ある裏路地から始まった物語 (UN)
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第一話
食物連鎖の頂点とされる人を……。
“食糧”として狩る者たちが存在する……。
人間の死肉を漁る化け物として彼らはこう呼ばれる――――――
――――――「喰種(グール)」と。
――ヒトは中身が重要だ。
とはありふれた考えで、ありよく聞く考えだが、この言葉の意味を本当に理解している奴らというのはごくわずかだろう。結局のところ口では何とでも人間は中身だ、とか外観でその人の価値は決まらないとか綺麗ごとを言うが、その実内心では、イケメンや美少女の方が好きな奴が多いだろうし、テストの点数という目に見える外観で人の優劣を決める人間が多いだろう。
特段それを否定するつもりはないが、そいつらが言う「ヒトは中身が重要だ」という言葉は本当の意味でそう使われているのかについては疑問を投げかけたい。俺には良い外面をアピールするパフォーマンス的な物としか思えない。
こんな偉そうなことを始めから言ってはみたものの、所詮俺は生まれてまだ十七年程度の若者であり、ヒトは中身が重要だ、という言葉の意味を自分自身でちゃんと使っているのかは自分でも疑問に思う所だ。
まぁ、しかしすこーしばかり運が人並みになかった俺はそれなりに色々なことを体験してきたわけであって、平生の世に暮らす一般家庭の皆様よりかは「ヒトは中身が重要だ」という言葉を真の意味で理解していると思う訳だ。
――自分が犯したわけでもない罪で周りから後ろ指をさされるというのは、中々に辛いものがある。
そう、まぁ俺のこれまでの半生を語るとまさにこれだった。深い事情についてはここで語るには原稿用紙と時間というものが圧倒的に足りないし、それに俺の心の準備も出来ていないので割愛させて貰う。まぁ、語るべき場面が来たら語ると思うし、もしその場面が来ないなら来ないで、それでいい。いや、俺としては漱石やら、太宰やらの小説並みに暗い俺のこれまでの人生について語る時が来ない方が嬉しいんだけどな。
――ヒトは中身が重要だ。
さて、話は元に戻るが、実はこの言葉は今は亡き俺の親父の受け売りである。事あるごとに親父はこの言葉を俺と妹に聞かせた。「いいかい、ヒトは中身が重要だ。周りではなくその中の物をじっと見つめて判断しなさい。そして、お前たちは常にヒトとして正しいことを心掛けなさい」親父のこの言葉を俺と妹は何度聞いただろうか。耳にタコが出来るくらいに聞かされたこの言葉は死んだ親父のことを思い出すたびに今でも思い出す。
――ヒトして正しいことを、か。
ヒトは中身が重要だ、とセットで親父がよく使っていた言葉だ。ちなみに、ヒトとして正しいことをなんて言っているが親父曰く、正義はどうやっても自分よがりになるから、ヒトとして正しいことをというのはイコール自分が正しいと思ったことを、ということになるらしい。今でこそこの言葉の意味も分かってきたが、こんな言葉を小学生の下の毛も生えないガキの内から聞かせて置いて本当に意味が理解できると思っていたのだろうか……。まぁそのことを聞こうにも生憎親父もお袋ももうこの世にいやしないので聞くことは出来ないのだが。
結局、俺が長々と何を言いたかったのかというと、
――ヒトは中身が重要だ。ヒトとして正しいことを。
この二つの言葉俺の思想の中枢を担っていて、今回のあの薄汚い裏路地から始まった物語の幕を開けることになったという事だ。
そう、俺と彼女の物語は、物語の始まりに相応しい春という季節に、物語の始まりにはふさわしくない薄汚れた裏路地から始まった。
――東京の夜は明るい。
日本の首都であり世界有数の経済都市である東京。日本の人口の約一割以上が暮らすこの都市では常に雑踏が溢れ、野望や野心が渦巻いている。深夜まで明明としたネオン街やビル群が列をなして立ち並び夜だと言うのにまるで星の瞬きも月明かりも届かないのが東京と言う街だ。
まぁ、しかしそれは東京でも一部の話であり、いくら一千万人が暮らす街だと言っても、裏路地やら空き地やら人気のない光の届かない場所というのは存在する。
――あぁ、少しばかり遅くなったな。
左手に着けている安物の腕時計で時間を確認すれば後二十分ほどで十一時を迎える時間だった。少しばかりバイトが長引いてしまったため、いつもより十五分ほど遅い時間だった。辺りは闇に包まれ、申し訳ない程度に設置してある電灯が寂しげに光る。辺りに人影はない。それはそうか、人ではないヒトが色々と話題になっているご時世だ。よっぽどのことがない限り、日が落ちた後に暗い裏路地を通ろうとする人間は少ないだろう。
そう、俺はそのよっぽどのことがある人間だった。
俺だってこんな薄暗い人通りが少ない裏路地なんて通りたくないが、家の方がそこにあるものはしょうがない。大通りから迷路のような裏路地を十分ほどあるいたボロアパートが我が城だった。
破格の安さと引き換えに立地は最悪駅からも遠ければ、人通りの少ない裏路地の奥のほうにある築うん十年の我が城は、二階に上がるまでの階段はペンキがハゲ、錆びて今にも穴が開きそうな状態であり、壁にも所々にひび割れがある。それに部屋のカーペットの裏にはひび割れた床もあり、隣の部屋との壁の厚さはおそらく数cmだろう。俺の他に入居者が一人しかいない人気がない理由も少しわかる。場所も少し人通りから離れた場所にあるし、近年色々と喰種が話題になっている世の中じゃあこんな物件に住みたがらない人が多いのも頷ける。
それに極め付けは数か月前にそれまで隣に住んでいた人が行方不明になった物件だ。寧ろ住んでいる人の気質が疑われるような物件だ。
そんなどーでもいいことを考えながら足を進めていた時だった。
――それは先ずは匂いとしてやってきた。
場所我が家まであと、曲がり角を二回曲がれば着くといった所。
――何だ、この匂い?
