色彩の花嫁 (スカイリィ)
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プロローグ

 不思議な夢を見た。

 たくさんの怪物の群れと、それに戦いを挑む人々の夢。

 怪物達は一様に気持ち悪い姿をしていて、人間を滅ぼそうとしていることが一目でわかるほど悪意に満ちていた。

 それに立ち向かう人々の姿は、あきれ返るほどに統一感がなかった。

 騎士、侍、勇者。
 王様、皇帝、神様。
 科学者、作家、音楽家。
 鬼、殺人鬼、吸血鬼。
 海賊、聖人、魔法使い。

 時代も国もまるで違うような人達が、団結して怪物達を薙ぎ倒していく。己が磨いた技を怪物にぶつけ、数に勝る相手に知恵で立ち向かう。逆に倒されていく人もいたけれど、再び立ち上がって戦っていく。軍勢と呼ぶにはあまりに統一感の無い装いと無茶苦茶な戦いぶりにはむしろ清々しさを覚える。

 そして百人を超えるかという戦士達の中心には、見覚えのある一人の男の子がいた。

 私の息子だった。

 戦士達のように卓越した技も知恵もない息子は、傷だらけになって、ボロボロになって、倒れて、それでも必ず立ち上がって怪物へと向かっていった。それで再び倒れることになっても、あきらめようとはしていなかった。

 不思議と周りの戦士達は息子を疎んじてはいなかった。むしろそんな息子を慕っていた。
 彼のために力を尽くせ、頑張れ、と檄の声も飛ぶ。みんなが彼を支え、守っていた。

 私も「がんばれ」と届かなくてもエールを送っていた。あなたならできる、あきらめないで、と。どんなに無茶でも、親として息子の頑張りを否定なんてできるはずがなかった。私は傷だらけになっていく息子から目を逸らさなかった。


 やがて、息子を支える者達が入れ代わり立ち代わり変わっていく中で、ただ一人だけが変わらず傍にいることに私は気づいた。

 それは息子と同じ年頃の女の子だった。鎧を着込み、大きな盾を構えて、息子に向かう脅威を打ち払っていく。

 私はその女の子を知らない。けれども周りの戦士達と同じく息子のために傷だらけになって戦っていたのは判った。

 優しそうな娘だった。でも同時に怖がりで、戦うことが嫌いであることも察しがついた。命のやり取りなぞ怖くて怖くて、今にも足がすくんでしまいそう。

 どうしてそこまで頑張るの。私は率直にそう思ったが、戦う彼女の表情を見て、その疑問はたちどころに氷解した。

 傍らの男の子がいるから、怖くても立ち上がれる。彼女の顔はそう物語っていた。

 彼女もまた──いや、その場にいる誰よりも──息子のために勇気を振り絞って戦っていたのだ。


 私には、ただの普通の女の子にしか見えなかったのに。







 夢の余韻に浸れるほど月曜の朝に余裕などない。
 起きて着替えて、朝食の支度へと向かおうとする私の背中に、起きたばかりの夫が「おはよう」と声をかける。

「おはよう」私は少しぶっきらぼうに返した。いつものことだったし、何より今は時間が惜しい。


 本日のメニューはご飯と、ワカメと玉ねぎの味噌汁、昨日作った肉じゃがの残り、漬物、目玉焼き。

 それらを手早く作り上げ、皿にのせてダイニングのテーブルへ運んでいく。ちょうど夫が髭剃りと着替えを終えてやってきたところだった。私もエプロンを外して椅子に座る。

「いただきます」

 いつものようにテレビを見ながらの朝食。夫とも少しだけしゃべる。ここ最近は「人類空白の一年」という話題でほとんどの番組が持ちきりだった。曰く「地球上のすべての知性活動が丸々一年間停止していた」のだという。

 人類は地球が静止したことに気づくことすらできなかったそうだ。ではどうしてそれが分かったのかといえば、惑星だ。人類が止まっても火星とか金星は動いている。それの位置が、一年分先にズレていたのだ。

 彗星のガスで人類全員の精神思考が止められていたとか、コンピュータの盛大なバグだとか、あるいは地球全体がタイムスリップしたのだとか。番組のコメンテーターたちは様々な憶測を吐き出していたが、どれも納得のいく答えは出てこない。

 しかし一般庶民の生活にはそれほど影響がなかった。新しいカレンダーを買えばそれだけで済んだ。

 だからこうして普通の朝食をとることができる。大事にならなくてよかった、と思う。

 そうして番組が変わるころ合いになると、夫が席を立って「行ってきます」と言った。

「いってらっしゃい」

 今日は会議があるとかで少し遅くなるそうだ。私はその背中をチラリと見てから朝食を口に運ぶ。時間がなかったのか、夫が少しだけ残した漬物にも箸をのばす。

 天気予報では今日からしばらく快晴が続くらしいと告げていた。私は内心でガッツポーズをする。買い物は楽だし、洗濯物が干せる。窓を開けて換気ができる。布団を干せる。良いことづくめだ。

「ごちそうさま」

 手早く皿をキッチンに運んでから、今度は洗濯機に朝脱いだ服を突っ込んでいく。昨日脱いだ分もだ。それで洗濯機のスイッチを入れてから、再びキッチンへ戻って皿と使った料理道具を洗って片づける。

 皿洗いが終わったところで洗濯機が停止のアラームを鳴らした。ぴったりのタイミングだった。

 洗濯籠に全部突っ込んで、二階のベランダへ運び上げる。水を吸った洗濯物は重いが、これでかなり筋肉がついた。

 ベランダに洗濯物を干していく。良い天気だ。お昼には乾くだろう。それまでに掃除でもしておこうかと考える。お昼は久々に出前でも取ってみようか。うどん食べたい。



 洗濯物を吊るし終わって、ふう、とため息が漏れる。今朝の夢を思い出した。夢の中とはいえ、息子の顔を見れたことはうれしかった。

 息子は、元気にしているだろうか。

 高校卒業と同時に海外へ行ってしまった一人息子。なぜ大学に行かないんだ、と夫は猛反対していたけれど、私は心配しながらも送り出してあげた。
 確か、カルデアとかいう国際機関の人員募集に応募したのだとか。英語はできる息子だったから言葉には苦労していないだろう。

「大学なんて後でいくらでも行ける。男の子は人生一度くらい外の世界を見てきた方がいい。病気と事故には気を付けてね」

 私はそれだけ言って息子を送り出した。あの後は音信不通だった。息子が海外へ行った後すぐに人類停止とやらが発生してしまったせいで混乱しているのかもしれない。海外で日本人の少年が死んだというニュースもないから、まあうまくやっているのだろう。

 どこで働き、どんな仕事をして、どんな仲間がいるのかもわからない。それでも不思議と心配する気は起きなかった。世界の荒波に揉まれ、たくましくなって帰ってくるという妙な確信が胸の中にあった。

 それでも寂しくないと言えば嘘になる。十八年間育て上げた息子と離れ離れになるのは、やっぱり心苦しいものがある。

 メールでも送ってみようか。元気ですか、とでも。

 ベランダの手すりに寄り掛かった私はスマートフォンを取り出すと、ぎこちない動きで起動させる。少し前に買い換えたのだが、慣れるにはまだ時間がかかりそうだ。若いころはすぐに新しいものを覚えられたのに、こういうところで歳を感じてしまうのは何だか嫌だった。

 メールフォルダを開き、文面を考える。元気ですか、仕事はうまくいっていますか? でいいだろう。

 新規作成をタップしようとしたところで、メールが受信されたことを示すバイブレーションと音が鳴った。ちょっとびっくりしてスマートフォンを落としそうになるが、こらえる。誰だ。新着メールの覧を見ると、そこには見慣れた名前が載っていた。

 息子からのメールだった。なんというタイミング。やはり親子か。

 件名は「帰省します」だった。

 それを見たとたん、私は驚くと同時に笑顔を浮かべた。今朝の夢はその予兆だったか。こういうこともあるのか。第六感という奴だろうと人知れずに舞い上がった。

「明日の火曜日に関西国際空港へ行って、そこから京都観光をしてきます。家には金曜日につきます。月曜日には日本から出ます」

 一週間の予定がそう記載されていた。一週間も休暇をとれるというのは良いことだが、京都観光?

 なぜ京都へ先に行くのか、という私の疑問に対する回答は書かれていなかった。

 代わりにその疑問を吹き飛ばす文章が私の目を引いた。

「紹介したい人がいるので、一緒に連れていきます」

 私は思わず目を見開いて、気づいた時には返信ボタンをタップしていた。まさか、まさか、と。

「その人の写真はありますか? あったら送ってください」

 慣れない手つきで文面を打ち込み、素早く送信ボタンを押す。手が震えているのが分かった。紹介したいといって連れてくるからには、女性関係だ。おそらくはめでたいことであるはずなのに、私の心臓は早鐘を打ち鳴らしていた。あの夢は、まさか。

 きっと数分程度の時間だったろう。それでも私には数時間ほどに感じられた。その間に洗濯籠は部屋に突っ込んでおいて、ベランダには風に揺れる洗濯物と私だけになった。

 返信が、きた。震える手つきでメールを開く。件名は「この子」だった。

「名前はマシュ・キリエライト。日本語しゃべれるし、箸も使えるから安心して」

 そんな文面なんかどうでもいいとばかりに私は添付された写真に目を通していた。

 画像には二人の人物が写っていた。一人は息子で、もう一人は外国人の少女だった。二人は自撮りしたように肩を寄せ合い、微笑みを浮かべてこちらを見ていた。

 ピンクブロンドのショートヘアー。黒縁の眼鏡に、雪のように美しい肌をした白人だ。息子と同じ年頃の、可愛らしい少女。頬を染め、息子に寄り添っている。

 私はごくりと喉を鳴らした。予知夢なんて信じない部類だが、この一致には運命とやらを感じられずにはいられなかった。

 私はこの娘を知っている。

 彼女は夢で見たあの女の子と、瓜二つだった。




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第一話 お嫁さん

 金曜日の夕方。西の空が赤みを帯び、東の空が青を深める頃、私は玄関先に佇んでいた。

 息子と同伴している少女の到着予定時刻は連絡を受けていたが、私はそれの三十分も前から玄関先で二人が来るのを待っていた。どうしても気になってしまって家事も手につかない。歓迎の料理はできているが。

 夫はというと、二階のベランダで煙草を吸っていた。落ち着いている風を装っているが、どうあがいてもソワソワしていることが隠せていない。時折遠くを見渡しては二人の姿を探している。煙草もすでに一箱分は吸っているんじゃないだろうか。

 わざわざ会社を早退してきたあたり夫も気になってしかたがないのだ、と実感する。なにせ息子が何の前触れもなく外国人の女の子を連れてくるのだから。

 息子とて何の意味もなく年頃の女性を紹介しに来たりはすまい。それはつまり、お嫁さん候補というわけだ。

 息子が選んだ女の子だ。外国人だろうが日本人だろうが、きっと良い娘なのだろう。あの写真からでもそれは読み取れた。とても可愛いし、真面目で優しそうな娘だ。

 それでも気になって浮き足立ってしまうのが親心というものだ。どんな娘か、何が好きか、何が嫌いか、息子のどこを好きになったのか、気になるところを挙げればキリがない。

 そもそも、まだ二人が出会って間もないだろうに、なぜこんなにも早く連れて来たのだ。

 まさか若さに任せて「できちゃった」のか、という疑念が頭をよぎるが、あの息子に限ってそれは無かろう。あの子も相手を思いやる優しい男の子なのだ。奥手なくらいに。


「立香が見えたぞ」

 夫の言葉に身を固くする。ベランダを見上げると、なんと双眼鏡を持ち出しているではないか。

「隣のあの娘だな。優しそうな娘だ。二人で手を繋いで歩いてる」

 そう言って夫はのそのそと灰皿と双眼鏡を持って部屋の中に戻っていった。私と同じように玄関先で出迎えるつもりだ。煙草臭いからせめて歯を磨いてくれると助かるのだが。

 夫が玄関から出て来て、私と並んだ。煙草の匂いはまだしたが、そこまでひどくはなかった。

 キャリーケースを引くゴロゴロとした音が近づいてきて、やがて、二人分の影が家の前で足を止めた。

「立香、お帰り」

 夫が声をかけると「ただいま。父さん、母さん」という元気な返事が帰って来た。

 息子の背丈は変わっていなかったが、顔立ちは海外へ送り出した時よりもずっと大人びていた。少年の幼さは薄れ、大人としての責任感とたくましさが現れている。
 いつの間にやら私の息子は、程よい自信と謙虚さを併せ持った理想的な大人へと変貌を遂げていたのだ。筋肉もかなりついているのか以前より胸板が厚くなっている。

