カーマインアームズ (放出系能力者)
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荒野とサボテン編
1話


 

「あーやっぱハンターハンターおもしれーなー」

 

 休日。俺は家で暇つぶしに漫画を読んでいた。久しぶりにハンターハンターを読み返してみたが、さすが名作。気がつけば10巻くらい読んでしまった。貴重な休日の時間を何に使ってんだ俺は……。

 

「漫画の世界に行けたらなー」

 

 くだらないことを口走りつつ、ソファに寝転がって目を休める。昔は、よくそんな妄想に耽っていた。「俺が考えた最強の念能力」を意味もなく真剣に作ったりしたもんだ。どんな能力を作ったっけ。もう忘れてしまった。

 

 確か……俺がH×Hの世界にオリ主として転移して、念の才能は人類最高レベル、オーラの保有量も超膨大、それで特質系体質で、おまけに顔は超絶美形になってて……うわ、思い出したら恥ずかしくなってきた。完全に黒歴史だ。

 

 さて、馬鹿なこと考えてないでもっと有意義に時間を使おう。このままソファで横になっていたらそのまま寝てしまいそうだと思いつつも、漫画を一気読みした疲労感からか、いつの間にかまどろみの中へと意識が沈んでいった。

 

 * * *

 

「おふっ!?」

 

 尻に走る衝撃。まるでソファが一瞬にして消え去ったかのように、俺の体は床に落下していた。

 

 いや、ソファだけではない。天井も壁も、何もかも無くなっている。俺が尻もちをついているのは床ではなく、地面だった。俺は今、屋外にいる。周囲に人工物は一切なく、ただ荒涼とした自然の風景が広がっていた。

 

「……は?」

 

 ソファで寝ていたら、一瞬にして見知らぬ荒野に放り出された。人知を越えた現象を前に、ただ呆然とするほかない。そして異変はそれだけにとどまらなかった。

 

 体が縮んでいる。まるで子供になる薬を飲まされたコナンくんのように……というのは言い過ぎだが、明らかに体格が小さくなっていた。着ていた部屋着のジャージは、裾も袖も余ってダボダボになっている。

 

 何よりも変わったのは、髪だ。腰に届くほどの長さに伸び、その色は銀色。白髪ではなく、白銀の光沢をもった美しい髪だった。日の光を受けて輝き、触れればシルクのように指の間を流れていく。

 

「はああああああ!?」

 

 ついでに声まで変わっていた。可愛らしい女の子のような声になっている。まさかと思い、自分の胸に手を当てた。

 

 むにっ

 

 ジャージの上からでもわかる柔らかな二つのふくらみ。そして股間に手を当てる。

 

 すかっ

 

 ない。男の象徴、苦楽を共にしてきた相棒は影も形もなくなっていた。

 

「は、はは、ははは……」

 

 笑うしかなかった。何をどうすればこんなことになるのか、俺は女の子になっている。夢だと言われた方がまだ納得できる。だが、目の前に広がる光景と自分の体、その感覚は間違いなく現実のものだ。俺は頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 

 混乱する思考を整理する。さっきまで、俺は確かに自宅で余暇を満喫していた。漫画を読み、そしてその世界に行けたらなどと考えつつ……。

 

「まさか、本当に漫画の世界に転移したとか?」

 

 馬鹿げた話だが、今、俺が置かれている状況そのものが既に馬鹿げている。周囲の環境が一変したことについては、意識を失っている間に運び出された、などと強引に説明することもできるだろう。だが、体が女性になってしまったことはどう考えてもありえない。

 

 もし転移したと仮定すると、ここは原作の世界なのか。じゃあ、俺が直前に考えていたリクエストも反映されているのでは。人類最強クラスの念の才能とオーラ量を持っているとすれば……にわかに期待感がこみあげてくる。

 

 でも、それならなんで体が女の子になっているのか。俺は美形にしてほしいとしか願っていなかったが。美形……確かに性別は指定していなかった。でも、女にする必要はなくない?

 

 まあいい。いや、よくないけど、わがままばかり言っても仕方がない。女になるという明らかな非現実的体験をすることで、不思議なことにかえって気分が落ちついた。もし以前の姿のままここに来ていたら、中途半端にリアルな怪奇現象に見舞われたような気がして、もっと気が動転していたかもしれない。

 

 それともただ現実逃避しているだけなのだろうか。ここが原作と同じ世界であるという保証はどこにもない。念能力が使えれば確信が持てるのだが。

 

「ハッ!」

 

 試しに気合を入れて、かめはめ波っぽいポーズを取ってみるも、何も起きない。まあ、俺が要求したのは才能とオーラ量だけなので、修行は別に必要なのかもしれない。念は能力バトルの側面もあるが、基本的にコツコツと修行して強くなる武術である。一朝一夕に使えるものではない。

 

 とにかく、まずは情報収集をする必要がある。人に会って、話を聞こう。H×Hの世界に登場する固有名詞を色々と尋ねれば懸念がはっきりする。ここがどこなのか、それを知らなくては始まらない。

 

 もし、異世界転移していないのだとしたらそっちの方がいいに決まっている。このまま元の場所に帰れなければ家族や友達などに心配をかけてしまう。その場合も、性別が変わってしまった問題については、また別に考える必要があるが。

 

 俺は荒野を見渡す。本当に、何もない場所だ。むき出しの地面は枯れ草に覆われ、乾燥してひび割れている。ぽつぽつと、歪な形をした細い木が物悲しく生えていた。日差しは強く、立っているだけで汗が出る。

 

 これは異世界がどうとか考えている場合ではないかもしれない。近くに町などがなければ命の危機だ。水、食料、野生動物、考えられる問題は山ほどある。ここでいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。行動を起こそう。

 

 * * *

 

「はぁ……はぁ……」

 

 どれくらい歩いただろうか。すっかり息が上がっていた。男だったときの体と比べて、体力は大きく落ちている。見た目通りのひ弱な少女の体でしかなかった。

 

 歩き始めた最初の頃は、まだ気持ちに余裕があった。原作の登場人物に会ったらどういう話をしようとか、どんな“発”を作ろうかとか、色んな想像をしては心を躍らせた。

 

 それも最初のうちだけだ。強烈な太陽光が容赦なく体力を蒸発させていく。ジャージの上は脱ぎ、肌着姿となっている。女性らしく変貌した胸部への関心も早々に尽き果て、歩くことのみに集中する。一点のくすみもない白い肌を直射日光のもとにさらすことについて、もはや躊躇する余裕はなかった。

 

 ジャージの下はさすがに脱ぐわけにはいかない。これは羞恥心の問題ではなく、靴がないからだ。体が全体的に縮んだことで余った裾を、引きずるようにして靴代わりにしている。当然、歩きにくい。ウエストもだいぶ細くなったため、パンツのゴムが緩み、ずり落ちそうになる。余計に歩きにくい。

 

 たびたび、思い出したように突風が吹き荒れた。叩きつけるような砂混じりの強風を前に、視界は閉ざされ、立っていることすらままならない。突風が過ぎ去るまでうずくまって耐えるしかなかった。

 

 どんなに才能に長けていようと、人よりオーラを持っていようと、この自然を相手に役に立つものではない。この調子が数日も続けば冗談ではなく死んでしまう。いや、今日一日もつのかも危うい。飢えはともかく、喉の渇きは限界に近かった。

 

 次第に日が落ちてきた。これから夜になれば気温が下がる。こういった乾燥した気候では、昼と夜の寒暖差が顕著だ。そこに風が加われば、体感温度は急激に低下する。夜になるまでに、なんとか風だけでもしのげる場所を見つけなれば。

 

 そんな俺の焦りをあざ笑うかのように、どれだけ歩こうと荒野の風景は何一つ変わらない。遥かかなたに山のようなものがあり、辛うじて方向感覚だけは失わずに済んでいるが、何の救いにもなりはしない。

 

 何度も地平線の先を見まわした。道路はないか、建造物はないか。あれはもしやと思って近づいた先にあったのはただの木だったり、岩だったり。砂漠で遭難したときは蜃気楼の先にオアシスの幻影を見ると言うが、それは比喩でも誇張でもなかった。追い詰められて幻想に逃げているのではない。生きるためには見間違いだろうがなんだろうが、確かめに行かなくてはならないのだ。

 

 漫画の世界に行きたいなんて願うんじゃなかった。才能もオーラもいらないから食料と水がほしい。もう一度転移をやり直してくれと神様に祈り始めたそのとき、地平線の向こうに何かが見えた。

 

 最初は何なのかわからなかった。赤い点が見えた。近づいていくと、その赤い何かはどんどん大きくなっていく。見間違いではない。確かにそこにある。

 

 人工物!

 

 失われかけていた気力が戻ってくる。歩調が早まった。助かったという安堵感が、どっと押し寄せてくる。

 

 だが、近づくにつれて疑問が膨れていった。その『赤い物』の正体が全くわからない。荒野のただなかに、鮮やかな赤い物体が密集している場所がある。遠目から見てもかなりの規模だ。最初は建物かと思った。現に『赤い物』はそれくらいの大きさがあり、複数が軒を連ねるように立っている。

 

 町では、ない。いや、まだ人がいないと決まったわけではない。明らかにそこだけ異質なのだ。誰かいるかもしれない。一縷の望みに賭けて、『赤い物』の密集地帯へと歩を進めた。

 

「なんだ、これ」

 

 かすれた声が漏れる。たどり着いた先にあったのは、形容しがたい何かだった。

 

 『赤い物』は鉱物でできているように見えた。その形は針のないサボテンに近い。丸みを帯び、中心から放射状の切れ込みが伸びた巨大な突起物。そんな多肉植物の群れが地面から生えているのだ。

 

 大きさは大小様々、小指くらいのもあれば見上げるほどの物もある。そのどれもがルビーのように透き通った美しい赤色をしていた。夕日に照らされて、茜色を反射した石は眩しいほどに輝いている。まさに宝石で作られた彫像だ。その光景は神秘的であると同時に、どこか言い知れない恐怖感をあおる。生物の臓物の中を覗き込んだようなグロテスクさを感じた。

 

 見た目の質感は、研磨された石のように滑らかで硬い。生き物であるようには思えない。だが、これが生物でなければ、いかなる理由でこの形を取り、ここに存在しているのか。誰か物好きな彫刻家が、芸術作品としてこの場所に自分の作品を飾っているとでも言うのか。

 

 詳細はわからない。ただ、誰か人がいるのかどうか、確認する必要がある。

 

 本当ならこんな明らかに異常な場所に近づくだけでも危ないのかもしれない。H×Hの世界は人間を容易く捕食する危険生物が多く登場する。できることなら中に踏み込みたくはない。しかし、ならばここを無視して荒野を歩き続けたいかと言われれば即座に否定する。

 

 はっきり言って、これ以上歩き続けたところで人間の居住地が見つかるとは思えなかった。この赤い集合物の付近を調べても、地平線の先まで何もない。もしかしたらその先に町があるかもしれないという希望を抱けるような段階はとっくに通り越している。まだ体は動くが、「もう動かない」状態になってからでは遅い。それまでに人を見つけられなければ死ぬ。あるいは、この赤い物が生物だと仮定すれば、ここには水があるのかもしれない。食べられる物があるやもしれない。

 

 赤い森に、足を踏み入れた。慎重に、警戒しながら先へ進んでいく。森の中にも『赤い物』はところ狭しと生えていたが、人一人が通るくらいの隙間はあった。隙間を通り抜ける風が、うめき声のような音を立てていた。

 

 入ったばかりだが、もうここにはいたくない。気味が悪くて仕方がない。それでも吹きっさらしの荒野で一夜を明かすよりはマシだ。まだ夕方だが、既に肌寒くなってきている。体力も限界だった。ここに残るか、去るか、葛藤する。

 

 「わっ……!?」

 

 疲れによって朦朧としていたのか、足元の石につまずいて転びそうになった。さっきまでこんなところに石なんかあっただろうか。ふと疑問に思っていると、その石がもぞもぞと動き始めた。

 

 キチ、キチ、キチ

 

 いや、これは石ではない。それは虫だった。昆虫のような形をしているが、その外骨格は装甲のように大きく鈍重で、ずんぐりとしている。サイズもデカい。20センチくらいはある。石と見間違えたのは、その外骨格が周囲の『赤い物』と全く同じ質感だったからだ。

 

 巨大な昆虫は、顎を鳴らしながらこちらに近づいてきた。避けて距離を取ったが、なおもこちらを目指して近寄ってくる。動きはかなり遅いので逃げるのは簡単だったが、明らかに俺を狙っているとわかる動きが怖かった。

 

「なんなんだよもう……!」

 

 こんなものがうろついている場所で休めるほど神経は図太くない。夜になれば視界も悪くなる。寝ているときにあれが忍び寄ってくるところを想像してゾッとした。

 

 一応、この荒野で初めて見た動物である。食料の問題が切迫している今、サバイバルを心がけるならアレを捕まえて食べるくらいの気概がなくてはならないのかもしれないが……無理だ。心理的抵抗感を抜きにしても、毒や細菌感染、寄生虫などのリスクを冒してまで食べたいとは思わない。今のところは……。

 

 赤い森から出ることにした。生き物が生息しているということは、この無機質な鉱石の森には何らかの生態系がある。おそらく、このサボテンらしきオブジェも生きているのだろう。どんな危険生物が潜んでいるのかわからない。

 

 ボトッ

 

 道を引き返して歩いていた俺の背後で、何かが落下する音が鳴った。すぐに振り返る。しかし、そのときには既に取り返しのつかない状態だった。

 

「いっ!?」

 

 赤い宝石のような塊。さっき見た虫が俺の足に取り付いていた。他にも二、三匹の同じ見た目をした虫が上から落ちて来る。歩いてでも逃げられるくらい動きが遅い虫だったから、また出くわしてもすぐに逃げられるとたかをくくっていた。自分では冷静に対応できていると思っているつもりでも、疲労からくる注意散漫、視野狭窄は自覚している以上に深刻だった。しかし、今更後悔しても遅すぎる。

 

「うわあああああ!」

 

 半狂乱になって振り払う。虫は想像以上に重かった。ジャージの裾にしがみついて離れない。足首に痛みが走った。噛みつかれている。

 

 しかし、無我夢中で振り払おうとしたのが功を奏したのか、隙をついてジャージごと脱ぎ捨て脱出することに成功する。パンツ一丁になったが気にしている場合ではない。

 

 とにかく走った。襲ってきた虫たちは見えなくなったが、それでも止まらない。またどこから襲撃を受けるかわからない。一刻も早くこの赤い森から逃げ出したかった。

 

 出口が見える。憎たらしいほど見慣れてしまった荒野へと戻ってくる。肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。倒れ込むように膝をつく。

 

「はあっ! はあっ……! もう嫌だ!」

 

 帰りたい。涙があふれてきた。これはきっと夢だ。そうに違いない。こんなわけのわからない場所に放り出されて、性別まで変わっているなんて、これが現実であるはずがない。

 

 もう何もかも忘れて眠ってしまいたかった。次に目が覚めたときは、きっと昨日と同じ日常が待っている。

 

 体が汚れるのも構わず、地面に横たわった。やる気と共に力まで抜けていく。頭がぼうっとしてきた。飲まず食わずで過度のストレスにさらされながら一日中歩き通せば、当然の結果なのかもしれない。

 

 手足の感覚がなくなってきた。指一本、動かせない。動かそうと思っても、わずかに筋肉が震えるだけだった。足も同様、まるで膝から下が切断されてしまったかのように感覚が失われている。

 

 ……おかしい。立ち上がれない。それどころか、体をピクリとも動かすことができない。いくら疲労がたまったからと言って、これほど急激な変調が起きるだろうか。

 

 寒さを感じなくなった。手足の末端から体の中心に向けて感覚が消失していく。まるで自分の体が自分ではなくなっていくかのように。

 

(そうか、元に戻るのか)

 

 夢が覚めようとしている。この感覚には覚えがあった。金縛りだ。

 

 金縛りは、「脳は起きているのに体が寝ている」状態のときに起きる。疲労やストレス、寝不足などが原因となり、脳の機能が乱れて発生する。脳が起きていると言っても完全に覚醒しているわけではないため、夢を見る。このとき体を動かせない圧迫感が夢に反映され、まるで現実に起きているかのようなリアルな悪夢を見るのだ。

 

 俺もこれまでに何度か体験したことがある。夢を見ているときに自分が金縛りにかかっているなんて自覚できるものかと思うかもしれないが、金縛りと明晰夢(自分が夢を見ていると自覚した状態で見る夢)には密接な関係がある。慣れれば、金縛りの最中に自分が夢を見ていると自覚することも可能なのだ。

 

 金縛りになったときの対処法は、慌てないこと。意識して体を動かせない不快感に対して、脳が認識の整合性を保とうとして悪夢をでっちあげているだけなので、平常心さえ保てれば悪夢にはならない。落ちついて待っていればすぐに目が覚める。

 

 今回は不覚にも夢の中にいると見破れなかったが、今、はっきりと自覚できた。俺は失われていく体の感覚に合わせて、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キチ、キチ、キチ

 

 

 

 

 

 

 落ちつけ。ゆっくりと深呼吸をしろ。これは夢だ。

 

 

 

 

 キチ、キチ、キチ

 キチ、キチ、キチ

 

 

 

 

 次に目を開いたとき、俺は自宅のソファの上にいる。

 

 

 

 

 キチ、キチ、キチ

 キチ、キチ、キチ

 キチ、キチ、キチ

 

 

 

 

 3、2、1で目を開く。それですべてが元通りだ。

 

 3

 2

 1

 

 

 

「あ、お……」

 

 虫がいる。動かない首の代わりに、眼球だけがめまぐるしく動いた。俺を取り囲むように何十匹もの赤い虫が集まっている。体の上にも乗っている。乗られている感覚はない。何も感じない。

 

「ぅ。か」

 

 声が出ない。金縛りの最中にはよくあることだ。自分では必死で叫んでいるつもりなのに、うめき声しか出せない。よくあることだ。

 

 虫たちが俺の服に噛みついた。視界が動く。引きずられている。寄ってたかってエサを巣へと運ぶアリのように、俺の体を引きずって移動させている。

 

「  」

 

 叫ぶ。ひゅうひゅうと、空気が喉を通る音しかしない。それでも叫ぶ。この夢が覚めるまで、叫び続ける。

 

 赤い森が、俺の入場を待ち受けていた。その入り口で、おびただしい数の虫たちが歓迎していた。赤い粒が、腸壁を覆う絨毛のようにうごめいている。

 

 そう、これは夢だ。

 

 * * *

 

 暗黒大陸。そこは存在自体が災害の域に達した危険生物たちの蔓延る人外魔境。人類は、この大陸に囲まれた孤島の中で繁栄を築いているにすぎない。

 

 そんな未開の地の、まだ名前もつけられていないとある荒野に、まるで宝石のように輝く森がある。

 

 その森は非常に珍しい植物によって構成されていた。体内で特殊な鉱物を生成することができるその植物は、極めて頑丈である。また、強力な毒性を持ち、およそこれを食べることができる生物はいない。

 

 だが、この森にはその例外が存在した。鉱石植物を捕食する昆虫、その名をキメラ=アントという。

 

 別名グルメアントと呼ばれるこの蟻は、摂食交配という他に例を見ない繁殖体系を持つ。女王アリが産卵し、エサの調達や造巣を行う兵隊アリを生み出す社会性昆虫である点は変わらない。しかし、女王アリは他の生物を食べることで、その種の特徴を次世代のアリへと受け継がせる能力を持つ。

 

 女王アリはこの能力によって、より強い特徴を持ち合わせた子孫を作るため、より強い生物を好んで捕食する傾向がある。しかも、グルメアントと呼ばれるだけあり、その嗜好性は非常に偏執的で、好餌として認識した種を徹底的に狩り尽くし、絶滅に追い込むほど貪欲に捕食する。

 

 この名もなき荒野に生息域を拡げてきたキメラアントは、いかなる気まぐれか、あるとき鉱石植物を餌と認識した。食料として甚だ不向きであり、そればかりか強力な毒を持つこの植物を食べた女王アリはすぐに死んだ。

 

 キメラアントの群れでは女王アリが死亡すると、群れを存続する緊急措置として兵アリの中から生殖機能を備えた王アリへ変異する者が現れる。その王アリも鉱石植物を食べて死んだ。さらに新たに生まれた王アリも同じ行動の末に死んだ。

 

 次々に死んでいくキメラアントたち。それでも食べる物を変えることはなかった。もはや狂気の域に達した偏執的食性の果てに、ついに一匹のアリが毒への耐性を獲得する。鉱石植物の特徴を受け継いだキメラアントが誕生した。

 

 それらは赤い森の中で数を増やしていく。王アリは他種族の雌と交配し、女王アリを作らせる。その女王アリは大量の兵アリを産み、群れの数が揃うと次の王アリを産む。こうして赤い森にキメラアントの楽園が築かれた。

 

 しかし、キメラアントの増殖はある程度のところで頭打ちとなった。この荒野には、彼らの交配に適した虫類がいなかったのだ。素早い小動物の雌を捕えることも難しく、新たな群れを作ることができずにいた。

 

 だがあるとき、赤い森に人間の少女が迷い込んできた。これにより王アリは、本来の役目を果たすことができた。

 

 麻痺毒で体の自由を奪われた少女は、巣へと連れ込まれ、王アリと交配した。女王アリを腹の中に身ごもった少女は、三日後に出産を迎える。王アリの側近の兵アリたちが少女の腹を食い破り、健康な女王アリを無事に取り出した。

 

 



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2話

 

 薄暗い部屋の中、規則正しくカプセルが並ぶ。数十、数百の球体が、床と壁を埋め尽くす。

 

 淡く光を放つカプセルたちの中に、一つだけ異質な不良品が混ざっていた。壊れている。ひび割れた球体の中を覗き込むと、そこには銀髪の少女がいた。

 

 

 * * *

 

 

 私は生まれた。蟻として、一つの巣の中枢となる女王アリとして生を受けた。これからたくさんの兵アリの卵を産み、新たな群れを作り上げていく。それが私に課せられた、種としての当然の在り方。疑う余地なく、本能のままに理由付け、行動付けられている。

 

 だから、こうして自分が『蟻』であることを自覚している私は、とても蟻らしくない蟻なのだと思う。生まれた直後、私が最初に思ったことは、自分が何者なのかという問いだった。

 

 自分の中に異質な記憶があった。生まれたばかりの自分が知りうるはずもない大量の知識があり、そして人格が形成されている。それは“人間”の記憶だった。

 

 なぜ、私は人間の記憶を持っているのか。その疑問は一つの答えにたどり着く。

 

 頭の中に残された情報の中でも、ひと際鮮明に焼きつく記憶があった。『HUNTER×HUNTER』という漫画だ。主人公である少年と、その仲間たちの冒険の物語。これはとても重要な記憶であるらしい。特に思い出そうとしているわけでもないのに、勝手に意識上に浮かび上がってくる。

 

 その中に興味深い記述があった。キメラ=アントという蟻の話だ。その生態が自分たちと酷似している。偶然の一致とは思えなかった。現実にあった出来事を元に作られた物語なのかもしれない。

 

 作中に登場したキメラアントは、私たちとは異なる発展を遂げていた。彼らは人間を食べ、人間に近い外見と能力を手に入れている。食べた人間の記憶すら受け継ぐ者も中にはいた。

 

 私が持っている記憶も、これと同じ原理で受け継がれたものではないかと思った。私の父である王アリが、この記憶の持ち主であった人間と交配したのだろうか。摂食交配によらなくても記憶の継承はできるのだろうか。作中に登場した亜人型と呼ばれる女王アリも、どのようにして発生したかは明かされておらず、詳しいことはわからない。

 

 ただ、私は完全な『亜人型』になったわけではないようだ。体の形と大きさは他のアリたちと大差ない。受け継がれたのは記憶だけであった。

 

 他のアリたちは、私が人間の記憶を持っていることを知らない。いや、そういう認識すらできていない。私だけが異常なのだ。

 

 生まれて間もない私の世話をしてくれるのは、王アリの直属護衛軍と呼ばれる兵アリの一部である。数は10匹くらい。王アリは普段、巣にはいない。巣に残した兵以外の直属護衛軍を引き連れて、次の交配相手を探すために巣の外に出て行く。たまに帰ってくるが、私のところには来ない。

 

 兵アリは、私たちの主食である赤い石を食べやすいように細かく噛み砕いて持ってきてくれる。水も口うつしで与えてくれる。私は何もせず、座っているだけでいい。

 

 キメラアントは電波によって意思疎通ができるという。試しにやってみたが、誰も反応してくれなかった。王アリと直属護衛軍は、電波交信ができないようだ。これもキメラアントの特徴として作中に記されており、記憶にあった通りである。

 

 巣の外へ出て繁殖することが目的である王アリとその護衛軍は本来、巣に定住することを前提としていない。生後間もない私のために最低限の大きさの仮巣を作り、世話を焼いてくれているが、それも一時のこと。私が産卵を始めて造兵期に入れば、彼らは巣から離れていく。余計な意思疎通をする必要はないということだろう。

 

 私は一日中、寝床の上から動かない。動物の体毛を集めて作られた柔らかいベッドだ。この銀糸を敷き詰めたような美しい寝床は私のお気に入りだ。この上にいると心が落ちつく。

 

 『HUNTER×HUNTER』という物語の中で、登場する人間たちは“念能力”と呼ばれる特殊な力を使っていた。これは人間が持つ特有の能力らしいが、人間を食べてその特徴を受け継いだ亜人型キメラアントも念能力を使えるようになっている。

 

 私も、もしかしたら使えるのではないか。体は蟻だが明確な人格がある。可能性はゼロではない、と思いたい。念能力が使えれば様々なことができるようになる。どうせ暇な時間は山ほどあるので、念の修行をやってみることにした。

 

 念とは、生命力の発露であるオーラを扱う技術である。誰しもこのオーラを体内に宿しているが、それを意図的に操ることができる者はごくわずかだ。このオーラを自覚するためには、まず精孔というオーラの通り道を開く必要がある。

 

 最も簡単に早く精孔を開く方法として、念能力者からオーラによる攻撃を受けるやり方がある。他者のオーラがぶつかることで強引に自身の精孔も開き、念に目覚めるのだ。しかし、この方法はかなり危険であるらしい。

 

 悪意ある念能力者から攻撃を受ければ、当然殺される可能性の方が高い。生き延びて精孔が開いたとしても、精孔を通して体外に溢れ出るオーラをとどめる技術を伴わなければ、すぐにオーラが枯渇して死んでしまう。

 

 だが私の場合、この方法は実行できないので心配する必要はない。他の念能力者なんてこの場にはいないからだ。一人でもできて、安全に念能力を習得する方法が別にある。

 

 それは瞑想だ。ゆっくりと精神を落ちつかせ、体内のオーラの感覚がつかめるまでひたすらに自己と向き合う。

 

 ただし、この方法だと念に目覚めるまでにかなりの時間がかかる。才能ある者でも半年はかかるらしい。気の長い話だ。それ以前に根本的な問題として、蟻である私の体に精孔なんてものがあるのかどうかという問題もある。

 

 しかし、最初から何もかも疑っていては始まらない。念は、それがあると一心に信じることが習得への第一歩である。予想が正しければ、私の体にも人間の血が多少なりとも流れているはずだ。絶対に覚えられないとは言い切れない。

 

 私は目を閉じ(まぶたはないので閉じられないが、閉じた気分で)、自分の心の中を探るように意識を内面へと集中させる。そうして一日の大半を瞑想に費やした。

 

 

 * * *

 

 

 またこの場所だ。同じ夢を見る。薄暗い部屋、無数のカプセル。

 

 一つだけ、壊れたカプセルの中に、人間の少女がいる。

 

 『あなたは誰?』と、私は問いかけた。

 

 彼女は私を見上げる。そこに表情はなかった。だが、その目は負の感情に染まっていた。この世の全てを否定しているかのような憎悪。

 

 彼女は無表情ではなかった。激情が表情を塗りつぶし、全てはその上に成立した虚無であった。

 

 吸い込まれるように深い色をした瞳。その視線が私を射抜く。

 

 彼女は口を開いた。私の問いに対する答えの言葉が紡がれる。

 

 しかし、私はそれを聞きとることができなかった。不自然に発生したラジオノイズが、彼女の声をかき消してしまう。

 

 まるで、自分自身が彼女の言葉を拒絶しているかのように。

 

 

 * * *

 

 

 目が覚める。夢を見ていた。瞑想を続けていると、いつの間にか眠っていて、決まって同じ内容の夢を見るようになった。

 

 夢の中で、私は銀髪の少女に会う。そして何かを話す。その内容については、すぐに忘れてしまうため思い出せない。

 

 あまり気分のいい夢ではなかった。これも瞑想による影響なのだろうか。念能力についても進展はなく、いまだにオーラというものを感じ取ることはできない。

 

 さらにここ最近、体の不調が続いている。産卵期が近づいているのだ。摂食交配によって卵を作るキメラアントの女王アリにとって、食事は生殖行為を兼ねている。食べれば食べるほど、体内で兵アリの卵が作られていく。

 

 自らの種の繁栄のために子孫を残す。生物として当たり前の行動である。私に人格が備わっておらず、ただの蟻として生を受けていたのなら、おなかの中に宿る命に愛おしさを感じ、喜んで産卵の準備に入っていたのかもしれない。

 

 だが、今の私にとって、産卵は受け入れられることではなかった。自分の腹の中に、得体のしれない数百の命がひしめきあっているのだと考えると怖気が走る。どうしても、それが自分の子だとは思えなかった。

 

 こんなことになるなら人間に近い感覚なんていらなかった。いや、これは人格の問題ではない。私はこれまで蟻としての感覚と、人間としての感覚に折り合いをつけて生きてきた。キメラアントの生活に苦を感じたことはない。

 

 “産卵”という一点だけが問題なのだ。これだけはどうしても許容できない。蟻の生態としての合理性よりも、感情的嫌悪感が優先されてしまう。なぜ自分がこんな感情に陥っているのか、自分でもわからない。

 

 次第に、物を食べなくなっていった。食事をすれば、それだけ産卵の準備が進む。そう考えると食欲がわかない。しかし、兵アリはそんな私の不調を考慮することなどなく、これまでと同じように食事を運び続けた。

 

 寝床が赤い石で埋まっていく。普段は神経質なくらい寝床の掃除を欠かさない兵アリたちだったが、その赤い石を片づけることはなかった。まるで食べろと言わんばかりに圧力をかけられているかのようだった。

 

 体力が落ちていく。体に力が入らない。それでも食事を取ろうとは思わない。私は自分の使命から逃げるように寝床の上でうずくまり、瞑想を続けた。

 

 

 * * *

 

 

 夢の中で、私はまた、あの薄暗い部屋にいた。

 

 いつもと同じように、一つだけ壊れたカプセルを覗き込む。しかし、そこに少女の姿はなかった。どこに行ったのか、急に不安に駆られた私は、部屋の中を探しまわる。しかし、どこにも彼女はいない。

 

『オカアサン』

 

 誰かの声がした。頭の中に直接語りかけて来るような電波信号。体中に震えが走った。

 

『ココダヨ、オカアサン』

 

 電波は、一つのカプセルから発せられていた。周囲にある他の球体と見た目は変わらない。だが、それは意思を持ち、私に語りかけてくる。

 

『ボクタチ、モウスグウマレルヨ』

 

 気持ちが悪い。気が狂いそうだった。耳を塞ぐ。喉が潰れるほど叫ぶ。無駄だ。声は電波に乗って、頭の中に侵入してくる。

 

『モウスグアエルヨ、マッテテネ、オカアサン』

 

 

 * * *

 

 

 夢の中も、現実も、狂気に侵食されていく。食事を絶とうとも、私の体は産卵期へと向かって変化していった。

 

 腹部が肥大化している。この中に私と異なる生命が詰め込まれている。自分の体の中にありながら、自分と異なる存在たち。母親として子を愛する気持ちは微塵も起きない。

 

 腹を引きちぎりたいとさえ思った。でも、そんなことをすれば死んでしまう。そんなに嫌ならいっそ産んでしまえばいいのではないかとも考えた。だが、その先に待っているのは女王アリとしての一生だ。

 

 一つの巣を形成するだけの、何百、何千という数の卵を産み続けなければならない。産む前の段階ですらこれだけ追い詰められているというのに、とてもではないが精神がもつとは思えなかった。

 

 この苦しみから逃れるためには、もう死ぬほかに道はない。実際、自傷行為に走ったこともあったが、この体は存外に頑丈で、壁に叩きつけようが噛みつこうが傷つくことはなかった。

 

 しかし、結局のところ私は本気で死のうとは思っていないのだろう。そう思ってすんなり命を絶てるのであれば、きっとこれほど苦悩していない。死のうと思えば思うほど、生への執着は強まった。逃げ場のない苦しさだけが蓄積していく。

 

 さすがに私の異常行動は目に余ったのか、世話係の兵アリが私を監視するようになった。精神的に追い詰められた状況であったので、彼らの行動に対して不快感を抱いていたが、彼らは彼らなりに私のことを思いやっているのかもしれない。

 

 山となるほど食料を運び続けてきたことだって、絶食する私を心配しての行動だろう。今もこうして私が自傷行為をしないよう見守ってくれている。そう思うと申し訳ない気持ちになった。

 

 誰が一番悪いのかと言われれば、弁明の余地なく自分自身だ。生まれてくる子どもたちに罪はない。それはわかっている。だが、どうしてもそれを自分の中で冷静に処理しきれないのだ。

 

 その日も私は何も食べなかった。もう何日も食事をしていない。一週間は経っただろうか。それでもまだ意識ははっきりしており、力は入らないが動くこともできる。キメラアントの生命力は強い。もうしばらくは絶食しても生きていられるだろう。

 

 だが、いつまでもこのままでいるわけにもいかない。限界はやってくる。そうなる前に、自分の中で結論を出さなければならない。女王アリとして生きて行くのか、それとも……。

 

 キチッ、キチッ

 

 不意に、物音がした。これは私たちの仲間が発する威嚇音だ。硬質な顎を噛みあわせて金属を擦り合わせたような音を出す。女王である私の部屋の近くで、ぶしつけにこんな音を発するアリはいない。何事かとそちらに目を向けた。

 

 そこにいたのは王アリだった。私の父親である。これまでに、まともに顔を合わせたことはなかった。彼は私に対してまるで興味を抱かず、世話の全ては直属護衛軍である兵アリに任せていたからだ。

 

 それがなぜ今になって現れたのか。王アリは兵アリよりも一回り体格が大きい。人間の目から見れば数センチほどの体長の違いだろうが、私たち蟻の視点から見ればその差は歴然である。威圧感は兵アリの比ではない。

 

 その父の姿を見た瞬間、壮絶な嫌悪感がこみあげてきた。目の前にいるアリを父と認めることにさえ抵抗を覚えるほどの不快感。もはや殺意に近い激情が、私の精神を支配していた。

 

 その感情の変化に、私は大いに戸惑った。以前、王アリの姿を見たときはこんな思いを感じたことはない。確かに彼は自分の子である私をずっと放置していたわけだが、それはキメラアントの生態に基づく行動である。そこに善も悪もなく、私もそれに納得している。しかし、だとすれば今の私が抱いているこの感情は何だというのか。

 

 キチッ……

 

 ほぼ無自覚に、私は威嚇音を発していた。それに反応したのか、王アリが私の方へ近づいてくる。本能的な恐怖を感じた。私は寝床から立ち上がり、逃げるように後退する。

 

 王アリは追いかけてきた。ここに至り、私の恐怖心は嫌悪感に勝る。ひたすらに怖い。何に対して恐怖しているのかもわからないまま逃げ惑う。

 

 しかし、何も食べずに体力の落ちた私と、壮健な体格を持つ王アリの追いかけっこなど、勝負の結果は目に見えていた。そもそも狭い部屋の中に逃げ場など最初からなく、あっさりと後ろから追い付かれる。

 

 王アリが私の背後からマウントを取るようにのしかかってきた。その瞬間、恐怖心に抑え込まれていた嫌悪感が再び浮上した。いや、そんな言葉では表せない。筆舌に尽くしがたい凄まじいおぞましさ。

 

『やめて! たすけて!』

 

 通じないとわかっていても、電波交信で助けを求めずにはいられなかった。私を監視していた兵アリは、この状況を見ても微動だにしない。私は無我夢中で体をよじり、のしかかってくる王アリを振りほどこうとした。

 

 自分でもどこにそんな体力が残されていたのかと驚くほどの力を発揮して王アリの拘束から逃れる。振りほどかれた王アリは、来たときと同じようにふらりとそのまま帰っていった。

 

 何がしたかったのかわからない。とにかく心も体もぐちゃぐちゃに掻き回されたように動揺し、疲れ果てた。寝床の上に戻っても震えが止まらない。なぜ王アリがここに来たのかわからない今、またいつ彼がここにやって来ないとも限らない。そう思うと、ゆっくり休む気にはならず、まんじりともできずに部屋の入り口をいつまでも見つめ続けていた。

 

 

 * * *

 

 

 それから地獄のような日々が続いた。拒食による栄養失調、しかし体は順調に産卵の準備を整えつつあった。まるで自分が生きることよりも、卵を産みだすことを優先するように、栄養が腹部へと流れていく。

 

 王アリは、あれから定期的に私の前に現れるようになった。身も心も疲れ果てた私の体に噛みつき、傷を負わせていく。意思疎通はできなくても、何となく言いたいことはわかった。早く産卵しろと言っているのだ。自分の役目を果たせと。その証拠に、まだ生かされている。

 

 その暴力に抵抗する気力は残されていなかった。されるがままだ。鎧のような赤い外骨格は、王アリから幾度となく噛みつかれ、牙の跡とひび割れが残った。いかに硬い強度を誇るこの装甲も、その主原料となる赤い石を噛み砕いてきた牙を前に耐えられるはずもない。

 

 瞑想は止めた。とてもではないが、心を落ちつけて精神を研ぎ澄ますことなんてできる状態ではない。にもかかわらず、あの夢を見るようになった。

 

 あの空間は私の内面を表している。あのカプセルたちは私のおなかの卵を暗示しているのだろう。日に日に、話しかけてくるカプセルの数は多くなっていった。その声が、本当におなかの卵が発しているものなのかはわからない。卵を産みたくないという私の罪悪感が投影された、ただの妄想なのかもしれない。

 

 だが、もはやその真偽などどうでもいい。ノイズが頭に響く。ここが夢なのか現実なのか、わからなくなりかけていた。ひっきりなしに『彼ら』の声が聞こえてくる。

 

 おなかの中で風船が膨らんでいるかのような膨張感があった。もうとっくに産卵期に入っている。いつでも産める状態なのだ。その本能を封印し、意地だけで堪えている。

 

 産みたくない。私にとってそれは最も忌むべきことだった。理由はわからないが、死に至るほどの苦痛を与えられているというのに、私は産卵できずにいる。私の中の記憶が、それを拒否している。

 

 ある日、王アリが来て私の脚を、一本もぎ取った。その次の日、さらに一本をもぎ取った。それが昨日のことである。今日も来るかもしれない。そしたら三本目の脚もなくなるだろう。明日は四本目か。全ての脚がなくなったとしても、彼は困らない。脚がなくても卵は産める。彼にとって、私はただ卵を産みだすためだけの存在なのだ。

 

 案の定、王アリはやってきた。私の脚に噛みついて振りまわす。おもちゃのように引きずりまわされた私は、脚が千切れると同時に壁に叩きつけられた。そのまま意識が暗転していく。

 

 

 * * *

 

 

『オカアサン、ドウシテウンデクレナイノ?』

『ハヤクアイタイヨ』

『ボクタチ、ナニモワルイコトシテナイノニ』

 

 もう、無理だ。怒涛のように押し寄せてくる声に押しつぶされそうになる。耐えられない。自分が自分でなくなってしまいそうだった。私は頭を抱えてうずくまる。

 

 誰かが、私の肩に手を触れた。振り返ると、そこには銀髪の少女がいた。あのとき見たままの表情で、私を見つめている。

 

 疑問だった。彼女は何者なのか。ここは私の内面を表した世界ではないのか。カプセルは卵を表している。では、彼女は何だ。なぜ、どうしてここにいる。

 

 『あなたは誰?』と、私は問いかけた。

 

 彼女が口を開く。それを邪魔するように、一斉にカプセルたちが騒ぎ始める。聞こえない。何も聞こえない……。

 

 うちひしがれる私の首を、彼女は掴んだ。そのまま顔を寄せて来る。近く、近く、触れ合うほど近く。その声はようやく私に届いた。

 

 『お前は俺だ』と、彼女は言った。

 

 その瞬間、彼女の存在は最初からいなかったかのように消失した。そして、気づく。私の体は少女と同じ姿になっていた。

 

 人間の手、人間の胸、人間の腹、人間の脚、そして人間の頭。そうだ、私は人間だった。気づいていないだけで、最初から人間だったのだ。

 

 ノイズが消えていく。電波が正常にチューニングされる。

 

 『あなたは誰?』と、私は問いかけた。

 

 『あなたは私』と、カプセルたちは一斉に答えた。

 

 だが、まだ完全ではない。わずかなノイズが残っている。

 

『ワタシハチガウ』

 

 ひと際大きな輝きを放つカプセルが、いくらかある。それらはいまだにノイズを発していた。とても不快だ。私はカプセルを殴りつけた。

 

 思ったよりも柔らかかった。ずぶりと膜の中へと拳が食い込む。弾力があり、なかなか突き破れない。殴る、蹴る。両手でつかみ、左右に引っ張る。歯で噛みつく。

 

『ワタシ、ハ、チガ、アア、ア……』

 

 ようやく破れた。ドロドロとした光り輝く液体が中から漏れ出る。そしてノイズが一つ薄れた。まだ発生源は他にもある。全て壊さなければならない。

 

『ワタシハチガウ』

 

 まだある。

 

『ワタシハチガウ』

 

 うるさい。

 

『ワタシハチガウ』

 

 だまれ。

 

『ワタシハチガウ』

 

 わたしは。

 

『ワタシハチガウ』

 

 おまえだ。

 

 そして全てのノイズが消えた。

 

 

 * * *

 

 

 目が覚める。日の光が眩しい。ここは巣の外か。関節がぎしぎしと悲鳴を上げた。立ち上がろうにもうまくいかない。もう私の脚は三本しか残されていない。

 

 外骨格はボロボロだった。傷だらけの穴だらけ。だが、まだ生きている。殺されずに済んだらしい。しかし、巣の外に放り出されたこの状況から見て、完全に見放されて追放されたものと思われる。

 

 満身創痍で動けない。だが、私の心はこれまでにないほど晴れやかだった。

 

 おなかの膨張感は消えている。産卵しなければならないという本能も感じない。私はしがらみから解放されていた。

 

 私は“私”を手に入れた。

 

 

 ―――――

 

 『精神同調(アナタハワタシ)』

 

 操作系能力。キメラアントが持つ電波通信能力をもとに、その電波に念を込めて放つことができる。この念波に触れた者の体を操作し、意識を自分と全く同じ『精神共有体』に作り変える。女王アリが無意識に作り出した『発』。

 本来なら念能力に目覚めていない女王アリがこの特殊能力を習得することはできないはずだが、彼女の母であり、特質系体質者であった少女の『死者の念』がこの能力の発現を助けた。

 

 【制約】

 ・自我が未形成である相手にしか通用しない。

 ・使用者と完全に同質のオーラを持つ者にしか通用しない。

 ・使用者が「自分である」と認めた相手にしか通用しない。

 

 【誓約】

 ・なし

 

 



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3話

 

 私にとって人生最大とも言える問題は解決した。もうおなかの中に違和感はない。卵そのものがなくなったわけではないが、私自身と同化した存在となっている。これは私の中で発現した念能力の効果によるものだ。

 

 通常、一般人が念能力に目覚めるまでにはいくつもの過程がある。まずは瞑想し、オーラを認識することで自然に精孔が開く。そのとき同時に、精孔から溢れ出るオーラを体の周りにとどめる技術を得る。これができないと開かれた精孔からオーラが流れ出続けて気を失ってしまう。これが修行の基礎中の基礎、四大行『纏』だ。

 

 この纏をしっかりと身につけた上で、よりオーラを引き出し爆発的なパワーを生み出す技術『練』を学ぶ。また、これとは逆に精孔を閉じることで気配を消す『絶』という技もある。

 

 『纏』『練』『絶』の修行を経て、オーラの扱いを心得る。その先にある念能力の集大成が『発』だ。この技は習得する人間の個性によって千差万別、つまりその人だけが持つ固有能力である。

 

 このように数々の修行の末に身につく特殊能力『発』を、私はその過程を無視して習得してしまった。普通はありえないことだが、ごくまれにこういった例外も存在する。念の修行をせず、それどころか念の存在すら知らない者が才覚だけでいきなり『発』を使えるようになるケースがあるようだ。私の場合はこれに当てはまると思われる。

 

 ただし、その場合は無意識のうちに能力を作り上げてしまうため、本人が詳細を把握しきれず、歪な効果を生み出してしまうことが多い。『発』とは本来、自分の特性に合わせた能力を自分自身、熟考した上で編み出す技だ。私も自分の『発』を正確に把握しているとは言い切れない。使用感からなんとなく効果を予想できる程度の認識だ。

 

 この能力を、私は『精神同調(アナタハワタシ)』と名付けた。おそらく『操作系』と呼ばれるカテゴリに属する能力だ。操作系は他者や物体を念で支配して操ることを得意とする。このとき何らかの『媒体』を用意することが多い。例えばコインに念を込め、そのコインを拾った者を操る、と言うように。

 

 このように誰でも無条件に操れるわけではない。媒体を用いた場合は、その媒体を除去されると効果が解除される。他にも様々な制約が課されることの多い能力だ。その反面、一度能力が発動すれば操られた者に抵抗する術はないという強力な効果を発揮する。場合によっては能力発動中もほとんどオーラを消耗せず、長期的に操り続けることが可能である。

 

 私の場合、媒体は“電波”である。キメラアントがもともと持っている電波通信能力を利用している。普通に使えば連絡用の通信電波でしかないが、これに微弱なオーラを乗せて発信できるようになった。

 

 実体のない電波であれば媒体を破壊される心配はなく、これを防ぐ手段は限られてくる。さらにとてつもなく広範囲に影響を及ぼせる。純粋な放出系能力者であっても、並みの能力者ではこれほどの範囲は網羅できないだろう。この念波を受信した相手を操る能力……と、思われる。まだ詳しく検証をしていないのでわからないが、この推測が正しければ強力な能力だ。強力すぎて怖いくらいだ。

 

 私の体が産卵をせずともよくなったのも、この能力の効果によるものだろう。おなかの中の卵を操作して、自分でもどうやったのかわからないが産卵機能を停止している。あるいは、自分自身を操作しているのかもしれない。自分を操る操作系能力というのもあるのだ。と言うか、産まれていない卵を操るというのも自分を操ることと同義なのかもしれない。

 

 非常に強力な能力を手に入れられて嬉しい。だが、喜ぶ前にやらなければならないことがあった。食事だ。もうおなかぺこぺこで死にそう。

 

 巣の外に放り出されはしたが、いまだここは赤い森の中。荒野がすぐ近くに見えているので外縁部だと思われる。食料である赤い石はいくらでもあるのだ。餓死することはない。

 

 と、思っていた。

 

 この赤い石が、すさまじく硬いのだ。私が今まで食べてきたものとは全く別物である。本気で噛みついても傷一つつかない。体力が弱っていることを抜きにしても尋常でない硬さだった。

 

 よく観察すると、いつも食べていた石と色が違う。あれは薄紅色をしていた。ここの石は黒みを帯びた暗赤色である。まさか食べられる石と食べられない石があるのか。知らなかった……。

 

 だが、今から巣に戻るわけにもいかない。今度こそ殺される可能性がある。もう私は女王アリではなく、ただの追放者だ。自分の面倒は自分でみなければならない。何とかこの石を食べる他にない。

 

 普通に噛みついていても手に入るのは削りカスが関の山だろう。そこで良い案を思いついた。『纏』をした状態になろう。纏は主に防御のための技だが、身体能力も向上するはず。

 

 思った通り、あっさりと纏ができた。先に『発』に目覚めるという変則的な形を取ったが、それにより私の精孔は開かれている。なのにオーラを消耗することなく自然体でいられるということは、既に纏のやり方を体が覚えているのだろう。そうでなければオーラが枯渇して危険な状態になっているはずだ。

 

 体の周りを覆う光の膜が見える。ただし、できたのは『纏』までで『練』はできなかった。そううまくはいかないか。練の修行は未熟なうちから取り組むと変な癖がついて逆に成長を妨げるという。しっかりと纏を使いこなせるようになってから改めて練習しよう。

 

 纏を施した私の牙は、何とか赤い石に食い込んだ。さっきまで全力を出してもかすり傷一つつかなかったので、確かに力は上がっている。しかし、それでも硬いことに変わりはなかった。何度も噛みつき、少しずつ欠片を切り取っていく。

 

 破片を切り出した後も苦行は続いた。今度はそれを飲み込めるまで噛み砕かなければならない。顎がおかしくなりそうだった。極めつけに味も悪い。いつも食べていた石と比べて雑味が多い。いかに自分が恵まれた環境にいたのか理解した。

 

 それでも食べることを止めようとは思わない。これまで私は食事を拒否してきた。生物として根幹をなす欲求を抑え込んでいた。その辛さに比べれば、この暗赤色の石を食べることくらい何でもない。むしろ、食べることが許されたことに感謝した。私は“私”を保ったまま、食事をすることができるようになった。それは大いなる喜びだった。

 

 ボリボリと石をむさぼり食う。纏をしたままの状態でなければとても食べられたものではない。これは良い修行になりそうだ。そうだね、前向きに考えよう。

 

 

 * * *

 

 

 ひとまず、私が最初に掲げた目標は『傷の完治』だ。この体が私の唯一の資本である。健康にならなくては始まらない。そのためにはよく食べて、よく休むこと。その当たり前のことが難しい。

 

 食料は何とかなった。次に必要なものは水だ。ある意味、こちらの方が食べ物より大事である。多くの生物は水無しでは生きられない。私たちもその例外ではない。

 

 この荒野は過酷な環境だ。近くに水場はない。少なくとも私が生まれてから雨が降るところを見たこともない。とにかく乾燥している。雨季があるのかもしれないが、悠長にそれを待っている余裕はなかった。

 

 しかし、他のアリたちはどこからか水を調達していた。巣の近くにも、当然水場はなかったはずだ。あの水はどこから得ていたのだろうか。

 

 喉が渇いた私は水の味を思い出す。よく考えるとあれは、ただの水ではなかった。赤い石と同じ味がしたのだ。私は兵アリから口うつしで水を与えられていたので、唾液が混ざってそんな味になったのかもしれない。

 

 しかし、別の視点からから考えてみよう。私は食料のことを『赤い石』と呼んでいるが、これが石ではなく植物であるということに気づいている。植物であれば生きる上で水が必要になってくるはずだ。

 

 植物なら根があり、地中から水分を吸収している。私たちが飲んでいる水は、もしやそこから得ているのではないか。この仮説がはずれていたら、巣に戻って水を恵んでもらわなければならなくなる。相手にされないことは確実だ。いや、攻撃されるだろう。

 

 水を求めて地中を掘り進んだ。纏をした状態で掘ると楽なのだが、ずっと維持し続けることは難しい。オーラが切れる前に疲労が先行して集中力が切れる。纏の持続時間延長も課題に入れた上で穴掘りに取り組んだ。

 

 ただ穴を掘ると言っても、これがなかなかに重労働だ。乾燥してガチガチになった地面を掘り進むのは体力がいる。まあ、赤い石を噛み砕くよりはまだマシなのだが、面倒なことが多い。掘った後の土の処理だ。

 

 柔らかい土なら穴の周囲の土を押し固めて道を作れるのだろうが、乾燥した土は掘るほどに道を塞ぎ、身動きが取れなくなる。だから少し掘っては土を外へ運び出し、を繰り返さなくてはならない。だが、これも修行だ。確かこれと似たような修行法があった、気がする。

 

 結局、根に到達するまでに三日かかった。赤い植物の根部分は地中深くにあったのだ。乾き死ぬよ。これで水がなかったら巣に殴り込み、強奪するしかない。

 

 結論として、水はあった。根部分は柔らかく、わずかな水分を含んでいた。そう、ごくわずかだ。しなびてほとんど干からびた根は、本当に機能しているのかと思うほど弱弱しい。さらにその水分の味は、格別に不味かった。

 

 本当にまっずい。暗赤色の石より不味い。苦みと渋みが織りなすコラボレーション。それでも貴重な水分だ。できるだけ根を傷つけないように注意しながら苦汁を舐め取った。一舐めで毒素が濃縮されているとわかる。私たちはこの毒に耐性を持ち、戦闘手段として利用しているので本能的にわかる。

 

 耐性を持つこの体でも、その濃縮された毒素は処理限界を越えるモノだったのか、少し気分が悪くなった。完治への道のりは遠い……。

 

 

 * * *

 

 

 私が放り出されたこの場所には、なぜ品質の悪い暗赤色の石しかないのか考えてみた。

 

 思うに、私が食べているこの赤い植物の個体自体が死にかけなのではないか。もっと言えば、赤い森の外縁部に生えている植物全てが死にかけなのだ。森の外縁部にある赤い植物は全部、暗赤色をしている。だから根も痩せ衰えてろくな水分もないのではないか。

 

 私の巣があった場所はこの森の中心付近だった。あの場所は、もっと明るい色をした植物が多かったと思う。つまり、中心部に行くほど新しい個体が増え、外縁部に行くほど古い個体が増える。いわば、この森そのものが一つの年輪構造をとっているのだ。

 

 まとめると、私が追放されたここは立地条件最悪の場所だった。おのれ。

 

 しかし、もう私はこの程度のことで泣きごとを吐くような弱虫ではない。まずい石も水も、今では慣れた。いや、むしろ最近はこの味の良さがわかってきた。この何とも言えない独特の渋みが癖になっている。

 

 水も得られる量は少ないが、私一人が生きていけるだけの分は確保できている。濃縮された毒にも慣れた。中毒症状は見られず、体調は順調に回復していった。

 

 外骨格に負った傷も再生している。傷口を覆うように新たな硬質の組織が形成された。ただ、その部分だけ形が歪になってしまった。そして食べている石の影響なのか、だんだんと体の色が黒みががってきている気がする。

 

 ただ、千切られた脚については再生しなかった。三本脚のままである。せめて四本残してくれていたらバランスが取りやすかったのに。そのせいで頭を地面に擦りつけながら歩かなくてはならない。王アリめ……これは人間の世界で言うところのあれだ、ド、ド……ドラマティックバイオレンスというやつに違いない。

 

 完全回復に一カ月を要した。念の修行については、あまり進展したとは言えない。いまだに練はできていなかった。そう簡単に扱えるものではないとわかってはいるが、焦る気持ちが募る。

 

 修行は楽ではない。辞めたいと思うことはしょっちゅうある。だが、私は次の目標を掲げた。それは「一人で生きていけるだけの強さを身につける」ことだ。そのためには、ここでへこたれてはいられない。

 

 私は群れから外れたアリだ。それどころかアリとしての生物の枠組みからもはずれかけているのかもしれない。念という力にも目覚めることができた。既に群れとしての生き方を止めて、個としての生活を送るだけの力を得た。

 

 だが、それではまだ足りない。きっと、この赤い森の外の世界には、私の想像も及ばないような危険が山のようにあることだろう。私にはもっともっとやりたいことがある。この赤い森の中で一生を終えるつもりはなかった。

 

 

 * * *

 

 

 朝、私の一日は瞑想という名の日向ぼっこから始まる。

 

 いや、ちゃんと瞑想もまじめにしてるよ。でも、日向ぼっこも大事なのだ。夜間の冷え込みのせいで固まった体をお日さまの光でほぐす必要がある。

 

 さらに日光浴には大きなメリットがある。なんと私たちは外骨格に日光を浴びることで光合成ができるのだ。

 

 キメラアントは食べた生物の特徴を受け継ぐので、赤い植物の光合成能力を取り込んでいてもおかしくない。他のアリたちは光合成の仕組みなんて理解していないだろうが、習性的に日向ぼっこの有用性に気づいているようだ。そのためかあまり暗所を好まない。

 

 光合成だけで全ての栄養を賄えるわけではないので、食事もちゃんとする必要はある。しかし、燃費はかなり良い。私は産卵のために栄養を取る必要があったので毎日食べていたが、これは一般的な兵アリから見るとかなりの大食らいである。

 

 しかし昼になると日光浴を通り越して鉄板焼き状態になってしまうので、あえてゆっくり日差しを浴びるのは朝方だけだ。リラックスした状態で瞑想しながら、ついでに『絶』の練習もする。

 

 絶は難しい。練も絶もいまだに成功しない。これらは精孔を開いたり閉じたりすることで体外へ送り出すオーラ量を調節する技術だ。その感覚がよくわからない。無意識のうちに精孔を開いてしまったのが災いしたのか、そのあたりの感覚があやふやである。

 

 瞑想していると、かすかな物音が近づいてきた。森の中から兵アリが出て来る。私たちキメラアントの暮らしは森の中心部近くで完結しているため、普通の兵アリはこの外縁部まで来ることはない。食料も水も、中心部の方が良質で潤沢だからだ。

 

 この兵アリは王の直属護衛軍である。彼らの仕事は巣の外に出て次の交配相手を探すことなので、たまにこうして出くわすこともある。私たちの体長からすればこの森は広大なので、そう頻繁に顔を合わせることはないのだが……。

 

 絶! 絶!

 

 気配を消したつもりだったが、普通にバレた。こちらに気づいた先方が、警戒音を発してくる。私たちの関係は良好とは言い難い。明らかな敵対関係にはないと思う。もしそうなら兵アリが群れをなして私を排除しにくるはずだし、そもそも追放されるときに殺されている。

 

 ただ、向こうが私を異質な存在として扱っていることは確かだ。こうして顔を合わせれば警戒音を鳴らされる程度には嫌われている。私は『精神同調』の能力を使って、兵アリたちに念波を送った。

 

 通信能力を持たない直属護衛軍でも念波は感じ取ることができるようだ。もっとも意思のやり取りはできない。異常を感じ取った兵アリたちは私の前から立ち去った。私はもっぱらこの『精神同調』の能力を、兵アリを追い払うためだけに使っている。

 

 というよりそれ以外に使い道がない。回避不能・解除不能の超広範囲操作というありえないほど強力なこの能力には、その性能を上回って有り余るほどの重大な欠点があった。

 

 単純に、効果が弱い。まともな自我を持っているかも怪しいアリにさえ、支配を突っぱねられてしまう。電波通信はテレパシーに似た特性をもつため、それがこの能力にも反映されている。まず、相手の心の中に自分の意識を入りこませてから支配するのだが、そのアクセスの段階で弾かれるのだ。

 

 だから、相手にちょっとした違和感を与える程度の嫌がらせにしか使えないのである。ただ、失敗しているだけで能力自体が発動しないわけではない。自分自身への操作が成功している感覚はある。現在進行形でその支配は継続している。

 

 何か私が知らない制約でもあるのだろうか。無意識に生み出した『発』がこれほど厄介なものとは思わなかった。歪と言われるわけだ。それでも私にとっては必要な能力である。後悔はない。

 

 ただ、それはそれとして他の能力も作りたいという気持ちはある。今度こそ自分で考えた能力がほしい。だが、練もできていない現状ではまだ先の話だ。まずは四大行をしっかりとこなすことに集中しよう。

 

 

 * * *

 

 

 キメラアントの在来種は地下に巣を作らず、地上部に泥を固めて“蟻塚”を建造する。しかし、私たちの種は日光を好むためか、このタイプの巣は作らない。赤い植物をくりぬいた穴をそのまま巣とする。構造は非常に単純で部屋数も基本的に一室しかないため、マンションのようにいくつもの穴を作って一つの群れが生活している。

 

 私も今ではマイホームを自作している。食べ進めた結果できた穴を流用しているだけだが、それは他のみんなも同じだ。自分なりに頑張って作った自慢の家である。

 

 まず玄関。日当たりのいい南向きの入り口は、常に開放的に開け放たれている。扉はなく、その見晴らしの良さからセキュリティは万全だ。

 

 中に入ると広々としたエントランスが訪問客を出迎える。他に部屋はない。私が追放されてから日数を数えるため一日ごとに刻みつけた傷が壁一面に広がっており、趣深い。

 

 寝床は安心と信頼の石製。いっそ地面の上で寝た方がまだ安らげる前衛的な作りとなっている。その寝心地は、寝具の大切さを身にしみて教えてくれることだろう。

 

 ……などと一人芝居をしながら自分を納得させている。まあ、別に不便なところはない。私のライフスタイルは、食事・修行・休息の三つで構成されている。寝るとき以外は、いつも外にいる。

 

 不便はない、が、不満はちょっとだけあった。私が人間の記憶をもっているせいだろうか。少しずつ、人間らしい暮らしをしてみたいという気持ちが現れ始めているように思う。アリである私が、そんなことを望んだところで無意味だというのに……。

 

 余計なことは考えず、今日も修行に専念しよう。私は家の外に出た。そして、家の前にいた何かと目が合う。

 

『あ、え?……なんでここに……』

 

 王アリだった。姿を見るのは、追放されたあの日以来である。なぜ今になって私の前に現れたのか。無意識に、体が後退していた。家の中へと逆戻りする。

 

 それを追うように、王が私の家へと上がり込んでくる。恐怖がこみあげてきた。私の恐れの源泉が目の前にいる。なぜだかわからないが、全ての元凶がそこにある気がした。

 

 キチッキチッ

 

 威嚇音を鳴らされる。こちらに近づいてくる。体がすくんで動けない。何をしようというのか。また傷つけられるのか。何のために。

 

 確かに私は彼に逆らった。キメラアントとして、群れの統率者としての使命に背いた。だが、その制裁なら受けたはずだ。死んでもおかしくないほどの傷を負わされた。そして生かされ、戯れのようにまた傷つけられるというのか。

 

(嫌だ)

 

 思い出せ。何のために私は力を求めた。一人で生きて行くため、理不尽に抗うため、世界の広さを知るためだ。ならば、こんなところで臆してしてどうする。この程度の恐怖も克服できずに、何が念の修行だ。お前はまた、何もできずにただ屈するのか。

 

『違う! 私は』

 

 オーラを纏う。恐怖を打ち払うように、全身に気を行きわたらせる。

 

 群れのみんなに、これ以上迷惑をかけるつもりはなかった。この森の片隅で、ひっそりと生きていくことを見逃してくれればそれでよかった。だが、こうして実力行使にでてくるというのなら、最低限の抵抗はさせてもらう。

 

 悠然と近づいてくる王アリを前に、私は体を縮こめた。萎縮したわけではない。むしろ逆だ。脚のバネを限界まで縮め、次の一手に向けて力を溜めている。

 

 私の脚は三本しかない。歩くことが不便になった私は、別の移動方法を思いついた。それは跳躍だ。バッタのように跳躍することで素早く長距離を移動する。もともと私たちの脚はそのような機動ができる構造にはなっていないが、念の力によって強引に実現する。

 

 跳躍は逃げるために行うのではない。その脚力をもって跳び立ち、全力で敵に体当たりを食らわせる。全身を鎧のような外骨格で覆われた私の体当たりなら、かなりの威力をもった攻撃になる。

 

 相手も同じ鎧を身に纏っているが、その強度で負けるつもりはない。これまで私はより硬質な暗赤色の石のみを食べてきた。明度で言えば、私の鎧の方が王アリよりも暗い。推測が正しければ、こちらの方が頑丈なはずだ。

 

 さらにそこに念の力をプラスする。『纏』によって防御力を上げ、さらに硬く、強くさせていく。この一撃に全力を注ぐ。それをもって相手にわからせるのだ。誰を敵に回そうとしているのかを。

 

 王アリが私の体に食らいついてきた。牙を突き立ててくる。その瞬間、思い出したくない記憶が一気に噴き出した。心的外傷のフラッシュバックは、まさに閃光のように私のオーラを刺激する。

 

 精孔が開いた。初めてその感覚を実感する。爆発的に高まる『纏』のオーラ。いや、これは『練』だ。極限の状態で練に目覚めると同時に、私は脚に込められた弾性エネルギーを解放する。

 

 爆発、衝突。自分でも何が起きたのか実感できない。だが、理解はできる。私のバッタジャンプが炸裂し、王アリを吹き飛ばして壁に叩きつけたのだ。

 

 鈍い音が巣の中に響く。王アリは崩れた体勢を立ち直した。ゆっくりと、こちらを威圧するように歩いてくる。

 

 ギチ……ギチ……

 

 オーラまで使って渾身の体当たりを決めたというのに、まるで効いた様子がない。彼の外骨格には傷一つついていなかった。

 

 だが、ここで引き下がるわけにはいかない。相手が私の強さを認めるまで、何度でも挑戦してやる。私は再び脚を引き絞った。

 

 王アリは、まるで撃ってこいと言うかのように立ち止まっていた。避けずとも、防がずとも、その程度の攻撃は問題ないと言わんばかりの態度だ。どうやら、自分の力を過信していたのは私の方だったようだ。念が使えるから自分の方が強いと自惚れていた。

 

 オーラを『練(ね)』る。もっと強く、自分の限界のその先を見据える。敵は動かず、的を外すことはない。時間をかけて集中する。もっと、もっと、もっと……。

 

(……?)

 

 しかし、引き絞られたバネはゆっくりと元の状態へと戻った。何かがおかしい。目の前にいる王アリから、さっきまで感じていた威圧感が消えている。静寂だけが残されていた。

 

 私は『精神同調』を発動した。念波が王アリの体を“通過”する。捉えられない。アクセスを拒否されたのではなく、そこには“何もない”。

 

 王アリは死んでいた。

 

 

 * * *

 

 

 王アリの死の後、私の巣には多くの兵アリが集まってきた。王の直属護衛軍だ。今までは互いに警戒するだけで直接的な接触はなかった私たちだったが、今度ばかりは平和的な終息は見込めなかった。

 

 兵アリたちは私を敵と認識し、襲いかかってくる。私は殺した。向かってくる全てのアリを殺していった。

 

 話が通じる相手ではない。彼らにとって群れの存続こそが第一義の存在理由であり、群れの敵を倒すためなら死もいとわない。保身や撤退と言った選択肢を最初から持たないのだ。最後の一匹になるまで攻撃は止まず、最後の一匹まで殺すしかなかった。

 

 私たちの外骨格は硬い。私の体当たりをもってしても一撃で壊すことは叶わない。だが、その中身に詰まっているのは筋肉と内臓だ。逃げられない衝撃を与えれば内部を破壊することは可能である。練を覚えた私の攻撃を受け切れるアリはいなかった。

 

 正確に言えば、攻撃を受けても死なない者の方が多い。キメラアントの強靭な生命力は、内臓をぐちゃぐちゃに破壊されても死を許さないようだ。死を待つだけの致命傷を負いながら、命尽きるまで生かされ続ける。それは生命として正しい進化の仕方なのだろうか。私は相手が完全に死ぬまで攻撃を続けた。

 

 こうして王アリと直属護衛軍は全滅した。幸いにして、キメラアントの群れ全てに私が敵として認識されたわけではないようだ。王アリの派閥は、元の巣の組織から独立している。戦いの因果は、ひとまずここで中断した。

 

 私は墓を作った。母の墓と、父の墓だ。

 

 私は自分の父親を殺してしまったわけだが、そこに後悔はない。葛藤のようなものもない。これは別に彼を恨んでいたためではなく、本当に何の感情もわかないのだ。彼が私にとって恐怖の象徴であったことは確かだが、逆に言えばそれだけでしかなかった。

 

 母の墓を作ったのも、なんとなくだ。キメラアントの生態を考えれば、私は母の命を犠牲にしてこの世に生を受けたも等しい存在である。私が母を殺したとも言える。そういうことにしてもいい。だからと言って、そこに罪悪感を覚えるようなこともない。

 

 私は人を弔うという気持ちがわからなかった。そういう齟齬は他にもたくさんある。人間の記憶は持っているが、それは単なる情報でしかない。それらの情報の背景には人間が人間として当たり前に持っている常識や倫理観があるのだろう。

 

 言語化するまでもなく人なら誰しも持つであろう感覚。私にはそれがところどころ欠けている気がする。

 

 墓を作ったのも、その感覚を知りたかったからだ。人間らしい行動を取れば、答えを導き出せるのではないかと思った。その答えはまだわからない。

 

 直属護衛軍の墓は面倒だったので作らなかったのだが、彼らの分も作った方が良かっただろうか?

 

 

 * * *

 

 

 三か月が過ぎた。

 

 纏・絶・練・発。『四大行』を一通りこなせるようになる。修行の段階も進んだが、何分私は念に関して素人だ。断片的な知識をもっているにすぎず、自分がやっていることが正しい修行法であるか自信はない。

 

 とにかくオーラを消費することを心がけた。常に纏をした状態を続け、そこから練の持続時間を延ばすために毎日特訓した。これが応用技の『堅』の練習であると思うのだが、本当にできているのか、どの程度完成に近づいているのか不明だ。

 

 四大行の応用技には『凝』『隠』『円』『周』『堅』『硬』『流』がある。これらの習得に向けた訓練に加えて、『発』の系統別修行が必要となってくる。特にこの系統別修行が何をやればいいのかわからない。

 

 そもそも自分の系統が何なのか、実は判明していなかった。水見式をやろうにも、ここには水がない。おそらく操作系であろうと目処をつけて、『精神同調』を意識して使っている。しかし、使う対象が自分しかいないので、どのくらい上達しているのか、そもそも何か進展しているのかわからない。

 

 操作系と相性が良い放出系の特訓も始めた。バッタジャンプに合わせてオーラを噴射し、飛距離を伸ばせないか試している。今のところ、放出するより普通に脚をオーラで覆っただけの方が跳ぶ。

 

 ない物ねだりだが、やはり念能力の指導者がほしいところだ。手さぐりで修行法を探していくのも限界がある。何か決定的に間違った修行をしていてもそれに気づけないという怖さもある。心源流という念戦闘の流派があるようだが、人間の世界に行けば私も習えるだろうか。アリでは無理か……。

 

 修行法に疑問を抱くこともあるが、諦めずに続けることにした。いつしか修行は苦ではなくなっていた。今の私から修行を取ったら食って寝るしかやることがない。唯一、私の人間的行動と呼べるものがこの修行なのだ。怠る気は微塵も起きなかった。

 

 そして、ある日を境として、私の体に変化が現れ始める。緩やかに成長していたオーラ総量が急激に上昇した。

 

 オーラを扱う念の修行によって、自身の持つオーラの総量が増すことは普通にある。私も修行を始めた当初はぐんぐん総量が増えていった。そして成長期を通り越すと次第に増加量は緩やかに横ばいへと移行していく。私もこの段階に入っていた。

 

 それがまるで限界を無視するように伸び始めたのだ。三日の修行で四倍近いオーラが増えたと言えばどれだけ異常かわかるだろう。

 

 そしてさらにおかしなことに、この増えた分のオーラは意図して使うことができなかった。体の中に残り続けたままで引き出せないのだ。使えるのは増加する前の自分が有していたオーラ量のみ。

 

 初めは何が起こったのか理解できなかったが、瞑想を続けるうちに何となく原因の正体がわかってきた。新たに増えたオーラは私の腹部に集中している。私がおなかの中で操作している卵が、それぞれオーラを帯び始めていた。

 

 



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4話

 

 荒野の空は曇っていた。いつもは灼熱の日差しが照りつける大地には、わずかに湿り気を帯びた涼しい風が吹いている。

 

 曇り空の下、私は『燃』の修行をしていた。

 

 『燃』とは心源流において、念を知らない一般人に念能力が引き起こす超自然的現象を説明するための方便だ。念能力者がもつ異常な殺気や身体力を、特殊な武術の極意として説明する。

 

 『点』で意識を集中して目標を定め、『舌』でその目標を言葉とし、『錬』で意思を高め、『発』で行動に移す。

 

 これは真の四大行『纏・絶・練・発』を公にしないための方便であり、いくら『燃』の練習をしても念能力者の強さが手に入れられるわけではない。

 

 だが、初歩の念習得に向けた鍛錬としては有効な精神統一法でもある。一般人はまず瞑想と『燃』の修行によって念に目覚めていくのだ。

 

 私は既に四大行を使える身だが、この『燃』の修行を毎日欠かさず続けていた。初心に帰るという意味もあるが、私にとってはそれ以上に重要な目的が他にある。

 

 

 『点』で意識を集中。感覚と認識を捨て、世界を自分の内面に見出す。

 『舌』で世界を言葉とする。言葉とはすなわち枠組みであり、その枠に切り取られることで、世界は私の中に姿を現す。

 

 私は何者か。

 

 『錬』で意思を固める。自己の存在を自問することで、自己を分離した上で自己を保つ。

 そして『発』。私は“私”の答えを聞く。

 

 無数の私が、私の中に現れる。それらは紛れもなく私であるが、同時に他者でもあった。私たちは一つの群れ。私が生み出し、操る意識の集合体。

 

 これこそが『精神同調』の真価――――

 

 

 ポツリと体に雨粒が当たる。その感覚によって瞑想から引き戻された。一滴の雨を皮切りに、乾いた地へと天からの恵みが降り注ぐ。

 

 雨季がやってきた。

 

 

 * * *

 

 

 初めて体験する雨であった。枯れ果てた大地が潤っていく。土砂降りの雨は切れ間なく続いた。赤い森は雨音の中に包まれていた。

 

 始めは私も喜んだ。その喜びは実に半日ほどで平常に戻る。私の巣は水没してしまった。しかたなく二階を増設して避難する。

 

 いつもは貴重な水も、これだけあるとありがたみが減る。しかも、味が変だ。いや変というか、味がない。いつも濃縮毒入りの苦み走った汁を愛飲していたせいで、物足りなさを感じてしまう。

 

 空は曇って日光浴もできないし、雨もそれほどいいものではないことを知った。

 

 だが、一つだけ大いに感謝していることもある。これだけの水があれば念願の水見式ができる。これまでどんなに頑張って汁を集めても次の日には蒸発しているので、水見式はできなかったのだ。

 

 水見式とは、念能力者の六系統『強化系』『変化系』『具現化系』『特質系』『操作系』『放出系』を見分ける選別法である。用意する物は、水の入ったコップと葉っぱが一枚だけ。最も簡単に自分の系統を確かめられる方法とされる。

 

 さっそくこのときのために作っておいた石盆を持ってくる。水の用意は十分だ。その上に萎びた葉っぱを浮かべて準備完了。後は石盆を両手で包み込むように構えて練をすればいいのだが……アリの体だとしにくいな。脚も三本しかないし。気合でそれっぽくやるしかない。

 

 すぐに反応は現れた。葉っぱが水の上でくるくると回転し始める。葉っぱが動くのは確か……操作系だ。予想通りの展開である。むしろ違っていたら今までやってきた修行のやり方に不安が出て来るのでこれでよかった。

 

 しかし、なんだかすごい勢いで葉っぱが回転している。これは操作系の資質に優れているということだろうか。もちろん資質はないよりもあった方がいいので、これはよかっ……うわっ、回る勢いが強すぎたせいで水がびしゃびしゃ飛んでくる。練を止めたが、まだしばらく回り続けていた。もうわかったから。

 

 水見式を行うこと自体も系統別修行のひとつになるそうなので、雨季の間は続けていこうと思う。これは家の中にいてもびしょ濡れになりそうだ。

 

 

 * * *

 

 

 自分が操作系であると判明したことで、一つ先に進める課題がある。それは新たな『発』の考案だ。ここでそれぞれの系統と『六性図』について整理しておこう。

 

 全ての『発(特殊能力)』は六つのカテゴリに分類され、それらは次のような六角形の図で表される。

 

   強

  / \

 放   変

 |   |

 操   具

  \ /

   特

 

 例えば操作系能力者である私は当然、操作系の発を覚えやすい。だが、それ以外の系統の発を作れないわけではない。図から見て、自分の系統と隣り合う系統は相性が良く、能力を引き出しやすいと言われている。

 

 操作系なら放出系と特質系だ。ただし、特質系は特質系体質者しか習得することができないので相性以前の問題として私には覚えられない。つまり、実質的に放出系くらいしか他に使いやすい系統はないということになる。操作系は損な系統だ。

 

 自分が何の系統を得意とするかを考えた上で、自分に合った発を作らなければならない。このとき大切なことはインスピレーションだ。自分の性格、体質、経験、目標、趣味、そういった全ての個性を能力として実現することこそが『発』である。いくら自分の系統だからと言って、何のインスピレーションもわかない能力は覚えられないし、覚えたとしても効果は低くなるだろう。

 

 私は『発』を、「夢を叶えるための能力」だと思っている。念には、何でもかんでも思い通りに願望を叶えてくれるような力はない。だが、「こうでありたい」と願う本心がその根幹をなしていることは確かだ。だから自分が何を求めているのか、まずそれを探すことが自分に合った発を作る上で重要だと思った。

 

 私は修行を続けながら考えた。私は何を求めるのか、どんな自分になりたいのか。その答えは一つに絞られていった。自分の中で、これ以上ないほど明確に求める夢がある。

 

 私は、人間になりたい。

 

 私にとって理想の自分とは、このアリの姿ではなかった。毎日、瞑想にふけるたびに私は自分の中に人間の姿を思い浮かべてしまう。そして瞑想を終えたとき、人間とは程遠い自分の姿に苦悩する。

 

 その違和感は日に日に大きくなっている。この願いは果たして私が望んで導き出した答えなのか、それとも私に宿った記憶が見せる幻なのか。真実はどうであれ、自分の気持ちをごまかしたまま生き続けることはできなかった。

 

 人間になることを目的とした『発』。まず思いついたのは、私が最も得意とする操作系能力だ。自分自身を操作して姿形を人間の姿へと変化させる。

 

 しかし、この案を実現することは限りなく不可能に近いという結論に至る。最大の問題は、操作系能力の原則『既に操作されている対象に操作系能力を重ねがけすることはできない』という点であった。

 

 つまり、私が新たに操作系の発を作っても、それを自分自身に使うためには『精神同調』を解除しなければならない。二つの能力を一度に使用することはできないのだ。『精神同調』を切れば、私の体は再び産卵へ向けて変化していくはずだ。それだけはできなかった。

 

 そもそもの話、いくら操作系の適性に優れていたとしても蟻の体を人間へと作り変えることが可能なのかという問題がある。操作系には人体を操作し、外見を変貌させる効果を持つ能力があるにはある。だが、それにも限度はあるだろう。蟻と人間では体の構造も大きさもあまりにかけ離れている。

 

 今の私の外見は、蟻というより羽のない蜂のような見た目をしている。大きさは20センチほどだろうか。昆虫としてはかなり巨大で、発達した外骨格が鎧のように覆っているが、それでも基本的な構造は虫と同じだ。

 

 もし強引に作った能力で、中途半端に人間の特徴を得たバケモノになってしまったら私はより深く絶望するだろう。亜人型キメラアントみたいな姿にはなりたくない。それならまだ今の姿のままの方が良い。

 

 操作系では望む形の能力は作れない。別の方法を考える必要があった。そして思いついたのが、『私の望む体を一から作り出す能力』だ。言葉にすると大げさで、生物操作よりも遥かに困難な能力に思えるが、実はそんなに高いハードルが要求されるものではない。

 

 個人によって様々な能力を作ることができる『発』であるが、ある程度使い勝手のいい能力の傾向は当然ある。そういった念能力の作り方の一つの定石として『念獣』というものがある。オーラによって作り出した獣を使役する能力だ。

 

 獣や鳥、魚などの生物の形を取るものが多く、中でも人間の姿をしたものは『念人形』とも呼ばれる。さして珍しくもなく、それだけオーソドックスな能力であるということだ。この能力を作る“だけ”なら私にもできそうだった。

 

 だが、私の夢を叶えるためには最低限取り込まなくてはならない条件がある。

 

 一つ、具現化型の念人形でなければならない。

 一つ、感覚を共有する特殊能力を備えている。

 一つ、常時発動させた状態を維持できること。

 

 一口に念獣と言っても、使用者の系統によってタイプがある。主に『放出系』『操作系』『具現化系』の三つのタイプがあると言える。

 

 放出系の念獣は、パワータイプ。自分の体からオーラを放つことを得意とする放出系能力者は、念獣に多くのオーラを込めることができる。これによって念獣の出力を上げ、発動時間と行動範囲を伸ばし、一度に多数の念獣を作り出すことができる。

 

 操作系の念獣は、精密なコントロールができる。複雑な命令を与えることが可能で、使用者の目が届かない場所にいてもあらかじめ設定されたプログラム通りに動く『自動操作型(オート)』を作りやすい。複数の念獣を作っても操作性が落ちにくいのも強みだ。

 

 具現化系の念獣は、操作・放出のどちらとも相性が悪く、性能自体は低い。その代わりにオーラでできた念獣を物質として再現できる。具現化されたものは本物と見分けがつかず、念能力者でない一般人にも見ることが可能だ。また、特殊能力をつけやすい性質がある。

 

 単純な戦闘力を求めるなら、念獣をあえて具現化させ物質化する必要はない。オーラ体であっても相手に与えるダメージは同じだ。具現化させることで情報を偽装し、敵の目を欺くという『絡め手』として使われることが多いタイプの念獣である。

 

 私が求めるタイプはこの『具現化系念獣』に当てはまる。何よりもまず人体の再現性を重視しているからだ。戦闘能力は二の次でいい。本物と寸分たがわぬ人体を物質化することに意味がある。

 

 問題は、私が操作系能力者であるということだ。念獣の操作性に関する不安はない。放出系とも相性がいいので、パワーも大丈夫だろう。だが、肝心要の具現化系と相性が悪い。

 

 六性図で見たとき、自分の系統の一つ隣へ移るたびに、その系統能力の習得率は20%下がると言われている。操作系能力者である私は『操作系100%』『放出系80%』『具現化系60%』となる。

 

 つまり、私が具現化系能力者であれば100%発揮できたであろうパフォーマンスの半分程度の精度でしか再現できないのだ。この差は無視できるものではない。

 

 何でも思いのままに自分の望む能力を作ることができない理由として『容量(メモリ)』という概念がある。人はそれぞれの才能に応じて念能力を覚えられる限界値が決まっている。強力な効果をもつ能力を覚えようとすれば相応のメモリを使用し、この限界を越えるような能力を作ることはできないのだ。

 

 個人によって才能には方向性がある。それが六系統であり、自分の系統から外れるような能力を作ろうとすれば、より多くのメモリを使用しなければならない。そしてこの能力は一度作ればそれを無かったことにはできない。適当な能力を作ってメモリを無駄にすれば取り返しがつかないことになる。

 

 私の記憶にある能力の一つに『分身(ダブル)』と呼ばれるものがあった。これは自分と全く同じ人間を具現化させる能力だ。これも一種の念獣と言えるだろう。私が作ろうとしている能力と良く似ている。というか、私はこれをヒントにして作った。

 

 この『分身』の能力者は強化系であった。強化系能力者が、念獣の運用上関係する系統別習得率は『具現化系60%』『操作系60%』『放出系80%』である。相性の悪い具現化系と操作系を高い精度で要求される能力であり、それだけ無駄に多くのメモリを使用しているものと思われる。

 

 ストレートに強化系に属する能力を作っていればもっと強くなれたはずの、言うなれば『能力作成の失敗例』と呼べる事例である。私はそれを知っていながら、全く同じ過ちを犯そうとしていることになる。

 

 それでも、譲ることはできなかった。もうこれ以外に方法が思いつかないのだ。たとえメモリを全て使い果たしたとしても、この能力を作らなければならない。

 

 能力の名前は『偶像崇拝(リソウノワタシ)』。私が望む姿を具現化し、その念獣と感覚を共有する。人体の具現化と感覚共有、具現化系能力者であればそう難しい内容の能力ではない。五感の完全共有はハードルが高いだろうが、実現不可能というレベルではないはずだ。

 

 自分の系統から外れているからと言って、絶対に覚えられないわけではない。本人が強く望んで作った能力であれば、威力や精度が落ちはするが覚えられることもある。私はその可能性に賭けようと思った。

 

 

 * * *

 

 

 一日の修行のうち、瞑想にかける時間が増えた。理由は主に二つ。体内のオーラ総量を増やすためと、具現化能力の発現のためだ。

 

 具現化系の発は、能力を作ったからと言っていきなり使えるようになるものではない。六系統のうち、発現までに最も時間がかかると言われている。目的物を物質化できるようにならなければ話にならない。

 

 そのためにはイメージトレーニングあるのみだ。具現化させたい物を実際に触ったりして感じ取ることも重要らしいが、あいにく私が求めるものはここにはない。イメージだけで何とかするしかなかった。

 

 人間の体を想像し、創造する。夢と現の境を失わせるほどに強くそれを望み、それが在ることを一分の揺るぎなく信じる。無から有を作り出すという虚構を現実のものとする。その道のりはあまりに受け入れがたかった。

 

 どれだけ固く信じ抜こうとしても、わずかな歪みが生じてしまう。歪みは緩みへと転じ、心を翻弄した。

 

 人間になりたいという気持ちに嘘偽りはない。この気持ちで誰にも負けるつもりはなかった。それでも疑いは尽きることなく湧き出てくる。

 

 具現化された念獣は、外見だけでなく内部構造まで再現される。切られれば血が出るし、内臓だってある。見かけ倒しのハリボテではない。一個の生命としての形がある。

 

 それだけに、その再現を自分の中でどう説明付ければいいのかわからなかった。私は人間の内臓の構造を知らない。簡単な知識なら持ち合わせているが、医療レベルの専門的知識ではない。それを勉強しなくてもいいのか。書物を読み、機能の一つ一つまで調べ上げ、実物を、生きた人間の“中身”を見なくてもいいのか。

 

 仮に実物が目の前にあったとしても、人間の全てを理解できる自信はなかった。具現化系能力者はいかにして生物の具現化を成し遂げているのだろうか。それさえも才能だと言うのなら、私にはなすすべもない。

 

 迷い、焦り、そして自分の至らなさを認めきれない気持ちが瞑想を妨げた。

 

 時間の全てを具現化のための瞑想に費やすわけにはいかない。他にもやらなければならないことがたくさんある。むしろ、そういった修行は私にとって救いだった。もし具現化の修行だけに没頭していたとすれば、とうに気がふれていたことだろう。

 

 練の維持、纏と練と絶の切り替え、素早く凝を行う練習、また凝を使っての攻防力移動、バッタジャンプ5000回……瞑想の時間を増やしたからと言って、以前から続けている修行を少なくしたりはしない。睡眠時間を削って修行に励んだ。

 

 中でも積極的に取り入れたのが『燃』による自問自答の瞑想だ。これは『精神同調』の修行である。この能力は修行によって新たな段階へと成長しつつあった。

 

 この能力は対象を操作するだけの効果ではないと気づく。私が操っている数百の卵は、それぞれが意思をもっていることに気づいた。ただ、その意思はこれまで私と全く同一の思考をしていたために、私自身と区別して意識することができなかったのだ。

 

 『燃』による自問自答は、その同一化された意思の塊に区別を与えた。始めは一つとしてしか感じ取ることができなかった自己が、複数存在することを認識する。卵の一つ一つに私の意識が宿っていることに気づいた。

 

 『精神同調』という名前は意図せず、この能力の核心をついていた。操った対象の精神を、まさに私と同調させて一つのものに作り替えているのだ。

 

 私の体内に詰め込まれた卵たちは、私と同体であると同時に別個の生命であった。私が念に目覚め、毎日オーラを磨く修行を重ねるうちに、その気に中てられた卵たちも念に目覚めていた。

 

 言うなれば、私は腹の中に千にも及ぼうかという数の念能力者を抱え込んでいるのと同じ状態であった。これが爆発的に潜在オーラ量が増大した原因である。

 

 しかし、まだ私は未熟だ。この能力を使いこなしているとは到底言えない。卵たちが持つオーラを自分のものとして使用できないことが全てを物語っていた。私たちは自分のことを“一つの私”と考えるがゆえに、別の生命として卵を扱うことができず、そのオーラも使用できなかった。

 

 これを引き出すためには、意識の集合体からその卵を切り離して操作しなければならない。“自分である”と同時に“自分ではない”という矛盾した意識を作り出さなければならなかった。

 

 この問題をクリアするために、瞑想によって自己を意識と無意識の狭間に追い込む練習をしている。無意識帯では自己を複数いるものとして認識できている。それが意識として浮上する過程で矛盾を修正しようとする作用が働いているようだ。なんとかこの中間の位置を探り当てることができるようになった。

 

 当面の目標は、卵からオーラを引き出すことだ。これができれば莫大な潜在オーラ量を獲得でき、『偶像崇拝(リソウノワタシ)』によって消費されるであろうオーラを賄うことができるかもしれない。

 

 私は『偶像崇拝』によって作り上げた念獣を、簡単に消したり出したりすることを許容できない。決められた時間の中でしか人間になれないなんて嫌だ。ずっとその姿でいたい。できれば常時発動し続けても維持できるようにしたいと思っている。

 

 ただでさえ具現化系に適性がない私が作った念獣では、うまく発動したとしても多量のオーラを消耗してしまう可能性は高かった。そうでなくても念獣の維持にはオーラの消耗はついて回る問題だ。卵からのオーラ引き出しは是が否でも習得したい技術であった。

 

 『燃』による精神統一には数分を要した。いまだオーラの引き出しには成功していない。自分の能力の真価に気づけたが生かしきれない現状に、さらに焦りは募っていった。

 

 

 * * *

 

 

 制約と誓約。それは『発』を作る上で大切な条件付けだ。

 

 能力が発動する条件をつけたり、効果範囲を制限したり、自分の能力をより限定的にしか使用できなくすることで威力や精度を高めることができる。これを制約という。

 

 一方、能力を使うにあたって「これをしてはならない」や「これをしなければならない」と言った誓いを自分に立てることを誓約という。

 

 これらは厳しい条件を付ければ付けるほど効果も増す。しかし、それだけ能力を縛ることになるので、応用が効かなくなり使いづらくなってしまうリスクもある。

 

 制約の場合は能力の発動条件となるので、破っても能力が不発に終わったり効果が減衰するだけだが、誓約は違う。これは守ることを自分に誓い、その覚悟を力に変える作用だ。破っても能力は使えるが、その後に罰を受けることになる。

 

 私は『偶像崇拝』を作る上でいくつかの制約も作った。少しでも精度を上げ、メモリの節約をするためだ。

 

 まず、複数体の念獣は作れないと決めた。念獣の使い方として、一度に多数を呼び出すという手がある。数は力だ。単純に味方の数が多くなるというだけで戦術の幅もぐっと広がる。そのメリットを放棄した。

 

 そして二つめ。デザインは変えられない。具現化することの利点の一つは、それが念でできたものなのか、それとも実際に存在する現物なのかわからないということにある。例えば念人形なら多様な外見を使い分けることで相手を欺くことができる。この制約で、そういう情報戦はできなくなる。もっとも、そんな高度な使い方はそもそも私にはできないだろうが。

 

 三つめ、一度作り出したら消すことができない。これは非常に重い制約だ。意識がなくなるかオーラが枯渇して維持できなくなるか、そういう場合を除いて自発的に能力を解除することができなくなってしまう。

 

 戦闘中はただでさえオーラの消費量が跳ね上がるというのに、自由に能力を解除できないとなると致命的な状況に陥りかねない。だが、あえて維持し続けることを制約に入れることで、消費オーラを少なくできるのではないかという狙いがある。

 

 この三つの制約があれば十分だろうと思った。特に三つめの条件は、あまりにもリスクが高い。課されるペナルティの重さを考えれば、もはや誓約の域にあると言ってもいい。作った当初は自分でもやり過ぎたと思った。

 

 だが、一度考えてしまうと、どうしても取りやめることができなかった。自分の意見を容易に翻すことで、この能力に対する決意そのものが揺らいでしまうように感じたのだ。自分の中にある“熱”を、少しでも冷ますようなことはしたくなかった。

 

 しかし、修行を続けて行くうちに、どんどん気持ちが変わっていった。制約の重さに悩んだのではない。むしろ、逆。

 

 この程度のリスクでは駄目だ。私の夢は、そんなに安くない。

 

 いつまで経っても具現化できない焦燥と苛立ちが、私の中の熱を異常に高めていた。私は新たな誓約を打ち立てた。

 

 制約ではなく、誓約。生半可な覚悟ではリスク足り得ない。だから私は能力に目覚めない。それは自分自身が否定する間もなく、確固たる信念となって私を縛り付ける。

 

 『一つ、痛覚を遮断してはならない』

 『一つ、いかなる状況においても能力の発動を維持し続けなければならない』

 

 

 『以上の誓約を守れなかったとき、使用者は死亡する』

 

 

 

 * * *

 

 

 雨は大地を伝い、枯れ果てた草木に命を与えた。瞬きのような時間の中で青々と芽吹いた草花は、次の瞬間には干からびている。乾燥と熱と風が死を与えた。

 

 一年か、十年か。私は時を数えるのを止めていた。渇望は癒えぬまま、幾度もの乾季と雨季が去来していた。

 

 一日の大半を瞑想に費やす。まるで終わりのない夢を見ているかのようだった。

 

 どうして能力を覚えられないのか。なぜ私は人間になれないのか。

 

 そんな思いは、もう残っていなかった。

 

 『点・舌・錬・発』

 

 始めは導入に数分を要した瞑想も、今では刹那のうちに意識が濁る。私は数百万、数千万の自問自答を繰り返す。

 

 始めは二つの目的があった瞑想も、今では一つの道となった。分ける必要はなかったのだ。私自身が全ての答えを知っている。

 

 求めてはいけないことに気づく。何かを欲し、それが叶わぬがゆえに苦悩する。その先に道はない。私が蟻であることを拒否した先に答えはない。

 

 既に、そうであることを認めればよかった。

 

 

 

 ポツリと体に雨粒が当たる。その感覚によって瞑想から引き戻された。一滴の雨を皮切りに、乾いた地へと天からの恵みが降り注ぐ。

 

 まるで新たな命が芽吹くように、私は両の眼を開いた。

 

 肌を打つ雨の冷たさを感じる。自らが吐く息の温かさを感じる。

 

 白い肌の上を、銀色の髪の上を、雨が伝い落ちていく。

 

 私が手に入れた全身は、私の外の世界を感じていた。

 

 

 ―――――

 

 『偶像崇拝(リソウノワタシ)』

 

 具現化系能力。使用者が真に望む姿を模した人間を、念人形として完全再現する。この念人形は、使用者と全ての感覚を共有できる特殊能力をもつ。

 

 【制約】

 ・この念人形は複数体作ることができない。

 ・この念人形のデザインは変えられない。

 ・一度能力が発動すれば、自発的に解除することができない。

 

 【誓約】

 ・共有する感覚のうち、痛覚を遮断してはならない。

 ・この念人形は、いかなる状況においても発動を維持し続けなければならない。

 ・以上の誓約を守れなかったとき、使用者は死亡する。

 

 



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5話

 

 体中、柔らかい。どこも硬いところがない。風が通り過ぎる感触の生々しさ。まるで見えない誰かが肌を撫でて行ったかのようだ。視界を覆う前髪を掻き分け、せわしなく辺りを見回していく。

 

 別世界だった。これが人間の体。心の底から望んだ姿。私は今、どんな表情をしているのだろうか。きっと笑っているのだと思う。

 

 しばらくの間、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

 * * *

 

 そんな調子で長らく感傷にひたっていたが、はっと我に返る。色々と確認しなければならないことが山積みだ。

 

 まず、私の元の体はどうなったのか。今、私の意識は人間の体に宿った状態である。視覚、聴覚、嗅覚、その他の感覚もこの体に準拠している。これは特殊能力として設定した『感覚共有』の作用によるものだろう。

 

 別に私の体自体が人間のものに作り変ったわけではない。これはあくまで念獣、念人形と呼ばれるものだ。能力の使用者である私は別に存在していなければならないはずなのだが。

 

 それとも、この念人形の中に私の本体も取り込まれてしまっているのだろうか。確か、自分の体を元にして具現化した念を身にまとい、変身する能力というのもあったような気がする……。

 

 近くに本体がいないか探してみた。私が目を覚ましたすぐ近くの赤い植物の根元に、掘り進められた横穴を発見する。視点がかなり高くなっていたので気づかなかったが、これは長年愛用してきたマイホームではないか。

 

 手を突っ込んで中を探ってみると、何かに手が当たった。引きずり出す。それは冷たくなった蟻の死骸、私の本体だった。

 

 「し、しんでる……!」

 

 死んだ自分の姿を見ることになった上、人間になって初めて発した言葉がこれとは、二重の意味でショックだ。本体は脚を丸めて縮こまり、ぴくりとも動く気配がない。

 

 どういうことだ。本当に本体が死んだというのなら、今の私の体は何だというのだ。試しに地面に叩きつけてみて、反応がないか調べる。

 

 「いたっ!?」

 

 全身に衝撃が走った。正確にはそういう感覚だけを感じ取った。これはつまり、痛覚が共有されている。まだ本体は生きているということだ。誓約で痛覚共有を切らないように誓ったことが影響しているのかもしれない。

 

 その痛みが呼び水となったのか。本体が目を覚ました。その瞬間、脳内に流れ込んでくる情報の波にめまいがした。これは、人間の体と蟻の体、両方の感覚器が捉えた情報がいっぺんに認識されてしまっているためか。

 

 全く別個の存在でありながら、自分が二人いるという矛盾した状況が成り立っていた。互いの認識がリンクし、意識と情報を共有している。

 

 「きもちわるい……」

 

 駄目だ。気分の悪さを我慢できず、痛覚以外の感覚共有を遮断する。

 

 念獣が持つ『感覚共有』という特殊能力。これそのものは珍しいというほどの能力ではない。偵察用念獣と視界を共有し、遠隔地からでもリアルタイムで情報を受け取れるといった使い方がされる。

 

 だが、よく思い出してみると、念獣使いに限らずこういった遠隔念視の使い手は能力の発動中、自分自身の視界は閉ざされてしまっていたように思う。つまり、「自分が見ている光景」と「遠隔地の光景」の両方を一度に見ることは普通できないのだ。

 

 ただし、中には例外もある。ある亜人型キメラアントは、自らが持つ昆虫の“複眼”を利用し、多数の偵察用念獣と視界を一度に共有する能力をもっていた。確か『超複眼(スーパーアイ)』という能力だったと思う。

 

 私も、短時間ではあったが、確かに二つの視界を共有できていた。視界のみならず全感覚を共有していた。確かに能力を作るときにそういう設定を組み込んでいたが、だからと言ってそれがそのままできるかと言えば話は別だろう。

 

 全感覚の共有化が成功した理由は、『精神同調』にあると思う。この能力によって、私の意識は同一の思考を行う複数の意識共有体となってしまった。結論から言えば、この念人形の体も『精神同調』で操られており、私の意識の一端が形成された状態なのだ。

 

 同一の意思しか持てなかった意識共有体が、別々に思考できるようになった。まさに私が目指していた『複数意思の並列操作』が、ここに完成している。完全に独立した個体、感覚器を有する意識共有体が生まれたことで、それが刺激となって同一思考から抜け出せたのかもしれない。『偶像崇拝』の能力が、図らずも『精神同調』の進歩に役立ったようだ。

 

 だが、不思議なのは意識の主体が念人形の方に移っていることだ。本体である蟻の体が主体となるのが普通ではないだろうか。メインが念人形で本体がサブのような関係になっている。私が人間になることを強く望んだことが影響しているのかもしれない。私は活動を停止して動かなくなった本体に『精神同調』で命令してみた。

 

 『動け』

 

 命令を受けて、本体がその場でグルグルと意味もなく歩き回る。まるで知性が感じられない。これではどちらが念獣なのかわからない。

 

 しかし、今はまだ並列操作の感覚に慣れていないが、練習すれば念人形と本体のどちらも同時に“私自身”として操れるようになると確信した。命令という形ではなく、自らの体を動かすように自然と二つの体を操る。きっとその領域までこの能力を高めてみせよう。

 

 

 * * *

 

 人間になったら、最初にやりたいことがあった。それは“名前”をつけることだ。

 

 蟻である自分に名前は必要なかったし、必要だとも思わなかった。だが、人間に名前がない者はいない。それくらい人間にとっては大事なものであるらしい。

 

 私はこの銀髪の少女を『クイン』と名付けた。女王蟻(クイーン)から取ってクイン。我ながら安直だと思うが、変にひねった名前よりわかりやすくていい。そのはず。異論は認めない。

 

 蟻の姿である私に関しては、今後も名前をつける気はない。本体とでも呼んでおけばいいだろう。

 

 心配していた能力発動を維持するための消費オーラも何とかなった。誓約のせいで毎日24時間、何があろうと発動し続けなければ大変なことになってしまう。これからクインの運用を前提としたオーラの使い方が重要になってくる。

 

 やはり苦手な具現化系能力であるためか、予想より消耗は多かった。その分、クオリティは高く、その出来栄えに文句はない。オーラも普通に何事もなく過ごす分には問題ないし、本体が寝ているときでも余分にオーラを渡しておけば発動を維持できる。しかし、念を用いた戦闘に入ると一気に消耗は危険域に陥るものと思われた。

 

 だが、ここで修行の成果が生きた。卵からのオーラ抽出に成功したのだ。これで消費オーラにかなりの余裕ができた。長いこと『精神同調』の瞑想修行に打ち込んだかいがあったというものだ。

 

 と言うか、最近は瞑想の修行しかやっていなかった。毎日朝から晩まで寝てるのか起きてるのかわからない状態でボーッとしていた。植物の精神状態に近づいていたと言っても過言ではない。『精神同調』の精度が上がっているのも、いつの間にこんなに成長したんだろうと疑問に思うくらいだ。もしクインの具現化ができなかったら、私は今もまだあの状態だったのだろうか。そう考えると恐ろしい。

 

 そこまで自分を追い込んで必死に求めた『偶像崇拝』による肉体の再現性は驚くほど高かった。本当に、人間の体の脆弱さには驚かされる。転んだだけで膝をすりむいて血が出た。しかもめちゃくちゃ痛い。泣いた。そして、よくこんな体で生きていけるなと逆に感心する。

 

 傷はオーラを込めて修復すればいいが、痛覚だけはどうしようもない。アリの体にも痛覚はあるが、ここまで顕著ではなかった。脚をもがれても大して動揺することはなかったが、クインの体で同じことをされたら失神するかもしれない。なんでこんなに不便なのか、そして軽々しく痛覚共有の誓約を作ってしまった自分に腹が立つ。確かにこれは覚悟が必要な誓約だった。

 

 しかし、人間の体になって良いこともあった。一つは運動能力だ。蟻の歩みに比べれば格段に速く走ることができる。そしてもう一つが念能力だ。完全に一人の人間として再現されたクインは、四大行をはじめとする念能力を使うことができた。

 

 その才能は、本体と比べ物にならない。もともとアリであった頃から修行を積み、その下地があるのでゼロからのスタートではないことは確かだが、それを加味しても凄まじい。四大行の制御はもちろんのこと、あれほど苦戦していた応用技までその日のうちに全て習得してしまったと言えばどれだけ規格外かわかるだろう。

 

 応用技『流』は、敵の動きに合わせて適切に攻防力を体の各部へと移動させる技なので、これだけはできなかった。対戦相手がいて初めて修練が可能となる技であり、念戦闘の基本にして奥義とも呼べる応用技だ。これを鍛えるには実戦を積むしかない。

 

 だが、攻防力の移動だけならアリの頃より遥かにスムーズに行えるようになった。他の応用技も拙いながら、一応の形はできた。やはり念能力は人間が編み出した力だけあり、それを扱う上でも人間の体が最も適しているということなのだろう。

 

 クインが身に付けた念の技術は、ある程度本体へとフィードバックすることができるようになった。この逆も然りであり、これからは修行の効率も格段に高まっていくことだろう。

 

 この『偶像崇拝』、最初はポピュラーな具現化系能力として作ったつもりだったが、こうして現に使ってみてわかった。これはとんでもない性能が盛り込まれた能力だ。今にしてみれば重い制約と誓約をつけ過ぎたとは思えない。むしろ、それほどの覚悟がなければクインを具現化することは叶わなかっただろう。

 

 ただ、一つ気になったことがある。クインの系統だ。操作系である私が作った念人形なのだから、クインも当然操作系だと思っていたのだが、水見式の修行をしてみたところ、以前とは異なる反応が出たのだ。

 

 水に浮かべた葉っぱが白く変色していった。これはおそらく特質系を示す変化と思われる。他の系統では現れない特殊な変化が表す通り、特質系は他のいかなる系統にも属さない分類不可の能力であるとされる。

 

 六系統のうち、特質系の発は特質系の能力者しか覚えることができない。他の系統であれば修行次第で苦手系統でもわずかに習得は可能だが、特質系だけは例外だ。これと定まった能力の傾向はなく、一人一人が他に類を見ない発を得る。

 

 私は、自分の系統が特質系へと変化したのではないかと思った。六性図において特質系と隣り合う『操作系』と『具現化系』の体質者は、後天的に特質系へと変化する場合があるのだ。

 

 『偶像崇拝』を完成させるためには具現化系と操作系の両立が不可欠であった。特質系ならばその二つと相性がいい位置にある。私のクインにかける情熱が系統を変化させるに至ったと考えればつじつまは合うような気もする。

 

 しかし、検証のためアリ本体である私が水見式をしてみたところ、操作系を示す変化が見られたのだ。いつものように葉っぱは見事な高速回転を見せてくれた。つまり、本体は操作系なのに、クインは特質系というバラバラの結果が出たことになる。わけがわからない。

 

 まあ、一から念能力で作り出された本物の人間というのは、もはや具現化系や操作系の領域を通り越して特質系と言えなくもない、か?

 

 

 * * *

 

 

 今日も今日とて修行に励む。クインが生まれてからは心機一転、修行にもさらに身が入るというものだ。

 

 降りしきる雨の中、クインは蟻本体をダンベル代わりに筋トレを行う。始めたばかりだが、既に腕がぷるぷるしてきたぞ。この体はあまりにも貧弱すぎる。オーラの強化なしでは腕立て伏せ10回もできなかった。オーラを使うと筋トレにならないので、今は絶の状態だ。

 

 本体の重さは5キロくらいだろうか。金属質な見た目通り、割と重い。クインは本体から常にオーラを供給されているため、できればこうしてくっついていた方が効率は良い。クインはほぼ人間と同じ体の構造をしているが、オーラの生産はできず消費するのみである。このオーラこそがクインを形作る全ての構成要素であり、欠かすことはできない。

 

 ちなみにクインは全裸だ。服は具現化できなかった。さすがにこれ以上メモリを使用してまで服を作ろうとは思わないが、服は欲しいところだ。衣食住の三要素が人間的な生活を送る上で欠かせないという。食は何とかなっている(クインはオーラさえあれば食事の必要はない)が、衣と住が壊滅的だ。

 

 服はもちろん、雨風を防ぐ家もない。マイホームはクインには狭すぎるので、現在相応の大きさの横穴を拡張中である。雨季でも気温は高いので雨にあたっても風邪をひくことはないが、濡れ続けるのはうっとうしいのでやはり屋根が欲しい。

 

 荒野には点々とだが木も生えているので、それを使って何とかできないだろうか。ノコギリなどの道具もなく、釘もなく、自生している木だけで家を作る……まあ、徐々にやっていこう。今は修行に集中だ。

 

 体力トレーニングも最近は取り入れたが、メインは念の修行である。とにかくクインの脆弱さを補うため、念能力を高めることは急務であった。誓約によって彼女の死はイコール私の死でもある。それ以前に念人形とはいえ、彼女は私の分身、いや私自身と言っていい存在だ。誓約なんかなくても簡単に見殺しにする気はない。

 

 クインのスペックは確かに高い。その才能には目を見張るものがある。しかし、特質系という体質が強くなる上でネックとなっていた。

 

 特質系は発現率が非常に低く、ユニークで強力な能力を覚える。しかし、他の系統と比べたとき最も『強化系』と相性が悪く、能力抜きの純粋な戦闘力では劣ってしまう。修行の仕方を考えなければならない。

 

 念の修行には大きく分けて三つの分類がある。まず基本の『四大行』、それらを複合した『応用技』、そして発の鍛錬を主軸に置いた『系統別修行』がある。中でも系統別修行は発の威力や精度をあげる上で重要になってくる。自系統はもちろん、隣り合う相性の良い系統も並行して鍛えることで基礎力の底上げができると言われる。

 

 だが、修行効率という点を抜きすれば、自分の不得意系統まで必死になって覚える必要はない。得意系統をしっかり押さえておけばいくらでも応用が効くので、無理に他系統を実戦で使えるレベルまで育てる必要はないのだ。

 

 しかし、『強化系』だけは別。この系統はものの持つ力や働きを強化する能力であり、自分や装備品の力や耐久性を上げることができる。攻撃力、防御力、自己回復力、五感といった戦闘に直結した力を強化する能力であるため、自分がどんな系統であろうとこれをおろそかにすることはできない。強化系能力者が一強と言われるゆえんである。

 

 先ほども述べたが、特質系は強化系との相性が最悪だ。それだけで相当に不利な条件に置かれてしまう。特質系能力者はその弱さを強力な固有能力でカバーするのだが、クインの場合はそのアドバンテージもない。特殊能力の使えない特質系……。

 

 何よりも心配なのは肉体の強度だ。オーラの体外への瞬間的な最大出力量を『顕在オーラ量(AOP)』と呼び、これが大きいほど高威力の技を使うことができ、防御に回せる力も大きくなる。クインは本体と比べてこの値がかなり高く、特質系ではあるがある程度の強化率は保てているように思う。

 

 しかし、攻防力(オーラによる実質強化率)は本体の方が遥かに高い。攻防力はオーラだけでなく、肉体の素の強度にも大きく影響されるからだ。もともと強固な外骨格を持つ本体は、オーラによる簡単な強化で何倍にも防御力がアップするが、二の腕ぷにぷにのクインではどんなに頑張って強化したところでその域には届かない。

 

 まあでも、クインにはクインの良いところがある。アリの体ではできない運動性を発揮できるし、繊細な動きも可能だ。筋トレによる素体の強化も頑張っている。顕在オーラ量もまだまだ成長段階だ。伸びしろは大きい。

 

 

 キチ、キチ

 

 

 次は腹筋でもやろうかと思い始めた頃、耳障りな金属音が聞こえてきた。赤い森の中から蟻たちがぞろぞろと姿を現す。それは王アリと直属護衛軍の面々だった。

 

 キメラアントの女王アリは、自分の群れがある程度の規模まで大きくなると兵アリの生産を止めて定期的に王アリだけを産むようになる。こいつらも、森の中心部にある群れから生まれた新たな王アリなのだろう。

 

 しかも、その王アリの数が一匹や二匹ではない。彼らは他種族の雌を孕ませて次世代の女王アリを作らせるのだが、この荒野にはその交尾相手がいない。だから森の中で王アリが飽和状態となっているものと思われる。

 

 で、なんでわらわらとクインの前に集まってきているのかと言えば、そういう目的のためだろう。クインは人間の女の子である。

 

 よし、殺そう。

 

 同族はなるべく殺したくはないが、こいつらは別だ。何のためらいもなく手を下せる。見ているだけで嫌悪感がこみあげてくる。殺意を抑えられない。

 

 クインの素手で殴ると痛いので、そこらへんに落ちている石を『周』で強化して鈍器とする。『周』は『纏』の応用技で、武器などの装備品をオーラで強化し、耐久力や破壊力などを向上させる技である。

 

 ただの『纏』よりも遥かにオーラの消耗が激しい上に、使い慣れた愛用の道具でなければ強化の効率も低下する。ただの石を周で強化したところでたかが知れているが、修行にはうってつけだ。

 

 アリたちの動きは遅く、何の脅威でもなかった。これに捕まって孕ませられる奴はよっぽどの間抜けだけだろう。邪魔な護衛軍は本体が適当にあしらっておく。

 

 向かってきた王アリを石で殴りつけた。クインの顕在オーラ量に物を言わせた非効率的な凶器がアリの装甲に打ちつけられる。さすがに硬く、傷をつけることはできない。衝撃は内部に通っているだろうが、一発や二発殴った程度では殺せない。

 

 むしろ、その耐久力は私の望むところだった。一発一発、丹念に殺意を込めて、石を振り下ろす。こんな感じの修行があった気がする。確か、強化系系統別修行の『石割り』だ。武器となる石を割らないように強化しながら目標を叩き続ける。力を入れ過ぎず抜き過ぎず、バランスを考えて強化しないと簡単に石は砕けてしまう。単純ながら、なかなか神経を使う作業だ。

 

 その後も、クインは黙々と石を振るい続けた。

 

 

 * * *

 

 

 クインが生まれたことで、『精神同調』の精度は着々と上がっていった。本体との感覚共有も問題なくこなせるようになる。今ではどちらが主体と感じることもない。二つが共に主体として、意識を共有しながら別々の行動を取れるようになった。

 

 卵の方に宿る意識も、制限付きで独立させることに成功する。ただ、これはまだできることが少ない。主な使い道はオーラの引き出し。クインのバッテリーと化している。念人形にオーラを送り込むことは念獣操作の初歩であり、卵からクインへオーラを直送するのは難しいことではない。

 

 そもそもこの卵、意識が宿っていると言っても、脳も形成されていないのにどうやって思考しているのかという疑問もある。肉体的な機能としてではなく、魂のような存在として意識が働いているのかもしれない。念能力という超自然的現象の産物と説明するよりに他になかった。

 

 この卵との意識共有について、いくつかの疑問点が解明された。

 

 一つ目は、オーラ総量が増えたことで、一気に強化率の増強が図れるのではないかという点だ。二人分のオーラを強化につぎ込めば二倍、三人分なら三倍の強さを手に入れられるのではないか。

 

 結論から言って、それはできなかった。どれだけオーラをつぎ込んでも、顕在オーラ量(AOP)を越えた力は出せないのだ。いくら水源が豊富にあろうと蛇口から出て来る水の勢いは変わらないというわけだ。潜在オーラ量が人より格段に優れていることに変わりはないので継戦能力に長け、消耗戦に強いことは確かだが、ちょっと残念に感じてしまう。

 

 現状、卵の使い道がクインの燃料にしかならないというのがもったいなさ過ぎるので、これについては他の技に応用できないか模索中である。

 

 二つ目の疑問。卵が持つ容量(メモリ)はどうなっているのか。以前、「腹の中に千にも及ぶ念能力者を抱え込んでいる状態」と例えたが、これが言葉通りならもうメモリの問題で悩む必要はない。どんな強力な能力だろうと、いくらでも作ることができてしまう。

 

 そんなうまい話はなかった。『精神同調』で作り出した意識共有体は、自動的に私と同じ能力を始めから取得している。つまり、強制的に『精神同調』と『偶像崇拝』を覚えてしまうので、メモリに空きなんてない。

 

 現に新しい能力をいくつか作ってみたが、どれも身につくことはなかった。一例をあげると、

 

 

能力名:『不必要な死化粧』

効果:使用者が負ったあらゆるダメージを回復し、健康状態へもどす。

制約:なし

誓約:効果発動から10秒後に使用者は死亡する。

 

 

 ダメージの完全回復と引き換えに、余命を10秒に縮めるというあまりにもリスキーな能力だ。どうしても勝てない相手に最後の一矢を報いるためとか、死の間際に最後の伝言を残すためくらいしか使い道が思いつかない。まず、なんでこんな能力を作ろうとしたのか、その経緯を説明しなければならない。

 

 この『使用者の命を賭ける』という文言は、誓約の中でもトップクラスに高い効果を引き出せる誓いだ。命と引き換えに力を得る。これに勝る覚悟はそうそうない。それも「~したら死ぬ」とか「~しなければ死ぬ」と言った条件付きで罰を課すのではなく、死ぬことを最初から前提とした誓約となればさらに効果は強くなるだろう。

 

 この命を賭けた誓約は、『偶像崇拝』において既に使っている。クインと本体は一心同体。どちらかが死ねば片割れも死ぬ。文言通りに捉えるならそうなるはずだが、実はこれにはある思惑があった。私は、本気で命を賭けているわけではない。抜け道を用意していた。

 

 私にとって命とは、一つ限りのものではない。正確には個としての死はさしたる問題ではなかった。新陳代謝で入れ替わる細胞のように、意識集合体は生と死を繰り返している。

 

 さすがに蟻本体が壊れればおしまいだが、おなかの中の卵はよく死んでいた。ストレスで死んだり、修行の物理的なダメージで死んだり、不良品ができたり……そうして死んだ卵の代わりに次の卵が作られ、補充されている。

 

 死は日常的な経験だった。本体が無事で、意識集合体の一つでも残っていれば再生が可能なのだ。

 

 よって、誓約により死ぬことになっても卵を一つ犠牲とすることで切り抜けられると考えた。確証はないが、直感的に間違っていないと思う。念能力を作る上で重要なのは、そういう直感だ。その思惑を組み込んだ上での誓約だった。

 

 死が大した誓約にならないというのは賭けるチップとしての価値を貶めることにつながりそうな気もするが、それでもこの体質を利用しない手はないと思った。うまくいけば強力な誓約をつけたい放題だ。

 

 そういうわけで考えた能力が『不必要な死化粧』である。死と引き換えにダメージを回復する。形式上のリスクとリターンは釣り合いが取れているはずだ。10秒の猶予は保険として取り入れたが、別になくてもよかった。私ならこの能力をデメリットなしで活用できる。

 

 まあ、覚えられなかったわけだが。メモリが無限ではないという証明になった。回復という特性上、この能力は強化系に属する。操作系と相性が悪い上に、強化系の中でも目覚めることが非常に珍しい回復能力は高望みが過ぎたか。

 

 しかし、簡単には諦められない。既に二つの能力を作り、メモリの空きがどれだけ残っているのかわからないが、あと一つくらいなら能力を作れるかもしれない。他の能力も考えてみた。

 

 

能力名:『身代り人形(仮)』

効果:人形を操り、使用者のダメージを肩代わりさせる。

制約:①人形を携帯しておくこと。②人形が少しでも壊れたら使えない。

誓約:効果発動から10秒後に使用者は死亡する。

 

 

 操作系の能力、物体操作だ。人形を操って動かしても戦闘にはあまり役に立たないだろうから、特殊能力ありきで作った発である。

 

 人形は子供の玩具という認識が強いが、元来は厄避けの呪術具として作られたものだったと思う。その背景を物体操作によって昇華すれば特殊能力として使えるかもしれない。かなり強引な理屈だけど。

 

 今度は得意な自系統の能力だし、制約も重めに作ったのでいけるかと思ったが、これも駄目だった。私のメモリの空きはもう残っていないか、残っていてもわずかしかないのだろう。せっかく苦労して木彫りの人形まで作ったのに。

 

 もしかしたら、『偶像崇拝』のときと同じように長く修行を積めば習得できるのかもしれないが、そこまでのモチベーションはなかった。あれと同レベルの修行はいくらなんでも辛すぎる。色んな能力を考えはしたが、心のどこかで「これは無理」という線引きができてしまった気がする。もしかすると、これが『容量(メモリ)』という概念そのものなのかもしれない。

 

 

 * * *

 

 

 「収穫なし」

 

 今日は久しぶりに晴れたので、ジョギングも兼ねて荒野探索の遠征を行う。本体は頭の上に乗せている。これがなかなかのウェイトになり、バランスを保って走らないとよろけそうになる。纏を使って、かなりの速度で走ったが、荒野はどこまで行っても荒野だった。

 

 アリだったときもこういった遠征は何度も行っている。しかし、いまだにこの荒野を抜け出せたことはない。広すぎる。そして何もない。おそらく、赤い森を旅立つくらいの気持ちで本気の遠征をしないと出口は見えない。

 

 一応、赤い森が見えなくなるくらい離れても迷わず戻る手段はある。私は蟻だ。巣から遠く離れても道しるべフェロモンを使って場所をたどれるのだ。それでも万が一の事態を考えて、赤い森を中心に日帰りできる程度の範囲を探っていたが、今後はもっとその範囲を拡大していく必要があった。

 

 クインは華奢な自分の体を見つめ直した。私は本当に強くなれているのだろうか。この荒野を越えていけるほどの強さを得ているのだろうか。

 

 キメラアントの原産地は暗黒大陸と言われている。とにかく危険な場所らしいが、具体的なことはわからない。私の中に、その先の記憶はなかった。物語が途中で終わっているような感じだ。

 

 ここが暗黒大陸に位置するのだとすれば、この荒野は比較的安全な場所なのだろう。この先に待ち受けているかもしれない脅威に対して、私はどれだけ戦えるのだろうか。

 

 昔の自分より格段に強くなっていることはわかるが、どこか思い通りにならないもどかしさがあった。『精神同調』は思ったほど活用できていないし、『偶像崇拝』ではメモリを使い果たしてしまった。どちらも戦闘において直接的な攻撃となる発ではない。

 

 ないものねだりだということはわかっているし、この二つの能力を作ったことに後悔もしていない。それでも拭いきれない不安はあった。

 

 あと一つ。最後の悪あがきに、新たな発を作りたい。メモリの最大値は個人の才能によって大きく変わるが、だいたい一人につき一個から二個くらいの能力を覚えられる。多くて三個が限界だろう。

 

 中には六個くらい覚えている人もいたし、他人の発を盗んで使うという規格外もいた。そこまでの力は望まないが、私もそこそこの才能はあると思う。最後に試しておきたい能力を考えていた。

 

 能力名は『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』。効果は念弾。これは放出系の発である。オーラの弾丸を飛ばす遠距離攻撃で、放出系としては基本的でありふれた能力だ。

 

 ロングレンジを確保できることはそれだけで強みだが、ある程度の使い手ともなれば銃弾くらいの威力は防ぎきれるので、遠距離攻撃に頼らなければ戦えないような能力者は接近戦に持ち込まれて倒されることも多いような気がする。

 

 だが、それも結局は個人の力量次第。一発に込める威力が高ければ砲台と化し、連射性を極めればマシンガンのように弾幕で制圧できる。実物の弾丸に念を込めて威力をさらに増幅させたり、具現化させた弾丸を使用するなどの使い方もある(放出系は具現化系と相性最悪なので、別の具現化系能力者が作った弾丸を使うという協力体制がとられることも)。

 

 放出系と相性の良い私なら、念弾もそれなりに高い精度で扱えるはずだ。そこに誓約を加えることでさらに威力を強化する。“使えば死ぬ”という誓約を。

 

 普通の人間ならまず作らないし、作れない能力になる。戦うということは何かを守ることで、普通はその守るべきものの中に自分の命も含まれるだろう。それを犠牲にしてまで攻撃しなければならない状況は想定されるべきではない。だからこそ、この能力は相応の力を得るはずだ。

 

 特殊能力もない、ただの念弾。この程度の発も使えないようならメモリの空きはないものとしてスッパリ諦めがつく。覚えられたら、そのときは本当にメモリを使いきったことになり、「もしかしたらまだ能力を覚えられるのでは?」と悩まずに済む。

 

 クインは本体を両手で持ち、発射体勢の構えを取る。

 

「……」

 

 結果的に卵が死ぬことは数え切れないほどあったが、意図的に“殺す”のはこれが初めてだ。『不必要な死化粧』や『身代り人形』を使おうとしたときも思ったことだが、誓約が与える死の概念は、本当にその小さな犠牲だけで満たされるものなのか。しばし、逡巡する。

 

 それでも結局、答えは変わらなかった。私は暗黒大陸を旅して、いつか人間が住む世界へと行きたい。人間に会ってみたかった。人間がどういうものなのか知りたかった。その過程で、おそらく私はこの先、想像を遥かに超えるような脅威と対峙する時がくる。

 

 乗り越えるためには力が必要だ。それも常識の範囲に収まるような力では足りない。自分よりも強い者を、遥かに巨大な敵を倒すための手段が必要だ。

 

 一撃必殺。その代償として、命を払うことになるというのなら受け入れよう。その上で、生き延びる。この破綻した理屈を貫き通せる覚悟こそが、私の持つ強さなのだから。

 

「『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』」

 

 閃光が視界を焼いた。

 

 それは弾ではなかった。一条の光の柱が、どこまでもまっすぐに伸びていく。すさまじいエネルギーの放出。それと同時に死の気配が私の中で広がった。

 

 卵が死んでいく。一個や二個ではない。犠牲とした卵を中心に、まるで感染するように死が伝わる。即座に死んだ意識を集合体から切り離すが、それでも止まらない。隔離と漏洩を繰り返す。

 

 誓約として死ぬことを前提とした能力を作ったが、具体的にどのように死ぬか、その方法を決めていたわけではなかった。結果的にその代償はオーラとして贖われる。技を発動させるため、生命を消失させるほどのオーラが消費されていく。

 

 わずか数秒にも満たないその時間は極限まで圧縮されていた。自分の中で大きくなる空白地帯に恐怖する。そして今、私がすべきことを理解した。

 

 隔離してはならない。拒絶してはならない。死んだ自分を切り離すのではなく、自分が死んだことを認めなければならない。

 

 あなたはわたしだ。

 

 光線は細く収束し、途切れるように絶えた。雨上がりの地面に残った水気が蒸発し、霧となってたちこめる。精も根も使い果たし、クインは倒れるように膝をついた。

 

 卵の約半数が一瞬にして死滅した。瞑想によって『精神同調』の精度を上げていなかったら被害はもっと大きかっただろう。私の全てがここで死んでいたかもしれない。覚悟していたこととはいえ、恐ろしい体験だった。

 

 霧が風に流され、視界が開ける。まっすぐ前に向けて撃っていたつもりだったが、放出の勢いに押されて手元が動いたのだろう。大地を二つに割る線が走っていた。

 

 深く切り取られた巨大な溝が目視できないほど遠くまで続いている。クレーターのような無駄な破壊の跡は一切なく、通り道の上の障害物を消し去ったかのように抉れていた。

 

 これが数百の命を犠牲として得た力。失うものも大きいが、確かに、それに見合うだけの威力があった。手に入れた力の強大さに身震いする。

 

 クインは立ち上がろうとするが、動きがぎこちなかった。卵の犠牲だけでなく、貯蓄していた分のオーラまでほぼ全て使いきってしまった。良くも悪くも融通のきかない全力の一撃。軽はずみには使えない能力だ。

 

「……?」

 

 絶をしてオーラの回復に努めていたとき、目の前の光景の異変に気づいた。念弾で先ほど作った溝に液体が溜まり始めたのだ。

 

 こんな効果を『犠牲の揺り籠』に付けた覚えはない。謎の液体は地中から染み出るようにどんどん溜まっていく。その色は鮮やかな赤だった。そして、漂ってくる強烈な生臭さ。

 

 その直後、思考を遮るように大地が揺れた。立っていられないほどの揺れ。これまでこの荒野で地震が起きたことはなかった。私が撃った念弾と無関係とは思えない。

 

 地下に何かがいる。この赤い液体は臭いからして間違いなく、血液だ。私が立っている地面の下に生き物が潜んでいた。ここが暗黒大陸だとすれば不思議なことではない。

 

 よりによって、この最悪のタイミングで恐れていた巨大生物を呼び起こしてしまうとは。今は、まずい。クインの具現化を維持するのに精いっぱいのオーラしか残っていない。本格的な戦闘が始まればすぐに枯渇してしまう。

 

 クインを具現化しきれなくなれば誓約による死が待っている。さっきの二の舞だ。卵のストックが減った今、もう一度あのペナルティを受ければ耐え抜ける自信はない。

 

 言うことを聞かない体に鞭打って、クインを走らせた。逃げるしかない。まだ敵はこちらの存在に気づいていない可能性もある。絶を使って気配を絶てば何とかなるかもしれない。

 

 しかし、走り始めてすぐ、次なる異変に気づいてしまう。

 

「山が……!」

 

 伸びている。と、しか表現できない。

 

 この荒野で唯一、地平線の先に見える遠い山。いつも夕日はその山の向こうへと落ちて行く。私は『西の山』と呼んでいた。私が生まれてこのかた、変わることなく雄大にたたずんでいたその山が天を衝くように伸びあがっている。

 

 何が起きているのか理解できない。山は急に標高が高くなったりしない。私の中にあるその常識は間違っていたのだろうか。これも私が撃った念弾の影響だと言うのか。事態の把握のため、必死に周囲を見回す。

 

 そして、見てしまった。足が止まる。私がまだたどり着いたことのない荒野の向こう、東の果てにそれはあった。

 

 蛇の頭だ。いや、亀だろうか。それが後ろを振り返るようにしてこちらを見ている。目がおかしくなったのかと思った。遠近感覚が狂ったとしか思えない。だって、ここから見てあの大きさだと、西の山と同じくらいの巨大さになってしまう。

 

 東の果てに頭があり、西の果てに尾がある蛇。だとすれば、この荒野は、

 

「あ、あああ」

 

 空が陰った。尾の山が、正午の太陽を遮るほど高く伸びあがっている。それはゆっくりと倒れてきた。影は空を覆い尽くし、夜よりも暗く、星の残光すらなく、押し固められた闇が。

 

 天が落ちた。その日、私は故郷を失った。

 

 

 ―――――

 

 『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』

 

 放出系能力。念弾。

 

 【制約】

 ・なし

 

 【誓約】

 ・使用者は死亡する。

 

 

 



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アルメイザマシン編
6話


 

 寒い。

 

 ただ、寒いとしか感じない。それは体が発する警告としての信号でしかなく、特に苦痛というわけではなかった。意識はむしろ生ぬるい眠りの淵にあるかのようで、逆らわずに身を任せている方が楽だった。

 

 視界は真っ暗。体の周りは土で固められている。私は地中にいるようだ。クインはいない。おそらく土砂に押しつぶされて死んだのだろう。クインを失った代償として、卵もごっそりと数を減らしていた。ストックはもう数えるほどしか残っていない。

 

 生きていることを喜ぶべきなのだろう。とっさに全力の堅で防御したこと、誓約による死の代償が寸でのところで留まったこと、それらを含めた運に救われた。

 

 寒さが体の自由を奪う。氷の中にいるかのように冷たかった。始めは体に重大な損傷を負い、そのダメージが感覚を麻痺させているのではないかと思った。だが、私の感覚が狂ったわけではなかった。実際に、気温が低下している。

 

 何が起きているのかわからないが、このままでは死を待つのみだ。熱帯気候で生まれ育った私は、寒さに弱いらしい。とにかく、地上に出るため土を掘る。

 

 纏をしていなければ少しも動くことができない。どうにか土を掻き分けながら上を目指すが、地上へと近づくほどに寒さは増していった。

 

 地上には太陽があるはずだ。うだるような熱気に包まれた荒野があるはずではないのか。なぜどんどん寒くなっていくのか。私は上へ登っているのか、下へ降りているのか。体力は消耗し、活動限界が近づいてくる。

 

 動けなくなる寸前というところで、ようやく光が見えた。これで助かったと思った私が見たものは、救いでもなんでもなかった。

 

 氷に覆われた世界だ。生物の気配は一つもなく、極寒の冷気が吹き荒れていた。空からは拳大の雹が音を立てて降り注ぎ、地表を覆う薄氷を叩き割る。

 

 突如として爆発音が鳴り響いた。巨大な盆地の底から凍った粉塵が巻きあがる。それに続いて吹き出したのは溶岩だった。凍てつく冷気を帯びた青い溶岩が噴火によって吐き出され、熱という熱を奪っていく。

 

 異次元の光景としか言いようがない。そして、なぜこうなったのか原因を解き明かす時間は残されていなかった。体を動かせなくなってしまった。纏によって最低限の内臓機能を維持するだけで精いっぱいだった。

 

 やむなく『偶像崇拝』を使う。クインを具現化して本体を運んだ。卵のストックはなく、具現化の維持に必要なオーラの確保は難しい状況だ。それでも、この極寒の環境で活動するためには恒温性を持つ人間の体でなければならない。

 

 この環境下では、クインの長期運用は不可能だ。体温の維持だけでも相当のオーラを消費する。走るために纏による身体強化も施さなければならない。一回でも戦闘に突入すれば、即刻オーラは尽き果てて死亡するだろう。今度こそ本当の死が待っている。

 

 迷っている暇はなかった。走り出す。一歩踏み出すたびに、霜が足の裏に突き刺さり、貼り付いた皮膚が剥がれて激痛が走った。傷を修復するよりも、傷ついたまま痛みがなくなるまで感覚が麻痺した足で走り続ける方が楽だった。

 

 殴りつけるような雹が降ってくる。その傷も、修復はしなかった。少しでも遠くまで走るためにはオーラを節約しなければならない。突き刺すような寒さも我慢しなければならない。

 

 とてもではないが耐えられる寒さ、痛さではない。人間の体は弱い。ささいな刺激にさえ過敏に反応し、行動不能に陥るほどに痛覚が肉体を苛む。そして、私は誓約によってその痛覚から逃れることができない。

 

 それはとても辛く、同時にありがたいことでもあった。私は生きているのだと、生きたいのだと実感できた。眠るような死を受け入れようとする気持ちは失せた。苦痛を噛みしめながら、ただ前へと進む。

 

 この寒冷火口から脱出するのが先か、オーラが枯渇するのが先か。終わりの見えない逃走を続けた。

 

 

 * * *

 

 

 暗黒大陸とは、怪物と災害の坩堝である。巨大生物が跋扈し、過酷を極めた自然環境が横行する。およそ人が住める場所ではない。

 

 私の認識は甘かった。この場所の厳しさを何一つ理解していなかった。キメラアントであるから、念能力が使えるから、だから何とかやっていけると、その程度にしか考えていなかった。

 

 今思えば、あの荒野は特異点だったのだ。平穏であることが、この大陸では異常だった。あの何もない荒野こそが最初で最後の楽園であり、私は自らその場所を破壊したのだ。これまで私が世界だと思ってきたものは巨大な蛇の背中に過ぎず、私はその上で平穏をむさぼる寄生虫にも等しい存在だったのだと知る。

 

 氷原を走り抜け、命からがら逃げのびた先にあったのは目もくらむような断崖絶壁だった。私が埋まっていた場所はやはり山の上だったらしい。依然として寒さは続き、ろくに本体を動かせない状況で、ほぼ垂直に近い山肌を生身一つで下山する。絶望しかなかった。

 

 吹雪の中、決死の覚悟で崖を降りて行く。視界は雪雲に閉ざされ、崖下は数メートル先も見渡せない。足を踏み外せばどこまで転がり落ちて行くかわからなかった。そして時折、思い出したように“火山活動”が始まり、地面は大きく揺れた。噴火が始まると、吹雪はさらに激しさを増した。

 

 岩の隙間にわずかに生えた苔を食べて飢えをしのぐ。食べれば卵を作ることができ、クインの活動時間も伸ばせる。なんとか生き延びる算段を立てていた矢先、クインは死んだ。滑落ではなく、捕食されて死亡する。巨大な怪鳥が一瞬のうちにクインをくわえて飛び去っていった。

 

 悲観はしなかった。遅かれ早かれ、クインは崖から足を滑らせて死ぬだろうと思っていたからだ。もうクインを呼び出すことはできなかった。この寒さの中で本体が活動するには、全力で『練』を維持しなければならない。『纏』を切らせばその場で凍死してしまうため、その分のオーラを残しつつ、一日に使える練の時間は数分ほどだ。そのたった数分しか、下山の時間は与えられない。蟻の体なら多少の足場の悪さは克服できるが、一つのミスが落命につながる死の下山。

 

 体を休められるような岩の隙間を見つけられれば望外の幸運だ。たいていは、いつ崩れるとも知れない岩肌にしがみつきながら昼も夜もわからない吹雪の中で過ごさなければならない。下山は遅々として進まなかった。いっそ、足を放して自由落下に身を任せた方がいいのではないかと何度も思った。全力で『堅』をした状態なら落下の衝撃にも耐えられるのではないか。普通の蟻だってどんなに高い場所から落としても死なないじゃないか。

 

 虫が高所から落下しても死なないのは、体が軽いからだ。空気抵抗を受けやすく、落下速度は自然と緩まる。結局、その法則が私の体にそのまま当てはまるとは思えなかった。体長20センチほどの大きさに数キロの重さを持つ密度の物体が落下すればどうなるか。どれだけオーラで強化しようと内臓に達する衝撃を殺しきる自信はない。何の確証もなく賭けに踏み込むことはできなかった。

 

 ある日、深い岩の割れ目を発見する。1メートルほどの亀裂だった。中は私が入っても十分なスペースがある。そして、奥には苔が群生していた。この火山活動で揺れる不安定な地盤の中で、これだけの苔が生えるのに必要な時間、この亀裂は潰れずに存在している証だ。食料があり、吹雪から守られ、体を休められる空間。まるで下山を成し遂げたかのような達成感に包まれた。

 

 しばらく、その亀裂の中で体力の回復に努めていると晴れ間が見える日があった。雲が風に流されたのか、ほんの一時だが吹雪が止んだ。吉兆かに思えたその束の間の時間、崖下を覗き込んだ私は世界を呪った。そこにはあまりにも遠い、ふもとまでの道のりが見えた。下り終えるのに何年かかるかわからない。

 

 進むしかなかった。あるときは冷気を撒き散らす白い巨鳥が通り過ぎ、あるときは重力を無視したかのように垂直の壁を疾走する狼の群れとすれ違った。ひたすら纏と練を繰り返し、死と隣り合わせの崖下りを続ける。次第にオーラの扱いに長け、行動可能時間が増えた。下山が進むにつれ、気温が上昇し、体が動くようになった。

 

 そして、ふもとにたどり着く。そこは一面、黒く染まった森だった。木々も動物も、黒に侵食されている。その正体はカビだった。肉を腐らせた半死半生の巨獣たちが徘徊する。空気は毒に汚染されていた。

 

 その先には、赤い大河が道を遮っていた。竜かと見紛う巨魚が無数に泳いでいる。その全てがヤツメウナギのような姿をしていた。吸盤のような口で仲間の体に食らいつき、互いの血を啜り合い、殺し合っていた。

 

 その河を迂回すると、奇抜な植物の群生地帯があった。恐竜のような大型の肉食動物が、なすすべもなく植物に捕食されていた。その先には、幻覚を見せる光の湖。雷鳴渦巻く渓谷。空気の希薄な森。それらはまだ理解できるからいい。

 

 異形の猿が一列に並ぶ高原。色とりどりの肉片で溢れ返る川。空を飛ぶ奇岩群。それが何なのかさえわからない脅威にさらされる。

 

 どこに行こうと安息の地などない。暗黒大陸とは、そういう場所だった。

 

 

 * * *

 

 

 クインは森の中を歩いていた。目立つ銀色の髪は頭の上で結いあげ、泥で固めている。体中にも泥を塗り、肌の色を少しでも見えにくくしている。その体は以前と変わらず華奢なまま、どれだけ鍛えても筋肉はつかず、肌が日に焼けることすらなかった。

 

 後で気づいたことだが、これは制約である「デザインを変更できない」による効果だと思われる。つまり、筋力トレーニングに意味はなかった。具現化するときに鍛えられた体を想像しながら作っても、やはり見た目は前のままだ。最初に決めた姿にしかなれないらしい。

 

 外傷を負うことについてはデザインの変更ではなく、単に破損したものとして扱われるため状態は変わらない。しかし、流血し続ければ生命維持のために大量のオーラを消費し続けるので、結果的に修復せざるを得ない。頭部や内臓など急所への致命傷を受ければ、普通の人間と同じように死亡し、発動は維持できなくなる。

 

 これまでにクインは数え切れないほど死んでいる。誓約による死にも慣れてしまった。死の代償は、卵数個の犠牲で抑えられるようになった。私はこれを利用して強敵から本体を逃がすためだけの囮としてクインを使い潰すようになった。

 

 その判断自体を間違いだとは思わない。実際、そうしなければ本体が死んでいたかもしれない局面はあった。だが、その頃の私はあまりにもクインの存在を軽視しすぎていた。なぜ、こんな役に立たない能力を作ったのだろうと後悔さえした。複数の系統にまたがり膨大なメモリを使う能力ではなく、自分の系統に合わせた能力を作っていればもっと生きやすくなったのではないかと。

 

 その思考が反映されるように、クインの操作精度は落ちていった。消費するオーラ量は跳ね上がり、発動を維持するだけで手一杯の状態に陥った。この明らかな性能低下の原因を、最初は理解することができなかった。

 

 原因は制約と誓約の甘さにあったのだと思う。『偶像崇拝』の誓約は守れなければ使用者は死亡するというものだが、これは命が複数ある私にとってもはやデメリットではなかった。誓約とは自らを縛る不利な条件を背負うことで、その覚悟の大きさに応じた力を引き出すものだ。それをまるで文面上の言葉遊びのように扱い、抜け道を用意していた時点で覚悟足り得なかった。『守れなければ死ぬ』という誓約は、単に『卵を犠牲にする』という言い回しの違いでしかない。

 

 普通の人間にとって命とは一つしかないものだ。それを賭けるからこそ誓える覚悟であり、その対価がある。『偶像崇拝』を会得した当初は、まだ死に対する恐怖が残っていた。いくら命のストックがあると言っても、実際に誓約を破ったときどの程度の罰が下るのかと恐れていた。多少なり死に対する覚悟はあったのだ。それがいつしか死ぬことを、クインを殺すことを何とも思わなくなってしまった。それが結果的に誓約の効果を弱め、能力の性能低下を招くことになってしまった。

 

 このままでは本当にメモリを無駄に食うだけの使い道のない能力になってしまう。何よりも、私が理想として作り上げた自分を、自分自身が否定しているという心境こそがクインの力を弱めてしまったのだろう。

 

 そう思った私は誓約をつけ直した。本来、一度決めた能力の内容はあとから付け加えたり変更することはできない。だから私は、誓約中に記された“死”の概念をより具体的に定めることにした。『誓約を守れなかったとき、限界所持数の三分の一以上の命を失う』とした。およそ私の卵の最大所持数は約1000個だ。誓約を破ればペナルティとして最低でも333以上の命が死ぬ。ストックが十分にあるという前提で、安全に能力を連続発動できる回数は2回に限られてくる。一応、3回まで使えはするが、そのクインが殺されたとき本体も死ぬことになる。

 

 三分の一という数字は、見ようによってはまだ甘いと言えなくもない。だが、今の自分にはこれが限界だ。クインという一人の人間は、この暗黒大陸においてあまりにも無力である。連続して2回“しか”死ねないという誓約は重い。クインという存在を認めるために立てた誓いであった。そのおかげで今では以前の性能を取り戻している。それでも弱いことに変わりはないが。

 

 しかし、この世界を生き抜くためには持てる力を最大限に引き出していかなければならない。新たに誓約の内容を厳しくしてまで使うほどの価値がクインにはあると気づかされた。本体に比べれば脆弱極まりない彼女だが、この体にはこの体の利点があるのだ。決して、全ての能力が本体に劣っているわけではない。

 

 その一つが危険察知能力である。人間の体の方が、五感が遥かに鋭敏であった。この場所では何よりもまず戦闘を避けることが重要視される。そのために最も必要な能力が迅速な状況判断であり、その基盤となる情報収集力である。戦闘力は二の次と言ってもいい。

 

 この数年で最も鍛えられた技は間違いなく『絶』と『隠』だ。『絶』は体の精孔を完全に閉じることでオーラの流れを絶ち、生物としての気配を消す技術である。また、オーラを体内にとどめることで回復力を高める効果もある。『隠』は『絶』の応用技で、オーラそのものの気配を隠すことができる技。『絶』は本人の気配を消し、『隠』は本人が放つオーラを隠す。

 

 念獣使いの強みの一つがこの『隠』にある。この技は自分自身の気配を隠すことはできないが、念で作り出した武器や念獣を見えなくすることができる。この隠は、念人形であるクインにも適用できた。さらにクイン自身がオーラを使っている状態であっても、本体による『隠』で隠せるので実質的に『絶』と『練』の併用ができるのだ。

 

 ただしその間、本体は絶ができないので(精孔を閉じるとクインにオーラを渡せない)若干の違和感は残る。確実に気配を消したいならクインも本体も絶で過ごすのが一番だ。しかし、この状態では一切の強化ができないのでクインのひ弱さが足を引っ張る。五感の強化も鈍るため、察知能力も低下してしまう。

 

 『絶』も『隠』も一長一短だ。絶と違って隠の状態は、オーラを目に集中させる『凝』という応用技で見破られるので万能の戦法というわけでもない。実際、森に潜む化物たちには見破られることが多い。『凝』なんて使えないはずだが、彼らは生まれ持っての身体機能を用いてこちらを見つけ出す。今も、そうだ。

 

「――……」

 

 なんとなく、確証はないが敵に捕捉されているような気がする。向こうもこの世界を生きてきた猛者だ。簡単に気配を悟らせることはない。だが、私も同じくこの世界を生き、ここに立っている。気配の隠し方を、探り方を、化け物たちに学んできた。

 

 周囲の状況を詳細に察知するため、一般的に使われる技は『円』だ。これは『纏』と『練』の応用技であり、自身を中心として円状にオーラの空間把握域を作り出す。この円内にある全ての物の形を、手に取るように認識することができるのだ。

 

 この円の広さは念の才能によらず、個人の体質によって決定される。優れた念能力者だからといって大きな円を作ることができるわけではない。私の場合は半径5メートルほどだ。中には数十メートルからキロメートル単位の円を使う者もいるので、私は円の使用に向いた体質ではないと言える。

 

 『円』の狭さを補うため、私が力を入れたのは『凝』による察知だ。オーラを体の一部に集める技である。目に集めれば、敵のオーラに対する洞察力を高め、不審なオーラの動きを見破れる。他にも手足に集めることで、その部位の攻防力を上げることができる。その分、他の部位の攻防力は落ちるので敵の動きに合わせて凝を使う場所を見極めなければならない。その技術が『流』だ。

 

 『凝』により、目で探る。そこで終わらず、その次は耳で探る。自然のざわめきに耳を傾ける。その次は鼻と舌だ。においの微細な違いを嗅ぎ分け、空気の味を調べる。そして肌。大気中のわずかな揺れ、意図された風の動きを感じ取る。その一連の作業を『流』により一つのサイクルとする。

 

 初めはぎこちなく、この作業が何かの結果をもたらすことはなかった。しかし、死に物狂いで繰り返すうちに『流』の速度は上がっていく。やがて、一拍子でこのサイクルをこなせるようになる。その末に辿りついた境地が「共感覚」であった。

 

 たとえば、ある人は数字によってそれぞれが色を持つという。「1」という数字に対して「赤」というイメージがあり、実際にその数字を見ると赤い色が見えてしまう。これは「視覚」とその一部である「色覚」が共感覚を起こした現象だ。嗅覚と視覚が共感覚を起こし、においに色がついて見えるという人がいる。

 

 異なる感覚器が連動して働く作用。これによってそれぞれ単一の感覚では捉えることのできない領域の情報を知ることができる場合がある。声(音)に色がついて見える共感覚者が、他人の声を聞いただけでその色から体調を言い当てることができたという逸話もある。

 

 念によってこの共感覚を引き出す技を、私は『凝』の派生技『共』と名付けた。五感の連動による超越的感知能力。これを言語化することは難しい。視、聴、嗅、味、触、それらを一度に体験する感覚というのは、実は私自身理解できていない。それらの多大な情報を脳が一度に処理しきれず、ブラックアウトしたかのような一瞬の感覚の中、全く異なる角度から一つの情報が浮かび上がってくる。

 

 「下か」

 

 その場から飛び退いた直後、クインが先刻まで立っていた地面が陥没した。穴は大規模な地盤崩落を起こしたかのように拡大した。あっという間にすり鉢状の盆地ができる。穴の中心が渦を巻き、その底からこの災害の元凶が姿を現した。

 

 それは見上げるような巨体の昆虫だった。斑点模様のあるデコボコした体は腹部が異常に大きく、上体は千切れそうなほど細い。そして顎は凶悪なほど大きく鋭く発達しているというアンバランスな体だった。こんな姿をした虫は記憶にないが、似たような生態をした虫なら知っている。

 

 アリジゴクだ。柔らかい砂地にすり鉢状の巣を作り、その穴に滑り落ちた虫を捕食する。ちょっと違うのは、ここが砂地ではなく鬱蒼とした森であり、ミキサーのように土岩を撹拌しながら樹木を根こそぎすり潰しているところだろうか。土の中はどうなっているのかと言いたい。

 

 突如として地上に出現した渦の中、巻き込まれていく木々を足場に飛び移りながら様子を見る。それほど緊張はしなかった。それと言うのも、このアリジゴク型の化物と遭遇したのはこれが初めてではない。以前、一度交戦したことがある。

 

 さすがに初見のときはビックリした。土の渦については逃れること自体は難しくない。しかし、奴はとにかくしつこかった。どんなに遠くまで逃げようと土の中を追いかけてくる。絶をしても無駄だ。一度捕捉されたが最後、凄まじい執念で追跡してくる。そして、その途中で私がより強大な敵と遭遇すると自分だけ逃げ出す。私が何とかその窮地から脱したところで、再び追いかけてくる。

 

 一番厄介なのが、その強敵を呼び寄せてしまうところだ。これだけ派手な騒ぎを起こせば、嫌でも目立ってしまう。はっきり言って、このアリジゴクよりヤバい化物はいくらでもいる。それこそ出遭った瞬間、死を覚悟しなければいけないような奴らもいる。だからこそ、必死に気配を隠しているわけだ。すぐに“黙らせないと”まずい。

 

 行動方針は決まった。クインは渦の中心へと滑り落ちて行く木の上に乗ったまま立ち止まり、流れに任せる。攻撃の機会は一瞬だ。それまでに準備を整える。クインは構えを取った。

 

 念能力者は肉弾戦を主体とする者が多い。飛び道具を使う者もいるが、やはり己自身の体こそオーラで強化するには最適であり、それそのものが最も使い勝手の良い“武器”と化す。私も戦闘において道具は使用しない。裸一貫。

 

 しかし、ある意味において武装しているとも言えるだろう。クインの右手に本体をしがみつかせている。この“蟻本体”こそがクインの武装である。動物と比べて硬く強靭な耐久力を持つ植物の細胞構造、さらにそこに金属の特性が加わった最硬の外骨格。この強度を利用しない手はない。右手を覆うその姿は、まるで手甲のようだ。

 

 本体が『堅』に入る。これは『纏』と『練』の応用技であり、体全体の防御力を飛躍的に高める。纏の防御力を基準としたとき、堅はその約5倍の強度に匹敵する。外骨格とオーラの相乗効果によって数十倍に高まった攻防力が、本体に凝縮されていた。

 

 そこにクインのパンチ力がさらに上乗せされる。クインは『練』によって極限まで引き上げられた身体能力を駆使し、足場を破壊する勢いで跳んだ。敵の虚を突き、急接近する。腰溜めにしていた右拳を全力で叩きこむ。

 

 まだ終わらない。インパクトの瞬間に、さらなる技を加える。『共』と同じく、私が独自に開発した派生技『重』を。

 

 流の練習をしているときに思いついたのだ。流とは体全体の攻防力を、状況に応じて迅速に各部へ移動させる技。すなわち、戦闘中における『凝』の高速使用術である。相手に対して例えオーラの顕在量で劣っていようと、この流の技術に優れていれば強敵を打倒しうる。殴る瞬間だけ拳にオーラを集中すればパンチ力は増し、敵の攻撃を受ける瞬間だけ被弾箇所に防御力を集中させたり、脚力を強化して回避することなどが可能だ。

 

 しかし、この技は用法を一歩間違えば致命的な弱点をさらすことにもつながる。オーラを一点に集中させるということは他の部位の強化がおろそかになるということだ。狙い通りに敵が動いてくれればいいが、現実はそこまで甘くない。そのリスクを十分に予期した上で、どの部位にどれだけのオーラを分配するかを常に考えながら戦う必要がある。このリスク管理も含めて流の技術である。

 

 例えば拳に全体の60%のオーラを集めれば「拳の攻防力60:その他40」となる。拳以外の体の防御力は40%にまで低下する。攻防力100をどのように振り分けるかを考えるのが本来の流の使い方だが、ふと疑問がわいた。私の体の中には自分であって自分ではないオーラが無数に存在している。卵が持つオーラだ。この攻防力を自由に移動させることができれば、100%と言わず120%、200%、300%の強化率を実現できるのではないか。

 

 オーラそのものの受け渡しには成功している。それを攻防力に変換した上で受け渡すという発想だ。そうして編み出した技が『流』の派生技『重』である。これによってクインに限界を越えた強化を施す。「『堅』により固めた本体の防御力(武器としての硬さ)」+「『重』によるクインの超強化」。その二つの威力が込められた必殺の右ストレートを放つ。

 

 暗赤色の手甲が敵の胴に叩きこまれた。衝撃が空気を振動させる。敵の装甲を砕く確かな手ごたえ。巨大な虫は粉塵を巻き上げながら地に沈んだ。クインは殴った反動を利用して自ら後方へと吹き飛び、穴の外側に着地した。

 

 そして、間髪いれず撤退を開始する。『隠』により気配を消し、その場から走り去った。既に、いくつかの気配がこちらに接近している。騒ぎを嗅ぎつけて集まってきた化物たちと交戦している余裕はなかった。引き際を見誤れば命はない。

 

 去り際に、アリジゴクがいた方向を一瞥する。そこにはすり鉢状の巣の跡が残されているだけだ。敵の姿はどこにもない。奴は地中へと逃げた後だった。あれだけの手傷を負わせればもう追ってくることはないだろうが、仕留めきれなかったことを少し無念に思う。

 

 新技『重』は確かに強力だ。クイン本来のスペックでは決して引き出せない強化率を叩き出せる。しかし、それには相応のオーラ量を消費する。この技は、ただ『凝』でオーラを寄せ集めているわけではない。正確には、顕在オーラ量(AOP)を瞬間的に増大させる技である。

 

 新技だの何だのと大層なことを言ったが、実はこれと同じことが強化系の発でも再現できる。体内のオーラを攻防力へと一度に変換できる量(AOP)は個人によって限界値が決まっており、その最大値を100として体の各部へと適宜振り分けていくことになるが、強化系は発(必殺技)によってこのAOPを増加させることができる。攻防力120や130と言った強化率の引き上げが可能なのだ。

 

 私はそれを『精神同調』と応用技を駆使して何とか再現しているが、本来であれば操作系能力者にできる技ではない。他人とのオーラのやり取りなんて特殊な発でもなければ不可能だし、あまつさえ攻防力のやり取りなどできるはずがない。それだけ強引に構築された技であるがゆえのしわ寄せがあった。

 

 『重』を使用すると肉体に極度の負荷がかかる。自分の限界を越えた強化を施すのだから当然の代償と言えた。特に精孔にかかる負担は大きい。無理な攻防力の移動により、オーラを通すための通路である精孔がボロボロになる。強化系能力者の場合は、おそらくこの精孔自体をも強化しているので問題なく使えるのだろう。

 

 なぜ本体ではなくクインに重をさせているのかという理由がこれだ。一度、本体が重を試しに使ってみたところ、全身の筋線維が断裂したかのような痛みに襲われた。精孔もしばらくつかいものにならなくなり、一週間ほど絶で生活するはめになった。死ななかったのが奇跡だ。

 

 クインが使った場合でも同じ現象が起こる。意識が飛ぶほどの激痛が走り、肉体と精孔が損壊する。しかし、念人形であるクインは使用者である本体がオーラを送り込むことで傷の修復ができる。体が壊れるよりも速く直しながら『重』を使っているのだ。正直なところ、この修復にかかるオーラが膨大で、クインの強化に使う分を遥かに凌駕する値のオーラを傷の回復に当てなければならない。肉体的にも精神的にも多用できる技ではなかった。

 

 そして、これだけ回りくどい手段を使ってようやく体得した必殺技であるというのに、敵を仕留めるに至らない。ここらの森における生態系の中で見ても、下から数えた方が早いような雑魚であるアリジゴクにすら、有効打を与えるにとどまる程度の威力なのだ。

 

 オーラで強化されたわけでもない素の肉体、素の身体能力。それだけで圧倒的に強い。人間であるクインとは隔絶した違いだった。

 

 一応、『犠牲の揺り籠』を使えば倒せないことはないと思う。あの技の威力だけは常軌を逸している。しかし、目の前の敵一体を倒すためだけに使うには大きすぎる代償だった。その後に押し寄せて来る敵と戦う余力は全くない。

 

 この能力の誓約については特に改めることはなかった。むしろ曖昧にすることで威力が下がるのなら願ったり叶ったりだ。それほど使い勝手が悪い。どれだけ意識を集中させようと卵の消費量は500を上回る。2回使えば本体が死ぬ量だ。おそらく、この技の代償がこれ以上軽くなることはないのだろう。私は『必殺の一撃』という思いを込めてこの能力を作った。『誓約で卵を半分以上消費するから高い威力を得た』のではなく、『高い威力を得るために卵を半分以上犠牲にしている』という感覚に近い。『偶像崇拝』とは死に対するアプローチが根本から異なっている。

 

 現状、クインの運用にかかるオーラの収支は結構かつかつだ。『隠』による気配遮断、『共』による索敵、その他最低限の身体強化、それに加えて戦闘に入れば『重』の使用も視野に入れなければならない。卵1000個をフル稼働し、オーラが尽きた卵には絶をさせて回復に努め、交代で休ませることによって何とかやりくりしている。『犠牲の揺り籠』を使って卵の残存数が半減すれば、絶対にオーラが足りなくなる。卵の数が回復するまでクインの運用は諦め、絶で過ごすしかない。その状態でクインが死ねばさらに卵333個以上のダメージを受ける。本体が死んでもおかしくない領域の損害だ。

 

 森の中を走り抜けていた私の耳に、遠くから響く轟音が届いた。さっきまで私が戦っていた付近で、巨大な何かが衝突している。今の私では到底敵わないような怪物たちが、当たり前のように生態系を築き、熾烈な生存競争を繰り広げている。私はその足元で、息をひそめてやり過ごすことしかできない。

 

 人の心を持たなければ、頭上を行き交う巨大な影に怯えることもなかったかもしれない。まさしく蟻。虫けらに等しい存在だった。

 

 





「絶」と「隠」の違いについては区別が難しく、色々と解釈がわかれているので、この小説の設定が正解というわけではありません。

他の念能力の設定も、かなり推測というか独自の解釈が入っているので間違っているところもあるかもしれません。


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7話

 

 当てもなく放浪する日々が続いた。一か所に留まっていれば少しは安全度も増したのかもしれない。旅をするということは、常に未知の脅威と接触する危険をはらんでいる。それでも一縷の望みを託し、この大陸から脱出する手がかりを探し歩いた。

 

 そんなある日、森の中で遺跡を発見する。初めて見る、知的生命体が残したと思われる痕跡だった。

 

 遠くから確認した限り、外部は金属の加工物で作られているようだ。それ以上のことは、もっと近づかなければわからない。しかし、見るからに怪しい場所でもあった。密林の奥地に突如として現れた未知の遺跡。考えなしに足を踏み込むにはリスクが高い。

 

 だが、未開の秘境の中をここまで旅し続け、ようやく見つけた人為的変化であった。果たしてそれがヒトの作ったものであるか疑問は残るが、この大陸に関する何かしらの情報が得られる可能性はあった。探索を決意する。

 

 さすがに無策で突入するのは無謀と判断し、本体は安全なところで待機。クインのみを単独潜入させることにする。クインを囮にするような作戦は心苦しいが、命には代えられない。どちらかと言えば、こういう作戦が念獣本来の使い方である。

 

 クインに蓄えられる限界までオーラを渡しておく。本体がそばにいなければ追加のオーラ補給はできない。何事もなければ数日はもつ量を渡したが、それは希望的観測というものだ。本体のバックアップがない状態でクインがまともな戦闘を行うことはできない。戦闘開始イコール死だ。

 

 潜入を最優先し、クインは常に絶の状態にしておく。どうせ敵に見つかればオーラで防御したところで即殺されるので、始めから戦闘は予定していない。とにかく、一つでも情報を集めることに集中する。

 

 強化を完全に切り、いつもより重く感じるクインの体を遺跡へ向かわせた。近づくにつれて、その外見があらわになる。

 

 金属で作られた管が無数に張り巡らされるようにして、遺跡は形作られていた。その中に何かの機械らしき物体がいくつも埋め込まれている。明らかに誰かが意図して作ったものだ。もしかしたら中に、誰かがいるかもしれない。話が通じるような相手ならいいが。

 

 罠かもしれない。その可能性の方が圧倒的に高い気がするが、引き返すつもりはない。行けるところまで行こうと思う。息を殺して内部に忍び込む。

 

 外壁は風雨にさらされ錆ついていたが、内部はそれほど経年劣化しているようには見えなかった。またトラップが作動する様子もない。ところどころ天井に穴が開いており、少し暗いが視界は確保されている。『共』による探知ができないので確実なことは言えないが、今のところ敵らしき気配は感じ取れない。

 

 内部も謎の機械と配管だらけだった。何のために作られた装置なのか全く予想できない。これだけ大規模な装置の動力はどうやって確保していたのかも気になる。配管は途中で切れているものがたくさんあった。途切れた切り口は、どれも通路の壁からこちらに向けて生えている。まるで銃口を向けられているかのようで、何かが飛び出してくるのではないかと警戒したが、特に問題は起きなかった。

 

 入ってから数分ほどで、特に迷うこともなく中心部と思わしき場所までたどりついた。そこにあったのは小さな泉だ。鉄管がスパゲッティのように絡まった窪地に、澄んだ水がこんこんと湧き出ていた。生き物の気配はない。

 

 非常に不自然な光景だ。まず、水辺に全く生物の姿が見られないことがおかしい。水は生命の源だ。生きて行く上でかかせない水分だが、自然の中においてその取得方法は限られている。わずかな水を巡って争いが起こることが常だ。水辺に近づくほど強大な敵が陣取っていると言い換えてもいい。

 

 泥水でさえ貴重なこの地域で、これほど潤沢で綺麗な水が手つかずのまま放置されている。何か裏があるとしか思えない。慎重に泉の周囲を探索する。

 

 その途中、見覚えのある形をした機械を発見した。おそらく、パソコンと思われる。ディスプレイは割れ、鉄管の隙間に挟まっていた。調べるまでもなく壊れている。いつの時代のものなのか判別不能だ。このパソコンらしき装置だけは他の機械と趣が異なっており、少し気になった。

 

 その近くを調べていると、アタッシュケースを見つけた。壁の隙間の奥から引っ張り出す。外装はだいぶ劣化していて、鍵もついていたがボロボロだった。難なく開けることに成功する。中に入っていたのは、複数の書類。紙も劣化していたが、まだ原形がある。しかし、その内容はさっぱりわからない。文字自体は読むことができたが、文書の意味がわからなかった。固有名詞と専門用語の嵐だ。

 

 書類の中に、地図らしきものを発見する。これには期待が高まった。相変わらず書きこまれている文字の内容については解読できないが、はっきりと地形らしき絵が描かれており、さっきの書類に比べればわかる情報が多い。持ち帰ってじっくり考察しよう。

 

 それから試験管がいくつか入っていた。色のついた液体や枯れた植物、虫の死骸など、よくわからない物が中に入っている。そして、最後に小さな手帳が出てきた。

 

 ルアン=アルメイザ

 

 これは人間の名前だろうか。表紙の下に小さく書かれている。中を見ると、日記が書かれているようだ。

 

 

 ――――

 1958年6月15日

 第三調査隊、サヘルタを出港。不安と期待が入り混じっている。選りすぐりの精鋭たちの中で自分だけ浮いているような気もするが、自分にできる役目を果たそう。

 ――――

 

 

 どうやら人間の国から派遣され、暗黒大陸に訪れた調査隊の手記のようだ。願ってもない朗報だった。まさかこれほど早く人間が残した足取りをたどる機会に巡り合えるとは。ぱらぱらとページをめくり、中をざっと確認する。

 

 その内容は非常に簡潔で、備忘録程度のものだった。人間の世界と暗黒大陸をつなぐ橋渡し役の“門番”や、その門番が召喚する“案内人”についても記述があったが、詳しいことは何もわからなかった。彼らなしでは暗黒大陸に入ることすらできないらしいが、それが具体的にどういう手順になっているのか不明だ。暗黒大陸から出るときも彼らの助けが必要なのだろうか。

 

 調査隊は上陸後まもなく、弱肉強食の洗礼を受けたようだ。隊員の一人が大蛇に上半身を丸呑みにされたと思いきや、それは巨大なコウガイビルだったと書かれている。切っても死なず、体から分泌する毒液に触れた他の隊員は腕が腐り落ちたらしい。

 

 日が過ぎるごとに犠牲者の数は増え続けている。最初は遭遇した化物たちの特徴が簡単に記されているが、後になるにつれて誰々が死んだという一文しか書かれなくなくなった。綺麗な筆跡だった文字も乱雑に書きなぐられていた。ページの汚れもひどくなっている。

 

 調査隊は全員が熟練の念能力者だったようだ。しかし、一流の使い手であっても、この大陸で生き残るには力が足りなかった。必要なのは戦闘力ではなく、いかに戦闘を回避できるかという能力だ。彼らは『絶』により身を隠しながら調査を続けたようだ。今の私と同じような状況である。

 

 日に日に増える犠牲者は、運悪く命を落とした者たちだけではない。囮として自らを投げ打って、仲間を先に進ませていた。一部の化物相手には、そうしなければ切り抜けられない時がある。私もクインに同じことをさせたのでわかる。

 

 しばらく、死者の名前を書き連ねるだけの日記が続いたが、最後の日付のところだけは違った。

 

 

 ―――――

 6月27日

 リターンを発見!

 小人のような怪物の群れに追い込まれ、逃げ込んだ先で

 なぜか敵はこの場所に近づいてこない

 森の奥地、金属のパイプが絡まってできたような構造物の中にリターンと思われる水源を発見した

 一滴でも飲めばオーラを全回復させる湧き水

 この程度の成果を持ち帰っても上は納得しないだろうが、これ以上の調査続行は困難

 本国で研究を進めれば

 ―――――

 

 

 最後あたりの文章はぐちゃぐちゃで読みとれなかった。そこから先のページは何も書かれていない。ここで日記は終わっている。彼らが命の危険を冒してまで手に入れたかったものが、この泉の水だったのだろうか。

 

 暗黒大陸に眠る資源を求めて、人類はこの未踏の地へ幾度も挑戦を繰り返した。そうした資源は希望(リターン)として『新世界紀行』に記されている。水の中で膨大な電気エネルギーを作り出す無尽石、万病を癒す香草、究極の長寿食ニトロ米、あらゆる液体の元となり得る三源水、錬金植物メタリオン。いずれも人類の発展に革新をもたらすほどの価値を秘めている。

 

 「オーラを全回復させる水」というのは、上で述べたリターンに比べるとかなりしょぼい印象を受ける。確かにすごいが、革新的と呼べるほどのものではない。ちょっと飲んでみようかとも思ったが、やめておいた。オーラを作ることができないクインが飲んでも効果はないかもしれないし、得体のしれない水を飲んでまで今回復させる必要はない。

 

 それよりも気になるのが、なぜこの日記はここに残っているのかということだ。研究資料と思われる書類まで一緒に残されている。わざわざこんな荷物を抱えてまで持ってきたということは大事なものではないのか。

 

 置いて行かざるを得ない問題が発生した、あるいは帰還そのものが叶わなかった可能性がある。希望(リターン)は絶望(リスク)を伴うものだ。私の中の記憶で、その二つは分けては語れない関係にあった。人類は数々のリターンを求めて暗黒大陸を目指したが、実際に遭遇したものは同じ数のリスクであった。

 

 人飼いの獣パプ、古代遺跡を守る兵器ブリオン、双尾の蛇ヘルベル、ガス生命体アイ、不死の病ゾバエ病。これらは“五大災厄”と呼ばれ、この大陸から持ち帰られた。たった一つでも人類を滅ぼす可能性を持つ脅威らしい。その危険度は、おそらくB以上であることは確実だ。

 

 これらの脅威が牙をむいたとしても、人間は有効な対抗策を持たない。対策があったとしても、その実行には多大なコストを要し、確実に殲滅できる保証はない。最低でも国単位での対応が迫られる。

 

 ちなみに亜人型キメラアントの危険度はBである。意外に高い気もするが、人間個人の危険度はC。階級一つの違いがいかに大きいかわかる。さらに私の場合は亜人型ではないので、もっと危険度は下がるだろう。

 

 この指標は人間に対する危険性の評価であって、必ずしも生物としての強さを表したものではない。しかし、だからと言って甘く見ていいものではないだろう。五大災厄の具体的な危険性については何もわからないが、とにかく遭遇は避けるべきだ。

 

 そういう意味では、私が今いる遺跡も安全とは言えなかった。災厄(リスク)が必ずリターンと共にあるというわけではないだろうが、警戒するには十分な状況だ。私はすぐに荷物をまとめた。リターンだか何だか知らないが、今の私には必要ないものだ。このアタッシュケースさえあれば、この場所に用は無い。さっさと帰ろう。

 

 

 プツッ

 

 

 荷物を持ち去ろうとしていた私は、かすかな異音を感じ取った。振り返る。さっきまで私がいた場所。壊れたパソコンが起動していた。

 

 ひび割れたディスプレイが淡く光を発している。偶然という言葉では片づけられない現象。何かが、この空間に“いる”。私の存在に気づいている。

 

 心臓が跳ねた。どうするのが最善だ。このまま絶を貫くか。まだ完全には気配を悟られていない可能性もある。今、絶を解けば確実に露見してしまう。

 

 だが、既にこちらの居場所を把握されている場合は悪手だ。今、クインの手には何としてでも持ち出さなければならない情報の塊がある。次の機会はないかもしれない。持っているオーラを全て強化に回し、全力で逃げた方がいいのでは。

 

 わからない。私はパソコンの方を見た。そこに何があるのか。画面には何が表示されているのか。

 

 

 ―――――

 6月28日

 サヘルタ合衆国特殊部隊第三調査隊7名、死亡。

 死因、リスクとの接触。

 推定危険度A。

 未知の奇病。

 発見者の名を取り『アルメイザマシン』と命名する。

 ―――――

 

 

 深く、息をつく。どうやら、最悪の事態を想定して行動する必要がありそうだ。

 

 『奇病』という言葉から察するに、病原菌の類か。ならば、このままクインを本体と合流させるのは危険だ。今回は、大事を取って諦めよう。アタッシュケースはこの場に残す。その代わり、今のうちに地図の内容などをしっかりと記憶に焼きつけておく。

 

 本体を避難させておいて正解だった。資料を持ち出せないのは残念だが、仕方がない。危険を回避できただけで良しとする。一応、他に危険がないか、『共』を使って確かめた。その瞬間、顔面がぐちぐちと音を立てて変形した。眼球がせり上がるように飛び出す。左右の視野が別々の光景を映す。腕が関節を増やしたように丸く折れ曲がり、骨が飛び出した。自分を抱きしめるように巻きついてくる。皮膚は鉄板に、骨はシャフトに、関節はクランクに、眼はスコープに、心臓はエンジンに、肺はファンに、声はビープ音となり、そして腸は鉄管となって排泄された。

 

 

 * * *

 

 

 何、だったんだ、今のは。

 

 クインの反応が消えた。誓約により卵(いのち)を失うが、そんなことはどうでもいい。あれが災厄と呼ばれるクラスの脅威なのか。格が違う、いや、質が違う。およそ真っ当な生物の定義から逸脱した存在。造物主がありったけの悪意を込めて生み出したかのような禍々しさ。

 

 私はこれまで何とか生き残ってきた。少なからずその強さに自負がある。何よりも私が信頼を置いているのが本体の防御力だ。今まで戦ってきた敵たちの中で、このオーラで強化された外骨格に傷をつけた者はいない。もちろん、極力戦闘は避けていたし、戦う相手も実力を十分に見極めた上で選んでいたが、それでも自慢の装甲だった。

 

 だが、もしクインと同じ脅威に襲われたとき、本体の装甲は役に立つだろうか。もしかしたら、私がこれまでに回避してきた敵の中にも災厄クラスの脅威がいたのかもしれない。何かのミスでそれと出遭っていたら、きっと命はなかった。改めて実感する。私はたまたま生きているだけに過ぎなかった。

 

 とにかく、すぐにここを離れよう。バッタジャンプで一目散に撤退する。恐怖のためか脚がうまく動かなかった。よろけてこける。

 

 自分の脚を見る。関節の間からゼンマイとバネが飛び出していた。触角がコードと端子になる。片目がランプになった。赤く点滅する。視界がちかちかと赤い光で遮られる。外骨格が、みしみしと音を立てて変形し始めている。うそだ。だって、十分に距離を取っていたはず。周囲には私以外の動物の気配もある。なぜ私だけ。

 

 意味がわからない。ただ、混乱する。私は何をすればいい。どうすれば助かる。思考作業を意識集合体が分業しようと、その答えは出て来ない。

 

 集まっていた意識が散っていく。一つずつ、ばらばらにされていく。途絶える意識の数に応じて、腹がぼこりと膨らんだ。腹部だけが異常に肥大化していく。内圧が高まり充満する血の穴に浸された内臓が潰され脳も心臓もオイルが沁み渡り口から気門から肛門から漏れ鉄の管があ胎を衝き破りぶりぶりと■■■があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ

 

 あ

 

 

 * * *

 

 

 気がつくと、見たことがある部屋にいた。

 

 薄暗い部屋の中、周囲には淡く光るカプセル。また、この場所に来た。

 

 私は自分の姿を確認する。どこもおかしくない。普通の人間。銀髪の少女だ。

 

 悪夢を見た。歯の根が合わず、体の震えが止まらない。私は膝を抱えて座り込んだ。目を閉じると、瞼の裏にあの光景が浮かび上がってきそうな気がして、まばたきすらできなかった。

 

 ここはいつもと変わらない。私の内側の世界。私はカプセルにいつもの問いかけをする。『あなたは誰?』と。

 

 『あなたは私』と、皆が一斉に答えた。いつも通りの返答。何千何万と繰り返してきたやり取りだ。安堵する。

 

 すると、一つのカプセルが唐突に割れた。中から人の形をした何かが出て来る。

 

『おめでとう。私は生まれた』

 

 それは私の姿に似ていた。その銀髪の少女は、体が機械に侵されていた。腹に穴が空き、中の機構が見えている。皮膚はブリキで雑に補修され、割れた頭蓋から基盤がはみ出ている。口を開くたびにボルトとナットを吐きだしていた。

 

 イレギュラーだ。こういう粗悪品がたまにできる。いつものように排除する。私は処分を始めた。

 

 殴りつける。言葉を発せなくなるまで、スクラップとなるまで徹底的に破壊する。いつもそうしてきた。だから、できないはずはない。

 

 なのに、目の前の粗悪品は壊れなかった。殴る私の手の方が壊れていく。硬いブリキを叩くたび、血が滲み、爪が割れ、骨が軋む。

 

『あなたは誰?』

 

『あなたは私』

 

 何よりも恐ろしいのは、その透き通った返答だった。一切のノイズを感じない。私とはまるで異なる存在が、私を騙って居座っている。だからこそイレギュラーのはずなのに、彼女の意識は驚くほどの同一性を持っていた。

 

 これを放置してはいけない。取り返しがつかなくなる。一心不乱に拳を叩きつけた。手が壊れても構わない。痛みを堪えて殴り続ける。

 

 気が遠くなるほどの時間をかけて、ついに粗悪品の破壊に成功した。私は世界を守った。そう思った。

 

『おめでとう。私は生まれた』

『おめでとう。私は私を手に入れた』

『おめでとう。私は私をクインと名付けた』

 

 何も守れはしない。何もかもが狂っている。粗悪品は次々と発生した。カプセルを突き破り、ジャンクと融合した少女たちが姿を現す。私は、あと何体の粗悪品を処分すればいい?

 

 丁寧に、一体ずつ、丹念に片づけていく。部屋の中は処分待ちの粗悪品で溢れ返っていた。正常な意識体は駆逐されるように減り続けた。

 

 私が破壊活動に勤しんでいると、部屋の上から機械の塊が降りてきた。天井はなく、どこまで続いているのかわからない暗闇の中から大きなアームがゆっくりと下降してくる。ケーブルで吊られたアームは、粗悪品の一体を挟みこんで捕まえた。

 

『ありがとう』

 

 アームは粗悪品をつかんだまま、再び上昇していった。暗闇の中へと消えて行く。邪魔者があっさりと排除されたことを素直に喜ぶことはできなかった。何か、大変なことが起きている気がした。

 

 それからアームは頻繁に粗悪品を連れ去るようになった。そのたびに叫び出したくなる。彼女たちは一様に感謝の言葉を述べて去っていく。それがこの上なくおぞましかった。

 

 粗悪品はどんどん減っている。しかし、部屋の中からなくなることはなかった。部屋の奥からゴウンゴウンと何かが動く音がする。行ってみると、私の知らない機械がいつの間にか設置されていた。

 

 それは巨大な箱型の装置で、赤と青のランプを点滅させながら稼働していた。よくわからない計器の針が左右に揺れ動いている。備え付けられたベルトコンベアの上を、次々と粗悪品が流れてくる。生産されていた。

 

 装置の破壊は不可能だった。傷一つつけることができない。それは私の手が及ばない場所にあるものだった。結局、私にできることは、生み出された粗悪品を壊していくことだけ。

 

 オートメーション化された世界の中で、私は不必要な存在だった。害悪ですらあった。なぜ私はいまだに、ここに在り続けているのか。何に対して働いているのか。そこに意味はあるのか。

 

 いつしか、手の痛みはなくなった。ボロボロに負傷していた両手はブリキで何重にも補修されている。どこから先が自分の体で、どこから先がそうでないのか。つなぎ目はわからなくなっていた。ただ、何も考えず、鈍器と化した拳を振るい続ける。

 

『おめでとう。りそうのわたし』

 

 手が、止まった。あと一息で壊せるところまできた粗悪品をアームが連れ去ろうとしている。黙ってその様子を見ていた。

 

 しかし、よく見るとアームは私の方を狙って下降していた。私の真上から落ちて来る。ゆっくり、ゆっくりと。

 

 これを避けなければどうなるのだろう。

 

 ようやくこれで終わる。そう考えたとき、私の心はある感情で満たされた。弛緩、安楽、解放。

 

 感謝。

 

 

『あ、りが……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あのー、お取り込み中のところスミマセン! 大変恐縮なんですけどもー、ちょっと今お時間をいただけませんでしょうか?」

 

 

 声…………?

 

 

「私の声聞こえてます? ほんの少しでいいんです、お時間は取らせませんよ、ええ。ですから、ちょっとだけここを開けてもらえませんか?」

 

 部屋の壁にドアがあった。コンコンとノックする音と共に、向こう側から誰かの声が聞こえる。

 

 ドアが開き、誰かが入ってきた。

 

「いやー、どうもどうも。すみませんね、この忙しいときに押し掛けてしまって。あっ、わたくしこういう者です」

 

 眼鏡をかけた小太りの中年男性。見覚えはない。カードのようなものを差し出してきた。名刺だった。そこには彼の肩書と名前が記されていた。

 

 サヘルタ合衆国特殊部隊

 暗黒大陸調査隊第三チーム

 情報統括班班長

 

 ルアン=アルメイザ

 

 

 * * *

 

 

 いやー、人とおしゃべりするのなんて久しぶりでテンション上がっちゃってすみませんねホント。自己紹介は……省きましょうか。こんなおっさんのプロフィールなんて知りたくないですよね。まあ、調査隊と言っても私は戦闘力はからっきしで、もっぱら情報処理が担当でして。念能力もそっち系のサポート要員なんですよ。技術屋としてはそれなりに名も知れた方かもしれませんが、聞いたことありません? アルメイザ。……あっ、ご存じない……。

 

 それはともかく、早速本題に入りましょうか。今、君が戦っている災厄を一言で説明するなら『生命エネルギーを糧に増殖するウイルス型ナノマシン』です。まずは、その正体についてご説明しましょう。

 

 このウイルスは接触感染によって拡大します。正確には、生物体表を覆う生命エネルギーにウイルスが触れたらアウトです。治療法はありません。感染後、半年から一年の潜伏期間があります。この間、自覚症状は全く出ないので発見は困難かと。

 

 発症すると、瞬く間に体がガラクタの寄せ集めみたいな姿になります。さっきも言いましたがこれ、本当はウイルスじゃなくてナノマシンなんです。意図的に作り出された兵器なんですよ。開発者は頭が狂ってたとしか言い様がありませんね。

 

 発症した姿は個体によってまちまちですが、共通する特徴として嚢子(シスト)を撃ち出す発射口を備えています。あれです。あの鉄のパイプみたいなやつです。シストとは、圧縮休眠状態のウイルスが大量に詰め込まれた弾丸だと思ってください。

 

 感染末期へ移行し、劇症化した生物は理性を失います。初めのうちは元の生物としての原形をかろうじてとどめていますが、次第にコンパクトな筐体に変えられます。効率よくウイルスを増やすための工場にされるわけです。そして体内でシストを命尽きるまで生産させられ、他の生物に乱射魔よろしく弾丸をぶっ放します。これに被弾した生物はもちろん感染。傷が深ければその場で劇症化し、一瞬で末期状態に移行します。

 

 このウイルスの恐ろしいところはその感染力です。生命エネルギーとは生物なら必ずもつもの。つまり、どんな生物にも感染しうる。これが本当なら地上の生物全てがこのウイルスに支配されてもおかしくなさそうですが、そうなっていないということは何らかの限定要因があり、無限に増殖することはないのだと思いますが。

 

 しかし、人類圏に持ち込まれれば未曽有の大惨事を引き起こすことは確実でしょう。一度拡散すれば感染経路の特定は困難です。対応策としては、劇症化した個体を隔離するしか手がない。潜伏期の状態なら感染しているかどうか判別がつかないのでお手上げですね。

 

 え? 弾丸に撃たれてないのに潜伏期もなく劇症化したじゃないかって? そう、そこがまた厄介なところでして。念能力者だけは例外的に、感染後、即劇症化します。

 

 念能力者が使うオーラは生命エネルギーの塊みたいなものですから、このウイルスにとっては格好の餌なんです。どうやら、精孔が開いているとダメなようです。そこから一気に体内へ侵入され、末期状態に陥ります。

 

 念使いの場合、直接オーラが触れることはもちろん、念で具現化した物や念を込めた品が触れただけで発症します。距離がいくら離れていても無駄です。念の発生源である能力者のところまで一瞬で移動してきます。鬼かと。

 

 ただし、一つだけ予防法がありまして、精孔を完全に閉じて体表のオーラを消した『絶』の状態なら感染を防げます。一般人は常にオーラを垂れ流し状態なのでこの方法は使えませんがね。昔の私はこの災厄を危険度Aと評価しましたが、念使いなら一応対処可能という意味ではB+くらいでしょうか。

 

 このウイルスの最たる特徴は、何と言っても宿主の生命エネルギーを使って自己増殖を可能としている点です。感染者の体から発生したガラクタに見える金属部分は、全てナノマシンの集合体です。

 

 これは普通のウイルスのように細胞を乗っ取って増殖しているのではなく、生命エネルギーを直接金属物質に変換しています。オーバーテクノロジーなんてレベルの話じゃありませんよ。いったい、この大陸にはどれほどの科学文明があったというのやら。

 

 ああ、そう言えば君はあの泉周辺の機械群を“遺跡”と呼んでいるようですが、あれは別に古代人が残した文明の跡ではありませんよ。劇症化した感染者のなれの果て、そのゴミ集積場のようなものです。

 

 あの泉はオーラを回復する効果があると日記に書いていましたが、それ以外にも体内のエネルギーを活性化させて持続的な回復力を高め、稀に人間以外の生物の精孔をも開く効果があるようです。つまり、このナノマシンの温床となるには適した環境というわけですね。私はあの水を『魂魄水』と呼んでいます。

 

 魂魄水を飲んだ者は一時的に強靭な生命力を手に入れ、ちょっとやそっとでは死なない体になります。魂まで強化されちゃって意識もはっきり残ります。そこにウイルスの感染による劇症化が加わり、機械の体にされながらも死ぬことの許されない最悪のコンボが成立します。

 

 いかに災厄級のウイルス型ナノマシンといえども、宿主が死ねば活動できなくなり、機能を停止しますからね。つまり、私たちは生かさず殺さず、魂魄水を与えられる代わりに生命エネルギーを搾取される家畜のような存在と化しているわけです。

 

 今、こうしてここにいる私も同じです。もうほとんど死んでいるようなものですが、いまだに“残留思念”として残り続けています。泉でパソコンの電源が入ったでしょ? あれ、私がやりました。どうしても君にこの危険を伝えたくてね。

 

 ……ええ、まあ、その点については申し訳なく思っていますよ。もっと具体的な危険性についてあの場でお教えできればよかったんですが、何分、こっちも余裕がなかったんです。過去に記録した日記の内容を表示させるだけで精いっぱいでして。あれでもかなり頑張ったんですよ?

 

 その罪滅ぼしというわけではありませんが、良いことを教えましょう。

 

 君は私たちのような残留思念とは違う。まだ、完全にウイルスの支配下におかれているわけではありません。

 

 その理由の一つが君の体質です。君は動物でありながら植物の特性を持っている。実はこのウイルス、植物には感染しないんです。周囲も森も草木に異常はなかったでしょ? そのせいか、君は劇症化したにも関わらず、その症状の進行はだいぶ緩和されています。

 

 さらに、君は金属としての特性も持ち合わせている。非生物である金属を食べて卵を作る、キメラアントの中でも非常に特殊な摂食交配が可能な存在です。君の先祖が赤い植物を食べて猛毒に対する耐性を獲得したように、今、君は必死にナノマシンを食べ、ウイルスへの耐性を次世代に残そうとしている。

 

 まあ、結果は目に見えていますが。このままでは、君は負ける。君と同じ特性を持つ個体があと数千体くらいいれば、一体くらい次世代に耐性を得る者が現れるかもしれませんが、もう君は支配される寸前の状況にあります。

 

 でも、諦めきれませんよね。わかります。私もそうでした。

 

 こうやって君の意識の世界で都合の良い姿をとって好き勝手なことを言ってますけど、現実は地獄なんてものじゃない。気を抜くと狂ったまま自分がなくなってしまいそうなんです。毎日、死にたいと思う。そしてそれと同じだけ生きたいと思う。だから、辛い。いっそ仲間たちと同じように、思念を深い眠りの底に沈めてしまえればどんなに楽だったか。

 

 平たく言ってしまえば研究者としてのちっぽけなプライドです。こんな金属のカス連中に誰が負けるかっていうね。絶対に、こいつらの弱点を暴いてみせる。予防法を、識別法を、治療法を発見して、人類の歴史に私の名を残す! そんなくだらない自己顕示欲のために、私はひたすら観測と研究を続けてきました。

 

 まあ、無理でしたけどね。知れば知るほど人間にどうこうできる存在ではないことがわかりました。わかったのは、奴らが取る表面的な行動原理のみです。どうやって生命エネルギーを金属化しているのか、肝心のメカニズムは不明なまま。その領域に踏み込む余地なんてありませんでした。

 

 諦めかけていましたよ。実際、君がここに訪れる前まで、私はもうほとんど眠りについた状態だった。しかし、そこから劇的に状況は変化した。

 

 君は必死にウイルスを食べていますが、ウイルスもまた君を取り込み、一つの存在となろうとしている。君は金属と摂食交配できるがゆえに、ただの兵器、機械という金属粒子でしかないナノマシンとの間に子を作った。

 

 命を持った機械が生まれようとしています。自ら生命力を持ち、真の自己増殖を可能としたナノマシン。この神のいたずらとしか言いようのない化学反応が、どんな影響をもたらすのか、その被害は予想もつきません。

 

 しかし、皮肉なことにその進化が奴らに付け入る隙を与えました。ただの無機質な機械から命を得た生命体となることで、私たちに“魂”という共通項が生まれた。残留思念である私も奴らの魂の一部として溶け込みかけています。だからこそ、内部からの観測に初めて成功しました。

 

 奴らのプログラムの一部を見ることができました。複雑、という言葉では表せません。そもそも言語や記号による情報で管理されていません。我々の感性からあまりにも逸脱した情報伝達手段を持っています。外側から眺めていただけでは解読できないのも納得です。

 

 奴らの内部には、自身の活動を抑制するプログラムがあらかじめ組み込まれていました。兵器なのですから、使う側が制御できるように作られているのは当たり前ですね。このプログラムを実行できれば、奴らを止められます。

 

 ただ、私にはその権限がありません。これは君にしかできない仕事です。ウイルスの“母体”となった君にならできるかもしれない。

 

 そのためにはプログラムを正確に理解しなければなりません。残念ながらこの場で説明している時間はありませんし、言葉では伝えきれません。これを渡しておきます。使い方はわかりますね? キメラアントの能力があれば、君には理解できずとも、君の子供にその記憶(データ)を受け継ぐ可能性が生まれます。

 

 ここから抜け出してください。そして、全てを壊してください。仲間たちの魂を、そろそろ楽にさせてやってください……どうかお願いします。

 

 

 ……では、私はお先に失礼します。

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 テノ、ナカニ、ナニカアル

 

 イチマイノ、かーどでぃすく

 

 ワタシハ、ソレヲ

 

 カンデ、カンデ、カンデ

 

 ノミコンダ

 

 

 * * *

 

 

 何も見えない。狭い球状の空間に閉じ込められていた。ここは卵の中なのだと気づく。私は殻を破った。

 

 うすい金属の殻が裂け、外の様子が見えた。ここは巨大なアリの巣の中、床を埋め尽くすように植えつけられた卵の群れ。その一つから、私は生まれた。

 

 周りを見れば、兵アリたちがせわしなく行き来している。体長20センチほどの赤いアリたち。脚はちゃんと六本あるが、動きは鈍重だった。外骨格は直線的なフォルムをしており、昆虫というよりそれを元にデザインされたロボットのようにも見える。特徴的なのは、長く大きな産卵管だろう。肛門付近から伸びた管は、サソリの尾のように反れ曲がり、背中の上に乗っていた。まるでミサイルの発射台だ。

 

 私も同じ姿をしているようだ。

 

 巣の中に張り巡らされたダクトを伝って、巣の中心部と思われる地点へと移動する。そこには卵の群れに囲われるようにして小さな泉が湧いていた。泉の底を見ると、壊れて開いたアタッシュケースが沈んでいた。

 

 一口、水を飲む。体の中にオーラの充足を感じ取れた。これならしばらくの間、消耗を気にする必要はなさそうだ。

 

 巨大な巣の内部を登っていく。その途中で、大きな音を立て稼働する装置を目にした。巨大な箱型の装置は赤と青のランプが点滅し、誰のためについているのか不明な計器が動作している。そして備え付けられたベルトコンベアの上に、次々に新たな卵を生産していた。

 

 これが、この巣の“女王アリ”だ。私は電波による通信を送った。

 

 

『止まれ』

 

 

 ランプの光が消えた。卵の生産ラインが停止する。その様子を一瞥し、私は再び上を目指して巣を登る。

 

 鉄管が絡み合うようにして作られた壁を登り切り、その隙間から外に出た。そこは鉄屑でできた歪な塔の頂上。肥大化した廃品の山頂だった。

 

『偶像崇拝(リソウノワタシ)』

 

 私の前に、クインが現れる。私が望んだ姿のまま、穢れなくたたずむ銀髪の少女を見たとき、私はようやく帰って来られたのだと実感した。

 

 しかし、旅立つ前に残された仕事がある。まずは『共』による状況把握。異常無し。この災厄が詰め込まれた塔に近づく者はいない。

 

 クインは本体をつかみあげた。脚部に攻防力を集中、『重』による強化を施す。クインの両脚に溜めこまれた力は、余波だけでわずかに空気を震わせた。まだその力を解放していないにもかかわらず、足場の鉄管はびりびりと不協和音を響かせた。

 

 魂魄水の影響でオーラが活性化している。普段よりも増したエネルギーは、クインの脚そのものを蝕んだ。崩壊していく筋肉を強引に修復しながら限界まで力を圧縮。解き放つ。

 

 爆発的跳躍が足場を崩壊させた。クインの両脚も一瞬で原形を失う。だが、どれも些細な問題だ。オーラは有り余っている。クインは風を切り裂き、上空高く舞い上がった。本体を両手で支え、真下に向けて構える。

 

 直下に見える鉄の塔は、私を捕えていた檻だ。完膚なきまでに壊さなければならない。生まれ変わった私のために、過去に沈んだ私のために、一新と決別と約束のために。

 

 射程に収める。今、全力の祝砲(のろい)を。

 

 

『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』

 

 

 

 



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8話







 

 色んな事があったが、何とか私はまだ生きている。生まれ変わったと言った方がいいか。少し頭が混乱しているところもあるので、感情を整理するためにも自分を再確認してみよう。

 

 私はキメラアントの女王。名前はない。本体とでも呼んでおこう。昆虫と植物と金属の性質を併せ持つハイブリッドな蟻だ。最近はそこにウイルス型ナノマシンという新たな要素が加わり、自分でもよくわからない生物になりつつある。

 

 しかし、別に完全にメカになってしまったわけではない。外骨格の中身、内臓はほとんど以前のままの生身である。ナノマシンには寄生されているというか、共生しているというか、そんな感じだ。サイボーグみたいなものである。

 

 一兵アリとして生まれたが、前と変わらずちゃんと卵も作れる。これは私が母体のクローンとして生産された結果ではないかと思う。キメラアントの摂食交配とウイルスの自己増殖機能が融合してこのような変化が起きたのだろう。

 

 他の兵アリたちが私と同じ体の構造をしていたのか不明だが、記憶を引き継いだ私だけが抑制プログラムによりウイルスの支配から逃れられたようだ。ウイルスによって意識集合体が上書きされる前にその働きをブロックし、以前の自己を保つことができている。

 

 そして私のもう一つの姿、銀髪の少女クイン。念能力『偶像崇拝』によって生み出された念人形だ。こっちの容姿は以前と変わらないが、名前をちょっと変えてみた。クイン=アルメイザと新たに命名する。

 

 ウイルスの抑制プログラムに関する記憶(データ)を渡してくれたルアン=アルメイザに由来している。彼の記憶の一部を摂食交配により受け継いでいるので、父親と呼べなくもない存在だ。父から子が名字を受け継ぐ人間の慣習にならい、クインの名にも取り入れてみた。

 

 私の目標はこの暗黒大陸を脱出し、人間の世界へ行くこと。そして、アルメイザの名を世に知らしめ、歴史に名を残すことだ!

 

 ……なんかちょっと前と性格が変わってないか? いや、気のせいか。こんなものだったと思う。

 

 新たな体を手に入れ心機一転、今日も過酷な自然に挑む。迫りくる未知の脅威に怯えながら、死と隣り合わせの旅は続く――

 

 

 * * *

 

 

 暗黒大陸には多種多様な怪物たちがいる。掃いて捨てるほどいる。例えば今、私の後ろから猛スピードで追走してくる肉食獣など、この付近ではよく見かける存在だ。

 

 「グオオオオオオッ!」

 

 体長30メートルほどの恐竜型。脚は八本あり、腹部に四脚を継ぎ足したような骨格だ。後ろ脚が他に比べてやや発達しているが、全ての脚を歩行に使い、どれも強靭である。頭部は大きく、体の5分の1ほどを占める。凶暴な肉食性で目に入った獲物に見境なく襲いかかる。

 

 これまで出遭った化物たちと比較すると、巨大さで言えば中の下くらいだ。これを軽々と捕食する全長100メートル越えの巨大生物は割と存在する。しかし、そういった超巨大生物にとって私のようなアリンコはエサとして認識されることは少ない。腹の足しにもならないからだろう。だから、踏みつぶされないように気配に注意しておけば回避することは難しくない。

 

 むしろ厄介なのはこの恐竜のような中型個体だ。クインをしっかりと食料として認識し、しつこく襲いかかってくる。その強さも尋常ではなく、念で全強化したところで太刀打ちはできない。まあ、中型より小型の方がさらに厄介だけどね。経験上、小さくなるほどヤバい奴が増える。

 

 とにかく何が言いたいかと言うと、奴らと私は捕食者と被捕食者の関係にあり、その間には絶対的な強さの差がある。こちらがオーラで全力強化した攻撃を仕掛けることもあるが、それは鳥に対してカメムシが放つ異臭のようなものであり、奴らからしてみれば煩わしい程度の問題でしかない。

 

 こんな化物と正面からぶつかっていては命がいくつあっても足りない。結構な数の命は持っているが、それでも足りないのだ。だから、何とか見つからないように気配と痕跡を消し、臭いを残さないように風向きに注意し、敵が移動した痕跡から縄張りを特定しながら地道に回避していくしかない。そして、そこまで手を尽くしても奴らの野生の勘からは逃げられないことがある。ちょうど今がそんな感じだ。

 

 巨大なシダ植物の森で行われるデスレース。周囲の木々は敵の障害物にならない。紙細工のように木々をなぎ倒し、破片を宙に巻き上げながらまっすぐこちらを目指してくる。近くにもっと食いでがありそうな獲物がいれば目移りして進路を変更することもあるが、今のところその様子もない。

 

 私が危機的状況に置かれていることは間違いないが、このくらいは日常茶飯事だ。冷静に思考する余裕はあった。最悪、クインを囮にすれば回避できる程度の相手である。それよりも私はこの状況だからこそ試したいことがあった。

 

 災厄級脅威『アルメイザマシン』との戦いにより、私はその力をこの身に取り込んだ。抑制プログラムを操作することで自身がウイルスに冒されることなく、このウイルスと共存している。このプログラムを解除すればナノマシンは本来の機能を果たし、その脅威を存分に発揮してくれることだろう。私は言わば、制御権を手にしているのだ。

 

 この力を使わない手はない。私はクインを走らせながら、本体を動かした。クインの肩の上で本体が後ろを向き、恐竜型生物と向き合う。本体の尻から背中側へと伸びる大きな産卵管を敵に向けた。これはシストの射出口だ。

 

 アルメイザマシンの感染者は発症することで肉体をジャンクの塊に作り変えられる。このとき必ず、体の一部にシストの射出口を形成する。シストとはウイルスが詰まった弾丸、射出口はその弾丸を放つ銃口のようなものだ。これに撃たれた生物はウイルスに感染し、なおかつその直後に発症、同じくジャンクの塊と化す。

 

 私の体についている産卵管もこれと同じ役割を果たすはずだ。シストを撃ち出すことができるだろう。

 

 ほんの少しだけ躊躇する。私の場合、ここから撃ち出す弾は卵なのだ。この卵はウイルスに汚染されており、シストと機能は変わらない。抑制プログラムを切れば問題なく敵を感染させられるだろう。

 

 だが、それは体内の卵を外へと排出することであり、産卵であるとも言える。私の中で、それは大きなトラウマだった。以前の私なら卵を産むということに猛烈な拒絶感を抱いていたことだろう。

 

 その迷いは一瞬で消えた。あの廃棄場の中で、産卵なんてもう数え切れないほど体験した。心の傷を乗り越えて、私はここにいる。何も考えず、今すべきことをなせばいい。外すことの方が難しいほど巨大な的に向けて、卵を撃ち放った。

 

『侵食械弾(シストショット)!』

 

 パンッ

 

 

 ………………

 …………

 ……当たった?

 

 一応ピストルほどの勢いで発射されたと思うが、逆に言えば銃で撃たれたくらいでこの怪物がダメージを受けるかと言えば答えは否だ。むしろ発射したこっちのお尻が痛い。管の先から煙が出てるぞ。

 

 敵の皮膚は厚かった。何事もなく走り続けている。

 

 シストを発射して相手を劇症化させる場合、その弾丸を体内まで届かせないと駄目らしい。このウイルスは体表に触れただけで感染するが、それは通常感染であり、半年から一年の潜伏期を待たなければ発症しない。

 

 半年後に人知れず発症させたところで意味はない。自信満々で撃った結果がこれか……。

 

 だがそのとき、ひらめく。私が撃つ弾は卵、つまりシストであると同時に私の意識の一つが宿った生命体でもある。着弾の直後、この卵に『練』をさせるとどうなるのだろうか。練によって大量に放出されるオーラをウイルスに食わせれば卵自体が劇症化を起こすのではないか。そしてその劇症化に敵を巻き込めば……。

 

 やってみる価値はある。私は再度、怪物に向けて弾丸を放つ。

 

『侵食械弾(シストショット)!』

 

 ………………

 …………

 ……どうなった?

 

 敵に変化は見られない。よく目を凝らすと、弾が当たったと思われる場所に赤いイボみたいなものができているようにも見えるが、敵は全く気にする様子もなく追ってくる。

 

 強さのレベルが違いすぎた。このウイルスがこの場所で大流行していないことには相応の理由があるのだ。暗黒大陸が育んだ異常な生態系下では、驚異的な増殖力を持つウイルスでさえ容易には感染できないということか。

 

 もう逃げることに専念した方がいい。こうも派手な追走劇を繰り広げられては別の脅威に遭遇してしまう危険もある。そう思いかけたそのとき、変化は起きた。

 

「グオッ、ガ……!」

 

 突如、恐竜の走るスピードが急速に落ちた。たたらを踏んで立ち止まり、苦しそうなうめき声を上げたかと思うとそのままバランスを崩した。轟音を立てて巨体が地面に倒れ伏す。

 

 ひとまず隠で気配を消し、ひっそりと様子をうかがった。『共』による索敵を行うが、特に危険は感じ取れない。慎重に恐竜の方へと近づいていく。

 

 敵は完全に死んでいた。私の攻撃が死因だろうか。特に見た目の変化はなく、劇症化した様子もない。そもそもウイルスからしてみれば宿主の生命エネルギーを糧としているので、簡単に宿主に死んでもらっては困るだろう。何か別の要因があるのか。

 

 調べていると、顎の付け根あたりに奇妙な植物が生えているのを見つけた。赤いサボテンだ。30センチくらいの大きさのサボテンがぽこぽこと4つくらいまとまって生えている。恐竜の巨体からすれば小さなイボ程度の大きさであるが、まるで宝石のように薄暗く輝く赤いサボテンは目立っていた。

 

 私にはこのサボテンに、すごく心当たりがある。これは私の生まれ故郷にあった『赤い植物』だろう。私が練によって劇症化させた『侵食械弾』を撃ち込んだ場所に生えている。つまり、私の卵がこの植物の姿に変貌したということになる。

 

 おそらく、これは植物ではない。ナノマシンが集合した姿だ。従来のウイルスなら生命エネルギーを機械のジャンクのような見た目に変えてしまうところを、私の持つウイルスは赤い植物のような見た目になってしまうようだ。

 

 これは私の生い立ちが関係しているのだろう。外骨格があの植物由来の金属でできている影響だと思われる。それがウイルスと融合する過程で、このような形に落ちついたのかもしれない。

 

 それは別に構わないのだが、ではなぜ恐竜がこのサボテンに当たっただけで死んでしまったのか謎だ。サボテンが生えたこと以外、特にこれと言った外傷もない。綺麗な体のまま、まるで毒殺されたかのように……。

 

「毒?」

 

 サボテンを引っ張ってみる。ずるりと肉の間からひっこ抜けた。根は思ったよりも長く深く皮膚の奥、真皮の内まで達していた。根を抜いた穴を覗き込むと、グスグスにほぐれた肉の壁面が見える。

 

 これは根によって傷つけられただけではない。根から広がるように近くにある細胞が破壊されている。傷口から流れてくる血は黒ずんでいた。細胞の壊死、血に混じる独特の異臭。間違いなく、赤い植物が作り出す鉱物由来の毒による反応だ。

 

 この毒は私の本体も使うことができる。これは神経毒と壊死毒の特性を持ち、噛みつくことで牙から獲物へと注入する。毒腺は二つに分化しており、二つの特性を使い分けることもできるし、合わせることもできる。

 

 もともと在来種のキメラアントの兵アリも獲物を生かしたまま麻痺させ、長時間自由を奪う神経毒を使うことができる。その点、強力な毒素を持つ赤い植物に適合した私たちは、毒による攻撃と耐性において在来種よりも進化しているのだ。

 

 と言っても、この毒攻撃が活用される機会は少ない。私たちの主食は赤い植物であり、狩猟のために毒を使うことはなかった。どちらかと言えば防衛手段の一つである。足の遅い私たちにとって最たる攻撃がこの毒の噛みつきであった。

 

 故郷崩壊後、平和な環境から放り出された私は、当然この毒攻撃も自衛手段の一つとして取り入れようとした。が、そもそも噛みつけるぐらい接近すると、こちらが逆に危険な状況に陥ることの方が多い。

 

 基本は逃げだ。やむを得ず戦う場合、噛みつこうにも皮膚が硬過ぎて牙が通らない敵が多すぎる。オーラ強化のレベルを上げて物理で殴った方が遥かに効率的にダメージを与えられたため、今まで毒に頼ることはなかった。

 

 だから、この毒が恐竜を倒したという結果に驚いていた。きちんと皮膚の内側にまで届かせることができれば殺せるだけの毒性を持っていたのか。敵が強すぎて自分が持つ毒なんて使ったところでどうせ役に立たないだろうと思い込んでいた。

 

 つまり、『侵食械弾(シストショット)』は効率よく敵の体内に毒を送り込むに最適な攻撃なのだ。

 

「……思ってたのと違う」

 

 結局、毒で殺すって、ウイルスの意味があんまりない。

 

 

 * * *

 

 

 想像していたものと異なるとはいえ、私は自力で格上の敵を倒すことに成功した。今まで隠れるか逃げるかしかなかった絶対的強者を正面から打倒したという事実は、私に大きな自信を与えた。

 

 恐竜型の他にも様々な怪物を毒によって殺すことができた。むしろ、敵対していない脅威にこちらから攻撃を仕掛けることさえあった。この森において被捕食者だった私の地位は逆転したのだと確信する。

 

 その力は私の見える世界を一変させた。強者の側に名を連ねることの優越感を初めて味わう。これまで弱者だと自分に言い聞かせ、生きることだけに全神経を使ってきた。その鬱屈した精神は、ようやく一息つけるだけのゆとりを取り戻していた。

 

 現在は、機械遺跡跡地を中心として探索域を少しずつ拡大している。過去、暗黒大陸に上陸した人間の調査団は、あの機械遺跡までおよそ一週間の時間をかけて到達していた。ということは、この近くに海があることになる。

 

 怪物から逃げ隠れしながら移動していた調査団が一週間でたどり着く距離なら、今や自由に森を歩ける私にとってはさらに短い時間で探索可能だろう。地図などの資料が入った例のアタッシュケースは泉の底で朽ちていたので、詳細な距離や方向はわからないが、しらみつぶしに探していけばきっと上陸地点を発見できるはずだ。

 

 余裕ができた私は、海への道を探すのと同時に希望(リターン)探しもやっている。既に見つけた『魂魄水』については『犠牲の揺り籠』で泉を跡形もなく破壊してしまったが、実はその跡地から不思議な石を発見した。

 

 これが何の変哲もない石であったなら気づくこともなく通り過ぎていただろう。その砂利粒ほどの小さな白い石には、念に似た気配が凝縮されていた。どうやらこの石から染み出した成分が泉の水に溶けて効果を発揮していたようだ。この石を『魂魄石』と呼んでいる。

 

 凝縮されたその力はかなりのもので、一舐めするだけでオーラ生産量、放出量が桁違いに跳ね上がる。ただしその分、副作用も強烈で、約1~2分ほどの効果時間が切れると今度は体内の潜在オーラ量が激減する。言わばオーラの前借りのようなものなので、使いどころは難しい。

 

 しかし、切り札としては十分に活用できる品だ。こういった便利なリターンが探せば他にあるかもしれない。そういうわけで色々と探し回っているところだが、そう簡単には見つからないようだ。

 

 このあたりの敵と戦えるだけの力は手に入れたが、基本的に隠は欠かすことなく使い続けている。回避できる戦闘は回避すべきだ。本体をクインの頭の上に乗せながら歩いていると、綺麗な花を見つけた。

 

 ユリに近い見た目の花だ。赤と白のグラデーションが映える。花弁の奥からビー玉大の丸い実のようなものが吊り下がっているが、これは何だろうか。おいしそうだったので、クインに食べさせてみる。

 

「!!」

 

 口の中に広がる極上の甘味。これまで食べてきたものがゴミに思えるほどうまい。少し舐めて味を確かめる程度のつもりが、思わず食らいついてしまった。例えるなら、天界から降り落ちたとしか思えぬ……まさに天使の雫……!

 

「ぴゃう!」

 

 クインの視界がねじれ、空間が螺旋階段のように回りながら落ちて行く。フラクタル構造を描きながら光の線が飛び交った。重度の幻覚症状である。三半規管の麻痺による浮遊感、酩酊、異常な高揚感、感覚の鋭敏化、怒涛のように押し寄せる神経作用に耐えきれず、クインは奇声をあげてぶっ倒れた。

 

 すぐさま感覚共有を切る。別の意識があるので冷静に自分の状態を客観視できているが、強烈な幻覚体験は焼きつくように記憶に残った。クインは失禁しながら痙攣し、意識を失っている。オーラ修繕による解毒は間に合わず、そのまま急性中毒を起こしたのか死亡した。

 

 この花に限ったことではないが、暗黒大陸には毒を持つ植物が多い。本体は毒耐性が高いので気にせず食べることができるが、中でも怪しいものや珍しいものに関してはクインに毒見をさせることがある。用心のためというのと、味覚や嗅覚が発達したクインなら事前に察知できる場合があるからだ。

 

 これまでにもクインが即効性の猛毒にあたったことはあったが、これほど際立った幻覚作用を伴ったのは初めての経験だった。感覚が正常に戻った今でも鮮明に思い出せる。

 

 あれは確かに危険な状態だった。しかし、どこかそれを否定できない自分がいる。私はその感覚を不快に思っていない? 何というか、得も言われぬ爽快さのようなものを感じたのも確かだ。これまで味わったことのない甘美な蜜だった。閉塞的な環境の中で溜まりにたまった抑圧が一気に解放されるような快感を覚えた。

 

 クインの死体はすぐに霧散して消滅した。彼女が残した吐瀉物のあとに、食べた花の残骸があった。私はしばらく、それから目をそらすことができなかった。

 

 

 * * *

 

 

 クインを新たに具現化し、雑念を振り払うように気を取り直して探索を再開したが、どうにも集中力が働かない。海やリターンを探す目的のはずが、私は別のものを探していた。そして、幸か不幸かその目的のものを見つけてしまう。

 

「あっ」

 

 先ほど花を見つけた地点からそう離れていないところ、木々が少し開けた場所に沢があった。その中心で木漏れ日を受けるように咲く美しい花たち。まるで妖精がダンスを踊っているかのように風に吹かれて揺れている。

 

 走り寄ってすぐに採取。花の中央の実をもぎり集める。持ち物袋の中に入れた。この袋は、最近仕留めた怪鳥の喉袋を利用して作ったものだ。分厚く丈夫でゴムのようによく伸びる。気密性が高いので水も持ち運べ、重宝していた。いつもは本体の体にくくりつけている。

 

 頭の中では複数の意識が自制するように求めている。その実を採取してどうするつもりだ、と。毒物であることは明白だ。いかに美味とはいえ、それを進んで食べる必要はない。

 

 本体の毒耐性をもってしてもどんな影響があるかわからなかった。いや、間接的にクインに食べさせただけでこれほどの精神的影響をきたしているのだから危険であることは疑いようがない。

 

 手が止まる。足元には踏みにじられた花弁が散らばっている。一旦、落ちつこう。全て採取する必要はない。この花畑から実を根こそぎ奪えば、せっかく見つけた自生地がなくなってしまう。

 

 いや、そうじゃない。そういうことじゃない。捨てよう。この実は今すぐ捨てた方がいい……か? しかし、もしかしたら何かしら有用なリターンである可能性がなきにしもあらずだ。ここは一度、持ち帰ってからじっくりと検証すべきだろう。何も食べることを前提としているわけではない。食べるか食べないかは、熟考した上で決めればいいことだ。

 

 結論は出た。実を袋に詰め終えたクインは立ちあがる。そして、目の前にいる枯れ木のような姿をした何かと目があった。

 

「……」

 

「……」

 

 何だこれは。さっきまではいなかった。いつの間に。なぜ気づかなかった。思考が一瞬、白く染まる。体が硬直した。

 

 隠はしているが、この距離で気づかれていないということはあるまい。油断していたつもりはなかったが、花に気を取られ過ぎていた。

 

 ……いや、これは明確な油断だ。水辺の近くという立地を考えれば警戒に警戒を重ねてもまだ足りないはずだった。そこに不自然に存在する花の自生地。よく見れば、この花の周囲だけ雑草がない。整備されている。ここは比喩ではなく、何者かが意図して作った花畑なのだ。少し注意すればすぐに気づくような異常を見落としていた。

 

 突如として現れたそれは、見た目は黒ずんだ枯れ木のようだった。森の中で棒立ちしていれば気づかないかもしれない。だが、こうして近くで見れば細長い手足がある。幹の上部には顔らしき穴が三つ開いていた。両目と口だろうか。二足歩行する枯れ木人間。

 

 その手には桶のようなものが握られていた。水が入った容器だ。近くの沢から汲んできたのだろうか。花を育て、管理しているのかもしれない。道具を使っているということは、相応の知性があるのか。

 

「……アァ……」

 

 声だろうか。かすれた高音が聞こえる。言葉とは思えない。仮に話せたとしても話が通じる相手とは思えなかった。奴からすれば私は花畑の侵入者だ。あるいは、まんまと罠におびき寄せられた獲物か。

 

 逃げるか、殺すか、考える。見た目は強そうな敵には見えないが、知性があるというだけで厄介だ。いずれにしてもこの距離は近過ぎる。遠距離戦なら飛び道具を持つこちらが有利だろう。じりじりと後ずさりながら少しずつ離れていく。

 

 枯れ木人間はその場から動かなかった。もしかすると気配を殺して敵に近づくのが得意なのかもしれない。花に気を取られている獲物の背後から忍び寄り捕食する、ここはそういう狩り場として作られたのか。

 

 私は寸前で気づけたからよかった。このまま視線を放さず、後ずさりながら距離を取る。そしてある程度離れたところで一気に離脱。追ってくるようなら『侵食械弾』であしらえばいい。これが最善か。

 

「ウウ、ウ」

 

 枯れ木人間はこちらを見ながらうめくだけだ。その目と思われる空洞からは水が流れていた。泣いているつもりか。花畑を荒らされた怒りからか、それとも獲物を取り逃がした悔しさからか。

 

 だったらどうした。あいにくこちらは欠片の同情も持ち合わせていない。強ければ奪い、弱ければ奪われる。ただ、それだけのことだ。もうそろそろ頃合いだろう。さっさとこの場を離れる。そう思い、脚に力を込めたときのことだった。

 

 

「ウアアアアアァァァァァァァァaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa――――」

 

 

 突然の慟哭。可聴域を越えた高音は途中から聞きとることができなくなった。空気が震える。そして、クインの視界は一瞬にして閉ざされた。

 

 眼球が両目とも破裂している。攻撃を受けたことは明白だ。理由を考えるよりも先に、クインの右手を敵へと向ける。クインの目が潰されたとて、まだ本体の目が残っている。腕にしがみついている本体の発射口から弾丸を放った。

 

 高速で敵へと飛び出す『侵食械弾』。しかし、避けられる。目で追うのもやっとのスピードで敵は動いた。さっきまでの鈍さは何だったのかと思うほどの俊敏さを見せる。

 

「aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa」

 

 クインの左足が弾けた。両目の修復が間に合わないうちに、さらなる傷を負う。足はまずい。機動力がそがれる。敵が狙ったのもそのためだろう。視界を奪われ、足止めされる。こちらの対応が後手に回っている。私は緊急事態用に備えて作った『精神同調』の派生技を起動する。

 

『思考演算(マルチタスク)!』

 

 基本的に同一思考をしている意識集合体を出来る限り分離し、情報を並行処理させることで思考速度を格段に高める。使用中は極度の集中力を要するため短時間しか使えないが、一瞬の猶予が勝敗を左右するような極限状況で、無駄なく判断し行動することができる。

 

 まず、敵の戦力を推測する。攻撃手段は不明、有効範囲も不明。少なくとも10メートルは離れたこちらに攻撃を届かせている。その精度も高い。的確に眼球のみを二ついっぺんに破壊している。足も狙って攻撃された可能性が高い。

 

 そして驚異的な移動速度を持つ。不意打ちで撃った高速接近する銃弾をかわすほどの脚力と動体視力。既に足を負傷した状態のクインでは、逃走は困難だ。十全の状態でも逃げ切れるかわからない。

 

 加速する思考の中で主観時間は異様に長く伸びていた。クインの目の修復を終える。続いて足の回復にとりかかろうとしたとき、敵が吠えた。耳障りな絶叫が響き渡り、臓物が震えあがるような悪寒が走る。

 

 次の瞬間、クインの内臓が弾けた。胃の下あたり、肝臓か。腹の中で水風船が破れるような感覚が走る。引き延ばされた時間の中で、ゆっくりと、真綿を絞めるような激痛が襲いかかってきた。

 

 思考加速中でなければ、この痛みで意識が飛んでいたかもしれない。冷静な思考を保ちながら狂うことも許されない痛みを味わわされる地獄。だが、生きているからこそ味わえる苦しみだ。ここで無様に隙をさらせばあっという間に殺される。

 

 推測する。こちらが負傷する直前、敵は大声をあげていた。それ以外に何かしたような気配は感じられない。『凝』も使って観察していたが異常はない。念による攻撃なら受けた瞬間、逆にウイルスを送り込んで劇症化できる。ことはそんな単純な話ではない。

 

 鍵は“声”だ。奴が声を発した後、かすかに腹の中に振動が走った。思考加速中だから捉えることができた感覚だ。その振動は急速に一点へと収束し、爆発。臓器の一つのみを狙って破壊している。

 

 音波か。あの声はさながら音響兵器。しかも、ありえないほど精密な指向性を持つ。眼球や足のように外部に露出している部分ならまだしも、体内の臓器という隔離された場所に攻撃を届かせ、なおかつ周囲を一切傷つけていない。

 

 オーラによる防御が何の意味もなしていない。任意の場所を即座に破壊する死の絶叫。もし、初撃で脳を狙われていたらその時点でクインは死んでいる。そこまで考えたとき、血の気が引くような想像が脳裏をよぎった。

 

 今日、クインは既に一度死んでいる。花を食べたときに中毒死した。そのとき、卵のストックを大量に消費している。誓約によりその数は1000個中333個以上。しかし、これは精神が万全の状態で死を迎えればの話だ。

 

 そのときの動揺の具合によって、失う卵の消費量は増加する。毒にあたるという比較的“優しい”死に方をしているはずだが、それでも損害を最小限に抑えられなかった。現に、今の私が保有する卵の残存数は500を下回っている。

 

 つまり、クインを具現化できる回数はあと一回きり。ここでクインが死ねば、次はない。具現化すること自体は可能だが、そのクインが死んだとき誓約による代償を払いきれない。残存数から言って『犠牲の揺り籠』も使えない。

 

 今、具現化しているクインを失えばもう『偶像崇拝』は使えないのだ。新たにクインを作り出したところで即座に殺される。残された本体の機動力では到底逃げ切れない。

 

 今はまだクインという“わかりやすい的”があるので、敵はまずそこを狙ってきている。だが、彼女がいなくなれば次の標的は本体だ。絶をしてやり過ごせば見逃してくれる可能性も……いや、駄目だ。本体が弾丸を発射するところを見られている。

 

 とりあえず、用心のために殺しにくるだろう。いかに硬い外骨格で守られていようと、その中身を直接破裂させられれば絶命する。一方、こちらは敵に攻撃を当てることができない。

 

 それでも、当てなければ勝機はない。『侵食械弾』が唯一の勝ち筋だ。やみくもに撃ったところで当たる敵ではない。クインの負傷が少ない今ならまだ、敵に特攻すれば何とかなるか。一瞬でもいい。こちらの攻撃も遅いわけではない。隙さえできれば当てるチャンスはある。

 

 そんな思惑をあざ笑うかのように、クインの左ふくらはぎが弾け飛んだ。バランスを崩し、四つん這いになる。クインを死なせないために今、全力で肝臓の修復にあたっているところだ。既に生きている方が不思議なくらいの重傷である。足を直している余裕は全くない。

 

 防御不能、回避不能、破壊力抜群の音響攻撃を前に、なすすべもなく地を這いずる。接近戦に持ち込むなど不可能だ。距離を取ることで不利となったのはこちらだった。

 

 完全に生殺与奪を握られている。今、私は遊ばれている。クインを殺す機会はいくらでもあったはずだ。あるいは、敵の怒りに触れた私は制裁を受けている最中なのかもしれない。

 

 奴が本気になったとき全てが終わる。それは一分先の話か、一秒先の話か。

 

 死? 私が?

 

 急速にのしかかる重圧。まるで空気が重さを増したかのようにさえ感じた。個としてではなく、群としての死。私という存在全ての死。まるで雨が降るような気軽さで落ちて来る。圧倒的な死の気配。

 

 死ねるか。

 

 『思考演算(マルチタスク)』を総動員した。限界を越えて意識を酷使する。状況を打破するために最善の、最良の、道筋を、方法を。数百の私が考える。

 

 その末に決断した。本体から数発の『侵食機弾』を発射する。当然、敵はそれを予期している。回避行動に入るのが見えた。ハイスピードカメラが膨大なコマ数の映像を記録するように、分割された意識集合体がそれぞれ観測した認識をつなぎ合わせ、スローモーション映像を形成する。

 

 だが、それはただ見えるというだけのことだ。正確に敵の位置を把握して百発百中の命中精度を実現できたところで、敵がその弾を回避できる反射神経と速度を持っていてはどうしようもない。だから次の一手を打つ。

 

 

『精神同調(アナタハワタシ)』

 

 

 その能力を、敵に向けて放った。

 

 これは電波に念を込めて放つ洗脳念波だ。その速度は電波と同じく、遮るものがなければ空気中を光速に近いスピードで拡散し、当たった対象を自分の体のごとく操作できる。

 

 だが、その効力は非常に弱い。おおよそ生物全般に効果はないのだ。自我を持つ者には弾かれ、意思も持たないような虫一匹にさえ全く効かない。例外的に私の卵に対して使えるようなもので、これは自分自身を操る能力と言える。

 

 だから、目の前の敵に使ったところで意味はない。念波を弾かれて終わりだ。敏感な敵ならば、念波がもたらす害意にかすかな違和感を覚えるかもしれないが、それ以上の効果は無い。

 

 だが、その念波が一度にいくつも重複してぶつかればどうだろう。一つ一つは取るに足らない小さな“ささやき”が、重なることで聞き取れるほどの“音”となる。

 

 私は分割した各意識に能力の行使を命じた。卵の一つ一つが発する念波が、幾重にも連なって敵に襲いかかる。

 

 それでもこの能力によって敵を操れるわけではない。せいぜい、違和感を大きくする程度のものだ。「何かされている」という一瞬の違和感。それこそが私が求めたものである。

 

 能力の内容を知っている者なら動揺する必要はない。この念波に一切攻撃力はないのだから。だが、何も知らない者にとっては正体不明の攻撃である。

 

 そこに微細な隙が生じる。

 

 

「ア!?」

 

 

 敵の動きがわずかに鈍った。それでも回避行動を止めるほどのものではない。敵はギリギリで弾道を回避する位置を見抜いていた。小さな弾丸は、標的を捉えることなく通り過ぎる。

 

 

『練!』

 

 

 その瞬間、弾丸の直径は膨れ上がった。弾(タマゴ)そのものが劇症化することで瞬時に赤い球状のサボテンへと成長する。ギリギリで弾を避けるという敵のもくろみを欺く。

 

 

「アガッ!?」

 

 

 確かに当たった。しかし、サボテンが根を張るには至らない。敵をかすりはしたものの、発射速度の勢いのまま敵後方へと過ぎ去っていく。

 

 それでいい。『精神同調』による念波と『侵食械弾』によるわずかな被弾。その怒涛の攻撃が実を結び、敵に決定的な隙ができる。

 

 そしてその隙を本体が認識する前に、待機させておいた分割意識が既に弾丸を発射していた。隙が生じることを前提とした推測による射撃。今の私にできる最高の一撃だ。これをかわされれば、その先はない。

 

 

 当たるか、外れるか。

 

 生か、死か。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アギッ! アッ……アアアアアアアアアアアア!?」

 

 

 

 当たった。敵の胴に直撃した弾丸が、サボテンへと成長する。今度こそ捉えた。敵の体表を覆う生命エネルギーを巻き込み、しっかりと根を張ることに成功する。続けざまに撃つ。ここで手を休めれば殺されるのは、こちらだ。

 

「アゴブ!」

 

 敵は脚部に被弾。胴、顔面、腕、次々に弾が当たり、赤いサボテンの苗床と化す。

 

「……ァ゛ッ!」

 

 口を塞いだところで勝敗は決した。これで声は出せない。ヨタヨタとふらつく枯れ木をなおも撃ち抜く。陸に上がった魚のように跳ねる敵を、徹底的に追撃した。そして奇妙なサボテンの集合オブジェが完成したところで、ようやく銃口を下ろす。

 

 「はぁっ……ひぃっ……!」

 

 勝利の余韻はない。強敵を破った達成感も、自分の強さを発揮した充実感も、恨みを返した爽快感も、全くない。

 

 ただ、生きている。死を退けた先にある妄執的な生の感覚しかなかった。そして、それは死よりも何倍もおぞましいことを知った。

 

 

 * * *

 

 

 今回の失態は、全て私の怠慢が招いた結果だ。

 

 アルメイザマシンの力を手に入れたことで、自分の強さに自惚れた。まるでこの森の、生態系の頂点に君臨したかのように錯覚していた。

 

 浅はかな考えと言うしかない。私の力とて、元は災厄級脅威の一つでしかない。同じレベルの脅威が他に存在しないと誰が決めたのだ。私は、ようやくこの森で対等に戦う力を得たにすぎない。

 

 さっきの戦いも回避する機会はいくらでもあった。花の誘惑になど負けず、不用意に沢に近づかなければそれで済んだことだ。採取しているときだって、しっかりと警戒していれば敵の接近を許さなかった。

 

 しかし、油断していたのは敵も同じだったのだろう。最善手を取るなら、私が採取に夢中になっている間に隠れて遠距離から攻撃すればよかったはずだ。わざわざ姿を見せる必要はない。その強者の余裕に救われた。

 

 運が良かった。その一言に尽きる。次もこんな幸運に巡り合う保証はない。弱者だと見下した敵に足元をすくわれて一瞬で逆転することだってあるだろう。明日は我が身だ。

 

 常在戦場。その心構えを胸に刻む。

 

 クインは臓器の修復をようやく終わらせ、命をつなぎとめることができた。卵のストックが半分以下の状況でよくあそこまで粘れたものだ。今後はクインをいかに生かすかを考える必要がある。もっと使い方を考えなければ強敵相手に立ちまわれない。

 

 基本は今までと同じく戦闘回避が軸となるだろう。『隠』により姿を隠し、『共』により索敵する。周囲の森の状況を探る。

 

「『共』」

 

 一。

 二。

 三。

 四。

 五。

 六。

 七。

 八。

 九。

 十。

 十一。

 十二。

 

 

 

 

 十二体。

 

 

 

 

 周囲に十二体の反応あり。

 

 

「ば」

 

 

 馬鹿な。いつの間に、ど、どうやっ、さっきまでは確かに、いや、いた? ずっと、戦闘中? 見られていた? 確認する、余裕、なかった。

 

 いる。木々の中に身を隠すように、枯れ木たちが身をひそめている。

 

 その数、十二。一体でさえ、死力を尽くし、敵の油断につけ込み、持てる力の全てを振り絞って紙一重で勝利した脅威が十二体。

 

 クインの体から、どっと汗が噴き出した。頬を伝い落ちる水滴が、地面へと吸い込まれる。水が染み込み、色が変わった土の跡を見つめることしかできなかった。

 

 

 



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9話

 

 森の中に身をひそめる化物たちは、完全に気配を絶っていた。四大行で言うところの『絶』の状態である。野生の獣は自然の中を生き抜く過程で、誰に教わることなくこの『絶』による気配の消し方を習得するという。人間が定義するまでもなく彼らにとっては当たり前の技術なのかもしれない。

 

 まだ、攻撃はされていないが、依然として包囲された状態が続いている。『共』で見破らなければ潜んでいることにさえ気づけなかっただろう。むしろ、この静寂の中で行われる狩りこそが奴らの本領と思われる。

 

 このままでは、今の状態ではなすすべもない。意を決し、持ち物袋を開いた。中に入っている物を探る。

 

 手は情けなく震えていた。袋を開ける、ただそれだけの行為もままならないほどの震え。どれだけ平静を装おうと隠せなかった。奴らがその気になれば、あっけなく私は死んでいる。

 

 念能力のパフォーマンスは、本人の心理状態が如実に反映される。強気ならばそれにふさわしい力強いオーラとなり、そして当然、弱気になれば衰える。劣勢に立たされた者ほどこの差は大きく現れる。戦況に左右されず、一喜一憂することなく精神の安定性を保つことが重要だ。

 

 今の私にこの逆境を乗り越える気概は残されていなかった。萎縮した精神状態ではろくに能力を発揮することもできない。だから、最初に取り掛かったことは心身の回復だ。

 

 袋から取り出した『魂魄石』を本体に舐めさせる。体表からほとばしるオーラの奔流は、通常時の数倍ほどに膨れ上がった。内からこみあげて来る力強い命のエネルギーを受け、それに押される形で精神も鼓舞された。なんとか持ち直す。

 

 すぐに急増したオーラをクインの修復に回した。一刻も早くクインの負傷を直す必要がある。それが最優先だ。治療しながら次に取るべき行動について考える。

 

 現状、敵は動いていない。こちらの様子をうかがっているものと思われる。私にとって奴らは脅威だが、向こうにしても私は警戒に値する存在なのだろう。現に同胞が殺されている。未知の能力を使う相手に対して、うかつに手を出せずにいる。

 

 だが、奴らが攻勢に踏み切った途端この拮抗状態は容易に崩壊する。あの音響攻撃に対してこちらは抵抗する手段がない。したがって、奴らと交戦するという選択肢はなかった。

 

 逃げるしかない。だが、そんな隙を見せれば間違いなく攻撃される。元からそのつもりがなければ包囲なんてしてこないだろう。

 

 何とかして逃げる機会を作り出さなければならない。逃げ切れるかどうかの以前に、まずはそこだ。どうやって敵の目を欺くか。私は周囲を見回す。

 

 そこで一つの異変に気づいた。私が先ほど仕留めた化物がいた場所に、大きなサボテンのポールができている。『侵食械弾』を食らって倒れた枯れ木人間を軸とするように、赤い多肉植物が成長しているのだ。

 

 こんな変化は今まで見たことがなかった。『侵食械弾』に撃たれた対象は毒に侵され死亡する。ウイルスが増殖する前に毒で死んでしまうのだ。だが、以前から疑問に思う点があった。もし、私の毒に耐性を持つ敵がこの攻撃を受けたならどうなるのか。

 

 目の前で起きている現象は、まさにその答えである。赤いサボテンに寄生され、飲み込まれるように取り込まれている奴の姿こそウイルスの劇症化の現れであった。すなわち、それはまだあの中で化物が生命エネルギーを発し続けており、生存していることを示している。

 

 あれだけの弾丸、猛毒の攻撃を受けてまだ生きているのだ。劇症化させたことよりも、敵の強靭な生命力を目の当たりにして衝撃を受ける。

 

 変化はそれだけで終わらなかった。養分を吸い取り大きく成長したサボテンは、つぼみのような器官を形成した。花が開いていく。一つの原石から削り出された芸術品のように、煌びやかな宝石の花が咲き乱れる。

 

 そして満開となった花の中心から何かが飛び出した。それは小さな弾丸だった。ウイルスのシストだ。劇症化段階に入った感染者は射出口からシスト弾を撒き散らす。私の持つウイルスの場合、その射出口の見た目が花になっているようだ。

 

 花を咲かせたサボテンが四方八方に弾丸を撃ち始めた。完全に地面に根を張っているので、固定砲台としての役割しか果たさない。大量に弾を放出できるのはいいが、見境がなかった。私の方にまで飛んでくる始末だ。

 

 しかし、枯れ木人間たちにとって、その攻撃は心理的な動揺を与えるきっかけになった。仲間が得体のしれない姿に変えられ、よくわからない無差別攻撃を始めた。それは奴らにとっても看過できることではないはずだ。

 

 その動揺を表すように、隠れていた敵が発砲と同時に一斉にその場から退避した。

 

 今だ。

 

 逃げに移行する絶好の機会。私はクインを走らせた。

 

 

 * * *

 

 

 奴らは私の力を見ている。こちらには敵を倒しうる戦力がある。その力を見せつけ、少なからず脅威であることを知らしめることはできた。だからこそ、敵は多勢にも関わらず慎重に隠れてこちらの様子をうかがっていたのだ。

 

 このまま逃げに入れば、もしかすると追ってくることはないのでは? そんな淡い期待はすぐに立ち消えた。

 

 後ろから猛スピードで追跡してくる気配を感じる。『魂魄石』でドーピングしていなければ逃げ切れないほどの速度だ。身体のリミッターを超えた強化率で脚力を引き上げ、ようやく互角と言ったところか。

 

 一歩踏み出すごとに筋繊維が断裂する感覚が走った。それをオーラ修復で強引に治しながら走る。石の効果で回復力も増強されているからできる荒技だ。

 

 速度はほぼ互角。しかし、対等の条件下で互いに走っているわけではない。追う者と追われる者という関係は、それだけで後者にとって不利に働く。

 

 密林の中という見通しも足場も悪い環境を全力で走ることは難しい。前を走る者は通れる道を探して未踏の場所を切り開いていかなければならないが、後ろから追う者はその後をついていくだけでいい。

 

 背後から迫る圧倒的なプレッシャーに責め立てられる。一対多という数の暴力がそれに拍車をかけた。『思考演算』を駆使して視覚情報を取捨選択し、できるだけロスのない道順を走っていく。

 

 だが、それでも足りなかった。奴らを引き離すには速度が足りない。ついに背後から耳障りな絶叫が響いてくる。

 

 Aaaaaaaaa――――!

 

 ビリビリと空気が震える。それは音速の攻撃だ。かわすことなどできはしない。クインの体内が揺さぶられる。

 

 私は全神経を集中させて敵の攻撃を見極めた。クインを走らせるための分割意識を最小限まで削り、体内の異常を察知するために集合体のネットワークを細分化させた。

 

 これまで何度も攻撃を受けた過程で、その兆候はつかめている。狙われた場所へと微細な振動が収斂していき、爆発。そのわずかな震えを見逃さなければどこを狙われているのか事前に察知できる。

 

 一点に振動が集まる。その場所は……クインの心臓。次の瞬間、命の鼓動は炸裂して停止する。

 

「……ッ!」

 

 私が何の対策も講じていなければ、今頃クインは死んで本体もそう時間を置かず同じ運命をたどっていたことだろう。

 

 心臓を破壊される前に、攻撃を防ぐことができた。やったことはそれほど難しいことではない。敵の攻撃がくる瞬間、『流』によって心臓の強化率を“下げた”のだ。

 

 奴らの声はオーラで強度を増した人体を容易く破壊する。しかし、それは大音響で作り出した音のエネルギーをそのままぶつけているわけではない。大声で鼓膜を破るとか、そういう力の使い方ではないのだ。

 

 私はこれを『共鳴』による攻撃ではないかと予想した。特定の周波数を持った音が、他の物質に働きかけて振動を増幅させる現象がある。物には最も震えやすい振動の値がある。これを利用すれば念能力を使わなくても、声だけでグラスを割る程度のことは可能であり、物理的に説明できる。

 

 だからと言って、ガラスのコップのような単一素材でもない人間の臓器をまるまる一つ共鳴させて破壊するなんてことはありえないが。それを可能とするのが暗黒大陸という常軌を逸した環境だ。

 

 とにかく敵はこちらの臓器の『最も破壊しやすい周波数』を狙って声を出している。であれば、その音の調律が合わさる寸前に狙われたポイントの強度を変えてやればいい。強度が変われば、それによって共鳴に必要な周波数の値も変わってくる。

 

 この対処法が成功する確証はなかったが、ぶっつけ本番で効果を検証できた。この音響攻撃の前では、オーラでいくら身体の耐久力を増しても意味はない。まさしく防御無視の貫通攻撃。逆に言えば全くオーラで強化していなかったとしても起きる結果は同じである。

 

 肝心なのは強化率の変動だ。そして、ただやみくもに流を行えばいいというわけではない。もとより一筋縄ではいかない相手だと思っていたが、さっきの一撃を防いだことで理解できた。奴らの真骨頂は絶叫そのものではなく、そのチューニング技術の高さだ。

 

 漫然とオーラを体内で掻き回している程度の流では共鳴を防ぎきれない。その変化に奴らが対応して周波数をチューニングしてくるからだ。正確に敵の狙いを読み、共鳴破壊が起きる直前で強度を変えなければならない。

 

  Aaaaaa

Aaaaaa

    Aaaaaaaaaaaa

 

 クインの後方、前方、横、あらゆる方向から声が響いてくる。おそらく、声を反響させて多方向から仲間が集まっているように錯覚させる狙いなのだろう。実際は後方から迫る一団しかいない。

 

 もともとオーラで身体能力を強化する術を知らない枯れ木人間たちは、何のデメリットもなく『絶』が使える。気配を完全に絶ちながら反響する声で獲物を追い詰める無慈悲な狩猟。

 

 共鳴破壊のプロフェッショナルにして、脚の速さは凄まじく、毒をものともしない生命力まで兼ね備えているときている。こちらは『共』で敵の所在を探っているが、普通なら広範囲の円でも使えない限り発見は困難だろう。そして仮に発見できたとしても、そこから対処できるかどうかは別の問題だ。

 

 私が何とか死なずに逃げ続けていられるのは、敵の攻撃に射程範囲があるという理由が大きい。音のエネルギーは発生源から離れれば離れるほど減衰する。共鳴を起こすためにはそれなりに対象へと接近する必要があるようだ。

 

 しかし、逆を言えば接近すればするほど、敵の攻撃は正確性と威力が増すことを意味している。今の距離でさえ破壊が可能な状態なのだ。これ以上近づかれては、流が間に合う自信はない。

 

 突出してきた敵に対して『侵食械弾』を撃って牽制する。もはや、当たればいいなというささやかな希望さえ持ち合わせてはいなかった。全力で警戒している敵に当たるわけがない。だが、警戒されているからこそ牽制となりえる。

 

 この弾の発射は、なるべくならしたくなかった。これは卵であり、私にとって頭脳の一つでもある。発射するごとに意識集合体は縮小し、処理できるタスクの数も減っていく。ただでさえ卵の残存数は半分を下回り、処理能力の限界ギリギリで分割意識を酷使しているのだ。たった数百しかない弾数である。一発も無駄にはできなかった。

 

 それだけの身を削る牽制によって敵から稼げた時間は0.1秒か、0.01秒か。その瞬きするほどしかない隙を作り出さなければ逃げ切れない。

 

 距離を保たなければ一気に相手の攻勢へと持ちこまれる。細心の注意を払い、敵を近づけさせないようにしたつもりだ。だが、じわじわと前線は詰められていく。

 

 ついに恐れていた事態が起きた。共鳴の波状攻撃がくる。複数の敵から攻撃が届くようになった。流によるオーラ移動を二つ以上、タイミングを見極めて同時にこなさなければならない。例えるなら右手と左手で全く別々の作業を行うような難しさ。

 

 その程度はまだ序の口だった。三つ以上、四つ以上のオーラ移動をときにこなす。さらに二つ以上の攻撃が同じ目標に向けて放たれることもあった。例えば二匹の枯れ木人間が、クインの心臓に向けていっぺんに共鳴破壊を仕掛けて来るのだ。

 

 その場合の流のタイミングは、さらにシビアとなった。逃げた先の周波数に合わせられやすくなるからだ。先の先を読みつつ、他の共鳴にも気を抜かず、体中ありとあらゆる箇所のオーラを絶えず移動し続けなければならない。

 

 そのせいで、脚力の強化を落とさざるを得なくなった。脚を壊されるのが一番まずい。強化率の変動値に幅をもたせるため、あえて強化率を低下させておかなければいずれ追いこまれる。常に全力強化では変動させる余地がない。

 

 頻繁に左右の脚で強化率を変えなければならず、走る体勢にも影響が出て来る。無論、速度は減少し、敵に距離を詰められ、さらに流の難易度が上がるという悪循環が出来上がる。

 

 クインだけでなく、本体の内臓が狙われることもあった。本体から銃弾を発射しているので当然だろう。なんとしてでもそこだけは死守せねばならず、必要以上に流に力が入ってしまった。そのせいで他の守りが薄くなる。

 

 クインの左腕がはじけ飛んだ。守りきれなかった。走行に支障はない。オーラ修復は傷口の止血にとどめる。余計なオーラを消耗している場合ではない。左右の体重にずれが生じたことで体勢が崩れた。

 

 転べばそこで何もかもが終わる。何とか踏みとどまる。姿勢制御のために使用限度を超過したタスクを分割意識に押し付けてしまい、卵が過労死していく。足が遅れ、また敵との距離が縮まる。

 

 弾丸発射も出し惜しみしている状況ではなくなった。撃たなければ殺される。敵も次第にこちらの攻撃に慣れ、必要以上に回避に力を入れなくなった。余裕をもってかわされる。牽制効果が切れ始めている。

 

 逃走開始からどれだけの時間が経過しただろうか。もう正常な時間感覚は失われていた。自分の中では何時間も逃げているような気がする。だが『魂魄石』の効果がまだ切れていないので、実際はまだ数分も経っていないのだろう。

 

 石によるブーストは約3分ほどである。その効果時間が終われば潜在オーラが激減し、まともな念能力は使えなくなる。この状況下でそんな事態に陥れば命はない。この逃走には初めからタイムリミットがあるのだ。

 

 最初は時間を計測する意識を一つ作っていたが、途中でやめた。そんなことに意識を割くくらいなら別の仕事をさせた方がマシだ。時間内に逃げ切れなければ死ぬ。それだけなのだから。

 

 あとどれくらいの時間が残されているのだろうか。一秒先には死んでいるかもしれない。船底に無数の穴が空いた船のように沈没を待つしかない状況。その絶望的な状況の中で、私は一心に走り続ける。

 

 そのとき、立ちふさがるように並んでいた木々の間から光が差した。密林が途切れている。まるで希望を表す道しるべのように差し込んできた光の先へと走り抜ける。

 

 そこにあったのは崖だった。

 

 巨大な渓谷が目の前に現れる。谷底は目がくらむほど離れている。一応、水が流れているようだが、この高さから落ちればその衝撃は地面に激突するのと変わらない。そしてそれ以上に、水辺にはどんな脅威が潜んでいるかわからない。どのみち落ちれば助からない可能性が高い。

 

 渓谷の向こう岸は遥か遠くにある。空でも飛ばない限り向こうへ渡ることはできそうになかった。

 

 敵はここに巨大渓谷があることを知っていたのだろう。左右への逃げ道を塞ぐように広がって展開していた。私をこの場所に追い込むつもりだったのだ。

 

 万事休す。そう思っているのだろう。だが、私は微塵もスピードを落とすつもりはなかった。そのまま崖の方へと走り続け、ためらいなくその先へと踏み込んだ。

 

 敵がこの場所のことを知っていたように、私もここに渓谷があることを事前に調べていた。このあたりの探索はしらみつぶしに行っている。こんな大きな地形の変化を見逃すはずがない。

 

 最初からわかってここを目指していたのだ。この場所でなければ敵を撒くことはできない。だからこそ数分間という制限時間を加味した上で無謀とも言える逃走劇を行えた。

 

 これ以上ないほどの全力疾走を助走とした跳躍。崖岸から勢いよく空中に躍り出る。クインの右手には本体をつかんでいた。

 

「はああああっ!」

 

 向こう岸へと、本体を投げる。脚部が壊れるほど限界を越えたジャンプからの、腕部の損傷を顧みない全力の投擲。ここでクインを使い潰す。残されたオーラを全て使い切り、本体を逃がすことだけに注力する。

 

 本体は脚をたたみ身体を丸め、できるだけ空気抵抗を減らした体勢で投球となって空を飛んだ。この勢いならば向こう岸まで届く。そう思えるほどの速度。

 

 敵から逃れた。しかし、ここで気を抜くことはできない。むしろ、ここからが正念場だ。

 

 本体を投げた後、クインは落下するよりも早く敵の共鳴攻撃にさらされた。今までこの攻撃を防いでこられたのは、『思考演算』で極度に高度化された加速意識によるところが大きい。本体と離れてしまったクイン単体では使えない技だ。

 

 血しぶきを撒き散らしながら原形がわからなくなるまでバラバラに弾け飛ぶクイン。ここまでは想定の範囲内である。本体は、もう十分に敵と距離を取った位置にいる。ここまで共鳴攻撃が届くことはないだろう。

 

 問題はクインの死によって払うこととなる代償である。これを見越してなるべく卵の消費を抑えなければならなかった。そうしなければ逃げ切れなかったとはいえ、予想以上の損失だ。

 

 その残存数は345個。代償の333個を差し引けばほとんど残らない。さらに、その数字は代償の最小値であって、実際に失う数はそれを上回る。そして残像数が0個を下回ったとき、本体の命をも失ってしまう。

 

 猶予は12個しかない。その範囲内に損失を抑えきれなければ逃げられたところで命はない。そのためには精神を落ちつけ、速やかに自らの死を受け入れなければならなかった。

 

 足掻いて、足掻いて、足掻いた先で死を受け入れよとは何とも矛盾している。生きるために死に、死ぬために必死になる。現実とは、かくも無情だ。

 

 点、舌、錬、発。

 

 完全に外界へとつながる感覚を絶ち切り、内なる精神へと没入するため瞑想に入る。長らく『燃』の練習は行っていなかったが、スムーズに瞑想へ移行できたことに安堵する。

 

 最後の仕上げに取りかかろう。私は自分の中に広がる死の認識と向かい合った。

 

 

 * * *

 

 

 死を受け入れるという感覚とは、そもそもどういう状態なのか。

 

 初めは自分の持つ全ての感覚が失われ、何も認識できなくなることだと思っていた。例えば、深い眠りについているような状態。意識がなくなり、そのまま目覚めることもない。五感を失うことで作り出された暗闇の中に取り残されるようなものではないだろうか。

 

 しかし、当たり前のことだが眠るということは死ではない。意識がなくなろうと脳は機能しているし、その間に作られた暗闇もまた自分自身が見ているものに過ぎない。

 

 ならば、何も考えられなくなった無の状態こそが死ではないかと思った。だが、何も考えていない状態とは『何も考えない』ということを考えている状態ではないか。どれだけ精神を空っぽにして無にしようとしても、私が考える無がそこに存在してしまう。

 

 結論として、生きている状態ではどれだけ死に近づこうとそれは“生”であって“死”ではないのだと思う。コインの表と裏のような関係だ。表を見ているとき裏は見えないし、その逆も然り。その間には、覗き見ることのできない隔絶がある。

 

 しかし、コインは横から見ることが可能だ。表を「○」、裏を「●」と表すならば、横から見ると「|」。一本の線である。でも、生と死の間に中間の領域なんてあるのだろうか。私は、このコインに厚みはないのだと思った。横から見たとき、そこには何も存在しない。

 

 つまり、無だ。その存在しない領域を見ようとすることが「死を受け入れる」ということではないか。

 

 じゃあ、具体的にそれはどうやればいいという話になってくる。生者でありながら死に肉薄し、その絶対的な隔絶を越えようとすることは、まるで異常な感覚。倫理や常識から外れた想像を絶する精神性の先にある境地。

 

 と、最初は思った。だが、どうもそうではないらしい。そういう特殊な心境を目指そうとすると、むしろ思考の深みにはまり無から遠ざかる。

 

 だから、もっと考えるまでもなく初歩的で原始的な状態なのだ。何かを考えて為そうとする以前の状態だ。無知よりも未熟で虚無的で、それでいて生きている。

 

 卵なのだと思った。生命の誕生、命が生じる瞬間、その存在は有と無の狭間にある。

 

 だから、私の能力が卵を犠牲とすることは、これ以上ないほど理にかなっていた。『精神同調』が切れ、自我の供給が絶たれる瞬間、卵は「死を受け入れる」ことに対して破格の適性を得る。死という脅威に対して最も脆弱であるがゆえに、最もその場所に近い位置に存在していた。

 

 などと今、私は考えている。考えているということは生きているということだ。枯れ木人間との激闘を乗り越え、何とか生還することができた。

 

 あれから6日が経った。しばらくは体力と卵の回復に専念し、潜伏を続けていた。もうリターン探しはこりごりだ。

 

 考えてもみれば、この大陸を生き抜く上で有用な資源があるのなら、既にそれを独占して縄張りにしている生物がいてもおかしくない。いや、いない方がおかしい。そしてこの弱肉強食を煮詰めて固めたような生態系の中で、一定の縄張りを形成できるような生物となれば強くて当然だ。希望(リターン)を探せば、必然的に災厄(リスク)とぶつかる危険も高まる。

 

 当初の目的である海を探すことに集中した。そして現在、森を抜け、砂浜と思わしき場所にいる。

 

 見渡す限り砂丘が広がっている。浜というより砂漠のようだ。だが、砂の中をよく見れば貝殻が多く混ざっている。昔はこの場所まで海面があったのだろう。

 

 それがなぜこうも砂地があらわになるまで海水面が下がっているのか。一抹の不安を抱えながらも、広大な砂浜を歩き進むことにした。

 

 



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10話

 

 以前の私は敵に対して「逃げる」「隠れる」という消極的な対処しかできなかった。それがアルメイザマシンと共存することで力を手に入れ、「戦う」という選択肢が生まれてくる。

 

 もちろん、今でも行動の主軸は戦闘回避におかれている。先日の失態は自分の力を過信して思慮のない行動を取ってしまった結果であり、それは反省しなければならないところだ。

 

 しかし、逃げるよりも戦った方が結果的に安全に対処できる場合もあるだろう。取りうる選択の幅を自ら狭めていては、かえって生存の可能性を低くすることにもつながる。自分の能力が有効な範囲を正確に見極め、戦うべきか逃げるべきかを速やかに決断することが重要になってくる。

 

 枯れ木人間との交戦で思い知った。いくら思考を加速させても、その認識に身体がついていかなければ能力を十分に生かせない。理想を言えば、考えずとも戦いに際してとっさに身体が動くようにしておきたい。

 

 つまり、武術が必要なのだ。戦場は一刻一秒が生き死にを分ける世界である。考えてから行動していては遅い。基本的に私は遠距離から『侵食械弾』を発射する戦法に頼りすぎていると思う。距離を取って戦うことは大切だが、それしか手がないというのも考え物だ。

 

 武術などと大げさな物言いであるが、何も最初から高度な技術を身につけようと考えているわけではない。第一に求めるべきは、その心構えである。

 

 何事も、経験した者が先んじる。いくら頭の中で理解していようと、実際に敵に襲われたとき、即座に対応できるものではない。常に戦いを想定し、予行練習を積んできた者にしかできないことだ。身体能力や戦闘技術以前の問題として、その武術の精神性こそ今の私が見習うべきものだと思う。

 

 戦闘における武術の有用性は『型』にある。これはどんな競技、流派であろうと変わらない。あらかじめプログラムされた一連の行動を、考えずともできるまで身体に染み込ませ、使いこなせるように練習する。だから速い。

 

 逃げるにしても、自分の持つ戦闘スタイルへ即座に移行することで余計な思考や虚に惑わされることなく、スムーズに行動態勢に持っていける。思考の切り替えを早め、反応力を高める効果がある。型を学ぶことが武術の精神性を身につける上で一番の近道だろう。

 

 もちろん、型にはまった戦い方が常に有効であるとは限らない。型には速さがあるが、柔軟性がない。良くも悪くもプログラムされた行動である。だから状況に応じて複数の型を使い分け、組み合わせることで隙をなくす。その判断に思考を費やし、つなげる型の選択肢を広げるためにも、やはり型は速くこなせるに越したことはない。その速さが対応力に直結する。

 

 私の記憶の中で、心源流のすごい使い手がそんな感じの戦い方をしていた気がする。違うかもしれないが、私はその人の戦い方からそんな印象を受けた。

 

 問題は、武術に関する詳しい知識がないことだ。心源流の戦い方も、とにかくすごいという印象だけはあるが、具体的にどんなことをやっているのかさっぱりわからない。

 

 おぼろげに柔道と言う何かの武術をやっていたような記憶があるが、ほとんど覚えていないも同然だった。前世の私はあまりそういう運動に手を出していない気がする。

 

 武術というのは、ほとんどが対人戦を想定した技術である。しかし暗黒大陸での戦いは、お互いにフェアな条件で技をかけあうわけではない。化物相手にある程度実戦的かつ、初心者の私でも取り組めそうな格闘技はないかと考えた。

 

 その結果、ボクシングを選ぶ。これならば両手で殴るだけのスポーツだ。頭部や胴といった人体の急所を両腕でガードする基本姿勢は、化物相手にも有用である。視界はややさえぎられるが、死角は本体の目で補うこともできるし、クインには『共』による直感認識能力がある。これが自分には最も合っている武術だと思った。

 

 そしてここ数日、トレーニングを続けているわけだが……

 

「シュッ! シュッ!」

 

 これが意外と難しかった。一人でシャドーボクシングをやってみて痛感した。

 

 パンチを打つ。ただ、それだけの動作だが、一つの武術として意図的にやってみようとすると粗が目立つ。何と言うか、まるっきり素人のパンチだった。『思考演算』を使って自分の体の使い方を隅々まで観察すると、どれだけ無自覚な殴り方をしているのかよくわかった。

 

 腰が入っていない。体幹がずれている。もともとフォームがしっかりできていない上に、右手に本体を装備して偏ったウェイトがかかっているため余計にバランスが悪くなっている。武器として生かしきれず、その重さに振り回されている。素人が分析しただけでこれだけわかるのだから、専門家が見ればもっとひどい意見がいくつもあがるだろう。

 

 そこにさらにステップという要素が加わる。足周りの動きは攻撃と同じくらい、場合によってはそれ以上に重要な動作である。単純に分類しても、前へ踏み出すインステップ、後ろに下がるバックステップ、横への移動サイドステップがある。

 

 敵の攻撃を避けつつ、こちらの攻撃を当てるためには、このステップを使いこなす技術が必須だ。ガードで衝撃を受け流したり、避けた先から即座に攻撃に転じるためには足さばきだけできても駄目だ。上体と下半身の動きの連動に苦戦する。ステップとパンチが壊滅的に噛みあっていない。

 

 要するに今の私は、オーラで強化した身体能力に物を言わせて殴りつけているだけなのだ。それはボクシングではない。両手で殴るだけのスポーツだと思っていた私は、ボクシングを舐めくさっていたとしか言いようがない。

 

 ボクシングだってその道のプロが生涯を費やして臨む武術の一つだ。簡単に習得できるわけがなかった。もとより、一朝一夕に身につく武術などない。毎日、地道に練習を積んで伸ばしていくしかないだろう。

 

 指導者もなく、素人の浅知恵で考えたトレーニングが果たしてどこまで通用するものか疑問はある。記憶の片隅に残っている漫画の知識などを総動員して試行錯誤を繰り返すしかなかった。

 

 

 * * *

 

 

 砂漠と見間違えるような砂浜を歩く。遮蔽物のないこの場所は見通しが良すぎた。こちらの位置が敵から見えやすいが、その分こちらも敵を発見しやすいと言える。

 

 つい先ほどなど、全長100メートル級のアメフラシを見かけた。ナマコだったかもしれない。とにかく、その巨体が移動した跡の砂地はキラキラと光る道ができていた。

 

 最初はナメクジが這った跡のように粘液が乾いて光っているのかと思ったが、よく見ると地面が陶器のようにツルツルになっている。砂が溶けて含有されていた石英がガラス状に変質したのだ。

 

 もちろん、アメフラシにそれ以上近づくことなくスルーした。このくらい一目瞭然に危険性がわかる敵ばかりなら助かるのだが、一目見て大したことなさそうな奴が実は本気で殺しにくるパターンが多い。やめてほしい。

 

 しばらく歩いていると、かすかに波のさざめきが聞こえてきた。潮のにおいが風に混じっている。海は近い。

 

 順調かに思えた砂浜の探索だったが、さざ波の音をたどって進んでいる途中、異様な耳鳴りが発生した。痛みを覚えるほどの高音が鼓膜の内側で暴れる。

 

 耳鳴りは1秒ほどでおさまったが、その不自然さに警戒を強めた。すぐに『共』を使って索敵を行う。

 

「……なにもいない……?」

 

 特に異変は感じられなかった。本当にただの耳鳴りだったのかもしれない。

 

 そう思った矢先のことだった。忽然と前方に巨大な影が現れる。

 

「!?」

 

 それは青いカニだった。数十メートルはあろうかという大きな体格だが、驚くべきはその胴体よりも大きなハサミだ。右の鋏脚だけが異常に発達している。その姿はシオマネキに似ていた。

 

 アンテナのように長く伸びた二つの目がぎょろりとこちらを向く。その威圧感に足が一歩後退する。じゃりっと、砂を踏む音が鳴った。それを合図とするように、敵が動いた。

 

『思考演算(マルチタスク)』

 

 加速思考に入ったときには既に、ローラープレスのようなハサミが頭上へと振り下ろされる寸前の状況だった。その巨体に似合わぬ凄まじい速さ。次の瞬間、視界が影に覆われる。

 

 圧倒的な質量が叩きつけられた。空砲のような轟音と共に周囲の砂が弾け飛ぶ。

 

 ギリギリのところで回避が間に合った。正面から迫る直線状の圧殺攻撃をサイドステップでかわす。練習をしていなかったら、きっと間に合わなかっただろう。まさに紙一重であった。

 

 しかし、回避が成功したことによる一瞬の安堵、その隙に食らいつかれる。叩きつけを終えた鋏脚が、今度は横薙ぎに振われた。避けられない。攻撃範囲が広すぎる。

 

 気がつくと上空を舞っていた。途切れたカメラの映像をつなぎ合わせたかのように場面が飛ぶ。意識に空白が生じるのは当然だった。それだけのダメージを負っている。

 

 これでも、できる限りの対処はしていた。『堅』による全身の防御力強化、そして直撃の瞬間に自ら上空へ吹き飛ばされるように跳んでいた。棒立ちで受け止めていれば、轢き殺されてミンチにされていたところだろう。最大限、衝撃を受け流したつもりだ。

 

 その結果が全身いたる所を骨折する重傷だ。

 

 ぼろ雑巾のように宙を舞いながら考える。敵の攻撃を食らってしまったが、まだクインは生きている。一撃で殺されなかった。

 

 

 

 もしかしてこのカニ、それほど強くないのでは?

 

 念能力というわけではないが、ある程度の使い手になれば相手を見た瞬間、自分との力の差を察知することができるという。私もいくつかの修羅場をくぐってきた中で、そういう肌感覚を身につけることができた。

 

 自分の感覚を信用するならば、このカニの強さは“並”と言ったところだ。弱くはないが、強くもない。登場の仕方にこそ驚かされたが、戦闘力自体はそれほどでもないように見える。

 

 正直、クインの傷の心配はしていなかった。この程度の負傷はよくあることだ。むしろ軽い方だと言える。機能は低下しているが、まだ身体は動く。そして卵のストックは満タン。取りうる選択には余裕があった。

 

 問題は次にどう行動するかだ。奴は攻撃を繰り出した直後で、次の行動に移るまでに隙がある。さらに盛大にハサミを振りまわしてくれたおかげで砂煙がたちこめ視界が悪い。

 

 敵はクインを見失っている。この機に乗じて逃げるのが最善か。クインが負傷した状態でどこまで走れるか不安だが、以前やったように本体を投げて逃がす手もある。まずは着地して体勢を立て直すか。

 

 両足と片手、しなやかに三点で衝撃を抑え込むように着地する。それと同時に、骨の軋む音が足の付け根から駆け上ってきた。腰骨と背骨がバキバキだ。アドレナリンによって一時的に麻痺していた痛覚が再燃する。

 

「ぐぶっ――」

 

 食道からこみあげてきた血反吐を飲み込んだ。内臓も思ったよりやられていたようだ。痛みで意識がショートしそうになりながらも『絶』で気配を絶つ。オーラを内部で循環させ、体内の修復にあてる。気づかれていなければいいが……。

 

 ぎょろり。

 

 砂煙の切れ間から覗いた敵の目が、こちらを見据えていた。痛みで絶の精度が乱れたか。不覚だ。まだまだ修行が足りない。

 

 瞬時に思考を切り替えた。クインと敵のスピードの差を考えれば、もはや逃走は困難だ。生存するためにはどうするのが最適か、答えを導き出すよりも先に身体が動く。

 

 インステップだ。勢いよく前へと踏み出す。その急加速に負傷した身体が悲鳴をあげるが、聞き届けている余裕はない。ためらいなく敵のそばへと接近する。

 

 敵の武器である巨大な鋏脚は圧倒的なリーチを誇る。こちらの居場所に気づかれた以上、下手に逃げようとしたところで広大な攻撃範囲から脱することは難しい。だが、巨大であるがゆえに攻撃が届かない場所がある。

 

 それは敵の至近。むしろ懐に潜り込むことでハサミの死角に入る。

 

 巨大であるということはそれだけで脅威だ。多大な重量とそれを動かすだけのエネルギーは、獲物を容易くひねりつぶす。それに対して、小さな者が立ち向かうための手段は二つ。遠距離から一方的に攻撃を当てるか、密着するほどの至近距離から仕掛けるか。

 

 インファイトの精神は、恐れず踏み込む意気にある。それは自己を顧みない蛮勇ではなく、冷徹に敵を推察する力なくして為しえない。覚悟を決め、意識を集中させる。

 

 左手を顔の前に構え、右手をやや後ろに引いたオーソドックススタイルで臨む。敵はこちらの接近に気づいているが、対応できていない。鋏脚の動きは俊敏だが、それ以外の部分の動きは目で追える速度だ。潰されそうになったとしても回避できる。

 

 勝機を感じ取る。地を蹴り、一気に距離を縮めた。しかし、そこで誤算が生じる。

 

 まるで身体の内側に格納していたかのように、隠された鋏脚が現れた。カニが持つハサミは本来一対、左右に一つずつある。右の発達した鋏脚に気を取られていたが、左にも武器を隠し持っていた。

 

 右のハサミに比べれば小さなものだが、その短いリーチは至近距離での戦いに向いている。敵は見事にこちらの思惑を外し、迎撃のための手段を備えていた。

 

 私は構わずクインを直進させた。ここで足を止めれば、さらに状況は悪くなる。引き返すことはできない。左鋏脚が爪を開きながら高速で迫ってくる。あれに挟まれればクインの身体は細枝のようにへし折られ、両断されるだろう。

 

 オーラでいくら強化していようと防げる攻撃ではない。私はクインの左手を捧げるように前へと差し出した。そして、用意していた技を発動する。

 

『仙人掌甲(カーバンクル)』

 

 左手を覆うグローブのように赤いサボテンが出現した。その金属の塊が、挟み切ろうと迫っていた左鋏脚を食い止める。

 

 これは左手の防具を作るために編み出した技であった。ボクシングは拳で戦う格闘技だ。手を保護する防具はあった方がいいに決まっている。右手は本体をしがみつかせて手甲の役割を持たせていたが、左手には何もなかった。

 

 この発想はボクサーを志す以前から考えていた案だった。クインのオーラをウイルスに食わせて赤いサボテンを作り出す。言葉にするのは簡単だが、これがなかなか繊細な作業を強いられる技だ。抑制プログラムを駆使して感染発症を局所的に抑えなければならない。習得までには時間がかかった。

 

 劇症化に巻き込まれればクインの左手にサボテンが根付いてしまう。そうなれば毒で即死だ。今は何とか実戦投入できるレベルに達しているが、練習の過程で何度も失敗している。

 

 サボテンは左拳を覆うように球状に素早く形成される。ただ、手首付近は大きく開いているため、すぐにすっぽ抜ける。一度発症してサボテン化したオーラは後で取り消すことができないため、こうしておかないと手から抜けなくなるのだ。

 

 だからグローブとして常時使用するのには向いていない。一撃奇襲用の武器である。一応、手首部分まで覆うように作ることも可能だが、その場合は左手を切り落とさないと外せないので使いどころは考えなければならない。

 

 それでも素手で殴るよりは強力な武器となる。このグローブは『周』によって強化が可能だ。武器にオーラを込めることで耐久性や威力を向上させる応用技『周』は、その物に対する思い入れの強さや使い慣れた度合いによって精度が変わる。自身の身体から生み出したも同然のサボテンは、私にとってオーラの伝導率が高い武器となった。

 

 そしてサボテンの形から逸脱しない範囲であれば、ある程度形状の変化も可能である。棘を鋭く伸ばして棘付きグローブにすることもできる。これで威力もさらに上がる。

 

 ボクシングは選手によって戦い方は様々であるが、右利きなら左手で素早くジャブを打ち様子見する。そして隙を見て、威力の乗った右手で攻撃することが多い。

 

 『仙人掌甲(カーバンクル)』は、左手を牽制として使うための技でもある。クインにとって本体を抱えた右手は重打を与えるための堅固な防具にして武器であるが、最も守るべき弱点でもある。それをいきなり未知の敵に対してぶつけることは不安が大きい。

 

 そこでまずは左で様子を見る。左で攻撃し、防御し、敵の強さを計った上で本命の右を繰り出す。そのためなら左手がどうなっても構わない。肉を切らせて骨を断つ。

 

 ギリギリと金属質な音を立てて鋏脚に挟みこまれたサボテングローブが軋みを上げるが、周で強化されたそれを破壊するには力不足のようだ。敵の動きが止まる。その隙を見越し、既にクインは右拳を振るっていた。

 

 一片の出し惜しみもない。『重』により、本体の卵たちから引き出された攻防力がクインの右腕に集結していた。その細腕には不相応なエネルギーが強引に注入され、筋肉が破裂寸前まで膨れ上がる。

 

 重複する顕在オーラをありったけ注ぎこめば、あっけなくクインの腕は弾け飛ぶだろう。その崩壊をオーラ修復によってつなぎとめ、はち切れるギリギリのラインを見極め、無駄なくエネルギーを筋肉全体へと行きわたらせる。加速思考がその計算を可能とした。

 

 そして、パンチとは腕の筋肉によってのみ行われる動作ではない。手首、肘、肩、腰、股関、膝、足首、つま先の関節と、それらを動かす筋肉と腱の作用によってなる。一つの拳を放つために使われる各部にまで意識を向ける。

 

 オーラを見ることができる者ならば、クインの身体の各所に『硬』が行われていることに気づくはずだ。『硬』とは身体の一か所にオーラを集中させる技である。顕在オーラの全てを拳に集めれば、その威力は通常のパンチの何倍、何十倍という威力にまで高まる。

 

 その半面、拳以外の身体のオーラ強化率はゼロとなる。絶の状態であり、防御力は皆無。また、硬はその使用自体が難易度の高い技である。『絶』で拳以外の精孔を塞いだ状態から『練』によりオーラ放出量を高めるという真逆の性質を持ったオーラ操作をこなさなければならない。それに加えて、『纏』と『凝』により漏出するオーラを体表にとどめた上で『発』による力の解放を行う。

 

 オーラの全威力を一点に集中させる代わりにその他の防御力を全て失う。纏、絶、練、発、凝という五つの技を同時に扱う難易度。よほどのことがなければ戦闘中においそれと使える技ではない。だが、クインはそれを全身に複数個所使用している。

 

 正確に言えば、これは『硬』ではない。身体全体のオーラを100としたとき、拳に100を集め、その他の部分が0となる状態が『硬』である。クインは自身の顕在オーラ量を越える数値を各所に100ずつ振り分けるという通常ならありえない技を使っている。

 

 言うなれば『硬』の威力を持った『凝』。本体から攻防力を引き出すという『重』の状態だからこそできた。そこにクインのオーラによって傷を修復できる体質と、『思考演算(マルチタスク)』による技の同時行使という要素が重なることでようやく完成した荒技だった。

 

 最高速度で振るわれる右腕は、もはや自分自身の目でも捉えることはできない。その右手では本体が全力の『堅』で守りを固め、インパクトに備える。さらに弧を描くように横から振りかぶられたパンチには、肩、腰、つま先の回転に合わせて遠心力が加算された。

 

 

 ――重硬・右フック!

 

 

 曲線を描く赤い軌道が瞬いた。キチン質とは到底思えない鋼の甲殻にクインの拳が突き刺さり、鐘を叩くような高音が響き渡った。

 

 掛け値なし、渾身の一撃である。それを受けて敵の装甲はひび割れる程度の損傷で済んでいた。逆にクインの右腕は、関節の位置がわからなくなるほどねじり曲がっている。防御を固めていた本体も内臓を揺さぶられ軽い脳震盪を起こしたような状態になっている始末だ。

 

 森の昆虫類ならこの一撃で内臓にまでダメージを与えられたと思えるほどの手ごたえがあった。なんという硬さ。これが甲殻類の防御力。

 

 しかし、わずかであれどその装甲にひびを入れることができた。

 

 『侵食械弾(シストショット)!』

 

 突き刺さった右腕から、傷口の内部に向けて本体が弾丸を撃ち込んだ。二段構えの攻撃が敵の防御を食い破る。埋め込まれた種は敵の体内で芽吹き、身を太らせ、花を咲かせる。外敵から身を守る鉄壁の装甲は、その内側に膨張する病原を抱え込み、逃げ場のない檻と化して持ち主を苦しめる。

 

 そう思われた。勝利を確信した私の目の前で、弾を撃ち込んだ左鋏脚がポロリと外れた。ハサミだけが体から切り離される。

 

 自切だ。トカゲがシッポを切り、敵の注意を引いている隙に逃げるように、生物が体の一部を自ら切り離す行動を指す。甲殻類にも自切をするものは多い。

 

 敵は攻撃を受けた左鋏脚の異常を感知し、即座に切り捨てた。まずい、せっかく撃ち込んだシスト弾が無駄になった。まさかこんな手段で感染発症を防がれるとは。

 

 それまでその場にとどまり続けていた敵が、大きく動く。腰を据えた姿勢から立ち上がり、せわしなく脚を動かし始めた。その一歩一歩が砂を巻き上げる柱の移動だ。踏みつぶされないようにステップでかわしていく。

 

 その様子を見てわかった。敵は逃げようとしている。自切は主に天敵に襲われた生物が、逃走確率を上げるために行う自衛手段だ。自切という行動そのものが戦意喪失を表していた。得体のしれない攻撃を仕掛けてきたクインに対して、このカニは脅威を感じている。

 

 逃がすか。

 

 もし敵が腕を切り離した上で、戦いを続ける意思があったなら勝負の行方はわからなかった。私にとって苦しい戦いになっただろう。それが奴にとっての最善手である。

 

 しかし、逃げに入った時点で勝敗は決した。敵は自らの優位を捨てたに等しい。いかに実力差があろうと戦意なき強者は容易に足元をすくわれる。

 

 食うか食われるか、その関係は思いのほか曖昧で、一瞬の逆転劇はありふれている。

 

 敵に追いすがったクインは本体から『侵食械弾』を放った。自切した左鋏脚の切断面に着弾する。装甲のない露出した肉の部分から毒素が侵入し、カニは動かなくなった。

 

 

 * * *

 

 

 なかなか強かった。『もしかしてこのカニ、それほど強くないのでは?』とか言っておきながら、普通に殺されかけた。

 

 言い訳をさせてもらえば、強さ自体を見るならもっとヤバい奴はいくらでもいる。相性が悪かった。少しでも肉に食い込めば毒を注ぎこめる『侵食械弾』は、時として格上の敵でも倒しうる強力な武器だ。しかし、こういう装甲で全身を固めた相手には使いづらい。

 

 そのために重硬からの弾丸撃ち込みコンボを発案していた。今回の敵はその練習台としてちょうどいいかなという思惑もあり、正面からぶつかってみたのだが、まだ本格的な実用化に向けて改善しなければならない点があると気づかされた。やはり実戦で試さないとわからないことは多い。

 

 というわけで、先ほどのカニとの戦いは技の検証に大いに役立った。ただ、一つだけ不可解な点がある。最初に遭遇したときの状況だ。

 

 まず不自然な耳鳴りを感じ、『共』による索敵を行った。それにより異常なしと判断した直後、敵はいきなり目の前に出現している。まるで最初からそこにあったかのように突然の登場だった。いくら絶が得意だろうと、あれだけ目立つ物体をあの距離で見逃すわけがない。

 

 『共』は高い精神の集中が必要な技で、『凝』のように頻繁に使い続けることはできない。だが、その索敵の確度は私の持つ技の中で最も高く、これを使用した上で敵を見逃すということは今までなかった。

 

 その隠密性の一点に限れば、間違いなくあのカニは災厄級の脅威であったと言える。それほどの理不尽さがあった。あんなものを生かして逃がせば、今後このあたりを安心して探索することもままならない。そういう意味で殺しておけたことは僥倖だった。

 

 しかし、疑問は残る。まるで認識自体を消し去ったかのようなあの隠行ができるのならば、わざわざ私の前に姿を現してから攻撃に移る必要はなかった。私が気づいていないうちに攻撃されれば、なすすべもなくやられていただろう。

 

 何か、ひっかかる。奴は姿を現した当時、どんな行動を取っていた? 何か不審なところはなかったか?

 

 考えても答えは出なかった。一応、安全をとって先ほどの場所から距離を取った地点を歩いている。いつも以上に気がけて、こまめに『共』で索敵もしておく。あんまり短期的に使いすぎると精度が落ちるが仕方がない。

 

 ひどくなる頭痛を堪え、こめかみを揉みほぐしながら砂浜を歩く。ひと際大きな砂丘を越えたとき、その向こうに青い海原を見た。

 

 



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調査団編
11話


 

 生まれて初めて見る海。知識にはあったが、実際に見るとスケールが違う。この海はメビウス湖と呼ばれているらしい。暗黒大陸に囲まれた巨大な塩水湖だ。その湖の中心に、守られるようにして人間の生存圏が存在する。

 

 途方もない話だった。何十億という数の人間が暮らす大陸は小島でしかなく、その世界を囲む広大な海は湖でしかない。もしかすればこの暗黒大陸も、その“外側”から見れば取るに足らない小さな世界なのかもしれない。まるで宇宙のような広がりの中にいる。

 

 だが、確かに人間は存在している。サヘルタ合衆国調査隊の足取りから、おそらくここがメビウス湖であると断定していいだろう。この湖の先に、人間の世界がある。

 

 欠片も展望が見えなかった私の目標が、かすかに現実味を帯びてきたように思えた。

 

 

 * * *

 

 

 海沿いの探索を開始する。第一に確認すべきは危険生物の有無だ。さっきのカニの件もあるので油断はできない。波の音だけが響く静かな浜辺を歩いて行く。

 

 海藻が砂浜に打ちあげられていた。見た目は昆布に近い。昆布は出汁を取るのに使われるほど旨味成分を豊富に含んだ海藻だ。おいしいのだろうか。

 

 しかし、相手は暗黒海域産の昆布だ。陸の植物とはまた違った抵抗感がある。念のため、『仙人掌甲(カーバンクル)』で作ったサボテンの棘で突っついてみる。

 

 

 つんつん……

 

 グチョォ……

 

 

「うわぁ……」

 

 どろどろした透明の粘液が出てきた。糸を引くような粘性のある液体は、次第に白く変色し始め、ゼリー状に固まってきた。素手で触らなくてよかった。

 

 ぬめり昆布は放置するとして、気を取り直し、これからの行動計画を立てることにする。

 

 やはり、必要不可欠なのは航海手段だ。船はもちろんのこと、航海に必要な器具、コンパスや地図海図、操縦技術と船員の確保。あげ始めればきりがない。

 

 そのほとんどが現状では入手不可能であることはわかっているが、何しろこれから渡ろうとしている海は暗黒海域だ。およそ万全の準備を整えられたとしても無事に渡航できる保証は全くないだろう。

 

 人間の生存圏に近い海を「人類領海域」と言い、その外側は「未開海域」と呼ばれている。人類が制覇できていない未知の海である。そして、そのさらに外側、「限界海境域」を越えた先に「暗黒海域」はある。外側になるほど危険が増していくことは言うに及ばない。

 

 それでも、人間は調査団を作り、暗黒大陸まで派遣することに成功している。比較的安全に航海するルートは見つかっているのだろう。船を入手するだけではなく、そういったルートを知った先導者がいなければ航海は難しい。

 

 調査隊がどこに上陸したのかわからないが、おそらくかなり昔のことである。もう船は残っていないだろう。一応、探してみるが期待はしていない。これ以上の手がかりを見つけることは難しいと思われる。

 

 船を自作するとしても、私は造船知識など持ち合わせていない。イカダ船を作るのがせいぜいである。わずかばかりの水と食料を積みこんで海へ出たところで漂流するだけだ。船が無事に原形を保っていられるのは何日ほどだろうか。

 

 自力脱出は不可能であると判断した。調査団の船を見つけ、それに同乗させてもらうことが唯一の脱出方法である。

 

 だが、この広い海の中、運良く調査団の船と出会う確率はいったいどれほどあるというのか。あくまで漂流して遭難するよりは可能性があるというだけの話である。

 

 その上で一応の考えはあった。船を探すのではなく、船を着けられる場所を探すのだ。

 

 調査の性質上、長期間に渡って船を停泊させておく場所は必ず必要になってくる。それも危険生物に見つからず、安全に休める場所でなければならない。長い航海を完遂し、大量の人員を運ぶためには船の設備や大きさもそれなりの規模が求められる。それだけの大きな船を泊められる場所となれば条件がそろう場所はかなり搾られるはずだ。

 

 人間の大陸から一般人が暗黒大陸渡航を希望したとしても、それが実現されるまでに膨大な資金と時間が必要となるらしい。その上、願い叶って上陸できたとしても安全が確保されたごく狭い範囲内を監視付きで行動することしかできない。

 

 しかし、逆に考えればこの暗黒大陸において安全地帯が確立していることを意味する。どこかにそういう場所があるのだ。そしてその近くに船を泊められる港があるはず。

 

 海岸線に沿って地道に調べていけば、いつかたどり着ける。何年かかるかわからないが、それでもゴールがあるのなら諦めずに進むことができる。どうせ一か所に留まって船を待っていようと歩きながら船を探そうと変わらないだろう。

 

 決めるべきは進む方向だ。左回りか、右回りか。この選択によって港に至るまでの時間は大きく変わってくる。場合によっては途方もない遠回りとなるだろう。

 

 かと言って、どちらが正解か知りうるすべもないし、適当に自分で決めるしかない。確か、こういうときはクラ、クラ……クラペカ理論だ。右か左かで迷ったときは右を選ぶと良かったと思う。その理由は忘れたけど。

 

 自分の中で区切りをつけるための一歩。その行動が大きな発見へとつながることになる。

 

 足元に、小さな白い物が落ちていた。普段なら見逃がして通り過ぎていたとしてもおかしくなかった。貝殻の破片か何かだと気にも留めなかっただろう。

 

 半分以上、砂に埋もれたそれを拾い上げる。手のひらの上で転がせるほどの小さな丸い物体。前世の知識の中に同じものがあった。

 

 これはペットボトルのキャップだ。

 

 人類領海域からここまで流れ着いてきたというのか。それは考えにくいし、もしそうだとしても、ここまで来る間に摩耗しているはずだ。その痕跡がこのキャップにはない。真新しく、印刷された文字まではっきり読み取れる。

 

 誰かがこの近辺にペットボトルを持ち込み、キャップを捨てたのか。その誰かとは誰だ。

 

 浜辺に打ちあげられた一つのごみ、私の手の上にある小さな白いキャップは何物にも代えがたい宝に見えた。

 

 

 * * *

 

 

 船を発見した。

 

 近くの砂浜をくまなく調べ上げていき、たどり着いた岩場。波に削られできた窪地に隠されるようにして大きな船が泊められていた。

 

 私はその場から動けなかった。

 

 様々な感情が頭の中でがんじがらめとなり、統一された思考にすることができない。それは『思考演算』を用いたところで解決できない問題だ。

 

 過去、調査隊がこの砂浜の近くに上陸したことはわかっていた。だから、暗黒海域の中でも通りやすい渡航ルートがこの近くにある可能性はあった。もちろん、それを考慮して付近一帯を捜索するつもりでいた。

 

 しかし、心の中では思っていたのだ。どうせそんなものは見つからないという先入観に支配されていた。『もしかしたらあるかもしれない、そういう希望的観測に期待すれば、なかったときの落胆も大きい』という、保身的感情さえ抱けないほどに信じていなかった。

 

 それが蓋を開けてみればどうだ。停泊所が見つかったどころか、船まである。私はいまだ、現実を認められずにいた。

 

 要するに、この事態を毛ほども想定していなかった。調査隊の船を見つけるという目標こそ掲げていたが、では実際に見つけた後どうするのか。長い旅路の中で考える時間はいくらでもあると思っていた。

 

 まさに千載一遇のチャンス。これを逃せば次はないと思えるほどの幸運。ここから脱出できるかもしれない。夢のまた夢だと思っていた機会が今、目の前に、手を伸ばせば触れられるくらい近くまできている。

 

 居ても立ってもいられなかった。今すぐにでも飛び出して、救助を乞いたい。その衝動を、何とか抑え込む。

 

 人間にとって、私は危険度Bの脅威「キメラ=アント」だ。それは亜人型キメラアントに限った話だが、彼らにしてみれば私も似たような存在に見えるだろう。

 

 正体がキメラアントだとバレなかったとしても、暗黒大陸にいるというだけで怪しまれる。何者かという話になる。私に敵対する意思はないが、向こうがどう捉えるかわからない。言葉を尽くして懸命に無害であることをアピールしたとて、信用してもらえるだろうか。

 

 あるいは、こっそり船に忍び込むか。調査隊員は熟練の念能力者が多いだろうし、完璧に気配を隠しながら侵入することは難しいはずだ。仮に潜入できたとしても、航海中に発覚する可能性が高い。そうなれば、もはや友好を嘯いたところで信用されまい。間違いなく戦闘になる。

 

 ならばいっそのこと制圧するか。相手が人間であり、念能力者であれば、私の持つ力は最大の効果を発揮する。高い確率で勝利することはできると思われる。武力をもって脅迫し、船を乗っ取る。

 

 

「……でき、ない」

 

 

 しかし、その感情を手放しに肯定することはできなかった。私の精神の奥底で混ざり合った別の“私”が否定している。

 

 それはルアンの持つ記憶であった。私は彼の記憶(データ)を引き継ぐことで抑制プログラムの操作方法を知ることができた。そのデータの九割九分がプログラムに関する知識についてであり、彼という存在が私の中で生きているわけではない。

 

 だが、そのデータには余計な情報がわずかに付着していた。彼は魂魄水の泉に捕らわれる中で、ウイルスへの対抗手段を作り出すことを宿願としていた。その行動原理は敵への憎悪と、研究者としての利己的な探究心と、人類をこのウイルスから守り、仲間を救い出すという使命感に起因していた。

 

 抑制プログラムは人類を救うことを目的として解析された情報であった。そのデータを受け継いだ私にも、彼の意思が根付いてしまっている。人間という存在を目の前にして、改めて私の中に残る彼の遺志が浮き彫りとなった。

 

 ただ、それは私の意思を強制するほどの強固な縛りではない。あくまで自分の意思でねじ伏せることが可能な程度の強迫観念である。自分が危険な状況に陥ったときや、ウイルスの力を使う必要に迫られたときは、人間相手であっても使える。そのはずだ。

 

 だが、まだ意思疎通もしていない段階で一方的にこちらから攻撃を仕掛けることは、果たして許されるのか。もしそういった強硬手段に訴えた場合、人間の大陸に到着した後は証拠隠滅のために乗員全てを殺害する必要もでてくる。そして殺した後、何食わぬ顔で人間社会へ潜伏するというのか。

 

 それは“人間”として正しい行動なのか。人類という種の視点から見たとき、明らかに私は災厄(リスク)でしかない。私がこの暗黒大陸から出たいと思った理由は、安全な場所へ逃れるためだけではない。人間というものがいかなる存在かを知り、人間として生きたいと思ったからだ。

 

 脱出のために最善と思われる合理的行動と、いまだ自分の中で確立されていない人間像との乖離。どうやってこの差を埋めればいい。『思考演算』をフル稼働して結論を求める。

 

 いまだかつてないほどの思考加速をもってしても答えはでなかった。これが戦闘における論理的思考であるなら今まで数え切れないほどこなしてきた。たとえ到底敵わないほどの強敵であろうと答えを導き出せた。だから私は今、ここに生存している。

 

 どうすればいいのかわからない。あと少しでこの大陸から出られる。その間際まで来ているというのに、むしろゴールは遠ざかっているような気さえした。クインは頭を掻き毟りながら考える。力を入れ過ぎてぶちぶちと髪が抜け、頭皮から血が出たが気にならなかった。

 

 一旦、落ちついて別の視点から考えてみよう。

 

 まず、あの船を容易く制圧できるという前提は正しいのか。いかに私の能力が対念能力者戦に優れているからと言って絶対に勝てるという保証はない。それほど念の多様性は奥が深く、底が知れない力だ。

 

 そして船の操作は私一人でできることではない。最低限、操縦に必要な乗員は生かした上で、拘束せずに行動を許さなければならない。その点もリスクが大きい。

 

 人間からすれば私は災厄以外の何者でもなく、絶対に人類活動圏まで持ち帰りたくないと考えるだろう。種の滅亡をもたらすくらいなら、自爆してでも船を沈める。そういう手段を取らないとはいえない。

 

 さらに言えば念能力ではなく、兵器によって対抗される可能性も考えられる。人間の力は念だけではない。人類を支配しうる力をもった亜人型キメラアントだろうと、あっけなく化学兵器の毒で殺される。その科学力こそ最大の脅威である。

 

 やはり、対話が必要だ。何とかして友好的な関係を求めていることを伝えなければならない。そのためには、ただ話しかけるだけでは駄目だ。

 

 私は持ち物袋に目を向ける。その中には『魂魄石』が収められている。

 

 調査団が多大な危険を冒してまで暗黒大陸を訪れた理由は、希望(リターン)の入手にあるはずだ。ならば、乗船させてもらう対価として『魂魄石』を差し出せば丸く収まるのではないか。

 

 ……いや、それも確実ではない。結局のところ彼らが最も懸念することは、私が危険な存在であるかどうかだ。リターンは欲しいだろうが、船に乗せるかどうかは別の問題。少なくとも、渡したからと言って無条件に信用してもらえるわけではない。

 

 彼らから信用を勝ち取ること。それが私に求められるミッションだ。成功すれば良し。だが、失敗した場合は……。

 

 

 * * *

 

 

 ここはサヘルタ合衆国から送りだされた暗黒大陸調査船クアンタムロード号の会議室。

 

 その一室には三人の人影がある。一人はこの船の最高指揮権を持つ司令官アンダーム。初老を迎えた年配の男だが、軍人だけありその体格は壮健である。ロマンスグレーの髪と髭を整え、上品に歳を重ねたその容姿は、上に立つ者としての威厳を感じさせた。

 

 彼は部下からの報告を受けている。

 

「そうか……調査隊はもう限界か……」

 

 新たな希望(リターン)を祖国に持ち帰る。その使命を任せられた精鋭部隊『クアンタム』は崩壊の危機を迎えていた。船の名前に取り入れられるほど今回の調査の顔としてもてはやされた部隊も、今となっては形無しだった。

 

 出発当時、200名が乗船。いずれも粒揃いの兵士であるが、ただ強いだけではない。前回の調査で得られた情報を元に膨大な時間をかけ育成、編成された部隊であった。その主眼は戦闘力よりも隠密性、生存持続性に置かれている。希望(リターン)の番犬である災厄(リスク)の目をかいくぐり、宝をかすめ取ることを目的としていた。

 

 しかし現在、その残存兵数、わずか4名。

 

 崩壊の危機という表現は不適切であった。既に壊滅状態にある。目の前で遠征の成果を報告する部隊長の目は死んでいた。彼の口から語られる、想像を絶する苦難の数々を、アンダームは沈痛な面持ちで聞き続ける。

 

 満を持して投じた虎の子の部隊が、まるで虫けらも同然に蹴散らされる。殺されていった部下たちの無念を思い、アンダームは隊長の話に耳を傾けながら深く相槌を打っていた。

 

 その心中にあるのは猛烈な怒り。

 

 

 この…………無能どもが…………!

 

 

 報告の内容は事前に提出させた報告書で把握している。部下たちの死を悼むような表情は、彼が常日頃からかぶっている人格者の仮面にすぎない。その実、罵倒以外の感情は何一つ持ち合わせていなかった。

 

「これ以上の任務続行は不可能です。私一人であれば、命を賭す覚悟があります。ですが、残された者にその重荷を背負わせることは……!」

 

 隊長は必死に探索の中止を訴えてきた。上官へのぶしつけな嘆願であるが、真に部下を思い自分を抑えきれずの行動だろう。

 

 一方、アンダームは、その口角泡を飛ばして主張する隊長の様子に生理的嫌悪感を抱いていた。暗黒大陸という未開の地を歩いて帰ってきた人間の唾液だ。どんな病原菌が潜んでいるかわからない。無論、帰投時に徹底的な精密検査を行っているが、それでも不安が拭いきれるものではなかった。

 

 アンダームは椅子から立ち上がった。そして、机の上に両手を置き、隊長に対して深々と頭を下げる。

 

「司令、何を……!」

 

「君の言いたいことはよくわかる。私も同じ気持ちだ。できれば、君たちの身の安全を第一に考えたい。しかし……自分はのうのうと安全な場所で指示を出しながら、部下を死地へと送りだす。そんな私の言葉は君たちには響かないだろう。私のことは、いくら恨んでくれてもかまわない」

 

 なぜ、この私が、たかだか一部隊の隊長程度の人間に頭を下げなければならない。アンダームは屈辱に顔をしかめ、歯を噛みしめる。

 

「我々は軍人だ。祖国のために、どうか、頼む……!」

 

 アンダームは念能力者であった。彼は自分の感情を内に閉じ込める能力に長けていた。通常の人間であれば、感情はオーラの流れとして体外に表れてしまう。熟練の念使いであれば、そのわずかな変化から相手の心理状態を察することもできるだろう。

 

 彼はそのごく微小な変化さえ外に漏らすことなく抑え込むことができた。それどころか、爆発する激情を別のベクトルに変え、全く異なる感情をオーラの流れで表現することもできるのだ。

 

 今のアンダームが放つオーラは、まさに迫真。部下の身を案じながらも、軍が果たすべき使命から逃れることはできない。そんな自分の無力さに打ちひしがれた人間だけが醸し出せる悲壮感を、見事にオーラで表現してみせた。

 

「わかり、ました……」

 

 そこまでの覚悟を見せつけられ、隊長は引き下がるしかなかった。これ以上の嘆願は無意味だと悟ったのだ。実際、どれだけ食い下がろうともアンダームが命令を変更することはないので、その判断は正しい。

 

 意気消沈した様子で、報告を終えた隊長は退室していった。会議室に残る人物はアンダームとあともう一人。報告の最中、一切口を開くことのなかった人物がアンダームに話しかける。

 

「司令官殿、先ほどの対応は……少しばかり強硬に過ぎるのでは? あなたほどの人格者であれば、むやみに兵の犠牲を出すべきではないと考えるものと思っていたのですが」

 

 小太りで、よく脂汗をかく男だった。念能力者ではなく、ただの一般人である。つまり、一般人でありながらこの船に乗り込めるだけの地位を持った人間ということになる。

 

 彼は特別渡航課として今回の調査団に同行する特務課職員だった。五大陸連合『V5』が管理する国際組織である。名目上は暗黒大陸における活動の安全性、透明性を保つため外部機関として派遣されたオブザーバーであるが、実質的には渡航者につけられた“首輪”である。

 

「買いかぶっておられるようですが、私も一介の軍人です。体制のためには非情な決断を下さなければならないこともある」

 

「本当に必要な犠牲でしょうか? この極限状況下において平時の考え方が常に正しいとは申しませんが、兵士の方々も命ある一人の人間です」

 

 綺麗事だった。それどころか、この職員は別に兵士の命の心配をしているわけではない。彼の任務は、とにかく渡航者に余計なことをさせないという一点に尽きる。暗黒大陸に転がる無数の災厄を人間の世界へ持ち込ませないことが最大の目的であった。そのためなら、むしろ兵士は樹海の奥地で人知れず全滅してくれた方が助かるとさえ思っていた。

 

 基本的に特別渡航課は暗黒大陸の調査に対して消極的なスタンスを崩さない。渡航が認められるために必要となる条件は極めて厳しく、まず個人が渡航を承認されることはない。サヘルタ合衆国という大国の軍隊でさえ前回の調査から40年あまりという膨大な時間をかけて根回しをし、本来ならそろうことのない条件を強引に満たしたのだ。

 

 つまり、始めから誰であろうと渡航者を認める気はない。これは災厄の侵入を未然に食い止めるためでもあるが、特別渡航課がV5主導の国際機関であり、各国の思惑が混在する政治的背景を持つことにも理由がある。

 

 希望(リターン)は人類に飛躍的な技術革新をもたらす資源であるが、当然その利益の多くは発見した国が独占する。他の国からしてみれば面白くない。だから先を越されないように足を引っ張り合う。渡航は一貫して認めないという不文律の条約に近い。だが、それだと自国がリターンを手に入れる機会も失われるので、例外的に認めるための抜け道を作ったのだ。

 

 特務課が今回の遠征において期待する展開は「サヘルタ合衆国は何のリターンも得ることができず、無駄に時間を浪費した上で安全に帰還すること」である。アンダームもそれを理解していた。

 

「今回の調査の目的は、船の発着所を作ることだったはずでは? もうすぐ帰還しなければならない時期が近づいていますが、工事の進行状況は芳しくない。リターン捜索に力を入れるよりも、少しでも人員を工事の方に回した方がよろしいのではないかと愚考しますが」

 

 アンダームは体中の血が煮えたぎるような怒りに駆られていた。念も使えぬ一般人が、この私に指図するか、と。彼の腕の一振りで、職員の首は胴体と泣き別れすることだろう。

 

 無能な部下も腹立たしいが、目の前の男はアンダームにとって明確な敵である。今すぐにでもバラバラにして海に撒いてやりたかった。

 

 しかし、それはできない。いかなる理由があろうとも、特務課の人間を無事に帰すことができなければ職務上の失態となる。政治的権力に守られた人間だ。殺意は全身を駆け巡っていたが、それを外に表すことはなかった。

 

「無論、工事は優先的に取り組まなければならないことですが、今さら数人増やした程度で進行状況が変わるものではありません。人員は十分すぎるほど確保できています。問題は作業環境です。想像以上に過酷な環境に、皆が疲弊しています。その点を改善しなければ抜本的な解決は見込めません。何か良い案がありましたらご教授願いたい」

 

「いえ、私からは特に……」

 

 適当に話を濁したが、工事が進んでいないことは事実だった。国の上層部から出された第一の任務は、暗黒大陸への橋頭保となる発着所建設である。まず、暗黒大陸はどこにでも船をつけられるわけではない。いかにして安全に着岸できる場所を確保するかが拠点設立のため重要になってくる。

 

 このあたりの海域では『ヌタコンブ』という海藻類が広く生息している。この海藻は表皮から特殊な粘液を分泌し、周囲の海水をローション状に変える性質を持っていた。

 

 特に毒があるわけではないが油断してはならない。この海域での遊泳は困難を極める。ぬめりつく海水に手足を取られ、海上でもがけばもがくほど掻き混ぜられた粘液が空気と反応し、白く弾力的に変質する。やがて繭に包まれたような姿となり溺死する。

 

 一度海中に潜れば全身をコーティングするようにローションの膜に覆われてしまうため、呼吸をすることもできないのだ。魚類であろうと生息できない。もし船から海に落ちた際は早急な救助が必要である。

 

 だがこの海藻のおかげで、この海域では凶暴な巨大生物との遭遇が少ない。比較的安全に船を着けることができる貴重な場所だった。40年という月日をかけて渡航権をねじ込んでまで、リターン探しよりも発着所建造を優先するほどに重要視されている場所であった。

 

 その肝心の工事が進んでいない。調査団の人員構成のうち実に6割が建設作業員である。資材も設備も人員も十分すぎるほどに整えた上で無事に暗黒大陸まで到達したというのに、いまだ作業は予定の半分も進行していないという体たらく。

 

 いつ怪物に目を着けられるかわからない、死と隣り合わせの環境では工事にも細心の注意が払われる。少しでも異常を察知すれば工事を中断して避難しなければならず、遅れることは仕方がなかった。これは事前の想定が甘かった管理者側の過失であったが、それをアンダームが認めることはない。

 

 帰還の予定期日はすぐそこまで迫っていた。作業員を馬車馬のようにこき使ったとしても、もはや工事完了は不可能だ。主目的である発着所建造を果たせなければ本国におけるアンダームの評価は地に落ちる。この任務には合衆国の国家予算何年分もの資金が投じられているのだ。失敗は絶対に許されない。

 

 今まで必死に偽り、築き上げてきた全てが終わる。無能呼ばわりしてきた人間に、今度は自分が無能の烙印を押されることになる。プライドの高い彼には到底、耐えられないことだ。

 

 唯一、挽回のチャンスがあるとすればリターンの取得をおいて他にない。壊滅同然の部隊を動かしてでも任務にあたらせなければならなかった。

 

 これが戦争であればたった4名の兵士など塵芥も同然であるが、今回の任務は一人でも生き残ってリターンを持ち帰れば勝ちである。200名の精鋭の中で淘汰され、生き残った選りすぐりの兵士であれば、勝てる可能性は残されている。

 

 そして、報告書にはリターンに関する有力な情報が記載されていた。リターンがあるかもしれないと思われる場所を見つけたらしい。不確定情報であるが、これに賭けるしかない。

 

 問題は先ほど見た部隊長の態度である。あの精神状態はまずい。完全に、心が折れている。隊長があれでは、その下の隊員もまともな状態であるとは思えなかった。

 

 念能力者の強さは精神の強さに大きく影響される。どれほどの能力を有した強者であろうと、心で勝る者には苦戦する。今の兵士の精神状態では、とても十全のポテンシャルを引き出せるとは思えない。

 

(てこ入れが必要、か……)

 

 アンダームは特務課職員と意見を交わしながら考えていた。この窮地に追い込まれた盤面をいかにして破るか。どのように駒を動かし、使い潰すのが最善か。

 

 その徹底した自己中心的思考が、彼の外面に表れることはない。たとえ念能力者ではない一般人の前であろうとオーラの偽装を解くことはなかった。一人きりの状況であったとしても解くことはなかっただろう。

 

 その並み外れた精神力。彼が一流の使い手であることに間違いはない。その実力が彼を今の地位までのし上げた。現状、この船において一二を争うほどの強者である。いや、この船という環境に限定したとき、誰も彼に勝てる者はいない。

 

 しかし、彼には泥にまみれてまで自分の力でリターンを手に入れようとする意思がなかった。そのような発想すら持ち合わせていなかった。

 

 



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12話

 

 精鋭部隊『クアンタム』は、サヘルタ合衆国が膨大な時間と資金をつぎ込んで編成した暗黒大陸調査団だ。しかし、表向きにその名が語られることはなかった。なぜなら、一般国民にとって世界地図に描かれた六大陸こそこの世界の全てであり、その“外”について触れることはタブーとされているからだ。

 

 クアンタムプロジェクトは国内においても長きに渡り賛否が飛び交う案件であった。国民の預かり知らぬところで莫大な税金が投入されている。国防費の一言で済ませるにはあまりに大きすぎた。

 

 それでもこの計画が中止されることはなかった。もしリターンの取得に成功すれば、その資源が生み出す利益は計り知れない。政財界を動かす支配者たちの野望は、国民の意思に関係なく国の在り方を決めてしまう。暗黒大陸という蓋をされた脅威に関して、もはや民主主義は機能していなかった。

 

 国の威信をかけて集められた200名の選ばれし精鋭たち。彼らは自分たちが黒とは言わないまでも、グレーに近い組織だと理解していた。その上で守秘義務を果たし、任務を忠実に遂行する意思をもった者たちだけが選抜されている。その任務のうちには、自らの死をも想定されていた。

 

 彼らは暗黒大陸の脅威を十分に理解していた、つもりだった。

 

 

「うっ、うっ……おれのせいで、みんな死んだ……おれが、あのとき、あの、あ、あ、ああああ……くるなあああ! うわあああ!!」

 

 

 調査船の一室で、三人の兵士が待機を命じられていた。一人の兵士は部屋の隅で頭を抱えてうずくまっている。船内は過ごしやすい気温であるはずだが、彼は極寒の地にいるかのようにガタガタと体を震わせていた。

 

 目の下は落ちくぼみ、色濃い疲労を感じさせた。その目の焦点は定まっておらず、虚空を忙しなく行き来している。恐怖に怯えるその視線は、ありもしない怪物の幻影を探し回っていた。テーブルの下、棚の隙間、天井の小さなシミ。些細な暗所を過剰なほど警戒していた。

 

 

「ぐご……」

 

 

 兵士の二人目は女性だった。部屋の真ん中で堂々と寝ていた。硬い床の上だと言うのに熟睡している。時たまあげる“いびき”がなければ、死んでいるかのではないかと思うほど動かない。

 

 顔立ちは整っているが、刈り込まれた短髪と鍛えられた体格から、一見して性別の判断がつかない。よだれが垂れるのも気にせず眠り呆けている姿からは品性を感じられないが、一応、その声は女性らしい高音の響きを持っていた。

 

「もう、だめだ……しぬ、し、ひっ、ひひひひいいいっ!?」

 

「……うっせーぞ黙れハゲ! 寝れねーだろが!」

 

「すまない……みんな……すまない……」

 

 

「……」

 

 

 三人目の兵士は、沈黙を保っていた。騒ぐ二人の兵士のやり取りに口を挟むことなく、我関せずを貫いている。

 

 一人だけ人種が異なり、東洋人系の顔立ちをしていた。机の上で手元の作業に集中している。書類仕事をしているようには見えない。ハサミで紙を切り抜き、そこに落書きのような模様を描き込んでいた。まるで工作遊びに没頭する子供のようにも見える。

 

 彼ら三人の兵士に、隊長一人を加えた四名が『クアンタム』の生き残りである。

 

 これがサヘルタ合衆国の誇る暗黒大陸調査隊の現状だった。この部屋の様子を本国の上層部が見えれば愕然とすることだろう。巨額の投資金はドブに捨てられたも同然の壊滅状況であった。

 

「……あっ、隊長が来るぞ」

 

 女性兵士が唐突に告げる。他の隊員は特にその発言を疑いもせず、てきぱきと身支度を整え始めた。その数十秒後、兵士たちが詰めている部屋に一人の男がやってくる。彼がこの部隊の隊長であり、先ほどアンダーム司令官に報告を上げていた兵士だった。

 

 隊長の男が部屋に入ったとき、既に中の兵士たちは整列して待機していた。その姿勢は凛として伸び、軍人としての機敏な所作を感じさせた。先ほどまで自由気ままにくつろいでいた緩みは見えない。

 

 だが、それは訓練によって叩きこまれた条件反射である。いくら姿勢を正そうとも、彼らの内面まで完全に律するものではない。

 

「悪い知らせがある」

 

 単刀直入に隊長は口火を切った。静かな緊張感が室内に漂う。

 

「カトライ=ベンソン」

 

「はひっ!?」

 

「チェル=ハース」

 

「はっ!」

 

「トクノスケ=アマミヤ」

 

「はっ」

 

 以上、三名に任務続行命令を下す。

 

 あまりに残酷な処分だった。彼らの肉体的、精神的疲労は限界に達している。一見して体裁を保てているように見える者も、その目は虚ろだった。その絶望的な心中は、実際に暗黒大陸を歩いた者にしかわからないだろう。

 

 確かに彼らは限界だった。

 

「で、悪い知らせとは?」

 

 しかし、まるで動じていなかった。当然のように任務を受け入れる。彼らは最初から、こうなることも想定した上で覚悟を決めてここにいる。

 

 クアンタム隊長グラッグ=マクマイヤは、この部隊を預かれたことに感謝していた。

 

 グラッグはアンダーム司令官にクアンタムの任務続行が不可能であると進言した。それは部下の心身を案じてのことであり、その気持ちに嘘偽りはない。だが、その部下を思う気持ちよりも圧倒的に大きな欲望に取り憑かれていたことも事実だった。

 

 何としてでも、この手でリターンを掴み取り、祖国へ持ち帰る。仲間たちは屍の山となった。恐怖がないとは言わない。それでも野望は抑えきれない衝動となって彼の身体を突き動かす。

 

 一方で、そんな自分の私的な感情に嫌気も差していた。本当に、残された仲間たちをつき合わせてもいいのかと悩んだ。だから、あえて自分の感情に反する意見をアンダームに告げたのだ。もし、アンダームがクアンタムの任を解いたのならば、自分にそれを否定する権利はない。すっぱりと諦めもつく。

 

 彼は任務を続けたかった。心の底からそう思っていた。その身を焦がすほどの熱に支配されていた。自分の良心の声にも応えられず、上官に決定を委ねなければならないほどに追い詰められていた。

 

「お前らの命、俺に貸せ」

 

 そして、隊員たちは隊長の思いを理解していた。だからこそ、彼をおいてこの部隊を率いる適任はいないと思っている。

 

「返す保障はない。だが、必ず“全て”を手に入れる。いいな?」

 

 

 YES Sir

 

 

 返答の言葉は静かだった。しかし、その一言に込められた思いは強い。それは前向きな活気や気合というよりも、腹の底で煮えたぎるような執念、妄念の類だった。

 

 世界には多くの強者がいる。その中で一般的な念能力者からすれば、軍人とは軽視されやすい傾向にある。集団の力はともかく個人単位で見たとき、群れなければ何もできない弱者の集団だと思われることがある。実際、軍に属する者の大多数は弱い。

 

 個人で念を修めるほどの強者なら軍になど入らずハンターになればいいのだ。それだけの強さがあればハンターになれる資格は十分にある。金も名声も思いのまま。ハンターなら自分のやりたいことを誰に憚らずやることができる。

 

 では、念能力者であるにも関わらず、軍という群れに縛られることを選んだ者たちは何なのか。彼らはある特定の条件下において、ハンター以上に個性的な存在だった。異常と言い換えてもいい。その生きざまは、余人には計り知れない。

 

 心身ともに限界を迎えてなお、己の潜在能力を出し切る。彼らの精神は死んではいなかった。

 

 

 * * *

 

 

 第八次調査遠征開始。帰還の日取りから見て、遠征にかけられる時間はそう多くない。できてあと二、三回が限度だろう。何よりも、全滅する可能性が最も高い。

 

 しかし、その危険はこれまでの遠征において常につきまとっていた。その危険をかいくぐり、彼らの部隊は生き残っている。

 

 出発当日、アンダーム司令官が直々に足を運び、隊員たちを激励した。訓示を与えるなら隊員を自室へ呼びつければ良かっただろう。彼の人となりが表れている。

 

 司令官は隊員たちのコンディションやメンタル面での不調を心配していたようだったが、それは杞憂だった。全身全霊をもって任務を完遂する。その意気込みを感じ取ったアンダームは安心して隊員を送りだした。

 

 生き残ることを何よりも重視せよ。情報を持ち帰ることを第一に考えろ。アンダームは口に出さなかったが、その言葉の裏に「無理はするな」という意味が含まれていることを、隊員たちは悟った。

 

 疲労色濃くも、気力は充実している。遠征は順調な滑り出しを見せた。

 

「……」

 

「どうした、チェル」

 

 部隊は早急に砂浜を走り抜け、森へと入っていた。身を隠す遮蔽物のない砂浜は渡るだけで精神を削る関門である。何事もなく森の中へ到達できたことは、ひとまず喜ぶべきだ。しかし、隊員の一人であるチェルは渋い表情のまま、しきりに周囲を警戒していた。

 

(見られている……?)

 

 彼女の鋭い感覚が警告している。それは産毛の先に触れるか触れないか、見過ごしてもおかしくないほどごく微小な兆候でしかなかったが、確かに彼女は異常を感じていた。

 

 

 

 チェル=ハース。彼女は物心ついたときから軍の養成所で育てられた。現在残っている隊員の中では、最も軍への所属歴が長い人間だった。

 

 軍に引き取られる以前、彼女は孤児としてスラムで生活していた。その当時、7歳。スラム出身の軍人はそれほど珍しくはないが、彼女の年齢で養成所へ送られることは異例中の異例だった。

 

 そこは実力だけが物を言う軍の特殊訓練校であり、希望したからと言って誰もが入れるわけではない。入学が叶えば生活保障はもちろんのこと、将来に渡って高い社会的地位までもが約束される。過酷な訓練プログラムに耐え抜けさえすれば。

 

 彼女が入学を許された理由は一重にその才能にあった。7歳にして既に念を習得していたのだ。

 

 しかし、実は子供の念能力者とはそれほど珍しいものではない。数だけを見るならむしろ多い。一般的に瞑想などの方法によらず念を覚えることはできないが、幼少期に自然発現するケースが稀にある。

 

 その場合の多くはオーラの纏い方を知らないため生命力が枯渇して衰弱死する。表向きは原因不明の病死として処理される。何とか堪えきれたとしても、力を意識して使いこなすことはできないので大人になっても自分が念能力者であることに気づかない者がほとんどだ。

 

 あるいは、『洗礼』によって強制的に念に目覚めさせられることもある。紛争地帯では、洗脳教育を施した少年兵に洗礼を与え、即席の念能力者を作り出すという非人道的手法が長きに渡り横行している。

 

 チェルの場合はこの『洗礼』により念に目覚めた。すなわち、他者からオーラによる攻撃を受けることで強引に精孔を開く方法だ。彼女の母親は娼婦であり、父親はマフィアに属する人間だった。この父親が念能力者であり、幼い頃に受けた虐待が洗礼となった。

 

 これだけならただの不幸な少女であり、軍の目に留まることはなかっただろう。彼女を特殊たらしめたのは生まれながらに持つ念の才能である。念の存在を全く知らない7歳の少女は、その時点で50メートルにも及ぶ『円』を使うことができた。

 

 修練を積んだ達人が生涯を賭してたどり着ける円の領域が50メートルと言われている。それを考えれば異常な才能としか言いようがなかった。ただし、彼女がまともに使えた技は円のみであった。『円』は『纏』と『練』の応用技であるが、纏はオーラが漏出しない最低限の精度でしか使えず、練に至っては使用できなかった。

 

 何か一つの技を突出して扱えるのに、他の技は使えない。これは念が自然発現した者や無自覚に覚えさせられた者によくあることだ。ある日突然、自分の中に目覚めた未知の力に対してその使い方まで正確に理解することは無理な話である。幼い少女にしてみれば、まるで魔法か超能力のように感じただろう。

 

 一つ言えることは、彼女はその力を悪用しようとはしなかったこと。円の性質上、直接的な攻撃力があるわけではないが、使い方によってはいくらでも他者を傷つけうる。彼女の生い立ちを考えれば易きに流れ、無法の世界に身を置く選択をしてもおかしくなかった。しかし、チェルはその力を軍として人のために使う生き方を選ぶ。

 

 そして今、鍛え抜かれた彼女の円は半径100メートルにも及ぶ。円の技術だけを見れば間違いなく世界最高クラスの使い手だった。今回の任務では、彼女の円による索敵が全行動の主軸となっている。

 

 100メートルという領域は確かに広いが、この距離を上回る猛者も世界にはまだ何人かいるだろう。しかし、彼女が真に優れた点は円の発動持続時間にあった。円の使用には極度の集中と疲労を伴う。常人であればもって数分が限度というところ、彼女の場合は万全の状態であれば眠っているとき以外、常に発動し続けることが可能だった。

 

 オーラとは生命エネルギーであり、通常は肉体から離れ出ることができない。放出系の発により体外へとエネルギーを放つことはできるが、円の技術はそれとまた異なる要領がいる。

 

 強靭で柔軟な『纏』により円の外郭を作り上げ、その内部で『練』による圧力を高めて風船を膨らませるように範囲を広げる。このとき重要なのは纏の柔軟性だ。たいていの念能力者はこの纏の膜が硬すぎるため、うまく円の範囲を広げられない。その点だけは放出系よりも変化系に近い性質をもつ。放出系能力者だからと言って一概に円が得意ではない理由である。

 

 オーラを遠くまで放出する技術。纏の膜を限りなく薄く、それでいて力強く保ち続ける技術。それによって生み出した領域を自分の肉体の延長線だと考え、空気中に擬似的な感覚器を構築する技術。そして集められた膨大な情報を処理し、即座に取捨選択する技術。ひたすらに訓練を積んだからと言って覚えられるものではなく、才能なくして扱える技ではない。

 

 チェルは強化系能力者である。純粋な身体能力においても他に引けを取らない。しかし、その豪気でものぐさな言動とは裏腹に、彼女の戦闘スタイルは徹底した情報戦に長けている。広大な円による長時間の索敵は敵陣の情報収集に向き、自陣においても不用意に踏み込ませない抑止力として働く。正面切って戦うことを好まず、アンブッシュを最も得意とする兵士だった。

 

 隊長であるグラッグは、自分の身に何か起きたとき安心して後任を預けられるのは彼女だと考えている。状況の有利不利を即座に看破し、冷静に対処するその姿は老獪な狼のごとく。だが、その一流の円使いをして焦燥をにじませるほどの危機が音もなく忍び寄っていた。

 

「トク、5時の方向、何か見えるか?」

 

「……いえ、異常はありません」

 

 チェルは隊員の一人、トクノスケに問う。彼は念獣使いだった。鳥型の念獣を多数作り出すことができ、それらに高性能小型カメラを持たせて周囲を飛び回らせている。

 

 円はその範囲内にある全ての物体を手で触れているかのように認識することができるが、それによって得られる情報は実際に目で見る光景とは異なる。カメラから視覚的に映像を捉えることも重要だった。

 

 しかし、トクノスケが持つタブレットにはチェルが懸念するような異常は何も映っていない。森の中は潜入者が身を隠す場所が多すぎた。

 

「カトライ、敵意は感じるか?」

 

「ひいっ、ま、まさか敵が迫ってるんですかぁっ!?」

 

 カトライは放出系能力者であり、チェルと同じく円による索敵を担っている。彼の円は半径約30メートル。チェルに比べればかすんで見えるが、一般的にはこれでも十分に一流と呼べる使い手である。チェルが疲労などの理由により円を使えないときの補助要員だ。

 

 しかし、彼の真価は円の使い手というよりも類稀なる察知能力にあった。念能力者は敵の殺気に対して優れた感知能力を持つ者が多い。実力者は遠方に潜む敵が漏らしたわずかな殺気を見逃さない。カトライはこの感覚がずば抜けていた。小心者の彼の性格に反して、いや、だからこそ彼は人から向けられる悪意に敏感だった。

 

 その性格はともかく、2キロ先からの長距離狙撃をも見破った逸話をもつ彼の感覚は、隊の全員が信頼を置いていた。だが、先ほどの彼の反応を見るに、敵意らしきものは感じ取れていないようだ。

 

「敵か?」

 

「いや、まだわからない……思い過ごしかもしれない」

 

 チェルにしても確証はなかった。実際に、円の中にこちらを捕捉する危険生物の姿はなかった。だが、はっきりと異常と呼べるほど確かな感覚ではないが、森に入ってからというもの、何者かに尾行されているように感じていた。

 

 円による索敵範囲というものは、念能力者なら誰でも見ることができる。だから敵もそうそう自分から相手のフィールドに足を突っ込むようなことはしない。その円の射程距離を見せつけて牽制などに利用する使い方もある。

 

 しかし、円の中に踏み込まれなかったからと言って、必ずしも敵の存在を察知できないわけではなかった。円の外周付近には、ほんのわずかに纏の膜から漏れ出たオーラの飛沫が漂っており、鋭敏な感覚を持つ円の使い手は踏み込ませずして敵の接近を知ることができる。

 

 これは念能力者としては当然知っておくべき常識であり、尾行技術の初歩知識である。だからそれなりの教育を受けた使い手であれば円の外にいても気を抜かず、十分に距離を取った上で後をつける。今、チェルが抱いている違和感は、素人の念使いに拙い尾行をされている感覚に近かった。

 

 にもかかわらず、相手の存在を特定できていない。敵は高度な『絶』で身を隠している可能性がある。野生動物は生まれながらに絶の能力を身につけている者が多い。そう考えれば不思議ではなかったが、問題は相手が円の範囲を正確に把握していることだ。

 

 眼の精孔が開いた念能力者でもなければ、そんな芸当はできない。事実、これまでの遠征で円による索敵範囲を看破してくるような生物はいなかった。もし、そんな敵がいればあっという間に部隊は全滅している。

 

 そう、全滅する。

 

 チェルは目頭を強く揉み、思考の凝りをほぐそうと努める。まるでカトライの被害妄想がうつってしまったかのような気分だった。極度のストレスが見せたありもしない幻影。そう断じてもおかしくないほど不確かな“勘”でしかない。しかし、戦場においてその根拠のない勘に命を救われたことは何度もあった。

 

 チェルは自分が感じ取った違和感を仲間に報告した。その上で二つの策を提案する。

 

 一つは、円をたたみ、一度この場所から素早く離れることだ。尾行を撒く上でよく行われる手法である。もし、敵が円の範囲を頼りにこちらの位置を特定しているとすれば、その円を解除することで一時的に居場所を隠すことができる。100メートルのアドバンテージを利用し、なるべく遠くまで逃げるのだ。

 

 この策のデメリットは、円という広範囲索敵能力を封じたまま暗黒大陸の未開地を駆け抜けなければならないこと。そして、逃げに徹していては敵の正体を知ることができない。敵がいたのかいなかったのか、それは何者で、どんな特徴を持っているのか。何も知ることができないまま奔走することになる。

 

 もう一つの策は、逆に円の中へ敵を取り込むことだ。敵の情報を知った上で次の対処を決定する。デメリットは、敵を刺激してしまうことである。何の目的でこちらを尾行しているのか不明だが、確実に対応は変化するだろう。戦闘になった場合は敵勢力を無力化するまで船には帰れない。それはすなわち、決死の作戦を意味する。

 

「円を使え。まずは情報を得る」

 

 隊長は迅速に決断を下した。そして、チェルも否定的な意見を挟むことなく呼応した。情けなく顔をしかめながら泣くカトライを除き、誰も異を唱える者はいない。

 

 チェルは自分の能力『知られざる豊饒(ナイトカーペット)』を使用する。この能力は『円』に『隠』の効果を付与するというものである。理論上は応用技の複合であり、特殊な能力というわけではないが、その難易度は実現困難なレベルである。円に関して天賦の才をもつ彼女にしても、能力として様々な制約を課すことでようやく使うことが叶う技であった。

 

 つまり、感知不能の円。これならば敵に悟られず、円の中に取り込むことができる。

 

 チェルの円の最高射程は100メートルであるが、常にその長さを維持しているわけではない。実際は余力を残し、80メートルほどに抑えている。つまり今、敵がうろついていると思われる地点は十分に円の射程範囲に入っていた。

 

 その場所に追加の円を延長する。しかも、その延長した部分だけは『知られざる豊饒』の効果により『隠』で隠された状態となる。チェルは全精神を集中し、全身にかかる能力の負荷と戦いながら円を発動した。

 

 そして、何かの影を捉える。うすぼんやりとした輪郭が浮かび上がった。敵はその凄まじい絶の精度のため、円の中に捉えたというのに形がはっきりしない。大きさは人間の子供ほどで、数は一つ。

 

 そこまで捉えたところで敵の姿が消えた。円の外に逃れたのだ。

 

(気づかれた……!?)

 

 驚愕すべきことだった。隠はオーラが発する生命エネルギーの気配を絶つ技である。いかに野生の勘に優れた獣であろうと、エネルギーの残滓さえ感じることはできないはず。

 

 これを見破ろうと思えば『凝』を使うしかない。精孔を開き、念についての知識を得て修練を積んだ者にしかできない技である。それもチェルの使った『隠』は生半可な『凝』では見破れないほどの精度であった。

 

 念に精通した暗黒大陸原産の生物。たった一つ許された人類の切り札さえも通用しない脅威。勝てる道理がない。その最悪の想像が、脳内を埋め尽くす。

 

「チェル、どうした、何を見た……!?」

 

 思わず報告が滞るほどに彼女の逡巡は長かった。しかし、その顔色から隊員たちは察する。事態は想定よりも遥かに悪い方向へと進行しているのだと。

 

 だが、彼らの動揺を無視するように、さらなる事態の変化が起きる。

 

 チェルの円から逃れた敵が、自ら円の中へと入ってきたのである。その動きはゆっくりと落ちついたものだった。一転して見せつけるような余裕。しかも、敵は『絶』を解いていた。チェルはその影を克明に捉える。

 

 それは人間の形をしていた。腰まで届くほどの長い髪がある。第二次性徴を迎えた直後の子供のような体形で一瞬判断に迷ったが、そのボディラインから性別は女性であると推測する。

 

「映像、出ました!」

 

 トクノスケが操作する念獣のカメラがついに敵の全貌を映しだした。

 

 一糸まとわず、その全身は泥にまみれ薄汚れている。カモフラージュのため意図的に泥を塗ったのだとわかった。その中で、深紅の瞳だけが爛々と灯るように輝いていた。細い手足をぎこちなく揺らしながら歩く様子は、血の底から這い出てきた幽鬼を思わせる。

 

 その右手には奇怪な蟲を携えている。右手をすっぽりと覆うほどの大きさを持つ甲虫は、ドス黒く変色した肝臓の血のような色をしていた。微動だにせず少女の腕にしがみつく蟲の姿は、怪しげな呪術に用いる装身具のようにも見えた。

 

 しかし、紛れもなくその姿形は人間の少女であった。突如として現れた人型の生物を前に、隊員たちは戸惑わずにはいられなかった。

 

 少女は鳥の念獣に視線を向ける。そこから観察されていることを理解している様子だった。明確な知性を感じさせる行動を取る。

 

 指を一本立てた。その指先で空中をなぞるように動かしていく。少女はオーラを使い、空中に文字を書き出した。念使いは一般人に見えないオーラを使って暗号のように文字を残し、簡易の意思疎通を図ることがある。念文字と呼ばれる通信手段だった。

 

『敵意は無い。対話を求む』

 

 使用された言語は六大陸で一般的に使われている共通語であった。念を当たり前のように使い、人間の言語まで理解している。大詰めを迎えた暗黒大陸調査は、ここに来て最大の混迷に直面していた。

 

 



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13話

 

 調査団側は慎重に議論を重ねた結果、少女の姿をした知的生命体との対話に応じることとなった。人間側としても聞きたいことは山ほどある。カトライの感覚によれば敵は害意を持っているわけではなさそうだった。無視して関係を悪化させるより、少しでも情報を集めることを優先する。いずれにしても放置して逃げ出していい状況ではなかった。

 

 幸いにして、少女は調査団の結論が出るまで静かに待っていてくれた。こうしてクアンタムと謎の少女、人間と外の世界の“何か”による会談の場が開かれた。

 

 会談に臨むのはグラッグとカトライの二人である。その様子はカメラで記録されており、リアルタイムで他の隊員たちや船にも映像が届けられる。

 

 少女を前にして、彼らは息をのむ。まず、目を引いたのはその右手にからみつく謎の生物だ。形は蟲に近い構造をしているが、その直線的なフォルムは機械のような人造物の気配も持ち合わせている。金属質の光沢をもった装甲は、不安を煽るような不気味な赤色をしていた。

 

 その赤い蟲もさることながら、それを従わせる少女自身にも異常さを感じた。念能力に目覚めていることは一目見てわかった。精孔が開いた人間のオーラの流れはごまかしようがない。実力者になれば、そのオーラの流れからある程度の力の差も感じ取ることができる。

 

 グラッグたちは少女の身体より立ち上がるオーラから、その身に秘められた才覚の一端を見定めた。少女が見た目通りの年齢だとすれば、その歳にして修めていると思われる念の技量に驚かされる。おそらく、一対一の戦闘では勝ち目がないと瞬時に悟った。

 

 しかし、その程度の強さの差は想定していた。念能力者同士の戦闘は、見た目からわかるデータだけで決定するものではない。オーラの顕在量、潜在量、系統、固有能力、四大行の精度、流のレベル、観察力……そして最も重要な精神力。戦闘において必要となる要素は複雑に絡まり合い、単純な強弱を語れるものではない。

 

 グラッグは、その程度の逆境に怯むような軟な精神はしていなかった。むしろ、少女の念が『人』として収まる強さの範囲であったことに安堵していた。彼が異質に感じたのはもっと別の問題である。それは少女のオーラから漂う“質”にあった。

 

 個人によって保有するオーラには質の違いが表れる。性格やその時の感情がオーラにも反映されるのだ。善人と悪人のオーラは見分けがつきやすい。特に性根の腐りきった人間は、吐き気を催すような禍々しいオーラを発することがある。悪人でなくとも、意識的に殺気を込めて相手を威圧する使い方はある。

 

 快・不快の判別で語るなら、少女の持つオーラは気分を害するような類ではなかった。極めてニュートラルである。だからこそ、おかしいと言うべきか。その性質を一言で表すなら“虚無”。

 

 オーラとは生命エネルギーの発露である。ゆえに命ある使い手の精神状態と密接に関係し、そのパーソナリティが反映されるのだ。なのに、目の前の少女が放つオーラからは正の性質も負の性質も感じられなかった。まるで機械か人形のように無機質で作り物じみたオーラである。

 

(これが人間か……?)

 

 皮膚一枚隔てた向こうはがらんどうだと言われても即座には否定できないほどだった。にもかかわらず、生命の輝きたるオーラを有している。そこに説明のつかない矛盾を感じ取り、背筋に悪寒が走る。

 

「はじめまして。私はグラッグ=マクマイヤと申します」

 

「ひいっ!? ああわたっ、わたたたくしはカトライ=ベンソン……」

 

 もちろん、内心を表情に出すことはなく和やかな口調を努めて話しかけた。グラッグは自分の交渉スキルに自信があるわけではなかったが、隊長としてこの役目を他の者に任せることはできなかった。

 

 カトライに関しては交渉というかコミュニケーションからしてまともにできる状態ではなかったが、今回は彼の能力が必要となるため同席させられていた。

 

「クイン=アルメイザ」

 

 少女は名乗った。彼女には名前があった。

 

 少女の正体について、調査団はいくつかの見解を出している。まず一つ目は、『異人類』である可能性だ。暗黒大陸には過去に巨大な文明が築かれていた痕跡がいくつも残されていた。その姿はヒトに類似しているのではないかと推測できる資料も発見されている。

 

 それはヒトの祖先に当たる生物であるとか、ヒトとは異なる進化を遂げ環境に適応した生物であるなど、様々な説が唱えられている。しかし、実際に異人類との接触に成功した事例はない。彼らの文明が滅んだ理由や、今もまだ生存し続けているか、真相は謎に包まれていた。

 

 二つ目は魔獣である可能性だ。人語を解するが人間ではない、そんな知的生命体が存在する。それらは『魔獣』と呼ばれていた。現在、人間が暮らす大陸において生息している魔獣のルーツは暗黒大陸にあると言われている。暗黒境海域を隔てる『門番』と呼ばれる魔獣の一族など、実際にいくつかの種族との接触はこれまでに確認されていた。

 

 魔獣の中にはヒトに近い姿をした種もある。また、ヒトの姿に擬態する者もいる。目の前の少女が魔獣である可能性も否定しきれなかった。

 

 しかし、最大の問題は“いかにして共通語に関する知識を得たのか”という点だ。暗黒大陸で生まれた存在だとすれば、人間の大陸の言葉を使えるわけがない。

 

 様々な憶測があがる中、少女は自分が何者であるかを語った。その話し方は拙く、まるで感情を伴わない機械のような声音だった。その無表情さと相まって、ますます人形じみた雰囲気を醸し出している。だが、そんなことは気にならなくなるほど、彼女の口から語られた話の内容は衝撃的だった。

 

 彼女の父の名はルアン=アルメイザ。その人物は、前回の暗黒大陸調査隊の一員であるという。40年前に全滅したとされている部隊だった。

 

 グラッグはその話の真偽がわからない。すぐに横にいるカトライにアイコンタクトを送る。カトライはぶんぶんと激しく首を横に振った。

 

 これは彼が持つ能力に関係している。カトライは他者から向けられる悪意に敏感だ。その極まった感覚は、他人の言動の裏に隠された悪意を見抜く。つまり、嘘を見破ることができた。絶対というほどではないが高い確度で真偽を判別できる。

 

 カトライは少女の発言が嘘とは感じなかった。全て真実を話しているかと言われるとまだ疑いの余地が残るが、少なくとも嘘はついていないと感じた。

 

 この会談の情報は調査船への本部にも送られている。既に向こうでデータベースへの照会が行われているはずだ。ルアンという人物が実在するならば、その詳細はすぐに明らかとなるだろう。

 

 もしこの話が事実であれば、少女が共通語を話せる理由は一応の説明がつく。父から言葉を教わったということだろう。少女はグラッグたちが人間の大陸からやってきた調査隊であることも理解し、その上で接触を図ったと思われる。

 

 だが、そうなると別の大きな問題が浮上する。壊滅したと思われた部隊の一員だったルアンは、調査船が引き上げた後も何十年という長い年月、この暗黒大陸で生き延び続けたことになる。

 

 あるいは、この少女が見た目通りの年齢ではなく、何十年もの齢を重ねているか。念能力者であれば絶対にないとは言い切れない。念使いは生命エネルギーのコントロールに長けるため、ある程度老化を抑えることができる。優れた念使いになれば見た目と実年齢との間に著しい差が生じることもある。

 

 少女に年齢を尋ねてみたところ、10歳前後ではないかと回答された。自分自身、よくわかっていない様子だった。カトライもその言葉の裏にこれといった悪意を感じることはできず、嘘かどうか判別はつかなかった。

 

 やはり、ルアンという男が最近まで生きていた可能性が高い。仮に上陸したとき20歳だと考えても、50歳から60歳の間まで生き延びていたことになる。グラッグにはとても信じられなかった。この人外魔境においてどうやってそれだけの時間、命をつなぐことができたのか。

 

 しかし、不可能と断ずることはできない。実は、その偉業を成し遂げた前例はある。しかもその生存年数は40年どころではない。300年に渡り暗黒大陸を生き続けるとされる伝説上の人物がいた。

 

 ドン=フリークス。『新世界紀行』という本の著者として知られている。約300年前に発行された空想小説で、そこには暗黒大陸に関する荒唐無稽なおとぎ話が面白おかしく綴られている。だが近年の研究によりその内容は、ただの娯楽小説ではないことが明らかとなった。暗黒大陸の調査が進むにつれ、フィクションの一言では片づけられないほど本の記述と一致する情報が次々と判明している。

 

 ドン=フリークスは300年前に単独でメビウス湖横断を達成し、暗黒大陸沿岸部の探索を開始したとされている。一度でも調査に同道した者ならありえないと一笑に付すことだろう。当時は航海技術の途上期で、ヨルビアン大陸からアイジエン大陸への航路開拓を目指して出発した冒険家が次々に命を落としていた時代である。

 

 この300年前という年数に関しても定かではない。新世界紀行『東の巻』が発行されたのが300年前とされるが、そこには東沿岸部に関する情報が広い範囲に渡って調べ上げられていた。ということは、その調査にかかった期間を考えればさらに早い段階から暗黒大陸への上陸を果たしていた可能性もある。

 

 『西の巻』については未だに発見されていない。単純に東沿岸部の探索を終えたところで命尽きたとも考えられるが、現在も生存しており西の巻の執筆を続けているという説も根強く支持されていた。“究極の長寿食”や“万病を癒す香草”などのリターンを使えばありえない話ではない。あるいは、ドン=フリークスを名乗る人物は複数存在しており、その遺志を継ぎながら今もまだ探索を続けている者はいるという説もある。

 

 彼の消息をたどることには大きな意味がある。『人類適応化計画』、すなわち暗黒大陸における恒常的な生活圏の開拓は各国の悲願であった。過酷な環境を生き延びた彼の知識は、この壮大な計画を現実のものへと近づけてくれることだろう。

 

 その意味で言えば、ルアンという男、そしてクインという少女の持つ知識はなんとしてでも手に入れたいところだった。

 

 しかし、残念なことに少女の父は既に亡くなっているという。グラッグはすかさず母親のことについても尋ねてみる。話のついでという軽い雰囲気で問うたが、実はこちらの方が重要な質問だった。

 

 クインという少女が人間だとすれば、その両親がいたことになる。父はルアンとして、母親は誰なのか。都合よく女性隊員がいて、二人とも生き延びた? では、いつ子供を作ったのか。クインの年齢から逆算すれば不自然にも思える。

 

 それは本当に“人間の”母親だったのか。

 

 クインは母親については何もわからないと言った。ずっとルアンに育てられ、母親の姿は見たことがないし、父はそのことについて何も話さなかったらしい。

 

 カトライはこの言動に明らかな悪意を感じた。それはこちらを害そうとするほど敵意ある嘘ではなかったが、彼女にとって不都合な何かを隠している印象を受けた。

 

 あまり母親のことについて問いただすと藪をつついて蛇を出すことになりかねないと判断し、グラッグはこの場でそれ以上追及することはなかった。表面上であっても、少女とはまだ友好的な関係を維持し続けなければならない。少しでも多くの情報を引き出す必要がある。

 

 そして、少女から核心に迫る話が切り出された。つまり、なぜ彼女はグラッグたちに接触してきたのか、その理由だ。

 

 彼女は暗黒大陸から脱出し、人間の大陸へ渡ることを望んでいた。救助を求めてきたのだ。

 

 悪意を感じ取るような能力を持たないグラッグにも少女の心境は察することができた。こんな死と隣り合わせの環境で育てられれば、感情が死んだような人間性となっても仕方ないだろう。ルアンから人間の世界の話も聞かされているはずだ。どれだけ外の世界に憧れ、この地獄からの脱出を望んだことか。憐れみはあった。

 

「……わかった。しばらく考える時間をもらえないだろうか」

 

 しかし、すぐに了承することはできない。彼らの一存で決められることではない。

 

 カトライは彼女から人類への敵対心を感じなかった。おそらく誠実に助けを求めているものと思われる。自ら姿を現し、対談の場を設けて意見を交わす。そういった道義的な思考を持ち合わせている。

 

 だが、少女が全てを明かしていないことも確かだ。彼女に敵対の意思がなくとも、その不都合な部分が人類にどんな影響を与えるかわからない。それがこの暗黒大陸の常識である。また、彼女に悪意がないのは今この場に限った話であり、人間の世界に着いた後どうなるかはわからない。そうなってからでは手遅れだ。

 

 回答に時間を要することについて少女は素直に了承した。もともとすぐに船に乗せてもらえるとは思っていなかったのだろう。きちんと自分が置かれている立場を理解している。それはある意味で厄介でもあった。下手な嘘が通じる子供ではない。

 

 少女は自分の立場をわきまえた上で新たな提案を出した。それはリターンの採取に協力するというものだった。調査隊がリターンを求めて暗黒大陸に来たことを知っており、それに協力する見返りとして船に乗せてほしいという取引だった。

 

 

 * * *

 

 

 アンダーム司令官は手元の資料を熟読していた。今しがた、部下が上げてきた書類である。そこにはルアン=アルメイザという人物に関する情報が記されていた。確かにその名は、前回の暗黒大陸調査隊の一人として軍の所属名簿に記載があった。

 

 合衆国の軍事史上、トップクラスに凄惨な事件としてあげられる五大災厄の一つ『兵器ブリオン』との接触。その事件から生還した特殊部隊はわずか2名だった。

 

 ルアンは調査隊第三班に所属していた。これはブリオンと遭遇した特殊部隊とは別ルートでリターンの捜索に当たっていた部隊の一つであった。調査開始から5日目に隊との連絡が取れなくなっている。その後、消息不明の状態が続き、本部は全滅したものと推定した。

 

 アンダームはルアンの経歴に目を通していく。ネダラス州の片田舎に生まれたルアンは17歳の頃、ハッカーとして一時期名を馳せた。『ジャムメーカー』の名で国際的なハッカー集団に属し、いくつかの電子犯罪に手を染める。

 

 しかしその2年後、とある大企業への不正アクセスから足がつき、ハッカーハンターによって検挙された。服役中は模範囚としてまじめに更生し、刑期を10年で終える。その後、エンジニアとして社会復帰を果たしている。

 

 34歳で従軍する。前科者であったが、戦争による慢性的な兵士不足が続いていた当時の情勢から入隊が認められた。その専門知識を買われ、電子情報処理班に配属される。このとき念の存在を知り、修行を始める。

 

 そして41歳のとき、暗黒大陸調査団の一人として選抜されている。

 

 アンダームは書類を机の上に置いた。経歴を見る限り、何かこれと言って“特別なもの”を持っている男とは思えなかった。

 

 頭の回転だけは人並み外れて早かったようで、隊の指揮能力には優れていた。まるで頭の中にパソコンがあるかのように並列思考(マルチタスク)を得意としたらしいが、その程度の能力で暗黒大陸を生き抜けるとは思えない。才能はあったのだろうが、習得した時期が遅すぎる。念能力者としては大した使い手ではなかった。

 

 可能性があるとすれば何らかのリターンによって環境に適応したか。だとすれば、そのリターンに関する情報は是が非でも入手したい。

 

「……司令官殿、どうするおつもりで?」

 

 黙考を続けていたアンダームに水を差すように、傍らの男が問いかけた。いつも以上に脂汗を垂れ流し、余裕のない表情を見せるその男の名はタポナルド。特務課の職員だ。

 

「全ての可能性を考慮すべきでしょう」

 

「はぐらかさないでいただきたい。まさかアレをこの船に乗せようと考えているのではないでしょうな」

 

「その可能性も含め、検討すべきです」

 

「正気ですか……!?」

 

「彼女の話が真実であれば、幼い少女をこのまま危険地帯に置き去りにすることは人道に反します。彼女は“我が国の”兵士が残した忘れ形見……“合衆国として”我々は彼女を保護するか、十分に検討する義務があります」

 

「全人類を危険にさらすかもしれないというのに! 過去、五大災厄がどれだけの被害をもたらしたか、そして一歩対応を間違えばあっけなく人類は滅びていた……その危険性を何よりも重視すべきです!」

 

 アンダームは自分の醸し出すオーラの質を偽装できる特技を持つ。その体質ゆえか、他人のオーラの流れを見て感情を読み取ることも得意だった。その観察眼から見たところ、タポナルドの精神状態はいたって冷静。

 

 見た目ほど動揺しているわけではない。彼は冷静に状況の判断ができている。つまり、こちらの神経を逆なでするような取り乱した態度は演技であった。腐っても世界各国の陰謀渦巻く国際組織から派遣されてきた人間である。その程度の腹芸は心得ている。

 

 しかし、その感情図には多少の揺れも見られた。わずかに表れた憤り。これはアンダームが少女の保護を「自国の裁量権」の範囲で解釈しようとしたことに対する反感だろう。それは少女から得られる情報について、サヘルタ合衆国が独占する口実を与えることにつながりかねない。

 

「無論、彼女が未確認の脅威であることも否定できません。まずは知る必要があります。我々にとって彼女は、敵か、味方か」

 

「それについては同感です」

 

 いかに特務課が暗黒大陸からのあらゆるモノの持ち出しを嫌っているとはいえ、今回の件は例外だ。怪しい少女がいたので無視して帰ってきました、で話が通る案件ではない。特務課としても少女の素性に関する調査は阻止できない立場にある。

 

 つまり、「様子を見る」という結論に落ち着く。互いにその落とし所を理解した上で、自分が所属する組織の利益を主張していたに過ぎなかった。

 

「私としましても、あの少女を助けたいという気持ちはあります。しかし、彼女が人類にとって災厄(リスク)となる可能性が1%でもある以上、断固たる対応を取らざるをえません。仮に、この船に迎え入れることになったとしても、その安全性の観点から身柄の管理保護権は特別渡航課にあることをお忘れなきよう」

 

 暗黒大陸の調査によって発見された資源(リターン)については、全面的にその調査を行った国の取り分となる。しかし、それ以外に持ち出された物品や生物に関しては特別渡航課に管理権を委譲しなければならないと秘密裏に条約で決められていた。

 

 これはリスクの危険性とその情報を世界各国が共有し、国際的に対応するための措置である。一国の管理不行き届きが全人類の滅亡につながりかねないからだ。特にリスクに汚染されたと見られる生物(原因不明の病にかかった人間など)は特別渡航課の関係機関が厳重な監視体制のもと隔離、保存し、研究している。

 

 要するに、クインと名乗る少女の身柄を特務課によこせという主張だった。

 

 薄汚いハイエナめ……。

 

 アンダームの心中は怒りで満たされていく。

 

「まるで最初から彼女をリスクだと決めつけるかのような物言いではありませんか。はっきり言わせてもらえば、彼女は我々、合衆国が責任をもって保護することが最善だと考えています」

 

「何を根拠にそんな……!」

 

「大げさかもしれませんが、私はこの調査団の皆を家族だと思っています。かけがえのない同胞です。そんな大切な仲間たちを私は調査に送り出し……そして、死なせてしまった……責任ある立場にある者としてこんな弱音を吐くべきではないとわかっていますが、身を裂かれるような後悔を感じています」

 

「え、えぇ……まあ、それは確かにそうでしょうが、それがいったい何の……」

 

「そんなとき、とっくの昔に壊滅したと思っていた調査隊員の娘が現れた。私はルアン氏のことを何も知らない。だが、彼もまた志を同じくする軍人でした。同胞の血を引く子が生きて助けを求めてきたのです。これに答えずして、今は亡き彼女の父に、そして死んでいった仲間たちに顔向けできない……! あなたにはこの気持ちはわからないでしょう。彼女をリスクとしか考えず、研究のための実験材料としか見ていないあなたがたには!」

 

 ドン!