何処からか漂ってきた独特の匂いに思わず進めていた足が緩やかになった。別に異臭がするのが珍しい訳ではなかった。普段からこの通りは色々な匂いが混じり合った最悪の通りだった。酔っぱらいが残していった吐瀉物なんて普段からよくあるような通りだ。
でも、今日の匂いはやけに鼻についた。遠い昔何処かで嗅ぎ馴れたこの香り……。
少しだけ警戒しつつも、家に帰るためにはどのみちこの道を通らないといけないため、足を進める。
――そして、俺は出会った。
それは次の曲がり角を曲がり、暫くしたところだった。電灯が切れかかり、薄暗い短い直線、その中ほどで俺は視界端、ちょうど右下辺りに布のような物が目に入った。生暖かい春風に揺れる布の中には何かがあるようだった。
――異臭が濃くなった。
一歩近づく、さらに異臭が濃くなる。電灯がちかちかと点滅する。薄暗い中で、それが何か分からない。
さらに一歩近づく。
――べちゃり。
視界に入る物体ばかりに気を取られていた俺は、その音で自分が水たまりのような何かを踏んだことに気付いた。視線を下に向ける。
その時になって俺はその異臭の正体が分かった。どこかで嗅ぎ馴れた匂いは、そうあの時だ。
――血まみれの部屋、ぐちゃぐちゃと響く音。腹の中を掻きまわされる感覚。――の笑い声。
あぁ、そうだ。この匂いは
――血だ。
足元には血だまりがあった。スニーカーが血を吸い込んでいくのが分かった。
足が止まった。そこまできて俺は漸く、さきほどから視界に入っていた物が何か分かった。
それは人だった。布のような物に身を包み、うつ伏せに倒れている人だった。癖のある長い髪が腰辺りまで伸びていた。身長から見るに子供だろう。その周りには血が流れており、俺のいる血だまりからその子まで血の線が出来ていた。恐らく、地面を這って移動したのだろう。
その時だった。倒れていた人影がピクリと動いた。
――生きている!
その動きに我を取り戻した俺がその子に向かって一歩足を進めた時だった。
最後の力を振り絞る様に倒れていた人影が顔を上げた。まだあどけない顔つきの少女だった。
少女と目が合った。足が止まった。
――え?
チカチカと点滅する電灯の下、生暖かい春風が血のにおいを運ぶ。
――今にも死にそうな少女の右目は、紅眼(あかめ)だった。
紅く染め上がった眼は、薄暗い中でも不気味に光る。古今東西、人ではないというのが相場だ。人ではないなら、ヒトでしかない、それがこの世の理である。即ちこのことから導き出される結論は――
――この少女が喰種だということである。
――喰種。
それは人に紛れ、人を食らう者。
――喰種。
それは時として、人を殺しその肉を食らう者。
――喰種。
それは、人間の敵であり、決して太刀打ちできない化け物。
――喰種。
そして、それは、俺の親父とお袋を殺し、俺の腹に風穴を開けた存在。
赤く光るその右目と視線が交差する。この世の全てを恨まんばかりに憎悪が込められたその目が俺を射抜く。
――あぁ、喰種だ。こういう時はどうすればいいんだ?
頭の中が冷静なのか、それとも熱くなっているのか自分でも分からなくなってくる。
――CCGに通報か? いや待て相手は喰種だ。暢気に通報なんてしている間に殺されるかもしれない。ここはまずは逃げて距離を取って……。
「ウ……ウゥ!」
少女は低い声を出し、まるで威嚇するかのように俺を睨む。しかし、顔色も悪くどうやら起き上がることも出来ないようだ。
――あぁ、この喰種は弱っている。
起き上がることも出来ない喰種に少しだけ頭が冷静になっていく。
――喰種。あぁ、コイツは喰種だ。
血まみれの部屋。ケタケタと笑う甲高い笑い声。恐怖に染まる泣き顔。そして、熱くなる腹部とかき回される感覚。
――あぁ、喰種か。あの時の痛みを……
背負っていたカバンを下す。ぐちゃりと血だまりに落ちた音がしたが気にならなかった。その中から新聞紙に包められた包丁を取り出す。
――ここまで弱っている喰種になら大丈夫。
親父の無念を、お袋の仇を、そして妹の……。
包装をとき右手にしっかりと握る。そして一歩少女へと進めた時だった。
――いいかい、ヒトは中身が重要だ。周りではなくその中の物をじっと見つめて判断しなさい。そして、お前たちは常にヒトとして正しいことを心掛けなさい。
ふと、親父の言葉が甦った。
――ヒトは中身が重要だ。その中の物をじっと見つめて判断しろ。ヒトとして正しいことを。
親父はこの言葉をいう時に、「ヒト」という言葉を強調した。「人間」ではなく「ヒト」という言葉を使った。親父の思想はきっと、俺や妹に「人間」だけでなく、「ヒト」に対してもこの思いを持ってほしかったいうことだろう。
紅眼を持つこの少女は間違いなく喰種だ。でも、喰種というのはあくまで外見の話だ。この少女の本質ではない。
確かにこの少女は人間ではない。それがどうした。喰種だろうと人間だろうとヒトはヒトだ。
その前提のもと改めて目の前の少女のことを見てみる。
最早立ち上がることも出来ずに、ただ俺の事を威嚇しようと必死に睨んで来る少女。その瞳に激しい憎悪が見て取れた。
――あぁ、キミも同じなんだな。
この目を俺は知っている。そして、その強い視線の裏側に脆く儚い物があることも知っている。
その時だった。少女の口が小さく動いたのが目に入った。音にはならなかったが、何が言いたいのかは分かった。
――あぁ、俺は何をやってるんだ……。
冷水を頭からぶっかけられた感覚だった。今にも死にかけの少女に向かい包丁を持って近づく男。これがヒトとして正しいことだろうか?