 男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うが、本当に、目の覚めるような成長ぶりだった。愛する人ができたからこその成長か、それともまた別の何かだろうか。

 しかしながら夫は、そんなことどうでもいいと言わんばかりに息子の傍らへと目を向けていた。私としてもそっちの方が気になるのは理解できたが、いきなり訊くのはためらわれた。

「その娘さんかい?」

 品定めするかのような視線を受けても少女は嫌な顔ひとつせず「は、はい!」と少し緊張した様子で一歩前に出て、お辞儀をした。

「マシュ・キリエライトと申します。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」


 挨拶の後、互いの自己紹介と軽い雑談をしていく。京都ではどこに行ったとか、そんな他愛のない話だ。そんな会話の中で私には彼女の輪郭が見えてきた。

 結論から言うと、息子が連れてきたマシュ・キリエライト嬢はとんでもなく良い娘であった。

 顔は可愛いし、優しくて、気立てがよくて、礼儀正しい。日本語はネイティブとしか思えないほど上手いし、お辞儀などの仕草も日本人と変わらない。
 おまけにほっそりしているようで胸はかなり大きくスタイル抜群ときたものだ。足首もキュッと引き締まっていて可愛い。よくまあこんな絵に描いたような美少女のハートを射止められたものだと自分の息子に感心した。

 歳は十七。国籍はイギリス。今は息子と同じ職場で働いているという。
 その年齢で学校はどうした、と訊きそうになるがその問いは寸前で口外に出るのを抑えた。

 学歴まで根掘り葉掘り訊くのは値踏みしているようでよろしくない。少なくとも頭の悪い娘ではなさそうだったので気にしないことにした。

 それよりも気になったのは──いや気に入ったのは、彼女が息子を見つめる時の顔つきだった。

 人というのはこんなにも誰かを愛おしく想えるのか。割と長いこと生きてきて、世の中の酸いも甘いも知っていると思っていた私は自分の無知を恥じた。ここまで純粋で美しい人の情動は見たことがない。

 立香の姿を己が目に焼き付けようとするその視線。彼といる一瞬一秒が私の宝だと言わんばかりのその表情。高鳴る鼓動が聞こえてきそうな桜色の頬。
 何をどうすれば我が息子にここまで惚れ込むのか。というか息子よ、何をした。

「この娘と結婚するのか、立香」

 夫の不躾な質問に、ほんの一瞬だけその場が静止する。会ってすぐにしていい質問ではないが、夫は気にしてないのか無表情だった。

 しかし何を訊くにしてもその一点は最重要事項であるため、ある意味ではその場の本質を突いていると言えた。

「それは、その」意外なことに、マシュ嬢はしどろもどろになってしまった。「今は、まだ」
「今はまだ、結婚とかは決めていないんだ」立香は彼女をかばうようにして、まっすぐな目で告げた。「俺たちはまだ子供だしね。でも、マシュは俺にとって大切な人であることは本当だから」

 息子は大人びた笑みを向け、静かに彼女の手を握った。少し間をおいてマシュ嬢もその手を握り返した。

「俺はマシュと、ずっと一緒にいるって決めてるんだ」
「はい。私は先輩にずっとついていきます」

 こんなことを言われて否定できる人間がどこに居ようか。夫もそれは例外でなくて「そうか」という一言だけを返して家の中に入ってしまった。それは二人にとって不機嫌な仕草に見えたようで、少しどぎまぎしていた。

「ほら、入って。夕飯はハンバーグよ。キャリーケースは玄関に置いときなさい」私は手招きして息子と少女を歓迎した。「藤丸家へようこそ、マシュさん」
「はい!」

 元気良く返事をしたマシュ嬢は立香にエスコートされる形で家の中に入った。

 私は扉を開けた状態で、通り過ぎる二人を観察した。

 マシュ嬢は黒地のワンピースの上に白のカーディガンを羽織っていて、彼氏の両親への挨拶には理想的な服装だった。黒タイツと低めのヒールも可愛い。フォーマルとプライベートの中間という絶妙なバランスだ。

 ワイシャツの上に紺のジャケットを羽織った立香は、もう大人だと思わせる雰囲気を漂わせている。それでもマシュ嬢に向ける笑顔は子供っぽい。このギャップにときめく女性は多いだろう。

 右手には小さいがエキゾチックなブレスレットがはめられている。服装にはそぐわないが、もしかしたら彼女から贈られたものかもしれない。

 青とピンクのキャリーケースは、色が違うだけで型は同じだった。



「改めましてマシュ・キリエライトです。今日からよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いしますね」

 頭を下げるマシュにつられて私も夫も頭を下げた。テーブルを囲んで座る四人。テーブルの上には料理の数々。メインはハンバーグだった。立香の好物だ。

「それと、これお土産です」
「お、京都土産か」

 わざわざ席を立って夫の前に来たマシュ嬢から渡された箱は、京都名物の生八ツ橋だった。「ありがとう」と夫が礼を言うと、彼女は花のような笑顔を浮かべた。ご丁寧に二箱用意してあった。

「私も食べましたが、とても美味しかったです。ぜひご両親にと思って」
「マシュは食べ過ぎだよ、あれは。京都で俺の分まで食べちゃって」
「た、大変美味しかったもので、つい……。いえ、確か『食べていい』と言ったのは先輩ですよ」
「えー、ほんとにござるかぁー?」
「本当です!」

 むう、と口をへの字に曲げてむくれるマシュ嬢がいじらしくて面白かったのか、立香と夫はクスクスと笑った。笑い方が本当にそっくりで、親子であることを感じさせた。

 マシュ嬢は「次に小次郎さんのマネしたら怒りますよ」と言って席に戻った。小次郎って誰だ。さぞ煽り上手な輩なのか。私もあの煽りにはイラッときた。

「マシュさんは『先輩』って呼んでるの?」私も笑顔を浮かべつつ別の疑問を口にした。「立香のこと」
「はい。私の、大事な先輩です」
「名前では呼ばないんだ」
「その、名前で呼ぶのはその、嫌ではないのですが」むくれた表情はそのままに、彼女はもじもじと身をよじった。「畏れ多いと言いますか、何と言いますか」
「二人きりの時じゃないと、呼んでくれないんだ。恥ずかしいんだって」からかうように立香が言った。
「ち、違います。先輩の名前を恥ずかしいだなんて」
「じゃあ、呼べるよね、恥ずかしくないなら。先輩を付けずに」
「ううううう」
「聞こえないよ?」
「……りつか、しゃん」

 耳まで真っ赤にした彼女は「ううううう」と顔を手で覆って俯いてしまった。立香はそんな彼女をニヤニヤした表情で見つめていた。夫もそんな二人を同じ表情で観察していた。カップルのイチャイチャを眺めてニヤつくのは正直趣味が良いとは言えない。

 ああ、いけない。間違いなく今、女の顔してるよこの娘。というか私の料理を前にして女の子をいじって遊ぶんじゃない、この男ども。特に立香は実家というホームグラウンドで強気になっているのだ。

「それはいいから、早くご飯食べなさい。ほら、いただきます」
「はーい、いただきます」
「いただきます」
「はい……いただきましゅ……」

 なんてことだ。私が助け舟を出したというのに、よりにもよって嚙んじゃったよこの娘。


 夕食は和やかに進んだ。テレビをつけなかったせいか、人数が増えたせいか、いつもより時間が長く感じられた。あと美味しかった。

 実を言うと、八ツ橋食べ過ぎのくだりで私はヒヤリとしていた。マシュ嬢が妊娠しているのではないかと疑ったのだ。

 妊娠すると胎児に栄養を供給する関係で食欲が増大する。私も立香を妊娠した時はそうだった。なにかにつけて「お腹すいた」と言ってはムシャムシャしていたものだ。

 ひとまずマシュ嬢の食事姿を見る限り、食欲が強いとか吐き気があるとかそういうところは見られなかった。そこは一安心である。本当に八ツ橋が美味しかったのだろう。こう見えて意外と食いしん坊なのかもしれない。

 ただし変わったところがない、というわけではない。マシュ嬢は口に運んだ料理の一つ一つにとても感激していたのだ。日本の料理に感動しているというわけでもないだろう。京都で色々と食べてきたはずなのに。

「そんなに美味しい?」同じ事を思っていたのか立香が訊いた。
「はい。とても美味しいです」と目を輝かせながらマシュ嬢。「これが、先輩の食べてきた家庭の味なんですね」
「そうよ、立香は十八年間これで育ってきた」と私。

 特に料理が上手いというわけではないけれど、立香はこれをずっと『おいしい』と言って食べていてくれた。それだけは私の誇りだった。

「もしよろしければ、明日レシピを教えていただけないでしょうか」
「そんなに?」
「いつでも先輩に『おふくろの味』というものを食べていただけるようにと」
「……レパートリーは少ないけれど、それでも良い?」
「はい!」

 立香、この娘、あなたの胃袋を掴んで離さないつもりだぞ。

「このハンバーグと、あと何がいい?」
「オムライスとカレー」と即座に立香。「マシュが作ってくれるなら何でも美味しいけど、その二つは外せない」
「ハンバーグとオムライスとカレー、ですね。再現できるように努力します」
「良かったな、立香」夫が息子に笑いかける。「嫁さんは料理上手が一番だぞ。会社の同僚なんか、嫁の飯がマズイマズイと不満たらたらだからな」

 そりゃあ、帰るべき場所の飯が不味ければ不満だって漏らすだろう。その同僚とやらはご愁傷様である。しかし料理の腕で嫁を良いか悪いか判断するのもどうかとは思った。

 マシュの料理が好き、と息子が言ったことで彼女の料理の腕前がそこそこ良いと分かった。これなら任せられるかもしれない、と私は彼女に笑顔を向けた。

「立香の栄養管理、頼むからね」
「はい、お任せください」

 口元にハンバーグソースをつけたまま微笑む彼女は、まだほんの少し頼りなかったけれど、きっと立香のために一生懸命ご飯を作ってくれるのだろう。好きな人に美味しいご飯を食べてもらいたい一心で。

 それを思うと、なんだか嬉しくて泣きそうだった。



 食後、片づけを手伝おうとしたマシュ嬢の申し入れをやんわりと断り、先に部屋へ案内してやることにした。夫は居間のソファーでテレビを見る体勢に入っている。客が来ていようと自分のスタイルを変えないのがこの夫の在り方だった。

 玄関から重そうなキャリーケースを二人とも片手で持ち上げて運んでいくのを見て、意外と体力があることに驚く。息子に訊くと、三十キロのモノを抱えて走ったり、百キロ超えの荷物を運んだことがあると言って笑っていた。なんなんだカルデアって。軍隊か。

 マシュ嬢に割り当てたのは居間の隣にあるお客様用の和室だった。立香のベッドで寝るか、と冗談交じりに訊くと真っ赤になってうつむいてしまったのでそれ以上はいじらないことにした。おいそこ息子、本気で受け取るな。目を見開くな。煩悩丸出しだぞ。