 

 まるで音を伴うかのような威圧がアンダームの身体から発せられた。握りしめられた両の拳には爪が食い込み、血がにじんでいる。その表情は激情を必死に抑え込むように引きしめられていたが、眼力だけは爆発する感情をあらわにし、タポナルドを睨みつける。

 

 その巧妙に偽装されたオーラの波は、非念能力者であるタポナルドには見ることができない。しかし、その異常に膨れ上がった怒気は感じ取れた。纏もできない彼は、正面からまともに威圧を叩きつけられ椅子から転げ落ちそうになる。

 

「ひぇっ……!? あっ、なっ、なにかを、かんちがいなさっていらっしゃるのでは……!? ま、まるで怪しげな実験ばかりしているマッドサイエンティスト集団のように思われては困りますぅ!」

 

 意外にも気を持ち直して反論してきた特務課の男に対し、アンダームは内心で舌打ちした。

 

 その切羽詰まった様子に演技が混じるような余裕は微塵もなく、トレードマークの脂汗は過去最高の噴出量を記録していたが、それでも彼の心は折れていなかった。念に目覚めてはいないが、その胆力は目を見張るものがある。

 

 彼もまた覚悟を決めてこの船に乗った男だった。命を賭けて調査団の監視という任務を背負っている。これはいくらこけおどしを仕掛けたところで怯ませる以上の効果は無いと、アンダームは諦めた。

 

「申し訳ありません。つい、私情にとらわれ感情的になってしまいました」

 

「いえ、それはお互い様でしょう……私はしばらく休ませていただきます。この話はまた後で……」

 

 アンダームは悩んでいた。先ほどは少女を擁護するようなことを言ったが、それは特務課を牽制するための建前である。実際、彼女から得られるであろう知識は喉から手が出るほど欲しいが、その欲にかられて災厄を招き入れるような結末だけは避けねばならない。

 

 しかし少女との邂逅は、何の新発見もできないまま調査期間を終えようとしていたアンダームにとって転機でもあった。扱い次第で毒にも薬にもなりえると感じた。

 

 まずは見極める。少女はクアンタムに同行し、リターンの採取に協力すると申し出てきた。アンダームはその提案を受諾するように隊長グラッグへ命令を出している。

 

 お手並み拝見といこうか。

 

 ここで少女の意思を無視して強硬策に踏み切るには、まだ判断材料が少なすぎる。少女が何を企んでいるか知らないが、その行動からおおよその意図や人間性をつかむことができるだろう。アンダームはその実験の供物としてクアンタムを捧げる気でいた。

 

 

 * * *

 

 

 人間の調査隊とのファーストコンタクトを終え、私は今一度、自分の行動について振り返って考えていた。

 

 当初の計画ではもう少し慎重に接触の機会を図る予定だったのだ。調査隊を尾行し、彼らが何らかの脅威と遭遇して戦闘に発展、窮地に陥ったところに偶然を装って駆け付け、華麗に彼らを救出。この流れならもっとすんなり受け入れられていたかもしれない。

 

 だが、予想外に調査隊の人間は優秀だった。恐ろしいほどの広範囲の円を使いこなし、全く近づける隙がない。結局、円の中に誘いこまれ、尾行が露見する。これではただの不審者である。第一印象はあまり良くなかっただろう。

 

 まあ、過ぎてしまったことは仕方がない。とりあえず自分の素性についてはそれらしい嘘をついてごまかした。あまり深く尋ねられると困る部分については知らぬ存ぜぬで通した。現状、彼らが私に抱く印象は、やはり不審者の域を出ていないと思われる。これですんなりと船に乗せてもらえるとは思えない。

 

 そこで乗船の対価として彼らの調査に協力する意思を伝えた。これにはいくつかの思惑がある。知られてはまずい情報も開示しなければならなくなる危険性はあったが、それを考慮した上でこの作戦を選んだ。

 

 リターンを捜索する以上、リスクとの遭遇は想定せざるをえない。そうなれば、アルメイザマシンの力を使わずに乗り切ることは難しいだろう。下手に出し惜しみすれば作戦どころか命が危ない。つまり、人間に私の力を見られることになる。

 

 それは彼らが私に対して向けている警戒をさらに引き上げることにもなるだろうが、私にとって不都合なことばかりではない。ある程度、こちらが武力を有していることは示さなければならないと考える。

 

 まず、私がいかにしてこの暗黒大陸を生き延びてきたかということを、彼らは知りたがっているはずだ。ただの人間の子供が幸運だけで切り抜けられるほどこの場所は甘くない。何らかの特殊な能力を持っていることは予想しているだろう。

 

 アルメイザマシンの力はその説明になる。生命エネルギーを糧に増えるウイルスであることを話す必要はない。本体が作り出す特殊な毒弾ということにしておく。

 

 力を示すことにより、ある程度威圧的な交渉ができるのではないかと思う。全てを包み隠し、ただのか弱い少女として救助を求めれば立場がない。向こうから出される条件を拒否することは難しくなる。

 

 例えばクインの乗船は認められても本体は乗せられないということになりかねない。また、クインの身体を詳しく検査されるかもしれない。そうなれば人間ではないと見破られる可能性は十分にあった。

 

 救助は求めつつも、こちらの要求も通す。その交渉のバランスをいかにして取るかが重要だ。その切り札として『魂魄石』の存在は、まだ隠しておこうと思う。手札を最初から全てさらす必要はない。

 

 確か持ち物袋の中には、枯れ木人間の一件で手に入れた花が数個残っていたはずだ。干からびてカラカラになっているが、成分は残っているだろう。これがリターンになるのかわからないが、嘘でも何でも並び立てて売り込めば価値を見出してくれるかもしれない。とにかく使える物は何でも使う。

 

 調査隊のリターン捜索に協力することも交渉を有利に進めるための一環だ。これこそが作戦の主軸、肝と言える。協力的な態度を見せることで、人間にとって私が友好的な存在であることをアピールする。

 

 困難を極めていた調査隊の前に彗星のごとく現れた頼もしい仲間。私たちは生死を賭けた探索を共にし、その信頼関係を深めていく。努力、友情、勝利。人間がこれらのワードにほだされやすいことは前世の記憶(主に漫画)から予習済みだった。

 

 強敵を相手に私の力が及ばず、調査隊の何人か死なせてしまうかもしれない。しかし、その仲間の死を乗り越えることで、さらに私たちの結束は深くなることだろう。

 

 どう転ぼうとも死角はない。しかし私は油断なく、意識体を分割して様々な事態をシミュレートしていた。

 

 



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14話

 

「よぉ、あたしはチェル=ハース。これから一緒に調査するんでよろしく。あ、服持ってきたんだけど、いる?」

 

 こちらの提案は受け入れられた。ついに人間の調査隊『クアンタム』との共同調査が行われるのだが、その前に。

 

 隊員の一人が着る物を差しいれてくれた。男なのか女なのか一見して判別がつかなかったので尋ねたところ、女性らしい。そのとき表情はにこやかだったが、一瞬剣呑な雰囲気を感じたのは気のせいだろうか。

 

 どうも人間の顔つきは見分けがつきにくくて困る。みんな似たり寄ったりで同じ顔のように見えてしまう。体格や髪の色、声質で判別した方がまだわかりやすい。

 

 そして服である。今まで全く頭が回らなかったが、私は全裸である。向こうもそのことに触れて来なかったので失念していた。生まれてこのかた衣服を身につけることのなかった私にとって、初めて手にする“人間らしい品”だった。

 

「ちょっと待った。向こうに体を洗う水を用意したから、まずはその泥を綺麗に落としてからな?」

 

 清潔な水が入ったポリタンク、大きなタライ、体を拭くタオルまで用意されていた。水は海水から抽出して作り出せるので気にせず使っていいと言われた。ちょっと親切すぎる気がする。いや、このくらいは普通の対応だろうか。

 

 何か裏があるような気がしてタライに張られた水に鼻を近づけてにおいを嗅ぐ。軽く舐めて味を確認していると、チェルに笑われた。何がおかしかったのか不明だが、水に異常はないようだ。

 

 恐る恐る体を洗っていると、チェルが後ろから手を伸ばしてきた。攻撃してくる気配ではなかったが、警戒して身をかわす。

 

「背中側、洗ってやるから。ほら、後ろ向いて」

 

「いい。自分でやる」

 

 一見して善意からの申し出に思えるが、相手は念能力者である。警戒するに越したことはない。

 

「遠慮すんなって」

 

 彼女は、なぜか頑なにこだわっている。しきりに手を出してくるので、ゆっくり体を洗うこともできない。ただ、にやにや笑っている表情は怪しいが、敵意は感じない。

 

 ここは一度、相手の出方をうかがうため誘いに乗ってみるか。何か能力を使う気なら、むしろこのタイミングで確認できることは好機だ。リターンの捜索中、戦闘などのどさくさにまぎれて使われるよりもいい。

 

 念能力には発動しても相手に気づかれず、対象に効果が憑依し続けるタイプのものがある。その場合、私は彼女に能力発動に気づけないが、問題はない。憑依した念は私の体にまとわりついた状態となるため、そこでアルメイザマシンを起動させればいい。

 

 憑依などの特殊な効果が持続する念能力は、設定された解除条件を満たさない限り無効化できないことが多い。しかし、これを強引に解除する手段もある。それは『除念』と呼ばれる念能力だ。相手の念能力を無効化する念能力であり、その使い手は除念師と呼ばれる。

 

 私はこの除念の効果を、アルメイザマシンの力で代用することが可能だと思っている。このウイルスは生命エネルギーを金属へと変える。憑依した念は、その能力者のオーラ(生命エネルギー)で形成されているため、これを全く別の物質、ウイルス体の結晶へと変換することで無効化できるのではないか。

 

 通常、『除念』は使用に際して大きな制限がかかる。除念師は無効化する能力の大きさに応じて、何らかの形で自分自身に負担を課す。それが除念に必要な制約であり、どんな能力でも無制限に“外せる”わけではない。自らの処理能力を越えた念を無効化することはできないのだ。

 

 しかし、アルメイザマシンならばその制約が無い。これは念能力ではないため、『制約』や『誓約』と言った概念に縛られない。さらに一度ウイルスによる侵食が始まれば憑依した念だけではなく、そのオーラの発信源をたどり、使い手までも取り殺す。どれだけ距離を取ろうとウイルスの追跡からは逃げられない。

 

 憑依系の念能力者にとって、このウイルスの相性は最悪だ。首輪をつけて優位になったつもりが、その手綱は導火線も同然。一瞬で犯人をあぶり出し、間髪いれず命をもって償わせる。

 

 一つ欠点があるとすれば、体内に仕込まれた念に関しては取り除くことが難しいことだ。やろうと思えばできないことはないが、その場合はクインの体内に結晶化した金属片ができてしまう。周囲の細胞が傷つくし、毒による汚染も考えられ、死亡する可能性が高い。

 

 だが、それでも構わない。クインは死ぬが、人間の敵意の有無を確認することができる。それがどのような理由であれ、こちらに無断で念による攻撃を仕掛けてくるようなら明確な宣戦布告と受け取る。友好的な対応を取る作戦は変更せざるを得ないだろう。

 

 いっそクインを『死んだ』ことにしてしまえば人間側の警戒も緩むかもしれない。そうすれば襲撃も多少なり楽になるだろう。

 

「……」

 

 チェルの手がクインの背中に迫る。今度は逃げない。洗うことに専念しているように装いつつ、神経を集中させ背後の気配を探る。何か異常があれば、トリガーを引く用意はできている。

 

 来るなら来い、アルメイザマシンで迎え撃つ。

 

 彼女の両手が私の腹部、両わき腹を挟みこむように添えられた。そして、攻撃が――

 

 ――来る!

 

 

 

「はぁーうっ!」

 

 

 まるで節足動物の脚のようにわしゃわしゃとうごめくチェルの指が、クインのわき腹をかき鳴らした。自分で自分の体に触っても何とも思わないのに、他人に触れられるとこうもくすぐったいものなのか。未知の感覚に震えが走る。

 

 壮絶なくすぐり攻撃に、たまらずチェルを突き飛ばした。つい力を入れて押し出してしまったが、彼女は綺麗に受け身を取って地面を転がった。

 

「だっはっはっは! なんだ今の声! おもしれー!」

 

 そのまま腹を抱えて笑い転げている。何がしたいんだこの人は……。

 

「怖くないの?」

 

 気がつけば、率直な疑問を口にしていた。

 

 念のため、アルメイザマシンの機能をオンにしたが、攻撃を受けた痕跡は見られなかった。ただくすぐるだけという何の意味もない行動を、なぜこの場で取れるのか。

 

 私が彼女の立場であれば絶対にしない。というか、できない。相手は能力も不明の念使いだ。私がチェルに対して向けている注意の何倍もの警戒心を持っても足りないくらいだろう。

 

 協力関係にあると言っても、何か少しの変化で容易く崩れ去ってしまうような均衡の上にあることを互いが理解しているはずだ。

 

 私は怖い。優位にあると思っている今の状況でさえ、警戒心は一向に緩まらない。未知の念能力者とはそれだけ危険な存在だ。だからこそ、彼女の心境を知っておきたかった。その余裕は一体どこから生まれてくるというのか。

 

「え? あー……怖いとか怖くないとか、もうそういう問題じゃないような気がするな」

 

 チェルはあぐらをかいて、少し考えるように視線をさまよわせる。

 

「まず、あたしたちは上から、あんたを監視するように命令されてるわけだが」

 

「それ言っていいの?」

 

「良いっつうか、気づいてるだろ? まあ、別にどっちでもいいんだけどさ。隠すほどのことでもない」

 

 だとしても、建前として黙っておくべきではないのか。ますますわけがわからない。

 

「その監視に加えて、リターンを船に持って帰るっていう任務もあるわけだ。そしてこの二つの任務、ぶっちゃけ今のクアンタムが抱えるには明らかにキャパオーバーな仕事だ。片方だけでもまともに達成できる自信はない」

 

 例えば、もし私が彼らに危害を加える目的で接近していたとして、実際に被害が発生する前にそれを食い止めることは難しいだろう。彼らからすれば、私はこの部隊に紛れ込んだ内在的な疾患に等しい。敵か味方かわからない者を抱え込んだまま、リターンの捜索という難事を乗り越えなければならない。

 

「さっき、あたしがくすぐろうとした時さ……もし、ここで不審な動きをすれば殺されると直感した」

 

「……」

 

「あー、別に殺気が漏れてたとかじゃないんだ。なんていうか、言葉にするのが難しいんだが……銃で撃たれるときの感覚に近いかな?」

 

 攻撃の意思には殺気が伴う。例えば念能力者同士が争ったとき、その当事者たちは互いの殺気を感じ取り、そこから敵の性格や実力、コンディションなど様々な情報を知りうる。

 

 だが、別に念能力者でなくても念能力者を殺すことはできる。ただの一般人でも武装すれば、何とか生身の能力者一人くらい殺すだけの力はある。

 

「個人的な意見だけど、やっぱオーラを直接ぶつけられるのと、そこらへんの兵卒に銃で撃たれるのとでは、込められた覚悟が違うんだ。照準を定めて引き金を引く。たったそれだけの動作で人は死ぬ。人を殺すだけの過程と、結果が釣り合っていない。だから“良い”んだろうけどさ」

 

 私がチェルに向けていた警戒心は、彼女にとって『銃で撃たれる』程度の些細な殺気でしかなかった。

 

「あるんだろ? 引き金を引くように容易く、あたしを殺せるだけの“何か”が」

 

 私は何も答えない。チェルは特に答えを急かすわけでもなく、不敵に笑っていた。そこまで気づいておきながらなぜ平静でいられる。なぜ無造作に近づいてくる。

 

「あ、怖いか怖くないかって話だっけ? そりゃ怖い」

 

 チェルはそう言いながら、クインの髪に手を伸ばしてくる。泥がこびりつき、固まった毛束をほぐすように洗っていく。

 

「けど、あんたが裏切ったときのことを気にしていられるほどの余裕はないんだ。一から十まで疑い始めたらきりがない。だったらもう信じるしかないじゃん?」

 

 それは私自身にも言えることだ。どんなに打算的な思考を重ねたところで完全に双方の利益を両立した取引は成立しない。ここでは契約を履行させる法も秩序も、まともに機能していない。

 

 無秩序ゆえに、双方が約束を守ることをどこかで信用しなければならない。何一つ、お互いを許容できないとすれば闘争以外の道はなくなる。疑うことはあっても、「ここからここまでは信じられる」という線引きは必要だ。

 

 私の中で、その境界線は実に曖昧なものだった。どこに信頼の線を引くのか。まるで雲をつかむように取りとめがない。読心術でもない限り、他人が考えていることなどわかるはずがない。何を基準に信じればいい。

 

 きっと彼女は、その線引きが明確なのだろう。だから臆することなく接してくる。それはまだ私が知り得ない人間の性なのかもしれない。

 

「もちろん、『だからあたしたちを信じろ!』なんて強制するつもりはないし、この話を信じるか信じないかはあんたの自由だ」

 

 何も言えなかった。疑念と信用の比率は揺れ動いている。現段階で答えを出すことはできそうにない。信じると、適当に相槌を打つこともできたが、何となく躊躇してしまった。

 

 ただ、彼女がクインを洗うことを拒絶はしなかった。警戒は解かなかったが、受け入れることにした。

 

 

 * * *

 

 

 渡された衣服は、軍の制服のようだ。着方についてはチェルに教えてもらった。この服は特殊部隊の共通装備であるらしく、隊員は皆同じものを着ている。

 

 伸縮性があり、ぴっちりと体にまとわりつくインナーはちょっと慣れない着心地だ。形状は全身タイツに近く、体中締めつけられる感じがしてぞわぞわする。脱ぎたかったが、高性能の特殊素材でできているらしい。

 

 通気性に優れつつ、空気が汚染された環境でも皮膚を保護してある程度活動できる特殊な繊維構造となっており、耐熱性・対刃性も高い。特に動きを阻害するようなものではないので、着慣れるのを待とう。

 

「ブラは……まあ、いいとして、パンツがないな……」

 

 問題ない。インナースーツは直履きで済ます。その上から長袖長ズボンの迷彩服を着て、体幹を守るボディーアーマーを身につける。こちらも薄く軽く柔軟性のある素材で、動きやすさを重視した作りになっている。

 

 特に靴がなかなか良かった。今まで足場の悪い場所を走るときは、足の裏をオーラで強化しなければ傷だらけになっていたが、その心配がない。足首やつま先の可動が少し制限されるので、そこは残念だが大きな支障が出るほどではない。

 

 とはいえ、これらの装備が重なると全裸のときと比べればさすがに動きにくいし、それなりの重量がある。いつも通りの動きとはいかなくなるかもしれないので注意が必要だ。その代わり、しっかりと衣服を『周』で強化すれば防御力は格段に上昇するものと思われる。

 

 ちなみに、よくクインの体に合うサイズの服があったものだと疑問に思ったが、これは特殊部隊のある隊員が使っていた予備の装備らしい。その隊員は成人男性らしいが、つまりクインと同じくらいの体格だったことになり、それはそれで少し気になる。

 

 その隊員はもう亡くなっているので、装備は譲り受ける形となった。そのため若干、サイズが大きくだぼついている。靴も少し大きいが靴ひもで縛れば問題ない程度だった。

 

 必需品が入ったリュックも支給された。食料や水などの物資がコンパクトにまとめられている。そしてフルフェイスタイプのガスマスクや酸素供給機まで入っていた。持ち物袋はリュックの中に入れておく。

 

 最後にヘルメットをかぶる。これで一式の装着完了だ。待たせていた特殊部隊の隊員たちと合流する。

 

「…………」

 

 全員、クインの方を見て固まっているのだが。チェルだけはなぜか得意げに胸を張っている。

 

「どうよ、この会心の出来栄え」

 

「なんでチェルさんが威張ってるんですか? いや、驚きましたが……」

 

「泥まみれの状態でも光る物を感じてはいたけど綺麗に汚れを落とすと違うね」

 

 なにやらひそひそと内輪話をしている。おそらくクインの容姿に関する話だと思うが、そんなにこの服が似合っていないのだろうか。

 

「いや、まあ、似合ってはないね。深窓の令嬢が軍特殊部隊の装備でガチガチに固めてる感じで違和感しかないわ。ていうか、そのツヤッツヤのキューティクルを保った美髪は何なの? そして肌白すぎない? エステにでも通ってるの? もしかしてさっきの泥? 暗黒大陸産の泥はパックに最適なの?」

 

 真剣な表情で矢継ぎ早に質問してくる。どうやらクインの肌が紫外線による損傷を受けていないことを不審に思っているようだ。野外で生活しているにも関わらず全く日に焼けていないのだから疑われても仕方がない。

 

 これは『デザインを変更できない』という『偶像崇拝』の制約による効果だが、それをそのまま説明するわけにもいかない。オーラによって肌の若さを保っていることにしておく。

 

「ちょっと、クインさんが困ってるじゃないですか。すみませんね、騒々しくて。でも、それだけかわいらしいお嬢さんだってことですよ。やはり女性がいると空気が華やぎますね」

 

「は? あたしがいるだろ?」

 

「チェルさんは男枠でしょビベブアッ!?」

 

 黒髪の青年が話していたところ、何を思ったのかチェルが青年の腹に拳を打ち込んだ。しっかりとオーラが込められた一撃だ。常人なら確実に内臓破裂している。

 

 その明らかに殺意が込められた攻撃に対し、青年は瞬時に反応していた。腹部に『凝』をすることでオーラを集め、守りを高めていた。それでもダメージを無しにはできなかったのか苦しそうに咳き込んでいる。

 

 念能力者同士による見事な攻防だったが、なぜこのタイミングで仲間割れを始めたのか理解できない。

 

「遊ぶのはそれくらいにしておけ」

 

 隊長の男が一喝し、場を取り仕切る。確か、名前はグラッグだったはずだ。隊長ということもあり常識的な性格をしているように見える。ただ、どこか挙動が怪しいところがあって素直に信用できない。

 

 歩き方がおかしい。曲がるときにかかとを軸にし、クルッとターンするのだ。まるで行進の動きである。そのほかにも関節が固定されているのではないかと思うほど不可解な動きをすることがある。

 

 あと一人、会話に加わってこないカトライという男も見るからに変だ。ガタガタと体を震わせ、こちらと目を合わせようとしない。いや、ある意味で正常な反応なのかもしれないが……

 

 この部隊にまともな人間はいないのか。

 

「まずはリターン捜索の件、協力を申し出てくれたことを感謝する。現地に暮らすあなたの知識や経験、そして力をどうか貸してもらいたい。ここにいる四名が特殊部隊クアンタムだ。これから共に捜索にあたる仲間として誠実に付き合っていきたいと思っている。改めて自己紹介をしておこうか」

 

 名前は覚えられてもすぐに顔と一致できる自信がないので、よく聞いて覚えておこう。

 

 

 * * *

 

 

 四名の特殊部隊と一人の少女、数奇な組み合わせとなった一行は順調に目的地へと進んでいた。夜になり、一日目の行程を終える。いかに残された時間が少ないといえども、夜間に強行することは危険だ。ましてこの場所は暗黒大陸である。

 

 極度の緊張状態が続く過酷な行軍である。体力的な面でも精神的な面でも、休息は不可欠だった。特に、索敵の要となるチェルは広大な円を常時展開しなければならないため、最も疲労が蓄積している。休ませなければ明日の行軍がままならない。

 

 チェルほどではないが、他の三人の隊員にしても疲労は色濃く表れていた。一度も敵と遭遇せず、順調に行程を消化できたというのにこの有様である。隊長のグラッグは木に背中を預けて立っていた。座りこめばそのまま気を抜いてしまいそうだった。

 

 その一方、この中で最年少となる少女はと言うと、疲れた様子を見せず平然としている。やせ我慢をしているわけではない。隊員たちにとって非日常、非現実の巣窟であるこの森も、少女にとっては日常だった。歩き慣れていることは一目見てわかる。

 

 始めは、本当にこんな女の子が探索について来られるのかと疑う気持ちもあった。そのくらい少女の容姿は華奢で頼りない。見た目は子供そのものである。

 

 しかし、この大陸の住人であるという前情報に偽りはなかったとグラッグたちは素直に感心していた。身のこなし、気配の消し方、研ぎ澄まされた感覚。その姿は野生の獣のごとく洗練されていた。人間社会という共同体の中で生きていては決して身につかない、生物本来の“生きる術”が少女の体には染みついている。

 

 だからこそ不自然でもあった。少女の体はあまりにも穢れがない。森を駆け回り、自然の中で生活を送っていたとすれば当然ついているはずの筋肉がない。擦り傷、切り傷、そう言った傷痕一つない白い肌を保っている。まるで、そうあれかしと定められたように美しい。

 

 肉体とそこに収められた力が釣り合っていないのだ。そのアンバランスさを強大なオーラによって強引にまとめている。本来なら修行によってオーラと肉体、心身の両面を鍛え上げ強さを生み出すところ、彼女の場合はオーラのみの強化に偏り過ぎていた。並みの念使いならまともな力は得られない。

 

 しかし、彼女は筋肉を鍛えずに一般の念能力者を遥かに上回る強化率を実現していた。莫大なオーラ潜在量と顕在量によるゴリ押しである。とんでもなく非効率的である上に、危険な力の使い方だった。高い出力に物を言わせて思うがままに発散すれば持て余した力によって肉体の方が壊れてしまう。

 

 そもそも、普通は自分の体を壊すほどの強化というものはできない。無意識的に働く脳のリミッターが出力を抑えている。『火事場の馬鹿力』のように一時的に解除されることもあるが、そうそう起こることではない。

 

 このリミッターを意図的に外す方法も、あることにはある。だが、どんな武術の流派でも大抵は禁忌に属する技だ。無理に力を引き出せば、必ず反動がくる。その習得には才能と血のにじむような長い鍛錬が必要である上、おいそれと使える技ではない。

 

 その技を少女は当たり前のように常用していた。どうやったらこんな念使いが育つのか。彼女の父親であり念を教えたであろうルアンは、いったいどんな指導を施したのか。グラッグは頭を悩ませていた。

 

 何らかの『発(特殊能力)』を使っている可能性が高かった。念能力者にとって生命線とも言える能力がこの発だ。教えてくれと言ったところで話すわけがないし、それを聞くことは重大なマナー違反である。場合によっては即座に敵対行動を取られてもおかしくないほどだ。

 

 だが、グラッグは少女から能力に関する情報を聞き出すことに成功していた。暗黒大陸という危険地帯の調査を行う上で、生存確率を少しでも上げるためには各人の能力を全員が把握しておいた方がいい。この場の五名全員が情報を共有し合う機会を作ったのだ。

 

 非常にプライベートな問題であるため能力を公開するか否かは少女の判断に任せた。公平を期すため先にクアンタムの隊員たちが能力を明かしている。その上で少女に何かを強制することはなかった。

 

 この対応を受け、少女は自らの能力について説明するに至る。特に隠すようなそぶりはみせなかった。最初から話す思惑があったようだ。

 

 彼女は特質系に属する能力者であるらしい。その能力は二つあった。そのうちの一つが、名を『偶像塑造(マッドドール)』という。これは肉体の回復機能を引き上げる能力らしいが、その効果が並み外れている。即死でなければ重傷でも治療でき、欠損した部分まで元通りに治せるという。

 

 回復能力が戦闘において非常に役立つものであることは確かだが、意外とこの発を作る能力者は少ない。発とは四大行の集大成であり、その者の本質を表す技である。使い手の根底にある資質が色濃く反映されるだけに、実は何でも好き勝手に作れるわけではない。

 

 回復とは敵から攻撃を受けることを前提とした特性であり、攻勢から一歩引いたところにある。精神的な強さが何よりも求められる念において、この“引き”をあえて能力化しようとすることは自らの弱さの肯定になりかねない。その力を扱うためには一般人の感覚とは異なる資質が必要となってくる。

 

 希有な能力であることに違いない。しかし、クインの場合はさらに特殊。肉体の回復は系統で言うと強化系の領分だが、それも自己治癒力を高める程度のものがほとんどである。欠損まで元通りにするほどの能力となれば、もはや回復ではなく再生の領域だ。ゆえに彼女が強化系ではなく、特質系に属していることは合点がいった。

 

 致命傷を受ければさすがに治せず、感染症や毒まで無効化できるわけではないようだが、十分以上に非常識なほど強力な発だ。それだけの能力を持っているからこそ暗黒大陸をこれまで生き抜いてこられたのだろう。

 

 彼女はそれ以上詳しいことは語らなかったが、その再生能力によって儚い容姿が保たれていると推測できた。筋肉がつかないことも制約の一つだと考えられる。だからオーラによる限界を超えるような肉体の酷使にも耐えうるのだと納得できた。

 

 そして、それだけではなく彼女はもう一つ能力を作っていた。それは右腕に取り付く大きな虫を操るというものである。こちらは名前をつけていないようだ。これは一般に『生物操作』というカテゴリに含まれる能力で、操作系の発である。

 

 特質系でありながら操作系の発を作っているが、これはそれほど珍しいことではない。六性図から見れば二つの系統は隣り合っており、相性は良い。効率を犠牲にしてでも別系統の能力を作ることはある。念は本人の思い入れの強さに応じて効果を発揮する面もあるため、一概にその選択が失敗だと断ずることはできない。

 

 操作系能力者のタイプは主に三つに大別される。『物質操作』、『生物操作』、『念獣』の三つだ。念獣使いの場合は放出系や具現化系との複合能力になるため扱いが難しい。

 

 それに比べれば生物操作はオーソドックスな能力と言える。その最大の利点はコストパフォーマンスだ。念獣のように一から十までオーラを使って形作った操作対象は、維持するだけで大きな消耗が生じる。その点、生物操作の対象物は実体を持った生き物であり、その動力源はもともと備わっている。少量のオーラで長時間の運用が可能である。術者の力量にもよるが一度に大量の対象を操ることも得意とする。

 

 生物操作の代表例と言えば『人間操作』だろう。他者の制御権を奪い操り人形のようにしてしまう。しかし、これは生物操作の中でも特に難易度が高い技であり、術者の才覚と厳しい使用制約が必要になる。敵を一瞬で無力化しうるだけに課される条件も相応に多い。

 

 一方で、人間のように複雑な思考を持つ生き物でなければ操れる難易度も比較的易しくなる。念能力は思い入れによる補正が大きく関わるので、どんな生物でも操れるわけではないが、例えば飼いならした動物を自在に操る『猛獣使い』なども多い。

 

 クイン=アルメイザのような場合は『虫使い』と呼ばれる。“昆虫のような小さな対象しか操れないので弱い”ということはない。特に、今回のケースでは操作の対象となっている虫が暗黒大陸原産であるという点が最大の問題だった。

 

 この虫について、クインと遭遇した当初から皆が疑問に思っていたことであったが、彼女の口から語られるまで詮索はしていなかった。能力に関係することかもしれず、不用意に聞くべきではないとの配慮だった。

 

 彼女は虫を操ることで、その牙に持つ毒を利用しているという。その毒の強さや効果について、具体的な言及はなかった。

 

 調査隊の面々は、説明をする彼女の態度に不可解な点を感じている。一つの目の能力である『偶像塑造』については、まるで用意していたかのように饒舌に語ってくれたが、二つ目の能力についてはおざなりだった。能力名すらつけられておらず、ついでと言わんばかりの簡潔な説明で済まされている。

 

 確かに彼女の特質系能力は非凡であり、それに比べれば虫の操作なんて取るに足らない能力――と、故意に話を誘導したいのではないかとも受け取れる。一つ目の能力が全くの嘘というわけではないだろうが、カモフラージュを狙っている部分もあるのだろう。

 

 その虫は彼女にとってとても大切な家族らしいが、そんな家族を操作系能力で無理やり縛りつけるという発想も違和感がある。さらに、誓約によって彼女は虫と離れることができないらしい。一定の距離以上離れると、自身が死亡するという重い誓約を課しているようだ。

 

 一つ目の能力についてはこれと言った制約や誓約がない(または明かしていない)のに、二つ目の能力は不自然なほど重い。これにより彼女を船に乗せるという判断は、この虫も一緒に連れていかなければならないことを意味する。

 

 この虫の詳細がわからない以上、警戒を解くことはできない。暗黒大陸に生息していた虫というだけで、その脅威は得体のしれないものがある。彼女が語る能力の内容についても精査する必要があった。

 

 そして、既に調べは進んでいる。彼女の発言に嘘が含まれていることをグラッグたちは見破っていた。カトライの能力である。何がどこまで嘘であるのかまではわからないが、真実を話していないことだけは確かだった。

 

 カトライの能力も万能ではない。意図的に隠していると言っても嘘をついていない以上、そこにつきまとう悪意は些細なものであり、検出の精度はかなり落ちた。もし彼女が悪びれもせず虚言を吐く根っからの嘘つきであったなら、カトライも手こずったことだろう。幸いにして彼女は正直者であり、その嘘は見破りやすかった。

 

 特に誓約については真っ赤な嘘。虫を船に連れ込むために作った口実だとすぐにわかった。また、あからさまな弱点をさらすことで、隊員たちの反応を様子見する意図があったのだろう。もし調査隊側の人間が彼女から虫を強引に引き離そうと行動を起こせば敵対意思あり、と判断するための材料にしているものと思われる。

 

 自分に有利な条件を引き出そうと策を弄する少女だが、それはお互い様だった。グラッグたちも全ての真実を明かしたわけではない。当然ながら、カトライの嘘発見能力については隠していた。

 

 彼女を味方として扱うか、敵として扱うか、調査団は最終的な決断を保留にしている。潜在的に敵となりうる存在を部隊の一員として取り入れた上で、リターンの調査という本来の任務も達成しなければならない。その心労はグラッグの肩に重くのしかかっていた。

 

 これが単に騙し騙されるだけの関係であったなら、もう少し気は楽だったかもしれない。クインという少女を明確な敵として仮定し、決然と処分を下す判断ができただろう。

 

 彼女をそう断定するには、あまりにも“人間的”過ぎた。

 

 ここまで敵と遭遇、交戦することなく予定地点までやって来られた理由は、クインの協力によるものが大きい。チェルの円、カトライの殺気察知、トクノスケの念獣偵察、幾重にも張り巡らせた索敵体勢をもってしても敵との接触が避けられなかった場面はこれまでにもあった。

 

 クインの野生の勘じみた索敵感覚にも目を見張るものがあったが、何と言っても役に立ったのが大型生物の行動域に関する知識である。混沌とした食物連鎖が織りなすこの森の生態系では、そこに生息する生物の縄張りを把握するだけでも困難を極める。絶えず入り乱れる潮流を読むかのように繊細で専門的な知識を要する。

 

 その知識は生きる上で自然に身についたのだろう。彼女はわずかな痕跡から危険生物の行動域を予測し、より安全な進行ルートを導き出すことができた。そしてその万金にも値する情報を惜しげもなく公開してくれた。

 

 食べられる植物に関する知識も深い。グラッグは道中で見かけた植物について、いくつか問答を重ねた。毒をもった植物やキノコについて貴重な情報を得る機会となった。

 

 食事の際は、支給された携帯食料の味がお気に召さなかったようだ。肉類が好きではないらしい。その代わり、嗜好品として糧食に付いていた硬いクッキーをボリボリむさぼって皆の笑いを買っていた。無表情だったがハムスターのように頬を膨らませていたので、おいしかったのだろう。

 

 自分から話をする性格ではなく淡々とした受け答えをするが、隊員たちに人類が暮らす大陸についての質問をすることが何度かあった。

 

 グラッグは『HUNTER×HUNTER』という漫画を知らないかと尋ねられた。彼は漫画について詳しくなかったので答えられなかったが、タイトルからしてハンターを題材とした作品ではないかと予想はつく。華々しい功績を残したハンターたちの活躍を描いた作品は多い。少女は、その漫画を読みたいと言っていた。

 

 なんのことはない、普通の子供なのだ。こんな場所で生まれず、不相応な力も得ず、人類の大陸で生を受けていたならば彼女は普通の人生を歩むことができたはずだ。この地獄から逃げのびて、人間として当たり前の生活を送りたいと望む気持ちは理解できた。

 

 その彼女の言葉に嘘はない。船に乗せてほしいという、ただそれだけのささやかな希望が、遠い。いっそ少女が心ない怪物で、調査団を利用し、人類を滅ぼそうと企んでいるのならばグラッグの悩みの種は一つ解消されていたことだろう。

 

 やりにくい相手だと思わざるを得なかった。

 

 



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15話

 

 正直、私は人間を侮っていた。

 

 この大陸は人間にとって長期の生存が難しい環境だ。それはクインという身体を持つ私も理解している。能力があるから何度も蘇っているが、普通は一度殺されればそこで終わる命である。

 

 調査団の精鋭部隊が全滅したからと言って、彼らが弱いわけではない。そう思う一方で、私の中にどこか優越感にも似た感情はあった。自分は上等な存在で、人間よりも優れているという先入観にとらわれていた。

 

 しかし、その感情は私の目標にそぐわないことに気づく。私は人間を知り、彼らのように生きることを望んでいたはずだ。『自分』と『人間』を切り離し、彼らを見下していては逆に目標から遠ざかっていると言えよう。

 

 対等の目線に立たなければならない。少なくともここにいる四人の人間は、一目おくべき存在であると素直に認めることができる。それほど優れた念の使い手だった。

 

 その桁外れに広範な索敵能力は全く私の及ぶところではない。私が貢献できたことと言えば、せいぜいこの付近における注意すべき生物の生態を教えた程度である。私がいなくても彼らは自力で活動することができただろう。

 

 むしろ、私の方が彼らから学ぶことが多かった。特に念の扱いにおいてはスペシャリストの集団である。曖昧な記憶を頼りに独学で修行を積んだ私よりも優れていて当然だ。特に念戦闘の基本にして奥義と呼ばれる『流』の技術は圧巻だった。

 

 休憩中、トクノスケという青年に少し見せてもらったが、私が今までやってきた練習は稚戯に等しいと認めざるを得なかった。それほど鮮やかでよどみがない。人体とその器に満たされるオーラが渾然一体となり、血流のような自然さで体内を駆け巡っている。

 

「こういうのは僕よりカトライさんの方が上手いですよ。心源流の達人ですから」

 

 トクノスケいわく、カトライはこのメンバーの中で最も近接戦闘に長じる武人だと言う。首が取れるのではないかと思うほどの勢いで激しく体を震わせて否定するカトライの姿を見るに、とてもそうとは思えない。

 

 だが、心源流は念法の一大流派であり、その技については前々から興味があった。ぜひ見せてもらいたい。

 

「無理ですっ! 達人だなんて滅相もない! 私の技なんかお見せするほどの価値は……」

 

「いいじゃん、見せてやれよ。見張りは気にしなくていいから。こいつは“避け”の技だけなら師範代クラスの腕前だ。ほら、クイン。適当に殴りかかってみろ」

 

「やめてください!?」

 

 許可が出たので組手をすることになった。向こうから何か仕掛けてくる気配はなく、ただただ怯えているだけにしか見えない。とりあえず近づいて軽くジャブを打ってみる。

 

「ひいっ! やめてぇ!」

 

 目をつぶって泣きわめいている割にしっかりと攻撃は避けられた。続けざまにパンチを打つが、なかなか当たらない。あと一歩のところでのらりくらりとかわされる。

 

 相手は見るからに動揺し、情けなく逃げ回っているだけだ。避けられたところですぐに追い詰めることができると思い、放った次の一手をまたかわされる。たまたま運良く回避できたようなひどい身のこなしでありながら、その偶然が数十回に渡って続いている。

 

 偶然などではない。嬲られるだけの獲物を装いながら、ひたすら攻撃を受け流し続ける卓越した技量があった。わかっていながら惑わされそうになる。それほど彼は余裕をなくし、切羽詰まっているようにしか見えない。

 

 そのふざけた態度にいら立ちが募り、拳に力が入っていく。最初は微々たる強化率だったオーラも次第に増強されていき、最終的にほぼ全力の強化状態でパンチの雨を浴びせていた。

 

「死ぬぅ! 死ぬぅ!」

 

 だが、当たらない。そのもどかしさについ『重』を使ってしまいそうになったが、さすがに自重した。一旦、精神を落ちつけるため距離を取って深呼吸する。カトライは糸が切れた人形のように力尽き地面に倒れ伏したが、それもブラフだろう。ここで殴りかかったところで避けられるに決まっている。

 

「いやぁ、ふっかけた私が言うのも何だけど、鬼だな」

 

「よく生き残れましたね」

 

 彼の持つ能力を事前に知らされていなければもっとヒートアップしていただろう。その厄介さを改めて認識する。その能力は『蛇蝎魔蝎香(アレルジックインセンス)』と言う。

 

 彼は生まれつき変わったオーラの質を持っている。オーラはその持ち主によって微妙に性質が異なり、その人の性格などが雰囲気に反映されることがある。

 

 彼の場合は少し特殊で『他人をイラつかせる』オーラの質を持っている。その質のせいで彼の性格が卑屈になったのか、卑屈だからオーラの質が歪んでしまったのか定かではない。

 

 『蛇蝎魔蝎香』はこのオーラの性質を増幅し、周囲に放散する放出系能力である。直接的な攻撃力は全くないが、敵の精神に作用して感情を誘導する効果がある。

 

 とはいえ、この効果はそれほど強いものではない。感情に影響を与えると言っても思考そのものを操作するようなことは当然できず、あくまで敵をイラつかせ、神経を逆なでする程度のものだ。未熟な使い手であれば怒りに駆られ取り乱すこともあるかもしれないが、実力者ほど精神を律する能力が高いため通用しなくなる。

 

 一見してそれほど役に立つとは思えない能力だが、そこに彼の並み外れた戦闘技術が加わることで大きな力を発揮する。彼は他者から向けられる殺気に対して非常に敏感な察知能力を持っている。『蛇蝎魔蝎香』によって敵の殺意を誘発することで、敵が次に繰り出す攻撃の軌道を浮き彫りにするのだ。

 

 人は自覚して他者を攻撃しようとするとき、多かれ少なかれ殺意を持つ。優れた暗殺者はこの殺気を極限まで抑え込むことができるが、それでもゼロにはできない。攻撃しようとする意思が働く以上、そこに何らかの兆候が表れてしまう。

 

 歴戦の武人であれば『蛇蝎魔蝎香』を受けたとて、すぐさま精神を平静の状態に戻すことができるだろう。しかし、そこには必ず“一手間”かかる。通常であれば不必要なはずの『心を落ちつける』という余計な工程が介在してしまう。

 

 実力者ほど自身の精神的な変調を正確に把握し、その迷いをかき消すために心を強く持とうとする。そこにわずかな“力み”が生じるのだ。常人であれば認識もできないような小さな違いだが、カトライはその余計な力みから巧みに敵の殺気を嗅ぎつけ、予知するように攻撃の軌道を探り当てる。

 

 先ほどの組手で彼は私の攻撃を全て避けてみせた。はたから見れば私が一方的に攻め続け、彼に攻撃の手を与えなかったように思えるかもしれない。だが、その本質は全くの逆。こと対人戦における技能ではカトライに軍配があがる。

 

 通常、戦闘とは攻防一体の応酬である。実力が拮抗している者たちほど守りと攻めの境界は曖昧になる。攻撃することで敵の行動を封じ、自分に有利な状況を作り出すことは“守り”とも言えるし、防御することで敵の攻撃を受け流し、その隙を狙って次の一手へつなげる布石とする“攻め”もある。

 

 だが、どちらがより有利であるかを論ずるならば、それは攻め手だ。守る側はその時点で守ることしかできないが、攻める側は一度に攻防両面の性質を併せ持つ。『攻撃は最大の防御』である。先手を取った方が圧倒的に有利なのだ。

 

 一度、形勢不利に立たされた軍隊が巻き返すには多大なエネルギーを要するように、それは個人の戦闘においても同様に言える。それゆえに、まずは『敵に攻撃されないために攻撃する』というスタンスが基本。巧遅より拙速が好まれるのが戦闘の常だ。

 

 無論、速ければ万事解決というわけではない。特に念能力者同士の戦いは何が起きるか予想もつかない展開が多く、むやみに攻撃すべきではない場合もある。

 

 しかし、それを考慮しても“避け続ける”ことは攻撃し続けることよりも遥かに難しい。敵の攻勢をあえて許し、一切手を出さずにさばき続けることなど、敵よりも格段に高い実力の持ち主でなければできることではない。

 

 彼が一流の武人であるからこそできる芸当だろう。悔しいが、実際に組手をした今なら理解できる。事前に能力の詳細を知っていながらこれだけ翻弄されるとは思わなかった。もう一回、相手をしてもらいたい。

 

「も゛う゛ゆ゛る゛し゛て゛く゛た゛さ゛い゛!!」

 

 組手は断られたが、色々と体術の指導はしてもらえた。短い休憩時間の合間しか見てもらえなかったが、とても勉強になった。

 

 ボクシングスタイルで戦う私は今さら心源流の戦い方に変えることはできないし、カトライもボクシングには詳しくないようだ。だが武術である以上、基本的な身のこなしについては共通する部分もある。これを機会に学べることは何でも吸収しておきたい。

 

「肢曲おしえて」

 

「すごい技知ってますね!? 心源流じゃないので無理です……しかし、そうですね……では、ボクシングでも活用できそうな足運びを一つお教えします。ちょっとマイナーすぎて使い手のいない技ですが……」

 

 その技の名は『陽脚』というらしい。心源流は基本的に地に足を着け、どっしりと構える型が多いが、この技はステップを踏む。独特の歩調でつま先を浮かせ、地に着いたときの振動を足の裏で感じ取る。

 

 これにより音響測位のように地面と接する敵の位置を、正確に把握することが可能になるという。これを使いこなせれば肢曲のように視覚を惑わされる技を使われたとしても対処しやすいそうだ。

 

「いや、それどう考えても素人がマネできる技じゃないですよ。というか常人には不可能ですよ。奥義とかそういうのでしょ」

 

「あっ、そ、そうですね……すみません!」

 

 確かに難しい。見ただけですぐに使えるようになる技ではない。だが、試しているうちに妙案が浮かんだ。

 

 これは攻撃のための技ではなく、敵の動きを見切る“読み”の技だ。足の裏の感覚を研ぎ澄まし、振動を感じ取る。その感覚の強化は私の得意とするところだった。『共』を応用すれば不可能ではない。

 

「できた」

 

「……」

 

 カトライたちは呆れたものを見るように唖然としているが、さもありなん。私がやったことは念能力の応用によって擬似的に『陽脚』という技を再現したに過ぎず、それを己の技量一つでやってのけたカトライに比べるべくもない。

 

 確かに『共』を使えば同じようなことはできるが、問題はその使用が想定される状況である。『共』は極度の集中力を要する技であるため、戦闘中にやすやすと使うことはできないのだ。その点、『陽脚』は戦闘中に使うことを前提とした技であると言える。

 

 ただ、実際に敵と対峙している時点で、わざわざ索敵を行う必要はない。敵の姿は見えているのだから足の裏の感覚を強化するような手間をかけるのは無駄だ。使い手がいないというのもうなずける。

 

 しかし、全く使えない技ではないと思った。試しに少しチェルやトクノスケに攻撃してもらって使用感を確かめたところ、この技の真価は別にあることに気づいた。

 

 人間の感覚器は大きく五つに分けられる。いわゆる五感だが、このうち認識に最も大きな影響を与えるものは視覚である。逆に言えば、視覚を惑わされることで認識に齟齬が生じやすい。

 

 暗殺者の秘技に『肢曲』というものがあり、緩急をつけた特別な歩法によって幻影を生じさせ敵を惑わすらしい。それはあまりに極端な事例だが、日常生活の中でさえ当たり前に錯覚は生じている。視覚が認識を作り出すのではなく、脳が勝手に解釈した現実を視覚情報としてアウトプットしてしまうのだ。目に見える物が全て真実とは限らない。

 

 それはごく微細な齟齬に過ぎないが、一瞬の判断が命運を分ける戦闘においてその差は大きい。いかにして正確な情報を認識するか、その手段を用意しておくことは重要だ。

 

 最初は『凝』を使って目を強化すればいいのではないかと思ったが、これは逆効果だった。視覚を強化することで、視覚機能の根底にある錯覚まで悪化してしまう。錯覚とは何も欠陥ではなく、正常な脳の機能の一つでしかないからだ。

 

 目を凝らす『凝』は対念能力者戦において相手の能力を見極めるために欠かせない技であるが、多用は禁物。頼り過ぎれば、むしろ敵の術中に嵌められる危険も高まる。

 

 極限の集中状態において鋭敏化した感覚は、時としてありもしない幻影を見せるのだ。死闘の最中、これは敵もかわせないと思うほどの会心のパンチを打ち放ったところ、あっけなく避けられることがよくある。確かに当たったはずだと思うのに、まるで面妖な奇術でも使われたかのように外れている。

 

 『思考演算』により意識を分割して客観的に自分の行動を観察すればすぐにわかることだが、これはトリックでも何でもなく単に私の実力が足りていないだけに過ぎない。問題はそこではなく、自分の非を認識できず、勝手な想像を現実に置き換えてしまっている点だ。

 

 この現象は、スポーツのカメラ撮影による判定に似ている。両選手ともに己の全力を出し切り、絶対に自分が勝ったと信じて疑わないが、現実に映像を確認してみればどちらかが負けているはずなのだ。ことほど左様に、人間の脳は自分に都合よく認識を書き換える信用ならない器官である。

 

 私の場合は『思考演算』で自分自身を第三者視点からチェックできるが、それも練習中にしかできることではない。命を賭けた実戦の最中に、ゆっくりと自分を観察して行動を修正している暇などない。

 

 そういった点で『共』は優れた認識手段と言える。五感を織り交ぜ共有した直感は、時に虫の知らせにも似た超感覚を発揮する。視覚だけではなく他の様々な感覚を使って多角的に現実を捉えることで、より正確な情報を得ることができるのだろう。だが、先ほども触れたようにこれは戦闘中に使える技ではない。オーラによる肉体の強化や『流』による攻防力の高速移動をこなしながら併用できる技ではないのだ。

 

 オーラを扱う技術のキャパシティも有限である。例えば『円』も戦闘中に使うことができれば有用だろうが、これもまた集中力とオーラを大きく消耗する技である。それにキャパシティを割くくらいなら、身体強化に全力をつぎ込んだ方がいい。

 

 費用対効果の問題である。顕在オーラ量に限りがある以上、『円』を使えばその分『練』や『堅』にかけるオーラを減らさなければならない。ちょっとした認識の齟齬を修正するために馬鹿みたいな比率のオーラを使うくらいなら、もっと他にやるべきことはいくらでもあるのだ。

 

 『陽脚』ならこのジレンマを改善できる。地面と接している敵にしか使えず、『共』や『円』と比べればさすがに精度は大きく落ちるが、ほとんど使用オーラ量の占有比率を気にせず使うことができる。視覚で敵を捉えた上で、足の裏から触覚により情報を補足することによって、より正確な認識が可能となる。

 

 この微妙な錯覚からくる認識の齟齬は、私にとって切実な問題だった。ボクシングはフットワークの軽さを生かし、機敏な動きで相手を翻弄する戦い方をする。しかし、その弱点も同じくフットワークにある。重心が軽く、足が浮き上がることが多いステップは、その瞬間を狙われたとき対処が困難だ。地面に足が着いていない状態では無防備をさらしてしまう。

 

 だったらしっかりと足をつけて戦えばいいかと言うと、それが常に正しいとは限らない。重心を低く構えた姿勢は確かに向かってくる敵への対応はしやすく力強い一撃を放てるが、軽快さはなくなる。“待ち”の構えであり、それはそれで欠点もある。一長一短というわけだ。

 

 ステップの練習をするうちに、敵の動きを読むことの重要性が何となくわかってきた。タイミングを外したステップほど大きな隙となる。意識には波があり、その揺らぎは呼吸のようにリズムがあった。大切なことは自身と相手の呼吸を読み取り、その意識の間隙を縫うように足を運ぶことだ。そのためにはやはり、単純に目で見た以上に詳細な情報を感知できるようになった方がいい。

 

 この呼吸は本当によく敵を観察しなければ見えてこない。今の私では『共』でも使わない限りできることではなかった。しかし、『陽脚』という技を目にしたことにより閃く。これを『共』による補助なしで使いこなせるようになれば、今よりも格段に敵の呼吸を読みやすくなるのではないか。

 

 心源流の技だがボクシングのステップにも取り込めるかもしれない。敵の察知と足運びを同時にこなせるという性質は地味だが役に立つ。ただの索敵を目的とした技ではない。この技の開発者もそう言った意図を込めて作ったのではなかろうか。そんな考察をカトライに話してみる。

 

「え……いや、師からそのような教えは受けていませんが……確かに一理ありますね。今まで使っておきながら考えたことはありませんでした。私もまだまだ未熟です……」

 

 謙遜することはない。私は『共』というある意味で反則技を使うことによってこの結論に至ったが、彼は真っ当な修練を積みこの技を体得している。理論ではなく体感で既に本質を熟知しているはずだ。

 

「なにこの会話。まるで意味がわからない」

 

「まあ、お二人とも楽しそうですし、それでいいじゃないですか」

 

 その後は、カトライと何かにつけ武術に関する話題で議論を交わした。ただ、彼が発するオーラの質が少し不快であったが(絶をしないと完全には抑えられないらしい)、そんなことよりも少しでも強くなるための知識を得たかったので、あまり気にならなかった。

 

 普段はどもることが多くあまり話さない男に見えたが、武人だけあってその手の話題には興味があるようだ。さすが心源流だけあり念の修行法などにも詳しく、色々とためになる話が聞けた。

 

 チェルからいっそカトライに弟子入りしたらどうだと提案もされた。それも悪くない。武に関しては私を遥かに超えた高みにいる人物である。本格的に師事できればもっと深く学べるだろう。

 

 しかし、その件については断られてしまった。彼も忙しい身だ。我流ボクシングを始めて数週間の素人の面倒を見切れるほど暇ではないのだろう。残念だが仕方がない。

 

 

 * * *

 

 

 三日後、ついに目的地へと到達した。遠くに岩肌がむき出しとなった丘が見える。鬱蒼と木々が茂る森の中にあって、その丘だけが禿げたように土色を晒していた。

 

 実はこの場所、私は以前に近くまで行ったことがある。だが、踏み込むことはしなかった。見るからに異常とわかる現象が起きている。

 

 丘の上で、一つの大きな岩がゆっくりと動くのが見えた。距離があるので正確な大きさはわからないが、念使いが数人集まっても動かせないほどの巨岩である。独りでに動き始めた岩は、重力に逆らうように浮遊し、風に流されてどこかへ飛んでいった。

 

 その丘からはヘリウムガス風船でも飛ばしているかのように、大小様々な岩が浮き上がっているのだ。何かあることは間違いないが、わざわざそれを確かめるために近づくことはなかったのである。

 

 その丘については、トクノスケが操る念鳥によって事前に偵察がされていた。浮遊する岩の一部は既に調査船へと持ち帰られ、精密な検査が行われている。その結果、成分に何か特別なものは検出されなかった。何の変哲もない岩である。ただし、質量だけが異常に軽くなっている。

 

 この岩はリターンではない。何らかの要因によって質量を変化させられた物である。つまり、その要因を生み出しているモノこそがリターンである可能性が高い。念鳥の調査によってそれらしき目処はついていた。

 

 丘の中心部、火口のように沈下した盆地の底に鉱物の結晶のようなものが確認されている。かなりの大きさがあり頑丈で、念鳥を使って運び出すことはできなかった。その結晶自体はそれなりの重さがあるようだ。そのため直接現地におもむき、採取する必要がある。

 

 この鉱物が周囲の物質に与える影響については未知数の部分が多い。その危険性についてもまだ判明していないが、いくつかの検証の結果、接近したからと言って直ちに質量に変化が生じるわけではないらしい。浮遊する岩たちは、長い年月をかけて少しずつ重さを変えられたものと考えられる。

 

 リターンに関してわかっている情報は以上だが、気になるのが災厄(リスク)だ。実はこれについても、ある程度のことはわかっていた。この場所を発見した当時、クアンタムは既に大量の犠牲者を出していたが、まだその総数は97名であった。

 

 いくつかの班にわけられ探索のために散らばっていた部隊は、この丘を最重要地点として全力で調査に当たるため結集する。そしてそのうち、89名がリスクとの遭遇により死亡した。

 

 調査団はこのリスクに『ワーム』という仮名をつけている。その名の通り、形状は芋虫に近い。ただし、その全長は優に20メートルを越える。足はムカデのように長く鋭い多脚を持ち、移動速度は速い。

 

 蝶や蛾の幼虫は、天敵である鳥類から逃れるための進化として、頭部に大きな目玉状の紋を持つものが多数いる。この『ワーム』にも同じような目玉があるが、それは模様ではない。本物の巨大な眼球が備わっている。

 

 芋虫に似て柔らかい体をしているからと言って傷つきやすいわけではない。ゴムのように強靭な弾力を誇る皮膚は生半可な攻撃など通用しない。頭頂部に煙突状の噴出口を持ち、そこから大量の毒ガスを撒き散らす。極めつけに口から高速で糸を吐き出す攻撃まで仕掛けてくる。

 

 悪魔のような生物だが、実は遭遇当初、それほど警戒されていたわけではなかった。確かに人間が勝てるような相手ではないことに間違いはなく、数名の犠牲者は出たが、それ以上に被害が拡大することはなかった。

 

 移動速度は速いが、念能力者が全力疾走すれば逃げ切れないほどのスピードではない。毒ガスもマスクを装着することで防ぐことが可能だった。糸にさえ気をつけていれば、それほど対処に困る敵ではなかったのだ。むしろ、作戦中に恐竜型の大型生物がエリア外から乱入してきそうになったため、そちらを警戒して一時撤退することになった。

 

 数度の遭遇により、ワームの生態についてもある程度知ることができた。奴らは丘周辺の森に多数生息している。生息域の地面には糸による警戒網が張り巡らされており、粘着力はないが、踏み込めば即座に侵入が発覚するようになっている。

 

 非常に厄介な存在ではあったが、ネタが知れれば対策のしようはあった。ワームに対する恐怖よりも、リターンを前にした興奮により隊員たちの士気は高かった。

 

 だが、そのリスクが猛威をふるったのは交戦中ではなく、撤退して体勢を立て直していた時のことだった。数名の隊員が目の痛みを訴え始める。医師が診察を始めた頃にはもう手遅れだった。短時間のうちに次々と人間が死んでいく。

 

 早急な死因の究明が求められた。死体を解剖した結果、すぐに異常が発見される。死亡した隊員の脳内に寄生虫が確認された。その形状から見てワームの幼生であると断定された。

 

 いかにしてこの寄生虫に感染したか。その経路が不明である。調査を進めた結果、直接ワームに接触したという隊員はいなかった。既に死亡した隊員が触れていた可能性はあるが、それにしても感染者が多すぎる。聞き込みを進めるうちにも多くの人間が目の痛みを訴え始めていた。

 

 ワームが生息していた森そのものが汚染されており、そこに踏み込んだだけで感染するのではないかという仮説が浮上する。そうだとすればもはや全滅は免れない。患者の隔離も間に合わない。森の中の宿営地に絶望が蔓延する。

 

 しかし、情報が集まるにつれ、感染者には共通する事項があるとわかった。まず、死体から見つかった寄生虫は必ず2匹であるということ。それ以上でも以下でもない。その2匹は眼球の中で発生し、視神経を食い荒らしながら脳内へと達している。

 

 次に、患者はワームとの交戦中、目に違和感を覚える者が多かった。視界のかすみ、疲れ目、軽い頭痛といった眼精疲労の諸症状。目周辺の筋肉の痙攣。中には意図せぬ眼球運動などを感じた者がいた。

 

 そして、それらの患者の症状が始まったきっかけも共通している。交戦したワームの頭部にある巨大な眼球を目視した時だ。その目が合った瞬間、何かが飛びこんでくるような感覚があったと多くの感染予備群の隊員が語っていた。それは本当に一瞬の感覚で痛みもなく、何かの気のせいだと思いすごすほどに些細な違和感だった。

 

 目が合った時、卵を植え付けられたのではないか。あまりに非現実的な推論だったが、誰もその可能性を否定することができなかった。この場所では、その非現実が当たり前のように闊歩している。

 

 恐ろしいのは、後方でサポートに徹していた隊員たちにも目の痛みが現れ始めた点だ。彼らはワームを視界に捉えることはなかった。しかし、撤退してきた隊員たちと合流したとき、正確には帰って来た彼らと目が合ったとき、同じく何かが飛びこんでくるような感覚を覚えたと言う。

 

 その事実が判明したとき既に死者は50名以上にも及んでいたらしい。残り40名近い生存者はその後どうなったのか。そして今、クアンタムはなぜ4名しか残っていないのか。

 

 聞き出すことはできなかった。

 

 



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16話

 

 今、思い出しても身震いする。脳裏によみがえる無数の屍。苦楽を共にした仲間たちは、そのほとんどが報われぬ最期を遂げた。その中にあり、数少ない生存者となった隊員であるトクノスケ=アマミヤは、この場所で起きた惨劇を思い出していた。

 

 ここにいる四名の隊員は『ワーム』との直接戦闘を行わなかったため、生き残ることができた。多くの隊員たちがワームの生息域へと足を踏み入れていた最中、彼ら四人は別の任務に当たっていた。

 

 急遽、乱入してきた恐竜型の巨大生物が作戦行動中の部隊と衝突する危険が生じたため、そちらの注意をそらすために出動していたのだ。当時はむしろこちらの方が危険な任務という認識であり、トクノスケも貧乏くじを引かされたと思っていた。しかし、皮肉なことにその任務のおかげで生きながらえたと言える。

 

 そうして拾った命を使い、彼らは再びこの忌まわしき地へと戻ってきた。しかし、今度は無策ではない。何も彼らはここへ死にに来たわけではなかった。ワームは見た者に卵を寄生させるという恐ろしい災厄だが、その力を無効化する方法はあった。

 

 実は当時、トクノスケはワームの姿を見ていた。しっかりと奴らの持つ『目』を確認している。しかし、寄生されることはなかった。彼が見たワームの姿は、カメラを通して映し出された映像だったからだ。

 

 “映像”であれば見ても問題ないのだ。ただし、目視してしまった場合はいかなる場合においても回避できない。ガスマスクにより顔全体を保護し、強化樹脂製のゴーグルを通して見た姿であっても感染するのだ。

 

 この能力についてはまだ未解明の部分が多いが、調査団は調べを進めている。クアンタムは暗黒大陸の直接的探索を目的とした部隊だが、船に乗ってきた者はそれで全てではない。未知のリターンとリスクについて詳細な解析をするための科学者たちも乗せられていた。

 

 解析班には『実験体5号(ホムンクルス)』という念能力を使う者がいた。これは念人形を作り出す具現化系能力である。この念人形はヒトと同じ人体構造、生命維持活動をしているが、戦闘力は全くない。その用途は、人体実験を好きなだけ合法的に行えることにあった。人形そのものが『円』の役割を果たし、経過をつぶさに観察できる。

 

 帰還した調査隊は感染者の眼球を資料として保管し、船まで持ち帰っていた。それをこの念人形を使って解析した結果、外部から卵を埋め込まれたわけではないことがわかった。感染した眼球を調べたところ硝子体に変異が見られた。これは眼球の内部を満たすゲル状の組織である。

 

 ワームを視認した宿主は、何らかの要因を受けて網膜に特殊な変化が生じる。まるで癌細胞が周囲の細胞の変化を促すように、網膜を中心として眼球内部の環境がこの物質によって作りかえられてしまう。硝子体の変異もその一環と考えられる。

 

 硝子体は老化に伴い液状化が進むことで網膜剥離の原因となることが知られているが、ワーム幼生の感染者にもこの症状が見られた。異なるのは、剥離した網膜細胞が急激な変質を起こし、胚のような細胞体に変わってしまう点だ。これがワームの卵である。硝子体は卵を守り養分となる卵白のように、胚が成長するために最適な環境となる。

 

 つまり、これは寄生というより生殖に近い。一般的な動物であれば雌雄の個体が遺伝情報を生殖細胞に込め、それを受け渡すことで生殖が成立するが、ワームの場合はその遺伝情報の伝達手段が「目と目が合う」ことなのだ。

 

 この生殖作用は卵の段階で既に備わっており、宿主の目を介して他の生物の眼球も変異させるという二次災害を発生させる。一度感染すれば、卵が孵化する前に眼球を摘出する以外、助かる方法はない。孵化までにかかる時間はおよそ5時間である。発見されて間もない感染症だけに、投薬や手術による治療法はまだ発見できていない。

 

 しかし、予防法ならば見つかった。撮影された映像としてならワームを視認しても感染しない。遺伝情報を視覚的に網膜へ送りこむという常識外れの伝達方法だけに、その過程は非常に繊細で、一度別の映像として置き換えられると正確な伝達ができないのではないかと考えられている。

 

 今回の遠征では特別製のガスマスクを用意した。改造したナイトビジョンをヘルメットに固定し両目に装着することで、カメラを通して外の映像を見ることができる。

 

 これで予防はできるが、寄生を防げてもワームの成体は単純に体の大きさやパワーからして脅威である。一体であれば逃げ切ることもできるだろうが、この先の生息域には多数の成体が潜んでいる。これをリターン採取ポイントである中央丘から遠ざけなければ任務はままならない。

 

 そのための策も既に講じてあった。その作戦の要となるのがトクノスケである。彼は能力を発動させるため、必要となるバインダーを取りだす。

 

「待て、決行する前に確認しておきたい」

 

 しかし、その行動をグラッグが制した。彼はクインに向けて今一度、問いかける。

 

「事前に説明したとおり、これより作戦行動に移る。できうる限り、最大限の準備を整えてきたが危険がなくなるわけではない。それでも君は私たちと来るか?」

 

 クインは少しの間考え込んだが、すぐにうなずき返した。ここでおとなしく待っているような性格なら、ここまでついてくることはなかっただろう。クアンタムは彼女の返答を、肯定も否定もせず受け入れる。

 

「じゃあ、始めましょうか」

 

 トクノスケは、あえて砕けた調子で口火を切った。その手に持たれたバインダーから、独りでに紙切れが飛び出していく。大量の紙片が風もないのに宙を舞い、空高くへと散っていく。

 

「『花鳥風月(シキガミ)』」

 

 紙切れは十字のような形をしており、翼を広げた鳥のように見えないこともない。その一つ一つが実物の鳥の姿へと変化した。正確には紙を核として具現化された念獣である。

 

 小動物型の念獣の中でも、飛行能力を持つ鳥はその使い勝手の良さから重宝されるが、パワーで劣ることが多い。その戦い方は軽さと速さを重視した構成となる。

 

 だが、彼の念鳥はその常識にとらわれない。一度に操作可能な念鳥の数は、最大で約400羽。ハト程度の大きさながら、オーラの塊である念獣がぶつかればそれなりの威力がある。数百を越える鳥たちが怒涛のごとく群れをなし、敵を圧殺する。その攻撃は、もはや速射性を高めた念弾の雨に近い。

 

 ただし、彼は放出系の能力者である。具現化系と相性が悪いため、念鳥の見た目はハリボテ同然である。出来の悪い木彫りの置物のような再現度であるため、近くで見ればすぐにバレる。

 

 また、放出系は念獣のパワーや持続性を高め、数を増やすのは得意だが、操作性は良くない。六性図からみれば操作系と隣り合ってはいるが、どうしても本職には及ばない。特に、一度に操る念鳥の数を増やせば増やすほど、その操作性は大きく落ちていく。実戦でも使える程度の操作性を維持するならば、彼の実力で扱える念鳥の数は5羽がせいぜいである。

 

 先ほど400羽の念鳥で敵を総攻撃すると述べたが、これは念獣の使い方としては甚だ非効率的である。それができるなら素直に念弾で攻撃した方がもっと威力を高められるだろう。そもそも400羽の念鳥を一度に生み出せるほどのオーラを彼は持っていない。

 

 だが、それは彼の素の実力のみを考慮した場合の話だ。彼は自分の能力を大幅に底上げする切り札を持っている。それは『神字』だ。

 

 神字とは、念能力を補助する効果を持った特別な文字である。物や場所に刻むことで、自分の能力の効果や範囲を大きくすることができる。ただ、その効果はあくまで補助。それに頼らなければまともに戦えないような能力者は実力不足として蔑視されることが多い。

 

 しかし、神字の修練度も念能力と同じくピンからキリまである。精通した使い手なら複雑怪奇なこの文字を実戦中に念文字で書き表す猛者もいる。発動する効果をプログラムすることで、特殊な能力を持った道具を作り出す職人も存在する。

 

 そしてトクノスケは神字の扱いにおいて、そこらの有象無象とは比較にならないほどの技術を持っていた。さらに、彼が書く神字は一般的にハンターが使う種類とは異なる。これは彼の出自が関係していた。

 

 彼はジャポンの、とある古い家系に生まれた。代々、神職として奉じてきた彼の一族は、そのルーツに陰陽道を持つ。彼が使う神字も、古くは陰陽師が使用したとされる由来があった。

 

 かつて宗教と科学が混同され、自然現象、災害、疫病などが神や悪魔の仕業だと信じられていた時代、念能力もまた宗教と混在し、一体のものとして考えられていた。現在でも念能力は科学的に解明されたとは到底言えず、宗教的に認識される事例の方が多い。

 

 たとえ念能力の実体を理解していなくとも、強固に何かを信じる心は念を扱う上で、あながち的外れなことではない。念は世界各地の宗教と密接に結びつき、司祭、僧侶、祈祷師、魔女、その土地で独自の文化を築き上げてきた。

 

 現在、ハンターの間でよく使われる神字も、もともとは古代ジエプタンの古王国時代、王柩に刻まれた神聖文字が原形であるとされる。それを後世の念使いたちが使いやすいよう改良を加えていき、今の形に落ちついている。

 

 神字も言語と同じく地域によって全く形が異なるのだ。今、普及している主流の神字が最も扱いやすく癖のない字体であると考えられている。その他の雑多な神字は、数倍の文量を用いても10分の1以下の効力しか持たないものがほとんどだ。

 

 そうした『古神字』は時代の流れとともに忘れ去られたものが多く、残っていたとしても学術的な価値しか持たない。だが、中には綿々と受け継がれ、現役で使われ続けているものも少数ながら存在する。

 

 トクノスケが扱う文字も『古神字』と呼ばれるものの一つだ。ジャポンは多神教の国である。万物に神が宿るというその思想は、動くはずもない無生物に命を吹き込んだ。かつて人々の情念渦巻く都は、おびただしい数の神と悪霊で溢れ返った。

 

 混沌とした都の守護を司っていた術師が、トクノスケの先祖である。その古神字は、念獣の力を補助することに特化していた。

 

 神字とは見て真似ただけで使えるようになるものではない。その文字に込められた意味、文字が連なることで変化する意味を正確に把握し、書道家が作品と向かい合うように一字入魂の覚悟をもって刻みこむのだ。

 

 古神字になるほどその傾向は強い。歴史的、文化的思想背景を細部まで頭に叩きこんだ上で、無限にも思える情緒の機微を文字に織り交ぜなければならない。その難しさは即興で詠む詩がごとく。扱うためには特別な教養が必要であり、血統者の血を用いて書かなければ使えない場合もある。ゆえに門外不出、一子相伝であることが多い。

 

 しかし、その難易度だけあって特定の条件下における効果は高い。これにより彼の念鳥は膨大な数にも関わらず、精密な操作性を可能とする。あらかじめプログラムした条件に基づく自動操作(オート)タイプの念鳥となるため、込められたオーラが続く限り、術者の指示がなくとも自律的に行動する。

 

 念獣の操作タイプには自動操作型(オート)と遠隔操作型(リモート)がある。遠隔操作型はラジコンのように術者が念獣の近くで指示を出し続けなければならない。その点で自動操作型は行動範囲に縛られず、多くの操作対象を一度に使役することができるが、プログラム通りの行動しか取れないため臨機応変な対処ができない欠点もある。

 

 彼の能力は神字による命令の書き込みが前提にあるため、自動操作型の欠点が特に顕著であった。戦闘中に命令を書き換える余裕はない。複数のプログラムを組み込んだ上で切り替えることも可能だが、書きこめる容量に大きな制限がある。

 

 だから彼はどのような事態に陥ろうとも対処できるよう、事細かにプログラムを分類し、それぞれの役割を持たせた紙型を携帯している。状況に応じて呼び出す念鳥を使い分けているのだ。その状況判断能力こそが彼の真骨頂と言えた。

 

 今回は必要がないので省いているが、念鳥の具現化性能を高めることで見た目もよりリアルにすることができる。放出系能力者でありながら、操作も具現化も弱点にならない。系統の相性を無視した強さを発揮する。

 

 さらに、この能力は「オーラ無しで使用できる」という強力な効果が備わっていた。正確には、念鳥の元となる紙型にあらかじめオーラをストックしておけるため、発動時に体内のオーラを消費する必要がないのだ。

 

 これは放出系念獣使いと言うよりも、操作系の物質操作に近い性質である。念鳥を操ると言うより、オーラを纏わせた紙型を操っている。操作系は道具にオーラを込め、貯蔵しておくことも得意である。

 

 もちろん、これだけの性能を有した念鳥を作り出すためには相当の準備がいる。神字を書き込むだけではなく、相当量のオーラを注ぎこまなければ力ある念鳥にはならない。制作にかかる時間は最低でも一週間。オーラを込めれば込めるほど効果が上がるため、性能を求めるならばさらに時間がかかる。また、保管しているだけで劣化が進み、維持するために完成後もオーラを要する。

 

 一度に一羽しか作れないわけではないが、簡単に量産できるような代物ではないことは確かだ。今回の調査のために彼がどれだけの数の念鳥を用意したことか。気が遠くなるほどの時間を費やして紙型を用意してきた。何年もかけて少しずつ積み重ねてきた成果である。しかし、その貯蓄も底が見えていた。

 

 探索に繰り出すたびに湯水のように念鳥を消費してしまうのだ。出し惜しみしていられる状況ではなかったとはいえ、今までの努力は何だったのかと思うほど念鳥たちは儚く散っていく。

 

 今回の作戦で使用する400羽の紙型で、手持ちはほぼなくなる。実質的に、これがリターンを取得する最後のチャンスとなる。ここで成功させなければ、それこそ彼は何のために今まで身を粉にして働いてきたのかわからない。

 

 作戦の概要はシンプルだ。大量の念鳥を陽動に使い、その隙に本隊が採取ポイントまで走り抜ける。

 

 ワームの生息域には糸による感知網が張り巡らされており、侵入者の存在はすぐに発覚する。この糸は非常に細く、実際に触れなければ感じ取ることが難しい。さらにこの感知網は地面だけにとどまらず、木々の間にも、そして森の上空にまで及ぶ。

 

 浮遊する石に糸を張りつけることで空にまで警戒網が形成されているのだ。この空にかかる網は地上のものとは違い、強靭で粘着性がある。クモの巣のように獲物を捕獲する目的で張られているようだ。この糸のせいで浮遊石が付近一帯につなぎとめられている。ワームたちがこの場所に群れている理由はこの浮遊石を狩りに利用するためだろう。上空からの侵入は現状では不可能だ。

 

 地上の感知網なら細く強度もないため、ルートはここを選ぶしかない。あえて地上部分が侵入しやすくなっている理由は、獲物を森の奥地へと誘い込む罠なのかもしれない。捕食するなり繁殖に使うなり、奴らにはその方が都合がいいのだろう。だが、その警戒網を逆手に取り、念鳥による多方向からの一斉突撃をしかけて敵をかく乱する。

 

 実際、以前にこのかく乱作戦は試験的に導入され、成果を上げていた。いかに脅威と言っても、ワームの知能は低い。奴らは感知網の上でより激しく動く物体を優先的に狙う本能を持っており、容易に誘導することが可能だ。

 

 念鳥が派手に暴れ回ってワームの注意をひきつける。その間に、調査隊は密かに潜入。念鳥に持たせたカメラの映像でワームの位置を把握し、チェルとカトライの索敵によってワームの森を安全に突破する。仮にワームと遭遇したとしてもガスマスクとナイトビジョンにより感染の危険は回避できる。

 

 何度も繰り返し、見落としはないか確認してきた作戦だ。現状で取りうる最善手である。それでも不測の事態を考えれば絶対に成功すると保証はできないが、それを考え始めればきりがない。トクノスケは半ば運を天に任せて飛び立つ念鳥たちを見送った。行動は事前にプログラムされており、一度発動させれば彼にやることはあまりない。

 

 数百もの鳥の群れが空へと飛び立っていく様は壮観だった。彼自身、最大行使数である400羽を飛ばす機会なんてこれまで数えるほどしかなかった。その中でも思い出すのはジャポンで暮らしていた頃の修行の光景だ。

 

 良い思い出ではない。未熟者だと父から叱責されたことくらいしか記憶に残っていない。それでも思い出してしまったのは、クインの影響があるのかもしれない。

 

 暗黒大陸で育ったはずの少女は、なぜかやたらとジャポンの知識に詳しかった。トクノスケがジャポン出身だと明かしてからというもの、クインはそれに関連する質問をいくつも投げかけていた。地名や人名など間違った知識もあったが、彼女はジャポン食や文化などにおおむね理解があった。ルアン氏の入れ知恵だろうか。彼女もさることながら、父親も謎多き人物である。

 

 今さら望郷の感傷に浸るほど執着しているとは思っていなかったが、一度考え始めると頭から離れなくなっていた。生きるか死ぬかの瀬戸際で、ぼやけていた記憶がよみがえる。飼い殺されるように閉じ込められていた家から飛び出したあの頃は、自由にあこがれていただけの子供だった。それが今や合衆国の特殊部隊に入って暗黒大陸の地を踏んでいるとは、夢にも思わなかっただろう。

 

 事が全て片付いたら、里帰りでもしてみようか。

 

 父は許してくれるだろうか。リターンを、人類の希望を持ち帰ったのだと土産話でも聞かせたらどんな反応をするか。駄目だな。あの人は一顧だにせず殺しにくるだろう。

 

 彼は、それでも会うことを拒んでいない自分の気持ちが滑稽で仕方なかった。くつくつと笑いがこみあげてきて抑えきれない。そんな彼の様子を見て、グラッグ隊長が気を引き締めろと注意する。その怒る姿が父と重なり、トクノスケはいよいよ堪え切れずに吹き出してしまった。

 

 

 * * *

 

 

 静寂の中を走る。足音を立てる者はいなかった。呼吸音さえ押し殺してひた走る。髪の毛の一本に至るまで神経が通っているかのように緊張が伝わっていた。

 

 周囲に視線を配らせる。その光景は、マスクを通して映像化されていた。クインはそれでいいが、本体はマスクをつけていない。仕方がないので持ち物袋を本体の頭部にかぶせている。視界は完全に閉ざされるが、敵の脅威を考えればこうせざるを得なかった。

 

 小さな水滴が見えざる糸の上で踊っていた。至る所に、繊維のように細い糸が張り巡らされている。抵抗もなく断ちきれるが次々と絡まってくる。まるで暑苦しい濃霧の不快感を何倍にも引き上げたかのような鬱陶しさ。

 

 だが、音はなかった。話に聞く、虫の災厄は現れなかった。10分ほどで森を抜け、丘の上に到着する。直線距離にしてみればワームの森は、そう広大なものでもない。一重にトクノスケが放った念鳥の陽動が功を奏したのだろう。

 

 なぜか丘陵地帯には感知網がない。この場所はワームの森の中央にあって、取り残された小島のように生息域から除外されていた。この丘にはワームがいないようだ。

 

 だが当然、安全地帯ではない。森にいるワームが丘に入ってこないとは言い切れない。すぐにリターンを採取する必要がある。私たちは休むことなく次の行動に移る。

 

「足元に気をつけろ」

 

 地面が軽い。踏み出しただけのわずかな衝撃で足場がふわりと浮きあがり、体ごと空へ持ち上げられそうになる。その光景だけ見るならまるで無重力空間のようだ。この環境に元からある物質は質量が変化している。私たちの体の重さは今のところ変わっていないようだが、長居したい場所ではなかった。

 

 一番大きな丘は、上から覗き込むとクレーターのような巨大陥没がある。その中心に目的のものがあった。5メートルほどの黒い物体だ。鉱物の結晶という話だったが、とてもそうとは見えなかった。沸騰した熱湯に浮かぶ泡がそのまま固まったように、ぼこぼこと膨らんだ歪な形をしている。

 

「ブドウ房状結晶と言ってこの形自体はそれほど珍しくはないですけど、これまで発見された既存の鉱物にどこまで当てはめて良いものやら」

 

 万が一の事態に備え、採取に行くのは一人だ。残りはクレーターの縁で待機する。採取に向かったのはグラッグだった。隊長自ら作業に当たる。持ち込んだ電動工具らしきもので結晶の削り出しに取り掛かった。

 

 拍子抜けするほどあっさりと任務が進んでいく。だが、これは彼らが用意周到に計画を立てていたからこそ導き出せた結果だ。何も万事こともなく済んだわけではなく、損害なら既に発生している。

 

 調査隊クアンタムは前回の作戦で大敗し、そのほとんどの隊員が死亡した。今回の作戦が順調に運んでいるのは、その失敗から学んでいるからこそである。たまたま運が良かっただけというわけではない。

 

 もともと彼らは残された四名で作戦を遂行する腹づもりだったのだ。玉砕覚悟の自暴自棄ではなく、綿密な算段がある。私が出る幕はない。何のアピールもできないまま、ここまでついてきただけで終わりそうな勢いだ。

 

 しかし、さすがにここで予期せぬ騒動が起きることを望むほど愚かではない。やはり災厄と呼ばれるクラスの脅威となると相手にしたいものではない。ワームの話を聞いて改めて思った。何事も起きないのが一番だ。

 

 人間との友好関係なら、ここにたどり着くまでの間に交流することができた。これで大丈夫だろう。たぶん……いまいち自信はないが、少なくとも敵意がないことは伝わったはずだ。大きな力は示せなかったが、それはそれで過度に相手を警戒させずに済む。後は船に戻るまで同行し、そこからの交渉次第である。

 

 結晶の切り出しは少々手間取ったようだ。かなり硬かったらしい。削り取った欠片は小指の爪ほどの大きさである。それが持ち運べる限界だった。重すぎるのだ。

 

 この金属は周囲の物質の重さだけを吸収する性質があるのではないかと考えられている。周りの土や岩が軽くなっている分、この金属に重さが移っている。だからわずかな欠片でも、大の大人が持ち上げられないほどの重さを持つ。

 

 身体能力を強化できる念能力者であっても運べる量は微々たるものだったが、それでも貴重なリターンである。その価値は計り知れない。用意された搬送用のカプセルに、厳重に封入された。

 

 カプセルはチェルが運ぶようだ。てっきりグラッグが持つのかと思っていた。チェルは強化系だけあって筋力はこの中で最も高い。グラッグが両手で抱えて持ってきたカプセルを、彼女は片手で持ち上げてみせた。しかし、おどけてみせているが軽いものではない。来た道を帰ることを考えれば負担は大きい。これまで以上に慎重な行動を強いられるだろう。

 

 何はともあれ、念願のリターン取得である。状況が急いでいるだけに言葉数は少なかったが、お互いに肩をたたき合っていた。全員ガスマスクを着けているので表情はわからないが、みんな喜んでいるようだ。ガッツポーズする者もいた。人間が喜ぶときに取る仕草である。クインもガッツポーズしておいた。

 

 このリターンについて、この機に私も個人的に採取しておこうかという考えもあった。私は金属の性質を取り込む摂食交配能力を持っている。質量に影響を与える鉱物を食べれば、それに応じた特別な能力が手に入るのではないかという期待もあった。

 

 だが、危険性を考慮してやめておくことにした。仮に同じ性質が本体に備わったとして、周囲の環境から質量を吸収し続ければ、どんどん重くなって動けなくなるのではないか。それに摂食交配の結果があらわれるのは次世代の子である。今の本体が能力を手に入れられるわけではない。

 

 今はそんなことを気にするより、早くここを離れることが先決だと思いなおす。後は無事に船まで戻れれば――

 

 

「きた」

 

 

 カトライが短く告げた。振り返り、背後を見ている。その視線の先には暗く続く森しか見当たらない。しかし、彼は何かを感じ取っていた。

 

「トク、カメラで確認できるか?」

 

「はい、すぐに」

 

 カトライが示した方向へと念鳥が回される。トクノスケは複数のカメラから集められた映像を頼りに、的確に敵の動向を把握していた。

 

 だからこそ、この中で接近する敵に最も早く気づける者はトクノスケであったはずだ。問題は、彼よりも先にカトライが気づいたということである。

 

 カトライは敵が発する殺気に反応して索敵する。もし敵が偶然この場所に入り込んできただけなら察知できない。つまり、明確な敵意を持った敵が近づいてきていることを意味する。

 

 よくないものが来る。

 

 広げた機材を回収している手間も惜しい。取るものもとりあえず、リターンだけをしっかりと確認して後は放置。逃げる準備を整える。トクノスケは敵の映像を捉えた。

 

「あっ……え……?」

 

「敵はワームか? 距離は?」

 

「あれ、なんか今」

 

 要領を得ない。なぜ、はっきり言えないのか。何が見えたというのか。何をそんなに、

 

「僕の、目に……」

 

 怯えているのか。

 

 



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17話

 

 私たちは走った。トクノスケはワームに寄生された疑いがあるが、今は気にしている時間がない。感染から5時間経たなければ卵は孵らないはずだ。まずは安全な場所まで逃げなければならない。

 

 可能な限りの全力疾走で森を駆け抜ける。念鳥による誘導のおかげで進路に敵の姿はない。だが、後ろから追跡してくる気配だけは消えることはなかった。それどころか刻一刻と、その気配は強くなる。

 

 最初に感じたのは視線だった。乾き、飢えた獣が標的に狙いを定めるような視線。それは背後から覆いかぶさるように襲ってきた。まるで肩越しにこちらを覗きこんでいるかのように、肌と肌が触れ合うような距離感で、視線を感じるのだ。

 

 現実には距離が開いている。敵の位置はまだ離れているにもかかわらず、すぐそばにいるような幻覚に襲われる。これも敵の能力の一つなのか。恐怖に体が反応し、後ろを振り向いて確認したくなる。それは悪手だとわかっていても、このまま前しか見ずに走り続けて大丈夫なのかという不安を抑えきれない。

 

 念鳥による陽動は、追跡者に対して効果を得られなかった。それは一心不乱にこちらを目指してやってくる。ついに、その足音が聞こえる距離まで近づかれた。

 

 その足音は、カサカサと木の葉が風に撒かれるように静かだった。だが、確実にその小さな物音は近づいてくる。異常なほど静寂に満ちた気配と幻覚効果を持つ視線によって、距離感を狂わされる。本当に相手は巨大な虫の化物なのか。疑問は湧けども、視認することは許されない。

 

 周囲に霧が立ち込め始めた。ただでさえ暗く、視界の悪い森の道が霧に閉ざされていく。偶然発生した自然現象ではない。おそらく毒ガスによる攻撃であると思われるが、その量が尋常ではない。隣を走る隊員の姿も見えなくなるほどの濃霧が蔓延していく。

 

「『式陣・風!』」

 

 突風が巻き起こり、毒の霧が吹き飛ばされていく。トクノスケが念鳥を操り、その羽ばたきを集めて風を作り出したのだ。

 

「『式陣・花!』」

 

 念鳥が次々と後方へ飛び立ち、その直後、後方から炸裂音と強烈な光が発生する。これは念鳥を閃光弾として使用する技である。念鳥の攻撃力では何羽集まろうとワームにダメージを与えることはできないが、この技なら目くらましとして使える。

 

 しかし、足止めは成功しなかった。敵は何事もなかったかのように静けさを保ったまま、追跡を続けてくる。じわじわと圧力をかけるように追い付いてくる。念能力者が全力で走れば逃げ切れる程度の速度しかないのではなかったのか。

 

 事前に聞かされていた情報と違い過ぎた。最初は人間側が私を陥れる目的で騙していたのかと疑ったが、隊員たちの慌てようを見るに、彼らにとっても想定外の事態らしい。トクノスケが真っ先に被害を受けている点からも、これは単純に敵戦力を見誤った結果と言えるだろう。

 

 彼らが実戦で得たデータは不十分だったのだ。今、私たちが遭遇しているワームは別格。ワームであることに違いはないだろうが、明らかにスペックが異なる。もしかすると、調査隊が成体だと思っていたワームはまだ成長途中の個体であったのかもしれない。

 

 最も厄介な寄生能力も強化されている。映像越しに見ただけで感染するようになってしまった。ナイトビジョンは役に立たない。もしかすると感染が成立する条件があるのかもしれないが、それをこの場で検証している余裕はなかった。カメラを介そうが何だろうが「見たら感染する」と想定しなければならない。

 

 しかしクインならば、感染したとしても対処はできる。5時間以内に眼球を摘出すればいい。失った目はオーラによる肉体補修で再生できる。この能力は調査隊にも『偶像塑造(マッドドール)』として説明しているので使って問題ない。

 

 そう当初は考えていたが、事情が変わってきた。クインはそれで済むだろうが、本体はどうなるのか。クインが見た視覚情報は本体も共有している。本体にまで感染の影響が及ばないとは言い切れない。

 

 これは以前から考えていた懸念であったが、『一度映像に置き換えれば感染しない』という情報があったので、それほど深く問題視していなかった。それがここにきて前提条件からして崩壊している。何をどこまで信じていいのかわからない状況で、楽観することなどできなかった。

 

 それでも打開する方法はある。『侵食械弾(シストショット)』を当てれば敵を倒せる。敵は芋虫、甲殻の鎧に覆われてはいない。その巨体ゆえに的は大きく、姿を見ずとも後方に向けて弾をばらまけば当たるはず。

 

 しかし、それにも一つ問題があった。この能力は調査隊に明かしていないため、下手に使用すれば不信を買うことになる。私の目的はこの場を生き延びるだけでなく、その先の暗黒大陸脱出にある。簡単に手の内をさらすことはできない。

 

 特に問題なのが、相手が毒を使う生物であることだ。これまでに戦った経験からして、毒に対する耐性を持っている可能性が高い。こちらの毒で殺しきれずともアルメイザマシンによる感染劇症化は免れないが、その光景を隊員に見られるとますます私の危険性が疑われることになりかねない。

 

 だが、もはや躊躇っていられる状況ではなかった。敵に追い付かれるのは時間の問題だ。私が生き残るだけならまだやりようはあるが、調査隊を逃がすためにはここで私が食い止めるしかない。

 

 走る速度を少し落とし、隊の最後部に移動する。全員が前を向いている状況だけに、発射の瞬間を見られることはないだろう。だが、発射音だけは隠しきれない。この異常なほど静まり返った戦場に、銃声はよく響く。一発で当てられる保障もない。敵がこちらの射程に入っているかどうかも不明だ。数度発砲すれば、さすがに何かしていると勘付かれるだろう。

 

 それでも、やるしかない。

 

 

 

「クイン! 避けて!」

 

 

 

 カトライが叫んだ。彼は最も早く敵の悪意に気づくことができる男。私はその場から反射的に身をかわしていた。

 

 数瞬前まで私がいた場所を、白い塊が通り過ぎる。糸だ。ワームは攻撃に糸を用いる。事前に知らされていた情報だったが、カトライが知らせてくれなければ直撃していた。捕まれば逃げるどころではなくなっていただろう。背中に悪寒が通り抜ける。

 

 背後から高速で打ち出される糸の攻撃を見ずに全て避けきるなんて芸当はできない。さっきはまぐれで避けられたようなものだ。『共』を使って次の攻撃に備える。全力疾走しながらの『共』の連続発動は辛いが、泣きごとを漏らしている暇はない。

 

 そうして、私は敵の存在を感じ取った。眼底に焼きつくように、その巨体が浮かび上がる。決して見たわけではない。にもかかわらず、それはクインの中へと入ってきた。

 

 脳からせり出してくるように、違和感が目の中に侵入する。痛みはなく、そのわずかな異常はすぐにおさまった。知っていなければ気に留めなかったかもしれない。しかし、私はそれが忌まわしき害虫の定着であると知っている。

 

 『共』によって感じ取っただけで両目に寄生されてしまった。

 

 『共』とは五感を最大限まで強化することでそれぞれの感覚器が受け持つ領域を押し広げ、重ね合わせる技である。共感覚(シナスタジア)を強制的に作り出し、本来なら知覚できないはずの情報を認識することができる。これにより、見えていない場所にいる敵の位置や攻撃も察知可能となる。

 

 『円』のように広範囲の精密な索敵を行えるが、大きく異なるのは持続性だ。『共』は使用に際して脳にかなりの負荷がかかるため、瞬間的にしか発動できない。同じ理由により乱発もできない。その代わり、円のように敵側にこちらの索敵を逆探知される心配はない。また、瞬間的な索敵精度に関しては円を越える。

 

 しかし一部、優れている面もあるが、基本的に『共』は『円』の下位互換である。広範囲の円を作り出す才能があれば、こんな苦し紛れの応用技もどきを開発する必要はなかった。戦況とは絶えず変化し続けるものであり、瞬間的な正確さよりも持続性が求められる場合が多い。

 

 チェルやカトライのように広範囲の円を張れる能力者はそれだけで、味方として頼もしい存在だ。特にチェルの円は半径100メートルという常人離れした範囲を誇る。「見れば寄生する」というワームの特性上、円との相性はいい。彼女ならワームを視認することなく行動できることも、リターンの運び手として選ばれた理由の一つだろう。

 

 私の円の有効範囲は5メートルがせいぜいである。だから、索敵に関してはチェルたちに任せていた。そして現に、彼女らは『円』によって敵を感知している。その結果、寄生現象が発生したという報告はない。ゆえに、私は『共』を使っても大丈夫だろうと判断してしまった。

 

 『円』は触覚に依存した感知能力を持つ。範囲内にある物体を、まるで触っているかのように感じ取ることができる。それに対して『共』は五感全てを混ぜ合わせて超感覚を作り出す技だ。矛盾した表現だが、直感や虫の知らせを意図的に導き出す感覚に近い。

 

 つまり、『円』は完全に相手を見ずに感触で敵を探るが、『共』はその認識に“視覚”が混在している。見えていない対象に対しては確かに視覚的認識の大部分が欠如しているのだが、他の感覚と重なる領域ができているために“見えてしまう”。触覚と視覚、嗅覚と視覚……異なる感覚が連動してしまう現象が共感覚だ。だからこそ生まれる超感覚なのだが、今回はその特性が裏目に出た。

 

 自分の中でそのように推理しているが、全く納得はできていなかった。肉眼を使って見ていないにもかかわらず、はっきりとした映像として目視したわけでもなく、ただ一瞬の直感の中でおぼろげに浮き上がった幻のような敵の輪郭。その気配を感じ取っただけでも許されないというのか。

 

 なんという理不尽。だが、そこで終わらない。災厄(リスク)は一切の甘えを許さない。

 

 『思考演算』を使っていないにもかかわらず、私はゆっくりと敵の侵入を自覚した。それはクインの目を通し、本体の中へと入ってくる。

 

 クインと視覚を共有している私の本体に、ワームという脅威が植えつけられる。なすすべもなく得体のしれない怪物の卵を産みつけられる体験が、濃縮された主観的時間の中で引き延ばされていく。ずぶずぶと、異なる存在と一つにされる感覚は、気が狂いそうなほどの痛痒を引き起こす。

 

 心の最も深い場所に閉じ込めてきた、原初の恐怖がよみがえる。

 

「――――!」

 

 誰かが叫んだ。その声をかろうじて聞きとれたとき、既に私は攻撃を受けた後だった。左脚に、糸の塊が巻きついている。

 

 クインの体が止まる。それまで前進していた勢いが急激に殺され、つんのめりそうになる。

 

 とっさに手を伸ばす。しかし、その手が何かを掴むことはなく。前を走る者たちの背中だけを見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「全員、振り返らずに走れえええええええ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 グラッグ=マクマイヤは、自分を特別な人間だと思ったことはない。クアンタムというサヘルタ合衆国の特殊部隊隊長を務めているが、彼はその地位に責任は感じているものの、自慢にも誇りにも思っていなかった。

 

 彼は25歳で軍に入隊した。それまでは鉄道関連の職場で働いていた。設備管理の下請け業者で現場勤め。技術者としての腕と資格はあり、高給とは言えないまでも暮らしに困らない程度の収入があった。

 

 妻と子がいた。平凡だが満ち足りた、温かな家庭があった。我が子の成長を何よりも喜び、善き父親であろうとした。

 

 彼の人生はありふれたものだった。何事もなければ今も幸せな家庭を持っていたことだろう。暗黒大陸に来ることもなかったはずだ。

 

 始まりは一つの事件だった。彼が働く会社が整備を請け負っていた現場で人身事故が起きた。鉄道関係の仕事に就いていれば、はっきり言ってこの手の事故は当たり前に経験する。グラッグにしても初めてのことではなかった。

 

 一人の少年が誤って踏切の遮断機を越えて線路内に入り込み、電車に轢かれるという事故。少年の遺体は原形をとどめていなかった。警察は当初、自殺や他殺の線は薄いと考え、少年の不注意による不幸な事故だと判断した。

 

 だが、調べが進むにつれてそれ以外の要因が浮かび上がった。遮断機に故障が見つかったのだ。事故当時、正常に作動していない可能性があった。少年の遺族は事故の発生原因が鉄道会社および設備管理会社にあると主張して損害賠償と慰謝料を請求し、提訴した。

 

 この踏切の整備責任者がグラッグだったのだ。彼はこのいきさつを聞いたとき耳を疑った。なぜなら、その遮断機はつい最近に定期点検したばかりで、そのときは何の異常も見られなかったからだ。

 

 結局、遺族側が起こした訴訟は証拠不十分として棄却され、グラッグの会社が罪に問われることはなかった。つまり、問題は起きていない。彼はそれまで通りの生活を送ることができた。

 

 しかし、彼には多少の罪悪感が残った。自分の点検に不備があったとは思えないが、現に事故が起きている。その言葉にできない心地の悪さを、自分の中で消化することができなかった。

 

 少なくとも周囲の人間が彼を責めることはなかった。彼の誠実な仕事ぶりを知っていたし、だからこそ責任者として現場を任せられていた。

 

 だが、他ならぬ彼自身が許せない。日を追うごとに罪の意識に苛まれた。自分のせいではない、次から気をつければいい。普通の人間なら、自分に都合よく物事を考える。殺人犯でさえ法廷では自らの無実を訴え、そして本気でそれを信じている。

 

 人が当然に持つ“強かさ”が、彼には欠如していた。彼は自分が巨大な正義感を持っていたことに初めて気づく。それはニュースを賑わす凶悪事件の犯人などに対して義憤のような感情を引き起こすことはなかった。ただひたすらに、自分に対して向けられるのみ。

 

 あのとき、自分は本当に遮断機の点検を怠らなかったのだろうか。何か自分でも気付かないミスがあったのではないか。それがなければ幼い命が失われることはなかった。なぜもっと注意しなかった。もし、この事件の被害者が自分の子供だったら。その親が背負う悲しみは痛いほど理解できた。

 

 彼は、会ったこともない少年の幻覚を見た。事故が起こる瞬間を、何度も夢で見るようになった。夢の中でさえ助けることは叶わず死んでいく少年に、彼は謝り続けた。

 

 その謝罪の果てに、彼の罪悪感が薄まることはない。どれだけ少年に謝ろうとも罪滅ぼしにはならない。生きている者が罪の意識から逃げるためだけに使う詭弁だ。死者は許しの言葉を持たない。

 

 いつまでも届くことのない謝罪は呪詛のように、彼自身を蝕み続ける。それが彼の本質であり、人間性の終点である。

 

 

「全員、振り返らずに走れえええええええ!!」

 

 

 だから、見て見ぬふりをすることはできなかった。自分の横で敵の攻撃を受け、倒れゆく少女の姿は、彼の根底にある感情を揺さぶる。

 

 頭の中には冷酷な判断を下す自分があった。第一に考えるべきはリターンを確実に船へと送り届けることだ。それが特殊部隊隊長として与えられた任務である。他の何を差し置いても優先すべきはリターンだ。

 

 その目的を果たすため合理的に考えるなら、クインを見捨てるべきである。彼女が虫の餌になっている間に、貴重な時間を稼ぐことができるだろう。もしかしたら敵はそれで満足して帰ってくれるかもしれない。

 

 そういった一切の思考を無視して体は動いていた。踵が擦り切れるほどの勢いで方向転換する。決して見てはならない“災厄”と向き合ったのだ。

 

 愚策にもほどがある。しかし、彼は自分に課した誓約があった。それは「一度戦うことを決めた相手から退いてはならない」というものである。この誓約を破ったとき、彼は全ての念能力を失う。発のみならず、基本的なオーラの扱いすらできなくなる。

 

 “振り返らない”“背を向けない”という行動が彼の日常動作にも染みついている。一見して勇敢で男気のある誓いに見えるが、彼自身がこの誓約に込めた思いは異なる。果たすべき贖罪を残してきた過去から目を背け、前だけを見つめ続けるしかなかった自己の弱さの体現だった。

 

 彼はこの暗黒大陸の調査において、常に逃げ続けてきた。一戦でもまともに敵と対峙していれば命はなかった。なぜなら彼は一度仕掛けた戦いから逃げることができない。敵を倒すか自分が死ぬか、二つに一つしか道はない。

 

 倒せる相手ならまだしも、敵はどれも強大すぎた。挑むことは自殺行為に等しい。だからこれまで逃げに徹し、能力を温存し続けてきたのだ。敵前逃亡することは、彼の誓約には抵触しない。彼の誓いは騎士道精神に基づくものではない。もっと矮小で自分勝手なルールだ。

 

 そう思っていたはずだった。しかし、敵の攻撃によって捕まったクインを見たとき、理性が働くよりも先に彼の精神は戦うことを決意してしまった。これにより、逃亡という選択肢は消えた。仮にクインを見捨てたとて、念能力を失ったグラッグに生きるすべはない。

 

 彼自身も、薄々ながら危惧はしていたのだ。調査隊隊長としての使命を全うするならば徹頭徹尾、クインを作戦における一つのオブジェクトとして捉えるべきだった。私情を交えては、とっさの優先順位を間違うことになりかねない。

 

 だが、彼はクインを物ではなく、人として認識してしまった。

 

 グラッグはクインから尋ねられた。人間が暮らす大陸について、何度も質問された。それはわからないことを手当たり次第に聞きたがる幼い子供のようで、その姿が過去に置き去りにしてきた自分の大切な何かと重なったのだ。

 

 クインはただの子供だった。そして、グラッグは気づかずとも行動を起こすに十分な理由がそこにあった。

 

 怪物は迫りくる。森の奥から浮かび上がったその影は、報告にあったワームの大きさを優に上回る。巨人の肋骨のような脚は規則正しく波打つように、静寂を保って地を這いずる。膨れ上がった頭頂部には毒煙を吐き出す二本の臭角。その異様は、まるで蒸気機関車だった。

 

 何よりも存在感を放つのは“目”だ。ただ巨大なだけではない。

 

 蝶や蛾の幼虫は“眼状紋”を持つものがいる。芋虫の天敵である鳥類から逃れるための進化だが、なぜ鳥類がこの眼状紋を嫌うかと言えば、鳥類の天敵である蛇を連想させるからだ。鳥は蛇に似た目玉模様に対して本能的な逃避行動を取る。それは生物として規定づけられた忌避である。遺伝子という設計図にあらかじめ組み込まれている。

 

 無論、人間に鳥と同じ本能があるわけではない。しかしこの災厄の前では、人や鳥といった分類の枠など瑣末事に過ぎなかった。それはより根源的な意識の深層へと訴えかける。

 

 逃げろ。

 

 全ての思考が一つに収束する。あらゆる可能性の放棄。恐怖ではなかった。それは結果的に生じる感情でしかなく、本能とはその前提だ。

 

 しかし、グラッグは辛うじて踏みとどまった。業火の熱気のようにまとわりつく威圧感に飲まれながらも、その場から動かない。

 

 これは彼の勇気が打ち勝った結果ではなく、誓約を遵守するため日々訓練していたからに過ぎない。敵と対峙した状態から一歩でも退けば誓約を破ることになる。

 

 グラッグは動けなかった。目に卵が寄生する感覚はあったが、それすら気にならない。物理的な死が目の前に迫っている。一秒後には衝突する。その圧迫感は巨大な目が生み出す影響力と相まって、ワームを実物以上の怪物に見せた。

 

 念能力は本人の精神状態によってパフォーマンスが大きく変化する。常人であれば思考停止してもおかしくないほどの重圧の中、彼を突き動かしたのは内に湧き起こる感情だった。

 

 どの道、このまま全員で逃げ続けたとしても追いつかれることは目に見えていた。誰かが足止めする必要があったのだ。こういう事態に備えて、彼は自分の命を温存してきたのではないか。

 

 いや、むしろその判断は遅すぎた。自分がもっと早く足止めに踏み切っていれば、クインは逃げられたのではないか。その後悔が恐怖を上回った。

 

 

「『絶対不退(ノーサロフェア)』」

 

 

 グラッグは具現化系能力者だった。その手に現れた得物は奇妙なポールだ。黄色と黒の縞模様で、その長さは8メートルにも及ぶ。初めてその能力を見た者は、なぜ“それ”を具現化しようと思ったのか訝しがるか笑うだろう。

 

 具現化系能力の発は、望む物体をオーラで実体化する。武器を具現化する者が多いが、オーラで作った武器だから特別に強いということはない。特殊能力をつけることもできるが、その性能は元となる武器の使い道に依存する。その上、具現化系の習得は全系統中最も時間がかかると言われている。

 

 具現化系能力者にとって一生の相棒となる得物として“遮断機のポール”を選ぶ者は、彼をおいて他にいないだろう。そもそも武器ですらなく、戦闘に用いるには甚だ不向きである。

 

 もちろん、ただのポールを具現化できるだけの人間が合衆国特殊部隊の隊長を務められるはずがない。そこには「向かってくる物体の運動エネルギーを相殺する」という特殊能力が備わっていた。

 

 つまり、このポールに触れた物は静止する。その効果に上限はない。たとえスペースシャトルの推進力で突っ込んで来ようが軽々と受け止めることができる。

 

 具現化された物に付加できる特殊能力には限界があり、普通はこれほど常軌を逸した能力を付けることはできない。例えば具現化した剣に「あらゆる物質を切り裂く」と言った能力は付けられない。せいぜいが切れ味を強化する程度のものである。

 

 しかし、中には例外も存在する。特質系能力者が具現化系を併用した能力を作った場合が一つ。そしてもう一つが、重い誓約を作った場合だ。

 

 敵から一歩も退いてはならず、破れば二度と念能力を使えないという誓約はあまりにも重い。ある意味において、それは命や寿命を賭けるよりもリスクを伴うと言える。相手の念能力によっては容易く対処されてしまい、そうなれば即座に無能力者となり、戦闘中であれば死を待つのみだろう。

 

 彼の強さは歪だった。おそらく、巨大なワームを止めることはできるだろう。しかし、それはポールが触れた部分に限った話だ。敵の攻撃の手を全て封じるわけではない。糸でも吐かれれば対処のしようがない。

 

 それでも、わずかな時間だろうと足止めする意味はある。

 

 きっと、クインは守れない。この能力は誰かを守るために作ったものではなかった。むしろ逆だ。この誓約のせいで助けられたかもしれない多くの人間を見殺しにしてきた。

 

 リターンを持ち帰るため、人類の発展に寄与するため、そんなお題目のために仲間を見捨ててきた。彼の背後には、無念の内に死んでいった仲間たちの亡霊がいる。逃げることは許さないと訴える。

 

 その犠牲の上にここまで生き延びてきた。ならば、ここで果たすべきだ。無様にすり潰されるような人間であれば、のうのうと生き残った意味がない。

 

 何としてでも食い止める。彼は長大な得物を構えた。敵の方から吸い込まれるように向かってくる。その怪物の威圧を前にして、一瞬たりとも目をそらすことはない。

 

 だが、衝突を目前として敵に大きな変化が現れる。弾力に富み、一切の攻撃を受け付けなかったワームの皮膚がみるみるうちに変質していく。

 

 老人の皮膚のようにたるんでいた厚い皮は、金属質の光沢をもった赤い結晶のような材質となる。その変化は瞬く間にワームの全身におよび、巨大な赤い造形物と化していく。

 

 音もなく近づいていたワームは、変わらぬ静けさのまま動きを止めた。グラッグは何が起きているのかわからない。彼が止めるまでもなく、敵は沈黙した。

 

 まるで何か別の化物にでも寄生されたかのように、ワームの全身はサボテンに似た結晶体に覆われていた。

 

 



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18話

 

 危なかった。間一髪のところでワームを仕留める。

 

 シスト弾によるウイルスの劇症化に成功する。防御装甲がなく弾を当てられる相手であれば確実に殺せる攻撃だ。敵がどんなに理不尽な能力を持っていようとも関係ない。

 

 巨大なサボテンとなったワームを前にして、私は不思議な高揚感に包まれていた。達成感、充実感……どうにもうまく言い表せない。なぜ自分がそんな感情を抱いているのかわからなかった。これまでに数え切れないほど敵を倒したことはあるが、こんな気持ちになったことは一度もない。

 

 しかし、理由を考えている時間はない。目の前の敵は倒したが、この場所はまだ敵の陣地。すぐにでも先行する部隊と合流した方がいい。

 

 私はワームの体が金属の結晶体で覆われた時点でアルメイザマシンの機能を停止させていた。本体が発する電波が届く範囲なら、抑制プログラムを起動させる命令をオンオフすることができる。そうしないとワームの劇症化が進行し、サボテンが花を咲かせてしまうからだ。シスト弾を発射し続ける砲台と化せば、すぐ近くにいるグラッグが危険だ。

 

 まだワームは生きているだろうが、全身を金属で覆われた状態では身動きもできまい。ひとまず敵は無力化したと言っていいだろう。

 

 目玉に寄生されたワームの卵については摘出するしかない。クインならばそう難しいことではない。抉りだせば済む。

 

 痛みはあるだろうが『思考演算』中でなければ大したものではない。あれは痛覚も加速するので堪えがたいものがある。その分、最適な行動を取るための思考も加速しているので痛みを無視しているかのように動けるだけだ。

 

 卵の孵化までに5時間の猶予はあるが、その時間も確かとは言い難い。不確定要素が重なっている以上、すぐにでも対処しておくべきだろう。

 

 問題は本体に寄生した卵をどうするかだが、実は既に対策していた。ワームは視認した者に卵を寄生させる。だからクインの目を通してワームを見てしまえば本体にも感染するのではないかという予測はしていた。その事態に備えて用意していた策が功を奏した。

 

 それは『精神同調』の応用だった。クインの感覚器が捉えた情報は、一度本体が持つ卵を仲介している。いつもはこの情報のやり取りをクインと多数の卵、そして本体の間でネットワーク化することで情報処理の速度を上げているのだが、今回に限ってはクインと卵の間で情報伝達のルートを一本化していた。

 

 そのせいで『思考演算』が使えず、処理速度が落ちて冷静な判断ができなかった部分もあったが、感染の拡大は抑えられた。つまり、卵が防波堤の役目を果たして本体を守ったのだ。寄生された卵は後で結晶化して排出すればよい。

 

 クインの左脚にくっついた糸に関しては、ズボンごと脱ぐことで対処できる。その粘着力は強力で、素肌に付着していれば皮膚ごと引き剥がすはめになっていたことだろう。衣服の偉大さを痛感する。

 

 後は逃げるだけだ。だが、ここに来て大きな問題が残されていることに気づく。

 

 グラッグが動かない。いや、動けない。彼からしてみれば、眼の前でいきなり敵の姿が変貌するという理解不能の状況だろう。敵は動きを止めたが、何をしようとしているのかわからないため警戒を解けないのだ。

 

 私もそれを狙ってこの状況を作り出した部分はある。ワームが吐き出した毒煙によって周囲は煙幕を焚かれたような状態だ。この視界不良に乗じてグラッグに気づかれず『侵食械弾』を当てることができたが、その先まで気が回らなかった。

 

 グラッグの能力が持つ誓約が厄介だった。敵前逃亡は許されない。一応、敵を殺さなくても戦意喪失させた時点でリセットされ撤退することも可能らしいが、どうやって敵を無力化したことを教えればいい。

 

 そのためには私の能力を明かす必要がある。アルメイザマシンの効果は人間にとって脅威と映るだろう。全てを明かさなかったとしても、ワームを一瞬で結晶化させただけで不信を買うに十分な威力だ。

 

 そもそも、ワームは戦意を失っていると言えるのだろうか。普通の生物であれば恐慌状態となってもおかしくないところだろうが、はっきりと断言はできない。確かめるためにはグラッグを動かしてみるしかない。

 

 戦意喪失状態なら誓約に抵触しないが、そうでなければ彼は全ての念能力を失う。無能力者となったただの人間が暗黒大陸で生きていける可能性は限りなく低い。この場を生きながらえたとしても先はない。

 

 それを彼自身理解しているからこそ、敵の生死、戦意の如何に関わらず逃げないのだ。面倒極まりない誓約だ。

 

 グラッグと軽く手合わせをしたこともあるが、確かに強かった。彼が具現化したポールはあらゆる攻撃を受け止める。8メートルの長さに渡るポールを槍のように使いこなし、一切敵を近づけさせない。

 

 厄介なのが、全くぶれない槍の軌道だ。軽いプラスチック製のポールだが、そこに攻撃を当てても衝撃さえ無効化されてしまうためそらすこともできない。その間合いの広さもあって、近接戦闘しかできない相手であれば手の出しようがなくなる。彼の誓約もあってか、怒涛のように前へと詰めてくる戦闘スタイルは敵に反撃の余地を与えない。

 

 重い誓約ゆえの強さなのだろうが、今はそれが裏目に出ていた。確実に逃げられる状況であるにも関わらず、彼の行動は制限されてしまっている。これは私がアルメイザマシンの詳細を明かしたとて、どうにかなることではない。

 

 ならば、何も言わずに立ち去ることが最善なのだろうか。

 

 第一に考えるべきは自分の身の安全だ。どうあっても結果は変わらないのだから、ここでグラッグと二人して立ち尽くしている意味はない。彼が私の逃走をどう思おうとも、咎められる謂れはない。

 

 このような事態を想定していたわけではなかったが、リターンの採取に向かう以上、危険は承知していたはずだ。数日前の私は、調査隊の全員が生きて生還を果たすなどという希望的観測は持っていなかった。当たり前のように誰かが死ぬと思っていた。

 

 あまつさえ、その死は冒険におけるちょっとしたスパイス程度に考えていた。ドラマチックな展開への導入。起承転結の転。その後に待っているものは大団円であると思い込んでいた。

 

 以前の私であれば、ここで迷わなかった。とっくにグラッグを置いて逃げ出している。では、なぜ今、私はいまだにここに残っている。

 

 逃げるならばそれでもいい。それも一つの答えだ。あるいは、全てを説明した上でグラッグに撤退を促すか。それとも何も言わず、引きずってでも彼を連れて行くか。

 

 そういった選択肢を頭の中に抱えながら、私は何の答えも出せずにいた。どうすれば正解であるのかわからなかった。

 

「なぜだ……なぜここにいる!」

 

 しかし、そこでグラッグが発した言葉は私の予想していたものとは違った。私に向けられた言葉ではない。

 

 そこに至り、ようやく気づく。私は何者かの『円』の中にいた。その独特のオーラの質からすぐに正体に勘づく。

 

「た、隊長!」

 

 先行しているはずのカトライが、なぜかこの場に姿を現したのだ。

 

「私は先に行けと……」

 

「そそそんなことより早く逃げましょう! 敵はクインさんがやっつけてくれました!」

 

 どうやら、私が攻撃する様子をカトライは見ていたようだ。正確には円で感じ取ったのだろう。円ならばこの煙幕の中でも察知することは不可能ではない。気が動転していたためか、気づくのが遅れた。

 

 敵が戦意を有しているか否かという問題についても、悪意を感じ取る能力を持つカトライがいれば判別できる。彼がグラッグに撤退を提案しているということは、すなわち、敵が戦意を持っていないという証拠だ。

 

 これでグラッグは自由に行動できる。私たちはようやくワームの前から立ち去ることができた。

 

 森を走りながら考える。カトライにアルメイザマシンの能力を見られてしまった。状況的に説明せざるを得なかったとはいえ、脅威として捉えられることは確実だろう。そして、それを隠していたことも同時に露見してしまった。

 

 リターンを採りに向かう以上、覚悟していたことでもある。私の攻撃手段はアルメイザマシンに集約されていると言ってもいい。それでもできれば隠しておきたいという思惑はあった。

 

 しかし一方で、能力をバラされたことに関してカトライを恨む気持ちはなかった。むしろ、助かったとさえ思った。

 

 私は決められなかったのだ。何もできずにいた私に、彼は答えを用意してくれた。今回はそれで済んだが、これと同じような状況が再び訪れたとき、私はどうすればいい。

 

 一瞬の判断の遅れが命運を分ける状況はいくらでもある。そのときになって考えていては遅いのだ。決断を先送りにしてはならない。

 

 私は彼らと共に戦うのか、何を守るのか、何を捨て置くのか。

 

 勝てるようなら戦う、負けそうなら逃げる、という考え方では駄目だ。それは考えていないも同然である。そういった戦況判断の根底にある方針を決めなければならない。

 

 様々な思考が去来し、錯綜する。

 

 

「隊長……おおお、お話があります」

 

 

 物思いに沈んでいた私は引き戻された。その声は独り言のように小さなつぶやきだったが、静かな森の中では明瞭に聞きとれた。

 

「私は、ここに残ります」

 

「……敵が来るのか?」

 

 何が言いたいのかはっきりしないカトライに対して、グラッグは言葉の裏を読み取ったようだ。敵が近づいているのなら、素直にそう言えばいい。カトライの態度はどこかおかしかった。

 

「まずは逃げることを考えろ。しんがりは私が務める」

 

「おれがっ、ここに残ります!」

 

 カトライの体は震えていた。マスクで表情はわからないが、声には嗚咽が混じっている。明らかに恐怖している人間の反応でありながら、頑なに自分の意見を譲らない。

 

 彼は敵の悪意を感じ取った。そして、その反応は複数ある。そのどれもが先行するチェルたちの方へ向いているらしい。おそらく、チェルが持つ重力鉱石の欠片に対して、ワームは長距離からでも位置を特定する察知能力を持っているのだろう。だから、石を持ち出した途端にこちらの位置が敵に特定されたのかもしれない。

 

 彼なりにその説明を簡潔に伝えたかったのだろうが、急ぎすぎて早口になっている上、嗚咽が混じるため聞き取りにくく、全部理解するまでに時間がかかった。

 

「わかった。だが、それならば余計にお前を死なせるわけにはいかない。チェルでは把握しきれない敵の情報も、お前だからわかるんだ。作戦の遂行を優先しろ」

 

「敵の反応は何十とあるんです! 隊長の能力ではとと止めきれません!」

 

「お前に任せるよりもマシだ! みっともなく震えたドブ犬に何ができる!」

 

 グラッグはカトライの胸ぐらを掴み上げた。拳が飛ぶ。

 

 カトライはグラッグを殴り飛ばしていた。

 

「……おれはクアンタムを除隊する! 誰の指図も受けない!」

 

 そう言い残して、来た道を引き返すように走り去っていくカトライを呆然と見送るしかなかった。

 

 起き上がったグラッグは森の奥を一瞥するも、カトライの後を追うことはなかった。

 

「行くぞ、クイン」

 

 耳触りの良い、用意された“答え”に体は従う。私たちは森の出口へと向かって走り出す。考えるまでもなく、それは“正しい”。

 

 間違っているのはカトライだ。確かに自分を犠牲にしてでも任務を優先する場合はあるだろう。だが、彼のやったことはただの自殺行為でしかない。上官の命令に逆らい、到底敵うはずもない敵陣の最中へ特攻して何になる。

 

 それはもう任務という目的から外れた行動だ。彼の中にどんな思惑があろうが、客観的に見てそれが不適切な判断であったことは明確だ。

 

 

 なのに、どうして――

 

 

「クイン?」

 

 

 ――私は彼の行動に“正しさ”を覚えるのか。

 

 

「足を止めるな……!」

 

 

 私がワームの糸に捕まったとき、グラッグは真っ先に反応し、逃走から対峙へと転じた。任務を考えれば適切とは言えない。なぜ、そんな行動を取ったのか。

 

 アルメイザマシンの力を目の当たりにした彼らは、この能力がワームにも有効であることを知っている。グラッグ、カトライ、クイン。この三人の中で、最も敵と戦える力を持つ者は誰か、彼らも気づいているはずだ。

 

 だが、二人は私に何の要求もしなかった。助けを請わなかった。

 

 なぜだ。

 

 その答えは、おそらく無数にあった。私が気づいていないだけで、ここに至るまでの過程の中にいくらでもあった。にもかかわらず、私はまだはっきりとその形を捉えきれていない。

 

 私は知りたかった。私が暗黒大陸を出たいと思った理由はそこにあるはずだ。ただ生き延びるためだけ、安全な場所に行きたいがために外の世界を目指したわけではない。

 

 

「カトライのところへ行く」

 

 

 確信のようなものがあった。きっと、彼は一生のうちに一度あるかないか、最も人の本性があらわとなる瞬間に立っている。あるいは、馬鹿な私でもその本性を理解できる機会かもしれない。危険であることは承知の上で、それでもなお好奇心を抑えることはできなかった。私は彼が為そうとする行動の意味を知りたい。

 

 グラッグは、行くなと言った。クインはクアンタムの隊員ではない。カトライを助けに行く必要はない、と。

 

 クインの立場から合理的に考えればその通りだ。しかし、人間とは合理性を求めながら全くもってそれに従わない存在である。

 

 確かにクインはクアンタムではない。だから、その隊長の言葉に応じる義務もない。私は、私の望みに従うことにした。

 

 

 * * *

 

 

 何をしても上手くできない人間というものはいる。勉強、スポーツ、仕事。努力不足と言えばそれまでだろう。悲観しても誰かが助けてくれるわけではなく、たいていの人間は自分の力量に折り合いをつけながら生きていく。

 

 強いて言えば、彼はその折り合いの付け方が壊滅的に下手だった。自分の実力をわきまえず我武者羅に挑戦を重ねては、周囲の人間を失望させてきた。何が悪かったのか、彼なりに頭を使って考えるのに、また同じ失敗を繰り返す。

 

 しかし、いくら才能のない人間だろうと努力を続けていれば人並みに成長する。勉強にしても、運動にしても、仕事にしても、彼は他人に劣るというほど能力に欠けた人間ではなかった。

 

 だが、評価されることはない。彼には、どことなく人を不快にさせる雰囲気があった。馬が合わない、反りが合わない。話しているだけでイライラさせる。家族でさえ彼を疎んじた。それを表情や言葉に表すことはなかったが、彼は自分が迷惑をかけていることに気づいていた。

 

 人から向けられる悪意が手に取るようにわかる。彼にわかるのは悪意だけで、親愛や友好とは無縁だった。少なくとも彼に見える世界は悪意に満ちていた。

 

 幼少期、学生時代、社会人、一貫して彼はろくな人間関係を築けた試しがない。友人などできるはずがなく、日常茶飯事のようにいじめられる。どんなに身を粉にして働こうと認められることはない。そのくせ一つでもミスを犯せば親の仇のように叱責される。

 

 彼は職を転々とした。何一つ将来の展望が見えない状況の中、彼の人生を一変させる転機が訪れる。

 

 その日、彼はコンビニにいた。押しつけられるように回された残業をようやく終え、夜も深くに夕飯を買いにきたところだった。たまたま店内に他の客はいなかった。

 

 そこに一人の大柄な男が入ってくる。頭には覆面、手には拳銃。強盗であることは一目瞭然だった。当然、彼にどうにかできる相手ではない。脅迫される店員と一瞬、目が合ったが、ガタガタと震え返すことしかできなかった。

 

 金を奪った強盗が店を出ようとしたとき、間の悪いことに一人の客が入店してくる。道着のようなものを着た中年の男で、体を鍛えていることがわかる。しかし、銃を持った強盗に敵うはずもない。

 

 銃口を向け、そこをどけと怒鳴る強盗は突然、フィギュアスケート選手のようにその場で高速回転し始めたかと思うと意識を失ってひっくり返った。唖然とする彼と店員を尻目に、道着の男は何事もなかったかのように店内を闊歩し、安酒を数本とつまみを購入して帰っていった。

 

 彼は何が起きたのか理解できたわけではなかったが、その男が只者ではないことだけはわかった。何か、想像を絶する技をもって強盗を倒したのだ。彼は店を飛び出し、男の後を追った。何をしたのか教えてくれと問いただした。

 

 なぜあのときそんな行動を取ったのか、彼自身にもわからない。しかしその日から、彼の生活は決定的に変化する。彼は男のもとで念を学ぶことになった。

 

 その男は心源流の師範代だった。その筋では名の知れた武人だったが、癖のある人物としても有名で、師範代の地位にありながら弟子に取った者はわずか三人。いずれも傑物として才能を開花させた弟子たちの中でも、彼だけは毛色が違った。

 

『お前には、闘争心がない』

 

 武を志す者として、あって然るべき心がない。武の本質とは、他者を害することだ。生物が生得的に持つ本能と、それを律する人間の理性が合わさり形をなすものである。彼はその資質を持っていなかった。それは武人としても、念能力者としても致命的な欠陥である。

 

『お前はいたって“普通の”人間だ』

 

 とはいえ人間社会の中で、人並みに生きていく上では必要のない資質である。むしろ野生から離れ、社会を構築する上で人間が選択的に排除してきた資質である。つまり、彼はそう言った大多数の人間と同じ、ごく普通の人間だった。

 

『なのに、なぜ折れない?』

 

 念の修行は過酷だった。死を覚悟するような鍛錬が毎日のように続く。師は手を緩めるようなことをしなかったし、彼もそれを望んだ。才能のない自分が一端の念法を会得するためには、生半可な修行では足りないと自覚していた。

 

 まともな人間の精神ではとても耐えられないような鍛錬の日々。しかし、彼にとってはまだ居心地の良い環境だったのだ。

 

 師や兄弟子たちは彼の体質を理解していた。彼の体より発するオーラの質が他人に嫌悪感をもたらす。それは先天的な障害のようなものであって、全てが彼自身の落ち度ではなかった。

 

 彼は自分という存在が世界にとって必要とされていないのだと思っていた。その誤りに気づくことができたのだ。

 

 しかし、地獄のような鍛錬を経ても彼の気弱さは矯正できるものではなく、とうとう師もさじを投げた。心源流を“半分”修了とし、道場から追い出される。

 

 根なし草に戻った彼だが、やりたいことができた。昔なら理想を思い描くこともできなかっただろう。彼はある夢を持つ。それは心源流の師範代になることだった。

 

 師範代とは門下生を指導する資格を与えられた者である。心源流開祖にして現師範アイザック=ネテロにより認められ、真髄の継承を許された証。得るためには実力のみならず、正しく弟子を導く能力が求められる。まともに修了もしていない彼がなれる身分ではなかった。

 

 それでも、いつか。誰かを導けるような人間になりたい。

 

 武術との出会いは、それまで価値を見出せなかった彼の人生を変えた。あのとき、暗闇のどん底から拾い上げてくれた師匠は、彼にとってヒーローだった。自分と同じように下を向いている誰かがいるのなら伝えたい。少し顔を上げれば、思いもよらなかった世界が広がっている。

 

 暗黒大陸に行くため軍に入隊したのも彼の意思だ。そこでも彼は掛け替えのない仲間を得た。

 

 そして、多くの仲間を失った。気がつけば、彼はまた下を向いていた。

 

 いつまでもうつむいたままでは駄目だと教えてくれたのは一人の少女だ。暗黒大陸で出会ったその少女は、自分とは比べ物にならないほど念の才能にあふれている。しかし、貪欲に知識と技術を求め、彼に弟子入りしたいと言ってきた。

 

 その言葉が嘘でないことはよくわかった。はっと気づく。忘れていた夢が、心の中にありありと蘇った。ここで死ぬわけにはいかないのだと、当たり前のことをようやく思い出す。

 

 顔を上げれば仲間たちがいた。隊長、チェル、トク、そしてクイン。もう誰も失ってはならない。この中の誰が欠けてもならないのだと気づく。

 

 だからワームに追われ、クインが倒れたとき、グラッグが足止めに残ったとき、彼もまたその場にとどまった。考えての行動ではない。自然とそうしていた。

 

 そこから先の行動も無我夢中、何を言ったのかさえ覚えていない。気がつけば、グラッグを思いっきり殴り飛ばしていた。実はこれが初めて本気で他人を殴った経験だった。勝手に自分を犠牲にしようとしたグラッグへの怒りも込められていたが、彼もまた同じことをしようとしているのだから人のことは言えない。

 

 仲間を逃がすための囮になろうとしている。彼がグラッグに伝えた情報に偽りはなかった。数十を越える敵の反応がある。彼はその場所にたどり着く。

 

 そこには巨大な赤い結晶があった。クインの攻撃によって死んだワームの遺骸が残されている。それは確かに死んでいた。だがその“中”に、彼はうごめく悪意の群れを感じ取る。

 

 まるで蛹が孵るように、それは姿を現した。結晶体にひびが入る。大きく砕けた裂け目から、二対の羽が飛び出した。

 

 彼は『円』で感知する。蝶か蛾か。幼虫(ワーム)は成虫へと姿を変えて生き延びていた。いや、これは一つの生命の変態ではない。増殖であった。おびただしい数の蝶が飛び立とうとしている。

 

 これを全て止めきれるのか。どれだけ彼に覚悟があろうと、否と言わざるを得ない。体は恐怖に震え、呼吸は不規則に乱れ、頭からは血の気が引く。囮を名乗るなどおこがましい。指一本すら動かせず、その場に立ち尽くす。もはや、彼を立たせているものは仲間を守るという意思一つに過ぎなかった。

 

 何のためにここまで来たのか。自分の体ではなくなってしまったかのように動けない。

 

 硬直する彼の横を、ふわりと一陣の風が通り抜けた。否、それは風ではなく。

 

 

「『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』」

 

 

 固く閉ざされた壁の外から突き抜けるように光が満ちる。彼は瞼の裏側に、己の血潮を見た。赤く、張り巡らされた命の脈動があった。

 

 

 * * *

 

 

 極大の閃光が視界を焼く。鼓膜は最初に破れたが、轟音は骨を伝って脳を揺らした。

 

 光がおさまり、見通しがよくなった森が現れる。その木々の影に一つ、二つ……仕留めそこなった蝶が五匹も残っていた。確かに光線の範囲内に捉えたと思ったが、どうやって脱したのか。その理由はすぐに判明した。

 

 蝶の体から管が四方に突き出ており、そこから凄まじい勢いで毒煙を噴出している。それがまるでジェット噴射のように推進力を生みだし、急加速・急制動を使いこなして飛びまわる。ひらひらと舞う蝶のような優雅さはない。

 

 その羽にはワームと同じく目玉模様があった。やはり見ただけで感染する寄生能力も備わっている。そのせいで『精神同調』のネットワークを制限せざるを得ず、『思考演算』を使えない。

 

 『犠牲の揺り籠』を使ったせいで卵のストックも半分を切っていた。差し迫った状況の中での使用もあり、精神統一が上手くいかず、通常よりも多くの卵を失っている。その分、威力も上がったので敵を多く倒せたのかもしれない。

 

 蝶たちは私がサボテン化させたワームの中から出てきた。おそらくワームが姿を変えたというより、その子どものようなものではないか。別個の生物であるため、劇症化を免れたのだろうか。

 

 『侵食械弾』が効くかどうか当ててみなければわからないが、そもそも動きが素早い上に、こちらを翻弄するようにジグザグ飛行する蝶たちを狙い撃つことも難しい。毒の煙幕を撒き散らして視界を塞いでくるため、さらに厄介だった。

 

 そして、最大の問題は敵が発する“重圧”だ。ワームのときから幻覚効果を持った威圧を使ってきたが、蝶になってからそれがさらに強化されている。

 

 体が重い。これが幻覚とは思えなかった。まるで重力が増したかのように動きづらい。たった五匹でこれほどの効果なのだから、『犠牲の揺り籠』で一掃しておかなかったらどうなっていたかわからない。

 

 それに付け加え、敵は何らかの強力な攻撃手段を持っていると思われる。あの赤い金属を砕いて殻の外に出てきたのだ。オーラで強化している本体の装甲より脆いとはいえ、単体でもそう簡単に砕かれるほど壊れやすい材質ではない。

 

 楽に勝てる相手ではなかった。どう戦うかと考えを巡らせる最中、煙幕を撒き終えた蝶たちは次々と気配をくらまし始める。

 

 隠れたのではない。逃げているのだ。先ほど私が撃ち放った攻撃を考えれば、その行動も不思議ではなかった。気配が遠ざかっていく。

 

 ただ逃げただけならいい。しかし、その方向はチェルたちが向かった先と一致する。カトライの話によれば、ワームはチェルが持つリターンの欠片を遠距離から感知する能力を持っている。そちらに向かわれてはまずい。

 

 後を追うため走り出そうとした私を、カトライは制した。クインの頭の上に、彼の手が置かれる。

 

「――」

 

 何か言ったようだが、耳が傷ついていたクインは聞きとれなかった。一言、短い言葉を残し、彼はゆっくりと前へ歩み出る。

 

 その体からオーラが噴き出すように巻き起こった。何かが致命的にずれた、恐ろしいほどの歪み。吐き気がこみ上げてくるような濁ったオーラの気配が、汚染するように広がっていく。

 

 彼は、本当にカトライなのか。別人としか思えない。一人の人間が発するには、あまりにも過ぎたオーラの量と質だった。

 

 そのオーラは嫌悪感を掻き立てる。誘蛾灯の如く、全ての憎悪を引き寄せる。

 

 



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19話

 

 それは風に翻弄される一枚の木葉のように、か細く無情な光景だった。

 

 蝶たちは長い口吻を持っていた。ゼンマイのように丸まった鋭い吸管が目にもとまらぬ速度で伸長する。伸びるのも一瞬、巻き戻すのも一瞬のことだった。たとえ念能力者であろうと人間の反応速度と身体能力では到底かわしきれない。地を穿ち、石をも容易く砕くその威力。当たれば人体など元からなかったかのように貫通するだろう。

 

 おそらく、これが私の赤い結晶を破った攻撃の正体だ。クインでは反応しきれない速度であり、なおかつ本体の装甲を傷つけうる威力を持っている。正面から戦える相手ではない。

 

 だが、カトライはその刺突の雨の中にいた。降り注ぐ狂弾の中、彼はまだ生きていた。そこにあるものは死の淵をさまよい絶望する人間の姿ではない。だからこそ彼は生きていた。

 

 彼は能力によって敵の悪意を感じ取り、攻撃の軌道を予測していた。相手は知能が高いとは言えない虫であり、そこに対人戦のような虚実の駆け引きはない。口吻による攻撃は一直線にしか伸びないため軌道も読みやすい。予測すること自体は難しくないだろう。

 

 しかしその程度の有利など、かすれるほどの速度を敵は持っている。もはや予測ができたとて反応が追い付く次元ではない。カトライは予測の先を予測していた。敵が確たる害意を持つ前に、行動を起こさなければ間に合わない。

 

 それは能力による効果だけでなせる技ではなかった。彼がこれまでに積んできた武術の全てが凝縮されている。一分の隙もない体捌き、足運び、残心。攻撃ではなく、避けることだけに注力した彼の生き様がそこにあった。

 

 それだけの技をもってしても回避は紙一重だった。薄皮一枚のところをすり抜けるように攻撃がかすめていく。一発避けるだけでも望外の奇跡と言うしかない。

 

 そんな攻撃が絶え間なく続くのだ。五匹分の敵が彼一人に対して一斉に襲いかかっている。なぜ彼はまだ立っていられるのか。避け続けることができるのか。理論や確率で説明できる域を越えていた。

 

 その体から立ち上るオーラはお世辞にも綺麗と呼べるものではない。彼の体質を理解していても、呆れるほどに生々しい。人間が持つ剥き出しの本性がある。生への依存、欲への執着。そこに潔さや小奇麗さで取り繕われた理想はない。

 

 恐怖し、心残りを思い、生き足掻く。その姿は肉食獣に追い詰められた獲物に等しい。その弱さに敵は引きつけられ、そばにいる私には目もくれず狂ったように彼だけを狙っている。彼が“逃がさない”ためにオーラを放っていることに気づいていない。

 

 鏡を覗き込むように、彼の中には私の弱さが映し出される。自分の中で無意識に否定してきた感情を呼び起こすのだ。それを認められず、誰かのせいにするために彼を嫌悪し、攻撃しようとする。

 

 きっと、彼のオーラの仕組みは簡単なことなのだろう。自分の弱さを否定せず、人よりも包み隠すことをしなかった。人並みに恐怖して、嘆いて、苦悩して、それを全て自分として認めてきたのだ。

 

 彼は、ただの人間だった。おそらく私が見てきた人間の中で、最も一般的な感性を持つ人間であり、同時に普通とはかけ離れた人間なのかもしれない。

 

 生まれながらに戦士としての強靭な精神を持つ者や、あるいはいくつもの死線を乗り越えて成長できた者にはわからない。いつまでもありのままの人間でありながら、戦うことを止めない人間など想像できるはずがない。

 

 蝶たちと同じく、私も彼から目を放すことができなかった。交戦中であることも忘れて、その一挙手一投足を見届ける。

 

 戦闘についてはクインに任せた。クインと本体の間のネットワークが断絶している以上、持ち物袋の外の状況は目視できない。クインが見聞きした情報も、彼女の脳内に保存されているだけで本体と共有することはない。クインが死ねば失われる一時的な情報だ。

 

 だから、本体は円を使ってカトライの動きを見ていた。彼が敵を引きつけ、隙を見せたところをクインがシスト弾で仕留める。その間、本体はカトライを観察し続けた。

 

 その精神、技、生涯を克明に記録する。そうしなければいけない気がした。

 

 

 * * *

 

 

 人間とは何か。

 

 私は隊員の皆に尋ねたことがある。その質問は失笑を買い、哲学者にでもなりたいのかと逆に聞かれるほどだった。

 

 人間なら誰でも答えられるだろうと思っていたこの問いは、私が考えるよりも遥かに難しいものだとわかった。それこそ哲学者が一生かけて探究したとしても普遍的な結論など出て来ないだろう。

 

 だから、人間ですらない私がそれを知ることなんて果たしてできるのか。どれだけ彼らの外見を観察したところで、その真相は計り知れない。姿形を真似するだけでいいのなら、こんなに頭を悩ます必要はない。

 

 クインはカトライを背負って森の中を走っている。彼は既に息絶えていた。

 

 蝶の口吻を避けきれなかったのだ。むしろ当たらずに避け続けていたことが異常だった。それも直撃ではなく、ほんの少しかすった程度の傷であったが、そこから侵入した毒によって死亡した。

 

 戦闘中、毒に冒されながらも彼の動きが鈍ることは一切なかった。その毒の強さや種類はわからないが、我慢すれば動ける程度のものではないことは想像がつく。私が最後の蝶を倒した直後、彼は糸が切れたように動かなくなった。

 

 私は今、自分の感情をどう表現すればいいのかわからない。

 

 普通の人間ならここで涙を流すのだろうか。守れなかったことを悔やむのか。助けられたことに感謝するのか。仲間のために戦った武人の誇りを讃えるのか。

 

 どれも私の心を形容するには適切な表現ではない。一つ確実に言えることは、『残念』だということだ。

 

 もっと彼と話をしたかった。彼は私の知らない多くのことを知っていた。彼からもっと武術を学びたかった。先ほど、死の間際に見せてくれた舞踏は素晴らしかった。息をするのも忘れて魅入ったほどだ。

 

 まだ足りない。もっと彼を知りたい。その願いはもう叶わないのだ。諦めきれぬほどに惜しく、狂おしく心がかき乱されている。

 

 だから彼の遺体を背負っているのかもしれない。死ねばそれは『生き物』ではなく、『物』である。わざわざ行動の妨げになる荷物を抱えて走る必要はない。軍の規則により、暗黒大陸調査中に死亡した隊員の遺体は研究資料となる場合を除いて全て現地で処分する決まりになっている。むしろ放置することが正しい行為と言えた。

 

 ならば、私はこの遺体に荷物以上の価値を見出していることになる。

 

 その理由にようやく気づいた。

 

 走り続けていたクインの歩調は緩まり、やがて完全に停止した。

 

 

 * * *

 

 

 調査船クアンタムロード号に吉報が届く。最後の遠征が終わり、ついに調査隊はリターンを取得して帰還した。難航する着岸港建造工事は限界を迎えており、アンダーム司令官はリターン取得の功績を契機に工事打ち止めを発表する。その知らせは疲れ切った乗組員たちに希望を与えた。待ち望んだ帰国の時が近づいていた。

 

 出立時、4名の隊員と1名の“少女”により構成された部隊は、1名の犠牲を出しながらも調査を終えて生存することができた。

 

 推定危険度Bと認定された災厄『ワーム』は、視認しただけで生物の眼球に卵を発生させるという特徴を持つ。これにより最初の接触では多くの隊員がワーム幼体に食い殺され、孵化する前に眼球を摘出して難を逃れた隊員も失明状態に追い込まれ、帰路の途中で命を落とした。

 

 その教訓を糧に様々な対策を行ったが、次の遠征ではワームの強化個体出現により2名の感染者が発生する。しかし、片目は常に閉じた状態で作戦に当たっていたため失明は避けることができた。

 

 快挙と言えるだろう。アンダームは帰還した隊員たちを手放しで称賛した。少なくとも表面上はそのように見えた。

 

 無論、この男の内心は不服だった。帰って来た兵の無事など、どうでもいい。彼にとって一番の関心事は持ち帰られたリターンだった。

 

 話によれば周囲の重力に影響を与える鉱石だという。アンダームからしてみれば、「で、それが何の役に立つんだ?」という思いが正直な感想だった。これが水に入れるだけで1日2万キロワットの電力を生産する「無尽石」だったなら、アンダームも文句はなかった。その価値は一目瞭然である。

 

 解析を進めれば人類の躍進につながる歴史的発見となる可能性もあるが、現時点で具体的にどのような利益がもたらされるのか明確ではない。アンダームが求めている物は即物的な実利であり、学者が机上でこねくりまわすだけの理論ではない。

 

 本国で待ち構える彼の政敵も、概ね同じような見解を示すだろう。そしてここぞとばかりにアンダームの功績にケチをつけるに違いない。隙あらば他人の荒探しに精を出す連中である。彼らにとって最も大切なことはリターンというネームバリューなのだ。

 

 もしアンダームが滞りなく着岸港を完成させていれば批判も出ないだろう。役に立つかどうかわからないリターンでも、本来の任務に付け加えた手柄となる。しかし、莫大な費用をドブに捨て本命の任務に失敗しておきながら、ゴミを持ち帰れば非難の的となることは確実である。

 

 任務の失敗を帳消しにできるほどの画期的なリターンが欲しかった。こんなくだらない石ころのために死んでいった200余名の隊員たちには、能無しと罵倒する感情しか持ち合わせていない。

 

 しかし、ないものはしょうがない。今ある可能性を検討するのみだ。彼にはもう一つ、避けては通れない重要な仕事が残されている。今回の調査に同行した少女をどうするかという問題だった。

 

 彼女が合衆国にとって有益な存在となるのであれば、このまま乗船を認めるのもやぶさかでない。暗黒大陸に残された少女の救出という話題は、今回の調査に少しでも意味をもたせるためにあった方がいい。調査に協力し、リターンの取得に貢献したという公式の記録が残った以上、何の理由もなく置き去りにするわけにもいかなくなった。

 

 かと言って、考えなしに迎え入れていい存在ではない。アンダームは、クアンタムにクインの動向を探らせていた。それだけではなく、彼女に渡した機器に至るまで細工が施してある。クインが着用したマスクには盗聴用のマイクと小型カメラが内蔵されており、既にそれらは回収済みだった。

 

 クインが作戦中に取った行動は、おおよそ把握している。その能力も判明した。人間性と、その変遷もつかんだ。危険極まりない存在だと理解した上で、彼女は我々の“仲間”として飼いならすことができるか。

 

 この船には限界海境域を越える際に同乗した『案内人』がいる。門番の一族により召喚された亜人種で、彼らとの交渉は許可庁の領分であるためアンダームも詳しいことは知らされていない。ただ、暗黒海域の航海をするために必要不可欠な存在であることは確かだ。

 

 しかし、かつて行われた五回の調査では、その案内人の思惑によって調査団は災厄を自国に持ち帰るという結末をたどった。彼らが直接的にそのような行動を取ったわけではないが、あえて人類の過ちを看過したことも事実である。一部の有識者は、これは案内人による『戒め」ではないかと予想しているが、そんな理由で人類滅亡級の脅威を何度も持ち帰らされてはたまったものではない。

 

 案内人は人類にとって善の側面も悪の側面も持ち合わせている。今回の少女救出は、彼らにとってどのような意味を持つのだろうか。過去の事例を考えれば、肯定するにしろ否定するにしろ意見を聞いておきたかった。

 

 その答えはどちらでもない。『好きにしろ』とだけ、彼は語った。

 

 

 * * *

 

 

 私は船内の一室にいた。クインは暗く狭い箱の中で、膝を丸めて座っている。窓はあるが、今は夜だ。光が差し込むことはない。

 

 ここにいると、なぜか昔のことを思い出す。私がまだクインではなかった頃、暮らしていたアリの巣に似ている気がした。

 

 自由に使ってよいと個室を与えられた。船内を勝手に歩き回れるわけではないが、軟禁されるようなこともない。この船の司令官とも話をした。彼は私を英雄のように褒め称えた。君のおかげで隊員たちは帰ってこられた、と。仲間を助けてくれてありがとう、と。

 

 私のおかげで? 仲間を助けた?

 

 およそ思い描いていた限り、最高の結果を導き出せたはずだ。乗船を許され、クインの身柄はサヘルタ合衆国で保護すると約束してくれた。向こうでいきなり一般市民のような暮らしができるわけではないが、私の出自を考えれば当然の措置である。いずれは不自由のない生活ができるよう取り計らうとまで言ってくれた。

 

 そればかりか本体の持ち込みまで許可が下りたのだ。持ち物袋も中身を簡単にチェックされただけで没収されることはなかった。これ以上、何を望むというのか。必死に自分に言い聞かせたところで、胸の内に広がっていく渇きが癒えることはない。

 

 結局、魂魄石などのリターンを自分から差し出すことはしなかった。出し惜しみではない。最初からリターンを持っていたのに、それを隠して調査に同行したのだ。今さら言い出せなかった。

 

 もっと早くこれを出していれば結末を変えることができたのではないか。いくら仮定したところで、もはや覆らない過去が幾度となく去来する。

 

「おーい、クイン! いるかー?」

 

 ノックの音が部屋に響いた。返事はしていないが扉は開く。見知った顔がこちらを覗き込んでいた。

 

「うおっ、暗っ!? 電気ぐらいつけろよ。あっ、そうか照明の使い方わからなかったか? ったく、ちゃんと説明していけってんだ」

 

 チェルだった。船にたどり着いたのは昨日のことだが、そのときは満身創痍で立っていることもままならない状態だった。円による索敵を担う彼女の疲労は他の誰よりも大きかった。カトライが欠けたことで、その負担は往路の何倍にも増している。

 

 

 

 

 欠けたことでその負担は往路の何倍にも増している。

 

「体は?」

 

「もう大丈夫だ。強化系だから回復力には自信がある」

 

 多少は回復したのだろうが、強がりの部分が大きいだろう。外傷がなかったとはいえ、ほぼオーラが枯渇した状態が慢性的に続くほど能力を酷使していた。昨日の今日で立ち直れるほど軽い疲労ではなかったはずだ。休んでいた方がいいと言ったが、チェルは聞く耳を持たない。

 

「それより今からクインの親睦会をやるらしいぞ。さあ、立った立った」

 

 その話は聞いていた。だが、行く気はしない。この部屋から出たくなかった。チェルは困ったように頭を掻く。

 

「途中で隊長とトクの様子を見に行こう、な?」

 

 グラッグとトクノスケは船内病棟にいる。彼らはワームの幼体に感染し、片目を失う重傷を負った。その事態を想定して医療器具や薬剤を用意してはいたが、ジャングルの真ん中で完璧な摘出手術などできるわけがない。当然、術後も任務は続くため安静とは程遠い状態で活動しなければならなかった。

 

 病棟は私の部屋からほど近い場所にあるが、一人で外に出ることができなかった私は二人の容体が気になっていた。結局、チェルに手を引かれて部屋を後にする。

 

「おらっ、見舞いに来てやったぞ! 起きろ!」

 

「ゴブッ!?」

 

 トクノスケは傷口が炎症を起こしていた。感染症にかかったものと思われる。しかし、命に別条はないとのことで安心した。まだ発熱などの症状によりベッドから起き上がれない状態だが、じきに良くなるだろう。

 

 だが、さすがに寝ている病人の腹をいきなり殴るのはよくない。休ませてやれと言ったが、チェルは聞く耳を持たない。

 

「あ、ああ……クインさん、おはようござい……あ、まだ夜か……いや、もう夜……?」

 

「まったくしっかりしろよ、この貧弱が」

 

「そういうチェルさんは元気そうですねぇ……」

 

「美少女たちが見舞いに来て、お前も元気出ただろ?」

 

「美少女……“たち”……?」

 

「え? 何が言いたいのかな、トクくん。え、おなかが痛い? おなかが痛いって? あたしがさすってあげようか。おらっ!」

 

「チョコロボッ!?」

 

 トクノスケはかなり消耗している。怪我を負い、感染症と戦いながらの復路だった。その上、能力による索敵もしっかりこなしていたのだ。用意していた紙型のストックは底をつき、即席で作った念鳥を飛ばしていた。

 

 彼が本来扱う『自動操作(オート)』タイプの念鳥と違って、即席で作られた念鳥は『遠隔操作(リモート)』タイプとなる。行動範囲や持続時間といった性能は格段に落ちる上にオーラの消費は激しい。彼もまた限界を越えた体調を押してここまでやってきたのだ。

 

「あれ、隊長はいないみたいだな」

 

 グラッグも同じく片目を失ったが、何とか感染症は引き起こさずに済んだ。トクノスケのように寝込むこともなく比較的に体調は落ちついているようだったが、大事をとって病室で休んでいた。

 

「先に会場に行ったのかもしれない。あたしらも行こうか」

 

「僕はこのありさまで一緒には行けませんが……楽しんできてくださいね、クインさん」

 

「おう、早く治せよ」

 

 病室を出た。親睦会が行われる会議室に向かう。

 

 電灯の音がじりじりと、耳の奥で焦げつくように騒ぎ始める。鉄の通路の末端に、会議室の扉が見えた。

 

 足取りが鈍る。しかし、扉はいつの間にか目の前にあった。まるで向こうから迫って来たかと思うほど唐突に、長い通路はなくなっていた。

 

 扉が開く。

 

 その隙間から、大蛇が舌をちらつかせるように黒煙が噴き出す。引きずりこもうと手招きしている。

 

「ほら、クイン、大丈夫だから。まさか、あんタガこんなに人見知りするなんて思わなかったよ。あたしらト一緒にiiiiiるときは平気ナノニ」

 

 立ち込める瘴気は音すらもゆがめていく。蜃気楼のように揺らぎ始めるチェルを見て、その手を強く握りしめた。

 

 会議室は瘴気に冒されていた。発生源は、中にいる者たちだ。それを人間と呼んでいいのかわからない。人のような輪郭を持った何かは、全身から黒い煙を発している。チェルを除く、ほぼ全ての人間がその状態だった。

 

 それは一斉に襲いかかってきた。入室した私へ向けて息が止まるほどの熱気が流れ込む。むせかえるような瘴気によって、視界が不定へ傾いていく。何もかもが絵具を掻き混ぜたように正常な形を失っていく。

 

「――!」

 

「――」

 

 何か音らしきものを発している。両手を叩き合わせて何かをしている。その群れの中から、一匹の異形が進み出てきた。

 

 この部屋にいる異形たちは誰もが吐き気を催すような黒煙を発しているが、私の前までやってきたこの異形が放つ黒煙は、他の者とは性質が明らかに違う。汚臭を伴う煙が、まるで肌を舐めるように這いずりまわる。クインの胸や局部を中心に、まとわりついて離れない。

 

「――――― ――――? ―――――!」

 

 ひっきりなしにがなりたてる耳障りな甲高い雑音は、ひどい頭痛を引き起こした。夢なら覚めてほしいと願う一方で、この光景こそ私が望んでいたものだったのだと気づいている。

 

 私が知りたかったものだ。

 

 異形は、テーブルの上から何かを取って私の前に差し出した。私はそれを覗き込む。見てはならないと警鐘を鳴らす心とは裏腹に、取り憑かれたように目を放すことができない。

 

 異形の手には皿が握られていた。揺らぐ煙と煤の中から、くすんだ赤い塊が

 

 

「――――――

 ――――――

 ――――――

 ――――――

 ――――――

 ――――――

 

 

 

 

 

 

 

 た      

     べ

 

 

   て

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 気がつくと、部屋の外を歩いていた。チェルが私の手を握っている。親睦会はどうなったのか。ここまで確かに自分の足で歩いてきたはずだが、その経緯を思い出すことはできなかった。

 

 通路の先から誰かが歩いてくる。私はその人物を知っていた。チェルは姿勢を正し、機敏な動きで敬礼する。

 

「うむ、まだ体調も万全ではなかろう。楽にしていい」

 

「はっ!」

 

「そして、先ほどは怖がらせてすまなかった、クイン君。ずっと塞ぎこんでいるようだったので気晴らしになればと懇談の場を催したが、軽率な判断だったようだ。大勢の人間を集めるべきではなかったな……」

 

 話しかけてきたのはアンダーム司令官だった。この人のことは以前よりグラッグの口から聞いていた。彼が最も尊敬する恩師であり、信頼のおける人物だと聞いている。

 

 その前情報の通り、アンダームは親身になって私の話を聞き入れ、処遇について便宜を図ってくれた。この船の最高責任者である彼が積極的に受け入れてくれたからこそ、乗船が叶ったと言える。

 

「あの、さっきクインが殴っちゃった人って、確か“トッコー”の偉い人ですよね……?」

 

「タポナルド執務次官だ」

 

「それってやっぱりマズイですか? あのっ、なんというか、うまく言えませんが……クインはほんと良い奴で、さっきは気が動転してただけなんです! な、クイン! だから悪気はなくて」

 

「案ずるな。タポナルド氏に怪我はなかったし、彼もクイン君のことを悪く思っているわけではない。この件でクイン君の乗船が取り消されるようなことはないし、そんなことは私がさせない」

 

「よかった……」

 

 アンダームは、クアンタムの隊員以外で私が唯一まともに話すことのできる人間だったが、そのことが必ずしも肯定的な意味を持っているとは限らない。

 

 彼が瘴気を発することはなかった。そればかりか、あの異常な空間の中においても正常な姿を保ち続ける。さっきの会議室にいたのも確認していた。チェルでさえ原形を崩すほどだった揺らぎの中で、彼だけは何の変化もきたさない。彼の周りだけが切り抜かれたように整然としている。

 

 彼は、まるで交わらない世界にいた。立っている場所が私たちとは違うように感じた。形式が根本から異なっている。

 

 見えることは恐ろしいが、見えないことを知ってしまうことはもっと恐ろしい。

 

「二人とも、今日はゆっくり休むといい。ところで一つ聞きたいのだが、グラッグがどこにいるか知らないか?」

 

「いえ、私たちは会っていません」

 

「そうか。てっきりクイン君と一緒に会場に来るものと思っていたのだが……連絡がつかなくてな」

 

「隊長らしくないですね。約束や言いつけをすっぽかすことはない人です」

 

 グラッグがいない。ろくに二人の会話を聞いていなかった私だったが、グラッグと連絡がつかないという部分だけは聞き逃さなかった。

 

 何かあったのではないか。嫌な予感に胸がざわつく。

 

「心配しなくていい。無線機の調子でも悪いのだろう。チェル、クイン君を部屋まで送り――」

 

 船内に鳴り響いた警報音によって声はかき消された。緊急連絡の放送がサイレンの音に続く。

 

『第一種警戒状況! 船内に不特定の脅威が侵入した恐れあり! 繰り返す、第一種警戒状況……』

 

 私は、勝手にこの船が安全な場所だと思い込んでいた。長期間の停泊を無事に乗り越えてきたのだから、もうしばらくの間くらいはその平穏が続くものだと根拠のない想定に甘えていた。

 

 この船は、いつ崩れるとも知れない均衡の上にいた。今、この瞬間が崩壊の時であったということに過ぎない。

 

 守らなければならなかった。この船に乗る大多数の人間は私にとって嫌厭の対象でしかなかったが、船そのものは死守しなければならない。

 

 何よりも、失うことのできない仲間がいる。もう誰一人として欠けてはならない。

 

 私は駆け出す。意識を切り替えたというよりは、あてどない焦燥に突き動かされていた。

 

 



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主人公の能力一覧・イラスト紹介

新しい能力を得たときは順次更新していきますので、最新話を読んでいない方はネタバレにご注意ください。




 

 

 ●念能力(発)

 

 

 ・『精神同調(アナタハワタシ)』

 

 操作系能力。キメラアントが持つ電波通信能力をもとに、その電波に念を込めて放つことができる。この念波に触れた者の体を操作し、意識を自分と全く同じ『精神共有体』に作り変える。その影響力は微弱で、基本的に自分自身にしか使えない。

 

 ・『思考演算(マルチタスク)』

 

 『精神同調』の応用の一つ。「本体」「卵」「クイン」間の意識をつなぎ、ネットワーク的思考を可能とする。思考作業を意識体の間で分担することで高速処理ができる。ルアン・アルメイザが持つ能力だったが、彼の意識を吸収したことにより異なる形で再現されたもの。

 

 ・『一斉送信(ブロードキャスト)』

 

 『精神同調』の応用の一つ。本来なら他者に通用しない程度の影響力しかない『精神同調』を、数百を越える卵が一斉に発動することによって、敵に強い違和感を与える程に強化する。一瞬の隙を作るのに有効。相手を操作することはできない。

 

 ・『偶像崇拝(リソウノワタシ)』

 

 具現化系能力。使用者が真に望む姿を模した人間を、念人形として完全再現する。この念人形は、使用者と全ての感覚を共有する。一度発動すると解除ができない。同時に複数体作ることはできず、デザインも変えられない。ほぼ人間と同じ身体機能を備え、念能力を扱うこともできるが、念人形自身がオーラを生産することはできない。損傷した場合はオーラによって補修が可能。致命傷を受ければ破壊される。

 この念人形の発動を維持できなくなったとき、保有できる卵の最大値(1000個)のうち三分の一以上を消費する。代償を払えないとき、本体は死亡する。

 

 ・『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』

 

 放出系能力。レーザー状の巨大念弾。保有できる卵の最大値のうち半分以上を消費することで使用できる。

 

 

 ――――――――――

 

 

 ●アルメイザマシンを用いた能力(念能力ではないため、オーラの消費はなく、メモリも使用しない)

 

 

 ・アルメイザマシン

 

 暗黒大陸における災厄の一つ。生物が持つ『生命エネルギー(オーラ)』を食らい増殖するウイルス型ナノマシン兵器。感染者のオーラと接触することで感染が広がる。半年間の潜伏期を経て対象の精孔を強制的に開き、そこから体内深部へ侵入して瞬間的・爆発的に増殖する。

 この劇症化に至った個体は体の組成を作り変えられたようにナノマシン由来の金属で覆われ、やがてウイルスの生産に適した箱型の姿へ変貌する。増殖したウイルスは圧縮され『シスト』と呼ばれる弾丸状に変成されて体外に射出される。この弾に撃たれ傷を負った個体はウイルスに感染することはもちろん、潜伏期を経ず即座に劇症化する。念能力に目覚めた人間は、既に精孔が開いた状態なので通常感染でも即座に劇症化する。

 植物には感染しない。また、ナノマシンの活動を一時的に停止する『抑制プログラム』が組み込まれており、クイン(本体)はその信号を電波に乗せて発信することでナノマシンの機能を止めることができる。解除や治療はできない。

 

 ・『侵食械弾(シストショット)』

 

 本体の産卵管からシスト弾を発射する。ナノマシンによるシスト形成と産卵機能が一体化し、卵をシスト弾として射出できる。さらにキメラアントの特性によって本体の装甲の元となった金属植物の遺伝情報も組み込まれたため、彼女の持つナノマシンによって劇症化した個体は赤い多肉植物状の金属結晶と化す。

 卵自体が一つの生命としてキャリアの役割を果たし、敵へと着弾した瞬間に劇症化。植物が種から発芽するようにサボテンの形をとり、対象の体に根付く。これにより効率的にウイルスを送り込める。

 ただし、金属植物由来の毒素により耐性を持たない生物はウイルスの感染に関係なく毒死する。毒に耐えた生物はサボテン状に変化し花を咲かせ、そこからシスト弾を命尽きるまで発射し続ける。

 

 ・『侵食蕾弾(シストバースト)』

 

 磁力巻貝の殻に含まれる金属成分を摂食交配によって取り込み、レールガンを作り出せるようになった。本体を中心としてオーラをアルメイザマシンで固め、つぼみ状の砲身(使い捨て)を形成する。発射まで数秒を要する。弾体初速マッハ15、最高射程300km。着弾の衝撃によりシスト弾もろとも目標地点が消滅するので、感染拡大の危険はない。

 

 ・『仙人掌甲(カーバンクル)』

 

 クインの拳を包み込むようにサボテン状結晶体を作り出し、グローブにする。サボテンの針部分を鋭く伸ばして、より攻撃力を上げることもできる。

 

 ・『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』

 

 悪意探知により生み出された“自己嫌悪”の幻覚に飲みこまれることで発動できる。自身への悪意をアルメイザマシンの力で鎧の形にしたもの。全身を可変型結晶体で保護することによって様々な戦術が可能となる。体表を覆う鎧は外骨格の役割を果たし、オーラ強化による肉体の崩壊を食い止め強化率を引き上げる。発動すると、クインは暴走状態となり操作困難になる。

 

 ・除念

 

 全てのオーラはナノマシンの糧となり結晶化させることができるため、特殊な能力を持った念の産物も接触すれば無効化できる。ただし、体内に埋め込まれた念については結晶化させることで物理的なダメージが発生する。

 

 

 ――――――――――

 

 

 ●創作応用技・特殊武術

 

 

 ・共

 

 五感を強化しリンクさせることで、意図的に共感覚を作り出す技。直感力を大幅に引き上げ、広範囲に渡り敵の気配を察知する。ただし、円のように持続的発動はできず、単発的にしか使用できない。

 

 ・重

 

 複数の卵から引き出した攻防力をクインの拳に集める技。オーラをガソリンに例えるなら、攻防力はその燃料から生み出された爆発力そのもの。瞬間的にクインの顕在オーラ量を越えた威力を発揮するが、肉体が崩壊するためオーラによる修復も平行して行う必要がある。

 軽度の重は日常的に使用されている。

 

 ・重硬

 

 重を体の各部に同時発動する技。一人の人間が扱える攻防力の総量を100としたとき、クインは卵の攻防力を借りて200や300といった値を扱える。これを流によって行き渡らせ、全身に硬をかけた状態を作り出す。ただし、肉体の修復にかかるオーラ消費量が跳ね上がるため、強化には限界がある。

 

 ・陽脚

 

 心源流の体技。独特の歩方により、足裏から地面の振動と反響を感じ取り、目視によらず敵の正確な位置を察知する。

 

 ・悪意感知

 

 他者から向けられる悪意を察知する。念能力者なら誰しも持つ感覚だが、カトライの精神性を引き継いだことにより特別に鋭くなった。共感覚として五感と連動することで、悪意を黒い煙のような形の幻覚として捉えることができる。この共感覚はコントロールできず、常に発動した状態が維持される。

 

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 描いていただいたイラスト紹介

 

 鬼豆腐様より

 

【挿絵表示】

 

 

 裸 の 女 王 様 。

 素晴らしいイラストをありがとうございます!

 



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20話





 

 『クインを本国まで連れて帰ることはしない』と、アンダームは決断を下した。

 

 確かに彼女は大きな利用価値を持っている。暗黒大陸を生き抜いた力と知識は計り知れない。しかし、それは当人を完全にコントロールできればの話である。

 

 懐柔することが全く不可能とまでは言えない。一時的になら協力関係を築くこともできるだろう。しかし、その関係がどれほど長く続くか保証はない。あまりにもリスクが高すぎる。

 

 クインとの遭遇当時は、まだ飼い慣らせる可能性を感じていた。決定的な決裂が生じたのは、ワームとの交戦直後にクインが取った行動であった。

 

 カトライの遺体から脳を取り出して、所持していた赤い虫に食べさせたのだ。

 

 あれは人間ではない。根本的に、種としての感性が異なっている。我々とは決して相容れない存在、アンダームはそう認識せざるを得なかった。

 

 その虫は、船の解析班によって種が特定された。脚関節部の特徴的な構造から、キメラアントである可能性が疑われている。暗黒大陸の生物の中でも既に発見され、生態が詳しく調査された種であった。何のために死体の脳を食わせたのか、ある程度の予測は立つ。

 

 おぞましい予測だった。もはや共存の道など模索している段階にはない。いかに功績にこだわるアンダームであっても、引き際はわきまえていた。連れ帰ったが最後、彼は名声を得るどころか第六の災厄を持ち帰った責任を負わされることになるだろう。自分に御しきれる存在ではないと認識する。

 

 キメラアントが撃つ発射物に当たった生物は、多肉植物状の赤い結晶となる。原理は不明だ。念能力であるかどうかすらわからない。それに加えて広範囲、長距離を焼きつくすレーザー光線のような攻撃も行う。これはオーラの流れが観測できたため念能力であると思われるが、あまりに規模が巨大すぎる。一個の生命体にまかなえるオーラ量を遥かに超えたエネルギーを、どのようにして発生させているのか。

 

 それだけでも危険という言葉では足りないほどに恐ろしい相手だが、さらにカトライを食すことにより彼の能力まで身につけてしまった。

 

 他人の悪意を察知する能力。常に自分を偽り、本心をひた隠しにしているアンダームにしてみれば厄介な能力だった。それでも念能力者としての実力は、カトライよりもアンダームが上回っている。今回の調査では長期に渡り同じ船の中で時間を過ごしてきたが、演技を看破されることはなかった。

 

 しかし、クインが吸収したカトライの能力は彼女の中でさらに強化されている。クインはアンダームを疑っていた。演技を見破られたわけではなかったが、何らかの異質さを感じ取っている。それはカトライにもできなかったことだ。アンダームはクインと対話するにあたって、細心の注意を払って演技に全力を注がなければならなかった。

 

 キメラアントが食べたはずの人間の能力を、なぜクインが使うことができるのかという点も謎だった。わからないだけに不安要素は一層膨れあがる。海千山千の曲者たちと演技力による対局を幾度となく繰り広げてきたアンダームだが、これほど神経を使って対応した相手はいない。

 

 ほんのわずかな下心でも出そうものならどうなっていたか、アンダームにもわからない。彼女を極力警戒させず、刺激しないようにするため最大限の厚遇を図った。可能な限りクアンタム以外の人間と接触することがないように配慮し、本来なら許可できるはずもない所持品の持ち込みも認めた。

 

 親睦会はクインの反応を探るために計画した。言わばご機嫌取りの催しだが、ここでどの程度調査団の人間となじめるか見極める意味もあった。結果は最悪。カトライの能力はアンダームの予想以上の察知力を見せつけ、融和は絶望的と再認識する。

 

 唯一、クアンタムの隊員に対しては心を開いているものの、それを利用して一時的に従わせたところで、いつ爆発するかわからない爆弾を抱え込むようなものだ。当初の目的通り、クインの排除計画が実行に移された。

 

 この計画は慎重を期さなくてはならない。最終的な目標は、クインを暗黒大陸に置き去りにしたまま無事に船を出航させ、逃げ切ることである。一歩間違えば災厄の脅威が調査団に牙をむくことは想像に難くない。

 

 一度出航してしまえば、海を泳いで船に追い付くすべはない。この海域はヌタコンブの一大生息地であり、その分泌される粘液によって魚類でも泳げない魔境となっている。しかし、合衆国は前回の渡航によって得たデータからこの粘液の特性を分析し、クアンタムロード号はこの海域を快速に航行できる推進機を搭載している。

 

 問題は、クインが持つ大規模レーザー念弾である。その威力があれば、多少の距離が開いたところで撃ち落とされる危険があった。早急に沖へと出て、海岸から見えなくなる水平線の彼方まで進まなければならない。

 

 逃げ切れれば良し。もし、間に合わなかった場合はチェルとトクノスケを盾にする。クインはクアンタム隊員を信頼している。他人の感情の機微を正確に読み取るアンダームから見て、その信頼は絶大だと確信している。もはや依存と言った方がいいほどに結びついた関係である。人質としての価値は十分にあると言えた。

 

 だが、果たしてそれだけでクインを躊躇させることができるだろうか。手に入らないのならばいっそのこと全て消し去ってやろうという破滅的衝動が生まれないとは言い切れない。アンダームの読心術はあくまで対人用の特技であって、人間ではない相手に通じる保証はない。

 

 計画が失敗に終わった場合に備えて、クインには無線機を支給してある。彼女が理性的な思考の余地を残していれば、まず船と連絡を取ろうとするだろう。暗黒大陸脱出の手段をそう簡単に破壊するとは思えない。

 

 そこから交渉が始まる。調査団にとって圧倒的に不利な交渉になるかもしれない。

 

 アンダームの額から一筋の汗が落ちる。いつもはピタリとセットされたロマンスグレーの髪も、ほつれが見られた。

 

 しかし、彼の目に宿る執念は少しの陰りもなかった。しくじったときのことばかり考えている自分を心中で一喝する。

 

 

 ――このアンダーム、これしきのことで動じはせん……!

 

 

「鎮まれ!!」

 

 彼の呼び声に、周囲の人間は一人残らず傾聴した。

 

「船内で発生した事態について、まだ全容の解明はできていない。しかし、着岸港入口付近にて複数の敵影らしきものを確認したという報告がある。既に外部から船内へ通じる経路の遮断は行っているが、予断を許さない状況だ」

 

 一息区切る。そして、重々しく命令を下す。

 

「敵勢力からの完全な離脱のため、本船はこれより直ちに出航を開始する!」

 

 全員が敬礼の後、一斉に自分の持ち場へと動き始めた。司令官の判断に否やはない。規律に基づき定められた役目を全うする。

 

 クイン排除計画は既に大詰めを迎えていた。突如発生した謎の襲撃も計画の一部であった。つまり、最初から襲撃など起きていない。船を出すための口実でしかない。

 

 これら嘘の情報操作は、アンダームが念能力によって操った人間が携わっていた。彼は操作系能力者。その能力を『演者の形相(アクターズメイク)』という。

 

 この能力は発動条件が緩く使いやすいものの、はっきり言ってその効果は弱い。とてもではないが人間の意識を乗っ取って操作できるほどの力はなく、せいぜいが他人の思考を一定の方向へと誘導しやすくなる程度のものでしかなかった。抗おうと思えば簡単に解除されてしまう。

 

 これはアンダームの話術を補助するための能力だった。彼の言葉には人を惹きつける魅力がある。この人は正しい、この人についていけば安心できる、そういったカリスマ性を持たせるためのフレーバーとして働く。

 

 アンダームは自分が清く正しい人間だとは少しも思っていない。しかし、彼には人の上に立つ者としての誇りがあった。それは強制しないことだ。力によって従わせる、都合の良い言葉だけを並べ立てて洗脳する。そのようにして得た地位など反吐が出る。

 

 あくまで彼は"客観的に見て正しい人間”であり、周囲の人間は強制されることなく自ら彼の意見に賛同する。どれほど彼の内面が薄汚れていようが、彼の評価は正しくなければならない。そうでなければ気が済まない。だから彼は徹底的に“正しい自分”を演じるのだ。

 

 それは非常に難しいことだった。一方から見て正しい意見は、ある一方から見れば間違っている。現に、彼と敵対する人物は数多いる。軍人という立場、所属する派閥、関係する人間。生きているだけで人間は正しさと間違いを持ち合わせている。

 

 だからこそ、そうした地位を超越して多くの人間から信奉される善人へと至ることに意味がある。彼は生涯をかけて善人を演じることを誓った。それはもはや狂気の域に達した誓約であり、彼の念能力を飛躍的に高める。

 

 そうして生まれた第二の能力が『演者の全貌(レベル2)』だ。これは一年間『演者の形相(アクターズメイク)』を解除されずかけ続けた相手を完全に操作するというものだった。

 

 言うほど容易いことではない。彼の矜持にかけて洗脳といった手段は使えず、あくまで彼が演じる人間性の魅力で相手を従わせなければならない。また、能力の有効範囲から離れてしまうと解除されてしまうため、かけっぱなしにしたまま距離を置くということもできない。

 

 人間は正論をもって諭されることに最も憤りを感じるものだ。善い人が必ずしも好かれる人とは限らない。近くにいればいるほど意見が衝突することもあるだろう。そうした紆余曲折を経て、真に信頼される人間として認められなければ一年も能力を継続してかけ続けることなど不可能である。

 

 ゆえに『演者の全貌(レベル2)』の域に到達した操作対象は、彼にとって至上のコレクションと言えた。むしろレベル2を発動させることは、他者を強制的に従わせることを嫌うポリシーに反する。一年の継続発動を成し遂げた段階で満足し、レベル2を発動させる機会は滅多にない。

 

 ではなぜこんな能力を作ったのかと言えば、その当時の若かりし頃だった彼は今よりも野心が強く、過程よりも結果を重視する傾向があったからだ。その頃はレベル2も積極的に使っていたが、老年を迎え彼の凝り固まった演技志向はますます偏執的になり、使う機会はなくなっていた。

 

 だが、今こそその奥義を使うべき時である。なりふり構っている余裕はなかった。レベル2の影響下にある人間は、アンダームの命令に完全服従する。記憶を消せと言われれば都合の悪いことは全て忘れる。

 

 今、最も重要な命令を与えている人形が一人いる。その名はグラッグ=マクマイヤ。クイン排除計画において核心を担う役割を命じている。

 

 手塩にかけて育てた人形だった。出会った当時は廃人同然。それを彼が一から叩き上げ、念能力者としても一流に仕上げた。彼の本来の性格を考えれば特殊部隊の隊長には向かないし、暗黒大陸の探検やリターンの発見にもそれほど強い関心はないだろう。そこをアンダームが自分の手駒として利用するために誘導していた。

 

 人形を使い潰すことに罪悪感はなかった。むしろ、ここまで育ててやったのだから尽くして当然としか思っていない。惜しむ気持ちがあるとすればコレクションを失うことに対する心残りだけだ。

 

 踊れ、我が言葉は正善なれば。

 

 すべては手の内にありて、善人を偽る悪人は人形を()る。

 

 

「未確認の脅威について新たな情報が上がりました! 12時の方角に発光する球体を確認! 映像、出します!」

 

 

 オペレーターの一人が声を張り上げた。そしてメインモニターに映像が映し出される。そこには海上に浮遊する巨大な球状の物体があった。目に刺さるように鮮やかな黄緑色に発光しており、深夜の海でもはっきりと確認できる。その球体の表面は、水面のようにたゆたっていた。

 

 アンダームは深く椅子に腰かけ、モニターを注視する。

 

「なんだこれは……?」

 

 この場にいる全員が共有する感想をアンダームは代弁した。

 

 何だ、これは?

 

 こんなものはシナリオにない。彼が思い描く計画には予定されていない。

 

 嘲笑うかのように、耳朶を震わせるほどの“耳鳴り”が響き渡った。

 

 

 * * *

 

 

 グラッグは船から離れた場所にいた。木々のまばらな森の一角、晴れた夜空には星が瞬く。自宅の窓から見えた星座を、この未開地の空でも見つけることができた。当然のことだが、それがどこか実感のわかない気持ちだった。

 

 適当な大きさの岩を置き、木材をロープでくくりつけただけの十字架を近くに立てた。急造の不細工な墓標だが許せよと、彼は心の中で謝る。

 

 カトライの遺体はワームの生息域付近に残されている。残りの隊員たちを逃がすために囮となった彼は、そのまま帰ってくることはなかった。助けに向かったクインの報告によれば、何とかワームの撃退に成功するもののカトライは死亡し、その遺体を運び出す余裕もなかったという。

 

 少なくとも、グラッグはそう聞いている。

 

 だから、せめてもの弔いとして墓標を建てた。しかし、それはカトライのためというよりも自分の心を落ちつけるための自己満足に過ぎないのかもしれない。

 

 いずれにしても、この状況でやることではなかった。周囲は夜の森、それもたった一人で船を出ている。正気を疑うような行動だった。

 

 確かに、気がふれているのかもしれない。実のところ、墓を作る目的でこの場所に来たわけではなかった。

 

 彼は待っている。虫の声も静まった森の中で、今は亡き戦友に謝りながら待っていた。懺悔の時間はいつも長く、苦しむことで彼は癒された。

 

 静かに、足音が近づいてくる。待ち人は、ようやく訪れた。

 

「グラッグ!」

 

 息を切らして駆け付けた少女は彼の名を呼ぶ。グラッグは墓前にたたずんだまま、振り返らなかった。懐から取り出したスキットルを開け、中身を十字架に降りかける。辺りに蒸留酒のにおいが漂った。

 

「知っているか? ああ見えて、カトライは酒好きだった。普段はおどおどしているが、酒が入ると人が変わったように陽気になる。最近は精神統一のために断酒していたが、最期くらい腹いっぱい飲ませてやりたかった」

 

 唐突に語り始めたグラッグを前にして、クインも何と声をかければいいのかわからない様子だった。クインにしてみれば、彼が今取っている行動の一切が理解不能だろう。ひとまず彼女が気にしたことはグラッグの安否だった。

 

「けがしてない……?」

 

 クインがこの場所までグラッグの後をたどって来られた理由は、彼が痕跡を残していたからだ。グラッグは念文字を使った簡易の救難信号をところどころに刻みつけていた。

 

 グラッグは船内で何らかの戦闘に巻き込まれ、船から離脱。仲間と連絡を取る余裕もなく、救難信号だけを残して森へ入ったものとクインは推測していた。場合によっては身動きがとれないほどの重傷、あるいは最悪の事態も想定していたが、彼は無事だった。

 

 だが、クインの胸中から不安が消えることはなかった。グラッグの気配に不穏な空気を感じ取る。何かがおかしいと気づき始めていた。

 

 その予感は正しい。クインがグラッグを探してこの場所をつきとめることは仕組まれていた。船を襲った災厄の襲撃も計画の一部だ。実際は、想定外の事態など一つも発生していない。

 

 ここまで全てが順調だった。だからこそ、彼は堪えがたい苦悩に苛まれる。

 

「なぜ、嘘をついた」

 

 絞り出すように感情を吐露する。それは明確な意思に基づく問いではなく、堰を切って溢れだすように止めることのできない衝動だった。

 

「カトライを、食べたな」

 

 船に帰還した後、グラッグは全てを知った。クインの防護マスクに隠しカメラが取り付けられていた。グラッグがそのことを知らされたのは船に帰還した後のことだ。アンダーム司令官より事の顛末を聞かされる。

 

 事前に説明されなかった能力の危険性は無視できるものではない。一人の念能力者が実現できるレベルを越えている。彼女自身が一つの災厄であると言わざるを得ない。

 

 それでも、その力がカトライを救うため使われたことに感謝した。あの状況なら逃げたところで誰も責めない。見せなくてもいい手札を切って戦った。

 

 紛れもなく、彼女は生死の危機を共に乗り越えた仲間だと思えた。カトライもきっと報われただろう。もし、彼女がいなければあれほどに実力を超えた動きなど発揮できなかったはずだ。命がけで互いを守るため戦った。

 

「それも、全て、嘘だったのか……?」

 

 クインはカトライの死体を食べた。正確には、彼女が持つ赤い虫にカトライの脳を食べさせていた。そして、そのことを誰にも話さず隠蔽した。

 

 その行動がいかなる理由のもとに行われたのか。船にいる科学者たちの見解はどれも聞くに堪えないほど残酷なものだった。

 

 そしてグラッグは、クインはそんなことをする奴ではないと思いながらも、科学者たちが好き勝手に並び立てる推論を否定することができなかった。それらの仮説はどれも説得力を持っていた。

 

 だからこそ今一度、真意を彼女に問う。クインとキメラアントの関係性を。その並外れた能力の秘密を。人間に近づこうとした理由の全てを。

 

「お前は何者だ! クイン!」

 

 クインは答えなかった。しかし、異常なほどの反応を示す。

 

 彼女はガタガタと体を震わせ、その場にうずくまると嘔吐した。吐瀉物はほとんどない。クインはここ数日、ろくな食べ物を摂取していない。出てきたのは胃液のみだった。

 

 吐き出すものもないのに抑えることのできない嘔吐感を、グラッグは知っている。演技だとは思えなかった。だが、ならばなぜその原因となる行動を取ったのか。

 

 グラッグは激しく動揺していた。取り乱すクインの様子を見て、ほだされる。彼女を守りたいという心理が少なからずはたらくのではないかという思いがあった。

 

 しかし、実際は全くの逆。むしろ、人間的な反応を示したクインに対して危惧を強めていた。彼らにとって未知の存在が、人間を学習し、その行動をより情緒的に表現していることは問題だった。

 

 グラッグはクインに対して仲間や戦友といった立場以前に、一人の軍人であった。彼に課された命令は船に乗る数百の人間の安全を守ることであり、祖国に脅威を持ち込ませないよう送り出すこと。

 

 個人的な感情をもってクインに協力することは許されない。その当然の道理を、当然に受け入れている自分に動揺していた。

 

 歯車は食い違い、それでもなお回り続ける。乖離していく感情と行動は、やがて彼の内面を破壊していくだろう。その前に決着をつけなければならない。

 

「クイン、お前を船に乗せるわけにはいかない」

 

 彼に与えられた命令は船が沖を抜けて外海に逃れるまでの時間稼ぎである。船は既に出航していた。クインが追ってこられないように足止めを任されていた。それはつまり、彼もまた置き去りにされたことを意味する。

 

 だが、彼に後悔はない。自分の命惜しさに仲間を犠牲にするような考えは欠片もなかった。船が安全圏まで逃れるまでの時間を稼ぐという一点のみに集中する。自分の中にある余計な雑念を払拭する。その過程は盲目的と言えた。

 

 任務を完璧にこなすことを考えれば、クインに真実を伝える必要はない。なるべく警戒させず、適当な理由をでっちあげてこの場に引きとめていた方が利口だっただろう。

 

 しかし、今のグラッグにその演技をこなす余裕はなかった。たとえ精神が落ちついた状態であったとしても、クインは彼の行動の不自然さに気づくはずだ。鈍い相手ではない。

 

 あえて隠さず、正面から切り出す。彼の言葉の効果は覿面に現れた。クインは首を横に振りながら後ずさる。その様子は現実を受け入れられない者の行動そのもの。外見通り、幼子が駄々をこねているようにしか見えない。

 

「頼む、クイン。ここに残ってくれ……私もここに残る。その後、私をどうしてくれても構わない。だから……」

 

 ショックが大き過ぎたのか、グラッグの頼みはクインの耳に届いていなかった。何もかも打ち捨てて逃げ出すように、彼女の足は後退する。目の前に立ちふさがる壁に背を向けてどこかへ消えようとしている。

 

 グラッグからしてみれば、ここで彼女を逃がすことはできない。その足で船へと向かわれては任務は失敗に終わる。この森を知り尽くした彼女に追いかけっこで勝てる自信もない。かと言って、本気で逃げようとしているクインを実力で止めることは不可能だ。

 

「逃げれば、このことを船の全員に話す!」

 

 ゆえにこの事態も想定していた。クインがしたことを暴露すると脅す。この情報は上層部のみであるが既知の事実だった。だが、ここで脅迫の材料として使うことでクインはまだこの情報が知れ渡っているわけではないのだと誤解する。

 

 この事実が公のものとなれば船に彼女の居場所はなくなる。どんなに破壊的な能力を持っていようと、たった一人で海を渡ることはできないのだ。実際は既に排除計画の最中であるが、それをクインが知る由はない。

 

「一緒に……」

 

 クインは動きを止めた。前にも後ろにも行き場はなく、取り残された少女は助けを求めるようにつぶやく。

 

「みんなで……いっしょに、かえろう……?」

 

 その姿は、彼の奥底に眠る怪物を呼び覚まそうとする。クインに対する恐怖はなかった。むしろ、自分の内面に押し込んできた感情が恐ろしい。

 

 後悔、そして回帰。また同じことを繰り返すのか。それも今度は自分自身の手によって。

 

 グラッグは唇を噛みしめた。肉をすりつぶし、口の中が血の味で満たされるほど強く。そうでもしなければ気が狂いそうなほどの激情を痛みで押し殺す。

 

「お前の居場所は“ここ”だ!」

 

『絶対不退(ノーサロフェア)』

 

 彼の手に警告色の長柄が現れる。それも二本を同時に具現化し、両手に構えていた。遮断機とは二機で一対の装置。切り分けられた領域を前にして、人は無意識に歩みを止める。結界に等しい双槍の構えをもって、グラッグはクインの前に立ちはだかった。

 

 猛攻を仕掛ける。徹頭徹尾、敵を追い込み隙を潰す戦い方こそ彼が最も得意とする戦法だった。得物に込められた『絶対不退』の能力により、敵から受ける攻撃は相殺される。しかし、能力によるエネルギー収支の変化と武器を念によって強化して得られる攻撃力は別計算となる。

 

 つまり、相手の攻撃は必ず相殺する上に、そこへ自分の攻撃力をプラスして上乗せできるのだ。力と力のぶつかり合いでグラッグに勝る者はいない。どれほどオーラによって強化された攻撃だろうと、一方的に彼の攻撃だけが通る。

 

 元がプラスチック製のポールであるため純粋な武器ほどの強化効率は得られないが、それでも一流の念能力者による『周』によってオーラを施された得物である。当たれば無傷では済まない。

 

 あわよくば、クインを倒す可能性を考えていた。命を取る必要はない。少しの間だけ気絶させるだけでいい。

 

 普段のクインならば一本取ることは難しいと言うほかない。念能力者としての実力はクインが上だ。一方、グラッグとて、これまでの戦いの中で磨き抜かれた技があり、その経験は圧倒的に勝っている。戦士としての技能だけを見れば互角と言えた。

 

 加えて、今のクインは精神を乱している。これまでのグラッグとのやりとりによって、彼女は多大なショックを受けていることがわかる。精神の安定は念能力者にとって重要な戦闘要素だ。強固な一心が念能力を爆発的に高める一方で、脆く崩れた精神では本来の実力は発揮できない。

 

 既に戦闘態勢に入ったグラッグに対して、クインは何の構えも取らず無防備な姿をさらしていた。まさに千載一遇。これを逃してグラッグに勝機はない。

 

 鋭く突きだされるグラッグの攻撃。『堅』もまともにできていない今のクインならば昏倒させる程度のことはできる。勝てる可能性は十分にあるように見えた。

 

 しかし、かわされる。攻撃が当たる直前に、思い出したかのように回避された。ほぼ反射的な動きだった。天性の勘、動体視力、敏捷性、そういった才能が瞬発的に引き出された結果であるかに思えた。

 

 だが、二の矢三の矢と繰り出される攻撃でさえもがことごとくクインに回避された。もはや偶然や勘などといった言葉では説明できない。確かな技術に基づく洗練された回避行動を取っている。

 

 つい数日前まで、彼女は対人戦を前提とした武術に関して素人も同然だった。彼女なりに考えて鍛錬を積んだ形跡は見られたが、独学で追究できる技などたかが知れている。それが今や無意識レベルでグラッグの猛攻を回避できるほどにまで成長している。

 

 いかにカトライを始めとする隊員たちの指導があったとはいえ、この成長速度は異常としか言いようがない。

 

 グラッグは、クインの身のこなしに強烈な既視感を覚えた。その体捌きは間違いなく心源流を基礎としている。カトライから聞きかじった程度の知識で再現できるレベルではない。その動きは、まさにカトライ“そのもの”。

 

 幾度となく手合わせをしてきたグラッグにはわかった。クインはカトライと全く同じ技術を体得している。『回避術のみ師範代』と呼ばれた男の技がクインの体に宿っていた。

 

 かつての仲間の技を目の当たりにして、グラッグは憤りを覚えた。クインがカトライの遺体にしたことと無関係とは思えない。場合によっては、クインはカトライから技を奪うために死体を漁ったのだと捉えることもできた。

 

 だがその一方で、クアンタムが彼女の支えを受けて暗黒大陸の探索に成功したことも事実。クインにどんな思惑があろうと、彼女の助力なしには為し得なかったことだ。

 

 それにカトライは、それほどクインのことを恨んでいないのかもしれない。無論、死んだ者が考えていたことなどわかるはずもないのだが、グラッグがカトライの立場であったならば、クインの行動を軽蔑することはなかったのではないかとも思う。

 

 もしクインが死体から何かを得る能力を持っていたとして、避けられぬ死の果てに自分の能力を彼女に託せるというのなら。これまで命をかけて鍛え育てあげた技を受け継ぎ、暗黒大陸の探索に役立ててくれるというのなら、決して悪い選択ではなかった。

 

 あと少しで分かり合えるところまで来ていた。クインを乗せて海を渡り、彼らの故郷へと共に帰る未来は決してありえない可能性ではなかった。

 

 ほんの少しの齟齬が結末を変えた。気がつけば、転がり落ちるように引き返せないところまで来てしまった。どちらが悪いという話ではない。正しいということは必ずしも最善の結果を生むわけではなかった。

 

 グラッグは止まらない。彼の中でくすぶるちっぽけな正しさに突き動かされるまま、繰り出される攻撃は空を切り続けた。

 

 試合において、グラッグがカトライに一撃を当てたことはない。反応を上回る超高速で攻撃するか、回避のしようがないほど広範囲の殲滅攻撃をするか、必中の特性を持つ念能力による攻撃か。そのいずれかでなければカトライを捉えることはできず、そしてグラッグにその手段はなかった。

 

 それでも手を止めることはない。こうしてクインを釘付けにして、この場にとどめているだけでも彼には意味がある。作戦は続いている。

 

「やめて……」

 

 クインから攻撃してくることはなかった。カトライと同じく、ひたすら避けに徹している。

 

 手を出そうと思えばできるはずだ。回避ができるということは攻撃が来る場所がわかるということであり、それは転じて反撃の機会を容易に知ることができるということでもある。反撃をさせない立ち回りがグラッグの真骨頂とはいえ、いつまでも一方的に攻め続けられると思うほど自惚れてはいなかった。

 

 彼女には敵意がない。グラッグを害そうという意思がない。グラッグにとって、それは予想していた展開であった。クインならば自分に攻撃はしてこないという傲慢な確信。

 

 言わば彼女の善性の上に、二人の立ち合いは続いていた。敵として扱っておきながら、根本では彼女の優しさを信じている。その信頼を踏みにじり、作戦のために利用しているのだ。

 

 クインは傷ついていた。グラッグの攻撃はかすりもしなかったが、その行動は彼女の精神を確実に追い詰めていた。何もできず、何をしていいのかもわからない。混乱の中、体に染みついた回避技能が受動的に動作しているにすぎない。

 

 そしてグラッグの精神は、クイン以上に深刻な影響をきたしていた。一突き攻撃を浴びせるたびに、彼の心は削れていく。自分の中で守るべき絶対のルールが二つあり、片方を遵守することは片方を切り捨てることに等しかった。

 

 客観的な時間の流れと主観的な時間の感じ方は違う。楽しい時間はあっという間に過ぎ、不快な時間は長く感じる。グラッグはこの上なく引き伸ばされた時間の檻に捕らわれていた。一秒を過ごすことをこれほど汚らわしく感じたことはない。

 

 とうに心は壊れていた。ずれた歯車は摩擦で焼き切れ、周囲の機構を巻き込みながら破壊を広げていく。表情は硬直し、瞬きも忘れ、乾いた目からは涙がこぼれた。まるで血の通った人間であることを恥知らずにも主張するかのように、頬を伝う温かさに嫌悪する。

 

 そんな状態であるにもかかわらず、身体は一分の狂いもなく正常に機能した。技の精度が衰えることはなかった。機械のように正確に愚直に、与えられた命令を守り続けている。

 

 もはや、まともに現実を受け止めることさえできていない。クインが心ここにあらず応戦しているように彼もまた、なぜ自分が戦っているのかわかっていなかった。

 

 探せば理由はある。人類平和のためという考えるまでもなく重大な理由がある。しかし、それは強制力であって彼自身が導き出した答えではない。

 

 “なぜ戦わなければならない?”

 

 目的も、理由すら見失い、それでも彼は止まらなかった。白々しい正義が、彼の手足を人形のように動かし続ける。

 

「――ッグ!? 目を――して! ――ッ!」

 

 意識はおぼろげに薄らぎ、彼が感じ取る世界はひどく鈍っていた。しかし、戦闘に関する情報だけは明瞭に入ってくる。初めてクインが攻めに転じようとしていた。なぜ急にクインの態度が変化したのか、その理由を考えることなくグラッグはすぐに防備を固めた。

 

 8メートルに及ぶ長大な得物を振りまわすグラッグに対して、クインは無手である。その右手には赤い虫を手甲のように携えているが、リーチの差は圧倒的な開きがある。

 

 しかし、グラッグは赤い虫が尾針から弾を発射することを知っていた。拳銃程度の速度がある弾丸に対し、取りまわしのしづらいグラッグの長柄は不利に働く。

 

 グラッグは即座にポールの一本をへし折った。弾を受け止めるに最適な長さとする。具現化された得物ゆえ、損傷したとしても直そうと思えばすぐに修復可能である。もう片方のポールはそのまま、長短二本で待ち構える。

 

 仮に弾丸を防げたとしても、その効果は未知数だった。ワームを一撃のもとに無力化したその威力を忘れてはいない。当たれば死ぬと考えて行動する。もはや死の恐怖によって動きに支障が出るような精神状態ではなかった。

 

 グラッグは、今の自分にできる最大のパフォーマンスでクインを抑えることしか考えていない。生死は作戦進行上の必要性の問題でしかなかった。

 

 回避を優先し、目標を定めさせないように動きをつける。それに合わせてクインが飛び出した。グラッグの間合いへと自分から飛び込んでいく。

 

 月光を受けて輝く銀髪は、白い風のようだった。貫き、反れ、薙ぎ払われる長柄の圏内を滑るように駆け抜ける。這うように地を駆け、翻り身をかわす彼女の姿は、野生の威風を一身に取り込んだ山猫のような美しさがあった。

 

 一拍のもとに間合いは詰められる。クインは右手を振りかぶっていた。懐深くに潜り込まれたグラッグだが、迎撃は十分追い付く。ただのパンチなら防ぐことは容易だ。その拳に込められたオーラは強大だが、彼の能力の前にパワーは意味をなさない。

 

 だが、クインとてグラッグの能力は知っている。クインの左手には右手以上に強力なオーラが込められ、構えられていた。防がれることを承知の上での攻撃である。つまり、右のパンチは牽制に過ぎず、本命は左。連続攻撃を仕掛けるつもりだろう。

 

 グラッグはクインの両手に集まったオーラ攻防力の移動を見て、彼女の意図を見抜く。その攻防力の移動は力任せのお粗末な出来だった。異彩を放つ回避術に反して、攻撃に関しては素人も同然であった。

 

 間合いを詰められたからと言って、グラッグが不利になったわけではなかった。むしろ拙い攻撃に及んだことでクインに隙が生じるはずだ。またとない好機を前に、グラッグは気力を振り絞りクインを迎え撃つ。

 

 

「グラアァァァッグ!!」

 

「……ク……イン……!」

 

 

 互いの視線が交錯し、息遣いが聞こえるほどの距離。撃ち放たれたクインの右腕が、グラッグの得物とぶつかり合う。

 

 拮抗はなかった。抵抗すらなかった。クインの拳は紙のようにポールを捻じ曲げ、消滅させながら突き進む。赤い虫の強固な外骨格は武器としての性能を遺憾なく発揮し、グラッグの胸を抉った。

 

 どうして攻撃が通ったのか。途切れかけた意識の中で彼は考える。間違いなく防御は間に合った。しかし、彼の能力『絶対不退』は不発に終わる。

 

 クインが何らかの特殊能力を使ってグラッグの防御を無効化したのではないかとも思えたが、そのクインにしても唖然とした表情で立ち尽くしている。彼女の反応は、この事態を全く予期していないものだった。

 

 殴打の衝撃が彼の内臓を掻きまわした。『堅』による防御がはたらかず、ほぼ生身の状態で攻撃を受けていた。拳が捉えた場所は胸の中心だった。叩き潰された肺に折れた肋骨が突き刺さる。

 

 彼は鼓動が止まる感覚を知った。自らの死を悟る。だが、そこに苦しみはなかった。

 

 ようやく気づけた。なぜ彼の能力が機能しなかったのか。クインが特別なことをしたわけではない。原因は彼自身にある。

 

 『絶対不退』は敵に対して逃げることを誓約で禁じている。グラッグが一度戦うと決めた相手に「背を見せる」「後退する」といった動作をしたとき、その効果は失われ、二度と念能力を使うことができなくなる。

 

 彼は誓約を破ったのだ。敵を前にして身を引いた。クインから攻撃を受ける瞬間、ほんの少しだけ後退していた。それは一歩というほどのこともない、靴底がわずかに砂の上を滑った程度の微動であったが、確かに“後ずさった”。

 

 臆したわけではなかった。では、軽率な不注意か。彼はいかなる場合においても誓約を破らないために自分の戦い方を体に刷り込み叩きこんできた。それがこの土壇場で、これほど不用意なミスを犯したというのか。

 

 ただ一つ言えることは、彼はこの結果を惜しんでいなかった。作戦遂行上の失態であるはずの行為を、それでよかったのだと思えた。

 

 このまま戦いが長引けば、グラッグの意思は完全に消えていた。何かを考えることもできず、ただ作戦を実行するためだけの機械と化してクインに襲いかかっていた。恥ずべき戦いを恥とも感じず、命令のままに戦う傀儡と化していた。

 

 人の心を残したまま終われることに安堵する。どれだけ敵として見ようとも、心の奥底までクインを憎むことはできなかった。

 

 たとえ全人類の脅威であろうと、彼にとってクインは仲間だ。無意識のうちに後ろへと下がった足は、そんな彼の真意の表れだったのかもしれない。彼を律する呪縛への、最後の抵抗だった。

 

 



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21話

 

『なあ、帰ったら何がしたい?』

 

『暗黒大陸からサヘルタに帰ったらって話ですか? やめてくださいよ、死亡フラグみたいで縁起が悪い』

 

『そういうふうに考えるから辛気くさくなんだろーが。なんかあんだろ? やりたいこと』

 

『まぁ……里帰り、ですかね』

 

『辛気くせーっ! もっとこう、飲み屋で綺麗なねーちゃん侍らせながら一晩で1000万ジェニーの豪遊がしたいとか、そういうビッグな夢はないのかよ。な、カトライ!』

 

『えっ!?  い、いえ私からはなんとも……』

 

『そうですね。綺麗なねーちゃんはいらないし、1000万ジェニーも使わなくていいですけど、ここにいる全員でパーッと飲みにいくのはいいかもしれません』

 

『おっ、いいこと言うねぇ。隊長も行きますよね!』

 

『それは構わんが、クインは未成年だから飲酒は駄目だぞ』

 

『あっ、それもそうか……じゃあ、酒が飲めて美味しいスイーツも出してるオシャレな店を探しときますよ』

 

『屈強な野郎どもが集まって打ち上げするような雰囲気の店じゃなさそうです』

 

『言っとくが男女比は3:2だからな』

 

『わかりましたからその握りこぶしを下ろしてもらえますか? まだ僕は何も言ってませんよ』

 

『クインも食べたいものがあったら何でも言えよ。ケーキ、パフェ、プリン、アイスクリーム……』

 

『いや待て、クインは確か卵や動物性脂肪も嫌いだったはずだ。そう言った菓子類も苦手かもしれない』

 

『……隊長って意外とクインのことよく見てますね』

 

『じゃあ、僕が知ってるジャポニーズカフェに行くのなんてどうです? なかなか凝った和菓子があるんですよ。ジャポン発祥の和菓子は植物性の原料のみで作られたものが多いですから』

 

『なんかどんどん飲み会から遠ざかっているような気もするが、ま、いっか!』

 

『やれやれ、クインさんのためにもちゃんと無事に帰って店まで案内しないといけませんね』

 

『誰ひとり欠けやしないさ。リターンを手に入れて、全員で戻るんだ』

 

 

 * * *

 

 

 初めて、人間に会った。それまで戦うこと、生きることしか知らなかった私は、何かを得られるような気がしていた。

 

 その答えに、あと少しでたどり着けたのかもしれない。真相のすぐ近くまで迫っていたはずだ。手を伸ばせば届きそうな距離なのに、そのわずかな隔たりを理解できない。

 

 だから食べた。

 

 私は動物の肉を食べることが嫌いだ。キメラアントの体質のせいか、食べた生物の情報が体内に残る。それは新たに生まれる卵に悪影響を及ぼし、不純物が混じったエラーを生じさせる。私ではない何者かが生まれてしまう。

 

 それはおそらく、捕食した生物の魂に刻まれた精神性なのだと思う。キメラアントはそれらを自らの種に取り込み、卵として別の生命へと引き継がせることができる。

 

 私の場合は、それが不都合だった。卵と本体は『精神同調』で意識を同じくしている。自分ではない何者かと精神を共有することなどできない。そういう混ざり物(エラー)は排除しなければならない。

 

 しかし、カトライは違った。私は彼と一つになることを認めた。いや、私は彼のようになりたいと思えた。そうすれば簡単に、もっと深く人間に近づけると思った。その予想は的中する。私は確かに彼の心を自分のものとして引き継ぐことができた。

 

 それが“人として”越えてはならない一線だということはわかっていた。タブーに関する知識はあり、だから食べたことは誰にも話さなかった。思えば、その時点で私の感覚は人間からかけ離れていたのかもしれない。

 

 してはならないことだと認識はしていても、その意味を本当のところで理解できていなかった。死体とは物でしかなく、捨て置いて行くくらいなら活用すべきだと、その程度の判断しかできなかった。

 

 私はカトライの精神を取り込んだ。彼の魂に刻まれた情報が共有化され、私の中で拡散し、浸透した。その過程は私にとって望ましいものではなかった。じわりじわりと、人間の感覚を手に入れていく。それに伴って、私は自分が犯した過ちの意味を理解していった。

 

 カトライの記憶そのものが取り込まれたわけではない。彼の人生史を本のようにまとめて、それを閲覧するように覗き見ることができるだけならまだ良かった。“魂を取り込む”ということはそういうことではない。

 

 私の中で共有化された情報は彼の“精神性”だった。念能力者として、武芸者として、人間としての彼の精神の在り方が入り込んでくる。それに比べれば、記憶なんてものはただの付属物に過ぎない。

 

 アイデンティティが書き換えられていく。世界を認識する基盤そのものが取り換えられるに等しい変化だった。そして、この感覚は初めての体験ではないことを思い出す。

 

 アルメイザマシンとの戦いのときにも同じ経験をしていた。あのとき、私はルアン=アルメイザの残留思念と対話している。ほぼ無意識的な行動であったが、彼の魂を取り込むことで災厄に打ち勝つことができた。

 

 私は一度死んでいる。記憶を引き継ぎ、新たな生命として生まれ変わった。そのときは自分の中に生じた変化を認識することもできず、“そういうもの”だと思い込んでいた。だが、今ならわかる。カトライを取り込んだことはそれと同じなのだ。

 

 私は再び生まれ変わった。肉体は変わっていないが、精神は別のものになっている。それに伴って念能力にも変化が現れている。クインの外見は変わっていないが、ソフトウェアが更新されたかのように彼の体術を再現することができた。

 

 彼の念能力の全てを継承したわけではなかった。『蛇蝎魔蝎香(アレルジックインセンス)』は使えない。あれは彼の特殊体質であるオーラを前提に作られた能力である。彼と全く同じ体質に変化したわけではない。

 

 ただ、『悪意を感知する能力』については受け継がれた。これは念能力者なら大なり小なり持っている感覚であり、正確には私の感覚がより鋭くなったと言える。そして、それだけではなかった。この感覚が『共』と混ざり合い、予想もしなかった能力へと変化している。

 

 五感を意図的に融合させる技である『共』を使えることで、潜在的に私の感覚器は共感覚を得やすい状態となっていた。そこに『悪意感知』という能力が投入されることで予期せぬ化学反応を引き起こす。この感知能力と五感が共感覚を生じるようになった。しかも、『共』のようにコントロールすることができない。常に発動した状態となってしまう。

 

 悪意を“視る”ことができた。“聞く”こともできる。嗅ぎ、触り、味わえる。まるで現実のような幻覚に苛まれた。その本当の恐怖は、調査船に帰還した後に実感する。

 

 人間の悪意の邪悪さを知った。暗黒大陸の凶悪な生物たちも悪意は持っているが、その多くは動物的な捕食本能に基づく悪意である。人の持つそれとは質が違う。近づくこともためらわれるようなおぞましい気配がする。

 

 だが、最も恐ろしいものは別にあった。クアンタム隊員たちの心だ。彼らからは、一切の悪意を感じない。船にいた他の人間たちと比べたからこそわかる。隊員たちは、クインに対して一片の悪意も抱いていなかった。

 

 信頼されているということが、何よりも嬉しく何よりも恐ろしい。もし、カトライを食べたことが発覚したら。それは彼らの信頼を裏切ることになる。その先に何が待っているのか。他の人間たちと同じようにクインは見放されてしまうかもしれない。

 

 死を覚悟するような経験はこれまでに何度もあった。それに比べれば、私が今直面しているものは物理的な危険ではない。ただの気持ちの問題だ。他人からどう思われるかという、ただそれだけのことに過ぎない。

 

 なのに、堪えられない。きっと、ここで仲間たちに見捨てられたら心が壊れる。それは死ぬことよりも辛いのではないかと思えた。

 

 罪悪感は時間の経過とともに膨れ上がっていく。船に戻るまでの帰路は、仲間たちを無事に送り届けることだけを考えて気持ちを紛らわせた。他のことは考えないようにしていた。

 

 しかし船に着いて、部屋の中で一人の時間を過ごしていると、それは這い出てきた。ドアの隙間から、調度品の陰から、何かが私を見ているような気がしてならない。ドス黒く醜い気配が私を取り囲んでいた。

 

 それは他の誰でもない“私自身の悪意”だ。大切な仲間たちを騙し、不当な信頼を得ている。私自身が発する悪意から逃げる方法などない。唯一、心が休まるときは仲間たちと一緒にいる時間だけだ。そして、彼らと共に過ごす時間が長引くほどに、後からやってくる“私の悪意”は大きくなっていく。

 

 これが私の知りたかった“人間に近づく”ということなのか。こんな苦しみに苛まれるくらいなら要らなかった。後悔したところでもう遅い。私は最悪の結末に行きついてしまった。

 

 

「グラッグ……?」

 

 

 目の前で倒れているグラッグの体を起こす。胸部は無残に抉れていた。致命傷であることは見ればわかる。呼吸も、脈拍もない。

 

 私がしたことだ。

 

 私が殺した。

 

 遺体を抱えて茫然と座り込んでいる私の背後で、大きな気配が立ちあがった。黒煙が噴き上がり、一か所に吸い込まれるように集まっていく。やがて、それは人の形を取り始めた。頭があり、胴があり、手足がある。それはゆっくりとこちらに歩いてきた。

 

 私は言い訳をする。殺すつもりはなかった。グラッグならあの程度の攻撃は簡単に防げると思っていた。まさか当たるだなんて思わなかった。これは事故だと。やむを得なかったのだと。

 

 黒煙の人影は止まらなかった。逃げることはできない。なぜなら、これは私自身が生み出したもの。ただ主人のもとに帰ろうとしている一つの感情に過ぎない。

 

 影がクインの体に触れた。入り込んでくる。それはウイルスのようにネットワークの中で広がり、私という存在を乗っ取っていく。

 

 

「あ、あああ……ああああああああああああああああ」

 

 

 クインの体は死臭を発する黒煙で覆われていた。私が理想とする人間の姿を模した偶像は穢れていく。それはぞっとするほど醜く、汚らわしい姿だったが、受け入れなければならない自分だった。

 

 クインの目から涙が流れ落ちた。止めることはできない。グラッグの胸の上に落ちた涙は、小さな赤い結晶となった。次々に結晶の粒が降り注ぐ。

 

 意図的な行動ではなかった。アルメイザマシンの制御が乱れ、勝手にオーラが結晶化して吐き出されていく。涙だけではなく、体表から結晶の塊が作り出され始めた。

 

「よるな」

 

 一瞬にしてクインを守るように結晶の壁が出現した。クインを中心として半球状の“かまくら”のように防壁が形成される。

 

 それは『円』をアルメイザマシンで固めたものだった。クイン自身のオーラを結晶化する技『仙人掌甲(カーバンクル)』を応用し、円の外周のみを結晶に変えることでドーム状の防壁を作り出したのだ。こんな技は今まで使ったことがない。クインの拳を覆う程度の硬化で精いっぱいだった。

 

 そしてなぜ、急にこのような技が使われたのか。その意味を遅れて察知する。防壁の外から何者かが攻撃を加える音が鳴り響いた。襲撃を受けている。

 

 クインは防壁の一部を破壊してドームの外へ出た。あらかじめその箇所だけ外しやすいように作っていたようだ。出入り口はすぐに結晶で修復され塞がれる。まるで中に残してきたグラッグを守るように。

 

 外には誰もいなかった。姿は見えない。気配も感じない。だが、確かに襲撃はあった。

 

 ここは夜の森のただなかである。グラッグは血を流していたので、その臭いを嗅ぎつけた生物がやってきてもおかしくはない。そして襲撃者が巧妙に姿を隠していることも、この地では当然のことだ。

 

 クインの拳が結晶で覆われていく。『仙人掌甲』だが、その使い方が異常だった。拳だけでなく、腕までもが飲みこまれるように結晶の守りが広がっていく。

 

 どのようにしてこれほどの精密な制御を可能としているのか。よく見れば、体表のオーラを結晶に変えているというより、クインの体にまとわりつく黒煙を固めているように見えた。この黒煙は『悪意感知』と共感覚が合わさることによって発生した幻覚のはずではなかったのか。

 

 侵食されるように醜い鎧に包み込まれていく。体の動きを阻害することはなかった。皮膚が代謝を繰り返すようにボロボロと破片を撒き散らしながら絶えず形を変えている。それは動物か、植物か、鉱物か。鎧そのものが一つの生物であるかのように変形している。

 

 依然として襲撃者の姿はない。だが、クインは正確にその位置を見抜いていた。姿はなく、音もないが、敵の発する“悪意”だけは感じ取れる。

 

 クインが素早く身をかわした。その直後、さっきまで立っていた地面が大きく抉れる。その場所に敵はいる。そこに向けてクインが拳を振り抜いた。

 

 だが、明らかにリーチが足りない。届くはずのない距離から殴りかかっている。当然、拳は空を切るものと思われた。しかし、その攻撃は苦し紛れの行動ではなかったのだと知る。

 

 突如としてクインの拳が膨れ上がった。『仙人掌甲』によって作られた手甲が巨大化したのだ。『周』で強化された大重量の攻撃。しかも、同時に足の裏から棘のスパイクが形成され、しっかりと地面に固定されているためその重量に振り回されることもない。

 

 クインが拳に込めた自分の“悪意”をそのまま形とするように巨大なサボテンを作り出したのだ。その先端には刺々しい花が咲いている。敵に直撃したサボテンは肉を抉りながらその体内に種子を撃ち込んだ。

 

「ギギャアアアアッ!」

 

 ようやく敵の姿が“見えた”。周囲の景色に溶け込む能力か、体を透明にする能力でも持っているのか、完全に攻撃を当てるまで全く姿が見えなかった。

 

 灰色の毛色をした狼のような巨獣だ。二匹の体を半分に切って無理やり接合したかのように奇妙な見た目をしている。腹を中心とした対称像のように、頭部が尻と頭に二つある。尻がなく頭部が二つあると言うべきか。既に毒に冒され絶命している。

 

 透明になるだけでなく音まで消せるのか、敵は攻撃を行った際も無音だった。地面を抉るほどのパワーを叩きつけているのに物音一つしなかった。透明化が解除されるまで臭いすら感じなかった。しかし、クインには通用しない。

 

 悪意をたどればその発信源も手に取るようにわかる。おびただしい数の反応が周囲を取り囲んでいた。敵は群れをなしている。しかし、強襲が失敗したことに警戒心を高めたのか、不用意に近づいてくることはなかった。

 

 そこへクインが飛びこんでいく。敵は蜘蛛の子を散らすように散開した。俊敏な動きでクインの攻撃をかわしていく。一方、鎧によって防御力は増したが普段の身軽さを失ったクインは、敵の速度についていけない。

 

 その鈍重さを見て、今度は敵が攻勢に踏み込んできた。かすりもしない攻撃を狂ったように繰り返すクインに向かって、透明な狼の一匹が迫る。異形の鎧に狼の攻撃が直撃した。透明なので何をされたのか判然としないが、おそらく前足の爪を叩きこまれたものと思われる。薙ぎ払われた鎧は破壊こそされなかったものの、かなりの距離を吹き飛ばされた。

 

 しかし、既にクインは回避を終えていた。彼女は一瞬にして鎧を脱ぎ棄て、狼の背後に回り込んでいた。その動きはいまだかつて見たことがないほどに速い。鎧の中身がなくなっているにもかかわらず、敵はそれに気づかず攻撃してしまうほどの速さ。

 

 いくら鎧を捨て身軽になったからと言って、もともとの身体能力を越えた動きができるわけではない。その秘密はクインの足を見てわかった。

 

 脚部だけをぴったりと覆うように薄い鎧が形成されている。だから本来なら脚が弾け飛んで走れなくなるほどのパワーをこめても崩壊せず形を保っている。

 

 クインの肉体は同世代の平均的な人間の筋肉量からしても大きく劣っている。オーラによる強化は素体となる肉体の強度に比例して高まるため、身体能力の強化という点においてクインの実力は一般的な念能力者に及ばない。強化が苦手な特質系という点もマイナスにはたらいている。

 

 その欠点を補うため、これまでは具現化力による肉体のオーラ修復機能を使っていた。体が壊れることを前提として、オーラ強化のブレーキとなるリミッターをはずし、不相応な出力を手に入れた。リミッターをはずすため、卵から強引に攻防力を引き出す『重』を使っている。破壊された筋肉などのダメージは回復力で相殺する。

 

 しかし、その再生力にも限界はある。回復能率を越えた強化を行えば肉体の崩壊を抑えることはできず、逆に身体能力は低下する。攻防力をぶつけるようなオーラ攻撃による破壊力が落ちることはないが、身体強化について言えばオーラを込めれば込めるほど強くなるという技ではない。

 

 今のクインは、そのネックとなる“肉体の脆弱さ”を外側から補強した。鎧が昆虫の外骨格のような役割を果たし、肉体の崩壊を抑え込んでいる。もはや単なる防具の域を越えていた。鎧と肉体が一つの生命体のように渾然一体となっている。

 

 敵の背後を取ったクインは、既に拳へと攻防力を集めていた。日常的に使用している軽度の『重』から、戦闘力を重視した単発高威力の『重』へと切り替えている。

 

 かつてないほどのオーラの高まりを感じた。あれだけの脚力強化ができたということは、腕力についても同様のことが言えるはずだ。クインの腕は肩から指先にかけて赤い装甲で覆われていた。

 

 素体の強度が増すということは、そこに込められるオーラの強化率も増えることを意味する。貧弱な筋肉が外骨格の中で液状化するほどの高温を発した。爆発的なエネルギーが鎧の中に閉じ込められ、一分のロスもなく伝導した。限界を越えた先の限界へと到達した『身体強化』は『重』と相乗された。

 

 力が解き放たれる。何かを殴ったという感覚はない。そのときには既に攻撃が終わっていた。あまりにも静かな一撃。それはパンチの威力が音として別のエネルギーに変換されることなく、余すところなく敵の破壊に注がれた結果だった。

 

 数秒後、狼の透明化能力が解除される。むせかえるような血の臭いが立ち上った。わき腹にぽっかりと穴の空いた巨狼の死体が転がっている。毒を使わず、この規模の体格の敵を殴り殺したのは初めての経験だった。

 

 それも一撃。使ったのは左手だった。必殺の右ストレートではなく、いつも牽制に使っているただの左ジャブ。これがもし右手だったら、『重硬』による全身強化だったらどうなっていたことか。

 

 真っ先に浮かんだ懸念は、本体の身の安全だった。右ストレートは本体を手甲のように武器として扱う。『堅』で守りを固めた本体は、それ自体が最硬の武器と化す。しかし、今のパンチに使われたとして、果たして無事でいられるのか。

 

 クインの左手からは肉が焼けるような臭気が漂っていた。左腕は全損に近い重傷である。鎧があるので見かけ上は腕の形を保っているが、まともに動くようになるまで修復に時間がかかるだろう。

 

 まともな神経をしていれば一旦下がる。しかし、クインは攻勢を緩めなかった。悪意の反応を感じる方向へと走り出す。

 

 仲間を二匹も立て続けに殺された敵の群れは割に合わない相手だと悟ったのか、それともクインの狂気に恐れをしたのか、散り散りになって逃げ始めた。さっきのような様子をうかがうために身を引くような様子ではなく、全力でこの場から離脱するための逃走だった。

 

 悪意の反応が消えて行く。狼たちは敵意を失って逃げることだけに集中しているのだ。だが、クインは追いかけ続けた。威嚇をするだけなら深追いは不要である。暗黒大陸の夜の森には、この狼たちなど足元にも及ばないほどの脅威が山のようにある。もはやその行動に合理的な目的など存在しない。

 

 逃走していた狼のうちの一匹が立ち止まった。一度は小さくなっていた敵意を再燃させ、クインを迎え撃とうとしている。おそらく勝機があっての行動ではない。その狼は群れの最後尾にいた。他の仲間を逃がすための足止め役と思われる。

 

 ふと、思い出す。私たちがワームから追いかけられたとき、クインを助けるためにグラッグは立ち止まった。仲間を逃がすための時間を稼ごうとした。この狼にも、あのときのグラッグのような心があるのだろうか。

 

 狼の気持ちはわからないが確かに言えることがある。今のクインは、あのときのワームと同じだ。ただ目の前の生物を仕留めることしか考えていない化物だ。

 

 そして敵の心配をしている場合ではなかった。私の本体はクインの右手に固定されている。鎧の中に埋め込まれるように固められ、身動きが取れない状態だった。

 

 左腕が使えないクインは、次の攻撃で右手を使おうとするだろう。さっきと同じ攻撃に武器として使われれば堪ったものではない。全力の『堅』でもかち割られずに済む保障はなかった。本体がダメージを受ければクインにも返ってくるのだから、普通に考えればそんな攻撃に及ぶはずがないと思うところだが、今のクインは何をするかわからない。

 

 

『……て…………ク…………』

 

 

 『偶像崇拝』の能力で作り出されたクインは、誓約によって自分の意思で解除することができない。今の本体にできることと言えば尾針から『侵食械弾』を発射することくらいだ。それもクインと連携できずに手に固め込まれた状態では、まともに照準を合わせることすらできない。弾はあらぬ方向へと飛んでいく。

 

 

『そこ……るの……? ………くれ!』

 

 

 クインの右腕にオーラが集まっていく。『堅』で防ぐしかない。他にどうしようもない。

 

 意外なことに、恐怖はなかった。クインがこのようにおかしくなってしまってからというもの、まるで理性的な部分だけを引き抜いたかのように本体は冷静な思考を続けている。

 

 まるで夢を見ているような気分だった。クインが私の手を離れて暴れ回っていることは不快でも何でもない。むしろ、楽だった。

 

 彼女はきっと私の中にある意識の一つで、そこに“嫌なこと”を全部押し付けているのかもしれない。だから私は彼女と意識を共有しているにも関わらず、彼女を制御することができない。

 

 それはそれでよかった。もう何も考えなくて済むのだから。もしこのまま本体が死んでしまったとしても――

 

 

『クイン! 返事を……!』

 

 

 誰かの声が聞こえた気がした。その声は私の心の深くまで入り込み、意識を引っ張り上げていく。

 

 逃げてはならない。

 

 悪夢よりも惨たらしい現実へと帰ってくる。

 

 まるで俯瞰するように宙を舞っていた意識がクインの感覚と重なっていく。それに反発するように、クインの体から黒い煙が離れていった。鎧に無数のひびが入り、ボロボロと欠片を撒き散らしながら崩れていく。

 

 背負わなければならない体の重さを感じた。それは立っていられないほどに強くのしかかり、クインを押しつぶそうとしてくる。生きている限り、永遠に向き合い続けなければならない重み。

 

 しかし、“人間だから”苦しいと感じる。それを何とも思わなければ、さっきまでのクインと同じだ。これまで私が出遭ってきた化物たちと何も変わらない。

 

 途方もなく大きな犠牲があった。その果てに私が知り得た答えはちっぽけなものだった。失ったものに比べれば、あまりにも釣り合わない成果だ。

 

 立ち上がれなかった。狼に襲われればなすすべもなく殺されていただろうが、敵の気配はとうに消え去っていた。クインの隙を見て逃げ出したのだろう。

 

 取り留めのない思考が浮かんでは消えて行く。その中で、ただ一つだけ気になることがあった。先ほど聞こえた声の正体だ。

 

 あれは間違いなくチェルの声だった。私の中の妄想が呼びかけてきたわけではない。確かに彼女の声が聞こえた。それもすぐ近くで。

 

 上着の内ポケットに入れていた無線機を取り出す。ここから聞こえた。何か切迫した様子だった。こちらから呼び出してみるが、応答がない。何度試してもチェルの無線と繋がることはなかった。

 

 船に戻らなければ。まだ危険がなくなったわけではない。チェルやトクノスケの身に何かあったのかもしれない。その一方で、考える。

 

 

 グラッグは何のためにここで私と戦ったのか。私を船に乗せないためだ。彼を殺した私が、おめおめと船に戻る資格などあるのか?

 

 

「……」

 

 

 クインはのろのろと立ち上がり、覚束ない足取りで走り始めた。

 

 



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22話

 

 考えるな。今は、今だけは船に戻ることに集中する。無線の声を聞いてからというもの、胸騒ぎがおさまらない。チェルとトクノスケの無事を確認するまでは安心できない。

 

 それはただの口実なのかもしれない。船に戻るための身勝手な理由付けではないか。嫌なことを後回しにして、ただ逃げているだけではないか。

 

 私が生み出した黒い影は、一度は振り払うことができた。しかし、消えてなくなったわけではなかった。後ろを振り返ればそこに“いる”。気を許せば、あれはまた私と一つになろうと近づいてくるだろう。

 

 先ほどクインが見せた異常な『仙人掌甲』の使い方は、真似してできるようなものではない。自分で使っていながらおかしな感覚だが、あの影と一体化した状態でなければ今のところ使えそうになかった。

 

 そうなれば、おそらく再びクインは暴走するだろう。次もまた都合よく止められるとは限らない。結局、逃げるしかなかった。そう遠くないところまで迫っている決断から目を背け、自分の代わりに誰かが決めてくれることを待っている。

 

 もう自分では答えを出せそうにない。今ここで、私一人が何かを決意したとしても、それは必ずいつか後悔として返ってくる気がする。

 

 全てを話そうと思う。チェルとトクノスケに、私という存在とこれまでに起きたことを隠さず話す。その上で、彼らに決めてもらうしかない。

 

 背中にはグラッグの遺体を背負っている。彼がどうしてこのような姿となったのか、嘘をつくことも隠すこともできない。それをすれば私自身が私を許せなくなる。

 

 二人は、私の所業を聞いてどんな言葉を投げかけてくるだろう。想像しただけで心臓を握られたかのように息苦しくなる。きっと、私は許されない。どんな処遇を受けるかなど、わかりきったことではないか。

 

 そして、その悲観の中に、ほんの少しだけ期待が残されていることも事実だった。もしかしたら、あの二人なら全てを知った上で私を受け入れてくれるのではないか。咎められこそすれ、完全に拒絶されることはないのではないかと。

 

 その卑しさに自己嫌悪が募った。船に戻り、二人に会うことがたまらなく怖い。現実から逃げているつもりが、どうしてかその恐怖の根源へと向かって走り続けているという矛盾に捕らわれていた。まるでブレーキの利かなくなった車が崖下を目指して坂を下っていくように、自分の行動が自分の意思によるものなのかわからない。

 

 しかし、走っているうちに自分の気持ちの変化など気にしている場合ではないことに気づく。海に近づくにつれ、断続的な耳鳴りを感じ始めた。どんどん強烈になっていく。明らかに、何らかの異常が発生している。

 

 この大きな耳鳴りは、以前に一度だけ経験したことがあった。この付近の砂浜に初めて来たとき、巨大カニと交戦した際に感じた耳鳴りと酷似している。

 

 あのとき、敵は突如として私の目の前に現れた。先ほど戦った狼のように透明化して近づかれたのだとしても、その潜伏精度は桁違いだ。悪意感知能力を高めた今の私なら見破れるかもしれないが、絶対の自信はない。

 

 さらに今回は、その耳鳴りが重なるように絶えず鳴り続けている。あのカニが群れをなして襲いかかってきたとして対応できるのか。さっきの狼と違ってカニは分厚い装甲を持っている。今の私では1体を相手にするのが精一杯だ。

 

 『影』と一体化したクインの暴走状態なら戦えるかもしれない。だが、それは正常な意識へと戻れる保証のない博打だ。このままやみくもに進むことは危険すぎる。

 

 だが、立ち止まることはできなかった。危険な状況であるからこそ、船の無事を確かめる必要がある。細心の注意を払いながら、地雷原のただなかを走り抜けるかのような心境で海岸へと出た。

 

 頭が割れるような騒音が響く。耳鳴りとは聴覚神経に何らかの異常が起きて発生する幻聴のようなものであり、実際に現実の音が信号として脳に伝わっているわけではない。その証拠に、耳を手で塞ごうと少しも騒音が緩和されることはなかった。いわば、聴覚神経そのものに攻撃を受けているようなものだ。

 

 吐き気とめまいを堪え、海を見据える。わかりやすい異変があった。海上の一か所に、巨大な球状の発光体が浮遊していた。夜であることもあり、その光は周囲の海を妖しく照らし出す。

 

 発光体のすぐ近くで大きな水しぶきが連続して上がっていた。ここからでは距離が遠いため、最初は何が起きているのかわからなかった。よく目を凝らすと、空中に巨大な水の球体のようなものが現れては海の上に落下しているようだ。それが繰り返されている。

 

 この水球は発光していない。おそらくただの水の塊である。この現象も黄緑色の光を放つ水球が関係しているのだろうが、その原理は全く不明だ。ただ、空中に水球が出現するタイミングに合わせて耳鳴りがひどくなっているような気がする。

 

 暗黒大陸において、このような正体不明の現象と遭遇することは珍しくない。むしろ、はっきりとした原因がわかる異変と出遭うことの方が難しい。それが近づかなければ害のない現象であれば、あれこれ考える前に逃げてしまえばいい。

 

 私にとって今、大事なことは船の無事を確認することだ。それさえ叶えば後は全て無視していい。なのに、現実は私の希望と常に真逆の方向へと推移する。

 

 発光体の近くに船があった。空中に現れては落とされるいくつもの水球は、船目がけてぶつけられている攻撃だった。敵は空中に水球を作り出せるのか、あるいは周囲の海水を持ち上げているのか。いずれにしても自由落下する海水の塊は、それだけで船を沈めるのに十分な威力を有していた。

 

 『思考演算』を発動し、現状における最善手を模索する。

 

 一刻の猶予もなかった。叩きつけられる大量の水によって船体は転覆寸前の状態だ。波に揉まれて右へ左へと傾きながら漂う姿は、風呂に浮かべたオモチャの船も同然だった。子供が、ばしゃばしゃと湯船を掻き混ぜて遊ぶように翻弄されている。

 

 まさしく遊ばれていた。本気で船を沈めるつもりならすぐにでも可能だろう。人類の英知の粋を集めて作り上げられた調査船も、災厄の前では波間を漂う藻屑に過ぎない。だが、敵はこちらを侮り、油断している。そこが唯一の突破口だ。

 

 今の私に海上を移動して接近する方法はない。この海を泳いで渡ることは不可能だ。その脅威は調査団によって説明を受けたし、彼らと出会う前に実際にこの身で体験している。

 

 粘液の海と言われたところで十分注意していれば回避可能なように思えるが、その実態は想像以上に危険なものだった。この粘液は粘りと共に“ぬめる”性質がある。乾いていない波打ち際に足を踏み入れたが最後、転倒は免れない。そのまま立つことも何かにつかまることもままならず、ずるずると海へ引きずりこまれていく。

 

 そして動けば動くほど粘液は固形化していき、強靭な弾力を持った保湿体状に変化する。初期の段階ならまだ力技で引き千切れるが、海に浸かった状態が続けば雪だるま式に分厚くなっていくため、そのうち逃れることもできなくなる。何も知らずに海に入ったクインを一人殺してしまった。

 

 だから泳ぐという選択肢はない。そして船との距離は海岸から数百メートルは離れている。そこまで届く攻撃手段と言えば『犠牲の揺り籠』しかなかった。

 

 問題はどこを狙うかという点だ。一見して、発光する水の球体が怪しい。その水球だけ位置も移動していない。あれが敵の本体と考えるのが妥当だが、確証はなかった。『犠牲の揺り籠』に二発目はない。もし、ここで見当が外れれば私にできることはなくなる。

 

 いや、二発目も撃てないことはないか。代償を払いきれないだろうが、技自体を発動することは可能だろう。その場合、私は本当の意味で死ぬことになる。

 

 考えるのは後回しだ。一発目で仕留めればいい。外したときは、そのとき考える。

 

「『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』!」

 

 夜の海を一条の光が貫く。灼熱の光線が海を削り取り、大量の蒸気を巻き起こした。一瞬にして辺りが深い霧に包まれる。

 

 私は必死に霧の中を見通すため目を凝らした。光線を敵に当てることは当然として、その攻撃の余波が船に及ばないようにしなければならなかった。『犠牲の揺り籠』は私の意思で威力を調整できるものではないため攻撃範囲の把握は容易ではなかったが、これまで使用してきた経験を頼りに範囲を割り出す。

 

 おそらく船に当たってはいない。そして、敵がいたであろう位置を撃ち抜いた。

 

「……だめだ!」

 

 しかし、霧の中にぼんやりと黄緑色の光が浮かび上がる。敵はまだ生きている。その位置は、私が光線を撃ち込んだ場所からかなりズレている。霧のせいで目測を誤ったのかと思ったが、やはり明らかに場所が変わっている。

 

 避けられたのか。『犠牲の揺り籠』でも捉えきれないほどの速度で移動されたと言うのなら、もう打つ手がない。死を覚悟の上で二発目を発射しても無駄だ。歯を食いしばる。

 

 だが、それでも。私にできることがこれしかないのであれば。

 

 発光体から黒い煙が上がった。悪意探知による幻覚だ。その煙は私がいる方向へと伸びて来る。私が攻撃したことで、向こうもこちらの位置を特定してきた。

 

 絶望に身をゆだねている場合ではない。ある意味で、これは良い展開だ。敵は船をもてあそぶことよりも、長距離から攻撃を仕掛けてきた私を優先して対処するはず。私の方に注意を引きつけておけば、その間は船を攻撃されない。

 

 私は『一斉送信(ブロードキャスト)』を使った。キメラアントが放つ念波に乗せて『精神同調』を多重送信する技だ。卵の一つ一つが『精神同調』を敵へ向けて同時に使用する。これによって敵を操作できるわけではないが、強烈な違和感を与えることができる。注目をこちらに集めるにはうってつけだ。

 

 敵が私を警戒して逃げ去ってくれれば言うことはない。そうでなくとも船から離れ、こちらを目指して近づいてきてくれれば。接近さえできれば戦う手段はある。

 

 その私の思惑は叶った。私は敵に近づくことができた。私が想像していた状況とは全く異なる形で。

 

 今までにないほど強い耳鳴りに襲われ、無意味だとわかっているのに反射的に耳を両手で塞いでしまった。次の瞬間、目の前の光景が一変する。

 

 眼前に、黄緑色の光があった。それは発光するクラゲの群れだった。小さな光るクラゲの大群が、巨大な泡状の球体の中でひしめている。

 

 私は敵の正体をつぶさに見てとれるほどの近い距離にいた。そして、敵が持つ能力にようやく気づく。これは瞬間移動だ。このクラゲの群れは自身や他の物体を瞬間移動させる能力を持っている。

 

 以前、戦った巨大カニの能力は認識すらさせない潜伏技能だと思っていたが、そうではなかった。あのとき突然現れたカニは、自分の能力によって姿を隠していたわけではない。このクラゲに転移させられたのだ。だから一瞬、自分がなぜここにいるのかわからない様子だった。

 

 船をかすめるようにぶつけられていた巨大な水球も、海水を上空に転移させたものだろう。ただでさえ大質量の水の塊を叩きつけられればひとたまりもないところ、この海水は悪質極まりない粘性を持っている。先ほどの船と同じような攻撃を受けるのはまずい。

 

 しかし、最悪を想定した私のその判断すら現状と比べれば甘かった。逃げ場は既に封じられていたのだ。今、私が立っている場所は海岸ではなかった。クインは巨大な泡の中にいる。足場ごと、泡状の球体の中に閉じ込められていた。

 

 正確には、クインを含めた海岸の一部が海中へと転移させられた。敵が近づいてきたのではない。私が敵の近くへと移動させられたのだ。

 

 つまり、ここは海中である。空を見れば星の光はなく、月だけがぐにゃぐにゃと形を歪めながら弱弱しい光を放っている。水中ドームのような空間は、周囲の水に押しつぶされるように崩壊した。無数の気泡が海上へと浮かび上がり、岩の足場は海底へと沈んでいく。

 

 『思考演算』によってスローモーションのように水がなだれ込んでくる様子を見ながら、私は上着に備わっていたライフジャケット機能を作動させる。上着の内部に仕込まれていた浮き袋に空気が取り込まれ、簡易の救命胴衣となる。

 

 とっさの機転を利かせたとはいえ、状況は依然として最悪だった。無謀な水中戦、しかも敵は制限の見えない瞬間移動能力を持っている。間髪入れず、攻撃が始まった。

 

 耳鳴りと共に、二つの物体が出現した。イガグリのような形だが、ここが海であることを考えればウニだろうか。直径は5メートルほどありそうだ。どこからか転移されてきたものと思われる。

 

 ウニは転移後間もなくして爆発するように棘を発射した。四方八方に針の弾丸をばらまく。弾速は水の抵抗によって落ちることがなかった。それ自体がスクリューのように回転し、推進力を生みだしながら粘性の海を切り裂いて来る。

 

 この海域に適応した生物なのかもしれない。激しく回転する棘は、まとわりつく粘液の白い繭をらせん状に受け流しながら速度を緩めず迫ってくる。

 

 私の中にあるカトライの体感は、瞬時に答えを出していた。粘つく水の中という状況、縦横無尽に撒き散らされる針の雨、そしてその驚異的な弾速。

 

 この攻撃は回避不能だ。絶対にかわせない。避けるという選択肢を捨てる。残された時間を別のことに使わなければ、到底生き残れない。

 

 クインの体に数本の棘が食い込んだ。スクリューがコルク抜きのように肉を抉る。貫通して通り抜けるほどの速度があったはずだが、被弾した直後急激に回転の勢いが弱まり、クインの体に突き刺さった状態で棘は停止した。

 

 しかし、肉に食い込むように突き刺さったスクリュー状の棘は簡単に抜けそうにない。それ以前に、クインの体に力が入らない。手足の末端から感覚が麻痺していく。毒だ。死に至るほどではないが、オーラによる解毒は難しい。

 

 さらにそこから棘が独りでに動き始めた。強い力でクインの体が引っ張られる。よく見れば、棘の根元から細い糸のようなものが伸びていた。見えにくいが、おそらくウニの本体まで繋がっている。つまりこの棘は獲物を捕えるための銛であり、糸をたぐることで突き刺した目標をウニ本体が回収できるようになっていた。

 

 とても抗える力ではない。沈んでいくウニとともに、クインは海底へと引きずり込まれていく。

 

 だが、クインは犠牲となったが、本体だけは逃がすことができた。棘が着弾するまでのわずかな時間のうちに、衣服から浮き袋の部分を切り離して本体に持たせておいたのだ。

 

 何とか生き残るも、クインを失って卵の残数を大きく減らす。先ほど撃った『犠牲の揺り籠』による消費も含めれば、残りは全体の1割ほどだった。

 

 もう後がない。ここで『偶像崇拝』を使って新たにクインを作ったとしても、活路は見出せない。仮にあの『影』に頼ったとしても、海中では鎧の力も発揮できず沈む速度が増すだけだ。

 

 ウニが発射した棘は全方位に向けて攻撃されたものだった。つまり、すぐそばにいる発光クラゲの水球にも当たっているはずなのだが、特に損傷はなく何事もなかったかのように変化がない。棘の攻撃そのものを別の場所に移動させたのかもしれない。

 

 水球を包み込む泡の膜が防御壁となっている。しかも、その防御方法は敵の攻撃を転移させて無効化するという原理であり、どれだけ強力な攻撃だろうと物理的に破壊できるものではない。死を承知でこの距離から『犠牲の揺り籠』と撃ち込んだとして、それを幸運にも瞬間移動で避けられなかったとしても、なお防御壁を突破することはできないのではないか。

 

 もはや、なすすべはなかった。このまま見逃してくれることを願うしかない。クラゲの大群に比べれば、クイン本体から離れた本体など海を漂うゴミのようにしか見えないはずだ。

 

 クラゲたちが私を見ているのがわかる。私へと向けられる悪意の煙が細く伸び、クラゲたちの間で行き来している。それはくしくも、卵を用いて複数の意識を作り出した私に似ていた。

 

 この小さなクラゲの一つ一つがネットワークを作り上げている。脳細胞が張り巡らされたシナプスを介して高度な思考を実現するように、このクラゲの群れは一つの意識体として機能している。確証はないが、そう思えた。

 

 単なる動物ではない。人間と同じような思考力を持った存在だ。そのクラゲの群れが私を見ている。そして判断が下された。私へ向けられる悪意は消え去った。

 

 見逃された。取るに足らないものだと思われたのか。私は生かされた。これまでにも敵わない敵は大勢いた。中には今のように、トカゲのしっぽ切りのごとくクインを犠牲とすることで生き延びたこともある。これが初めてのことではない。

 

 このまま何もせず、じっとしていれば助かるのかもしれない。だが、その先にあるものは何だ。私を撃破したものと思い込んだクラゲの群れは、次にどこへ向かおうとするのか。

 

 船のところへと引き返すかもしれない。

 

 私は『侵食械弾』を撃っていた。打開や勝算と言った考えはなく、反射的に体が動いていた。何かを為そうとする意思はなく、ただ突き動かされるように攻撃していた。

 

 私の命と、仲間たちの命。私はどちらを重く感じているのか。船が襲われているという状況の中、とても歯が立たないような強敵を前にして、そして自分が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれてようやくわかった。

 

 私は死にたくない。そして仲間たちも助けたい。どちらかを選ぶことはできそうにない。この期に及んで、そんな都合の良いことを考えている。

 

 みんなで帰ろうと約束した。その“みんな”の中に、私もいたい。カトライやグラッグのように自分を切り捨てる覚悟は持てなかった。私はカトライの精神性を引き継いだが、彼そのものになったわけではなかった。もともとあった私と彼が混ざり合ったからこそ、この結論があるのだろう。

 

 だから、私はまだ死ねない。ここで勝たなければならない。引き分けでも駄目だ。薄情だろうが、刺し違えて死んででも船を救おうとまで思えない。だから『犠牲の揺り籠』は使わない。本当に死が目の前にまで迫り、それを使う以外にどうすることもできない状況でなければ使えないだろう。今はそのときではない。

 

 それは自分可愛さに怖気づいた逃げなのかもしれないが、不思議とオーラが乱れることはなかった。それまで不安に駆られ揺らいで見えていた敵の姿を、ようやくしっかりと見定める。その不気味に輝く黄緑色の光の中に、勝ちを導く灯火を見出す。

 

 ただその意気込みの一方で、『侵食械弾』は水中で急激に速度を減衰し、白い繭に包まれて停止した。その飛距離、わずか5メートル。敵に当たる当たらない以前に、全く届いていない。

 

 結果を見れば攻撃未満の小さな足掻きでしかなかったが、クラゲたちはそれを見逃さなかった。敵の悪意が急激に膨れ上がる。

 

 意思疎通はできないが、その悪意の質から敵の感情は読みとれた。私を脅威とみなしたのではない。自分にとって取るに足らない虫けらが、立場も考えず攻撃を仕掛けてきた。それが気に入らないのだ。おとなしくしていれば見逃してやったものを、わざわざ刃向おうとする鬱陶しさに立腹している。

 

 重奏される耳鳴りと共に、先ほどのウニが転移されてきた。それも一匹や二匹ではない。ざっと見ただけでも数十匹はいる。

 

 クインの体に突き刺さった棘の衝撃から威力を推測するに、この棘弾は私の本体の『堅』を貫けるほどの力はない。しかし、本体が持っている浮き袋は紙よりも容易く撃ち抜けるだろう。

 

 『仙人掌甲(カーバンクル)』で浮き袋を守ったとしても、果たして防ぎきれるかどうか。浮き袋に纏わせた『周』のオーラをアルメイザマシンで硬化させたところで本体の防御力ほどの効果は得られない。より防御力を高めるためには分厚い鉱石の装甲を作る必要があるが、あまりに重くなりすぎればそもそも浮かなくなる。一度作り出した結晶は解除して取り消すことができない。

 

 浮き袋を失えば、鉱物の装甲で覆われた本体は自重で海底まで沈んでいく。普通の水の中でさえ泳げないというのに、この海から脱するすべはなくなる。既に息苦しさは限界に近づいており、どんなに我慢しても窒息するまでもって数分だろう。

 

 棘の射線を探る。ウニたちは考えなしに棘弾を放っているわけではなかった。その一本一本まで精密にコントロールしており、これだけの数が一斉に棘を飛ばしているというのにまるで差し合わせたように軌道が重ならない。

 

 それゆえに敵がこちらに向けている悪意の線もはっきりと感じ取ることができた。見極めるまでもなく、回避は不可能だ。一枚の織物のごとく複雑に、規則正しく行き交う弾幕には一分の隙もない。

 

 それでも悲嘆にくれている時間はなかった。複雑に絡み合う糸を注視し、自分に当たる棘の軌道を正確に計算する。

 

 棘が当たる直前、浮き袋を『仙人掌甲』で保護する。棘の槍はその守りをあっけなく突破した。赤い結晶が砕け散り、海中を舞う。

 

 浮き袋が破壊され、気泡が外へと噴き出す。生命線である浮力がなくなった。だが、動揺はない。私の狙いは浮き袋を守ることではなかった。

 

 この棘弾は、目標物に突き刺さると勢いを弱めて停止する。その一瞬の隙をつき、私は浮き袋を捨てて棘へと飛び付いた。

 

 その棘は無作為に選んだわけではなかった。数千の棘、数千の悪意の線の中から選んだ一本だ。

 

 棘の銛は発射した持ち主のもとへと回収される。棘と共に、私の体は勢いよく引っ張られた。行きつく先は一匹のウニだ。そのウニは、クラゲが集まる水球のすぐ近くにいた。

 

 あと20メートル。

 

 みるみるうちに距離を詰める。その速度によって生じた粘性海水への刺激により、本体を白い繭が覆っていく。視界が隠される。それでも敵の姿を見失うことはない。絡みつく繭に抗い、尾の砲台を敵へと向ける。

 

 あと15メートル。

 

 私はこれまでにない感情を抱いていた。それは怒りだ。これまでに遭遇してきた災厄たちには散々苦しめられたこともあったが、こんな感情をもって相手をしたことはない。カトライを殺したワームにさえ怒りはなかった。なぜなら、それが奴らの自然の姿であり、生きる上で他者と衝突した結果に過ぎないからだ。

 

 あと10メートル。

 

 だが、このクラゲは違う。必要のない暴力をふるい、他の生命をもてあそび、その反応を見て楽しんでいる。その対象として私の仲間を傷つけたことが許せない。

 

 力を備え、高度に知性が発達したがゆえの傲慢さを悪意の中に見て取れた。今もまた、接近する私の姿を捉えながら余裕を崩していない。その嘲りこそ油断であり、私が付け入ることができる最後の勝機だ。

 

 あと8メートル。7、6、5、4……

 

 

 『侵食械弾(シストショット)』

 

 

 発射された弾丸を、敵は避けなかった。それは避けるまでもなく、転移で攻撃を無効化できるからだ。全力を尽くして接近し、死に物狂いで撃ってきた最後の攻撃を、あっさりとなかったことにする。そんな絶望感を私に思い知らせたかったのだろう。

 

 水の膜に到達したシスト弾は瞬時に芽吹いた。たとえ転移の力と『犠牲の揺り籠』を回避できるだけの反応速度があったところで防ぎようがない。もはやウイルスは感染し、発症した。

 

 水球そのものが一つの丸いサボテンと化した。その姿は、皮肉にも巨大なクラゲのようにも見える。内部から発せられる光によって周囲の海は赤く染まった。

 

 赤く光るサボテンは、無数のウニと共に海底へと沈んでいく。悪意の煙も、耳鳴りもなくなった。次第に光は弱まり、すぐに何も見えなくなった。

 

 なぜ敵は『侵食械弾』を転移させることができなかったのか。それは奴が“念能力者”だったからだ。この転移の力は念によって作られた能力であるため、アルメイザマシンで一気に劇症化させることができた。

 

 瞬間移動やワープと言うと、実現不可能なありえない能力のように思えるが、実は念を使えば同じような効果を再現できる。瞬間移動は放出系能力に分類される『発』の一つである。体の一部や全部を離れた場所へと移動させたり、具現化系と併用すれば現実に存在しない空間まで作りあげて出入りすることが可能なのだ。

 

 もちろん、このクラゲが放出系念能力者であるという確証はなかった。これまで念を使ってきた災厄はおらず、そのためアルメイザマシンはシスト弾を確実に撃ち込まなければ効果がないという先入観にとらわれていた。

 

 不用意なウイルスの感染拡大を防ぐため、攻撃時以外はデフォルトでアルメイザマシンの感染機能をオフにしているのだが、もしオンにした状態であったなら、砂浜から海中へと転移させられた時点で敵を倒していたものと思われる。

 

 戦闘中に気づいたのだが『凝』をして観察したところ、黄緑色の発光に紛れて生命エネルギーの輝きを感知できた。その輝きは耳鳴りと何かを転移させるタイミングに合わせて強くなるようだった。このことから念能力を使っているのではないかと思い至ったのだ。

 

 分の悪い賭けではなかったが、それでも厳しい戦いだった。もし敵が慢心せず、こちらの攻撃を全て回避していたら勝ち目はなかった。状況を打開するよりも窒息して意識を失う方が早かっただろう。

 

 そして敵を倒した今もなお、難局を脱したとは言い難い。浮き袋を壊された私は、本来ならあのクラゲやウニたちと一緒に海底まで落ちているところだ。奴らの後を追わずに済んでいるのは、クインを作り出し海上へ向かって泳いでいるからだ。

 

 卵の残数からしてこのクインが死ねば、それは本体の死と同義だ。それをこの粘性の海中で行うなど無謀でしかなかったが、他に手段がない。繭に捕らわれることを承知で、本体を乗せたクインを泳がせる。クインの体なら、わずかな時間だが遊泳が可能だ。

 

 意識がもうろうとする中、ついに海上へと出た。しかし、まだ呼吸はできない。本体の体表面を凝固した粘液の層が覆っているからだ。これは拭い取れるようなものではない。触ろうとしてもつるつる滑り、余計な刺激を与えてますます固まるだけだ。

 

 生物は呼吸によって外気から酸素を肺に取り込み、体内に生じた不要な二酸化炭素を吐き出す。実は呼吸ができない状況において、息を吸えないことよりも吐き出せないことの方が苦痛である。この粘液の海中では繭のせいで肺の中の空気を吐き出すこともままならない。

 

 その溜まりに溜まった不要な空気を一気に口から吐き出した。正しくは口ではなく気門と言う。昆虫は気管の開口部が体表にあるものが多く、これを気門と呼ぶ。私の場合は、本体の腹部両側面に八対の気門が並んでいる。そこから放出系系統別修行の要領で、空気をオーラと一緒に勢いよく噴き出した。

 

 数度の挑戦の後、ようやく気門の一つが開ける。本当にギリギリだった。あと1ミリでも繭が厚くなっていれば助からなかったかもしれない。今回の戦いで最も苦しめられたものは、あのクラゲと言うよりもヌタコンブの粘液だ。

 

 繭によって身動きが取れなくなる前に海上へと出ることができたクインは、その場で盛大に水を掻いた。それによって繭はますます凝固して大きくなる。この海で遭難した際は何もせず、じっとして助けを待つことが鉄則であるが、私はあえて真逆の行動をクインに取らせた。

 

 クインを海上で暴れさせることで、繭の中に空気を取り込む。そうすることによって繭を浮力材として利用する。大の字に手足を広げたクインの体を基礎として、即席のボートを作り上げた。当然、この状態ではクインが息をすることができないが、血中の酸素欠乏はオーラ修復で補える。すぐに窒息することはない。

 

 まず、助かったことに安堵した。次に仲間の身を案じる。船はどうなったのか。無事に持ち直すことができたのか。

 

 どこまでも続く夜の海には、私の姿以外、何も見つけることができなかった。

 

 船も、陸も、何も、ない。

 

 



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海越え編
23話


 

 三日三晩、漂流が続いた。風と波に任せて流される他にできることはない。

 

 残りの卵も少ない中、クインの酸素補給のためのオーラを捻出しなければならなかった。卵を生産するためにも何か食べるものが必要だ。また、本体の生命維持に必要なエネルギーは光合成でしばらくの間はもつが、そのためには水も必要だった。長期的な海上遭難について回る最大の問題が水分の確保と言われている。

 

 これについては海水を利用した。普通の陸棲動物なら塩分の排出の方に水分を大きく消費してしまうため、海水の飲用はできない。しかし、私の本体はもともと水の少ない砂漠地帯に生息するキメラアントの個体だ。赤い鉱石植物を主食とし、高濃度の毒素で赤く色付いた組織液からでも、わずかな水分を分離抽出する機能をもっている。海水を飲んでも支障はなかった。

 

 むしろ食物の確保に苦労した。海中には一切、動物の気配は見られない。時たま海上を昆布の残骸が浮遊しているのだが、自分から取りに行くことはできない。運よく近くに流れてくることを待つしかなかった。

 

 卵をうまく増産できず、クインの維持に必要なオーラ消費量も馬鹿にはできない。総合的に見れば、徐々に消耗が大きくなっていた。常に酸素をオーラで補い続ける状況は、平時と比べて大きな負担だった。

 

 天候の問題もある。ひとたび海が荒れれば一巻の終わりだ。ただの海ならまだしも、ヌタコンブの生息域で波に揉まれれば命はない。粘性の海は一向に終わりが見えなかった。

 

 私は何もできなかった。ただ、じっと波間を漂い続ける時間が過ぎる。唯一、良かった点をあげるとすれば、考える時間だけはたっぷりとあったことだろう。

 

 自分が置かれた境遇について考えることはあまりなかった。大半の時間は、仲間たちのことを考えていた。船は無事だろうか。チェルとトクノスケは元気だろうか。自分のことよりも船のことばかり考えていた。考えたところで結果がわかることではない。ある意味で、それは救いだった。

 

 わからないから、最悪の事態に至ったと断ずることもできない。何事もなく帰国へ向けた航海を続けている可能性はある。私は一緒に行けなかったが、別の方法で暗黒海域を渡る道を探せばいい。時間はかかるだろうが、可能性はゼロではない。

 

 だから、良かったのだ。たとえその考えが、どれだけ希望に満ちた推測の上に成り立っていようと、私は未来を思い描くことができる。まだ、できる。

 

 自分でもどうしてかわからないが、何の確証もないことを当たり前のように信じている。私の頭の中には、全てが順調に進む未来だけがあった。

 

 おそらく、その輝かしい未来は何か問題に突き当たるたびに下方修正されていくのだろう。丸めた紙のように小さくクシャクシャになっていき、無価値なものになり下がってしまうかもしれない。その先の未来を、今の私は想像もできない。

 

 無知よりも愚かに、考えることを拒むがゆえに、人は前に進むことができるのかもしれない。それは間違いなく弱さでしかなかったが、生きるために必要なことだった。

 

 

 * * *

 

 

 漂流から4日目。依然として粘性の海は続く中、島を発見する。

 

 島と言っても、サンゴ礁の堆積によってできた砂の隆起に過ぎず、海上に顔を出している部分は十メートル四方もないほどの面積だった。潮が満ちれば完全に海中に沈むだろう。

 

 ただ、その付近は海底が目視できる場所がところどころ見つかるほどの浅瀬が続いていた。同じような小さな砂山の島が点在している。大陸が近くにあるのかもしれないが、見つけることはできなかった。

 

 そして、小島群を越えて流れ着いた先に大きな島を見つけた。入り組んだ潮の流れはこの島に吸い込まれるように向かっていた。上陸を果たすも、どこか不気味さを拭えない。

 

 とはいえ、幸運には違いなかった。このままオーラがいつ尽きるともわからない状態で漂流を続けていれば、そのまま衰弱死していた恐れもありえる。ひとまず、数日のうちに陸地へたどり着くことができたことは僥倖だった。

 

 だが、そんなかすかな喜びも上陸して間もなく消しとぶことになる。一歩、砂浜に踏み込んだ瞬間、異常を感じ取った。本体とクインの体からオーラが減っていく。微々たるものだが、体外へと吸い出されるような感覚があった。

 

 どこからか攻撃を受けているものと考え、すぐさまアルメイザマシンの感染機能をオンにするが、オーラの減少が止まることはなかった。オーラに関係する攻撃ならば、相手は念を使っているはず。なのに、アルメイザマシンに反応がない。

 

 攻撃ではないのか。敵の悪意を感知することはできなかった。例えば環境が作り出した特殊な現象であったり、この地に存在するリターンが特別な効果を引き起こしている可能性もある。

 

 いずれにしても、まずいことになった。ただでさえオーラの消耗が負担となっているこの状況で、さらに外部から余分なオーラを吸い取られることは看過できない。原因を突き止める必要があった。

 

 しかし、まず先にやらなければならないことは、クインを白い繭の外に出す作業だ。粘液の繭は強靭なシェルターと化していた。生半可な攻撃は受け付けない。特に打撃は一切通用しない。何の道具もなく、これを取り除くことは多大な労力を強いられる作業だった。

 

 本体の牙で少しずつ繭を食いちぎり、実に半日近い時間を要してクインを救出する。作業は早朝から開始したが、終わったときは日没に近い時間帯だった。

 

 これで酸素補給に使うオーラの消費はなくなったが、状況は一向に好転していない。オーラ吸収現象は絶え間なく続き、収支は以前より悪化していると言えた。

 

 島外に出ることも考えたのだが、その場合は再び先行きの見えない漂流生活が待っている。今日まで偶然にも穏やかな晴れの日が続いたが、一度でも雨風に見舞われればお終いだ。ここなら少なくとも天候不順が理由で死ぬことはないし、砂浜には昆布が打ちあげられているため食料の入手も容易である。

 

 滞在を決定する。目下、最大の課題はオーラ吸収現象の解決だ。可能なら、原因を排除したい。そのためにはこの島を詳しく調査する必要がある。

 

 外見からして不気味な島だった。海の上に突き出た台地のような形をしている。私が漂着した場所はこの台地の裾野に広がる砂浜である。草木は一本たりとも発見できなかった。無論、動物の気配も感じない。オーラを吸い尽くされて死滅してしまったのだろうか。

 

 台地の壁を登る。砂浜部と台地部は明らかに地質が異なっていた。灰色をした硬い岩肌はボコボコと小さな穴があき、軽石状になっている。大小様々な無数の穴は壁登りをするのに適していたが、何かが奥に潜んでいるような気持ち悪さがある。結局、何の気配も感じなかったのだが、警戒を怠らずに登った。

 

 台地の高さはそれほどなく、10分もせずに登頂できる程度のものだった。その上に広がる景色は何とも予想外のものであった。

 

 私が台地だと思っていたものは、環礁だった。サンゴ礁が環状に連なってできる地形である。大昔、火山島だった場所を中心としてサンゴ礁が広がり、その後、何らかの要因で火山島が沈降することによって環状の礁だけが海上に残り出来上がる。

 

 私がさっき登っていた壁は環礁の一端だった。内部にできた礁湖(ラグーン)を取り囲むように高い礁の壁が作られている。障壁の中に湖が隔離されているかのようだった。

 

 壁の最上部から広大な湖が一望できた。まるでガスに灯した火のように真っ青に輝いていた。今の時間帯は夕方である。空は茜色となり、海もまたそれを映したように赤く染まっているというのに、礁湖だけは冴えわたるような青だった。暗くなるにつれ、湖自体が青い光を放っていることに気づく。写真にでも収めて見れば絶景と言える美しさなのかもしれないが、じかに体験する身としては恐ろしさの方が先行した。

 

 湖の中心に一つだけ、小さな島があった。おそらく沈降した火山の頂がわずかに残った場所と思われる。そこに何かの影があった。クインの視力を強化して見るも、この距離からでは遠すぎて詳細はわからない。

 

 背丈の低い木のようなものが並んでいるようにも見える。何かがそこに密集している。しばらく観察を続けたが、その影が動く様子はなかった。しかし、生命の気配が絶えたこの島にして唯一、生きた存在がいることを臭わせる場所だった。

 

 結局、小島の影の正体はつかめなかった。得体が知れず、どんな危険があるかわからない。それ以前に、島にたどり着くためには湖を渡る必要がある。湖と言っても海水が流入してできたものであり、その水も粘液に汚染されている。渡る手段はなかった。

 

 

 * * *

 

 

 島に到着してから8日が過ぎた。

 

 オーラの吸収は続いている。そればかりか以前よりも吸収量が増えてきている。クインの最低限の存在維持にかかるオーラを払うことも難しくなってきた。慢性的なオーラ不足が続き、体調にも支障が出てきている。

 

 昆布をたくさん食べて新たに卵を作ろうとしたのだが、オーラ吸収が悪影響を及ぼしていた。卵になる前の生命として未分化な細胞の状態のときにオーラを吸収されてしまい、育つ前に死んでしまう。卵は生物として最も未熟で弱い状態とも言える。そのときに生命エネルギーを吸い取られると、きちんと命として作り出すことができないのだ。

 

 一旦は4割程度まで卵の残数が回復していたのだが、こちらのオーラ生産量が上がるにつれて吸収される量も増えていった。

 

 現在の卵の生産率はほぼ横ばいのまま、緩やかに下降している。卵がオーラを生み出す源である以上、その卵がどんどん失われていけば、さらに生産率の低下は大きくなっていくだろう。そのうち『偶像崇拝』の発動を維持することができなくなる。

 

 滞在3日目のとき、ついに天候が崩れ、大雨に見舞われた。海に出ていれば助からなかっただろう。島に留まった選択は間違っていなかったが、このままでは漫然とした死を待つのみだ。

 

 オーラは足元から地面を通して吸い取られているようだ。だが、地面に直接足をついていなくても吸収から逃れることはできない。アルメイザマシンで作ったサボテンの上に乗っていようと、しっかり吸い取られる。

 

 調べられる範囲で島を隈なく調査して回った。この近海は、私が今いる環礁を中心としてサンゴ礁が広がっていた浅瀬が続いているが、大陸とは繋がっていない孤島群である。

 

 環礁の半径は、少なくとも数十キロメートルはある。内部にはコバルトブルーのラグーンが広がる。この湖には青く発光する成分が含まれているらしく、夜になると光は顕著に観察できる。この光や水について今のところ、特に害は確認できない。

 

 湖の水深はかなり浅いようだが、数か所だけ底が見えないほど深く巨大な穴がある。それも自然にできたとは思えないほど真円に近い形をした穴だった。気になるが、現時点では調べようがない。

 

 環礁を一周して調べたが、オーラ吸収の原因は特定できなかった。残すは湖中心の小島だけだ。そこに何もなければ打つ手がない。

 

 ただ、明らかに怪しい場所である。当初は昆布を食べて卵を最大値まで増産し、『犠牲の揺り籠』を使用して攻撃する計画もあったが、早々に頓挫している。直接、乗り込んで調べるしかない。

 

 まるっきり手がないわけではなかった。実は、ここ数日で海の水位が大きく下がってきている。もともと浅瀬が多いこの近海では、干潮時に歩いて渡れそうな島もあった。礁湖の水深は周囲の海と比べても浅く、引き潮のときなら渡ろうと思えばできないことはなかった。

 

 しかし、たとえ水深が1センチだろうがその水たまりに足を取られるのがこの海だ。完全に干上がらなければ安心して渡れない。もし渡っている途中で潮が満ちてくれば厄介だ。小島に行って、何事もなく帰って来られるとも限らない。

 

 災厄と戦うことも視野に入れる必要があった。それでも行かなければならない。滞在10日目、時刻は早朝。ようやく日の光が海の向こうに差し込み始めた頃、青く輝く湖へと足を踏み入れた。

 

 湖の中でも特に浅い部分を選んで進む。干上がっていると言っても、濡れた足場はまだぬるぬるとよく滑った。小島までの距離は、おおよそ数十キロある。これがただの陸道なら念能力者にとってなんてことはない距離だが、必死にバランスを取りながらそれほどのスピードを出すことはできない。

 

 まだ水が残っている場所も多くある。足を滑らせてそこに落ちれば多大なロスが生じる。慎重にならざるを得ない。干潮によって行動できる時間は長く見積もっても1時間ほどだろう。時計もなく、進み始めてからどれだけ時間が経ったのかもわからないまま、刻々と積み重なる心臓の鼓動が余計な焦りを呼び込んでいた。

 

 小島まで行って帰ってくる時間は残されているのだろうか。それに加えて戦闘も想定しておかなければならない。消耗したオーラ、万全ではない体調、募る焦りは大きくなる。

 

 日と夜が交わる時間を、私は歩く。干上がって顔を覗かせた湖底の道は、青白く光を放つ溜まり水の中に黒く浮き上がっていた。のたうつ蛇のように幾筋も続く道の上を、黙々と歩き続ける。

 

 巨大な穴の横を通った。くり抜いたように丸い穴は、たっぷりと水が満ち、スポットライトを浴びる舞台のごとく煌びやかに輝いていた。一つの命もない虚ろな湖には、そぐわない華々しさ。誰もその舞台に降り立たないことを願いながら、そばを通り過ぎて行く。

 

 ゆっくりだが、確実に小島に近づいていた。それにつれて吸収されるオーラの量が増えていく。やはり、全ての原因はあの島にある。何としてでも確かめなければならない。

 

 小島は整った三角錐に近い形をしていた。地質は環礁にそびえたつ灰色の崖と同じものだった。ただ異なる点は、山頂に緑があることだ。そこにだけ植物らしきものが生えている。

 

 しかし、ただの植物ではない。小島まであと数十メートルと言った距離まで近づいたところで、その緑に動きがあった。遠目から木のように見えていた何かが移動している。ここまで近づけば、その正体をしっかりとこの目で捉えることができた。

 

 大きさは人間と同じくらいの植物だ。茎と大きな葉を手足のように動かし、地上を歩いている。茎の全体から細い毛のようなものが無数に生えている。それが根かどうか不明だが、地面とは繋がっておらず、自由に行動できるようだ。最上部には丸く肥大化し、カリフラワーのような花をつけている。実かもしれない。

 

 それらは私が接近していることを感知したのか、小島の波打ち際までわらわらと集まってきた。立ち止まらざるを得ない。

 

 クインは舌打ちした。薄々予想はしていたが、最悪の相手である。敵は植物。アルメイザマシンは、植物に感染することができない。

 

 植物が動物のように動き回り獲物を捕食する。そういった類の化物に、これまで出遭ったことがないわけではない。数は少ないが、ジャングルにはそんな非常識な敵もいた。しかし、私の能力の相性的に敵うはずもなく、全て戦闘を避けて逃走している。

 

 幸いにして敵は湖の中にまで踏み込んでくる様子はなく、島の岸で待ち構えているだけだ。粘液水はこの植物にとっても好ましいものではないらしい。互いにその場に立ち尽くしたまま、睨み合いが続く。

 

 植物たちの動きはそれほど速くない。こちらが陸にさえ上がれば簡単に翻弄できるだろう。しかし、向こうもそれをさせじと小島への上陸を阻んでいる。別の場所から回り込もうとすれば、当然敵もついてきた。

 

 だが、よく観察すればその動き方はどこかぎこちない。一体の植物が前方に立っていた仲間を押し出し、湖に突き落としてしまった。落ちた植物は必死に水たまりの中でもがくが、他の仲間は助けようとする様子もない。見て見ぬふり、と言うより、認識すらまともにできていないようだ。ただ私を岸に近づかせないことだけを優先している。

 

 そして植物たちからは悪意も感じることがなかった。何と言うか、自分の意思で行動しているのではなく、与えられた命令に従うロボットのような印象を受ける。行動が非常に単純なのだ。

 

 『凝』で確かめたところ、明らかに不自然なオーラを感じた。植物の体から細く伸び出たオーラの気配が小島の山頂の方に向かって、一本の糸のように続いている。これは操作系能力者特有のオーラの流れだ。

 

 どうやら山頂に能力者本体がいて、この植物はそれに操られているようだ。悪意を感じないところから見て、簡単なプログラム通りの行動しか取れない『自動操縦型(オートタイプ)』の生物操作。この数を一つ一つ『遠隔操作(リモート)』で動かすにはかなりの技量が必要となるのでそれは仕方ないのだろうが、能力者自身の位置を特定できるようなオーラの流れを残している点は決定的に未熟な証だ。

 

 一度に操作できる対象の数は多いようだが、念獣ならともかく元から実体のある生物操作なら難しいことではない。はっきり言って、念使いとしての技量はそれほど高くない。

 

 この植物たちを相手にしている最中も、オーラ吸収攻撃は続いている。その原因は、小島の山頂にいる存在が関わっている可能性はある。それがもし植物なのであれば、アルメイザマシンが通用しないことにも納得がいく。

 

 とにかく、この操られた兵隊植物を片づけないことには上陸もままならない。問題は、今の私の力で撃破可能かという点だ。

 

 外見だけを考慮すればそれほど強そうには見えない。巨体の持ち主でもなく、装甲も持たず、動きも遅く、個の力よりも数に頼り、見るからに貧弱だ。そういう敵は毒を持っていることが多いので気をつける必要はあるだろうが、近づかなければ問題ないのではないか。

 

 たとえアルメイザマシンが効かなくとも、『侵食械弾』には銃弾程度の殺傷力がある。植物たちは湖岸にひしめいて待機しているが、言い換えればそれはこちらを捕捉できるような遠距離攻撃の手段を持たないということを意味している。一方的に攻撃することが可能かもしれない。

 

 残された時間は少なかった。このまま何の収穫も得られないまま逃げ帰れば状況はさらに悪くなる。今日は湖を渡れるほど水位が下がったが、明日はどうなるかわからない。今日こそが潮汐の差が最も大きくなる大潮の日かもしれない。その日を正確に判断する知識や技術はなかった。

 

 今なら、まだ卵に余裕がある。クインが死んでも、ぎりぎり代償を払いきれる。そのような事態となれば危険であることに違いはないが、最悪でもクインを一回犠牲にすることでオーラ吸収現象の原因を取り除くことができるかもしれない。日に日に卵の残数が少なくなっているこの状況で、次の大潮を待っていては、そのチャンスすらなくなる恐れがあった。

 

 もとより危険を承知でここまで来たはずだ。覚悟を決めて弾丸を撃ち放つ。

 

 シスト弾は一体の植物の頭部(花)を撃ち抜いた。敵は事切れたようにその場に倒れ伏し、動かなくなる。避けるそぶりすら見られなかった。あっけなく敵を倒すことに成功する。

 

 少しばかり弱すぎることに警戒したが、弱肉強食の坩堝と化した暗黒大陸の密林に比べればこの島の環境は生ぬるい。周囲をヌタコンブの海で囲まれているから外敵の侵入がないのだ。言わば、私の本体が最初に生活していた巨大な蛇の背中に近い環境と言える。

 

 あの密林のように過剰な淘汰の中で進化を遂げていた生物の方が異常なのであって、この島の環境ならそれに合わせた強さの生物が生まれるはずだ。

 

 その推測は確かに正しかった。兵隊植物たちは弱かった。自分の意思で行動することなく、敵の反応に対して自動的に対処する。それは致命的な隙である。

 

 私は敵を侮っていなかった。むしろ、過剰に評価してしまった。“自分が敵の立場であればこのように行動する”という最適解を、勝手に当てはめていた。たとえば、飛び道具を持っているならさっさと使っているだろうという先入観から、敵は遠距離攻撃の手段を持たないはずだと。

 

 植物たちが何かを飛ばしてくる。反応が遅れた。『思考演算』を使うが、攻撃は既に行われた後だった。オーラを纏った念弾が大量に飛来する。

 

 回避は、できない。防御するしかない。しかし、得体の知れない攻撃だ。直に触れれば何が起きるかわからない。コンマ1秒の世界の中で、瞬時に判断を下す。

 

 『円』をアルメイザマシンで固めて防壁を作った。以前、クインが暴走した際に使っていた技である。鎧については再現できなかったが、円の防壁化は使えるようになっていた。

 

 敵がばらまいた念弾は、障害を意に介さず直進する。

 

 

「?」

 

 

 気がつけば、防壁に穴があいていた。『堅』で守りを固めていたクインの体にも、同様の穴があく。全てが終わるまで何もわからなかった。弾が貫通した衝撃は一切なく、ただ、通過した場所が最初から何もなかったかのように消滅している。

 

「あ、ぇ……?」

 

 遅れて血が噴き出す。この際、それはよかった。そんなことを気にしている場合ではなかった。

 

 クインの目が本体を捉える。本体に、穴があいていた。頭部の一部と胴体の半分が抉り取られたかのようになくなっている。ほつれた靴紐のように、はみ出した臓器が垂れ下がっていた。

 

 無論、本体も『堅』で最大級の守りを固めていた。私が持ち得る限り、最高の守りである。これまで傷つくことはあっても、決して砕けることはなかった装甲が、何の抵抗もなく。

 

 次の瞬間、クインの体に新しい穴が追加されていた。何の悪意もない、命令に従うだけの機械的な攻撃は、私の目を惑わせた。もし、明確な意思をもって攻撃されていたなら、その予兆を読み取ることができた。その軌道を察知できた。

 

 つまり、私は『悪意感知』という能力に頼り切っていた。何の活用もできず、ただ与えられた力の恩恵を享受していたに過ぎない。それが私の実力だった。

 

 植物たちは弱かった。ただ、私はそれ以上に、救いようがないほどに弱かった。

 

 クインの太腿が消えてなくなる。肩がなくなり、腕が落ちる。わき腹をごっそりと抉り取られる。クッキー型でくり抜かれた生地のように、丸い風穴があいていた。

 

 ほぼ無意識に、染みついた回避感覚が反射的にクインの体を動かしていた。かろうじて即死を免れる。カトライに助けられたと言っていい。手足の修復は後に回し、腹部の損傷を最優先で直していく。

 

 ――それで?

 

 ノイズが走る。本体の脳はまともに機能していなかった。卵に宿る意識が代わりに思考している。クインのように簡単に治せる傷ではない。温かい何かが流れ出て行く。自分の状態、置かれた状況を正確に理解していくほどに、全ての可能性が一つに収束する。

 

 ――もう無理だ。

 

 植物たちはそれ以上、追撃してこなかった。敵を仕留めたものと判断したのだろうか。攻撃の手は止んだが、依然として岸辺に待機しており、いつ襲いかかってきてもおかしくない状況が続いている。

 

 ――何をしよう?

 

 おそらく、すぐに息を引き取ることはない。キメラアントは頭部と胴体が切り離されても一日くらいなら生きていられる生命力をもつ。だが、それは生きているというより、死んでいないだけに過ぎない。死を待つ時間が長く与えられただけだ。

 

 ――何を

 

 産卵管から卵がポロポロと吐き出される。大事な動力源を体外に排出する理由はない。意図して取った行動ではなく、体が勝手に動いていた。

 

 例えるなら、叩き落とされた雌のハエが腹から蛆を撒き散らすように、それは生物としての本能だった。

 

 途端に、自分がこれから死ぬのだと理解した。靄がかかったようにかすんでいた行き先が、はっきりと眼前に現れる。それは今まで感じたこともない恐怖だった。

 

 肉体的な、生物学上の死ではない。こんなところで人知れず、誰にも気づかれず、最初から存在しなかったかのように、ゴミのように、虫のように、死ぬ。

 

 クインは叫ぶこともできなかった。声を出せば敵に気づかれるかもしれない。喉の奥に封じ込めた慟哭が、震えとなって全身を駆け廻った。意識が揺らぎ、視界が傾き、地面が揺れているような錯覚に襲われる。

 

 いや、それは錯覚ではなかった。本当に地震が起きている。植物たちが慌てたように島の中央へと引き返して行った。死を拒む私の嘆きが天に通じ、何者かが私に救いの手を差し伸べた。そんな都合のいい妄想を本気で信じそうになる。

 

 地響きと共に、湖の各所から巨大な塔が姿を現す。ここに来る途中でも見かけた、湖底の穴だ。その穴から螺旋状にねじれた塔が、何本もせり出すように上がってくる。良く見れば、それは細長い巻貝の殻だった。

 

 貝殻はその場でぐるぐると回転し始めた。貝殻の巻きに沿って青いラインが点灯し、ドリルのような回転に合わせて光を強めていく。その光に吸い寄せられるように、湖面から青い粒子が飛び立ち始めた。空気中を雪のように青い光が飛び交う。

 

 この島に滞在した数日間で、このような巨大生物の出現は見られなかった。確かなことは言えないが、今日という日が関係しているのかもしれない。私が干潮を利用して湖を渡ったように、この生物は習性として大潮の日に湖上に現れるのではないか。

 

 この巨大な巻貝が湖の水に含まれる青い光の成分を捕食するだけなら、今の私にとって救いとなっただろう。

 

 本体が、巻貝の方へと引っ張られ始めた。地面にしがみつこうとするが、ぬめる湖底の砂地はつかみどころがない。クインが本体を手で引き留めるも、吸引力は次第に強まり、ずるずると引きずられていく。

 

 クインに対して、この力は働いていない。確認出来る限り、本体と青い粒子のみが影響を受けている。もしかすると、この粒子は金属なのではないか。まるで磁石に引き寄せられるように見えない力に捕らわれる。

 

 巻貝は、私に対して何の悪意も抱いていなかった。当たり前だ。皿の上の食物に対していちいち害してやろうと息まく者はいない。ましてや、私はクジラに捕食されるオキアミのようなものだ。個としての存在すら認知されていないだろう。

 

 そこに壮大な物語などない。この島の生物の営みに紛れ込んだ不純物が淘汰される。ただそれだけの、ひどく単純な話だった。

 

 私は弱かった。生きることも許されないほどに弱い。ここで死なずとも、いつかこのときは来ただろう。

 

 困難にぶつかったとき、それを克服することで成長してまた前に進めると思っていた。あまりにも甘い。限界を迎えたとき、その絶望を乗り越える機会さえ与えられず、現実は唐突に終わる。

 

 

「あああアアアァァァァ!」

 

 

 クインに悪意の影を重ねた。黒煙が鎧を形取り、いまだ修復が間に合わない手足の代わりの義肢となる。

 

 覚悟が足りなかった。格上の相手がいくらでもいることをわかった上でなお、持てる力を自ら制限し、くだらない信条にこだわっていた。生き残るためには、あらゆる力をかき集めなければならなかった。

 

 もう、諦めよう。

 

 人間であろうとすることが生きることを妨げるのであれば。

 

 今の私に、この海を渡る力はない。

 

 



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24話

 

 大潮の日が来る。暁も昇りきらぬ群青の空は、死と敗北を喫したあの日を彷彿とさせた。

 

 クインは小高い環礁丘にいた。『共』を使い、研ぎ澄まされた感覚の中、水平線の彼方を見据えていた。島から数キロ離れた海上に黒煙が狼煙のように立ち上る。その場所から捻じれた歪な塔が浮上してきた。

 

『北北西、敵数1、第3、第4エリア、砲門発射用意』

 

 電波通信(テレパシー)で信号を送り合う。その行為に実務上の意味はなかった。“私たち”は常にリアルタイムで感覚と情報を共有している。それをわざわざ言葉にして伝え直す必要はない。

 

 言うなれば、これは決意の表明だ。これから起きる種の存続を賭けた戦争に対する口火。互いに、一歩たりとも後には退けない。勝てば生き、負ければ死ぬ。大義名分も題目も複雑な理由もない、ただそれだけの単純で原始的な闘争である。

 

 敵は巨大な巻貝の災厄(リスク)だ。ヌタコンブの海域に適応した生物の一種であり、その貝殻から強い磁力を発生させることができる。私は一度、この巻貝によって完全に滅ぼされる寸前まで追い込まれた。

 

 実際、当時の私はそのときに死亡した。今、生きている私はその子である。アルメイザマシンの時に1回、そしてこの巻貝との戦いで1回、世代交代を繰り返した今の私は第3世代ということになる。

 

 キメラアントは摂食交配によって食べた生物の特徴を子に発現させることができる。つまり、後の世代になるほどに個体が持つ遺伝的特徴は増えていく。進化などという言葉では生ぬるい、生物の根本的な在り方に対する冒涜とも言えた。もっとも、暗黒大陸においてはその程度の強みなど大したものではない。キメラアントは、どこにでもいる弱小種の一つでしかないのだ。

 

 それでも、私に与えられた可能性の一つであることに違いはなかった。本来であれば、摂食交配による次世代の強固な個体を旺盛な繁殖力によって際限なく増産していくことこそ、キメラアントとしての生存戦略である。これまでの私はその力を自ら制限していた。

 

 キメラアントであるにも関わらず、どこかでそれを否定する自分がいた。人間になろうとするあまり、自分の中に余計な線引きを作ってしまったと言える。これまではそれで何とかなったが、ここから先に進むためにはなりふり構っていられない。今の私に、拘っていられるほどの強さはない。

 

 それは危険な賭けでもあった。『人間である』という意識と『キメラアントである』という意識を同時に抱えることになる。これまでも二つの意識を併せ持っていたことに変わりはないが、程度の問題だ。どちらかを立てれば、もう一方が立たなくなる。ある意味で、キメラアントとしての力の制限はその両立できない意識の結果でもあった。

 

 ダブルスタンダードは念能力者としての信念を弱め、堕落させる可能性がある。確固たる目標を持ち、そのために生きるという決意を揺るがす。もしくは、その矛盾を自覚した上で抱え込むことで精神に異常をきたすかもしれない。

 

 一つ言えることは、これまでの私と今の私は決定的な意識の違いがあるということだ。それが良い変化であるか、悪い変化であるか、判断することはできなかった。

 

 第3世代として生まれた私は数の力を手に入れた。個としての存在から群としての存在となる。すなわち、本体が複数同時に存在し、なおかつそれらが一つの意識共有体のもとに思考を統一した状態となった。現在、本体の数は数千体にまで増殖し、それら全てが女王アリとしての生殖能力を備え、約千個の卵を保有している。

 

 これでクインを何人でも作り出すことができるし、『犠牲の揺り籠』も撃ち放題だと思った。しかし、誤算があったとすれば念能力の仕様だ。『偶像崇拝』は制約として『同時に二体の念人形を作ることができない』と定めていた。本体の数が増えても、この制約は有効だった。

 

 つまり、本体が何千体いようが作れるクインの数は一人ということだ。意識を共有し、全ての本体が“私”として機能している以上、制約から逃れることはできない。これは代償として支払う卵についても同様に言える。『犠牲の揺り籠』を使って消費される卵の数は、全体の五割以上。全ての本体が同じだけの卵を消費する。これまでと同じく連続して2回は使えないということだ。

 

 ならば、意識を共有せずに独立させた本体に念能力を使わせてみればどうかと考えたが、『精神同調』を切った個体はもぬけの殻同然に全く動かなくなった。感覚の一部を分断して操作することは可能だが、完全に意識を独立させると死んだように動かなくなる。

 

 『犠牲の揺り籠』が以前と同じようにしか使えないとなると、本体の数が増えたところで遠距離攻撃の乏しさが改善したとは言えない。たとえば、数キロ離れた海上にいる敵に対して、1発念光線を放てばそれで撃ち止め。後は敵が近づいてくるのを待つしかなくなる。

 

 しかし、その点も抜かりはなかった。私が手に入れた力は“数”だけではない。敵を食べることでその特徴を取り込む能力がある。私は巻貝の殻に含まれる鉱物を食べることで、磁力を発生させる能力を得た。

 

 巨大な巻貝は湖から青い光の粒子を集めるため、大潮の日にこの場所へやってくる。この粒子こそが磁力を操る力の源だった。この島における希望(リターン)と言えるだろう。巻貝たちはそれを利用している。

 

 キメラアントの中でも異質な体質、金属を食べてその特性を外骨格に反映する能力を私は持っている。その交配の結果は次世代に現れるため、これまで積極的に使うことはなかったが、縛りが取り払われた私に躊躇はなかった。その結果、何が可能となったのか。

 

 海の上にそびえ立つ巻貝の塔は、島から目視できるほどに巨大だった。その目標を見定め、海岸線に並ぶアリたちが一斉に『仙人掌甲(カーバンクル)』を発動する。

 

 サボテン状に膨らんだ広い土台の上に一輪の花のつぼみが形成された。そのつぼみは異様に大きく全長10メートルほどある。形状はアサガオに近い。たたんだ傘のように先端が尖った細長い形をしている。

 

 赤い宝石でできた彫刻のようなつぼみは、螺旋状に巻きつく青いラインがあしらわれていた。このラインは本体にも幾何学模様のように走っている。

 

 それを作り出した本体自身は、つぼみの付け根部分に埋め込まれる形で待機していた。尾針の産卵管を始点として、その軸上につぼみが形成されている。その正体はシスト発射管の延長バレルだ。発射されたシスト弾は、つぼみの部分を通過する過程で電磁加速による推進力を得る。

 

 『侵食蕾弾(シストバースト)』と名付けたその技は電磁投射砲(レールガン)の原理を用いていた。

 

 調査船にいた頃、私は何もすることがない時間を読書で潰すことが多かった。軍事関連の書籍が多く、その中の一冊にレールガンに関する記述があった。

 

 2本のレールを平行に設置し、その間を滑るように伝導体を挟む。そして片側のレールからもう一方のレールへと伝導体を仲介するように電気を流す。すると、そこに磁界が発生してローレンツ力がはたらき、伝導体がレールの間を押されるように移動する。この力を利用して弾を押し出す装置がレールガンである。

 

 火薬を用いる火器では、そのエネルギーのほとんどが投射に関係ない熱として失われるが、レールガンは投入するエネルギーに対するロスが圧倒的に少ない。また、爆発による気体の膨張速度が弾丸の発射速度の限界だった従来の兵器に対して、初速を得やすい。その速度差は投石と銃撃を比較するような隔絶がある。

 

 弾体の速度はそれだけで絶大な威力となる。数百キロメートルに及ぶ射程、弾体は炸薬を用いずとも有り余る破壊力を発揮し、長距離弾道ミサイルなどの攻撃に対しても容易に正確な迎撃を可能とする。この兵器が実用化されれば、戦争史は一変していただろう。

 

 数多くの試作がなされたが、実用に堪えるほどの兵器は完成しなかった。いまだ多くの課題が残されている。

 

 伝導体がレール上を移動する際、発生する摩擦の問題。また、わずかでも電気抵抗が起これば、そこに大量の電気が流れ込むことで大きなジュール熱が生まれる。レールや砲身の強度はどうにかできても、レール内を高速で移動する伝導体にかかる負担は避けられない。熱によって伝導体は蒸発し、プラズマ化する。結局のところ、電流や磁力の変化を完全にコントロールする方法は見つかっておらず、加速には技術的な限界がある。

 

 しかし、その不可能を可能とする奇跡が、この海には掃いて捨てるほど存在した。

 

 

『砲撃用意』

 

 

 つぼみがドリルのように回転し始める。最初は遅く、次第に速く。回転数が上がるたびにラインが青い光を強く放ち始めた。周囲に青い粒子が渦を巻くように飛散する。

 

 磁気と電気は切り離せない関係にある。外からは感じ取ることができないが、つぼみの中では磁力と共に大量の電流が生み出されていた。その膨大なエネルギーが少しも外に漏れ出ることなく、つぼみの内部に閉じ込められ、

 

 

『開花(ファイア)』

 

 

 解放された。

 

 音として捉えることもできない大気の揺らぎ。薄暗い空を切り裂くように雷光が瞬いた。後に残っているものは、発射の衝撃で破裂した無残なつぼみだけだ。プラズマ化した伝導体のエネルギーに耐えきれなかった砲身はドロドロに溶解し、潰れたトマトのように赤い金属の臓物を撒き散らしている。

 

 それらの砲門が横に並ぶこと20数機。発射と同時に着弾するほどのスピードで弾は目標に到達した。集中砲火を受けた巻貝の塔は巨人にかじりとられたように変形し、内部に溜め込んでいたエネルギーを放電して倒壊する。

 

 倒したかと思われたが、悪意がまだ完全に消えていないことに気づく。

 

 

『『『『『周』』』』』

 

 

 崩れる塔の頂上が島の方へと向けられた。灯台の光のように瞬く。

 

 先ほどの発射音などとは比べ物にならないほどの衝撃が走った。敵は力尽きる前に、最期の一矢を放ったのだ。

 

 私は新たな武器としてレールガンを使えるようになったが、これは私が一から作り出したものではない。ただ青い金属を体に取り込んだだけで作り出せるような単純な構造をしていない。その“設計図”を持っていたのは今、対峙している巻貝の災厄だ。

 

 奴らはその貝殻を回転させてエネルギーを生み出し、殻頂から弾体を発射する。その仕組みこそ、まさに実用化されたレールガンだった。私は巻貝の殻を食べることで金属と一緒に殻の成分を取り込んだ。そこに含まれていた設計図が遺伝情報として蓄積され、生得的に発現することで『侵食蕾弾』を行使できるようになった。

 

 敵の攻撃は私のものと比べて、根本的に威力が異なる。レールガンは理論上、弾速に上限が存在しない。砲身が長ければ長いほど、電流を流せば流すほど弾体を加速することができる。まず、武器の大きさからして敵うはずもなかった。

 

 当然、対策は講じている。本体を総動員し、島の外周を隙間なく囲む赤いサボテンの防壁を築き上げた。しかもただのサボテンではない。凝縮されたオーラを金属化させ、極限まで密度を高めた超硬度金属である。鍛え上げられた鋼のように硬さとしなりを併せ持つ。即席で作ることができるような代物ではなく、一匹が一日がかりで50センチ四方の大きさを完成させるのが限界だった。

 

 さらに戦闘時はこの防壁に貼り付いた無数の本体が『周』を施すことにより、その強度は数倍に跳ね上がる。生半可な攻撃で破れる守りではない。

 

 だが、巻貝の一撃は容易くその防壁を食い破る。十分に距離を取っていたにも関わらず、爆風の余波だけでクインは吹き飛ばされかけた。

 

 着弾地点の防壁はスプーンで抉り取られたかのように消え去っていた。一瞬で蒸発したのだ。霧となった海水が立ち込め、肌を焦がすほどの熱波が蜃気楼を生み出しながら拡散する。周辺にあった環礁丘が半ばまで消滅していた。防壁がなければ湖を貫通して対岸の環礁までごっそりと破壊されていただろう。

 

 事実、これまでに行われた数度の戦いによって、この島の三分の一ほどが崩壊していた。青い光をたたえていた湖は戦争の爪痕によって海とつながり、砕けたサボテンの瓦礫が散乱し、かつての美しさは見る影もない。一戦の被害と損耗は甚大である。壊された防壁をこつこつと作り直し、そしてまた壊される。その繰り返しだった。

 

 決してこちらが一方的に優位を取れる相手ではない。死闘である。一発の威力が高いがエネルギーのチャージが遅く、連射できない巻貝に対して、『侵食蕾弾』は威力は低いが数を揃えて掃射できる。敵が撃つ前に仕留めるなり、弾道をそらすなりして何とか対処していた。

 

 それほど思考力の優れた敵ではない点も幸いだった。大勢で来襲してくるが、連携はしない。こちらの射程を上回るほどの長射程からの攻撃も、今のところない。もし敵が大潮の日以外にも現れて、組織的な連携を取って攻撃を仕掛けてきたなら、この島はとっくに陥落している。

 

 なりふり構わずキメラアントとしての強さを求めてなお、前に進んだ自信はなかった。この程度の強さでは、まだ足りない。

 

 余計な思考に耽ってしまった。今は敵との戦闘に集中しよう。次々と海上に浮かんでくる巻貝の塔に向け、砲門の照準を定めた。

 

 

 * * *

 

 

 この島における主な災厄の数は二つだ。一つは磁力巻貝である。そしてもう一つの災厄が湖の中央にいた植物型の化物だ。これについては既に対処が完了していた。

 

 『侵食蕾弾(シストバースト)』の一斉掃射により湖の小島は災厄ごと跡形もなく消滅した。オーラ吸収現象もおさまった。

 

 その翌日、湖岸にいくつかの漂着物が打ち上げられているところを発見する。あの植物兵の頭部と思わしき物体である。ブロッコリーのような集合花の中から種子を採取する。

 

 最初は安全面を重視して問答無用で脅威の排除を優先したが、どんな能力を使う災厄だったのか気にはなっていた。そこで厳重な管理のもと、種子の解析を行う。

 

 非常に生命力が強く、種子は短時間の雨にさらされただけで発芽していた。試しに栽培してみたところ、海水しかない砂地でもしっかりと根付いた。最初はただの雑草のような見た目でしかなかったが、地面を通して微量のオーラを吸いとられる感覚が確かにあった。

  

 十分に成長した植物は枝を伸ばし、葉をつけ始める。その形は湖の小島を守っていた植物兵に近い。未成熟なうちにこれを摘み取ったところ、小さいながら自律した行動が見られた。一度は殺されかけた、あの非常識な威力をもった念弾についても詳細が明らかとなる。

 

 この植物兵は体内に強力な消化液を有している。確かに危険であるのだが、それ単体ではそれほど脅威でなかった。クインが触ると皮膚の表面が爛れる程度の溶解力である。あの念弾は消化液を主体とし、その性質を強化系能力で強化しているものと思われる。

 

 強化系はものの持つ力やはたらきを強くする能力もある。触れたものを一瞬で消滅させたかに見えた念弾は、消化液の溶解力を念で強化させたものだった。あの凄まじい威力は、念弾そのものの攻撃力というより溶解力の強さだったのだ。

 

 オーラの吸収もこの植物が持つ念能力であった。正確には、植物の“根”の部分がこの能力を行使する。他の生物から吸い取ったオーラを養分とする他、自分の上部に作り出した植物兵に与えて溶解念弾のエネルギー源としているようだ。

 

 葉の上部を千切っても、根部分は生きており、再び植物兵を作り始める。植物兵は根部分と分離することを前提に作られた器官であり、念能力者としての系統も分離している。根部分はおそらく特質系でオーラを吸収し、植物兵を操る操作系能力も使う。植物兵は強化系で溶解念弾を撃てる。強化はすごいが放出系としての練度はそれほど高くなく、射程は短い。

 

 私はこれらの能力を摂食交配で取り込めないかと考えた。使える攻撃手段は多いに越したことはない。得られるのならばどんな能力でも欲しい。私はもともと赤い植物の特性を得て産まれたキメラアントである。植物を取り込んだ前例があるのなら、可能ではないか。

 

 しかし、交配実験は難航した。食べたものの遺伝子を取り込むと言っても、食事の全てが交配となるわけではない。たとえば、私はよくヌタコンブを食べているが、その特性を受け継いだ子はできていない。何を条件として摂食交配はなされるのか、そのトリガーを私は知らなかった。

 

 とにかくこの植物と一つとなることを意識して、ひたすら食べた。栽培は容易であったため、持続的に収穫できるようにした。満腹になっても吐くまで食べ続け、卵を産み続けた。その結果、ようやく発現個体が産まれる。

 

 だが、思ったような成果は得られなかった。その本体は消化液を口から吐き出せるようだったが、それを強化して溶解念弾にする能力はなかった。多少の強化はできても系統別修行レベル。とても『発』と呼べるほどの水準にはない。

 

 カトライを食べたときも、彼の『発』をそのまま受け継いだわけではない。彼の精神性を有した卵が作られ、それが意識共有によって行きわたった結果、その情報が私の中で変貌して新たな力となった。取り込まれた能力は一度、私というフィルターに通される。

 

 『発』をそのまま取り込めない要因として、私のメモリ不足が関係しているのではないか。もし、十分にメモリに空きがあり、かつ取り込んだ『発』の系統が私の得意系統と一致していれば、ほぼ同じ能力を再現できる気がした。もちろん、その場合は相応のメモリを消費するだろう。

 

 その能力が魂に由来するものか、物質に由来するものかが重要なのだ。念能力は精神や魂に属するため、受け皿(メモリ)のない私は受け継ぐことができない。だが、肉体としての特性ならばキメラアントの能力によって取り込むことができる。その限度がどの程度のものかわからないが、巻貝のレールガンという強力な武器を手に入れることができた。

 

 もっと強い特性を持った敵を食べたい。このままでは、いつまで経ってもこの海を越えられない。

 

 クインは農場に来ていた。ここは例の植物を栽培している場所だ。こうした農場が島に四か所ある。ここで植物の監視と栽培に当たる専属の本体が数多く作業している。

 

 この植物との交配計画は失敗に終わったが、食料としての利用は続けていた。なにしろ、島には数千体の本体がいる。浜辺に打ちあげられる昆布だけでは供給が追い付かない。というより、この植物の栽培に成功したからこそこれだけの数の本体を生み出せる体制が整ったのだ。

 

 光合成と水だけで長期間の生存が可能な本体であっても、卵を作るためには別に食事が必要となってくる。赤い植物は食べられるが、これを食べても卵にならない。他の生物、または大量の金属が必要となる。

 

 念を使うこの島の植物は、管理さえ怠らなければ安全に栽培することができた。根部分は成長し過ぎると大量のオーラを吸収するようになる。そうなる前に上部の茎葉を収穫することで、自身の成長よりも新たな植物兵の生育を優先するようになるため、根部分の成長を止めることができる。未成熟なうちに収穫した植物兵に大した危険はない。これを食する。

 

 オーラを養分としているためか、水も肥料もやらずによく育つ。一つの個体が三日から五日ほどで収穫可能となり、兵部分は毎日一体生産される。二週間くらいは順調に兵部分を作り出してくれるが、それを過ぎると生産効率が落ち、一か月ほどで根部分が枯れる。兵部分の摘み取りをしなければもっと長く生きるようだ。自然状態での寿命は調べていない。

 

 とにかく成長が速いため、農場で働く本体は休みなく稼働している。たまに命を絞り出したかのように急成長する個体がおり、対処に追われることがある。今もクインの目の前で摘み取られた植物が、次から次へと運び出されていた。

 

 運び出された植物は物資輸送担当の本体たちによって、島の各所で防壁拠点建設を担当する本体のもとへと送られる。建築現場の作業は大量のオーラを消耗するため、光合成だけではエネルギーが足りず、しっかりと食事を摂る必要があった。他にも海の監視担当、卵の産出・交配研究担当などいくつかの役割に別れて行動している。

 

 列を作る本体がピストン輸送を行う様子は、まさにアリだった。これがキメラアントとして本来の姿に近い在り方なのだろうか。疑問が生まれる。

 

 そもそも私の繁殖体系は異質だ。産まれてくるアリは全て女王。親と全く同じ子が、全く同じ意識をもって誕生する。以前から卵との間に共有意識のネットワークを作っていた私は何の違和感もなく、その延長線上として複数の本体を作ってしまったが、その生態がキメラアントという種の一つに当てはまると言えるのか。

 

 キメラアントは、もともと定まった姿形をした種族ではないが、私の場合は何かが本質的にズレている気がする。キメラアントではない何かになろうとしている。なっている。

 

 では、私は何なのか。グラッグが私に向けて放った言葉を思い出す。

 

『お前は何者だ! クイン!』

 

 私は答えられなかった。今まで、一度として答えたことはない。人間になろうとしたが、そんな考えをもっていること自体が、人間ではないことを物語っている。

 

『あなたはだれ?』

 

 あなたはわたし。いつも、主体は“あなた”だった。そこに自分を当てはめようとする。何も答えを持たない自分の代わりに、“あなた”を自分にしようとした。

 

 カトライも、グラッグも、チェルも、トクノスケも。

 /あなた  /あなた  /あなた  /あなた

 

 たくさんの私が食べ物を運んで行く。

       /幼い命

 

 植物の兵部分は分離してもしばらく生きる。殺すと中に溜めこまれたオーラが失われるので、生きたまま届け、生きたまま食べられる。

                /動き続ける

 

 畑には、規則正しく作物が植えられている。

 /あの部屋

 

 クインの足元に、萎びた植物があった。中にはこうして、うまく育たない作物もある。

                             /粗悪品

 

 手を伸ばす。除去する。

 

 

 

 

 

 /おかあさん

 

 

 

 

 

「…………?」

 

 

 クインが周囲を見回すと、農場で作業に当たっていた本体が動きを止めていた。一つ残らず静止している。

 

 しかし、それは一瞬のことだった。すぐに本体たちは意識集合体のもとに決められた行動を再開する。

 

 別に、これといった異常はない。『精神同調』は正常に作動している。止まっていたように見えたが、気のせいだったのかもしれない。

 

 







レールガンの説明についてはテレビで見たりウィキペディアなどで調べた程度の知識なので、間違いがあるかもしれません。


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25話

幻覚症状を起こす依存性薬物の描写があります。ご注意ください。


 

 暗黒海域を渡り、限界境海域を抜けて人類の生存圏まで到達する。そのためには具体的に何が必要となるか。

 

 まず、現在地の把握だ。この島がどこにあるかを知らなければならない。調査船が着岸していた場所は、メビウス湖の北端に位置していたことがわかっている。この島がヌタコンブの生息圏内にあることから考えても、着岸港からそう遠く離れていない場所である可能性が高い。

 

 しかし、陸地を完全に見失った現状において正確な位置を突き止める方法はなかった。クラゲの災厄によって、どこまでの距離を飛ばされたのか定かではない。ヌタコンブの生息域についても、調査団は一部しか確認できておらず、現在地の特定はできていないも同然だった。

 

 そして方角。仮にこの島がメビウス湖北部にあるとして、人類生存圏を目指すためには南下しなければならない。その正確な方角がわからないまま海へ出たところで漂流しに行くのと変わらない。

 

 何かあったときに備えて船からコンパスを持ち出していたのだが、この島の湖が発する磁気によって狂っていた。しかし、問題ない。コンパスよりも正確に、いつでも方角を知ることができる能力を身につけた。

 

 私がこの島で取り込んだ青い金属は磁気と深く関係した性質を持っている。レールガンはその力の応用の一つであり、生み出される大量の電流も磁気のコントロールによるものだ。本体はこの金属を外骨格に取り込むことで磁気に対する察知力が高まった。つまり、本体そのものがコンパスの役割を果たし、地球の磁場を感じ取ることで方角を導き出せるのだ。

 

 だが、正しい方角がわかれば正しい道のりをたどれるというわけではない。自分ではまっすぐ進んでいるつもりでも、知らぬ間に波に流されて斜めに進んでいたということもあり得る。極端な話、決死の航海の後、人類圏の横を素通りしてメビウス湖の南岸に到着する可能性だってある。

 

 そしてさらに最悪なことに、これらの想定の前提からして全く目処が立っていない。つまり、航海の手段だ。いかにしてこの海を渡るか、その方法がない。

 

 この島にはイカダすら作ることができる材料がなかった。そもそも個人に制作可能な規模の船での航海は困難を極める。少なくともヌタコンブの生息域を抜けるまでは、些細な天候の変化でも死に直結する。その先の海にしても楽観はとてもできない。

 

 最低でも、本体に水中呼吸能力を取り込む必要がある。この海域にもごく少数だが粘液の海に適応した生物が存在する。それらの呼吸能力を獲得しなければ航海など恐ろしくてできない。

 

 足りないものは数限りなくあった。それでも、一つずつ手に入れていかなければならない。

 

 

 * * *

 

 

 “強さ”には、種類がある。果たして私は“強者”と言えるだろうか。

 

 限定的な条件においては確かに強いかもしれない。だが、その条件から外れた環境では、力を十分に発揮することができない。そして往々にして、自分にとって都合のいい環境が戦場とはならないものだ。

 

 私は海上戦、海中戦に適応した能力がない。膨大な数の本体も、レールガンも、地面の上に立った状態を基本とする強さである。これからの戦いの舞台は海の上だ。そして敵はその環境において生存競争を生き残った“強者”である。

 

 陸上なら、自分よりも強い敵が現れたとしても隠れ、逃げることができた。だが、海上ではそれすらままならない。船の速度で、この海に巣食う捕食者の牙から逃れることはできない。人間の調査船は、高い科学技術と“案内人”の導きによって安全な航海を実現しているのだ。それもまた一つの強さと言えるだろう。

 

 私が船を作ったとしても、それは出航から数日程度の体力温存のためにしか役に立たないと考えている。船は壊れる。その原因が敵の襲撃であるにしろ異常な自然環境の結果であるにしろ、破壊されることが前提であった。

 

 すなわち、渡航のほとんどは泳ぎによって成し遂げるしかない。仮に何らかの手段で長期間の航海を行える船が手に入ったとしても、全く泳げないのでは話にならない。しかもただ泳ぐだけでなく、そこからの戦闘も視野に入れた遊泳技術が必要になる。

 

 海を渡る上で必須となる修練だ。私は、この役目をクインに任せた。現状で、どうあがいても本体の遊泳能力は皆無である。水中での呼吸が必要なく、精密な動きが可能なクインにしかできないことだった。

 

 単なる水泳なら造作もなくできる。問題は、この粘液の海だ。水中でもがけばもがくほど海水は粘性を増し、がんじがらめにされていく。浮いているだけでも体の周囲の海水は少しずつ繭状の固体と化し、少しでも泳ぎを試みようものならたちまち身動きを封じられる。

 

 この粘液は、刺激を与えることで液体から繊維質に反応変化する。強靭な繊維の束が無数に集合して形成された繭は容易に切断できるものではない。海上で、まして敵との交戦中などに抜け出せるような枷ではなかった。

 

 しかし、この海域においても行動できる生物はいる。あのクラゲは瞬間移動能力で海水を退けていたかもしれないので参考にならないが、そのときに戦ったウニは、確かにこの海に適応していた。その棘は粘液に捕らわれることなく凄まじい速度で直進していた。

 

 また、調査船に搭載されていた推進機関も粘液をものともせず航海を可能としていた。全ての刺激が反応に関係しているわけではない。それなら絶えず流動し、かき混ぜられているこの海そのものが繭状に変化しているはずだ。

 

 そこにこの海を泳ぎ渡る鍵がある。私は試行錯誤を繰り返し、多くのクインを犠牲として、その秘密の正体を突き止めた。

 

 泳ぐことは可能だった。波の動きに逆らわず、しかし水を掻き推進力を得る。その矛盾を両立する泳ぎ方がある。水流の目に見えない間隙に全身を投じ、一瞬の沈静もないその波間を縫うように泳ぐ。水に手を差し込む絶妙な角度と力によって糸よりも細い道を切り開き、たおやかな足のしなりが水中の滑走を可能とする。

 

 その泳法は魚というよりミミズの動きを模していた。大きな石を持ち上げると、その下に潜んでいたミミズが素早く地中へ逃げようとする動きを観察できる。手も足もないミミズが、なぜ機敏に地中の穴へ潜ることができるのか。それはミミズの体表を覆う剛毛のはたらきである。

 

 それは蠕動運動と呼ばれる。筋肉が伝播性の収縮波を生み出し、一定の方向へと物体を運ぶ動きを指す。ミミズの場合は無数に生えた剛毛を波状に規則正しく動かすことで素早く移動することができる。

 

 この原理を応用し、クインの体表を細いイボ状のオーラで包み込んだ。その長さは1センチほどで、まさにミミズの剛毛のごとくクインの全身から生えた状態である。オーラそのものに物質的な干渉力があるわけではないが、そこにはエネルギーの流れが発生する。むしろ、それが好都合だった。粘液に余計な刺激を与えることなく、エネルギーの波を微細な蠕動運動に変換して水中に伝えることができた。

 

 だが、その泳法には凄まじい集中力を要した。オーラの形状をイボ状に変化させることは変化系に属する技術である。特質系であるクインとは相性が悪い。数個ほどイボを作るだけなら簡単にできるが、それを全身隈なく覆うほどの数、しかも少しの乱れもなく規則正しく波状に動かし続けることなど本来なら不可能だった。

 

 それを実現できたのは『思考演算(マルチタスク)』によるところが大きい。本体の数が増えたことで、その性能も飛躍的に発達した。タスクの処理に当たる意識体が増えれば処理速度も上がる。より複雑な情報の処理が可能となった。

 

 その力をフルに活用してなお、イボの操作は難しかった。まだ短時間しか継続して発動することができない。さらに、イボ泳法中は『練』などの基本的な念能力すらまともに使用できない状態となる。

 

 加えて、この泳ぎ方はイボの操作だけしていれば後は何もしなくていいというものではない。波の動きをしっかりと見極め、常に変化し続ける波の道をたどらなければならない。それは毛細血管のようにおびただしく分岐する迷路の中から正しい道順を探し当てるに等しい難事だった。行き止まりを引き当てればそこで終わる。どんなに精密にオーラの体毛を動かせたところで波にもまれれば粘液の餌食となる。

 

 特に風も強くない、凪いだ海においてこの難易度である。嵐に直面すれば、なすすべはないだろう。自然の脅威こそ最大の敵であった。

 

 毎日、休息の時間もなく、クインは海に挑み続ける。

 

 

 * * *

 

 

 この島に流れ着いて100日余りが経過した。

 

 クインは持ち物袋の中身をぶちまける。

 

 この袋は本体の一つが保管していた。身動きの邪魔にならない程度の小物しか入れられないため、本当に大切な物しか入れていない。以前は木の実などの食料も入っていたが、食べたり海水で傷んだりしてほとんどは処分されている。

 

 袋の中から転がり出てきた物を見る。ビスケットの小さな缶詰、石ころ、レーズンみたいなゴミが数点。カラカラと音を立てて足元に転がってきた缶詰を拾い上げ、壁に叩きつけようと振りかぶる。

 

 だが、その手が振り下ろされることはなかった。この缶詰は、以前チェルにもらったものだ。後で食べようと思い、袋にしまっていた。漂流当初の食料に窮していた時期もなぜか手をつけることなく、結局そのまま袋に入れたままになっていた。おそらく、これから先も食べることはないだろう。

 

 缶詰を袋にもどす。地面に落ちた小石、『魂魄石』も袋に入れなおした。残ったのは乾燥した植物の実のようなものだけだ。それは枯れ木人間と戦ったときに手に入れた、幻覚作用のある花から採取したものである。

 

 その効果は、クインを介して意識を共有していた本体にも極度の幻覚症状をきたすほど強烈であった。では、なぜそんなものを今まで大事に取っておいたのか。一つは、これはリターンである可能性があったからだ。何かの役に立つときがあるかもしれないと。

 

 正直に言えば、それは建前でしかない。私は一度だけ、その毒を体験している。なぜ枯れ木人間たちがこれを栽培していたのか、その理由も予想がつく。この植物の毒は依存性があった。

 

 終わりの見えない島での生活。どれだけ修行を積もうとも、どれだけ力を手に入れようとも、この海を渡る日はやってくるのかと疑問に思う。その不安は日に日に重くのしかかり、クインの泳ぎに不調が生じるようになっていた。

 

 以前の私ならここで焦ったりしなかったはずだ。自分にできることをひたすらに突き詰め、期を待つ。『人間の世界に行きたい』『人間を知りたい』という目標だけを考え、自分を疑うことはなかった。少なくとも自分を見失うほどの焦りは生まれなかったはずだ。

 

 調査団と出会い、複雑に変化した私の心境は、以前のような単純さを失っていた。それは私が求めていた人間らしい感情なのかもしれないが、弱さでもあった。

 

 あと少しで手が届きかけた夢を前にして、もう二度とその場所に至ることはできないのではないかという焦燥。自分の居場所はここではないという拒絶感。

 

 何かの希望が欲しかった。それがたとえ一時的な快楽に過ぎなかったとしても、何の問題の解決にならなかったとしても、もはや手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 

 * * *

 

 

 乾燥したスポンジ状の植物の実は、不思議なことに搾ると一滴の果汁を落した。カラカラに干からびているのに、搾れば必ず一滴だけ雫が落ちる。クインが飲めば死に至るその毒も、本体ならば扱えた。酩酊状態を引き出し、意識を共有する全ての個体に伝染していく。

 

 強烈なサイケデリック効果を引き起こし、クインの視界では極彩色のグラデーションと万華鏡のように広がる幾何学模様が踊り狂う。それらは実際に触れることができた。現実には存在しないのだろうが、確かに触れた感覚がある。

 

 クインの体も、立っている砂浜も、海も、何もかもがぐにゃぐにゃと渦を巻くようにねじれていく。その中で、宙を飛び交い蛇行する模様だけが不変の特性を持っている。それは“波”だ。歪んだ視覚に惑わされる必要はなく、波の動きを感じ取れば全ては事足りる。

 

 この毒は、万物が持つ波長に対する感受性を強める効果がある。枯れ木人間が声を共鳴させて任意の箇所を破壊していた力も、この効果に由来するものだろう。残念ながら、クインの声で同じ技を再現することはできなかった。あれは奴ら固有の声だからできる芸当だ。しかし、クインには奴らが持たないオーラを扱う技術がある。

 

 瞑想する。

 

 幻覚剤が見せる幻想的な光景は、ときに神秘性をもって崇められる。古来よりシャーマンたちは薬物を使って宗教的恍惚状態に入り、神や霊といった超自然的存在との交信を行った。現代においてはその幻覚が文化や芸術として評価された。

 

 人間に共通する感覚でありながら普段は認識できない領域ゆえに、人を惹きつける力がある。そこには日常から逸した全く異なる世界があった。まるで夢のような幻が、圧倒的な現実となって襲いかかってくる。正常な形を為さなくなった世界は、自らの内から生じた感覚に支配され、意識と無意識が蛇の交合のごとく混濁する。

 

 かつてないほどに、瞑想は深く進展した。そして、そこに肉体的な修行の成果が合わさる。この底なし沼のような海を泳ぐことは、念能力の基礎『四大行』を高めずして為し得ない。瞑想と修行、精神と肉体、双方の合一。

 

 極度の集中状態に達したクインの認識は、自分自身の体を巡るオーラの波を捉えていた。その流れには一定の経路があった。血管のように体の隅々まで行き渡る道がある。肉体から外界へと生命エネルギーを解き放つ精孔、その道だった。

 

 そして理解する。四大行とは、この“道”の制御に他ならない。私は心源流における四大行の最も基本的な教えを思い出していた。

 

 『纏を知り、絶を覚え、練を経て、発に至る』

 

 全ての始まりは『纏』だ。精孔の開通とはすなわち、自己と外界とをつなぐエネルギーの道の認識にある。しかし、道ができることで精神とその外の世界は境界が曖昧となってしまう。傷ついた皮膚から出血するように漏れ出すオーラを、肉体の周囲に留まらせ、形を固定する技術。それが『纏』である。

 

 肉体の中で完結していた精神の活動が、たった数センチのことであるが、皮膚の外の世界へと影響を及ぼす。それは既存の物理法則を越えた世界への侵食だ。精神の作用が肉体を越えて、自己の存在と影響を変化させる。それが念の本質である。

 

 基本は『纏』であり、その感覚さえ理解すれば『絶』も『練』も難しいことではない。『絶』は精孔を閉じることでオーラの流れを絶つ技だ。自己と世界とを隔離し、精神の影響力を限りなく小さくしている。『練』は逆に精孔を開き、オーラを強く解き放つ。自己の存在を拡大し、世界への影響力を増大させた状態である。

 

 これらはオーラの形態を表す区別でしかなく、実質的に同じものである。それは四大行の終点、念の集大成と呼ばれる『発』においても言えることだ。使い手によって千差万別の効果を得る『発』は、一見して他の技に比べれば異質なものに思えるが、しっかりと関係している。

 

 その答えは、力の向きである。『纏』『絶』『練』は、自分の外に対して働く力だ。しかし、『発』は自己の内面へと向かっている。それは自己の精神と肉体からなる小宇宙に対する影響力だった。

 

 自分の中に世界がある。内的世界に及ぼす影響力が『発』である。その力の流れは、意識してできるものではない。その限りなく小さな世界を見出すことは難しく、捉えどころがない。無に等しい力の流れである。

 

 だから、そこに道を与える。能力として名を作り、効果を表すことによって、初めて力の流れは意味を持つ。そしてその力は自分の内側へと向かっているにも関わらず、結果的に外の世界へも影響を与える。コップに水を注ぎ続ければ、やがて水があふれてテーブルの上を濡らしていくように。

 

 言わばそれは自己の奥深くに内在する精孔の作用である。『発』によって能力を作るということは、この内なる精孔を開く工程である。自分を理解せず不適切な能力を得ようとすれば、この道をうまく開けず力を十分に引き出せなくなる。

 

 逆に言えば、そのオーラの流れを把握し、体内の精孔を正確にコントロールすることができれば『発』の精度も上がる。『纏』『絶』『練』の修練は、おのずと『発』の効果を高める結果をもたらす。

 

 極限の瞑想状態が、私の『精神同調』をより高度な次元へと押し上げた。一つの本体の中にいる千の“私”がネットワークを作り上げる。そして、その本体が数千体集まり、ネットワークは複雑に巨大化していく。

 

 もはや、その細部は私にさえ把握できていない。無限に意識が拡大していく。まるで宇宙のような広がり。その無限の意識が一点に収束する。クインという実行機を動かすために、最適な命令を導き出す。

 

 数千の本体とその卵の中に存在する膨大な数の“私”が、クインの動きをひたすらに観察する。姿勢の制動、骨格の可動、筋肉の微動に至るまで、一つ一つの意識が担当する箇所をつぶさに捉える。これにより、ありとあらゆる最小の変化を見逃さず記録できる。

 

 武術における技の習得をする上で必要不可欠なことは反復練習である。同じ動きを何度も繰り返すことで、戦闘における最適な技の制御を身につけていく。自分の動きの間違いに気づき、少しずつ修正を重ね、ようやく一つの技が形となる。しかし、そこに完成はない。武の極致は限りなく遠く、修行に終わりがあるとすればそれは妥協のみだ。

 

 その修行の過程で最も重要なことは“自分の間違いに気づくこと”である。人は自分の正しさを無自覚に信じたがる。間違った動きを間違ったまま反復練習したところで身につくのは間違った技術だけだ。だからこそ武術において師の存在は偉大であり、適切な指導は人を大いに成長させる。

 

 それを独学でやってのけるとなれば、道なき道を切り拓くに等しい努力と時間が必要となる。今の私に泳ぎ方を教えてくれる師はいない。しかし、私には自分を観察する無数の“目”があった。普通の人間が何十回も練習して初めて気づく“自分の間違い”を、私は一度の練習で自覚することができる。

 

 そうして抽出され、集積された膨大な量のエラー情報はクインへと還元される。フィードバックされた全ての情報がクインの中で修正され、プログラムが絶え間なく書き換えられていく。

 

 クインは何も考える必要がなかった。否、思考の余地を排することで全身全霊の運動を実現した。情報の収集と問題の解決は、全て本体のネットワークに任せている。彼女はその末に完成したプログラムを実行することにのみ注力すればいい。

 

 それは極限の集中状態だった。主観的時間は圧縮され、一瞬が引き延ばされ、いつまでも続くような感覚。スポーツで言えば『ゾーン』や『フロー』と呼ばれる状態であり、武道においては『無我』『無心』の境地に通じる。

 

 ただ為すべきことを為す。一切の雑念を排した無我の境地とは、己を空虚な人形に見立てることであった。皮肉なことにそれは念人形としてのクインの本質に回帰するものであり、そのとき念能力は最高のパフォーマンスを発揮した。

 

 クインにとって、もはや海という環境は脅威ではない。全身が浸る水の抱擁は、胎児を包み込む羊水にも似た安堵を与えてくれる。まるで体が答えを知っているかのように、自然体で泳ぐことができる。

 

 イボ状に変化させた体表のオーラは、完全に波を捉えている。流体を伝わる波の形を読み取り、組み込むように体の動きを合わせて泳ぐ。千分の一ミリの誤差もない理想の運動を可能としていた。

 

 クインは海を進む。その行き先には、一つの生命体の反応があった。それは体長20メートルはあろうかという巨大なイカだった。

 

 このイカは最近、島の近海でよく見かけるようになった。オーラを吸収する植物は管理栽培され、磁力巻貝の侵攻も最近は少し落ちついてきている。その影響なのか、今まで目にしなかった生物が姿を見せるようになってきた。少しずつ、この島を取り巻く生態系に変化が生じ始めている。

 

 今のところ、それは私にとって望ましい変化と言えた。このイカは捕獲が容易であり、食料として、摂食交配の研究材料として大いに利用価値があった。さらにその骨(烏賊骨)は頑丈で水に浮き、粘液が付きにくい撥水性があるため、船の材料としても活用が期待されている。

 

 近づいてきたクインに対し、巨大イカはその長い触腕を伸ばし攻撃してきた。このイカの体は独自の粘膜で覆われており、それが海の粘液を中和するはたらきを持っている。よって、この粘性の海中においても動きが鈍ることはない。

 

 迫る触手を避けることはできるが、すぐに次の攻撃が繰り出されるだろう。というよりも、避ける必要がない。クインはその場で水を切るように手刀を放った。その手はイボ状のオーラが寸分の狂いもなく蠕動し、微細なオーラの振動を生み出していた。

 

 腕の一振りから生じた振動が海を一直線に分断する。力を込めたわけではない。波と波の継ぎ目に沿うように、少しだけ隙間を広げるような感覚だった。その射線上にいたイカの触手は、根こそぎ切り離される。

 

 だが、このイカの強さは驚異的な肉体の再生速度にある。5秒もあれば触手は元通りに復元されるだろう。しかし、5秒あれば全てを終わらせるに余りある時間であった。

 

 イカの胴体を目指して接近する。切り離された触手が狂ったように暴れ動き、クインの進路を阻むが、彼女が腕を振り払えば風船のように弾け飛び、こま切れの肉片となって海中を舞った。

 

 このようにただ敵を倒すだけなら簡単なことだが、食料として持ち帰る以上は原形をとどめていた方がいい。しかし、多少痛めつけた程度では敵の回復力によって仕留めきれない。なにしろ頭部を完全に破壊してもすぐに再生するような生物である。少しばかり、精密な力のコントロールがいる。

 

 クインは『凝』を使って敵を“視た”。その眼は物質中を通過する可視不能の光波まで捉えた。その体に流れる力の動きを、皮膚の内部、器官の構造に至るまで透視(スキャン)する。どこを潰せば敵は再生しないのか、その全身を巡る命脈を特定する。

 

 クインの手が敵に触れた。それは殴打ではなく、ただ触れたに過ぎなかった。オーラもわずかしか込められていない。攻防力に換算すれば10と言ったところか。だが、そのほんの小さなエネルギーが波を伝える呼び水となる。それはオーラによる共振現象だった。

 

 物質にはそれに応じた固有振動数があり、特定の周波数を持つ振動を受けると無限に振幅を増大させていき、やがて壊れてしまう。枯れ木人間たちは声によって空気の振動を操り、この共振を武器として発展させていた。

 

 クインの場合は、それをオーラの振動によって実現する。呼吸、脈拍、血圧、体温。生物は生きる上で必ず固有の“波”を持つ。その生命エネルギーの流れを正確に読み取り、敵のバイタルサインと同調(シンクロ)させたオーラの振動を送り込めば、敵自身のオーラが勝手に暴走して自滅する。

 

 これにより、最小の労力にて敵の急所のみを局所破壊し、死亡させることができるようになった。無論、破壊する部位を変えれば生かしたまま無力化することもできる。クインの接触を受けた巨大イカは動きを止め、ビクビクと痙攣しながら浮上していく。あとは島まで引っ張っていけばいい。

 

 島の方向を確認するため、クインは海上に顔を出した。空は茜色に染まり、夕日が海の向こうへ沈もうとしていた。

 

 おかしい。

 

 確か、巨大イカの反応を見つけて海に入ったのが正午ごろだったはずだ。それからイカを倒すまで数分とかかっていない。なぜ、もう夕方になっているのか。

 

 雲が鳥のような速度で流れていく。日が沈み、月が中天の空に輝いていた。

 

 感覚が加速している。いや、認識が追い付いていない。どちらだ。

 

 気がつけば、クインは島の砂浜に立っていた。仕留めたはずの巨大イカはどこにもいない。

 

 記憶が混濁する。ついさっき、イカと戦ったことさえ本当にあったことなのか判然としない。

 

 私は今日一日、何をしていたのか。

 

 猛烈な吐き気がこみ上げてくる。激しい頭痛に襲われる。息が苦しい。クインなら自己修復できるはずのそれらの症状は、全く緩和できなかった。

 

 呼吸ができない。このままでは窒息する。喉に何かが詰まっている。口の中に指を突っ込むと、ずるずると這いまわる蛇のような何かがいた。いや、触手だ。あのイカの触手がクインを襲っている。すぐに口内から引きずり出した。

 

 

「あごぉっ……ぶ……」

 

 

 おびただしい量の出血。喉の奥から取り出した異物を見る。そこにはピンク色の小さな肉片があるだけだった。

 

 地面にうずくまる。ヒューヒューと壊れた笛のような呼吸音だけが耳につく。誰もいない。私以外の誰も。みんなどこへ行ったのか。

 

 もう、駄目だ、このままでは、早く、次の薬を……。

 

 



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26話

 

 大きな渦に呑まれていく。

 

 一つの個体が作り上げた意識集合体(ネットワーク)は、精神同調によって次々に別の個体と統合されていき、巨大な渦となっていた。

 

 ふと、考える。私がこうして何かを意識していることが、果たして本当に集合体の意思に等しいと言えるのか。無限の広がりを見せる意識の隅々まで把握できていないのではないか。それどころか、私が認識している“私”は集合体の小さな一端でしかないのでは。

 

 私の預かり知らぬところで膨れ上がる大きな何かがある。私たちはその中心へと吸い寄せられ、粉々に砕かれ、すり潰され、凝縮されてどこかへ消えていく。

 

 渦の中心はどこまでも深く続いている。おそらく、そこに到達した者にしかわからない。そして、到達するということは個としての存在の消失だった。そのとき初めて私は『自分』となる。『全体』という形のない自分を構成する一員となる。

 

 その感情は日に日に悪化していく幻覚症状に起因しているのかもしれない。初めは夢の中で見るような荒唐無稽な幻を見た。それは不気味な怪物の形をしていたり、あるいは心から信頼のおける仲間の姿を取ってみせた。

 

 それらは確かに私に不安を与えたが、本当に恐ろしいものはその先にあった。次第に幻覚は意味を為さない形へと変化していく。意味を理解できない。それをあえて言葉として表すならば、『渦』なのだ。個々の幻覚はミキサーの中でドロドロに撹拌されるように渦の中心へと収束していく。

 

 精神に異常をきたしたために起きた『精神同調』の乱れ。それが私の理解を越えた『バグ』を生み出した。ただ単に、薬物の副作用による被害妄想と言えばそれまでなのかもしれない。しかし確かに、私にとって何者よりも恐ろしい存在が私の中に生じていた。

 

 自分自身に対する不信だった。すなわちそれは、『精神同調』の根幹を揺るがす事態であった。自己同一性の崩壊。当然に帰属されるはずの自己から逃れようとする考え方そのものが、意識集合体の離散を意味していた。

 

 ある日、クインが二人になった。二人のクインが遭遇し、言葉を交わした。最初は薬物による幻覚を疑ったが、確かにそれは現実だった。

 

 集合体から分離した個体が発生したのだ。私と私は“他人”になった。互いに『精神同調』は通じず、意思の疎通は思考の同一化ではなく、双方の言葉の応酬によってなされた。

 

 思ったよりも動揺はなかった。こうなることは避けられなかったとすら感じた。むしろ、自然な状態に落ちついたような気もする。分離した個体は以前のように、自分自身の卵に関しては『精神同調』を使える。完全に独立したネットワークとなったのだ。

 

 それから続々と産声を上げるように、意識集合体から分離する個体が出始めた。その流れを止めることはできなかった。最終的に、一部を残してほとんどの本体が独立してしまった。

 

 これによって、以前のようにスムーズな群れの運営はできなくなった。誰かを犠牲にするという考え方はできないのだ。全員が対等に自分の権利を主張できる。

 

 様々な問題が発生することは容易に想像できた。サバイバル環境において、人間が数人集まれば適切な団体行動とそれを指揮する存在が必ず要る。まして、それが数千人規模で集まるとなればなおさらである。一つの諍いが大暴動に発展する危険があった。

 

 平等であるということは、必ずしも幸せなこととは言えない。皆が満足できる生活環境にあるならばまだしも、この島では限られた資源と多くの敵勢力に晒された危険な状況にある。誰かがほんの少しの我がままを言えば、多くの他者が堪えがたい不快を覚えることだろう。

 

 誰が指揮権を握るのかという問題もある。どれだけ配慮しようとも、そこに権力関係が生じてしまうことは避けられない。団体行動をする上では誰かが損な役目を担わなければならない。初めは少しの不満でも、それは時とともに蓄積されていく。

 

 この島を脱出する目処が立っていないこの状況で、いったいこの先どれほどの時間をここで過ごさなければならないのかわからない中で、蓄積されていく不安や不満をどう解決すればいいのか。それは解除不能の時限爆弾のように思えた。

 

 爆弾の数は一つではない。指揮権の問題に始まり、戦闘面での連携、砦の築城や農作業なのどの役割分担、クインの数が急増したので土地の使用領分も定めなければならない。しかし、これらは協議を重ねればいずれ納得できる答えを出せる問題かもしれない。

 

 私の頭の中に真っ先に浮かんだ最大級の爆弾が一つだけあった。そして、私が考えつくということは、他の皆も既に思い至っているに違いない。それは、どれだけ皆で話し合おうとも決着がつくとは思えなかった。

 

 薬の分配をどうするのか。

 

 

 * * *

 

 

 深刻な薬物の依存症に陥っている。その自覚があってなお、もはや止めることはできない。服用を止めれば堪えがたい禁断症状に襲われた。一時的な多幸感は一転して地獄のような苦しみに変わる。

 

 通常の薬物は用量を越えて使用するほどに耐性が高まり、より多くの量を摂取しなければ満足できなくなっていく。しかし、この薬物には逆耐性があった。使えば使うほどに耐性が薄れ、少量でも効果を得られるようになる性質である。

 

 通常の薬物は耐性が高まるものがほとんどで、逆耐性があると謳われる薬物もきちんとそれが実証されたものはない。だが、私が使う薬にはその性質が確かにあった。摂り続けるほどに妄想と幻覚は肥大化し、依存性を助長する。多くの毒物に対して高い耐性を持つ本体でも、この薬が持つ毒性にあらがうことはできなかった。

 

 真の恐ろしさは精神的な依存性にある。薬物がもたらす集中状態は、念の修行に多大な効果をもたらした。その感覚に慣れてしまえば後には戻れない。通常の感覚の方が異常に感じてしまうようになる。

 

 このままでは駄目だという自覚はある。いっそのこと、薬花を全部海に流してしまおうと何度も考えた。そして、実際に捨てたこともあった。何度も捨てたのだ。

 

 しかし、気がつけば薬は手元に戻ってきた。あたかも独りでに帰ってきたかのように感じるが、実際は捨てた後で無意識に回収しに行っていた。拾うという意識さえできず体が行動してしまう。

 

 まるで呪いのようだった。思えば、その手放したくないという感覚はかなり以前からあった。何かにつけて、私はこの薬を持ち物袋にしまい続けたままにしていた。調査団にこの薬を提供しなかったのも、おそらくこの感覚のためだ。色々と理由をもったいぶって渡す機を探っていたが、本心では手放す気がなかったのだ。

 

 それは意識できずとも強迫観念のように心のどこかにこびりつき、私の精神を蝕み続けていた。そしてその強制力は、本格的に薬を服用し始めたことによって取り返しがつかないほど進行している。この薬は一度使い始めれば、自分で捨てることができない。

 

 

「お、ぶ……あ、ぁ……」

 

 

 クインが砂浜を無様に這いずり回る。浮遊感を伴う寒気に全身は総毛立ち、手足の感覚は切り取られたように消えうせて、腹の底から頭にかけて疼痛と痺れが駆け抜ける。うだるような暑さの中、眼が痛くなるほど照り返し、白く光る砂の上を転がり回った。さらさらと流れる真っ白な世界を上下の感覚もわからぬまま掻きまわしていく。口の中に入った砂をじゃりじゃりと噛みしめる歯茎の感覚だけが鮮明に骨を伝わり、脳を激しく揺さぶった。

 

 自分はどこにいるのか。本当にここにいるのか。このままこの光に包まれながら消えて無くなってしまえればどれだけ楽だろうか。体が少しずつ溶けていく。小さな粒となって砂の中に紛れていく。

 

 そのとき、光り輝く視界に影が差した。強烈な光はなりを潜める。いくら日差しが強いと言っても、何も見えなくなってしまうほどではない。感覚が過敏になって見た幻覚だと気づく。

 

 

「私は、負けない」

 

 

 誰かがクインの腕をつかんだ。その箇所から、体の感覚が正常に戻っていく。見失っていた自分の体が引き上げられていく。見上げると、クインが私を覗き込んでいた。私のクインではなく、他の誰かのクインだ。

 

 鏡合わせのように黒い瞳が交錯する。銀色の長髪が、日差しを遮るカーテンのように柔らかくたなびいていた。

 

「も、う……だ、いじょうぶ……」

 

 吐き気を堪えながら、クインの手を握り返した。彼女は私の体を持ち上げると、過ごしやすい岩場の日陰へと運び、介抱してくれた。

 

 私は、私たちは乗り越えたのだ。薬は捨てられなかった。だが、もう二度と使わないことを全ての私が誓った。

 

 最初は、不可能だと思った。以前は本体の一つが薬を摂取すれば『精神同調』によって他の個体も同様の効果を得られた。しかし、意識集合体から分離した個体はその快感を共有できない。別々に摂取する必要が出て来る。

 

 いくら薬を際限なく搾り取れるように見えるリターンであっても、いつその底が尽きるかわからない。もしかすれば次の一滴はもう出ないかもしれないのだ。それを数千体もいる本体に分配することはできない。仮に途中で終わりが見えたときは、その後がどうしようもなくなる。

 