――答えは断じて否。
外見だけで判断される辛さを知っているのは何よりも俺なのだ。そんな俺が喰種だからという外観で判断してどうする。
確かに親父もお袋も喰種に殺された。でも、それはアイツが殺したわけであってこの少女ではない。罪があるとすれば、アイツであり、俺が恨むべきもあの喰種だ。この子には何の罪もない。
途端に自分の行おうとしていた行為が恥ずかしくなった。
包丁をカバンに雑に放り入れ、そのままカバンごとそこらに放り投げる。そして腕まくりをしてゆっくりとその少女に近づく。
――ウゥ! ウガッ!
最後の力を振り絞る様に吠えるその少女に一歩ずつ近づく。
ぺたぺたと少し湿った靴音がする。
「大丈夫、安心して、大丈夫だから――辛かったよな」
そして、ゆっくりと少女の傍に膝をつくとそのまま抱擁するように抱きかかえた。
その子は軽かった。
――ヒトとして正しいことかどうかは分からない。でも俺は、これが正しいと思う。
俺にはこの少女の喰種がどんなヒトなのか分からない。もしかすればアイツと同じようにとんでもない奴なのかもしれない。でも、たとえそうだろうと目の前で死にかけている子供を見殺しにすることは間違っている。これだけは言える。だから助ける。
それに彼女のあの目に、あの声にならなかった言葉。
それを考えるとこの喰種の少女はそこまで悪くない奴ではないように思う。まぁ勘だけどな。
――え? もしも勘が外れてその子に食われたどうするって?
まぁ、その時はその時だ。運がなかったと諦めるね。勉強代を命で払ったと割り切ることにするよ。
抱きかかえた少女のボサボサの髪を撫でる。血にぬれて固まった髪は硬かった。
――ガブり。
そんな俺の首筋に彼女は噛みついた。
そう、それが俺と彼女の出会いだった。
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第二話
喰種の少女を保護した次の日の事。
――さて、どうするかなぁ。
台所に立ちホットコーヒーを啜りながら考える。外は昨日の深夜から降り始めた大雨が未だに降り続いており、屋根を叩く雨音が良く聞こえた。雨が降ったのは幸いだった。これだけの雨ならあの大量の血だまりは無理にしてもその殆どを洗い流してくれるだろう。そうなればここにCCGが来る心配もない。自然の力による証拠隠滅程力強い物はない。
――色々と買い直さないとなぁ。
ため息をつきながら部屋の隅にあるビニール袋を見る。どす黒く染まった中身は昨日の少女が身に纏った布だったり、俺のスニーカーだったり、カバンだったり、服だったりと、ようは血を吸い込んで色が変わり、とても使うことが出来ないものが詰まっていた。漂白剤をふんだんに使えば取れないことはないかと思ったが、匂いの方も相当染み込んでいそうなので諦めて処分することにした。時期をみて燃やして灰にしてしまおうと思う。
――まぁ、とりあえず起きるまで待つか。
チラリと後ろを振り返る。台所の真後ろにある扉の向こう、いつも俺が寝室がてらに使っていたその部屋の端の布団。小さく盛り上がったそこには昨日の少女が寝ていた。
――喰種の治癒力は凄いというが、ここまでだとはなぁ。
昨日の事を思い出す。あれだけの大けがをしていた彼女だが、俺が彼女を抱えて部屋に着くころにはその傷の殆どが治っていた。喰種の治癒力やら再生力は凄いというのを何処かで聞いたことがあるが、あそこまでだとは思っても見なかった。
――うーん。
一つ伸びをする。体のどこかからかパキパキという音がなった。床で寝たため体中がこわばっているようだ。
そして、コーヒーを一口啜る。
少しだけ眠気が収まった気がした。
気を失った少女の体をタオルである程度拭きそのまま布団に投げ込み、と血の付いたものをゴミ袋に叩き込んだ後、色々と表で作業をして台所の床で寝たため、寝たのは深夜だ。少しばかり寝不足気味だった。
――まぁ、とりあえず、彼女が起きるまでは何も出来ないか。
首筋をさする。包帯を巻いたそこは、押さえると少しだけ痛みを感じた。
――さてさて、この少女はどっちなのかな……。
もしも、この喰種の少女がアイツと同じであったら、俺はきっとこの少女に殺されるだろう。特に鍛えている訳でも、武術に精通しているわけでも何でもないただの一般人では喰種には太刀打ちできない。例えそれが子供であっても喰種と人間の差は大きい。武器も何も持っていない俺は、少女がその気になれば何の抵抗もなく殺されるだろう。
――もしも、殺されたとして、それでも俺はいいのか?