「先輩の部屋で寝る……先輩と一緒の、お布団で……」

 ああ、この娘も同類だった。

「まあ、うん。好きになさい。とりあえず荷物とかはここ置いておいてね。着替えとかも」
「はい。ありがとうございます」
「立香の部屋は二階よ」
「先輩のお部屋、見てみたいです」
「あんまりめぼしいものはないけどね」エスコートするように立香がマシュ嬢の手を取る。「それでよければ」
「はい!」

 そうして可愛らしい雌羊はオオカミの巣へと連れ込まれていった。お盛んなことで。

 ため息を一度ついてから居間に戻ると、夫がこちらへ視線を向けてきた。

「仲いいな」
「うん」
「風呂は一緒に放り込んじまえ」
「体液まみれの湯船につかりたければどうぞ」
「……やめておこう」
「今は立香の部屋でいちゃついてる」
「孫かな」
「十七歳じゃあまだ早すぎる」
「せめて二十歳になってからだなぁ。あと三年か」
「おじいちゃん、て呼ばれるのはどんな気分?」
「そっちこそどうなんだ、おばあちゃん」
「……どうしたの、急におしゃべりになって」

 夫は酒が入ってもここまで饒舌にはならない。こんなにも矢継ぎ早に会話をするのは久々だった。

「だってなぁ」夫はソファーにごろりと横になって、天井を見つめながら言った。「小学校入ったのがついこの前のようでさ。そこから中学・高校とあっという間で、今は嫁さん連れてきただなんて」
「うれしい?」
「たぶん、うれしい。でも、わからん」
「自分が追い付いてない?」
「そうなんだろうな」

 その気持ちはわからなくはなかった。子供の成長はあっという間だ。こちらが歳をとって体感時間が早く過ぎるというのもあるだろうけれど、本当に瞬きの間で成長していく。立香もそうだ。少し海外に送り出しただけであんなにも大人になって、今やお嫁さんを連れてきた。

「親父たちも、こんな気持ちだったのかな」
「さあ」

 それだけ言葉を交わして、夫はまたテレビを見始めた。私もキッチンの片づけをするべく腕まくりをした。
 少なくとも良いことではあるのだが、どこか現実感がないのは私も同じだった。

 あの立香に、お嫁さんか。




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第二話 色彩をくれた人

 晴れた土曜日の朝ほど最高だと思える時間はない。主婦にとって晴れの日は友達だ。

 私は着替えて立香を起こしに行く。あの子は昔から朝の支度が遅い。ベッドの中でいつまでもぐだぐだしている。それで遅刻ギリギリになるのが学生時代の日常風景だった。

「立香」

 扉を開けると、彼の部屋の中に妙な違和感があるのを感じ取る。なんだ。誰かいる?
 立香のベッド。その掛布団のふくらみが異様に大きい。ちょうど一人分くらい。

 まさか。

 足音を立てないようにベッドサイドへ移動する。案の定、立香の黒髪とは別のピンクブロンドが枕元にいた。顔の近くにもってきた手が繋がれているのが分かった。

「お熱いことで」

 はしたない、だなんて叱責する気にはなれなかった。手を繋いで寝息を立てる二人の顔が、あまりにも、幸せそうだったから。



「ゆうべはお楽しみでしたね」
「はい、とっても楽しかったです」
「おおおおう……?」

 立香より先に起きて、パジャマ姿で自身の部屋へ向かう彼女を挨拶がてらからかってみたところ、思いもよらない反応が帰って来た。
 てっきり顔を赤くしてうつむいてしまうと予想していたのに、元気に肯定してきたものだから変な声が出てしまった。

「え、待って、何してたの?」
「先輩にたくさんお話をしていただいたんです」彼女は頬を桜色に染めながら答えた。「先輩がアルバムを見せてくれて、子供の頃の思い出を話してもらいました」
「それが、楽しかったの?」
「はい。夢中になって、ずっと話していて、気づいたらそのまま寝てしまいました」

 彼女の口振りは何というか、長編ファンタジー小説を読破した子供のようだった。彼氏の思い出話にここまで目を輝かせる女の子など私は想像したことがなかった。

「せっかく寝床を用意していただいたのに、勝手に先輩のお部屋で寝てしまって、申し訳ありません」
「いいの。ある程度予測していたから」肩をすくめる私。「それより、着替えて。朝ごはんの準備だから。オムライス」
「教えていただけるのですね」

 パッと明るい笑顔を見せるマシュ嬢。そのコロコロ変わる表情に私は笑いそうになった。

「かなり自己流だけどね。でも立香は美味しいって」
「すぐに行きますね」

 パタパタと部屋へ向かう彼女を見て、こらえていた笑いが口元から漏れた。



 マシュ嬢の料理の手際はとてもよく、私が教えたことをすぐに覚えてしまった。基礎がきちんとできているのだ。瞬く間にオムライスが四つ完成した。

 そしてちょうどテーブルに並べているころ、夫と立香が起きてきた。示し合わせたんじゃないかというくらいに行動タイミングが同じなのは親子だからか。

「これ、マシュが作ったの?」
「はい。手伝ってもらってばかりでしたけど」
「ありがとう。頑張ったね」
「はうう……」

 ねぎらいの言葉と共に立香がマシュ嬢の頭を撫でる。あっという間に彼女の顔が耳まで赤くなり、会話を続けようとしていた口からは熱い吐息しか出てこなくなる。こやつら、朝からいちゃつきおってからに。

「早く食べなさい。マシュさんが頑張って作ったんだから、冷めたらもったいない」
「はーい」

 皆で席についてオムライスを食べ始めると、立香は一口食べて真っ先に「おいしいよ、マシュ」と声をかけた。途端にマシュ嬢の顔が明るくなる。もう嬉しくて嬉しくてしょうがないという風に。

 息子はいつの間にここまでタラシになってしまったのだろう。これが計算でなく天然だとしたらえらいこっちゃ。

「立香、今日はどっか行くのか」うまいうまいとオムライスを口に運びながら夫が訊く。
「んー。京都で遊んだし、せっかくだからゴロゴロしてようかなって」
「芸者綺麗だったか」
「うん。でも振袖姿のマシュが綺麗でさ」
「ほほう」
「これ、写真」

 立香が腕を伸ばしてスマートフォンの画面を見せてくる。

 品のある紫に花柄をあしらった振袖、紅色の帯、何かの花を模ったピンクの髪飾り。それらを身に纏い微笑むマシュ嬢が写っていた。

「ね、美人でしょ?」ニヤリとした笑顔で立香。「レンタルのお店の人もすごい褒めてたよ。こんな綺麗で華やかな人はそうそういない、って」
「もう、先輩ったら」
「本当に綺麗だと思うけど。私も」二人だけの世界に入ろうとするのを上手いこと食い止める私。「良い花飾りね、何の花?」
「シクラメンです。その花、好きなんです」
「うん、綺麗だと思う。マシュさんに良く似合ってる」

 私の賛辞を受けて、二人は同じように喜んだ。

 シクラメンは地中海の花ゆえ、振袖に添えるのは珍しいと思ったけれど、彼女の可愛らしさには合っている気がした。恥ずかしさと嬉しさで真っ赤になってうつむいてしまうところも似ていた。

 二人はこの花が好きなんだろうか、漠然とした疑問を考えながら私はオムライスを食べていた。

 むう、私のより美味しい。ムシャムシャする。



「二条城でウグイス張りの廊下を歩いたのですが、あれは素晴らしいセキュリティシステムです。ぜひカルデアにも採用すべきだと思いました」
「なに、侵入者でも多いの?」
「いえ、先輩の部屋へ頻繁に夜這いを仕掛ける女性が何人かいるので、それの対策です」
「なんでそんなにモテるの、うちの息子。見境なしに手を出してるとかそういうの?」
「先輩は、大変魅力のある方なんです」照れるようにマシュ嬢は言った。「その人の過去に関係なく、誰にでも分け隔てなく接しているので、惹かれる方が多いんです」

 朝食の後片付けをしながら私とマシュ嬢の会話は続く。彼女が洗った食器を私が戸棚へしまいこむ。

「マシュさんも大変ね。ライバルが多くて。女の戦い」
「その言い方は語弊があります。一部男性も参戦しているので」
「なにそれ怖い」

 モテすぎだろ、と私は息子の貞操が心配になった。
 食後、居間のソファーでテレビを観賞しながらくつろいでいるのが見えるが、もしかしたら久方ぶりの安らぎを得ているのかもしれない。

「じゃあ、マシュさんにとって、立香はどんな人?」

 流れに乗じて、私はずっと訊きたかった質問を彼女に投げ掛けた。息子のどこを好きになったのか、どこが嫌いか、なぜあの子を選んだのか、これである程度分かるはずだ。

 せいぜい『私の王子様』とか『運命の人』という答えだろうと私は予測していたのだが、数瞬間後にマシュ嬢から出たのは意外な言葉だった。

「私に色彩をくれた人、です」

 しきさい? 思わず聞き返した私にマシュ嬢は皿を洗う手を止め、こちらに向き直った。

「私の人生に、生きる価値を与えてくれたんです。先輩は」マシュ嬢は優しい表情で自身の胸に手を当てた。「先輩のおかげで、私はこうして生きている」
「命の恩人、ってわけでもなさそうね」
「……今からするお話、内緒にしていただけますか?」

 あまり大っぴらにする話でもないので。そう言われて居間にいる息子と夫を見やる。息子はテレビを見ていて、夫はテーブルを挟んだ反対側のソファーで新聞を読みながら息子に何か話している。仕事はどうだとか、ちゃんと毎日食べているか、とか。こちらのことは眼中にないようだった。

 問題ないよと視線で答えると、彼女は小さな声で話し始めた。

「……私、少し前まで医療施設から出られない身体だったんです。十四歳までは無菌室暮らしで、十六になっても青空さえ見たことがありませんでした」

 それは、と私はいきなり言葉に詰まってしまった。
 重い話というのもあったけれど、昨日から元気な姿を見せる彼女にそのような過去は似つかわしくなかったからだ。青空を見たことがなかった、だって?