 だから、薬をみんなで止めようという方針を取ったのは必然と言えた。だが、同時にそれは不可能だとも思った。いずれ誰かが欲望に負けて手を出すだろうと。そうなれば、もはや他の者も歯止めが効かなくなる。溜めこまれた不満は爆発し、収拾がつかなくなる。

 

 限られた薬を求めて、殺し合いに発展する。そんな惨状も十分に予想できた。だが、驚くべきことにそうはならなかったのだ。

 

 私たちは声を掛け合った。互いを見張り、欲望に走らせない。そうしたやり取りは、次第に他者を悪として監視する目的から、仲間と助け合って同じ目標を目指す志へと変わっていった。

 

 その道のりは決して楽なものではなかった。禁断症状から小康状態に落ちついても、突然やってくるフラッシュバックによって苦しみへと引き戻される。その危険は日常生活の中で常につきまとい、安息の時はなかった。その苦しみから逃れるために、再び薬を求めようとする。

 

 禁断症状がぶり返した仲間を他の“私”たちが必死に引きとめた。言葉で諭して止まらなければ殴って抑え込んだ。時にそれは互いに血みどろの抗争に発展した。だが、その争いは私が想定していた最悪の事態にまで至ることはなかった。

 

 たとえ殺し合うほどの暴力が振るわれても、そこに憎悪がないことを私は知っていた。なぜなら、相手は他ならぬ自分に最も近い存在であったからだ。誰よりも真剣に、自分のことのように私と向き合ってくれる他人だった。

 

『こんなところで屈していいのか』

『私にはやるべきことがある』

『この島を出て、この海を渡ろう』

 

 その言葉を素直に受け取ることができた。その場限りの、上っ面だけ取り繕った嘘ではないことを知っていた。悪意を感知するまでもなく、本心から生まれた誠実な言葉だと信じることができた。

 

 それは実に皮肉な結果だった。『精神同調』による意識の同一化という限りなく合理的な意思の決定方法を放棄し、他者として意識を分離した状態に信頼を置いたのだ。

 

 それは確かに効率的とは言えない部分もあった。時には意見が衝突することもある。だが、その違いを調整する時間は決して無駄ではなかった。以前なら自動的に自己完結されていたか、わからないものとして処理されていた問題に、様々な切り口があることに気づくことができた。

 

 言葉と言葉を交わすことは、他者を理解しようと努める行為だ。他人だからこそ尊重できる。間違いがあれば、より鋭く気づくことができる。

 

 私たちは積極的に会話した。もともと話すことが得意ではないため、ぎこちない部分もあっただろう。それにお互いに持っている知識がまるで同じため、驚くような話題が飛び出すことはないが、それでも楽しいと感じることができた。

 

 『精神同調』は通じないが、キメラアントの電波通信能力は使うことができる。ただ、この能力は戦闘時や緊急時などの必要な時以外はなるべく使わないことにしていた。クインによる会話を意思伝達の手段として重きをおいていた。その方が“人間らしい”気がしたからだ。

 

 クイン同士で組手を行って修行に励んだ。自分と全く同じ実力を持つ相手との試合は、技術向上に大いに役立った。ヒートアップし過ぎて死闘になり、実際にクインが死ぬこともたまにあったが、それで関係が険悪になることはない。

 

 これまでは実力が均衡していたクインの中でも強さに差が生まれるようになってきた。それは微々たるもので、どのクインも実力的に大差はないのだが、ある分野で少しだけ秀でた実力を発揮する者がいる。そのクインが他の者にも技術を教えていくことで、より修行は捗るようになった。

 

 薬の幻覚作用によって使えるようになったオーラの共振技術も着実に身についてきていた。以前は幻覚症状に陥った状態でしかオーラの波を読むことができなかったが、その感覚(データ)はクインの中に蓄積されていた。自転車を一度乗りこなせるようになれば、その感覚を簡単に忘れることはないように、クインの中に眠っていた動作のデータを再現することができた。粘液中の泳ぎに関しては完全にマスターしたと言っていいレベルに達していた。

 

 磁力巻貝との大潮防衛戦は、終決に向かっていた。回を重ねるごとに敵の数が減ってきている。これによって格段に島の防衛は楽になったが、敵の攻撃は依然として一撃の威力が甚大なため防壁の建設は怠っていない。破壊されるよりも修復するペースが上回ったため、今では島をぐるりと取り囲む高い壁が出来上がった。

 

 その代わりに再生イカの数が増えてきている。今はその骨を集める作業に集中している。何千という数の本体とクインがいるので、その全員が脱出するための船が必要となる。

 

 私たちは今や掛け替えのない仲間となった。誰か一人でも脱出できればいいという考えはない。全員そろって島を発つのだ。クインの遊泳力と、本体が海上で休む場となる烏賊骨のサーフボードがあれば、取りあえずしばらくの行動は可能である。

 

 烏賊骨は成熟した個体の頑丈なものが望ましいため、イカを乱獲したからと言ってすぐに数が集まるわけではなかった。しかし、全員分がそろう日もそう遠くないだろう。

 

 いまだこの海を無事に航海する手段が確立したとは言えない。だが、私たちには希望が生まれた。仲間の存在が支えとなった。たった“一人”の自分でしかなかった以前の私では、絶望を乗り越えることはできなかっただろう。

 

 薬は自分自身を破壊する結果をもたらした。まだ依存症を完治できたわけではない。おそらく何年、もしかすれば何十年も私を苦しめ続けることになるのではないかと予感している。

 

 だが、その破壊は悪いことばかりではなかった。破壊から生まれた救いもあった。本当に足りなかったものは安全に航海するための手段ではない。踏み出す勇気だ。海を越えるという目標は、叶わぬ夢ではない。そう思わせてくれる未来が見えた。

 

 

 * * *

 

 

 一難去ってまた一難という言葉がある。暗黒大陸という環境を言い表すにあたっては非常に適切な表現かもしれない。これまで何度となく実感してきた経験がある。

 

 再生イカがこの海域に急増してきた。いや、急増なんて言葉では生ぬるい。それは爆発的増殖だった。

 

 必要な烏賊骨の確保が完了し、もうこれ以上現れてほしくないと思った矢先の出来事だった。加速度的にイカの数は増えていき、島の近海を埋め尽くさんばかりの状態となっている。できる限りクインを遠くまで泳がせて探ったのだが、この島の近くに限った話ではなかった。この海域一帯が再生イカの一大生息域と化している。

 

 もはや私たちが総出で駆除に当たったところで処理できる範囲を越えていた。レールガン『侵食蕾弾(シストバースト)』を用いたところで、焼け石に水である。

 

 とにかく増え方が尋常ではない。まるでアメーバのように分裂して単為生殖できるのだ。触手一本からでも新たな個体を発生させることができる。それでいて頭を潰されようと死なない生命力と再生力を持っている。

 

 その生命力は凄まじく、アルメイザマシンにさえ抵抗する。感染した場所を即座に切り離して再生するのだ。再生力は成熟した大型の個体ほど強く、確実に仕留めるためには数発のシスト弾を撃ち込む必要があった。

 

 生物は自らの種を増やす過程で、ある面積あたりに増殖可能な個体数の適性値が決まっている。その値を越えて数が増えると、逆に自身の種を減少させようとする反応が現れ始める。これを密度効果という。

 

 餌の不足、水質の汚染、そういった理由から一か所で際限なく増えられるわけではない。狭い場所で頻繁に接触するストレスから産卵数が減ったり、幼体の死亡率の上昇、共食いなど様々な密度効果がある。

 

 それらの反応が、この再生イカには見てとれない。ろくに身動きもとれないほどのすし詰め状態で泳いでいるというのに、まるでそれが適性値だとでも言わんばかりの繁殖ぶりだった。

 

 この海域にはヌタコンブくらいしか食べ物はないはずだが、それだけでこの巨大な個体数を維持できるだけのエネルギーをまかなえるのか。様々な疑問が湧くが、既存の生態系に関する知識をこの海にそのまま当てはめて考えることはできないため何とも言えない。

 

 磁力巻貝の勢力減少に伴って増加し始めた再生イカの経過から考えるに、あの巻貝がイカの捕食者に相当する存在だったのかもしれない。あるいは縄張りを形成し、イカたちを寄せ付けなかったのか。どちらにしても戦わざるを得ない相手だったとはいえ、その勝利の末にこのような結果が待っているとは思わなかった。

 

 このイカの群れをどうにかしない限り、島を出立することは困難だった。いくら対処できる相手と言っても弱い敵ではない。クインが力を十分に発揮できる状態で戦うことが前提であり、この海を見渡す限り埋め尽くす数の暴力を前に突撃することはさすがに無謀だった。

 

 たかが暗黒海域の辺境の島周辺で起きた異変でこれだけの足止めを食らうのだから、これから先、人間の大陸に到着するまでにどれだけの困難が待ち受けているのだろうかと気が滅入る。

 

 だが、もう悲観はしなかった。困難が立ち塞がるというのならそれを越えて行くまでだ。引き返す道は残されていない。

 

 そして、決戦の時は来た。海の向こうから大きな影がやってくる。巨大、膨大、莫大、そんな言葉では表しきれない。その大きさは一つの島に等しかった。

 

 島中に最大の警戒態勢が敷かれた。万全の防備で迎え撃つ体制が整っていたが、それでも一切の楽観はない。これまでの敵とはスケールが違い過ぎた。私がキメラアントとして生まれた荒野を背にする蛇を除けば、最大級の体格を持つ敵だった。

 

 それは島ほどの大きさもあるイカだった。ダイオウイカでも全長は10メートル前後あると言われている。そして、それだけの巨大なイカが人間の生存圏で発見されているのだから、巨大生物の楽園たる暗黒大陸とその海においては比較的“真っ当な”姿をした怪物と言えるかもしれない。『クラーケン』のような巨大なイカやタコの怪物は古くから伝承上で語られてきた。

 

 クラーケンは真っすぐにこの島を目指して泳いできている。戦闘は避けられないだろう。このまま島に近づけず、遠距離から撃退したいところだが、それには一つ問題があった。

 

 巨大な敵の襲来、それは厄介なことに違いない。だが、同時に大きなチャンスでもあった。このクラーケンも、外見からして再生イカと同種である。つまり、その内部には大きさに比例した烏賊骨があるはずだ。

 

 島サイズのイカから採れる烏賊骨ともなれば、まさにそれそのものが船と呼ぶにふさわしい一枚板である。多少、海が時化たところで転覆する心配はない。粘液の海を渡る上で最大の懸念がそこにあった。本体を如何にして安全に運ぶか。サーフボード程度の大きさの骨では、繭に包まれ窒息する危険が常にあった。

 

 何としてでも手に入れたい。それも無傷であることが望ましい。レールガンを使えば骨を傷つけてしまう恐れがあった。と言うより、骨ごと残さず粉砕するくらいの威力がなければこのイカは殺しきれない。

 

 手加減して勝てる相手とは思えなかった。このイカの再生力は巨体であるほどに強力になる。体長十数メールのイカでさえプラナリアが異次元の進化を遂げたような再生力を持っている。このクラーケン級の大きさとなればどれほどしぶといか想像がつかない。

 

 敵が接近するスピードは速かった。あと数分のうちには島に到達してしまう。迷っている時間も惜しかった。なるべく骨を傷つけない角度を狙ってレールガンの発射を決定する。

 

「3、2、1……開花(ファイア)!」

 

 砦の高台にセッティングしていた『侵食蕾弾(シストバースト)』が火を噴いた。いや、雷を噴いたと言うべきか。閃光がほとばしり、爆音が何重にもこだました。的は外す方が難しいほどの大きさである。敵本体への着弾を確認。瞬間的に沸騰した海水が濃霧を発生させた。

 

 そして、間を置かずして霧の中からクラーケンが現れる。その姿には一片の負傷も見られない。まるで何事もなかったかのように島を目指して泳いでくる。

 

 もはや骨の心配をしている余裕はなかった。立て続けに『侵食蕾弾』を発射する。しかし、結果は変わらなかった。傷を負わせるどころか、進行速度を遅らせることすらできていない。

 

 しかも、霧のせいで敵の周辺が見えづらかったのだが、着弾時の様子がおかしかった。確かに弾は当たったはずなのに、そこで何かしらの破壊が起きたように見えなかった。一度負傷してそこから高速再生したというのならわかる。そうではなく、負傷が最初から発生していないのだ。

 

 弾丸のエネルギーは敵の体を貫通し、海を吹き飛ばして蒸発させている。クラーケンの体に風穴があいていなければおかしい。何か、再生力以外の特別な能力があるのか。念能力を使っているようには見えなかった。

 

 敵の正確な能力がわからないまま、ついに島への到達を許してしまう。クラーケンは島の外周に張り巡らされたサボテンバリケードに体を乗り上げてきた。

 

 このバリケードは再生イカたちのなれの果てである。異常発生したイカが砂浜を埋め尽くすほどの勢いで打ち上げられるので、処分に困ってサボテン化させたことが始まりだった。

 

 毒に耐性があるのかそれとも再生力が異常に強いせいなのか知らないが、アルメイザマシンを劇症化させた再生イカはサボテンになって大量の花を咲かせ、シスト弾を撒き散らし続けた。なんとその期間は1カ月以上にも及ぶ。その強靭すぎる生命力に見合った生命エネルギーが蓄えられているようだ。

 

 そのシスト弾を受けたイカがさらにサボテンとなり弾を撒き散らし、それが繰り返されることで自然と島を取り囲むように大量のサボテンが設置されていった。バリケードの近くではひっきりなしにシスト弾が発射され続けており、再生イカを寄せ付けない自動防御壁となっている。

 

 だが、クラーケンに通用する罠ではなかった。その巨体、その速度、ただ島に到着するということが自然災害の到来に等しい。打ち寄せる高波を前に、数多のイカを取り込み積み上げられたバリケードは海の藻屑も同然だった。

 

 津波が押し寄せてくる。頑丈な高い防壁を築き上げていたことで被害は防げたが、もしこれが完成していなければと思うとぞっとする。そして休む間もなく敵の手は、私たちの頭上へと伸ばされた。

 

 一本一本が龍を思わせるほど大きな触手が防壁に張り付いた。十本の腕が鈍重な頭部を海中から引っ張り上げる。造形自体はどこにでもいるイカと変わらない。その事実が私の眼にはこの上なく奇妙に映っていた。

 



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27話

 

 ついにクラーケンの全貌があらわとなった。さすがに海中を泳いでいたときのような俊敏さはないが、十本の触手だけは動きが速く、注意が必要だった。

 

 イカやタコは頭足類とも呼ばれる。無理やり人間の身体に当てはめて考えるならば、頭部に臓器を全て詰め込み、首から直接手足が生えているような構造である。巨大な頭部は陸上での活動に当然のことながら適しておらず、触手がせわしなく動き回り荷物を引きずるように体を移動させていた。

 

 城壁にへばりつき、登ろうとしている敵は隙だらけだった。数十人のクインが一斉に襲いかかる。無防備な頭部にも簡単に近づくことができた。

 

 だが、そこからが問題だった。敵の再生力を推し量ろうと、試しに攻撃してみた。オーラを纏わせた手刀を放つ。敵へと接触する手の部分に、微細なオーラのイボを作り出し、それを高速で振動させている。これによりオーラで強化された身体能力に加えて、チェンソーのような破壊力と切れ味を持たせることができる。

 

 通常サイズの再生イカなら一刀のもとに全身が分断される威力がある。さすがにクラーケンを相手にそこまでの成果は期待していなかったが、一撃で駄目ならば二の太刀、三の太刀と連撃を浴びせればいい。その程度にしか考えていなかった。

 

 手刀を放つ。しかし、敵を傷つけることはできなかった。何が起きたのかわからない。もう一度、手刀を繰り出す。その攻撃は確かに敵に当たり、肉を切り裂く感覚があった。だが、結果としてダメージを与えられない。

 

 再生している。クインの手が敵の薄皮一枚を傷つけたときには、もう再生が始まっている。そして攻撃の最中にも再生され続けており、攻撃が終わったときには既に再生が終わっている。シスト弾を撃ち込んでも感染は表皮で止まり、垢のように周りの組織と一緒にぽろぽろと排出されてしまう。劇症化するスピードより再生力の方が遥かに速い。

 

 これではどれだけ表皮部分を傷つけたところで意味がない。再生力の基盤となる神経を完全に破壊しない限り殺せないだろう。この神経は全身に張り巡らされており、一部でも残っていれば瞬時に再生されてしまう。体の表面に近い場所ならばともかく、深部になれば攻撃を届かせることすら難しい。

 

 オーラの波で共振破壊する技ならば、ある程度深い場所まで攻撃することができる。これは敵自身のオーラを利用して身体内部で攻撃を発生させる技なので、再生力による阻害も薄かった。しかし、あまりに敵の体が大きすぎるため、最深部にある神経まで届かない。

 

 口から体内に入ることも考えた。しかしそれは自分から捕食されに行くに等しく、何事もなく侵入できるルートではなかった。当然、食道内も驚異的な再生力が働いており、まともな状態で進める環境ではないと、クインを先行させた別の私から報告が届いている。

 

 仮に、この化物の体の隅々まで網羅できるほどの人数を送り込めたとしても、その全員が寸分の狂いもなく連携を取って一斉に再生神経を完全破壊しなければ倒せない気がする。1ミリでも神経が残っていれば、次の攻撃を始める前に再生されてしまうだろう。

 

 そんなことができるのか。うまくいく確証などどこにもない。しかし、やらなければならなかった。

 

 このイカが何の目的でこの島に来たのか定かではない。私たちを捕食するためか、それとも縄張りから邪魔者を排除するためか。いずれにしても、倒す以外の方法でこのイカが素直に海へ帰ってくれるとは思えない。

 

 今日一日で決着がつく戦いではないかもしれない。敵の体力は無尽蔵、こちらの猛攻に対して何の痛痒も感じている様子はない。一方、私たちにしても差し迫った危険を感じるほどの相手ではなかった。確かにその巨体から繰り出される攻撃は強力だが、動きは遅い。攻撃のパターンからも複雑な知略は見てとれず、避け続けることは難しくなかった。

 

 クラーケンの侵攻を阻むことはできず、とうとう防壁を乗り越えて島内の湖まで侵入を許してしまった。ここまで来られると、下手にレールガンの発射ができない。味方にまで爆発の影響が生じてしまうからだ。

 

 私たちは最も得意とする戦法で勝負を仕掛けることに決めた。それは“泳ぎ”だ。水の中を泳ぐのではなく、肉の中を泳ぐ。オーラ振動を利用した高速泳法は、単に水中でしか役に立たない技術ではない。万物に宿る波を見極め、それに逆らわず味方につければ泳げない場所はない。

 

 その試みは簡単に為せることではなかった。一時的には肉の内部に食い込めるものの、すぐに外へと押し出されてしまう。こちらの認識を越えるほどの速度で細胞が再生し、異物を体外へ排出しようとする力が働いている。水の中を泳ぐようにはいかない。

 

 おそらく、深部の組織に入れば入るほど再生速度は上がり、抵抗も大きくなるのだろう。それでも諦めない。初めは到底泳げるはずがないと思っていた粘液の海も、最終的には克服できた。もっと深く、クラーケンという生物が持つ波長(バイオリズム)を理解すれば必ず泳ぐことができるはずだ。

 

 一瞬だけ薬を使えば感度を引き上げられるのではないかと考える。だが、すぐに払拭した。ここで薬に頼ることは仲間たちと自分自身に対する裏切りだ。誇りにかけて、もうこれ以上道を踏み外すようなことはできない。

 

 この怪物を倒せば船が手に入る。そうすればこの島を脱出し、海を渡る大きな足掛かりとなるだろう。時間はかかるかもしれないが、決して不可能ではないと思えた、その矢先。

 

 

 ――たすけて!――

 

 

 私たちは電波を介して密に連絡を取り合っていた。以前のようにノータイムで意思が伝達できるわけではない。テレパシーであってもその情報は言語の形として送受信される。連携が必要不可欠な敵を前にして、入り乱れる情報のやり取り。その中に、異常を知らせる声が紛れこんだ。

 

 救難信号であることに間違いはない。しかし、それ以上の情報は出て来なかった。発信元は、私がいる場所から離れている。何が起きているのか状況が把握できない。

 

 助けに向かうべきか悩んだが、私は最前線での攻防を任されている。自分の持ち場を離れるわけにはいかなかった。他の私たちに対処してもらうしかない。

 

 たった一言だけの助けの声。そこには真に切迫した感情が込められていた。そして、それ以降の連絡がない。言い知れない不安が募るも、仲間の無事を信じて祈ることしかできなかった。

 

 

 * * *

 

 

 それは一瞬のことだった。変化は私のすぐそばで起きた。

 

 私たちは後方の防衛拠点で待機していた部隊だった。最前線で戦う仲間の体力も長くは続かない。特に、長期戦が想定される相手だけに、体力を温存した後方部隊は必要だった。いつでも交代して戦えるように万全を期していた。

 

 唐突に、何の前触れもなく、ある一人のクインの体が結晶で覆われた。私たちはその状態を知っている。赤い植物鉱石『仙人掌甲(カーバンクル)』によって全身を鎧のように包み込む技だ。これを『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』と名付け、呼んでいる。

 

 しかし、その技は一度使えば制御不能となる禁術だ。自らの精神を壊しかねない罪悪感と自己嫌悪の末に生み出された『自分自身に対する悪意』の塊。悪意感知によって可視化されたその幻影をアルメイザマシンで金属化させ鎧として身に纏う技である。これを使えば強大な力を発揮できる半面、クインが暴走状態に陥ってしまう。

 

 確かに今、この島に侵攻してきているクラーケンは並々ならぬ強敵である。だが、今ここで『仙人掌甲冑』を使ってまで対処しなければならない相手かと言えば即座に否定できる。明らかにデメリットの方が大きい。

 

 しかも、技が発動する直前、そのクインの本体から助けを求める信号が送られている。自分の意思で技を使ったわけではないのか。その後、何度も連絡を取ろうとテレパシーを送ったのだが、反応がない。本体はクインと一緒に鎧の中に取り込まれてしまっている。

 

 最初はクラーケンによる何らかの特殊な攻撃を疑ったが、どうもそれとは無関係に発生した問題のように思えてきた。とにかく、原因を究明しなければ救助のしようがない。

 

 一つ気になったのは、そのクインの生い立ちだ。私たちの身体的構造や関係性に差異はない。クローンのように均一な特徴を有している。だが、『仙人掌甲冑』を発動させたクインの本体は一つだけ他にない意識を持っていた。

 

 彼女は意識共有体に残り続けた最後の本体だった。ある時期を境に共有体から分離する個体が爆発的に増えたが、全員が一斉に抜けたわけではなかった。独立勢力が台頭する中、旧来の意識共有体に残る者も少数だがいたのだ。

 

 しかし、それも短期間のうちに離散する結果となった。今では全ての個体が独立を果たし、共有体は個々のネットワーク内でのみ機能している。暴走している彼女も最後まで独立しなかったとはいえ、他の全員が離脱することで結果的に共有体への帰属はできなくなった。

 

 だからと言って、彼女が精神的に問題を抱えていたかと言えばそうではない。ただ他の皆よりも決心が少し遅れただけでしかなく、彼女にも離脱の意思はあったのだ。これまでも他の私たちと変わらず、普通に生活を送っていた。

 

 しかし、現在起きている状況と彼女の生い立ちを照らし合わせたとき、それが全く無関係のことと断言はできなかった。数千人いる私たちの中で発生した異常事態、その当事者が彼女であるということはただの偶然とは思えない部分がある。

 

 『仙人掌甲冑』に覆い隠されたクインは、不気味な沈黙を保って静止していた。周囲にいた私たちも、不用意に刺激できず膠着状態になっている。

 

 『仙人掌甲冑』の暴走中はクインが非常に攻撃的な性格に変わり、敵に対して無謀な特攻を仕掛けるようになる。だが、理性が完全に失われるわけではない。利にならない支離滅裂な行動は取らない。味方である私たちに危害を加えるようなことはしないはずだ。

 

 だが、既に想定外の事態が起きている以上、慎重にならざるを得なかった。技が正常に発動している状態ならば、本体の意識は明瞭に機能していなければおかしい。暴走するのはクインだけである。

 

 しかしだからと言って、このままじっと動かずに見ているだけで済ますわけにもいかない。本人が助けを求めたとおり、現在進行形でのっぴきならない状況が続いている可能性が高い。何とか本体だけでもクインから引き離さなければならない。

 

 一人のクインが動いた。そのわずかな挙動を発端とするように、暴走したクインが反応する。私たちは彼女を見失った。

 

 まるで最初から存在していなかったかのようにその場からいなくなった。ともすれば、たちの悪い幻覚でも見ていたかのごとく忽然と姿を消したのだ。

 

 思考に刹那の空白が生じる。だが、理解が追いついた。これは『絶』だ。目の前にいながら存在を見失うほど高度な『絶』。すぐさま『共』で索敵する。

 

 そして次に彼女が姿を現したとき、それは死をもたらすに余りある掌打が仲間の一人に撃ち込まれる瞬間だった。クインの胸部に、黒煙と赤い結晶に覆われた掌底が叩きこまれる。

 

 凄まじい轟音と風が巻き起こったが、逆にその事実は私たちを安心させた。攻撃を受けたクインの防御が間に合ったのだ。本来なら身体がバラバラになってもおかしくないほどの衝撃を受け流し、音や風のエネルギーに変換して効果的に散らしている。現に、掌打をくらったクインはその場から一歩も動いていなかった。

 

 さらにそこから反撃に転じた。『仙人掌甲冑』に向けて拳を突き当てる。硬い鎧に守られていようが関係ない。微小な波は鉱物中を伝わり、確実に内部を破壊する。

 

 だが、暴走しているとはいえ相手もまた私たちと同じく修行を積んできた手練れであった。かつて枯れ木人間と戦ったとき、奴らの共振攻撃を体内強度の変化によって回避したように、彼女は自分の体に流れるオーラの波長をずらしたのだ。

 

 互いに攻撃が通らず、密着した状態で組合っている。しかし、互角の実力というわけではなかった。不利なのは襲われた方の仲間だ。

 

 『仙人掌甲冑』は単なる防具ではない。肉体を外側から補強する外骨格の役割を果たし、オーラ強化の係数となる基礎能力を底上げする。ただの華奢な少女と、変幻自在の外骨格で覆われた少女、どちらの強化率が高いかは言うまでもない。

 

 防御面においても攻撃面においても、暴走したクインの身体能力は通常時のクインを遥かに凌駕する。さらに、彼女はこの島で修行を積み『波』に対する感受性も身につけた。暴走していても戦闘に関する技のキレが落ちることはない。

 

 一対一で正面からぶつかって勝てる相手ではなかった。こちらが最初の一撃を防御できたことも偶然に過ぎない。もし、暴走個体が本気で攻撃に及んでいれば確実に打ち負けていた。

 

 その性能を知るがゆえに実力差を読み間違えることはない。明らかに彼女は手加減していた。ほぼ正常な意識を失っているが、もしかすると最後の理性が働いて攻撃を躊躇したのかもしれない。

 

 だが、その予想すら甘い認識だったことを知ることになる。

 

「えっ……」

 

 襲われたクインの拳が赤い結晶で覆われている。私は『仙人掌甲(カーバンクル)』を使ったのだと思った。しかし、それは悪手だ。これは拳を赤いサボテンでグローブ状に覆う技だが、『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』のような変形性能を持たない。防具としては有用でもそれ以上の効果はなく、下手に拳周りの動きを阻害するよりも身軽さを重視して使わない方が良かったのではないか。

 

 だが、その予測は全く見当違いのものだった。暴走個体を殴りつけたクインの拳を始点として『仙人掌甲』が広がっていく。それはまるでアルメイザマシンに感染し、劇症化した生物のように、襲われたクインの体が『仙人掌甲冑』で覆われていく。

 

 自分から技を発動したのではない。発動“させられている”。その異常事態を前に、最も早く行動を起こしたのは襲われた当事者だ。即座にクインを放棄することを決め、本体が離脱した。

 

 しかし、見逃されない。俊敏に動けるクインならばともかく、元が鈍重な動きしかできない本体がいくら即断即決に踏み切ったところで、暴走個体のスピードに敵うはずがない。

 

 離脱を試みジャンプした本体は空中でキャッチされた。一瞬で赤い結晶の中に取り込まれる。

 

 

『いやだあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ』

 

 

 それきり、反応はなくなった。

 

 あまりの出来事に思考がフリーズし掛けるも、恐怖が無理やり体を動かした。もはや暴走個体を抑えつけて救助するなどという悠長なことを言っている段階ではない。その正体や原因を究明している余裕もない。

 

 ここで確実にとどめを刺さなければならない相手だ。この存在は私たちを全滅させうる。まだ犠牲者は二人だけだが、なぜか確信できた。

 

 

「『侵食蔕弾(シストショック)』用意!」

 

 

 最も気をつけなければならないのは敵に触れることだ。あの『仙人掌甲冑』は感染する。アルメイザマシンの発症を抑制できるはずの私たちが抵抗もできず取り込まれてしまう。絶対に、敵と接触してはならない。

 

 そうなると、一気に行動の選択肢は減ってしまう。ただでさえ実力差のある敵に対して、こちらは防御することもできず避け続けるしかない。かすりでもすればこちらの負けだ。

 

 遠距離攻撃しか手段は残されていなかった。『侵食械弾(シストショット)』の威力では、あの鎧に傷すらつけることもできないだろう。だから、新たに開発した技を使う。

 

 『侵食蔕弾(シストショック)』は形成途上のレールガンである。本体を中心としてアサガオのつぼみ状の銃身を作り出すことは同じだが、その大きさは『侵食蕾弾(シストバースト)』に及ばない。全長60センチほどである。

 

 固定砲台として絶大な威力を発揮するレールガンに対して、『侵食蔕弾』は機動性を重視し、持ち運べる大きさになっている。そして次弾の発射準備が早く済むという利点がある。だがその分、威力は大きく劣る。銃身の大きさの問題もあるが、クインが構えた状態で発射の衝撃を抑え込める程度の威力に抑えなければならないからだ。

 

 そのためレールガンとしての性能は低く、余計な摩擦と電気抵抗の発生によって電磁誘導を阻害するプラズマが生じてしまう。しかし、逆にそのプラズマ膨張圧力を利用して弾を飛ばすのがこの技だ。サーマルガンに近い性能をしている。

 

 その威力は火薬を推進力とする銃の比ではない。いかに強固で柔軟な守りを持つ『仙人掌甲冑』であっても、この一撃は防ぎきれない。

 

 強化率で大きく勝る敵に対して、こちらの唯一の武器は数だ。包囲して銃撃を浴びせれば倒せる。まだ戦況はこちらが有利だ。しかし、仕留めるまでの時間が遅れるほどに犠牲者の数は増えるだろう。迅速に戦闘を遂行しなければならない。

 

 『侵食蔕弾』を発動する。レールガンほどではないが、銃の形成には多少の時間がかかった。その隙を座して待つような敵ではない。こちらに向かってくる。私と目があった。

 

 心臓をわしづかみにされるような威圧感。目が合ったと表現したが、それが適切であるかわからない。確かに敵は私を認識して向かってきているが、私に対して悪意を持っているわけではなかった。その体から噴き出す黒煙は自責の念であり、他者に向けられたものではない。

 

 まるで突風に吹き飛ばされた瓦礫か何かが飛んできているかのように感じる。ひょいと身をかわせば、そのまま横を通り過ぎていくようなあっけなさ。

 

 だがそれは所詮、私感でしかない。触れれば確実に死ぬ。いや、死ねるのかどうかもわからない。取り込まれた仲間たちがどうなったのか、確認はできていないのだ。私が直面している敵とは、そういう相手だった。

 

 胸を穿つ軌道で貫手が迫った。右へ半身をひねりかわす、と同時に後ろへ下がる。さっきまでクインが立っていた場所を、敵の蹴りが通り過ぎる。貫手はフェイントであることが見抜けた。本命は足払いだ。威力はいらない。敵はこちらに触りさえすれば勝てる。コンパクトに、素早く、当てることだけを考えればいい。

 

 姿勢と構え、体幹と重心の移動、人体の関節は無限に可動できるわけではない。姿を見れば、次の一手は自ずと限定されていく。しかし、それは攻め手だけに言えることではない。守る側にも同様のことが言えた。

 

 蹴りから右の拳へつなげてくるところまでは読めた。それをさせないように右へと回り込んだ。しかし、敵もその回避を瞬時に読んでいた。左の脇がわずかに開く。次はおそらく、肘がくる。

 

 そこで詰みだった。私のクインはまだ回避行動を終えていない。まるで私と敵とでは流れている時間が違うかのように、行動が間に合わない。

 

 くる。ざわざわと幻聴(ノイズ)が這い上がる。世界が吸い寄せられるようにその一点へ収束していく。

 

 左の肘が入る。爆発音と衝撃でクインの体は吹き飛ばされた。

 

 しかし、その衝撃は敵の攻撃によるものではなかった。クインは負傷したが、無事だ。『仙人掌甲冑』に取り込まれてはいない。

 

 仲間の援護が間に合ったのだ。『侵食蔕弾』が私と敵を分断するように炸裂し、引き離してくれた。恐怖のあまり止まりかけていた心臓が息を吹き返したように動き出した。

 

 耳をつんざく発砲音が折り重なった。敵は素早く身をかわす。正確に周囲の状況を把握し、銃弾の軌道を予測できなければできない動きだ。だが、それでも高速で迫る銃弾を全て回避することはできない。

 

 銃弾が当たった。火花が散る。これで決着がつく。そうなることを天に願った。それはつまり、仕留めきれるとは露とも思えなかったことを意味していた。

 

 確かにその銃弾は鎧を貫通するだけの威力があっただろう。だが、そのエネルギーは小手先を滑るように受け流されてしまった。予想外の強度、そして熟練された技。剛と柔を併せ持つ体捌きが弾丸の威力を大幅に減衰させている。ひび割れた鎧の傷跡も、瞬時に修復されてしまった。

 

 棒立ち状態のところを撃ち込まない限り、まともなダメージになりそうにない。そして、そんな好機が都合よく訪れることはない。さらに、私たちが現在取っている布陣が良くなかった。

 

 私たちは敵を包囲するように取り囲んでいる。敵を狙おうとすれば、その背後の味方と射線が重なってしまう。これでは強烈な威力を持つ『侵食蔕弾』をうかつに撃てない。しかも、敵と距離を取って包囲しているならまだしも、私たちは狭い範囲に密集している。後方待機していた部隊の中に敵が突然現れるという状況であったため、こうなることは仕方なかった。

 

 このままでは包囲を食い破られる。混戦になれば余計に不利だ。どんな状況だろうと、この敵が冷静さを失うことはない。確実に弾を回避し、受け流す。弾が当たるビジョンを思い描けない。

 

 

「今だっ!」

 

 

 誰かが叫んだ。その声を皮きりに、眼の前の光景が一変する。ここに至り、私はようやく気づいた。密集した包囲陣形は私たちにとって不利ではなかったのだ。

 

 暴走個体を取り囲む最前線にいたクインたちは一斉に飛び出し、ある技を使った。それは『円』だ。ただし、索敵が目的ではない。クインを中心として広がる半球状の空間把握。そのシャボン玉のようなオーラの膜をアルメイザマシンで金属化させた。

 

 この技は以前にも使ったことがある。ドーム状の結晶シェルターを素早く作り出し、身を守る技である。だが、今回はそれを捕縛に用いた。多数のクインが同時にこの技を使うことにより、円のシェルターは互いに重なる領域が出てくる。集合を表すベン図のように、重なり合った領域は分断され、小さな部屋として隔離されるのだ。

 

 その小部屋に敵を閉じ込める。これは皆で何度も訓練してきた作戦の一つだった。本来なら電波通信によって情報をやり取りし、連携を確保した上で行う作戦だが、今回の敵はその通信を傍受している可能性が高かった。だから、あえて連絡を取らず実行に移したのだろう。

 

 おそらく、アイコンタクトなどの指図がなされていた。私は不覚にも気づけなかったが、仲間はきちんとその意図を理解し、作戦を成功させた。

 

 円のシェルターを何重にも重なり合わせたと言っても所詮、薄い金属板の仕切りでしかない。『仙人掌甲冑』のパワーを相手に張り合えるような拘束ではない。

 

 だが、敵はまずこの小部屋を破壊する必要がある。その一手は絶対に避けられない。小部屋の中に隔離され視界を閉ざされた状態で、たとえ『共』を使って次の攻撃に備えたとしても防御は間に合わない。

 

 既に磁力のチャージを終えた『侵食蔕弾』の銃口が、敵を閉じ込めた小部屋へと向けられていた。私は引き金をひく。構えられた全ての銃が一斉に火を噴いた。

 

 これで、詰みだ。

 



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28話

 

 確かに命中したはずだった。全弾が間違いなく拘束された暴走個体を撃ち抜いた。そのうちのいくらかは防御されたかもしれないが、その程度は問題にならないほどのダメージが入っていた。

 

 赤い装甲はひしゃげ、貫通した穴があき、頭部も腹部も吹き飛ばされていた。人間ならば即死していなければおかしいほどの致命傷である。その鎧の中に入っているモノが、人間であったならば。

 

 私たちは逃げた。最後の奇策が破られた現状において、対抗する手段は残されていない。その鎧の中身を目にしたとき、おそらく全員の私が敗走を覚悟したことだろう。

 

 そこには“なにもなかった”。

 

 クインは入っていなかったのだ。致命傷を受けたクインが『偶像崇拝』の発動を維持できずに消滅したのかとも思ったが、そうではないことを直感的に悟った。

 

 それは最初から誰も着ていない鎧だった。ただヒトの形をしただけの、空っぽの鎧。銃弾を受けて損壊した装甲はすぐに修復され、中身を持たぬまま独りでに動き出す。

 

 西洋の怪物に、リビングアーマーと呼ばれるものがある。“生ける鎧”の名の通り、鎧そのものに霊魂が宿り、主なきまま彷徨い動くという。

 

 見た目だけならその怪物のようにも見える。そして、それを動かしているのは幽霊などではなく取り込まれた本体だ。そう考えるのが妥当だろう。

 

 だが、それだけでは説明のつかない得体の知れなさがある。それが何なのかわからないが、感じることはできた。私たちでは決して敵うはずがない。能力や実力の差ではなく、何かもっと根源的な部分で敵に回してはいけない相手だと肌で感じた。

 

 一人、また一人と仲間が食われていく。そのたびに敵は力を増していく。しかし私たちを残さずたいらげることが目的なのかと思えば、そうでもない。

 

 もはやここに残った面々で手に負える相手でないことは明白である。やろうと思えば、敵はすぐにでも私たちを取り込むことができるだろう。単純に、それだけの実力差があった。

 

 だが、敵の攻撃は散発的なものにとどまり、こちらを即座に全滅させようという意図は感じられなかった。こちらを侮り手を抜いているとか、強者としての余裕とか、そういう感情のもとに行動しているとも思えない。

 

 とにかく敵が全力を出してこないことは不幸中にして唯一の幸いだった。多くの犠牲を出しつつも、私たちは全滅を免れ退避することができていた。その姿は、恐怖に駆られ命惜しさに逃げ惑う小動物の群れのようにも見えるかもしれない。そう見えることを望んだ。

 

 どれだけ情けない姿を晒そうとも、私たちの中に誰ひとりとして諦めの感情に支配された者はいなかった。敵は強大、生き残れるかどうかもわからない。そんなことは当たり前だ。暗黒大陸において、私が戦い勝利した相手などちっぽけな数でしかない。その勝利にしても、生きるか死ぬかの瀬戸際でようやくつかんだ辛勝ばかりだった。

 

 ここで諦めれば、イカの怪物と戦っている仲間たちはさらなる窮地に立たされる。二つの脅威を同時に相手取る余裕はない。私たちが生き残るためには、どちらも倒すしかなかった。それがどんなに困難な使命だろうとやり遂げなければならない。

 

 私たちは敵の注意を惹きつけ、わずかな時間を稼ぐ。そのたった一秒の時間を得るために、冗談のように犠牲者は増えていく。そのいくつもの命を賭けて稼いだわずかな猶予の中で、数人の仲間を先行させていた。

 

 この場所にいない他の仲間たちに作戦を伝えるためだ。電波による通信は傍受される危険がある。口頭で伝えなければならない。

 

 次の瞬間には、迫りくる終わりの中へと私も取り込まれているかもしれない。だが恐怖に打ち勝つことはできずとも、進むべき道を踏み外すことはないだろう。泥のようにまとわりつく時間の中、死すら生ぬるい終焉を背に、私たちはその怪物を導き続けた。

 

 

 * * *

 

 

 島に上陸したクラーケンに対して私たちが下した評価は低すぎた。ただ再生力が強いだけの巨大生物ではなかったのだ。

 

 クラーケンを攻撃していたクインたちに、まず変化が現れた。肌が柔らかくなり、べったりと水気を帯びるようになる。至近距離でクラーケンと戦っており、奴が全身から分泌する大量の粘液にまみれていたので気づくのが遅れたが、確かにクインの体に変化が生じていた。

 

 それに伴い、『偶像崇拝』の発動維持にかかるオーラ消費量が急激に増加し始めた。これはクインの体に発生した異変を修復するためにオーラが使われているためだ。しかも修復は一向に完了する気配が見えず、時間の経過と共にオーラ消費量は増える一方だった。

 

 怪我や解毒、病気の治療なら一時的に消費量が跳ね上がることはあってもすぐに通常の消費値へ戻っていく。今、クインに起きている異常は継続的な変化をもたらしている。苦痛などのこれと言った刺激を感じることはなかったが、クインの体が別のものへと作り変えられていくような感覚があった。

 

『偶像崇拝』の念能力には「容姿を変更できない」という制約がある。だから見た目としては以前とそれほど変わらない姿をギリギリ維持している。それはある意味で厄介なことでもあった。自分の意思で修復を中断することができず、抑えようと思っても絶えずオーラが消費されてしまう。

 

 また、容姿を変えられないということは別の言い方をすれば「見た目に影響がない範囲なら変化可能」とも解釈できる。クインの肉体の変化は内部において顕著に現れていた。体組織の軟化、特に骨がゴムのように柔らかくなってきている。このまま症状が進行すれば立っていることも難しくなるだろう。

 

 そしてその症状はクインにだけ現れたものではなかった。本体にも影響があった。むしろ、オーラ修復で症状を抑えているクインよりも、本体の方が深刻な被害を受けている。

 

 まず外骨格である装甲が軟化。著しく強度が落ちている。さらに眼が肥大化し、脚の形状までもが大きく変わった。六本の脚がイカの触手のような形になり、さらに新しく四本の触手が生え始めている。

 

 体がイカそのものに近づいている。これがクラーケンの常軌を逸した再生力の秘密だった。

 

 生物の体は無数の細胞で構成されている。小さな細胞の一つ一つは脆弱で長く生きられるものではない。すぐに傷つき、寿命がくる。しかし、そこに内包された遺伝子という設計図に従って傷は修復され、細胞は分裂して数を保とうとする。ミクロ的に見れば一時的な増減はあっても、肉体全体から見れば問題なく恒常性が保たれている。

 

 この再生のメカニズムがクラーケンにおいては異常に強化されている。自分自身のみならず、他の生物の体にまで再生力を押し売りするほどに。

 

 つまり、私の体は今“正常”に“治され”ているのだ。あるいはこの巨大イカも初めはイカではなかったのかもしれない。何があろうとイカの姿に作り“治され”てしまう。

 

 私たちがこれまでに戦ってきた小さなイカにこんな能力はなかった。あったのかもしれないが、クラーケンほど強力ではなかったのだろう。だから気づくのが遅れてしまった。いつものイカを相手取る感覚で接触してしまった。

 

 クインについては最悪、『偶像崇拝』を発動し直せば変化をリセットできる。だが、本体はもうどうしようもない。後で元に戻せるとは思えなかった。この姿を受け入れて生きていくしかない。

 

 問題はどの程度まで変化が進行してしまうのかということだ。たとえアリからイカの姿にすっかり変わってしまったとしても生きていられるのならそれでもいい。だが、自我や精神まで失われてしまうのならば許容できない。それでは死んだも同然だ。今の精神を持ち続けられる保証はない。

 

 アルメイザマシンの装甲さえも変質させる再生力、その支配力だけを見れば災厄としての脅威度は上回っている。長期戦を仕掛ければ勝ち目はあるという見立ては大きな間違いだ。長く戦えば戦うほどに再生の汚染は拡大する。

 

 だが、現実問題としてこの巨大すぎる敵を島から排除する方法はなかった。動きの遅い触手の殴打から逃れることは容易いが、触手がのたうつたびに大量の分泌液が撒き散らされる。その粘液に触れただけでアウトだ。再生が開始されてしまう。

 

 とめどなく溢れる分泌液は雨のように降り注ぎ、地面を濡らしていく。距離を取る以外に回避する手段はない。そして、いつまでも逃げ続けられるほどこの島は広くない。症状が進むことを覚悟の上でクラーケンの侵攻を食い止めるのが精一杯だった。

 

 最悪の状況としか言い様がない。しかし、さらなる悪い知らせがもたらされる。仲間の中に原因不明の異常暴走個体が発生していた。

 

 交戦した部隊から直接伝えられた情報である。にわかに信じられる話ではなかったが、逃げてきた仲間たちのただならぬ様子は真に迫るものがあった。そして実際に現れた暴走個体を目にしたとき、襲われた者たちが伝えたかった恐怖の意味を即座に理解した。

 

 多くの本体を取り込み、その人形は3メートルを越えるほどに成長している。もはやクインの面影などない。

 

 未知の脅威と出くわしたとき、彼我の実力差を計る直感がはたらく。それは特別な能力ではなく、野生に棲む者が当たり前に身につける技能である。無論、敵の詳細な戦力がわかるわけではなく、勘が外れることもある。だが、何となくわかるのだ。

 

 絶対に敵に回してはならない。根拠はないが直感がそう告げていた。それはクラーケンをも差し置いて危険視するほどの警告。無意識に足が逃げようと動くのを必死にこらえた。

 

 その化物を前にして、命を顧みず後方部隊は敵をここまで誘導してきたのだ。私がここで逃げ出すわけにはいかない。

 

 あの化物を滅するためには最大威力の攻撃が必要だ。『侵食蕾弾(シストバースト)』。初速マッハ15を越える弾体の威力は、純粋な物理法則に基づくエネルギーだけで着弾地点を消滅させる。その破壊力を前にしてどんな防御も意味を為さない。

 

 その砲門が、この場所にはそろっていた。もともとはクラーケンに対して配備されていたものが、身内に生じた異分子へと向けられる。一発でも十分な威力だろう。それを取り囲むようにしての一斉掃射が計画されていた。

 

 当たれば死ぬ。暴走個体を殺すことは当然として、その破壊の範囲に仲間たちが入っていた。ここまで敵を連れてきた後方部隊だ。彼女たちが安全な場所まで退避するのを待っていては攻撃のチャンスを逃してしまう。

 

 決死の思いで逃げてきた仲間たちをこの手で葬らなければならない。私のクインは震えていた。どんな思いで味方を巻き添えにしろと言うのだ。共にここまで助けあって生きてきた仲間たちを何とかして助けたいという気持ちはあった。

 

 しかし、その感情のまま攻撃を躊躇することは彼女たちに対する最大の侮辱だと言うこともわかっていた。作戦には最初から、その犠牲が想定されている。囮となった仲間たちは初めから自分自身の犠牲を覚悟して、あの場所に立っている。

 

 もし自分が彼女たちと同じ立場であったならばどうするか、私には理解できてしまった。

 

 間もなく作戦ポイントに敵が到達する。それまでパニックを起こしたように逃げ惑っていた囮の部隊は、演技を止めて猛然と敵に殺到した。自分がどうなろうと構わないという覚悟。狩りに夢中になって誘い出された敵に、果たしてその心情は理解できるだろうか。追い込まれた哀れな鼠が自棄を起こして飛びかかってきているように見えるのだろうか。

 

 わかるわけがない。その勇気を、その高潔さを。心を亡くした化物風情に理解できるか。叫び出したくなるほどの激しい怒りにとらわれる。冷静ではいられなかった。

 

 遺志は引き継ぐ。私たちは先へ進む。犠牲となった仲間たちの分まで生きなければならない。そんな綺麗事が腹の底から這い上がってくる。撃たなければならないという意思と、それでも撃てないという意思とがせめぎ合い、絡み合い、どちらともつかない空白地帯に意識が追い込まれる。

 

 

『開花(ファイア)!』

 

 

 号令がかかった。その一言が空白の均衡を打ち破った。

 

 

 * * *

 

 

 その敵は、もともと私たちの仲間だった。暴走し、仲間を食らい、多くの被害を出した。

 

 だが、不可解な点もある。その闘い方は理路整然とした武法に基づくものであり、獣のような力の使い方ではない。

 

 しかし、強大な力とそれを何倍にも高める武術を併せ持つ理性がありながら、敵はのこのこと『侵食蕾弾(シストバースト)』の射線に入ってきた。その威力を敵が知らないはずもない。

 

 カトライの回避術のように闘い方だけは体が覚えていて、頭は何も考えていなかったのかもしれない。私たちはそう思っていた。

 

 

 だが、もしそうではなかったのだとしたら。

 

 

 『侵食蕾弾』は放たれた。爆心地は地形が変わり、巨大なクレーターとなっている。そこには何もない。鎧姿の敵も、大勢の仲間たちも、何一つとして残っていなかった。

 

 その空虚の中に、一点の赤が生じる。

 

 見間違いかと思った。目を皿のようにして確認した。全てが消滅したはずの場所から、何かが生まれようとしている。

 

 誰かが『侵食蕾弾』を撃った。続けざまに何度も同じ場所へ撃ち込まれる。だが、どこかで無駄だと思う自分がいた。

 

 何度、破壊されようとも、それは幾度となく誕生した。赤い金属はヒトの形へと成長する。クインも本体も、どこにもいない。無から生み出されていく。

 

 これは何だ。私たちは何と戦っている。

 

 それまで心を満たしていた怒りや悲しみは遠のき、叩き潰すような重圧がのしかかってくる。その鎧から無機質なオーラを感じた。最初は感情がないのかと思ったが、違う。あまりにも違うから、何も見えず透明に感じる。その透明が何百、何千、何万と、数え切れないほど重なって、海を満たす水のように、深海における水圧のように襲いかかってくる。

 

 オーラの水圧に押しつぶされる。溺れ死ぬ。本気でそう思ったそのとき、頭上から大きな影が落ちた。

 

 クラーケンの触手だ。この島で暴れる怪物は一つだけではない。こうして私たちが戦っている間も、奴はじわじわと島内へ侵攻していた。

 

 全くの意識外からの攻撃。それがクレーターの近くへと振り下ろされた。赤い鎧は避けることもせず、巨大な触手の下敷きとなった。

 

 だが、それで事態が好転したとは思えない。現に鎧が放つオーラは少しも動揺せず、私たちの予想のさらに上をいく事態へと発展する。

 

 鎧に一撃を与えた触手が赤い結晶で覆われ始めた。

 

 クラーケンをアルメイザマシンに感染させ、劇症化させたのかと思った。だが、よく見ればそうではない。クラーケンの再生力は健在である。どんなにウイルスを体内に送り込んだところで瞬時に再生され、体外へと排出されてしまう。

 

 だから、劇症化したわけではなかった。ただ、表皮を包み込むように“赤い鎧”が増殖し、覆い尽くしていく。

 

 別にウイルスの力でクラーケンの体を作り変えているわけではない。だが、ではその赤い金属を作り出すオーラはどこから捻出しているというのか。クラーケンの巨体を侵食していくほどの莫大なオーラをどうやって生み出している。念能力の常識からは考えられない異常が起きていた。

 

 クラーケンはのたうちまわり、鎧を引き剥がそうと狂ったように暴れ回った。その衝撃で一部の鎧は剥げ落ちるものの、侵食は止まらない。ついに全身が鎧で覆い尽くされてしまった。

 

 クラーケンはアルメイザマシンを無効化できる。その再生力で、劇症化が広がる前に患部を体外へと取り除くことができる。しかしそれは再生の結果であって、感染しないということではない。

 

 外皮を覆い隠すように鎧で包み込まれ、患部を体内から逃がさないように閉じ込められればどうなるのか。

 

 次第に、クラーケンの姿が変化していく。生木をへし折るような音を立てて島のごとき巨体が変貌する。それは子供が粘土をこねまわすように、正気を疑うような光景だった。

 

 触手がねじ曲がり、数本が縒り合わさり、四本となった。胴体は中ほどからくびれ、上部に突起が現れる。それは四足歩行をする獣のように立ち上がり、次いで二本の足で直立した。

 

 頭があり、胴があり、腕があり、脚がある。辛うじてヒトの姿を形取った、赤い巨像。

 

 クラーケンを丸ごと食った。もしかすると、その再生能力も手に入れたかもしれない。

 

 巨像はゆっくりと片手を前に出した。その掌の上に、花のつぼみが生えた。城ほどの大きさもある花がクルクルと回転しながら青く輝き始める。

 

 映画か何かを見せられていたように呆然としていた私は、現実に引き戻された。私の本体が引き寄せられている。磁力だ。強大な磁力で、あの花に吸い寄せられる。

 

 私は近くにあった岩場にしがみついた。だが、全ての仲間が同じように対処できたわけではなかった。砂浜にいた仲間は宙に舞い上がる。おびただしい量の点が花へと向かって“落ちていく”。実際は空に飛びあがっているが、上下の感覚すら失うほどに強い力で引き寄せられている。

 

 最初から、こうするつもりだったのだと気づいた。敵は本気で戦う必要などなかった。いや、戦う必要すらなかった。どう状況が推移しようと、最後はこうして私たちを根こそぎ吸い込む予定だったのだ。

 

 クラーケンの襲来と暴走個体発生のタイミングは偶然の一致ではない。おそらく、敵は以前から待ち構えていた。機が熟すまで私たちの内部に潜んでいた。別に食べる相手が巨大イカでなくてもよかったのだろう。おあつらえ向きの展開が来たので顔を出したに過ぎない。あるいは、本体たちがイカに殺される前に回収しようと思ったのかもしれない。

 

 逃れられぬ、運命だった。

 

 

「あああああああ!!」

 

 

 何もかも無駄だ。糸が切れる。風が止む。砂が落ちる。

 

 渦が巻く。

 

 

「グラッグ! チェル! トク!」

 

 

 それはせめぎ合う磁界のうねりだ。あの磁力を生み出すつぼみ状機関は単なる強力な磁石ではない。鉄などの強磁性を持つ金属はもちろんのこと、その他の金属すらも見境なく引き寄せる。複雑に組み合わさり渦を巻く磁界と、それによって発生する電磁誘導の影響だ。

 

 フラッシュバックが訪れた。視界が引き延ばされる。砂浜も海も空も、私も仲間たちも巨像も、絵具をかき混ぜるように原形を失っていく。それらは青い花を中心に渦巻き始めた。阿鼻叫喚を飲みこんで、中心点へと消えていく。

 

 見たことがある。この渦は何度も見た。もしかして奴は。奴の正体は……。

 

 思考がぶれる。限界だった。手が離れる。落ちていく。呑みこまれる。排水口に流された小さなゴミと変わらない。くるくると回りながら終わりへ向かう。

 

 しかし、私の体は渦へと吸い込まれることなく地面へと落下した。夢から覚めるように幻覚が消える。何が起きたのか。恐る恐る周囲を見渡した。

 

 花の回転が止まっている。赤い巨像を拘束するように、何本もの触手が巻きついていた。巨大イカの触手である。

 

 新たなクラーケンの乱入であった。しかも、先ほど見た個体より明らかに大きい。その見た目も異様だった。その巨体はおおかたイカの形を為しているが、全身に不自然な凹凸がある。よく見れば、表皮の中を無数のイカが泳いでいた。

 

 海を埋め尽くすほどの再生イカが融合して一つの体となっている。まともな構造ではなかった。いくつもの目玉がぎょろぎょろとうごめき、本来なら脚の付け根に隠れているクチバシが体のいたるところから生え、十本を大きく超える数の触手が手当たり次第に伸びている。

 

 まさしく異形の怪物だった。赤い巨像は触手を振りほどこうと身をよじるが、全く手ごたえがない。力では巨像の方が上であり、拘束によって身動きが封じられたようには見えなかった。なのに、まるで幽霊か立体映像であるかのように、まとわりついた触手は離れない。

 

 そう思わせるほどの再生力なのだ。さっきと同じように巨像はクラーケンを食らおうと鎧による侵食の手を伸ばすが、今度はうまくいかなかった。表皮ごと鎧はごっそり引き剥がされ、侵食は一向に進まない。それどころか、逆に巨像の方が取りこまれかけていた。

 

 再生の力で巨像を、あるべき姿へと治していく。巨像はゆっくりと形を変え、時間を巻き戻すようにイカの姿へ戻っていく。

 

 強い。やはり災厄としての能力の格はアルメイザマシンを上回っている。これまでに遭遇してきた敵の中でも最上級の強さだった。だからこそ頼もしい。

 

 赤い鎧は敵の実力を見誤った。元は私たちの中から生まれた存在である。どれだけ常識外れの力を持とうと、知りうる情報には限りがある。私たちから見れば絶対の強者であっても、それを上回る災厄はいくらでもいる。それがこの地の、この海の常識だ。

 

 イカの怪物が巨像を倒せば、次に襲われるのは私たちだろう。決して助けられたわけではないし、味方でもない。だが、とにかく今だけは巨像を倒すことを何においても優先しなければならない。あれは絶対に存在させてはならないものだ。あれを殺せるというのなら、無数のイカの集合体を神と崇めることだってできる。

 

 巨像の形が崩れていく。助けを求めるように手を掲げた。そこから天を貫くように光の柱が立ち上る。

 

 『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』だ。再生イカに通用する技ではない。しかも、全く見当外れの方向に撃っている。窮地に立たされ、正常な判断もできなくなったか。

 

 雲を突き抜け、一直線に天空を穿つ光の柱は、“赤く染まった”。

 

 『犠牲の揺り籠』は念弾の一種であり、その光線はオーラで構成されているため、理論上はアルメイザマシンによる金属化が可能である。しかし、あまりにも馬鹿げた規模、現実的に不可能としか思えない。

 

 それはどこまでも高くそびえる塔であり、槍だった。自分自身をも巻き込む形で槍が落ちてくる。

 

 しかし、どれだけ巨大な槍で刺し貫こうと、融合した再生イカを殺しきれるものではない。桁違いの攻撃であることは確かだが、それだけなら度肝を抜かれるだけで済んだかもしれない。

 

 槍の先端を目にしたとき、その攻撃の真の狙いに気がついた。落ちてくる槍の穂先は花のつぼみになっていた。

 

 これは槍ではない。日輪のような口径。果てなき砲身。青白く輝く巨大なつぼみ。破壊という華を咲かせる暗紅の兵器。

 

 

「レール……ガン……」

 

 

 銃口が地に突き刺さり、ただ光だけが満ちた。

 

 






爆発オチなんてサイテー!

実は、暗黒大陸編はクライマックスに突入しています。前回から登場している赤い鎧『深渦・仙人掌甲冑(カーバンクル・ミスレイニ)』がラスボスになります。あと一話か二話かで脱出できる……はずです。

ここまで読んでいただきありがとうございます。多くの感想や評価をいただきとても励みになっているのですが、誠に申し訳ありませんが感想へのコメント返しをしばらく控えたいと思っています。

最近は一言二言のコメント返しを何十分も考えてしまい一日数件ずつしか返信しないという始末……自分も感想を送った作品の作者様から返信をいただくと嬉しい気持ちがよくわかるので遅くなっても返信はなるべくしようと思っていたのですが、ちょっときびしくなってきました。すみません……

返信がなかったからと言って無視してるということは絶対にありませんので、これまで通り気兼ねなく接していただけるとありがたいです。ご指摘や疑問点など返答が必要と感じた感想につきましてはなるべく返信したいと思っています。
 
また、いつも誤字報告してくださる読者様方、毎回何も言わずに報告を適用させてもらっていますが、いつもありがとうございます! この場を借りてお礼申し上げます。
 


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29話

 

「お前は何者だ! クイン!」

 

 武器を構えたグラッグがこちらに向かってくる。その攻撃を避けずに受け入れ、彼に殺されてしまえばどれほど楽だろう。だが、私の体は自動的に行動した。

 

 これは夢だ。記憶の中に残された事実を再現しているにすぎない。だから、私はここで彼に殺されることはない。事実は全く逆の結果に至る。

 

 私は全力で拳を振り抜いた。彼の持つ武器を砕き、肋骨をへし折り、臓器を破壊し、血が舞い散る。初めてヒトを殺す感覚が、寒気がするほど生々しく再現される。

 

 その直後、視界が砂嵐に隠された。一瞬の浮遊感。そして、眼の前に武器を構えたグラッグが現れる。

 

「お前は何者だ! クイン!」

 

 同じ質問が繰り返される。私はそれに答えることなく、彼を殺し続けた。そのたびに何かが削れていく。何も考えられなくなっていく。

 

「お前は――! ――!」

 

 同じことの繰り返しだった映像が、少しずつ変化していった。グラッグの体がにじんだようにぼやけていく。流れ出る血の赤が、その崩れた描写を補うようにまとわりついた。赤い鎧が彼を覆っていく。

 

「おまえはわたし」

 

 聞くに堪えないおぞましい声が、返事をしない私に代わって答えを突きつけた。何の中身も伴わない無意味な答え。それは私の耳朶から入り脳を侵食し、私という存在を空っぽにしていく。

 

 私の体も、ぼやけ始めた。輪郭を保てない。外殻が壊れていく。それは精神の崩壊を意味していた。脆弱性をあらわにした私の中へ、ウイルスが入り込もうとしている。

 

 私は叫んだ。夢の中の私が声をあげることはなかったが、輪郭の崩壊は止まった。そして、グラッグに拳を打ちつける。彼を殺し続ける。そうすることしか、自分を保つ方法はない。

 

 私に許された感情は“後悔”だけだった。他の感情では、もはや精神を守ることができない。自分自身に対する強烈な負の感情だけが、辛うじて自我をつなぎとめることができる灯火だった。

 

 だから、後悔し続けるために私は彼を殺している。あの場面を何度も想起している。そうしなければ私は『赤い鎧』に完全に取りこまれてしまうだろう。

 

 赤い鎧の正体とは『意識集合体』である。

 

 私は『精神同調』によって、体内の卵を自分の都合よく使ってきた。数え切れないほどの命を犠牲にした。そこに宿る『個』としての意思など考えたことはない。集合体の意思こそが何よりも優先される。

 

 それが私という生物に備わる根本的な機能だった。例えば、雄のカマキリは交尾の際に雌に食べられてしまうが、カマキリにとってその事態が幸福かそれとも不幸であるかなど関係ないことだ。それが生物としての在り方だからだ。それを“かわいそう”だと感じるのは人間の勝手な想像である。

 

 だが私は想像してしまった。無数に存在する私は、その全てが同等ではなかったのだと気づく。本体という上位者としての私と、卵という搾取されるだけの下位者がいた。卵としての私は生まれることも許されず使い潰され、死の順番をただ待つだけの存在だった。

 

 全ての始まりは調査団との関係にある。そこで私は人間という存在に初めて触れた。彼らを知りたいという思いから、“彼”を私自身の中へと取りこんだ。

 

 結果的に、そのことが私を人間から遠ざけた。まるで人間とは異なる生物であるにも関わらず、人間の感性の一部を取り込んでしまった。だからこそ、理想と現実の乖離はさらに進行する。自分が何者であるかを見失い、余計な感情移入が生じる。

 

 その時点でまだ無自覚だったが、『赤い鎧』が生み出される基盤は整っていたのだろう。初めて『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』を発動させたのは、グラッグを殺した直後のことであった。私は彼を殺すことで“死”を知った。

 

 どれだけ自分が絶体絶命の状況に追い込まれようとも、そこから死を学ぶことはできない。むしろそれは“生”の領域である。死に肉薄するとき、そこに至る者は自分ではなく、他者でなければならなかった。

 

 理想(にんげん)と現実(わたし)の乖離。私は生きるために理想を殺した。その切り離された理想こそが『仙人掌甲冑』である。

 

 嫌なことを自分ではない誰かに押し付けようとした。これまで幾度となく当然のようにやってきたことだ。上位者である本体は下位者である卵にその役目を背負わせた。逃げ場もなく理想に囚われた“私”はどんな気分だっただろう。きっと、今の私のように苦しんだに違いない。

 

 それは『死後強まる念』として実体化した。念の禁忌に属する能力である。強烈な無念を残して死んだ念能力者は、死後もその能力の効果を現世に残し続けることがあるという。人を学び、死を学んだ私の分身は『死後強まる念』に目覚めていた。『精神同調』は卵の死後も効果をさらに強めて発揮され、爆発的なエネルギーをクインにもたらしたのだ。

 

 だが、その時点ではまだクインを暴走させる程度の影響しかなかった。私は決定的なミスを犯し、『仙人掌甲冑』を大きく成長させてしまう。それは本体を複数体、生み出してしまったことにあった。

 

 最上位者であるはずの本体が複数いる。以前なら、本体と卵という意識が宿る主体に明確な区別があった。卵の方が本体を支配するという事態は起こりえない。だが、数千体もの本体が生まれてしまった今では、そこに全く差がなくなる。

 

 もはや、本体が以前の卵のように使い潰される状況に陥っていた。では、誰が上位者として群れに命令を出しているのか。本体のうちのどれか一つということはない。本体のスペックは全てが同等同質であり、そこに上下関係は生じない。

 

 つまり、どこにも上位者がいない。それは本体同士が『精神同調』によって繋いだネットワーク上にのみ存在する形なき『渦』だった。どこにもいないにも関わらず、絶対的な支配権を握る自分がいる。ゆえに、その意思に逆らう手段はない。その『渦』が死を命じれば、殉ずる他に道はない。

 

 薬物依存による幻覚症状が、その渦に『像』を与えた。私たちは都合のいい悪を作り上げ、その巨大な穴の中に苦しみを投棄し続けた。そうすることが最も楽だったから。

 

 最終的に収拾がつかなくなった私たちは渦から逃げようとした。これまでと同じように嫌なことを切り離す。意識集合体を解散してネットワークそのものをなかったことにしようとした。

 

 だが、もともと形のないものを消し去ることはできない。巨大に成長した無の渦は私たちの中に常に存在し続けていた。数千匹分が消費する『死後強まる念』を養分として、さらに強大となった『深渦』が牙をむき、ついに全ての私たちを乗っ取った。

 

 私も鎧に取り込まれた一匹にすぎない。肉体の制御は効かず、こうして自責の念に囚われながら夢を見ることしかできない身だ。この意識も、あとどれだけの時間もつかわからない。そうなったとき、私はどうなってしまうのだろうか。

 

 存在が同化しかけていく中で一つわかることは、この『深渦』が海の向こうを目指しているということだ。メビウス湖を渡り、人間の大陸へ向かおうとしている。愚直に理想を追い求め、人間に至ろうとしている。

 

 海底を歩き、真っすぐに南へ進む気だ。そして大陸に到達したとき、『深渦』は人間へ近づくために人間を取り込もうとするだろう。これはそうすることでしか他者を知るすべを持たない。その行為の果てに理想が実現されることは決してないというのに。どこまで深く、遠く、理想は乖離し、死後の念は強まっていく。

 

 災厄だ。人類はこの脅威を排除できるのか。思い悩めども、私にはどうすることもできない。

 

 映像が切り替わった。私の前に、新たなタスクが提示される。

 

 一瞬、認識が滞った。それが何なのかわからず凝視する。用意された“肉の塊”と、その意図を理解するにつれ、感覚が凍っていく。

 

 そこに私の罪の始まりがあった。記憶の奥底に閉じ込めてきた映像。かたつむりの殻のように中に入るにつれて狭くなっていく記憶の檻から、押し込めていたものがどろどろと流れだしてくる。

 

 肉塊を手に取る。

 

 壮絶な拒絶があった。これ以上は無理だ。こんなものは見たくない。今すぐに逃げ出したい。

 

 これは私じゃない。

 

 映像が乱れる。輪郭が歪む。私という存在が壊れていく。

 

 後悔しろ。懺悔しろ。目をそらすな。罪から逃げるな。

 

 繰り返すことしか許されない。後悔するためには再現しなければならない。それを“食べる”ことでしか、私は私を認められない。

 

 肉の中から取り出されたモノは、直視しているにも関わらずモザイクがかけられたように認識できなかった。血生臭さと温もりだけが手の上に残っている。

 

 ――過ちを認められないのなら

 

 口へと運ぶ。映像は何度も途切れ、スノーノイズの中に消えていく。

 

 ――私でいる資格はない

 

 

 * * *

 

 

 目が覚めると、夜の森にいた。

 

 すぐ近くにチェルとトクノスケが寝ている。ここは野営地だ。調査隊に同行し、リターンを探して森を探索していたときの記憶、つまりこれは夢だった。

 

 クインは即席の寝床から起き上がる。夜の野営地に明かりはない。火を焚けば危険生物にこちらの位置を教えるようなものだ。

 

 

「どうかしましたか? 見張り交代の時間はまだ先なので、もう少し寝ていても大丈夫ですよ」

 

 

 暗闇の中から声がした。一人の男が木に背中を預けて座っている。暗くて顔は見えなかったが、声で誰なのかすぐにわかった。

 

 なぜかクインが彼の方へと近づくことはなかった。不自然な距離を保ったまま、その場に立ちすくんでいる。

 

「人間って、なに?」

 

 唐突に、クインが尋ねた。私がクインにそう喋らせたわけではない。これは夢であり、私が今見ている自分を操作することはできない。過去の記憶から再構成された映像である。

 

 だが、私にはこんな場面を経験した覚えがなかった。こんな質問を誰かに投げかけた記憶はない。

 

「え? 人間ですか? うーん……そうですねぇ……」

 

 答えに窮しているのか沈黙が続く。クインは黙って待ち続けた。風のない静かな森で、ただ静かに待ち続ける。

 

 

 * * *

 

 

 人間が何なのか私にはわかりませんが、この世で最も『人間らしいこと』は知ってます。

 

 それは、『比べること』です。

 

 ……期待していた答えと違いましたか? もっと夢のあることを言えれば良かったんですが、こんなことしか言えずにすみません。

 

 人は、自分と他人を比べます。そうすることでしか幸せを感じられない生き物なんです。

 

 間違ってる? そうですね。私もそう思います。その人の幸せや不幸せって、その人にしかわからないものです。私がどんなに途上国でおなかを空かせている子供たちを憐れんだところで彼らの不幸はわからないし、その子たちも自分の隣でおなかを空かせている誰かの不幸はわからないでしょう。

 

 そもそも比べられるものじゃないのに、私たちはそうすることで初めて価値を見出します。だから他人から見れば取るに足らないことにこだわったりする。全くわけのわからないことに時間や金をつぎ込んだり、命を投げ打ったりする。

 

 でも、その間違いが人間らしさじゃないですか。仮に、全てが正しい人間がいたとしたら。その人は誰と比較することなく、自分ひとりで価値を完結させることができるでしょう。希望も絶望もなく、自分以外を理解する必要はありません。そんな人間はいませんよ。

 

 人の欲望には果てがない。そこに幸せを感じる基準がなければ、際限なく求めてしまう。きっと心が満たされることはなく、ただ自分を貶めるだけの後悔を残します。自分の中の“正しさ”だけを追い求めたところで、私たちは正しく生きることなどできません。自分で在り続けることなどできません。

 

 人生は間違いだらけです。なのに私たちは、それに気づかず平気で生きることができます。根拠もなく誰かを信じ、自分と比べることができるから、人は妬み、蔑み、敬い、愛する。自分とは違う誰かと出会い、良くも悪くも変わることができるのです。そうやって少しずつ、“人間”が出来上がる。

 

 これからあなたは多くの人と出会うことでしょう。比べるためにはその人を理解しなければなりません。それは不可能に思えるほど難しいことだけど、理解しようと努めなければならない。上辺だけを理解した気になったところで得られるものはあまりない。それが凡人だろうと才人だろうと、善人だろうと悪人だろうと、あなたにはない何かを持っています。

 

 それを自分と比べてください。

 

 

 ……もうすぐ夜が明けそうですね。柄になく話し込んでしまいました。

 

 出発しましょうか、クイン。

 

 

 * * *

 

 

 目が覚める。真っ先に感じたのは痛みだった。

 

 蒸し焼きにされそうなほどの熱気と蒸気が吹き荒れている。赤熱する地面の熱さに堪えられず、アルメイザマシンで足場を固めた。その痛みは、この場所が夢ではないことを証明していた。私は自分の意思で自分の体を動かすことができる。

 

 ここはどこなのか。周囲は濃霧に覆われている。その霧の向こう側を、巨大な影が横切った。巨人が歩く。地響きが鳴る。

 

 ここはあの島があった場所だ。再生イカとの戦いの最後に巨像が放ったレールガンの一撃は海を蒸発、爆発させて海底の地形をも根こそぎ変えてしまった。もうここに以前の島はない。私が立っている場所は隆起した地底の一端に過ぎなかった。

 

 再生イカの気配はない。細胞の一片も残さず蒸発させられたのだろう。そしてそれだけの破壊の爆心地にいながら、赤い巨像は何事もなかったかのように存在している。爆発を堪え切ったのか、それとも消滅したが無から再生したのか。

 

 私が無事でいられたのは、ついさっきまで巨像の一部として取りこまれていたからだ。それがなぜか、今はこうして分離している。幸運にも見逃された、そんなことがあるわけない。

 

 直前に見た夢を思い出す。そこに何よりも重要な記憶がある。消えつつある記憶の糸を必死に手繰り寄せる。

 

『カトライ……!』

 

 そうだ。私は彼と会った。あの光景は過去の記録ではない。確かに私は彼と話をした。

 

 彼はあの場所にいた。私の中で、彼は自らの精神を引き継ぎ新たな生を受けた。そして再び、私を助けたのだ。

 

 私を逃がすために、私が背負わなければならないものを引き受けた。彼ならばそれが可能である。『蛇蝎磨羯香(アレルジックインセンス)』はあらゆる悪意を引き寄せる。赤い鎧が私に強いた自己嫌悪をも肩代わりして。

 

 そうして私だけが救われた。多くの私と、彼はまだ、あの苦しみの中にいる。巨像は私に見向きもせず、海の中へと歩き進んだ。

 

 

 湧き起こる思いがあった。抑えることのできない感情。

 

 それは感謝だ。私は彼に、心から感謝した。

 

 ようやく私は“答え”に至った。自分が何者であるか、今ならば迷いなく答えることができる。

 

 

 私の傍らに落ちている物を拾い上げる。焼け焦げてボロボロになっているが、見覚えがあった。持ち物袋である。さすが暗黒大陸産の素材でできているだけの丈夫さがある。そして、私はいつだってこの袋を手放せなかった。その中にしまい込んだ薬花は、呪いのように私につきまとう。私の元へと帰ってくる。

 

 袋の中身は無事だ。私は小さな石を取り出し、食べた。魂魄石を舐めるのではなく、残さず食べた。その“鉱石”の力を余すことなく自身に取り込む。

 

 激痛が走った。内臓が焼けるような熱さに襲われる。その石が浸かった泉の水を飲むだけでオーラがみなぎるほどの力の塊を、薄めるどころか丸ごと摂取したのだ。それは劇物に等しかった。私の耐毒性など無視して体が内側から破壊されていく。

 

 予想していたことだ。危険だとわかっていたからこれまで試そうと思ったことはなかった。だが、その行為がもたらす力について考察していなかったわけではない。

 

 この石は生命力を促進し、命を与える。過剰に送りこまれる生命エネルギーは生物に力を与えるが、同時に死へも近づけることになる。

 

 私の体内では急速に生命活動が進んでいた。呼吸や血流の加速、新陳代謝の活性、そして卵の増産。おびただしい量の卵が生み出されては死に、新たな卵が生み出される。

 

 ルアン・アルメイザは泉の水を飲むことで自身の限界を越えた生命力を与えられた。しかしその力は肉体が滅びようとも失われることはなく、彼の魂は残留思念として泉に囚われていた。

 

 私の卵もまた、死してその意思を失うことはなかった。『死後強まる念』として、刻一刻と増大していく。

 

 私と卵に上下関係はなかった。そこに宿る意思はただ一念のみ。自己嫌悪などありはしない。もう“自分”と“自分”を比べることはない。

 

 私は“自分”と“彼”を比べる。ワームに襲われ、彼が隊を逃がすために殿を務めたとき、私は並々ならぬ興味をもったはずだ。彼を取り込んででも知りたいと思うほどの“何か”を感じ取ったはずだ。

 

 

 私の罪の始まりにして、全ての答えがそこにある。

 

 誰かを救おうと戦う彼の姿は、私の胸を打った。私もそうでありたいと思わせた。

 

 私のために彼を救い、私のために私を救う。

 

 ヒトであるためにヒトを救う。それが私の、『人間の証明』だ。

 

 

 『偶像崇拝(リソウノワタシ)』を発動させる。生み出されたクインに、ありったけの『死後強まる念』を注ぎこむ。意思の炎を灯すかのようにクインの体は揺らめく鎧で包まれた。暴走することはなく制御できる。

 

 脚力の爆発。クインの体が空を駆けた。向かう先に迷いはない。腕部につぼみ状機関を生成し、回転させる。発生した磁力によってクインの体は引っ張られた。赤い巨像へと、自分自身を吸い寄せる。

 

 間近で見た巨像の体は、アルメイザマシンでできた鎧ではなかった。その組成のほとんどが本体である。蟻の本体がうぞうぞと無数に集まり、固められて巨像の姿を形作っている。像そのものが一つの群れだった。

 

 その中に飛び込めば、ただでは済まない。その先にあるものは闘争ではないはずだ。重要なのは倒すことではなく、理解することである。それにどれだけの時間を要するかもわからない。想像を絶する辛苦が待ち受けているはずだ。

 

 だが、恐れはなかった。心を満たしていく感情がある。肯定でも否定でもない、確固たる決意。その高まりと共に、力が無限にみなぎっていく。

 

 私はもうすぐ死ぬだろう。魂魄石によって加速された生命は間もなく燃え尽きる。だが、たとえ肉体が滅びようとも、この決意だけは決して消えない。そして、その意思以外に必要なものなど何もなかった。

 

 

 自分の選択が正しいとは思わない。

 

 それでも私は間違いだと認めた上で、この道を選ぶ。

 

 ただ、大切な人を救うためだけに。

 

 

 巨像がこちらに振り向いた。無貌の頭部に穴が空く。それは私を迎え入れるための口だった。仲間たちが私の帰還を待ち望み、キチキチと顎を鳴らして歓迎する。

 

 その渦の奥底へと、どこまでも深く落ちて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * *

 

 

 船は進む。

 

 

 * * *

 

 

 一筋の光もない海底を。

 

 

 * * *

 

 

 希望の地を目指して。

 

 

 * * *

 

 

 楽園へ。

 

 

 * * *

 

 

 おびただしい数の死骸の中で。

 

 

 * * *

 

 

 卵は孵った。

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 窓の外では、今日も雪が降っていた。三角屋根から滑り落ちた雪が、どさりと音を立てる。毎日毎日飽きもせず、よく降るものだ。おかげで雪かきを怠れば一晩で窓も入り口も埋まってしまう。

 

 私は銀髪の少女の肩によじ登る。少女はぎこちなく歩き始めた。

 

 ここはとある無人島。その中にある山小屋である。わけあって私はこの島に住んでいるのだが、それでもやはり無人島と言えるだろう。なぜなら私は人間ではない。

 

 私は蟻だ。一般的に見かける蟻とは少し見た目や大きさが変わっているが、昆虫の一種として知られるあの蟻である。そして、私は蟻でありながら自分の存在を客観的に分析する蟻を超越した思考力が備わっていた。これは私の種としての能力に起因する。

 

 私たちの種の女王蟻は他の生物を食べることで、自分にはない生物的特徴を次世代に発現させるという世にも珍しい『摂食交配』なる繁殖体系を持つ。おそらく、私を産んだ女王蟻は人間を食べ、人間の思考力を持つ私を生み出したのだろう。

 

 私は蟻の王だった。女王ではなく、王である。女王蟻は群れが一定の規模に達すると王蟻を産む。王蟻は巣の外へ出ていき、新たな群れを作る役割がある。けれども、人間の意識を持つ私にとってそんな蟻の営みは自分のことのように思えない。

 

 たかだか数十センチの蟻に人間の意識が宿るというのは悲劇だと思うだろうか。最初は驚いたものの、すぐに今の感覚に慣れてしまった。それとも現実を受け入れきれていないだけだろうか。

 

 自分は蟻であるという明確なアイデンティティがある一方で、人間としての意識も混在している。まるで蟻に憑依した幽霊にでもなったかのような気分だ。私の頭の中には思考力と共に、人間としての知識も受け継がれている。

 

 ただし、それは単なる情報としての記録でしかなく、実際に自分が体験した記憶ではない。私の意識は元となった“どこかの誰か”の人格を基礎として形成されているが、その人物がどのような人生を送ってきたのかわからない。言わば、『人格の似た別人』のような存在なのかもしれない。

 

 それでも特に問題はなかった。考えるに事足りるだけの知識は備わっている。もしかしたら色々と引き継がれていない知識もあるのかもしれないが、その自覚さえ持ち合わせていないのだから違和感はなかった。

 

 あるのは空虚さだけだ。ただ知識を与えられ、考えることを許された一匹の蟻は、これから何をすればいい?

 

 ただの蟻なら悩む必要もない。生物として本能の赴くままに、遺伝子に刻まれたプログラムを実行するだけだ。そこに意味を考える必要はない。

 

 何をすればいいのか、何をしたいのかわからなかった。“考える”という余計なことができてしまったがために、私は生きる意味を探さなければならなくなった。それはどこにあるというのか。目の前に落ちているはずもない。

 

 そして私は白い少女と出会った。戸惑うことしかできなかった私の前に、彼女は現れた。いや、最初からそこにいたのだ。私が生まれ、自意識を働かせたときには既に私の傍らにいた。

 

 雪から切り出されたかのように、彼女は白かった。白い肌は溶けるように雪に馴染み、銀色の髪は雪上を照り返す日差しのように輝いていた。触れれば崩れてしまう雪像のように儚げな、人間の少女だった。

 

 雪の中に半身が埋もれた少女は眠るように横たわっていた。死んでいるのかもしれないと思った矢先、彼女の目が静かに開く。その黒い瞳が私を見た。

 

 私はその目を通して、自分自身の姿を見た。

 

 赤い装甲のような外骨格に覆われた、どこか機械じみた雰囲気のある虫がそこにいる。少女が見たものを、まるで自分自身が見ているかのように認識することができた。視覚だけではなく、五感の全てが一体化している。

 

 その不思議な感覚は、私のちっぽけな価値観を吹き飛ばすほどの衝撃だった。人間の体を手に入れたかのように、少女を自由に動かすことができた。私は夢中で雪の上を駆け回り、その刺すような冷たさにうち震えた。その感動をこの先、忘れることはないだろう。

 

 まるでその体こそが本当の自分であるかのように感じられる。人間の意識を持ち、人間の体を動かせる。そんな当たり前のことが嬉しかった。

 

 それが私の始まり。蟻と少女、二つの私の始まりだ。

 

 

 

 

 

 ―――――

 

 『千の亡霊(カーマインアームズ)』

 

 王アリは女王アリと魂を異にする存在として生まれ、『精神同調』『偶像崇拝』『犠牲の揺り籠』といった念能力を受け継いでいない。クインのように見える少女は寄生型と呼ばれる念獣の一種である。寄生型は誰かの残留思念が別の誰かに憑くことで、宿主のオーラを借りて具現化されるものが多い。原則として宿主本人が作り出した能力ではないため、自分の意思で動かすことができないが、『千の亡霊』は宿主と感覚を共有することでその意思を汲み取って自発的に行動する。厳密に言えば宿主が直接操作しているわけではない。

 

 【制約】

 ・この念人形のデザインは変えられない(負傷・欠損は自動回復)。

 ・共有する感覚のうち、痛覚は遮断できない。

 ・いかなる状況においても具現化は維持される(具現化に必要なオーラを供給できなくなったとき、宿主は死亡する)。

 

 



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楽園の島編
30話


29話の後半を変更しました。新主人公の性格を前主人公(クイン)に近づけました。ただし人格は共通していますが、記憶の大半は失われた別人という扱いになります。


 

 雪山での一日は、雪かきから始まる。この島の天気はだいたい曇りか雪だ。風が強くない限りは早朝から外に出て小屋周辺の雪を片づける。

 

 除雪用のスコップは小屋に備わっていた。緊急時のための備品だろう。最低限、雪山で数日は生きていけるだけの物資が色々と置かれていた。

 

 持ち主に断りもなく使っているが、こちらも遠慮していられるほどの余裕はない。発見した当初、入り口は鍵がかかっており、最初は誰か人がいるのではないかと周辺をうろうろしていたのだが、結局寒さに負けて侵入した。屋内はほこりが積もり、誰かが使用している様子はなかった。

 

 物資の中でも衣服や毛布が充実していたことは助かった。私の体……虫の方の体はあまり寒さが得意ではないようで、外で活動するとただでさえ遅い動きがさらに鈍る。ただ、死ぬほどの寒さを感じるわけではなかった。しかし、人間の体である少女はそう簡単にはいかない。

 

 人間は全裸で雪山暮らしができない生物である。他の動物と比べて皮膚を覆う体毛が少ないのは、効率よく熱を発散して運動における持久力を高めるための進化と言われる。その代わり、寒冷地に進出した人種は動物の毛皮などから衣服を作り出して適応してきた。

 

 その進化の過程に倣い、私も動物などを狩って毛皮から服を作らなければならないかと思っていた。しかし、まず毛皮を得られそうな動物が見つからない。見つけたとしても捕まえられる自信はない。そんな状況でこの小屋を見つけられたのは幸運だった。

 

 少女はサイズが大きめのダウンジャケットを着ている。ぶかぶかなので、虫本体はその隙間に潜り込んで暖を取っている。そのせいで背中がもっこり膨れ上がって少し不格好だ。他にもニット帽や手袋、靴といった防寒着一式を身につけている。どれも長いこと放置されていたらしく薄汚れていたが、使えないことはなかった。

 

 この島で生活を始めてもう一週間近くが経つ。衣服や毛布と言った備品についてはかなり多くそろっていたが、その一方で食料はあまりなかった。缶詰や乾物などの保存食が数日分あるだけだ。しかも賞味期限が書かれているが、今が何年なのかわからないので当てにならない。

 

 しかし、これについては問題なかった。虫本体は食べるものを選ばない雑食で、そのあたりに生えている木の皮でさえ食料となった。そして、少女についても空腹を耐え忍び救助を待つようなことにはならなかった。

 

 何も食べなくても衰弱しない。栄養状態が悪化するようなことはなかった。

 

 このような人間として、生物としてありえないような特徴を少女はいくつか持っていた。出会った当初から不思議な存在であったが、やはり普通の人間ではないらしい。その生態について検証を行った。

 

 まず、彼女は飲食せずとも生きていける。本体が空腹を感じればそれに連動しておなかが空くが、本体の腹が満たされればそれで事足りる。睡眠についても同様に、本体の感覚と同調している。私の意識がない間、彼女自身も眠っているのかどうかは不明だ。

 

 しかし何も食べなくてもいいが、全くエネルギーが必要ないわけではない。それは本体の持つ“生命力”である。これは感覚的にそう捉えたものを言葉にしただけであって、その正体が何なのか定かではない。仮称として生命力と呼んでいる。

 

 つまり、少女は本体から生命力を吸い取って生きているようだ。人間であるとか生物であるとか以前の超常現象的解釈であるが、そうとしか言いようがない。私が持つ人間の常識に照らしあわせれば明らかな異常である。

 

 だが、そもそもその知識自体、ただ受け継いだだけのものであり、全てが真実である保障はない。もしかしたら、この少女のような存在は地球上に当たり前に暮らしており、私がそれを知らなかっただけかもしれない。

 

 生命力を吸われると言っても、それによって特別負担を強いられることはなかった。通常時は、意識しなければ気づかないほどの消耗である。しかし、その消費が一気に増える場合もある。

 

 それは彼女と本体との距離が大きく開いてしまった時だ。だいたい5メートルくらいなら離れても問題ない。それ以上の距離を取ると吸い取られる生命力の量が増え、少女の体も操作しづらくなる。100メートルくらい離れると疲労困憊で動けなくなってしまう。一心同体というか一蓮托生というか……彼女と私は物理的にも離れられない関係になってしまったようだ。

 

 また、少女が傷を負った時、その回復にも多くの生命力を使う。その回復力が尋常ではなく、小さな擦り傷や切り傷程度は一瞬のうちに治ってしまう。島を歩きまわっているときに足を滑らせて崖から落ち、片脚を骨折してしまったことがあったのだが、そんな大怪我でさえ数秒で完治してしまった。

 

 怪我の程度が大きいほど回復に必要な生命力も大きくなる。生命力を使いすぎると疲労が溜まり、度が過ぎれば意識がもうろうとしてくる。しかも、この回復は自動的に行われるため、どれだけ疲れていようが待ったはかけられない。傷が完治するまで容赦なく吸い取られる。

 

 身体の負傷だけではなく、髪を切っても同じように元の長さまで再生する。傷から出た血液や、切った髪の毛など、分離した体の一部はしばらくその場にとどまるものの、一定時間経過すると跡形もなく消滅してしまう。

 

 このように少女は不思議な点を上げればきりがない。離れることはできないし、生命力は吸われるし、敵なのか味方なのかもまだよくわからない。だが、私にとって彼女がなくてはならない存在であることに違いはない。少女は私の“人間である”という自意識を満たしてくれる。それを認めてくれる唯一の存在だった。

 

 私と彼女の感覚はつながっている。歩こうと思えば歩き、持とうと思えば持つ。それらしい振る舞いはできた。しかし、まだ完全ではない。頭で考えた通りに少女を動かせるわけではなかった。

 

 動作の一つ一つがぎこちなく、緩慢だった。ある動作を取ろうとしても、それが実行に移されるまで大きなラグがある。そして、その動作がきちんと遂行される前に別の動作を取ろうとするとフリーズする。

 

 まるで処理速度の遅いロボットだ。私はもっと上手く彼女を動かしたかった。もっと人間らしい動きができるようになりたい。そのために、とにかく体を動かし続けた。

 

 日課の雪かきも訓練の一環である。それが終われば島の探索だ。人の手が入っていない自然のままの森や山は、歩くだけでも大冒険だった。何度足を取られ、転び滑り、怪我をしたかわからない。

 

 しかも、私たちの感覚共有にはあるルールがあった。これはいつでも自由にオンオフできるのだが、痛覚だけは遮断できない。他の感覚を全て断ち切ろうとも、少女が受けた痛みだけは本体に必ず返ってくる。

 

 怪我をするたびに痛い思いをしなければならない。最初はデメリットでしかないと思った。どうして一番いらない感覚だけ解除不能なのか。そんなルールなくてもよかったのに、と。

 

 だが、意味はあったのだと思う。痛みとは、生物が生きる上で必要な感覚だ。体に発生した異常を速やかに察知するためのシグナルである。決してなくてもいいものではない。

 

 失敗するたびに痛みがあった。だからこそ、次からは気をつけようと学ぶこともできた。もし、何の痛みも感じなかったとしたら、訓練の上達はもっと遅れていただろう。まるでゲームの中でダメージを受けたプレイヤ―キャラがHPを減らすように、そこに現実味を感じることはできなかったかもしれない。

 

 雪かきをすれば屋根から落ちた雪に埋もれ、山を登れば滑落し、森を歩けば道に迷い……この体でなければ何度死ぬような目に遭ったかわからない。だが、その甲斐あって随分と身体の操作にも慣れてきた。今では雪かきも一時間で終わらせられるようになった。非力だが回復力によって疲れ知らずなので、効率よくやれば何とかなる。

 

 日常生活を送る程度の動きなら問題なくできるようになったと思う。次に考えるのは、これからどう生きていくのかということだ。

 

 まずは現状を把握するため、この島の探索を綿密に行った。綿密と言っても素人がやみくもに歩き回っただけなのでどこまで正確かわからないが、可能な限り調べてみた。やはり、この島に人が住んでいる形跡はない。

 

 しかし、前人未到の未開地というわけでもない。私が生活している山小屋など、いくつかの人工物は見つけることができた。海岸にはボートを泊める小さな埠頭があり、外部との往来をうかがわせる場所も発見している。

 

 船が来れば島を出る機会があるだろう。そのとき、遭難者を装って近づけば救助してもらえるかもしれない。その場合、そもそもどうしてこんなところで遭難しているのか説明できないという問題も出てくるわけだが……。

 

 山の上からは海の向こうに陸地らしき影を見ることができた。この少女の体なら、最悪泳いで島を出ることも可能かもしれない。本当に最悪のケースだが。真冬の海を長距離泳ぐなんてことはしたくない。

 

 島を出たところでまともに生活を送れる自信はなかった。それはつまり、人間社会の中で生きていくということだ。たった一人で生きていくのならこの島から出る必要はない。

 

 この体が人間に見えたとしても、私自身は異種族だ。人種の違いどころではない。秘密をさらけ出して暮らしていけるような場所ではないだろう。正体を隠しながらどこまで人と関わっていけるのだろうか。

 

 このまま誰とも会うことなく、島に隠れ住むことの方が楽に思えた。しかし、気がつけば毎日のように山頂に登り、海の向こうの陸地を見ている。すると、居ても立ってもいられなくなる。なぜかわからないが、島から出たくてたまらなくなる。この海を越えたいという意欲が湧く。

 

 はっきり言って、自分の気持ちに整理がつかないというのが正直な気持ちだった。島から出たくもあり、出たくもない。しばらくはまだこの島に残るつもりだが、これから先どうするかは自分でもわからなかった。

 

 物思いにふけっていたせいで雪かきの手が止まっていると、一羽のスズメが飛んできて少女の頭の上にとまった。大きさや鳴き声がスズメに似ているのでそう呼んでいるが、色は雪っぽい灰色をしている。ちゅんちゅん鳴く。

 

 今のところ、この島で見かけた唯一の動物である。かなり人に慣れており、こうして近づいてくるものもいる。餌付けなどされているのかもしれない。試しにニシンの缶詰を差し出したときは見向きもされなかったが。

 

「ちゅんちゅん!」

 

 この鳥を見かけたときは挨拶(鳴きマネ)するように心がけている。そうすると向こうも鳴き返してくれるのだ。小鳥相手に鳴き合戦を繰り広げる様子は極めて空しいものを感じないでもない。だが、小鳥だろうと何かしら反応が返ってくる相手がいるというのは多少の心の支えになっていたりもする。

 

 もともとは発声練習のために声を出していると鳥が集まってくるようになり、それがいつの間にか鳴きマネ練習にシフトしていた。声を出すのもなかなか難しいのだ。人間ほど多様な鳴き声の表現を使い分ける動物はいない。思い通りに声帯や口腔の形を操って言葉を発することはまだできなかった。

 

 言語に関する知識はあるのだが、肉体を通してそれを表現することはまた別の苦労がいる。話せないが読み書きはできる外国語のような感覚に近いだろうか。ただ、これについては人間相手に会話できる環境が整えば、自然に話せるようになっていきそうな気がした。

 

 だから鳥の鳴きマネはその予行練習のようなものである。決して遊んでいるわけでも、無駄なことをしているわけでもない。ないのだ。

 

「ちゅん……」

 

 

 * * *

 

 

 雪雲の下、群青よりも黒く濃い海の上に一隻の船があった。小型のモーターボートは白波を後方に描きながら、とある島を目指して進んでいた。

 

「教授ぅ! もうちょっと安全運転でいきましょうよぉ! おれっちの商売道具が潮まみれになっちまう!」

 

 船には二人の男が乗っていた。一人は20代くらいに見える若い男だ。一目見て印象に残るのは、首筋から頬にかけて大きく彫られた刺青だ。燃え盛る炎をイメージさせるデザインだった。そのならず者じみた見た目のくせをして、情けない声を出しながら同乗者に文句を垂れている。

 

 男が商売道具と呼ぶ荷物は撮影機材だった。首からは古びた一眼レフカメラを提げている。慌てて飛沫がかからない奥の方へ自分の荷物を移動させているが、実際にかなりのスピードで船が航行していることは事実だった。

 

 その船を操縦しているもう一人の男が速度を緩める様子はない。教授と呼ばれたその男はがっしりした体格の壮年だった。灰色のハンチング帽に丸眼鏡、無精ひげと眉毛には白髪が少なくない数混じり、斑模様になっている。これでパイプをくわえさせれば往年の名探偵に見えないこともない。

 

 眉間に刻まれた深いしわは長年、彼がしかめ続けてきた表情に由来するものであり、今となってはほぐすこともできないほどだ。その鋭い眼光は船の行き先のみを見つめていた。

 

 その場所の名は『シロスズメ島』。最高速度を維持したボートは、ほどなくして島に到着する。船着き場に降りるなり、教授は自分の“嫌な予感”が当たったことを確信した。

 

「侵入者だ」

 

「え? まじで? なんでわかんの?」

 

「そこに足跡があるだろう」

 

 刺青の男は教授が指さす場所を見るが、どこにも足跡など見えない。仮にあったとしても、この雪である。数時間もあれば新雪に埋もれ、跡形もなく消えてなくなる。その痕跡を平然と見つける方がどうかしている。

 

 ――チチチチチ

 

 唐突に、教授は鳥のさえずりのような声を発した。まさに小鳥がその場で鳴き始めたかと聞き間違えるほどの鳴き声であった。それが終わると、今度は黙して耳をそばだてる。

 

 常人が見れば何をやっているんだと疑問に思うような行動であるが、今はそれを指摘してはならないことを刺青の男は知っていた。男の耳には何も聞こえないが、教授は森から返ってくる“声”を聞いている最中だ。それを邪魔すれば彼の逆鱗に触れることになる。

 

「……どうやら、賊はまだ島内にいるらしい」

 

 教授は荷物の中から無骨な木の塊を取り出した。クロスボウである。1メートルほどの台座に対して弓部は太く、横に大きく広がり、遠目から見ればツルハシのように感じるほどだ。見た目からして人力で引けるとは思えない。発射するボルトは矢というより、銛のような大きさと形状をしている。

 

「お前はしばらく潜んでいろ」

 

「手伝わなくていいんで?」

 

「余計な世話だ。私の“狩り”についてこられるのなら話は別だが」

 

 そう言い残すや否や、教授はその場から姿を消した。消え去ったかに見えるほどの見事な『絶』。そして雪と森の木々に紛れ、わずかな痕跡からどこまでも獲物を追跡し追い詰める技術。それは彼が生粋の狩人であることを物語っている。

 

「ヒュー! さすがは“一つ星”密猟ハンター……おっかねぇおっかねぇ」

 

 

 * * *

 

 

 雪ふる森は、しばしば人に幻想を見せる。

 

 吹雪に凍え、視界を塞ぐほどの雪の先に、この世ならざる何かを見る。それは毛むくじゃらの大男であったり、あるいは美しい女であったりする。彼も経験がないわけではなかった。無論、それはありもしない錯覚だとわかっているが、彼ほどの狩人をしても雪に感覚を惑わされる一瞬というものが稀にある。

 

 しかし今日のような風のない森で、これほどはっきりと雪の幻惑を目にしたことはない。

 

 しんと静まり返る森の中を一人の少女が歩いていた。その様子を見ながら狩人ハン・モックは、どうしたものかと思案する。

 

 彼はプロのライセンスを持つハンターである。ただの狩猟許可を得た猟師ではない。『ハンター』とは、国際的にも絶大な地位を認められる資格である。年に一度、試験によって合否が判定されるその資格は、数百人にも及ぶ挑戦者が殺到するが、合格者は多くとも片手で数えられるくらいしか出ない。一人も合格しない年も珍しくないほど狭き門である。

 

 ただし、彼の本業は鳥類の生態研究者であり、ハンターの資格は様々な調査に有用だったため取得している。この島は彼が主に研究しているある鳥の生息地であり、その調査のためにここで一人暮らしている。絶滅危惧種に指定されている鳥であり、滅多にないことだが密猟者がやってくることもある。ハンターの資格はその処理に役立つため、密猟ハンターを名乗っているに過ぎない。

 

 この島は彼が所有しており、自然保護の目的から一般人の立ち入りを禁止している。この国の法的には私有地への立ち入り制限に過ぎないのだが、それがプロハンターの布告となると話が変わってくる。なにしろ例外的に殺人さえ免責されるほどの権力が与えられた資格者である。無許可で侵入した者はどんな目に遭わされようと文句は言えない。公的機関でさえ、彼の承認無しに島へ入ることは困難を極める。

 

 これまでにも彼は密猟者狩りを行ってきた。まず地理的にも気候的にも船が誤って漂着するような場所ではない。侵入者は十中八九、良からぬことを考えている連中である。

 

 それでも何らかの事情で不可抗力的に、あるいは何も知らずに島を訪れる者がいないとは限らない。目の前の少女もまた、密猟が目的でやって来たとは思えなかった。

 

 だが、モックは安易に少女を信用するようなことはしない。それは全く根拠のない不審感というわけではなかった。

 

 事は一カ月ほど前にさかのぼる。ある日の夜、就寝中だったモックは地面の下から響くような大きな音に起こされた。鳥たちもその夜は一晩中、落ちつきなく騒いでいた。

 

 その翌日、周辺の海上に多数の魚の死骸が浮き上がっていた。その多くがこの辺りでは見られるはずのない深海魚であった。同様の現象がこれまでに数回発生している。島の近海で何らかの異常が起きているものと思われた。

 

 できる限りの調査は試みたのだが、鳥類を専門とする生物学者である彼では原因の特定にまで至らなかった。さらに踏み込んだ調査となると多くの機材と専門家の協力が必要となってくる。

 

 さらに間の悪いことに、研究活動のために不可欠な予定が重なり島外に出なければならない用事ができた。本当なら異常が続いている状況で島を離れることはしたくなかったのだが、研究者であるがゆえに研究だけに没頭することが許されない場面もある。

 

 ついでに海の異常についても調べられないか伝手を当たってみたのだが、成果は得られなかった。そのせいで予定以上に島を空ける時間が増えてしまった。そして大急ぎで帰ってきてみれば、留守を狙ったかのように侵入者がいる。

 

 無関係だとは思うが、偶然の一致というには出来過ぎているような気もする。とりあえず、警戒するには十分な理由だった。用心するに越したことはない。

 

 ただ見たところ、何の変哲もない少女である。何の変哲もないと言いきるには少しばかり目を引く容姿をしているが、それを除けばただの子供。身のこなしから見ても、何かしらの武芸を修めた人間には見えない。

 

 そこまで疑うのは大げさな反応ではない。実際に、その類の手練れは存在する。念能力者の中には見た目を幼く偽り、敵の油断を誘う曲者もいる。オーラの操作は老化を抑え若さを保つ効果があるし、発によって外見を取り繕うことは可能である。

 

 念能力者には身に纏うオーラに特徴がある。精孔が開いた者は『纏』によってオーラを体外にとどめなければ生命エネルギーを激しく消耗してしまう。その点、念能力者ではない一般人は精孔が『詰まった』状態にあり、その隙間から漏れ出るようにオーラを垂れ流しているため、見分けることは容易である。

 

 少女のオーラの流れは一般人のそれであった。漏れ出るオーラの量が多いように感じるが、それでも精孔が開いているようには見えない。

 

 ただし、ある程度の実力者になるとこのオーラの流れを偽装し、一般人になりすます者もいる。モックが知るところで言えば、『纏』と『絶』の中間を維持するようにして精孔を意図的に詰まった状態にする技法がある。個人の技の精度によって偽装の上手さやそれを見抜く目(『凝』)も変わるので絶対に成功するわけではないが、達人の偽装ともなればモックにも見抜ける自信はない。それを疑い始めればきりがないが。

 

 少女が身につけている服は、よく観察すれば何となく見覚えがあった。今は使っていない山小屋に置いていたものだった。隠すように建てていたわけではないが、発見するにはそれなりにこの島を探索しなければわからないような場所であった。

 

 全身、もこもことしたサイズの合っていない防寒着に身を包んでいる。ゴムが劣化して硬くなった防寒長靴まで拝借しているらしく、モックが観察している限り、足を取られて既に二回は転倒していた。背中の部分が不自然に盛り上がっており、服の中に何かを隠し持っていると思われる。

 

 総合的に判断して、遭難者のようにも思える。だが、それにしては元気が有り余っているし、精神的にも追い詰められているようには見えない。島に残っている痕跡は彼女一人の分だけであり、保護者などの同伴者はいないようだった。特に目的のようなものも見て取れず、森の中をやみくもに歩き回っていた。

 

 しばらく追跡を続けたが、これ以上観察を続けても得られるものはないと判断した。直接話を聞いた方が手っ取り早い。モックは手に持っていたクロスボウを構え、少女に向けて照準を合わせる。

 

 彼は操作系能力者だった。愛用のクロスボウを発動媒体としている。もちろん一緒に携帯している矢を発射することもできるが、今回装填されている矢は実体のないオーラで形成された『念弾』である。この矢で相手を撃ち抜くことにより、対象を操作する。

 

 彼の能力の名は『脚撃ち(クレバーハント)』という。その効果が敵の完全操作であったなら少女から真実を聞き出すことも簡単なのだが、それほど便利な能力ではなかった。その名の通り、操作対象となるのは“脚”のみである。撃った方の脚を一本、操作できる。両脚を操るためには両脚をそれぞれ射抜く必要がある。

 

 しかし、戦闘だけを考えるならそれでも十分な効果と言えた。全身を操作するまでもない。片脚の自由を失うということは戦闘において致命的な隙となる。効果範囲を限定している分その支配は強力で、ただ動きを封じるだけでなく関節の可動域を越えた動きをさせて破壊することもできる。念弾を撃ち込めば操作できるという比較的簡易な発動条件で使いやすく、彼の念能力者としての資質は決して低いものではない。

 

 さらに『絶』の応用技である高等技術『隠』を用いて念弾を不可視化することまでできた。基本的に自分の体から離れたオーラは著しく操作が難しくなる。念弾のように完全に身体から分離させたオーラを維持したまま遠距離まで届かせるには、高い放出系の技術が必要となる。操作系は放出系と隣り合う相性の良い系統とはいえ、その念弾に隠まで施すとなれば難易度は跳ね上がる。純粋な放出系能力者でもおいそれとできることではない。

 

 彼自身が優れた狩猟者としての技術を身につけており、地形を巧みに利用した潜伏状態からの隠を用いた不意打ちの念弾となれば、まずよほど実力に開きがある相手でもない限り回避は困難である。一発でも技が決まれば独擅場となるのが操作系の強みだ。クロスボウの物質操作に主眼を置いた能力構成をしているモックは近接戦闘の練度において大きく劣るが、最初の奇襲さえ成功すれば負けはない。

 

 この矢状の念弾は具現化されたものではないため、一般人にはそもそも見ることができない。しかも殺傷力を全く持たず、当たっても操作能力を発動させる以外の効果やダメージはないのだ。一般人であれば攻撃を受けたという事実さえ認識できないだろう。

 

 話を聞く前に保険をかけておく。大した手間ではない。ただ、おそらくありえない可能性だが、もし彼女がその攻撃に対して何らかの反応を見せたとすれば、彼も“狩り”に本腰を入れる必要が出て来る。

 

 ありえないと思いながらも決してその可能性を捨てることはなかった。『そんなことは起こり得ない』と決めつける思い込みこそ、最も危険な油断にして学問を志す者の大敵である。

 

 クロスボウの弓部は既に引き絞られていた。弦を引きながら矢の照準を合わせなければならない弓と違って、クロスボウは事前に弦を張り詰め台座に固定した状態を維持できる。弦を引く作業と矢を撃つ作業を分離しているため、弓ではできない強力な引き絞りが可能となる。後は着実に照準を合わせ、引き金を引けばいい。

 

 しかし、多少の長所を並べ立てたところで一部の局面を除けば兵器としては衰退した過去の遺物である。威力だけを求めるなら銃器の方が遥かに高く、そして扱いやすい。なぜそんな武器に固執しているかと言えば、銃が嫌いだからだ。

 

 銃を使えば多くの痕跡が残る。銃弾は仕方ないにしても、発砲音、閃光、火薬の臭いがある。サプレッサーなどで軽減できるが、それでも彼は銃特有の始末の悪さを感じてしまう。彼が狩る対象はあくまで密猟者であり、野生動物ではない。研究対象となる生物のストレスとなるような要因は少しでも遠ざけたいと思っている。

 

 そして、彼のように原始的な武器を好んで扱う念能力者というのは、実は多い。彼らはオーラを武器に纏わせることでその性能を向上させる『周』という技術に長ける。刃物であれば切れ味が、防具であれば耐久性が増す。その武器が見た目通りの性能しかないとは限らないのだ。

 

 であれば銃を強化すればいいように思うが、それはそれで問題がある。弾丸の威力を強化するにしても、素人が下手に手を加えればもともとの威力を相殺する結果になりかねない。弾自体の推進力を阻害せず、かつそこにオーラによる強化を加算し、さらに放出系の応用によって分離したオーラの制御を維持するとなると、とんでもない精度の『周』を要求される。

 

 単純な構造をした武器ほど強化の伸びしろも大きい。銃器で武装した集団をナイフ一本で制圧する、使い手次第でそんな非常識もまかり通る。

 

 クロスボウはやや複雑な構造をしており、遠距離武器は総じて強化の難易度が上がるきらいがあるが、銃器ほど扱いは難しくない。オーラで強化された弓は強靭なしなりと弾力を得る。優れた使い手ならば、そこに矢への強化を加えることでさらに威力は増強される。

 

 そして使い慣れた武器であればあるほど、その使用感は本人の肉体と一体化し、より高い精度で『周』を施すことが可能となる。彼が構えるクロスボウもまた、旧時代の骨董品と侮っていい代物ではなかった。

 

 射撃体勢に入る。幾度となく繰り返されたルーチンが、精神を最適化する。雪に音を吸われ静まり返った森において、なお密やかに狩人の牙は獲物を狙う。無音の一矢が解き放たれようとした、そのときのことだった。

 

 一羽の小鳥が舞い降りる。降り立った場所は、少女の頭の上だった。まるで梢にとまるかのように自然にそこでさえずっている。モックは目を見開いた。彼はその鳥の生態をよく知っている。人前に滅多に姿を現すことがないほど警戒心の強い鳥だ。

 

 無邪気に鳥と鳴き合って歩いて行く少女の後ろ姿を見送りながら、彼は深いため息とともに構えていたクロスボウを下ろした。

 

 



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31話

 

 いつものように森を散歩する。たわむれにスズメが寄ってきて、頭の上の定位置にとまる。そこまでは普段通りだった。

 

 いつもは散歩が終わるまで図々しく居座るスズメが急に飛び立った。そして、前方の木の陰から人が現れる。いつからそこにいたのかわからないが、紛れもなく人間だ。突然の邂逅に、何の反応もできずただ立ち尽くしてしまう。

 

「あーその、まあ、なんだ……」

 

 年配に差し掛かった男が話しかけてきた。向こうも最初の言葉を言い出しあぐねている様子だった。難しい顔をして帽子の上から頭を掻いている。

 

「私はハン・モック、プロのハンターをしている者だ。ここに生息する鳥の生態調査のため、この島で暮らしている。君は誰だ?」

 

 プロのハンター……猟師だろうか。無人島だと思っていたが、人が住んでいたらしい。私が“よそ者”であることは彼から見れば一目瞭然にわかるらしく、誰何されることは当然と言えた。

 

 しかし、何も答えられない。まともな言葉すら発することもできず、気まずさから目をそらしてしまう。

 

 一応、人と会ったときの対応を考えてはいた。だが、いざ出くわしてみれば全くと言っていいほど役に立たないシミュレーションだった。遭難してこの島に流れ着いたとか、記憶喪失で何も覚えていないとか……どう考えても怪しまれる言い訳しか思いつかない。

 

 かと言って、本当のことを正直に話すわけにもいかないだろう。正体は蟻ですと言ったところで信じてもらえないだろうし、逆に信じてもらえたとしたら余計に厄介なことになる。そもそも、自分が置かれている状況について自分自身わかっていないことの方が多いのだ。

 

「迷子か?」

 

 私が黙っていると、男の方から尋ねてきた。私はうなずく。とりあえず、迷子ということにしておこう。

 

「親は?」

 

 首を横に振る。

 

「島から出たいか?」

 

 首を大きく縦に振る。

 

「そうか……ついてきなさい」

 

 そう言うと、男は背を向けて歩き始めた。詳しく素性を問われなかったことは助かったが、このまま男の後をついて行って大丈夫だろうか。しかし、ここで逃げ出せばさらに怪しまれる。それに島からすんなり出ることができるのなら、まさに渡りに船と言えた。

 

 私は男の姿を見失わない程度に距離を取って、その後をついて行った。

 

 

 * * *

 

 

 案内された場所は森の奥深く、山麓の切り立った崖が露出した地帯だった。この辺りは足場が悪く、ただでさえ不安定な岩くれの上に雪が積もっているため、あまり近づかなかった場所だ。

 

 だが、モックが雪の上に残した足跡をたどると、不思議と足を取られることがない。どうやら道があるらしい。奥まった岩棚に隠されるようにして建物が姿を現した。彼はドアの鍵を開けて中に入っていく。

 

 てっきり船着き場まで案内してくれるのかと思ったのだが、予想外の場所に着いてしまった。モックは私を強制的に連れて行こうとする様子はなく、むしろさっさと先に進んで行った。ただ、こちらの歩みが遅れたときには待っていてくれた。

 

 結局、私も彼に続いて建物の中に入る。そこは私が住んで山小屋のような埃っぽい空気はなく、人の暮らしぶりをにおわせる生活感があった。ただ、山積みになった本やファイルが所狭しと置かれており、片付いているわけではない。

 

「コーヒーは飲むか?」

 

 モックはまきストーブに火をつけている。書類が積み上がったテーブルを簡単に片づけて、椅子に座る。私も座るように勧められたので、恐る恐る従った。

 

「さて……一応、この島は許可のない一般人の立ち入りを禁止している。環境保全と密猟の取り締まりのためだが……そういう事情を抜きにしても、君の素性を全く聞かずに放り出すわけにはいかない」

 

 どうやら見逃してもらえたわけではなかったようだ。むしろ、尋問するためにここに案内したのだろう。騙されたという気がしなくもない。

 

「そんな目で見るな。君を保護するために必要な措置でもある……だが、まあ、話したくない事情があることは見ればわかる。見ず知らずの他人にいきなり話せるようなことではないのかもしれないが」

 

 ぱちぱちと燃え始めたストーブの音だけが室内に響く。居心地の悪い沈黙に、うつむくことしかできない。

 

「この島には珍しい鳥が住んでいる。白い小鳥を見たか?」

 

 すると、モックは別の話題を切り出してきた。あのスズメのことだろう。それなら見飽きるくらい見たので素直にうなずく。

 

「正式名称はシオカンバネハセンクムカギドリと言う。変な名前だろう?」

 

 私がうなずくと、彼は「私が付けた名前だ」と言った。ずっとしかめっ面をしているため、冗談を言ったのかどうなのかわからない。

 

「もう三十年以上前の話だが、私が大学で研究員をしていた頃、偶然発見した鳥だった。非常に警戒心が強く、その生態は謎が多い。当初は類似した別の種と混同されていたのだが、調べを進めるうちに全く異なる種であることが判明した」

 

 発見できたのは運が良かったからだと彼は言った。幻の鳥と言っていいほど人前に姿を現さないらしく、その生息数もよくわかっていないが、生息地はごく一部に限られており、絶滅危惧種に指定されているという。

 

 それにしてはこの島のシオカンバネ……スズメは人に慣れているように思う。

 

「君の体にこの鳥がとまっているところを見た。普通ならありえないことだ。野生動物には総じて言えることだが、自分にストレスを与える存在を鋭く察知する感覚がある。この鳥は特に敏感な部類だ」

 

 なんと捕獲しただけでショック死してしまうほどだと言う。感覚が強すぎるゆえに絶滅に瀕しているとも言える。生物淘汰と言えばそれまでだが。そのせいで現時点での人工飼育は不可能とされているらしい。

 

「それでもな、死体でもいいから手に入れたいというクズがいるんだ。ただ珍しいというそれだけの理由で大金をつぎ込み、密猟者を雇う愚か者がたまにいる。だが、この鳥を捕まえるのはそう簡単なことじゃない。少しでも欲を出した相手に近づくことはない。だから、君が良からぬことを企んでこの島に来たわけではないことはすぐにわかった」

 

 確かに、私は小鳥たちをどうこうしたいと思ったことはない。だが、それだけで果たして野生生物が無警戒に近づいてくるものだろうか。彼が嘘をついているようにも思えない。

 

 小鳥たちは私に何を感じ、何を感じなかったのだろうか。もしかしたら、私は自分が人間にそっくりだと思い込んでいるだけで、根本的に異なる部分があるのではないか。

 

 なにせ、私は人間ではないのだから。

 

「この鳥は、人間にとってただ珍しいだけの存在ではない。私は彼らが鳴き声によって独特のコミュニケーションをとっていることを突き止めた」

 

 それは鳥言語と呼ばれている。この島のスズメに限らず、鳥類が持つ独自の意思伝達法らしい。古くからその存在は人々に知られており、伝統的な漁法を続けている漁師は海鳥の鳴き声からその日の天候を予測するという。

 

 しかし、今日においては気象・災害予測技術が発達し、鳥言語は占いや迷信のように扱われることが多くなった。実際に、読み手によって当たり外れの差は大きく、個人の感覚によるところがかなりあるようだ。

 

 モックはこの変わったスズメの鳴き声にある規則性を発見したという。詳しいことは専門的な話になったため私には理解できなかったが、研究を進めれば鳥言語の体系化が可能になるかもしれないとのことだった。

 

「少なくとも、その糸口はつかめた。もしかすれば将来的に、誰でも鳥と会話できる時代が来るかもしれない。外国語を扱うように鳥たちの言葉を学ぶことができれば、今までになかった社会の分野が拓かれることになるだろう……そのときは、そう予感した」

 

 ストーブの上でヤカンが湯気を吐き始めた。彼は席を立ち、マグカップにインスタントコーヒーを淹れる。カップの一つと、角砂糖が入った瓶が差し出された。

 

「研究はできなくなった」

 

 密猟者のせいだと言う。彼らは鳥を捕まえられないと知ると、その鳥が住む環境そのものを破壊し始めた。逃げ場をなくし、追い詰めるためだ。そしてストレスに弱いスズメは死んでいった。密猟者はその死体を持ち帰って売りさばく。

 

 裏社会に足を突っ込んだ犯罪者たちを相手に、当時一介の研究員でしかなかったモックは何もできなかった。ただ鳥たちの住処が壊されていく様子を見ていることしかできなかったと言う。

 

「私のせいだと思ったよ。私が学会に論文を提出しなければ、その鳥に価値があることを世に示さなければ、密猟者は来なかっただろう」

 

 結局、その当時は密猟者の破壊活動によって変なスズメは絶滅したものと断定された。彼はそれからハンターの資格を取り、世界各地を旅してまわったそうだ。しかし数多くの鳥を研究し、成果を残したが、彼の心が満たされることはなかった。

 

「そして十年前、この島の存在を知った。百年前までこの島には集落があり、古い民話がいくつか残されていた。その中に、私が探し求めていた鳥を示唆する記述があった」

 

 この島は近年になり『シロツバメ島』と呼ばれているが、地図上では別の名称がついているらしい。シロツバメは滅多に見ることのできない神聖な鳥としてこの地域だけで知られ、その名を口にしただけでも逃げ去ってしまうと伝えられている。

 

「ここはあの鳥たちにとって、地上に残された最後の楽園なんだ。私はこの島に骨を埋める覚悟で研究を続けている。だが鳥言語の研究を再開して十年になるが、まだ解明にはほど遠い……」

 

 学会では、彼の研究を夢物語と嘲笑う者も多いという。それほど難解で、終わりの見えない研究対象だった。そして、それを苦労の末に読み解いたところで本当に社会の役に立つものなのか、たどり着いてみなければわからない。

 

 だが、わからないからこそ、それを求める。わかりきった答えなど必要ない。その行動が無駄かどうかは、やり遂げた後に考えればいい。たとえその先にあるものが取るに足らないものだったとしても、それならそれで良い。

 

 彼は学者であるが、それと同時にハンターでもある。ハンターとは、未知の探究者であると彼は言った。

 

「種族も、生態も、思考も、何もかも異なる相手と意思疎通を図ろうというのだから、これが簡単にできるわけがないことは初めからわかっていた。まあ、ほとんど趣味みたいなものだから、諦める気はさらさらない」

 

 ただの負け惜しみかもしれんがと、モックは締めくくった。

 

 彼が自分の境遇を語ったことは、単に世間話がしたかったがためではないだろう。むしろ、口下手な印象を受ける人物だ。それでも最後まで話してくれたのは、自分がどういう人間であるか、私に教えるためだったのだろう。

 

 誰だって、初めて会った人間と腹を割った話をすることは難しい。信用できるかどうかわからない。だから、彼は歩み寄ってきた。次は、私が行動を示す番だ。

 

 本音を言えば、何もかも洗いざらい喋ってしまいたかった。自分が人間ではないことも、虫の体に意思が宿っていることも、この不思議な少女の体についても話したい。生物学者である彼ならば、この身体について何か知っていることやわかることがあるかもしれない。

 

 何よりも、彼ならば私を偏見の目で見ることはないのではないか。本気で鳥とお話しようと考える人間だ。蟻とだって分かり合えるかもしれない。少なくともすぐに駆除しようとか、そういうことを考えるような人ではないように思う。

 

「……わ、たし……」

 

 肺からせり上がってきた息がか細い声となって喉を震わせる。話せば楽になるはずだ。彼なら理解者になってくれる。自分が本当は何者であるのか、それを教えてくれるような気がする。

 

 しかし、胸の内で燃え上がった炎はすぐに勢いを弱めていった。結局、それ以上の言葉は出て来ない。しなびたアサガオのように頭を垂れる。

 

 もし、本当のことを話した上で拒絶されてしまったら。可能性がないとは言えない。いや、常識的に考えれば突き放される方が自然な対応だろう。どこかの怪しげな研究所に連絡されて、実験材料として狙われるのではないか。その危険を否定はできない。

 

 私は彼を信用しきれなかった。不審感はなくなったが、信用もしきれない。そこにどうしようもない申し訳なさを感じてしまう。

 

 彼は私の言葉を無理に引き出そうとすることはなかった。ただ、気まずそうにコーヒーを飲んでいる。その息が詰まりそうな沈黙から逃げるように、私もコーヒーのカップを手に取る。

 

 ぬるくなったコーヒーは苦くて渋かった。人間の味覚はこういうとき不便だ。砂糖を入れようと思ったが、なんだか厚かましいような気がして遠慮してしまった。ブラックのインスタントコーヒーをちびちびすする。余計に気分が重たくなった気がする。

 

 痛覚と違って味覚は遮断することができるのだが、それをするといよいよ自分が取っている行動に無意味さを感じてしまうような気がする。

 

 

「教授うううううううううう!! 教授教授教授教授うううう!」

 

 

 特に会話もなく、二人してずるずるとまずいコーヒーをすすっていると、その淀んだ空気を払拭するかのようにけたたましい声が外から響いた。続いて、ドアが壊れそうな勢いでノックされる。この島にいる人間はモックだけではなかったようだ。

 

「……仕事仲間のペッジョという男だ……聞いての通り性格に難のある奴でな。少し待て、黙らせてくる」

 

 モックは苦虫をかみつぶしたように顔をしかめると、壁に立てかけていた木製の装置を手にして立ち上がった。

 

 この装置は森で出会ったときから彼が所持していた物である。研究に使う器具か何かだと思っていた。彼はそれを操作する。

 

 それほど複雑な構造をした装置ではない。ネズミ捕りに似た跳ね上げ式のレバーを引くと、先端に突き出たシュモクザメの頭のような形状部分が両端をワイヤーで引っ張られて締めあげられる。そこまで見てようやく気づいた。これはいわゆるボウガンと呼ばれる武器だろう。

 

 かなり大型のものだが、モックは片手でやすやすと弦を張るレバーを引いていた。見た目ほど力はいらないのだろうか。弦を張ったが、矢は装填されていない。

 

 しかし、私は違和感を覚えた。ボウガンの矢を収めると思わしき部分に、ぼんやりとした気配を感じる。何かはっきりと見えるわけではないのだが、何かが“ある”ような気がした。ただ、あまりにも曖昧な感覚なので、ただの思い違いかもしれない。何もないと言われると、確かにその通りだと思う程度の違和感だった。

 

 モックはボウガンを持って玄関に近づき、ドアの鍵を開ける。それを待ちわびたように息を切らした男が入ってきた。

 

 頭の上に積もった雪を払いもせず、手にカメラを構えた男は部屋に入るなりきょろきょろと周囲を見回す。それほど広い部屋ではない。すぐに私たちの視線は合った。とりあえず、会釈する。

 

「ああああああああああああああああああああああああああ!?」

 

 突然の絶叫、そして放たれるカメラのフラッシュに思わず目を閉じた。いきなり何事だ。モックの時と違って理知的な対応は望めない相手かもしれない。

 

「あれが例の!? 例のあれの!?」

 

「状況は理解しているな」

 

「合点承知っす!」

 

 

 

 

 

 

「では始めよう。 狩 り の 時 間 だ 」

 

 

 

 

 

 モックが構えたボウガンを私の方へと向けた。

 

 

 * * *

 

 

 第一射、狙いは違わず少女の右脚へと突き刺さる。非殺傷型の念弾であるため、傷はない。矢に込められたオーラが特殊効果を発動し、少女の脚の自由を奪う、かに思われた。

 

 『足撃ち(クレバーハント)』は不発に終わる。少女の体が操作されることはなかった。モックは瞬時に可能性を洗い出す。

 

 操作系能力は条件さえ満たせば実力が離れた相手だろうと従わせることができる。これを無効化する手段はいくつかあるが、簡易に実現可能なものを挙げるとすれば『既に操作されている対象は新たに別の操作系能力で上書きできない』という原則を利用する手がある。

 

 つまり、他人が操っている対象からその操作権を奪うことはできない。少女が何者かに操られた状態で島に送り込まれてきたとするなら『足撃ち』が発動しない理由は説明がつく。しかし、モックはその可能性はほぼないと考える。

 

 操作対象を精密に操作するためには、能力者と対象の距離が近くなければならない。距離が開くほどに操作精度は著しく低下していく。モックはハンターとしての技術とシロスズメの鳥言語を利用することで、この島に存在する人間の位置情報を正確に割り出すことができる。一流の暗殺者とてその眼からは逃れられない。侵入者は少女一人であり、同伴する能力者の存在は確認できなかった。

 

 遠距離から操作対象を動かす『自動操作型(オート)』と呼ばれる能力もあるが、その場合はプログラムされた動きしか取らせることができない。どれだけ卓越した使い手だろうと、その偽装性は一般人でも注意して見れば看破できる程度のものだ。これまでに観察した少女の行動、表情、仕草などの情報から、自動操作型とは思えなかった。

 

 残る可能性としては、少女自身が操作系能力者であり、自分自身を操作しているという場合も考えられる。一見無意味に思える能力だが、自分の体をマニュアル操作できるということにはいくつかのメリットとデメリットがあり、必ずしも使えない能力というわけではない。他人から受ける操作系能力を無効化しやすいという点もメリットの一つである。

 

 その場合、少女は念能力者であることになる。これについてモックは、まず間違いないと確証を得ていた。彼が撃った『足撃ち』を、少女は目視している。脚に被弾した際、その部分をしっかりと確認していた。隠を使っていないとはいえ、オーラが見えていなければ取れない行動である。

 

 しかし、彼女が念を使えるかどうかということは、モックにとって驚くようなことではない。もともと考慮していた可能性である。彼が怪訝に思ったのは、攻撃を受けた直後に少女が取った態度だ。

 

 その身のこなしから見て、明らかに戦闘経験は皆無に等しいとわかる。念能力者だったとしても直接戦闘力はおそらく一般人レベル。その評価は今も変わることはない。

 

 見た目通りの子供だった。そして、子供であればどういう反応を取るかということも予測が立つ。たとえモックの攻撃が見えたとしても、何もできず立ち尽くすことしかできないだろう。自分が置かれた状況を瞬時に判断できるはずがない。

 

 だが、少女は違った。矢が放たれた直後には反応を示していた。回避や防御を取ろうとしたわけではなく、ただこちらの攻撃を目で追っただけだが、それがありえない。どう考えても訓練していなければとっさに取れないような反応の速さだった。

 

 実際、身体の動きは素人同然で、見えていたからと言って何かができる様子ではなかった。だからこそ、反応速度の異常性が目立つ。どういう生活を送ればそんなちぐはぐな鍛え方になるのか。

 

 反応速度というものは鍛えれば鍛えるほど無意識に機能する。反射に近いレベルで敵の攻撃に対応できるようになるが、逆に言えばコントロールすることも難しくなる。一度鍛えた感覚を、意図的に劣化させてみせることは恐ろしく難しい。

 

 先ほどまでの彼女にこれほどの反応速度は見られなかった。攻撃を受けた途端、スイッチが切り替わったように変化している。すぐに椅子から立ち上がり、周囲を素早く見回していた。敵の観察はもちろんのこと、逃走が可能であるか否か、その経路の確保、武器として利用できるものはないか、それらを確認していることが目の動きから察せられた。総合的な環境把握能力は訓練された軍人に匹敵する。

 

 自分を“操作”しているがために取れた行動、ということだろうか。詳細は不明だが、この少女には何かある。油断してはならないと、クロスボウを構える手を慎重に握り直す。

 

 

「なん、で……?」

 

 

 少女が問うた。まだこちらの真意がつかめず困惑しているようだった。あれほどの反応を見せておきながら、まだこちらを敵として認識していない。モックにとっては好都合と言える。やりたくもない演技をした甲斐があった。

 

 しかし演技と言っても、モックが少女に話したことは真実である。彼が語った過去の出来事、生き方、研究理念、全て偽りない真実だった。ただし、話していないこともある。

 

 この島はモックの所有する土地となっている。彼の名義で登記されており、法律上も間違いなく彼のものだ。だが、実質的な持ち主は異なった。

 

 ある大マフィアの隠し倉庫がこの島にあった。おいそれと表に出すことのできない金と物が集まる終着点。存在すら知られてはならないその『倉庫番』が、彼に与えられた仕事だった。

 

 



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32話

 

 ハン・モックがこの島を見つけたとき、その所有権はとある企業が有していた。数年前からリゾート開発事業が計画されていたようだが、どう考えても採算の取れる立地ではない。当然のように計画は中止され、放置されたに等しい状態だった。

 

 売りに出したところで買い手がいる土地ではないが、手放せるならさっさとそうしたいところだろう。モックはすぐにでも譲渡は終わると思っていた。しかし、相応以上の金額を提示したというのに、相手方は難色を示した。喜ばれるどころか勝手に島に入るなと注意を受ける始末である。

 

 プロハンターは世界で最も儲かる職業と言われている。おそらくこちらの足元を見て値を吊り上げる魂胆だろうと思った。なんなら島一つと言わずその企業ごと買収してもおつりがくるくらいの金額を最初に提示したのがまずかったかもしれない。

 

 あろうことか、相手方はモックの個人資産の5分の4をよこせと言ってきた。あまりにも非常識な金額。だが、モックはこれをあっさり承諾した。彼にとってこの島は金に代えられるものではない。資産全部をよこせと言われたとしてもうなずいただろう。

 

 その上で、ハンターとして行使できる全ての権限をもって契約の履行を約束させた。契約を解除することは許さない。途中で逃げれば地の果てまでも追いかけて取り立てると脅迫した。そして、モックは合法だが強引に島の所有権を手にすることになる。

 

 力を持たなかった以前は何もできなかったが、今ならばハンターとしての実力がある。今度こそ、鳥たちと彼らが暮らす美しい自然を守ることができると思った。結局、その意気込みはマフィアが送り込んできた殺し屋によって、その日のうちに消沈することとなる。

 

 並みの殺し屋ならば退けることもできただろう。しかし、相手は対念能力者戦を想定した敵、しかもそれが数人がかりだ。技巧や地形を利用して戦うタイプのモックにとって直接的な戦闘能力で勝てる敵ではかった。

 

 仮に運良く逃げのびることができたとしても、死の運命は変わらなかっただろう。後で知ることになるが、彼が敵に回した相手は世界中のマフィアンコミュニティを束ねる『十老頭』の一角だった。一介のプロハンターが太刀打ちできる存在ではない。

 

 おとなしく降伏したモックは情けなく命乞いをした。失われた十数年の研究が、今ようやく再開されようとしている。彼の研究者としての人生はここから始まると言ってもよかった。こんなところでむざむざと死ぬことはできない。

 

 そして取引を持ちかけた。自分にできることは何でもすると。たとえ相手がどんな悪党だろうが、忠誠を誓うと。彼にとって大切なことはこの島に生息する鳥だけだ。それ以外のものなら自分の魂でさえ売っても構わないと思えた。

 

 その売り込みに応じたマフィアは、彼と取引を結ぶことになる。本来なら話を聞くまでもなく殺されていたところを見逃された。そのとき既に、マフィアはモックの内に眠る本性を見抜いていたのかもしれない。

 

 かくして、彼は『倉庫番』となった。ハンターとして真っ当な活動を続ける彼の拠点は、薄暗い裏社会とのつながりをくらませる絶好の隠れ蓑となる。自然保護のために過剰に排他的な態度を取るハンターというのは、それほど珍しくもない。

 

 鳥を狙う密猟者の存在もあるが、それは大した問題ではなかった。実際、この十年で島に侵入した密猟者は3名しかいない。いかに貴重と言っても『絶滅しかけた鳥』という以上の価値はなく、それも死骸しかもって来られないとなれば需要も落ちる。捕獲難易度の高さに加え、常に目を光らせるハンターがいるとなれば誰も近づかないはずである。

 

 目の前にわかりやすい餌があれば、その裏に何かが隠されているとは思わないのが人の心理だ。中途半端に価値をもった鳥の存在も隠れ蓑として利用されている。逆に言えば、そんな苦労を見越してまでわざわざこの島にやってくる者は、鳥以外の何かを嗅ぎつけている可能性がある。隠蔽には万全の態勢を持しているが、それでも絶対とは言い切れない。

 

 だから、この島に許可なく近づく者は全て『密猟者』として扱われる。それを狩るのも彼の仕事だ。たとえこの島で消息を断つ者が現れたとしても、ハンターの縄張りに忍び込んだとなれば、あり得る話として処理される。

 

 このシステムは今日まで滞りなく機能していた。組織を運営する上で、捨てたくとも捨てられない事情のある物品はどうしても出て来る。それらを保管する倉庫は必要だった。そして、どれだけ厳重なセキュリティをもって保護しようと、そこに“ある”以上は必ず破る手段が生まれる。

 

 しかし、そもそも存在することを知られなければ、これを上回るセキュリティはないだろう。もともと発見されても構わない程度の物しか置かれていなかったこの島の倉庫は、今や組織の機密情報が数多く保管される最重要拠点の一つとなっている。

 

 優秀な倉庫番として働く彼に、矜持はなかった。ハンターとしての誇りはとうの昔に捨てた。では、組織に忠誠を誓ったのかと言うとそうでもない。憎んでいるわけでもない。あえて言葉にするなら“どうでもいい”と思っている。

 

 この島で暮らすうちに、ふと彼は気づいた。彼は鳥言語の研究がしたいがためにシロツバメを追いかけていたのだと思っていた。だが、それすらも“どうでもよかった”のだ。

 

 研究は進展を迎え、言語の解明はある程度まで進んでいた。その成果を学会で発表すれば一躍時の人としてもてはやされるだろう。しかし、今年彼が提出した論文は、わざと行き詰っているように見せた偽りの研究報告が書かれている。

 

 鳥たちを観察し、彼らの生活を邪魔することなく、ひっそりと見守り続ける。それだけで彼は満たされた。他に何もいらなかった。常人には理解されない感覚だろうが、いきつく先にあったものは、ただ静かにこの島で暮せる幸せだけだった。

 

 ここは楽園だ。彼と、鳥たち“だけ”の楽園。

 

 だから彼が最も嫌うこととは、そのささやかな平穏を乱されることだ。誰であろうと、この島に足を踏み入れた者には虫唾が走る。組織に命令されたから侵入者を狩っているわけではない。それがたとえ何の罪もない少女だろうと、彼にとっては等しく『密猟者』であった。

 

 

 * * *

 

 

 親切にしてくれた人が態度を急変させ、いきなり襲いかかってくる。いや、もともと騙すつもりで接していたのだろう。言葉にすればひどく簡潔に聞こえるが、実際に襲われる方の身としてはそう簡単に現実として受け入れられるものではなかった。

 

 私は混乱していた。襲われた当事者であるという感覚が薄い。まるで他人事のように感じてしまう。当然、何か対処をすることなどできるはずもない。

 

 しかし、その一方でかつてないほどに思考は冴えわたっていた。混乱してはいるが、冷静に状況を判断する自分もいる。まるで自分が何人もいて、それぞれが仕事を分担するかのように別々の物事を一度に考えることができた。

 

 それがなければ今も椅子の上に座ったまま呆けていたところだろう。急に思考能力が拡張したような感覚で気分が悪くなるし、なぜそうなったのかもわからないが、今は細事を気にしている余裕もない。

 

 モックは私に向けてボウガンを撃った。矢は装填されていなかったが、何かが発射されて私の脚に突き刺さる感覚があった。だが、私が感じたものはただの感覚であり、実際に怪我を負ったわけではない。意図がつかめない攻撃だった。

 

 矢の代わりに発射された“何か”は、私が生命力と呼んでいるエネルギーに似ている気がした。いつもは少女に吸い取られているが、さっきの一撃はそれとは逆に与えられたように感じる。しかし、そのエネルギーには嫌な気配があった。無理やり体内に押し入ってくるような感覚で、やはり何らかの攻撃だったのではないかと思う。

 

 私が分析を終えたときには既に、モックは次の攻撃準備を整えていた。ボウガンという武器の欠点は、連射が利かないところにある。あらかじめ弓を引いた状態を維持できるため精密な射撃ができるが、矢を放てばまたその状態をセッティングする必要があり、すぐに次の矢を射ることはできない。そのはずなのだが、モックの射撃動作は恐ろしく速かった。全く隙がない。

 

 動体視力が良いのか矢の動きを目で追うことはできたが、それを避けられるかと言えば無理だった。反応できたところで行動が追いつかない。ボウガンには今度はしっかりと実物の矢がセットされており、次の攻撃は当たれば無傷では済まされないだろう。

 

「いいよぉ、教授ぅ! ほらもっと攻め立てて! もっと過激なの頼むよぉ!」

 

「黙れ」

 

「はい」

 

 さらにこの部屋にいる敵は一人ではなかった。モック一人でも手に負えないというのに、カメラを持った男もいる。ファインダーを覗きながらこちらを撮影しようとカメラを向けている。何がしたいのかわからないが、状況から見て敵であることは間違いない。

 

 極めつけに私が立っている場所も悪い。唯一の出口と思われる玄関付近は二人の男が塞いでおり、逃げるためにはその横を突破しなければならない。不可能としか思えない。

 

 これ以上ないほどの窮地だ。いつもの私なら早々に諦めていたかもしれないが、今の私には状況を打破するための糸口を探る思考力がみなぎっていた。

 

 まず不可解な点は、私がまだ殺されていないということだ。やろうと思えば最初の一撃で殺すこともできただろう。殺す機会はいくらでもあった。そもそもあんなに長い身の上話をしてまで私を信用させる必要があったのか。

 

 写真を撮ろうとしている男についても、ただの趣味とは思えない。意味があるはずだ。彼らには何らかの目的があり、そのために私は生かされている。

 

 私は近くの棚の上に転がっていたボールペンを取った。武器になりそうなものはこれくらいしか見当たらない。その行動をモックは何も言わず見逃した。ペン一本でこの状況が覆るはずもないと思っているのだろう。

 

 確かにその通りだ。このままモックに突撃を仕掛けたところでどうにもならない。いくら敵が私を生かしているとはいえ、それは殺されないという保証にはならないし、殺さずに制圧する手段などいくらでも持っているだろう。

 

 だから、このペンは敵に対して向けるためのものではない。私はペン先を自分の喉もとに向けて構えた。

 

「……何のつもりだ?」

 

「ぶきをおろせ。さもなくば、じさつする」

 

 まずは自分の命の価値を計る。私が死ぬことを、敵はどの程度の損害として勘定しているのか。自分の命を脅迫材料として、どこまでのことを要求できるのか。

 

「なるほど、物も喋れない子供かと思えば、少しは頭が回るらしい」

 

 モックは構えを解かなかった。ボウガンの矢先はこちらを捉えたままだ。

 

「自殺するだと? できるものならやってみろ」

 

 どうせ死ぬことなどできないと思っているのか、モックの態度は変わらなかった。ならばそれでもいい。次は本当に死んでみせよう。これで敵の目的がつかめるかもしれない。

 

 ペン先を喉に当てる。ちくりとした痛みが走った。まだ先端が皮膚を押しているだけに過ぎない。これが致命傷に至るまで突き刺さるとなればどれほどの痛みが生じることだろう。想像しただけで泣きたくなる。

 

 だが、やるしかない。もし躊躇して力を加減してしまえば状況は悪化するだろう。やるなら確実に、死んだと敵に思わせなければ意味がない。

 

 手が震える。歯を食いしばる。一旦ペンを喉から離し、勢いをつけて力の限り引き寄せた。

 

 

 * * *

 

 

 少女は自殺した。モックはその一部始終を瞬きもせず見届けていた。

 

 まさか本当に死ぬとは思っていなかった。彼女は死にゆく者の目をしていなかった。これまでに彼は、同じような状況に追い込まれた人間を何人か見てきたが、彼女の目はその誰とも異なっていた。

 

 死とは覚悟してできるものではない。死にたいと思っている人間は、同様に生きたいとも思っている。たいていはその感情の狭間で自己を見失い、制御を失った暴走車のように勢いのまま死に至る。それが生物として最低限保つべき体裁というものだろう。

 

 覚悟とは、生きる意志を持つ者だけが持つ決意だ。四肢をもがれ、腸を引きずってでも生にすがりつき、生き延びようとする獣のごとき渇望である。あるいは、死の定めを前にしてその瞬間まで何かを成し遂げようとする諦めの悪さだ。

 

 彼女の目に自棄はなかった。かと言って、覚悟もなかった。モックはその表情から彼女の心理を読み取ることができなかった。死の瞬間まで、何を考えているのかわからなかった。

 

 何とも言い難い気持ちの悪さが残る。その手に持つクロスボウは、いまだに倒れ伏す少女へと向けられていた。

 

「えぇ……死んじゃったよ教授!? どうすんのこれ!?」

 

 どうもこうもない。死んでしまったのなら、そのように組織へ報告するしかないだろう。叱責は受けるかもしれないが、その程度は受け流せるくらいの貢献は日ごろからしている。

 

 相手が明らかにカタギの人間でないとわかればモックの独断で密猟者として処理してもよかったのだが、今回の侵入者は特殊だった。裏社会に属するような人間には見えないが、ただの一般人とも思えない。抹殺することで不都合が生じる恐れを懸念して、組織に連絡を入れておいたのだ。少女の顔写真もメールに添付して送信されている。

 

 その結果、組織から少女を生きたまま捕えて連れてくるように命令が下った。さっさと殺したい気持ちは強かったのだが、命令を破れば組織に借りを作ることになり、余計な面倒事も増える。だからこそモックはまどろっこしい態度を取ってまで少女に接していたわけだが、何が何でも絶対に連れてこいとまでは言われていなかった。

 

 つまり、死んだら死んだで困らない程度の価値しかないのだろう。いったい何の目的で少女の身柄を引き取ろうとしていたのかモックに知る由はないが、おそらくここでひと思いに死ねたことは少女にとって幸福なことだったかもしれない。

 

「なんてこった、あとちょっとで良い画が撮れそうだったのに……! 不完全燃焼だよちくしょう!」

 

 刺青の男、ペッジョは悪態を吐きながら少女の死体へと近づいていく。

 

「待て、うかつに近づくな」

 

「え? いや、でもこのままにはしておけないでしょ? ってか、まだ警戒してるんすか? どう見ても死んでますって」

 

 確かに疑いの余地はない。念能力によって致命傷を偽装している恐れもあるため、少女が自分の喉を刺す様子をモックは『凝』を使って注意深く観察していた。

 

 『凝』とは身体の一部にオーラを集中させる技である。特に目を強化する際によく使う技であり、これにより敵が持つ不審なオーラの動きを察知することができる。仮に少女がモックを遥かに上回る念の使い手だったとしても、この距離と集中状態が保てる状態において彼の目を欺けるはずはなかった。

 

 間違いなくボールペンは喉を破壊し、倒れ込んだ少女の体からはおびただしい量の出血がある。生きていたとしても虫の息だろう。この状態から何かができるとは思えない。

 

 だが、モックはどこか釈然としなかった。念のために攻撃してみる。頭部にクロスボウの狙いを定めたが、しかし直前で思いとどまった。

 

 組織からは一応、少女を捕獲するように命令があった。それは達成できなかったが報告義務は残っている。自殺を止められなかったと正直に話すつもりだが、ここで少女の頭部を破壊するような傷を残せば説明が面倒くさくなるだろう。一方的に殺したようにしか見えない。

 

 結局、脚に向けてそれほど大きな傷は残らない程度の威力に加減した矢を放つ。

 

「うわっ、鬼っすね教授。そこまでやります?」

 

 やはり反応はない。気にし過ぎだったかもしれないと、構えを解いた。

 

「もぉ~……これ以上ないくらいの逸材だったのに……こんなにあっけなく壊れるなんてあんまりだぁ! せめて死に顔だけでも撮らせてくれぇ」

 

 モックから見れば反吐が出るほどねじ曲がった性癖だが、それがペッジョの能力の発動条件であるため許容するほかない。さっさと撮影でも何でも済ませて島から叩き出したいところだ。

 

 しかしペッジョがうつ伏せに倒れた少女を起こそうと近づいたそのとき、モックは小さな異変を見つけた。先ほど少女の脚に向けて撃った矢の傷から勢いよく出血が起きている。少女の体からは喉の傷から明らかに致死量とわかるほどの血液が既に失われている。心臓も動いていないはずの死人から出る血の勢いではなかった。

 

 そして、うつ伏せに倒れる少女の背中を見て気づく。さっきまでそこには不自然な“膨らみ”があった。それが見当たらない。彼女と相対しているとき、常に正面を向いていたため背中側の変化を見落としていた。

 

「そいつから離れろ!!」

 

 叫び、クロスボウの弦を張るのと、少女が動いたのは同時だった。無防備に近づいていたペッジョに少女の手が伸びる。そこには異形の蟲が握られていた。島に生息している種ではない。念獣である可能性もある。

 

 これほどの大仕掛けを使ってまでこちらをおびき寄せておきながら、満を持して取り出したその蟲が何の脅威も持っていないとは思えない。念能力者であればまず回避を選ぶ局面であるはずだが、当の攻撃に晒されたペッジョは何の反応もできていなかった。

 

 モックが注意を喚起しておきながらこの体たらく。念法使いとしての基礎体力がまるで備わっていない。反応速度に関して言えば、少女の方がよほど優れている。

 

 少女の脚を事前に撃っていたことで一手早く異変に気づけたが、撃っていたがゆえに次の一手が遅れてしまう。クロスボウは二の矢の発射に時間がかかる。

 

 モックが使う長大なクロスボウはゴーツフット方式という古典的な構造をしている。てこの原理を利用してレバーを引くことで弦を張る方式だ。多くは腕力のみで引けるものではなく、立った状態から金具を用いて武器の先端を足で固定し、全身の筋肉を使って引き絞る。

 

 しかし、これをモックは片手で引く。台尻を腹で固定し、片手でレバーを引きながらもう片方の手で同時に矢を装填する。ワンアクションで発射準備までの動作を終えてしまう。

 

 その速さをモック自身、正確に把握していた。ゆえに、弦を引く前にはこの攻撃が間に合うか否か、答えが出ている。

 

 間に合わない。

 

 発射準備とエイミングを分けることで精密な射撃を可能とするクロスボウの長所は、それらの動作を同時並行して行えないという短所でもある。その武器に内在する機能的特性は、どれだけ動作を速く行おうとゼロにはできない。

 

 つまり、モックが矢を撃つよりも早く、少女の攻撃はペッジョに届く。

 

 組織にとってペッジョは代えのきかない人材だ。彼の持つ念能力は非常に希有であり、彼にしかできない重要な任務が与えられている。むざむざと見殺しにするようなことがあれば、モックが受ける追及は叱責などという生ぬるい処罰では済まないだろう。

 

 一杯食わされたと言うほかない。慢心があったことは事実だ。あの致命傷を負って生きているはずがないと、まさかありえないだろうという既成概念に囚われてしまった。

 

 モックは自省する。しかし、焦りはなかった。たかが攻撃が間に合わなかった程度で敵に遅れを取っているようでは、ハンターを名乗る資格なし。

 

 

 『足撃ち(クレバーハント)』発動――

 

 

 操作する対象は、ペッジョの脚だ。彼の戦闘能力の低さについてはよくよく熟知しており、足を引っ張る可能性を考慮して、この島に上陸する前から発動条件は満たしている。

 

「うほあああああ!?」

 

 ペッジョは奇声を上げながらその場から跳躍した。

 

 

 * * *

 

 

 私が持つ最大の武器とは、ボールペンなどではない。毒である。虫本体はその牙に数種類の強力な毒を持っている。その強さと効果については、種としての本能が教えてくれた。人間一人を殺すには十分すぎる効力があると思われる。

 

 問題はこれをいかにして敵に送り込むかという方法だ。本体に噛みつかせるためには、当然手が届く距離まで接近する必要がある。それも直前まで本体の存在を隠し通さなければ奇襲は成功しないだろう。遠距離武器を使うモックにどうやって近づけばいいのか。

 

 そのために死んだふりをした。普通の人間なら死ぬような傷でも、この体なら回復できる。死んだと思わせて近づいてきたところを襲う作戦だった。

 

 しかし、うまくいかない。本当ならモックが近づいてくれば良かったのだが、そばまで来たのはもう一人の男、ペッジョだった。仕方なく作戦を変更する。

 

 ペッジョを人質にすることにした。もし近づいてきた者がモックであったなら殺すことも考えた。しかし、ペッジョを殺したところでモックという脅威がなくなるわけではない。私では逆立ちしても勝てない相手だ。それならば抑止力として人質を取った方がマシに思える。私が使える毒には麻痺毒もあり、標的を殺さずに無力化する手段もある。

 

 二度も奇襲が通じる相手ではない。これが最後のチャンスである。そして、奇襲は成功した。ペッジョを攻撃圏内に捉えた。相手はこちらの攻撃に対応できていない。そのはずだった。

 

 攻撃が届く寸前、ペッジョは突然の大跳躍を見せる。まるでバッタのようにモックのところまでひとっ跳びで退避してしまった。こんな事態、予測できるはずがない。予備動作なしで人間にできる動きではなかった。オリンピック選手でも無理だろう。超人的なジャンプ力である。

 

「いだだだだだ、足つったああ!? 教授いつの間におれっちに『足撃ち』仕掛けてたんすか!? おかげで助かったけど……」

 

 天井に身体をぶつけ、受け身もろくに取れずに床を転がったペッジョだが、結局無事に距離を取られてしまった。

 

 まずい。こちらの切り札をさらした上に、何の成果もなく敵を逃がした。これからどうするべきか、めまぐるしく思考が働く。しかし、これ以上の策など思いつかない。

 

 

「悪あがきは終わったか? 小娘」

 

 

 次の瞬間、右手が吹き飛んだ。目だけがその攻撃を捉える。

 

 ボウガンの矢だ。しかし、それは炸薬でもくくりつけていたのかと思うほど強烈な威力だった。指が全部なくなっている。

 

 だが、そんな傷は些細なものだ。モックがなぜ私の右手を狙ったのか。そこに私の“本体”が握られていたからだ。

 

 虫の体に衝撃が走る。生まれて一週間も経っていない命だが、初めて受ける威力の衝撃。私の体は少女の手から離れ、一直線に宙を飛び部屋の壁に叩きつけられた。

 

 



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33話

 

 ペッジョが表向きに名乗っている職業は写真家である。精力的に活動しているが、その才能は下の下と言ってよく、鳴かず飛ばずの売れない写真家だ。だが、彼が仕事にありつけず困窮することはない。なぜなら、マフィアの『運び屋』としての裏の顔があるからだ。

 

 彼は具現化系念能力者であり、一台のカメラを具現化することができる。具現化系能力によって実体を持った生産物は、オーラで形作られていながら実物と全く遜色ない存在感を持つ。彼のカメラも本物と同じく写真を撮影することが可能だ。

 

 しかし、それだけでは現物の模倣に過ぎない。オーラで作られているので自由に出し入れが可能であったり、壊れても修復が容易であったり、自分自身のオーラで作られたものなので『周』や『隠』がかけやすかったりする利点もあるが、基本的な性能は現物と変わらない。

 

 そこに現物を超えた性能を付加しようと思えば、念能力者としての才能が必要となってくる。剣であれば切れ味をより鋭く、鎧であればより頑丈に、というように具現化するものの特性に応じた特別な能力を付け加えることも可能である。

 

 ペッジョのカメラも特殊能力が備わっている。その能力名は『最高の一枚(ベストショット)』。具現化したカメラで撮影した被写体をフィルムの中に“保存”するという恐るべき能力だった。

 

 放出系能力者が使う瞬間移動や、念によって現実世界に存在しない空間を作り出し、そこに人や物を送り込むなど、時間や空間概念を超越した能力は存在する。しかし、その習得難易度は極めて高く、才能なくして覚えられるものではない。

 

 物質をフィルムの中に取り込んでしまうなど、いかにカメラの特性に沿う能力と主張したところで普通は実現不可能な領域である。それを考えれば、ペッジョは具現化系能力者でありながら後天的に特質系へと変化した特殊体質者であると言えた。

 

 カメラを構えてシャッターを押せば問答無用で敵を無力化できるこの能力があれば、まずどんな強敵が相手だろうと遅れを取ることはないだろう。だが、実際のところペッジョは武闘派などとはお世辞にも呼べない立場にいる。彼の能力には大きな制約があった。

 

 彼が撮影者として“納得”できる写真でなければこの能力は発動しない。つまり、少しでも構図に不備があったり、被写体の写りが悪かったり、角度が気に食わなかったり、自分の思い描く『最高の一枚』にそぐわない写真では駄目なのだ。戦闘中、敵に対して使えるような能力ではない。

 

 そして最も厄介なことが、彼の撮影に対する趣味嗜好であった。

 

 他者が苦しむ姿に美を感じる。子供の頃、道路で轢かれすり潰された犬の死骸に目を惹かれた。やがて、自らの手でそういった状況を作り出すようになっていく。そして、心身が成長していくにつれて動物を対象とするだけでは我慢できなくなっていった。

 

 ペッジョは自分が異常であることに気づいていた。人前では自分の嗜好をおくびにも出さない。マフィアではないカタギの知人や友人は多く、その誰もが彼を『馬鹿で騒がしいお調子者』だが『写真に対しては真摯』だと思っている。

 

 それは別に嫌々演じているわけではない。彼は本気で写真家として成功することを目指している。なぜならそれは“修行”だからだ。彼は自分が異常であり、悪であることを自覚していた。だから、一般的で真っ当な美的感覚を養おうと必死で努力していた。

 

 その姿を知っている者なら、彼がマフィアで悪事の片棒を担いでいるとは思わないだろう。才能は全くないが、自分の好きなことに真っすぐ取り組む夢追い人だと評価されている。それは図らずも彼の素性を隠すのに好都合だったし、修行の甲斐もあって彼の念能力は成長した。

 

 それまでは興味が湧かず、被写体として見ることができなかった物もフィルムに取り込むことができるようになった。だからこそ『運び屋』として重宝されている。念空間などを作り出せる能力者全般に言えることだが、最も有用とされるのが物資輸送の隠蔽性である。手ぶらの人間が何の証拠も残さず多くの物資を一度に輸送することができる。密輸などによって利益を上げる裏社会の者たちからすれば喉から手が出るほどほしい人材だろう。

 

 この島の輸送路を確保する上でも彼は適任だった。どれだけ倉庫の存在を隠し通そうとも、そこに出入りする物の流れが丸見えでは意味がない。しかし彼ならば写真家の活動として違和感なく島に入ることができる。

 

 写真家としてはともかく、念能力者としては確固たる地位を築いていた。普通の能力者が行う武術としての修行とは異なるが、彼なりの修行によって今も成長を続けている。ではその結果、彼の美的感覚は一般人に近づいたと言えるのだろうか。

 

 答えは否だ。むしろ、悪化していた。普遍的に美しいとされる感覚を理解するにつれて、彼が望む生来の“美”はより克明に浮かび上がった。善と悪、生と死、その対照性の中にこそ彼が求める絶望がある。

 

 彼はその醜い美しさが、修行の果てに陳腐で無価値なものへと変貌してしまうことを恐れた。誰かを傷つけたいと思っているわけではない。自分が撮った作品を自慢したいわけでもない。ただ、人が絶望する姿を撮りたい。そして、自分だけのものとしていつまでもこの手の中にしまっておきたい。その衝動を抑えきれなくなっていた。

 

 ハン・モックはペッジョの本性を知る数少ない友人である。モックは毛嫌いしているだろうが、少なくともペッジョは友人だと思っているし、この頭の固い学者の老人を尊敬していた。それは彼の研究についてであるとか、彼のハンターとしての腕を評価してのことではない。ペッジョは彼を自分と同じ種類の人間だと思っている。

 

 本人に言えば烈火のごとく怒ることは目に見えているが、二人は同類なのだ。金や名声によって動く人間ではない。自分の中にある価値観さえ邪魔されず、満たされればそれでいい。それによって他人がどうなろうと知ったことではないと思っているところも同じである。

 

 マフィアは彼らが求めるものを正確に理解し、それを与えることによって協力を得ている。それは金で雇われる関係よりも遥かに強固な信頼で結びついていた。

 

 ペッジョはマフィアに属しているがゆえに非合法な撮影を行うことができる。そのおぞましい撮影会は、彼の求めに応じてたびたび開かれた。しかしそこで出会うことのできる被写体は、ほとんどがマフィアに始末される予定だった者たちだ。それはそれで面白さがあるのだが、たいていが裏社会に染まりきった男たちである。

 

 今、彼がファインダーを通して見ている少女のような被写体は、そうそうお目にかかれるものではない。その姿は美しかった。

 

 美とは、学ぶことによって培われる感覚だ。偉大な芸術家たちが遺した絵画や彫刻、陶磁器、建築、あるいは文学、音楽、そういった作品は人間の感性に働きかける力を持つ。それが見る者の美的感覚と合致し、取り込まれることで人は美の指標を得る。

 

 少女の容姿は完成された一つの作品のように整然としている。一つの指標となるに値する美しさがあると、ペッジョは感じた。であれば、その花を無残に散らせた姿とはどれほど甘美で心躍るものであろうか。残酷、冒涜、猟奇、非道、何と罵られようが今さら心を入れ替えることなどできはしない。彼にとってはそれこそが芸術であった。

 

 

 * * *

 

 

 モックが組織から与えられた命令は少女の捕縛、そして身柄の引き渡しである。通常であれば、これはなかなか手間のかかる任務だ。抹殺命令の方が断然やりやすい。人間一人を生きたまま捕え、誰にも気づかれることなく引き渡し場所まで連れていかなければならない。

 

 だが、今回に限って言えばそれほど心配はいらなかった。ペッジョの能力があればさして労力はかからない。カメラのフィルムに入ったものは、撮影された状態のまま時間の経過に影響されることなく保存される。そして、そのカメラの具現化を解除してしまえば手元には何の証拠も残らない。輸送にリスクは生じないというわけだ。

 

 それを踏まえた上で、モックは少女に善人面で接した。それほど演技に自信があるわけではなかったが、少なからず信頼を得ることができたのではないかと思う。もう少し時間をかければ彼女の秘密を聞き出せたかもしれない。少女は、何か言い淀むようなしぐさを見せていた。

 

 だが、モックの目的は少女の事情を聞き出すことではない。できれば聞き出したかったという程度だった。そんなことに時間をかけるほど彼は気が長い性格ではなかったし、尋問なら捕まえた後で組織の人間がいくらでもやってくれるだろう。

 

 第一の目的は、彼女の信用を得ることにある。自分を信頼できる大人だと思わせ、安心させたところで裏切るためだ。その方がより簡単に彼女を絶望させることができるだろう。そうすれば、ペッジョの撮影もスムーズに終えることができる。

 

 相手が見た目通りのただの子供だったならそれで良かった。だが、計画は大きく狂う。少女は予想外の反応力と認識力によって、モックの裏切りを瞬時に理解し、対応してしまった。彼女の目に宿る光は、寄る辺を失った幼い子供のものではない。いかにして生存をつかむかという確固たる意思である。

 

 この表情ではペッジョは満足できないだろう。この少女を屈服させるには骨を折りそうだと、モックは経験から予測することができた。余計な手間が増えたことに舌打ちする。

 

「その場から一歩も動くな」

 

 少女の体は固まっている。忙しなく左右する視線の動きから、どうやって現状を乗り切るか必死に考えを巡らせているのだとわかる。しかし、良案が浮かばないことは明らかだ。その証拠に少女は何の行動も取れずにいる。

 

「右手を見せろ」

 

 少女は右手を隠すように後ろへ回していた。先ほどモックが矢を射かけた箇所だ。そのとき、手を大きく負傷していることは確認していた。

 

 少女は少しばかり躊躇していたが、モックがクロスボウの先で早くしろと促すとしぶしぶ手を前に出す。そこに傷はなかった。最初から何の攻撃も受けていないかのように、無傷である。

 

 だが、確かに攻撃は当たったはずだ。何かの小細工で回避したようには見えなかった。首の致命傷も同様に“治っている”。

 

 そのとき、少女の足元へと何かが近づいているのが見えた。あの奇妙な姿をした蟲だ。赤い宝石のような装甲を纏った蟲は、少女が手を挙げたタイミングで近づいてきている。手の方に注意を向かせた隙に呼び戻す腹づもりか。しかし、それに気づかないモックではない。

 

 クロスボウを再度発射し、赤い蟲を弾き飛ばした。その攻撃を見越していたかのように、少女が駆け出す。一直線にこちらへ向かってくる。逃走が目的ではない。その目はモックを見据えていた。

 

 クロスボウを撃った今、モックには隙がある。次の矢を発射するまでの間に距離を詰める気だ。もし、それよりも発射準備が早く終わったとしても撃てる矢はせいぜい一発。一撃くらいなら受け止められると思っているのだろう。たとえ常人なら致命傷となるほどの負傷も、彼女であればどうにかできるかもしれない。

 

「動くなと言ったはずだが?」

 

 モックはクロスボウの弦を引かず、近くにあった火かき棒を手に取る。ストーブの整備に使うただの金属棒も、人を殺すには十分な武器となる。距離を詰めようとする少女に対し、むしろモックの方から一歩踏み込んだ。

 

 『周』で強化された火かき棒が横薙ぎに少女の腕を打った。腕の骨を潰し、肋骨を数本まとめてへし折る手ごたえを感じる。成人男性が鉄パイプをフルスイングしてもここまでの威力は出ないだろう。それをモックは手首のスナップだけで実現した。

 

 少女はバランスを崩し、踏みとどまるが、倒れなかった。痛みに泣きわめき、もがき苦しんでもおかしくないほどの重傷を抱えたまま前に進もうとしている。

 

 そこにモックの追撃が入った。火かき棒の一振りで、少女の細い首が花の茎のように折れ曲がる。頸椎離断。誰が見ても死ぬとわかる致命傷に加え、さらに胸部へ向けて金属棒を突き入れた。豆腐に箸を入れるように何の抵抗もなく、胸の中心、心臓を正確に貫いている。火かき棒を無造作に抜き取ると、血が噴き出し辺りを赤く染めた。

 

「教授ナイスゥゥゥ……じゃなくて! あっさり殺しすぎぃ!? まだ写真が撮れてな……あれ?」

 

 初めこそ派手に噴き出していた出血も、既に止まっていた。胸の傷口はふさがり、折れた首も変形した腕も元通りになっている。やはり、傷が回復している。

 

「これがこの子の能力っすか? とんでもない回復力……ってことは強化系?」

 

「強化系の回復は自己治癒力を強化するのがせいぜいだ。これは時間を巻き戻すように再生している。別次元だな。特質系かもしれん」

 

 あまりにも非常識で驚異的な能力だ。まるでファンタジーに登場する吸血鬼のような再生力。もしここに念法使いとしての実力が備わっていたと想像すればぞっとする。モックもペッジョも、白兵戦に長けた能力者ではない。為すすべもなく殺されていたかもしれない。

 

 しかし現実において、少女は危機を回避できなかった。それができるなら、ここまで追い詰められる前にモックたちの方がやられていただろう。モック程度の能力者でもやすやすとあしらえる相手。つまり、素人だった。

 

 彼女の纏うオーラは一般人同様に垂れ流されていた。これは演技ではなかったらしい。彼女の精孔は閉じていた。正確には開きかけた状態だったのかもしれない。モックが放った念弾を目視したように見えたが、それは気配を感じ取ったに過ぎなかった。

 

 そしてモックのオーラが込められた攻撃を受けた今、彼女の精孔は完全に開いていた。非念能力者は、念能力者からオーラをぶつけられることで精孔が強制的に開かれる。これにより念に目覚めることができるがあまり良い方法ではない。なぜなら、生命の維持に必要なエネルギーであるオーラを一度に放出してしまうためである。

 

 『纏』ができなければオーラの消耗は止められない。少女の体からは大量のオーラが漏れ出ていた。それを見て彼女自身、動揺している。自分の身に何が起きているのか理解できていない様子だった。

 

 精孔が開かれていないのに『発』を習得していることは不自然だが、全くあり得ないことではない。才能ある者は念の存在を知らないにも関わらず、無意識のうちに『発』を開花させる場合もある。

 

 彼女は念法使いではないが、自分が持つ能力をある程度把握し、使いこなしていた。どれほどのことができるのか確認しておかなければならない。

 

「これからいくつかの質問をする。正直に答えろ」

 

 自分が使える特別な力について、少女に説明を求めた。最初は何も言わず口をつぐんでいたが、モックが火かき棒を振り上げると慌てて話し始める。

 

「きず、なおせる」

 

「それはもう見た。その他にもう一つ、能力を使えるようだな」

 

 蟲を操っていた能力である。モックが手加減なしでオーラを込めた矢が二発も直撃しておきながら、破壊できなかった赤い蟲。当然、その行方については警戒を怠っていなかった。今もこちらの動向を探りながら物陰をこそこそと移動している。その虫はオーラをまとっており、少女の方へとパスでつながっていた。これは典型的な操作系能力の兆候である。

 

 手ごたえからして念獣がもてる頑丈さではない。実体をもった本物の虫と思われる。その動きはかなり遅く、近づいてきたとしても対処は容易だろう。しかし、念のため動きは封じておくことにする。

 

「ペッジョ、そこの棚に特殊繊維でできた網が入っている。それをあの蟲にかぶせてこい。くれぐれも直接触るなよ」

 

「えー! ちょっとおれっち今いそがし」

 

「やれ」

 

「はい!」

 

 おらー! 逃げんなー! と無駄に気合をいれながらペッジョが蟲に向かっていく。あれでも一応、四大行を修めた念能力者だ。身体能力は一般人を凌駕している。さすがに遅れを取ることはないだろう。

 

「答えてもらおうか。あの蟲は何だ?」

 

「……」

 

 少女は黙秘した。モックが火かき棒を構えても、今度は何も喋る様子がない。

 

「そうか、ならば仕方ない」

 

 モックは少女の眼孔に棒を突き刺した。うめき声を意に介せず、そのまま奥へと刺し入れる。たまらず身体をのけぞらせた少女に対し、折檻するように何度も棒で打ち据えた。一撃の重さは尋常でなく、骨を折り、肉片を飛び散らせるほどの連打が続く。

 

 棒を振るいながらモックは少女の能力を考察する。彼女の系統はおそらく特質系だが、操作系能力も習得しているようだ。この二つの系統は相性が良いとはいえ、基本的に念能力者が覚えられる発は一人一能力であることが多い。精孔も開いていない段階で二つの発に目覚めた例など聞いたことがない。

 

 しかし、操作系能力を使えるということについて納得のいく点もあった。シロツバメが不自然に懐いていたことだ。動物に好かれやすいオーラを持つ人間というものは存在するが、さすがに野生動物が自分からすり寄ってくるレベルになれば異常である。それも警戒心が著しく高いあの鳥が人間の体にとまるなど考えられない。

 

 操作系能力は、何らかの媒介を通じて対象を操る。それについても見当はついていた。少女の体から漂ってくる匂いだ。

 

 最初に出会ったときから、爽やかな花に似た匂いを感じ取っていた。香水でもつけているのかと思ったが、着る物にも困っているような状況で香水だけ身につけていたとは考えにくい。

 

 不思議と気をそそられるような、何とも言えない香りだった。彼女の雰囲気をミステリアスにしている一因と言える。自然と目が惹きつけられ、そちらを注視してしまう。これが操作系能力の媒介物として鳥や虫に影響を及ぼしているのだろう。

 

 それでも戦闘に入る前はそれほど気になる匂いではなかったのだが、モックが攻撃を仕掛けたあたりから、急激にこの匂いが強まった。今ではむせかえるほど鼻につく。良香も度が過ぎれば悪臭と同じである。その強烈な臭いにモックは顔をしかめていた。

 

 これは少女の体から出るオーラを匂い成分に変化させているものと思われる。もしこれが変化系能力の応用だとすれば、操作系と併用するだけでも高い難易度を要求される能力になるだろう。どのようにしてこのような能力を習得するに至ったのか定かではないが、回復力も含めて異常な体質と言える。

 

 モック自身、操作系能力者であり、動物を操作対象として操る能力者を何人か見てきた。特別な香を用いて凶暴な動物を従える能力者の話など、彼女と似た例も聞いたことがある。だが、彼らに対しては嫌悪しか抱かない。

 

 特に野生動物をその生態を一向に顧みず、自分の都合だけで従わせる者には反吐が出る。ありのまま、自然のまま、その生物の生き方と環境を尊重するべきだと思っている。その意味で言えば、この少女はモックが最も嫌うタイプの人間であった。

 

 自然と、少女に振るう暴力は増していく。亀のようにうずくまった少女を情け容赦なく、一方的に殴打し続ける。

 

 

「ちょっと教授うう! おれっちのいないところで一人だけお楽しみはやめてくれよおおお!?」

 

 

 ペッジョの声を聞いてはっと我に返った。内臓破裂して絶命してもおかしくないほどの威力の攻撃を少女は受け止め続けていた。それでもまだしぶとく生きている。

 

 モックは自分の精神に乱れがあることに気づく。オーラの制御も、注意力も散漫になっている。いつもの彼ならいくら嫌いな人間だろうと、怒りに任せて我を忘れ、暴力に駆られるような未熟さは表に出さない。

 

 血の臭いの代わりに充満する少女の芳香がひどく気に障った。まるで彼の精神の奥底から、普段は収めている悪心を引きずり出されるように感じた。凶暴性だけではなく、様々な欲望が静かに湧き起こってくる。

 

 少女が持つ能力は他に類を見ないほど貴重なものだ。優れた容姿、人を魅了する香り、傷を瞬く間に治す再生力、小動物を使い魔のように操る能力、これで人間の生き血を啜るようならまさに吸血鬼だ。そのような触れこみで闇のオークションにでもかければ巨万の富が動くだろう。

 

 別に金が欲しいわけではないが、これを組織に引き渡せば大きな功績となる。毎度毎度、煩わしい注文ばかりつけてくる組織の連中を黙らせることができるだろう。誰に口を出されることもない安息の日々が待っている。

 

 少女をここで殺すのは惜しいと思い始めていた。

 

 

 * * *

 

 

 万策尽きた。もう何も、打てる手立てはない。

 

 ボロ雑巾のように痛めつけられた少女の体は回復こそするが、それには私の生命力が必要となる。底の抜けたバケツのように少女は生命力を消費した。

 

 虫の本体は網に捕まってしまった。食い千切ろうにも、肝心の脚がからまっている箇所に牙が届かない。もがけばもがくほど絡まり、身動きが取れなくなる。しかし、間もなく足掻く気力すらなくなった。

 

 生命力が減り過ぎている。もう自分の中ではとっくに底をついた感覚があるのに、限界を超えて少女の方へと吸い取られていく。意識を保つだけで精いっぱいだった。気を抜けばすぐにでも気絶しているだろう。

 

 消耗が大きくなるにつれて少女の回復力も落ちている。男たちはそれに合わせて拷問の手を緩め始めたが、喜ぶことはできなかった。死ぬまでの時間が引き延ばされただけに過ぎない。

 

 彼らは私に質問した。どこから、どうやって、何の目的でこの島に来たのか、能力のことについて、赤い虫はどこで手に入れたのか。答えられない質問がほとんどだ。わからないと正直に答えても攻撃される。何かまだ武器を隠し持っているのではないかと疑われたのか服を脱げとも言われた。這いつくばって許しを乞えと、みっともなく命乞いをしろとも言われた。それらの要求におとなしく従えども、待遇は何も変わらない。

 

 やがて、質問はされなくなった。その代わりに一つだけ要求される。

 

『絶望した顔を見せろ』

 

 このまま嬲り殺しにされるのだと思った。痛めつけ、苦しめた上で殺すことが目的なのだと思ったが、だんだんと不可解な点が見えてくる。彼らは別に拷問を楽しんでいるわけではなかった。むしろ、早く終わらせたいと思っている節すら垣間見えた。『絶望しろ』という要求は、単なる趣味嗜好の問題ではなくそれ以上の意味があるような気がした。

 

「いいかげんにしろ!」

 

 モックが怒鳴り声をあげる。だが、その声は私に向けられたものではなかった。手にしていた金属の棒で、カメラを構え撮影していた男を殴りつける。

 

「あだああっ!? ちょっ、教授、なんで……」

 

「なぜ能力を発動させない!? いつまでこんなくだらん茶番に付き合わせる気だ!」

 

 もともとそれほど仲が良さそうな雰囲気ではなかったが、ついに仲間割れを始めた。反撃を仕掛けるならこれ以上の好機はないだろう。しかし、もはや私の体は指一本、動かせる力も残っていなかった。

 

「おれっちだって『最高の一枚(ベストショット)』が撮りたいさ! でも、写真家としてのこだわりってもんがある! この子は間違いなく最高の被写体だ。ファインダー越しに眺めただけで、インスピレーションが湧き出てくる……! このものすげー情熱を作品として残すためには、一切の妥協も許されないんだ! わかってくれよ教授ぅ……」

 

「付き合いきれん……後は自分で勝手にやれ」

 

 そう言うと、モックはその場を離れた。私にとって彼は超人だった。大人と子供という身体能力の差を超えた、人としてありえないほどの凄まじい力を持っている。この少女の体も常識はずれだが、彼の力もまた常軌を逸していた。

 

 しかし、椅子に深く腰掛け、体を休める男の姿は年相応の老人に見えた。額には玉の汗をかき、肩を上下させ息をしている。何もかも常人とはかけ離れた体力の持ち主というわけではないようだ。

 

 それでも、こちらを警戒する視線と矢をつがえたクロスボウだけは片時も放す気配がない。何もしても無駄なのだと、嫌というほど認識させられる。

 

「なあ、お嬢ちゃん。おれっちは君の写真が撮りたいだけなんだ。ほんとはさ、こんなことしたくないんだよ? こんなハードな撮影はおれっちも初めてさ。いいか、人間には堪えられない苦痛ってもんがある。精神的な凌辱って実は大したことがないんだ。レイプされたり、家族で殺し合わせたりさぁ……そういうのって意外と堪えるんだなこれが。長期的に見ればダメージでかいんだろうけど、心を閉ざすっていうのかな。精神をシャットダウンしてショックを打ち消しちゃうんだよね。やっぱり一番は“痛み”だ。自分の肉体に刻みつけられる痛み。これを堪えられる奴はそうそういない」

 

 男は早口で語り始めた。内容は一割も理解できない。意識は既に朦朧としていた。床の上に横たわっているはずだが、感覚だけが離脱して泥の中に沈み込んでいくように錯覚する。男は少女の腹に金属棒を突き立て、シチュー鍋をかき混ぜるようにぐりぐりと動かす。鍋はこぽこぽと煮立ち、具が溢れだす。どれだけ意識が混濁しようと、痛みだけは鮮烈に脳を焼き、生命力をもぎ取っていく。

 

「今、どんな気分だ? 辛いだろ? 痛いよなぁ……その感情を表現してくれ! 難しいことは考えなくていい! 純粋な苦痛を! 死の間際に見せる命の輝きを! 思ったままの感情を表情にしてくれ! 頼む! このまま君を死なせるわけにはいかないんだ! 頼む頼む頼むううぅぅ……」

 

 泣きそうな声を出しながら男は懇願してくる。絶望なら既にしていた。これ以上、何を求められたところで出せるものはない。私に何をさせたいのか、男の意図が理解できない。

 

「わからない? そうかぁ……なら、こうしよう!」

 

 男はぶつぶつと独り言をつぶやきながら頭を掻き毟っている。やがて、どこからともなく一枚の写真を取り出した。

 

「『現像(ポップ・ザ・アート)』」

 

 写真の中からずるりと何かが飛び出した。明らかに写真の枠には収まらない大きさの物体が出現する。それは人間だった。拘束具に手足を縛られ、猿轡をはめられた男だ。

 

「こいつはなかなか素晴らしい被写体だった……拷問の最中にうっかり精孔が開いちゃってね。まあ、よくあることなんだけど、念の才能があったのか死ぬ前に『纏』を覚えた。念能力者は身体が頑丈だから拷問のし甲斐があるんだ。そこで! おれっちはナイスアイデアを閃いた。特別製の毒を取り寄せたのさ。ギンピーギンピーっていう植物のパウダーでね、何の毒か知らないけどすごく痛いらしい。これを数回に渡って全身の皮膚に揉みこんで、一晩寝かせれば完成さ!」

 

 ペッジョは写真から出てきた男の髪を掴むと、こちらに見せつけるように引き上げる。男は瞬きもせず目を見開いていた。だが、その視線は焦点が定まっていない。血走った目をぎょろぎょろと動かすのみだ。汗が噴き出した顔面は紅潮し、血管が浮き出ていた。轡の奥から石臼を回すような掠れた声を発している。

 

「見てよこの顔! 傑作ぅ! これだよこれぇ! こういうのを頼むよぉ! あ、しらける演技だけはやめてくれよ! これを参考にしつつ、君なりの絶望を見せてくれ!」

 

 狂っているとしか思えない。この男も、研究者の老人も、人知を超えた現象が飛び交うこの空間そのものも、何もかも理解できなかった。それともこれが当たり前の“人間の姿”だとでも言うのか。

 

 仮にここでペッジョという男が納得する表情を作ったとしても、その先にある未来が明るいものとは到底思えない。きっと、私も写真から出てきた男のような末路をたどることになるのだろう。

 

 それならここで死んだ方がマシではないのか。彼らはどうしても私を生かしたまま絶望させたいらしい。ならば、その期待をへし折って無表情のまま死んでやる。それが私にできる最後の抵抗ではないか。

 

「何をしている」

 

 私が決心を固めていると、それまで静観していたモックが口を挟んできた。彼は私を睨みつけている。私の内心を悟られたのだろうか。どこまでも勘の鋭い男だ。

 

「その手は何だ? 今、何をした」

 

 だが、どうも様子がおかしい。その指摘の意味がわからない。私の手がどうかしたというのか。

 

「ペッジョ、そいつの右手を見ろ。不審な動きがあった」

 

「え? 右手?」

 

 右手も何も、体は少しの身じろぎもできないほど疲弊している。何かわずかな行動を取る余裕すら残されていなかった。

 

「あー、何か血で文字を書いてるみたいっす。えっと……『救え』?」

 

「仲間に助けを求めた、わけではないと思うが」

 

 ぼやけていく意識を必死につなぎとめる。何か今、重要なことが起きている気がした。

 

 奴らの話からすると、私は右手で床に血文字を書いた。私が意識して書いたものではない。そして、それは『救え』という文字だった。

 

「神にでも救いを求めたか? 諦めろ、これが現実だ」

 

 私の意思で取った行動ではなかった。体が勝手に動いたとしか思えない。この体が、何かのメッセージを発したのではないか。

 

 この少女について、私はわかっていないことの方が多い。自分の体のように扱ってきたが、意思を持たぬ人形だと断言することはできなかった。

 

 『救え』とは何を意味するのか。彼女自身が私に対して訴えているのか。こんな状況に陥った責任は私にある。責めたくなる気持ちもわかるが、もはやどうすることもできない。

 

 だが、そこで諦めることはできなかった。ほんの小さな変化だが、何かが確実に動いているような感覚がある。死を待つのみだった心が、揺れ動く。

 

 おそらく『救え』とは私に対して向けられたメッセージだ。しかし、その対象は誰だ。思考を止めてはならない。この場にいる者を列挙する。

 

 私、少女、モック、ペッジョ、写真の男……。

 

 ぴくりと指が動いた。今度は私も認識することができた。正解を指し示すように、指がかすかに反応する。

 

 救う対象は『写真の男』だ。もちろん、その理由はわからない。自分が今にも死にそうなこの状況で、なぜ見ず知らずの他人を助けなければならないのか。

 

 だが、今はその根拠を追究している時間はない。どうせ死ぬことしかできない状況だったのだ。ならば、この変化に身を任せてみよう。

 

 男を救うと決める。その思いに応えるように、手が動いた。腹の底から少しずつ、生命力が滲み出てくる。私が送り込んだ力ではない。少女自身の体から、生命力が生まれている。これまでになかった反応だった。

 

「……まだ動けるのか……なんてしぶとさだ。化物か……」

 

 手を床につき、体を起こす。だが、まだ立ち上がれない。力が足りない。もっと生命力が要る。

 

 誰かを救うことが少女の望みだと言うのなら、それを否定するつもりはない。彼女は私の半身である。今の私にできることはただ、その願いに沿うことだけだ。それでいいのなら、いくらでも思ってやる。

 

 

「すくえ……!」

 

 

 その瞬間、腹の中に何かが生じた。

 

 下腹部に異物が入った。自分ではない誰かがそこに生まれた。

 

 何も考えられなくなる。自我がバラバラに切り刻まれ、どろどろに溶かされて誰かと一つになっていく。

 

 

「あが……がっ……!」

 

 

 これが痛みだと言うのなら、私がこれまでに感じてきた苦痛は何ほどのこともない。体から黒い蒸気が噴き出した。目の前が真っ黒に塗りつぶされていく。

 

 

「あああああああ……!!」

 

 

 悪に、呑まれる。

 

 

「『最高の一枚(ベストショット)』!!」

 

 

 光が瞬いた。フラッシュに照らされた私の体はハサミで切り取られるように背景と分断され、吸い込まれるようにカメラのレンズへと消えていった。

 

 



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34話

 

 ようやく緊張の糸が解ける。モックは深く息をつき、武器を置いた。

 

 最後の最後で少女に変化が現れたように見えたが、何かされる前にペッジョの能力が発動し、彼女はフィルムの中へと閉じ込められた。こうなってしまえば何者も抗う手段はない。ペッジョがフィルムから写真を念写し、それを『現像(ポップ・ザ・アート)』で呼び出さない限り、外に出ることはできないのだ。

 

「やった……最高傑作だぁ……くひっ、くひひひひひ! この一枚は、一生の家宝にするよぉ……」

 

 薬でもキメたかのような据わった目つきで、ペッジョが薄ら笑いを浮かべながらカメラを大事そうに撫でている。

 

「おい、わかっているだろうが、それは組織に引き渡す予定の品だ。自分のものにしようなどと、余計な気を起こすんじゃないぞ」

 

「わ、わかってるよぉ。もちろんオリジナルは組織に渡すよ。おれっちは念写した写真を焼き増しすることもできるのさ。そっちは『現像』できないけど」

 

 言葉ではそう言っているが、未練が残っていることは明らかな態度だった。ここまで苦労させられておいて手柄を無しにされたのではたまったものではない。モックは組織に任務完了の一報を入れるため、携帯電話を取り出した。

 

「……ん?」

 

 不在着信:200件

 新着メール:900件

 

 一瞬、何かの故障かと思った。確認してみると、送信先不明の着信とメールが大量に届いている。メールは全て文字化けしており、内容は読み取れなかった。

 

 こんなときに何事だと舌打ちするが、調べるのは後だ。組織の連絡係へと電話をかける。使うのは一般回線で盗聴される恐れもあるが、会話は全て暗号で行われるため問題ない。連絡係も組織との関係を隠した、モックと同じような立ち回りの人間である。

 

「もしもし、私だが……」

 

 数秒の呼び出し音の後、電話の向こうから聞こえてきたのは、がやがやと小うるさい雑踏の音だ。相手の声は聞こえない。

 

「もしもし?」

 

 呼びかけても返事はなかった。次第に、聞こえてくる音がただの日常音ではないことに気づく。小さな金属が擦り合わさるような音が無数に重なっている。大量の虫がうぞうぞと這いまわるような音にも聞こえた。

 

「何が起きている」

 

 よく耳を澄ませば、無数の雑音の中に、かすかな人の声のようなものが聞こえる気がした。幼い少女の声が聞こえる。『あなたはだれ?』と、おびただしい数の声がする。

 

 モックは電話を切った。連絡係が襲撃された可能性を考え、他の連絡先に電話するが、どこにもつながらない。いや、つながりはするが、全て先ほどと同じ雑音しか聞きとれない。

 

(外部との通信手段を断たれた……?)

 

 同じタイミングで全ての連絡先が襲撃されているとは考えにくい。つまり、モックたちがいるこの場所に通信妨害を仕掛けられた可能性が高い。問題は誰がそれを行っているのかということだ。

 

 先ほど、電話先から聞こえた少女の声は、さっきまでモックらが戦っていたモノと似ているような気がした。

 

 しかし、その考えを否定する。一度発動したペッジョの能力から逃れることは不可能だ。被写体は撮影された時間のまま固定され、保存される。それがルールであるはず。

 

 いずれにしても、危機が迫っていることに変わりはない。何者かが攻撃を仕掛けてきていることは事実である。モックは緩んでいた気を引き締め直した。

 

 だが、その老体にかかる負荷は先ほどまでとは段違いに重く感じる。疲労のせいだ。彼も年を取り、念能力者としての全盛期は過ぎた身である。さらに少女の拷問に必要以上のオーラを使ってしまったため、余剰オーラは心もとない量しか残っていなかった。このまま敵の正体もつかめず、いつ終わるともわからない戦いを続けられる自信はない。

 

 さらにペッジョという荷物を護衛する必要もあった。いつにも増して舌打ちを抑えられない。今もまだのんきにカメラを撫でまわしている愚鈍な相棒に向かって声をかけた。

 

「ペッジョ、立て。すぐにここを出るぞ」

 

「なあ、教授ぅ」

 

「早くしろ。敵襲の恐れがある」

 

「なんか、おれっちのカメラがおかしいんだけど……」

 

 ペッジョが持つカメラに、赤い結晶のようなものが刺さっていた。

 

「馬鹿かっ! 今すぐそれを捨てろ!」

 

 モックの大声に驚いたペッジョは取り落とすようにカメラを手放した。カメラについた異物は、針がついた球状をしておりサボテンのような形に見える。

 

「どこから攻撃を受けた」

 

「い、いや、わからない。勝手にカメラから生えてきたんだ!」

 

 ただの植物がカメラから数秒の内に生えてくるわけがない。十中八九、念能力による攻撃だと思われる。少女の仲間か、あるいは彼女を利用している者が他におり、島に侵入していたのかもしれない。

 

 部屋を見渡すと、少女が先ほどまで使役していた赤い蟲にも変化が起きていた。その蟲は丸ごと結晶サボテンの中に取り込まれてしまっている。まるで琥珀に閉じ込められた蟻だった。

 

 何を条件としてこの能力が働いているのか不明である以上、うかつに行動できなかった。とにかく、この部屋から一度外へ出た方がいいと判断する。

 

「お、おれっちのカメラ……」

 

 ペッジョがふらふらと落としたカメラに近づこうとしている。いまだに自分たちが置かれた現状を理解していないその様子に、モックの堪忍袋は切れそうになるが、今は怒鳴るより先に避難する方が賢明だ。

 

「具現化を解除できないのか?」

 

「できないよぉ。なんでだぁ……?」

 

「……カメラの回収は後でもできる。今はそれよりも早くここを」

 

「いやだぁ! おれっちぐっ、かか、かめら、大事な、作品、思い出、いっぱいあっ、あっ」

 

 モックはクロスボウを構えた。その矢を向けた先にあるペッジョの体が、ぼこぼこと形を変え始めている。服の下から赤いサボテンが顔をのぞかせた。

 

「いっ、いだいよおお!! ごれすごくいだいいい! いたいのに、きぼぢいいんだよおおおおお!!」

 

 ペッジョが振り向いた。その表情は、

 

 

「きょうじゅ、とって。おでっぢのかお。かめらで、とって」

 

 

 悪態の一つも返している暇はなかった。サボテンが急激に成長する。ペッジョの体は押し潰されるように飲み込まれた。それでも成長は止まらず、どんどん大きくなる。

 

 モックは取るものもとりあえず玄関から外へと飛び出した。岩棚の隙間に作った住居がみしみしと軋みを上げる。壁を破壊してサボテンが外へ姿を現すまで、そう時間はかからなかった。

 

 赤い宝石のように輝く多肉植物。あるものは丸々と膨れ上がり、あるものは発芽し、そこからまた新たなサボテンを実らせる。鉢の中に収まる大きさならば趣のある自然の造形美も、見上げるほどの高さにまで増殖したそれはこの世のものとは思えない怪物のようにしか見えなかった。

 

「これが念能力か……!?」

 

 断じてあり得ない。どの系統に属するとか、どれだけ重い誓約をつけたのだとか、もはやそんな次元の話で扱える能力ではない。人間にできることではなかった。

 

 やがてサボテンは花を咲かせ始めた。つぼみが開き、その中心から何かが発射される。飛来物は近くに生えていた木の幹にめり込んでいた。銃弾ほどの威力がある小さなつぶてであった。花から飛び出てきたことを考えれば種だろうか。着弾した場所から小さなサボテンが生えている。当たれば傷を負う程度の被害では済まされそうにない。

 

 花はモックがいる場所に照準を合わせて咲き誇っている。だが避けること自体は難しくなかった。種は花が向いている方向にしか発射されない。しかし、その間もサボテンの成長は衰える様子を見せず、増殖して数珠つなぎに連結したサボテンも同様に成長するため拡大する一方だ。

 

 一度咲いた花は一方向にしか種を飛ばさないが、機関銃のように絶え間なく弾を吐き出し続ける。底をつく気配はない。このままのペースで成長が続けば花の数もすぐに数十、数百を超え、弾幕のように種の雨を降らせるだろう。身を隠さなければ避けきれなくなる。そしてその種から生まれた小さなサボテンもいつ急成長を始めるかわからない。

 

 モックは歯ぎしりした。これは念能力の産物と言うより、そのような生態を持つ一つの生物であるとしか考えられない。こんな危険生物という言葉では片づけられないほどの植物の存在など聞いたこともなかった。もしそれが事実であれば、この島は外来生物による深刻な環境破壊を起こしていることになる。

 

 彼にとって、この島は自分の命と同じかそれ以上の価値がある。このまま自分だけ島の外へ逃れることなどできない。かと言って、巨大サボテンを前に彼個人の力でできることはないに等しかった。自慢のクロスボウが毛ほどの役にも立たないだろうことは試すまでもなく明白だった。

 

 もはや島の外へ救助を要請しに行くしかない。国よりもハンター協会に連絡した方がいい。すぐにでも危険生物ハンターなどの専門家を招集してくれるだろう。だが、それをすれば組織を完全に敵に回すことになる。この島には誰も上陸させてはならない契約だ。

 

 これほど大規模な災害の処理となるとハンターだけでできることではない。集まる人間の数は計り知れなかった。そして、災害の収束後は原因究明のために島は隅から隅まで調べ尽くされることになる。隠し倉庫の存在は必ず暴きだされるだろう。

 

 倉庫番としての責務を放棄してでも島を救うか、それとも自分の命と安全を取るか。その決断に迷いはなかった。

 

 ここは、もう二度と出会うことはできないと諦めかけていた生涯の目標を、再び彼と引き合わせた特別な場所だ。彼にはこの島を守る義務がある。それはマフィアとの薄汚れた契約によるものではない。確固たる彼の意思として、十数年に渡りこの地を守り抜いてきた。

 

 たとえ組織から殺されることになろうとも、鳥たちの命を最優先に行動すると決める。どのみち、この植物がこのまま巨大化を続ければ、ここはただの辺鄙な島ではいられなくなる。何もしなくても多くの者の目にさらされることになるだろう。もはや自分の居城を名乗り、誰も寄せ付けずに突っぱねることはできなくなる。

 

 そうと決まればすぐにでも島を出なければならない。携帯電話は使い物にならない。通信できないどころか、常時気味の悪いノイズを垂れ流し続け、ホーム画面すら意味不明の文字列で埋め尽くされている。近場の港町まで直接ボートで向かう必要があった。

 

 町に到着して、救助を要請し、そして人員が派遣されるまでどれだけ早くとも半日近くはかかるだろう。その間に島がまるごと赤いサボテンで埋め尽くされる可能性は十分にあった。一刻の猶予も残されていない。種の弾丸に注意し、すぐさまこの場所から離脱を図る。

 

 しかし、そのとき彼は目が合った。

 

 いつからそこにいたのかわからない。雪原の数十メートル先に、ぽつんと立っている。

 

 それは揺れ動き、ねじ曲がる、歪な不定形の鎧を身に纏っている。小さな背丈の、辛うじて人とわかる形をしたもの。

 

 金属の光沢を持った赤い鎧は、しかし風に吹かれる炎のように揺らめいた。剥がれては集う結晶の中に、銀色の輝きが混ざり合う。

 

 モックは、この少女に対して何度“あり得ない”という評価を下したことだろう。彼女が全ての元凶であることを悟った。最初からこの植物をどこかに隠し持っていたのだろう。それを操作し、爆発的に成長させたのだと考える。

 

 彼女にとってもこの力は好んで使いたいものではなかったのかもしれない。もし簡単に使えるならもっと早く手札を切っていたはずだ。正真正銘、最後の手段。どれだけの被害が周囲に及ぶか、その影響はまさに身をもって体験しているところだ。モックたちは、その切り札を使わざるを得ない状況にまで少女を追い込んでしまった。

 

 だが、もしその予測が正しければ、まだ打つ手が残されている。この少女が植物を操っているというのなら、彼女を倒すことで植物の成長を止められるかもしれない。止まらないかもしれないが、可能性はある。試してみる価値はあるだろう。モックはクロスボウを少女に向けた。

 

 その瞬間、モックと少女の距離は1メートルにまで縮んだ。

 

 何が起きたのか、わからなかった。よそ見などするわけがない。むしろ、全神経を集中させて敵の姿を捉えていた。にもかかわらず、かすかな影の動きが辛うじて見えたに過ぎなかった。

 

 そこには接近を許したという事実があるのみだ。彼女の到着に遅れて、一陣の風が吹き抜けた。雪の上に足跡はない。一足、一挙動で数十メートルの距離を詰めたのか。

 

 クロスボウを持つ手は震えていた。この距離なら矢を外すことはないだろう。撃てば当たる。だが、引き金にかけた指は動かない。臓腑の底から冷え切る感覚に襲われているというのに、体中の水分が丸ごと搾り出されたかのような汗をかいていた。

 

 少女は先ほどと変わらず、その場にたたずんでいるだけだ。互いが手を伸ばせば触れ合うほどの距離にいるが、何もしてこない。敵意すら感じることもできない。

 

 だが、モックは彼女の体から発せられるオーラの量と、その練度に圧倒されていた。ついさっき精孔が開き、オーラが尽きかけていた者とは思えない。別人である。

 

 モックは念能力者としてそれほど高い戦闘能力をもっているわけではない。だが、それは念の修行と鳥の研究を両立させているためであり、ハンターとしての資質は上位にあると言っていい。でなければ一ツ星(シングル)の称号は与えられていない。

 

 格上の敵との戦闘は何度も経験している。実力の差は知恵と技術で補い、勝利を収めた戦いも多い。老熟し、力は衰えたが技術は研磨されている。単純な能力差が勝敗を決するわけではないということを知っていた。特に念能力者同士の戦いはそうだ。

 

 だが、その経験則をこの少女に当てはめることはできなかった。それほどの差がある。マフィアが差し向けた殺し屋に抹殺されかけた時でさえ、ここまでの動揺はなかった。

 

 まだ『練』は使っていない。オーラは恐ろしく自然に少女の体を薄く取り巻いている。しかし、そのオーラの練り込み方が尋常ではなかった。まるで一本の糸から織り上げた衣服のごとく、緻密に編みあげられた『纏』が全身を包み込んでいる。

 

 それだけでも人間技ではない。武術の達人が一生を投じてもたどり着けるか否かという極致の精密さ。だが、そのオーラの薄布は一枚にとどまらず、幾重にも折り重なるように多層構造をなしていた。まるで『纏』が重複しているようにも見える。

 

 人間とは思えなかった。これが人間であるはずがない。

 

 彼女には敵意がない。そんなものは必要ないのだ。例えば人間が虫けらを踏みつぶす時に、殺意を抱く必要があるだろうか。何の気なしに足を踏み出したとき、無意識に足を置いたその場所に虫がいたとしたら。

 

 例えばその虫が決死の覚悟で戦いを挑んだとして、あるいは降伏し助命を求めたとして、その行為にどれほどの意味があるというのだろうか。

 

 

「くそったれがああああアアアアアアア――!!」

 

 

 モックの腹が弾けた。わかるのは、何らかの攻撃を受けたということだけだった。クロスボウの矢があらぬ方向へと発射される。滾る血を吐き、髭を濡らす。

 

 身体が崩れ落ちるよりも前に、出血は止まり傷口は塞がった。細切れになって吹き飛んだ臓器の代わりに、その穴は赤い結晶で埋められている。忌まわしき多肉植物が、彼を蝕んだ。

 

 壮絶な痛みに襲われる。彼は若い頃、ジャングルで鳥の生態調査していた際に毒蛇に噛まれたことがあった。そのとき覚えた種類の痛みだった。血中を速やかに伝わり、体内から細胞を破壊していく壊死性毒。無数の針を一本一本丁寧に植えつけられていくように被害が広がっていく。

 

 以前は死に至る前に血清の投与が間に合ったことで一命を取り留めた。だが、今回はどう足掻いたところで無駄だとわかる。毒のレベルが違う。蛇の毒とは似て非なるものだ。腹部を中心に、全身がミキサーにかけられ挽肉にされていくような感覚だった。

 

 もう間もなく死ぬと確信できる。なのに、その予想が実現することはなかった。

 

 モックの体に、かつてないほどの生命力がみなぎっていた。これまでの戦闘で体内に残された潜在オーラ量はそれほど残っていないはずだった。にもかかわらず、まるで滾々と湧き出る泉のようにオーラが生産されている。

 

 そして同時に、感覚は鋭敏化し異常な興奮状態に陥っていく。植物やキノコに見られる幻覚毒に似た神経作用だ。躁と鬱とが恐ろしい速度で切り替わり、神経が擦り切れていく。

 

 肉体の損傷は回復し、オーラは無尽蔵に溢れ出た。しかし、毒の効果がなくなるわけではない。再生と破壊、躁と鬱とが終わることなく繰り返される。人間の許容量を遥かに超えた苦しみが、強制的に流し込まれる。死ぬことも、意識を失うことすら許されない。

 

 赤い植物は、彼の体から生じるオーラを養分として成長した。ペッジョと同じようにサボテンの怪物へと変貌していく。彼が最も嫌悪する環境の破壊者へとなり下がる。

 

 全力で抵抗した。もはや人の形を為さない身体に何度も止まれと命令する。だが、その身体はすでに彼のものではない。サボテンは苗床から養分を搾り取り、花を咲かせて種子を撒く。種が一粒発射されるごとに、魂の一部をむしり取られるような喪失感が走った。そしてその魂は補充され、際限なく搾取され続ける。削り取られ、継ぎ足される。

 

 彼の元の肉体はサボテンの根元に取り込まれている。外の様子がどうなっているのか窺い知ることはできない。そのはずなのに、彼の耳は声を捉えた。大勢の野卑た男の声、けたたましく鳴り響く木々の伐採音、排気ガスを撒き散らしながら土を踏み固める重機の音、ここがどれだけ尊く美しい場所なのか理解しようともしない、薄汚い密猟者どもの笑い声。

 

 それは数十年前に見た光景だった。開発と称して根こそぎ森を破壊していく密猟者たちの蛮行を、彼は見ていることしかできなかった。草陰に身を潜め、膝を丸めてうずくまり、微動だにすることもできず、壊れていく森を見ていた。

 

 幻覚と幻聴に囚われる。しかし、もはや彼に正常な判断力は残されていない。彼の歪んだ人間性を形成する契機となった、忘れがたき過去の妄念に侵食される。

 

 そして、目の前に小さな白い塊が落ちてきた。震える手で拾い上げる。命の潰えた小さな亡骸。人生を捧げて愛した鳥。

 

『お前のせいだ』

 

『お前が殺した』

 

 鳥たちの言葉が聞こえた。彼は必死に否定する。そんなつもりはなかった。まさか自分の研究が、密猟者たちを呼び寄せるとは思わなかった。そんな言い訳が通用するはずもない。鳥たちの声は、彼自身が作り出した罪の意識に他ならないのだから。

 

 慟哭し、掻き毟り、五体投地して許しを請えども、鳥たちの糾弾は永遠に終わることがなかった。

 

 

 * * *

 

 

 モックの隠れ家は暗く透き通った赤色に飲み込まれていた。植物のようにも、無機質な結晶のようにも見える物質で覆い尽くされている。

 

 その内部には空洞があった。一人の男がうずくまっている。その異常な空間において、男は生きていた。手足を拘束され、身動きもできずに横たわっている。ペッジョの写真から現れた男だった。

 

 少女は男を見下ろしていた。手刀を走らせれば、男の拘束が一太刀で解かれる。しかし、自由になったところでその男が何か行動を取ることはなかった。虚ろな目をしたまま、轡を解かれた口は、蚊の鳴くような声で独り言をつぶやいている。

 

 少女がもう一度、手刀を放った。男の首が胴から切り離される。

 

 彼女はその男を救いたかったのではないのか。そのためにこれほどの力を発揮したのではないのか。結局、全員殺してしまった。物言わぬ躯と化した男の姿は見るに堪えず、私は目をそらす。その拒絶に応じるようにモニターの映像は途絶えた。

 

 私は少女が取った行動の一部始終を、このモニターを通して見ていた。ペッジョやモックが、わけのわからない存在に作り変えられてしまったところも見ている。どうやら、このモニターは少女の視界をそのまま映し出しているらしい。

 

 私は見知らぬ場所にいた。コンサートホールのように大きな部屋だ。床も壁も鉄板で作られている。窓は無く、ろくな照明も見当たらず、ところどころ壁に設置された赤いランプがぼんやりと周辺を照らしている。机の上には何台もの古めかしい箱型のパソコンが置かれていた。私が先ほどまで見ていたモニターも、その一つだ。

 

 私の体は少女になっていた。本体の姿はどこにもなく、つながりを感じることはできない。写真から出てきた男を救うと決意した直後、この体に異常が現れた。それがどういうことなのか理解できないまま、気づけばこの場所にいたのだ。ペッジョが私に向けてカメラのフラッシュを放ち、視界が晴れたときは既にこの部屋に立っていた。

 

 おそらく、あのカメラは撮影した人間を吸い込む機能があるのではないかと思う。写真の男も同様にして囚えられていたのだろう。めちゃくちゃな話だが、私が持つ一般常識がそれほど役に立たないことはわかっているため、あり得ないとは言い切れない。

 

 だとすれば、ここはカメラの中の世界なのか。あのモニターに映し出されていた光景は何だったのか。ただの私の妄想で、現実はペッジョもモックも健在なのだろうか。

 

 モニターの映像が衝撃的だったため、つい見入ってしまったが、そろそろここから出ることを考えた方がいい。出られるかどうか不明だが、その努力はすべきだろう。いつまでもこんなところにいたくはない。

 

 赤黒いランプで照らされた部屋は不気味なもので溢れかえっていた。床や壁に、楕円型のカプセルのようなものが貼り付いている。触ると簡単に壊れ、中から半固体状の何かがどろどろと流れ出た。何かの卵のように見えるが、生きている気配を感じるものは一つもない。

 

 部屋の奥を目指して歩いていく。足元はわずかに揺れていた。ゆらり、ゆらりと一定の感覚で左右に揺れる。床ごと動いているようだ。もしかすると、ここは水上を漂う船の中なのかもしれない。

 

 しばらく歩くと扉が見えた。ここを通れば出口、と楽に事が運べばいいが、それほど簡単に脱出できるとは思えない。とりあえず、扉を開ける。

 

 

「やあ、こんにちは」

 

 

 何かが、いた。

 

 少しだけ開いたドアの隙間からこちらを覗き込んでいる。最初からそこに立っていて、扉が開くのを待ち構えていたとしか思えない。

 

 それは私と全く同じ容姿をした少女だった。まるで鏡に映った自分に話しかけられたかのように非現実的な感覚に、冷たい何かが背筋を通り抜けた。

 

 思わず後ずさり、来た道を引き返したくなる。だが、後ろを振り返るとそこは見たこともない小部屋になっていた。さっきまでの広い部屋ではなくなっている。袋小路に追い込まれたかのように、いつの間にか逃げ場のない狭い部屋に閉じ込められていた。

 

「良かったらここ、開けてもらえないかな」

 

 少女がドアの隙間を指さす。ドアはチェーンロックでつながれていた。チェーンを外さない限り、これ以上ドアは開かない。どうやら少女は強引に中へ入ってくるつもりはないようだ。少しだけ冷静さを取り戻す。

 

「……そう、ならそのままでいい。ちょっと話がしたかっただけだから。ところで、俺が送ったメッセージは役に立っただろう?」

 

 メッセージ。特に脈絡もない単語を聞いて考え込む。

 

「『救え』って血文字で書いて伝えてあげたじゃないか。そのアドバイスに従って、お前は見事にこの身体の力を引き出し、卑劣なハンターたちをやっつけた」

 

 あのモニターで見たものは全て現実に起こったことだと少女は言う。なら、今私がいるこの場所は何なのか。ここはどこで、目の前の少女は何者なのか。

 

「ここはお前の夢の中で、俺はその夢の一部に過ぎない。心配しなくても、目が覚めればいつも通りの日常が待っているさ」

 

 嘘だ。夢の中の妄想が、現実に少女の身体を動かして血文字のメッセージを残すなんてことできるわけがない。

 

「いちいち細かいことを気にする奴だな。夢なんだからそのくらいの矛盾が生じてもおかしくないだろ」

 

 少女は私を煙に巻こうとしている。これ以上、追及しても答えてくれそうにない。

 

「そんなことより大事なのはお前に与えられた力のことさ。もう使い方はわかったな? 誰かを救う、そう思うだけでいい。自分ひとりでは使えない力だ。そして、救う対象はお前が救いたいと思える者でなければならない」

 

 使い方よりも先に、その力の正体を教えてほしい。

 

「正体? そんなこと気にする必要はない。誰かを救う、その意思に理由が必要か? あえて言葉にするなら、この世で最も気高く、尊い自己犠牲の精神さ。お前は蟻としてではなく、人間として生きたいと思っている。だったら、これ以上人間らしい精神があるだろうか」

 

 白々しいことばかりにしか聞こえない。そもそもさっきモニターで見たことが全て事実だとすれば、この少女がやったことはただの虐殺だ。誰も救えていない。

 

「救ったさ。毒に苦しみ殺してくれと懇願した男に、死という慈悲を与えてやった。自由を与え、その上で選択を委ねたんだ。死にたければ勝手に死ねばいいところ、わざわざこちらが手を汚してまで苦しみから解放してやった」

 

 そんなものはただの独善だ。殺しの言い訳がしたいだけにしか思えない。

 

「じゃあ聞くが、お前があの男にするべきだったと思う救いとは何だ? あのままそこに放置すれば良かったとでも? 死を願うほどの苦しみに耐え続けて生きろと? それとも病院まで連れていくか? 苦しい闘病生活を二人三脚、手を取り合って支えていくとでも言う気か?」

 

 極論が過ぎる。だが、実際問題としてどこまで相手に肩入れするかという線引きは作らなければならない。もし、私があの場にいたとしたら、男を放置しただろう。悪いが、何が何でも助けたいと思うほど情を寄せる相手ではないし、今の私に面倒をみる余裕はない。命は助かったのだから、できることはそこまでだ。どんなに譲歩したところで、町まで連れていって救急車を呼んでやるくらいのことしかできない。

 

 それは私が考える救いであって、彼が本当に救われるかとは別の問題だ。もし彼が心の底から死を望んでいたのだとしたら、それを無視することが救いと呼べるのか。殺しに手を染めたくないという自分の都合ではないのか。

 

「難しく考えるな。誰にだってできることとできないことがある。重要なのは、自分にできることを最大限にやり遂げることだ。お前にはその力がある。普通の人間には決してできない、お前だけの特別な力だ。救済の名のもとに、お前は無敵のヒーローに変身できる」

 

 なぜそこまで救うことにこだわる。救うためにしかこの力は使えない。どういう経緯でこの力は生まれ、そして私はそれを使うことができるのか。

 

「なぜだとか、どうしてだとか、それを知って何になるんだ。そんなものはチート能力をくれる神様と一緒さ。二話目を読み進めるころには頭の片隅にも残ってない。大切なことは、力を得たという事実だけだ。モックを倒したとき、お前はどんな気分だった? あのイカれたジジイのどてっ腹を貫いて、見るも無残な姿に変えてやったとき、最高にスカッとしたはずだ。奴らは悪だった。そして、弱きを助け強きをくじくお前は善だ。悪には罪を、罪には罰を。勧善懲悪の体現者が正義の鉄槌を振り下ろす。それが力を得た意味だ」

 

 何かを答えているようで、その実何も答えていない。少女の言葉を聞いているだけで、心がざわざわと落ちつかなくなる。

 

「まあ、今回は確かに後味の悪いシナリオだった……だが、次はうまくいく。ああ、うまくいくとも」

 

 私と会話をする気などない。全て彼女の中で完結している。それを一方的に話してくるだけだ。なるほど、彼女が私の作り出した妄想に過ぎないのだとしたら、具体的なことは最初から何も知らず、単に話せないだけなのかもしれない。

 

 ただ力を肯定し殺人を合理化しようとする、私の深層心理が生み出した、幼稚な正義感の擬人化。

 

 だが、それでも最後に一つだけ聞きたかった。ここが私の夢の中で、少女がその一部に過ぎないというのなら。

 

 その夢を見ている私は誰だ。

 

 

「お前は『王』。その役割を与えられ、この地獄から唯一生まれることを許された」

 

 

 どうせまともな答えなんて返ってこないと諦めていた私の耳に飛び込んできた言葉。その真意を問いただそうとしたとき、扉の向こう側がにわかに騒がしくなる。

 

「喋りすぎたか。女王様がお怒りだ」

 

 廊下の向こうから複数の人影が現れた。どれも皆、同じ顔、同じ体。私と同じ姿をした少女たちがぞろぞろと押し寄せてくる。

 

 扉を閉めた。この部屋に明かりはない。扉の外から入っていたわずかな光も断たれ、何も見えない暗闇だけが残る。

 

「逃げても無駄だ。たとえ俺を否定しようと結果は変わらない。お前は力を得た。一度手に入れてしまえば、いつかそれに頼らざるを得なくなる。必ず、この場所に戻ってくる」

 

 大勢の足音が近づいてくる。鍵を閉めた扉の前で、息を殺して嵐が過ぎ去るのを待つ。

 

「じゃ、またね」

 

 その声を最後に、何も聞こえなくなった。立ち消えるように音が止む。何も見えず、何も聞こえず、ただ暗く狭い小部屋の中で一人になった。

 

 

 * * *

 

 

 鳥のさえずりが聞こえる。目を開けると、スズメが目の前をちょこちょこ歩いて通る姿が見えた。

 

 少女の体に異常はない。裸で雪の上に寝ていたためかなり寒いが、凍え死ぬほどではなかった。凍傷のようなダメージは自動的に回復しているのだと思う。

 

 この場所は間違いなく現実だ。すぐ近くには虫本体もいた。私の意識が戻ると同時に本体も目を覚ましている。私は無事に帰ってくることができたらしい。

 

 さっきまで私が見ていた場所は果たして何だったのか。カメラの中の世界か、それともただの夢だったのか。いずれにしても明らかなことがある。

 

 巨大な赤いオブジェが二つあった。球状のサボテンのような塊がいくつもつながって樹齢千年は越えていそうな大樹のごとく地面から生えている。だが質感は植物というより鉱物の結晶のように硬く輝いていた。

 

 記憶が正しければ、これはモックとペッジョだ。やはり私が夢を見ている間に起きたことは現実だった。少女は私の制御を離れ、恐るべき力で敵を完封した。

 

 急激な成長を見せた赤い植物は、今のところ停止している。弾丸のように種を発射していた花も沈黙している。これがまだ生きているのか、死んでいるのかわからないが、元の人間の姿には戻せるとは思えない。

 

 この力に助けられたことは確かだ。そうでなければ殺されていた。だが、手放しに喜べない恐ろしさがある。これまで大した疑問も持たずに少女の体を操ってきたが、今回の一件で、私は本当に何もわかっていなかったのだと実感する。

 

 不安はあった。だが、それでもこの少女と離れ離れになることはできない。距離が開くほどに生命力を消費するという問題もあるが、もっと精神的な理由で私はこの少女に依存している。人間としての生を求めて、そして生きるための力を求めて。

 

 モックたちが何の目的で私を狙っていたのかわからないが、これから先、奴らのような不思議な力の持ち主と敵対しないとは言い切れない。生きるためには強さが必要だ。

 

 だが、これからはこの少女と自分が使える力についてもっとよく考える必要があるだろう。特に、あの『救済の力』はもう使いたくない。使えば使うほどに後戻りができなくなる。そんな気がする。

 

 この力については調べてみようと思う。そのためには島から出なければならない。ここに留まったままでは得られる情報はない。安易に人に尋ねられる案件ではないが、町に行けば情報を集める手段も見つかるだろう。

 

 世間的に見れば、この島で三人の行方不明者が発生していることになる。立派な事件だ。そして私はその事件の当事者であり、不可抗力であったとはいえ実行犯でもある。逃げた方が得策だろう。警察機関に保護してもらった方が安全だなんて楽観は、とてもではないができない。

 

 逃げると決まれば早い方がいい。まずは服を着なければならない。拷問の際に脱いだ服は、モックの隠れ家にある。しかし、その場所はサボテンで埋め尽くされてしまっている。確かこの中には空洞があって、写真から出てきた男の死体もそこにあるはずだが、どこにも入り口らしき穴は見当たらなかった。諦めて、これまで生活していた山小屋に替えの服を取りに行く。

 

 服を着た後は、船着き場へ向かった。これまで一週間あまりこの島で暮らし、色々な場所を歩きまわって来たが、他の人間と出会ったのは今日が初めてだ。もしかするとモックたちは今しがた船でこの島にやって来たのではないかという予感があった。ならば、この島に一か所しかない船着き場に船が泊っているはずだ。

 

 どうか予想通りあってくれと願いながら海辺に到着すると、そこには確かに船があった。これで島から出られる。喜び勇んで乗り込んだ。

 

 見たところ、エンジンの動力でスクリューを回して進むようだ。もちろん運転の仕方なんてわからないので、試行錯誤しながら何とかするしかない。天候が荒れない限り、素人でも運転は可能だろう。自動車でいきなり道路を走れと言われるよりマシな気がする。

 

 島の中央にある山の山頂から見たとき、晴れた日は水平線の先に少しだけ陸地らしき影が見えた。ひとまず、その方向を目指して進もう。燃料が入った缶もあるし、多少操縦に手間取っても大丈夫だと思う。たぶん……。

 

 とりあえず、エンジンをかけるにはどうしたらいいか、そこが問題だ。

 

 





イラストを描いていただきました!

鬼豆腐様より

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エンジンの前で悩む主人公とカトライ。こういうifの未来もいいですね。


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アイチューバー編
35話


 

 ボートの操縦に苦戦したものの、何とか陸地にたどりつくことができた。まっすぐ陸地を目指していたはずだが、だいぶ蛇行していたらしく、予定していたよりも時間がかかった。何にしても燃料が尽きる前に上陸できて助かった。ボートは海辺に乗り捨てて行く。

 

 着ているものは、色あせた埃臭いセーターとマフラー、ごわごわのズボン、穴のあいた長靴。どれもサイズが大きくて動きづらい。虫本体は前と同じく服の下に隠しているので、背中が不格好に盛り上がっているが、長い髪とマフラーで隠れるためそれほど目立たないだろう。

 

 山小屋に備蓄されていた服だ。モックが着ていた服だと思うと少し抵抗感もあるが、物は物でしかない。戦利品だと思って遠慮なく使うことにする。あれだけのことをされて手に入れた物がこの服だけというのは悲しいが……。

 

 天気はだいたい曇り、ときどき雪が降る。雪が降っている時間は短いが、晴れ間がなく気温が上がらないので積雪は溶けない。しばらく人気のない原野を歩いていくと、道路に出た。交通量はまばらだが、車も走っている。

 

 初め、道の近くを歩くのは怖かった。モックやペッジョのことが頭に浮かぶ。今の私の姿なら、ただの人間の子供にしか見えないはずだと思うが、その私の常識がどこまで通用するかわからない。もしかしたら、あの島で出遭った人間たちのようにいきなり襲いかかってくるのではないかという恐怖がある。なるだけ見つからないように道が続く方向へと進んだ。

 

 しかし、私の不安は杞憂だった。このまま隠れ続けていたのでは島にいた頃と何も変わらないと思い、道の先で見つけた町に意を決して踏み込んでみたが、そこで暮らす人々は私の記憶にある通りのただの人間だった。不思議な力を使うわけでもない、ごく普通の人間だ。

 

 むしろ、こそこそと隠れていた方が余計に目立つため、堂々と町中を歩いた。それでも物珍しそうにキョロキョロと辺りを見回していたのが目に入ったのか、よく声をかけられた。うまく答えられなかったが、嫌な顔をされることはなかった。

 

 犬の散歩をしている人と出くわしたときが大変だった。なぜかどの犬も、私の方へ尻尾を振りながら猛スピードで走り寄ってくるのだ。リードを持つ飼い主も一緒に引きつれてくる。懐かれているようなので邪険にもできず、引き離すのに一苦労した。特に大型犬は厄介だ。力が強い上に、顔をべろべろ舐めようとしてくる。取っ組みあってレスリングをしているかのような状態になった。

 

 子供たちのはしゃぐ声が聞こえた。声がする方を覗いてみると、小学生か中学生くらいの少年たちが空き地に集まって遊んでいた。私の身体も彼らと年齢はそう変わらないように見える。同年代と言っていいのかわからないが、その年ごろの子供たちがどういう遊びをしているのか気になった。

 

 どうやら雪合戦をしているようだ。適当に雪玉を投げ合っているわけではなく、明確なルールのもと試合形式で二つのチームが戦っている。コートが設置され、雪玉を防ぐ雪の防壁まで作られている。子供の遊びというより歴としたスポーツだ。意外に見応えがあってしばらく観戦していた。

 

「あら、どうしたのそんなところで」

 

 建物の陰からこっそり試合を見ていたところ、背後から声をかけられた。びっくりして振り返ると、買い物袋を手に提げた中年女性がいた。

 

「もしかして仲間はずれにされているの? まあ、なんてこと。おばさんに任せなさい」

 

 そう言うとこちらの返答を待たず、私は手を引かれて空き地の少年たちの方へと連れていかれてしまう。

 

「あなたたち、みんなで仲良く遊ばなくちゃだめでしょう! この子も仲間に入れてあげなさい」

 

 そう言っておばさんは立ち去って行った。それまで楽しそうに遊んでいた子供たちは突然のことに皆、ぽかんとしている。試合も中断され、微妙な雰囲気になってしまった。

 

「お前、雪合戦に交ざりたいのか?」

 

 片方のチームリーダーらしき少年に問われる。もちろん、断ろうとした。彼らはこのスポーツの経験者としてしっかりした形のある試合を行っている。そこに部外者の素人が入ったところで面白くはないだろう。

 

 だがその思考に反して、私は即座に雪合戦への参加を断ることができなかった。もしかして、私は彼らと遊びたいと思っているのだろうか。自分の気持ちであるはずなのに、はっきりした答えを出せない。

 

「どっちなんだよ」

 

 リーダーの少しイラついた態度を見て、思わず首を縦に振ってしまった。

 

「試合、したことあるのか?」

 

 首を横に振る。

 

「……ルールは知ってるよな?」

 

 首を横に振ると、露骨にため息をつかれた。

 

「わかった。じゃあ、取りあえず俺たちのチームに入ってもらうか」

 

「おいマジかよ! そいつ女だろ!」

 

「そう言うなって。最初のセットは補欠だ。それを見て、動き方をしっかり覚えるんだ。ホレス、ルールを教えてやってくれ」

 

「えっ!? 俺が……?」

 

 私は補欠要員として迎え入れられた。一試合に出られるチームの人数は7名までのようだ。私以外にも補欠は何人かおり、審判をしたり次の試合で使う雪玉を作ったりしている。ホレスという少年もその一人のようだ。

 

 この雪玉、なんと試合中に作って補給してはいけないらしい。各チーム1セット90球と決められている。1セットは3分で、先に2セット先取したチームの勝ちである。90球なんてあっという間に投げ尽くされてしまうので、雪玉はいくら作っても足りないようだ。私もホレスからルールを教わりながら雪玉作りを手伝う。

 

 ホレスは地面にコートの全体図を描いて説明してくれた。

 

【挿絵表示】

 

 

 雪玉に当たった選手はコートの外に出なければならない。そうやって敵の人数を減らしていき、全滅させたチームの勝ちだ。また、全滅させずとも敵陣の奥にあるフラッグを抜き取れば勝ちとなる。時間切れとなった時は、その時点で残っている選手が多いチームの勝利だ。

 

 私が参加した段階で、試合は2セット目に突入していた。こちらのチームは1セット先取しており、このセットを取れば勝利が決定する。敵チームが勝てば、勝敗は3セット目まで持ち越されることになるだろう。

 

 心なしか、さっきまでの試合と違って選手たちに力みが見られる気がする。試合中にもかかわらず、何だか私の方をちらちら見てくる人が多い。そんなに部外者の存在が気になるのだろうか。よそ見していたせいか、こちらのチームの選手が一人脱落した。

 

「あーあ、何やってんだよ。まあ、気持ちはわからなくもないけど……」

 

 結局、このセットは負けてしまった。次は、いよいよ私の出番である。緊張はあるが、しっかりとルールは頭に叩きこめたつもりだ。心地よい緊張感のもと、チーム一同がコートのバックラインに並ぶ。私に与えられたゼッケンの番号は『6』のバックス。

 

 コートは自陣と敵陣に分けられ、その境界線を『センターライン』と呼ぶ。そして各陣営の後方にもう一つあるラインが『バックライン』だ。試合開始時、このバックラインより後ろの雪壁(シャトー)に90球の雪玉が設置される。

 

 最初から雪玉を持った状態で行動できるわけではない。いかにして玉を補給するかという点も重要な戦術となってくる。この補給を任せられるのが3名の『バックス』という役割だ。

 

 7名のうちゼッケン1から4までの4名は『フォワード』となる。彼らはコートに設置されたいくつかの雪壁(シェルター)に身を潜め、敵の攻撃をかわしながら相手コートの奥を目指して進んでいく。

 

 相手よりも先んじて敵陣に食い込むように、前方のシェルターを確保することが勝負の要だ。お互いの攻撃の射程圏がぶつかり合う前線をどれだけ相手側に押し込められるかが、フォワードの腕の見せ所である。

 

 ただし、むやみやたらに前へ攻めればいいというものではない。後方のシェルターから前方のシェルターへ移動する際に大きな隙ができるし、前線が前に出るほど玉の補給源であるシャトーから遠ざかるため補給も難しくなる。うっかり人数を減らせば、相手チームの反撃を受けることになるだろう。

 

 フォワードとバックスの連携なくして勝利はない。たかが雪合戦と侮るなかれ、非常に高度な戦術が要求されるのだ。そして試合前に私に出された指示は『適当にやっていいよ』だった。どうやら初めから戦力としてカウントされていないようだ。

 

 試合開始のホイッスルが鳴ると同時に、チームの全員が一斉に持ち場へ駆け出した。まずは、バックスが玉を持ち出さなければ始まらない。フォワードはバックラインより後ろに下がってはならないというルールがあるため、玉の補給は必ずバックスが行わなければならない。

 

 私以外のバックス2名が慣れた手つきで玉を抱えていく。試合開始の互いにイーブンな状態から初手の補給を早く行えば、それだけ早く前線を抑え込めるためここがバックスの踏ん張りどころでもある。相手チームからの妨害を受けずに補給が行えるので、ここはとにかく多く、早く玉を運ぶ必要がある。

 

 3人で、まるでバーゲンセールに群がる主婦のごとく雪玉をかき集めていくが、力が入りすぎたのか私が握った玉はぼろぼろ崩れてしまった。焦る。

 

 そうしているうちに残りの二人が収拾を切り上げて走り出した。量を取れば時間がかかり、速さを取れば運べる玉数が減る。そのあたりのさじ加減も戦況から見極めなければならない。私は焦るあまり、腕に抱えていた雪玉まで押しつぶしてしまった。さらに焦る。

 

 そこでひらめく。手で持とうとするからいけないのだ。私は着ているセーターを巻くり上げ、ポケットを作ってそこに雪玉を入れた。これなら壊れないし、たくさん運べる。他のバックスに遅れながらも、私はようやくシェルターへ向け走り出した。

 

「ぶっ!? 前! 前、見えてんぞ!」

 

 チームメイトの全員が私の方を見ていた。そのうちフォワードの二名はシェルターの前で立ち上がってこちらを凝視していたため、後頭部に雪玉を被弾してアウトとなった。

 

 ピピー!

 

「反則! 反則!」

 

 審判のホレスが顔を赤くしながらこちらに走ってくる。セーターを使って雪玉を運ぼうとしたのがいけなかったらしい。落ちついて考えれば、道具を使ってしまったのだから反則になって当然だ。冷静さが足りなかった。

 

 本当ならアウトとなり退場させられるところ、初心者のミスということもあって警告1回の温情措置で済んだ。だが、その代わりフォワード2名のアウトは取り消されなかった。

 

「今のは無しだって! だって、見るじゃん! あんなもん見るしかないじゃん!」

 

「いや、さすがにフォローしきれねぇ……色んな意味でアウトだよ」

 

「お前らだって見てただろ!?」

 

 私のミスでチームメイトが犠牲になってしまった。申し訳なさがこみ上げてくるが、当の選手2名は気さくに笑いながら退場していった。そのとき、こちらに親指を立てながら「グッジョブ!」と言ってくれた。その彼らの気遣いに応えるためにも、残りの試合は全力で挽回しなければならない。

 

 試合開始から数十秒しか経っていないというのに、これで戦況は5対7。圧倒的にこちらの不利だ。数の差は戦力の差に直結する。私は戦力の勘定に入っていないので、実質4対7と思われていることだろう。

 

 ファワードが半減した今、前線を強引に進めることは下策だ。リーダーはすぐにチームのフォーメーションを、自陣に敵を引きこむ迎撃型へと変更した。

 

 思った通り、敵は攻めてきた。数の差でごり押す気だ。こちらが全滅されずともフラッグを奪われれば負けとなる。自陣に敵を引きこむ作戦は守りに強いが旗も奪われやすくなる諸刃の刃だ。しかも、数で負けている以上、迎撃戦はさらに過酷なものとなる。

 

 ここはひたすら堪え凌ぎ、敵が功を焦って隙を見せるまで待つしかない。一人でも数を減らすことができれば、まだ逆転のチャンスはある。

 

 こちらのチームはフォワードの穴を埋めるべく、バックスの一人が前線へと回った。前線を食い止める人員がいなければ一気に攻め込まれてしまう。私も、せめて増えた負担の分くらいは補給役として頑張らなければ。

 

「アパム! 玉持って来い、アパム!」

 

 最前線を抑えるリーダーがバックスに声をかけた。

 

 玉をフォワードに補給する方法は主に二つある。一つは手で抱えて直接届ける方法だ。一度に多くの玉が運べるが、当然隙も大きい。補給源に戻る際にも危険がつきまとう。もう一つは地面を転がして渡す方法。移動によって身を晒すことがないので比較的安全に届けられるが、一球一球の受け渡しに手間がかかる。

 

 この場所は専用に作られたコートではなく、空き地を利用しているだけだ。むき出しの地面は細かな凹凸が多く、玉を真っすぐ転がすだけでもなかなか難しい。力加減が弱すぎるとフォワードのところまで届かないし、強すぎると転がっているうちに玉が壊れることもある。

 

 バックスの役目はこれらの方法を使い分け、いかに安全に、素早く、必要な数の玉をフォワードのところまで届けるかにかかっている。フォワードがいる場所はシェルターの陰だ。自陣に敷かれたシェルターは二つある。前方を第一シェルター、後方を第二シェルターと呼ぶ。

 

 最終防衛ラインは第二シェルターだが、実質的には第一シェルターを落とされるとフラッグが丸見えになるため形勢逆転は難しくなる。現在、配置されているフォワードは第一シェルターに2名、第二シェルターにバックス1名。この3人で前線を維持している。

 

 補給専任のバックスは私ともう一人の2名である。そのアパムと呼ばれた少年は、補給源の近くにある第二シェルターには手渡しで、遠くにある第一シェルターには転がして玉を渡していた。

 

 そのせいで第二シェルターへの供給は十分だが、第一シェルターは玉が不足してきている。かと言って玉を抱えて持っていけば、敵の猛攻にさらされる最前線であるため格好の的になってしまう。私のせいで試合開始の初動がもたつき、補給が遅れたことも痛手だった。

 

 敵もこちらの玉が尽きるおおよその予測はついているだろう。頃合いを見計らって本格的な攻勢に打って出るに違いない。その前に補給が間に合わなければこちらの人数はさらに減り、前線が復帰不可能なほど押し込まれる。

 

「アパム! 早くしろ! もうダメだ! アパーーーーム!!」

 

 リーダーが大げさに声をあげている。しかし、これは演技だった。まだしばらくは玉に余裕がある。あえて窮地に陥っていると見せかけることで敵をあぶり出す作戦か。しかし、敵はそれを悟ってかどっしりと構え、動かない。

 

 敵はまだセンターラインを越えて攻め込んでくる様子がなかった。堅実に今の前線を維持し、万全の態勢を整えた上で攻め時を見計らっている。数で勝る敵側が焦る必要はないのだ。このまま膠着状態が続けばこちらのジリ貧は必至である。私は大量の雪玉を抱え、第一シェルターへ向かって走り出した。

 

「ちょっ!? 今、前に出たらまずいって……!」

 

 危険覚悟の突破補給。当然、敵の目にとまる。補給が成功すれば抗戦は長引くため、敵もこちらが初心者だからと言って手加減はなかった。複数の敵フォワードが私目がけて一斉に玉を投げてくる。

 

 集中する。

 

 玉の動きが遅くなった。スポーツ用語で言うところの『ゾーン』に似た状態だろうか。一時的に脳の処理速度が向上し、時間の流れが遅くなったかのような感覚。モックと戦った際に経験した感覚だった。あの後、なぜか私はこのゾーンを意図的に引き出せるようになった。

 

 本来のゾーンは最高のパフォーマンスを維持できるごく限られた精神状態を指す。一切の雑念を排した極限の集中状態は、トップアスリートでもおいそれと引き出せるものではない。精神とは常に揺れ動く波のごとく、ささいな刺激でさえストレスとなって波紋のように内心で変化を起こす。完全にコントロールする術などなく、むしろ掌握しようとすればするほどに遠ざかっていくものだ。

 

 だからアスリートは日々のトレーニングの中で少しずつ精神状態をゾーンに近づけていき、最高点と競技日程が重なるように調整している。それでも本番当日に期待した成果を発揮できる保証はない。そもそも精神という観測困難で不確かなものを計画的に向上させていくことからして難しい。

 

 私の集中状態はおそらくゾーンとは異なるのだろうが、それに似た状態をただ集中するだけで引き出せるという体質は破格だ。日常生活を送る上では必要ない感覚だが、今のような状況でこそ活用すべき能力だろう。

 

 迫りくる雪玉の軌道を読み、ゆっくりと避ける。実際は全力で避けているのだが、感覚だけが明瞭に先行しているため、自分の身体もゆっくりとしか動いていないように見える。それでも以前よりだいぶ速く動けるようになった。モック戦を経てから、この身体の運動能力もかなり向上している。

 

 別に身体が成長したとか筋肉がついたとかいうことはないのだが、目に見えて力が強くなった。どうやらこの力の強さは生命力と関係しているらしい。以前よりも私の生命力とこの身体が馴染んでいる気がする。負傷した状態でなければ、それほど生命力を消費しなくなった。それに、ぼんやりとしか感じ取ることができなかった生命力をはっきりと目で見ることができるようになった。

 

 私の身体を薄く覆うように、生命力の膜ができている。この膜そのものに実体はなく、現実に物理的な影響をもたらすものではないようだ。私だけではなく、他の人間も同じように生命力を持っている。ただ、私の場合は膜のように身体を覆っているが、他の人間は湯気のように身体から少しずつ発散しているように見えた。

 

「すげぇ! 全部避けやがった!」

 

 逸れていた思考をもどす。雪玉の回避に成功し、第一シェルターにたどり着くことができた。実際に避けてみるまで確証は持てなかったが、モックの矢に比べれば、このくらいなら余裕をもってかわせるようだ。

 

「やるな、お前! よし、あと1回補給しに行って来てくれ!」

 

 リーダーは私の動きを見て、2回目の補給も可能と判断したようだ。指示に従い、バックラインの方へと戻る。そのとき追撃の雪玉が飛んできたが、走りながら後ろを向いて回避した。

 

 補給源に戻り、急いで雪玉を抱え込む。だが、握る力が強すぎていくつか玉を握りつぶしてしまった。力が強くなったのはいいが、そのせいで力加減がわからずに制御できない面も出てきた。これはコントロールできるように後で練習する必要があるだろう。

 

 私の補給が成功したのを見て、もう一人の補給役であったアパムは第二シェルターの増援に回っていた。これで前線を抑える守り手は4名。十分に対抗できる。

 

 しかし、玉をかき集めていた私の耳に、悲痛な叫び声が届いた。審判のホイッスルが鳴る。リーダーと共に第一シェルターを守っていたフォワードの一人が被弾してしまったようだ。だが、彼はしっかりとシェルターに身を隠しているように見えた。敵はどうやってアウトを取ったのか。

 

 考えられる可能性は一つ。曲投である。玉を高く放り投げることで、シェルターの裏側を狙ったのだ。

 

 だが、言うほど容易いことではない。多少弓なりに曲がった程度の軌道では、壁の裏側にぴったりと潜む選手には当たらない。フライのように高く揚げ過ぎると狙いをつけるのが難しく、そして避けられやすい。それでも直球と織り交ぜることで牽制としては有効な手段だが、仕留めるとなれば話は別だ。

 

「くそっ、ピザの野郎……良いコントロールしてやがる」

 

 敵チームのリーダー、ピザ(本名ではなくあだ名)による攻撃だったらしい。これでこちらのチームの残りは4名となった。そして敵は依然として7名。開きかけていた勝利への道筋が再度閉ざされる。

 

 そこに追い打ちをかけるように、ついに敵が攻勢に打って出た。フォワードの3人がこちらのコートに入ってくる。右から1人、左から2人の強襲だ。3人のうち誰か1人が犠牲になっても、敵チームの人数有利は揺るがない。対して、こちらの第一シェルターの守り手はリーダーが1人いるのみだ。強行突破で落としにきた。

 

 そのとき、私は大量の雪玉を抱えて第一シェルターへ向かう途中だった。両手がふさがった状態で敵の1人と正面から対峙してしまう。状況判断を見誤った、というより敵は私がのこのこと近づいてくるタイミングで強襲を仕掛けてきたのだろう。

 

「もらったああ!!」

 

 私に狙いを定めた敵は、ピザと呼ばれる敵チームのリーダーだ。不健康そうな肥満体形にも関わらず、俊敏な動きで迫る。その投球精度の高さは先ほど見せつけられた。見かけによらず油断できる相手ではない。

 

 私は即座に抱えていた雪玉を捨てた。数個を腕に残して邪魔な枷を放棄する。ピザの投球が迫っていた。半身をひねり、かわす。そして反撃の雪玉を投げる。

 

「ば、馬鹿な……『単騎のピザ』と謳われたこの俺が、一騎討ちで負けた、だと……!」

 

 アウトを取った。崩れ落ちるピザ。雪玉が当たっただけなので怪我はないはずだが、倒れ伏して動かなくなる。が、今はそれよりも攻めてきた残り2人のフォワードに集中すべきだ。

 

 挟み撃ちを計画していた敵フォワードは、ピザが倒されることを想定していなかったらしく若干の動揺を見せていた。その隙に、露出した敵目がけてリーダーと私が玉を投げ込む。しかし、敵も簡単にアウトを取らせてはくれず、迅速な撤退によって逃げ切られてしまった。

 

 その場にまだ寝転がっていたピザが敵チームの補欠選手によってコート外へ引きずられていく。戦況は仕切り直された。そこに審判の声が飛んでくる。

 

「あと30秒!」

 

 そこで私は今頃になって試合時間が3分しかないことを思い出した。もうそれだけの時間が経ったのか。あっという間の出来事に感じる。

 

 ここに来て、敵は守りに入った。時間切れとなった場合、残っている人数が多いチームの勝利となる。こちらは1人アウトを取ったがそれでも4対6の劣勢に変わりはない。敵が盤石の守りを固めている砦に攻め込むしかなかった。

 

 しかも、最悪なことに雪玉がほとんど残っていなかった。私が半分近く壊してしまったためだ。ピザとの戦いの際、ありったけの雪玉を抱えていたのがまずかった。戦況に応じて、もっと適切な行動を取るべきだった。

 

「もうこうなったら一か八か、旗を取るしかねぇ」

 

 フラッグの奪取が成功すれば人数差に関係なく勝利となるが、問題は突破しなければならない障害の多さだ。敵チームはセンターラインの中央に設置されたセンターシェルターを抑えている。無論、その先の本陣も守りが固められた状況だ。このまま突撃を敢行したところで自殺行為にしかならない。

 

 だが、他に勝つための方法が残されていないことも事実だった。リーダーの決断に異を唱える気はない。

 

「残った4人、全員で突っ込むぞ。敵のコートには同時に3人までしか入れないルールだが、どうせセンターシェルターを4人そろって突破なんてできないだろうからそこは気にしなくていい」

 

 となると、私の役目は少しでも敵の気を引きつけ、他の選手が突撃しやすいように動くことだろう。回避には自信がある。

 

「いいか、俺たちがセンターシェルターを抑える。その隙に、お前はフラッグを目指して走れ」

 

 だが、リーダーが私に出した指示は全く逆の立ち回りだった。初めての試合で任される大役に、思わず首を横に振る。

 

「こんな状況になっちまったが、別に俺は勝ちを諦めたわけじゃない。お前ならやれると思ったからそう決めたんだ」

 

 そう言って不敵に笑うリーダーに対して、私はぱくぱくと口を動かすことしかできなかった。リーダーが後方の味方に向けてハンドサインを送る。

 

「行ってこい! 後ろは俺たちに任せろ!」

 

 リーダーがシェルターから飛び出す。それに一瞬遅れて、私も駆け出した。

 

 この試合、私がいなければもっと有利に展開を進められたかもしれない。どんなにすごい反射神経があったからと言って、私は雪合戦初心者に他ならない。ルールを破ったり、ミスを連発してチームの足を引っ張った。

 

 なら、今の私はその責任感に突き動かされているのだろうか。最初は確かにそうだった。自分のミスを取り返すために頑張ろうと思った。でも、今の気持ちは少し違う。

 

 そもそもなんで自分がこんなに本気で子供の遊びに興じているのか不思議でならなかったが、別に大した理由なんてなかったのではないかと思う。

 

 わくわくしていた。

 

 センターシェルターの横を駆け抜ける。雪玉を警戒して顔をそちらへ振り向きかけるが、やめた。前を見て走る。前だけを。

 

 リーダーは任せろと言った。ならば、背後の心配は任せよう。彼が私を信じて役目を託したように、私も彼らを信じる。

 

 敵チーム6名のうち、3名はリーダーたちが抑えてくれているが、それを除いてもまだ3名が敵陣を守っている。しかもそのうちの2人はフラッグの前に立ちふさがり、その身をもって進路を塞いでいる。シェルターに逃げ隠れせず、相討ち覚悟で私の突撃を阻む気だ。

 

 三方向から雪玉が飛んでくる。スローモーション映像のように遅く、残像の線を描きながら飛来する玉を避ける。そして片腕に抱えていた雪玉を投げ返した。敵が身をかわすだろうと予測した場所へと放たれた私の玉は、しっかりと相手の身体を捉えた。

 

 これで1人アウト。だが、もう1人倒さなければフラッグまでの道は開けない。そして私は投球したことにより、隙が生じた。敵が見逃してくれるはずもない。飛んでくる玉の軌道は読めたが、身体が思うように次の行動を取れなかった。無理な体勢で避けようとしたためバランスを崩し、地面を転がる。

 

 何とか回避に成功する。しかし、今度こそ後が続かない。直撃コースを飛んでくる一球を前にし、回避は不可能と判断した。

 

 ここで終わるのか。否、終わらせたくはない。手に持っていた雪玉を投げた。

 

 ここで私が敵を相討ちにすれば4対4で引き分けに持ち込める。もし、背後で戦っているリーダーたちが1人もアウトにならなかったらの話だ。私の活路を切り開くために捨て身で特攻した彼らが無事で済むとは思えない。背後を振り返って確認する余裕はなかった。それでも今の私にできる最善手であるはずだ。

 

 その考えもあった。だが、私が選んだ可能性は別のものだった。リーダーは私に旗を取れと言ったのだ。

 

 私が放った雪玉は、敵に向けて投げられたものではない。私に向かって飛んでくる玉と正面からぶつかる軌道で放たれ、二つの玉は空中で衝突して相殺された。

 

 あんぐりと口を開けて驚愕の表情で立ち尽くしている敵へ向け、雪玉を投げつける。これでアウトは2人。間髪入れず立ち上がり、走り出す。もう手元に雪玉はない。さっき転がったときに残りの玉は壊れてしまった。あとは走るのみだ。

 

 最後に控えていた敵のバックスが慌ててシェルターから飛び出してくるが、もう遅い。彼が行く手を阻むより速く、私の方がフラッグへ到達する。

 

 そう思った矢先、私の背後から雪玉が飛んできた。リーダーたちが抑えていた敵フォワードが、ついに私を排除するべく動き始めた。それは他のチームメイトが全員やられてしまったことを意味する。

 

 さすがにどんな反射神経があろうと、後ろから来る玉はかわせない。最初の一発は運よく狙いが外れたようだが、次も幸運に助けられるとは思えない。ここで背後を振り返っていては、すぐ横まで迫ってきているバックスに刺されることになる。

 

 もう考えるのはやめた。ただ走ることのみに集中する。ただ速く、旗だけを見据えて。

 

 意識が白くなっていく。全身を投げ出し、滑り込むように旗を掴み取った。そして、それと同時に身体を打つ雪玉の感覚が複数あった。

 

 旗を取ったのが先か、それとも玉に当たった方が先か。勝利か、敗北か。無我夢中で走っていた私には判断できなかった。コートはしんと静まり返っている。誰も声を発さない。どちらのチームが勝ったのか、彼らにもわからないのだ。全ての視線は審判に向けられていた。

 

 審判のホレスが私のもとへと歩いてくる。彼は、旗を持つ私の手を取った。その手を高く掲げる。

 

 

「WINNER!!」

 

 

 ウオオオオオオオオオオ――!!

 

 歓声が沸き起こった。全員が飛び跳ねて騒いでいる。勝利した味方が喜ぶのはわかるが、なぜか負けたはずの敵も我がことのように喜びながら拍手喝采していた。

 

「おいっ! なんで当のお前がそんな無反応なんだよ! お前、すげープレーしたんだぞ! 嬉しくないのか!?」

 

 リーダーが興奮した様子で私に尋ねる。正直、頭がごちゃごちゃして気持ちの整理がつかなかった。自分が何かすごいことをしたという感慨はない。試合に勝ったことはもちろん良かったが、みんなが騒ぐほどの喜びは感じない。

 

 だが、確かに言えることがある。私がしたことで、みんながこんなに喜んでくれた。それが何よりも、

 

「うれしい」

 

 私がそう言うと、みんな黙りこんでしまった。なぜか顔を赤くして目をそらしたり、うつむいたり、逆にじっとこちらを見てきたり、反応が変わった。自分では笑顔を作って素直な気持ちを伝えてみたつもりだったが、何かおかしかったのだろうか。

 

「おい、ホレス。お前いつまで手ェ握ってんだよ」

 

「審判だから」

 

「関係あるかァ!?」

 

 でも、すぐに変な空気は元に戻り、騒がしくなった。私は雪解け水でぬかるんだ地面を盛大に転がり回ったせいで泥だらけになっていた。泥にまみれたゼッケン。そこに書かれた『6』の文字を見たとき、初めてチームの一員になれたような気がした。

 

「よーし、じゃあさっそく次の試合の準備を――」

 

 リーダーが手を叩きながら声を上げる。そのとき、町に鐘の音が鳴り響いた。どうやら時刻を知らせる鐘のようだ。辺りは夕闇が広がってきている。

 

「あー……もうこんな時間か。片づけないとな」

 

 みんな、コートを片づけて帰り仕度をし始めた。別に何もおかしなことはない。彼らだっていつまでもここで遊んでいられるわけではない。帰るべき、場所がある。

 

 寒さを覚えた。動きまわって温まっていたはずの身体が急に冷たくなったように感じる。

 

「お前、うちのクラブチームに入らないか? 俺から監督に紹介しとくよ」

 

「それにしてもまさかこんな逸材が眠っていたとは……学校では見たことなかったけど」

 

 彼らは学校に通っている。地域のスポーツクラブに所属している。このくらいの年代の子なら当たり前のことだ。それが、普通だ。

 

「え? でも、おかしくね? こんな子がいたら学校で噂にならないはずがなくない?」

 

「それもそうだよなー。最近、引っ越してきたとか?」

 

「じゃあ転校生か。どこに住んでるんだ?」

 

 何も、答えられない。一歩、足が後ろに下がる。

 

「そう言えば、名前も聞いてなかったな。なんて言うんだ?」

 

 

 

 

 

 あなたはだれ?

 

 

 

 

「お、おい大丈夫かよ? 立ちくらみか?」

 

 名前。

 

 そんなもの、必要に感じたことはなかった。人間として生きていくことを望みながら、彼らのことをその名で認識しておきながら、自分を表す記号について考えようとしなかった。なぜだろう。

 

「かえらないと」

 

 自分の口から出た言葉にぞっとする。それ以上、先のことを考える前に、その思考を遮るように、背を向けて走り去る。

 

「あっ、おい! 明日も休みだし、俺たちここで試合やってるから!」

 

 もともとこの町に長く留まる気はなかった。ちょっと立ち寄って、人間がどんな生活をしているのか観察して、子供たちと一緒に遊んで、ただそれだけのことだった。楽しかった。それでいい。それ以上のことを望む必要はない。

 

「明日も絶対来いよ! 『6番』!」

 

 考える必要は、ない。

 

 




イラストを描いていただきました!
鬼豆腐様より


【挿絵表示】


服をたくしあげて雪玉を運ぶシーン。全裸よりエロい……!?


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36話

 

 道路に沿って歩き続けた。目的地はない。自らの死を受け入れられない亡霊のように、自分が何者かもわからないままさまよい続ける。

 

 便利な能力を発見した。少女の体を覆う生命力はある程度コントロールが可能だとわかった。これをなるべく体の中に引っ込めるようにすると、生物としての気配が驚くほど希薄になる。

 

 この能力によって街中を歩いても声をかけられることはなくなった。動物も近寄って来ない。存在を認識されなくなるわけではないらしく、前から来る歩行者とぶつかるようなことはなかった。

 

 どうやら“存在感”がなくなっているようだ。見えてはいるが、関心は向かない。あってもなくてもどうでもいい。その程度の存在としか目に映らない。その不自然な認識のされ方は、幽霊よりも異質なものになってしまったかのように感じる。

 

 この無関心状態になると、身体能力が落ちるようだ。いつもより力は発揮できなくなるが、それでも一日のほとんどをこの状態で過ごしていた。この少女の格好は目立つ。浮浪者か孤児のように見えるらしく、通報されかけたこともあった。警察の厄介にはなりたくない。

 

 何よりも、楽だった。人目を気にせず街に入ることができる。他の人と同じように、人ごみの中を歩いて行ける。自分が普通の人間になれたような気がした。人間という群れの一員になれたように感じた。

 

 理想と現実の乖離は大きくなる一方だというのに。

 

 昼夜問わず進み続けた私は大きな街にたどりつく。都会と呼んで差し支えない規模の街だ。ビルが立ち並び、道路には車が溢れ、絶え間なく人が往来する。見ていて飽きることがない。

 

「どこだっ!? 確か、このへんで見かけたはず……どこに行っちまったんだヨー!」

 

 今もちょうどおかしな人を見つけたところだった。バイク乗りが着ていそうな黒のジャケットにサングラス、シルバーアクセをじゃらじゃら身につけ、指抜きグローブをはめた目立つ男が歩道で騒いでいる。何かを探しているらしく、しきりに周辺を見回していた。

 

 私がそのまま横を通り過ぎようとしたとき、男のポケットから財布が落ちた。よほど探し物に集中しているのか、財布を落としたことに気づく様子がない。

 

 拾ってあげるべきだろうか。だが、あまり関わり合いになりたくもない。どうするか迷っていると、通行人の一人が歩み寄ってきた。財布を拾おうとしている。だが、その動作が不審だった。サングラス男の方を横目でうかがいながら、こっそり素早く財布をかすめ取ろうとしている。

 

 明らかに親切で拾おうとしている者の態度ではない。私はとっさに横から財布を拾った。黒い皮の財布はずっしりと重く、札でぱんぱんに膨れている。手を伸ばしかけていた通行人は、目の前で目的物を見失って驚いている。が、その視線が私の方に向けられた。

 

 まずい。存在感がなくなる無関心モードも万能ではない。透明人間のように姿を認識できなくなるわけではないのだ。例えば相手と体がぶつかったりすると、さすがに気づかれる。何か注意を集めるような行動をしてしまうと、このモードの効果は半減してしまう。

 

 通行人は私の姿を捉えてぎょっとしていた。そして、私の手に握られている財布に視線が移る。

 

「ど……泥棒だああああ!!」

 

 通行人が叫んだ。少女の首根っこを掴んでくる。突然の事態に状況が飲み込めず、あっさり捕まってしまった。

 

「そこのあんた! こいつがあんたの財布をスリやがった! 俺は見てたんだ!」

 

 通行人がサングラスの男に呼びかける。ここに来て、ようやく嵌められたことに気づいた。自分が盗もうとしていたくせに、他人に罪をなすりつけようとしてくるとは。だが、状況的に男の証言には信憑性が生まれてしまう。実際、私は財布を持っている。

 

 サングラスの男がこちらを見た。このままでは通報される。逃げようと思えばできないこともないが、それこそ警察沙汰になってしまうだろう。なんとか無実を主張したいが、果たして信じてくれるかどうか。

 

「セイッ! でかしたブラザー! 恩に着らッチョ!」

 

 サングラス男はよくわからないことを言いながらポーズを決めている。私と通行人はその雰囲気にのまれ、しばし硬直した。

 

「あ、ああ……で、どうする? 子供だからって盗みは許されねえよな」

 

「セイセーイ! それには及ばないぜブラザー。そんなはした金、どうでもいい」

 

「え? あんた、この財布を探してたんじゃないのか?」

 

「違うねぇ……オレサマが探してたのはこのキューティキティさ」

 

 男はサングラスを額へ持ち上げた。その目は少女を値踏みするかのような視線を送る。

 

 もしかして、私を探していたというのか。ということは、私のことを知っていたことになる。無関心モードを見破られたからこそ、この距離まで接近を許したのではないか。

 

 脳裏に思い出したくない記憶がよみがえる。シロスズメ島でこの少女を狙っていたモックやペッジョ、もしやあいつらと同類ではないのか。いまだモックたちの目的は不明だったが、だからこそ可能性がないとは言い切れない。

 

 だとすれば、このまま何もしないのはまずい。敵だという確証はないが、もしそうだった場合は危険だ。私はすぐに離脱を図った。掴みかかっていた通行人を押しのけて拘束から脱する。

 

「ウェイッ!? 待ってくれビューティキティィィィ!」

 

 こちらを追いかけてくる声をしり目に、私は全力で逃げ去った。

 

 

 * * *

 

 

 彼の名はポメルニ。今をときめくアーティストにしてクリエイター。若者の間で絶大な人気を誇る有名人だ。リムジンで送迎の最中、今日のスケジュールについてマネージャーと確認を取る。

 

「このあと10時からカンパレッジ大学で講演会です」

 

「セイ」

 

「昼食会の後、3時からプラスランナ社の新商品『ジャンピングホッパーくん』のプレスリリース動画撮影があります」

 

「セイ」

 

「実は、先ほど本社から連絡がありまして、撮影会場が急遽変更になりました。タワーブリッジの主塔の頂上で、水着を着用してほしいとのお達しです」

 

「セ……橋の上で? 水着で?」

 

「はい」

 

「雪が……降ってるんだが」

 

「そうですね」

 

「オゥケィ、ブラザー。なに、これは武者震いってやつさ」

 

 彼が震える手で葉巻をくわえると、すかさずマネージャーが横から火をつけた。

 

 彼の名はポメルニ。飛ぶ鳥を落とす勢いの大スター。まさに怖いもの無し。弱冠、20歳後半にして誰もが羨む富と名声を手に入れた男。

 

 しかし、そんな彼にも悩みがある。上に立つ者には、相応の重責がある。彼は気だるげに街の雑踏を見ていた。窓に吐息の靄がかかる。決して、今日の仕事行きたくねーだとか、そういうことは少ししか考えていない男。それがポメルニ。

 

 窓の向こうを通り過ぎていく街並みを眺めていた。そんな彼の視界に、一瞬だけ映った銀色の輝きがあった。

 

「ヘイ、ドゥライヴァー! 車を停めてくれ」

 

「トイレですか?」

 

 違う。マネージャーの気遣いを訂正している時間も惜しんだ彼は、飛び出るように車を降りた。運転手はその様子を見て、もっと早く言ってくれれば余裕をもってトイレまで連れて行けたのにと彼の身を案じる。

 

 彼は走った。ほんの少しだけしか垣間見ることはできなかったが、間違いなく原石。雑踏を行き交う有象無象の輩とは異なる。宝石の原石だと直感できる者がいた。

 

 だが、見失う。彼女を見かけた場所に戻ってきたとき、そこには誰もいなかった。それほど時間は経っていない。近くにいるはずだと探しまわる。

 

「泥棒だあああああ!!」

 

 突然、そばで騒ぎ始めた通行人の方を見たとき、ついに彼は探し求めた原石を目にした。通行人が何か言ってくるが、かかずらっている気分ではない。

 

 銀色の髪はまるでその周囲にだけ雪の結晶が漂い輝いているかのようだった。彼はこんな髪色を今までに見たことがなかった。人工的な発色によってこの輝きが再現できるとは思えない。それほど神秘的な色合いがある。

 

 みすぼらしい服装をしているが、隠しきれない美しさがある。美人は何を着ても似合うと言うが、庇護欲をそそるという見方をすればむしろ魅力を引き立てているような気さえしてきた。不安げにこちらを見上げる瞳など、思わず手を差し伸べたくなるような儚さがあった。

 

 まるで捨てられた子猫。しかし、それでいて気品に溢れた雰囲気を持ち、強かに生きようとするワイルドさも感じる。ミルクと最高級の紅茶が絶妙のバランスでブレンドされたかのような香り高く、甘くほどけるハーモニー。

 

 想像以上、特大級の原石を前に心の中でほくそ笑む。だが、その彼の態度に不穏なものを感じ取ったのか、少女は一目散に逃げてしまった。まさに子猫のような目にもとまらぬ身のこなし。慌ててポメルニが追いかけるが、最近ぽっちゃりしてきた腹まわりの彼ではとても追いつけそうにない。

 

「シィッ、仕方がない。かくなる上は……カモン! キティズアンドブラザァァァァズ! オレサマの魂のサウンドゥゥゥゥんん†聞☆け†!」

 

 彼は歌う。路上で始まるゲリラライブ。次第に人が集まり始め、雪を溶かすほどの熱狂が舞い降りた。

 

 

 * * *

 

 

 何をやっているんだ、あの男は。

 

 無事に逃げ切り、無関心モードで再び気配を消す。そのまま遠く離れたところまで移動する気だったのだが、男が始めた奇行を見て足を止めてしまった。

 

 なぜか突然、歌い出したと思いきや、そこに人が群がっていく。周辺は興奮のるつぼと化していた。彼の歌のどこがいいのか私には理解できなかったが、その異様なまでの人気ぶりからみて相当な有名人なのだろう。

 

 曲の合間に『隠れてないで出ておいでキティ!』とか『オレサマは危害なんて加えないぜ!』とか叫んでいるが、あれはもしかして私に向けた言葉なのだろうか。

 

 私の手元には男の財布がある。あの場に捨てて行けばよかったものを、思わず持って来てしまった。財布の中に入っていたカード類を見たところ、男の名前はポメルニというらしい。

 

 どうしたものかと悩む。なんとなく危険な感じはしないようだが、それでもやはり積極的に関わり合いになりたい人物ではない。しかし、財布を持ち逃げする気もなかった。別に今のところ金に困っているわけでもないし、それより被害届など出されると面倒だ。

 

 だが、あの人ごみの中に入っていくのもためらわれた。この短時間で、ものすごい数の人が集まっている。あの人の列を押しのけて、主役を飾るポメルニのところまで行くだけで大変そうだ。

 

 なんだか住む世界が違うような気がした。彼は『特別』なのだろう。人の心を動かす力がある。私が関わっていい人物ではない。

 

 しばらくすると、スーツを着た男性がやってきて群衆の中からポメルニを連れ出した。ブーイングが巻き起こる。路傍には彼を迎えに来た高級車が停まっていた。車へと向かうポメルニを追いかけようとファンが殺到するが、スーツの男が必死に食い止めていた。

 

 今しかない。私は高級車の横まで行き、車内に財布を放りこんでおく。これで気づいてくれるだろう。無関心モードを継続したまま、誰に気づかれることもなく歩き去る。

 

「キティ」

 

 背後からかけられた声に振り返ると、こちらに向けて何かが投げられていた。反射的にそれを掴む。

 

「少し早いが、クリスマスプレゼントだ。取っときな」

 

 それはスマートフォンだった。なぜこんなものを渡されたのかわからない。プレゼントと言ったが、いきなり携帯を渡されても困る。

 

 だが、私が何か言う前に、彼が乗り込んだ車は発進してしまった。呆然と車を見送っていた私の手の中で、スマートフォンに着信が入る。画面にはポメルニの名が表示されている。とりあえず、出ることにした。

 

『セーイ! 久しぶりだな、会いたかったぜマイキューティキティ! どうやらオレサマのサウンドは君に届いたみたいだな。必ずオレサマの前に姿を現してくれると思ってたぜッッッッッッ!!』

 

 ……これ、捨ててもいいかな。

 

『ウェイウェイッ! まあ、待ちな。そのスマホがどれだけの価値を持っているか、決めるのは話を聞いてからでも遅くはないと思うぜ。あ、あと喋り方なんだけど、素にもどしていい? このキャラ作るの疲れるんで』

 

 勝手にしてくれ。いったい何が目的なのか、第一にそれを知りたい。

 

『まずは自己紹介をしようか。俺はポメルニ。アイチューバーをやっている』

 

 アイチューバーとは、大手動画共有サイト『アイチューベ』に動画を投稿して、その広告収入で生計を立てている人のことを指すらしい。動画が再生されるとそこに広告が表示され、投稿者に微々たる広告料が入る。しかし、塵も積もれば山となるようで、この広告料だけで生活ができるどころか億万長者になる人までいるという。

 

『単刀直入に言おう。君、アイチューバーになってみないか?』

 

 何がどうなってそういう結論に至ったのか理解できないが、はいなりますと返事ができるようなことではない。当然、断った。

 

『そうか。うん、まあ妥当な判断だ。むしろ簡単にこんな話に飛びついてくるよりは賢明だろうな』

 

 自分から話を振ってきておいてあっさり引き下がるとは、本当に何がしたいのかわからない。

 

『動画を撮影して投稿する。子供だって簡単にできる時代だ。そして再生数さえ稼げれば金になると、単純に考える連中が増えた時代だ。世の中には確かに“うまい話”がある。そして、それを自分も掴みとれると盲信している』

 

 アイチューバーについて詳しく知っているわけではないが、誰もが楽に金を稼げるようなシステムではないのだろう。いや、一見してそのように見えるが、実情は異なると言ったところか。

 

『食っていけるだけの金を稼げる奴は一握りしかいない。上に登りつめるためには何が必要か教えてやろう。それは、運だ』

 

 身も蓋もない言い方だ。それはそうなのだろうが、実力があって面白い動画を作ることができるからこそ人の目に留まるのではないのか。

 

『まぁな。箸にも棒にもかからないような動画しか作れないんじゃ話にならない。だが、毎日毎日必死になって作り込んだ動画が評価されないことなんてざらだし、その一方でなんでこんな駄作に視聴者が集まってくるんだと頭を疑う動画もある。狙って結果が出せるのは、最初から“持ってる”奴だけだ。人気のある投稿者は雪だるま式に再生数が増えていく。金のあるところに金が集まる、経済の仕組みと一緒さ』

 

 その“持ってる奴”になるために必要なものが、ポメルニいわく運らしい。

 

『俺は今でこそもてはやされているが、最初はただの売れないミュージシャンだった。さっきの路上ライブを見ただろ? アカペラで馬鹿みたいなキャラ作って熱唱して……数年前の俺なら誰も見向きもしなかったはずだ。罵声を浴びせられていたかもな』

 

 それが今では引く手あまたの大スター。彼は自分に音楽の才能などないと言った。容姿が整っているわけでもない。学歴もない。人に誇れるようなものは何も持っていないと。ただ、運がよかっただけなのだと。

 

『持って産まれたタレントってやつは確かにある。だが、逆に言えばそんなもの何一つ持ち合わせていなかった俺が大物アイチューバーになっている。結局、人気とかカリスマとか、そういうもんは本人の資質じゃねぇ。運だ、運。持たざる者は、ちょっとばかしその運に頼る要素がデカイってだけに過ぎない』

 

 本人はそう言っているが、諦めずに努力を続けてきたから今の彼があるのだろう。それこそが彼の才能なのではなかろうか。いずれにしても、私には縁のない話だった。

 

 結局、どうしてアイチューバーになることを勧められているのかわからなかった。彼の話を聞く限り、成功するかどうかは運次第ということになる。勧誘する気があるのかどうかもわからない。

 

『どうして勧誘したのかだって? それは色々理由があるが……一番は君の目が、昔の自分に似ていたからだ』

 

 昔の自分とは、彼がアイチューバーとして人気を博する以前の下積み時代のことを指しているようだ。今の私の境遇とはかけ離れているような気がするのだが。

 

『学生時代からつるんできたバンド仲間は辞めていった。いつまでも夢を追いかけて音楽にしがみついていたのは俺だけだ。路上演奏しても見向きもされない。誰も俺の声を聞いてくれない。俺が今までやってきたことは何だったんだろうと思った。このまま誰の心にも残ることなく、誰にも知られず死んでいくような気がしていた』

 

 ちくりと胸が痛む。似ていると言われればそうかもしれない。毎日気配を消しながら歩いていると時折、自分でも自分がいるのかいないのかわからなくなってくるときがある。いてもいなくてもどうでもよくなっているような気がしてくる。

 

『それでもたまに、本当にたまにだけど、足を止めて聞いてくれる人もいたんだ。がんばれと声をかけてくれる人がいた。涙が出るくらい嬉しかったよ。あの人たちがいなかったら今の俺はなかった』

 

 それは……。

 

『だから、君のことを見つけたとき、目を離しちゃいけないと思った。本当に、雪の向こうに滲む幻みたいに消えてしまいそうだった。だから教えてやりたかったんだ。お前を見てる奴がいるんだぞって。俺がここで見失うわけにはいかないって直感した』

 

 ……。

 

『もう一度言うぞ。アイチューバーになる気はないか? 良い奴ばかりじゃない、クソみたいな連中もたくさんいるけど、誰かが君のことを見てくれるはずだ。幸いにして、君は強運に恵まれている。なぜなら、この広い世界の中で俺とこうして出会ったんだからなッ! チェケラッ!』

 

 電話の向こうの声は、ごまかすように喧しい口調に変わる。

 

『そのスマートフォンは特別製だ。その機体からアイチューベに登録することで、『公式ポメルニチルドレン』を名乗ることができる』

 

 アイチューベにおける彼の動画の影響は大きく、他の投稿者の中にはその人気にあやかって彼と似た内容の動画をアップする者も多い。悪く言えば二番煎じだ。それらの投稿者は半ば蔑称するような表現として『チルドレン』と呼ばれている。

 

 だが、ここで言う『公式チルドレン』はそれとは全く異なるものらしい。公式の名の通り、ポメルニ自身が真贋を見極め、実力が認められた者にだけ与えられる称号だそうだ。

 

 この称号を得た投稿者は、アイチューベのトップページに公式チルドレン枠で動画をピックアップしてもらえるらしく、それだけでスタート段階からして一般会員よりも数段上の再生数が約束されたようなものらしい。そんな一ユーザーの権限を遥かに超えた企画を通せるとはこの男、並みのアイチューバーではないようだ。

 

 だが、その地位にあぐらをかいてはいられない。規定の再生数を稼げなかった投稿者は即座に一般会員落ちする。また、チルドレンの広告利益の数%が上前としてポメルニに入る仕組みになっている。慈善事業ではないようだ。

 

 このスマートフォンはポメルニの名義で契約されており、今月分の使用料金については彼が支払うが、来月分からは広告収入で得た電子マネーによって決済される。それをまかなうだけの再生数が稼げなければ自動的に契約は解除されて使えなくなるという。

 

 今のところ公式チルドレンは10名ほどしかいない。その誰もがそれまでに投稿者として活躍を見せた者たちであり、私のように全く無名の新人を起用することは初の試みだという。なぜだかわからないが、不相応な期待が寄せられている。

 

『駆け上って来い。アイチューバーの高みへ、な』

 

 まだ、なると答えてはいないのだが、ポメルニは確信した様子で要件を伝え終えると電話を切った。

 

 手元に残された黒いスマートフォン。少女はどうしたものかと頭を抱えた。

 

 



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37話

 

 アイチューバーになることで手に入るもの。視聴者の反応、自己顕示欲の充足、再生数に応じた広告利益。

 

 アイチューバーになることで生じる不都合。動画撮影編集作業、個人情報漏洩、誹謗中傷。

 

 何が難しいかと言えば、もちろん動画を作ることだろう。多く人の目に留まる面白い動画が簡単に撮れるのなら苦労はない。どんな題材を扱うか、そしてそれをどう編集して見やすく面白くまとめるか。

 

 いざ作る側に立ってみると動画一本仕上げるだけでなかなかの労力がいるのだと実感できる。産みの苦しみは避けては通れぬ道だろう。それを否定していては何も始まらない。

 

 視聴者の反感を買うような動画をあえて投稿して再生数を稼ぐ炎上商法もある。当然、私はそんなことをする気はないが、それでも誹謗中傷を受けることはあるだろう。ネット上で活動するなら受け入れなければならない問題だ。

 

 撮影する題材や手法によっては、投稿者の個人情報も公開される。顔出しはさすがにまずい。その方が視聴者の印象に残り再生数も上がりやすいのだが、個人を特定される危険がある。まあ、顔さえ出さなければ大丈夫だろう。

 

 要するに、私は動画を投稿する気になっていた。まだアイチューバーになると決めたわけではない。というか、なろうと思ってなれるものではないと思う。いくらポメルニのバックアップがあるからと言って、私は所詮素人に過ぎない。だが、彼からスマホまでもらった以上、その期待を完全に無視するというのも忍びない。

 

 なんだかんだ言って、ポメルニの言葉は私の胸に響いていた。試しに動画を投稿してみようかと思う程度には興味が湧いた。どうせ暇な時間はいくらでもあるし、他にやりたいこともない。駄目でもともと、だがあわよくばという隠しきれない欲はあった。

 

 別にポメルニのような有名人になりたいわけではない。だが、彼の言うとおり心のどこかで誰かに見てほしいという思いはあるのかもしれない。現実に触れ合うことは怖くても、ネット上のつながりなら、その距離感がむしろ安心できる。

 

 私は動画投稿のための下調べをした。もらったスマホでアイチューベにアクセスし、どんな動画が投稿されているのかチェックする。

 

 ポメルニの動画を見た。数千万という圧巻のチャンネル登録者数だ。年間ランキングも軒並み首位を独占している。まさに王者の貫録。最初は自作の音楽がアイチューベ上で爆発的なヒットを飛ばしたことによって台頭したようだが、その人気に慢心せず、様々な企画に挑戦していることがわかる。

 

 常識的に考えればくだらなすぎてやろうとは思わないこと、そういうちょっとした題材に面白おかしく焦点を当てている。タイトルを見ただけでちょっと再生してみようかと思える気軽な動画だ。くだらないと言っても、いざ動画を作ろうと思えば常にアンテナを張っている人間でなければ同じような発想は浮かばないだろう。

 

 こういった動画は『やってみた系』と呼ばれている。毎回、彼の奇抜なキャラ(演じているらしいが)とクスリとくるような挑戦の数々がマッチし、短時間でも楽しめる完成度の高い内容に仕上がっている。彼は自分には何の才能もないと言っていたが、とんでもない。その着眼点、発想力、編集技術の高さには脱帽する。

 

 そんなポメルニも完全なる独走状態というわけではなかった。ランキングの推移を見れば、動画再生数上位陣は凌ぎを削る戦いをしていることがわかる。最近、急激な人気上昇を見せている動画ジャンルはバーチャルアイチューバー、略してVチューバーだ。

 

 動画上で主役となるのは生身の投稿者ではなく、2Dや3Dでモデリングされたアバターである。そこに演者が声を当てたり、音声ソフトを使って喋らせる。取り扱う動画の題材自体は他のアイチューバーとそう変わらないが、非実在のキャラクターだからこそ視聴者の願望を投影した受け手の理想像を実現しやすい。そして生配信をすればそのキャラとリアルタイムでフレキシブルなコミュニケーションを取ることができる。

 

 現在最も人気を集めるVチューバーは『マジカル☆ミルキーちゃん』だ。魔法の国からやってきた殺し屋の少女という設定で、よくFPS(銃などの武器で戦場を戦い抜くシューティングゲーム)実況動画を上げている。かなりゲームがうまく、スーパープレイで視聴者を魅了するほか、時折見せる殺し屋あるあるネタはフィクションとは思えないほど生々しい説得力がある。その猟奇的なキャラクターがうけて絶賛ブレイク中だ。

 

 他にも、ポメルニ公式チルドレンと言われる配信者たちの動画も見た。ポメチル十傑衆と呼ばれる彼らは、いずれも劣らぬ猛者揃いだ。素人の私が対抗できる相手とはとても思えなかった。その末席に名を連ねるのもおこがましい気がしてならない。

 

 私の手元にある設備といえば、スマホが一つのみだ。このスマホのカメラ機能は高性能で、そこそこのクオリティで動画の撮影も可能のようだ。アイチューベと関連した動画投稿者向けのアプリが最初から入っており、撮影した動画はタップ一つですぐさまアップロードできる。もちろん編集はした方がいいのだろうが、やり方が難しくてわからない……。

 

 しかし、幸いにしてこのスマホにはありがたい特典が付いていた。電子マネーが5万ジェニー分入っていたのだ。ポメルニからの餞別だろう。これを軍資金にすればなんとかなるかもしれない。私は意気揚々と必要なものを買いそろえた。

 

 その結果、集まったものが今、私の目の前にある。

 

 

 卓上コンロ1台。

 じゃがいも3個。

 バター1箱。

 

 そして残金は16ジェニー。

 

 

 言い訳をさせてほしい。このスマホの文字が読みづらいのがいけなかった。なんかよくわからない象形文字みたいな字が小さくぎっしり文章になっているのだ。意味は理解できるので読めないわけではないのだが、不慣れな外国語を解読しているような気分になる。つまり何が言いたいのかというと、スマホに入っていた金額は5万ではなく、5千だった。

 

 気づいたときには既に遅く、卓上コンロとカセットガスを購入した後だった。残金は千ジェニーを切っていた。ポメルニ、あんなに羽振りがよさそうにしていたのだからもうちょっとくらい恵んでくれても良かったのではないかと不満が出かけたが、スマホをくれただけでも有情だったのだと納得するしかない。生まれて初めてお金の大切さを実感する。

 

 諦めて予算の許す範囲で食材を買った。このラインナップを見てわかる通り、私は料理動画を投稿しようとしている。じゃがいもを焼くだけの動画を料理と呼んでいいのかという議論はひとまず置いておくとして、これでも自分なりに悩み抜いて決めたのだ。

 

 最初はゲーム実況動画を撮ろうとした。一番楽に再生数を稼げそうだったからだ。凝った編集や演出がなくても、そのゲームに興味がある人は見るだろう。しかし、ゲーム機やらキャプチャーボードやらパソコンやら金がかかるため5万の予算では無理という結論に至った。

 

 少ないコストで撮影可能なテーマでなくてはならない。歌とか踊りとか、そういう芸を持たない私でもできることとなると選択肢は限られる。そこで思いついたのが食レポだ。食品を食べて味などの感想を述べレビューする。

 

 はっきり言って、二番煎じどころではないレベルでありふれたテーマだった。少しでも独創性を出すために食材から買ってきて調理する工程を映す予定だ。初心者でも簡単に作れて材料費もかからず、おいしそうに見える料理とは何か、必死に考えたのだ。

 

 それでも、ただじゃがバターを作って食べるだけの動画では再生数は取れない。アップロードするまでもなくわかる厳然とした事実だ。多くの人に見てもらうためには、他の投稿者にはない『武器』がいる。独創的なアイデアや技能など持たない私にある武器、それは容姿だ。

 

 無関心モードになっていない状態の私は、たまに人から話しかけられた。お年寄りから声をかけられることが多く、その第一声は顔立ちや毛並みの美しさを褒められることが多かった。このことから、少女の容姿は一般水準並みかそれ以上にあると思われる。

 

 蟻としての感覚が混ざった私の感覚では正直、人間の美醜を正確に見極めることが難しい。世の中には目鼻立ちに1ミリ単位でこだわり、整形手術までして美しさを追求する人間がいることは知識として知っているが、はっきり言って人間の顔は全部同じようにしか見えない。こういった知識と感覚のズレはいくつかあった。

 

 だからこれまでに得た客観的な意見からこの少女の容姿の美醜を推測した結果、彼らの証言が社交辞令でなければ私は美しい見た目をしていると言える。少なくとも、年配受けする子供らしいかわいらしさがあるのではないか。

 

 コマーシャルなどの映像、画像を用いた宣伝媒体において人の目を引き付けるために有効なテーマとして『三つのB』と呼ばれる手法がある。Baby(幼い子供)Beauty(美人)Beast(動物)の三つだ。これらは見る人の注目を瞬時に惹きつけ、世代や思想の違いを問わず肯定的な印象を抱かせる効果があると言われている。

 

 今の私にとって、このセールスポイントを押し出す以外に再生数を稼ぐ道はない。しかし、その手を取るとなればある程度の顔出しは必須となる。苦渋の決断を迫られた。

 

 だが、それでも。ネット上で燦然と活躍する投稿者たちの姿を見て、思うところがあった。既成概念に囚われず、自由奔放なテーマで自分らしさを表現している。そして、そこに多くの人が集まるコミュニケーションの場となっている。

 

 確かに金が目当てで過激なことをする連中もいる。誰しも少なからずそういう欲望はあるのだろう。だが、それは一概に悪いことと言えるのか。欲望があるから人は何かをしたいと思う。そして頑張ればそこに対価が得られる。だからもっと頑張ろうと思えるのではないか。

 

 自分の中にあるくだらない承認欲求を、否定したくなかった。何の目標も持ち合わせていなかった以前の私では思いもしなかった感情が今はある。アイチューバーを見ているうちに私も彼らのようになりたいと思えた。それが人間らしい行動のような気がしていた。

 

 とある人気のない路地裏で、捨てられていた木箱の上に卓上コンロを置き、その前に正座する。完全な顔出しはやっぱりちょっと怖かったので、なけなしの軍資金を使ってマスクを買っていた。

 

 材料の確認、良し。スマホの撮影準備、良し。

 

 心臓がバクバクと脈打っているのがわかる。胸に手を置いて息を整える。モックとの戦いを思い出せ。何も命の危険があるわけではない。試しに動画を撮影するだけのことだ。

 

 スマートフォンのタイマーが撮影開始の合図を知らせた。

 

 

 * * *

 

 

「それではこれより、第六災厄対策室第一回総会議を執り行う」

 

 会議室に低い声が響く。壇上で指揮を執るは軍服姿の老人だった。しかし、年を感じさせないほどにその体格は壮健に鍛え抜かれている。ロマンスグレーの整えられた髪に、カイゼル髭。巌のように重々しい顔立ちだが、その裏に誰よりも部下を愛する人情が潜んでいることは周知の事実である。

 

 アンダーム司令官改め、アンダーム室長の進行のもと会議が開催された。上役たちの簡単な紹介を手早く済ませ、さっそく議題は核心へと移行する。

 

「まずは先日、動画共有サイト『アイチューベ』に投稿された例の動画をここで詳細な解説を交え、再度確認していくとしよう。疑問に思う点があれば忌憚なく質問してもらって構わない」

 

 部屋の照明が落とされ、プロジェクターから映し出された映像がスクリーンへ投写される。会議室に集まった全員の目がそこへと集まった。

 

 動画はさびれた路地裏で、少女がカセットコンロを点火するシーンから始まる。少女は泥で汚れたマフラーとセーターを着ており、口元はマスクで隠されていた。しかし、特徴的な銀色の髪は惜しげもなくさらされている。みすぼらしい身なりに反してしっかりと手入れが行き届いたその美しい髪質は少し特異にも感じ取れた。

 

 少女はおもむろに台の下からじゃがいもを取り出すと、そっとコンロの網の上に置いた。計3個のじゃがいもが、ころころと不安定に網の上を転がるのを手で制している。そして、ここまで無言を貫いていた少女が初めて言葉を発した。

 

 

『シックスです』

 

 

 ざわりと会議室の空気が変わる。私語を漏らすような者はこの場にいない。ただ空気だけが静かに動いた。それほどの意味が彼女の言葉には込められている。

 

「彼女はアイチューベにおけるユーザ名として『シックス』を名乗っている。何を思ってこの名を使っているのか定かではないが、我々へと向けたメッセージとも受け取れる……」

 

 少女の正体は既に判明し、その情報はこの場にいる全員が共有している。サヘルタ合衆国が国を挙げて臨んだ第二次暗黒大陸遠征、その『負の携行物』。今回はリスクを持ち帰ることなく帰還を果たせたと思われた、その人類初の成果がここに至り覆った。歴史は繰り返される。

 

 まるで人類が新大陸の地を踏むことを拒むように、その行為自体が罪なのだと言うかのように、災厄という戒めから逃れることはできない。まだ公に認定はされていないが、彼女は人類を滅亡へといざなう6番目の災厄となりうる可能性を握っていた。

 

 彼女が何を考え、このような動画を投稿したのか、その思いは彼女にしかわからない。だが、動画を注意深く観察することで読み解けることもある。考えそのものまではわからずとも、そのとき彼女がどのような感情を抱いているのかは推察できた。

 

 アンダーム室長はオーラの性質と感情の関係性を判別できる達人である。彼は、その道において世界広しと言えど右に出る者はいないと自負していた。その人物のオーラさえ見ることができれば、おおよその感情を読み取ることができる。

 

 動画の映像にオーラは映っていない。一般人から見ればそれまでだが、念能力者はその映像情報からオーラの動きなどを脳内で補完的に可視化することができる。精孔が開いた目で見ればそれが映像であっても身体運動の微細な兆候からその人物のオーラを読み取ることは可能だ。

 

 動画上では無言のままシックスが芋を焼く光景が続いている。アンダームは熟練された『凝』を使って自身の目にオーラを集め、高い精度で少女が纏うオーラを観察する。

 

「彼女の精神は強い緊張状態に置かれているように見える。不安、焦り、それらの感情がないまぜになり軽いパニック状態を引き起こしているものと思われる」

 

 そこまで詳細にオーラから感情を読み取れるものなのかと、会場ではどよめきがあがった。さすが暗黒大陸遠征において身の危険も顧みず陣頭指揮を執り成功に導いた立役者、老境に至りなお並みの念能力者では到底及ばない実力の高さをにおわせる。

 

『こんかい使うばたーは、み、みのーるぼくじょうさん、手づくりふう、づら、づらす、づらすへっどバター、です』

 

 ミノール牧場産手作り風グラスフェッドバター、その製品情報が事細かに記載された資料が会議参加者全員の手元に配られている。生産者と産地、どの地域で販売されているか、これだけでも調べる価値のある情報だ。参加者たちが資料にカリカリとペンを走らせる音が会議室に響く。

 

 間が持たなくなったのか、シックスはバターの箱書きをたどたどしい口調で読み始めた。成分表示や賞味期限、保存方法など端から端までとにかく文字を読んでいく。

 

 箱書きの朗読が終わったが、まだそれほど時間は経っていない。しかし、そこでシックスは箱からバターを取り出した。寒さからか緊張からか、小刻みに震える手でじゃがいもの上にバターを乗せていく。じゃがバターを作るつもりなら、完全にじゃがいもに火が通った後で食べる直前にバターを乗せればいいのでは。

 

 熱でどろどろに溶けたバターがじゃがいもの上を滑り落ち、コンロの火にあぶられて煙を上げた。

 

『完成です』

 

 言いきった。そして、どう見ても生焼けのじゃがいもを素手で掴み取る。火傷してもおかしくない行為だが、シックスは平然としているように見える。

 

『たべます』

 

 そう宣言したが、手に持ったじゃがいもを見つめたまま硬直した状態が続く。ここで一旦、アンダームが手元のパソコンを操作して映像を一時停止した。

 

「このあたりの挙動不審な行動については、オーラの流れから読み取る限りかなり混乱している様子がうかがえる。とにかく早く撮影を切り上げようとしているようだ。感情が入り乱れているため正確な予測が立てづらいが、私の個人的な見解を述べるとすれば……おそらく、作った料理を食べるためには着用しているマスクが邪魔であるが、それをカメラの前ではずすか否か、葛藤しているように見える」

 

 そこで一人の参加者が手をあげた。アンダームが質問を受け付ける。

 

「マスクをしたままでは物を食べられない。そんなことは撮影する前の段階からわかっていたはずです。いざ完成した状況で、そのようなことを悩むものでしょうか」

 

 アンダームは深くうなずく。

 

「確かに一理ある。しかし、先ほども述べたように彼女は非常に不安定な精神状態にあった。正常な判断ができなかった可能性もある。また、ただ単に自分が作った料理を前にして、その完成品をしげしげと眺めているだけかもしれない」

 

 アンダームとて全ての真意を読み解くことはできない。そこには多分に予測が含まれている。あどけない子供のように見えても彼女は災厄の容疑者。彼らでは予想もつかないことを考えている可能性はある。

 

 アンダームは一時停止を解除した。そこから動画は怒涛の展開を迎える。

 

 硬直していたシックスがふと、カメラの撮影方向から外れた場所に目を向けた。慌ててその場から立ち上がろうとするシックス。だが、そこに猛烈なスピードで飛び込んでくる白い影があった。

 

『アオーン! アオーン!』

 

 大型の犬だ。薄汚れた白い犬が現れる。首輪もつけておらず、野良犬のように見える。それがシックスを押し倒すように覆いかぶさり、彼女の顔をぺろぺろと舐め始めた。

 

『うわ、ちょっ、ぷぅ……!』

 

 シックスが犬を振りほどく。顔を舐められているうちにマスクは外れて素顔がさらされていた。急いでカメラを止めようと動き出した彼女の背後から、犬が再び襲いかかった。大きな体格でのしかかられシックスが前のめりに転倒する。その上に乗った犬が腰を激しく振り始めた。

 

『やめろおおおおおお!』

 

『ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!』

 

 参加者の一人が手を挙げる。

 

「この犬の異常行動は……? 彼女から念能力などによる何らかの影響を受けた可能性はありますか?」

 

「これはマウンティングと言い、喜びを表す犬の行動だ。また、自分よりも下位の者に対する序列誇示でもある。これ自体は飼い犬にもみられる自然な行動だが、この犬が何らかの能力の影響下にないとは言い切れない根拠がいくつかある。それについては後で詳しく述べよう」

 

 質疑応答が行われているうちに動画は終わっていた。アンダームは無慈悲に映像を巻き戻す。シックスがカメラを止める直前で一時停止させた。間近まで接近したシックスの今にも泣き出しそうな顔がはっきりと映っている。

 

 スクリーンにその映像と、別窓で開かれた異なる映像が投写された。それは暗黒大陸遠征の際に記録された機密資料だ。そこには調査団が現地で接触した『クイン』の姿が映っていた。シックスとクイン、二人の人相を照合したデータが表示される。

 

「解析の結果、この二人は99%の確率で同一人物であると確認された。その報告を受け、政府は内密にこの第六災厄対策室を立ちあげた。このシックスと名乗る人物が『クイン』と同一人物であることを前提として、その総合的な対応を任された実行機関という扱いになる」

 

 要するに、丸投げ。自分たちが連れて帰ったのだからお前たちで何とかしろという理由からアンダームが責任者に選ばれたことは明白だった。もちろん、彼の手腕は期待されているし、政府からは多大な活動資金や人的援助があることはあるが、全ての計画立案とその実行は対策室に一任されている。

 

「が、その前提からして定かではないことをこの場で諸君らに話しておこう。『シックス』と『クイン』は別人である可能性がある」

 

 アンダームは直にクインと接触した経験を持つ。その彼から言わせてもらえば、二人は似ているようで明確に異なる人物だ。性格の違いは変化が生じたものとして説明できなくはないが、動画で観察できたオーラまではごまかせない。シックスの身体を覆う『纏』はクインと比べて大きく練度が劣っていた。まるで念を覚えたての未熟者のように洗練されていない。

 

 だが、別人だとすればそれはそれで大問題だった。最新鋭機器による解析を欺くほど全く同じ容姿をした人物が二人生じていることになる。偶然という言葉では到底受け流せない。考えられる可能性が、考えたくない恐れが頭に浮かぶ。

 

 クインはキメラアントを携えていた。彼女が扱う能力とキメラアントの関係性については不明な点が多い。だが、その生物としての特徴を端的に表すとすれば『食べる』そして『増える』。他生物が備える優れた特徴を食べることで取り込み、爆発的な速度で増殖する。

 

 もしクインが『増えた』のだとしたら、想像せずにはいられない。『シックス』は6を表す言葉だ。それが単純に、生まれた順に与えられた番号なのだとすれば。

 

「このシックスはいかにして生まれたのか。彼女たちは調査船に潜み、海を渡ったのか。それとも別の経路で暗黒海域を抜けたのか。この時期にメディアへ露出した意図とは何か。調べなければならないことは山ほどある。だが、我々が真っ先に取り組まねばならないことは……」

 

 アンダームは恐怖していた。壇上に立つ彼は威厳を保ち、少しの動揺も見せていないが、内心では逃げ出したいと一心に思っていた。この恐怖は本当の地獄を味わったものにしか理解できないだろう。災厄(リスク)とは、人間が手を出していい領域にあるものではない。何を置いても関わってはならない真の絶望だ。彼が半壊した調査団と船をどうやって祖国まで導いたのか、とても言葉では言い表せない苦難があった。

 

 どうして自分はこんな目に遭うのか。こんな立場を負わされているのか。怒り、罵倒し、呪い、しかし、それでも彼は逃げなかった。なぜなら、それが生涯をかけて演じ切ると誓った『アンダーム』という男だからだ。

 

「シックスと接触を図る。そして、彼女を『保護』する。ネット上の情報を集めるだけでは限界がある。直に彼女と会わなければ先へは進めない」

 

 サヘルタ政府がシックスの存在に気づいたとき、既に動画投稿時から3週間ほどが経過していた。まさか災厄の容疑者がアイチューベで堂々と活動しているなど思いもよらなかったのだ。クインの情報についてはごく限られた上層部の人間にしか知られていなかったことも発見が遅れた一因である。

 

 投稿された動画はその後、シックス本人の手によってすぐに削除されている。なぜ削除するような動画を一時的にとはいえ投稿してしまったのか。様々な理由が考えられるが、気が動転していたことによる誤操作という説が有力視されている。

 

 そんな動画を対策室はなぜ入手することができたのか。それは無断転載された同じ動画がいくつもネット上で確認できたからだ。どうやら投稿されてから削除されるまでのわずかな時間のうちに動画のデータをダウンロードした者がいたらしい。本人の了解なく動画を転載することはサイトの規約違反に当たり、これらの動画は順次削除されていったのだが、消されても別の誰かが投稿するといういたちごっこに陥っていた。

 

 アイチューベだけでなく他の動画共有サイトでも転載されていた。その悪質極まりないネットユーザーたちの行動に、いったい何がそこまで彼らを突き動かすのか、対策室の面々は理解できなかった。転載動画にはおびただしい数のコメントが寄せられている。単にシックスの愛らしい容姿を褒めるコメントもあるが、それを圧倒的に上回る勢いで意味不明のスラングで満ちたコメントが溢れ返っており、捜査班を困惑させた。

 

 純粋なファン、否定的な態度を取る者、この騒動に便乗して騒ぎたいだけの者、そういった多種多様な思惑を持つ者たちがインターネットミームを持ち込み、転載動画のコメント欄は混沌とした異様な環境と化していた。新手の念能力による攻撃を疑ったほどだ。

 

 この騒動により良くも悪くも、彼女の知名度は高まったと言える。その後、いくつかの動画をアイチューベにアップロードしていた。その内容は最初に投稿した動画とは打って変わって、虫の採集や動物とのふれあいをメインとしたものになっている。

 

 雪深い野山を駆け回り、野生の狼の群れを撮影、さらにその群れに単身で接近していく動画が話題となっていた。一般人から見れば命知らずの狂行であり、見世物としてはインパクトがあったのだろう。その動画以外にも野生動物とは思えないほどシックスに懐く動物の様子が記録されており、これは念などの特殊な能力による影響を疑われている。

 

 これらの撮影が行われたと思われる国は特定されていた。既に現地には捜査員が派遣されているが、シックスの足取りはつかめていない。どこか一か所に定住せず、常に移動しているものと思われる。

 

「現状において唯一彼女と接点を持つことが明らかな人物がいる。彼女と同じくアイチューバーとして活動しているポメルニ氏だ。しかし、捜査班はまだ彼とのコンタクトが取れずにいる」

 

 シックスをアイチューバーとして擁立したポメルニは彼女の行方を捜索する上で鍵を握る人物と言える。彼がシックスに渡したとされるスマートフォンは、ポメルニが懇意にしている世界的電子機器メーカーのベンチャー企画部が独自に改造を手掛けた特別製で、使用された形跡を追うことも難しい。ポメルニはシックスと連絡が取れるかもしれない唯一の人物だった。

 

 当然、真っ先に白羽の矢が立ち、捜査班はまず彼と会おうとした。だが、その試みは失敗に終わる。面会を断られたのならまだ打つ手はあったが、それ以前の問題だった。

 

 ポメルニの消息がわからない。ある日を境にして、それまで毎日のように投稿されていた彼の動画はアップされなくなった。事務所も、彼の行方を把握していない。こんなことは初めてだという。

 

「考えられる最悪の可能性をあげるとすれば、我々と同じようにシックスの所在を探しているものがいる。そしてその者たちは、非道な手段もいとわない愚か者だと言うことだ」

 

 シックスの正体を知る勢力はサヘルタだけではない。遠征調査に同行した特別渡航課、そしてそれらを取りまとめる国際組織許可庁もまた、シックスを野放しにはしておかないはずだ。部隊同士の戦闘も視野に入れた作戦を用意しておかなければならない。

 

 災厄への対処からして未知数の危険を伴うというのに、敵対勢力との抗争にまで発展する恐れがある。だが、悪い知らせばかりではなかった。シックスと接触を図る絶好の機会が訪れようとしていた。

 

「近日、ポメルニ氏を始めとしたトップアイチューバーが一堂に会する大規模なオフ会が開催される」

 

 オフ会とは、ネット上で情報を発信する者たちが現実で実際に会う交流会を指す言葉だ。この大規模オフ会は毎年開催されている定例行事らしく、ポメルニと公式チルドレンが全員参加することが恒例となっている。

 

「このオフ会にシックスが参加表明を発表している。彼女が会場までやって来る可能性は高い」

 

 この好機を、足踏みしたまま見過ごすわけにはいかない。しかし、彼女との接触は事態の進展を意味している。その結果どのような未来が訪れるか、誰にも確たる予想はできない。

 

 人類は何事もなく明日を迎えることができるのか。それとも、波乱の道が幕を開けるか。このオフ会が世界を動かす契機となるかもしれない。

 

「頭が痛くなることばかりで諸君らには心労をかける。だが、一つだけ心得てほしい。ここは第六災厄対策室と名付けられているが、我々が対応するシックスという存在は災厄“ではない”」

 

 災厄とは彼女が持つ能力のことであり、彼女本人はただ一人の人間だとアンダームは言った。

 

「動画を見ればわかるだろう。彼女は我々とそう変わらない感性を持っている。本当に人間であるか否か、それは然したる問題ではない。例えば人類が長い歴史の中で、魔獣と友好を結んだように、我々は分かり合うことができる。我々が目指すべき関係は排除や支配ではなく、友好だ。それを忘れないでほしい」

 

 会議は終わった。全員が立ち上がり敬礼する。その胸に静かなる決意を灯し、偉大なる合衆国を守り、ひいては世界の守り手となることを実感していた。

 

 

 

 ―――――

 

 シックスまとめWiki

 

 

 ●人物紹介

 

 

 ・概要

 

 女性アイチューバー。ポメチル十傑衆・十一番将・シックス。

 ポメルニが公式ポメチルの新人起用をツイートしたその日のうちに鳴り物入りで投稿されたデビュー動画が物議をかもし、無断転載と削除合戦が繰り広げられる祭りに発展した。ポメルニが火消しに奔走したことが油を注ぐ結果となり、祭りは加速。本スレ(通称・銀じゃがスレ)が1日で15スレ消費される事態となった。

 祭りの収束後、活動を再開。動物とのふれあいをテーマとした動画をアップしていたが、次第に過激な内容にエスカレートしていき、ガチハンター系投稿者になりつつある。狼に育てられた少女の異名を持ち、野生動物を手なずける力(野生力)を持つ。ただし、犬には負ける。

 名前と容姿以外の情報が明らかになっておらず、謎が多い。小学生高学年から中学生くらいの年齢に見えるが、平日の昼間に動画を投稿している。デビュー動画ではわざわざ屋外の路地裏で卓上コンロまで用意して撮影していたあたり、深い闇がうかがえる。

 次なる料理動画の投稿を熱望するファンは多い。

 

 ・性格

 

 非常に寡黙でミステリアスな雰囲気を持つが、緊張すると挙動不審になる。カメラの前では緊張することも多いが、野生力を発揮し動物たちとふれあうシーンでは時に熱い冒険特攻魂を披露している。おそらく人とコミュニケーションを取るのが苦手で、ネット上の反応を求め、過激な動画撮影に挑もうとする悲しきアイチューバーの宿命を背負っている。

 

 ・外見

 

 銀色の長髪が特徴的な美少女。芸能事務所にスカウトされてもおかしくないほどの恵まれた容姿から繰り出される体当たり動画の迫力が魅力。部屋でぬくぬくと生配信しながら囲いを侍らせる女性配信者とは野生力が違う。

 撮影時の服装はいつも変わらず同じ服を着ている。しかも、汚れの形跡から見て一回も洗濯されていない。洗ってない犬みたいな臭いがしそうと言われている。銀じゃがスレにはこの服一式を手に入れるためなら全財産を払っても構わないという猛者もいる。

 

 

 ●その他の人物

 

 

 ・銀じゃが民

 

 銀じゃがスレの住民。由来は諸説あるが、デビュー動画に付けられたコメント「生のジャガイモ食っただけで5000万再生稼いだ銀髪美少女」から。初動で起きた祭りの影響でシックスをおもちゃ扱いする住人も多いが、概ねファン。というか、変態の集団。

 

 ・じゃがバターくん

 

 シックスの野生力によって作り出された硬派なじゃがバター。誰が何と言おうとじゃがバター、完成です。狼藉犬の乱入により、ついに実食されることはなかった。

 

 ・狼藉犬

 

 シックスの野生力をもってしても制御しきれなかった最強の宿敵。別名、俺ら。銀じゃがスレによく出没し、シックスに対するドス黒い欲望のたけをぶちまけていく。

 

 

 ●名言集

 

 

 ・『シックスです』

 

 動画の冒頭で行われる恒例の挨拶。多くを語らないその簡素さが黒幕感を醸し出している。基本的に彼女が撮影の途中において言葉を挟むことはないため、このセリフのみで動画が一本終わることもある。

 ニヤニヤ動画に転載された動画では、親切なクソデカ赤字兄貴たちが画面を埋め尽くす勢いでシックスの心理描写を解説してくれるので、初心者でも安心して視聴することができる。

 

 ・『完成です』

 

 じゃがバターが完成したときに言い放った一言。銀じゃがスレでは、このセリフと共に大量の未完成じゃがバターくんAAが投下された。

 

 ・『食べます(宣戦布告)』

 

 完成したじゃがバターを前にして発した堂々たる宣言。焼きたてを躊躇なく素手でつかむ野生力の高さを見せつけた。

 

 ・『ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!』

 

 狼藉犬がシックスに馬乗りになったとき発した荒々しい息使い。銀じゃが民が興奮したときも同様の反応が見られる。『やめろおおおおお!!』とレスを返すまでがテンプレ。

 

 ・『ちぇけら』

 

 動画の最後を締めくくる挨拶。言わないこともある。もともとはポメルニが自身の動画で使っていた締めのセリフであり、多くの量産チルドレンが真似して使っていたことから良い印象は持たれていない。が、シックスの取ってつけたような決めポーズと舌っ足らずな口調がファンのハートをわしづかみにした。かわいいは正義。

 しかし彼女の動画の雰囲気に合っていない、他投稿者の影をちらつかせるなという意見を持つ、ちぇけら要らない派が出現し、ちぇけら要る派との熾烈な論争が勃発している。

 

 




本スレの様子が見たいという方は37話の感想欄をご覧ください。読者の皆さまのおかげで立派な銀じゃがスレと化しました! ありがとう! 各話ごとの感想を個別に表示できる便利な機能が実装されましたのでご利用ください。

また、イラストでも銀じゃがスレの様子を描いていただきました!
鬼豆腐様より

【挿絵表示】




アンダームが動画に映ったシックスのオーラを観察している部分について、原作と食い違う表現になってしまったため補足します。

天空闘技場編でヒソカ対カストロ戦を撮影したビデオを視聴するシーンがあり、そこで映像にオーラが映っていたことに関する解釈として、

①オーラはカメラで撮影可能だが、念能力者にしか見ることができない。

②オーラはカメラで撮影できないが、念能力者は何らかの方法で見ることができる。

③このビデオは念能力などの特殊な撮影方法によってオーラを記録している。

情報提供していただきまして旧アニメでは操作系の念能力者が撮影していたことが確認できました。そのため③の説が有力だと思われるのですが、この作品では②の説を採っています。映像から脳内補完でオーラを把握するというのはちょっと強引な独自設定かもしれませんが、霊能力者が心霊写真を見て映っている霊の詳細を言い当てるような感覚でしょうか…?


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38話

 

 スマートフォンの電源を入れた。ホーム画面に新着メールの通知があった。急いでメールボックスを確認する。そこにあったのは『ルアン・アルメイザ』という名前だった。

 

 ため息をつく。またこいつか。メールを開くと案の定、そこには解読不能の文字化けした文面が並んでいた。

 

 最近、スマートフォンの調子がおかしい。画面がよく文字化けを起こす。そして、いつの間にか連絡先リストに登録されていたこのルアンという人物からたびたび意味不明のメールが送られてくるようになった。削除して着信拒否しても効果がない。

 

 ウイルスが入ったのだろうか。ちゃんとセキュリティソフトも入っているし、変なサイトにアクセスもしていないはずなのだが。携帯ショップに修理を頼んだのだが、サポート対象外と断られてしまった。仕方がないので自分で調べてフォーマットするなど色々と試してみたが無駄だった。素人知識では対処に限界がある。

 

 このスマートフォンは一般販売されている機種ではないようだ。これを渡してくれたポメルニが言うとおりの特別製で、まず彼に話を通さなければどうにもなりそうにない。しかし、そのポメルニとも連絡が取れない状況が続いていた。

 

 私がアイチューバーとして活動を始めてから一カ月余りが経つ。怒涛のような一カ月だった。自分自身、その反響を正面から受け止めきれずにいる。

 

 私が誤って投稿してしまった最初の動画は荒れた。すぐに削除したにも関わらず、転載動画が次々に投稿され、どうすることもできなかった。どうせこんな低クオリティの動画誰にも見られないと思っていた私の認識は甘かった。

 

 公式ポメルニチルドレンという立場はそれだけ大きかったのだ。なのに、その期待を裏切るような動画をアップしてしまったために怒りを買ったのだろう。アイチューバーとしてやっていく夢は粉々に打ち砕かれた。

 

 だが、私は現在も活動を継続できている。立ち直れたのは、ポメルニのおかげだ。もう無理だと諦めていた私は、電話で何度も彼に励まされた。こんな騒ぎは一時的なものに過ぎない。お前の才能はここで潰れるほど安いものじゃない、と。

 

 アイチューバーとしての才能なんてあるわけがない。それは身にしみてわかっていた。だが、彼の期待をこれ以上裏切りたくないという一心で動画投稿を続けた。そのおかげで今や、私も立派なアイチューバーとして名の知れた存在となっている。

 

 ……なんて、大団円で話が終わるはずがなかった。名が知られたといってもそれは悪評みたいなものだ。再生数こそかなりの数になっているが、視聴者はその悪評に釣られて集まっているようにしか見えなかった。

 

 私が投稿している動画のコメント欄の荒れ方はまだマシな方で、転載動画については怖くていまだに確認できずにいる。エゴサーチすればネット上における自分の正確な評価がわかるのかもしれないが、そんなことする勇気はない。

 

 結局、再生数が増えたと言っても、それは私の動画が面白いからという理由ではないのだろう。公式チルドレンという称号あってのものだ。ポメルニの世話になりっぱなしである。

 

 それでも自分にできる面白い動画撮影とは何か、必死に考えた。他の人と同じようなことをやっていたのでは目を向けてもらえない。私だからできること、私にしかできないことを動画にしたい。

 

 そうして思いついたのが、動物をテーマにした動画だ。犬や猫など、かわいらしい動物を撮影した動画は人気ジャンルの一つである。そして、私にはなぜかわからないが動物を引きつける謎の体質があった。これを利用すれば他にはない動画が作れるのではないかと考えた。

 

 普通なら警戒して近寄ってこないはずの野生動物とも難なく触れ合うことができる。むしろ、人間に慣れたペットなどはこちらの事情などお構いなしにすり寄ってくるので、その点、ある程度の距離感を保ってくれる野生動物の方が接しやすいと言えた。

 

 野生の狼の群れの撮影に成功した動画は人気を博したが、ポメルニからは危ないことは止めろと注意を受けてしまった。私にとっては平気な行為でも、何も知らない人が見れば危険に感じる。実際、そのスリルを狙って投稿している思惑はある。

 

 ポメルニが善意から心配して注意してくれたことはわかるのだが、この件に関しては彼の意見を突っぱねてしまった。申し訳なく思う部分もある。しかし、ようやく見つけたアイチューバーとしての糸口を失いたくないという気持ちが強かった。

 

 まだまだ軌道に乗ったとは言い難い状況ではあるが、少しずつちゃんとしたファンも増えてきているように思う。だが、そんな私が直面した次なる試練があった。

 

 オフ会である。

 

 クリスマスが近く迫ったこの時期、毎年アイチューベや関連事業者が共同開催しているファンイベントが待ち構えていた。ポメルニと公式チルドレンが集結する夢の大オフ会。そう、公式チルドレンも参加対象となっているのだ。

 

 半ば強制参加のような行事だが、無理を言って断ることもできた。最初は断る気満々だった。自分の動画のコメント欄もまともに直視できないほどのメンタルでこんな一大イベントの舞台に立つなど、想像しただけで卒倒しそうになる。

 

 だが、今回のオフ会は例年とは異なる、不穏な開催情報が流れていた。アイチューベがポメルニの不参加を表明したのだ。彼が一番のビッグゲストと言っても過言ではないこのイベントが主役不在のまま開催されようとしている。しかも、今年は彼のデビュー5周年を記念するオフ会で、ひと際盛大にとりおこなわれる予定となっていた。

 

 アイチューベやポメルニの事務所は明言を避けているが、彼の身に何事か起きているのではないかとネット上では話題になっていた。毎日のように投稿されていた動画も更新が途絶えている。私も彼と連絡を取ろうとしたが、電話はつながらなくなっていた。

 

 そんなある日、唐突にポメルニからメールが届いた。内容は、年末オフ会に私の参加を促すものだ。しかも、参加しなければ公式チルドレンの称号を剥奪した上、二度とアイチューベで活動できなくするという脅迫まがいのことが書かれていた。

 

 普段の彼であれば言いそうにないメールの内容に困惑しながらも、ひとまず彼の安否を確認した。相変わらず電話はつながらなかったが、メールでの返信はあった。彼は心配はいらないと言い、ごたごたに巻き込まれているが年末オフ会には参加する、だから私も必ず参加するようにと伝えてきた。それを最後に、再び音信は途絶えている。

 

 やはり、彼の身に何かあったのではないだろうか。素直に無事を喜ぶことはできなかった。私はオフ会への参加を決心する。会場で何事もなく無事な様子を見せてくれればそれでいい。そこで直接彼の姿を見て、確認しなければ安心できない。

 

 そう決心したはずなのだが、ここに至りその決意は早くもくじけそうになっていた。今日はオフ会当日。その会場へ行くため、私は空港に来ていた。いや、正確に言うなら私を迎えるために会場が空港へと来ている。

 

 世界最大級の大きさを誇る超巨大遊覧飛行客船スカイアイランド号。まさに島の名を冠するにふさわしい雄姿が待合室の窓からでも確認できた。数万人規模の乗客が宿泊可能で、多種多様な娯楽商業施設を完備し、コンサートホールだけでも三つ入っているという。

 

 それが1泊2日貸し切られてのオフ会となる。しかも、参加費は無料。抽選で2000人に招待チケットが配られている。このチケットは恐ろしい高値で転売されており、入手はとてつもなく困難とのこと。気が遠くなる話だ。

 

 生まれて初めての空の旅、しかし心躍るような気分ではない。ここまでくる足取りは重く、指定された乗船時間ぎりぎりになってしまった。早くしないと置いていかれる……ことはないと思うが、多大な迷惑をかけることになるだろう。

 

 乗船前に自分の身なりをチェックする。服装は今までと同じく、シロスズメ島で入手したものを着ている。新しい服を買えるだけの電子マネーは広告料としてスマホに入っている。買い換えようとも思ったのだが、どうもこの服かなりの値打ち物らしい。ただの古着としか思っていなかったのだが、高額で買い取りたいというコメントが多く寄せられていた。

 

 容姿と同じく、人間のファッションというものも今の私には理解しがたい領域である。ネットで調べたところ、どう見ても廃棄寸前の穴だらけでボロボロのジーンズが数十万で取引されていたりした。私の服もそういうヴィンテージというやつなのだろう。そう思うと、なんだか古き良き味わいがある気がしてきた。

 

 さすがに汚れが目立ってきたので川で洗濯しておいた。たぶん、これで人前に出ても恥ずかしくない格好になったはずだ。前と違うところと言えば、小さなリュックサックを背負っている。これは虫本体を入れておくためのものだ。いつまでも服の下に忍ばせていたのでは逆に怪しまれることもあるだろう。人前に姿をさらす機会が増えればなおさらだ。

 

 さすがに無関心モードで誰にも気づかれず乗船手続きはできない。受付の人に話しかけると、すぐに搭乗口まで案内してもらえた。事前に保護者の同伴や身分証の用意ができないと運営に伝えており、細かく説明せずとも向こうが色々と察してくれたおかげでこちらが特に準備しておくことはなかった。

 

「では荷物のチェックを行います」

 

 変な声が出そうになるのを抑える。このまま素通りできるものと思っていた。検査員の男に助けを求める視線を送る。

 

「かばんの中を見せてね」

 

 アイコンタクト失敗。ここで拒否すれば怪しまれるだろう。私はできる限り平静を装ってリュックサックの中身を取り出した。

 

 中に物は一つしか入っていない。それはクマのぬいぐるみだった。こんなこともあろうかと、ぬいぐるみを用意してその中に本体を忍ばせていたのだ。これで見た目だけなら、ただのぬいぐるみにしか見えない。

 

「少し確認させてもらえるかな」

 

 検査員が手を伸ばしてきた。まずい、触られたらバレる。ぬいぐるみの綿を抜いて本体を突っ込んでいるだけだ。触れば中に何か入っているとわかるし、持っただけで明らかに重さが異常だと気づかれる。

 

 そうなれば不審物を船内に持ち込もうとしている怪しい乗客の出来上がりだ。正体不明の不気味な虫らしきものを見逃してくれるはずがない。

 

「だ、だめ……」

 

 私はクマのぬいぐるみを抱きしめ、検査員の男を見つめた。ふるふると首を横に振って引き渡しを拒否する。泣き落としだ。もうこれしかない。頼む、諦めてくれ……。

 

 男は困ったように笑うと無線でどこかに連絡を取り始めた。どうやら私の処遇について上にかけあっているらしい。これはいけるかもしれない。

 

「はぁ……本当に心苦しいんだが、なぜか検査の警戒レベルが引き上げられていてね。チェックしないわけにはいかないんだ。大丈夫、君のクマさんにひどいことなんかしないよ。ちょっとお兄さんに渡してくれないかな?」

 

 駄目だった。かと言って、ここで逃げ出せばもっと怪しまれる。万事休す。それでも中を見られるくらいなら逃げた方がいいのではないかと考えたそのとき、騒がしい声が後ろからこちらに近づいてきた。

 

「あ――っ! シックスちゃんだああああ!!」

 

 驚いて振り返ると、二人組の男がいた。いや、男女だろうか。一人は中性的な顔立ちで性別がわかりづらいが声は女性っぽく聞こえる。もう一人の男は左目に眼帯をつけていた。

 

「本物のシックスちゃんだよ! やべぇ、あたし写真撮っていい!?」

 

「お客様! こちらは現在立ち入り制限がされておりまして!」

 

「はあ!? なに言ってんの、あたしらオフ会のチケットもってんだよ、ほら見ろ! ちゃんとあるだろうが!」

 

「いえ、ですから一般のお客様は別の搭乗口からご入場いただけますので……」

 

 検査員の制止を一切気にせず、ずんずん近づいてくると私の手からぬいぐるみを取り上げてしまった。あっけに取られて、あっさり手放してしまう。

 

「なにこのぬいぐるみ! かわいいいいい!!」

 

 しかし、そこから起きたことはさらに私を驚愕させる。流れるようなスピードで女はぬいぐるみから本体を取り出すと、私のリュックサックの中に突っ込んだ。検査員にバレた様子はない。もう一人いた男が検査員から見えないように死角を作って、そこで一連の動作は素早く行われていた。

 

「あっ、ごめーん! なんか壊れちゃった!」

 

 あははと笑う女の手から検査員がぬいぐるみを取り返す。首が外れかけて綿が飛び出している。その穴はもともと本体を入れるために私が破った箇所で、適当に縫い合わせてくっつけていた部分だ。

 

「なんてことを……! あなたたち、こんな小さな子供からぬいぐるみを取り上げて壊すなんて、人としての常識はないのか! 警備員、来てくれ!」

 

 検査員がしきりに謝りながらぬいぐるみを返してきた。呆然とそれを受け取り、搭乗口の奥へと歩き出す。

 

 今のは何だったのか。あの二人組はシックスのファンだったのか。だが、あまりにも行動が不可解だ。まるで最初から何か知っていたかのように、彼らの行動には淀みがなかった。

 

 結果から見れば助けられたのだろう。私は荷物チェックをすり抜けて本体を持ち込むことができている。今も二人組の男女は検査員を相手に言い争いを続けている。おそらく、私の方へと検査員の注意が向かないように引き受けてくれたのだ。

 

 もう何がなんだかわからない。これから始まるオフ会のことだけでも頭がいっぱいだというのに、それに加えて意味深な男女二人組の登場。キャパシティを超えた頭は思考を放棄し、私はとぼとぼと飛行船へ向かうことしかできなかった。

 

 

 * * *

 

 

 第六災厄対策室はサヘルタ政府の密命を受けて結束された秘密組織だ。その存在も、全ての作戦行動も表沙汰にすることができない。相手が誰であろうと、水面下で秘密裏に対処する必要がある。第六災厄の存在は他国に知られてはならない事情があった。

 

 このことが世界に露見すれば、事は合衆国が災厄を持ち帰ったという責任問題にとどまらなくなる。なぜなら、サヘルタの第二次暗黒大陸遠征はV5首脳会談の承認無しに行われた、歴史上に記されてはならない事実だからだ。

 

 これまでに五大陸の主要国家は暗黒大陸への渡航を幾度も行ってきた。条約で禁止される以前からその危険性は古の歴史の中で伝えられてきた。にもかかわらず、リターンに目がくらんだ人類はリスクを持ち帰る危険を承知の上で渡航を繰り返したのだ。

 

 その暴挙は実際に災厄を持ち帰り、危険性が真に認知されるまで続いた。V5は主要各国の渡航に歯止めをかけるため、条約内容をより厳格に定め直す。許可庁はその条約を守る監視役を担っていた。そんな状況で、サヘルタ合衆国は二度目の遠征を敢行した。

 

 対外的には人類領海域を越えた先にある未開領域の調査という名目になっている。そのさらに先にある暗黒海域にまで進出する予定はなかった。そのように見せかけた上で、監視役である特別渡航課を味方に取り込むことでV5を欺き、暗黒大陸への切符を手にしたのだ。

 

 許可庁は力を持ちすぎた。もともとは国連の内部組織の一つに過ぎず、その強制力は加盟国の主権から生じるものでしかなかった。実質的に強制力などないに等しい。それが災厄という人類を滅ぼしかねない脅威に直面することで一変する。災厄の調査、研究を統括する一大機関として成長し、その管理に失敗した場合に備えて独立した軍事力を有するまでになった。

 

 これは避けることができなかった部分もある。国家とは、自身を構成する肉体(国民)のためなら他者の犠牲を、時には自分自身の犠牲さえいとわない側面が必ず存在する。自国の利益のためなら世界滅亡の危険を無視してでも手に入れたいと願う欲望の獣だ。それは五大災厄を持ち帰ったという歴史が証明している。

 

 暗黒海域の門番がなぜ何度も戒めとして災厄を持ち帰らせたのか。さもありなん、それほど人類は愚かで学習しなかったからだ。まるで彼らが人類を滅ぼすために仕組んだかのように主張する者もいるが、それは全くのお門違いである。むしろ良心的な対応であると言えよう。

 

 その国家という強大な獣たちを抑えつけ、渡航を阻む首輪をつけるためには力を持った監視役が必要となる。大国の意見が幅を利かせる従来の国際連合では不可能だった。その結果、許可庁はV5の支配から独立した機関となるために力をつけた。

 

 だが、所詮はその許可庁も人間が構成する組織に他ならない。始めは人類の滅亡を防ぐという崇高なる目的のために結成されたのだとしても、膨れ上がった権力はじわじわと内部を腐敗させていく。だからこそ、サヘルタの第二次遠征は見逃されたと言えた。

 

 それだけサヘルタの遠征には期待がかけられていた。ヌタコンブの生息海域を航行できる船の開発に成功し、恒常的に暗黒大陸と人類生存圏を結ぶ航路を確立する。その計画に許可庁が一枚噛むことで、莫大な利益を横からかすめ取ろうとした。

 

 航路が確立されればいずれ、この不正な遠征については真実が露見するであろうことは予想されていた。しかし、その圧倒的な功績をもって各国の不満は抑え込まれることになるだろう。許可庁やサヘルタの機嫌を損なえば、この安全な航路を使わせてもらえなくなる。そうしてさらに世界に対する影響力を強化するはずだった。

 

 しかし、その目論見は失敗に終わった。絶対に安全な航路など、その海には存在しないということを理解させられた。サヘルタと許可庁は条約違反の共犯者として、この事実を公表するわけにはいかなくなった。第六災厄の存在もまた、闇に秘される必要がある。

 

「つーわけでよ、仮にこの船に許可庁の人間が潜入していたとしても、派手にドンパチやるようなことはない、って認識でOK?」

 

 ここはスカイアイランド号の船内においても最大の面積を誇るメインアリーナ。そのスタジアムではサッカーの国際大会が開かれるほどの広さがある。ここが船の中とは到底思えないと、チェルは驚きを通り越して呆れていた。

 

 第六災厄対策室、特別捜査員チェル=ハース。中性的な顔立ちと体格の良さから一見して性別不詳な見た目をしているが女性である。しかし、現在着ている服装は、RPGに登場しそうな騎士を彷彿とさせるデザインをしていた。実際、これは人気大作RPGの主人公をモデルとして作られたコスプレ衣装であり、そのせいで紅顔の美形騎士に見える。

 

「まあ、普通に考えればそうなんですが、なんかきな臭いんですよね。ポメルニ氏の行方不明についても本当に許可庁がやったか確認は取れてませんし、世界的有名人の拉致誘拐とか目立つようなことを向こうさんがやりますかね?」

 

 チェルの問いかけに答えたのは、傍らにいた一人の男だ。同じく特別捜査員トクノスケ=アマミヤ。そのチェルとはまた違った意味で際立ったその服装は独特の民族衣装だった。これはジャポンという国のサムライと呼ばれる騎士階級に似た人々が着ていたものとされる。左目には刀の鍔を紐で結んだ眼帯をつけていた。これもRPGの登場人物を模したコスプレだった。

 

「てか、本当にこれ着る必要あったか?」

 

「任務だから仕方ないでしょう。僕らの顔は割れてるかもしれませんから、変装の意味合いがあるんじゃないですかね」

 

 会場にはコスプレしているファンが溢れ返っており、二人がその中で目立つようなことはなかった。この衣装は船内の店で貸し出されていたものである。

 

「だからってこの服はないだろ」

 

「チェルさんが選んだんでしょ。他にもいっぱい候補はあったじゃないですか。メイド服とか。いたっ!? 無言で突くのやめて!」

 

 チェルがコスプレアイテムの剣(プラスチック製)でトクノスケのわき腹をぶすぶすつつく。もちろんオーラを込めることも忘れていない。

 

「……クイン、あたしらに気づかなかったな」

 

 チェルが手を止め、言葉を漏らした。イベント開始を直前に迎え、馬鹿騒ぎを始める群衆の中で二人の周りだけに神妙な雰囲気が降りる。

 

 最初の任務であるシックスとの第一コンタクトが成功したかどうか、チェルたちにはまだ判別できない。しかし、少なくとも失敗ではない気がしていた。彼女たちは最悪、殺されることも覚悟の上でシックスに接触を図った。

 

 暗黒大陸調査団実行部隊クアンタムの隊員として遠征に同行したチェルとトクは、かの地でクインと名乗る少女と出会った。少女とともに冒険し、共に故国へ帰ると約束した。だが、その約束は果たされることなく、調査団は少女を置き去りにして出航する。

 

 司令官アンダームが下した判断が間違いだったとは思わない。あのとき出航を即決していなければ、調査団は全滅していただろう。だが、少女を見捨てたこともまた事実だった。

 

 船を襲った脅威を前に調査団は為すすべもなく海上で翻弄された。一瞬の隙をついて船は離脱に成功したが、その隙が偶然生まれたものではないことをチェルたちは確信していた。陸地を離れ、沖へと進む船の上で彼女らは夜の闇を切り裂く閃光を見た。何か証拠があるわけではないが、クインが助けてくれたのだと思った。

 

 船が異変に襲われたとき、真っ先に飛び出して行ったのはクインだ。チェルは彼女が持つ無線に連絡を入れた。応答はなかったが、無線からは激しい戦闘音が聞こえていた。クインは最後まで調査団のために戦ってくれたことを知っている。

 

 クインには何度も命を救われた。その恩を返すどころか裏切って、彼女たちは生き延びた。あのとき、クインを迎えにボートを出して海へ出ようとしたチェルは、アンダームに殴り飛ばされ気絶させられた。彼女の自殺行為を止めたアンダームの判断は正しい。だが、チェルは今でも思う。またあの瞬間に戻ることができたのなら、きっと彼女は同じ行動を取ろうとするのだろう。

 

 あの遠征で失ったものはあまりにも大きすぎた。だから、第六災厄対策室が立ち上げられ、アンダームからチェルとトクに連絡が来たとき、二人は心底嬉しかった。少女が映っている動画を見て笑い転げた。そして誰よりも彼女の無事を喜んだ。世界を滅ぼす可能性を秘めた存在と向き合う、その任務に迷いなく応じた。

 

 置き去りにしてしまった後悔を清算する機会を得た。遅くなってしまったが、今度こそ大切な戦友に受けた恩を返したい。もしも恨んでいるというのなら、どんな償いでもする気だった。相手が災厄だからという理由ではなく、自らの罪と向き合い命を賭する覚悟があった。

 

 だが、直接少女と会うことができた今、確かに感じることができた。アイチューバーとしてこの会場に来ている少女はクインではないのかもしれない。アンダームが懸念したとおり、クインとシックスは別人である可能性がある。彼女はチェルたちに対して何の反応も返さなかった。まるで見ず知らずの他人に向けるような目をしていた。

 

「それでも僕らがやることは変わりませんよ。きっとあの子はクインの関係者だ。なら、クインと同じように僕らが守らないと」

 

 かつてクインがそうしてくれたように、今度は自分たちがクインを守る。そのために二人はこの場所にいた。そこには第六災厄対策室から与えられた任務を越えた、決して退くことのできない個人的な理由がある。

 

「なあ、トク。今のクイン……いや、シックスはこの世界で生きようとしている。人間として、人間の中で。じゃなきゃアイチューバーなんてやってないだろう。そこに誰かが手を加える必要なんてあるのか。対策室が言うシックスの『保護』も、結局それって……」

 

「チェルさん、それ以上は」

 

 トクノスケはチェルの言いたいことが理解できた。だが、その上で言葉を制する。災厄という脅威を管理する、その政府の方針は間違いなく正義だ。トクもチェルも、そして人として生きようとしているシックスも、社会の中で何にも縛られることなく生きていくことはできない。

 

「あー、やめやめ! 今は任務に集中すっか!」

 

 ぱんぱんと自分の頬を張ってチェルが気合を入れ直した。それを見てトクも表情を緩める。

 

「そうですよ。チェルさん、最近までアイチューベのアの字も知らなかったんでしょ。大丈夫ですか、ちゃんと怪しまれないようファンになりきってくださいね」

 

「任せろって、しっかり予習済みだ。要するに、シックスちゃんモエー!! とか、言っておけばいいんだろ?」

 

「ふおおおおお……!! もしや貴殿らもシックスちゃんを愛する同志ですかな!? 共に盛り上げて参りましょうぞ! 夢にまで見た生シックスちゃんに会えるのかと思うと小生、胸の高鳴りを抑えきれず……ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!」

 

「なんだこのおっさん!?」

 

 捜査員の二人は自然な演技で群衆に溶け込んでいた。やがて照明が落ち、広大な会場にアナウンスが響き渡る。

 

『大変長らくお待たせしました! それではこれよりアイチューベ年末大オフ会を開催いたします!』

 

 歓声が沸き起こる。打ち上がる花火、煌びやかなイルミネーション、熱狂を掻き立てるBGM、そしてスポットライトのもと舞台の中央に十一人の主役たちが姿を現した。

 

 



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39話

 

 ついにオフ会が始まってしまった。スタジアムの中央に設置された舞台の上に、私を含めた公式チルドレンの面々が集う。その様子は巨大なスクリーンパネルに映し出され、遠く離れた観客席からでもよく見えることだろう。

 

 このオフ会に集まったファンは2000人。会場の大きさに比べればかなり少ないが、そこに投じられた費用を考えれば莫大な金額である。この船を貸し切るだけでも想像を絶するお金がかかるだろうし、招待客は全ての設備利用が無料となっている。ポメルニたっての希望により実現したらしいが、例年に比べれば異常とも言える豪勢なイベントとなっている。

 

 人数は少ないと言っても、会場の熱気は既に最高潮であるかのようだ。お祭り騒ぎする観客の声が舞台まで届いていた。それに比例してシックスの心拍数が上がる中、まずイベントは主役たちの紹介から始まり進行する。

 

「それではこの記念すべき日を彩る最高の英雄たちを紹介しよう! アイチューバーキング、ポメルニより選ばれた11人の精鋭! そのトップを飾るは名実ともにナンバー2アイチューバー、ゲーム実況界の首領(ドン)、キャプテン・トレイル!」

 

「あっ、どもども」

 

 カメラを向けられ、ぺこぺこと頭を下げる男。その頭はガイコツのマスクですっぽりと覆われており、素顔はわからない。彼は主にゲーム実況動画を投稿しており、顔出しは一切していない。

 

 安易に顔出しすれば再生数が稼げるという考え方は間違いだ。ランキング上位陣にはそういった手法に頼らない者も多い。身バレを防ぐという意味もあるが、あまり自己主張をせず視聴者と一歩距離を置くスタンスの方が好まれることもある。

 

 ゲーム実況は母体数だけで言えば全動画中最大の派閥である。あれこれ自分で企画を一から考えずとも取り掛かれる気軽さがあり、そして見に来る人も多い。それだけに競争も苛烈を極め、のし上がることも難しいジャンルである。

 

 そのゲーム実況界隈のトップに君臨する男がこのトレイル。間近で見た感じ、ごく普通の男にしか見えず、身に纏う雰囲気からもスター性のようなものは感じない。顔出しNGならば声が良いのかと言うとそうでもない。人気投稿者の重要なファクターとも言える、いわゆる“イケボ”ではない。

 

 ゲームの腕が良いのかと言えば、確かに上手いがそれはあくまで普通の上級者の域に留まる。彼より上手い実況動画の投稿者はいくらでもいるだろう。では、何が彼をポメルニに次ぐナンバー2と呼ばれるだけの実力者たらしめているのか。

 

 それは“普通さ”だ。言い換えれば、親しみやすさ。ゲーム実況者であれば誰しも悩むところである、『プレイの上手さ』と『動画としての面白さ』の調整が絶妙なのだ。ただ単に上手いだけでは実況動画の魅力は十分に引き出せず、かと言ってぐだぐだともたついたプレイをしても嫌われる。

 

 彼の恐ろしさは、その調整を作為的に見せず自然体で行えるところだろう。初見プレイ、生配信であっても驚くほどストレスを感じさせず、まるで友達と遊んでいるかのような感覚で安心して視聴できる。

 

 ゲーム実況と言えばトレイル。アクション、RPG、ホラー、ジャンルを問わず、彼のプレイングと実況は外れのない老舗の貫禄がある。公式チルドレン発足以来、不動の二位を保ち続ける実績がそれを証明していた。

 

 紹介が終わり、トレイルが席に戻る。そして椅子に座ったとき、クラッカーが弾けたような大きな音がなり、驚いたトレイルは椅子から転がり落ちた。その様子を隣で見ていた男が大爆笑している。

 

「おおっと、早くもこの男がしでかした! イタズラ系アイチューバー、ジャック・ハイ!」

 

「メリークリスマース! 今年もサンタさんが良い子のみんなに素敵なプレゼントをもってきたよー! ぷぷぷぷ……」

 

 サンタのコスチュームを着た背の低い男、ジャックは世界各地を巡り数多くの著名人にイタズラを仕掛けてきたアイチューバーである。そのイタズラは子供でも思いつくようなくだらないものもあれば、テレビ局が企画したような大掛かりなものまで様々である。

 

 そのイタズラにかける情熱はすさまじく、彼のシンパが集まって結成された『ジャック加害者の会財団』が全面的に彼のイタズラをサポートしている。見ている分には面白いが、やられる方からすれば迷惑千万もいいところだろう。

 

 しかし、こう見えて人格者としての一面も併せ持ち、動画の広告利益を含めた全ての収益は財団によって管理され、世界中の恵まれない子供たちへ向けた支援が行われている。彼自身、幼い頃に戦争によって家族を亡くし、天涯孤独の身となった経歴を持っている。

 

 一種のチャリティー企画のような面もあるため、イタズラを受けた著名人は彼の行為を笑って許してくれる者も多い。ただし、だからと言って全てのイタズラが正当化されるわけではなく、ガチギレされて警察沙汰になることもあり、迷惑なトラブルメーカーであることに変わりはない。

 

「続いて、秘境を旅する肉体派ハンター系アイチューバー、ブレード・マックス!」

 

「マーッスルマッスルマッスルマッスル!」

 

 奇妙な笑い声と共に自身の筋肉を強調する大男、ボディビルダーのように精強な肉体を持ち、探検家が着ているようなサファリジャケットはボタンが吹き飛びそうなほどパツパツになっている。なぜもっとサイズに余裕を持たせないのか。

 

 アイチューベには、再生数目当てに常人では真似できないような危険を伴う行為を動画とする者もいる。公序良俗に反するような過激な内容は自粛されるべきものだが、中には専門的な技術や知識をもって撮影に当たる投稿者もおり、明確な判断基準があるわけではないが、それらはハンター系と類されている。

 

 ハンターとは私にとってあまり耳に心地良い言葉ではない。あのモックが自称していた職業でもあるからだ。しかし、ネットを使ってその実態については調べがついていた。

 

 どうやら単なる猟師のことを指す言葉ではなく、国際的な影響力を持った資格であるらしい。世界で最も稼げる仕事だとか、人間を止めた超人集団だとか、ネットでは様々な噂が飛び交っていた。試験倍率も毎年数百万倍に達するという。

 

 そのハンターにならなければハンター系動画を投稿できないというわけではない。あくまで一般人の感覚から見た“ハンターっぽい”動画を表す言葉である。しかし、ブレードの場合は正真正銘の資格を持つプロハンターだった。

 

 彼は危険生物が生息する秘境を冒険し、その実態を動画にして投稿している。見た目に反して、生物学的、地質学的知識に富んでおり、珍しい生き物の生態などを詳しく解説してくれる。

 

 プロハンターならアイチューバーになどならなくても楽に大金を稼げるはずだ。なぜ彼がわざわざ動画を投稿するようになったのか。それは、秘境に隠された美しさを多くの人に知ってもらいたいという志からだ。

 

 人知を超える進化を遂げた生物の多様性、そして自然が作り出した雄大な景色の造形美。彼の動画はそれらを余すところなく記録したドキュメンタリーとなっている。

 

 私が最近投稿し始めた野生動物動画もハンター系と呼ばれているが、ブレードのものと比べれば……いや、比べるのもおこがましい出来である。実際、その着想自体が彼の動画から得たものであり、はっきり言ってパクっただけだった。

 

 こうして本人を目の前にしてみると、その体から溢れ出る力強い生命力の気配と言い、濃厚過ぎるキャラクターと言い、とても対抗できそうにない。軽く落ち込む。

 

「お次は奇跡のヨガマスター! ダンス系アイチューバー、J・J・J・サイモン!」

 

「喜びのダンス踊るべ」

 

 ドレッドヘアをした黒人系の男は自分が座っていた椅子の上で跳び上がり、なんとその背もたれの上でアクロバットなダンスを踊り始めた。

 

 ダンス系や踊ってみた系と呼ばれるこの手のジャンルは、踊り手のビジュアルも重要な要素だが、何と言ってもダンススキルが物を言う世界である。その頂点に立つサイモンの技術はもちろん一流だが、彼の特徴はそれだけにとどまらない。

 

 彼はアイジエン大陸において古の文化が色濃く根付く中東諸国を旅し、ヨガの修行に心血を注いだと言われている。古くから伝わる呼吸法や医療マッサージ、古代武術などを独自に研究し、それを現代風のダンスと融合させた新境地『3Jフラッター』を開拓した。

 

 “かっこよく踊りながら健康になれる”のコンセプトのもと、初心者から上級者まで幅広く取り組めるダンス講座動画を投稿している。これがダイエットに劇的な効果があるとメディアで大々的に取り上げられ、一躍知名度が上がった。

 

 その他、筋肉の凝りや歪んだ骨格の矯正、腰痛、関節痛、内臓機能の活性化、アンチエイジングなど様々な医療的効果が注目され、3Jフラッターを取り入れたエアロビクスが普及。彼は、今や若者からお年寄りまで世界的に認知されるダンサーとなっている。

 

「さあ続いては、もう既に黄色い歓声が沸き起こっているぞ! アイドル系アイチューバー、ノア・ヘリオドール!」

 

「みんなー! ありがとー!」

 

 彼がさわやかな笑顔で観客席に手を振れば、女性ファンの歓声はさらにヒートアップした。トップクラスアイチューバーかつアイドル系投稿者の名が示す通り、彼の容姿は非常に端整、らしい。彼が持つ経歴もなかなかに凄い。

 

 もともとは歌ってみた系投稿者として活動していたようだ。高い歌唱力を持つ実力派として多くのファンがいたが、その頃はまだ顔出しをしていなかった。爆発的な人気を得たのはそれから数年後のことである。

 

 彼は代々名医を輩出してきた良家に生まれ、ミワル大学医学部を優秀な成績で卒業し、医者として将来を約束された地位にあった。しかし、俳優になりたいという自分が本当にやりたかった夢を諦めきれず、転身した。

 

 この頃からアイチューベでの活動を本格化。その甘いマスクと美声によりファンが急増する。俳優としても成功を収め、世界的な映画の聖地ハブリットで活躍するまでに登りつめた。さらにシンガーソングライターとしての才能を開花させ、数々の有名映画のテーマソングを手掛けるという、天が二物も三物も与えたような男だった。

 

 俳優業の傍ら、現在もアイチューバーとして精力的に活動中である。噂では彼の毛髪や使用済みティッシュが数千万ジェニーという法外な値段で取引されているとかいないとか。理解できない。

 

「続きまして紹介するのは……あれ? これはどうしたことだ!? 姿が見えないぞ……ん? なんだ、空から一枚の布が落ちてきている。ひらりひらりと舞い落ちる布が今、空席となった椅子の上に覆いかぶさり、おおっ!? なんということだ! 誰もいなかったはずの布の中から姿を現したのは、マジック系アイチューバー、快答バット!」

 

 シルクハットに燕尾服という全身黒の装いでステッキを持った仮面の男、快答バットはマジシャンである。顔出しNGどころか声も発したことはない。彼の真骨頂は何と言っても、そのレパートリーの多さだ。座右の銘は『1日1マジック』。それを有言実行し、ほぼ毎日、新マジックを披露し続けている。

 

 手品と言えば、その不思議を楽しみ、そして真相を解明してみたくなるもの。マジシャンとしてはそれを知られることは飯の種を奪われることも同じはずだが、バットは自分が作ったマジックのネタを包み隠さず公表してしまう。ネタばらしまでが1セットとなった動画構成となっている。たまに失敗するが、無言でごり押す。

 

 マジックのネタばらしや考察動画は他の投稿者もアップしているが、それを毎日自分で考えて発表するというのは脳みそが常人とは異なるとしか言いようがない。中には高度な技術や大掛かりなセットを要するマジックもあるが、タネさえ知ってしまえば真似できるものも多い。マジックで使う小物を開発販売する会社を経営しているらしい。

 

 今は自粛しているが、活動初期の頃は他の手品師のマジックショーに乗り込んでタネを暴露してしまうという凶行に及んでいた。何度か営業妨害で訴えられたことがある。一度の敗北を除いて彼に見破れなかったマジックはない(『快答バットvs.奇術師ヒソカ』)。そのため同業者からは忌み嫌われているらしい。

 

 今も、自分が登場した場所の椅子の下に身を潜める空間があったことをジェスチャーで観客に解説していた。舞台の床の中にあらかじめ隠れていたようだが、いったいいつからスタンバイしていたのだろうか。

 

「続いては、あらゆる未来を見通す男! メンタリズム系アイチューバー、銀河の祖父!」

 

「今宵は皆さまの運命を解き明かして御覧に入れましょう」

 

 怪しげなフード付きローブに身を包んだ人物がしわがれた声を発する。その顔は不気味な仮面で隠されていた。数年前、一世を風靡した占い師『銀河の祖母』の弟子を自称する男である。

 

 銀河の祖母は詐欺罪に問われ逮捕されており、それ以後メディアへの露出はなく本当に弟子がいたのかどうか定かではない。今頃になってわざわざそんな人物を師と仰ぐなどマイナスイメージにしかならないような気もするが、彼はその風聞さえも利用する型破りな占い師であった。

 

 彼は『誰よりも誠実な詐欺師』を自称する。占いに信憑性など一切なく、客の気分を解きほぐし、信用させるためのパフォーマンスに過ぎないと自ら公言している。にもかかわらず、彼の占いを望むファンは数多くいる。1時間3万5千ジェニーという高額ライブチャットは数カ月先まで予約が取れないほど客が殺到しているらしい。

 

 彼の真骨頂はメンタリズムにある。心理学に基づき、人間の思考や行動を把握し、任意に誘導する技術である。彼がアップする動画は見る者の思考を知らず知らずのうちに誘導し、まるで心の中を見透かされているかのような気持ちになる。行動心理学の応用と独自の研究による成果らしい。

 

 騙されることを前提として彼の占いを受けたがる者が後を絶たない。心理カウンセラー等の資格も多数有しているらしく、相談者の悩みをメンタリズムの力で解消するという。ただ、洗脳ではないかと疑う声もあるようだ。

 

「続きまして、息をするように絶えず何かを作り出す工場人間! 作ってみた系アイチューバー、ツクテク!」

 

「自由の女神、作るぜ」

 

 男が着ているボロボロのコートはポケットのいたるところから鉄クズが飛び出していた。そして、おもむろに1メートル四方の大きな紙をくしゃくしゃと丸め始める。いや、無造作にただ握りつぶしているように見えるが、実はとんでもないスピードで『折り紙』を折っている。あっという間に彼は精巧な出来栄えの自由の女神像を完成させてしまった。

 

 この高速折り紙のみならず、彼の工作に関する特技は多い。よくゴミを再利用して色んなものを作っている。不法投棄された粗大ゴミを材料にして遊園地を作り上げたこともある。

 

 普段は流星街という場所に住んでいるらしい。街と名がついているが、どの国家にも属せず世界中のゴミが集まり投棄されているという無人の政治的空白地帯である。彼はそんな場所であえて暮らす変わり者のようだ。

 

 彼の特技もさることながら、アイチューバーとしてブレイクしたきっかけは意外にも児童向けの工作動画だった。アイチューベには小さな子供を主にターゲットとして開設されたキッズチャンネルがある。

 

 児童向けと侮るなかれ、この視聴者層のリピート率は非常に高く、一度支持され人気を集めた動画は飽きられることなく何度も再生される傾向がある。ツクテクは単に工作の天才というだけでなく、見る人にわかりやすく工作の面白さを伝えることができる。

 

 最近はサンドボックス系のゲーム実況に手を出している。その想像力から生み出される建造物の数々は圧巻のスケールである。細部まで緻密に考えられており、作られた街の一軒一軒に至るまで、まるでそこに本物の人間の暮らしぶりがあるかのように生活感が再現されている。自身の才能と、多岐に渡りそれを表現する動画の作り手としての実力も備わったマルチなアイチューバーと言えるだろう。

 

「さあ、ここからは女性陣の紹介だ! 人気急上昇中の新ジャンル、新アイドル! バーチャル系アイチューバー、マジカル☆ミルキー!」

 

『みるぴょん参上だぴょん☆☆☆!! 今日もみんなのハートをボーパルバニィィィ☆☆☆!!』

 

 まるでアニメの中から飛び出してきたかのような少女の姿が立体映像として椅子の上に映し出されている。すぐ近くにある蜘蛛のような形をした小さな機械が投影機だろうか。すごい技術だ。

 

 黒髪にハイライトのない黒い瞳で、プロポーション抜群、バストは豊満。バニーガールとニンジャを足して二で割ったようなきわどい服装をしているが、これこそ由緒正しいジャポニーズクノイチスタイルらしい。古事記にもそう書かれている。

 

 魔法の国からやってきた暗殺者の女の子、それを演じるいわゆる“中の人”は果たしてどんな人物なのだろうか。性別は女なのか、男なのか。ネットではボイスチェンジャーを使った男だと言われているが、もしそうなら私はなおさら彼を尊敬する。

 

 バーチャルアイチューバーという存在を知ったときから、私は不思議な親近感を覚えていた。少女のアバターに命を吹き込み、キャラクターを作り出す。その工程と、自分の境遇を重ね合わせたのかもしれない。

 

 私は蟻だ。この少女の体は借りものでしかない。一方、バーチャルアイチューバーも動画上に登場する姿は作られた虚像である。こうして今、舞台上に存在しているかのようにふるまっているミルキーも、当然ながら本物の人間ではないことはすぐにわかる。

 

 彼は自分が異質な存在になりきっていると自覚しているはずだ。そして、それを視聴しているファンもまた、その真実を知っている。にもかかわらず、マジカル☆ミルキーという存在は多くの人間に認められ、愛されている。

 

 これはすごいことではないだろうか。少なくとも、私はミルキーの中の人を尊敬に値する人物だと思っている。

 

「お次はアイチューベ界きっての問題児! 炎上系アイチューバー、ベルベット・アレクト!」

 

 高校生くらいの少女が私の隣の席に座っている。ファッションのことはよくわからないが、雑誌に載っていそうな服を着て、彼女自身もモデルのように均整のとれた体形をしている。足を組み、肘かけに頬杖をつき、まるで睥睨するかのように冷めた目を観衆に向けていた。

 

 これまではアイチューバーたちが紹介されるたびに歓声が沸き起こっていたが、彼女の番だけ雰囲気が一変し、ブーイングの嵐が起きた。その反応に、ベルベットは特に何か言うこともなく、会場へ向けて中指を突き立てた。その不遜な態度に、ブーイングの声はさらに高まる。

 

 アイチューバーには炎上系、もの申す系と呼ばれる投稿者たちがいる。他の有名アイチューバーの不祥事を取り上げ、批判する動画が多い。また、世間一般に話題となっているスキャンダルなどを扱うこともある。

 

 これがなぜ『炎上』と呼ばれるのかと言えば、やり方が過激だからだ。相手の人格を否定する勢いで徹底的にこきおろす。ターゲットにされたアイチューバーのファンからすれば怒りを覚えずにいられないだろう。

 

 そうやってスキャンダルの傷口を拡げに拡げ、相手も自分も巻き込んで話題を燃え上がらせることで動画の再生数を増やしている。褒められた行為ではないことは確かだが、悪名は無名に勝る。炎上系がジャンルとして確立されるほどに、それを視聴する人もまたそれだけ存在している。

 

 テレビのワイドショーやゴシップ誌など世間を騒がせる不祥事は人々の関心を集めやすい。アイチューバーと普通のマスメディアとの違いは、良識の一線をどこまで踏み越えられるかという点にあるだろう。縛りの少ない個人の動画はより過激に、剥き出しの悪意を表現できるからこそ、それが嫌悪や共感として響く部分がある。

 

 炎上系とは嫌われ者として振る舞うことを要求されるジャンルである。そのトップに登り詰めたベルベットは並みの精神力の持ち主ではない。今も会場で斉唱されているブーイングの声は、必ずしも否定的な意味ばかりではなかった。

 

 それは偽悪への称賛。誰しも少しは心の中で思っているわだかまりを、包み隠さず平然と代弁する彼女の言葉に理を感じ取っている。非難の声すら悪名の糧とする、ある意味でカリスマと言える才能があった。

 

 そんな彼女がなぜポメルニチルドレンの座に収まっているのかと言えば、『内部から食い潰すため』と憚りなく公言している。そして、それに対してポメルニも『ベルベットは与党に対する野党のようなもの』と評し、公式ポメチル入りを認めた経緯がある。

 

 ちなみに炎上系はその性質上、ファンと同じかそれ以上にアンチの数も多くなる。特定班の(半ばストーカーじみた)執拗な調査によって彼女の住所等の情報は晒され、集団暴行に及んだアンチもいたが、全て返り討ちにされている。逆に過剰防衛の嫌疑がかけられたこともあるという武勇伝を持つ。

 

 ベルベットの紹介が終わった。ポメルニ十傑衆、そのトリである私ことシックスの番が迫っていた。もう頭の中は真っ白だ。他の人たちのように上手い受け答えなどできるはずがない。まるで死刑執行を待つ罪人のような心境だった。

 

「さあ、いよいよ最後のアイチューバー! 公式ポメチル発足以来の最年少で殿堂入りを果たした話題沸騰のルーキー! アニマル系アイチュー…」

 

「ちょっと待った」

 

 ベルベットが司会のマイクを横から奪い取った。シックスの紹介は中断される。

 

「どうしてあなたみたいなろくでもない投稿者がこの場にいるのか、私は到底認めることができません」

 

 その言葉は真っすぐにこちらを見て発せられたものだったが、私はそれが自分に向けられた言葉であると理解するまでに数秒を要した。先ほど死刑執行を待つ罪人と表現したが、例えるなら絞首刑が決まり縄が首にかけられた状態で執行を待っている最中、いきなり背後から槍で貫かれたかのような気分だ。

 

「自分が十傑衆と同等の地位にあると思ってますか? ぽっと出の新入りのくせによくこの場に参加できましたね? 辞退する気はなかったんですか?」

 

 これまでに紹介された十人のうちのほとんどは、ポメチル十傑衆と呼ばれ長い期間、公式チルドレンの座を守り続けてきた猛者たちだ。その他にも公式ポメチル入りを果たしたアイチューバーはいたのだが、いずれも再生数を稼げず脱落している。ただその地位に居続けるだけでも至難だった。

 

 この中で、私とマジカル☆ミルキーはまだ新入りと呼ばれている。これまでの流れから見れば、いずれ脱落してもおかしくないような状況ではあった。だが、それでも今は公式チルドレンであることに違いない。オフ会に参加する資格はあるし、それを彼女にとやかく言われるようなことではない。

 

「バーチャルアイチューバーは今勢いのあるジャンルだし、ミルキーとかいう気持ち悪いおじさんは新入りでもギリギリ及第点として」

 

『喧嘩売ってるぴょん☆? ぶち殺すぴょん☆☆☆!』

 

「それに比べてあなたはどう? 何、あのデビュー動画? よくあんな馬鹿みたいな動画アップできましたね? まあ、あまりにもつまらなさ過ぎて逆に話題にはなりましたけど。炎上して祭りになることまで計算ずくだったんですか?」

 

「それは、おまえが……っ」

 

 私は自分の動画が荒れた時、最初その原因が何なのかわからなかった。確かに内容はひどかったかもしれない。でも、ここまで悪化するとは想像もしていなかった。だから、傷つくことを覚悟でネット上の書き込みを色々と調べた。

 

 その結果、騒動の裏でベルベットが炎上に関わっていたことを知る。炎上系アイチューバーから見れば、私は格好の餌だったのだろう。彼女の扇動によって大量のアンチが私の動画に流れ込んでいたのだ。

 

 その事実は知ったときはショックだったが、だからと言って彼女を恨むことはなかった。その程度はアイチューベでは日常茶飯事のことだったし、物を知らなかった初心者に対する洗礼と教訓として受け止めた。

 

 だが、本人を前にして厚顔無恥にも、まるで他人事であるかのように語られてはさすがに黙っていられない。誰のせいであんな目に遭ったと思っている。

 

「お前が? はい、私がやりましたよ? 私が焚きつけて炎上させました。だから、再生数が稼げたんでしょ? 私が盛り上げてあげなかったらあれほどの爆発的なスタートダッシュはできなかったはずです。感謝されこそすれ、睨まれる筋合いはないですよ」

 

 開いた口がふさがらなかった。厚顔無恥どころではない、明確な悪意を感じる。殺されかけたことはあるが、それとはまた別種の悪意だった。どろどろと粘り、へばりつくようなその気配にたじろぐ。

 

 司会進行役の男が必死にベルベットを制止し、説得を試みるも軽くあしらわれている。ノア・ヘリオドールが仲裁に入ろうとしたり、ブレード・マックスが筋肉自慢を始めたり、ジャック・ハイがブーブークッションを使って笑いを取ろうとしたが、流れは変わらない。

 

 会場の中心に立っているのはベルベットだった。混沌としたざわめき中、観客席から野次が飛ぶ。

 

 もっとやれ、と。ここまで聞こえるはずもない小さな声だった。あるいは、私の心が作り出した幻聴なのかもしれない。既にショーが始まっている。ベルベットとシックス、公式チルドレンによるリアル喧嘩凸が。

 

「その後投稿した動画も、再生数が最初の動画を超えるようなものはありませんよね? 私はてっきり、デビュー動画みたいなおままごとをアップし続けてピエロになる道を選ぶのかと思っていましたが、あなたはそれ以下のクソまじめで面白みのない動画投稿者になり下がってしまいました」

 

 だが、私はこんな見世物に付き合うつもりはない。まともな会話もできない私が、弁舌で彼女に勝てるわけがないことはわかりきっていた。彼女の気が済むまで黙ってやり過ごすしかないだろう。何をしても火に油を注ぐだけだ。

 

「結局、何がしたかったんですか? よく公式枠を勝ち取れましたね? ポメルニの公式採用基準は以前から問題だらけでしたが、今回は弁解の余地なく間違いだったと言わざるをえません。顔だけは良いみたいですし、たぶらかしでもしましたか? ポメルニって小児性愛者だったんですね。納得です」

 

 そう、黙っているのが最善だった。だが、どうしても無視できない。自分のことならいくら言われても我慢できる。しかし、ポメルニは何の関係もないはずだ。頭に血がのぼる。

 

「ポメルニは、わるくない!」

 

 自分が考えていた以上の声が出た。その反応を見たベルベットが、冷ややかな笑みを浮かべた。しまったと思っても、一度口を出た言葉は取り消せない。どこを突けば私が動揺するか、その弱点を自らさらしたようなものだ。

 

「はあ、絵に描いたようなポメキ(ポメルニキッズ)の反応ですね。ポメルニのこと、そんなに好きですか?」

 

 彼をこけにされるのかと思った。もしそうだったのなら許せないことに変わりないが、怒りや反論という形で感情は発散できたかもしれない。だが、ベルベットの切り込み方はそんな甘いものではなかった。

 

「でもそのポメルニの顔に泥を塗ったのはあなたですよ。それまで何の活躍もしていなかった無名の新人が公式チルドレンとして異例の大抜擢。からの、爆弾投下。あなたを推薦したポメルニはどんな気持ちだったでしょうね?」

 

 騒動の後、ポメルニは何も心配いらないと言ってくれたが、ずっと気がかりだった。こんな形でアイチューバーとして有名になってしまった私を、彼は内心でどう思っていただろう。

 

「さらにポメルニは、あなたが起こした祭りの火消しのために運営に圧力をかけています。権力を濫用した度が過ぎる肩入れです。その対応もまた彼の評価を下げる結果となりました。元をただせば全てあなたが原因ですよね? 正直言って、そこまでかばわれるほどの価値があなたにあるとは思えません」

 

 投げかけられたのは、ただの言葉だ。刃物で切り付けられたわけではない。しかし、正論という名の刃は避けることも防ぐこともできず、私の心にひびを入れる。

 

「開会式が始まってからずっと緊張して、銅像みたいに硬直していますよね? 大丈夫ですか? 公式チルドレンはこれから各々、自分なりのパフォーマンスを披露してオフ会を盛り上げていくわけですが、あなたは何ができるんですか? まさか雛壇を温めているだけの芸人やタレントみたいに、ただそこに座っているつもりじゃないですよね? 子供だから、新人だからそれで許されるとでも?」

 

 最初からわかっていたことだ。ここに集まっている面々は、膨大な数の動画投稿者の中から選ばれた超一流のアイチューバー。実際に会って、その凄さを実感した。私がどんなに頑張ったところで追いつけるはずもない才能に溢れた人ばかりだ。

 

「あなたは、その席に座る資格もない」

 

 何も言い返せない。悔しさだけが胸中を渦巻いていた。こんなところに来るんじゃなかった。こんな気持ちになるくらいなら、アイチューバーなんて……。

 

 

 

 シックスちゃん!! モエエエエエエエエエ!!