そう自分に問いかける。
――あぁ、問題ない。俺はヒトとして正しい行いをした。それで死ぬのなら本望だ。
出た答えは昨日と同じ。
そうだ、あそこでこの少女を見捨てて逃げ出すよりも、包丁で襲い掛かるよりも、少女を助けたほうが良い。例え、その上で俺が死んだとしても、あのまま少女を置き去りするよりも、彼女を刺すよりも、後悔がないし、俺“らしい”。
俺には、生きていく理由は確かにあるが、死なない理由はない。
だから、別にこの喰種の少女に襲われて死んだとしても特段問題はないわけだ。残された家族も恐らくいないことだし。
それに今までの前提は少女が“アイツ”と同じような喰種の場合だ。もしも、彼女が話を聞いてくる喰種であったのなら話し合いでどうにかできるかもしれない。
まぁ、そしてこれは万が一の話になるが、もしもあの子に俺が殺されることになったとしたら、一つだけお願いしたいことがある。
――もしもの時は、残さず食べてほしいものだ。
無駄死にだけは勘弁してほしいものである。
屋根を叩く雨音を聞きながらこんなことを考えている時だった。
のそりと、部屋の隅の布団が盛り上がった。
――さてさて、どうなることやら。
未だに湯気が上がっているマグカップを置くと、ゆっくり少女に近づいていった。
「――さて、お互いに自己紹介をしようか」
あれから少しばかり色々あって、少しだけ風通しがよくなった部屋で目の前に座る少女に言う。辺りには先ほどまで壁だったものの破片やら机の破片やらが飛び散っており、踏む場所を間違えると怪我をしそう状況だった。
ボロアパートで、外観がすでにお化け屋敷だと言うのに、この部屋の状態だと完璧にお化け屋敷そのものだ。不幸中の幸いというべき点は被害があったのは隣の部屋との壁と机だけであり、床や天井は無事だと言う点だ。これなら外にばれることはない。ポスターや壁紙を上から貼れば誰にもばれないはずだ。心配すべきは引っ越す時だが、このボロアパートが廃墟になるのが先か、俺が引っ越すのが先かと、なれば恐らく前者のほうが早そうなので大した心配はなさそうだ。
「…………」
特に服も何も持っていなかったため、少女には俺のジャージを着て貰っている。昨日の布はとても纏えたものじゃない。少女は小柄だったため、身長が日本の男子の平均身長よりも8cmほど高い俺の服を着ると服の袖も、ズボンの裾も余ってしょうがない。服を着ると言うよりも服に着られている少女は黙って俺を見た。少女の手には一冊のノートが大事そうにしっかりと握られていた。少女が唯一持っていた持ち物だった。
その目にはさきほど比べると憎しみや憎悪という感情の色は少しだけなりを潜めていたが警戒の色は濃く出ていた。
「さて、俺の名前は……。おっと、さっき言ったな。別に名前で呼ばなくてもキミが好きなように呼んでくれればそれでいいから、好きに呼んでくれれば助かる。名字以外であるなら好きに呼んでくれればいい。趣味やら特技やらそんな大それたものはないけど、言うなれば料理はソコソコできるよ。後はブラックコーヒーが好物だ。それと色々あって現在一人暮らし、家族はいない。得意科目は生憎、学校にはいってないけど、多分国語。こう見えて本を読んだりするのが好きなんだ」
少しだけ大げさに明るい声で話す。笑顔で相手の目を見てゆっくりと。
「出来れば君の名前を教えてほしい。もちろん、自分の名前が嫌いだと言うのなら無理には強制しない」
――この世には自分の名前に恨みすらある人間がいる。
自分の名前を書くたびに、自分の名前が呼ばれる度に……。
「……エト」
少女は視線を俺から逸らすと、呟くようにそう言った。
大雨が屋根を叩き、雨音が響く部屋の中でその小さな呟きは消されることはなく俺の耳に届いた。
「エト……そうかじゃあこれから俺は君の事をエトと呼ぶけどいいかな?」
俺のその問いかけにエトは、小さく頷いた。
「うん、分かった。これからよろしくな、エト」
丸まる様に座っているエトに右手を差し出す。
「…………?」
差し出された右手を見て首傾げるエトに、
「握手だよ、握手」
そう笑いかける。
エトはしばらく俺の顔と差し出した右手を交互に眺めると、
「……ぅん」
恐る恐るといった様子でゆっくりと自分の右手を差し出してきた。
「これからよろしくな、エト」
小さなその手は温かく、それは人間の少女の手と何ら遜色ないように感じられた。
「…………ぅん」
そう、これが俺と喰種の少女、エトとの本当の意味での始まりだったのかもしれない。
「それじゃあ、まずはルールを決めよう。まず一番大事なことだ。エト、君は自由だ。だから、ここが嫌になったら好きに出て行けばいいし、逆に気に入ったのなら好きなだけここにいればいい。これだけは忘れないでくれ、君は自分の意思の上で行動してほしい。じゃあ、次――」
屋根を叩く雨音は留まる気配はない。結局雨は、その日一日降り続いた。
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第三話
――あぁ、視線が痛い。
周りから注がれる視線をひしひしと感じながら目の前に並ぶ商品を見る。色とりどりにならぶそれは、男子にはあまり関わりのないものである布、つまり女性用下着だ。
若い男が一人でこんな店に入るなんて、はやり珍しいのか入った瞬間から好奇の視線の的になっていた俺は入店僅か三分で心が折れそうになった。
別に気が狂ったわけでも性欲を持て余したわけでも何でもない。今日俺がこの店を訪れたのはエトの下着を買う為だった。エトを保護した時、彼女はほとんど何も持っていなかった。服代わりにしていた布は血を吸い込んでとても着れた物じゃないし、それ以外では下着すら持っていなかった。とりあえず、彼女には俺のジャージを着て貰っているが、あの格好ではとても外出できたものではない。しかし、服や下着を買いに行こうにもそこまで行く服がないと来ている。なのでとりあえずは俺が一人で買いに来たという訳だ。
――で、どれを買えばいいんだ? これ。
一人で買いに来たのはいいのだが、女性の下着のことなんてさっぱりと俺は分からない。ショーツがどうとか、色がどうとか、その辺りはさっぱりだ。彼女どころか学校に行っていない俺には女友達すらいない。それに加えて、一番相談できそうな妹も今ではいないときた。意を決して店には入ってみたもののハードモードだった。
――こりゃ、エトにどんなものがいいのか聞いておけばよかった。
セクハラになるといけないため聞かずにきたのだが、それは失敗だったと反省する。下着ショップを俺は舐めていた。まさかここまで右も左も分からないとは思ってなかった。
――まぁ、とりあえず無難な色のやつを二枚ずつくらい買っておくか。
とりあえず、買っておいて、もしも気に入らなかったのなら後日自分で買いに行ってもらおう。服に関していえばマネキン買いをするつもりだ。こちらも、気に入らなければ自分の好みの服を買いに行ってもらうつもりだ。服やらファッションやらに興味のない俺に服のセンスがあるとはサッパリ思えんため、とりあえず無難所に抑えておいて後日に好きにやって貰おう。
――とりあえず、ショーツはいいとして、問題はブラジャーか。ブラジャーってあのくらいの歳の子でもいるのかな?