「あの子が、そこから救ったというの?」
「私が一度死にかけた時、先輩が駆けつけて、手を握ってくれたんです」

 私の容態が急変してしまって、と彼女は付け加えた。

「命の終わりを目前に控えて、私は少し、怖かった。もう残された時間で何もできない。空の色さえ知ることもできず、ここで死ぬんだと」

 彼女は自分の右手を見つめて、少し黙った。
 私は身震いした。彼女の口振りにはかすかだがその時の恐怖らしきものが混じっていて、それが実際にあったことだと示唆していたのだ。
 わずかな沈黙の後に彼女はまた口を開く。

「そんなことさえ考えていた私の手を、先輩はずっと握っていてくれました。先輩の手は温かくて優しくて、私が抱いていた死の恐怖を和らげてくれたんです」

 死の恐怖を和らげてくれる温もり。その感触を思い出しているのか彼女の口角が上がる。

「──私はこの人のために、私ができることをしたい。そう思って私はそれを乗り越えました。医療施設の中で孤独しか味わってこなかった私の人生に、初めて生き甲斐というものができたんです」

 彼のために生きたい、と。

「そのあと、たくさんの人々に支えられて私は回復しました。気づいたら以前より強くなっていたんです」

 マシュ嬢の瞳が立香に向けられる。彼の目は相変わらずテレビに向けられていたけれど、彼女はその光景さえも愛おしそうに見つめていた。

「それで外へ出られる身体になった時に、先輩は私の手を引いて外に連れ出して、空を見せてくれたんです。自分の生きる世界の、青い青い綺麗な空を。あの時の気持ちは、一生忘れられません」

 そっか、と私は答えが得られたことに満足していた。「モノクロだったあなたの世界に色彩を与えたのが、立香だったのね。おまけに綺麗な青空をプレゼントしてくれた、と」
「はい」
「そりゃ惚れない方がおかしい」

 うふふ、とマシュ嬢の笑いがこぼれる。

「でも私はまだ、その『惚れる』という感情が分からないんです。先輩が他の女性と話しているとモヤモヤしたり、先輩といるとドキドキするというのはあるのですが、それが先輩への恋なのかと訊かれると、わからない」
「実感がない?」
「そうです。経験が絶対的に不足していて、これが恋愛だという実感がないんです。先輩は私に『好き』と言ってくれたのに」
「そのことは立香には?」

 伝えました、と少し申し訳なさそうに彼女は答えた。

「私がそれを実感できるようになるまで待っている、と。無理強いはしない、とも」
「だから結婚はまだ決めていない、って言っていたのね。こんなに仲が良くて、ずっと一緒にいるって言いきったのに、おかしいと思った」
「すみません、私のせいで」
「あなたは悪くなんてない。立香が決めたことなんだから」小さく縮こまってしまいそうな彼女の頭に私は手を置いた。「いつか、わかるようになる。焦らなくても大丈夫」
「ありがとう、ございます」
「孫を産むのはまだ良いから、あなたの気持ちを確かめなさい」

 孫、と聞いてマシュ嬢の顔が赤くなる。反応から察するに彼女も一端の性教育を受けているのだろう。ささやくような声で訊いてきた。「お孫さんの顔、早く見たいですか?」
「見たいわよそりゃ。見るまでは死ねない。でもそれで貴女が無理することはないから」
「はい……」

 マシュ嬢はそれだけ言うと皿洗いを再開した。顔がまだ赤いのは立香と『そういうことをする』のを想像してしまったからだろう。彼女にはまだ刺激が強すぎた。

 私も同じく作業へと戻り、──彼女から隠れるようにして目頭を押さえた。

 マシュという少女の過去を聞いても、私はあまり同情しなかった。彼女より不幸な人間など世界中にいる。

 逆に、眩しいと感じていた。彼女の人生に煌めく色彩を。
 ことあるごとに目を輝かせていたのは、その目に映る全てのものが彼女にとっては新鮮だったからだ。


 立香の話した思い出は、何よりも素晴らしい冒険譚で。

 立香が食べてきたという料理の味は、どんな御馳走よりも美味しくて。

 立香が差し出した手は、女神様ですら及ばないほど優しくて。

 立香に連れられて見たという青い青い空は、世界一美しいに違いなくて。


 私は鮮やかな彼女の人生を、うらやましく思ってしまった。
 そんな輝きのある命なんて、私には眩しすぎる。





 その日、私はハンバーグとカレーのレシピをマシュ嬢に教え込み、彼女はそれらを昼食と夕食でほぼ完璧に作り上げてみせた。立香と夫にも好評だった。

 むろん、私は実践させた三種類以外にも料理のレシピを伝授していた。あとは、彼女自身がうまくやってくれるだろう。

 これで立香も安心だな、と夫は夕食後に上機嫌で酒を飲み始めた。立香とマシュ嬢にもワインを勧めたが、未成年だからと二人は断った。

 酒の代わりにと思って、私はマシュ嬢に大きな菓子箱を手渡した。

「これは?」
「チョコレート。マシュさんが今日頑張ったから、ご褒美」
「でもこれ、高そうなのに、いただいてよろしいのですか?」
「いいの。全部食べなさい」
「先輩と、一緒に食べても?」
「もちろん」

 ありがとうございます、と彼女は礼を言って、すぐさま立香のところへ直行していった。
 確かに料理を一生懸命覚えた彼女への褒美としての意味合いはあったけれど、私にとってそれはあくまでおまけであった。あれだけの過去を伝えてくれた彼女への返礼だ。

 立香と一緒にチョコレートを食べるくらいの幸せしか提供できないけれども、それでも無いよりはマシだ。私はそう考えて自身を納得させていた。



 そして私はこの時、自身が犯した過ちに気づいていなかった。



 それはマシュ嬢と立香がチョコレートを食べ始めて二十分ほど経ってから起きた。私は夕食の片付けも終えて、昼間に入れた洗濯物を畳もうとしていた。


「せんぱいは、私の下着姿を見るのが嫌なんですか?」

 やけに艶っぽい声が耳に届いた。なんだ今の。

「こんなに熱いんですよ、私のここ。せんぱいが冷ましてくれないと、私困っちゃいます」
「落ち着いて、マシュ。ほら、いい子いい子」
「ん、はぁ……。せんぱいの手、気持ちいいです。あ、んっ」
「痛かった?」
「いえ、気持ちよくて。ふふっ……」

 なにしてんのあんた。私は居間のソファに座る立香たちに近寄った。

「ごめん、この状況どうしたらいいのかな、母さん」

 そう尋ねる立香の胸にはマシュ嬢がしなだれかかり、とろんとした目で彼を見ていた。

「んう。せんぱい。もっとなでなでしてくれないんですか?」
「ああ、ごめんね。よしよし」

 さっきからマシュの様子がおかしいんだ、と立香は彼女の頭を撫でながら報告する。「このチョコレート、中身何?」

 私はとっさに、テーブルの上に残されたチョコレートの箱を持ち上げて裏側の成分表示を見た。

「ああ、ごめん。これリキュール入りだった」
「やっぱり」
「マシュさん、下戸なの?」
「下戸ってのもあるけど、うっかりこうなると手が付けられなくて。俺はデンジャラス・ビーストって呼んでる」

 デンジャラス・ビースト。声に出して読みたい言葉にランクインしそうなフィット感があった。
 立香が私と話していて己にかまってくれないことに業を煮やしたのか、マシュ嬢が行動に出た。

「もう、せんぱいがよしよししてくれないなら、私がしちゃいます」

 えい、とマシュ嬢は立香の頭を自身の胸へと引き寄せ、がっちりと右腕でホールドした。彼の顔面がもろに豊満なバストへと押し付けられる。

「あああ、マシュ待って、これやばい、すごくやばい、無理無理無理」
「先輩、そこで話されるとくすぐったいです。あんっ」
「あのね、理性がね、四散しそうなの。だからお願い。あと息が、できない」

 いーやーでーすー、と言いながら彼女は立香の頭をなでなでし続ける。あまりの光景に直視できなくなって向かい側のソファーを見ると、夫が酔いつぶれて寝ていた。これは幸運なことだったので私は少し安心した。

「っ……せんぱい、あああっ、んう。もう、暴れないでください」
「二人きりの、時ならともかく、親の前でこんなこと、できないから」

 だから離して、そう訴える立香。至極まっとうな言い分であったのだが私には猛烈に嫌な予感のする訴えであった。そういえば、あの時私は彼女になんと言った?

「んー?」

 焦点の揺らぐ彼女の瞳がゆっくりとこちらへ向けられる。狩る者の目。私はとっさにそう思ったが、逃げる余裕などありそうになかった。

「確か、お孫さんの顔が見たいんでしたよね?」

 にへら、と笑う彼女の顔が私にはある種の死刑宣告に感じられた。正確には息子に下された死刑宣告と言えなくもないのだが。

「せーんぱい」マシュ嬢はサキュバスも真っ青の甘い声色で彼に告げる。「子作りしましょう」

 獣だ。私は戦慄した。理性では彼への好意というものを実感できていなくても、本能はすでに彼との生殖を望んでいるのだ。私はそんな彼女の情欲を目覚めさせてしまった。恐るべき色欲の獣を。

「だめだよ、そんな」立香は明らかに気が動転していたが、それでも彼なりの理由を説いていた。「俺もマシュも、未成年で」
「未成年でも、もう産める身体です。私はせんぱいの赤ちゃんを産みたいです」
「いや、でも。ううう」
「せんぱいは、私を孕ませたくないんですか?」
「孕ませたい。──いや待って、違うんだこれは」

 死刑台の前でわめく囚人のように立香は抵抗を続ける。彼の中で暴れまわる獣を抑え込んでいるのは、マシュ嬢への思いやりだ。好きという感情すら実感できていない純粋な少女を酔った勢いで犯すなど、彼の優しさは許していないのだ。

 私はそれを助けることができなかった。どこか、まどろっこしいからやってしまえ、という欲望が息子への助け舟を阻害していた。

 手をこまねいている間に、彼女は立香の優しさをぶち殺す行動に出た。ホールドしていた彼の頭を開放し、彼が離れようとする寸前にその顔を両の手で挟み込んで自らの顔の間近へ持ってくる。

「あ、あ、マシュ、マシュ、マシュ……!」

 すでに息子の息遣いは荒かったし、顔は紅潮して目の焦点も合っていない。豊満なバストで呼吸が阻害され、酸欠で意識が朦朧とし、彼の理性が決壊寸前になっていることが読み取れた。生来頑丈な彼の理性も酒入りチョコのせいで脆くなっている。もうこれ以上は自身の獣を抑えきれない。

 そんな立香の理性にトドメを刺すべく、彼女は彼の耳元に唇をよせ、ささやいた。


「わたしとひとつになりましょう、せんぱい」

 それがまさしく殺し文句となって立香の理性と優しさにギロチンの刃を落としたのが私にはわかった。彼の抵抗が完全に止まる。

 マシュ嬢が手を放すと、彼はゆっくりと立ち上がって、彼女の手を引いて歩きだす。

「立香?」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 壊れたように言葉を繰り返す息子を見て、もうこれ全然大丈夫じゃないなと私は悟った。

「避妊はしときなさい」

 マシュ嬢を連れて自身の部屋へ向かう立香に、いちおうの警告だけはかけてやった。獣に避妊を説いたところで無駄だとは知っていても、それくらいの言葉をくれてやることはできた。

 二人がリビングのドアを閉めて去っていったのを確認すると、私は深い深いため息をついた。

 なんかもう、ごめんなさい、と。



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第三話 大人たち

 その日の私は目覚まし時計の電子音ではなく、カーテンから漏れる朝日によって目を覚ました。

 アラームを設定し忘れたのかと思ったがそうではなくて、自身の耳の違和感でようやく昨日何があったのか思い出す。
 耳栓がキュポンといい音を立てて外される。すると何度目かのスヌーズによる電子音が耳に入ってきた。アラームを切ると静かな日曜日の朝が訪れる。

「さすがに、もう終わったか」

 色欲の獣二頭による宴。そのまさしく獣のごとき嬌声が壁を越えて微妙に聞こえてくるのに気づいた私は耳栓を使って夜をしのぐことにした。親に喘ぎ声やらなにやら聞かれるのはさすがに可哀そうだと思ったし、何よりうるさかった。ついでに酔って寝ていた夫にも毛布と耳栓を施しておいた。

 時刻を見れば就寝してから八時間ほど経過していた。いくら若いとはいえ、この時間までぶっ通しでするほどではなかろう。

 着替えて朝食の支度に向かう。居間を見れば昨日の元凶たるチョコと、未だ熟睡している夫がいた。ご飯はタイマーですでに炊き上がっている。

 さて何を作ろうかと悩んでいると、階段を誰かが降りる音がしてくる。

「おはよ、母さん」
「おはよう立香。……ひどい声ね」

 ダイニングのドアを開けたのは立香であった。長時間喉を酷使したのか声はガラガラで、目には生気がない。よほど行為に没頭していたのだろうと思う。

「顔もひどいけど、何時間起きてたの」
「うーん」立香は壁の時計を見て計算する。「だいたい六時間か、七時間ってところかな」
「ろくっ……!」

 私は目をむいて言葉を失う。若さというものを甘く見ていたようだ。つい数時間前まで宴が続いていたというのか。

「さすがに、疲れた」
「マシュさんは、起きてるの?」驚くべき体力に慄きながら餌食となった彼女の心配をする。「というか生きてる?」
「『せんぱいさいていです』って言ったきり、布団にくるまって、口きいてくれなかった」
「それは、また」
「令呪を二つ使ったのは、まずかった」
「れいじゅ?」
「いやこっちの話」