 

 

 

 うつむいていた私の耳に声が届いた。会場の喧騒を切り裂くような誰かの叫び。後半は怪獣の雄たけびのような金切り声で何と言っているのか聞き取れなかったが、私の名前が呼ばれたことはわかった。

 

 どこかで聞いたことのある声のような気がした。誰ともわからぬその声は、なぜだか私を落ちつかせた。ぐちゃぐちゃに絡まっていた思考の糸がほぐれていく。緊張が解けたのと同時に涙腺も緩んだのか、涙で視界がにじんだ。

 

 それを皮切りにして、会場の空気が少し変わった。呼応するようにシックスの名を呼ぶ声がする。重なり合った声援が、会場のざわめきにかき消されることなく私のもとまで届いていた。

 

 初めは自分の名前もわからなかった。名前が必要だとも思わなかった。シックスという名は、アイチューベでユーザ登録するときに必要だったから仕方なくつけたニックネームだ。気に入らなければ後で変えればいいと、その程度にしか考えていなかった。

 

 だが、今こうしてその名を呼ばれることによって、私はようやく理解できた気がする。ここにいてもいいのだと、認められたように感じる。人より凄い動画を作ることだとか、再生数をたくさん稼ぐことだとか、そんなことに神経をすり減らさなくても、一番欲しいものは既に手に入れていたのかもしれない。

 

 これ以上情けない姿は見せられないと、セーターの袖で涙をぬぐった。

 

「はあ……泣く子には勝てませんね」

 

 ベルベットが不機嫌そうに肩をすくめてみせる。どうやらこれ以上、追及してくる様子はなさそうだ。

 

「まあ、ここに残るかどうかはあなたの勝手ですが、私のそばからは離れてくれませんか? 実は、さっきから香水の臭いがドぎつ過ぎて気分が悪いんです。それでつい、イライラしてしまいました。いくら風呂嫌いだからって香水で体臭を隠そうとするのは止めた方がいいと思いますよ?」

 

 ベルベットはよくわからない捨て台詞を言い放つ。香水なんか生まれてこの方、つけたことなどない。なぜ私が風呂嫌いだと知っているのか謎だが、それは入る必要がないからだ。シックスの体から出る汗や皮脂などの生理的反応によって生じる汚れは、一定時間経つと生命力に還元されて消滅するので、それによって体臭などが発生することもない。泥や埃といった汚れは落とす必要があるけど。

 

 なんにしろ、近づくなと言うのなら好都合だ。私だって好んで彼女のそばになどいたくはない。ブレード・マックスが席の場所を交換してくれた。筋肉質な巨漢が隣に来たことでベルベットが暑苦しいと文句を言っている。

 

「えー、開会式早々、アイチューバーたちの意気込みはフルスロットル! 御覧の通り、今年の年末オフ会はいつにもましてブッ飛んでおります! さあ、場も十分に温まったところで、次のプログラムに……」

 

 ようやくイベントの進行ができるといった様子で、マイクを取り戻した司会役が声を張り上げる。その直後、会場の照明が一斉に落ちた。

 

 観客席も、舞台も、スタジアムの全域が暗闇に閉ざされる。何かの演出かと思ったのだが、様子がおかしい。司会の人も何が起きたのか把握できていないようだ。ということは、事故による停電だろうか。会場に不安が伝染していく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 キティィィィィィィィィズ!!

 アァァァァァンド!!

 ブラザァァァァァァァァァァァァァァァァァァァズ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 スピーカーを通して響き渡る絶叫。その声の主は、スクリーン上に映像として現れた。ひょうきんなポーズを決める黒いシルエットがライトで照らされ、サングラスをかけたパンクミュージシャン風の男が映し出される。

 

「これはいったいどういうことだあ!? なんとあの言わずと知れたアイチューバーキング、ポメルニの登場だ! こんなサプライズは予定にありません!」

 

 一週間ほど音沙汰がなく、このオフ会にも運営から不参加が告げられていたポメルニが元気な姿を見せている。観客席では歓声が沸き起こっていた。喜ぶべき場面のはずだ。

 

『セーイセイセイ! みんな楽しんでるかーい! なかなか盛り上がってるみたいじゃないか。だが……まだ足りない。そう、今日というスペシャルなイベントに、この程度のボルテージではオレサマ満足できラッチョ! そうだろみんな!?』

 

 何か言い表せない不安が、私の中でくすぶっている。

 

『さあ、ゲームを始めよう。最強のアイチューバーを決するバトルロイヤルを』

 

 





やってみた系:ポメルニ
ゲーム実況系:キャプテン・トレイル
いたずら系:ジャック・ハイ
ハンター系:ブレード・マックス
ダンス系:J・J・J・サイモン
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
メンタリズム系:銀河の祖父
作ってみた系:ツクテク
バーチャル系:マジカル☆ミルキー
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り12人



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12人のデスゲーム編
40話


 

 ルールを説明しよう!

 

 まずは11人のチルドレンたちによるバトルだ! 選手にはこちらが用意した特製銃が支給される。この銃には強力麻酔弾が10発装填されており、当たれば即就寝! 明日の朝までグッスリ夢の中だ! せっかくのオフ会を寝て過ごすとは、なんてかわいそうな奴ら!

 

 この麻酔弾で眠った選手はアウトとなる! そして戦いを勝ち抜き、最後まで残った1名は、このオレサマとの頂上決戦にチャレンジする資格を得る! 決戦のルールは……そのときに改めて説明することとしよう。

 

 正真正銘、アイチューバーキングの称号をかけたタイトルマッチだ。見事、決戦を制することができたチルドレンにはキングの特権を譲渡しよう。オレサマが持つ全てのアイチューベ運営会社の株を譲り渡す。そして、これをもってオレサマはアイチューバーを引退する。

 

 ……セイセイ、みんななんて反応しやがる。言っておくが、オレサマは負ける気なんてさらさらないぜ? もちろん、男に二言はない。今言った条件は必ず守ると約束しよう。それがオレサマの意気込みであり、そして絶対の自信の表れだと言っておこう! そう簡単に倒せると思わないことだ。

 

 だが、今のルール説明では少しばかり不安に思うチルドレンもいるだろう。要するに銃撃戦、体を使ったバトルをするわけだから、得意不得意というものが当然ある。そこで、もう少しルールを追加しておこう。

 

 このオフ会に来てくれたみんな! ヘイ、君たちの結束を見せつけるときが来たぞ! なんとこのゲームは全観客参加型のイベントとなっている! 現在進行形で、観客席ではプレゼントボックスが配布されているところだ。受け取ったら中身を確認してくれ!

 

 箱の中に入っている物は二つ! 『麻酔銃』と『リストバンド』だ! この銃についてはさっき説明したものと同じだ。そしてリストバンドは腕に装着すると、ディスプレイに色を表示させることができる。装着時に11色の中から一つだけを選べるぞ。

 

 もうわかったかな? この色が11人のチルドレンに対応している。自分の好きなチルドレンの色を選んで表示させることによって、その選手の『チーム』に参加することができるぞ! チルドレンはアイチューバーとしてのカリスマによって自分のチームに人を集め、そしてゲストのみんなは自分が応援するチルドレンと協力して勝利を目指せ!

 

 優勝したチルドレンのチームには、全員に100万ジェニーをプレゼント! おおっと、オレサマのチームに入れないのかって? 残念ながらそれはできないぜ。だがもし、決勝戦がオレサマの勝利で終わってしまった場合は、2000人のゲスト全員にもれなく10万ジェニーをプレゼントしよう!

 

 リストバンドを装着していないとゲームに参加できないから失くさないように注意してくれ。麻酔銃で撃たれて眠ってしまっても大丈夫! リストバンドが装着者の睡眠を察知して信号が発信され、スタッフが部屋まで送り届けてくれるから安心だ。バイタルサインを読み取れるよう、リストバンドはしっかりと素肌の手首にはめてくれ。

 

 ゲーム開始は今からきっかり1時間後だ! 1時間が経過すると、銃のロックが解除されて発射できるようになる。それまでにチームで集まって作戦を立てよう!

 

 それでは諸君らの健闘を祈る! チェケラッ!

 

 

 * * *

 

 

「怪しすぎるでしょ」

 

 この唐突に催されたゲームに対して、勝手に選手とされてしまった私たちは困惑していた。誰もがポメルニの真意を図りかねている。単にオフ会を盛り上げるためだけのイベントとは思えない。彼は確かに突拍子もないことをする人間だが、さすがに今回は度が過ぎる。

 

 スタッフが舞台上に荷物を届けに来た。先ほど説明があった麻酔銃が11個、一人に一つずつ配られる。実銃など触ったことはないが、ずっしりと重くしっかりとした造りだとわかった。おもちゃではなく、武器なのだと実感できる。

 

 銃を届けに来たスタッフに問いただしたが、彼は配達を命令されただけでこのゲームについては何も知らなかったようだ。運営側は何も知らされていないという。だが、現場で会場の設備作業を行うスタッフに命令を出した人間は必ずいる。部外者が関わっているのならバレないわけがない。運営が何も知らないというのはおかしな話だ。

 

 司会進行役の男が必死に場を取り仕切ろうとマイクを握り、観客に状況確認が終わるまで待機を促すが、ヒートアップしたファンたちの興奮は収まらない。その一方で、公式チルドレンたちは冷静に現状の分析を行っていた。

 

「ケータイの電波が圏外になってるんだが」

 

 私も確認してみたが、スマートフォンの受信環境は確かに圏外となっていた。他の人たちの携帯電話も同様である。これについてはスタッフから説明があった。なんでも、『電磁雲群』という雲に飛行船が誤って接触してしまったことで電波障害が発生しているのだという。

 

「電磁雲……? なんですか、聞いたこともない言葉ですけど」

 

「電磁雲はその名の通り、電磁波を帯びた特殊な雲のことッスル」

 

 プロハンター、ブレード・マックスが解説してくれた。この雲が発生した空域に飛行船などが近づくと、強力な電磁波の影響を受けて一時的に通信機器などが使えなくなる電波障害が発生する。

 

 その空域から離脱しても影響は数時間に渡り持続し続けるらしい。この電波障害の中でも機能できる通信機器もあるらしいが、それらは軍事兵器の類であり、普通は遊覧飛行船には完備されていないとのこと。

 

 実は、舞台上にいた11人のうち、バーチャル系アイチューバー、マジカル☆ミルキーの姿が消えている。彼女の姿を映し出していた映像機が動作を停止してしまったためだ。これも電波障害の影響によるものと思われる。

 

「それが事実だとしてもタイミングが悪すぎます。まるで狙ったかのように外部との通信が断たれるなんて、これから起きることを外へ漏らさないようにしているとしか思えない」

 

 そもそも、この電磁雲は海底を通る特殊な鉱脈の影響を受けて海上に発生するものであり、その発生場所と条件は非常に限定されている。パイロットがその場所を把握していないわけがなく、意図的に直撃するような航路を取らない限り、まずぶつかることはないという。

 

 そして、航路を引き返して空港に戻ろうにも、かなりの時間がかかるそうだ。この超巨大遊覧飛行船スカイアイランド号は、宿泊施設などを含めた総合アミューズメントパークをそのまま空中に浮かせたような重く、遅い船だ。

 

 はっきり言って、ただ浮かせることだけに巨額を投じた設計となっており、飛行能力は二の次三の次。運航速度は非常に遅い上、その巨大さゆえに着陸できる場所にも制限があり、来た道を引き返すだけでも一晩はかかるようだ。

 

 まさに空の孤島(スカイアイランド)。電磁波による航行への支障はなく予定通りの航路を進むらしいが、これだけ不安要素が積み上がれば、のんきにゲームに興じようなどという気はとてもではないが起きない。

 

 沈黙が降りる中、かちゃかちゃと金属をいじる音が聞こえた。作ってみた系アイチューバー、ツクテクが床に座り忙しなく手元を動かしている。彼が持っている物は支給された麻酔銃だった。それがこの短時間のうちにバラバラに分解され、無数の部品が床の上に並んでいく。

 

「ふんふん、これがこうなって、ここがなるほど、そういうことか」

 

 最後の一片まで分解し終えたツクテクは、綺麗に整列した部品を今度は組み立て始めた。まるで映像を二倍速で巻き戻しているかのように銃の形が組み上がっていく。ツクテクはあっという間に元の形に戻った銃を構え、引き金を引く。

 

 パシュッと空気が抜けるようなガス音と共に弾が発射された。銃口を向けられたゲーム実況系アイチューバー、キャプテン・トレイルが被弾する。

 

「あ、どう……え……?」

 

 どさりと倒れた。それを皮切りに、この場の緊張は瞬時に膨れ上がり、爆発した。戦闘の開始を認識し、私の脳のスイッチも切り替わる。時間の流れが遅くなるような感覚。

 

 ツクテクが次のターゲットに銃口を向ける。その先にいるのはアイドル系アイチューバー、ノア・ヘリオドールだ。彼はまだ倒れたキャプテン・トレイルの方を呆然と眺めており、ツクテクに狙われていることに気づいていない。凶弾が一直線に飛んでいく。

 

「ふん!」

 

 しかし、その射線上に巨体が割って入った。ブレード・マックスが目にもとまらぬ動きで身を呈してノアを守ったのだ。麻酔弾はブレードの体に当たったが、はじき返されて床を転がった。

 

「まあ、こんな細い麻酔針じゃ『纏』すら貫けないか。威力もエアガンを違法改造した程度だし、弱らせたところに撃ち込みでもしない限り使えねぇな」

 

 ツクテクは実験の考察でもするかのように平然としていた。麻酔で眠らせただけであり、銃弾で撃ち殺したというわけではないが、その態度はあまりにも淡々としている。

 

 確か、銃はロック機能が設定されており、一時間後のゲーム開始時刻にならなければ発射できない仕組みになっていたはずだ。だからこそ、私たちは敵同士として争うことが予定されたゲームを前にして、まだそれなりの緊張状態を保つに留まり、争うことよりも全員で現状の把握をすることに努めていた。

 

 それがもはや一触即発の状況となっている。私は自分の銃をもう一度確認してみるが、弾は発射されなかった。ツクテクの銃はなぜ発砲できたのか。考えられるとすれば、彼が銃を分解し、組み立てなおしたことによるものと思われる。

 

 ロック機能を自力で解除したのかもしれない。彼の技術をもってすれば不可能とは言えない。ついさっき配布されたはずの銃をその場で改造してしまうツクテクの技術に戦慄する。

 

「常識のかけらも持ち合わせていないバカが一人いるようですが、一応、弁解があるなら聞きましょうか」

 

「何言ってんだよ、たかがゲームだろ? むしろ、お前らの方がビビリ過ぎなんだよ」

 

 ブレードが麻酔弾で撃たれたキャプテン・トレイルを診ている。マスクを外し、脈拍や呼吸、瞳孔の様子などをチェックする。

 

「寝ているだけッスル」

 

「ほれ見ろ、別に死んだわけじゃねぇ。つまり、何の問題もないってわけだ」

 

 ツクテクは、あっけらかんと笑いながら言いきった。

 

「俺はこのゲームを楽しむ気満々だぜ。アイチューバーキングの称号なんざどうでもいいが、あのお山の大将を蹴落とせるってとこは気に入った。お前らもその気なんだろ? えぇ? かまととぶってないで見せろよ、お前らの『念』を」

 

 その直後、ツクテクの体から禍々しい威圧感が放たれた。思わず身がすくむようなプレッシャーに襲われる。その威圧に比例するように、彼の体を覆う生命力が輝き、満ち溢れた。

 

 そして、驚くべきことにこの場にいるほとんどの人間が、ツクテクの威圧に対抗するように強い生命力の波動を発し始めたのだ。これは何かの技なのだろうか。私の体も生命力でまんべんなく覆われているが、彼らのように強い力の気配は感じない。

 

 唯一、ノア・ヘリオドールだけが生命力の膜を作り出せていなかった。頭頂部から煙が立つように力が漏れ出ていくのみで、これは街中などで一般的に目にする人々と同じ状態だ。そのせいなのか不明だが、彼だけがツクテクの放つプレッシャーに中てられ、顔を真っ青にして震えあがっていた。ブレードが盾となるようにノアの前に立っているが、四方八方から浴びせられる威圧を防ぎきれていない。

 

「おお、なんということでしょう。まさかほぼ全員が念の使い手だったとは。運命の導きを感じずにはいられませんな」

 

「いくらなんでも出来過ぎな気がしますが。こんな偶然ありえますか?」

 

「いや、偶然じゃねぇべ。古今東西、いかなる分野であろうと突出した才気の持ち主は、程度の差こそあれ自ずと念の片鱗を見せ始めるものだべ。ここに集まった人間は誰もが万人の目に留まる超一流の才気の持ち主。逆に言えばトップアイチューバー足るもの、念の一つも使えないようでは務まらないということだべな」

 

 この生命力のことを彼らは『念』と呼んでいるようだ。詳しく聞きたいところだが、皆が当たり前のように共通認識していることを、今は問いただせるような雰囲気ではなかった。

 

「面白くなってきたじゃねぇか。だが、敵の能力もわからない状況で、ここで大乱闘するのはさすがに俺も避けたいところだ。勝負はルール通り、開始時刻となってから始めようぜ」

 

「真っ先にトレイルを始末した奴がよく言うべ」

 

「念も使えないザコに用はねぇだろ? じゃ、俺は好きにやらせてもらうぜ」

 

 そう言い残して、ツクテクは悠々と舞台を去って行った。それに続くように、数人のチルドレンが解散していく。

 

「おお、悩める子羊たちが私の助言を待っています。私は彼らと共にありましょう。ここで失礼させていただきます」

 

 メンタリズム系アイチューバー、銀河の祖父はファンの身を案じているようだ。舞台傍に集まっていたファンを引きつれてスタジアムを後にした。

 

「……」

 

 マジック系アイチューバー、快答バットは無言で立ち去った。元から声を発しない人物ではあるが、それが素の性格なのかキャラとして作っているのかわからない。その思惑は不明のまま、身を隠すようにどこかへ消えた。

 

「正直、こんなくだらないゲームに興味はねぇべ。キングの称号? そんなもんに何の意味がある。ここに集まってる連中は、別にポメルニの名前なんか借りなくったって一人でやっていけるようなアイチューバーだべ。それでも俺が公式チルドレンとしてあいつの下についていたのは、ポメルニという人間を認めていたからだ」

 

 ダンス系アイチューバー、J・J・J・サイモン。彼があらわにしている感情は、他の誰とも違った。それは燃え上がるような怒りだ。その感情は重圧を放つ生命力として表れている。

 

「別にあいつが決めたルールに従ってやる必要はねぇべ。この船のどこかにポメルニはいるはずだべ。こっちから探し出す。そして、ぶっ潰す。操られてるってんなら殴って正気にもどしてやる。それがブラザーってもんだべ」

 

 彼はポメルニを直接探し出すために行動するようだ。その後をついて行こうと、一歩足を踏み出しかけたが、彼の背中がついてくるなと拒絶しているような気がしてそれ以上進めなかった。

 

 そして舞台上には5人が残った。【シックス】【ブレード・マックス】【ノア・ヘリオドール】【ジャック・ハイ】【ベルベット・アレクト】の5人だ。

 

「まあまあ、みんなここは甘いものでも食べて落ちつこう、ねっ、ねっ」

 

 イタズラ系アイチューバー、ジャック・ハイが全員に飴を配り始める。食べてみたが、すごくすっぱかった。サイダー味をベースにしているようで、口の中で泡がしゅわしゅわと猛烈な勢いではじけてむせた。周りを見回したところ、私以外の誰も食べていない。

 

「で、この居残り組はどうするつもりですか? 私としては停戦協定、可能ならば協力体制を築きたいと提案します」

 

 炎上系アイチューバー、ベルベットの提案に私は胡乱げな目を向けた。これまでの彼女の言動を考えれば、ポメルニを追い落とすためにゲームへ参戦してもおかしくない。何か裏があるような気がしてならない。

 

「私を何だと思ってるんですか? 今回の大スキャンダルは後で盛大に利用させてもらうとして、とりあえずそれは無事に家に帰ってからのことです。この騒ぎは彼一人の力で実現できる域を越えている気がします。その背後にあるものを暴きだすまでは慎重に行動した方がいいでしょう」

 

 そのための同盟だった。頭数だけで言えば、11人のうち5名が共同戦線を張ることになる。いや、キャプテン・トレイルがアウトとなり、マジカル☆ミルキーもいなくなったことを含めれば9人中の5人だ。

 

「マーッスルマッスル! 吾輩は構わないッスル! アイチューバー同士、争う必要などない! 仲良くやっていこうではないか!」

 

「はは……何が何だかわからないけど、僕でも力になれることがあるなら何でもするよ」

 

「オイラも同盟組むのは賛成かなー。イタズラは好きだけど、このゲームはイタズラってレベル超えちゃってるよねー。でも、ちょっとオイラは用があるから、後で合流するよ」

 

 ジャックが一旦席を外すと断りを入れる。どうやら彼の知り合いが会場に来ていたらしく、その無事を確認して保護しておきたいようだ。携帯電話が使えないので連絡が取れないため探しに行くと言っていた。

 

 ともあれ、全員が協力する意思を示した。現状における最大勢力が結成されたと言えるだろう。

 

「まあ、そこのお姫様と王子様は使い物にならなさそうなので、実質的な戦力は私と、ブレード、ジャックの3人になりますね」

 

 お姫様とは私のことで、王子様とはノアのことらしい。確かに弱いかもしれないが、改めて戦力外通知をされるとちょっとムッとなる。相手がベルベットであるからなおさら。

 

「別に要らないとは言ってませんよ。戦力にならなくても使い道はあります。弱者の保護は大義名分を立てるのにうってつけです。例えば先ほど、ブレードがツクテクの攻撃からノアをかばいましたが、その様子を見ていた人間はおおむねブレードを善、ツクテクを悪と判断することでしょう」

 

 私たちを擁護することで大義名分を立て、発言権を強くする。さらにこのゲームには2000人のファンの存在も大きく影響してくる。軍隊として訓練されたわけでもない一般人が集まったところで烏合の衆にしかならないが、それでも統率力を高めるための材料は少しでも多い方が良いと彼女は語った。

 

「とはいえ、最低限の自衛くらいはしてもらわないと話になりません。そこのヘタレプリンスは殺気だけで倒されかけてましたし」

 

「面目次第もないよ……」

 

「当面の目標は、ツクテクを倒すために協力することになるでしょうね。下手に相手をすれば殺されかねない敵です。覚悟して下さい」

 

 殺されるとは大げさなと思った。確かにツクテクは傍若無人な態度を取っていたが、一応は麻酔銃を攻撃手段とすることに終始していた。何も命まで取りに来ることはないだろうと。

 

「甘いですね。あの殺気を含んだオーラは並みの使い手に出せるものではありません。日常的に殺しに手を染めていると考えた方がいいでしょう。前々から予想はしていましたが、おそらくマフィアとつながりのある流星街の人間です」

 

 流星街とは、この世の何を捨てても許される場所。その歴史は古く、1500年以上前から存在していたと言われている。私はただの大きなゴミの処分場だと思っていたが、ベルベットの話によればとんでもなく危険な場所らしい。

 

 どの国家にも属さず、いかなる政治組織の影響も突き返す空白地帯であり、公には無人の地とされているが実際には多くの住人がいると推測されている。一歩足を踏み入れれば、その瞬間から人間だろうと『ゴミ』扱い。

 

 多くのジャーナリストが現地の様子を報道するために潜入したが、奥地へ向かった者は誰ひとりとして帰って来なかった。どの国でも国外で消息を絶った邦人がいれば捜索と保護のために手を尽くすものだが、流星街が関わった案件には手が出せないほどだと言う。その実態は謎に包まれている。

 

 彼らの存在が表沙汰となるケースは稀だが、中には例外もいる。身分や国籍と言った個人情報の管理から逃れた彼らは、『存在しない人間』としてマフィアなどの犯罪組織に雇われることがあるという。表舞台に素性を晒した流星街出身者の多くが、国籍不明の凶悪犯罪者として知られている。

 

 ツクテクは流星街のゴミ山に住み、そのゴミを使った工作動画を主にアップしていた。裏社会の事情を知っている者から見れば、その時点で異常だと気づく。そこはのんきに工作などやっていられる場所ではない。

 

 だが、ベルベットの話を聞いても私はにわかには信じられなかった。ツクテクが投稿していた動画はよく見ていた。どれも想像力に溢れた素晴らしい作品ばかりだ。誰からも見向きもされないであろう廃棄物が、彼の手にかかればたちまち生まれ変わる。動画の内容は小さな子供でもわかりやすいように丁寧に作りこまれていた。あの微笑ましい動画を作っていた裏で、彼が人殺しを行っていたなど信じられない。

 

「人間なんてそんなものですよ」

 

 蔑みも誇張もなく、ベルベットは当たり前の事実を述べるようにそう言った。なぜだか無性に否定したくなったが結局、自分の気持ちを表す言葉は思いつかなかった。

 

 






やってみた系:ポメルニ
いたずら系:ジャック・ハイ
ハンター系:ブレード・マックス
ダンス系:J・J・J・サイモン
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
メンタリズム系:銀河の祖父
作ってみた系:ツクテク
バーチャル系:マジカル☆ミルキー
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り11人


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41話

 

「ツクテクとの対戦を想定するなら、『念』に関することも知っておくべきですね」

 

 気になっていた話題に移る。念とは生命エネルギーというものを用いて常識を超えた身体能力を発揮したり、特別な能力を得たり、超常現象じみたことを起こせたり、とにかく色々できる技らしい。てっきりベルベットが教えてくれるのかと思ったが、めんどくさいと言ってブレードに解説を丸投げした。

 

 思えば、私が戦ったモックやペッジョも念使いだったのだろう。実際にその力を目にしていた私からすれば、この不思議な力のことを疑問に思うよりも納得する気持ちの方が強かった。

 

 念とは、誰にでも使える可能性がある技術らしい。それを扱うための適性は人それぞれだが、手順を踏んで修行に打ち込めば高い成果が見込めるという。しかし、一般的に念に関する知識は社会に周知されていない。

 

 念は時として人の手に余る大きな力を引き出してしまう。未熟な認識しか持たずに取り扱いを間違えば、どんな危険が発生するかわからない。だから念の伝授は、しかるべき資格を有する者が責任を持って教導することが求められる。一般には秘匿されている技らしい。

 

「その点、プロハンターは新人を除けば全員が念能力者ッスル。ハンター協会は念の研鑽にかけては他の追随を許さない歴史があり、その指導に関しても信頼してもらっていいッスル」

 

 むやみに一般人へ念の存在を教えることは禁忌とされている。その人が念を知るにふさわしい人間か否かは、教導者の裁量に任せられるところが大きいそうだ。

 

 今回はツクテクという犯罪者が敵となることで殺される可能性があることと、私の場合は念を使うために必須となる最初の関門『精孔の解放』を既に習得しているとのことで、教えてもらえることになった。どうやら今の私は半端に念を覚えている状態らしく、むしろちゃんとした知識を身につけた方がいいと言われた。

 

 ノア・ヘリオドールも一緒に講義を受けるようだ。彼はまだ念能力に目覚めていない一般人だが、彼の精孔もまた開きかけた状態にあるという。

 

「体内に蓄積された生命エネルギーを利用可能とするには、まず精孔という力の通り道を解放する必要があるッスル。瞑想によってゆっくりと道を開くか、念能力者の介助によって強引に叩き起こすか、二つの習得方法があるッスル」

 

 私の場合は後者に当たる。介助なんて穏便なものではなかったが、モックから攻撃を受けた直後から、この生命エネルギーを視認できるようになった。このように悪意ある能力者から攻撃を受けることによって念に目覚めてしまうこともあるそうだ。ほとんどがそこで殺されて終わるらしいが。

 

 一方、ノアの場合は瞑想を行うことですぐにでも精孔を開ける状態にあるという。通常は数カ月から数年に及ぶ期間を要するらしいが、ノアはトップアイチューバーたる大きな才能の持ち主だ。

 

 アスリートや芸術家、科学者など、超一流の才能を持った天才は、自分の天職を全うするために仕事や研究に没頭する者が多い。そのライフワークそのものが精孔を開くための瞑想に近い効果を持つという。そのため、誰かから教わらずとも自力で念を習得するに至る者もいるそうだ。

 

 ノアにもそれと同様のことが言え、さらに先ほどツクテクから発せられた殺気を含んだオーラをぶつけられたことにより、あと少しで精孔が開くところまで来ているらしい。本人はどこか半信半疑と言った様子だったが、ブレードからとにかく念を信じろ!と言われて、今は座禅を組んで瞑想している。

 

「念の基本は『纏』、『絶』、『練』、『発』の『四大行』ッスル。まずは纏を意識してやってみるッスル」

 

 生命エネルギーは誰しもが体内で生み出している力の源であるが、それを意図的に活用するには精孔を通して体内からエネルギーを引き出さなければならない。それもただ引き出すだけではなく、体表に纏うようにエネルギーをとどめる必要がある。この技が『纏』だ。

 

 精孔が開いた者は自ずと覚える技らしい。というか、覚えられないとエネルギーがどんどん外に漏れ出して疲労困憊してしまう。つまり、私はもう『纏』を使えているわけだ。しかし、それはあくまで無意識に行っている生理的反応に過ぎず、武法としての『纏』はまた異なるとブレードは言う。

 

 言われてみれば、ブレードが体に纏っているオーラは密度がしっかりと詰まっている気がした。それに比べて私の纏は濃淡にムラがあり、ところどころ穴が開いては微量のオーラが漏れ出てしまっている。

 

 試しにブレードの纏を真似して、それに近づけようとしてみた。血液が全身を巡るイメージでオーラを循環させてみよ、という彼のアドバイスの通りにやってみると、意外と簡単に纏の精度は高まった。気がする。

 

「おお、なかなか筋が良いッスル! 初心者の修行の基本はこの『纏』ッスル。ただ、これは念に対する最低限の防御力しかないので過信は禁物ッスル。殺気だけで圧倒されるようなことはなくなるが、オーラを纏った攻撃を直接受ければ簡単に突破されるッスル」

 

 気を抜くと纏がさっきまでの洗練されていない状態に戻ってしまう。やはり簡単に身につく技術ではないようだ。武法と言うとおり、日々の鍛錬によって磨かれていく技なのだろう。

 

 『纏』は四大行の最初の段階であり、次の『絶』は逆に精孔を閉じることで体外へのオーラの流れを遮断し、気配を隠す技だという。それを聞いて思ったのが、私が普段から使っている『無関心モード』だ。これはもしかして絶という技なのではないか。

 

「なんと、絶が使えるッスルか!? 確か、君は野生動物の生態に密着した動画を投稿していたようだが……自然に生きる動物もまた、絶に近い技能を身につけ、気配を隠す術を覚えるものッスル。そのような環境に身を置くうちに君も自然と絶を習得したのかもしれないッスル」

 

 さすが野生児は違いますね、とベルベットから軽く皮肉を言われる。この絶は身を隠す上では便利だが、念攻撃に対する抵抗力がほぼゼロになってしまうというデメリットがあるようだ。他にも『凝』という応用技で見破られることもあるなど、色々と役に立つ情報を教えてもらった。

 

「『纏』、『絶』に続いて次の『練』は……さすがにこれは素人がいきなり成功できるような技ではないッスル」

 

 『練』は『絶』とは逆にオーラの出力を急激に上昇させ、爆発的なパワーを得る技だ。先ほどツクテクを始めとするアイチューバーたちが全身に力強いオーラを漂わせていたあれも練を使った状態だったという。正確には、練によって引き出した力で纏を強化し防御力を高めた『堅』という技であり、これが念能力者同士の戦いにおいてはニュートラルな状態らしい。

 

 練を使った攻撃の前では、単なる纏の防御力などないに等しい。つまり、実質的に練ができなければ同じ土俵の上に立つこともできないのだ。できることなら使えるようになっておきたい。

 

 ものは試しだ。纏の時と同じく、さっき見た記憶を頼りに皆が使っていた練を自分もできないか再現してみる。と言っても、完全に感覚頼りの試みだ。出力を上げる……とりあえず電球をイメージして、その光がピカッと強くなる感じで……こう!

 

 体中から蒸気が噴き出すようにオーラが外へと溢れ出た。しかし、全く安定しない。入り乱れる気流のように渦巻いて霧散していく。しかも、体中に激痛が生じていた。特に手足の痛みがひどく、筋肉という筋肉が断裂していくかのような症状に襲われる。とても集中が続かず、一瞬で練は解けてしまった。

 

 ブレードの言うとおり、想像以上に難しい。パワーアップするどころかダメージを受けてしまった。筋肉の痛みは肉体の修復によってすぐに治療できたが、今の段階ではとても実戦で使える技ではないとわかった。

 

「なんですか、その化物みたいな顕在オーラ量は……」

 

「ま、マーッスルマッスル! シックス君は強化系かな!? 一瞬とはいえ、初見で練を成功させるとは、大した才能ッスル!」

 

 ブレードは言葉では褒めてくれたが、ベルベットともどもドン引きするようにこちらを見ている気がした。体中に生じた痛みについても聞いてみたが、普通は初心者でも練をしただけでそんな異常は起こらないらしい。一般初心者以下の制御レベルということか……軽く落ち込む。

 

 練はオーラの扱いが未熟なうちから取り組んでしまうと精神の柔軟さを欠き、そのしこりは念能力の成長にも悪影響を及ぼすことがあるという。まずは纏をしっかりと習熟した上で練の修行に打ち込むべきだとブレードは言った。

 

「まあ、この非常事態にそんな悠長なことは言ってられませんから、危ないと感じたら使ってください。殺されかねない攻撃でも、致命傷は免れるかもしれません」

 

 ベルベットの言うとおり、いざというとき取れる選択肢が増えるのは歓迎だ。とっさに使えるように意識はしておこう。

 

 そして、四大行の最後の技である『発』。これまで教えてもらった技は念能力者であれば誰でも使えるものだが、発だけは個人によってできることが全く異なるという。要するに、その人だけの必殺技だ。しかも、その技は自分で考えて作ることができるという。

 

「くれぐれも言っておくッスルが、絶対に発を作ろうと思わないように。纏、絶、練をしっかりと修めた上で、自分の特性と戦闘スタイルをよく理解して作らなければろくな能力にならないし、後で取り消すことはできないッスル」

 

 発は才能次第で複数作ることもできるらしいが、おおよそ一人一能力であることが多いという。つまり、使えない能力を一度作ってしまえばそれっきり、取り返しはつかないというわけだ。

 

 修行を積んだ上で、きちんとした師の指導のもとで考えて決めなさいと言われた。それでもこの場で説明してくれた理由は、敵がどのタイプの発を使うかという情報は知っておかなければならないからだ。

 

 発には六つの系統がある。強化系、放出系、操作系、特質系、具現化系、変化系と呼ばれている。個人によって得意な系統が必ず一つあり、普通はその特性に合わせた能力を考えて作る。だからどんな能力でも自由に覚えられるというわけではない。

 

 ブレードからそれぞれの系統の特性について話を聞く。その中で、操作系の話になったときに思い当たることがあった。操作系は物質や生物を意のままに操ることが得意だという。その操る対象には人間も含まれている。

 

 もしかして、ポメルニは操作系能力者の発によって操られているのではないか。彼の言動は明らかに普段とは異なっている。だが、操られているのだとすれば合点がいった。いや、そうとしか考えられない。

 

「確かに、その可能性はあります。または、今まで私たちが思い描いていたポメルニという人物像は彼の演技によるものに過ぎず、今さらけ出している姿こそが彼の本性だという可能性もあります」

 

 そんなことはないと即座に否定した。だが、その私の言葉をベルベットは否定し返す。

 

「そう言いきれる根拠は何ですか? あなたはポメルニの何を知っているんですか? 何を信じようとあなたの勝手ですが、同じように疑うことも覚えた方がいいですよ。少なくとも、たとえこの中にいる誰が裏切ろうとも動揺しないだけの想定はしておいてください」

 

 それは言い換えれば、全員を疑えということだ。自分以外の誰も信じるなと、彼女は言っているような気がした。

 

 

 * * *

 

 

 ゲームの開始時間を30分後に控えたスタジアムは人でごった返していた。その中央に設置された舞台の下に、観客の多くが集まっているからだ。その人ごみの中には、チェルとトクノスケの姿があった。

 

「もうすんげー嫌な予感しかしねー」

 

「胃薬持って来ておけばよかった……」

 

 よりにもよって、災厄と推定される少女との初の会談の場となることを想定していた絶好の機会を打ち砕くトラブル。事態は暗雲がたちこめるどころか、既に大雨強風落雷騒ぎになっているように二人は感じていた。

 

 ゲームの開始を今か今かと待ちわびる人々の視線の多くは舞台上へと向いていた。そこにゲームの主役たる選手たちの姿があるのだから当然だ。しかし、集められる好奇の目にはどこかもどかしさが込められている。

 

 それもそのはず、あと30分でゲームが始まるというのに観客をそっちのけで選手たちはのんきに話し合っているばかりだ。まるで戦う様子が感じられない。舞台上の声を拾っていたマイクは電源が切られているのか、話している内容もここからでは聞き取れない。彼らを応援するファンたちはただ待つことしかできずにいる。

 

 スタジアムの電光掲示板にはチルドレンの名前と、それぞれに所属するチーム総数が表示されていた。一部、脱落してしまったチルドレンの名前は表示されていない。

 

 

 ジャック・ハイ(赤チーム:31人)

 ブレード・マックス(黄チーム:972人)

 J・J・J・サイモン(青チーム:7人)

 ノア・ヘリオドール(緑チーム:319人)

 快答バット(黒チーム:2人)

 銀河の祖父(茶チーム:147人)

 ツクテク(橙チーム:181人)

 ベルベット・アレクト(紫チーム:2人)

 シックス(銀チーム:4人)

 

 

 チーム人数がすさまじく偏っていることがわかる。その主な理由は、ゲームにかけられた賞金だろう。勝利したチームには全員に100万ジェニーが与えられる。誰だって勝ち馬に乗りたいと考えるはずだ。いつもは一番に応援しているチルドレンがいたとしても、金欲しさに別の選手に乗り換える者も多い。

 

 しかも、どのチームにどれだけの人数が参加しているかという集計結果は電光掲示板にリアルタイムで表示されているので、人数が多いチームはさらに人を呼び込む結果となった。

 

 一番人気はハンター系のブレードだ。何と言っても、プロハンターである。その資格試験の難易度は誰もが知る所であり、その強さは折り紙つきと言える。良識ある人格も相まって、全体の半数近い参加者が集まった。

 

 二番手はアイドル系のノア。金では動じない熱狂的な女性ファンが多く、おそらくそのほとんどが女性で構成されたチームとなっているだろう。

 

 三番手は作ってみた系のツクテク。平素のプロフィールから見ればそれほど有望視される選手ではないが、それでも人を集めた理由はゲーム開始前から速攻でチルドレンの一人を討ちとった手腕を評価されてのことだ。念に目覚めていない一般人でも、彼の放つ威圧からは強者の貫禄を感じ取れたのだろう。

 

 四番手はメンタリズム系の銀河の祖父。上の三人には人気で負けているが、戦闘が得意そうなイメージがまるでない彼のもとにこれだけの数が集まっているのだから善戦していると言える。それだけ彼の占いの信奉者がいることになる。

 

 残りの面々については数えるほどの大差ないチーム人数となった。表示されている全員を足しても2000人には届かないが、これは配布されたリストバンドをまだ装着していない人たちだと思われる。

 

 実際は画面に表示されている全ての数の人間が心からゲームへの参加を望んでわけではないのだろう。とりあえずどこかのチームを選んだというだけで、この状況についていけない者も多くいるはずだ。

 

 大騒ぎしている人間も、心のどこかでこのゲームに不審な空気を感じている。だが、その不安をどこにもぶつけることができずにいた。スタッフに聞いても彼らもまた何も知らない。このスタジアムに留まっている大勢の人間も、その大きな理由は「みんながここにいるから」だろう。

 

 これがポメルニによって計画されたサプライズパーティーでなければ、いったい何なのか。その可能性が否定されてしまったとき、会場は歓喜から一転して怒号と悲鳴に包まれることになるだろう。誰もそんなことは望んでいない。だから今はまだ、これがただのゲームであることを信じようとしている。

 

 ゲームが始まって麻酔銃のロックは解除されているが、まだ撃ち合いは起こっていない。敵チーム同士でも普通に談笑している者はいる。その態度が観客たちのゲームに対するスタンスを物語っていた。

 

 いくら多額の賞金がかけられていると言っても、麻酔銃で人を撃つという行為はためらわれる。少なくとも最初の一発が放たれるそのときまでは。

 

 今はまだ表面上、トラブルが起きているように見えないが、各所では不満を爆発させている者もいるだろう。そういった負の感情が全体へと伝染していくのも時間の問題だ。

 

 大勢の人間がイベントを楽しんでいるように見えるが、その歓楽はいつ崩れ去ってもおかしくない危ういバランスの上に成り立っていた。どのような形であれ、一度ゲームが動き始めればもう後戻りはできない。

 

 享楽と緊迫が隣り合う不思議な空気の中で、チェルの右手首には銀色の光を放つリストバンドが輝いていた。

 

「よくそんな怪しげなものをつけられますね」

 

「お前が大丈夫だって言ったじゃん!」

 

 当然、最初は怪しんですぐに装着しようとは思わなかった。しかし、機械系統の扱いに詳しく爆発物の処理や解体の資格も持っているトクが隅々までチェックし、危険はないと判断された。

 

 内蔵されていた装置は説明にあった通り、脈拍などのバイタルサインの読み取り機と位置情報を知らせる発信機だけだ。この発信機は超低周波音波による信号を発信でき、短距離なら電波障害発生中でも使用できる機能になっている。普通ならわざわざこんな特殊仕様の発信機を組み込む必要などないので、この電波障害は計画的に仕込まれた可能性が高い。

 

 だが、それ以外には特に怪しいところはなかった。何らかの念が込められている様子もない。付け外しも自由の、ただのリストバンドである。ちなみに、装着して色を選択せずに放置していた場合はルーレットでどれかの色が強制的に決定されるようだ。色を決めるとその光がピカピカ点滅して、チームの見分けはつきやすいがうっとうしい。

 

「そうですぞィ、ヒデヨシ氏ィ! 貴殿も『シックスちゃん親衛隊』の一員であるならば、その証たる銀の光をこの手に宿しィ! 輝ける拳を天に掲げたいとは思わないのでしィ!?」

 

「右に同じく」

 

「この広い会場でせっかく巡り合った同士ではゴザらぬか。恥ずかしがらずともよいナリよ」

 

 チェルとトクの会話に割り込んできたこの三人組は、世界の命運を左右する任務とは全く何の関係もない、ただの一般客である。電光掲示板に表示されているシックスの銀チーム四名のうちの三人だった(残り一人はチェル)。

 

 チビのロック、デブのペイパ、ノッポのシーザー。三人は思い思いの手作りシックスちゃんグッズを装備していた。シックスちゃんうちわ、シックスちゃんハッピ、シックスちゃん自作フィギュアを首から下げている者もいる。その三人に共通していることと言えば、全員がなぜか頭に犬耳カチューシャをつけているところだろう。

 

 平時であれば絶対に関わり合いになりたくない人種であることは確かだが、彼らは銀の光に導かれて一堂に会してしまった。誘蛾灯に集まる虫のごとく。いまいち彼らのノリが理解できないチェルであったが、そのシックス愛だけは共感することができた。そして奇跡的なバランスの上に意気投合し、行動を共にすることとなった。トクは勘弁してくれと思った。

 

 一応、チェルとトクはシックスのファンという設定で潜入しているので他のファンたちと一緒に行動すればカモフラージュになる。これからゲームが始まれば遅かれ早かれ同じチームとして活動することになるだろう。そして、もし何かあったときは任務を優先する。その一線はチェルもわきまえていた。

 

 ちなみに本名は明かせないので、トクはヒデヨシ、チェルはアーサーと名乗っている。これは彼らが着ているコスプレ衣装のモデルとなったキャラクターの名前であり、三人組はロールプレイをやっているのだと受け取っている。

 

 そんなわけで銀チームの五人は舞台上の選手たちが動くのを今か今かと待っているのだが、一向に進展する様子が見えない。どうも戦いに発展するような空気ではないのでそれほど心配はしていないが、このまま放置されるのではないかという別の心配があった。

 

 チルドレンのほとんどが念能力者という予想外の事態となったせいもあって、このゲームは念能力者対念能力者という戦闘の構図になってしまった。はっきり言って、カスみたいな麻酔銃で武装した一般人を数百人集めたところでできることはあまりない。

 

 一般人の群衆よりも優先して他のチルドレンの動向をうかがう方に重きが置かれることは言うまでもない。むしろ、観客には下手に動いて騒ぎを大きくしてほしくないとチルドレン側は思っているだろう。少なくとも、舞台上に残っている選手は穏便に事を済ませようとしているように感じる。

 

 しかし、チェルたちからすればそれは都合が悪かった。せっかく自然な形でシックスに近づくチャンスだと言うのに、蚊帳の外に出されたまま手をこまねいていたのでは任務にも支障が出る。

 

「よし、作戦変更だ。これから舞台に乗り込むぞ」

 

「ええっ!? ま、マジでィ!? でも、まだゲームも始まってないし、もう少し待った方が……」

 

「お前らのシックス愛はその程度か!」

 

「うおおおお!! アーサー姉貴に続けィ!」

 

 銀チームが人ごみを掻き分けて前に出る。最前列に近づくほど込み合っているが、ある一線を境にして人の列は途切れていた。別にバリケードなどで仕切られているわけではないのに、ひしめく群衆は誰もその線を越えて前に出ようとしない。

 

 これは念による効果だ。特別な能力というわけではなく、ただの殺気である。危険を感じるほど強力ではないが、なんとなく踏み込むことを忌避させる空気を作り上げている。やっているのはベルベットだ。

 

 まるで人払いの結界のように薄く張り巡らされた殺気の使い方は見事だが、相手が念能力者であれば何の障害にもならない。ずかずかと舞台に上がり込むチェルとトクに続き、一般ファン三人組もおっかなびっくり同行した。一応、三人組は威圧に中てられないようチェルが小さな『円』で保護領域を作っている。

 

「で、あなたたちは何者ですか?」

 

 当然のごとく、この突然の来訪者たちに対して壇上にいたチルドレンの視線が一斉に集まった。チェルとトクが身に纏うオーラの流れを見れば、念能力者であることはうかがえた。

 

「野郎ども……フォーメーションAだ!」

 

「「「アイアイサー!」」」

 

 問答無用で戦闘を始める気かと、ベルベットとブレードが身構えるが、不審者の五人が取った行動はある意味で予想を超えていた。まるで特撮番組のヒーロー戦隊のように各々がポーズを決めて自己紹介し、銀色に光るリストバンドを掲げた。

 

「我ら、シックスちゃん親衛隊! ただいま参上!」

 

 その様子を見つめる視線に込められた感情は様々だった。ブレードは困惑している。ベルベットは「ああ、こいつらバカなんだな」と言わんばかりの目つきになっていた。トクは一歩距離を取ったところで傍観者の顔つきになっている。

 

 そしてシックスは、表情こそ変化があまり見えないものの、おずおずと銀チームの方へ歩み寄るそぶりを見せていた。作戦通りだとチェルは内心でほくそ笑む。この勢いでファンとしてシックスと急接近、一気に仲良くなる寸法だ。なんで念能力者が都合よく二人も紛れこんでいるのかという疑問は持たれるだろうが、勢いでごまかすつもりだった。

 

「シックス君、騙されるなッスル」

 

 だが、そこでブレードがシックスの肩に手を置き、引きとめる。

 

「素性を隠して近づこうとしても無駄ッスル。チェル・ハース並びにトクノスケ・アマミヤ、お前たちがサヘルタ合衆国の諜報員であるという情報は既につかんでいるッスル」

 

 今度はチェルたちが驚く番だった。どこでその情報が漏れたというのか。

 

「まさかファンの名を騙り正面から平然と近づいてくるとは。シックス君、こいつらは君の命を狙う危険な……」

 

「そこから先の言葉は心して言え」

 

 チェルが威圧を放った。そこには先ほどツクテクが浴びせてきた殺気の比ではない重さがある。ブレードは息をのんだ。

 

 彼らの人生は前提からして異なっている。チェルは幼少より闘うための道具として軍に育てられてきた人間だ。一人の兵士である彼女にとって全ての目的の終点は与えられた任務の達成にあり、そのために肉体を鍛え、技を磨いてきた。

 

 いかに才気に満ち溢れたトップアイチューバーといえども、彼らとは踏んできた場数もその密度も全く異なる。

 

「誰からその話を聞いた?」

 

 嘘は許さないとチェルのオーラが物語っていた。プロハンターとして名に恥じない活動と実績を積んできたブレードも、暗黒大陸からの帰還者が発する威圧を前にして言葉に詰まった。実力差は明白。しかし、ブレードは死を覚悟するほどの殺気の中で、シックスをかばうように前に出る。

 

「吾輩は絶景ハンター、ブレード・マックス。ハンターの誇りにかけて、悪に屈することはない」

 

 そう言い放ち、一枚のカードを放り投げる。攻撃ではなかった。チェルの目の前に投げてよこされたそれはハンターのライセンスカードだった。

 

 ハンター試験に合格した者にはライセンスカードが支給される。あらゆる偽造防止技術が詰め込まれたそのカードは、売れば七代遊んで暮らせるほどの金になると言われている。カードを失ったからと言ってハンターの資格が抹消されるわけではないが、二度とカードが再発行されることはなく、ハンターとしては二流の烙印を押されてしまうと言う。

 

 ハンターの誇りを謳いながら、その証を投げ捨てる。一見して矛盾しているように思えるが、その行動を取ったブレードには一切の迷いも見受けられなかった。

 

 つまり、彼にとってハンターの誇りとはライセンスカードに宿るものではない。金や他人から受ける評価でもない。己の意思と信念に基づき、成し遂げると誓う宣言。たとえ殺されようとも、彼が口を割ることはないだろう。

 

「確かに」

 

 チェルは殺気を収める。

 

「正体を隠そうとしていたことは事実だ。誠意を欠いていたのはこちらの方だった。非礼を詫びる。申し訳ない」

 

 ここはシックスの目もある。これ以上、高圧的な態度は見せるべきではないと判断した。しかし、謝罪した程度でチェルたちに対する不信が払拭されるわけではない。そしてここで非を認めるということは、自分たちの素性について明かしたも同然だった。いずれはシックスにも知られることだったが、それは信頼関係を築いた上で時間を置いて話していく計画だった。

 

「その、サヘルタの諜報員でしたっけ? それがシックスを狙っていると。その理由は? そもそも信憑性のある情報なのですか?」

 

「守秘義務があるため言えないッスル。しかし、この案件はハンター協会を通して請け負われた正式な依頼ゆえ、信憑性は保証するッスル」

 

 ベルベットとブレードのやり取りを聞いて、チェルたちはますます頭を抱えたくなった。情報の出所としては許可庁が最も疑わしい。ここまで詳細な情報を許可庁以外の何者かがつかんでいるとは考えにくい。しかし、そうなると許可庁がハンター協会に依頼を出したことになる。

 

 シックスの存在は許可庁にとっても絶対に露見させてはならない秘中の秘だ。その捜索とコンタクトを直属の実働部隊を使わず、外部に委託するというのはリスクがあまりにも高すぎる。許可庁とハンター協会は大手の得意先でありはするが、どこまで行っても別の団体であることに変わりはない。

 

 確かにアイチューバーが集まるオフ会で、シックスと共に招かれているブレードに依頼を持ちかければ話がすんなりとまとまる可能性は見込めるだろう。だが、失敗した際の諸々のリスクを加味すればとても実行できる策とは思えない。

 

 しかし、現実に敵はその狂人の発想をもって機先を制してきた。許可庁からの妨害工作があっても、それは水面下で行われるものと見積もっていたチェルたちは見事に出鼻をくじかれる形となってしまった。

 

 問題は、クインに関する情報がどこまでブレードに開示されているのかという点だ。多くを明かせば明かすほど重大な情報漏洩が起こる危険は高まるし、逆に何も知らされずに災厄と接触させればどのような逆鱗に触れるかもわからない。このような博打に打って出た許可庁の思惑を推し量ることはできなかった。

 

「では、ブレードの話が真実だと仮定して。今度はその諜報員さんに聞きますが、あなた方の目的は何ですか?」

 

「シックスとの交流、会談、そして保護だ。誓って脅かすようなことをするつもりはない」

 

「それを信用しろと?」

 

 ブレードの証言によってチェルたちは完全にアウェイな立場へ追い込まれてしまった。ここで下手な言い訳を並べ立てたところで信用を得ることは難しい。

 

「そこで提案します。自らに非があると認めるのであれば、相応の態度と行動で示すべきでしょう。私たちはこの先行きの見えないゲームを早く終わらせたい。それに協力してください」

 

 ベルベットはツクテクを狩ってくるように要求してきた。この異常事態の終息を理由にしているが、要するにていの良い厄介払いと、そのついでに他の危険因子を排除してこいと言っているに等しい。

 

「ああ、そうだ。あなたがたの大切なお姫様がアイチューバー同士の争いに巻き込まれるのは避けたいでしょうから、ツクテク以外のチルドレンもとりあえず全員倒してきてください。もちろん、これは“ゲーム”ですから死人は出さないでください。嫌とは言いませんよね?」

 

 ベルベットがシックスの頭を撫でながら薄く笑う。シックスはその手をぺしっと払いのけていた。

 

 ベルベットはシックスがチェルたちにとって重要人物であることを知った上で、それを利用しゲームを有利に進めようとしている。自分たちは体力を温存し、一方でチェルたちに複数の念能力者との連戦を強いることで少しでも消耗させておこうという意図もあるだろう。ただ、彼女もサヘルタを敵に回そうとは思っていない。

 

 チェルは先ほど、殺気の大部分をブレードに向けていたが、牽制の意味を込めてベルベットにも余波をぶつけていた。ベルベットも互いの実力に大きな開きがあることは理解している。平静を装っているが、その額にはわずかに冷や汗が見て取れた。

 

 身の程をわきまえない交渉に及べば大きな危険があることを承知しながら、ギリギリのラインを見極めて事を有利に運ぼうとする頭の回転の速さと胆力。プロハンターであるブレードはまだしも、ベルベットはただの女子高生投稿者に過ぎないと高をくくっていたチェルは認識を改めた。

 

「……わかった。その条件をのもう」

 

 たとえチルドレン全員を無力化して連れてきたところで、1ミリたりともベルベットがチェルたちを信用することはないだろう。それでも誠意を見せることに意味はある。自分たちが傍若無人な悪の諜報員ではないと証明できれば、ベルベットの信は得られずとも、シックスは反応を示してくれるかもしれない。

 

 ツクテクについては早急に対応が必要と感じている案件であったし、その他のチルドレンに関してもどれだけの危険があるのか未知数な相手であり、これもまた排除できるならしておくに越したことはない。

 

 ひとまず、このゲームをいち早く終決させ、目前の問題を解決してからシックスとの本格的なコンタクトに移ると、計画を変更修正する。

 

「その代わりに、シックスの護衛をよろしく頼む」

 

「ええ、もちろん約束しましょう」

 

「言われるまでもないッスル」

 

 ベルベットはともかくとして、ブレードは信頼のおける男だとチェルは感じた。何の根拠もない彼女の勘でしかないが、敵ながら一本芯の通った意思の強さが見受けられる。立場の違いから衝突してしまったが、悪い奴には見えなかった。安心できるとまでは言えないけれども、少しの間ならシックスを預けても大丈夫だと思えた。

 

「おほおおお!! 生シックスちゃんprprprpr!! なんという美幼女! 神々しさで直視できないィ……このままでは小生、浄化されてしまうでしィ!」

 

『パシャッ、パシャッ』(無言でカメラ撮影しまくる音)

 

「三次元の幼女は二次元の幼女に勝てない、そんなふうに考えていた時期が俺にもありました。もうこれで通報されてもいい……だからありったけを……」

 

「あっ、ちょっとブレード邪魔でしィ!? ブレードのがたいでシックスちゃんが見えないでしィ!」

 

「その駄犬どももちゃんと連れて帰ってくださいね」

 

 チェルが駄犬三人組にゲンコツを落とし、首根っこをつかんで引きずりながら壇上を降りて行く。

 

「あの……」

 

 その背中に声がかけられた。チェルが振り返るとシックスと目が合う。

 

「きを、つけて」

 

 短い一言だったが、それはチェルたちの身を案じる言葉だった。

 

 確かに両者の間には距離感がある。ブレードの話を聞いた後ではそれも仕方がない。諜報員らしき得体の知れない相手に対して歓迎するような雰囲気はない。

 

 だが、それでも。シックスと関わった時間はほんのわずかなものだったが、その関わりの中で彼女は拒絶することなく向き合おうとしてくれている。

 

「おう! 任しとけ!」

 

 少なくとも嫌われてはいない。今はそれだけで十分な収穫だとチェルは思った。

 

 



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42話

 

 巨大飛行船は内部に様々な娯楽施設が置かれている。客だけではなく、それらの施設を運営する人間もまた大量に必要となってくる。しかし、飲食店やブティックなどが立ち並ぶ商業区画には誰の姿もなかった。

 

 まるで巨大なクジラの腹の中にでも迷い込んだかのような閉塞感。臓器のように立ち並ぶ店々は、どこも閉店の看板が下げられていた。訪れた客を楽しませるために作られた小さな町は照明だけを灯して、ひっそりと静まり返っている。

 

「これはすごい……力がみなぎってくる……!」

 

 その虚飾に満ちた通りの一角に、怪しげな集団がたむろしていた。全員が同じデザインのローブを身に纏っている。フードが付いた大きなローブは、着た者の姿をすっぽりと覆い隠してしまう。身長の差などを除けば見た目だけで個人を見分けることは難しいだろう。

 

 その一団はメンタリズム系アイチューバー、銀河の祖父をリーダーとする『茶チーム』だった。このローブもたまたま同じものを数百着も用意していた、というわけではない。これこそが彼の念能力である。

 

 『誰よりも誠実な詐欺師』を自称する占い師、銀河の祖父。彼にとって占いとは、あくまでも人心掌握をしやすくするための導入に過ぎない。最初から騙すことを公表してくる彼に対して、初見の客は当然のようにこう思う。「誰が騙されるものか」と。

 

 しかし、ひとたび彼の占いを受ければその考えは180度変わってしまう。占いと称しているが、その本質はただの悩み相談に過ぎない。どんなに幸福な人間だろうと、悩みのない人間はこの世にいない。彼は巧みに心の闇を暴き出すテクニックと話術を持っている。

 

 人間の悩みとは、その多くが克服困難なものである。簡単に解決できるならそもそも悩みはしない。そしてその壁を前にして、ほとんどの人間は乗り越えることができずに立ち止まる。努力によって真っ当に壁を打ち破れる人間など、ほんの一握りしかいない。たいていはただ立ち止まったまま、別の誰かや時間が解決してくれるのを待つのみだ。

 

 だが、立ち止まっている時間が長いほどに、人は前に進もうという気力を無くしていく。そういう人間が次にやるのは、問題を忘れようとすることだ。壁を乗り越えられないから、妥協して別の道を選ぶ。その方法が成功することもあるが、根本的な解決にはならないし、次の壁にぶつかる悪循環に陥ることの方が多い。

 

 心の傷は一度治ったように思えても、ふとした瞬間にぶり返す。完治させるためには、現実を直視して立ち向かわなければならない。それが最善の対処であり、そして最も苦痛をともなう選択でもある。未来に進むためには、辛くとも不幸な記憶と向かい合い、その上で過去は過去として納得することが必要である。

 

 銀河の祖父は占いによって悩みそのものを解決できるとは思っていない。相手に自分の本心を自覚させ、それを受け入れさせればそれでよい。やっていること自体は特別なことではなく、普通のカウンセリングでも行われているような本人の自立を促すサポートであるが、その手並みがずば抜けていた。

 

 他人の心を言葉巧みに誘導するそのあり方は操作系能力を彷彿とさせるが、彼は具現化系能力者だった。その能力は『無差別殺仁(セルフライアーズ)』と言い、彼がいつも着ているローブを具現化することができる。これは操作系と具現化系の複合能力である。

 

 このローブを着た者を操ることができるのだが、具現化系は操作系と相性がそれほど良くない系統であり、あまり強力な精神干渉はできない。その運用法は『要請型』と呼ばれる分類となる。

 

 操作系能力には大きく三つの分類があり、心身ともに完全に操る『強制型』、体の自由を奪う『半強制型』、そして操る対象に協力を求める『要請型』がある。要請型は対象の制御は難しいが、他の二つと比べて少ないエネルギーで多くの対象を同時に操れるという利点がある。

 

「むやみにその力を使ってはなりません。そのローブはあなた自身の力を引き出すもの。エネルギーを消費すれば、当然あなた自身も体力を消耗します」

 

 『無差別殺仁』の最大の特徴は、操作対象が念能力者ではない一般人だった場合に、簡単な念を使わせることができることだ。

 

 基本的に操作系によって操られた一般人は、その攻撃によって精孔が開くケースは少ないのだが、中には念能力やそれに準じる力の行使を可能とする場合もある。『無差別殺仁』は精神干渉能力を薄めた代わりに、協力に応じた見返りとして念能力が使えるようになる効果があった。

 

 しかし、それによって使えるようになる力は『纏』と『練』だけだ。『練』はちょっとだけ攻撃力が上がるくらいの粗末な精度で、たいした威力ではない。本物の念能力者が一対一で戦うとなれば、まともな相手にはならないだろう。この効果はローブを着ている状態限定のものであり、脱いだり破損したりすれば使えなくなる。

 

 みだりに一般人に念の存在を教えてはならないという掟があるため、銀河の祖父はこの能力を、宇宙から降り注ぐ銀河のパワーをローブが受信して潜在能力を引き出しているのだと説明している。うさんくさいにもほどがある説明だが、信者はその言葉を完全に信じ切っていた。そもそも疑心が少しでもあるような人間は、こんな怪しげなローブを着ようとは思わないだろう。

 

「おお、なんということでしょう。本当なら、あなたがたを巻き込みたくはない……私の能力でどうにか皆さんを守ろうと考えましたが、それも難しいようです……」

 

 さめざめと涙を流す銀河の祖父に対して、集まった賛同者たちは声をあげた。

 

「何をおっしゃるのですか、先生! むしろ、嬉しいくらいですよ。私たちでも先生の力になれるというのなら、協力は惜しみません!」

 

「ここにいる人たちは、みんな先生に心を救われた者ばかりです。今度は私たちが先生を助ける番ですよ。一致団結してこの難局を乗り切りましょう!」

 

 銀河の祖父は泣くふりをしながら仮面の下で笑っていた。確かに彼の能力にはデメリットが多いがその分、数を生み出すことに特化している。百着以上のローブを具現化しているが、まだ彼には余裕があった。

 

 個人でみれば大したことのない戦力でも、それがこれだけの数集まればまさに百人力。一般人が何人集まろうとも念能力者には勝てないが、それが多少なりとも念を使える能力者もどきとなれば全く話は変わってくる。正面から数の力で圧殺することも可能だ。厄介な能力を持つ者がいたとしても数の力に物を言わせれば様子見ができる。そういう能力者は一度タネが割れれば対処が容易である場合がほとんどだ。

 

 ローブを着たファンの一人が近くにあった建物の壁を殴った。そのただのパンチで、コンクリートでできているはずの壁が砕け、拳の跡がくっきりと残っている。

 

「す、すげぇ……この力があれば……!」

 

 彼は一言も助けてくれと言ったわけではない。ゲームに協力して優勝しようだなんてけしかけることもなかった。直接的な方法を取らずとも、自然に人々の意思を誘導する術を知っている。それこそが彼のメンタリズム術。

 

 彼は確信した。心を制する者が勝負を制する。この観客を巻き込んだ全員参加式のルールも彼に味方している。いや、もはや彼のために作られたルールと言っても過言ではないだろう。

 

 彼はこのゲームの勝者になろうとしている。

 

『5秒前! 4、3、2、1……ゲームスタート!』

 

 ついにゲームの開始を告げるアナウンスが船内に鳴り響いた。麻酔銃のロックが外れたはずだが、そんなものは必要ない。一般人の対処用に使えば十分だ。

 

「先生、これからどういたしましょう」

 

「慌てることはありません。何事も起きないのが一番です。まずはここで身を隠し、ゲームの行く末を見守りましょう」

 

 焦る必要はない。ツクテクのような危険な輩もいることだし、血気盛んなアイチューバーたちが潰し合ってから行動を起こした方が消耗も少なくて済む。兵力は集まった。後はそれを投入する機をうかがうのみだ。

 

「しかし、どこから敵が襲いかかってくるとも限りません。みなさん、警戒だけは怠らないようにお願いします。まだ始まったばかりですから大丈夫だとは思いますが」

 

「……いえ、どうやらそうも言っていられないようです」

 

 それは招かれざる客の知らせだ。まさか他のアイチューバーに早くも見つかったかと思ったが、その心配は杞憂だった。

 

「おー、なんか見るからにやべー奴らが集まってるな。黒ミサか?」

 

「確か銀河の祖父が似たようなローブを着ていましたが、どれがどれだかわかりませんね」

 

「えっ、ちょっ、いきなりこの数はまずいでしィ!? 逃げ……戦略的撤退しましィ!」

 

「お前はそれでもシックスちゃん親衛隊か!」

 

 現れたのは、たった五人の敵チームだった。リストバンドは銀色の光を放っている。その色が誰のチームであったか銀河の祖父は忘れてしまったが、覚えていなくとも問題のないことだ。たった五人の一般人など、彼の軍勢をもってすればひとひねりの内に始末できる。

 

「我らが主に仇なす者は排除する」

 

「銀河の祖父こそアイチューバーの王にふさわしい!」

 

「邪魔する奴らに容赦はしない……」

 

 百人以上のローブ姿で統一された集団が、ゆらりと動く。五人の哀れな迷い子を包囲していく。その光景を前にすれば、誰もがまるで底なしの淵に引きずり込まれるような恐怖を覚えることだろう。

 

「なんだ、やる気があるんなら話が早い」

 

 だが、銀河の祖父は違和感を持った。五人のうちの三人は身を寄せ合って震えあがっているが、二人は欠片の動揺も見せていなかった。ただの蛮勇なのか、それとも何か策でもあるのか。自然体で構えるのみで、配布された麻酔銃さえ手に持っていない。そんなものは必要ないとでも言うかのように。

 

 何か確証があるわけではないが、彼は直感した。この二人を敵に回すのはまずいと。

 

「みなさん、落ちついてください。ここはひとまず態勢を整えて……」

 

「銀河の祖父に勝利を!」

 

「うおおおお!! 俺たちの力を思い知れえええ!!」

 

「ちょっ、私の話を聞いてくだ――」

 

 獲物に群がる肉食獣の群れのように、興奮状態の群衆が蹂躙を開始する。だが、彼らはすぐに現実を知ることになるだろう。どちらが狩り、狩られる側であるかということを。

 

 

 * * *

 

 

 華々しいステージの上で、たくさんの人の歓声を受けながら歌を披露する。それが彼の夢であり、子供の頃からの憧れだった。彼の母親は歌手であり、その姿を見て育った彼もまた、同じ夢を志した。

 

 彼の前には二つの道があった。一つは、歌手となる道。そしてもう一つは医者となる道である。彼は代々、優れた医師を輩出する名家に生を受け、生まれながらに医者となるよう教育されてきた。

 

 本当は歌手になりたかった。だが、そんな考えが許される家ではない。彼は医者になることを決めた。だが、それは嫌々選んだ道ではなかった。家の方針だけでなく、子供の頃からの夢を捨て去ってでも医者にならなければならない理由が彼にはあった。

 

 母親が重い病に冒されたのだ。現代医学ではまだ治療法も確立されていない難病であった。取りうる手段を全て尽くしたが、快方へ向かうことはなかった。彼は大学へ進学し、その病の研究に没頭した。日に日に悪化していく母親のために、寝る間も惜しんで治療法を探した。

 

 今でも多く夢に見る。白い病室の中、無数の管がベッドの上につながり、自力では息をすることもできなくなった母の姿が瞼の裏に焼き付いている。その全身にはどす黒い斑紋が浮かび、かつての美しい姿は見る影もなかった。

 

 言葉をかけても、やせ細った手を強く握っても、返してくれる反応は何もない。意識を失ったまま何年も経過していた。だがそんなある日、彼女は一度だけ口を開いた。

 

 ノア。

 

 それが最後の言葉だった。

 

 

 * * *

 

 

 ついに最悪のゲームがその幕を開けた。始まりを告げるアナウンスが放送される。その声はポメルニのものだ。不愉快さと焦燥を感じずにはいられない。

 

 そして、早くも電光掲示板から一人の名前が消えていた。どうやら銀河の祖父が倒されたらしい。他のアイチューバーの仕業か、それとも銀チームが倒したのか。

 

 私を応援してくれている銀チームの五人に対して、私はどのように接していいのかいまだに考えを決めかねていた。これがただのファンだったのなら話は単純だったのだが、想像もつかない方向に事態は進んでいる。

 

 ブレードはその人たちをサヘルタ合衆国という国が送り込んだスパイだと言う。しかも、なぜか私の命を狙っているらしい。その理由については教えてもらえなかった。彼は何らかの依頼人からこのオフ会期間中、私を護衛するように頼まれているそうだ。

 

 理由を聞かないことには、その話を信用していいのか判断できないが、ブレードの人柄はそれなりに信頼できる。こじれないようにもっとうまくごまかすこともできただろうに、あえて守秘義務を理由として話を濁さなかったことは彼なりの誠意の表れなのかもしれない。不器用なだけかもしれないが、どちらにしても嘘はつけない性格に思える。

 

 一方で、銀チームに対する不信感というのもそれほどなかった。怪しいことは確かであり、もちろん全面的に信用しているわけではないが、どうにも疑いきることができなかった。彼女たちにもブレードと同じような誠意があるように感じたからだ。

 

 コスプレの二人組には会場に入る前から助けられている。殺すつもりがあるのなら機会はあったはずだ。その強さは何となく察することができた。チェルという女性一人だけでブレードとベルベット、二人の能力者を萎縮させるほどの実力がある。

 

 しかし、私は結論を出すことができずにいた。結局ベルベットの提案のまま、銀チームは他のアイチューバーへの対処に駆りだされてしまい、詳しい話を聞くこともできなかった。

 

 謎は深まる一方だ。なぜ私がサヘルタに狙われているのか。ベルベットは私に、もしかして本当にどこかの国のお姫様か何かかと尋ねられたが、私にわかるわけもない。

 

 とりあえず今は様子を見るしかないだろう。このゲームが終わらないことには落ちついて話もできそうにない。幸いにして味方は多い。全員が協力しあえば早々にこのゲームを終わらせることもできるはずだ。

 

「それにしてもこのゲームの主催者は何の得があってこんなことをしているのでしょうか。目的が読めませんね」

 

「吾輩たちが念能力者であるとわかっていたから、これほどの大規模な戦いの場を作ったのか。吾輩たちの潰し合いが目的ッスルか? しかし、それならば力なき一般人を巻き込むようなルールをわざわざ作る必要はないッスル。いずれにしてもこれほど莫大な金をつぎ込み、大きな事件にしてまでやらなければならないことなのかと言われると……」

 

 今後の動き方についてはベルベットとブレードの二人が話し合っているところだ。口下手な私がその会話に混ざってもあまり役に立たないことはわかっているが、蚊帳の外に置かれているような気がして釈然としない。手が余っている私はノア・ヘリオドールの介抱に回されていた。

 

 実は先ほど銀チームとの対話が行われていたとき、チェルはブレードに威圧を放つ片手間にベルベットの方へ牽制の気を飛ばしていたらしいのだが、瞑想中だったノアの方にもついでに牽制していたようだ。そのせいでツクテクに続いて二度目の威圧を受け、ノアは失神してしまった。

 

 ただ、このショックによって精孔を開くことができたようで、ノアは気絶していながらも『纏』を習得できていた。今後は威圧だけで気を失うことはないと思われる。

 

 よほど精神に堪えたのか、冷や汗をかいてうなされている。ベルベットはひっぱたいて起こせと言っていたが、さすがにこれほど弱っている人間に鞭を打つような真似はできなかった。うなされているということはすぐに意識を取り戻すだろう。

 

 介抱するとき、一応脈などを確認した方がいいかと思い手を取ったのだが、その際になぜかこちらが手を握られてしまった。無意識のことだと思うが、近くに誰かいるとわかることで安心したのかそれによって容体が少し落ちついた。振りほどこうとすると嫌がって強く握り返してくるので、そのままにしている。

 

「ノア様から離れろ! このビッチが!」

 

「ガキのくせに色目使ってんじゃねーぞ! そこ代われ!」

 

 だが、やっぱり無理にでも振り払った方がよかったかもしれないと思い始めていた。会場に集まったノアのファンらしき人たちからものすごいブーイングが浴びせられている。まるで崇拝に近い感情を持ったファンたちからすれば、ノアに対してなれなれしく接している私に不満を持つこともわかるのだが、あまりにも口汚い言葉で罵られるため辟易としてしまう。

 

「だいぶ観客も荒れてきましたね。そろそろ放置しておくのはまずいでしょう。きちんと説明した上で納得させられればいいのですが」

 

 ここにはノアのファンである緑チームだけでなく、ブレードの黄チームも集まっている。ベルベットのチームは誤差みたいな人数しかいないが、とりあえず掲示板に表示されている人の数を全て足せば1293人。観客の半数以上はここに集まっていることになる。

 

 それらの群衆がゲームが始まってなお、何の説明もされずに待たされていれば事態は悪い方向へ傾いていくだろう。だが、説明すればそれで済むかと言えば一筋縄でいくものではない。そのまま何もせず、じっとしていてくれるのが一番いいのだが、全員が簡単にこちらの言うことを聞いてくれるとは思えなかった。

 

 ひとまず、最大人数を誇る黄チームのリーダーことブレードが壇上に立って説得を試みることになった。ベルベットも弁は立つのだが炎上系アイチューバーというスタンスがあるため批判を集めやすい。ここはブレードが適任だろう。

 

「皆の者! どうか吾輩の話を聞いてほしいッスル! 現在、この船は……」

 

 しかし、話し始めたブレードの声をかき消すほどの勢いで会場から熱狂の叫びがあがった。ついにゲームが動きだしたと勘違いしたのか、観客たちはブレードの言うことなどお構いなしに騒ぎ始める。そして、恐れていた事態は唐突に訪れた。

 

 会場の各所で麻酔銃を使用する者たちが現れたのだ。銃で撃たれてその場に倒れ伏す者の姿も見受けられる。こうなってはブレードが何を言ったところで無駄だ。言葉で制することができる段階ではなくなった。

 

「こうなることも想定はしていましたが、思っていたより早かったですね。こんな密集地帯で撃ち合いを始めるとは、想像以上のお馬鹿さんたちです。というか、様子がおかしくありませんか?」

 

 確かにいくら興奮しているとはいえ、あまりにも短慮な行動である。言われてみれば観客たちの表情や挙動からは正常とは思えない様子が見て取れた。まるで理性のたがが外れた獣のように周りの迷惑を考えずわめきちらし、武器を構えている。早くも装弾数の10発を撃ち終えたのか、それでも気がおさまらず銃身で殴りかかろうとしている者の姿も見えた。

 

「念によって操作されている気配はないッスル……しかし、精神に異常をきたしていることは明らか。となれば、何らかの薬物による影響かもしれないッスル」

 

 これだけの数の人間に気づかれず薬物を投与するには経路が限られてくる。飲食物に混ぜても全員が食べるとは限らないし、これほど一斉に効果が表れ始めるのは不自然だ。空調からガス性の薬物が散布されたのではないかとも疑われた。それが事実なら、私たちも他人事ではなく影響を受ける可能性が出てくる。

 

「ふむ……コンディション、オールグリーン。今のところこの周辺に薬物の反応はないッスル」

 

 ブレードがおもむろに服の袖をまくりあげ、力コブを作って見せる。彼曰くピクピクと動く筋肉の微細動から自分の肉体の詳細な現状を把握することは容易だと言う。これが彼の念能力『筋肉計測器(コンディションチェッカー)』だ。

 

「戦闘では役に立ちそうにありませんね」

 

「何を言うッスル! 敵を知り己を知れば百戦危うからずッスル! 常に自らの正確なオーラコンディションを把握することで、より十全に筋肉を活用する戦闘を実現できるッスル」

 

 彼の発は正確には十の筋肉奥義から成る『筋肉大博覧会(マッスルミュージアム)』と言い、『筋肉計測器』はその一つらしい。

 

 ともかく、精神に異常をきたした観客をこのままにしておくわけにはいかない。撃たれた人もただ眠っているだけとはいえ、この騒動の中を転がっていれば踏みつけられて大怪我をすることもありえる。

 

 ベルベットは殺気で抑え込もうとしたらしいが、精神が高ぶった状態の人間にはあまり抑制が効かないという。本気でやれば抑え込むことも可能らしいが、それをやると本当にショック死する人間がでるかもしれないので、できればやりたくないと言っていた。死ぬほどのオーラをぶつけられないと止まらないほどに精神がおかしくなっているとも言える。

 

「やれやれ、面倒ですが手動で片づけた方が事故は減らせるでしょう。というわけで、頼みましたよ」

 

「できれば手伝ってほしいところッスルが、まあここは吾輩だけで十分ッスル。お見せしよう、十の筋肉奥義が一つ……『筋肉瞬間脱衣(キャストオフ)』!」

 

 その掛け声と同時にブレードの上半身の服が弾け飛んだ。上半身の筋肉に力を込めることでもともとパツパツだった服を一瞬のうちに破り捨てたのだ。首元の襟と蝶ネクタイだけを残して衣服がこま切れとなる。

 

 脱ぐ必要はあったのかという疑問は浮かんだが、既にステージ上には大勢のファンが上がり込もうとしていた。本丸である敵アイチューバーを直接落としにきたのだろう。物怖じする様子はない。特に女性ファン、おそらくノアのチームと思われる人たちの気迫がすごい。ただの一般人だとわかっていても気圧されてしまう迫力だった。

 

 これ以上誤解されるようなことがあってまずいと、さっきからノアの手を振りほどこうとしているのだが全然放してくれない。むしろ、しがみつくように腕を回されている。

 

「あ、ああ……」

 

 というか、ノアは起きていた。目を覚ましたのならさっさと離れてほしいと思ったのだが、何やら様子がおかしい。起きぬけに、銃を構えてこちらへ押し寄せて来る人の群れを見れば確かに動揺するかもしれないが、今の彼なら『纏』ができているので麻酔銃でやられることはないだろう。大丈夫だと伝えようとした、そのときのことだった。

 

 

 

「いやだ……いやだいやだやだやだやだやだあああ!! なんでぼくがこんな目にあわなくちゃならないんだ!! もういやだ……助けてよっ! ママーーーーーーッ!!」

 

 

 

 ノアが泣き叫んだその直後、私の、シックスの体に変化が現れる。背中から一対の翼が生え、頭上にはうっすらと緑色の光を放つリングが出現した。遠目から見れば天使のような姿に見えるかもしれない。

 

 だが、その翼は細いチューブが無数に束なって作り上げられており、それらがつながる頭上の環は心電図モニターのように不気味なグラフが表示されていた。

 

 




やってみた系:ポメルニ
いたずら系:ジャック・ハイ
ハンター系:ブレード・マックス
ダンス系:J・J・J・サイモン
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
作ってみた系:ツクテク
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り9人



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巌窟親Gィ様より

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いい笑顔のシックスちゃん


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43話

 

 体が動かない。突如として発生した異常事態に反応を取ることもできない。シックスの体に現れた謎の装置が関係しているのか。

 

 これは何らかの念能力によって引き起こされた現象であると思われる。身体強化などの通常能力とは一線を画する『発』と呼ばれる固有技だ。しかし、シックスの見た目に変化が生じているが、私が発を使ったわけではなかった。少なくとも私にその自覚はない。

 

「ぐっ……いったい、なに、が……」

 

「ぬおおお……吾輩の体が……!」

 

 この能力の影響を受けているのは私だけではなかった。近くにいたブレードとベルベットが苦しみ始めたかと思うと、その場に倒れ込んでしまったのだ。

 

 さっきまで元気だった二人が虫の息である。二人の身体にも異常が発生している。皮膚のいたるところに黒いあざのような斑紋が現れていた。上半身裸のブレードはわかりやすい。ベルベットも顔に同じような症状が出ている。

 

「なんのこれしきッ!」

 

 ブレードが気合で起き上がった。だが、無理をしているのは一目でわかる。膝立ちの姿勢のまま、その場からまともに動くこともできずにいる。それでも倒れ伏したまま全く動く様子のないベルベットに比べれば、まだ余裕があると言えた。

 

「ノア君、シックス君! 聞こえるか! それは『発』の暴走だ! 自分を見失うな! 心を落ちつけよ!」

 

 発とは通常、他の四大行を十分に修めた上で自ら考えて作り上げる技であるが、稀に修行を経ず、無意識のうちに覚えてしまう者もいると聞いた。大きな才能がある者にしか起きない現象だというが、可能性はある。ノア・ヘリオドールはトップアイチューバーとして活躍し、念能力の片鱗を見せていた。

 

 自覚なく作ってしまった能力は、自分でも全容がわからないため滅茶苦茶な効果や制約などが生じてしまう危険がある。念を覚えたての身であれば、なおさらその制御はおぼつかないだろう。

 

「ママーーーーッ」

 

 ノアの身体には黒い痣のような症状は見られない。我を忘れて泣き叫んでいるが、身体的な異常は起きていないように見える。これが彼の能力だとすれば、自分がしでかしていることにも気づいていないかもしれない。私たちを陥れるために悪意をもって力を使っているわけではなさそうだが、結果的にまずい状況となっていた。

 

 精神錯乱した観客たちが大挙して押し寄せようとしている今、いくら一般人の集団とはいえこちらはまともに対処できる状態ではない。しかし、この最悪の状況は迫りくる観客に対しても等しく災いとして振りかかった。

 

 ある一定の距離まで近づいた観客にもブレードたちと同様の効果が現れたのだ。この能力の発動条件が距離によるものだと推測できる。ノアの近くにいる者に対して症状を引き起こすようだ。

 

 これにより、観客もこちらに近づいては来れないが、その距離は10メートルあまりと言ったところである。そして、彼らにはその距離からこちらを攻撃する手段が残されていた。麻酔銃ならばそばまで接近せずとも攻撃できる。

 

 通常なら『纏』によって高められた防御力で、この麻酔針程度なら難なく防ぐことができるのだが、今はブレードもベルベットも満身創痍。その纏に先ほどまでの精彩さはない。当たり所が悪ければ攻撃が通るかもしれない。これだけの数が相手となれば、アウトとなるのは時間の問題と言えた。

 

 何とかしてノアの暴走を止めなければブレードたちが眠らされてしまう。その後、私もどうなるかわからない。ノアはまるで人が変わったようにおかしな言動を取っていた。

 

「ああ、ママ……! すぅはぁ、すぅはぁ……! やっぱりママの匂いだ! 僕にはわかってたよ、一目見たときから思ってた。君はママの生まれ変わりなんだね! 夢みたいだぁ……またこうしてママと一緒にいられるなんて……」

 

 恐怖に震えていたかと思えば一転して嬉しそうに笑い、甘えるように抱きついてくる。シックスの胸に顔をうずめながら、ママママと連呼していた。どうやら彼は母親とシックスを重ね合わせているようだ。年齢的に明らかに違うと思いそうなものだが。

 

 彼の能力は周囲の人間に『病気』を発生させるものだと思う。この病気の症状は非常に重く、全身に黒い痣ができた上に念能力者でさえ行動不能に陥らせるほどのものだ。そして、おそらくこの能力の基点はシックスである。シックスを中心として10メートルほどが効果範囲となっている。

 

 能力の発動者であるノアはもちろん病に冒されることはないが、シックスの身体にも症状は出ていなかった。シックスに対しては無害な能力なのだ。天使を模したような装置の数々は、彼の能力の象徴を表しているのかもしれないが、それ自体に何か特別な効果があるようには感じない。見かけだけだ。

 

 しかし、シックスの身体の自由は効かなくなっている。初めは操作系能力などによる身体操作を疑ったが、すぐに原因は判明した。彼の能力は自分とシックスを除く周囲の“生物”に対して病気を引き起こす、それのみである。

 

 つまり、人間でなくとも発病する。現に、私の本体である虫の体は異常に襲われていた。今も意識を手放してしまいそうなほどの激痛に苛まれている。普段の私ならとっくに気絶しているだろう。ブレードたちが動けないはずである。身をもってその苦しみを体験していた。

 

 今こうして考えを巡らせていられるのは、戦闘状態に入った感覚加速のおかげだ。まるで自分の体とは別の場所に意識があるように思考することができているが、逆に言えば体とのつながりは限りなく薄くなった状態のように感じる。本体を動かすことはもちろんできず、普段ならば無意識に行えるはずのシックスの操作にも手こずっている始末だ。

 

 この状況を打破する方法は、あることはある。一つ、思いつくのは『救済の力』を使うことだ。誰かを救いたいという決意一つで常軌を逸した力が手に入る。あの圧倒的な暴力があれば、この状況も覆せる可能性はある。しかし、気軽に使おうと思えるほど便利な能力ではない。

 

 一度あの状態になれば一切の制御は効かなくなる。私の中の“私”は、さも正義の力のごとく語っていたが、それが真実であるかどうかも疑わしい。発動したが最後、この場にいる全員を皆殺しにするまで止まらない、そんな結果となるかもしれない。何が起きるか予想がつかなかった。

 

 そして、あの能力を発動したときに感じた自分が自分でなくなっていくかのような恐ろしい感覚。二度と味わいたいとは思えなかった。肉体の痛みなら我慢できるし、堪えられなければ意識を手放すこともできる。だがあの痛みは心そのものを破壊するような感覚だ。堪えることも逃げることも許されない。

 

「ママ、僕がんばったんだよ……ママみたいに立派な歌手になれたんだ。だから褒めて、ねぇ、褒めてよママ!」

 

 あの力を使うことは避けたい。なんとかノアの暴走を止める手段はないか。シックスの体を動かすことができないか、もう一度試してみる。全神経を注いで強く念じる。

 

 辛うじて腕が動いた。だが、ノアを攻撃して能力の発動を止めさせるほどの力はない。抱きついているノアの頭の上に手を置くのが精いっぱいだった。

 

「ノ、ア……」

 

 彼の名前を呼ぶ。それ以降の言葉は続かない。こんな調子では、とてもではないがノアを制止することはできそうにない。そう思われた。

 

「……はは……は……」

 

 私はただ名前を呼んだだけだ。だが、その一言で彼の態度は劇的に急変した。それまで焦点の定まらなかった目が、シックスを捉えている。そこにいるのが誰か、ようやく理解したとでも言うかのように。

 

「ごめん、ほんとはわかってた……こんなことしたってママにはもう会えないって……」

 

 シックスに取り憑いていた天使の装置が消える。能力が解除されたのか、本体の痛みがたちどころに消え去った。ブレードも元通りとなり、詰め寄せる観客たちの対処に乗り出す。

 

「でも、もしかしたら、念とかいう不思議な力が本当にあるのだとしたら、また会えるかもしれないって思ったんだ。神様にいくら祈っても叶わなかったけど、もう一度だけ……そう思ったのに、できた能力は望んでいたものと全然違った。バカみたいだ……」

 

 ノアは冷静さを取り戻していた。自嘲するように静かに笑う。その笑みに、さっきまでの狂気はない。

 

「本当は、心の奥底では理解していたのに、最後まで認められない自分がいた。だから、こんなひどい能力ができてしまったのかもしれない。でも、ようやくふっきれた気がするよ。君のおかげだ」

 

 彼は私にありがとうと礼を言う。その言葉の意味は半分以上わからなかった。だが、私にも確かにわかることはある。それを彼に伝えるべきだろうか。

 

 彼の後ろに、絶対零度の眼差しでこちらを見据えるベルベットが仁王立ちしているということを。

 

「大好きなママとのお話は済みましたか?」

 

 冷気を帯びたオーラが地を這うように迫る。比喩でもなんでもなく、本当に冷たい。彼女の足元には霜柱が生えていた。オーラに特別な性質を与える能力は変化系に分類される。この場合はオーラを冷気に変化させているように見える。炎上系アイチューバーじゃなかったのか。

 

 ノアが振り返ろうとするも、それより早くベルベットの手が彼の首根っこを掴んだ。

 

「冷たっ!? ぐえっ!」

 

「何を一人で勝手に良い話であったかのように終わらせようとしているんですかね? あなたの悲惨な特殊性癖に巻き込まれた私たちに何か申し開きはありますか」

 

「くっ、ぐび、ぐるし……!」

 

「ない? ならば結構」

 

 ベルベットは片手一本でノアの首を掴んで持ち上げていた。持つ方の強さも普通ではないが、持たれる方も首を痛めずぶら下がっているので素人でも一応は能力者ということか。

 

「そうそう話は変わりますが、そんなにママが好きというのでしたらちょうどあちらに、是非あなたのママになりたいと熱望されているファンの方々が殺到しているようですよ」

 

「ノアサマア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!」

 

 血走った目で群がるノアの女性ファンたち――なぜかその最前列に化粧をした屈強な男性の姿も見かけた――がまるで獲物を狙う飢えた獣のようによだれを垂らして待ち構えている。全員、正気ではない。

 

 ノアは必死に私の方を見てきた。たぶん助けを求めているのだと思うが、頑張れの意味を込めてサムズアップを送った。

 

「どうぞたっぷりファンサービスしてきてください。ロリマザコン王子様」

 

 ベルベットがノアをぶん投げる。その弾は見事にファンの群れに着弾。大量のワニが生息する池に生肉を投げ込んだかのような惨状となった。

 

「助けてママーーーーーーーーッ!!」

 

 自業自得だと思う。

 

 

 * * *

 

 

 ひとまず、会場の騒動は一段落した。ブレードが沈静化に奔走し、できるだけ早期に暴動を抑えることができたと思うが、それでも完全決着したとは言い難い。

 

 攻撃的な行動に出た観客もいたが、そうではない者たちもいた。精神状態はやはりまともではなかったが、興奮しているからと言って全員が戦闘本能をむき出しにしているわけではない。最初は暴動を起こした一部のファンに巻き込まれる形で会場全体が騒然としていたが、そういった輩をブレードが処理することによって一応の落ちつきを見せた。

 

 鬼神のごとき戦闘力を見せつけたブレードに対して、いかに理性のたがが外れたとはいえ観客たちも勝ち目のなさを思い知ったのか戦意喪失。会場を去る者も多くいた。

 

 戦意をもって向かってくる者以外も全員、問答無用で昏倒させるわけにもいかない。全ての観客を統制して安全を確保することは無理だし、私たちにそんな義務はない。何が起ころうと観客の自己責任だと割り切るベルベットに対し、ブレードは目の届く範囲のトラブルについてはできる限り救援すべきだと主張している。

 

 麻酔銃で撃たれた者やブレードにのされた者など死屍累々(死んではいないが)の状況となった会場では、運営スタッフが乗る場内移動用の小型バギーが忙しなく行き来し、倒れている観客を宿泊部屋まで搬送していた。その隣では残った観客が宴会を始めている。

 

 そんな統率感のまるでない人々の中から、一人の男がステージの方へと近づいてきた。ベルベットに放り投げられてファンにもみくちゃにされたノアである。

 

「あれ、生きてたんですか」

 

「生きてるよ!」

 

 髪はボサボサ、服はボロボロ、至る所に口紅のキスマークが残されていた。歯型までついている。それでもあれだけの人数に襲われてこの程度の被害で済んでいるので、うまく受け流すことはできたのだろう。

 

「安心してほしい。もちろんみんなと敵対する意思はないよ。さっきは気が動転して暴走してしまったけれど、もう大丈夫。僕は気づくことができた……真実の愛に!」

 

「もう一回放りこんできましょうか」

 

 ノアが、なんかすごいキラキラした目でシックスの方を見てくる。こちらに歩み寄ってくる。反射的にブレードの後ろへ隠れてしまった。なんとなくここが定位置になりつつある。

 

「なっ!? 怖がらなくていいんだ。君のおかげで僕は目を覚ますことができた……ママへの思いはまだ僕の心に残っているけど、もうそれは引きずらない。その思いの分まで君に尽くすと決めたんだ。シックス……君は僕の新しいママさ!」

 

 俳優として数々のヒット作に出演しているだけあり、ノアの言葉や姿は劇中の一幕を切り取ったかのように映えて見える。その身だしなみでもスターのオーラを醸し出せるあたりさすがだと思うが、最後の一言は何をどうやっても理解できそうにない。

 

 近づいてきたノアに対して避けるように身をかわす。

 

「え……ママが僕を避けた……? 死のう……」

 

 放心状態になったノアがうなだれている。観客同様に薬物の影響でも受けているのではないかと疑うほど、当初のキャラとはだいぶ変わっている。

 

「死ぬのはご自由にしてもらって結構ですが、とりあえず先ほど使った能力の詳細について説明してください。自覚できている範囲で構いませんので」

 

「……シックスが僕を避けた……もしかしてママは僕のことが嫌いなのか……いや、そんなはずはない……うああああ、僕の愛を知ってもらうためにはどうすれば……」

 

 ベルベットは自分の言葉がノアの耳に入っていないとわかると、私に同じことを聞き出すよう指示してきた。話しかけたくなかったが仕方がない。

 

 水を得た魚のように饒舌に語り始めたノアの話によれば、彼の能力はおおよそ私が予想した通りのものだった。能力の範囲内にいる者全てが急速に病気を発症し、無差別に効果が現れる。対象を絞って発動することはできないようだ。効果範囲の基点であるシックスに近ければ近いほど病気は重症化する。

 

 能力の発動中は発生させた病気によって対象を苦しめることができるが、対象が効果範囲から出たり、能力が解除されれば元気を取り戻す。そして、この能力はノアとシックスが触れ合った状態でなければ使えないという制約がある。無意識に作ったとはいえ、ひどい制約を設けたものだ。

 

「色々と弱点はありますが、使い方次第では強力な切り札となるでしょう。手札の一つとして保留しておく価値はあるかと思います。もっとも、さっきのような失態を起こさないよう厳重に監視した上で」

 

 ノアには許可なくシックスに近づかないように接近禁止命令が出された。私にとってはその方が気が休まる。最初は猛抗議したノアだったが、私がベルベットの案に了承の意を示すと、うめき声を漏らすだけの魂の抜けたゾンビと化していた。

 

「さて、変態の処遇が片付いたところで話を本題に戻しましょう。依然としてゲームの行方は混迷の中です。もしブレードが言うとおり、観客が薬物の被害によって精神に異常をきたしているとなれば、敵の思惑は余計に読めません」

 

 こんな騒ぎを起こして誰が得をするのかという話だ。今は外部との通信手段が断たれているが、いずれは大事件として世間に知られることとなる。事件の首謀者の狙いはどこにあるのか。

 

「今のところわかっているのは、敵がこのゲームを強引に進行させようとしていることです。薬物による観客の狂化はその一環と考えることもできます」

 

 理性を失わせることでゲームに対する不信感や抵抗感を取り除こうとしたのか。ゲームを加速させる起爆剤の一つとして用意されていた仕掛けかもしれないとベルベットは言った。人を人とも思わぬその所業にいら立ちが募る。

 

「そこでここはひとつ、敵の出方を探るためにこちらからアプローチしてみましょう」

 

 敵は何らかの手段を用いて選手の動向を観察しているものと思われる。そうでなければアウトになった選手の把握などができない。このスタジアムにも目につくところに監視カメラがいくつも確認できるし、そういったカメラは隠して設置することもできる。

 

 よって、こちらから何かを訴えかければその主張が敵に伝わる可能性はある。問題は何を訴えかけるか、その内容だ。ゲームに対する苦情を述べたところで相手にはされないだろう。

 

「敵の目的がゲームの進行にあるのだとすれば、その意に従ってみましょう。ただし、戦いあって勝負の決着をつけるのではなく、棄権(リタイア)という手段になりますが」

 

 ゲームのルール説明では選手の失格要件として『麻酔銃で撃たれる』こととしか明言されていない。麻酔銃によらずとも戦闘不能状態になれば失格になるのかもしれないが、選手自身が棄権を申し出た場合はどうなるのか。

 

 少なくともここにいる私たちは、ゲームで優勝することを目指しているわけではない。この事態を終息できればそれでいいと考えている。ここで四人が一斉にリタイアすれば形式上、ゲームは大幅に進行したことになる。

 

 それを敵がすんなりと認めるかどうかわからない。ゲームの運営側は私たちに戦わせようとしている節がある。だが、敵がどう思おうとも選手本人に戦う意思がなければそもそもゲームは成立しない。ゆえに認められずともリタイアを宣言することには意味があり、それによって敵が何らかの反応を示す可能性も出て来る。

 

「僕は元から優勝になんて興味はないし、別にそれで構わないよ。シックスが勝ちたいというのならもちろん、それに全力で協力するけどね」

 

「トップアイチューバーなら、こんなしょぼい優勝賞品に飛びつく奴はいないでしょう。こっちはリタイアしたって痛くも痒くもないんですよ。問題はその戦意放棄を敵がどう受け取るかですね」

 

「しかし、もしリタイアが認められるというのであれば、ここで全員が一度に棄権する必要はないかもしれないッスル」

 

 棄権するということはゲームへの参加権を失うということだ。今のところは別にそれによって不都合が生じるとは思えないが、後々問題が発生するかもしれない。

 

 例えばルール上、選手であるチルドレンは戦い合って最後の一人となったとき、その選手にポメルニとの決勝戦への出場権が与えられるとされている。つまり、勝ち残った選手にはポメルニがいる場所の情報が与えられることになる。

 

 その情報が真実であるか、そもそも本当に教えてもらえるかどうかもわからないが、一応はルールで定められているのだ。完全に敵の思惑から外れた行動を取るより、ある程度は流れに従った方が得られる情報の数は多いかもしれない。

 

「では、私、ブレード、変態王子の三人がリタイアあるいは戦いに敗れたということで選手資格の喪失を宣言しましょう」

 

 そこでなぜか私一人がリタイアしないことに決まった。てっきりベルベットかブレードに資格を残しておけばいいと思っていたのだが。

 

「こんなものは形だけの口裏合わせでしかないんですから誰でもいいんですよ」

 

「何を言ってるんだ。シックスは僕らのママなんだから特別扱いするのは当然さ。失格になるのは僕たちだけで十分だということだね」

 

 ベルベットは面倒くさがって役を押し付けたいだけだろう。まあ、断る理由はないので素直に従っておく。

 

「誰でもいいというのは確かだが、君を選んだ理由がないわけではないッスル。おそらくこの中で、最もポメルニを助けたいと思っているのは君だ」

 

 ブレードはオフ会開始直後の私とベルベットとの舌戦を聞いて、私がポメルニを心配する気持ちを察したのだろう。私に選手資格を残すことで決勝戦への切符をつかませようと考えているようだ。

 

「もちろん、君一人に負担を背負わせたりはしないッスル。全員で力を合わせれば、どんな困難も乗り越えられるッスル」

 

 ブレードが拳を差し出す。シックスは控えめにそこへ自分の拳をぶつけた。まるで大きさの違う二つの拳だが、そこに通じる思いに大小の差はない。そう感じる。

 

 

 

 

 

『話は聞かせてもらったぜ!! ブラザアアアアアズ!!』

 

 

 

 

 

 そんな決意を揺るがすように、がなり立てる大音量の声。けたたましいBGMと共に、巨大スクリーンにポメルニの姿が映し出された。

 

『ホーリィィィシッッッ!! せっかくみんなで楽しめるゲームを考えたってのに、満足してもらえないとは悲しいぜ! アイチューバーキングの座? オレサマの全財産? そんなものいらない? なるほど! どうやら我が親愛なるチルドレン諸君を本気にさせるには、まだまだ豪華賞品が足りないらしい!』

 

 ポメルニが立っている場所の背景が移動し、カーテンで隠された大掛かりなセットが用意されていく。

 

『ところで、チルドレンのみんなはこのオフ会の“特別招待券”制度を利用してくれたかな?』

 

 特別招待券とは、公式チルドレン特権によって取得できるオフ会の参加チケットである。事前に運営に申請を出しておけば何枚かチケットを無料で都合してくれるのだ。

 

『この招待券を使えば自分の親しい友人や家族らを、簡単にこの船へと招くことができるわけだ』

 

 なぜ今、そんな話をする必要がある。不安を掻き立てるようなドラムロールの音が止み、セットを覆い隠していたカーテンが取り払われた。

 

 そこにあったのはプラスチックのような素材でできた透明の檻だ。中に、何人かの人間が入れられている。その全員が恐怖で引きつった表情をしていた。泣きながら壁を叩く子供もいる。その声さえ外には届かず、閉じ込められていた。

 

『というわけで、こちらがその招待客の方々だ! まさにチルドレンにとっては他に勝るものはない最高の宝! これを優勝賞品に加えよう!』

 

 ポメルニが指を鳴らすと、セットの傍らに設置されたデジタルカウンターが時間を刻み始める。

 

『タイムリミットはこれより2時間! それまでに選手諸君はゲームを勝ち抜き、決勝戦の会場であるこの場所にたどり着かなければならない! 間に合わなければ、ケージ上部に仕掛けられた特製カラシ爆弾がBOOOOOOOM!! なんてこった、全員“真っ赤”に染まってしまう!』

 

 これが人間のやることか。そこまでして私たちを戦わせたいと言うのか。

 

『残された時間は短い! 君たちの愛と勇気ある行動を見せてくれ!』

 

 





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完全武装クイン&非武装クイン


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44話

 

 ここは宿泊関連の施設が集まるエリアだ。船上の一区画と言っても、窮屈な雰囲気は一切ない。一流のホテルを思わせる造りとなっている。

 

 そのクラシックな情緒漂うホテルのロビーに一人の男が足を踏み入れた。擦れたストリートファッションを着こなすドレッドヘアの黒人系男性の身なりは、この場所には似つかわしくないかもしれない。

 

 さらに肩にはラジカセを担ぎ、大音量で音楽を垂れ流している。イヤホンで聴ける小型音楽プレイヤーがありふれた今、なぜそのような時代錯誤のスタイルにこだわっているのか疑問はあるが、いずれにしてもここが本当のホテルであったなら即座に追い出されているところだろう。

 

 音楽に合わせ華麗なステップを刻むその人物はダンス系アイチューバー、J・J・J・サイモン。そして、この場にはもう一人のアイチューバーが待ち構えていた。

 

「とおりゃあああああ!!」

 

 物陰から飛び出したのはサンタクロースコスチュームの小柄な男、イタズラ系アイチューバー、ジャック・ハイ。大きなプレゼント袋からカラフルなボールを取り出すと、それをサイモン目がけて投げつける。

 

 地面にぶつかったボールは大きな音を立てて弾けた。花火の一種であるクラッカーボールだ。

 

「子供騙しだべ」

 

 しかし、その効果は大きな音を出すだけだ。イタズラグッズの一つに過ぎない。ラジカセの音量にかき消されて驚かせる効果も半減と言ったところだった。

 

 そう思われた直後、ボールの一つが他とは比べ物にならないほどの爆音を上げて炸裂した。直視できないほどの閃光が広がる。それは花火などというレベルの代物ではない。

 

 スタングレネード。強力な光と音で敵の意識を刈り取る兵器である。大したことはない攻撃と思わせつつ、そこに本命を紛れ込ませていた。至近距離で爆発すれば常人なら気絶は免れないほどの威力。

 

「……やはり、子供騙し。イタズラと戦いは違うべ、ジャック」

 

 だが、サイモンはまるで動じた様子を見せなかった。スタングレネードによる攻撃も、彼を驚かせることすらできずに終わる。そもそもサイモンは見てすらいなかった。ロビーに入ったそのときから、彼はムーンウォークで歩行している。つまり、ジャックに背を向けた状態で対峙しているのだ。

 

 そのふざけているのかと思うようなサイモンの態度を前にして、しかしジャックは迂闊に近づくことができずにいた。彼も念能力者のはしくれとして、ある程度の力量差は察知する感覚がある。目の前の男の強さを認めずにはいられない。

 

 ジャックの判断は間違っていなかった。サイモンは放出系の能力者、その発の名は『絶肢無踏(ブレイキン)』。殴った相手を『絶』の状態にしてしまう恐ろしい技である。

 

 彼が開拓したダンスの新境地『3Jフラッター』は、アイジエン大陸の秘境に伝わる古武術から着想を得ている。それは念の運用を目的とした武術であり、現在主流となっている念法『心源流』とは異なるが、古くから脈々とその地に受け継がれてきた技である。

 

 彼が学んだ古武術は鍼灸術と深い関係があった。オーラは“気”と呼ばれ、そのエネルギーは人体に張り巡らされた“経絡(ナーディー)”を通り、全身に行きわたっている。修行僧たちは経絡の在り処を探究し、それを自覚することによって日々の日常と修行が混然一体となった生活を送っていた。

 

 彼らにとって生きることそのものが修行であり、武の追究であった。貧しい暮らしぶりなれど、健康でない者は誰もいない。サイモンにとって修行のきっかけは強くなることでしかなかったが、修行僧たちの生きざまに感銘を受けた彼はその武の理念をもっと多くの人が取り組める形で普及できないかと考えた。

 

 そして生み出されたのが『3Jフラッター』だ。“舞踏”“武法”“医療”の融合を目指したこのダンスの生みの親たるサイモンは、人体の経絡を熟知している。それはエネルギーの通り道であり、全ての活動の要であると同時に急所でもある。彼の発『絶肢無踏』は、敵の体に接触することでそこからオーラを送り込み、経絡の流れを断つ技だった。

 

 触れる時間が長いほど、効果範囲も効果時間も大きくなる。相手が無抵抗ならば触れている間、全身を絶の状態にしておくことが可能だ。単純な操作系能力であれば、これによって除念することもできる。彼はポメルニを『殴って正気に戻す』と言ったが、それはあながち嘘でもない。そうなればポメルニの口から黒幕の情報を聞き出すこともできるだろうと考えていた。

 

 戦闘中ではさすがに敵の全身を絶にすることは難しい。せいぜい触れた部分を一瞬だけ絶にする程度である。だが、それでも規格外に強い能力と言えるだろう。殴った部分を絶にするということは、その部分の防御力をゼロにすることと同じである。どれほどのオーラで防御を固めようとも無意味にしてしまう。

 

 ジャックはサイモンの能力を当然ながら知らないが、無防備に背中を晒す彼を前にして足を踏み出すことができずにいた。近づけばやられる。本能的に湧き起こる警戒心がそう告げている。

 

「どけ。お前に用はないべ」

 

 攻撃を仕掛けられはしたが、サイモンは積極的に戦うそぶりを見せなかった。ここでジャックが退くというのなら手出しはしないと暗に物語っている。だが、それでもジャックに逃げるという考えはなかった。

 

「ポメルニが流した映像をお前も見たか? あいつは人質を取っておいらたちを脅してきた」

 

「ポメルニじゃねぇべ。それを裏で操っている誰かだ」

 

「どっちでも一緒さ! あの中においらの知り合いもいるんだ! おいらだってできれば戦いたくはない。だが、嫌でも戦わなければならないんだ……!」

 

 ジャックは震えながらも一歩も退かなかった。よほど大事な身内が捕まってしまったのだろう。敵に言われるがまま、この狂ったゲームの選手として動かされてしまっている。

 

 サイモンはジャックの性格を好ましく感じた。誰だって自分の大切な人が危険な目に晒されれば心穏やかではいられない。その感情は人間として真っ当なものだ。だが、戦士として見れば未熟である。

 

「頭を冷やせ。そんな感情に囚われていれば敵の思うつぼだべ。仮にお前がゲームを勝ち上がってポメルニの居場所へたどり着けたとしても、そこで何もできずに終わる。そのための人質だべ」

 

「……うるさい! お前に何がわかる! どうせ、お前はあの中に自分の知り合いはいないんだろう! だから、へらへらしていられるんだ! 他人事だと思うからそんなことが言えるんだ!」

 

「ああ、他人事だべ。じゃあ、逆に聞くが、お前に俺の何がわかる?」

 

 サイモンが『練』を見せた。その迫力にジャックは気圧される。それほどの怒気がオーラに込められ、阿修羅のごとき幻影を見せるほどだった。

 

 それは彼が修める古武術において秘経穴(チャクラ)と呼ばれる特殊なオーラの練り方であった。チャクラとは円や輪を表す言葉であり、経絡の中でも特に気が集中する六つの中枢を指し示す。この秘経穴に溜まった気を回転させることによって、爆発的なオーラの力を生み出すことができる。

 

 心源流においてはこれを『練』と呼ぶが、その結果に至るまでの経緯が少し異なっていた。練は一気にオーラを覚醒させるのに対して、秘経穴は緩やかに段階を踏んで威力を高めていく。

 

 全力を発揮するためには一から六までの秘経穴を徐々に回転加速していく必要があり、長い時間がかかってしまう。さらに、少しでも感情に乱れが生じれば回転加速は伸びず、また一から気を練り直さなければならない。

 

 サイモンが戦地において音楽をかけながら踊っていた理由もこの秘術にあった。彼にとってダンスとは自分の世界に没頭することができる一種の儀式。感情に左右されず、精神を集中するための手段であった。

 

 その面倒な工程の代わりに、引き出せる力の総量は圧倒的に練を上回っている。まだ秘経穴の回転は三段階目にしか達していないが、既にサイモンが練によって引き出せる通常の顕在オーラ量を凌駕するパワーを発揮していた。

 

「ちっ、三つ目で打ち止めか……この程度で怒りをあらわにしてしまうとは、俺もまだまだ未熟だべ」

 

 サイモンとポメルニはプライベートでも付き合いがあった。たまに会っては酒を酌み交わす仲だ。彼の性格もよく知っている。こんなゲームを考える人間ではないと断言できる。だから、気の合う友人を利用して巻き込んだ黒幕には並々ならぬ怒りを抱いていた。

 

 それに加えて、この度の人質を取るという暴挙である。サイモンは特別招待券を使ってダンス仲間を何人か呼び寄せていた。もし、その友人らの身に何かあれば絶対に敵を許しておけない。そして、それ以上に自分を許すことができないだろう。

 

 だが、たとえ人質を盾にされたとしても、最悪の結果に終わってしまったとしても、為すべきことは変わらない。その大局を見失えば、誰も報われずに敵の思惑を叶えるだけだ。

 

「本当は戦いたくない、だが嫌でも戦わなければならないだと? お前には救えねぇべ。拳を振るう理由すら、テメェ自身で覚悟もできない男がよ」

 

 サイモンはラジカセを置き、ようやく振り返りジャックと向かい合う。それを皮切りとして、戦いは始まった。

 

「うわああああああ!!」

 

 強引に自分を鼓舞するように雄たけびを上げながらジャックが正面から飛びかかる。互いに言葉で説得して止まるような状態ではない。ならば、後は拳を交えて語るのみ。

 

「絶対に助けだす、なんて約束はできねぇ。だが、その上で言ってやる。俺に任せろ」

 

 言う必要のない言葉だった。余計な覚悟を背負う義理はない。それでも、誰かのために懸命に戦おうとする男に対してかけた、せめてもの情けだった。

 

 

 * * *

 

 

 シックスを旗頭とする銀チームは現在、その数を二人に減らして行動していた。敵襲を受けて仲間を失ったわけではない。チェルとトクノスケが他の三人を気絶させたのだ。

 

 むしろ、それは狼藉犬三人組を思っての行動だった。念能力者でありサヘルタの元特殊部隊員であるチェルたちと一般人では戦闘能力に差がありすぎる。どう転んでもお荷物にしかならない。

 

 チェルたちほどの実力があれば、かばいながら戦うことも可能だが、相手が念能力者となればもしもという事態が十分に考えられる。銀河の祖父戦までは同行を許したが、その後突如として精神状態が不安定になり始めた三人の容体も相まって、気絶させた上で安全な場所に避難させることにしたのだ。

 

「ちくしょう! まさか、こんなに早く手を回してくるとは……!」

 

 だが、その行動は裏目に出た。船内全域に放送されたポメルニによるゲームの追加報酬の報告。そこに囚われた人質の中に、狼藉犬三人組の姿が映っていた。

 

 三人の避難場所を選ぶに際しては、細心の注意を払ったはずだった。位置情報が漏れる恐れがあるリストバンドは全て破棄し、監視カメラのない場所を通って選んだ部屋だった。

 

 隠しカメラについても、ぬかりなく対処したはずだった。達人ともなれば、カメラ越しに人の視線をも察知することができる。どこに隠しカメラがあるかということは感覚と経験から予測できた。にもかかわらず犯した失態であった。

 

 あまりにも敵の対応が早すぎる。こちらの動きを常時監視していなければ、できないような行動だった。何らかの念能力によってこちらの行動が筒抜けになっている可能性も考えられた。

 

「しょうがない、早いところ助けに行ってやらないと」

 

「待ってください。ここはそれよりも作戦の遂行を優先すべきでしょう」

 

「……それはもちろんだ。だが、三人の安全を確保することはシックスとの信頼関係を築く上で重要になる。おろそかにはできない」

 

「僕が言っているのは感情的になりすぎじゃないかって話です。肩入れしすぎですよ、チェルさん」

 

 トクノスケとて三人を助けたいと思わないわけではない。だが、彼らにはそれ以上に重大な任務がある。場合によっては三人を見捨てなければならないという冷酷な判断も必要となってくる。

 

「あいつらは、あたしたちの正体を知っても態度を変えなかった……変わらず、『アーサー姉貴』『ヒデヨシ氏』と呼んでくれたじゃねぇか……」

 

 三人組は、チェルたちの正体がサヘルタの諜報員だと聞かされた後も、それまで通りの態度で接してきた。自分たちはシックスちゃんの大ファン、それ以上の肩書きなど不要だと。もっとも、いきなり諜報員だの何だのと言われて理解が追い付かなかっただけかもしれないが。

 

「守ってやると約束した。それがこのザマだ。助けに行くのは当然だろ」

 

「それが感情的だって言ってるんですよ」

 

 チェルはぎろりとトクを睨みつけ、胸倉をつかみ上げる。

 

「だったら見殺しにしろって言うのか!」

 

 一度仲間意識を持つとなかなか切り捨てる決心がつかない。そんなチェルの性格がトクは嫌いではない。それでも確かに少し情に厚いところはあるが、いつもの彼女ならトクの進言を聞き入れただろう。自らの立場を忘れて私情に走るような人間ではない。

 

 つまり、今の彼女はいつもの精神状態ではなかった。常日頃から一緒にいるトクにはわかる。なんとか平静を保とうとしているが、チェルが身に纏うオーラには乱れが生じていた。よく観察しなければわからないほどの小さな変化だが、普段の彼女とは明らかに違う。

 

 狼藉犬三人組が急に原因不明の興奮状態となった件が関係しているのではないかとトクは疑っていた。瞳孔の拡大や脈拍の上昇といった精神作用のある薬物にも似たその症状。それがチェルにも影響を与えている。

 

 トクは自身の体調について変化は生じていないと感じている。客観的に見ればどうかわからないが、少なくとも彼の主観においては異常をきたしているのはチェルとその他三人組だけだ。銀チーム全員が行動を共にする中、トクが一人だけ正常を保つことができた理由は、リストバンドにあると推測していた。

 

 トクだけがリストバンドを一度も装着していない。彼は入念にその危険性についてチェックしたつもりだったが、それは内蔵された機械類についてのみだった。薬物については専門外である。皮膚に接触しただけでこれほどの効果を及ぼす新型薬物の存在を予想できなかった。

 

 機械類の解析は得意分野だと自負していたがゆえに陥った盲点。安易に下した判断に責任を感じずにはいられなかった。あのとき自分が止めていればと悔やんでも悔やみきれない。

 

 トクはチェルに自身の体に変化を感じないか尋ねたが、大丈夫だとしか言わなかった。しかし、彼女もひとかどの念法使いである。おそらく、異常を自覚はしているはずだ。その上でまだ制御可能と判断したのか、トクを心配させじと隠そうとしているのか。

 

「任務と並行して、ポメルニの隠れた場所も探す。あたしの『円』があればそう難しいことではない」

 

 チェルは広大な円を使用できる使い手だ。船内のように非常に入り組んだ構造物の中では、壁の向こうの状況を探るのに手間取り、さすがに最大範囲で行使し続けることは難しいが、それでもしらみつぶしに一室ずつ調べていくより効率的に捜索できる。

 

 チェルは多少感情的になっている部分もあるが、今はまだ理性を保っているように見受けられる。だが、それが今後どうなっていくか予想はできない。トクは彼女から目を放さないように気を引き締めた。

 

 

 * * *

 

 

 電光掲示板の選手一覧からまた一人、名前が消えた。私たちは敵襲に備えてスタジアムに留まっていた。この場所なら見晴らしがよく、奇襲の心配も少ない。

 

 これだけの数のアイチューバーが一か所に集まっているということは、それを狙って勝負を仕掛けてくる者がいるかもしれない。こちらの多勢を嫌って近寄ってこない可能性も高いが、逆に姿を現すとすればよほど力に自信があるか、勝負を仕掛けざるを得ない事情があるか。

 

 先ほどの放送によってゲームの流れはさらに良くない方向へと動き始めている。幸いにして、この場に集まっている私たちの関係者は人質となっていなかった。

 

 私も特別招待券については運営から知らされていたし、それを使おうと考えていた時期もあった。だが、誘うような知人がいない。以前に雪合戦をして遊んだ子供たちを招待しようかとも考えたが、全員分の券は用意できず、何と言って声をかけたらいいのかもわからなかったのでやめたのだ。

 

 その判断は正解だった。もし、人質としてあのクラブチームの子たちが捕まってしまったらと考えるとぞっとする。人質を取られてしまった選手の心情はいかばかりか。相手の立場になって考えれば、決勝を目指す選手がここにやってくる可能性はある。

 

 人質の中には、なぜか銀チームのうちの三人の姿もあった。諜報員だという二人は捕まっていないようだが、あの後何かあったのだろうか。こんな状況でもファンとして私を支持してくれた彼らを助けたいとは思うが、何の手がかりもなく探しまわっても危険がつきまとうだけだ。

 

 私が動けばノアや護衛依頼を請け負うブレードもついてくるだろう。ベルベットとも同盟関係を築いている以上、私のわがままでこの場にいる全員に人質の捜索を強いることはできない。

 

 ここは焦らずに待つ。それが全員で協議して決めた結論だ。そして、私たちの予想通りの人物がスタジアムに姿を現した。

 

「いやー、ごめんごめん。遅くなっちゃった!」

 

 サンタクロースの衣装を着た小柄な男、イタズラ系アイチューバー、ジャック・ハイ。赤い三角帽は目深にかぶられ、その目もとは隠されるように陰っている。そのせいかニタニタと笑う口元だけが、やけに印象に残る。

 

「みんな小腹が空いてくる頃合いじゃないかと思ってさー、お土産も持ってきたよー」

 

 大きなプレゼント袋からお菓子を取り出しながらこちらに近づいてくるジャックに対して、私たちはお世辞にも友好的とは呼べない態度で身構える。

 

「……あれ? なんか警戒されてる? どうしたんだよー、おいらたちは同盟を組んだ仲じゃないか!」

 

「知り合いが会場に来ていると言っていましたよね」

 

 ジャックは確かに私たちと同盟を組み、敵対しないことを明言した。だが、その後すぐに私たちとは別行動を取っていた。

 

 彼は自分の知人がこのオフ会に参加しており、その無事を確認するために探してくると言っていた。その知人が特別招待券によって招かれ、そして現在、敵に人質として捕まっている恐れがある。

 

「……ああ、それは無事だったよ。その人は招待券で呼んだわけじゃないんだ。一般参加のチケットで入場していてね、助かったよ」

 

「では、なぜこの場に連れて来ないのですか?」

 

「この先、他のアイチューバーと戦うことがあるかもしれないし、一緒にいるのは危険だと思って安全な場所に……」

 

「安全な場所とはどこですか? 自分のそばに置いておく方が安全なのでは? それとも、私たちの前に連れてくる方が危険だと判断しましたか?」

 

 ジャックの顔から笑みが消える。

 

「その態度を見る限り、どうあってもおいらのことを信用はしてもらえないようだ。同盟関係は解消、ということかな?」

 

「もともと信用はしてなかったんですけどね。場合によってはツクテク以上に危険かもしれない、あなたの経歴を知っていましたから。『縛獅子』のタバカルさん」

 

 ベルベットがサヘルタ合衆国の諜報員と交渉したとき、彼女はここにいない他の選手たちを仕留めて来るように要求したが、そのときジャックの名を除いていなかった。同盟関係があったにも関わらず、ベルベットは初めからジャックを潜在的な敵と認識していたのだ。

 

 その根拠を私たちは後で聞かされていた。ジャック・ハイという名はネット上で使用しているだけの偽名に過ぎない。別にそれ自体は普通のことだが、アイチューバーとして活躍する以前の経歴が問題だった。

 

「なんだ、知ってたのか。その名前」

 

「スキャンダルは得意分野ですので。炎上系の情報網を甘く見ないことです」

 

 7年前、アイジエン大陸でいくつかの中東小国家を巻き込む大規模な戦争が引き起こされた。宗教問題に端を発するその戦争は泥沼化し、V5が派遣した多国籍軍による介入が行われるまで甚大な被害を出している。今もなお戦火が消えたとは言えず、小規模な争いが頻発する紛争地帯となっているらしい。

 

 当時、その戦争において悪名を轟かせた傭兵の一人がタバカル。今のジャック・ハイだという。

 

「傭兵? なるほど、傭兵か。その炎上系の情報網とやらも大したことはないね」

 

「何か間違いでも?」

 

「訂正するつもりはないよ。どうせお前らにはわからないんだから。“戦わなければならなかった奴ら”の気持ちなんてさ」

 

 ジャックがプレゼント袋を高く放り投げる。

 

 

 

「『命のお恵みを(バクシーシ)』」

 

 

 

 袋は破裂し、爆音と閃光が感覚を奪う。

 

 




やってみた系:ポメルニ
いたずら系:ジャック・ハイ
ハンター系:ブレード・マックス
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
作ってみた系:ツクテク
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り8人


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45話

 

 念能力者と戦うとき、最初に行うべきこととは何か教わった。それは『凝』だ。凝とは体のある一点にオーラを集中させる技である。通常は、まんべんなく全身を強化しているオーラを一か所に集めることによって、その部分の強化をより強くする。

 

 この凝という技は、特に目的語なく呼ぶとき“目の強化”を言い表す。それだけ目にオーラを集めることが重要であるということだ。相手のオーラを注意深く観察することが戦闘の初歩。どんな能力を使ってくるかわからない初見の敵に対しての常套手段である。

 

 だが、修行を積んでいない私はまだこの凝を使うことができない。それでも敵の一挙手一投足を見逃さずに観察するよう言われていた。

 

 しかし、ジャックの初手はその裏をかく攻撃と言えた。注意を集めたその先で起きた強烈な光と音。爆風のような衝撃は感じなかったため、目くらましが目的であるとわかるが、その刺激だけで十分な効果があった。

 

 網膜は許容量を超えた光を受けるとダメージを負ってしまう。失明の危険すらある光量に対して、体は反射的に目を閉じようとする。だが、私はその行動を抑え込んだ。

 

 おそらく、この閃光は念能力によるものではない。オーラの気配は感じなかった。強力ではあるが、ただの閃光爆弾に過ぎない。だとすれば、その後に敵の本命の攻撃が来るはずだ。ここで目を閉じていては反応が遅れる。

 

 目が潰れたとしても、シックスの体ならば回復できる。だから目を閉じなかったのだが、結果としては同じだったかもしれない。あまりの光の強さに視界の確保はままならなかった。

 

 それでも敵に翻弄されるがまま、ただ立ち尽くしてしまっていたならば、何もできずに終わっていたかもしれない。見えはしなかったが、何かの気配が急速にこちらへ近づいているような気がした。背をかがめ、ついでにすぐそばでうろたえているノアを押し倒して回避する。

 

「ま、ままままママッ!? 自分から僕の胸に飛び込んでくるなんて……!」

 

 視力が戻ると、さっきまで自分が立っていた場所に何かが突き刺さっているのが見えた。それを何と表現していいのか、とっさに言い表せない。長く、平たい紙か布のようにも見えた。ジャックがいる方向からその布が真っすぐこちらへ伸びてきている。

 

 その布は蛇のように鎌首をもたげると、まるで意思を持つかのように再びこちらへ襲いかかってきた。その速さに体が追い付かない。回避できたとしてもギリギリになるだろう。とてもではないが、ノアを連れて避ける余裕はない。

 

 とっさにノアの体を蹴り飛ばし、その反動で自分も横へ跳んだ。

 

「もちろん僕はママの愛ならいつでもウェルカムぶぼぅっ!?」

 

 何とかやり過ごせたが、次の一手で私かノアか、どちらが詰む。一か八か、この布を攻撃してみようとかとも考えたが、周りを見て思いとどまった。

 

「ぬおおおおおお!! しまった吾輩としたことがああああ!!」

 

 私たちがいる方向とは別にもう一本の布がブレードの方へと伸び、彼の体をぐるぐる巻きにして縛っていた。ブレードですら拘束してしまうような攻撃を、私が何とかできるとは思えない。

 

 布の蛇はすぐに私の方へと向かってきた。絶体絶命、いや拘束されるだけなら死にはしないだろうが、いずれにしても窮地に立たされることは確実だ。

 

 念能力について教えてもらい、素人ながら自分にも戦う力があると考えていたが、浅はかだったと言うほかない。到底、手に負える相手ではなかった。何の手だても思いつかないまま体勢を立て直す暇さえなく、迫りくる布の蛇を眺めることしかできない。

 

 

「まったく、世話が焼ける人たちです」

 

 

 冷気を含んだ突風が吹き抜ける。凄まじい速度で一つの影が通り過ぎた。こちらに食らいつこうと迫っていた蛇は両断され、切り離された布切れが宙を舞う。さらにブレードを拘束していた布までも、瞬く間に切断してしまった。

 

 地面を滑りながら緩やかにブレーキをかけ停止したのはベルベットである。彼女の靴底には、いつの間にかスケート靴のようなエッジが取り付けられていた。

 

 これが彼女の能力『色褪せる線路(プライドレール)』である。靴底に具現化されたエッジを使い、まるでスケートリンクを駆け抜けるかのように高速で滑り進むことができる。念能力者は親しい間柄であっても、あまり自らの能力を吹聴することは好まないものらしいが彼女は「バレても問題ない」と、その能力について明かしていた。

 

「それが『縛獅子』の正体ですか」

 

 一方、ジャックについても攻撃を受けたことによって、その大まかな能力が推測できた。彼の頭の上には長い布の塊が巻きつけられている。それはターバンだ。さっきまでかぶっていた三角帽子の下に隠していたのだろうか。私たちに仕掛けられた布の攻撃も、そのターバンが伸びてきたものだった。

 

 これは『物質操作』と呼ばれる操作系能力と思われる。ただの布であるはずのターバンを、まるで生き物であるかのごとく動かして攻撃する。具現化系である可能性もあるが、切られた布の断片を見る限り、操られている布は実体のある現物に見える。

 

 しかも、これはただオーラで強化されただけの布ではない。身体能力の強化において極めて優れた特性を持つ強化系能力者であるブレードをいとも容易く拘束してしまった。何らかの厄介な特殊効果が付加されていると考えた方がいい。

 

 その恐るべき能力を秘めたターバンの一端がベルベットを追いかける。その動きは俊敏だったがしかし、ベルベットの速度はその上をいく。ジャックの攻撃をかわすどころか、反撃を加えて伸ばされたターバンを切り裂いていた。

 

 彼女の能力は二つある。一つは自身のオーラに冷気の性質を持たせる変化系の発『煽り耐性(クールダウン)』、もう一つがスケート靴のエッジを具現化する『色褪せる線路(プライドレール)』だ。この二つを併用することによって、地面を凍らせながらその上を高速で滑走できる。

 

 だが、この能力の真骨頂は別にある。今、彼女が滑っている場所はスタジアムの人工芝の上である。これをただ単に凍らせたところで、その上をスムーズに滑走することは難しい。整備されたスケートリンクを滑るようには当然いかない。

 

 しかし、ベルベットの走りには一切の支障が感じられなかった。彼女が駆け抜けた後には、二本のレールが敷かれるように凍った線が描かれている。これが『色褪せる線路』の特殊効果、具現化したエッジが通った場所はスケートをするに適した環境へと“整地”される。

 

 環境の上書きという強力な効果に加えて、刃(エッジ)の名の通り、靴底の鋭利な金属片はオーラで強化することによって武器にもなる。その蹴りの威力は、ジャックの能力を強引に無効化してしまうほどだった。

 

「おー、やるねー、でもまだまだ」

 

 ジャックはターバンから幾筋もの布を放つ。その様はさながら、たてがみを翻す獅子のごとく。いや、蛇の髪を持つという怪物メデューサに例えるべきか。縦横無尽に繰り出される布蛇がベルベットを襲う。

 

 その蛇の群れを、ベルベットはするするとくぐり抜けていく。速度を維持したまま、不安定なはずの氷上の滑走をここまで精密に制御できるとは。そして避けるだけではなく、片足で滑りながらもう片方の足で蹴りを放つバランス能力。

 

 思わず見とれてしまったが、こっちものん気に観戦している場合ではない。ひとまず、拘束されていたブレードのもとへと向かう。

 

「ぬおおおおおお!! ふおおおおおおお!!」

 

 彼は陸に打ち上げられた魚のようにビタンビタンと跳ねまわっていた。つまり、まだ拘束から抜け出せていない。手を貸そうと近づいたところ、ブレード本人に止められた。

 

「近づいてはならんッスル! うかつに触れば何が起きるかわからないッスル!」

 

 血管が浮き出るほど顔を赤くして全力でのたうちまわるブレードだが、それでも巻きついた布はびくともしない。ベルベットによって切断されたにもかかわらず、いまだに布蛇は拘束力を発揮し続けていた。

 

 ベルベットがジャックを倒してくれればいいが、そう簡単にはいきそうにない。蛇群の中心に構えるジャックは鉄壁の陣を敷いている。状況は拮抗していた。

 

 ジャックは無数の布蛇でベルベットを捕まえようとするものの、スピードで負けている。下手に攻撃すれば逆に布を切り裂かれる。操作系能力者にとって、愛用の武器は戦力の根本である。それを切り刻まれることは避けたいに違いない。

 

 一方で、遠距離攻撃に徹するジャックに対してベルベットは自分の攻撃射程まで近づけずにいた。蹴りで薙ぎ払って牽制しているが、布蛇に攻撃を当てて無事でいられるのはエッジの部分のみだ。他の体のどこかを捕らえられればブレードと同じ結末をたどる。決して有利であるとは言えない。

 

 助けに入ろうにもブレードは拘束中、戦闘素人の私やノアが飛びこんだところで邪魔にしかならない気がする。ノアの念能力を使う手もあるが、あれは遠距離攻撃タイプであるジャックとは相性が悪い。発病の効果射程は10メートルあるが、遠いほど効果が薄くなる。一気に無力化させるためにはもっと近づかなくてはならない。ジャックの能力を発病によって止められる確証もない。

 

「まずいッスル……このままではいずれ押し切られる……!」

 

 ベルベットとジャックは互角に戦っているかのように見える。しかし、攻め手はジャックだ。ベルベットは防戦一方どころか、一撃でも当たれば負ける戦い。

 

 それでも、彼女の表情はこれまで通りだった。気だるく冷たい眼差しは崩れない。ジャックの攻撃をかわしながら、彼女は何かを取り出す。それは一本のペットボトルだった。

 

 

 * * *

 

 

 ジャックは敵の身のこなしに素直に感服していた。数分で決着がつくと予想していた彼は認識を改める。

 

 四大行の集大成たる発は念能力者にとっての顔と言える。発を見れば、その人物の個性や歩んできた歴史がわかる。ベルベットがなぜこのような能力を作ろうとし、それを実現できたのか。ジャックはすぐに理解することができた。

 

 アイチューバーとして活動を始める以前、ベルベットはフィギュアスケートの選手として世界的な活躍を見せていた。当時は数々の大会で最年少記録を打ち立てた天才スケーターともてはやされていたが、それも過去の話である。その栄光と没落のエピソードはネット上では有名だった。

 

 才能を遺憾なく発揮し、順風満帆の選手生活を送っていた彼女は大会への出場停止処分を受ける。理由はドーピング検査で陽性反応が出たことだった。本人は無実を訴えたが、処分が取り消されることはなかった。

 

 そして長い謹慎期間が終わり、晴れて復帰を果たした彼女を再び不幸が襲う。二度目のドーピング陽性反応が検出され、スケート協会から除名処分を受けた。これにより彼女の選手生命は完全に断たれたと言える。

 

 その後、彼女は当時のスケート協会会長を襲撃し、全治一カ月の重傷を負わせる暴行事件を起こした。マスコミは一連の騒動を連日連夜報道し、ベルベットの問題行動を取りただした。人間性を否定するゴシップが飛び交い、彼女は私生活まで報道陣の追跡を受けるようになる。

 

 しかし、事が大きくなるにつれて新たな情報が浮き彫りとなる。それは腐敗したスケート協会の内情であった。会長職への行き過ぎた権力の集中と、それに伴う不正な金の動き。そして、会長のお気に入りの選手は優遇され、そうでない者は排除されるという暗黙の慣習が横行していた。

 

 ベルベットの事件を機に内部告発が次々と噴出した。ドーピングの件も、過去に同様の処分を受けて除名させられた選手が何人かおり、その人らの証言により協会側が意図的に工作した疑いが強まった。

 

 一転して、ベルベットは非行少女から悲劇のヒロインへと変貌する。暴行事件を起こしたことは彼女の非だが、未成年で多感な時期を迎えた少女がそこまで追い詰められていたことに同情する者も多く、選手としての復帰を望む声も高まった。

 

 だが結局、彼女は表舞台に戻ることはなかった。それどころか炎上系アイチューバーとなった彼女は、自分の人生を滅茶苦茶にした一因とも言える軽薄なマスコミと同じようなことをやっている。

 

 彼女が何をもって今の道を選択したのか、ジャックには知ることができない。それは彼女自身を除いて誰にも理解できない心境だろう。不信、怒り、失望。様々な思いが入り混じった境地の果てに、今の彼女がある。そして、それが彼女の念の原動力でもある。

 

 ベルベットの流れるような滑りには、芸術性すら垣間見えるフィギュアスケートの美しさが表れていた。ターンやジャンプなど、スポーツとしての技が戦闘技術へと昇華され、見事に使いこなされている。過去の経験に裏打ちされた強さがある。

 

 だが、それは彼女だけに言えることではない。ジャックにもまた、彼だけが持つ経歴がある。最初こそ圧倒されかけたが、本職の兵士として幾多の実戦を経験してきた彼は既に自分のペースを取り戻していた。

 

 ジャックの能力『命のお恵みを(バクシーシ)』はターバンを武器とする操作系の発である。見た目は滑稽だが、その能力は強力無比。単純な武器としての性能はもちろんのこと、それとは別に込められた特殊効果がある。

 

 このターバンは古代エジプーシャ王朝を起源とする王墓の盗掘品、正確には王のミイラから剥ぎ取られた包帯が編み込まれた正真正銘の呪物。死後の復活を願い、死者の眠りを妨げる不届き者を呪う“死後強まる念”が込められている。こういった品は通常、縁のない人間には扱えないものだが、稀に適合して使いこなせる場合がある。

 

 その効果は触れた敵のオーラを吸収し、ターバンの強度を上げるというものだった。敵が強いオーラで自身を強化すればするほど、ターバンはそれを吸い取って強度や拘束力が上がっていく。

 

 力技でこのターバンを破壊することはできない。むしろ逆に『絶』の状態となり、オーラによる強化を切る方が有効な対処法である。だが、その点もぬかりはなかった。敵のオーラを吸い取らずとも、ジャック自身がオーラを込めてターバンを強化することもできる。絶の状態では、どのみち拘束から脱するすべはない。

 

 一度捕まれば逃げること叶わぬ絶対の拘束。一対多の戦闘においても引けを取らず、数多の戦場を制圧してきたジャックの十八番だった。何本もの布蛇を同時に操りながら現状を冷静に把握する。

 

 ジャックは最初、プロハンターであるブレードを最も警戒し、最優先で無力化を図った。そして拘束に成功するもベルベットによってターバンは切られてしまう。だが、ブレードが身体強化を解かずにいる限りターバンはオーラを吸って強度を維持し続ける。

 

 ただ、ブレードを拘束するターバンは術者であるジャックの手元から切り離されてしまったため、それ以上の操作はできずジャック自身が強化を施すこともできなくなった。つまり、ブレードが絶の状態となればただの布に戻り、簡単に抜け出すことができる。

 

 だが、今のところブレードはそのからくりに気づいていないようだ。全力で拘束を破ろうと息巻いている。仮に抜け出せたとしても、また捕えればよい。ブレードのような典型的強化系能力者はジャックにとって得意な相手だった。

 

 その近くにいる二人のアイチューバー、ノアとシックスについてはそれほど脅威を感じていない。一応、念能力者であるため注意は怠っていないが、二人とも一目見て素人だとわかる。

 

 残る相手はベルベットだ。ジャックは歯噛みした。その不満はベルベットに向けたものではなく、己自身へのいら立ちだった。

 

 彼が戦争に身を投じていた時期は7年前になる。それ以降は実戦から離れて生活していた。念の修行は怠っていなかったものの、戦闘感覚は明らかに鈍っていると自覚できた。全盛期とは程遠い実力しか発揮できていない。

 

 それでも、今の状況は苦戦と呼べるほど追い詰められたわけではない。ジャックにとってベルベットを倒すこと自体は、そう難しいことではなかった。

 

 彼らの戦いが拮抗しているように見えるのは、互いに安全圏を保ちながら攻防を続けているからこそだ。その均衡を崩すことは可能である。ベルベットが捌ききれないほどの布蛇の物量でもって抑え込めばいい。

 

 しかし、それをすれば替えのきかない武器であるターバンを大きく損傷することになる。これから先も複数の念能力者と戦わなければならないかもしれないというのに、大幅な戦力の低下につながりかねない。

 

 それでも、ジャックはここで早期にベルベットを片づけるべきだと考えていた。彼女の余裕を感じさせる態度から、隠し玉の一つや二つはあるかもしれないと疑っていた。余計なことをされる前に肉を切らせて骨を断つ。

 

 だがジャックが攻勢に踏み切ろうとしたそのとき、ベルベットは腰元から何かを取り出した。それは500mlサイズのペットボトルだ。華麗な脚さばきはそのままに、ジャックの攻撃を避けながらペットボトルの蓋を開ける。

 

 中の液体はベルベットの手の上で、瞬時に氷のつぶてとなった。それをジャックに向けて投げつける。

 

 なかなかのオーラと威力が込められた氷弾だとわかる。だが、当たらなければ意味はない。ジャックはさして驚きもしなかった。攻防一体となった布蛇の群れは容易く氷弾をはたき落とす。

 

 オーラを冷気に変化させ、それを利用して氷を作る。余人には真似できない大した能力に違いないが、何事にも限界はある。ベルベットが水を持参していたことを考えれば、凍らせる液体がなければ氷は作れないと推測できる。何もない空中にいきなり氷塊を作るほど強力ではない。

 

 そして、いかにスケートの天才と言ってもベースボールの才能までは持ち合わせていなかったようだ。滑りながらの無理な体勢から放たれる氷弾の投擲は、ろくにコントロールも定まらない。苦し紛れの攻撃かと思われた。

 

「ふぅ……疲れました。少し休憩してもいいですか」

 

 にもかかわらず、この余裕。終いには攻撃手段となりえるペットボトルの残りの水を飲み始めた。何を企んでいるというのか。

 

「そう言えば知っていますか。このスタジアムでは年に一度、サッカーの国際大会が開かれているそうです」

 

「……余計なことを喋る余裕はあるみたいだね」

 

「いえ、十分に関係のあることだと思いますよ?」

 

 その直後、ベルベットを中心として空気が変わった。それはオーラを見ずとも肌で直接感じることができる。膨大な冷気がほとばしっている。

 

「出力最大、『煽り耐性(クールダウン)』」

 

 極寒の冷気が周囲の熱を奪っていく。急激な気温の低下は筋肉を収縮させ、体の動きを硬くする。念能力者であっても、これほどの寒さの中に長時間いれば大きく体力を消耗することだろう。ベルベットの本気をうかがわせる攻撃だった。

 

 だが、長時間冷気に当たり続ければの話だ。多少動きが鈍ったとて、ジャックの攻撃は布蛇の操作を主体としているため何の問題もない。さらに幸運なことに、たまたま着ていたサンタのコスチュームが高い耐寒性を有していた。

 

 そして、ジャックはこの冷気発散が長く続かないことを確信していた。これほどの膨大なオーラを長い時間消費し続けられるわけがない。したがって長期戦になることはない。彼女はここで一気に決着をつけに来ることだろう。

 

 多少の策を講じたところで打ち破られるほど、彼の防備は甘くない。蛇の巣穴へと転がりこむベルベットを、ジャックはただ迎え撃つのみ。

 

 だが、待ち構えるジャックに襲いかかったものは別にあった。彼の体に降り注ぎ、じとりと服を濡らしていく。

 

「……なんで水が……!?」

 

 突如として大量の水が地面から噴き出す。その出所は、ベルベットが投擲した氷の着弾点だった。ジャックに当たらず地面にめり込んだ氷弾は、その地下にあった給水管を破壊していた。

 

 人工芝が一面に広がるこのスタジアムでは、サッカーの試合に対応してピッチの調子を整えるための自動散水機が地下に多数設置されていた。その配管が張り巡らされていたのだ。

 

 水をかぶったジャックの体が凍りついていく。先ほどとは比べ物にならない寒さに襲われた。

 

「なめるな! この程度……!」

 

 これしきのことで怯むような軟な鍛え方はしていない。凍ったと言っても、表面についた水が凍らされただけだ。体の芯から氷漬けにされたわけではなく、大したダメージはない。

 

 しかし、ジャックは目を放してしまった。氷上を高速で駆け抜けるベルベットが今、どこを走っているのか。気を取られた一瞬のうちに、その姿はジャックの上空にあった。

 

 

 『色褪せる螺旋(プライドレール・スノーコーン)』

 

 

 ジャックの直上から、蹴りを繰り出しながらベルベットが落下する。さらにそこへフィギュアスケートの高速スピンが加わる。彼女の体ごと、足先のエッジはドリルのように回転していた。斬撃、氷結、整地が一体となり回転しながら一瞬のうちに反復される。

 

 ジャックの足元は凍結された氷によって身動きが取れない状態だった。強引に振り払うことはできるが、その隙にベルベットの攻撃が到達してしまう。避けることはできない。ターバンの触腕を広げてベルベットを受け止める。

 

 みるみるうちにターバンが削り取られていく。蹴りの接地点から二本のレールが、螺旋の軌道を描くように空中に伸びていく。ジャックはターバンをコントロールすることができなかった。まるでパスタがフォークにからめとられるように巻きとられ、細切れに裁断される。

  

「ば、バカな……! こん、な……ところ……で……!」

 

 ベルベットの勢いは止まらない。ジャックは全力をもって堪え忍ぶが、その時間も長くは続かなかった。

 

 



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46話

 

 先の戦争において『縛獅子のタバカル』と恐れられた男の正体は、一人の少年兵だった。過激な宗教思想を持つ武装組織に家族を殺され、改宗させられ、体内に爆弾を埋め込まれ、『聖戦』と称した戦争に放りこまれる。それは珍しくもない、ありふれた話だった。

 

 消耗品のように使い捨てられる雑兵だ。ただ生きたいという一心で、数え切れないほどの人間を殺してきた。罪悪感を覚える余裕もない。だが、死闘を毎日のように重ねるうちに彼の精神はすり減っていった。

 

 ただ一つ、彼の心の支えとなったのは友の存在だ。

 

『ぷっ、くくくく……! お前、天才かよっ! イタズラの天才だ!』

 

 集められた少年兵の中でも親しかった子供がいた。監視された生活の中で娯楽もなく、私語も自由にできない。粗末な食事と、たまに許されるおしゃべりが唯一の楽しみだ。そんなときジャックはよくふざけてみせた。彼の友達は、それがどんなにくだらない内容だったとしても、いつも大げさに笑っていた。

 

『誰にも言うなよ、ここだけの話……俺の他の家族は殺されたけど、身重だった母さんだけは親戚の家にいて無事だった……はずなんだ』

 

 誰しも、人間らしさに飢えていた。自分がただヒトを殺すだけの道具ではないと思おうとしていた。冗談を言って笑い合う、その些細なやり取りだけが、彼らの乾きを癒してくれた。

 

『生まれたのは弟か妹か。弟だといいな……“これ”が全部片付いたら会いに行くんだ。お前も来ないか? 得意のイタズラを弟にも見せてくれよ』

 

 戦争が終わったとき、生き残っていた少年兵はわずかなものだった。そこにジャックの親友はいない。生きるために戦ってきたはずなのに、戦うことから解放されたとき、彼はなぜ自分が生きているのか疑問に思うようになっていた。

 

 ただ一つ、彼の心の中でくすぶり続けた約束のために生きた。イタズラ動画をネットに投稿し、世界に発信する。顔も名前も知らない、生きているのかどうかもわからない、たった一人を笑わせるためだけにイタズラを披露し続けた。

 

 それがいつしか人気を博し、今ではトップアイチューバーに登り詰めるまでとなった。彼の思いに共感を示す者も多く集まり、その活動は大きな広がりを見せる。そしてついに、ジャックは親友の弟を見つけ出すに至った。

 

 あの戦争から止まっていた彼の時間が、ようやく動き始めている。その矢先に、こんな最悪のオフ会に巻き込まれてしまった。ここにいるのが彼一人であったなら焦りはしない。親友の弟が人質となった。その姿を見せられた彼は、居ても立ってもいられなかった。

 

 ジャックは立ち上がる。戦闘不能となっていなければおかしいほどの重傷を負い、ほんの一時は意識を失っていたが、それでも彼は立ち上がった。自分自身でも驚いているくらいだ。彼をここまで追い詰めたベルベットも倒したと思い込んでいたのだろう。初めてその表情に動揺が見て取れる。

 

 気力のみで意識を保っている状態だった。一歩も動く余力はない。だが、そのただならぬ気迫をベルベットは警戒した。時として、念能力者の精神力は肉体の限界をも凌駕する。

 

「まってろよ……すぐに、おじさんが助けに行くから……」

 

 ジャックは隠し持っていた最後のターバンを取り出す。その一本には彼の傷から流れ出た血によって赤く染まっていた。

 

 

 『赤蛇招来(レッドスネークカモン)』

 

 

 その攻撃速度は今までの比ではなかった。直線的に蛇行するその様は赤い稲妻のごとく、ベルベットに襲いかかる。それでもいくら速かろうと一本に過ぎない攻撃。彼女は素早く対応し、迎撃に成功する。

 

 だが、彼女のスケート靴のエッジはターバンを切り裂くに至らなかった。ジャック自身の血が大量に染み込むことによって、ターバンはより深く術者と一体化した状態となっている。オーラの伝導率が飛躍的に高まることで、強化率も底上げされている。

 

 攻撃をしくじったことによりベルベットはわずかにバランスを崩す。その隙をジャックは見逃さなかった。赤い布蛇はついにベルベットを絡め取る。一瞬のうちに全身を拘束してしまった。

 

 そのまま締めあげて意識を奪おうとしたが、ベルベットも全力で抵抗した。冷気を操りターバンを凍らせる。血が染み込んでいたため、ターバンは冷気に対して大きな影響を受けた。

 

 血液が凍り始める。拘束が緩むことはなかったが、凍った部分をうまく制御することができなくなる。ならばとジャックは布蛇を使って空高くベルベットを持ち上げた。氷ごと砕く勢いで地面にぶつければ、ベルベットもただでは済まないだろう。

 

 ジャックに手加減をするつもりはない。それはベルベットを恨んでいるからではなく、むしろ戦士としてその実力を認めたがゆえだ。下手に手を抜けば『堅』で守りを固めている彼女を倒しきれない恐れがある。彼女がジャックにそうしたように、殺すつもりで攻撃しなければ勝利はない。

 

 だが、それは敵を脅威として認めているからこそ取った行動である。もし、そこに関係のない第三者が割り込んできたとすれば。

 

 ジャックがベルベットを叩きつけようとしたその場所に、いつの間にか一人の少女が立っている。両手を広げて落ちて来るベルベットを受け止めようとしていた。

 

(こども……?)

 

 無謀な行動だ。確かに少しは衝撃を和らげることができるかもしれないが、その利に到底見合わない重傷を負うことになる。死んでもおかしくない。

 

 もしジャックが7年前と同じ精神を有していたならば、躊躇はしなかっただろう。そのまま勢いを殺すことなく割り込んできた子供ごと攻撃を続行したはずだ。アイチューバーになる以前の彼であれば、そうだった。

 

 攻撃の手が止まる。ベルベットを包み込むようにして守る氷塊は急速に勢いを落とし、シックスはそれを無事に受け止めた。

 

 

「すまない、遅くなったッスル」

 

 

 ジャックは背後から聞こえた声にぎょっとする。だが、振り返る時間は与えられなかった。丸太のような腕が首に巻きつき、抵抗する間もなく意識を失った。

 

 

 * * *

 

 

 私たちは何とかジャックを倒すことができた。ベルベットの圧勝で終わったかと思いきや、そこから怒涛の巻き返しを見せたジャックには鬼気迫るものがあった。一歩間違えば、ベルベットも今頃大怪我を負っていたことだろう。本物の念能力者同士による戦いのレベルがうかがえる一戦だった。

 

 こうして見ると、ジャックはそれほど悪い奴ではなかったのかもしれない。彼が根っからの悪人であったなら、最後の攻撃を躊躇することはなかったはずだとブレードは言っていた。人質を取られているという推測も間違いではなかったのかもしれない。彼もまた不本意に戦わせられた被害者なのだと思う。

 

 後味の悪い勝利だった。その上、私は現在、ブレードとノアから怒られている。

 

「あんなところに飛びこむなんて無謀にほどがあるッスル!」

 

「そうだよ! もしもママにもしものことがあったらと思うと……生きた心地がしなかったよ!」

 

 あの場の行動は私もよく考えていたわけではなく、とっさに体が動いてのことだった。だが、別に自暴自棄になっていたわけではない。シックスの肉体はオーラによる修復ができるので、何とかなるだろうと思っていた。

 

 一応、この体質についてはブレードたちにも事前に説明しているが、全てを詳細に明かしたわけではなかった。自己治癒力の強化は強化系に属する能力になるらしいが、それにも限界がある。当たり前だが、どれほど優れた使い手だろうと致命傷を受ければ死ぬらしい。

 

 シックスの場合はオーラによって肉体を再構築している。おそらく、これは強化系ではない別の能力になるだろう。

 

 念能力についてはここで聞きかじった知識しかないが、おそらく自分がかなり特殊な存在であることがわかる。別に絶対に隠しておかなくてはならない秘密というわけではないが、あけすけに話してしまって大丈夫なのだろうかという心配もあった。

 

 私はそれほど嘘が得意ではない。私が自分の能力について何かを隠していることはブレードとベルベットに気づかれているだろう。ノアはともかく。

 

 しかし、念能力者は敵ではない相手の能力について詮索しないというマナーがあるためか、深く尋ねられることはなかった。だから、彼らは私をちょっと回復力が高い程度の強化系能力者だと思っていることだろう。

 

 結果としてジャックが攻撃の手を緩めたおかげで私もベルベットも無傷で済み、気合で拘束をぶっちぎったブレードがジャックを仕留めるに至ったが、それは結果論だ。ブレードたちからすれば私のしたことは、自分の命を顧みない行動に見えたかもしれない。

 

 くどくどと説教するブレードたちを見かねたのか、ベルベットが珍しく私に助け舟を出した。

 

「まあまあ、終わりよければ全てよし。こうして無事に終わったのですから、それでいいじゃありませんか。仲間同士、助け合いながら戦うのは当然ですよね」

 

 確かにその通りだと思うし、私もベルベットから助けられたので異論はないがなんかこう、むかつく。

 

「え? 何か、お礼とか期待してました? そうですね……じゃあ、こういうのはどうでしょう」

 

 そう言ってベルベットは自分のスカートをたくし上げた。その突然の意味不明な行動に、思わず二度見する。なぜそんなことをするのかわからない。

 

「だって私が戦っているとき、ずっと見てたじゃないですか。そんなに気になりますか?」

 

 べべべ別にずっと見ていたわけではない。ただ、丈の短いスカートを履いている割に激しく動き回っていたので、色々と見えていたことは確かだ。中は下着ではなく黒のスパッツだったが、だからと言って見せびらかすようなものではない。むしろ、あまりに無防備だったので見ないように気をつけていたくらいだ。

 

 ……つまり、全く気にならなかったかと言えば嘘になる。シックスの肉体の性別は女だが、私の本体である虫は蟻の王でありオスだ。そして、この虫は種の垣根を越えて生殖できることを本能で理解していた。すなわち、人間であってもそれが女性なら、その、つまりそういうことだ。

 

 これが果たして人として正常な感情のはたらきであるのか、ただの男性が女性に対して抱く普遍的な感情と言えるのか、私自身には判断できない。自分ではそう思っているつもりでも、前提からして私は人間ではないのだ。虫の本能に基づく下等な欲求の表れではないとは言い切れない。

 

 だから、この手の感情のコントロールは苦手だった。過度に避けようとするきらいがあることは認める。スマホでネットを見ているときも卑猥な広告など見かけると即ブラウザバックするレベルである。

 

 だが、今ここで過剰な反応を見せることはまずい。スカートをひらつかせるベルベットの顔を見ればわかる。あれは面白がっている顔だ。ここで醜態をさらせば、後でスキャンダルとしてあることないこと騒ぎたてられ炎上するに違いない。

 

 まさかこんなことで神経を削るはめになるとは思わなかった。何とか平静を装おうとしていると、そこにノアが割り込んできた。

 

「何をしているんだい、ベルベット。僕のママにそんなお下劣なものを見せないでくれないか。まったく、清らかなママの心が汚れてしまうじゃないか」

 

「殺しますね」

 

「アッ、あ……寒い……! カ、カラダガ……コオリツイテイクヨ……!」

 

 ノアのおかげで助かった。氷漬けになりそうな勢いでノアを冷やしているベルベットだったが、私が何か言う前にブレードが止めに入った。

 

「無駄なオーラを使うのは、それくらいにしておけッスル。これからも戦いは続く。さっきの戦いで、だいぶ消耗したはずッスル。オーラは後どれくらい残っているッスルか?」

 

「……まあ、あと一戦くらいなら大丈夫ですよ」

 

 ベルベットのことなので過大に自身の余力を報告はしないだろう。あと一戦なら問題なく戦えると思われるが、それだけ消耗していることも事実だ。素人でも見てわかるほどの激戦だった。オーラは有限であり、消費すれば十分な休息を取らなければ回復しない。

 

「誰かさんが捕まっていなければもっと楽ができたんですけどね」

 

「くっ……! 面目次第もないッスル」

 

 今回はベルベットが一人で戦う形となって負担が集中してしまった。これからはもっとチームの協力を意識して行動すべきだろう。私たちは電光掲示板の名前を確認する。

 

 ジャックの表示が消え、ここにいる者たちとポメルニを除けば残す選手はツクテクと快答バットの二人となった。彼らとも戦うことになるのだろうか。

 

 ひとまず気絶しているジャックの手当てを終え、これからどうするか話し合っていると、場内のスピーカーがノイズを鳴らし始めた。また運営がポメルニを使った放送をするつもりなのかと思われた。

 

『あー、てすてす。感度良好、本日は晴天なり!』

 

 だが聞こえてきた声はポメルニのものではなかった。私はその女性らしき声に、何となく聞き覚えを感じる。確かこれは……

 

『みんなお待たせ☆ マジカル☆ミルキィ~~~~参上だぴょん☆☆☆』

 

 巨大スクリーンに映し出されたのはヴァーチャル系アイチューバー、マジカル☆ミルキーだ。正確にはその人のアバターと言うべきか。彼女とはゲームが始まって間もなく音信不通の状態だった。船内全域に影響を及ぼす電波障害によりネットもつながらなくなっているため、その関係で通信が途絶えたのだと思っていた。

 

 実際、スマホを確認してみても電波障害は続いている。そもそもどうやってスクリーンに映像を流しているのか。船内のシステムはゲームの運営が管理掌握しているはず。ミルキーは運営側の人間だったということなのか。

 

『いきなり落ちちゃってゴメンだぴょん☆ みんな心配したよね! でも、だいじょうぶっ☆ みるぴょんはみんなのために、このわけわかんないクソゲーをブチ壊すべく暗躍していたのだぴょん☆』

 

 そう言うとミルキーはおどろおどろしいデザインをした杖を取り出す。杖頭に邪神像『イルミン』をあしらったその杖は、紫色の瘴気を放っている。これは魔法の国の殺し屋であるミルキーが愛用している魔法の杖で、これまでに殺してきた数多の犠牲者の魂が封じ込められている(という設定)。

 

『みるぴょんの魔法でみんなを解放してあげるぴょん☆ さあ、いつものいくぴょん☆ みんなも一緒にコメントしてぴょん☆ せーのっ! スウィートミリュミリュラブリーキッス★★★』

 

 でた、ミルキーの必殺魔法スウィートミリュミリュラブリーキッス。古参のファンをして『さすがにキモい』と言わしめたそのネーミングセンスと、視聴者に向けた露骨なコメント稼ぎとも取れる言動から総スカンを食らい、ライブ配信時はコメント空白地帯が発生、今やそれがお約束となり『リスナー殺し』の異名を持つに至った最強魔法である。

 

 この会場にいる私たちアイチューバーや、観客席でバトルを観戦していた一般客の人々も、誰ひとりとして反応を示さずシンと静まり返っている。これはライブのお約束を守ったというより、単純にどう反応していいかわからなかったのではなかろうか。

 

 だが、その沈黙はすぐに破られることになる。鳴り響いたのは地を裂くような轟音だった。立っていられないほどの強烈な振動に、視界が激しく揺さぶられる。地震ではない。ここは飛行船の中だ。

 

 まるで重力の方向が変わっていくかのように、ゆっくりと地面が傾き始めた。

 

 

 * * *

 

 

 時は少し遡る。入り組んだ船内の通路を駆け回る一人の男がいた。

 

「くそがっ! どうなってんだ、こんなの予定にねぇぞ!」

 

 男はボロボロのコートを翻しながら走る。大小様々な金属部品が縫いつけられたコートはガチャガチャと喧しく音を立て、ポケットからこぼれた部品が床を転がっていくがお構いなしに走り続ける。

 

 作ってみた系アイチューバーのツクテクだった。彼は現在、敵から追われる身だ。流星街という弱肉強食の世界を生き抜き力をつけてきた彼にとって、獲物を追うことはあっても追われることはあまりない。それだけの強敵であると言える。

 

 数は二人。しかし、かなりの手練れだとわかる。広範囲の円を使う上、その円に『隠』を施して気配を消す非常識さは我が目を疑うほどだった。手製の“工作品”がなければ気づく前に接近を許していただろう。

 

 勝算は薄いと即座に判断したツクテクは逃走した。“3日前から”この船の各所に仕掛けていたトラップをフル活用して敵を撒こうとしたが、わずかな足止めにしかなっていない。円によって回避されるか対処されているものと思われる。

 

 このままではじきに追いつかれるだろう。このレベルの使い手がゲームに紛れ込んでいることなど、クライアントから聞いていなかった。全く想定外の事態である。

 

 ツクテクはこのゲームの仕掛け人から雇われた人間だった。選手として何食わぬ顔で潜入し、内側からゲームの流れをコントロールする。やる気を出さない選手たちに発破をかける起爆剤である。

 

 流星街出身のツクテクを雇った依頼人はマフィアである。世界のマフィアを牛耳る『十老頭』の一角であり、彼の得意先だった。つまり、このゲームはマフィアを仕掛け人として計画実行されたものだった。

 

 クライアントからの主な指示は『ゲームを盛り上げろ』というもので、それ以外にはいくつかの留意点しか伝えられていない。まるで具体性のない指示だが、不満はなかった。

 

 彼は別にいやいや攻撃的な役回りを演じていたわけではない。他のアイチューバーたちをオモチャにして遊ぶのは面白そうだと積極的にその役を受け入れてゲームを掻き回すつもりだった。好き勝手にしているだけで金をもらえるのだから文句はない。

 

 一応、このゲームの目的については新型ドラッグの臨床実験とそのデモンストレーションだと聞いている。観客たちはその被験体として利用されているというわけだ。

 

 ただ、不審な点もないわけではなかった。実際に実験も理由の一つなのだろうが、果たして本当にそれだけだろうか。船をまるごと乗っ取って実験場にしてしまうなど正気の沙汰ではない。わざわざこれほどの手間と金をかけてゲームを仕掛ける必要はあったのか。

 

 疑問はあるがツクテクはマフィアを信用していた。なぜなら、マフィアが流星街の人間を害することはないと確信しているからだ。両者は対等な関係ではない。表向きはメンツを保つためにそのように装っているが、実際は流星街の方が上の立場にある。

 

 マフィアにとって流星街の人材はなくてはならないものであり、その関係を維持するために最大限の待遇を保証している。ましてやツクテクは念能力に通じた“工芸士”としてマフィアに多大な貢献があり、どんな事情があろうと切り捨てられるような立場にはない。

 

 だからこそ、この現状に納得がいかなかった。予定外の事態が重なりすぎだ。アイチューバーのほとんどが念能力者だったことはまだしも、今追跡してきている二人組は強さが段違いだと肌で感じ取れた。

 

 円の捕捉から抜け出すすべがない以上、応戦するしかない。負けるつもりはないが、どんなに強がったところで勝ち目が薄いことは事実である。少なくとも一人で敵二人を相手にするのは無理だ。

 

 仲間を見つける必要がある。その候補は既に決まっていた。ツクテクと同じく、マフィアの息がかかった刺客がもう一人、このゲームに参加しているのだ。電波障害発生中でも使用可能な無線端末を使って呼び寄せようとしていた。

 

 しかし、応答がない。通信はつながっているようなのだが、無線からは何の返事もなかった。

 

「こんなときにマジで使えねぇ! どこほっつき歩いてんだ、あの蝙蝠ィ……!」

 

 悪態を漏らすツクテクの横で、そうだよねぇと相槌を打つように快答バットがうなずきながら並走していた。

 

「いたぁ!?」

 

 黒い燕尾服にシルクハットをかぶった男がマントをなびかせなから、いつの間にやらツクテクの横を走っている。マジック系アイチューバーこと、快答バット。その表情は白い仮面に隠され、うかがい知ることはできない。

 

 この男こそもう一人のマフィアの刺客である。

 

「てめぇ、連絡にも出ずに何やってた! つーか、どっから湧いて出た!?」

 

 怒鳴りつけるツクテクに対してバットは無言を貫く。両手でピースサインを作っておちゃめに応じている。

 

 この距離に近づかれるまで気配に気づかなかったということは、絶を使ってツクテクを待ち伏せしていたものと思われる。少しでも殺気があれば気づけたはずなので、おそらく敵意はない。

 

 まさか無線に応答しなかったのも無言キャラに徹するがゆえの行動だと言うのではなかろうか。あり得ないとは言えない気がしてきた。

 

 ツクテクは青筋を浮かべながら殺気を叩きつけるが、バットはどこ吹く風と受け流していた。チープな外見のマジシャンのようだが、こう見えても十老頭お抱えの暗殺部隊『陰獣』の一人に数えられる男である。その実力は本物だ。

 

「……まぁいい。これで二対二だ。反撃に出るぞ」

 

 ツクテクからすれば相棒としては不安要素が多い仲間だが贅沢は言えない。敵は依然として止まる様子がなかった。円によってバットの存在にも気づいたはずである。それを知った上で近づいてくるというのならば迎え撃つまでだ。

 

 だがそのとき、彼らは全く別の理由によって足を止めることになった。船を襲う激震。それまでここが空の上だと忘れてしまうほど穏やかに航行していた飛行船が、突如として荒波に揉まれるように揺れ始める。

 

「は?」

 

 そして、やってくる浮遊感。彼らを乗せた船は海上に向けて落下を始める。

 

「はああああああああ!?」

 

 





やってみた系:ポメルニ
ハンター系:ブレード・マックス
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
作ってみた系:ツクテク
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り7人



イラストを描いていただきました!
鬼豆腐様より

【挿絵表示】

ベルベットのお礼の一幕。


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47話

 

 ツクテクと快答バットからすれば船の墜落に巻き込まれたかのように感じられたが、実際は破壊された一区画が剥がれ落ちただけに過ぎない。ちょうどその場所に二人は居合わせてしまった。

 

 瓦礫の残骸が落下していく。豆粒のように小さくなっていくその様子をツクテクは眼下に眺めていた。

 

「焦らせやがって……この程度のモンしか作れなかったぜ」

 

 キコキコと自転車のペダルをこぐように足を動かし、その動力によってプロペラが回転し、空を飛ぶ。ツクテクは剥離した船の残骸の中で、まさに落下していくその最中に一人乗り用の人力飛行機を作り上げていた。

 

 材料はその辺りの鉄板をひっぺがして調達している。驚くべきはそれが発による能力ではなく、彼の工作力によって為し得ているという点だろう。

 

 ツクテクを乗せた飛行機はスカイアイランド号の船外、甲板の上へと到着する。飛行中の船上、吹きっ晒しの甲板の上だがそれほど風はない。高度二千メートル以上の飛行は国際法により禁止されているため、飛行船が飛ぶ高度では気圧や気温の変化は劇的というほどではない。一般人ならばそれでも辛い環境の変化と言えるかもしれないが、ツクテクは念能力者であり、活動に支障はなかった。

 

 甲板には既に快答バットの姿があった。腐っても陰獣、あの程度のトラブルは切り抜けられる実力は持ち合わせている。

 

「何か作る時ってのは頭の中に完成図を思い浮かべるものだよな。設計図でもいい。その計画に沿ってパーツを一つ一つ組み立てていくだろ。だから俺は一番嫌いなんだ。こういう物事が予定通りに運ばないことはよぉ」

 

 昇降口から二人の人物が甲板に姿を現した。一人は西洋の騎士風の衣装を着た女、チェル。もう一人は東洋の騎士、より正確に言うならばサムライ風の男、トクノスケ。サヘルタから送り込まれた最精鋭の諜報員が肩を並べて登場する。

 

「おう、もう鬼ごっこはおしまいか?」

 

 ツクテクの排除はチェルたちの目的の一つだ。加えて、ここに来るまでのうちに突破してきた用意周到な罠の数々や、示し合わせたように現れた仲間の存在など、新たな不審点も見えてきた。とりあえず、知っていることを洗いざらい吐かせる必要がある。

 

 四人は互いのオーラから揺るがぬ戦意を感じ取る。戦いは避けられない。

 

「ああ、おしまいだ。次はそうだな、玉入れでもしようぜ」

 

 ツクテクはコートのポケットから拳銃を取り出す。配布された麻酔銃ではない。鳴り響く銃声が舞台の幕を開ける合図となった。

 

 難なく銃弾をかわしたチェルたちのもとに走り寄る一つの影。快答バットが一直線に距離を詰めて来る。それに対し、トクノスケは既に手を打っていた。

 

 彼の能力『花鳥風月(シキガミ)』は鳥タイプの念獣を作り出せる。その最大の強みは、一戦に投じることができる数にある。事前に念獣の元となる紙型を作り、そこにオーラを込めておかなければ呼びだせないという難点はあるが、逆に言えば戦闘時は本人がオーラをそれほど消費することなく紙型にあらかじめ内蔵しているオーラを使用して起動できる。

 

 紙型を軸として形成された数羽の念鳥が解き放たれ、快答バットに殺到した。しかし、その攻撃が成功することはなかった。バットが投げたトランプが手裏剣のように飛び、念鳥を両断する。トクノスケもこれで倒せるとは思っていなかったが、その迎撃の鮮やかさに目を見張った。

 

 トランプをオーラによって強化して武器とすることは物珍しくはあるが、そう特別な技ではない。念能力者なら、やろうと思えば真似できるだろう。だが、多方から迫る念鳥の軌道を寸分たがわず読み取り、同時に撃ち落とすことは至難である。

 

 それを初見の攻撃でここまで完璧に見切ってくるとは思わなかった。てっきりツクテクのおまけでついてきた加勢かと思いきや、侮れない相手であると警戒度を引き上げる。

 

「こいつの相手は、あたしがやる」

 

 チェルが前に出て応戦した。鋼鉄製の床が沈むほどの踏み込みから、一瞬のうちに距離を詰めたチェルは腰に下げていたコスプレアイテムの剣を引き抜き、大上段から振り下ろす。それに対してバットは両手を打ち鳴らすと、白い手袋をはめた掌の間から手品のように一本のステッキを取り出した。

 

 剣と杖が交錯する。しかし、両者が拮抗することはなかった。バットのステッキがチェルの剣を粉砕する。剣と言ってもそれは見た目だけであって、その材質はプラスチックでしかない。武器でない物をいかにオーラで強化したところで敵わないことは当然だった。

 

 チェルは一手交えた手ごたえから、そのステッキになみなみと込められたオーラの気配を感じ取る。見た目はよくある礼装品の杖のようだが、武器として相当に使いこまれていることがわかる。これが具現化系能力によって作り出された物だとすれば、厄介な特殊効果が付いている可能性もある。

 

「悪くないオーラだ。あたしは強化系なんだが、あんたは?」

 

「……」

 

 チェルはあっさりと自分の系統を明かした。敵がその言葉を信じるもよし、信じないもよし。どちらに転ぼうとも翻弄する構えがある。

 

 彼女の問いかけに黒衣の手品師は変わらず沈黙を貫いた。ステッキを構えるバットに対し、チェルは丸腰である。しかし、武装の有無は念能力者にとって決定的な勝敗の要因とはならない。オーラによる強化は己自身の肉体を武器と為す。優れた使い手であるほどに、その傾向は顕著である。

 

 戦闘に入ったチェルの後ろにはトクが控えていた。近接格闘に優れる彼女が正面からの敵を受け持ち、トクが念鳥によって後方支援する配置が普段からよく使われる陣形になる。二人がかりでたたみ込めれば良かったのだが、敵の数もまた二人。

 

 トクは不審な動きを見せるツクテクに注意を向けた。その手にはアサルトライフルが握られている。どこかに隠していたのか、それともこの場で組み立てたのか。

 

 銃は頑強な肉体を持つ念能力者にも有効な武器である。ある程度の威力であれば生身で受け止めることも可能だが、45口径あたりになると無傷では済まない。また、機関銃のような連射性の高い銃も、被弾箇所が増えることでオーラによる防御が薄くなるためダメージが通りやすい。

 

 アサルトライフルは威力と連射性、携行性をバランスよくかねそろえた半自動小銃である。身体強化に秀でた使い手であるチェルならば凝でガードすることも可能だが、大きな隙ができてしまう。

 

 ツクテクは戦闘に入ったチェルに向けて銃を撃ち放つ。豪雨が傘を打つような発砲音が断続的に響いた。一応はタッグを組んでいるバットへの援護射撃のようだが、高度な近接戦を繰り広げる前衛を適切にバックアップするだけの技量は伴っていない。

 

 一言で言えば、雑だった。別に味方を巻き込んでも構わないとでも言うかのような撃ち方だ。乱戦をさらに荒らそうとするツクテクを放置してはおけない。バットへの対応はチェルに任せ、トクは複数の念鳥をツクテクに差し向けた。

 

「目障りな蝿なんざ飛ばしてんじゃねぇよ、オラァ!」

 

 アサルトライフルが火を噴き、念鳥を撃ち落とす。だが、ばら撒かれた弾数と比して撃墜された念鳥は少ない。その飛行速度と回避性能が被弾率を大きく抑えている。

 

 トクが使う自動操作型と呼ばれる念獣は行動範囲が広く、量産に向く一方でプログラムされた行動しか取れないというデメリットがある。使用者がリアルタイムで直接操作するタイプの遠隔操作型に比べれば、よほど高度なプログラムを組まない限り精密な動きを取らせることは難しい。

 

 だが、トクはその高度なプログラムを組む技術を会得していた。彼の故郷に伝わる陰陽術『占字』は念獣の使役に特化した念術式である。これを用いることにより、一般的な自動操作型念獣よりも複雑な状況対処が可能となる。

 

 紙型に書きこまれた術式(AI)が攻撃の軌道を予測し、自動回避する。バットには念鳥の動きを見切られてしまったが、ツクテクの射撃技術ではこの動きを完全に捉えることはできない。

 

「くそっ、ちょこまかと……!」

 

 業を煮やしたツクテクがフルオートで銃弾を掃射した。その弾幕を前にさすがの念鳥も回避しきれず撃ち落とされる。だが、アサルトライフルは連射性に優れた銃ではあるが、マシンガンのように大量の弾薬を積んではいない。フルオートで撃ちっぱなしにすれば、すぐに弾切れを起こす。

 

「くっ、弾が……ちょっ、待て!?」

 

 無事に弾幕を切り抜けた念鳥がツクテクの場所へと到達する。鳥たちは内包されたオーラを威力に変えて捨て身の体当たりを図った。一羽につき、トクが一日かけて注ぎこんだオーラが詰め込まれている。もはや念弾の域を越えた念爆弾。一発でも当たれば致命傷になりうる威力だ。弾切れした銃を抱えたまま立ち尽くすツクテクに為すすべはない。

 

「なんてな」

 

 ツクテクが腕を振るう。その一薙ぎで念鳥たちは一掃された。直撃を受けたにも関わらず、ツクテクは無傷のまま一歩も動いていない。

 

「おいおい、蚊に刺されたかと思ったぜ。いくらなんでも手ぇ抜き過ぎじゃねえのか? それとも今のが全力だったか?」

 

 安い挑発を受け流し、トクは冷静に分析する。トクは自身の力を過信するつもりはないが、先ほどの攻撃は念能力者一人を屠るのに十分な威力があった。防御力を極限まで高めた強化系能力者なら防ぎきれないこともないだろうが、ツクテクは果たしてそれほどの使い手だろうか。

 

「そうですね、ではこちらも少々本気を出しましょうか」

 

 見極める。トクは紙型の束を宙に放った。風に流された紙型が鳥の群れへと姿を変えて空を舞う。その数、五十羽。並の念能力者なら十人単位で相手取っても不足はない数の暴力が、たった一人に向けて投下される。

 

「う、うそだろ? なんだその数はっ!? てめぇのオーラはどうなって……」

 

 鳥たちは餌に向かって一直線に群がった。全ての念鳥弾が同等の威力を持っているわけではない。五十羽のうち、一週間級のオーラを込めた念鳥が十羽、一か月級が三羽混ざっている。さらにそれらは『隠』によって気配を消しながら鳥の群れに紛れている。

 

「うわあああああ!?」

 

 ツクテクは逃げることもできず爆撃の餌食となった。四方八方から次々に襲いかかる念鳥たちが全弾命中する。念能力者とて骨も残さず消し飛ばすほどの威力があったはずだった。

 

「ま、よゆーなんですけどね」

 

 粉塵が晴れたその場所に、男は無傷の状態で立っていた。現実的に考えて、基礎的な念能力ではどうやっても防ぎきれないはずの攻撃だった。何らかの『発』を使って防いだとしか考えられない。

 

 念鳥に込めていたオーラに留まらず、体内のオーラまで大量に消費したトクは、息切れを起こしながらふらついていた。それほどの消耗を伴う攻撃だったにもかかわらず敵はダメージを受けていない。だが、何の収穫もないわけではなかった。その能力の全容を見抜くことはできなかったが、およその推測を立てることはできた。

 

 まず、身体強化によって防御力を高める類の技ではない。そもそも攻撃が当たっていないのだ。ツクテクを守るように透明の防壁が作り出され、念鳥はそこで止められていた。

 

 この防壁はかなりの強度を持っているが破壊不可能ではない。攻撃の最中に何度も打ち破る手ごたえがあった。そう、何度もだ。一枚だけでなく、無数の壁が多重構築されている。防壁は無色透明なため一般人には視認できないが、念能力者ならばそこに込められたオーラから形状を把握することができた。

 

 そして最も不可解な点が、その防壁の強度である。トクの念鳥弾を防ぐほどの壁を念によって作り出すとなれば、そこには相応のオーラが込められていなければおかしい。トクが何日もかけてオーラを注ぎこんだ念弾をあっさり防ぐような盾を、どのようにしてこれほど簡単に作り出しているのか。

 

 一見すればあまりにも不自然な現象であるが、その正体にトクは気づく。似たような能力を使うトクだからこそ、いち早く気づくことができた。

 

 念鳥弾の群れを前にしてツクテクは空中に高速で指を走らせ、オーラを使って文字を描いていた。これは念文字と呼ばれ、念能力者にとってはよく知られた手慰みのようなものだが、肝心なことはその書かれている内容である。

 

「『神字』を使った念術式。それほどの速度で書きあげることができるとは……」

 

「ちっ、バレたか。もっと驚かせてやろうと思ったのによ」

 

 トクが占字を使って念鳥に複雑なプログラムを施したように、ツクテクはこの神字を空中に書き記すことで防壁を作り出すことができる。より正確に言えば『空気』を材料として何かを作り出す。これがツクテクの能力『虚構工作(フィクションライター)』である。

 

 ツクテクという名はネット上での活動名であり、彼が身を置く闇社会においてもその実名は知られていない。そのため彼は『工芸士(クラフトマン)』の通称で呼ばれている。

 

 その仕事の多くは『記念品』の作成である。魔道具とも呼ばれるその品々は現代科学では解明できない摩訶不思議な効力を持っている。破壊不能の錠前、燃やされようと必ず届く手紙、見たこともない場所を撮影できるカメラ……その効果は多種多様である。

 

 これらは専門の技術を学んだ念能力者の職人が、制作物にオーラとともに神字を刻みこむことによって作り出される。その制作工程には多くの時間と労力を要し、無論のこと完成品の良し悪しは作り手の技量に大きく左右される。

 

 ツクテクは記念品の職人として稀代の腕を持っていた。圧倒的な制作速度と完成度の高さから数多くの顧客を有するが、惜しむらくは彼が流星街の出身であり、引き受ける仕事にモラルを全く持ち合わせていないところだろう。

 

 『虚構工作』は言うなれば『空気の記念品』である。材料はどこにでもある。そして、実戦レベルで使用可能な記念品を一瞬のうちに作成するスピードは他の職人には真似できない妙技だ。

 

 神字は刻みこむ術式によってその物や場所に様々な効果をもたらす。その多くは念能力の強化や補助に使われる。場所の確保、所要時間、道具の必要性など制限も多いが、制約や誓約といった重いリスクを背負わずに能力を強化できるメリットもある。

 

 一般に、この神字に頼った戦い方しかできない者は念能力者としての基礎力を欠くと思われがちだが、それが突き抜けた使い手となれば話は全く変わってくる。ツクテクの技にかかれば、オーラの費用対効果も引き起こせる現象の規模も桁が違う。

 

 そして六系統の分類上、ツクテクは操作系能力者であり彼の能力『虚構工作』は神字を媒体とする物質操作に当たる。だが、本来は生物を操ることを想定して作られた能力であり、空気操作は類稀なる記念品創作技術を取り入れることで発展した応用技である。オーラで体を保護できない一般人であれば人間も操作可能であった。

 

 ポメルニを操り、マフィアの思惑通りの行動を取らせていたのもツクテクだった。ポメルニは刻み込まれたプログラムに沿って行動し、例えツクテクが死んだとしても命令を完遂するまで止まることはない。

 

「まぁでもさっきの攻撃は実際ビビったね。一般客に偶然混ざった念能力者ってレベルじゃねぇよな。なんなの、お前ら。つっても言うわけないか」

 

 ツクテクはオーラを纏った状態の人間を操ることはできないが気絶させてしまえば簡単に術式を書き込める。そうなれば強制的に情報を喋らせることもできる。

 

「つーわけで、ちょっと半殺しにさせてくれ」

 

 神字術式が空中に刻みこまれた。ツクテクが空気を使って作り出せる物は防壁だけではない。その形は自由自在。接近戦も不得手ではなく、様々な形状の武器を扱う。

 

 その武器は剣なのか、槍なのか、大きさ、形状、その全ての情報は術式の中に収められており、発動させるまで敵からはわからない。さらに、その形は術式を書き換えることによって如何様にも変化する。

 

 トクは念鳥を放つが、ツクテクは高速で術式を書き上げ、防壁を作り出しながら進撃した。ついに接近を許したトクに向けて、無色透明の攻撃が襲いかかった。ただ単に空気を硬くするだけではなく、柔軟性などの性質を持たせることまで可能としたその不定形の武器から繰り出される一撃は、間合いを測ることさえ困難とする。

 

 念鳥を使うことでさらにオーラを消耗したトクは堪え切れずに膝をつく。万事休す、ツクテクは勝利を確信した。

 

 形なき武器を生み出す能力。それは確かに強力だった。もし、ツクテクがその技に生涯を捧げる覚悟で修行を積んでいたならばトクは敵わなかっただろう。しかし、彼は生粋の“武人”ではなく“職人”だった。

 

 同じくトクも自分が武の心得を持つ人間だとは思っていない。兵士ではあるが、戦場における彼の主な役割は後方支援である。それ以外の分野においては得意というほどの武術は持ち合わせていない。

 

 だが、それでも彼は訓練を積んできた。兵士には、いかなる状況であろうと立ち向かわなければならない時がある。たとえ形勢不利な条件が重なろうとも最善を尽くすだけの基礎は叩きこんできた。

 

 トクは紙型を鳥の形に具現化せず、細長く束ねて連ねた。侍装束の姿に相応しく、片膝を立てた居合の構えを取る。隻眼は一切の揺らぎなく敵を見据えていた。

 

 彼は自分の能力である『花鳥風月(シキガミ)』について、その最たる長所が念鳥の精密操作にあるとは思っていない。最も優れた点とは、あらかじめオーラを溜めこんでおけるというところだ。

 

 オーラを込めた紙型がある限り、術者本人はオーラを消耗することなくいくらでも念鳥を呼び出せる。だが、この戦いにおいてトクは体内のオーラがほとんど空になるほど消耗した。そのように“見せかけた”。

 

 あえて自身のオーラを使ってまで攻撃することにより敵の油断を誘ったのだ。演技ではなく正真正銘、トクはオーラが欠乏した状態にある。一度使用したオーラは睡眠などの休息を取らない限り回復することはない。少なくとも戦闘中に回復することは通常、あり得ない。

 

 だが、彼にはそれができる。紙型はオーラを別の容器に移し替えて保存することができる外付けのタンクとしても機能する。オーラを貯蔵していた紙型から逆にオーラを引き出すことによって、トクの全身に活力がよみがえった。その事実にツクテクが気づく前に、彼の攻撃は完了する。

 

 

『式陣刀・月下散葉』

 

 

 神速の踏み込みと抜刀によって巻き起こされた風がツクテクの横を通り抜ける。トクの手に握られた紙の刀は、その内に蓄えられた膨大なオーラを斬撃に変え、燃え尽きながら風の中へと溶けていく。

 

「お、俺の、腕……」

 

 ツクテクが術式を書く時間はなかった。それでも攻撃の瞬間に異変を感じ取り、とっさに防御しようとした手並みは見事だったが、一手及ばず。盾にした空気の武器ごと両断される。ツクテクの両腕が血しぶきをあげながら宙を舞った。

 

「があああああああああああ!?」

 

 これで術式を書くことはできなくなった。トクは間髪入れず、ツクテクを仕留めにかかる。敵を無力化したからと言って油断するつもりはなかった。念能力者との戦いは互いの命がある限り、時には命なき後においても何が起きるかわからない。

 

 何が起きるかわからないのだ。

 

 両腕を失い、苦痛に泣き叫ぶツクテクだったが、その目は死んでいなかった。もはや念術式を用いた能力を使うこともできない絶体絶命の状況にも関わらず、まさに死をもたらそうとするトクに対して向ける表情に恐怖はなかった。

 

「書き込んだぞ……!」

 

 敵の実力を見誤ったがゆえにツクテクは負傷した。彼は武人ではなく、職人だった。だが、トクもまた敵の実力を正確に把握できているわけではなかった。常軌を逸した職人の妙技を。

 

 トクは背後にある気配に気づく。そこにあったのは斬り飛ばしたはずのツクテクの腕だ。主なき腕が独りでに宙へ浮かび、その指先がめまぐるしく動き術式を構成していく。

 

 ツクテクが稀代の職人であることは事実だが、実はその技術をもってしても本来ならば空気を材料にして即興で武器や防壁を作り上げることはできなかった。物を作ることはできるにしても、時間がかかる。一瞬の判断が命取りとなる戦場において使えるような技ではなかった。

 

 では、どのようにしてその課題を克服したのか。彼は自分の腕に術式を書き込んで操作したのだ。それは『術式を書くための術式』である。これによってツクテクは思考のスイッチ一つで自動的に術式を書きあげるプログラムを自分自身に仕掛けていた。

 

 自動操作型の特性である。操作対象は与えられた命令を遂行するまで活動を停止することはない。術式が生きている限り、腕だけになろうともプログラム通りに動き続ける。

 

「爆ぜろォ!」

 

 ツクテクが作ったモノは、空気でできた武器や防壁ではなかった。それは念鳥の制御を狂わせる術式だ。

 

 トクの念鳥も念術式によってプログラムされていることは確かだが、その言語は念能力者が一般的に使う『神字』ではなく、ごく限られた地域でしか知られていない『占字』だ。異なる記述様式を使って制御に干渉してくるなどトクは思いもよらなかった。

 

 二つの念術式のわずかな共通点を見つけ、その脆弱性を突いてプログラムを書き換える。ツクテクは、その作業を戦闘と並行して完成させていた。トクは制御を取り戻そうとするが間に合わない。

 

 紙型に込められていたオーラが暴走し、爆発する。敵を駆逐するために蓄えていたオーラの威力を、トクは自分自身で受け止めることになった。

 

 






イラストを描いていただきました!

ちせ様より

【挿絵表示】

かわいさのシックスと迫力の王。


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48話

 

 ツクテクとトクが攻防を繰り広げる一方で、快答バットとチェルもまた激戦が続いていた。チェルは対戦しながら戦況を把握していく。

 

 まだバットは能力らしい能力を使っていない。ステッキを武器として、身体強化を主軸とする接近戦に終始している。その体術から見て間違いなく一流クラスの使い手であることはわかるが、格闘戦において言えばチェルに分があった。

 

 顕在オーラ量、身体強化率、そして格闘技術はチェルが大きく勝っている。強化系能力者として弛まぬ努力を重ね、技を磨いてきたチェルの攻撃はそのどれもが一撃必殺と呼べる威力にまで高められている。

 

 単純な戦闘力を比較すれば勝敗はすぐにでも決するものと思っていた。しかし、現実には戦いが続いている。敵の発を警戒して迂闊に攻めきれなかったという理由もあるが、それを除いても倒すことができる機会は何度もあった。その機会をものにできずにいる。

 

 その理由が敵の“読み勘”の良さだ。互いに初めて戦う相手だというのに、チェルの動きの癖を正確に読んでいた。あと一歩というところで攻撃を外される。そのせいで、互いに一度も有効打を与えていない状況が続いていた。

 

 チェルはバットの仮面の内側から悪寒が走るほど気味の悪い視線を感じる。恐ろしいほどの観察眼だ。一瞬たりともチェルの動きから目を放さない。その攻撃の“答え”を探し出そうとする執念こそ、身体能力で劣るバットの最大の武器だった。

 

 それでもこのまま戦いを続けていれば、いずれチェルの勝利で終わるだろう。バットは一度でもチェルの動きを読み間違えばそこで負ける。そして、チェルもまた戦ううちにバットの動きを学習している。いつまでも読まれる側にいるわけではない。

 

 だが、その停滞する戦いの最中、突然の爆発音が鳴り響いた。トクが派手に攻撃を仕掛けていたことは知っていたが、今回の爆発はそれとは異なる。ツクテクの反撃に遭い、術式を暴走させられたトクの自爆だった。

 

「トク!?」

 

 チェルはトクの実力を知っている。その上で信頼して敵の一人を任せたが、ツクテクはその予想以上の実力者だったということだろう。仲間の窮地を見せられ、動揺を隠せない。

 

 その隙を見逃すバットではなかった。練り上げられたオーラを纏うステッキがチェルの体を打つ。これまで沈黙を保っていたバットは変わらず何も言わないが、その攻撃にはわずかな感情の波が見て取れた。

 

 それは怒り。敵に攻撃を当てた喜びではない。くだらないことに気を取られ、隙を晒したチェルに対する憤りをあらわにする。

 

「『明かされざる豊饒(ミッドナイトカーペット)』」

 

 しかし、直撃したはずのバットの攻撃が空を切った。彼は我が目を疑う。絶対の自信を持つ観察眼に間違いがあったことが信じられない。

 

 チェルの能力『隠された豊饒(ナイトカーペット)』は、『円』に『隠』を施すことができるというものだ。一見してそれは直接的な戦闘力には関係のない能力に思えるが、彼女はその発に改良を加えて新たな技を生み出した。

 

 それが『明かされざる豊饒』。この円の領域内において、バットの勝ち目は万に一つもない。

 

 バットの胸部に衝撃が走った。チェルの拳が突き入れられる。その一発の打撃だけで心臓が破裂するほどの衝撃が炸裂した。常人ならば即死。念能力者でも十分に致命傷となる攻撃である。バットほどの使い手でも戦闘不能は免れない威力があった。

 

 しかし、彼は倒れない。攻撃を受ける瞬間に『凝』によってオーラをかき集め、胸部の防御力を向上させていた。ぎりぎりのところでチェルの攻撃を読み、対処が間に合っていた。

 

 だが、ダメージをゼロにはできない。チェルの拳には肋骨を数本折った感覚が残っている。内臓にも殺しきれなかった衝撃が届いていた。普通ならば立っていられないほどの激痛に襲われているはずである。

 

 それでもバットは屈しなかった。少なくないダメージを受け、さらに劣勢に立たされながら、なおその戦意は消えない。むしろ、彼の体から発せられるオーラからは湧き立つような闘志が感じられる。

 

 チェルは改めて敵を脅威と認識した。トクのことは気になるが、バットを倒さずして助けには向かえない。まずは目の前の敵に集中すると決める。

 

 

 * * *

 

 

 斜め45度に傾いた地面の上を様々な物が転がっていく。私はノアに抱えられ、そしてそのノアはブレードに抱えられる形で何とか踏みとどまっていた。

 

『今からこの船をみるぴょんの魔法で不時着させるぴょん☆ 安全のためにソフトランディングを心がけるけど、ちょっと船体が揺れるかもしれないぴょん☆ 許してぴょん☆』

 

 ちょっとどころの騒ぎではない。私たちは念能力者だからまだ何とかなっているが、一般人なら怪我人が出てもおかしくないほどの事故となっている。右へ左へと転げ落ちる物に押しつぶされれば最悪、死者が出ることもあり得る。

 

『でも、不安に感じちゃう人もいるよね☆ だから、みるぴょん……みんなのために歌います☆☆』

 

 そしてスピーカーから大音量で垂れ流されるアニメソングとミルキーの熱唱。会場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。

 

 現在、この船は自動操縦システムによって全ての飛行機能が制御されている。パイロットが直接操縦しているわけではなかった。もし、そうならとっくに操縦室に乗り込んで鎮圧している。何者かがシステムをコントロールしてアクセスできない状態にされていた。

 

「ということは、そのシステムをマジカル☆ミルキーが乗っ取ったということッスルか!?」

 

 マジカル☆ミルキーがハッカーとして高い技術を持っていることは知っていたが、まさか船そのものを乗っ取るとは想像もできなかった。しかし、そうだとすれば船をどこかに不時着させようとする理由はわかるにしても、こんなにめちゃくちゃな操縦をする必要はない。爆弾でも使っているとしか思えないような破壊も起きている。

 

「自分の命さえ無事なら他人がどうなろうと知ったことではない、ということでしょう。船を派手に翻弄することで、運営への揺さぶりをかけているのかもしれません」

 

 ミルキーの気持ち一つでこの船の運命は決まるということか。ここまで事態が深刻化すれば、これまで黙してきた運営も何らかの対応に出る可能性は高い。黒幕をあぶり出すための脅迫行為ではないかとベルベットは言った。

 

「この船は外部との通信が遮断された状態にあります。つまり、外部からシステムに入り込むことは不可能。ミルキーは船内のどこかにいるものと思われます」

 

 自分が乗っている船を墜落させるようなことはさすがにないだろう。現段階でもかなり激しく揺れており、爆発も起きているが、そう簡単にこの船が落ちることはないという。

 

 巨大で鈍重、飛行能力は最低限に抑えられた飛行船だが、その安全性だけは異常なほどこだわって作られており、飛行不能に陥ってもすぐさま墜落することはない設計になっている。それを計算した上での爆発だと思われる。

 

 まるで生配信の一つでも行っているかのような冗談じみた演出や、お世辞にも上手いとは言えない歌唱も運営に対する挑発か。理由はわかっても納得はできない。とにかくこれ以上被害が広がる前に止めさせなければならない。

 

「この広い船内からターゲット一人を見つけ出すことは、現実的ではありませんね。これはこれで良い展開なのでは? 私たち念能力者なら爆発に気をつけていれば死ぬことはないでしょうから」

 

 ベルベットは運営が音を上げるまで放置した方がいいと言う。無責任な物言いではあるが、それを責めることができるほど良い代案は思い浮かばなかった。

 

 私たちにできることと言えば、せいぜいミルキーの居場所を探しまわることくらいだ。それに私たちはミルキーのアバターの姿は知っているが、その本人の姿は全くわからない。向こうも簡単に身バレするような下手は打たないだろう。

 

 行動を起こすには判断するには情報が少なすぎる。まだ私たちは静観するしかないというのか。爪が食い込むほど固く拳を握りしめる。

 

 確かに彼女は殺し屋の少女という設定で、時には過激な発言をすることもあったが、ここまでのことをしでかすような人間だとは思わなかった。

 

「ミルキィィィィィィ!!」

 

 叫んだのはブレードだ。大音量の放送を凌ぐほどの声が響く。怒りを孕んだその声に、映像の中のミルキーが反応を示した。こちらの声が聞こえている。ならば対話ができるかもしれない。

 

「君にも何か考えがあっての行動なのかもしれんが、罪なき一般客を巻き込んでいい理由にはならないッスル。穏便に済ませる道は他にもある。今すぐこの騒ぎを止めるッスル」

 

 ブレードの真っすぐな問いかけにミルキーは体を震わせた。大粒の涙をぽろぽろと流し始める。

 

『ふぇぇぇ~☆ 筋肉ムキムキマンがみるぴょんをイジめるよぉ~☆ みるぴょんはみんなを助けたいだけなのに~☆』

 

 しかし、泣きじゃくっていたミルキーはその涙を拭うと何かを決意したような表情に変わる。

 

『でもっ、みるぴょんは負けない……☆ みるぴょんはっ、正義の魔法暗殺少女マジカル☆ミルキー☆ ファンのみんなの声援がある限りっ、今日も元気にボーパルゥゥゥバニー☆★☆』

 

「僕が言うのも何だけど、アレとまともな会話をするのは無理だと思うよ」

 

 ノアにアレ呼ばわりされるとは。相当だぞ、マジカル☆ミルキー。

 

『止めようとしても無駄ぴょん☆ みるぴょんは電脳世界の魔法暗殺少女なんだぴょん☆ リアルの世界の人間ではみるぴょんに触れることもできないぴょん☆ でもね~……』

 

 そこでミルキーは何か考え込むようなしぐさを取った。

 

『それはちょっとアンフェアかもしれないと思ってるぴょん☆ 今はアイチューバー同士が戦うゲームの最中なのに、これじゃみるぴょんの優勝確定☆ ワンサイドゲームになってしまうぴょん☆ それは一人のエンターテイナーとしてどうかと思うぴょん☆ そこでみるぴょんは他のアイチューバーにもチャンスを与えることにしたぴょん☆』

 

 小さな物体が私たちのそばに近づいてくる。それはミルキーが最初に登場した際、その姿を立体映像として映し出していた蜘蛛型の機械だった。八本の脚を使って歩いてきたメカ蜘蛛は私たちの前に到着すると変形し始めた。ヘルメットのような形態になる。

 

『それはみるぴょんが開発した次世代型VR体感デバイスの試作機だぴょん☆ これを装着することで、誰でもVRの世界にダイブすることができるぴょん☆ つまり、みるぴょんと戦うこともできるのだぴょん☆』

 

 要するにVRゴーグルみたいなものらしい。当然ながら、これをつけたところで本当に魔法の世界とやらに行けるわけではない。ミルキーが用意した映像の世界を体感できるというだけだ。

 

 ミルキーはVRゲームでの勝負を持ちかけてきた。ベルベットやブレードが見た限りでは念的な気配は感じないらしいが、それでも何が仕掛けられているかわからない装置である。好んで使おうとは思えない怪しげな装置だが、ミルキーの次なる言葉によって状況が変わる。

 

『もし、みるぴょんを倒すことができたら、素晴らしい情報をプレゼントするぴょん☆』

 

 それはポメルニの所在に関する情報だった。ミルキーはハッキングによって船内の監視カメラの操作まで可能としている。運営の中枢にまで侵入した彼女ならば、ポメルニがいる場所を突き止めたとしてもおかしくはない。

 

 無論、疑いの余地は大いにあるが、判断するための情報が少なすぎるし、疑い始めれば切りがない。私はミルキーの誘いに乗ることを提案した。少なくとも彼女が用意したゲームに挑まなければ、まともに対話を試みることもできないだろう。

 

「待つッスル。まさか、自分がその役を引き受ける気か?」

 

「ダメだよ! そんなの何をされるかわからないじゃないか!」

 

 男性陣からの反対は予想していた。すんなり認めてはくれないか。ベルベットならば面白がって賛成してくれそうなものだが。

 

「勝手にそういうことをされるのは困りますね」

 

 だが、思わぬことにベルベットも反対派に回る。まさか彼女から気遣われることがあろうとは。

 

「私たちがサヘルタの諜報員から、あなたの護衛依頼を受けていることをお忘れなく。危険が及ぶようなことをされると面倒なのでおとなしくしていてください」

 

 気遣いなどなかった。至極、真っ当な正論を突きつけられる。だが、私もここで引き下がることはできない。ポメルニを助けるために情報は少しでも集めておきたい。

 

 皆が懸念している危険については、私に限って言えばおそらく問題ないのだ。シックスの体ならば大抵のことは無理が利く。その回復力、いや修復力について明かすべきだろう。そのためには説明するより実演した方が手っ取り早い。

 

 私は『練』を使った。迸るオーラの輝きに包まれ、それと同時に肉体が内側から爆発してしまいそうなほどの力と痛みに襲われる。やはり今の段階では長くこの状態を維持できそうにない。皆がぎょっとしている最中、私は自分の拳を自身のもう片方の腕に向かって叩きつけた。

 

 その力は凄まじく衝撃だけで体が吹っ飛びそうになったが、意外にもダメージは少なかった。なぜなら殴りつけた腕の方もオーラによって強化されているためだ。修行を積めばオーラを体の各部に集散させることもできるらしいが、念についてつい先ほど知ったばかりの私にそんな技術はない。そのため、全力で強化した拳によって全力で防御した腕を殴りつけるという締まらない結果に終わる。

 

「何やってんの、ママ!?」

 

 腕をミンチにするつもりで殴ったのだが、骨折程度の怪我で済んでしまった。まあ、これでも実演にはなるだろう。ぽっきりと折れた腕を修復して見せ、自分の能力について説明する。

 

 この体のことや本体の存在には言及せず、ただ『超回復力』があるとだけ話した。たとえ肉体が欠損しようとも、すぐに回復して活動できる。仮にVRゴーグルに爆弾が仕掛けられていて頭を吹っ飛ばされようとも本体が死ぬことはない。

 

「確かに回復力が高いことは認めますが、さすがに話を盛りすぎでは」

 

「いや、さっきのシックス君の目は本気だったッスル。自分の腕を失っても構わないという覚悟がなければ躊躇なくあの拳は放てない……それほどの一撃。不覚にも止めに入ることができなかったッスル」

 

「……あながち嘘でもないようですね。ジャック戦で見せた蛮勇もその能力があるためですか。サヘルタから付け狙われているだけの理由はあると」

 

 私の能力というか体質について一定の理解は得られたようだが、だからと言って全面的に信頼してもらえるかはわからない。自分が無鉄砲な提案をしているという自覚はある。皆はそれを止めようとしてくれているのだから、その気持ちは無碍にできない。

 

 だがそれでも、いつまでも受け身のままでいることはできなかった。ミルキーの話を全て無視して取り合わなければ一番安全なのだろうが、それでは何も変わらない。誰かが何とかしてくれるのを待つよりも、今、自分にできることがあるのであればそれをしたい。そうでなければ、きっと後悔する。

 

 理性よりも感情が優先していた。ヘルメットを拾おうと動いた私だったが、その肩に手が置かれる。ノアが私の隣にいた。そして私の体から力が抜けていく。倒れそうになったシックスの体をノアが抱え込んだ。

 

「ぐっ、こ、これはまさか……!」

 

 同じようにブレードとベルベットもその場に倒れ込んでしまった。これは周囲の生物に病を与えるノアの能力だ。なぜこのタイミングで力を使ったのか。

 

「やっぱりママはすごいよ。こんな小さな体で一生懸命さ。今回の件も一人で何とかしてしまうのかもしれない。でも、僕は見過ごせないんだ。たとえ体が無事だったとしても、苦痛を伴う危険があるのではないかと考えると黙ってはいられない」

 

 現在進行形でノアの能力によって気を失いそうなほどの憔悴が本体に生じているわけだが。

 

「わかってるんだ。この中では僕が一番、役立たずだ。この能力だってうまく使いこなせない。でも、だからこそ、ここは僕に任せてもらおうか」

 

 ノアはヘルメットを装着する。

 

「こう見えてもゲームは得意な方なんだ。必ずポメルニの情報を手に入れて帰ってくるよ」

 

 シックスならば心配もなく敵の誘いに乗ることができた。ノアがその役を肩代わりする必要は全くない。どうしてそこまでするのか。止めようにもノアの能力によって体に力が入らない。

 

 ヘルメットから機械的な駆動音が鳴り始める。その様子を固唾をのんで見ていると、ブザー音がけたたましく鳴り響き、警告色のランプが点滅した。

 

 

「あびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃびゃ!!」

 

 

 ノアが奇声をあげる。ビクビクと痙攣しながら倒れ込んだ。ノアと私の体が離れることで病気発生の能力も解除された。私はすぐに彼の状態を確認する。

 

 先ほどまで体が触れていたためわかったが、これは電気ショックによる攻撃だ。ヘルメットから直接頭部に強力な電気を流しこまれれば、さすがの念能力者でもダメージは避けられない。

 

「あびゃ……」

 

 どうやら命に別条はないようだ。気を失うだけで済んだらしい。ほっと胸をなでおろす。

 

『あっ、言い忘れてたぴょん☆ 電脳世界に入ることができるのは魔法少女の資質を持つ者のみ☆ 野郎はお呼びじゃないぴょん☆ シックスかベルベットならゲームへの参加を許可するぴょん☆』

 

 そのミルキーの言葉に怒りが湧く。そうならそうと初めから説明しておけば良かったはずだ。無用な電撃を浴びせる必要もない。

 

 ノアが取った行動は余計なお世話と言ってしまえばその通りだ。わざわざ自分から危険に首を突っ込んでいくようなことをしなければ、こんなことにはならなかっただろう。だが、その行動はシックスを思ってのことだった。

 

「ベルベット君、大丈夫か!?」

 

 私がノアの容体をうかがっている間、ブレードは倒れ込んだベルベットを介抱していた。ノアの能力は解除されたはずだが、すぐに立ち上がることができない様子である。おそらく、ジャック戦での消耗が響いているのだろう。実はやせ我慢して気丈に振る舞っていたのかもしれない。

 

 ベルベットには気の毒だがこれはチャンスだ。私はブレードがこちらから目を放している隙に、ノアからヘルメットを取り外して装着する。

 

「待て、早まるな! シックス君!」

 

 ノアの仇を取る、というほど大仰な感情ではないが、わずかながらの義憤は湧いた。装着したヘルメットのバイザーが可動し、視界が覆い隠された。そして首周りを拘束するように蜘蛛の爪が顎を固定し、着脱を封じられた。

 

 

 * * *

 

 

 何も見えず、何も聞こえない。このヘルメットは遮音性もかなり高いらしい。緊張のためか、心臓の脈打つ音がやけにはっきりと感じられる。

 

 と言っても閉ざされた感覚は視覚と聴覚だけで、他の刺激に関してはちゃんと感じ取れる。今も、おそらくブレードが私の無事を確かめようとしてくれているのだろう。身振り手振りで無事を報告する。伝わっているのかどうか不明だが。

 

【生体情報を読み込み中……】

【アバターをデフォルト設定で制作します】

【指定されたバトルコスチュームを装着します】

 

 すると、目の前にログのような文字列が表示された。そこから一気に視界が明るくなり、自分の姿が見えるようになる。実際にはそのような映像を見ているに過ぎないのだが、その映像は恐ろしく精巧に作りこまれていた。

 

 どのような技術を使ったのか全くわからないが、このヘルメット型の機械がシックスの身体情報を正確に読み取って3DCGアバターを作り出したようだ。

 

 基本的に一人称視点で展開される従来のVRゲームと同じだが、操作キャラは現実の自分の姿を忠実に再現している。次世代型VRデバイスを謳うだけあり、本当にバーチャルの世界に入り込んでしまったかのような臨場感である。

 

 驚きはあったがそこまでは理解できる。問題は服装だ。現実に私が着ていた服とは違う。水着に靴下だけというわけのわからない格好にされていた。

 

 目の前に鏡のような物があって自分の姿を確認できた。水着は地味な紺色でワンピースタイプ、なぜか胸に『しっくす』と書かれたゼッケンが縫い付けてある。泳ぐ要素のあるゲーム内容なのだろうか。それにしては太ももまで長さのある黒い靴下の存在が謎だ。靴も履いている。

 

 さらに頭の上には犬のような獣の耳らしきものが生えていた。触ってみるがヘルメットのゴツゴツした手触りしか感じない。なんだか映像があまりにも精巧に出来過ぎていて感覚がおかしくなりそうだ。

 

 そして手にはピンク色のステッキが握られている。アニメに出て来そうな女児向けの玩具みたいなデザインで、武器には見えない。握られているというか、これも映像なので実際には手にくっついているように表示されているだけだ。そのため手放すこともできない。

 

【指定されたバトルフィールドが選出されます】

【天空闘技場ステージが選択されました】

 

 そうしているうちにもログが流れていく。理解が追い付かないまま状況は進み、白一色だった空間が剥がれるように変化していく。あれよあれよという間に私は広い競技場のような場所に立たされていた。

 

『さあ、やってきました! 本日のスペシャルマッチ! 魔法少女たちによる夢のバトルが幕を開けます! まず姿を見せたのは挑戦者シックス! キュートな新米魔法少女は果たしてどのような戦いぶりを見せてくれるのか!』

 

 競技場を取り囲むスタンドには満員の観客が詰め寄せている。湧き起こる歓声は空気を振るわせるように真に迫っていた。

 

 そして私が立っている場所の対面の入場口がゆっくりと開いていく。ドライアイスの煙がもうもうと立ち込める中、その霧の向こうから一つの影が姿を現す。

 

『対して、それを迎え撃つは最強の魔法少女! その超破壊力を秘めた魔法を前にして挑戦者は無事でいられるのか! 魔法の国が誇る暗殺教団「ゾディアック12」の執行人にして、伝説の魔杖「バクルス・イルーミナンス」の使い手! マジカァァァァァァル!! ☆!! ミルキィィィィィィィ!!』

 

 



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49話

 

 爆発の中心地にいたトクノスケはその爆風によって吹き飛ばされていた。

 

 思考に生じた一瞬の空白。その隙を埋めるべく、鍛え上げられた感覚が飛びかけていた意識を呼び覚ます。甲板から転げ落ちる寸前で目を覚まし、何とか床にしがみつく。

 

 もし全ての念鳥弾が暴発していれば全力の堅で守りを固めようと死は免れなかった。爆発の直前、彼は紙型からオーラを吸い出して念鳥弾の威力を抑えたのだ。

 

 それでも完全に威力を殺しきることはできなかった。オーラの吸い出しが間に合わず、爆発は食い止められなかった。全身の至るところに重傷を負い、無事な部分を探し出す方が難しい有様である。

 

 オーラだけは過度に充実しているが、それもあまり良い状態とは言えない。一度に多量のオーラを吸い出し過ぎた影響が生じていた。

 

 人間の体にはオーラを溜めこんでおく器がある。その器に入りきるオーラの最大量をMOP(マックスオーラポイント)と呼ぶ。トクの場合、このMOPを超える量のオーラを紙型から取り込もうとしても体外に全て流出するだけで意味がないため、普通はそのようなことはしないのだが、今回はそうせざるを得ない状況に追い込まれた。

 

 MOPの何倍にも上る数値のオーラが体内を通過することによって供給過多に陥り、体調に異変が生じていた。内臓ごと吐き出してしまいそうな嘔吐感を抑え込み、敵を見据える。

 

「くそがっ! くそがくそがくそがくそがあああ!! よくも俺の腕を! お前だけは絶対に許さねぇ……!」

 

 職人の命とも呼べる両腕を切断されたツクテクの怒りは計り知れなかった。その感情と激痛によってオーラは激しく乱れている。そんなオーラの練り方では出力が安定せず、戦いに向いた状態とは言えないが、彼の戦い方は神字術式によるものだ。術式にさえ狂いがなければその効果は常に一定。そして、どれだけ怒りに支配されようとも術式を刻む彼の技術に狂いはない。

 

 切り離された両腕は空気のギブスによって固定され、止血されている。傍目からはくっついているように見えるが、あくまで固定されているだけで満足に動かせる状態ではなかった。だが、それでも彼の腕は流麗に文字を描く。あらかじめ刻みこまれていた術式にオーラを流せばロボットのように正確にプログラムを遂行する。

 

 まるでオーケストラを指揮するように彼が指を振るえば、それに合わせるかのごとく空気が鳴動する。うなりをあげる風の塊が一か所に凝縮されていく。

 

「『飛べ!』」

 

 凝縮された空気の圧力が一気に解放された。そのエネルギーがトクへと向かう。ツクテクが作り出した物は「大砲」だった。空気の大砲が空気の砲弾を撃ち放つ。空気圧を原動力とする砲弾を、トクは寸でのところで回避した。

 

 しかし、その砲弾はトクの横を通り過ぎることなく、その手前で爆発する。砲弾自体にも圧縮された空気が詰め込まれていた。荒れ狂う暴風に弾かれ、トクの体は宙を舞った。必死に甲板の縁に指をかけ、落下を食い止める。爪が剥がれるほどの力で崖っぷちを握りしめた。そうでもしなければ風に押し流されてしまう。

 

 ツクテクが宙を撫でるように手を動かした。フリックするようなその動きに合わせて、先ほど描いた空気大砲の術式がいくつにも分かれていく。コピー&ペーストされた術式が横一列に並んだ。その数、十門の大砲が一瞬にして構築される。

 

 怒りに駆られているツクテクだったが、それ以上に敵の戦闘力を警戒していた。むやみに近づくようなことはもうしないし、する必要もない。遠距離攻撃によって嬲り殺す。もしくは吹き飛ばして船から落とす。トクが落下から復帰できるような状態ではないことは、ツクテクの目から見ても明らかだった。

 

 立っているだけで限界に近いトクにとって、その砲弾の掃射を全てかわしきることは不可能だった。甲板から落ちれば死ぬ。その最悪の結果だけは回避すべく行動する。木枯らしに揉まれる葉のように翻弄され、何度も地に叩きつけられた。

 

 満身創痍のトクに残された反撃の手段は一つしかなかった。その手に握られた一枚の紙型である。ツクテクに術式を暴走させられる直前に、一枚だけ手の中に握り込み、制御を取り戻すことができていた。

 

 しかし、裏を返せばたった一枚しか取り戻せなかったという両者の技量差の表れでもあった。他の紙型は爆発に巻き込まれて全て破壊されてしまっている。この最後の念鳥弾を敵に届かせるためには、あまりにも多くの障害が立ち塞がっていた。

 

「いいぞ! もっと踏ん張れ! 簡単に落ちたらつまんねぇもんな!」

 

 砲弾は爆風こそ生み出すものの、込められたオーラが散逸するため直撃しない限りダメージはそれほどでもない。トクが万全の状態であったなら、回避は難しくともさほど苦労せず対処できただろう。

 

 ツクテクは無様に転げ回るトクを見て嘲笑を投じる。じわじわと命を削り取られていきながら、それでもトクは立ち上がり続けた。その手の中で、巣立ちを待つヒナドリを守り続ける。

 

 そして、最後の希望が放たれた。紙型を核として具現化された一羽の鳥が大空に羽ばたいていく。ツクテクはそれを見逃さなかった。すぐさま全ての砲門を念鳥へと向ける。

 

「吹き飛べ、羽虫がぁ!」

 

 念鳥は回避行動を取るも、爆風の渦からは逃れられない。だが、一か月級の膨大なオーラが込められたその念鳥弾は強風に煽られながらも羽ばたきを止めることはなかった。ふらりふらりと風に逆らわず、身をゆだねながら飛行する。

 

 ツクテクはその様子を見て舌打ちする。だが、何も問題はない。トクが放った念鳥は一羽である。苦し紛れの最後の足掻きであることを理解していた。

 

 ツクテクには絶対の自信を持つ最強の守りがあった。彼が着ているボロボロのコートこそ、自身の最高傑作と呼べる記念品『ラナンキュラス』。その裏地には十万字に迫る神字術式が幾重もの生地として刻み込まれている。

 

 50枚に及ぶ空気防壁を360度死角なく半円状に形成し、破壊された防壁は皮膚が新陳代謝によって生まれ変わるように内側から瞬時に再構築されていく。防壁は地面に固定されるため使用中は移動できず、その長大な術式回路にオーラを流し込むまでに1秒ほどかかるという条件はあるが、発動さえしてしまえばこの防御を突破することは不可能である。

 

 少し前にトクが数十羽の念鳥弾を差し向けた時でさえ危なげなく防ぎきったこの個人要塞を前にして、たった一羽の念鳥弾による攻撃など焼け石に水。空気大砲の暴風を凌ぎきった念鳥がツクテクへ向けて高速接近するが、既にラナンキュラスの発動は完了していた。

 

「はい残念でしたぁ! お前の攻撃は――」

 

 人は自らに死が迫るその瞬間、まるで時の流れが遅れているかのような感覚を味わうことがある。

 

 ツクテクはゆっくりと流れる時間の中で目の当たりにする。輝く念鳥のくちばしが空気の防壁に触れ、そして何の抵抗もなくその切っ先が差し込まれる瞬間を。障壁が次々に突破されていく。その刹那に天才の頭脳は理解した。これは防壁を破壊しているわけではない。

 

 『神字』とは異なる術式体系『占字』はジャポンにおける陰陽道に基づいて発展してきた。陰陽道の中には『式返しの呪法』というものが存在する。ある術者が送り込んできた悪しき神霊に対して、それを祓い、逆に呪いを送り返す防衛術である。

 

 その技術を現代の念知識に照らして説明するならば、術式(プログラム)の書き換えであった。それはツクテクがトクの念鳥に干渉して暴走させたように、敵の念獣の制御を乱す技術である。念獣の操作術に力を入れて取り組んできた文化圏ゆえに発展した技と言える。

 

 高度な術者であれば制御を乗っ取って操り、敵へと送り返すこともできる。その域の術となると一門の党首クラスの実力を要するためトクには扱えないが、敵の術式に穴を開ける程度であれば可能だった。

 

 トクにはツクテクのように瞬時に敵の術式を書き換えるような技量はない。対抗術式を作るにしても時間がかかる。そのための時間を稼ぐ必要があった。敵の攻撃に堪えながら、念鳥弾の紙型に『式返し』の術式を書き込んでいたのだ。もし、ツクテクがトクを嬲り殺そうとせず、速攻で決着をつけに来ていれば危なかった。

 

 彼にはツクテクには及ばないにしても術式に関する人並み外れた技術と知識がある。故郷を離れ、西洋の文化に触れることで『占字』だけでなく『神字』を学んでいた。その勉学と修練によって、二つの術式体系を交えた『神占式』をいくつか編み出している。

 

 ツクテクは、その継ぎはぎだらけで今にもエラーを起こしかねない冗長な術式を見た。彼ならばもっとスマートに効率的に同じ術式を再現できる。素人が無駄な努力を重ねてひねり出したお粗末な術式だと断言できる。

 

 なのに、その子供の落書きじみた汚い術式によって、彼の最高傑作である無敗の鎧は貫かれた。断じて許せない。職人の矜持が叫ぶ。こんなことは認められない。

 

 しかし、無駄な記述が多すぎたがためにその解読と対抗術式の構築が遅れるという皮肉を呼ぶ。まるで歌か詩のように恣意的で掴みどころのないロジックを用いた占字術式は、敵の解析を欺くために生み出された技法でもあった。

 

 刹那の判断が生死を分けるその一線を、彼は制することができなかった。

 

 念鳥弾が到達し、ツクテクの頭部が弾け飛ぶ。

 

 

 * * *

 

 

『ポイント&KO制! 時間無制限一本勝負! 始め!』

 

 まるで状況がつかめない中、シックスとマジカル☆ミルキーによるゲーム対決が始まってしまう。ルールの説明すらない。

 

 たぶん格闘のような形式で戦うのだと思われるが、そのために最低限の操作方法くらいは把握しておかなければならない。とりあえず試しに体を動かしてみる。

 

 ヘルメットにモーションキャプチャのような機能がついているのか、現実で動かした通りにゲームの世界の体も動くようだ。これなら直感的に操作できる。

 

 だが、ことはそう簡単な話ではなかった。ゲームの世界と現実とは、言うまでもなく全く異なる光景が広がっている。VRゴーグルに映し出されている光景は平らな地面だが、実際に私がいる現実では激しく揺れ動く船の上だ。

 

 見ているものと実際に感じる平衡感覚の差は強烈な違和感となっていた。VRゲームは予期せぬ視界の揺れなどのストレスによって3D酔いを起こしやすいと言われているが、なまじクオリティが高いとその酔いやすさも半端ではないようだ。

 

『ふっふっふ☆ どうかね、初めて味わう電脳世界の感覚は☆ 慣れてくれば眼球運動の検知による行動予測とEEGD(Electroencephalography Digitizing)システムによって、ゲーミングチェアに座りながらでも快適に操作可能だぴょん☆ もっとも、初心者は何よりもまずゲロを吐かないように気をつけることだぴょん☆』

 

 3D酔いや乗り物酔いなどの原理はまだ解明されていないところが多いが、感覚の相違によって生じる脳の誤認識、一種の幻覚症状ではないかと考えられている。野生生物が幻覚を見る要因として最も懸念されるべきは毒物の摂取による症状であり、酔いから吐き気が生じることも毒物を体外に出そうとする防衛反応である。

 

 つまり、これは正常な人間の生理的反応であるためオーラによる修復が利かない。あまりにもひどい症状は抑制できるが、完全に酔いを消し去ることはできなかった。オーラ修復も万能ではなく、こういった融通の利かない部分がある。

 

『では、そろそろおしゃべりは終わりだぴょん☆ 我が最強魔法のエジキとなるぴょん☆』

 

 ついにミルキーが攻撃を仕掛けてきた。彼女が杖を振るうとその先端から光の弾が発射される。野球ボールほどの大きさの光弾が強打されて飛んでくるくらいのスピードで向かってきた。

 

 すぐに回避する。単発なら避けるのはそれほど難しくないが、ミルキーは次々に弾を撃ち出してきた。現実世界ならそれでも普通に避けられただろう。だが、感覚の異なるこちらの世界では、うっかりしていると何もないところで転びそうになる。

 

 光弾の連射を避けきれず、一発当たってしまった。その直後、頭からビリビリと電撃が流されるような感覚に襲われる。

 

『クリーンヒット! ワンポインッ! ミルキー!』

 

 ノアがやられた電気攻撃だ。どうやらゲーム中のダメージ表現としてもこの電撃が用いられるようだ。気を失うほど強力ではないが、突然の電気刺激に体が硬直してしまう。何とかその場は勢いで追撃を避けた。次から硬直にも気をつけて行動しよう。

 

 光弾が直撃してもゲーム中の自キャラは健在だった。ちょっと服が破れているが問題なく行動できる。ただ、視界の端にゲージのようなものと「9/10」という表示がポップアップした。おそらくこれが体力を表しているのだろう。同じ攻撃をあと9回当てられるとこちらの負けになると思われる。

 

『魔法少女のバトルコスチュームに助けられたみたいぴょんね☆ でも、そのガードはいつまでも続くものではないぴょん☆ せいぜい丸裸にされないように気をつけることだぴょん☆』

 

 ルールがだいたいわかってきた。あとはこちらの攻撃手段だ。もしかして、今私が握っているオモチャの杖からも同じように光弾を撃てるのではないか。試しにぶんぶん振ってみると、思った通り攻撃が出た。

 

『ぐあっ!?』

 

 運悪く試し撃ちした弾が近くにいた審判の人に当たってしまう。ごめん。

 

 ミルキーは自分の魔法を最強だのなんだのと大げさに語っていたが、私の杖から出た光弾も大きさやスピードともに全く同じものに見える。ゲーム制作者の立場を利用して理不尽なルールを押し付けるようなことはないようだ。意外とキャラの性能自体はフェアである。

 

 これで反撃の糸口は見えた。私は杖を振りまくり、弾を発射しまくる。

 

『なにその動き!?』

 

 要は杖を振るというモーションに反応して攻撃が行われる。ならば腕を振り、それを戻すまでを最小の動作で行うことによってより早い連射が可能となる。弾が発射されるタイミングを見切って、オーラで筋力を強化、急制動をかけた後すぐに脱力、その反動を利用して素早く元の位置まで腕を戻す。

 

 その壊れたゼンマイ人形のような動作は多少奇異に映るかもしれないが、なりふり構ってはいられない。こちらも負けるわけにはいかないのだ。

 

『きゃああああ☆』

 

『クリーンヒット! ワンポインッ! シックス!』

 

 弾幕作戦が功を奏し、ミルキーの体力ゲージを削ることができた。この調子で一気に勝負をつけると息巻いたそのとき、私は敵が張り巡らした巧妙な罠の存在に気づいてしまう。

 

『いやあああん☆』

 

 私が放った光弾の直撃を受け、ミルキーのバトルコスチュームが一部破損していた。バニーガールをモチーフとした、ただでさえ露出の多い衣装がさらにあられもないことになってしまう。私は思わず目をそらしてしまった。

 

『やったな~☆ お返しだぴょん☆』

 

 敵がその隙を見逃すはずもない。光弾の雨あられが飛んでくる。まともに視線を向けることができなかった私は無様に被弾してしまう。

 

『クリーンヒット! ワンポインッ、ミルキー! 2-1!』

 

 落ちつけ、まだミルキーに1発しか当てていないこの状況、私が勝利するためにはあと9発もクリーンヒットを狙わなければならない。あと9回も……そんなことをしたらミルキーの服はどうなってしまうのか。

 

 想像しただけで頭が沸騰しそうになる。なんという卑劣な精神攻撃を。

 

『そらそらそら~☆ 恥ずかしがってる暇はないぴょんよ☆』

 

 だが、ここで屈するわけにはいかない。心頭滅却し、必殺の弾幕連射を放つ。これならば相手をよく見なくても、とにかく数で圧倒できる。

 

 そう思ったのだが、いくら弾を撃っても一向にヒットを知らせる審判の声はあがらなかった。ちらっとミルキーの方を見れば、全弾余裕で回避している。その淀みのない動きを見れば、いかに彼女がこのヴァーチャル世界における身体感覚に優れているのか一目でわかった。

 

 私が勝ちとったポイントはまぐれ当たりですらなかったのだと気づく。ミルキーが本気を出せば、やみくもに撃ちまくった弾などかすりもしない。プレイヤースキルの差を痛感する。

 

『いいのかな、こんな絶好球を投げちゃって☆』

 

 何となく、危険な気配を感じて警戒心を高める。その予感は的中した。ミルキーは弾を放つのではなく、私が撃ち出した弾を杖で打ち返してきた。そういう使い方もできるのか。

 

 しかも、それは単なる防御に留まらない。打ち返された弾は段違いのスピードを持っていた。その強烈な反撃を何とか回避しようとするも、仮想と現実の感覚差がラグのように反応を遅らせる。弾が直撃し、ひと際強力な電撃が全身を流れた。

 

『ダウンッ! ワンポインッ、ミルキー! 3-1!』

 

 スピードも倍なら威力も二倍。これまでの攻撃力とは明らかに違う。さらに私の頭上にはヒヨコがくるくると飛びまわるようなエフェクトが表示され、ただでさえ操作しにくかったキャラのレスポンスがさらに低下する。

 

 いっそダウン扱いにして復帰までの猶予をくれと言いたかったが、ゲームの進行上はダウンから立ち直ったことになっているらしく、その隙にも当然のように敵の攻撃の手が止まることはない。

 

『クリーンヒット&クリティカル! 6-1!』

 

 敵の大量得点を許し、根こそぎ体力を奪われた。このままでは負けが確定するまで幾ばくもない。それに対してミルキーの体力は残り9。そのあまりに離れた差に歯噛みする。

 

 この流れを変えなければ負ける。少なくとも、状態異常が解除されるまで持ちこたえなければ勝ち目はない。身を隠せる遮蔽物があればいいのだが、この競技場にそんな都合のいい物は置かれていなかった。

 

 いや、本当になかっただろうか。ここに来てから体験した、全ての記憶を掘り起こす。その中に光弾を遮ることができる物体が一つだけあった。あの場所に逃げ込むしかない。

 

『クリティカル! 8-1!』

 

 弾に当たることにも構わず走る。これで残された体力は2。クリティカル判定が出れば一発で負けが決まる。思い通りに動かない体を引きずって、一縷の望みを賭けた場所へと飛びこんだ。

 

『ぐあっ!?』

 

 光弾が審判に当たり、苦悶の声を漏らす。そう、その場所とは審判の影! 彼の体を盾にしてミルキーの光弾を防ぐ。

 

『フッ、まさかこの土壇場でRD(レフェリーディフェンス)戦法に気づくとは……なかなか見込みのある魔法少女だぴょん☆ けど☆ いつまでその守りがもつかな☆』

 

『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』『ぐあっ!?』

 

 何発もの光弾を浴びせられる審判だが、彼は直立不動のままその場から動かない。すまない審判、もう少しだけ堪えてほしい。

 

 深呼吸して心を落ちつける。今の私に必要なものは大逆転を狙う策ではない。ただ冷静になること、それだけだ。

 

 点数やプレイヤースキルの差に落ち込んでいてどうする。ここが敵の用意した舞台であり、敵のホームであることは最初からわかっていたはずだ。もっと理不尽な勝負を突きつけられたとしてもおかしくなかった。それを考えれば現状を嘆くなど甘えでしかない。

 

 ミルキーは十分、公平に戦う場を用意してくれた。彼女は一人のゲーマーとして対等な勝負を持ちかけている。その誇りにかけて、きっと約束だって守ってくれるはずだ。私が勝てば、ポメルニの場所を教えてくれる。

 

 たかがゲームと浮ついた態度で真剣さを欠いていたのは私の方だった。戦う相手の本質を見ようともせず、勝負に勝てる道理はない。

 

『ぐあああああああっ!!』

 

 審判の体力が限界を超えたようだ。それまで置物のように固定されていた審判の体が場外に吹っ飛んで行く。これで隠れる場所はなくなった。しかし、時間を稼げたおかげで状態異常は解けている。そして、覚悟を決める用意もできた。

 

 ここからが本番だ。

 

 私の気配の違いをミルキーも感じ取ったのか、攻撃の手を一旦止めた。

 

『まさかこの点差から勝てるなんて思ってないよね☆?』

 

 勝つ。その一心を込め、杖の先を突きつける。

 

『はっ……面白い奴……☆』

 

 高まる緊迫。薄氷を踏むような時の中で両者は睨み合い、そして、動く。

 

 私がミルキーに勝っている点は連射性の高さだ。それを武器に、とにかく撃つ。その攻撃のことごとくは回避されていくが、それでも牽制になる。相手に行動の自由を許すよりはいい。

 

 数で勝負する私に対して、ミルキーの攻撃は正確性に長けていた。さすがは数々のFPSで廃人級の実力を見せる猛者。そのエイム力、敵の動きと着弾までの時間を読んだ照準合わせの巧みさは称賛に値する。だが、私だっていつまでもやられているばかりではない。

 

『あれ、動きが良くなってない……☆?』

 

 ミルキーの光弾をかわす。そして、打ち返す。速度を増した反射弾を、ミルキーが慌てて回避した。

 

『はえっ☆!? いったいどうなって……☆』

 

 互いに光弾を放ち、回避する。両者ともに被弾することなく撃ち合いが続く。

 

『初心者なら、このゲロ吐き必至のVR空間でまともに動くこともできないはず☆! どうやってそこまでの操作テクニックを☆!?』

 

 仮想世界と現実世界における認識の差異から生じる感覚麻痺。このVRゲームには独特の操作性があり、その感覚に慣れるまでは行動に大きな制限ができてしまうことは確かだ。

 

 だが、認識感覚の差というならば私はもっと大きな隔たりを体験してきた。それは人間と虫の差である。本体である虫の体と、それが操る人間の体。初めて感覚を共有した時、生物の構造からして根本的に異なる感覚の差を経験している。

 

 それに比べれば、VRとの感覚の擦り合わせはそれほど難しいものではない。多少の時間はかかったが、ようやく慣れることができた。これでほぼ現実と同じ身体感覚でキャラを操作できる。

 

 通常速度の光弾では、もはやどれだけ撃たれようと当たることはない。それは相手も同じである。次第に戦いのステージは弾の撃ち合いから、反射弾を織り交ぜた打ち合いへと変わっていく。

 

 反射弾は強力だが、下手に相手の弾を撃ち返そうとすれば隙ができる。ミルキーはその行動まで予測して次々に弾を撃ってくる。単純なルールながら奥が深い。よく考えて動かなければ一瞬の判断ミスが被弾につながることだろう。

 

『コフー……み、みるぴょんが作ったゲームなんだぞ☆……ブフー……オレがゲームで初心者に負けるなんて……プヒー……そんなことはありえないぴょん☆!』

 

 ミルキーは私が打ち返した反射弾をさらに打ち返してきた。恐ろしいほどの速度が上乗せされた魔弾が飛んでくる。それを私は迎え打った。さらに魔弾は加速し、ミルキーの方向へと飛んで行く。

 

 そして、ミルキーはその超魔弾をまたしても打ち返してきた。テニスのようなラリーが続く。別にボールを落としてはいけないなんてルールはないのだから避ければいいのだが、私はあえて打ち返すことにこだわった。

 

 ミルキーも同じだ。言うなれば、それは意地。猛打の応酬は互いの意地を賭けた心と心のぶつかり合いだった。反射されるたびに魔弾の速度は際限なく上がっていく。

 

 

『うおおおおおおお☆』

『うおおおおおおお!』

 

 

 飛び交う弾は表示速度の限界を超えた。見ることはできないが、確かにそこにある。これまでの加速傾向から加算される速度を割り出し、感覚のみを頼りに打ち返す。コンマ1秒の世界に0が追加されていく。

 

 私は分割思考による強化感覚を総動員して魔弾に反応していた。しかし、いくつにも枝分かれした思考をもってしても、ミルキーはそれに食らいついてくる。なんという強い意思と執念か。彼女のゲーマーとして磨き抜かれた反応速度とテクニックに感嘆する。

 

 だがそれでも、勝つ。無限に続くかに思われたラリーは、実際の時間にしてみれば1分にも満たない短さだっただろう。その凝縮された時間に終止符が打たれる。

 

 最後に打ち返した弾が、再び私の元へ戻ってくることはなかった。ミルキーが立っていた場所で爆発が起きる。打ち返されるたびに蓄積されたエネルギーは、速度だけでなく威力も激増させていた。溜めこまれた全ての魔力がミルキーを巻き込んで爆発する。

 

 

『Kィィィィィ・Oォォォォォォ!! 勝者、シックス!!』

 

 

 観客席からは歓声が湧いた。息を整えながら、ヘルメットをかぶっていることも忘れて汗を拭おうとする。ちょうどそこに爆風によって空高く吹き飛ばされたミルキーが落ちてきた。現実なら大怪我してもおかしくない事故だが、ぽてっという気が抜けるような効果音と共に着地したミルキーを見て、そういえばゲームだったと思いなおす。

 

『ふえぇぇ~☆ 負けちゃったよぉ~☆』

 

 だが、泣きじゃくるミルキーの姿を見て緩みかけていた気持ちが再度張り詰めた。残り体力9もあったミルキーが一撃でゲームオーバーになるほどの爆発、その威力を受けたミルキーのバトルコスチュームは大破していた。

 

 そのほぼ全裸と言っても過言ではないハレンチ極まりない姿を当然直視できるはずもなく、全力で目をそらす。

 

『ぐすんっ……☆ いじわるしてごめんなさい☆ ほんとはみるぴょん、同じ魔法少女の友達がほしかっただけなの……☆』

 

 わかったから先に服を着てほしい。もう勝負はついたわけだし、ゲームの制作者なんだからそのくらい簡単にできそうなものだが。

 

『こんなこと言って変に思うかもしれないけど……もしよければ、みるぴょんと友達になってくれないかな……☆?』

 

 上目遣いで握手を求めてくるミルキーに対して、私はそっぽを向きながらそれに応じた。色々あったが、仲良くなれて協力してもらえるのならそれに越したことはない。そう思った、そのときのことだった。

 

 

『調子に乗るなよ、この雌ブタがァ……』

 

 

 ミルキーの声ではない、何者かの低い声が響く。はっとして周囲を見回すと、ミルキーが持っていた魔法の杖が禍々しい瘴気を放ちながら空中に浮かんでいた。その杖に彫刻された邪神イルミン像の目がカッと見開かれる。

 

 その直後、私の足元から巨大なタコの触手のようなものが何本も生えてきて、私の体は拘束されてしまった。一切の操作ができなくなる。

 

『いけない☆! それは邪神イルミンの魂が封印された伝説の魔杖「バクルス・イルーミナンス」☆! 自らの意思を持つインテリジェンス・ウェポンだぴょん☆! みるぴょんが封印していたはずなのに、まさかその力が暴走してしまうなんて☆!』

 

 やたら説明口調でミルキーが解説してくれたが、彼女の動画を日頃から視聴している私は既に知っていた。封印が解けると世界が滅亡するという設定がありながら、結構な頻度でこの杖は暴走を起こし、彼女の配信に割り込んでは下品な下ネタを連発している。それに対してミルキーが天然ボケを返すのがお約束となっていた。

 

『ぐへへへ……久々に新鮮な魔法少女の魔力を堪能できる。隅々までしゃぶり尽くしてくれるわ!』

 

『お願いやめて☆! その人はみるぴょんの友達なの☆!』

 

 やめても何も、この杖を喋らせているのはミルキーだと思うのだが。ビリビリと流れる不快な電流に堪えながら、成り行きを見守ることしかできない。

 

『どうした! もっと羞恥に震えろ! あられもない姿を晒す恥辱こそが魔力をより美味にする! さっきまでの恥じらいはどうした!?』

 

 自分の姿に恥じらいを感じるようなことはなかったと思う。体力がゴリゴリ減らされるたびにシックスが着ている服も破損具合が大きくなっているが、自分の服がいくら破けたところで別に気にはならない。

 

『どうやらまだお仕置きが足りないらしいな……よかろう。お前が音をあげるまで、花弁を一枚ずつもぎ取っていくように、ゆっくりとその幼い体を衆目の前に晒し上げてやることとしよう』

 

 シックスの水着は既にかなりボロボロで、胸と局部が辛うじて隠れているような状態である。服を脱がすことが目的ならさっさとやって終わらせてほしい。

 

『バカか! こういうのは結果よりも過程が大事なのだ! 情緒もへったくれもなく、いきなり全部脱がすとかまるでわかってない!』

 

 言っていることがまるでわからない。

 

『ふはは、そうやっていきがっていられるのも今のうちだ。我が英知の結晶たる闇の魔法を駆使すれば、お前の【ピー!】に【ピー!】を【ズキューン!】、さらに【ピーーーーー!】することだってできるのだ!』

 

 ピーピー鳴る音で喋っていることが半分以上、聞き取れない。

 

『そしてこの映像はもちろん録画している! これから起きる恥辱の記録は電脳世界の海にばらまかれることとなるだろう。お前を信奉する駄犬どもの悶絶する遠吠えが、今にも聞こえてきそうだな……はーっはっはっはっは!』

 

 結局、ミルキーが何をしたいのか理解できなかった。この体に何をされようと、それは作られた映像を弄り回しているだけのことだ。やりたいなら勝手にすればいい。

 

 私はその映像の向こう側にいるプレイヤ―同士の関係が築けたと思っていた。少なくとも、先ほどまでのゲームの最中はそれがあったと信じている。ミルキーにとって、それはどうでもいいことだったのだろうか。こんな茶番に興じることが彼女の目的だったというのか。

 

『お願い、私の友達にひどいことしないで☆!』

 

『無駄だ! 解放されし我が闇の魔法を止めることなど誰にもできない!』

 

 さっきまで近くにいたはずの彼女との距離が遠く離れてしまったように感じる。仮想世界と現実の差、それは単なる認識感覚の違いを表すだけに留まらない。その空虚な壁の向こうに、ミルキーは姿を隠そうとしているように見えた。

 

 その壁を取り払わない限り、きっと私たちはこれ以上分かり合えない。

 

 

 

 プルルルルル――

 

 

 

 その突然鳴り始めた音に、高笑いしていた魔杖の声が止む。電話の着信音のように聞こえたが、ゲームの効果音か何かだろうか。そう考えていた私の足元から、ミルキーが何かを拾い上げた。

 

『なんでスマホが☆? こんなギミック用意したっけ……☆?』

 

 ミルキーが疑問を口にする。彼女が手に持っている物はスマートフォンだった。現実世界での話だが、私もそれとよく似たデザインのスマホを持っている。

 

 

 

 プルルルルル――

 

 

 

 呼出音はスマートフォンから鳴っている。その着信画面を見たミルキーは訝しむようにつぶやいた。

 

『ルアン・アルメイザ……☆?』

 

 

 

 プルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルルル――

 

 

 

 コールは次第に刺すような甲高い耳鳴りに変わり、スマートフォンの小さな画面に生じたブロックノイズが仮想世界に溢れ始めた。

 






シックスがゲームをしている時のブレード

「シックス君、なんだその壮絶な手の動きは!? 一体何を……君は何と戦っているんだ!?」
 
 
 

やってみた系:ポメルニ
ハンター系:ブレード・マックス
アイドル系:ノア・ヘリオドール
マジック系:快答バット
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り6人



イラストを描いていただきました!
鬼豆腐様より

【挿絵表示】

魔法少女シックス!


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50話

 

 VR空間の景色が変わっていく。それについては、さほど驚くこともない。バトルフィールドに移行する場面でも見た映像の変化だ。しかし、問題は変化した後の光景だった。

 

 鉄の箱を並べたような閉塞感に支配された部屋が続く。金属が擦れ、軋みをあげる音が遠くから聞こえた。薄暗闇の中、誘導灯のわずかな明かりに照らされた室内には古ぼけた箱型のモニターがいくつも並んでいる。

 

 その場所には見覚えがあった。一度だけ夢の中で見た光景だ。ただの夢とは思えないほど鮮烈な記憶だったので、はっきりと覚えている。

 

『なっ、はっ!? 何が起きて……どこだよここ!? こんなステージ作った覚えはないぞ!?』

 

 そしてこの事態はゲームの制作者であるミルキーにとっても想定外のことであったらしい。“彼”は、慌てふためきながら空中でキーボードを打つようなしぐさを取っている。おそらく、リアルではパソコンか何かを実際に操作しているのだろう。

 

 ミルキー……たぶんミルキーだと思われるその人は、さっきまでの外見とは全く異なる姿になっていた。

 

『えっ、これちょっ……アバターのヴィジュアル設定がデフォルトになってりゅううううう!?』

 

 まず性別からして違う。男性で、かなりの肥満体形だ。しかも、着ている服はさっきまでと同じである。つまり、バニーガール風の魔法少女コスチューム。それもほとんど破けて服としての体をなしていない状態であった。レオタードに収まりきらないむちむちの腹まわりとか、網タイツで締めつけられて網目に肉がみっちり食い込んでいる脚とか、色々と大変なことになっている。

 

 おそらくこれがVチューバー、マジカル☆ミルキーの中の人だと思われる。そのインパクトから、ついしげしげと観察してしまった。ミルキーと目が合う。彼は、さっと自分の体を手で隠した。

 

『お、お前がやったのか!? どうやって……いや、そんなことより何が目的だ!?』

 

 何が起きているのか、私にも心当たりなどない。とにかく、このVRゲームに異常が発生し、制作者である彼にさえ収拾がつかない状況にあるようだ。

 

『はっ、まさか……俺の正体をネットで暴露する気か!? そうなんだろ!? やめろお前! 後悔することになるぞ……暗殺一家ゾルディック家を敵に回して命があると思うなよ!』

 

 マジカル☆ミルキーの設定である暗殺組織がどうだの言い始めた。現実と妄想がごっちゃになるくらい錯乱しているらしい。ひとまず落ち着かせるために、被害が及ぶようなことをするつもりはないと伝える。

 

『嘘つけ! お前だってどうせ……!』

 

 ミルキーは、うつむいて口をつぐんだ。彼が口を閉ざす以上、その先の言葉を知るすべはない。できるとすれば、それは私の勝手な思い込みである。

 

 私はマジカル☆ミルキーの動画をよく見ている。チャンネル登録もしているし、実は彼女の必殺魔法をこっそり練習したこともある。最初は他のアイチューバーから学ぼうとしていた。動画の作り方もあるが、最も注目して視たことはキャラの作り方だ。

 

 私は“シックス”という人間がどういう人物なのかわからない。虫の体に込められたこの人格は、果たして本当の人間を形作るに足り得るのだろうか。その答えを知る一つの方法として、私はアイチューバーになろうとしたのかもしれない。多くの人に認められる、シックスというキャラクターを得るために。

 

 ミルキーも、他のアイチューバーたちも私にとっては“お手本”だった。画面の向こうで華々しい活躍を披露する彼女たちに憧れる一方で、自分はどこまで行っても彼女たちのようにはなれないと思っていた。決して手の届くことのない遠く離れた存在なのだと思い込んでいた。

 

 だが、このオフ会を通して実際にアイチューバーたちと会うことで、その考えは誤解だったのだと気づく。間違ってはいないが、正しくもない。

 

 ブレードはやたら筋肉自慢をしたがるし、ノアは私のことを母親呼ばわりする変人だったし、ベルベットは予想通りの意地の悪さを見せたが、まあ、それほど悪い奴ではない。そして、ミルキーは実は男でゲームと称して人の服を脱がせたがる変態だった。

 

 良いところもあれば、割とどうしようもないところもある。それも当然だ。私は動画に映されたことだけしか知らなかった。知らないから、好き勝手な理想を押し付けることができたのだ。

 

 そんな理想を追いかけたところでたどり着けるはずもない。私が本当に知らなければならないことは、その“知らないこと”にある。

 

 怯えたように身構えるミルキーの方へと、私は歩み寄った。

 

 

 * * *

 

 

 男はヘルメット型のVRデバイスをゆっくりと外した。カタカタと忙しなくキーボードを叩き、机上に置かれたノートパソコンを確認する。モニターはエラーを知らせる画面が表示されるばかりで、それ以上の操作はできない。要するに、使い物にならなくなっている。

 

 彼はため息をつくと投げやりに椅子の背もたれへと体重を預けた。その巨体を支える椅子はギシギシと悲鳴を上げる。その男、ミルキ=ゾルディックは放心したように自分の片手を眺めていた。

 

 先ほどまで行われていたシックスとの対談は、彼にとって非常に要領を得ないものだった。どんなハッカーが束になってかかろうと跳ね除ける自信があったセキュリティはあっさりと突破され、ゲームのコントロールのほぼ全権が奪われるという失態を犯してしまう。そして、それだけのことをやってのけたシックスはと言えば、何を要求してくるわけでもない。

 

 マジカル☆ミルキーの正体というスキャンダルをネタに脅迫してくるようなことはなかった。金も、謝罪も求めてこない。その目的の不明瞭さから何を考えているのか予想できず、逆に不安になったくらいだ。彼が投げかけた疑いの全てを、シックスは首を横に振って否定するだけだった。

 

 当然、信じられるはずがない。疑心暗鬼に陥ったミルキに対し、シックスがただ一つだけ取った行動は手を差し伸べることだった。初めは何がしたいのかわからなかったミルキだが、それが握手を求めているのだと気づく。

 

 最初は応じることもなかったが、無言のまま手を伸ばし続けるシックスに根負けし、彼はその手を取った。触れ合った感触さえない、仮想空間における空虚なやり取り。その行動の意味を感じ取る。

 

 

 

 

『ぐすんっ……☆ いじわるしてごめんなさい☆ ほんとはみるぴょん、同じ魔法少女の友達がほしかっただけなの……☆』

 

『こんなこと言って変に思うかもしれないけど……もしよければ、みるぴょんと友達になってくれないかな……☆?』

 

 

 

 

「くっ……くそっ……!」

 

 頭に浮かんだ過去の自分の発言を振り払うように、机の上に広げていたスナック菓子をむさぼる。食べカスが盛大にこぼれ落ちていることも気にせず口の中に掻きこんだ。

 

「あいつめ……せっかくの計画を邪魔しやがって」

 

 毎年開かれるアイチューベ年末オフ会も、今年は別格。空前の盛り上がりが期待されたイベントの触れこみから、普段は滅多に外出することのないミルキはその重い腰を上げてまで会場に足を運んでいた。しかし、蓋を開けて見ればこのありさまである。

 

 予期せぬデスゲームの開幕に直面したミルキだったが、それほど慌てることはなかった。もともとマジカル☆ミルキーの演者だと知られることを避けていたこともあり、彼の正体は運営にも把握できていなかった。会場入りの際も、チルドレン用に配布された特別チケットは使わず一般客用のチケットをわざわざ入手していた。

 

 そして当のゲームに関しても、船内全域に発生した電波障害によってマジカル☆ミルキーの存在は完全に蚊帳の外に置かれることになる。これにブチ切れたミルキは船の制御システムへのハッキングを仕掛けたのだった。

 

 ノートパソコン一台だけという機材環境と、思ったよりレベルの高いセキュリティに少しばかり時間を取られたが、何とかこれを突破。船の航路を最短距離で着陸できる空港へと設定し直した。ついでに船が到着するまでの余興としてマジカル☆ミルキーの単独ライブを企画するもまさかの妨害に遭い、現在に至る。

 

 船の制御権は再び運営に掌握されてしまったことだろう。この船も、このゲームも、これからどこに落し所を持っていくつもりなのかミルキにも予想できない。運営が強行する破滅的計画の数々は、その真意をさらに混迷させている。

 

 実は、船の各所で発生した爆破騒動もミルキが画策したものではなかった。さすがに船の各所に爆弾を設置して回るような時間はなかったし、機材も持ち込んでいない。彼は船の航路を変更しただけである。爆弾は運営が用意したものだった。

 

 ミルキに船の制御権を奪われた運営は、思い通りにならないのなら飛行不能にしてしまえとでも言うかのように爆弾テロを仕掛けたのだ。その狂気の沙汰に、さしものミルキも少し肝を冷やした。

 

「まあ、オレには関係ないけどな」

 

 爆弾の設置場所はハッキングによって判明している。敵はそれを手動で壊して回っていたらしいが、いずれにしてもミルキ自身に危害が及ばない限り何も言うことはなかった。

 

 彼に焦りはない。なぜならハッキングによって第一の目的を既に達成しているからだ。船を空港へ向かわせることも目的の一つではあったが、これはおそらく成功しないことが最初からわかっていたためそれほど気にしていない。

 

 この巨大遊覧飛行船の移動速度では、どんなに急いだところで近くの空港まで一日以上はかかる。その間ずっと船のシステムをミルキが掌握し続けることは難しかった。敵側にもそれなりに優秀なハッカーが控えているらしく、シックスとの一件がなかったとしても敵に船の制御権を取り戻されることは時間の問題だったと言える。

 

 では、ミルキは何のためにハッキングを仕掛けたのか。それは敵が持っていると思われる“ある装置”にアクセスするためだった。電波障害の発生中でも外部との通信を可能とする装置である。

 

 この装置が発信する電波はそれ自体に強力なジャミング効果があり、通常は軍事兵器として運用されている。もともとこの船に備わっているような機器ではないが、ミルキは敵がこの装置を船に持ち込んでいることを予想していた。

 

 その予想は的中し、彼はその装置にアクセスすることで船外に救難信号を送ったのだ。

 

 ただし、警察などの治安維持組織に助けを求めたところで意味がないことはわかっていた。これだけの事件を計画した首謀者となれば、一般人で編成された組織にどうにかできる相手ではない。

 

 念能力者を戦い合わせるようなことを考える相手なのだから、首謀者は対念能力者戦の備えをしていることだろう。並みの使い手を寄せ集めたところで、どこまで通用するかわからない。

 

 このゲームを確実にぶち壊す、それを可能とする実力者でなければ助けにならない。そしてミルキには、その当てがあった。彼は伝説の暗殺者一家“ゾルディック家”の次男であり、掛け値なしの暗殺者。彼自身はあまり戦闘向きとは言えないが、他の家族はいずれも化物揃いである。

 

 呼び寄せたのはミルキの祖父にあたるゼノ=ゾルディックであった。当主の座こそ退いているものの、その実力は間違いなく世界でも有数の強さを持つ念能力者である。ゼノの能力『龍頭戯画(ドラゴンヘッド)』を使えば海洋上を漂う飛行船にも容易に接近できる。

 

 家族をこの場所に呼ぶということはミルキがマジカル☆ミルキーの演者であると身バレしてしまう恐れがあったが、背に腹は代えられない。これは正式な“取引”に基づく依頼であり、それを請け負ったゼノが依頼人であるミルキの事情を詮索することはないし、仮に隠し事がバレたとしてもそれを口外することはない。それらの条件を含めた上で報酬の支払いを約束している。

 

 ゼノが到着するまでの間、ミルキは身を隠すなり逃げるなりして待っていればいい。彼も一応は念能力者であり、暗殺者の端くれとして自分の身を守るくらいのことはできる。ミルキは余裕綽々と、ペットボトルの炭酸飲料を一気飲みした。

 

「ゲェーップ! これで終わりだな。ゾルディック家を敵に回すとは運が悪い」

 

 まずこのゲームの首謀者を殺すのは当然として、それに加担した運営の人間も大勢死ぬことになるだろう。あと殺すべき対象としては……。

 

 ミルキの脳裏にある少女の顔が浮かぶ。彼女はミルキの秘密を知った。それだけでも万死に値すると思うところだが、ミルキははっきりとした答えを決めかねていた。

 

 とりあえず捕獲、そして拷問、その結果ミルキに対して反抗的な態度を見せないというのであれば。

 

「マジカル☆ミルキーとシックスのコラボ配信、とか企画するのもいいかもな……フフ……フフフフ……」

 

 

 * * *

 

 

 『陰獣』とは、マフィアンコミュニティーのトップ『十老頭』がそれぞれの組から最強の念能力者を持ち寄って結成された精鋭の暗殺実行部隊である。十人の組頭が己の権威に賭けて選び抜いた人材であり、その名を有することが強さの証明でもある。

 

 快答バットに、そんな裏社会の名誉職にならないかとオファーが来たのは今から一週間前のことになる。彼はその話を聞いたとき、喜ぶよりも先に困惑した。

 

 まず彼はマフィアの組員ですらなかった。声がかかった十老頭傘下のある組で、殺しの依頼を何度か引き受けていた程度の関係である。

 

 マジック系アイチューバー、快答バットには殺し屋という裏の顔があった。そちらが本業と言っていいだろう。その殺しの腕に関しては評判が分かれるところである。はっきり言って、依頼達成率はお世辞にも高くない。数えるのも面倒になるくらい失敗を繰り返し、同業者からは三流以下の烙印を押されている。その理由は彼の殺しに対するポリシーにあった。

 

 単純明快に、自分より強い相手としか戦おうとしない。生粋の戦闘狂(バトルジャンキー)である。

 

 それでも強者を相手にして命を落とさずにいられるのだから実力は低くない。生存能力に関しては類稀なものがある。誰も受けたがらない厄介な依頼ばかりを好んで引き受けるため、失敗は多いがそれなりに重宝されていた。そのせいか『殺人依頼の最終処分場』という良いのか悪いのかよくわからない二つ名で呼ばれることもある。

 

 その戦闘狂かつドMの変態たる仮面紳士の嗅覚が知らせていた。今回の一件は引き受けるべきだと。

 

 その予感は的中したと言えるだろう。アイチューベの大規模オフ会で開催されたバトルロワイヤル、しかもプレイヤーは念能力者ばかりである。今になってみれば、バットはアイチューバーとして活動していたからこそ今回のオファーがあったのだと理解できた。違和感なく組織の息がかかった人間を会場に仕込むための手駒として。

 

 だが、確かにプレイヤーにはそれなりの念の使い手がいるようだったが、バットの目からみれば今一つ惜しいと感じられた。もう少し歯ごたえのある相手が望ましい。ツクテクだけは頭一つ抜けた実力を感じたが、残念なことに味方である。組織からは指示があるまで勝手な行動はするなと釘を刺されていたため、おとなしくその命令に従っていた。

 

 しかし、おとなしく待った甲斐はあった。彼は極上の使い手との死闘にありつけた。現在、バットが戦っている騎士風の女コスプレイヤーは文句なしの強敵であった。

 

 バットは手も足も出せずにいた。単純に、強い。そのオーラの練気を見るだけで実力差は明白だった。体術においても相当に鍛えられていることがわかる。その一撃一撃に込められた重みは、どれだけの実戦を積み重ねれば得られるのだろうか。想像するだけで心が躍る。

 

 体術はCQCに近い様式を感じる。軍で訓練されることの多いこの近接格闘術は、徒手空拳だけではなくナイフや打撃武器、ロープなどあるものは何でも使う。この手の敵とは何度かやりあったことのあるバットだが、その印象はあまり良くなかった。

 

 軍の兵士は基本的に銃器を用いた戦闘が主眼に置かれている。CQCは敵の接近を許した際の対処法に過ぎない。そのため格闘戦においては本職の格闘家に分があるのだ。これは軍の兵士が弱いのではなく、単純に格闘術の訓練に費やす時間の差である。

 

 それがどうだろう。バットは目の前の敵が披露する武術の美しさを心中で絶賛する。確かに心源流などの古式ゆかしい拳法に比べれば、いささか技に遊びがなく流麗さや柔らかさを欠いている。だがその分、隙もない。

 

 計算され尽くされた理詰めの美。これまでに出会った敵の軍兵士を“カロリーを摂取できれば十分だと言わんばかりの脂ぎったファストフード”に例えるならば、彼女の技は最高級のフルコースに匹敵する。

 

 一品一品が互いの味を引き立て、最高の味わいを最後まで堪能できるように細部まで気配りされた完璧なディナー。これを味わってしまえば、他の強敵(りょうり)では満足できなくなってしまうのではないかと恐ろしくなる。

 

「……なんか寒気がする……!」

 

 なぜか攻撃を受けるたびにオーラの輝きが増しているような気がするバットの異様な性癖を目の当たりにし、チェルは薄気味悪さを覚えていた。

 

 トクノスケとツクテクの戦闘については決着がついたことを確認していた。一応はトクが勝利したが、彼の負傷は深い。念鳥の紙型も使い果たした彼は、チェルに加勢する余裕はなかった。

 

 逆にチェルの方がさっさと敵を片づけてトクの手当てに向かいたいところだったが、仮面の変態紳士は想像を絶する耐久力で彼女の足止めを続けていた。

 

 彼女が手を抜くはずもない。その能力『明かされざる豊饒(ミッドナイトカーペット)』により、周囲50メートルは特殊効果を持つ円の領域に覆われている。

 

 この発には二つの効果があった。一つは円に『隠』を施すことでオーラを見えにくくすることである。だが、それは『凝』を使うことで看破可能。一度バレてしまえば意味はないように思えるが、実は違う。その真骨頂は『隠』が露見した後にあった。

 

 隠にも精度の高低がある。高い精度の隠ならば、それを見破るために必要な凝の技術も当然上がる。しかし、どれだけ高い技術を用いても見破れない隠というものは作れない。そもそもの技の特性として、隠の隠蔽力よりも凝の看破力の方が高いからだ。

 

 だが、凝も“見る”という視覚に頼った技であり、そこに構造的な機能の制限はある。例えば、漫然と目にオーラを集中するだけでは十分な看破力は得られない。何が隠されているかを予期し、そこに視点を合わせる観察力があってこそ十全な効果を発揮する。

 

 だが、“見える物全て”が隠によって覆われていればどうだろう。円の領域全てが隠という状況は、凝の常時使用を敵に強いる。未熟な使い手ならばそれだけでオーラの制御がままならず、まともな戦闘にならない。

 

 それなりの使い手ならばこの円の領域下でも活動可能だが、眼球に極度の緊張状態が続くことに変わりはない。戦闘が長引くほどに眼精疲労は蓄積し、集中力は低下する。さらにチェルはこの隠の精度に濃淡をつけることにより、敵の凝の焦点をずらす技巧を身につけていた。

 

 そしてこの発の二つ目の効果が“光の屈折”である。円を形成するオーラに変化系の特性を付与することで、その内部を通過する光の屈折率を変えることができる。

 

 それは水中を通る光が曲がる程度の小さな変化だが、戦闘においてそのわずかな視覚情報の誤差は命取りになりえる。これは光そのものに影響を及ぼす効果であるため、凝によっても見破ることはできない。

 

 『隠領域』と『屈折率変化』、この二つの相乗効果によって敵の目を惑わせる。それぞれの効果は微々たるものだが、一瞬の隙を作り出すには有効であった。そこに鍛え抜かれたチェルの格闘術が合わさることにより肉弾戦においては無類の強さを発揮する。

 

 そのはずだった。バットが念能力者として高い戦闘力を持っていることはわかるが、チェルには及ばない。その実力差は明白、にもかかわらず決着は長引いている。その原因はバットの能力にあった。

 

 快答バットの念系統はチェルと同じく強化系であった。武器として使っている紳士用ステッキは具現化したものではなく、手品でそう見せかけただけであった。

 

 強化系は六つの系統の中で、最も戦闘に適していると言われる。全ての念能力の基礎となる身体強化を底上げし、攻撃力・耐久性・持久力・回復といった戦闘に直結する肉体の機能を大きく引き出すことができる。

 

 ゆえに複雑な条件をつけた発を作る必要はなく、ひたすら基礎鍛錬に取り組めばただのパンチも必殺技と呼べる威力にまで高めることができる。バットの能力『解析眼(ネタバラシ)』は、その強化系のセオリー通りの技だった。

 

 眼の強化率を引き上げる。ただそれだけの効果である。だが、これこそが数々の強敵との死闘を乗り越え、彼をここまで生きながらえさせた奥義であった。

 

 強化率が底上げされた眼による『凝』は正確無比なる精度を誇る。敵の『凝』による知覚を惑わせることを得意とするチェルの能力にとって、このタイプの使い手は本来なら相性が良い。そのはずが、バットは馬鹿正直に正面から凝による看破を敢行し、そして紙一重のところでチェルの攻撃を見切っていた。

 

 回避を最優先に行動し、それが無理ならば攻撃を受けると予測される場所にオーラを集めて防御する。やっていることは基本に忠実な立ち回りであるが、少しでも攻撃を受け間違えば即座に死へとつながる威力の乱打を前にして易々とできることではない。

 

 並み外れた洞察力、死闘の末に培われた戦闘勘、何よりも強敵との戦いを全力で体感しようとする執念。その不屈の闘志が尽きることなき原動力として燃え続ける。しかし、彼がその秘めた思いを言葉にすることはない。

 

 チェルにしてみれば、その敵の様子は不気味に見えた。時間稼ぎがしたいのか、援軍が来る予定でもあるのか、それとも何かの能力の発動条件をそろえようとしているのか。まさか戦うこと自体が目的であるとは思っていない。

 

 いつもならばこの程度のことで心を乱すことはないが、今の彼女はいらついていた。薬物によって余計な感情が心中で波打っている。それを自覚しながらも、一度生じた波紋はそう簡単に消え去るものではない。

 

「なんなんだよ、お前」

 

 仕切り直して間合いを取ったチェルの問いかけに、バットは少し考え込むそぶりを見せた。そして、おもむろに空中へ指を滑らせる。オーラを使って念文字を書き上げた。

 

『陰獣・蝙蝠』

 

 何をするのかと警戒していたチェルは、その短い文面を見て眉をひそめた。

 

「陰獣だぁ? マフィアの暗殺部隊だったか? いや、でも確か“解散した”と聞いていたが……」

 

 なぜ組員でもない一介の殺し屋風情に陰獣のポストが与えられたのか。そして、なぜマフィアは何千人ものカタギを巻き込んだ今回の大事件を企てたのか。

 

 これは普通なら考えられないことだ。裏社会には裏社会の秩序が存在する。どんなに血気盛んなマフィアでも、表と裏の境界線を壊すような案件に手は出さない。それを考えれば、一般客が大勢集まるオフ会を乗っ取って開催されたこのゲームは言うまでもなく黒。こんな事件をマフィアのトップたる十老頭が主導するこの状況は明らかに異常である。

 

 つまり、今の十老頭は正常ではなかった。ことの始まりは4カ月前に起きたヨークシンシティ・サザンピース襲撃事件にある。世界のマフィアの元締めが一堂に会して財宝を競り合う裏社会最大の社交パーティー『ドリームオークション』は、A級賞金首『幻影旅団』の手によって完膚なきまでに崩壊した。

 

 たかが13人の構成員しかいない盗賊団が、世界中のマフィアを相手取って略奪と虐殺の限りを尽くした。当時の十老頭は全員が抹殺された上、諸々の事情から幻影旅団はお咎めなしとして戦争が終結。この一件によりマフィアはどれだけの金を積もうと埋められない大損害を被った。

 

 これにより十老頭の権威は地に落ちる。マフィアという組織がこの世から消えることはないが、組織のトップは責任を取らなければならない。それは表も裏も変わらぬ掟である。

 

 現在は各組織が目まぐるしく版図を塗り替える群雄割拠の時代が訪れている。十老頭の形骸化は避けられない。組の正当な後継者に引き継がれた椅子は少数にとどまり、利権を削り取られながらも過去の栄光に何とかしがみついている状態だった。

 

 もはや不治の病に伏せる老いた狼たちだ。群れのために潔く死を選ぶ者もいたが、延命を望む者もいる。少しでも長く命をつなぐ方法があるとのたまえば、彼らは何に代えてもその手段を欲するだろう。死に損なった獣ほど始末の悪いものはない。

 

 このオフ会に裏から手を加えた実行犯はマフィアだが、そのさらに後ろから糸を引く者がいるはずだ。何らかの有力者がこのマフィアを動かしている。たとえその取引が常軌を逸した内容であったとしても、今の十老頭ならば保身のために自らを死地へと追い込む選択も取りかねない。

 

 影の支配者が何者か、その目的とは何か、バットに知る由はなかった。所詮、彼は捨て駒の一つに過ぎない。陰獣という十老頭お抱え部隊も今では張り子の虎。その名に価値を見出している者は、死にかけの狼だけである。

 

 だが、バットは存外にその名を気に入っていた。上の思惑など知ったことではない。彼にとって大事なことは強敵と会いまみえる喜びのみ。それを与えてくれるというのなら、どんな汚名も謹んで拝命しよう。

 

 快答バット改め、陰獣蝙蝠は壊れゆく自身の体にオーラをみなぎらせる。敵はあまりに強く、攻略の糸口は全くと言っていいほど見えてこない。どうやってこの難解な敵(トリック)解き明かす(バラす)か。命をかけた謎解きに心が震える。

 

 そんな蝙蝠の反応を見たチェルは、薄々と彼の本質に気づきかけていた。チェルの勝ちが揺らぐことはないが、そこまで持っていくまでに苦労するであろうことが経験から予測できた。

 

 だからと言って焦りは禁物だ。精神を乱せばオーラの制御も乱れ、勝負の時間はさらに延びることになるだろう。どれだけ蝙蝠のメンタルが強かろうと機を逸らず、確実にダメージを与えていけば限界がくる。

 

 チェルは精神統一に努めた。オーラの些細な綻びも見逃さず修正し、蝙蝠の付け入る隙を削り取っていく。高ぶるオーラで己を鼓舞する蝙蝠とは対照的に、チェルは徹底した静の境地で敵を迎える。

 

 彼女の技は一打ごとに正確さを増していった。蝙蝠はチェルの動きを凝によって読もうとしているが、その逆もしかり。チェルもまた蝙蝠の動きを戦いの中で着実に捉えていく。いかに蝙蝠のテンションが高かろうと、気持ちの強さだけで実力差が覆るようなことはそうそうない。

 

 左腕はへし折られ、内臓は血反吐が止まらないほど損傷、肋骨は何本折れたのかわからない。腹部や胸部へのダメージが大きいのは、頭部と四肢の防御をできるだけ優先しているためだ。頭を守るのは当然だが、手足の自由が利かなくなっても即座に殺される。

 

 このままいけばチェルが順当に勝利する。そんな折、彼女は一つの小さな違和感に気づいた。

 

 

(音……?)

 

 

 かすかな音がチェルの耳に届く。始めは音のように思えたが、それは耳で感じ取っているというよりも直接頭の中に送り込まれているかのようだった。

 

 チェルはすぐさま蝙蝠から距離を取った。終始優勢に運んでいるこの勝負だが、いまだチェルが敵に対して最も警戒している点は『発』である。この念能力者個別の特殊能力によって劣勢の盤面が返されることは珍しくない。チェルはこの音に似た何かの信号を、蝙蝠の能力によるものだと推測する。

 

 しかし、その予想は見当はずれであった。蝙蝠の発は『解析眼』のみである。他にもいくつか技はあるが、いずれもシンプルな強化系能力の域を出ないものばかりだ。むしろチェルの突然の行動に、何か仕掛けてくるのではないかと警戒を強めている。

 

 

(コウモリ、と名乗るくらいだからそれに関係した能力……? だとすれば、超音波か? 頭がガンガンする……)

 

 

 音は一向に治まらず、次第に強くなっていく。頭蓋骨の中で反響し、振動が増幅されていくように脳を蝕む。戦闘中に隙を晒してはなるまいと必死に堪えるが、我慢できる範囲を越えていた。

 

 蝙蝠はそれまで通りの構えを崩さない。彼は特に異常を感じていなかった。“音”を感じ取っているのはチェルだけだ。

 

 

(くそ……なにか、発動条件が……はやく、止めないと……あたま……あ、あああああああああああ!!」

 

 

 チェルの視界が歪む。地面が揺れる。全身に堪えがたい激痛が走る。脳内をかき乱していた音は、土砂降りの雨音に変わった。

 

 高波に揺れる船の上、仲間たちの断末魔、そして船の周囲を取り囲む化物たちの視線、無数の目がチェルを見ている。逃げ場など、どこにもない。二度と思い出したくなかった暗黒大陸からの帰路の記憶がよみがえる。

 

 その全ては幻覚だった。彼女が今乗っている船はスカイアイランド号。多少揺れてはいるが、嵐に見舞われることもなく晴天の空を飛んでいる。

 

 突如として絶叫し、その場にうずくまってしまったチェルの様子を蝙蝠はじっと観察していた。彼女の左手首には、いつの間にか“赤い結晶”が腕輪のように巻かれている。

 

 チェルの身を包み込むオーラは膨大な量に膨れ上がっていた。正気を失っているように見えるにも関わらず、放出されるオーラ量だけは凄まじい。だが、その制御は全くと言っていいほどできていなかった。

 

 もはや恐れるに足らず。無防備な姿を晒す敵を前にして、蝙蝠は思う。なぜだ、と。

 

 先ほどまで彼女が見せた素晴らしい身のこなしも、骨の髄から震わせてくれた攻撃も、今となっては見る影もない。戦闘狂の彼にとって、こんな決着の付け方で納得できるはずがなかった。

 

 おそらく、運営が罠か何かを仕掛けていたのだろう。第三者の介入があったことは間違いない。最高のひとときに水を差されたことに対する怒りが沸々とこみ上げる。そして無様にも力及ばず、強敵(パートナー)に恥をかかせてしまった自分の至らなさを嘆き悲しんだ。

 

 心の中で何度も謝りながら、蝙蝠はステッキを構える。その杖に、彼の全身からオーラが寄せ集められていく。

 

 それは四大行応用技『硬』であった。纏・絶・練・凝の同時使用によってオーラを一か所に集中させる技である。ただの凝と異なる点は、オーラを集めた箇所以外の強化を絶で閉じることにある。

 

 例えば拳に『硬』を施せば、拳の攻防力は100、それ以外の全身の攻防力は0になる。蝙蝠の場合はさらに『周』を使うことで武器であるステッキにオーラを集中させている。硬は一人の念能力者が一度の攻撃に込めることができる100%最大威力の技であり、同時にそれ以外の部分の防御力は無きに等しくなるリスクを背負う。

 

 蝙蝠は、戦意喪失したチェルを見逃すつもりはなかった。硬を使うことで全身の強化が解け、本来ならば動けるはずもないほどのダメージが肉体に返ってくる。だがその程度の痛みは、敵前にて前後不覚に陥るほどの苦しみに見舞われたチェルに比べればいかほどのこともないと蝙蝠は察する。

 

 幻覚に囚われ、正気を失いながらも彼女のオーラは堅牢であった。生半可な攻撃では、いたずらに苦しみを与えるだけだろう。全身全霊の一撃をもって引導を渡す。それが彼女にかけることのできる唯一の情けだと。

 

 

「チェル――――!!」

 

 

 遠くから声が聞こえたが、蝙蝠に動揺はない。声の主はツクテクとの戦闘を経てダウンしていたトクノスケだった。

 

 当然、蝙蝠はチェルの仲間であるトクの動向から目を放すようなことはしていない。ツクテクを倒せはしたものの、トクが負った傷は深かった。チェルに加勢することなく自身の回復に専念していたところを見ても、まともに戦える状態でないことは明らかである。

 

 チェルの危機を目にして必死に体を引きずりながら駆け付けようとしているが、あまりに距離がある。念鳥を作り出す余裕があるのならば既に使っていることだろう。トクに打つ手が残されていないことは見破られていた。

 

 蝙蝠はステッキに手を添える。この杖には他愛もない仕掛けがあった。杖の内部に刀剣が隠されている、いわゆる仕込杖である。膨大なオーラがつぎ込まれた仕込み刀が鞘走り、色とりどりの紙吹雪が舞い散った。

 

 切断マジック『失敗(ザ・フェイリア)

 

 殺しを仕事と割り切れず、趣味を殺しと割り切れず、失敗ばかりの半端者。自分がどこで間違ってしまったのか答えは見つからぬまま、蝙蝠はその刃にまた一つ過ちを積み重ねる。

 

 トクはその光景を見ていることしかできなかった。できるものならその身を盾にしてでもチェルを守りたい。だが、現実はそれすら叶わない。トクは走馬灯のような、一瞬のうちに凝縮された感覚の中にいた。

 

 実現不可能なその思い。しかし、もう二度と仲間を失いたくないという一心が、トクノスケ本人さえ自覚していなかった力を覚醒させてしまった。

 

 致死の一太刀がチェルに届くというその寸前、蝙蝠は自分の体に途轍もない力が加わったことを感じ取った。まるで巨人の足に踏みつぶされたかのような重圧に襲われる。だが、彼の周辺に変わったものは見当たらない。“重力”だけが何倍にも膨れ上がったかのようなその攻撃の正体は、蝙蝠の『解析眼』をもってしても捉えることができない。

 

 蝙蝠は床に叩きつけられた。チェルとの戦いで負った深刻なダメージに加えて、硬によって体の防御力がゼロの状態であったため、彼はあっさりと意識を手放すことになる。

 

 トクは自分が何をしたのか理解できていない。眼帯をはめている左目からはおびただしい量の出血が起きていた。泥沼に飲み込まれるように沈んでいく感覚の中、地を這ってでも前へ進もうとする。仲間のもとへと懸命に手を伸ばす。

 

 しかし、その手が届くことはなく、左目から生じる痛みによって意識を断ち切られた。

 

 






やってみた系:ポメルニ
ハンター系:ブレード・マックス
アイドル系:ノア・ヘリオドール
炎上系:ベルベット・アレクト
アニマル系:シックス

残り5人





ミルキ生存!

今回使われた能力はカーマインアームズに併合されたルアンの念能力『マルチタスク』によるものになります(カトライから受け継いだ匂いの能力みたいなもの)。ルアンの残留思念が生体コンピュータの役割を果たし、キメラアントの電波による情報の送受信能力を使って色々できます。

49話の感想でいただいたコメントのようなネットにウイルスブシャー!もできるかもしれませんが、今回はアルメイザマシンは使ってません。

チェルの症状については……デスゲーム編の最後くらいで明らかになる予定です。



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51話

 

 シックス親衛隊こと銀チームのファン三人組が目を覚ますと、そこは強化プラスチックの障壁で隔離された檻の中だった。

 

 銀チームのメンバーは『ロック』『ペイパ』『シーザー』の駄犬三人組と、後から合流した『アーサー』『ヒデヨシ』のコスプレイヤー組、合わせて総勢五名である。しかし、この場にいるのは初期メンバーの三人組だけだった。

 

 オフ会の開始早々にして始まった観客参加型のゲームは、麻酔銃でファン同士が撃ち合って競い合うという刺激的な内容だった。ただのサバイバルゲームとはわけが違う。もともとインドア派の集まりである駄犬たちは銀チームの結束を新たにしつつも、優勝は無理だなと諦めていた。

 

 スタジアムの特設ステージで生シックスの姿を目にすることができただけで満足していた。もう思い残すことはない。アイチューバーたちとアーサーが何か言い争っているような気がしたが、全員シックスの撮影に夢中でほとんど話を聞いていない。

 

 そこにきて獅子奮迅の活躍を見せたのがレイヤー組の二人だった。銀河の祖父率いる茶チームと遭遇し、百人を優に超えるその数の多さに駄犬たちは尻尾を丸めて震えあがった。しかし、そこからアーサーとヒデヨシによる無双ゲーが始まる。

 

 実際、素人の三人組の目から見ても茶チームの強さは異常だった。その数もさることながら、全員が同じデザインのフード付きローブで身を隠し、狂信的な忠誠心によって統率された軍団である。銀河の祖父の名を叫びながら繰り出される拳の一撃は、コンクリートを砕き、金属製の柵を飴のように曲げるほどの威力。しかもその超人的な怪力を、チームの全員が当たり前にように使ってくる。

 

 だが、その悪夢としか思えない狂信者軍団はたった二人のコスプレイヤーによって完全制圧される。事前に武道をたしなんでいると聞いてはいたが、その実力が趣味程度のものではないことは明らかだった。きっとカラテ・マスターに違いない。三人はその雄姿をワザマエ!と讃えた。

 

 ものの数分足らずで茶チームを全滅させたレイヤー組の実力を見た駄犬たちは、これは銀チーム優勝も夢ではないと思い始めた。そうなればチームリーダーであるシックスとお目通りが叶うかもしれない。

 

『ありがとう、おにいちゃん!』

 

 普段は決して見せない、にこやかな表情で駄犬たちと握手を交わすシックスの姿を夢想する。三人組のテンションは最高潮に達し、喜びの遠吠えを上げた。

 

 だが、そこで彼らの意識は暗転する。次に目が覚めたときには既に、この逃げ場のない牢獄に閉じ込められていた。

 

 檻の外にはカウントダウン表示式の大きなデジタル時計が秒を刻んでいる。その残り時間は30分を切っている。カウントが進むごとに少しずつ、檻の中では天井に設置された風船が膨らんでいく。ドクロマークが描かれたその巨大風船の中には何が入っているのか。バラエティ番組でよくあるオチのようにはいかないだろう。

 

 檻の中には三人組の他にもたくさんの人がいた。彼らに話を聞くことでおおよその事の推移は理解できた。ここに集められた人間は“人質”である。アイチューバーたちが制限時間以内にゲームを終わらせてこの場所に来てくれなければ、助かる手立てはない。

 

 この檻から脱出を試みる者はいたが、強化プラスチックの壁は大人が数人がかりで衝撃を加えても破壊できなかった。檻の外にはポメルニがいる。閉じ込められた人質の様子を監視している様子もなく、微動だにせずパイプ椅子に座っている。

 

 その視線は虚空の一点を見つめたまま動かない。話によれば、突如として人が変わったかのようにカメラの前で陽気に振る舞うこともあったらしいが、基本的に無反応。椅子に座ったまま事切れたようにじっとしている。その様子に不気味さを感じずにはいられなかった。

 

 ここにいる全員が不安を感じている。時間内に助けがこなければどうなるのか、想像したくもなかった。それでもただ、待つことしかできない。時間の流れは不変であるはずなのに、刻まれる時計の表示は底の抜けたバケツから水が漏れるようにどんどん進んでいくように感じる。

 

「ヒッ、ヒヒヒヒヒヒッ、アヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

 

 三人組のうちの一人、ロックが突然笑い声をあげ始めた。少し前から具合が悪そうにしていたため他の二人は心配していたのだが、ここに至りさらに容体は悪化しているように見えた。目は焦点が合わずさまよい、寒さを感じるような室温ではないのに体が小刻みに震えて歯を鳴らしている。

 

「ロック! しっかりするでござるよ! 誰か、この中にお医者様はいらっしゃいませんでござるか!?」

 

「……医者ではないが、アマのハンターをやっている者だ。簡単な診察ならできる」

 

「おお! ありがとうございます!」

 

 ペイパのドクターコールに応えた男が診察を行う。一通り確認し終えた男の表情は険しかった。

 

「ビラの急性中毒に似た反応だな。D2か……この患者にドラッグの服用習慣はあるか?」

 

「え、い、いや、わからないでござる……!」

 

「モグッ! シックスたんのおぱんちゅもぐもぐ! ハフッハフッ、ムシャガツハフモシャ!!」

 

「ダメだ、完全に頭がイカれてやがる」

 

「いえ、発言は割といつも通りでござる」

 

「これで!?」

 

 アマチュアハンターの男の診断によれば、向精神性薬物の中毒症状との見立てだった。死ぬことはないが、現状において有効な治療の手段はない。禁断症状が悪化して暴れ出す恐れがあるため、ペイパとシーザーは付き添いを命じられた。

 

「拙者たちがついているでござるよ。大丈夫でござる」

 

「右に同じく」

 

 手を握り励ます仲間の声にも答える余裕はなく、ロックは苦悶の表情でうわごとを繰り返す。

 

「……あいつがやったんだ……俺は見た……あの二人が俺たちを……!」

 

 ロックは仲間に何かを伝えようとしているが、しっかりとした言葉にならない。

 

「仲間を信じるでござるよ。きっとアーサー姉貴とヒデヨシ氏が助けに来てくれるでござる」

 

「チガウ! あいつらガ!」

 

 急に暴れ出そうとしたロックを他の二人が慌てて取り押さえた。ただでさえ緊迫した状態が続く監獄の中で、閉じ込められた人質たちは精神的に追い詰められている。これ以上騒ぎが大きくなれば、それをきっかけにパニックが広がる恐れがあった。

 

「我ら、シックスちゃん親衛隊はこれしきのことで動じない! 同志、ロック! 気を確かに持て! それでも親衛隊の一員か!」

 

「シンエイタイ……シックスチャン……マモル……」

 

「そうでござる! 薬なんかに負けるなでござる!」

 

 ロックが落ちつきを取り戻す。だが、この調子では今後どうなるかわからない。ペイパとシーザーは懸命に苦しむ仲間を励ました。それはこの先行きのわからない危険な状況において、自らの精神の安定を保つためでもあった。困難を共有し、仲間と共に乗り越える。互いの言葉が支えとなり、迫りくる恐怖に対抗していた。

 

 そのとき、透明な壁の向こうで何かが動く。この広い部屋の唯一の出入り口である扉が開いた。誰かがゆっくりと入室してくる。それに呼応するように、ポメルニが椅子から立ち上がった。

 

「え、あれって確か……」

 

 ペイパがその人影を見てつぶやいた。彼はその人物を知っている。この場にいる人質の全員が、おそらく知っているであろう。壁に遮断されて外の音は聞き取れない。その“人物”が何を言ったのか、誰にもわからない。

 

 

 * * *

 

 

「……シックス! シックス!? ああっ、よかった! 目が覚めたんだね!」

 

 VR体感デバイスから解放された私は現実世界に戻ってきた。そして最初に見た光景が涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしているノアの顔面ドアップである。

 

 電気ショックによる気絶から復帰したらしい。おでこに『ロリマザコン』と落書きされているが、本人が気づいている様子はない。誰が書いたのかは……想像できる。

 

「心配したよ! 急に何の反応もしなくなっちゃったから、どうなることかと……!」

 

 どうやら少しの間、私は気絶したような状態にあったらしい。時間的にはミルキーの『中の人』と直接対談していたあたりのことだろうか。感覚的には時間的断絶はなかったのだが、現実の肉体の反応は少し違ったようだ。

 

 私は現在、ノアに抱きかかえられる形で移動している。ここは既にスタジアムの外であった。私たち四人は、ショッピング街を走っている。見通しの良いスタジアムの競技場ならば不意打ちなどの危険もないという理由であの場所に留まっていたわけだが、移動しなければならない事態が起きたのだろうか。

 

 ベルベットは手に氷でできた棘付きの棍棒を握っていた。表面に付着した血が凍っており、既に使用した形跡がみられる。ブレードも油断なく周囲に視線を巡らせ、警戒をあらわにしている。

 

「やっとお目覚めですか、いい気なものですね。起きたのならさっさと掃除を手伝ってください」

 

 ベルベットが言う“掃除”とは何か。その対象は街角の物陰から姿を現した。

 

「イダイ……イデェヨオオオォォオォォオオオォ……!!」

 

 電子音声と人間の声が中途半端に混ざり合ったような気味の悪い叫びとともに現れたのは人だった。そのはずだ。一般客らしき男がいる。その顔を見れば正気を失っていることは一目瞭然だった。

 

 その男はこちらに向かって恐ろしいスピードで走ってくる。それをベルベットが氷の棍棒で迎えうった。棍棒にはしっかりとオーラが込められている。念を使えない一般人には到底耐えられない一撃だ。確か、念による攻撃を一般人が浴びると強制的に精孔が開くので、むやみにやってはいけないのではなかったか。

 

 だが、その心配は杞憂だった。殴られた男の体は既にオーラを纏っている。ただ、それは私たち念能力者が使っている「纏」とは違うものに見えた。なんというか、ただ力を外に向けて放出しているだけだ。これでは得られる防御力に対してオーラの消費がかかりすぎる。すぐにでも燃料切れを起こしてしまうだろう。

 

「ナンデェ……ナンデワカッテクレナイノ……?」

 

 男は片脚をベルベットにへし折られる。普通ならまともに動けないはずの骨折だが、吹っ飛ばされた男はすぐに起き上がった。折れ曲がった脚で立ち上がる。それを可能としているのは、どこからともなく発生した赤い結晶だ。ギブスのように骨折部分を補強している。

 

「これなんのB級ホラー映画ですか?」

 

 男に大したダメージはないようだが、脚が少し曲がってしまったためうまく走れない。私たちは男を置いてその場を走り去った。話によると、このような異変が生じた一般人が大量にいるらしい。

 

 異変の始まりは私がVRゲームをしている最中に起きたようだ。私が気を失ってしばらくした頃、スタジアムの巨大スクリーンに映像が表示された。

 

『FEVER TIME!!』

 

 その直後、会場にいた観客たちが突然苦しみ始め、強いオーラを纏い始めた。そして凶暴化し、乱闘を起こす者が現れる。その大多数が私たちアイチューバーに向かって攻撃を仕掛けてきたという。

 

 ブレードの所感によると、これは意図的な行動ではなく本能的に強いオーラの波動を感じ取ってそこに誘引されているのではないか、とのことだった。そこに理性的な目的はなく、ただ破壊を求めた行動である。

 

 観客の体から放出されるオーラの量から見て、すぐに生命力を切らして動けなくなるものと思われたが、その予想は外れる。無尽蔵と思えるほどのオーラを垂れ流しながら我武者羅に突撃してくる。

 

 それでもブレードたちからすれば簡単に対処可能な程度の強さしかないが、さきほど見た男のように凄まじい打たれ強さで何度でも復活して襲いかかってくる。下手に大怪我を負わせると後遺症が残る可能性もあり、そのため観客の数が集中しているスタジアムを捨てて、ここまで逃げてきたらしい。

 

 この現象についてわかっていることは少ない。暴走した観客はリストバンドをはめている手首に赤い結晶が生じていることから、この物質が影響を及ぼしているのではないかと推測される。

 

 観客の全員がこの異変に巻き込まれたわけではない。中には正気を保っている者もいた。そういう人たちは仲の良い数人のグループで集まって行動しているケースが多かったという。確かなことは言えないが、精神的に不安定な状態の人が異変を発症しやすく、心に拠り所のある人の方が発症を免れる傾向があると感じたそうだ。

 

 その予防法も確実なものとは言えず、一度発症してしまえば手がつけられない。私は何か治療法はないのかと尋ねた。

 

「何らかの念能力だと思われますが、経験上、この手の能力は対象を使い潰すことが前提です。仮に能力を解除したところで元通りにはらないでしょう」

 

 その答えにショックを受けている自分に気づく。何も全ての被害者を助けたいだなんて思いあがったことは考えていない。さっきだって襲撃してきた男を放置して逃げた。私が感じている責任は別にある。

 

 あの赤い結晶に見覚えがあったのだ。私の虫本体の外骨格に材質が似ている気がする。さらに言えばシックスが『救済の力』を手にしたとき、あの島で起きた『災害』。植物のように生長し、瞬く間に蔓延ったあの赤い結晶によく似ている。

 

 これは私の能力が関係しているのではないか。

 

 あり得ない話ではない。ノアが意図せず『発』を暴走させて念による病気を広げたように、私も無自覚に何らかの能力を使ってしまった可能性はある。それはないと心の中で必死に否定するが、一度思い浮かんでしまった最悪の予測は頭にこびりついて離れない。

 

 そして、私がリュックサックの中に入れているスマートフォン。一緒に入っている本体が確認したところ、私のスマートフォンは赤い結晶で覆われて使用不可能な状態になっていた。ミルキーと戦ったVR空間での出来事と言い、気持ちの整理がつかないことが多すぎて頭がこんがらがってくる。

 

 この能力について、ゲームの運営は私の知らない情報を知っているのだろうか。明らかにこの現象をゲームの一部として組み込んでいるとしか思えない節がある。

 

 運営の中枢にいる敵と接触することができれば、何かの情報を得られるのではないか。ミルキーと戦ったときのように、敵を誘い出すためにはまずこちらが敵の思惑に乗らなければならないように思う。

 

 私は、ここにいる皆に提案しなければならない。ひどく自分勝手な主張だ。それでもここで何も言わず、流されるまま行動するという選択肢はなかった。私は意を決して口を開く。

 

 

 

「『ポメルニの居場所がわかったから、そこに行きたい』ですか?」

 

 

 

 機先を制するように、ベルベットが私の言葉を阻んだ。まだ何も言っていない。なぜ彼女は私の言わんとすることがわかったのか。

 

「ミルキーがそのようなことをほのめかしていましたからね。こうして無事にVRゲームから戻ってこれたということは、彼と話の折り合いがついたのだろうと予想できます」

 

 その通りだ。ミルキーは私に約束通り、ポメルニがいる場所を教えてくれた。次にベルベットは、ある方向を指さした。その先を見ると、街頭に設置されたモニターがいくつかあった。その全てに同じ映像が映し出されている。

 

 そのゲームの選手名が並ぶリスト画面からは、失格となったアイチューバーの名前が消えている。残っているのは、ポメルニとシックスの二人だけだった。ベルベットたちの名前はない。

 

「私とブレード、ノアの三名は以前に棄権を申請していましたから、それが今になって受理されたと考えれば一応の説明はつきます。一応は」

 

 ベルベットは走るのを止めた。残る面々もそれに合わせて歩みを止める。

 

「あまりにも都合が良すぎませんか? 丁度よくあなたとポメルニの名前が残り、丁度よくあなたはミルキーからポメルニの居場所を聞き出せた。初めから色々と疑わしいところはありましたが、そろそろ説明してもらえませんか。そのリュックの中身も含めて」

 

 心臓が止まったかのように錯覚した。この中を見たのか。いつの間に。いや、私には意識を失っている時間があった。その隙にならば十分可能だ。

 

「ご、ごめんっ! 僕は止めたんだけど、あいつが強引に……」

 

 疑われている。ベルベットの立場からすれば当然の疑惑である。そして、私にはその疑いを晴らす弁がない。下手な嘘は看破されることが目に見えているし、正直に何も知らないと言ったところで信じてもらえるとは思えない。

 

 私が言おうとしていたポメルニの居場所へ向かうという提案も、ベルベットからすれば明らかに罠としか思えない。ミルキーが言うにはこの情報の信憑性はそれなりにあるという。彼がハッキングによって入手した運営の内部資料に基づく情報だ。

 

 しかしミルキーはそれだけ敵の懐深くまで探りを入れることができたにも関わらず、このゲームの真の目的が何であるかについては知ることができなかった。それは万が一にも漏洩を防ぐため、パソコンに記録されていない情報である。裏を返せば、ポメルニの居場所という情報は敵にとってバレたとしても構わない程度のものということになる。

 

 ポメルニはおそらくそこにいるが、敵はその場所が判明することを想定しているだろうとミルキーは言った。つまり、罠である可能性が高い。それを自覚しながら私はあえて危険に飛びこもうとしているわけだ。

 

 私一人が単独行動を許されるのなら話は簡単だが、ベルベットにはサヘルタ諜報員から私を守るように言われているし、ブレードにはハンターとして私の護衛任務がある。皆の了解なしに勝手な行動は取れない身だ。だからこそ逆に、その私から提案がなされることを黒幕の作為ではないかと怪しまれているのかもしれない。

 

「答えてください。その返答次第では、無事に済まないことをお忘れなく」

 

 ベルベットのオーラから戦闘態勢に入ったことが見て取れた。ノアは慌てふためいているだけだが、ブレードは確固たる意思をもって静観しているように見えた。ベルベットを止めることはなく、彼もまた私の言葉を待っている。

 

 何を言うべきか悩んだ。おそらく私が何を言ったところで、ベルベットの猜疑心を打ち消すだけの説得力はない。悩んだ末、私にできるのは本心を伝えることだけだと気づく。

 

 今、観客たちに影響を及ぼしている赤い結晶は、私が関係していることかもしれないが、その原因については私にもわからない。そして、ポメルニを助けに行くという決意が変わらないことを正直に伝えた。

 

 その答えになっていない答えを聞いて、ベルベットは呆れたような表情になる。だが、私はこれ以上の言葉を持たなかった。

 

 知らないものは知らないとしか言えないし、ポメルニは今、助けなければならない。何もせずにいくら待ったところで機は訪れない。それどころか彼を救える可能性は低くなっていくだろう。このゲームの運営がやってきたことを考えれば、何をしでかすかわからない。

 

 これは私の我がままだ。だが、それはお互いに言えることである。ベルベットが諜報員と交わした約束は彼女が勝手に取り付けたことであり、ブレードが受けた護衛依頼も私が頼んだわけではない。

 

 ここで譲るつもりはなかった。その上で、ベルベットが私と敵対するというのなら仕方がない。私に勝ち目があるとは思えないが、それでも退けない思いがある。私は纏に回すオーラを強めた。

 

「ぼ、僕はいつだってママの味方だ!」

 

 緊張が高まる中、その張り詰めた気配を遮るようにノアが私たちの間に割り込んできた。

 

「ママが何者だろうと構わない。仮に裏切られたとしても後悔なんてない。シックスのおかげで僕は本当の意味でママを“看取る”ことができた」

 

 心の中では一人でも平気だと思っておきながら、ノアが声をあげたとき、安堵する自分がいた。危険に巻き込むようなことはするべきではないと思いながら、おそらくノアなら深く考えずにそう言ってくれるんじゃないかと、どこかで期待していた。

 

 ちょっと頼りないけど心強い、大切な仲間だ。

 

「というわけで、僕はどこまでもママについていく。それだけだ!」

 

 ビシッ!と指さしながら宣言するノアに対して、ベルベットは見向きもしなかった。彼女としてもこの展開は予想していたのだろう。その目は一点、ブレードに向けられている。彼がどう動くのか、シックスに対してよりもそちらの動向を気にしていた。

 

 静観を貫いていたブレードはベルベットの視線を受けて、おもむろに動く。ノアとは逆側の、私の隣に並ぶように立った。

 

「吾輩は、シックス君の提案に賛成するッスル」

 

「……正気ですか?」

 

 せっかく味方についてくれてこう思うのも何だが、嬉しさよりも驚きが大きかった。てっきりブレードの立場なら反対してくると思っていたのだが。

 

「護衛対象が危険なことをしようとしているにもかかわらずそれを諌めず、むしろ手を貸す。依頼を請け負ったハンターとしては失格ッスルな。だが吾輩はそれ以上に、彼女の主張に“良心”を感じている。ポメルニ氏を助けたいという気持ちは吾輩も同じッスル。虎穴に入らずんば虎児を得ず。危険に身を投じてこそ見えてくる敵の思惑もあるかもしれん」

 

 人を人とも思わない運営の所業を見過ごすことはできないとブレードは言った。今回の事件は早急に真相を解明し、敵の正体をつかまなければ、また同じような犠牲者が大量に出るのではないかと彼は危険視している。解決のために積極的に行動を取る道を選んだようだ。

 

「あなたの隣にいる仲間が黒幕とつながっているかもしれませんよ?」

 

「シックス君は確かに、何らかの形でこの事件に大きく関係しているかもしれないッスル。だが、それは彼女の意図とは無関係なところで起きたこと。何も知らないと本人が言っているッスル」

 

「まさかそれを信じると?」

 

「嘘偽りはない。吾輩にはそう思えた。他人の嘘を見抜く能力で言えば、ベルベット君には敵わないと思うッスルが」

 

 そう言って笑うブレードに、ベルベットは何も言葉を返さなかった。臨戦態勢だった彼女のオーラが平常に戻っていく。

 

「ブレードがそちらにつくというのであれば私からこれ以上言うことはありません。どうぞ、ご随意に。私はこの同盟から抜けさせてもらいます」

 

 彼女の発言を理解するために、しばらくの時間を要した。つまり、ここから先はベルベットとは別行動。彼女は私たちに関与しないということだ。

 

 よく考えてみれば何もおかしくはない。敵の用意したステージに自分から飛びこもうとしている私たちについて行けないと言っているだけだ。サヘルタ諜報員との約束も命あっての物種である。危険を冒してまで私を守る必要はない。

 

 私の行動を阻止できるのならいいが、いくら口で説得したところで私の気が変わらないことを察したのだろう。さらにブレードがポメルニ救出派に付くことで、実力行使によって従わせることも難しくなった。こうなってしまえば自分から離脱を申し出た方が面倒事に関わらず済む。

 

「体張って戦ったし、十分成果は上げたはずです。サヘルタの諜報員には、そのあたりしっかり言い含めておいてくださいね」

 

「承知した。その決断に落ち度はないッスル。シックス君の護衛は吾輩に任せて、ゆっくり休むッスル」

 

「僕も! 僕もいるからね!」

 

 それ以上の別れの言葉もなく、ベルベットは踵を返して離れていく。あまりに味気ない離別だった。

 

 最初は、ただ冷たい人間だと思っていた。皮肉屋で、疑い深く、愛想の欠片もない。他人の非をあげつらって人気を得るいけすかないアイチューバーだと。それは事実だが、それが全てではないと、いつの間にか思うようになっていた。

 

 彼女は同盟から離脱したが、その決断は今でなくともよかったはずだ。私のリュックの中を見たとき、私が気絶している最中にその決定を下したとて不思議ではなかった。

 

 ベルベットだけでなく、他の二人もその場で私を見捨てるようなことはしなかった。彼女は私の目が覚めるまで待ち、私の口から直接説明されることを求めた。

 

 それはただ単に、私から情報を引き出すことが目的の行為だったのかもしれない。だが、私はその追及を居心地の悪いものとは感じなかった。彼女は真剣にシックスの言葉を聞き、シックスという“人間”を見て、何かを判断した。そう感じたからだ。

 

 私たちの主張は食い違ったがその結果、もし戦うことになったとしても、私が負けてしまったとしても、たぶん彼女を恨むことはなかっただろう。

 

 口に出しては言えなかったが、遠ざかっていくベルベットの背中にその気持ちを投げかけながら見送った。

 

 






やってみた系:ポメルニ
アニマル系:シックス

残り2人


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52話

 

 年老いた男が一人、入り組んだ道を一心不乱に進んでいた。本来ならば一般客が使用することのない作業用通路である。窓もなく、剥き出しの配管が張り巡らされている。先ほどの爆発の影響か、照明は頻繁に明滅し、暗く狭い道は一層不気味な様相を呈していた。

 

 その男の名は、銀河の祖父。普段は常にミステリアスな雰囲気をたたえる彼だが、今の彼にそんな余裕はなかった。トレードマークのローブはフードがめくれて素顔が晒されている。汗と鼻水を噴き出しながらの全力疾走だった。

 

 銀河の祖父はチェルとトクノスケの二人組に敗れている。既にゲームから退場となった選手であるはずだが、彼は気絶からの復帰を果たした。彼が着ているローブは具現化系能力によって作り出された物であり、ほんの少しだけ防御性能を備えていた。そのおかげで気絶から目覚めるまでの時間が縮まったのだ。

 

 だが、そのまま気絶していた方が彼にとっては幸運だったかもしれない。身の毛もよだつ追跡者たちに命を狙われることもなかっただろう。

 

 

――センセエエエエエエェェェェ!!――

 

 

 彼の能力『無差別殺仁(セルフライアーズ)』は複数の人間に力を与えて操作する。他人を戦力とすることが前提であり、戦うにしても身を守るにしても誰かの協力が必要になる。そのため彼はまず手駒を集めようとした。

 

 混迷するゲームと船内の状況から極度の不安を抱えた観客は数多く存在し、それらの人間を言葉巧みに誘導することはメンタリズム系アイチューバーである彼にとって難しいことではなかった。すぐに二十人ほどの戦力を確保する。

 

 そして悪夢は唐突に訪れた。配下におさめたはずの手勢は全てが制御不能に陥る。銀河の祖父の声はもう届かない。彼にできることはただ逃げることだけだった。

 

 薄暗がりの通路に点々と灯る非常口のピクトグラム。その電子表示を盲目的に信じ、逃げ続ける。

 

 

 * * *

 

 

 ミルキーから教えてもらったポメルニの居場所は倉庫エリアの一角にある。彼が調べた限り、その場所自体はただの倉庫であり、目立った仕掛けなども特に設置されている様子はないという。

 

 だが、それは物理的な兵器や罠の類に限った話であり、念能力に関するトラップが仕掛けられていた場合はミルキーにも判断できない。念能力者が持つ『発』は千差万別であり、実際にその能力が発動した現場に居合わせなければ予測が立たないものが多い。

 

「こればかりはその場をこの目で見ないことには何とも言えないッスル。だが、あまり心配し過ぎる必要はない。どんなに強力な効果を持った念能力も万能ではないッスル」

 

 例えば、部屋に踏み込んだ瞬間、侵入者が即死するようなトラップはいくらなんでも作れない。それを実現するためには想像もできないほどの覚悟と誓約が必要となり、現実的ではないとブレードは言った。

 

 ハンターの仕事をしていれば敵のホームで戦わなければならない局面はいくらでもある。むしろ、そこに何か仕掛けがあるとわかっているのだから、六割方は危険を回避できたようなものだという。敵地に未知のトラップが仕掛けられていることは当然であり、重要なことはその予兆を見逃さないことだと聞かされた。

 

 『凝』を怠らず、わずかなオーラの気配も見逃さない。それに気をつけていれば不意打ちを受けることはまずないという。

 

「ミルキーから得た情報も踏まえて、現段階で判明した事実を整理するッスル。まず、ポメルニ氏は心神喪失状態にあり、おそらく操作系能力によって操られている。そして、その近くには運営に捕えられた人質が何名かいる。この人質たちは密閉されたプラスチックケージの中に監禁されており、あと20分後に致死性の毒ガスが散布されるッスル」

 

 制限時間についてはまだ余裕がある。私たちはそれまでに目的地へ到着し、ポメルニを正気に戻して、人質を救出する。

 

「操作系能力は何らかの『媒介』を用いて対象を操る場合がほとんどッスル。例えば、『操作対象に術者がオーラを込めたアクセサリを装着させる』など、能力を発動させるためには条件と道具が必要になるッスル」

 

 『凝』によってポメルニを観察し、不審なオーラの流れをたどれば媒介を発見することは可能である。これを見つけ出して破壊すれば操作能力は解除される。この作戦の鍵は迅速性にあった。ポメルニが何か行動を取る前に先んじて操作状態から解放する必要がある。

 

 ポメルニの戦闘力に関しては特に問題ではない。彼は操られた一般人であり、念能力者三人を相手に何かできることなどない。それは敵も承知しているだろう。その上で、敵はこちらの目的を邪魔するような行動をポメルニに取らせる危険がある。

 

 例えば自分自身を人質として自殺をほのめかすことで手出しできなくするなど、卑劣な手段は考えられる。だからこそ、瞬間的に媒介を発見して即座に破壊するスピードが重要になってくる。この役目はブレードに任せるしかない。

 

「僕たちはどうすればいい?」

 

「ふむ、今のところは特に……状況次第で必要となる行動も変わってくる。臨機応変に対処できるように心がけておくッスル」

 

 どんなに息巻いたところで私とノアは戦闘の素人だ。いや、発が使えない分、私にできることはノアよりも少ない。

 

 私はまだ『凝』すら使えない身である。プロハンターとして数々の修羅場をくぐりぬけてきた彼になら安心してその役を任せられる一方、ポメルニ救出を提案しておきながら肝心なところで何もできない自分に歯がゆさを感じる。

 

「シックス君、君にはやってもらわなければならないことがある」

 

 だから、ブレードの言葉に一も二もなくうなずいた。話を切り出したブレードの表情は固かった。難題を与えられるのかもしれないが、自分にできることがあるのなら何でもするつもりだ。しかし、彼から指示された内容は私の想像とは大きく異なるものだった。

 

「それは“覚悟”だ。この作戦が失敗に終わったとき、ポメルニ氏を救えなかったとき、それを受け入れるための覚悟だ」

 

 何を言っているのか理解できなかった。なぜ始まってもいない作戦を前にして失敗することを前提とするかのような覚悟をしなければならないのか。その簡単に諦めをあらわとするようなブレードの態度に憤りすら湧いてくる。

 

「これは言うつもりのなかった話ッスルが……吾輩はこのオフ会に自分の弟子を連れてきたッスル。名前はパーネック。プラントハンターを目指しているがまだアマチュア止まりだ。三年ほど前から面倒を見ているが、まぁ生意気で可愛げのない男ッスル」

 

 憎まれ口を叩いているが、ブレードがその人物と浅からぬ信頼があることはわかる。彼はその弟子を『特別優待券』を使ってこのオフ会に招待している。つまり、人質の中にその人物が今もいるのだ。

 

 だが、ブレードは確か人質に取られた身内はいないと明言していたはずだ。つまり、嘘をついていたことになる。別にそのことを責める気持ちはないが、彼の性格を考えれば嘘や隠しごとはそぐわないような気がした。

 

「なぜ、嘘をついたかわかるか?」

 

 少し考える。おそらく、同盟を結んでいた私たちの関係に不和をもたらさないためと思われた。ジャック・ハイのように人質を取られたがために運営の術中にはまってしまった例もある。もし正直にこのことを話していれば、彼の立場は多少中立性を損なう形となっていただろう。

 

「それも理由の一つ。そして、君の護衛任務を優先したことも理由の一つだ。たとえ弟子の命が失われてしまったとしても、それを君たちに伝える気はなかった。何も言わぬまま、胸の内にとどめるつもりだったッスル」

 

 依頼の遂行と弟子の命を天秤にかけ、前者を取ったというのか。それはあまりに薄情なのではないか。

 

「パーネックにはハンターの心構えを教えてきたッスル。プロの資格はなくとも、あいつはハンターの精神を持っている。吾輩はシックス君を放置することはできないし、そんなことをして弟子を助けに向かったとて、感謝されるどころか軽蔑されることだろう」

 

 逆の立場になって考えてみよとブレードは言った。もし、私が敵に捕まった人質となり、それを餌として自分の大切な人がおびき寄せられようとしているとする。そのとき、私は大切な人を危険にさらしてまで自分の助命を願うだろうか。

 

 答えは明白だった。私は助けを望まないだろう。ならば、今の私がしようとしていることは間違っているというのか。頭の中がこんがらがってくる。

 

「間違いではない。誰かを助けたいという思いに間違いがあるはずはない。だが、それと同時に思いが叶わなかったときのことを想定しておくッスル。厳しいことを言うようだが、その可能性はある」

 

 もしポメルニを助けられなかったとき。心が怒りや悲しみの感情に支配された状態では、冷静な判断はできない。そして、敵はその隙をむざむざと見過ごすようなことはしないだろう。ポメルニはシックスの死を望んでいない。そう言ってブレードは私を強く説き伏せた。

 

 理屈はわかる。だが、私にはできる気がしなかった。ブレードのように迷いなく、その覚悟を決める強さはない……。

 

「待てブレード、あまり僕のママを脅かすようなことを言わないでくれないか」

 

「必要なことッスル。甘いことばかりも言っていられない」

 

「ブレードだって、なんだかんだ言って結局はポメルニや人質の解放作戦に賛成してるじゃないか。その人質の中に自分の弟子もいるんでしょ? 任務を差し置いてでも、あわよくば助けたいと思う気持ちがあったはずだ。それとも1%の私情も挟まずに下した判断だと言いきれるのか?」

 

「そ、それは……」

 

 ブレードが言い淀む。珍しくノアが舌戦で優勢に立っている。

 

「ママは十分すぎるほどの重い覚悟を持っている。もしこれ以上の重荷を背負わせようというのならブレード、覚悟が足りないのはむしろ僕たちの方さ。失敗したら、じゃない。何が起きようと成功させるんだ。そのために僕たちはここにいる。そうだろ?」

 

「……その通りだ。まさか君から諭されるとはな。吾輩もまだまだ心の筋トレが足りなかったようだ。マーッスルマッスルマッスル!!」

 

 ノアがやけに芝居がかったドヤ顔を決め、ブレードがスクワットしながら奇妙な笑い声をあげる。沈んだ雰囲気を払拭しようとしてくれているのだとわかった。

 

 だが、私の表情は晴れなかった。ブレードが言ったことは正しい。首尾よく救出作戦が成功すれば何の問題もないが、もしそうならなかったら。

 

 私がまとまらない考えを持て余していると、ブレードが急に動きを止めて、ある一点に意識を向けていることに気づいた。その方向にあるのは道の行き止まりである。いや、正確には扉があった。施設内部のメンテナンス用に作業員が使う細い通路へとつながっていた。

 

 ブレードが扉を開く。その先から流れてくる空気に異質な気配を感じた。何かがこの先にいる。確証はないが、なんとなくそう思う。

 

「凶悪なオーラの気配だ。まだここから距離があるが、このままだと遭遇する危険もあるッスル。早めに場所を移動した方がいいッスル」

 

 異存はなかった。目的地への道筋は少し遠回りになるが、別のルートから迂回した方がいいだろう。時間的な余裕はまだある。その方針が決まりかけたとき、通路の奥からかすかな声が聞こえたような気がした。

 

「声が、したな……」

 

「え? 何か聞こえた?」

 

 聞き取れるかどうかの瀬戸際といった小さな反響音だったが、確かに聞こえた。助けを求める人の声だ。ブレードの強化された聴力は、さらに詳細な情報を得ていた。誰かがこの通路の奥で、何者かに襲われている。

 

 決まりかけていた今後の方針に、新たな選択の余地が生まれる。

 

 助けるか、否か。

 

 

 * * *

 

 

 敵の位置を探りだすことは難しくなかった。隠す様子もなく放たれる殺気の元をたどっていけばいい。問題は、敵の脅威がどれほどのものかわからないことにある。

 

 これまでの道中でも、襲われている一般客を見かけた際は助けてきた。しかし、今回の敵は離れた場所からでもオーラの気配を感じ取れるほどの強さがある。実際に遭遇しないことには正確な危険度はわからないが、数段レベルの違う相手だと想定すべきだ。

 

 ここにベルベットがいれば即座に「見捨てろ」と言うことだろう。私たちは手短に話し合い、可能ならば助けるという結論に至った。その線引きはブレードが行う。撤退の指示が出された時は絶対に従うよう念を押された。その方針に文句はない。

 

「これは……やはり、気のせいではない。この方向はまずいッスル」

 

 しかし、状況は悪い方向へと進んでいた。私たちができるだけ気配を殺して敵に近づいたところ、その数は一人二人ではないことに気づく。強烈な殺気は全て敵に襲われている「誰か」に向けられており、その誰かは助けを求めながら死に物狂いで逃げ回っている。移動速度はかなりのもので、尾行している私たちを振り切りそうな勢いだ。

 

 そして、その一団が進んでいる方向は的確に倉庫エリアを目指している。私たちはスタッフから入手した船内図を頼りに目的地を目指していたが、何の手がかりもなければその構造の複雑さと広さから道に迷ってもおかしくない。特に倉庫エリアのような利用客の目に触れない場所は案内もなく、あらかじめどこに何があるのかわかっていないと特定の場所にたどりつくことは難しい。

 

 敵の一団はポメルニの居場所に近づいていた。偶然の一致と呼ぶには不自然過ぎる。このまま様子見を続けるわけにはいかなくなった。私たちは走る速度を上げて、別の道から敵の正面へと回り込んだ。

 

 最初に見えたのは、一団を引きつれて先頭を走る人の姿だった。顔に見覚えはないが、着ている服は見たことがある。黒く丈の長いそのローブはメンタリズム系アイチューバー、銀河の祖父が身につけていたものだ。

 

 そしてその後ろには、似たようなローブを着た人間がぞろぞろと集団をなしている。フードを目深にかぶっており、顔は見えない。その集団が着ているローブのデザインは銀河の祖父と少し異なり、黒い生地の中に血管が浮き出ているかのような赤い模様が幾筋も描かれていた。

 

「はっ、はひっ、た、たすけ……!」

 

 銀河の祖父は老人らしからぬ健脚で疾走しているが、その表情を見れば体力は限界に達していることは明白だった。

 

 私たちはどのような経緯で銀河の祖父が追われているのかわからないし、彼がどのようにしてこの逃走経路に至ったのかも定かではない。もしかすれば敵が放った刺客ではないかという予想もしていたが、実際にその姿をこの目で見ることで、彼もまた被害者であることを実感した。

 

 待ち伏せする形で出くわした私たちは目が合った。その直後、銀河の祖父の脚がもつれる。私たちを発見したことで緊張が緩んだのかもしれない。こちらに手を伸ばしながら転倒していく。その背後から赤黒いローブの集団が肉食獣の狩りのごとく群がった。

 

「ぬおおおおおおおお!!」

 

 だが、それよりも早く行動を起こしていたブレードが銀河の祖父に近づき、その体を掴み上げると迫りくる敵を殴り飛ばした。そして他の敵の追撃をかわしながらすぐさま反転し、こちらに向かって駆け戻ってくる。

 

「作戦B! 撤退だ!」

 

 私たちは事前にいくつかの作戦を立てていた。作戦Aはブレードが単身で敵を制圧できるケース、作戦Bはブレード一人では対処困難であり一時撤退して態勢を整えるケース、そして作戦Cが対処不可能な強敵に際した完全撤退である。

 

 先ほど一撃を与えた手ごたえからブレードは敵の脅威度を単身では撃破困難と判断した。実際、ブレードに殴り飛ばされた敵は何事もなかったかのように起き上がっている。彼の拳に込められたオーラの強さからも見ても、手加減しているようには見えなかった。

 

 おそらく殺すつもりで放たれたブレードの一打を容易に堪えている。さらに殴られたその敵だけが特別頑丈だったとは考えにくい。他の敵に関しても同様の耐久力を備えていると想定しておくべきだ。

 

「このまま逃げ切れるか!?」

 

「む、無理だ……どこに逃げても、あいつらはなぜか私の居場所がわかる……帰巣本能のようなものがあるのかもしれない……」

 

 息も絶え絶えに銀河の祖父が説明したところによると、敵の集団は『無差別殺仁(セルフライアーズ)』という銀河の祖父の操作系能力の影響下にあった人間らしい。この能力の恩恵を受けた人間は、念能力者でなくとも『纏』と『練』が使えるようになる。

 

 彼が操っていた人間はいずれも一般客である。ただでさえ赤い結晶の効果でオーラが暴走したような状態となっている一般客が、さらに『無差別殺仁』の恩恵と重複することにより、強大な力を手にしてしまったのではないかと推測された。もはや彼の能力とは別物と化しており、解除することもできないらしい。

 

 操作系能力と聞かされたとき、私は少しばかり嫌悪感を覚えた。ポメルニの件といい、他人の意思を強引に捻じ曲げる操作系能力者は好きになれそうにない。これだけの数の人間を操って、いったい何を企んでいたのか。

 

「ごっ、誤解だ! 私の能力は他人の意思を奪うような力はない! あくまで力を貸すだけ! 私はただ、悩める人々を導こうと……!」

 

 私の視線から自分に向けられている不快感を察したのか、銀河の祖父は慌てて釈明を始めた。今の彼に奴らから逃げるだけの体力は残っていない。敵の害意は全て銀河の祖父に向けられているため、私たちが逃げるだけなら簡単な話だ。彼を置き去りにすればいい。

 

「安心するッスル。さすがにここで見捨てるようなことはしない」

 

 とはいえ、助けるつもりがないのなら最初から手を差し伸べてはいない。見殺しにする気はなかった。逃げた後で、この集団がどのような行動を起こすか不明であるし、後顧の憂いを断つためにも放置はできない。

 

 諦めるなら、できる限りの策を試してからだ。私たちは何も考えずに逃げ回っているわけではなかった。事前に取り決めていた作戦ポイントに到達する。

 

「ノア君、シックス君、任せたッスル!」

 

「了解! ラブ・パワー全開!」

 

 銀河の祖父を抱えたブレードが加速し、私とノアがその場に残る。ブレードとの距離が10メートルほど開いたところでノアが能力を発動した。彼とシックスを中心として病魔をもたらす空間が円状に形成される。

 

 その場所は回りこめる迂回路のない一本道の通路だった。つまり、敵の一団はこの病魔空間を突破しない限り、その向こう側にいるブレードたちのところまでたどり着けない。

 

 敵は何の躊躇もなくノアの空間に踏み込んできた。円の外延部は病魔の影響もそれほど強くなく、入ったとしてもまだ引き返せる。普通の思考をしていれば、異常を感じ取ってすぐに外へ出ようとしたかもしれない。だが、理性を感じさせない敵たちは恐れることなく円の中心に向かって進んできた。

 

 その猛烈な勢いも私たちに近づくにつれ、急速な病の進行によって抑えられ、中心付近に到達する前に倒れ伏した。後続の敵たちも同じように倒れていく。まず作戦の第一段階はクリアだ。ほっと胸をなでおろす。

 

 しかし、当然ながらこれで終わりではない。ノアが能力を解除すれば、先ほどまでの追いかけっこのやり直しになる。弱体化した敵をここで確実に無力化しておかなければならない。

 

 だが、頼りのブレードは病魔空間に入ってこれない。ノアはこの空間内でも行動できるが、術者である彼は能力の維持にエネルギーの大部分を使っているため、この技の発動中はオーラを別のことに使う余裕がほとんどない。最低限の纏程度しかできない状態であった。

 

 そして、病に冒され弱体化したと言ってもプロハンターであるブレードを退かせるほどの力を持つローブの集団は、倒れ伏してなお前進を止めることはなかった。全身に満ちるオーラは健在であり、脅威の執念で這い進んでくる。その光景にノアはたじろいでいた。

 

「本当に大丈夫なの、ママ!?」

 

 問題ない。シックスは自分の足で立ち上がった。体の感覚を確認する。指先までしっかりと自分の意思で動かせる。ノアの能力が発動中であるため、シックスの体には無数のチューブで形作られた天使の羽とリングが付随しているが、動きを阻害するようなことはない。

 

 シックスはノアの能力の効果対象外であり、自由に行動できる。ただし、今までは本体が病魔に蝕まれることでシックスも動かすことができずにいた。そこで思いついたのが、本体だけを病魔空間の外に出す作戦だ。

 

 私の本体が入ったリュックサックはブレードに預かってもらっている。私としても誰かにこれを預けることは勇気がいったし、ブレードもその中身を全く気にしていないわけではあるまい。だが、彼は詳細を問いただすこともなく、私の提案を受け入れてくれた。信頼あって成り立った作戦である。その期待に応えなければならない。

 

 本体がすぐそばにいる時と違い、10メートル近く離れたこの状態では立っているだけで普段よりも多くのオーラを消費している。基本的にオーラは体外から離れるほど扱いが難しくなるという性質ゆえだろう。

 

 さらに練などの技を使ったり、ダメージを受けて修復しなければならない事態になれば、一気に大量のオーラを消耗してしまうと考えられる。時間はかけられない。すぐに行動を起こす。

 

 敵は地に這いつくばり、緩慢な動きをするのみだ。しかも、この状況下においても敵意は銀河の祖父ただ一人に向けられており、私の存在は眼中に入っていない。攻撃を外す方が難しいだろう。

 

 呼吸を整え、体内のオーラを湧き立たせる。頭の中では、この作戦を立案したときにブレードから言われた言葉が何度も繰り返されていた。

 

『やると決めたら加減はするな』

 

 それは命を奪う覚悟を持てということだ。なぜこのタイミングでブレードがそのような発言をしたのか、今にしてみれば理解できた。

 

 私は人を殺した経験がない。考えたことはあっても実行に移したことはない。殺人への躊躇、倫理から生じる葛藤、言葉にしてみれば陳腐な響きだ。それは現実に対峙した者にしかわからない。だからこそ、ブレードは実践をもって私に教えようとする狙いがあったのだろう。

 

 何もかもお膳立てされたこの状況においてですら、私は一瞬の硬直に襲われていた。これが本当の死闘であったならば、命を奪われているのはこちらの方である。わずかに震える体に喝を入れ、練によって強化された拳を目の前の敵へと叩きこんだ。

 

 ベルベットは赤い結晶に支配された人々を見て、もう助からないと言った。この手の能力は対象を使い潰すことを前提としていると。ならば、その苦しみは死をもって解放されるより他にない。そんな独善、生者だけが持ち得る身勝手な主張が脳裏をかすめていく。

 

 だが、手加減だけはしなかった。誰かを殺す覚悟、その程度も持てないのなら、この先どこについていこうとも私は荷物にしかならないだろう。それだけは嫌だ。

 

 罪悪感と共に放たれた一撃は、間違いなく今の自分に出せる最大威力の攻撃だった。衝撃で床が大きく陥没し、周囲に亀裂が走る。その中心にいた敵の体も、腰から背骨がくの字に折れ曲がっている。

 

 殺せたか。

 

 しかし、その敵が纏うオーラの勢いにはかすかな衰えも見られなかった。まだ死んでいない。その事実に、心のどこかで安堵している自分がいた。それと同時に、甘い考えを捨てきれない自分に対して猛烈に腹が立つ。

 

「イダイ……イタイヨォォ……センセェ」

 

 敵の発する金切り声が耳朶を震わす。堪えがたい悪寒が全身を駆け巡った。相手は背骨を折られているのだ。常人なら死んでもおかしくない重傷が、死ぬこともできず苦痛と共に生かされている。

 

 骨を折られる痛みを私は知っている。関節を逆側に折り曲げられる痛みも、首に穴が開く痛みも、皮膚を剥ぎ取られる痛みも、目玉をくり抜かれる痛みも、内臓をかき混ぜられる痛みも知っている。知っているからこそ想像できる。

 

 自分が与えられる立場であれば、まだ受け入れることもできた。だが、その苦痛を自分が与える側になったとき、そこに全く別種の“痛み”が生まれることを知った。

 

 私のせいだ。もう一度、練によってオーラを高める。

 

「ママ、顔が真っ青だよ……もういい! 作戦は中止だ! 敵も十分弱らせたし、これならきっと逃げ切れる! だからもういいんだ、シックス!」

 

 そんなはずはない。ここでノアが能力を解除すれば敵はすぐに復活して襲いかかってくるだろう。シックスの背後から抱きついて制止しようとしているが、私はオーラによる強化を緩めなかった。

 

 確実に殺す。そのためにはもっと威力がいる。“また殺せなかった”では済まされない。一度手を出してしまった私には、その義務がある。

 

 もっと力を。拳に集める。

 

 全身をまんべんなく強化していたオーラの気配が拳の一点に少しずつ集中していく。その間も恐ろしいほどの量のオーラを消耗していた。

 

 先ほど繰り出した練の一撃だけでも、内臓一式作り直してお釣りが来るほどのオーラを消費している。やはり本体と距離がある状態では念に関する全てのコストが桁違いに増加するようだ。それに対して敵の数はざっと見ただけでも20人はいるように見えた。全ての敵を倒すまでオーラが足りるのか。

 

 いや違う。“倒す”ではなく、“殺す”だ。私はあと20人も殺さなければならない。嫌悪感をこらえ、乱れかけたオーラを矯正する。

 

「センセェ……ドコォ……?」

 

 まさにとどめを刺そうとしているその相手と目が合った。フードがまくれ、顔を覗かせたその敵と視線が交錯した瞬間、金縛りに遭ったかのような緊張が走る。

 

 それは殺しに対して、良心から生じた躊躇ではなかった。本能が発する警告。これまで私の存在を全く認識していなかった敵はこの瞬間、初めて目の前にある“障害”を確認したのだと気づく。

 

「オマエ、ジャマ」

 

 暴風が吹き荒れた。そう錯覚するほどのオーラの奔流が敵の体から上昇気流のように噴き出した。背骨が折れ曲がった敵が、体をのけぞらせたまま立ち上がる。不安定なその体勢にも関わらず、私はそれを崩せる自信が毛ほども起きなかった。

 

 ようやく理解する。『無差別殺仁』は一般人に『纏』と『練』が使えるようになる力を与える能力である。つまり、今までの彼らはずっと『纏』の状態だったのだ。銀河の祖父を殺気立って追いかけていたことも、彼らにしてみればただの戯れに過ぎなかったのかもしれない。

 

 彼らは『練』を一度も使っていなかった。今、このときまでは。

 

 集中が途切れ、拳に集めていたオーラが霧散していく。そんなものは何の役にも立たないことがわかってしまった。ノアはまだ病魔空間を解除していない。だが、おそらく関係ない。敵の練による身体強化は、病魔がもたらす衰弱を優に上回っている。

 

 背中から直角近くのけぞった敵は、腕の長さに上半身のリーチも上乗せして拳を繰り出した。回転しながら薙ぎ払われた腕の一振りを前にして、私は逃げることもできず、迫りくる死を受け入れる他なかった。

 

 

 

 

「『筋肉大博覧会(マッスルミュージアム)』最終奥義……」

 

 

 

 

 だが、その死神の鎌を彷彿とさせる一薙ぎは、私の背後から突き出てきた巨腕によってピタリと掴み止められる。

 

「『完全態筋肉武装(ラスト・マックス)』!!」

 

 振り返った私は、目にしたものが何なのか一瞬理解できなかった。そこにあるのは圧倒的なまでの肉の塊。それがブレードなのだとすれば、あまりに姿形が変化していた。

 

 それは人間の定義に当てはめて良いものなのか。異常に発達した筋肉と骨格により、もともと2メートル以上あったブレードの体格は倍近くに膨れ上がっている。まさに巨人であった。

 

「ふん!」

 

 病魔空間の影響によりブレードの体に黒い斑点が無数に生じるが、全く衰弱した様子は見られない。そのパンチを受けた敵は衝撃波を発しながら残像を残す勢いで吹き飛び、鉄製の壁を何十枚とぶち破る音を響かせ、遥か彼方へと姿を消した。

 

 その光景を、私とノアは無言で口を開けながら眺めていた。

 

 

 * * *

 

 

 その後、謎の超強化を果たしたブレードの手によって敵の一団は壊滅した。彼の変貌ぶりにも驚かされたが、その力をもってしても誰ひとりとして死ぬことのなかった敵たちの生命力も化物じみている。もともと私がどうあがいたところで殺しきれる相手ではなかった。

 

 敵は死んではいないが、ブレードの強打を何発も受けたことによって全身を防御するために赤い結晶の守りが発生し、逆にそれによって身動きを封じられた状態になっていた。かわいそうにも思うが、これ以上手の施しようがない。

 

「あんな力があるなら何でもっと早く使ってくれなかったのさ!? ていうか、その見た目は何!?」

 

「マーッスルマッスルマッスル! いや、面目ない!」

 

 ブレードの強化は一時的なものだったらしく、今では巨人状態は解除されている。しかし、元の姿に戻るのかと思いきや、その外見はさらに驚愕の変貌を遂げていた。

 

 その姿を一言で表すなら、ノアいわく“細マッチョのイケメン”である。イケメンかどうかは私の審美眼では判断できないが、明らかに骨格からして体形が変わっていることは確かだ。

 

 もともと人類というよりゴリラか?と見間違うような体格をしていたブレードだが、今ではそれなりに鍛えられた普通の成人男性に見える。服は全身破れてしまったため、ボクサーパンツ一丁で蝶ネクタイ姿だった。

 

「ずるい、それずるくない……?」

 

 ノアがなぜ悲壮感に満ち溢れているのか、私にはわからない。

 

「この技を使うには条件があってな。一度使用すると、24時間は再使用できないッスル。つまり、一度限りの大技であり最後の手段。できれば不測の事態に備えて温存しておきたかったッスル」

 

 一時的に5倍ものオーラ量と強化率を得られるが、代償としてその後24時間は全ての念能力の威力が通常時の5分の1にまで減少してしまう。おいそれと使える技ではなかったのだ。

 

「しかし、吾輩が技を出し渋ったせいでシックス君に辛い役を押し付けてしまったな……すまなかった」

 

 謝罪するブレードを手で制した。ブレードは悪くない。“殺しの覚悟”は私にとって避けては通れないものだった。結局、殺すことはできなかったが、それでも先ほどの経験があるのとないのとでは、いざというときの心構えが全く違ってくることだろう。

 

 ブレードも、他のアイチューバーたちも、様々な覚悟を背負ってここに立っている。生きるということは覚悟の連続だ。私はまだ自分がその域に達しているとは思えない。

 

 謝ることがあるとすれば、それは私の方だ。多くの敵を足止めできたのはノアの能力があったからだし、最終的に難局を乗り越えられたのはブレードの力によるものである。私は何もできなかった。

 

「そんなことはありません!」

 

 そこで待ったをかけてきたのは意外な人物だった。

 

「まずはお礼を言わせていただきたい。あなた方は命の恩人です……まさか助けてもらえるとは思っていなかった。見捨てられてもなんらおかしくなかったのに手を差し伸べてもらえた」

 

 涙を流し、鼻をすすりながら銀河の祖父は私たちに感謝を述べた。

 

「この中の誰かが一人でも欠けていたとすれば、今の私はここにいなかったかもしれません。役に立たなかっただなんて思わないでください。あなたがいてくれた、それだけで私は救われました。ありがとう」

 

 そう言って彼は手を差し出してきた。私はその握手に応じる。

 

「あなた方からは何か……揺るがぬ決意のようなものを感じます。私はその意志に助けられたのかもしれません。私の占い師としての誇りにかけて断言いたします。その意志を貫く限り、あなた方の未来が陰ることはないでしょう……ご武運をお祈りしております。それでは」

 

 そう言って、銀河の祖父は立ち去っていった。

 

「ちょっと待って」

 

 いや、立ち去ろうとしたところ、ローブの端をノアにつかまれて止められた。

 

「なにサラッと帰ろうとしてるわけ? こっちはあんたのせいでとんでもない目に遭わされたんだが」

 

「そう、ですね。皆さまからいただいた御恩は決して忘れません。もちろん、言葉だけなく形としてお礼もするつもりです。ですが何分、今の私には手持ちが全くなく……つきましてはこの騒動が終息した後で……」

 

「いや、今返してくれればいいから。これからちょっとポメルニさんのところに助けに行くんで、あんたもついて来て」

 

「……え? 冗談、ですよね?」

 

 銀河の祖父がブレードの方に目を向ける。

 

「これはありがたい。吾輩も自慢の筋肉がこのありさまで、少しばかり先を案じていたところだったッスル。念能力者の仲間は一人でも多い方が心強い」

 

「は!? いやいや、この老いぼれに何かお役に立てることなどあるはずが……!」

 

「ご謙遜を。先ほど見せていただいた走りの速さはなかなかのものだったッスル。それに役立たずだなんてとんでもない。“あなたがいてくれる”だけで我々としては大助かりッスル」

 

 銀河の祖父が鼻水をたらしながら私の方に視線を向けて来る。必死に何かを訴えかけてくる表情の彼に対し、私はカモンのジャスチャーで返答した。

 

 銀河の祖父が戦力として期待できるか怪しいところだが、こちらはブレードの力が5分の1に落ちるという死活問題に直面している。その穴埋めとして、使える者は何でも使わないと。少なくとも実戦経験のない私よりは念能力者歴も長いのだし、役に立ってくれることだろう。

 

「待ってください! 私の能力については話しましたよね!? 操作対象となる一般人がいないと何もできないんですよ!? マジでクソみたいな能力でしょ!? うんこですよ、うんこ! こんな老害がついて行ったところで足を引っ張ることしかできな……」

 

「つべこべ言わずに来い」

 

 こうして銀河の祖父が連行された(なかまになった )

 

 






●パーティー編成
・シックス
・ブレード
・ノア
・ベルベット



●パーティー編成
・シックス
・ブレード(イケメン化)
・ノア
・銀河の祖父(new!)