恐らくエトの年は見た目からして十から十二歳くらい。そんな少女にブラジャーがいるのかどうかなんて俺にはさっぱり分からない。どうするべきかと悩んでいた時だった。ふと、声を掛けられた。
「あの、何かお困りですか?」
急に掛けられた声に少しだけ驚きつつも、そちらを向けば、若い女性の店員がいた。店内に男一人でいた俺を不審に思ったのかそれとも困っている客を助けようとしているのかそれは分からないが、声を掛けてくれたことは助かった。しかし、客観的に見て見れば今の俺は女性用の下着専門店で右往左往している男だということを思い出し、恐らく前者だろうと気付いた。
まぁ、でも店員さんがどういう理由で声を掛けてくれたかは置いておいて、結局この声掛けが俺にとって蜘蛛の糸だと言うことには変わりない。
「あの実は下着が欲しくて……」
「誰かにプレゼントですか?」
「まぁ、そんな感じですかね」
「彼女さんとかでしょうか?」
「あぁー……」
ここで少し言葉に詰まった。エトと俺の関係は果たしてなんといったものだろうか……。端的に素直にいうと、昨日拾ってきた女の子となるのだが、それではただの犯罪者だ。間違いなく警察にしょっ引かれる自身がある。なので、誤魔化す必要があるのだが、この場合どうしたものか。彼女というにはエトは幼すぎる。
「――妹です」
結局口から出た答えはそれだった。
「い、妹さんですか……」
そう言った店員さんの笑顔は少しばかり引きつっていた。
――あっ、これは失敗した。
店員の人からして見れば今の俺は、妹に下着をプレゼントしようとしている兄貴になる。そりゃそんな何とも言えない難しい顔になるはずだ。
しかし、もう後には引けない。ここまで来たら押すのみだ。そして、もうこの店には来なければいい。
「えぇ、まぁそんなところです」
結局買い物は店員さんの助言があったこともありスムーズに終わった。ちなみにこれは余談になるが、会計時にレジの金額を見て笑いが出そうになった。なんで、あんなヒラヒラのちっこい布を四五買っただけで、俺の一か月の食費以上の金額になるんだよ……。思わず二度見てしまった俺は何も悪くはないだろう。
「ただいま」
買い物を終え、家に帰る。
「…………」
部屋に入ると部屋の隅でエトがちょこんと座っていた。その目にはまだ警戒の色が見える。昨日の話し合いでエトとの距離を大分縮めることに成功したのだが、それでもまだ壁は高いようだ。
「ただいま、エト。とりあえず、服と下着を買ってきたから後で着て見てくれ。適当に俺のセンスで買ってきたから気に入らなかったら自分で好きな物を買ってきてくれていいから」
何やかんや下着や普段着以外にもパジャマやら布団やら色々と買ってきたため、意外と大荷物になってしまった。両手いっぱいに色々と抱えながらリビングに入るとそこには部屋の隅にちょこんと座っているエトがいた。警戒はどうやらまだまだしているようだが、殺意を飛ばしてくることは少なくなった。
「うん、ありがとう」
「どういたしまして……それよりも本読んでいるのか?」
座っているエトの手には本が一冊握られてあった。
「……うん、暇だったから」
「そうか、そうか。それで何を読んでいるんだ?」
「――ん」
短くそう言われて差し出された本。すこしばかり古ぼけた表紙は俺の本棚にあった一冊だった。
「不思議の国のアリスか……」
不思議の国のアリス。この本の題名を知らない人はいないといっていいほど世界中で愛されてきた本だ。ルイス・キャロルの傑作であり、内容は……それは最早語る必要もないだろう。
「……ぅん」
「字、読めたのな」
この少女が人間の学校に通っていたのか、それとも喰種の学校というものがあるのか、詳しいことは俺は知らないが、てっきり学校というものには行っていないとばかり思っていたため少しばかり驚いた。
「……ぅん、昔少しだけ教えて貰ったから簡単な……やつなら読める」
「そうか」
「でも、この本の中で読めない言葉もあった」
「ん? どの文字だ?」
「ぅん……例えばこれとか」
エトはその細い指で初めの方の一行を差した。
「それは『好奇心の赴くまま』って読むんだよ」
「こーきしんのおもむくまま……」
「こーきしんじゃなく、好奇心」
「こうきしん……」
「そうそう!」
「どういう意味?」
エトは首を傾げて俺を見た。
「好奇心は知らないものに対して知りたいとか、もっと見てみたいとか興味をいだく気持ち」
「じゃあ、おもむくまま……は?」
「赴くままっていうのは、気持ちを抑えきれずに気持ちのままに行動するということだよ」
――うんうん。
彼女はそう頷くと視線を本に戻した。
「じゃあ、こうきしんのおもむくままにって知らないものをもっと知りたいと思う気持ちを抑えきれずに行動しちゃうってこと……?」
――思ったよりもエトは聡明なのかもしれない。
彼女は俺が言ったことをどうやら完璧に理解したようだった。年端のいかない子供だというのに頭の回転はそうとうの物なようだ。
「そうそう、その通り……」
彼女の頭をポンポンと撫でる。
「むぅ……触らないで」
パンと手を弾かれる。
「悪い悪い。つい妹が出来たみたいでな」
うかつだったと頭を下げれば、エトはふんと鼻を鳴らした後、
「じゃあ、これは何て読むの?」
本を持ちながら聞いてくるのだった。
「あぁ、それは『じゅうたん』って読むんだよ」
「――じゃあ、これは?」
「それは――――」
こうして俺とエトのある日の昼下がりは過ぎていった。
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第四話