 それだけ言って息子はフラフラとテーブルに向かい、自身の席に座った。燃え尽きたのではないかというほどにグッタリと椅子に身体を預ける。

「なに食べる?」
「わかんない」

 なんでもいい、とすら言わない息子。相当に疲れたのか、あるいは「先輩最低です」が効いたのか。食欲が湧いていない様子だった。

 きっとマシュ嬢も似たような状態だろう、と予想した私は朝食のメニューを決定し、さっそく調理を開始した。


 作るのに三十分もかからなかった。ぼうっと虚空を見つめる立香の前にトレイに乗せた朝食を置いてやる。

「これ……なつかしいね」

 一口サイズに切り分けた卵焼きと、同じく一口サイズのおにぎりをたくさん。それにミニサイズのウインナーを焼いたもの。それらが二人分トレイに乗っていた。

 立香が風邪を引いた時など、食卓に来れないほど弱っている時に作ってあげたメニューだった。手抜きとしか思えないラインナップだし栄養バランスも考えてないけれど、疲れたり食欲のない時にはぴったりだった。いざとなったら素手で食せるというのもありがたかったし、時間を置いて冷めても食べれた。

「マシュさんの分も作ってあげたから、持っていってあげなさい」
「でも、大丈夫かな」バツの悪そうに立香はためらった。「マシュ怒ってるよ、たぶん」
「本気で怒っていたら最低なんて言わずに嫌いって言うはずだし、そもそも無視するから」大丈夫だよ、と優しく諭してやる。「何なら部屋の前まで持っていってあげるから、一緒に食べなさい。あの娘もしっかり食べないと」
「……わかった。自分で持ってくよ」
「フラフラなんだから、気を付けてね」
「うん」

 立香はそう言うとトレイを持って部屋に向かった。その足取りは相変わらず力がなかったけれど、来た時よりしっかりしたものになっていた。





 立香とマシュ嬢がそろって二階から降りてきたのは、昼も近い午前十一時を過ぎてからだった。夫は「二日酔いした」と言って部屋に籠ってしまっていた。

「昨晩は、ご迷惑をおかけしました」

 ぺこり、とマシュ嬢は私に頭を下げた。よほど恥ずかしかったのか涙目になりながらの謝罪だった。どうも鮮明な記憶があるらしく、その羞恥は相当なものだろうと私は彼女に同情した。

「いいの、あのチョコ渡した私も悪かったんだし」気にしてない、という風に私。「それより、仲直りはした?」
「先輩が、優しくしてくれたので」
「うん。もう大丈夫」

 マシュ嬢が顔を赤らめながら彼の手を握って、立香もまた彼女の手を握り返していた。

「おお熱い熱い」

 仲の良い二人だが、よくよく見ると立香の首筋に赤い痕がある。キスマークに違いないそれは、今朝見た時にはなかったものだ。マシュ嬢の首筋にも似たような赤が見えた。

 しかもついさっきまで運動をしていたかのような呼吸と汗のかきかた。まさか、仲直りついでにまた朝からおっぱじめていたのかと私は呆れてしまう。若いってすごい。

「ま、そんなことより立香、右手を出しなさい」
「こう?」

 まっすぐ差し出した彼の手のひらに、私は己の財布から抜き出した諭吉を二枚置いた。二人の目が驚きで見開かれる。

「これあげるから、デートでもしてきなさい。足が疲れているようならタクシー使っちゃいなさい」
「でも、こんなに」マシュ嬢が戸惑いながら訊く。「いいのですか?」
「いいの。昨日チョコで迷惑かけたお詫びみたいなものだから。明日には日本出るんでしょ?」中身が少し寂しくなった財布をしまいながら答える。「昨日はどこも行かなかったんだし、今日くらい二人で出かけて、映画でも見るとか、美味しいものでも食べてくるとかしたらどう?」
「この歳でデート用の小遣い貰うとは思わなかったな」立香がぼやく。「一応俺たち、仕事してるんだけど」
「私から言わせれば二人ともまだまだ子供だって」

 いいから行ってきなさい、と立香の肩を叩くと「じゃあ、ありがたくもらうよ、母さん」と二人は手を繋いでリビングから出て行った。昨日は風呂も入っていないはずだからシャワーも浴びなくてはいけない。少し時間はかかるだろう、と私は思った。

 案の定「行ってきます」という声が玄関から聞こえたのは十二時になる少し前だった。





 夫は部屋で恐らく昼寝、立香とマシュ嬢はデート。洗濯物もすでに干した。昼食も朝の残りで済ました。

 掃除でもするかな、と思って玄関わきの収納スペースにある掃除機を取り出そうとすると、インターホンが鳴った。
 誰だろう。宅急便が来るとも聞いていないし。

 インターホン備え付けのカメラ画像を見ると、二人の外国人が映っていた。一人は長身で肌の色が黒く白髪の男性で、もう一人は金髪の小柄な女性だった。二人ともスーツを着ている。

 インターホンにつながるマイクを通して二人に話しかける。

「どちらさまですか」
『初めまして、我々はカルデアの者です』
「カルデア?」
『簡単に言えば藤丸立香氏とマシュ・キリエライト氏の同僚です』
「私は立香の母です。二人は出かけているのですが」
『存じています。ぜひ母君とあの二人について話しておきたかったのです。門の外でも構いません』
「少しお待ちを」
『ありがたい』

 マシュ嬢と同じくやたら流暢な日本語を話す外国人だ、と思った。嘘をついている風でもないし、何か話があるのだというなら出てやるべきだ。
 私はその男性ともう一人の女性に会うべく玄関を出て家の門に向かった。

「お待たせしました」
「突然の訪問申し訳ない。私はエミヤ・シロウ。こっちはアルトリア」

 エミヤシロウ、と名乗った男性は女性と一緒にお辞儀をした。なんとこの見た目で日本人の名前であった。

「で、お話というのは……」
「その前に前置きがありまして。──実のところ、私たち二人は藤丸立香氏とマシュ・キリエライト氏の護衛なんです」

 護衛? あの二人には似つかわしくない言葉が出てきて私は一瞬だけ理解が遅れ、思わず訊き返していた。

「あの二人は現在、カルデアにとってなくてはならない重要人物なのです」アルトリアという女性が答えた。「日本の治安が良いとはいえ万が一ということもありますから、我々は京都から二人を護衛していました。この家も少し離れたところから監視していたんです。気づかれないように」
「でも、今の二人、街に行っちゃったけれど」
「ご心配なく。もう一人、犬のように素早い護衛が付いてますので」
「はあ」
「勝手に家を見張っていたことは謝罪します。──で、本題なのですが、昨日の夜から今日の明け方にかけて何が起きましたか?」

 そ、それは。私は目に見えて動揺してしまった。冷汗が頬を伝う。昨日の夜から今朝にかけて発生していたことといえば、一つしかない。そんな私に構わずエミヤ氏は続けた。

「立香氏の付けているブレスレットには、彼のバイタルをこちらに送信する機能が付いていましてね。それによると昨日から今朝まで、六時間五十二分もの間、心拍数も血圧もぶっ通しで高いままでした。命に係わるレベルです」
「しかし家が強盗に襲撃を受けたとかそういった兆候はない。そこで、何が起きたのか訊きにきたのです」とアルトリア氏。
「あの二人に訊けばいいじゃない」
「出かける時に尋ねたのですが、二人とも口ごもってしまい、話してもらえませんでした」肩をすくめるエミヤ氏。「しかし、これではカルデア本部に報告しようがない。それで貴女に訊こうと」
「まあ、仕事ですものね」

 隠しても仕方がないし、虚偽の報告をして叱責されるのはこの護衛達だ。そう考えた私は昨日の出来事を話した。もちろん直接的な表現は避けたが、ぼかしてもいない。
 話していくうちに、両名の顔が呆れと、驚愕に彩られていくのがわかった。

「あれだけの時間を、休みも入れずに、だと……!」
「しかも朝になって再度行為に及んだ形跡もあり、今は二人で元気に出かけていると。……本当に彼は人間なのでしょうか」
「まあ、そうなりますね」私はため息をつく。「報告するときは、うまいことぼかしてあげてくださいな。立香はともかく、マシュさんが可哀そうだから」

「気遣い痛み入ります」アルトリア氏が礼を述べる。「マシュ・キリエライト、あの者は私たちにとって大切な仲間ですから」
「いいの。あの娘のためだもの」

 笑みを浮かべてそう返すと、エミヤ氏が口を開く。

「マシュ・キリエライトは、どんな印象でした?」
「立香にはもったいないくらいの良い娘ね。優しくて、品があって、可愛くて。あと──」
「あと?」
「……会う前に、私はマシュさんを夢で見たの。だから立香があの娘を連れてきたのは、運命のような気がしてね」
「ふむん。詳しく訊いても?」

 他愛のない夢の内容ではあったけれど、私は鮮明に覚えていた。それをかいつまんで二人に話してやった。たくさんの化け物と、それに立ち向かう英雄たち。そしてその中心にいた息子と、マシュ嬢そっくりの女の子。

「変な夢だったけど、マシュさんの写真が息子から送られてきたとき、これが運命なのかと、ね」
「……そうですか。今までに同じような夢を見たことは?」
「ないわね」と即答する。

 エミヤ氏は少し黙ったあと、私にお辞儀をした。アルトリア氏も少し遅れて頭を下げた。「情報提供感謝します。我々は向かいのあのホテルにいますが、明日の朝には撤収しますので、明日以降は気にしなくて結構です」
「お仕事、頑張ってね。あの二人もよろしく」
「お任せを」

 そう言って二人は去っていった。
 不思議な雰囲気をした人たちだな、と私は漠然と二人を見送った。





 立香とマシュ嬢が仲良く手を繋いで帰ってきたのは夕暮れになってからだった。

「エミヤって男の人と、アルトリアって女の子が来てたけど」
「……何か言ってた?」顔を引きつらせる立香。
「『二人の様子はどうだ』って訊いてきたから『すこぶる仲良しです』って伝えておいた」
「そっか……」

 安堵の息を漏らす立香とマシュ嬢。物凄く遠回しだが嘘はついていない。六時間以上ぶっ通しでし続け、起き抜けにまたするカップルが仲悪いわけがない。というか発情期かこの子たちは。

 それとあの二人が言っていたことも真実であると確認がとれた。あれが立香の同僚。あの二人とこの子たちが一緒に働いているというのは少し不思議な気がした。

「夕食はステーキにしたから。それまでに明日の準備をしちゃいなさい。起きてからだと飛行機に間に合わないわ」

 わかった、と立香は言ってマシュ嬢共々部屋に戻った。

 またしばらく会えないのか、と思うと寂しくはあったけれど、あんな可愛い娘と、頼りがいのある仲間がいると考えれば心配にはならなかった。



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第四話 子供たち

 明日にはもう日本を出てしまう、というので夫が寂しがることはあったけれど、夕食は和やかに進んだ。幸運なことに夫には昨日のデンジャラス・ビーストに関する騒動の記憶は無いようだった。もしあったら殴ってでも消していた。

 片付けも終わり、皆も風呂に入って後は寝るだけになったころ、私は電気も付けずリビングのソファーで一人座っていた。
 もうすぐ日付も変わる。月曜日を控えているというのに、私は寝つける気がしなかった。しかし夜食をつまむ気もテレビを見る気も起きない。

 月明りが綺麗だったのでカーテンは開けてある。夜に慣れた目には上等な明かりとなってリビングを照らしていた。

 マシュ・キリエライト。実質的なお嫁さん候補としてこの家を訪れた少女の顔が脳裏に浮かぶ。

 あの可愛らしい女の子がこれから立香を支えていくのだと想像すると、どうもその実感がわかないというか、心に霞がかかったような気分になる。嫌というわけでもないが、心の底から喜んでいるというわけでもない。