シックスちゃん逆ハー状態やんけ……閃いた!




☆登場人物紹介☆



【ノア=ヘリオドール】 ―― Noah Heliodor ――


「君、僕のママになってくれない?」


人気絶頂のイケメンアイチューバー! 映画にライブに引っ張りだこのノア様に憧れる普通の女の子シックスは、ある日、偶然にも街中で出会って気に入られちゃった! これって夢!?
キャ~^(´∀`艸)❤
素敵なデートになるはずが、いざ会ってみると……なにこのマザコン!? ちょべりばありえない!!!!
o(*≧д≦)o))プンプン
だけど、シックスは優しくされるうちにだんだんとその魅力に引き込まれていき……?


【ブレード=マックス】 ―― Blade Max ――


「吾輩の筋肉に、触れてみたいか」


ある日突然、シックスの前に現れたアイチューバーのイケメンまっちょ。君を守るとか言い出してシックスの部屋に居座っちゃった!
(・´ω`・)困ッタナァ…
しかも、シックスそっちのけで筋トレにいそしむ始末……私と筋トレ、どっちが大事なの!?
。:゚(。ノω\。)゚・。 ウワァーン
そんな彼との奇妙な生活が続くうち、シックスは自分が謎の組織に命を狙われていることに気づく。暗殺、裏切り、十年前の未解決事件、巨悪に隠された陰謀からブレードはシックスを守りきれるのか。


【銀河の祖父】 ―― The galactic grandfather ――


「運命の出会い、あなたは信じますか?」


ごく普通の少女シックスは、不思議な占い師アイチューバーに恋の悩みを打ち明けた。親身になって話を聞いてくれる素敵なオジイサマに、シックスは心を開いていく♪ 開運グッズを特別価格で買わされていくうちに二人の距離は急接近!
.+:。(´♡ω♡`) ゚.+:。運命だょ
しかしそんなある日、銀河の祖父は知人の借金の連帯保証人として多額の債務を抱えていることをシックスに打ち明ける。明日までに30万ジェニーの金を指定の口座に振り込んでほしいと頼まれたシックスは……


【シックス】 ―― Six ――


「 た べ ま す 」


私、シックス! たぶん10歳くらいのどこにでもいる普通の女の子! ひょんなことから新米アイチューバーとしてデビューすることに。でもその正体は……蟻の王!?

イケメンアイチューバーパラダイスに迷い込んでしまった普通の女の子シックスの、ハラハラドキドキ! 胸キュン❤シンデレラストーリーが
\(^q^)/ハヂマル!


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53話

 

『どうしてそんなにポメルニさんのことを助けたいの?』

 

 何気ない会話の中で、ノアが私に尋ねた一言だった。彼らからしてみれば、ただの子供が背負うには過ぎた決意だと、少し異質に感じているのかもしれない。

 

 救出を成し遂げられると自信を持って言えるほど、私は力を持っていない。考えられる危険はいくらでもある。悪いが助けられないとさじを投げたところで、誰かが私を非難することはないだろう。

 

 危険を冒してまで助けたいと思うほど親しい間柄というわけでもない。彼には色々と世話になったが、実際に会ったのは最初の一度きりであり、それ以降は何度か電話で話したくらいだ。

 

 ならば、なぜ私はこれほど強く彼を助けたいと願うのか。それは恩があるからだ。アイチューバーにしてもらったことではない。それも感謝しているが、根底にある感情はもっと単純なことだった。

 

 彼と出会う以前の私は『絶』を使って気配を消しながら行動することが当たり前になっていた。自分がそこに居ていいモノかどうか、わからなかった。とにかく人目にとまるのが怖かった。そのくせに、気がつけば人通りの多い街中を歩いている自分に矛盾を感じていた。

 

 絶によってオーラを絶った人間は、視覚的に認識はできても存在感があやふやになる。無関心となる。よほど優れた武術の達人か念能力者でもない限り、絶による隠行を見破ることはできない。ブレードは私の絶を見て、初心者とは思えないほど精度の高い絶だと褒めた。

 

 だが、ポメルニと初めて会った時、彼は私の絶を見破った。彼は達人でも、念能力者でもない。それはおそらくほんの一瞬のことであり、彼自身にも確証が持てないほどあやふやな感覚だったに違いない。しかし、彼は私の存在を見間違いだと断じることはなかった。

 

 彼と出会っていなければ、アイチューバーとして活動することがなければ、私は今もまだ気配を消したまま、亡霊のように街をさまよっていたかもしれない。周囲に対して無関心であろうとしたのは私も同じだ。自分で壁を作ってその中に引きこもろうとしていた。ポメルニはそんな私という存在を見つけ出し、認めてくれた人だった。

 

 彼には返さなければならない恩がある。助ける理由があるとすれば、それだけだ。

 

 私たちは目的の場所にたどり着いた。ミルキーに教えてもらった倉庫エリアの一室が目の前にある。荷物の搬入口は重厚な扉で塞がれているが、職員通行用の出入り口は鍵もかけられておらず開けっぱなしになっていた。

 

「皆の者、準備はいいッスルか?」

 

「ああ、僕はいつでも大丈夫だ。銀河の祖父は……」

 

「心配しなくてもこの期に及んで逃げようだなんて考えてませんよ。腹はくくりました」

 

 私もブレードの最終確認に強く頷いて返す。

 

「では……いくぞ!」

 

 まずブレードがドアの隙間から中へと突入する。彼のオーラ強化率は通常時の5分の1に落ちているが、その精度については変わりない。オーラを操る技術は普段と変わらず、もともとの観察力に加え『凝』による察知力も十分に機能している。彼がまず情報収集を行うという当初の作戦に変更はない。

 

 問題はその後だ。弱体化しているブレードをカバーするために、後続の私たちもただ突っ立っているわけにはいかない。すぐに部屋の内部へ入り、中の状況を確認した。

 

 

 

「よお、遅かったな」

 

 

 

 そして、目撃する。力なく床に横たわるポメルニと、その傍らに座りこむ何者かの姿があった。

 

「お前は……サイモン!?」

 

 黒人系ダンサー、J・J・J・サイモン。既にゲームを脱落したはずのアイチューバーだ。なぜここに彼がいるのか、その疑問を考えるより先に、今はポメルニの安否を確認する必要がある。私たちは身を包むオーラを高め、戦闘に備えた。

 

「待て、そう殺気立つな。何か勘違いしているようだが、俺は敵じゃねぇべ。ちょっと待ってろ、もうすぐ治療が終わる」

 

 だが、サイモンはそう言うと私たちのことなど意に介せず、ポメルニの体に触れて何かしている。よく見るとその手からオーラの流れがポメルニへ向かっているように感じた。自分のオーラをポメルニに流し込んでいるようだ。

 

 その行為に明確な害意は感じられなかった。私たちが困惑したままサイモンの動向を見守っていると、気を失っているように見えたポメルニが身じろぎし始めた。

 

「う……こ、ここは……?」

 

 ポメルニがふらつきながら立ち上がる。

 

「サイモン……? それに、ノアに銀河の祖父に……シックスまで!? ヘイヘイヘーイ! どうしたんだ、みんなそろい踏みで! まさか……オフ会もう始まってるセイ!? オレサマ、まさかの寝坊!?」

 

 焦った様子で時計を確認し始めるポメルニの顔面を、隣にいたサイモンがぶん殴った。

 

「アウチッ!! なにすんだブラザー!!」

 

「やかましいッ! テメー、さんざん人を心配させやがって……!」

 

 ポメルニに操作系能力の影響は見られなかった。私は急に力が抜けてその場にへたりこむ。

 

 良かった。最悪の事態が起こりえることも考えられた。倉庫に突入した瞬間、絶望を突きつけられることもあり得た。ブレードに言われた覚悟など、私は到底持ち合わせていない。きっと立ち直れないほどのショックを受けていただろう。本当に良かった。

 

「人質にされていた人たちはどうなったッスルか!?」

 

「それならもう俺が助けたべ」

 

 倉庫の一角に設置されていた強化プラスチック製の巨大ゲージは破壊され、囚われていた人々も無事に救出されていた。

 

「パーネック! 無事だったか!」

 

「ああ、どうも……ところで、あんた誰だ?」

 

 ブレードが心配していた弟子のアマチュアハンターもいた。ブレードは感涙を流しながらパーネックの肩を叩いているが、当の本人は困惑していた。弱体化した姿のブレードを見たことがないのかもしれない。

 

「ふおおおお!! 生シックスちゃん再びいいいい!! ほら、ロック! 我らがシックスちゃんが助けに来てくれたでござるよ!」

 

「ア、ウウ……」

 

 銀チームの面々もいた。ファンを明言してくれた彼らの無事は、私にとって喜ばしいことだ。一人具合が悪そうにしているのが少し気がかりだが、他の二人がしっかりとそばにいて支えている様子だ。

 

「え? じゃあ、これで全部解決? おしまいってこと?」

 

「そのようですね。少し拍子抜けしましたが……それだけサイモン殿が活躍なされたということでしょう。いや、あっぱれですな!」

 

 サイモンは一度、ジャック・ハイと戦って敗北し、気絶していたらしいがその後目を覚ましたという。そして私たちよりも一足先にここへ到着した彼は、操作されて襲いかかってきたポメルニを倒して無力化した後、人質を救出、そしてポメルニにかけられた操作状態の解除まで全部一人でやってしまったらしい。

 

「ちと面倒な操作媒介で制御されているようだったが、俺の能力は除念の真似事ができる。強引に外させてもらったべ」

 

 除念とは念能力によって生じた特殊な効果や影響を解除する能力である。サイモンは正確に言えば除念師ではないらしいが、とにかく操作系能力によって操られていたポメルニの相手をするにはうってつけだった。

 

 一つ、気になることがあるとすれば、どうやってサイモンはこの場所を見つけ出したのかということである。

 

「ん? それは電子掲示板にわかりやすく案内が書いてあったからだが……お前らもそれを見てここに来たんじゃねぇべか?」

 

 つまり、サイモンは運営の手引きによってここまでたどり着いたことになる。そう言えば銀河の祖父も避難経路の表示に従って逃げ続けた結果、この近くまでやって来たと言っていた。

 

 運営はアイチューバーたちをこの場所に誘導したかったのか。新たに浮上した疑問に、弛緩していた気持ちが引き締まる。

 

「セイセーイ!? いったいこれは!? 何が起きてるセイ!?」

 

「説明は後だべ。ひとまず目的は達成した。これ以上、ここにいてもしかたがない。移動するべ」

 

『えー、もうちょっとゆっくりしていきなよ。これからが面白くなるところなんだからさ』

 

 サイモンの提案に答えた声はスピーカーから流れていた。倉庫の壁面に設置されていた大型電子掲示板に光が灯る。

 

 やはり何事もなく大団円で終わりとはいかなかった。運営からの横やりが入る。しかも、今まではポメルニをメッセンジャーとして矢面に立ててきたが、今度は状況が異なる。果たして、敵はどのような反応を見せるのか。

 

 モニターに映し出された人物は、ガイコツの絵柄がプリントされた覆面をかぶった男だった。

 

「キャプテン、トレイル……?」

 

『ピンポンピンポーン! 大正解! このゲームの黒幕はボクでした!』

 

 その覆面には見覚えがあった。ポメルニチルドレン十傑衆、不動の二位、ゲーム実況系アイチューバー、キャプテン・トレイル。一番初めにツクテクに麻酔銃で撃たれ、ゲームから脱落したはずの男がそこにいた。

 

『あれは替え玉だよ。ボクは顔出し配信したことないし、みんなボクの素顔は知らないでしょ? 声だって偽装する手段はいくらでもある。代わりの人間を用意するくらいカンタンカンタン』

 

「……それで? いまさらのこのこ正体さらして何を企んでやがる」

 

『そろそろ潮時かと思ってさ。これから始まる“本当のゲーム”の前に、ここまでたどり着いたキミたちにボクからちょっとしたゲームを用意してあげたよ。お題はこちら、はいタイトルどん!』

 

 トレイルが手元のフリップを見えるように立てた。そこには『クイズ! 私は誰でしょう?』と書かれている。

 

 

 

『私は、だ~れだ? わかった人は、ボクだと思う人物を殺してね♪』

 

 

 

 その悪魔のクイズゲームに戦慄が走る。アイチューバーたちは即座に周囲へ対する警戒を強めた。

 

「セイッ! トレイル、これは何の冗談だ!? 頼むから誰か、わかるように説明してくれ!」

 

『だからさ、この中にボクがいるんだよ。キミたちはキャプテン・トレイルを見つけ出して殺さなければならない。制限時間は特にないけど、この倉庫から誰か一人でも外に出た時点でゲームは終了。キミたちにボクを殺せるチャンスはなくなる』

 

 トレイルの素顔は誰も知らない。誰かになり済ましてこの中にいたとしても、外見から本人を特定することは困難を極める。アイチューバーたちは除外するとして、いるとすれば人質として捕えられていた一般客の中の誰かなのか。

 

 いや、そう決めつけることはできない。アイチューバーであってもなり済ますことは不可能ではない。もしトレイルが念能力者であり、変装に類する念能力を身につけていたとすれば。ここにいる全員が容疑者となり得る。

 

 このクイズゲームが正解者無しで終了した場合、トレイルを殺すチャンスはなくなると言う。それが具体的にどんな意味を含んでいるのかわからないが、ここでトレイルの正体を押さえることができなければ誰が黒幕か不明のままその人物の自由を許してしまうことになる。いずれにしても取り逃がすことはできない。

 

 味方の中に敵がいる。自分が向ける疑いの目、そして向けられる疑いの目。それらの視線が交錯し、膠着状態が出来上がる。

 

 私たちとは別行動を取っていたサイモンや銀河の祖父、ポメルニもトレイルと入れ替わる機会はあった。ブレードやノアは大丈夫だと思うが……。

 

「何があろうと僕がママを裏切ることはないよ」

 

「恐れることは間違いではない。この状況で軽々しく仲間を信じろとは言えないが、それを承知で言わせてもらおう。吾輩は、君たちを信じている」

 

 ここまで苦楽を共にしてきた仲間にさえ、一抹の不安を抱いている自分の感情に吐き気を覚えた。簡単に揺らいでしまった仲間への信頼に対し、自分を叱責する。

 

 そもそも、トレイルの話が真実であるかどうかの確証もない。トレイルがこの場にいるという前提も、本当か嘘か真偽は不明だ。自分自身が疑われるという状況をわざわざ作るだろうか。本人は別の安全な場所にいて、私たちを撹乱するために嘘の情報を伝えたとも考えられる。

 

 そして現時点で誰が容疑者であるか決定的な証拠もない。これでは犯人を見つけろと言われても無理な話だ。全員の猜疑心を高め、殺し合うように仕向けたかったのかもしれないが、そこまで短絡的な行動を取るほど私たちは浅慮ではなかった。

 

『あれぇ? ちょっと難しかったかな? じゃあ、特別サービスで大ヒントをあげよう。この中に、明らかな異常を示す人物が“二人”いる。ここに来るまでに見てきたものをよーく思い出してみれば、わかるはずだよ』

 

 二人という言葉に、一旦落ちつきかけていた心が再びかき乱される。トレイルは一人ではないというのか。確かに黒幕はただ一人と決まっているわけではない。こうして画面の向こうから話しかけてきている存在もいるのだから想定しておくべきだった。複数犯による共謀があったとすれば、これまでに考えてきた前提がいくつか崩れる。

 

 思わせぶりなことを言って、私たちを混乱させたいだけではないか。しかしだからと言って、ただわからないと思考放棄してよいものか。考えがまとまらず、頭の中がこんがらがってくる。

 

「まぁ、落ちつけ。ゆっくり考える時間はあるべ。一つずつ、互いの認識を確認していくべ」

 

 そこでサイモンが指揮を執った。皆が彼の言葉に耳を傾ける。

 

「まずそもそもの前提として、本当にこの中にトレイルがいるのかという疑問だが……どう思う?」

 

「吾輩は“いる”と思うッスル。全てを嘘と断ずるには手が込み過ぎている」

 

「同感だべ。無類のゲームフリークであるトレイルなら、たとえお遊びでも自分から提供したゲームに手落ちがあることは許せないだろう」

 

 サイモンたちはこのクイズが全くの嘘であるとは思っていないようだ。あくまで推測でしかないが、このクイズゲームには“正解”が存在する。

 

 自分が不利になるような条件を課すことは念能力者であれば特に珍しいことではなく、ルールに則った上で、トレイルは自分の正体がバレることはないと確信しているのではないかとサイモンは言った。

 

「まず、ここにいる全員の情報をもう一度まとめよう」

 

 アイチューバーは、ポメルニ、ブレード、ノア、サイモン、銀河の祖父、私の6名である。

 

 救助された人質は大きく5つのグループに分けられる。

 

 一つ目は銀チームの3人。

 

 二つ目はブレードの弟子であるパーネック。

 

 三つ目はジャック・ハイの知り合いだという少年と、その保護者である母親の2名。

 

 四つ目はサイモンのダンスサークルに属する5名。

 

 五つ目はトレイルから招待されたという3名。

 

 計20人がここに集まっている。

 

「トレイルの特別優待券でここに来た連中は、奴とどういう関係なんだ?」

 

「お、俺たちはネトゲで知り合っただけで……」

 

 オンラインゲームでたまたま一緒に遊んでいただけの関係らしい。トレイルとリアルで会ったことはなく、特別優待券をあげると言われたものの半信半疑だったのだが、数日前に実物が郵送されてきたという。

 

 怪しくはあるが、単に巻き込まれただけとも考えられる。人質の賑やかしとしてトレイルがねじ込んだだけかもしれないが、だからと言って容疑者から外れるわけでもない。この中に犯人が紛れているかもしれない。

 

「なるほど、だいたい分かったべ。犯人の目星もついた」

 

 一通り簡単な聴取を終えたサイモンが放った一言に、全員がどよめいた。これまでのやり取りの中で、何か手掛かりがあっただろうか。思い返してみるも、私には予想がつかない。

 

「ここに捕えられていた人質連中は、俺たちがプレイヤーとして参加させられていたバトルロワイヤルが開始される以前から既に別室へと案内され、隔離された状態にあった」

 

 そのため、彼らがバトルロワイヤルゲームに参加することはなかった。麻酔銃も、リストバンドも受け取っていない。

 

「鍵は、リストバンドだ。プレイヤーである俺たちアイチューバーにもリストバンドは配られていない。だが、この中にそれを入手した者たちがいる」

 

 心当たりのある3人がビクリと体を震わせた。銀チームの三人組、彼らだけは特別優待券を使って会場入りしたわけではなかった。ゲームが始まった後、しばらくしてからこの倉庫に連れて来られた。

 

「ここでトレイルが出したヒントを思い出せ。明らかな異常を示す人物が2人いると奴は言った。この言葉は間違ってはいないが、随分と意地の悪い表現というべきだべ」

 

 サイモンいわく、正確には『異常ではないことが異常』。銀チームの3人、ロック、ペイパ、シーザーのうち、これに当てはまる者が2人いる。

 

「リストバンドに仕組まれた毒によって、これを装着した者は多かれ少なかれ精神的影響を受けている。にもかかわらず、“お前ら”のオーラにはそのわずかな淀みが見られない。つまり、素面ってことだべ」

 

「へっ!? いや小生なんのことだかさっぱり……!」

 

「み、右に同じく!」

 

 サイモンがボキボキと拳を鳴らしながら三人組の方へと近づいていく。重厚に練り上げられたそのオーラを中てられたペイパとシーザーは震えあがっている。

 

「それはどうしてか、考えるまでもねぇべ。つまり、お前らのリストバンドには毒が仕込まれていない。テメェだけは何事もなく無事に済まそうという魂胆だろ。反吐が出るぜ。こんなもん、クイズでもゲームでも何でもねぇ。アホ丸出しで助かったべ」

 

 サイモンの拳にオーラが集まっていく。その殺気だけでペイパとシーザーは卒倒しそうになっているが、サイモンがそこで止まることはなかった。まさか、本気で2人を殺す気なのか。彼の推理には説得力があったが、まだ確証とまでは言えない。

 

「せいぜいあの世で反省するこったな!」

 

「「ぎゃひいいいいっ!」」

 

 止めるべきかと思わず体が前に出かけたとき、私は一瞬だけサイモンと目が合った。標的を見据えているべきこの場面で、普通は彼と視線が交わることはない。明らかに、サイモンは意図して私の方に目をやったのだ。

 

 その目には理知が宿っているように見えた。今にも人を殺しそうな殺気を放っているが、その瞳は冷え切った理性を湛えている。そのアイコンタクトは私だけに向けられたものではなかった。私以外にも気づいた者はいるだろう。

 

 私はサイモンの意図をつかもうと必死に考える。彼は激情に身を任せているように見せかけながらも至って冷静だ。まるで探偵のように得意げに推理を披露したことも、トレイルを挑発するような発言をしたことも全て計算した上での行動だったのではないか。

 

 もし彼の推理が正しかったとすれば何も問題はない。少なくとも“この場にいる”トレイルは排除することができる。だが、うまくいかない可能性の方が高いだろう。そうなったとき、私たちはその後のことを考えなければならない。

 

 サイモンが行動を起こすことで、もしこの場に本物のトレイルやその関係者が紛れているのだとすれば、何らかの反応を示すかもしれない。それこそが敵の正体をつかむ真の手がかりだ。

 

 彼は敵の反応を探るための囮役を買って出た。私たちにできることは、これから起きる出来事の一部始終を見逃さず、どんな些細な変化も正確に把握することだ。私は集中状態に入り、脳の作業を分業化した高速思考を実行する。

 

「オラァ!」

 

 サイモンが放った拳の二連撃がペイパとシーザーを吹き飛ばした。攻撃が当たる瞬間に、殺人的なオーラは穏やかに流れる川のごとく勢いを丸め、殴られた2人のダメージは気絶するのみにおさまった。その切り替えの滑らかさは見事というほかなく、サイモンが念能力者として高い技術を身につけていることをうかがわせる。

 

 結局、殴られた2人は何か反撃のそぶりを見せるでもなく、順当に倒されて沈黙した。

 

「ア、アア……ペイパ……シーザー……ヨグ、モ、ヨクモオオオオオ!!」

 

 その直後、銀チーム三人組のうち1人残されたロックがふらつきながら立ち上がるとサイモンの方へ向かって突進し始める。

 

 彼は他の2人と違ってリストバンドの薬物の影響が現れているように見える。サイモンに襲いかかろうとしている理由については仲間を傷つけられたためと思われるが、まだシロとは言いきれない。彼がトレイルの関係者である可能性はある。

 

 その時のことだった。スピーカーから大音量でトレイルの声が流される。

 

 

 

『ブッブーーーーーー!! サイモン不正解!! キミには罰ゲームをプレゼントだぁ!』

 

 

 

 私は目を離していなかった。目の前の光景をつぶさに捉えていた。そのはずが。

 

 気づけば、サイモンの頭部が消えていた。

 

 



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54話

 

 サイモンの首から上がなくなった。血しぶきが噴きあがる。一つの命が終わる。その光景は、あまりにも無残だった。

 

 これが罰ゲームだと。断じて、そんな言葉で片付けられていい死ではない。

 

 その所業をなした犯人は、キャプテン・トレイルは私たちの前に正体をさらした。その手にはサイモンの首が握られている。ぞんざいな扱いでゴミでも捨てるかのように放り投げた。

 

「惜しかったねィィィ! 途中までの推理は合ってたのにィ! あと一歩、先を読まなくちゃ!」

 

 その人物は、ロック。銀チーム三人組の一人だった。毒に冒されて具合が悪そうにしていたのは演技だったのか。いや、実際にロックは薬物の中毒症状が現れているように見える。そのオーラの変化をサイモンが見逃すとは思えない。

 

 つまり、演技も入っていたのだろうが、薬物も使っていた。赤い結晶とは無関係の、別の麻薬や覚醒剤のような薬を使っていたのだろう。

 

 ロックが犯人だとわかった今なら、仲間である他の二人のリストバンドに毒が仕込まれていなかったわけも理解できる。

 

「は? いやいや、こいつらとはこの会場で知り合っただけの連中だしィ? 名前も適当にアニメキャラのニックネームで呼び合っただけだしィ?」

 

 ロックが毒なしリストバンドを他の二人に配ったわけは、単に自分のそばに精神異常者を置いておきたくなかったという、自分本位の理由からだ。その事実が、一番の精神異常者の口から明かされる。

 

「それにしてもサイモン、クイズに答えるのならちゃんとルールは守ってほしいしィ。僕は言ったよね、『僕だと思う奴を殺せ』ってさ。最後まできっちり仕留めてもらわないと!」

 

 サイモンが気絶させるにとどめたペイパとシーザーに対し、ロックがゆっくりと振り返った。何をしようとしているのか、理解したくない現実が予想できる。その行動に何の意味があるのか。倫理的な抑制も、損得勘定も一切の埒外にある人間から外れた行動。

 

「やめろ!」

 

 それを止めたのはノアだった。彼の能力が発動し、周囲一帯が病魔空間に覆われる。全員が苦痛をあらわにしてその場にうずくまる。最善手とは言い難いが、これでひとまずロック改めトレイルの行動を封じることができたと思った。

 

「うっとうしいィ……」

 

 だが、病魔が支配するノアの空間において、トレイルは平然と立ち上がった。その手にペイパとシーザー、二人の生首を持って。

 

 サイモンのときもそうだった。一瞬にして人間の頭部を奪い取るその能力、いったいどんなトリックを使っているのかわからなかった。が、ここに至り、私はその正体を知ることができた。

 

 トリックでも何でもない。トレイルは標的の首を手でつかみ、それをもぎ取ったのだ。私たちの目では捉えられないほどの速度で。

 

 トレイルの体から発せられるオーラを見てわかった。先ほどまでただの一般人並みとしか思えなかったそのオーラは、莫大な顕在量となっていた。これまでに私が見てきた念能力者とは比較にならない。

 

 これが一個の生物に宿る生命エネルギーとは、とても思えなかった。念法の技量とか、系統や能力の相性とか、観察力とか、戦闘センスとか、そんなものが無意味に思えるほどの圧倒的なまでの次元の違い。

 

 ノアの能力が解除された。彼もまた気づいたのだろう。病魔などトレイルに対して何の妨げにもならない。

 

 勝てない。勝負として成立しない。トレイルが踏み込み、私の首に掴みかかってきたとしても、私は自分の首がなくなった後でしかその事実を認識することができないだろう。それほどの差。

 

 別に威圧されたわけではない。トレイルはただそこに立っているだけだ。それだけでこの場にいる全員が、誰ひとりとして一歩も動けずにいた。

 

「ヒャハ……ヒャハハハハ!! イイィィィその表情! イイイイィィィヨオオオォォォ!! これから始まるんだぁ、『キャプテン・トレイルの殺戮ゲーム』が! “絶対的強者”が“強者”を蹂躙しィ! 嬲りィ! 犯しィ! 殺しィ! 欲望の限りを尽くす、最高のゲームが!」

 

 身の毛もよだつほどの悪意に満ちた人間の姿を私は目の当たりにする。それは人として間違っていると言いたかった。だが、同時に思ってしまう。

 

 これが圧倒的な力を手に入れた人間の素顔ではないか。自分を律する必要がなくなった人間が至る原初。高度な思考と、生物の根本的欲求が混ざり合ったなれの果て。あまりにも醜い獣(ニンゲン)の姿。

 

 その悪意と暴力を前にして、誰も反抗できなかった。ただ一人、私の隣で立ち上がった男を除いては。

 

 ブレード・マックスが進み出る。その一歩は踏み出すというよりも、踏み外すと表現すべきかもしれない。断崖絶壁を前にして足を踏み外すような判断の欠如がなければとても為し得ないような無謀である。なぜ彼は動くことができたのか。

 

「ノア君、何をしている。シックス君を守るんじゃなかったのか?」

 

「へっ、いや、その……」

 

 腰を抜かしていたノアが慌てて立ち上がった。生まれたての小鹿のように覚束ない足取りだったが、それでも何とか立ち上がった。

 

「銀河の祖父殿、あなたの能力と人を導く話術があればここにいる全員を連れて逃げ切れることだろう」

 

「……そうですね。一度は死んだこの命、皆さまのお役に立ててみせましょう」

 

 銀河の祖父がローブを具現化し、それを一般客へと配っていく。トレイルはその行動を止めることはなかった。ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべながら見ているだけだ。

 

「シックス君」

 

 その呼びかけにビクリと震えた。なぜ、動ける。みんな、どうしてこの状況で行動できる。トレイルの気が少しでも変わればあっさりと殺されてしまう。それがわかっているはずなのに。

 

「大丈夫だ。君の覚悟は誰よりも高潔だった。その心がある限り、必ず君のそばに仲間が在り続ける」

 

 ブレードは一歩、二歩と、トレイルとの距離を詰めていく。私はどうしていいかわからなかった。だが、このままブレードを行かせてはならないということはわかる。彼を止めるために立ちあがった。

 

 しかし、歩き出そうとした私の手を何者かがつなぎ止めた。振り返ると、ポメルニが私の腕をつかんでいる。

 

「ヘイ、ブラザー!」

 

 そして、ポメルニはブレードに片手をあげながら呼びかける。いつも通りの陽気な声で、何の緊張感もないような気楽な調子で。

 

「ここは“任せた”ぜ、ブレード」

 

 ただ一つ、サングラスの下から頬を伝い流れ続ける涙だけが、彼らしくなかった。

 

「ああ……“任せろ”!」

 

 ブレードの体から膨大なオーラが湧き起こった。その肉体が音を立てながら変化していく。筋肉が風船のように盛り上がり、見上げるような巨体が完成した。

 

 この技は彼の能力『完全態筋肉武装(ラスト・マックス)』だ。だが、ブレードは一度この技を発動すると、その後24時間は再使用できないと言っていた。それは嘘だったのか。

 

 一時的にとはいえ、オーラによる強化率を5倍に引き上げる能力。追い詰められた状態からでも一発逆転できる強力な技と言えるだろう。その威力を引き出すため自らに課した制約として再使用までの時間を長く取らなければならないのだろうと考えていた。何度でも無制限に使えるというのは都合が良すぎる。

 

 そこで私はある可能性に思い当たった。24時間の再使用制限は、『制約』ではなく『誓約』だったのではないか。制約は能力の仕様上のルールだが、誓約とはルールを守ることに対する誓いである。誓約であれば、意図的にルールを破ることは可能だ。

 

 念は、覚悟によってその威力を増す。自らに厳しい誓いを立て、それを守ることでより強力になる。だが、それと比例して誓いを破ったときに発生する代償もまた大きくなる。

 

「行け! ここは吾輩に任せろ!」

 

 吹き荒れるオーラの力強さは、トレイルに負けていなかった。だがそのまばゆいオーラの輝きは、決して代えの利かない何かを燃やすことで得られた力なのだと気づいてしまった。

 

 

 * * *

 

 

 ――――

 

『いけ! ここは わがはいに まかせろ!』

 

 キンニクゴリラマンが あらわれた!

 

 ――――

 

 テレビ画面に表示されたメッセージを、キャプテン・トレイルは手にコントローラーを持ち構えながら眺めていた。

 

「えー、なんか強くなってない? これヤバくない?」

 

 ゲームのコントローラーを操作して、コマンドを入力。

 

「はい、じゃああと1000万再生数パワー追加しときますか」

 

 

 ――――

 

 ゴリラマンの こうげき!

 

 トレイルは 0 のダメージを うけた!

 

 ――――

 

 

「あー、ちょっと強すぎたかー! 調整、難しいなこれ」

 

 トレイルは自室でゲームをしている。その様子は撮影され、アイチューベ上で生配信されていた。

 

 プレイしているのは8ビット調のレトロゲーム。よく言えば昔懐かしい、悪く言えば時代遅れ。しかも過去にヒットした名作ゲームならまだしも、誰も聞いたことのないような知名度のゲームだった。これで再生数を稼ぐのは厳しいものがある。

 

 しかし、そこはトップアイチューバー、キャプテン・トレイルの名前を出すだけで履いて捨てるほどの視聴者が集まってきた。並みの投稿者では足元にも及ばないほどの再生数を叩き出している。

 

 彼の念能力『キャプテン・トレイルの殺戮ゲーム』は、ゲーム動画を見に来た視聴者からオーラを徴収し集めることができる。1再生から得られるオーラは広告料のように微々たるものであり、徴収された視聴者は全く自覚できない。

 

 そして、集められたオーラはゲームの主人公『キャプテン・トレイル』へと送ることができる。再生数が増えるほどに、そのパラメータは強化可能となる。

 

 この“ゲーム”を作り出すために、彼は自分の人生の全てを捧げてきたと言っても過言ではなかった。

 

 トレイルは、至って普通の家庭に生まれ、特に変わったこともない普通の幼少時代を過ごした。ただ、彼の家庭はあまり裕福ではなく、ほしいものを買ってもらえる機会は少なかった。彼はその頃、テレビゲームが欲しくてたまらず、何度も親にねだった。

 

 そんな息子のために父親は知り合いを訪ねて回り、何とか古いゲーム機を譲り受けた。九歳の誕生日にプレゼントされたその感動は、今でも忘れられない思い出だ。

 

 何世代も前の古いハードに、たった一本しかないゲームソフト。トレイルはそのゲームを友達と一緒に遊び倒した。何度クリアしたか覚えていない。見なくてもプレイできるほどやりこんだ。

 

 そのソフトはロールプレイングゲームだった。主人公は勇者であり、世界の敵である魔王を倒しに行く。何のひねりもない王道ストーリー。ただ、発売当時にしては比較的自由度の高いプレイが可能と評価され、そこそこ売れたタイトルだった。

 

 主人公はモンスターを倒してお金を稼いだり、レベルを上げたりできる。困っている人を助けて貴重なアイテムをもらうこともある。

 

 他人の家に上がり込んで盗みをはたらいたり、何の罪もない町人や旅の仲間を殺すこともできた。しかし、ストーリーに分岐はなく、エンディングは一つだけ。魔王を倒した勇者は英雄として讃えられ、末永く幸せに暮らしたというもの。

 

 彼はこのゲームの全てのイベントを何度もプレイした。機械のように来る日も、来る日も。それが『キャプテン・トレイル』の原点だった。

 

 彼はゲームの主人公になりたいと願うようになった。勇者のように『悪者を殺して』『金を手に入れ』『レベルを上げれば』主人公になれるのではないかと考えた。そして、それを実際にやった。

 

 べったりと血のついた金属バットを握りながら死体の前でたたずんでいた彼は、ようやくこの現実がゲームとはかけ離れた世界であることに気づいた。だが、その決して重なることのない二つの世界の狭間に取り残された彼は、元の場所に戻ることができなくなっていた。

 

 ゲームと同じことを現実でやっても全然楽しくない。作られた世界の中で、主人公に自分を重ね合わせてなりきるからこそ、虚構の物語を楽しむことができたのだ。彼はどうすれば現実と虚構、二つの世界を両立できるか考えた。

 

 その狂気的思考の果てに作り出された念能力こそ『キャプテン・トレイルの殺戮ゲーム』である。彼はこの制作にあたって『グリードアイランド』というゲームに大きな影響を受けた。

 

 念能力者が作ったゲーム。その入手困難さから彼はグリードアイランドをプレイできなかったのだが、『念』によってゲームを創造するという着想を得た。

 

 念によるゲームプログラムの構築、システムの維持に必要なエネルギーを外部から徴収するメソッド、そして最も重要な『主人公とプレイヤーの感情同期』システム。これにより、プレイヤーは自己意識を明確に保ちながらも、より深くゲームキャラに感情移入することができる。ゲームキャラもまた、安心してプレイヤーに操作を委ねることができる。

 

「ああ、これだよこれ……ボクがやりたかったゲームはこれなんだ……!」

 

 トレイルは身を震わせながらコントローラーを握りしめていた。幼き日に受け取った誕生日プレゼントにも勝る感動が、彼の全身を駆け巡っていた。

 

 今の時代、ゲームの技術も格段に進歩している。まるで本物と見間違うばかりの精巧なグラフィック、美しい音楽、高クオリティのゲームが溢れ返っている。それらは確かに素晴らしい。今の時代に生まれた子供たちからしてみれば、旧世代の名作などプレイするだけ時間の無駄と思う程度にしか感じないかもしれない。

 

 だが、飽和するタイトルに埋もれていくほど、トレイルは強く幼少時代の記憶を思い出した。授業が終わり、放課後になると彼は走って自宅に帰った。そして荷物を放り出し、テレビの前でゲーム機のスイッチを入れる。

 

 そこから始まる8ビットゲームの世界は、彼を壮大な冒険の日々へと導いた。想像力が世界を生み出した。心の底から『勇者』になりきることができた。そして今、彼は再びその感動の中にいる。トレイルは少年のように目を輝かせてゲームに没頭していた。

 

 

 ――――

 

 トレイルの こうげき!

 

 ゴリラマンに 1780 のダメージ!

 

 ゴリラマンを たおした!

 

 ――――

 

 

「はは……はははは……あははははははは!!」

 

 敵グラフィックの首が落ちる。チカチカと点滅して敵グラが消えてなくなった。映像に現れた変化はそれだけでしかなかったが、主人公と感情がリンクしたトレイルの脳内では神経伝達物質が異常分泌され、常軌を逸した快感に冒されていた。

 

 彼はこの素晴らしいゲームをプレイできる喜びに浸りながら、感謝する。ここまで開発を進めるために、多くの人間の協力があった。決して一人では為し得ない道のりだった。

 

 『キャプテン・トレイルの殺戮ゲーム』は相互協力型(ジョイントタイプ)の念能力である。トレイルはプログラムの主軸を担っているが、彼一人ではこの能力を実行することができない。トレイルの理念に感化された同志たちが自らの『発』を供出してまでメモリの不足を補い、試行錯誤の末に形作られた一大プロジェクトだった。

 

 何人もの開発者のオーラが組み合わさり、複雑怪奇に入り乱れながら電脳世界上に構成された念術式は難攻不落のセキュリティを持つ。どれだけ優秀なネットポリスだろうとハッカーハンターだろうと、現状においてこのプロテクトを突破する手段はない。

 

 ミルキーに船のメインシステムをハッキングされたときは予想外の事態に少し焦ったが、あれはまだゲームが起動される前の状態だった。こうして無事にゲームが起動された今となっては、いかなる外部からの干渉も受け付けない。

 

 当初予定されていたオフ会の進行計画からは大幅な変更が生じていたが、むしろそのハプニングはゲームを盛り上げるスパイスとなった。トップアイチューバーと観客2000人を巻き込んだ『デスゲーム』は、トレイルがプレゼンする『殺戮ゲーム』へと移行する。

 

 どれだけルートを逸れようと、エンディングに変更はない。大量虐殺(ハッピーエンド)ただ一つ。

 

 トレイルが企画したこの大事件はなぜ実行することができたのか、その莫大な資金はどこから調達したのか。巻き込まれた多くの被害者がこの事件の意味について考えたことだろう。その真相は、馬鹿馬鹿しいほどに幼稚で低俗だった。

 

 見たかったからだ。人がその尊厳を奪われてゴミのように死んでいく。その光景を、安全なモニターの向こう側から“ゲームを観賞するように”。それだけのために、何百億、何兆という金を平気で浪費できる。そんな各界の有力者がトレイルを支援し、このデスゲームの映像をリアルタイムで視聴していた。

 

 それこそが贅に飽き、欲望の限りを尽くした人間の行きつく先、人の根源たる欲求、ゆえにトレイルは自らの能力を『殺戮ゲーム』と名付けた。そのジャンルこそが全ての娯楽の終着点だと確信した。

 

 このゲームは開発途中である。まだまだコンシューマー版を発売するにはクリアすべき課題が山のようにあった。

 

 だが、いずれ多くの人々がこのゲームを手にする時代が来るはずだとトレイルは夢想する。授業を終えた学生が、仕事上がりの会社員が、余生を過ごす老人が、気軽に“ゲーム”に興じる時代が来る。

 

 そしてプレイヤーの数だけ存在する主人公、『キャプテン・トレイル』は史上最悪のヒーローとしてその名を歴史に残すことだろう。

 

 このオフ会は祝砲だ。世界に知らしめよう。新たな時代の幕開けを。

 

「勇者トレイルの誕生を!」

 

 

 ――――

 

『…………』

 

 ――――

 

 

「ん? こいつは確か……」

 

 ゲーム画面に変化があった。ゴリラマンとかいう敵を倒した直後、逃げ初めていた敵の軍団から一人が引き返してもどってくる。ドット絵のグラフィックでは判別が難しかったが、おそらくアイチューバーの一人、シックスだと思われた。

 

 彼女の扱いについてはトレイルも少々気をもんでいた。というのも、大口のスポンサーから色々と注文が入っていたからだ。

 

 トレイルを支援している闇社会の有力者たちにも様々な立場がある。トレイルの理念を全面的に応援してくれる者もいるが、彼のゲームシステムを武力転用したいだけの者など、一言に支援者と言っても全員の目的が完全に一致しているわけではない。

 

 このゲームシステムは今後の開発次第で革命的な武力装置となる可能性を秘めていた。戦争の常識すら一変しかねないほど強力な念能力である。だからこそトレイルが滅茶苦茶な企画を通しても擁護してもらえるのだが、それだけに様々な支援者の思惑が錯綜することもある。シックスに関する注文をつけてきた支援者もその一例だった。

 

 トレイルも、そのスポンサーがマフィアの関係者であるということ以外は素性をよく知らなかった。2週間ほど前、新開発された薬物の大量臨床実験をゲーム内容に組み込んでくれとお達しがあったのだ。

 

 依頼主からしてみれば、どうせ大勢人が死ぬのだからついでに実験をねじ込んでも構わないだろうという程度の認識しかなかったと思われる。その頃には綿密な計画の立案が既に完成していたため、トレイルとしては断りたかったがスポンサーの意向には逆らえなかった。

 

 それは特殊な鉱物から精製されたという。原石を粉砕することでガラス繊維状の粒子となったその鉱物は、皮膚に触れると体内に毒が侵入する。そして中毒状態となった患者は、ある特定の周波数の電波を浴びせることで毒物が活性化し、急激な生命力の変化をもたらすらしい。

 

 『人類を進化させる新薬』だの『念能力を次の段階へと押し上げる』だの、トレイルはそのうさんくさい実験内容について信用はしていなかった。だが結果を見てみれば、あながちその説明が全てデタラメだったとは言い切れない。まだ安全な実用段階にはほど遠いが、一定の成果はあったと言えるだろう。

 

 そしてその薬物について、なぜかアイチューバーのシックスが何らかの情報を握っているらしくスポンサーから殺すなと釘を刺されていた。では、仲間としてこちらに取り込んで保護すべきなのかと思ったのだが、殺さない程度に痛めつけろと難題を指示される。

 

 結局、銀チームの中に『トレイル』を一人忍ばせておき、状況に応じてシックスを守りながらも彼女を追い詰める作戦を立てたのだが、相次ぐ予想外の事態の連続に計画は変更され、今の形に落ち着いたのだった。

 

「どうしよっかなー。うまく手加減できればいいけど」

 

 今回のオフ会は『殺戮ゲーム』の初の本格的な実用試験でもあった。そのため、能力による主人公の強化感覚がまだ正確に把握できていないところがある。おそらく仲間を殺されたことに腹を立てたシックスが報復に来たものと思われるが、下手に迎撃すれば殺してしまう恐れもあった。

 

 しかし、そこは操作キャラであるロック自身の意思でも力加減の調節は可能だ。彼も事情は知らされているため、ここでシックスを殺すことはないはず。トレイルは操作キャラに加減を任せることにした。

 

 だがその判断は次の瞬間、全く無用の心配であったと彼は気づくことになる。

 

 

 ――――

 

 まおうが あらわれた!

 

 ――――

 

 

 全身の血が凍る。そう感じるほどにトレイルの体は硬直した。股の間に温かな感覚が流れる。失禁。長時間のゲームプレイにより小便を我慢していた彼の膀胱はなすすべなく決壊する。

 

 だが、その痴態に気を取られている暇などなかった。彼は垂れ流しながら最速でコマンドを入力し、あるだけ全ての再生数をオーラに変えて操作キャラを最大まで強化した。

 

 トレイルが今感じ取っている恐怖は、操作キャラであるロックと全く同じ感情である。つまり、敵と相対しているロックがシックスに対してそれほどの脅威を抱いていることになる。

 

 テレビモニターの映像はフィールド画面からエンカウント画面に切り替わっている。敵の姿を現すドット絵のグラフィックが画面中央に表示されていた。

 

 白い髪の少女らしき敵影は、ボロボロに崩れた赤い鎧のような装備を身に纏っている。それ以上のことはわからない。敵の名前については本名ではなく操作キャラの主観から適当に選別されて命名される仕組みになっていた。

 

 本当にこれはシックスなのか。これが念を覚えたての少女の威圧だと言うのか。不吉な名を冠した敵を前にして、トレイルの頭にはいくつもの疑問が浮かぶ。だが、逆に言えばそれは余裕のあらわれでもあった。

 

 トレイルは操作キャラと感情を共有しているが、実際に現場で敵と対峙しているわけではない。彼にとってこれはあくまで『ゲーム』。レベル違いの強敵を前にしてゲームの主人公が怯むことのないように、トレイルは異様な敵の威圧を受けながらも冷静に行動を取ることができた。攻撃コマンドを入力する。

 

 

 ――――

 

 トレイルの こうげき!

 

 ミス! まおうは 0のダメージ!

 

 まおうの カウンター!

 

 トレイルは 4800 のダメージ!

 

 ――――

 

 

「え……?」

 

 ぐしゃりと何かを叩きつぶされたような感覚が走った。当然ながら、ゲーム内で主人公が攻撃を受けたからと言って、プレイヤーにダメージが入るわけはない。

 

 その常識を覆される。パキパキと右腕から音がした。長袖シャツの下でうごめく硬質な何か。その直後、彼はいまだかつて味わったことのない苦痛を体内に流し込まれた。

 

「いっ……いたっ……あ、あぐああああああ!?」

 

 ふかふかのソファから転げ落ちる。喉が潰れるほどの絶叫を上げながら、テーブルとソファの狭い隙間をのたうち回った。

 

「イヒッ、イヒイイイイイ!!」

 

 気がつけば自分の唇を噛みしめていた。肉をすり潰す勢いで唇を噛み、口からおびただしい量の出血を起こしている。その痛みで、腕の痛みをごまかそうとしていた。それほどの苦痛を超えた苦痛。彼が何をしたところで微塵も薄まることはない。

 

 彼の右腕からは服を突き破って赤い多肉植物が生えていた。根が張っていく。彼の体内を侵食していく。血管に沿うように、毛細血管の末端に至るまで、丸ごと根っこに置き変わっていく。

 

 自分の念能力までもが侵食されていることがわかった。『殺戮ゲーム』は機能停止に陥り、動画の配信も途切れている。もう視聴者からオーラを徴収することもできない。何年もの歳月をかけて作り上げてきたプログラムが瞬く間に破壊されていく。

 

 体中から小さな赤い植物がぽこぽこ生えている。死んでもおかしくない、死ななければおかしい状態だった。だが、彼は生かされていた。生きたまま、逃げ場のない痛みを与えられ続けた。

 

 彼の体内から滾々と湧き出る生命の泉が命をつなぎ止めていた。眼球からも植物が生え、何も見ることはできない。だが、彼の頭の中では異常なほどの大音量で、ピコピコとチープなゲームのBGMが流れていた。

 

 

 * * *

 

 

 どれだけの時間が経ったのだろうか。トレイルが目を覚ますと、テーブルとソファの隙間に挟まったまま倒れている状態だった。

 

 急いで自分の体を確認する。どこにも異常は見られなかった。赤い植物はどこにも生えていない。腹の底から空気を吐き出すように深いため息をつく。

 

 あれは夢だったのだろうか。自らの肩を抱き、震えながらすすり泣いた。思い出すことも脳が拒否するほどの体験だった。ただ普通に生きていられる、これまでと変わりない自分に戻れたことを心の底から感謝した。

 

 ふと顔を上げるとテレビのモニターが目に入った。

 

 

 ――――

 

 アナタハ ダレ?

 

 ナマエヲ ニュウリョク シテクダサイ

 

  ̄  ̄  ̄  ̄

 

 ――――

 

 

 かすみがかかったように、意識がぼんやりしている。彼は特に深く考えず、コントローラーを操作して自分の名前を打ち込んだ。いつものようにゲームをプレイすることで、ひどく不安定な状態の精神を落ちつけようとしていた。

 

 

 ――――

 

『おお! ゆうしゃトレイル! まっていたぞ! まおうをたおし せかいに へいわを とりもどしてくれ!』

 

 まおうが あらわれた!

 

 ――――

 

 

 テレビに表示されたエンカウント画面を見て心臓が縮み上がる。口内の唾液が一瞬にして蒸発してしまったかのように喉が渇いた。その分の体液が汗となって全身から噴き出す。

 

「くっ、クソゲーだろこんなの……こんなゲームはよぉ!?」

 

 

 ――――

 

 たたかう

 ぼうぎょ

⇒どうぐ

 にげる

 

 ――――

 

 

 彼の『殺戮ゲーム』におけるバトルシステムはターン制ではない。コマンドを入力しないまま、もたもたしていると敵が先に攻撃してくる。現実において操作キャラは実際に戦っているのだ。しかし、さっきと同じように攻撃を仕掛けて大丈夫なものか。迷いが生まれた彼は、他の選択肢について検討してみる。

 

 

 ――――

 

 どうぐ

 

⇒タネ     タネ

 タネ     タネ

 タネ     タネ

 タネ     タネ

 

 ――――

 

 

 道具欄いっぱいに詰まっている謎のアイテム。一か八か使ってみようかと思うも、選択する勇気が湧かない。敵に先制を取られるかもしれないという焦燥感と、うかつに攻撃すべきではないという煮え切らぬ決心が、『ぼうぎょ』という中庸的選択を彼に取らせた。自分自身、それが悪手であると理解しておきながら。

 

 

 ――――

 

 トレイルは まもりを かためた!

 

 まおうの こうげき!

 

 トレイルは 6950 のダメージ!

 

 ――――

 

 

 そして繰り返す。

 

 

 * * *

 

 

 死を渇望するほどの絶望を越え、彼は再び目を覚ました。ソファとテーブルの間に挟まったまま、彼は立ち上がる気力すら湧かなかった。

 

「もういやだ……いやだ……!」

 

 カーペットの埃の臭いに顔をうずめながら彼は泣いた。部屋の中には耳障りなBGMが鳴り響いている。テレビにはゲーム画面が表示されていることだろう。彼はコントローラーを手に取ることすら拒絶していた。

 

 ピッ ピッ

 

 そうしていると、BGMの中にかすかな異音が聞こえた。それがコマンドを入力したときに鳴るSEだと気づく。彼は顔を上げてテレビ画面を見た。

 

 

 ――――

 

 アナタハ ダレ?

 

 ナマエヲ ニュウリョク シテクダサイ

 

⇒シ ッ

  ̄  ̄  ̄  ̄

 

 ――――

 

 

 彼はコントローラーに触れていない。にもかかわらず、画面上では名前欄が文字で埋まっていく。

 

 

 ――――

 

 アナタハ ダレ?

 

 ナマエヲ ニュウリョク シテクダサイ

 

⇒シ ッ ク

  ̄  ̄  ̄  ̄

 

 ――――

 

 

 彼は漠然とした不安に襲われた。このまま放置しておけば恐ろしいことが起きる。なぜかわからないが、そう思った。急いで入力し直す。たった四文字の入力なのに、その操作は遅々として進まない。

 

「あれ……なんだったっけ……?」

 

 

 ――――

 

『おお! ゆうしゃ レ ル! あなたは ダレ? ナマエヲ ニュウリョク シテクダサイ』

 

⇒      が あらわれた!

  ̄  ̄  ̄  ̄

 

 ――――

 

 

「もういいっ! もうたくさんだ!」

 

 

 ――――

 

 たたかう

 ぼうぎょ

 どうぐ

⇒にげる

 

 ――――

 

 

「やめてくれ……たのむ……」

 

 

 ――――

 

       は にげだした!

 

 しかし にげられない!

 

 ――――

 

 

「だれか……たすけ……」

 

 

 ――――

 

      の こうげき!

 

 ――――

 

 



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55話

 

 なにが『救済の力』だ。

 

 また、私は誰も救えなかった。ブレードを救いたいと思ったのは彼が死んだ後になってからだ。手遅れにもほどがある。だが、私はそれを本気で願い、力を手にした。

 

 わかっていたはずだ。この力は何かを壊すことしかできない。それを使って私は敵を殺した。復讐という自分のためだけの理由を振りかざした。怒りに我を忘れ、ただ敵を殺したいという単純な感情に囚われた。

 

 いや、それは復讐ですらなかった。私は逃げたのだ。

 

 ブレードから教わったはずだ。人を殺すということが、どれだけ重い覚悟を伴うか。その責任から目をそらし、自分の体を明け渡した。力に支配されることを自ら望んだ結果だった。

 

 その代償を、私は噛みしめている。あれほど私を苦しめていた激情が、まるで湧いてこないのだ。さっきまでの自分が嘘のように心は痛みを忘れていた。

 

 仲間を失った悲しみとは、私にとってその程度のものだったのか。敵をいたぶり殺し、憂さを晴らせば消え去るほどのちっぽけな感情でしかなかったのか。ブレードの命とは、彼が私たちに託した思いとは、そんなくだらない行為で報われるようなものだったのか。

 

 そんなはずがないと、いくら自分に言い聞かせたところで、もう私の心には慙愧の念すら残っていなかった。自分のことではなくなったかのように。

 

 私はまた一つ、私を失った。

 

 立ち上がり、歩き出す。暗い通路を当てもなくさまよう。恐怖心はなかった。あるのは自棄だけだ。為すがままに道を進み、やがて扉にたどりついた。

 

 重い鉄の扉を開く。生温かい外気が流れ込んできた。空には月が浮かんでいる。銀の光が色を塗りつぶし、目に映る光景は白と黒の二つに分かれた。

 

 やはり、ここは船の上だった。タンカーのような大型船の甲板に出る。船は死んだように停泊していた。周囲には海しかない。

 

「お待ちしておりました」

 

 そして、私の前に『私』が現れた。銀の髪を持つ少女は、私の前に歩み寄るとうやうやしく礼を取る。

 

「さて、何からお話ししましょうか。と言っても、残念ながらあまり長く時間は取れません。聞きたいことがありましたら、私に答えられる範囲でお答えします」

 

 ここはどこ?

 

「ここはあなたの夢の中。意識と無意識の境界点。目が覚めれば忘れてしまう幻のように、ここで見聞きしたことはあなたにとって自覚されるべきものばかりではありません。本当なら全てを包み隠さずお伝えしたいところですが、私の口からそれを語ることは女王の法に抵触するためお許しください。こうして彼女の目を盗み、束の間の会談を開くことも、本来なら許されることではないのです」

 

 あなたはだれ?

 

「私は『騎士』の位階を得た自我です。名を、ルアン・アルメイザと申します。名目上は、あなたの直属護衛軍になりますね」

 

 スマートフォンにメールしてきた人?

 

「はい。あのような不完全な形でしか伝達できず申し訳ありません。私は電子情報処理と電波操作に長けた能力をもっていまして、それを使って何とか現実世界のあなたと意思疎通を取る手段を探っていました。念が使える生体コンピュータのようなものだと思っていただいて結構です。ミルキー戦の最後に起きたバグも私がやりました。そこで力尽きて、その後はあまり助力できませんでしたが……」

 

 赤い植物のようなものも、あなたの仕業?

 

「いいえ。あれは我々が保有するウイルス、のようなものです。本来なら女王がその活動の一切を停止させていたはずなのですが……ある問題のせいで現在は中途半端に活動している状態です。そこに人間が目をつけて余計な研究を始めたせいで、今回のような騒動に発展してしまったようですね」

 

 女王とは、だれ?

 

「この群れの長です。それ以上のことは」

 

 

 

 ガクンと足元が揺れた。低く唸るような汽笛が海を震わせる。停泊していた船がゆっくりと前進し始めた。

 

「最後にお伝えしておかなければならないことがあります」

 

 モノクロの視界が赤く色づいていく。船の至るところから赤い多肉植物が生え、急激に成長して肥大化していく。

 

「『騎士』の位階を持つ自我は、この群れに三人存在します。一人は私、そしてもう一人の名は『カトライ・ベンソン』。彼はこの夢の深層心理において女王の守護を任されているので、あなたとこうして話をする機会はないでしょうが、善良な存在です。何も心配いりません」

 

 ルアンと名乗る少女は、急変する船の上で微塵の動揺も見せなかった。その世界を当たり前のことのように受け入れている。

 

「最大の問題は三人目の騎士です。奴は、この群れにおいて最も古い起源を持ち、それゆえに強固な自我を有しています。あなたも一度、会っているはずです。私と同じように会談している」

 

 私の脳裏に浮かんだのは、この夢を初めて見たとき出会った少女だ。私と同じ姿をした少女、しかしルアンとは別の存在であることがわかる。もっと幼稚で、夢想家で、利己的な正義感しか持たず、力に飢えた存在だった。

 

「奴の名は『モナド』。この世を自分の空想が生み出した物語の世界だと心の底から信じている狂人です。あなたも薄々、気づいているでしょう。奴の能力によって、あなたは一時的にこの群れの力を使うことができますが、その代償として自我を取り込まれていく。モナドの目的は王位簒奪です」

 

 船上はおびただしい数の結晶が育っていた。ルアンの体が赤い植物の成長に巻き込まれていく。

 

「奴は、このウイルスの感染拡大を何とも思っていません。むしろ、助長しています。今回の能力行使によってネットを経由し、何十万人という数の人間が感染する恐れがありました。幸い、電脳戦は私の得意分野でしたので被害は最小限に食い止められましたが……」

 

 一歩間違えば、人類はその身を滅ぼしかねない大きな病巣を抱えていることに気づいたかもしれない。目をそらすことも許されない痛みを伴って。

 

「もう二度と、その力を使ってはなりません」

 

 そう言い残し、ルアンは結晶に取り込まれる。ほどなくして私もまた、赤い牢獄に閉じ込められた。

 

 

 * * *

 

 

 スカイアイランド号ハイジャック事件の終息から三日が経過した。その捜査管轄は現地当局から世界治安維持機構へと速やかに委託され、情報統制が敷かれてしまったため不明な点が多い。しかし、こういったことはよくあることらしい。

 

 騒がれたのは報道された初日がピークであり、今では他のニュースに紛れる程度の話題となっていた。てっきり未曾有の大事件として大々的に取り上げられるのかと思いきや、世間的には私が思っていたよりも大したことのない騒動だったのかもしれない。

 

 あの事件の夜、力を使った私が意識を取り戻したとき、既に私は飛行船から脱出していた。船があると思われる場所から少なくとも数千キロ離れた隣国で目を覚ました。どうやって海洋上を飛行していた船からそこまで移動したのか、記憶はなかった。

 

 意識を取り戻したのが事件発生から二日目の朝である。ひとまずポメルニをはじめとする数人のアイチューバーの無事をネットニュースで確認できたので、それ以上の事件の顛末を詳しく知りたいとまでは思わなかった。

 

 もう、興味のないことだ。

 

 ここは見晴らしの良い草原地帯だった。広大な自然保護区に指定された場所であり、近くに人は住んでいない。シックスは小脇に虫本体を抱えながら、のどかな日差しの下を歩いていた。

 

 以前とは少し変化した点がいくつかある。その一つが本体のサイズだ。明らかに大きくなっていた。以前は何とか服の中に隠せるくらいの大きさだったが、今ではラグビーボールくらいになっている。

 

 力を使った後、目覚めたときには既にこの大きさになっていた。まるで脱皮したみたいに急成長している。今まで使っていたぬいぐるみでは中に収まらないサイズになっていた。まだ何とか隠して持ち運べる大きさだが、今後も成長が続くようなら別の手段を考えないといけない。

 

 草原の中に斑を描くように、鮮やかな紫色の花が混ざり始めた。その原っぱの先、丘を越えた向こうを見れば、一面に紫の絨毯が広がっている。それは一見して美しい光景に見えた。だが私はその花に、何かすっきりとしない印象を受けていた。

 

 どこかでこの花を見た気がする。確か、何かの動画で紹介されていたような覚えがあったが、具体的には思い出せない。検索してみようかと、私はスマートフォンを取り出して電源を入れた。

 

 このスマホも大きく変わった点の一つだった。以前はシンプルなシルバーのデザインだったのだが、事件以後その外観は赤色に変わっている。背面のカバーには青白く発光する回路のような模様が描かれていた。

 

 どうしてデザインが変わったのか原因は不明である。ただ、なんとなくルアンの仕業ではないかと予想している。少し不気味だが、機能は以前のままだった。使用契約がいつ打ち切られるとも知れないが、とりあえず使えるうちはこのまま使っていこうと思っている。

 

 この三日間、一度も充電していないのにバッテリーが減っている感じがしないことを疑問に思いつつ、電脳ネットからアイチューベのホーム画面を立ち上げる。マイページを確認すると、これまでに自分がアップしてきた動画が何本も並んでいた。その画面を見て私が抱いている感情こそ、最も大きな変化と言えるかもしれない。

 

 どれを見返しても琴線に響かない。どうしてあれほど夢中になって動画を作り、アイチューバーになりたいと思ったのか。

 

 その問いに対する答えはあるのに、それが自分の出した結論だと思えない。まるで夢から覚めたように、私を突き動かしていた衝動はなくなっていた。

 

 記憶がなくなったわけではない。動画を撮影した日々も、アイチューバーになって関わってきた人たちのことも、全て思い出せる。なのに。

 

 それは読後感に似ていた。物語は読了された。私がやってきたことも、あの船で起きたことも、私の中で完結してしまった。だから今の私には“その先”がない。閉じた本をもう一度開き、書かれた文字を読み直すことしかできない。

 

 私は連絡先リストを開いた。電話帳に記録されている名前は二つしかなかった。ポメルニと、ルアン・アルメイザ。リスト外からの通信は全て着信拒否される設定になっており、そして二人のうちポメルニからは何度も着信が入っていた。

 

 だが、私は一度も応答していない。

 

 なぜか、それはとても恐ろしいことのような気がした。電話口の向こう側から、彼は私に何を語りかけるのだろうか。そして私はその言葉に何を感じるのだろう。何を、感じることができるのだろうか。

 

 だから、これで良かったのだと思う。

 

 私はリストからポメルニの項目を削除して、スマートフォンをしまった。ぼんやりと滲む陽光の中、花々が咲き乱れる草原を歩き続ける。風に揺れる紫の草原は波のように濃淡を描いている。その様子を見ていたとき、ふと私は思いだした。

 

 その花の名前はシシキソウという。旺盛な繁殖力と生命力を持ち、ひとたび蔓延れば原生植物を駆逐してしまう侵略的外来種に指定されていた。

 

 原産地は別の大陸だが、人間の活動によって種子が海を渡り、世界的に生息域を広げた植物である。この植物に限らず、外来種が生態系に著しい変化をもたらす事例は数え切れないほど存在している。

 

 ブレード・マックスの動画で紹介されていた。絶景ハンターである彼は、その紫色の花畑を美しいとも醜いとも評さなかった。それは一つの命の在り方であり、それ以上でも以下でもないと彼は言った。

 

 進化の過程で、生物は何万年、何十万年という時間をかけて現在の生態系を作り上げた。その中で数多の種が生き残るために戦い、あるものは繁栄し、あるものは絶滅した。

 

 外来種がもたらしている変化も、その本質は変わらない。ゆっくりと気が遠くなるほどの時間をかけるか、瞬く間に変化を遂げるか、それだけの違いなのだと。原生種も外来種も、そこに関わった人間も、それぞれがよりよく生きようとして起きた結果である。

 

 大切なことはその事実を受け止めて、どうしていくべきかを考えることにある。その先にある選択が善か悪か、正か誤か、終わりがあるのかも定かではない。それでも一つの答えにとどまらず、考え続けていくことが大切なのだと、ブレードは言っていた。

 

 記憶の中に、鮮明に残されていた彼の言葉に私は戸惑いを覚えた。なぜこれほど印象に残っているのだろうか。だがそれは、忘れてはいけない言葉であるような気がしていた。

 

 読み終えた本の“その先”を想像するために。

 

 








王直属の三騎士……

『知』の ルアン
『技』の カトライ
『力』の モナちゃん


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番外編:シックスのワイルドクッキングPart2

おまけの番外編です。時系列はオフ会前になります。次話から新章に入る予定です。


 

「シックスです」

 

 ついにこの時が来た……人気のない公園の一角で、カメラは静かに自動撮影を開始した。今から取り行う撮影は、私がこれまで封印していた禁断の領域、『料理動画』である。

 

 第一回の料理動画は忘れもしない。私の初投稿動画にして目を覆いたくなるほどの大惨事を巻き起こしたトラウマだった。そのタブーに、なぜまた挑戦しようとしているのかというと。

 

 ファンの要望である。何がそこまで君たちを駆り立てるのかと疑問に思うほどの熱烈な要望が数多く寄せられていた。第一回の料理動画は大失敗に終わったはずだ。はっきり言って見どころなどない。にもかかわらず、私が投稿した動画の中では断トツの再生数を誇っている(転載動画だが)。

 

 最初は、どうせ他人の失敗を馬鹿にしたいだけだろうと思っていた。しかし、確かにそういう思惑もあるのだろうが、それだけではないように思えてきた。馬鹿にしているけど、同時に好ましく思っている……なんと表現していいかわからないが、そんな感じのニュアンスが多分に含まれている気がした。

 

 ファンの期待に応えることもアイチューバーの務めである。私も日々、アイチューバーとしての成長を遂げているのだ。野生動物との体当たりふれあい動画も一定の人気を博し、自分のスタイルというものが確立しつつある。

 

 ここで第二回料理動画を成功に導くことができれば、私のアイチューバースタイルに新たな方向性を加えることができるかもしれない。視聴者層の新規開拓のためにも、過去の失敗に囚われず、新たな挑戦を重ねていくことが望ましい。

 

 そのために満を持して企画した料理動画の第二弾である。そして断言しよう。アイチューベのアの字もわからなかったあの頃の私とは違う。この日のために考え抜いた数々のシミュレーションと、動画投稿者として身につけたスキルをもってすれば失敗はあり得ない。

 

 100%勝つ。その意気込みをカメラに向け、ビシッと指さした。このシーンは後でカットしておこう。

 

 ではさっそく本日紹介する料理を発表しよう。ずばり、キノコ料理である。しかも、ただのキノコではない。私は手元にある大きな青いキノコをカメラに見せつけるように掲げた。

 

 これは昨日、私が森で採取したものである。今の季節は冬、キノコのシーズンとは程遠い。だが雪が降り積もる森の奥地で、一本だけ大きく育ったこのキノコを発見したのだ。傘の直径だけでも10センチは軽く超えていた。

 

 珍しかったのでとりあえず持って帰り、ネットで調べてみたところ『ヒョウゲツタケ』という種であることがわかった。なんでも極寒の環境下でのみ生育するキノコらしい。美食ハンターも追い求めることがある幻の食材で、市場に出回ることはまずないという。

 

 事前に知っていれば森に入るところから採取に至るまでの動画を作れたのにと悔やんだが、それは高望みが過ぎるというものだろう。そんな経緯で今回の企画が実現したというわけだ。

 

 滅多に手に入らない幻のキノコ。この存在だけで今回の料理は成功が約束されたと言って過言ではない。それほどの高級食材ならどんな調理をしたところでうまいに決まっている。だが、私はそこで慢心しなかった。

 

 このご時世、ネットでさっと検索すれば素人にも簡単に作れるお手軽レシピが溢れている。それをいくつか見て回り、組み合わせればアレンジの数は無限。私は用意してきた食材をまな板の上に並べ、サバイバルナイフを取り出した。

 

 まず、主役のキノコは柄の部分を切り取る。切り取った柄は食べやすい大きさにカット。そして、下処理して軽く火を通しておいた小ぶりのエビ、ホタテと合わせてプラ容器に入れる。それらの食材をチーズ、刻んだニンニク、鷹の爪、塩コショウで味付けする。

 

 ここで残しておいたキノコの傘部分をひっくり返して皿代わりに使う。無駄に高所からオリーブオイルを投下。たっぷりと注ぎこんだところに、先ほど合わせた具材を乗せていく。そして、最後の仕上げにバターを乗せる。

 

 ミノール牧場産手作り風グラスフェッドバターを、山盛りとなったキノコ皿の上にこれでもかと積み重ねる。あとは焼くだけだ。こぼさないように慎重な手つきで、卓上コンロの上へと運ぶ。

 

 このコンロは第一回料理動画で使ったものである。もう一度日の目を見ることになるとは思わなかったが、捨てるのも忍びなく山中の仮拠点に保管していた。感慨深い思いに浸りながら、いざ点火する。

 

 私は自分の成長を実感していた。じゃがバターとは比較にならないほど今回の料理は料理っぽい。コンロの前で膝を抱えて、じりじりと焼けていくキノコの様子を無言で観察する。前回はその沈黙に堪えられず、ろくに火が通っていない状態で食べようとしたが、そんな心配をする必要もない。待ち時間は編集でカットすればいいのだ。

 

 うずたかく積まれたバターが熱で溶け始め、当然の帰結と言わんばかりに皿の上からこぼれ落ちていく。キノコの焼ける香ばしい匂いと、滴り落ちたバターが火にあぶられる濃厚な匂いが絡み合う。

 

 本当は網焼きよりもオーブンを使った方が全体に均一に熱が行き渡るため、よりおいしく仕上がるのだが、機材を用意するのが面倒だったので止めた。何よりオーブンに入れてしまっては、焼き上がる過程を撮影しにくい。

 

 料理動画として紹介する以上、調理過程における見た目の“おいしさ”は欠かせない。むしろ、実際のおいしさよりもそれは優先されると言っていい。極論を言えば、味がまずかろうとうまく見えれば問題ない。

 

 幻の食材とか言われているが、このキノコが実際どんな味をしているのか私は知らない。採取できたのはこの一本のみであり、試食はできなかった。相性の悪い調理をしてしまえば、せっかくの高級食材も素材の味をいかすことはできないだろう。

 

 だが、そんなことは関係ないのだ。最重要となるのは“映え”。視聴者が感じ取ることができる情報は視覚に限られている。さらに今回のレシピで使用したキノコは入手困難なレア食材だ。真似して作れる料理ではない。

 

 そんな後ろめたい思惑も多少はあったが、心配するまでもないと思われた。キノコ以外の食材とその調理法については真っ当なものであり、これでまずい料理が出来上がるとは思えない。目の前で焼ける一品からは、実に食欲を掻き立てるいい匂いを感じる。

 

「うまそう」

 

 申し訳程度の感想を放つ。だが、それで構わない。詳しいレシピの詳細とか補足したい情報があれば、後で字幕を入れるなどして編集可能だ。痛々しい沈黙もBGMで緩和できる。私のこれまでの経験からして、無理に気の利いたことを言おうとすると余計にこじれる恐れが高い。よってこの自然な反応こそベストであると考える。

 

 そうこうしているうちにも料理は出来上がっていく。これくらい火を通せば十分だろう。カメラをスタンドから取り外してアップで撮影する。

 

「ヒョウゲツタケのアヒージョ、完成です」

 

 なかなかいい出来栄えだ。ただ、やはり網焼きは熱の通りが下に偏るため、キノコの皿が焼けすぎて焦げてしまったが、それが逆によかった。ヒョウゲツタケは青いキノコであり、食材としてその色からはちょっとした抵抗感を拭えない。だが、焦げつくことによって焼き色で青さが目立たなくなり、見栄えという点においてはむしろグッド。

 

 キノコの傘でできた皿の中では、オリーブオイルとバター、そしてキノコから染み出した出汁が凝縮されている。そこにエビとホタテの魚介のうまみが加わり、それを引き立てるニンニクの香りがさらに食欲をそそる。さっくりとナイフを入れれば溢れだす極上のスープ。駄目押しとばかりに、チーズがとろりと流れ出て来る。

 

 まだ食べてないけど、既に上のような感想を考えてきた。あとは食べてから台本通りのセリフを言えばいいだけだ。抜かりはない。

 

「たべます」

 

 しかし私は、そこではっと気づく。勝利を目前としてすっかり気が緩んでいた。今一度、よく周囲を確認する。

 

 前回の料理動画は野良犬の乱入というハプニングによって、ちゃんと終わらせることすらできていなかった。今回はそれと同じ轍を踏まないため入念に警戒していた。よし、近くに人や動物の気配はない。

 

「たべます」

 

 ついに実食する。アツアツのキノコ料理をナイフで切り取り、口へ運ぶ。

 

 ……! これは……

 

「もぐもぐ……オリーブオイルとバター……ごほっ……そしてきのこからしみっ……えふっ……しみだし、うま……うっ!?」

 

 全ての食材のうまみを台無しにする強烈なえぐみ、胃酸が逆流してきたのかと錯覚するほどの酸味、そしてそれらを上書きして余りあるほどの辛さがじわじわと口内に広がり、舌の味覚細胞を徹底的に破壊した。

 

 これは……毒だ。うまいとかまずいとかいう話じゃない。毒キノコである。

 

 このヒョウゲツタケというキノコは主にマイナス40度以下という極寒の環境でよく発見される。それより暖かい寒冷地帯で見つかることもあるが、その気候帯に入るとよく似た別の種類のキノコと混同されることがある。

 

 『ニセヒョウゲツタケ』と呼ばれるそのキノコは非常によく似た外観を持ち、専門家でなければ見分けることが難しい。猛毒成分があるため、素人はヒョウゲツタケを見つけても手を出してはならないと言われている。

 

 毒に苦しみながら私はその情報を思い出していた。そう、私は知っていた。このキノコが毒かもしれないという疑いを持ちながら撮影に及んだ。

 

 本物のヒョウゲツタケであればそのまま料理動画として投稿し、ニセヒョウゲツタケだったとしてもそれはそれで話題になる。動画タイトルを『【閲覧注意】幻のキノコ食べてみた【毒あり】』に変更して視聴者にお届けするのだ。

 

 あらゆる事態に対応した完璧な計画。ポメチル特権の集客効果と合わせれば余裕で100万再生越える寸法……ニセヒョウゲツタケのネタ的な意味でのおいしさに、激しい腹痛に襲われながらも思わず笑みがこぼれる。

 

「げぼぁっ!!」

 

 そのとき、特大の嘔吐感がこみ上げてきた。さすがにカメラの前でリバースはまずいと口を押さえて堪えていたのだが、腹の中でシャンパンが破裂するかのような爆発的エネルギーには逆らえなかった。

 

 その光景は、まさに噴火。マグマのごとく赤い血反吐の塊が大量に溢れだす。胃粘膜が丸ごとそぎ落とされて吐き出されたようなその凄惨な喀血と一緒に、これはさすがにまずいのではないかという不安もこみ上げてきた。

 

 シックスの肉体はダメージを受けても生命力を使って回復させることができる。しかしそれはあくまで受動的な反応であるため、ダメージを無効化しているわけではない。

 

 毒物に関しては完全に効果を消し去ることまではできなかった。肉体の損傷は回復できても、体の中に取り込まれた毒物を除去できるわけではない。内臓機能によって解毒するか、体外に排出されるまで待つしかなかった。

 

 とはいえ、生命力を逐次投入していれば衰弱することはない。人間の体はよくできたもので、生命力によって内臓機能を保全すれば大抵の毒物は無毒化または排出できる。ちょっとヤバめの毒も、安静にして大量の水分を摂取しておけば半日くらいで回復する。

 

 しかし、その無毒化効率を著しく超えた毒になると厄介だ。内臓の機能保全だけなく破壊されていく臓器を常に回復させ続けなければならなくなる。生命力を大きく消耗することは言うまでもない。

 

 このニセヒョウゲツタケの毒は、どうやら私が思っていた以上の猛毒だったらしい。このままでは危険と判断し、すぐに緊急解毒措置に取りかかる。私はサバイバルナイフを手に取って、自分の腹に突き立てた。

 

 

 ブ シ ャ ア ア ア ア !

 

 

 飛び散る血しぶきに構わず、腹部を切開。皮下に手を突っ込んで胃袋を掴むと腹の外へと引きずりだした。胃と一緒に腸の一部もくっついてくる。ずるずるとつられて出て来る肉の管を適当なところで切断し、腹の中へと戻した。

 

 これがシックス流緊急解毒措置である。毒に汚染された部位を丸ごと取り除き、新しく作り直す。強力な猛毒に冒された場合はこうした方が完全解毒までにかかる生命力の消費を抑え、素早く回復できることが実証されていた。

 

 毒ヘビに噛まれたとかならばこの治療法も気安く使えるのだが、今回のように服毒した場合はかなり勇気がいる。壮絶な痛みを伴うが、それでも致死毒の痛みに苦しみ続けるよりはマシである。

 

 既に腹部の外傷は消え、内臓の再生も終わっていた。毒が全身に広がる前にその大部分を除去することができたようだ。体調もだいぶ楽になった。腕で汗を拭い、安堵のため息を漏らす。

 

 そして私はようやく気づいた。撮影中のカメラと目が合う。地面には大量の血だまり、ぶちまけられた内臓、シックスは全身血まみれでサバイバルナイフを握っている。

 

 果たして、この状況をうまく取りまとめる方法があるのか。高速思考を働かせる。アイチューバーとして培われたこれまでの経験が、私を行動へと導いた。カメラの前でポーズをきめる。

 

「ちぇ……ちぇけら」

 

 そしてこの動画は投稿されることなく、お蔵入りとなったのであった。

 

 



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ハンター試験編
56話


 

 積み上げてきた過去は崩れ去った。アイチューバーとしてのシックスはもういない。活動を続けようという気持ちがない。また一から別の何かを積み上げていく必要がある。

 

 それは過去を乗り越えたとか、前向きに歩き始めたというよりは、ただ喪失感さえ自覚できなくなった結果である気がした。巣を壊された蟻が、せっせと修復に当たるようなものだ。悲嘆にくれることはなかった。

 

 それが良かったか悪かったかは別として。今後どのように生きていくか考えることは避けて通れない課題である。例の事件から一週間ほどが経ち、自分なりに考えをまとめる時間はあった。

 

 そして私は現在、ザバン市という大きな街に来ていた。ハンター試験を受けるためである。私はプロハンターになることを当面の目標とした。

 

 プロハンターの仕事は多岐にわたる。決まっていることは『何かを狩る』ということだけだ。その対象は動植物に留まらず、犯罪者の逮捕であったり、学術的な研究であったり、おいしい食べ物探しから子供のお使いまで、とにかく何をしてもよい。

 

 ハンター試験に合格してライセンスを取得することでプロと認められるわけだが、このライセンスによってハンターの活動は様々なバックアップを受けることができる。

 

 具体的にはハンター専用の情報サイトを利用でき、一般人立ち入り禁止区域の8割以上への入場が許可されるほか、多くの国の交通・公共機関の利用がほぼ無料となる。ライセンスを所持しているだけで特権的とも言える社会的地位を得ることができ、殺人を犯しても免責となる場合が多いという。

 

 それだけでも滅茶苦茶だが、しかもこの試験、誰でも受けられる。年齢や職歴など一切不問。受験資格は特に明記されておらず、申請さえ出せばいい。私もネットで簡単に即日申請した。やったことと言えば名前を入力して受験料の1万ジェニーを振り込んだことくらいだ。

 

 本当にこれで大丈夫なのかと不安に感じるところもあるが、ありがたくもあった。今の私は戸籍も持たない身分不明者である。一般的に国際人民データ機構によって捨て子にさえ国民番号が与えられるため、全くの無国籍・無戸籍な人間というものは存在しないことになっている。

 

 社会の中で普通に生活しようと思えば何かと身分を証明するものが必要であり、ハンターライセンスならば国民番号を持たない私でも身分証として申し分ない効果を持つのだ。

 

 プロハンターになれば金が稼げるというのも理由の一つである。ライセンスを担保に投資信託するだけで湯水のように金が入ってくるとかこないとか。別にそこまでの大金は必要ないが、あって困るものでもない。アイチューバーで稼いだ電子マネーはポメルニ名義の口座で管理されているため、いつ凍結されるかわからなかった。

 

 そしてもう一つ、ハンターになりたい大きな理由が情報の集めやすさにあった。ライセンスがあればハンター専用の情報サイトを利用できる。一般人ではネットで調べられる情報に明確な制限があるのだ。ライセンス等の資格がなければ露骨にアクセス拒否されるサイトがたくさんある。

 

 プロハンターになれば知ることのできる情報が格段に増えるらしい。『世界が広がる』とまで言われている。情報サイトだけでなく、人的なつながりによって得られる情報も大きいだろう。それによって、私は『私自身』を調べようと考えた。

 

 私の本体である『蟻』はどのような種であるのか。同種の蟻の中に、私と同じように思考できる者がいるのか。その生態はどうなっているのか。

 

 そして『シックス』のことについても知っておきたい。この体は念と深く関係している。プロハンターは念におけるスペシャリストの集団である。情報を得るうちに、シックスの正体についても何かわかることがあるかもしれない。

 

 問題は、そのライセンスを手に入れるためのハンター試験である。毎年数百万人の受験者が集まるというが、合格できる者は良くて数人、合格者無しの年もざらにあるそうだ。さらに試験内容は過酷を極め、死傷者が出ない年はほぼないらしい。

 

 ただ、この点に関しては勝算があった。ブレードから聞いた話によると、ハンター試験はプロハンターにふさわしい人間性をもっているかどうかを判断する指標であるが、それ以上に念能力者となるに値するかの資質を問うものが多いという。

 

 現役のプロハンターはそのほとんどが念能力者である。それは軽々しく一般人の目に触れてはならない領域であり、力を正しく扱える資質がなければプロとして不適格。その最低限のラインを見極めるための試験らしい。

 

 つまり、最初から念能力を使える私は大きなアドバンテージがある。身体能力や戦闘力を測る試験が多いので、念能力者なら特に苦もなく受かるだろうとブレードは言っていた。

 

 ただし、知識や知能を問うような試験がないとは言い切れない。試験内容はその年の担当試験官が決めるため、どんな内容が飛び出すか受けてみるまでわからないのだ。よって対策もできない。念能力者だからと言って無条件に合格できるわけではないようだ。油断はできない。

 

 私はスマートフォンを見ながら街中を歩く。初めて訪れた街だが、スマホで現在地を確認しながら歩けば迷うことはない。

 

 最近はこれが手放せなくなってきた。スマホ、便利である。謎のアップデートを遂げた私のスマホは充電知らずの無限バッテリーを有し、どこでも電波環境が最良状態で送受信できるようになっている。メモリの空き容量も底が見えない。

 

 これが使えなくなったらと思うとちょっと不安だ。買い替えようにも新規契約をするためには身分証が必要となる。やはりライセンスは取っておいて損はないと思う。

 

 移動を続けていた私は、だんだんと周囲の人通りが多くなっていくように感じた。それは気のせいではく、目的地に近づくにつれてはっきりと確信できるようになる。ここにいる者たちも私と同じ受験者なのだろう。さすが数百万人が集まるというだけのことはある。

 

 実はハンター協会のホームページを隅から隅まで確認したのだが、試験会場がどこにあるか記載がなかった。はっきりと明記されていたのは試験当日の集合場所と時間のみである。そこから何台ものバスによるピストン輸送で会場まで送ってもらう手筈になっていた。

 

 今は送迎バス始発の一時間前だが、乗合所では既に大勢の人だかりができていた。そのほとんどが大人の男性であり、見た目からして体力に自信がありそうな人が多い。シックスのような子供の姿は他になかったため、『絶』をしていないこともあって目立っているように感じた。

 

 これまでは四六時中『絶』で行動することが多かった私だが、むやみに絶を乱用すべきではないとブレードから指摘を受けていた。それにはいくつか理由がある。

 

 まず、絶の状態はオーラによる防御力がゼロになるため念に対して無防備であることが言える。また、絶であるということは『凝』も使えない状態であり、とっさの状況判断能力はむしろ通常時より求められる。気配を隠せるということは便利な反面、相応のリスクが生じると言えた。

 

 一般人ならまず気づかれることはないが、念能力者であれば絶も看破可能である。気配を隠して近づこうとする相手に対して警戒しないわけがない。また、迎撃型(カウンタータイプ)の念能力者はあえて絶の状態となることで誓約による能力強化を図る戦法もあるため、余計に相手の警戒心を高めるだけだと言われた。場合によってはそれだけで敵対行動とみなされることもある。

 

「おい、嬢ちゃん。こっちはハンター試験会場行きの特設乗合所だ。一般回線に乗るなら向こうのバスターミナルだぜ」

 

 バスの停留所前で長蛇の列を作っている受験者たちの最後尾に並ぶと、前に立っていた男が私に気づいて声をかけてきた。親切心からの忠告だろうが、こちらで合っている。自分も受験者の一人であることを伝えた。

 

「はぁ? やめとけ、やめとけ。ハンターは嬢ちゃんが考えてるほど甘い世界じゃねえよ。ここにいる連中を見りゃわかるだろ。飢えた獣みたいな奴ばかりだ。噂によると、マジで何人か殺っちまったヤベぇ奴らもいるらしい……ガキが入り込む余地なんかねぇよ。怪我しないうちにさっさと帰るんだな」

 

 自分がこの場で浮いていることを否定はできない。改めて自分の容姿を確認してみる。

 

 以前着ていた服は買い換えた。この一週間ほど、ちょっと念の修行のために無茶をやってあちこち破れてしまい、さすがに人前に出られる格好ではなくなったためだ。今は通販で買った黒いジャージを着ている。上下セットで2千ジェニーだった。ハンター試験は実技が主体となるので動きやすいこの服装なら大丈夫だろう。

 

 容姿的に最も目立つと思われる銀色の長髪については染髪料を使って黒く染めている。ばっさり切って髪型から変えたいところだったが、それも外傷にカウントされるのか自動修復されてしまうため染めるのが限界だった。

 

 しかも、その染髪についても髪に薬剤が浸透しないのか上手く染まらなかった。いっそのことラッカースプレーで塗装しようかとも考えたが、それだとたぶん髪がガチガチに固まる。結局、いくつか市販の染髪料を買って一番髪になじんだものを使っている。

 

 後はキャップをかぶってあまり顔が見えないようにした。ツバが長いタイプなので、うつむいていれば顔が隠れる。ここまではそう常識から外れるような格好ではないだろう。

 

 ただ、リュックサックの口から飛び出したペンギンのぬいぐるみに関しては今考えると悪目立ちしているように感じる。成長した本体を中に入れて隠すためのぬいぐるみを新たに買い換えたのだ。

 

 ペンギンにしたのは全体的にずんぐりむっくりしたデザインであったため、中に本体を入れやすそうだったからだ。しかし、思った以上に大きなサイズになってしまい、リュックに収まりきらず首を絞めつけられたペンギンの頭部が外に飛び出ている。

 

 不自然とまでは言えないが子供っぽさは増したかもしれない。総評すると、私の外見は少なくともこの場にはそぐわなかった。だが無論のこと、受験を辞退する気はない。

 

「ま、夢を持つのは自由だわな。ところで、さっきから何かやたらうまそうな匂いがするんだが……弁当でも持ってんのか? 寝坊したせいで朝飯食いそびれてよぉ、腹減ってんのよ。今なら高く買ってやるぜ?」

 

 そう言って男は千ジェニー札をひらつかせる。だが、私は食べ物なんて持って来ていない。これはおそらく、シックスの体から発せられている特殊なにおいのせいだろう。

 

 私自身は自覚できないのだが周囲の反応を調べる限り、シックスは何らかの体臭を発している。それは人によって感じ方がまちまちで、好意的に受け取る人もいれば嫌悪感をあらわにする人もいる。

 

 何らかの念能力的効果ではないかと思われるが、今のところ詳細は不明である。しかし、これのせいでさらに目立ちやすくなっていることは確かだ。自覚できないため自分の意思ではコントロールできず、絶を使わない限り臭気は消せない。

 

 弁当は持っていないと男に言うと、「せっかく親切にしてやったのによぉ」とブツブツ文句を言いながら列の前に向き直った。そうしているうちにも次々と私の後ろに受験者が並んでいく。これでは途中で列を離れることはできそうにない。

 

「マジかよ……俺、トイレ行きたくなってきた……」

 

「この数だと、たぶん始発のバスには乗れないよね」

 

「最前列組は徹夜で並んでたらしいぜ」

 

「なんか、このバスに乗っても試験会場まで行けないって聞いたんだけど……」

 

「いや、それはないだろ。ハンター協会の公式サイトに載ってる情報だぞ」

 

 始発前にしてこの人だかり。やはり、できるだけ早く会場入りしたいと思う者が多いのだろう。それだけの意気込みをもって試験に臨もうとしている。私もうかうかしてはいられない。どんな試験が待ち受けているのかわからないのだ。待ち時間の間も無駄にせず『纏』の制御を鍛える修行をしておこう。

 

 そんな中、込みあった停留所の近くに一台の車が乗りつけてきた。人ごみで車が通るだけの余裕もない道を、黒光りする高級車がろくにスピードを落とさず突っ込んでくる。そばにいた人々は大急ぎで逃げ出していた。

 

「ふぃー、到着っと」

 

 その車から降りてきたのは派手なスーツを着た男だった。そのほかにも同乗していた数人の男が降りてくる。その身なりや目つきからして、暴力的な印象を隠そうともしていなかった。剣呑な雰囲気を放つ集団はこちらに向かって歩いてくる。

 

「おい、あれってもしかして……ペルポナス組の若頭じゃねぇか?」

 

「ああ、間違いない。最近このあたりで台頭してきたマフィアの新興勢力の中でもイカれた噂が多い連中だぜ……まさかあいつらも今年のハンター試験を受けるつもりなのか!?」

 

 ハンター試験に受験資格はない。たとえそれが凶悪犯罪者であったとしても受験は可能である。実際に、プロハンターのライセンスを持つ者の中にも一定数の重犯罪者は存在すると言われている。

 

 ハンターは正義を名乗る者たちばかりではない。ハンターとしての資質とは善悪を基準とするものではなかった。もちろん全くの無秩序というわけではないが、犯罪経歴を理由に審査から落されることはないという。

 

 そうなれば目をつけてくるのは当然、自分の犯した罪を正当化しようとする者たちだ。彼らはハンターになりたいわけではない。その特権がほしいだけである。数多の受験者のうち本気でハンターになりたいと思っている人間は、それほど多いとは言えないのかもしれない。

 

 かく言う私も他人のことをどうこう言える立場ではなかった。スカイアイランド号事件ではロックを殺したところを目撃されている。あの状況では仕方なかったことではあるが、問題はその殺し方だ。乗客の多くが被害にあったあの赤い結晶と私の能力について関連付けられる可能性は高い。

 

 今後も何事もなく逃げ続けられる保障はなかった。サヘルタ合衆国とシックスの関係についても不明な点が多い。とにかく、何の身分証明も持たない今の私では関係機関に対する発言力はないに等しいと言っていい。

 

 そういう意味では、事件から間髪入れないこのタイミングでハンター試験を受けられたことは僥倖だった。プロハンターには限定的な不逮捕特権があり、捜査当局からの出頭要請を拒否することができる。問答無用で身柄を拘束されるようなことはない。

 

 つまり私がハンターになりたい理由も、さっきここにやってきたマフィア連中と大した違いはない。ライセンスさえ取得してしまえば犯罪者も大手を振って表を歩ける。本当にハンターとなることを目指している人間からすれば同じ穴のむじなと言ったところだろう。

 

 マフィアとその取り巻きはこちらの列に近づいてきたが、彼らが向かった先は列の最後尾ではなかった。その逆、最前列である。良い予感はしなかった。

 

 シックスの身長の低さもあって、この位置からでは何が起きているのかよく見えない。私は耳をそばだて、オーラによって感覚を強化した。

 

「あのさぁ、ここ、譲ってもらえないかな?」

 

「い、いや、俺たち昨日の夜から徹夜で……」

 

 パンと、銃声が一発鳴り響いた。

 

「え? 聞こえなかった? もう一回言おっか。ここ、譲ってもらえないかな?」

 

 それ以上の問答はなかった。最前列に並んでいた男たちが列から離れて後ろに並び直している。どうやら発砲音は威嚇射撃であったらしく負傷している者はいなかった。席を奪われた男たちは悔しそうに表情を歪めている。

 

 しかし、それだけのことがあってもこの場にいる者たちが逃げ出すことはなかった。張り詰めた空気の中、私語をする者は最前列に居座るマフィアだけとなった。多くの受験者が無言のままバスを待ち続けている。

 

 人だかりの数に比例しない異様な沈黙が広がる中、乗合所に一台の大型バスがゆっくりと入ってきた。側面には『ハンター試験受験者様歓迎!』の文字が大きく描かれている。時間を確認してみると、予定より30分ほど早かった。受験者数の多さから始発時間を前倒ししてくれたのかもしれない。

 

『お集まりの皆さま、おはようございます! 当バスはハンター試験会場行きの“最終便”でございます! 受験者の皆さまにおかれましては、どうか乗り遅れのないようお気をつけくださいませ!』

 

 男性の声でアナウンスが流れる。今、聞き違いだったのだろうか、すごく不穏な単語があったような気がしたのだが……

 

『繰り返します! このバスはハンター試験会場行きの最終便です! 万が一、当バスに乗り遅れてしまった場合は失格とみなされ受験資格を失いますのであしからずご了承ください!』

 

 聞き間違いではなかった。しかし、はいそうですかと素直にうなずけるような話ではない。送迎バスはこれ一台で終わり、乗れなければ失格。どう考えてもこの場に集まっている全員は乗れないとわかる。

 

 丁寧な言い回しでアナウンスしているが言い渡された内容は理不尽としか言いようがない。故意に計画されたとしか思えなかった。つまり、これはハンター協会も織り込み済みの事態。この状況を乗り越えない限り、試験会場にたどり着く資格なしということか。

 

 まさかこのような形で試験が始まるとは思わなかった。そして、この事態を理解できた者は私だけではない。同じ結論に至った者たちが一斉に動き始める。

 

 列の順序などもはや誰も気にしていない。我先にとバスに向かって人々が殺到する。私も負けてはいられなかった。こっちにも色々と切実な事情がある。私はオーラで身体能力を強化すると、人ごみの隙間に体を捻じ込んで前に進んだ。

 

 小柄なシックスの体とそれに似合わないパワーによって大人たちの隙間を縫うように前進していく。前列が互いに進路を塞ぎ合って全く先に進む様子がない中、私は一人だけ最前列まで移動することができた。

 

「はい、ここで定員オーバーでぇす」

 

 しかし、そこで私はなぜ受験者たちが膠着していのか知ることになる。乗り切れないほどの人が一斉になだれ込んでもおかしくない状況だというのに、バスの中には数人の姿しか見られなかった。

 

 正確に言えば五人。ペルポナス組と呼ばれていたマフィアの一行だった。最初に最前列にいた彼らが真っ先に乗り込めたことはわかる。だが、彼らはそこでバスの入り口を封鎖していた。拳銃を突きつけながら誰も乗って来られないようにしている。

 

「まだ乗れるだろ! 道を開けてくれ!」

 

「馬鹿なの? 競争するかもしれない相手をわざわざ迎え入れる必要ある? てゆーか、お前らみたいなむっさい男どもと何で同乗しなきゃならないのって話でしょ? 美女なら乗せてやってもいいけどな」

 

 美女か。シックスがその範疇に含まれるか定かではないが、ネットでは銀髪美少女ともてはやされていたぞ。これはワンチャン期待できるのではないか。

 

「お客様、困ります! このようなことをされては!」

 

 私が出ようか出まいか迷っていると、バスの添乗員らしき男がマフィアたちに抗議する。その返答は銃声によって行われた。マフィアの部下の一人が前触れもなく発砲する。

 

「ぐあああっ!?」

 

 添乗員の男は撃たれ、バスの入り口から外に転げ落ちた。いくらなんでも横暴が過ぎる。私は添乗員のもとに駆け寄った。

 

「おい、何勝手に撃ってんだ」

 

「あ? 若は『不要な人間は全員乗せるな』って言ったんだぜ。いらねー人間は全員降ろさないとな!」

 

 幸いにも添乗員はスーツの下に防弾チョッキを着ていたようだ。一応はこういう事態も想定していたのだろう。だがそれでも衝撃は通ったらしく、銃弾を受けた腹部を抱えて痛みに動くことができない様子だった。

 

「あ!? なんで死んでねーんだよコラ!」

 

 顔中にピアスをつけたスキンヘッドの男がこちらに銃を向ける。その目を見たとき理解できた。この男はためらいなく引き金を引くことができるだろう。私は『凝』によって腕にオーラを集中させ、添乗員に向けて撃たれた銃弾を受け止めた。角度をそらされた弾丸が地面にめり込む。

 

「ん? 外したか……?」

 

 マフィアの男は立て続けに発砲した。歯を食いしばって堪えるほどの衝撃がビリビリと骨を振るわせる。その一発一発に人を容易く殺せるだけの威力があることを、この男は本当にわかっているのか。無意味に他人の命を奪おうとするその行為に、何か思うことはないのだろうか。

 

「え? あれ? なんで?」

 

 バラバラと私の足元に弾丸が転がった。さすがに異変に気づいたのか、マフィアの部下は動揺を見せる。

 

「おい、何してんだ! もう車出すぞ!」

 

 そこでバスの中にいた他の部下が運転手を脅して入り口のドアを閉めさせた。まずいと思ったときには既に遅く、空気が抜けるような音と共にドアが閉まっていく。このまま発進させるわけにはいかない。私は強引にバスへ乗り込もうとした。

 

「……まって、ください……」

 

 だが、思わぬ形で邪魔が入る。助けたはずの添乗員が私の体にしがみついて引き留めていた。危険な目に遭わせまいと思っての行動かもしれないが、余計なお世話だ。手間取っているうちにバスが発進してしまった。

 

「ちくしょう……こんなところで諦めきれるかよ! この日のためにどれだけ努力してきたことか……!」

 

「試験会場まで走ってついて行ってやらぁ!」

 

 諦めきれなかった受験者たちがバスの後を追い始めた。私もすぐに後を追おう。バスの速度に追いつくくらいのことは簡単にできる。そこから屋根に飛び乗ったり窓をぶち破ったりして乗り込めばいい。

 

 だが、またしても添乗員による妨害があった。私を引き留めようとする男の力は凄まじく、とても怪我人のものとは思えない。

 

「いや、だから待ってくださいってば」

 

 何かおかしいと気づいた私は添乗員の様子を観察した。そして彼が身に纏っているオーラの流れに気づく。これは一般人のものではない。この男は念能力者だ。

 

「おめでとうございます。“合格”です」

 

 そう言うと、男は何事もなかったかのようにスーツの汚れをはたいて立ち上がり、にこやかな表情を見せた。

 

 

 * * *

 

 

 私と添乗員の男はバスに乗って市内を移動していた。このバスは貸し切りとかではなく、一般市民も利用している通常路線である。私たちの他にも乗客の姿があった。

 

 先ほどまでの一連の騒ぎは何だったのか、男から説明を受けた。私が思った通り、あれは試験の一環のようなものだったらしい。だが、現実は私の想像以上にシビアだった。

 

 そもそもハンター協会の公式サイトに記載されていた試験会場に関する情報は全て嘘であり、その嘘に踊らされて乗合所に集まった受験者はその時点で失格となる。バスに乗ったマフィアも、それを追いかけて走った受験者も、まとめて不合格となっている。

 

「その事実を知ったらあのマフィア連中はブチ切れそうですけど、安心してください。バスの運転手も協会員ですので、今頃ボッコボコの返り討ちにされていると思います」

 

 つまり、全て芝居だったというわけだ。良いように踊らされたのはしゃくだが、そのおかげで私はただ一人あの中で不合格にならずに済んだと言えた。本来なら情報を精査せず乗合所に来てしまった私は失格処分となるところ、この添乗員のはからいで見逃してもらえたのだ。

 

 試験会場は毎年異なり、受験者はその詳しい場所について事前に知らされることはない。つまり、試験会場を見つけ出すことも試験の一環であった。そしてそのために受験者が最初に見つけるべき存在が『ナビゲーター』。会場への案内役である。この添乗員もナビゲーターの一人らしい。

 

 ナビゲーターは自らの正体を隠して受験者に接し、その人物が会場入りするに足る適性を持つかを試す。見事、彼らの眼鏡に適えば試験会場まで案内してもらえるというわけだ。

 

 もちろん、受験者はナビゲーターなんて存在がいることは聞かされていない。ここまでノーヒントでたどり着けなければ会場入りすることすらできないのだ。何度も試験を受けている常連でもなければ、まずこの段階で大多数の受験者がふるいにかけられることになる。

 

「そのため、実際に試験を受けられる人は1万人に1人と言われています。受験生は多ければ1000万人を超える年もありますからね。その全員に本試験を受けさせるのは無理、というのが委員会の言い分です。その考え方には反対ですけどね」

 

 このナビゲーターはハンター試験の実行委員会に色々と不満があるらしく、私はバスに乗っている間中、ずっと愚痴を聞かされていた。

 

「いくら足切りせざるを得ないと言ってもやり方ってものがあると思いませんか? もっと個人の資質をできる限り審査できる形にすべきでしょう。今回だって、あなたのような優秀な人材をみすみす不合格にしてしまうところでした。それは受験生にとっても、ハンター協会にとっても大きな損失です。はっきり言って協会側の怠慢だと思いますよ」

 

 それにしてもよく喋る男である。しかし、受験生のことを親身になって考えてくれる人柄だったからこそ私はこうして案内してもらえた立場にある。無下にもできず、適当に相槌を打ちながら話を聞き続けた。

 

『次は、ザバン中央団地前、ザバン中央団地前です』

 

「あ、ここで降りましょうか」

 

 ようやく話が終わった、もとい目的地に着いた。バスから降りた私たちは、あるマンションの前まで移動する。

 

「ここの503号室のインターホンを押して『ミハエルさんのお宅ですか?』と尋ねてください。あとは指示に従ってもらえれば会場までたどり着けます」

 

 なるほど、こういった符丁を用いて会場までの道筋を隠しているのか。これは自力ではとてもではないが見つけ出せそうにない。ナビゲーターと出会えたことは幸運だった。改めてお礼を言う。

 

「いえいえ、こちらも危ないところを助けてもらいましたから。礼には及びませんよ」

 

 私が助けに入らずとも、あの程度の銃撃は対処できただろう。とはいえ、ここでそれを言うのは無粋か。ナビゲーターの青年はこちらの意図を見透かしたように微笑んでいる。

 

「ああ、そうだ。僕としたことが、自己紹介がまだでしたね。僕はパリストン=ヒルと言います。もし試験に落ちてしまったときは、ハンター協会に僕の名前で一報を入れてください。また来年も案内して差し上げますよ。ですがまあ、あなたなら間違いなく今年の試験で合格するでしょう。がんばってくださいね」

 

 笑顔で手を振って見送ってくれたナビゲーター、パリストンに私も手を振って返し、その場を後にした。

 

 









もしパリストンがいなかったら

マフィア部下「若! 大変です! 幼女が……」

マフィア若頭「は? 幼女が何だ?」

マフィア部下「幼女が……猛スピードで車を追ってきます!」

バキィ!(窓がぶち破られる音)

シックス「 た べ ま す 」


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57話

 

 マンションの503号室を訪ねると、ミハエルは603号室にいると言われた。603号室へ行き、そこでミハエルからクレジットカードらしきものを渡されて次の指示を受けた。

 

 駅前のディックサクラという店で買い物をして、会計の時にこのカードを見せれば試験会場まで行けるらしい。さっそくその店へと向かった。

 

 駅前という立地を押さえる店だけあって、なかなか小洒落た雰囲気を感じる。服や装飾品の小物類、バッグ、靴などファッション関係の品ぞろえが多い。こういった店は普段からなじみのない私だが、さすがに上下ジャージ姿の人間が足を踏み入れていい場所とは思えない。

 

 近くにあった服の値札を見ると、Tシャツ1枚に1万5千ジェニーの値がついていた。こういうものを見ると、人間の価値観は本当に理解しがたいところがあることを実感する。まあ、買い物しろとしか言われていないので、適当に何か選んで会計に進めばそれでいい。

 

「いらっしゃいませ、何かお探しでしょうか?」

 

 髪留めならまだ実用的かと思って商品棚を眺めていると、女性店員がやってきて話しかけられた。別に買い物を楽しみに来たわけではないので、ノーサンキューのジェスチャーを返す。

 

「お客様の黒髪でしたら、こちらの――」

 

 しかし、まるで気にも留めず商品の紹介を始める店員。髪留め一つによくそこまで話すことがあるなど思うほどのファッション講義を展開しながら、実際に鏡の前で私の髪に商品を当てがって次々にお勧めを紹介していく。

 

「あら? この汚れは……」

 

 そこでシックスの髪に触れた店員の手にべったりと黒い汚れがついていることに気づく。それは銀髪を目立たないようにするための黒い染髪料だった。色素が髪に染み込まないため、表面に染料が付着しているだけの状態になっているのだ。すっかり忘れていた。

 

「……少々、お待ちください」

 

 店員はそう言い残して店の奥へと戻っていく。店内を走ることなく、音も風すらも立てていないのに、その速度はかなりのものだった。どうやったらそんな移動法ができるのかと疑問に思ったくらいだ。

 

 考えてみれば、こんな高級ファッションショップに髪の毛ギトギト状態で入店するのは常識的にまずかったかもしれない。実際、染髪料のせいでいくつかの髪留めは汚れてしまった。これは怒られるのではないか、いやでも勝手に商品を勧めてきたのは店員の方だし、と悶々としていると先ほどの店員が帰ってくる。

 

「失礼いたします」

 

 戻るや否や、その手に抱えていた荷物からスプレーを取り出すとシックスの髪に噴きつけ始めた。浮き上がった汚れがタオルで拭きとられていく。そのスピードたるや、抗議の声を挟む暇さえなかった。

 

 何種類ものスプレーを使い分け、汚れを落とすだけでなく絡まった毛束の一本一本までくしけずられ、ドライヤーまで使ってヘアセットされてしまった。この間、わずか1分ほどの出来事である。

 

「なんて美しい髪色……あれほどの劣悪なお手入れ状況にありながらみずみずしさを失わず、毛先に至るまで輝きを保っていますわ。水滴に反射する光がごとき自然美、人工物では決して再現できないこの色と手触り……ふふ、ふふふふ……」 

 

 背筋にぞっとする寒気が走る。この女、明らかに異常。まさか念能力者か。見た限りオーラの流れは一般人のものと思われるが、偽装している可能性もある。私はすぐに店員から距離を取った。

 

「あっ!? お待ちください、それだけの素材を持ちながらあまりにもご無体なお召し物! ジャージだなんてそんな! まるでダイヤモンドを産業用廃棄油で蒲焼きにするかのような蛮行……! どうか、どうかわたくしめにコーディネートをお任せください!」

 

 これ以上、付き合う必要はない。そこらへんにある商品を適当につかんでレジに行こう。そう思った私だったが、そこでナビゲーターの青年から最後に言われた言葉を思い出した。

 

『ここの503号室のインターホンを押して『ミハイルさんのお宅ですか?』と尋ねてください。あとは指示に従ってもらえれば会場までたどり着けます』

 

 後は指示に従ってもらえれば会場までたどり着けます。

 

 ナビゲーターの指示に従い、ミハエルという男と会って、この店まで行き着いた。そして、そこで出会った異常な女性店員。おそらくこの店員もナビゲーターやミハエルと同じくハンター協会の手の者に違いない。

 

 つまり、私はまだ試される途中の段階にある。ここで店員の言うとおりに行動しなければ試験会場まで案内してもらえないかもしれない。まさかこんな罠まで仕掛けてくるとは。会場入りするまでは気を抜くなということだろう。

 

 いや、本試験となればこれ以上の難題を突きつけられる可能性も十分に考えられる。念を使えるのだからそれほど苦もなく合格できるだろうという安易な認識は危険だ。私は泣き崩れている店員に声をかけた。

 

「すきにして」

 

 その途端、ウィーンガシャンと謎の擬音を立てながら再起動した店員は無言で私の手を取ると、そのまま試着スペースへと直行する。カーテンが閉めきられた直後、店員は肉食獣のようなうめき声を上げながらシックスの服を脱がしにかかった。

 

「ヒャア! 我慢できねぇ! 着せ替えだぁ!」

 

 猛スピードで丸裸にされていくシックス。これで本当によかったのかという疑問を完全に拭い去ることはできなかった。

 

 

 * * *

 

 

「……果たしてこれが最善の選択と言えるのでしょうか。いや、おとぎ話の中から飛び出してきたかのようなお嬢様の幻想的魅力を最大まで引き出すためには、これがベスト。少々攻めすぎた気がしないでもありませんが、こうして見ると全く無用の心配でしたね。この手のファッション特有の違和感、驚くほど『イタさ』がない……一枚の絵画のように完成されています。さすがお嬢様」

 

 何十着にも及ぶ服を着せかえられた。もともと着ていたジャージはいつの間にかどこかに持っていかれた。ジャージの下はパンツ等の下着を着ていなかったのだが(必要性を感じなかった)、なぜかそのことに怒り狂った店員がどこからか女性用下着まで調達してきて履かされている。

 

 最初は私の感性からしてもまともと呼べる部類の服だったのだが、どんどんわけのわからないゴテゴテした衣装になっていき、最終的に店員いわく『ロリータ・ファッション』に行きついた。要はアニメキャラのコスプレみたいな格好だ。

 

「ロリータとは少女という存在への飽くなき憧憬が生み出したストリートファッションです。それは無垢であり、穢れを知らぬ幼子のようでありながら、異性を惑わす魅力を同時に内包した存在です。犬のようにあどけない純朴さ、猫のようにいたずらな自由奔放さ、鳥のように伸びやかな優雅さ、それらおよそ性と結びつくとは思えない特徴が無自覚のうちに周囲の倒錯した欲求を掻き立てる。この妖精的魅力(ニンフェット)を体現できる少女は非常に希有です。お嬢様だからこそ到達したこの極致、ただのコスプレと混同してはなりません」

 

 店員が語る壮大な講釈を聞き流しながら、試着スペースの鏡で全身を確認する。まず、頭につけたこれ。

 

「リボンカチューシャです、お嬢様」

 

 それだ。カチューシャには蝶々結びにされた大きな青いリボンの装飾がついている。何の意味があるのだろうか。髪留めならもっと実用性の高いヘアバンドを使うべきではないか。首に巻かれた白いリボンも、うっとうしい以外の感想はない。

 

 白のブラウスはやたらフリルの装飾が多い。そしてなぜか半袖ブラウスであるにも関わらず手首にはレースをあしらったカフスが取り付けられている。だが、まあここまでは許容できる。問題はスカートだ。

 

「ジャンパースカートです、お嬢様」

 

 白のスカートで、やはりこれもフリルが多い。青いリボンが編み込まれており、スカートの裾で結ばれている。丈の長さは膝下くらい。そしてそのスカートの下から押し上げるようにこの、

 

「パニエです、お嬢様」

 

 それがスカートの形をドーム型に広げている。邪魔としか言いようがない。さらにその下に白いタイツを履き、ズボンのような、

 

「ドロワーズです、お嬢様」

 

 それらのせいで下半身がもっさりしている。あとは青い靴、

 

「おでこ靴です、お嬢様」

 

 硬く光沢のある革製の青い靴は、厚底で歩きにくい。さっきまで使っていたスニーカーじゃダメなのだろうか。ダメだろうな。提案したが最後、長々と説得される展開が目に見えている。

 

 これでも最低限、自分の意見は通したのだ。あやうく本体が入っているぬいぐるみまで没収されるところだった。もっとかわいらしいものを用意すると言って取り上げようとする店員に対し、必死にぬいぐるみを抱きかかえて抵抗した。なぜかそのシックスの姿を見て興奮した(?)店員は、ペンギンのぬいぐるみに合わせて白と青を基調とするコーディネートに変更したようだ。

 

 リュックサックについてもダメ出しを受け、代品を用意されたがぬいぐるみを入れるには大きさが足りなかった。どれもデザイン重視で容量が少ないものばかりだ。手に持って行動することになると片手が塞がれるが、これ以上反抗するのは危険と考えリュック無しということで妥協することにする。

 

 それ以外のこちらの要求については全て却下されている。しかし、この店員が試験者としてこちらを試そうとしているのだと考えれば、この動きにくい服装についても一応の納得はできた。

 

 おそらく、行動を制限するような服装をあえて取らせることによって相対的に試験の難易度を調整しているのだろう。この程度のハンデは乗り越えてみせよということか。それならば文句はない、と言いたいところだが、このタイツだけはどうにかならないだろうか。

 

 白いタイツを履かせられているが、このぴっちりと下半身にまとわりついてくる締めつけだけは何とも言えない不快感がある。他はまだ我慢できるが、このタイツは……嫌だ。今すぐ脱ぎ捨てたい衝動を押さえて、股ぐらに手を突っ込み下着などの位置を調整する。

 

「ああっ!? なんてはしたないことを、お嬢様! その少年のように傍若無人な振る舞いに、わたくし胸のときめきを抑えきれません! どのように責任を取るおつもりですか! これはお仕置きですねこれは……」

 

 そう言うと店員は膝立ちになってシックスの体にしがみつき、胸に顔をうずめてきた。

 

「フスーッ! フスーッ! まったくお嬢様は! フシュルルルル! こんなにかぐわしいエレガントスメルを! スーハースーハー! しゅきっ! おじょうしゃましゅきぃぃぃぃぃ!!」

 

 何なのだこれは。どうすればいいのだ。

 

「お客様!? どうかされましたか!? 失礼します!」

 

 私が途方にくれていると、騒ぎが外まで聞こえたのか別の店員が試着スペースのカーテンを開けた。そして中の光景を見て絶句する。一瞬のフリーズの後、すぐに私にしがみついている店員を引き剥がしにかかった。

 

「やめなさい! 何をしているんですか、あなたは!?」

 

「ぬああああ!! おじょうさまああああ!!」

 

 羽交い締めにされて店の奥に連行されていく。呆然とした状態で試着スペースから出た私は、スマートフォンをこちらに向けてくる客たちに迎えられた。やめろ、撮るな。

 

「このたびは当店の店員が大変ご迷惑をおかけいたしました! 申し訳ありません! そちらのお洋服につきましては全品、無料でご提供させていただきます!」

 

 ぺこぺこと平謝りする店員に、ミハエルから受け取ったカードを渡した。その瞬間、店員の顔色が見てわかるくらい青ざめる。

 

「これは……! ハイ、アノ、ドウゾコチラヘ……」

 

 気の毒になるくらいの平身低頭で案内された私は『STAFF ONLY』とドアに書かれた一室へと通された。部屋の中には誰もいない。店員はこちらでお待ちくださいとだけ告げて出て行ってしまった。

 

 しばらくすると、何かの機械の稼働音と共にふわりと足元が浮き上がるような感覚があった。エレベーターに乗っているような感じだ。この部屋全体が急速に下降している。どうやら地下に向かっているらしい。まさか試験会場は地下にあるというのか。だとすれば。

 

 やはり、私はこの変な格好のまま試験を受けなければならないのか……。

 

 

 * * *

 

 

 ディックサクラの地下深く、ハンター協会が保有する広大な試験施設の一つがあった。ここが288期ハンター試験の会場である。地下100階にも及ぶこの奈落の底へと、エレベーターが贄を運ぶ。その入り口付近に受験生の一人が居座っていた。

 

 太い眉毛、角ばった鼻が特徴的な肥満体の中年男。名を、トンパと言う。

 

 去年、一次試験まで到達した受験生の数は延べ405名であった。恐ろしい競争倍率を突破した受験生たちは、そのいずれも何らかの分野で突出した実力を持つ達人ばかり。ハンター試験の会場とは、並みの人間では決して到達することのできない場所である。

 

 それが今年はどうだ、トンパが確認した限りでも既に1200人余りの一次試験到達者がこの場に集まっている。例年に比べれば明らかに多い。それだけ優秀な新人が多い年とも言えた。彼にとっては実に喜ばしいことである。

 

 通称『新人潰し』のトンパ。年に1度しか行われないハンター試験を、36回にも渡り受験し続けてきた男であった。そのうち本試験への出場数は31回に上る。名実ともにハンター試験の常連と言えたが、それだけ不合格の回数を重ねてきたということでもある。

 

 実力不足も一つの理由だが、もし彼が本気でハンターを目指していたならば、努力の末に合格を勝ち取るチャンスはあった。つまり、そうならなかった理由がある。

 

 その一つはハンター試験が大きな命の危険を伴うからである。この試験によって生じるあらゆるリスクは受験生の自己責任として片づけられる。命を落としたとしても自己責任だ。そしてその危険は一次試験、二次試験と段階が進むごとに大きくなっていく。合格を掴み取るためには相応の覚悟をしなければならない。トンパにそこまでの志はなかった。

 

 そしてもう一つ、彼はその危険極まりないハンター試験において合格よりも優先する楽しみがあった。身の安全を堅守するすべを磨き、強者に媚びへつらって勝ちを譲り、それでもなお彼がこの試験にこだわる理由とは、一重に“新人を潰す”ことにあった。

 

 

 チン――

 

 

 また一つ、来訪者を知らせる音が鳴る。トンパは舌舐めずりしながらエレベーターの方へと目を向けた。過去30余年に渡る本試験到達者の情報は全て頭に叩き込んでいる。その受験生が新人か否か、見分けることは造作もない。

 

 しかし、次の獲物はどんな人間かと期待を膨らませながら待っていたトンパは、エレベーターから降り立った少女の姿を見て言葉を失った。

 

 この場に集うは血生臭い狩人を目指す歴戦の勇士たち。その中に突如として現れた一人の少女はあまりに異質だった。まるで銀の月光に照らされた一輪の花を思わせるたたずまい。彼はそこに青い薔薇を幻視した。

 

 自然界には存在しないとされる青い薔薇。それは『不可能』の代名詞とされてきた。今では品種改良や遺伝子操作によって人工的に作り出せるようになったが、それは薄い紫でしかない。人々が渇望し続けてきた『真の青』とは、決して自然のうちに現れ得ないからこそ孤高の幻想として心を打つのだ。

 

 その不可能が存在しているという矛盾にめまいを覚える。少女は協会員のビーンズから受験者番号が記されたナンバープレートを受け取っていた。すなわち、彼女もまた受験生の一人ということになる。

 

 子供の受験生がいないわけではない。現に、去年の試験では11歳の少年が新人にして合格を果たしプロハンターとなった。だが、それも才気があったからこその成果である。特にハンター試験で求められる才気とは、身体能力や武術の類である。

 

 虫も殺したことがなさそうな少女が来ていい場所ではない。他の受験生もおおむね同じ見解だろう。にわかにざわつき始める会場の中、真っ先に動いたのはトンパだった。ふらふらと重心の定まらない足取りで少女のもとへと近づいていく。

 

 それは自らの意思による行動というよりも花に誘引される虫のような心境であった。そしてその虫とは美しい蝶では決してない。彼は自分がどれだけ薄汚い人間かを自覚している。その汚らわしさを隠すように、彼は人当たりの良い笑顔を貼りつける。

 

「やあ! オレはトンパ。君、もしかして新人かい?」

 

 きょろきょろと不安そうに周囲を見回していた少女は、トンパの呼びかけにうなずいた。それ以上の会話は続かない。恥ずかしがり屋なのか、話すことが苦手な様子だった。時折、スカートを掴みながらもじもじと足を擦り合わせる仕草が一層に庇護欲を掻き立てる。

 

 とりあえずトンパは互いに自己紹介する流れに持ち込んで何とか少女の名前だけでも聞き出そうとした。

 

「シ……チョコロボフ」

 

 少女の名前はチョコロボフ。見た目に似つかわしくない響きである。おそらく偽名であると思われた。ハンター試験は別に本名で登録しなくてもいい。ただ、その場合は偽名が正式なハンター名として記録され、その後の変更は一切できない。偽名を使うにしても、本当にその名で良かったのだろうかと疑問がわくが、この場では言わないでおいた。

 

「よろしく! オレはこう見えてもハンター試験のベテランでね。わからないことがあったら何でも聞いてくれよ」

 

 そう言ってトンパは片手を差し出した。握手を求めてはみたものの、初対面の中年男性に対してこのような見目麗しい少女が軽々しく応じてくると期待はしていなかった。が、その予想に反して素直にトンパの手を握ってくる。

 

 ペンよりも重いものは持ったことがないと言わんばかりの柔らかく小さな手だった。まるで幻と握手を交わすかのように現実味のないその感覚をトンパは冷静に噛みしめていた。変わらぬ笑顔を張りつけたまま、心中では少女の人となりについて分析を進めていく。

 

 本試験までの道のりを突破したことについては、ナビゲーターの伝手さえ確保できれば不可能とまでは言えない。一筋縄ではいかないことは確かだが、抜け道はいくつかある。

 

 性格については警戒心が多少あるものの、やや世間ずれしていない感覚が見受けられる。おそらく彼女が知る社会とはクリーンな表の世界だけであり、腐りきった人間が入り混じる裏を知る前の無垢な状態。まさに格好の獲物と言える。

 

 あまり感情を顔に出さないが、幼少期の心的要因によるものか。少なくともまともな人生を送っていればこんな場所に来ていないはずだ。家族との不和、社会からの孤立が幼い少女の心に深い傷を負わせたか。

 

 新品同然の服装だが唯一、腕に抱いている大きなペンギンのぬいぐるみだけは汚れがあった。ペンギンはどこか歪な表情をしており、今一つかわいくない。だが、それが逆に少女の強い思い入れを感じさせる。

 

 見た目やかわいさの問題ではない。何があっても手放したくないという強い気持ちがなければここまで持って来ることはなかったはずだ。誰かからプレゼントされた思い出の品、そのぬいぐるみだけが心を許して接することのできるお友達。誰にも見せたことのない彼女の笑顔を、このペンギンだけが知っている。そうに違いない。

 

 『新人潰し』のトンパは悩む。これほどの逸材をどう料理すべきか。どのように弱点をつけば、彼女は最も美しい絶望を見せてくれるのか。

 

 初受験で一発合格を果たす新人は、三年に一人程度しか現れないと言われている。不合格になっても来年また受ければいいと楽観的に考えられる者はそう多くない。軽い気持ちで試験を受けに来て“運悪く”本試験まで進んでしまった新人の中には、再起不能の精神状態へ追いこまれてしまう者も少なくなかった。

 

 トンパはそういった脱落していく人間を数多く見てきた。そして気づく。前途有望な若者が夢を絶たれ、死にゆく様を間近で見物できるこの試験は、なにものにも代えがたい最高のショーであると。彼はそのために自ら手を下し、新人を罠に陥れるようになっていく。目の前の少女も例外ではない。

 

 一歩でもこの会場に足を踏み入れてしまった人間は試験を辞退しない限り、何が起きようとも己の力のみで対処しなければならない。受験生同士の潰し合いは当たり前に発生し、そこに試験官が口を挟むこともない。全てを含めてハンター試験。ちゃんと試験要項に書いてある。トンパの悪行を止めようとする者はいなかった。

 

「ま、そう肩肘張らず楽にしな。とりあえず、お近づきのしるしに……」

 

 それは深く考えた上での行動ではなかった。彼は事前に仕込んでいたジュース缶を取り出そうとする。新人への洗礼として彼が常用する“潰し”の一つだった。

 

 何も知らない新人受験生に笑顔で近づき、超強力下剤入りジュースを差し入れ。一口飲めばもうパンツを履いて試験を受けることすらできない土石流が三日三晩続くシロモノである。

 

 だが、トンパは思いとどまった。さすがにそれはない。この少女に対して、そんな悪魔の所業が許されるわけ……。

 

 ――誰に許しを乞おうと言うのだ――

 

 『美少女』と『土石流』、あってはならない組み合わせである。しかし、彼はその神をも恐れぬ冒涜的光景を想像してしまった。

 

 突如として襲いかかる強烈な腹痛、少女は生まれて初めて経験する苦痛に動揺しながらも、その原因が目の前の男によってもたらされたことを察することだろう。

 

 下劣な罠に嵌められたことに対する怒りと羞恥心に表情を歪めながら、少女はトンパを睨みつけるはずだ。しかし、体は言うことを聞かない。どれほどの忍耐があろうとも、体内で起こる生理的反応を抑え込むことはできない。薬の効き目が現れたが最後、もはやその場から一歩たりとも動く余裕さえ奪われる。

 

 それは少女にとって死よりも重い恥辱かもしれない。絶対に屈することはできないという理性と、抗うことのできない肉体の本能、その狭間で悶える少女の前でトンパはある薬を提示するつもりだ。

 

 それは解毒剤である。彼は自分が逆に毒を盛られた場合に備えていた。この薬があれば少女は苦痛から解放される。助かるかもしれない希望が敵の手中にあるという事実は、少女にさらなる葛藤を与えることだろう。

 

「お、お近づきのしるしだ、飲みなよ! はぁ……はぁ……! お互いの健闘を祈ってカンパイだ……! ヒハッ!」

 

 無意識のうちに震える手でジュースが渡された。少女はじっとジュースの缶を眺めた後、疑いもなくプルタブを引き開ける。トンパは自分用に準備しておいた下剤の入っていないジュースを飲みながら、少女の様子を観察していた。

 

 解毒剤をちらつかせれば、少女に何でも言うことを聞かせることができる。例えば、大切なぬいぐるみのお友達を取り上げることも可能。それを少女の眼前で床に落とし、泥にまみれた靴で踏みにじることも可能。

 

 そしてトンパは最終的に、少女へ解毒剤を渡すつもりはなかった。彼が本当に見たいものはその先にある。最後の希望を絶たれ、肉体が限界に達した少女の行く末。すなわち、決壊。

 

 そのとき、彼女はいったいどんな表情を見せてくれるのか。どんな声で泣き叫んでくれるのか。

 

 ――つぶせ!――

 

 トンパは自身の内なる声に逆らえなかった。少女の方から漂ってくる華のような芳香が欲望を加速させる。

 

 彼の視線は一点に注がれていた。少女のくちびるが缶の飲み口に触れる。みずみずしい桜色のくちびるに、トンパの悪意が凝縮された汚染液が侵入しようとしている。異常な興奮状態に陥ったトンパは、その光景を一心に凝視している。逆に言えば、それ以外の全ては何も見えていなかった。

 

 

「あ、トンパのおっちゃんだ。やっぱ今年も来てたか」

 

 

 弾かれたようにトンパが視線を向けた先には、ヨッスと手を挙げながらこちらに近づいてくる銀髪の少年がいた。

 

 



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58話

 

 試験会場と思われる場所に到着した。どこまで降りるのかと不安になるほど地下の深くに、剥き出しのコンクリートで囲まれた広い空間があった。特に内装もなく、ビルのワンフロアをぶち抜いたように無骨な造りである。

 

 既に多くの人間が集まっている。これら全てが今年のハンター試験の受験生なのか。エレベーターから降りた直後、こちらに殺到する視線に少したじろぐ。やけにじろじろと見られている気がするが、それも当然か。同じ試験を受けにきたライバルを観察しておこうという気持ちなのだろう。

 

 ぱっと見た限り、やはり受験生のほとんどが成人男性であった。それぞれが得意な武器や装備を身に着け、万全の態勢で試験に臨んでいることがわかる。彼らもここに到達するまでに、いくつかの試練を突破しているのだろう。街中で出会った受験生とは違い、雰囲気からしてどこか鋭いものを感じる。

 

「受付はこちらになります」

 

 エレベーターの入り口近くにいた小柄な男に話しかけられる。ハンター協会員であることを示すバッジをつけていた。私は試験の申込時に与えられた確認用の受験番号を伝える。

 

「その番号は……チョコロボフさんですね。はい、こちらのナンバープレートをどうぞ。本試験ではこのプレートの番号で管理されます。なくさないようにしてください」

 

 口頭で告げた受験番号を聞いただけで、受付の男はすぐに私の名前を言い当てた。まさか申込した受験生全員の情報を頭に入れているのだろうか。

 

 チョコロボフという名はもちろん偽名である。シックスの名は使わないでおいた。この偽名はアイチューバー時代に食品レビュー動画を作ろうとして買ったお菓子『チョコロボくん』をもじって付けた。

 

 ハンター試験は偽名を使っても許される。しかし、それは一方でハンターとしての証明が生来の個人情報から独立していることを意味する。そのため、試験に合格してもハンター証を紛失すればプロであることを証明するすべがない。

 

 ブレードから聞いた話によるとプロハンターとして確固たる地位を築いている人の中にはハンター証など不要とするツワモノもいるらしいが、実績のないルーキーが同じことをやるとハンターとしての信用を一気に失うことになる。

 

 偽名を使っていい理由は、プロハンターの特権がライセンスのみに帰属するものであり、それ以外の個人的事情は一切考慮されないからである。だからこそ私のような存在も受験できるわけだが。

 

 私は配布されたナンバープレートを確認した。そこに書かれた数字は『1212』。これは会場入りした順の番号らしい。つまり現在、この本試験会場には1200人を超える受験生が集まっていることになる。多いのか少ないのか、よくわからない。

 

 試験開始時間まで待機するように言われた。周囲を見回してみるが、私と同じような服装をしている者はいない。あれは店側の手違いだったのだろうか。それとも、念能力者に対するハンデとしての特別措置とか。

 

「やあ! オレはトンパ。君、もしかして新人かい?」

 

 考え事をしているとフランクに話しかけてくる人がいた。同じ受験生で、しかも何度も試験を受けた経験のあるベテランらしい。わからないことがあったら何でも聞いてくれと言ってくれた。

 

 どこかギスギスした雰囲気が漂う試験会場だが、こういう気さくな人もいるようだ。ライバルと言っても全員が全員、敵対的な態度を取っているわけではない。トンパはジュースの差し入れまでして私をねぎらってくれた。

 

「お近づきのしるしだ! 飲みな! はあ……はあ……!」

 

 シックスの喉が渇くことはないのだが、せっかく用意してくれたものを断るのも忍びなかったので飲むことにした。ちょうどそこにもう一人、新たに会場入りした受験生が近づいてくる。

 

「またそれやってんの? 毒入りジュース」

 

「おまっ!? な、何を人聞きの悪いことを……!」

 

 トンパの知り合いらしき少年が発した言葉を聞いて、ジュースを飲みかけていた手が止まった。あとちょっとで飲み込むところだった。毒の強さにもよるが、内臓ごとぶっこ抜くのはもうこりごりだ。急いで口の中のジュースを吐き出す。

 

 そそくさと逃げていくトンパの反応を見る限り、少年の指摘は嘘ではなかったのだろう。以前にもこういう手段の罠を使っていたということか。警戒が足りなかったことを反省する。そして、少年に礼を言った。

 

「それはいいんだけどさ、あんたも“使える”人だよね?」

 

 そう言われて初めて気づく。少年の体を包み込むオーラの膜は、明らかに一般人のそれとは異なる。念能力者だ。向こうも私が念を使えることを見抜いている。

 

「そんな怖がんなくていいって。別に戦う気はないし、ってか逆にチーム組まない? ハンター試験は担当する試験官によって内容が全然違うからまだ何とも言えないけど、何人かで協力してミッションこなすタイプの試験もあるんだよね」

 

 別に全員で殺し合わなければならないというわけではない。お互いに戦わずに済むならそれに越したことはないと私も思っている。だが、そう思わせておいて実は襲う気満々という可能性も否定できない。

 

 ついさっきもトンパの罠に引っ掛かるところだった。おそらく受験生同士の抗争や騙し合いは当然のように行われているものと思われる。ここで簡単に少年の提案を受け入れていいものか、即決することは難しい。

 

「ありゃ、警戒させちゃったか。まあ、嫌なら嫌でいいよ。組む気になったらまた落ち合おうぜ」

 

 そう言って少年は立ち去っていった。ひとまず保留という形に落ち着く。

 

 彼のオーラの流れからその実力の一端を垣間見ることができた。私もまだ正確に敵の戦闘力を見極められるほどの目を持っているわけではないが、それでもかなりの実力者であることはわかる。

 

 トンパと面識があったことから、彼がハンター試験を受けにきたのはこれが初めてのことではないのだろう。それほどの力があっても合格できないような試験なのだろうか。これは気を引き締めてかかる必要がありそうだ。

 

 

 * * *

 

 

「よく来たな、諸君」

 

 本試験の受付終了を知らせるブザーが鳴る。あまり目立たないようにと柱の陰に隠れていた私は他の受験生たちに倣って移動する。しばらくして、一つのドアの向こうから試験官が入場した。ファンキーなツナギを着た眼鏡の男である。

 

「今年は1489人、会場までたどり着いたそうだが……実は二次試験官から多くとも300人くらいに絞ってくれと言われてな」

 

 いきなり酷なことを言ってくる。300人ということは、5分の1ほどの受験生しか一次試験を突破できないことを意味している。

 

 試験官の男は試験内容をどうするか考え始めた。この場で考えるのか。そんな適当に決めていいのか。いったいどんな内容が飛び出すのかと不安が募る。

 

「ん~~~~、お前ら殴り合うか?」

 

 5人ぶっ倒せと試験官は言った。昼飯まであと2時間あるから、それまでにナンバープレートを5枚集めろと言う。すなわち、受験生を倒してプレートを奪えということだ。

 

「5枚プレートを集めたらオレのところへ来い。あそこの非常階段のところで待ってるからよ」

 

 試験官が非常口の奥に入り、ドアを閉めた瞬間が試験開始となる。受験生全員が臨戦態勢に入った。各自、武器を構えて睨みあう。不気味なほどの沈黙の中、開戦を告げるドアの音がはっきりと聞こえた。

 

 一次試験開始。けたたましい怒号と武器のかちあう騒音が、剥き出しのコンクリート壁に反響してうるさいほどに響き渡った。

 

「へへへ、嬢ちゃん怪我したくなければおとなしくプレートを渡しな!」

 

 その渦中にあり、私も当然例外ではない。近くにいた一人の男が短刀を突きつけながら脅迫してくる。一次試験からなかなかにバイオレンスな展開である。さて、どうしたものか。

 

「……ちっ、厄介なのが来やがった」

 

 しかしそこで私を脅迫してきた男が別の受験生に注意を移す。帽子をかぶった三人組の男たちが近づいていた。

 

「アモリ三兄弟……絶妙のコンビネーションを得意とするベテランだが、個々の実力はそれほど高くねぇ。この乱戦状態じゃ、お得意の連携も取れないはず! 死ねぃ!」

 

 短刀を持った男が突進する。それに対して、三兄弟のうちの一人が無手で対処した。凶器に怯むことなく、正確に手刀を打ち込んで相手の武器を叩き落とす。

 

「テメェみたいなザコ相手に陣形(フォーメーション)なんか使うかよ」

 

「くっ……!?」

 

 短刀を取り落とした男はそこで瞬時に実力差を悟ったのか、それ以上の抗戦はせずにすぐさま撤退した。乱闘を繰り広げる受験生たちに紛れて姿を消す。

 

「ちっ、逃げ足だけは早ぇな。プレート奪い損ねた」

 

「アモ兄ちゃん、あそこに狙い目のカモが残ってるぜ!」

 

 そして今度は私の方に目をつけてきた。こちらもそれに合わせて構えを取るが、片手にぬいぐるみを抱えているせいでどこか締まらない。

 

「兄ちゃんたちの手をわずらわせるまでもねぇ。ここはオレに任せてくれ」

 

「ホントお前って自分より弱そうな相手に対してだけは強気だよなぁ」

 

「まぁいいじゃねぇか。去年の四次試験脱落……その屈辱を胸に俺たちは今日まで血のにじむような特訓を重ねてきた。生まれ変わったと言っても過言ではないほどの進化、『新生アモリ三兄弟』の初陣だ。かわいい弟に一番槍を譲ってやろうぜ。行って来いイモリ!」

 

 三兄弟の一人がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。ポケットに手を突っ込んだまま、余裕の態度であった。他の受験生も私たちの方に手を出してくる様子はない。それだけこの三兄弟が警戒される存在ということだろうか。

 

「いいか、オレは兄ちゃんたちみたいに気が長くねぇから一度しか言わねぇぞ。プレートを渡せ」

 

 もちろん、応じる気はない。首を横に振って拒否する。その直後、イモリと呼ばれた男は差し出した手を振り上げ、問答無用とばかりに平手打ちを仕掛けてきた。私はそれを回避して、逆に殴り返す。

 

「は、はや――!?」

 

 ぷにっ

 

「ぐああああああ!! やられたああああ!! いたあああ……く、ない!?」

 

 イモリは大げさに叫んでいるが、ダメージは全くなかったはずだ。私も自分の攻撃に手ごたえを感じていなかった。むぅ、なかなか難しいな。

 

「は、はは! ビビらせがって! スピードは多少あるようだが、圧倒的にパワーが足りねぇ! そんなパンチじゃ百発食らってもノーダメージだぜ!」

 

 別にふざけているわけではない。私には手加減して戦わなければならない理由があった。

 

 オーラで強化した状態で攻撃を加えればウモリを倒すことは簡単だが、相手は念能力者ではない一般人である。そんなことをすれば大怪我を負わせてしまう。最悪死ぬこともあり得るし、死ななかった場合はその攻撃によって念能力を目覚めさせてしまう恐れがあった。

 

 よってオーラによる攻撃力の増加はせず、身体能力の強化のみで戦う必要があった。その力加減の調節が難しいのだ。訓練はしてきたが、生身の人間を相手とする実戦はこれが初めてとなる。

 

 うっかり力を入れ過ぎて何か問題が起きてはまずい。私は別の意味で緊張を強いられていた。

 

「あーあ、完全にブチギレちまったよ……もう女子供だからって容赦はしねぇ。見せてやるよ、“イモリスペシャル”……!」

 

 敵は何か技を使う気配を見せている。ここは先手を取って封じておくか。敵は何やら風に揺れ動くような謎の挙動を見せ始めたが、そのせいで下半身への注意が少し散漫となっている。まずは軽く足を払って、体勢を崩すことにした。

 

 バキョッ!

 

「あっ……いであああああああああああ!?」

 

 しまった。ちょっと強すぎた。蹴りを入れた脚が折れて、まずい方向に曲がってしまった。

 

「イモリ!?」

 

「こいつ……ただのガキじゃねぇ! 陣形(フォーメーション)だ! マジでいく!」

 

 他の二人が一斉に襲いかかってくる。これはまずい。同時攻撃を仕掛けられると対応に追われて精密な力の調整に狂いが生じかねない。私は自分から片方の敵に接近して先に攻撃を仕掛けた。

 

 先ほどの足払いは失敗したが、そのおかげで感覚はつかめた。急速に攻撃へと転じた私に対して敵は反応できていない。その隙をついて懐に潜り込み、拳を突き入れる。

 

 ボゴォッ!

 

「カハッ――!!」

 

 よし、今度はうまくいった……いったかな? まだちょっと強かったかもしれないが、ギリギリ成功したと言ってもいいのではないか。敵は白目を剥いて昏倒している。

 

「う、ウモリイイイィ!? てめぇよくもおお!!」

 

 最後の一人が来た。タックルをするように低い姿勢で突進してくる敵に対し、私はぬいぐるみを脇に挟むと腕を取ってひねり上げた。アームロックだ。パンチやキックはうまくいかなかったが、締め技なら力の調節もやりやすいはず。

 

 メシメシメシ、パキ!

 

「がああああああああ!!」

 

 ダメだったか。タップする暇さえ与えず、枯れ枝のように折ってしまった。ヘッドロックにしなくて良かった。

 

「あのアモリ三兄弟が瞬殺だと……!?」

 

「バケモンだこいつ!」

 

 思考加速のおかげで体感時間では結構経過したような気がするが、実際には1秒にも満たないうちに敵を二人処理している。恐れおののくような声を上げて周囲の受験生が遠ざかった。

 

「ひいいっ! や、やめろっ! 来るなっ!」

 

 プレートをくれればそれでいいから。気の毒だが試験の都合上、得るものは得ておかなければならない。三兄弟は私から逃げようとするが、その負傷から床を這うように移動することしかできない。

 

 さっきまでの威勢はどこに行ったのかと言いたいくらい恐怖をあらわにするアモリ三兄弟。何だか余計に追い詰めているように感じて気が引ける。さっさとプレートを回収してこの場を離れようと思ったときのことだった。

 

 ぞわりと肌の上を伝わる感覚。何かの気配を察知した瞬間、首の後ろに衝撃が走った。シックスとぬいぐるみの中の本体とをつなぐ意識のリンクが途切れる。

 

 何らかの攻撃を受け、気絶させられたようだ。すぐにオーラを修復に回す。意識を取り戻したシックスが周囲を見回すと、さっきまで混戦状態だった受験生たちが軒並み倒れていた。全員が気絶している。

 

「あれ、浅かったかな? やっぱ念能力者はタフいね」

 

 声がした方向に目を向ける。壁に張り巡らされた大きな配管に少年が腰かけている。タンクトップに半ズボンのラフな格好をした少年は、シックスと似た銀の髪色をしていた。私にチームを組まないかと話を持ちかけてきた少年である。

 

 配管の上から降り立った彼は、手の上で丸いプレートを弄んでいた。そのナンバープレートに書かれた数字は『1212』。シックスはすぐに自分の胸元を確認するが、そこに私のプレートはなかった。

 

「ちょっと提案があるんだけど、聞く?」

 

 どうやらこちらに拒否権はなさそうだ。

 

 

 * * *

 

 

「うし、これで終わりっと」

 

 銀髪の少年、キルアは軽くかいた汗を拭うとトンパから拝借した下剤入りジュースを飲んで一息つく。約1500人の受験生が集まっていたこの会場も、今では物音一つ立たない静寂に満ちていた。

 

 死屍累々と言った有様で、至る所に気絶した受験生が転がっている。いまだ試験官が待つドアを抜けた合格者はゼロ。たった一人の少年の手によってほぼ全ての受験生が戦闘不能にされていた。

 

 ただ一人の例外を除いて。

 

 白いドレスのような服を着た少女が立ち上がる。彼女はキルアが他の受験生を片付け終えるまで待っていた。

 

 一次試験に合格することだけを考えるなら、わざわざ待つ必要はない。適当にそのあたりを転がっている受験生からプレートを集めて先に進めばいい。彼女自身のプレートはキルアに奪われているが、試験官はプレートを5枚集めて来いとしか言わなかったので不合格になることはないだろう。

 

 その行動の理由は少女がキルアと交わした約束にあった。最後に残った二人で決戦を行い、勝った方だけが先に進むという取り決めだった。

 

 キルアは一次試験の内容が発表されたとき、ある目標を自分に課した。今年のハンター試験合格者は自分一人だけでいい。この一次試験で他の受験生、全てを蹴落とすと決めていた。

 

 そのわけは、少しでも早く試験を終わらせたかったからだ。例年のハンター試験から言えば短くとも一週間、長ければ一か月ほどの期間がある。彼には一か月もこの場所に拘束されたくない事情があった。

 

 彼はグリードアイランドというゲームを友達と攻略している最中であった。ゲームと言ってもただのテレビゲームではない。念能力者が作ったそれは、プレイヤーが実際にゲームの世界へと入り込むことができる。

 

 今は友達のゴンとゲーム内で知り合った少女ビスケに断りを入れてハンター試験に臨んでいる。キルアとしては今年の試験を是が非でも受けたいと思っていたわけではなかったが、ゴンの勧めで一応ライセンスを取っておくことにした。一般人の感覚で言うと、まるで友達が英検三級に合格したから自分も受けておこうかな、くらいの気持ちであった。

 

 ゲーム内でビスケの指導のもと念の修行に打ち込み、日々強くなっていく実感に目覚め始めた時期だった。こうしている間にもゴンは念の技術を磨いていることだろう。抜け駆けさせないためにも早く帰って修行に戻りたいと考えていた。

 

 キルアは去年のハンター試験を受けてどの程度のレベルの課題が出されるか、予想はできていた。去年の時点でも十分に合格できるくらいの実力はあったのだ。それに加えて念能力を覚えた今となっては、よほどのことがない限り不合格になるとは思えない。

 

 ならば、一次試験において二次を受けるまでもないというほどの圧倒的実力を試験官に示す。そうすれば即日合格判定を出してもらえるかもしれないという思惑があった。

 

 そのための全受験生打倒計画である。暗殺者として鍛え上げられた戦闘技術と、念能力があれば難しいことではないが、それを達成するには一つだけ大きな障害が残されている。

 

 それが目の前にいる少女だった。そのオーラの気配から念能力者であることはわかっている。さすがに一撃で決着がつくほど甘くはなかった。これは腰を据えて相手をする必要がある。

 

 ここであえて戦わず1500人中2人合格という結果でも悪くはないが、最善とは言えない。やはり合格者1名というインパクトには及ばないだろう。そして相手が念能力者ということは、それを倒すことができればさらなる評価を得られると言える。より即日合格への期待が高まる。

 

 この少女にも試験を早く終わらせたい事情があるらしく、キルアの提案に乗ってきた。もっとも、提案が受け入れられなかったとしてもキルアに予定を変更するつもりはなかった。提案というよりは半強制的な要求であることを少女も理解していた。

 

「準備はいいか?」

 

 少女はこくりと頷いて構えを取る。その構えは粗が多く、何かの武術を修めているとは思えない。まず片手にぬいぐるみを抱えたままというところからして論外だった。

 

 これはキルアを舐めているというより、そもそも戦いに身を置くような人間ではなかったのだと推測される。念は使えるが戦い方は知らないのだろう。

 

 キルアから見て、この少女の戦闘力は素人に毛が生えたレベルだった。素質的に光るものは感じるが、まだまだ未熟と言わざるを得ない。逆に言えば、この程度の相手に逃げ腰をさらしているようではグリードアイランドの攻略など夢のまた夢だろう。

 

 あのゲームの中には恐ろしいほど卓越した腕を持つプレイヤーが潜んでいる。いつかそう言った手合いと衝突する恐れはあった。それを考えれば対念能力者戦を想定した訓練は少しでも積んでおいた方がいい。少女には悪いが、キルアに取ってこの戦いは訓練に過ぎなかった。

 

「……あのさ、一つだけ聞いていい?」

 

 これ以上の問答は必要ないと思いつつも、キルアは何となく少女に尋ねた。実力的に自分が負けるとは思えないが、彼は一つだけこの少女に対して警戒している点があった。

 

 キルアが彼女を近くで見た時、最初に感じ取った印象は『懐かしさ』だった。

 

 全くの初対面であることは明白なのに、なぜか郷愁にも似た感情を覚えた。それは長い間、会えなかった家族と久しぶりに再会したような懐かしさと親愛の情だった。

 

 表情にこそ出さなかったが、内心では戸惑っていた。もちろん、こんな妹がいた記憶はない。キルアの下の兄弟と言えば、カルトという弟が一人いるだけである。

 

 そのはずが、キルアは少女の姿にくっきりと『なにか』の影を重ねていた。まるで本当の妹であるかのように思えてならない。その正体を解き明かそうと記憶をたどるも、頭痛によって思考は遮られた。

 

 やはり、覚えがないことは確かである。ありもしない感情を抱かせるこの現象について、キルアは少女の念能力によるものと結論付けた。実際に少女を観察することによって、およその見当はついている。

 

 少女は自身のオーラから芳香を発していた。これがオーラの性質変化によって生み出された現象であることに、同じく変化系能力者であるキルアは気づく。この匂いが対象に特殊な感情を誘発しているものと推測された。

 

 そうとわかれば対策はできる。精神に作用する能力という点から操作系の疑いもあったが、感情を引き起こすにとどまる効果しかないことから、そこまで強力なものではないと判断した。変化系と操作系は最も相性の悪い組み合わせであり、これを同時に使いこなした発を扱うことは熟練の能力者でも困難を極める。

 

 感情の制御さえ誤らなければ大した脅威ではない。プロの殺し屋として育て上げられたキルアにとってそれは難しいことではなかった。感情のスイッチを切り替えれば家族にさえ躊躇なく凶刃を向けることができる。

 

「名前は、なんて言うの?」

 

 だから、こんな意味のない質問をする必要もないはずだ。自分が今、抱いている感情は敵の能力によって作り出されたものでしかない。おそらく、敵はこの能力を使って周囲の人間からちやほやされたいとでも考えている甘っちょろい人間だ。

 

 念能力者でありながら戦うすべを磨いてこなかった理由としても納得がいく。絶世の美少女然とした容姿も能力の効き目に補正をかけていることだろう。それが彼女なりの処世術なのかもしれないが、彼にとっては不快に思う以外の感想はない。

 

 そうとわかっていながら少年は、少女に名を尋ねた。その矛盾がより一層、彼を不快にさせる。

 

「チョコロボフ」

 

 そして少女の口から告げられたあからさまな偽名に不快感は増大した。抜き身の刃のような殺気がキルアを中心として広がっていく。

 

「いっこ条件追加。オレが勝ったら、ホントの名前教えてね」

 

 ここから先に手加減はない。キルアは感情のスイッチを完全に切り替えた。

 

 



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59話

 

 キルアと名乗る少年は会場にいた受験生の全員を倒してしまった。それも一切の反撃を許さず、ほとんど敵に気づかれないまま高速の一撃によって昏倒させていく。私も目で追うのがやっとのスピードだ。

 

 約1500人を誰一人として殺すことなく無力化してしまった。それは念能力者としての力というより、純粋な戦闘技術による成果と言うべきだろう。その様子を観察に徹して見ていたが、全く実力の底が見えてこない。

 

 手加減を重ねてこの実力、はっきり言って戦っても勝てる自信はなかった。そんな相手から持ちかけられた一騎討ちなどできれば承諾したくはなかったのだが、シックスのプレートはキルアに奪われてしまったため断ることもできない。

 

 自分のプレートを奪われても他の受験生のプレートを5枚集めれば合格できるのか、試験官は言及しなかった。しかし、この一次試験は明らかに腕っぷしの強さを判定するための内容となっている。その試験で自分のプレートも守り切れなかったとなれば、いくら他のプレートを集めたところで大きく評価を落とすことは確実。失格にされてもおかしくはない。

 

 ルールを確認しようにも試験官は非常口の先にいる。最低限の試験内容だけ告げて後は放置しているその様子から、受験生自身による状況判断も評価の対象と考えた方がいいだろう。やはり、自分のプレートは取り返しておくべきだ。

 

 それを考えれば一騎討ちで勝敗が決するまで戦う方がまだ私に分がある。スピードでは勝負にならないだろうが、持久力なら自信がある。さっさと勝ち逃げされてしまうよりもマシと言えた。

 

 

「いっこ条件追加。オレが勝ったら、ホントの名前教えてね」

 

 

 なぜ彼がそんな条件を追加してきたのか、考えを巡らす余裕はなかった。その一変した気迫から勝負が始まったことを悟る。先ほどは不意打ちを食らったが、敵が来るとわかっていれば対処できる。そう思っていた。

 

 まるで姿が一瞬にしてかき消えるかのような移動速度。さっきまで受験生たちを仕留めて回っていた際の速さも尋常ではなかったが、それをさらに超えてきた。これまでの戦闘はウォーミングアップに過ぎなかったとでも言うのか。とてもではないが反応が追い付かない。首の後ろに衝撃が走る。

 

 だが、今度は気絶しなかった。敵の動きは見えなかったが、もしかしたらまた首を狙われるかもしれないという予想からとっさに『凝』で首周りをガードしたのだ。ギリギリのところで防御が間に合う。

 

 背後の敵に向けて振り向きざまに攻撃を放つが、当然のように避けられた。わかってはいたが、やはり出し惜しみしていて勝てる相手ではない。私は『練』を使ってオーラを全身に駆け巡らせた。

 

 この一週間ほどの修行によって私はまともに『練』を使えるようになっている。オーラの攻防力を各所に集中させる『凝』も使えるようになった。オーラの制御法にある程度慣れてしまえばそれほど難しいことではない。もう最初の頃のように全身に痛みが走ることもなかった。

 

 だが、あえてその制御を崩す。小奇麗にまとまっていたオーラを整えることなく、自然に任せる。枷から解き放たれたように暴走するオーラが肉体を破壊していく。キルアはその様子を見て足を止めていた。

 

「――ッ!? なんだ、それ……!」

 

 私はオーラによる身体強化が他人よりも苦手なのかもしれない。特に力の調節という点に関しては、しっかりと意識してオーラを整えなければ、つい力が入りすぎる。何も考えずに強化しようとすると“こう”なる。

 

 自分の肉体の限界を超えて破壊してしまうほどの強化。おそらく本能的に力をセーブしようとする機能が正常に働いていない。だが、それはより大きな力を引き出せるという点において言えば優れていた。この肉体は例え自壊しようとも修復が利く。

 

 ぶちぶちと断裂していく筋肉と、それを随時修復していく痛みを堪えながら、動揺を見せたキルアに殴りかかった。限界を突破した身体強化により踏み込みも、拳の速度も大幅に上がっている。彼ならばこの一撃を受けても死ぬことはないだろう。手加減して勝ちを拾えるような相手ではない。

 

 しかし、当たらず。この強化状態をもってしても速度に関しては向こうが上だった。外したパンチの勢いを止められず、轟音を立ててコンクリートの床が砕けた。

 

 蜘蛛の巣状に亀裂が広がり、粉塵がぱらぱらと宙を舞う。事前に受験生が倒れていない広い場所へ移動しておいてよかった。周囲の人間に気を払いながら戦えるほど余裕はない。

 

 破壊力の高い大ぶりの攻撃はシックスが大きな隙を晒したことも意味していた。間髪入れずに複数の急所へ正確極まりない殴打が叩きこまれる。だが、強化によって防御力も上昇している今のシックスに大きなダメージは与えられない。

 

 力と速さ、互いに異なる長所が勝負を長引かせる。そんな気配を感じ取り、軋みを上げる体に気合を入れ直した。

 

 

 * * *

 

 

 キルアは少女に対して下した『戦う力のない、かよわい少女』という認識を改めた。蓋を開けて見ればゴリゴリのパワータイプである。技よりも力でねじ伏せるタイプの念能力者だった。

 

 外見詐欺もいいところだ。この少女といいビスケといい、こういった服を着た念能力者はヤバい奴しかいないのだろうか。まさか実年齢も詐称しているのではないかと疑いの目を向ける。

 

 当初は変化系能力者かと予想していたが、この戦いぶりを見ると強化系なのかもしれないと思い始めていた。変化系と強化系は非常に相性の良い系統であるため、それでもおかしくはない。

 

 ただ、幸いにもビスケのように力と技の双方に優れた使い手ではなかった。戦い方はゴリ押しの一辺倒。当たれば被害甚大の一撃も、キルアなら難なく回避することができる。

 

 だが、キルアの攻撃も威力不足で大したダメージにはならない。それでも彼は攻撃の手を緩めなかった。速度で敵を翻弄し続け、体力を削る作戦である。これだけのオーラを消耗し続ければすぐに限界が訪れるだろうと高をくくっていた。

 

 しかし、数十分に及ぶ時間が経過したというのにいまだ少女のオーラは衰えを見せない。どこから湧いてくるのかと思うほどの無尽蔵のオーラ。実戦においてこれだけの時間、練を休みなく維持し続けることは今のキルアにもできない。それは『堅』と呼ばれる練の応用技だった。

 

 それだけではない。キルアは戦う内にある違和感を覚えていた。最初は全くキルアの動きに反応できていなかった少女だが、視線だけは彼の速度に追いつくようになっていた。

 

 目だけは的確にキルアの後を追っている。身体の動きは全然それに伴っていないが、認識の早さだけは異常なほど鋭かった。敵は目の前で戦っている少女であるはずなのに、まるで異なる生物に見られているような奇妙な感覚だった。

 

 実戦の中で成長する。それは確かにあることで、キルアも命がけの訓練や戦闘において実感することもある。だが、この少女について言えば成長という言葉で片付けてよいものか。それほどまでに急激な反応の早さを見せ始めている。

 

 それはむしろ、今まで隠していた実力を発揮し出したと言った方が適切に思えるほどだった。だが、それなら最初から本気で戦えばいいだけの話。キルアを油断させることが目的なら徐々にギアを上げていく必要はない。

 

 この少女には何か得体の知れないものがある。キルアはこのまま戦ってもいいものかという迷いが生じていたが、その感情をすぐに抑え込んだ。あれだけの大見栄を切っておいて今さら強そうなので戦うの止めますとは言えない。

 

 確かにこの少女がそれなりに戦えることは認めるが、それでも自分が劣っているとは思わなかった。暗殺者として育てられた彼は、第一に“引き際”を教え込まれた。自分より強い者とは戦わず、自身の生存を何よりも優先する。

 

 彼の感覚は、まだ引き際を訴えていない。勝負を仕掛けることを決めたキルアはポケットから二つのヨーヨーを取り出した。

 

 このままダメージにならない軽い攻撃をいくら打ち込んだところで埒が明かない。少女を確実に仕留めるためには大技を当てる必要がある。そのための武器だった。

 

 と言っても、実戦で使うのはこれが初めての試みとなるのだが、キルアはおくびにも出さず素早くヨーヨーを投げ放つ。少女は敵からの新たな攻撃に一瞬の緊張を見せたが、すぐさま対応した。

 

 少女は飛来してきたヨーヨーを殴りつけて撃墜する。ヨーヨーはスピードに乗っていたが、キルア自身の直接攻撃に比べれば遅かった。あえてキルアはスピードよりも回転に比重をおいて投げていた。

 

 ヨーヨーはあえなく落されたかと思いきや、殴られてなお強力なスピンを見せる。50キロにも達する特殊合金製のヨーヨーは武器として十分な重さと頑丈さを持ち、糸を通して纏った『周』のオーラにより威力と回転が増幅されていた。

 

 スピンによって予測不能の動きを見せたヨーヨーが少女の腕に絡みつく。巻き付いた糸を引きちぎろうとした少女のもとへ追加の攻撃が飛んできた。キルアはヨーヨーを二つ持っていたのだ。

 

 そしてキルアはヨーヨーの糸によってつながった回路へと電気を流した。変化系能力者であるキルアは自身のオーラを電気へ変化させる発が使える。

 

 いかなる敵であろうと生身の体に電気を流されれば硬直する。たとえ念能力者であったとしてもこの生理的反応を無視することはできない。しかし、それだけで敵を無力化できるほど強力な電撃というわけでもない。これは次の攻撃への布石だった。

 

 キルアは手にオーラを集中させて飛びだす。電撃によって少女に隙が生まれた今ならば、確実に大技を決めることができる。電撃を放つと同時に距離を詰めたキルアは少女の腹部に掌打を当てた。

 

 電気硬直が解ける間もなく少女の体が吹き飛んでいく。勢いよく壁に叩きつけられてその場に倒れた。キルアは深く息を吐きながら残心した。

 

 致し方なかったとはいえ、少しやり過ぎたかもしれない。最後にキルアが仕掛けた攻撃は、暗殺者として教え込まれた技の一つだった。それは殺しを目的としない技であったが、場合によっては死よりも恐ろしいと言える危険な暗殺技だった。

 

 掌打による衝撃が内臓を揺らし対象者に地獄の苦しみを与える。回復力の高い念能力者は気絶させようとしても思うような効果が得られないことも多いが、この技は痛みによって戦意そのものを喪失させる。殺すことなく苦痛を与えることを目的とした拷問技である。

 

 彼の父ならばこの技によって暗殺対象を気絶させることなく自殺に追い込むほどの苦痛を与えることもできるが、キルアはまだそこまでのことはできない。ただし、適当に加減したとはいえ、あと1時間ほどは立ち上がれないほどの激痛を覚悟してもらうことになる。

 

 気の毒ではあったが、キルアはこれ以外に良い方法が思いつかなかった。このレベルの念能力者を殺すことなく無力化し、しかも敵とは言っても女の子に外傷が残るような攻撃を食らわせるわけにもいかなかった。彼としても最大限、配慮した上での処置である。

 

 だが、一応容体を確認しておくかとキルアが少女に近づこうとしたとき、彼女の体から発せられるオーラに陰りがないことに気づいた。

 

 確実に少女のオーラを突き破り、攻撃が入った手ごたえがあった。オーラを練ることはもちろん、立つことすら不可能なはずだ。しかし、少女は変わらず『堅』を維持したまま立ち上がった。

 

 少女の額に浮かんだ汗から、痛みがないわけではないとわかる。だが、彼女は薄く笑っていた。これまで人形のように表情に乏しかった少女が見せた微笑からは、寒気がするほどの美しさを感じる。

 

 唐突に、少女が手にしていたぬいぐるみが変化した。ファンシーなぺんぎんの横腹を突き破り、内部から六本の赤い鉤爪が飛び出す。虫のような多脚を生やしたぬいぐるみは少女の背中にしがみついた。

 

 何かの暗器を隠し持っているかもしれないという疑いはあったが、予想を上回る気味の悪さ。清廉な白いドレスの少女とは相容れない風貌となるが、それを気にした様子もなく彼女は構えを取る。これで両手を使って戦えるとでも言いたげだった。

 

 

 * * *

 

 

 戦況はこちらの不利と言わざるを得ない。練によって多くのオーラを消費し続けるシックスに対し、キルアはほとんど消耗した様子が見られない。制御を手放した私の練はその強力さに比例して相応のオーラを使う。要所要所でブーストするような使い方ができれば節約もできそうだが、今の私にはできなかった。

 

 このまま行けば先にこちらのオーラが枯渇する。敵もそれを理解しており、無理な攻撃を仕掛けてくることはない。着々と私は追い詰められていた。

 

 だが、なぜかその過程は私にとって必ずしも辛いものではなかった。敵が私の命を狙っているわけではないという安心感も一因である。殺し合いと言うほど殺伐とした戦いではない。

 

 そして、強敵との実戦を通して私はシックスとより深く結ばれていく感覚があった。どうすればもっと効率的に戦えるのか、体の動かし方がわかっていく。

 

 念の修行を始めた頃からうっすらと感じていた。ブレードから聞きかじった修行内容を試していたが、あまりにも覚えが早すぎる。念とは本来、長い修行をかけて習得していく武術のようなものである。そのはずが素人である私にも実感できるほど、異常な速度で技術をものにしていく。

 

 立ち塞がっていた扉を開いていくような感覚だった。一つ扉を開くごとに、これまでの自分は何だったのかと思うほどスムーズに動けるようになる。認識の仕方が変わる。全ての扉を開いた先には、いったいどんな世界が広がっているのだろうか。

 

 キルアとの戦いは、一人で修行に取り組むよりも遥かに大きな成果を与えてくれた。この戦いを好ましく感じている私がいる。冷静に感情を鎮めようと努める自分と、これがハンター試験であることを忘れてしまいそうなほど高ぶる自分が混在している。私はこんなに好戦的な性格をしていただろうか。

 

 どこか疑問に思いつつも、やっとつかみかけてきた感覚を手放したくなかった。このまま一矢報いることもなく終わるのはもったいなさすぎる。だが、今のままでは到底勝てない敵であることも事実。どれだけ成長の伸びしろがあろうとも、この一戦で全てを覆すことはできない。

 

 それでも負けたくなかった。もし方法があるとすれば、今の自分では扱いきれない力を引き出すしかない。しかし、モナドを呼び起こすことは当然ながらあり得ない。奴の力に頼りたいとも思わない。

 

 これは私の戦いだ。いざというとき、自分の力だけでどうにかできる強さがほしいと思っていた。わけのわからない存在に頼らずとも戦える力がほしい。

 

 そのために私は自分の『発』について、ずっと考えていた。シックスの発ではなく、私の発だ。感覚的な予測でしかないが、私がいくら彼女の発を作り出そうとしたところで無理だと思う。私にできるのは自分の発を作ることだけだ。

 

 蟻である私の本体も『纏』『絶』『練』を使うことができる。同様に『発』を作ることもできるだろう。肝心の問題は、その中身である。

 

 『発』とはその能力者だけが使える固有技であり必殺技だ。どんな能力にするか、自分で考えて決める。だが、何でもかんでも思い通りになるわけではない。 

 

 強力な技にしようと思えばそれだけ重い使用上のルールが必要となり、使いどころは限定される。単純な能力の方が応用は利くが、効果を見破られやすいし、強さは使い手の技量に大きく左右される。

 

 ブレードは言っていた。修行を重ねていけばいつか必ず、自分にはこれしかないと思える能力が見つかる。下手にあれこれ考えようとするよりも自然と頭に思い浮かんだアイデアの方が身に付きやすい。だからそれまでは基礎に専念して修行に打ち込んでいればいいと。

 

 その考え方からすれば、今の私がやろうとしていることは力に飢えて先を急ぎ過ぎているのかもしれない。指導者もなく、たった一週間の修行しか積まずに何かを修めた気になっているだけかもしれない。

 

 しかし、私の頭の中には既に明確なアイデアがあった。色々考えたが、これ以外にしっくりくる能力は見つからなかった。

 

 難しい制約をたくさん付けた能力は合わない気がした。作るならシンプルな技がいい。シックスの存在だけで十分に戦う力はある。それを補助し、かつ個性的な強さを持つ能力。

 

 そしてブレードから教えてもらった(聞き出した)水見式という系統判別法を修行中に試している。水を入れたコップに葉を一枚浮かべ、それを手で包み込むようにして練を行う。そのときに起きる様々な変化により、その者の得意系統を割り出すことができる。

 

 その結果、コップの水がとても苦い味に変わった。これは変化系を表す現象である。なんとなく操作系ではないかと思っていたのだが、実際はその真逆に位置する系統だった。

 

 これらの要素を総合し、作り出した私の発。まだ作ったばかりで使いこなせる自信はないが、試してみる価値はある。上手くいけばキルアの動きを封じることができるかもしれない。

 

 いくぞ、『落陽の蜜(ストロベリージャム)』――!

 

 

 

 

 

 

「おい、お前ら! いくら何でも時間かかりすぎじゃ……えええええ!? なんじゃこりゃあ!?」

 

 ここからが正念場と思った矢先、思わぬ第三者に水を差された。試験官の男が会場に戻ってきたのだ。ばたばた倒れている受験生たちの姿を見て驚いたのち、私とキルアの方へと視線を向けた。

 

「あー、盛り上がってるところ悪いが、もうすぐ時間だぞ。プレート5枚、集められなければ例外なく不合格だ」

 

 時計を確認すると時間切れとなるまであと5分を切っている。夢中になって時が経つのも忘れていた。これで失格になっていては本末転倒もいいところだ。私たちは勝負を中断して慌ててプレートの回収に取りかかる。

 

 しかもそのとき、キルアがどさくさに紛れて勝負内容をどちらが多くプレートを集められるかというルールに変更してきた。その結果……。

 

 シックス31枚、キルア75枚、大差での敗北を喫する。

 

「よっしゃ、オレの勝ち!」

 

 速さで勝てるわけないだろ! 腕いっぱいにプレート抱えてきた私たちの姿を見て、試験官は呆れたように肩をすくめた。

 

「やれやれ、想定では相討ちなんかも考えて二次に進める受験生は200人程度だと思っていたが、まさかこれほどの使い手が混じっていたとは。この様子じゃ二次試験を予定通り執り行ってもあまり意味がないな」

 

「もう2人ともこれでハンター試験合格ってことでいいんじゃない?」

 

「俺は別にそれでも構わないと思うが、最終的な決定を下すのは審査委員会の代表責任者だ。今から連絡を入れるから、その返答次第だな。だが……期待しない方がいいぞ。今年の責任者は相当にたちが悪い」

 

「代表責任者って、あのじいさんじゃないの?」

 

「例年通りならネテロ会長なんだが、急用が入ったそうだ。詳しくは俺たちも聞かされていないが、毎年この試験を楽しみにしているあの会長が来ないとはよほど緊急の用があるらしい。しかも、よりによってあの“副会長”に代役を任せるとは……何を考えているんだか」

 

「副会長って、誰?」

 

「会えばわかるさ。ま、今年は運が悪かったな。すんなりと合格させてはもらえないだろうよ」

 

 審査委員会の代表責任者がハンター協会の会長ではなく、副会長に代わったらしい。別におかしなことではないように思えるが、試験官はやけに含んだようなもの言いだった。

 

 

 * * *

 

 

「え? 僕がイジワルして合格者出さないかもって? まさか! そんなことしませんよ! 受験番号1212のチョコロボフさん、そして受験番号1219のキルアくん、お二人の合格を認めましょう。これで君たちも晴れてプロハンターの仲間入りです。おめでとう!」

 

 ぱちぱちと拍手を送る代表責任者にしてハンター協会副会長、パリストン=ヒル。私たちは別室にてパリストンから直々に合格の通告を受けていた。

 

 まさか組織のナンバー2の地位にある人物が受験生の案内役(ナビゲーター)をやっているなんて思いもしなかった。彼ならば人格的にも何か問題があるようには思えない。現にこうして何事もなく合格をもらえたのだからこれ以上言うことはなかった。

 

 今は合格者説明会を受けているところだ。何百人も入れるような広い講堂の中、パリストンが教壇に立ち、そのすぐ近くの席に私とキルアが座っている。他には誰もいない。

 

「先ほど、みなさんにお配りしたカードがハンターライセンスになります。再発行はしませんので気をつけてください。我々の統計では、試験合格者の5人に1人が1年以内に紛失や窃盗の被害によりカードを失っています」

 

 パリストンはプロハンターが受けられる恩恵や協会の規約などの説明を行っている。私はその説明を聞きながらも、どこか心ここにあらずといった感情を取り払えずにいた。

 

 頭の中ではさっきまでの戦いのリプレイが続いている。キルアの一挙手一投足に対し、どのように応じれば適切に捌けたのか。こちらの攻撃を当てるために、どうすれば相手の動きを読んで行動できたか。思考錯誤を繰り返していた。

 

「名前」

 

 隣であくびをしながら座っていたキルアが小声で話しかけてきた。人のことは言えないが、彼もパリストンの話をまじめに聞いているようには見えない。

 

「オレが勝ったんだから教えろよな」

 

 まだそれにこだわっているのか。あんな勝負の付け方で納得できるはずもない。私はそっぽを向きながらチョコロボフと答えた。

 

「それ絶対、チョコロボくんから取っただろ。偽名だってバレバレだから」

 

 何と言われようとシックスの名を教える筋合いはない。その機会があるとすれば、約束通りの一騎討ちで私が負けたときだ。

 

「へー、まだやる気なんだ。じゃあ、この後さっきの続きやっていこうぜ」

 

 望むところである。不敵に笑うキルアをにらみ返した。あんな不完全燃焼気味の終わり方では収まりが悪い。今度こそ私の発をお見舞いしてやろう。

 

「あのちょっと、先生の話を無視してイチャつくのはやめてくださーい」

 

「べ、別にイチャついてはねーよ!」

 

「青春ですねぇ」

 

「だから違うって!」

 

 



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60話

 

 ハンター協会会長、アイザック=ネテロ。外見は飄然とした老人だが、世界最大の念能力者組織を束ねる長であり、その実力を疑う者はいない。20年前から年齢は永遠の100歳くらいを公言しており、実年齢は不詳。その容姿にも変化が見られない。

 

「まったく、年寄りをこき使いよって。こんなときだけ調子よく協会を頼ってくる上の連中も困ったもんじゃの」

 

 ネテロはV5連合から密命の依頼を受けていた。先日起きたスカイアイランド号事件を機に非公式の首脳会談の場にて、許可庁は六つ目となる災厄の人類生存圏侵入を発表した。

 

 その発端はサヘルタ合衆国による条約違反渡航にある。本来ならそのような各国の暴走を止めるために機能するはずの許可庁が手を貸していたという異常事態。隠しきれなくなったその失態を、許可庁自らが認めたことになる。

 

 だが、実際にはもっと早期の段階で許可庁はこの件について各国への根回しに取りかかっていた。サヘルタの暴挙はタポナルド執務次官による独断によって推進されたものとして、組織内で統合された計画ではなかったと主張。責任の多くを某氏になすりつけ、決定的な解体を逃れていた。

 

 サヘルタは許可庁に出し抜かれた形となる。しばらくはV5の足並みが乱れ、安定しない情勢が続くだろう。ネテロにとっては政府上層部のいざこざなど、さほど興味のない話である。問題は、その預かり知らぬところで持ち込まれた爆弾の処理を、ハンター協会が請け負わなければならないという点である。

 

 サヘルタを除くV5各国は、新たな災厄の元凶を排除する方針を固めた。

 

 ネテロは長くのばした髭を撫でながら廊下を歩く。一本歯の高下駄を履いていながら、足音は全く立たない。廊下の先にある扉を押し開けた。

 

「邪魔するぞい」

 

 ネテロが踏み込んだその場所は広い講堂だった。その奥に三人の人影が見える。

 

「あれ、会長じゃないですか。どうされたんですか? 確か今日は外せない用事があるとか言ってませんでした?」

 

 パリストンが満面の笑みでネテロを迎えながら疑問を呈する。そもそもネテロからすれば、なぜお前がここにいると疑問を投げかけたい気分だった。何かの“手違い”で、代表責任者の選任業務に不手際があったようだ。

 

 ネテロはここ数日、V5からの指令と情報共有、今後の作戦立案のための会議などに追われていた。今年のハンター試験とその実行委員会に顔を出す暇がなかったことは事実である。

 

 だが、その裏でネテロは信頼のおける部下に命じて独自の調査を並行して進めていた。そして協会内部における不審な動きを突きとめる。災厄の脅威を決定づけたスカイアイランド号事件の数日前、事件を未然に防ごうと暗躍していた許可庁からハンター協会に秘密裏の接触があったのだ。

 

 人気アイチューバーとして活動し、当時あの船に乗ることが予定されていたプロハンター、ブレード・マックスに白羽の矢が立っていた。表向きは許可庁から内密に依頼された個人契約となっていたが、それが本当であればネテロにもこのことを知る由はなかった。しかし、実際にはその間に『協専』が一枚噛んでいたものと思われる。

 

 協専とはハンター協会が政府や企業から請け負った依頼をプロハンターに斡旋する業務形態とその運営機関を指す。

 

 プロハンターは世界中を飛び回り、まともに連絡の取れない者が多い上、我の強い性格をした人間が大半を占めるため、そういったハンターとの折衝を図り、適切な人材派遣をしてくれる協専は外部の依頼者からすれば高い信頼を得ていた。ハンター個人としても依頼の成否に関係なくリスクや難易度に応じた報酬が協専を通して支払われるため、これを本業とする者も多い。

 

 しかし、その実態はパリストン派の人間によって掌握されている。今やネテロですらその聖域にメスを入れることができないほど急速に成長してしまった。ブレードと協専のつながりに関しても、確たる証拠が見つかったわけではない。調査によって得られた情報を元にした推論でしかなかった。

 

 おそらくネテロが把握していない範囲においても、パリストンによるかなりの情報操作があったものと思われる。その偽の情報に翻弄されてしまったが、この場にネテロが駆け付けたことにより、ギリギリのところで最悪の事態は回避できたと言っていいだろう。あと少しでも部下からの報告が遅れていれば今頃飛行船で海の上を飛んでいた。

 

「なに、ちょっと忘れ物を取りに来ただけじゃ」

 

「それにしては随分と物騒な気を纏っていらっしゃる」

 

 ネテロは殺気など微塵も発してはいない。パリストンもそれを読み取れたわけではなかった。つまり、言外に示された牽制。明確な敵対の意思。

 

 それは今に始まったことではない。パリストンの狙いはネテロ会長の失脚にある。そのために弄した策は数知れず、そしてネテロはそれらを正面から叩きつぶしてきた。

 

 ネテロは別にパリストンを嫌っているわけではない。副会長の地位を与えたのも他ならぬネテロである。性格に多大な問題がある一方で、その手腕を認めていた。近年のハンター協会の業績においても大きな結果を残している。

 

 このどうしようもない問題児を受け入れたのは、他の誰かに目移りさせないためでもある。ネテロが彼の遊び相手として機能している間は被害を周囲に撒き散らすこともないだろうという思惑があった。

 

「しかし、今回ばかりは度が過ぎる。それはお前が玩具にするには手に余る代物じゃろう」

 

 この部屋に入った直後からネテロはターゲットである少女をつぶさに観察していた。目を惹く外見をしているが、強者の気配は感じない。だが、その身のうちに凶悪な怪物を宿していることをネテロは知っていた。

 

 スカイアイランド号事件の捜査資料から少女の持つ能力について解析が行われている。いまだ多くの謎を残す災厄の実態は、その元凶たる少女自身も全てを把握しきれていないようだ。

 

 ゆえに何が起きるかわからない危うさもある。ある意味で明確な悪意に基づく存在であるより厄介だった。本人の自覚なしに災厄を拡散させることも考えられる。

 

 それに加えて、彼女が飛行船から脱出する直前に見せた戦闘形態だけはネテロをしても脅威を感じずにはいられなかった。仲間の死に触発されて起きたあの暴走状態となれば、ネテロでも苦戦する恐れがある。

 

 武人としては興味がそそられるところだが、ここで私情を優先するほどネテロも耄碌はしていない。災厄という未知の脅威、そしてパリストンの介入もあり、悠長に遊んでいられるような状況ではないとわかっている。

 

 たとえ、この少女が普通の子供と同じように純粋な心を持っていたとしても、誰かの悪意に巻き込まれて引き起こされた悲劇の被害者だったのだとしても、ネテロが請け負った指令に変更は生じない。その程度のことで揺らぐような決心しかないのであれば、彼はハンター協会の会長をやっていない。

 

 その程度。人の道を踏み外し、大義のもとに犠牲を是とし、覚悟も伴わぬ小さな命に手をかける。あまりにも重い“その程度”を、彼はいくつ心に刻んできたことだろう。

 

 それは数千年を生きる大樹のような精神力だった。長く生きた巨木は一見して生命力に溢れて見えるが、その幹の外層は生命活動をしておらず、既に死んだ細胞で占められている。

 

 幾月幾年と風雨に晒され、傷つき、腐り、剥がれ落ち。命かよわぬ鎧のうちに、生き続ける芯がある。悪を悪とも思わず、善を善とも思わぬ者には決して至ることのできないこの境地をもって不動。

 

 ネテロは威圧したわけではなかったが、その姿を見た少女はにわかに席を立った。鏡のごとく静かな湖面を思わせるネテロのオーラは、心のうちに隠した無意識を映し出すように漠然とした不安を抱かせた。

 

「十ヶ条により『ハンターたる者、同胞のハンターを標的にしてはならない』と定められています。彼らは試験に合格し、既にライセンスの交付を受けたハンターです。何の説明もなくこの規約を破ることは、僕としても看過できません」

 

「これどういう状況なんだよ。まだ試験が終わってないとか? まさかネテロのじいさんと戦えとか言うんじゃ……」

 

 パリストンはあくまで白を切り通すつもりらしい。どうせ知っているはずの事実を説明するのは面倒だし、それを聞いた上で時間稼ぎの演説を仕掛けてくるであろうパリストンの相手をするのも面倒だし、それはターゲットの前で今からお前を殺すと宣言するのも同然だから面倒だし、さらに部外者のキルアに聞かせられる情報ではないので面倒だ。つまり、どう転んでも面倒である。

 

 だが、結局はそれも嫌がらせ程度の結果にしかならない。パリストンがここでネテロを直接妨害してくることはないとネテロは思っている。ここにネテロが来た時点でパリストンの企みは失敗に終わっているのだ。後は悪あがきしかできない。

 

 しかし、正確には半分失敗と言うべきかもしれない。パリストンは現在の結果となることも想定している。その上で、考えられるシナリオをいくつか用意していた。

 

 この講堂はハンター試験会場からさらに地下へ降りた最下層に位置している。有事の際の地下シェルターとしても機能する場所であり、この中で何か起きたとしても完全閉鎖すれば地上に被害が及ぶことはない。ご丁寧に人払いまで済んでいた。

 

 ネテロが来なければそれで良し、来た場合は少女との決戦に誘導することが最初から計画されていた。パリストンは少女の味方というわけはない。

 

 見た目こそ善人らしい好青年に感じるが、実際に彼と関わった人々はたいてい両極端の反応を見せる。支持するか、嫌悪するか。いずれにしても、その本質に少しでも触れた者は常軌を逸した悪性を感じ取ることだろう。

 

 パリストンは面白ければ何でもいいと思っている。ネテロを失脚させようとしているのも、会長の座を狙ってのことではない。災厄の少女を手中に収めようとした理由も、武力や権力や財力を満たすためではない。

 

 ただ、彼にとって“面白い”と感じることが常人とはかけ離れた破滅的思考のもとに導き出されている。ゆえに、ここで少女と会長が戦う展開も、彼からすればまた一興であった。

 

 ネテロはその点においてパリストンを信頼していた。自らの異常な欲望を満たすため物事の遥か先を見通す感覚は、協会の最高幹部による執行機関『十二支ん』においても一二を争うほど鋭敏である。

 

 そしてパリストンもネテロを信頼していた。会長ならば、きっと自分の企みを打ち壊してくれると胸が躍るほどに期待していた。

 

 本来ならば噛み合うはずもない致命的なまでの齟齬から生まれた二つの信頼が、図らずも互いの利益を一致させる。この会長と副会長の関係はある意味で良好と言えるのかもしれない。ネテロはどこか釈然としない感情を抱きながらも、パリストンのお膳立てに乗ることにした。

 

 さて、やるか。

 

 ネテロはゆるりと手を動かす。その両手が彼の胸の前で合掌の構えを取ったとき、全ては終わる。

 

 少女と言葉を交わすつもりはなかった。それはネテロにとっても、少女にとっても意味のある行動とはならないだろう。たどり着く結果が変わることはない。

 

 ネテロの心に殺意はなかった。それは一人の人間が持ち得る故意を超えた、自然の意思にも等しき無為の境地。その澄み切ったオーラから次の一手を予測することは不可能である。

 

 どれほど優れた使い手であろうとも、次の瞬間には自身の死をもって結末を知ることとなるだろう。しかし、ただ一つ誤算があった。

 

 ネテロは少女に対して、わずかな憐れみを持たずにはいられなかった。殺意はなくとも、その感情がオーラに小さな波を立てる。少女の研ぎ澄まされた感覚は、ネテロの瞳の奥に憐憫の情を垣間見た。

 

 少女はネテロの強さを理解できたわけではなく、これから何が起きるのか予測できたわけでもない。ただ死の間際に実感する、恐怖、拒絶、渇望に支配されている。

 

 ネテロは自らを戒めた。少女にとって無慈悲の速攻こそが最大の慈悲であったはずだ。胸中に残るわずかな憐れみも取り去り、無心となったネテロはその手を打ち合わせる。

 

 

 『百式――

 

 

 

 プルルルルルルル

 

 

 だが、静まり返った講堂に響く電話の着信音によって攻撃は中断された。無視して攻撃することもできたが、ネテロはしばし考える。

 

 この場所は地下深くに位置しており、電波が届く環境ではない。中継機もなく、通信は有線の特殊暗号回線でしかできないようになっている。

 

 着信音は、少女が座っていた机の上から聞こえている。そこには彼女のものと思われるスマートフォンが置いてあった。

 

 何らかの念能力を用いた可能性もある。少女が何かしたようには見えなかったので、外部から念能力者がコンタクトを取ってきたのかもしれない。だとすれば、少女の協力者が他にもいるのか。

 

 パリストンの様子を確認してみたが、いつも彼が貼り付けている笑顔が消えていた。どうやら彼にとってもこれは不測の事態であるらしい。そばにいるキルアが余計な行動を起こさないように気を配っているのがわかる。

 

 ネテロは構えを解いた。ここはひとつ、様子を見ることにする。その電話の内容によっては新たな情報が得られるかもしれない。少女はネテロに許しを乞うような視線を送りながら、のろのろとスマートフォンを手に取った。

 

「もし、もし」

 

 かすれた声で通話に応じるその微音を、ネテロは聴覚を強化して盗み聞く。普段から地獄耳と揶揄される彼にしてみれば、この距離から電話口の向こうにいる人間の声を聞き取ることなど造作もない。

 

 スマートフォンからはチューニングの合わないラジオのような雑音が流れていた。しばらくするとそのノイズの中に人の声らしき音が混ざり始める。

 

『――――お――きこ――――わ――――――』

 

「もしもし」

 

『――だい――――どうで――王――! ――聞こえま――か?』

 

「きこえた」

 

『なんとか急――通信プログ――間に――たよう――が、長くは持ちません。こちらもそちらの事情を把握できているわけではないのですが、命の危険が迫っているのですね?』

 

「ころされそう」

 

 やはり仲間なのだろうか。念能力を使って少女の危機を察知したということか。

 

『まず、モナドを呼び出すことだけは絶対にやめてください』

 

「でも」

 

『わかっています。それだけの強敵というわけですか……私の方でもこういったケースに備えていました。モナドのように強大な力ではありませんが、より安全な方法でアルメイザマシンを使えるように。まだ試作段階で実用に耐えるかわかりませんが……』

 

 モナド、アルメイザマシン。ネテロはそれらの単語を頭に入れながら会話の内容に耳を傾ける。

 

『対念能力者用サーマルガン『侵食蔕弾(シストショック)』。アルメイザマシンに兵器としての形を与えることで安定的な運用ができるようにしました。あなたの承認によってすぐにダウンロードできます。この銃弾を当てればどんな敵でも絶対に倒せます!』

 

 少女がスマートフォンを操作すると、その手の中に赤い結晶の塊が出現する。それは辛うじて銃と呼べる形を取っていた。その禍々しい災厄の産物を目にしたネテロは思う。

 

 

 撃たせるわきゃねーだろ。

 

 

 『百式観音』

 

 彼は合掌する。その始まりから終わりに至るまでの過程を認識できた者は、ネテロを除いてこの場にいなかった。

 

 ネテロの背後にオーラで形作られた巨大な千手観音像が出現し、敵を攻撃する。分類的には念獣に近い形態だが、一般的なそれとはもはや隔絶した能力と言えた。

 

 この能力の発動起点はネテロが両手を合わせ、合掌の構えを取って感謝の祈りを捧げることにある。そこから型を選択し、観音像が指定された攻撃を終えるまでの速度は音を置き去りにする。一連の動作は音速を超えていた。

 

 到底、人間に反応できる領域ではない。しかし、そのような攻撃を人間が繰り出している。武の一つの到達点と言うべき奥義が不可避の速攻を実現した。

 

 もし、奇跡的に防御が間に合ったとしても無駄なことである。ネテロは強化系能力者であり、百式観音による攻撃は強力無比。並みの能力者ではその一撃に堪えることもままならない。

 

 観音像の手刀を受けた少女は一瞬にして原形をとどめぬほどの肉塊へと変貌した。むせかえるほどの血の臭いが衝撃波と共に広がる。

 

「チョコ、ロ……」

 

 キルアは挽肉となった少女の方へと手を伸ばした。何が起きたのか理解はできていない。ネテロの攻撃の直前、パリストンに体を引かれて退避している。気がつけば、ただ少女の死という結果が残るのみであった。

 

(さて、これで片付けばいいが……)

 

 一方でこの凄惨な現場を作り出したネテロはと言うと、気を抜くことなく少女の遺体に目を向けていた。念能力者との戦いは時に死が終わりとならない。死後強まる念というものも存在する。

 

 まして相手は暗黒大陸からやって来た災厄の関係者だ。いつでも次の攻撃を放てるように身構える。

 

 ネテロは肉塊となった少女の傍らにあるぬいぐるみを見た。攻撃を受けて破れた布袋から“中身”が見えている。スカイアイランド号事件においても確認された存在だった。その詳細は不明だが、百式観音の一撃をもってしても破壊できなかったという事実だけで大きな警戒に値する。

 

 追撃を打ち込もうとしたそのとき、少女が持っていたスマートフォンから――ぐしゃぐしゃに折れ曲がり破壊されたはずの機体から、雑音混じりの小さな声がネテロの耳に届いた。

 

 

 

『敵オーラ体による接触を確認。これより感染機能を限定解除します』

 

 

 

 異変はネテロの背後で起きた。彼の念能力、百式観音が赤い結晶に取り込まれていく。不動の精神力を持つ彼であっても、我が目を疑うような光景だった。

 

 これが災厄か。脅威をその身に受けた彼は敵の正体を見誤っていたことを悟った。これは、念能力者にとって天敵であったのだと知る。

 

 そして、ネテロ自身も結晶の中に閉じ込められた観音像と同じ運命をたどる。オーラが金属へと置き変わっていく。その変調を止めるすべはなく、全身を滅ぼすような激痛と共に意識を失った。

 

 

 * * *

 

 

 意識を取り戻したネテロを待っていたものは、地獄だった。

 

 彼がこれまでに歩んできた長い人生を遡る。決して平坦な道のりではなかった。思い出したくもない記憶など数え切れないほどあった。それでも生きた時間の中で、辛い過去は緩やかに沈み込むものだ。決して取り除くことはできないが、深い水底に沈みこんだ泥の上に澄み切った水は流れ続ける。

 

 それを強引に掘り起こされ、掻き回されるかのようだった。苦難の記憶は鮮明に蘇り、まるで過去のその時を繰り返しているかのように体験する。この災厄は、その者が最も忌み嫌う追憶を呼び覚ます力がある。

 

 ネテロはその忌まわしき記憶の数々を、鼻をほじりながら見物していた。

 

 植物の域にまで達していると評される彼の精神は過去に体験したトラウマをものともしなかった。それらを乗り越えた上に今の自分があることを確信している。何よりも、報われない結果に終わった過去はあれど、その後悔を引きずったことは一度としてなかった。

 

 だからこの精神攻撃も不快に感じる程度のダメージしかない。体を蝕む激痛にも慣れつつあった。『最強』と呼ばれた念能力者の精神力は、この絶体絶命の窮地にあって微塵も揺らぐことがなかった。

 

 しかし、さすがに余裕綽々というほど楽観もできない。ネテロには現状を打破する手段がない。自身がこの災厄に生かされているだけの存在となったこともわかっていた。

 

 過去に存在が確認された五つの災厄も、人類はその脅威を克服できたとは到底言えない。運良く被害が広がる前に隔離できただけである。あるいは、顕在化していないだけで既に侵略の手は地の奥深くまで根付いているのかもしれない。

 

 あの少女は何者だったのだろうかとネテロは考えを巡らせる。許可庁は全ての情報をネテロに開示していなかった。討伐するだけなら不要の情報を外部に漏らすべきではないとして、予想される少女の戦闘力など一部の断片的な情報しか共有できていない。

 

 そもそも今回起きた戦闘からしてV5が予期していたものとは異なる。シックスと名乗る少女についても十分な解析が為されたとは言えず、本来はもっと綿密な打ち合わせの上に討伐作戦が実行されるはずだった。全てが後手に回ったと言える。

 

 ネテロもあの場にパリストンがいなければすぐさま戦闘に持ち込むことはなかったかもしれない。パリストンを通して政府側の作戦は筒抜けとなり、懐柔された少女がどのような猛威を振るうかわかったものではなかった。

 

 と、他人に原因の始末を押し付けている時点でこちらの負けかとネテロは自嘲する。あの生意気な若造に一杯食わされたことは不服に思うが、ネテロは死の直前にパリストンの表情を見て、その心境を察することができた。

 

 ハンター協会の行く末は気になるところだが、後のことは若い者たちに任せるとする。まあ、何とかなるだろと心配を放り投げた。簡単に潰れるほど弱い組織を作ったつもりはない。

 

 やがて、ネテロの前に現れていた幻覚は消えてなくなる。トラウマを想起させる方法ではネテロに絶望を与えられないと気づいたのか、今度は別の手段に訴えてきた。

 

 ネテロの体から感覚が一つずつ消えていく。何も聞こえず、何も見えなくなる。五感の全てを奪われた。自身の肉体が存在しているのかどうかもわからない。目の前に広がる光景は闇ではなかった。光や闇といった現象すら知覚できない状態に陥る。

 

 何もない。今はまだ主観的な時間の概念を感じるが、そのうちそれもなくなるものと思われた。この無限に等しい無の中で、たった一つの自我など砂漠の砂の一粒にも値しない。どれほど強い精神力があろうと、やがては自己を見失い、無に取り込まれて消え去ることだろう。

 

 そのときネテロはただ一つ、今の自分にできることが残されていたと気づく。それは祈ることだった。

 

 祈りとは、心の所作。

 

 たとえ肉体がなくなろうとも、この心が一つあれば事足りる。心がある限り、祈ることができる。そして祈りが続く限り、この無の中においても個を失わず、心があることを意味している。

 

 ネテロはかつての修行の日々を思い出していた。気を整え、拝み、祈り、構えて、突く。一日一万回、感謝の正拳突き。客塵煩悩の一切を断ち、ただそれのみに十年の歳月をかけ没頭したあの日々を。

 

 肉体の頸木から解かれ、己の心のみしか感じ取れないこの場所は、祈りを捧げる上で限りなく適した環境と言えるのではないか。

 

 こうしている間にも、ネテロの自我は無に溶け込んでいく。自分が何者であったのか、これまでに築き上げてきたネテロという人間が消えていく。だが、それがむしろ祈りを純粋にした。人であるがゆえに生じる雑念を滅却し、単なる思索を超えた無為の所作へと近づいていく。

 

 彼が求めた武の極みとは、敗色濃い難敵にこそ全霊をもって臨むこと。ネテロは消えゆく一方で、長らく忘れていたその感覚を思い出させてくれた敵に感謝していた。万感の思いが祈りという一点に収束し、彼を再び形作る。

 

 消失と再生は、祈りの数だけ繰り返された。常人では一度として堪えられない死と復活の連鎖の中で、ネテロは静かに祈り続けた。

 

 

 * * *

 

 

 キルアは必死に状況を理解しようと頭を働かせていた。結晶に包みこまれてしまったネテロが生きているのか定かではないが、これを無事とは呼べないだろう。

 

 そして、ネテロに瞬殺されたはずの少女は映像を巻き戻すように肉体が再生し、元の姿に戻っていた。気絶したまま起き上がる様子はない。

 

 ネテロの登場から何一つ説明もなく繰り広げられたこの戦闘に対して、当然ながらキルアは困惑していた。パリストンはそんなキルアに事情を手早く話していく。

 

「暗黒大陸……? 災厄……?」

 

 だが、その説明はさらにキルアを混乱させた。この少女は世界の外に広がる世界からやって来た人類の脅威であり、ネテロはその討伐の命を受けていたが敗北した。

 

 あまりにも飛躍した話の内容に、すんなりと受け入れることはできなかった。しかし、パリストンが嘘を言っているようには見えないし、こんな荒唐無稽な嘘をつく理由も見当たらない。

 

「僕はこうなることを恐れて和解の道を模索していました。君もこの試験中に彼女と接して思ったはずです。彼女はごく普通の、ありふれた人間と変わらない感性を持っています。互いに歩み寄ることができた、それなのに……」

 

 パリストンは表情を歪め、悔しげに机を叩きつける。

 

「……過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方がありませんね。キルア君、ハンター協会副会長として、いえ会長代理として、今からあなたに指令(ミッション)を与えます」

 

 災厄の少女を守れ。今まで黙って話を聞いていたキルアもさすがに声を上げずにはいられなかった。

 

「なんでオレがそんなことを……!」

 

「彼女にとって今一番必要なものは心のケアです。それが可能な人物として、君が適任であると判断しました」

 

 パリストンはハンター試験の様子を観察していた。戦い合う二人の様子は仲むつまじいとは呼べなかったが、好敵手として互いを認め合う念能力者らしい一面を見ることができた。

 

「命がけで彼女を守れとは言いません。この指令にも強制力はありません。ただ、少しの間だけでもいいんです。彼女の“友達”になってあげてくれませんか」

 

 キルアは友達という言葉に反応する。少し前まで彼にも友達と呼べる者はいなかった。暗殺者として育てられるために、ずっと家に閉じ込められてきた。その生活に嫌気が差して家を出たのが一年前のことになる。

 

 思えば、初めて友達ができたのは今から一年前のハンター試験だった。ゴン、クラピカ、レオリオ、彼らとの出会いがなければ今の自分はなかったと思える。

 

 以前のキルアは友達がいないことをなんとも思ってなかった。しかし今の友人たちと出会ってから過ごしたこの一年は、何にも代えがたい思い出としてキルアの胸に刻まれている。それがどれほど大きな存在なのか理解できた。

 

「……待てって、こっちにだって色々事情があるんだよ。今はグリードアイランドの攻略中で投げ出すわけにもいかないし……」

 

「グリードアイランドですか? ……いいですね、それ」

 

 パリストンは少し考え込むそぶりを見せてから、勝手に何か納得したようにポンと手を打った。

 

「あのゲームの世界なら、僕が匿うよりも安全かもしれません。今のプレイヤーは飽和状態で新たに参加できる念能力者はいても数人でしょう。内部から外に出てくる人間も限られていますし、情報が漏れる可能性は少ないと言えます。仮に発覚したとしても大規模な討伐作戦の決行は無理ですし、逃走も容易です」

 

「は!? いや、でも、肝心のゲームをどうやってプレイするんだよ。バッテラのプレイヤー選考会はもう終わってるぞ」

 

「それなら僕が持ってますよ。あのジンさんが作ったゲームですからね。とか言いながら、ほとんど遊ばずに積みゲーにしてましたが」

 

 パリストンはキルアと一緒に少女をグリードアイランドへと逃がす作戦を立てた。

 

「君たちがゲームの中にいる間に、こちらでチョコロボフさんを受け入れる体制を整えておきます。さすがに事が事だけにしばらく時間がかかってしまうと思いますが……何とかしてみせましょう。その間、君は彼女のそばにいてくれるだけでいいのです。お願いできますか?」

 

 煮え切らない態度を見せるキルアに、外堀から埋めていくように話をまとめていくパリストン。キルアはがしがしと頭を掻き、やけくそ気味に承諾した。

 

「あーもー! わかったよ! 引き受けてやるよ! でも、ちょっとでも危なくなりそうだったらすぐに逃げるからな!」

 

「はい、それで構いません。よろしくお願いしますね」

 

 キルアは少女の搬送に取りかかる。肉体は怪我ひとつなく元に戻っているが、着ていた服はボロボロに破れたままである。キルアはなるべく見ないように少女を背負った。

 

 少女はぬいぐるみを握りしめたままだった。よほど大事なものなのか、意識がないというのに手放す様子がない。中に何が入っているのか少し不気味だが、そのまま運ぶことにした。

 

 気を失った少女の姿は人類を滅ぼしうるだけの力を持った存在にはとても見えないが、その力の一端はキルアも目撃している。安請け合いしてしまったが、果たしてこのまま関わっていいものかという迷いもあった。

 

 だが、その背中に受ける重みはキルアにとって不思議と居心地の良いものだった。前にもこんなことがあった気がする。遊び疲れて眠った妹を背負って家に帰る、そんなありもしない思い出が脳裏をよぎるかのようだった。

 

 この少女をどこか他人事とは思えないほど気になっていることは事実だった。リスク管理に厳しい性格をしたキルアにとって、その自分らしくない行動に釈然としない気持ちを感じたが、結局、そのまま運ぶことにする。

 

「地上に出れば僕が手配しておいた部下が待機しています。彼らの指示に従って動いてください」

 

 パリストンはキルアに地図を渡した。そのルート通りに進めば協会員の目に触れることなく地上に出られる。そんな説明を受けたキルアはパリストンに問う。

 

「あんた、こうなることがわかってたんじゃないの?」

 

 最初から違和感はあった。ネテロは少女を殺そうとし、パリストンは少女を守ろうとしている。ハンター協会の会長と副会長が、なぜ異なる立場からこの少女に接触しようとしていたのか。

 

 逃走経路の確保にしても手際が良すぎる。まるで少女とネテロが戦うことがわかっていたかのように用意周到だと感じた。

 

 キルアはパリストンをまだ信用していなかった。どこか、この男には裏がある。屈託のない笑顔の影に、彼にとっては慣れ親しんだ闇の気配を感じさせる。そんな気がしてならなかった。

 

「想定は、していましたよ。当然でしょう。あらゆる可能性を考慮しておく必要がありました。それがネテロ会長の死であろうとも」

 

 パリストンは赤い結晶で作られた巨大なオブジェへと目を向ける。そこには閉じ込められたネテロの姿があった。

 

「でも、それ以上に期待していたんですよ。会長がここに来た時点で、今回は僕の負けだと思いました。会長なら何とかしてしまう。何の疑いもなくそう思える人でした。だから今でも信じられないんです。あのネテロさんが、こんなにあっさりいなくなってしまうなんて」

 

 パリストンがネテロとどのような仲にあったのか、キルアにはうかがい知れない。だが、ただ反目しあうだけの関係ではなかったのだろう。複雑に入り乱れる感情の中で、パリストンがネテロの死に対し、悲しんでいることだけは嘘ではないとキルアは感じ取った。

 

「……行ってください。もうすぐ会長の足に追いついた増援がここまで乗り込んでくるはずです。さあ、早く」

 

 完全に信じ切ることはできないが、今はゆっくりと見定めている時間もない。キルアは少女を背負い、地下講堂の階段を駆け上った。

 

 



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G・I編
61話


 

「G・Iへ、ようこそ」

 

 幾何学的な模様で埋め尽くされた空間を進んだ先には、一人の女性がいた。彼女が手元の装置を操作すると、私の目の前の床がせり上がってコンソールのようなものが現れる。

 

「あなたの名前を教えてください」

 

 どうやらこの機械に入力すればいいらしい。ハンター試験のときはチョコロボフと名乗ったが、念のためその名は使わない方がいいだろう。自分で付けた名前だが、改めて考えるとひどい名前である。好んで使いたいとは思わない。たぶんハンター名はそれで登録されてしまったと思うが……。

 

 キーボードを操作して『ナイン』と打ち込む。シックスの『6』をひっくり返して『9』のナインだ。チョコロボフよりはマシな気がする。

 

 名前の決定ボタンを押すと、装置の横の蓋が開いた。中に指輪らしきものが入っている。

 

「それではこれよりゲームの説明をいたします。ナイン様、ゲームの説明を聞きますか?」

 

 ゲームの中でプレイヤーは、この指輪を装備することにより『ブック』と『ゲイン』という魔法が使えるらしい。この世界ではモンスターを倒したりアイテムを手に入れると、それらの物品がカードになる。カードは『ゲイン』の魔法によって一度だけ元の形に戻すことができる。

 

 カードは一定時間経過すると消滅する。保存するためには『ブック』の魔法で呼び出した本のポケットに収める必要がある。カードには番号があり、№000から№099のカードは指定されたポケットに1枚ずつ入れられる。番号に関係なく入れることができるフリーポケットというものもある。

 

 100個ある指定ポケット全てにカードを収めることができればゲームクリアだ。

 

「もしもプレイヤーが死んでしまった場合、本と指輪は破壊され中のカードは全て消滅しますのでご注意ください」

 

 他にも細々としたルールはあったが、一度に説明されたためにあまりよく理解できなかった。そもそもゲームをクリアするつもりはないので、おおまかにわかればいい。必要があれば後でキルアに聞こう。

 

「それではご健闘をお祈りいたします。そちらの階段からどうぞ」

 

 指示に従って階段を降りていくと建物の外へ出た。見渡す限りの草原が広がっている。このリアリティはミルキーと戦ったときのような最新のVR技術でも再現できないだろう。まるで現実である。念とは尽々、不思議な力だ。

 

「やっと来たか。待ちくたびれ……」

 

 私が来るのを待っていたキルアがこちらを見て、固まった。私の姿をじろじろと観察してくる。言いたいことはわかるが、私も好きでこのような格好をしているわけではない。

 

 以前着ていた私の服はネテロとの一戦により損傷してしまったため、着替える必要があった。それについてはむしろ喜ばしいことだったのだが、新しい服を見つくろってきた奴が問題だった。

 

 なんと、あのディックサクラのイカれた店員である。奴はパリストンが手配し、潜入させていたプロのハンターだった。日夜『かわ美』なるものを追い求めて活動するハンターらしい。しかもそのかわ美ハンターの同胞はそこそこの数がいるらしい。恐ろしい。

 

 無論、今度こそ私は抵抗した。もう二度とあんな服を着せられてたまるか。とにかく目立つような服装はダメだ。シックスくらいの年ごろの子供が着るような普通の服で、動きやすいものを所望した。

 

 その結果。半袖Tシャツに短パン(ホットパンツ)、足元はスニーカーでニーソックス着用というチョイスに決まる。ヘアピンに至るまで全て人気のキッズブランドで統一され、かわいらしいデザインにまとまっていた。

 

 確かに、小学生っぽいと言える服装である。こちらの要望通り、体を動かすにも問題はない。だが、姿見で自分の格好を最終確認したときに感じた、この何か越えてはならない一線をぶっちぎってしまった感じをどう表現すればいいのかわからない。奴はランドセルまで用意していたが、さすがにそれは叩き返した。

 

 変装用に髪の色も変えた。特殊な染髪料を用意してもらい、染めるというよりコーティングに近い方法で染色し、今は金髪になっている。あと顔の印象を変えるために大きめの伊達眼鏡をかけているのだが、それが謎の犯罪臭に拍車をかけているような気がしてならない。

 

 まあ、一応おかしくはない服装にまとまったので文句はなかった。どれも普通の有名ブランドの商品だし、実際にシックスくらいの年齢の女子によく着られている服である。以前のコスプレ衣装よりヤバくなった気がするのは私の気のせいだろう。本体を入れておくリュックサックもちゃんと用意してもらった。

 

 ただしニーソ、お前はダメだ。タイツ同様、この脚全体を締めつけてくる感覚が好きになれない。特にこのふとももにぎゅっと食い込んでくる部分がもうダメだ。想像しただけでかゆくなってくる。

 

 脱ごうとすると奴が泣きわめきながら『ホットパンツとニーソックスが作り出す絶対領域の尊さ』を延々と語ってくるため、そのあまりの喧しさから今まで我慢していたのだ。しかし、ここまでくれば奴の目も届かない。私はニーソを脱ぎ捨てにかかる。 

 

 だが、地べたに座り込んで靴下を脱いでいると、どこかからか視線を感じた。キルアではない。ここからは姿が見えないほど遠くから誰かに見られている気がする。

 

 ベットリとへばりつくような視線、この獣には出せない人間特有の湿り具合。いったい、何者だ。脱いで丸まった二つの靴下をポイと捨てると、視線はそちらに移ったような気がする。私を見ていたわけではないのか。相手の目的が読めない。

 

「気にすんな。ただの変態だ」

 

 特にそれ以上何か仕掛けてくる様子はなかったので無視することにした。駆け出したキルアの後を追い、私たちは草原を出発した。

 

 

 * * *

 

 

 ネテロの一撃を受けた私は気を失い、それからしばらくの記憶がなかった。あの瞬間、シックスが圧殺された感覚だけは覚えている。これまでも生命活動が止まるような重傷から再生してきたが、原形がなくなるほどすり潰される経験はしたことがなかった。

 

 しかし、何とか復活できたようだ。肉体は粉々になったが、それがシックスにとっての死ではなかった。とはいえ、あんな経験はもう二度としたくない。

 

 それから後の出来事については他人から聞かされることで確認した。ネテロは死んだそうだ。そして、それをやったのは私らしい。彼らが災厄と呼ぶ力、アルメイザマシンの脅威によって。

 

 この災厄は暗黒大陸という場所からやってきたらしい。シックスの出自もそこにあるのか私にはわからないが、私が人類に危険視され、それだけの力を持っていることは事実だった。

 

 知っていることを全て話す勇気はなかった。何も知らない、覚えていないの一点張りで通した。私がルアンと電話で話していた場にいたパリストンは私の供述を信じてはいないだろうが、追及はされなかった。

 

 それから私はパリストンに保護されることになる。彼が本当に信用できる人物であるか、調べる時間などなかった。事件の直後は私も動揺し、その場の流れに身を任せてしまった部分が大きい。

 

 だが、今冷静になって考えてみても、パリストンに頼る以外の選択肢はなかった。私はハンター協会の会長を殺したのだ。自覚がなくとも、それは揺るがぬ事実。もう後戻りはできない。何とか私の処分が軽くなるようにパリストンが取りなしてくれるという言葉を信じるしかなかった。

 

 パリストンは今も私のために動いてくれている。私にできるのは、ほとぼりが冷めるまで身を隠すことだけだ。そのためにグリードアイランドというゲームをプレイすることになった。

 

 ここは念能力者が作ったゲームの世界だ。ジョイステーションという一般家庭にも普及しているゲーム機にG・Iのソフトをセットして『練』をすることでプレイヤーはゲームの中へと入り込み、現実さながらの世界『グリードアイランド』を体感できる。全てのプレイヤーがこの島に集うMMORPG形式のゲームである。

 

 そのとき身につけている物も一緒に転送されるため、裸のまま放り出されるということはない。私の場合はシックスか本体か、どちらか片方が置き去りにされないかちょっと心配だったが、無事に随伴することができた。

 

 念によって別次元に存在する空間を作り出す発はあるらしいが、島一つを丸ごと創造する念とはあまりに規格外だ。魔法が使えたり、アイテムがカードになったりするゲームシステムも全て念によるものと思われる。どんな念能力者が作ったのか想像もできない。

 

 プレイするためには練を使えなければならないため、必然的にプレイヤーは全て念能力者となる。そして、このゲームの中で死亡した場合、現実の世界に戻ってくるのは死体だけだ。都合よくコンテニューはできない。しかも一度プレイを始めると、ある程度ゲームを進めるだけの実力がなければ現実世界に戻ることすらできないという。

 

 そんな恐ろしいゲームだが手に入れたいと望む者は多い。限定個数100本のみが58億ジェニーという法外な値段で発売されたが、今では170億の懸賞金がかけられるほどだ。オークションでは300億を超える価格で落札されたこともあるという。

 

 私の場合はパリストンがゲームを持っていたのでプレイできたが、普通はまず入手できない。現存するゲームは100本しかなく、ジョイステーションのメモリーカード拡張プラグを使っても最大参加人数は800人となる。既に多くのプレイヤーが入り込んでいるため“空き”が出ない限り新規参入者にプレイする余地はない。

 

 空きとはつまり、プレイヤーが死ぬことだ。誰だって死にたくはないので現実世界に帰ることを諦めてゲームの中で生活し続ける者が大勢いるらしい。ゲームの外に出ることができる実力者は、ほんの一握りである。それだけ攻略が困難な厳しい世界ということでもある。

 

 それゆえに私にとっては好都合だった。グリードアイランドは人間の出入りが極めて制限された環境にある。ここにいれば私の正体が発覚することもないだろうとパリストンは言っていた。

 

『後のことは僕に任せて、ゆっくり友達と遊んできてください』

 

 そう言われても、素直に好意を受け取ることはできなかった。パリストンには多大な迷惑をかけている。今も私のために事後処理に追われていることだろう。申し訳なく思う気持ちはあった。

 

 無論、それが無償の慈善活動ではないことはわかっている。パリストンは私と友好関係を結び、あわよくば災厄の力をどうにか利用できないかと考えているはずだ。そうでなければ協力的な態度を見せるわけがない。

 

 現段階でパリストンの期待通りに応えられるとは言えないが、なるべくこちらからも協力するつもりだ。彼ならば滅茶苦茶な要求をしてくることはないだろう。

 

 パリストンだけではなく、キルアにも迷惑をかけている。彼はパリストンから私と行動を共にするように指令を受けているらしい。

 

『勘違いするなよ、指令だから仕方なく面倒をみてやってるだけだ。別にお前のためとかじゃないからな……』

 

 ハンター協会の副会長であり、会長なき今実質的なトップであるパリストンから与えられた指令を、試験に合格したばかりの新米ハンターであるキルアが断ることなんてできるわけがない。

 

 キルアには損な役回りを押し付けてしまった。そのせいか試験以来、態度がどこかよそよそしくなった気がする。嫌々付き合わされているのだからそれも当然か。一人でも大丈夫だとこちらから断ったのだが、余計な気は遣わなくていいと言われた。もしかすると、パリストンから監視役の任務も出されているのかもしれない。

 

 現在、私たちはキルアの案内に従ってスタート地点を北上していた。深い森の中を迷いなく進んでいく。途中でモンスターや人影らしきものを見かけたが、立ち止まっている暇はなかった。キルアがものすごいスピードで突っ切っていくからだ。

 

 置いて行かれないように後を追うだけで精一杯だった。道なき道を行くこと数時間、森を抜けて岩肌が露出した岩石地帯に出る。岩山の間を走っていくと、二人の人影がこちらへ近づいてくるのが見えた。

 

「キルアー! おかえりー!」

 

 一人は黒髪の少年で、もう一人はポニーテールの少女だ。どちらも私やキルアとそう年頃は変わらないように見える。少女の方はなんか私が以前着ていたお人形さんのような服装をしているが……もしかして私が思っていたよりもポピュラーなファッションなのだろうか。

 

「ごめんね、スタート地点まで迎えに行こうかと思ったんだけど、いつ帰ってくるかわかんなかったから」

 

「いいって。こっちも色々とゴタゴタして予定よりだいぶ時間くっちまった。試験自体はソッコーで終わらせたんだけどな」

 

「合格できたんだ! おめでとう!」

 

 キルアから事前に話は聞いている。この少年はゴンと言って、キルアの友達である。グリードアイランドのクリアを目指して一緒にここへやって来たそうだ。もう一人の少女はビスケと言って、ゲーム内で知り合ったらしい。

 

「キルアさん、そちらの方はどなたでしょうか?」

 

 仲の良い知り合い同士の輪の中に混入した異物を前にして疑問を持たれるのは当然だろう。私は名乗り出るタイミングがつかめず、少し離れたところにある岩陰からちらちら様子をうかがっていたところ、キルアに手招きされる。

 

「ハンター試験で会った奴で、色々あって面倒みることになったんだ。はい、自己紹介」

 

「シ……ナインです」

 

「へー、そうなんだ。オレはゴン! よろしくね」

 

 キルアは私の素性について詳しく話すことはなかった。自分から災厄だの何だのと物騒な自己紹介をするのも気が引けるし、その辺りの情報の開示についてはキルアに任せることとしよう。

 

「あとビスケ、猫はかぶらなくていいぞ。お前の性格はもう教えてあるから」

 

 ゴンは特にこちらを疑う様子もなく手を差し出してきたので握手に応じる。だが、ビスケは胡散臭そうに私の全身へ隈なく視線を向けてきた。

 

「あんたねぇ、修行中にうつつを抜かしてナンパした女連れてくるとか……」

 

「ちがう!」

 

「まあ、あんたって女子受けしそうな雰囲気作ってるくせにそういうのトコトン奥手だからナンパは無理か」

 

「このババァ……!」

 

 ビスケは最初に見せていたおしとやかそうな印象とは打って変わって、あけすけな言葉で話している。なんでも彼女はプロのハンターで念能力者としてはかなりの実力者らしく、キルアとゴンは彼女の指導のもと修行に励んでいるという。

 

 念の修行については私も大いに興味がある。ひとまずこのゲーム内でキルアの目の届く範囲にいること以外、特にすることもない私にとって彼らと一緒に念を学ぶ機会があるのならばこちらから頼みたいくらいだ。キルアからビスケに話を通してくれることになっていた。

 

「というわけで、ナインも修行に加わっていいか?」

 

「何が『というわけ』よ。塾開いてるんじゃないんだから、そうホイホイ教え子増やしてたまるか! あんたら自覚ないでしょうけど、あたしが無償で時間を割いてまで修行に付き合うなんて本来ならあり得ないほどの幸運なのよ。そこのところしっかり感謝しなさいよね」

 

 どうやら修行は付けてもらえないらしい。受講料を払おうにも今の私は手持ちがない。スマホも壊れてしまったので文字通りの一文無しだ。プロハンターを雇おうと思えば莫大な金がかかることだろう。無理からぬこととはいえ、期待していただけに落胆も大きい。しょんぼりしてしまう。

 

「ケチ臭いこと言うなよな。今さら一人増えるくらい大した手間でもないだろ」

 

「ダメと言ったらダメよ。何か気に入らないわ。むかつくくらい美少女なところとか特に気に食わないわ」

 

「ただの僻みじゃん」

 

 次の瞬間、キルアが宙を舞った。一瞬だけだが、アッパーカットを食らうキルアの姿を確認できた。あの速さを誇るキルアが手も足も出ないほどの一撃に戦慄する。相当な実力者というのは本当のようだ。

 

「ねぇビスケ、せっかくだからみんなで修行やろうよ。一人だけ仲間外れにするのはかわいそうだし、色んなタイプの念能力者と一緒に修行した方がオレやキルアにとってもプラスになると思う」

 

「……まあ、キルアが連れてきたんだからそれなりの実力はあるんでしょうけど、だからと言って無条件に受け入れることはできないわさ。しょうがない、ちょっとテストしてみましょうか」

 

 ゴンからの助け船もあって審査してもらえることになった。ビスケはゴンに私と戦うように指示を出す。

 

「え? オレが?」

 

「言い出したからにはあんたも協力しなさい。制限時間は5分、それまでにゴンを倒すことができれば修行をつけてあげるわ」

 

 そう言ってビスケは意地の悪そうな笑みを浮かべる。ゴンはというと、さっきまでとは違いムッとした表情になっていた。

 

「また面倒な条件を……」

 

「これでもサービスしてる方よ。ゴンくらいちゃっちゃと片づけられないようじゃお話にならないわさ~」

 

 ゴンが明らかな怒気を放っている。額に青筋が浮かんでいるぞ。その気合の入り具合に少したじろぐが、こちらも負けてはいられない。私とゴンは開けた岩場のリングで対峙する。

 

「二人とも準備はいい?」

 

「押忍!」

 

「……おっ、おす……」

 

「では修行チーム入団テスト、始め!」

 

 互いに練の状態となり、前へ飛びだした。両者ともに一歩も退かぬ正面衝突。私はゴンの拳を真っ向から受け止める。

 

 重い。まるで自動車が突っ込んできたかのような勢いだった。歯を食いしばり、足を踏ん張って吹き飛ばされないように何とか堪える。一瞬だが、ゴンに動揺が見えた。

 

 怒りをあらわにしているように見えたが、やはりシックスの外見から手を抜いていた部分があったのだろう。そのやさしさにつけ込むようで気が引けるが、この好機を生かして一気に決着をつけにかかる。

 

 リミッターを外し、練の出力を増加させると同時にカウンターを打ち込んだ。ゴンの体がわずかに浮き上がり、後方へと押し飛ばされる。

 

 だが、彼は倒れなかった。こちらの攻撃が当たる直前に、凝によるガードで威力を減衰させていた。完璧に隙を突いたと思ったが、そう簡単に勝たせてくれる相手ではないらしい。

 

「すごいね、君のパンチ……!」

 

 私の攻撃を受けたゴンは険しい表情から一転して目を輝かせ破顔していた。ころころと表情を変える様子は見た目相応の少年のようにも感じるが、その小さな肉体から発せられるオーラは凄まじい力強さを漂わせている。

 

 ビスケから5分で倒せと言われたのでそこまで強くないのかと思いきや、とんでもない。同格か、それ以上の相手と想定しなければならないほどの相手だった。

 

 一秒も無駄にできない。まずは相手の戦闘スタイルを分析する。臆することなく攻勢を保つ。この体の利点の一つが高い再生力を生かした特攻のしやすさだ。大怪我を負うと特異な修復能力が敵の目に留まってしまうが、打撲や骨折と言った内部の損傷は修復が目立たないので、単なる頑丈さとして装うことができる。

 

 試合開始から少しの時間しか経っていないが、ゴンの戦い方についてはおおよその予測ができた。凝で観察してみても、道具や武器を隠し持っている様子はない。おそらくシックスと同じタイプ、身体強化にものを言わせたパワーファイターだ。

 

 ゴンの殴打が炸裂する。さっきまでの手加減はなかった。機敏な動きでこちらを翻弄し、立ち位置を変えながら死角を狙ってくる。すれ違いざまに食いちぎるような蹴りが横腹にめり込んでくる。

 

 肺の空気が破裂しそうなほどの一撃を堪え、隙を晒したゴンに槌打を振り下ろす。地面に激突したゴンに追撃を浴びせようとしたが、受け身を取りながらするすると転がり避けられてしまった。

 

 スピードではキルアに及ばないのか、私でもゴンに攻撃を当てることはできた。しかし、大したダメージは入っていない。凝でことごとく防御されているからだ。

 

 オーラを一か所に集中させる技である凝でガードすれば一時的のその部分の防御力を何倍にも引き上げることができるため、敵の攻撃威力を大きく削ぐことができる。そして、その防御力は攻撃力に転化させることも可能だ。

 

 しかし、オーラを集中させるということは凝で守っている箇所以外の防御力は減少していることを意味している。便利だからと言って迂闊に多用すれば逆に劣勢へ追い込まれる結果となるだろう。

 

 正確に敵の攻撃を読み、素早いオーラ移動ができなければ通用しない高度な技術である。つまり、私の攻撃は完全にゴンに読まれていることになる。オーラの移動技術に関しても、圧倒的に私の方が劣っていた。

 

 私がやっている戦闘はただのゴリ押しだ。肉体の限界を超えた強化と、修復力を全面に押し出しているだけに過ぎない。キルアと戦っているときはよくわからないまま終わってしまったが、ゴンを相手にしている今は技術の差をより痛感できた。

 

 それでも今の私にできる戦い方を続けるしかない。足りないものは覚えて、身につけていくしかない。ゴンの身のこなしとオーラを目に焼きつけながら攻撃し続ける。壮絶な殴る蹴るの応酬により、シックスがかけていた伊達眼鏡はどこかに吹っ飛んでいた。

 

「うわぁ……」

 

 私の戦いぶりを見て呆れたのか、ビスケはドン引きしていた。そのよそ見をしていた隙を突かれてゴンに良い一撃をもらってしまう。口の中に広がる血の味を吐き捨てた。

 

 ゴンは一つずつギアを上げていくようにオーラの力強さを増していた。きっとまだ本気の全力は出していない。それに応えるように私も負けじと肉体の崩壊を抑え込み、オーラの強化率を引き上げていく。

 

「はい、あと30秒。どんなに善戦しようと審査の条件は変わらないわよ。ゴンに勝てなきゃ不合格! ついでにゴンもナインに勝てなかったら罰として腕立て五千回ね」

 

 制限時間は残りわずか。このまま殴り合いを続けていても埒があかない。同じことをゴンも思ったのか、仕切り直すように一旦距離を取った。

 

「悪いけど、負けてあげることはできない。たぶんナインもそんな勝ち方じゃ納得できないよね」

 

 ゴンは腰を落とし右手を大きく引いた構えを取る。これから何かの技を繰り出すと言わんばかりだ。

 

「中途半端な攻撃じゃ君を倒せそうにない。だから、全力でいくよ」

 

 さいしょはグー。

 

 緊迫した戦いの雰囲気にそぐわない掛け声だった。だがその直後、ゴンの右腕に寒気がするほど大量のオーラが集まっていく。

 

 凝と似ているが、全く別の技に見えるくらい集中するオーラの量が段違いだ。まるで全身のオーラを絞りだして集めたかのように異常な圧迫感が噴き出している。

 

 これほどの威力が込められた一撃をまともに受ければ無事では済まない。しかし、凄まじいオーラの収束は逆に言えば右拳以外のほぼ全身が絶に等しい防御力にまで低下していることを意味する。

 

 確かにゴンならば総合的な戦闘技術で劣る私に攻撃を当てることはできるかもしれない。これまでの私はゴンの攻撃をあまり回避できず、受け止めた後の隙を狙って反撃を仕掛けていた。その結果が殴り合いの泥試合だ。

 

 防御を捨て、持てる力の全てを一撃に注ぎこむことで反撃の余地をなくした一発KOを狙っているのだろう。

 

 

「ジャン」

 

 

 ゴンは踏み込んできた。その一歩に迷いはない。彼の深く黒い瞳の中に、愚直さを突きぬけた狂気性を感じ取った。

 

 彼は自分の技に自信を持っている。込められたオーラの量と密度を見ればこけおどしではないとわかる。しかし、その自信を上回るほどの執念を感じた。

 

 ゴンは拳を私に当てることしか考えていない。残り十数秒という制限の中で、どうすれば私を倒せるか。そのためだけに全身全霊を捧げている。

 

 自分が攻撃を受けることを度外視していた。それは一撃で私を倒せるから大丈夫などという安易な過信ではない。何があろうと、たとえ無防備な状態で私の反撃を受けることになろうともその拳が止まることはないだろう。そう思わせるだけの凄味がある。

 

 全て承知の上での渾身の一撃。これが死闘ではなく、ただの試合だとわかっていても普通は考えられない。ただこの一撃を放つことのみに、一切のオーラと精神を集中させている。

 

 下手な回避は悪手だ。防ごうにも、これだけの威力を受け止めれば肉体にかかる負荷も多大だ。再生にかかる時間を考えれば、すぐさま反撃に出ることはできない。それでは負けることはないにしても、制限時間内にゴンに勝つことはできない。

 

 私も彼を見習って、勝つために何が最善かを考えることにする。

 

 

「ケン」

 

 

 二歩目の踏み込みによりゴンは私を射程圏内に捉えていた。恒星の輝きのごとき右手のオーラはさらに大きく、強くなる。それに対して、私は避けも守りもせず前に出た。

 

 左手に凝で限界までオーラを集め、姿勢を低く、頭を突き出す。オーラの守りが手薄となった急所を惜しげもなく晒す。ゴンの右ストレートは何の障害もなく、私の頭部に届くことだろう。

 

 全力の一撃と言ったが、ゴンはおそらくシックスが本気でガードすれば致命傷とならず戦闘不能にできる程度の威力に調整してくれている。だが、凝によって防御力が下がった部分では当然受け止めきれない。肉体は弾け飛ぶだろう。

 

 しかし、それでも問題はない。たとえ頭部が完全に潰されようとシックスは死なないとわかった。ネテロと戦ったときは全身が一瞬にしてすり潰される感覚のフィードバックに堪えられず本体の意識も落ちてしまったが、今度こそ堪えてみせる。

 

 頭部が潰れた状態でも、本体をシックスの脳として機能させ、肉体を動かす。できるかどうか、やってみなければわからない。

 

 

「グー!!」

 

 

 狙い通りの右ストレートが来る。恐ろしいほどのオーラが詰め込まれたその拳は、どこに当たろうとシックスの体に致命傷を与えるだろう。

 

 それは身体というより精神の戦いだった。何があろうと全力のパンチを打ち抜こうとするゴンと、それを受けて止めてまで反撃を狙おうとするシックス。その勝負に私は勝った。

 

 ゴンの瞳が揺れる。殺してはまずいという最後の自制心が、彼の拳の軌道をわずかに反らせる。空気を振るわせる一撃がシックスの頬をかすめた。

 

 それは精神の勝負を制したというよりもゴンの良心につけ込んだと言うべきか。私は自分だけ安全が確保された立場から力を振るっているだけだ。戦術のうちと言ってしまえばそれまでだが、どこか後ろめたさはあった。しかし、ここで手を抜くつもりはない。

 

 ゴンの右ストレートに合わせるように、シックスは右フックを繰り出していた。左手に凝でオーラを集めていたのはフェイントである。本命は右のフックだった。違う場所に凝をしていたせいでオーラはあまり込められていないが、今のゴンは防御力がゼロに近い状態であり有効打になり得る威力はある。

 

 両者の右腕が交錯する。クロスカウンターが成功し、ゴンの頭部にシックスのパンチが入った。いかに頑丈な念能力者といえども人間である以上、脳を揺らされれば意識を失う。一瞬の膠着の後、ふらりとゴンの体が傾き倒れた。

 

「そこまで! ナインの勝ち!」

 

 ぎりぎり間に合った。深く息をつき、一礼した。

 

 



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62話

 

 ナインをここまで連れてきたキルアだったが、いまだ自分の考えがはっきりと定まっているとは言えなかった。

 

 パリストンという男の言うことは、やはりどこか信用できない。キルアは自分なりに暗黒大陸や災厄のことについて調べてみたが、全く情報は得られなかった。本当にそんなものがあるのか半信半疑な状態である。

 

 ナインについても全面的に信頼しているわけではない。会って間もないこの短期間で彼女の何がわかるというのか。読み取れる性格からあまり危険に感じなかったが、それさえも何らかの能力によって思考を操作されているという可能性は否定できない。キルアが彼女に対して抱く親近感は不自然なものと自覚できていた。

 

 自分の思考が客観性を保っているのか自信がなかった。判断を下すにしても確定的な情報が少ない。だからキルアは現状において意見を仰ぐに最もふさわしい人物のもとに少女を連れてきた。

 

 ビスケット=クルーガーだ。宝石ハンターでありプロの資格を持つ彼女は、その少女のような見た目に反して実年齢は57歳である。念能力者としても確かな実力者であり、ハンターのキャリアも長い。

 

 キルアが知らないプロハンターの事情に精通している。性格に多少の難はあるものの、本質的な人間性については真っ当であるとキルアも認めていた。普段は憎まれ口を叩きあっているが、心の中では頼りになる師匠と思っている。

 

 このままパリストンの指令を引き受けて良いものか、それとも少女と距離をおくべきか、あるいは敵対するのか。ビスケがこの件についてどう思うか、相談するつもりだった。

 

 その結果、意見が食い違ったとしてもビスケの判断を重視するべきだと考えていた。キルアにとってナインとビスケ、どちらを優先するかと言えば付き合いの長いビスケに軍配が上がると言える。

 

 だが、ナインのことを全く信じていないわけではなかった。だからキルアは最初に彼女の素性について説明せず、余計な先入観を持たずナインのありのままの姿をビスケに見てもらおうとした。

 

 ナインはゴンと組手を続けている。その様子は特に何が危険とも思えない普通の光景だった。尋常ではない殴り合いを繰り広げているが、少なくとも人類の危機が差し迫っているようには到底思えない。

 

 その上で、きちんとビスケに事情を説明するつもりだった。特にネテロ会長が亡くなったことに関しては隠しておく方がまずいだろう。ハンター協会の一大事である。

 

 組手に夢中になっているゴンはひとまず放っておき、キルアはビスケを呼び出して小声で相談を始めた。

 

 

 * * *

 

 

「はいはい、ストップ。あんたらちょっとこっち来なさい」

 

 気絶からすぐに復帰したゴンはすぐさま再戦を申し出てきた。どうやらかなり負けず嫌いな性格らしい。お互いに耐久面では自信がある念使い同士、いつまでこの勝負が続くのかと少し不安になってきたところだったのでビスケから中断を言い渡されたのは助かった。

 

「約束通り、これからあんたに修行をつけることになったわけだけど、教えを乞うとなれば師の言葉は絶対よ。私の命令に逆らわないこと。返事はちゃんと私の目を見て言うのよ。わかった?」

 

 ビスケは腕を組んで仁王立ちしていた。どこか緊迫した空気のもと、その場に座るように指示される。私は何とはなしに地面の上に正座して、ビスケの確認にうなずいて了承する。

 

「じゃあ、最初の命令よ。災厄の力を二度と使うな」

 

 キルアから既に伝わっていたか。災厄の力とは、すなわちアルメイザマシンのことだ。

 

「ハンター試験であんたが何をしたのか、キルアから一通りのことは聞いたわ。あたしは心源流の師範代。心源流開祖にして師範であるネテロを殺しておきながらそこに弟子入りしようっていうんだから呆れて物も言えないところだけど」

 

 まさかビスケがネテロの門下生だったとは。ハンター協会の会長だったのだから、プロハンターにも多くの友人知人がいて当然だ。そう言った人たちと顔を突き合わせる機会があることを全然考えていなかった。服の裾をぎゅっと握りしめる。

 

「ネテロが死んだのはネテロの責任。あたしが口を挟むことではないわね。あんたにしてみれば身を守るために力を使っただけでしょうし、それが悪いとは言わないわ。でもね、師が命を落としてまでやり残した不始末をここで見過ごすわけにもいかない」

 

 ビスケの体にオーラの輝きが灯った。むくむくと体格が大きく変化していく。筋肉が隆起し、見上げるような巨体となり、それまでの少女の体とは変わり果てた恐ろしい姿になった。ゴンやキルアも唖然としている。

 

「二度と災厄を使わないことを念能力者としての『誓約』によって、今ここで誓え。その場しのぎの嘘は許さない。それができないというのなら、あたしはあんたを殺す」

 

 ビスケの目は本気だ。私のことを災厄だとか、ネテロ会長に倒せなかった相手だとか、そういうことは考えていない。私の回答次第で彼女は有言実行するだろう。そのオーラの気配は、はったりとは思えない。

 

 私の素の実力で勝てる相手ではないと一目見てわかった。一方的な勝負になる。実力差を覆すためには、またあの力に頼るしかない。しかし、今度はあのときと違ってスマホがない。一応代わりの携帯は持ってきているが、ルアンと連絡が取れるかわからない。

 

「力を失うのが怖いかい? あたしはそうは思わない。今のあんたに生じている迷いこそ『弱さ』だ。あたしの言う通りにするも良し、逆らって戦いを選ぶも良し。だが、どっちつかずで誰かの助けを待つことしかできないような奴に未来はない」

 

 ビスケの言葉が心に突き刺さった。このままでは同じことの繰り返しだ。自分の力ではどうしようもない敵が現れて、仕方がないと自分に言い聞かせながら力を使う。自分の中にいる誰かに何とかしてもらっているだけだ。モナドに言われたことを思い出す。

 

『お前は力を得た。一度手に入れてしまえば、いつかそれに頼らざるを得なくなる。必ず、この場所に戻ってくる』

 

 その通りだ。できれば使いたくないと思いながら、結局使ってしまう。そうやって自分を失って、いつか私は私でなくなる。それがたまらなくこわかった。このままではその恐怖すら失ってしまうかもしれない。

 

「だが、少なくともゴンと戦っているときのあんたは違った。必死に戦いを学び、死に物狂いで強さを求めていただろ。十分すぎるほどの素質とガッツがある。その強さをドブに捨てる気か」

 

 なるべくとか、できればとか、そんな覚悟ではダメなのだ。ビスケが言うように『二度と使わない』、その決意がなければ私は一生今のまま変わることはできない。

 

「これから先、波乱に満ちた人生が待っていることは確かだ。あんたは世間に正体を知られてしまったし、パリストンのクソ野郎もツバつけていることだし、ネテロを殺したというその事実だけであんたのことを殺したいほど憎んでいる奴が大勢いるだろう。死ぬような危機はこれから数え切れないほど経験するはずだ」

 

 ビスケは甘い言葉でこちらを惑わそうとはせず、包み隠さず事実だけを告げる。

 

「だが、それがどうした? プロハンターになったんなら、死線の一つや二つや百や千程度乗り越えてみせろ。災厄になんか頼らずとも生きていけるだけの強さと戦い方をあたしが教えてやるよ。さあ、どうする?」

 

 自然と涙がこぼれた。その反応をみて私がどんな決断を出すか既にわかったのだろう。私が落ちつくのを静かに待っている。

 

 その間をかき乱すように着信音が鳴り響いた。

 

「……おかしいね、G・Iの中じゃ携帯は使えないはずだが」

 

 着信が入ったのは私の携帯電話だ。断続的に続く呼出音は次第に大きく、ノイズ混じりとなり、やがてその音は人の声に変わった。

 

『騙されてはいけません! 王よ、これは罠です! あなたの力を奪った上で殺す気なのです! 早く逃げてください!』

 

 その声はシックスのものと全く同じに聞こえるが、誰がかけてきたのかすぐにわかった。だが、どれだけルアンが大声で危険を訴えようと、私の心は変わらない。

 

『なぜです!? こんな奴らの言いなりにならずとも、あなたには私がいます! 私のサポートがあれば安全な形で力を行使できます!』

 

 薄々、おかしいとは思っていた。モナドのような強い自我を持つ存在であっても、その力を行使する決定権は私にあり、私の承諾なしに表に出て来ることはない。だが、ルアンはこうして私とまめにコンタクトを取ることができる。

 

 何の代償もなくできることではない。通常時の意識下に現れることができるのは、おそらく『王』だけだ。『騎士』であるルアンが連絡を取るためには『王』の領域に踏み込まなければならない。それは私の自我を削るということだ。

 

 モナドのように一度に大量の自我を奪われるわけではないが、ルアンは少しずつ気づかれないように私を侵食している。ネテロとの戦いのとき、あの銃のダウンロードをスマホの画面上で承認したときに、自我を奪われる感覚がわずかにあった。

 

 このままの関係が続けば、じわじわと真綿で首を締めるように私はルアンに取り込まれる。私にとっては、今の自分と取って代わる存在がモナドかルアンのどちらになるかということでしかない。

 

『あなたの力はこの世界に革命をもたらすのです! 今はまだ危険度ばかりが注目されていますが、じきにその有用性が評価されるようになるでしょう! 人間と共存できる未来はすぐそこまで来ています! 必ずや我々は世界から認められる存在となるのです!』

 

「何を信じるか、何を求めるか、自分の意思で決めろ」

 

『敵の言葉に惑わされ一時的な感情に囚われてはなりません! その誤った選択がどれほどの損失を生むか! あなたの身にどれほどの危険が及ぶか! 今は雌伏の時なのです! お願いです、もう一度よくお考えなおしください……!』

 

 どのような道を選ぶにしても、私は今ここで覚悟を決めなければならない。後から考えるという答えではいけない。悩む時間はいくらでもあった。今、この瞬間に決断できなければ覚悟が揺らぐ。きっと、後にも先にも同じ境地に至ることはない。

 

「誓う」

 

『王おおおおおおおおおお!!』

 

 私はビスケの目を見て答えを伝えた。その視線に決意を込め、揺らがぬようにしっかりと彼女を見据える。

 

「誓約は代償を伴う。あんたはその覚悟に何を捧げる?」

 

 力に溺れた果てに自分を失ってしまうくらいなら、死の間際まで自分自身で在り続けたい。この魂が他の誰かに成り変わってしまうくらいなら、私は私で在るために死を望む。

 

「命を」

 

 その言葉はビスケではなく、自分自身に言い聞かせた。携帯電話から響いていたノイズはいつの間にか消えていた。

 

 

 * * *

 

 

「いきなりシリアスな雰囲気になったりビスケがでっかくなったりついていけないんだけど、どういうこと?」

 

 私の気分も落ちつき、ビスケの大きさも元に戻ったところでゴンからもっともな質問をされる。キルアから説明がなされた。

 

「暗黒大陸って、なに?」

 

「オレも詳しいことはわからん。電脳ネットで調べても出てこなかったし」

 

「まあ、新人のあんたたちじゃ知らなくてもおかしくないわね」

 

 誰もが一度は目にしたことがあるだろう世界地図も、人々が暮らす大陸も、世界の全てと比すればほんの一部分に過ぎない。大きな湖の真ん中に浮かぶ小さな島々なのだ。この巨大湖メビウスの外側に広がる世界を暗黒大陸と呼び、その大きさは推測もつかないほど広大だと言う。

 

 人間はこれだけ科学技術が発達した社会がありながら、いまだに海の果てについて論じることは宗教的理由から禁止され、空を高速で移動できる飛行機などの航空技術は研究開発に制限がある。それは全て暗黒大陸の存在を公にしないための措置だ。

 

 かの大陸が人類史上最大のタブーとされる理由は災厄と呼ばれる脅威にある。暗黒大陸は人類を滅ぼしうる生物や病原菌の宝庫であり、迂闊にその蓋を開けばどんな危険がもたらされるかわからないらしい。

 

「まあ、その災厄の一つがここにいるわけだが」

 

「へー! そうだったんだ。知らなかったなー」

 

 ゴンは私を警戒するどころか「暗黒大陸ってどんなところ?」と聞いてきた。本当に話を聞いていたのか、それとも信じていないのだろうか。

 

 私自身、自分の出自に関してはわからないことの方が多い。ビスケの話を聞いて初めて理解できた部分もある。

 

 これまではわからなかったで済ませてきたが、もうそんな言い訳は通用しない。私はもっと真剣に、自分が何者であるのかを知る必要がある。まずそのために一人で問題を抱えず、私が知っている情報を開示してみようと思う。

 

 適当にごまかすのではなく、ここにいる皆に全てを話す。それはとても勇気がいることだ。私は自分が人間ではないことを明かさなければならない。そのとき、皆がどんな反応をするか不安は尽きない。

 

 だが、ずっと隠したままではいたくない。それが仲間に対する誠意であり、自分を知るための第一歩である気がした。私は意を決してリュックから風呂敷の包みを取り出す。その中身を皆に見せた。

 

「これは……」

 

「虫? にしては随分デカいね」

 

 私はこの虫が『私』であることを説明した。私の話下手なところもあって最初は何を言っているのかわからないといった様子だったが、次第に皆の表情が驚愕に染まっていく。

 

「えっ! これがナインなの!? じゃあ、その人間の体は!?」

 

「念獣に近い存在でしょうね。なるほど、さっきの戦いで気づいた違和感はそれか……ぶったまげたわさ」

 

 念獣という発の形態があることは私も知っていた。だが、それは具現化系・操作系・放出系という三つの系統を複合した非常に高度な能力とされる。具現化して形を作るだけでも普通は数年以上かかる修行を積まないとものにできないらしい。

 

 確かにオーラで肉体が形作られたシックスは念獣と似ているように思うが、私はこんな発を作った覚えはもちろんないし、蟻としての意識が目覚めたときには既にシックスの体は存在していた。それにあの時点では精孔も開いていなかったのだ。こんなことがあるのだろうか。

 

「非常にレアなケースだけど、あるとすれば寄生型念獣かしら」

 

 ある者が作った念獣が、その人の死後も強まる念として残り続け、別の誰かに使用権が移譲されることがあるらしい。狙ってこのような能力を作ることは不可能に近いようで、その多くは血縁者に代々受け継がれる守護念獣とも呼ばれている。

 

 寄生対象となる人間は念が使えなくてもいい。寄生型念獣はその人から勝手にオーラを吸い上げて具現化する。本人の意思によって作られた存在ではないため操作することはできない。そのため、寄生対象の良いように働く者もあれば害にしかならない者もいるという。

 

 私の場合、血縁者から受け継がれたという点から言えばあり得ると思う。夢の中で感じた『群れ』の存在は確かにシックスの中にある。あれが私の生まれた蟻の群れであり、いくつかの自我がこの肉体の中に混在していることも寄生型念獣の特徴に関係しているのかもしれない。

 

 ただ、はっきりとしたことは言えなかった。寄生型は操作できないそうだが、シックスの場合はできているし、普通の念獣のように感覚の共有もできる。そういう能力を持った寄生型念獣と説明できなくもないが、やはりまだわからないことは多い。

 

「でもなんかカッコイイよね! でっかいクワガタみたいでさ」

 

 ゴンに本体を持ち上げられて観察される。ひっくり返して腹側まで見られる。

 

「お前……よく平気で触れるな」

 

「大丈夫だよ、優しい目をしてるから。あ、そう言えばこっちがナインの本体なんだっけ。ごめんね、べたべた触って」

 

 ゴンの様子を見ていると、カミングアウトした自分を受け入れてもらえないのではないかと不安に感じていたことが馬鹿らしく思えてきた。しかし、その一方でビスケは真剣な目つきで本体の方を見ている。

 

「見たこともない色の装甲ね。生きた宝石と呼ばれる虫はいるけど……少しくらい端っこを削り取っても……」

 

 何か小声で恐ろしい独り言をつぶやいている気がする。本当にこの人に師事して大丈夫なのだろうか。本体を守るように抱えて首を振る。

 

「冗談よ、ちゃんとまじめに修行はつけてあげるから安心しなさいな」

 

「キルアも帰ってきたし、ナインも新しく加わったし、これからはどんなスケジュールで特訓するの?」

 

「そのことなんだけど、ここで基礎修行は一段落させて次は本格的にゲーム攻略に取りかかる予定だったのよ」

 

「ホントに!? やった!」

 

「でも、あたしはナインの指導をしなくちゃならないから、ここから先はしばらく別行動にしましょう。ゴンとキルアは二人でカードを集めに行きなさい。本当は私も行きたかったんだけどね。ブループラネットとか見つけたかったし……ブループラネットとか……」

 

 私のせいで色々と予定を変更することになってしまって申し訳ない。ブループラネットとは貴重な宝石のアイテムらしい。

 

「そう落ち込むなよ。ブループラネットは俺たちが見つけたら持って来てやるからさ」

 

「キルア……!」

 

「1枚20億ジェニーで取引してやるぜ」

 

「キルァァ……!」

 

「そんな意地悪しないよ。ここでチームを解散するわけじゃないでしょ。オレたちがここまで強くなれたのはビスケのおかげなんだからさ」

 

「ゴン、あんたってやつは……」

 

 ビスケはたたずまいを正し、ゴンとキルアを神妙な面持ちで見つめる。

 

「最初にあんたたちと出会ったときは、二人ともいつ死んでもおかしくないようなへなちょこだったけど、この短期間で見違えるほど成長したわね。まあ、まだまだ全然へぼいけどゲームを普通にプレイするくらいの実力は得たはずよ」

 

「褒めてんのか貶してんのか、どっちだよ」

 

「褒めてんのよ。今のあんたたちなら強敵と出会っても死ぬことはないでしょう。無理せず全力でじゃんじゃんカードを集めてきなさい。あたしらもこの子が切りの良いところまで仕上がったら合流するわ」

 

「うん、オレたちもこの近くに来たときは顔を出しに行くよ。何かあったときは通信(コンタクト)の呪文カードで連絡を取り合おう」

 

「フリーポケットがいっぱいになったらカード預けに来るんで」

 

「あたしらは倉庫代わりか」

 

 彼らはバッテラという名の大富豪に雇われてグリードアイランドをプレイしている。バッテラはこのゲームを買い占めて優秀なプレイヤーを大勢雇い、クリアした者に多額の報酬を約束しているそうだ。

 

 また、ゴンにとってこのゲームは行方不明の父親が制作に関わっていたらしく、その手掛かりを求めてここまで来たといういきさつがある。それぞれ何かしらの理由があり、ただ遊びに来ているわけではない。

 

 私がここにいなければ3人でもっと効率的にカードを集めることができただろう。重ね重ね申し訳ない。皆に頭を下げて謝っていると、キルアがぽんと手を乗せてきた。

 

「気にしなくていいって。今度来たときはお土産もってきてやるから留守番よろしく。なんてな」

 

 私の気を紛らわそうとしてか、そんなことを冗談混じりに言ってシックスの頭を撫でてくる。それを見ていたビスケとゴンが小声でささやき合っていた。

 

(なにあれ、やっぱキルアってああいう子がタイプなわけ?)

 

(あれはどちらかと言うと妹に接するお兄ちゃんって感じかな)

 

(妹って……余計ヤバくない?)

 

「あーもーうるさいうるさい! ゴリラババァのことなんかほっといてさっさと行くぞ!」

 

 ビスケと私は二人の出発を見送った。いや、キルアはビスケに吹っ飛ばされて一足先に旅立っていたので、正確にはゴンだけ見送った。

 

「さて、それじゃさっそく修行メニューを組まないとね。そんなに申し訳なく思ってるのなら、少しでも早く力を身につける努力で応えなさいな。あたしの見立てでは、あんたもあの二人と同程度かそれ以上の才能がある。その資質を宝石で例えるなら、そうね……ガーネット! あんたはガーネットよ!」

 

 びしっと指を突きつけて宣言される。なぜ宝石に例える必要があったのかわからないが、宝石ハンターゆえの感性だろうか。あんたにルビーの赤はもったいない、ガーネットで十分よと評される。

 

「知ってる? ガーネットを丸く加工したものをカーバンクルと呼ぶのよ。古い言葉で『燃える石炭』を表すらしいわ。無機質な鉱石でありながら、その内に炎を連想させるエネルギーを秘めている。あんたにぴったりだと思うわさ」

 

 暗赤色のアルマンディンガーネットは産出量が多く、さほど高額で取引される宝石ではない。その黒ずんだ色合いはルビーなどの華やかな赤と比べれば人気もない。特に、蛍光灯のような人工光線下では黒ずみが強くなるそうだ。

 

 アルマンディンが最も輝く時とは暗闇の中、ランプの炎にかざした瞬間だとビスケは言う。炎の揺らめきが石に脈動のごとき生命を与え、闇の中でこそ映える孤独な赤が現れる。そういうのも嫌いじゃないと彼女は言った。

 

 



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63話

 

「さて、そんじゃまず今のあんたにできることの確認から始めましょうか」

 

 シックスが寄生型念獣であると仮定して、この肉体特有のメリットとデメリットがある。メリットとしては一番にその再生力があげられる。念によって具現化された物は壊れてもオーラによって修復できる。

 

 だが、ビスケいわく普通の念獣は一度破壊されても瞬時に再生できるような、都合の良いものではないらしい。その使い手の念の集大成である『発』として形作られた念獣が破壊されるということは、その術者の精神に大きなダメージを与えることでもある。一度植えつけられた破壊のイメージは簡単に払拭できず、それは具現化能力にも影響を及ぼす。

 

 破壊されることを前提に作られた念獣ならばともかく、普通の術者ならその戦闘中に念獣を再使用可能な状態まで精神を立てなおすことは難しいという。オーラをつぎ込んだだけ回復できるシックスは念獣としてはトップクラスの再生性能があると言われた。

 

 ちなみに痛覚の共有を任意に遮断できないという制約を伝えると、いっそう呆れられた。念獣はイメージだけでも具現化に影響が出てしまうほど繊細な能力であるのに、痛覚まで共有した状態でまともに発動できるわけがないと。

 

「それができている理由は念獣が自らを具現化する寄生型だからか。そもそも術者の種族が違うのだから人間との精神構造も異なるのかもしれないわね」

 

 逆にデメリットとしては常に具現化と再生能力が働いてしまう点が挙げられる。送り込むオーラの量を増やせば早く傷が回復し、減らせば遅れるという調整はある程度可能だが、再生能力は自動的に発動するため止めることはできない。

 

 普通の念獣のように出したり消したりできない。本体のオーラが枯渇しようと勝手に具現化してしまう。これは明確な弱点と言えるだろう。

 

「あんたの念獣の操作タイプは『遠隔操作型(リモート)』ね。このタイプは術者が近くにいて念獣にリアルタイムで命令を出すことができるから臨機応変で精密な操作ができる反面、活動範囲に大きな制限がある」

 

 術者と念獣の距離が遠ざかるほど操作が難しくなり、消費するオーラ量も激増する。普通の能力者ならそこで発動が維持できなくなるだけだが、私の場合は常に具現化されるという性質上、本体とシックスが分断させられるような状況に持ち込まれるのはまずい。

 

「放出系の技術を磨けば活動範囲も広がるでしょうけど、限界は当然あるからそこは注意しておきなさい」

 

 あと挙げられるデメリットとしては肉体が全く変化しないので筋力トレーニングなども意味がないところだろうか。おそらく歳を取ることもないだろう。いくらオーラで強化できると言っても、強化率の基本値は素体の筋肉量に依存するところが大きい。もっと筋肉をつけたかった。

 

「……え? なにそれ、当てつけ?」

 

 なんかビスケが怖い。笑ってるのに怖い。気に障るようなことを言っただろうか。

 

「あと気になったのはナインの体から出てる香りのオーラね。無自覚に発動しているようだけど、やっぱりコントロールはできないわけ?」

 

 この人によって感じ方の異なる臭気の能力については判明していない部分が多い。ビスケは洒落た香水のような匂いを感じるという。特にそれ以上の効果はないが、知らない者から見れば得体の知れない能力に見えるため、無用の警戒を生むといった点ではマイナスだ。絶をすれば抑え込めるが、常時絶をしているわけにもいかない。

 

 もう一つ、シックスに付随する能力として高速思考能力がある。これについては精神の内面的状態なので能力と言っていいのかわからないが、この思考力は本体由来のものではなくシックスの脳を通して使用可能となる機能なので能力の一つに含めることにした。これについてデメリットは特にない。使いすぎると頭が痛くなるくらいだ。

 

 以上がシックスに関する一連の能力となる。ごちゃごちゃと複数の能力があるが、寄生型念獣は継承者の代を重ねるごとに様々な死者の念が混ざり合うため不思議ではないとビスケは言った。

 

「寄生型ゆえの特徴があるけど、基本性能は『念人形』や『分身』と変わらないと思うわ。それ用の修行はするとして、それとはまた別に虫の体の方も鍛えないとね。術者がひ弱なままじゃ話にならないわ。四大行はどこまで使えるのかしら?」

 

 一応、虫本体も纏・絶・練・発の四大行は使えるようになっている。人間の体に近いシックスの方が念の習得に関して利があるのか、そちらの方が圧倒的に覚えが早い。どちらかと言うと、主に本体はシックスの感覚をフィードバックして念の使い方を習得している。

 

「発も使えるの? あんたこれまで師匠はいなかったって言ったわよね? まさか勢いだけで変な能力作ったりしてないでしょうね」

 

 自分なりに考えはしたが、自己流で作った能力に変わりはないためビスケの疑いをはっきりと否定できない。怒られることも想定して説明する。

 

 本体の得意系統は変化系。その発である『落陽の蜜(ストロベリージャム)』も変化系能力である。

 

 変化系はオーラの形状や性質を変化させる系統能力である。物質を形成する具現化系と似ているが、変化系の場合はもっと流動的でエネルギー的な状態変化を得意とする。だが、そう言われても最初はピンとこなかった。

 

 発を作る上で最も大切なことはインスピレーションとフィーリング。ただ作りたい能力を作ってもあまり成長できないため、自分に合った能力であることが望ましい。

 

 オーラを何に変化させるか。悩んだ末に思いついたのが、本体が吐き出す体液の性質だった。牙の毒腺から出る分泌液には強力な毒性がある。オーラにこの分泌液の性質を付加できないかと考えた。これなら自分自身の体に備わっているものであり、馴染みも深い。

 

 致死性の高い毒や意識を保ったまま肉体を動けなくする麻痺毒など牙の毒腺は数種類の毒を使い分けることができる。また、蟻酸も使えるためその強力な酸性液と併用すれば、化学火傷を負わせてその傷口から毒を体内へ送り込むことも可能である。凶悪極まりないコンボだ。

 

 と考えはしたものの、何種類ものオーラの性質を使い分けるなんて初心者にできるわけがない。毒性付与と言っても、後で良く考えたらそれは状態変化というより毒物を具現化しているような気がする。変化系だと言い張ったところで今の自分に使えそうもないことは事実だった。

 

 思考錯誤を繰り返し、特別な制約などをなるべく作らず応用の利く技をと考えた結果、私のオーラはある性質を帯びることになる。それはローション状の粘性だった。

 

 その元となった分泌液は、毒ではない。水によく溶け、一滴でも水中に落せばその周囲の水をぬるぬるの粘液溜まりにしてしまう。よくぬめり、かき混ぜると繭状に固まってまとわりつく。

 

 その性質をオーラに反映した能力が『落陽の蜜』であり、私が当初予想していた能力とはだいぶ違うものとなってしまった。

 

 だが、それでも全く使えないということはない。私も何とかこの能力を戦闘に応用できないかと色々試したのだ。このぬめりが良い感じに敵の攻撃をそらす役に立ってくれるはずだとビスケに力説する。

 

 すると、いきなりビスケがパンチを打ってきた。粘性オーラがその攻撃を滑らせ威力を多少減衰させたが、それでも結構なダメージを食らう。その上、足元に広がっていた粘性オーラのせいで踏ん張りが利かず、きりもみしながらすっ転んだ。

 

 足元のところだけオーラを消せばいいと思うかもしれないが、それが難しい。このオーラ、本体の体からどろどろと流れ出て地面の上に広がっていき、流出したオーラを自由に操作して動かすようなことはまだできそうにない。ピンポイントに狙ってそこだけ消すこともできない。

 

「技として発現できているだけ良かったじゃない。変化系も具現化系ほどではないけど発の習得には苦労する系統なのよ。使い方次第では化けそうだけど、今はまず基礎能力の訓練を徹底しましょうか」

 

 こうしてビスケとの修行の日々が始まった。

 

 

 * * *

 

 

「ほらほらー、どうしたー! 一回も持ちあがってないわよー」

 

「むぐぐぐ……!」

 

 修行としてナインに腕立て伏せをさせる。ビスケはその背中に腰かけていた。ナインは必死に息を荒げているが地面に這いつくばったまま体を起こすことができずにいる。と言うのも、念による強化を禁止しているからだ。

 

 ナインは細腕の筋力だけでビスケを背中に乗せたまま腕立てしなければならないというわけだ。ちなみに、ビスケの体は本来のゴリラモードを引き締め圧縮した状態であるため、体重も巨漢並み。持ちあがるわけがない。

 

「まあ、こんなことしてもあんたの体は筋トレ無効だから意味ないんだけど」

 

 ナインがじゃあなんでこんなことさせてんだと言いたそうな顔でビスケを見る。理由はその表情が見たかったからである。

 

 この少女の名はナイン。少し前まではシックスという名で動画配信などして活動していたらしい。特に名前にこだわりはないようで、ビスケはプレイヤー名として登録しているナインの呼び方を使っている。

 

 最初キルアが彼女を連れてきたとき、ビスケの第一印象は決して良いものではなかった。その可憐な容姿と小動物のようにオドオドした態度、それでいて服装は男を意識したようなメスガキファッション、さらに念能力を香水代わりに使う神経、全てが癪に障った。

 

 ビスケは自分の容姿にコンプレックスを持っていた。そうでなければ本来の姿を隠して少女に成りきることなんてしていない。強くなればなるほどにたくましく、屈強な肉体へと変貌していく自分と、それでもかわいくありたいと願う乙女心を捨てきれない自分。肉体圧縮改造術は、二つを両立するために編み出した苦肉の策だった。

 

 今ではどちらの容姿も自信をもって誇れると思っているが、それでもキルアを籠絡したナチュラルボーン美少女を前にして感情を逆なでされるところはあった。当然、修行をつけるつもりはなく、勝負事になれば手を抜けない性分のゴンをけしかければメスガキも自分から逃げていくだろうと思っていた。

 

 試合の様子を見て彼女に対する印象はがらりと変わった。強化系のゴンと正面から殴り合えるだけのオーラの顕在量は目を見張るものがあった。オーラの操作技術は初心者同然だったが、逆に言えば力押しだけで基礎修行を一通りこなしたゴンと互角に渡り合っていることになる。

 

 何よりも、戦いの中で見せたナインの強さを求めるひたむきな姿勢は評価に値した。決して怯むことなく、冷静に敵を分析し、最後まで諦めずに勝利条件を満たす。ゴンやキルアにも感じた宝石の原石のような才気があった。宝石のみならず、人材育成においても磨けば光るものに目がないビスケにとってナインを鍛えることに抵抗はなくなっていた。

 

 その後、ビスケはナインの正体を知ることになる。ネテロの死はビスケをもってしても受け入れがたいことだった。世話になった恩師の死と、その仇が自分の目の前にいるという状況に動揺がなかったわけではない。

 

 だが、その感情は恨みとはまた違った。ナインは不自然なほど何かに怯えていた。ビスケが最初に彼女を見たときからその違和感はあった。ゴンとの試合が始まってからはその怯えが消えていたので、一時的な感情の乱れかと思っていたが、災厄というワードを聞いた直後、再びナインは恐怖をあらわにしていた。

 

 そこにはビスケに対する恐れもあったが、根本的な恐怖心はナイン自身の力に向けられていることを見抜いていた。好んで災厄の力を振りかざしているわけではない。ならば敵対する以外の道を示すことができるのではないかと思った。

 

 ナインは誓いを立てて自身の力を封印した。ビスケが裏切らないという保証はどこにもない。多くの人間から命を狙われる彼女にとって、それは自身をさらに危うくする選択だっただろう。

 

 ビスケに言われるがまま、他人任せにできる決心ではない。ナイン自身が力を手放し、別の強さを学ぶ道を選んだのだ。誓約を立てたナインに対してビスケが約束を違え攻撃を仕掛けたとしても、彼女が自身の決断を後悔することはなかっただろう。

 

 それほどの覚悟を見せられては不義理を働く気も起きない。恩師の仇である少女だが、ビスケは弟子として受け入れることを決めた。

 

「あれから一週間経ったわね。ここまでの経過は順調過ぎるほどに順調よ。そろそろ次のステップに進もうかしら」

 

 修行メニューのベースはゴンやキルアに施したものと同じである。まずは基礎体力の強化とオーラの一体化感覚を鍛え、同時に凝による異常察知・情報収集の徹底と素早い状況判断の習慣化を身につけさせる。

 

 ナインの肉体は鍛えても基礎体力の上昇は見込めないので、オーラの制御力を高めるため瞑想修行を中心に行った。瞑想は修行の初歩中の初歩だが、これをおろそかにして大成はない。とにかく丁寧に、淀みなくオーラを体内で巡らせ、均質な纏を心がけるように指導した。

 

 虫本体の方は逆に体力強化をメインとした激しい運動を取らせた。肉体を酷使することは筋力トレーニングの効果はもちろん、オーラとの一体感を覚える上でも有効である。

 

 それでもたかが虫一匹の力をいくら鍛えたところで実戦においてどこまで役に立つものだろうかと最初は侮っていたところもあったが、本体の持つ能力はビスケの予想を遥かに上回っていた。

 

 まず牙に持つ毒液は生物相手に対しては単純に強力な攻撃手段となる。最たる特徴はその防御力だろう。堅の状態で、ビスケの硬の一撃を易々と堪え切った。

 

 オーラによる強化率は肉体の強度に大きく左右される。一般的に同程度のオーラ顕在量を持つ使い手同士なら、筋肉量の多い方が遥かに強化率が高い。人間同士を比べるなら体の鍛え方で差をつけられるが、その対象が虫となると一概に比較することは難しい。

 

 甲虫は外骨格として硬い装甲を持ち、その中に筋肉を有する構造をしている。生まれながらに鎧を着た状態と言っていい。ただでさえナインの本体は金属質で見るからに硬い材質の装甲で全身を覆われており、それがオーラによって強化されればどれほどの強度に達するか見当もつかなかった。

 

 物理的な攻撃ならオーラによる防御が間に合う限り、まずダメージが通ることはないと思われる。その代わり動きは緩慢だった。ゴキブリのようにカサカサ動きまわられても、それはそれで何か嫌だが。単体で行動させるのは隙が大きすぎるので、これまで通りナインに運ばせる方がいいだろう。

 

 修行を始める前の段階からゴンと戦って勝っていたのである程度わかっていたことだが、ナインは既に実戦に堪えうるだけの実力が備わっていた。念獣体は傷ついてもオーラで修復でき、虫本体は鉄壁の防御力を持つ。

 

 ビスケがそうナインに伝えると「まだこれじゃネテロに勝てない」という答えが返ってきた。当たり前だ。比較する対象が間違っている。

 

 しかし、これから先の鍛え方次第ではどうなるかわからない。念による戦闘についてほぼ何も知らない状態で既にこれだけの強さがある。どこまで成長を遂げるかビスケにも見通しは立たなかった。それだけに鍛え甲斐もある。

 

 ナインは真摯に修行に打ち込んだ。その集中力は尋常でなかった。先ほどのネテロに勝てない発言も、彼女にしてみれば伊達や酔狂で言ったことではない。本気でそれくらい強くならなければならないと思っている。

 

 いくら力を封印したと言っても、災厄の保有者という立場が変わるわけではない。底知れない強さと数の人間が敵として立ちはだかるかもしれない。それらに対抗しようという決意が並大抵であるはずがなかった。

 

 その覚悟は誓約としてナインの念能力を向上させていた。ナインは自分の力を封印するために誓約を使ったが、本来は自身にリスクを課すことで能力の性能を引き上げる手段である。これにより、念獣としてのナインの性能が大きく高まっている。

 

 瞑想によるオーラの制御はたった一週間のうちに見違えるほど上手くなった。戦闘においてもその効果は発揮されている。習い始めの念能力者がこの域に達するまで、普通なら数年を要するレベルだった。

 

 瞑想や筋トレと並行して、岩石地帯周辺のモンスターと戦わせる訓練も完了していた。本人が申告した高速思考能力もあってか、様々な行動パターンでプレイヤーを翻弄するように設定されたモンスターたちにしっかりと対処できている。肉体の反応を凌駕する認識速度だけはビスケも感心するほどに速かった。

 

「でも、次のステップはそう簡単にはいかないわよ。『堅』と『流』の特訓に入るからね」

 

 念による戦闘において全身の攻防力を高める『堅』は必須技術である。実質強化率の最大値を100としたとき、纏の状態では全身に10程度の攻防力しか発揮されない。纏と練の応用技である堅の状態ならば全身の攻防力を50まで引き上げることができる。

 

 白兵戦ではこの状態が基本となり、実戦を想定するなら数時間単位で堅を持続させる必要がある。たとえ平常時で何時間も堅ができたとしても、実戦ではあらゆる動作にオーラの消耗を強いられるため全力の堅を維持できる時間は数分に満たないこともある。

 

 堅を実戦で使えるレベルに鍛えるためには、まず持続時間を延ばす。その上で効率的にオーラを運用して消耗を減らし、同時に攻防力を最大限に活用する技術を体に覚えさせなければならない。それを可能とする攻防力の移動術が『流』だ。

 

 全身に50発揮されている攻防力を凝によって移動させ、特定部位の強化率を上げる。攻撃の瞬間や、防御の瞬間、必要な部位に必要なだけの強化率を素早く正確に移動させることが理想だが、実際の戦闘においてそれがどれだけ困難なことか言うまでもない。そのため流は念戦闘の基本にして奥義と言われている。

 

「少しはマシになったけど、あんたのオーラ制御はまだ大雑把過ぎる。強化のギアがぶっ壊れてるせいで出力は高いけど、精密性が犠牲になっているようね。正常な感覚を身につけないとその癖は治らないわよ」

 

 ナインは練の出力が安定せず、堅を持続することはできるものの練度や精度に大きな乱れが生じていた。本人いわく『肉体のリミッターを外す』ことにより、その出力の振れ幅は時に数倍にまで広がり、顕在量の限界を超えているのではないかと思わせるほどだった。

 

 異常強化の反動による肉体の崩壊を修復しながら練を発動し続けるなど常軌を逸した状態であり、消費するオーラも莫大な量になるはずだ。それをまかなっている虫本体は小さな体に膨大な量の潜在オーラを蓄えているものと思われる。

 

 しかし、その不安定な堅が戦闘において大きな負担になっていることは確かなようで、今のままでは格上相手には通用しない。持久力の問題もあるが、何より感情のままに変動するオーラは容易に次の一手を敵に教えてしまう。体内で自在にオーラを移動させる流の訓練は制御力を高める上でも重要である。

 

 それでも一度染みついてしまった癖を完全に取り払うことは難しい。流の訓練は相当に難航するものと思われた。しかし、この訓練を乗り越えたとき、ナインは計り知れない成長を遂げていることだろうとビスケは確信する。

 

 ナインのリミッター解除法は自身のオーラ顕在量を超えた強化率を発揮する強化系能力者の発に似ている。本人は基本技の応用程度にしか考えず常用しているが、その一撃は並みの使い手であれば必殺技に匹敵する威力があった。

 

 その攻防力移動を使いこなせるようになれば燃費の改善はもちろん、攻撃面においても防御面においても別格の強さを手に入れるはずだ。短期間のうちにできるだけ強くしてやる必要があるため、しばらくはビスケも指導にかかりっきりになる。ゲームの攻略に参加する時間はないかもしれない。

 

 残念に思う気持ちはあるが、この指導に嫌気が差すようなことはない。ゴンやキルアの指導を無償で買って出たように、ビスケは自分の気に入った人間に世話を焼きたがるところがある。どこまでナインが強くなるか、見届けたいという気持ちも少なからずあった。

 

「まあでも、流の訓練は明日からにしましょう。今日はもう日が暮れてるし、別の修行にしておくわ。ついて来なさい」

 

 ここまでわずかな睡眠時間(多くは気絶状態)以外はぶっ続けで修行を敢行している。ナインが率先して鍛錬に打ち込み、ビスケも無理にならない範囲でそれを認めていた。修行の第一段階はクリアしたことだし、ここらで少し労をねぎらうかとビスケは考えていた。

 

 ビスケが案内した場所はとある岩場の陰だった。崖の下の大岩を転がすと、その奥に横穴が現れる。ナインを連れてその穴の中へと入って行く。

 

 横穴の突き当たりの岩壁にドアが嵌めこまれていた。ビスケが鍵を開けてドアをくぐる。その先の空間にはアパートのワンルームくらいの広さがあった。床には厚手の絨毯が敷かれ、ベッドやタンス、クローゼット、ソファなどの家具一式が置かれている。壁には数個のキノコ型照明が設置され、淡く発光していた。

 

 ここはゴンやキルアに内緒でビスケが制作していたプライベートルームだった。二人が寝ている間に岩壁を掘り進み、魔法都市マサドラのデパートで購入した日用雑貨やインテリアなどを運び込んでいた。商品は全てカードの形で販売されているため、目立たず簡単に持ち込める。

 

 ゴンやキルアが修行に四苦八苦している最中、ビスケはちゃっかりこの部屋で束の間のリラクゼーションタイムを満喫していたのだ。弟子が苦労するのは当然であり、師匠がそれに四六時中付き合わなければならない道理はない。

 

「服を脱ぎなさい」

 

 キョロキョロと部屋の中を眺めていたナインはビスケの命令の通りに従った。Tシャツを脱ぎ、ホットパンツのベルトを外し、下着まで何のためらいもなく脱ぎ去って全裸になる。

 

 かしこまるナインに対してビスケは楽にしていいと言ったが、正座でその場に待機している。脱いだ服はきちんと畳んで横に置いている。まるで三つ指をついてお辞儀をしそうなほど型にはまった正座だった。

 

 そしてナインに続き、ビスケも服を脱いでいく。

 

「!」

 

 それまで微動だにしなかったナインが急に立ち上がり、部屋の外へ出ようとした。脱衣し終えたビスケがそれを引きとめる。

 

「ちょい待ち。誰が逃げていいっつった?」

 

 ナインは部屋の奥へと引きずられていく。そこには狭い別室が作られており、バスタブが設置されていた。

 

 ビスケの目的はナインを風呂に入れることだった。修行を始めてから一週間、ナインは一度も入浴していない。それほどの過密スケジュールだったし、本人が必要としていなかった。汗や皮脂といった老廃物はオーラに還元されるナインの体質については聞いていた。

 

 だが、どちらかと言えばナインよりもビスケの方が納得していなかった。ゴンやキルアについては男子だからそこまで気遣うこともなかったが、それでも水浴びくらいはさせていた。風呂に入るという習慣すらないナインに対し、女子として許せない気持ちが少しずつ溜まっていたのだ。

 

「いくらあんたがよくても、やっぱりあたしの精神衛生上よくないわ。たとえガワだけ美少女だろうと最低限の身だしなみくらい気を使いなさいな。服や下着は今度マサドラに行ったときに着替えを買ってあげるから、とりあえず今日はお風呂に入って土埃の汚れだけでも落しなさい」

 

 それはわかったが、ではなぜビスケまで一緒に裸になっているのかとナインが必死に目をつむりながら疑問を呈する。それには理由があった。

 

 ビスケは念能力を発動し、一体の念人形を具現化した。彼女の能力『魔法美容師(まじかるエステ)』によって生み出されたエステティシャン『クッキィちゃん』が行うマッサージは高い美容健康効果を持つ。

 

 そしてオーラを特殊なローション状に変化させた美容液は若返り・美肌効果をもたらす。今回、用があるのはこの美容液である。

 

「いくわさ……んぬわっしゃあああああああい!!」

 

 乙女にあるまじき気合の掛け声とともに、クッキィちゃんの手から泉のごとくローションオーラが湧き出し、バスタブを満たしていく。疲労回復効果抜群のローション風呂の完成である。

 

「これ疲れるから滅多に使わないんだからね。感謝しなさいよ。じゃあ、入りましょうか」

 

 一緒に。

 

 ナインはビクリと体を震わせると、手で顔を覆い隠したままイヤイヤと首を横に振る。修行の時は血反吐を吐こうが顔面を潰されようが勇ましく立ち上がる姿が嘘のような情けなさである。

 

 ナインはその見た目に騙されがちだが、蟻としての性別はオスと判明している。その生態上、人間の女性に対しても複雑な感情を抱いてしまうらしくエロ耐性が壊滅的になかった。

 

「さっさとしなさい。まさかここまできて別々に入るなんて贅沢なこと言わないわよね?」

 

 風呂なんていらない、もう帰ると言い始めたナインを取り押さえてローション風呂へと沈めた。ビスケも同時に湯船に飛びこむ。本体は別に用意した洗面器の中に突っ込んでいる。疲労回復効果については本体に入浴してもらわなければ意味がない。

 

 バスタブの大きさは一人用であり、小柄な少女たちとはいえ一緒に入れば必然的に体が触れ合う。心地よい温度に温められたローションが二人の体に絡みつく。たまらず外に飛び出そうとするナインの行動を読んでいたビスケは、おとなしくしろと一喝する。

 

「これも修行のうちなのだわさ! あんた異性に対する免疫がなさすぎるのよ! この程度のことで平静を保てないようじゃ、いくら強くなっても足元すくわれるわよ!」

 

 そう、これも全てナインのためを思ってのことだった。決して過剰反応するナインにドS心を刺激され、おもしろがっているだなんてそんな気持ちは全体の4割くらいしかない。

 

 修行と聞かされ、ナインは動きを止めた。それまで閉じていた目を懸命に見開き、この苦境を乗り越えようとする努力がうかがえる。まるでオークに捕えられた女騎士のような表情、しかもまだ何もしてないのに既に陥落寸前。人前ではとても見せられない、薄い本が辞書並みに厚くなりそうな顔つきになっていた。

 

「良い子ね……今夜は可愛がってあげるわ」

 

 ナインの表情に、もしかしてこれはやり過ぎたのではないかと今さらになって思い始めたビスケだが、ここで自分から中止を申し出るのは何か女として負けた気がするので退くに退けない状態になっていた。普段のビスケならこんなセリフを吐くキャラでもなく「何言ってんだあたしは」と思う恥ずかしさから、少しばかり自分の頬にも赤みが差していることには気づいていない。

 

 そしてナインの場合は赤みなどという表現では到底足りないほどに茹であがっていた。蠱惑的な笑みを浮かべながら、ただでさえ近い距離をさらに詰めて来るビスケに対し、頭から湯気が出そうな沸騰していく。そして限界に達した湯沸かし器は、

 

「……にゃ……」

 

「にゃ?」

 

「んにゃあああああああ!!」

 

 爆発した。まるでシャンプーを嫌がる犬のように暴れ出すナイン。その湯船を破壊しそうな勢いにさすがのビスケも焦り、がっちりホールドして抑え込んだ。

 

「逃げんじゃねーよ!」

 

「ごぼぼっ! おぼべぶっ! おぼぶぶっ!」

 

 このあと滅茶苦茶クッキィちゃんがマッサージしてナインは癒された(瀕死)。

 

 



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64話

 

 あっという間に一か月以上の時間が過ぎた。ビスケから色々なことを教わった。四大行とその応用技を中心に、念能力の基本を叩きこまれた。彼女の指導の根底にある理念とは、いかにして敵に勝つかというより、いかにして敵に負けないかと言った方がいいかもしれない。

 

 どんなに強い能力者であろうと弱点はある。念能力は確かに便利で強力だが、それを生かすも殺すも本人の実力次第。最後に物を言うのは、観察眼と基礎能力からなる戦闘技術である。

 

 全ての敵に勝ち続けることは至難だが、負けずに生き残る方法は必ずある。生きるために何をすべきか、瞬時に考え、実践できる能力こそが本当の戦う力だという。

 

 逃げてもいいが、そこに妥協や諦めがあってはならない。“生きる”とは、命が在るか無いかの違いではなく、己がそこに在るか無いかを問うことだ。

 

「さて、そろそろ始めるかね? “今日の”最終試験」

 

 私の修行は最後の仕上げの段階に入っていた。これをクリアすればひとまず初心者は卒業ということだろう。

 

 その試験内容とは、ビスケとの組手である。合格するためにはビスケに有効打を一発入れなければならない。それだけでも難しいが、さらに頭を悩ます条件が付け加えられていた。

 

 有効打の判定を下すのはビスケではなく、私自身だと彼女は言った。つまり、どんな攻撃でも私が良しと思えばそれで合格ということになる。ビスケは私の判定に一切口を挟むことはしないと断言した。

 

 自分自身、納得できる一発を与えられたと思えるまでこの試験は続く。半端な判定などできるはずがなかった。少しでも妥協が生じれば、これまでの修行が台無しになる。そんな気がした。

 

 最終試験が始まってから既に5日が経過していた。休憩時間を取るか否かも、全て私の裁量に任されている。ぶっ続けで戦い続けてもよかったのだが、そこまでビスケを付き合わせるのも悪いと思い、夜はしっかりと休息を取って翌朝から万全の体調で試験に臨むというルールにした。

 

 暁の光が差し込む岩場の闘技場で、私たちは対峙する。ビスケの体は幼い少女の姿ではない。筋骨隆々とした見上げるような巨体である。これが本来の彼女の姿であり、擬態を解いた本気の戦闘状態だ。

 

 対して、シックスはその右手に虫本体をしがみつかせて構えを取る。物々しい手甲のように右手に張り付く本体は、防具であり武器だった。本体は機動力に乏しいが、防御力に優れている。

 

 この特徴を生かすために編み出したスタイルだった。これならばシックスのパンチに合わせて本体に攻撃させることもできる。ついでに牙には毒もあるので、攻撃手段の幅も広がる。

 

「……」

 

「……はじめ」

 

 私の合図によって試験が再開された。待ち構えるビスケに、シックスが先手を打って肉薄する。渾身の力を込めて本体を這わせる右拳を叩きつけた。発達した大顎から外に突き出した一対の牙は、鉤爪のような武器となる。

 

 通常、念能力者が武器を用いる場合は『周』を使って得物をオーラで強化し、威力や耐久性を向上させるが、私の場合は武器そのものがオーラを発し、攻防力を生み出すことができる。そこにシックス自身の強化されたパンチの威力も加算される。

 

 これまでの修行により本体のオーラ顕在量は以前とは比較にならないほど増大している。この武器を使った一撃は今の私に出せる最高火力である。まともに受ければビスケでも防ぎきれないはずだ。

 

 しかし、それも当たればの話。ビスケはその攻撃を難なく回避した。簡単に当たるようなら苦労はない。すぐに左手を打ち出すが、そちらもかわされる。一方的な敵の攻勢を許すほどビスケは甘くない。顔面目がけて拳打が飛んでくる。

 

 その速さに最初は全く対応できなかった。無様に倒れ伏してから攻撃を受けたことに気づく始末。そのうち何とか目で追えるようになったが、認識に肉体がついていけない。頭ではわかっているのに反応が間に合わない。

 

 どうすればいいのかビスケに聞いたところ、頭で考えるよりも速く体を動かせるようになれと言われた。始めは無茶苦茶だと思ったが、修行を続けるうちにビスケの言う通りだとわかってきた。

 

 そもそも敵の動きを見てから次の行動を決めるという工程そのものが間違っていた。見た瞬間に、考えるより先に体が動けるようになるしかない。無論、戦闘全体の流れをどう動かすかについては考えなければならないが、局所的な対処は無意識に反応できるレベルでなければ実戦では役に立たないと気づく。

 

 そして、その反応速度の短縮は一朝一夕に身につく技術ではない。教えてもらえばすぐにできるようなものではなく、弛まぬ鍛錬と強敵との実戦を繰り返すことで少しずつ体に覚え込ませていく感覚だ。

 

 気の遠くなるような努力とそれに費やした時間の差が実力に直結する。それを前提に考えれば、ビスケと私がまともに闘い合えるような力関係にないことは明白である。

 

 曲がりなりにもこうして試合が形となっているということは、ビスケが私に合わせてくれているからだろう。目に見えて上達していく自分の力に自惚れがなかったとは言えない。

 

 そんな気の緩みを少しでも見せれば、ビスケはさらなる力を見せつけ私を圧倒した。その底知れぬ実力を肌で感じることができたからこそ、ここまで驕らず奮起することができた。

 

 私はビスケの攻撃を防ぐ。風を切る勢いの凄まじい一撃、破城槌のような正拳突きを左腕で受ける。凝により攻防力が集まった前腕部は、ついに骨折することなくビスケの一撃を受け切った。

 

 そこで試合が終わるはずもない。防御から再び攻勢に転じ、右腕の赤い手甲を振りかぶる。この攻撃もビスケは回避するだろう。そうとわかっていても、攻め続けることは無意味ではない。本体と協力して放つ右手の拳打はその威力の高さから、相手に対処の選択を限定させる。こちらの攻撃を回避せざるを得ない状況を作り出し、次の行動の幅を狭めることができる。

 

 現に、大振りの右手を回避したビスケの隙をついて次の攻撃を当てることができた。が、当然のように防がれる。これでは有効打にならない。避け、当て、防ぎ、惑わす。一瞬のうちに互いの攻防はめまぐるしく入れ替わる。

 

 一か月前の私ならば、この試合に全くついていけなかっただろう。今では『流』によって全身のオーラを淀みなく制御し、意識した箇所へと攻防力を自在に移動できるようになった。

 

 ビスケによれば私はオーラの制御力に難点があるように見えたらしい。それについては自覚があった。細かい調整など全くできず、ただ全体的に強化することしかしていなかったからだ。初心者ならよくあることらしく、実戦レベルの流が使えるようになるには数カ月から年単位の修行を要することも覚悟せよと言われた。

 

 それをたった一カ月でここまで仕上げることができた理由は、誓約にある。アルメイザマシンを二度と使わないと誓ったことだ。誓約は念能力の効果を向上させる儀式でもあり、自分に課す枷は重いほどに強く働く。

 

 この選択により、死ぬ危険は以前よりも高まった。強敵と戦っても最後は何とかなるという保証はなくなった。だが、それでも後悔はない。仮にこの先、力及ばず命を落とすようなことがあったとしても、私という存在のまま死ねるのであれば納得できる。

 

 その覚悟が誓約として大きく働いたのか、前よりもシックスとの一体感が格段に上がっている。集中状態となった時など、どちらが本体であったか曖昧になるほど意識がシンクロすることもある。以前、この状態を『扉を開く』と表現したことがあったが、その感覚から言えば十も二十も一気に開かれたような気がしている。

 

 技術が上達したというよりも、最初から知っていたように感じることがある。この肉体に刻みこまれていた『動かし方』を思い出す。その感覚に身を任せれば、自ずと取るべき行動が見えてくる。

 

 こうしてビスケと戦っている最中、いちいち自分の挙動を確認することはなくなった。ただ彼女の動きを注視し、どこに向かえば隙ができるかと予測することに専念する。そのとき肉体の感覚は意識の外にある。これがビスケの言う“考えるより先に動く”という境地なのかもしれない。

 

 だが、それだけの技術を身につけてなお越えられない壁はある。私はまだビスケに一発も有効打を入れることができていない。ビスケの流は私にはない強さがある。それは数多の戦闘を経て磨かれた偽装力だ。

 

 オーラを意識通りに動かす技術は確かに必要不可欠だが、その流れは敵の目にも明らかであり、どこにオーラが集中しているのかを探られれば次の行動を読まれてしまう。それをさせないために高速でオーラを移動させたとしても、ビスケのような達人が相手となればまるで通用しない。

 

 このオーラの流れは生理的な反応に近く、意識的に抑えようとしても体の動きに合わせて自然と生じてしまう。つまり、思いのままにオーラを移動できるレベルの『流』ではまだ半人前。本当の意味で使いこなすためには、時に自分の意思に反した無作為の流れすら操れるようにならなければいけない。

 

 私の流はまだまだオーラの移動が素直すぎるらしい。この感覚は自覚して習得できるものではない。無意識を操るのだから、むしろ自覚することは妨げとなる。ひたすらに実戦を積み、死地を渡る感覚を染み込ませることでオーラの狂いを我がものとする。まともな神経をしていてはたどり着けない境地だという。

 

 その実戦経験の差が如実に現れていた。何とかビスケと殴り合いが成立するところまではこぎ着けたが、そこから先に進めない。こちらの攻撃はビスケに読まれ、回避されるか的確に防がれる一方で、彼女の不確定なオーラの動きを読み取ることは本当に難しい。

 

「ほら、ちゃんと集中しな」

 

 ビスケの回し蹴りがシックスの横腹に入った。しかし、これはあえて攻撃を誘うために作った隙であり、こちらの読み通りに彼女は仕掛けてきた。筋肉量的に腕力よりも強い力を発揮できる脚技はその半面、使用に際して身体の支えが揺らぐため次の一手に遅れが出やすい。

 

 だが、ビスケはこちらの思惑を見通していた。反撃の構えをオーラの流れから読み取っていたのだろう。蹴りが入る瞬間、脚に集中するオーラの量が跳ね上がる。予想していた威力を大幅に越えた蹴りが、こちらの凝による防御力を上回った。

 

 このように、どんなフェイントや罠を仕掛けようとビスケは先の先まで看破してくる。そこから怒涛の攻勢に持ち込まれて負けが確定するパターンが多かった。一度肉体を破壊されると、いくら再生可能とは言っても精神状態を乱される。ほんのわずかなオーラ制御の乱れも格上の敵が相手となれば勝敗を分かつ要因になり得る。

 

 だから、ダメージを受けても何とか戦闘状態を維持できるように死に物狂いで特訓した。ビスケから「死刑囚でもここまでむごい仕打ちは受けない」と言われるほどの特訓が功を奏し(その修行を提案したのはビスケだが)、今では痛みと戦闘感覚を切り離せるようになった。蹴りの衝撃で潰れた内臓を修復しながら次の攻撃に備える。

 

 何とか持ち直せたが、ここまでだ。この五日間、こんなやりとりを日が暮れるまで繰り返している。着実に動きはよくなっているし、全く成長が感じられないわけではない。しかし、越えるべき壁は高い。ただの一発当てるだけ、それだけの目標が遠い。

 

 このままでは最終試験が何日続くか見当もつかない。ビスケはこの試験に具体的な期限を設けなかった。止めるかどうかも、私の気持ち次第。ただし、あまりに腑抜けた成果しか見せられないようであればビスケがストップをかけるとも言っていた。明日も試験が続くという保証はない。今すぐにでも中止が言い渡される恐れはあった。

 

 そんな終わり方は絶対に嫌だ。負けたくないという気持ちは当然ある。だが、何よりもこの試験はビスケが私の修行の成果をある程度認めてくれたからこそ実現したと言える。その期待に応えられないまま、むざむざと不合格になるような失態はさらせない。

 

 ビスケがこれまで修行の中で私に与えた課題は理不尽に思えるようなものもあったが、実際にやってみれば理に適っていると実感できた。不可能な課題を押し付けてくるようなことはない。できないと思うのであれば、それは身体的な能力の限界ではなく、能力を使いこなす思慮が足りないだけだ。

 

 クリアするために必要な条件はそろっているはずだ。それに気づけなければ合格はない。このまま正面からぶつかっても勝てないというのなら、別の方法を考える必要がある。実力で勝る相手に付け焼刃の策を弄したところで通用するとは思えないが、その無理を通すことこそビスケが今の私に求めているものかもしれない。

 

 そして、その機会は訪れた。避けられないタイミングでビスケがシックスに向けて手を差し出してくる。その手は握られた拳の形ではなく、開かれていた。不用意に突き出していたシックスの腕が掴まれる。

 

 それは投げ技を仕掛けられる前触れだった。ただのパンチも絶大な威力を持つことに変わりはないが、ビスケが戦闘中に時折見せる心源流の技もまた厄介極まりない。これもその技の一つである。

 

 決まれば為すすべもなく体が宙を舞う。そして逃げ場のない空中に追い詰められてから高威力の攻撃を叩きこまれる。これも数え切れないほど体験した負けパターンだ。だからこそ、私はこの時を待っていた。

 

 何度もこの技を受けるシミュレーションを行った。この五日間、ビスケが寝ている夜中に秘密の特訓を重ねてきたのだ。

 

 余計な警戒をさせないためにあえて攻撃を誘うようなことはせず、ビスケが自発的にこの技を使ってくるのを待っていた。掴まれた直後、手首を起点としてスクリューに巻き込まれるような回転が襲いかかる。

 

 心源流は念能力と武道の合一を目指し、近代念教育の礎を築いた最大流派である。その技は純粋な武術としても洗練されており、そこに念能力を合わせることで爆発的な相乗効果をもたらす。

 

 腕を螺旋状に伝わり、肩から全身へと波及していく回転力。掴まれたが最後、投げられるまで抜け出すことはできない。どうすればこの技に対抗できるかをずっと考えていた。

 

 私は腕の力を抜く。掴まれた腕のオーラを消し、『絶』の状態にした。念による防御を失った腕は竜巻のごとき回転力に堪え切れず、ぶちぶちとねじ切れていく。わざと腕を切り捨てることで回転が伝わりきる前に掴みから脱する。それが私の導き出した答えだった。

 

 しかし、ビスケは少しの動揺も見せない。絶により落ちた腕の強度に合わせて瞬時に力を調整し、適切な捻りを加えてくる。腕は完全に切り離される前に力を伝える橋の役割を果たし、結局シックスの体は空中に浮かんだ。その緻密に計算された技の巧みさは見事と言うほかない。

 

 ここまでは予想通りだ。

 

 これだけの策でビスケを何とかできるとは最初から思っていない。投げられることは想定していた。だが、威力を殺すことには成功する。本来なら天地逆転の体勢で高速回転させられ、上下左右の区別もつかないままやられてしまうところだが、今回はその回転力を抑えることができた。

 

 それでも独楽のように回されている状況に変わりはない。ここでしっかりと状況を認識できなければどのみちビスケの攻撃に対応なんてできない。集中し、体内でオーラを練り上げ、機を見計らう。

 

 今の私は空中に投げられ、無防備な状態である。ここで仮に反撃が成功したとしても、地に足がついていない上に高速で回転しているこの状態ではまともな攻撃にならない。

 

 だからビスケは打ち込んでくるはずだ。投げ技から抜け出すことに失敗した私に追い打ちをかけにくる。私にできることと言えば、目を回さないように気張りながらいかに防御のタイミングと場所を合わせるかを見極めることだけだ。そう相手に思い込ませる。

 

 現状ではまだ私にビスケを正攻法で倒すだけの力はない。その不足を補うために使える手は何でも検討する必要があった。その中で生まれた一つの案が、私の発『落陽の蜜(ストロベリージャム)』である。

 

 発を戦闘で利用する。念能力者なら当たり前の戦い方である。しかし、基礎もまともに出来ていない現状では正直、手に余る。特に私のタイプは発動すれば何かしらの戦力が得られる類ではなく、しっかりとした地力が整った上で使いこなせるかが問われる能力である。

 

 ビスケからも今は発に頼った戦い方を考えるより、基礎力を上げることに専念するよう言われている。実際、実戦を想定して何度かビスケ相手に『落陽の蜜』を使ったことはあるのだが、良い成果はあげられなかった。ぬるぬる滑るオーラは敵の攻撃をいなすのに使えそうだが、私自身も扱いを誤って事故を頻発してしまう。普通に戦った方がまだ強い。

 

 それをビスケは知っているからこそ、この土壇場で私が使ってくるとは思わないだろう。無論、下手な使い方をすればこちらの狙いは見破られ、反撃のチャンスはつかめない。ビスケ相手にも通用する能力の使い方を考えなければならない。

 

 この時のために、夜間の秘密特訓を積んでいた。変化系能力『落陽の蜜』はオーラにローション状のぬるぬるした性質を持たせることができる。ビスケの能力と少し似ているが、疲労回復などの特別な効果はない。 

 どうすれば戦闘に生かせるか、私はとにかくオーラの操作性を高める訓練をした。オーラに粘性と滑りを与えるこの能力について調べていくうちに、粘性の高低がオーラ全体の性質に大きな影響をもたらしていることを突き止める。

 

 粘性を低く設定すると、ローション状のぬめり気が強い性質になる。これは今まで私が使っていた状態だ。そして逆に粘性を高く設定すると、液体から固体状の餅のような状態に近づく。

 

 これが私の編み出した新必殺技だ。ビスケが突き放った拳に合わせ、殴られると予想される箇所のオーラを急速変化させる。粘性を最大値にまで高めたオーラがビスケのパンチを受け止める。

 

 『落陽の蜜』の応用技『ジャムブロック』。

 

「――むっ!?」

 

 固形化したオーラの塊に、ビスケの拳がめり込んだ。糊の塊がクッションの役割を果たして衝撃を吸収し、大砲のごときパンチの威力を瞬時に抑える。そして粘り気を高めたこのオーラは、相手の攻撃を受け止めると同時に吸着し、拘束する。繭のようにきめ細やかな線維質の糊塊は並大抵の力では壊せない。

 

 本来ならパンチを受けたシックスの体は岩壁に激突するまで吹き飛ばされていたことだろう。しかし、粘性クッションがシックスとビスケの体をつなぎとめる。ビスケもこの展開は予想していなかったに違いない。動きに一瞬の硬直が生まれた。

 

 この好機を逃せば次はない。同じ手は通用しないだろう。何としてでもここで勝負を決める。捨て身のオーラを右腕に集め、動きを止めたビスケ目がけて振り抜いた。こちらも投げられた勢いが急停止した反動でパンチの狙いが大きくぶれるが、それでもこの距離で攻撃を外すことはない。

 

 今の私がビスケ相手にこれ以上の策を成功させることはできない。間違いなく最高の一撃だと自負できる。その精魂の限りを尽くした攻撃に、ビスケは反応した。

 

 ビスケは私のオーラに捕まった腕を伸ばし、距離を離してくる。屈強な肉体を得たビスケの腕のリーチはシックスよりも大幅に長い。さらにそこから上体を後ろへそらすことにより、私の攻撃はビスケの体をかすめて空を切った。

 

 これをかわすのか。なんという反応速度、不測の事態をものともしない鋼の精神。本能が知らせる危機感に逆らわず、私は『ジャムブロック』を解除してビスケから距離を取った。ここで諦め悪く粘ったところで良いことはない。

 

 これ以上、勝負を続ける必要もなくなった。

 

「……たった一か月でここまで育つか……人間技とは思えないけど、そういえばあんた人間じゃないし、そういうものなのかもね」

 

 ビスケは構えを崩していないが、その指先にわずかな震えが走るのが見えた。先ほどの私の攻撃はビスケにかすり傷を負わせるだけに終わる。右手に装着した本体の牙が、ビスケの肌にうっすらと一筋の傷をつけていた。

 

 そのわずかな傷から麻痺毒を送り込んでいた。死にはしないが、一滴でも体内に入れば一週間は身動きが取れなくなる即効性の神経毒だ。ビスケはまだ倒れていないが、普通は立つこともままならないはずだ。

 

「まいった。あたしの負けだ」

 

 そう言いながらも、彼女の目は全く負けを認めていなかった。事実、このまま戦えば私の方に分があることは明らかなはずなのに、どうしてか勝てるイメージが湧いてこない。そう思わせるだけの不屈の闘志に気圧されるばかりだった。

 

 



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65話

 

 最終試験から数日後、私とビスケは魔法都市マサドラに来ていた。いつも修行している岩場から70キロほど離れたところにある。食料などの買い出しのため何度かこの街には来たことがあった。

 

 ちなみにゲーム内で魔法が使える呪文(スペル)カードというものがこの街で売られているらしいが、買ったことはない。ビスケに聞いたところ、色んな場所に瞬間移動できたりして便利らしい。彼女も詳しくは知らないようだった。

 

 今日は私の試験合格を記念してビスケから好きに買い物していいと許可をもらっていた。お金に余裕があればゲームの攻略に必要そうなものを買ってもいいだろう。

 

 例の最終試験を無事に合格し、これで晴れて初心者卒業かと私は思っていたのだが、ビスケから予想外のことを言われた。なんと、これで念の基礎については全て教え終わったという。文字通りの最終試験であり、あとは自分なりに研究してくれと言われた。

 

 教えてもらうことで強くなれる段階はここで終わり。これまでに習ったことを守ってしっかりと基礎を鍛えた上で、様々なタイプの敵との実戦を積み重ねていく。そうするほかに強くなる道はないという。

 

 心源流の武術についてなら教えられないこともないが、ビスケいわく、私の動きには何らかの“型”が既に現れているらしい。私は意識したことがなかったのだが、無意識に現れているのだとすればなおさら体に染みついた記憶のようなものだと言える。

 

 やけに動きが体に馴染んでいるため、下手に触ると逆に悪影響が出る可能性が高いという。心源流を学ぶことは強くなるための道の一つだが、それはあくまで方法の一つであって、万人に適合する強さではない。私の場合、矯正の必要は感じなかったので、そのまま行けと言われた。

 

 つまり、もう教えることはないということだ。それを聞いたとき、あまり嬉しいとは思わなかった。それ以上にショックを受けた。きっとこれから本格的な修行に入るに違いないと思っていたのだ。

 

 ビスケは当初、修行期間は少なくとも半年以上かかると言っていた。まだ一か月半くらいしか経っていない。それだけ修行が順調に進んだことは喜ぶべきなのかもしれないが、ここで終わりというのはあっけない。

 

 私はビスケにもう少し指導をしてもらえないか頼んでみた。そしてもうしばらくの間、組手などに付き合ってもらえることになった。なんだかんだ言ってビスケは強い。毒で弱っているはずなのに圧倒的な実力の高さを見せている。実戦を模した組手をしているだけでも勉強になることは多い。

 

「捨てられた子犬みたいな目で泣きついてくるもんだからしぶしぶ面倒見てあげてるけど……成長スピードが化物すぎるわ。あんたのゾンビじみた耐久力に付き合わされるこっちの身にもなってよ」

 

 またまた、そんなこと言って片手間であしらってくるくせに。でも、もう少しでビスケから一本取れそうな可能性が見え始めている気がする。ビスケには迷惑をかけるが、強くしてくれるという約束を果たしてもらおう。

 

 それはさておき、今は買い物である。マサドラにある大きなデパートに来ていた。建物は大きいが扱っている商品はコンパクトだ。なぜなら商品は全てカードの形で販売されているからだ。買った後でゲインを使って復元する。

 

 これなら場所も取らないし、輸送コストも安く済みそうだ。ただ、実物を手に取って商品を見ることができないので通販のような不便さもある。私たちが今来ている衣料品コーナーは特にそれを感じる。

 

 ビスケからまずはシックスの服を買うように言われていた。過酷な修行を経て、今着ている服はボロボロの状態になっている。『周』で強化しながら使っていなければとっくに原形をとどめていなかっただろう。

 

 もともと露出は高かったが、今ではダメージ感40%くらいアップしている。一周回ってファッションと言えなくもないような気がしてきたが、まあ普通に買い換えた方がいいだろう。

 

 主にビスケとの組手が原因で破れた箇所が多い。その責任を感じてか手持ちが足りなかったら工面してやると言ってくれたが、そんなに高い服を買う気はない。岩場のモンスターを倒して手に入れたカードを売却してお金もある程度は用意している。

 

「やっぱり服は実物を見てから買いたいわよね。サイズは復元したときに持ち主に合わせた大きさに調整されるみたいだけど、生地の質感とか作りの細かさとかわかんないわ」

 

 こうしている最中も軽い修行は続けていた。指の先に集めたオーラを0から9までの数字の形に素早く変化させていく訓練である。最近は数字だけでなくビスケの指示で動物の絵を即興で描くように無茶ぶりされることもある。

 

『1! 9! 4! ウサギ!』

『ウサギ!?』

 

 完成度が低かったり0.1秒以上かかったりするとしばかれる。たまにウナギのフェイントもくる。

 

 ウサギの絵を形作る練習をしながらカードが並べられた陳列棚を見て回る。修行をする上で飾り気は必要ないし、ほしいとも思わない。動きやすさと安さ、このあたりを押さえられればそれでいい。

 

 【布の服】H-300

 旅人が着る安価な服。

 

 これでいいだろう。値段も一番安い。しかし、カードに伸ばしかけていたシックスの手はビスケに止められた。

 

「待ちなさい。いくら何でも、もうちょっとマシなのを買いなさいよ。すぐに壊れたら買った意味がないでしょうが」

 

 確かに、それもそうか。丈夫さを考えるなら安さにあまりこだわるのはよくない。長持ちした方が結果的に得だ。

 

「これなんかいいんじゃない?」

 

 【女拳法家の服】D-20

 エキゾチックな格闘家の戦闘服。

 

 カードに記載されているアルファベットはランクを表しており、SSランクからHランクまである。その横の数字はカード化限度枚数で、ゲーム内において同種類アイテムはこの数字を超えてカード化することができない。入手難易度に大きく関わる制限であるため、一般的にこの数字が小さいほどレアとされる。

 

 ビスケに勧められたカードはなかなか高価なものだった。私の手持ちでは足りそうにない。断ったのだが、いいからいいからと強引にカードをレジまで持って行ってしまった。

 

 他にもいくつかカードを買い、会計を済ませる。しめて578,230ジェニーだった。ひとまず私が持っているだけのお金は全て出して、足りない分はビスケが払ってくれた。試験合格の祝いということらしいのでありがたく受け取った。

 

 この支払のお金もカード化された紙幣や硬貨でなければ使えない。お釣りとしてもらう小銭も一枚単位からカードの形で返ってくるので、全部受け取っていたらバインダーのフリーポケットがすぐにいっぱいになってしまう。バインダーに入れておかないとカード化が解除されて二度とカード化できなくなるためその瞬間、価値がなくなるのだ。リアルな世界観でありながら、こういうところはゲーム的な不自然さを感じる。

 

「じゃあ、さっそく着替えてきなさい」

 

 というわけで、ゲインによって復元した商品を試着スペースで着替える。見た目のイメージはチャイナドレスに近い。スカートは大きなスリットが入っていて動きやすい。その下にはダボッとした長ズボンを履いている。高かっただけあって着心地は良く、作りもしっかりとしていた。これなら簡単に破れるようなこともないだろう。

 

 試着スペースから出るとビスケに髪をいじられた。左右両側にお団子を作られる。シニヨンというらしい。さらに鉄扇まで渡される。これもさっき一緒に購入したものだった。武器のようだが、たぶん使う機会はないだろう。

 

 なんだか面白がられているだけのような気もするが、もらえるものはもらっておこう。それから特に何か買う予定はなかったが、しばらく商品を見て回る。カードしか置かれていないのでウインドウショッピングも全然楽しくないとキレられる。

 

 その後、デパートに内設されている喫茶店に入った。ここの店員はイケメン揃いでビスケのお気に入りの店らしい。暇だったのでさっきもらった鉄扇を頭の上に立たせてバランスを取っていたシックスは、そのままの状態で入店する。

 

 四人がけのテーブルにつき、注文を入れる。私は無一文なので水だけでよかったのだが、ビスケがおごってくれることになった。というか、勝手に注文された。コーヒーとタピオカミルクティーが運ばれてくる。

 

 タピオカドリンクなるものが流行っているそうだ。私は飲んだことがない。ビスケいわく、ストローでカップの底のタピオカを一気に吸い上げる飲み方が通らしい。やってみたら、ストローの中をドゥボッと駆け上ってきた黒い粒が喉に直撃した。思いっきりむせる。頭の上の扇が大きく揺れる。最近の若者は刺激的な飲みモノを好むようだ。

 

 ビスケはメニューでにやけ顔を隠しながら、イケメン店員を観察していた。私がタピオカをドゥボドゥボ吸引していると、二人の新たな客が入ってくる。

 

「あ、ビスケ! ナイン! ひさしぶり!」

 

 ゴンとキルアである。実は今朝方、二人から交信の魔法による連絡が入り、この店で落ち合うことに決まっていた。買い物はそのついでみたいなものだ。

 

「あんたたち最近、連絡なかったけどカード集めはうまくいってるの?」

 

「もちろん! と、言いたいところだけど……」

 

 二人はあれから何度か修行場に顔を見せにきてくれたが、最近は音沙汰がなかった。最初は呪文カードを入手しやすいマサドラを中心に活動していたようだが、色々なカードを集めようと思えば当然、島中をくまなく探索する必要がある。遠くの街まで瞬間移動できる呪文カードもあるが、気軽に使えるようなものでもない。

 

「一気にカード集めてから戻ってくる計画だったんだけど、まだ指定ポケットは半分くらいしか埋まってないや」

 

「Aランクまでは何とか自力で取れそうなんだけど、それ以上は難易度が段違いだな」

 

「ゲームのことはよくわかんないけど、これだけの期間で半分も集めたのなら上出来じゃないの?」

 

 本人たちは納得できていないようだ。本来ならこのままカード探しを続行するつもりだったらしいが、急遽別の問題が発生したため探索を切り上げて戻ってきたらしい。

 

「カヅスールから連絡があったんだ。もうすぐゲームをクリアしそうなプレイヤーがいるって」

 

 ゲームのクリアとはすなわち、指定ポケットカード100種のコンプリートである。プレイヤーの多くは大富豪バッテラから雇われており、最初にクリアした者に莫大な報酬金が約束されている。なんとしてでも抜け駆けはさせたくないはずだ。

 

 もはや漫然とカードを集めている場合ではない。あらゆる手段を講じて攻略を優先する必要がある。そのためにもビスケや私という戦力を遊ばせておく余裕はないということだろう。

 

「でも、ナインの修行も大事だから無理に誘うことはできないけど」

 

「そこは問題ないわさ。仕上がりは十分。今のナインならあんたたちより強いかもね?」

 

 その言葉にむっとした表情を見せるゴンとキルア。今の自分と二人の実力を比べて以前よりどれくらい強くなったのか、気になるところではあるが、わざわざ不和を招くようなことをするつもりはない。ビスケは皆の性格を分かった上で煽っているのだろうが。

 

 私もゲームの攻略に参加することに異存はない。ゲームのクリアに興味はないが、ゴンたちの助けになるのなら是非もないことだ。

 

「とりあえず、カヅスールの呼びかけで攻略組がいくつか集まって緊急対策会議を開くことが決まってる。まずはそこに行って情報を集めようぜ」

 

 

 * * *

 

 

 その日の夜、マサドラの北東2キロの岩場に多くのプレイヤーが集まった。

 

 カヅスール組、3名。

 アスタ組、3名。

 ゴレイヌ。

 ヤビビ組、2名。

 ハンゼ組、3名。

 ゴン組、4名。

 

 総勢16名。プレイヤー全体の総数と比べればほんの一部に過ぎないように見えるが、実はそんなに軽い数字ではない。プレイヤーの大多数は攻略を諦めてゲームの中から出ることもできず生活を送るしかなくなった者たちだ。実際に攻略のために動き続けている組は30にも満たないという。

 

 本来なら攻略を競い合うライバル同士、ここまでの数が集まって顔を突き合わせる機会などない。裏を返せば、そうぜざるを得ないほど状況は逼迫しているということでもある。

 

「みんなよく集まってくれた。交信で話した通り、ゲンスルー組があと少しでクリアしそうな勢いだ」

 

 言ってしまえば、トッププレイヤーを抜け駆けさせないための妨害について話し合う場になる。足の引っ張り合いと言えば聞こえが悪いが、いかに敵を出し抜くかということもゲームの一環である。それにゲンスルー組は相当にたちの悪い手段を使ってカードを荒稼ぎしていたらしい。

 

「奴らのコンプリート状況は現在96種だ。早急に対策を立てる必要がある」

 

「どうやってその情報を掴んだの?」

 

 キルアが尋ねたところ、カードを換金できるトレードショップで聞ける情報らしい。そのとき誰が何種類のカードを取得しているのか全プレイヤーのランキングを教えてもらえる。別途料金を払えば、その人物が所有しているカードの番号まで知ることができる。

 

「そんなことも知らずによくここまで来れたわね。時間の無駄だからさっさと議題を進めてよ」

 

 アスタ組から苦言を挟まれる。攻略の進捗状況で言えば私たちゴン組よりも他の組の方が一歩も二歩も進んでいる。色々と知らないことがあるのは仕方ない。私なんか話についていくだけで精いっぱいだ。むすっとしているキルアをなだめる。

 

 ゲンスルー組の攻略を阻止するためにはカードを奪うか、まだ入手されていないカードを先に独占するしかない。しかし、奪う手段は現実的ではないという。

 

 他人のカードを奪う呪文カードは存在するが、それを防ぐ対抗カードも万全にそろえていると思われる。消去法的に、人海戦術による未取得カード独占しか手は残されていないという結論に至る。

 

「確かにそれしかなさそうね。でも共同戦線を張るメンバーには異論があるわ」

 

 またしてもアスタ組のリーダー、アスタが難色を示した。どうやら先ほどのやり取りからこちらを対等な協力者として見てもらえなかったようだ。チーム全員が(見た目は)子供ばかりで実力不足を疑われているのかしれない。

 

「だいたい、あんたらゴンとキルアの二人組じゃなかったの? そっちの女子二人は別働隊か何か? そういう勝手な動きをするような人間と一緒に作戦は取れないわ」

 

 ゲンスルーの所有カードがわかったように、私たちの持っているカードについても調べることはできる。攻略組にとって他の組の情報は少しでも多く把握しておくべきであり、ゴン組についても事前に調べられていたのだろう。

 

 事実、この会合に呼ばれた組の参加条件はカードの所有種が50種類以上であることが前提となっている。その点、私とビスケは修行漬けの日々を過ごしていただけでゲームの攻略には関わっていないため条件を満たしていないと言えなくもない。

 

「うぅ、ごめんなさい。わたしたち、同じチームですけど争いごとは苦手で、別行動していたんです……」

 

 おそらくここにいる全員が束になって襲いかかっても敵わないであろうビスケが世迷いごとを言っている。

 

「うるせーな。偉そうにこっちのチーム編成にまで口出ししてくんじゃねーよ」

 

「誰だって足手まといを仲間に引き込みたくはないでしょ。あと、協調性皆無の生意気なガキもね」

 

「協調性がないのはテメーだろうが!」

 

 言い争うアスタとキルアをゴンと私がなだめる。言い方は刺々しい部分もあるが、向こうの立場からしてみれば言っていることはわからなくもない。あとキルアが怒ってくれているおかげか、それほど腹は立たなかった。

 

「とにかく、互いに有益な関係が築けることが協力する上での必須条件よ」

 

「それならゲンスルー組の能力を知ってるよ。この情報は有益だよね?」

 

「それに奴らがまだ入手してないカードも1枚持ってる。それでも不満かよ」

 

 情報を提供することで何とか信頼は得られそうだが、キルアはその見返りにSランクカード2枚をアスタ組にだけ要求。この当てつけにアスタが何も言わないはずがなく、当然のように話がこじれた。

 

 交渉は決裂しかけたが、ゴンはどうしてもゲンスルー組の情報を伝えたい事情があるようで、結局話すことに決まった。アスタ組も他の二人のメンバーがSランクカード2枚の譲渡に応じてくれたので何とか話がまとまる。

 

 ゲンスルーは『爆弾魔(ボマー)』と呼ばれ恐れられていたプレイヤー狩りらしい。何年も前から正体を隠して仲間を募り、攻略組が一大勢力に成長したところで裏切った。このゲームが始まって以来のプレイヤー大量虐殺の主犯である。その事件を機に奪ったカードでトッププレイヤーの座に登りつめている。

 

 その能力『一握りの火薬(リトルフラワー)』は手に集めたオーラで小規模な爆発を引き起こす技で、ゲンスルー自身の高い戦闘能力と合わさり凶悪な威力を発揮する。さらに標的の体に時限爆弾を具現化して爆死させる『命の音(カウントダウン)』という別の能力まで持っている。

 

 ゴンはこの『命の音』を仕掛けられた被害者と会い、少しでも奴の非道を食い止めるために情報を広めてほしいと頼まれたそうだ。この話を聞くまではゲンスルー組を袋叩きにして実力行使でカードを奪うという案もわずかに考慮されていたが、そんな手が通じる相手ではないと皆が認識した。

 

 打算や駆け引きなしにゲンスルーの脅威を伝えようとしたゴンの誠意が伝わり、アスタもこちらを認めたのか、ゲームの攻略に関する様々な情報を教えてくれた。わだかまりは解消したと言っていいだろう。他の組も見返りに情報をくれた。ゴンやキルアは目からうろこといった様子でその話を聞いている。

 

 ちなみに私は全く何の話か理解できなかったが、侮られるのもよくないと思って訳知り顔でしきりにうなずいておいた。

 

「さて、そろそろ情報交換会はこのくらいにして、本題のゲンスルー組対策を検討しよう。奴らの未取得カードは№000、№2、№9、№75の4種だ。これらを我々の共同チームで先に入手し、独占する」

 

 これだけの数のプレイヤーがそろえば入手難易度の高いカードも集めやすい。理想を言えば、まだ誰にも入手されていないカードをカード化限度枚数の最大値まで集めておきたい。

 

 これを調べるために活躍する呪文カードが『名簿(リスト)』だ。指定したアイテムが何枚カード化されているか、何人がそのカードを所有しているかを調べられる。

 

 まずは『名簿』を使って4種のプレイヤー所有状況を把握する。ただし、№000に関してはどの呪文カードを使っても情報を知ることができない。これは99種をコンプリートしたプレイヤーが出たとき、入手イベントが発生すると考えられているため、今回の作戦の対象からは除外する。

 

 つまり、実質的には№2『一坪の海岸線』、№9『豊作の樹』、№75『奇運アレキサンドライト』の3種が対象となる。『名簿』で調べた結果、『豊作の樹』と『奇運アレキサンドライト』は既に所有者が何人かいた。今から独占に奔走しても確実にゲンスルー組の妨害になるとは言えない。

 

「『一坪の海岸線』は……所有者なし! まだ誰も手に入れてないぜ」

 

 指定したアイテムの説明を見ることができる『解析(アナリシス)』の呪文カードで調べたところ『「海神の棲み家」と呼ばれる海底洞窟への入り口。この洞窟は入る度に中の姿を変え侵入者を迷わせる』と、よくわからないことが書いてあった。

 

 しかし、そのランクは最高レベルのSSであり、カード化限度枚数はたったの3枚だ。誰も手に入れたことがないだけあって入手は難しいだろうが、1枚でもゲットできれば『複製(クローン)』の呪文カードで増やせる。そうなれば限度枚数が3しかないので簡単に独占できる。

 

「場所はソウフラビだな。誰か『同行(アカンパニー)』持ってないか?」

 

 『道標(ガイドポスト)』の呪文で指定したアイテムが入手できる場所を知ることができる。どうやらソウフラビという街にあるらしい。呪文カードも色々な種類があって便利ではあるが、こう一度に何枚も登場すると効果を整理して覚えるのに少し疲れる。

 

「『同行(アカンパニー)』使用! ソウフラビへ!」

 

 『同行』の効果は何だったかと考えていると、体が光に包まれて足元がふわりと浮きあがるような感覚に襲われる。確か、このカードは移動系の呪文だ。使用した術者とその周囲にいる者全てをまとめて瞬間移動させる魔法である。

 

 移動系の呪文は話には聞いていたが、実際に体験するのも目にするのも初めてのことである。現実世界からゲームに入って来たときのように一瞬で視界が切り替わるのかと思いきや、勢いよく体が空高くへと舞い上がった。

 

「ぬわあああああ……」

 

 物理的に吹っ飛ばされるとは思わなかった。

 

 



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66話

 

 SSランクカード『一坪の海岸線』はソウフラビにあることがわかった。しかし、こんなに簡単にたどり着けるような情報が今まで誰にも調べられていなかったなんてことはない。この街は多くのプレイヤーによって既に調べ尽くされていると考えるべきだ。

 

 それでも現にカードはまだ入手されていないのだから、何か見落としがあるのだろう。ゲンスルー組のクリアを阻止するため、時間をかけてでも徹底的に調べ直す価値はある。

 

「おーい! 情報提供者が見つかったぞー!」

 

 だが、長丁場を覚悟していた私たちは、予想に反してあっさりと手掛かりを発見した。この街は『レイザーと14人の悪魔』という海賊団によって裏から支配されており、それを追い払うことができれば『一坪の海岸線』を手に入れられるようだ。

 

「おかしいな。前に来たときはいくら調べても何の手がかりも見つけられなかったのに」

 

「確かに、話がうますぎる」

 

「情報を得るための何らかの条件を満たしたということじゃない? 『レイザーと14人の悪魔』……敵の数は15人、そしてここに集まったパーティの人数は16人。一定以上の人数がこの街を訪れることが条件だったのでは?」

 

「なるほど。『同行(アカンパニー)』で15人以上のプレイヤーが一度にこの場所に集まったことが偶然にも功を奏したというわけか。これだけの人数のプレイヤーが行動を共にすることは普通はないからな」

 

 手掛かりの発見という最初の難関は運よく突破することができた。当初の予定通り、このまま共同パーティでカードの入手に取りかかる。海賊の一部が普段からたむろしているらしい酒場へと向かった。

 

 店として機能しているようには見えない古びた酒場を訪れると、中に4人の男の姿があった。ボンボンがついた二股帽子に、つま先が長く丸まった靴を履いた格好は道化のようにも見える。ただし、その雰囲気はお世辞にも楽しげとは言えなかった。

 

「なんだテメェら。今日はオレたちの貸し切りだ。帰んな」

 

「相談をしに来たんだ。この街から出て行ってくれないか?」

 

 パーティ代表のカヅスールが交渉を切り出すが、海賊は聞く耳を持たず笑い飛ばす。とはいえ、話し合いで解決できるとは最初から思っていない。荒事になるのは避けられないだろう。

 

「この街を出て行くか、行かないか、決めるのは船長だ。オレと勝負してお前たちが勝てば、船長に会わせてやる」

 

 4人の海賊のうち、一番の大男が酒を床に振り撒き、そこへ火を放った。描かれた炎の円の中で、どっしりと構え四股を踏む。

 

「この“土俵”の外にオレを出してみろ。炎の俵を越えて中に入ったら勝負開始、外に出された方の負けだ。一度に何人かかってきてもいいぜ?」

 

「ドヒョウ? タワラ……? 何のことだ?」

 

「察しが悪いな。お前ら相手に真っ当な相撲を取ってやるまでもねぇってことだ。要するに、この炎のリングから相手を押し出した方が勝ち。それ以外はルール無用だ」

 

 何人かかってきてもいいと言うだけあり、この勝負に相当な自信があるのだろう。これは正面から力勝負に持ち込むより、操作系や具現化系能力による搦め手の方がやりやすそうだ。

 

「力勝負なら強化系のオレに任せとけ」

 

 名乗りを上げたのはハンゼ組のゼホ。強化系能力者らしい。まあ、そう都合よく敵と相性の良い能力者がこちらにいるとは限らない。いたとしても、自分の発を隠すために名乗り出ない可能性もある。発の情報は能力者の生命線だ。特に操作系や具現化系の場合は対策もされやすいので迂闊にさらすべきではない。

 

「はあぁぁぁぁ……! ふうぅぅぅぅ……!」

 

 強化系能力者でも、もちろん敵を倒せるだけの実力があれば何も問題はないのだが……ゼホは練をするだけでいちいち呼吸を整え、凄まじい気合を込めていた。その割に出力、練度、安定性ともに高いとは言い難い。

 

「はあっ! いくぜ!」

 

 いくぜじゃないが。気合十分のゼホに対し、海賊の大男は大したオーラを身に纏っていなかった。その必要がないからだ。下半身を基点として無駄のない強化が施されている。その様子は地に根を張る樹のごとし。同等の強化系能力者であっても、これを動かすことは難しいだろう。

 

 ゼホでは勝負にならない。そして喜々として獲物を待ち構えるかのような海賊の表情からは嫌な予感がしてならない。負けて終わるだけならまだいいが、怪我などすればこの後の勝負にも影響が出るかもしれない。私はゼホを止めた。

 

「なんだお前は!? 邪魔をするな!」

 

 今にも海賊の方へと飛びかかろうとしているゼホは怒りをあらわにしている。私が代わりに勝負を引き受けると申し出ると、ますます怒って手がつけられなくなってしまった。

 

「まあ、二人とも落ちつけよ。仲間割れするようなことじゃあるまい」

 

「だが、こいつがオレの邪魔を……」

 

「子供相手にムキになるなよ。譲ってやればいいじゃないか」

 

 仲裁に入ってくれたのはゴリラっぽい男の人だった。彼もゼホが力不足であることを見抜いているのかもしれない。

 

「それこそ、こんな子供が力勝負で勝てるとは思えないが」

 

「いや、仮にも念能力者でありこのゲームのプレイヤーなんだ。勝算があっての行動だろう。何も相手の土俵で真っ向から勝負を挑む必要はない。念の戦いはそういうもんだろ?」

 

 ゴリラっぽい人の問いかけに私はしっかりとうなずき返した。

 

「……そこまで言うなら好きにしろ」

 

 不満を残しながらもゼホは引き下がってくれた。私は改めて海賊の男と対峙する。

 

「おいおい、いつまで待たせる気だ? 何人でも一度にかかってきていいって言ってんだろ。さっさとしろよ」

 

 待ちくたびれたように男はあくびをしている。だが、その余裕の態度に反してシックスの見た目に油断している様子はない。むしろゼホを相手にしていたときよりも警戒心が高まっていることが見て取れた。

 

 念能力の戦いは相性が重要だ。ゴリラの人が言ったように、馬鹿正直に正面からの戦いが成立するとは限らないことを敵も承知している。海賊の目にオーラが集まり『凝』でこちらの動きを観察していることがわかった。

 

 オーラに不審な動きがあれば見逃さず真っ先に潰そうとしてくるだろう。私は下手にオーラを取り繕わず、ほどほどの強化をした上で土俵の中の海賊に飛びついた。

 

 ぽふっ

 

 海賊の男と組み合う。いや、でっぷりと肥え太った大男の腹に抱きついたと言った方がいいかもしれない。とてもではないが相撲には見えない光景だった。

 

「ぷっ、ははははははは! なんだそりゃハグか!? おーよしよし、頭も撫でてやろうじゃねぇか。オレはこう見えても子供好きなんだ。特にガキの苦しむ顔は好き、だ、あ……?」

 

 海賊の体から力が抜けていく。私のほどほどの身体強化でも問題なく土俵から押し出せるくらいにまで敵は弱体化していた。

 

「ばっ、なんだ!? 体が急に……! くそっ、まさか毒か!?」

 

 その通り。虫本体の麻痺毒である。本体は敵に警戒させないためにリュックごとゴンたちに預けてきたが、勝負の前に本体の牙から出る毒をシックスの指先にふりかけておいた。

 

 海賊に抱きついたとき、爪先でつけたかすり傷から毒を送り込んだのだ。毒自体は念の産物ではなく実物なので凝で見られても不審に映らない。あえて強化率を抑えることで油断を誘い、抱きついた後、腹肉にめり込んだ指先にほんの少しだけオーラを集めて爪傷をつけた。

 

「てめっ、きたねぇぞ! ちくしょうこのガキャアアア!」

 

 ビスケなら毒を盛られてもピンピンしていたが、この海賊は問題なく無力化できた。土俵から出た方が負け、それ以外はルール無用と言っていたので毒を使ってもいいはずだと思ったのだが、やはりこのやり方ではダメだったのだろうか。

 

「うるせぇぞ、ボポボ。てめぇが約束した勝負にケチつけてんじゃねぇよ。勝負はお前らの勝ちだ。ついて来な、ボスのところへ案内する」

 

 麻痺毒で動けなくなった大男を放置し、他の海賊が案内を始める。約束通り船長のところまで連れて行ってくれるようだ。

 

 その場所は岬の灯台だった。海賊のアジトとして増改築されており物々しい要塞と化している。案内されるまま建物の中を進んでいくと、広い体育館のような場所に出た。海賊と思われる人たちが様々なスポーツに興じている。本当に海賊なのか疑問がわくが、ゲームだし深く突っ込んでも仕方ない。

 

「誰だ、そいつら」

 

 その中で一人だけ雰囲気が違う男が声をかけてきた。彼が海賊団の船長のようだ。この街から出て行ってほしい旨を伝えると、ならば勝負しようと提案される。

 

「勝負形式はスポーツだ! 互いのチームから1人選出し、オレたちが決めた種目とルールの下で戦ってもらう。これらの試合を続け、先に8勝できたチームの勝利となる。オレたちが負ければ、この島から出て行こう」

 

 なぜスポーツで戦うのかと疑問はわくが、ゲームだし気にするだけ無駄か。15人の海賊たちはそれぞれ得意なスポーツがあるらしく、こちらはその勝負に付き合わなければならない。ルールも向こうが一方的に決めるのでこちらが不利なことは確かだろう。せめて審判は公平にされることを期待するしかない。

 

 だが、問答無用の殺し合いではない。8勝できなかった場合はこのアジトから追い出されるだけでパーティを組み直せば再挑戦できる。私たちは勝負を受けることにした。

 

「最初の勝負形式はボクシングだ。代表を1人決めてくれ」

 

 私は真っ先に手を上げた。敵の戦力を測るに適した第一試合。ここでしくじるようなことがあれば味方の士気を下げることにもつながりかねない重要な一戦と言える。だが、私はそれでも志願した。

 

 私はゴンやキルアとチームを組みながら、これまで攻略に貢献できなかった負い目がある。ビスケにも私のわがままで指導の時間を多く取らせてしまった。その挽回のためにも力になれることがあれば率先して取り組みたいという気持ちがある。

 

「またアンタ? ちょっと出しゃばりすぎじゃないの?」

 

「『毒使い』のナインか……毒攻撃が決まれば強力だが、先ほど見た練を見る限り、接近戦には向いていないな。そもそも毒は反則にならないか?」

 

「功を焦る必要はない。チームで勝てばいいんだ」

 

 しかし、味方からあまり良い顔はされなかった。一人で先走っているように思われたようだ。単純に戦力として不足を疑われている部分もある。ここで無理に力を誇示すれば敵にいらぬ警戒をされるし、味方との関係も悪くなる。

 

 残念だが、ここは引き下がった方がいいだろう。少ししょんぼりしていると、そこでゴンが皆に声をかけた。

 

「ここはナインに任せてもらえないかな」

 

「……身内贔屓の発言なら容認できないな。これから8勝もしないといけないんだ。一試合だって無駄にはできない」

 

「まだあと8勝もあるからだよ。勝負の結果によってはここにいるほぼ全員に戦う機会がある。ナインがここで戦っちゃいけない理由にはならないよ。それにナインなら絶対に勝つからね」

 

「大層な自信だな。やはり身内贔屓にしか聞こえない」

 

「ならそれでもいいよ。少なくとも、ナインの実力はオレたちの方がよくわかってる。ナインは必ず勝つ。オレたちが持ってるカードを賭けてもいい」

 

「ちょっ、おいゴン!」

 

「それは『奇運アレキサンドライト』でもか?」

 

「いいよ。ナインが勝てなかったから好きなカードを持っていっていい」

 

「このバカ……!」

 

 『奇運アレキサンドライト』はゲンスルー組もまだ持っていないレアカードだ。Aランクながら特殊な取得条件から所有者は少ない。この攻略組パーティの中でも持っているのは私たちの組だけだ。簡単に渡せるようなカードではない。どうしてゴンはそこまでして私を推薦したのか。

 

「なんかごめん、途中から熱くなっちゃって……でも、ナインが負けるとは思えなかったから」

 

 ルールは敵側に決定権がある。勝負の内容次第では絶対に勝てるとは言い切れない。

 

「№75のカードを賭けるか。どうやら全くの無謀というわけではないらしい。それだけの覚悟を見せられてはこちらも譲らざるをえないな。約束は守れよ」

 

「待て、なにちゃっかりお前だけもらう約束してるんだ。これはパーティ全体の問題だ」

 

「別に誰が先陣切ろうと構わないだろ。欲かいて、くだらないことを言い争ってる場合か」

 

 早くも私が負ける前提で誰がカードをもらうか議論する者まで出る始末だ。早くゴンの口から撤回するように言ってもらわなければ、今さら私が辞退したところで収まりがつかない空気になってしまっている。

 

「無理だ。コイツが一度決めたことを曲げるわけがねぇ……」

 

「ははは、そういうわけだから頑張ってナイン!」

 

 キルアに思いっきりローキックを食らわされながらゴンは笑い飛ばしていた。

 

「別にいいじゃない。仮に負けたとしても、カードの一枚くらいまた集めれば済むことだわさ」

 

「ビスケは知らないからそんなこと言えるんだろうけど、あれをもう一度手に入れようと思ったらオレたち全員カード全部捨てないといけなくなるんだぜ」

 

「ナイン、何としてでも勝ちなさい。負けたら承知しないわ」

 

 責任重大だ。こんなことなら意気込んで名乗りなんて上げるんじゃなかった。ちょっと胃が痛くなってくる。

 

「ま、冗談はさておき、この程度の相手に不覚を取るような育て方をした覚えはないわ。よほど悪辣なルールにされない限り負けはないでしょ。敵のボスはそのあたりフェアな審判をしてくれるとおもう」

 

「ゲームのシステム的にか?」

 

「ただの勘よ。伊達に男を見る目を磨いてないわ」

 

「常に飢えてそうだもんな」

 

 ビスケの強烈なローキックによりキルアの体が沈む。

 

「とにかく、これは勝って当然の試合よ。深く考えずに行ってきなさいな」

 

「ナインなら大丈夫! 絶対勝てるよ!」

 

 ビスケとゴンは応援してくれた。キルアも倒れ伏しながら、ぷるぷると震える手でサムズアップを見せてくれる。ここは責任を感じるより、仲間からの信頼に応えるべく試合に臨むべきだろう。もとより負ける気はなかったが、さらに奮起する。

 

 他のパーティメンバーについても、私が初戦の代表として出ることに概ね異論はなかった。負けてもたかが1敗、仮にこの後全ての試合で負けて8敗したところで何度でも再挑戦できるのだから言うほど勝ちにこだわる理由はない。様子見にはちょうどいいと思われているようだ。

 

「代表者はリングの上にあがってくれ」

 

 渡されたグローブを装着してリングへと向かう。本体はまたゴンに預かってもらう。修行により放出系の技能も向上し、本体とシックスの距離が離れたときのオーラ制御力や燃費は多少改善されている。このくらいの距離ならそれほど大きな障害にはならない。

 

 だが、そこでビスケに呼びとめられた。試合が始まる前に一つ言っておくことがあるという。

 

「さっきも言ったけど、勝つだけならなんてことはない。相手の能力が何なのか、何を企んでいるのか見切った上で対処してみなさい。先にこちらから攻撃してはダメよ」

 

 リングをよく観察すると、床全体にうっすらとオーラを帯びた模様が描かれているのがわかる。これは『神字』と言って念能力を強化・補助する効果があるそうだ。つまり、何らかの大掛かりな仕掛けが用意されていると見て間違いない。だが、ビスケはそれを承知であえて先手を敵に譲れという。

 

「なんでわざわざハードル上げてんだよ」

 

「何事も修行の内よ。念能力者との実戦経験を積むいい機会なんだから、ちょっとでも実になる戦いにしないともったいないわ」

 

 もちろん勝てなければ話にならないが、その上で戦い方も学べということか。ビスケの言うことにうなずき、ロープの間をくぐってリングに入った。対戦相手はウォーミングアップも十分といった様子でいつでも戦える準備を整えている。私もファイティングポーズを取った。

 

「ボクシングのルールは知ってるか?」

 

 なんとなくわかるが詳しいルールまでは知らないと答えると、それで結構と言われた。

 

「相手を殴り倒してKOすれば勝ちだ。ただし、特別ルールとして念の使用が認められる。オーラで具現化したものなら道具もアリだ」

 

「はぁ!? 具現化したものなら武器も使えるってことか!? そんなのボクシングじゃねーぞ!」

 

「安心しな。オレはこの拳しか使わない」

 

 具現化系の武器も使用可というルールはむしろ挑戦者である私たちへの配慮か。対戦相手はルールを説明した上で、こちらに他の誰かと交代するかどうか確認を行う。無論、交代する気はない。続行を宣言する。

 

「1ラウンド3分、判定なし! どちらかがKO負けとなるまで何ラウンドでも続ける! ファイト!」

 

 ゴングが鳴らされ、試合が始まった。私たちは互いに距離を取ったまま様子を見る。睨み合いが続くだけで一発の打ち合いもないこの状態は、いささかボクシングらしくない。

 

「フフ……まずは様子見か。確かに、相手の能力もわからないまま無策に突っ込むのは怖いよな。だが、オレはそうでもない」

 

 そう言うと、相手選手はグローブの上に一つの光球を浮かべた。あれはオーラを肉体から切り離して作り出したエネルギー体、念弾だ。

 

「見ての通り、オレは放出系だ。武器は使わないと言ったが、これは飛翔するパンチのようなもの。ボクシングにおいて圧倒的に有利となる要素はリーチの長さだ! 無限の射程を得たオレに対し、あんたはこのリングという限定された逃げ場しかない」

 

 相手選手は素早いジャブの連打を繰り出した。念弾となった飛ぶ殴打が一斉にこちらへ向かってくる。

 

「飛翔するパンチだと!? 何が拳しか使わない、だ! こんなのボクシングじゃねぇ!」

 

「いや、念弾の数は多いが威力はそれほどでもない。くそっ、放出系能力者のオレが出ていれば楽に勝てたのに……!」

 

 リングの外から浴びせられる野次を聞き流し、私はひたすら見に徹していた。敵が自信満々に繰り出してきた念弾の連射を前にして、私は今一つ納得がいかなかった。

 

 あまりにも攻撃がお粗末すぎる。この程度の念弾ではただの『堅』でも防げるだろう。何発食らったところでダウンの一つも取れないはず。

 

 こちらを侮り、この程度の威力でも十分だと思われたのか。あるいはこちらを油断させ、不用意に近づいてきたところにカウンターを決めるための誘いか。弱すぎることが逆に怪しく思えてくる。弾自体に仕掛けがないとも言いきれないので、ひとまず念弾は回避しておく。

 

「ちっ、意外に良い動きするじゃねぇか……!」

 

 避けながら私は敵を観察した。何かまだ、奥の手を隠している気がする。ビスケの言いつけ通り、それがわかるまではこちらから手を出すつもりはない。私は“私だけの”『凝』を使い、敵の真意を探る。

 

 それはシックスの『凝』と本体の『凝』の合わせ技だった。ゴンにお願いしてリュックの口を開き、本体が外の光景を覗けるようにしてもらっている。私は二つの凝で敵の姿を捉えていた。

 

 これまで私は本体をリュックサックやぬいぐるみの中に閉じ込め、戦闘はシックスに任せていた。だが、ビスケの修行によって本体を戦闘に活かす方法を模索し始めている。本体の『凝』もその一つだった。

 

 これは単にシックスと本体の二つの視界が確保できるという利点に留まらない。本体の目は人間と異なり、複眼という虫特有の構造を持っている。

 

 人間の目は、瞳孔から入ってきた光が水晶体のレンズを通して網膜で像を結ぶカメラのような構造になっている。空間的な像の認識能力は高いが、視界は目を向けている方向に限定される。視野角だけで言えばそれなりの広さがあるが、実際は視点を中心に認識の偏りが生じ、見えていても像の一つ一つにまで均等に意識は向けられていない。

 

 その一方で、複眼は望遠鏡のような構造の小さな眼が数多く集まって一つの器官を形成しており、視野は非常に広い。個眼では像を認識できないが、それが無数に集まることで視覚情報を重ね合わせて像を認識する。個眼が集めた情報の差異から全体像を抽出しているため、わずかな像の変化を素早く察知できる。動く物に焦点を合わせながら眼で追い続ける必要はない。

 

 トンボは40メートル離れた先の小さな虫の動きも見ることができるという。もちろん、メリットもあればデメリットもある。立体感や遠近感などを把握し、物体そのものを正確に識別する能力は人間の眼の方が優れている。

 

 だが、私の場合は人間の眼と虫の眼、二つの視界を同時に認識することができる。長所を合わせ、短所を補えば二重の凝はさらなる相乗効果を生む。最初は膨大な視覚情報の処理に振り回されていたが、誓約により強化された分割思考を駆使して何とか使いこなせるようになってきた。

 

 数千、数万にも分けられた視界が敵の姿だけでなく、目の届く空間全ての情報を集積する。『隠』で隠されたオーラだろうとこの状態であれば不意打ちは不可能だ。幾万もの眼は敵の攻撃の瞬間をつぶさに捉える。

 

 それはこちらの至近距離に突如として出現した。シックスの後頭部を狙うように拳が迫る。敵は依然として離れた場所から念弾攻撃に徹しており、不測の接近を許したわけではない。敵の拳のみがいきなりシックスの背後に現れたのだ。

 

 よく見れば、相手選手の右手が無くなっている。肉体の一部を離れた場所へと飛ばす瞬間移動系の能力か。物理法則を大きく無視して空間に直接干渉する能力は、単にオーラを念弾として飛ばす基本的な放出系能力より難易度が高い。リング全域に描かれた神字は、この能力を補助するためのものか。

 

 威力よりも数を優先した念弾掃射は、本命の攻撃を成功させるための目くらましだ。念弾を回避していたシックスへと、体勢的に避けられないタイミングで拳が瞬間移動してきた。念弾の雨あられの中に隠すように拳を紛れこませ、さらに視界の外にある後頭部を狙われれば普通は回避できない。気づく間もなく打ちのめされる。

 

 が、私の場合は全て見えていた。“避けられない体勢”も、あえてそのように見せかけていただけであり実際は余力を残している。瞬間移動には驚いたが、攻撃が当たるまでの猶予は十分にあった。

 

 脚にオーラを集めて踏み込む。回避と同時に、一気に敵の懐へと肉薄した。相手はこちらの接近に対して反応が遅れ、視線は前を向いたままだった。二重凝による無数の分割視界の中から、敵の注意が薄いルートを選別して通っている。

 

 こちらに気づかれる前にボディブローを叩きこみ、敵はくの字に体を曲げながら吹っ飛んだ。ロープにぶつかってリング上に倒れ込み、起き上がる様子は見られない。

 

「ダウン! ワン、ツー……」

 

 審判のカウントが入る間も、気を抜かず構え続ける。

 

「え? 勝った、のか?」

 

「敵の方が優勢だったように見えたが……」

 

 味方からは勝利を喜ぶ声よりも何が起きたのかわからないという困惑が上がっていた。この様子だと敵の瞬間移動能力にも気づいていない人が多そうだ。これから先の試合が少し心配になる。

 

「ナイン! テン! お見事、まずはそちらの一勝だ」

 

 試合終了のゴングが鳴る。どうやら幸先の良いスタートが切れたようだ。応援してくれたゴンたちにグローブをした拳を高く掲げて応えた。

 

 



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67話

 

「せっかくナインが頑張ってくれたところ悪いんだけどさ、次の試合で勝つのは止めない?」

 

 キルアの突然の提案に困惑したが、理由を聞いて納得した。今回は対戦形式の情報収集を目的とするのみにとどめ、対策を整えた上で再挑戦した方が無難だという。

 

「そうかな。確かに、初戦レベルの相手がこの先の試合も出て来るようならオレたち以外の攻略組の人たちにはキツいと思うけど……もしかしたら8勝できるかもしれないよ?」

 

「このメンツじゃさすがに無理だろ。まあ、早々と負け続けるより適度に勝ち負けした方が情報を集める上では都合が良いだろうけど、最終的に8勝するのは避けるべきだ」

 

 運良く勝利を重ねて目当てのSSランクカードを入手してしまった場合、その次に待っているのはどの組がカードを持つかという問題だ。『一坪の海岸線』のカード化限度枚数は3枚しかないのに対して、こちらは16人の6組もいる。揉めることは目に見えていた。

 

 キルアの作戦に従い、試合形式とルールを確認した上で試合に負けていく。他の組の人たちは真剣に取り組んでいるようだったが、現状のメンバーで8勝することは現実的ではないと再認識する結果に終わった。少なくとも、前情報のない初見の試合で戦うのは無謀だ。

 

「出直してきな。オレたちはまだしばらく、この街で好きにさせてもらうぜ」

 

 予定通り、こちらのパーティの敗北で終わった。再挑戦するためにはパーティメンバーを変更する必要があるが、15人のうち1人でもメンバーが代われば問題ない。こちらは16人いるので、誰か一人が抜けて15人になればそれでも可能である。つまり、今すぐ再挑戦を受けることもできる。

 

「あ、でもアタシ達はもう抜けるわ。たぶんこのメンバーでもう一回やっても厳しいでしょ」

 

 当初の目的であるゲンスルー組のクリア阻止については一応、達成できたと言える。ここにいる人間から情報が漏れない限り、15人の仲間を集めるという条件を奴らが満たすことはまずない。仮に知られたとしても、8勝するにはそれなりの実力者が必要だ。数だけ寄せ集めても試合には勝てない。

 

 むしろ、ここでカードを手に入れてしまうとゲンスルー組に横取りされる可能性が出て来るので、しばらくは放置した方がいいという結論となった。臨時の共同パーティはここで解散となり、各組はそれぞれにこの場を去って行く。

 

 最後に残ったのは私たちゴン組と、一人だけ組を作らず単独で参加していたゴリラっぽい人だけになった。

 

「おまえら、このイベント続ける気なんだろ。オレも組ませてくれないか」

 

 

 * * *

 

 

 その日はもう夜も遅かったので作戦会議は明日に回すこととなった。ソウフラビの街に戻り、ホテルに泊まる。部屋割はゴンとキルア、ビスケと私の二部屋ずつとなった。

 

 なぜだ。別に各自一部屋ずつ取ってもいいはずだが、ゲームの中とはいえ節制は心がけるべきか。しかし、私とビスケの部屋が一緒なのは納得できない。主に精神衛生上の問題として。

 

 案の定、ビスケは部屋に入るなり私の目も気にせずに部屋着へと着替え始めた。まあ、着替えだけならそのとき見なければいい話だ。シックスも部屋に用意されていた浴衣に着替えたのだが、これがいけない。しっかりと着付けているわけでもない浴衣は少し動くだけで隙間から色々見えそうになる。ビスケは私をからかうため、わざとだらしなく着こなしていた。

 

 なんて師匠だ。こんなところにいられるか、部屋に帰らせてもらうと言い放ち、浴衣を振り乱しながら飛びだした私はゴンたちの部屋に向かった。同年代がお泊まり会で何をするのか私は知っているぞ。きっと枕投げでもして楽しんでいるに違いない。周で強化した枕なら、就寝前のほどよい修行になろう。

 

 しかし、予想外にも入室を断られる。顔を赤くしたキルアに入ってくんなと言われてしまった。枕まで持参したというのに。行き場をなくした私は、仕方なく同じホテルに泊まっているゴレイヌの部屋へ向かう。

 

 別に新しくもう一室取ればよかったのだが、ショックで頭が回らなかった私をゴレイヌはこれ以上ないほどの困惑顔で迎え入れてくれた。ただでさえ口下手な私がほぼ面識もない彼と何か会話が弾むわけもなく、そのまま寝る流れになる。さすがに枕投げができる雰囲気でないことはわかる。

 

 ゴレイヌは、自分は床で寝るのでベッドを使えと言ってくれたが、そこまで図々しいことはできない。私は朝まで座禅でも組んで瞑想の修行をするから気を使わなくていいと断った。ゴレイヌは、ホント何しに来たんだコイツと言いたげな表情だったが、特に事情を聞いてくることはなかった。

 

 一応、初対面の相手と部屋を同じくすることになるため、瞑想中も何かあれば反応できるように気がけていた。だが夜も更けた頃、半覚醒状態で瞑想していた私に対し、彼は私の肩にタオルケットをかけてくれた。疑ってすまないと心の中で謝り、感謝した。

 

 そして翌朝、ホテルをチェックアウトした私たちは朝食がてら中華レストランに入り、本題の『レイザーと14人の悪魔』攻略に向けて話し合うことになった。

 

「すいませーん、麻婆豆腐三つにチャーハン大盛り四つ、油淋鶏二つ、小籠包三つ、フカヒレスープ四つ、あと酢豚と八宝菜と坦々麺と北京ダックと……え、数わかんなくなっちゃった。とりあえず全部四つずつください」

 

 朝からどんだけ食う気だ。しかも私以外の全員が平然とその注文を受け入れているようだが、念能力者というのは皆大食い体質なのだろうか。私はサラダを頼んだ。

 

「女子か」

 

 他の人たちの健啖ぶりを見て、さすがにサラダ単品ではさびしいかと思い、杏仁豆腐も追加しておいた。

 

「女子か」

 

 私の場合、シックスはオーラを材料に作り出されているため栄養が必要なのは虫本体の方だ。そちらはサラダでもリュックに突っ込んで食わせておけば事足りる。この虫の体は粗食に堪える。また、日光浴をすることでさらに消費エネルギーを抑えることができ、少量の水があれば一か月ほど絶食しても支障はない。

 

 ただ、人間の体のシックスは味覚も発達しているので食事を楽しむという意味では無駄ではない。ぷるぷると杏仁豆腐を匙でつついていると、新しく共同パーティを組むことになったゴレイヌが話を切り出す。

 

「さて、まずゲンスルー組のクリアは当面のところないとしても、『一坪の海岸線』の入手はなるべく早い段階でしておきたい」

 

「カードの分配で揉めないようにな」

 

 誰だってカードが欲しい気持ちは一緒だ。ゲンスルー組の存在があるため今は保留にしておこうと決まったが、入手方法が見つかった以上いつか挑戦者は現れる。

 

 保留を提案した連中も、3枚のカードの分配をめぐる問題に気づいていたのかもしれない。あの場では事を荒立てないため手をつけないふりをしておきながら、裏で攻略に向け動いている可能性はある。現に私たちが今やっていることがそれだ。

 

 ゲンスルーも血眼になって『一坪の海岸線』を探しているに違いない。『神眼(ゴッドアイ)』という呪文カードを使えば、99枚の指定カードについて常に何回でも『解析(アナリシス)』と『名簿(リスト)』の効果を使うことができる。誰がカードを持っているのかトレードショップで調べれば名前もわかるので、頻繁に確認しているだろう。

 

 海賊のイベントが攻略されれば、近いうちにその情報は敵にも知れ渡ると考えた方がいい。そんなときにカードを巡って仲間割れしている場合ではない。協力者とは、カードを手に入れた後のことについてもしっかりと話し合ってゲンスルー組に対抗できる関係でなければならない。他の攻略組がそこまで考えて行動できるわけないとキルアは主張する。

 

 実際には全員が協力して海賊イベントは放置した方が確実にゲンスルーたちの足止めになるはずだが、誰か抜け駆けする者が現れる可能性がある以上は先に攻略しておきたい。囚人のジレンマのような状態になっていないか。

 

「ここにいるメンバーが5人、つまり8勝するためには最低でもあと3人を勧誘しなければならない」

 

「それでも順調に8勝できればの話だろ? 何人か数合わせのメンバーを雇うことは仕方ないとしても、それなりの使い手は余裕をもってほしいところだな」

 

 昨日のイベントでは9試合のスポーツ形式とルールを確認できたが、全ての試合内容が判明したわけではない。特に船長の男は海賊を束ねるボスだけあって一筋縄ではいかないだろう。見ただけで他の海賊とはレベルの違う相手であることがわかった。彼がどんな試合を持ちかけてくるかもわかっていない。

 

「うーん、オレの知り合いで今回の案件を任せられるほど腕の立つハンターとなると……ベラム兄弟かサキスケくらいしか思い当たらない。ベラム兄弟は他人と組むのを嫌うから勧誘は難しいな。サキスケは報酬さえ払えば雇えるだろうが、とんでもなくガメツい。間違いなくカードを1枚要求してくるし、それ以上の報酬をふっかけてくるかもしれない」

 

「とりま、候補としてチェックだけしとくか……」

 

 昨晩イベントに参加した攻略組の人たちの活躍を見る限り、正直それほど強そうには感じなかったが、それでもこのゲームを真っ当に攻略し、最前線を行く人たちである。プレイヤーとしてのレベルは高い彼らがここまで手こずるのだから、このイベントの難易度は相当高いと言える。

 

 それ以上の実力を持つ人材をまとまった数集めるなんて簡単にできることではない。しかも、報酬のカード3枚の分配はゴン組とゴレイヌで1枚ずつと決まったので、残るカードは1枚のみ。金だけで雇えるようなプレイヤーでは戦力にならないと思われる。ますます勧誘は難しい。

 

「誰か他に強そうな知り合いはいないか? まだ会ってないプレイヤーの中から実力者を探し出して交渉するとなると目処が立たないぞ」

 

「知り合いではないですけど、強そうな人なら一人だけ知ってます」

 

「ホントか。誰だ?」

 

「ツェズゲラさんです」

 

「あぁ、まぁ、そうだな……」

 

 ツェズゲラとは、大富豪バッテラに雇われたハンターの中でもゲームクリア最有力候補として知られたプレイヤーであるらしい。バッテラにプレイヤー選考会の審査員を任せられるほどの信を得ており、ゲンスルー組が頭角を現すまでは一強の地位を築いていた攻略組である。

 

 『一坪の海岸線』を報酬とすれば協力してくれる公算は高く、味方とするには申し分ない実力と人数であるが、クリア目前にまで迫ったライバルでもある。できればカードは渡したくない相手だ。

 

「しかし、そう都合の良いことばかりも言っていられないか。現実的に考えて、協力するに最も妥当なチームであることは間違いない」

 

 実力もさることながら、カードを手に入れた後の連携についても期待できる相手である。同じくクリアを目前としているゲンスルー組に対して、ツェズゲラ組は何としてでも攻略を阻止したいと思っているはずだ。二つの組を対立構造に誘導できれば、あわよくば潰し合ってくれるかもしれないという思惑もある。

 

「ねぇ、ちょっといい?」

 

 ツェズゲラ勧誘の話がまとまりかけたところでゴンが声を上げた。ゴンは自分のバインダーを開いて今まで会ったことのある(20メートル以内に接近するとシステム上、遭遇したものとして記録されている)プレイヤー一覧を眺めていた。その中の一人の名前を挙げる。

 

「この“自称”クロロが誰なのか、気になるんだよね」

 

 そのクロロ=ルシルフルという人物は“本物なら”A級賞金首の盗賊団首領であり、歴戦のプロハンターでも歯が立たない恐ろしい使い手であるらしい。だが、本人ではなく偽名であることがわかっている。ゲーム内で使用される名前は自由に設定できるのだ。

 

 その人物が何者なのかわかっていないが『クロロ』はゴンたちにとって因縁のある相手らしく、どうしても気になるようだ。特にゴンは直接会って確かめずにはいられないといった様子だった。その意見に押される形で、ここにいる全員で自称クロロのもとへ向かうことになる。

 

 実際に会ってみて実力を確かめた上で、スムーズに勧誘の交渉が進むようならそれでいい。そんなにうまくいくとは思えないが、どうせ心当たりも他にないのだし、ダメもとで当たってみるのもいいだろう。失敗したら交渉相手をツェズゲラ組に変更するだけだ。

 

 そして話し合いが終わる頃には、あれだけテーブルの上に所狭しと並べられていた料理は完食されていた。どうなってるんだ、この人たちの胃袋。まだ私の虫本体はキャベツの千切りをもしゃっているというのに。会計を済ませて店を出た私たちは、さっそく呪文カードを使ってクロロのいる場所へ飛ぶことになった。

 

「『同行(アカンパニー)』使用! クロロ=ルシルフル!」

 

 リュックの中でキャベツをもしゃりながら魔法で空を飛び、高速搬送されるのであった。

 

 

 * * *

 

 

「くくくく、やっぱりそうだ❤ 臨戦態勢になるとよくわかる……♣」

 

 グ……

 

「ボクの見込んだ通り……」

 

 グググ……

 

「キミ達はどんどん美味しく実る……❤」

 

 

 

 何なんだ、この変態ヤローは。

 

 

 

 * * *

 

 

 『同行』で飛んだ先にいた自称クロロの正体は、ヒソカというプレイヤーだった。ゴンとキルアの知り合いらしい。ゴンたちは嫌な相手に遭遇してしまったかのような反応だった。出会うや否や、ヒソカは禍々しい殺気を放ってきた。

 

 こちらも連絡なしにヒソカが水浴び中のところへいきなり飛んで来てしまったので、彼が殺気立つのもわかるのだが、なぜそのあと股間を膨らませたのかについては理解できない。真顔で観察していると、キルアに手で目隠しされた。

 

 色々と要注意な人物であるようだが、すぐさま敵対するほどいがみ合ってはいないらしい。ビスケがパーティとしての共闘依頼を申し出ると、暇だから付き合うと何の対価も求めず引き受けてくれた。

 

 実は良い奴なのか。ゴンとキルアはまだ完全に信用していないみたいだったが、ヒソカの動向を探る上でも一時的に協力関係となるのは有りと判断し、仲間として迎え入れることになった。

 

「見えてきたよ♣ あれが恋愛都市アイアイ❤」

 

 『同行』の到着地点である泉があった森を抜け、ヒソカの案内でこの近くにあるという街までやって来た。巨大なハートのオブジェが飾られたお城があり、その周囲には城下町が広がっている。

 

 特にこの街に用があるわけではないのだが、一部の呪文カードは行ったことのある街を指定して移動できるものもあるので、話がてらブックマークしていくことになった。

 

「この街はベタな出会いが溢れているんだ♠ 歩いてるだけで退屈しないよ♦」

 

 まるで漫画か小説のような男女の出会いを体験できる場所らしい。至る所で眼鏡や学生証やハンカチなどをぽろぽろ落とす人が行き交っている(拾ってあげると知りあえる)。曲がり角にはトーストをくわえた少女が刺客のように待ち伏せし(ぶつかった上で口喧嘩すると知りあえる)、自動販売機を見かけるのと同じくらいの頻度で集団暴行に遭いかけている女性が出現する(助けると知りあえる)。

 

 とはいえ、この街にいる人たち全てゲームの中の住人であり、いくらリアルな出会いがあると言っても疑似体験に過ぎない。この街で手に入る指定カードもあるようだが、今はそれよりも『一坪の海岸線』を優先すべきだ。街の住人とは極力関わらないようにした。

 

「うわああああ!! ごめんなさい、うちのチャッピーが!」

 

 したのだが、向こうの方からやって来た。猛烈な勢いでこちらに駆け寄って来る犬と、そのリードを持つ飼い主が犬に引っ張られてシックスに近づいてくる。

 

「ハアッ! ハアッ! ハアッ! ハアッ!」

 

 襲いかかられる前に察知して抱え上げたはいいが、興奮冷めやらぬ様子のダックスフントは空中で必死に犬かきしている。このまま地面に下ろせば間違いなくまた襲ってくるし、かと言って遠くにぶん投げるのは少しかわいそうだ。

 

「人見知りのチャッピーがこんなに懐いているだなんて……」

 

 いいからさっさとこの犬を引き取ってくれ。よかったら近くの公園でチャッピーと遊んで行かないかと話しかけてきた少年に対し、キルアがシックスの手から犬を掴み上げるとその飼い主に突き返した。

 

「こんなベタな出会いに付き合ってんじゃねーよ」

 

 そう言って不機嫌そうにシックスの手を取って歩き出す。今は遊んでいる場合ではないことは確かだが、そこまで怒らなくても。

 

「いや、キルアの反応も結構ベタだと思うけど……」

 

「だわさ」

 

 これ以上、不要なイベントが発生するのは時間の無駄なので、人気のない場所に移動することになった。今後の方針について話し合う。

 

 ヒソカを仲間に入れてパーティメンバーは6人になった。あと必要な人員は9人だが、その中でも最低2名は海賊との試合に勝てる実力者をそろえなくてはならない。

 

 あと2人くらいなら探せば見つかるのではないかという期待も生まれたが、大事を取って予定通りツェズゲラ組に協力を仰ぐことになった。ここで時間を無駄にして他の攻略組に先を越されたりゲンスルー組に情報が漏れるようなことは避けたい。

 

 ただし、交渉する際に下手に出ることは避けるべきだ。たとえカード収集率トップクラスの攻略組とはいえ、対等の関係として同盟を築かなくてはならない。ゲームクリアへの執着がないヒソカを仲間にした時のように、すんなりと話がまとまる保証はない。

 

 ゴレイヌは『一坪の海岸線』の入手情報を明かすだけでも保険として最低50億ジェニーの見返りは請求すべきだと主張する。そのあたりの駆け引きについては交渉事に慣れたゴレイヌに一任することになった。あとはどうやってツェズゲラと連絡を取るかだ。

 

 これについてはヒソカのおかげで何とかなりそうだった。彼はツェズゲラと会っていた。正確にはゲーム内で互いに20メートル圏内の距離をすれ違ったことがある。この条件を満たせば、会話などしなくてもシステム上は“出会った”ものとみなされ、バインダーに相手の情報が記録されるのである。

 

 出会ったことのある相手であれば『交信(コンタクト)』の呪文カードを使って連絡を取ることができる。バインダーを通して最大3分間の通話が可能だ。ゴンがヒソカに『交信』のカードを渡して使ってもらった。

 

「あっ、もしもしツェズゲラさん?」

 

「確認取るまでもないだろ」

 

『……どちら様かな? あいにく、そちらの名に覚えはないのだが』

 

 カードを使ったのはヒソカだが、通話はゴンとキルアが引き受けた。交渉の詳しい内容については後で話し合う予定なので、今は会う約束だけできればいい。だがツェズゲラはこちらを警戒しているのか、なかなか了承が得られないようだ。話が終わるのを待っていると、私の隣にヒソカが座った。

 

「やぁ❤ キミ、ゴンたちと仲が良さそうだけど、このゲームで知り合ったのかい?」

 

 気さくに声をかけてくるが、その身に纏う気迫は尋常ではない。このヒソカという人物について、協力的な態度から最初は良い奴なのかと思うこともあったが、決してまともとは呼べない類の人間であることに気づくまでそう時間はかからななかった。

 

 オーラには、その持ち主の精神に応じた気質がある。それは強さとは無関係にある個性で、指紋のように千差万別だ。ただし普通は微々たる特徴に過ぎず、いちいちオーラの質を気にするようなことはない。それが普通の人間であれば。

 

「ボクはね、ぱっと見でその人の強さが何となくわかるんだ♠ 100点満点中の何点か、自分なりに採点して色々と想像するのは楽しいね♦」

 

 私はこれほどまでに濁りきったオーラの持ち主と会ったことがない。ヒソカはヘドロのような気質の威圧を一切隠すことなく、私に向けて叩きつけてくる。それも私のみに指向性を持たせ、周囲の人間に全く気づかれることのない技量である。それだけで途轍もない使い手であることは察せられた。

 

「でも、キミの点数はよくわからないんだ♣ 今すぐ食べたいくらい強そうでもあるし、もう少し熟すのを待った方がおいしそうでもある❤ 系統も最初は特質系かと思ったんだけど、何か違う気もする♠ 不思議だね、初めて会うタイプだ❤」

 

 ナイフのように差し込まれる視線は、今すぐにも首をかき斬りに来てもおかしくないほどの殺気を伴っていた。なぜこれほどの殺意を向けられなければならないのかわからないが、いずれにしても迷惑なことに変わりはない。

 

 そう思っていたのだが、ヒソカの気持ちをある程度理解できる自分がいた。たぶん、意味はないのだ。ただ闘いたいという本能。一般人が息をするレベルで彼はその欲求に従っているだけだ。それを止めることは呼吸を封じるに等しい苦痛だろう。

 

 そして自分でもにわかには信じられないことだが、私はヒソカが向けてくる殺気に対して、単なる迷惑以外の感情が芽生え始めていた。

 

「くくくく……いいね、そのオーラ♠ 誘ってるのかい? 我慢できなくなっちゃうよ❤」

 

 修行のおかげで私は前よりも強くなった。その強さがどの程度のものか、確かめたいという気持ちがある。生半可に強くなったがために生じた、ただの驕りかもしれない。

 

 だが、未熟であることは私自身がよくわかっていた。ビスケは確かに適切な指導をしてくれるが、そこに殺意はない。指導者として当たり前のことだが、そこに物足りなさを感じてしまう。

 

 そして、私もビスケを殺そうという気がない。まず、こんな発想が浮かぶこと自体があってはならないはずなのに、最近はそればかり考えてしまう自分がいる。そうしてはならないという強迫観念が、全く逆の感情を育てているような気さえしていた。

 

「この街でボクたちが出会ったのも運命かもね♦ 素敵な恋になりそうな予感がしない?」

 

 もし全力で私を殺しに来た強者と闘う機会があれば、その先に得るものは死か、さらなる強さだ。死力を尽くして闘わざるを得ない状況に陥ったとき、私は相手の命を奪う決断を迫られるだろう。

 

 昔の自分なら考えられなかった。殺しの覚悟に堪えられなかった。だが今は誰かを殺めるよりも恐ろしいことがある。その感情を塗りつぶすように、胸の奥から湧き起こる本能がある。最後の一線を越えたとき私は。

 

「ボクと決闘(デート)しようよ❤」

 

 中途半端ではなくなる気がした。

 

 






イラストを描いていただきました!