「暑いなぁ……」
額にうっすらと掻いた汗をハンカチで拭いながら愚痴を一つ零す。空を見上げば遥か高い位置に燦燦と照り輝く太陽が辺りを煌々と照らしていた。空は雲一つない青一色。バケツ一杯の水に青色の絵の具をこれでもかと溶かした後、巨大な真っ白のキャンパスにぶちまけた様な清々しい空模様が頭上を覆っていた。本日は晴天なり。
ゴールデンウイークも最終日、昨日までは雨か曇りでその姿を見せなかった太陽さんは最終日にこれ幸いと有り余る元気を発散させているようであり、気温の方も最高気温最低気温ともに二度以上は高い。俺として曇り位で過ごしやすい日を望んでいたのだが、その願いは辛くももかなわなかったようだ。まぁ、連休最終日位晴れた方が気持ちもすっきりするし、これはこれで良かったのかもしれない。
自炊用に買った食材の入ったビニール袋を手に提げたまま大きく一つ伸びをする。ミシミシと上半身の筋肉が伸びる感覚がする。ビニールの中に入っていたコーヒー缶同士がぶつかり綺麗な音色がなった。
――よしっ、今日も頑張りますかね。
そう気持ちを切り替えると一歩足を踏み出した。
「おかえりなさい」
木製の古ぼけた扉を開けると中から小さな声がした。もはや聞き慣れた大人しい声はあの出会いに相応しい春のあの日に、物語の始まりには相応しくないあの裏路地で出会った愛支のものだ。
「ただいま」
そう返事を返して靴を脱ぎ、食材を適当に今にも天寿を全うしそうな冷蔵庫に直す。そして、その足で居間に入れば部屋の片隅で小さく座りながら本を読んでる愛支がいた。ちなみにこの居間は今では俺の寝室兼自室も兼ねてある。前の寝室は今では愛支の部屋になっており、愛支本人の私物が数点運び込まれていた。まぁ、物欲のない愛支のため本当に暮らしていける最低限度のものしか置かれてなく、酷く殺風景な部屋になっているが……。
「ん? なんだ、また掃除してくれたのか?」
買い物に行く前に比べて整っている部屋に気付き確認がてらに聞いてみると愛支は言葉を返すことはせず、ただ首を縦に振って肯定した。
愛支と出会ってから、約一か月がたった。人間と喰種という謎の共同生活は今のところ思いのほか上手くいっていた。初めの方はすぐに食べられて親父やお袋と同じ末路を辿るのではないかと少しばかりは思っていたが不思議なことに俺の心臓は未だに元気に動いているし、首の傷も治り包帯も取れた。なんなら愛支に出会う前より健康状態はいいまでもある。
色々と派手にやらしてくれたクソジジイのお陰で親父とお袋が亡くなって以来、友達どころか学校にすら行っていない俺にとって他人と関わる機会なんてバイトの時にしかなかった。そのバイトですら人と話す機会は最低限度。そんな孤独な俺にとって誰かと暮らすという行為は数年ぶりの事で中々に新鮮味があった。どうやら俺は一人暮らしの中で自分では知らないうちに孤独を感じていたらしい。
――あの日の選択が本当に良かったのか……?
その疑問の答えは未だに出ない。出ないのだが、一つだけ分かったことがある。
――ヒトは中身が重要だ。その中の物をじっと見つめて判断しろ。ヒトとして正しいことを。
親父のあの言葉は正しかったと。
素直に思うのが愛支は確かに喰種だが、非常にいい子だということだ。出会って数日は警戒されていたのか話しかけてない限り絶対にこちらと会話をしようとしてくれなかったし目も合わせてくれなかったが、その警戒も徐々に解けていき、今では俺が出かける時には「いってらっしゃい」と、そして返って来た時には「おかえりなさい」と、そんな言葉を掛けてくれるようになった。一人暮らしを始めて以降「ただいま」や「おかえり」なんて言う機会はほとんどなかった。部屋に帰れば出迎えの言葉がある。中々に悪くない。
まだまだ口数は少なく、普段は部屋の隅で本を読んでいることが多いが、それでも時たま愛支の方から会話も振ってくれるようになったくれた。見た目からして、愛支の年齢は間違いなく俺よりも下だ。そんな俺からして見れば愛支との暮らしは妹がもう一人出来たようで純粋に楽しかった。
それに最近では、このように掃除をしてくれたりと俺の手伝いまでしてくれる。そんな愛支との暮らしを俺は今のところ気に入っていた。
「そっか、ありがとうな」
そう言ってくしゃりと愛支の頭を撫でる。少しだけ固い髪質は何だかこうして触っているだけでも癖になってしまいそうだ。
「……ん」
雑な俺の撫で方を気に入っているのか愛支は小さい口から息を吐くと目を細めてされるがままになっていた。こうして一緒に暮らしていると変化に乏しい愛支の表情からでも少しくらいは感情を読み取れるようになってくる。今の愛支はどうやらご機嫌がいいようだ。
何ならいつまでもこうしていたいのだが、髪は女の命ともいうし、ここいらで止めておく。
俺が手を離すと愛支は自らの横に置いてあったノートを取り出して開いた。何の特徴もないA4サイズのそれは俺が愛支にあげたものだ。そのノートには愛支が読んだ本の中で出てきた分からない言葉や慣用句なんかが書き殴られてある。
一緒に暮らしてきて気付いたが、彼女は非常に子供っぽい。いや、見た目通り子供は子供なんだが、そうではない。何というか……そう! 彼女は赤ん坊のようなのだ。この世界における常識がほとんどない。まるで生まれて初めて文明や社会というものを見たかのようにあらゆることに関しての知識がなかった。漢字なんて殆ど読めなかったし、俺の部屋に置いてある冷蔵庫や洗濯機なんかも初めて見たと言っていた。
――どういう環境で育ったのだろうか……?