 すでに彼女は、私の知らない立香の顔を知っているのだろう。不思議な気分だ。十八年間も育て上げたのはこちらであるはずなのに、どちらかというと彼女の方が立香のことをよく知っているのではないかと思えてくる。

 負けて悔しいのか、と自分に問いかけるが、どうもそうではない。複雑な気持ちだった。
 子離れできてない親ってのは、こんな感じなのか。

 私はそんな思考を、ぼうっと繰り返していた。

 しばらくすると、階段を下りてくる音が耳に届いた。この足音は立香だ。

「母さん」息子はパジャマ姿のまま、リビングに入ってきた。
「どうしたの」
「ん、ちょっとね」

 立香はテーブルを挟んだ向かい側のソファーに座った。互いにパジャマ姿だった。
 特に用事が無いように装っておきながら、息子がこういう顔をする時は、なにか大事な話があると相場が決まっていた。

「しばらく帰れない、とか?」
「うん。また忙しくなりそうだから」

 そっか、とだけ私は返事をした。きっとそれだけではないだろうと予想していたけれど、息子がそう言うのだから仕方がない。

「ありがとね」微笑んで息子は言った。「マシュを歓迎してくれて」
「あんな良い娘、そうそういないもの。歓迎しない理由がないって」
「それもそうだね」
「大切にしなさい」
「もちろん」
「……今朝までイジメてたくせに」
「あれは、マシュも乗り気だったから……」
「せんぱいさいていです」
「やめて」

 そこまで言ってクスクスと二人で笑った。息子の笑い方は夫に似ているけれど、笑顔それ自体はあまり似ていない。顔立ちが違うからだ。息子は母親に似るというから、きっと私似なのだろう。

「それで」私は笑いを収めて立香を見つめた。「何か言いに来たんでしょ?」
「……うん」
「言いにくい?」
「少し」息子ははにかむように言った。「本当は人に伝えるべきものじゃないんだけれど、母さんには、言っておきたかったんだ」

 そして彼は自らの右袖をめくって、ブレスレットを見せた。金色の、植物の蔦を思わせるデザインだった。

「それ、あんたの体調をモニターするやつなんでしょ?」
「あ、エミヤに聞いてた?」
「それで昨日何があったか訊かれた」

 あー、やっぱりか、と息子はブレスレットを見つめてため息をついた。

「それだけ?」
「ううん。これにはもう一つ、別の機能があるんだ」

 そう言って、立香は手の甲をこちらに見せつけた状態でブレスレットのロックをパチリと外す。
 ブレスレットが拳を通過する瞬間に、それは起こった。

「……なにそれ」

 それまで何もなかった息子の拳に、赤い痣のような模様が広がった。翼を思わせる痣と、そこに真上から楔を打ち込んでいるような痣。血のように赤いが、きちんとした模様になっていて入れ墨のように思えた。

「このブレスレット、隠蔽の効果があるんだ」左腕に付け直しながら立香。「そう簡単に消せないし、かといってそのままだと目立つし」
「入れ墨?」
「似てるけど違う。これ、令呪っていうんだ」

 れいじゅ。今朝あたりに口にしていた言葉に、そんな単語があった気がする。

「それよりもうすぐ日付が変わるから、見てて。一日一回しか見れないんだ」

 息子が壁の時計に目をやって、カウントダウンを始める。私は黙って彼の言った通りにその痣を注視していた。

「五、四、三、二、一」

 カウントが終わった瞬間、先の痣を囲むように赤い光が現れるのを、私は呆然とした顔で見つめていた。
 そして光が収まると、同じような痣がまた一つできていた。全体としては盾を思わせる意匠だった。

「おれ、魔術師なんだ」

 その令呪とやらを指でなぞって、そう告げてくる。
 微笑んではいたけれど、いつになく真剣な目つきで息子はこちらを見ていた。

「それでまあ、世界を、救ってきたんだ」





 息子の口から語られたのは、人類停止の真相だった。

 三千年前に魔法で作られた人工知性体が暴走して、人類をその歴史ごと消滅させようとしたのだと。
 そして運良く生き延びたカルデアの人間たちが一年かけて元通りにしたのだと。
 その際、魔法を用いたタイムマシンを使って様々な時代と国を行き来したのだと。

 とてもじゃないが信じられない話のオンパレードだった。SFでさえもう少し真実味のあるストーリーを考えるだろう。

 だがそれよりも驚いたのは──息子が一切嘘をついていないことだった。私はそれらが全て真実であることに気がついて、愕然とする。

「それで世界が元通りになって、一段落ついたから帰省したんだ」大体のことを話し終えたのか、そこで立香は肩の力を抜いた。「信じられないことばかりかもしれないけど、母さんには言っておきたかったんだ」

 聞いてくれてありがとう、と彼は付け加えた。

「……タイムマシンって、実用化されてたのね」
「え、うん。まあ実用化っていうか、実験段階だったんだけど、使うしかなかったんだ」
「どの時代行ったの」
「えっと、フランス百年戦争と、古代ローマと、大航海時代と、産業革命時代と、アメリカ独立戦争と……」
「日本は無いんだ」
「いや、平安時代の京都と鬼ヶ島で鬼退治してきた。あと十字軍と、古代バビロニアかな」
「安倍晴明いた?」
「いなかった。でも酒呑童子と茨木童子はいた」
「酒呑童子。日本最強の鬼じゃない。あんな大江山の化け物と戦ってきたの?」
「確かに強かったけどさ。……待って、母さん」
「なに?」
「信じるの?」不安そうな眼差しでこちらを見つめる立香。「こんな、三文小説みたいな話をさ」

 私は、はあ、と深く息をついてから答えてやった。「だって嘘ついてないんだもの、立香」

「なんでわかるの」
「あんたの母親は誰だと思ってるの?」私はソファーから立って息子を見下ろす体勢になる。「息子が嘘ついているかどうかぐらい、わかるって」
「そうなの?」

 嘘をつくのが苦手な息子というのもあったかもしれないけれど、私は息子が嘘をついているかどうかが一目で分かった。
 以前見たあの夢と合致する話をされたというのもあって、私は彼の話を信じた。信じることが、できた。

 未だ戸惑うように見上げてくる立香。私はテーブルを回りこんで、静かに彼の座るソファーの、隣に座った。

「それにね、わかるの」
「……何を?」
「立香がものすごく頑張ったってこと」

 私は立香の頭を優しく撫でた。
 いつだったか、幼いころ、補助輪なしで自転車に乗れるようになった彼を褒めた時のように。すり傷だらけになって、乗れるようになったことを私に伝えてきた時のように。それを褒めたたえるように、優しく、その頭を撫でた。

「……あなたが帰ってきたとき、顔つきがすごく大人っぽくなっていたもの。こりゃあ何か大きなことがあったんだなって、わかっちゃった。それで今、世界を救ったって聞いて納得したの。あなたを成長させたのが、その旅なんだなって」
「母さん」
「頑張ったね、立香」

 えらいえらい、と私は息子を褒めた。
 魔術だとか、過去への旅行だとか、小難しいことは私にはわからなかったけれど、立香が精いっぱい頑張ったことが、私には分かった。子が頑張ったのなら、それを褒めて労うのが親の務めだ。

「……うん。俺、世界のために、がんばったんだ」撫で続けていると、今にも泣きそうな声で彼は言った。「あと、いろんな人に助けられて……」
「でも、頑張ったのはあなたでしょ。誰かに助けられていたにしても、世界を救うなんて、並大抵の頑張りじゃない」
「……うん」
「よく頑張ったね。母さんは嬉しいよ」

 そこで立香の目から、ぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
 信じてもらえたことが嬉しかったのか、それとも褒めてもらえたことが嬉しかったのか、もしくは今までの旅とやらを思い出しているのか。
 あるいはそれら全部だろう。私は息子を抱きしめて、あやすように、ぽんぽんと背中を叩いてやった。

 想像以上に息子の背中は大きかった。小さい頃は抱っこしてやれたのに、今や背中を抱えきれない。しかしその大きさが私には喜ばしかった。
 こんなに大きくなってくれて、母さん嬉しいよ、と。




 立香の涙は私の肩を濡らして、しばらくしてから収まった。こういうのを男泣きというのだろうかと思いつつ、私は残った涙を己の袖口で拭ってやった。二十歳を目前に控えているのに母親に泣き顔を見られてしまったことが恥ずかしかったのか、立香は少し照れた様子だった。

 その表情を見ながら私は先ほど立香の話した内容を反芻していて──明確な間違いを、話された時には気づくことができないほど小さな、この子の嘘を見つけ出してしまった。この子はとんでもない勘違いをしている、と。


「ありがとう、母さん」
「いいの。私も嬉しいんだから」

 泣きはらした目と、しかし凛々しい顔を見て私は彼の成長を実感する。
 そして迷った。先ほど気づいたこの子の過ちを、告げてやるべきかどうか。この嘘は本当に小さなものではあったけれど、この子の頑張りを根底から別のものにしてしまう可能性を持っていた。

「明日早いから、もう寝なきゃだね」
「そうね」

 スッキリした顔でリビングから出ていこうとする立香に、私は思っていたことをぶつける決心をつけた。子が嘘をついたなら、正してやるのが親だ。


「あなたは一つだけ、嘘をついた」

 え? と彼の足が止まる。振り向いて、こちらを見つめてくる。どういうことなのかわかっていない表情だった。もしかしたら彼には怒っているように感じられたかもしれない、と思いつつ私は構わずに続けた。

「嘘というより、立香自身が気づいていないのかもしれない」
「俺自身が?」
「あなたはさっき『世界のために頑張った』って言ったわよね」
「うん。だから俺は、戦って──」
「そこが違うの」
「なにが」
「あなたは一度だって『世界のために』戦ったことなんてない」私は断言してやった。「あなたの頑張りは、そんな理由で積み重ねられたものじゃない」
「じゃあ……なんのために世界を救ったのさ、俺は」
「自分のことなのに、わからないの?」

 そう言われてしばらく悩んだ立香だったが、結局「わからない」と返してきた。
 私は一度ため息をついて、息子に歩み寄り、教えてやる。

「あなたが世界を救ったのは、ただ一人の、女の子のためでしょう?」

 立香の顔が固まる。やはり、気づいていなかったのか。

「そうでしょ?」再度確認するように尋ねる。「あなたはマシュさんのために、マシュさんと一緒にいるために世界を救った。違う?」
「でもそれは俺のわがままで──」
「でも、じゃない」

 私は息子の反論が出る前にそれをはねつけた。

「その事実があんたの欲望でしかないというのはわかる。女の子一人と世界丸ごとを天秤にかけて、女の子を選ぶのは正義に反しているのかもしれない。世界を救う動機としても不純で、人類全員に対する裏切りなのかもしれない。けれどそれは、絶対に間違いなんかじゃない」

 それは母さんが保証する。ほとんど叱りつけるようにそう述べると、立香は呆然としていた。

「世界のために戦うなんてことができる人は、この世にほとんどいないと思う。それができるのは聖人という名の狂人よ。せいぜい自分か、家族か、好きな人のために戦うのが人間って生き物なんだから」

 圧倒された息子を引き戻すように、私はそっと彼の手をとって優しく握ってやった。

「……いいじゃない。好きな女の子のために世界を救うなんて、男らしくてかっこいいわよ」
「そう、かな」
「あんたは変なところで奥手ね」

 あれだけマシュ嬢と熱い夜を過ごしたのに、この子はまだ彼女に対する好意を表に出すことを恥ずかしがっている。世界を救ったのならもっと堂々としていても良さそうなものだが。