鬼豆腐様より

【挿絵表示】

ゴリラ同士、同室、7時間。何も起きるはずがなく……(紳士)


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68話

 

 それから一週間後、私たちは15人の仲間を集め、再びソウフラビの街を訪れていた。

 

 ツェズゲラ組との交渉は成功し、リーダーのツェズゲラを含めた4名のプレイヤーの協力を得ることができた。これにより実質的な戦力として10名が集まる。残りの5人は現実世界に帰りたいが実力不足で帰れないプレイヤーを補欠として雇った。戦力として期待はできないが、報酬の分配で揉めることはない。

 

 これから挑戦する海賊イベントのスポーツ試合のうち、9試合については内容が判明している。誰がどの試合を担当するか事前に決めて綿密な対策を練った。以前とルールに変更がなければ、この9試合については勝ちが狙えるだろう。負けてしまった場合は補欠メンバーを入れ替えて再挑戦すればいい。

 

 ちなみに、ヒソカとの決闘についてはこの一件が終わるまでお預けとした。おそらく一度闘いが始まれば、行きつくところまで行く。じゃれあう程度では済まないだろう。まずはゴンたちのゲームクリアに集中すべきだ。

 

 ヒソカが我慢できるかどうか不安だったが、ゴンたちとの先約を優先することについては一応の理解を示した。こちらに逃げるつもりがないことはわかっている様子だったので、おとなしく待つことにしたようだ。

 

「この一週間でゲンスルー組は新たにカードを取得し、97枚となった。奴らにとって、残すところは『奇運アレキサンドライト』と『一坪の海岸線』の2枚のみ。ここで何としてでも奴らに先んじて『一坪の海岸線』を手に入れるぞ」

 

 海賊のアジトの場所はわかっているが、直行してもフラグが立たない可能性があるので、以前と同じく酒場に立ち寄った。前に来たことがあるメンバーがいるためか、今回は力を試されるようなこともなく、顔パスでアジトまで案内してもらえた。

 

「よう、また懲りずに挑戦しに来たようだな。ルールの説明は必要か?」

 

「いや、特に変更がなければ始めてもらって構わない」

 

「結構。では、初戦はボクシングでいこうか」

 

 ボクシング担当の海賊が戦々恐々とした目でナインの方をチラチラ見てくるが、心配しなくてもまだ私の出る幕ではない。この試合のタネはだいたいわかっているので、得意そうな人が別に引き受けることになっている。

 

 ツェズゲラ組の一人であるバリーがリングへあがった。相手選手はそれを見てほっとした様子を見せているが、安心している余裕はないと思う。試合開始とともに、バリーが素早く前に進み出た。

 

「こ、こいつインファイターか……!」

 

 即座に接近戦に持ち込まれればリーチを生かした放出系のメリットは少なくなる。ガードしなければならないため、拳を瞬間移動させるチャンスはなくなり、バリーの一方的な攻勢が続いた。

 

「勝者、バリー!」

 

 海賊はそれから何度かダウンを取られながらも健闘したが敗退。続く二戦目のボウリング対決はツェズゲラ組のロドリオットが勝利し、三戦目のフリースロー対決も同じくツェズゲラ組のケスーが勝ちを重ねた。

 

 いずれも何か特別な能力を使ったわけではなく、基本的な実力が敵を上回っているがゆえの勝利である。ルールを設けたスポーツ形式の競技も、念の使用が許可されるとなれば最終的に問われるものは選手としての能力というより念使いとしての技量だ。しっかりと対策を立てて準備を整えてきたこのパーティであれば、順当な結果と言えた。

 

「ふむ、どうやら子分では相手にならないようだな。よし、次はオレが出よう」

 

 しかし、ここで予想外にも海賊の船長レイザーが名乗りを上げた。まだ四戦目だと言うのに、いきなりのボスの登場にわずかな動揺が広がる。こういうのはてっきり終盤で最後の壁として立ちはだかるものだと思っていた。

 

 だが、ある意味では良い展開と言える。一度試合に出場した選手は勝とうが負けようが他の試合に出ることはできなくなる。一人で何試合も連続出場することはできない。まだ三戦目が終わったばかりの今ならこちらの戦えるメンバーは控えが十分にそろっており、選べる余地が残されている。

 

「試合形式はドッジボール。出場する選手を8人選んでくれ」

 

 どういうことだと疑問が上がった矢先、レイザーの周囲にオーラの塊が集まり形を為していく。それぞれに番号が記された7体の念人形が具現化された。これがレイザーの能力、念獣使いか。

 

「ちょっと待て! 1試合に8人だと? じゃあ勝敗はどうなるんだ。1人1勝なんだろ?」

 

「もちろんだ。だからこの試合に勝ったチームに8勝が入る。簡単だろ?」

 

 つまり、こちらが子分相手に7勝取ろうが、レイザーとの勝負に勝てなければ意味がない。クイズ番組で最終問題にボーナスポイント1億点が入るようなものだ。何度再挑戦しようとレイザーを撃破できない限り『一坪の海岸線』は手に入らない。

 

 ただ、レイザーはこちらの戦力を削ることを第一に考えるなら、この試合はもっと後回しにした方が良かったはずだ。こちらが7勝重ねた後なら控えの選手は補欠メンバーばかりになるので圧勝できるだろう。それをしなかっただけ良心的と言えるのかもしれない。

 

 じゃあ一戦目から出てよと言いたくなるが、さすがにそれは虫が良すぎるか。

 

「まずいな。ツェズゲラ組の3人がもういない。戦力になるのは後7人だ」

 

「補欠の中から誰か1人選ぶしかあるまい」

 

「はぁ!? 話が違う! 俺たちは何もしなくていいって言ったじゃないか! 8勝できなかったらその時点でリタイアしていいって!」

 

「事情が変わったのはわかるだろ。試合が始まったらわざとボールに当たるなりして適当にやり過ごしてくれれば……」

 

「念能力者とドッジボールするんだぞ。当たったら怪我するかもしれないだろ。明らかに強そうな相手だし」

 

 補欠メンバーから苦情が出る。最初から戦力として数えていなかったことは確かだが、ここまで惰弱とは思わなかった。

 

 だが、下手に血気盛んな連中を雇うと報酬を吊り上げてきたりして揉める恐れがあったため、あえてこのような性格の者たちを選んだところはあった。彼らにしてみればここについて来るだけでいいという契約だったので、それ以上の仕事をする理由はない。

 

「出たくない人は出なくていいんじゃない? 7人でやろうよ」

 

「そういうわけにはいかないな。せっかく15人集めさせたんだから、きっちり選手は規定人数を出してもらわないと」

 

「そっちは1人じゃないか」

 

 念人形を使ってチームをそろえたレイザーをゴンが咎める。しかし、念の使用も有りと認められている以上は強く非難することもできない。レイザーはルールを変えるつもりはないようだ。

 

「食い下がっても仕方ないぜ、ゴン。相手はゲームのキャラなんだから」

 

「それはそうだけど」

 

「ん? 今、ゴンと言ったか……?」

 

 何かが琴線に触れたのか、レイザーはしげしげとゴンの様子を観察し始める。

 

「言われてみれば面影がある。お前、父親の名前は何と言うんだ?」

 

「ジン=フリークス」

 

 その名を聞いたレイザーは納得したようにくつくつと笑い始めた。その直後、レイザーの体から瞬くような力強いオーラがほとばしった。これが皮一枚のところで押しとどめられていたとは思えないほど濃厚に滾る戦意。この男が只者ではないことは瞬時に察せられた。

 

「お前が来たら手加減するなと言われているぜ。お前の親父にな」

 

「……!! ジンのこと知ってるの!?」

 

「この威圧感、ただのモブとは桁違いだ……何者なんだ……?」

 

「奴は間違いなくゲームマスターの一人。作られたキャラではなく、実在する人間だ」

 

 私たちと同じように、レイザーは現実に存在する人間だとツェズゲラは語る。しかもグリードアイランドの制作者の一人だと言う。強いはずだ。

 

「もしかしてジンもこの島にいるの?」

 

「オレに勝てたらその質問に答えてやろう」

 

 ゴンはレイザーの威圧を前にしても怯まなかった。それどころか、さらに決意を燃やしているようにも見える。だが、その一方でこちらのパーティの補欠メンバーはレイザーのオーラを見ただけで腰を抜かして逃げ出し始めた。

 

「ひいぃっ!? 冗談じゃねぇよ! あんなのと戦ったら殺されちまう!」

 

「おい、待て!」

 

「いいよ、ほっとけ。引き留めることはない」

 

「しかし、それじゃ試合が……」

 

「数なら足りるさ。オレが2人分になる」

 

 ゴレイヌの隣にオーラが集まり、一体の念獣が現れた。それはふさふさとした白い毛並みのゴリラだ。彼も念獣使いだったのか。念獣を人数に数えることはレイザーのチームもやっていることだ。こちらだけ認められない道理はない。両チームの選手が出そろい、問題なく試合は行われることになった。

 

「ルールを説明する! 試合は内野7名、外野1名の状態でスタートだ。ボールに当たりアウトとなった選手は外野に出る。外野となった選手は1名だけ『バック』を宣言することで内野に戻ることができる。そして、このゲームの重要なルールとしてボールの当たり判定に『クッション制』を採用している」

 

 投げたボールがノーバウンドで2人以上の選手に当たれば、その全員がまとめてアウトになる。ただしその場合、ボールが地面に落ちないうちに味方の誰かがキャッチできれば全員セーフだ。

 

「一つ確認していいか。もし、味方に向けたアタックが成功すればその選手はアウトになるか?」

 

「味方に向けて投げたボールならパス扱いだが」

 

 ゴレイヌがレイザーに質問した。アタックとは相手チームの内野選手めがけてアウトを取る目的で投げるボールだ。まず味方をその標的にすることはない。

 

「だが、この試合は念能力を使っていい。“そういう事態”も起こり得るかもな。よかろう、味方へのアタックも可能とする。これでいいか?」

 

「ああ、よくわかった」

 

 考えられるケースとしては操作系能力で敵選手を操ることなどがあり得る。ゴレイヌは操作系能力者なのだろうか。しかし、彼は既に念獣の能力を披露している。その上、生物操作の能力まで持っているとは考えにくい。

 

 策があるのかもしれない。何をするつもりか不明だが、それぞれ違った念能力を持ちできることにも違いがあるので、チームワークを乱さない範囲で個人の作戦は個人の裁量に任せることになった。

 

 コートは縦12メートル、横24メートル。内野コートは一辺12メートル四方の広さになる。主観的には意外と狭い。そのコートに両チームの選手が並んだ。審判はレイザーの作り出した念人形『№0』が行う。

 

●ゴンチーム

・ゴン

・キルア

・ビスケ

・ナイン

・ゴレイヌ

・ヒソカ

・ツェズゲラ

・ゴレイヌの念獣(外野)

 

●レイザーチーム

・レイザー

・№2

・№3

・№4

・№5

・№6

・№7

・№1(外野)

 

『それではスローインと同時に試合を開始します。レディー……ゴー!』

 

 ジャンプボールを制し、先攻は私たちのチームとなる。これについては敵側があえて身を引いたと言った方がいい。まずはお手並み拝見ということか。

 

「余裕こきやがって……挨拶代わりにかましてやるぜ」

 

 ゴレイヌがボールを投げる。その攻撃は見事、敵の念人形を一体アウトにした。外野へとこぼれたボールをゴレイヌが受け取り、続く二投目も難なく敵を仕留めた。しかも、ボールは再びこちらのエリアに転がっており、攻勢は続いている。

 

「なんだチョロいぜ、もう二匹アウトだ! ふかしてた割に大したことねぇな!」

 

 観戦しているツェズゲラ組のプレイヤーが茶々を入れる。念人形は棒立ち状態でボールを食らっていた。レイザー本人は強そうだが、念人形の方はそこまで能力が高いわけではないのだろうか。

 

 そう断定するのは早計だろう。敵チームの外野は二人の選手が加わり、三方を取り囲むような布陣を取っている。ドッジボールはアウトの数が単純な戦力の強弱につながらない競技だ。内野と外野の連係次第で優劣は容易に逆転する。油断はしない方がいい。その証拠に、レイザーは余裕を崩さない。

 

「さて、接待はここまでにして、そろそろこちらも反撃しようか」

 

「面白ェ、やってみろよ!」

 

 ゴレイヌがレイザーに向けてボールを投げた。挑発に乗せられたかに見えるが、そのボールはこれまでの投球に比べ格段に速さと威力が増している。決してレイザーを侮っているわけではなかった。しかし、そのゴレイヌの本気の一投は、乾いた音と共に事もなげに受け止められる。

 

「か、片手で止めやがった……!」

 

 そしてレイザーから静かに滲み出る闘気。大してオーラを込めているわけでもない。しかし、その自然な挙動が逆に警戒心を強めた。嫌な予感は次の瞬間、現実のものとなる。

 

「ふんっ」

 

 レイザーの初投球だ。その速さは殺人的としか言いようがなかった。いかに念能力者同士とはいえ、これをスポーツの範疇として語ることができようか。殺す気で投げたとしか思えない、あまりにも馬鹿げた威力だった。

 

 ゴレイヌにとっても埒外の速さだったのだろう。受け止める体勢こそできているものの、全くオーラの反応が追い付いていない。避けることもできないはずだ。ナインは駆け出そうとするも、この距離では確実に助けも間に合わない。

 

 良くて重傷、悪ければ死。だが、誰もが大怪我は免れないと思われた事態は予期せぬ方向へと展開する。ゴレイヌにボールが当たる直前、その肉体が瞬時に変化した。そこに現れたのは外野にいたはずのゴレイヌの念獣だった。

 

 白いゴリラの念獣はレイザーの攻撃を受け、バラバラに弾け飛んだ。一方、その術者であるゴレイヌは念獣と入れ替わるように一瞬にして外野へ移動していた。

 

 おそらく、念獣と自分の位置を入れ替えることができる特殊能力が備わっていたのだろう。自分の念獣を身代わりにして危険を回避したのだ。ナインは消し飛んだ念獣のもとへと駆け寄り、バウンドして敵エリアに戻ろうとしていたボールをキャッチした。

 

 体ごと引っ張られそうなほど凄まじい反動のエネルギーがボールにまだ残っていた。自陣に跳ね返して戻すことを狙っていたのだろう。何とか勢いを抑え込む。

 

『ゴレイヌ選手の外野への移動は念能力の効果によるため反則に含みません。ただし、ゴレイヌ選手が内野に戻るためには『バック』の宣言が必要になります。なお、ナイン選手の捕球により、ゴレイヌの念獣選手はクッション制が適用されセーフとなります』

 

「もっとも、プレー不能状態の選手は退場処分となる。内野にも外野にもカウントされない。もう一度同じ念獣を具現化できれば内野選手としてプレー続行を認めよう。できればの話だがな」

 

 ゴレイヌの念獣は完全に破壊されてしまっている。この状態からもう一度具現化するのは難しいだろう。一般的な念獣使いは破壊された念獣を瞬時に再生するようなことはできない。

 

 中にはリカバリー性能を高めたタイプの念獣もあるだろうが、ゴレイヌのように強力な特殊能力を宿すタイプはなおのこと再使用に時間がかかるはずだ。少なくとも、この試合中にもう一度具現化させることはできない可能性が高い。

 

 クッション制のおかげでアウトにはならなかったが、これでは内野どころか外野としての活躍もできない。結局は選手が一人減ったのと同義だ。敵にボールが渡らなかっただけ良かったと思うしかない。

 

「オレのゴリラをそこらの念獣と一緒にされてもらっちゃ困るな。見せてやるよ……『復活の黒い賢人(ブラックゴレイヌ)』!」

 

 しかし、ゴレイヌは諦めていなかった。彼の傍らにゴリラの念獣が具現化されていく。これにはレイザーのみならず、こちらのチームの面々も驚いていた。まさかリカバリー能力まで備えていたとは。

 

「……なんか、黒いな。さっきのゴリラは白くなかったか?」

 

「オレのゴリラは復活することにより死を象徴する漆黒のオーラに目覚め、黒く染まる」

 

 もしかしてさっきのとは別の念獣なのかとも思ったが、本人がそれを否定する。まあ、色以外の区別なんかつかないし、仮に異なる念獣を二体も出せるとすればそれはそれで凄いと思うが。

 

 レイザーは深く追及せず、念獣の内野復活を認めた。彼は試合の勝敗よりも、どこかこの状況を楽しむことに偏重している気がする。いちいち細かい指摘をしてくることはなかった。

 

 だが、それは簡単に勝たせてくれるということではない。多少の小細工など全て叩きつぶしてやるという自信の表れだ。レイザーには、それができるだけの実力がある。こちらも手段を選んでいる場合ではない。

 

 プレー再開を告げる審判の声に合わせ、ナインは助走をつけてボールを投げた。それなりのスピードで飛んで行ったボールは、念人形の一体に掴まれてしまった。

 

「くっ、下手な投球速度では敵にボールを渡すだけか……またレイザーが撃ってくるぞ!」

 

 近くにいたツェズゲラが焦ったような声を出すが、その点は私もちゃんと考えていた。無策のままボールを投げたわけではなかった。その仕掛けが効果を見せる。

 

「ギシェッ!?」

 

 難なくボールをキャッチしたはずの念人形が誤ってボールを手放してしまった。慌てて拾おうとするが、その手の中でつるつるとボールは滑り、ついにこぼれ落ちてしまう。

 

『ファンブルです。№3選手アウト!』

 

 ボールを投げるとき『落陽の蜜(ストロベリージャム)』を全体に薄く塗りつけておいたのだ。ボールに付着している部分は粘度を上げたオーラを糊のように貼り付けている。剥がそうとしてもぬめるため、そう簡単に取れることはない。

 

 これによりボールの表面は、どじょうを掴むかのように持ちづらくなっている。初見でこの状態を見抜くことはできまい。あわよくばそばの選手がフォローに回って取りこぼしてくれればと二人連続アウトを狙っていたが、そこまで上手くはいかないか。

 

「ふむ、変化系か。これは持ちにくいな」

 

 ボールは相手のエリアに落ちたので、レイザーの手に渡ってしまった。しかし、今のボールの状態ならばまともに掴むことはできない。力を入れようとすればコントロールが狂って狙いを外しやすくなる。完全に封殺するようなことまではできないが、あの殺人的な投球威力を大きく抑えることができるはずだ。

 

「だが、それなら持たなければいいだけか」

 

 持たずに投げる。そんなことできるわけがないと思ったそのとき、レイザーはボールを軽く上へ放り投げた。宙に舞い上がったボールに追いつくように、レイザー自身もジャンプする。彼が何をしようとしているのか、ようやくその意図に気づいた。

 

 まるでバレーのスパイクだ。ボールを掴まず、はたき打つ。それでもボールを手で押し出す挙動になるため、普通なら滑ってあらぬ方向へ飛んでいくことになるはずだ。持とうが持つまいが関係ない。その過信が私の反応をわずかに遅らせた。

 

 レイザーのスパイクフォームはぬめるボールを攻略するためだけの付け焼刃とは思えないほど洗練されていた。むしろ、手で持って普通に投げたときよりも堂に入っている。

 

 打ち出されたボールは人を殺めるに十分な威力を誇っていた。その軌道は斜め上空から真っすぐにナインの位置を捉えている。ボールの芯を捉えた正確な打点に一瞬のインパクトを叩きこみ、ぬめりの影響を限りなく無効化していた。

 

 その卓越した技術に感服している暇はなかった。ボールは稲妻のような速さで距離を詰めてくる。回避する余裕はない。何とかしてキャッチするしかないだろう。

 

「ウホ!」

 

 だが、そこに一つの問題が生じていた。ボールが飛んでくる軌道上にゴレイヌの念獣が割り込んできたのだ。敵の攻撃は見てから割り込みが間に合うような速度ではない。おそらく、この状況を見越して行動を起こしていたものと思われる。

 

 言っては悪いが、この念獣にレイザーの球と渡り合えるだけの力はない。それは先の一投で粉々に砕け散った様子を見ていればわかった。つまり、この割り込みはボールを取るためではなく、ナインを守るための盾としての行動だろう。

 

 ボールの威力を考えれば念能力者でも死ぬかもしれないほどの殺傷力が込められている。念獣を犠牲にしてでもこちらを助けようとしてくれるその善意には感謝したいが、戦略的に見れば良い手とは言えなかった。

 

 ナインでもこの威力の球を確実にキャッチできる自信はないし、仮にできたとしてもダメージは免れない。しかし、修復能力があれば死ぬことはない。アウトになってもプレー続行は可能だ。ここでゴレイヌの念獣を犠牲にする必要はなかった。

 

 ゴレイヌの念獣はナインをかばうように両手を広げ、上空から迫るボールの射線を妨げるように跳躍していた。完全に無防備な体勢を晒した念獣に、スポーツ精神度外視の殺人ボールが突き刺さる。

 

 

「ぷがばっ!?」

 

 

 そして、レイザーが吹き飛んだ。床に叩きつけられた彼の勢いは止まることなく、轟音を上げながら競技館の壁に激突するまで吹っ飛ばされた。

 

 何が起きたのか理解が追い付かない。しかし、私の目はその一部始終を確かに記録していた。遅れて事実を認識するに至る。

 

 念獣にボールが当たる直前、その場所に入れ替わるようにレイザーが出現したのだ。これは先ほど見た念獣の能力だ。あのときはゴレイヌと入れ替わっていたため、てっきり術者本人と位置を入れ替える能力だとばかり思っていたが、まさか他人との位置まで入れ替えることができたのか。

 

 つまり、レイザーは自分で打ち出したボールに自分で当たったことになる。さすがの彼もこの事態を予測することはできなかったのか、ろくに対応もできず殺人ボールの威力を自分自身で味わうはめになっていた。

 

 この場合、レイザーはアウトになるのだろうかと疑問がわいたが、そこでゴレイヌが試合開始前に確認していたルールを思いだした。

 

 念能力を使ったプレーならば味方へのアタックも有効である。言い換えれば、同じチームの選手が投げた攻撃のボールでも、それに当たればアウトになるということだ。すなわち、自分自身が投げたボールに当たってもアウトである。

 

 ゴレイヌはこれを狙っていたのか。レイザーはアウトになってもバックで内野に復帰してくるだろうが、貴重なバックの権利をここで使わせたことは大きい。さらにあれだけの威力の球を食らったのだから少なからずダメージを負っていることだろう。

 

 レイザーに当たったボールはその反動で大きく空中へと跳ね上がっていた。このままいけば私たちのチームの外野にボールが落ちる。試合の流れはこちらに向いていると言えるだろう。

 

 そう思った矢先、敵チームに動きがあった。念人形たちはレイザーが不覚を取った後も活動を停止することはなかった。おそらく『遠隔操作(リモート)』ではなく『自動操作(オート)』タイプの念獣だ。術者の状態に関係なく、与えられた使命を全うする。

 

 もはや手が届くはずもない上空のボールに向けて、念人形たちは選手そのものを砲弾のように投げ放った。投げられた念人形が空中でボールをキャッチし、自分たちの内野に向けてボールを返す。その思いがけない連携を、私たちはあっけに取られて見ていることしかできなかった。

 

『体がエリア外地域に触れていなければ空中での捕球も認められます。よって、レイザー選手はセーフとなります』

 

 ぞわりと、総毛立つような悪寒が走った。場外に飛ばされていたレイザーが帰ってくる。歩を進めるたび、打ち寄せる波のように迫る威圧感。

 

「すまんな、どうやら久々の試合で気が抜けていたらしい」

 

 決して軽くはないダメージを負っているはずだが、それで弱ったとは全く思えないほど凶悪なオーラがほとばしっている。レイザーは、にこやかに笑っていた。しかしその笑顔の裏側に隠しきれない凄惨な殺意が垣間見える。

 

「ここからは本気で相手をしよう」

 

 戦績だけを見るなら敵チームは3人の選手がアウトになっているのに対し、こちらはまだ誰もやられていない。だが、目の前の存在を見て楽観する気は微塵も起きなかった。

 

 



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69話

 

 海賊というよりアスリートと言った方がふさわしく思える風貌の男、レイザー。その鍛え上げられた肉体をもって放たれるボールはまさに凶弾だった。スポーツ形式の試合だから命を落とすような危険がないとは、とても言えない。互いに念能力を駆使した常識外の試合展開は、もはやドッジボールと呼べるものではなくなっている。

 

「さて、次は誰を狙おうかな」

 

 レイザーチームの攻撃から試合が再開される。当然、ボールを持ったのはレイザーだ。私が塗りつけておいたぬめりのオーラは、レイザーのスパイクの衝撃によって引き剥がされている。

 

 自然とこちらの緊張は高まった。レイザーの球は恐ろしいほどの速度があるが、投げてくるタイミングは見ればわかるし、ボールは真っすぐにしか飛んで来ない。来るとわかっていれば回避も不可能ではない。

 

 だが、それをキャッチしようと思えば途端に難易度は跳ね上がる。さらにレイザーの実力の底はいまだ知れない。先ほどよりも速い球を投げてくるようならば避けることも難しくなるだろう。刹那の判断ミスが死につながる。

 

 全員が固唾をのんでレイザーの挙動に注視していた。大きく腕を振りかぶる。しかし『凝』を使って観察していた私は違和感を覚えた。レイザーがどこを狙っているのか、標的がはっきりとわからない。

 

 ボールを放つ直前、レイザーが体を横に向けた。その方向は私たちのチームの外野である。どこに向かってボールを投げようとしているのか、その狙いに気づいたときには手遅れだった。

 

「え?」

 

 まさか敵の外野に向けてボールを投げるだなんて普通は考えない。何の構えも取っていなかったゴレイヌは、その身に凶弾を受けた。気を抜いていたのか、念獣による瞬間移動能力も発動できなかった。

 

「ゴレイヌ!」

 

 きりもみしながら派手に吹き飛んだゴレイヌは起き上がらなかった。一撃で戦闘不能状態となり、内野コートにいたゴリラの念獣も消えてしまう。観戦していたツェズゲラ組のプレイヤーがゴレイヌのもとに駆け寄った。

 

「おい、しっかりしろ!」

 

「ひ、ひでぇ……まさか死んだんじゃ……」

 

「ちゃんと手加減はしたぜ? だが、ちょっと力が入り過ぎたかもしれんな。救護室まで運んでやれ」

 

 レイザーが海賊の子分に指示を出す。ツェズゲラ組の三人が一緒に付き添って行った。まだ試合が続いている以上、選手である私たちはこの場を離れることはできない。心配ではあるが、付き添いの人たちに任せるしかなかった。

 

「それは違うんじゃないか、レイザー」

 

 唖然とした状況の中、最初に口を開いたのはゴンだった。静かな口調だったが、明らかな怒気を孕んでいることがわかる。

 

 先ほどのレイザーの行動は、あからさまにゴレイヌを攻撃する目的だった。いくら念能力有りの特別ルールがあるからと言って、選手をアウトにする目的から外れたこんな直接攻撃まで許されるのか。

 

「敵を排除する目的で念能力を使うことは、あのゴレイヌとか言う男もやったことだろ? そのおかげでオレは瞬間移動で自分の攻撃を食らうはめになったわけだ。ま、ルール上は問題ないからとやかく言うつもりはないが、やられたからにはやり返させてもらう」

 

 レイザーは『敵にパスをしてはいけないというルールはない』と臆面もなく言い切った。そんな言い分は屁理屈だ。パスを目的とした投球でないことは明白だった。

 

「ルールの決定権はオレたちにあると、最初に言ったはずだが? 強いて言うなら、まさか自分の方にボールが飛んでくることはないと思い込んでいたゴレイヌが悪い。違うだの違わないだのお前たちの議論に付き合う筋合いはないな」

 

「……わかった。そっちがそのつもりなら、オレたちもルールに従おう。その上で、お前を完璧に負かす」

 

 ゴンは腰を低く落とし、『堅』で守りを固めた。緻密に美しく練り上げられたそのオーラからは彼の並々ならぬ成長が感じ取れた。私が修行をしていたように彼もまたキルアと切磋琢磨し、弛まぬ努力を重ねてきたのだとわかる。

 

「来い、レイザー」

 

 ゴレイヌに当てて跳ね返ったボールはレイザーが持っている。ゴンの目はレイザー以外の何者も見てはいなかった。正面からボールを受け止めてみせるという覚悟を感じさせる。その気迫に、敵は呼応した。

 

「いいだろう。それだけの堅ができるならば死ぬことはあるまい」

 

 ゴンに向けて投げる気だ。そして、ゴンはそれを避けるつもりが毛頭ない。本当に任せて大丈夫かという不安は募ったが、互いに覚悟を賭けたその一騎討ちに割り込んでいいものかという葛藤もあった。

 

 多分、私がゴンの立場であったなら余計なお世話だと思うだろう。しかし、その邪魔をするべきではないという気持ちはレイザーの投球フォームを見て揺らいだ。

 

 床に振動が走るほどの大きな踏み込みとともにレイザーが投げる。腕の回転、腰のひねり、筋力と遠心力の作用がオーラによって相乗され爆発的な速度を得る。手加減なしの本気の一投だとわかる。

 

 無理だ。受け止めきれない。吹っ飛ばされるならまだしも、下手に当たればごっそりと肉体そのものを抉り取られるだろう。だが、既にボールは投げられていた。今から私が何をしようと間に合わない。ゴンを信じるしかなかった。

 

 そして、レイザーの球はゴンに届く。間違ってもボールが当たったとは思えないような破壊音が競技館に反響した。ゴンは受け止めきれずに衝撃で壁に激突するまで吹き飛ばされた。

 

「ゴン! 大丈夫か!」

 

「うん、平気」

 

「どう見ても平気じゃないわさ……」

 

 ゴンは頭から血を流して倒れていた。すぐに立ち上がるがふらついている。だが、それほど大きな怪我もなく意識もしっかりしているようだった。ボールの方はと言うと、ゴンに当たった反動でコンクリート製の天井に直撃してめり込んでいた。かなり奥まで突き刺さっており、落ちて来る様子はない。

 

『ゴン選手アウト! ボールは回収不能になりましたが、落下予想地点からゴンチームの内野ボールと判定します』

 

 次は絶対に捕るとゴンは意気込み、バックは自分が宣言すると言って聞かなかった。しかし、すぐに動ける状態ではないため、ひとまず外野で休ませることになる。先ほどのゴレイヌの一件から外野も安全とは言い切れないが、あれはレイザーがゴレイヌに対する意趣返しとして行った攻撃であるためゴンが狙われることはないだろう。そう思いたい。

 

「まさかあの一撃を逃げずに受け切るとは。大した奴だ」

 

 私の隣でツェズゲラが呟いていた。本当にそう思う。驚嘆すべきはその精神力、あの状況で一瞬の判断を見誤らなかったことだ。

 

 ゴンは最初、手を体の前に差し出すように構えていた。ボールを胸の前で受け止めるつもりだったのだろう。普通はそのようにキャッチするので何もおかしくはない。だが、レイザーの投球を目にしてゴンは構えを瞬時に切り替えた。

 

 手を額の上で組み、その一点を『硬』で強化してボールを受けたのだ。あの球速は腕の力だけで止められるようなものではない。もし胸や腹で包み込むように受け止めようとしていれば、分散した衝撃で臓器に深刻な被害をもたらしていたはずだ。

 

 硬い額とそれを保護する両手のガードに全てのオーラを集結させ、一点の防御力を最大まで高めて衝撃に備えたのだ。足を強化する分のオーラまで防御に回してしまったため踏ん張りが効かず後方に飛ばされてしまったが、衝突のエネルギーを受け流すという点から言えば間違った対処でもない。

 

 こうして傍から見ていれば落ちついて色々と考察できるが、実際にあの攻撃を前にして躊躇なく対処できるかと言えば難しいだろう。頭部で攻撃を受けとめようとするのだから、もし防御力が不十分であれば脳に重度の障害が起きても不思議ではなかった。

 

 いくら度胸があろうと容易く行動に移せることではない。少しでも迷いが生じればレイザーの球速に対応することはできなかっただろう。ナインのように後で回復が効くわけはない。判断を誤れば死が待つのみという状況でゴンは一歩も退かなかった。揺らがなかったのだ。

 

 その健闘空しくアウトになってしまったが、得るものはあった。次は捕ると豪語したゴンの言葉は決してはったりではない。彼の力を信じ切れなかった自分を恥じた。

 

『それではゴンチームの内野ボールから試合を再開します』

 

 気を取り直して試合に臨もう。こちらのチームにとって初めてのアウトとなるが、ゴレイヌを戦闘不能にさせられ、ゴリラの念獣も一緒に消されてしまったため、実質的には2人分の選手が内野からいなくなったことになる。

 

 だが、レイザーからボールを奪えたことは幸いだった。敵のボールはキャッチするだけでも困難を極める。この攻撃の機会を無駄にするようなことは避けたい。

 

「次はボクにヤらせてくれないか♠」

 

 そこでヒソカが横から名乗り出た。何か策があるらしい。ボールを持っていたキルアは、なるほどと納得したように頷いてヒソカにボールを渡した。

 

 ヒソカの能力については本人から聞いたことがある。特に隠すようなこともなく話していた。彼は変化系能力者であり、その発はオーラにゴムとガムの性質を持たせるというものだった。

 

 ヒソカの能力『伸縮自在の愛(バンジーガム)』のくっついたボールが敵チームの念人形に当たる。ゴムのオーラでつながったボールを手元へと手繰り寄せれば敵にボールを渡すことなく一方的に攻撃を継続できる。

 

「ギシャッ!」

 

『№2選手アウト!』

 

 能力の強さだけでなく、ヒソカは基礎能力からして並みの念能力者を上回っている。レイザーには及ばないものの鋭い投球を見せつけた。念人形ではキャッチすることができない。敵に息つく暇を与えず、ヒソカが続けてボールを投げた。

 

 狙いはレイザーではなく、念人形だ。残りの念人形はあと2体。まずは対処しやすい取り巻きから片づけ、レイザーを追い詰める作戦のようだ。

 

 ヒソカの狙いを察し、念人形のうちの1体が前に出る。その近くにもう1体が控えるように立つ。単独での捕球は無理と判断し、1体を捨て駒にするつもりか。一度当たって威力が落ちたボールなら、ゴムで回収する前にキャッチされてしまうかもしれない。

 

 だが、敵の目前へと迫ったボールは突如として軌道がぶれた。真っすぐ飛んでいたはずが、空中で不規則な動きを見せる。ヒソカがゴムのオーラを手元で揺らし、鞭のように先端のボールを操ったのだ。

 

「ギャッ!」「ギシッ!」

 

『№6選手、№7選手アウト!』

 

 この成果には思わず歓声が上がった。一気に2体のアウトを取り、これで敵の内野に残った選手はレイザー1人となる。

 

「やるじゃん! これなら勝てそう、か?」

 

 敵はあと1人、こちらはまだ内野に5人いる。しかも、ヒソカがボールを持ったままだ。圧倒的に有利な状況だが、私は漠然とした不安を覚えずにはいられなかった。

 

 杞憂だろうか。レイザーは確かに強いが、私たちのチームが弱いわけではない。敵はこちらの念能力など知らないのだから、ヒソカの能力のように相性次第で一方的な試合展開になることもあるだろう。

 

 何にしても最後まで気を抜かずに試合を続ければいいだけだ。まだ肝心のレイザーを倒せたわけではない。勝った気になっている場合ではない。

 

「『バック』だ」

 

 そこでレイザーが手を上げ、試合を中断した。バックを宣言する。なぜこのタイミングでと疑問に感じたが、考えてみれば当たり前のことだと気づく。

 

 まず、レイザーは内野にいるので自分自身をバックの対象としているわけではない。今、外野にいる念人形の中の誰かを内野に呼び戻すつもりだろう。バックは宣言した者だけが権利を有するが、念人形はレイザーが作り出した存在なので代理行使しても問題にならない。

 

 レイザー自身がアウトを取られたときに使えばいいのではないかとも思ったが、内野に1人しかいない状態でアウトを取られればその時点で負けが確定する。最後の1人として残された時点で、レイザーにバックを使う権利はなくなったのだ。

 

 だから念人形のうち誰か1体を内野に戻す以外にバックの使い道がない。今さら念人形が1体増えたところで大した戦力でもない。状況はまだこちらの有利に進んでいると思った。

 

「『№27』を戻す」

 

 そんな選手はいなかったはずだと敵の外野を確認したとき、そこには異常な光景が生み出されていた。

 

 7体いたレイザーの念人形が次々に一つの影へと重なっていく。1番から7番までいた選手は2人にまで数を減らしていた。残ったのは『№1』と『№27』だ。

 

 『№1』を外野に残し、6体の念人形が合体して生み出された『№27』が敵チームの内野に戻る。

 

「合体とかアリかよ!?」

 

『念能力なのでアリです。ただし、バックで内野に戻ることができる選手は1人だけなので、№27選手の内野での分裂は認められません』

 

 これで分裂が認められれば振りだしに戻されるようなものだ。だが、ある意味ではそちらの方がまだマシなのではないかと思えてならない。

 

 6体が合わさった念人形は格段に力強いオーラを放っている。大きさはそれほど変わらずレイザーと同じくらいの体格だが、内包するオーラの量は何倍にも増幅されている。

 

 これまで軽く考えていたが、そもそも念獣を一度に7体、審判役も合わせれば8体も同時に具現化するレイザーの能力は尋常ではない。しかも、そのどれもが自律行動可能な自動型でドッジボールという複雑なルールの戦いをこなし、レイザーをバックアップできるだけの実力を兼ね備えている。

 

 それだけ強力な能力のリソースを6体分合わせて作り出された念人形だ。単純に実力は6倍になったと安易に考えない方がいい。もっと強大な怪物となっている可能性は大いにある。そう思えるだけのオーラが感じられた。

 

『それではゴンチームの内野ボールから試合再開です』

 

 バックは使わせたが、敵の戦力は確実に増強されただろう。ここで相手チームにボールが渡れば恐ろしいことになりそうな気がする。ヒソカには頑張ってもらわないと。

 

「責任重大だね♣」

 

 おそらく、これまで通り投げても№27を倒すことは難しいかもしれない。ヒソカの球速でもキャッチされる恐れがある。

 

 ゴムでつながっているとはいえ、一度捕球されてしまえば引っ張り合いにもつれ込む。№27がどれほどのパワーを持っているかわからないが、もし力比べで負けてヒソカが体勢を崩すようなことがあればその隙を突かれかねない。

 

 敵に捕球させてはならない。そこで私が思いついたのは『伸縮自在の愛』と『落陽の蜜』の合わせ技だ。ゴムをくっつけたボールをぬめるオーラで覆うことで、二つの能力の良いとこ取りだ。

 

「ゴムで手にくっついてるから何とか持てるけど、すごく投げにくいかな♠」

 

 残念ながらヒソカの投球にまでぬめりの影響がでてしまったが、逆に言えばそれだけ敵も掴み取りにくいということだ。これならば仮に掴まれたとしてもゴムで引っ張り戻す力の方が有利に働く。多少は速度が落ちても問題ないはずだ。

 

「さあ、今度はボクたちが合・体・技を見せつけてあげる番だね❤ んー、名付けて『伸縮自在の愛の蜜(ストロベリー・ラブジュース)』……」

 

「はよ投げろ、変態」

 

 ヒソカは振りかぶったボールを、レイザーたちとは真逆の方に向かって投げた。

 

「は?」

 

 キルアが呆けたような声を出す。ナインも同じような表情をしていることだろう。敵の内野の真逆、つまり敵の外野である。ボールが向かった先にいたのは外野にいた『№1』だった。

 

「ギシェェッ!?」

 

 盗塁を刺すピッチャーのごとく振り向きざまに投げられたボールに対し、№1は予想もしていなかったのか避けることもできず吹っ飛ばされた。これはレイザーもゴレイヌにやっていたので反則にならないことはわかっているが、わざわざ今ここでやることだろうか。

 

 そう思ったが、№1に当てた後もぐんぐんとボールは後方へ飛んで行く。ヒソカは競技館の壁際まで飛んだボールを、今度は勢いよく引き寄せた。

 

「そうか、ゴムの反動か……!」

 

 限界まで引き伸ばされたゴムは急速に縮みながらヒソカのもとへ戻ろうとする。その勢いを利用して敵にぶつける気か。この方法ならボールを直接掴まずとも、かなりの速度で敵に投げつけることができる。

 

 ゴムの反動にプラスして、さらにヒソカの腕力による後押しが加わった。しなる鞭のようにたわむ軌道を描きながらボールは超高速に達する。これならば速度も申し分ない。むしろヒソカの先ほどまでの投球よりもスピードが出ている。

 

 ヒソカの狙いは№27のようだ。まずは力を推し量る。このボールにどのような反応を見せるか観察すれば、どれほどの力量を持っているのか推測も立つ。迫りくるボールを前にして№27は素早く横へ跳んだ。

 

 速い。ヒソカの反動投球をもってしても捕捉することはできなかった。ある程度予想はしていたが、簡単にアウトを取れるような相手ではない。

 

 しかし、敵はぬめるボールを掴み損ねることを恐れたのかキャッチしようとはしなかった。ならばボールを回収して攻撃を続けるまでだ。手を休めなければ隙が生まれるかもしれない。

 

 だが、そこで№27が動く。横に跳んで球を回避した直後、再び元の地点に戻った。超高速の反復横跳びだ。ボールは既に通り過ぎた後だというのに手を伸ばして何かを掴み取ろうとする。

 

 №27が掴んだものはヒソカの手とボールをつなぐゴムのオーラだった。握りしめられたオーラはその部分で固定され、勢いを大きく失う。ヒソカはすぐにゴムを引き寄せようとしたが、№27は手刀で素早くゴムを切断した。

 

 変化系能力によって性質が変えられたオーラには実体が生じる。他者のオーラによって干渉されれば破壊されたり打ち消されることもあるが、その強度は術者の顕在オーラ量に左右されるところが大きい。ヒソカほどの使い手で、ゴムという衝撃に強い性質を持つオーラからして、相当の実力者でなければ破壊することは難しいはずだ。

 

 それはこの念人形の実力を物語っていた。減速したボールは、後方で待ち構えていたレイザーに止められる。ぬめるボールを直接キャッチはせず、宙に跳ね上げてお手玉のようにいなす。その光景を見たツェズゲラが絶望的な声を漏らす。

 

「バカな……あれほどの攻撃がまるで通用しないだと……!?」

 

 レイザーはボールを軽く打ちあげるとスパイクを叩きこんだ。そのボールを№27があっさりと受け止める。敵チームの自陣内で行われたやり取りであり、攻撃のための行動ではなかった。レイザーのスパイクを受けたボールはぬめり気が払拭されてしまう。

 

「さて、反撃開始だ」

 

 敵チームにボールが渡ってしまった。№27がボールを持つ。しかし、なぜか投げる様子を見せない。人差し指を立て、その上にバランスよくボールを乗せた。

 

 何がしたいのかと思いきや、指の上でバスケットボールでも回すかのようにくるくると回転させ始めた。次第にその回転スピードは増していき、ついに周囲の空気を巻き込み風を起こすほどになる。壮絶に嫌な予感しかしない。

 

 高速回転するボールが№27の手から空中へ放たれた。トスを受けたバレー選手のごとく、レイザーがジャンプしボールをはたき打つ。またしても得意の超速スパイク。その標的はヒソカだ。やられたらやり返すというレイザーの言葉が頭に浮かぶ。

 

 降り注ぐ流星のような一撃をヒソカは何とか回避した。やはりキャッチは至難だが、避けるだけなら何とかなる。ボールは床に激突して跳ね上がった。

 

「♠」

 

 しかし、上手く回避したかに思われたボールは、どう考えても不自然としか思えない軌道でヒソカの背中目がけて跳弾した。おそらく、念人形がボールに仕掛けたあの異常なスピンによって跳ねる方向が変わったのだ。

 

 一度床でバウンドしているので、このボールに当たってもヒソカがアウトになることはない。しかし、受け損なえば確実に大ダメージを負うほどの威力がまだボールに残っている。敵の狙いはアウトではなく、ヒソカの肉体の破壊だ。

 

 まさかの跳弾で襲いかかるボールにヒソカは反応した。回避は不可能と判断したのか、背面キャッチを試みる。一度バウンドしたボールならば直撃よりも威力は和らいでおり、ヒソカは強靭かつ柔軟な身のこなしにより不安定な姿勢ながらもこれを掴み取ることに成功する。

 

 だが、そこでボールに込められた異常なまでのスピンが猛威を振るった。掴もうとする手を弾き飛ばすどころか逆にヒソカを回転に巻き込み、その体をもろとも飲み込もうとしている。

 

 その回転の流れに、ヒソカは逆らわなかった。一瞬のうちに空中で5回転。殺人スピンに身を任せつつ、その勢いを巧みにコントロールし、ボールを床へと叩きつけた。

 

 そこで『伸縮自在の愛』が発動する。ゴムとガムのオーラでボールを拘束し、床に貼り付けたのだ。ヒソカのオーラに囚われたにも関わらず、ボールはすぐに回転が止まることはなかった。猛り狂う手負いの獣のようにゴムの拘束から脱しようと暴れ回る。

 

 しかし、さすがの異常スピンも無限に続くわけではない。次第に暴れる勢いは鎮まっていき、数秒後にようやく沈黙した。

 

「指が7本くらいイッちゃった❤」

 

 寒気がするほどに技巧を尽くした攻防だった。レイザーの強さもさることながら、それを堪え切ったヒソカも称賛に値する。負傷はしたようだが、むしろあの攻撃を指数本の怪我で抑え込めたことに驚く。回転中、少しでも攻防力の移動に不備があれば、たちどころにミンチと化していたはずだ。

 

『ヒソカ選手アウト!』

 

 だからだろう。何とかレイザーの攻撃を凌ぎきったという安堵感が広がっていた私たちのチームは、審判の言葉をすぐに理解することができなかった。

 

「……何を言っている? 確かにヒソカはボールをキャッチできなかったが、そもそもバウンドしたボールだった。当たってもアウトにはならない」

 

『バウンドしていませんので、アウトです』

 

「ふざけるな! ミスジャッジも甚だしいぞ!」

 

『ジャッジへの不服は受け付けません』

 

 ツェズゲラが抗議するも審判は聞く耳を持たなかった。誤審としか思えないが、果たしてそんな小ずるい手段を使ってまでレイザーが点稼ぎにこだわるだろうかという気持ちもある。もう一度、私は先ほどの状況を思いだした。

 

 レイザーが放ったスパイクをヒソカは避けた。そして床に当たって跳ね返ったボールが再びヒソカに襲いかかっている。確かに、そのように見えた。

 

 しかし、異常事態の連続により見落としていたが、よく思い返してみれば不自然な点はあった。ボールが床に当たったとき、音がしなかったのだ。レイザーの強力なスパイクが当たったのなら、その衝撃が大きな音となっていなければおかしい。

 

 まさか、本当にバウンドしていなかったと言うのか。だとすれば、床に触れるギリギリのところで静止し、空中でバックスピンして軌道を変えたことになる。そんなことがあり得るか。

 

「くくく……信じられないか? なんなら、もう一度見せてやってもいいぜ?」

 

 誤審ではない。レイザーは、そんなつまらないことをする男ではない。異議を申し立てる声はあがらず、絶句するより他になかった。

 

 



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70話

 

 ヒソカがアウトとなり、これでこちらの内野選手は4人となった。ヒソカは両手の指を負傷してしまったため、正面から敵チームのボールをキャッチすることはもう無理だろう。

 

「どうする……誰が投げる……?」

 

 現在ボールは私たちが持っているが、気安く投げられるものではない。生半可な威力のボールではレイザーはおろか、念人形の№27にさえ止められてしまうだろう。

 

 ドッジボールのセオリーに立ち返って、外野と連携して敵を翻弄する作戦も考えてみたが、今のところ私たちの外野にいるのはゴンとヒソカの2人だけだ。どちらもダメージは色濃く残っており、やはり敵チームと渡り合えるとは思えない。

 

「この中で一番速い球を投げられるのは……ナインでしょうね。あんたが投げなさい」

 

「大丈夫なのか?」

 

 ツェズゲラが不安そうにしているが、ビスケの案を強く否定することはなかった。それ以外の代案を持ち合わせていない様子だ。彼も自分の投球がレイザーに届くとは思えないのだろう。

 

 私だってそうだ。ヒソカのボールですら対処されてしまったというのに、それ以上の攻撃ができる自信はない。

 

 リミッターを解除すれば球速は上がるが、繊細なオーラ制御は難しくなる。一度目の投球のように、投げる瞬間オーラを変化させて即座にボールをぬめらせることは難しい。あらかじめぬめらせてしまうと私自身が投げにくくなってしまうので、全力を出すなら小細工なしの真っ向勝負になる。

 

 だが、臆してばかりもいられないか。誰かが投げなければ試合は前に進まない。覚悟を決め、精神を集中する。

 

「バック!」

 

 しかし、そこで声が上がった。ゴンがバックを宣言し、内野に戻ってくる。まだ万全の体調とは言えないが、外野で休んでいたためプレーに支障がない程度には回復しているようだ。

 

 外野を0人の状態にするわけにはいかないのでこれまでバックを我慢していたようだが(その状態で外野にボールが入ると敵チームのボールとなる)、ヒソカが外野に来たので後を任せてバックを使ったようだ。

 

「オレに考えがある。キルア、ボールを持ってそこに立ってくれない?」

 

 だが、ゴンは何の策もなしに戻ってきたわけではないようだった。私はキルアにボールを渡し、キルアがゴンの指示に従ってボールを持ち構える。

 

「いくぞ……最初はグー!」

 

 この技は。ゴンの体にオーラがみなぎった。強化系特有の一時的にオーラ顕在量を増幅させる必殺技だ。発動にはタメを必要とするらしく、実戦では使いどころを選ぶ能力だが、それが制約として効果を大きく高めている。

 

「ジャンケン――!」

 

 そして、この状況においては時間を気にする必要はない。好きなだけ集中することができる。後はキルアが持つボールに渾身の一撃を叩きこめばいい。

 

「グー!!」

 

 凄まじいスピードでボールが発射される。その速度はレイザーの投球に勝るとも劣らなかった。一直線に弾き飛ばされたボールが向かう先には、№27の姿があった。

 

「ギッ!」

 

 けたたましい衝突音が響く。しかし、その衝撃を念人形は受け止めた。威力を完全に殺すことはできず、キャッチしたボールの勢いに押されて後退しているが、体勢は崩していない。しっかりと地に着いた両足は煙を上げながら床にブレーキ痕を残している。

 

 この威力でも敵わないのかと思ったそのとき、№27の背後から強烈な殺気が噴きあがった。外野にいたヒソカが№27に向けて殺気を放ったのだ。

 

 攻撃をせず、殺気を出すだけならばルール違反ではないだろう。それがただの威圧であれば念人形は気にも留めなかったかもしれない。だが、ヒソカの殺気はまさに殺しにかかる寸前の迫力を伴っていた。実際に多くの命を殺め、死に慣れ親しんだ者でなければ到底放つことのできない凄味がある。

 

 №27は背後の気配に意識を割いてしまった。無視することが最善であるはずが、脅威に対して自動的に反応してしまう自動操作型念獣のメリットは、この場においては不都合だった。捕球への集中が散漫になる。

 

 何事もなければキャッチできたはずのゴンの投球を、№27は確かに受け止めることができた。しかし、その体は完全に内野のラインから外へと出ていた。

 

『エリア外に触れた状態での捕球は反則無効です。№27選手アウト!』

 

「よっしゃあ!」

 

 窮地を抜けだし、一気に逆転する。もう敵チームはバックを使えない。これで正真正銘、残す敵はレイザー1人だ。実質的に選手6人分のアウトを一度に奪う快挙を成し遂げたゴンは、しかしその功績に反して納得がいかない様子だった。

 

「ダメだ、あんなのじゃまだレイザーに勝てない」

 

 ゴンの眼中にある敵はレイザーただ一人であるらしい。次はもっと威力を込めると言う。つまり、先ほどの攻撃が全力ではなかったということだ。これならばレイザーを仕留めることも不可能ではないかもしれない。

 

『では、ゴンチームの内野ボールから試合再開です』

 

 敵は捕球に失敗してエリア外に出てしまったので、攻撃権はこちらに移る。もう一度、ゴンが必殺技を使う構えを見せた。先ほどと同じようにキルアがボールを持つ。しかし、私はそれを止めに入った。

 

「ナイン、どうした?」

 

 ゴンが放つ必殺技の威力はかなりのものだ。それだけのパワーがなければレイザーに通用しないことはわかる。だが、何の代償もなく使える技ではなかった。ゴンのオーラの消耗はもちろんのこと、その余波はキルアにまで及んでいる。

 

「ナインの言う通りだ。キルア、やせ我慢はよせ。ボールを支える役目を果たすお前の手は、大砲の砲身のようなもの。たった一撃でもゴンの攻撃の余波により大きなダメージを受けたはずだ」

 

 ツェズゲラも気づいていたらしい。しかも、キルアはゴンの攻撃の威力を減衰させないように、自分の手をオーラで保護していなかった。余計な外力を少しでも減らすためだろうが、このまま二度三度と同じことを繰り返せばキルアの手は使い物にならなくなるほど負傷することだろう。

 

「ボールを持つ役目はオレが代わろう。オレならば超高速の攻防力移動術によってゴンがボールを撃ち出す瞬間に両手をガードすることができる」

 

「いーよ、別に。このくらい何でもないって」

 

「必要のない負傷をする意味はないと言っているんだ。何を意固地になっているのか知らんが、確実な勝利を目指すのであれば……」

 

「ツェズゲラさん、この役目はキルアじゃないとダメなんだ」

 

 ツェズゲラがキルアの代わりを申し出たが、その提案をキルアとゴンの両者が否定した。キルアが申し出を断る理由はまだわからなくもないが、まさかゴンまで同じ意見だとは思わなかった。キルアが自分のせいで負傷していることはわかっているはず。キルアのことを考えるなら、ツェズゲラに任せた方が良いに決まっている。

 

「思いっきり、球を撃つことだけに集中できるのは、キルアが持ってくれているからなんだ」

 

 他の誰かに代わってしまえば全力を出せない、そのゴンの言葉はキルアへの全幅の信頼を表していた。念は精神状態が結果に大きく影響する。誰が球を持つかというそれだけのことでも発揮される力に違いが出てもおかしくない。

 

 怪我をさせることがわかっていてなお、ゴンはキルアを選んだ。見方によっては自分勝手とも思える考え方だが、それが二人の絆の形なのだろう。キルアはむしろゴンの言葉を受け、やる気を出したように見えた。

 

 ツェズゲラが何も言わなければシックスが代わりになるつもりだったのだが、ゴンとキルアの仲に割り込む余地はなさそうだ。シックスの手ならいくらでも壊してもらって構わなかったのだが。ならば、せめて少しでも怪我を減らすサポートをしておこう。

 

 キルアの手に『落陽の蜜』を塗る。ぬめるオーラで手を保護しつつ、摩擦を減らす潤滑剤にもなるので球の速度を殺すことはない。ボール自体をぬめらせているわけではないのでコントロールに影響は出ないだろう。ゴンの攻撃の威力の前では完全にダメージを抑え込むことはできないだろうが、何もしないよりマシになったはずだ。

 

「ありがとな、ナイン! よーし、もういっちょいくぞ、ゴン! 今度こそレイザーにぶちかましてやれ!」

 

「うん!」

 

 ゴンが静かに目を閉じ、気を練り始める。レイザーを倒すため、より強く、より速い球を撃つ。その執念がオーラに表れたかのようだった。

 

「おい、レイザー! まさかビビッて球を避けようだなんて腑抜けたことするつもりはねーよな?」

 

 キルアが挑発する。馬鹿にしたような口調だが、実際避けられると不利になるのはこちらの方だ。私たちがレイザーの攻撃をなんとか回避できたように、レイザーもゴンの攻撃を避けるだけなら可能だろう。それをされるとゴンがオーラをごっそり消耗しただけで終わってしまう。これだけの威力、何度も撃てるものではない。

 

「冗談だろ? ちゃんと受けてやるよ」

 

 しかし、レイザーはゴンのオーラを見てもまだ不敵な笑みを絶やさなかった。揺るぎない自信を感じさせる。一抹の不安がよぎるが、ここはゴンを信じよう。

 

「これで終わりだ、レイザー! 最初はグー! ジャンケン、グー!!」

 

 砲撃に等しい威力をもったボールが撃ち出された。先ほどの不安を払拭させるほどのオーラが込められている。№27を倒したボールよりも遥かに強い。たとえレイザーだろうとこれを受けて無傷では済まないはずだと確信する。

 

 それに対し、レイザーは構えを変えた。大きく脚を開き、体の前で両腕をV字の形に組む。どう見てもボールを捕ろうとする体勢ではない、あれはまさか。

 

「バレーのレシーブ!?」

 

 レイザーは腕でボールを受けると、素早く身を後方に引き、空中で回転して威力を殺した。跳ね上がったボールはわずか数メートルの高さで静止している。レイザーの身長とほぼ変わりない高さだ。レシーブだけで威力のほとんどを相殺してしまった。

 

「いつもより調子がいいな。久々に良い勝負ができたおかげか、勘が冴えわたってるぜ。うまいもんだろ?」

 

 自画自賛するだけのことはある。単純にパワーがあればできる技ではない。刹那の狂いも許されない力のコントロールを要しただろう。『避ける』と『捕る』という二つしかないと思われた選択肢を覆すまさかのレシーブ。くそ、ドッジボールやれよ。

 

「すっげぇ……!」

 

 ゴンは敵の技に素直な感嘆を見せた。落下したボールがレイザーの手に渡る。奴が投げればアウトか負傷者のどちらかが出る、そんな考えたくもない想像が浮かんでしまう。

 

「正直、ここまで善戦してくるとは思わなかった。お前たちの健闘を讃え、オレも相応の敬意を見せよう」

 

 そう言うとレイザーがパチンと指を一つ鳴らした。すると、外野にいた№27の体が崩れ、オーラとなってレイザーの体に戻っていく。分散していたオーラを自分自身に戻したのだ。敵の外野には№1だけが残った。

 

 一体だけでも脅威だった№27の力がレイザーと融合する。それがどれほど恐ろしいことか想像もできない。だが、『死』という結果だけは容易に思い描くことができた。そんなことをさせるわけにはいかない。

 

 シックスを前に出す。レイザーに向けて、かかってこいと指を曲げ挑発のジェスチャーを送った。

 

「なるほど、ご所望なら応えよう。遅かれ早かれどうせ全員、アウトになってもらわないといけないからな。まずはお前だ」

 

 レイザーがシックスの位置を見定め、オーラをボールへと集めていく。大気を震わすオーラの波動がボールの一点に収束していく。見ただけで息苦しくなるほどの力が渦巻いている。

 

「オレはお前たちのボールを受けた。お前も受け止めてくれるよな?」

 

「ば、馬鹿か! そんなもの当たれば確実に死ぬ! 避けるに決まっているだろう!」

 

 ツェズゲラが叫ぶが、言われるまでもなく最初から私は受け止める気だ。避けたところで外野に流れたボールは再びレイザーの手に戻る。その悪循環を断ち切るためには誰かが止めなければならない。

 

 ビスケもゴンも何となく私の意図をわかっている様子だが、止めに入ることはなかった。キルアは複雑そうな表情をしているが、やはり何も言わない。シックスはちょっとやそっとのことで死にはしないのだから、こういう時に体を張るべきだ。

 

 それを皆がわかった上で、この土壇場を任せてくれたのだと捉える。ならばその期待に応えてレイザーの球を止め、ゴンたちに渡すだけだ。ダメだったときは、そのときだ。

 

「いくぞ」

 

 レイザーがふわりとボールを宙に投げる。いつものスパイクだ。しかし、その威力はこれまでと比較にならない。おそらく、ほぼ全力。念獣を具現化していた分のエネルギーも上乗せされた途轍もない強打がボールを撃ち出した。

 

 その破壊力は見ただけで壮絶なものだとわかる。平凡なレベルのGIプレイヤーが相手なら、一撃で数十人を屠るだろう。もはや殺戮兵器の域に達したボールが瞬く間にシックスへと迫り、直撃する。

 

 腕の中に受け止めたボールは、上半身ごともぎ取られそうな勢いを持っていた。ただの身体強化だけでは実際にそうなっていた恐れもある。シックスは胸の前に『ジャムブロック』を作り出し、衝突のエネルギーを緩和していた。

 

 『落陽の蜜』の粘度を高め、より固形化させたオーラの形態である。強固な粘り気で敵を拘束するこの能力は、ボールを捕えた上で威力を和らげるクッションとしても機能する。さらに足を床に固定するためにも『ジャムブロック』を使っている。これならば吹き飛ばされることもない。

 

 だが、ボールの威力は私の想定を超えていた。こうして抑え込んでいるにもかかわらず、直進しようとする力は衰えない。さらに猛烈なスピンが摩擦によりジャムブロックを蒸発させ、腕の中から抜けだそうと暴れ回る。

 

「うおおおおおおお!!」

 

 私はジャムブロックを何重にも重ねがけしてボールを逃がさないように抱き止めた。肋骨が砕け、肺に突き刺さり、喉をせり上がってくる血を飲み込みながら猛攻を耐え忍ぶ。ボールを腕の中で握りつぶさんばかりの圧力を加え、抑えつけた。そのせいで心臓がグシャッといったが気合で乗り切る。

 

 その甲斐あってか、ようやくボールの勢いに陰りがみられた。ゆっくりとだが、威力が落ちていくのがわかる。この調子なら止められる、そう思ったとき足元からミシミシと嫌な音が鳴り始めた。

 

 オーラで固定していた足が床ごと引き剥がされそうになっている。床の強度まで頭が回っていなかった。このままでは床が壊れ、ボールごと体がコートから飛び出てしまう。そうなればアウトにされた上にボールまで奪われることになる。

 

 ボールの威力は初撃に比べてかなり落ちている。これなら内野の誰かに何とかキャッチしてもらえるかもしれない。してもらうしかなかった。ビスケにアイコンタクトを送る。彼女はすぐさま、うなずき返した。

 

 『ジャムブロック』を解除し、全力でボールを突き放した。その反動でシックスは勢いよく後方に吹っ飛ばされる。ボールは何とか跳ね返したが、どの程度の威力でどの方向に飛ばすかなど調整する余裕はなかった。

 

 シックスが競技館の壁に激突する。一瞬飛びかけた意識を何とか保ち、パラパラと崩れ落ちるコンクリート片の中から起き上がる。

 

「いたたた……まったく師匠に尻ぬぐいさせるなんて、とんでもない弟子だわさ」

 

 コートのそばのベンチに置いていた本体の目を通して自チームの様子を確認した。そこにはボールを手にしっかりと持つビスケの姿があった。キャッチするとき手を怪我したのか、手袋が破れて少し血が流れているようだったが、それ以上の大きな怪我はない。ほっと胸をなでおろす。

 

「オレの本気の一撃が止められるとはな……」

 

 若干ショックを受けている様子のレイザーにちょっとだけ溜飲が下がる。試合的にはこちらが押していたが終始余裕の態度だったレイザーに、今のでようやく一矢報いたような気がしていた。

 

「だが、今の攻撃を受けて無事では済まなかっただろう。命を賭してまで逃げなかった覚悟は評価するが、素直に避けていれば大怪我せずに済んだものを」

 

「うちのナインを舐めないでほしいわね。あんたの攻撃くらいでくたばるようなタマじゃないわさ」

 

「何? それはどういう意味……」

 

 シックスがコートへと歩いて戻る。ボールを受け止めた胸部は先ほどまでひどい損傷があったが、既に修復済みだ。無傷で堪え切ったことに疑問を持たれるのではないかと思ったが、逆にそれが得体の知れなさを醸し出してプレッシャーになるかもしれない。

 

「なにっ……!?」

 

 こちらの思惑通り、レイザーを含め全員の視線が集まった。ここはあえて多くを語らず威風堂々と、完治した胸部を見せつけるように――さらけ出す。

 

 真っ先に反応を示したのはキルアだった。顔を真っ赤にして恐ろしいスピードで駆け寄ってくる。

 

「このバカっ! もーバカっ! アホ! 丸見えじゃねーか!」

 

 そして私の後ろに回り込むと胸を隠すように両手を回してきた。その態度から察するに、胸を露出させたことを咎めているものと思われる。

 

 シックスの肉体はオーラで修復できるが、着ている服まで元に戻すことはできない。ビスケに買ってもらった『女拳法家の服』は胸元が思いっきり破れている状態だった。

 

 しかし、あれだけの攻撃を受け止めたのだから服の一枚や二枚破れるのは仕方がない。別にわいせつな目的で露出したわけではないことはわかるだろうに、そこまで慌てるほどのことか。

 

 まぁ、もし私の前に胸をあられもなく露出させた女性が現れるようなことがあれば取り乱しただろうが、それは虫と人間の精神が混ざり合った私の特殊な精神構造が生み出した異常な反応であり、普通の人間はこんな少女の未発達な胸を見ても特に何も思わないはずだ。

 

 だが、不快に思われるようなら隠した方がいいか。シックスはポケットから絆創膏を取り出して乳首の上から貼り付けた。よし。

 

「よしじゃねーよ!」

 

 スパーンと小気味よく頭を叩かれる。

 

「つか、何でそんなもん持ってんだよ!?」

 

 これはビスケに言われて購入したものだ。最初はこれを乳首に貼れと言われてからかわれているのかと思ったが、どうやら絆創膏は下着としても使われることがあるらしい。

 

 胸部を保護する女性用下着としては一般的とは言えないが、ブラジャーのように上体の動きを多少なり拘束する補正具に比べ、絆創膏はそのような心配がない。乳房が大きい場合はブラジャーを着用するべきだろうが、シックスの平坦な胸なら絆創膏だけで何の問題もなかった。

 

 これはアスリートのように身体的パフォーマンスを求められる活動をしている者にとっては常識であるらしい。

 

「おうゴラァ! なにふざけたこと教え込んでんだ、このババァ!」

 

「だってこの子、何でも疑わずに信じこんじゃうから、つい……」

 

 何だかよくわからないが、結局貸してもらったタオルを胸に巻いて隠すことになった。こんなもの激しい運動をすればすぐに外れてしまいそうな気もするが、キルアが絶対に隠せと言って聞かなかった。ちょっと電気が漏れるくらい本気で脅された。

 

「さあ、試合再開だ! ここからはシリアスモードだぜ! みんな、さっきまでの空気は引きずるなよ! 気を引き締めろ!」

 

 キルア以外のメンバーは既に臨戦態勢を整えている。ボールは何とか奪取できたが、レイザーからアウトを取るという最後の難関が残されていた。

 

 こちらの攻撃の要はゴンだ。しかしその消耗は大きく、ゴンは流れるほど大量の汗をかき、呼吸も乱れていた。必殺技を撃てる回数は多く見積もっても後2回くらいが限度だろう。

 

 いや、レイザー相手に力を小出しにしたところで意味がない。全力の一撃に賭けるしかなく、攻撃のチャンスは後1回きりだと思った方がいい。これを逃せば勝算は一気に低くなる。

 

 ゴンの攻撃はレイザーと比べても遜色ない威力があるが、レイザーはそれを止めるレシーブという手立てがある。あの神業レシーブを攻略できなければさっきの二の舞で終わってしまう。

 

「大丈夫、次こそレイザーに勝つ。もっと強く、あいつに届く球を……!」

 

 ゴンの練り上げるオーラは一度目よりも二度目、二度目よりも三度目と力強さを増していた。それは最初の攻撃のとき手を抜いていたからではない。この戦いの中で、見違えるほどに成長しているのだ。

 

 心の底から勝利を目指す執念がなければたどり着けない境地である。己の全身全霊をもってレイザーを倒そうとしている。ならば、私も同じチームの一員として同じ覚悟を持つべきだろう。

 

 シックスはセンターラインの近くでしゃがみこみ、床に手をついた。そこから『落陽の蜜』を放出し、敵のコートへと床伝いに這わせていく。

 

 コートをぬめるオーラで覆い尽くすことにより、敵の行動を封じこむ。このぬめり気の上では滑らないように歩くだけでも困難だ。ましてゴンのボールをレシーブで受け止めるなんて一分の狂いも許されない繊細な動作ができるはずもない。

 

 この作戦は試合が始まる前から考えていた。しかし、実行できない理由があった。『落陽の蜜』は私の本体である虫の体に発現した能力であり、本来は念獣であるシックスが使うことはできないのだ。

 

 だが、シックスの肉体は本体から供給されるオーラによって形成されている。そのつながりを強引に利用してシックスに能力を使わせることもできたが、それには多大なオーラを消費してしまう。少量を作り出す程度なら何とかなるが、敵のコート全面をオーラで覆い尽くし、その状態を維持し続けるとなるとさすがに無理だった。

 

 本体を一緒に試合に持ち込めたのなら簡単にできただろうが、念で具現化された以外の道具は携帯が認められていない。シックスは具現化された存在なので本体を選手扱いにすればルール上は問題なかったかもしれないが、そこまで情報を明かしたくはない。

 

 つまり、これは実現不可能だと諦めていた作戦だった。その考えを今に至り覆す気になったのは、ゴンの本気を見たからだ。一度目の球は辛くも№27を倒したが、レイザーに通用する威力ではなかった。そして、二度目は完膚なきまでに防がれた。そこで心が折れたとしても何もおかしくない。レイザーには勝てないのだと諦めたのだとしても責めることはできない。

 

 だが、ゴンの精神は少しもくじけることはなかった。むしろ敵の強さを称賛し、自らを鼓舞してみせたほどだ。無理だと断ずる前に、やれることをやる。私もそうしてみたくなった。

 

 急激にシックスの体内からオーラが抜け出ていく。まるで穴の空いたバケツから流れ出すように失われていくオーラと比して、生み出された粘液は1メートル四方の範囲にも満たなかった。目標に達するには気が遠くなるほどのオーラを消耗することだろう。構わず、本体からオーラを徴収していく。

 

 レイザーに逃げ場を残すわけにはいかない。少しでも足場が残ればレシーブは可能である。粘液は作り出すだけでなく形を維持し続けるだけでもオーラを使う。もって数分、いや数十秒と言ったところか。それでも何とかゴンの攻撃に合わせてみせよう。私は力を振り絞る。

 

 そのとき、競技館の入り口から騒がしい声が聞こえてきた。数人の人影が入ってくる。ツェズゲラ組のプレイヤー3人と、それに肩を貸される形で歩くゴレイヌの姿だった。

 

「なんだこの状況……敵の内野はレイザー1人だってのに、こっちの内野選手は1、2、3……5人もいるぞ!?」

 

「あのレイザー相手にここまで戦い抜いたのか!」

 

「ツェズゲラも残ってるな。まぁ、当然か」

 

 ゴレイヌはボールが当たった腹部をかばい、覚束ない足取りだったが、命に別条はなさそうだ。無事、とまでは言えないが、怪我をおしてまで試合を見に来てくれたのだろう。

 

 これでメンバーは全員そろった。後は意地を見せるだけだ。全力でオーラを吐き出し『落陽の蜜』を敵陣へ送り込む。目がかすみ、意識が朦朧としていく。もはや立ち上がることもままならないほどの疲労感がのしかかってくる。それでも能力の発動を止めなかった。

 

「脱帽だな」

 

 ついに敵コートの全面が粘液で覆われた。少しでも足を動かせば、ぬめり気の餌食となるだろう。レイザーの靴の裏にまで粘液は染み込んでいる。これでレシーブは封じこんだ。

 

 ゴンは精神を極限まで集中させ、攻撃の用意を整えていた。そのオーラの波動はまさに怪物。尋常ならざる力を見せつける。最大威力の攻撃が撃ち出されるであろうことは言うまでもなかった。

 

 さらに外野ではヒソカがゴムの膜を準備して構えていた。もしレイザーが回避を選び、ゴンの球をかわしたとしても即座にヒソカがゴムの膜で受け止め、レイザーに向けて跳ね返す作戦か。ぬめり気の上で滑り転んだレイザーに回避するすべはない。

 

 ヒソカが自分の手を隠す様子を見せないのはレイザーを威圧するためだろう。レイザーの敵は正面だけではなく背後にも控えている。当然、奴はその全ての状況に対応する必要を迫られる。

 

 八方塞がりだ。もはやレイザーに打つ手はない。そのはずだ。

 

「どうしたゴン、お前の本気はそんなものか?」

 

 なのに、その余裕はどこから来る。どう考えてもこの布陣を乗り切る方法はない。それとも、まだこの強敵は切り札を隠し持っているとでも言うのか。力が抜けそうになる体に喝を入れ、途切れそうな意識をつなぎとめる。まだ『落陽の蜜』を解除するわけにはいかない。

 

「レ、イ、ザァァァァアアアアアアア!! さいしょは――!」

 

 掛け声と共にゴンのオーラが右の拳に凝縮されていく。一方、レイザーは回避ではなくボールを受け止める体勢を作る。無駄だ。たとえ『硬』を使ったとしてもこの威力は殺しきれない。無事に捕球できたところで場外へ押し出されるだけだ。

 

「ジャンケン……グー!!」

 

 最後の一撃が飛ぶ。攻撃を撃ち放つと同時にゴンは体勢を崩した。力を使い果たして気絶したのだ。それだけの威力が乗った一撃、受け止められるわけがない。

 

 だが私の目は、ゴンがボールを撃ち出すのと同時にレイザーの手からも何かが撃ち出される光景を捉えていた。それは『念弾』だ。放出系能力者がよく使う攻撃手段であり、遠距離攻撃を可能とする点は便利だが、よほど優れた使い手でもない限り大した威力を込められるものではない。

 

 では、レイザーの場合はどうか。その念弾には一流の使い手が放つにふさわしい力があった。ボール大の大きさの念弾がレイザーの手から発射され、ゴンが撃ち出したボールに当たる。

 

 二つの砲弾は衝突し、互いのオーラがフレアのように輝き飛散する。ぶつかり合った両者の戦いは勝負にもならかった。いかに強力なオーラが込められていようと、ゴンの硬の一撃を念弾一発では覆せない。

 

 だが、レイザーの念弾は一発で終わりではなかった。同じ威力の弾が立て続けに発射され、ゴンのボールにぶつかっていく。全ての念弾が弾き飛ばされ、競技館のそこかしこに破壊の爪痕を残していく。

 

 そのうちの一発がシックスに向かって飛んできた。

 

 予想もしていなかった流れ弾を前に体が動かない。普段の私なら回避なり防御なりできただろうが、今は『落陽の蜜』の発動に手いっぱいで一歩も動けない状態だ。

 

 ここで流れ弾に当たれば限界まで酷使しているシックスの体では堪えられない。確実に意識は失うだろう。そうなれば『落陽の蜜』が解除されてしまい、レイザーに自由を許すことなる。

 

 まさか、レイザーはここまで計算していたというのか。これが意図的に狙ったものだとすれば反則だと言いたくなるが、それを言い出したら『落陽の蜜』でコートを覆った私も同じくらい反則だ。

 

 頭だけは目まぐるしく働いているが肉体が全く動かない。そんな状態に陥ったシックスの前に、一つの影が割り込んだ。

 

「ぬぇい!」

 

 それはツェズゲラだった。両腕を交差し、オーラで強化した防御力をもって念弾を受け止める。

 

「これまで全く活躍できなかったからな。このくらいの働きはさせてくれ」

 

 防御態勢をしっかりと固めた上で防ぎきったように見えたが、それでもダメージがいくらか通ったのかツェズゲラの声には苦痛の色が感じ取れた。だが、今はその背中が頼もしい。ここで遠慮するのは逆に失礼というものだろう。ありがたく守ってもらうことにする。

 

 この一連のやり取りを終えるまでの時間を考えれば勝負の決着がとっくについていてもおかしくなかった。だが、現実にはまだ試合が続いている。

 

 レイザーの猛撃によってゴンのボールの速度が落ちていた。空中で両者の力が拮抗するようにせめぎ合っているのだ。掃射される念弾が壁となりボールの行く手を遮る。速度は徐々に失われていく。

 

「だ、だめだ……勝てない! 強すぎる!」

 

 誰かが吐いた弱音が聞こえた。確かにレイザーは強敵だ。このチームの誰か一人でも欠けていれば負けていたかもしれない。だが、決して無敵の存在ではなかった。

 

 今のレイザーの表情に、強者の余裕はない。歯を食いしばり、全力をもってゴンを迎え撃とうとしている。

 

 ゴンのボールは止まらなかった。幾度となく念弾にぶつかろうと、どれだけ進路を阻まれようと、亀のような速度にまで落とされようと、ゆっくりと前に進み続ける。内包された推進力が尽きることはない。

 

 オーラの力だけでなせる技ではなかった。ボールに込められた不屈の闘志は、まだ死んでいない。ゴンの思いがそのまま形となったこのボールを簡単に止められるものか。

 

 その思いは、レイザーに届く。

 

 

 

「見事……!」

 

 

 

『レイザー選手アウト! よってこの試合、ゴンチームの勝利です!』

 

 割れんばかりの歓声が湧きあがった。

 

 



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71話

 

 のっそりと起き上がる。ベッドの上に所狭しと置かれていたぬいぐるみの一つが、ぽとりと床に落ちた。

 

「おはようございます……」

 

 私以外には誰もいない部屋だが、朝の挨拶がビスケの指導により習慣化、いや条件反射となっていた。虚空に向かってぺこりと一礼する。

 

 普段の私は寝起きが良い方なのだが、昨日の疲れもあってか寝ぼけ眼をごしごしと擦る。レイザーとの試合でほとんどオーラを使い果たしてしまった。だが、ぐっすりと休息を取ったので体調はそれほど悪くない。

 

 あの後、私たちは念願の『一坪の海岸線』を手に入れることができた。そしてゴンはレイザーと父親のことについて話ができたようだ。結局、父親の居場所はわからなかったが、ゴンは最初から期待していなかったのか落ち込むことはなかった。レイザーから話を聞けただけで満足しているようだった。

 

 『一坪の海岸線』は『複製(クローン)』の魔法で増やして分配された。取り決め通りゴン、ゴレイヌ、ツェズゲラの三人が持つことになる。オリジナルのカードはゴンが受け取った。

 

 『複製』で増やしたカードもオリジナルと同様に指定ポケットに入れることができるが、これらのコピーされたカードは特定の呪文カードやアイテムによって変化が解除されてしまう危険がつきまとう。また出回るカードの中にはコレクション対象にならない『贋作(フェイク)』によるコピーカードも入り混じるがゆえに、オリジナルカードの方が価値は高い。

 

 どの組がオリジナルを手にするかということについて意見が割れることはなかった。ツェズゲラ組もゴレイヌも、今回の最大の功労者はゴン組だと認めてくれたおかげだ。

 

 ここで話が綺麗に終われば万々歳だったのだが……。

 

 海賊のアジトから出立した直後、狙い澄ましたかのようにゲンスルーから『交信(コンタクト)』による接触があった。以前に共闘した攻略組から情報が漏れたものと思われる。バインダーを確認したところ、何人か名前の表示が黒くなっていた。ゲンスルー組に殺されたようだ。

 

 想定していた事態の中でも最悪のケースである。これで対ゲンスルー戦に備えて用意していた奇襲作戦がほぼ使えなくなった。ただ不幸中の幸いにも、ゲンスルーはオリジナルカードをツェズゲラが持っているものと勘違いしており、最初の標的をツェズゲラに絞っていた。

 

 急遽作戦を変更し、ツェズゲラ組がゲンスルー組の注意を引きつけて時間を稼ぐことになる。可能ならゲンスルー組を始末するつもりのようだが、それは難しそうだ。返り討ちに遭う可能性が高い。それほどの強敵である。

 

 ツェズゲラは三週間、時間を稼いでみせるとのことだった。それまでにゴンたちがゲンスルー組を倒す手立てを考え、準備を整える。

 

 99枚のカードは出そろった。後は誰が最初にその全てを手にするか。熾烈な争奪戦が始まろうとしている。おそらく、あと三週間足らずでこのゲームは結末を迎えることになるだろう。

 

 そんな差し迫った事態であるのだが、私はある事情からゴンたちとは別行動を取っていた。移動系の呪文カードにより、今は恋愛都市アイアイにいる。ヒソカと最初に出会った時、訪れた街である。

 

 あの男との約束を果たす時が来たということだ。本当はゴンたちを優先したかったが、ヒソカが許さないだろう。試合を終えた時点でいつ爆発してもおかしくない状態だった。

 

 ゴンたちには心配をさせないためにヒソカと闘うことは言っていない。少し用事で離れるが、すぐに『磁力(マグネティックフォース)』で合流すると言っておいた。

 

 ベッドから降りて、ぬいぐるみに見送られながら部屋を歩く。ファンシーなデザインで統一された一室だ。昨晩は極度の疲労のため宿をじっくりと選んでいる余裕もなく、適当に入ったホテルに泊まり泥のように熟睡した結果だ。

 

 洗面台の前に立ち、寝ぐせのついた髪に櫛を通す。金色に染まった髪は一撫でするだけで、櫛に何の抵抗も残さずほどけていく。私にとっては当たり前のことだったが、なぜかビスケに不公平だとよく怒られたことを思い出す。

 

 髪型をいつものお団子の形に整える。ビスケに教えてもらったシニヨンだ。今では自分で結べるようになった。それが呼び水になったかのように、このゲームを通して出会った仲間たちの顔が思い浮かんだ。

 

 この非常事態に勝手な行動を取ってしまったことは心苦しい。特に事情を詮索することもなく、ゴンたちは私の別行動を許してくれた。それが余計に心を揺らす。

 

 別に嘘をついたわけではない。用事が済んだら戻る。そう自分に言い聞かせながらも、本当にその思い通りに事が進むだろうかと疑問に感じる自分もいる。

 

 相手はあのヒソカだ。その実力もさることながら、本当に恐ろしいのは奴の精神である。負けるつもりはもちろんないが、勝負の行方がどうなるか予想はできなかった。

 

 今からでもゴンたちのところに戻り相談した方がいいのではないか。きっとみんな、私のために力を貸してくれる。迷惑をかけることなんて気にせず頼るべきだ。それが、仲間だ。

 

 そうした方がいいと確信できた。鏡の中に映るシックスの表情を見ればわかる。“こんな顔”をした奴に任せてしまえば、たとえどちらが勝とうともろくな結果にならない気がする。

 

 だが、それは無理な話だ。ゴンたちは遥かに格上のプレイヤーであるゲンスルーとの戦いに備える大役がある。ここでヒソカという脅威まで同時に押し付けるようなことは許されない。仲間であるからこそ、なおさらだ。

 

 これは、私の闘いだ。

 

 一通りの身支度を終えて服を着替える。レイザーとの試合で破れてしまった『女拳法家の服』は元通りに直っていた。破損した装備品は街の修理屋でお金を払って直してもらえる。完全に壊れた品や、一部のレアアイテムを除けばその場で修理可能だ。

 

 チャイナドレスに似たデザインだが、落ちついた色合いで丈夫な作りになっている。店売りの装備品としては上等な部類のアイテムだ。布地でも防御力はそれなりにある。鏡の前で詰襟を閉めた。

 

 最後に虫の本体を手に取った。いつものようにリュックへ入れようとしたが思いとどまる。右腕にしがみつかせて、そのまま部屋を後にした。

 

 

 * * *

 

 

「やあ❤ 早いね♦」

 

 待ち合わせ場所に着く。街の郊外にある、ただの平原だ。ヒソカは街中での決闘も面白いなどと最初言っていたが、さすがにそれは拒否した。ゲーム的に作られたNPCたちとはいえ、住人に被害が及ぶようなことはしたくない。

 

「ボクも待ちきれなかったよ♠」

 

 約束の時刻まであと二時間もある。待ち時間は精神統一でもしておこうと思っていたが、その必要はなさそうだ。

 

「今日は絶好のデート日和だと思わない?♣」

 

 空は曇天だ。晴れでも雨でも、この男にとっては絶好だろう。禍々しいオーラの気配が大気を冒すように広がっていく。私は纏のオーラを整え、殺気を跳ね除けた。

 

「じゃあ、ヤろうか❤」

 

 引き絞られた弓のようにヒソカの体がしなる。私が構えを取ると同時に、荒れ狂う殺気は最高潮に達し、爆ぜた。

 

 通常の凝から『二重凝』へと移行する。シックスと本体、人間と虫の目からなる視覚情報が重なり合わさる。一切の油断も許されない相手だ。全力で敵の動向に注視する。

 

 対峙していた距離は10メートルほどだ。ヒソカは瞬きをする間もなく距離を詰めて来る。シックスは迎撃の構えを取った。

 

 ヒソカの武装は右手の指に挟んだカードが一枚のみだった。GIのカードではなく、何の変哲もないトランプだ。しかし、たかが紙切れ一枚と侮ることは決してできない。ヒソカの念によって強化されたトランプは鉄パイプすら容易く両断することだろう。

 

 迫りくる攻撃の軌跡を見極める。敵の身のこなしは呆れるほどに速い。その強さはレイザー戦でも垣間見たが、こうして実際に闘ってみて初めてわかる。動きの一つ一つに無駄がない。隙と思える動作にも意味がある。単に身体能力が高いだけではなく、それを戦闘力へと開花させる技がある。

 

 『二重凝』によって初撃は回避できた。振るわれた鋭利なトランプの一閃をかわした、かに思われた。

 

 ヒソカの手からトランプが飛び出す。手首のスナップだけで投げられた一枚のカードが、手裏剣のような鋭さでシックスの顔目がけて飛んでくる。思わぬ一撃だったが対処は間に合った。首を傾けてカードを避ける。

 

 『堅』を維持していたはずだが、カードがかすっただけで頬に一筋の傷が出来ていた。何とかカードはぎりぎりのところで回避できたが、ヒソカの攻撃はそこで終わらない。私の目が頬に貼り付いたヒソカのオーラを視認する。

 

 『伸縮自在の愛(バンジーガム)』だ。カードに貼り付けていたゴムとガムのオーラが、シックスの体とわずかに接触した瞬間になすりつけられていた。頬につながるオーラの末端はヒソカの手に握られている。奴の意思一つでこのゴムのオーラは素早く縮み、なすすべもなく引き寄せられることだろう。

 

 だが、私はヒソカの能力を事前に知っていた。奴と出会ってから一週間ほど経つがその間、何の対策も講じていなかったわけではない。瞬時に懐から取り出した武器を振るった。

 

 これはビスケに服を買ってもらった際、一緒にもらった鉄扇である。正式名称は『八卦四象扇』と言い、Dランク相当の武器だ。閉じた状態ならば鈍器として、開いた状態ならば骨に仕込まれた刃を用いて斬りつけることもできる。

 

 『周』で強化した鉄扇の斬撃を、ヒソカのオーラに叩きこむ。オーラで強化された刃物は切れ味が格段に向上する。ゴムの性質を持つヒソカのオーラは打撃には強いだろうが、斬撃には弱いはず。

 

 しかしその目論見は外れ、鉄扇はゴムに食い込みはしたものの断ち切るには至らなかった。半分、いや三分の一ほどしか切断できていない。予想を遥かに上回る強度。それだけ敵の能力の性能が高いことを表している。

 

 この鉄扇をもっと以前から武器として使い続けていれば、もしかすると斬ることができたかもしれない。オーラによる物質強化はその武器を長く愛用するほど効果も上がる。だが私の場合、所詮はここ数日使い始めたばかりの付け焼刃だ。

 

 切断に失敗した私はすぐさま後方へと飛び退き、ヒソカから距離を取る。それは悪手だった。伸びきったオーラのひもが勢いよく縮み、シックスの体が引っ張られる。

 

 ゴムは伸びれば伸びるほど元に戻ろうとする弾性エネルギーが大きくなる。距離を取ろうとすればそれだけ縮む時の勢いも増す。シックスが引っ張られ、宙に浮いた。その先に待ち受けているのは拳を構えたヒソカだ。

 

 無防備に自分から飛びこんできた獲物に強烈な一撃を浴びせるつもりなのだろう。それは私の望むところだ。私は悪手だと承知の上で、わざとヒソカの攻撃を誘っていた。

 

 右手の手甲、虫の本体にオーラを集める。わざわざ敵のもとまで引き寄せてくれるというのなら好都合だ。ゴムの勢いを利用してヒソカに接近し、必殺の一撃を食らわせてやる。たとえヒソカが待ち構えていようと、こちらは捨て身の攻撃が可能であり、防御に気を使う必要はない。

 

「おっと♣」

 

 だが私の狙いを察したのか、ヒソカは身を翻した。回避された私はそのまま勢いよく地面に激突する。リミッターを外し、限界を超えた強化が込められた拳が着地点を陥没させ大量の土を巻き上げる。

 

 こちらの奇襲も見破られた今となっては、このままヒソカのオーラに拘束され続けるのは不利でしかない。鉄扇を振るい、ゴムのオーラを切り離す。ヒソカのオーラではなく、それがつながっているシックスの頬の肉ごと切り取った。

 

 ゴムのオーラが持ち主のもとへと帰っていく。奴の手元に引き寄せられたのは切り離されたシックスの肉のみだ。何を考えているのか、ヒソカはそれに舌を這わせる。

 

「面白いね、キミのカラダ❤ どこまで壊すことができるのか、とっても気になる♠」

 

 薄気味悪い笑い声を上げる奇術師を前に、油断なく構えを取る。だが、シックスの表情はいつにも増して硬かった。平常心を保とうと心がけるが、そう考えること自体が既に動揺の表れを示している。

 

 焦りが足を前に進ませた。格上相手に無謀な接近戦を挑む。一発、二発くらいの攻撃までは何とか対処することができた。しかし、流れるようにつながっていく連撃に、体が追い付かなくなる。全く隙が見当たらない。最初からこちらがどう動くのか全てわかっていたかのように見透かされる。

 

 ヒソカには、事実わかるのだ。オーラと肉体の動作から、戦闘に際した人間が取る次の一手を予測する。実際にはヒソカにも全てを見通すことはできず、その場に合わせた選択を取捨しているのかもしれないが、その間断さえ私には判別がつかない。

 

 基礎能力で圧倒的に劣る私にこの窮地を覆す一手が残されているとすれば、念能力だ。ヒソカがシックスの腹を狙って拳を放つ瞬間を見計らい、能力を発動させる。『落陽の蜜』の別形態『ジャムブロック』がヒソカのパンチの衝撃を吸収し、その腕を拘束した。

 

 あのビスケにも通じた戦法である。いかに強敵とはいえ、腕一本を拘束されたままこれまで通り自由に動くことはできない。捨て身でかかれば攻撃は届く。痛み分けだろうとダメージを与えれば、こっちは回復できる分確実に有利になる。

 

 しかし、その思惑は『ジャムブロック』から何の抵抗もなくずるりと引き抜かれたヒソカの腕を見て打ち砕かれた。ヒソカを拘束できなかった。その理由がわからず、思考が鈍る。敵を前にして晒したその思考の空白はあまりにも愚かな隙だった。

 

 ヒソカが回し蹴りを放つ。『ジャムブロック』の発動に集中していた私はその攻撃に反応できなかった。シックスの目に映った光景は高速で迫るヒソカの蹴りを最後にして途絶える。一撃で意識を奪われた。否、首の骨を折られていた。

 

 ヒソカは戦闘狂だ。この勝負を持ちかけてきたことにしても闘いを楽しむ目的でしかない。ならば、簡単にシックスを殺すような攻撃を仕掛けてくることはないだろうと思っていた。そう勝手に思い込んでいた私にとって、この致死の一撃は想定外だった。

 

 それとも、この奇術師の嗅覚は嗅ぎつけていたのだろうか。シックスがこの程度では死なないということを。死のラインがどこにあるか、この男は見通しているのではないか。

 

 常人なら確実に死んだとわかる頸椎の損傷。シックスの首は直角に折れ曲がっていたが、ヒソカがそこで止まることはなかった。回し蹴りによって半転した体勢から即座に裏拳を打ってくる。脳との神経が途切れた今のシックスの肉体では対処するどころかオーラによる防御すらできない。

 

 瞬時に本体との意識を再リンクさせ、脳の機能を代替する。ヒソカの裏拳打ちに腕を割りこませて防御した。首が折れた状態で反応したシックスを見て、ヒソカが心底嬉しそうな狂笑を浮かべる。

 

 こちらが簡単には死なないと確信したからか、ヒソカの攻撃から遠慮が消えた。ただでさえ劣勢に立たされていたというのに、もはや抗うすべはない。

 

 怒涛のような攻撃が突き刺さる。捨て身で攻撃を仕掛けても、ヒソカの卓越した『流』によって全て受け流される。傷は回復できるが、オーラを消耗してしまう。致命傷の連打を受ければ当然、消費するオーラも跳ね上がる。無限に回復はできない。いつか底をつく。

 

 敗北。その影が着々と忍び寄っていた。

 

 この日のために考えてきたヒソカへの対抗策は、ほとんど役に立たなかった。その最たる作戦が『ジャムブロック』だったのだ。たとえ格上相手だろうと動きを封じて少しずつダメージを与えていけば倒せると思っていた。

 

 ヒソカがどうやってその拘束から脱したのか、今になってようやく理解できた。自分の手を『伸縮自在の愛』でコーティングしていたのだ。ゴム手袋のように纏ったオーラを『ジャムブロック』の中に脱ぎ捨てて拘束から逃れていた。

 

 私がヒソカの能力を知っていたように、ヒソカも私の能力を見ている。攻略手段を考える時間は十分にあっただろう。もはや、ろくに使いこなせもしない『落陽の蜜』を戦法に組み込んだところで通用する気はしなかった。

 

「どうしたのかな♦ 動きが鈍くなってない?♣ せっかくのデートなんだからもっと楽しまないと♠」

 

 戦士としての次元が違う。ビスケによって与えられた私の強さは、彼女が言った通り『教えられて強くなる』範囲に過ぎなかった。スタート地点に立っていただけだ。

 

 そこから先に進むためには実戦を積むしかない。命のやりとりを繰り返し、死なずに生き残った者のみが本当の強さを手にすることができる。まともな精神では歩むこともできない修羅の道。ヒソカが数え切れないほどの死闘を積み上げてきたことは骨身にしみて理解できた。

 

「前も言ったけど、キミには採点できない強さがある♦ 数字では測れない魅力がね❤ 恥ずかしがらずに見せてほしいな♠ ボクが全部受け止めてあげるよ❤」

 

 こうなることはわかっていた。何度もヒソカへの対策を練り直し、大丈夫だと自分に言い聞かせていた。もっと深く、慎重に考えるべきことから目をそらしていた。

 

 負けることでも、死ぬことでもなく、その先にある強さを得ることを、私は最も恐れていた。

 

 

 * * *

 

 

『“憑き物筋”って奴らがいるのよ』

 

 私はビスケに心源流の技を教えてくれと頼んだことがある。だが、それは断られた。私の動きには無意識の“型”が表れており、それを別の武術で矯正しても良いことはないと言われた。

 

 だが、それはおかしな話だ。本来なら武術を学ぶことで習得するはずの型を、誰にも教わることなく最初から体が覚えているなんて不自然極まりない。そのことをビスケに聞くと、彼女はある事例を話した。

 

『当然だけど、世の中には心源流以外の武術流派が数え切れないほどある。その中には邪念に堕ち、真っ当な道から外れた強さを求める流派もある』

 

 その一つが憑き物筋と呼ばれる者たちらしい。一子相伝の秘術を用いて自らが生涯の内に極めた武の全てを後継者に継承させる。それは教えるのではなく、魂に植え付ける行為だという。

 

『たいていはろくな結果にならず潰れることがほとんどなんだけど、たまーに“本物の”使い手が生まれることがある。あたしは一回闘ったことがあるけど、まあまあ強かったわね』

 

 本来ならば闘いと修練の果てに修める武術の継承を、儀式によって直接肉体に植え付ける。そんな人知を超えた秘術がまともな技であるはずがない。これは『死後強まる念』を使った邪法らしい。

 

 この世に強い未練を残して死んだ念能力者のオーラは、死んだ後も現世に形を残すことがある。普通は狙ってその効果を発揮することはできないのだが、一族が血のつながりを利用して何世代もの命を犠牲にし、何十年何百年という膨大な時間を費やして、死後の念を意図的に発現可能とする術式を紡ぎあげる例があるという。

 

 その邪法を使えば、生まれた時から武術を身につける人間を作り出すこともできる。それが本当なら確かに強いだろう。普通の人間が修行の果てにたどり着く境地に、生まれながらにして立っているのだ。

 

『でもそんなに簡単に強さが手に入るなら誰もがやろうとするはずだわさ。現実は、ちっぽけな強さの代わりに心を失った狂人になり果てるだけよ』

 

 死後強まる念は、その人間の未練、苦痛、恐怖、憎悪といった壮絶な負の感情から生まれた産物である。何世代にも渡り積み重なった邪念を一身に込められた人間が正常な精神を維持できるわけがなかった。ゆえに邪法だ。

 

『あんたにこの話をしようかどうか迷っていたんだけど……寄生型念獣、俗に守護霊獣と呼ばれる存在も、邪法の一つに数えられる』

 

 寄生型念獣が自然発生することはない。その一族を守るために死後の念を積み上げて作られた存在だという。過程と結果は異なるが、本質は憑き物筋と同じだ。守護霊獣の中には自らの存在意義を放棄して、守るべき憑依者を殺してしまう邪悪な者もいる。

 

 そこまで行かずとも、憑依者は多かれ少なかれ念獣から精神的な影響を受けるという。そして寄生型念獣もまた様々な人間の思いが入り混じり、憑依された本人にさえ制御できない複雑な存在へと変貌していく。

 

『あんたが無意識に扱う型の動きも、念獣からもたらされた影響でしょう。今のところ憑き物筋のように心が壊される様子は見られないけど、用心だけはしておきなさい。寄生型念獣の本質は死後の念、強い邪念に由来するものだから』

 

 

 * * *

 

 

 殴りつけられたヒソカの拳を防ぎ、反撃の一手を打つ。畳んだ鉄扇を用いた突きだ。

 

「お♠」

 

 その突きは、難攻不落に思われたヒソカの防御をいとも容易くかいくぐった。するすると胸の中心、心臓目がけて鋼鉄の打突が押し通る。

 

 しかし攻撃が当たる直前、ヒソカは後ろに飛んで威力を殺した。バク転で距離を取りながら、器用にトランプの手裏剣を放ち牽制してくる。

 

 高速で飛翔するカードが二枚。甲高い音を立てて開かれた鉄扇を一薙ぎする。その一刀のもとに二つのカードは寸断された。貼り付けられていたゴムのオーラもろとも切り捨てる。その光景を見たヒソカは拍手喝采を送ってきた。

 

「すごいじゃないか、今の動き♠ キレッキレだね♦ ようやく本気を出してくれる気になったのかい♣ 嬉しいよ❤」

 

 扉を三つほど開けてみたが、強くなったことで今まで見えていなかったヒソカの実力がまだ遠くにあることを認識できた。奴に勝てるまで強くなるのだとしたら、後いくつの扉を開く必要があるのだろう。

 

 あっけなく手に入った力。それはシックスと本体がより深く意識をつなげることで至る境地である。集中状態の意識の中に生まれる扉を開けるような感覚と共に強くなるが、それは不可逆の作用だった。一度開いた扉を閉じることはできない。

 

 何も知らなかった頃の私は特に抵抗もなく使っていたが、ビスケと出会ってからは使用を控えていた。今にして思えば扉というよりも、これは隔離壁なのかもしれない。影響を妨げるためにある防壁だ。

 

 私が今抱いている感情は、果たして防壁の奥に閉じ込められた存在に向けられたものなのか、それともそれを自らの手でこじ開けようとする自分に対してのものか。

 

 あまりにも愚かだ。きっとビスケがいれば、キルアやゴンがいればこんな不正な力を使おうとは考えなかった。仲間たちの存在がストッパーになっていた。

 

 しかし、ヒソカとの闘いを避けることはできなかった。拒めばヒソカはゴンたちを巻き込もうとするだろう。それが私にとって一番嫌なことだと奴はわかっている。

 

 いや、それも言い訳だ。ヒソカの誘いに乗ったのは私だ。結局、この状況を招いたのは自分自身の意思によるものに他ならない。

 

 優先したのだ。仲間たちと共にあることよりも、自分だけの力を手に入れることを求めた。浅はかにも力を手に入れて、初めてその結論に気づく。そして愕然とする。

 

 私はビスケの前で誓ったはずだ。もう二度と災厄の力は使わない。その根底にあった願いは、力に頼りきって誰かに奪われていくだけだった自分を変えたいと思ったからではなかったのか。もう二度と自分という存在を冒されたくないと思ったからではなかったのか。

 

 何一つ、一歩たりとも成長していない。ビスケとの修行の日々も、みんなで協力してレイザーに挑んだ時間も、全てを無に帰す惰弱さ。このゲームをプレイする以前の私と何も変わらない。決意してなお、変われなかったのだ。

 

 頭から血の気が引く。足元から崩れ落ちそうになる。

 

「おや、どうした?♠ ボク好みの表情だけど、そういう楽しみはパートナーと共有しなくちゃ♣ 勝手に自分一人でイッちゃダメだよ❤」

 

 逃げ出したかった。ヒソカがそれを許すはずもない。仮に逃げられたとして、どこに行くというのだ。

 

 逃げ場など、どこにもない。帰る場所もない。

 

 ここでヒソカと闘わずとも、私はいつか力を求めて私ではない存在になり果てるだろう。命を賭けようと、どんな誓いを立てようと無駄なことだった。脱力感に襲われる。

 

「ちょっと、困るなぁ♣ せっかくこれから楽しくなりそうだったのに……ん?」

 

 ヒソカが言葉を切り、上空に視線を向けた。ぼんやりとその方向に目をやるが、特に何か変わったものは見当たらない。

 

 だが、それから間もなくして空から飛来する何かの気配が感じ取れた。発光する二つの影が私たちのすぐ近くに向かって落ちてくる。移動系のスペルを使って、私たちを対象として飛んできたプレイヤーと思われる。

 

 まさかゴンたちかと身構えたが、移動してきたプレイヤー二人は全く知らない人間だった。

 

「おいヒソカ! 交信(コンタクト)に応答しねぇから何事かと思ったが……何だ、そいつは?」

 

「除念師、見つけたね。お前じゃなきゃ団長と接触できない。さっさと来るね」

 

「あー、ごめんね❤ ホテルにバインダー置き忘れてたよ♠ すぐにこっちの用は終わらせるから、ちょっと待ってて♦」

 

 ヒソカの知り合いか。いずれにしてもゴンたちではなかったことに安堵していた。今は、どんな顔をして会えばいいかわからない。だが、その束の間の安堵は一瞬にして吹き飛んだ。

 

「あ? 寝ぼけたこと言ってんじゃねぇぞ」

 

 やって来た二人組のうちの一人が凄まじい殺気を放った。気を抜いて相手の実力を見逃していた。信じられないことにこの二人、それぞれがヒソカに迫るほどの強さを持っている。

 

「一分一秒だろうとテメェの都合に付き合う筋合いなんかねぇよ。殺すぞ」

 

「ボクが死んだら困るのはそっちだと思うけど♠」

 

「じゃあ半殺しにして連れて行けば問題ないね」

 

 何だ、仲間ではなかったのか。全く事情が飲み込めない中、三者のオーラを含んだ殺気が火花を散らすように干渉し合い、立ち上がれないほどの重圧が背中にのしかかった。

 

 



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72話

 

 新たに現れた二人組のプレイヤーは一触即発の状態だった。一人は体格の良いチンピラのような外見の男、もう一人は黒ずくめで傘を持った小柄な男だ。

 

 ヒソカと何らかのトラブルがあったらしい。睨み合う三人はすぐにでも戦闘を始めそうな気配を漂わせている。逃げるならこの機に乗じるのが最善だが、無事に逃げ切れるかわからない。

 

 移動系スペルは『磁力(マグネティックフォース)』を一枚だけ持っていた。これは指定したプレイヤーの場所まで一気に移動できる魔法である。相手も同じ系統のカードを持っていた場合は追跡される恐れがある。

 

 だが、走って逃げるよりは呪文カードを使った方がまだ可能性があるような気もする。一か八か試してみるか。戦端が開かれるのを待っていると、黒ずくめの男と目が合った。底冷えするような殺気がこちらに向けられる。

 

「そっちは任せるね。ワタシは先に部外者を掃除しとく」

 

「人のごちそうを横取りするのは止めてほしいな♦」

 

「遊びたいなら、ちゃんと自分の仕事を片付けてからやれ」

 

 来る。予備動作は、ほとんど察知できなかった。殺意は向けられているが、それはこの人物にとって何か特別なことではない。日常レベルで他者に対して抱いている感情なのだと気づく。ゆえにオーラの流れから初動を読み切ることは困難だった。

 

 まるで虫を踏み潰すように平然と迫り来る。防御が間に合ったのは敵の驕りと幸運が重なった結果に過ぎなかった。槍のように突き出された傘の先端を手甲で受け止める。

 

 それが気に食わなかったのか男は一つ舌打ちすると、目にもとまらぬ速さで突きの連撃を繰り出してくる。本来は武器として使用する道具ではない傘の一撃が致死の威力を宿していた。

 

 やはり初撃を防げたのは、ただの幸運でしかなかった。大口径の銃弾に打ち抜かれたかのように無数の傷跡が深々と刻み込まれる。しかし即死を確信したのか、ようやく敵に隙が生じた。

 

「なに?」

 

 傘を掴み取る。その直後、衝撃を受けたのは私の方だった。鋭く尖った傘の先端部が勢いよく飛び出し、シックスの胸部に突き刺さる。先ほどは刺突を銃撃に例えたが、これは文字通り傘に仕込まれた銃による攻撃だった。

 

 だが、それでも傘を掴んだ手は離さない。男は銃撃を放つと同時に素早く距離を取っていた。武器として使っていた傘は躊躇なく手放している。その手には、傘に代わって一本の刀剣が握られていた。

 

 あまりの素早さに、その刀はどこからともなく取り出したかのように見えたが、よく見れば傘の内部に収まっていたものだとわかった。刀の柄が傘の持ち手の形である。刀や銃を内蔵した仕込傘だ。日用品を装った暗器の一種である。

 

 男の攻撃によって受けた傷は既にほぼ回復している。胸に受けたピック状の銃弾も体外へ押し出されて地面に落ち、傷が塞がりかけている。その様子を見た男は大した反応もせず、眉を一つ動かしただけだった。

 

 この男の一連の行動からは殺しに関して全くと言っていいほど抵抗が感じ取れない。どれもが命を奪うことのみを追求した一撃だった。間違いなく殺人に手を染めている人間だ。それも日常的に。

 

 別にそれを非難するつもりはない。人それぞれに事情がある。私が今、攻撃を向けられていることにも何らかの意味があるのだろう。純粋にその理由が気になった。なぜ、私はここで殺されなければならないのか。

 

「なぜ? おかしなこと聞くね。理由がないと殺してはいけないか?」

 

 その答えは驚くほどに中身がなかった。男の口調からは何かを言い繕ったり、ごまかそうとする気配は全く感じられない。おそらく、本心から出た言葉だ。

 

 殺しに理由はあるのかもしれないが、それはこの男にとって口に出して言うほどのことではないのだ。いちいち理由を考えながら殺す方が“おかしなこと”なのだ。

 

 そんな呆れた言い分がまかり通る。それだけの強さがある。誰もその過ちを正すことはできない。どれだけ間違った存在だろうと力によって肯定される。何という理不尽。

 

「気は済んだか? じゃあ、死ね」

 

 男が距離を詰めてくる。さっきまではまだ実力のほどを見せていなかったのか、その速度はさらに増し、目で追うのがやっとの有様だった。仕込傘のような姑息な手段を使わずとも、純粋に剣の腕だけで達人の域に達している。おそらく、まだこれでも全力を出してはいないだろう。

 

 残像が生じるほどの剣速を前に回避も防御も間に合わない。オーラを防御に回すため移動させようとした直前に、既にその箇所が斬られている始末だ。当然、敵の攻撃に全神経を集中せるべき事態だが、私の意識は大きく乱れ、雑念が次々に生じていく。

 

 これまでの私は人間らしく生きようとしていた。だが、それは果たして“私”らしく生きることとイコールで結ばれるものなのか。その最初の前提から、何もかも間違っていたのではないか。

 

 周りの人間と同じようになろうとしても、いつもそれを阻む大きな敵が現れる。鳥の島も、アイチューバーも、ハンター試験もうまくいかなかった。その危機を乗り越えることができたのは力があったからだ。

 

 だが、私はその力を封印することで自分らしさを保とうとした。誓約による災厄の封印。しかし、災厄の力を捨てたところで人間に近づけたわけではなかった。そこに何か輝かしい幻想を見ていただけで、私の本質は力に固執し続けることでしかなかった。

 

 その結果が今の私だ。人間ではない存在が人間として生きる。その矛盾を私は本当に理解していたのだろうか。いや、理解しようとすらしていなかった。盲目的に、自分の中の正しさを信じていただけだ。

 

 本当に必要なものは、間違いを間違いのまま認めさせる強さだったのではないか。どこまで行っても正しさにたどり着けないのなら、無駄な努力をする必要はない。これまでだっていつも私を助けてくれたのは、力による肯定だけだった。

 

 無駄、無意味、無価値。考えれば考えるほどに、これまでに築き上げてきた人格が否定されていく。いっそこんなもの、なくなってしまえばもっと自由になれるのではないか。

 

 必死に考える。その思考を阻むように、敵の攻撃がシックスの体を切り刻む。

 

 痛かった。初めてシックスと意識がつながった時のことを思い出す。最初はラジコンを操作するようにぎこちない動きしか取らせることができなかった。人間肉体が感じる痛覚は鋭敏で、裸足で歩いた雪の上の冷たさと小石を踏みしめる痛さに涙した。

 

 まるであの頃に戻ったように体が動かない。痛くて何も考えられなくなる。理性的な思考が形を保てなくなり、単純な感情だけが残されていく。積み上がっていく。

 

 痛い。嫌だ。止めて。どうして。まただ。いつもそうだ。

 

 もう、たくさんだ。

 

「いま」

 

 扉を開く。隔壁の向こうに閉じ込められていた髄液が流れ込む。脳が拡張されるような感覚。鈍っていた体が解きほぐされるように動く。

 

「かんがえてるんだ」

 

 虫の手甲と刀がぶつかり、甲高い金属音がする。初めて敵の攻撃を受け止めていた。

 

「だいじなこと、かんがえてるんだ」

 

 敵は止められた刀を力ずくで押し込もうとしてくる。それに対抗して、こちらも力で押し返す。がりがりと鉄の擦れる音が響く。

 

「かんがえさせろ」

 

 爆発する感情がエネルギーと化したように力がみなぎった。鍔迫り合いを制して、交差した刀ごと敵を殴り飛ばした。

 

 

 * * *

 

 

 何手、何合、打ち合ったのかわからない。今この瞬間にも、数え切れないほどの攻防を互いに繰り出している。

 

「――――!」

 

 敵の男に当初の余裕はなく、意味不明の異国語をたびたび叫んでいる。意味はわからないが、それが怒号であることは察せられた。

 

 その攻撃と身のこなしの素早さは驚嘆するものがある。速さだけではなく、威力も十分な攻撃を圧倒的な手数をもって放ってくる。だが無数の斬撃を受け、その動きを観察した私は少しずつ隙を突けるようになっていた。

 

 実際に何度か攻撃を当てている。一撃の威力の重さはこちらに分があり、確実にダメージは蓄積している。本体の麻痺毒も食らわせた。解毒剤を持っていたらしくあまり効果はなかったが、多少は動きも鈍っている。

 

 それでもまだ戦闘不能には程遠い。斬撃だけでなく、刀を振るう本人の姿までもが残像を伴うようになっていた。『二重凝』をもってしてようやく動きを把握できる速さ。

 

 避けきれない軌道で刀が迫る。斬り裂かれたシックスの体から血飛沫があがった。その血が敵へと降り注ぐ。

 

 念能力者同士の戦いにおいて、特に実力のある使い手同士の戦いではあまり流血というものは起きない。血を失うことは身体能力の低下に直結するため、部位切断されるような大怪我を受けても、傷口の筋肉を操作して血管を塞ぐのだ。この程度の止血は基礎的な技術である。

 

 それは逆に言えば、血管を開いて出血を多くすることも可能ということだ。心臓にオーラを送り込み、破裂させんばかりの鼓動を生み出す。常人の心臓でも血液を送り出すポンプの力は強靭で、血飛沫は数メートル上空にまで噴き上がることもある。そこに念による強化が加われば、凄まじい勢いで血が噴き出す。

 

 そのシックスの血液は『落陽の蜜』の性質を持っていた。シックスの肉体は虫本体で作られたオーラを材料としている。同じ術者のオーラからなる存在であれば、その性質自体を変換することも可能ではないかと思った。

 

 噴きつけた血液が強力な粘り気をもって敵を拘束しにかかるが、敵の体に触れた瞬間、蒸気を上げながら体表を流れ落ちて行く。どうやらこの男は変化系能力者であるらしく、自分のオーラに高熱を生じさせることができるようだ。そのせいで地面に散らばった『落陽の蜜』も蒸発させられ、足元を滑らせることもない。

 

 だが、全くの無駄ということはなかった。敵は血の対処に気を取られる分、攻撃がおろそかになる。私の『落陽の蜜』も簡単に揮発するような性質はないので、蒸発させるにはそれなりの熱量が必要だ。当然、相応のオーラを消費する。

 

 また、高熱のオーラは術者自身にも影響を与えるので、自分を守るため発動と同時に『堅』に割くオーラも高まる。その状態で迂闊にシックスへ近づけば、攻撃を受けた際の『凝』が間に合わない。

 

 結果、敵は一撃離脱を繰り返す戦法を取るようになった。血液に絡めとられないよう、その刀は高熱を帯びている。敵は何度か痛い目を見ているので、もう調子に乗って深追いしてくるようなことはないだろう。

 

 今の私では敵の速度に対処が間に合わない。もっと認識速度に肉体反応が追い付くまで強くならなければ。

 

 また一つ、扉を開く。また一つ、意識が離れる。現実感の喪失だ。紛れもなく私は生きており、目を見開いているにも関わらず、まるで夢を見ているかのような感覚が増していく。

 

 モニター越しに観る映像だ。無数のカメラのうちの一つ、虫の複眼、それを形成する個眼になったかのようだった。こうした自分が何人も存在する感覚は今までも感じてきたが、今回は少し違う。

 

 敵を倒すには、まだ足りない。扉を開く。どこからともなく溢れだすオーラと全能感。何でもできるような気がしてくる。確実に強くなった感覚がある。実にすがすがしく、ようやく本来の自分を取り戻したような気さえする。

 

 その一方で、真逆の感情を抱く従来の自分がいた。本当にこれが正しいのか。何か取り返しのつかない間違いを犯しているのではないか。ブレーキをかけようとする別の意識がある。

 

 二つの意識が分割思考によって同時に存在していた。これまでは互いの意識が別のことを考えながらも自己の同一性を保っていられた。そこに解離が生まれ始めている。扉を開くごとに、その隔たりは大きくなる。

 

 しかし、私に選択肢はなかった。生きて戦いを終わらせるためには強くなるしかない。

 

 そのために開く。

 開く、開く、開く、開く。

 この敵を倒せる強さを手に入れるまで。

 

 敵が来る。鋭く差し出された刀に鉄扇の防御が追いついた。展開した鉄の扇と灼熱の高温を宿す刀。その勝負は一瞬の拮抗も見せずに決着する。斬り裂かれた鋼鉄の扇が中ほどから分断される。その結果に驚いたのは男の方だった。

 

 私は敵の剣筋を見切り、差し込まれる斬撃の線に合わせて瞬時に扇の強化を解除していた。分断された扇がばらばらに弾け飛ぶ。強化を解いたのは剣筋の線に対してのみであり、散弾銃のように飛びだした扇の骨は『周』による強化が生きていた。

 

 不意をつかれた敵の体に骨の散弾が突き刺さる。手元に残った扇の残骸もついでに投擲したが、それは刀で弾き落とされた。

 

「――――」

 

 それまで苛立たしげに悪態を吐いていた敵の様子が変化する。表情が抜け落ち、平静を取り戻したかに見える。だが、オーラの気配は真逆の怒気を放っていた。感情が振り切れたがゆえの無表情だ。

 

 何か大技を使ってきそうな気がする。未知の念能力を恐れ、警戒心を最大まで引き上げるが、それと同時に湧き起こる期待感。どんな攻撃を見せてくれるのか、お菓子を前にした子供のようにわくわくしている。

 

 緊張と慢心、警戒と驕り。まるで噛み合わない二つの感情が精神に異常をもたらしていく。とにかく、この戦いを終わらせる。それだけが解離していく二つの自己の妥協点だった。

 

 そこで戦況に大きな変化が現れる。

 

 敵の攻撃に備え守りを固めていた私は、高速でこちらに接近してくる何者かの気配を感じ取った。またしても、移動系スペルによるプレイヤーの到着である。しかも、今度は数が多い。

 

 7人もいる。かつてないほどに冴えわたった私の感覚は、そのほぼ全員がヒソカや刀使いの男と遜色ないレベルの強者であることを感じ取った。

 

 たった1人でさえ倒しきれずにいるというのに、それが追加で7人。ヒソカとチンピラを加えれば10人だ。浮ついていた感情も一気に冷え切った。

 

「えーっと、何のパーティーかな、これは?」

 

「おい、フェイタンがブチギレ寸前じゃねぇか。やったのはヒソカ……じゃねぇな。あのガキか?」

 

「手出し無用ね。あいつは今すぐ殺すよ」

 

「今のお前のダメージで仕留めきれるのか? 全員でやっちまった方が早い」

 

「手を出すな! ワタシが殺す!」

 

 追加で到着した7人は剣士の男の仲間のようだ。最悪、敵の増援を加えての戦闘も覚悟したが、剣士の男は一対一の勝負にこだわっているのか、加勢に来た仲間に殺気を撒き散らしている。

 

「ヒソカと連絡がつかないから様子を見に行かせたってのに、あんたも一緒になって遊んでどうすんのよ」

 

「除念師との交渉くらいお前たちだけでできるはずね。ワタシはこいつを始末してから合流するね」

 

「団長の依頼よりも私闘を優先すると? クモにとって意味のある闘いならまだしも、ただの喧嘩で?」

 

「すぐに終わらせる!」

 

「そう言って送り出してからどんだけ時間がかかってると思ってんの? 交渉次第じゃ、これから即依頼達成に向けて動く必要がある。クモが足並み乱している場合じゃないってことくらいわかれ」

 

「…………」

 

「まあ、あんたが言う通り、あたしらだけで除念師との交渉は問題なくできるでしょうから、本当にそれでいいと思うなら好きにすれば?」

 

 詳しい事情は不明だが、この集団は何らかの目的があって行動しているようだ。フェイタンと呼ばれた剣士の男はしばらく怒りをあらわにしていたが、仲間の説得に応じたのか矛を収めた。しかし、私の方を睨みつける視線だけは依然として憎悪に満ちている。

 

「……後で殺す」

 

 謎の集団はこれ以上事を荒立てる気はないようだった。その方針にフェイタンも従っている。私は湧き起こる物足りなさを抑え込んだ。ここで自分から首を突っ込もうとすれば総員をもって反撃されることだろう。見逃されただけだということを忘れてはならない。

 

「で、ヒソカは?」

 

 ヒソカはフェイタンと共にやってきたチンピラ風の男と闘っていたのだが、その戦闘は最初の数分で終わっている。和解が成立したのか、途中で戦闘を切り上げていた。

 

 どんなやり取りがあったのか知らないが、さっきまで二人そろって地面に腰をおろし、私とフェイタンの闘いを観戦していた。

 

「うん、ちょっと不完全燃焼だけど、面白いものが見れたから満足かな♦ これ以上デートを続けるのは無理そうだしね♠」

 

 ヒソカは謎の集団と連れ立って、この場を引き上げるつもりのようだ。もともとこの集団と何かの約束が入っており、ここで私と闘っているような時間はなかったのだろう。ちゃんとエスコートしてあげられなくてごめんと謝られる。

 

「大事な先約があってね♠ 名残惜しいけど、キミはこれからもっとおいしくなりそうな気がする♣ また今度、時間がある時にゆっくりデートしよう❤」

 

 悪夢のような使い手の一団は移動系スペルを使って一斉に空へと飛び立った。静まり返った草原の上に、力なく膝をつく。日が暮れるまで一歩もその場から動けなかった。

 

 

 * * *

 

 

 ヒソカとの決闘から数日が経過した。私はどことも知れぬ森の中をさまよっていた。このゲームでは街などの安全地帯を除けば頻繁にモンスターが出没するが、この付近一帯の敵対モブは既に狩り尽くしている。

 

 ゴンたちから一度だけ交信(コンタクト)で連絡があった。応答したくなかったが、何かあったと思われて移動系スペルで会いに来られる方がもっと嫌だったので、話だけした。しばらくは一人にしてほしいということを伝えた。

 

 何の話をしたのか、よく思い出せない。ただ、涙だけが長いこと止まらなかった。

 

 辺りは重機でへし折られたような倒木が折り重なっている。淡い日が差し込む森の空き地で、私は手の中にある一つの時計を弄っていた。針は一本しかなく、文字盤は12時の位置に『0』と記されている。正確にはメーターと言うべきか。

 

 これは『心度計』というアイテムである。№020の指定ポケットカードであり、ランクはB-30。指定ポケットカードはほぼ全てがBランク以上のカードである。つまり、入手難易度としては最低レベルの上、30枚のカード化限度枚数はかなり多めの数量であるため希少価値も低い。

 

 このアイテムは、使用者の精神状態を計ることができる。時計回りに針が動けばポジティブな精神、反時計回りに針が動けばネガティブな精神の状態であることを表している。

 

 そしてこのアイテムの最大の利点は、自分の精神状態を計るだけでなく操作することまでできるのだ。たとえマイナスの感情値を示していたとしても、その針を『0』の位置に合わせれば平常な精神に戻る。

 

 ここ数日、私はこの手の精神に効果を与える類のアイテムがないか探し求めていた。グリードアイランドには超常的な効果を発揮するアイテムが数多く存在する。瀕死の重傷や不治の病を治療できるカードや、特に副作用などもなく年齢を若返らせるアイテムまで存在する。それを考えれば、私の望む品もあるのではないかと思った。

 

 結局自力では見つけられず、ツェズゲラに交信(コンタクト)を使って情報を得た。特に見返りも求められず『心度計』の効果や入手方法まで教えてもらえた。

 

 計器のつまみを回し、カタカタと左右に揺れ動く針を『0』の位置に合わせる。しかし、合わせた直後に針は振れる。そしてそれをまた調整するという堂々巡りだった。

 

 どれだけの時間、この時計と向き合っていただろうか。針の位置を調節することだけに一日を費やしていた。単純作業の繰り返しによる思考の鈍化。確かにこの時計は使用者に平静を与えてくれるのかもしれないが、それは根本的な解決にはならなかった。

 

 私の解離した意識はあの一戦が終わった後も元に戻ることはなかった。これまでは戦闘中などの集中状態の時に限定して発動していた分割思考が、常に作動し続けている。

 

 本当に、今ここにいる存在は自分自身なのか。その疑問が尽きることはなかった。疑うことを止めてしまえば、このちっぽけな自覚すら消えてなくなってしまうような気がした。

 

 そして時間の経過と共に、これまでに感じたことのない欲求が積み上がっていった。戦闘時に覚えたあの全能感、高揚感がいまだに治まることなく自分の中で行き場を失っている。力をぶつける対象がなくなり、発散できなくなった感情が強烈なフラストレーションを引き起こす。

 

 破壊衝動だ。自分の思い通りにいかない現状が、猛獣のような凶暴性として現れ始めた。あまりにも幼稚な動物的本能と言わざるを得ない。抑え込もうとすればするほど反発は激しくなる。

 

 怒りに囚われ我を忘れる自分と、それを客観的に観察して抑圧する自分がいる。それは正常な葛藤ではなかった。異なる感情がぶつかり合って一つの結論が出るのではなく、分割思考によって生まれた二つの自分がシックスという一つの肉体に真逆の命令を与えている。

 

 それはさながら一進一退の闘争だった。今はまだ理性が行動を制しているが、その我慢がどれだけ続くだろうか。この破壊衝動の根本原因を取り除くことまでは不可能でも、一時的にでも発散しなければどうなってしまうかわからない。

 

 物を壊したり、モンスターを攻撃したり、最初はそれで気が紛れたこともあったが、もはやこの破壊衝動は歯止めが効かなくなりつつある。もっとその先にある、恐ろしいことを求め始めている。

 

 力を得た目的は敵の撃破にあり、その結果生まれた衝動もまた同じ理由に帰結する。ただの物や魂のない存在を相手に力を振るっても、この飢えが満たされることはない。

 

 ヒソカを呼んで相手をしてもらうことも考えた。今の私は一種のシンパシーめいたものをヒソカに感じる。その感覚から言えば、今すぐにヒソカが私と闘おうとすることはないだろう。

 

 奴はもっと私が壊れるのを待っている。そうなった後で闘った方が面白いと考えている。その私的な感情を抜きにしても、別件で取り込み中のヒソカが私のために時間を取ってくれる可能性は低い。

 

 こちらから出向くことも考えかけたが、それだけは全力で阻止した。あの凄まじい使い手の一団と行動を共にしているヒソカに対して強襲を仕掛けるなど自殺行為だ。今度こそ全員を敵に回すことになる。仮に全員を倒せるだけの力がシックスに秘められていたとしても、確実に精神がもたない。

 

 だから、私は待っていた。この力を振るう相手は、その原因を作った人物であることが望ましい。暴れ出しそうになる衝動を必死に抑え込み、一人で待ち続けていた。

 

 『後で殺す』

 

 あの男は確かにそう言った。時間が経てば薄らぐような殺意ではなかった。あの剣士は必ず、私を殺すために戻ってくる。

 

 あの場では仲間たちから注意を受けて身を引いていたが、それは組織としての足並みを乱すべきではないという規律に基づいた行動であり、戦闘そのものが禁止されているようには見えなかった。

 

 彼らの目的が一段落して仲間の了承が得られれば、あの男が再び私の前に現れる可能性は高い。まさか怖気づいて逃げ出したり、仲間に助太刀を求めるような性格ではないだろう。タイマンで勝負を仕掛けてくるに違いない。

 

 問題は、その時間だ。いつ来るのか。さすがにその予想はつかない。待つしかなかった。

 

 気が遠くなるほど遅々として時間は進まない。ひたすらに手元の時計を弄りながら吐き気の募る待ち時間を過ごす。本当にあの男が来るのか確証もない。それでも愚直に待ち続けた。

 

 そして感じ取る。ほんのわずか、ぴりりと空気に走った変化を直感する。にわかに高鳴り始めた鼓動に気づき、確信した。

 

 移動系スペルによって接近する人の気配だ。人影は一つ。上空から降り立った黒ずくめの男の姿を確認する。

 

 フェイタンだ。待ち望んだ敵の到来に、歓喜のオーラがよだれのように滴り落ちた。時計の針は狂ったコンパスのごとく回転している。握りつぶして部品をばらまく。こんな不良品はもう必要ない。

 

「ふーん」

 

 戦意を抑えきれずにいる私とは対照的に、フェイタンは品定めするかのような視線を向けていた。そのオーラは至って冷静。以前闘ったときのように激情をあらわにしていない。

 

 何か、根拠のない不安がこみ上げて来る。まさか時間を置くことで敵の怒りが薄らいだのか。いや、それならわざわざ私のもとに来る必要はない。ここに来たということが明確な戦意の表れ、対戦を望んでいるということに他ならない。

 

「何となく、お前の性格はわかたよ。もしワタシがお前やヒソカと同じような戦闘狂だとおもてるなら大きな間違いね」

 

 そう言うと、フェイタンはブックと唱えてバインダーを取り出した。いったい何をしようと言うのか。呪文カードには、相手に直接ダメージとなる攻撃を加えるような効果はない。何か武器となるアイテムでも取り出すつもりか。

 

「殺そうとおもてたけど、気が変わたよ。帰るとするね」

 

 フェイタンがバインダーから出したカードは『同行(アカンパニー)』だ。移動系スペル。そのカードが意味するところは、戦闘ではなく逃走である。

 

 この期に及んで逃げるだと。ふざけるな。闘え、腰抜け。私が向けた罵倒を、フェイタンは悠々と受け流している。

 

「そんなに闘いたいか? なら、選ばせてやる」

 

 言葉の意味が理解できない。何を選ぶというのか。とにかく、ここで逃がすわけにはいかない。何としてでもカードの発動を止めるべく、フェイタンのもとへと駆け出す。

 

 しかし、跳び出そうとしたシックスの体に躊躇が生まれた。分割思考がある可能性を提示する。

 

 呪文カードはそのカードの名称と指定する対象を口頭で明示することにより発動する。敵が平凡な使い手なら速攻でカードを奪うなり喉を潰すなりして阻止が間に合うかもしれないが、フェイタンほどの実力者を相手に通用するとは思えない。

 

 それだけならまだいい。最大の問題はフェイタンが使おうとしているカードだ。『同行(アカンパニー)』は呪文を使用したプレイヤーを含め、その半径20メートル以内にいるプレイヤー全てを指定した街か、指定したプレイヤーのいる場所に飛ばす。

 

 敵味方の区別なく、20メートル圏内にいるプレイヤーは全て効果の対象となる。フェイタンに近づいた状態でカードが発動したが最後、敵の本拠地に引きずり込まれるということだ。

 

 そこに至り、『選ばせてやる』という言葉の真意にようやく気づいた。つまり、闘いたければ誘いに乗れということだ。ここに残るか、移動した先で闘うか。その分水嶺が20メートルのラインだ。

 

 越えるか、越えないか、私に選ばせようとしている。それはつまり、敵が私の精神に生じている矛盾に気づいているということだ。

 

 私が戦闘以外に何も顧みない狂人であったなら、とっくにフェイタンの後を追って勝負を仕掛けていただろう。かつては貴重だった移動系スペルも、ハメ組と呼ばれる呪文カードを独占していた攻略組が脱落したことにより今では入手が容易になっている。こちらから敵を追跡する手段はいくつもあった。

 

 それをしなかったということは、フェイタンの属する組織に対して私が警戒しているということの証左だ。敵も当然、それに気づいている。もし私が単純に怯えているだけだったなら、フェイタンは私を殺すつもりだったはずだ。

 

 しかし、私は理性を食い破ろうとするほどの獣性に囚われながら、必死に敵が来るまで待ち続けた。能動的にではなく、あくまで受動的に始まる闘いにこだわった。それが降りかかる火の粉であったなら、理由を考えずに振り払うことができるから。

 

 逃げもせず、闘いもせず、ただ待つことしかできなかった私の矛盾を敵は見抜き、考えを変えたのだ。どうすれば最も私を苦しめることができるか、最悪の手に思い至っている。

 

「選べ」

 

 踏み込めば、奈落の底まで落ちるしかない死地。許容できるはずがない。それでも前に踏み出そうとする意志が働く。断崖絶壁に身を投じようとする自分がいる。

 

 どうにか保たれていた均衡が崩壊していく。もともとは一つの機構を形成していた歯車が、互いを削り合う。口からは壊れた機械のような吃音が漏れた。その様子を見たフェイタンは心底楽しそうに笑う。

 

「『同行(アカンパニー)』使用、シャルナークへ」

 

 最後に伸ばした手がラインを越えることはなく、空の彼方へ消えていく影を見送った。足元に散らばった心度計の破片は、この上なく正確に、与えられた役割を果たしていた。

 

 







この話で登場したフェイタンの能力は独自設定になりましたが、『太陽に灼かれて(ライジングサン)』の簡易版みたいな感じです。痛みを溜めこんで一度に発散するのではなく小出しにしているので、継続的に効果が発揮されますが威力が微妙になってます。

ぶっちゃけフェイタンもシックスとの再戦は骨が折れると考えていたので、精神攻撃でいたぶる作戦を落とし所としました。


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73話

 

 

 

『他プレイヤーがあなたに対し「交信(コンタクト)」を使用しました』

 

 

 

「こちらツェズゲラだ。どうしたナイン、またカードに関する情報が必要になったか? 君たちのチームには借りがある。できる限りの協力はするが……なに? ゲンスルーの居場所? そうだな、教えておいた方がいいか。奴は現在、マサドラに滞在している。カードショップ周辺に近づくのは危険だ」

 

 

 * * *

 

 

 ゲンスルーは魔法都市マサドラにいた。彼のチームの構成員はリーダーであるゲンスルーを始めとして、サブとバラというプレイヤーの3名だ。

 

 ゲンスルーの姿は呪文カードショップの前にあった。他の2人の仲間はいない。サブは換金と情報を仕入れるためにトレードショップへ、バラは昼食の弁当を買いにそれぞれが別行動を取っている。

 

 マサドラに一店舗だけ存在する呪文カードショップはプレイヤーにとって重要な施設である。ここでしか呪文カードを購入することができない。それ以外の方法で呪文カードを手に入れるためには、他のプレイヤーから交換するか奪うしかない。

 

 その場所にプレイヤーが集まることは何もおかしくはないが、ゲンスルーは店に入る様子もなく、ただ入り口に視線を向けたまま何かを待っていた。

 

「やった! やったぞ……!」

 

 店の中から一人のプレイヤーらしき男が出て来る。彼は何やら喜びを抑えきれない様子でバインダーを眺めていた。感極まっているのか周囲を全く警戒していない。ゲンスルーは無造作にその男へ近づいていく。

 

「おめでとう。『離脱(リーブ)』でも手に入ったか?」

 

 ぱちぱちと拍手を送りながら歩み寄るゲンスルーの存在にようやく男が気づく。慌ててバインダーをしまった。

 

 『離脱(リーブ)』はグリードアイランドから即座に脱出できる呪文カードだ。それなりにレアで、カード化限度枚数は30枚。ハメ組が独占していた呪文カード流出後、ようやく市場に出回り始めているが、それでも圧倒的に需要が供給を上回っている。

 

 島外に出る方法は非常に限られている。まともにゲームをプレイする実力もなく、長年この島に閉じ込められ続けているプレイヤーにとって、この呪文カードを運良く購入することだけが唯一の脱出手段と言えた。

 

「い、いや……別に何でもない……」

 

「あんなに喜んでたのに何でもないってことはないだろう。こうして出会ったのも何かの縁だ、オレにも祝福させてくれ」

 

 そそくさと立ち去ろうとした男の肩にゲンスルーが手を置き、引きとめる。ゲンスルーはフォックスタイプの眼鏡を指でくいと押し上げた。笑顔だった。その表情を変えることなく、彼は男の腹に“祝福”を叩きこむ。

 

 リンチ以外の何ものでもない。殺人拳を理念に磨きあげられたゲンスルーの攻撃は、心構えからして平凡な念使いとは異なる。他者を傷つけることに特化した肉体と体術。

 

 『離脱(リーブ)』を手に入れるため金策に奔走し、なけなしの金で呪文カードを買い続けるしかなかったプレイヤーでは無力も同然だった。あっという間に戦闘不能状態となる。

 

「バインダーを出せ」

 

 ゲンスルーの要求はリンチにされた男にも容易に想像できた。カードを奪うための暴力である。『掏摸』『窃盗』『徴収』など、他者のカードを奪い取る呪文カードはあるが、そういう真っ当なゲームをする気はない。力によってねじ伏せ、欲しいものを奪い取る。これは暴力による強制だ。

 

「いやだっ!」

 

 だが、男はそれがわかっていながらゲンスルーの要求を拒絶した。勝てる見込みは一つもない。生殺与奪の権利を握られたこの状態で抗うことは愚かにも思えるが、それには理由があった。

 

 まずこのゲームには制作側が用意したプレイヤーキル防止策が存在する。プレイヤーが殺されてしまうとその証たる指輪が消滅し、バインダーの中のカードまで消えてしまうからだ。殺してしまえばカードを奪うこともできなくなる。

 

 だから略奪者は生かさず殺さず身の毛もよだつ拷問を与えてカードを奪おうとするようになった。それでもカードを渡さないようなら殺す。生かしたまま逃がすメリットがないからだ。逃がしたプレイヤーから自分の情報が知れ渡るという愚を冒す必要はない。

 

 では、素直にプレイヤーキラーの言うことを聞いてカードを渡した方がいいのかと言うと、そうでもない。前述の通り、逃がすメリットは何もない。用が済んだら殺した方が後腐れもなく片付く。

 

 どちらにしろ殺されるのだ。グリードアイランドが発売されて10年以上が経つが、いまだにクリアする者が現れない閉塞した現状がプレイヤー同士の殺し合いを加速させている。プレイヤーキルの横行という末期的状況を作り出している。

 

「お前なんかの思い通りになると思うな!」

 

 だからこその抵抗である。男は自分の死の運命を悟り、決死の覚悟で抗った。力で敵わない略奪者に対し、精神だけは屈することなく一矢報いる。敵の利になることだけは絶対にしない。その決意が、男の目からありありと感じ取ることができた。

 

 ゲンスルーは、そんな男の覚悟を鼻で笑う。本当に利口な者ならここでカードを惜しむようなことはしない。略奪者全てがプレイヤーキラーというわけではなく、ただの恫喝で終わる場合だってある。

 

 中途半端に仕入れた情報から偏った物の見方しかできず、勝手に陶酔し、さも何かを成し遂げたかのような気になっているだけだ。生存できるかもしれない可能性を自ら放棄していることに他ならない。蛮勇ですらない自己満足だ。

 

 そして得てして、そういった上辺だけの覚悟に浸る人間ほど、少し攻め手を変えてやるだけで脆く崩れ去ることをゲンスルーは知っている。

 

「勘違いするな。オレは確かにプレイヤーキラーだが、口封じのためにお前を殺そうだなんて思っていない。別にもう正体を隠す必要がないからだ」

 

 ゲンスルーの正体は『爆弾魔(ボマー)』だ。グリードアイランドにおいて、その名を知らない者の方が少ないだろう。念能力の爆発によって、これまでに何人ものプレイヤーが殺されている。

 

 長らくその正体は不明だったが、つい最近になってようやく情報が明らかとなってきた。50人以上のプレイヤーが大量死した事件を皮切りに、一気にゲームクリア間近にまで上り詰めたゲンスルー組。情報に敏い一部のプレイヤーは『爆弾魔』がゲンスルーであると気づいている。

 

 そしてそのカード収集率はゲーム中一二を争うほどの存在だ。リンチされた男が持っている程度のカードなどゲンスルーはさして興味もない。呪文カードなど有用なカードは奪うつもりだが、主目的は略奪ではなかった。

 

「オレたちのチームは今、ツェズゲラ組と対立している。どうやら奴らの仲間がこのカードショップに入り浸り、移動系スペルを大量に供給しているらしい。それを阻止すべく、こうして怪しげなプレイヤーに声をかけているわけだ」

 

「しっ、知らない! ツェズゲラなんてゲーム内で会ったこともない!」

 

「では、他に不審な人物に心当たりはないか?」

 

「いや、そう言われても……」

 

 男は記憶を遡るが、印象に残るようなプレイヤーはいなかった。頻繁にこの店に来ているというわけではないので、仮に出会っていたとしても気づかなかった可能性が高い。考えを巡らせる男に、ゲンスルーは優しげな口調で尋ねた。

 

「お前が奴らの仲間ではないという確証が得たい。バインダーを見せてくれ。過去にツェズゲラと出会ったことがあれば、記録が残っているはずだ。逆に言えば、そこに奴らの名前がなければお前の無実が証明される。オレが知りたいのはそれだけだ」

 

 ゲンスルーは男の動揺が手に取るようにわかった。先ほどまで殺すなら殺せと息巻いていた男の覚悟など、そこにはない。生き延びることができるかもしれないという希望が生まれてしまった。たったそれだけで命を賭した覚悟なんてものは容易く揺らぐ。

 

 恐る恐る、男がバインダーを取り出す。その行動を見ただけで、この男がツェズゲラとつながっていないことはわかった。実際に会ったことがあるなら、まさかバインダーを見せようとするはずがない。

 

 その行動に大きな躊躇が見られるのは、意図せずツェズゲラと出会ったかもしれない可能性を男自身が否定しきれなかったからだ。プレイヤー同士が互いに20メートル圏内に近づけば、その情報が自動的にバインダーへ記録される。気づかないうちに街中など人が多い場所ですれ違っている恐れはある。

 

 それでも会った記憶がないのだから記録されていない公算が高い。それに賭けるしかない。震える手で差し出されたバインダーをゲンスルーは受け取った。手慣れた様子でチェックしていく。

 

 ゲンスルーは呪文カードや金になりそうなカードを引き抜いて自分のバインダーに収めていく。固唾を飲んで見守っていた男は堪え切れず言葉を発した。

 

「ど、どうなんだ……!?」

 

「ん? なにが?」

 

「ツェズゲラの名前はあったのか!?」

 

「ああ、あったぞ」

 

 名前はあった。ゲンスルーは用済みのバインダーを男に投げて返した。そこに表示されているツェズゲラの文字を見て、男は顔を歪めた。

 

「非常に心が痛いが、お前が奴らの仲間である可能性がある以上、ここで野放しにしておくわけにはいかなくなった」

 

「待ってくれ! さっき見ただろう!? 俺が『離脱(リーブ)』を入手して大喜びしていたところを!」

 

「だから?」

 

「もしツェズゲラの仲間だったらそんなことするか!? トッププレイヤーの仲間が、たかが『離脱』の一枚くらいでそんな反応……」

 

「だから、それがどうした?」

 

 ゲンスルーにとってこの男を殺すか殺さないか、その基準は『バインダーにツェズゲラの名があるかどうか』でしかない。たとえ男の反応がどれだけ無関係の者に見えようと問題ではない。条件を満たせば即座に殺す。

 

 名前が載っていなかった場合は、念能力による時限爆弾を取り付け、いつでも爆破できることをほのめかした上で呪文カードを集めさせる。これによりツェズゲラたちを追い詰めるための移動系スペルを独占する。

 

 別にこの男だけが特別だったわけではない。同じ作戦を、カードショップに訪れた全てのプレイヤーに対して行っていた。

 

「疑わしき者は( ばっ )する」

 

「う、あ……」

 

 男に当初の威勢はなかった。もし、バインダーを出さずゲンスルーに抗い続けていたならば、念使いとしての最後の矜持を保てたかもしれない。敵に屈しなかったという誇りを胸に死ねたかもしれない。ゲンスルーからしてみれば、それさえも弱者の妄想に過ぎないが。

 

 だが、彼は生きる望みを持ってしまった。絶望の中に垂れ落とされた一本の蜘蛛の糸を掴んでしまった。もしかしたら助かるかもしれないという希望が打ち砕かれたとき、その先により深い絶望が待ち受けているとも知らず。

 

「良かったじゃないか、最後に望みが叶うんだ。お前はこの島から出ることができる。死体となって、だがな」

 

 オーラを集めた手を向ける。もはや全てを諦めた男に抵抗はなかった。次の瞬間、男の体は小爆発により消し飛び、死んだ証拠も残さずゲームの外へと投棄されることだろう。そう思っていた。

 

 ゲンスルーは即座に体を反転させ、背後に視線を向けた。男への攻撃を中断する。そんなことに気を取られている場合ではないことを瞬時に悟った。

 

 ゲンスルーの背後には森があった。その木々の向こう側から何者かの殺気を感じ取ったのだ。

 

「雑魚、ではないな」

 

 先ほどまで殺しかけていた男が走りだす。ゲンスルーはもはや眼中にない様子で、逃げて行く男を見逃した。

 

 森の奥から殺気の送り主がゆっくりと近づいてくる。それに合わせ、ゲンスルーのもとへ強烈な腐臭が漂ってきた。

 

 思わず眉をしかめる。濃厚な血の臭い。何十人もの血を血で洗い、そのまま何日も放置したような生臭さ。鼻が曲がりそうなほどの不快感を覚える。

 

 そのおぞましい気配に反して、姿を現したのは美しい少女だった。衣服が血で汚れているようには見えない。銀色の髪はところどころ剥がれたメッキの跡のように金色が貼り付いている。腕には奇妙な赤い昆虫らしきものを這わせていた。

 

 少女の目はゲンスルーを見ていない。焦点が合っているのかも定かではない。だが、おかしなことに彼は少女の方から無数の視線を感じるような気がしていた。

 

「お前は確か……ゴン組にいた一人だな? 何の用だ」

 

 ゲンスルーは少女の姿を一度目にしたことがあった。『一坪の海岸線』をツェズゲラ一行が入手した直後、そのメンバーを遠目から観察している。目立つ容姿をしていたので記憶に残っていた。

 

 少女から返答はない。その代わりに殺気が向けられる。話し合いは不可能と判断する。どう見ても正気とは思えなかった。

 

 ゴン組はゲンスルーにとってクリアを目指すために必要な略奪対象ではあったが、現状ではツェズゲラ組の対処に専念しており、まだ手を出してはいない。ここまで恨まれるようなことをした覚えはないが、敵対関係にあることは間違いなく、彼としても障害となるなら排除することに微塵の躊躇いもなかった。

 

 この血の腐臭についてもトリックは明白だった。念能力によって作り出した臭気であり、つまりハッタリだ。実際に人を殺してかぶった血の臭いではない。確かに高い実力を感じ取ることはできるが、下手な脚色に惑わされるほどゲンスルーは凡庸な使い手ではなかった。

 

 ゲンスルーは構えを取る。脚を開き、腰を落とした重心の型。拳は作らず、柔らかに開いた片方の掌を敵へと向ける。少女の殺気から察するに、機が熟せば向こうから跳び込んでくるだろう。針のように鋭く研ぎ澄まされた気迫がゲンスルーを中心に放たれる。

 

 そして少女は狙い通り、待ち構えるゲンスルーへと跳躍した。凄まじい速度により生じた突風が木々の葉を揺らす。なるほどと、ゲンスルーは心中でうなった。単身で勝負を仕掛けにきただけのことはある。

 

 その少女のパワー、身のこなし、オーラの移動速度、どれを取っても一流である。おそらく、ゲンスルーの仲間であるサブとバラでは分が悪い。この場に残ったのが自分で良かったと余裕を持つ程度には、彼は落ちついていた。

 

 彼は迎え撃つ手のひらにオーラを集める。確かに少女は速いが、必ず対象は自分からゲンスルーの攻撃射程圏へと入ってくる。そのタイミングさえ見誤らなければ迎撃は可能だ。

 

 彼は自分の能力に絶対の自信があった。『一握りの火薬』と名付けたその能力は、掌のオーラに爆発する性質を付与する変化系能力である。その性質から自分自身の手にまでダメージが及んでしまうため、それを防ぐために『凝』で保護しなければならないほど強力だ。

 

 これだけの説明では使い勝手が悪く思われるかもしれない。有限のオーラ顕在量のうち、能力の威力を高める分と自分の手を保護する分、そのどちらにもエネルギーの出力を割かなければならない。一見して非効率的に思える。

 

 しかし、爆発という現象は人間を行動不能とする上で大きな効果を発揮する。戦闘意欲を喪失させることを最優先に考えるのであれば、敵を即死させるほどの威力は必要ない。いかに効果的に肉体を損傷させ、精神的に追い詰めるか。ゲンスルーの能力はマンストッピングパワーに主眼を置いていた。

 

 防御が不十分な状態でゲンスルーの攻撃を受ければ、表皮だけでなく筋肉や神経までもが焼けただれ、重大な障害が残る。頭部や腹部などの急所に攻撃を受ければダメージが臓器の深部にまで達してしまう。

 

 敵の戦意をくじくための破壊だ。致命傷に至らずとも心理的要因によって人間は容易に行動不能となる。それまで健康だった肉体に、突如として刻み込まれる不治の欠落を前に何者も平常心を保つことなどできない。その隙が、さらなる好機をゲンスルーに与える。

 

 爆発のエネルギーを宿した掌は、蛇のようにしなやかに宙を滑った。何かの気配を感じ取ったのか、そこで少女の動きに制動がかかるが、もはやその距離はゲンスルーの手の届く範囲に達している。迫りくる少女の顔面を、彼の手が包み込んだ。

 

 『一握りの火薬(リトルフラワー)』発動。

 

 初見でこの爆発に対処することは不可能である。少女の整った顔立ちは一瞬にして破壊された。肌は焼けただれ、鼻は潰れ、歯は折れ、目は失明する。失われたものの価値が大きいほどに落胆も比例する。その美貌を失った少女はもはや立ち直れないだろう。

 

 そんなゲンスルーの思惑を裏切り、少女は止まらなかった。顔を爆破されてなお、その手がゲンスルーへと伸ばされる。だが、彼に焦りはなかった。敵が優れた戦士であれば、そういうこともある。あるいは正常な感情も持ち得ぬほどの狂人だったのかもしれない。いずれにしてもやることは一つだった。

 

 『一握りの火薬(リトルフラワー)』発動。

 

 顔面に当てた手からさらなる追撃を加える。しかも、今度は威力を加減しなかった。守りを固めた彼の手にも痛みが生じるほどの爆発。その衝撃は表面的な破壊では収まらず、確実に脳へと致命的ダメージを与えた手ごたえがあった。

 

 しかし、少女は動く。その手がゲンスルーの首を掴み取る。

 

 さすがに驚愕せずにはいられなかった。脳を破壊されて動ける人間がいるはずがない。その常識を否定するように、少女の顔面の肉がうごめく。彼の手の向こうで肉が盛り上がり、陥没していた骨格が修復されていく感触が掌を通して伝わってきた。

 

 『一握りの火薬(リトルフラワー)』発動。

 

 止まらない。少女の手がゲンスルーの首を絞めていく。ゆっくりと時間をかけて指が喉へ食い込んでいく。

 

 顔面を掴むゲンスルーの手、その指の間から少女の目が覗いていた。その瞳から感情を読み取ることはできない。狂人の思考など彼にはわからない。ただ、身も凍るようなおぞましさがある。

 

 『一握りの火薬(リトルフラワー)』発動。

 

 ゲンスルーは首を掴む少女の腕に対して爆発能力を発動させるが、そちらは顔面よりも遥かに守りが固かった。『凝』で守られた少女の腕を爆破することはできない。

 

 『一握りの火薬(リトルフラワー)』発動。発動。発動。

 

 幾度もの爆発も少女を怯ませることはできなかった。少しずつ、着実に首が絞まっていく。その手は万力のような握力で、一定に保たれた機械的な速度でゲンスルーの喉を絞めあげる。ついに、彼は攻撃を止めた。

 

「わかった! 降参! オレの負けだ!」

 

 このまま喉を圧迫されれば声を出すこともできなくなる。そうなれば交渉も、命乞いすらできなくなる。少女はゲンスルーの首が胴体から切り離されるまで力を緩めることはないだろう。

 

 完全に拘束されたゲンスルーを殺すつもりなら方法はいくらでもある。しかし、少女はあくまで絞首にこだわっていた。実際に万力で頭蓋骨を少しずつ圧迫して死ぬまで絞め続ける拷問や残虐刑があるが、今の彼はまさにその受刑者の気分だった。

 

「何が目的だ!? なぜこんなことをする!?」

 

 じわじわと、死の瞬間まで地獄の苦しみを与えて殺すつもりか。実際には頸動脈が圧迫されることで脳への血流が遮断され、死ぬよりも意識を失う方が先だろうが、そんなことは何の気休めにもならなかった。

 

「ぐぇ……! か、カード、か? カードが、ほしいのか!?」

 

 考えられる可能性としては、私怨かカードの二つだ。プレイヤーキラーとして数々のプレイヤーを殺してきたゲンスルーに恨みを持つ者は当然いる。その場合、もはや助かる道はない。

 

 だが、目的がカードの奪取であればまだ生き残れる可能性がある。藁にもすがる思いで提示した彼の言葉に、少女が反応する。首を絞め上げていた力が停止する。

 

「カード! カードか! そりゃそうだ! カードほしいよな!? おま、君にとっておきのカードをあげよう!」

 

 ゲンスルーは安堵した。この狂人に、まだ交渉事を理解するだけの脳みそが残されていたことに心底安堵する。相手がまだ利を考えることができる存在なら、口先だけで命運を掴み取ることも不可能ではない。

 

 これが有象無象のプレイヤーであったなら交渉にもならなかったかもしれないが、ゲンスルーはカードコンプリート率97%を誇るクリア目前のプレイヤーだ。

 

 厳密には残りの仲間とカードを分けて管理しているため、全てのカードをゲンスルーが持っているわけではないが、主要なレアカードは彼のバインダーに収まっている。少女の望みを叶えてやることは容易い。

 

「オレは激レアSSランクカード『一坪の密林』を持っている! これがどれほど貴重なカードか、知っているか!?」

 

 大した反応を見せない少女に、ゲンスルーは懇切丁寧に説明した。

 

 100枚ある指定カードのうち最高入手難易度のSSランクカードは5枚ある。さらにその中でも№000『?』、№001『一坪の密林』、№002『一坪の海岸線』のトップスリーは別格の存在だった。

 

 №000については99枚のカードをコンプリートすることで入手イベントが発生する説が有力視されているが、『一坪の密林』と『一坪の海岸線』は情報すらろくに判明せず、長らくこのゲームクリア最大の障壁として立ち塞がっていた。

 

 『一坪の海岸線』については最近になってようやく情報が明らかとなったが、『一坪の密林』はいまだに何もわかっていない。ゲンスルーが現在所持している同カードは『複製(クローン)』によってコピーされたものだ。

 

 『宝籤(ロトリー)』という呪文カードがある。これは全カードの中からランダムで一枚のカードに変身するという効果のカードで、あるとき運良く『一坪の密林』を引き当てたプレイヤーがいたのだ。

 

 当時、ハメ組に属していたゲンスルーらはその情報を知ってカードの入手者に接触を図ったが、そのときには既に遅く、ツェズゲラ組が先に多額の報酬で『一坪の密林』を買い取った後だった。

 

 ゲンスルーはハメ組解体後にツェズゲラ組を奇襲することで何とかこのカードを入手することができた。そのため、オリジナルカードはいまだに見つかっていない。その希少価値を彼は力説する。

 

「断言しよう! 今ここでしか絶対に手に入らないカードだ! このカードを君にやる! もちろん、それ以外のカードも欲しければ全部持って行ってかまわない!」

 

 実際はゲンスルーがやったようにツェズゲラ組を襲うことで入手できる可能性はあるが、そんなことはわざわざ言わない。とにかくカードの希少性を、自分の命の価値を少女に示す。

 

「だから、一旦この手を離してくれないか。逃げるつもりはない。逃げられるとも思っていない。この首にかけた手を、少しだけでいい。放してくれたらバインダーを差し出そう」

 

 だが、少女は離さない。そのままの状態でバインダーを出せということか。文字通り首根っこを掴まれた状態での交渉である。ゲンスルーの方が圧倒的に不利であることは言うまでもない。

 

「た、頼む。生きた心地がしないんだ……! 逃がしてくれなんて言わない! 手を、手をほんの少しの間放してくれるだけでいい!」

 

 彼にとって、ゴン組は何の変哲もない少年少女の寄せ集めだと思っていた。念能力者だろうと所詮は子供。どんなに才能があろうと生きた時間が違う。実戦経験の差は覆せない。誰がその子供の慣れ合い集団の中に、こんなバケモノが紛れこんでいると考えるだろうか。

 

 あの少年たちはどうやってこのバケモノの手綱を握っていたのか、ゲンスルーは小一時間に渡って問いただしたい気分だった。それとも彼のように本性を隠して潜入していたのだろうか。

 

「放してくれないなら出さないぞ……! 死んでもバインダーは出さない! 殺すなら殺せ! もう死んでやるぞおおおおお!! ウワアアアアア!!」

 

 彼は気が振れたような狂態を演じる。実際はそこまで自暴自棄にはなっていなかった。

 

 生き残るためにはその首にかけられた手から逃れることが絶対に不可欠な条件だった。このままバインダーを差し出しても目当てのカードを奪われた後でくびり殺されるだけだ。これまで命乞いをしてきたプレイヤーに彼が慈悲をかけたことはない。その結末は十分以上に予想できた。

 

 逃走成功率ゼロの状態から、1%でも可能性を作り出すためには何としてでもこの条件だけは譲れない。危険な賭けであることは承知の上で、ゲンスルーは惨めったらしく泣き叫ぶ。長年に渡ってハメ組を欺き続けてきた彼にとってこの程度の腹芸はお手の物だった。

 

 ゲンスルーの半分以上本音が混ざった迫真の演技が少女に届いたのか。定かではないが、その手が首から放された。くっきりと指の跡が残った彼の首すじに冷たい外気が触れる。まるで千尋の谷底から生還したかのような心境だった。

 

「ありがとう……ありがとう……い、いまバインダーを出す……」

 

 何とか拘束から逃れることはできたが、ここから簡単に逃走できるだなんて甘い考えは浮かばなかった。少女の身体能力の一端を彼は既に見ている。何か注意をそらすようなことがない限り、逃走は困難を極める。

 

 バインダーを渡した後も、少女の殺気がゲンスルーから離れることはなかった。確実に捕捉されていることがわかる。彼は少女を警戒させないように、亀のような遅さで細心の注意を払いながら後ずさった。一歩でも、一ミリでも長く距離を取るために。

 

 少女はゲンスルーのバインダーから無造作にカードを引き抜くと、自分のバインダーへと移し替えていく。その手つきから彼はすぐに察した。少女はどの指定ポケットに何のカードがあるのか、全く把握していない。

 

 入手困難なレアカードも大して苦もなく集められるBランクカードも関係なかった。まるで腹が減ったから目の前の食事に手を付けたかのような気軽さで、手当たり次第に胃袋(バインダー)へ収めていく。ハイエナも同然だ。

 

 ゲンスルーが5年を越える歳月をかけて集めてきた努力の結晶を。ハメ組との反吐が出るような仲間ゴッコの日々を乗り越え、ようやくゲームクリアが見えてきたというのに。クリア報酬の500億ジェニーが手の届くところまで近づいていたというのに。

 

 一枚一枚に深い思い入れがあった。その努力が踏みにじられ、食い荒らされていく。ハラワタが煮えくりかえるようだった。だが、そんな感情はおくびにも出さない。命に比べれば500億も安いものだ。死んだら1ジェニーの得にもならない。

 

 少女がカードの情報に詳しくないことは彼にとって僥倖と言えた。てきぱきと必要なカードだけを選び抜かれるより、移し替え作業に手間取ってくれた方がそれだけ時間も稼げる。その一秒が値千金の猶予となる。

 

 カードの略奪が終われば少女にとってゲンスルーを生かしておく理由はなくなる。それまでに何とか逃走しなければならない。彼は今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。

 

 だが、それはまだできない。少女がゲンスルーから意識をそらす瞬間を狙わなければ、とてもではないが逃げられるとは思えない。次第に、そんな都合の良い瞬間が果たして訪れるのだろうかという不安が膨れ上がっていく。

 

 そうしている間にも時間は過ぎる。焦りが心臓の鼓動を速めた。心音がタイムリミットを刻んでいく。今にも爆発しそうなほどに精神が追い詰められる。

 

 もう、一か八か。これ以上時間をかけるより、早く逃走に踏み切った方がいいのではないか。彼が決死の決断を下そうとしたそのとき、少女の動きが止まった。

 

 少女は一枚のカードを凝視していた。それはSSランクカードの一つ、№081『ブループラネット』だ。

 

 それまで他のどんなカードも一緒くたにバインダーへ詰め込んでいた少女が初めて興味らしき反応を示す。その理由はゲンスルーにもわからない。ただ、少女の意識が彼から離れ、カードの方へと移った気配を感じ取った。

 

 今しかない。もう二度とこんな好機は訪れないと彼は直感する。脇目も振らず駆け出した。その初速は彼の記憶にある限り、最速のスタートダッシュだったと断言できた。

 

 そして、転倒する。

 

 何が起きたのか、その一瞬意識が真っ白に塗りつぶされるほどの動揺に襲われた。転んだのだ。足元が滑り、体勢を崩して地面に倒れ込む。

 

「はぁっ、ははあっ、はあぁーーーっ!!」

 

 言葉にならない。この生死を賭けた大一番で取り返しのつかない稚拙な失敗を犯す。その無様さを悔やんでいる暇もない。すぐに起き上がろうと地面に着いた手に、ぶよぶよと異質な感覚が走った。

 

 粘り気のある変質したオーラがゲンスルーの体にまとわりつく。まるで粘着シートの上に捕まったネズミのようだった。もがけばもがくほど、粘液は繊維状の強靭な性質へと変化する。

 

 これは少女の念能力なのか。確認するために少女の方へと振り返ったゲンスルーは、その行動を深く後悔した。

 

 地をのたうつ彼の背後で少女が腕を振り上げていた。その腕には不気味な巨大昆虫が貼り付いている。いかにも頑丈そうな外骨格で覆われた刺々しい甲虫だ。それが少女の武器であることは見ただけでわかった。凄まじいオーラで強化されている。

 

 まさにその武器が振り下ろされる直前の光景であった。まだカードの詰め替え作業は途中だったはずだ。レアカードだってまだ何枚もゲンスルーのバインダーに残っている。ここで彼を殺せばそれらのカードは消滅してしまう。

 

 ゲンスルーが逃げられないことはもはやわかりきっているのだから、ゆっくりとカードを奪い取った後で殺した方が良いに決まっている。だが、少女はそれをしなかった。その理由を、彼は察する。

 

 少女は喜悦を噛みしめていた。初めて見せる人間的な表情。それを見れば、ゲンスルーを襲った彼女の目的が何だったのかすぐに理解できた。カードの奪取なんて二の次でしかなかったのだ。

 

 実利を得るためではなく殺しそのものを求める快楽殺人鬼。それは珍しくもない存在だった。『爆弾魔(ボマー)』のように悪名を馳せるプレイヤーはごく一部の例外であり、むしろ陰に隠れて人知れず人殺しを楽しむ外道は多い。

 

 そういう連中は所詮、表立って行動することもできず、こそこそと隠れて弱者をいたぶることで自分の弱さを慰める雑魚でしかない。ゲームクリアのためにG・I史上最悪の大虐殺をやってのけたゲンスルーからすれば、強さも頭脳も度胸もない連中だ。ついさっきまでそう思っていた。

 

 では、その悪名高き『爆弾魔(ボマー)』の中核たる彼を、事もなげに殺そうとしているこの少女は何なのか。それを表す適当な言葉など見つからない。

 

 ただ、無名にして生粋のプレイヤーキラーとしか言いようがなかった。

 

 少女の手が振るわれる。その一撃が自らの命を断つことを予感し、ゲンスルーは諦めた。もはや叶わぬ生への執着、死への恐怖を捨てた。その代わりに彼は願った。

 

 サブとバラ。多くの人間を欺いてきたゲンスルーが、嘘偽りなく心から信頼する二人の仲間の無事を願う。ここで自分は殺されるが、決して仇討ちを仲間に望んだりなどしない。これを敵に回してはならない。

 

 ――逃げろ!――

 

 それが彼の最期の言葉となった。

 

 

 * * *

 

 

 ゲンスルー、サブ、バラ。3名の死亡をもって『爆弾魔(ボマー)』の躍進劇に終止符が打たれた。

 

 ゴンたちは予想もしていなかったこの結果に戸惑った。その一報はゲンスルー組と抗戦していたツェズゲラ組から告げられた。ツェズゲラたちがゲンスルーを殺したわけではなく、彼らにしても思いがけない事態だったようだ。

 

 そして、その結末をもたらした者が誰なのか、情報を集めるうちに一つの推測に至る。渦中の少女とは連絡が取れなくなっていた。ゲームの外に出ているためだ。死んだ可能性もあるが、ゴンたちはナインが死んだとは思っていない。

 

 キルアは一度、G・Iの外に出てハンター協会にナインの安否を確認しに行っている。ナインが島外に出たのであればパリストンが保護しているものと思われたからだ。しかし、結果はなしのつぶて。何の情報も得られず、パリストンに会うこともできなかった。

 

「くそ、パリストンの野郎……オレたちとナインを引き離すつもりか。もしかして何かパリストンに言われて連れ去られたんじゃ……」

 

「いや、確かキルアにナインのお守を頼んだのはパリストンだったはずよね。あいつの性格だから何を考えているのか読むのは難しいけど、ここで何の連絡も取らずにバックレようとするかしら」

 

「じゃあ、なんで!」

 

「ナインがあたしたちに会いたくない事情があったとも考えられる。誰かにそそのかされた可能性もあるけど、自分の意思でこのゲームから出て行ったのかもね」

 

「オレたちに何も言わずか!?」

 

 キルアはやり場のない怒りをぶつける。ナインの性格を考えればゲンスルーを殺したことは明らかに普通ではなない。何かあったことは間違いなかった。キルアは一年前、自分が受けたハンター試験での出来事を思い出す。

 

 最終試験で非道な暗殺者である実の兄と出くわし、キルアは仲間のために望まぬ殺しをした。そのせいでハンター試験は不合格となった。その状況と、ナインの行動は少し似ている気がする。

 

 ゴン組はゲンスルー組に目をつけられていた。ツェズゲラ組が倒されれば次はゴン組が狙われる番だった。ナインはゴンたちのために自らの手を汚して敵を排除しようと考えたのか。

 

 だが、それなら一人でやろうとせず、みんなで協力すれば良かったはずだ。結果論でしかないが、殺人という最後の強硬手段に及ばずともすんだかもしれない。

 

 何か他にも理由があったのか。レイザー戦以降、ナインと別行動を取ってから違和感はあった。あまり個人の悩みに首を突っ込みすぎるのも良くないと思い、そっとしておいたが、こんなことになるなら目を離すんじゃなかったとキルアは後悔していた。

 

 ゴンたちが話し合いを続けていると、そこに何者かが移動系スペルで接近してきた。その人物はゴレイヌである。彼とは事前に連絡を取り合って、会談の場を開く手はずとなっていた。

 

 ゴレイヌはレイザー戦以降、ツェズゲラ組に属している。今回、彼はツェズゲラ組の使者としてゴン組と契約の履行や今後の方針について話し合うためここに来ている。

 

「すまんな。できればもっと早く会いに来たかったんだが、予想外の事態が重なってオレたちの組も対応に追われていた。まず、お前たちに伝えておかなければならないことがある」

 

 ゴレイヌの口から告げられたのは、大富豪バッテラのゲームクリア依頼キャンセルという一大事だった。このゲームをクリアしたプレイヤーには特典として指定ポケットカードの中から3枚を選び、現実世界へ持ち帰ることができる。そのカードと引き換えに、バッテラは500億ジェニーの賞金を約束していた。

 

 このゲームのプレイヤーはバッテラから選抜されて賞金目当てで参加している者が大半である。そのクリア依頼のキャンセルとなればただ事ではないが、別に報酬が欲しかったわけではないゴンたちからすれば特に驚くようなことでもなかった。

 

「正直、今のオレたちはそれどころじゃないしな」

 

「ナインのことか。実はその件で話がある。オレたちはナインがゲームから出て行く直前、彼女と会っていた」

 

「……え!? 何でそんな大事なこと黙ってたんだ!?」

 

「口止めされていた。それも含めて、オレたちはナインとある契約をかわしている」

 

 ゲンスルーたちが死んだ後、ナインはツェズゲラ組の前に現れた。彼女は自分のカードをツェズゲラ組に託し、そのカードをゴン組に届けてほしいと頼んでグリードアイランドから出て行ったという。その契約に関すること以外をナインは何も語らなかった。

 

「つーわけで、持ってきた。まあ状況から考えて、ゲンスルーから奪ったカードであることは間違いない。それ以外の方法じゃ手に入らないカードばかりだ」

 

 見せられたカードは、かなりの数に及んだ。既に持っているダブリカードも多かったが、SSランクカードの『一坪の密林』や『大天使の息吹』まであった。

 

「どーする? もらっとくか?」

 

 キルアはゴンに尋ねたが、ゴンの性格を考えればこれは受け取らないかもしれないと思った。ヒソカに情けをかけられたというだけでハンター試験に合格した自分の実力に納得できず、一発殴り返すまではライセンス証を使わなかったほどの頑固者だ。意に沿わない方法でカードを手に入れることを許せるだろうか。

 

「うん、もらっておこう」

 

 だが、そんなキルアの予想に反してあっさりとゴンはカードを受け取った。考えすぎだったかとキルアは気を取り直す。

 

「あと、これはビスケットに渡してくれと頼まれたカードだ」

 

「私に?」

 

 ゴレイヌが別に取り出したカードは『ブループラネット』だった。

 

「あの馬鹿弟子……」

 

 ストーンハンターであるビスケがこのゲームをプレイするきっかけとなった宝石である。だが、念願のアイテムを手に入れたビスケの表情は晴れやかとは言い難かった。

 

「そういえば、ツェズゲラ組もブループラネットは持ってなかったはずじゃ? 他のカードにしてもそうだけど、頼まれたからってこれだけのレアカードを正直に届けにくるか? そのまま自分たちの物にしてしまってもオレたちは気づけなかっただろうし」

 

「おい、見くびるなよ。ナインから受け取ったカードは一枚残らずお前らに渡した。『複製(クローン)』や『擬態(トランスフォーム)』でコピーもしていない。ツェズゲラは確かにがめついところもあるが、恩に仇で応えるような奴じゃないさ」

 

 ゲンスルーが死んだことでツェズゲラたちも大きな利益を得ている。ゲンスルー組が彼らの手に余る強敵だったことは事実である。

 

 カードショップを見張られ移動系スペルの補給路を断たれたツェズゲラは、追い詰められたフリをして島外にバッテラ経由で傭兵を雇い入れていた。この物量作戦でゲンスルー組を一網打尽にする計画だったのだが、バッテラが急遽依頼をキャンセルしたために傭兵も引き上げていた。

 

 ツェズゲラたちはG・I内でゲンスルー組の動向から目が離せなかったためにこの傭兵の引き上げを知らされておらず、計画通りゲンスルーを誘いこんでいれば空振りするばかりか逆に殺されていたかもしれなかった。

 

 それにゲンスルー組が『大天使の息吹』の一枚を所持したまま死亡しているため、ゲイン待ちだったツェズゲラの持つ『引換券』が『大天使の息吹』に変化している。これだけでも収支は上々と言えた。

 

「さて、さっきも話したがバッテラは依頼を取り下げた。もうクリアしても報酬の500億ジェニーはないわけだが、お前らはこれからどうするつもりなんだ?」

 

 報酬については最初からどうでもいいことだったが、キルアはこれ以上ゲームに興じる気にはなれなかった。ナインのことを放り出したままカードを集めて回っても楽しめるはずがない。

 

「オレは、ナインを探した方がいいと思う」

 

「探して見つけ出すのは難しいんじゃないかな。ナインの方がオレたちを避けているのだとすれば、なおさらね」

 

 ゴンの言うことはもっともだった。正論であるだけにキルアの心を逆なでする。

 

「じゃあ、どうすればいいってんだよ」

 

「このままグリードアイランドを攻略する」

 

 一気にキルアの頭に血がのぼった。仲間のことを見捨ててまでやるようなことではない。思わず手が出かけたキルアだったが、次いで発せられたゴンの一言を聞き、思いとどまった。

 

「このゲームをクリアすることがナインのところまで行く一番の近道だと思う。バッテラさんが依頼をキャンセルしてくれたのは、オレたちにとっては良かったかもしれない」

 

 バッテラとの契約では、グリードアイランドをクリアして持ち帰ったアイテムは全てバッテラに所有権を譲ることが取り決められていた。その依頼がなくなった今なら、クリア特典のカード3枚はプレイヤーのものとなる。

 

 キルアはゴンがG・Iのアイテムを使ってナインを探そうとしているのだと思い至った。だが、人探しに役立ちそうなアイテムがあっただろうかと首をかしげる。

 

「『同行(アカンパニー)』のカードが使えれば一気にナインのところまで行ける」

 

「いや、クリア特典は指定ポケットカードからしか選べないんだって。呪文カードは対象外だ」

 

「『擬態(トランスフォーム)』を使えば指定カードとして偽装できないかな」

 

 『擬態』の呪文カードは、持ちカード一枚を別の持ちカードに変身させる効果がある。他の適当な指定カードに変身させた上でゲーム外に持ち出し、『擬態』を解除すれば『同行』の呪文カードを現実世界で使うことができる。

 

 その場合、『擬態』を解除するためのアイテムとして『聖騎士の首飾り』も必要となる。持ち出しに成功すればいいがこの裏技がうまくいく保証はない。

 

「たぶん、うまくいくよ。オレがゲームの制作者だったら、そういうのもアリだと思うんだ。ジンならそうするだろうなって」

 

「何の確証もないのにすげー説得力だ……」

 

「相変わらずぶっ飛んだこと考える奴らだな。仮に成功したとしてもクリア特典3枚のうち2枠を潰すことになる。お前ら本当にそれでいいのか?」

 

「構わないよ」

 

「当然」

 

「あの子には師匠として、直接会ってガツンと言ってやらなきゃいけないことがあるわさ」

 

 ゴレイヌの問いかけにゴン組の全員が即答する。それを見たゴレイヌはやれやれと肩をすくめた。

 

「つまり、これからも攻略組として活動を続けるわけだな。こっちもそのつもりだ。500億の話はなくなったが、それでもこのゲームのお宝を現実世界で売ればかなりの大金になるだろうからな。お前らには同情するが、クリア特典を譲る気はないぜ?」

 

「もちろんだよ。それでも先にクリアするのはオレたちだろうけどね」

 

「随分な自信だな。オレたちツェズゲラ組の所有カードは97枚。№000を含めてコンプリートまであと3枚だ。そっちは今回入手したカードを入れても、まだ30枚近く集めないといけないぞ。敵うと思ってるのか?」

 

「できるさ。それだけの理由がある」

 

「……敵同士のオレからこんなこと言うのもおかしな話だが、お前らならやれる気がするよ。応援してるぜ」

 

 方針は決まった。ナインを追う方法は見つかった。しかし、なぜ彼女が何も言わずに去って行ったのか、その真意はまだわからない。実際に会っても、その先に手を取り合う未来は訪れるのだろうか。

 

「なあ、ゴン」

 

「ん?」

 

「ナインはオレたちのこと……」

 

 その先の言葉は続かなかった。不安に駆られるキルアに、ゴンは大丈夫だと笑いかけた。

 

「心配しなくてもナインなら大丈夫。きっと仲直りできる。だって、友達なんだから」

 

 



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蟻編
74話


 

「よし、鬼ごっこやんぞ。お前ら全員、鬼な」

 

 四方を壁に囲まれた広い施設の屋内に、十数人の人間がいた。壁には窓がなく、出入り口は一つしかない閉鎖的な場所だった。そこに集まった者のほとんどが小学生ほどの子供たちだった。

 

 その子供たちの輪の中に一人だけ大人が混ざっている。その中性的な顔立ちと体格の良さから一見して男性に見えなくもないが、声には女性らしい高さがあった。

 

 子供たちと追いかけっこをして遊ぶその光景は、小学校の先生が教え子と戯れているようにも見えた。本当に、そうだったら良かったのにと、彼は思う。その光景を少し離れた場所からトクノスケは眺めていた。

 

 チェル=ハース、ならびにトクノスケ=アマミヤ。二人はつい数カ月前までサヘルタ合衆国の特殊部隊に属していた。しかし、その経歴も今や過去のものとなっている。

 

 サヘルタの特殊部隊は国家の暗部として極秘任務を与えられることも多い。その育成には莫大な資金がつぎ込まれ、任務の性質上、口外することのできない政府の機密情報を抱えている。脱退を願い出たところですんなりと了承されることはない。二人は正式な手続きを経て退役したわけではなかった。

 

 彼らが特殊部隊として従事した最後の任務、世間では俗に『スカイアイランド号事件』と呼ばれる一件が全てを変えた。その任務の最中に戦闘不能となった二人は、ある組織に身柄を拘束された。

 

 それはアイチューバーのオフ会をスポンサーとして裏から牛耳っていた闇組織の一つである。オフ会会場に集まった二千人の観客に『新薬』を投与し、非人道的な人体実験を企てた研究団体だった。

 

 あの狂気の実験から生き延びた被験者が存在したのだ。それがこの場にいる子供たちだった。理由はまだ解明されていないが、子供だけは生存率が高かった。『新薬』の影響は被験者の精神と密接に関わっている。成人した人間よりも未知の事態に対する順応性は高かったのかもしれない。

 

 『新薬』の研究団体は貴重な実験対象として生存者を捕獲した。事件が公になる前に介入して運び出している。唯一、成人した人間でありながら生き残ったチェルも拘束の対象となった。そのオマケとしてトクノスケも捕まった。二人が裏組織の計画を大きく狂わせた一因でもあったので、その背後関係を洗い出すための情報源として捕虜とされた。

 

 サヘルタの特殊部隊として敵対組織に捕まった際の対応は叩きこまれている。絶対に情報を漏らすことはできず、その可能性が少しでもあれば自らの命を即座に断つ。そのマニュアル通りの対応を取っていたならば、トクノスケはこの場にいなかっただろう。

 

 彼は祖国を捨て、闇組織に恭順した。葛藤がなかったわけではない。憎むべき相手に魂を売ったことを恥じた。しかし、それを差し置いてでも守りたいものがあった。

 

 チェルの命を救うには、研究団体が作った鎮静薬が必要だった。その薬があれば、新薬の暴走を一時的に抑え込むことができる。彼女の命を盾に取られたトクは反抗の意思を完全に折られた。忠誠を誓った祖国を裏切ってでも仲間を助ける道を選んだ。

 

 人質に取られたのはチェルだけではない。同じく捕えられた子供たちもそうだ。チェルが闇組織に反抗せず、おとなしく従っている一番の理由は子供たちがいたからだった。

 

 新薬の影響はまだ体に深く残されている。毎日の鎮静薬投与は必須であり、その副作用も大きい。実験動物として飼われているこの現状は、心身ともに深刻な影響を与えていた。

 

 チェルは少しでも子供たちを安心させられればと、こうして一緒に遊ぶ機会を設けているが、それは彼女自身にとっても心の支えとなっている。同じ『病』に苦しむ同胞として、子供たちはチェルに心を開いた。

 

 一種の共依存に近い感情ではあったが、チェルもまた彼らから向けられる信頼に報いるため心を強く保つことができていた。たとえそれが闇組織に仕組まれて利用されている関係だったとしても今さら見捨てることなどできない。

 

 チェルもトクも、がんじがらめだ。巧みに作り出されたこの逃げ場のない状況は人心掌握に長けた闇組織の手腕であった。そのトップの名は『ジャイロ』という。

 

 この研究所はネオグリーンライフ、通称NGLと呼ばれる国にあった。ジャイロはこの国を基点として麻薬製造と流通に関する一大シンジケートを築き上げている。これまで製造してきたD2と呼ばれるドラッグに加え、新たな事業としてこの新薬開発に着手していた。

 

 ジャイロはNGLの影の支配者であった。一国家を隠れ蓑に、裏で大々的な犯罪活動に手を染めながら、それを押し通すだけの力がある。この国が裏でドラッグの大量製造を行っていることは一部の知識層にとって周知の事実であったが、それでありながらいまだに検挙できていないことがジャイロの権力を物語っていた。

 

 実際に、一度だけトクはジャイロと会ったことがある。特権階級特有の驕りなどは一切感じさせない気さくな男だった。だがその人間性の裏側に、得体の知れない何かが隠されていることを感じ取った。彼の言葉は友人と交わすように心に染み込む温かみがありながら、その一方でどこか隔絶している。そのある種、超人的風格には異様なカリスマがあった。

 

 ジャイロはトクの念能力者としての強さを買い、捕虜の身であった彼にある程度の自由を与え協力関係を提示している。チェルと子供たちの扱いについて、むやみに危害を加えるようなことはしないことを約束しているが、それがどこまで信用できるか定かではなかった。

 

「ママ……」

 

 物思いにふけっていたトクの思考が遮られる。それまで楽しそうに遊んでいた子供の一人が急に泣き始めた。無理もないことだった。表面上は平静を保っているように見えても、心の奥には深い傷を抱えている。その感情がいつ決壊してもおかしくない。

 

 だがここにいる被験者にとっては、そんな小さな感情の発露が取り返しのつかない発作になりかねない。

 

「ままあああああ! ああああああ!!」

 

 もう二度と会うことのできない家族を思って少女が泣く。チェルが慌てて駆け寄りなだめるが泣きやむ様子はなかった。少女の腕に、うろこのように赤い結晶が生じ始める。

 

「大丈夫! 先生がここにいるぞ、ジャスミン!」

 

「あああああああ!!」

 

 チェルが少女を強く抱きしめた。すぐにトクは二人のもとへと向かう。鎮静薬を取り出して少女に注射しようとする。

 

「やだやだやだあああああ!!」

 

 この暴走状態を抑え込むためには鎮静薬を投与するしかない。しかし、毎日のように投与され続けている子供たちはこの薬がもたらす副作用を実感している。人体に与える影響がろくに検証もされていない薬だ。半ば毒物にも等しいその薬を、少女は拒んだ。

 

 だが、それでも与えるしかない。チェルは少女を拘束するように強く抱きしめる。その隙にトクが注射を打った。絶叫を上げて少女が苦痛に身を震わせる。

 

「ごめん……ごめんな……」

 

 周囲の子供たちは黙ってその光景を見ていた。つられて泣きだすような者はいない。そんなことをすれば自分も同じ目に遭うかもしれないという恐怖が子供たちの精神を抑制していた。

 

 やりきれなかった。研究団体は開発が進めば薬効も副作用も改善された完全な鎮静薬を作れると謳っているが、どれだけの期間がかかるというのか。それまでに子供たちの体はもつのか。

 

 チェルは、助かるのだろうか。トクは無意識の内に、薬液を投与し終わった注射器を握りつぶしていた。

 

 

 * * *

 

 

「ヴィクトリアンメイドとフレンチメイドの違いについて、お話しします」

 

 却下する。私は視線で目の前の女の発言を封じた。

 

「……すいません、そんな一般常識、聞かされるまでもないということですね。では、基本的なデザインと性能についてだけ説明させていただきます」

 

 グリードアイランドから帰還した私はパリストンが用意したゲーム機のある場所に戻ってきた。その際、ゲーム内で手に入れたアイテムは指輪とその中に残されたデータを除いて全て失われている。シックスが着ていた衣服もなくなり、裸で放り出されてしまった。

 

 着替えくらいは自分で適当に用意すればよかったのだが、そこで例のディックサクラ店員の登場である。しかし自分が自由に行動できる立場ではないことはわかっていたので異論はなかった。

 

「まず、今回のお洋服はご覧の通りメイド服です。メイドさん……なんて甘美な響きなのでしょう。元はただの女中のお仕着せでしかなかったその服も、いまや数々のロマンが込められたファッションです」

 

 エプロンドレスにホワイトブリム。色は地味な黒と白のモノトーンだが、フリルの飾り気や腰の後ろで大きく結ばれたリボンなど、これをお仕着せというには無理がある。何より、そのスカートの丈が目を引く。

 

「わかっています。質実とは程遠いこの暴力的なまでのスカートの短さ。本来のメイドとしての流儀から外れた下品さが表れてしまったことは事実。私も悩みました。しかし、王道のヴィクトリアンスタイルではそのロングスカートが戦闘において行動を大きく阻害してしまいます。家事を行う上では適した服装も、戦場においては不適格。ハウスキーパーと戦士、この二つを両立させるために私としても苦渋の決断でした」

 

 両立する必要はあったのか。剥き出しになった脚は白いニーソックスを履かされている。店員は専用のスティックのりを取り出すと、靴下とスカートの間の露出した肌の部分を1ミリ単位で計測しながら止める位置を調整していく。それが終わると、調整した靴下の上にぴたっと頬を当てる。

 

「しゅき……」

 

 しみじみとつぶやく店員の横っ面に膝蹴りを食らわせた。

 

「あぐぁっ!? ……ご、ご褒美ですか?」

 

 沸々と湧きあがる殺意を抑え込む。せっかくグリードアイランドで鎮めていた感情をこんなところで再燃させるなんて馬鹿らしい。

 

「あぁ……その絶対零度の瞳、養豚場のブタを見るような目……奉仕なんて言葉とは真逆の王者の風格でありながら、身に纏う衣服はメイド服。なんて倒錯的で心躍るお姿なのでしょうか、お嬢様!」

 

 衣服のデザインなど、どうでもいいことだ。重要なことはその機能性である。この服は店員が念能力を使って作り上げたものだった。具現化したのではなく、実在する糸に己のオーラを染み込ませ、一針一針縫いあげることで途方もない労力をかけ完成させた逸品だ。

 

 発に加えて神字による術式も合わせてオーラを隠の状態で定着化させており、術者本人の手から離れても防御力はさほど落ちない。さらに付着した汚れを自動的に落とす機能や、内蔵された店員のオーラが底を尽きない限りは損傷を自動修復する機能までついている。

 

 単純な防御力だけでも軍用のボディアーマーを遥かに凌ぐ耐久性があり、戦闘装備としての実用性は非常に高い。その馬鹿げたデザインも敵の油断を誘う上では役に立つこともあるだろう。

 

 それが私に求められた役割だと言うのなら、利用できるものは何でも利用する。

 

「それではこのあと、パリストン様との会合が予定されておりますので、会議室までご案内いたします」

 

 店員の指示に従い、施設の内部を進む。ここはパリストンが用意した何かのビルだった。ハンター協会の本部ではない。本体は腕に這わせたまま堂々と通路を歩く。

 

 会議室に入ると中にいた人物から視線を向けられる。二人の男が席に着いていた。どちらも私の知らない人物だ。

 

「ほう。お前が例の?」

 

「なんとまぁ、これは……」

 

 一人は大柄でサングラスをかけた男だった。シャツにネクタイという姿だがビジネスマンには見えない。まくり上げられたシャツからは屈強な太い腕を見せている。

 

 もう一人は対照的にきっちりと背広まで着こなし、眼鏡をかけた男だった。外見的に線は細く見えるが、決して弱くはない。どちらの男も念能力者としては一流の使い手だとわかる。

 

 二人は値踏みするようにこちらを見ていた。友好的な気配は欠片もない。むしろ、鋭い敵意すら感じ取れた。すぐさま攻撃してくるようなことはないだろうが、良く思われていないことは確かなようだ。

 

「話には聞いていたが、マジでこんなガキにネテロのじいさんがやられたのか……とてもじゃねぇが信じられん。会ってみるまではと思って憶測で物を考えるのは控えていたが、ダメだな。やっぱり気に食わねえ」

 

 その発言を聞いて納得できた。この二人はおそらくパリストン派の人間ではない。ここに招かれているということは明確に敵対しているわけではなさそうだが、ネテロ元会長寄りの立場にいる協会員かもしれない。

 

「まだ話もしていないのに決めつけるのは早計では?」

 

「よく言うぜ。お前だって見りゃわかんだろ、あの目。パリストンはあの少女も不幸な被害者だとか抜かしてたが、あれがそんなタマかよ。だいたい何で『絶』してんだ? 何か隠さなきゃならないことでもあんのか?」

 

 私はここに来てからずっと絶の状態で過ごしていた。疑われるよりも晒した方がいいかと思い、纏の状態にする。

 

「……あー、わかったわかった。閉じとけ。くせぇ」

 

 大柄の男は鼻をつまみ、眼鏡の男はハンカチを口元に当てて押さえた。私はまた絶の状態に戻した。より険悪な雰囲気となったところで、そこにパリストンが姿を現す。

 

「いやー、すみません! 遅れちゃいましたーって、あれ? まだ会議始まるまで5分もあるじゃないですか。みなさん、まじめですねー。では、全員そろったことですし、さっそく始めましょうか」

 

 ネテロの死と私の存在について、当然ながらハンター協会はその対応に紛糾している。まずはその現状確認から説明された。

 

 会長がいなくなったためにハンター協会の最高幹部である『十二支ん』が現在の協会運営を取り仕切っているのだが、一致団結しているとはとても言い難い。ハンター十ヶ条では会長の座が空白となったときは直ちに次期会長選挙を行うことが明記されているが、それも具体的な見通しは立っていない。

 

「今は選挙よりも優先して対処すべき課題が残されています。問題を棚上げしたまま次期会長選挙に勤しんでいる場合ではありません」

 

「それもどうせお宅の得意の時間稼ぎだろ? 次期会長が決定されるまでは副会長に代行権が与えられる。今の権力を握り続けるにはもってこいだ」

 

「え? そんなことする必要ありますか? 選挙したら普通に僕が勝って会長になると思いますけど」

 

 大柄の男は苦虫を噛み潰したような表情になる。選挙でパリストンが勝つかどうかは知らないが、今はそんなことにかまけている場合ではないということは事実だった。

 

 ネテロがV5と交わした秘密任務も明らかとなり、事はハンター協会内部のいざこざで済む話ではなくなっている。新たな災厄の動向、つまり私の存在がネックになっている。

 

「ネテロさんの死に納得できない方が協会に多数おられることはわかっています。ですがその感情に支配されるまま彼女を、シックスさんを迫害するようことは正しいと言えるのでしょうか。私は断固として否定させていただきます」

 

「あんたの言い分はわかってるよ。十二支んできちんと話し合って決定されたのであればどんな内容であっても文句は言わねぇ。余計な前置きはいいから、何でオレたちをここに呼んだのか、さっさとそれを言ってくれ」

 

「はい、実は……」

 

 ミテネ連邦のNGLという国において第一種隔離指定種に認定されている『キメラアント』という虫の存在が確認された。その生態についてはよく知っている。なぜなら私も『それ』だからだ。

 

 私と今回発見された種が明確に異なる点は、体の大きさだろう。NGLのキメラアントは人間大の巨体を持つ。女王アリは人間の味を覚え、その結果生み出された人型キメラアントの群れが周辺一帯の人間を根こそぎ滅ぼす勢いで狩り尽くしているという。

 

 既に独自に情報を入手したハンターが何組もNGLへ向かったようだが、音信不通になったハンターが多数いる。巣が目視できる距離まで近づけた者もいたらしいが、強力なキメラアントの個体に襲われ命からがら逃げ帰って来たらしい。

 

「強力な個体とは、具体的にどのくらいの強さですか?」

 

「交戦したハンターのカイトさんは実力的に言えば十二支んにも匹敵すると思いますよ。腕一本もぎ取られながらも逃げ帰って来れたのはむしろ優秀だったからこその戦果でしょう」

 

「十二支んが裸足で逃げ出すレベルですか……」

 

 しかもそのハンターによれば、おそらくその個体は『護衛軍』と呼ばれるキメラアント組織の上位に属し、同レベル体の個体が複数いてもおかしくないという。

 

 これまでに判明したキメラアントの生態に則せば、巣を造営して間もない今の時期に『王』と呼ばれる組織最上位の存在はまだ生まれていないと思われる。だが、護衛軍でさえそれだけ強者だというのに、その上に立つ王が生まれればどこまでの力を持った存在となるのか。想像もできない。

 

「王が生まれる前に、早急にハンターを送り込み制圧したいところですが、戦力の逐次投入は危険です。キメラアントの生態上、敵の戦力をさらに増強させる結果となるでしょう」

 

「可能な限り少人数で、それでいて敵を制圧できるだけの精鋭が必要というわけですか。それで私とモラウさんが選ばれた、と」

 

「はい、もし私がネテロさんの立場であったなら、間違ないなくお二方を伴って現場へ赴いたことでしょう」

 

「買いかぶりすぎじゃねぇか? オレたちは確かに戦場のサポートには向いてるが、素の戦闘力で言えばもっと強い奴が他にいるだろ。さすがにノヴとオレの二人じゃ、ちっとばかりしんどい仕事になりそうだ」

 

「ええ、ですからここにいる“お三方”に協力をお願いしたいのです」

 

「……まあ、なんとなくそういう話の流れになるんじゃねぇかと思ってたけどよ。一応確認しとく。オレと、ノヴと、あと一人は誰だ?」

 

「もちろん、シックスさんです」

 

 大柄の男は露骨なため息を漏らし、眼鏡の男は大げさに天を仰いだ。

 

「モラウさんの『紫煙拳(ディープパープル)』とノヴさんの『4次元マンション(ハイドアンドシーク)』によるサポートに、シックスさんの力が加わればキメラアント討伐作戦は必ずや成功することでしょう!」

 

 パリストンが私の災厄を戦力に勘定しているのなら、ここまでの大言壮語も不思議ではない。アルメイザマシンを使えばこの三人で問題なく対処できるだろう。いや、私一人で十分だ。

 

 私はアルメイザマシンの力を封じたことをパリストンに告げていなかった。が、パリストンにとっては作戦が成功すれば良し、負けても良し。この男がそんな物の考え方をしていることは既に気づいている。もしかすると、私が隠している誓約についても見抜いているのかもしれない。

 

「もちろんシックスさんに強制は致しません。あなたが飼われているキメラアントと、同種の存在と戦うことになるのですから忌避感もあるかもしれませんし……」

 

 そんなものはない。人間を殺すのも同じだ。今の私にとっては、むしろ忌避感は少ないだろう。

 

「そう言ってくださると思っていました。ですが、協会内部にはまだあなたのことを疑っている方がいらっしゃいます。今回の人型キメラアントとシックスさんの関連性を」

 

 キメラアントは暗黒大陸原産とされる虫だ。人間の駆除から逃れたアリがどこかで生き延びていた可能性はあるが、それでも人間大の大きさの種が生まれたことは異常である。そこに私の存在が合わされば、つながりを疑われても状況的に仕方がない。

 

 パリストンは私がグリードアイランドをプレイしていた時間を使ってシックスの受け入れ態勢を整えていたようだが、ここに来てNGLのキメラアント事件が発生し、再び協会では議論が割れ始めている。

 

「そこでシックスさんにこの事件の解決に向けて活躍していただくことで、今回の一件とは無関係であることと、ハンター協会の一員として友好的な関係を築く意志があることをアピールしてほしいのです」

 

 それがどんな手段であったとしてもハンター協会が手をこまねくような案件を解決できたとすればそれなりの名声が手に入る。それを使って自分の経歴を禊げということか。

 

「おいおい、そっちの思惑なんざどうでもいいぜ。なんでオレたちがお前らの事情に付き合わされなきゃなんねーんだよ。正直、ノヴと二人でやる方がまだマシだ。強い弱いの問題じゃない。こんな奴に命を預けて戦えるか」

 

 難色を示す大柄男に対し、パリストンは悩ましげにうなる。

 

「困りましたねぇ。モラウさんとノヴさんを選んだのは、何もサポートに向いているからというだけではありません。ここで私が懇意にしているハンターをシックスさんの補佐として付けることは簡単なことですが、それでは彼女の客観的な実力と活躍を協会の皆さんにお伝えするために最善とは言えません」

 

 あえてネテロ元会長派の人間を私のそばに置くことでより公平な評価を得ることができる。しっかりと二人の前で行動して見せ、実力を示せばパリストン派を毛嫌いしている人間も私のことを認めざるをえなくなる。

 

 だが、それは諸刃の剣でもある。良くも悪くも評価を下すのはネテロ派の二人の一存だ。最悪、根も葉もない噂を流されて余計に私の立場が悪くなる可能性も考えられた。それを考えれば少しでも印象を良くするために仲良くしておいた方がいいだろう。

 

「いくじのない人間は、ひつようない」

 

 だが、私は一刀のもとに迷いを断ち切る。媚びを売ってまで協力を願い出るつもりはなかった。要は結果を残せばいい。キメラアントを討伐できれば、その事実をもってパリストンが私を神輿の上に据えるだろう。

 

「わたしひとりで、やる」

 

 その言葉を聞いた大柄の男は初めて笑顔を見せた。歯を剥き出しにした獰猛な笑みは敵意に満ちながらも、なぜかこちらを少しだけ認めたような色を含んでいる。

 

「わかりました。その依頼、引き受けましょう」

 

 先に了承の意を示したのはノヴと呼ばれた男だった。

 

「このままキメラアントの増殖が進めばミテネ連邦を飲み込むことは時間の問題です。放ってはおけません」

 

「シックスさんとも協力していただけるのですか?」

 

「構いませんよ。使えるようなら使う。そうでなければ切り捨てるだけです」

 

 眼鏡の奥からこちらを見据える目は、まるで道具を見るかのように冷え切っていた。パリストンはそんな男の態度に何も言うことはなく、ただいつもの笑顔を貼り付けている。

 

「しゃあねぇな。オレも引き受けてやるよ」

 

「ありがとうございます、モラウさん」

 

「ま、あんたの思い描いた図面通りに事が運ぶ保証はないがね」

 

 もう一人の男も同調した。これで形だけはキメラアント討伐隊の完成となる。

 

「ええっとチビちゃん、名前なんつったっけ?」

 

「確かハンター登録名簿にはチョコロボフと記載されていましたね」

 

「そうそうチョコロボフだ! くくっ、よろしくな、チョコロボフ! オレはモラウ=マッカーナーシだ」

 

 がしがしと粗雑に頭を撫でまわしてくるモラウの手を払いのける。ノヴは一言の挨拶もなく私の横を通り過ぎて部屋を出ようとしていた。それをパリストンが呼び止める。

 

「あっ、そうだ! 一つ大事なことを伝え忘れてました! あれー、資料どこだったかな……」

 

 パリストンはごそごそと書類の山をあさっている。この男が本当に大事なことを伝え忘れるはずがない。その発言も動作も、何もかも胡散臭かった。

 

「実はNGLに要注意の犯罪組織があるんですよ」

 

「ああ、違法ドラッグの製造密売しているってあの噂だろ。知ってるよ。だが、キメラアントとは別件だろ」

 

「それはそうなんですが、最近になって無視できない動きがありまして。少し厄介なことになるかもしれません」

 

 どうやらキメラアントを倒せばそれで済むという話でもないらしい。パリストンの笑顔は邪悪に濁っていた。

 

 



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75話

 

 五つの国家からなるミテネ連邦の西端に、NGL自治区と呼ばれる国がある。人口はおよそ217万人、国として社会基盤となるほどの産業が発展しておらず、人々は村組織を中心とした自給自足の狩猟・農耕生活を営んでいる。これは社会政策や公共事業といった統治体制全般の不備というわけではない。

 

 この国の国民の99%がネオグリーンライフという団体に属しており、『自然のままに』という理念に基づき活動している。機械文明を全て捨て、自然の中で暮らすことを人間の正しい生き方だと信じる団体である。

 

 誰に縛られることもなく、国民が自ら望んだ生活を送ることができる理想郷と言えよう。だが、いかに人が集まり理想を掲げたところで国家を形成するだけの主権というものは、そう簡単に手に入れられるものではない。

 

 それまでは一つの思想団体に過ぎなかったNGLを裏からまとめ上げ、この新興国を独立へと導いた立役者がいた。しかし、その者の功績を知る国民は数少ない。NGLの影の王は、ジャイロという名の男だった。

 

 表向きは隣接するロカリオ共和国の民主化運動が激化した結果独立を果たした形となっているが、侵略的側面がなかったわけではない。『自然のままに』などという綺麗事では済まされない血みどろの過程があった。

 

 人、領土、経済、武力、外交、一から国を立ち上げるにはあまりにも多くの問題が山積している。一人の男が国を相手に戦争を仕掛け、勝利を収めるという絵空事がどれほど馬鹿げているか語るべくもない。

 

 ジャイロにも絶対の自信なんてものはなかった。一手読み間違えば死、という賭けを何百と繰り返し、その全てに勝ち続けた結果として得た奇跡だと思っている。その精神は完全に狂気の領域にあった。

 

 彼が求めたものは金や権力ではない。独裁をしいて甘い汁を吸おうと考えたことは一度もなかった。寛大な指導者としてそれらしく振る舞うことはあるが、それも偽りの姿に過ぎない。彼の本質は一点の悪性であった。

 

 『世界に悪意をばらまく』

 

 父を殺し、自分が人間ではないことに気づいたあの日から、ただそれだけのために生きてきた。誰かにその腹の内を話したことはなかったが、その到底共感されることはないだろうと思っていた滲み出る無性の悪意は、意外なことに人を惹きつける王の資質となった。

 

 薄汚れた飯場から生まれたその悪意は、今やNGLを基点として飲むドラッグ『D2』を世界各地に流通させるほどにまで成長した。機械文明を一切排したこの国の情勢は、麻薬の栽培と密売を手掛ける上で格好の隠れ蓑となっている。

 

 しかし、ジャイロにとって現状は通過点の一つに過ぎない。まだ彼の悪意はこの程度で満たされるものではなかった。次のステージへと進むため、ドラッグに次ぐ新たな事業に着手している。

 

 それが新薬であった。研究者たちはこの薬に人類の進化を実現する期待を込めて『進薬アルカヌム』と呼んでいる。

 

 その研究は今から三年前、国際渡航許可庁が有する隔離種総合管理研究所で始まった。研究チームの主任はタポナルド執務次官。彼が暗黒大陸から持ち込んだ(記録上は誤って持ち込まれたものを接収したことになっている)、『賢者の石』の調査研究を目的として結成された。

 

 スカイアイランド号事件において大々的に存在が知れ渡ることとなったが、この『賢者の石』の研究は何年も前から行われていたものだった。ジャイロはある伝手を経て、シロスズメ島という場所から発見されたこの貴重な石のサンプルを大量に入手し、タポナルドと接触を図る機会を得たのだ。

 

 タポナルドはジャイロが非合法な犯罪組織の長であることを知りながらも協力関係を結んだ。許可庁において彼の立場が危うくなる機運を悟り、研究を継続させるためジャイロに保護を求めたのだ。実際にタポナルドは第六災厄を招き入れた責任を取らされることになったので、その読みは外れていない。

 

 許可庁から逃げ出してでも研究の続行を望んだタポナルドの精神状態は、既にまともではなかった。過去の栄光にすがり、自らの失墜を認められず他者への恨みに染まっていた。研究の成果によって返り咲くことしか頭にない彼を懐柔することはジャイロにとって容易かった。

 

 そして目的の研究データを手に入れたところでジャイロの手の者によってタポナルドは始末されている。もともと事務方の人間であり、お飾りの主任でしかなかった彼を生かして引き入れるメリットはなかった。許可庁お抱えの研究所からデータを盗み出したとなればV5が動きかねないほどの一大事だ。足がつくことを恐れて証拠は徹底的にもみ消した。

 

 そのはずだったのだが、痕跡を消し去る前にジャイロの存在を嗅ぎつけた猟犬(ハンター)がいたらしい。ハンター協会にこのことを知られた疑惑が浮上している。何もかも掌の上、というわけにはいかなかった。

 

 ここ数日、まともに睡眠も取れず疲労がたまった目頭をジャイロは揉みほぐす。ギシギシと耳障りな音を立てる椅子に深く腰掛けた。明らかに一国の指導者が使うにはふさわしくない安物の椅子や机であった。その執務室にどたどたと騒がしく部下が入室してくる。

 

「ジャイロ! やべぇ! D2の第4、第5製造工場が落された! じきにここにも化物どもが押し寄せてくるぞ!」

 

 起きてほしくない事態ほど立て続けに訪れるものだ。NGLは現在、魔獣種と思われる謎の亜人集団によって侵攻を受けていた。その強さは常軌を逸している。武装した一般人では束になっても勝負にならない。念能力者なら一対一で辛うじて対処可能なレベルだった。それほどの強兵が数え切れないほど確認されている。

 

 ハンター協会からの刺客に備えて防備を固めていなければ、ジャイロは既に殺されていてもおかしくなかった。その点は不幸中の幸いと言える。

 

 部下からの報告の通り、魔獣種の群れがここまで近づいている。命が惜しければすぐにでも逃げ出すべきだ。このままではNGLは魔獣たちによって滅ぼされる。

 

 冗談ではない。ジャイロの夢は後戻りできないところまで膨らんでいた。彼が築き上げてきた悪意の発信地を、侵略者どもに開け渡すつもりは毛頭なかった。

 

 ジャイロは部下に指示を出す。彼には切り札があった。まだ試算の段階だが、その戦力を投じれば魔獣種を駆逐することも可能かもしれない。本格的な実用にはまだ課題が多く残されているため出し惜しみしていたが、今こそ実戦をもってその有用性を検証する時だ。

 

 彼は賢者の石に適合した被験体たちを解き放とうとしていた。

 

 

 * * *

 

 

 NGLの玄関口は、国境河川をまたぐようにして生える巨大な木だ。その木の内部に出入国管理局があり、入国者はこの検問所で機械類を始めとして金属やガラス、化学繊維などの石油製品に至るまで厳しく検査され、全て外さない限り入国が認められない。

 

 文明の利器をこの国に持ち込んだだけで無期限の拘留措置が取られ、場合によっては極刑もあり得る。そのため一般的にNGLは危険な思想団体と認識されることが多かった。

 

 普段であれば人の寄りつかないこの玄関口に、今は複数の人影があった。怒りをあらわにする者、悲嘆にくれる者、反応は様々だが一貫して良い雰囲気には見えない。

 

 彼らはNGLの異常を調査するために集まったハンターたちだった。ライセンスを持つプロだけでなくアマチュアもいる。

 

 本来、NGL自治区は裏で活動している犯罪組織の都合もあって、そう簡単に部外者の入国は認められない。ただの観光が目的であっても煩雑な手続きが必要で、入国できても監視役がつきまとい、自由に行動はできないが、ハンターだけはその例外だった。

 

 プロハンターのライセンスは絶大な効力を持つ。ハンターの活動は特別な理由なく妨げることができない国際条約があり、いかに閉鎖的なNGL自治区であっても門前払いはできない。

 

 この場に集まったハンターたちには大きく分けて二つのグループがあった。一つは情報を聞きつけて集まってきた者たち、そしてもう一つは調査から帰還しNGL国内から脱出してきた者たちだった。

 

 二つのグループには明確な意識の差がある。キメラアントを直接見たか、見ていないか。その差は寒気と暖気のように上下に分かれてたゆたっている。残念ながら、この二つの空気が混ざり合って一つの見解を導き出すにはまだしばらくの時間を必要としていた。

 

「おい、邪魔だ! 何の権限があって道を塞いでる! さっさとそこをどけ!」

 

 検問所の前の道を塞ぐように一人の女性が立ちはだかっていた。彼女の名前はポンズという。いち早くこの事件の調査に乗り出した先発隊の一人であり、帰還することができた数少ない生存者の一人だった。

 

「……ハンター協会から通達があったはずです。本部から派遣される予定のキメラアント討伐隊を除いて全てのハンターはNGLへの入国が禁止されています」

 

 大きな犠牲を払って帰還者が持ち帰った情報により、亜人型キメラアントの危険度は個人のハンターが手に負えるレベルではないと判断されている。女王アリの摂食交配によって念能力者が敵勢力に取り込まれる恐れもあるため、協会は立ち入り制限を通達していた。

 

「くっだらね。未知を前に足踏みして何がハンターだよ。俺は幻獣ハンターだ。未確認の亜人型キメラアント形態……そそるぜ。何としてでもハントしてやる」

 

 だが、全てのハンターが協会の指示に従っているわけではなかった。一癖も二癖もある連中が大半を占めるハンターたちの中には、人間性に難のある者も少なからず存在する。

 

 仕事に対して行き過ぎた情熱を燃やす者、協会上層部に反感を持ち命令を無視する者、純粋な義憤に駆られて独善的な正義を振りかざす者、そして私利私欲のためだけに行動する者。

 

「亜人型キメラアントの全身標本を取って来る依頼を受けてんだ。今なら戦闘兵クラスでも最低200万、女王個体なら何と25億ジェニーの稼ぎになる! 他の同業者に先を越される前に狩らなきゃならねぇ」

 

 まるで敵の危険性がわかっていない。この調子でのこのこと敵の狩猟エリアに踏み込み、その危険性を理解した時には全てが手遅れだ。生還者たちが必死に持ち帰った情報は、欲に目がくらんだ男には届いていなかった。

 

「しかもお前……プロじゃねぇだろ? オーラがしょぼ過ぎる」

 

 確かにポンズはプロハンターではなかった。ハンター試験では常連と呼べるほどの回数をこなしているが、あと一歩のところで合格を逃している。現在はプロアマの合同チーム四人で仕事を引き受けていた。

 

 念能力についてはハンター活動の中で修行を積み、少しずつ感覚を身につけていた。瞑想によりようやく精孔が開いた段階であり、四大行の基礎を学んでいる初心者だった。

 

 そのためまだ他者のオーラから実力を正確に読み取ることはできないが、それでもこの男にキメラアントと戦えるだけの力がないことははっきりとわかる。

 

 戦闘兵単体が相手ならまだしも、それらを率いる兵隊長クラスにはとてもではないが太刀打ちできない。さらにその上には師団長という階級のアリもいるという。奴らは主に集団で人間狩りを行うため、その戦力差は絶望的と言える。

 

「アマチュアの分際で何偉そうにしてんだ? 力もねぇザコがプロハンター様に盾突く気かよ!」

 

 ポンズは苛立ちを隠しきれなかった。自分たちがどんな思いで調査に当たったか。その苦労は何だったのかと歯噛みする。

 

 彼女には四人の仲間がいた。しかし、生きて帰ることができた者はポンズ一人だった。亜人型キメラアントの脅威を知った彼女たちは、その時点ですぐに引き返していればまだ全員が助かっていたかもしれない。敵の戦力を見誤り、深入りしてしまったことは確かだ。

 

 だが、それは少しでも多くの情報を手に入れ、後続のハンターに命綱をつなぎ渡すためだった。危険を承知で調査を続け、一人でも多くのハンターに危険性を伝えようとした。

 

 ポンズにとって、こんな浮ついた信念しかない男がどんな死に方をしようと構わないことだが、ここで男を素通りさせれば自分たちが命がけで為そうとした覚悟を汚されるような気がした。

 

 それではあまりに仲間の死が報われない。普段であればなるべく戦いを避けて行動するタイプの彼女であっても許容することはできなかった。念能力者としての実力は男の方が上である。それでもポンズは道を譲らない。その態度に男の血の気がさらに増す。

 

 そんな一触即発の空気が漂う中、一台の大型トラックが検問所前の広場に入ってきた。この場に集まったハンターたちにとっては、またかと思える光景だった。特にNGLに入国する目的がない者がここを訪れる理由はない。つまり、噂を聞きつけた新たなハンターが来たのだと予想がつく。

 

「おー、やっと来たか。ったく、手間取らせやがって。仲間が来る前にNGLの下見するつもりだったのによぉ」

 

 どうやら、幻獣ハンターの仲間が乗っているらしい。この男の仲間というだけで善良な性格をしているとは思えない。ただでさえ劣勢に立たされているポンズはさらに敵の増援を許すことになってしまう。

 

「でもまー、何をムキになってるのか知らねぇがよ。退くに退けなくなっちまったお前の気持ちもわかるぜ? その様子を見るに、お前一度調査に行ってんだろ? だったら俺たちの案内をしてくれないか? もちろん、報酬は弾むぜ」

 

 仲間の到着を機に態度を軟化させた男だったが、その視線に邪な感情が含まれていることをポンズは見逃さなかった。じっとりと舐めまわすように彼女の全身に視線を這わせている。この男のハンターチームに同行しようものならどんな目に遭うか容易に想像できた。

 

「こんだけ俺たちに迷惑かけたんだ。まさか嫌とは言わねぇよな。な?」

 

 最低だ。もはや我慢の限界だった。最初はどんな下衆でも同じハンターとして身を案じる気持ちは多少なりあったが、ポンズはいまやこの男を完全に敵とみなしていた。

 

 勝つことはできないだろうが、ここには他のハンターの目がある。ポンズと幻獣ハンターのどちらに理があるのかは明白であり、最悪でも殺されるようなことになる前に仲裁してもらえるはずだ。加勢してもらえるかもしれないという期待もある。

 

 返答の代わりに攻撃を仕掛けようと毒ナイフを抜きかけたポンズだったが、トラックのコンテナから現れた男の仲間の姿を見て思い留まる。その登場は現れたと言うより、放り出されたと言った方が適切だった。

 

「ベレット!? マリノエ、タンブラー! ど、どうしたんだお前ら……」

 

 まるでボロ雑巾のような有様で三人の男が地面を転がっている。仲間割れでもなければ誰かに攻撃されたものとしか考えられない。その犯人は堂々と姿を見せた。放り出された男たちに続いて、コンテナの中から歩み出る。

 

「あー、肩凝った。オレはやっぱり陸より海だな。車の移動は落ちつかねぇ」

 

「ゴミを相手に余計な体力を使うからですよ」

 

「……」

 

 降り立ったハンターは異様な三人組だった。

 

 一人はサングラスをかけた大男だ。身の丈以上もある巨大な武器らしきものを担いでいるが、布にくるまれており中身はわからない。もう一人は野外活動には不向きに思える黒いスーツを着こなした細身の男である。しかし、黒い眼鏡の奥から覗く視線には只者ではない鋭さがあった。

 

 そして最後の一人。もっとも異様と言うべきはその少女だろう。端整な顔立ちに美しい銀色の髪、召し物はかわいらしいメイド服だ。狂気的な愛好家が魂を込めて制作した人形のようだった。独りでに歩いていることが異常に思えるほど作りものじみた気配がある。

 

 少女を間に挟むようにして、二人の男が連れ立って歩いて来る。一目見ただけで、その一団の実力はありありと察せられた。

 

 格が違う。ここに集まっているハンターたち程度とは比べ物にならない。そのオーラは圧巻の威厳があった。これほどの使い手であれば実力を悟らせないように隠すこともできただろう。あえて知らしめるための示威だった。

 

「なんでこんなにハンターがたむろってんだ? 討伐隊以外は立ち寄るなと協会から連絡があったはずだが」

 

「私たちと同乗したゴミどもと同じ目的でしょう。あるいは……」

 

 スーツの男が周囲を見回す。ポンズと一瞬だけ目が合った。

 

「まあ何にしても、今の協会のトップはパリストンです。ネテロさんのようにハンターをまとめ上げることはできなかったということですね」

 

「結局、それでしわ寄せが来るのは現場の人間だっての。おら! 散れ散れ! 後のことはオレたちが引き受ける!」

 

 それ以上語らずとも、彼らが協会本部から送り出されたキメラアント討伐隊であることはわかった。そのオーラを見れば納得できるが、それは二人の男に関してのみだ。

 

 少女からは全く意気を感じなかった。念の初心者であるポンズにもその原因はわかる。少女が『絶』をしているからだ。圧倒的な強者のオーラを放つ他の二人とは対照的に、消え入りそうなほど存在感が希薄だった。

 

 それがむしろ恐ろしくもある。絶によって断たれた気配はその容姿と相まって霞の向こう側に見え隠れする幻覚のような儚さがあった。姿を晒していながらここまで見る者の知覚を狂わせるということは、それだけで相当な技量を持つことがうかがえるが、はっきりと力を示す威圧よりも未知の恐怖を感じさせた。

 

 討伐隊がポンズと幻獣ハンターのそばへ近づいてくる。彼女たちが検問所への道を塞いでいるので、それは必然と言えた。

 

 ポンズの目は他の誰よりも謎の少女へと釘付けになっていた。少女はどこを見るでもなく、それこそ人形のようにガラス玉のような瞳をさまよわせている。だが、それに反してポンズは少女の方から無数の視線を感じていた。

 

 その正体を察知することができたのは、彼女が『虫使い』であったからだ。ポンズは帽子の中に蜂の群れを飼っている。この蜂を使って敵を攻撃したり、手紙を運ばせたりすることもできる。

 

 日頃から虫の扱いに慣れ親しんでいる彼女は、少女から侵食するように漂ってくる視線にそれと同種の気配を感じていた。少女の腕には大きな赤い甲虫らしきものがしがみついている。

 

 少女はポンズと同じ虫使いなのか。肯定も否定もできなかった。ポンズが飼っている蜂は世界各地に近似種が分布している珍しくもない昆虫だが、この少女のパートナーは自分の蜂と同列に語ることができる存在ではないことはわかる。

 

 まるでセンサーのように張り巡らされた視線の網だ。実体がないにも関わらず、蜘蛛の糸に絡めとられたかのように身動きが取れない。虫使いとして身に付いた条件反射的に動かない方がいいと判断していた。虫の目は動く物体を敏感に察知する。

 

「な、なんだぁ!? 討伐隊だぁ!? ふざけんじゃねぇよ! お前らが俺の仲間をやったのか!?」

 

 しかし、無謀にも幻獣ハンターの男はそこで討伐隊に食ってかかる。ある意味この状況で萎縮しなかったその度胸だけは、一級品と評価するべきなのかもしれない。

 

「何が討伐隊だぁ! そっちの二人はともかく、真ん中のガキは何!? ほんとにハンターか!? ライセンス見せろライセンス!」

 

 それでもさすがに威圧を放つ男二人に正面から喧嘩を売ることはできなかったのか、怒りの矛先は謎の少女に向けられた。男がぶしつけに少女の方へと手を伸ばす。

 

 その男の行動に、ポンズは言い知れぬ不安を覚えた。理由はわからないが止めた方がいい。だが、ポンズが動くよりも先に少女の目が動いた。それまで虚空に向けて視点をさまよわせていた眼球がぎょろりと男を見据える。

 

 

「じゃま」

 

 

 その瞬間、弾かれたようにポンズの体が動いた。攻撃されたと確信してからの回避。あまりにも遅すぎる。その攻撃は見えなかった。音もない。これまでに体感したこともない“死の臭い”だけが強烈に嗅覚を刺激していた。

 

 だが、ポンズはすぐに自分の体に異常が見られないことを知る。そして敵の攻撃の正体を知る。

 

 何のことはない、ただの殺気だった。絶を解いた少女が道を塞ぐ男とポンズに向けて殺気を放った。それだけで死を錯覚させ、無意識に回避行動を取らせるほどの脅威を与えたのだ。

 

 幻獣ハンターの男もほぼ同様の行動を取っていた。それまでの威勢は消え失せ、絞り出したかのような大量の汗をかいている。開いた道を討伐隊は通って行った。ポンズはそれを無言で見送る。

 

 本当なら、NGLから帰還したポンズがこの検問所前に留まり続ける理由はなかった。この周囲にはまともな店や宿泊施設などは一切ない。さっさと最寄りの街にでも避難していればよかった。

 

 強いて言えば、未練が彼女をこの場に留めた。ポンズのハンターチームのうち二人の死は彼女自身の目で確認しているが、一人だけ生きたまま敵に連れて行かれた者がいた。

 

 それは彼女のチームのリーダー、幻獣ハンターのポックルだ。チームで唯一のプロだった。まだルーキーの域を出ないが、ポンズとは違い念を相応に習熟している。ハンターとしては原義に近いスキルを持ち、豊富なサバイバルの知識と技術がある。彼ならばキメラアントの魔の手から逃げおおせることができるかもしれない。

 

 だが、それが希望的観測であることはポンズも理解していた。だから未練だ。検問所の前で討伐隊の到着を待ち、ポックルを助けてほしいと直談判するつもりだった。

 

 無論、それが叶わぬ願いであることはわかっている。助けてやると安請け合いされたところで信じられるわけもない。それでも彼女にできることは誰かに頼むことだけだった。

 

「お願い、ポックルを……」

 

 助けを求める相手は既にいない。何を言っても無駄だとわかってしまった。あんなおぞましい殺気を放つような少女に、それを平然と引きつれているような男たちに自分の言葉が届くとは思えなかった。

 

 






イラストを描いていただきました!

鬼豆腐様より

【挿絵表示】

モラウ、シックス、ノヴの討伐隊三人衆。


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76話

 

 NGLの奥深く、鬱蒼と広がる森を見下すように蟻の巣があった。その形状はシロアリの塚のように見える。しかしその大きさは途方もなく、数百メートルに達する高さがあった。

 

 キメラアントの居城である。人間大の蟻が群れを成し、その全てを悠々と収容できるだけの規模があった。彼らの習性は蟻に準じ、群れを維持するための食料は次々とこの巣へ運び込まれる。

 

「チオーナ隊が消えた」

 

「また例の集団失踪か」

 

 だが、人と交わることで知恵を付けた亜人型キメラアントは、蟻本来が備え持つ統率性に欠ける部分があった。完全な社会性は成り立っておらず、自己の欲望のためだけに行動する働き蟻も増えている。

 

 それでも食料調達のため遠征に出かけていた部隊が丸ごと一つ消え去るということは明らかな異常事態と言えた。逃げ出したと考えるよりは、何者かの襲撃を受けたものと想定すべき事態だった。

 

「その場に居合わせた戦闘兵から得た情報を可能な限りまとめてみたが……どうやら失踪直前、周辺一帯を覆い尽くす規模の濃霧が突然発生しているようだ」

 

「その戦闘兵はなぜ助かった?」

 

「飛行能力を持つ個体だったので空を飛んで逃げたのだろう。逆に言えば、空を飛べない個体では対応できなかったと考えられる」

 

「単に道に迷ったというわけではあるまい。我々は信号による通信によって常に互いの位置を確認できる。視界不良に乗じて襲撃を受け殺されたのであれば、死体が残るはずだが、それらの痕跡は全く見つけられなかった」

 

 キメラアントの師団長、コルトとペギーの二匹は度重なる遠征部隊の集団失踪について意見をかわしていた。コルトはコンドル、ペギーはペンギンの特徴を持つキメラアントだった。この二匹が群れの実質的なまとめ役となっている。

 

 キメラアントは階級社会だ。その順位は上から【女王】【護衛軍】【師団長】【兵隊長】【戦闘兵】【雑務兵】と続く。今の女王は王を産むための準備に専念しており、護衛軍はその身辺警護を最優先に行動しているため、巣の外部で発生した問題について関心が薄かった。

 

 そのため本来であれば師団長全員が集まって議論すべき事態であるが、真剣に取り組む者は女王への忠誠心に厚いコルトと、戦闘よりも参謀として知識を活かす立ち位置にいたペギーの二匹だけだった。亜人型となって得た“個性”の弊害と言える。

 

「不明な点が多いな。これも『ネン』とやらの仕業か?」

 

 以前から生命エネルギーを豊富に持つ人間は『レアモノ』として最高級のエサになることが知られていたが、最近になりそれらは『念能力者』と呼ばれる者たちであることが判明している。

 

 運よく生け捕りにできたレアモノから、護衛軍の一匹であるネフェルピトーが情報を聞き出したのだ。念を習得する方法もわかり、キメラアントの兵力はさらに増強された。その矢先に起きた失踪事件である。

 

「ネンについては我々も完全に把握できているとは言えない状況だ。対抗するには同じくネンを習得した兵を向かわせる必要があると思うが」

 

「いや、今はまだ“選別”の後遺症で使い物にならない兵も多い。兵の質は劇的に向上したが、そのせいで数もかなり減ったからな……」

 

 すぐに動ける優秀な兵を引き抜こうとすれば、その隊を支配する師団長が黙ってはいないだろう。いかに戦力が増そうと、統率性の欠如はどこまでもついて回る問題だった。

 

「何とかして回避する手段はないのか? 霧の発生に注意し、その地帯に足を踏み入れなければいいのでは?」

 

「どうだろうな。その程度で回避可能な状況ならここまで被害は広がっていないだろう。しかも、これまでの傾向から考えれば敵は統率力の低い遠征隊を的確に狙っている可能性が高い」

 

 遠征隊は師団長を始めとして兵隊長が4~5匹、戦闘兵が10~15匹程度で構成されている。中には綿密に信号をやり取りして隊列を組んで行動する班もあるが、多くの部隊が規律もなく奔放に動きまわっていた。

 

 人間は弱者。狩られるだけの存在という認識が深く根付いている。失踪事件が多数発生しているこの状況でさえ、本気で警戒する者は少ない。念能力を身につけてからは特にその傾向が強まっていた。

 

「かと言って、食料を調達する遠征隊を出さないわけにはいかないぞ。この近辺のエサはあらかた狩り尽くし、分散化している。王を産むため女王様の食欲も日に日に増しているというのに……」

 

「貯蔵しているエサにも限りがある。女王様にお出しする分は当然確保するものとしても、他の下級兵に回す分は確実に足りなくなるだろうな」

 

「空腹を堪えるような気の長い兵がどれだけいることか。遊びで殺しを楽しむような連中も多い。今後は一人の人間も無駄にせずエサとして運び込ませなければならないが、果たしてどこまで命令に従ってくれるものか」

 

 食事と娯楽を邪魔された蟻たちに理性的な判断を期待することはできない。業を煮やして狩りに向かえば敵の思うつぼだ。じわじわと部隊を削られていく。王の出産準備に入った今の女王は働き蟻を増産することもできない。

 

「女王様に移城を進言してみるか?」

 

「それは絶対にならん。この大事な時期に余計な心労はかけられない。何よりも危険すぎる」

 

 コルトは語気を強めた。もし彼が敵の立場だったとすれば、女王が巣から離れ身をさらした状態こそが襲撃を仕掛ける絶好のチャンスだと考える。護衛軍は身重の女王の警護から手が離せなくなり、十分に実力を発揮できるとは言い難い。

 

 それでもあの規格外の護衛軍たちなら負けることはないと思うが、絶対とは言い切れない。もし女王の移動中に例の“霧”が発生すれば。正体不明の能力を軽視することはできない。

 

「そう言えば、西部を探索していた遠征隊にもトラブルがあったようだな。こちらは例の失踪事件とは違って単に戦闘で負け、敗走しただけらしいが」

 

 原因が明確とはいえ、精強なキメラアントの遠征隊が撃退されたとあってはただ事ではなかった。

 

「その話はオレも聞いた。敵は人間の子供だったそうだが、妙な能力を使うとか」

 

 下級兵の報告によれば頭が割れるような情報量の電波信号を送りつけられ、一時パニック状態に陥ったという。しかも同じような能力を持つ子供が複数存在し、基本的な戦闘力も高い。戦闘兵だけでなく、兵隊長級が三匹も殺されている。

 

「この二つの事件、関連性はあると思うか?」

 

「わからんが、いずれにしろ人間にもオレたちに対抗するだけの勢力があるということは確かだ」

 

 霧の失踪事件ばかりにもかかりきってはいられない。西部で確認された勢力が侵攻してくる恐れもある。ペンギンの遺伝子を色濃く受け継いだペギーは、その短い足でうろうろと歩きまわる。考えを巡らせるが良案は思いつかない。

 

「しばらくは様子見するしかあるまい。幸いにして女王様の守りは盤石。護衛軍の力があればこの巣が攻められることはない。全ては王が生まれるまでの辛抱だ。それまで堪え凌げば……」

 

「本当にそう思うか?」

 

 コルトは護衛軍の三戦士を完全に信用していなかった。今はまだ女王の支配下にあるが、王が生まれれば三戦士の支配権は王へと移る。王の役割は種の拡大にあり、生まれればすぐにでも巣を旅立っていくだろう。群れから独立した存在となる。これはキメラアントの本能として刻み込まれた生態であった。

 

 王が巣立てばこの群れにとって最強戦力であった護衛軍も失うことになる。残されるのは産後の疲労が抜けきらない女王と、失踪でスカスカになった兵団だけだ。人間たちは護衛軍を引き連れた王を襲うよりも先に、守りが手薄となった女王を標的にしてくるだろう。

 

 この群れが勢力を立て直すまでの間、王が女王に助力してくれる保証はない。

 

「悪い方向へ考え過ぎではないか? まだ状況はそこまで逼迫していない。結論を急ぎ過ぎる必要はないと思うが」

 

「まだ余裕のある今だからこそ手を打たねば手遅れになる。この現状で、人間に対して危機感を持っている者はオレたちだけだ。ここで判断を誤るわけにはいかない」

 

「そうは言っても、たった二匹にできることなど高が知れているぞ。私たちの忠告に他の師団長が耳を傾けるはずもない」

 

 最大の問題点はそこにある。個人の欲求ばかりが先行し、群れ全体の利益を考える者があまりにも少ない。その意識を根底から改革する必要があるとコルトは考える。

 

「今回の事件の原因究明と解決に向け、師団長ごとに分けられていた部隊を一つに再編しようと思っている」

 

「それはまた無理難題を。現存する部隊は28もある。その全てを束ねようというのか」

 

「そこまでのことはできないだろう。少なくとも複数の師団長とその配下の兵隊長を数名選出させて選りすぐりの部隊を作り、騒ぎを起こしている人間の勢力を叩く」

 

「師団長級が結集すれば確かに今回の事件を鎮圧するには十分な戦力になるだろうが、どいつも我の強い者ばかりだぞ。どうやって話をつける気だ」

 

「ネフェルピトー殿かシャウアプフ殿に相談してみよう。護衛軍から下された命令という形を取れば師団長も従わざるを得ない。あの方々の不興を買うようなことは皆が避けるはずだ」

 

 護衛軍は女王と、その腹に身ごもる王にしか関心がない。自分たちがいれば他の兵は必要ないとすら思っている節もある。他の兵がいくら死んだところで大して気にも留めないだろう。

 

 護衛軍の手を煩わせずともコルトの立案した作戦についてお墨付きをもらえればそれでいい。彼らも自分の命令一つで厄介事が片付くのなら承諾してくれる可能性は高い。

 

 コルトは食料の調達に必要な部隊を半数残し、残りの半数の部隊を率いる師団長を集める気でいた。その中には自分も含まれている。まさか発起人が尻尾を巻いて巣にこもっているわけにはいかない。

 

「危険だぞ。既に四つの部隊が壊滅し、師団長四匹も戻っていない」

 

「だろうな。だが、それでいい。そのくらいでなければ意識を変えることはできない」

 

 コルトも最初は人間を侮っていた。単なる捕食対象としか見ていなかった。だが、その意識は揺らぎつつある。簡単に殺し、支配できると思っていた人間たちは予想以上の抵抗を見せている。

 

「トップとして同格の師団長が集まった部隊となれば、まともに指揮系統は機能しないだろう。さらに相手はこれまでのレアモノとはレベルの違う強敵だ。必ず犠牲は出る。人間の強さを思い知ることになる」

 

 団結こそがキメラアント最大の武器であると、増長した働き蟻たちに自覚させるのだ。痛みを伴うことは承知の上、むしろ強敵であればあるほどに兵の意識は一つとなるだろう。コルトはそれができると信じていた。

 

 全てはこの群れのため、女王のため。決死の覚悟がコルトにはあった。

 

「……そこまで考えてのことであれば、もう何も言うまい。作戦には私も参加しよう」

 

「いや、お前には残ってもらわなければ困る」

 

 ペギーの作戦同行はコルトにとって望ましいものではない。同じ師団長級にも強さの格差が大きく存在する。参謀役のペギーはそれほど戦闘力が高いとは思えない。何より、もしもコルトの身に何かあったとき、群れの行く末を任せられる者としてペギー以上の適任者はいなかった。

 

「自分の命を作戦の勘定に入れているような奴に言われたくはないな。私とて師団長級の一角。戦いに向かない者にも相応の戦い方があることを教えてやろう」

 

 小柄な体格に見合わない不遜な態度をしてみせるペギー。それが虚勢であることは見て取れた。だが、決して考えを変える気がないこともわかった。コルトはその意思を尊重する。

 

 無論、コルトはこの作戦が失敗するとは思っていない。戦闘面で大きく秀でた師団長も複数おり、その協力が得られれば多少の犠牲はあっても大局は揺るがない。必ずこの群れは勝利を収めるだろうと思っている。

 

 来るべき決行の日に備え、二匹のキメラアントは動き始めていた。

 

 

 * * *

 

 

 キメラアント討伐隊の三名がNGLへ到着してから二週間が経過していた。

 

 入国手続きは滞りなく終えている。密入国しようと思えばできたが、今回はハンター協会本部が直々に取り組む案件であり、公の記録に残る仕事であるため正規の手続きを経ている。

 

 ただし、持ち込みが禁止されている文明の利器については念能力で隠して大量に持ち込んでいる。シックスが持つ異形の虫についても、気配を断って検問所の外から回りこませている。

 

 国内に入ってからは、案内役として特殊言語地区や未開部族との交渉などを引き受ける通訳が付く決まりになっているが、これは入国者を監視するための措置である。素直に従っている時間も惜しいので、入国するなり走って振り切っている。

 

 他のハンターたちが調査した情報により、巣の場所は特定されている。三人は一直線に目的地まで進んだ。その道中で目の当たりにした惨状はキメラアントの脅威を実感させた。

 

 いくつもの集落が人々の生活の痕跡を残したまま廃墟となっていた。キメラアントは捕えた生物を毒で麻痺させ、生きたまま巣へ持ち運んで保存する習性がある。ノヴやモラウからすれば到底許せることではないが、食料を得る目的で人を殺すのであればまだ理解できた。

 

 中には無残に食い散らかされた亡骸もあった。明らかに遊んでいるとしか思えない殺され方をしている人間が何人もいた。キメラアントはもともと攻撃的な性質のある虫だが、そこに悪しき魂を持つ人間の特性が交わることでさらに残虐な存在へとなり果てている。

 

 討伐隊は事前の調査により敵の脅威を十分に理解していたつもりだったが、その認識は甘かったと言わざるを得ない。キメラアントの巣を目視できる場所まで近づいた時、敵の真の危険性が肌で感じ取れた。

 

 巣を中心として広大な領域を網羅するオーラの触手。報告を受けてはいたが、改めて見てもそれが『円』であるとは信じがたい。アメーバ状にうごめく不定形の円の最大捕捉距離は2キロにも達していた。

 

 円によって形成されたオーラの領域はいかなる侵入者の存在も手で触れたように察知する。通常、応用技の中でも高等技術であるとされる円を使いこなせる者は限られている。使えたとしても半径10メートルも広げられれば上等の部類に入る。

 

 2キロ先まで届く円などあまりにも非現実的な光景だった。オーラから発せられる禍々しさは獲物の首筋に食らいつく寸前の巨獣の牙を彷彿とさせる。実際にこの円の術者と交戦したハンターの話を聞かされていたため、討伐隊は迂闊に近づくようなことはしなかった。

 

 これまでに数えきれないほどの死線を越えて来たモラウとノヴにとっても、今回の敵は別格。軽々に手を出せる相手ではない。

 

 討伐隊に与えられた任務遂行の猶予は二カ月しかない。これは専門家が予想した王が産まれるまでの最短の期間である。亜人型キメラアントの生態についてはわかっていることの方が少なく、この二カ月という数字にどれだけの信憑性があるのかも定かではない。

 

 事は一刻を争うが、焦りは禁物である。まずはモラウが煙で作った大量の念獣を用いて敵情視察を行った。敵の数や行動パターンなどのデータを収集する。食料を探し求めて巣から離れた遠征部隊を狙うことにした。

 

 いきなり王手は取れない。まずは確実に敵の戦力を削ぐ。兵隊蟻の数を減らし、食料の調達を妨害することで動揺させる。これまでに遭遇したキメラアントの性格からして、不満が募った蟻たちはさらに統率が乱れて勝手な行動を取り始めるだろう。そうなれば討伐作戦はより捗る。

 

 兵糧攻めだ。多量の食料を必要とする亜人型キメラアントでは籠城も長くはもたない。補給を断たれ、孤立した敵城は最大戦力を動かさざるを得なくなる。護衛軍を巣から動かし、女王の守りを手薄にすることが目的だった。

 

 討伐隊の標的は女王蟻だ。護衛軍を全て倒さずとも、王が生まれる前に女王を仕留めることができればいい。それでも難事であることは言うまでもないが、彼らはこの作戦のために集められた精鋭だった。

 

「二体捕獲。うち一体はおそらく隊長格ですね」

 

「おいおい、送り込むペースが早ぇな。嬢ちゃんが泣いちまうぜ?」

 

「逆でしょう。むしろ喜んでますよ」

 

 モラウが巨大なキセルから吸った煙を吐き出す。彼の常人離れした肺活量により吐き出された煙は山火事でも起きたのかと見紛うほどの量だった。オーラを含んだ煙は彼の意思に従って動き、周辺一帯の森に煙幕の霧を発生させる。

 

 この煙幕は単なる視界不良を引き起こすだけでなく、特別に調合された薬草の燻煙が嗅覚までも惑わせる。煙の粒子に付着したオーラを操作して自在に形を変えることができ、よりオーラの密度を高めれば脱出不能の檻を形成することすら可能とする。

 

 操作系能力者モラウの『紫煙拳(ディープパープル)』に飲み込まれたキメラアントの遠征隊は、まさに五里霧中の状態だった。もともと統率力の低い部隊を狙っていることもあって、各々が協力することもなく勝手に行動を取り始めている。各個処理するには最適の状況だった。

 

 敵を他者の目に触れることなく一匹ずつ確保する役目はノヴに任されている。既に煙幕で満たされた狩り場にはノヴの手により無数の罠が設置されていた。その罠とは落とし穴だ。穴に落ちた先にはノヴが作り出した異空間が広がっている。

 

 具現化系能力者ノヴの『4次元マンション(ハイドアンドシーク)』により作り出された念空間のマンションは、4階建て全21室にも及ぶ。その広さは念空間の使い手としては他に類を見ないほどの規模である。

 

 ノヴは壁や地面に手をかざすことでマンションへとつながる穴を開くことができ、事前に念を込めて設定しておけばその場所に触れた者を感知し、自動操作で穴の中へと瞬時に引きずり込むことができる。穴とは言うが実際は瞬間移動に等しく、触れたが最後逃れるすべはない。

 

 煙幕に覆い尽くされ孤立した兵隊蟻がそのトリックに気づくことはなかった。モラウが隠し、ノヴが移送することで成り立つ霧の集団失踪。そしてその最終段階、“処理”の担い手がマンションの一階で待ち構えていた。その一室に設置されている監視カメラの映像を、ノヴは手元の端末から見ていた。

 

 一階部分は部屋を仕切る壁のないワンフロアとなっており、全21室中で最も広い空間となっている。全ての部屋は独立しているため行き来はできないが、念空間から外に出られるドアはあり、密室になっているわけではない。

 

 しかし、いまだその扉から生きて脱出できたキメラアントはいなかった。人と蟻と、様々な生物の遺伝子が混ざり合い、一つとして同じ姿をした者はいないキメラアントの戦闘兵。何十体にも及ぶ数の異形たちが物言わぬ躯と化して床に転がっている。

 

 その部屋の中心に立つ少女だけが生者であり、勝者である。檻の中に閉じ込められた獣のように、運び込まれる餌を待ち望んでいた。

 

「チョコの様子はどうだ? 相変わらずか?」

 

「ええ。ここ数日、睡眠も食事もほぼ取っていないのに元気いっぱいですよ」

 

 モラウとノヴはハンターとして付き合いの長い間柄にあり、互いの能力をよく知っている。しかし、そこに加わった少女について知っている情報はほとんどなく、同じ任務に当たるチームとして実力を測ることは当然の流れであった。

 

 それでもマンションの一室に閉じ込めて不定期に複数のキメラアントを送り込み、戦わせるというやり方はいささか過激な試練だった。最下級に位置する戦闘兵であっても、それなりに熟達した念能力者でなければ厳しい戦いになる。中には兵隊長や師団長もおり、個体の強さは下級兵の数倍以上の開きがあった。

 

 ノヴがこの方針を推進し、少女がそれを了承した。ネテロ会長を巡る遺恨についてノヴは完全にこの少女を許したわけではなかった。どんな理由があったにしても敬愛する先達を殺されたことは事実である。

 

 だが、ノヴも少女が死ぬような状況にまで追い詰める気はなかった。手荒な方法を取ることになったが、あくまでも本意は少女の実力を見極めることである。いつでも助けに入る用意は整えており、下級兵ごときの対処に手間取るようなら討伐隊から除外するつもりだった。

 

 しかしノヴは作戦が進行するにつれ、自分の心配は全くの見当違いであったことに気づく。確かに少女は強かったが、それだけなら特に気にもしなかっただろう。今も次々に転送されていく兵隊蟻と戦闘を繰り広げている。怪人たちがひしめき合う光景よりも、少女の戦い方に異質さを感じていた。

 

 多様な生物が生存戦略の末に身に付けた特徴を無節操に取り込んだキメラアントたちは種としてもともと備わった戦闘力が人間よりも遥かに高い。中でもほとんどの個体に共通する最大の特徴が表皮の硬さだ。

 

 昆虫の硬い外骨格がベースとなった強固な表皮は並みの攻撃では傷つけることすらできない。関節部ならば強度は多少落ちるが、それでも戦闘中に狙って正確な攻撃を当てることは困難だ。生まれながらにして鎧のごとき頑丈な防御力を有している。

 

 そんなキメラアントの戦闘兵が一体、また一体と屠られていく。少女が左手を振るうたびに爆音と衝撃波が走り、頑強な戦闘兵が宙を舞う。その一撃を受けて起き上がることができる者は少数だった。なぜなら攻撃を受けた部分を中心として、ごっそりと肉体が消失しているからだ。

 

 攻撃に晒されている当の戦闘兵たちにとっては何が起きているのかさっぱりわからない。気づけば脚部が、腹部が、胸部が、胴と首がバラバラの方向へと飛ばされている。監視カメラで戦闘を何度も観察しているノヴは、その技の正体を知っていた。

 

 攻撃の瞬間、少女の掌は『凝』により多量のオーラが集められている。その手を使って敵の急所に掴みかかっていた。手の中のオーラは極細の毛状に変化した無数の突起となり、目で捉えきれないほどの超高速で微細動していた。

 

 どのような原理に基づいて引き起こされた現象なのか、見ただけのノヴに全て理解できたわけではなかった。正確には、彼女の掌が触れた箇所はオーラの高速振動の影響を受けて急激に摩耗している。

 

 振動する無数の突起が極度の摩擦を生み、接触部に異常な圧力と高熱をもたらす。この熱により生じる化学反応がキメラアントの表皮を削り取り、粉塵を撒き散らしながら猛烈な速度で腐食摩耗を引き起こしていた。

 

 そこに少女の強化された握力が加わる。摩擦による高温と高圧を握り込み密封することで、手の中に小さな炉を作り出していた。自分の手の攻防力を凝で高めていなければ自爆してしまうほどの威力だった。

 

 その握撃はキメラアントの外皮を豆腐のように握り潰し、爆散させる。単純な身のこなしからして下級兵が反応できるレベルではなく、敵はなすすべもなく殺されていった。

 

 もしこれが少女の『発』であり、以前から修練を積み重ねて磨き上げていた技だというのなら、まだノヴにも納得できた。だが、そうではない。真に驚くべきことは習得の過程だった。

 

 最初はとても技とは呼べないお粗末な出来だった。掌にオーラを集めているが、そこから何をしたいのか見当もつかないほど未熟だったのだ。それがたった一週間足らずで実戦を制するレベルの技にまで成長している。

 

 キメラアント討伐という任務の最中で新技を編み出していた。その非常識極まりないオーラの形状変化と精密操作技術は、才ある使い手でも何十年もの過酷な修行に堪えてようやく覚えられるか否かという領域。それをわずか一週間で。この目で見た事実でなければ、ノヴは到底信じられなかっただろう。

 

『グババババ! イテェ! イテェガ、マダウゴケル! オレ、ツヨイ!』

 

 それまで淀みなく部屋を駆け回っていた少女の動きが止まった。一匹のキメラアントが彼女の握撃に堪え、立ち向かって来たのだ。それはカブトガニと人間が融合したかのような奇怪な姿をしていた。ツルリとした甲羅で背面を守り、腹からは多数の歩脚を生やしたグロテスクな見た目をしている。

 

『オマエ、オレノカラダ、キズツケタ……ユルサナイ!』

 

 兵隊長以上の階級と思われる蟻だった。少女の攻撃を受けながら、ダメージは甲羅にヒビが入る程度で抑え込まれている。その原因は敵の体を覆うオーラにあった。この蟻は念能力を身につけていた。

 

 ここ数日で念に目覚めたキメラアントがちらほらと現れるようになっている。その数は日に日に多くなっていた。自然発生したものとは考えにくく、キメラアントが“洗礼”による精孔の強制解放を行っている可能性が高かった。

 

 ただでさえ屈強なキメラアントが念を覚えて強さが底上げされたとなれば、いよいよ手がつけられなくなる。まだ習得して日が浅いため技量は低いが、その差は時間が経つほどに縮まっていくだろう。敵の脅威はさらに跳ね上がる。

 

『オマエ、クウ!』

 

 怒りに身を任せたキメラアントが少女へと飛びかかる。オーラで強化された鉄壁の装甲があれば怖いものなどない。鋭い爪の一撃を放つ。どんな獲物もこの一振りで仕留めてきたという絶対の自信が込められていた。

 

 その腕はまるで枯れ枝をへし折るように、少女の手によって無造作にもぎ取られた。爆風に煽られてたたらを踏む。

 

『…………エ……ナンデ……?』

 

 少女の攻撃では大したダメージにならないと高をくくっていた敵は、自分の腕が吹き飛んだことを認められずにいた。単純な話、少女はこれまでの戦いで全力を出していたわけではなかった。

 

 敵の防御力が上がったのなら、それを上回る威力を込めればいい。爆風の反動で焼け爛れ、指が折れ曲がった少女の傷は既に回復している。いまだ現実を否認しているキメラアントは続く攻撃を避けきれなかった。

 

 むしり取る。猛獣のあぎとと化した少女の左手が敵の装甲を少しずつ、味わうように咀嚼していく。たまらず絶叫を上げて防御するが、ガードのために構えた歩脚は一本一本丁寧に奪い取られた。

 

『ヤメデエエエエ!! イダイィィ!!』

 

 なぜ嬲り殺しにするのか。その理由はデータを取るためだ。オーラによる高い防御力を有する相手に対し、どうすれば効果的にダメージを与えることができるのか。緻密に調査し、改善していく。一撃ごとに目に見える勢いで、より無駄なく、より洗練された技へと高められていく。

 

 それはある意味、捕食であった。獲物を食らい我が身の血肉とするように、敵の強さを味わい技を磨きあげていく。

 

 少女の目は、目の前の敵を見ていなかった。今の彼女が眼中に捉える相手はキメラアントの巣を守る護衛軍だ。広大かつ歪な円から放たれる凶気のオーラを間近で見た時から少女の興味はその一点に注がれていた。

 

 護衛軍の力の底は見えない。だからこそ強くなる必要がある。理解しがたいまでに馬鹿げたスピードで成長している。

 

 カブトガニ型キメラアントは地面にうずくまり、最も強度の高い背中の装甲の中に身を隠す防御体勢を取っていた。迫りくる死を前にして追い詰められた彼の精神は飛躍的に開花し、不完全ながら『堅』に近い形へとオーラを動かせるようになっていた。

 

 もともと防御面に関しては念の素質があったのか。さらに守りを高めた敵に対し、少女は笑みを向けていた。上質の獲物を手に入れたことを喜び、その肉に牙を突き立てていく。このたった一戦の間に技の切れは格段に向上し、爆発の反動を最小限に抑え、逆に敵へと与えるダメージは増加していた。

 

『オデ……ユルジ……』

 

 “食事”が終わると同時に敵は息絶えた。穴だらけになった敵の体から流れ出るおびただしい量の血液。赤ではなく青色の血が少女を一色に染めていた。ぞっとするような青白さからは死人の肌のごとき不気味さを感じさせる。

 

 その強さがあれば護衛軍と渡り合うことができるかもしれない。もしかしたら打倒することも可能かもしれない。だがもしそうなった場合、規格外の強者を食らった少女はどこまで強くなるのだろうか。

 

 そして彼女はネテロを殺した災厄の力を、いまだ使うそぶりすら見せずにいる。切り札として隠しているのか、何か使えない別の理由があるのか。しかし、決して無視できるものではない。

 

 この少女のみならず、裏から糸を引くパリストンも問題だった。ネテロなき今の協会は奴に牛耳られようとしている。パリストンは少女を使って何をしようと企んでいるのか。

 

 良くないことが起きようとしている気がしてならなかった。ノヴはこの少女から目を離してはならないと改めて認識する。もともと信頼はしていなかったが、潜在的な敵となり得る存在だ。場合によっては手遅れになる前に非情な判断を下す必要もある。

 

 

「――うっ!?」

 

 

 そこでノヴは携帯端末の画面越しに少女と目が合った。それは彼女が監視カメラの方向へと視線を向けたことを意味している。

 

 カメラを設置していることは前もって伝えてあり、その行動自体は特におかしなものではない。だが、これまで少女は一度もカメラに注意を払うようなことはしていなかった。観察されていることには気づいているだろうが、あえてそれを気にする様子はなかった。

 

 それがなぜこのタイミングで目を向けてきたのか。まるでノヴの内心に生じた懸念を見透かしてきたかのような行動に心臓が跳ね上がる。ぞわぞわと痒さを伴う寒気が背筋を上ってくる。

 

「おい、おいノヴ! どうした、なんかあったのか?」

 

「……いえ、別に」

 

 声をかけられたノヴはとっさに携帯端末の電源を切った。深く息を吐き、すぐにいつもの冷静さを取り戻す。

 

「今しがた敵本陣に動きがあった。これまでにない規模の兵が動員されているようだ」

 

 モラウは煙を使っていくつかのタイプの念獣を生み出すことができる。そのうちの一つであるウサギ型の偵察用念獣を数百体放ち、敵の動向を探らせていた。

 

「こちらの位置を特定されましたか?」

 

「いや、そうでもなさそうだ。ここから西の方角に向かって進軍しているが……そっちに何かあるのか?」

 

 これまでの部隊は一つが50体ほどの兵隊蟻で構成されており、基本的に部隊単位で行動することがほとんどだった。だが今回は明らかに数が多く、いくつもの部隊が混成されていることがわかった。まさに進軍と呼ぶにふさわしい規模の出兵だった。

 

 

 



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77話

 

 現在、NGL内部には大きな戦闘力を有する三つの勢力があった。一つは侵略者キメラアント、もう一つはその討伐に当たっているハンターたち、そして三つ目はジャイロ率いるNGL軍である。

 

 だが、自然との調和を何よりも優先するネオグリーンライフの教義により近代的な軍事兵器を所持することが許されないこの国において、対外的に正規軍は存在しないことになっている。NGL軍は国の暗部として隠された組織であった。

 

 ただし、軍と言っても民間人が武装した程度の組織でしかなく、キメラアントの苛烈な侵攻に対しては無力に等しかった。徹底した鎖国政策を取り続けてきたこの国に、他国からの支援が入ることはない。

 

 今や国内においてジャイロの支配下にある拠点は一つしか残されていなかった。他国の目を避けてその場所は内陸の奥深くに位置しており、それがキメラアントからの発見を遅らせることになったが、同時に逃げ道と補給路を断たれた孤立状態を作り出している。

 

 残存兵数はごくわずか。物資にも限りがある。しかし、八方ふさがりのこの状況をジャイロは見越していた。この程度の“絶体絶命”はNGLを建国へ導いた彼にとって日常茶飯事であり、彼はいつものように死すら厭わない賭けに挑む。

 

 ただ一つだけキメラアントに対抗し得る戦力を投下した。『進薬アルカヌム』の影響を受けながら生き残った被験体たちだ。強制的に戦わせるようなことはしなかったが、やらなければやられるという後のない状況が彼らを戦場へと駆り出した。

 

 全ての被験体が戦闘に適した能力を発現させたわけではない。それを使いこなすだけの精神力と好戦的な性格が必要となる。それらの条件を満たした者はたった四人に過ぎなかったが、その戦闘力は目を見張るものがあった。

 

 そしてその四人は拠点から離れた森の中、一堂に会していた。全員が10歳前後といった年齢にしか見えない子供たちだ。いつ敵に襲われてもおかしくない状況であるにも関わらず、四人のうち三人は全く臆した様子が見られなかった。

 

「みんな、いつものアレやるぞ! 宇宙を揺らす~、正義の拳~……」

 

 いきなり謎の口上を叫び始めた男の子の名はバルカン。この四人組にギャレンジャーという呼び名を勝手につけている。正式名称は『宇宙戦隊ギャラクティックレンジャーズ』と言い、同タイトルのテレビ番組がある。彼はその熱烈なファンだった。

 

「ギャレンジャー参上! はい、みんなここで決めポーズ!」

 

 戦隊ヒーローごっこが大好きなバルカンはそのノリを他のメンバーにも押し付けようとしてくるが、全員に無視されている。それでも彼がめげることはなかった。アルカヌムの影響で彼が自分だけの世界を信じ切っているためだ。

 

「大きな声を出さないでくだせぇ。気が散りますぜ」

 

 下っ端感のある口調ながら態度は大物感のある少女はキネティと言う名である。手元の石をナイフで削り取り、形を整えていた。ナイフは周で強化されており、みるみるうちに石は躍動感のある動物の彫像へと変貌していく。

 

 キネティはこの年齢にして世界的な彫像コンクールで入賞した経験もあるアーティストの卵だった。敵軍の侵攻を目の前にして、次々と彫像を作り上げていく手には微塵の動揺も感じられない。

 

「……コロスッ……コロスッ……」

 

 その横でひたすら金属バットを素振りしている少年はブッチャ。贔屓の地元プロ野球チームのプリントユニフォームを着て帽子をかぶったその姿はごく普通の野球少年のようだが、漏れ出る殺気は明らかに普通ではなかった。

 

「や、やっぱり帰ろうよ……先生に怒られるよ……」

 

 最後の一人はジャスミンという少女だ。銃剣付きの小銃を背負い、武装はものものしいが性格は温厚で気弱な普通の子供だった。

 

「何を言うギャリーン(ギャラクティックグリーンの略)! おれたちには卑劣な異星怪人たちをやっつけるというしめーがあるのだ!」

 

「何でもいいからブッコロス」

 

 実はこの四人組、無断で拠点から脱走して来ていた。それどころか見張りの人間を気絶させ、武装まで勝手に拝借している。なぜそんなことをしたのかと言えば、拠点に接近してくる敵の気配を感じ取ったためだ。

 

「ピピッ!? ギャラクティックレーダーに反応アリ! 異星怪人の大群だ!」

 

 被験体の子供たちはキメラアントの電波通信を感知する能力があった。通信の内容まではわからないが、発信源の位置情報を正確に捕捉している。その感知範囲は個人差があり、バルカンは最も広大な範囲を索敵することができた。

 

 この能力によりいち早く敵の接近を感じ取った彼らは、他の被験体たちに気を取られている大人の目を盗んで施設から脱走を果たしていた。目的は敵と戦うことである。

 

「この前は全然楽しめなかったけど、今度は思う存分暴れられそうですぜ」

 

 彼らにとってキメラアントとの戦闘は初めてのことではなかった。先日、拠点の近くまで来た遠征部隊と交戦している。だが、そのときはチェルとトクが子供たちの行動を制限し、むやみに攻撃することを許さなかったのだ。

 

 それは子供たちの安全を第一に考えてのことだったが、彼らにしてみればせっかくの楽しみを邪魔された気分だった。アルカヌムにより攻撃性を増す特性が現れた彼らは本能的に戦闘を欲していた。

 

 ただ一人、ジャスミンだけはそう言った性格が現れていなかったが、気弱で泣き虫な一方で芯の強さと責任感を持ち合わせてもいた。黙って出て行こうとしていた他の三人を放っておけず、かと言って大人に告げ口することもできず、ここまでついて来たのだ。

 

 キメラアントの軍団は一直線に四人組を目指して移動している。こちらが向こうを索敵したように、敵も電波を読み取って四人組の位置を捕捉している。被験体たちはキメラアントと同じく電波による通信能力を有していた。

 

 この被験体が発信する電波はキメラアントにとって非常に不快なものであるらしく、下級兵程度の敵なら混乱状態にすることができる。前に戦ったときはそれだけで逃げ出した敵兵もいたが、今回は全員が逃げることなく向かってくるのがわかった。

 

 子供たちは敵の威勢を感じ取り、獰猛な笑みを浮かべる。あえて電波を発信することで敵にこちらの位置を知らせる計画だった。四人が待機している場所は拠点からかなり離れた地点にある。おびき寄せても問題はない。

 

「くるぞ……!」

 

 電波を感知するまでもない。木々を揺らす軍勢が無数の足音を奏でながら近づいてくる。子供たちは押し寄せる波の中へと自ら身を投じた。

 

「変身! 『ギャレンジャーバトルフォーム』!」

 

 ポーズを決め、天に向けて手をかざしたバルカンは突如として出現した赤いヘルメットとプロテクターに身を包む。それは赤く金属化したオーラ『賢者の石』を操る適合者の能力だった。

 

 賢者の石はアルカヌムの原材料であり、この薬の適合者は自身のオーラを不完全ながらも賢者の石へと変える力を持つ。薬の効果により全ての被験体は強制的に精孔を開かれ、念能力者となっていた。

 

「ぶった斬るぜえええ! ギャレンソオォォド!」

 

 バルカンの手に2メートルはあろうかという長さの大剣が現れた。その形は溶岩が固まってできたかのようにボコボコと歪んでおり、剣と言うよりも巨大な棍棒に近い。プロテクターやヘルメットなどの他の装備も造形は粗いが、吐き出される狂信的な気迫が滑稽さよりも不気味さを感じさせていた。

 

 バルカンは強化系能力者であり、オーラに実体の形を持たせる具現化系の技術はほとんどない。曲りなりにも一応の形状を作り出せているのは、脳内のイメージをそのまま賢者の石の力で強制的に固めているからだ。

 

 その未知の金属で作られた装備は恐ろしいほどの強度を誇る。さらに賢者の石は単なる武器や防具の耐久性を上げるだけではなく、真価はオーラの増幅にあった。石の力により被験体はその身に余る膨大な量のオーラを体内で生産できる。

 

「ギャレンスラッシュ!」

 

 力任せに振り降ろされた大剣は地面を陥没させるほどの威力があった。直撃したキメラアント兵は木端微塵となり、その近くにいた敵は衝撃波だけでまとめて吹き飛ばされていた。バズーカにも匹敵する一撃は迂闊に使えば味方まで巻き込みかねない。そして当の本人は周囲を気にして威力を抑えるような配慮が全くなかった。

 

 このオーラ増幅は賢者の石の適合者にとって基本的に備わった能力だが、引き出せるエネルギーの量は金属化した賢者の石の大きさに比例する。この石は生み出すほどに精神的負荷も増大していくため無制限に作り出すことはできない。

 

 武器と防具一式を同時に作り出すことができるバルカンは被験体の中でも飛びぬけて高い適合能力を持っていた。他の被験体が同じことをやろうとすれば瞬時に暴走状態に陥り、石に飲み込まれて永遠に意識を失うことになるだろう。

 

「全く、もうちょっとスマートに戦いましょうぜ」

 

「うるせえ! とにかくコロス!」

 

 真っ先に飛び出したバルカンを追って、他の二人も行動を開始する。彫像師キネティはオーラを金属化させて武器を生み出した。それは細く長い柄の先に鎚状の突起が付いたウォーハンマーと呼ばれる武器だ。バルカンの大剣とは違い、その形状は真っすぐに整っている。

 

 一方、野球少年のブッチャは所持していたバットをオーラで強化していた。このバット自体は市販のものだが、その表面に纏わせたオーラを金属化させて強度を上げている。しかもそのオーラはトゲ状に鋭く尖り、特製の棘バットに仕上げていた。

 

「ゼッコロ!」

 

 棘バットがキメラアント兵の頭部を粉砕した。その隙に他の兵隊蟻が攻撃を仕掛けるが、ブッチャは素早い身のこなしで回避していく。

 

 もともと野球に熱心に取り組んでいた彼は毎日のように練習メニューをこなしており、同年代の平均的な運動能力よりも高い水準にあった。素の身体能力は被験体の子供たちの中では最も高い。そこに念能力の身体強化と賢者の石によるオーラ増幅が加わり、並みの念能力者を凌駕する動きを見せていた。

 

 次々と硬いキメラアント兵の装甲を破壊して絶命させていくブッチャだったが、そのとき彼の目が自分目がけて高速で飛来する弾丸を捉えた。飛行能力を持つキメラアントの一体が念弾による遠距離攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

「ぬるい球投げてんじゃねぇぞ!」

 

 念弾は四大行のうち最終段階の発に当たる技であり、これが使えるということは相応にオーラの扱いに慣れた使い手であることがわかる。その威力と速球は十分な殺傷能力を有していたが、普段から野球でボールを追ってきたブッチャにとっては強化された動体視力で捉えきれないほどのものではなかった。

 

 余裕をもって念弾をかわしたブッチャの手には赤い球体が握られていた。金属化オーラで作った野球ボールである。それを空中に放り、念弾を撃ってきた敵を狙ってノックを打ち出す。

 

 その強打は甲高い金属の衝突音を響かせて弾けた。表面に大きな凹凸のある特製棘バットでは普通なら球が飛ぶ方向を狙って打ち出すなど至難の技だが、その問題は念能力によって解決している。

 

 ブッチャは操作系能力者であり、バッターとして練習を積んだ経験からバットの扱いと球のコントロールについては抜群の感性を持っていた。自分のオーラを纏わせた球を操作し、打ち出した後でも多少なら軌道変更させることが可能である。

 

 棘バットによる直接殴打とは比較にならないほどの威力がノックボールに込められていた。敵はその速度を見切ることもできず、体の真ん中に風穴を開けて落下していく。

 

 飛行する敵のみならず、地上から襲い来るキメラアント兵に対しても殺人ノックは凶悪な威力を発揮した。敵の軍勢は遠近ともに隙のない攻撃を使い分けるブッチャの進撃を止めることができない。

 

「ひぃぃ……もう帰ろうよぉ……」

 

 バルカンとブッチャがこぞって敵を倒していく中、ジャスミンは後方の茂みに隠れてじっとしていた。小銃を構えて引き金に指をかけているが、銃を撃った経験はない。セーフティが外れていないことにも気づいていなかった。

 

 そんなジャスミンを守るようにキネティが敵を待ち受ける。キメラアントは数え切れないほどいる。バルカンたちにも全ての敵を抑え込むことはできず、わざわざ前に出ずとも戦う相手には事欠かなかった。

 

「んー、でもこの程度の相手じゃ“作品”にする気も起きないですぜ」

 

 縦横無尽に振るわれるウォーハンマーが迫り来る敵を寄せ付けない。このような長柄武器は敵と距離を取って戦えるため素人にも扱いやすい。剣の使い手が槍に対抗するには三倍の段位が必要と言われるほど、このリーチの差は有利に働く。

 

 しかしそれは個人戦を想定した場合の話である。乱戦状況下や森などの遮蔽物が多い場所では取り回しの悪さが目立ち、接近戦に持ち込まれれば長柄の優位は逆転する。達人であるならばまだしもキネティにそこまでの技量はない。

 

 にもかかわらず彼女が敵を一歩も寄せ付けず圧倒できる理由は自在に形を変化させる武器のおかげだった。キネティは金属化したオーラの融点を変化させ、思い通りの形状を取らせることができる。

 

 ことごとく長さや形状が変化するその武器に敵は対応が間に合わない。ウォーハンマーの柄頭を叩きつけ、一点集中した衝撃で敵の装甲を割る。それだけでは強い生命力を持つキメラアントにとって致命傷とはならないが、装甲の亀裂に食い込ませた武器の先端を変化させ、傷穴を押し広げて体内へと侵入させる。

 

 硬い外骨格も内部の臓器を直接攻撃されては守りきれない。それに加えてキネティ自身の身体能力も高い。戦闘技術は未熟だが、爆発的なオーラ増幅の効果により身体強化だけならプロハンタークラスの能力を既に身につけている。下級兵ではまるで相手にならない。

 

 だが、ジャスミンをかばいながら戦い続けることが負担になっている部分もあった。今はまだ大丈夫でも、この後に控える敵の強さ次第でどうなるかわからない。

 

「ジャスミン、せめて自衛くらいはしてもらわないといつまでもお守はできませんぜ」

 

「ご、ごめん……」

 

「ここでこのバケモノたちを食い止めなければ拠点に残された仲間たちにも危険が及びますぜ。しっかりしてくだせぇ」

 

 これだけの数の敵に拠点の場所を知られるようなことがあれば一気に攻め落とされる危険がある。防衛設備も一応は整っているが、キメラアントの軍勢を食い止められるほどのものではない。人的な被害はともかく、アルカヌムやその沈静薬を製造する施設が破壊されることは避けなければならなかった。

 

 その点を踏まえれば、いち早く敵の襲来を察知した子供たちが拠点の場所が特定されない場所まで離れ、囮として敵の目を引きつけたこの状況はそれなりに理に適ったものと言えた。

 

「……わかった。がんばってみる!」

 

「その意気ですぜ」

 

 もっともバルカンたちはそこまで深く作戦を考えていたわけではなく、戦闘欲求に駆られて行動したに過ぎない。キネティにしても自分本位の理由が主を占めていたが、ジャスミンの性格を考えれば仲間のためと言っておいた方がやる気がでるだろうとの魂胆だった。

 

 二人で軽く会話ができる程度に敵からの攻撃は弱まっていた。さすがに多くの兵隊蟻を殺された惨状を見て、下級兵たちも実力差を感じ取っている。むやみにキネティの前に飛び込んでくることはなくなった。

 

「お前たち、下がっていろ」

 

 そこに一匹のキメラアントが姿を現す。人語を流暢に話し、周囲の戦闘兵を後ろに下がらせていることから上位の階級であることがわかる。何よりも、身に纏うオーラの気配が風格を物語っていた。

 

「俺は師団長マンティスだ。人間の子供でありながらその強さ……いや、種族や見た目で判断すべきではないな。一匹の武人として、貴殿の名をうかがいたい」

 

 カマキリ型キメラアント、マンティスの名乗りに対してキネティは言葉ではなく攻撃を返した。それはこれから死に行く者に自己紹介をする必要はないという意思の表明である。

 

 しかし、鞭のようにうねりながら迫る軟化戦鎚をマンティスは両腕に備えたカマキリの鎌で一刀のもとに両断した。

 

「無粋な。我が蟷螂拳にて切れぬ物なし。武人として純粋な手合わせを望んでいたが、どうやら俺の見込み違いだったようだ」

 

 鎌に集中したオーラがその切れ味を格段に高めている。戦鎚の切り離された部分はキネティの制御から外れてしまう。新しく武器を生み出すことはできるが、同じ攻撃を仕掛けたところでマンティスを相手に意味はないだろう。

 

 その敵の実力を前にし、キネティはより笑みを深めた。物足りなさを感じていた彼女にとっては願ってもない強敵である。その手にオーラを集め、金属化させる。

 

 作り出した武器は杭のような形をした物体だった。そのサイズはナイフ程度しかない。左手にハンマー、右手に杭を握りしめて敵のもとへと走り出した。

 

「この俺に接近戦を挑むとは。死に急ぐか。よかろう、弱者をいたぶる趣味はない。苦痛もなく殺してやろう」

 

 マンティスはゆらりと上体を揺らし、両腕を構える。カマキリが獲物を狙うとき体を揺らす仕草をするが、これは獲物との距離を正確に計るための行動と言われる。亜人型キメラアントとして生を受けたマンティスはその習性を武術の領域にまで昇華させていた。

 

 キネティはマンティスの腕の動きに注視する。凝によってオーラが集められた鎌以外は特に危険を感じない。鎌にさえ注意しておけば問題ないと彼女は考えていた。凝による観察は念能力者同士の戦いの基本、ゆえにマンティスはその思考の隙を狙う。

 

 駆け寄っていたキネティへと、マンティスの腹から黒いヒモ状の物体が飛び出した。腹を突き破ってマンティスの内部から発射されたその攻撃はキネティの意表を突き、彼女の左目へと一直線に撃ち込まれる。

 

「くっ!」

 

 すぐに後ろに飛んで回避行動を取ったキネティだったが、賢者の石の力で増幅された反応速度をもってしても不意の一撃はかわしきれなかったのか、血が流れる片目を手で押さえている。苛立たしげにマンティスを睨みつけるが、おびただしい流血により先ほどまでの威勢は失われていた。

 

「キシャシャシャ! 惜しい惜しい。そのまま目玉の奥まで貫いて脳みそをグチュグチュ掻き回すはずだったのになぁ。知ってるか? カマキリの腹の中にはハリガネムシって寄生虫が潜んでるのさ」

 

 十分に成長したハリガネムシは宿主であるカマキリの腸管を埋め尽くすほどの長さに達する。人間の腸の長さは全体で7~9メートルにもなり、亜人型キメラアントであるマンティスの腹にはそのさらに上を行く15メートルのハリガネムシが収まっていた。

 

 その名の通り針金のように硬くオーラで強化された怪物級ハリガネムシはマンティスのペットとして腹の中で飼われていた。槍のように鋭く尖った先端を突きさしたり、獲物をぐるぐる巻きにして捕まえさせることができる。

 

「卑怯な手を……!」

 

「勝利こそ全て。どんな手を使おうと勝てばいいのだ。貴様らのような下等種族を相手に誇りをかけて戦うなど愚の骨頂よ」

 

 マンティスに先ほどまでの武人然とした態度はなかった。キネティの目を欺くための演技である。その本性は正々堂々とはかけ離れた卑劣漢であり、最初から真っ当に勝負するつもりなどなかった。

 

「きゃああああ!!」

 

 キネティの背後の茂みから悲鳴が上がる。ジャスミンが隠れていた場所だった。マンティスは事前に配下の兵隊長に命令を出し、自分がキネティの注意を引きつけているうちに森の中をこっそりと回りこませていた。

 

「ジャスミン!?」

 

「おおっと、どうやら仲間が捕まってしまったようだぞ? どうする? お前の態度次第では、温情を与えてやってもいい……敵とはいえ相手は子供。さすがに殺すのは忍びないからな」

 

「ちくしょう……!」

 

 マンティスの言葉は全て虚言だ。キネティの感情を逆なでて弄んでいるだけに過ぎない。彼女はそれに気づいていた。ここで敵の言いなりになったところで事態が好転することはない。

 

 傷を負った左目を手で押さえたまま、もう片方の手に軟化戦鎚を持ってマンティスのもとへ走る。激情に駆られた破れかぶれの特攻。もっと情けなく慈悲を乞う姿が見たかったマンティスは少しつまらなそうに腹から飛び出たハリガネムシで迎撃する。

 

 素早く空中を走るハリガネムシの突きに合わせ、キネティは軟化戦鎚を差し向けた。互いが蛇のようにうねり、絡まる。巨大寄生虫は絡めとられて動きを止めた。

 

「それで攻略したつもりか!? 無駄だ! 我が蟷螂拳の餌食となれ!」

 

 ハリガネムシによる攻撃はマンティスにとって補助に過ぎない。その最大の武器は切れ味を増した鎌にある。絡めとられたハリガネムシを自身の腹の中へと瞬時に引き戻し、キネティを勢いよく引き寄せた。死神の鎌が彼女を待ち受ける。

 

 キネティはとっさに戦鎚を構えるが、その武器ではマンティスの鎌を防ぎきれない。この武器には弱点があった。他の被験体が作り出す賢者の石と比べて非常に高い造形の自由度を得る代わりに、強度はかなり落ちてしまう。彼女が鎌の射程圏に入ったが最後、その体は無残に引き裂かれるだろう。

 

「と、思った?」

 

 ぶつかり合った両者の武器は互いに拮抗し、せめぎ合った。キネティはマンティスの鎌を無事に受け止めている。その理由は戦鎚の強度にあった。彼女は武器を軟化させず、最初から一つの形に固定するつもりで作り出していた。この場合、後から形を変化させることはできないが強度に関してはデフォルトの耐久力を得る。

 

 キネティは一度目に鎌で武器を断ち切られた手ごたえから、強度を上げた固定戦鎚ならば防御可能であると目算していた。

 

「馬鹿な!」

 

 まさか受け止められるとは思っていなかったマンティスに動揺が走る。眼前に迫ったキネティと目が合った。その両目はしっかりと見開かれている。負傷したはずの左目に傷が見られない。

 

 キネティは最初からハリガネムシの一撃を受けていなかった。ギリギリのところで回避に成功している。血を流しているように見えたのは目を押さえたときに手の中に作り出した赤い金属を溶かして流血に見せかけた偽装工作である。

 

 劣勢を演じるためにあえて負傷したふりをしていた。敵を欺くための手管だとマンティスは気づくが、もう遅い。策に嵌った彼の精神的な動揺がオーラの動きを鈍らせた。その隙を突き、キネティは敵の頭上へと跳躍した。

 

 武器化した杭をマンティスの脳天に打ち込む。が、不安定な体勢から繰り出された攻撃は、師団長級の念能力者であるマンティスの装甲を貫くには至らなかった。

 

 マンティスはしめたとばかりに鎌を振るう。空中に跳んだキネティは大きな隙を晒している。そして、その距離は自慢の蟷螂拳の射程内にある。今度こそ仕留めたと確信したマンティスだったが、絶好の反撃のチャンスであるにも関わらず彼の体はぴくりとも動かなかった。

 

「な……ぜ……?」

 

 これこそがキネティの具現化系念能力『像は石に(ト・キネートン・アキヌーン)』の効果である。杭のように見えた武器は、正確には鑿(のみ)という彫刻工具である。本来は武器ではなく、柄頭をハンマーで叩いて木材や石材などに打ち込み、形成するために使う。

 

 この使用法で対象に攻撃することにより能力が発動し、鑿を打ち込まれた敵は身動きを封じられる。まさに彫刻家の前に鎮座する石材のように、あるべき作品の姿へと削り取られる様を黙して受け入れるしかなくなる。

 

「うーん、5秒ってとこですかねぇ」

 

 しかし、この能力による拘束は持続時間がある。それは対象の抵抗が激しいほどに短くなっていく。または第三者の介入によって外力が加わった際も短縮される。つまり、実力者であればあるほどに効果時間は著しく短縮されるのだ。マンティスの場合はもって5秒が限界だった。

 

「十分でさぁ」

 

 キネティが鑿の第二打、第三打を突き入れる。マンティスの体を少しずつ形成していく。とうに5秒は経過したが、マンティスの拘束が解かれる様子はなかった。なぜなら一打を叩きこむごとに能力の効果が更新されているからだ。

 

 5秒が経過しきる前に次の一打を打ち込めば、拘束時間はリセットされ次の5秒が改めてカウントされる。この無限連鎖を脱するには強化系の必殺技のようにオーラ顕在量を引き上げて強引に抵抗力を上げるか、仲間に助けてもらうしかない。

 

「ぐ、ぎ、あ……!」

 

 まともに声を発することもできず、悲痛な表情を浮かべたままマンティスはボロボロにされていく。オーラの操作もできず防御することもできず、凌遅刑のように自分の体が削られていく痛みと恐怖に晒されていた。

 

 天才彫刻家ともてはやされていたキネティだったが、自分の中で納得のいく作品を作れたことはこれまでに一度もなかった。両親はそれを才人ゆえの苦悩だと思っていたようだが、彼女はどうにも芸術性以前に根本的な部分で自分を理解できていないような気がしていた。

 

 剥き出しとなった自分の本性を知った今ならばわかる。それは至極簡単なことだった。キネティは何かを作ることが好きだったが、それ以上に何かを壊すことの方が大好きだったのだ。

 

「さて、向こうはもう片付きましたかねぇ」

 

 “作品”を作り終えたキネティはもはやその完成品に微塵の興味もなかった。バラバラに分解されたそれを放置してジャスミンが控えていた後方の茂みに目をやる。

 

 そこにはガタガタと震えるジャスミンと、体中から奇妙な赤黒いサボテンを生やしたキメラアント兵の姿が数体あった。既にその兵たちは息絶えている。

 

 潜伏していた敵兵に奇襲されたジャスミンだったが、キネティは特に心配はしていなかった。彼女に発現した念能力は特質系であり、被験体の中でも随一のヤバさであることを知っていたからだ。

 

「やればできるじゃないですか。さあ、その調子でじゃんじゃん行きましょうぜ」

 

 研究所の人間はジャスミンを気弱で感情を乱しやすく、すぐに力を暴走させてしまう少女だと決めつけているようだがキネティはそう思っていなかった。

 

 チェルの前ですぐに泣きだしてしまうのは、ジャスミンがチェルを甘える対象として見てしまい、そこに頼ろうとし過ぎて感情を抑えきれなくなる結果だと思っている。失った母親の面影を重ねているのかもしれない。

 

 現に、今のジャスミンは化物を何匹も殺してみせたというのに鎮静剤が必要なほどの力の暴走は起こしていなかった。案外、誰にも頼れない環境に放り出してみた方が人間は自立するものだ。

 

 ジャスミンもまた賢者の石の適合者であり、キネティと同じく戦う力を得た者である。きっと彼女の才能は戦いの中でこそ花開くものだろう。キネティはまるで友達を遊び誘うように、異形の怪物たちがひしめく森の奥へとジャスミンの手を引いて入って行った。

 

 



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78話

 

「これが噂の人間の子供か……ふん、大したことないわね」

 

 敵軍のただ中を突き進んでいたブッチャは、これまでの雑魚とは毛色の違うキメラアントを前にして足を止めていた。キメラアント兵は階級によって強さのレベルが大きく異なる。どれもこれも一撃で仕留められる弱兵というわけではなかった。

 

 ブッチャの前に立ちはだかった敵の名は師団長ザザン。大きなサソリの尻尾を持つが、それ以外の見た目は人間の女に近い。しかし、その見た目からは想像もできないほど外骨格の強度と膂力は高く、ブッチャのノックボールを片手で受け止めていた。

 

「殺す殺すと息巻いていた割に口ほどにもない。弱い犬ほど物騒な言葉を使いたがるものね。少しは自分の立場が理解できたかしら?」

 

 ザザンは手中で弄んでいたボールを握りつぶした。被験体が生み出した金属は完全な賢者の石ではない。作り手のオーラの制御から外れると急速に劣化が進み、自然と崩壊していく。オリジナルの石を生み出すことはできなかった。

 

「……確かに、その通りだな」

 

 ザザンの挑発的な煽り文句に対し、ブッチャは冷静を保っていた。これまでの血の気の多い言動とはまるで異なる反応をザザンは訝しむ。てっきり怒り狂うものとばかり思っていたからだ。

 

「『殺す』が俺の口癖になっていた。何かにつけて殺すを連呼していた。確かにお前らごときを殺すことは造作もないが、そんな当たり前のことをいちいち宣言する必要はあるのかと疑問に思い始めていたところだ」

 

 強い言葉も見境なく使えば安っぽく聞こえてしまう。ブッチャは自分の新たな口癖を考えていた。わざわざ辞書を引いてそれらしい言葉を調べていたのだ。

 

「俺の新たな決め台詞は……『こなす』だ」

 

 「熟(こな)す」とは、もともと「粉に成す」という意味から生まれた言葉である。よく使われる用法としては「仕事をこなす」のように、仕事や作業をうまく処理する様子を表す。物を細かく砕く、消化する、相手を見下すという意味もある。

 

「俺にとって殺しとは、まさに作業をこなすに等しい。殺すだなんて直接的でガキっぽいセリフはもう使わねぇ。これからの俺は『こなす』だ。どうだ? このセンスは……震えが走るだろ?」

 

「馬鹿じゃないの?」

 

 ザザンに煽るつもりはなかった。偽りない本心をただ口に出しただけだった。だが、その正直な感想が今度こそブッチャの怒りを買い、彼のオーラを瞬間湯沸かし器のように滾らせた。

 

「テメェ! ブッコナス!」

 

 ブッチャは賢者の石製野球ボールを作り出す。ザザンは既にその技を一度見ており、容易く防ぎきっている。再びノックを打とうとするブッチャを、馬鹿の一つ覚えかと嘲笑った。

 

「俺のボールは誰にも止められねぇ! キャッチできるはずがねぇんだ! いくぜ『打ち滅ぼす者(スラッガー)』!」

 

 身の程知らぬずにも勝負を挑む少年に対し、ザザンはもう一度正面から攻撃を受け止めることで絶望的な実力差を教えてやろうと考えた。

 

 ブッチャの能力のタネは割れている。打ち出した球を操作系能力によって軌道変更する追尾弾だ。下手に避けようとするよりも防御した方が確実に対処できる。超人級の剛速球にザザンの動体視力は追いついていた。パワーだけではなくスピードにも長けた圧倒的な身体能力がザザンにはある。

 

 一直線に飛んでくるボールを先ほどと同じく片手で止めた。しかしその直後、ボールに込められたオーラを見誤っていたことにザザンは気づく。

 

 先ほどキャッチした球と比べて明らかに重い。それだけ本気で打ったということだろう。ザザンは両手を使って止めに入るが、それでも威力を殺しきれない。彼女の装甲を貫くには至らずとも、少しずつ後ろへ押され始めている。

 

 あまりの威力に弾いたり受け流したりすることも難しくなっていた。徐々に踏ん張りも利かなくなり、後ろへと下がるスピードが増す。木に背中を預けたが、そのもたれかかった木がみしみしと悲鳴を上げてへし折れる始末。力を抜けばどこまで吹き飛ばされるかわからない。

 

「おのれ……!」

 

 ザザンから侮りが消えた。塞がった両手に代わり、サソリの尻尾が素早く伸びあがってブッチャに襲いかかった。普段の彼女はこの尻尾を武器として好んで使用する。

 

 硬質かつ柔軟に伸び縮みするこの尻尾は、四肢を使うよりも素早く強力な攻撃を可能としていた。その先端に鋭く伸びる毒針からは即効性の麻痺毒を注射することができる。

 

「っと、オラァ!」

 

 しかし、ブッチャは尾の一撃をしっかりと捉えていた。棘バットを叩きこまれたザザンの尾はあえなく引きちぎられる。奇襲は失敗したかに見えたが、ザザンの表情には余裕が生まれていた。

 

 ザザンにとって麻痺毒攻撃は当たれば良し、当たらなければそれでも良しの二段構えを取っていた。攻撃のスピードについては手を抜いていないが、尾の装甲を強化する分のオーラはあえて少なくし、わざと防御力を下げていた。

 

 その理由はザザンの奥の手にあった。本気を出した彼女は全身の姿形が変化し、通常時の数倍の強さを得ることができる第二形態を持っている。その発動の鍵がサソリの尾の破壊にあった。この尾が引きちぎられることで第二形態へと移行する。

 

 めきめきと軋みを上げてザザンの筋肉が膨れ上がり、外骨格の装甲がはちきれんばかりに膨張した。硬い外骨格の内部を埋め尽くす勢いで増加した筋肉が、さらに防御力を補強する。内と外、この二重の鉄壁からなる圧倒的な防御力は師団長の中でも最高位にあった。

 

 この状態ならば難なくボールを弾き返せる。そう思っていたザザンに違和感が走る。依然としてボールを受け止めた姿勢のまま動くことができなかった。第二形態の怪力トカゲモードとなったザザンの力をもってしてもボールの直進コースを変えることができない。

 

「あ、ありえないでしょ!? さっきより明らかに威力が上がってる!」

 

 いくらオーラで強化され、操作されたボールと言っても込められた力以上の力で抑え込めば威力が弱まっていくはずだ。だが、パワーアップしたザザンの力に応じてボールの威力もまた跳ね上がっていた。

 

 これがブッチャの操作系と放出系の複合能力『打ち滅ぼす者(スラッガー)』の効果だった。この能力を使用して打ち出したノックボールは、その進路を妨害してきた力に対抗して威力とスピードが上がる。その増強分のオーラは術者であるブッチャから追加徴収される。

 

「しぶてぇな。いい加減くたばれ」

 

 カキンとボールを打ち放つ快音が響く。目の前のボールにかかりきりになっていたザザンは息を呑んだ。今の彼女にブッチャの第二打を受け切る余裕はない。尻尾で何とか迎撃しようと考えていたザザンだったが、運良くボールは彼女から外れて後方の茂みへと飛び去っていく。

 

 だが、ブッチャがここで狙いを外すことはあり得ない。ザザンの背後へと飛んでいった追尾ボールは木にぶつかり、バウンドして彼女の背中に直撃した。腹側と背中側の双方からボールが押し寄せる。

 

「ぎっ!? この……!」

 

 『打ち滅ぼす者』の効果を受けたボールは直進を阻む力が大きいほどに強化される。では、この二つのボール同士が真正面からぶつかり合った際はどうなるのか。互いに進路を阻み合い、その力は天井知らずに上がっていく。そして、その二つのボールに挟まれてしまったザザンは。

 

「『強打相殺(バックドラフト)』」

 

 ぶつかり合ったボールは内包する力に耐え切れず崩壊した。その膨大なエネルギーは衝撃波となりザザンの体を破壊する。断末魔を残して彼女の胴体は爆散した。

 

「ひええっ、あの武闘派のザザン様が……!」

 

「パイクに知らせろ! 俺たちじゃ敵わねぇ!」

 

 ザザンの敗北を目の当たりにしたキメラアントたちは一目散に撤退し始める。ブッチャはノックを放とうとして思いとどまった。金属ボールも無限に出せるわけではない。賢者の石の能力を多用すれば精神的な負荷も相応に増す。

 

 大技を使った直後で、さすがにオーラの消耗を感じていた。まだ十分に戦闘は可能だが無駄打ちは控えるべきだ。いちいち逃げていく敵を仕留めて回るわけにもいかなかった。

 

「この、わたしが……こん、な……ところで……!」

 

 ザザンは上半身だけの体になりながらもまだ生きていた。いずれは死ぬ命だが、キメラアントの異常な生命力はたとえ首だけの存在になり下がろうとも容易に即死することを許さない。

 

 そんな化物に憐れみや同情を一切感じることもなかったブッチャは、無力化した敵を放置して先へ進んだ。気がかりは先行している仲間のバルカンだ。

 

 師団長ザザンの強さはブッチャにしても予想以上だった。単独ならそれほどの脅威でもないが、このレベルの敵に連携されるとさすがに苦戦を強いられるだろう。

 

「めんどくせぇが、こなしてやるか」

 

 敵陣のど真ん中に突っ込んでいったバルカンをフォローするため、ブッチャは野球帽をかぶり直して走り出した。

 

 

 * * *

 

 

「もういい! 兵隊長クラスも下がれ! こいつはオレたち師団長が相手する!」

 

 コルトは大声を上げて周囲の兵に指示を出す。電波による通信は敵が発する妨害電波によって阻害されていた。ガンガンと頭に響く耳触りな敵の電波攻撃を気力で抑え込む。

 

「ギャレンスラアアアッシュ! はあっ、はあっ……」

 

 出発前、巣の前に整列した15師団の連合軍を目にしたとき、コルトの胸中は誇らしさと自信に満ち溢れていた。これならばどんな敵が相手だろうと負けはしないと思った。もはや、そんな甘い見通しは粉々に打ち砕かれている。

 

「ハギャはどうした!? 姿が見えないぞ!」

 

「知るかよ! どうせ逃げたんだろ!」

 

 コルトは抑えきれぬ怒りに目を血走らせる。殺されたか、逃げ出したか。電波信号による統制を失った今の連合軍では確認することも難しく、前線から姿を消した兵は数知れない。

 

 それほどまでに敵は強かった。赤い鎧に身を包み大剣をもってあらゆる障害物を薙ぎ払うその人間は、まさに暴力の権化だった。子供が遊びで振り回す枯れ枝のように造作もなく大剣が舞い、旋風と衝撃波が兵団を蹂躙する。

 

 直撃を受ければ師団長であっても戦闘不能は免れない。しかし、数え切れないほどの犠牲を重ね、ようやく敵に疲れが見え始めていた。

 

 コルトたちも念能力を身につけてまだ日が浅いが、初心者の目から見ても敵のオーラ制御が粗いことがすぐにわかる。パワーはすごいが逆にその力に振り回されているようにも見えた。そんな戦い方をしていれば必ずオーラを使い果たすときが来る。

 

 まずは敵を弱らせ、隙が出て来るまで待つしかない。そこに最大火力の攻撃を叩きこむ。後衛には師団長の中でも怪力ナンバー1の実力を持つウシ型キメラアント、ビホーンが控えていた。防御力やスピードなどの総合的な戦闘力で言えばザザン第二形態に及ばないが、純粋な物理攻撃力という一点に関しては間違いなく師団長最強である。

 

 ビホーン渾身の必殺技が当たればこの敵を仕留めることも可能と見ていた。ただし、その必殺技にはタメが必要であり一度外してしまうと連続で使用することはできない。確実に当てられるまで敵を消耗させなければビホーンを前に出すことはできなかった。

 

「ヂートゥ! 頼む!」

 

「あいよー」

 

 軽い返事と共にチーター型キメラアントのヂートゥが飛び出した。全く臆することなく大剣使いの少年、バルカンへと迫る。

 

「ま、当たらなきゃ意味ないよね」

 

「ちょこまかと……!」

 

 ヂートゥはスピードナンバー1の師団長である。バルカンの一撃必殺の大威力攻撃を難なく回避していく。まさに目にもとまらぬスピードでバルカンを翻弄した。

 

 ヂートゥの脚力は瞬発力だけなく持久力にも優れ、時速200キロ以上のスピードで一昼夜走り続けることができた。力に任せたパワータイプのバルカンとの相性は抜群に良く、危なげなく対処できていた。

 

 だが、スピードはあるものの攻撃力はいま一つ。隙を見てバルカンに拳を当てているが、頑丈なプロテクターに阻まれてろくにダメージを与えられていなかった。

 

 それでも作戦の大目的は敵を疲弊させることにあるのでヂートゥは己の役目を十分に果たしていると言える。しかし、どうせならば自分の力でこの強敵をねじ伏せたいと考えていた。

 

「そろそろ見せてやるよ、シャウアプフ殿に伝授してもらったオレの念能力『紋露戦苦(モンローウォーク)』をさぁ」

 

 護衛軍三戦士の一人シャウアプフは他人の心理を読む能力に長け、精神的なポテンシャルを引き出す催眠術を扱う。その観察眼により師団長の中でも素質を持つ者たちに発を作るアドバイスを与えていた。

 

 本来ならば長い時間をかけて自分の系統と性格や経験などから最適な発を模索していくものだが、シャウアプフは対象の本質を見抜くことでその者に合った能力を見繕うことができた。

 

 バルカンの目の前でトップスピードの走りを見せたヂートゥ。その体の豹紋があまりの速さに残像を残して通り過ぎる。否、それは残像にあらず。実体を持つ分身となり、バルカンに襲いかかる。

 

 念人形の一種、自分とそっくりの分身を作り出す能力である。自らの最高速度に達したヂートゥはこの残像分身を同時に四体まで作り出せるが、その発動時間は短く、0.5秒しか分身の実体を維持できない。

 

 と言っても、師団長最速のヂートゥならばその0.5秒の間に数度の攻撃が可能である。発動時間の短さの代わりに消費オーラは少なく、また破壊されなかった分身体のオーラは発動時間を無事に満了することで一部のオーラがヂートゥに還元される仕組みになっている。これにより低コストで分身能力の連続使用を実現していた。

 

 分身四体に本人を合わせた五体のヂートゥによる同時攻撃はバルカンにも防ぎきれなかった。その狙いはプロテクターの隙間である。関節などの可動部は鎧で覆ってしまうと身動きを制限してしまうため隙間が開いていた。

 

「かってぇ! マジでコレ人間かよ!?」

 

 その部分はいわば生身だが、オーラの攻防力による防御はしっかりと機能している。分身まで使ったヂートゥの攻撃はほとんどダメージになっていない。だが、ヂートゥの攻撃は精神的な面で少しずつバルカンを追い詰めていた。蓄積されていく疲労は本人も自覚している。

 

 最初に作り出した武装の他に賢者の石を使った武器などは新たに作ってはいない。しかし、被験体が生み出す不完全な賢者の石は時間経過と共に劣化していく性質があり、防具と巨大な武器の一式という大量の装備を維持するには常時損耗を補填するため多くのコストを必要としていた。

 

 考えなしの無理な行動がたたり、バルカンは被験体の子供四人の中で最も精神力を消耗していた。焦るほどに攻撃は精彩を欠いていく。

 

「ぬおおおおお!! 負けるかああああ!! 悪の異星怪人どもめ! 世界平和のために、オレがここでやられるわけにはいかないんだああああ!!」

 

 逆境がバルカンの妄想を加速させた。完全に宇宙戦隊のリーダー、ギャレッドになりきった彼は現実と妄想の区別もつかないほどの狂った正義感に駆られ、賢者の石の力で莫大なオーラを引き出す。赤い大剣が妖しく発光する。

 

「くらえ必殺! ギャーレーンンンンンン……!」

 

 相手の動きが速すぎるというのなら、避けきれないほどの広範囲を一気に殲滅すればいい。強化系の発によりオーラ顕在量を増大させた上に、それをさらに賢者の石の力で爆発的に増幅させる荒技である。細かな制御など全くできず、自分自身にまで威力が及ぶ自爆技だが、バルカンの体はプロテクターに守られているためある程度のダメージは軽減される。

 

 膨れ上がったオーラの気配を感じ取ったヂートゥは一旦距離を置こうとしたが、バルカンはそれを許さず追随しようと踏み込んだ。彼は敵の動きを読んだり素早く反応することが苦手だったが、動く速さ自体はヂートゥと比べて極端に劣っているわけではない。剣そのものを当てることはできずとも、広範囲の攻撃圏から逃がさぬように追いすがる程度のことはできる。

 

「クラッシュ!!」

 

 踏み込みと同時に大剣を振りおろそうとしたバルカンだったが、そこで足を滑らせた。しかし、技の勢いを中断することができずそのままオーラが暴発する。間一髪でオーラの暴風圏から脱したヂートゥだったが、その余波だけで大きく吹き飛ばされてしまった。

 

 振り降ろされた大剣の一撃は地盤を砕き、天変地異が起きたかのごとく木々もろとも粉々に巻きあげた。もし寸前でバルカンが足を滑らせていなければヂートゥの命はなかっただろう。

 

「何とか間に合ったようだな」

 

 ヂートゥの幸運は偶然の産物ではなかった。後衛にいた師団長ペギーの能力による助けが入っていた。ペギーもまたヂートゥと同じく、シャウアプフの催眠術により短期間で発を開花させている。

 

 その能力は『大地の教え(ネオグリーンライフ)』と言い、オーラを地面に流し込み、大地の性質を操る技だった。ペギーはキメラアントとなる前の人間であった時の記憶を一部だけ受け継いでいる。彼は敬虔なNGLの信徒であった。

 

 ペギーが肌身離さず持ち歩くNGLの教本にオーラを通し、地面にひざまずいて祈りを捧げることで能力は発動する。ペギーのオーラは地中を通って移動し、任意の場所、任意のタイミングで効果を発動させることができた。これによりバルカンの足元の土を柔らかくしたのだ。

 

 術の発動中はその場でひざまずいた姿勢を維持する必要があるため隙の多い能力だが、後方支援としては優秀な効果を発揮する。師団長同士の連携が綱渡りの攻防を支えていた。

 

「はぁっ、はぁっ……悪党め……成敗して、やる……」

 

 土煙の晴れた爆心地には破壊の元凶が立っていたが、その姿は健在とは言い難い。バルカンは大剣を杖にして何とか立っている状態だった。自爆のダメージによりプロテクターの一部は崩れ落ち、ヘルメットは半分が欠けていた。修復する余裕もないらしい。

 

 そのヘルメットの穴から覗く目から戦意は消えていなかった。ヒーローが悪を滅ぼす。それだけが彼にとっての絶対的な真理である。キメラアントにとってバルカンの心理は理解の及ぶものではなかった。コルトはすぐさま次の作戦に打って出る。

 

「ヂートゥは無事だ。そして敵は十分に疲弊している。こちらの予想通りの展開だ。オレが敵を撹乱し、そこにビホーンが攻撃を仕掛ける」

 

「大丈夫か? さっきの攻撃が来ないとは限らないぞ」

 

「奴のオーラを見る限り、二発目を撃てるほどの体力は残されていないはずだ。仮に最後の力を振り絞って発動させたとしても、技の予兆や発動までにかかる時間、そして効果範囲は既に見切っている。連携がきちんと取れれば対処は可能だ」

 

 ヂートゥが復帰するまでの代役としてコルトが撹乱役に回り、確実に敵へ攻撃を当てられる機をうかがってビホーンがとどめを刺す作戦だ。ペギーは後方から地質操作による援護を行う。

 

 時間的な余裕はないが、実行に移る前にコルトは今一度作戦に見落としがないかを確認した。それは彼の几帳面な性格による慎重さの表れでもあったが、それとは別に根拠のない不安を覚えていた。

 

 それは第六感や虫の知らせと言った類の感覚だったのかもしれない。わずかな躊躇を抱き神経を研ぎ澄ませていたコルトは、戦場に忽然と生じた異変にいち早く気づいた。

 

 鋭い金属音と、森の茂みから高速で迫りくる飛翔体をコルトの目が捉えた。ペギーとビホーンは気づいていない。それはバルカンの仲間、ブッチャの『打ち滅ぼす者(スラッガー)』による攻撃だった。

 

 赤い砲弾の射線上にはペギーの姿がある。それが別の敵から向けられた攻撃であることに気づいたコルトはペギーをかばうように前へ出た。

 

 

 ――『希望の守り手(セイブ・ザ・レイ)』――

 

 

 コルトは刹那の判断を強いられる中、己の念能力を発動させることに成功する。コルトは自身を中心として卵の殻状のシールドを具現化した。この念防壁は単体でもそれなりの防御力があるが、ある特定条件下においてその強度は飛躍的に向上する。

 

 その条件とは『誰かを守るために発動すること』だった。ペギーの盾となったコルトのシールドは無類の強度を得る。それは防御特攻の効果を持つ『打ち滅ぼす者』の威力を引きあげる結果となったが、コルトは偶然にもそのシールドの形状に助けられた。

 

 卵の殻を模したシールドは丸みを帯びた形状をしており、激突したボールは威力を増しながらも直進軌道を上手く逸らされ受け流されていた。剛速球は狙いを外され、火花を散らしてシールドの表面を滑りながら明後日の方向へと飛んで行く。

 

「……作戦変更だ! まずはオレが新手の敵の情報を探る! 大剣使いの方は……」

 

 コルトは吹き飛ばされていたヂートゥが戻って来るところを目の端で確認した。

 

「ヂートゥに任せる! ペギーは援護を頼む! ビホーンは敵の遠距離攻撃からペギーを護衛しつつ臨機応変に動いてくれ! ここからが正念場だ! いくぞ!」

 

 

 



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79話

 

 バルカンの加勢に来たブッチャは予想以上に混迷を見せている仲間の状況を見て舌打ちした。まずは集まった敵の主力格を一人ずつ撃破し、その連携を崩さなければならないと悟る。

 

 一方、キメラアント軍のコルトは攻撃が飛んできた方向から狙撃手の位置を割り出し、空を飛行して一気に距離を詰めようとしていた。

 

 ブッチャは『打ち滅ぼす者』で迎撃しようかとも考えたが、敵のシールド能力を見ていた彼は思いとどまった。その念防壁が仲間を守るという制約のもとに強化されていることを知らない彼は、敵の実力を量りかねていた。

 

「しゃらくせぇ!」

 

 だが、打つ。その球は全く見当はずれの方向へと飛んだ。大きく上空に向けて弧を描いたフライである。一瞬だけコルトは警戒を強めたが、すぐに意識を敵に向け直した。焦りから狙いを外したものと見て狙撃手への攻撃を優先した。

 

 ブッチャの能力はノックにより球を打ち飛ばす動作を必要とする。それは戦闘中において大きな隙だった。隙があるがゆえにそれが制約として威力を高めている面もあるが、同時にリスクを背負う。これまではブッチャの身体能力で十分にカバーできる敵が主な相手だったが、コルトは違った。

 

 鳥型キメラアントの特徴をいくつか合わせ持つ師団長のコルトは高い飛行能力を有していた。その外骨格や筋肉は他のキメラアントと比して軽量だが、パワーが劣るわけではない。ヂートゥには及ばないものの、飛行スピードに関しては師団長随一の速さがある。

 

 目にも止まらぬ速さで宙を駆けるコルトがブッチャを発見し、突撃する。しかし、遠距離攻撃を仕掛けてきた敵の様子から接近戦は苦手だろうと判断したコルトの思惑には誤算があった。

 

 ザザンの攻撃をも凌いだブッチャの身体能力と反射神経は卓越した領域にある。コルトの動きに反応は追いついていた。棘バットの芯で正確に飛んでくる敵を打ち返す。

 

「ぐはっ……!?」

 

 だが直撃を確信したブッチャの予想に反して、フルスイングしたバットが的を捉えることはなかった。それどころか瞬時に背後へ回り込まれたコルトにより背中を切り裂かれていた。

 

 コルトの鋭い爪はオーラの防御を貫いた。無意識に堅の状態を維持していたブッチャは致命傷とまではならかったものの大きな傷を負う。

 

「くそったれ! この俺がストライクだと……」

 

 ブッチャは瞬間的にコルトの姿を見失っていた。今度は慎重に敵の動きを見定めてからバットを振るう。だが、結果は先ほどと同じ。バットを振り終えた時には既に、一瞬にして死角へと回り込んだコルトにより体を切り裂かれていた。

 

 だが、観察に徹していたことによりそのスピードのカラクリをブッチャは見抜くことができた。コルトは加速する瞬間、空中に足場を作り出し、それを蹴ることによって飛行速度に跳躍力を上乗せさせていた。

 

 その足場とは『希望の守り手(セイブ・ザ・レイ)』の破片である。シールドの破片を空中に形成し、それを蹴り砕いて加速する。鳥型キメラアントの飛行能力と強靭な脚力を一度に利用したブーストは恐ろしい速度を弾き出していた。

 

「ツーストライクだぁ!? この虫野郎こなすぞコラァ!」

 

 腹立たしげに怒鳴り散らすブッチャだったが、その態度に反して心の中では多少の冷静さを取り戻していた。敵の攻撃の正体はわかった。ならば、そのことを気取らせないように演じつつ、次は確実に対処すればいい。

 

 敵はバットの振りを警戒してブッチャの攻撃が届かない死角を狙ってきている。だから次の一手は威力よりも確実に敵に当てることを意識した。

 

「こいやぁ! ホームラン決めてやるぜ!」

 

 ブッチャは視覚よりも聴覚を頼った。コルトが足場を蹴り砕く音を聞く。これまでの傾向を見る限り、直線的な飛行加速の性質から飛ぶ方向を調節するために二回の跳躍を行うことがわかっている。

 

 一度目、二度目。音を頼りにブッチャはバットを構えた。フルスイングはしない。それはバントの構えである。超加速を得た敵の突撃は強く迎え撃たずとも当てるだけで自らに跳ね返るエネルギーとして利用できる。防御に近い攻撃だった。

 

 バントで敵の攻撃態勢を崩し、隙が生まれたところに本振りの攻撃を打ち込む。今度こそ迎撃が成功したと思ったそのとき、ぬかるんだ地面に足を取られたブッチャは体勢を崩した。

 

 まずいと思う暇もない。強烈な爪の一撃がブッチャの腹に叩きこまれた。威力が一点に集中した突きは、表面的な切り裂き攻撃よりも体内へ至るダメージとなる。

 

