為自体は短い時間で終わった。

 ベッドの上に脱ぎ散らかされた衣服。身に何も纏わずに、乙女はルーデウスを抱きしめ続けていた。

 

「エリス……ごめん……」

 

 ふと、乙女の乳房に顔を埋めたルーデウスがそう呟いた。久しぶりに聞く愛しい男の声。

 

「……あの時以来ね」

 

 熱情の余韻が冷めやらぬ乙女は、何となしにそう返していた。

 特に意味はない。

 ただ、お互いの初めてを捧げ合った夜を思い出しただけだ。

 ルーデウスは何も言わず、乙女もまたそれ以上何かを言うことはなかった。

 乙女が理想としていた光景ではない。しかし、乙女が求めてやまない状況でもあった。

 

 ルーデウスは弱っている。

 自分が守らねばならない。

 それが使命だ。

 ルーデウスを守る。

 そのために自分はいる。

 そのためなら何でもする。

 なんでもできる。

 だって、わたしは、ルーデウスのことが──

 

「ルーデウス……」

 

 エリスは粘ついた愛情を持ってルーデウスの目を見つめた。

 

「……?」

 

 そして、エリスはルーデウスの眼に光が宿っていることに気付いた。

 エリスは最初、それが折れた心が蘇った証なのかと。

 そう誤認していた。

 

「あの頃」

「ルーデウス?」

 

 そう呟いたルーデウス。それから、彼はエリスが理解できない言語にてぶつぶつと呟き続ける。

 眼に宿った光は、爛々と輝いてはいる。

 その光は、ある種の狂気を宿した薄暗い光であった。

 

 そうだよ。ここはファンタジーの世界じゃないか。剣と魔法の異世界じゃないか。それで、ゲームや漫画、アニメでお約束の魔法も沢山ある。

 攻撃魔法。回復魔法。重力操作。未来予知。瞬間移動。死者蘇生。

 この世界にはそういう便利な魔法が沢山存在する。存在するに違いない。

 だから、絶対にあるよ。あるはずだよ。

 過去に遡れる魔法。

 時間を操る魔法が。

 俺はその魔法を知らない。知らないなら、知ればいい。使えないなら、使えるようにすればいい。

 それで、過去に戻れたら。

 もう一度、やり直すんだ。

 

「ルーデウス……?」

 

 異世界の言語──日本語を知らぬエリスは、ルーデウスの言っていることがよくわからなかった。

 その死狂いなる狂気にただ圧倒されていた。

 

「エリス」

 

 それから、ルーデウスはこの世界の言葉でエリスの名を呼んだ。

 その声は震えていた。歓喜と狂気に打ち震えていた。

 奇怪な笑みを顔に張り付かせていたルーデウスは、エリスの肩を掴みこう続けた。

 

「エリス、ありがとう。エリスのおかげで、俺はやるべき事が見つかったよ。本気を出して、やるべき事が」

 

 だから、俺を手伝ってほしい。

 ルーデウスの瞳は狂気に濁りながらも、真っ直ぐにエリスを見据えていた。

 彼が宿している火。

 それは不滅であれど本物の火ではない。

 限られた生の中で何かを祈り、そして誰かと繋がろうとする人の火ではない。

 

 エリスは理解した。

 彼がいびつな火を宿し、掴み取ろうとしている未来を。

 そこに自分の姿がない事も。

 

 でも、それでも。

 エリスはルーデウスを愛していた。盲目的な愛に身を委ね、それを甘んじて受け入れ続けていた。

 それだけが、彼女の使命。

 

 ルーデウスの新たな旅路。

 たとえそれがどのような結末を迎えようとも。

 最後のその時まで。

 エリスは、ルーデウスの傍らにて、その手をしかと握ってやらなければならない。

 それが、彼女の最後の使命だった。

 まるで赤い縄。

 ルーデウスと己の(はらわた)に繋がった、赤い縄に引かれるように。

 

 

 エリスはもう一度ルーデウスを見つめた。

 その眼をはっきりと見つめ、ただ一度だけ応えた。

 

「わかったわ」

 

 

 これより長き時を経て、ルーデウスは時間遡行魔法を成功させる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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