「……うん」少し照れた様子で、立香は自身の嘘を訂正した。「俺はマシュのために、マシュと一緒にいるために、世界を救ったんだ。そのために頑張ったんだ」
「それでいいの。それを間違えたままだと、あなたの頑張りが無駄になっちゃうから。母さん心配しちゃった」
「ありがとう、母さん」

 吹っ切れたような清々しい立香の顔をじっと見つめていた私だった。
 ただ一人の女の子のために、人類を救った英雄。確かに今のこの子の顔は英雄のそれだ。良い顔つきになったと。十八年間育ててきたかいがあったと、私は感嘆の息を漏らした。



 だが、私は立香の後ろに佇む人影があることに気づき、意識を現実に引き戻された。

「マシュ、さん?」
「え、マシュ?」

 立香がそちらに振り向く。
 人影はマシュ・キリエライトだった。しかし、どうも様子がおかしい。うつむいて、身体が小刻みに震えている。

「せん、ぱい」

 それだけ言って、彼女は小走りで立香の胸に飛び込んだ。

「マシュ、待って。大丈夫?」
「せんぱい、せんぱい、せんぱい……!」

 立香が身体を少し離してその顔を上げさせると、マシュ嬢の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。彼女は眼鏡が落ちるのも構わずに涙をぬぐう。カシャンと音を立てて眼鏡が床に落下し、その周りを止めどなくあふれる涙が濡らした。

「マシュ、落ち着いて」
「さっきの話は、本当ですか?」泣きじゃくりながら彼女は問う。「せんぱいは、私のために、世界を、人類史を、救ったって」
「……うん。俺は、マシュのために、頑張ったんだ」

 それはマシュ嬢への返答であると同時に、彼自身へ言い聞かせる言葉であると私は気づいた。
 彼女はそれを聞いて、ぎゅうう、と幼子のように彼のパジャマを掴んだ。

「それじゃあ、せんぱいは、私のために、苦しんで、傷ついて、あのグランドオーダーを、成しとげたんですか」
「……うん。そうだよ。でもマシュが支えてくれたから──」
「私は……!」彼女は再び彼の胸に顔を押し付けた。こもったような声が響く。「なら、私は、どうすればいいんですか。どうすれば、せんぱいの苦労と努力に、応えられるんですか」

 立香が背中をさすりながらなだめていると、彼女はゆっくりと語り始めた。泣いているせいで言葉が途切れ途切れになってはいたけれど、私も立香も黙ってそれを聞いていた。

「せんぱいは、あの旅を、楽しいものだったと、言ってくれました。でも、それと同じだけ、辛い思いを、したんです」

 それは、彼女の慟哭にも似た強い感謝の念だった。

「私は、せんぱいの苦労と、努力に、どうやって、応えればいいんですか。私の命を、費やしても、せんぱいの費やしてきたものに、報いきれる気がしません。どうすれば、せんぱいは報われるのですか……!」

 マシュ・キリエライトという少女の抱いていた立香への想いは、想像以上に強いものだった。私はそれを理解して立ち尽くしてしまう。こんなにも強烈な好意と感謝の気持ちを、私は人生で初めて目にしたのだ。

「……良いんだ。俺が、俺のわがままでやったことなんだから」
「やぁっ」その言葉を拒否するように、彼女は彼の胸の中で強く首を横に振った。「私、せんぱいに、守られてばかりで、まだ何も、できてない。まだ何も、返せてない。そんなの、いやです……!」

 立香も同じように立ち尽くしていた。彼女より年上とはいえ、このような激しい情動をなだめるすべを彼はまだ知らないのだ。


 本人に自覚はなくとも、立香がマシュ・キリエライトに与えたものは、とてつもなく大きい。

 死の恐怖を和らげてくれる手の温もりと、何よりも暖かい優しさを。
 孤独だった人生に、生きがいと頼れる仲間たちを。
 無限に広がる外の世界へ、自分の足で歩んでいける身体を。

 ──そして、この世界の本当の色を教えてくれた人。それが彼だ。

 何もなかった女の子に「好きだ」と言ってくれた男の子。藤丸立香。

 彼が与えてくれたものは、マシュ嬢からすれば、それはもう己の命をなげうってもまだ返し足りないほどの、あまりに大きくて、何よりも価値のある贈り物なのだ。

 立香の世界を救った動機を知ったことで、とうとう彼女は感情を抑えきれなくなって爆発させてしまった。どうしようもないほど大きな感謝と、未だ理解できずにいる「好き」という想いを。

 そんな彼女の気持ちはあまりにも純粋で、強固で、ちょっとやそっとじゃびくともしない。誰もその感情を正面から否定なんてできるはずがない。立香ですら、どうすることもできないだろう。


 けれども私は、すでに彼女の情念に向き合うことができていた。彼女にかける言葉が、見つかったのだ。それは単純なことではあったけれど、人生の経験が不足している彼らにはまだ見えていないことだった。

 私は手始めに足元に転がる眼鏡を拾い上げて、袖口で涙を拭いてやって綺麗にしてあげた。

「マシュさん」私は立香の胸に顔をうずめる彼女を覗き込むように問う。「あなたは、立香に恩返しがしたいのね。彼に、幸せになってほしいって」

「……はい。私にできることなら、私の全部を、差し上げます」立香の胸に顔をうずめたまま、彼女は答えた。「命も、身体も、心も、全部、せんぱいにあげます」

「あなたがそう思うのなら、立香と一緒にいてあげなさい」

 ほんの少し落ち着いた様子の彼女に安堵しながら、私は続けた。

「たくさん手をつないで、キスをして、セックスをして、一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に楽しんで、同じ景色を見て、同じごはんを食べて、同じ道を歩いてあげなさい。……それをさよならの時まで続けてあげれば、立香への最大の恩返しになると思う」

 そんなこと、とマシュ嬢は私に反論するかのように顔を上げた。「そんなことで、良いのですか。せんぱいはそんなことで、報われるのですか?」

「そんなことって、あなたね。立香がなんのために世界を救ったのか、聞いてたじゃない。そんなささやかなことのために、この子は命を張って頑張ったのよ」

 私はそう言って彼女の顔に眼鏡をかけてあげた。まだ涙は流れていたけれど、さっきよりは収まりつつあった。

「何もできなくても、どうか、立香のそばにいてあげて。それだけで、この子が費やしてきた全部が報われるはずだから」

 そうなのですか? 彼女は自身が抱き着いている立香の顔を見上げる。彼はゆっくりとマシュ嬢の身体を抱きしめながら頷いた。

「もし、母さんがさっき言ってくれたことをマシュがしてくれるなら、俺にとって最高の幸せだよ?」
「最高の、幸せ。せんぱいの?」
「うん。無理強いはしないけどさ」
「せんぱいが望むなら、私、どんなことでもします……」それまで彼のパジャマを掴んでいた手を離して、彼女はおずおずと立香の背中に手を回した。「私にできる全部を、せんぱいに、あなたに」

 マシュ、と呟いて彼は抱きしめる力を強くする。彼女の涙はまだ収まっていなかったけれど、立香はそんなことなど気にせず彼女の身体を腕に閉じ込めていた。

 やはりあの時の夢で見た女の子は、この娘だったのだ。私は確信した。
 立香のために生きようとしてくれる、健気で、儚くて、優しくて、しかしごく普通の女の子。彼女を夢で見た理由なんて分からなかったけれど、あの夢のように、これからも立香を支えてくれる人だ。

 立香が支えられるだけではない。私が言ったことを続けていれば、いつか彼女も気づくことができるだろう。彼の幸せも、己の幸せも、等価値なのだと。どちらも同じくらい大切なもので、同時に叶えられることなのだと。

 やがては、彼に向けている「好き」という感情も理解できるようになるはずだ。心に満ち溢れる、その想いを。
 立香と一緒にいれば、いつか、きっと。

「マシュ……」
「せんぱい、せんぱい……」

 頬を染めた二人が見つめあい、今にもキスし始めそうな雰囲気になってしまったので私はその場をこっそりと後にした。

 このカップルは実に世話が焼ける。しかし、手間のかかる子ほど可愛いと言うように、私はこの子たちの関係を応援してやろうと思えた。

 もうすぐ巣立ってしまう者たちだけれど、今はまだ、子供だ。子供を見守るのは大人として当たり前のことだ。だから、まだ、私はこの子たちの世話を焼こう、と思っていた。

 リビングを後にする時、私はチラリと二人を見た。

 月明りが優しく口付けを交わす二人を照らしていて、一幅の絵画を思わせる光景が、そこには広がっていた。

 今ならよく寝れそうだ、と私は思った。



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第五話 おかあさん

 昨晩の余韻に浸れるほど月曜の朝に余裕などない。
 起きて着替えて、朝食の支度へと向かおうとする私の背中に、起きたばかりの夫が「おはよう」と声をかける。

「おはよう」私は少しぶっきらぼうに返した。いつものことだったし、何より今は時間が惜しい。

 本日のメニューはご飯と、ワカメと玉ねぎの味噌汁、昨日作ったステーキの残りに、漬物、目玉焼き。

 それらを手早く作り上げ、皿にのせてダイニングのテーブルへ運んでいく。ちょうど夫が髭剃りと着替えを終えてやってきたところだった。私もエプロンを外して椅子に座る。

 そこへ立香とマシュ嬢が手を繋いで現れる。おはようございます、とマシュ嬢が笑顔で言うと、私も夫もにこやかに返した。

「おはよう二人とも」ムシャムシャと肉を頬張りながら夫。「今日はもう日本を出るんだろ?」
「うん。この後、羽田からタイ航空の便でバンコクまで行って、そこからネパールまで行くんだ。そこまで行けば、迎えが待ってる」
「一日がかりだな」
「カルデアに着くのは深夜になっちゃうだろうね」
「強盗には気をつけろよ、あっちは日本より治安がよろしくない」
「わかってるさ」

 立香と夫がそんな何気ない会話をしているが、私はマシュ嬢と立香が連れたって現れたことの方に意識が向いていた。微妙に汗をかいたような体臭に、マシュ嬢の首筋に赤い痕。
 まさかこの子たち、またシテいたというのか。いくらセックス覚えたてのカップルとはいえ、発情期か。どんな体力してるんだ。

「結婚式には呼んでくれ。ハワイだってどこだってすっ飛んで行くからな」先に朝食を食べ終えた夫は、スーツの上着に袖を通しながらそう言った。「ただし一週間前には連絡してくれよ」
「行ってらっしゃい」
「おう」

 夫は席についている立香とマシュ嬢の頭をワシャワシャと撫でてから仕事に向かった。二人ともくすぐったそうにはしたけれど、嫌な顔はしなかった。

「で?」玄関の扉を閉める音が聞こえたところで、私は二人を睥睨して尋ねた。「今度は何時間ヤッた?」
「えーと、四時間くらい」時計を見ながら立香。
「食卓で平然と言えるその感覚が信じられないわ」
「母さんが訊いたんじゃないか」
「これ見よがしにキスマーク付けてくれば嫌でも訊きたくなる」
「先輩、つけないでって言ったじゃないですか」マシュ嬢が首筋を抑えながら立香をにらむ。「これから飛行機ですよ。カルデアの皆にも、なんて言われるか」
「いいじゃない。減るものじゃないし」
「清姫さんにバレたら焼き殺されますよ?」
「……ああ、そこまで考えてなかった。助けて」
「絆創膏とか、タートルネックかチョーカーで隠せば?」息子の青ざめた顔を見ながら私。「要は見えなければ良いんでしょ?」
「それだ。後でどこかで買っていこう」
「もう、先輩ったら」

 しばらくの間、そんな感じの馬鹿馬鹿しくて、しかし不思議と心が安らぐ会話が食卓を彩った。やはりこうして食べるご飯が一番おいしいのだ。
 やがて、皆でごちそうさまをしてそんな時間も終わる。