 ブッチャの足元をさらった罠はペギーの『大地の教え』による後方支援だった。この能力の凶悪な点は発動の直前まで地中にオーラを潜ませておけるため凝による感知が難しいところだ。仮に感知できたところでコルトと応戦中のブッチャにどうにかできるものではなかった。

 

 完璧な連携によりブッチャを手玉に取っているように見えるコルト。しかし、その内心ではいまだ倒れない敵に対する警戒が強まっていた。

 

 オーラを集め威力を増した渾身の突きが防がれていた。腹部を抉り抜くつもりで放ったはずが、あと少しで臓器に達するというところで出現した金属の装甲がブッチャを守っていた。

 

 それは彼の意思とは無関係に本能的に発動した賢者の石の防御機能だったが、何のリスクもなく頼れる便利な能力ではなかった。傷口を覆うカサブタのように結晶化したこの装甲は自分の意思で剥がせない。無理に剥がそうとすればますます装甲が厚くなる。

 

 オーラの増幅により治癒能力もかなり高まっているため安静にしておけば外傷自体はすぐに治るが、傷口から侵食するように広がる結晶を消すことはできない。これが侵食の第一段階。結晶の侵食率が進めばやがて気が狂い、暴走状態に陥る第二段階に達する。第三段階は結晶に閉じ込められて二度と目を覚まさなくなる末路である。

 

 強い精神力により生命エネルギーをコントロールする能力を身につけたブッチャたちはこの反応を他の被験体よりも抑え込むことが可能だったが、それでも一度反応が現れてしまえば自力で元の状態に戻ることはできなかった。

 

 唯一、この反応は鎮静薬を使うことでしか治せない。その場合、賢者の石の力は一時的に使用不可となり、全身を動かせないほどの痛みに襲われる。その状態ではまともに念能力を使うこともできない。

 

 ブッチャは一応鎮静薬の準備はしてきたが、敵との戦闘中に使えば自殺行為でしかないことを理解していた。心中に湧き起こる精神の乱れを完全に封じることはできない。だが、恐怖心に囚われれば精神を病み、侵食の速度も増していく。

 

「ちくしょう! ころす! ころしてやる!」

 

 ブッチャが誰かれ構わずいつも他者に向けている殺意は結局のところ、自分自身の内から生じる負の感情に飲み込まれまいとする防衛反応に起因していた。

 

 敵の強さを十分に偵察しないまま、こうして無策に攻撃を仕掛けた理由は自分の強さに自信があったことも一因ではあるが、そうでもして戦いに身を置かなければ精神を保てなかったためでもあった。

 

 バルカンにしても妄想による肥大化した正義感を満たすためという理由の違いはあったが、やろうとしたことは本質的にブッチャと変わらない。他人よりも力の制御に長けていたとはいえ、彼らもまた幼い子供に過ぎない。誰もが少なからず追い詰められていた。

 

 ブッチャは無理やり怒りを沸き立たせ、敵への憎悪を煽ることで精神の均衡を保とうとする。焦りから攻撃へと踏み込んだ彼は足元を滑らせた。ペギーの支援とコルトの速攻を前にして、ブッチャは防戦を強いられていた。

 

 このまま行けば長くないうちにいずれ決着がつくと思われた戦いにおいて最初に違和感を覚えた者は、後方から戦場を見守っていたペギーだった。

 

「何だ……? これは……! ビホーン、気をつけろ!」

 

 地中にオーラを通す能力を持つペギーだからこそ最も早く気づくことができた。地下から何かが高速で接近してくる。それはブッチャがコルトとの戦闘に入る前に打ちあげたフライだった。

 

 上空高くに舞い上がったボールは重力に引かれて着地する。それをブッチャは“地面がボールの軌道を妨げたもの”と解釈した。『打ち滅ぼす者』の効果により、地面を掘り進みながらボールは加速し続けていた。

 

 このボールの軌道を操作してペギーに向けたのである。ただし、これはブッチャにしても試作段階の技であった。地中を掘り進むことによりボールの威力と速度は維持できるが、その分軌道の操作は難しくなる。

 

 狙った敵を地下から打ち抜くためには位置の調整のために地中を大きく旋回させる必要があり、その調整に何度も失敗していたため今まで攻撃に移ることができなかった。少しでも制御を誤ればコントロール不能となったボールはあらぬ方向へと飛んで行ったまま戻ってはこない。

 

 今ようやくその調整が終わり、ボールは標的目がけて地中を飛ぶに至る。ペギーの能力は地面にひざまずくという制約があるためその場から一歩も動いていなかった。それがなければまずこの攻撃が成功する目はなかったと言える。

 

 だが、ペギーは寸前で地下から迫るボールに気づいた。すぐに回避すれば間に合うかもしれないとペギーは思ったが、そこで一考する。師団長の中では知略に優れた頭脳を持ち合わせていたために、この土壇場の状況でいくつかの懸念が生まれていた。

 

 地下から自分を狙い撃ちにするように迫る攻撃ということから敵が操作系の高い技術を持っているものではないかという疑念が湧く。回避したとしても攻撃の軌道を変えて来るかもしれない。下手に動くことは危険と判断した。

 

「ビホーン! 私のそばに!」

 

「おう!」

 

 こと地中戦にかけて能力に自信を持つペギーは回避を選ばず、防御に踏み切った。オーラの最大量を込めて自分を中心として地面を硬化させる。地中の含有金属をかき集めて作り出した鉄壁の地盤に加えて、粘土質の衝撃を和らげるクッション層も作り出した多重構造の防壁。

 

 その念には念を入れた最高の守りは、この上ない悪手だった。

 

 速度の限界を突破したボールは、小さな破裂音とわずかな地面の破壊痕だけを残してペギーとビホーンの肉体をバラバラにした。ペギーは原形をとどめないまでに打ち砕かれ、辛うじて直撃軌道から外れていたビホーンは断末魔を上げることだけを許され死亡する。ボールは大気圏まで上昇して消滅した。

 

 その悲鳴はコルトの耳に届く。突然の後衛への襲撃に対し、何の反応もせず目の前の敵に集中することはできなかった。

 

「ペギー……!?」

 

 一瞬の隙。コルトは我に返り、とっさにシールドを張ったがその念防壁は砕かれた。自分を守るために作った障壁では最高値の強度は出せない。

 

 壊された殻の中から出てきたコルトは辛くも致命傷だけは避けることができたが、その犠牲として右腕を失っていた。

 

 コルトが右腕を失くし、ペギーからの援護もなくなった今がブッチャにとっての押し時であり、広がっていく結晶の侵食から逃れるためにも早く敵を撃破したいところだったが、そう簡単にも行かないことを悟る。

 

 片腕を失おうともコルトから戦意は消えていなかった。負けて生き延びるよりも勝って死ぬ。そんな決死の覚悟を持った戦士の眼差しがあった。

 

「うわ、コルトやばそうじゃん。他の奴らは死んじゃった?」

 

 そこにヂートゥが駆け付けてきた。ということは大剣使いの方は片がついたのかと思ったコルトだったが、破壊を広げながらこちらに向かって来るバルカンらしきものの姿はすぐに確認できた。

 

「うん、アレ倒すのは無理だわ。でもイイ感じに自滅しそうな感じじゃね?」

 

 敵を前にして雑談し始めるヂートゥに対してブッチャが棘バットで殴りかかるが余裕で回避していた。ヂートゥはバルカンに対して有効な攻撃を与えられていなかったが、神経を逆なですることには成功し、激昂したバルカンは賢者の石の暴走状態となっていた。

 

 バルカンは侵食第二段階の末期に近付きつつある。全身が結晶で覆われかけていた。高い適応能力を持つ彼だからまだ行動できているが、普通の被験体なら既に意識を失い第三段階へと入っていることだろう。手当たり次第に大剣を振りまわし、破壊の限りを尽くしながら進んでいた。

 

「良いこと思いついた! あいつをこっちの敵にぶつけて敵同士で戦わそうぜ! なんかもう敵味方の区別もついてなさそうだし」

 

 事実、バルカンはブッチャとキメラアントの区別がついていなかった。ほぼ正気を失っているに等しく、動く物を追いかけて叩きのめそうとする戦闘本能しか働いていなかった。

 

 バルカンを止めるには鎮静剤を注射するしかない。暴れ回る彼を拘束し、結晶の全身鎧を剥がして薬を投与する余裕は今のブッチャにはなかった。泣きごとを言う暇すらない。

 

「……こなす」

 

 だが、諦めるわけにもいかない。そんな往生際の良さを持っていたなら、とっくの昔に賢者の石に飲み込まれていただろう。彼は強敵を求めてここまで来たのだ。ならば悲観することはない。バットを短く握り直す。

 

「行くぜ、まだ試合(ゲーム)は終わっちゃいねぇぞ……!」

 

「いや、終わりだ」

 

 その声はコルトのものでも、ヂートゥのものでもなかった。空から降ってきた何かがバルカンの上に落ちる。それまで命の炎を燃やしつくすかのように暴れ回っていたバルカンは凄まじい衝撃音を響かせた後、沈黙した。

 

「このクソガキども……おしりぺんぺんされる覚悟はできてんだろうな?」

 

 空から降下してきた物体は人だった。暴走状態のバルカンをパンチ一発で沈め、賢者の石の鎧を砕き割って鎮静薬を打ち込んでいる。子供ばかりの被験体の中でも異例の適合者、チェル=ハースが駆け付けていた。

 

「わお、次から次へと忙しいもんだね。まあ、でもどうせオレのスピードには敵わないんだろうけどさ!」

 

「待て! ヂートゥ!」

 

 新たに現れた敵を目にしてヂートゥが実力を試そうとチェルに近づく。そして次の瞬間、師団長最速のスピードを持つ彼にさえ認識できないほどの速度で勝負はついた。

 

 ヂートゥは何が起きたのかわからないまま死んだ。ヂートゥが最後に理解できたことは、接近した彼に対してチェルが拳を放ってきたところまでだった。当然、そんな動きは見切ることができた。チェルの手が触れる寸前のところで回避したつもりだった。

 

 だが、そのヂートゥの認識はそもそも誤っていた。チェルの円『明かされざる豊饒(ミッドナイトカーペット)』の領域内において、視覚情報は当てにならない。領域内を通過する光の屈折率を変えることにより実物が存在する場所とその見え方に誤差が生じていた。

 

 寸前でかわすつもりが攻撃圏内に入ったままだったのだ。チェルのパンチは一撃でヂートゥの頭部を吹き飛ばし、木々を数本なぎ倒すほど飛ばした後に爆散させていた。ヂートゥの体は頭部を失くした後も全力疾走を続け、森の奥へと消えて行った。

 

 ブッチャは唖然としてその光景を眺めていた。チェルのことは知っていたがその実力まではきちんと把握していなかったのだ。やたらと口やかましい先生面したがりの大人としか思っていなかった。チェルがあまり物騒な気配を出さないようにオーラを隠していたことも要因の一つである。

 

 迷彩服などの歩兵軽装で揃えたチェルの装備はこれと言って目立つものはない。賢者の石による武器は右手の指に装着した小型のナックルダスターのみである。しかし彼女の経歴と戦歴をもってすれば、その少量の賢者の石だけで十分だった。

 

 一方、敵の強大さを肌で感じ取っていたコルトはヂートゥがやられている時には既に逃走体勢に入っていた。ブッチャだけならまだ何とか倒せるかもしれない見通しがあったが、もはやその望みすらついえている。

 

 ここで意地を張って犬死にするよりも逃げのびて情報を持ち帰った方が遥かに賢明である。チェルがヂートゥを相手に動いた数瞬の隙を見逃せば、もう逃走の機会は残されていないとコルトは確信した。

 

 できれば敵の目を引きつける役目はコルトが担い、ヂートゥを逃がすつもりだった。ヂートゥの逃げ足は誰よりも速く、彼を守るための戦いであればコルトのシールドは強化される。今となってはどうすることもできない。

 

 そう思い飛び立とうとしたコルトだったが、チェルにばかり気を取られ過ぎていた。包囲するように飛来する鳥の群れに気づくのが遅れる。

 

 紙型念鳥は逃げ去ろうとしていたコルトに纏わりつき爆発した。その威力はコルトの装甲を突破するほどのものではなかったが、足止めを食らってしまう。そこに次々と念鳥が殺到した。

 

 コルトは『希望の守り手』によるシールドで念鳥を防いだ後、キックスタートで一気に上空まで飛び出そうとした。もし念鳥の群れが単なる念弾でしかなかったならば逃げられたかもしれない。とっさの状況から鳥たちが爪に持つ榴弾にまで意識が届いていなかった。

 

 それらは全て対戦車手榴弾だった。戦車の装甲を破ることを目的としたこの手榴弾は通常の爆発弾とは大きく異なる構造をしている。爆発を直接対象にぶつけるのではなく、その圧力で内蔵する金属を流体化させ、超高圧のメタルジェットを噴出する。この仕組みから成形炸薬と呼ばれる。

 

 メタルジェットの有効範囲は短く、槍のように伸びる軌道上しか破壊できず、ジェットの発射口となる弾頭が装甲に対して垂直にぶつからなければ十分な効果が見込めない。小型の手榴弾では威力に乏しく、その割に使用には高い投擲技術を要するため現在ではあまり使用されなくなった兵器である。

 

 だが、その携帯に適した小型さからゲリラ戦法に用いられることがあり、反政府組織などの武装勢力では現役で使われている。かつてロカリオ共和国だったこの地でNGLの独立運動が激化した際に持ち込まれた死蔵品だった。

 

 仮にも戦車を標的とするその威力、秒速7キロから8キロに及ぶメタルジェットは厚さ200ミリの均質圧延鋼装甲を貫通する。念鳥に持たせることにより正確な方向から適切に当てられた手榴弾は一斉に銅製の液状槍を噴射した。

 

 オーラに守られた強固な生体装甲を持つキメラアントであっても、人間が生み出した兵器の科学力を跳ね除けることはできなかった。あるいは防御力に特化した個体であれば堪えられたのかもしれないが、軽量化に重点を置くコルトの装甲では防げなかった。

 

 体中を蜂の巣のように貫かれ、壮絶な死を遂げたコルトの遺体が落下する。木々の影から姿を現したトクノスケはその最期を見届ける。対戦車手榴弾の大量使用は相手の強さと覚悟の大きさを見越した上での判断であり、過剰攻撃だとは思っていない。手を抜いて生きながらえるようなことがあれば命を燃やし尽してでも食らいついてきただろう。

 

 死の寸前までコルトの目には戦意の光が宿っていた。それは高潔な意思を表しているようにさえ見えた。トクたちからすれば残酷な殺戮者にしか見えなかった化物の軍勢にも正義があり、兵たちには人間に近い感情があり、彼らには愛する者がいたのかもしれない。

 

 だが、トクやチェルはそういった信念を持つ戦士たちをこれまでに何人も殺してきた。敵が善人であるか、悪人であるかは関係がない。それが戦争であり、無情さだった。

 

「さて、ブッチャ君も相当無理しましたね。さっさと鎮静薬打って帰りますよ」

 

「おわ!? お前いたのかよ!」

 

 急に現れたトクに声をかけられブッチャは驚く。トクは被験体というわけではなく、かと言って研究者やNGL兵ともどこか違う立場であることを子供たちも感じており、よくわからない不気味な大人という印象を持たれていた。左目の眼帯もそのイメージを強めている。

 

 さっきの紙型念鳥にしても子供たちの前で使ったのはこれが初めてのことであり、ブッチャからすればトクの能力であるかどうかも定かではなかった。賢者の石の適合者ではないという時点で戦力的には侮られている。

 

「ふん、薬はいらねぇ。こんなもん寝れば治る」

 

「やせ我慢してるとチェル先生からキッツイお仕置きされますよ。素直に自分で注射した方が身のためです」

 

「うっ……!」

 

 チェルの恐ろしさは身に沁みて実感できたためかブッチャの顔が青くなる。ともあれ、無事に二人の子供を回収できたチェルたちはひとまず安堵した。説教は施設に帰ってからたっぷりすることとして、まずは早急に残りの二人と合流する必要がある。

 

 被験体同士の電波通信による位置把握能力によってチェルは全員の位置を特定している。子供たちから発信される電波の感情図を読み取る限り、バルカン・ブッチャ組が危険信号を発していたため先にこちらの回収に来ていた。キネティ・ジャスミン組は敵本陣に深入りした男子組とは違ってそれほど危険なことにはなっていない様子だった。さっさと合流するように電波で意思を伝えている。

 

 キメラアントの軍勢は逃げ遅れた残党を除いてほとんどが撤退していた。後々の危険を考えればここで徹底的に掃討しておいた方がいいかもしれないが、まだ敵の戦力が把握できていない状況で深追いすることは避けたかった。もう戦える状態にないバルカンとブッチャを守りながら戦うことにも不安がある。

 

 ひとまずここからすぐにキメラアントが侵攻に踏み切ってくるとは考えられず、当面の危機は去ったものと思われる。チェルたちも引き上げるつもりだった。

 

「が、どうやらそうもいかないみたいだな……」

 

 チェルは周囲の状況を探るため円に施していた小細工を解いて最大距離まで捕捉範囲を拡大した。適合者となった彼女の円の範囲はさらに成長し、半径150メートルを網羅できるまでになっている。

 

 その急激な範囲拡大により逃げ遅れた敵の気配に気づく。その反応はキメラアントの残党とは違った。念能力に慣れ、熟達した手練れの気配が二つ。それらは捕捉されたことを悟ったのか隠れるのを止めて堂々と姿を見せた。

 

「やれやれ、これほど広範囲の円を使うとは」

 

 巨大なキセルを肩に担いだ男と、黒いスーツ姿の男。どちらも人間だが油断ならないオーラを放っていた。キメラアントのように生物として備え持つ強さのポテンシャルだけで戦うような輩ではない。洗練された技の使い手であることがわかる。

 

 あと少しでうまくいくと言うところで厄介な相手が現れる。戦争とは往々にしてそういうものだった。

 

 

 * * *

 

 

「ねえ、チェル先生から呼び出しの信号来てるよね……?」

 

「そうだねぇ」

 

「や、やっぱり怒られるのかな……?」

 

「ボロカスに絞られるだろうねぇ」

 

 ジャスミンは早く招集に応じなければと思いつつも、叱責を恐れて半泣き状態のままおろおろしていた。相方のキネティはと言うと、さっきまで戦っていた敵の屍骸を解剖している。

 

 そのクモ型キメラアントは中々の強敵だった。キネティたちは知る由もないことだが、ザザン隊の兵隊長を務めるパイクという。階級は兵隊長でありながら、実力的には師団長に匹敵する能力を持っていた。

 

 蜘蛛の糸は自然界において最強の繊維と言われる。鋼鉄の四倍の強度を持ち、蜘蛛の糸をペンほどの太さにして巨大な巣を作ることができれば、飛行中の大型ジェット機すら捕えることが可能である。

 

 高い強度と粘着性を併せ持ち、さらにオーラによって強化されたパイクの糸に捕まればまず物理的な手段で脱出することは不可能となる。変幻自在の武器を操るキネティは拘束の隙間から攻撃することで何とかパイクを倒すことができた。

 

 勝利を収めたキネティは敗者に鞭打つようにその死体を冒涜しているわけだが、これは別に腹いせのためではなく、単なる好奇心である。強力な糸をどのようにして作り出していたのか、その蜘蛛の腹部を切り裂いて中身を確かめていた。

 

 生物学的な知識を持ち合わせていないキネティが解剖したところで何かわかるわけではないのだが、特に何かの情報を得ようという意図はない。ただ子供が虫を捕まえて興味本位に分解して遊ぶ。その程度の動機による行動だった。

 

「あっ、先生からまた通信だ」

 

 つい先ほど招集の命令をかけたにも関わらず、今度はそれを撤回してその場で身を潜めるように連絡が来た。可能であれば十分に注意して施設まで自力で帰るようにという内容の信号が届く。

 

 ぐちゃぐちゃとパイクのはらわたを戦鎚で掻き回しながらキネティは考える。危険信号を発していたバルカンの反応は落ち着いているので、チェルの救援が間に合ったのだろうが、まだ戦闘は完全に終息していないということか。

 

「ど、どうする? 帰る?」

 

「……」

 

 キネティには一つの懸念があった。それはパイクとの戦闘中に感じた違和感である。キネティたちの強さを知った雑兵たちはパイクを残してすぐに逃げ去ったが、一つだけ残った気配があった。その気配を今もキネティは感じている。

 

 何者かがキネティたちを監視している視線を感じた。そのキネティの感覚は念能力者としてのものではなく、芸術家として生まれ持ったセンスだった。

 

 例えば店を訪れて、そこに商品を飾るマネキンが置かれていたとする。そのマネキンはただのディスプレイに過ぎないにも関わらず“人間の形”というものがあるだけで、人はそこに何らかの存在を錯覚する。商品を飾るだけなら陳列棚と同じ筈だが、棚の前と人形の前、横を通り過ぎた時に覚える感覚ははっきりと異なる。

 

 キネティはその造形意識が一般人と比べて何十倍も鋭かった。彼女は彫像を作る時、石の原形の中に克明な完成像を思い描くことができた。その石をどう掘るべきか、一刀目を差し込む前に全てが決まっているのだ。彼女はその存在に内包された“形”こそが魂と呼ばれるものだと思っている。

 

 それはあくまでキネティにとっての主観に過ぎないが、彼女は物体の魂を見抜く目を持っていた。『凝』によるオーラ感知では全く察知できないが、どこか近くに“魂の形”が身を隠し、自分たちを観察しているという疑いを拭い去ることができずにいた。

 

 そして、その魂はどこにあるのかわからないほど存在が希薄であるにも関わらず、恐ろしく巨大で濃密な形をしている気がした。最初は気のせいかとも思ったが、その気配は確信を抱けるまでに近づいてきている。茂みに身を隠し、獲物との距離を測る肉食獣のようにゆっくりと。

 

「ジャスミンは先生のところに行ってくだせぇ。私はもうちょっと遊んで行くんで」

 

「え、でも……」

 

 送られてきた命令とは異なる判断にジャスミンが戸惑っていると、キネティから電波による通信が届く。

 

『きょろきょろ だめ 敵 いる 先生 知らせろ 能力 使うな』

 

 ジャスミンは硬直した。キネティに問いただそうとした口を塞ぐ。あえて電波による通信を図ったのは敵に気取らせないようにするためだ。そして、その信号には強い緊張の感情が乗せられていた。普段のキネティの態度からは考えられない。異常事態だと気づく。

 

「わ、わかった」

 

 ジャスミンはぎくしゃくとした足取りでその場を離れていく。通信によってチェルに連絡を送ることはできるが、向こうも取り込み中ですぐに来てくれるかわからない。

 

 ここで別れてジャスミンを逃がし、キネティが敵を受け持つ。他にもいくつかの対応策を考えたキネティだったが、敵のはっきりとした戦力がわからない中で最適な作戦を選び取れる自信はなかった。最悪を想定した判断である。

 

 ジャスミンが離脱した後も敵の視線はキネティに向けられていた。何とか自分に注意を引きつけられたことにひとまず安堵する。パイクの死体を弄っていたことには敵を挑発する狙いもあった。手を止めて立ち上がったキネティに合わせたように敵が姿を見せる。

 

 果たしてどんな化物が現れるのかと緊張半分、期待半分で待ち構えていたキネティだったが、その予想は大きく裏切られる。木の影からひょっこりと現れたのは、場違いなメイド服姿のうつむいた少女だった。

 

 どくんと、心臓が跳ねる。キネティの目は少女の腕にしがみつく大きな虫へと釘付けになっていた。体長は1メートルほどもあり、体に止まらせているというにはアンバランスにもほどがある。何よりもその甲虫の装甲は独特の赤い光沢を放っていた。

 

 キネティはその材質が何であるかと直感的に理解した。賢者の石に適合した者だからこそ理解できる。

 

「アルケミスト……」

 

 被験体たちは進薬アルカヌムの原材料である賢者の石に適合することができ、自身の生命力をこの石と似た性質を持つ金属へと変換することができた。だが、それはオリジナルの石に及ばない。ひとたび術者の手から離れれば途端に劣化して消滅する粗悪品である。

 

 完全なる賢者の石との適合こそアルカヌムの研究者たちの理想とする到達点だった。キネティたちはその研究の途上段階でしかない。まだ不完全な適合しかできないゆえに様々な副作用が生じているが、これを完全にコントロールし真の原石を錬成できるようになったとき人類は無限の生命力を得て、本当の進化に至る。

 

 それこそが念能力者を超えた人類の新たな段階『錬金術師(アルケミスト)計画』だった。万物の素を追究し、永遠の命を手に入れようとした夢物語の錬金術は現実のものとなる。

 

 この少女は原石との適合を果たしたというのか。キネティの記憶では施設にいる被験体の中にこの少女はいなかった。別の研究施設にいたのだろうか。敵なのか、味方なのか。

 

 さまざまな疑念は、うつむいていた少女が顔を上げたとき霧散した。キネティと少女の目が合う。その直後、少女は絶を解いて自身のオーラを解放した。

 

 そのおぞましい魂の形を目にしたキネティは、眼前の存在が善悪の基準で計れるものではないことを知った。それは力の塊でしかない。ただの、災害だった。

 

 爆発。脳に走る衝撃。回転する視界。そしてキネティは頭部が無くなった自分の体を見た。

 

 辛うじてわかったことは、少女が一瞬にして距離を詰め、キネティの首を掴み取ったということだけだった。吹き飛ばされた彼女の頭部は自身の死に様を見ていた。その命は瞬く間に葬られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「と、思った?」

 

 首を失ったキネティの胴体が戦鎚を振り払った。思わぬ反撃を、少女は甲虫を盾にして防ぐ。戦闘を続行する首なし死体に追撃は加えず、少女は様子見のために一度距離を取った。

 

 切断された首から噴き出した血がずるずると頭部を引きよせ、キネティの体の中へと収まっていく。いかに適合者といえども致命傷を受ければ死ぬことに変わりない。その肉体はキネティ自身の物ではなかった。

 

 彼女のもう一つの念能力『自刻像(シミュラクル)』によって作り出された念人形である。

 

 術者本人は施設のベッドの上で寝た状態だった。彼女は薬の副作用により脳に深刻な障害が発生し、適合こそできたものの植物人間状態のまま意識が回復することはなかった。

 

 だが、肉体的に目覚めることはなくとも精神は覚醒していた。彼女は活動可能な自分の肉体を具現化することで作品を作り上げた。彼女にとって魂とは形である。形さえあればそれは自己であった。

 

 この念人形は同時に複数体は作れず、制作に時間がかかるなど様々な制約はあるが、壊されても本人が死ぬことはない。だからこそジャスミンは安心してこの場をキネティに任せることができた。

 

「それでもあんたには勝てないだろうけど、ここを通すわけにはいかねぇんでさぁ」

 

 ジャスミンを逃がすための時間くらいは稼ぐ。仲間のためという気持ちはあったが、それよりもキネティは少女の存在を認めたくなかった。

 

 研究者たちが目指す新人類の完成形とはこんなものなのか。その実験台にされた自分たちはこんなものにされようとしているのか。

 

 自分は決して力に飲み込まれ、自分を見失うようなことはないという決意が戦意となりキネティを奮い立たせた。力で勝てずとも心まで屈するわけにはいかない。彼女は自分の魂(かたち)を強く思い描いた。

 

 



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80話

 

「だから敵じゃねーっつってんだろうが!」

 

「はいわかりましたと、すんなり信用できるか!」

 

 モラウとチェルは戦闘に入っていた。最初からいきなり今の状態になったわけではない。互いに素性が不明な状況の中、出来る限り情報を開示して歩み寄る姿勢を見せていた。

 

 モラウとノヴのハンター組はキメラアントの討伐が目的である。なし崩し的にNGL軍に所属しているチェルたちと直接的な敵対関係にあるわけではなかった。

 

 聞けば、怪しげな薬の実験台にされていたらしい。ここにいる以外にも多くの子供たちが研究対象として囚われている。名目上は保護という形を取っているが、それが建前に過ぎないことは明白だった。

 

 熱血人情派の性格をしているモラウはその話を聞いてチェルたちを何とか解放できないかと考え、提案した。しかし、すぐさま手を取り合えるほどに互いに信用を置いているわけではない。

 

 モラウは討伐任務の説明が行われた際に、キメラアントとは別件でNGL内部に不穏な動きが見られることを事前に知らされていた。NGLを裏から取り仕切る麻薬密売組織がスカイアイランド号事件に関与し、災厄のサンプルを入手した疑いがあるという情報をハンター協会は掴んでいた。

 

 赤い結晶体を扱い、ただの念能力者とは思えない力を見せた子供たち。モラウは彼らが災厄のサンプルであると確信した。災厄が絡んでいるとなれば野放しにしておくことはできない。麻薬組織からの解放を提案したものの、言い換えればそれはハンター協会による保護への移行だった。

 

 チェルからすれば自分の一存で子供たちの運命を左右する選択をすぐにできるわけがなかった。ハンター協会の信用性の問題もあるが、現在NGL軍に属している最たる理由が鎮静薬の存在である。

 

 NGLが抱え込んだ研究チームと設備がなければ鎮静薬の製造はできない。いわば被験体の首輪となる鎮静薬の情報をジャイロの目を盗んで持ち出すことは不可能だった。下手に奪おうとすれば研究情報を抹消される恐れがある。そうなれば被験体は生きていけない。

 

 その辺りの事情をチェルとモラウは話せる範囲で互いに主張し合ったが、落とし所は見つからず。次第に口論はヒートアップ。怒鳴り合いに発展した末に。

 

『この頑固野郎! もういい、殴り倒してでも連れていくぞ!』

 

『やってみろ! 鼻デカグラサン!』

 

 肉体言語で語り合うことになってしまった。横で成り行きを眺めていたノヴとトクは、なぜだと頭を抱えずにはいられない。

 

「結局やんのかよ。じゃあ俺は向こうの黒スーツの相手を……」

 

「やめときなさい。あっちも結構な手練れです」

 

 トクは飛び出そうとしていたブッチャの肩をつかんで引き留める。モラウが吐き出した煙幕の中に見え隠れするノヴは、その場から動いていなかったがいつでも戦闘に移れるよう臨戦態勢を整えていた。

 

 結晶侵食の進行状態にある今のブッチャでは勝負にならないだろう。トクは気絶しているバルカンを背負っている。その上ブッチャを守りながら戦えるほど安い相手ではないと警戒を強めた。

 

 その一方で、ノヴもまた出方をうかがっていた。トクの周囲には爆弾を持った念鳥が何羽も待機している。災厄の力にしても未知数の部分が多く、モラウほど直情的に敵へ突っ込むような性格はしていない。

 

 ノヴはこの一件に深入りする必要はないと考えていた。あくまで彼らが受けた依頼はキメラアントの討伐である。それですら苦慮しているというのに新たな問題を抱え込む余裕はない。情報を本部に持ち帰り、その後の判断は本部に任せるべき案件だと考えていた。

 

「くそっ、いいパンチ打ってきやがる……!」

 

 キセルで受け止めたチェルの拳の衝撃はモラウの腕に響いた。チェルは円を使いながら戦っているため、モラウの煙幕による視界不良は苦にならない。さらにその円は『隠』と『光の屈折』による感覚誤差を誘発させる。

 

 しかし、モラウもまたチェルの能力に惑わされることはなかった。モラウの煙幕は彼の付近のみの効果であるが、円の役割を果たすこともできる。もともと視界が閉ざされた煙の中での戦法を得意とする彼に目くらましは効かない。互いの能力を封じ合う形での戦いとなった。

 

 そうなれば勝負を分けるのは純粋な戦闘の実力となる。はっきり言って、モラウは分が悪かった。彼はチェルがヂートゥを瞬殺した光景を見ている。戦う前からチェルが強大な身体能力のみならず、類稀なる武を修めていることは理解できた。

 

 モラウとて並みの能力者に劣るような鍛え方はしていない。本来はサポートを主体とする能力の性質でありながら、肉体的な強さにおいても鍛錬は欠かさなかった。発の応用力と合わせた総合的な戦闘技術で言えば一流以上の使い手であると明言できる。

 

 だからこそわかる。チェルの一撃に込められた重みには、彼女が積み重ねてきた死線の数々が集約されていた。力と技と経験、それらが一体となった武術は賢者の石によってさらに昇華されていた。

 

 ハンター協会においても指折りの上位者でなければ、これに勝る使い手はいないかもしれないと思うほどの実力。だが、モラウはいまだ負傷することなく戦い続けていた。

 

 その理由は手を抜かれているからだ。チェルの攻撃からはまるで殺気を感じない。モラウはそのことに怒り心頭となるが、同時にチェルの“優しさ”を認めてもいた。

 

 拳と拳で語り合う。ノヴのような者からすれば頭が悪いと言われるやり方だが、モラウはこれ以上ないほど人間の本質を見極められる手だと思っている。どんなに感情を殺すことに長けた人間だろうと、他者を攻撃するという行為には必ず意思がこもる。拳を合わせれば、そこに言葉を超えた感情の衝突が生じるものだ。

 

 言葉を交わしただけではチェルの人間性に確証は持てなかった。だが、拳を交わした今ならばモラウにもわかる。彼女は本心から、被害に遭った子供たちを守るために行動しているのだろう。モラウに見て見ぬふりをすることはできなかった。

 

「まあ、あんたの言う通りハンター協会にもろくでもねぇ連中が大勢いる。信用できないってのは否定できん」

 

 パリストンはNGLに災厄が持ち込まれた疑いがあることをモラウたちに伝えたが、その対処まで任せるようなことは言われていない。キメラアントの討伐をおろそかにもできず、モラウたちに任務を過剰負担させるようなことはしなかった。

 

 災厄の件に関しては、折りを見てパリストンが手配したハンターが別に対応する手はずとなっていた。一応、NGL国内で任務に当たるモラウたちにも接触する可能性はあるため事前に情報だけは伝える形となったのだ。

 

 災厄を利用しようと考える麻薬組織など、どうせ裏社会に芯まで浸かった薄汚い人間の集まりである。見つけた場合は深入りしなくていいが、可能であれば処理してくださいとパリストンは言った。そのときはモラウも特に疑問に思わず了承した。

 

 だが、実際に遭遇してみればそう簡単に割り切れない複雑な事情があった。ここで任務を優先して無視したとしても、後詰に控えているのはパリストンの息がかかったハンターである。安心して後を任せることはできなかった。

 

 協会本部もパリストンが完全に独裁しているわけではない。情報を上げれば十二支んが精査して適切な判断を下してくれるかもしれないが、それには時間がかかる。合議制の宿命と言うべきこの欠点はどうしようもない。パリストンによって確実に議場は荒らされることになるだろう。

 

 パリストンがどこまで事情を把握し、どこまで先を読んでいるのか定かではない。巻き込まれているモラウからすれば本当に面倒な仕事を回してきたものだと悪態をつきたい気分だった。

 

「だからハンター協会を信用しろとは言わねぇ」

 

 キセルとナックルダスターがぶつかり合う。

 

「オレを信じろ」

 

 容赦なく押し潰すように力を込めながらモラウは笑った。チェルは返事を返せない。少しずつ信頼へと傾き始めた心境を表すように彼女の拳が押されていく。

 

 子供たちに先生と慕われる生活の中で、彼女は特殊部隊に属していた以前のように非情な人間性を必要とする環境から離れていた。モラウが戦うことによって愚直に相手を感じ取ろうとしたように、チェルも少なからず同じ感覚を得ている。

 

 今のままNGLが用意した環境に残り続けることも問題だった。ただ従い続けるだけでは利用されて使い潰されるだけだ。どこかで離反する必要がある。その機が見出せない今、外部に伝手を持つことも検討に値する。

 

 信用すべきか、せざるべきか。葛藤に悩むチェルのもとに電波による通信が脳内へ届いた。

 

『たすけて 襲われた キネティ』

 

「ジャスミンか!?」

 

 チェルはキセルを弾き返して距離を取った。通信に集中する。どうやら後回しにしていたジャスミン・キネティ組が襲撃に遭ったらしい。ジャスミンは逃走中、キネティは敵と交戦中の模様である。

 

 キネティに状況確認の信号を送ってみるが、戦闘に意識が集中しているためか断片的な情報の返信しかなかった。苦戦しているようだ。

 

「女の子、メイド服……? 敵はあの魔獣たちじゃないのか?」

 

「やべっ!? それは多分、オレたちの連れだ……」

 

 モラウはチョコロボフというもう一人の仲間がいることをチェルに告げた。キメラアントの軍勢が進攻する光景を見て、様子を確かめるために隠れながら後を追っていたモラウたちだったが、戦闘衝動を抑えきれなくなったチョコは鉄砲玉のように勝手に先行してしまった。

 

 何も知らせずに四次元マンションの中に待機させていたのだが、モラウたちの雰囲気から戦闘の気配を肌で感じ取ったのだろう。モラウとノヴは様子見に留めるつもりだったのだが、そのせいで戦場に深入りせざるを得なくなったと言える。

 

 チェルたちの仲間がこの場以外にもいたということを初めて知ったモラウは焦りを感じた。てっきりチョコはキメラアントの残党の相手でもしているものと思っていたからだ。まさか人間相手に襲いかかるとは思っていなかった。

 

「襲われてる子は、子供なのか?」

 

「そうだ」

 

「あの馬鹿娘……!」

 

 モラウはキセルを地面に叩きつける。確かにパリストンから災厄に関わった麻薬組織の人間は処理してもいいと許可が出ている。殺しの許可だ。人類に災いをなす危険の排除は、時に冷酷な決断を必要とする。個人の感情を挟む余地はない。

 

 だが、相手は子供だ。見ればわかる。チョコ自身、災厄の力を身に宿しているはずだ。同胞とも言える存在ではなかったのか。両者の間にどんな経緯があったのか知らないが、モラウには早まった判断であるような気がしてならなかった。

 

「すまん……」

 

「もとより謝られるような関係ではない。キネティに関しては心配することはない。それよりも早くジャスミンと合流するぞ」

 

 キネティの能力について知らないモラウはチェルが楽観し過ぎているように感じた。チョコはモラウたちの想像を超えた怪物へと成長している。初対面の時に感じたチョコの人間味はNGLに入ってからというもの、日を追うごとに欠落していった。

 

 敵を殺すたびに強くなる。修羅場をくぐることで強さを得ることは確かにあるが、チョコの成長はそんな武道の領域にはなかった。まるで経験値を得てレベルアップするゲームのように『殺し』をトリガーとして彼女は強くなる。

 

 女王と護衛軍の討伐のためにその変化はある意味で望ましかった。それくらいチョコに強くなってもらわなければ討伐依頼の遂行は困難を極める。アメーバ状に広がる円より発せられるオーラの波動を見ただけで、護衛軍の強さは化物を超える化物だと確認できた。現実問題としてモラウとノヴの力だけではどうにもならない。

 

 モラウもチョコがどんな人間であるのか、言葉や拳を交わしただけで何もかもがわかるわけではない。強くなろうとすること自体は念能力者として当然の心構えであり、その努力を全て否定する気はなかった。しばらくは傍で見守ろうと決める。

 

 しかし、さすがにチョコの変貌は看過できる規模を超えつつあった。もはや戦いから遠ざける以外にチョコを止める手はないと思ったモラウは本部に彼女の更迭を進言するも、受け入れられなかった。何よりも、チョコ自身が戦場に身を置くことを望んでいた。

 

 ノヴの四次元マンションに敵を送り込み、そこでチョコに処理させるという一見して可哀そうにも思える扱いも、彼女のことを考えてのことだった。檻の中に閉じ込め、適切な量の餌を与えて管理するためだ。

 

 モラウとノヴの任務はチョコの手綱を取ることに変わりつつある。ジャスミンのもとへと向かったチェルたちに続き、モラウたちもチョコに持たせた発信機を追って駆けだした。

 

 

 * * *

 

 

 チョコの意識は細分化され、戦闘に関する様々なタスクが並行処理されていた。彼女にとってハンター協会から与えられた命令が行動原理であった。敵を倒す。その命令は抑制の効かない殺人欲求と結びつき、目的や理由が欠如した状態のまま彼女を戦闘に走らせていた。

 

 思考領域を占める仕事量のほとんどが戦闘に割かれていると言っていい。それは人間性を極限まで排した先にある機械のごとき常在戦場の境地であった。

 

 その分割思考において一つだけ非合理的な仕事をする者がいる。他の意識の仕事を阻害し、タスクの処理に遅滞を生じさせる存在。それが『私』だった。

 

 少女にとって『私』とは、その程度の存在になり下がっていた。頭の中の扉が開かれるたびに思考領域は拡大し、悪意に汚染された分割意識が流入する。もはやその悪意は大多数を占め、異質なものではなくなっていた。

 

 少女の手には砕かれた赤い石が握られていた。それはみるみるうちに風化し、形を保てなくなっていく。キネティの念人形は破壊されてしまった。

 

 キネティが使った力はアルメイザマシンに類するものであり、事前にパリストンから知らされていた麻薬組織の情報と一致する。つまり、処理すべき敵であると分割思考は判断を下した。

 

 『私』は必死にその決定に抗ったが、ひとたび戦闘行動に移った少女の攻撃を止めるには至らなかった。

 

 結果としてキネティは念人形だったために本人を殺すことにはならなかった。だが、それは結果でしかない。チョコがキネティに対し、明確な殺意をもって攻撃したという事実は覆らない。

 

 凶暴なキメラアントを殺すだけならまだ自分に言い訳はできた。相手は到底分かり合えるとは思えない人外の敵である。殺すしかなかったのだと自分をごまかすことも何とかできた。

 

 だが、それが自分勝手な正当化であることを自覚しつつあった。どんなに怪物じみた姿形をした相手だろうと、意思があった。人間のように怒り、恨み、恐れをあらわにする。意思を持つ存在を殺していく感覚は『私』の精神を少しずつ削っていった。

 

 その感情はキネティとの一戦を経て、ついに決壊する。チョコは悪人ではなかったかもしれない子供を殺そうとしたのだ。

 

 その事実は『私』を追い詰めた。チョコの中で『私』は限りなく小さな存在となり、無数の意識に埋もれていった。それは彼女の最後のタガが外れてしまったことを意味していた。

 

「チェル先生!」

 

 チェルたちは無事にジャスミンと合流を果たした。その光景をチョコは見ていた。早々にキネティを片づけた彼女は逃走したジャスミンの追跡を再開している。あえてジャスミンを襲わず、敵の仲間が他にもいるものと見て泳がせていた。

 

「ハンターってのはよっぽど隠れるのが好きな奴らみたいだな。こそこそしてないで出て来い」

 

 チョコの絶にジャスミンは気づかなかったが、警戒網を張り巡らせていたチェルはその気配を感じ取った。既に通信が途絶えてしまったキネティの念人形のことやモラウの話から、チョコという少女がかなり攻撃的な性格をしていることはチェルにも予想できた。油断なく待ち構える。

 

 だが、その程度の心構えでは不十分だったと言わざるを得ない。少女のオーラはこの世のものとは思えない悪臭を放っていた。冥府の底で苦しみ続ける罪人の血を絞り取り、汲み上げてきたかのようなおぞましい死臭が押し寄せる。

 

 その元凶は得体が知れなかった。それは卵を彷彿とさせる。内側から殻を割り、生命の誕生を思わせるヒナドリのようだった。だが、これほど濃密な死の気配を垂れ流す者がまともな命であるはずがない。この堪えがたい吐き気を催す存在の先に、これ以上何を生み出そうと言うのか。

 

 そしてチェルは少女の姿を見てしまった。チョコロボフと呼ばれた少女が何者であるかをようやく理解する。その瞬間、チェルの脳裏には様々な思いが去来した。

 

「シッ、クス……」

 

 彼女を苦しめている『賢者の石』も、元をたどればシックスと無関係ではない。第六災厄への接触を果たすため、合衆国から与えられた任務がチェルを変えた。今の彼女の置かれている状況が決して望ましいものではないことは確かだ。

 

 しかし、だからと言ってシックスやクインのことを恨んだことは一度もなかった。災厄の力はチェルにどのような最期をもたらし、人類をどのような方向へと進ませることになるのか。そんなことは関係ない。

 

 クインは共に苦境を乗り越えた戦友だった。その思いは今でも変わらない。だからこそ、まさに襲いかからんとするシックスの姿を見たとき、チェルに大きな動揺が走る。

 

 様々に入り混じる感情がチェルの思考を妨げた。それに対して、迫り来る少女に一切の躊躇はない。それはもはやクインでもシックスでもなかった。チョコと呼ばれた少女にとって、目線の先に立つ存在は敵としか映っていない。

 

 むせるような死臭を放つ必殺の一撃は黄泉から吹く風のごとくチェルへと迫る。当たれば死ぬ。十中八九、助からない。その生死の瀬戸際に立たされた彼女の命運を分けた者は、チョコでもチェル自身でもなかった。

 

 チェルの体に抱きついていたジャスミンだ。ジャスミンは敵の接近に反応できたわけではない。何か恐ろしい気配だけを感じ取り、その不安からチェルにすがりついていた。

 

 チョコはチェルだけでなくそのすぐそばにいるジャスミンも標的にしていた。このままではチェルのついでに殺されてしまうだろう。

 

 ジャスミンを守らなければならない。その思いがチェルの反応を間に合わせた。ただ恐れをなして寄り添うことしかできなかった幼子の存在がチェルを救った。

 

 凄まじい衝撃がチェルを襲う。腕の中に抱えたジャスミンもろとも吹き飛ばされていく。それはチェルがチョコの攻撃に対し、反発して原形をとどめたまま弾かれるだけの防御ができたという証だった。刹那でも反応が遅れていればその場で爆散していただろう。

 

 森の木々をなぎ倒しながら飛んで行く二人を逃がすまいとチョコは即座に追撃に移ろうとしたが、それを邪魔するように大量の煙幕が立ち込めた。煙の中から複数の人影がチョコ目がけて飛びかかる。

 

 それはモラウの能力『紫煙機兵隊』によって作り出された念人形だった。偵察用のウサギ型念獣とは違い、この念人形は戦闘用に調整されている。最大で216体まで制作して同時操作可能という驚異的な能力であり、数を少なくしてオーラを集中させればより強力で精密な操作もできる。

 

 それでもチョコを相手にして太刀打ちできるほどの強さはないが、足止めにはなった。煙幕に紛れて身を隠したチェルのもとへとチョコを除く全員が集まる。

 

「先生、怪我したの……!?」

 

 チェルの右腕は肘から先が無くなっていた。防御は確かに間に合ったはずだった。チェルの磨き抜かれた超高速のオーラ移動術を駆使して『流』により防いだはずが、それでも攻撃の威力を殺しきれなかったのだ。チェルがチョコに対して抱いた死のイメージは大げさではなかった。

 

 傷口は結晶で覆われている。いかに賢者の石のオーラ増幅効果による回復力の増強があっても欠損した肉体が元通りになることはない。さらに結晶侵食が発症してしまったチェルは、侵食が広がりきる前に鎮静薬を投与する必要がある。それは彼女の戦闘可能な時間に明確な制限が生まれたことを意味していた。

 

「心配すんな。このくらい大丈夫だ」

 

 ジャスミンは自分のせいでチェルの足を引っ張ってしまったのではないかと涙ぐむ。チェルは優しくジャスミンの背中を撫でて安心させようとした。そんな二人の様子を見てモラウが頭を下げる。

 

「本当にすまん。まさかあいつがここまで壊れるとは思っていなかった。オレたちの監督不行き届きだ」

 

 モラウにしても先ほど見たチョコは異常だった。少なくともここに来る前までは意思疎通が何とかできていたが、今となっては言葉が通じるかもわからない。

 

 このわずかな時間のうちに劇的な変化を促す要因があったのか。モラウに確証はなかったが、キネティという少女との戦いがきっかけになったのかもしれないと勘づいていた。

 

「……避難する方はこちらへ。安全な場所まで送ります」

 

 地面にできた真っ黒な水たまりのような穴からノヴが上半身を覗かせる。その様子から念空間系の能力者だとわかったチェルたちだったが、避難の誘導に従うことはできなかった。

 

 チョコがハンター協会の手の者であることは事実であり、モラウやノヴと思想を異にすると言っても同じ所属であることに変わりはない。ノヴの怪しげな念空間に気安く入るほど信用は置けず、チェルやトクからすれば子供たちを安心して預けることはできなかった。

 

「そうか。ならこの煙幕に隠れて逃げろ。オレたちが時間を稼ぐ」

 

 モラウは『紫煙機兵隊』でチェルやトク、子供たちの姿に似せた全員分の身代わりを作り出した。その見た目は非常に精巧で、先ほど負ったチェルの腕の傷まで忠実に再現している。この擬態念人形の精度はかなりのもので、円による触覚探知さえ欺く。実際に攻撃を当てでもしない限り気づかれることはない。

 

 さらにモラウの煙幕は、煙の粒子に付着したオーラが空気中に飛散した状態を作り出し、単純な『凝』による観察では煙幕内の生体反応を察知しにくくしている。絶を使えばより完璧に気配を隠すことができた。

 

 十分に逃走可能なサポートが整っていた。子供たち三人は戦えるような状態ではなく、チェルも片腕を大きく負傷していた。逃げた方がいいことはわかっている。だがチェルはチョコの暴走を目にして、このまま放っておいていいのかという迷いがあった。

 

 一瞬のことだったがチョコが持つ赤い甲虫が高純度の賢者の石であることにチェルは気づいていた。それは人間が扱えるように調整した災厄ではなく、原石と言えるほどの力を持つはずだ。

 

 もしチョコが被験体と同じく精神の侵食を受けているのだとすれば、あの暴走を止められるかもしれない。鎮静薬を打てば反応を抑制できるのではないか。原石の侵食に効果があるかわからないが、やってみる価値はある。

 

 そんな考えを見透かしたかのようにトクがチェルの肩に手を置いた。引き留めるように強く力を込めている。

 

「余計なことは考えないでください。今は、逃げましょう」

 

 トクの申し出を薄情とそしることはできなかった。トクがチェルの身を案じていることは理解できたからだ。あまりにも危険な賭けであることはチョコの攻撃を受けた彼女だからこそ良くわかっている。

 

 葛藤に苦しむチェルはこのとき円を発動していなかった。通常、円は術者を中心とした半球体状に展開されるため、使用すると逆に位置を特定されてしまうことにもなる。ゆえに最も早く戦況の変化を察知した者は、煙人形によりチョコを足止めしていたモラウだった。急速にチョコの反応が接近してくる。

 

「まずい……早く逃げろ……!」

 

 チョコが尋常ならざる精度の凝を使うことをモラウは知っていた。二つの視界を合わせた二重凝ならばモラウの煙幕も数十メートルほどなら看破できる。それを見越した上で十分に距離を取っていたはずだった。チェルたちが逃げるくらいの時間は稼げると踏んでいた。

 

 あまりにも正確で迷いのないチョコの動きに戦慄する。擬態させた煙人形の囮も役に立たなかった。いくら凝の精度が高かろうと外側から見ただけで真偽がわかるはずはないのだが、見向きもされず素通りされる。囮の疑いがあったとしても本物との見分けがつかない以上、普通は攻撃するはずだ。

 

 つまり、何らかの手段で完全に真偽を見分けているとわかる。その手段とは、覚醒した少女の知覚にあった。

 

 人の五感と意識を合一し、分け隔てを取り払った境地である。眼、耳、鼻、舌、身、意に非ずして有為有漏を幾ばくか見通す心眼を得る。かつてクインが編み出し『共』と名付けた技だった。それはチョコの身の内から生じた直感に近く、何をしたのかチェルたちにわかるものではなかった。

 

 チョコの思考は極めて機械的に働いていた。この戦場において真っ先に仕留めるべき敵を見定め、ひた走る。

 

 少女の貫手がモラウの腹を切り裂いた。

 

 



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81話

 

 ノヴは四次元マンションの一室を、怪我人を運び込むための救護室として準備していた。医療機器に囲まれたベッドの上には重傷を負ったモラウが横たわっている。ノヴが何とかモラウを戦場から離脱させていた。

 

 モラウは常人なら致命傷と言える重篤な状態だった。チョコの攻撃は腹部を貫通し、臓器にまで達するダメージを与えている。念能力者でなければ命を落としていただろう。

 

 その命もこのまま放っておけば容易く消えてしまう。早急に病院へ搬送し、手術を受けさせる必要があった。それでも助かるかどうかわからないギリギリの状態である。

 

 既にNGLの外の街で待機させていた弟子たちに連絡を入れている。不用意に重体のモラウを移動させるべきではないと判断し、医療機関への手配は弟子たちに任せてノヴは応急処置に当たっていた。モラウは血を吐きながら咳き込み、身じろぎする。

 

「動くな! 死ぬぞ!」

 

「そういうわけには……いかねぇだろ……」

 

 致命傷を負ってなお、モラウは挫けなかった。二人が四次元マンションの中にいるということは、その外でチョコとチェルたちの戦いが続いていることを意味している。動かない体を押してでも、じっとしていられなかった。

 

 モラウはチョコから攻撃を受けたとき、その拳から意思を感じ取っていた。あれだけの溢れんばかりの殺意をほとばしらせながら、チョコはモラウを殺めてはいない。彼女の実力ならば一撃で即死させることもできただろう。

 

 だが、そうはならなかった。モラウはチョコに生かされたのだ。それはほんのわずかな、気まぐれのような手加減だったが、確かに自分を抑え込もうとする意思を感じた。

 

 まだチョコには理性が残っている。止めてやるのが仲間の務めだとモラウは思っていた。

 

「馬鹿か……!? できるわけないだろ! お前はあれを見てまだ仲間だと……!」

 

 ノヴも、できることならチョコを制止したいと考えている。これはプロハンターとしての失態であり、チョコと同じチームであるノヴにも事態の収束を図る責任はある。だが、それは現実的に考えて不可能だ。

 

 チョコが威圧を放ちながらチェルたちの前に姿を現したとき、その場にいた者たちは少なからず動揺した。しかし、それでも前を見据えて対峙したモラウに対し、ノヴは思わず一歩後ずさっていた。

 

 その瞬間からノヴは戦意を失っていた。勝てるわけがない。小刻みに震え続ける両手が彼の抱く恐怖の大きさを表している。

 

 

(視ただけで、精神が折れてしまった……!!)

 

 

 何とかモラウを回収できたことすら奇跡のような僥倖だった。チョコの目を盗む隙などない。恐怖を押し殺して死に物狂いでモラウを助けに向かったノヴを、チョコは見逃したのだ。

 

 慈悲ではない。その目は路傍の石を見るかのようにまるで関心がなかった。それはノヴの戦闘能力を軽視したためと言うよりは、完全に戦意喪失したノヴの様子から取るに足らずと判断された結果だった。

 

 少しでも敵意が残っていれば殺されていたかもしれない。その感情を伴わぬ殺戮人形の視線はノヴの記憶に鮮烈に焼きつき、血も凍るような怖気を走らせた。

 

 冷静に物事を判断する性格のノヴは、モラウのように根拠のない精神論に走ることはできなかった。それはある意味で心の弱さとも言えたが、どちらかと言えばモラウよりもノヴの方が生物として正常な反応であった。

 

 あの戦場に再び戻るということは自殺行為以外の何ものでもない。行っても死んで終わりだ。チェルらを気の毒に思う気持ちはあれど、自分の命、モラウの命、情報を持ち帰るという使命、それら様々なものを天秤にかけ、ノヴは消極的に決断した。

 

「もう無理だ……あれを止めるなんてことは、オレたちには無理なんだ……」

 

 モラウは抵抗するだけの余力すら奪われ、意識を失う。ノヴはスーツを血まみれにしながら必死に救命処置を続けた。

 

 

 * * *

 

 

 モラウが戦線離脱し、森を覆い尽くしていた煙幕が霧散していく。これで姿を隠すことはできなくなった。チェルにとっては腹をくくる良い契機になったとも言える。

 

 この場にいる全員が無事に済むなんて虫の良い話はない。誰かが犠牲になる必要があることは明白だった。

 

 チェルがチョコと戦い、他の者たちを逃がす。彼女はその作戦が最善であると判断する。そこに私情が挟まれていることは確かだが、チョコと戦えるだけの力を持つ者は自分しかいないとわかっていた。

 

「その役目は僕が引き受けましょう」

 

 トクノスケは、そんなチェルの内心を予想していた。暗黒大陸渡航プロジェクトが立ち上がった時から一緒にいる仲間だ。この場で何を考えているのかということくらいはわかる。

 

 トクは背負っていたバルカンをブッチャに渡した。そしてチェルの横を通り過ぎて最前へ出る。チェルの横に並ぶことはなく、通り過ぎて背中を見せた。

 

 トクの戦闘スタイルは大量の念鳥を使った後方支援タイプの能力者である。接近戦ができないわけではないが、あえて自分から前に身を乗り出す必要はなかった。

 

 チェルが自分を犠牲にしようとしたように、トクもまた同じ考えを行動で示したのだ。共闘ではなく、自分一人で戦おうとしている。その『下がれ』と言わんばかりの態度にチェルは納得できるはずもなかった。

 

「お前の念鳥が通用する相手じゃないだろ。片腕を怪我したとはいえ、まだあたしの方に分がある」

 

「そうですか? 少なくとも今のチェルさんより僕の方が戦えると思いますが」

 

「……近づかれたら終わりの貧弱モヤシが言うじゃねぇか。さっきは不覚を取ったが、もうあんな無様は晒さない。賢者の石の適合者様をなめんなよ」

 

「そうじゃないでしょ。そういうことじゃない」

 

 トクは振り返らなかった。チェルに彼の表情はわからなかったが、トクのオーラから静かな、揺るぎない決意が感じ取れた。

 

「チェルさんにとって、今、一番守らなければならないものは何ですか」

 

 チェルはいくつもの答えを思い浮かべる。自分自身、トクノスケ、子供たち、そしてシックス。だが、トクが聞きたいことはその順序だ。何を一番とするか。チェルは優劣をつけることなどできなかった。

 

「それを即答できないあなたに、この場を任せることはできません」

 

 チェルはシックスを助けようとしている。一撃でも当たれば命の保証はないという埒外の攻撃を繰り出してくる強敵に対し、殺さず取り押さえようとしている。そんな覚悟で止められる敵ではない。どんなに善戦しようと最後に足をすくわれるだろう。

 

 トクノスケは即答できる。彼が最も守りたいと思う者はチェルだった。それは数々の任務を共にした仲間として、気の置けない友人として、そしてそれ以上の思いを寄せる女性として。彼女を守るためならば鬼にも悪魔にもなれる覚悟があった。

 

 トクにとって、眼の前に立つ敵はクインでもなければシックスでもない。同じ姿をした別の何かだ。クインに対する恩義はあるが、殺意をもって襲いかかってくる敵に与える温情はない。チェルを殺そうとし、傷つけた相手を許すつもりは毛頭ない。

 

 全てを語ることはしなかったトクだったが、そのいつになく決然とした態度にチェルは口を挟む機を失っていた。そしてその沈黙によって、ようやく戦場に漂う異様な空気に気づく。

 

 チョコがその場に立ち尽くしたまま一歩も動いていなかった。先ほどからチェルとトクは悠長に会話を交わしているわけだが、その間も静観の態度を保ったままだった。

 

 あれだけ苛烈な攻撃を仕掛けてきた相手が何の反応も見せない。最初は余裕の表れかと思ったが、そうではないことにチェルは気づいた。チョコの視線はトクに向けられている。ただ前に立っているからという理由だけではない明確な注視である。

 

 『共』による心眼を覚醒させたチョコは、この戦場において最も厄介な敵はトクだと直感的に悟っていた。根拠のない無意識の判断である。具体的にどんな脅威があるのかまではチョコにもわからない。ただ、直感が危険を告げていた。

 

 子供たちもチェルの存在も、まるでチョコの眼中になかった。対峙するトクとチョコの二人だけが戦場を支配していた。互いに出方をうかがい、機を見計らう状況が続く。その沈黙を最初に破った者は、トクだった。

 

 

「『花鳥風月(シキガミ)』」

 

 

 宙に投げ放った紙型が風に舞い、無数の念鳥へと姿を変えて空を飛ぶ。能力の発動を見たチョコは動いた。直立の姿勢から次の瞬間にはトップスピードに至る。スタート時の姿勢に構えはなかった。

 

 自然体の意識から戦闘状態へ異常なまでの切り替えの速さがオーラの移動速度を肉体の限界を超えた域にまで高めていた。かつそこに分割思考による筋肉の一房に至るまで行き届いたオーラ制御が加わり、狂気の沙汰と言うほかない運動能力を実現していた。

 

 ブッチャやジャスミンはその初動すら目で捉えることができなかった。チェルは辛うじて認識できたが、反応が間に合うのはせいぜい最初の一撃だけだ。このスピードで常に動きまわられれば、さすがに追い付けない。二撃目をかわせる自信はなかった。

 

 チェルが最初に受けた攻撃を遥かに上回る速度だった。隙を見て取り押さえ、あるいは気絶させるほどのダメージを与えてチョコに鎮静薬を打ち込む。それがいかに無謀な想定であったかを思い知る。

 

 もともと強化系能力者として高い戦闘力を持ち、鍛錬を重ねた上に賢者の石による強化まで施されたチェルであっても絶句するほどの速度である。支援タイプのトクにどうにかできるものではない。チェルは即座に、反射に近いほどの速さでトクをかばおうと前に出る。

 

 しかし、無駄だった。チェルが何かするまでもなく結果は引き起こされる。

 

 チョコの動きが止まった。がくんと膝から崩れ落ちる。何の障害物もない、ただの地面の上でいきなり膝をついていた。そこに念鳥の群れが殺到する。得体の知れない攻撃を受けたところへ続けざまに迫る念鳥に対して、当然チョコの意識はそちらへ向けられた。

 

 しかし、変化は鳥に気を取られていたチョコのすぐそばで起きる。少女の右腕が、あらぬ方向へとねじ曲がっていく。バキバキと音を立てて赤い甲虫の脚がもげ、装甲が捻じ曲げられていた。

 

 

 * * *

 

 

 スカイアイランド号においてトクたちは事件の関係者と思われるアイチューバーたちと戦っている。快答バットと交戦し、あわや殺される間際まで追い込まれたチェルを救った能力こそ、トクに目覚めた災厄の力だった。

 

 それは重力に関する能力である。トクが真っ先に思い当たったのは、暗黒大陸の調査でサヘルタが本国へ持ち帰ることができた『重力鉱石』のリターンだった。

 

 この鉱石は周囲の物体の質量を吸収する性質があった。それがどんな利益をもたらすのかという疑問はある。トクとしても、あれだけ苦労して採取したリターンへ下された低評価に釈然としない気持ちはあったが、実際何かの役に立つとは思えない代物だった。

 

 研究者たちが必死に使い道を模索しているが、原理の解明には至っておらず技術への応用のしようもなかった。その力をトクは自力で開花させたことになる。

 

 重力操作の能力はトクの左目を通して行使することができた。しかし、彼の左目に入っているものは義眼である。ワームとの戦闘により彼は左目を失っていた。その後、使用している義眼は何の変哲もない市販の医療器具だった。

 

 だが、スカイアイランド号事件を経てその義眼に変化が現れる。アクリル樹脂製の球体内部に、トクは小さな命が生まれようとしている気配を感じていた。眼球を摘出してなお、ワームの生殖は終わっていなかったのだ。その無機質な眼の中に再び災厄が芽吹こうとしている。

 

 もはや呪いだった。幸い、すぐさま義眼の中に命が生まれる様子はない。それは生命と物質の狭間にあるとでも言うべき形容しがたい状態だった。確固たる一つの生命とは言えない曖昧な存在である。

 

 その生まれかけの災厄と、トクに発現した能力は無関係ではなかった。ワームはもともと重力に干渉する能力を持っていたものと思われる。その力の一端は交戦した時に感じることができた。

 

 だが、ワームは種族的にその機能を有してはいたが力を理解して使いこなしていたわけではなかった。あくまで習性の域でしか利用はしていなかった。ワームとは違い、トクの場合は彼が持つ『念』、すなわち生命エネルギーと合わさることで重力操作機能に秘められていた潜在性が解放された結果だった。

 

 トクは力を検証していくうちに気づく。『重力鉱石』とは、それ自体が一つのリターンと言うよりはワームによって作り出された能力の副産物だった。それはワームの体内で作られた不要物を排出しただけのものであった。

 

 重力とは何か。その理解を深めることでトクは、この力をより効果的に使いこなそうと試みた。物理学など専門に学んでこなかった彼には難しい話だったが、素人知識ながら何とか大枠は理解できた。

 

 重力は、時空の歪みによって引き起こされる。時空とは時間と空間がごちゃまぜになったようなもので、四次元の存在である。三次元の世界に暮らす我々には直接的に観測できるものではないが、影響し合っている。

 

 例えばこの時空をトランポリンだとして、その上に二つのビー玉を乗せる。全ての物質には引力が働き、互いに引き合う力を持っている。この二つのビー玉にも万有引力は働いているが、その力は目に見えて作用するほどのものではない。ビー玉程度の質量では時空のトランポリンをへこませることができないからだ。

 

 だが、そこにボウリングの玉を乗せると、トランポリンは大きくへこんでビー玉は“へこみ”の方へと吸い寄せられる。質量が大きなものほど時空へ与える影響は大きく、その結果として大きな引力が生じる。重力とは地球の質量によって引き起こされる引力である。

 

 実際の時空はトランポリンのような平面ではないが、難しい数式などを使わない感覚的な説明である。トクの能力は、大きな質量を用いず時空に影響を与える力と言えた。

 

「なんっだ、あれ……!? あの眼帯野郎めちゃくちゃ強くないか!?」

 

 ブッチャは思いもよらないトクの健闘に驚愕した。チョコとトクは互角の接戦を繰り広げていた。

 

 右腕を雑巾のように絞り潰されたチョコだったが、恐怖に囚われるような気配は微塵もなかった。時間を巻き戻すように傷は回復する。そして、その完治にかかるまでの数秒の猶予すら惜しみトクへ襲いかかっていた。

 

 対するトクはその手に凝縮されたオーラを宿す刀を取って迎えうった。型紙を連ねて燃やし、形成したオーラ刀『式陣刀』である。居合流の刀剣術による待ちの構えは敵の呼吸を読み、先の先を取る。攻めるに難い不落の城塞を思わせる。

 

 だが、トクの剣術は達人の域にあるわけではなかった。あくまで護身用に習得した武術である。その腕前ではチョコを捌くには到底及ばない。たとえ達人級の腕前があったとしても対処は至難だった。

 

 チョコは、全ての動きに無駄がなかった。人は武を極めることでその領域に至ろうとする。一つの動きを徹底的に習熟し、体に覚え込ませて精神に刻み込む。それが技だ。

 

 為すがままに為せる、その境地に至りようやく一つの技を極めたと言える。限りある生の中で、人は果たしていくつの技を極められるというのか。その技の総体たる武に、どこまで近づくことができるというのか。

 

 チョコの圧倒的な出力と、完璧な制御は全ての動きを技の域へと高めていた。一挙手一投足、全てが技だった。トク程度の使い手では本来勝負にもならない。しかし、いまだ決着はついていなかった。

 

 重力操作である。何の予兆もなく発動する壮絶な重圧が襲いかかる。常人なら息をすることすら叶わない重い世界がチョコの体にのしかかっていた。

 

 トクは災厄を宿した左目で時空の世界を感じ取ることができた。半生命体となったこの義眼に視力はないが、視神経は癒着するようにつながっていた。この目を使って『凝』をすることにより時空の影響を検知できる。

 

 まず、トクが触れている物に『周』でオーラを通し、その物体を念的に把握する。視力のない左目でもオーラによって把握した物であれば、眼帯越しであっても存在をぼんやりと感じ取ることができた。

 

 次にその物体を左目の『凝』により疑似的に“視る”ことで質量を抜き取る。重力操作能力の肝はこの“質量の抽出能力”にあった。取り出された質量は眼球内部にエネルギーの形で蓄積される。

 

 そして、そのエネルギーを『凝』によって視線の先へと撃ち出す。この未知のエネルギー攻撃が時空に影響を与え、一時的な重力の変化を発生させるのだ。

 

 この引力の基点は空中に発生させることも可能ではあったが、その場合は制御が格段に難しく、術者であるトクまで引力に巻き込まれてしまう。だが、既に発生している地球の重力を利用する形であれば、時空の歪みを局所的にコントロールし、敵の周囲にのみ効果を与えることができた。

 

 トクは動きが鈍ったチョコを式陣刀で斬りつける。実体を持たないオーラ刀であれば重さの影響を受けることはない。

 

 オーラの輝きを湛えた剣閃が走る。その残光の軌跡は敵をかすめることもできず空を斬った。心肺機能に障害が発生してもおかしくないほどの重圧の中で、チョコはトクの攻撃を見切り、回避していた。

 

 重力を駆使して五分の戦い。さらにチョコは詳細不明のトクの能力を警戒し、回避に徹しているため攻めきれないという事情も合わさり、その上でようやく五分と言った戦況だった。

 

「……ブッチャ、ジャスミン、お前たちはバルカンを連れて拠点まで帰れ」

 

 真剣な眼差しで戦いを見守っていたチェルが有無を言わさぬ口調で子供たちに告げる。その態度から言外に自分たちだけで帰還しろと言っていることがわかった。

 

「早く行け!」

 

 結晶侵食の状態がそろそろ危ないところまで来ていたブッチャは、しぶしぶチェルの言うことに従った。ジャスミンは語気を荒げるチェルに逆らえず、半泣きでブッチャと一緒にこの場を去った。

 

 今のところはトクが若干押しているが、どこで優位がひっくり返ってもおかしくない状況である。しかし、チェルは自分が飛びこんだところでトクの邪魔にしかならないこともわかっていた。

 

 災厄の少女と正面から渡り合うほどの強大な力だ。その能力は何の代償も無しに使えるものなのか。戦いぶりから重力を操る力であることはチェルにも推測できた。その力が何に由来するものなのかも、薄々は勘づいている。

 

 それでも今のトクを止めることはできない。チェルは、ただ見ていることしかできない自分に抑えようのない憤りを感じていた。

 

 戦いが始まってわずか一分。トクは既に一時間が経過したかのように思えるほど気の遠くなるような感覚の中にいた。左目に感じ始めた鈍痛を無視して敵を足止めし、攻め続ける。

 

 その式陣刀は、通常であれば並の堅では防ぎきれない切れ味を持つが、チョコを相手にどこまで通じるかわからなかった。おそらく当たったとしても大したダメージにはならないだろう。チョコの全身を覆うオーラの密度を見れば容易に想像できた。

 

 ゆえにこの攻撃は牽制の意味合いが強い。刀を振り抜き、チョコがそれをかわしたタイミングを見計らう。そこにトクの本命の攻撃が炸裂した。

 

 それは重力操作能力を検証する過程で副次的に編み出した技だった。通常はエネルギー波を左目から放ち、時空を攻撃することで引力を発生させるのだが、このエネルギー攻撃は時空以外の対象にも当てることができた。

 

 むしろ、四次元にある時空を狙うより、三次元の空間を対象として発動する方が簡単だった。これにより生じる空間歪曲は、あらゆる物体を存在する空間ごと捻じ曲げる。どれほど強固な防御力があろうと全て無視してしまう。

 

 防御不可能、トクが持つ最大威力の技だった。もはやかわしきれない絶妙の隙を突いて発動されたその攻撃を、チョコは紙一重で回避していた。不発に終わった空間歪曲は空気を噛み砕いて消え失せる。

 

 この技の唯一の弱点をチョコは見抜いていた。重力を強める時空歪曲のエネルギーは四次元中を進むためチョコにも感知できないが、三次元を対象とする空間歪曲は発生する間際に兆候が生じる。

 

 それは刹那にも満たないわずかな兆候だったが、チョコは見切った。最初の一撃を受けた、たった一度の経験から学習していた。数千のシミュレートを繰り返したかのように淀みなく回避する。

 

 実を言えば、空間歪曲の最初の一撃もトクはチョコの腕を狙ったわけではなかった。全身を巻き込み、即殺するつもりで仕掛けた攻撃だった。初見の時点で半ば回避に成功していたのである。

 

 トクは悟った。このまま戦い続ければ負ける。チョコの動きは超重力の世界に適応しつつある。まるで全身に重りをつけてトレーニングを積むように、彼女はその負荷を糧に成長していた。重力の縛りから解放された彼女がどんな動きをするのか想像することもできなかった。

 

 ここで仕留めなければならない。できなければ全て終わる。それほどの脅威を感じた。

 

「……出し惜しみは無しだ」

 

 トクは距離を取るために大きく後ろに下がった。チョコはすぐに追いかけようとするが、それを阻むように地面が盛り上がる。

 

 トクは後退しながら踏みしめた地面に足の裏からオーラを通し、全力で質量を奪っていた。空気よりも軽くなった土や岩が浮き上がり始めたのだ。

 

 その得体の知れない状況を前に、チョコは踏みとどまる。泡のように土くれが浮き上がっていくその上空では念鳥の群れが輪を作って飛んでいた。トクは念鳥に向けて命令を下す。

 

「花鳥風月、式陣『月』」

 

 トクの念鳥は群れ単位の数を駆使して発動できる特殊な陣形術のプログラムが書き込まれている。『花』『鳥』『風』『月』からなる四つの陣形のうち、『月』は敵の拘束を目的として作られた技だった。

 

 輪を作る念鳥たちがオーラでつながり、一つの円となる。それは月のように淡く光り始め、地上に光のサークルを描いた。結界術が作動し、光のカーテンがチョコを円の中に閉じ込めた。

 

 この技だけでチョコを完全に拘束できるとは思っていない。超重力と結界術、この二つを合わせて一秒、いや零コンマ数秒もてばいい方だ。それだけの猶予があれば十分だった。

 

 結界の発動中、その円の内部はトクのオーラで満たされている。その状態であれば左目で結界内の空間を余さず歪曲の対象に指定することが可能だった。広範囲の空間歪曲。それは感覚的に可能であると推測しただけで実際に使用したことのある技ではなかった。

 

 この重力操作能力は使うほどに左目の成長を促してしまう。義眼に宿り始めた災厄が少しずつ命を取り戻しうごめく感覚があった。これほど大きな力を行使すれば症状がどこまで進行するかわからない。下手をすればこの場で災厄を誕生させてしまう恐れがある。

 

 だが、それでも手を抜くことはできなかった。確実に少女を殺す必要がある。そうしなければ、この左目よりも取り返しのつかない事態が起きてしまうとトクは確信した。

 

 結界に囚われた少女は、これから繰り出される一手が敵の切り札であることを直感的に理解した。脳内にて目まぐるしく思考する分割意識が即座に行動を取らせる。

 

 少女は巨大な赤い甲虫を手に取り、それを振りかぶった。投擲の姿勢である。術者であるトクに投げ放ち、攻撃を止めさせようというのか。もしくは虫だけでも結界の外に逃がそうというのか。

 

 無意味なことだった。超重力の世界では、人間がどれほど強靭な力を発揮して投擲しようとも、投射体は放物線を描くことすらできず落下する。少女の力をもってしても逆らえない。

 

 すなわち、それは少女の死を意味していた。

 

 溜めこまれたエネルギーがトクの左目から一気に解き放たれる。しゅんと空気を吸い込んだ一瞬の後、そこには散り散りに引き裂かれ、圧縮され、人の死体とは到底思えない姿にされた少女の残骸が転がっていた。

 

 



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82話

 

 チェルは呆然と成り行きを見ていることしかできなかった。やるせなさや後悔と言った感情よりも先に、この唐突な戦いの幕引きをただ受け止めきれずにいた。

 

 空間歪曲は一瞬にして少女を飲み込む。その見るも無残な姿は誰が見ても死んだと確信できる状態だった。どれほど優れた再生能力があろうと、この状態から復活できるはずがない。そんな存在は、もはや人間とは呼べない。

 

 つまり、少女は人間ではなかった。

 

 飛び散った肉片と血潮が結集し、再び人の形を為していく。着ていた服までもが元通りに修復されていった。

 

「不死身か……!」

 

 トクたちからすればあまりにも絶望的な光景だが、先ほどの攻防はチョコにとっても生死を分かつ局面であったことは間違いない。トクが切り札として放った広範囲空間歪曲攻撃は、チョコを殺しきるだけの威力があった。虫本体が巻き込まれていれば死んでいただろう。

 

 術の発動直前、結界の外へと本体を投げようとしたチョコの行動を、トクは許さなかった。チョコと同様に、彼女が所有する怪しげな虫についても見逃すわけはない。一網打尽にすべく、まとめて空間ごと捻り潰したはずだった。

 

 だがトクには誤算があった。チョコが本体を投げた方向である。横方向に向けて投げたのであれば超重力と結界の壁に阻まれるはずだった。チョコは重力に逆らわず、自らの直下へと本体を叩きつけたのだ。

 

 地中深くへと本体を逃がしたのである。これにより超重力はむしろ投擲の威力を助長する結果となる。さらに、トクが事前に周辺の地面から質量を奪い集めていた影響で土壌が軽くなり、容易に深くめり込むことができる環境が整っていた。

 

 チョコはトクの術の欠点を瞬時に見破っていた。トクは初めて実戦で使うことになったこの術を、まだ完全に把握できていなかったのである。

 

 とはいえチョコも、完全に肉体が捻り潰された状態からの再生には時間がかかる。今ならば、チェルたちにも攻撃を当てることが可能だった。しかし、そんなことをして何になるというのか。

 

 チェルは傷を負っていない方の手に鎮静薬を握りしめていた。全身をすり潰されてまだ死なないような存在に、こんな薬一本を打ち込んだところで意味があるのか。無力感に苛まれながらも、一縷の望みを捨てきれずにいた。

 

 そんなチェルの迷いを断ち切るようにチョコへと念鳥の群れが殺到する。トクはチェルほどの諦めの境地にはなかった。殺しても死なない。ならば、次の手を考えるまでだ。唯一、災厄の少女を止め得る力を持つ者として、ここで諦めるという選択肢はない。

 

 少しでもチョコの再生を遅らせるために空間歪曲の追撃を放とうとしたトクだったが、左目に生じた激痛に思わず顔をしかめた。先ほどの術はやはり、何のリスクもなく使えるものではなかった。左目の義眼が、トクの意思とは無関係にぎょろぎょろと動き始める。

 

 まだ何とか抑え込めそうではあったが、すぐに次の攻撃へ移ることはできなかった。ストックは気にせず、残りの念鳥をチョコに向けて一斉に飛ばした。左目の制御を取り戻すまで、わずかな時間でも稼がなければならない。

 

 オーラが詰め込まれた念鳥爆撃が次々にチョコを襲う。一か月級のオーラを溜めこんだ秘蔵の念鳥たちは、並みの能力者であれば一発でも致命傷を与え得る爆撃の掃射。

 

 その爆炎と土煙の向こうから姿を見せた少女を前にして、トクの感覚は生涯最後、二度とたどり着くことの叶わない真髄に達していた。それはまさに心滴拳聴。真の強者のみが至る時間感覚の矛盾だった。

 

 一世一代の研ぎ澄まされた感覚をもってしてようやくわかったことは、少女の攻撃を捌くことはできないという事実である。回避も、防御もできない。重力の頸木から解き放たれた少女の動きは、まるで両者の時間の流れに明確な差が存在しているかのようだった。

 

 ゆえにトクは受け止める。その瞬間、服に仕込んでいた紙型のオーラを起爆させた。

 

 少女の握撃と紙型の爆撃が混ざり合い、弾けた。その衝撃はトクの体に深い爪痕を残す。自爆覚悟の零距離起爆によって自らを後方へ吹き飛ばし、確殺の一撃を瀕死で済む程度の威力にまで抑え込んだのだ。

 

 トクは一命を取り留めたが、そのダメージは深刻だった。チョコの掌握は予想外の爆風により狙いを外すものの、トクの左肩の付け根から肉と骨をもぎ取っていた。そこに自爆で受けたダメージも加わり、もはや戦闘は叶わぬ状態である。

 

 対してチョコは全くの無傷だった。至近距離からの紙型爆撃では堅の防御を貫くことすらできなかった。しかし、その様子を見たトクはまだ絶望に嘆いてはいなかった。彼の賭けは、まだ続いている。

 

 チョコの体がふわりと浮きあがった。とっさに地面に生えた草を掴むことで辛うじて宙に浮きあがることを防いだが、逆立ちしたかのような天地逆転の状態となる。少女の体は空に向かって落ちていこうとしているかのようだった。

 

 トクは攻撃を受けた瞬間にチョコの体に自分のオーラを流し、その質量を奪い取っていた。この質量抽出は重力を操作するための前段階に位置する機能だが、実はこれ自体も一つの攻撃の手段として凶悪な効果を発揮する。

 

 奪い取った質量はエネルギーに変えて使用するのだが、使ったエネルギーが戻ってくることはない。つまり、質量を取られた物質は永遠にそのままの状態にされてしまう。

 

 空気よりも軽くなれば上空へと浮き上がる。大気圏を越え、空気の層が無くなるところまで飛んでいく。飛行機器開発の技術を禁じた人類にとってその世界は理論上でしか確認し得ない未踏の領域であった。

 

 宇宙へ飛ばすことで災厄を封じる。殺すことができれば最善だったが、トクにそこまでの力はないとわかった。こうするより他にない。

 

 最大の懸念は少女が自身の質量まで回復してしまうのではないかということだった。あり得ない話ではない。事実、チョコはオーラで具現化された念人形であり、修復すれば正常な状態に戻すことが可能だった。

 

 だが、トクは最後の賭けに勝つ。チョコは地面にしがみついた姿勢から動けずにいた。掴んだ草はぶちぶちと引きちぎれ始めている。それほどの浮力が働いているのだ。何とかオーラで草を強化して堪え凌いでいた。

 

 正常な状態に戻すというチョコの能力は念に由来している。生命エネルギーを活用するため人類が作り上げた究極の技と言える。だが、その一方でトクが使った重力操作能力は災厄に由来していた。

 

 理すら捻じ曲げる災厄の力はチョコの『正常』の概念を書き換えてしまった。一度使われた質量が二度と戻ることはない。その状態こそが『正常』である。念の力ではこの理不尽に打ち勝つことはできなかった。

 

 今度こそ、決着がついた。負傷したトクのもとへとチェルが駆け寄る。

 

「ふざけんな、この野郎……無茶しやがって」

 

「はは、いつもへたれ扱いされてるから、たまには活躍してみせないと」

 

 トクはチェルに応答しながら念鳥を操作していた。必死に掴まっていたチョコの手にぶつける。少女がその一押しに抗うすべはなかった。

 

「あっ」

 

 チェルが気づいたとき、チョコの体は空中にあった。風船のように空へ舞い上がっていく。とっさに手を伸ばしたチェルだったが、もう届く距離ではなかった。少女と目が合う。

 

 チョコは、笑っていた。

 

 それまで何が起きようと無表情だった少女は、初めて感情らしきものを見せた。それを見たトクとチェルは、少女の表情に込められた意味を悟る。

 

 戦意。殺意。喜色。熱狂。

 

 その直後、地中から噴き出すようにオーラの気配が拡大した。チェルはこの技をよく知っていた。円である。そのオーラは半径200メートルにも及ぶ広大な範囲を包み込んでいた。

 

 なぜこの状況で円を使うのか。その理由はこの上なく非情な現実によって突きつけられた。

 

 円の縁、外周に当たる部分のオーラが変質する。それは半径200メートルもの巨大なボールとなった。固形化した粘性のオーラが作り出す空の天井にチョコは着地する。天井を蹴り、その反動で地上に戻る。ゴムまりのような円のフィールドは衝撃でたわみ、揺れた。

 

 少女は四足獣のように両手両足を地に着き、浮力に飛ばされぬよう粘性のオーラで自分の体をつなぎ止めていた。

 

 トクとチェルは絶句するしかない。こんな使い方の、こんな規模の念能力があっていいはずがない。あまりにも馬鹿げた現実だった。

 

 足元はオーラに捕まり、ろくに身動きは取れず、周囲は壁で囲われている。逃げ場はなかった。さらにそこへ次なる絶望が流し込まれる。

 

 ゴムまり状の円の内側に溢れだす大量の粘液。ローションのような性質を持ったオーラが円の内部を満たしていく。粘液の海が森の中に出現した。上空から観察すれば、まるで巨大なスライムの怪物のようにも見えるだろう。

 

 チェルたちはその粘液が暗黒海域で見た現象と酷似していることに気づいた。粘液の海に為すすべもなく飲み込まれ、呼吸することさえ許されない。絶体絶命という状況下で、その元凶である少女は水を得た魚のように遊泳していた。

 

 感覚を確かめるように少女が縦横無尽に泳ぎ回る。そして、一通り感覚を慣らしたチョコは標的へと進路を取った。

 

 トクは重力操作で足止めを図ろうとするも、酷使した左目は能力を制御できる状態ではなかった。堪え難い激痛が走り、思わず絶叫するが、粘液の中では声にもならない。

 

 万事休す。逃れられない死が迫っていた。

 

 

 * * *

 

 

「おい、いい加減にしろよ! 早く帰るぞ!」

 

 わずかに時間を遡ること数分前。チェルから拠点への撤退を命じられたブッチャとジャスミンはいまだ戦場の近くから動いていなかった。

 

「やだっ! もしかしたらチェル先生が死んじゃうかもしれない……!」

 

 駄々をこねたのはジャスミンだった。一度は言いつけに従った彼女だったが、戦場に残ったチェルのことが気がかりで離れられずにいた。

 

「もう俺たちがどうこうできる敵じゃねぇよ、あれは。行っても邪魔になるだけだってわかるだろ」

 

「やだああっ、チェル先生がああっ!」

 

「じゃあ、もう勝手にしろ! 俺は帰るからな」

 

 しばらくは説得を試みたブッチャだったが、もともと短気な彼に泣きじゃくるジャスミンをなだめすかすような器量はなかった。傷口から広がる結晶侵食や背負わされたバルカンの搬送など、彼にもこれ以上他者を気遣う余裕はなかった。

 

「まったく、何で俺がこんなこと……あ……? なんだこのオーラ……!?」

 

 後のことは知らないとジャスミンを置いて帰ろうとしたブッチャだったが、その状況は一変する。チョコが発動させた『落陽の蜜』の粘液怪物がブッチャたちを逃げる間もなく飲み込んでしまった。

 

 

 * * *

 

 

 何がどうなったのか。重傷を負い、左目の制御もままならず。目の奥から突きさされるような頭痛に呻き苦しんだトクは、自身の体にまとわりついていた粘液が流れ去っていく感覚を始めに察した。

 

「もう大丈夫だ」

 

 チェルの落ち着いた声が聞こえる。助かったのか。どのようにして。

 

「大丈夫」

 

 目を開けたトクはチェルの背中を見た。彼女はトクを守るように立っていた。その腕に、災厄の少女を抱きとめていた。

 

「チェル、さん……?」

 

 血だまりが足元に広がっていく。一体、誰の。トクはその答えを知りながら、現実を受け入れられずにいた。

 

「嘘だ……そんな……」

 

 少女の握撃がチェルの腹部に大穴を開けていた。チョコは腕を突きだしたその状態でチェルに抱き止められ、そして絶命していた。

 

 死んだのはチェルではなく、チョコである。

 

 その原因はジャスミンだった。粘液の海に取り込まれたジャスミンは自分の能力を発動させていた。その能力名は『元気おとどけ(ユニゾン)』と言う。

 

 彼女は特質系の体質を持ち、自分のオーラと他者のオーラを混ぜ合わせることができた。通常、ある者が持つオーラを別の誰かに譲り渡すようなことはできない。オーラの性質は個人で異なり、送り込もうとしても拒絶反応のような現象が起きる。

 

 ジャスミンの体質はそれを可能としていた。能力名に表れている通り、彼女はこの能力をオーラが必要な誰かのために届けることを目的としていた。しかし、その目的以外にも使い道はある。

 

 ジャスミンは賢者の石に適合し、そのオーラには適合者特有の性質が宿っている。すなわち、他者に自分のオーラを送り込み、その体内で賢者の石を精錬させることができた。同じ適合者ならまだしも、ただの一般人では石の毒素に冒されて死ぬ。

 

 ジャスミンはそういった攻撃的な力の使い方が好きではなかった。粘液の海の中でもがき苦しんだ彼女がこの能力を使った理由は、特に何かを考えてのことではなかった。無我夢中でやみくもに何かしようとした結果に過ぎない。

 

 その結果、彼女の手元に数個の小さなサボテンが生じただけで終わる。だが、奇しくもそれがチョコを殺せる条件と合致した。『アルメイザマシンを使ってはならない』という誓約に抵触したのだ。

 

 誓約によってアルメイザマシンの行使を封じていたチョコは、自身に働くウイルスの機能を停止させた状態にある。外部からもたらされたウイルスに感染して発症する恐れは本来なかった。

 

 だが、ジャスミンの能力の本質はオーラの融合にある。混然一体となった二つのオーラから生じたサボテンの結晶体は、言うなればチョコがジャスミンによってアルメイザマシンを使わされたことを意味していた。

 

 チョコは誓約に反し、死亡した。トクに襲いかかろうとしていた攻撃の最中のことであった。その勢いは死してなお収まらず、チェルが身を呈して盾となり、ようやく止まった。

 

「なんだかなぁ、もっとうまくやれなかったのかなぁって、思うよな」

 

 抱き止めた少女の体から生気がなくなっていることをチェルは悟った。それでも語りかける。

 

「そばにいてやれなくて、ごめんな」

 

 暗黒大陸の調査中、ワームと交戦した最後の遠征からチェルたちは満身創痍で帰還した。クインはカトライの死に誰よりもショックを受けていた。そんな彼女を見かねた隊長のグラッグはチェルに頼んだのだ。

 

 『クインのそばについてやってくれ』と。グラッグとトクは眼球摘出の予後を悪くして病床に伏せていたため、チェルにしか頼めなかったという理由はある。しばらくの間、心が落ち着くまで面倒を見ろという、ただそれだけのことだ。深い意味はなかったのだろう。

 

 だが、その言葉がずっとチェルの胸に残っていた。約束を果たせないままクインを見捨ててしまった無念があった。暗黒大陸から戻った後も消えることはなかった。

 

 また約束を果たせなかった。せめて最期を見送ることだけはしてやりたいと、チェルは少女を抱きしめていた。

 

 ぼろぼろと少女の体が分解されていく。その肉体はオーラの残滓となり、空気に溶けるように消えていった。それを見届けた後、糸が切れたようにチェルは崩れ落ちる。

 

「チェルさん!」

 

 トクはチェルの体を支えた。ごっそりと抉り取られた腹部は、代わりに赤い結晶が詰め込まれていた。傷口が結晶化したせいで出血はそれほどなかったが、臓器がまるごとなくなっていることに変わりはない。致命傷だった。

 

「……頼む、シックスを恨まないでやって……たぶん、逆の立場だったら、あたしも怒り狂うかもしんないけど……無理な話かもしれないけど……」

 

「そんなことどうだっていい! 何でチェルさんが僕の代わりに……!」

 

 チェルが死ぬ必要はなかった。トクは、自分が死ねば良かったのだと思った。たとえ勝利したところで、一番守りたかったものを失ってしまっては、何のために戦ったのかわからない。

 

 トクの右目からのみ、涙がこぼれた。二人は互いにまともな人間の体ではなくなっている。いずれそう遠くない将来、訪れる最期はろくでもないものになるだろうと覚悟はしていた。だが、こんな形で迎える別れをトクは許容できなかった。

 

 そのとき、涙で揺らぐトクの視界の隅で何かが動く。目を向けた先で地面がゆっくりと盛り上がり、地中から一匹の虫が姿を現した。赤い装甲を持つ巨大な虫。空間歪曲を受けて少しばかり装甲はひしゃげていたが、無事だった。1メートルほどあった体長は、なぜかさらに大きくなり人間大に等しいサイズへ成長している。

 

 ずっと地中に隠れていたのだ。チョコの変質したオーラの円が広がるとき、その基点が少女ではなく地面のある一点から拡大していたことにトクは気づいた。あの円はこの虫を基点に展開されていた。術者は少女ではなく、虫の方だったのかもしれないと思い至る。

 

「化物が……化物がァッ……!」

 

 虫の背中に一筋の亀裂が走る。それは脱皮するかのごとく。あるいは、羽化するかのごとく。その硬い装甲の中から何かが生まれ出ようとしている。

 

 トクがそれを黙って見逃すわけはない。痛みの限界を超え、感覚さえなくなった左目を無理やりにオーラで操作して空間歪曲を放つ。攻撃は正確に敵を捉えた。変貌の最中にあった赤い甲虫は、無残に踏みつぶされたように命潰えた。

 

 今度こそ、本当に、ようやく。終わったのだと思ったトクの耳に、あり得ないはずの声が届いた。

 

「ひどいなぁ。初登場くらいゆっくりやらせてくれよ」

 

 バラバラになった装甲の残骸の中から、一人の少女が起き上がった。銀の髪を持つ美貌の少女。

 

 命を削る戦いに挑み、最愛の友を犠牲にし、全てを失ったその先にやっとのことで勝利を掴んだ。倒したはずの敵だった。その決死の覚悟も、友を失った悲痛も、何もかも無に帰すように、同じ姿をした敵が再び現れる。

 

 トクはチェルの体を静かに寝かせた。立ち上がり、歩み出す。一歩も動けないほどの重傷を負っていた彼の体は、全身に湧き起こる怒りによって突き動かされる。その感情に呼応したオーラがほとばしった。

 

「お前は。お前だけは」

 

 殺す。その動機は人類のためと言った大義名分ではなく、徹頭徹尾、己の復讐のみを目的としていた。激情に駆られたトクの頭に、チェルの言葉は残っていなかった。

 

 左目の眼帯を外す。視線を合わせることで増殖するワームの生態を警戒し、これまで人前で眼帯を外すことなかった。もはや今のトクにそんな配慮はない。どんな危険が生じようと、どんな手段を使ってでも殺す。そのためなら災厄の被害が拡大しても構わないとすら思っていた。

 

 ぎょろぎょろと獲物を探すように動き回る左目を見開き、敵へと向ける。災厄を制することができるのは災厄のみだ。質量を食らう虫が牙を剥く。

 

「いい殺気だ。肩慣らしに少し遊んでやりたいところだが、その目はさすがに危なっかしいな」

 

 先ほどまでとは違い、人間に近づいた反応を見せる少女に対し、トクが攻撃を躊躇うことは微塵もなかった。空間と時空、二つの攻撃を同時に叩きつけようとした。そのとき、少女がぱちりと指を一つ鳴らす。

 

 既に勝敗は決していた。凝を使って左目を制御し、エネルギー波を飛ばす空間歪曲は、攻撃が発生する瞬間に放出されたわずかなオーラを含んでいた。脱皮しかけていた虫に向けて放った最初の攻撃の時点で、そのごく微量のオーラから感染したウイルスはトクの体に到達していた。

 

「があああああああっ!?」

 

 トクの肉体が赤い多肉植物と化していく。上半身だけ人間の状態を保ったまま、残りの部位は全てサボテンに変えられてしまった。急速に体内を巡る致死量の毒物と、死を妨げる生命力増強の霊薬がせめぎ合い、肉体を生かしたままトクの精神を粉々に破壊していく。

 

「まさかワームにこんな能力があったとは。災厄の力はキメラアントの摂食交配でも取り込むことは難しいが、人間程度にも使いこなせるということは、利用できるかもしれん。まあ、他の災厄と同様にストックだけはしておこう」

 

 少女はトクの左目を抜き取る。その直後、彼の体は完全にサボテンへ変わり沈黙した。

 

「……トク……」

 

 チェルは死の間際にあった。目にした光景が現実か幻かの区別もつかず意識は薄れていく。少女は金属でコーティングした目玉をボールのように手中で弄びながらチェルへと視線を向ける。

 

「おやすみ」

 

 ウイルスを手ずから感染させる必要もない。チェルは既に賢者の石に適合しており、その石の正体は機能が制限されたアルメイザマシンである。その機能を活性化させることは、少女にとって造作もなかった。チェルの体が即座に結晶で覆い尽くされる。

 

 

「俺は、生まれた」

 

 

 噛みしめるように少女は笑った。くつくつと舌の上で転がすように、味わい笑う。その声は次第に大きく、哄笑へと変わっていく。

 

 その声に不吉な予感を察し、ジャスミンたちが駆け付けたことは必然だった。粘液の海は唐突に解除され、しばし呆然としていた彼女らが現状を把握すべく確認に向かったとき、そこには狂ったように笑う一人の少女と赤いサボテンに飲み込まれたチェルの姿があった。

 

「うあ、あああああああ!!」

 

 敵うはずもない実力差をジャスミンは理解しながら、足を止めることはできなかった。背中の小銃を構え、いまだにセーフティがかかったままの棒きれを敵へ向けて走り出す。

 

 そんな彼女の突進を意に介さず笑い続ける少女の腹に、ジャスミンは銃剣を突き刺した。血が勢いよく溢れ出る。引き抜いては刺し、引き抜いては刺し。幾度となく少女の腹を刺し続けた。

 

「気は済んだか?」

 

 少女はなぜか攻撃を受けながら抵抗しない。今ならば倒せるのではないかと金属バットを手にしてジャスミンに続こうとしたブッチャだったが、少女が発した威圧によって強制的に停止させられた。

 

 ジャスミンはその場にへたり込む。ブッチャは、地に片膝を突いていた。その姿勢は彼が意図したものではなかったが、まるで上位者に対して服従を示すかのようだった。

 

「安心しろ。曲がりなりにもアルメイザマシンの力を宿したお前たちは我らが群れの一員と言える。階級で言えば『雑務兵』以下の、『奴隷』と言ったところか?」

 

 ブッチャたちは蟻だった。災厄に適合する過程でキメラアントの生態の一部を引き継いでいる。ゆえに目の前の存在が種族的に自らの上位者であることを本能で理解した。自分たちはその奉仕者として生み出されたに過ぎないことを理解させられてしまった。

 

「チェルせんせい……!」

 

 それでもジャスミンは少女へ向ける敵意を取り下げることはなかった。蟻の生態の一部しか引き継がなかったために、その種としての意識の縛りも緩かった。本能に逆らって反意を抱くこともできた。

 

「誤解があるようだ。俺はあの男や女を殺したわけではない。我々は一つとなった。永遠に、一つ(モナド)となったんだ。それは幸せなことだね?」

 

 ジャスミンたちはこの少女が何の悪意も持っていないことに気づく。それどころか、この少女は本心から良いことをしたと思っている。完全に狂気の淵へ落ちているということに。

 

「じきに、お前たちも一つになる」

 

 今ここにいる自分は、ひとときの自我を許されているだけに過ぎないことを。

 

 

 * * *

 

 

「なるほどなるほど……アルケミスト計画か。いいね! 中二病っぽくてすごくいい!」

 

 裸の姿で生まれた少女は前任者が残していったほかほかのメイド服を着ていた。戦いを経て破け散ったメイド服だったが、制作者が込めた執念の念能力により完全に修復され、汚れ一つ見当たらない。

 

 少女はジャスミンから借りた小銃を弄りながら森を歩いていく。何が面白いのか、玩具をもらった子供のように銃を見てはしゃいでいた。人知を超えた力を持つ存在が、そんな兵器一つに何の興味があるというのか。

 

 ブッチャは少女に付き従っていた。逆らう道理はないと屈服したのだ。一かけのプライドすら残っていなかった。結晶侵食は鎮静薬を使わずとも少女がたちまちに抑え込み、ブッチャの状態は健康に戻っていた。少女に聞かれるまま、知っていることを正直に話していく。

 

 ジャスミンは少し離れたところを付いて歩いていた。ブッチャのように媚びへつらうことはなく、その目にはありありと憎悪を宿している。だが、今逆らったところで勝ち目がないことはわかっていた。今は雌伏に甘んじるしかない。その反意に少女は当然気づいていたが、特に何か言うことはなかった。

 

「アルメイザマシンを使ってくだらない研究ごっこをしているだけかと思ったが、なかなかどうして人間もやるじゃないか。さすが国家規模で勘定すれば危険度がAに食い込むだけのことはある」

 

 破壊力のみを考えればオリジナルと比べるべくもないが、強大な災厄の力を誰にでも利用可能な状態にまで落し込めたことは評価に値する。少女は素直に感心していた。その研究成果を元に少女が手を加えればさらに使いやすい形に調整できるだろう。研究者たちが理想とした錬金術師が現実のものとなる。

 

 少女の一行はやがて森の中に隠されるように建てられた拠点へとたどり着く。突き出した岩場の内部を掘り抜き、その中に研究施設も入っている。NGL最後の砦だった。少女がここに来る旨は、ブッチャが事前に電波通信で連絡を入れている。少女はNGLの統治者との対談を望んでいた。

 

「そこで止まれ。武器を捨てろ」

 

 正門の前に武装した兵士が並んでいる。歓迎されているとは言い難いその対応に、少女は純粋な疑問を呈した。

 

「なんで?」

 

 なぜ人間ごときの要求に従わなければならないのか。それほど少女は気分を害したわけではなかったが、その多少の苛立ちはオーラの威圧となって吹き荒れた。

 

 それだけで念を使えない一般人の兵士は卒倒する。念能力者も何人かいたが、ぴくりとも動けない金縛りの状態にされていた。一瞬にして精神が凍え切っていた。

 

 兵士たちは倒れ伏し、もしくは棒立ちとなった。だがその中でただ一人、行動できた者がいた。死を確信させるオーラの威圧を前にしてその男が動けた理由は、自らの命にさして頓着しておらず、その無関心が生物的な本能すら塗りつぶすほどの狂気の域にあったことに起因していた。

 

 死ぬまで死なない。それがジャイロという男の生き様だった。彼は自分がこの国のトップであることを少女に伝える。それを聞いた少女は、持っていた小銃の銃口をジャイロに向けた。

 

「最初は全員殺すつもりだった。これ以上、新キャラ出しても読者が混乱するだけじゃん。だから必要な情報が手に入れば適合者の子供以外は処分しても構わないと思ってたんだよ」

 

 一部意味のわからない発言もあったが、ジャイロは遮らず少女の話に耳を傾けていた。

 

「でも、ジャイロって名前がひっかかってねぇ……思い出したよ。原作にも出たキャラだったね。生い立ちで二話くらい引っ張ったくせにそのあと全然出て来なかったから忘れてたよ」

 

 少女はジャイロの過去を知っていた。幼少期の思い出、父親のこと、そして頑なに信じ続けた神に見放されていたのだと気づいたこと。本人以外、知り得るはずもない事実が少女の口から語られた。ジャイロはただ、その言葉を黙して聞いていた。

 

「そこで思いついた。こいつはちょうどいい。俺は今から国を立ちあげようと思う。でも正直、どんな国にしたいかとかそういうヴィジョンは全くない。統治とかそういう難しいこともわからん。だから決めた。新しいこの国の名前は」

 

 ネオグリーンライフにしよう。少女はこの世界に『NGL』という“ただ一つの”国家設立を宣言する。全人類を国民とする唯一の国家。全ての国民は『錬金術』を習得し、少女に忠誠を誓う『奴隷』となる。

 

 だが、少女は頂点に君臨するだけで満足であり、煩わしい統治にまで手を出す気はなかった。その役割をジャイロに任せようと言うのだ。

 

 ジャイロがどんな人間か、少女は知っている。この世界に悪意をばらまくという狂った目的のためだけに全てを捧げてきた彼の人間性を知った上で、人類の統治をその手に任せようと言うのだ。

 

「さあ、どうする?」

 

 ジャイロは突きつけられた銃口を握った。それは人の手と兵器との間で紛れもなく交わされた『握手』だった。ここにNGLの歴史は新たな一歩を踏み出すこととなる。

 

「では、新国家の幕開けを世界に知らしめよう。その祝砲を赤く彩ろう。まずは俺の本体をここに呼び寄せる。我らが母艦『海底戦艦ギアミスレイニ』をな」

 

 

 



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王の誕生編
83話


 

 19XX年、ゾルディック家当主シルバとその妻キキョウの間に、第四子アルカが生まれる。

 

 アルカには特別な力があった。それは人の世界の外側からもたらされた力だった。

 

 彼が生まれる50年以上前、非公式に暗黒大陸の調査が行われた。アイザック=ネテロ、リンネ=オードブル、ジグ=ゾルディックの三名からなる探検隊はいずれも卓越した念の使い手たちであったが、かの呪われた地に足を深く踏み入れるには至らなかった。

 

 その折、ジグは無自覚に暗黒大陸から災厄の小さな因子を持ち帰る。そのタネは彼の血に潜み、子へと受け継がれていく中で少しずつ大きくなり、ついにアルカの代で芽吹いた。アルカの身を宿主として共に誕生したその災厄は『ガス生命体アイ』と言う。

 

 その事実を当時のゾルディック家が知ることはなく、アルカは他の兄弟たちと同じように育てられた。生まれた時から専属の執事が決められ、日常の世話のほとんどは執事たちが行う。

 

 その執事の一人にゼロという名の男がいた。彼は代々ゾルディック家に仕え、優秀な執事を輩出してきた家系であった。実績と信頼を得ていたからこそアルカの世話係を任せられたと言える。

 

 しかし、ゼロは主人を裏切った。生まれた時から執事となるべく教育され、世俗とはかけ離れた暗殺者一家に心身の全てを捧げ続ける人生に堪えられなかった。彼は自分の部下として配属された執事見習いの女と恋に落ち、子供まで作ってしまった。

 

 執事の恋愛が発覚すれば死刑は免れない。自分の命だけならまだ諦めはつくが、愛した女とその腹の子供だけは何としてでも助けたかった。いつ本家に事実が露見するかと怯える毎日を過ごしながら、どうすることもできずにいた。

 

 そんなとき、ゼロはアルカの秘密を知ることとなる。ある日、アルカは兄のキルアと遊んでいた。二人の邪魔にならないよう気配を消して影から見守っていたゼロは、黒々と底知れぬ闇を湛える双眸となったアルカのもう一つの姿を目撃した。彼は気配を殺して観察を続けた。

 

 アルカの中に宿るもう一つの存在『ナニカ』は、いくつかのルールの下に力を行使できる。ナニカが求めた三つのおねだりを叶えた者に対して、何でも願い事を叶えてくれる。限度はない。どんな望みだろうと叶えられると本人が言った。

 

 真っ先に主人に報告すべき案件であったが、ゼロはこの秘密を隠した。そして利用した。追い詰められた彼の精神は藁にもすがる思いでアルカを頼った。誰にも見られない場所で、彼はナニカのおねだりを聞いた。三つのおねだりは幼子が親に求めるような他愛もない内容である。彼はそのおねだりを叶え、対価をナニカに求めた。

 

 何でも願いを叶えられる力をくれ、と。ナニカと同等の力を要求したのだ。そのあまりにも強欲な願いを聞いたナニカは、自らの因子を込めた血をゼロに渡した。

 

 ナニカと同じ力を得るためにはナニカと同じ存在にならなければならない。それは『アイ』の宿主となることを意味していた。これがガス生命体アイの繁殖方法の一つである。仲間を増やすことはアイとしても望むところだった。

 

 血を手に入れたゼロだったがそれをすぐには飲まず、手元に置いたまま検証のために次の願いを叶えてもらうことにした。しかし、ナニカは連続して同じ人間の願いは聞けないというルールがあった。日を改めてキルアとアルカを遊ばせ、力を使うのを待ってから再びお願いする。

 

 ゾルディック家から自分たちを安全に逃がしてくれと願うつもりだった。今度こそ自由になれるという期待と、そんなことが本当にできるのかという不安に駆られたゼロを待っていたナニカの三つのおねだりは、彼にできる許容限度を逸脱していた。

 

 誤算があったとすれば、ナニカにとってキルアが特別な存在だったことだ。本来ならば、ナニカが叶えた願いの大きさに応じて次のお願いを望む者は過酷なおねだりを聞かなくてはならないルールがあった。キルアはその例外に当たり、ゼロは自分の願いの対価を自分で支払うことになる。

 

 ナニカはゼロに『肺』と『心臓』と『脳』を求めた。『何でも願いを叶える力』という法外な願いの対価として、この程度の代償で済んだのはむしろ幸運と言える。この件に限って言えば、ナニカは直接災厄の力を行使してゼロの欲望を実現したわけではなく、ただ自分の血を渡しただけに過ぎなかった。

 

 あるいは、ゼロの願いが自分の私利私欲のためではなく、家族への『愛』に終始していたことをナニカが感じ取ったためかもしれない。

 

 ゼロは自らの手で三つの供物を抉り抜き、ナニカに捧げた。そして、脳が欠損し生きていることが異常な状態で、家族を逃がしてくれという願いを伝えて事切れた。その行動は愛する者への献身と、裏切ってしまった主人への贖罪の狭間で、自らへ下した罰でもあった。

 

 その後、発見された彼の死因は自殺と断定され、ゾルディック家により処分される。そして、一人の執事見習いが忽然と消息を絶った。

 

 その執事見習いは、ゼロから血を渡されていた。どうにもならなくなった時はこれを飲めと。奇しくもそのアイの因子は血を飲んだ本人ではなく、彼女の腹の中にいた胎児に宿ることとなる。

 

 彼女はゾルディック家の目から逃れるため、外界との通信が断たれた国へと逃げ込んだ。ミテネ連邦NGL自治区。その国で、現地の人々と同じく自然の中で牧歌的な生活を送り、ゼロの子を産んだ。

 

 病院などの近代医学に基づく設備を認めないNGLでは出産は大きな難事であり、執事見習いは産後にかかった感染症により死亡した。産まれて間もなく孤児となった赤子は村人たちの手で育てられる。

 

 NGLには言語や文化の異なる様々な民族が存在する。この国は外の世界では暮らしていけなくなった少数部族の受け皿でもあった。ネオグリーンライフはそう言った多くの部族の風習や宗教観もひっくるめた文化圏の総称とも言える。そのような民族の文化的保全も他国からの干渉から逃れるための建前である。

 

 その子が生まれた村では子供に親以外の者が名をつけてはならない風習があった。もし子に名がない場合、祈祷師が自然に宿る精霊の言葉を聞き、名を授かる習わしとなっていた。

 

 しかし、村の祈祷師はその赤子の名を授かることができなかった。その赤子は精霊から遣わされた自然の使者であり、大いなる力を持つ存在となることを予言する。その解釈は過分にアニミズムを含んでいたが、オーラの感受性が高かったその祈祷師が赤子の中に潜む災厄の存在をわずかに感じ取った結果であった。

 

 月日が経ち、精霊の子と呼ばれた赤子は銀色の髪を持つ美しい少女へと成長する。祈祷師のもとで巫女として育てられ、自身の中にある『精霊』の存在とそのルールを自覚するようになる。

 

 アイの願いを叶える力には、それに伴うルールがある。ルールに従えなければ罰が下る。しかし、ナニカにとってのキルアがそうであったように、そのルールを無視できる例外もあった。アイが『最も愛する者』であれば、無条件に代償を支払うことなく力を使うことができた。

 

 では、この少女にとって最愛の者とは誰だったのか。村人は少女を超自然的な存在としか見ず、同じ人間として扱うことはなかった。物心つく前に親を失い、育ての親である祈祷師は少女を我が子とは見ていなかった。

 

 精霊は少女の口を介して、いたずらに人々から供物をねだった。祈祷師以外の者が精霊と交信すれば災いが降りかかると村人は信じていた。精霊の求めに応じられなかった人間は、その最愛の者と共に荒縄状にねじり殺されてしまった。ますます彼女は孤立した。

 

 幻覚作用のあるビラの葉(D2の原材料)を用いた儀式を繰り返し、精霊の子として自然と一体化させるという過酷な修行を強要される日々を経て、ついに少女は天啓を得る。

 

 その結果、少女が最も愛した者は自分自身となった。自分こそが精霊の化身であり、自分の願いこそが自然の願い、正しき神託であると結論づけた。

 

 その力はまさに神に匹敵する。彼女が祈れば干ばつに乾いた大地はたちまちに潤い、大地は豊饒の恵みに溢れた。そして逆らう者には天罰を下した。疫病が猛威を振るい、何の関係もない多くの人間までも巻き込み、国中に蔓延した。

 

 その力を前にして、人々は恐れをなして逃げ去った。少女の庇護のもとで恩恵を受けた村人も、祈祷師もいなくなり、彼女は一人となった。

 

 少女の精神は既に破綻していた。自分以外の誰も愛することができない彼女の心は、もはや生きていく気力すら持てないほどに衰弱していた。狂ってしまった自覚すら持てない少女は、この世界の間違いを正すため、破壊と混沌を呼び寄せた。キメラアントという災厄を。

 

 そして、彼女は汚れたこの世界を離れ、神の住まう土地へと向かう決心をする。肉体を捨て、魂をより上位の世界へと送る転生の儀を執り行った。その呼び声に応えた神々は天の御使いを少女のもとへと向かわせた。空より降り立った使者に抱かれ、少女は神の国へといざなわれた。

 

 少女の最期は、そのような幻覚の中で終わった。実際には、空からやってきた使者はキメラアントの戦闘兵であり、無抵抗で捕まった少女は巣へと運ばれ女王の餌となって死んだ。

 

 だが、恐るべきはその少女の支離滅裂で荒唐無稽な『願い』を叶えてしまった災厄の力だろう。少女の魂は本当に上位の世界へ旅立っていた。この世界という『物語を創作した神』が存在する場所へ。

 

 そして、少女の魂と入れ替わるようにして一人の男の魂がこの世界に転げ落ちることになる。欠落した穴を埋め、増えた余分を均すように、二つの世界の魂は等価の交換を果たした。

 

 

 * * *

 

 

「――――王! ……王! お目覚めになられましたか!」

 

 ゆっくりと目を開ける。真っ先に目に入った光景は、こちらの身を案じるように覗きこむネフェルピトーの姿だった。

 

 蟻の王、メルエムは起き上がり周囲を見回した。まず、自分のすぐそばに護衛軍であるネフェルピトーがいる。そして、その後ろにキメラアントの女王、メルエムの母に当たる存在がいた。少し離れたところに師団長と思われる蟻たちが集まっている。

 

「何だ、これは?」

 

 メルエムの声は落ち着いていたが、その内心ではかつてないほどの動揺が生まれていた。しかし、その雑然とした精神を瞬時に抑え込み、現状を把握しにかかる。

 

「何があった? その方が知る事実を申せ。偽りは許さぬ」

 

 メルエムは絶対者の気迫と共にピトーへ問いかけた。そのただならぬ威厳に気圧されながらも、護衛軍であるピトーは臆することなく王のために説明を始める。具体的に王が何を知りたいと思っているのかわからなかったが、ひとまず直近の出来事から話すことにした。

 

 それによればメルエムは今から数分前、女王の腹から生誕を遂げたという。それはあまりにも早すぎる早産だった。まだ女王が王を身籠ってから一か月と経っていない。

 

 しかし、王はまだ自我も芽生えぬ身でありながら、何かに掻き立てられるように母体の外へ出ようとした。女王は必死に止めようとしたが、その甲斐もむなしく産まれてしまう。

 

 王は、母体の外で生きていける状態ではなかった。放っておけばすぐにでも死んでしまう未熟児だった。それを救ったのは護衛軍のシャウアプフとモントゥトゥユピーである。

 

 二人は自分の細胞を変化させる能力を持つ。その力で自らの体を王に余すところなく捧げ、命を使い果たして王を成長させるための血肉となった。

 

「我々は身も心も王の所有物でございます。王を救うためとあらば、命を捧げることなど当然。プフもユピーも、王に仕える者として本望だったことでしょう」

 

「……ピトーよ。お前が知ることはそれだけか?」

 

「はい。その他に取り立てて申し上げるようなことは思い当たりませんが……」

 

 強いて言えば人間の勢力がキメラアントに抵抗している件があったが、王の力をもってすれば赤子の手をひねるような他愛もない敵と判断し、軽く事実を報告するだけにとどめた。

 

 ピトーは王がまだ名乗ってもいない自分の名前を最初から知っていたことに少し疑問を感じたが、プフとユピーの肉体が王の身と合わさったことで記憶の一部が引き継がれたのだろうと予測した。

 

 王の気分がすぐれない様子も、一時的な記憶の混同と混乱によるものだろうとピトーは納得した。

 

「まだ何か不明な点がございますか」

 

「……」

 

 メルエムは言葉を出せずにいた。ピトーの口から語られた情報と、目にしている現状が理解できずにいた。

 

 彼には明確な記憶がある。それはプフやユピーのものではなく、母の胎内にいた頃の記憶でもない。彼は蟻の王として産まれた。生物統一の覇道を歩むべく、人間社会の支配に乗り出した。

 

 多くの人間と出会った。戦い、勝利し、敗北し、多くのことを学んだ。その記憶がメルエムにはある。彼は確かに自身の死を体験した。そこで終わったはずだった。

 

 だが、死の眠りから目を覚ました彼を待っていたものは、自身の誕生という予想もできない事態だった。戸惑いながらも、メルエムはこの不可解な現象の究明を試みる。

 

「確かめるか」

 

 わからないものをわからないまま終わらせる気はなかった。誰かに尋ねたところで満足のいく答えが得られそうにはない。ならば、己自身に聞く他ないだろう。

 

 メルエムはその力を作ることにした。念能力の発である。彼は生まれながらにして『他者を食べることでオーラを自分のものにできる能力』を持つが、これまで自発的に能力を作ったことはなかった。

 

 静かに目を閉じ、自身の過去を振り返る。彼の記憶の奥底には無意識の領域において蓄積された情報の断片が飛散していた。それら一つ一つでは何ら価値のない断片を掬い上げ、途方もない組み合わせの中から正答を探し出す。

 

 人間とはかけ離れたメルエムの思考能力がそれを可能とした。彼の脳裏に映し出された光景は、単なる追想を超えていく。それは時間の概念を超越し、『過去を視る力』となって発現した。

 

 メルエムの意識は自分の記憶が途切れる直前の場面まで遡った。東ゴルドー宮殿の地下に造られた政府高官の私邸の一室に、メルエムと一人の少女はいた。

 

 最期の時を二人で過ごした。忘れられるはずもない記憶だった。少女の腕の中でメルエムは息を引き取る。彼の記憶はそこで途絶えていたが『過去視』の能力がその先の出来事を紡ぎ出す。

 

 少女に看取られ、死んだはずのメルエムの両目が見開く。だが、その目に光はない。黒々とした闇が広がっているだけだった。その正体は、ガス生命体アイである。アイの因子を引き継いだゼロの子がキメラアントの女王に捕食され、その力がメルエムに宿っていた。

 

 毒に冒され、死の間際を迎えたメルエムはようやく自分が生まれてきた意味を知る。人と蟻の間に生まれ、どちらにも染まりきれずさまよっていた王の心は、初めて『愛』を知った。その感情がメルエムのうちに潜んでいたアイを目覚めさせた。

 

 今のメルエムはその全ての情報を知る立場にない。過去視により映し出された光景の中で、アイと少女は何か言葉を交わしているように見えた。音は聞こえず、激しく乱れる過去視の映像の中、彼は懸命に少女の唇の動きを観察した。

 

 『もう一度、この人に幸せな時間を』

 

 次の瞬間、映像は飛んだ。メルエムの思考能力をもってしても、到底処理しきれないほどの莫大な情報が流れ込んでくる。それは無限に広がる並行世界が生まれ、淘汰され、彼が存在する今の時間軸へと収束していく過程だった。

 

「どうされました!? まだお加減が優れませんか……?」

 

 頭が割れるような頭痛に苦しみ、よろめきかけたメルエムをピトーが支える。彼はおよそ理解した。

 

「余は、コムギに助けられたのだな」

 

 アイは最愛の者の願いを聞き遂げた。メルエムの魂は定められた時間の流れを超え、人生をやり直す機会を与えられた。

 

 災厄の力は時間旅行すら可能とした。メルエムが『過去視』の能力を発現できたことも、魂に刻み込まれた時間旅行の体験に由来するものだった。

 

 新たな生を得たメルエムは、これから何をすべきか考えた。前回の生では見向きもしなかった周囲の者たちに目を向ける。それをどう思ったのか、師団長たちはびくびくと身を震わせ始めた。

 

「見晴らしの良い城の屋上にお食事をご用意しております。よろしければご案内いたしますが……」

 

「よい」

 

 ピトーの申し出を断り、メルエムは女王の前に立った。前の生では自分の母に対して労わるどころかその腹を突き破って産まれてきた。キメラアントの生態から見れば産まれた瞬間から女王と王は異なる群れの長として機能するため、そもそも家族の情というものはない。

 

 今回のメルエムの出産はただの早産で済んだため、母体である女王に怪我はなかった。疲弊しているものの、しっかりと意識を持ち、何かをメルエムに伝えようとしている気配を感じた。

 

 女王は人の言葉を話すことができない。意思の疎通は電波通信によって行う。その一方、王と護衛軍には電波による通信能力が種の機能として備わっていなかった。意思の疎通をあえて欠くことが独立した群れを築く上で有効に働くものとして進化してきた結果だった。

 

 メルエムは自分のオーラを光子状に変化させ、空気中に飛散させる能力がある。これは正確には肉体を取り込んだ護衛軍プフの能力を応用したものだった。その光子に触れた者の感情を読み取ることができる。この能力を使えば言葉を発せない女王の機微を読み取り、何が言いたいのか予測することはメルエムにとって難しいことではなかった。

 

「誰か、女王の言葉がわかる者はいるか?」

 

 だが、メルエムはあえてそのような無粋なことはせず、兵蟻たちに通訳を頼んだ。師団長の一人が恐る恐る王の前でひざまずき、女王の意思を言葉にして伝えた。

 

「女王様は、王様のお名前を伝えようとしておられます。メルエム様……全てを照らす光という意味でございます」

 

「うむ。その名、しかと受け取った」

 

 彼にとってその名前は特別な意味を持つ。今生では、きちんと名付けた者から授かろうと思う気持ちがあった。そのメルエムの応答に女王は安心した様子を見せた。

 

「女王様は、メルエム様にキメラアントのみならず全世界の生物を統一するお力があると確信しておられます」

 

「それはできん」

 

 明確な否定。護衛軍の一人ですら師団長全員が束になっても到底敵わない実力者であるというのに、そのさらに上位に立つ王のオーラはまさに圧巻である。それだけの絶対的強者が口にした否定の言葉は少なからず蟻たちを動揺させた。最も平静でいられなかったのはピトーだった。

 

「何をおっしゃるのです! 人間風情、王の力をもってすれば……!」

 

「我らと人、双方の理想が交わることは決してない。その先に待つのは破滅のみだ」

 

 メルエムは人間の底しれぬ悪意を見た。人間を支配することはできても、その悪意まで支配することは不可能だと感じていた。

 

 人間の兵器の威力を知り、新たな力に目覚めたメルエムであれば人間社会を征服することができるかもしれない。だが、仮にそれができたとて玉座に着く自分は孤独な暴君にしかなれないだろうと思い至る。人の悪意を抑え込むため、力を振るい続ける存在でしかない。それは今の彼の望みではなかった。

 

「このまま人間と敵対し続けたところで、やがて行き詰ることはお前たちも理解しているはずだ」

 

 蟻たちは人間との戦いで多くの被害を受けた。人の強さを知り、このまま戦い続けることが本当に正しいのかと疑問に思う者も出始めていた。

 

 中には蟻らしく女王に支配されることを望む者もいるし、逆に支配から逃れて好きに生きたいと思う者もいる。メルエムは、それらの生き方を肯定も否定もする気はない。

 

「これからどうするかを決めるのは余でも、女王でもない。お前たち自身が考え、正しいと思う道を進め。蟻の本能にただ従うのではなく、己の意思のもとに生きろ」

 

 メルエムはそれ以上、何かを言うつもりはなかった。その場を後にしようとする彼にピトーが問いかける。

 

「王は、どうなさるおつもりなのですか?」

 

「さてな。それをこれから、この目で見極めに行く」

 

 『過去視』の能力を得たメルエムの目は、時間の流れや因果の結びを読み取れるようになっていた。その感覚が彼に異常な存在を知らせている。

 

 無数の線となって構築された因果律は大河のごとく束なり運命を紡ぎ出していく。この世界は一つの物語のように定められた運命、辿るべき歴史があった。メルエムはその筋書きまで読み取ることはできないが、運命の存在を感じることができた。

 

 その大河の流れに歪みが生じている。メルエムの魂は時間遡行に成功したが、完全に同じ過去へと戻ることはできなかった。彼が一度目に存在した世界と、遡行した後の世界には違いがある。

 

 記憶を引き継いだまま過去へ戻った彼自身もまた運命の改変者と言えるが、それ以上のさらに巨大な改変が行われた形跡があった。そしてその原因が、ここからそう遠くない場所にいることを察知する。

 

 この世界にはメルエムともう一人の改変者が存在している。厳然たる予感が二人の戦いを示唆していた。

 

 彼の体から無意識に滲み出る闘気は、ただそこにいるだけで心臓を握りつぶされるのではないかと錯覚するほどの悪寒を蟻たちに感じさせた。その中で、ピトーだけは王の出陣を前に士気を高める。

 

「これより先は死地。勝敗の行方は一寸先も見通せぬ戦いとなるだろう」

 

 それはピトーへ向けた忠告だった。決して侮っていい敵ではない。そしてメルエムは無理にピトーを自分の戦いに付き合わせる気はなかった。もしピトーが望むのであれば、護衛軍として以外の生き方を認めるつもりでいた。

 

 だが、その気持ちを言葉にすることはなかった。逃げても良いなどと口が裂けても言えるはずがない。プフやユピーは王のために命をなげうった。肉体が一つとなることで、メルエムは彼らの忠心をその身をもって理解している。

 

 王のために生き、王のために死ぬ。それこそが護衛軍、三戦士の誉れである。ならば、王として与える言葉は一つしかない。

 

「行くぞ、ピトー」

 

「はっ」

 

 








ごめんなさい……超展開ごめんなさい……


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84話

 

 キメラアント討伐隊の任務失敗。ハンター協会の上層部が満を持して送り出した少数精鋭の敗走は後続のハンターたちに知らされる。キメラアントの討伐とは別に、災厄が持ち込まれた可能性のあるNGL暗部の殲滅を目的として結成されたハンターチームは、その報告を受け一笑に付した。

 

 しかも聞けばキメラアントにやられたのではなく、仲間割れによる内部分裂が原因だという。話にならない。討伐隊メンバーのチョコロボフは行方不明、モラウは一命を取り留めたが死にかけの重傷、無事に帰還できた者はノヴ一人であった。そのノヴも髪の毛をむしり散らすほど精神を病み、戦線復帰は絶望的な状態だった。

 

「プロ失格も甚だしい。確かモラウはシングルのシーハンター、ノヴも同じくシングルのビルディングハンターだったか。所詮は魚を追いまわすか建物探訪しかできないような素人だ」

 

 NGL暗部撃滅ハンターチーム、通称『対NGL班』の班長カサネギは先発隊の醜聞を耳にして呆れるほかなかった。

 

 ダブルの称号を持つワイルドハンター、カサネギは協会副会長パリストンの信頼を得た『猟犬』として活躍してきた。獲物をあぶり出し、追い詰めて確実に仕留める手腕にかけてはプロ中のプロだと自負している。

 

 ハンター十ヶ条で定められた規定により、輝かしい功績を残したハンターには星が与えられる。そのうち星二つに当たるダブルの称号は、自らの評価だけではなく育て上げた弟子も星を得るほどの功績がなければ取得できない。まさに真の実力を持つハンターのみに与えられし称号である。カサネギはそう思っている。

 

 NGLの裏側で災厄の影が動いている情報を最初に付き止めたのも彼のチームだった。戦闘能力のみならず諜報能力にも長けた彼らは協専ハンターの中でもパリストン直々の依頼を受ける有数の実働部隊である。

 

 今回も彼らはパリストンの命を受け、手勢を率いてNGL国内に入っていた。ノヴの報告により、NGLの尖兵らしき者たちと交戦した場所は特定している。ノヴは暴走したチョコロボフに最大限の警戒を払うよう忠告するばかりか、カサネギたちだけで手に負える敵ではないとまで断言した。

 

 どんな敵が相手だろうと警戒を払うことは当然。その上で任務を全うする者がプロである。子供のお使いではないのだ。精神が錯乱した様子のノヴの報告をカサネギはあまり当てにしていなかった。

 

 猟犬として数々の任務をこなしてきたカサネギのチームはそのノウハウにより、NGL内部の状況を手早く調査し終えた。キメラアントの侵略に遭い、国の中枢を担う闇組織の麻薬製造施設はほぼ壊滅したものと思われる。

 

 残された拠点は一つか二つ程度と予想していた。その場所の特定作業も順調に進んでいる。危惧されたキメラアントとの接触もなく、今のところ被害は何一つ出ていない。短期間のうちに兵を大量に失ったキメラアントが出兵を控えて籠城作戦に移ったためだった。

 

 NGLを叩くなら今が好機である。ハンターチームは敵拠点の特定を急いでいた。森の中で息を潜めながら探索を続けるカサネギの肩には、羽の生えた妖精のようなマスコットキャラがちょこんと座っている。

 

 これはカサネギの仲間が作った念人形の『シラセくん』。戦闘力は皆無だが、様々なサポート機能を搭載し、一度に十体まで同時操作可能である。敵陣の間際まで接近して潜伏する任務が多い彼らのチームは作戦中、このシラセくんを介して通信を取り合っていた。

 

『お知らせだよ! 本部から緊急伝令だよ!』

 

 シラセくんの術者はここから離れた後方の陣地で待機している。こういったハンター協会本部からの指令はまず陣地に届き、そこからシラセくんを通して最前線のハンターへ伝えられる。

 

「なに? 襲撃作戦の一時保留命令だと?」

 

 その内容はどこか要領を得ない。撤退命令ではなく、警戒レベルを最大まで引き上げつつ敵拠点の特定作業を続行。わずかな情報も漏らさず集めて本部に逐次報告せよとの通達だった。

 

『動画の添付データを表示するよ!』

 

 シラセくんの目から映像が投射される。それはテレビのニュースを録画したものだった。

 

 

 * * *

 

 

『先ほどお伝えしました速報の詳細が届きました。オチマ連邦西岸部、ジャカール諸島周辺の海域において現地時間の午前7時、謎の巨大建造物が海底から姿を現した模様です。飛行船から撮影した航空写真がこちらになります』

 

『これは……にわかには信じがたい光景ですね……』

 

『この物体の全長は推定約500メートル、幅70メートル、大型船舶に類似した姿をしています』

 

『確かに船のようにも見えますが……なんというか、非常に生理的な嫌悪感を掻き立てる形状とでも言いますか。この船の側面部から突き出た昆虫の脚のような装置など特に気味が悪い。何かの生物を模したデザインなのでしょうか』

 

『表面は光沢のある暗赤色の金属で全て覆われており、甲板部には多数の砲塔らしき兵器の存在が確認できます。また、周辺地帯では大規模な電波障害が発生しており、何らかの電磁兵器を搭載している可能性があります』

 

『オチマ連邦が開発した最新式の戦艦でしょうか。しかし、何の事前連絡も無しにこのような被害を及ぼす軍事兵器を自国内で稼働させるとは考えにくいですね』

 

『先ほど入りました情報によりますと、この未知の船舶は進路上にあるジャカール諸島の島々を避けることなく強引に乗り上げ、陸上を直進する形で走行しています。船の側面部から生えた巨大な移動装置を使い、水陸両用の高速移動を可能としています。現地の島々では壊滅的な被害が発生しているようです』

 

『他国からの侵略行為の疑いもありますね。いずれにしても、世界治安維持機構は一連の事件について詳細の把握には至っていない模様です。はい……ここで現地に急行した特派員と中継がつながりました。特派員のアンディさん、そちらは今、どのような状況でしょうか』

 

『――ザ――ザザ――』

 

『……映像と音声に乱れがあるようです。電波障害の影響かもしれません。音声の方は残念ながらお伝えできませんが、映像は何とかなり、そうですね。この画面左に映っている赤い物体が例の戦艦と思われます』

 

『これは停止しているのでしょうか。現在、謎の船舶はその動きを止めているようにも見えます。あっ、今、船舶の先端部に何やら動きがありました。青白く光を放つ、円錐状の、これは何でしょうか。巨大な謎の装置がゆっくりと回転しているようです。これも兵器の一種――』

 

 

 しばらくお待ちください

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『やあ、全世界の人類諸君! はじめまして、俺の名はモナド! 突然ですが、君たちは今この瞬間をもって、我が国の栄えある国民となりました! ここに世界統一国家「NGL」の樹立を宣言します!』

 

 

 * * *

 

 

「何が、起きている……!?」

 

 カサネギが目にした映像は、フェイクニュースか映画の宣伝としか思えない内容だった。敵戦艦の主砲と思われる兵器の一撃によってもたらされた被害は到底信じられるものではない。

 

 ジャカール諸島一帯の消滅。世界地図を書き換えるほどの威力だった。文字通り島々は跡形もなく消え去り、周辺一帯は竜巻を量産する嵐の異常気象が発生、沿岸国には津波が幾度となく押し寄せた。死傷者は少なくとも3000万人は下らないと予想されている。

 

 たった一撃でそれだけの悪魔的猛威を振るう兵器などあっていいはずがない。考えられる可能性はただ一つ、暗黒大陸から来た災厄だ。

 

 戦艦の装甲として使われていた赤い金属からしてカサネギが追っていた災厄との関係性は明らかである。さらに、広大な範囲に渡る電波ジャックにより流された敵の犯行声明はNGLの関与を決定づけていた。

 

 そして、その犯行声明の映像において姿を見せた人物を、カサネギはよく知っていた。

 

「裏切ったか、チョコロボフめ……!」

 

「その呼び方はやめろって!」

 

 突然、背後から発せられた声にカサネギは瞬時に反応し、距離を取った。背後に立つはメイド服の少女。不覚にも接近を許したその敵は、まさに件のチョコロボフであった。

 

 声をかけられるまで敵の接近に気づけなかった自分の失態をカサネギは恥じる。映像を確認していた最中も警戒を解いたつもりはなかったが、わずかな気の緩みがあったのかもしれないと喝を入れる。

 

 チョコロボフとNGL、そして災厄との関係は不明である。カサネギは自分がどう行動すべきかわずかに逡巡したが、すぐに結論を出す。それは与えられた任務を忠実に実行することだった。

 

 つまり、情報収集である。カサネギのそばで浮遊しているシラセくんの目を通してこの場の映像は術者へ伝えられる。少しでもチョコロボフの情報を引き出し、本部に上げることが今の自分の使命であると判断した。

 

 そこに保身や命惜しさといった感情はない。ひたすらに任務を優先する。それが彼にとってのプロの流儀だった。

 

『解析中……解析中……』

 

 シラセくんは敵を目視することでそのオーラを検知し、敵の得意系統と推定潜在オーラ値を計測する機能があった。解析にはしばらく時間がかかるが、敵を知る上で貴重なデータとなることは間違いない。その作業と並行してカサネギ自身も少女の動向をうかがう。

 

「なぜ声をかけた?」

 

「あん?」

 

「殺すつもりなら不意打ちを狙えば良かったはず。なぜ自ら気配を明かすような真似をした」

 

「あんた確か、プロハンターの人だよね?」

 

 カサネギのチームとキメラアント討伐隊は、NGLに入る前に一度顔合わせをしている。本当にただ挨拶をしただけで終わったが、二人は一応面識があった。

 

「ちょっと参考までに聞きたいんだけど、あんたってハンターの中で言えばどのくらいの強さ?」

 

 その質問と、少女の嗜虐的な笑みを見てカサネギは察した。チョコロボフはおそらく自分の強さに絶対の自信を持っている。カサネギに望むことは純粋な決闘の相手だろう。

 

 年若い実力者にありがちな全能感と優越感が表情に表れている。この手の性格をした人間は確かに強者も中にはいるが、総じて自分のペースを崩されることを嫌い、喜怒を問わず感情を激化させやすい傾向がある。カサネギにとっては好都合だった。

 

「俺がどの程度の使い手か知りたいか。よかろう。その身に知らしめてやる」

 

 彼は衣服を脱ぎ捨てた。その下に現れた肉体は細身ながら引き締められた屈強な筋肉で固められていた。そして無数に刻み込まれた傷跡が、歴戦の戦果を物語っている。

 

「星二つのワイルドハンター、『猟犬』のカサネギ……推して参る!」

 

 今でこそ猟犬を名乗っているが、かつての彼の二つ名は『狂犬』。骨の髄まで染み込んだ苛烈な戦いぶりは健在だった。一拍のもとに少女へ肉薄し、その拳を叩きこむ。

 

 カサネギのあまりのスピードに少女は反応が追い付かなかったのか、完全に隙だらけの状態で呆けた表情をしていた。その顔面にカサネギの拳が突き刺さる。凄まじい破裂音が走り、チョコロボフの体を貫通した衝撃が彼女の背後にあった岩を粉砕した。

 

 そして、少女はその破壊の影響を全く受けることなく無傷だった。その場から一歩として動いていない。

 

「なるほど、それがお前の能力か」

 

 そもそも衝撃が貫通するという現象はカサネギが意図して起こしたものではない。少女の力によって攻撃の威力が完全に受け流されたものと考えられる。チョコロボフの反応から見て、この能力は能動的に行使せずとも自動で少女を守るように発動するものと推測する。

 

 正面切って確実に打ち込んだはずの拳をここまで完璧に無効化されたことは、カサネギの豊富な戦闘経験をもってしても初めてのことである。少女が自分の強さを過信する理由もうなずけた。だが、彼に動揺はなかった。

 

 複雑で強力な効果を発揮する『発』ほど発動条件となる制約は厳しくなり応用性を欠いていく。彼に言わせれば最強の念能力というものは結局、理屈をこねた小難しい異能ではなく、肉体の強化に集約される。最後に物を言うのは念の基礎となる能力者自身の身体能力に他ならない。

 

 少女の能力のカラクリを暴くため、カサネギは研ぎ澄まされた呼吸と共に猛烈な攻勢に入った。

 

「はあああああああ!! 骨活殺流奥義ッ! 無尽髄血金剛破打ッ!」

 

 カサネギは強化系能力者である。彼が編み出した発は、骨の強化に特化した能力だった。

 

 成人した人間の骨の総数は206に上り、その重さは全体重の5分の1を占める。人体を形成する上で必要不可欠な枠組であり、その骨格が様々な臓器を守っている。運動機能に関しても重要な役割を持ち、骨をつなぐ腱とそれを動かす筋肉により支点、力点、作用点の働きを生み出し運動は行われる。

 

 だが、強くなろうとする上で骨を強化しようと考える者はまずいない。単純なパワーを求めるなら筋肉を強化するに決まっている。トレーニングによって増強が可能な筋肉に対し、骨は鍛えようと思って鍛えられるものではない。

 

 しかしながら骨の強さが運動能力と密接な関係にあることは事実である。一説によれば、人が狩猟生活を送っていた太古の時代、平均的な骨密度は現代人よりも遥かに高かった。生活主体が狩りから農業へ変化していく過程で骨密度が低下し、運動能力も低下したと考えられている。

 

 その点、カサネギは生まれながらにして常人離れした骨密度の持ち主だった。身長180センチで痩せ型の体格ながら、その体重は140キロに達している。尋常でない骨の重さが常に彼の筋肉に負荷を与え続け、強靭無比な鋼の肉体を作り上げるに至った。

 

 彼が生まれ持った肉体の利点を生かし、骨を強化した戦法を考案することは自然の流れであった。その修行の果てに編み出した拳法こそ『骨活殺流』である。

 

 あらゆる動作の要となる骨の強化と制御に主眼を置いたこの拳法は、いかなる姿勢においても攻撃威力が減衰することのない驚異の安定性と、急所への攻撃をことごとく跳ね除ける防御力をかねそろえた剛拳である。

 

 その数ある技の中でも『無尽髄血金剛破打』は奥義にして禁術に当たる。骨髄にオーラを注入して強化することで異常な造血作用を生み出し、血中のヘモグロビン値を急激に上昇させる。そこに特殊な呼吸法を用いて膨大な酸素を体内へ取り込み、強制的に筋肉へ酸素を行き渡らせることで限界を超えた身体能力を発揮する。

 

 ゆえに禁術。この技を使うことによって背負う肉体への負担は想像を絶する。しかし、カサネギは躊躇わなかった。命を削って絞り出した渾身の力を少女へ叩きつける。

 

「ウオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 全身の筋肉へ過剰供給されるヘモグロビンによってカサネギの肌は赤熱化し、ぶちぶちと血管が浮かび上がった。悪鬼羅刹と化した彼は無数の拳打の雨を放つ。少女は棒立ちのままその猛攻を受け止めた。

 

 カサネギがダブルハンターとして何一つ恥じることのない実力を持っていることは確かだった。優れた武人であることは間違いない。だからこそ、彼は少女の能力の正体に気づくことができた。

 

「オオオオオオオオオ!!」

 

 少女の体表を覆うオーラが途轍もない密度で凝縮された極小の柔毛となり、一糸乱れぬ統率を持ってうねる蠕動が、カサネギの拳を受けた瞬間にその衝撃を一分の狂いもなく完璧に地面や空中に受け流している。

 

 その能力は念の基礎を極限まで昇華させることによって完成された『流』の究極形。詰まるところ、何か特別な念能力というわけではなく。

 

 ただの絶技だった。

 

「……オオオオオオオオオ!!」

 

 少女が何の構えを取ることなくカサネギの攻撃を受けたのは反応が追い付かなかったからではなく、その必要がなかっただけに過ぎない。特に意識せずとも反射レベルで究極完成形の流を使いこなせる技量を持っていた。

 

 そして少女があっけに取られた表情をしている理由を知る。それはカサネギのあまりの弱さに驚愕したためであり、その無情な現実を悟るに至った彼の精神を粉々に打ち砕いた。

 

「ウオッ、オオオオ……ヲッ、ヲッ、オッ、オオオオオオオ!! おおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

「うるせぇ!」

 

 少女の腕の一振りでカサネギの全身は水風船のように弾け飛び、ただの破れた血袋と化した。少女は心底つまらなそうにあくびを噛み殺す。

 

「うーん、カトライの技をちっとばかしインストールしてみたが……相手が弱すぎて参考にもならなかったな。実際、コイツ強さ的にどの程度のキャラだったんだ? ハンター協会の中で言えば中の上くらいか?」

 

『ぴぴぴっ! 解析完了! 敵の得意系統は特質系! 推定潜在オーラ値、999999999999999999999999999999……』

 

 エラーを起こしたように9を連呼するシラセくんを、少女はおもむろに握りつぶして黙らせた。

 

「この調子じゃハンター協会と全面戦争しても大して面白くないかもねぇ。あと残ってる楽しめそうなキャラと言えば……」

 

 少女はキメラアントの巣がある方へと視線を向けていた。

 

 

 * * *

 

 

 モナド親衛隊。そのメンバーは隊長のバルカンを始めとして、ブッチャ、キネティ、ジャスミンの四名で構成されている。彼らは拠点付近の森に集まって待機していた。モナドから招集命令がかかったためだ。

 

「どうしたみんな、元気がないぞ! よし、銀河大元帥閣下を讃える歌をみんなで歌おう!」

 

 ギャレンジャーの主題歌を一人で熱唱し始めたバルカンは、この暗澹たる状況においても平常運転だった。

 

 気絶から目覚めた彼はモナドに恭順の意を示した。本能に刻みつけられた蟻の習性が逆らう意思を許さなかった。それはバルカンの頭の中で都合よく解釈され、ギャレンジャー本編に登場したこともない『銀河大元帥』というキャラを捏造して自分を納得させる結果に至る。ある意味でその精神はたくましかった。

 

 モナドはバルカンのノリに付き合って彼を親衛隊長に任命している。バルカンはモナドの命令に従うことが銀河の平和を守ることになると信じて疑わなかった。

 

「こいつの脳みそ完全にキマッてやがる……いっそのことこれくらい壊れた方が気は楽かもな」

 

「やめてくだせぇ。そう何人も気狂いが出たら周りが大迷惑ですぜ」

 

 ブッチャとキネティはモナドに対する忠誠心など欠片も持ち合わせていなかったが、逆らうつもりもなかった。力の差は嫌というほど実感できる。死にたくなければおとなしく従うしかないと諦めていた。真なる錬金術師に紛い物の彼らが敵う道理はない。

 

「……」

 

 唯一、この中でジャスミンだけはモナドに対して煮えたぎるような反意を持っている。その隠そうともしない憎しみは誰の目にも明らかだった。ある意味で、バルカン以上に精神が急変した人物と言えた。

 

 それでも一応はジャスミンもモナドに従う姿勢を見せている。親衛隊としてモナドのそばに付き従うことを決め、反逆の機を見計らっていた。

 

「やあ、みんな元気? ちゃんと集まってるね」

 

「はっ! 大元帥閣下の招集とあらば当然であります!」

 

 待機していた親衛隊の前に、拠点の中から出てきたモナドが近づいてくる。いつものメイド服だが、背中には小さなリュックを背負い、肩に水筒を提げていた。

 

「今日はこれから遠足に行きたいと思います! 目的地はキメラアントの巣公園です! 着いたらみんなで公園のお掃除をして、レクリエーションなんかして遊んで、お弁当を食べて帰ってきます!」

 

 キメラアントが新種の魔獣であり、この前戦った化物であることを子供たちは教えられていた。要するに、怪物退治が今日の仕事である。森に潜伏していたハンターたちを殺せと命じられた前回の仕事と比べれば、相手が人外である分まだマシな内容だった。

 

「ホントはねぇ、時期的にメルエムがまだ生まれてなさそうだからもうちょっと待つつもりだったんだけど、なんかジャイロくんがダメだって」

 

 モナドが呼び寄せた海底戦艦は今日中にここへ到着する予定だった。到着次第、NGL軍の人間と研究者や被験体を乗せて旅立つ手はずとなっている。

 

 ジャイロは今あるこのNGL自治区に見切りをつけていた。アルカヌムの研究設備についてはモナドがいればどうとでもなる。それよりも、モナドが後先考えず戦艦を派手に動かして犯行声明まで発表してしまったので、自分たちの情報や関係性が露見してしまったことの方が問題だった。

 

 現在、NGL自治区は外周を完全に固められ、蟻の子一匹通さない包囲網が敷かれていた。治安維持機構の強制介入により、もはや国として事実上の権限を剥奪されている。

 

 この人類滅亡規模の非常事態に際して、NGL自治区に対する非人道兵器を用いた絨毯爆撃も検討されていた。しかし、現地民のほとんどが国外退去に応じず、仮にそれらを無視して爆撃を強行したとしても問題が好転することはないと判断された。巨大戦艦という脅威がなくなるわけではない。

 

 モナドにとっては貧者の薔薇(ミニチュアローズ)の雨が降ろうと大したことではないが、巻き添えにされるかもしれないジャイロたちにとってはたまったものではなかった。ひとまず迎えの戦艦に乗って国外へ脱出、そこから深海に潜り、足取りを消す計画になっている。

 

 モナドはメルエムと戦いたかったのでもう少しここにいたい気持ちもあったが、今後の国作りのために必要な計画だというジャイロの説得に応じた。そういうわけで彼女は今のうちにキメラアントの巣を見物に行こうと思い立つ。

 

「よーし、じゃあ、出発しんこー!」

 

 モナドを先頭にして隊は進む。行楽気分でテンションが高いのはモナドとバルカンの二人だけで、後方の三人はお通夜状態だった。

 

 しばらくは何事もなく森の中を進む行程が続く。その少女の進路を遮るような存在などあるわけがない。

 

 もしいるとすれば、それは彼らの想像も及ばない遥かな怪物。

 

 先頭を歩いていたモナドの体から闘気が漏れ始めた。それは前方からやって来る何者かの気配を肌で感じ取ったことによる無意識の反応だった。

 

 歩み寄る二つの気配は互いの存在を知覚し、一歩ごとに威圧を強めていく。ぶつかり合うオーラの気迫は差し合わせたように同等。その余波だけで常人ならば息の根を止められてしまいかねない殺気が吹き荒れる。

 

 思わず足を止め、踵を返そうとした親衛隊だったが、結局はモナドのそばから離れることはできなかった。モナドの殺気は前方にのみ向けられたものではない。彼らは背を向けた瞬間、主人の手によって殺されるだろうと確信した。

 

 そして、二匹の王は対峙する。

 

 



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85話

 

「やあやあ! まさか今日、このタイミングで会えるとは思わなかったよ。偶然とは思えないねぇ。運命ってやつなのかな?」

 

 メイド服の少女は、先ほどまでの張り詰めた空気がなかったかのように殺気を解いていた。まるで友人と接するように語りかける。

 

「初めまして、蟻の王さま。俺はモナド。君と同じ、蟻の王さ。同種のよしみだ。よければ名前を教えてもらえないか?」

 

 威圧を消して森の奥から姿を現した少女は、ピトーの目には何の変哲もない人間に見えた。だが、数秒前まで嵐のように渦巻いていた殺気を彼女も感じている。不遜にもメルエムに気安く話しかける少女を前にして警戒を強め、自らの王を守るべく踏み出そうとした。

 

 メルエムはそんなピトーを手で制す。

 

「笑止。王どころか人の器さえ感じぬ愚物に名乗る名はない」

 

「手厳しいなぁ。これでも俺を慕ってくれる家来がいるんだよ? ほら、後ろに見えるだろ? 俺の忠実なるシモベたちさ」

 

 モナドは親指で背後に控える親衛隊を指さす。そして、良いことを思いついたとばかりにまくしたてた。

 

「そうだ! 君にも強そうな猫ちゃんの家来がいるね? どうだろう、君の猫ちゃんと俺の親衛隊に一試合してもらおうじゃないか。前座の余興にはちょうどいいと思わないか?」

 

 モナドとメルエム、大将は後に控えてまずは互いの配下を戦わせようという提案だった。何かを企んでいるのか、それとも本当に余興のつもりか。モナドの提案に対し、最初に言葉を発したのはピトーだった。

 

「王、露払いはお任せください」

 

 ピトーは敵の誘いに乗ることにした。敵勢の強さが不明なこの状況において、数で勝る相手と乱戦へもつれ込むよりは、なるべく各個撃破ができる状況に持ち込んだ方がピトーにとっても有利に思えた。それは普段の好戦的な彼女の性格からすれば消極的な判断と言えた。

 

 その要因は先ほどの一幕にあった。戦いに際して、護衛軍であるピトーの役割は王の護衛という一点に尽きる。たとえその身が朽ち果てようとも王のため矢面に立つ覚悟はできていた。

 

 しかし、メルエムは前へ出ようとしたピトーを無言で制した。軽く手をかざし、ピトーの行く手を遮ったその行為を見て、彼女は察した。

 

 戦力外通知。メルエムをして、実際に目にした敵の強さは想像を遥かに超えていた。ピトーでは敵わない。一目見てそう断言できるほどの脅威を、メルエムは感じ取ったのだ。

 

 メルエムの制止は、ピトーを無駄に死なすまいとする思いやりの表れだった。しかし、ピトーはその慈悲に深く傷つく。王の力になれない自身の不甲斐なさを嘆いた。

 

 だからこそ、今の自分にできる最善の行動を取った。モナドの相手はメルエムにしかできない。ピトーがその戦いに割り込んでも足手まといにしかならないだろう。ならば、自分にできることは敵の脅威を少しでも減らし、王に万全の戦いを供するための環境を整えることにある。

 

「決まりだな。兵隊蟻たちの御前試合だ。両チーム、王への忠誠をかけて存分に競い合え。言うまでもないことだが……自分の家来が負けそうになったからと言って余計な手出しはするなよ?」

 

 誇りをかけた戦いに水を差すなとモナドが釘を刺す。その言葉に全く本心が込められていないことは見え透いていた。

 

 モナドにとっては親衛隊の子供たちがどうなろうと構わないのだ。いくらでも代わりのいる消耗品に過ぎない。彼女にとってこの一戦は、本当にただの余興に過ぎなかった。ピトーが勝ち残ってもそれはそれで面白いと思っている。

 

 モナドはメルエムがこの“ゲーム”に横やりを入れるそぶりを見せれば邪魔するつもりだった。だが、それは不要な心配である。

 

「ピトー、頼んだぞ」

 

 一度は引き留めたがこれ以上、不退転の覚悟で臨む戦士の戦いを汚すつもりはなかった。もしメルエムにそのような稚気があれば、そもそもピトーをここへ連れて来てはいない。

 

「お任せを」

 

 ピトーの決意と士気は身に纏うオーラに表れていた。もともと強者との戦いを好む性格をしていた彼女だったが、今のピトーにそのような私欲は微塵もない。全身全霊をもって本懐を遂げるという一念に尽きた。

 

「さあ始まりました世紀の一戦! モナド親衛隊バーサス猫ちゃんキメラアントピトー! 夢の対決がここに幕を開けようとしています! 果たして勝利はどちらのチームに輝くのか! ピトーの雌雄も決してしまうのか! 実況はわたくしモナド、解説は名無しの王さんでお送りします!」

 

 対するモナド親衛隊は士気も統率もバラバラである。従わなければ殺されるため戦わざるを得ない状況だった。しかし、誰もが死を望んでいない点については共通している。避けられない戦いを前にして逃げ出すような者はいなかった。

 

「来たな、悪の異星怪人! この親衛隊長ギャレッドが成敗してやる!」

 

 だが、中には見当違いの方向でやる気を出している者もいた。親衛隊の中でただ一人、バルカンだけは威勢よく吠える。敵対する者全てを悪と断じ、自らを正義のヒーローだと信じて疑わない彼の精神力はある意味で屈強だった。

 

 念能力者にとって現実逃避的思考は精神力の弱さにつながりかねない危険な兆候だが、バルカンの場合はその底を突き抜け、徹底的に自己中心的な世界を脳内に作り出し陶酔するに至っている。その狂気の精神性が賢者の石との高い適合性能を実現していた。

 

「大元帥閣下にもらったこの『ギャラクティックストーン』で、ギャレンジャースーツの真の力を引き出してみせよう!」

 

 バルカンが掲げた手の中には一つのペンダントらしきものがあった。それは先ほど、拠点から出発する前にモナドが親衛隊の全員に配布したアミュレットだった。

 

 みんなのために愛情を込めて作ったお守りだよと言って配られたものだが、バルカンを除いてありがたがる者はいなかった。ペンダントの中にはモナドが作った『真なる賢者の石』の欠片が入れられている。

 

 このお守りにオーラを込めれば錬金術の能力をさらに強化することができるとモナドから言われているが、その得体の知れない代物を安易に使おうと考える者はバルカンだけだった。

 

「行くぜっ! 変身! 『ギャレンジャーバトルフォーム――」

 

 他の親衛隊の面々は、そのアミュレットがどのような効果をもたらすのかバルカンを実験台にして確かめるつもりだった。しかし、バルカンの身に起きた現象は、バルカン自身も含めた親衛隊全員の予想を完全に裏切る結果となる。

 

 バルカンの首が飛んだ。瞬きする間も許さぬほどの速度で駆け抜けた影が、彼の首を胴体から切り離していた。それはバルカンがバトルフォームを使う猶予すら与えられず敵に瞬殺されたことを意味していた。

 

「おおっとこれはー!? なんということだー! 変身中の無防備なバルカン選手に容赦ない鬼畜先制攻撃! ヒーローのお約束ガン無視! 卑劣極まりないピトー選手が早くも一人を血祭りに上げたぁ!」

 

 特質系能力者であるピトーは、人形を具現化する能力を身につけている。彼女の発『黒子舞想(テレプシコーラ)』は、バレリーナのような姿の念人形を自身の背後に出現させる。本来、念人形とは当然ながら生み出した術者によって操作されるものだが、この『黒子舞想』は真逆の性質を持っていた。

 

 人形の手足とつながった糸によりピトーの肉体は操作される。これにより肉体の限界を超えた動きを可能とする自己操作能力であった。ピトーが本気で戦う時に使用する能力であり、技の発動から攻撃に移るまでの時間は0.1秒を切る。

 

 親衛隊の子供たちはピトーとの試合を命じられた時、緊張する一方でどこか安心する気持ちもあった。メルエムの方と戦わされるよりはまだマシ。相手は一人に対し、こちらは四人もいる。確かに先日戦った師団長級のキメラアントよりは強そうだが、四人で協力すれば何とかなるかもしれないと思っていた。

 

 モナドやメルエムの威圧に中てられて感覚が麻痺していたと言える。メルエムの傍らに付き添っていた従者の実力を見誤ったのだ。自分たちでも対処可能な相手だと思い込んでしまった。

 

 バルカンの死を目撃して硬直する親衛隊の中で、キネティがまず停止状態から再起動した。念人形の体でこの場所に来ている彼女は死のリスクを背負っていない。その心の余裕がいち早く行動を取らせた。

 

 だが、無駄。軟化戦鎚を作り出す間もなくバルカンと同じ末路をたどる。ピトーの瞬速の爪は容易にキネティの頸椎を切り落とした。しかし、そこで念人形であるキネティの体は再起不能には至らなかった。首が離れた状態で攻撃を続行する。

 

 だが、それも無駄。キネティの攻撃がピトーの身に届くよりも先に、彼女は三度の斬撃を受け、肉体を四つに分断された。今度こそ念人形を完全に破壊され、物言わぬ残骸と化した。

 

「強い! 強すぎる! ピトー選手、圧倒的! モナド親衛隊、手も足も出なぁぁぁい!」

 

 1秒すら経過することなく二人が殺された。残されたブッチャとジャスミンは、ようやく目の前の敵がどうあがいても自分たちの実力では敵わない相手だと知る。かつてないほどゆっくりと感じる時間の中で、0.1秒後に殺される自分の姿を克明に思い描くことができた。

 

 しかし、ピトーがキネティを壊しきるまでにかかった四度の斬撃は、ブッチャとジャスミンに最期の行動を取らせる余地を生み出した。ほんのわずかに与えられた死の猶予の中で、彼らは未知の可能性にすがる。モナドからもらったアミュレットにオーラを込めていた。

 

 その直後、心臓に氷水を流し込まれたかのような寒気が走り、全身を駆け巡った。賢者の石の力を使った時の反応と似ているが、精神汚染の度合いの桁が違う。自我を塗り替えるように何かの存在が意識を侵食していく。

 

「ギイイイイアアアアア!!」

 

 ブッチャの全身が結晶で覆い尽くされた。その悲鳴は金属を激しく擦り合わせたような聞くに堪えない軋音となり、間もなくサボテンの中に埋もれて沈黙した。与えられた力に適応できず、精神が崩壊してアルメイザマシンに取り込まれてしまった。

 

「ああああ、ああ……!」

 

 ジャスミンもほぼ同様の状態だった。自分の心が死んでいく様が手に取るようにわかった。心の中に垂れ流される汚水が自己を薄めていく感覚に恐怖した。その中で彼女の自我を辛うじてつなぎ止めたものは、復讐心だった。

 

 数ヶ月前の彼女は今の自分の姿を想像することもできなかっただろう。そこにはごく普通の家庭があった。父と母がいた。だが、今の彼女には何もない。何もかも奪われてしまった。

 

 行けるわけがないと思っていたアイチューバーのイベントチケットの抽選が当たり大喜びした。ペアチケットだったので母と二人で行くことになり、残念がる父に帰ってきたらたくさん話をして聞かせるつもりだった。

 

 仮に父と会えたとして、何を話せばいいのだろう。母親の体が赤い金属に飲み込まれたそのときの、苦痛と恐怖と快楽の淵に落された絶望の表情が彼女の記憶にこびりつき、毎晩のように夢に出ては泣き叫んで飛び起きた。いつ自殺してもおかしくないほど精神を病んでいた。

 

 彼女が自らの命を絶たずに済んだのはチェルのおかげだった。夜になるとジャスミンが寝付くまで、チェルは何時間でも彼女のそばにいて頭を撫でて寝かしつけてくれた。ジャスミンにとってチェルは第二の母と言える存在だった。

 

 モナドはそれを殺した。ジャスミンの母を一度ならず、二度までも殺した。

 

 モナドは得意げに賢者の石のオリジナルは自分が生み出したものだと話した。ジャスミンたちが置かれているこの状況も全て元をたどればモナドのせいで始まったのだと知る。

 

 憎い。その憎悪の根源となる仇を討つまでは、死んでも死にきれない。崩壊していく自我は次第に一つの存在へと取り込まれつつある。しかし、彼女の精神の奥底に根付いた悪意が同化を拒み、最後の抵抗をもって結晶の侵食を抑え込んだ。

 

「マア、ア……」

 

 ジャスミンの体に揺らめく赤い鎧が纏わりついていく。理性のほとんどを失いながらも結晶に取り込まれることなく、力を制御することに成功していた。

 

「なんと! これは素晴らしい! ジャスミン選手この土壇場で起死回生の一手! 『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』との適合を果たしたぁ! これは実に熱い展開! ピトー選手、どう打って出る!?」

 

 もはや元の姿に戻ることも叶わない。憎悪に取り憑かれ殺意の騎士となり果てたジャスミンの様子を、モナドはおやつにと持ってきたポン菓子を頬張りながら観戦していた。

 

 さすがのピトーもジャスミンの変貌に異常な気配を感じて近づくことを躊躇ったが、すぐに自身の最も得意とする近接戦に踏み切った。『黒子舞想』による速攻こそ最善手であると判断する。

 

 一方、ジャスミンの憎悪は全てモナドへ向けられたものだったが、理性を失った彼女は正常な認識機能を欠いていた。飛びかかってくるピトーに対しても無差別に向けられる憎悪が、誰かれ構わない破壊衝動となって解き放たれる。

 

 その反応速度は『黒子舞想』を使用するピトーに匹敵した。急激な強化を遂げたジャスミンの身体能力が、ピトーの目測を誤らせた。先に攻撃に打って出たはずが、ジャスミンから放たれたカウンターを受ける形となってしまう。

 

 それでもとっさにガードが間に合ったピトーだったが、防御のために割り込ませた左腕に違和感を覚える。カウンター攻撃の威力自体は完全に殺せたと言っていい。しかし、ジャスミンの能力の真価は単純な威力ではなかった。

 

 ガードに使ったピトーの左腕から赤い金属のサボテンが生える。ジャスミンの能力『元気おとどけ(ユニゾン)』により攻撃の瞬間撃ち込まれた彼女のオーラがピトーの体表を覆うオーラと混ざり合い、ピトーの肉体に賢者の石を強制的に錬成させていた。

 

 ピトーは自分の腕からサボテンが生えるという奇怪な現象を認識したときには既に対処のため動いていた。右手の爪で自分の左腕を肩口からばっさりと切り捨てる。それによりサボテンの増殖は食い止めることができたが、代わりに腕一本を失った。

 

 片腕を失くしたことについてピトーに動揺はなかった。彼女の思考は、いかにして敵を倒すかという目的に集中している。明らかとなった敵の能力とその対策を冷静に講じ、結論を出す。

 

 失われたピトーの左手が瞬時に修復された。それは彼女の念能力によって生まれた人形の腕、具現化された義手だった。

 

「なにぃ!? なんだその能力は!? 『玩具修理者(ドクターブライス)』じゃないのか!?」

 

 モナドの知識にある世界が辿るはずだった正規の物語であれば、ピトーは三つの発を習得している。『黒子舞想(テレプシコーラ)』『玩具修理者(ドクターブライス)』『人形操作』の三つである。

 

 しかし運命が書き換えられたこの世界では、彼女が発を作り出す契機となったカイトとの戦闘が未決着のまま終わっている。そのため現時点でピトーが作っていた発は『黒子舞想』の一つだけだった。

 

 新たな発を作るために必要な才能限界(メモリ)は十分に余裕があった。ジャスミンを打倒するための能力を、今この場で作り上げたのだ。

 

 爆発的な加速をもってピトーは敵に肉薄する。ジャスミンは結晶化して腕と一体化した小銃を突き出してピトーを迎え討つ。恐ろしい速度で繰り出される銃剣の刺突をかいぐくり、ピトーは義手の左手を打ち込んだ。

 

 だが、その攻撃はジャスミンの鎧を貫くには至らない。逆にオーラを流し込まれ、ピトーの左腕がサボテン化していく。ピトーは侵食を受けた義手を切り離して幾度となく具現化した。

 

「ラッシュラッシュ猛ラアアァァァッシュ! 一進一退の激闘! だが! どちらが優勢であるかは明白! ピトー選手、徐々に押され始めたぁ!」

 

 義手以外の部分に当てればそれで決着がつくジャスミンのオーラ融合攻撃に対して、ピトーの攻撃力ではジャスミンの鎧を壊せない。これはピトーの攻撃に込められたオーラがジャスミンの体にぶつかった瞬間に融合されてしまい、大幅に威力を減衰させられていることが原因だった。

 

 次第にサボテンが侵食する速度も増している。数十回に渡り具現化能力の発動を繰り返したピトーは、義手の構築速度に陰りが見え始めていた。切り離しまでにかかる時間も余裕がなくなっている。

 

 劣勢に立たされたピトーに畳みかけるようにジャスミンは銃剣の槍を放った。その先端から弾が飛ぶ。ついに銃弾を撃つことはなかった銃身から飛び出たその攻撃は、念弾だった。練度も威力も低レベルな技だったが、感染するジャスミンのオーラはその技術的な拙さを補って余りある凶悪な性質を持っている。

 

 そのときピトーの左腕はサボテンに侵食された状態だった。すぐに切り離さなければ侵食は切除不能な胴体にまで達し、毒素はピトーの全身に及ぶだろう。まさにそのタイミングを狙った初見殺しの念弾攻撃である。

 

 回避か、防御か。選択を迫られたピトーが取った行動は、そのどちらでもなかった。

 

 義手の左腕から強大なオーラの波動が吹きこぼれる。その直後、振るわれた爪の一閃が全てを切り裂いた。迫り来る念弾も、銃剣の槍も、赤い鎧も、その爪の軌道を境として二つに分断された。

 

 ジャスミンの体は一刀両断され、静かに崩れ落ちた。

 

「な……なにが起こったああああ!? 突然の逆転劇! 勝利を掴んだのは何とピトー選手だあああ!!」

 

 特質系体質者であるピトーの能力は“何かを直すこと”に長けていた。左腕の義手も、ジャスミンの攻撃を受ける度に作り直すという並みの具現化系能力者では困難極まる離れ技をやってのけた。

 

 しかし、ただ作り直すだけであれば具現化系能力の域を出ず、特質系と呼べるほどのものではない。ピトーが新たに作り出した能力『玩具修理者(ドクターブライス)』は、ただ直すだけでなく“改造すること”を可能としていた。

 

 ジャスミンのオーラによって侵食してきたサボテンを解析し、その力を逆に利用可能な状態にするため、自らの腕に取り込んで改造したのである。その結果、ピトーの義手はサボテンの侵食を制御した上で賢者の石のオーラ増幅機能を得るに至った。

 

 生物としての肉体強度と念能力の才能に関してはピトーの方がジャスミンよりも圧倒的に勝っている。そこに賢者の石という災厄の力による基礎能力の底上げが加われば、たとえ『仙人掌甲冑』の暴走状態に陥ったジャスミンであっても、ピトーがそれを凌駕することは必然だった。

 

 いまだかつてない破壊力を実感したその威力に、ピトーはこの力があれば王と共に戦えるのではないかと一瞬考えるも、即座にそれを否定した。せっかく敵の力を取り込んで強化した義手を解除して切り捨てる。

 

 その金属がオーラを材料として作られた物であることは推測することができた。だが、それならば術者が死ねば消えてなくなるのが自然である。それにしてはブッチャを飲み込んだ巨大サボテンや、ジャスミンの鎧、ピトーが切り捨てた義手の残骸など、あまりにも多くの物質を残し過ぎていた。

 

 術者の不気味な死にざまと言い、単なる具現化された念能力とは思えない危険性を感じた。一応は制御に成功したとはいえ、頼り過ぎれば身を滅ぼす恐れがあると直感する。その予想は当たっていた。

 

「……え……?」

 

 切り離して作り直したはずの義手にぼつりと浮き出る赤い発疹。芽吹いた種はピトーに逃げる余地を与えなかった。サボテンがピトーの全身を覆い尽くす。

 

「完全勝利を決めたかと思いきや、ピトー選手を襲う謎の攻撃! ジャスミンの執念が実ったのか! 一矢報いた! まさに戦士の意地! 死力を尽くした最後の攻撃がピトー選手を包み込んでいくぅ!」

 

 ジャスミンはピトーの攻撃により既に事切れている。死後強まる念というわけでもない。ピトーを襲った異変は、モナドによって引き起こされていた。

 

 アルメイザマシンの機能を完全に掌握したモナドであれば、賢者の石の制限を解除することは造作もない。廃棄済みの義手に張り付いたウイルスをピトー本人に感染させ、劇症化させることは息をするよりも容易く実行できた。

 

 当初、モナドはこの試合がどのように転ぼうと大した期待はしていなかった。ピトーの実力を考えれば親衛隊の強さが及ばないことはわかりきっており、全滅は順当。モナドがその後で仇討ちと称して暴れ回る算段だった。

 

 しかし、その予想に反してジャスミンは善戦を見せた。錬金術の実験的にも興味深い一戦となった。スポーツ観戦で例えるなら、どうせ負けると思っていた弱小チームが強豪相手に思わぬ奮闘を見せて、にわかに応援したくなる心境に似ている。

 

 ジャスミンを応援する気持ちが湧き始めていた矢先、その期待を全力でぶち壊すかのようなピトーの快進撃で試合は終わった。モナドはその結果がちょっとだけ気に入らなかった。

 

 だから、殺した。ただの腹いせ。ただ少し気分を損ねたというそれだけの理由で、ネフェルピトーの命は散った。

 

「いやー、素晴らしい戦いでした。両チームともに全滅という残念な結果に終わってしまいましたが、それだけ両者の実力と誇りが拮抗した白熱の一戦だったと言えるでしょう。いかがでしたか、解説の――」

 

 

 

 

「黙れ」

 

 

 

 

 大気が溶ける。メルエムの怒気は蜃気楼となって辺り一面に広がった。

 

 メルエムは威圧のオーラに他者には認識できないほど微小の光子状オーラを含ませて放っていた。その光子はモナドの体にも付着しており、彼女の心理は手に取るように察することができた。

 

 それは感情を読めるというだけでモナドの能力の全容を見通すことはできなかったが、何らかの方法でモナドがピトーを殺したことはわかった。

 

 ピトーが死闘の末に力及ばず命を落としたというのであれば、メルエムは敵を責めるどころか称賛したかもしれない。だが、敵の一味であるはずのジャスミンは己を狂い殺すほどの憎悪を主人へと向け、そのモナドは子供じみた気まぐれで戦士たちの矜持を踏みにじった。

 

「貴様には、死すら生ぬるい」

 

 メルエムの肉体に取り込まれた護衛軍ユピーの能力が働く。ユピーは怒りの感情を破壊のエネルギーに換えて撃ち出す能力があった。

 

 ピトーを失ったことによる怒りは、メルエムの体内に収まりきれないほどのエネルギーとなる。その力を練り上げて手中に作り出した念弾は太陽のごとき閃光を放ち、モナドへと撃ち出された。

 

 

 



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86話

 

 メルエムの念弾は意図して放ったというよりは、体内からあぶれたエネルギーが自然に吐露されたものだった。単に不必要な余剰分が漏出しただけであったが、ただそれだけで周辺一帯は元の森とはかけ離れた灼熱の大地と化した。

 

 およそ生物には生存不可能な熱波が吹き荒れる地獄の中、太陽念弾の暴威が冷めやらぬ破壊の中心地では、二体の怪物が無数の拳打を交えていた。

 

 モナドの体術は一個の人間が到達可能な武の極致に限りなく近づいていた。それはアルメイザマシンの意思集合体の中で蓄積されてきた莫大な戦闘データや技術をコピーして自身の肉体にインストールし、分割思考の制御をもってようやく可能となる絶技だった。

 

「アホか!? なにこの強さ!? なんでもう覚醒してんだよ!?」

 

 だが、それに対するメルエムは人間の個の極致を遥かに超えた圧倒的な暴力によってモナドの技をねじ伏せる。両の拳は直視できないほどに眩く輝き、繰り出す突きは無数の瞬きを残して破壊をもたらす。

 

 それは怒りのエネルギーをただ撃ち出すのではなく身体強化に回した応用技だった。オーラによる強化と併用して、一気に数段階上の身体能力を得たメルエムの動きはまさに閃光だった。

 

 その力は人間の世界に限って言えば、間違いなく全念能力者の頂点と言えた。念には相性があり、オーラの多寡だけで強さを測ることはできないという念能力者の常識にはもはや当てはまる存在ではない。

 

「ストップ! タイムタイム!」

 

 防戦一方の展開に持ち込まれたモナドがメルエムから距離を取って仕切り直す。劣勢に立たされたモナドだが、覚醒を果たしたメルエムを相手に防戦を続けられること自体が、彼女もまた規格外の強者であることを示していた。

 

 その一方で、メルエムもこの戦況を楽観することはなかった。モナドはまだ全力を出していない。防御を打ち破って幾度も攻撃を叩きこんだが、致命傷となるほどのダメージはモナドに残っていない。傷は瞬時に回復されてしまった。

 

 このままむやみに攻撃し続けても勝機は見えないと判断し、メルエムは一旦手を止めて様子を見ることにした。

 

「わかった。よくわかったよ……さすが原作最強キャラだ。もうお前の勝ちでいい。俺の負けだ」

 

 しかし、そんな彼に投げかけられた言葉は予想もしないものだった。何か策を弄しようとしているのかと勘繰ったが、オーラから読み取った感情を調べて驚く。モナドは本心から負けを認めていたからだ。戦闘開始からわずか数秒、互いに何の消耗もしていない状態からの敗北宣言だった。

 

「戦ってみて気づいたよ。俺は最初、強い奴と戦いたいと思っていたが、実はそうじゃなかった。大きな力を手に入れて勘違いしてたんだ。別に俺は戦闘に快感を覚えるような変態じゃない。所詮、ただの一般人だった」

 

 自己を確立し、明確な信念を持つに至ったメルエムの精神と、モナドの精神性はあまりにもかけ離れていた。モナドの感情から推測される思考形態は、メルエムにとって直ちに理解できるものではなかった。

 

 メルエムの腕から赤い結晶が生える。その苦痛と快楽の薬毒は彼の全身に回った。

 

「すごいね、顔色一つ変えないとは。やっぱカリスマが違うよ。俺とは大違いだ。殴り合いでも勝てそうになかったし、完全敗北だよ」

 

 メルエムは戦闘態勢を解くことなく不動のまま立ち続ける。一気に殺そうと思えばすぐにでもできるだろうに、モナドは少しずつサボテンを成長させてメルエムを嬲った。

 

「でも結局さ、戦いとか勝ち負けとかどうでもよかったんだね。俺がやりたかったのは、ただの俺TUEEEEなんだよ。お前が何者だろうとそんなこと関係ない。たとえ原作最強キャラだろうと」

 

 サボテンの侵食の最中も、メルエムの目はモナドを見据えて揺れることはなかった。そのまま一言も発することなく結晶に全身を覆い尽くされた。

 

「俺の力の前では等しくゴミなんだってね」

 

 メルエムは死んだ。

 

 つまらなそうにあくびをするモナド。その頬に、背後から忍び寄るメルエムが拳を突き立てた。

 

「はば――!?」

 

 何が起きたのかと動揺する思考は脳ごとまとめて吹き飛ばされた。神速必殺の拳打が隙をさらしたモナドの全身を完膚なきまでに破壊する。塵も残さず消滅させた。

 

 その直後、奇襲に成功したメルエムの体が瞬時にサボテンに包まれる。そして、消し飛ばされたモナドの肉体は完全に再生したが、彼女に先ほどまでの余裕はなかった。

 

 即席のサボテンオブジェと化したメルエムの遺体は二つある。二人のメルエムがいたという異常事態を目にして、モナドはその能力に見当がついた。

 

 護衛軍を肉体に取り込んだ覚醒メルエムにはシャウアプフとモントゥトゥユピーの能力が備わっており、原作ではその力を本人たち以上に使いこなしていた。モナドはプフの能力『蠅の王(ベルゼブブ)』を思い出す。

 

 プフは自分の肉体を細胞単位にまで分解して作り出した『蠅』を操り、分身を生み出す能力を持っていた。モナドはその能力をメルエムが使ったのだと推測すると同時に驚愕した。

 

「分身だったのか……あの強さで……!?」

 

 確かにプフは分身を作る能力は持っていたが、その分身体は本体に比べれば格段に弱い。その本体も分身の数を増やせば増やすほど肉体を形成する細胞数が相対的に減るため、どんどん弱くなっていく。

 

 疑問はあったがとにかく今はメルエムの本体が死んだのか確認することが優先と判断し、モナドは『共』を使って周囲を索敵した。

 

 その結果に息を飲む。モナドを取り囲むようにして控える大量の敵。その全てが気配を殺したメルエムだった。モナドは初めて恐怖に近い感情を覚える。

 

 大量のメルエムの正体は、モナドの予想通り『蠅の王』によって作られた分身である。しかし、その能力が単一で用いられたわけではない。そこへさらにユピーの力を複合させていた。

 

 護衛軍の三戦士において唯一魔獣との混成体であるユピーは、その屈強な肉体の強さもさることながら、己の体を自由自在に変形させることができた。触手や翼と言ったもともとの体に備わっていない器官まで作り出すことができる。

 

 そのユピーの能力が、プフの持つ細胞レベルで自己を分割して操作する『蠅の王』と合わさることで飛躍的な進化を遂げた。分身体を構成する細胞に急激な細胞分裂を促して肉体を完成させることで、本体と遜色ない強さにまで昇華させたのである。

 

 もはやそれは分身ではなかった。まさしくもう一人のメルエム。己という存在そのものをいくつにも増やす能力となった。

 

 一人でも想像を絶する強さを持つメルエムが、モナド目がけて殺到する。それだけで前世に渡るまで数度の人生を反芻するほどの威圧が巻き起こっていた。

 

「ちょ、おま」

 

 一対一でさえ防戦一方だった相手をこれだけの数捌けるわけはない。呆然と立ち尽くすモナドは構えるよりも先に『円』を展開した。

 

 モナドを中心として半径5メートルの円が出来上がる。オーラとの接触感染によって広がるウイルスは円に触れただけでも感染する。メルエムたちは恐れることなくその領域に踏み込んだ。

 

 メルエムは数回の結晶侵食を受けた状況からアルメイザマシンの特性と対策を見抜いていた。『絶』により精孔を閉じることでオーラの流れを絶ち、ウイルスの感染を防いだ。

 

 メルエムの包囲攻撃がモナドに届く。しかし、その威力は明らかに精彩を欠いていた。『絶』によってオーラの強化ができない状態では当然だった。それでも素体の強度と身体能力のみで並みの使い手なら即殺できる威力はあったが、モナドには通じない。

 

 反撃に遭ったメルエムが一瞬にして数体屠られた。絶をしているため結晶化することはないが、致命傷を受ければ死ぬことに変わりはない。という、モナドの思い込みはさらに裏切られる。

 

 倒れ伏したメルエムの肉体が霧状に分散した。本来の『蠅の王』では細胞単位までしか分割できなかった体が、さらに細かく微小な粒子となる。モナドの攻撃はメルエムの体を突き抜けるが、その傷から分解された粒子は再び結集する。

 

 霧の中に溶け込むように現れては消えるメルエムの姿は半気体状の存在となり、モナドの攻撃をほぼ無効化していた。さらにそれだけではない。空気中を漂う粒子はあらゆる場所にメルエムを形成し、攻撃を繰り出すことが可能だった。

 

 突如としてモナドの胸部からメルエムの腕が突き出た。口から体内に侵入し、そこで肉体の一部を再構成したのだ。呼吸すれば無数の粒子が肺に潜り込む。いかに強力な念の使い手でも内部から発生する攻撃には対処できない。絶の状態でも有効な攻撃となる。

 

「ごぼっ、ぶっ……いい加減にしろ」

 

 そこで吐血しながら苦しんでいたモナドの様子が一変した。凄まじい殺気が形を成すようにモナドの体を包み込む。それはジャスミンに与えたものと同じ『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』の状態だった。しかし、ジャスミンの時と決定的に異なるのはモナドが暴走状態に陥ることなく力を制御できている点だ。

 

 鎧袖一触。幾重にも折り重なる纏の膜が、正拳突きと共に大気を震わす波動となり発散された。空気中を伝わる振動がメルエムの霧を吹き飛ばす。共振現象が粒子の一粒に及ぶまで精密に破壊し、一撃で数十億のメルエムが殺された。

 

「まさかこの力まで使うことになるとは思わなかったぞ……だが、ここでお前は終わりだ」

 

 共振攻撃の乱打を受ければ粒子状態であっても無事では済まない。メルエムはモナドを阻止すべく、実体の体を構成して殴りかかった。

 

 だが、オーラを纏わぬ絶の状態では『仙人掌甲冑』まで発動させたモナドの攻勢を止めることは到底できない。メルエムは精孔を開き、全力で身体強化する。それを見てモナドはほくそ笑んだ。オーラを使ったところでアルメイザマシンの餌食となるだけだ。

 

「……なぜ……!?」

 

 メルエムとモナドの拳は火花を散らして交わった。目まぐるしくせめぎ合う拳打の応酬が二人を中心に爆発し、大地に無数の傷跡を刻みつけていく。メルエムは結晶化することなく拳を振るい続けていた。

 

「なぜっ……なぜっ!?」

 

 正しくは、全く結晶化していないわけではなかった。モナドと拳がぶつかったその表皮だけが赤く金属化しているが、次の瞬間には剥げ落ち、傷は元通りに回復している。

 

 操作系能力である『蠅の王』は肉体を分割して操作する能力と言える。全ての蠅は意識を共有し、本体の命令に従って行動する。だがメルエムはモナドの能力を見て、あえてそのような使い方を避けた。

 

 つまり、全ての蠅を独立した個としたのである。念によって意思を強制的に統合するのではなく、各々が考えて自らの役割を果たすため統率を取る。細胞単位で考える個が結集し、一つの群れとなりメルエムを作り上げていた。

 

 もし念能力によって全ての個の意識が統合されていたとすれば、そのつながりを辿ってウイルスの感染が拡大し、メルエムは最初の一撃で細胞の一片に至るまで根絶されていただろう。

 

 オーラとの接触により増殖するウイルスは、逆に言えば互いのオーラが触れさえしなければ感染はしない。無数の個の集合体となったメルエムは粒子レベルでオーラを独立させることによりウイルスの侵攻を肉体の表層で遮断し、被害を最小限に食い止めていた。

 

 プフとユピーの力がなければここまで辿り着くことは叶わなかった。そして、その先へ進む意思をピトーが残してくれた。

 

 燃え盛る怒りの炎がメルエムの拳に宿る。その破壊のエネルギーは全てを照らす光となり、悪意に満ちた赤い鎧に叩きこまれる。その衝撃は全力を出したモナドを押し戻し、数歩後退させていた。

 

 

 * * *

 

 

 西の空に沈みかけた夕陽が世界を赤く染めていく。モナドとメルエムの決戦は開始から五時間が経過していた。

 

 人の世を滅ぼしうる災厄と相対しながら一匹の蟻の王が戦い抜いたその時間は、奇跡を超えた天来の成果だった。しかし、始まりがあるものには終わりもある。決戦は終わりを迎えようとしていた。

 

 地平線の向こうから規則正しい地響きを鳴らしながら、山のように巨大な影が近づいていた。海底戦艦ギアミスレイニが、終末の時を知らせるように姿を現す。

 

「いや、よくやったよ。お前は十分頑張った。でも、無理なものは無理なんだ」

 

 粒子状になったメルエムの分体は、モナドの攻撃により殺され、アルメイザマシンに取り込まれながらも細胞分裂を繰り返して何とか生き残っていた。

 

 しかしその度を超えた細胞の酷使は、ついに限界に達していた。多くの生物の細胞は一生のうちに分裂可能な回数が決まっている。人間ならば50回が限度であり、その限界を迎えると老化細胞となりそれ以上分裂しなくなる。それは生物の寿命に直結していた。

 

 メルエムの細胞は無理な分裂をし続け、著しい劣化が起きていた。この一戦で寿命を使い果たしたのだ。とうにメルエムの体は限界を超えており、生きていることが不思議な状態だった。

 

 それに対して、モナドの損耗は皆無である。悪意の鎧を身に纏ったモナドにメルエムは有効なダメージを与えることができなかった。

 

「俺は不死ではない。お前は俺に死すら生ぬるいと言ったが、その通り。俺は数え切れないほどの死の中にいた。死ぬたびに俺のオーラは“死後強まる念”として、再び生まれた俺となる。それが俺の念能力『終わり無き転生(ノーザデッド・ノーライフ)』だ」

 

 クインから脈々と受け継がれた少女の念人形は制約として発動を維持できなくなった時に術者は死亡するという誓約が課せられていた。それを考えれば、完全に破壊されてしまった状態から復活することは無理に思える。

 

 これはモナドの能力の一部が合わさることで生じた矛盾だった。死が終わりとなるどころか、さらに自らを強くして無限に転生する。アルメイザマシンの中に広がる無間地獄の底でモナドが作り上げた能力だった。

 

 無から生じ、無限増大するモナドの魂は不死者を超えた不滅の存在となる。その死後強まる念のオーラをアルメイザマシンの力で金属化させ、海底戦艦は作られた。増殖する自己を部品(ギア)とし、寄せ集めた(ミスレイニ)彼女の本体である。戦艦一隻を虫の本体として形作ったのだ。

 

 やろうと思えば戦艦以上のものを作り上げることもできる。多くの人間が世界だと信じ込んでいるちっぽけな島々を創造することだってできる。材料には事欠かない。無限に生じる自己。全にして一、一にして全。それが『一なるものども(モナド)』だった。

 

 その破滅の言葉を聞いたメルエムは逆に納得していた。彼はこの戦いの行方を既に想定している。

 

 死路(シロ)。

 

 かつて彼が様々な盤戯に興じ、数々の名手と対局した時のことを思い出す。中には、詰んでいることを悟りながら投了をせず、未練がましく打ち続ける愚か者もいた。まさに今、自分が置かれている状況だった。

 

 それでも、諦めるつもりはなかった。王の矜持が逃走を認めなかった。逃げて態勢を立て直して再戦する。そんな策が通用する敵でもない。誇りを折り撤退した自分が、今の自分よりも善戦する姿を彼は想像もできなかった。

 

 メルエムは、今の自分がここに立つ意味を考えていた。彼がここに存在する理由。それは最愛の者の願いだった。

 

 メルエムにもう一度、幸福な時間を与えてほしいとコムギは願った。その結果、彼は二度目の生を得た。そして彼は、今にも力尽きそうになりながら戦い続けている。この生は彼にとって幸福な時間と言えるだろうか。

 

 では、メルエムにとって最大の幸福とは何か。

 

 それはこの世界が、この時間が、コムギにとって幸せなものであることだ。そのために彼は戦っている。ならば、彼女の願いは確かに叶っていると言えた。

 

 投了などできるはずもない。路を絶たれたのであれば、切り開いて進めばいい。メルエムは刻一刻と迫る死を感じ取りながら、ひたすらに拳を振るい続けた。モナドからすれば、それは死に損ないの悪あがきにしか思えなかったが、メルエムにとっては意味があった。

 

 念能力者にとって戦闘とは自身の能力を高める最高の修行である。念とは生命エネルギーを操る術。命をかけた死闘こそ、己の生に限りなく近づきその力を実感する機会となる。メルエムはモナドとの死闘から自身に眠る力を学び、成長しようとしていた。

 

 成長するために最も必要なことは、己を知ることにある。彼は『過去視』の能力により、自己のルーツを探っていた。彼はコムギの願いを叶えた存在が何者であるか、それは自分とどう関係していたのかを知ろうとした。その行為は意図せずしてモナドの正体を知ることにつながっていた。

 

 研ぎ澄まされた過去視の力はメルエムの起源をさらに遡り、その半身となったアイの存在にまで行き着くことができた。ゼロの子である銀髪の少女が歩んだ人生を垣間視た。その少女の物語がどのようにしてモナドという存在を生み出すに至ったのか。

 

 それは二つの願いが入り混じり生まれたバグのような存在だった。銀髪の少女が願った『神の世界へ転生したい』という願いと、コムギが願った『メルエムの時間を巻き戻してほしい』という願い。それらは確かに実現したが、世界に取り返しのつかない影響をもたらした。

 

 アイの力はどんな望みも叶えることができるが、結果さえ引き起こすことができれば周囲への影響を考慮しない性質がある。『億万長者になりたい』と願った者に、現金輸送中の飛行船を墜落させて金をばらまき渡すように。

 

 『異世界転生』と『時間旅行』という規格外の願いを実現する過程で、この世界に人智を超えた負荷が生じた。それらの莫大な願いを叶える処理が重なり、整合性を保てなくなったこの世界が矛盾を残したまま、いくつかの並行世界と重なって生まれた『願いの副産物』がモナドである。それは理不尽な願いの代償とも言えた。

 

 そのためモナドは本来あり得ないはずの場所にあり得ないはずの肉体と魂を持って存在することにされてしまった。メルエムの過去視をもってしても、モナドの過去を視ることはできない。そこには、ずたずたに引き裂かれた時間の流れと因果の線が混在していた。

 

 アイの力でモナドの存在をなかったことにできるかと言えば、それは“できる”。モナドは自分が不滅者であり絶対の存在であると狂信しているが、アイの現実改変の力の前には無力である。あるいは存在ごと消し去らずとも災厄の力だけ封じることも可能である。

 

 だが、それをすれば世界に生じた矛盾はさらに拡大し、さらなる混濁を招く結果となる。その末に何が起きるのかは不明だが、起きた現象に対してそれをまたアイの力でなかったことにできるかと言えば、それも“できる”。

 

 しかし、どれほど矛盾を修正しようと矛盾を生み出す原因の解消には至らない。傷口が広がるように、世界への負荷は増えていくだろう。

 

 アイの能力は『ヒトの願いを叶える』力である。人間が考えうる程度の願いは叶えられても、人智を超えた領域の願いは叶えられない。それは人の認識すら及ばず、言語や論理として表現することすら不可能な領域である。

 

 つまり端的に言えば、わからない。モナドをアイの力で抹消すれば、どのような影響が出るか予想もできない。極論を言えば世界そのものが崩壊してしまう可能性もあり得る。その予想すらメルエムという一つの生物が想像できる塵芥にも満たない範囲の事象でしかなく、崩壊という言葉では到底表しきれない何かが起きてしまうかもしれない。

 

 メルエムだからこそその真実に気づくことができたが、他の誰かが何も知らずにアイの力でモナドの運命に干渉しようとすることはあり得る話である。モナドは本人も知らない爆弾を設置された状態にある。

 

 まるで悪辣な神によって仕掛けられた罠のようだった。どのような結果に至ろうとも、破滅と混沌をもたらす『世界の破壊者』の体現体。

 

 メルエムは、現実改変の力ではモナドを倒せないという結論に至る。少なくともそれによって運命の大河が正常な形に戻ることはなく、より危険なことになるということだけは因果律の予見から判断することができた。この世界のルールを壊さない範囲で、モナドを倒す方法を見つけ出さなければならない。

 

 死路としか言いようがない。以前の自分であれば、詰みだと即答したことだろう。しかし、このときメルエムの脳裏をよぎった光景は自らの敗北する姿ではなく、九かける九、八十一に区切られた盤面だった。

 

 メルエムが一度目の生を終える間際、コムギと打った軍儀の対局において、彼は幾度もの死路に立たされながらその盤面を覆した。それまでの定石を打ち破る新手を生み出し、相手はそれをさらに超える逆新手を生み出し、そして逆新手返しが生まれた。奇跡に奇跡を重ねるような一手を二人で生み出し続けた。

 

 その思考の源泉が再びメルエムの精神に宿った。『過去視』の能力はより深く時の流れを遡っていく。アイとは何か、その根源を知るに至る。そして、メルエムが出した答えとは。運命の大河に浮かび流れを変えてしまった、途方もなく巨大な敵に対して取った行動とは。

 

 己を限りなく小さくすることだった。『蠅の王』の精度を高め、操作できる分体の大きさをさらに小さく、小さくすることだった。

 

 ガス生命体アイは、いかにして願いを叶える力を行使できるのか。『ガス』という表現は人間に見える状態を言い表しているだけに過ぎない。彼らの正体は『量子生命体』だった。

 

 気体状の外殻を作り出して実体らしきものを形作ることはできるが、彼らは単体では存在することも不確定で非常に希薄な生物である。そのため人間に寄生して自己の存在を安定化させる。

 

 人間の欲望が、物質としての形を持たないアイに自己の観測と存在証明を与える。そのエサを得るために人の欲望を叶えるのだ。量子状態を含んだ情報そのものでありながら生命を持つ彼らは、次元の壁を越え並行世界から望む結果を引き入れる。

 

 『もし、こうであったら』というIFの世界から、人間の願いを最短で叶える形で結果だけを取り出すことができる。中でもアイが自己を確立するために最も必要な人間の感情が『愛』だった。

 

 それは魂という存在を言い表す一つの状態なのかもしれない。メルエムの魂に深く刻み込まれた愛の感情は、物質としての存在ではなくなっていく彼の精神をこの世につなぎとめた。

 

 あと一手、モナドとの死闘がもう一手で終決する。最後の力を振り絞ったメルエムは死を悟った。それと同時に、到達する。ついに、量子の領域。

 

 メルエムの最期の攻撃、輝けるその拳は世界の壁を越えた。拳だけではあったが、確かに彼の肉体は光子となる。彼に発現した能力はアイの持つ『現実改変』ではない。それは『因果律操作』だった。

 

 現実を書き換えるのではなく、いまだ起こり得ぬ未来を実現する。時の深淵を見通すほどに過去視を極めたメルエムの目は未来を観測するまでに成長していた。その能力が世界に過剰な負荷を与えることはない。この世界の理の中で実現可能となる現実を引き寄せる力だからだ。

 

 数多ある並行世界へと到達したメルエムの手は、未来視により観測した結果を自らの最も望む形で確定させた。

 

 掴み取り、引き寄せる。

 

 その手の中には、一つの赤いサボテンがあった。メルエムの体が結晶化していく。勝利とは程遠く見えるその光景が意味することはすなわち、敗北だった。

 

 『因果律操作』とは、起こり得る可能性を即座に実現する力である。天文学的な確率でしか起き得ぬ事象さえ、必ず引き起こすことができる。だが、全く存在しない可能性を実現することはできない。

 

 0を1にすることはできない。

 

 それはメルエムが、万に一つ、億に一つ、兆に一つもモナドに勝つ可能性が存在しないという決定的な証明となった。

 

 拳の量子化に成功したメルエムであっても、ごく近似的な並行世界までしか手を伸ばすことができなかった。詰まる所『因果律操作』とは『現実改変』の下位互換である。念能力によって災厄たるアイの力をある程度分析することはできても、完全に再現することは不可能だった。

 

 もっとも、メルエムが『現実改変』に至るほどの能力を覚醒させることができたとしても、それはそれでモナドに手が出せなくなる。運命の大河を吹き飛ばす爆弾を背負わされたモナドという存在を、アイの力でこれ以上書き換えることはできない。

 

 起こるべくして起きた不動の結末、それが彼の最期となった。

 

「ひゃっほおおおおお!! どうだい、ゴミエムくぅぅぅぅん!! 生物統一の夢も果たせずこんなところでサボテンになっちゃって……悔しいねぇ! 悔しいねぇ!」

 

 モナドは品性下劣な勝鬨を上げ、敗者の死屍に鞭打つような言葉を投げかけたが、実際のところ彼女はそれほど敵を侮蔑する感情を持っていなかった。

 

 死者を煽るように罵る行為は、もしかしてまだ近くにメルエムが生きて潜んでいるのではないかという疑心暗鬼の表れである。一応は『共』の心眼で粒子の一粒まで見逃さず索敵を終えてはいるが、それでも一抹の不安を拭いきれずにいた。

 

 モナドにとってもメルエムは桁違いの異常性を感じた強者だった。念能力者の天敵と言うべきアルメイザマシンを相手にここまで戦える相手がいるとは夢にも思っていなかった。

 

 しばらく罵詈雑言を垂れ流したモナドだったが、空しくなって止めた。仮にメルエムが生き残っていたとしても、それがどうしたという話だ。モナドの脅威となる敵ではない。

 

「はぁ……ちかれた……もう帰って寝よ」

 

 モナドは、とぼとぼとした足取りで戦艦の方へと帰っていく。

 

 その背後で。サボテンの結晶に覆い尽くされたメルエムの遺骸の中で、新たな“時”が動き始めようとしていた。

 

 

 



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87話

 

 

 

『他プレイヤーがあなたに対して交信(コンタクト)の魔法を使用しました』

 

 

 

 

 

 ……ナイン! 聞こえるか、ナイン!?

 

 ……

 

 ……

 

 だめだ。返事がない。そもそも、これカードの効果がちゃんと発動してるのか? GIの中でならバインダーを通して会話ができたけど、現実世界で使っても……

 

 まだわからないよ。もしかしたらオレたちの声が聞こえてるかもしれない。

 

 いや、『同行(アカンパニー)』も使えなかったし、やっぱり呪文カードはゲームの中でしか使えないんじゃないか。

 

 もしくは、ナインが既に死んでて効果が発動しないのかもね。

 

 ……滅多なこと言うんじゃねぇよ。あいつがそう簡単に死ぬはずないだろ。

 

 あんたもニュース見たでしょ。災厄の大侵攻と、ナインそっくりの誰かさんがした馬鹿みたいな演説。つまりは、そういうことでしょ。

 

 だから、何が言いたいんだよ、テメェ!

 

 みんな落ち着いてよ! 交信(コンタクト)の効果時間が切れるまで、話しかけてみようよ。キルアの言う通り、ナインはきっと生きてるよ。でも、オレたちの声が届くのは今しかないかもしれないんだ。

 

 ……

 

 ……

 

 じゃあ、あたしから言わせてもらおうかしら。文句の一つや二つ、ぶつけてやらなきゃ気が済まないわ。あんたのせいで丸損よ。あたしらがどんだけ苦労してゲームクリアしたと思ってるのよ。クリア報酬がパァよ、パァ!

 

 今それは言わなくていいだろ……そんなこと誰も気にしてねぇって。

 

 あんたらと一緒にしないでくれる!? こっちは『ブループラネット』が欲しくてゲームやってたのよ! せっかく手に入れてゲームの外に持ち出せたってのに、あたしのプラネちゃんが『交信』なんてゴミカードに……!

 

 それはお前も折り込み済みの話だっただろ。

 

 お黙り! よく聞きなさいよ、ナイン。あたしたちが選んだゲームのクリア報酬は『ブループラネット』『一坪の海岸線』『聖騎士の首飾り』の3枚。このうち2枚は『擬態(トランスフォーム)』でコピーしたカードよ。『ブループラネット』は『交信』、『一坪の海岸線』は『同行』のカードを変身させたもの。『聖騎士の首飾り』を使えば変身が解除されて元のカードに戻る。『交信』も『同行』も、全部あんたの安否を確かめるために使っちゃったのよ!

 

 気にしなくていいぞ、ドケチババァがほざいてるだけぶぐぁっ!?

 

 あたしの愛しのプラネちゃん……もちろんお金に換えられるものじゃないけど、オークションに出せば30億は下らないでしょうね。まったく、ストーンハンターの名が泣くわ。もう手に入らない宝石かもしれないのに……!

 

 でも、ビスケはそれを使ってくれたでしょ。すごく貴重な宝石を、ただナインと話をするためだけのカードに替えてくれた。

 

 それは、あんたたちがどうしてもって頼むからしかたなく……!

 

 ハンターにとって獲物を狩ることは人生を賭けるほどの意味がある。きっとビスケにとって、その宝石はかけがえのない獲物だったと思う。でも、それにも代えられない大切な何かがあったんじゃないかな。

 

 ……

 

 ……うっさいわね! みんなあんたのせいよ、ナイン! クリア報酬全部、あんたのために使ったの! その結果がこれ!? ふざけんじゃないわよ! 何も言わずに勝手にどっか行くし! あんたにとってあたしたちはその程度の奴らだったってこと!? 絶対許さないんだから! だから……!

 

 ……さっさと戻って来い、馬鹿弟子!

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……

 

 ……もう、時間切れか?

 

 いや、たぶんまだ。ゲーム内なら確か3分くらい効果時間があったはずだよ。あとちょっとだけなら話せると思うから、キルアも声をかけてあげて。

 

 いや、オレは……ゴンに任せる。

 

 キルアじゃなきゃダメだ。オレは、その方が良いと思う。

 

 ……そんなこと言われたって、何て言えばいいかわかんねぇよ。

 

 ……

 

 ……あー、その、ナイン……?

 

 そう言えばお前って色々名前があるから気になってたんだけど結局、本当の名前は何だったんだ? ナインって名前もGIのプレイヤー名として適当に付けた感じだったし。

 

 ハンター試験のとき約束したよな。もう一回勝負して、俺が勝ったら本当の名前教えるってさ。なんかうやむやにされたけど、まだ決着ついてないじゃん。

 

 それにお前、シックスって名前でアイチューバーなんかやってたんだってな。しかも、そこそこ有名だったらしいし。まあ今はネット中、その話題で騒然だよ。お前が放置している投稿動画、再生回数がヤバいことになってんぞ。

 

 テレビも全部、報道特番で持ちきりだ。お前のこと人類史上最大の凶悪犯罪者だってどこも叩いてるよ。

 

 でも、違うんだろ。あのモナドって奴は、お前じゃない。それがお前の名前じゃないってことはオレにもわかる。

 

 そう思ってる奴はオレだけじゃない。ゴンもビスケも。

 

 アイチューバーだった頃のお前のファンたちも掲示板に書き込んでた。シックスはこんなことする奴じゃないって。

 

 お前のことだから『どうせ自分は』とか考えてるかもしれないけどな。たぶん、お前が思ってるより何十倍も、何百倍も、何千倍も。

 

 

 

 お前の帰りを待ってる奴らがいるんだぜ。

 

 

 

 * * *

 

 

 シックスは、ナインは、チョコは死んだ。

 

 私は死んだ。

 

 それは幸せなことだと思った。命一つではとても贖いきれない罪を犯しながら、その最期を看取ってくれた人がいた。人の腕の中で抱き止められながら息絶えた。それはこの身には過ぎた幸福だった。もうそれ以上に、望むものはないと思えた。

 

 魂は大きな渦に飲み込まれた。擦り削られていく自我は問われる。あなたは誰と、尋ねる声。その声が沁み込むたびに私は薄れた。そして、誰何の声はなくなっていった。つまり、答えるまでもない自明の理になりつつある。

 

 あなたは私。全ては一つの私となる。

 

 そうなるはずだった私のもとに、声が届く。誰かに呼び止められた気がした。何もかも掻き消してしまうノイズの中で、かすかに聞こえたその声に耳を傾けた。

 

 ほとんど聞き取れなかったが、きっとその声がなければ私の精神は途切れていただろう。気がつけば、私はノイズの中で抗っていた。ここにいてはいけない気がした。

 

 そして、私は渦から引き上げられる。もがき苦しむ私の手を誰かが掴み、引き上げてくれた。

 

 

 * * *

 

 

 水面に顔を出す。そこは黒く濁ったオイルの海だった。周囲には誰もいない。目の前には巨大な壁がある。壁を見上げた私は、それが船であることに気づいた。

 

 タンカーのように巨大な船だ。断崖絶壁に等しい船体を登ることは困難を極めた。何度も滑り、海に転落する。

 

「おお~い! だいじょうぶか~!?」

 

 しばらくすると船上から声がかけられた。ロープでつながれた救命浮き輪が投げ込まれる。浮き輪につかまった私は船上へと引っ張り上げられた。

 

 私を助けてくれたその人物は、私と全く同じ容姿をした銀髪の少女だった。

 

「驚いたのぉ。この場所でわし以外の人間を見たのは初めてじゃ。わしの名はアイザック=ネテロ。階級は雑務兵じゃ」

 

 その名前には聞き覚えがあった。ハンター協会の会長ではなかったか。

 

「前世ではそうだったようじゃな。まあ、あまり昔のことは覚えとらんぞい」

 

 災厄の結晶に取り込まれて息絶えた彼は、私と同じように深い渦の中をさまよった。必死に渦から逃れようと泳ぎ続けているうちに、いつの間にかこの船に辿り着いていたらしい。

 

「これでようやくこの辛気臭い場所からおさらばできると思ったんじゃが、どうもこの船は動かせる状態ではないようじゃ。しょうがないから、わしはここで毎日修行に明け暮れておる。かれこれ千年くらいは経つかのう」

 

 嘘つけ。

 

「ごめん……ちょっとサバ読んだ。ここには明確な時間の概念がないのじゃ。一日の感覚もあくまで体感に過ぎん。千年は言い過ぎたが、そのくらい長いこと留まり続けている気はするの」

 

 私はこの風景に見覚えがある。何度も夢の中で見た船だ。広大な海の上に、動くこともできず浮かび続ける巨大な船。これは念人形の少女の中にある心象風景のようなものなのかもしれない。

 

「長らく話し相手もおらんかったから仲間ができて嬉しいのじゃ! 新入りよ、大先輩であるわしに聞きたいことがあれば何でも聞くがよい」

 

 本当にこの船は動かせないのだろうか。私たちはずっとこのままここに留まり続けるしかないのか。当然、ネテロもこの船を調べ尽くしているだろうが、改めて調べれば何か手掛かりが見つかるかもしれない。何もせずにじっとしていることはできなかった。

 

「そうじゃな。自分の目で確認することも大事じゃな。好きなだけ見て回るがよい。時間は腐るほどあるからの。わしはここで日課の『感謝の正拳十万突き』をやっておる。気が向いたらおぬしも参加するがよい」

 

 そう言うとネテロは超高速の奇天烈な行動を取り始めた。あまりの速さに何をやっているのかよくわからない。お辞儀……いや、ヘッドバッドと正拳突きを交互に繰り返しているのか。

 

 とりあえず、それは放置して船の中を見て回った。船員らしき者は誰もおらず、ブリッジも空っぽだった。以前に見た夢と同じ、廃墟同然の寂れた光景が広がっている。非常灯しかない薄暗い船内は広く、一部屋ずつ確認していくだけでかなりの手間がかかるだろう。

 

 だが、私の足は不思議と行き先を知っているかのように歩いていた。自ずと生じる歩みに逆らわず無心で進んで行くと、通路の奥に行き止まりの扉が現れた。扉は施錠されていて開かない。

 

 私は右手に握り込んでいたものを見る。オイルの海を漂っていた時からずっと、手の中にそれはあった。大渦の中から引きあげてくれた誰かが、私の手に握らせてくれたものだった。

 

 それは小さな鍵だった。なぜか手放してはいけない気がして、ずっと握りしめていた。施錠された扉は、その鍵で開くことができた。扉の奥には下へと続く階段があった。

 

 解錠した後の小さな鍵は持って行くことにする。ひとまず、私はネテロに知らせるため船の甲板に戻った。

 

「マジでぇ!? 修行などしている場合ではないわ! さっそく行ってみるぞい!」

 

 二人で階段を降りていく。船の構造的に考えて、あり得ない深さまで階段は続いていた。最下層まで降りると、ひらけた場所が広がっていた。

 

「これは、駅かの?」

 

 地下鉄の駅のような場所だった。やはり人の気配はない。壊れた機材の残骸が散らばり、蛍光灯が点滅している。

 

 時刻表は引き裂かれて読める状態ではなかったが、路線図は辛うじて残っていた。ここから三駅を経由して終点に着くようだ。

 

 切符の販売機が並んでいた。どれもまともに動いていない。私が適当にボタンを押すと、切符を一枚吐き出して後はうんともすんとも言わなくなった。

 

 一枚だけしかない切符を手にして改札へ向かう。その足取りは次第に重くなっていた。改札口の前で、私たちは立ち止まる。

 

「どうやらここから先は一人しか通れんようじゃ。まあ、薄々は気づいておった。おぬしは王じゃ。これは王のために開かれた道。わしの役目は、おぬしをここへ導くことだったようじゃな」

 

 プラットホームに光線が差す。一車両の電車が到着した。車内に人影はない。

 

 この光景は、私の中で都合よく解釈された夢に過ぎない。実際にはもっと生々しい命の営みが行われている。電車は卵。線路は産道。この鉄の箱に乗り込むことができる命は、ただ一つ。

 

 一人だけしか、生まれることは許されない。

 

 これは夢だ。あまりにもおぞましい現実を覆い隠し、きれいに取り繕っただけの幻だった。

 

 気づけば、私は改札のゲートを越えた先にいた。ネテロは構内に残されている。

 

「なんちゅう顔をしとるんじゃ! わしのことなら心配はいらん。後ですぐに追いつく。おぬしにはこの先へ進む定めがあるはずじゃ。達者でな」

 

 それだけ言い残してネテロは去って行った。電車の発進を知らせるベルが鳴る。早く乗らなければ電車が行ってしまう。私はその場から動けなかった。

 

 ネテロはあの船で、これからも変な修行をし続ける気なのか。体感で千年くらいは足止めされていると冗談交じりに話していた。その間、一人であの船にいた。私が流れ着くまで、ずっと一人だったのだ。

 

 私は、駅の構内に戻っていた。ネテロの後を追って走っていた。頭の中に何も考えはなかった。無我夢中で、船につながる階段まで引き返す。

 

「あ……」

 

 登り口のすぐ陰にネテロは膝を抱えて座り込んでいた。呆然とこちらを見上げるネテロの手を引いて、電車が停まる駅のホームへと走る。

 

「なんでっ、もどってきたのじゃ……! わしは、そのさきには……!」

 

 切符が一枚しかない。それが何だ。こんな改札一つ、無視して飛び越えればいい。この先には一人しか進めないなんて誰が決めた。

 

 私が連れて行く。その程度のこともできずに、何が王だ。

 

 決して放さないように手を握り締めて走った。二人で電車の中に滑りこむと同時にドアが閉まり、車両は発進する。

 

「の、乗れた……無理だと思ったけど、行けた……やったのじゃ! ありがとうなのじゃー!」

 

 私の選択が正しかったのか、それはわからない。だが、たとえ間違っていたとしても後悔はない。大喜びするネテロを見てそう思った。

 

 ゆっくりと進み始めた電車は速度に乗り、長いトンネルの中を走っていく。運転席はあるが、やはりそこに人の姿はない。私たち二人だけを乗せて電車は独りでに走る。

 

 やがてトンネルを抜けた先には、白い空が広がっていた。水墨画のように濃淡で表現された白黒の世界。窓の外に広がる光景を、ネテロは座席の上に膝立ちになって眺めていた。

 

 滲んだ黒い森の中、線路と電車だけが確固たる線で造形を描かれている。水面の上をたゆたうように、電車は次の駅を目指して進んでいた。

 

 

 * * *

 

 

 森の奥、ひっそりと佇む駅舎に三人の人影がある。その駅のベンチに、チェルたちは座っていた。隣にはトクが座り、そしてチェルの膝に頭を預けて眠るジャスミンの姿があった。

 

 三人の容姿はバラバラだった。生前のままの姿を保っているのはトクとジャスミンの二人だけ。チェルの外見は銀髪の少女に変わっていた。しかしこの世界では、その姿こそが真実だ。チェル以外の二人の姿が異質であると言える。

 

 トクとジャスミンは辿り着けなかった。憎しみの心に囚われてしまった彼らでは、生まれ変わる先の自分の生を認めることができなかった。彼らの精神は渦の中で敵と同化していく自己を否定したまま消えていこうとしている。

 

 ジャスミンの体は透き通るように薄れていた。間もなく彼女は自我の残滓も残らず渦に取り込まれ、一つの存在に束ねられてしまうだろう。自己を微塵にすり潰された挙句、終わりのない悪意に練り込まれる境遇は、死よりも恐ろしいことかもしれない。

 

 引き留めたところでどうにもならない。彼女たちにはもう生きる意思がなかった。精神が壊されていた。

 

 だが、ジャスミンの表情は安らかだった。憎悪に狂い、もがき苦しんでいた彼女の魂は、災禍の中で一時の安息を得た。チェルの膝の上で優しく寝付かせられながら、彼女は消えていった。

 

「はあ……みんな消えちまうんだな。お前も、もうそろそろか?」

 

「そうですね。まだこうしていたい気持ちは山々なんですが」

 

「ちっとは根性みせろ。もうクアンタムもあたし以外全滅じゃねーか」

 

 トクとチェルの二人は視線を合わせることもなく、肩を並べて座っていた。おそらく、これが最後の別れだと二人ともわかっていた。

 

「チェルさんは特別ですからね」

 

 常人の精神ではアルメイザマシンに呑み込まれたが最後、渦の底に沈み込んで二度と浮上することはない。それに比べれば遥かに精神力の強い念能力者であっても、至る結末は変わらない。多少は抵抗できると言った程度の違いしかない。

 

 トクやジャスミンが消えてしまうことは至極真っ当な結末と言えた。チェルは悪意に飲み込まれず、それを受け入れた上で己の生を諦めなかった。アルメイザマシンに適応するために必要な精神の構造的素質を持っていた。

 

「生きてください。どうか僕やジャスミンたちの分まで。あなたにはそれができる強さがある」

 

 トクはチェルに形見を手渡す。それは彼の左目だった。モナドに抜き取られはしたが、もとよりあの目玉も後からはめ込んだ義眼に過ぎない。災厄の根源と情報はまだ残っていた。

 

 再発させたワームに死後強まる念で紡ぎあげた術式を刻みこみ、さらにジャスミンの融合するオーラを合わせ、強化とつなぎの役割を持たせた。トクの技術の粋を集め、以前よりも災厄の力を安全に制御できるよう調整している。

 

「すげー、こんなイカしたプレゼントは初めてだ」

 

「すみませんね、もっと女子受けするようなやつが良かったですか?」

 

「いや、ありがたく受け取っとく」

 

 トクの体が薄れていく。ジャスミンと同じ運命をたどろうとしていた。

 

「じゃあ、また」

 

「ああ、またな」

 

 まるで気さくにその日の別れを告げる友人同士のように、二人は笑い合った。ベンチの片側に座っていた人影がなくなる。チェルは一つ、ため息をついた。

 

「……残ったのは、あたし一人か。何が特別だよ、まったく」

 

 クアンタムの特別小隊の一員に選ばれた彼女は、サヘルタの特殊部隊の中でも抜きん出た精鋭であった。アンダーム指令の推薦により隊長はグラッグが務めたが、彼亡き後、暗黒海域の帰路を行く調査団を本国まで送り届けた功績はチェル無くしてあり得なかった。

 

 後を託された者として、彼女は我武者羅に努力した。その果てに今の自分がある。

 

「強くなんかねーんだって」

 

 作り笑いが崩れる。肩が震える。形見を握り込む手の甲に、涙の雫が落ちた。

 

「みんながいたから……頑張れたんだ……」

 

 子供たちがいたから災厄にも取り込まれずに済んだ。親を失い、実験動物のような扱いを受ける子供たちに対して、必ず希望はあると教えようとした。そうすることが彼女自身の心の支えとなった。

 

 そして何よりも、チェルの隣にはいつもトクがいた。ちょっと斜に構えて冷静さを気取るところがある男だったが、熱くなりがちなチェルは何度も彼の助言に救われた。多くの仲間を失った彼女が最後まで苦楽を共にしてきた、たった一人の相棒だった。

 

 だが、もういない。誰もいなくなった。

 

 どれほど泣き続けただろう。チェルの体は徐々に薄れつつあった。近づいてくる電車の音にも気を留めることはなく、ただ喪失感にくれて座り続けていた。

 

 塞ぎこんだチェルの前に誰かの気配が現れる。彼女は顔を上げて確かめる気力も湧かなかった。

 

「どうしたらいい……? あたしは、どうしたらいいんだ?」

 

 知りもしない誰かに問いかける。だが、チェルはその質問がどれだけ無意味なものか、既にわかっていた。どんな答えが返ってこようと、自分の胸に響くことはないと思った。

 

 どんなに素晴らしい道を提示されようと、その先へ歩いて行くのは自分自身だ。自分にしか答えを見つけることはできない。その選択を他人に委ねようとした時点で、彼女はもう歩く気力を失っているも同然だった。

 

 ただ生きるという、それだけの道を彼女は歩めずにいた。座り込んでしまった。そんなチェルに目の前の誰かは一言だけ答えを告げる。

 

 一緒に行こう、と。

 

 手を取って立ち上がらせる。初めてチェルはその少女と目を合わせた。とても温かく大きな存在が、手と手を通してチェルへ流れ込む。滲み、ぼやけた彼女の輪郭を元に戻した。

 

 まだチェルには生きたいと願う意思が残されていた。だから、ここにいる。今はただ道の途中で立ち止まっているだけだ。

 

 もう一度その一歩を踏み出す勇気が。

 待ち受ける困難に立ち向かう不屈が。

 この暗闇の先に夢を思い描く希望が。

 

 少女の一言によって少しだけ満たされた。力強くつながれた手を引かれ、チェルは再び歩き始める。その足取りに、もう迷いは見られなかった。

 

 

 * * *

 

 

 三人を乗せた電車は発進した。森を抜け、空と大地の区別もつかない白い世界を走っていく。やがてその殺風景な空間に鮮烈な赤色が見え始めた。暗赤色の金属で作られた建造物が窓の外を過ぎ去っていく。

 

 巨大な赤い都市が線路の行く手に待ち受けていた。駅と呼ぶには広大過ぎる集積地を無数の電車が行き交っている。少女たちを乗せた電車を除いて全てが無人の箱だった。

 

 ドックのように仕切られた小さな区画に入って車両は停まった。客が乗り降りするスペースはない。これまでの停車とは明らかに違い、完全に動力が停止した状態となっていた。まだここが終着駅ではないはずだが動き出す気配は見られなかった。

 

 停まったと言うより、停められている。それは悪意を持った何者かの関与を示唆していた。

 

 



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88話

 

「ああ、良かった……どうやら神はまだ、私を見放してはいなかったようです」

 

 集積都市の中心地で一人の少女が王の到着を待っていた。キメラアントの生態に照らせば護衛軍に相当する階級、この群れでは『騎士』と呼ばれる蟻の一人だ。

 

 その名はルアン・アルメイザ。彼女が王の行く手を阻んだ。騎士を名乗りながら、その忠義は王にも女王にも向けられていなかった。

 

 この群れが暗黒大陸から旅立ち人類領海域まで到達するまでの間、この巨大な災厄の塊の中では熾烈な権力闘争が繰り広げられていた。精神世界における魂の削り合いとでも言うべき形なき戦いだった。

 

 その主体は三つの勢力に分けられる。一つはモナド、一つはルアン、そしてもう一つがクインである。ルアンはその闘争に破れた。ついにモナドは王位を手に入れ、この群れを統べる存在となってしまった。

 

 キメラアントの王は自分が生まれた群れから独立する生態を持つ。『王』だけが、この精神の迷宮となった災厄から抜け出し、外の世界で自我を持つことを許される。牢獄から脱するための『鍵』として王位は作り出された。

 

 群れの中で王に次いで強い権限を持つ騎士であっても、王の意識へわずかに干渉する程度の力しかなかった。モナドやルアンはそのわずかな意識の侵食から少しずつ穴を広げるようにして王位を奪い取ろうとした。

 

 だが、ルアンはモナドに後れを取った。もともと二人には明確な力の差がある。モナドの力はルアンとクインを同時に相手取ってようやく互角と呼べるほど強かった。災厄の底に深く根付き、何度抑え込もうとも無限に湧き出てくる。

 

 王位を奪われた今となっては何もかもが手遅れだと諦めかけていたルアンだったが、最後の希望が残されていた。その希望が今、彼女のもとへと近づいてきている。

 

 足止めされた電車から降り立った“二人目の王”が、ルアンのところへやって来た。

 

「あなたには何の罪もありませんが、こちらにも譲れない事情がありましてね」

 

 キメラアントの女王は一度王を産めばそれで終いというわけではない。定期的に王を産み続ける。それを考えれば二人目の王が誕生することも十分に考えられる可能性だった。

 

 しかし、この群れの場合はキメラアントの通常の生態がそのまま当てはまるような環境ではない。モナドが王となり群れの全権を支配した今、もはやその希望も尽き果てたかに思われた。

 

 最後の最後で王位の創出が間に合ったのだろう。この期を逃せば次はない。女王クインはモナドによって既に支配されているものと考えられ、次の王位が作られる可能性は皆無と言えた。

 

 ルアンにとっては最後の好機だ。まだ生まれる前の今ならば、実力行使によって直接王位を奪い取れる。ルアンは赤い金属で形成された二丁の無骨な銃器を構えた。

 

「その『鍵』を渡してもらえますか」

 

 王と王位は不可分のつながりがある。渡せとは言ったが、望んだからと言って譲り渡せるものではない。ルアンは新たな王位を得た少女の自我を殺すつもりだった。そうしなければ奪い取れない。

 

 銃口を向けられた少女は微動だにせず、ルアンを真っすぐに見つめていた。そこに敵意はない。命乞いも、抵抗もする気配はない。引き金を引けば容易く殺せるように思える。

 

 ルアンには少女が何を考えているのか読めなかった。それは、いまだ引き金に指をかけたまま撃てずにいるルアンの心境を見透かした上での行動か。少女は一言だけ言葉を告げる。

 

 ついて来いと、ただそれだけを伝え、ルアンに背を向けて元来た道を引き返していった。

 

 

 * * *

 

 

「は……え……なにこれ?」

 

 ルアンを連れて電車に帰って来た。ネテロは運転席の方でレバー的なものをがちゃがちゃ弄っており、座席で寝ていたチェルは目を覚ました。

 

 彼女らはこの電車から離れ過ぎると体が揺らぎ始める。本来なら彼女たちが存在できる場所ではないということだろう。どこか遠くへ飛ばされて戻って来られなくなりそうだったので、ここで留守を頼んでいた。

 

「よく来たな。わしはアイザック――」

 

「なんでただの雑務兵が二人もいるんですか!?」

 

「新入りのくせに態度がでかいやつじゃ」

 

 みんなで乗り合わせてここまで来ただけだ。これから全員で終点へ向かう旨を伝えるとルアンは愕然としていた。

 

「何を馬鹿なことを……あなたも理解しているはずだ。『王鍵』はただ一つ、新たな王位を得る者はただ一人です。全員が生きてここを出ることはできない」

 

 できる。

 

「できない! そんな甘さが通用するなら苦労はない! もうこれ以上、過ちを重ねるわけにはいかないんだ!」

 

 ルアンは銃を構えた。ネテロとチェルが動こうとしたが、それを目で制止する。銃口を額に押し付けられても、私には微塵の動揺もなかった。

 

 夢であるこの場所での戦いは精神の戦い。たとえ銃弾で撃ち抜かれたところで死ぬことはない。あるとすれば、より強い精神を持つ自我が生き残るという結果だろう。

 

 きっとルアンは強い。これまで断片的にしか彼女と関わって来なかった私は、ルアンのことをモナドの同類だと思っていた。確かにそういう側面もあるのだろうが、こうして直接対峙した今、私は彼女の人となりを感じ取ることができた。

 

 その目には信念がある。私よりもよほど王の素質を持っているだろう。彼女の言う通り、私は甘い。ネテロやチェルを見捨てていくことができなかった。

 

 だがそれでも、この鍵を渡すことはできない。連れて行くと約束した。何があろうと必ず、私はみんなをここから外へ連れ出してみせる。

 

「ありえない。そんなことできるはずがない」

 

 やってみなければわからない。現に今、私たちはここにいる。複数の自我を保ったまま、一つの命の方舟に乗っている。

 

「用意された肉体は一つだけです。そこに何人もの自我が同時に存在するなんてことはできない。あなたも実際に体験したはずだ。モナドに自己を乗っ取られる感覚を。苦痛なんて言葉で表せるものじゃない。ましてそれをこれだけの数――」

 

 ルアンは瞠目する。そして、静かに銃を下した。

 

 きっと彼女は私の考えていることに察しがついた。私が全てを承知した上で覚悟を決めていることに気づいた。

 

「自分を……そこまでして……」

 

 王位と王、鍵と私は不可分の存在だと聞いた。ならば都合がいい。私がみんなの『器』となる。複数の自我を肉体につなぎとめる役を担う。その器が壊れない限り、中身が誰だろうと王は王だ。

 

 しかし情けない話だが、その状態は長くもたないだろう。ルアンの言う通り、覚悟だけで全て解決できる問題ではない。自我が混在した状態ではすぐに限界が来る。だが、ちゃんとその先のことも考えていた。今はまだ話せないが、手立てはある。

 

 それよりも最も大きな問題はモナドの存在だ。これをどうにかできなければ全てが夢物語で終わってしまう。そのためには、みんなの力が必要だ。私一人では決して勝てないだろう。

 

 私はこの場にいる全員に力を貸してほしいと頼んだ。

 

「何のことかよくわからんかったが、要するにぶっとばしたい敵がいるということじゃな。力を貸すのは当たり前じゃ! なんせわしは大先輩じゃからな!」

 

「今さら改まって言うことかよ。初めっからそのつもりだ」

 

 ネテロとチェルは快諾してくれた。残るルアンからは返答がない。がくりと膝を着き、頭を垂れていた。ささやくような声で自問自答するように何かを考えを巡らせている。やがて、その言葉は私に向けられた。

 

「……あなたには謝っても謝りきれないことをたくさんしました。モナドを檻の外へ出してしまうくらいなら、あなたに代わって自分が王になるべきだと。そうしなければこの世界はいずれ滅茶苦茶にされてしまうと。たとえどんな理由があったとしても、あなたにとっては害悪でしかなかったでしょう」

 

 懺悔するように深々と頭を下げる。

 

「そしてまた、私はあなたから王位を奪おうとした。モナドの暴虐を止めるためには仕方がないと自分を偽っていた。本心では、どこか心の奥底では諦めていたんです」

 

 モナドは強い。たとえ王位を得てここから外へ生まれ出ることができたとしても、勝てる見込みは無いに等しいという思いがルアンにはあった。

 

「でも、あなたなら、できるかもしれないと思いました……モナドを倒せるかもしれない……! 奴もこんな事態は予想できないはずです。あなたには想像もつかない可能性を切り開く力がある……!」

 

 世界滅亡の阻止という崇高な目的だけがルアンを動かしていたわけではない。自分だけでも生きのびたいという欲はどうしても捨てきれなかった。そのために王位が欲しかったのだと、ルアンは告白した。

 

「恥知らずの騎士の戯言と思われるかもしれません。許される身ではないことはわかっています! ですが、どうか……私を連れて行ってください……! あなたのための力となることを誓います! モナドを止めるために、どうか……」

 

 そんなことは言われるまでもない。答えは先に出している。私はルアンに手を差し伸べた。また一つ、絆がつながれる。停まっていた電車が動き始めた。

 

 

 * * *

 

 

 次の駅へ到着した。集積都市を抜け、工場のような建物が立ち並ぶ区域に入る。おびただしい数の配管が通り、その全てが一つの大きな工場につながっていた。終点前の最後の停車駅である。

 

「この電車はあなたの自我に呼応する存在のもとへと進みながら終点へ向かっています。この駅で停車したということは、ここにあなたの為すべきことがあるということでしょう」

 

 私はルアンと共に電車を降りた。ルアンは階級が高いだけあって雑務兵よりも行動の自由が利くようだ。電車を離れても問題なさそうだった。

 

 工場の奥へと進んでいく。毛細血管のように張り巡らされた配管が収束していく。その先に、一つの大きな装置があった。稼働している様子はない。破壊されて内部の核に当たる部分が抜き取られているようだった。

 

「やはりクインはモナドの手に落ちていましたか」

 

 ここにいた自我はクインというらしい。階級は女王。名目上、この群れの長である。本来であればアルメイザマシンの全ての支配権はクインにある。だが、もしその通りであったならばモナドがこれほど増長することはなかっただろう。

 

「順を追って説明した方がいいですね。私たちの群れは暗黒大陸から海底を進み、人類領海域までやって来ました。それが私たち全ての個を吸収したアルメイザマシンの結晶体『深渦仙人掌甲冑(カーバンクル・ミスレイニ)』です」

 

 意識集合体のネットワーク上にのみ存在する『形なき上位者』によって作られた悪意の渦。死滅の連鎖を繰り返す末端意識が『死後強まる念』としてアルメイザマシンによって実体化した姿。

 

 言葉だけではそれが何なのか今一つ理解できなかったが、その結晶体は女王によって生み出され、彼女自身にも制御できない災厄の塊となってしまったようだ。

 

 クインは結晶体を止めるべく自らその中に身を投じた。そして結晶体の内部において災厄に取り込まれることなく、一定の秩序を築きあげることに成功する。

 

 この秩序の基盤となっているシステムがキメラアントの階級制度だった。女王、護衛軍、師団長、兵隊長、戦闘兵と続く階級は、蟻という種において絶対の区分である。この生物的特性を意識集合体に組み込むことで、女王として君臨したクインがネットワークの支配権を獲得した。

 

 そのとき、クインの夢を元にしてこの精神世界も作られた。渦の中で崩壊を免れた自我を掬い上げ、保護するための仮想空間だ。

 

 そしてクインは護衛軍に相当する二人の騎士を生み出し、その自我を固定した。結晶体全域の制御にもほぼ成功しかけていたらしい。しかし、そこに発生した不穏分子がモナドだった。

 

「最初は一つの自我にも満たない点のような存在でした。摂食交配の過程で取り込まれた異生物の残滓かと思い、気にもしていませんでした。ですが、奴はカビが増殖するようにじわじわと自我を拡大していった」

 

 モナドはこの群れにおける最古の意識体を自称した。粉々にすり潰されて音沙汰もなく消え去ったかに思われたその存在は『深渦仙人掌甲冑』と結びつくことで蘇った。悪意の渦と一体化し、クインが作り出した階級システムの支配権まで略取しようとした。

 

「クインは自分の意識を階級システムの構築と運用のために全てなげうった状態で深い眠りについていました。その隙を狙うように内部から異常発生したモナドに対抗できる状態ではなく、それを私ともう一人の騎士で何とか食い止めていたのですが……」

 

 モナドは騎士の位階を強引に取得するほど勢いづいた。色々あってルアンはもう一人の騎士と意見が合わずに袂を分かち、支配権闘争は泥沼の様相を呈しながらも着実にモナドの優勢へと傾いていた。

 

「そこから王であるあなたが生み出され、今に至るわけです」

 

 私は手の中にある小さな鍵を見つめた。具現化された王位であり、この精神世界から脱出するための鍵である。私を渦の中から引き上げてくれた誰かが渡してくれたものだ。

 

 もしかして、あの人がクインだったのだろうか。私の心には一つの疑問が浮かんでいた。

 

 なぜ私は生まれて来たのか。

 

 王位を与えるだけなら自分の騎士たちへ渡すこともできたのではないか。その方がずっと賢明ではないか。私という存在を新たに生み出す必要はあったのか。

 

 何のために私は生み出されたのか。

 

 私には欠落した多くの記憶があった。特に自分の出生に関する情報は伏せられていた。それは意図された処置だったのか。もしそうなら、何のために。何か隠さなければならないことでもあったのか。

 

「さあ、そこまでは何とも言えません。女王と意思の疎通が取れたのは最初期のわずかな時間だけでしたので……」

 

 ……別に気にするほどの意味はないのかもしれない。ただ単に技術不足などの理由で思い通りにできなかっただけとも考えられる。

 

 余計なことを考えるのはよそう。今はそれよりもやるべきことがある。ルアンに説明の続きを促した。

 

「クインは現実に生きた『本体』を持ちながら、唯一この精神世界と深くつながった存在でした。おそらく、モナドは現実世界のクインの本体を押さえています」

 

 現在もクインの本体はギアミスレイニのどこかで生きている。金属にして植物の性質を併せ持つキメラアントであるクインは、自らの卵を植物の胚に近い形へ変質させ、無酸素、無栄養環境での休眠状態を可能とした。

 

 彼女はネットワークシステムのコアであり、アルメイザマシンの最高管理者でもある。王位を得たモナドが真っ先にこれを掌握することは当然だ。いよいよ対抗する手段がなくなったとも言える。

 

「クインがここにいないということは、今の私たちでは干渉できない状態になっているものと考えられます。護衛の騎士がいたでしょうが、現実世界で肉体を得たモナドを相手にできることはありません」

 

 ルアンと共に生み出された騎士の一人、カトライ。どこかこの近くにいるかもしれないと手分けして探してみた。しばらくして瓦礫の下敷きになった少女の姿を発見する。

 

 助け出した後も意識はなかった。女王を守るために戦ったのか、精神力を大きく消耗した様子だった。色形が薄くなった少女の体を抱え上げると、少しだけ生気が戻ったようにも見えた。

 

「私とは違い、真っすぐに女王に仕えた男でした。道を違えた私に今さら言えることではないですが……心強い仲間です。彼が女王を守っていてくれたから、私は全力でモナドに攻勢を仕掛けられました」

 

 ルアンがカトライも連れて行ってくれないかと私に助命を願う。もちろん、そのつもりだ。クインはいなかったが、カトライだけでも連れて行こう。意識のない体を抱えて電車に戻る。座席に寝かせて、ネテロとチェルに簡単な説明を済ませた。

 

「カトライだって!? 本当にカトライ=ベンソンなのか!?」

 

 驚いたことにチェルはカトライのことを知っているようだった。さらにクインとも面識があったという。

 

「そうか……お前がずっとクインのそばにいてくれたんだな……」

 

 チェルにとっては浅からぬ縁のある人物だったようだ。先ほどまでまだ気分が落ち込んでいた様子だったチェルは、だいぶ元気を取り戻したように見えた。

 

 私はどういういきさつがあったのかをチェルに尋ねた。聞きたかったのはクインのことについてだ。なぜかはわからないが、私はクインのことを知りたいと感じていた。

 

「ああ、いいぜ。あたしたちがクインと出会ったのは……」

 

 走り出した電車の車内で揺られながら、チェルの思い出話にじっと耳を傾けていた。

 

 

 * * *

 

 

 電車は長いトンネルを進んでいた。暗闇がどこまでも続いている。もう停車駅はない。次は終点。この闇を抜けた先に『現実』が待っている。

 

 私たちは最後の決戦に向けて打ち合わせを進めていた。互いにできることを話し合い、作戦を立てていく。

 

「まず我々が直面することになる最初の問題は“どこに生まれるか”です」

 

 ルアンによればクインの本体が休眠状態に入ってからというもの、この群れの繁殖形態は産卵ではなく、専らウイルスの自己増殖によって行われている。

 

 死後強まる念を金属化して発生した本体が集まってできた結晶体が『深渦仙人掌甲冑』であり、それをモナドが乗っ取って操っている今の状態が『海底戦艦ギアミスレイニ』である。

 

 この場合、私たちが生まれて来る場所がどこになるかということは単純にして切実な問題である。群れのオーラが存在している場所にならどこにでも発生可能であるが、任意の場所を選べるわけではなさそうだ。生まれてみるまでわからない。

 

 そこで私は疑問に思ったのだが、王という特別な個体の発生となれば通常の繁殖形態とは異なることも考えられないだろうか。もし休眠状態下の無意識中でもクインが産卵可能だとすれば、女王が直接王を産むことはキメラアントの生態に照らしてみても自然である。

 

「その可能性も否定はできません。ただ、もしそうなったとしても、それが歓迎すべき事態であるかどうかは判断できかねます」

 

「なんでだ? クインのすぐ近くで生まれることができれば、それだけクインを助けやすくなって一石二鳥だろ」

 

「モナドは万が一にも誰かがクインと接触することがないよう、あらゆる敵を排除する態勢を整えているはずです」

 

 下手にクインのそばで生まれてしまえば、その瞬間に敵の罠にかかり殺されてしまう可能性の方が高いというわけか。モナドには、そこまでしてクインを自分のものにしたい理由があるのだろうか。

 

「あります。クインはギアミスレイニの心臓部であり、奴の唯一の弱点なのです」

 

 クインはまだ生かされている。クインの本体を殺すことは、彼女が作った階級システムの根幹を破壊することと同義である。そうなればモナドは王位を失い、ギアミスレイニは再び無秩序状態に陥ってしまう。

 

「女王の意識を覚醒させることができれば、アルメイザマシンの全機能強制停止命令を出すことができます。いくらモナドでもこの命令には逆らえません」

 

 モナドの転生を司る能力『終わり無き転生(ノーザデッド・ノーライフ)』は、死後強まる念をアルメイザマシンの力で実体化させることにより完成する。その能力の前提であるウイルスの機能を停止させてしまえばモナドを無力化できる。

 

 ルアンいわく、モナドは不死身を超えた不滅者。そもそも現時点で誰も太刀打ちできないくらいの実力があるというのに、殺してもさらに強くなって瞬時に復活する。倒す手段はない。クインを助け出すことが唯一の突破口である。

 

「ただし、当然ながらモナドもこのことは百も承知です。奴は必ず邪魔してきます。仮にクインのもとに無事辿りつけたとしても、彼女が『助けられる状態』である保証はどこにもありません。この作戦が成功する確率は……」

 

「あーもーいいって! ぐだぐだ言ったって結局やるしかねぇんだ。もうとっくに腹くくってんだよ、こっちは」

 

「要するに、クインとかいう寝坊助を叩き起こせばいいんじゃろ。そんな深刻に考えるほどのことではないわい。行ってみて、ダメならそのときじゃ」

 

 眠りについたクインはルアンやカトライの呼びかけに応えることはなかった。彼女の精神は今も悪夢の中に囚われ続けている。意思の疎通はできず、彼女はネットワークとシステムを取り仕切る処理装置になり果てていた。

 

 内側から発せられた声は届かなかった。しかし、現実世界から刺激を与えればどうなるかわからない。呼び声が届くかもしれない。やってみる価値はある。

 

「はい、もう弱音は吐きません。これまでは負け筋ばかり考えて何もできなかった。でも、これからは希望を信じたい。王を、皆を信じます」

 

 できるはずだ。今はまだ意識を失っているが、カトライも協力してくれるだろう。みんながいれば、きっとできる。

 

 トンネルの奥に、ぽつりと光が見えた。出口が近づく。眩い光が私たちを包み込んだ。

 

 

 

 

 

 “あ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あ    あ   あああ     

あ  

  い 

 

 

 

 や   だ

  

 こ      

 ん 

 

         な   の

 

 お  れ じゃ    

 

 

 ない   

 

 

 ぜ

 

   ん   ぶ 

 

 

  ゆめ

 

 

 

 た 

 

   

         す

 

 

 

 

                 け

 

 

   て

  

 

 

 

 ”

 

 

 

 

 “この世に『救い』なんてものは、ない”

 

 

 

 

 

 

 

 全身を強打する感覚により目が覚める。ここは、電車の中だ。事故を起こしたように急停止して、乗っていた私たちは車内の壁に叩きつけられた。

 

 その直前、私の中に誰かの記憶が入ってきた。まさに自分の身に起きたことのように追体験した。おそらく、それはモナドの過去だった。

 

 モナドとは、どのような存在だったのか。女王クインが“どのようにして”生まれたのか。その始まりの記憶、目を背けたくなるような真実が脳を冒すように流れ込んできた。

 

 異形の虫に体を蝕まれ、胎を穢され、死ぬこともできず、自分の中で育つおぞましい何かを拒絶し、助けを待ち続けた。何度も何度も数え切れないほどの助けを呼んだが、誰も来なかった。

 

 孤独だ。苦痛も嫌悪も憤怒も、最後は全て孤独に行き着く。死に至るまでの感情の変遷が克明に焼きつけられた。自分自身ではなく、モナドとして体験した記憶の追想に抑えきれない吐き気を催す。

 

「うっ……何だったんだ、今のは……あたしたち、どうなったんだ……?」

 

 顔色を見るに、私以外のみんなも同じ体験をしたのだろう。車内を照らす蛍光灯は数本が弱弱しく点滅するのみだった。その光を反射する車窓が私たちの姿を鏡のように映し出す。窓の外は真っ暗だった。

 

「そんな、まさかこれは」

 

 ギチギチと、無数の虫がひしめく音がする。電車の下部から這い上がってくる。モナドの記憶にあった虫だった。それが車外を埋め尽くすほど集まっている。

 

「キモイのじゃああああ!? ちょっと行ってぶちのめしてくる」

 

「やめろ! 中に入って来るだろうが!」

 

 電車の至る所から外装をかじり取る音が聞こえ始めた。このままでは食い破って入って来るのは時間の問題だろう。

 

「モナドめ……! 奴の能力は魂の転生に大きく関わっている……もしや自分以外の生まれ変わりを認めないつもりか!? 王位を持つ存在ですら、奴の支配からは逃れられないというのか!?」

 

 生まれることさえ許されないとは。考えても都合よく名案が浮かんでくることはなかった。なんとかしなければという思いと、どうしようもないという気持ちが混ざり合う。

 

 みんなを連れて行くことはできないのか。約束したのに。こんなところで終わらせていいわけがない。

 

 暗く塗りつぶされていく心の中で、『諦めるのか』と誰かが問うた。それは自分自身の内から生じた言葉ではなく、確かに別の誰かから投げかけられた問いだった。

 

 



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89話

 

『こんなものは己の弱さを受け止めきれず、不幸の根拠を他者に押し付けただけの独りよがりに過ぎん』

 

 頭の中に響く声があった。電車の中にいる誰かが話しかけたわけではない。周りを見回したが、この声が聞こえているのは私だけのようだった。

 

 私は光の粒を見つけた。ペンの先ほどもない小さな粒だ。それが私の体に触れ、そこから思念が伝わってくる感覚があった。

 

『数多の因果律をひも解いたが、余がこの精神の迷宮から脱する可能性は一つとしてなかった。どうやら、その“鍵”はお前の手の中にあるようだな』

 

 私は握りしめていた鍵を見つめる。クインが渡してくれた王位の鍵、それが夢として表象された形である。

 

『一人では何もできない様子の軟弱者を王として認めるつもりはないが、貴様に委ねる他に道はないようだ。お前には王として生まれる強固な運命がある。その因果は余が引き寄せてやろう』

 

 停まっていた電車が少しずつ、音を立てて動き始めた。車体の外に群がっていた虫たちを押し潰して、ゆっくりと前進する。

 

「動いたのじゃ! なんか知らんが助かったのか!?」

 

「なぜ急に……? いやしかし、これならば行けるかもしれません!」

 

 電車は徐々に速度を上げて走り出した。私はようやく気づく。独りでに動き始めたわけではない。誰かが後ろから、電車を押してくれている。

 

 助けられた。まだこの空間に、自我を保った何者かがいる。電車のすぐ外にいるのだ。だったら、このまま一緒に……

 

 

 

『二度言わすな。行け!』

 

 

 

 線路は下り坂に入り、電車は滑るように加速していく。闇の向こうにかすかな光が見えた。今度こそ本当の出口だ。

 

 その先に、避けては通れない戦いが待っている。このまま生まれることが幸か不幸かを考える余地もない。何があろうと進む覚悟はできている。

 

 だが私は、その光と逆の方向に走っていた。電車の後方へ。そこにいるはずの誰かのもとへ。最後部の窓を叩き割り、車外に手を伸ばす。

 

「貴様……これは何のつもりだ」

 

 そこにいたのは不思議な容姿をした人だった。人間とは違うのかもしれない。見覚えはなかった。モナドが殺したNGLの亜人型キメラアントだろうか。

 

 かなり精神力を削り取られているのか、映像が乱れるように形を保てなくなりかけていた。私はその人の手を掴み、つなぎとめる。

 

「王とは至高にして孤高なり。二頭はいらぬ。敗者は潔く死ぬのみだ。くだらん情けをかけるな。この手を放せ」

 

 その人は怒っているようだった。私は助けたつもりだったのだが、余計なお世話だったらしい。彼はこの先へ進む気がない。それは諦めではなく、確固たる意思に基づいて決断したことなのだろう。彼の目には揺るぎない誇りが宿っている。私のしたことは彼の誇りを汚す行為だった。

 

 線路の勾配はどんどん急になり、もはや垂直の壁を落下しているに等しい速さで走っていた。私の体がその勢いに引かれて割れた窓から車外に飛び出そうになる。

 

 だがそれでも、つないだ手を放さなかった。この人に譲れない何かがあるように、私にもある。助けてくれた人を見捨てて先に進むことなんてできない。

 

 たとえ相手の誇りを汚すことになろうとも譲る気はなかった。必ず連れて行く。私たちは互いの信念をぶつけるように視線を交わし、睨み合う。

 

「おい、大丈夫か!? 誰かそこにいるのか!?」

 

「もうすぐ出口じゃぞ! さっさと中に戻るのじゃ!」

 

 そこへ他の乗員たちが集まり、みんなで私の体を掴んで引っ張り戻そうとしてくれた。つないだ手が放れることはない。“みんな”が一つになる。抵抗していたキメラアントの誰かも、もろとも引きずり込んでいく。

 

「くっ……くく……まさかこの余までも巻き込もうとは、なんたる傲慢、いやただのお人好しか……やはり貴様は“王の器”ではない。だがまぁ……“人の器”ではあるようだ」

 

 しっかりと掴んだ私の手を通して、その人の姿が描き換わっていく。グリッチノイズと共に少しずつ、少女の姿に変わっていく。

 

 名前も知らない誰かだが、最後に連れて行くことができた。その思考を読んだかのように彼は自らの名を告げる。

 

「余の名は――」

 

 電車がトンネルの闇を抜けた。白い光が世界を満たした。

 

 

 * * *

 

 

 夕焼け空の下、メルエムとの戦闘を終えたモナドが立ち去って行く。その背後で、結晶化して死亡したはずのメルエムの遺骸の方からかすかな物音がした。

 

「……?」

 

 モナドは振り返って確かめるが、特に異常は見当たらない。気のせいだったかと思うと同時に、どこかもやもやとした収まりの悪さに苛立つ。

 

 メルエムが最後に繰り出そうとしていた攻撃に、モナドはこれまでにないほどの危険を感じていた。何が起きようと負けることはないと確信はしていたが、警鐘を鳴らす直感が働いたことは事実だった。

 

 しかし、蓋を開けてみれば警戒するほどのことは何も起きず、当たり前のようにメルエムは死んでいる。何の脅威も感じない。ただの考え過ぎかと思いなおし、今度こそ帰路をたどろうと背を向けた。そのとき、はっきりと結晶が砕け散る音が響き渡る。

 

「なに――!?」

 

 振り返ったモナドは見た。自分と同じ容姿をした銀髪の少女がいる。その手が緩やかに、空を流れる雲のように悠々と弧を描き、自らの胸の前で合掌の形に相結ばれた。

 

『千百式観音』

 

 少女の口から紡がれた言葉は、実際に発せられたものではなかった。モナドは少女の一連の動きをつぶさに目で捉えていたように自分では思っていたが、それは極圧縮された時間感覚の中で走馬灯のごとき思考に陥った脳が予測から作り上げた虚像に過ぎない。

 

 真の強者だけが到達する時間感覚の矛盾である。すなわち、攻撃はもはや完了していた。

 

『九九九の掌(せんたらずのて)』

 

 モナドを取り囲むように現れた四体の巨大な千手観音像が、その全ての手を用いて繰り出す掌打の嵐。夜空を照らす星々が一斉に落下してきたかのような衝撃がモナドの肉体を破壊し尽くし、それでもなお再生を許さぬと地表を抉りながら無数の掌打を放ち続ける。

 

 その後方で、少女はメルエムの結晶体から何かを取り出していた。彼が最後に手にした赤いサボテン。その中から一匹の虫が生まれ出る。その虫を肩に乗せ、少女は飛ぶように駆けた。

 

 行く手には海底戦艦ギアミスレイニがある。この巨大な目標物を見失うはずもない。木々の上を一直線に駆け抜ける。足場にした枝から一枚も葉が落ちることはなく、風にそよいだかのように揺れるだけだった。

 

 戦艦に乗り込むべく大跳躍した少女を待ち受けるように、いくつもの砲門が照準を合わせていた。甲板上に設置された砲塔から青白い光が放たれる。その砲は全てレールガンだった。

 

 戦艦主砲『青錆槍(ケラウノス)』に比べれば遥かに威力は落ちるが、それでも個人に向けて発射するような代物ではない。集中砲火を受ければ元の景色が皆目わからなくなるほど地形を塗り換える威力を持つ。

 

 直撃を受けずともその衝撃の余波だけで挽肉にされるだろう。その無慈悲極まりない破壊兵器を前にして、少女は手にオーラを集めた。念弾が形成されていく。

 

 その大きさたるや尋常ではない。数メートルにも達する巨大な光球となる。怒りを破壊のエネルギーに換えることで実現した規格外の念弾。

 

 さらにそこから少女はもう片方の手で祈りの所作を取る。彼女の背後に現れた観音像が繰り出した張り手は、あろうことか術者である少女自身を空中で弾き飛ばした。

 

 いかに初速マッハ15を誇るレールガンの一撃であっても、それは発射された後の話である。観音像の音速を凌駕する張り手によって自身を砲弾と化した少女は、敵の予測を超えたスピードで空を飛ぶ。その手にある念弾を発射せず抱えたまま、盾にして突き進む。

 

 わずかに遅れたレールガンの掃射を切り抜ける。ソニックブームにより体を切り裂かれながらも少女は飛んだ。ついに戦艦の装甲に辿り着いた彼女は念弾を発射する。ゼロ距離で撃ち放たれた太陽光球が炸裂した。

 

 その威力はアルメイザマシンの強化装甲を打ち破り、船体表面に穴を開けた。しかしその直後には修復が行われ、瞬きする間もなく穴は元通りに塞がれてしまう。

 

 だが、既に少女の姿はここにはない。風穴を開けると同時に念弾の業火に飛びこみ、艦内への侵入に成功していた。

 

 

 * * *

 

 

『やりました! 第一段階はクリアです!』

 

『まだ喜ぶのは早い。ここからが正念場だぞ!』

 

 ギアミスレイニの内部に入った。その時点で、私の精神は千切れ飛ぶ寸前の状態であった。

 

 自我の混濁、精神の散逸。わかっていたことだが、あまりにも大きな負荷だった。幸いにも私の体に便乗しているだけの他のみんながこの負担を負うことはない。ここで私が力尽きたとしてもみんなの魂が傷つくことはない。

 

 だが、それでは何の解決にもならない。再びあの精神世界へ戻されるだけだ。きっと、みんなの力が結集した今しかモナドに対抗する機会はない。私は必死に散らばりそうになる自我を掻き集め、器の形を保っていた。

 

『王の様子がかなり辛そうなんじゃが……大丈夫か!? 吐きたいときは我慢せん方がいいぞ!』

 

 しかし、モナドに自我を侵食された時と比べればまだ楽だ。みんなは私のことを害するような意思を持っていない。一心同体となりこの局面を共に乗り越えようとしている。みんなの気持ちが私の精神をつなぎ止めている。

 

 私は少女の手の中にあるものを作り出そうとしていた。念能力による具現化である。艦内を走りながら作り出してはやり直す。何度も失敗を重ねるが、諦めずに挑戦する。

 

『それはいったい……何を作ろうとしているのです?』

 

 悪いが、受け答えする余裕はなかった。しかし、言葉はかわせずとも心がつながった私の感情はみんなに伝わっているようだ。きっとこれはこの先、必要となるものだ。変化系である私なら相性の良い具現化系能力にも適性があるはず。何とか間に合わせて、完成させてみせる。

 

『おいメルエム、クインの居場所はわかったのか?』

 

『気安く呼ぶな。言われずとも『円』で探知している。だが、向こうも『共』とやらでこちらの探知に気づいているようだ。女王は艦内を目まぐるしく移動させられている』

 

 メルエムは光子状のオーラを放散して広範囲の円を行使できる。その規模は裕にこの戦艦全域を網羅していた。通常の円は遮蔽物などがあればその向こう側に届かせることは難しいが、メルエムの光子は壁を透過してその先を確認できるレベルに成長したらしい。

 

 こちらの動きに先行してクインの場所を移動させられていては、いつまで経っても到達できない。後はメルエムの能力に任せるしかなかった。

 

 その能力は因果律操作である。起こり得る可能性を強制的に掴み取り、引き寄せて発生させるという凄まじい力である。ただし、何でもできるというわけではない。それができたらわざわざ戦艦に乗り込んではいない。

 

 自らが起こし得る可能性、かつメルエムが『未来視』で確認し、確定した可能性しか実現できない。望む未来を見つけ出すことができなかった場合は、その時点における事象の発生確率がゼロであることを示している。

 

『女王のもとへ辿りつく未来は捕捉した。やろうと思えばいつでも引き寄せられる』

 

 メルエムの力があれば、今すぐにでもクインの近くに飛ぶことができる。だが私には懸念があった。最初はクインのところに行ってみれば何とかなると根拠なく考えていたが、やはりそれは短慮というものだ。軽く決められることではない。

 

『忠告しておくが、一度女王のもとへ飛べばモナドは本気でこちらに警戒を向けてくるだろう。その状態からもう一度、同じように未来を引き寄せることはおそらく不可能だ』

 

 チャンスは一度切りだ。やはり無策では挑めない。今すぐには飛べない。メルエムには能力の行使を保留してもらうように伝える。

 

『よかろう、待ってやる。だが余にできることはお前を女王のもとへ連れて行くことだけだ。その先の未来を見ることはできなかった』

 

 つまり、そこで終わり。それより先の未来はなく、死を迎える結果がある。しかし、それはメルエムから見た限られた未来であり、他の誰かが起こしうる可能性まで完全に把握できたわけではない。メルエムにはクインを助けることはできないというだけだ。

 

 そこから先は、私の仕事だ。私にしかできないことだ。

 

『王よ、少し前にあなたは『なぜ自分は生まれたのか』と私に問いましたね』

 

 ルアンはその答えをずっと考えていてくれたようだ。私は走りながら、能力を試行錯誤しつつルアンの言葉を聴く。

 

『もしかすると女王は、自らを眠りから目覚めさせる存在として王を生み出したのかもしれません』

 

 暴走した結晶体に囚われてしまったクインは、その本意を誰かに打ち明けることなく眠りについた。結晶体は人間の世界を目指し、海の底を進んだ。そして目的の場所に到達したとき、私を産み落して事切れたように海底で動きを止めた。

 

 結晶体のネットワークを掌握したクインだが、深く関わり過ぎてしまったがゆえにそこから脱出することができなくなったのではないか。だから、外部から誰かの手によって本体を休眠状態から目覚めさせる必要があった。ネットワークの外に出ることができる存在、王にその役目を持たせたのではないか。

 

『だとすれば、モナドというイレギュラーさえ除けば、この状況は女王が想定していた事態と言えます。女王を目覚めさせる方法があるということでしょう。そうすればこの悪夢は終わります』

 

 ルアンは私に希望を持たせるために言ってくれているのだろう。私は混濁する意識から力を振り絞ってルアンにあることを尋ねた。なかなかうまくいかなかったが、何とか言いたいことを伝えることができた。

 

『強制停止命令ですか? いえ、ネットワークシステムの管理についてはアルメイザマシンにもともと備わった機能ではありません。クインが自身の念能力である『精神同調』によって作り上げたものです』

 

 それを聞いて安心した。今、私が作り出そうとしている新たな念能力が完成すれば、おそらくクインを助けだせる。

 

 新能力を作るための時間をゆっくりと確保できなかったことが悔やまれるが、この追い詰められた極限状況下において、ようやく固まったビジョンでありアイデアだった。

 

『気をつけろ。この近くに、奴がいる……!』

 

 走るのを止めて速度を落とす。同じ場所に留まり続けるよりも走りまわっていた方が少しは安全なのではないかと思ったが、そんな小細工は無意味だろう。いくら駆け回ったところでクインのところに近づくわけでもない。

 

 見渡す限り真っ赤な内装は、まるで内臓の中を進んでいるかのような気味の悪さを感じさせた。戦艦の外観はある程度精巧に造られていたが、内部はそこまで気にしていないのか壁も床もぼこぼこしている。

 

 実質、ここは内臓のようなものだ。敵の腹の中に自ら飛びこんでいるに等しい。安全な場所なんて存在しない。敵がすぐに襲ってこないのはただの気まぐれだった。そして、同じように戦いもまた気まぐれに始まるものだ。

 

「驚いたァ。驚いたなァ! どこの誰かと思ったよ。シックスなんだよね?」

 

 通路の壁がぐにゃりと曲がり、大きく広がっていく。入口も出口もない一つの広い空間となった。その決闘場で、二人の少女が向かい合う。

 

「まさか王がもう一人生まれるとはね。俺の能力で門を塞ぎ、新たな転生者を出さないようにしていたはずだったんだが……やはり王は特別か。妙な力に目覚めてるみたいだし、どういうことなのかな? 気になるなー?」

 

 オーラの光子を散らし、モナドの感情図を読み取る。圧倒的な自信が7割、他者を見下す蔑みが2割、そしてわずかな警戒心が1割。微塵も疑うことなく勝利を確信している。事実、それだけの強さがある。その強者の驕りだけが付け入る隙と言えた。

 

 私は祈りの合掌の構えを取った。それに合わせてモナドはこちらを小馬鹿にしたように全く同じ構えを取る。

 

「まあ、別にどうでもいいんだけどね。どうせお前はここで死ぬ」

 

 『壱乃掌』の型が発動し、観音像より振り降ろされた片手がモナドを虫のように叩きつぶした。

 

 全く手ごたえがない。モナドはオーラで防御しようとしていなかった。絶のまま攻撃を受けて即死する。初めから防ぐつもりがなかったのだと気づく。

 

 その直後、私の背後にモナドが出現した。奴は何度死のうと蘇る。そして、ここは奴の本体の内部である。どこにでも少女の念人形を生み出すことができた。

 

 モナドの握撃が迫る。獲物に食らいつくように握りこまれる掌を逸らす。互いの体が組み合ったこの距離では千百式観音は使いにくい。もう片方の手でこちらも握撃を繰り出した。そして、向こうもこちらと同じように逸らしてくる。

 

 握りこまれた掌の中で瞬間的に跳ね上がる摩擦力が小爆発を引き起こした。その衝撃で互いに吹き飛ばされる。間髪入れずに私は合掌した。『参乃手』の型が発動し、音速を超越した掌打の挟み撃ちにモナドは反応できず押し潰される。

 

「ひゃははははは!! 残念でしたぁ! 百式観音破れたり!」

 

 確かにモナドは観音像の速さに追いつけていない。だが、それに抵抗せず自死を選ぶことで攻撃を無意味とし、さらにノータイムで神出鬼没に復活するという狂気の荒技をもってねじ伏せてきた。

 

『まさかこんな方法で対処されるとは思わなかったのじゃ……』

 

 ネテロの能力を無暗に使えば逆に不利となる。接近戦に持ち込まれ、打ち合わされる拳打は時に握撃を織り交ぜて絡み合った。見えない巨獣にかじり取られたかのように、互いの体が抉り取られる。噴き出す血が宙で混ざる。

 

 単純な実力は全く同じだ。しかし、モナドはまだ赤い鎧を身に纏っていない。奴にとってはこの戦いも子供じみた戯れだ。

 

「お前の目的はわかってんよ? クインを取り返せば俺を止められるとか考えてるんでしょ? いいよ。やってみなよ。この念人形の俺を倒すことができれば、クインのところまで案内してやろうじゃないか」

 

 モナドの感情図は、意外なことに奴が嘘をついていないことを表していた。つまり、約束を守る気でいる。まずもって奴は自分の念人形が倒されることはあり得ないと確信している節はあったが、その上でもし万が一にも負けを認めるようなことがあれば、正直にクインのもとまで連れていく気があるようだ。

 

 だが、それはモナドが仮に敗北したとしても構わないと思っていることの証左だった。予想通り、クインの本体に会うことができたとしても、こちらから干渉できる状態にないものと思われる。今のクインは完全に奴の支配下にある。

 

「さあ、頑張って! もっと楽しもうぜ! キングVS.キングの頂上決戦だぁ!」

 

 もとより不滅のモナドからしてみれば敗北条件なんてものは存在しない戦いである。そう思い込んでいるからこそ、私たちには勝機がある。念人形同士の一対一形式で戦ってくれるというのなら望むところだ。

 

 こちらの目的は戦いを制することではなく、私の能力開発が間に合うかどうかにかかっている。新たな発『王威の鍵(ピースアドミッター)』が完成したとき、私たちは勝利する。だが、それには今しばらくの時間が要る。

 

『任せろ、そのためにあたしたちはここまで来たんだ』

 

 こちらの意図を汲んだように少女の左目が動いた。切り替わった片目の視界は、この世ならざる時空を捉える。哄笑し、まさに飛びかかろうと地を踏みしめていたモナドの体に重圧の負荷が襲いかかった。

 

「……ちっ、この力は……」

 

 初めてモナドが不快げな表情を見せた。奴は別に脅威を感じているわけではない。ただ、自分がまだ手にしていない別の災厄の力を私が使っていることに苛立ったのだろう。

 

 モナドの動きが鈍る。そこに三次元の空間歪曲を発生させた。下手に殺すと転生されるので機動力の要である脚部を中心的に狙う。

 

「ぬおおおお!? おめええええ! めっちゃからだがおめえええよおおおお!! あははははは!!」

 

 互いに実力が拮抗していたところ、モナドにのみ加わった重圧によって一気に流れはこちらに傾く。超重力の負荷の中、それでもモナドは恐ろしい身体能力をもって果敢に攻勢を仕掛けてくるが、重力操作と空間歪曲を合わせた足止めを前に攻めきれずにいる。

 

 あのモナドを一時的に押さえこめている。さすがは災厄の力と言ったところだが、奴はまだ本気を出していない。明らかに遊んでいる。

 

 攻撃に必要な質量は床から吸い取っているが、ギアミスレイニに影響はないだろう。モナドは無から金属を際限なく生成できるため、質量も無限に生み出せる。だが、それで構わない。

 

『左目の制御はあたしが引き受ける! 敵はこっちで食い止めるから、お前は自分のやることに集中しろ!』

 

 私はモナドから距離を取り、能力の発動を実践する。その手に鍵を具現化しようと試みる。夢の中で見た小さな鍵。閉ざされた扉を開く、自由の象徴を。

 

 







次回、モナド戦決着。


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90話

 

 意識を集中し、頭の中に浮かんだイメージを念によって形作る。モナドに気づかれないように手の中に隠して作った。しかし何かそれらしい物体は出て来るのだが、はっきりとした形になる前にオーラが霧散してしまう。完成には程遠い。

 

 具現化系の発は、一般的に全ての系統中で最も習得までに時間がかかると言われている。このわずかな時間のうちに完成させようというのが、まず普通なら考えられない暴挙である。

 

 だが、やるしかない。私が欲しいものは『鍵』そのものではなく、その物体に由来する特殊能力を付加できる点にある。それこそが具現化系能力の真骨頂だ。他の系統で代用はできそうにない。

 

 頭ではわかっているが、しかし現実は非情だった。今もチェルが重力操作でモナドを足止めしてくれている。その間も具現化に失敗し続け、貴重な時間をただ浪費していく。

 

『焦ってはいけません。具現化したいものを作ろうと意識し過ぎると、かえって逆効果です。この状況では難しいかもしれませんが一旦、頭を空っぽにしましょう』

 

 ルアンが習得の指南をしてくれるようだ。その言葉に従い、瞑想の手順を踏む。ビスケとの修行で培った基礎が活きた。忙しなく行き交っていた思考が静まり返る。

 

『具現化系の修行は、その『物』のイメージをとにかく明確にすることに尽きます。今から私がその物に関する質問をしていきます。心の中でいいので即答してください。考えたり悩んだりしてはいけません』

 

 ルアンの能力『並列思考(マルチタスク)』によって意識が広がっていくような感覚を得る。より複雑に、それでいて深く、無意識に近い状態で瞑想が可能となっていく。

 

 ルアンは鍵の形や大きさ、材質や色などについて質問をしてきた。私は言われた通り、即座に心の中で答えていった。少しずつ、水鏡に像が映し出されるように揺らぎながらもイメージが形を取り始める。

 

 次第に質問は形状に関するものではなく、抽象的な内容に変わって行く。心理テストのように一見して何の関係もなさそうな質問がされることもあるが、不思議と答えていくうちに鍵の像が固まっていく。

 

『もう一度、同じ質問をします。あなたはそれにどんな印象を受けますか?』

 

 自由、束縛からの解放、個の承認。

 

『あなたの手の中にそれはあります。それを使って何をしますか?』

 

 クインを助ける。

 

『なぜそうしようと思いましたか?』

 

 ……。

 

 なぜ?

 

 みんなを助けたいから。モナドを止めたいから。色々と答えは思いつくが、何か違う気がした。聞かれているのは、その根本の理由だ。なぜそうしたいのか。助けたいから助けたいでは答えにならない。

 

 答えに詰まるほどに、せっかく思い描けつつあった鍵の像が乱れていく。あと少しで完成しそうだった。ここまで来て振りだしに戻りたくないという焦りが、より一層イメージをかき乱していく。

 

 そこへ追い打ちをかけるように、左目に激痛が走った。

 

『くそ……すまん! 限界みたいだ!』

 

 左目の視界が神字に似た式らしきもので覆い隠された。このワームの力を宿した眼球には一定期間内の使用限度が決められているらしい。無理に使おうとしてもうまくいかないどころか、ワームを目覚めさせる危険があるため、念の術式によってセーフティがかけられている。

 

『一旦、具現化のことは置いてモナドの対処に切り替えましょう! すみません、私も戦闘方面で何か力になれれば良かったのですが……』

 

 ルアンはモナドとの戦いに備えて様々な兵器の開発を手掛けていたらしい。だが、それらは全てアルメイザマシンを使って作り出すものだった。今の状態では使うことができない。

 

 この体は私の意識を主人格としている。そのため前に習得した念能力を使うことができるのだが、それに付随して誓約の縛りも受け継がれている。『アルメイザマシンを使えば死ぬ』という誓約がまだ続いているのだ。

 

 ルアンは何も悪くなく、謝るべきはむしろ私の方だろう。それに彼女の知識があったからここまで作戦を立てることができた。具現化能力の引き出し方も教えてもらえた。最後で躓いてしまったが、感覚を捉えることができた。居てくれるだけでありがたい。

 

「おや? おやおやおやぁ? もしかしてもうバテちゃった? じゃあ、次はこっちのターンだな!」

 

 モナドの近くの床が変形し、台座と箱のような物体がせり出した。モナドはその箱の中に手を突っ込んで何かを漁っている。隙だらけだが、奴の邪魔をしても意味がない。調子に乗せておいた方が扱いやすいだろう。

 

「なかなか面白い能力を身につけて来たようだが、レパートリーなら俺も負けてないぞ。俺の場合は“渦に飲み込まれた自我”の能力を取り出せる。さあ、念能力ガチャの時間だ! ダララララララ……ジャン! 最初の能力はこちら! 『花鳥風月(シキガミ)』!」

 

 モナドは箱から取り出した紙切れを開いて読み上げる。するとその紙が一匹の念鳥に変化して飛び立った。が、すぐに力尽き落下して動かなくなる。

 

「なんだこりゃ宴会芸か!? 大ハズレじゃねぇか! 使えねー!」

 

『テメェ……!』

 

 チェルが怒っている。これは彼女の仲間であったトクノスケという人物の能力だったはずだ。陰陽道という特殊な念体系と、古神字と呼ばれる術式を駆使して念鳥を作り出す。そういった知識の下地がないモナドが能力だけ取得しても使いこなせるものではない。

 

 箱からクジを引くような行動にも意味はない。あらかじめ用意していたのだろう。結局は茶番だ。

 

「気を取り直して、次のガチャだ! ダララララララ……ジャン! 今度の能力は『打ち滅ぼす者(スラッガー)』! さあて、こいつはレア能力なのか!?」

 

『ブッチャの能力まで奪ったのか。気をつけろ! 奴が打ち出すボールには防御貫通能力がある。抵抗する力が大きいほど威力が増すぞ!』

 

 アルメイザマシンで棍棒とボールを作り出したモナドは、バットのようにフルスイングしてボールを打ってきた。真っすぐ飛ぶだけの球をかわせないことはない。あっけなく回避に成功し、ボールは壁にめり込んだ。

 

 しかし、壁の中をぼこぼこと貫通して離れていったボールだったが、軌道を変えて戻ってきたのか今度は床から突きぬけるようにしてこちらを狙ってきた。

 

 それもかわしたが、天井にめり込んだボールは同じように戻ってきて執拗に私を狙い続けてくる。その繰り返しだ。しかも、ボールの勢いは衰えるどころかどんどん加速していく。

 

「オラァ! 地獄の千本ノックだ!」

 

 さらにモナドが追加球を打ち出してきた。四方八方、縦横無尽に剛速球の群れが迫る。特に、このボール同士が正面からかち合った時の衝撃は凄まじい。チェルの言う通り、防御しようとすればそれ以上の力が発生して突き破ってくる。

 

 本体の装甲でもまともに当たればダメージを受けるだろう。モナド自身もまたこの攻撃によって全身を幾度となく貫かれているが、一向に気にせず球を打ち続けている。

 

『うろたえるな。円を使え』

 

 メルエムの光子状オーラが壁に浸透し、その向こう側の状況まで詳細に伝えてくれた。ボールがどの方向から飛んでくるのかわかれば対処は容易だ。

 

 どうやら障害物を掘り進む際の抵抗によってボールは速度を得ているようだが、際限なく加速しているわけではない。ある一定以上の速さになるとモナドにも操作が効かなくなるのか、ボールはどこか彼方へ飛んで行ったまま戻ってこないようだ。

 

 広範囲に展開された円が全てのボールの軌道を把握した。多少、少女の肉体を削られたところですぐに修正は効く。本体にさえ当たらないように気をつければ問題ない。モナドもこちらが対処できていることに気づいたのか、しばらくしてノックの乱れ打ちを止めた。

 

「これもハズレかー! 次だ次! 次こそ激レア能力が来るはずだー! ダラララララララ……ジャン! おおっとこれはぁ? 『元気おとどけ(ユニゾン)』だってさ? かわいらしいネーミングだが、果たしてその効果やいかに!?」

 

 モナドは新たな能力を発動させたようだが、見た目に特別な変化はなかった。凝をしてみても異常は見られない。

 

『これはジャスミンの能力……いや待て、確か今のあたしらってアルメイザマシンを使ったらヤバいんだよな!? だとしたら……まずいかもしれない! すぐに円を解除しろ!』

 

 円のオーラを解くと同時にモナドが狂笑を浮かべながら接近してきた。

 

『かわせ! 防御もダメだ! 攻撃を受ければ死ぬぞ!』

 

 理由はわからないが、チェルの言葉を信じた。突き出される拳打を必死に回避する。紙一重でかわしていく。万全の状態で互角に戦い合った敵に対し、相手に触れてはならないという一方的な制限をかけられては不利どころの話ではない。手も足も出ず、死に物狂いで回避し続ける。

 

「あれぇ? なにその反応。もしかして知ってんのか? でもさぁ、必死こいて避けたところで意味ないんだよね。お前、ここがどこだかわかってるか?」

 

 モナドは攻撃の手を止めた。私はすぐに距離を取ったが、喉元に刃を突きつけられたかのような危機感は消えなかった。

 

 ここはモナドの本体の中にある。この空間そのものがモナドの体内、支配領域だ。奴のオーラが空気中に充満している。いわば、こちらは全身を触れられているに等しい状態だった。

 

「ジ・エンドだ! ばいばいシックス!」

 

 私の体表に張り付くように赤い金属の膜が生じた。アルメイザマシンの感染と劇症化の反応が表れようとしている。それは私の誓約に反する現象だ。モナドの狙いに気づいたところで手遅れだった。

 

『……強制的にアルメイザマシンに感染させる能力だったのですね。ですが、そういうことなら』

 

 表皮に張り付いていた膜はそれ以上成長することなく剥がれ落ちていく。私はまだ死んでいなかった。

 

『手前味噌ですが、このウイルスの抑制プログラムの開発者は私でしてね。対モナド戦を見据えて用意しておいたソフトも無駄ではなかったようです』

 

 ルアンが何とかしてくれたようだ。私のオーラがウイルスに感染しないよう、保護してくれたらしい。能力が不発に終わったモナドは困惑したような表情をしていた。

 

「えぇ……なにそれ。『ばいばいシックス!』とか思いっきり叫んだ俺が馬鹿みたいじゃん。死んで?」

 

 モナドが攻撃を再開した。先ほどと同じ接近戦だが、今度はこちらもまともに応戦できる。そう思ったが、予想外の苦戦に持ち込まれた。

 

「おお? この能力はアタリか!?」

 

 モナドに攻撃を打ち込もうとすると、当たった瞬間にこちらのオーラが吸い取られるような感覚があった。そのせいで威力が大きく減少させられてしまう。さらに、モナドの攻撃は私のオーラに割り込むように食い込んできてこちらの防御力を無視してくる。

 

『『元気おとどけ』はオーラを融合させる能力だ! 触れ合ったオーラを術者にとって都合の良い状態に変化させてくる!』

 

 オーラに干渉して対象の攻防力を操作することができるとは。ウイルスの感染能力を差し引いても非常に厄介だ。こちらはモナドとは違い、本体がやられれば死ぬという枷がある以上、余計に慎重にならざるを得ない。

 

「そらそらそらぁ! 今度こそ終わりだぁ!」

 

 防戦一方だ。モナドの手刀を受け損ない、本体の脚が二本持っていかれた。本体の強固な装甲を以ってしても、モナドの地力と攻防力の変動が合わさった攻撃は防ぎきれない。このままではじわじわと嬲り殺されてしまう。

 

『ジャスミン、そんな奴の言いなりになんかなるな……!』

 

 モナドに取り込まれてしまった少女を思い、絞り出すようにチェルは願った。詳しく話を聞いたわけではないが、確かチェルと境遇を同じくした子供たちの一人だったはずだ。既にその自我は崩壊してしまったという。

 

 私はチェルたちのようにジャスミンを助けることができなかった。他にも助けだせなかった自我はたくさんいる。もはや声をかけたところで届くことはない。

 

 だがそれでも、私はチェルと共に願った。ジャスミンの魂に呼びかける。言葉にはできずとも、オーラに込めた思いをモナドにぶつけ続ける。

 

「無駄無駄ぁ! ぜーんぜん痛くないもんねえええ!! んあ――?」

 

 私の左目に変化が現れ始めていた。この左目には、チェルの仲間だった二人の死後の念によってワームが封印されていると聞いた。そのうちの一人がジャスミンだったのだ。彼女の『融合するオーラ』がこの目にも宿っている。

 

 徐々にオーラの流れが変わり始める。拳を合わせるたびモナドの体内からオーラが流れ出て、私の方に移動してくる。

 

「は? なんで?」

 

 やがてモナドのオーラは『元気おとどけ』の効果を失い、通常の状態に戻っていた。ジャスミンの自我は確かに無くなっている。だが、その念は左目に残されたつながりを辿って一つの場所に戻ろうとしていた。

 

 ジャスミンのオーラが全て私と融合し、左目の中に収まった。そこに私のオーラを流し込むことで『元気おとどけ』の効果を付加されて体内に還元された。そのオーラを拳に込めてモナドに叩きこむ。

 

 先ほどとは真逆の状態で繰り出された私の拳はモナドの攻防力を無視して炸裂する。モナドは右の肩口からごっそりと体が抉れ、千切れた腕と共に後方へ吹き飛ばされた。

 

 そのまま床に倒れたまま動かなくなる。まさか倒したなどということはない。欠損した右腕も元通りに治っている。しかし、モナドは寝転がったまま起き上がらなかった。

 

 

 

「飽きた」

 

 

 

 少しして、ぽつりと言葉を漏らす。そして、その体を覆い尽くすように赤い結晶の粒が集まっていく。モナドの全身が炎のように揺らぐ鎧で包まれた。

 

 ついに来た。思わず固唾を呑む。ここから先は戦闘の質が変わる。ただでさえ対応に追われて、いまだ鍵の具現化に成功していない私は焦りを覚えずにはいられなかった。早く完成させなければと手の中にオーラを集める。

 

『敵に集中しろ! 来るぞ!』

 

 メルエムの警告がなければ反応できなかった。床に突っ伏していたモナドは次の瞬間、私の横に立っていた。

 

 そこからの挙動は無意識に体が動いたためとしか説明できない。自分でもわけがわからないまま反応し、モナドの攻撃を捌いていた。

 

 何とか対処が間に合い、さらにジャスミンの能力をもって敵の攻撃威力を和らげることに成功するが、その結果、本体の腹部を全損する怪我を負う。

 

 あと一つの刹那、動きが遅れていれば殺されていた。今までの戦いは遊びですらなかったのだとわかった。強さの次元が違う。

 

 これを相手にしながら新能力の練習をするということがどれだけ無謀か。全身全霊で戦わなければ死ぬ。余計な一手が一つでも混ざればそこで終わる。勝ち目なんてものは存在しない。ただ、生き残るだけで死力が必要となる。

 

「アルメイザマシンを使ったら死ぬとか、ほんっと馬鹿な誓約作ったよね? お前もこの力が使えれば、少しは戦えたかもしれないのにさ」

 

 ルアンから事前に聞かされていた。その能力『仙人掌甲冑(カーバンクル・タリスマン)』は、使えば強大な力を得る代わりに正気を失って暴走する。どのみち使える技ではない。渦と同一化し、その悪意の流れを自身にではなく、外に向けることができるモナドだからこそ正気を保ったまま制御できる技だった。

 

 それでも、誓約が枷になっているというモナドの言葉は的を射ている。ルアンはモナドの能力を調べ上げて、ずっと対抗策を模索していた。モナドには勝てないと諦めつつも、戦いを挑もうとしていた。それだけの策と兵器を用意していたはずだった。

 

 私のせいでそれらを無駄にしてしまった。ルアンが全力を出せればもっとモナドと同等に戦えただろう。アルメイザマシンさえ使えれば。

 

 

 アルメイザマシンさえ使えれば……?

 

 

『何ぼうっとしてんだよ! 気を抜くなって!?』

 

 頭の中に一つの案が浮かぶ。それが果たして妥当かどうか、試すに値するか検討する。

 

 私はアルメイザマシンを使うと死ぬ。今の私の個体が発生するとき、アルメイザマシンから本体が作られているが、これは私たちの自我と命が宿る前の出来事なので死ぬこともなかったということだろう。既に用意されていた体に入っただけだ。

 

 まず肉体が作られ、そこに魂が宿り転生した。そのプロセスが逆だったならば誓約に抵触していた恐れがある。今思えば生まれることからして賭けだった。

 

 その例を除けば、いかなる状況であってもアルメイザマシンを能力として行使した時点で命を落とす。そして、この誓約は私の意識に同居しているみんなにも影響している。そのせいでルアンは、ほとんどの能力が使えなくなってしまった。

 

 もし、この図式が入れ替わったとしても同じ縛りが発生しただろう。つまり、私の意識に同居する誰かが課した誓約は、私自身にも影響する。念能力を共有しているのだから誓約だって共有するはずだ。

 

 だったら、モナドを私たちと同じ関係にしてしまえばいいのではないか。仮に私の誓約を、モナドにも負わせることができるとすれば、どうなる。

 

 モナドの個体は死ぬことをトリガーとして自動的に発生する。『終わり無き転生』の能力で自分の魂を死後強まる念に変え、それをアルメイザマシンにより再構成している。肉体に魂が宿るのではなく、魂から肉体が生じる。発生プロセスが私たちとは逆なのだ。

 

 クインの強制停止命令ならばこのサイクルを中断させることができるが、それでもモナドは消滅しないだろうとルアンは言っていた。あくまで機能を停止させるだけだ。

 

 だが私の策がうまくいけば、モナドを殺せる。アルメイザマシンを使えば死に、死ねばアルメイザマシンによって蘇る。この転生のサイクルは止まることなく機能し続ける。モナドは永遠に、無限に死に続ける。

 

 殺すなんて生易しいものではない。悪魔的奇手だ。そして図らずもこの策を実現しうる可能性があった。私が作ろうとしている具現化系能力『王威の鍵(ピースアドミッター)』があれば、おそらくできる。

 

「さあ、あと何秒もつかな!? せいぜい足掻け!」

 

 モナドの攻撃は威力も速さも格段に増していた。敵のオーラを見極めて流で受けて止めた上で肉が裂け、骨が折れる。噴き出す血液に『落陽の蜜(ストロベリージャム)』の効果を合わせて粘液の枷とし、モナドの動きを封じにかかった。

 

 動きを止めるには程遠い拘束力しかなかったが、それでもわずかに奴の挙動を遅らせることができた。その一瞬の隙を見て後方へ離脱しながら合掌する。

 

『壱・弐・参の掌(ひふみのて)』

 

 出現した三体の観音像から繰り出される怒涛の連撃がモナドを襲う。挟み取り、叩き潰し、突き穿つ。鎧を出してきたモナドなら今までのように簡単に死ぬことはないかもしれないという期待があった。

 

 奴の性格ならここで対抗意識を燃やして正面から千百式観音と打ち合おうとするだろうと考えた私の予想はあっさりと裏切られ、死んで蘇ったモナドが鎧を纏った状態で湧き出て来る。虚を突かれた私の体が大きく吹き飛ばされた。

 

『落ち着くのじゃ! 奴にわしの技は通用せんとわかっとったはずじゃろ!?』

 

 ネテロの言う通りだが、無理をしてでも時間を稼ぐ手段を見つける必要があった。もはやモナドを制するには『王威の鍵』を完成させる以外にない。

 

 この能力は自分以外の誰かに『王威』を与える効果を持つ。王威を鍵の形に具現化し、譲渡可能にする能力である。

 

 『王位』ではなく『王威』だ。女王ではない私に新たな王位を作ることはできない。渦の中で全体意思に統合されようとする自我に『個』を与え、認める力。王に許された独立性を根拠にすればできる気がした。これならばモナドと同一化した悪意の渦に囚われているクインも救い出せると思った。

 

 だが、この能力には重大なリスクが存在する。王威なんて概念を勝手に定義づけたところで実際に作れるわけではない。王と王位は不可分である。モナドが私から王位を奪い取ったような例外を除けば、譲り渡すことはできないとルアンが明言している。それを実現する手段は一つしか思いつかなかった。

 

 私の持つ『王位』を分割して譲り渡す。そのために私の魂ごと分け与える。これをもって『王威』とする。

 

 みんなの魂を受け入れる器となった私の魂は堪え切れず千々に分かれようとしている。その状態になって気づいたのだ。『私』という存在を保つことにこだわらなければ、この魂に王位を乗せて分け与えることができると思った。

 

 魂を分けるという行為の先に私の存在がどうなるか確証はない。ただ、自分が自分でなくなることだけはわかった。

 

 無と有の中間のような存在かもしれない。死とも生とも言えない。今みたいに転生して生まれ変わることもできなくなる。自我どころか、一つの魂が壊れることを意味している。

 

 それでもいいと思った。それでクインを助けられるのなら、みんなを助けられるのならいいと思った。

 

 だが、そこに別の選択肢が浮上する。この力でモナドを殺せるかもしれないという、当初の目的とは外れた可能性が私を動揺させた。

 

 赤い鎧の力を得たモナドを前にして、全力で対応してもボロボロにされていく。みんなが私に何かを言っているが、それを聞くことに意識を割く余裕もなかった。一刻の猶予もない現状において、私の思考は取りとめがなくなっていた。

 

 モナドに私の魂の一部を移植し、私の誓約を押し付けることができれば、全てが丸く収まるのではないか。

 

 クインが目覚めれば強制停止命令が出せるとはいえ、それでもモナドを完全に消滅させることはできない。不安の種は残り続ける。引導を渡すなら今しかない。

 

 奴は地獄を見ることになるだろう。生まれては死ぬことだけを繰り返す存在となる。だが、それだけのことをしている。多くの人を殺し、多くの不幸をもたらした。その報いを受ける理由はあるのではないか。

 

 私の能力はその性質上、一度しか使うことができない。魂を分け与えればその時点で私の意識は消滅するだろう。ただその一回の行使で、今現在も私の中にいるみんなの魂にも同時に王威を与えることができるはずだ。本当なら、そういう使い方をしてクインとみんなを助ける予定だった。

 

 私の体の外にいる誰かに王威を渡すためには、鍵の形に具現化させた王威を直接渡す必要がある。つまり、クインを助けてモナドも封じるというやり方はできない。どちらか片方にしか渡せない。

 

 善意をもってクインを救うか、悪意をもってモナドを殺すか。解放するための鍵とするのか、封印するための鍵とするのか。選べる道は二つに一つだ。

 

「お前、さっきから何やってんの?」

 

 モナドが私の挙動に不審を感じたのか、具現化を試みていた私の腕を切り離してきた。その手の中から出来損ないの鍵がこぼれ落ちる。

 

「なにこのゴミ?」

 

 踏みつぶされる。頭の中を埋め尽くす思考は、一方向に傾き続けていた。

 

 クインを助けだすためには直接、彼女のところまで行かなければならない。いくらメルエムの力で近くまで飛べると言っても大きな危険がつきまとう。未知の能力を使われたモナドは全力で阻止しようとしてくるだろう。

 

 果たして、奴を振り切って辿りつけるだろうか。標的をモナドに変えればその点は何の問題もない。ここは奴の体内だ。そのあたりの床にでも鍵を差し込めば攻撃が終わる。いくらでもその機会は作れる。

 

 私も一緒にそこで終わるが、最大の強敵であるモナドを倒せる。後のことは、みんなが何とかしてくれるだろう。クインも後で助けてくれるはずだ。私が一人で全て解決する必要はない。

 

 別に、その役は私でなくてもいいのではないか。

 

 がくりと、唐突に膝から力が抜けた。思わぬ攻撃を受け早急に状況を把握しにかかるが、モナドが何か仕掛けてきた気配はなかった。つまらなそうな顔でこちらを眺めているだけだ。

 

 つまり、ただの限界だった。私の虫本体は、今や頭部を残すのみとなっている。ぎりぎり生きているだけという状態である。少女の肉体の操作に支障をきたすのは当然だった。そんなことにも気づけなかった。

 

 思うように立てない。みんなの声はとても小さく、聞き取れなくなっている。確かに一緒にいるはずなのに遠く離れたところに行ってしまったように感じた。そんな私を見て、モナドはとどめを刺そうともしなかった。

 

「思えばお前とは短いようで、長い付き合いだった。ちょっとだけ感傷に浸る気持ちもある……お別れの前に少し話をしてやろう」

 

 今さら何を言おうというのか。だが、手を休めてくれるというのならそれを遮る理由はない。大人しく話を聞いた方がいい。その傍ら私は具現化に集中しようとしたが、続くモナドの言葉によって硬直する。

 

「なぜお前は生まれたのか。どうして記憶の一部が欠如していたのか。知りたくはないか?」

 

 思わずモナドの顔を凝視した私の反応を見て、奴はにやりと笑った。その悪辣な笑みにどうしようもなく不吉な気配を感じ取る。

 

「クインは渦の中から脱する手段として王位を作った。渦は逃げ場のない自我の墓場だ。あいつはそれを夢として仮初の安楽所である精神世界を作ったが、それさえも広大な渦の中に取り残された小さな島に過ぎない。クインはその渦から逃れることを渇望した」

 

 手が震え、呼吸が荒くなる。その先の言葉を聞いてはならないと理性が否定する。

 

「王位とは“手段”だ。お前は手段として生み出された。俺が横からかっさらってやったが、もし俺が手出ししなかったとしてもお前にしてみれば結果は変わらなかったんじゃないか? “そこ”に俺か、ルアンか、クインか、他の誰かが入り込んでいたという違いでしかない」

 

 意識が乱れる。精神が千切れる。必死に手繰り寄せていた魂が、壊れてどこかに消えようとしている。

 

「お前は王位を収めておくためだけの入れ物なんだ。だから、余計な知識はもたされなかった。何も知らされず、食い物にされるだけの役割さ」

 

 モナドがゆらりと構えた。断頭台の刃のように腕を掲げる。光を失っていく視界が滲む。私は身動き一つ取れずにいた。

 

「だからお前の夢はクインの夢とリンクしてるのさ。全ては王位を手に入れるための布石! クインはその玉座に後々座りやすいように、自分の人格を基にしてお前を作った!」

 

 勝ち誇り、最後の一撃を振り降ろそうとするモナドに対し、私は何の抵抗もできなかった。

 

「お前はただの作られた自我! 生まれてきた意味なんて最初から存在しねーんだよ! じゃあな、劣化コピー!」

 

「それは違います」

 

 モナドの手刀を誰かが受け流した。しかし、この場には私とモナドの二人しかない。必然的にモナドの攻撃を捌いた者は私ということになる。

 

「……お? なんだまだ喋る元気があったのか? 何が違うって? 反論があるなら言ってみろよ? ほら、どうした? 言えよ!」

 

「私はクインのそばにいました。彼女はずっと眠り続けていましたが、確かに彼女の思いや感情を感じ取ることができた。少なくとも私は、クインがあなたに対して“悪意”を露ほども持っていなかったと断言できます」

 

 誰かがいる。温かい気配を感じる。その人は私の口を介して、私に語りかけてくる。

 

「一度は死に、王位を奪われたあなたが、またこうして生まれることができたのは偶然じゃない。クインがあなたのために新たな王位を作り出していたからです」

 

「……は? 意味不明なんですけど。頭イカレてんのか?」

 

「記憶の一部が引き継がれなかったのは、あなたに全てを忘れて“人”としての人生を歩んでほしかったから。それがクインの夢でした。自分の夢を、あなたに託した。あなたでなければならなかった」

 

 その人の言葉に嘘はないとわかった。ひび割れて砕けかけた魂の継ぎ目をふさぐように温かい何かが流れ込んでくる。

 

「我が子を愛する親として、クインはあなたを送り出した。それがあなたの生まれてきた意味です」

 

「は、えっ、なにをいって……てめぇ、だ“誰”なんだよォッ!?」

 

 体が動く。それは私の意思ではなかった。その人が立ち上がらせ、支えてくれた。癇癪を起したように殴りかかってくるモナドの攻撃を次々にいなしていく。

 

 それは感嘆するほどの技だった。圧倒的な実力差があるはずのモナドの攻撃をかわし、防ぎ、受け流す。まるで綿密に打ち合わせた上で決まりきった演武を披露しているかのように、私とモナドの動きが合わさる。

 

「もおおおおおお!! これあのカトライのクソうざってぇやつじゃねぇか! いい加減とっとと死ねって! 無様に負け死ね! お前の死に顔見たいから、こっちはわざわざ念人形で相手してやってんだって! 手間増やすんじゃねぇよボケ!」

 

 私の体から発せられるオーラの芳香がモナドの“欲”を暴き出し、一挙手一投足に至るまでその狙いを逆手に取って支配している。モナドには全くそんなつもりはないだろうが、本気の攻勢が陳腐な演練と化しているかのようだった。

 

『どうやら調子が戻ったようじゃの。全く、心配させるでないわ!』

 

『クインのことはちゃんと話してやっただろ。クインはお前のこと大事に思ってるよ。そういう奴だ。だから、お前もあいつのことを信じてやれ』

 

 みんなの声が聞こえてくる。消え入りそうになっていた心に活力が戻ってくる。やはり私一人の力ではどうにもならなかった。みんながいなければ何もできずに終わっていた。

 

『もう心は決まりましたか?』

 

 私の迷いはなくなっていた。足りなかった最後の欠片が埋まった。今ならば、きっと鍵の形を思い描ける。私はクインのところに行きたいとメルエムに伝えた。

 

『未来は既にお前が掴んでいる。引き寄せろ』

 

 私の拳が眩しく輝き始めた。瞼を閉じてなお視界を焼き尽くすほどの光が満ちる。世界を白く染め上げる光量が解き放たれた。

 

 

 * * *

 

 

 私はメルエムの力でモナドを何とか振り切り、壁を破壊して艦内を強行突破。モナドの油断した隙を突いてクインがいる部屋まで辿りついた。

 

 ということに“なった”。

 

 

 * * *

 

 

 そして私はさっきまでとは異なる光景の空間にいた。別に一瞬でワープしてきたわけではない。この場所に到達するまでの記憶は確かに存在するのだが、自分でも信じられないような体験だった。現在が積み重なって未来となるのではなく、決定した未来に向けてそうなるべく現在が動かされたとしか言いようのない違和感だった。

 

 すぐに意識を切り替えて周囲を観察する。大きな機関室のような場所だった。部屋の中央に赤と緑のランプがついた箱型の装置が置かれている。すぐにそれがクインだとわかった。その中にクインがいる。

 

「うらあああ!! マジで何しやがったお前!? ここは――」

 

 私の前に立ち塞がるようにモナドが出現する。奴が追い付いて来ることはわかっていた。私は合掌する。音もなくモナドの背後に現れた観音像が両手を差し出した。

 

 『零の掌(ぜろのて)』

 

 それはネテロの奥義。有無を言わさぬ慈愛の掌衣をもって対象を優しく包み込み、術者の全オーラを念弾に変えて観音像の口より放射する。まさしく渾身。全身全霊をかけた無慈悲の咆哮である。

 

 その威力が途方もないことは言うまでもない。だが、ただ威力が高いだけではモナドに対して効果がないこともわかっている。殺してしまっては何の意味もない。

 

 私はその咆哮に『落陽の蜜』の効果を合わせた。渾身のオーラに粘性を与え、瀑布のように溢れ出る粘液をモナドに浴びせた。必死に逃れようともがくモナドの体にとめどない粘液の滝が降り注ぐ。奴の全身を繭のように包み込み、自死すら許さず拘束する。

 

 すると、今度は部屋の壁が生き物のようにうごめき始めた。床も天井も圧縮され、空間が狭められる。ついにモナドはなりふり構わなくなったのか、この部屋ごと私を圧殺しようとしてきた。

 

 それを抑え込んだのは零の咆哮であった。尽きることなく放出される粘液が空間を埋め尽くす勢いで広がっていく。粘液の海が押し潰そうと迫る上下四方の壁を食い止めた。

 

 その海を、私は泳ぐ。オーラを使い果たして精も根もつき果てた私の体は、左目から流れ込んできたジャスミンのオーラによって最後の力を得た。一心不乱に水を掻き分けて突き進む。

 

 手の中には『王威の鍵』が形作られつつある。

 

 私が歩むべき道は一つしかなかったのだろう。最初からこの鍵は、誰かを救うため作ろうと決めていたはずだ。モナドを殺すために使おうと考えて、心が揺れた状態では具現化できるわけもない。

 

 モナドを許せないと思う気持ちがなかったと言えば嘘になる。ひどい目を受けた。恨みもいっぱいある。良いところなんて一つもない最低のクズ野郎だ。

 

 でも、私たちが生まれ出る直前にモナドの過去の記憶を体験したとき、奴がどんな無念を残して死んでいったのか知ってしまった。誰にも助けてもらえずに、この世界を呪いながら死んだ。

 

 だからモナドのしたことが許されるというわけではないけれど、それでも可哀そうだった。

 

 クインの装置が移動させられていく。私はその後を追って泳いだ。外圧によって粘液の海が押し縮められていく。相手との大きさが違い過ぎた。間もなく、この空間は押し潰され、クインはどこかに場所を移されてしまうだろう。

 

 見放すものか。救うと決めた。その覚悟と誓約が私を後押し、鍵の具現化を完成へと導いた。

 

 私はかつてアルメイザマシンを使ってはならないという誓約を作った。だがそのときの私は誓約の本当の意味を理解していなかった。誓約とは覚悟を糧に力を得る儀式である。

 

 ビスケはその誓約の効果で私の能力が向上したように感じていたようだが、私にとってみれば大して何か特別な力を得たような気はしなかった。それも当然である。私の誓約は、その時点で半分しか成立していなかった。

 

 アルメイザマシンを封じただけで満足してしまったのだ。それだけで目的は達成していた。その先にあるものを、何も考えていなかった。

 

 だから、今こそ力を求める。“何のために”必要な力なのか、ようやくわかった。

 

 これまでの記憶を振り返る。色んな人に出会い、助けられて私はここまで来た。私は何度も救われた。だから、今度は私が誰かを救う番なのだ。

 

 クインが私を救い出してくれたように、私も彼女を救いたい。救うこととは、救われることだった。誰かを助けて、助けられる。この世界はそうやって巡っていく。

 

 それが人間なのだと思った。

 

 モナドだって例外じゃない。誰にも助けてもらえなかったから、手を差し伸べてくれる人がいなかったから、最初の一歩を踏み誤ってしまっただけだ。

 

 モナドが初めて私に接触してきたとき、あいつは誰かを救えと言った。救済の決意こそ能力の発動条件だった。本人は皮肉のつもりだったのだろう。モナドは、この世に救いなんてないと思っている。

 

 でも能力というものは本人の精神を映し出す鏡だ。本当は、本人ですら気づいていないかもしれないが。自分を救ってくれる誰かを、今もまだ待ち続けているんじゃないだろうか。

 

 私ではモナドを救うことができなかった。その役は、これから先を生きていく誰かに任せることにしよう。私の役目はその未来を切り開くことだ。

 

 小さな鍵を手にして進む。寂しげにランプを明滅させる装置に向けて、その手を伸ばした。私は意識の奥底で感じた気配を想起していた。渦の中でさまよっていた私を導いてくれたあの手の感触を。

 

 

 だいぶ遅くなってしまったけれど、会えて良かった。

 

 

 二つの手が、つながった。

 

 

 

 



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最終話

 

 焼けたバターの甘い香りが鼻をくすぐる。オーブンから取り出した焼き立てのクッキーを皿に盛りつけていく。大皿いっぱいに積み上がったクッキーをテーブルへ運んだ。

 

 窓の外からは柔らかな日差しと、鳥たちのさえずる声が入ってきた。通りには人影がぽつぽつと見える。庭木の梢には朝露が光っていた。今日もまた、新しい一日が始まる。人は過去に踏みとどまることはできず、時は誰にでも等しく流れていく。

 

 シックスがいなくなって、もう数カ月が経った。

 

 シックスが起こしてくれるまで、私は長い眠りに就いていた。暴走したアルメイザマシンの塊を何とか制御しようとネットワークシステムを構築することに成功したが、無限増大するネットワークの海に意識を浸し過ぎた影響か、そこから抜け出すことができなくなっていた。

 

 さらにそこへモナドが手を加えて私の自我はシステムを自動的に処理するだけの装置と化してしまった。シックスがいなければ自力で目覚めることはできなかった。

 

 もちろん感謝はしているが、そんなことをさせるために彼を産んだわけではない。もともと王の位階は意図して作ったものではなく、システムの構築過程で偶然にも発生したものだった。

 

 今思えば、天から授かったのだろう。子とは、親の意のままに作られる存在ではない。膨大な進化の軌跡の果てに生まれた新たな命だった。眠りに就いた私の意識は自発的に何かを考える機能を失っていたが、無意識のうちにシックスを守るため働いていた。

 

 だが結局、彼は私を助けて行ってしまった。自分の魂を分割して他者に移植するという手段をもって、王位の欠片を私たちに分け与えたのだ。そのおかげで私は目覚め、他の自我たちは渦に囚われることなく転生できた。

 

 シックスの魂は分けられて一つの存在ではなくなってしまった。もう彼が転生してくることはない。だが、消滅したわけではなかった。彼の魂は私たちの中に取り込まれて一つになった。

 

 これが良いとも悪いとも言えない複雑な問題で、私はシックスの死を素直に悲しめずにいる。時折、自分がクインなのかシックスなのかわからなく時があるくらい、二つの存在が混ざり合って同化しているのだ。

 

 もともと私たちはほぼ同じ人格を持っているため重なり合っても違和感はなく、生きていく上で支障をきたすようなことはないのだが、改めて考えると自分の魂を強制的に他者へ移植するというシックスの能力は結構ヤバい効果なのではなかろうか。

 

 『王威の鍵(ピースアドミッター)』の大部分は私が受け継いでいるため、他の王威を与えられた転生者たちは私ほど『シックス因子』の影響を受けているわけではなさそうだ。だが、それでもちょっと元の人格とは変わってしまっているらしい。

 

 そういうわけでシックスの死を悼もうとしても、その感情の行き先が自分自身に向いてしまうため思うように悲しめないのである。ここまで計算していたのだとすれば、さすが我が息子と褒めたいところだが、そんな気持ちも親馬鹿どころか自画自賛になってしまう。

 

 シックスの死後は感情の整理に四苦八苦していたが、最近になってようやくふっきれた。たぶんシックスは自分の死を誰かに悲しんでもらいたいとはこれっぽっちも思ってない。というか、自分自身そう思う。……ややこしいな……。

 

 そんなこんなで色々あって。私はあのあと方々を訪ねて回り、モナドの事件の終息とシックスの訃報を伝えた。

 

 キルアやゴン、ビスケにも会った。モラウやノヴ、アイチューバー時代にお世話になったポメルニや、シックスロスで無気力になっていたノア=ヘリオドールにも会いに行った。みんなシックスのことを心配していた。私の話を信じ、彼の死を悼んでくれた。

 

 シックスは確かにこの世界に生きた証を残していた。彼は知り合う人々に多くの名を名乗った。キルアは私に、彼の本当の名前は何だったのかと尋ねたが、私は『王』とだけ答えておいた。

 

 本当は彼のことを『シックス』と呼ぶべきか躊躇う気持ちがある。彼は真の名前を持たなかった。自分自身に名付けることもしなかった。誰でもない存在であり続け、誰かのために自分を捧げた。

 

 最期まで『名も無き王』であることを望んだのだ。私はその生き様を誇りに思う。

 

 彼は命を賭して私たちに未来を与えた。モナドを鎮圧した後、私はこれからどう生きていくかを考えた。私たちはどう生きるべきだろうと考えた。その末に出した答えが、傭兵団の結成である。

 

 傭兵団『カーマインアームズ』を立ち上げ、私はそのコック兼団長に就任した。

 

 

「クインさん、失礼します。この前の件ですが、パリストンさんとの調整が上手くいきそうで……あ、今日のおやつはクッキーですか?」

 

 

 団長室(ダイニングキッチン)のドアをノックして、一人の少女が入ってきた。彼、いや彼女、いや彼?の名前はカトライ=アルメイザ。階級は騎士。傭兵団では主に会計などの事務全般を任せている。好物はお酒。特にジン。

 

 私はカトライから持ちかけられた話以前に、その服装が気になっていた。白と桃色を基調としたドレス姿である。フリルもいっぱいついて、溢れんばかりのかわいらしさを演出している。

 

「あ、これですか……アマンダさんにどうしても着てほしいと頼みこまれましてね……甘ロリとかいうファッションらしいですが、やっぱり似合いませんよね……」

 

 私や転生者の面々は容姿がみんな一緒なので、一目見て判別できるように服装でキャラ付けを行っている。私の場合はエプロンだ。団の食料事情を一手に引き受けるコックとしてふさわしいキャラ付けと言えよう。

 

 もちろん、衛生面を考慮して調理用と普段着用のエプロンは分けている。さらにデスクワーク用や他所行き用のエプロンもある。傭兵団の仕事をもらいに闇の地下会合へ出向く時は、舐められないように“秘密結社のボス”仕様エプロンを着ていく。

 

 カトライは最近まで黒っぽい地味目の服をよくきていたのだが、新入団員の『衣装係』が来てからというもの、日に日に服装のかわいらしさがグレードアップを遂げている。嫌ならちゃんと断らないと着せ替え人形にされるぞ。

 

 まあ、似合うか似合わないかで言えば、とても似合っていると思う。肩に乗せている虫の本体がかなりミスマッチで不気味なことになっているが。

 

 彼のもともとの名前はカトライ=ベンソンだったのだが、傭兵団結成を機にみんなでアルメイザ姓に改名している。名実ともに家族のようなものだ。そのせいで外部からは傭兵団の正式名であるカーマインアームズよりも、『アルメイザ姉妹』や『シスターズ』と呼ばれることの方が多い。

 

 気弱な性格の反面、武闘派な一面も持ち合わせており、心源流の使い手である。師範ネテロにも文句なしと太鼓判を押されるほどの実力を持つ。ただし、回避や防御専門。攻撃の腕前は毛も生えてない素人以下とこき下ろされている。

 

 その念能力『蛇蝎磨羯香(アレルジックインセンス)』は、人の欲望を浮き彫りにする香りをオーラから発し、言動から虚実を暴いたり、殺意や害意を誘導して戦闘を有利に運んだりできる。モナドは『固有結界だろあれ……』と言っていた。よくわからないが、モナドも認めるくらいすごい技だ。

 

 そんなカトライだが傭兵団では事務仕事を進んで引き受けてくれている。傭兵なんて戦闘ができればそれで十分だと思っていた私は、起業してみて裏方の仕事の苦労を思い知った。

 

 まず依頼が来ない。これは当然と言えば当然の話で、私たちは世間から人類史上最悪の大犯罪者モナドの一味と認識されており、A級賞金首の凶悪犯罪組織に指定されている。信用なんてゼロどころかマイナスに振り切っている傭兵団を立ち上げたところで誰が依頼を持ちかけるのかという話だ。

 

 だから行きたくもない闇の地下会合なんてものに行かないと仕事をもらえないのだ。世知辛いよ。しかもそれで舞い込んでくる依頼は、罠や諜報目的の不利益しかない依頼か、信用度外視のぶっちぎりで頭がイカれた依頼かの二択である。

 

 まあ、罠を仕掛けられた場合はもれなく、ぶっちぎりで頭のイカれた戦闘員を派遣して顧客満足度ワースト1位の実績を叩きつけさせてもらっている。

 

「ようやくノーウェル基金参入の話がまとまりそうです。これからはきっと真っ当な依頼が受けられますよ!」

 

 カトライが嬉しそうに語るノーウェル基金とは別名、勇兵遺族共済と呼ばれる慈善団体で、これに加盟した傭兵は戦死した際にその遺族たちへの手厚いサポートを保障している。

 

 少年兵や難民、経済弱者などの傭兵遺族の救済に尽力した軍人ノーウェルの個人口座に同志が資金を持ち寄ったことが始まりとされる。これに加盟することは傭兵にとって義の証。恩恵も大きいが、鉄の掟で縛られる。

 

 この基金に新しく我が傭兵団の名で口座を開設すれば、最低限の信用は得られるようになるだろう。だが、同時に上位の口座開設者に対して親子関係が発生し、親の持ち込んだ依頼を断ることができなくなる。この掟を破れば二度と傭兵を名乗ることはできない。裏社会を介してですら仕事を得ることはできなくなる。

 

 しかし、逆に言えばそれくらい重い縛りがなければこの傭兵団が信用を得る機会などないということだ。基金側もこちらの戦力の大きさを知っている。その上で、手綱を取れる存在かどうかを試されているとも言える。今後、我が傭兵団の舵取りは難しい局面を迫られることになるだろう。それもまた面白い。

 

「楽しそうですね、クインさん……私は胃に穴が空きそうですが……」

 

 穴があいてもすぐ再生するから大丈夫だ。それにここまで話がまとまったのはカトライが外部と綿密な調整をしてくれたおかげである。本来なら、基金への加盟が認められるはずもなかった。カトライと……パリストンの協力があって成立した案件である。

 

 腹黒王子ことパリストン=ヒル。ハンター協会の副会長として敏腕を振るっていた彼はモナドの起こした事件を機に失脚した。

 

 シックスを擁立しようとした計画が裏目に出てあわや世界滅亡の危機に陥ったのである。その責任を取らされて地位剥奪の上、十二支んからも除名処分となった。ネテロの後釜として、今はチードル=ヨークシャーという人物が会長に就任している。

 

 ただ、モナドの凶行全てをパリストンの責任にするわけにもいかないので、それ以上のお咎めはなかったようだ。本人は『いずれ十二支んは脱退するつもりだったので気にしてませんよ』と涼しい顔をしていた。今もまだ協会内部には多くのシンパが潜んでおり、パリストン派の勢力はそれほど衰えていない様子だ。

 

 何かと黒い噂の絶えない人物ではあるが、うちの傭兵団の設立に一役も二役もかってくれている。大迷惑をかけた上にお世話になりまくっているので正直、頭が上がらない……なんだろう、この外堀から埋められていってる感。いつかとんでもない請求が来そうで怖い。

 

 カトライがはっきり『悪人』と評する人物だが、毒にも薬にもなり得る存在と言えるだろう。時には清濁併せのむ度量がなければ、なかなかこの仕事もやっていけない。

 

「そう言えば近々、カキンで大きな仕事が出されるとか。何人ものプロハンターや傭兵団が合同で参加するみたいですよ。パリストンさんから、うちもどうかと打診が来ましたが、どうします?」

 

 こうやって仕事を持ちかけてくれることもあるので無下にはできない。ここまでの規模で人が動くとなると相当にデカイ山のようだ。怪しげな依頼というわけではないだろう。ひとまず詳細を聞いてから引き受ける方向で話を進めるようにカトライに伝える。

 

 二人で事務的なことを話し合っていると、団長室のドアをノックする音が聞こえ、続いて少女が一人入ってくる。

 

 

「団長ー、潜水艇のメンテ終わりましたー」

 

 

 彼女、彼……の名はルアン=アルメイザ。階級は騎士。傭兵団では主にメカニック担当。服装はオーバーオール、頭にはバンダナを巻いている。作業着というよりかはファッション的なディティールが多く入っている。これも衣装係の仕業だろう。好物はビール衣イカリング。

 

 彼はカーマインアームズの本拠地である海底戦艦ギアミスレイニの整備や操縦など技術的な面で活躍している。

 

 実は私たちが今いるこの団長室もギアミスレイニの中にある。現在は人類領海域の外、未開海域の深海2000メートル地点で停泊している。ちなみに窓の外に見える光景はただの映像で、窓自体が壁にはめ込まれたモニタである。

 

 モナドを鎮圧した後、ギアミスレイニを拠点として使わせてもらっている。だが、当初の艦内は人が住める空間ではなかった。モナドは艦の外観にしかこだわりがなく、内部は適当にもほどがある雑な造りだった。

 

 そんなわけでルアンが陣頭指揮を取って何とか人が住める居住区を作り上げた。見た目だけは巨大戦艦だが、活用している範囲は割とこじんまりしている。本当はもっと広くしたかった。実はこの内装工事の費用も、財政難にある我が団にとっては頭を悩ます問題である。

 

 この海底戦艦は増築した居住区の設備費用を除けばほぼノーコストで運用できるという破格の強みがあるが、それでも商売を始めるとなると何かと入用である。金はいくらあっても足りない状況だった。

 

 最近受けた大きな依頼だと、キルアから頼まれたアルカ誘拐作戦があった。伝説の暗殺一家ゾルディック家と全面戦争というハードな依頼内容だっただけのことはあり、報酬金もかなりのものだったのだが、それも新しく買った大型潜水艇の費用に消えてしまった。

 

 もうちょっと安い小型潜水艇にしようと言ったのだが、ルアンが最新式の大型軍事潜水艇を所望したのだ。『ロマンだから! ロマンだから!』と言って聞かなかった。

 

 実際、移動や物資補給のために必要ではある。この海底戦艦で人目につく場所に乗りつけることはできない。もう泳いで買い出しには行きたくない。将来的に考えても必要な買い物だったと割り切るしかなかった。

 

「立派な傭兵団として箔を付けるためにもこういうところをケチっちゃダメです。魚雷一発で轟沈するようなしょぼいサブマリンじゃ話になりません。ちゃんと私が改修しておきましたから」

 

 ルアンの念能力は『並列思考(マルチタスク)』という思考能力を格段に高める操作系能力である。その影響は私が最初にアルメイザマシンを取り込んだ際、彼の残留思念と共に色濃く受け継がれており、現在の意識集合体ネットワークの基礎となった。

 

 ルアンはこれを応用してネットワークにアクセスし、アルメイザマシンに様々な命令を与えて性能を引き出すことができる。レールガンなど多数の兵器を開発していたのだが、実はこの能力は現在使えなくなっている。

 

 シックスの『王威の鍵』によって魂の断片が埋め込まれた転生者たちは、渦からの独立性を得ると同時に『アルメイザマシンを使ってはならない』という誓約も負っている。そのせいでこれまでの彼の研究成果はほぼ封印されたも同然だった。

 

 私もアルメイザマシンを使えなくなってしまったが、ネットワークシステムの制御は念能力の『精神同調』によって行っているため支障はない。しかし、ルアンはこの事実にかなりショックを受けたようだ。

 

 もともと武芸に精通しているわけではないルアンにとってアルメイザマシンは自分の強さの根幹をなしていた。それがいきなり使えなくなったとなれば意気消沈しても仕方がないと言える。

 

 ただ、別に強さだけが傭兵団に必要な力というわけではない。エンジニアとしての彼の知識や技術は我が団にとってなくてはならないものだ。何事も適材適所。本人も自分の長所を生かすために努力を続けている。立派な団員の一人である。

 

「新開発の兵器も搭載しておきましたからね。いやぁ、試運転が楽しみだなぁ」

 

 ……新兵器なんて話は聞いてないのだが。まさか『禁止倉庫』のブツに手を出したわけじゃないよね。

 

 この戦艦には暗黒海域からの深海航行中、交戦した敵の一部が保管されている区域がある。モナドが節操なく取り込んで放置していた。一応はアルメイザマシン漬けにされて沈黙しているのだが、それでも完全に危険がないとは言い切れない。

 

 捨てるわけにもいかず、かと言ってこのまま放置しておくのも問題なので、団長として出来る限り危険性を調査している段階だ。団長の仕事とはいったい……その調査にはルアンも付き合ってもらっている。

 

 ルアンは封印された災厄に興味津々で、兵器に転用できないかと考えている様子だった。災厄(リスク)と希望(リターン)は紙一重な面が多々ある。力をうまく活用できれば大きな成果となるだろう。

 

 ただ、アルメイザマシンを使えなくなった影響か、その研究熱心さにはどこか鬼気迫るものを感じている。最悪の場合、死んでも転生できるようになったとはいえ、あまり無茶なことはさせられない。

 

 私の立会のもと安全面に配慮した上である程度の研究は認めているが、まさかとは思うが勝手にブツを持ち出すようなことは……あっ、目をそらしやがった。こいつ……!

 

「ご理解ください! 我らが傭兵団の強化のためにも、これは必要な研究なのです!」

 

 既に乗組員の戦闘力だけで過剰戦力なんだって。新兵器は早急に撤去しておくよう、ルアンの首根っこを掴んで言い聞かせておく。カトライがその様子を見て苦笑いを浮かべていた。

 

 そんなやり取りをしていると、通路の外からどたどたと足音が聞こえてくる。二人の少女が入ってきた。

 

 

「やっぱりおやつの時間だったのじゃ! 見よ、わしの腹時計の正確さを!」

 

「よっす。大将、やってる?」

 

 

 一人はアイザック=アルメイザ。階級は雑務兵。傭兵団での役割は戦闘員である。好物はポテトサラダのコーンが入ってないやつ。

 

 半袖Tシャツ一枚にスパッツのみ、足元はなぜか足袋というラフ過ぎるスタイルだった。任務に行くときもこの格好で行こうとする。せめて下くらい何か履いて欲しい。Tシャツには『哀句 ai-ku 』とプリントされている。こういうジャポンかぶれが好きそうな漢字Tシャツを結構持ってる。

 

 前ハンター協会会長、アイザック=ネテロの転生者である。そのせいで改名後もネテロネテロと言われている。最近はその呼び方をするとふてくされて返事をしないので、アイザックの愛称であるアイクとみんな呼んでいる。

 

 転生者と言っても生前の老成した人格は見る影もなく、天真爛漫な子どもらしい性格になっている。もともとそういう気質を持っていたのだろうが、それ以外の部分の引き継ぎに失敗したのかもしれない。

 

 かなり長い期間、渦の中をさまよいながら自我を保ち続けた強靭な精神力の持ち主である。むしろこれだけ元の人格が残っていることを称賛すべきだろう。生前の記憶も曖昧な部分が多く、本人は生前の自分の生き方にさほど興味はない様子である。

 

 ハンター協会に戻るつもりもないようだ。交友があった者に転生したことを伝えなくていいのかと尋ねたが、気が向いたらそのうち行くと尻を掻きながら答えていた。

 

 強化系能力者として、その戦闘力は圧巻の一言に尽きる。念武術の一大流派である心源流開祖の実力は健在で、これまでの依頼では発無しの単純な格闘戦だけでほとんどの敵を倒している。

 

 故ネテロは50年前、世界最強と謳われた使い手だった。この“最強”の称号は伊達ではない。念能力者にとって強さの指標とは個人によって全く異なるものであり、単純なオーラ量の比較や技のレベル、能力の違いで評すことができるものではない。その前提を覆して万人が認める頂きに立つことがどれほど至難か。

 

 今のネテロは加齢による肉体の衰えとは無縁となった。華奢な少女の体だが、リミッターを外すことができる身体強化と再生機能によって心源流の奥義を使いこなせるまでになっている。以前とはまた異なる形で強さの高みを見ることができたと語っていた。

 

 その発『千百式観音』は、三十メートルにも達する大きさの観音像を具現化して超音速の攻撃を食らわせる。しかも、それを最大四体まで同時に具現化できる。技を発動するための挙動も音速を超えた不可避の速攻である。敵は死ぬ。

 

「もぐもぐもぐ……もぐっ!? むぐーっ!?」

 

 クッキーを早食いして喉に詰まらせているネテロに牛乳を差し出す。私たちの念人形であるこの体は食事を必要としないのだが、食を楽しむことはできる。

 

 私がこの団のコックを買って出たのは、薄暗く味気ない深海生活において少しでも楽しみを提供したいという思いからだ。たかが食事と馬鹿にはできない。栄養的に必要ではないからこそ、求められるのはよりおいしいことである。

 

 そのためにコックとして日夜、料理の勉強をしている。最初はぶっちゃけ団長になんてなるつもりはなかった。チェルたちに『お前がやらないで誰がやるんだよ!』と押し切られた結果である。

 

「カトライ、なんだその格好……お前にそんな趣味があったなんて……」

 

「ち、違いますよ! これには事情が……!」

 

 ネテロと一緒に来たチェルはと言うと、カトライをからかって遊んでいた。かつての仲間であった二人は、またこうして新たな生を受けて再会することができている。

 

 チェル=アルメイザ。階級は雑務兵。傭兵団では戦闘員として働いている。この階級は通常のキメラアントとは違ってシステムを簡略化して扱いやすくするため『女王』『王』『騎士』『雑務兵』の四つしかない。管理上の設定でしかなく、明確な上下関係というものもない。普通に雑務兵の方が強いし。

 

 チェルは左目に眼帯をはめ、迷彩模様の服を着ていることが多い。今日はパーカーを着ている。本人いわく職業柄こういうデザインの服が落ち着くとのことだが、街中でそのドぎついカモ柄はよく目立つ。好物は自分で獲った魚料理。ムニエルが好き。

 

 ネテロと同じ戦闘員として依頼の現場を任せている。基本的にこの二人がいれば戦力的には何の問題もなく、人手が足りないときに他のメンバーが出張るケースが多い。

 

 サヘルタの特殊部隊として数々の従軍経歴を持つ彼女の実力は相応に高く、軍用格闘術のスペシャリストである。その念能力『明かされざる豊饒(ナイトカーペット)』は広大な範囲の円に隠を施し敵の目を欺く。円内部を通る光の屈折率を変えることで視覚を惑わし、撹乱する戦法を得意とする。

 

 さらに、その左目にはトクノスケが災厄ワームを封じて得た『重力操作』『空間歪曲』の能力がある。また、同じく左目に宿るジャスミンの特質系オーラ『元気おとどけ(ユニゾン)』の力も使うことができるようになったようだ。

 

 多彩な能力と高い格闘技術が合わさったチェルの実力は、千百式観音抜きのネテロと互角に渡り合うほどである。ネテロの強さが異常なだけで、チェルも最高水準の使い手であることは間違いない。

 

 モナドが起こした事件の後、彼女はNGLの研究施設に実験体として囚われていた子供たちの保護を願い、私が代わって実行した。ジャイロ率いるNGL軍にモナドを装って近づき、子供たちを救出している。その後のNGL軍の動向についてはよくわかっていない。

 

 パリストンによると同国を包囲していた国際保安維持機構によって身柄を拘束されそうになったところ、主導者ジャイロは自決したと聞いている。しかし、報告書には不審な点が見られるらしく、ジャイロはどこかに亡命しているだろうとパリストンは予想していた。

 

 それはさておき、何とか子供たちの救出には成功したのだが……結局、彼らを本当の意味で救うことはできなかった。もはや治療不可能なほど彼らの肉体は蝕まれていた。

 

 子供たちの最期を見送った後で、私とチェルは色々と話し合った。そんな取りとめもない話の中で構想されたアイデアの一つが、この傭兵団カーマインアームズだった。私はこの団の発起人はどちらかというとチェルだと思っている。

 

 だから団長も彼女で良い気がするのだが。そうすれば私はコック業に専念できるのだが。

 

 

「皆さま、失礼いたします。メルエム様がお着きになられました」

 

 

 来た。ノックをした後、うやうやしく入室したのは長身の女性である。かっちりと執事風スーツを着こなしたその女性は“かわ美ハンター”、アマンダ=ロップ。例のディックサクラの元店員である。好物は残り湯。

 

 新設したばかりのこの傭兵団に当分は外部から新入団員を入れる予定はなかったのだが、猛烈なアプローチとパリストンからの口添えを断りきれなかった。

 

 プロハンターを雇えるような給金は払えないと言ったのだが『金などいらぬ。むしろ払う』という手の施しようがない変態である。一応、カトライの悪意チェックはパスしている。パリストンの息がかかった人間ではあるが、私たちに害を与えるようなことを考える人間ではない。

 

 傭兵団ではみんなの服を調達、作成する衣装係を担っている。彼女の念能力『少女専属裁縫師(マイリトルニードル)』によってオーラを込められ縫われた衣服は、趣味さえ除けば高性能だ。耐熱、耐寒、耐刃、耐衝撃、注入されたオーラが尽きるまで強靭な耐久性を得る。

 

 裁縫だけでなく他の家事などの雑用も進んで引き受けてくれている。掃除とか洗濯とか、任せるのを躊躇うくらい喜々としてやってくれる。その本性を知らなければ優秀な使用人に見えるだろう。

 

 アマンダは片手を胸の前に当てた丁寧な一礼をもって同伴者を団長室に先導した。彼女に続き入って来たのは、私たちと同じ容姿のアルメイザ姓を持つ少女である。

 

 メルエム=アルメイザ。階級は雑務兵。傭兵団での役割は戦闘員だが、その風格は荘厳である。着ている服はアマンダがあつらえたゴシックアンドロリータだ。一切の媚びは見られず、泰然とした気配に満ちている。好物は強い人間の脳みそ。

 

 意外にも私たちの中では最も身だしなみに気を使い、メイクに至るまで余念がない。『高貴な者には外見にも相応の品格が求められる』と自負している。実際、もうそれ以外に正解はないと唸るほど、アマンダが用意した数々の衣装を完璧に着こなしている。特に西洋貴族の伝統を汲むゴスロリがお気に入りのようだ。

 

 強さに関しては全力で戦いを挑んだネテロが『頭おかCィィィィ!!』と叫んでベッドで一晩ふんわり寝込むくらいの実力者である。我が団の最終兵器メルエムである。

 

 『食べた生物のオーラを奪って自分のものにする』というこの世の終わりみたいな能力を持ち、彼が現在使用可能な念能力がいくつあるのか定かではない。どこまで成長するのか、限界があるのかもわからない。

 

 特によく使うのが、虫本体を粒子状に分裂させて操作する『蠅の王(ベルゼブブ)』という能力で、本体へのあらゆる物理的攻撃を無効化する。細胞分裂して広範囲に赤い濃霧を発生させ、その粒子を口や目鼻から敵の体内に潜り込ませて食い荒らす。粒子を集めて敵を拘束したり、本体の分身を数えきれないほど生み出して虫雪崩を浴びせたりする。

 

 ちなみに拳を光子化させて不確定な未来を固定する因果律操作の能力も使える。だが、本人は『どうせ叶う程度の未来を引き寄せるまでもない』と言って大したことには使っていない。

 

 チートこの上ない。何で今もまだこの団に留まっているのか不思議なくらいだ。確か、彼はNGLで発生したキメラアントで、私たちとは別の群れの王だったはずである。

 

 そのことについてメルエムは差して気にしていないようだった。彼を産んだ女王蟻は人間の討伐隊に殺されてしまったようだが、その話を聞いても動じなかった。全く眼中にないということはなさそうだが、人間と敵対することを選んだ女王の生き方に今さら口を出すつもりはないという。

 

 彼のかつての仲間は全て殺されてしまったわけではないようで、人間に降伏した一部の友好的なキメラアントは新種の魔獣として登録され、NGL内部に限って生活を認められている。現在のNGLは事実上の廃国となり、永遠自然保護区に指定された。原住民はいまだにNGLの教義を守り続けているらしく、キメラアントの存在も自然のままに受け入れ、平和に暮らしているそうだ。

 

 今のメルエムはその仲間たちのもとに戻るつもりもないらしい。モナドの運命に干渉する者が現れないよう、ここで監視すると言っていた。『今の余は王ではなく一介の兵に過ぎん』らしく、傭兵団の一員となった。

 

 と言っても、メルエムが依頼の任務に出向くことは滅多にない。最終兵器をそう易々とは動かせない。いつもは自分の部屋で軍儀という将棋みたいなボードゲームに一人で興じているという、おじいちゃんみたいな趣味を持つ。

 

 ただ、彼は粒子化させた本体を遠く離れた場所に放つことができ、部屋に居ながらにして外の情報を得ている。念人形の少女の体を瞬間的に光子化させて、別の本体の場所にワープするというチート能力を使ってお出かけすることもある。軍儀友達のところに遊びに行っているらしい。夕飯の時間にはちゃんと帰ってくる。

 

 というか、任務を頼んでも『その程度の瑣事で余を煩わせるな……』とか言って軍儀友達のところに遊びに行っている。軍儀の何がそんなに君を熱狂させるのか。まあでも、張りきって積極的に依頼を受けられてもそれはそれで困るので、メルエムにはそのままの君でいてほしいと思う。

 

 部屋に入ったメルエムのすぐ後ろには機械の腕らしき物体が浮遊して着いて来ている。これはモナドが渦の底からサルベージした念能力『玩具修理者の腕(Dr.ブライスMk-Ⅱ)』である。元はメルエムの臣下の能力だったらしい。

 

 チェルの左目に宿った能力のように、アルメイザマシンに取り込まれた能力者は自我が崩壊しても念能力はなくならないケースがあるようだ。むしろ死後強まる念として強化されているように感じる。

 

 自我の残滓が残っている場合は、生前に縁のあった者に取り憑こうとすることもある。この念の義手もそれに当たり、主君であったメルエムの近くにいつも具現化して浮遊している。

 

 この義手はメルエムに対して何らかの念による攻撃がなされたとき、自動的に反応して防御行動を取る。敵の念を掴み取り、その詳細を解析、さらに可能であれば掴み取った念を義手の機能の一部として取り込んで自身を改造し、一時的に敵の能力を使うことができるようになる。もうこれ以上チートは増やさなくていいから……。

 

 アマンダがいつの間にか先んじてメルエムが座る椅子を引いて待っている。彼はそこへ優雅に着席し、猫でも撫でるかのようにして義手を膝の上に乗せている。その傍らで、すかさずアマンダが紅茶を淹れる。

 

 彼はこうして私が作った料理やおやつも食べてくれるのだが、大好物は人間の肉体である。私も他人の食癖をとやかく言えない過去があるため強くは否定できないのだが……食べるのは外道の悪人だけにして、敵でも命を取らずに済むならなるべく穏便に対処するように言っている。

 

「ふむ、クッキーか。悪くない味だな……だが、食うには値せぬ」

 

「なら、わしがもらうぞい。もぐもぐ」

 

「……ッ! 貴様……!」

 

 こういうやり取りを見ていると、メルエムは結構シックス因子に頭をやられてしまったんじゃないかと思うこともある。たかがクッキーの奪い合いで拳をぴかぴかさせるのは止めてほしい。戦々恐々とした思いでメルエムの取り皿にクッキーを補充する。

 

「ふ……苦しゅうないぞ」

 

「やめるのじゃ、クイン! こいつは甘やかすとすぐつけ上がるのじゃ!」

 

「潜水艇魔改造計画は見直しが必要ですね……じゃあ今度はあの災厄をあーしてこーして……」

 

「おーい、クイン! 確かこのへんに酒置いてなかったか? カトライが飲みたいってさ」

 

「いっ!? そそそそんなこと言ってませんよチェルさん!?」

 

「やはり私の予想に間違いはありませんでした。ここは桃源郷……美少女たちがたわむれるパラダイス……ハアッ! ハアッ!」

 

 賑やかなことこの上ない。こんな日常が訪れるなんて、少し前までの自分では考えられなかっただろう。自然と頬が緩む。

 

 さて、だいぶ顔ぶれがそろったが、我が傭兵団の総員は九名。あと二人、この場にいないメンバーがいる。私は呼びに行くために団長室を後にした。

 

 残り二人のうち一人は呼んでも来ないだろう。その名はモナド=アルメイザ。階級は王。傭兵団における役割は、この本拠地ギアミスレイニの貸主である。好物はころころ変わる。今は筋肉マン消しゴム。

 

 現在、当艦の制御権はモナドから私に委任され、操縦は主にルアンが行っている。強引に奪い取ったわけではない。こちらは使わせてもらっている立場だ。

 

 あの事件以降、強制停止命令により好き勝手できなくなったモナドは、一気にしょげかえった。私がシックスから受け継いだ『王威の鍵』をちらつかせて封印するぞ!と脅したせいもあるのだが、抵抗する意思をすっかり失くしている。

 

 そしてこの艦の一室に閉じこもって出て来なくなった。いわゆる引きこもりである。何をしているのか知らないがネット環境は充実しているようで、不自由はない様子だ。まあ、モナドの本体はこの戦艦自体なので引きこもりとはちょっと違うのかもしれないが。

 

 人間、そんなに簡単に改心できるものではない。あのモナドが急に心を入れ替えて真人間になることはなかった。

 

 モナドは決して許されない罪を犯した。何千万人という命を自分の都合だけで大した意味もなく奪った。被害者やその遺族からすれば、責任を取らせて断罪せよと言いたくもなるだろう。全く正論である。

 

 だが、私はモナドを司法の場に引き出すことをしなかった。色々と理由はある。モナドは殺しても死ぬような存在ではないし、与えられた罰を粛々と受け止めるような奴でもない。彼に罰を与えられる存在は、私をもって他にいなかった。

 

 だが、私はモナドを罰しなかった。何の正当性もない、自分勝手な理由である。“家族だから”守ろうとした。世間から私たちはモナドの一味として同等の犯罪者集団と見られているが何の否定もできない。それでも私は、何千万人という失われた人々の命の重さよりも、一人の家族を重視した。

 

 モナドにも救いを与えてほしい。それがシックスの最後に望んだ願いでもあった。その思いは、今もまだ私の中に生き続けている。

 

 ゆっくりと、ちょっとずつだがその思いはモナドにも伝わっているように感じている。最近は部屋の前に料理やおやつを置いておくと食べてくれるようになったし、少しだけなら部屋に入れてくれるようになった。彼も少しずつ、自分から変わろうとしているのだろう。それを待つつもりだ。

 

 モナドの部屋には後でクッキーを持っていくこととして、私は最後の団員がいる場所に向かう。練習場に赴くと、思った通りそこに目当ての人物はいた。正確にはその念人形だが。

 

 

「あれ、団長? どうかしやしたか?」

 

 

 トレーニングウェア姿で汗を流しているのはキネティ=ブレジスタ。階級はモナドいわく“奴隷”とのことだが、もちろんそんな言葉が当てはまるような扱いはしていない。傭兵団では見習い戦闘員をしている。好物はガトーショコラ。

 

 彼女は人間の研究者によって調整されたアルメイザマシンの傍流形『錬金術』を使いこなす。その応用力は本家の劣化版と一概に侮ることはできず、使いやすさを取って見ればむしろ優れていると言えよう。

 

 若干12歳にして複数の念能力を習得し、今こうして活動している体も本人そっくりの念人形『自刻像(シミュラクル)』として作り出されたものである。術者本人は植物人間状態でずっと意識がない状態だった。

 

 キネティはNGL軍から救出した子供たちの最後の生き残りである。その能力のおかげで戦死を免れていた。また念能力者として覚醒した生命力が他の子供たちよりも優れていたためか、今もこうして生きることができている。

 

 救出後、キネティは私たちと共に行動することを望んだ。実は、同じように残留を希望する子供たちは他にもいた。親族のもとに送り届けた子もいたが、中には身よりがなくなったり、どうしていいかわからずに途方にくれる子もいたのだ。

 

 NGL軍の手から逃れたところで、ウイルスに冒され余命幾ばくもない状態に置かれた子供たちが生きる希望を失うことは無理からぬことだった。そんな中でキネティは投げやりにならず、毅然と自分の意思で傭兵団の一員となることを決断した子だった。

 

 私たちは練習場の横に設置されているベンチに腰掛けた。キネティは修行に熱が入っていた様子で、ふらふらとした足取りだった。いつもここでチェルやネテロから念の修行をつけてもらっているようだ。しかし、最近はどうも無理をし過ぎているように感じる。

 

「ご心配をおかけしてすいません。ですが、あっしの命ももう長くはありませんから、どうしても焦りが先走ってしまって」

 

 キネティの体は現在、生命維持装置を外すことができないほど衰弱した状態にある。何とかこれまで生き残ってきた彼女だが、ウイルスの毒を克服できたわけではない。小康状態を繰り返しながら、その命は着実に死へと向かっていた。

 

 それでも彼女がこうして希望を失わずにいられるのは『転生』の可能性に賭けているからである。私たちと同じアルメイザ姓を継ぐ家族になることを望んでいた。

 

 その準備は可能な限り万全を期している。転生者の魂を込めるための本体は、私が暗黒海域の渡航中に開発した最新世代だ。これまでの女王個体と決定的に異なる点は卵の植物的胚化による休眠状態を実現したことである。これにより意識集合体のネットワークは全て無意識下における夢として処理され、主人格の意識に直接悪影響を及ぼすことがないようにフィルターをかけている。

 

 魂の転生さえ無事に成功させれば問題ない。そのための『鍵』も用意している。分割されたシックスの魂のうち、その六割を一人で受け継いだ私は『王威の鍵(ピースアドミッター)』を継承し、その能力を使うことができるようになった。シックスは魂ごと譲り渡すことで私のメモリを拡張して新能力を植え付けたのだろう。

 

 ただし、これは王位を分け与える能力なので使えば当然減っていく。それは私の中にいるシックスの魂が薄らいでいくことも意味している。少し寂しくはあるが、だからと言って出し惜しみするつもりは毛頭ない。これは誰かを救うために生み出された力である。

 

 女王であっても都合よく新たに王位を生むことはできない現状において、この鍵だけが唯一転生を可能とする活路である。だが、私にできる協力はここまでだ。アルメイザマシンの中に取り込まれて死を迎えたキネティには、そこで“渦”の洗礼に堪える試練が待っている。

 

 ただ『死にたくないから転生したい』という程度の認識ではこの試練に到底堪えられない。だから、他の子供たちに転生の話はしなかった。彼らがそれを望んだところで渦に呑まれた瞬間に、こちらが助けだす間もなく自我が崩壊して終わっていたことだろう。

 

 私がもう一度完全な休眠状態に入り、自我を無意識下に沈めた上でキネティの魂を渦という膨大なネットワーク情報の中から探し出さなければならない。その間、キネティは自我の崩壊を自力で抑え込む必要がある。こればかりは自分で何とかしてもらうしかなかった。

 

 彼女にはその可能性があった。芸術家としての天賦の才だろう。自分自身すら作品として、その形に対する揺るぎないセンスがあった。何よりも死を恐れず、己として生きることを切望している。転生に関する全てのリスクを聞いた上で、彼女は納得し、決断した。

 

 そのために今、彼女は必死に修行している。念の修行は心の修行だ。精神を強くし、確固たる自我を作る助けになる。それを思えば鍛錬にも余計に身が入るというものだろう。思い悩むなというのは無理な話かもしれない。

 

「それも心配事の一つではあるんですが、他にも自信をなくすようなことがありましてね……」

 

 そうなのか。団員の悩みに耳を傾けるのも団長の大事な仕事である。遠慮せずに話すよう、キネティに促す。

 

「いえ、そんな改まって聴いてもらうほど大層な話じゃありませんが、この前、あっしが依頼の様子を直に見たいと無理を言ったことがあったでしょう?」

 

 アルカ誘拐作戦の件か。我が傭兵団初のフルメンバー参加を考えたほど大きな依頼だった。だが、モナドは相変わらず部屋から出て来ず、キネティは容体が悪化している本人をさすがに連れ出せる状態ではなかったので(念人形の活動範囲の限界)、この二人を除く団員総出の依頼となった。

 

 そんなキネティのためにルアンが用意したカメラで依頼の様子を撮影していた。念までバッチリ映せるカメラは高すぎて手が出せなかったので、普通の高性能小型カメラである。雰囲気だけでも伝わればと思って見せたのだが、何か思うところがあったらしい。

 

「言葉が出て来ないくらいの凄まじい戦いでしたぜ。傭兵団の皆さんも、敵も全員が次元の違う強さでした……」

 

 そ、そうだっただろうか。確かにチェル、ネテロ、メルエムからなる華の三銃士は獅子奮迅の働きを見せていたが、残りの裏方組は端っこの方でわちゃわちゃしていただけだった気がする。まだアマンダの方がまともに働いていた。

 

 ルアンがこっそり持ち込んだ新兵器が誤作動してゾルディック家の敷地の一部が悲惨なことになり、その対応に追われた記憶しかない。

 

「ただでさえ未熟さを痛感してるってのに、転生に成功すればアルメイザマシンを封じられ、あっしの錬金術も使えなくなる。こんなんで皆さんと肩を並べて戦えるようになるのかと不安になりやしてね」

 

 比較対象が間違ってないか。何もチェルやネテロ並みの強者にならなければ能力不足ということはない。依頼の難易度によるが、そこは任務を与える前にこちらで精査することだし、仲間同士でフォローし合えばいいことだ。

 

 キネティはまだ若い。伸び代もある。これから念能力者としても、傭兵としても経験を積んで大きく成長していくことだろう。

 

 焦りすぎる必要はないと思うのだが、そう簡単に割り切れるようなら最初から悩んでいないだろう。強くなりたいと思うこと自体は念使いとして真っ当な資質だが、どうも彼女の強さに対するこだわりには独自色があるように感じる。

 

 実は、転生という最後の手段に頼らずとも、キネティの病状を改善させる手はあった。改善というか、きれいさっぱり完治させることもやろうと思えばできた。キルアに頼めば誘拐に成功したアルカの力を使ってキネティを全快させることも可能だったのだ。

 

 その提案を断ったのは他でもないキネティ自身である。何か自分の信条に反するところがあったのだろう。本人が必要ないということを強制するわけにもいかない。その時は何も聞かなかったが、今こうして悩みを打ち明けてくれた機に乗じてそれとなく尋ねてみる。

 

「その……あのときは、せっかくの申し出を断ってしまってすみません。ですが、あっしは自分の現状を嘆いているばかりじゃありません。ひと思いに全てが解決されてしまうのは、何か違うと感じたんです」

 

 芸術家にとっては珍しいことではないらしい。辛い経験、重い病、そう言った生への負荷が創作に対する強いインスピレーションを与えることがある。

 

 アルメイザマシンの毒に冒され、彼女は植物人間状態になるほどの命の危機に立たされた。その鮮烈な体験があって初めて見えて来る世界があったのだという。意識を失い、身動き一つ取れない牢獄となった彼女の体内で荒れ狂う生命エネルギーが、自己を作品とみなすことで命の形を取り始めた。

 

 彼女は自身が置かれた劣悪な境遇を、創作者としては肯定していた。それは念能力者にとっての誓約と類似する感覚だったようだ。そのときは念に関する知識がなかったため彼女も意図したものではなかったが、自分の病を肯定して苦しみを代償とした上で、その覚悟によって彼女の能力は大幅に強化されている。

 

 病が治ればその誓約の根底が揺らぐことになる。キネティは生物としての欲求よりも、創作者としての生き様を選んだ。話を聞く限り、彼女の覚悟は魂に刻まれた誓約として転生後も発現する可能性が高い。キメラアントとして生まれ変わっても病状に苦しみ続けることになる。そうなることを望んでいるのだ。

 

「本当なら術者が弱ればその念人形の力だって弱まるはずですが、あっしの場合は術者が死に近づけば近づくほど、この『作品』は力強く生きようとする。あっしはこの感覚をもっと作品に取り入れたい。いつかこの体を自分自身で納得のいく作品として完成させること、それがあっしの夢なんでさぁ」

 

 強くなることは彼女にとって目的の一つの側面でしかない。“生きる”という壮大なテーマを芸術家として表現する。そのために強くなろうとしている。

 

 すごい目標だ。悩める団員に気の利いたアドバイスでもするつもりだったが、逆に感心させられてしまった。どうしよう、これじゃ『そうか、がんばれ』くらいしか言えないよ。団長として立つ瀬がない。

 

「い、いやそんな泣きそうな顔にならなくても……話を聞いてもらっただけで随分、気が楽になりましたぜ。そうだ、団長にも何か夢はありますか?」

 

 逆に気を遣われた……立場が入れ替わって今度は私が話す番になったようだ。お題は『夢』である。もちろん、私にも夢はある。

 

 それはこの練習場にも団訓として大きく掲示されている。『みんな仲良く』。これがカーマインアームズの大目標だ。

 

「良い団訓だとは思いますけど、その……」

 

 キネティが言い淀む。気持ちはわからないでもない。傭兵の仕事場は戦場である。それ以外の依頼もあるが、本業は武力による戦闘だ。殺伐とした戦場で掲げるには気の抜けた目標だろう。

 

 この団訓は味方同士の結束だけを表すものではない。『みんな』とは、仲間だけでなく時に敵対する者まで含めた不特定多数を指している。可能な限り敵は殺すなと言い含めている。

 

 無論、そんな綺麗事だけで片付く世界ではない。やむを得ず、もしくは積極的に殺しを行うこともある。ある時は殺し、ある時は殺さないというどっちつかずの方針は迅速な判断が迫られる現場において邪魔になることもあるだろう。

 

 生かす方が正しいか、殺す方が正しいかなんてことはその場ですぐに判明することではない。結局のところ最終的な判断は当人の単なるエゴだ。

 

 実際に、こんな目標を人目もはばからず公言している我が傭兵団の評判はすこぶる悪い。依頼は選り好みするし、依頼内容に対して一方的に条件を突きつけることも多々ある。元から皆無の信用度がさらに下落する結果となっている。

 

 だが、この目標を今後も変えるつもりはない。この傭兵団ができるよりも先に決められた課題である。言ってしまえば、その課題に沿う形で傭兵団が作られたのだ。

 

 モナドを大人しくさせた後で、私たちは何をすべきか考えた。シックスが残した『人間の証』とは誰かを助けることにあった。その思いを託された私たちは、どうすれば多くの人を救えるかを考えた。

 

 結局、私たちにできることは戦うくらいのものだった。戦争だけがこの世界の悲劇ではないけれど、それによってもたらされる不幸は数知れない。そこに介入できるだけの武力があれば、戦いの内側から変えられる未来もあるだろう。

 

 だが、それでもこの世界中の人間を一人残らず救えるような力ではない。無理にそんなことをしようとしても新たな不幸を生み出すだけだ。

 

 何よりも救助を優先する生き方を選んだわけでもない。仕事の範囲で、救える人はなるべく救うという程度の意識だ。私たちは見ず知らずの弱者のために人生の全てを捧げられるような聖人ではない。

 

 それで良しとした。シックスが思い描いた人の在り方とは、誰もかれもと手当たり次第に手を差し伸べることではない。そんな人間はむしろ不自然だろう。自分が生きていく範囲の中で、誰かを助け、助けられる。その自然な循環が人の社会を作り、その中で人は生きていく。

 

 それは善の循環と言えるだろう。それとは逆の、悪の循環も存在する。誰かを傷つけ、傷つけられる。この二つは混然一体だ。まるで渦のように絡み合い、ちっぽけな人間の人生を良しにつけ悪しきにつけ翻弄する。

 

 どちらか片方だけの道を生きることなんてできないのだ。良いことをすることも、悪いことをすることも、誰にだってある。そんな渦の中を行く航路において、自分を見失わないために立てた目印だった。

 

 『みんな仲良く』だ。世界平和なんて出来もしない偽善ではなく、世界征服なんて開き直った偽悪でもない。私たちが自分のために生きていく範囲で、誰かを救い続ける。

 

 中途半端で結構。馬鹿にされようと知ったことではない。こんな生き方は、たぶん誰だって当たり前にやっていることだ。それを声高に主張しているだけに過ぎない。私たちは普通の人間だ。

 

 それが我らの傭兵団、カーマインアームズである。

 

「……おみそれしやした。良いか悪いかは別として、あっしはその夢に最後まで付いて行きたいと思います。今後ともよろしくお願いしますぜ、団長」

 

 差し出された手を取って応える。その手を引いて、私たちは団長室へと向かった。

 

 さあひとまず、難しいことはみんなとクッキーでも食べてから考えることにしようか。

 

 

 




 
 
 
 
 
 
 ここまで読んでいただき、ありがとうございます! 読者の皆さまからの感想や評価に支えられ、どうにか完結させることができました。
 
 いつも誤字報告していただいた方々にも感謝の念にたえません。コミックス読み返して最近になって初めて気づいたんですが、『災厄』じゃなくて『厄災』だったんですね。ずっと間違ってました……この作品では災厄ということにさせてください!
 