そう考えたことがないと言えば嘘になる。でも、決して尋ねることはしない。
ルールがあってないような彼女と俺の暮らしの中で唯一絶対にしてはいけないこと――。
――相手の過去を探ること。
誰にだって知られたくない過去がある。誰にだって思い出したくないことがある。藪から出てくるのは棒だけではない。蛇が出るかもしれない、クマが出るかもしれない。いや、獣の類ならまだいいい。悪魔や化け物の可能性だってある。ならそっとしておいた方がいい。見て見ぬ振りをしていた方がいい。
踏むは大地と知るが故に割けてしまわないか心配になる。頭上を覆うのが大空と知るが故に稲妻が体を貫かぬかと焦ってしまう。他人と争わなねば一分が立たぬと浮世が催促するから火宅の苦は免れない。
よく、「知らなくていいことなんてない」、と言う奴がいるが、それはただの思い込みだ。知る権利があるのと同様に忘れる権利もある。そして何も語らない権利もあってしかりで、何も聞かない権利もないとおかしい。
「ねぇ、これってどういう意味?」
愛支はノートの中頃を開き、ある行を指さす。そこにはある物語の有名な一節が書かれてあった。
『The world is a fine place and worth the fighting for.』
「英語……?」
思いがけない文章に思わず首を傾げた。確かに我が家には英語の本もいくかある。それに愛支は本をよく読む。何もない時は一日中本に齧りついている。
これも一緒に暮らしていて気づいたことだが、愛支は滅茶苦茶頭がいい。漢字の読み方なんて一度教えれば二度は間違えないし、慣用句の意味でも同じで一回で確実に暗記する。さらに本好きな愛支だ。その知識は湧き出る湯水ように現在進行形で増えて行っている。このままいけば俺を抜くのも時間の問題だろう。
しかし、だ。いくら愛支が頭がいいとはいえ、俺は愛支に英語を教えたことはない。それに愛支自身が英語を読めるとも聞いたことがない。流石の愛支とはいえ、誰からも習わずに英語をマスターしたなんてことはないだろう。
「これ、どうしたんだ?」
気になって聞いてみれば、
「本棚に入ってたんだけど、読めない文字ばかりで……ただ、この文章だけ線が引いてあって気になったの」
愛支は抑揚の少ない声でそう言うと部屋の隅にある本棚を指さした。木製の本棚の一番下の右端。古ぼけた表紙のその本は俺の家にある本の中でも一番古い本だろう。日焼けにより、色の落ちたその本は、忘れたくても忘れられない思い出の一冊だった。
「そうか……」
「それで、どういう意味なの?」
「それは――――」
――『あっはっはっは! おい、小僧覚えておけ!――』
その本を見るたびに思い出すあのしわがれた声。錆び付いた俺の海馬映す鈍色の映像。白紙のキャンパスの前で筆を持った――の姿。
豪快に笑った後にソイツは言った。
「――――世界は素晴らしい。戦う価値がある」
「世界は素晴らしい……戦う価値がある……」
愛支は呟くように、しかし噛みしめるように口を動かした後、しばらく黙り込んだ。それは何かを考えているようで何かを理解しようとしているように感じられた。
暫くの沈黙の後、愛支は再び口を開いた。
「ねぇ、貴方はどう思う? ――世界は素晴らしい。戦う価値がある、そう思う?」
そう言って彼女は俺の目を覗き込んだ。
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第五話
愛支からあんなことを聞かれたからだろうか、ふとした時にアイツの事を思い出すことが多くなった。例えば信号の待ち時間、例えば電車の吊革につかまっている時、例えば西日に染まる帰宅途中。そんなふとした時にフラッシュバックのようにアイツのことを思い出す。
俺がアイツの事について思い出すときに、セットになって浮かんでくる言葉が幾つかある。しかし、最も印象に残っている言葉はこの言葉だ。
――世界は素晴らしい。戦う価値がある。
西日の差し込むあの部屋で、真っ白なキャンバスを前にしてアイツはそう言って笑っていた。その光景は今でも俺の脳裏に焼き付いていて、あのしわがれた声と、西日に照らされたあの笑顔は未だに忘れられない。
俺が覚えている限りではこの言葉はアイツの口癖に似たものだった。事あるごとにこの言葉を俺や妹に投げかけていた。今思い返せば口癖というよりも、口癖以上のもの、そう自らの哲学というか、生き方というか、そんな根本的な物を差していた言葉だと思う。
実際にアイツはこの言葉通りに生きた人だった。
――The world is a fine place and worth the fighting for .
今は昔かの文豪ヘミングウェイはその作中でこう書いた。アイツがヘミングウェイに精通していたのか、それともただこの一文が好きだったのかは当時の俺には興味のなかったことだし、今ではもう確かめようのないことだ。ついでに言えば今でも興味がない。しかし、彼の人生にとって、この一文は文字通り人生を変える一文となったことは間違いはない。
アイツはこの一文のために生きて、この一文に準じて死んだ。
ヘミングウェイよりも、彼の方がこの言葉を体現した生き方に違いない。ヘミングウェイは晩年、銃による自殺でこの世を去っている。『世界は素晴らしい。戦う価値がある』この言葉が正しいのなら、ヘミングウェイは何故自殺をしたのだろうか。世界が素晴らしくはなく、薄汚れたものだと気付いたからかもしれないし、戦った結果現実に負け自殺を選んだのかもしれない。どちらにせよ、救いようのない話であり、とてもではないがかの明言を体現した生き方とは言えないだろう。
しかし、アイツは違った。きっと、アイツの中では世界は素晴らしいものだったに違いなく。そして、そのため戦って死んだことに後悔なんて微塵もないはずだ。殺される瞬間でさえも彼の中では世界は素晴らしく輝いていたものに映っていたはずだ。
――『あっはっはっは! おい、小僧覚えておけ!――』
錆び付いた俺の海馬の中に残る消したくても消せない記憶。呪いのように深くそして根強く焼き付いているあの光景。
夕日によって茜色に染まったあの部屋。何も書かれていた真っ白なキャンバス。。筆を持ち椅子に座るアイツの姿。しわがれた威圧感のあるアイツの声。そして、あの言葉。
――『世界は素晴らしい。戦う価値がある』