「タクシー呼んである?」
「うん。一時間後に頼んである」
「それまでに準備しときなさい」
「はーい」

 立香が二階へ上がり、マシュ嬢は客間へ向かい、食卓につかの間の静けさが戻った。
 私は一人、ふう、と息をついて食器を片づけた。




「忘れ物はない?」私がそう尋ねると「大丈夫です」というマシュ嬢の返事。来た時と同じように重いキャリーケースを軽々と持って運んでいく。試しに持たせてもらったが、両手でどうにか上がる重さであった。世界を救ったという息子の言葉も納得できた。二人の体力はかなりのものだ。

 玄関の外には先に立香が来ていた。スマートフォン片手に誰かと電話している。

「エミヤたちに連絡しておいた。同じ便に乗るってさ」立香がマシュ嬢に告げる。「空港で落ち合おう、だって」
「護衛付きなんて、とんだVIPね」
「先輩はそれだけ、すごい人なんです」自慢げにマシュ嬢。「魔術協会から一代で開位(コーズ)を授かったんですから」
「こーず?」
「魔術師に授けられる位階のことです。開位は貴族でない魔術師が到達できる最高峰だと言われています」
「……立香、あなたすごかったのね」
「いやまあ、みんなに助けられたからね」気恥ずかし気に頬をかく立香。「魔術師って言ってもそんな魔術のレパートリーないし」
「昨日見せた令呪ってのも、魔術なんでしょ。何に使うの?」
「これ自体が強い魔力を持っていてね、サーヴァント──つまり使い魔に対する絶対命令権になるし、自分に使って身体能力を強化したりするんだ」ブレスレットによって隠蔽されているその赤い痣を立香は撫でた。「一日一画しか回復しないけど」
「使い魔持ってるのあなた。猫とか?」

 使い魔といえばフクロウとか、猫とかの動物が思い浮かべられる。しかし立香は笑ってそれを否定した。

「人間の姿なんだ。サーヴァントって言うんだ。人間よりずっと強い。マシュもその一人だよ」
「はい。私は人間で契約した特殊な例ですが、先輩と契約した第一号サーヴァントです」

 そう言って立香に身体を寄せるマシュ嬢。
 仲睦まじい姿であったが、その光景を見て私の中でピースがはまった。
 マシュ嬢もサーヴァント。一日一画の回復。サーヴァントへの絶対命令権。
 まさか、こいつ。

「立香、あんた、まさか」自身の息子が実行した可能性の高いそれを、私は震える声で指摘した。「その令呪使って、マシュさんにやらしいことを」
「いや、うん」歯切れの悪そうに立香は言った。「マシュの筋力を一時的に人間と同じにはしたよ。下手すると俺が骨折するから」
「もう一画は?」問い詰めるように私。「あなた、二つ使ったって言っていたわよね。もう一画は何に使ったの」
「……ごめん、言えない」
「せんぱいさいていです」
「やめて」

 目を泳がせながらはぐらかす息子をよそに、私はマシュ嬢の手をおもむろにつかむ。

「マシュさん、立香がひどい命令してきたら私に言いなさい。とっちめてやるから」
「いえ、その」頬を染めながらマシュ嬢。「あの時は怒りましたけれど。……先輩に令呪でああいう命令されるのは、嫌いじゃないです」

 ああ、いけない。こいつら完全にバカップルだ。私は頭を抱えそうになる。しかもSMの領域に片足突っ込んでるじゃないか。
 私はマシュ嬢の手を掴んだ状態で首をひねって肩越しに立香をにらんだ。

「マシュさんがこう言っているからいいけど、ひどい命令なんてしたら、いくら立香だからって許さないからね」
「そんなことしないよ」
「『せんぱいさいていです』なんて言われるような命令しておいて、何言ってるんだか」
「だからやめて」

 そこまで言って、私は立香に向き直った。「まあ、説教はここまでにしときます。でも避妊だけはしっかりしときなさい立香。マシュさんが二十歳になるまではダメよ」
「うん。わかってる」
「よし」私はその言葉を聞いて、一転して笑顔を浮かべた。「まあ、立香なら大丈夫でしょ。まだちょっと頼りないけど」
「ありがとう。母さん」

 よろしい、と私は礼を述べる立香の頭を撫でてやった。昨日の夜よりも少し雑に、しかし褒めたたえる心を忘れないようにその髪を撫で繰り回した。立香は抵抗せずに、苦笑いでそれを受け止めていた。

「あとね」撫で終わった私はマシュ嬢に顔を向けた。「マシュさんに昨日の話の続きがあるんだけど、聞いてくれる?」
「はい。なんでしょうか」
「昨日は立香に寄り添えって言ったけれど、それと一緒に実行してほしいことがあるの」にこり、と私は彼女に対して笑顔を見せてあげてから続けた。「マシュさんが何か欲しい、何かしたい、何処かへ行きたいと思ったならすぐに言ってあげて。いっぱいわがままを言って、困らせてあげて。立香にとってはそれもご褒美よ。そんなあなたを立香は受け入れてくれるから」

 私の言葉にマシュ嬢は困惑した表情を浮かべた。「先輩を困らせることが、ご褒美なんですか?」

「困らせることを怖がって、マシュさんが我慢してしまうことをこの子は望んでない。マシュさんがやりたいことをやりたいようにできる方が絶対に嬉しい。──そのためにも世界を救ったんでしょ、立香。そのくらいは母さんもわかるから」

 立香は私の言葉に深く頷いていた。

「マシュが我慢して、本当にやりたいことをできない方が、俺は嫌だ」
「私のわがままを、受け入れてくださるのですか。どんなのでも?」
「できる範囲でならね。俺もわがまま言うかもしれないけど」
「先輩がしたいことでしたら、私はどんなことでも受け入れます」
「俺も同じ気持ちだってことさ」

 見つめ合う二人の邪魔をしてしまうことにはなったけれど、私はさらに続けた。

「互いに感情をぶつけたっていい。でもそれ以上に相手の気持ちも正面から受け止めなさい。喧嘩が怖いからといって逸らしちゃダメ。たくさん喧嘩をして、それと同じ数だけ仲直りして、相手を受け入れてあげて。それが相手への最大の敬意よ」
「喧嘩をすることが、敬意」
「喧嘩をすること『も』敬意、よ。仲直りを忘れずにね」

 はい。マシュ嬢は元気よく頷いた。

「昨日言ったことと今言ったこと、できそう?」
「それで先輩が喜んでくれるのでしたら」
「そう」私はその答えに満足した。「私の息子を支えてくれてありがとう、マシュさん。これからも立香を頼めるかしら」

 はい、喜んで。彼女は美しい花を思わせる優しい笑顔で、そう告げた。




「さっそくなのですが、ひとつ、わがままを聞いていただけないでしょうか」

 家の前に止まったタクシーのトランクに荷物を載せながらマシュ嬢は訊いてきた。
 私は、なにかしら、と彼女の顔を覗き込みながら訊き返す。

「あなたのことを『お母さま』とお呼びしても、よろしいでしょうか」

 恥ずかし気に紡がれたその言葉に、私は面食らってしまった。けれど、嫌だとは微塵も感じなかった。だから言ってあげた。

「それでもいいけど、私は『お母さん』の方が好きだな」

 それを聞いた瞬間、彼女の顔が実に嬉しそうな笑みを浮かべた。泣きそうにも見えるほどの、輝かしい笑顔。
 照れているのは相変わらずだったけれど、その時の可愛らしい笑顔を、私は一生忘れられそうになかった。

 ようこそ、藤丸家へ。マシュ・キリエライト。






 ごちそうさま、と夫の声と私の声が重なった。

 あの二人がカルデアに戻ってしまって、藤丸家は少しだけがらんとしてしまった。

 結局、マシュのために用意した部屋も着替えと荷物置きに使われるだけだった。バカップルめ。

 食器を片づけようとすると、夫の動きに違和感があることに気づいた。普段ならすぐソファーに向かうはずなのに、ダイニングの戸棚へと向かったのだ。そこにはグラスしかないはずだが。

「ウイスキー?」

 夫が戸棚の奥から取り出したのは、茶色の液体が入った瓶。そのラベルには有名なメーカーのロゴが入っていたからすぐに私はウイスキーだと気が付いた。

 そこからさらにグラスを二つ取り出して、夫はそこに冷凍庫から持ってきた氷と、先のウイスキーを注いだ。

「ま、飲めや」
「私あまり飲めないんだけど」
「良いから、座って」

 しかたない、と私はエプロンをとって夫の言われるがまま、彼の座る反対側のソファーへと座った。テーブルの上にはウイスキーの入ったグラス二つと、その瓶だけだった。

「立香とマシュさんに」

 グラスをこちらに向けて掲げ、夫は宣誓するかのように述べた。
 私は突然のことに思考が停止してしまうが、数秒後、状況を把握してグラスを手に取った。

「二人の幸せを願って」

 夫と同じようにグラスを掲げ、その間近へと持っていく。

「乾杯!」

 かちん、と二つのグラスが音を立てた。

 私は久々の酒を勢いよくあおって、思う。
 たまにはこういうのも、悪くないものだ。

 口に流し込んだウイスキーは、ほろ苦かったが、うまかった。


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エピローグ

「ランサー、あの家への仕込みは万全だな?」
「おうよ。並みの魔術師なら裸足で逃げ出すくれぇの加護を付けておいた。下手に手を出せば末代まで呪われる」
「ふむん。ではもうここにいる意味もないな」

 俺たちは荷物をまとめ始める。これからカルデアに帰還するにあたって、藤丸立香の家族へ危害が及ぶのを防ぐために様々な工作を施しておいた。秋葉原にある時計塔の日本支部にも根回しという名の脅迫をしておいた。

「しかしなぜなのでしょう」バスルームから着替えを終えたアルトリアが姿を現す。この部屋には更衣室なんてものはないから彼女はそこで着替えなどをしていたのだ。
「何がだ、セイバー」
「マスターの母君が見た、夢のことです」神妙な顔つきで彼女は述べた。「あれは夢というにはできすぎている。特異点の出来事をどうして見ることができたのか。やはり、何かしらの異能を持っているのでは」
「俺もそう思ってルーンで調べたけどよ、あの母親にそれらしきものはこれっぽっちも見つからなかったぞ」

 では一体、どうして、と二人の英雄は腕組をして悩み始める。

「なんだ二人とも、わからないのか」
「ああん?」
「どういうことですアーチャー」
「別に難しいことではないんだ。ただ彼女は、親として当たり前のことをしていただけなんだ」

 俺はそんな二人に言ってやった。それは実に単純なことなのだ、と。

「親として当たり前……」
「はははは!」
「なにがおかしいのです、ランサー」

 腹を抱えてベッドの上で転がるクーフーリンをアルトリアがにらむ。すると、彼は俺の方を見て、ニヤリと笑った。

「いやなに、親バカここに極まれりだと思ってよ」
「そういうことだ。しかし君たち二人にできなかったことだ」
「俺もこいつも最終的に殺しちまってるからなぁ。……おいセイバー、まさかまだわかんないのか?」
「あなたは、わかったというのですか」

 状況が呑み込めていないような表情のアルトリア。そんな彼女に対し、俺とクーフーリンは肩をすくめて顔を見合わせた。

「あー、こりゃモードレッドが可哀想だぜ」
「同感だ」
「な、なぜそこでモードレッドが出てくるというのです!」
「こりゃ筋金入りだな」

 喧嘩腰になる二人をよそに、俺はひとりごちる。


 そうだ、あの母親は当たり前のことをしていただけだったのだ。

 それは予知でも千里眼でも何でもない。ただの、親として当たり前のことをしていたにすぎない。奇跡も神秘もこれっぽっちもない。

 例え人類史と共に焼き尽くされようとも。
 惑星を貫くほどの光に姿を変えても。
 空間に漂う熱量に成り果てても。

 ただ彼女は、見守っていただけなのだ。


 自分の息子と、その花嫁を。



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