「アンタのお陰で俺の世界は暗く冷たいよ、なぁ爺さん」
そう呟いた言葉は誰の耳にも届くことなく何処かに消えていった。
「はい、テーブル吹き終わったよ」
台所で作業をしているとトテトテした可愛らしい足音が聞こえてきた。その足音が止むと同時に服の腰辺りがちょんちょんと摘ままれ、俺の背中に声がかかった。声は小さい。しかし、その声に敵意や怒りがにじみ出ていることはない。
「あいよ。もう少しで出来るから待ってろ」
振り向きざまに返事を返す。振り向いた先には俺の服を右手で摘まんだ小さな同居人の姿。俺の春物のセーターにこれまたおさがりのジャージを履いた愛支の姿があった。愛支はまだまだ子供だし、そのうえ小柄な体系だ。それに比べて俺の方はというと嬉しいことに日本人男子の平均身長よりも8cm近く高い。いくらおさがりだと言っても俺の服が彼女に合うはずが微塵もなく、セーターはどれだけ伸ばしても腕が袖から出ることはなく、ジャージも三回は裾を折らないと引きずってしまう有様だった。
確かに俺は貧乏だ。しかし、貧乏は貧乏なりに愛支の服も安物ながらキチンと数着は買ってある。しかし、愛支は何故かは分からないが家にいる時は基本的に俺のおさがりやら俺の服を着て過ごすことが多かった。別に俺自身は愛支が俺の服を着ることについて何も思わないのだが、愛支自身動きにくくないだろうかとたまに思う訳だ。聞いてみても「これでいい」と言われるだけなので、いいのだろうが、気になるのは気になる。今のところ愛支の為に買った女性ものの服は専ら外出するとき専用の服になっている。
服に着られると言う言葉ではまだ足りない有様の愛支は左に持っていた台拭きを俺に差し出す。
――ありがとう。
そう言って受け取れば、愛支は急に嬉しそうに笑顔を作りそのまま、「待ってるね」と言って居間に引っ込んでいった。
――何が嬉しいんだろうか、愛支は……。
ここ数年まともに人付きあいというものをしてこなかった俺には彼女の気持ちは分からない。しかし、彼女が笑顔を見せてくれることがいい傾向だと言うことくらいは分かる。あれだけ俺に憎しみの感情を見せていた彼女が今では時折笑顔を見せてくれている。それはきっといい傾向に違いなく俺にはそれがたまらなく嬉しかった。
――子供が出来たらこんな感じなんだろうか……?
ふと、そんなことを思いながら、愛支から受けった台拭きを流しで洗っているとコンロに掛けていたヤカンから沸騰の合図聞こえてきた。馴れた手つきでガスを止め、食器棚からマグカップを取り出す。色は赤と青。かれこれ一か月近く前に買った、色違いの御揃いのマグカップだ。
そのカップの中にオリジナルブレンドコーヒーを一匙入れる。まぁ、オリジナルと言っても市販のインスタントコーヒー豆を合わせて作ったなんちゃってオリジナルブレンドだ。しかし、俺と彼女の二人で試行錯誤の上に出来た思い出のコーヒーだったりする。味の方もいける味なので、是非とも暇があれば試して欲しい。
マグカップにお湯を注ぎマドラーで一混ぜ。クルクルと回るブラックホールの様な水面を見ながらカップを居間へと運ぶ。運ぶ途中に時計を見れば、安物の掛け時計は九時を少し回る時間を指していた。いつも通りの時間だ。
「あいよ、愛支。コーヒーだ」
居間の中心にあるちゃぶ台。入り口の対面に腰を下ろしている愛支。彼女の前にはまだ新しいノートが一冊と、本が一冊置いてあった。愛支にマグカップを差し出す。赤いそれは愛支のマイカップだ。
「ありがとう」
愛支は小さいながらも確かにそう言ってマグカップを受け取った。
「どういたしまして」
返事を返しながら俺も腰を下ろす。愛支の真後ろにある窓からは綺麗な青空が見えた。どうやら今日も天気は良いようだ。
そのままマグカップを口に運び一口。
――あぁ、やっぱりこの時間に飲むコーヒーが一番うまい。
平日の午前九時に飲むコーヒーは普段飲むコーヒーとはどこか違い少しだけ優雅な気分にさせてくれる。
俺がバイトに向かうのは毎日同じ午前十時。朝食後、九時から十時までの約一時間の珈琲タイムがここ最近の俺たちの日課だった。愛支が本を読んでいくうちに分からなかったことを聞く、二人だけの勉強会。この時間はそんな時間だった。
「うん、美味しい」
正面に座る愛支はマグカップを両手に持ちそう言ったほほ笑んだ。
あの裏路地の出会い。あれから月は変わり五月も中旬になった。桜の花びらはとっくに散り、葉桜がもうすぐ見ごろになる頃合になる。
今も昔も自分の事が賢いと思い上がったことなんて一度たりともなかったが、ここまで世界というものは俺の知らないことばかりだと実感したことはこれまでになかった。知識として、デルポイのアポロン神殿に記された「汝自身を知れ」という言葉を知ってはいたものの、この言葉の本当の意味を今までは実感することが無かったのだ。
しかし、不思議な縁であの裏路地で愛支と出会い、共に暮らし始めた結果日々新しいことの発見であり、新しいことを体験する毎日が始まった。その暮らしの中で自分の無知と愚かさを始めて思い知らされた。愛支と暮らし始めて一か月と半分。たった一か月と半分で俺の人生は大きく変わった。
「そりゃ、よかった。で、今日はどんな本を読むつもりなんだ?」
俺は知らなかった――
「今日は、これを」
――喰種がコーヒーを飲めるということを。
「鏡の国のアリスか」
俺は知らなかった――
「うん、この間ようやく不思議の国のアリスを読み終わったから」
――喰種の中にも彼女のような存在がいるということを。
「へぇ、一人で全部読めるようになったんだな。凄いな」
俺は知らなかった――
「えへへ、ありがとう」
――喰種が人間のように考え、感情を持っているということを。
「それで、次は続編というわけだな」
俺は知らなかった。
「うん、今度は前よりも早く読み終われそう」
――喰種が化け物ではないということを。
「おぉ、やる気だな。頑張れよ、分からないことがあれば何時でも聞いてくれていいからな」
俺は知らなかった。
「うん、頑張るっ!」
――愛支(グール)との暮らしがこんに楽しいということを。
なぁ、親父、爺さん。俺は一体どうしたらいいんだろうな……?
心の中の疑問は春の陽気に中てられどこかに消えていった。
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