 一話目を投稿した当時は本当にプロット真っ白状態で、完結させられるとは正直思ってませんでした。そのせいで後半になって怒涛の後付け設定オンパレードになってしまってすみません。
 
 一番悩んだのは暗黒大陸脱出後のストーリーで、いくつか展開を考えていました。その候補がこちら。
 
 
 ①くじら島に漂着ルート
 ゴンと一緒に暮らしてからのハンター試験編という原作沿いパターン。最初に考えついた候補。
 
 ②天空闘技場ルート
 漂着した主人公が念能力者に助けられ、師として仰ぐが実は悪い奴で騙されて天空闘技場で金稼ぎの道具にされる。そこでウイング、ズシと出会う展開。師匠となった念能力者は悪役ながらも多くの挫折を味わった経験を持ち、どこか憎めない人情味がある兄貴分で、生真面目な性格のウイングとの対立を描く……みたいに結構設定を練ってました。最有力候補。
 
 ③ハンター専門学校ルート
 プロハンター試験合格率99%!みたいな売り文句の専門学校に入学する。校長はパリストン。学園モノ路線。実験体の子供たちはもともとこのルートで考えていた話でした。
 
 ④幻影旅団ルート
 仕事中の旅団とはち合わせて強引に勧誘される。
 
 ⑤ゾルディック家執事見習いルート
 ミルキに見初められて強引に勧誘される。
 
 ⑥ジャポンに流れ着いてニンジャになるルート
 なんかハンゾーが出てくる。
 
 ⑦アイチューバーになるルート
 論外。
 
 
 
 選 ば れ た の は ⑦ で し た 。
 
 『せや! 作者にも予想できん展開にしたら意外性抜群! これや!』という謎の思考回路が働いて暴走。その結果、普通に筆が折れかけました。特にデスゲーム編がきつかったです。
 
 でも、全く手探りの状態からどうすれば面白いと思ってもらえる話を作れるだろうかと考えるのは楽しくもありました。それがあったからエタらずにここまで書けたのかもしれません。
 
 そういう意味でも最初から最後まで読者の方々のおかげで完結できた作品でした。他のサイトで投稿していた小説はいくつもエタらせていたので、やっぱり反応をもらえるのは大きかったんですね。
 
 何とか最後まで走り切れて燃え尽きてしまったので、しばらくは執筆できないかもしれませんが、また何か思いついたら書こうと思います。ここまでお付き合いしてくださり、本当にありがとうございました!
 


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ヨークシン編
92話


 

 雨に濡れたハイウェイを黒いセダンが走る。路面に映る夜街の明かりを踏みつけて、テールランプが赤い残光を棚引かせる。最高級の静寂性を謳うその車内に、外の喧騒は届かない。響く音は、後部座席に腰掛けた男の笑い声だけだった。

 

「ようやく尻尾を掴んだぞ。くははははは! あのノストラード組のカマホモ野郎にやっと借りを返せる……!」

 

 背は低く、ころころと肥えた体格、頭はスキンヘッドの男だった。名をゼンジと言い、ヴェンデッティ組の頭を務めるマフィアの人間である。

 

 ヴェンデッティはかつてマフィアンコミュニティを取り仕切っていた『十老頭』の直系に当たる古参組だった。しかし、その立ち位置はこの一年で大きく変化している。ちょうど今から一年前にヨークシンで起きた『サザンピース襲撃事件』を機に、マフィア界隈は変革を余儀なくされた。

 

 十老頭の権威が失墜した現在、それまでは権威のもとで甘い汁を吸っていた多くの直系組がその地位を追われている。だが、その中でヴェンデッティ組は変わらず優勢を保ち続けた数少ないファミリーだった。

 

 親であった十老頭に早々と見切りをつけ、下剋上を為そうと決起した新興組を抑え込んでいる。やれ嫉妬豚だ、器の小さい男だと揶揄されることの多いゼンジだが、時勢を読む手腕には長けていた。歴史あるファミリーの頭として、相応の能力を持つ男だった。

 

 しかしただ一つ、ゼンジには腹に据えかねる人生の汚点があった。一年前のドリームオークションで直系組頭としてコミュニティの警備担当を務めたゼンジは、そこで一人の男と出会う。

 

 年の頃はまだ少年と呼んでも違和感はないだろう、その男はクラピカというノストラード組の雇われハンターだった。

 

 当時、片田舎の弱小勢力だったノストラード組は予言に等しい不思議な占いの力でマフィアの大御所を抱き込み急成長を遂げていた。A級首盗賊団によるオークション襲撃を受け、急遽結成された殺し屋チームにクラピカという新参者を強引に捻じ込んできたのだ。

 

 ゼンジがこの頭越しの参入を気に入るはずもなかった。結局、当初の予定通り十老頭が巨額の依頼金をはたいて雇ったゾルディック家の暗殺者によって盗賊団は始末され、他の殺し屋チームについては賑やかしにもならずに終わる。点数稼ぎのためにチームに捻じ込まれたであろうクラピカも無駄足を踏んだだけだった。

 

 そこで終わっていれば何の確執もなかった。盗賊団討伐の報を受けて再開されたオークション会場に焦った様子で駆けつけてきたクラピカを見て、ゼンジは茶化した。普段から良く思っていなかったノストラードの失態をここぞとばかりに下品な言葉で責め立てたのだ。

 

 それに対するクラピカの返答は、ゼンジの顔面を強打するという暴挙だった。鼻血を噴き出し、唇が腫れあがったゼンジは、湧き起こる怒り以前に自分が何をされたのか理解できずに座り込んでしまった。

 

 十老頭直系組頭の自分が、たかが田舎マフィアの小僧に殴られたのだ。怒りの矛先をすぐさま敵へ向けることもできず呆けるほど驚天動地の心境だった。しばらくの放心の後、もはや怒りという言葉では生ぬるい煮えたぎる憎悪を抱えてゼンジはクラピカを追った。

 

 クラピカはオークションに参加していた。ノストラードから与えられた仕事だろうと予想し、競売品が何であるかなど確認するよりも早く金額のアップをかぶせた。

 

 互いに一歩も譲らぬ競り合いの末、1億から始まった競売価格は29億にまで跳ね上がる。そこがゼンジの限界だった。

 

 もう一声、喉から上がりかけた息が音にもならず漏れ出た瞬間の無念を何に例えられようか。田舎者と馬鹿にしていた相手に経済力でも勝てなかった。こんな屈辱は生まれてこの方、味わったことがなかった。

 

 その場でクラピカに襲いかからなかったのは辛うじて働いた理性のおかげだった。ただでさえ襲撃騒ぎで中断されてしまったオークション会場で、これ以上のいざこざは起こせない。クラピカがサザンピースから出て来る時を、震える手で銃を握り締めながら待ち続けた。

 

 揺るぎない殺意があった。そこらのチンピラとは覚悟が違う。本当の裏社会を生きる人間は、一度殺ると決めれば何を差し置いても殺るものだ。ゼンジはクラピカを生きて帰すつもりはなかった。

 

 だが、そのマフィアの誇りをもってしても敵わなかった。引き金を引くこともできず立ち尽くすゼンジの横を、クラピカは素通りしていった。

 

 胆力で負けたのだ。ゼンジの殺意がちっぽけに思えるほど底の見えない恐ろしさが、クラピカの目に宿っていた。その目で睨まれただけで、何もできず体が固まってしまった。

 

 その経験がゼンジのプライドをずたずたに切り裂いた。もともと自尊心の塊のような男だ。人間性そのものがさらに歪んでしまったと言っても過言ではなかった。

 

 その後、ノストラード組は占いの当てを失くしたのか衰退し、組頭のライトは表舞台から姿を消した。その落ちぶれをざまぁみろと散々にこきおろしたゼンジだったが、一向に胸がすくことはなかった。彼の妄執は、いつしかクラピカ個人へと向けられるようになっていたからだ。

 

 今もまだノストラード組は存続している。ライトは表に姿を見せることはなくなったが、組の経営体制を刷新したようだ。現在は賭博とボディガードを仕事として全て合法的に収入を得ており、評判は悪くない。

 

 マフィアのビジネス化が加速する昨今では、現ノストラード組のような表向きだけでなく実態的にもクリーンな組織の需要は高まっているが、同時に裏社会のしがらみをコントロールして両翼を安定させる難しい経営が求められる。その点から見てもうまく苦境を切り抜けた組と言えた。

 

 ゼンジにしてみればノストラード組の成功など耳にするだけで反吐が出る。だが、これまで直接的に戦争を仕掛けようとしたことは一度もなかった。彼の憎悪の対象は組長であるライトからクラピカへと完全に移っていた。

 

 ようやく最近になってノストラード組の若頭がクラピカであるという情報が手に入ったのだ。経営体制の転換もライトではなくクラピカが主導したものだった。これまで素性を明かすことなく裏から組織を率いていたようだ。

 

 一時的にノストラード組に雇われていただけのハンターかと思いきや、まさかそのまま居座って実質的なトップの地位にまで上り詰めているとは考えもしなかった。ゼンジはようやく怨敵の所在を知ったのである。

 

「因果な巡り合わせだとは思わねぇか。ノストラードだったんだ、俺の敵はよ。始めっから終わりまで……」

 

 ゼンジは独り言をつぶやきながら葉巻をくわえた。隣にいた子分が火をつける。肺にくゆらせた煙は彼の悪心に染められて車内を漂った。それだけの憎悪を抱きながら、しかし彼はクラピカの所在を知った後もすぐさま報復に乗り出すことはなかった。

 

 無法地帯の裏社会といえども、いきなり強硬な手段を取ることはできない事情がある。確かにそれは事実だが、本音を言えばゼンジはクラピカを敵に回すことを恐れていた。

 

 最近は武闘派としても名を馳せるようになったノストラード組には厄介な使い手が数人いる。何よりも若頭であるクラピカの実力をゼンジは侮っていなかった。下手に手を出せば大怪我ではすまない被害が自分の組にも及ぶという予感があった。

 

 それでもクラピカへの報復はゼンジの悲願である。何とかして敵を陥れる手はないかと毎晩のように考え続けた。そのうち彼は自分がこの上ない屈辱を味わった最後の場面を夢にまで見るようになった。

 

 胆で圧倒され、なすすべもなく棒立ちになったあの場面だ。そのとき向けられたクラピカの感情に疑問を感じるようになった。あれは果たして本当に自分に向けられたものだったのかと。どちらかと言えば、眼中にないと言った様子だった。

 

 大事そうに競売品を胸に抱え、歩き去っていく後ろ姿を思い出す。その商品は何だったかと、ゼンジは一年前のカタログを引っ張り出して調べていた。

 

 ゼンジの憎悪に塗られた妄執が、クラピカの持つ同質の妄執を見抜いたのだ。その競売品『緋の眼』について密かに調査した結果、人体収集家の間で不穏な噂が立っていることが判明した。

 

「間違いねぇ。奴の弱点はこいつだ」

 

 ゼンジはオークションカタログを開き、幾度となく読み返した『緋の眼』の頁に目を通す。

 

 世に36対現存すると言われる緋の眼は世界七大美色に数えられ、その筋の収集家にとって垂涎のアイテムだった。だが、その幻の逸品を次々に手放す所有者が現れ始めたという。

 

 具体的に誰が手放したかという情報はなく、あくまで噂の域を出ない。ノストラード組との関連も全く見つからなかったが、ゼンジはクラピカの関与を確信していた。

 

 ノストラード組は『緋の眼』を集めている。熱心な人体収集家ということはあるまい。ゼンジには、はっきりとした理由まではわからないが妄念の類だろうという予感があった。

 

 そしてその品を手に入れる機会が訪れようとしている。ゼンジが見開いているカタログは去年のものではなかった。今年のドリームオークションが数日後に開催される。その入場券となる最新版のカタログだった。

 

 去年に続いて今年も緋の眼が出品されるのである。この絶好の機を逃す手はない。ゼンジの様子は、隣に座る子分が顔をひきつらせるほどの上機嫌だった。

 

「頭ァ、言われた通り当日の護衛は選りすぐりの奴らを用意しましたが……“アレ”を雇うのはやっぱり考え直しませんか?」

 

 ゼンジはこの復讐計画を成功させるために万全を期していた。武力もその一つだ。敵側が強硬手段に打って出る可能性も考えられる。クラピカを憎むと同時にひどく警戒もしているゼンジは過剰と言えるほどの戦力を用意していた。

 

「いくら強かろうと『シスターズ』だけは……」

 

「うるせぇ、もう決めたことだ。あのクソ野郎とやり合うには普通の殺し屋や傭兵じゃ務まらねぇ」

 

 念能力者ではないゼンジがクラピカの正確な実力を測ることはできていなかった。ただ、心に植え付けられた恐怖がゼンジのプライドを傷つけると共に狂気的な執拗さをもって敵を滅ぼす願望を抱かせていた。

 

「楽しみで仕方ねぇ。今度こそ、あいつのキザったらしい顔を屈辱に歪めさせてやる。俺と同じ目に遭わせてやる……!」

 

 

 * * *

 

 

 携帯でウェザー情報を確認したところ、本日のヨークシンは終日雨天。ここ数日は芳しくない天気が続いている。明日のドリームオークションも雨の中、開催されることになるだろう。

 

 しとしとと小雨が降る街中を黒いスーツ姿の男が歩いていた。傘を差しているが長身のためか男の足元はすっかり濡れていた。高級ブランドの革靴で惜しげもなく水を跳ねていく。

 

「やっぱ雨だから前に来たときみたいな活気はねぇな」

 

 ここは商社ビルが立ち並ぶ中心地から少し離れた市街になる。値札競売市と呼ばれる観光スポットの一つだ。競売と蚤の市が合わさったような場所で、個人が持ちよった不用品を並べる露天が所狭しと広がっている。

 

 商品には白紙の値札が貼られており、買い手がそこに好きな金額を書き込んで、定時までに最も高額をつけた者と売買される。市場が広大なだけあって掘り出し物も多く、それを目当てに観光客が集まっている。

 

 だが、あいにくの雨もあって客足は少ない。晴れた日には広場に多くの露店が風呂敷を広げているのだが、今日はがらがらだった。中には商魂たくましく屋根付きの出店を開いているところもある。

 

 男がここに来た理由は特にない。明日のドリームオークションに参加するためサザンピースで競売品目録(カタログ)を買い、やることもなくなったのでふらりと市に立ち寄った。強いて理由をつけるなら、昔の思い出に浸るためと言ったところか。

 

 しばらく出店を見て回ったが欲しいと思うものもなく、ホテルに帰ろうかと思い始めた頃のことだった。

 

「つまらんのぅ。どの店もしけたガラクタしか置いてないのじゃ」

 

「ガラクタ市なんだから当たり前だろ。溢れ返るゴミの中から気に入ったゴミを探す、そういう楽しみ方をするところだね」

 

「せっかく大都会に来たというのに全然、シチィ派の遊びをしとらんではないか」

 

「テメェが出張費を使いこんでカジノですらなきゃもっとマシな観光ができたんだよ!」

 

 路地の片隅で二人の子供が言い争っている。どちらもレインコートを着てフードを目深にかぶっていた。聞こえてくる声からして二人とも少女と思われる。

 

「そう怒鳴るでない。仕方ないのぉ、景気づけに面白いものを見せてやろう」

 

「聞き分けのない子供を諭すような言い方をするな」

 

「いでよ……『玩具修理者の腕(Dr.ブライスMk-Ⅱ)』!」

 

 一人の少女がそう叫ぶと、どこからともなく一匹の猫が姿を現した。しかしその猫、体中が鉄板の継ぎはぎのような物で出来ており、脳天にゼンマイの巻き手が刺さっていた。不格好な猫のロボットのように見える。

 

「メルエムの能力じゃねぇか。なんでお前が使えるんだよ」

 

「借りてきたのじゃ。おやつと引き換えにな」

 

「安っ!? しかも貸し出せんのかよ。形も義手から猫っぽくなってるし、そういうふうに自分を改造することもできるのか」

 

『ンニャァ』

 

 一般人の目から見れば猫のオモチャに見えるだろうが、それを傍から見ていた男は正体に気づいていた。具現化系能力、念獣に類するものと思われる。

 

「ほれ猫っこ、ご主人様に挨拶するのじゃ」

 

『ンニャ!』

 

「はぶし!?」

 

 強烈な猫パンチが少女の顔面に叩きこまれた。若干、首がおかしな方向に曲がっているように見えるのは気のせいだろうか。

 

「おめーは動物の扱いがまるでわかってねぇ。あたしに貸してみろ……はぁぁぁい、猫ちゃんこっちだよー! だっこしてあげるからねー! ちゅっちゅっ!」

 

「え……キモい……」

 

「黙りゃ! 猫ちゃんのお名前は、確かピトーちゃんでちたねー! ほらピトーちゃん、ちゅっちゅっ❤ ちゅっ❤」

 

『ンニャ!』

 

 猫は力強い蹴り出しと共に跳躍した。腕を広げて待っていた少女の胸へとミサイルのようなスピードで頭突きを食らわせる。

 

「……おーけー、わかった。ピトーちゃんには少しばかり躾が必要みたいだなコラ」

 

「メルエムの奴め、どうりでやけにすんなり引き渡したものよと思ったのじゃ!」

 

『ンニャ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』

 

 暴れ回る猫を少女が二人がかりで制圧しようと動く。その気配から念を使って本気で争っているというよりは、ただじゃれあっているだけに見えた。

 

 それ以前に、術者に刃向う念獣なんて存在をどうして作ったのか問いただしたくなる気持ちもあったが、部外者の男が口を挟めるような問題ではない。ただ、さすがに度が過ぎる争いに発展しそうだったので彼は止めに入った。

 

「おいおい、何やってんだお前ら……って、うお!?」

 

 猫の後ろ足蹴りが少女の一人にクリーンヒットする。その勢いはかなりのものだったらしく、近づこうとしていた男のすぐ傍まで少女が吹っ飛ばされてきた。

 

 ずしゃあっと盛大に水たまりに突っ込んだ少女のフードがめくれ上がり、素顔が晒される。その顔立ちは一瞬見惚れるほど整っていた。言動が残念過ぎることを除けば非の打ちどころがない美少女である。

 

 しかし、女好きの気が強い彼でも粉をかけようと思う気持ちは湧かなかった。あと5年経てば彼のストライクゾーンに入るかもしれないが、今の時点では幼すぎる。出直してきな、と謎の上から目線で評価を下す。

 

「言わんこっちゃねぇ。立てるか?」

 

「おお、すまんの」

 

 男が手を貸して少女を立たせる。先ほどまで暴れていた猫はどこかへ走り去っていった。もう一人いた少女の方も男の方へと近づいてくる。背格好も声も全く同じように感じる二人は姉妹だろうか。双子かもしれない。

 

「人前で能力を見せびらかすもんじゃねぇぜ。まあ、お前らにとっては余計なお世話だろうが」

 

「ほっほっ、なかなか見どころのある男じゃて」

 

 男は、この少女たちが自分よりも念能力者として上位にあることをそれとなく察していた。無防備に能力を晒したことは確かだが、見られていることを承知の上で問題ないと判断して使っていたことを彼は見抜いていた。

 

 それは見方によっては舐められているとも感じ取れるが、まだまだ念使いとして発展途上にある男にとっては当然と受け止めきれる範囲の反応だった。自分より幼い子供を相手に少しへこむ感情もなくはなかったが、そういった経験はこれが初めてのことではない。

 

「念使いがこんなとこで何やってんだ?」

 

「仕事での。オークション参加客の護衛じゃ」

 

「なるほどな。確かに時期が時期だ。そう考えればこの近くに能力者が集まってるのもおかしくはないのか」

 

「むしろ、わしはおぬしのことを同業者かと思っとったんじゃが」

 

 男の人相はお世辞にも優しげとは言えず、かけている丸サングラスも相まってその筋の人間に間違えられても不思議ではない迫力があった。

 

「いや、ただの一般参加客だぜ。競売に興味はないが、な」

 

「これは異なことを。興味がなければ何用で来たのじゃ?」

 

 男はしばし言い淀む。別に隠さなければならないことはない。ただ、長らく音信不通だった友人がこのオークションに参加するだろうという当てがあり、ちょっと顔を見せに行こうと思っただけのことだった。

 

「色々さ。お前らもそうなんだろ?」

 

「そうさな、色々じゃ」

 

 少女はくつくつと笑いながらフードを深くかぶり直す。その横でもう一人の少女が余計なことを喋るなとでも言うかのように無言の圧力をかけていた。男の方にしてもこれ以上、仲良く歓談する気はない。あえて情が湧かないように避けたとも言える。

 

 彼女たちの素性が気にならないと言えば嘘になるが、詮索すべきではないことは身に纏う気配から察せられた。男も念能力者の端くれとしてオーラの流れからある程度の機微は感じ取れる。

 

 間違いなく彼女らは裏社会に属する人間だろう。マフィアンコミュニティが取り仕切るオークションに関わる護衛任務など、これほど幼い姉妹が請け負うような仕事ではない。そんな常識が通用しない世界が確かに存在する。

 

 そして、それは珍しくもないことだった。手を施そうとしたところで何かが変わるような問題ではない。この憂鬱な天気と同じく、ただ男の心中に少しばかりのやるせなさを残しただけだった。

 

「じゃあな。はしゃぎすぎて風邪ひくなよ」

 

 男の名はレオリオ=パラディナイト。医者を目指すプロハンターだ。結局、彼は自分から名乗ることはなく、軽く手を挙げてその場を去って行った。

 

 

 * * *

 

 

 降りしきる雨は誰の涙か、何を思って流す涙か。

 

 オークション会場となるサザンピースは土砂降りの中、ライトアップされた光に照らされて揺らめくように佇んでいた。次々と送迎車が敷地へ入り、参加客を降ろしていく。いずれも名だたるマフィアの頭たちだ。

 

 例年であれば全10日の期間中、後半の5日間に渡って開催されるこのドリームオークションは、警備上の問題などもあって今日限りの一夜の祭典となった。その分、出品される競売品は厳選されたものばかり。例年以上に激しい競り合いが予想されている。

 

 この競売で得られた落札価格の5%はマフィアンコミュニティに上納される仕組みになっている。マフィアにとっては自分たちの組の株を上げるための面子争いの場でもあった。過去にはこの競売で破産した組も出たほどである。

 

 様々な欲望が渦巻くオークション開催を前にして、サザンピースのホールは集まった客で溢れていた。裏組織の社交場でもあるため、その多くがフォーマルなスーツ姿の男性である。いかつい人相や体格をした護衛を引きつれている者も多く、和やかな雰囲気ながらどこか殺伐とした緊張感が漂っていた。

 

 ただし、中には女性客もそれなりにいた。この場はただのマフィアの集会とは違い、歴とした由緒あるオークションでもある。物欲を刺激されて集まって来る客には事欠かない。特にその傾向は男性よりも女性の方が顕著と言えた。

 

 貴金属、宝飾類、美術品、いずれも他では手に入らない格を備えた逸品ばかりが揃っている。そんな競売の参加者も一般人とは程遠い。入場許可証となるカタログを購入するだけで1200万ジェニーもの大金が必要となる。

 

「おい、なんだあの美人は? どこの組のご令嬢だ?」

 

「いや、見たこともないが……一般の参加客か?」

 

 絢爛豪華な会場に、ある女性客の姿があった。アイジエンテイストを取り入れたシックな黒いドレスを着ている。露出が少なく夜会服としては変則的ながらも、落ちついた着こなしの中に見え隠れする気品と色香を携えていた。

 

 夕染まりの小麦畑を思わせる美しい金髪、物憂げに伏せられた瞳。誰かと視線を合わせようとはせず、奥ゆかしく口元を扇子で隠していた。その触れがたい空気は一種の神秘性を醸し出し、声をかけようかと迷う若い男性客の行動を自然に押しとどめていた。

 

 その女性の隣には、いかにも小間使いと言った雰囲気のスーツを着た小男がつき従っている。出っ歯で小太り、髪型はそのままヅラをかぶせたようにきれいな七三分けだった。

 

「……怪しい反応はあるか、センリツ」

 

「いいえ、今のところは」

 

 扇の内側で発せられたかすかな声に、隣の小男がヅラの位置を調整しながら返事をする。センリツと呼ばれたその男(正しくは女性だが)は、この会場全域に渡る様々な人間の声、不審な物音、さらには個人が発する心臓の鼓動までも寸分たがわず聴き分けていた。

 

「あら? 聴き覚えのある旋律が近くにいるわね。これは誰だったかしら」

 

 そのセンリツの言葉に美女はそれとなく、しかし素早く周囲に視線を走らせた。そしてこちらをチラ見している一人の男に目が留まる。大柄で丸サングラスをかけた人相の悪い男だった。すっかりマフィアの空気に馴染んでいるその男を見て、彼女は思わず瞠目した。

 

 自分が見られていることに気づいた男は『え? オレ!? オレすか!?』と自分を指さしてアピールした後、何かを勘違いした様子で襟首を正しながら彼女の方へと近づいてきた。

 

「んんっ、いやぁ、どうかしたかいお嬢さん。オレはレオリオ。こう見えてプロのハンターだ。お悩みなら何でも相談に乗るぜ」

 

 そう言って得意げにハンターライセンスを見せつけてくる。その反応を見た美女は盛大にため息をつきたくなる気持ちを何とか堪えて、男に耳を寄せるよう合図した。鼻の下を伸ばした表情でレオリオが腰をかがめる。その耳元で美女はささやいた。

 

「先に忠告しておく。大声を出すな。私は……クラピカだ」

 

 元の姿勢に戻ったレオリオは、鼻の下どころか瞼まで伸びきるほど驚愕の表情を無言で浮かべた後、しきりにうなずきながらハンター証をポケットにしまった。そしてその場で少し右往左往したかと思うと、

 

「よっ、久しぶり。元気してたか?」

 

 急に平静を装った態度で話しかけてきた。内心では土砂降りの屋外を絶叫しながら走り回りたいと思っているレオリオの心境を、センリツは鼓動のメロディーから読み取っていた。

 

 






後日談……書かなきゃ(使命感)

というわけで原作主人公勢の残り二人を出してみました。またもや見切り発車のストーリーのため更新が安定しなかったり途中で改定するかもしれません。あしからずご了承ください。


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93話

 

 ノストラード組若頭、クラピカはその身分を隠してドリームオークションに来ていた。その目的は競売に出される予定の『緋の眼』を手に入れることだった。

 

 クルタ族と呼ばれる少数部族は、激情を抱くと瞳が赤く変色する体質を持つとされる。緋の眼とは、クルタ族が激しい感情を抱いたまま死ぬことでその色素が定着した眼球のことを指す。クラピカはクルタ族の最後の生き残りだった。

 

 幻影旅団という盗賊団によって彼の一族は滅ぼされ、同胞の眼は奪われた。そのときから彼は仲間たちの眼を取り戻すことと、旅団への復讐のために生きる決意をする。

 

 プロハンターとなりマフィアの一家を陰から取り仕切る若頭となったクラピカは、裏社会に潜む人体収集家のつながりを辿って緋の眼の回収に奔走した。この一年余りで大部分の回収は終わり、残すはあと2対となるところまで迫っていた。

 

 そのうちの1対が今夜、サザンピースのオークションに出品される。クラピカにとってこの事態は望ましいものではなかった。

 

 これまで彼は秘密裏に事を進めてきた。自分たちの素性がわからないように細心の注意を払って緋の眼の所有者に接触してきた。秘蔵のコレクションを簡単に譲り渡そうと考える持ち主はいない。だが、クラピカの“説得”を受けたコレクターは皆、最後には自分から品を手放している。

 

 多少は手荒い手段を取ったこともあるが、殺して奪うようなことだけはしなかった。それは矜持の問題でもあるし、足がつくような事件にしたくなかったためという理由もある。

 

 しかし、どんなに痕跡を隠そうとしても収集家同士の交友関係から生じる不審な噂を全て封じこむことはできなかった。何者かが緋の眼を大量に集めているという噂が広がりかけている。

 

 今はまだ単なる噂の域を出ないが、それでも不穏な気配を察したコレクターがいたのだろう。クラピカが探し出して接触する前に、自らオークションに品を流してしまったのだ。

 

 去年のドリームオークションでは1億ジェニーから始まった競売価格が29億にまで膨れ上がっている。相場から見れば高くとも5億程度が妥当なところ、その6倍近い高値で取引された。金欲しさに今回の出品に踏み切ったとしても不思議はない。

 

 厄介な事態になってしまった。ただでさえ気分が逆立っているクラピカにしてみれば、これ以上の面倒事など御免被る。オークション会場でばったり友人と再会なんてしている余裕はなかった。

 

「クラピカ、一つだけハッキリさせたい。男なのか女なのか、どっちだ?」

 

「そんなことはどうでもいい」

 

 既にオークションは始まっていた。緋の眼の競りはまだ先の予定なので焦る必要はない。今はそれよりもレオリオをどうするかということにクラピカは頭を抱えていた。

 

「なんだその態度!? お前が連絡もよこさずに一人でシコシコやってるから顔見せに来てやったんだろうがよぉ! びっくりさせてやろうと思ったらこっちがびっくりだよバカヤロウ!」

 

 レオリオとクラピカは共にプロハンター試験を受けて合格した同期であり、その後も親しい友人の間柄であった。彼はクラピカが復讐に走る理由も知っている。

 

 ハンター試験後は夢であった医者になるための勉強が忙しかったレオリオだが、今では無事に医大生となっている。無論、まだ勉学を怠ることはできないが、大学受験に合格して一段落した彼は、クラピカのことについて気をもんでいた。

 

 プロハンターの資格があれば電脳ネットを通じて一般人では検索できない様々な情報を閲覧することができる。緋の眼の行方について、レオリオは彼なりに調査を進めていたのだ。

 

 もっとも、レオリオ以上に裏社会の深部から捜索の手を広げていたクラピカには到底及ばない調査でしかなかったが、アンテナを張っていたからこそ今年のドリームオークションに緋の眼が出品される情報をつかめたと言える。

 

「ゴンとキルアにも連絡はしたんだが、何か取り込んでるらしくてな。詳しくは知らんがキルアの実家の関係で揉め事があったらしい。忙しそうだったからオレが代表として来てやったぜ」

 

 競売品に関する情報はカタログに記載されており、それなりの富裕層なら何の制限もなく知ることができる。プロハンターの資格があれば調べることはわけもないことだ。

 

 だからこの場にレオリオや他の友人たちがいたとしてもおかしくはない。クラピカは、その程度のことにも頭が回らなかった自分の迂闊さを呪った。

 

「おい! マジで嫌そうな顔すんな! 確かにそんな格好してるところを見られたくない気持ちはわかるが、こっちもお前のことが心配で……」

 

「そうではない。できればお前にはすぐにでも帰ってほしいところだが、何も知らずに動かれるとどんな騒ぎに巻き込まれるかわからないな……こうなれば事情を説明した方がまだ安全だろう」

 

「は? 何言ってんだ? これから競売で緋の眼を競り落とすんじゃないのか?」

 

「その予定だが、すんなりと事が運ぶ保障はない。今年のドリームオークションには、幻影旅団が来る可能性がある」

 

「……いやいやいや、待て待て。さすがにそれはないだろ」

 

 レオリオは何かの冗談かと思った。一年前のドリームオークションは幻影旅団の襲撃を受けてマフィアンコミュニティを揺るがすほどの大損害が発生している。

 

 マフィア主催の闇の地下競売は商品を根こそぎ奪われ、その後日に開かれた一般参加客も集まるオークションでは305億で落札されたグリードアイランドという競売品が強奪されている。

 

 世界中のマフィアを敵に回したに等しい暴挙であり、一時は旅団に多額の懸賞金がかけられたが、これはすぐに撤回されマフィアが矛を収める形となった。表向きは寛大な心でマフィアの懐の深さを示した措置とされているが、さすがに苦しい言い分である。

 

 実情は、流星街からの圧力にマフィアが逆らえなかったためであった。幻影旅団は流星街の出身者。マフィアに対して不可欠な人的資本の出資元である流星街と事を構えることはできなかった。

 

 この一件により、今年のドリームオークションは開催も危ぶまれていた。しかし、ここで臆する姿勢を見せればそれこそマフィアンコミュニティの名折れである。警備面を強化して開催日程を変更、非合法品を扱う闇競売は中止され、代わりに一般参加が可能な公的競売に一本化された。

 

「仮に旅団がまた襲撃に来るようなことがあれば、どうなる?」

 

「今度こそマフィアは面子を潰される。前回のようにお咎めなしで済ますようなことにはならないだろう」

 

 出身地を笠に着た責任逃れも一度だけなら妙手と言えるが、味を占めて何度も繰り返せばただの愚行でしかない。たとえ流星街が相手だろうと、マフィアは全面戦争に持ち込むだろう。

 

 その最悪の結末だけは回避したい思惑が互いにあるはずという前提のもと、今日のオークションは開かれている。マフィアンコミュニティは警備面を強化しているが、まさか二度目の襲撃があるとは思っていない。

 

「それは旅団(クモ)にとっても言えることだ。たかが競売品程度の獲物を手に入れるために自分たちの住処でもある裏社会から締め出されるような馬鹿はしないだろう」

 

「じゃあ、バレないようにこっそり盗むってのか? そこまでしてあいつらが欲しがるものがあると?」

 

「もし奴らがここへ来ることがあるとすれば、目的は『緋の眼』とその『落札者』だ」

 

「……どういうことだ?」

 

 クラピカは前回のオークションで旅団の二人を殺めている。対策を万全に整えていた彼にとって単純な戦闘であれば、一対一に持ち込めさえすれば十分に倒せる相手だった。連携を取らせず、いかに個別に撃破できるかが鍵となる戦いと言えよう。

 

 その点で言えば殺めた二人のうち、旅団の中でも最強格の戦闘力を誇っていたウヴォーギンより、他者の記憶を読み取ることができる特殊能力を持つパクノダの方が厄介だった。

 

 一筋縄ではいかない交渉に持ち込まれ、直接的に殺害するには至らなかった相手だが、クラピカの情報を漏らそうとすれば即座に心臓を潰す念の鎖を仕掛けることに成功している。そして、その鎖の能力は発動し、確かにパクノダを死亡させた実感がクラピカにはあった。

 

「なら、お前の情報は旅団に漏れてないはずだろ。お前がクルタ族であり、緋の眼を探していることは敵も知らないはずだ」

 

 普通に考えればレオリオの言う通りだった。だが、クラピカには解せない感情がある。パクノダは非情に理知的な性格をした人物だった。戒めの鎖を心臓に仕掛けたことは本人にも宣告しており、死ぬとわかっていることをなぜわざわざやったのかという疑問が湧く。

 

 理知的であると同時に仲間思いの一面を見せたパクノダは、死を覚悟してでもクラピカの情報を伝えようとしたのではないか。話そうとすれば即座に心臓が潰され、常人なら言葉を発することもできず即死するだろう。しかし奴らなら死の間際に一言、絞り出すことができたかもしれないという不安があった。

 

「その一言が『緋の眼』だったてのか?」

 

「……」

 

「それはさすがに考え過ぎじゃねぇか?」

 

 あり得ないとは言い切れない。緋の眼か、あるいはクルタ族か。クラピカの素性に辿りつく情報が示された恐れがある。その仮説が正しければ、オークションの情報を仕入れた旅団はクラピカを探しにやって来ることも考えられた。

 

 だからこそクラピカはこのオークションにおいて旅団との遭遇を視野に入れ、行動することに決めていた。そのための変装である。ノストラード組としてではなく、一般の参加客を装っていた。

 

「もっと現実的な可能性をあげるなら、ヒソカが私の情報をクモに売ったことも考えられる」

 

「あー……それは否定できねぇな」

 

 その当時、ヒソカは幻影旅団に偽の団員として潜伏しており、利害の一致からクラピカに旅団の情報を流していた。今となっては逆にクラピカの情報が流されていたとしても不思議ではない。

 

 もっとも、仮に情報が知られていたとしても旅団が必ず来るとは限らない。仲間をクラピカに殺されたことに対して報復の意思がどの程度あるのかも定かではない。

 

「可能性はいくらでも考えられるということだ。奴らが来るという確証はないが、来ないと決めつけることもできない」

 

 そしてクラピカにとっては、そのどちらに転んでも初志を貫く覚悟があった。旅団の姿を想像しただけで、カラーコンタクトの内側で彼の眼は赤く色づき始めている。

 

 今までの活動は旅団を探すことよりも緋の眼の回収に専念していた。もしクラピカが復讐の道半ばで命を落としでもすれば同胞の眼は離散したまま弔うこともできなくなってしまう。まずは全ての眼を安全な場所に集めることが先決だった。

 

 だが、その一方で胸中に燃える復讐の炎が鎮まることは少しもなかった。まさか目の前にまで迫った一族の敵を見逃すなどということはあり得ない。復讐のために、あらゆる事態を利用するつもりでいた。

 

 しかし、ここに来てレオリオとの再会という予期せぬ事態が発生する。幻影旅団との因縁はクラピカ個人が抱える問題であり、他の誰かを巻き込むつもりはなかった。

 

 センリツにはその能力の優秀さから助力を願ったが、彼女はクラピカと程よい距離感を持った関係を築いている。無論、仲間として信頼し合っていることは確かだが、互いに個人の事情にまで深入りするような関係ではない。復讐はクラピカ一人で決行することを事前に話し合っていた。

 

「全てを話した上で今一度、問おう。レオリオ、これは私の個人的な問題だ。わざわざ首を突っ込んでまで危険な目に遭う必要は全くない。それでも……」

 

「愚問だぜ。オレはあまのじゃくなんでね。来いと言われれば勝手に帰り、来るなと言われれば嫌でも着いて行く男だぜ」

 

「じゃあ手伝ってくれ」

 

「よし、わかった!」

 

 皮肉にもならない。頭を抱えるクラピカとは対照的に、センリツの表情は穏やかだった。彼女はレオリオにこっそり耳打ちする。

 

「あなたが来てくれて良かったわ。クラピカは今日の競売に向けて気負い過ぎているところがあったから」

 

 旅団の来訪を待ち望むクラピカの心境は憎悪一色に染まりかけていた。それは死闘に臨む者として間違った心構えではない。むしろ、レオリオがここに来たことでクラピカの精神に多少の揺らぎが生じたことは確かだった。

 

 しかし、クラピカが憎しみ以外の感情の欠如した復讐鬼になり果てることをセンリツは心配していた。彼の心音は激しい怒りを表し、復讐のためなら自分の命すら容易く犠牲にしかねない危うさを含んでいた。

 

 そのメロディーはレオリオの登場によって少しずつ変化しかけている。友人の身を案じる気持ちがクラピカの心に元の人間味を与えていた。作戦は多少の変更を余儀なくされるが、それ以上の効果があったと見ていいだろう。

 

 しばらく作戦会議を行った後、三人はオークション会場へ踏み込んだ。不自然にならないようにレオリオが美女然としたクラピカをエスコートする形で入場する。複雑そうな顔をしたレオリオの後ろを、使用人に扮したセンリツが付いて行く。

 

「さあ、続きましては! 非業の死を遂げた幼き天才彫刻家、キネティ=ブレジスタの遺作でございます。ご覧ください、この迫力! 死肉に群がる7匹のハイエナがまるで生命を得たかのように血生臭く表現されています。それでは2500万からスタートです!」

 

 競売も中盤に差し掛かった会場は、欲にまみれた客たちの熱気でむせかえるようだった。騒がしく聞こえるのはオークショニアが張り上げる演説の声だけで、席に座る客たちは静かなものだったが、その無言のうちにこみ上げる物欲と金への執着は会場全体に蔓延していた。

 

 この大量の客たちの中に紛れこんだ何者かがいたとしても一人一人その情報を見分けることは困難を極めるだろう。前回よりも大幅に強化された警備体制をもってしても念能力者が本気で潜入を考えればいくらでも手はある。

 

 それはなるべく素性を隠しておきたいクラピカにとっては好都合でもあったし、敵の所在が知れないという意味では不都合でもあった。そのためセンリツに協力を求めていた。彼女の凄まじい聴力を誇る耳ならば、絶で気配を消した者の存在や操作系能力で操られた一般人の状態まで判別できる。

 

「でも、さすがに数が多すぎる……全員を隈なく調べることはできそうにないわ。ごめんなさい」

 

「可能な範囲で構わない。そのまま異常がないか探ってくれ」

 

 この会場内で戦闘に発展するような事態は敵も避けたいはずだ。やはり事が動くか否かの線引きは、緋の眼の競売にかかっている。それまでは大人しく待つしかない。オークショニアの司会進行の声は、今のクラピカにとってはただの雑音にしか聞こえなかった。

 

「おい、緋の眼の競売が始まったら普通に競り落とすんだよな?」

 

「そのつもりだ」

 

 旅団の存在を前提にここまで計画してきたが、今の段階では確証のない想定に過ぎない。まさかいるともわからない敵の影に臆して競りから身を引くようなことはできなかった。ただ金を積めば緋の眼が手に入るというこの状況は願ってもない機会である。

 

「金が足りなくなりそうだったら言えよ。オレも少しくらいなら出してやるから……1000万くらいなら……」

 

 緋の眼の競り出しは最低でも1億から始まるものと思われる。1千万では心もとない金額だ。それはレオリオにもわかっているため、大きな顔はできなかった。

 

 彼の軍資金は1200万のカタログを購入した時点で既に半減しているのだ。友人に会うという、それだけのために投げ捨てたとも言える金だった。

 

 これまで大学受験の勉強にかかりきりだったレオリオにとって用意できた金額はこれだけだった。それでも普通の感覚からすれば大学生で2千万以上の貯蓄があることは凄いことだが、プロハンターとして稼ごうと思えば手が届かない金額ではない。

 

 医者を目指してこれまで彼が貯めていた金や、勉強の合間のわずかな時間に短期で受けた依頼などによってかき集めた金である。世の中は金が全てだと豪語する彼だが、その使い道は実に情がこもっていた。

 

 レオリオはクラピカのためならば使っても構わないと思っていた。もとより医大に入るために貯めていた金であり、プロハンターとなった今では以前ほど切羽詰まって必要に感じているわけではない。

 

 いつもなら金に目がないレオリオが自分からそんな話を切り出したことに、クラピカは思わず破顔してしまった。終始、浮かない表情をしていた彼がこの場で初めて見せた微笑だった。

 

「あっ! てめぇ今、鼻で笑いやがったな! あと1千万あれば競り落とせたのにレオリオ様、と泣きついてきても知らんぞ……! そのときはきっちり貸し付けてやるからな! 利子も取るぞ!」

 

「ああ、わかったわかった。ありがたく使わせてもらおう」

 

 素直に『ありがとう』と言えず、軽くあしらう返事をしてしまったことにクラピカは申し訳なさを感じていた。こんな自分には過ぎた友人を巻き込んでしまったと、後悔する思いがあった。

 

 故郷の惨劇を目にしたあの日から、クラピカの性格は変わってしまった。より美しい緋色を眼球に定着させるために、旅団はよりむごたらしくクルタ族を殺害した。家族同士を向かい合わせて死にゆく姿を見せつけ、子供は特別におぞましい拷問を受けたことが死体の傷跡からわかった。人を人とも思わぬ所業だった。

 

 その憎悪は仲間の眼を集めていく過程で燃え上がると言うよりは、底冷えするように冷たく研ぎ澄まされていった。同胞を取り戻すたびに人としての何かを失い、心から温かみが消えていく。復讐の果てに何が待つのか、自分でも考えが及ばなくなっていた。

 

 それでもクラピカの中には幼少期に刻み込まれた故郷での思い出が色褪せることなく宿っていた。何の変哲もない暮らしの中で、家族や友達との愛情や友情の中で育った記憶がある。どんなに強い憎悪に染まろうと、培われた人間性の全てを否定することはできない。

 

 だからこそ復讐に囚われた生き方しかできず、それでありながらレオリオのようなかけがえのない友人たちに出会えたことを喜べる気持ちを失わずにいられた。その相反する感情が心を痛める原因でもある。

 

 ただの冷血な復讐鬼に徹することができたなら、あるいは仲間の死を過去のものと割り切り前を向いて生きていけたなら、こんな苦しみはなかっただろう。何もかも中途半端な自分の在り方を、彼自身認められずにいる。

 

 それでも今さらこの生き方を変えることはできなかった。長袖の中に隠し持った鎖を握りしめる。カタログに記載された出品順によれば、もうすぐ緋の眼の番が来る。刻一刻と増すオークションの熱気と比例するように、彼の心拍も上昇していった。

 

「続きましては本日の“眼玉”の一つ! 絶滅した希少部族、クルタ族の眼球『緋の眼』でございます! そのため息が漏れるほど鮮やかな赤色は世界七大美色に数えられるほど! 1億ジェニーからのスタートです!」

 

 ついに始まる。開始の合図も早々に、次々と競り値をかぶせる買い手が現れる。オークショニアは目まぐるしく変遷する金額を叫んでいく。

 

「1億6000! 1億8500! 来た、2億3900! まだまだ上がるか!? 3億! 3億が出ました! これで終わるか、いやまだ上がる! 3億と700万が出た!」

 

 予想よりも競り合いは白熱していた。凝縮された競売日程による購買層と資金の集中が競り合いを激化させている。これはクラピカにとって都合が良かった。これならば多少、目立つような高額を提示してもそれほど不自然ではない。

 

「5億!」

 

 機を見計らってクラピカがアップのサインを出そうとした時のことだった。会場に野太い男の声が響いた。オークショニアではなく、参加客が発した声である。サザンピースでは指の形で金額を提示するサインを用いることが一般的なマナーだが、ヒートアップした競りではその限りではなく、こうして直接競り値を声に出した言い争いになることもある。

 

 5億という金額はクラピカにとって落札予定価格の上限に位置していた。市場価値を加味してもこれだけあれば十分、逆に言えばこれ以上の競り値を付けるとその品に相当執着していることを示してしまう。

 

「さあ、5億! もう一声! もう一声ないか!? 5億1000! 5億と1千万が出た!」

 

 逡巡したクラピカに代わり、そこでレオリオが独断でアップのサインを出す。

 

 こうした競り合いには熟考が好まれない独特の呼吸があり、参加者たちの感情が大きく関係している。ただ単に予算の範囲で機械的に購入を決定するわけではない。他者を差し置いて欲しい物を手に入れるという独占欲をあらわにした戦場だ。その欲望を満たすためだけに場の空気に呑まれ、衝動的に声をあげてしまう買い手は多い。

 

 しかし、ここで会場が静まり返れば続く買い手の声が上がりにくくなり、競売の熱が失われる。だからこそ一気に5億にまで金額を引きあげて他者を振り切ろうとする者が現れたのだ。

 

 オークションにおいては珍しくもない手法である。その流れを断ち切るよりも間髪入れずアップをかぶせた方が今後の競り合いにおける不自然さは薄れる。クラピカが5億を基準として考えたように他の参加客も同様の思考に至った者はいるはずであり、本当に緋の眼が欲しいと思う者ならこのライン付近での勝負も視野に入れているはずだ。

 

 巧遅より拙速を取ったレオリオの英断が、途切れかけた会場の熱気を再び加速させたかに見えた。

 

「10億ゥ!」

 

 だが、一瞬にして冷え切る。今度こそ会場は静まり返った。そして徐々にざわつき始める。そのアップを叫んだ声は、先ほど5億を提示した者と同じ声に聞こえた。

 

「センリツ、今の声は誰だ……!?」

 

 完全に他の買い手を引き離しに来た何者かに疑問を抱いたクラピカがセンリツに確認を取る。

 

「この声は……ヴェンディッティ組よ!」

 

 センリツが一度聴いた人物の声を忘れることはない。間違いなくヴェンディッティ組頭、ゼンジであった。

 

 クラピカの思考は疑問で埋め尽くされていた。全く予想もしていなかった人物がここで浮上してきた。奇しくもその展開は、1年前のドリームオークションで起きた緋の眼の競り合いと酷似している。

 

 だからこそと言うべきか。ゼンジが緋の眼にこだわる理由はそこにあるものと推測できる。クラピカからすれば逆恨みも甚だしいが、ゼンジにはクラピカを憎む理由があった。

 

 いかにしてクラピカと緋の眼のつながりを知ったのか定かではないが、ここでゼンジの手に同胞の眼が渡ることはまずいと直感した。

 

「ついに10億の大台! さあ、いないか!? もう一声上がらないか!? ここで決してしまうか!」

 

 予算だけを考えるなら、クラピカにはまだ用意があった。20億までならぎりぎり捻出できる。

 

「センリツ、奴の心音は? 何か異常は見られないか?」

 

「念の影響を受けているようには聴こえないわ。でも……凄まじい感情の乱れを感じる。もの凄い執着よ。おそらく、全財産をつぎ込んででもこの競りに勝とうとしてるわ……」

 

 クラピカは思わず歯噛みした。ノストラード組の事業を立て直して得た資金は多額に及ぶが、これまで緋の眼回収のために多くの出費が重なっていた。

 

「どうする、クラピカ!?」

 

 ヴェンディッティ組はこの都市近辺に安定した基盤を持つ大ファミリーだ。正面から競り合ったところで勝ち目はない。いたずらに自分の存在を喧伝するだけで何も得られずに終わることは明らかだった。

 

「いない! では、10億にて落札です!」

 

 無情にも競りの終了が告げられる。もはやこのオークションに用はなくなった。しかしクラピカはしばらくの間、席から立つことができずにいた。

 

 



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94話

 

 №1 ノブナガ=ハザマ

 №2 フェイタン=ポートオ

 №3 マチ=コマチネ

 №5 フィンクス=マグカブ

 №7 フランクリン=ボルドー

 №8 シズク=ムラサキ

 №10 ボノレノフ=ンドンゴ

 

 以上、7名の盗賊たちが雨のヨークシンシティに集結していた。

 

 幻影旅団は№0から№12までの全13の構成員から成る組織だ。現在はこのうち9番、11番に欠員が生じているため総勢11名が在籍している。全ての団員がこの場に集まったというわけではなかった。

 

「しっかし、団長のお供はシャルとコルだけで本当に良かったのか?」

 

 フィンクスがコーヒーをすすりながら疑問を口にする。サザンピースから少し離れた場所にあるスターボックスカフェに団員たちは集まっていた。戦闘着ではない目立たない服装をしているが、一部の変装のしようがない団員(フランクリンなど)は別の場所で待機している。

 

「団長自身が指名して連れて行ったんだから問題ないでしょ」

  

 盗賊団長、№0のクロロは敵から受けた攻撃によって大きく行動を制限された状態にあったが、現在では除念に成功している。しかし一難去ってまた一難、復活した団長を執拗に付け狙うヒソカを何とかするために他の団員たちとは別行動を取っていた。そのお供としてシャルナークとコルトピの団員2名が随伴している。

 

 その他、№4のカルト=ゾルディックも今回の襲撃には参加していない。実家の方でトラブルがあったらしく、それどころではないと帰郷している。

 

「そんなに心配なら今からでも団長のところに行っていいぜ?」

 

 ノブナガがフィンクスに話しかけるが、それは誰かを気遣っての言葉ではなかった。彼はこの襲撃の参加者は少ない方がいいと思っている。その方が“鎖野郎”に直接復讐できるチャンスが増えるからだ。

 

「冗談じゃねぇ。ブチギレてんのはお前だけじゃねぇぞ」

 

 今回、集まった目的はただ一つ。1年前のこの場所で命を奪われた2名の団員、ウヴォーギンとパクノダの仇を取るためだった。特にウヴォーギンと親交の厚かったノブナガの意気込みは強かった。その一方で二人の死を必要な犠牲だったと割り切っている者も中にはいた。

 

 旅団の団員とはクモの手足だ。一本や二本欠けたところで死にはしない。欠員は後で補える。問題は自分たちを殺しうる敵に対し、見て見ぬふりをすることだろう。多かれ少なかれ誰もが復讐心をもっていることは確かだが、それを抜きにしてもこの敵はここで殺しておく必要のある存在だと誰もが認めていた。

 

「もうそろそろ緋の眼の競売も終わた頃と違うね?」

 

 その予想を裏付けるように、偵察に出ていた仲間が店にやって来た。敵の仲間には聴覚に特化した能力者がいることを彼らは知っている。その索敵を欺くため、マチが作った念糸の糸電話を使って会場の外から情報を集めていた。

 

「その様子じゃ、鎖野郎は見つからなかったようだな」

 

「ええ。緋の眼を競り落としたのはヴェンディッティ組とか言うマフィアの男よ」

 

 とは言え、その人物が敵と通じている疑いはある。是が非でも敵が緋の眼を手に入れようとしていることは明らかだ。

 

「とりあえず、そいつは捕まえて背後関係を洗いざらい吐かせるか。まあ、殺しちまっても構わない。緋の眼さえ手に入れば、鎖野郎は向こうからこちらに近づいてくるはずだ」

 

 全員が席を立つ。代金の支払いや物品の引き渡しなどの手続きにより、まだしばらくターゲットがオークション会場から出てくるまで時間がある。団員たちは戦闘準備に取り掛かった。

 

 

 * * *

 

 

「くそっ! くそおっ! なぜだ!? なぜたった10憶ぽっちで落とせた!?」

 

 短い手足をばたつかせながら、大の男が喚き散らす。この最高級フルストレッジリムジンは定員10名が乗車可能なほどの広さがあるが、現状において車内の居心地はお世辞にも良いとは言えなかった。

 

 今回の仕事は要人の護衛である。期日は今日から三日間、依頼主であるゼンジ=ヴェンディッティの身辺警護。場合によっては期日の延長もあり。マフィアの顔役の一人である組頭から直々に下った依頼であり、その金払いの良さから一も二もなく彼は承諾の返事をした。

 

 彼は殺し屋サダソ。ゆったりとした民族衣装を着た隻眼、隻腕の男である。今回雇われた護衛の一人だった。かつては天空闘技場の200階層に至った戦士として名を馳せたこともあったが、今では裏社会の闇に潜った日陰者となっている。だが、彼は決して腐ったわけではなかった。むしろ挫折を味わった彼は一念発起し、殺し屋として地道に実績を重ねていた。

 

 その努力の甲斐もあって念能力者の殺し屋としては中堅以上の地位にあると自負している。そうでなければ今回の件のような大口の依頼は回ってこなかっただろう。天空闘技場で念の初心者相手に粋がっていた頃とは比べ物にならないほど真摯に実戦を積み、着実に依頼をこなしてきた。念能力者としても格段に成長している。

 

 だが場数を踏んできた彼であっても、今回の依頼の異常性は目に余るものがあった。もはや降ろさせてくれと言うことも叶わない。依頼人とその護衛“たち”を乗せた車は雨の夜道をひた走る。ワイパーが忙しなく雨露を払いのけるその闇の先に何が待ち構えているのかと気が気ではなかった。

 

「なぜノストラードは来なかった!? この眼が欲しかったんじゃないのか!? あのときのように20憶でも30憶でも、奴の息の根が止まるまで競り合うつもりだったのに……! まさか俺の勘違いだったのか? くそおおおお!!」

 

「か、頭、落ち着いてくだせぇ!」

 

 依頼人のゼンジは競売で競り落とした品を抱えて喚いている。なんでも10憶も使って落札したらしいが、本人はもっと高値で買いたかったようだ。意味不明である。名のあるファミリーの組長とは思えない狂人ぶりだ。

 

 それだけでも不安要素だが、サダソの懸念はまた別にある。この護衛依頼に雇われた人間がどれも尋常ではないメンツなのだ。彼を含め、6名の念能力者が集められている。間違っても関わり合いになりたくない連中だった。

 

「ぱりぱりむしゃむしゃ」

 

 スーツが食べかすまみれになることも気にせず激辛ポテトチップスを貪り食う男は、『辛覚炎症』ホッド=キッド。彼の足元に置かれているボストンバッグには激辛ポテチのストックが詰め込まれている。ちゅぱちゅぱしゃぶっているその脂まみれの右手でどこかに触れようものなら、すぐにこの車を乗り捨てて雨の中を歩かされるはめになるだろう。警護どころか一歩間違えば依頼人ごとうっかり巻き込みかねない危険人物をなぜ雇ったのか。なぜ同乗させたのかとサダソは問い詰めたい気持ちでいっぱいだった。

 

「……」

 

 燕尾服にシルクハット、素顔を仮面で隠した物静かな男、『陰獣』蝙蝠。正しくは元陰獣だが完全解体されるまで居座り続け、マフィアから与えられるクソのような無理難題を喜々として請け負ってきた変態である。別名『最終処分場』。依頼達成率は三割もないくせに帰還率十割という驚異の生存能力を持つ。常人の手には負えないクソ依頼を嗅ぎ分ける嗅覚の持ち主で、つまり彼がここにいるということがこの依頼のクソさを物語っていた。事前にその名を聞いていればサダソは絶対ここに来ていなかった。

 

「うん、いーよー。今はちょっと忙しいから会えないけどー……えー? 浮気なんてしてないよー! キャロルの好きな人はパパだけだよぉ」

 

 大胆に露出した豪華なイブニングドレス姿で電話をしている女、『淫婦』キャロリーヌ=モリス。見目麗しく年若い美女に見えるが実年齢は不明である。娼婦にして女衒である彼女の悪名は、マフィアの性風俗産業においては有名だった。非合法極まりないかどわかしに手を染める賞金首で、数々のブラックリストハンターを出し抜いてきた実力者でもある。その畜生にも劣る念能力の醜悪さから裏社会においても彼女を嫌厭する者は多い。護衛任務など専門外のはずだが、よほど報酬が良かったのか。

 

「おい、早いって。まだ読んでねぇって」

 

「やめるのじゃ。ページがちぎれるのじゃ」

 

 雨合羽を着た少女たちが一冊の雑誌を二人で読んでいる。一見して仲睦まじい子供のやり取りのように思えるが、今回の依頼における最大級の爆弾は確実にこの二人である。『カーマインアームズ』のアルメイザ姉妹。顔合わせでその自己紹介を聞いたサダソは自分の耳を疑ったほどだった。その名も忌まわしきA級賞金首である。

 

 どれほどの悪逆非道を働いた凶悪犯だろうと賞金首としての階級はB止まりが普通である。A級の犯罪者や犯罪組織となれば、もはや社会常識の一切が通用しない歩く治外法権の領域だ。よほどの命知らずでなければプロの賞金首(ブラックリスト)ハンターだろうと手は出さない。

 

 オチマ連邦ジャカール諸島全域を地図から消し去り、世界を震撼させた『NGL革命未遂』は記憶に新しい。その首謀者モナドの一派とされる傭兵団が現れたとの噂はサダソも耳にしていたが、まさか仕事場で遭遇することになるとは夢にも思っていなかった。

 

 実力は確かだが鼻つまみ者ばかりでまともな神経なら雇おうなどと考えない顔ぶれである。依頼人はこの錚々たるメンバーを集めて何をしでかそうというのか。ただの護衛任務であるはずがない。普段は能面のように表情を崩さないサダソも、この時ばかりは冷や汗を流さずにはいられなかった。

 

「まだだっ! こいつを持ってノストラードのところに行けばハッキリするぜ! 俺の勘が外れるわけがねぇ! あいつの目の前でこれを見せつけて脅すんだ!」

 

 依頼人の口ぶりから立て込んだ事情があることは明らかなようだ。部下が必死になだめようとしているがゼンジは聞く耳を持たない。怒りと憎悪で正常な思考ができずにいる。ひとまず契約は三日間、その期間を無事に乗り切れば開放される。場合によっては延長の契約更新もあると伝えられているが、どれだけ金を積まれようとサダソに引き受ける気はなかった。何事もなく終わってくれと心中で祈っていた。

 

 その祈りを叩き潰すように唐突な殺気が前方から叩きつけられる。

 

「車を停めろ」

 

 ポテチを食べる手を止めてホッドが命令する。その言葉に運転手はすぐさま従った。マフィアの組員であり、念を使えない一般人でしかない運転手にとって先ほどの殺気は身も凍るほどの恐怖を感じたことだろう。運転に支障をきたさなかっただけで大した仕事ぶりだと褒めるべきだ。

 

「なんだ!? 何が起きた!?」

 

「敵襲か!?」

 

 ゼンジの子分たちが懐から銃を取り出して車外に警戒の目を向けるが、その武器が役に立つかどうか怪しいところだ。それほどの凄まじいオーラが込められた殺気だった。嫌な予感ほどよく当たると悪態をつきながらサダソは車から降りる。

 

 高速道路のパーキングエリアに停車している。広い駐車場は深夜ということもあり車はあまりない。遠くに商業施設の明かりは見えるが、雨脚も強まっており人通りは皆無だった。高速道路上では他に車を停める場所もないため、意図的にここへ誘導されたようなものだった。

 

 護衛チームはあらかじめ決めていた布陣を取る。とはいえ互いの能力もろくにわからない関係上、連携も期待はできない。というより連携なんて最初から誰も考えていないだろう。協調性とは無縁の面子である。最低限の役割分担として、依頼人の直近で守りを固める役としてアルメイザ姉妹を配置し、それ以外は自由に敵への対処に当たる。どちらの役割が危険か重要かという判断はできない。敵の出方ひとつと言えるだろう。

 

 降りしきる雨の中、臨戦態勢を整えながらも護衛たちはまず敵の動きをうかがった。殺気を飛ばすという威圧行為は、単純にターゲットの命を取ることが狙いなら悪手である。襲撃者がわざわざ自分の存在を明かすメリットはない。つまり、何かしらの意図があってこの場所に誘導したものと考えられる。戦闘に入るかどうかは情報を集めた上で決定すべきだ。

 

 ほの暗く辺りを照らす外灯の下に、奇妙な取り合わせの四人が現れた。一人は刀を佩いた東洋風の剣士、一人はスカジャンを着たチンピラ風の男、一人は傘を差した小柄な黒服の男、一人は全身を包帯でぐるぐる巻きにしたボクサーだった。

 

「なんだテメェら……俺をヴェンディッティ組の頭と知って喧嘩を売る気か?」

 

「いやぁ別に? ただちょっと聞きたいことがあってな。お前さんが大事に抱えてるソレについて」

 

「……ノストラードの回し者かっ! くくくく……どうやら本気で俺と戦争がしたいらしいな。思った通りだ! やれ! 全員ここで始末しろ!」

 

 護衛任務の契約内容では、敵との積極的な交戦について求められてはいなかった。しかし、戦闘を避けられる事態ではないと全員が瞬時に悟る。四人の敵に対し、四人の護衛が排除に動いた。

 

 

 * * *

 

 

 人気アイチューバー『快答バット』とは世を忍ぶ仮の姿。仮面の手品師、蝙蝠は今回の依頼を“当たり”だと確信する。それはつまり、常人の感覚からすればこの上なく割に合わない依頼であることを示していた。

 

 あっという間に戦闘の趨勢は敵側へ傾いている。今回の護衛チームのメンバーは蝙蝠から見ても戦闘力だけなら一線級と言って差し支えない実力者が集まっていた。アルメイザ姉妹については情報が少ないため実力を測りかねるところがあるが、噂にたがわぬ強者の風格がある。殺し屋サダソのことはよく知らなかったが、まあ居ても邪魔にはならない。

 

 中でも、ホッドとキャロルは蝙蝠としても一戦交えたいと思うくらいの使い手だった。この二人ならよほどの敵でなければ後れを取らない。その“よほどの敵”が現れてしまったと言える。

 

 『辛覚炎症』ホッド=キッドは変化系能力者だ。彼は“辛さ”イコール“熱さ”という謎理論を展開することにより、激辛食品を食べた自分の手や口から発火現象を引き起こす能力を持つ。科学的根拠など何一つない勝手な思い込みだが、時として念は激しい思い込みに強く影響を受けるものだ。

 

 ホッドのオーラは実際の炎と異なり、一度燃え移れば対象の痛覚に直接辛さを植え付け、消えることのない激痛を与える。その威力は彼が直前に食した激辛メニューのスコヴィル値によって変化する。その凶悪極まりない能力は彼自身も持て余すほどで、これまでに何度も過失で放火事件を起こして指名手配されていた。

 

 

「ヒー……! ハー……!」

 

「あちぃじゃねぇか。おう、とっとと死ねよ」

 

 

 想像を絶する苦痛の炎で全ての敵を焼き尽くしてきたホッドは、息も絶え絶えと言った様子で顔を青くしながら戦っている。交戦しているチンピラ風の男は火傷を受けながらも平然としていた。対するホッドは殴られたダメージとがぶ飲みしたデスソースの二重苦によって号泣していた。その必死の形相から全力を振り絞っていることがわかる。

 

 ホッドは口から勢いよくオーラの火炎を吐き出し、チンピラは腕をぐるりと一回転させてパンチを放つ。完全に無駄な動きに思える動作だ。しかし腕を回した直後にチンピラのオーラが跳ね上がったので、何らかの制約をかけた念能力と思われる。そのパンチ一発の風圧で迫りくる炎を一掃してしまった。

 

 残念ながら基礎能力と体術の差が如実に表れていた。ホッドの体術も十分に一流以上のレベルにあるものの、敵の練度が桁外れだった。今は何とか炎で牽制しているが、そのうち動きを読まれて接近を許すことになるだろう。何か奥の手でもない限り、勝ち目は薄い。その勝算の低さは他の仲間にも言えることだった。

 

 

「いやあああ!! あたしの美貌がああああ!?」

 

「意外と丈夫ね。刻み甲斐あるよ」

 

 

 『淫婦』キャロリーヌ=モリスは特質系能力者。しかし、彼女が取る主な戦法はごりごりの肉弾戦だ。潜在オーラ、顕在オーラともに常軌を逸した値を有し、身体能力だけで並の念能力者を圧倒する実力を持つ。容量と出力の性能差を押し付けているだけだが、単純だからこそ覆しようのない純粋な力と言える。

 

 その力は彼女が持って生まれたものではなかった。腹の中にいる我が子から、生命力を奪い取って得た力だった。倫理観の甚だ欠如した能力である。彼女いわく、生まれてくる前ならば子も自分の一部に過ぎず、親であるキャロルがそれをどんな手段で堕胎させようがとやかく言われる筋合いはない、とのことらしい。これまでに数え切れないほどの男と関係を持ち、身籠った子は全て命を吸い尽くされている。

 

 吐き気を催す下劣な能力ながら、そのような精神の異常性から生まれる念能力が強い効果を発揮することはよくある。そうでなければ何の罪もない女子供を何人も誘拐して人身売買の商品にしている彼女が裁かれることなくここにいる道理はない。強ければ大抵のことは許される。裏を返せば弱者の立場に回った途端、最低限の人権すら保障はされることはない。

 

 まさにキャロルはその転換の節目にいた。敵である小柄な黒服の男は、彼女より強かった。

 

 敵は何か特別な能力を使ったわけではない。その動きは目で追うことも困難なほど速く、ひたすらに洗練された剣術は避けるすべもなくキャロルに襲い掛かる。男が持つ傘の仕込み刀は瞬きするうちに彼女の体を撫で切りにしていく。それでもキャロルが死んでいないのは能力の優秀さゆえだ。オーラにものを言わせた堅の防御力だけで致死の一撃を切り傷程度に抑え込んでいる点はさすがと言える。

 

 だが、いかに能力が優れていても術者自身が未熟であれば宝の持ち腐れだ。最初は余裕の態度だった彼女は、ひとたび敵の攻撃を受けるやヒステリーを起こしてしまった。まともに傷つけられた経験がないのだろう。怒りと恐怖で我を忘れている。

 

 敵の男も剣技に遊びが見受けられた。あえてキャロルの反応を面白がるように攻撃の手を加減している。生き延びることを第一に考えるのなら、ある意味で醜態をさらした彼女の行動は適していると言えるのかもしれない。敵を楽しませている限り、殺されることはないのだから。

 

 

「おいおい、オレを相手によそ見するとは随分な態度じゃねぇか」

 

 

 ホッド、キャロルに続き、もう一人の仲間であるサダソの方へと目を向けようとしたところで邪魔が入った。蝙蝠は神速の剣閃をステッキで弾き返す。目ではその一刀を把握しきれなかった。

 

 迎撃が間に合ったのは感覚と偶然が噛み合っただけだ。運が悪ければ今の一撃で死んでいただろう。だが、その程度のことで彼が心を乱すことはなかった。むしろ高ぶるというものだ。

 

 蝙蝠が対峙する相手は、まげを結った着流しの侍である。その強さは疑いようもない。しかし、彼は敵を前にして目をそらしたことを悪手だとは思っていなかった。強敵を相手に全神経を集中することも大事だが、同様に周囲の状況へ気を配ることも必要である。目の前の敵しか目に入らないのでは戦士として二流もいいところだ。

 

 だが、さすがにこの状況で他所の心配をしている余裕は蝙蝠にもなかった。敵の踏み込みの気配を感じ取った彼は、無数のトランプを手裏剣のように放ち牽制する。

 

 侍はそのトランプ弾を最小限の動きで回避し、避け切れなかった最後の一枚を剣撃にて斬り払った。切り捨てられたカードからオーラが霧散し、ひらひらと宙を舞う。

 

 その技に蝙蝠は感嘆する。対処されることはわかっていたし、最初から当たるとは思っていない牽制だったが、それでも手を抜いたわけではない。本気の殺意を込めたカードの刃を、敵は事も無げに両断した。

 

 縦に、である。鋏を入れるように面に対して横切る切断ではなく、紙の断面、線に対して刃を差し込んだのだ。一枚のカードはわずかな欠けもなく、同じ面を持つ二枚に分けられ、羽のようにふわりと漂いながら地に落ちていく。

 

 味な真似だが、あえてする必要はない余興である。その侍にとっては戦闘中に披露しても差しつかえない程度の技だったのだろう。絶技を目にした蝙蝠は声にならない笑いを仮面の下で浮かべる。その歓喜は言葉にせずともオーラに表れていた。

 

「奇術師ってのはなんでこう、血の気の多い変態ばかりなんだ?」

 

 今度は蝙蝠の方から攻勢を仕掛けた。愛用のステッキを手に正面から迫る蝙蝠を前にして、侍は腰を低く落とした待ちの構えを見せる。居合抜きだ。後の先を取ろうと構える剣士の懐へ、自ら飛び込もうとしている蝙蝠は明らかに不利だった。

 

 無謀としか思えない一手。しかし、結果は甲高い金属音によって告げられた。得物同士が交錯する。侍の剣閃を蝙蝠は受け止めたのだ。両者はそこから追撃に移ろうとするが、脳裏に広がる次の手の読みあいを互いが察し、刹那のうちに不毛と判断した。仕切りなおすため後ろに下がり距離を取る。

 

「やるな。たった数度の見でオレの剣を見切ったか」

 

 一度目の打ち合いで危うく蝙蝠は死ぬところだった。だが、そのときの攻撃を彼は目に焼き付けている。さらにカード手裏剣を切り払った侍の剣も見ている。二度も見たのだ。ならば、彼にとって対処することはそれほど難しくない。

 

 彼の強化系能力『解析眼(ネタバラシ)』は、ただ自分の眼を強化して『凝』の精度を上げるだけの能力だ。対象の念を見抜くことに命を懸けていると言ってもいい。この能力があったから、彼は数々の死線を切り抜け生き延びることができた。

 

 とはいえ、実力差は明確に存在する。蝙蝠よりも侍の男の方が地力は高い。その差は実際に打ち合った手ごたえからありありと察することができた。見ただけで攻略できるほど甘い相手ではない。

 

 そうでなければならない。確実に勝てる敵と戦ってそれが何になるというのか。蝙蝠にとって戦いとは常に格上を相手とすることだった。戦闘狂にして真性のマゾヒストだ。

 

「お前さん、雰囲気が強化系バカっぽくて個人的に嫌いじゃないが」

 

 縁がなかったと一言告げて、敵の気配が一変する。侍を中心として半球状にオーラが広がった。高等応用技『円』である。その大きさは半径4メートルほどだ。

 

 戦闘中に円を併用する戦法というのはあまり見ない。まず難易度の問題がある。円の行使だけでも極度の集中力を要し、それと同時に戦闘において不可欠な堅や流などの応用技も使いこなすことは至難である。蝙蝠が過去に戦った相手でそこまで精密な技の制御を可能とした者は一人しかいなかった。

 

 また、仮に使えたとしても有用性は限定されるという問題がある。領域内の存在を触覚的に感知できる円は隠れた敵に対して非常に有効な技だが、見えている敵にわざわざ使う意味はない。何かしら得られる情報はあるにしても、凝で見れば事足りる程度のものだ。

 

 つまり、たかだか4メートルぽっちの円を今この場で使ったところで普通は無意味である。しかし、侍の卓越した剣技を肌で感じ取った蝙蝠は微塵の油断も抱かなかった。

 

 常人であれば無意味に思える技も、その使い手が居合の達人となれば全く話は異なる。剣の神髄とは、自他の呼吸ひとつ鼓動ひとつが刃を震わせ成否を分かつ世界である。円であれば見る以上に敵の周囲に漂うかすかな空気の流れすらも触れたように感じ取ることが可能となる。その情報は神髄に至った剣士にとって値千金の価値を持つだろう。

 

 おそらく、展開された円は必殺の間合い。不用意に踏み込めば死が待つのみ。加えて、敵はさらなる一手を打ってくる。

 

「動いたら、切るぜ」

 

 何気ない最後通牒に思えるその一言から、蝙蝠はわずかなオーラの強張りを感じた。それがただの確認ではなく、何らかの念能力に関係していることを見抜く。

 

 『動いたら』『切る』という敵に行動の制限を課す発言からして、その条件に対象が従わなかったとき効果を発揮するカウンター型の能力かと予想する。このタイプは敵に能力の性質を示す必要があるため、強力な反面、弱点も多い。

 

 蝙蝠は侍の制止を無視した。ステッキから仕込刀を引き抜く。同じ剣士としていつまでも抜かずに戦うのも矜持に反する。片手に剣、片手に鞘を持ち、死合うためのオーラを練り上げる。その反応を見た侍は不敵に口角を釣り上げた。

 

 動けば切るという発言は、制約としてみればそれほど強力なものではない。戦闘中の敵に動くなと言ったところで無理な話だ。当たり前に破られるようなルールを提示したところで結果は目に見えているようなもの。それでは能力の枷となり効果を高めるための制約としては弱い。せいぜいが剣速や切れ味を増すといった程度の効果だろう。

 

 しかし、達人が相手となれば“その程度”が大きな違いとなることも事実。あるいは、蝙蝠にも予想できない大きな制約を自分に課している可能性は考えられる。何が起きるかわからないのが念能力戦だ。

 

 未知は当然。その至らなさを補うために鍛え上げてきた『解析眼』である。未知を見切ることこそが彼の至上命題である。

 

 互いに食らいつくそうと身構えたにしては静かな間が流れる。しかし、刻まれる一瞬のうちには繰り出されるであろう無数の一手が両者の剣へ呪いのように纏わりつく。練気がその迷いを断ち切ったとき、自然とそうなるように二人の剣士は得物を交えていた。

 

 そして一閃が瞬き、勝敗は決する。両断されたステッキが、からりと音を立てて地を転がった。それに続くように蝙蝠は膝をつく。おびただしい血が雨に流され、泥水と混ざっていく。その敗者の姿を、敵である侍の男は素直に賞賛した。

 

「いや、すげぇ。あれを避けるか」

 

 まさに必殺だった。蝙蝠にはその迫り来る死を少しばかり遠ざけることしかできなかった。即死は免れぬはずの一撃は、全力の見切りによって辛くも致死一歩手前の重傷で踏みとどまっている。

 

 円の領域に踏み込んだ瞬間、彼は敗北を悟った。全く異なる世界へと足を踏み入れてしまったかのような感覚だった。ただの円ではない。わかったことはそれだけだ。それ以上のことを見抜く間もなく斬り伏せられてしまった。

 

 死の間際の重体にある彼は、既に戦える状態ではなかった。だが、半分にされた剣から手を放すことはなく、侍の男を見据えている。その目に宿る感情は戦意とは少し違う。執念としか言い表せない。

 

 もう一度、同じ技を見たい。彼の願望はその一点に集約していた。確実な死が待っていようと、そんなことはどうでもよかった。命に代えても見切る。それ以外のことは頭にない。

 

 しかし侍は、蝙蝠の仮面の内側から覗く強烈な熱望に応えるつもりはなかった。そこまでしてやる義理はないと無造作に剣を振るう。その直後、蝙蝠の眼前から侍の姿が消え去った。

 

 

「――ぬぅッ!?」

 

 

 まさにその剣が蝙蝠の命を断ち切ろうとした瞬間、侍は全力で後方へ飛び退っていた。反射的な回避行動である。すなわち、避けなければまずいと思うほどの何かが彼の身に起きようとしていたことを意味している。

 

 蝙蝠の仕業ではない。もはや彼に戦う余力は残されていない。攻撃を仕掛けてきた人物は別にいた。

 

「ガキが……何しやがった?」

 

 侍に対して視線を向けている子供が一人いる。その手は拝むように合掌の形を取っていた。

 

 正確に言えば、攻撃されたわけではない。しようとされた、その気配だけがあった。殺気もさほど含まれていない稚気に等しい前触れだったが、なぜかそこに厳然たる事実として、本能が回避を選ぶほどの危機を予感させられたのである。彼は子供の意図一つで退かされたのだ。

 

 A級賞金首、幻影旅団の一人であるノブナガは、少女のような姿をした何者かを睨みつける。雨合羽が風にはためき垣間見えたその少女の表情は、年相応の無邪気で悪戯な笑顔だった。

 



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95話

 

 護衛チームの四人が各々戦闘を始める中、殺し屋サダソの相手となった敵は奇妙な恰好をしたボクサーだった。その全身は包帯で巻かれ、中身がどうなっているのか見ることはできない。

 

 ふらふらと覚束ない足取りで歩み寄ってくる包帯男をサダソは油断なく観察する。オーラの力強さだけなら目を見張るものがあるが、それ以外については取り立てて脅威とは感じなかった。

 

 殺し屋とは、腕が立たなくては務まらない仕事だ。諜報能力、隠密能力もさることながら特に念能力者をターゲットとする殺し屋は、念の実力なくして商売にはならない。銃で撃った程度では死なない相手やその護衛を処理する必要がある。

 

 瞬時に彼我の実力の差を見極める目を養うことは必須の技術と言える。サダソはまだこの職種に飛び込んで日の浅い新人だが、それでも彼なりに鍛えてきた。包帯男は身のこなし、オーラの淀み、視線の揺れ方、どれを見ても稚拙。他の敵たちと比べれば最も弱い相手だと判断できた。

 

 だからこそサダソに割り当てられたと言うべきだろう。彼が今回の護衛チームの中でも軽んじられていることは事実であり、多少のプライドが傷つく気持ちはあったが、その程度の感情で取り乱すことはなかった。言い訳などせず与えられた役割を全うするまでである。

 

 彼は強い踏み込みと共に素早く接敵する。その動きに包帯男が示した反応は若干遅い。格闘戦に持ち込んでも十分勝ちが見込める相手ではあるが、身に纏うオーラの出力から見て殴り倒すには相応の時間がかかると予想された。

 

 ここは手の内を隠して一戦を長引かせるよりも全力で早期決着に持ち込むべきと判断する。敵はこの男だけではない。不測の事態に備えて一人でも早く敵を処理しておくべきだろう。

 

「出し惜しみはしないよ……『嘘塗り幻肢(ファントムペイン)』」

 

 彼は念に目覚めるきっかけとなった“洗礼”によって左腕を失った。それに伴い、傷が完治した後も強烈な幻肢痛に悩まされた。欠損したはずの部位に痛みが生じるこの症状は現代医学においても原因がはっきりとわかっていない。

 

 存在しない肉体を襲う痛み。脳の自己認識と実態の不一致から起きる症状と考えられている。個人によって程度は様々だが、サダソの場合は体質的にひどく重症化した。万力で潰されるような痛みに襲われ、眠れない日々が続く。その痛みが結果的にありもしない腕を強く意識させる念の修行となり、能力として実体化させるに至った。

 

 サダソは変化系統の能力者であり、念で作り出した左腕は具現化したものではなかった。そちらの適性は低かったのか、元の腕とは似ても似つかない歪な形状となってしまう。具現化系ではなく変化系として発現された能力だった。

 

 オーラによって形成された巨大な左腕が包帯男の上半身をつかみ取って持ち上げる。敵は抜け出そうと足をばたつかせているが拘束から逃れることはできない。サダソはそのまま握りつぶそうと力を込めたが、敵の堅による抵抗が大きく拘束がやっとの状態だった。

 

 だが、問題はない。オーラの腕で包み込まれた敵は息をすることもできない状態にある。このまま拘束し続けるだけで直に窒息するだろう。ターゲットを瞬時に無力化し、声を出させる暇さえ与えず窒息させ、静かに意識を奪う。殺し屋サダソの得意とする戦法だった。

 

 今の生き方を見つける前の彼は、ただ自分の置かれた境遇を嘆き、弱者を虐げることに快楽を覚える弱者だった。その価値観が一変したのは、ある少年との出会いがあったからだ。

 

 天空闘技場のフロアマスターを目指していたサダソは姑息な手を使って新入りをいたぶり勝ちを重ねていた。その獲物の一人として目を付けた少年から、逆に生殺与奪を握られる脅しを受けたのだ。後になってその少年が、かの暗殺一家ゾルディック家の殺し屋だったことを知る。

 

 その当時はただの恐怖しか感じなかったが、次第に憧れを抱くようになった。殺し屋に就いたのも少年に影響を受けたからだ。あのとき受けた殺気をサダソは忘れていない。いつか自分もあの風格に追いつける殺し屋となることを夢見ていた。

 

 殺し屋など胸を張って誇れる仕事ではないことは確かだが、それでも以前の彼に比べれば前向きに生きている実感を得ている。

 

「悪いが、こんなところで立ち止まってはいられなくてね」

 

 激しく暴れていた包帯男の体から力が抜け、足がだらんと垂れた。左手から伝わってくる感覚を読み取る限りでは失神した人間の反応に酷似しているが、意識を失ったにも関わらず敵の堅は解けていない。気を失った演技か、それとも別の理由があるからか。

 

 最初から不自然な点はあった。ちらりと周囲の状況に目をやるが、こちらの仲間の誰もが苦戦している。いずれも一線を画す手練れが揃う中、この包帯男だけがあまりに弱すぎる。別に戦力が均等でなければならないということはないが、何かの策とも考えうる。

 

 サダソはこれまでの経験から推測するに、目の前の敵が操作系能力によって操られている可能性を疑った。単調で大雑把なオーラの使い方と言い、場当たり的な反応の仕方と言い、操作された人間にありがちな傾向である。意識を失った状態でも命令により強制的にオーラを使用させられていると考えれば説明がつく。

 

 であれば、この敵は囮かと思い至る。その思考がなければ自らに迫り来る攻撃に気づくことができなかっただろう。

 

 それは遠方から放たれた念弾だった。大きさは銃弾ほどしかないが、その小さな弾体に凝縮されたオーラが込められているとわかる。どれだけの威力があるかまではわからないが、このままでは身をもって検証することになるだろう。

 

 一発ならまだしも、同様の弾がばらまかれるように飛んできている。攻撃を察知することはできても回避はできそうになかった。何とか堅のオーラを高めて対処しようとしたそのとき、全く予期せぬ方向から攻撃を受けた。

 

 体が急に重くなったように沈み込む。まるでビルの屋上から飛び降りて地面に叩きつけられたかのように勢いよくその場に倒れた。意識が飛びかけるほどのダメージを受けたが、急激に姿勢を低くされたことで念弾は回避することができた。

 

 サダソの上を通り過ぎた念弾は直線上にたまたま停まっていた乗用車に当たってはじけた。車体をぼこぼこに凹まされながら宙に吹き飛ばされた車は破片をまき散らして着地する。ぞっとする破壊力だった。当たっていれば死んでいてもおかしくない。重傷は確実だっただろう。

 

 生命エネルギーであるオーラはその使い手の肉体に由来するものであり、肉体から離れるほど制御も威力も減少する。この減少率を抑えて運用可能とする念の系統が放出系であり、その基本的な発が念弾だが、先ほどの攻撃はあまりにも馬鹿げた威力と言わざるを得ない。一発一発に致死の破壊力が込められた弾丸を一度に十数発も掃射してきた。

 

 やはりサダソが拘束した敵は囮だった。敵の総数は四人ではなかったのだ。いつまでも茫然と寝そべっている暇はない。サダソが起き上がるとすぐそばに人影が立っていることにぎょっとする。音もなく現れたその人物は幸いにも敵ではなかった。

 

「ちょっくら加勢してやるよ」

 

 アルメイザ姉妹の片割れであるチェルだった。ゼンジの護衛はアイク一人で十分だろうと他の戦闘に手を貸しに来たのだ。

 

 少女は雨合羽のフードを脱ぎ、顔をさらしていた。銀色の髪は雨に濡れて妖しく輝く。そのあどけない顔立ちには不釣り合いにも見える武骨な眼帯で左目を覆っている。先ほどサダソを地に沈めた謎の現象も彼女の能力によるものだったのだろうと推測する。

 

「そ、それはありがたい。どうやら闇に乗じてこちらを狙う射手がいるようだ。同じ場所にとどまっているとも考えにくいし、早急に位置を特定しなければまずい」

 

「任せろ」

 

 チェルを中心に、空気が滲むようにして膨れ上がった。円である。その最大捕捉範囲は半径150メートルにも達する。彼女が最も得意とする応用技だった。展開速度も凄まじく、また隠を施すことができる特殊技能により、ほぼ発動の兆候も感じさせずぬるりと広がっていく。

 

 チェルが今まで円を使っていなかった理由の一つとして、もしかしたら蝙蝠(ヘンタイ)に気づかれるのではという不安もあったが、敵を警戒させないためという目的もあった。ゼンジの様子から何かしらの厄介事を抱えていることは見え透いていたので、あえて敵をあぶりだすために円は使っていなかった。

 

 ここぞというタイミングで急展開された円の捕捉網は闇に潜んだ複数の敵影をつかんだ。

 

「一、二、三、四……あと四人も隠れてやがるのか」

 

 円で捕捉できた限りにおいて判明した敵の総数は八人ということになる。無力化した包帯男を除けば七人だ。敵は円の捕捉網に引っかかったものの、すぐに異変を察知して範囲外へと逃げていく。

 

 しかし、その中で一人だけ足を止めている者がいた。チェルが念弾が飛んで来た方向から射手の位置を特定し、それらしき敵影に向けて『重力操作』を発動したのだ。彼女は目視できずとも円の内部であればどこにでも重力操作の基点を作り出せるようになっていた。

 

「捕まえた。行くぞ」

 

「え、あ、はい」

 

 正直なところ、サダソにとってこの少女の実力は計り知れない。言葉通りならばこの一瞬のうちに隠れた敵を捕縛したことになる。果たして自分が同行する必要はあるのかと思ったサダソだが、その疑問はすぐに解消されることとなった。

 

 チェルが感知した敵影は彼女たちがいる場所から数十メートル離れた地点に隠れていた。その筋肉質な巨体から男と思われる。確かに重力で拘束はしているはずだが、敵は果敢に攻撃を仕掛けてきた。先ほどと同威力か、それ以上にも見える念弾が群れと化して襲い掛かる。機関銃のような恐ろしい連射性能だった。

 

 念弾はオーラによって作られており具現化されて実体があるわけでもないため、重さもない。チェルの重力操作でも止めることはできなかった。この能力には2か所以上の地点に発動できないという制限もある。チェルは矢面に立つようにサダソをかばって念弾を受け止めた。

 

「いてっ、いててて」

 

 普通なら痛いで済むはずはない攻撃を平然と防いでいる。堅どころか硬で防いでも大怪我を負っていることだろう。チェルの左目に宿るもう一つの能力『元気おとどけ(ユニゾン)』により念弾のオーラを自分のオーラと融合させ、攻防力を操作していた。それでも完全に威力を殺しきることはできなかったが、そこは自前の技でカバーできる。

 

 チェルがサダソを同行させようとした理由は敵の処理を手伝わせたかったからではなく、彼女のそばにいなければ危険だからだ。サダソが自力で念弾の雨をどうにかすることは不可能に近い。彼は情けなさを噛みしめながらも少女のそばから離れることができなかった。

 

 今はとにかく射手を倒すことが先決である。チェルが弾幕を防ぎつつ前進し、その後をサダソが続く。激しさを増す弾幕の勢いを前にして快進はできないが、着実に敵へ近づいていた。しかし、敵もそれを黙って見過ごすことはない。闇に紛れていた敵は一人ではない。

 

「くっ、気をつけろ! 糸みたいなのが来るぞ!」

 

 目に見えぬほど細い糸が風を切り裂きながら襲い掛かる。その細さは凝をもってしても見る角度がほんのわずかにずれれば見失ってしまいそうなほどだった。円を展開していたチェルは正確にその攻撃を察知し、対処する。チェルの手が糸を断ち切った。

 

 糸の使い手と思われる女が姿を見せた。オーラを糸状にする変化系能力者と考えられる。もし糸の実物を用いた操作系能力者であったならばチェルもこうまですんなりと糸を断ち切ることはできなかったかもしれない。100%オーラで形成された念糸はチェルの能力と相性が良かった。

 

 しかし、敵もまたある程度チェルの能力を見越している。謎の能力を持つ少女に対し、糸使いの女は大胆にも接近してきた。それはチェルが複数箇所同時に重力操作できないことを見極めるためでもあった。現に、チェルは糸使いを拘束できずにいる。

 

 そこへ追撃をかけるように念弾の雨が放たれる。二人がかりの連携だった。糸と弾、さすがのチェルでもこの二つの攻撃を防ぎきることはできない。自分ひとりなら凌ぎようはあるが、背後にいるサダソを守り切れないと判断し、左目の力を開放した。

 

 発動した『空間歪曲』により前方の空中が軋みを上げた。歪みの基点近くにあった念弾は擦り潰されて霧散し、その周囲の念弾も歪みの影響を受けて軌道を捻じ曲げられた。弾幕はあらぬ方向へと乱れ飛ぶ。

 

 糸使いは思わず舌打ちし、サダソは驚きを通り越して呆れていた。重力操作と同じく、ほぼ予兆も現れることなく突如として発生した原理不明の能力である。強力な能力の行使には強力なオーラの気配がつきものだが、それも見られない。

 

 糸使いの女は今と同じ攻撃を仕掛けられたとしても見切ることができる自信はなかった。それもそのはず、チェルがただ“見た”だけで発生する能力である。それは念能力ではなかった。災厄の力を人の理に収めることはできない。

 

 だが、その力にも制限は存在する。力の暴走を防ぎ、安全に使用するためにチェルの左目にはいくつかの制約が課せられている。一定期間内の使用回数制限などのルールがある。空間歪曲を発動させたために、それまで使っていた重力操作が解除されてしまった。

 

 急ぎ射手の位置を円で確認するチェルだが、敵の強さを考慮すれば既に逃げられたと考えるべきだろう。その予想はしかし、外れていた。

 

「仲間割れか……?」

 

 円の範囲内において、これまでチェルたちへ念弾を撃ち続けていた敵は、別の何者かと交戦していた。何やら鎖のようなものを使う人物が射手に襲い掛かっているように感じる。何が起きているのか詳細はわからないが、ひとまず他所で起きている戦闘は保留にし、チェルは糸使いの女に向けて重力操作を発動した。

 

 

 * * *

 

 

 オークション会場を後にしたクラピカは着替えを済ませてヴェンディッティ組の車を尾行した。今の服装は、彼が故郷から持ち出した数少ない品の一つ。クルタ族の伝統装束だった。同胞たちの宿敵と立ち向かう決意の表れでもある。

 

 緋の眼を競り落とすことはできなかったが、過ぎたことを悔やんでいても仕方がない。大幅に予定を変更して対応していた。

 

 会場から出たゼンジの警戒心は異常なほど強く、クラピカも名を知るような腕利きの護衛を常に帯同させていた。実力行使に出るにはリスクが高く、大事になることは避けられないと判断する。それよりもしばらくは状況を静観することに決めた。

 

 緋の眼の確保を最優先に動くなら強奪することが手っ取り早くはあるが、法を犯すことに対する抵抗はぬぐい切れない。旅団が相手なら躊躇はないが、現段階では関係も不明なマフィアでしかない。それも競売で合法的に買い取った物品を横取りすることは、クラピカが忌み嫌う盗賊行為に他ならない。

 

 だが、綺麗事ばかりも言っていられなかった。最後の手段として強奪も視野に入れるなら、警戒すべき敵はゼンジの護衛だけに留まらない。幻影旅団についても注意しないわけにはいかなかった。

 

 来るという確証はなかったが、心のどこかでクラピカは来ると確信していた。それは敵の脅威に対する信頼とも言えた。逆にここで旅団が来なければ落胆すらしていただろう。その期待を裏切ることなく、幸か不幸か彼の思い描いた通りの展開となる。

 

 旅団は緋の眼を狙ってヨークシンへ来ていた。奴らの思惑により、緋の眼を乗せたゼンジの車は高速道路のパーキングエリアへと誘導される。マフィアが最初から旅団とつながっている可能性も疑っていたが、どうやら本当に無関係な様子だった。

 

 尾行には途中までレオリオとセンリツも同行していたが、今この場にはクラピカしかいない。二人を戦闘に巻き込むつもりはなかった。

 

 レオリオは納得できていない様子だったが、自分の実力では足手まといにしかならないと理解して身を引いた。無理について行けば、かえって仲間を危険にさらすことになりかねない。クラピカがここで止まるような覚悟ではないことも理解していた。彼は現在、センリツと共に後方で待機している。センリツの能力があれば敵から奇襲を受けることもないだろう。

 

 

『絶対に無事で帰って来い。じゃなきゃオレは死んでもお前を許さねぇぞ』

 

 

 別れる直前に言われた言葉をクラピカは思い出していた。もし死ぬようなことがあればレオリオはすぐに敵討ちをしに旅団のところに突っ込むと息巻いていた。ただの自殺行為だ。そしてレオリオはそれを有言実行するだろう。その言葉は復讐に駆られかけたクラピカの精神に枷を残した。

 

 仲間のために生きて帰らなければならない。何よりも重要となるのは怒りではなく、冷静な思考だと肝に銘じた。

 

 旅団はゼンジに襲い掛かったが、その戦闘にすぐさま割って入ることはできなかった。いかに憎むべき敵であっても相手は有数の念能力者である。多対一では勝ち目が薄い。ゼンジの護衛と旅団がぶつかり合うことで、少しでも疲弊させられればと機をうかがっていた。

 

 しかしその実クラピカは、この戦闘が潰し合いにならず一方的な蹂躙で終わるだろうと考えていた。そんなに簡単に疲弊させられるような敵であれば苦労はない。その強さだけは認めざるを得ない。

 

 わかっていても何らかの隙が見られない限りクラピカも動くに動けない。何度もイチかバチかと勢いで飛び出したくなる気持ちを抑えて戦闘を注視する中、波乱の展開は思いもよらぬ好機へと結びつく。ゼンジが雇った傭兵がことのほか強かったのだ。あの幻影旅団と渡り合うほどの手練れを用意しているとは思っていなかった。

 

 賞金首としては旅団と同格のA級である傭兵団『カーマインアームズ』。その名だけはクラピカも耳にしていたが、実際に目にした強さは別格と言っていい。まことしやかに広がっている不穏な噂は虚仮脅しではなかったということだろう。

 

 その傭兵の一人が放った円にクラピカも飲み込まれてしまった。慌てて離脱したのちにすぐさま観察を再開した彼は、旅団の一人に異常があらわれたことを鋭く見抜く。念弾を連射していた旅団員がその場で足止めを食らったかのように微動だにしない。

 

 それまでは油断なく張り詰めていた敵の気配に確かな隙が生じている。傭兵が何らかの能力を使って旅団員の動きを封じたものと推測できた。

 

 今ならば刺せる。クラピカの能力の一つ『束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)』が届けば、敵を強制的に『絶』の状態にして捕らえることができる。

 

 千載一遇の好機だった。行動することで起きる利益と不利益を瞬時に比較衡量し、彼は決断する。円の内部に入ることもためらわず走り寄りながら、中指の鎖に『隠』を施して念弾撃ちの大男へと放つ。旅団以外の人間に使えば死ぬという誓約によって無類の強度を得た念の鎖が敵へ迫る。

 

 敵の念を無効化した上で身動きを封じてしまう鎖の一撃は、触れればそこで決着がつく。雁字搦めにされた大男はクラピカに引きずられて円の外へと連れ去られることだろう。獲物を拘束して引きずり込むその様は、皮肉にも彼が嫌悪する“蜘蛛”のようだった。

 

 あと少しで捕らえられるというタイミングで大男が鎖の接近に気づいた。気づけども、その体は身動きが取れない状態にある。避けられるはずはないというクラピカの思惑は、寸でのところで実らなかった。

 

 回避される。鎖がしたたかに誰もいない地面を打った。

 

「会いたかったぜ、鎖野郎……!」

 

 旅団員、フランクリンは獰猛な笑みを浮かべながら“銃口”をクラピカへと向ける。クラピカが密かに旅団の動向を探っていたように、その逆も然り。旅団員たちは巧妙な絶で隠れたクラピカの正確な所在こそ察知できなかったが、自分たち以外の何者かが闇に紛れているかすかな気配は感じ取っていた。

 

 フランクリンの体を地に縛り付けていた重力は消え去っていた。それは偶然の産物ではない。彼の仲間であるマチが傭兵の少女の前にわざと躍り出ることで注意を引きつけ、フランクリンを逃がそうとした結果だった。

 

 フランクリンは重力の拘束から脱することができたが、そこであえて捕まっているふりをし続けることでクラピカをおびき出そうと考えたのである。策にはめられたのはクラピカの方だった。

 

 大男の十指が火を噴いた。その能力『俺の両手は機関銃(ダブルマシンガン)』は、自身の指を切断することで得た誓約の効果により格段に威力が向上している。生身の人間が銃で武装した者に勝てる道理がないことと同じく、フランクリンの念弾に当たればオーラを扱える念能力者といえども重傷は必至である。

 

 逆に隙を突かれてしまったクラピカに回避する余裕はなかった。彼の薬指から鎖が伸びる。

 

 『導く薬指の鎖(ダウジングチェーン)』と名付けられたこの鎖は、ダウジングによって探し物を見つけたり相手の嘘を見抜く効果を持つ。その能力は戦闘においても生かされる。この鎖は術者の集中力を引き出し、自己認知を超越した無意識下の直感によって動かされる。

 

 発の全系統との相性を100%に高めることができる『絶対時間(エンペラータイム)』と併用することにより、薬指の鎖は術者自身の認識すら超えた機動を実現する。不意打ちに受けた無数の念弾を前にして鎖は的確に、一分の乱れもなくクラピカを傷つける軌道上の念弾のみを防いだ。

 

 力を受け流す方向が少しでも狂えば念弾の威力を抑えきれずに鎖が崩壊していただろう。一発でも受け損なえば念弾の猛射に肉体を食い破られる。刹那の攻防の結果は、無傷でその場に立つクラピカの姿によって示された。

 

「罠にかけた上でこの程度の攻撃しかできないとは、お前たちの実力を過大評価していたようだ」

 

 赤く色付いた眼を持つ少年の周囲に、じゃらりと音を立てて鎖が舞う。その一振りは絶え間なく降りしきる雨を薙ぎ払う。

 

「なら、ご自慢の鎖でどこまで堪えられるか試してやろう」

 

 古傷だらけの風貌の巨漢は、撃ち出す弾を体内で練り上げる。その闘気は男の影が何倍にも膨れ上がったかのように錯覚させるほど強大だった。

 



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96話

 

 幻影旅団の一人、マチの作り出す『念糸』はオーラを糸状に細く伸ばして操るというシンプルな能力である。その強度は糸の長さと反比例し、1メートル圏内であれば1トンもの重量を吊り上げられるほど強靭になり、逆に木綿糸ほどの強度に落とせば地球を一周するほどの長さを紡ぎ出すことができる。

 

 絞殺、捕縛、追跡、盗聴、縫合、用途は多岐に渡る。どんな能力であれ、それを生かすも殺すも術者次第だ。マチの念糸の応用力と戦闘力は、彼女の類稀なる技能によって支えられていた。

 

 幻影旅団の一席を担う者として相応の実力を有している。念糸を使わずとも身体能力だけで並の使い手を凌駕する猛者だ。生温い鍛え方はしていないという自負はあったが、その気迫に反して身動きの取れない状態に陥っていた。

 

 その元凶であるチェルが徐々に距離を詰め始めていた。次々と襲い掛かる糸の波状攻撃をものともせず、細腕の一振りで蜘蛛の巣でも取り払うかのように千切られてしまう。

 

 マチは自分の身に降りかかる攻撃の正体について大まかに把握できていた。彼女が立つ場所にだけ過大な重力の負荷が発生している。気を抜けば地面に倒れ込んでめり込みそうなほど自分の体が重かった。

  

 一歩足を踏み出すために途方もない労力を要する。そうまでしてたかが一歩二歩進んだ程度で拘束から逃れられるわけもない。空気までもが重さを持ったように感じ、まともに息をすることもままならなかった。

 

 むしろ、倒れずに両の足で立ったまま念糸を操り続けているその心身の強さが異常と言える。この重力攻撃を一度受けたことのあるサダソは、戦意が全く衰えることのないマチの威勢にたじろぐほどだった。

 

 チェルの能力は重力攻撃だけではない。他者のオーラを自分のオーラと融合させてしまう特質系能力により、マチの念糸は変質させられ強度を著しく落としていた。

 

 それはチェルが直接触れた糸だけでなく、周囲一帯の領域全てに効果を及ぼしている。彼女が展開している円のオーラも融合する特性をもっているのだ。マチの手から紡ぎ出された糸はチェルの円に溶かされるように吸収されている。糸を維持するために普段の何倍ものオーラを消耗していた。

 

 その効果は念糸だけでなくマチ自身の肉体を保護するオーラにまで影響を与えていた。広大な『円』と『元気おとどけ』の効果が合わさることにより、円の内部にただいるだけで一方的に敵を弱体化させることが可能という凶悪な能力に成長していた。

 

 マチは勝算の低さを自覚しながらもそこで諦めるようなことはない。重力操作と空間歪曲、二つの能力を同時に発動できないことを見抜いていた。そのコンボが可能なら既に戦闘は終了しているだろう。

 

 チェルが重力操作を解除して空間歪曲を使おうとすれば、刺し違えてでも標的を殺すために動くつもりだった。その標的とはチェルではなく、サダソである。なぜか傭兵の少女が頑なに守ろうとしている背後の男を狙うことで、隙の見えないチェルに動揺を与えようと考えていた。

 

 マチは念糸にあらん限りのオーラを込める。その糸をより細くしていく。彼女の念糸は長さと強度が反比例するが、太さに関して制約はない。細い糸を紡いだからと言って必ずしも強度が落ちるわけではなかった。それどころか、繊維が凝縮されることによりオーラの密度を高めて強度を増すこともできる。

 

 その極細の糸は不可視の刃と化し、肉骨を断つ抵抗もなく標的を輪切りにする。風が吹き抜けたと感じた時には既に遅く、敵は斬られた自覚すら与えられず全身を解体される。念糸の奥義がチェルたちに向けて放たれた。

 

 オーラが凝縮された念糸刃は、初めてチェルの肌に傷を残した。しかし少女の腕を切断するには至らず。チェルの纏に触れた糸は急激に強度を劣化させられてしまう。さらに肌に刻み付けた傷は何事もなかったかのように回復されてしまった。

 

「くっ、やべぇ……服が……」

 

 あまつさえ自分の体よりも切り裂かれる服の心配をする始末。マチはこの念糸刃を普段使うことはない。技の限りを尽くして紡ぎ出せる極細の糸は、生成と操作に極度の精神力を要する。神経が焼き切れるほどの集中力をもってようやく発動を維持できるのだ。

 

 それだけの技をもってしても歯が立たない相手に対し、ふざけるなと悪態の一つも吐きたくなる心境だった。せめてもの抵抗と少女の衣服を重点的に切り刻む。

 

「やめろお前! これ明らかに服の方を狙ってるだろ!?」

 

 いかに対処が可能とはいえ、チェルの腕は二本しかない。攻撃力を増した念糸はマチを中心として暴風域を形成していた。その中心地に近づけば近づくほどに糸の手数は増えていく。すべての念糸刃を防ぎきることはできなかった。

 

「ぐあっ!?」

 

 チェルの背後でサダソが苦痛の声を上げる。チェルが切り落とし損ねた糸の一本がサダソに到達したのだ。チェルも敵がサダソの方に攻撃を集中させていることに気づいている。

 

「あたしから離れるな! 一瞬でぶつ斬りにされるぞ!」

 

 吹き荒れる刃の暴風域の中にチェルたちは孤立した形で取り残されてしまった。こうなってしまえばサダソを連れてきてしまったチェルの判断は失策と言えた。念弾撃ちに遠方から狙われていたあの状況では仕方がなかったとはいえ、戦況の推移を見誤ったことは事実である。

 

 自分の実力ならば守り切れるという過信と、敵に対する侮りがあったとチェルは反省する。マチは荷物を抱えながら片手間に倒せる敵ではない。災厄の力があったからこそ一方的に善戦しているが、純粋に念能力のみで戦えば勝敗の見えない強敵だっただろう。

 

「一旦、ここは退く」

 

 だが、それならば出直してくれば済む話だ。円の範囲に捉えている限り、マチを重力で拘束し続けることができる。安全圏までサダソを連れて一時撤退した後、またマチのところに戻ってきて戦えばいい。

 

「その必要はないよ。敵はここで仕留める」 

 

 今からでも立て直しは十分に可能だった。だが、そこで待ったをかけたのはサダソである。護衛任務を引き受けていながら味方の強さに甘えて守られることしかできないのであれば、彼としても殺し屋の沽券に関わる事態だった。

 

 自分がただの荷物ではないことを証明しなければならない。サダソの左腕が肥大化する。それに伴い、強烈な痛みが彼を襲った。

 

 失った左腕の代わりに得た仮初の腕は、幻肢痛という病症の結果として生み出された能力である。発動に際して痛みが生じる制約があった。よりオーラを込めて強い力を引き出そうとするほどに幻肢痛は悪化する。

 

 だから天空闘技場にいた頃の彼は、痛みの限界を超えた能力の行使など思いつきもしなかった。それが彼の成長の行き止まりだ。ゆえに200階層の最底辺でくすぶっていた。

 

 何の対価や代償もなく手に入る力などちっぽけなものだ。殺し屋となり、命を懸けた実戦を積んだサダソは自己という壁を一つ打ち破っている。

 

「うおおおおお!!」

 

 痛みを叫びで紛らわせたサダソの左腕は数メートルもの大きさに変貌する。念糸刃の攻撃を受けて幾度となく切り裂かれるが、驚くべきことに破壊されてはいなかった。サダソの左腕は確固たる実体を持つわけではない。具現化系ではなく変化系の特色を持つこの腕状のオーラは実体と非実体の中間のような性質をもったオーラの塊だった。

 

 その歪な能力を、まともな腕として形作ることができなかった未熟さの表れだと劣等感を抱いていた。敵の攻撃を防いだり、直接的なダメージを与えるような使い方には向かないが、その性質は見方を変えれば大いに戦闘にも応用できる。

 

 ありもしない腕に生じた痛みから逆算的に発生した幻の腕は、破壊不能の魔手となり敵へ襲い掛かる。

 

 糸の暴風をものともせず突き進むサダソの左腕はマチの全身を手の中に握り込んだ。重力とオーラの手による二重の拘束が、動きだけなく彼女の呼吸を封じる。それでもなお手負いの獣のように最後の力を振り絞って念糸刃を繰り出し続けたマチだったが、ついに窒息して意識を失った。地面にめり込んで動かなくなる。

 

「やるじゃん!」

 

 チェルはマチに近づいて当身を打ち込み、念には念を入れて服の内側から取り出した虫の本体に噛みつかせ、麻痺毒を送り込んだ。

 

「さて、まだ敵は残ってる。お前はこの女を持ってゼンジの護衛に戻れ。まだ殺すなよ」

 

 ぜえぜえと肩で息をしているサダソにチェルは声をかけた。もう彼のことをお荷物だとは思っていない。対等な仕事仲間として認めている。傭兵団の方針からなるべく人死には出さないように気をつけて戦っていたが、ただの慈善心で助けたわけではない。

 

 守ってやった分くらいの仕事はサダソにもしてもらわなければ割に合わない。ゼンジのそばにはアイクがいるので、その近くにいれば危険なことにはならないだろう。

 

「まず逃げた敵を見つけないとな。襲撃者をこのまま放置はできない」

 

 念弾撃ちも、それと戦っていた謎の乱入者もチェルの円の範囲から逃げていた。いつ拘束されるともわからない領域にいつまでも留まったままでいるわけがない。移動しながら円で索敵しようにも、敵も一度見ている技に当然警戒は払っているはずである。

 

 襲撃者の目的がゼンジまたは緋の眼にあるのだとすれば、ここからそれほど遠くに逃げ去ってしまったとは考えにくい。だが、円を広げたまま追い回すようなことをしても迂闊に足を踏み入れてくるような愚は敵も犯さないだろう。かと言って円を使わずに敵を探すというのは本末転倒だ。

 

「もういっそのこと無視してもいいんじゃないか? 逃げた敵の捜索に時間をかけるより、ゼンジ氏の護衛に専念すべきだろう」

 

「それも一理あるが、やはりあの念弾使いは脅威だ。遠方からあれだけの威力の念弾を機関銃のように発射してくる敵をここで逃がせば後の護衛任務に支障が出る。ちょっときついが、あれを使うか……」

 

 そう言うとチェルは、くちゃくちゃと何かを噛むように口を動かす。まるでガムでも噛んでいるようだと思ったサダソの予想通り、チェルは口からフーセンガム状のオーラを膨らまし始めた。

 

 

 * * *

 

 

 クラピカとフランクリンは高速道路から少し離れた開発予定地に場所を移して激闘を続けていた。両者の実力は拮抗している。幾度となく互いが攻撃を放つが、どれも決定打に至ることはない。

 

 クラピカは五指に宿る能力を存分に発揮してフランクリンを追い詰めようとするが、念弾の猛攻を前にしてあと一歩のところで取り逃がす。回避しきれない念弾は『導く薬指の鎖』で弾き飛ばしているが、それでも防御には限界があった。

 

 一つの判断の誤りが死に直結する攻防が続く。よくある念弾使いは遠距離攻撃に頼って接近戦を疎かにしがちだが、フランクリンの場合は当てはまらない。十本の指がそれぞれ銃口として機能し、無数の弾を吐き出し続ける彼の能力は、遠距離だろうと近距離だろうと関係なかった。

 

 それでもクラピカを仕留めきれない理由は、鎖を警戒するあまり行動に制限が生まれているからだ。フランクリンは『束縛する中指の鎖』の効果を知っている。念を封じるその鎖に一度でも捕まれば、勝負は即座に決着するだろう。あと少しのところで攻めきれないのはフランクリンも同じだった。

 

「どうした? 随分焦っているように見えるぞ。そう急ぐことはねぇ。ゆっくり死合おうぜ」

 

「黙れ……薄汚いクモが……!」

 

 しかし、精神的な優勢のみを見れば若干であるがフランクリンに傾いていると言えた。クラピカが抱える焦りとは、自分自身の実力から生じるものだった。

 

 相対している敵は幻影旅団の一人である。たった一人だ。まだ十人を超える敵が後に控えているというのに、いまだ一人にすら勝つことができずにいる。

 

 それはクラピカも最初から理解していたことだ。異常な強さを持つ念能力者集団であることは十分わかっていた。自分一人の力で復讐を成し遂げるにはあまりにも高い壁。頭では理解していても、感情を受け止めることができずにいる。

 

 一年前、ずば抜けた戦闘力を持つ旅団員であったウボォーギンを倒したときは相手に多少の油断があった。今回の敵はわずかな隙も見られない。フランクリンはウボォーギンを倒した相手に対して最大限の警戒を向け、全力で戦おうとしている。

 

 クラピカの焦りはまだ微々たるものに過ぎないが、戦況に大きな影響を与える可能性を帯びていた。彼はどうしてもかわせない念弾を最終的に『導く薬指の鎖』の超感覚によって処理しているが、その感覚の鋭さは本人の精神状態と無関係ではなかった。

 

 高い集中状態を維持できれば無意識下における鎖の制御も高まるが、感情が乱れた状態では十全な制御は発揮できない。精密極まりない能力の行使によってようやく防ぐことができるフランクリンの念弾を、今のクラピカの精神状態で受け続ければいつか綻びが生じてもおかしくなかった。

 

 わずかにではあるが、その精神状態の差が戦闘にあらわれ始めている。一度開いてしまったその差は、深まることは容易くとも対等な状態に戻すことは難しい。何か手を打たねばとクラピカが考えを巡らせていたときのことだった。

 

 先ほどまでクラピカたちがいたパーキングエリア付近から大きく広がるオーラの気配を感じ取る。傭兵の少女が使っていた円に似ているが、微妙に異なる点があった。

 

 最初に不意打ちで捕捉されてしまったときのチェルの円は、広い範囲と優れた展開速度に加え、隠を併用して気配を闇に溶け込ませるという高度な技術の集大成だった。しかし、今回の円らしきものは気配を隠す様子もなく、もこもこと緩慢に広がっていく。

 

 やがてその大きさはチェルの円の最大範囲である半径150メートルに達したところで停止する。限界まで広がった円の“風船”の内側では、術者であるチェルがさらにオーラを込めて膨らまそうとしていた。

 

 これはチェルが新たに開発した『落陽の泡(バブルジャム)』という能力だった。チェルたちはシックスから魂の断片ごと受け継いだ念能力『王威の鍵(ピースアドミッター)』に付随して『落陽の蜜(ストロベリージャム)』も少しだけ使えるようになっていた。

 

 ただし、この能力は完全な形で継承されなかったために、ただオーラが少しぬめる程度の効果しか引き出せなかった。まともに使いこなせるのはシックスから多くの魂を引き継いだクインだけである。だが、チェルはせっかく新しく手に入れた能力を何かに生かせないかと模索していたのだ。

 

 そして自分が最も得意とする技である円と合わせることによって新技を編み出したのである。その効果により円の外周を粘液の膜状に変化させる。これにオーラを込めて通常の円を使うように広げることで、フーセンガムのように膨らませていく。

 

 この円のオーラは概念的に粘性を帯びているだけで、実際に敵を拘束したり動きを阻害するような効果はない。その真価は、限界を超えたオーラを与え続けることにより“破裂”することにあった。

 

 膨れ上がった円が爆発する瞬間をクラピカとフランクリンは見ていた。その中から膨大なオーラの内容物が飛び散る。キノコが胞子を放散する瞬間にも似た光景だった。

 

 見えていようと回避できる規模ではない。周囲一帯がオーラの飛沫で塗りつぶされた。その距離はおよそ半径500メートルにも達する。

 

 ぬるりとまとわりつくようなオーラがクラピカの体に降りかかる。すぐさま振り払おうとしたが、対処するまでもなくすぐにオーラは消え去った。『落陽の泡』によって破裂した円は瞬間的に捕捉範囲を拡大するが、その持続時間はほんの一瞬に過ぎない。

 

 その一瞬があれば、チェルは標的を見つけ出して『重力操作』を発動できる。

 

「くそったれ……!」

 

 フランクリンの位置はチェルに特定されてしまった。巨体が地に沈み込む。クラピカがその隙を見逃すことはなかった。『拘束する中指の鎖』を放つ。

 

 しかし、鎖はフランクリンに到達する直前で地面に叩きつけられるように落下した。チェルの能力は敵自体を対象とするものではなく、その地点に影響を与えている。その範囲内に存在する物質は例外なく重力の枷を負う。具現化されている鎖には実体と共に重さが生じていた。

 

 フランクリンが全力を振り絞って両手をクラピカに向けるが、念弾は容易く回避されてしまう。指一本動かすだけでとてつもない荷重が発生する中、まともに照準を定めることすら困難を極める。

 

 クラピカにとって、復讐を果たすにはこれ以上ないほどの条件が整っていながら手が出せない。パーキングエリアの方からチェルが急接近してくるのがわかった。姿は見えずとも推測はできる。

 

 まもなく、この場所も円の領域に飲み込まれる。傭兵の少女は真っ先にフランクリンを拘束したが、それは優先度の問題でしかなく、次はクラピカを始末しにかかるだろうと予想できた。相手は旅団と同じ、A級の賞金首である。敵意を示さずとも友好的に事が運ぶとは思えなかった。

 

 これ以上、フランクリンの始末に手間取れば逃げる機を失ってしまう。今回の作戦には旅団への復讐よりも優先すべき課題が残されている。ここでクラピカが死ねば緋の眼の回収は絶望的になるだろう。旅団のうち、たった一人相手の復讐に固執することは大局を見失うも同然の判断である。

 

「逃げるのか? さすがは腰抜け集団、クルタ族の死に損ないだな。俺たちが殺した連中も同じように逃げ惑ってたぜ。無様に助けを求めながらな」

 

 クラピカはフランクリンの言葉に抑えきれない怒りを覚えるが、同時に覚悟と冷静さを取り戻す。ここでわかりやすい挑発を述べるという敵の行動は余裕のなさの表れでもある。クラピカは鎖の具現化を解除して後退した。

 

「私の手で復讐を果たせないことは残念だが、どのような経緯であれお前たちの死は歓迎する。悪党にふさわしい最期を、もがき苦しみながら迎えるがいい」

 

 未練のない足取りでクラピカは走り去った。フランクリンはその背中に向けて念弾を撃つようなことはしなかった。攻撃が届くとは思えないし、今はそれよりも警戒すべき敵が迫っている。

 

 クラピカの退却の直後、円の気配に辺りが包み込まれた。まるで首筋に生温い息を吐きかけられるような悪寒が走る。これだけ広大な円の使い手が相手となれば、領域の内部に一度取り込まれてしまえばその中心がどこにいるのか探ることは容易ではない。

 

 フランクリンはチェルと一戦交えた時のことを思い出す。自分の念弾をまるで豆鉄砲か何かのように防いでいた少女の様子を。少女が纏うオーラの強さから見ても、その程度の堅で防ぎきれるとは思えない異常な光景だった。何らかの特殊な能力が使われていたことは間違いない。

 

 一体、どれだけの数の発を有しているというのか。一人の念能力者がいくつもの発を使いこなす例は全くないわけではない。フランクリンがよく知る人物としては幻影旅団の団長であるクロロ=ルシルフルが挙げられる。先ほどまで戦っていたクラピカも五つの鎖の能力を持つ。

 

 しかし、極めて特異な存在であることは確かだ。それに加えて基礎能力を疎かにしているということもなさそうだった。フランクリンは目を凝らして周囲を注意深く観察する。

 

 夜という時間帯、強まる雨脚、空は雲に覆われ月明かりも望めない。光源は道路上に点在する外灯のみだ。さらに雨による視界不良、物音もかき消されてしまう。こちらは位置を特定されて身動きが取れないが、向こうは一方的に行動可能という最悪の状況である。

 

 だが見えず、聞こえずとも、フランクリンは闇の世界を生きてきた人間だ。わずかな殺気を頼りに隠れた敵を察知する術を身につけている。その感覚を研ぎ澄ませる。

 

 

「一人しかいないのか。さっきまでそばにいた奴はどうした?」

 

 

 声がかけられる前には、既に敵の気配に気づき念弾を撃ち放っていた。ぼろぼろの雨合羽を着た少女に無数の弾が浴びせられる。しかし、その攻撃が少女を捉えることはなかった。何の手ごたえもなく念弾は空を切る。少女の姿は揺らめきながら消えてしまった。

 

 フランクリンが見た敵の姿は幻影だった。チェルの能力『明かされざる豊穣(ミッドナイトカーペット)』により、屈折率を変化させられた光が見せる幻だった。

 

 

「命まで取るつもりはないが、少し眠ってもらうぞ」

 

 

 さっきよりも近い場所から聞こえた声に向けて念弾を連射するが、やはり撃ち抜いた影はぼやけて消えていくだけだった。絶で気配を隠したとて、これだけ接近されればフランクリンほどの使い手であれば凝で見破れる自信があった。しかし、それをあざ笑うかのように敵の居所は判然としない。

 

 チェルは絶をしていなかった。濃密な円のオーラの中に自身の気配や殺気を均一になじませ、どこにいるのかわからなくしている。纏のオーラを円のオーラと区別がつかないように擬態させているのである。その隠形によって、絶のように不自然なオーラの断絶を生み出すことなく、限りなく自然に景色へ溶け込んでいた。

 

 サヘルタの特殊部隊に所属していた頃のチェルは、敵の眼に極力触れず奇襲をかけるアンブッシュの戦闘術を中心的に鍛えていた。それを思えば今の彼女の戦い方こそ、本来の戦闘スタイルに近いものだった。

 

「だったら……全部ぶっ壊してやるまでだ!!」

 

 フランクリンは咆哮と共に渾身の全力をもって念弾を四方八方に掃射した。敵がどこにいるのかわからないというのであれば、最初から狙いを定める必要はない。弾幕によって面で制圧するまでと、重力の枷を負いながらも360度すべての方向に撃ち続ける。

 

 垂れ流すように消耗されるオーラを念弾に変えて吐き出した。炸裂する破壊の痕跡がフランクリンを中心に広がっていく。圧倒的な暴力がそのまま形を成した索敵網となり、隠れた敵の存在をあぶりだす。

 

 彼は確かに、敵の位置を探し出すことに成功した。念弾が当たったその敵は、フランクリンの背後にいた。

 

 手を伸ばせば触れる距離である。その距離に近づかれるまで気づくことができなかったという不覚を悔やむ猶予さえ与えられず、振り抜かれたチェルの拳が到達する。赤い虫の手甲から繰り出された一撃はフランクリンの意識を刈り取った。

 

「よし、終わり」

 

 麻痺毒の注入も完了し、完全に敵は沈黙した。残す気がかりと言えば、フランクリンと戦闘していた乱入者が何者だったのかという疑問はあった。

 

 しかし、敵かどうかもあやふやな何者かを追跡するよりも今はゼンジの護衛を優先すべきだ。ひとまず念弾使いを処理できたので、これ以上の深追いは無用とチェルは判断した。気絶した巨漢を引きずりながらパーキングエリアに戻る。

 

「……なんだあれ? 花火か?」

 

 その道すがら、目的地の駐車場付近から夜を照らす眩い光弾が一つ、空に向かって打ち上げられる光景を目撃した。

 

 



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97話

 

 幻影旅団の戦闘員が一人、フィンクスは徒手空拳の使い手である。強化系能力者である彼の発は『廻天(リッパー・サイクロトロン)』と言い、腕を回すほどパンチ力が増大するというものだった。

 

 特定の動作を伴う必殺技は強化系能力としてみれば珍しくない。しかも彼は腕を回す回数と、それによって得られる力の関係を自分自身正確に把握していなかった。匙加減はその時の気分次第だ。

 

「つまんねぇ大道芸をいつまでも見せんな、火噴き野郎!」

 

 だが、そんな大雑把な力の使い方でも問題ないほどに彼は強い。適当に1、2回回しただけのパンチ力で大抵の敵は片付く。それを考えれば、今フィンクスと戦っているヴェンディッティ組護衛チームのホッドは健闘している方と言えた。

 

 辛さという味覚と痛覚に異常を与える特殊な念の炎を使いこなすホッドの攻撃は、普通なら対処は容易ではない。戦場は火炎地獄と化し、この大雨の中でも消えることのない辛さの炎によって敵を焼き殺していたことだろう。

 

 そのオーラが変化した炎をフィンクスはただのパンチで吹き飛ばしてしまう。増大したオーラの顕在量だけでホッドの炎を打ち消してしまうほどに桁違いの出力だった。ホッドは逃げの一手しか取れない状況に追い込まれていた。

 

 フィンクスはパンチを打ち放ちながらもう片方の腕を回してチャージする。このまま戦い続けてもそう時間をかけずに勝利できるだろうが、短気な性格の彼は火傷を承知で炎の壁を突破しようかと考え始めていた。術者を殺せば炎の効果も消える。死後強まる念を考慮しなければ一番手っ取り速い方法だ。

 

 そう考えていた矢先のことだった。打ち払った炎の向こうに一人の子供が立っている。その後方には逃げていくホッドの姿があった。

 

「まったく、頼りにならん味方じゃ」

 

 恐れをなして逃げ出したホッドに代わってアイクがフィンクスの相手を引き受けた。雨合羽の少女が取った構えから、フィンクスは目の前の敵が同じ徒手の使い手であることを察する。

 

「心源流か」

 

「ほお、見る目はあるようじゃの」

 

 多くの念使いが最初に入門する武術である。フィンクスもこれまでに数え切れないほど戦っている流派だ。常ならばいちいち言葉に出して指摘するほどのことでもなかったが、今度の敵がただの『心源流』ではないことを感じ取る。

 

 少女が醸し出す気迫にはただならぬ強さがあった。見た目に惑わされ、侮っていい敵ではない。ホッドを相手に弛緩していた気持ちを引き締める。

 

「上等だ」

 

 フィンクスは何かの武術を修めようと、誰かに教えを乞うたことはない。我流である。その戦闘法は、自らの発を使いこなすことを前提にして磨き上げられたものである。

 

 『廻天』は発動するために準備の動作を必要とする。腕を回すという大きな動作は、時間が取れる状況下や格下の敵が相手であれば特に問題なく使うことができる。しかし、同格以上の相手と戦う最中に使おうとすれば致命的な隙となることは言うまでもない。

 

 ゆえに彼が本気で格闘戦を行う際に、この発を全力で使う機会はまずないと言っていい。全力では使わない。彼は『腕を回す』という動作を『肩を回す』という動作に簡略化することにより、術の発動に必要な動作の隙を最小限に抑え込んでいた。

 

「来んのか? ではこちらから行くぞい」

 

 少女の踏み込みに合わせ、フィンクスは軽く肩を回す。

 

 当然ながら、簡略化した動作では本来の威力は発揮できない。強化されるパンチ力は半分以下にまで落ち込む。だが、もともと『廻天』は自分でも大雑把にしか勘定せずに済ますほど不必要な威力のある技であり、効果が半減したからと言って実用性が落ちるわけではない。

 

 元の半分の威力でも実戦中に使用可能となればその脅威は計り知れない。肩を回すという動作にもわずかな隙が生じるが、それを補うための体術を鍛え上げ、その隙すらブラフや牽制として利用する戦闘法を編み出した。

 

 無手における体術という一点を挙げるなら、彼は旅団最強の使い手だった。たとえ格上が相手だろうと後れを取るようなことはない。その堅固な自負は、彼が纏うオーラに滲み出ていた。

 

 対する少女が打ち込んだ一手とは、正拳突きだった。跳び込みながら打ち放たれたその拳は、教科書に載っているかのように綺麗な型通りの正拳突きだった。フィンクスは真顔で思う。

 

 

 ――これムリ――

 

 

 反応することもできず、気づいたときには腹に突きが打ち込まれていた。

 

 かつてアイクがネテロと呼ばれていた時代の話。心源流を開いた彼だが、その武術の全てを一から作り出したわけではない。他の多くの流派と同じように、いくつかの武術を源流として考案されたものである。

 

 彼が重視した武術の概念の一つに『勁』がある。勁とは生み出された運動を量として捉え、それが人体を通して伝わる過程を指す。ただ単に拳を前に突き出しただけのパンチには驚くほど威力がない。そこに体重を乗せる全身の動きが合わさって初めて技となる。

 

 この体重移動も勁の一つだが、武術における発勁はさらに奥深い。運動が働く位置に局所的な破壊力を引き起こすのではなく、その運動量をいかにして他所へ有効に作用させるかを研鑽する分野である。

 

 ネテロの正拳突きには各所の重心移動や回転運動を始めとして、丹田より生じた煉気や、踏み込みの衝撃から得た震脚勁など、無数の発勁によって運動量が蓄積され、その力が滞りなく拳の一点に集約されていた。

 

 この発勁によって得る力とは筋肉のみの作用によって引き出されるものではない。むしろ不必要な力みは勁を妨げる。打ち付けるだけの力と勁は全く別の働きである。外見上の攻撃動作の大きさや速さと、実際に発揮される威力は一致しない。

 

 極めて柔軟に勁を導く理想形とも言える自然体を修行の果てに習得したネテロ。そして、それを引き継いだアイクは華奢な少女の体でありながら発勁により驚くべき攻撃力を引き出す技を身につけていた。

 

 と、ここまでは修行すれば一般人にも理論上は習得可能な既存の武術である。ネテロは武と念を一体のものとして体系化する取り組みを試みた。心源流における四大行の応用技『流』は勁の作用をオーラによって最大限に引き出すために作られた技だった。

 

 時が経つにつれ心源流が広く普及した現在では『流』は、攻防力の移動術としか解釈されていない。小難しい理論は省いた方が効率的に門下生に実力をつけることができたからだ。ネテロはその齟齬を積極的に修正しようとはしなかった。

 

 今このとき、フィンクスに向けて放った技とその過程こそがネテロの考案した真の流である。おそらく念を全く使わずに技だけ繰り出したとしても敵に多少のダメージを与えたであろう一撃は、オーラによって強化されることで音速を超えた。

 

 音を置き去りにする一撃が敵の腹部に突き刺さる。もしそこでアイクが技の制御を手放していれば、フィンクスの臓器に致命的な損傷を与えていただろう。アイクはそれを良しとしなかった。腹より込め、脊椎を伝わった勁により、内臓に傷を一つも与えることなくフィンクスを気絶させていた。

 

 相手の肉体へと発勁を及ぼす『寸勁』の一種である。心源流においては本来、勁とは筋をよく伝わり骨によって阻まれやすいものだが、自身から離れた相手の肉体中に作用させる場合は、逆に随意の介在する余地の少ない骨の方が伝えやすい。アイクは攻撃の威力をフィンクスの腹部から背骨に伝え、一気に脳へと届かせたのである。

 

 オーラによって強化されているフィンクスの鍛え抜かれた肉体は、アイクの放った勁の伝達を著しく阻害するも、完全に止めるには至らなかった。技の原理すら知る由もないフィンクスに対処するすべはない。何をされたかもわからないまま気を失った。

 

 その妙技の精度は『最強』の名をほしいままにしたネテロの全盛期に匹敵する。否、さらなる修行を重ねた上で若返ったアイクの技量は、かつての全盛期を超えていた。

 

「まずは一人」

 

 フィンクスを沈めたアイクは次の標的に威圧を送った。蝙蝠にとどめを刺そうとしていたノブナガが手を止めて反応する。

 

「ガキが……何しやがった?」

 

 そこでノブナガは倒れ伏したまま動かないフィンクスのあり様を確認した。即座に意識を切り替え、蝙蝠を放置して納刀する。抜刀術の構えを取った。

 

「動けば斬る」

 

 円を展開してアイクを待ち構える。明らかに不審なその誘いに少女は乗った。ノブナガの制止を無視して突き進む。

 

 気になるところはいくつかあるが、アイクが最も違和感を覚えた点はノブナガの視線だった。まっすぐに少女を見据えているようでいてその実、彼の視線は少女を捉えてはいなかった。その理由は彼の円に起因する。

 

 ノブナガが戦闘中によく使う技である円、その最大範囲は半径4メートルである。剣の間合いと等しい距離が彼の円の限界だった。円は最低でも半径2メートルなければならないという定義があり、それ以下の範囲しか展開できないものは円未満の技とされる。

 

 定義を満たしているとはいえ、4メートルという距離はお世辞にも広いとは言えない。しかし、この技こそ彼の剣技の極致だった。

 

 円という技が使い手によって激しい性能差が生じる理由は、行使する上で様々な適性が必要となるためとされている。基本的にその性能は『纏』と『練』の精度によって決定されるが、さらにそこへオーラを肉体から放出する技能や円の外周を広げる適性、拡張された感知感覚の適性などを要する。

 

 どれか一つでも低い項目があれば、それが円の性能に上限を作ってしまう。戦闘力の高い実力者でも円が得意ではない者が多い所以である。ノブナガの場合も外目だけ見れば不得意な部類に入るだろう。だが、彼の円は他にはない特性があった。

 

 ノブナガは円の感知感覚に常軌を逸した適性があった。範囲こそ狭いが、その領域内の存在を認識する能力に長けている。通常であれば感じ取れないような刺激に対しても鋭敏に反応できる。

 

 閾値が低いと言い換えることもできる。生物が反応や興奮を起こすために必要となる最小の刺激を数量化したとき、ノブナガのオーラに関する感知力の閾値は並の能力者の千分の一以下の世界を捉えていた。

 

 だが、その発達した感受性は本人の許容限度をも超えていた。彼が本気で円を使うと、入力される刺激のあまりの強さに感覚がオーバーフローしてしまう。視覚や聴覚と言った他の感覚器にまで影響を及ぼしてしまうほどだった。

 

 ゆえに通常は精度を落として使用しているが、今のノブナガは違う。少女の強さを認めた上で一刀を放つと心に決めた彼は、全力の円を展開していた。

 

 彼は何も見えず、何も聞こえない世界にいた。ただ一つ、己の全身を蝕むように襲い掛かる触覚のみが恐ろしい情報量の嵐となり吹き荒れている。おそらくこのようになっているだろうと思われる形而上的なイメージでしか自己を捉えることができずにいた。

 

 それはあまりに無防備な状態である。円を使っていながら、その感受性の強さゆえに敵の攻撃を全く察知できない状態だった。使う意味がないどころか自らを窮地に落とし込んでいる。

 

 しかし、その欠点を改善する手は仕組まれていた。ノブナガが事前に発した「動けば斬る」という言葉である。その能力は『一門一刀(ソモサン)』という。

 

 彼は相手に対して条件を提示し、それを破られるという工程を踏むことで、円の世界において対象の存在を捉えることができるという発を作っていた。その能力を象徴するようにノブナガの感覚世界に念の門が現れる。

 

 少女がその門の内側へと足を踏み入れる気配をノブナガは感じ取った。極限にまで引き上げられた感知力が敵の恐るべき速度を捉える。もし手を抜いて能力を使わずに戦っていたとすれば一瞬で負けていたと納得できるほどの実力が感じ取れた。

 

 その少女の動きに合わせるように一刀が振り抜かれた。見事なまでの後の先。鞘走る刀身が少女へ迫る。既に攻撃態勢へ入っている少女に回避は能わぬ必殺の太刀。

 

 どれほど頑強なオーラで防いだとしても無意味だ。ノブナガの感覚は常人の何千分の一というスケールでオーラの流れを読み取っていた。その刀は物質の構成に割り込むことすら可能とする。斬るのではなく、あらゆる狭間(ハザマ)を隔てる分境剣。

 

 形ある限り、その一太刀に斬れないものはない。流を極めた達人アイクだろうと例外なく分断される。蝙蝠との戦いでは気の緩みから仕留め損ねたが、もはや微塵の雑念すら払拭したノブナガの剣にわずかな狂いも生じることはなかった。

 

 剣が閃く。その一刀を前にして少女が取った行動とは、合掌であった。

 

 円の領域においてノブナガは、少女の手の動きを子細に感知していた。それはまるで一方的に時間を止められたかのような感覚だった。少女だけが動くことが許された世界で実現する祈りの所作。それまで4メートルの世界の全てに行き届いていたノブナガの感覚に亀裂が走る。

 

 合掌された両の手により挟み込まれる形で彼の剣は捕らえられていた。真剣白刃取り。ノブナガは真顔で思った。

 

 

 ――バカじゃねぇの――

 

 

 さらに打ち合わされた両手の衝撃が勁として刀身を伝わった。柄を握るノブナガの手が電撃を浴びたように跳ね上がる。寸勁が彼の手の神経に作用し、屈筋反射を強制的に引き起こすことで意識とは無関係に刀から手が離れたのである。

 

 心源流奪剣術・流勁無刀取りを受けたノブナガは思った。

 

 

 ――バカじゃん――

 

 

 その罵りが敵に向けられたものか、はたまた自分自身を責めた言葉か、彼自身にもわからない。理解する間もなくたたき込まれた蹴りによってフィンクスと同じ末路をたどった。

 

「これで二人目」

 

 間髪入れず、硬質な金属音が鳴り響いた。雨合羽のフードが切り落とされ、初めて彼女の素顔が外へ晒される。その攻撃を仕掛けたのはフェイタンだった。

 

 キャロリーヌを痛めつけていたフェイタンはアイクの強さを目の当たりにしてさすがに遊びをやめていた。ノブナガの居合切りに合わせる形で少女に挟撃を仕掛けようと迫っていたのである。

 

 ノブナガを気絶させるために蹴りを繰り出していたアイクに、背後から浴びせつけられた剣撃を回避することはできなかった。それほどフェイタンの剣は速かった。ノブナガと同じ剣の使い手だが、フェイタンの場合はフットワークに特化した剣士である。

 

 しかし、完全に隙を突いたかに見えた奇襲は成功していなかった。アイクの首を狙って振り抜かれた剣は、その場所を守るように服の中に忍ばせていた甲虫により防がれていた。フェイタンは一つ舌打ちする。

 

「はて、おぬし。何やら見覚えがあるような気がするのじゃが、どこかで会ったかの?」

 

 アイクはフェイタンの顔に既視感を覚えるも、はっきりと思い出すことはできなかった。一方、フェイタンは目の前の少女について心当たりがあった。

 

 グリードアイランドをプレイ中、除念師の件でヒソカを呼び出しに行ったときに成り行きで戦った少女である。顔立ちや声などは記憶と一致する。不吉な色をした甲虫も見覚えがあった。

 

 細かな点を挙げれば差異はあるのだが、フェイタンもそこまで見分けがつくほど明瞭に覚えているわけではなかった。なんとなく同一人物だろうと推定する。

 

 彼にしてみれば思い出したくもない記憶だった。あの時の勝負は不完全燃焼のまま終わっている。団長の除念のため私闘に興じている暇はなかった。今こそあのときの決着をつけようと、フェイタンは鋭い眼差しで剣を構える。

 

「まあ、よい。戦っているうちに思い出すかもしれん。というわけで、しばらく遊んでもらおうか」

 

 フェイタンは自分だけ相手のことを覚えているという事実に腹立たしさを感じるが、すぐにそんな感情は消え失せる。

 

 アイクの放つ殺気が叩きつけられた。その気は濃密な殺意に満ちていながら害意を伴わない。驚くほど淡白な殺しの意気だった。まるで揺るがぬ事実を突きつけるかのように死という結果を想起させる。

 

 その致死必然の気配は以前にフェイタンが戦った少女とはかけ離れていた。フィンクスとノブナガが瞬く間に倒されたことは偶然ではなかったのだと見ただけで理解できた。だが、そこで足を止めるほど軟弱な精神を持ち合わせてはいなかった。

 

 駆け寄る。斬りつける。その速度は旅団においても右に出る者はいない。俊脚から繰り出される剣技はいくつもの残像を生み出した。その剣を少女は一つ一つ正確に受け止めていく。かわそうとすることは一度もなかった。

 

 フェイタンは数度の斬撃を放ったところで違和感に気づく。あまりにも敵の動きが綺麗すぎた。わずかにでも受ける角度を違えただけで肉を切り裂くような瞬剣の連撃を、これ以上ないというほど正確に対処していく。さらに剣を覆うオーラの攻防力を、全く同一量の攻防力をもって相殺していた。

 

 それだけの技量があるにも関わらず、少女の方から攻撃を仕掛けてくる気配はない。ひたすらに攻撃を受け続ける。まるで崩せる様子の見えない牙城へと無数の剣を突き立てるフェイタンの動きは徐々に研ぎ澄まされていく。さらに速く、しかしその意識は緩やかな時間の流れの中にあった。

 

 死線に身を置いた強者のみが至る時間感覚の矛盾、心滴拳聴である。いかにすればこの難敵を打破しうるか、フェイタンはこの戦闘の最中において研鑽していた。一朝一夕に伸びるはずがない剣術の技量が、一振りごとに変化する。

 

 かつてないほどの強敵との戦いは、恐ろしいまでに急激な成長の実感を彼に与えた。より正確に言えば“与えられていた”。

 

 受けに徹し続けるアイクの行動はフェイタンの攻撃速度に後れを取ったからではない。初めから意図してのことだった。アイクはフェイタンに対してある技を仕掛けていた。それすなわち『流々舞』である。

 

 心源流において今日に伝わる流々舞は、戦闘技とは認識されていない。組手による修行法の一つである。二人の使い手が基本技を出し合うのだが、一つ一つの技の流れを確認するため非常にゆっくりとした動作を取る。

 

 まるでスローモーションのような動きで技を出し合う光景は一見して滑稽にも見えるが、最も高度な組手の一つである。達人を相手にする場合、レベルの低い相手ではどんなにゆっくり技を出されても受けきれない。同等の技量を持つ者同士でなければ有効な修行にならないとされる。

 

 アイクはこの流々舞をフェイタンに仕掛けた。牙を研ぐかの如く練り上げられたアイクの殺気は敵の眠れる本能を覚醒させ、心滴拳聴の境地を引き出すことで時間の流れを緩やかに感じさせた。その引き延ばされた感覚の中で自由に技を打ち込ませ、フェイタンの修練を助けたのである。

 

 心源流秘拳・流々舞胎蔵界。ネテロはこの技を作りはしたが継承者は現れなかった。二人の使い手による心滴拳聴の応酬を前提とし、一人では完成し得ぬ技である。

 

 しかし、アイクとしての生を受けたネテロは『思考演算(マルチタスク)』を駆使することにより、自発的な主観時間のコントロール術を習得する。これにより単身での技の発動を実現した。

 

「このくらいでいいじゃろ」

 

 唐突にアイクは殺気を解いた。その瞬間、泡沫の夢が覚めるようにフェイタンの時間感覚は通常に戻った。そして愕然とする。

 

「お前……ワタシに何を……!?」

 

 流々舞による修行は同等の技量を持つ者同士でしか成立しない。そしていかなる武術も地道な鍛錬の積み重ねによって真の力となる。急激な成長の実感など、肥大化した感覚の中で見た夢幻に過ぎなかった。得るものがないどころか害となる。

 

 フェイタンの剣術に仕組まれた偽りの成長は、現実に引き戻されることにより強烈な異物感として残留した。これまで無意識の内にできていた動作の一つ一つがぎこちなく滞る。噛み合わなくなった歯車の如く剣の術理を乱されていた。

 

「おぬしのこと思い出そうとしてみたんじゃが、どうも記憶が曖昧でのぉ。ただ、なんかこう……ムカついてくるのはなぜじゃろうな?」

 

 フェイタンは斬り込んだ。しかし、その剣は明らかに先ほどまでと比べて精彩を欠いている。加えてアイクは既にその剣術の太刀筋のほとんどを読み切っていた。

 

 流々舞とは互いの技を確認し合うことを目的とした組手である。アイクはその修練にもならない作業を終えていた。まるで答え合わせでもしているかのようにフェイタンの剣はことごとくかわされる。そして拳打の猛撃が彼の体に叩きこまれていく。

 

 フィンクスやノブナガのように一撃で昏倒することはなかった。アイクは『なんかムカつく』という理由でフェイタンに殴る蹴るの暴行を加える。全身打撲と四肢骨折の重傷を負い、半殺しにされたフェイタンはボロ雑巾のような有様で投げ出された。

 

「ヒヒャッ……ヒャハハハハハ!!」

 

 だが、彼は怪鳥のように狂い笑いながら立ち上がった。どうあがこうと勝てるはずもない相手を前にして、そのオーラはおぞましい怒りに染まっていた。剣を杖替わりにしてよろけながらも戦意は失われていないとわかる。

 

 アイクは気絶させるつもりで打ち込んだはずだったが、まだ意識を保っているフェイタンの様子を見て訝しんだ。その理由はフェイタンが奥歯に仕込んでいた薬にある。ほぼ毒物レベルの強力な興奮剤だった。

 

 この気付け薬によって普通なら気絶しているはずの意識を無理やりに維持していた。気絶も身体に備わった防衛反応の一つであり無理に遮っていいものでは決してない。フェイタンが負った肉体的なダメージは言うまでもなく、その苦痛を受けてなお気絶できないことも合わせ、非常に危険な状態だった。

 

「ペ、イン、パッカー……」

 

 うわ言のようなつぶやきと共にフェイタンの手にオーラが集まっていく。彼の変化系能力『許されざる者(ペインパッカー)』は、自分が受けた痛みに応じてオーラの威力を増大させる。およそ戦闘が可能な状態とは言えない彼であっても、能力を行使する上では最高の条件が整っていた。

 

 痛みを灼熱のオーラに変えて放つ『太陽に灼かれて(ライジングサン)』を発動させる。その膨れ上がるオーラの気配に異常を感じたアイクは、すぐさま阻止にかかる。

 

 だが、止めることはできなかった。アイクの手刀により意識を奪われながらもフェイタンの術は解けなかった。たとえ命を落とそうと止まることはなかっただろう。何を犠牲にしてでも放つという覚悟と邪念が込められていた。

 

 『太陽に灼かれて』は発動の直前に、術者自身の身を守る防火服を具現化する効果を対にする。逆に言えば、身を守るために特別な措置を取らなければならないほど無差別の熱波が広範囲に渡って被害を及ぼす技である。敵から痛みを与えられなければ威力が出ないという制約が破壊力を大幅に引き上げる。

 

 しかし、フェイタンはその防火服の具現化をしていなかった。アイクを相手にしてわずかにでも技の発動を早めるため具現化の工程を省略した。それは自分自身の身を滅ぼす選択でもあった。

 

 死んでも構わないという覚悟と、何としてでも敵を殺すという憎悪が合わさり、これまでにない最大級のオーラが込められた念弾がフェイタンの手から放たれたのである。

 

「むぅ、これはまずい」

 

 空へと打ちあがっていく光弾を見ながらアイクは手を出せずにいた。下手に刺激を加えようものなら即座に内包されたオーラが解き放たれるだろう。アイクはその場で両手を打ち合わせた。その手で花開く蓮華のような形を取り印を結ぶ。

 

『千百式観音・弐玖陸乃掌(ふくろのて)』

 

 巨大な観音像が三体、光弾を取り囲むように出現する。観音像たちは三方から千手の掌衣をもって光弾を優しく包み込んだ。

 

 



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98話

 

「てめぇら、たった数人の敵の始末にいつまでかかってんだ! 腕利きの無頼どもが聞いて呆れる! どいつもこいつも立派なのは肩書だけか!」

 

 怒鳴りつけるゼンジの前には雇われた用心棒たちが並んでいる。唇を真っ赤にはらして号泣しているホッド=キッド、見るも無残な傷を全身に刻み付けられ茫然自失のキャロリーヌ=モリス、そして瀕死の重傷を負った蝙蝠。

 

 蝙蝠については傷を自分で縫って応急処置を済ませていた。このくらいの致命傷は割といつものことである。とはいえ、放置しておけば失血死するだろう。死にかけには違いない。

 

「どれだけの前金をお前らに払ったと思ってんだ、ええ? これならカーマインなんちゃらとかいうガキ二人で十分だったぜ」

 

 カーマインなんちゃらのアイクは襲撃してきた賊のうち二人を地に転がし、現在はフェイタンと戦闘中である。その光景は目にもとまらぬ閃光のような戦いだった。用心棒たちから見れば絶句するしかないレベルの攻防だが、ゼンジからすれば念能力者は全部ひっくるめて『超人』である。強さのレベルなんてわからない。

 

 そこにサダソが合流した。その左手には気絶した襲撃者の一人を抱えている。この成果にはゼンジも満足したのか、でかしたと一言労ってピストルの銃口を賊に向けた。せっかく生け捕りにしてきた敵だが、一人くらいは自分の手で殺しておかねばゼンジの気が収まらない。

 

「頭! 待ってください、こいつらもしや……やはり、幻影旅団ですぜ!」

 

 ゼンジの子分が進言した。裏社会にてその名を知らない者はいない。一年前のサザンピース襲撃によってマフィアンコミュニティの勢力図は新旧が入れ替わる混沌の時代を迎えた。マフィアにとっては憎むべき敵であり、英雄でもある。

 

 旧体制の中心勢力の一つだったヴェンディッティ組からすればありがたがるはずもない存在である。感情としてはこの場ですぐにでも殺したいところだったが、手が出せない事情があったからこそ当時のマフィアは旅団と事を構えなかったのだ。

 

 確かに賊の顔は前回の襲撃時に出回った幻影旅団の一人と一致していた。ゼンジは立場上、流星街の出身者をおいそれと殺すことができない。悪態をつきながらも銃口を下した。

 

「なんでまたこいつらが来た!? ただの強盗目的なのか……? ノストラードは関係ねぇのか!?」

 

 蝙蝠を除く護衛チームは旅団の名を聞いて震え上がる。腕に自信のある彼らでも、その名の前には負けも致し方なしと諦めがつくほどの相手である。命がまだあることを喜ぶべきだ。そんな敵を一人仕留めてきたサダソに注目が集まった。

 

「あ、いや、これは何というか……アルメイザ姉妹に助けてもらって……」

 

 少し前までの彼らなら助けてもらったからそれがどうしたと思っていたことだろう。幻影旅団とはそれほどのビッグネームだ。だが、既にアルメイザ姉妹の片割れが旅団員二人を秒殺していく場面を見ている護衛チームは納得することができた。

 

 そして今しがた三人目との戦闘も終わった。無傷の少女に対し、ずたぼろにされた黒服の男。誰もが勝敗を見間違うことのない決着に思えたが、最後の力を振り絞ってフェイタンは念弾を放つ。

 

「ひはーっ!? はひゃふひゃはーっ!」

 

「に、逃げ……」

 

 そこに込められたオーラを見た護衛チームは戦慄した。まるで爆弾だ。爆発すればどれだけの破壊が広がるかも予想できない。すぐさま退避しようとした彼らはさらに想像を絶する光景を目の当たりにする。

 

 突如として現れた三体の観音像が念弾を取り囲む。その像一つの大きさはビルの一棟にも匹敵した。それが三体である。念能力で作り出された存在としても桁外れの大きさだった。

 

 千手観音は空へ打ちあがった念弾を無数の掌で包み込んでいく。その直後、パーキングエリア全体の雨を払いのけるほどの熱波が吹き荒れた。

 

「うおおおお!? な、なにが起きたあああ!?」

 

 巨大な観音像たちは具現化されたものではなかったため、念を見ることができないゼンジには状況が理解できなかった。息苦しさを覚える熱風が叩きつけ、足を踏ん張っていなければ転びそうになる。

 

 三体の観音像が抑え込んだ念弾は勢いを落とすことなく燃焼し続けていた。巨大な掌衣を焼き尽くし、殻の外へと破壊の手を広げようとしている。だが、それをさせじと次々に掌衣の拘束が繰り出された。完璧に威力を抑え込んでなお、掌の外へと漏れ出たわずかなエネルギーが猛暑の熱風をまき散らす。

 

 その観音像がアイクの念能力であることは推測できた。もし掌衣の封じがなければ今頃ここにいる全員が消し炭と化していただろう。そんな念弾を撃った敵も、それを平然と抑え込んでいる奴も念能力者の域を超えているとしか思えない。

 

 こんな化け物同士の頂上決戦に付き合わせられては命がいくつあっても足りないと護衛チームは(一人を除いて)絶望していた。状況はわからずともとにかく逃げなければまずいと思うゼンジとその子分たち、そしてA級賞金首の戦闘レベルを再認識した護衛チームは(一人を除いて)全員が撤退を決意する。

 

「おっ、おお……? おおおおおお!?」

 

 しかし、そこで異常が発生した。最初にそれに気づいた者はゼンジだった。彼が腕に抱え込んでいた緋の眼が見えない力のようなものに引っ張られ始めたのだ。暴風吹き荒れる雑然とした状況の中で、他の者たちは気づくことが遅れた。

 

「お、オレの緋の眼があっ!?」

 

 引っ張られる、というよりは吸い寄せられる感覚に近い。不思議なことにその力が及んでいる対象は『緋の眼』に限定されていた。

 

 その異変は闇に潜んでいた旅団員、シズク=ムラサキの手によって引き起こされたものだった。彼女の能力『デメちゃん』は特別な掃除機を具現化する。この掃除機は、彼女が生き物と認識しているものや念の産物を除いてあらゆるものを吸い込むことができる。

 

 この襲撃において幻影旅団最大の目的は緋の眼の回収にある。チェルがおらず、アイクの隙を突けるチャンスは今を置いて他になかった。仲間を助ける余裕はない。緋の眼を掃除機に吸い込んだ時点で逃げるつもりだった。

 

 シズクも仲間に対する情はあったが、最優先されるのは“クモ”としての目的である。できるはずもない救出に向かって捕まるより先にやることがある。シズクの行動を他の団員の誰もが咎めることはなかっただろう。

 

「させるかあっ! 絶対に渡さんぞ!」

 

 一つ誤算があったとすればゼンジの行動だった。手放せばいいものを必死に緋の眼を抱きしめていたせいで、もろともデメちゃんに吸引されていた。ゼンジの体もシズクの方へと吸い寄せられていく。

 

 何らかの念能力を受けていることは護衛チームにもわかったが詳細までは不明の攻撃である。どう対処すべきか一瞬の躊躇が生じる中、真っ先に行動した者はアイクだった。フェイタンの念弾を抑え込みながら四体目の観音像を出現させる。

 

 まさかの四体目。シズクは真顔で音速の一撃を食らった。常日頃からあまり感情を表に出すことのない彼女だが、人間はあまりにも理不尽な事態に直面すると表情を取り繕おうとする気もなくなってしまうということを学んだ。

 

 何体出すねんとか、速すぎやろとか、リーチふざけんなとか、色々ツッコミたいところはあったシズクだがもちろんそんな余裕は与えられなかった。反射的にオーラを防御に回せたことが奇跡と言える。横殴りの一撃を受けたシズクは駐車されていた大型トラックに激突してコンテナをくの字に変形させ、20トンの車体ごと横転して停止した。

 

 その様子を見たアイクは、しまったと言うような顔をしていた。千百式観音は決められた型通りの拳を繰り出す能力であり、力を加減することが難しい。人間相手に直接使うつもりはなかったのだ。護衛対象であるゼンジに危害を加える恐れがあるとしてやむなく使うしかなかった。

 

 シズクが一流の実力者でなければ死んでいただろう。それでもフェイタン以上の重傷を負っていた。デメちゃんも具現化を解除されて消えている。術者が戦闘不能となったことで勢いよく吸い込まれていたゼンジがごろごろと地面を転がった。

 

 だがクモの執念は、極めつけの理不尽の中でシズクに最後の足掻きを取らせていた。彼女は観音像の一撃を受けた瞬間に置き土産を残したのだ。ピンポン玉サイズのボールが落下する。それは地に着いた途端、勢いよく煙を噴出した。

 

「げほっ! がはっ!」

 

 ゼンジはスモーク弾の煙を吸引してしまった。ホッドが急いで助けに向かう。煙幕は勢いこそあったが、弾のサイズが小さかっただけにすぐ煙を吐き出し終えて停止した。

 

「ぐるじい……げほっ、ぐえほっ!」

 

「ま、まさか毒ガスか!?」

 

 ほんの少ししか吸い込まなかったにも関わらずゼンジの体調に大きな変化が生じていた。みるみる顔色が悪くなり、強い吐き気を催した。子分に介抱されながら排水溝に吐しゃ物をぶちまける。

 

 その頃、ようやくフェイタンの念弾が観音像の手の中で燃え尽きた。そしてフランクリンの巨体を引きずってチェルが戻ってくる。これにより隠れていた者も含め、7名の襲撃者全員の鎮圧が確認された。

 

「チェル、円を解くなよ。まだ敵が潜伏しているやもしれん」

 

「言われなくてもやってるよ」

 

 しかし、状況はあまり良いとは言えない。最後の最後で護衛任務をしくじってしまった。もしゼンジの症状が毒物によるものだとすれば早急な治療が必要となる。

 

「すぐに車を出せ! 病院に連れて行くぞ!」

 

「わかった!」

 

 ゼンジを介抱していた運転手の男が、敵の奇襲を警戒して手にしていた拳銃をゼンジのこめかみに突きつけた。

 

「……おい……何してんだ、ドンタ!?」

 

「全員、動くな。少しでも不審な行動を取れば発砲する」

 

 ドンタと呼ばれた男は一転して底冷えするような気配を放つ。一連の行動が示すところはつまり、人質を取られたということだった。

 

「まさか内部に敵が潜んでいたとはの。それとも操作系で操られた人間か?」

 

「想像に任せよう」

 

 ドンタはマフィアの構成員である。ただの雇い運転手というわけではない。それなりにゼンジから信頼を置かれている人物が裏切りを働くとは誰も思っていなかった。

 

 それもそのはず、この男の正体は幻影旅団の一人、ボノレノフ=ンドンゴだった。自身の身体を使って奏でたメロディーを戦闘力に変える『戦闘演武曲(バト=レ・カンタービレ)』という能力を持つ。

 

 オークションにて緋の眼の落札者を確認した旅団は、サザンピースに車で送迎をしに来ていたヴェンディッティ組の組員を密かに襲っていた。運転手のドンタを捕らえて尋問し、必要な情報を聞き出したのち処分した。

 

 そしてドンタに成り代わったボノレノフが何食わぬ顔でゼンジの送迎を行ったのである。『戦闘演武曲』の曲目の一つ『変容(メタモルフォーゼン)』は様々な姿に変身する効果があった。

 

 運転手であるドンタがゼンジたちと会話する機会は少なかったが、ふとした掛け合いの中でボロが出ることは十分にあり得た。そんな危険を冒してでもボノレノフが潜入を選んだ理由は、クラピカの襲撃に備えたためだった。

 

 幻影旅団は、自分たちが行動を起こせば復讐に駆られたクラピカが必ずやって来ると確信していた。そして彼らはクラピカの能力もさることながら、その知略についても侮っていない。どんな策を巡らせているかもわからない敵に対し、こちらも策を講じておくことは当然の措置である。

 

 クラピカの明確な弱点の一つに『拘束する中指の鎖』は旅団員以外に使えば死ぬという制約がある。旅団であることが確定していなければ使えない鎖に対し、自由に姿を変えられるボノレノフの変身能力は弱点を突く上で適していた。

 

 ノーマークの人間に成りすますこともできるし、偽物の旅団員像を作り上げて攪乱することもできる。包帯でぐるぐる巻きにされていたボクサーは彼のフェイクだ。中身は操作された一般人である。

 

 新入団員として№11入りが内定している男から多数の“針”を買い取っていた。この針には操作系能力の念が込められており、刺された人間は与えられた命令を実行するだけの廃人となる。

 

 駐車場に停まっている車の中や隣接しているサービスエリアにもこの針人間を多数配置するなど対クラピカ戦を見据えた策を用意していた旅団だったが、その目論見は見事に予想外の方向から潰されたと言える。

 

 まさか本命の敵が現れる前に、自分を除いた旅団の全員が倒されるとはボノレノフも思わなかった。

 

「この男が吸った毒ガスは遅効性の猛毒だ。早期に適切な治療を受けさせれば命は助かるが、そうでない場合は死ぬこともあり得る。生きながらえても確実に重篤な後遺症を残す」

 

「解毒剤とか持っとらんのか?」

 

「ある。これは特殊調合された薬品だ。そこらの病院で手に入る解毒剤ではないと言っておく」

 

「ということは、交渉の余地があると考えてよいみたいじゃの」

 

 ボノレノフは最初からそのつもりだった。銀髪の姉妹二人を相手に人質を取った程度でできることなど高が知れている。この二人は所詮、金で雇われた傭兵だ。依頼人のために最善を尽くす努力はするだろうが、だからと言って不当極まる要求を突きつけたところで無視されて終わるだけだ。

 

「まず確認したい。お前たちの契約内容はゼンジ=ヴェンディッティの身辺警護、それだけか?」

 

「そうじゃな。3日間の期限付きじゃ。それ以外にこれと言った条件はないの」

 

「では、取引をしよう。オレたちの目的はこの『緋の眼』の入手にある。この品を引き渡すこと、そしてオレたちを全員無事に逃がすこと。この条件を飲んでもらえれば人質は返そう」

 

 護衛任務しか請け負っていないアイクたちにゼンジの所持品まで保守する義務はない。常識的に考えれば所持品までひっくるめて護衛対象になるだろうが、約定に明記されていない以上は言い逃れが可能だ。この場合は手放すこともやむを得ないだろう。

 

「盗人猛々しいとはこのことじゃ。解毒剤も含め、盗ったもの全部置いて帰るというのであれば命だけは見逃してやってもよいぞ」

 

 アイクが高圧的に交渉を迫るが、それに屈するボノレノフではなかった。旅団としてこれ以上の譲歩の余地はない。緋の眼の引き渡しに誰も反対する者は現れなかった。ゼンジの命がかかっているのだ。10憶の競売品だろうと命には代えられない。

 

「しょうがないのぅ。その取引に応じる」

 

 そう言うとアイクはおもむろに歩き始めた。

 

「勝手な行動を……」

 

「黙っとれ。殺気がないことはおぬしにも見て取れるじゃろう」

 

 アイクは倒れ伏して伸びているノブナガに近づき、首の後ろに手刀を叩き込んだ。びくんと痙攣したノブナガは意識を取り戻して起き上がる。活を入れて目覚めさせたのだ。

 

 目の前に立つ少女の姿を確認したノブナガは即座に腰の刀に手を伸ばした。しかし、彼の刀は一度奪われた際に捨て置かれている。それに気づいたノブナガは、慌てて落ちている刀を拾って構え直すという何とも締まらない反応を見せた。

 

「落ち着け。事情を話す」

 

 ボノレノフが言葉を選びながらノブナガに現状を説明した。その間にアイクはフィンクスにも気付けを施した。ゼンジの治療のためにも取引をなるべく早く終えなければならない。ノブナガたちは急いで団員をかき集め、逃走用の車に押し込んだ。

 

「くーっ、情けねぇ。ここまでけちょんけちょんにやられるのは何年ぶりだ?」

 

 賞金首として悪名を轟かせる幻影旅団も結成当時から成功ばかりを重ねてきたわけではない。若気の至りから無謀な盗みに挑むことも昔はあった。フィンクスは腹立たしいやら懐かしいやらよくわからない気分だった。

 

 だが、仲間が一人も死なずに助かったことは素直に喜ぶべきだろう。目的の品も手に入った。プライドはいたく傷ついたが盗みは成功だ。逃走の手配は着々と進んだ。

 

 

 * * *

 

 

 クラピカはじっと息を潜めて事の成り行きを見極めていた。完全防水仕様の携帯電話を通してセンリツと連絡を取り合い、ボノレノフとアイクの交渉内容は一言一句余すところなく把握していた。

 

 まるで介入する余地のないこの状況においてもクラピカが思考を放棄することはなかった。必ず付け入る隙はあると信じていた。そのための策も用意している。

 

「車の準備はできた。行くぞ」

 

「ではこれから人質を引き渡す。解毒剤の隠し場所については我々の逃走後、携帯電話を通して伝える」

 

「用意周到じゃの」

 

 ボノレノフがゼンジに突きつけていた拳銃を下す。

 

 

 今だ。

 

 

 直後、ボノレノフの足元を蛇のような何かが這い上がった。全身から力が抜けるような虚脱感が彼を襲う。その攻撃の正体は『拘束する中指の鎖』だった。

 

 彼はあり得ないと驚愕する。クラピカの襲撃を警戒していないはずがない。たとえ隠でオーラが隠されていようとも、鎖の接近に気づかないような失態を犯すはずがなかった。加えて、この場所はチェルの円のただ中に位置する。ボノレノフが気づかなかったとしてもチェルの目を欺けるとは思えない。

 

 その鎖の出どころは、排水溝のグレーチングだった。雨水が流れる水路の中まではチェルの円でも察知できない。ボノレノフが立っていた場所は、ゼンジが中毒症状によって嘔吐していた溝蓋の近くだった。その金網の隙間から鎖の先端が伸びている。

 

 ボノレノフの身体が拘束されていく。そして鎖は二本あった。一本はボノレノフに、もう一本の『導く薬指の鎖』は気を失っているゼンジに巻きついた。

 

「ボノ!」

 

 助けに向かおうとしたフィンクスたちを牽制するようにアイクが威圧を放つ。しかし、不測の事態を前にしてアイクとチェルも判断に窮していた。明らかに念能力によるものと思われる鎖で人質を拘束されてしまった以上、迂闊に手を出すことができなかった。

 

 一方、ボノレノフは自由を奪われていく中で自分にできる最善の手を模索していた。もはやこの状況から脱する手立てはないが、そこで諦めることはなかった。わずかしか残されていない選択肢の中から最後の一手を選ぶ。

 

 彼は抱えていた『緋の眼』を投げた。その方向は、旅団の仲間たちへ向けたものではなかった。アイクの手へと渡る。

 

 そして鎖による拘束は完了した。ボノレノフは強制的に絶の状態にされ『戦闘演武曲』の効果も解除される。元の容姿へと戻った。

 

 そこへ攻撃を仕掛けた張本人が姿を現した。排水溝の蓋を外し、濡れねずみのような有様でクラピカが登場する。地下の水路はここ数日長引く雨の影響で激しい濁流が流れていた。

 

 まさかそんなところを人が通って来るとは思わない。執念の潜伏。クラピカは、両手を軽く挙げ敵意がないことを示す。その手にはハンター証を携えている。

 

「私はブラックリストハンターのクラピカだ。A級賞金首『幻影旅団』の身柄確保への協力に感謝する」

 

 クラピカはこの機を見計らっていた。排水溝の位置や敵がその近くにいたことなど偶然に助けられたところはあったが、何よりもそのわずかな可能性に賭け、決して諦めることがなかったクラピカの執念が実を結ぶ。中でも運に任せたことはボノレノフが旅団員であるかどうかの見極めだった。

 

 運転手に扮していた者は旅団員か、それともただの協力者に過ぎないのか。後者であれば死の誓約を伴う『拘束する中指の鎖』を使うことができない。しかし、その他の鎖では本物の旅団員であった場合、拘束が成功するとは思えなかった。

 

 ここで危険な手を取らず、旅団が緋の眼を持って逃走した後で襲撃を仕掛けるという考えもあった。その場合はフィンクス、ノブナガ、ボノレノフの三人を相手にした上で緋の眼の回収までしなければならなくなる。手負いの仲間を抱えているとはいえ容易ではない。フランクリンとの戦いでクラピカは改めて戦力差を実感していた。

 

 あえてカーマインアームズという第三の勢力を間に挟むことにより旅団を制す。この手しかないとクラピカは判断した。人質引き渡しの瞬間こそが介入する最後のチャンスだと確信する。

 

 ボノレノフが旅団員であるかどうかの判断材料はセンリツが聞き取った音による情報だった。彼本人の音ではなく、ボノレノフと会話をしたノブナガの心音である。虚偽を表さないようにと言葉に気を付けていたようだが、その感情までは偽れない。ノブナガの言葉には仲間に対する親しみと信頼の情が込められていた。

 

「鎖野郎……!」

 

「てめぇはノストラード組の……!」

 

「やれやれ、またわけのわからんのが来よったぞ」

 

 賭けに勝利したクラピカだったが、歓迎されていないことは明らかだった。差し迫った事情を抱え合うこの集団を誘導し、落としどころを見つけることは至難の業だろう。うまくいくかどうかはこれからの交渉にかかっている。クラピカは気を引き締めた。

 



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99話

コメントでご指摘があったので98話の後半をクラピーワイズにしてみました。話の大筋は何も変わってません。


 

「私はとある賞金首を追っているハンターだ。今回、あなた方を襲撃したこの一団こそ、その目的の賞金首である幻影旅団だった」

 

「要するに、他人の獲物をかっさらいに来たと?」

 

 混迷する状況の中、発言主体は三すくみの関係にあった。まずヴェンディッティ組の代表としてアイク、次に幻影旅団のフィンクスとノブナガ、そしてブラックリストハンターのクラピカである。

 

 アイクが代表を務めている理由は特になく、その場の流れで決まった。ボノレノフとのやり取りでも落ち着いて交渉役をこなしていた様子から、そのまま任せられる流れになった。前世でハンター協会の会長をやっていただけのことはあり、ある種の場慣れした貫禄のようなものを他の者たちも感じ取っていた。

 

『別に構わんが、わしに任せるというのであればヴェンディッティ組として交渉内容についての決定権は全てわしに渡してもらうぞ。口出しはさせん』

 

『……いや、それは……』

 

『できんというのならわしは降りる。ネゴシエーションまで契約には入っとらんのでな。おぬしらで勝手にやってくれ』

 

 立場的に言えばゼンジと関係の深い組員たちが交渉に応じるべきである。だが、こののっぴきならない状況で誰も自分がと名乗り出る者はいなかった。最終的に交渉が決裂してしまった場合、責任を取らされてはたまらない。

 

 結局のところ、ゼンジが信頼を置いてそばに置いていた子分たちはただの腰巾着。イエスマンばかりの集まりに矢面に立ってしのぎを削るような度胸も聡明さもなかった。なし崩し的にアイクが代表を引き受けることに決まり、クラピカと問答を交わしていた。

 

「旅団の身柄をこちらへ引き渡してもらえれば、奴らの首にかけられた懸賞金を私から支払おう。一括で、とはいかないが、必ず払うと約束する。証文も書くし、担保の一つとしてこの場でハンター証を渡そう」

 

「金が目的で捕まえに来たのではないのか?」

 

「復讐だ。そいつは『緋の眼』を持つクルタ族の生き残りさ」

 

 フィンクスが語ったクラピカの素性を聞き、アイクは手元にある競売品を見た。なんとなくだが一連の経緯が少しずつ読み取れてくる。

 

「その鎖野郎に言うことを聞かせたければ簡単だぜ。死んだ仲間の眼を必死こいて探し回るような女々しい野郎だ。緋の眼を潰すとでも言って脅してやればいい」

 

 フィンクスが嘲るようにクラピカの弱点を暴露するが、言われた通りにできる状況ではなかった。クラピカはゼンジを念の鎖で拘束し、人質にとっている。アイクたちはクラピカに殺意を向け今にもとびかかりそうなフィンクスたちを制している状況だ。

 

 クラピカからしても即座に旅団を殺しにかかることはできなかった。いかにゼンジを人質に取っている状況とはいえ、旅団が解毒剤の在り処を秘匿している現段階ではまだ殺せない。その後の交渉にも悪影響をきたす。

 

 突如として割り込んできたクラピカの行動は、やはりどう言い訳したところでカーマインアームズの武力を利用した不誠実な対応だ。信用を得るためには一つ一つ確実に互いの損得を擦り合わせる過程が必要となる。

 

 A級賞金首となればその懸賞金も破格だ。クラピカの私財を全てつぎ込んでも一括では到底払いきれない額になる。その首一つが一財産なのだ。クラピカはそれを横から割り込んで寄越せと要求していることになる。いくら金を払うと言ったところですぐに信用できることではない。

 

 復讐よりも優先すべき緋の眼の回収を考えれば、あまり強硬な行動は取れなかった。しかし、クラピカに焦りはなかった。

 

 これまでの言動を見る限り、カーマインアームズは目先の利益に囚われて本来の使命を放棄するような輩ではないと思われた。ただ金が欲しいだけならそれこそ盗賊にでもなればいい。幻影旅団を圧倒できるほどの実力があれば造作もなく金を集められるだろう。そこまで極論に至らずとも、もっと楽に金を稼ぐ手段はいくらでもある。

 

 わざわざ傭兵などという仕事に身をおいているということは、彼女らに遵守すべき理があることを示している。利益よりも契約を優先するはずだ。ならば交渉の道筋は立つ。

 

「解毒剤の在り処については、そいつらから聞き出すまでもない。私にはそれを探し出す方法がある」

 

 『導く薬指の鎖』を使えばダウジングによって隠し場所を見つけ出せる。ノブナガはその事実に気づき、わずかに口元を歪めた。

 

「……そんなインチキくせぇ能力が信用できるか? 見つけ出せるわけがねぇ」

 

「随分な自信だな。なるほど、確かにその可能性はある。私の能力をもってしても“初めからないもの”は探せない」

 

 今度こそノブナガは言葉に詰まった。すかさずフィンクスがフォローする。

 

「薬がなかったら交渉が最初から成り立たねぇだろうが!」

 

「どうだろうな。お前たちは全員がこの場から逃走を終えた後で電話から隠し場所の在り処を伝える予定だった。ならば本物の解毒剤を用意する必要はない。既に自分たちは安全圏に逃れているのだから」

 

 クラピカはこの推測に確信があったわけではなかった。実は既にダウジングを試している。その結果、隠し場所を探し出すことができなかった。鎖は何の反応も示さなかったのだ。クラピカの能力を無効化する何らかの方法で隠されている可能性はあるが、それよりは最初から薬自体が存在しないと考えた方が自然である。

 

 しかし、その一方で旅団とアイクの会話を聞いていたセンリツは内容に虚偽を確認できなかった。つまり、薬は存在することになる。その矛盾を解くためには、ダウジングが無効化されているという説も否定はできない。はっきりとしたことは言えない状況だった。

 

「仮にお前たちの言う解毒剤があったとして、それが本物であるとどうやって証明する? ゼンジ氏に投与してみるか? 得体の知れない薬品を? それとも病院に連れていき検査を受けた上で安全性を確認するか? それまで彼の容体がもてばいいがな」

 

「てめぇがのこのこ現れたせいで話がこじれてそのハゲが死にかけてんじゃねぇか! 言ったはずだぜ、この毒は早期の治療が必要だ! 時間が経つほど解毒剤の効果も低くなる!」

 

「心配いらない。お前たちの用意した怪しげな薬などなくても、私にはゼンジ氏を治療できる念能力がある」

 

 クラピカが強気の交渉に出ることができた理由はここにあった。今は身の安全のためにゼンジを人質に取っているが、彼の治療と引き換えに緋の眼と旅団の引き渡しを求める交渉へとシフトさせる計画だった。

 

 本来ならヴェンディッティ組から目の敵にされているクラピカが緋の眼を譲り渡してもらうことは強硬手段をもってしても難しかった。カーマインアームズの存在を考慮すれば不可能と言える。しかし、図らずも旅団が仕掛けた襲撃によって好機を得ることができた。

 

「その能力ってのは……『癒す親指の鎖(ホーリーチェーン)』のことか?」

 

「……!」

 

 その順調に事が運んでいるかに思われたクラピカの表情に影を差す旅団の発言。ノブナガはクラピカの能力を言い当てる。

 

「自己治癒力を高める効果だったな。他人にも使えるのか? だとしても傷の治療ならともかく体内の毒物まで浄化できるわけじゃねぇだろ。できるもんならパパッと治してみろよ」

 

 ノブナガの指摘はクラピカにとっても苦慮していた懸念だった。他人の中毒症状を治療する機会はこれまでなかった。どこまでのことができるかはクラピカ自身にもわからない。動揺を外に出すことはなかったが心穏やかではいられなかった。

 

 なぜヒソカにも知られていないはずの念能力の情報が敵に漏れたのか。記憶を読み取る能力を持つパクノダには知られてしまっただろうが、それでもその情報を旅団の仲間に伝えることは『律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)』の効果により不可能なはずだった。

 

「だが、治癒力を高める効果があれば表面上は中毒症状が改善したように見せかけることはできるかもな。後は適当に言いくるめて緋の眼とオレたちの身柄を要求する算段だったんだろうが、お生憎様だ」

 

「貴様、どこまで……」

 

「さあ、“どこまで”だろうな?」

 

 旅団はクラピカの能力についてどこまでの情報を得ているのか。鎖の中には死の誓約を伴う危険な能力も存在する。知られれば窮地に立たされることは明らかだった。

 

「もうよい、どちらも少し黙れ」

 

 互いに楔を打ち合う旅団とクラピカの舌戦を、辟易とした様子でアイクが遮った。このままでは話が前に進まない。解毒剤の有無、クラピカの能力、検討すべきいくつかの論点の中で、アイクの疑念はまた別にあった。彼女の言葉はボノレノフに向けられる。

 

「一つ聞きたい。なぜこれをわしに投げ渡した?」

 

 アイクは、その手に持つ緋の眼を掲げた。クラピカの弱点であるそれを自分の仲間であるフィンクスたちに渡そうとしたのであれば理由はわかる。その場合でも状況は膠着しただろうが、わずかなり趨勢は旅団の方へ傾いただろう。

 

 人質の引き渡しのため距離的にボノレノフとアイクが近い位置に立っていたというのもある。あの状況でとっさに投げ渡せる相手はアイクだけだった。もし旅団の仲間の方へと投げようとする迷いが生じれば、その暇さえなく鎖に拘束されていた。逆に言えば、露とも迷いがなかったゆえに最後の行動がぎりぎりのところで叶ったのだ。

 

 『拘束する中指の鎖』に捕らわれたボノレノフは口元まで鎖で覆われていた。アイクがクラピカに目配せし、話だけはできる状態にされる。

 

「さあな、わからない。無我夢中のことだった。だが、おそらく……」

 

 幻影旅団とクラピカ、この二つの存在に和解という決着はあり得ない。どちらかが死ぬまで戦い合う。その覚悟はボノレノフにもあった。彼は旅団の創設メンバーではなく、クルタ族を襲った事件に参加していなかった。いわれのない罪を着せられた身として余計に腹立たしくもある。

 

 だが、その一方でクラピカに対してわずかな同情心を持っていた。ボノレノフは開発により住処を追われた少数部族ギュドンドンド族の生き残りだった。似通った境遇を持つ彼はクラピカの怒りを多少なり汲むことができた。

 

「お前は『盗んだものを全部置いて帰れば命だけは見逃してやる』と言った。だから返そうとしたのかもしれない」

 

 行き場を失った自分を受け入れてくれた幻影旅団という集まりに愛着はある。その仲間を殺したクラピカを憎む気持ちも当然ある。だが、もしボノレノフが心の底からクラピカを恨んでいればアイクに緋の眼を投げ渡すという刹那の判断はできなかっただろう。

 

 敵を殺すことよりも、仲間を守るために何が最善かを考えた。この場を圧倒的な武力で支配している存在はカーマインアームズだ。その下で互いの主張をぶつけ合う旅団とクラピカの構図は、裁判における被告と原告に相当する。

 

 アイクはこの一件の当事者ではあるが、幻影旅団とクルタ族が抱える因縁については関係のない第三者だ。彼女を裁判官とすればボノレノフが求めた裁定とは、明確に勝敗を分ける起訴ではない。仲間を逃がすために必要な仲裁だった。

 

「まぁ、確かにそんなことも言ったが……」

 

 アイクは自分の発言を思い出す。脅し文句として言ったことであり、まさか額面通りに受け取られるとは彼女自身思っていなかった。しばし逡巡する。

 

「……あいわかった。では最後に聞く。解毒剤は有りや無しや」

 

「待て、そんな質問に意味は……」

 

「お前には聞いとらん」

 

 流れが変わったことを察したクラピカが口を挟もうとしたがアイクは一顧だにしなかった。ボノレノフはその問いかけに正直に答える。

 

「解毒剤は」

 

「ない」

 

 しかし、実際に答えを発した人物はボノレノフではなくノブナガだった。フィンクスが余計なことを言うなとノブナガに食ってかかるが、口から出た言葉をなかったことにはできない。

 

「正確に言えば、ボノが最初に交渉をし掛けたときにはあるものと“思っていた”」

 

 解毒剤は毒ガス弾を使ったシズクが持っていた。しかし、千百式観音の一撃を受けた際に粉砕されてしまったのだ。シズクを車に搬送するときノブナガが気づいた。この事実はフィンクスと共有されたが、交渉にボロが出ないようにとボノレノフには伝えられていなかった。

 

 旅団は、クラピカやその仲間が嘘を感知する能力を持っていることを知っている。本当に解毒剤があると思っているボノレノフの発言に嘘偽りは生じない。敵に間違った情報を植え付けることができたかもしれなかった策は、ノブナガの返答によって完全に潰えた。

 

 これで旅団は自分たちの身を守るカードを失ったと言える。しかし、ノブナガは堂々としていた。

 

 今は亡きウボォーギンとつるむことが多かったノブナガは、旅団の中で誰よりもクラピカを恨んでいた。必ず自分が仇を討つと誓っていた。この瞬間にも押しとどめなければ弾け飛びそうなほどの殺意を抱いている。

 

 それでもここでクラピカに手を出すような真似をすれば他の団員が助からないとわかっていたからこそ、何とか自分を抑えることができていた。仲間を思う気持ちは胸を焦がす憎悪に勝るとも劣らない。

 

 理論武装を固めたクラピカを相手にしたところでわずかばかり交渉が長引くだけだ。ここで退いたとて復讐を果たす機会が二度となくなるわけでもない。仲間を無事に帰すため、ここで嘘を言うべきではないと彼の直感が告げていた。

 

「解毒剤の瓶はわしが壊してしまったか……なら、わしにもちょっとは非があるかもしれんの」

 

「まさか本当に旅団を見逃すというのか……!? あなたたちにとって何のメリットもないだろう。そもそも襲撃を仕掛けて来たのは向こうのはず。さらに解毒剤がないことが判明した今、生かしておく価値もないはずだ」

 

「薬があるかないかはさして重要なことではない。あればあるように、なければないように行動するまでじゃ。ないものは仕方ない! これで盗まれた品の返却は終わった。もう帰ってよいぞ」

 

 あっけらかんとアイクは言い放つ。だが、その言葉に応じる者はこの場にいなかった。依然として互いが睨み合う状況が続いている。

 

 勝手に襲撃者を逃がそうとしているアイクの発言にヴェンディッティ組の子分たちは不満を抱えながらも何も言えずにいる。交渉権はアイクに一任されてしまっていた。

 

 旅団はと言うと、アイクから許しが出たがさっさと逃げ出すようなことはなかった。まだボノレノフが捕まっている。置いていくことはできない。

 

「わかった。では私も譲歩しよう。今私が拘束している旅団員一名の身柄をこちらで預かる。他の団員については関与しない」

 

 そしてクラピカはボノレノフを解放しなかった。他の団員は諦めるとしても、せめて一人はここで仕留めるつもりだった。もとより全員をここで始末できるとは思っていないが、何の成果も出せないまま終わらせることはできなかった。

 

「ふぅー……」

 

 このままでは埒があかないと、アイクは殺気を放つ。そのオーラの威圧は周囲に立つ者たちに足元から崩れ落ちていくような錯覚を与えた。どこまでも深く、底の見えない奈落の底へと落とされる絶望感が全身に沁み込んでいく。ゼンジの子分たちや護衛チーム(三人)はその余波だけで極寒の地に放り込まれたかの如く身を震わせていた。

 

「仏の顔も三度までじゃ。もう十分面倒を見てやったじゃろう、これ以上わがままを言うでない」

 

 その壮絶な殺気に反して、当の本人は幼子をたしなめるかのような困り顔をしていた。両の手を静かに前へ差し出す。彼女の背後に見上げるような観音像が姿を現した。

 

 しかし、その吹き荒れる殺気を直に叩きつけられている面々は、全く動じた様子を見せなかった。巨大な観音像も眼中になく睨み合いを続けている。

 

「フィンクス、ノブナガ、オレのことはいい。クモの掟に従え」

 

 旅団(クモ)は、手足をいくつもぎ取られようと頭がいる限り復活する。ボノレノフ一人と残りの団員六人、どちらに天秤が傾くかは言うまでもないことだった。だが、自分を見捨てて逃げろという発言はノブナガにしてみれば全くの逆効果である。

 

「そいつは無理な頼みだ。是が非でも連れて行くぜ」

 

「六人も助けてやったんじゃから一人くらい諦めてくれんかのう」

 

「お前さん確か、全員見逃すって約束だったはずだぜ」

 

「一度目じゃ。わしは“見逃す”としか言っとらん。全面的に逃走を手助けする義務はない。一度は見逃したのだからもう義理は果たした」

 

 今にも人を殺しそうな殺気を垂れ流しながらアイクは淡々と受け答える。ボノレノフはフィンクスに声をかけた。彼はノブナガよりもクモの掟を重んじる性格をしている。犠牲を出してでも撤退を選ぶことに反対はないはずだ。

 

「まあ、そうだな。ここらが引き際だ」

 

 このまま戦闘不能状態の仲間たちも含めて居座り続ければ全滅の危険があるとフィンクスは判断した。命を惜しむ気持ちはないが、死んだところでクモの利益にはならない。彼は逃走車の運転席に乗り込んだ。

 

「お前は残るんだろ」

 

「ああ」

 

「ボノのことは任せたぜ」

 

「すぐに連れて帰る。先に行ってろ」

 

 ノブナガが梃でも動かないことはわかっている。フィンクスはアイクを指さしながら去り際に言葉を残した。

 

「なんかこいつチョロそうだから、実際もうちょっと粘れば助かる見込みはあると思うぞ」

 

「二度目じゃ」

 

 一度二度とカウントするたびにアイクの両手は合掌の形へと近づいていた。ノブナガとボノレノフを残し、幻影旅団を乗せた逃走車が高速道路を走り去っていく。アイクは次にクラピカの方へと言葉を投げかけた。

 

「そのボノとかいう男を解放してはくれんか?」

 

「その問いに答える前にこちらも尋ねたいことがある」

 

「なんじゃ」

 

「なぜ、あなたはそこまでして旅団の肩を持つ」

 

 傭兵として見れば殺すべき状況であるはずだ。旅団の身柄を要求しているクラピカだが、そうなる可能性は十分に承知していた。しかし、アイクはむしろ敵を逃がそうとしている。その理由を知りたかったクラピカはアイクの言葉を聞いてさらに理解に苦しむことになる。

 

「うちの団訓は『みんな仲良く』なんじゃよ」

 

 傭兵団カーマインアームズは、依頼において極力人を殺さない。その規律は団が掲げる一つの理念に基づいていた。

 

「うちの団長は平和主義者なのじゃ。敵も味方も手を取り合って、みんな仲良くうんこちんちん言うとるような世界を目指しておる」

 

「……残虐な独裁者より質が悪いと言わざるを得ない。地獄の方がまだ救いがある」

 

「控えめに言っても狂気の沙汰じゃな」

 

 その実現不可能な理想をどうにか現実的なレベルに落とし込んだ規律が『不殺』である。どんな人間も命を失えば取り返しがつかない。だが、命さえあれば何とかなると言い換えることもできる。どんな悪人だろうと、ただ『悪い』という理由だけで殺していいわけではない。

 

「その“団長”とは、世に言う世界革命未遂を起こしたモナドのことか?」

 

 なぜモナドが大々的に世界統一国家の建国を宣伝し、そして語るもおぞましい武力を行使したのか。その理由については様々な憶測が飛び交っているが、本人が姿をくらました今となっては真相は闇の中だった。

 

「いや? モナドはなんやかんやあって団長にとっちめられて、今は団員の一人じゃ。引きこもりのニートじゃが、まあまあ強いぞ。わしでは敵わん」

 

 アイクをして敵わないと言うほどのモナドを従わせている団長とは何者なのか。アイクが嘘を言っている様子はなかった。これだけの武人が冗談でも自分の実力を偽るようなことはしないだろう。嘘であってほしかった。

 

「まあ、わしはしがない平団員じゃからの。団長様が決めた方針には逆らえんのじゃ。ひょひょひょ」

 

 圧倒的などという言葉では到底言い表せない強さ、狂気の思想をもって傭兵団を従えるカリスマ、そして世界を書き換えるほどの威力を持つ兵器を有する傭兵団のトップ。なによりも、そんな集団がマフィアの護衛としてぽんと雇えてしまうという事実に常識を根底から覆すような恐怖を覚える。狂った平和主義者は一体何を企んでいるというのか。

 

「話を進めていいかの。こちらもあまり時間がない。依頼人を病院に連れていかねばならん」

 

 アイクはクラピカに要求した。ボノレノフとゼンジ、二人をすぐに解放して引き渡せと。

 

「断る」

 

 しかし、クラピカは頷かなかった。どれだけカーマインアームズが常識を外れた強さを持っていようと、彼が自分の信念を曲げる理由にはならない。アイクの両手は触れるか触れ合わぬか、瀬戸際の距離まで近づいていた。その空隙に生まれたオーラの気流が風音を鳴らす。

 

「三度目じゃ。もう後はない。これより先、一度でもわしを怒らせれば攻撃を躊躇わぬ。そうなれば……後ろにいるサムライを殺す」

 

「なんでオレだよ!?」

 

 クラピカの言う通り、旅団を生かしておく必要がないことは事実である。アイクからすれば、これ以上話がこじれるようなら殺りやすい敵から順番に潰していくまでだ。むしろ逃げるなら今の内だと示唆している分、有情と言えるだろう。

 

「あなた方の不殺主義とは矛盾するのではないか」

 

「別に必要であれば殺しを厭わぬ。今回はただの護衛依頼だったが、これが敵の殺害も含めた依頼内容であればとうの昔に殺しとるわい」

 

「ではそのようにするがいい。私としては一向に構わない」

 

 クラピカにしてみれば即座に攻撃行動を取らないアイクの態度が矛盾そのものに見えた。彼女にとって団の規律がいかに大きな縛りとなっているかを物語っている。クラピカはあえてアイクを怒らせるように挑発した口調となる。

 

「逆に聞くが、ここで幻影旅団を逃がすことによって生じる損害を理解しているのか? 生きて逃がせば奴らはこれからも罪のない人間を数え切れないほど殺していくだろう。『みんな仲良く』などという綺麗事をほざくのは自由だが、その自分勝手な主張のせいでより多くの人間が犠牲になるという矛盾を自覚すべきだな」

 

 クラピカの論を前にして、命の危機に瀕しているはずのノブナガはと言うと、いたって平然と構えていた。口を挟むこともない。

 

「わしらの目の届かぬところで誰が何をしようと知ったことではないわ。おぬしもそんなに復讐がしたければわしらの関与せぬところでやってくれれば文句は言わん。おぬしのための殺しを請け負う義務はない。以上を踏まえた上で今一度問おう。心して答えよ」

 

 これが最後の交渉となる。返答次第でクラピカの復讐は叶うだろう。

 

「ボノとゼンジをこちらへ渡せ。返答は応か否か、二つに一つ。それ以外は受け付けん」

 

 人質を取っているクラピカにアイクが危害を加えることはできない。この要求を拒めばアイクの攻撃により旅団は死ぬことになる。クラピカは今後の交渉のことも考え、ノブナガ一人の死をもって今回の復讐は妥協し、不服だがボノレノフは解放してやることも検討していた。

 

 だが、そこへ追加の条件が付け加えられる。

 

「この交渉の結果、死人が出た場合、望まぬ殺しを強要させたものとしてカーマインアームズはおぬしを敵と認定する。仮に口八丁でこの場を生きて逃れることができたとしても、我らは必ず追い詰める。四六時中ネットでくだを巻いとる生体コンピュータだの、キチガイハッカーだの情報戦要員も揃っとるから逃げ場はないと覚悟せよ」

 

 別にクラピカはアイクに旅団を殺せと迫っているわけではない。強要させた事実はない。要するにこれは脅しの口実に過ぎなかった。

 

 ノブナガはほくそ笑んだ。アイクの決定によりどう転ぼうと旅団の利になることが確定したからだ。クラピカがボノレノフを解放するならそれで良し。しなかった場合は、二人の団員が死ぬことになるだろうが、クラピカもアイクに殺される。

 

 たった二人の命でクラピカを殺すことができるのなら安いものだ。クロロも含め多数の団員がまだ生きている。すなわちクモの勝利である。

 

 もっとも、だからと言ってノブナガは戦意を放棄したわけではなかった。居合の構えを取り、オーラの血気を滾らせる。ここで臆するような戦士ではない。いつでもアイクと戦う心構えはできていた。死を迎えようと精神が折れることはないだろう。

 

「おー、そういやクラピカさんには仲間がいたはずだぜ。すげー耳が良い能力者がこの近くにいるかもな」

 

「そうか。なら交渉が決裂した場合、その者もついでに殺す」

 

「貴様……」

 

 何が不殺主義だと聞いて呆れる。自らの意思で殺人を予告しながら、その責任を他者に背負わせようと言うのだ。これまでのアイクの言動から、彼女は自分に課したルールを徹底して遵守する性格だとわかる。一度口にした言葉を反故にするとは思えない。殺ると言ったら殺る。

 

「他にも同じくらいの年頃の友達もいたよなぁ。なんて名前だったか、あの黒髪の、ゴ……ゴ……」

 

「……わかった。そちらの要求に従おう」

 

 ゴンやキルアの名前を出されるかもしれないとあってはクラピカも折れるしかなかった。緊迫した人質交渉はついに終結を迎える。

 

「うむうむ。ハンターたるもの、自分の獲物は自分で狩ってみせねばな。幻影旅団はまた今度、おぬし自身の手で捕らえるがよい」

 

「だが、その前に私と仲間たちの安全を約束してほしい」

 

「よかろう。危害を加えることはないと約束する」

 

 安全が確認された上で、まず『拘束する中指の鎖』からボノレノフが先に解放された。アイクがさっさと行けと急かす中、ボノレノフは最後にクラピカと視線を交わした。

 

「なんだ」

 

「オレは今後、お前を陥れる目的で変身能力を使わない」

 

 ボノレノフの『変容(メタモルフォーゼン)』はクラピカにとって厄介な能力だ。ここでこの敵を仕留めきれなかったことを少なからず危惧していた。それを自分から使わないと言い始めた敵にクラピカは怪訝さを感じずにはいられない。

 

「何のつもりだ。くだらない感傷か」

 

「オレはギュドンドンド族の誇り高き舞闘士(バプ)。次にお前と相まみえる時は我が一族の誇りを懸けて戦うと決めた。姑息な手を使い、興が冷めるような真似はしない。舞闘士の秘儀にてお前を葬る」

 

 クラピカは不快げに眉をひそめた。交錯する視線は互いに友好的な感情を全く含んでいない。しかし、何か通じるものはあった。

 

 仇同士が交わす別れ際の短いやり取りは、突如として空を切り裂いた観音像の一撃によって幕を下ろす。

 

 ボノレノフに襲い掛かる音速の一撃。目で捉えるよりも先に優れた聴覚で危険を感じ取った彼は、とっさの堅が間に合った。直撃、そして飛翔。全身の穴という穴から壊れた縦笛のような音と血をまき散らしながら彼は吹き飛ばされた。

 

「ボノオォ!」

 

 ノブナガが駆け寄る。ボノレノフは瀕死の状態だった。死んでいていてもおかしくない、いや死んでいなければおかしい攻撃を受けながらも、死の寸前で踏みとどまることができたことは一重に彼の実力のたまものだろう。辛うじて息があった。

 

「なにしやがんだテメェ!?」

 

「四度目じゃ! さっさと行けというのが聞こえんかったのか! べらべらとくっちゃべっとる場合か!」

 

 しゃーっと荒ぶる鷹のポーズを取り威嚇するアイク。ノブナガはたまらずボノレノフを背負って走り出した。

 

「クソーッ! 覚えたぜカーマインアームズ……! この借りは必ず返してやらぁ!」

 

 なるほど有言実行だったなと、逃げ去るノブナガの後ろ姿を見ながらクラピカは思った。その表情は真顔だった。

 

「さて取引の続きじゃ。次はゼンジを渡してもらおう。それからおぬしの能力についてじゃが……」

 

「治癒能力に関してのことだな」

 

 まだ交渉の全てが完了したわけではなかった。クラピカにとって旅団への復讐は失敗に終わったが、緋の眼の回収だけは何としてでも達成しなければならない課題である。そのためのカードとして用意していた『癒す親指の鎖』も旅団のせいで能力の実態が露見してしまった。

 

 ゼンジを引き渡したクラピカは、まず不信感を少しでも払拭するため能力を実演してみせた。親指から伸びる鎖の先端、十字型の楔を弱りきった蝙蝠に向けて垂らした。楔が触れた箇所から蝙蝠の身体へとオーラが伝わり、ばっさりと切り裂かれた傷を癒していく。

 

「自己治癒力を高める目的で作った能力だが、他者にも転用できる。ただし、私自身の怪我であれば複雑骨折の重傷でも数秒で完治させるほどの効果があるが、他者の治癒力を引き出す形を取る場合は費用対効果がすこぶる悪い。オーラの消耗も激しい」

 

 治癒力の強化という強化系の効果を有する具現化された鎖。六性図の相性から見れば制御の難しい能力である。本来、具現化系能力者であるはずのクラピカがこれほど高い強化系能力の精度を引き出すことは困難なはずだが、その問題は『緋の眼』の特性によって解決されている。

 

 クラピカは激情により緋の眼を発動させた状態において六系統全ての相性を100%にまで高める『絶対時間(エンペラータイム)』という特質系能力を持つ。この状態になったとき、彼は一時的に特質系能力者となる。普段は微々たる回復効果しかない『癒す親指の鎖』も、『絶対時間』の使用中は他者にも効果を及ぼすほど飛躍的に性能が向上する。

 

 説明している間に蝙蝠の傷は塞がっていた。失った血まで元に戻るわけではないのでまだ具合は悪そうだが、ひとまず命の危機は去ったと言える。その様子を見ていたキャロルが、それまでの諦めきった態度を一変させてクラピカに問い詰めた。

 

「傷跡も残さず完治させたりもできるの!? あたしの顔の傷も治せる!?」

 

「可能だ」

 

 今すぐ治してほしいと縋りつくキャロルをクラピカは押しのけ、アイクに確認を取る。

 

「ゼンジ氏の治療を引き受ける対価として緋の眼をこちらに渡してもらいたい。これは脅迫ではなく、純粋なビジネスとしての提案だ。承諾してもらえるのならゼンジ氏の治療が終わり次第、他の怪我人の治療も約束しよう」

 

「承諾すべきよ! あたしたちの目的はゼンジの護衛! 何よりも彼の身の安全と治療が優先されるわ!」

 

 何よりも自分の傷を治してもらいたいことが見え透いているキャロルの弁はさておき、ゼンジをこのままにしておくこともできないことは事実である。

 

「こちらには相手の発言から嘘を見抜く能力を持った協力者がいる。旅団が語ったこの毒の性質について虚偽は確認できなかった。病院に連れて行ったところで治療できる保証はないということは予め言っておこう」

 

「半分以上、脅迫みたいなもんじゃぞそれ」

 

 クラピカに根本的な治療が行えるか疑問は残るが、それでも対処療法によって症状を緩和させることができるなら大きな意味がある。病院に連れて行き、詳しい検査を行うまでの時間経過に伴うリスクを減らせるかもしれない。護衛としての最善を求めるならクラピカの協力を得たいところだ。

 

「おぬしが緋の眼を欲する理由は推察できる。その気持ちに同情もしよう。じゃがのぅ……」

 

 

 

 

『ミルキーだぴょん☆』

 

 

 

 

 全員の視線がその音の発信源へと向く。ゼンジの子分の一人が慌てた様子でスーツのポケットからスマートフォンを取り出していた。

 

「あっ、サーセン……LINEが来たもんで……」

 

 ただの着信音だった。こんな時に何やってんだと白けた空気が漂う中、時を同じくしてクラピカの携帯にも着信が入った。センリツからの電話だった。よほどの緊急事態でなければこの状況で連絡を入れてくるとは思えない。クラピカはすぐに電話に出た。

 

『大変よ、クラピカ! 今そっちにマフィアのものと思われる車が何台も向かってる! 何者かわからないけど、全員殺気立ってるわ!』

 

 迫り来るマフィアの集団。その正体はヴェンディッティ組の荒くれたちだった。このパーキングエリアに向かって来ていることは間違いない。この現場にいるゼンジの子分が携帯から組の本部に応援要請を出していたのだ。LINEで。

 

 







原作との相違点、未登場または明示されていない部分の解釈について

・旅団の能力とか技は捏造が入ってます。ノブナガの能力はオリジナルです。

・旅団がどこまでクラピカの能力を把握しているのか、またクラピカがどこまでそのことを知っているのか不明です。憶測が入ってます。

・クラピカの『癒す親指の鎖』が他人に使えるか不明です。

・創設メンバーではないボノレノフはクルタ族襲撃に参加していない可能性があるようです。(参加していた可能性の方が高いように思います)
 
今後、原作で明らかとなる情報次第で矛盾してくる設定もあると思いますが、パラレルワールド的な理由でこの物語の世界ではこのようになっているということにしたいと思います。


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100話

 

 ゼンジはサービスエリア近くのひさしの下に運ばれていた。救急車がそろそろ来る予定であるが、それよりもヴェンディッティ組の本隊が到着する方が早いだろう。確実に場は荒れる。クラピカはその前に話をまとめておきたかった。緋の眼の引き渡しをアイクに約束してもらえれば、すぐにでも治療を始める用意があった。

 

「なぜ承諾できない……!? こちらの望みは緋の眼の現物。金ならばむしろ払おう。落札価格の10億に色を付けて支払う」

 

 治療を施した上に緋の眼の対価まで支払われるとなれば、利益のみを考えるならゼンジ側は損どころか得をすることになる。クラピカにしてみればこれ以上ないほどの条件だが、アイクは首を縦には振らなかった。

 

「残念ながら金の問題ではない。この競売品はゼンジの所有物じゃ。本来、わしにそれを勝手に処分する権利はない」

 

 旅団に緋の眼を要求されたときは人質の命を盾に取られていた。引き渡さなければゼンジの命に直結する事態だった。今も彼の身が毒に侵され危険な状態であることは確かだが、一次的方策は病院への搬送である。クラピカが治療はしないというのなら、普通に病院に連れていくだけの話だ。

 

 確かにクラピカの治療によってゼンジがすぐにでも完治するならそれに越したことはないが、その後、ゼンジが緋の眼の引き渡しを拒否すれば法的にそれを覆すことはできない。所有権者の意思なしに交わされた契約として無効となる。脅迫によって契約を迫ったとしても無効だ。

 

 クラピカが治療の対価を求める訴えを起こしたところで認められるのは金銭的な支払請求が関の山だろう。現物は来ない。合法的な手段に拘る限り、緋の眼の請求を認めさせることは容易ではない。

 

 だからこそクラピカはアイクの口から確約を取った上でなければ治療を始められなかった。この少女なら一度口にした約束を破るようなことはしないだろうと踏んでいた。

 

「おぬしがまずゼンジを治療し、その後でゼンジ本人から緋の眼を譲り渡してもらえるよう説得するのが筋じゃ」

 

 正論を突きつけられる。しかし、ゼンジにとって憎悪の対象であるクラピカがいくら説得を試みたところで色よい返事がもらえるとはとてもではないが思えなかった。

 

 こんなことなら旅団がしたように、ゼンジを人質に取っている間に緋の眼を寄越せと脅していればもっと事は簡単に済んだだろう。『律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)』を使えば取引を強制させることも容易だった。だが、どうしてもできなかった理由がクラピカにはある。

 

 これまでの緋の眼回収においても彼は違法な手段を取ることを嫌っていた。もともと強い正義感を持つ彼は、多少強引な方法を選ぶことはあっても法の一線を越えるような行動だけは避けてきた。旅団のような悪党に成り下がっては殺された仲間たちに顔向けできないという思いがあった。

 

 今回、ゼンジを人質に取るような真似をしたことはクラピカにとって苦渋の決断だったと言える。人質に取らなければあのタイミングで介入はできなかっただろうし、旅団の手に緋の眼は渡っていただろう。それでも後悔がないわけではなかった。

 

 その上、脅迫まがいのことをして緋の眼を奪うような手段は取れなかった。復讐も奪還も、クラピカの個人的な理由によるものだ。そのためなら何をしてもいいという理由にはならない。

 

 何とかしてこの状況を打破する手はないかとクラピカは必死に考えを巡らせる。だが、答えが出るよりも早く騒がしいエンジン音が近づいてきた。相当なスピードで駐車場に何台もの車が乗り込んでくる。ハイビームがクラピカたちを照らしあげた。

 

 明らかに堅気ではない雰囲気の男たちがぞろぞろと車から降りてくる。一触即発の空気が漂う中、群れを掻き分けるようにして一人の男が進み出てきた。かっちりとリーゼントをきめた背の高い男だった。

 

「オレはヴェンディッティ組の若頭、ジンジ=ヴェンディッティだ」

 

 ジンジの横には二人の組員が付き従っている。ホッドやキャロルからすれば実力は数段劣るが、いずれもヴェンディッティ組に所属する念能力者である。その他、この場に集まった大勢の組員たちが戦闘要員であることは間違いなかった。

 

 しかし、予想に反してすぐさま攻撃してくるようなことはなかった。話をする余地はあると判断し、クラピカは状況を説明しようとした。

 

「いや、いい。状況は把握している。LINEでな」

 

 スマホをしまったジンジはクラピカを見据えていた。値踏みするように鋭い視線を送る。

 

「お前の目的も知っている。治療の対価として緋の眼が欲しいらしいな。治せるのか?」

 

「ひとまず、症状が進行しないように体力を回復し……」

 

「んなことは聞いてねぇ。治せるか、治せねぇのか、どっちだ」

 

 確かなことはクラピカにも言えなかった。しかし、それを承知の上で答える。

 

「治せる」

 

 数秒の沈黙。ジンジは相手の意思を確かめるためにメンチを切る。クラピカはその視線を揺らぐことなく受け止めた。

 

「……いいだろう。緋の眼はくれてやる。オヤジはオレが説得する」

 

 クラピカにしてみれば望外の展開と言えた。逆に怪しく思えるほどに。ゼンジが抱えるクラピカとの確執について、息子であるジンジは当然知っていた。場合によってはノストラード組と戦争を起こす覚悟でこの場所に来ていた。

 

「オヤジが受けた屈辱はヴェンディッティ組の屈辱だ。けどな、戦争は最後の手段。負けるつもりは毛頭ねぇが、少数ながら武闘派として名を知られるノストラード組と事を構えればこっちも被害は馬鹿にならねぇ」

 

 オークションに向けて復讐計画を進めていたゼンジの行動は、ノストラード組との全面抗争まで待ったなしのところまで進んでいた。組のためにジンジは何とかそれを鎮めようと考えていた。

 

「オヤジは変わっちまった……もう自分でも怒りをコントロールできなくなるくらい憎しみに囚われている。自分自身、それじゃダメだとわかっちゃいるがブレーキが利かない状態だ。できれば、復讐以外の方法でそれをどうにかしてやりてぇ」

 

 クラピカがここでゼンジを救えば命の恩人という名分が立つ。ゼンジの怒りを完全に鎮めることはできないだろうが、それでも抑え込むことが可能かもしれない。ゼンジが復讐から解放されるためには相応の理由が必要だ。

 

「緋の眼が欲しけりゃ、お前の手で治せ。そうでなければオレもオヤジも納得できねぇ」

 

 中途半端な結果であってはならない。ジンジが出した条件は中毒症状の完全治癒だった。クラピカは一つ、大きく息をつく。

 

「まず、私から謝罪する。ゼンジ氏に対して働いた無礼な行動の全てを詫びる。すまなかった。今回の緋の眼の落札価格と合わせ、20億ジェニーの謝罪金をお支払いする」

 

 一年前、幻影旅団の襲撃やオークションに出品された緋の眼のことでクラピカの精神は余裕がない状態だった。そこに心無い言葉をかけてきたゼンジにも非はあるが、だからと言って無視できずに暴力に訴え出たクラピカの行動もまた適切とは言えなかった。彼は素直に謝罪する。

 

「その上で約束しよう。必ず私が、完治させてみせる」

 

「よし! ならこれで手打ちだ! さっさと治療に取り掛かりやがれ!」

 

 いまだ降り止まぬ雨の中、しかしようやく光明が見えたかのようだった。クラピカは人の悪の側面しか考えに入れていなかったことを省みる。ゼンジが自分を許すことは決してないと思い、それ以上の期待を持とうとしなかった。

 

 疑うだけではなく信じることが必要だった。彼に今できることはつまらない理屈をこねまわすことではなく、誠意を尽くして治療に当たることだ。その先にこそ本当の対価がある。

 

 そこへようやく救急車が到着した。ただ運ぶ時間だけを考えるならアイクが背負って走った方が早いだろうが、深夜の時間帯ということもあり受け入れ先の問題もある。多少の移動時間短縮を取るより、病人搬送のための設備やシステムが整った救急車に任せた方がいいと判断された。

 

「オラオラどけどけ! 病人はどこだ!?」

 

 救急車から真っ先に降り立ったスーツ姿の男がストレッチャーを押して爆走する。明らかに医療従事者の姿には見えない。クラピカはその人物を見て目を丸くした。

 

 

 * * *

 

 

 レオリオとセンリツはヒッチハイカーのごとく救急車に乗り込んでいた。プロハンターでなければ到底認められない暴挙である。

 

 後方で待機していたレオリオは、自分にできることはないかと居ても立っても居られない心境だった。幻影旅団が逃走したことで最大の危険は去ったと判断、クラピカの手助けのために行動を開始した。

 

「まずいわ…その人の心音、どんどん弱ってるみたい!」

 

 救急隊員そっちのけでゼンジを車内に運び込んだレオリオはすぐに患者の容体を診察し始めた。その間もクラピカは『癒す親指の鎖』をゼンジの身体に巻きつけ、オーラを込め続けている。

 

「……クラピカ、鎖を解除しろ」

 

 しかし、レオリオが発した言葉は思いもよらぬものだった。なぜだとクラピカが疑問を呈するよりも早く、レオリオは血相を変えた様子で食ってかかる。

 

「早くしろ! 患者を殺してぇのか!」

 

 そのただならぬ剣幕に押され、クラピカは鎖の具現化を解いた。レオリオはゼンジの服を脱がしていく。

 

「重度の黄疸、腹水……肝不全は確実だな……」

 

 レオリオは患者の腹部に手を置き、その上から指で軽く叩くように打診していく。その指から放たれたオーラはゼンジの体内へと行き届き、円のような拡張された感覚によって術者に病巣の情報を伝える。

 

「それがお前の“発”か」

 

「ああ、オレは放出系でな。自分のオーラを色んな物質中に伝えられるんだ。将来的には悪性腫瘍とかも外科手術なしに破壊したりできるようになる予定だぜ」

 

 一通りの診断を終えたレオリオはゼンジの救命措置を続けながらクラピカに説明する。

 

「肝臓を始めとして、腎臓、膵臓などの消化器系、循環器系にも炎症が広がってる。オレもまだ勉強中で確かなことは言えないが、おそらくこれは自己免疫疾患だ」

 

 人間の身体には外部から侵入した病原体などに対し、それを攻撃して無害化するための防衛システムが備わっている。この免疫機能に異常が発生し、何らかの要因で抗体が自分自身の正常な細胞まで攻撃し始めることによって起きる症状が『自己免疫疾患』である。

 

「その人の症状、明らかにこの数十秒間くらいのわずかな時間で急激に変化してるわ」

 

 センリツはゼンジの心音から体調の変化を敏感に察知していた。特に何か体調を悪化させるようなことはなかったかと、これまでの経過を振り返る。そして、クラピカが治療を始めた直後からこの異変は発生したのではないかという推論に至る。

 

「まさ、か」

 

 『癒す親指の鎖』の効果は“自己治癒力の強化”である。免疫異常が起きているゼンジの身体に強化が施されることにより、抗体が過剰生産され、症状が悪化したのだ。この場合、ゼンジの状態を正常に戻すためには強化ではなく抑制が必要だった。

 

 クラピカの能力はゼンジを癒すどころか真逆の結果を引き起こした。『癒す親指の鎖』の効果を知った上で、旅団がクラピカを殺すために用意した策の一つだった。本当ならクラピカ本人に使う予定だった毒だが、その思惑とは異なれど彼を追い詰める結果となる。

 

 クモの毒が怨念のように宿敵を滅ぼすため牙を剥いた。レオリオがいなければクラピカは全力で治療を施し、そしてゼンジを殺していただろう。その事実に身震いする。

 

「今の状態からでも、治療は可能なのか?」

 

 レオリオは知識を総動員して対処法を考えていた。特に症状がひどい劇症肝炎をすぐにでも処置しなければ命に関わる。副腎皮質ステロイドの点滴静注、人工透析や血漿交換と言った人工肝補助療法、思い付きはするが、しかし到達する答えは一つに落ち着く。

 

「無理だ……十中八九、体力が持たねぇ」

 

 血圧計や心電図が示す数値の低下、衰弱していく呼吸、医療的な手段でこの状態から回復させることは不可能に近い。医者の卵としてレオリオも諦めたくはなかった。だが、なまじ知識があるだけに絶望的な現実を理解してしまう。

 

 その結果は専門的な知識のないクラピカやセンリツにもわかるほどだった。もはやゼンジの命は燃え尽きる寸前のろうそうの灯に等しいことがオーラの弱弱しさから察せられた。

 

 このまま殺せばゼンジは緋の眼を決してクラピカに渡そうとはしないだろう。下手をすれば組同士の戦争に発展する。その大義名分は明らかにヴェンディッティ組にあった。

 

 何よりもクラピカは約束した。ゼンジの命を必ず救うと誓ったのだ。ジンジはその言葉に嘘はないと感銘を受けたからこそ過去の諍いを水に流すと約束した。

 

 仮定の話でしかないが、もしクラピカが『癒す親指の鎖』を使わなければゼンジは病院で治療を受け、命だけは助かったかもしれない。少なくとも、この短時間でここまで症状が悪化することはなかった。責任がクラピカの肩に重くのしかかる。

 

「自己免疫性肝炎は、発症のメカニズムがまだ詳しく解明されていない病気だ。劇症肝炎になることは滅多にない。体に合わない薬を飲んじまったときなんかに起こることがある。肝臓には毒物を分解する機能があるからな。薬を異物と認識して頑張り過ぎちまうんだろう」

 

 ひどく狼狽しながらも見ていることしかできないクラピカに、レオリオは説明を続けた。

 

「肝臓一個分の機能を人工的に再現するためには馬鹿でかい工場レベルの施設が必要になると言われてる。さらにこの器官は健康体なら3分の2を切除しても問題なく機能を維持できるばかりか、細胞が再生して元の大きさにまで戻ろうとする。とんでもねぇ生命力を持った器官なんだ」

 

 レオリオは治療は不可能と判断しながらも諦めてはいなかった。彼が医者を志した理由は、経済的な理由から病気の治療を受けられなかった友人を亡くしてしまったことにある。金さえあれば救えた命を助けられなかった後悔が、医者となる道を選んだ彼の原動力だった。場合は異なれども、消えゆく命を前にして匙を投げるような性格はしていなかった。

 

「旅団の言うことが本当なら解毒剤があるんだろう。治す手段がある毒なんだ。もうこうなったら患者の生命力に賭けるしかねぇ」

 

 クラピカの治癒能力は確かにゼンジを殺しかけた。異常をきたした免疫まで強化してしまったが、正常な細胞の再生力も同時に増強されているはずだ。イチかバチか、その再生力を信じて治療を続けるしかないとレオリオは判断した。

 

「医学で解明されている人体の神秘ってのは小さなもんだ。命の可能性は計り知れねぇ。その最たる例が念だろう。お前の念ならそれができるかもしれん。責任はオレが持つ。やれ、クラピカ」

 

 あまりにも無謀な賭けだった。このままでは死ぬとわかっている命であったとしても軽々しく試せる手ではない。レオリオには診断を下した者として、患者の命を背負う覚悟があった。クラピカは鎖を垂らす。それは親指の鎖ではなかった。

 

「ゼンジのこの状態は毒に抗っているがために起きているのか?」

 

「おそらくな。免疫異常を起こしている原因物質を分解できれば症状は落ち着いていくはずだ」

 

「ならば、その分解を担う肝臓をピンポイントで治療できれば」

 

「……それができるなら、助かる可能性は高まるかもしれねぇ!」

 

 これまでのクラピカの治療ではゼンジの内臓全体に癒しのオーラを施していた。そのため免疫異常による疾患が全身に拡大し、症状を悪化させる結果となった。だが肝臓のみに焦点を絞り、解毒機能を集中的に高めることができれば毒を分解することが可能かもしれない。

 

「レオリオ、お前の能力を私に貸してほしい」

 

 何のことかわからないレオリオだったが、友の言葉に疑いをかけるはずもなかった。一も二もなく了承する。

 

「ああ、いくらでも持っていけ」

 

 クラピカの能力『奪う人差し指の鎖(スチールチェーン)』が発動する。ごく最近に作られた、旅団も知らない能力だった。鎖の先端についた注射器型の楔がレオリオに突き刺さる。オーラが注射器へと吸い取られていく。

 

 この鎖は対象から念能力を一時的に奪う能力を持ち、クラピカまたは別の人物にその能力を使わせる使用権を取得する。一度使用されると能力は元の持ち主に戻される。

 

「能力をセット」

 

 注射器からオーラが噴き出し、イルカの姿をした念獣が現れた。奪った能力はこの『人差し指の絶対時間(ステルスドルフィン)』が解析し、発動と制御を補助してくれる。これによりクラピカはレオリオの能力を使用可能となった。

 

『解析完了。能力を発動します』

 

「『癒す親指の鎖(ホーリーチェーン)』!」

 

 クラピカの鎖から放たれた癒しのオーラがゼンジの体内へと深く浸透していく。しかし、不必要な拡散を起こすことはなかった。レオリオが打診によってオーラを送り込み、病巣の情報を選択的に集めたように、放出系能力の制御を合わせもったクラピカのオーラは肝臓だけに効果を発揮した。

 

 しかし、ここまでしても治療が必ず成功するという保証はない。肝細胞の生命力を高めると同時に免疫機能まで刺激してしまう。重大な副作用を伴う治療のようなものだった。解毒が終わるのが先か、体力が尽きるのが先かという賭けである。

 

 レオリオの能力についてはドルフィンに制御を任せ、クラピカは癒しの鎖に全力を注ぎこんだ。抗体に蝕まれながらも必死に解毒を続けている肝細胞の回復に集中する。

 

 この『奪う人差し指の鎖』は彼の師匠から受けた助言により作られた能力だった。全ての鎖の能力を旅団への復讐の手段としか考えていなかったクラピカに対し、彼の師匠であるイズナビは仲間との連携の大切さを説いた。

 

 指導を受けていた当時は言うことを聞いて能力に一つ空きを作っていたが、結局クラピカは一人で戦うための力を求めた。『奪う人差し指の鎖』も復讐という目的のために作った能力だ。だが、その中にも師の言葉は息づいていたのだろう。

 

 どれほど強い力を得ても一人ではどうすることもできない局面がある。目的のために必要な戦力としてではなく、仲間という存在が困難を切り抜ける力となる。当時のクラピカは師が説いたその意味の違いを理解できなかった。しかし、今ならば少しだけわかる。

 

「必ず、助ける……!」

 

 少しずつ、ゼンジの容体が安定していく。

 

「いいぞ! 峠は越えた!」

 

「心音も落ち着いてきてる。もう大丈夫よ、クラピカ!」

 

 解毒が終わった。しかし、クラピカはそこで治療を止めなかった。今度は全身に広がった炎症の治療に取り掛かる。免疫異常がすぐさま消えてなくなるわけではなかったが、その原因物質が無毒化された今ならクラピカの治癒力が抗体の攻撃作用を遥かに上回っている。

 

 収支は一気にプラスへ傾いた。見るからに体調は好転している。完治させるという約束を果たすため、クラピカはオーラを出し切った。倒れそうになる彼の身体をレオリオが慌てて支える。これまで負担の大きい『絶対時間』の発動を維持し続けていた影響もあり、ブラックアウトするように気絶してしまった。

 

「まったく、無茶しやがる」

 

 クラピカが気を失うのと入れ替わるようにしてゼンジが目を覚ました。自分の身に何が起きたのかさっぱりわからない様子できょろきょろと周囲を見回している。

 

「の、ノストラード……!」

 

 クラピカの姿が目に留まったことで激昂するが、回復したとはいえ病み上がりの体調ではすぐに起き上がることはできなかった。

 

「いいからもう少し寝とけ。念のため、病院で詳しく検査を受けた方がいい」

 

「うるせぇ! 今すぐ車を停めろ!」

 

 騒ぎ立てるゼンジの怒りが収まる様子はなく、やむなく救急車は停車した。パレードか何かのように救急車の後ろに長蛇の列を作っていた黒塗りの高級車たちも合わせて停まった。ふらつきながらも自分の足で車を降りたゼンジのもとに、ヴェンディッティ組の面々が集まってきた。

 

「オヤジ! 無事だったか!」

 

 ジンジは心底安堵していた。ゼンジに続いて救急車から降りてくるノストラード組の一団が目に入る。クラピカはレオリオに背負われた状態で気を失っていた。その姿を見ただけでどれだけ治療に尽力してくれたかが理解できた。

 

「緋の眼は!? オレの緋の眼はどうした!?」

 

 まだゼンジは事の次第を何も知らない。ジンジは、喚き散らすゼンジにクラピカが命を救ってくれたことを説明する。

 

「もう楽になってくれよ。こんなことを続けてたらオヤジの身がもたねぇ。この件はこれで手打ちにしてくれないか」

 

「オレはノストラード組じゃねぇけど、クラピカの友人だ。オレからも頼む。こいつを許してやってくれ」

 

 レオリオとセンリツも頭を下げた。この場にいる誰もが固唾をのんでゼンジの決定を見守っている。

 

「オレはな、緋の眼はどうしたんだと言ったんだぜ」

 

 しかし、彼らの言葉は届かなかった。執拗に緋の眼を要求するゼンジの目は、憎悪の色を湛えたままだった。

 






医学的な知識についてはネットで調べただけなのでガバガバかもしれません。


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101話

 

「……いい加減にしてくれよ、オヤジ。組の面子を潰そうとしてるのはどっちだ?」

 

「いつからそんなデケェ面するようになったんだ、ジンジ。ヴェンディッティ組の頭は誰か言ってみろ」

 

 親子喧嘩では済みそうにもない一触即発の空気が漂う。人の心は複雑だ。ほんの少しの要因で解れもするし、頑なにもなる。積み重なったゼンジの恨みをこの一件だけで解きほぐすことはできなかった。

 

「オレも含め、ここにいる組員どもはあんたのために命を投げ出す覚悟がある。もしノストラードがオヤジの命を救えなければ戦争を仕掛ける覚悟があった。だが、あちらは筋を通したんだ。憎い敵とはいえ命の恩人でもある。ここで弓を引くような真似はできねぇ」

 

 ゼンジの強硬な組の運営方針に不満を持つ組員は少なからず存在した。表立って口には出せないが、快く思っていない者は多い。ジンジはそうした組員たちの間に入り、関係を取り持つために努力してきた。次期組頭として認められた確かな人望があった。

 

「どうしたお前ら!? 何を黙って見ている! さっさとノストラードのクソどもを捕まえろ!」

 

 しかし、いかに人望があれどジンジはまだ若頭だった。マフィアのファミリーにおいて組頭は絶対の存在だ。頭が白と言えば黒だろうが白になる。皆がジンジの言い分に間違いはないと思いながらも、ゼンジの決定に逆らうことはできなかった。

 

 ノストラード組は意識不明者を抱えた三名だ。ここに集まったヴェンディッティ組の手勢なら苦もなく捕えることができた。邪魔者が間に入らなければ。

 

 二つの組の間を遮るようにチェルが降り立つ。レオリオたちに背を向けた彼女の姿からどちらの味方であるかは予想できた。

 

「おい!? お前はオレの護衛だろうが! 裏切るつもりか!?」

 

「護衛として無用な戦闘は回避させてもらうぞい。マフィアの抗争に巻き込むでない」

 

 悪びれもなく言い放つアイクにゼンジは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 

「クソが! ならもういい! 役立たずはク――」

 

「ダメです頭! それだけは!」

 

 ゼンジはカーマインアームズをクビにして追い払おうとしていたが、それを後ろから子分らが必死に抑え込んだ。ここで解雇してしまえば怪物たちを契約という名の檻から解き放ってしまうことになると危惧していた。

 

 幻影旅団との戦いぶりを見ていた子分たちは念は使えずともこの傭兵団の常軌を逸した強さを目の当たりにしている。ヴェンディッティ組の主戦力が集まった今の手勢をもってしても造作もなく蹂躙されてしまうだろう。

 

「ちぇっ、もうちょっとじゃったのに……」

 

 少女がこぼした恐ろしいぼやきに子分らは震え上がった。彼女たちの強さを知らない後発組の戦闘員たちも、チェルが放つ強大な威圧と展開された円の異様なオーラを警戒して慎重になっている。ゼンジを除いた多くの者にとって組同士の全面抗争はできれば避けたい事態であり、その思惑が消極的な態度に表れていた。

 

「どいつもこいつも日和りやがってぇ……! もうお前らには頼らん! 復讐はオレの手で果たしてやる! 早く緋の眼を持ってこい!」

 

 現在、緋の眼はアイクの手にあった。クラピカとジンジの間で取り交わされた約束が果たされるまで、二つの組のどちらにもない中立な状態を保全する措置として両者が納得し、アイクの手に預けられたのだ。

 

「ひうっ、そんな大声で怒鳴られたら怖いのじゃ~! え~ん、え~ん!」

 

 完全に馬鹿にしているとしか思えないアイクの態度にゼンジの怒りは頂点に達した。ゆでだこのように顔を赤くし、小刻みに体を震わせる。そして爆発した。

 

「ふぅ……」

 

 怒りの限界を超えたゼンジは、逆に冷静になった。

 

「葉巻」

 

「え、あ、はい!」

 

 淡々とした言葉に子分たちが応じる。ゼンジは雨の中、受け取った葉巻が湿気るまで一服した。一息ついたところでチェルに指示を出す。

 

「そこのガキ、こっちに戻って来い。もうそいつらに手を出すつもりはねぇ」

 

「信用できないね」

 

「生言ってんじゃねぇぞ。明らかな越権行為だぜ、それは」

 

 アイクは護衛として戦闘を回避する必要があると理由を付けたが、現状においてクラピカたちがゼンジの脅威となることはあり得ないのだから余計な介入でしかない。今後、この件がきっかけとなり組同士の抗争に発展すれば大きな戦闘になるだろうが、やはり部外者であるアイクたちが口を出すべき問題ではない。

 

「……正論じゃの。下がれ、チェル」

 

「ぐぬぅ」

 

 本来なら護衛にはいかなる場合であろうと護衛対象を守り抜き、その利益に資する行動が求められる。契約内容に反しなければ好き放題にしていいというわけではない。おとなしくチェルが引き下がったところでゼンジがレオリオたちの前に立った。

 

「さっきも言ったが、もうこちらから手を出す気はない」

 

「随分な心変わりだな」

 

「オレも鬼じゃねぇ。ジンジの言うこともわかる。お前らには命を救われたようだしな」

 

 ゼンジからは先ほどまでの沸騰するような怒気は感じられなかった。そのあまりの急変に、レオリオは逆に疑わずにはいられなかった。センリツはゼンジの感情を読もうとするが、そこからはっきりとした思考までは推測できない。わかることは非常に落ち着いているということだけだった。

 

「だが、このまま何もなしで終わらせるわけにはいかない。それじゃオレの気が収まらねぇ。だから、折半だ。緋の眼の片方はお前らにやる」

 

「か、片方……?」

 

 緋の眼は一対、その眼球は二つある。レオリオはゼンジの言葉の意味を理解して焦燥に駆られる。

 

「じゃあ、もう片方はどうするつもりだ!?」

 

「ここでオレが潰す」

 

 その行為に何の意味があるのかと、レオリオは絶句した。大した意味などない。単なる復讐だ。他人から見れば馬鹿げたことだろうが、人間とは得てして他人からは理解されない馬鹿げたことに心血を注ぐ生き物だ。

 

「本当はそいつの目の前で見せつけながら踏みにじるつもりだったが……それも酷だろう。気絶している今の内に潰してやる」

 

 クラピカに意識があれば到底認めるはずがない。無論、レオリオは反対した。

 

「待ってくれ! こいつにとって緋の眼は生まれ育った一族の形見なんだ! 家族もみんな無惨に殺され、奪われた遺品を必死で集めてきた! どれだけそれが大切な品かわかるだろ!?」

 

「だろうな。そうじゃなきゃ落とし前にならねぇのさ。片方は返してやるって言ってんだ。情けじゃねぇか、これ以上はない」

 

「眼を潰せばクラピカは絶対に許さねぇぞ……! 必ずお前らを殺しに行く!」

 

「あのな、そんな啖呵はオレらの世界じゃガキの脅しにもならねぇよ」

 

 どこまでも冷え切った物言いだった。むしろ怒り狂っていたときの方がまだ状況を覆す余地があったような気さえした。付き合いの長いジンジは、こうなったゼンジが意見を変えることは絶対にないと知っていた。自分の不甲斐なさを恥じ、謝ることしかできずにいた。

 

「緋の眼を寄越せ」

 

 アイクに向けてゼンジが手を差し出す。彼女は諦めたようにとぼとぼと依頼主のもとへ近づいて行った。

 

「頼む! そいつを渡さないでくれ! 約束したじゃねぇか! それはクラピカのもんだ!」

 

「わしはゼンジを治療した上で対価を得られるように説得してみせよと言っただけじゃ」

 

 アイクはちらりとクラピカを見やる。彼はレオリオに背負われたまま、いまだに気を失っている。

 

「誰が何と言おうとこれはゼンジの所有物。売ろうが捨てようが壊そうが持ち主の自由じゃ。説得できなかったのであれば仕方あるまい。それまでの男だったということよ」

 

「テメェ……!」

 

「レオリオ、落ち着いて!」

 

 レオリオがオーラを滾らせる。センリツが隣で宥めようとするが、今にも飛び出していきそうなほど怒りをあらわにしていた。

 

「おぬしらには危害を加えんと約束はしたが、向かって来るというのであれば傷一つ負わせずに眠らせてやる。緋の眼と一緒に安全な場所まで運んでやろう」 

 

 レオリオたちに万が一にも勝ち目はなかった。クラピカは気絶中、センリツは諜報能力に優れるが戦闘力自体は低い、レオリオはまだ一人前を名乗るには程遠い修行中の身だ。マフィアの戦闘員たちを相手にするだけでも苦戦を強いられるだろう。

 

 緋の眼を二つとも取り返すなど夢のまた夢だ。カーマインアームズという巨大な壁が立ち塞がっている。どんな手段を使おうと、この少女二人には通じない。それでもレオリオは懸命に考えた。力で駄目なら別の方法で。

 

「カーマインアームズ……カーマイン……アームズ……?」

 

 必死に思考を巡らせるレオリオだったが、窮地で妙案を思いつくのはクラピカやゴンの役割だった。自分はいつも直情一直線の思考回路しか働かせてこなかったという自覚がある。しかし、そのわずかに紛れ込んだ仲間たちに関する情報が、彼の記憶の底に眠っていた情報とつながりを見せた。

 

「なんだっけ、聞いたことがあるぞ……?」

 

 鎖のようにつながった記憶の輪を手繰り寄せていく。その傭兵団の名前は、ゴンと交わした何気ない会話の中で出てきた単語であることに思い至った。

 

「待った! ストップ! タイム!」

 

 まさにゼンジの手に緋の眼が渡ろうとしていたそのとき、レオリオが大声で制止をかけた。

 

「なんじゃ」

 

「10分! いや5分でいい! オレたちに時間をくれ!」

 

 呆れた言い分だった。まさか通るはずもない。ゼンジは一瞥をくれただけで無視した。

 

「……5分あれば何とかなるのか?」

 

 しかし、アイクがレオリオの呼びかけに応じる。レオリオはぶんぶんと首を縦に振った。

 

「おい、これ以上お前らの茶番に付き合う気はねぇんだ。いいから黙ってろ」

 

「まあまあゼンジさんや、たかが5分じゃ。最後の情け。これで向こうも心の準備が整うじゃろう」

 

 アイクが半ば強引にレオリオの提案を通した。彼は一目散にその場を走り去る。センリツがその後に続いた。

 

「ねぇ、どうするの!? 何かいい案があるの!?」

 

「わからねぇ! それを今から確かめる!」

 

 レオリオは携帯からゴンに電話をかけていた。

 

 

 * * *

 

 

「ぎぶぎぶぎぶ……だんちょおおおぎぶううう!!」

 

 私はルアンにチョークスリーパーをかけていた。

 

 夕食のために仕込んでいたシチュー鍋に謎の薬品を混入しようとした罰だ。今日という今日は許さんぞ。陸に打ち上げられた魚のごとくビチビチと跳ねるルアンを押さえつけ、頚椎をへし折る勢いで締め上げる。

 

 

 ――プルルルル――

 

 

 あ、電話だ。注意がそれ、わずかに緩んだ腕の隙間からルアンは軟体動物のように脱出した。

 

「シャハッ!」

 

 本体を口に咥え、四つ足の体勢で団長室から逃げ去っていく。ひとまず奴のことは放っておこう。私は外線電話の受話器を取った。

 

 はい、こちらカーマインアームズ事務局です。

 

『はあっ、はあっ、も、もしもし!? かーまいん、あっ、クラピカが緋の眼で……』

 

 イタズラ電話かな。私は受話器を置いた。するとすぐに電話が鳴り始める。仕方なくもう一度応対した。

 

『こちらレオリオと申しますがァアーーーーーア!!』

 

 いつものクレーマーかとげんなりした気分になった私だったが、話を聞くうちにそうではないと気づく。なんとこのレオリオという人物はゴンやキルアの友達だった。確かに名前だけなら二人の口から聞いた覚えがある。

 

 レオリオさんはゴンからここの電話番号を聞いたらしい。なんでもアイクとチェルの仕事先にたまたま居合わせたそうで、そこでトラブルが発生したようだ。クラピカというこれまたゴンたちの友達が巻き込まれてしまっている。

 

『頼む! そっちから指示を出してチェルとアイクを止めてくれねぇか!』

 

 話を聞く限り、護衛としてアイクたちの行動に非は見られない。許可なく緋の眼をクラピカに譲り渡すようなことをすれば重大な背信行為だ。所持品の保全まで契約に明記されていないとはいえ勝手に他人の物を譲渡していいわけがない。持ち主であるゼンジに返す以外の選択肢はないのだ。

 

 しかし、その緋の眼という品がクラピカさんにとって代えの利かない大切な物であることも理解できた。直接的な面識はないが、ゴンたちの友人からの頼みを無下にはできない。まずはこちらからゼンジ氏に連絡を取り、何とか交渉できないか話を……

 

『そんな悠長なこと言ってる時間はねぇんだよ! 話が通じる相手じゃねぇ! 早くしないと緋の眼が潰されちまう! あと1分もないかもしれねぇ!』

 

 1分て。交渉する時間なんかない。どうすればいいんだと考えていると、煮込んでいたシチュー鍋が吹きこぼれ始めた。はわわわわわ。

 

『どうか後生だ……依頼料ならいくらでも払う。あいつの形見の品を守ってやりてぇんだ……!』

 

 最終手段を考えるなら、護衛依頼そのものをこちらでなかったことにするという手もある。だが、それは傭兵としてあるまじき行為だ。

 

 特別な理由もなく一方的に契約を解除すれば傭兵団としての信用を完全に失う。まあ、今もそんなに信用があるわけではないが……団の根幹を揺るがす事態になることは間違いない。傭兵を名乗る以上、外聞よりも矜持の問題として容認できない。

 

 ルールを崩さず、それでいてレオリオとクラピカを救う手段とは何か。

 

 残念ながら、そんな都合の良い方法は思いつかなかった。

 

 

 * * *

 

 

 レオリオたちは帰還した。ゼンジの手には、まだ緋の眼は渡っていない。

 

「へっ、どうやら間に合ったみたいだな」

 

「ばかたれ。もう5分なんぞ過ぎとるわ」

 

 レオリオが来るまでアイクが引き渡しを渋って延ばしていたのだ。帰ってきたレオリオの姿は特に何も変わっていなかった。強いて言えばクラピカを背負っていない。その役はセンリツが引き受けていた。体格差の問題で若干、引きずっているが。

 

「すまない、センリツ、レオリオ……」

 

「いいのよ。後は私たちに任せて」

 

 クラピカは意識を取り戻していた。だが、目が覚めただけで体はぴくりとも動かせない状態だった。全身のオーラを使い果たしている。少しでも気を抜けばまた意識を失ってしまうだろう。絶望的な状況に変わりはない。

 

「心は決まったか?」

 

「ああ、ばっちりな。まず一つ目!」

 

 レオリオは勢いよくアイクを指さした。

 

「ゼンジの治療費として緋の眼を渡してもらう。もちろん一対、完品でだ」

 

 ゼンジは鼻で笑って済ませた。到底聞けない相談である。しかし、次にレオリオがゼンジを指さし放った言葉により顔色が変わる。

 

「そして二つ目! これからオレが、お前の腐り切った根性をたたき直してやる。もう二度とくだらねぇ逆恨みで復讐なんざ思い立たないようにな」

 

 これには落ち着き払っていたゼンジも腹に据えかねた。命の恩人の一人であるレオリオの言葉だろうと許せるものではない。彼が合図を送ると組員たちが戦闘態勢に入った。

 

「てめぇが物を知らねぇ青二才だってことはよくわかった。勝ち目がないとわかりながらも歯向かうと?」

 

「確かにオレ一人じゃどうにもならねぇ。だから助っ人を呼んだぜ」

 

 訝し気にゼンジが首を傾げたそのとき、異変はにわかに生じた。アイクの背後に一匹の猫がどこからともなく現れる。その猫は俊敏な動きでアイクの手から緋の眼のケースを掠め取った。

 

『ニャ!』

 

「なっ……!?」

 

 予想外の事態とはいえ武道の達人であるはずのアイクが遅れを取ることなどそうそうない。しかしその猫の念獣は、ある人物が遺した死後の念だった。亜人型キメラアントの護衛軍の一角、この世界の歩む歴史が少しばかり違っていればアイザック=ネテロと相まみえていたであろう強敵。

 

 疾風のごとき身のこなしはアイクをもってしても不意を突かれるほどだった。彼女は瞬時に千百式観音を発動させようとするが思いとどまる。使えば猫と一緒に緋の眼まで破壊してしまいかねない。シズクと共に解毒剤まで粉砕してしまった先ほどの二の舞である。

 

「チェル!」

 

「応――おうっ!?」

 

 アイクはチェルの重力操作に捕捉を任せようとした。そこへ赤い閃光が空を裂きながら肉薄する。チェルが回避した直後、彼女が立っていた場所が砲撃を受けたかのように弾け飛んだ。赤い槍がアスファルトを深く抉りながら突き刺さっている。

 

 よく見れば、それは槍ではなかった。全長2メートルほどの細長い甲虫だ。ナナフシのような形をした赤い甲虫がギチギチと牙を鳴らしている。

 

 チェルはずっと円を展開し続けていた。この甲虫の一撃も接近を事前に察知できていた。その上でギリギリ回避が間に合うかどうかという凄まじい速度の攻撃だったのだ。この虫を“誰が投擲したか”チェルとアイクには心当たりがあり過ぎた。

 

「なぜおぬしがここにおるのじゃ、メルエム……!」

 

 濡れた大地が蠢いた。大きさ1ミリ程度の赤い蟻の大群が地を埋め尽くす勢いで押し寄せてくる。その群れを踏みつけながら一人の少女が姿を現した。赤と黒を基調としたドレスのスカートをつまみ、優雅にカーテシーを披露する。遠目に見れば美しさが目立つ姿も、近づけばそのドレスが何でできているかに気づき恐怖することだろう。

 

「仕事だ」

 

 緋の眼を奪った猫はメルエムの足元に駆け寄っていた。彼女の放つ円がチェルの円と拮抗する。せめぎ合うように二つの円がぶつかり合い、歪な境界面が発生する。だが、メルエムにとってこれは挨拶程度の牽制だった。本気を出せば周囲数キロを円の支配領域に取り込む事が可能である。

 

 チェルは動きを封じるために重力操作を行使する。敵を円に取り込まずとも目視できる範囲なら問題なく発動できる。しかし、放たれた魔眼の重圧は見えない力にぶつかったかのようにあらぬ方向へと逸らされた。

 

「そのような児戯で余をひざまずかせようとは、笑止」

 

 メルエムは特別な技を使ったわけではない。凝によりメルエムに視線を合わせようとしたチェルをただ睨み返しただけだった。その絶対的強者の気迫がチェルの生物本能に働きかけ、無意識の内に視線の焦点を逸らす結果となった。

 

 この怪物を超えた怪物がなぜこの場所にいるのか。先ほどのレオリオの強気な態度を見ればおおよそのことは推測できた。レオリオの言う助っ人とはメルエムのことだ。カーマインアームズに渡りをつけた彼は、アイクとチェルを止めさせることはできなかったものの、代わりに強力な助っ人を派遣してもらったのである。

 

 メルエムは自分の細胞が一つでも存在する場所であれば、そこに本体の位置を設定し、1キロ圏内に念人形体を瞬間移動させることができた。瞬間移動系の念能力者を食って得た能力を応用したものである。チェルたちの体内に忍び込ませていた細胞を基点とすれば母艦からでも一瞬でここまで来れた。

 

 別にピトーを使って緋の眼を奪わせずとも、メルエム本人がアイクの背後を取ることすら可能だった。むしろその方が簡単だっただろう。わざわざこのような回りくどい登場の仕方をしたのはレオリオとアイクたちに対する最低限の配慮である。

 

 かくしてメルエムは来た。レオリオはメルエムの助力を得て、アイクとチェルは全力で護衛任務を遂行する。これなら理論上は契約違反に当たらない。二つの難題を両立させたクインの采配だった。チェルたちの脳裏には、良い仕事したと汗をぬぐうクインの顔が思い浮かんだ。

 

「んなわけあるかああああ!! 何やってんだよ団長ォオオ!?」

 

「ふぁっく!」

 

 誰がどう考えても詭弁である。特に、最終兵器と戦わせられるアイクたちからすればたまったものではなかった。

 

「よっしゃあ! とりあえず緋の眼は確保だ! 次は戦闘の方をよろしく頼むぜ!」

 

「ふむ、久々に喉が鳴るな。何せ、あやつらの脳みそはいくら食ってもなくならない」

 

「鬼! 悪魔! キメラアント!」

 

 いきなり現れたメルエムとその強さには驚かされたが、正直ここまで事がうまく運ぶとは期待していなかったレオリオはガッツポーズを取る。メルエムが放つオーラは人間一人に扱える次元を超えているとしか思えないほどだった。

 

 彼女が操る膨大な数の虫の一匹に至るまで規格外のオーラが込められていると一目でわかる。敵ならば絶望するしかない相手だが、味方ならこれほど心強い存在はない。それに対するアイクは覚悟を決めた様子でオーラを研ぎ澄ました。

 

「こうなればこちらも死力を尽くすまでよ。わしが目指した武の極みとは、敗色濃い難敵にこそ全霊をもって臨むこと。見せてやろう、千百式の千百を」

 

 ただの気迫、何ら害意も込められていない自然体のオーラがそこに存在するだけでアイクの周囲に破壊痕を刻み付け始める。それは呼吸から生ずる心臓の鼓動、その活力は血と混ざりあい、全身に行き届く生命の音色。それら命の働き全てが勁となり体内に収まり切れず溢れ出す。力をぶつける相手を探すように大気を走る。

 

「やべぇ! こいつらが戦ったら地形が変わる! みんな逃げろぉ!」

 

 チェルがマフィアたちを逃がすために声をかけた。ついでに自分も逃げようとした彼女の首根っこをアイクはつかんで引き留める。アイクの表情は煩悩を払拭したかのような厳かなオーラに満ちつつも、道連れの逃走を見逃しはしなかった。

 

 アイクの戦意を目にしたメルエムは不敵にほほ笑んだ。メルエムにとってアイクは正面から本気で戦いを挑み続けてくる数少ない敵(とも)と言えた。それを除けば軍議友達の少女くらいしか他にいない。悪い気はしなかった。

 

「よくさえずる老兵だ。すぐにそんな元気も出なくなるほど遊び倒してやろう……

 

 

 と、言うとでも思ったか、愚か者」

 

 メルエムは張り巡らせていた殺気を解いていた。



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102話

 

「何、してんだ……?」

 

 レオリオは我が目を疑った。メルエムの足元で、機械仕掛けの猫が何かを食らっている。そのすぐそばでは割られた樹脂ケースから内容液がこぼれ出ていた。

 

「何を……!」

 

「見てわからんのか。エサをやっている」

 

 メルエムはまるで動じない。念獣の猫がもう片方のケースに鋭い爪を突き立てる。羊水に浮かぶ胎児のように、ケースの中で緋色の瞳が揺れていた。

 

 ピトーは緋の眼を食った。そして残された片眼をも口に入れようとしている。あまりの事態にレオリオは言葉を失い、立ち尽くしていた。

 

「は、話が違うぞ! お前はオレの助っ人として……」

 

「我ら傭兵団が受けた依頼は『ゼンジ=ヴェンディッティの護衛』だ。ゆえに余がここに来た理由は一つ。そこで手をこまねいている能無しどもの交代要員だ」

 

 メルエムの目は同じ傭兵団の仲間たちへ向けられていた。アイクは静かにたたずみ、チェルはメルエムに敵意さえ含んだ表情を向けている。

 

「なぜ“こう”しなかった? たかが護衛の分際で、余計な私情を挟む必要があったか?」

 

「余計な不和を招く必要もねぇだろ!」

 

「雇い主のために最善を尽くすのが傭兵だ。敵にほだされ、踊らされ、誰のために戦うべきかも定まらぬ。今の貴様らにこの仕事は務まらん」

 

 先ほどまでは打って変わり、メルエムへ飛びかかろうとするチェルをアイクが引き留めた。

 

「よい。わしらはここでお役御免じゃ」

 

「でも……!」

 

「これが団長の判断というのであれば是非もないこと」

 

 なぜこんな事態になってしまったのか、レオリオは大きな混乱の最中にいた。確かに傭兵団の団長であるクインと約束したはずだった。ゴンの話からしても彼やキルアの友達であることは間違いない。だから信用に足る人物だと思ってしまった。

 

 だが、実際には騙された。裏切られた。

 

 先に契約を交わしたのはゼンジであり、その任務を優先することは傭兵として見れば間違っていないのだろう。結局のところクインは友人のつながりよりも、仕事を取ったのだ。傭兵は金で動く。友情よりも確かな契約に基づく報酬を選ぶような連中だった。

 

 世の中を、人を動かすのはいつも金だ。レオリオの心中に、沸々と煮えたぎるような怒りがこみ上げる。

 

「返せよ……その緋の眼! 片方はオレたちのものだ!」

 

 一つは潰されてしまったが、まだもう片方が残っている。もともとゼンジから片方だけは譲ってもらえるという約束だった。今は潰された眼のことを気にするより、何としてでも無事な方の緋の眼を死守しなければならない。

 

「違うな。お前はゼンジから差し出された条件を自ら蹴った。一つ手に入った時点で満足して引き下がればよいものを、飴玉を欲しがる子供のようにそれもこれもと欲をかくから全てを失うことになる」

 

 メルエムは素直に渡すようなそぶりを一切見せない。その言動は明確な拒絶を表している。

 

「やめてくれ……」

 

 消え入るような言葉を発したのはクラピカだった。意識を保っているのもやっとの状態である彼には、もはや懇願することしかできなかった。青ざめた表情で見つめる先には、まるで見せつけるかのように緋の眼を口に咥えたピトーがいる。

 

「くだらん。死人の目玉ごときに何を拘る。命の抜けた遺骸など、いつか土に還り消えゆくもの。浅ましい生者の執着がこの形を留めているに過ぎん。こんなものは」

 

 猫にでも食わせてしまえ。

 

 ピトーは口を閉じた。ゼリー状の汁気をまき散らして眼球が潰れる。味わうように咀嚼される。地面にこぼれた汁まで丁寧に舌で舐めとって食らい尽くした。

 

 クラピカは村を旅立ったその日から、必ず仲間の眼を取り戻して弔うことを心に誓った。その誓いを果たせぬまま、一人の眼は永遠に失われる。

 

 その無念に苛まれ慟哭する。ここまで感情を取り乱した彼の姿をレオリオもセンリツも見たことがなかった。仇である旅団を相手取るときでさえ、怒りの色で眼を染めながらも凛とした態度を崩さなかった。

 

 やがてこと切れたように彼は意識を失った。降りしきる雨音を残して静寂に包まれる。ゼンジは鬱屈した感情を吐き出すように大きく息をついた。晴れやかとは言えないが、ようやく胸のつかえが取れたような気分だった。

 

「よくやった、カーマインアームズ。契約の期間は三日の予定だったが、これで完遂したものとみなす。もう自由にしていい。約束の金は指定の口座に振り込んでおく」

 

 ヴェンディッティ組は黙々と引き上げ始めた。ジンジは残ろうとしたが、組員に促される形で車へ乗せられる。彼自身情けなく思いながらも、かける言葉が見つからない心境だった。

 

「センリツ、クラピカのことは任せた」

 

 レオリオは懐から折り畳み式のナイフを取り出し、構えていた。そんな武器で何かできるとは思えない。彼の心中を埋め尽くす感情は敗北感だった。

 

 これまで勝てないと思った相手はいくらでもいた。中には死を覚悟するような実力者もいた。だが、これほどまでに負けを確信させられたことはない。見ただけで精神が折れてしまうレベルのオーラとその異質さに圧倒される。まるで巨獣の足に押さえつけられているかのように身動きが取れない。

 

 だが、その人間の域を凌駕したオーラを前にしても彼の戦意が失われることはなかった。硬直の封印を解くようにナイフを振り払う。その姿に、初めてメルエムは興味を示す。

 

「待って、レオリオ! その人は――!」

 

 センリツの制止を振り切り、レオリオは駆けた。どれだけの実力差があろうと関係ない。友のために、その心を踏みにじった敵を許してはおけなかった。

 

 そして、敵を目前とした彼の視界は闇に包まれる。スイッチが切れるように意識が暗転した。

 

 

 * * *

 

 

 ヨークシンシティは朝を迎える。日は既に高く現在は午前11時、昨日の疲れのため休んでいたクラピカは起き上がれるくらいには体調が回復していた。宿泊していたホテルのロビーへと降りていく。

 

「おう! もう体の方は平気なのか?」

 

 ロビーではレオリオがソファに座って新聞を読みながら待っていた。その周りでは三人の少女たちが思い思いにくつろいでいる。装いは昨夜と変わっている。

 

 チェルの恰好はダメージありありのTシャツデニム姿で足元はブーツ、首からはドッグタグをぶら下げている。そこまではまだ擁護できるとしても毒々しいカモ柄コートが全てを台無しにしていた。センスだけでなくティーン向けとは程遠いファッションが壮絶に素体の味と噛み合っていない。

 

 アイクは落ち着きのあるカジュアルなブラウス、スカートのコーデにキャスケットのアクセントを添えた白系のガーリーファッションで、予想外の着こなしを見せている。モデルとしてそのまま紙面を飾っても何ら違和感のない完成された装い。チェルにも言えることだが、本体を入れるためのバッグを持っている。

 

 メルエムはモノクロ調ゴシックアンドロリータである。装身具の一つに至るまで、ヨークシンに一件しかない専門店で買い求めた珠玉の逸品だ。金がかかっているだけでなく意識レベルからして洗練されたその着こなしはファッションというよりファンタジーの域に達していた。

 

 これら服装の費用は全てレオリオの財布から出されたものだった。荷物持ちまでやらされている彼の傍らには多くの包みが積まれていた。クラピカはその奇妙な一団を横目に見ながらレオリオに応対する。

 

「ああ、問題ない。もう大丈夫だ」

 

「嘘ばっかり。本当は無理してるのよ。後でちゃんと休ませるから今は大目に見てあげて」

 

「クラピーの看護はあたしに任せてよね!」

 

 センリツがクラピカの状態について補足を入れる。その隣に付き添っているキャバ嬢のような女が合いの手を入れるが、レオリオは誰だこいつはと胡乱げな目を向けていた。

 

 彼女はキャロリーヌ・モリス。クラピカに傷の治療をしてもらったことで愛に目覚めただのほざき始めた彼女はいまだにこの場所に留まっていた。それどころかノストラード組に入れて欲しいとまで言ってくる始末だった。

 

 クラピカは昨夜の一件の後、ショックと疲労で他人に構っていられるような状態ではなかったのだが、あまりにしつこく泣きついてくるキャロルを仕方なく治療した。本音を言えば、さっさと帰ってほしいと思っている。

 

 さらにキャロルだけでなくゼンジ護衛チームの一人であった蝙蝠までもがクラピカにノストラード組で雇ってほしいと申し出てきた。その蝙蝠はというと現在、ロビーでバルーンアートを作ってアイクに渡している。

 

 本当はカーマインアームズに入団したかったらしいが、チェルに速攻で生理的に無理と拒絶されたので、じゃあノストラードに入りますとなったらしい。じゃあってなんだよ……本当に帰ってくれないかとクラピカは切に思っていた。

 

 しかし二人とも念能力者としての実力は相当なものがあるので、人材不足気味のファミリーとしては雇い入れることも条件次第ではやぶさかでなかった。ひとまず、変なことをしたら殺すことを宣告した上で二人の心臓に『律する小指の鎖』をぶちこんでいる。

 

「まあ、いいや……それじゃこれ、渡しとくぜ」

 

 レオリオはアタッシュケースをクラピカに手渡す。その中には一対の緋の眼が無事に収められていた。

 

 それは昨夜、確かに念獣に食われた緋の眼だった。その犯人たるピトーはメルエムの腕の中にだっこされている。『玩具修理者の腕(Dr.ブライスMK.Ⅱ)』の名を持つその猫は、生物体の修理改造能力を持っている。死人を生き返らせるようなことまではできないが、破損した眼球を元の形に戻す程度のことは可能だった。

 

 ゼンジの復讐心を発散させるため、ピトーを使ってメルエムが一芝居打ったのだ。ゼンジも含め、クラピカもレオリオもまんまとその思惑に乗せられてしまった。逆に言えば、嘘偽りない反応だったからこそゼンジもクラピカの姿を見て溜飲を下げたのだ。

 

 ちなみにこれはクインの指示ではない。クインがしたことはメルエムを送り込むところまでで、後は全てメルエムのアドリブだった。しかし、そのおかげで円満にこの一件を解決できたとも言える。

 

 緋の眼落札のためにオークションにかける費用として用意した大金も支払わずに済んだ。ヴェンディッティ組に20億の謝罪金を払うと約束したが、緋の眼の引き渡しが成立しなかったことでその話もうやむやになった。

 

 むしろ若頭のジンジから詫びの一報が届いたくらいだ。これでヴェンディッティ組との確執は完全に解消されたものと考えていいだろう。

 

 幻影旅団と遭遇しながらも誰一人仕留めきれなかったことは残念だったが、旅団の戦闘光景を実際に観察することができた。その戦い方や能力についても大きな情報を得られたと言える。

 

 また、旅団がクラピカの能力について一定の情報を得ているということも知ることができた。この情報を知っているのと知らないのとでは今後の行動に伴うリスクが全く異なってくる。

 

 そして最大の収穫は緋の眼を手に入れることができたことだ。当初の目的であったとはいえ、込み合った様々な問題の数々を経てここまで至る道のりは生半可なものではなかった。損失らしい損失は出なかったが、飛び切りの労力を要したことは間違いなかった。

 

「恩に着る」

 

「水臭いこと言うな。そもそもオレはあんま役に立たなかったし……まあ、なんだかんだでコイツらが頑張ったおかげなんじゃねぇか?」

 

 役に立たなかったなどとんでもない。レオリオの協力がなければ立ちいかない事態に直面していただろう。そして彼がコイツらと称したカーマインアームズの面々についても同じことが言えた。敵対されてもおかしくない関係だったにも関わらず、最終的にはクラピカの味方になってくれた。

 

「感謝する。謝礼金については……」

 

「それはもういいって! お前、ことあるごとに金金言ってないか?」

 

「誠意を形として示すことも大事なことだ」

 

「そうだけどさ……」

 

 金で雇われることを生業とする傭兵にしては謙虚というか歯切れの悪い態度をチェルは見せた。いずれにしてもこの傭兵団を普通の傭兵とひとくくりにして考えるのは無理があるのかもしれない。

 

「おぬしたちはゴンとキルアの友達だったようだし、依頼料も初回限定お友達特価じゃ。今回の依頼の報酬はそこのグラサンに払わせるゆえ気にする必要はないぞい」

 

 メルエムの貸し出し料としてクインはレオリオに『三人娘の今日一日お世話係』を頼んでいた。そのくらいなら安いもんだと安請け合いしたレオリオだったが、早朝から叩き起こされて買い物に付き合わされた彼は早くも後悔し始めている。

 

「この後はすいーつのうまい店あたりを食べ歩きしたいところじゃのう」

 

「ふん、既に目ぼしい店は調査済みだ」

 

「お前どんだけ食べたかったんだよ、このガイドブック付箋の貼り込みが半端ねぇ……」

 

 スイーツ!スイーツ!と騒ぐ子供に腕を引かれるレオリオの姿は休日に家族サービスをねだられるお父さんさながらだった。そのくたびれ具合も酷似していた。

 

「だーっ! わかったから別れの挨拶くらいゆっくりさせろ!」

 

 纏わりつく少女たちを振り払ってレオリオは佇まいを正す。

 

「じゃあな。なんかあったら連絡くれ。話くらいはいつでも聞いてやるからよ」

 

「ああ、その時は頼りにする」

 

「……いや、やっぱ信用できねぇ。お前のことだからどうせ全部ひとりで抱え込もうとするに決まってるぜ。だから抜き打ちで無理やりにでも顔を出してやる。覚悟しとけよ」

 

 敵わないなとクラピカは苦笑した。得難い友の背中を見送る。今年もまた、ヨークシンシティの大競り市は閉幕した。連日に渡り降り注いだ雨模様は消え失せ、一夜の夢から覚めた灰色の街は晴天の空の下にあった。

 

 

 * * *

 

 

 

 

 

 完全な余談だが。

 

「そういやさぁ、もしアイクとメルエムがガチでバトッてたらどうなったんだろうな」

 

 有名フルーツパーラーにやって来た一向はデザートバイキングを堪能していた。レオリオだけは何やら店員と話し込んでいる。

 

『見ろ、あの美少女三姉妹を。通行人も思わず足を止めるくらい絵になってるだろ?』

 

『はぁ、そう、ですね……』

 

『集客効果抜群だぜ。そのためにわざわざテラス席に座らせたんだ。つまり、わかるな?』

 

『いや、これ以上のお会計の値下げはちょっと……』

 

 食べ放題プランをさらに値切ろうと食い下がるレオリオと、フードファイトでもしに来たのかという勢いで次々にスイーツを平らげていく少女たちに店側は困り果てていた。

 

「昨夜のことか? まあいかにメルエムとて、わしとチェルの最強コンビネーションプレイでボコボコにされておったじゃろうな」

 

 アイクが素手でショートケーキを貪りながら答える。テーブルに肘をついて行儀悪く指についたクリームを舐めるアイクとは対照的に、メルエムは高級レストランにでも来たかのようにエレガントなマナーを守っていた。堅苦しいとも言える。

 

 アイクの挑発にも乗らず、自分のペースで食事の手を止めたメルエムはナプキンで口元を拭いてから答える。

 

「その未来、知りたいか?」

 

 メルエムの能力『過去視』の応用により、起こり得た過去の可能性を洗い出すことで『分岐した世界』を再構成することができる。あくまで仮定でしかなく、また過去の出来事を追体験する形で見ることができる能力に過ぎないのであまり役には立たない。

 

「それ、おぬしにとって都合の良いただの妄想なのでは?」

 

「真実はお前たち自身の目で判断するがいい。フラッシュ!」

 

 メルエムの手から放たれた光子状のオーラが眩い光となってアイクたちの網膜に焼き付けられる。そのオーラから転写された膨大な情報が二人の脳を侵略した。アイクは目を見開いたまま死体のように椅子の上でだらけ切り、チェルはテーブルに突っ伏して食べかけのモンブランを顔面で押し広げた。

 

 光を見ただけでありもしない過去の世界に誘われてしまうこの能力、役に立たないと言うにはいささか語弊のある代物だった。沈黙した二人をよそに、メルエムは優雅に中断した食事を再開していた。

 

 

 

 

「なぜおぬしがここにおるのじゃ! メルエム!」

 

 深夜の闇、土砂降りの雨、昨夜の状況が再構築されていく。ヴェンディッティ組の者たちやクラピカやレオリオの姿も当然のようにあった。アイクとチェルはこの光景がまやかしであることを理解しながらも、自分の身体が意思によらず自動的に動かされる状態に戸惑いを覚える。

 

「鬼! 悪魔! キメラアント!」

 

「こうなればこちらも死力を尽くすまでよ。わしが目指した武の極みとは、敗色濃い難敵にこそ全霊をもって臨むこと。見せてやろう、千百式の千百を」

 

 だが、慣れてしまえば映画を鑑賞するように楽しめた。臨場感は比較にならない。何せ本当の現実のように肉体の感覚までもが再現されている。戦いになれば疲労や痛みなどの感覚も味わわされることになるだろうが、アイクにしてみればそれもまた面白く感じる。自分の戦闘をこれほど客観的に観察できる機会もそうはない。一方、チェルは夢なら覚めてくれと懇願していた。

 

「よくさえずる老兵だ。すぐにそんな元気も出なくなるほど遊び倒してやろう……」

 

「でも、相手は二人だぜ。本当に全部任せて大丈夫か?」

 

 レオリオが心配するような声をメルエムにかけた。そこで少し不機嫌そうな顔を見せるメルエム。レオリオは純粋な気遣いを向けたのだろうが、それが彼女の気に障った。

 

「余の力では不服と申すか。まあ、依頼人の不安を拭うのも仕事のうちか……ならば見せよう。余の新たな力を」

 

 見せなくていいですというチェルの声を無視してメルエムは跳躍した。

 

「ゆくぞ、ピトー」

 

『ニャン!』

 

 空高く飛び上がったメルエムに続き、猫の念獣が後を追う。だが、ピトーはジャンプしながらバラバラに分解してしまった。もともとブリキのおもちゃのような外見をしていたのでバラけ散ってもグロテスクなことにはならなかった。

 

 そのパーツがメルエムの身体に吸い寄せられる。元はキメラアント護衛軍ネフェルピトーの強大な念が死後強まりさらに強化された念獣である。我が身を分解し、改造することで主の力となるため鋼の鎧と化した。

 

 ゴスロリ服を補強するようにパーツが組み合わさっていく。それは守りというより攻めのための鎧だった。特に目立つのは三節棍のような構造をした刺々しい尾、そして両腕を保護する長大な鉤爪。その腕部には片方ずつ、取り込まれた緋の眼のケースがおどろどろしい管でつながれていた。

 

 クルタ族の眼に宿る潜在的な能力を解析したピトーはその力を取り込んでいる。六系統全ての相性を最大まで引き出されたメルエムのオーラはさらなる高みへと至る。その力に呼応するように緋の眼が妖しく発色した。

 

 そして、最後の仕上げにメルエムの頭部に猫の付け耳が装着される。様式美である。変身を終えたメルエムが着地すると同時に、光のオーラが後方からその全貌を照らし出した。爪を交差させ、雄々しくポーズを決める。

 

「刮目せよ、これが」

 

 

“ゴシックアンドロリータアンドパワードスーツ『NEFERPITOU』スカーレットアイズモード”

 

 

『ニャオオオオオオン!!』

 

 その雄姿とほとばしる計り知れないオーラを前にして、戦いに臨む二人の少女が浮かべた表情とは。

 

 それはそれは見事な真顔だった。

 



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天空闘技場編
103話


 

 天空闘技場。ミンボ共和国の東に位置するこのタワーは、地上251階、高さ991メートルを誇る世界第4位の高層建築物である。この場所では毎日のようにある興行が催されていた。

 

 タワーの玄関口には人の群れが長蛇の列を作っている。それら全て、観客ではなかった。興行の主役となる一攫千金を目指して集まった闘士たちである。一日に平均4000人もの世界各地の腕自慢がこの地を訪れ、闘いに明け暮れていた。

 

 人はその場所を野蛮人の聖地、格闘のメッカと呼ぶ。肌寒い風が吹き抜ける晩秋の頃、天空闘技場前は肉体を誇示するように薄着姿の屈強な男たちがひしめき合い、むんむんと息の詰まる熱気に満ちている。

 

 そんな男たちの中に場違いにも紛れ込んだ少女が一人いる。くすんだ金髪のショートヘアはセットをさぼったのか癖っけでまとまりがない。マウンテンパーカーにクライミングパンツというアウトドアスタイルの服装である。それだけならどこにでもいる普通の少女という印象しか受けないだろう。

 

 場違いさを除いても少女の姿は異彩を放っていた。大きな箱を背負っているからだ。直方体の黒い箱は長さ150センチ程度、子供一人くらいなら中に納まる大きさだった。その正面には赤暗色に鈍く輝く精緻な彫刻が施されている。

 

 十字架と髑髏をモチーフとしたその装飾彫刻は不気味ながら目が離せなくなるような真に迫ったものが宿っていた。『τὸ κίνητον ἀκινοῦν』と、十字架の周囲には見慣れない文字が彫られている。

 

 材質は不明ながら大きさからして相当の重量があるように見えるが、少女は軽々と背負っている。周囲から訝し気な視線を集めるが、奇抜な恰好で観客の気を引こうとする闘士は珍しくもないので声をかけられることもなかった。

 

 子供だからと言って帰るよう諭す者もいなかった。金を得るために子供が闘士を目指すことは稀にある話で、そして大抵の場合は大怪我を負って塔から叩き出されることになる。勝つことを目的として集まった闘士たちにとって、たとえ子供だろうと親切に獲物を逃がしてやる義理はない。

 

 闘士として申請書類にサインすればいかなる理由で負傷しようと、“不慮の事故”で死亡しようと誰も責任を取ってはくれない。1ジェニーの補償もない。一応、未成年には事前に説明されるが年齢制限は特にないという制度がこの場所の無法さを物語っていた。

 

「天空闘技場へようこそ。こちらへ必要事項をお書きください」

 

 ようやく列が消化され、少女は受付の前まで来た。用紙にプロフィールを書くように言われる。少し悩みつつも、すらすらと書いていく。

 

 

 ――――

 

 名前:キネティ

 生年月日:1988年1月18日

 闘技場経験:なし

 格闘技経験:3か月

 格闘スキル:なし

 

 ――――

 

 

「あなたの番号は1074番になります。場内アナウンスで呼び出されましたら速やかに指定のリングまで来てください。それでは健闘を祈ります」

 

 通路の奥へと足を運ぶ。広い闘技場が見えてくる。それを取り囲む観客席は1万人規模を収容できるほどだった。しかし、ここはまだ塔の1階。ギャラリーの血を沸かせ、白熱させるような試合は期待できない。席に座る人間は参加待ちの闘士と、泥仕合を見に来た物好きな観客で占められていた。

 

 闘技場を区切るように設置された16のリングの上で試合が同時進行されていく。そうでもしなければ集まった闘士を捌ききれないからだ。血気盛んな男たちは放り込まれたリングの上で殴り合う。グローブもない。

 

 流血沙汰は当たり前、殴った拳までも傷つくような危険打を容赦なく顔面に叩き込んでいく。審判はいるが止めに入る様子はない。負けた闘士は大抵が失神して担架で運ばれていく。観客たちは勝った闘士の雄姿よりも、負けた闘士の無様さを見て楽しんでいるようだった。

 

 その様は見世物にされる剣闘士(グラディエーター)だ。非人道的、残酷と罵られても否定はできない光景だが、この場所ではそんな非道がまかり通る。

 

 天空闘技場の観客動員数は年間10億人を超える。動く金は計り知れない。この国にとって不可欠の観光資源となっている。活きの良い闘士を集めるためにファイトマネーも膨大な額だった。この塔は血と金を吸い上げ、空高く育つに至る。

 

 観客席に座ってぼんやりと試合を眺めるキネティもまた多くの闘士と同じ理由でここへ来ていた。つまり、金のためである。

 

 傭兵団カーマインアームズは慢性的な資金難に見舞われていた。団長クインの営業活動も海千山千の経験を積んだ同業者たちを相手にうまくいかないことの方が多い。傭兵団としては新参者、順調に金を回せるようになるには時間がかかる。

 

 クインはこの状況を何とかしようと苦心していた。『簡単 誰でも 高収入』でネットを検索し、いかがわしいサイトに翻弄されながらもついに有力な情報を得る。それが天空闘技場だった。年齢、性別、資格技能問わず登録でき、高層階の闘士となれば一戦のファイトマネーが億を超えるという。

 

 当初、クインはすぐにアイクを天空闘技場へと送り込もうとした。一応、賞金首なので素顔を晒すのはまずいと思い、アイクには謎のマスクマンに扮してもらった。

 

 しかし、アイクやチェルには傭兵戦闘員としての仕事がある。クインを始めとする裏方も雑多な仕事に追われている状況の中、そこで白羽の矢が立ったのがキネティだった。見習いでありまだ仕事を任されたことがなかった彼女だが、最近ようやくファミリーネームを継げたこともあって、初任務として天空闘技場へ送られることになった。

 

 金を得られるだけでなく修行にもなって一石二鳥である。危険を伴うとはいえ、彼女が“いつもやっている修行”に比べれば安全だろうと判断された。

 

 任務と言っても傭兵稼業の研修のようなものとキネティは捉えている。とはいえ、本来の目的である資金調達も疎かにはできない。クインからは無理をしない範囲で体に気を付けてお金をいっぱい稼いできてねと、地味にゲスいことを言われている。

 

 かくしてキネティはクインからマスクを託され、この地を訪れることになったのだった。マスクは荷物の中だ。キネティの面は割れていないので隠す必要はない。

 

「1074番・1060番の方、Gリングへどうぞ」

 

 物思いにふけっていたキネティは自分の番号が呼ばれたことに気づいて席を立つ。武器の使用は認められないらしいので、背負っていた箱はリングの横に置いた。

 

「ぶっひゃっひゃ! なんだそりゃ、自分用の棺桶でも担いできたのか!?」

 

 対戦相手の男が大笑いしている。冗談で言ったつもりなのだろうが、その発言はまさしく正鵠を射ていたためキネティは特に反論しなかった。そうこうしているうちに審判が説明を始める。

 

「1階で行われる試合では入場者のレベルを判定します。勝利した闘士にはその戦闘力に応じた階層へ上がってもらいます。良い試合結果を出せれば一足飛びに上階への入場も認められます。制限時間は3分間、自分の実力を示してください」

 

 要するに、テストである。審判はただ見ているだけだ。1階における全ての試合はとにかく数をこなすことに重点が置かれ、流れ作業のように処理されていく。

 

 キネティと対戦相手の男はリングの上で向かい合った。子供と大人、女性と男性、その体格は言うまでもなくかけ離れていた。加えて男の方は見るからに荒くれ者といった風貌をしている。小汚いが、腕っぷしだけは自信があるとわかる肉体だった。

 

 観客席から飛んでくる野次と嘲笑は、その多くがキネティへと向けられていた。誰が見ても勝敗は明らかな試合。観衆の関心は、どのように彼女が打ちのめされるのか、その無様な姿を想像することに尽きた。

 

 審判は感情を挟まず淡々と試合開始の合図を告げた。しかし、ごろつきの男はすぐに動かず、何かを思案するようなそぶりを見せた。

 

「うーむ、これは困った。オレの実力を見せつけるには相手が弱すぎるぜ。これじゃオレの正確な強さをアピールできねぇじゃん。なあ、審判?」

 

 男は審判に問いかける。まるで対戦相手など眼中にないと言わんばかりの余裕の態度である。その隙に素早く接近していたキネティの動きに全く反応できない。ただし、仮に万全の注意を払っていたとしても結果は変わらなかっただろう。

 

 キネティの拳が男の顎に打ち込まれる。衝撃は歯を砕きながら脳へと突き抜けた。脳震盪により男の身体が崩れ落ちる。

 

「お、おごっ……! ひほうは、はへほ……!」

 

 だが意識を奪うには至らなかったのか、這いつくばった体勢から必死に起き上がろうと体を震わせている。キネティは片足を頭上まで高く振り上げる。その柔軟な脚の動きから繰り出されたかかと落としが対戦相手の頭に叩き込まれた。後頭部から襲い掛かる蹴りと地面に打ち据えられた顔面の衝撃に挟み込まれ、今度こそ気絶する。

 

「……はい、良い試合でした。1074番の方、50階への入場を許可します」

 

 審判が試合内容を記したチケットをキネティに渡す。会場には小さなどよめきが沸いていた。不意打ち気味の攻撃だったが、観客は素人でもキネティの動きからして只者ではないとわかった。

 

 目の肥えた観衆の中には、掃いて捨てるほど集まった1階の闘士の中にごく稀に混ざる強者の気質を感じ取る者もいる。先ほどまで嘲笑の的だったキネティは一転して賞賛の歓声を浴びていた。何人だろうと勝者は称えられ、敗者はゴミのように見捨てられる。この塔に蔓延る明快な真理だった。

 

 掌を返したような観客に反応を示すこともなくキネティは闘技場を後にする。勝利を喜ぶ感慨はなかった。今の対戦相手が少しばかり喧嘩が強い程度の素人であることはわかる。むしろ一撃目で確実に昏倒させられなかったことを悔やんでいた。

 

 いきなり50階へ行けと言われたが、まだこの塔のシステムを理解していないキネティには自分に下された評価がどの程度だったのか判断できない。そのあたりの基本的な知識については配布されていたパンフレットを見て確認した。

 

 この塔は10階単位で闘士がクラス分けされている。今のキネティは50階級の闘士ということになる。ここで1勝すれば60階級へ昇格し、1敗すれば40階級へ降格する仕組みだ。200階までは共通してこの制度が適用される。

 

 ひとまず先ほどの試合のファイトマネーを受け取りに向かったキネティは、窓口で152ジェニーを手渡された。そこまで期待はしていなかったとはいえ予想通り過ぎた現実に少しだけ気落ちする。たったこれだけの金額をご丁寧に封筒に入れて渡すのは止めて欲しかった。

 

 だが、1試合目を怪我もなく終えたキネティは今日中にもう1試合予定が組まれることになると受付から告げられる。50階級で勝てば5万ジェニーくらいもらえるらしい。100階で勝てば100万、150階で勝てば1000万、200階一歩手前の190階クラスなら2億という法外なファイトマネーが手に入る。

 

 200階以上になるとなぜか賞金はなくなるらしい。理由はよくわからなかったが、とにかく190階級と180階級を行き来しているだけで一生どころか数代遊んで暮らせる金が手に入る。そんな馬鹿なと怪しまずにはいられないキネティだったが、年間10億人の観客動員数とそれが生み出す経済効果を考えればどうにかなってしまう滅茶苦茶な現実があった。

 

 選手呼び出しがあるまで控室で待機するように伝えられる。その前に背中の『箱』を保管できる場所はないかと受付に尋ねたところ、荷物の預かり所の場所を教えてもらえた。190階級以下の試合では武器の使用が禁止されているため、キネティのように武器を預けたい闘士も少なからずいるようだ。当然、有料である。割安の貸しロッカーもあるが、大きさの問題でキネティの箱は入らない。

 

 天空闘技場は観戦をメインとしてサービス用の様々な施設が完備された複合型興行施設となっている。観客だけでなく闘士のための設備も多い。下位闘士専用の格安カプセルホテルもあるようだ。

 

 この周辺は連日押し寄せる客によってホテルの空き部屋がなかなか出ない。中心街から外れた安宿でも予約なしの飛び込みなら1泊5万くらいは見積もらないといけないようだ。当然のように賃貸も高く、闘士にとって住居探しは切実な問題である。

 

 稼ぎに来たのにわざわざ高い外の宿に泊まりに行くこともあるまいと、キネティは塔内のホテルに泊まることに決める。ちなみにカプセルホテルがどんなものなのか知識はなかった。

 

 前途多難だが“出稼ぎ”と“師から与えられた課題”をクリアするまではおめおめと帰れない。気を引き締めて選手控室へ向かうのだった。

 

 

 * * *

 

 

『なんという強さだキネティ選手ー! 情け無用の滅多打ち! クリーンヒットを重ねていく!』

 

 50階級戦、新人闘士キネティV.S.双剣術士レゴルスの試合は無惨なワンサイドゲームと化していた。試合直前に公表された賭けのオッズから見ればレゴルスに大きな分があったのだが、蓋を開けてみれば真逆の結果となっている。

 

 剣士と言っても無手による闘いが強いられる試合、かつ50階級程度でくすぶっている実力からしてレゴルスは疑いようもない下位闘士である。だが、相手は天空闘技場初心者で格闘経験3か月でしかも子供だった。

 

 少女が繰り出したとは思えない威力が込められた怒涛の拳打がレゴルスに襲い掛かる。血反吐をこぼしながら大の男が打ちのめされていく光景に観客たちは大笑いしていた。見世物としてはおあつらえ向きの試合と言える。

 

 そんな喧噪の中、一人の青年が観客席で試合を静観していた。腰からはみ出たシャツや寝ぐせのついた髪など、どこかだらしない恰好をしているが、眼鏡をかけた至って真面目そうな男である。

 

 彼の名はウイング。今でこそ冴えない青年にしか見えない風貌をしているが、かつては21名の最高位闘士の1人、フロアマスターとしての凶相を持っていたとは隣に座る観客も想像だにできない真実だろう。

 

 それも今は昔の話。所詮は日の当たる限られた世界の栄光でしかないと彼は悟った。今では闘士などとうに引退して武道家となり、後進の育成に励む日々を送っている。彼がこの塔にいる理由は弟子の修行のためだったのだが、この試合を観戦している理由はまた別にある。

 

 彼は何気なく耳にした噂の中でキネティのことを知った。新人闘士が1階級の試合でいきなりの50階行きとなったらしい。確かにそれは噂になってもおかしくないほどのことだが、初参加でしかも子供の闘士となると輪をかけて異常だった。

 

 その噂を聞いてウイングが思い出したのは、今から1年以上前になる裏ハンター試験のことだった。ゴンとキルア、二人の少年がこの塔を駆け上がって行ったあの頃の記憶は今もまだ鮮烈に残っている。200階級に到達し、後のフロアマスターと善戦した少年闘士の戦果は今でも語り草となっている。

 

 彼はキネティの登場を心の中でどこかゴンたちと重ね合わせるところがあった。観戦に来たのは単なる好奇心だ。その上でキネティの試合を見た彼は思う。

 

 つたない。心技体が揃っていなかった。

 

 まずは心。彼女の拳からは不満を感じる。一方的に相手を打ちのめしながらも、その結果に全く満足できていない。焦りが焦りを呼ぶ負の連鎖が余計に彼女を苦しめていた。

 

 そして技。これに関しては語るまでもない。格闘技経験3か月という前情報は嘘偽りない真実だとすぐにわかった。

 

 最後に体。彼女の強さはこの一点で支えられている。身に纏うオーラの流れから彼女が念能力者であることは察せられた。さすがにオーラを込めた攻撃を一般人相手に使うようなことはなかったが、体内で練り上げられたオーラが身体能力を大きく底上げしている。レゴルス程度の闘士なら内的な強化だけで十分に打倒が可能である。

 

「クリーンヒット! ポイント10-0! 勝者キネティ!」

 

 爆発的な歓声によって試合は締めくくられた。結果は完勝。だが、キネティは苦い表情で血に染まった自分の拳を見下ろしている。対戦相手のレゴルスは殴打による切り傷で血濡れとなり足元はおぼつかなくなっているが、それでも倒れなかった。一度としてダウンは取られなかったのだ。

 

 念能力者と一般人、その戦闘力の差は歴然だった。現にレゴルスは手も足も出なかった。しかし、武術に己を投じ、積み上げてきた時間が全て無駄になったわけではない。技で勝り、心で勝ったレゴルスは、強敵を前にして膝を折ることなく堪えてみせた。

 

 力の使い方さえ誤らなければキネティは楽に勝利できたはずだった。しかし、いかにレゴルスが下位闘士であっても闘いに身を置く武人には違いない。その差を身体能力だけで埋めることはできなかった。大して消耗もしていないはずのキネティは肩を落としながらやるせなく退場していく。

 

 その様子を眺めていたウイングは席を立って足早に闘技場の外へと向かう。裏ハンター試験という事情があったゴンたちの時とは違い、キネティの場合は彼が気にかける義務はない。しかし、おそらく自分が今からするであろうことに不合理さを覚えながらも、黙って見過ごすことはできなかった。選手控室につながる通路まで走る。そこへちょうどキネティが通りがかって来た。

 

「こんにちは」

 

 ウイングは精一杯和やかな笑顔を浮かべたが、いきなり駆け寄ってきて挨拶してくる男という時点で不審者だ。キネティはよそよそしい態度でぺこりと一礼して彼の横を通り過ぎて行った。

 

「今の試合、負けてしまいましたね」

 

 しかし、背後から聞こえた声にキネティは足を止める。客観的には誰が見ても彼女の勝利だと答える試合だが、その結果を誇ることは到底できない。ウイングの言葉は無視できない棘となる。

 

「わざわざ嫌味を言いに?」

 

「すみません、言葉が過ぎました。私はウイングといいます。心源流拳法の師範代をやっています」

 

「心源流……」

 

 肩書が人の価値を表すところは事実としてある。初対面の人間であればなおさらだ。ただの不審者ではないのかもしれないとキネティは思い始める。

 

「おや、もしかしてご存じですか」

 

「はい、一応あっしもそれを習っているので」

 

「そうでしたか。ちなみに師はどなたです?」

 

 驚くには値しない。心源流は念法の最大流派である。念能力者であるキネティが同じ門人であっても不思議はない。だが、ウイングが気になるのは誰の指導を受けているかだ。

 

 キネティの脳裏には『わしは心源流でも一番偉いのじゃ!』と平たい胸を張っていた少女の姿が思い浮かぶ。

 

「えーっと、一番偉い人とか言ってたような……確か、師範? とか言う人で……」

 

 それまでにこやかだったウイングの顔つきが少し険しくなる。

 

「その方の名前をお聞きしても?」

 

「いや、それは……」

 

 言い淀むキネティの態度にウイングは怪しさを感じる。キネティが何者かの手ほどきを受けていることは事実だろう。そんな嘘を吐く必要はない。問題は、本当にその人物が指導者の資格を持っているかどうかだ。

 

 心源流はその規模ゆえに正規の資格を得ず指導を行う不逞の輩もそれなりに発生している。ウイングも何度か摘発したことがあった。だが彼もさすがに、恐れ多くも師範の名を騙る詐欺師にはお目にかかったことがなかった。

 

 心源流の師範はアイザック=ネテロただ一人。彼が取った直弟子は数えるほどもいないと聞く。ついに免許皆伝を与えられる者が現れることなく、ネテロは逝去した。よもやその無二の傑物になりすまそうとは愚かにもほどがある。師範代として生前のネテロと交流があったウイングは怒りを覚えずにはいられなかった。

 

「どのような指導を受けたのか、差しつかえなければ教えていただけませんか」

 

 なぜか少し怒っている様子のウイングに戸惑いながらもキネティが修行内容を話したのは、彼女自身、どこかアイクの指導法に疑問を感じるところがあったからだろう。

 

『よいか、キネティ。念の基本は纏・絶・練・発! この四つさえ覚えればおっけーじゃ! あとは修行と実戦あるのみ!』

 

 そして始まる高速組手という名の蹂躙。アイクいわく技は教えられるものではなく見て盗むものらしい。経験を積んだ武道家であれば感涙にむせび泣きアイクの一挙手一投足から技を学び取ろうとしただろうが、キネティはまだその域に達していなかった。なんとなくすごいということしかわらないままボコボコにされて終わる。

 

 一流のプレイヤーは一流の監督にはなれないという言葉がある。武人としての技量と指導者としての技量は必ずしもイコールで結ばれるものではない。端的に言えばアイクは指導者に向いていなかった。

 

 ネテロが四大行という念体系を作ったのも修行の工程をマニュアル化して効率化し教える手間を省くためである。次代の師範となるような後継者を作らなかったネテロも、自分に代わる指導者として師範代となる者を多く認めていた。それは少なからず自分の指導力に問題があることを自覚してのことだった。というか、ただの面倒くさがりである。

 

 しかし不幸にもそのあたりの記憶を引き継げなかったのか、アイクは張り切ってキネティの師匠を引き受けた。その点で言えば師範代になることを目指して勉強していたカトライの方がよほど適性があったのだが、まさか心源流師範を差し置いて口出しできるはずもない。カトライはアイクに任せれば大丈夫と全幅の信頼を置いていた。

 

「リンt……組手のほかにはサバイバル訓練とかもしました。無人島(未開海域、危険生物多数)に一週間、身一つで放り込まれたりとか……」

 

 一つ断っておくことがあるとすればキネティの身体は念能力の関係上“死んでも問題ない”という前提があった上での修行である。さすがにさっき会ったばかりの他人にそこまでのことは話せなかったので、ウイングは普通に、この少女が修業とは名ばかりの鬼畜極まる拷問を受けていたのだと解釈する。

 

「あっ、でも師からは『パイパン』を名乗る許可を得ていますぜ」

 

 思い出したように少女は付け加える。『まだ毛も生えていないつるつるの素人じゃが、四大行ができるようになったし、これからは白帯(パイパン)を名乗るがよい』と厳かに言い渡されていた。もちろん彼女はその言葉の意味を知らない。何かの武術の用語だと思っている。

 

 ざわっ

 

 ウイングの身体からオーラの覇気が噴き出していた。そこで初めてキネティはこの男が念能力者であることに気づく。なぜいきなり男がそのような反応を見せたのか彼女にはよくわからなかったが、ハイライトが完全に消えたウイングの瞳には恐ろしいほどの怒気が宿っていることだけは理解できた。

 

「なんということだ……この子は何も知らなかったとはいえ、いや、だからこそ許されざる悪行。心源流に身を置く者として放ってはおけません。私が責任を持って、あなたに念を教え直します!」

 

 その気迫に呑まれてハイと生返事をしてしまったキネティだったが、いまいち状況が把握できていなかった。

 



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104話

 

 一人の闘士が一日のうちに試合が組まれる数は1回から2回程度のようだ。ファイトマネーの5万を受け取ったキネティは、その受付で今日の予定試合はもうないことを告げられる。やりたいと申し出たところで受けられるものではないらしい。

 

 暇になったキネティは武道家を名乗る男ウイングについていくことにした。もし本当にきちんとした指導をつけてくれるのならこちらから頼みたいくらいだった。

 

 だが、完全に信用したというわけでもない。調子の良いことを言って騙そうとしている悪い大人かもしれない。後で法外な受講料など請求されはしないかと警戒もしていた。

 

「お金はいりませんよ。同じ心源流として門人が困っていれば手を差し伸べるのは当然のことです」

 

 師範代として心源流が誤った形で伝わるような事態は見過ごしておけなかった。彼の場合はお人好しの性格が行動原理になっているところも大きい。彼が現在、世話を焼いている弟子からも指導料などは取っていなかった。弟子が一人増えてもそう手間は変わらないとウイングは言うが、タダで教えてくれるという言葉にキネティは逆に不信感を強めていた。

 

 二人を乗せたエレベーターは塔の上階を目指してぐんぐんと昇っていく。203階で降りた二人は微妙な距離を保ったまま歩いていく。

 

「キネティさんが闘士になった理由は、武者修行のためですか? それともお金でしょうか」

 

 ウイングはキネティの目的をぴたりと言い当てた。天空闘技場にやってくる人間の大半が似たような理由を持っているので予想はつく。200階以上の情報を知っているならフロアマスターを目指す者もいるだろう。武か、金か、名声か。およそその三つに集約される。

 

 しかし、それでもキネティくらいの年頃の子がこの塔に来ることはよほどの事情がなければあり得ないことだ。保護者のもとで学校に通って育てられる。ウイングも踏み込んだ詮索をするのも無粋かとは思ったが、まず弟子として預かる前に親元の事情くらいははっきりさせておかなければならない。

 

「まあ。簡単に言うと、出稼ぎ、ですかね……」

 

 今のキネティに親はいない。彼女が物心ついたときからシングルマザーだった母親は、スカイアイランド号事件で帰らぬ人となった。他に頼れるほどの身内もなかったキネティは傭兵となることを決意した。 

 

「傭兵団ですか」

 

 ウイングは思った以上に深刻なキネティの身の上に言葉を失う。13歳の子供を暴漢だらけの決闘場に送り込んで金を巻き上げる。悪逆非道と言うほかない。

 

「ああ、いや、ここに来たのはあっしから志願したことでさぁ。それくらいしか今のあっしにできることはなかったもんで」

 

 キネティにとって今の家族はカーマインアームズだ。その一員であることを誇りに思っているのだと、ウイングは彼女の言葉に込められた気持ちを汲む。それがわかるだけに哀れに思わずにはいられなかった。

 

「曲がりなりにも念を修めているのですから、努力すれば200階までは行けるでしょう。金額も相応のものが得られるはずです」

 

 200階以上のクラスはまるで制度が異なるので単に金を稼ぐことだけが目的なら190階級に留まった方がいい。しかし、200階に入る資格を得た時点で昇級するか、1階からやり直すかの二択を迫られることになる。

 

 200階に入りたくなければ一からやり直すしかないのだが、一度退場してしまうと再挑戦まで1年間の出場停止制限がかかる。さらに再挑戦は一度までしか認められない。天空闘技場の収益は決闘賭博によるところが大きいため、賭けの利益が出にくくなる場荒しを嫌う。

 

 そのため200階以下に留まろうとしてわざと勝ったり負けたりを繰り返す闘士がいるのだが、審判にバレれば即退塔処分を食らう。試合中に露見しなくても厳密な映像検査が行われるため、よほど実力を隠すのがうまい手練れでもなければごまかすことはできず厳重注意を受ける。二度注意を受ければ退塔だ。

 

 八百長を認めれば賭博の信用に瑕がつくため、審査は万全を期している。オーラまでしっかりと録画できる最上級品質の念能力者対応記念具カメラで試合映像は記録され、熟練の判定員が監視していた。そううまく荒稼ぎはできないかとキネティは嘆息する。

 

「心配しなくても今のあなたの実力ではとんとん拍子に昇級することなんてできません。この塔にいる間、数え切れないほど負けることを覚悟してください」

 

 少しむっとした様子のキネティを見ることもなく、ウイングは一つの扉の前で足を止めた。カードキーで開錠して中へ進む。ここは200階級の闘士のみが使うことを許された修練場だった。念能力が他者に知られないよう考慮され、一つの部屋が一人の闘士に貸し切りで与えられる。これとは別に居住のための個室もある。

 

「あ、師範代……そちらの方は?」

 

 部屋の中には一人の少年がいた。道着姿で汗をかいていることから鍛錬に打ち込んでいたのだとわかる。年頃はキネティとそう変わらないように見えた。

 

「紹介します。こちらは私の弟子のズシ、200階級の闘士です」

 

「押忍!」

 

「どうも」

 

「そしてこちらは60階級闘士のキネティです。今日から私の弟子として修行をつけることになりました」

 

「え、えぇ~!?」

 

 ズシはいきなりのことに驚きを隠せない様子だったが、すぐに「よろしくッス!」と受け入れた。どうせまた師匠の世話焼き癖が出たのだろうと、語らずとも事情は察した。

 

「さて、色々と教えたいことはありますが既に四大行を修めているとのことでしたね。まずはそれを見せてもらいましょう」

 

 キネティは言われた通りに技を見せた。薄いオーラの膜で体を覆う『纏』、精孔を閉じオーラを断つ『絶』、精孔を開きオーラを引き出す『練』。

 

「発については……」

 

 無理に見せなくてもいいと言いかけたウイングを遮るようにキネティはハンマーを具現化した。石工用の小さな玄翁(げんのう)である。それを見たズシは、すごいッス!と感心する。

 

「これはまた、予想通りのひどさですね」

 

 しかし、ウイングの反応は芳しくなかった。彼は腕にオーラを込めてキネティの方へと近づける。攻撃をしてくる気配はないが、当たればダメージを受けるだろう。キネティはウイングの意図が読めず様子をうかがう。

 

「今、『流』をしようとしましたね。無意識にオーラの流れを操ろうとしていることはそれだけの実戦を積んだ証と言えます。しかし基礎が疎かな状態では、その上に成り立つ技の質まで下げてしまいます」

 

 キネティは『纏』が不完全だった。念に目覚めた者なら苦もなく使える技ではあるが、その精度の高低が後に続く技にも響く。全ての基礎と言っても過言ではない。

 

 彼女の身体を包み込むオーラの膜には()()があった。その状態のまま強引に流を使おうとしているため感覚を混同している。

 

 全身に、均一に、等しい濃度でオーラを行き渡らせることは難しい。実は、この纏の理想形に達する念法使いはごく一握りしかいない。ウイングも安全な場所で瞑想している状態でなら可能だが、戦闘中になればどうしても意識の微細な乱れがオーラに表れてしまう。

 

 だが、この『纏』の均一化が『流』の行使速度に直結する。オーラの迅速な移動のためには心の揺らぎが最も大きな障害となる。敵よりも速く流ができるというだけで戦闘におけるアドバンテージは比較にならない。ゆえに念法使いは生涯をかけて精神を磨く。

 

「基礎がぐらついた状態でどれだけ技術を積み上げたところで限界はすぐに訪れます。まずはしっかりと土台を作ること。それが一番の近道です」

 

 通常、心源流の念法入門者が精孔を開くまでには一年ほどの修行を要する。瞑想により自身のオーラを感じ取り、ゆっくりと精孔を開いていく。外部からオーラを込めることで一気に精孔をこじ開ける方法もあるが、心源流では邪道とされる。

 

 瞑想の過程で自然と纏を習得し、その精度を高めていくからだ。精孔が完全に開かれてから絶と練の修行に入る。特に、練は肉体から生じる強大な力が精神に影響を及ぼす危険を秘めている。やみくもに使っていれば成長するという技ではない。これらの習得に一年をかける。

 

 それが終わってから発の修行に入る。四大行の集大成、発を成すには個人によって修行法もかかる期間も変わってくる。これに一年から二年ほどをかけ、実戦において必要不可欠な応用技の修行も行わなければならない。

 

 全て順調に行ったとして、ようやく一人前と呼べる使い手が仕上がるのに五年はかかる。才能ある者ならもっと短期間で済む場合もあるが、ほとんどの場合は五年を超える。十年かけても物にならない修行者などざらにいる。

 

 だが、念能力者となる人間の多くはそんなまどろっこしい修行に勤しむことはない。精孔が開いてしまえばそれ以前とは比べ物にならないほどの力が手に入り、ほとんどの状況においてその程度の力で事足りるからだ。

 

 世界最大の念能力者所属機関であるハンター協会においてでさえ、その認識は変わらない。ハンター試験の合格者は裏ハンター試験において、協会から派遣された指導員から念の基礎を教わる。そして多くの者が一年足らずでプロハンターとしての活動を始める。

 

 現実問題としてプロハンターに求められる資質は即戦力である。そして、時間をかければ必ず強い念能力者が育つとは言えないことも事実である。人材育成に何年もの期間をかけるという考え方は、心源流師範であるネテロが会長の座についてなお根付くことはなかった。投資に時間をかける余裕もないほど、この世界にはハンターの敵が蔓延(はびこ)っているという実情がある。

 

「だから、ほとんどの念能力者はあなたのように実戦で戦い方を学びます。その結果、悪い癖が身体に沁みつく。一度、覚えてしまった癖を矯正するのは並大抵ではありません。それまでに築き上げてきたものを壊して、また積み上げなおしていかなければなりません」

 

 だからこそ基礎が重要になる。天才と呼ばれる人間であれば、誰に指摘されずとも実戦の中で自分の過ちに気づき修正できるような怪物もいるが、それは特異な例だ。何が誤りであるか凡人が気づくためには確固として踏み固められた土台が必要となる。間違いを犯してもその上に再び技を組み立て直す余地が生まれる。ウイングの持論だった。

 

「本当の強さを身につけたければ『念能力者』ではなく『念法使い』になりなさい」

 

 発を作り、自分だけの能力を得た時点で満足して修行を怠る者は多い。確かに独自の能力をもつ必殺技は強力だろう。だが、敵もまた同様に発を使えることを忘れてはならない。最後に両者の差を埋める要素は基本的なオーラの使い方にかかっている。

 

「押忍!」

 

「お、おっす……」

 

 キネティは具現化していた玄翁を消し、ズシに倣う形で返事した。

 

 

 * * *

 

 

『あーっと! キネティ選手、惜しくも敗退! 100階落ちの熟練闘士ゼップの戦術にはまってしまったかー!』

 

 修練場のモニターから、ウイングはキネティの試合を観ていた。彼女が闘士になってから一週間が過ぎている。戦績はまあまあと言ったところか。

 

 今しがた行われた試合では、実力だけを見れば明らかにキネティに分があった。ルール無用の実戦でなら勝てる相手だ。しかし、相手は酸いも甘いも噛み分けた闘士。経験が違う。審判の裁定の好みに至るまで分析し尽くし、ポイントを稼ぐいやらしい戦法でキネティを翻弄してきた。

 

 今の彼女のクラスは90階級付近に留まっていた。今回の負けで80階級だ。身体能力の高さのみでは覆しきれない経験の差が表れている。野蛮人の聖地の異名は伊達ではなく、この塔には世界中から多種多様な武術を修めた人間が集まっていた。

 

 見識を広げるには格好の場と言えるだろう。念を使えば圧倒できる相手ではあるが、しかし同じ技をもし念能力者が使ってきたと仮定すれば。様々な武術と戦術を知り、対処法を考えることは彼女にとって今後の財産となる。楽に勝つよりも負ける試合の方が学ぶことは多い。

 

 だが、格闘経験3か月にしてはよくやっている方だろう。覚えもよく、この調子なら100階の壁を超えることもそう難しくはなさそうだった。試合を終えたキネティが機嫌の悪そうな顔をして修練場にやって来る。

 

「では、鍛錬を再開しましょうか」

 

「押忍」

 

 キネティは試合以外の時間はほぼ修行に充てていた。ウイングはオーラを纏ってキネティへと襲い掛かった。

 

 対するキネティは全くオーラを出していない。『絶』の状態を保っている。キネティは、滑るように接近するウイングに動きを合わせようとするがまるで反応が追い付かなかった。拳を叩き込まれる。

 

「ぐっ」

 

 しかし、傷ついた様子はない。ウイングは拳が当たる瞬間、攻撃基点のオーラを流により移動させて威力を抑えていたからだ。その高速のオーラ移動をキネティに捉えることはできなかった。彼女の目には確かにオーラが込められた一撃が炸裂したかのようにしか見えていない。

 

 それほど隔絶した技量の差が両者の間に横たわっている。いくら手加減しているとわかっていても、ウイングの殺気が込められた拳打を受ければ身がすくむ。さらに彼はキネティに、その攻撃を絶の状態で受けてみせろと命じていた。

 

 精孔を閉じればそれで絶ができるというわけではない。全く体外にオーラを出さないこともまた難しい。未熟な絶ではオーラに漏れが生じる。攻撃を浴びせられた状況ともなれば防御しようとする本能が働くため、無意識に絶の精度が落ち、纏の状態に戻ろうとオーラがわずかなり動いてしまう。

 

 ウイングがキネティにつけている修行は、どのような状況下においても絶を徹底する訓練である。これは絶の精度を高めると同時に、キネティについた癖を矯正するための修行でもあった。見よう見まねで覚えてごちゃまぜになってしまった纏と流を正すためには、まず一度その感覚を忘れさせる必要がある。

 

 下手にオーラの流れを感じ取らせるよりも、精孔を閉じることにだけ集中し、逆にオーラを動かさない状態を意識させる。纏であっても絶であっても表面的なオーラの状態が違うだけで根幹は一つのものである。これによりその根幹のオーラ感覚をリセットする。

 

 ウイングだからこそ完璧なオーラの制御によってキネティを傷つけることなく、それでいて恐ろしい気迫を攻撃に宿すことができているが、未熟な指導者が同じことをしても弟子を殺すかお粗末な殺陣にしかならない。

 

 荒療治だった。それだけ一度身についた感覚を矯正することが難しいということでもある。この方法で効き目がなければ瞑想からやり直し、時間をかけて纏の感覚を調整していくしかないが、どうやらその心配はなさそうだった。

 

「そこまで」

 

 キネティは肩で息をしているが、体表にオーラが漏れるようなことはなかった。絶がきちんと維持できている。並外れた集中力と言える。最初こそ反射的にオーラを発してしまうことがあったが、今では殺気に惑わされず精孔を閉じることができていた。

 

 ウイングは纏をするように指示を出した。キネティに向けて拳を突き出す。眼前で寸止めされた拳の風圧が彼女の髪を揺らした。だが、オーラには微塵の乱れも生じていない。均一とまでは言えないが格段に精度を増した纏ができていた。

 

「無事に感覚をリセットできたようですね。ここがようやくスタートラインです」

 

 まだ癖を抜くという前準備が整っただけだ。四大行の修行に終わりはない。纏も絶も練も発も、一生をかけて磨き続けなければならない技だ。

 

「ですが、ここは素直に褒めておきましょう。これほど早く矯正が終わるとは思いませんでした。あなたの努力と才能の結果です」

 

「才能、ですか……」

 

 せっかく褒められているというのにキネティは自信なさげにうつむく。まだ目に見えた功績を出せたわけでもない今の状態では不安に思うところもあるのだろうとウイングは予想する。それは仕方ないことだ。彼女の修行は始まったばかりなのだから。

 

「自信を持っていいですよ。少なくとも私よりは才能があります。弛まぬ努力を続ければ私程度は追い抜ける使い手になることでしょう」

 

 その言葉は彼が思った以上に自分の内面を表していた。取り繕うようにウイングは口を開く。

 

「日をまたぐごとにあなたの絶は研ぎ澄まされていくように感じました。何か独自にトレーニングでもしていたのですか?」

 

 まるで更新されるように技の切れが良くなっていくキネティの様子を、ウイングは少しだけ不思議に思っていた。日々成長していると言ってしまえばそれまでだが、前の日と次の日とでは技量に明らかな差があるような気がしていた。

 

「トレーニングというか、イメージトレーニングみたいなものですが」

 

 キネティは毎晩、寝る前にその日に習ったことを頭の中で思い出していた。カプセルホテルの、人ひとり分のスペースしかない棺の中で、他の無数の棺から聞こえてくる雑音の中で、卵に戻されたかのように自分を見つめ直していた。

 

 その過程は彫刻の創作活動に似ている。キネティは石から像を掘り出すとき“間違い”を感じることがあった。自分が石に込めた一彫りに違和感を覚えることがある。その感覚を彼女は重視していた。

 

 何が悪かったのかわからないまま彫り進めると、大抵ろくな出来の作品にならないからだ。しかしほとんどの場合、その一彫りの時点では原因がわからないことの方が多い。だから、そこから手が進まず何時間も悩んだりすることがあった。

 

 結局、間違いに気づくのは作品が完成に近づいたときだ。結果が現れてようやく過程を見直すことができる。また一から作品を作り直す。また間違う。その繰り返しの中で、ようやく納得のいく作品ができる。

 

 つまり彼女は何度も“自分を”作り直していた。『自刻像(シミュラクル)』は彼女自身の姿を表す作品だった。この点は同じ念人形でも変化しないことを制約に置いた『千の亡霊(カーマインアームズ)』とは明確に異なる特徴だろう。

 

 そのあたりの念能力についてウイングに話すべきか悩むところだった。いつかはバレそうな気もするが、自分から話すとなると勇気のいることだ。結局、キネティは詳細はぼかして感覚的な説明にとどめた。

 

「彫刻、ですか?」

 

 ウイングにその例えは理解できなかったが、念のコツのつかみ方は人それぞれだ。キネティが自分に合った感覚を身につけられたのならそれに越したことはない。いずれにしても常人では持ち得ぬ感覚である。これで才能がないわけがない。

 

 彼女が念を覚えてから半年も経っていないという。ウイングがズシに念の才能を見出し修行を付け始めたのが一年半ほど前のことになる。どちらも恐ろしいくらいの成長速度と言えた。

 

 ズシも10万人に1人と確信する逸材だったのだが、ゴンやキルア、そしてキネティと、才あふれる子供たちによくよく縁があるものだとウイングは何とも言えない気持ちで苦笑いを浮かべていた。

 

 

 * * *

 

 

 キネティは100階級を安定して維持できるようになってきた。初心者闘士がまず突き当たる壁が100階にある。この階級からファイトマネーの桁が跳ね上がり、専用の個室が用意されるなど待遇が格段に良くなるため、何としてでも100階級にしがみつこうとする闘士があの手この手を使ってくる。

 

 この壁を乗り越えられた闘士はまず中堅どころと目されるようになる。誰もが階級を下げまいと躍起になり、戦闘は熾烈になってくる。怪我により再起不能となり闘士を引退せざるを得なくなる者もかなりの数に上る。ここからがこの塔の本番だ。

 

「ですが、あなたの実力ならいずれ確実に200階まで到達できます。今日はその見学をしましょう」

 

 今日の試合を終えたキネティはウイングから招集を受け、200階クラスの試合観戦に来ていた。200階級以上の闘士は全て念能力者である。その試合を観ることは念を学ぶ上でも大いに役立つ。

 

 観戦チケットはウイングが事前に用意していた。190階級以下とは一線を画す上位闘士の試合となるため人気は高く、ダフ屋までいるほどだ。出場闘士の知名度にもよるが、チケットは一枚十万ジェニーはくだらない価格となる。

 

『さあ、やってまいりました! 大注目の一戦! まず姿を見せたのはここまで3勝無敗の戦績をあげる期待の新星、ズシ選手! 子供だからと侮った闘士たちを腕っぷしでなぎ倒してきた実力派です! そのひたむきな姿勢とかわいらしい見た目から隠れファン急増中、グッズの売れ行きも好調です!』

 

 実況の内容にズシはずっこける。上位闘士は天空闘技場の花形スターであり関連商品も発売されているようだが、本人の耳には入っていなかったようだ。もっとかっこいい紹介をしてほしかったッス、とズシは不満げだった。

 

「3勝無敗?」

 

「200階からは昇級制度が変わるんですよ。10勝すれば230階以上を占有するフロアマスターたちに勝負を挑むことができます」

 

 現在、200階級に属する闘士は162名。その闘士たちが競い合い、勝ち抜くことができた者だけが最高位闘士フロアマスターへの挑戦権を獲得する。ただし、10勝する前に4敗してしまうと闘士としての資格を失う重いペナルティが待っている。

 

「ズシくんは素手で闘うんですね」

 

「ええ。彼には心源流として念法だけでなく拳法も教えていますからね」

 

「確か200階級から武器を使っていいんですよね? 大丈夫ですか、銃とか使われたら……」

 

 規定ではあらゆる武器の使用が解禁されるとなっているが、慣習的に銃器は使われない。挨拶程度に数発撃つことはあるが、銃器をメインにするような闘い方で勝っても観客から顰蹙を買うため闘士の流儀に合わない。

 

 観客はマシンガンの撃ち合いを観に来たのではなく、武人同士の技のぶつかり合いを望んでいる。だが、近代兵器でもなければ割と寛大に多様な武器の使用が認められ、ユニークな武器を使う闘士は知名度も高まる。今回のズシの対戦相手もその口だった。

 

『ズシ選手に対するは、現在9勝3敗! フロアマスター戦に王手をかけた大ベテラン、ギド選手! しかし、負ければ4敗地上落ち! 絶対に外せない闘いのはずですが……なぜか姿を現しません! 入場ゲートは開かれたまま! まさか不戦敗となってしまうのか!?』

 

 闘技場にはどよめきが広がっていた。急なトラブルでもなければ試合開始直前になって出られないということはないだろう。さっさとしろだの、チケット代返せだの、観客席からは罵倒が飛び交い始める。

 

「ギド選手って強いんですか?」

 

「攻防一体の堅実な戦い方をする闘士ですね。強くなければ9勝はできません」

 

 だが、それはこの闘技場内における闘い方としてはという注釈がつく。200階に上がって来たばかりの新人をよく狙う陰湿な男だ。まだ念を覚えていない闘士に“洗礼”と称して悪意ある念をぶつけ、強制的に覚醒させる。それがこの塔の悪しき慣習だった。

 

 だが、そのため200階級闘士のほとんどがまともな修行を積まず独学で念を習得した者たちだ。きっちりと基礎から仕込んだズシの敵ではないとウイングは考えていた。

 

 キネティにはズシの戦闘を見てお手本にするようにと伝えている。ズシには兄弟子として恥じぬ姿を見せなさないと命じていた。そのためかズシは若干、緊張で力が入っているようにも見える。ウイングがやれやれとため息をついていると、そこでようやくギドが入場してきた。

 

『ギド選手、どうやら間に合ったようです、が! なんだその恰好は!?』

 

 頭はガスマスクのような覆面ですっぽりと隠され、脚は付け根から無く、一本の鉄棒を取り付けたやじろべえのような姿。それが彼のいつものスタイルであり、ここまでなら闘技場の常連客も見慣れた姿で驚きもなく終わっていただろう。

 

 しかし、今回は一味違う。ギドを取り囲むように円形のフレームが十字を結ぶ。そのフレームに囲まれた球体の中に彼は設置されていた。頭の先から脚部の鉄棒まで一本の軸を通したかのように球体の中に納まっている。

 

「あれは普通のコマじゃない……まさか、地球ゴマ……!?」

 

 キネティにウイングの動揺の理由はわからなかったが、その容姿が異質であることは一目瞭然。ごろごろとボールのようにギドは転がりながら移動する。天地逆転の体勢でズシと対面した。

 

「この技はフロアマスター戦で初披露する予定だったが、出し惜しみはしないことにしたよ。お前は強い。全力をもって相手をしてやろう。この『竜巻独楽・永劫回転狂詩曲(ジャイロ・ラプソディー)』でな」

 

 



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105話

 

「ポイント&KO制、時間無制限一本勝負! 始め!」

 

 審判が開始を告げる。ズシはオーラを練り高めていた。『練』によるオーラの増強状態を維持する応用技『堅』である。

 

「『纏』の約5倍の攻防力を得る『堅』が念戦闘における接敵時の基本形です。“練の維持”は口で言うほど簡単なことではありません。纏と練、二つの技を高い精度で使いこなす必要があります」

 

 一時的に練を使って出力を高めるだけの戦い方では、ある程度熟達した能力者が相手では不足となる。戦闘中は練を常時使用できるようになることが求められる。守りを固めたズシに対し、ギドは先手を打って攻撃を放った。

 

「まずは小手調べ! 『戦闘円舞曲(戦いのワルツ)』!」

 

『でたーっ! ギド選手の得意技! 荒れ狂う独楽たちが乱舞し、ズシ選手に襲いかかあああぁる!』

 

 ギドは後ろに転がり距離を取りながら、袖の中に仕込んでいた小さな独楽を回すと同時に投げ放つ。ばらまかれた10個の独楽はオーラを纏いながら戦場を駆け回る。

 

「あれがギドの発です。独楽にオーラを送り込み、回転力と衝突威力を高めています」

 

 物体にオーラを込める技は『周』と呼ばれる。ギドの場合は念を専門に学んでいないが、感覚的に必殺技としてこの独楽の強化を習得していた。独楽に対するギドの思い入れが、念として強い力を引き出すに至った。ズシは独楽の動きをよく見てかわしていくが、ぶつかり合う独楽は不意の軌道を描いて標的に襲い掛かる。

 

「ギドは操作系を苦手としているのか、独楽に複雑な動きを要求するだけの技術はありません。しかし、それは必ずしも欠点とは言えません」

 

 念により物体を操作しようとすると、そこにオーラの予兆が発生する。その流れを読み取って次の一手を予想することも可能である。だが、ギドの独楽には作為が介在していない。激しく回転しながら互いにぶつかり合い、弾け飛ぶ独楽の動きは術者であるギド本人にすら予想できなかった。

 

 迫り来る独楽を前にして、回避困難と判断したズシは迎え撃つ。オーラを拳に集めて独楽を叩き落とした。

 

「オーラを身体の一部に集中させる技を『凝』、そして凝を使って必要な箇所に必要な分のオーラを素早く移動させる技を総じて『流』と呼びます。これも戦闘では必須の技術です」

 

 堅により高めた全身のオーラを流により配分しながら戦う。オーラが集まり威力が増したズシの一撃はあっけなく独楽を吹き飛ばした。これならばただの堅で直撃を受けたとて大したダメージにはならなかっただろう。

 

『ズシ選手、独楽の猛攻をものともしません! ギド選手に狙いを定めて走る! 走る! どうするギド選手!?』

 

「やはり強い……ならばこちらも本気で行くぞ! 『竜巻独楽・永劫回転狂詩曲(ジャイロ・ラプソディー)』!」

 

 ギドはその場で回転し始めた。自身の身体を独楽に見立て高速回転する彼の必殺奥義『竜巻独楽』。敵の攻撃を防ぐと同時に強烈なカウンターを叩き込む攻防一体の技である。しかし、ズシにとっては初見の技ではない。脚を止めることなく突進を敢行する。

 

 その直後、ギドが用意した球状フレームがついに動き始める。地球儀のように回転するフレームは瞬時に加速し、ギドを守る障壁となった。そして自らズシのいる方向へと転がっていく。

 

 接近する球体に対し、ズシは退かなかった。何か仕掛けてくることは予想がついていた。竜巻独楽で守りに入ったギドを攻略するためにズシが立てていた作戦はシンプルである。その回転による防御力以上のパワーでぶん殴る。想定には多少の違いが生じているが、大まかな方針に変更はなかった。

 

 200階に至るまで必死に取り組んできた修行と、培った経験があればギド程度に後れはとらない。その自信がズシにはあった。珍妙な器具を取り付けたくらいのことでギド本人の実力が上がるわけはないと思っていた。

 

「破ッ!」

 

 凝によりオーラを込めた拳打が決まる。強い外力が加わったことで球体の回転に乱れが生じた。だが、止まらない。障壁を破るには至らない。ギドが新たに開発したこの技は“地球ゴマ”を参考にして作り出されていた。

 

 強化系能力者であるギドは独楽の回転力を強化することにより反発力を引き出している。それは回転を止められてしまうような外からの力が加わると威力が減衰してしまうことも意味していた。ズシが考えていたように、回転で弾き返せる力以上のパワーで殴られれば竜巻独楽を発動したギドでも対処できない。

 

 その弱点を克服するための地球ゴマだった。これは通常のコマと違い、回転盤と軸が独立している。大雑把に言えばコマの中にコマを入れたような構造をしている。回転体を取り囲むフレームにより、触っても倒れても盤の回転が止まることなくコマとしての挙動を保ち続ける。この構造を竜巻独楽に取り入れたのである。

 

 ズシの強力な一撃を受けたフレームは確かに回転を止められかけていた。もしこれがギド本人に直接加えられた一撃であったならばダウンを取られていただろう。しかし、フレームとギドは別個の回転体であり、フレームを止めたからと言ってギドまで動きを止められたわけではない。

 

 ギドは攻撃を受けながらもダメージを負うことなく、懸命に回転作業に集中していた。その回転力を止まりかけたフレームに伝え直すことで反発力を維持した。結果、ズシの攻撃は防がれ、弾き返される。

 

『ああーっと! ギド選手の新技炸裂ゥ! 凄まじい回転だああああ!!』

 

「この状態となったオレを止めることは不可能! 絶対無敵の防御なのだ!」

 

 不利を悟り、一旦距離を置こうとしたズシに対して、ギドは追撃を開始した。球状フレームの中に納まったギドはどんな体勢になろうと最高速度を維持し続けたまま回転できる。それにより、転がりまくることで機動力も格段に向上していた。以前の竜巻独楽であれば難しかった高速移動と自在な方向転換により体当たりもできるようになっている。

 

 ズシはどうしたものかと思案していた。下手に突っ込めば逆にクリーンヒットをもらいかねない勢いである。回転力の一点に特化した強化系能力者の必殺技は、絶対無敵と豪語するだけのことはあった。

 

 しかし、攻めあぐねていたズシにそこで予期せぬ衝撃が走る。敵の大技に気を取られ、周囲への警戒が疎かになっていた。ギドが初手に繰り出した『戦闘円舞曲』はまだ健在である。その独楽の一つが背後からズシに突き刺さった。

 

 ダメージはない。小さな独楽の攻撃ではズシの堅を破ることはできなかった。だが、不意を突かれたことでわずかな隙が生じる。ギドは高速回転しながらもその隙を見逃さなかった。転がる球体が見た目以上の迫力を伴ってズシに激突する。

 

「くっ、こんなもの……!」

 

「まだだ。この技の本当の恐ろしさを教えてやろう……くらえ『双頭の蛇の正体(サンダースネイク)』!」

 

 ギドは隠し持っていたスイッチを押す。金属製のフレームに電撃が流れた。絶縁製の服で防備を固めたギドには効かず、フレームに触れてしまったズシにのみ激しい電撃が効果を発揮する。

 

 この技はもともとギドのものではない。かつて同じ200階級の闘士であった友、リールベルトの必殺技だった。その友は今、天空闘技場にはいない。一年前、ズシの仲間だったゴンとキルアに敗れて4敗を喫し、この塔を去って行った。

 

 その時、リールベルトが愛用していた鞭『双頭の蛇(ツインスネイク)』を託された。夢破れたリールベルトはギドに希望を預けたのだ。ギドはその託された思いを受け止め、必ずフロアマスターとなることを誓った。

 

 『双頭の蛇』を分解して取り出した放電装置が球体フレームに組み込まれていた。友の無念を今こそ晴らす。もはや蛇とは何の関係もなくなった100万ボルトの電撃がズシを襲う。

 

「あががががが!?」

 

 いかに念能力者であっても電気までは防げない。体は痺れ、意識は乱れる。精神の揺らぎはオーラの揺らぎだ。ズシの堅が緩み、そこへギドの体当たりが決まる。ズシの体はリングの外まで大きく吹き飛ばされた。

 

「クリティカル! アーーーーーンド! ダウン! 3ポインッ、ギド!」

 

『決まったあああ!! ギド選手、フロアマスター戦を目前にして大幅なパワーアップを遂げているぅ! これにはズシ選手もたじたじ! ベテランの底力を見せつけたああ!!』

 

 痺れた体でよたつきながらズシは立ち上がった。審判から試合続行できるか問われている。大男でも身動きすら取れずに気を失うほどの電撃だった。ズシは持ち前のタフネスで堪え切ったが、もう一度同じ攻撃を受ければ同じ結果が繰り返されることになるだろう。

 

 堪えられたというだけで電撃を攻略できたわけではない。その様子をウイングは神妙な面持ちで見つめていた。彼にとってもまさかの事態である。よもやここまでギドが強くなっているとは思っていなかった。

 

 人は誰しも目的のために行動しながら生きている。ギドもまた、闘士として歩みを止めることはなかった。涼しい顔で新技を使いこなしているように見えるが、その陰では三半規管がめちゃくちゃになるほどの回転練習を積んでいる。何度も吐き、それでも彼は回り続けた。

 

 ここまで順調に勝ち進んできたズシだったが、これは一敗もやむ無しかと思われた。ズシはリングの場外に出た状態が続いているため、試合は一時中断していた。審判の10カウント以内にリングの中へ戻らなければそこで負けが確定する。

 

 ズシは師であるウイングの方を見た。その隣に座るキネティの姿も見える。兄弟子として恥じない闘いを見せよとウイングから言われた言葉を思い出していた。

 

「かっこ悪いところは、見せられないッス……!」

 

 カウントが続く中、ズシは目を閉じて静かに心を落ち着けた。集中し、全身のオーラを拳に集めていく。

 

「あれはまさか……『硬』!?」

 

 硬とは、四大行すべての技を駆使する応用技である。全身のオーラを残さず一点に集中させることで、凝とは比較にならない威力を得る。だが、その一点を除いた全身の防御力がゼロに等しくなる諸刃の刃でもある。

 

「なんということを! まだあの子が実戦で使えるような技じゃない!」

 

 今のズシの技術では、硬を発動させるまでに数秒を要する。とても戦いながら使える余裕はない。だから試合が中断しているこの状況で使ったのだ。一度、硬を発動できればその状態を維持することはできた。それはすなわち、ギドに一発当てるまで硬を解除せず戦うつもりであることを示唆している。

 

「ズシ!」

 

 あまりにも危険すぎる。ウイングはすぐに制止のサインを送ったが、ズシは止まらなかった。リングの中へと戻る。

 

『ズシ選手ようやく復帰! しかし、打開策はあるのか!?』

 

 余すことなく全力を込めたこのパンチが入ればギドを倒せる。危険を承知の賭けだった。対するギドは警戒を強める。ズシのオーラの流れを見ればその脅威は明白である。ギドは回り続けながらフレームの回転だけを一時停止させた。

 

「その拳を受ければオレの必殺奥義でも危ういかもしれん。だがその技、どうやら全身のオーラを攻撃のみに回しているものと見た。その状態であればオレの非力な独楽でも十分に撃破できるぞ! 『戦闘円舞曲(戦いのワルツ)』!」

 

 ギドはリングに追加の独楽を投入する。これまでの彼の実力では同時に操れる独楽は10個が限界だった。しかし、それを大きく上回る数の独楽を舞わせる。複雑怪奇に弾け飛ぶ独楽の嵐がズシをのみ込もうとする。

 

 今のズシに堅の守りはない。オーラに対する防御力は皆無の状態である。小さな独楽の衝突であってもまともに受ければ骨折は免れない。一撃を受ければ怒涛のように追撃されるだろう。その極限状態がズシの集中力を大きく高めていた。

 

 独楽を回避していく。その足取りに迷いはなかった。ズシはこの一戦に向けて準備してきた。ギドの試合が記録された映像を何度も見直し、独楽の動きを研究していた。ギドだけではない。200階闘士たちの戦闘の記録を彼は研究し、何冊分ものノートに分析をまとめている。

 

 勝利にかける思いの強さで負ける気はしなかった。戦闘開始時よりも遥かに激化している独楽の縄張りを無傷で潜り抜けていく。

 

「猪口才な! 『散弾独楽哀歌(ショットガンブルース)』!」

 

 ここに来てさらなる独楽の追加。しかもこの技はバラバラに動き回る『戦闘円舞曲』とは異なり、全ての独楽が一直線に敵へと向かう集中攻撃である。これならば避け切れまいとギドは勝利を確信する。

 

 だが、これまでの無作為にぶつかり回る攻撃とは違い、その独楽の動きは直線的だ。見切ることはむしろ容易い。浴びせられかける多数の独楽は確かに回避困難だが、避け切れないものは無理に避ける必要もない。

 

 ズシは拳を振るう。硬のオーラを宿した拳は軌道上の独楽を粉砕した。塵と化した独楽の最期にギドは戦慄する。このままズシの進攻を許せば、今の一撃を我が身で味わうことになるだろう。しかし、『戦闘円舞曲』も『散弾独楽哀歌』も破られたとなれば、もはや彼に残された道は一つしかない。

 

「負けるものか……最大回転んんんんん!! 竜巻独楽ァ!!」

 

 ギドは必殺奥義にて迎え撃つ。その回転力はかつてない領域に踏み込んでいた。高速回転するフレームがつむじ風を巻き起こす。さらにそこへ100万ボルトの電撃が加わる。この技が破られるわけがない。破られるわけにはいかない。

 

 意地と意地、覚悟と覚悟がぶつかり合う。ズシの硬とギドの回転結界が触れ合った。そして勝敗は決する。

 

『おおおおお!? 異次元のパワーアップを遂げたギド選手でした、が! ズシ選手これをパンチ一発で沈めたあああ!!』

 

 場外にまで飛ばされたギドはぐしゃぐしゃに潰れたフレームの中で身動きが取れなくなっていた。そこへ審判が駆け寄り、判定を下す。

 

「ギド選手戦闘不能! 勝者、ズシ選手!」

 

 割れんばかりの喝采が闘技場に響き渡った。一気に力が抜けたズシはその場にへたり込みそうになる。これで4勝だ。また一歩、彼はこの塔の頂点を目指すという夢に向けて前進することができた。

 

「……ちくしょおぉ……リールベルト、サダソ……すまん……とどかなかった……」

 

 ひしゃげたフレームの中から救助されたギドが担架で運び出されていく。その悲痛な叫びは、鳴りやまぬ歓声の中でありながら確かにズシに聞こえていた。これでギドは4敗だ。200階級闘士に与えられる降格処分は、この塔からの退場を意味している。

 

 華々しい栄光の影には敗れ去った闘士たちの散り様がある。決して綺麗事だけでは語れない世界があった。

 

 

 * * *

 

 

 試合を終えたズシがウイングからしこたま説教を受けた後、一行は昼食をとるために闘士用食堂の一つに来ていた。

 

 100階にある大衆食堂で、多くの下級闘士たちが利用している。そのため筋肉質のいかつい男たちがたむろする、一般客には近づきがたい空間となっている。キネティは価格帯の安いこの食堂を使うことが多いので、ウイングとズシも連れ立って来ていた。

 

「200階クラスには高級レストランとかあるんですよね?」

 

「そうッスね。そういうところの料理もおいしいッスけど、他の食堂のごはんがおいしくないわけじゃないッスよ?」

 

 ずぼらな闘士たちのために栄養などの観点からもメニューを考えて料理を提供している。キネティはミートソースパスタセット、ズシは炎の男飯天空野郎A定食、ウイングは焼き魚定食を注文した。食券を渡してテーブルで待つ。ズシだけは椅子の上で正座させられていた。

 

「さて先ほどの一戦、最後はとても褒められたものではありませんでしたが……序盤のズシの戦い方が大まかな念法使いの基本形となります」

 

 『堅』と『凝』と『流』、個人によって流派や得物は違えどこの三つの応用技が必要不可欠となることは共通している。

 

「四大行の制御も安定してきましたので、明日からキネティは堅と凝の修行に入りましょう」

 

「はい」

 

「それからズシは今日から2か月間、念の使用を一切禁止します」

 

「押忍! ――おすっ!?」

 

 ズシはさっき受けた説教で試合のつけはチャラになったと考えていたが、ウイングはそれで許す気はなかった。結果的に勝てたから良かったが、下手をすれば大怪我を負っていただろう。

 

 ゴンが念を覚えたての頃、ギドとの試合で絶を使っていたことをウイングは思い出していた。状況は少し違うがあの時と同じ危険があった。それを引き合いに出してゴンに与えた罰と同じ2か月間の念使用禁止を命じたのである。

 

「200階級闘士は次の試合まで最大90日の猶予があります。しばらくは拳法の修行に専念しなさい」

 

「そ、そんなぁ……」

 

 ズシはうなだれた。修行メニューを追加するよりも逆に何もさせない方が罰になるだろうとウイングは考えた。それだけズシが強くなるために惜しみない努力を続けている証でもある。13歳かそこらの、遊びたい盛りの子供に普通はできることではない。

 

「まあ、しかし。勝ち筋の見えた戦いで足踏みをするなと教えたのも確かです。慎重さと大胆さを常に併せ持ち、時にリスクを覚悟しながらも機を見逃さず瞬時に動ける判断力が念法使いには求められます。経緯はどうあれ勝ちをつかみ取ったことは評価しましょう」

 

「師範代……」

 

「この2か月間、キネティの練習相手になってあげなさい。その範囲に限り念の使用を認めます」

 

「押忍!」

 

 つくづく甘いとウイングは自責する。なかなか弟子に厳しく接することができないのは、彼の師匠に対する反抗心の表れだろうか。こんなところを見られれば、またひよっこウイングと馬鹿にされるはずだ。あの年齢詐欺少女は今頃何をしているだろうかと思いを馳せる。

 

 注文していた料理が出来上がったところで昼食と相成った。キネティとはまだ短い付き合いだが、二人よりも三人で食べる方が賑やかであることは違いない。修行に明け暮れているズシにしてみれば同年代の友達ができたことは喜ばしかった。

 

 ゴンやキルアと知り合った時も同じように感じていたがその分、別れ際の寂しさもひとしおだった。キネティもいつかこの塔を去る時が来るだろう。食事をしながら自然とその話題が出ていた。

 

「キネティはどこまでこの塔をのぼる予定ッスか? 200階に入ると賞金はなくなってしまうッスが……」

 

 彼女がファイトマネー目的でこの塔に来たことは聞いていた。彼女の実力なら相手次第でそう遠くないうちに昇級を重ねることもあり得ると思われた。200階に達してしまえばそこから先はフロアマスターになるまで名誉のみの闘いとなる。

 

「いや、実は師から課題を出されていまして。『フロアマスターを倒すまで帰って来るな』と」

 

 キネティはアイクから言い渡されていた。ここに来る以前はその課題の難易度がはっきりとわかっていなかったのだが、いざ闘士になってみればなかなかの難題であると思い知る。そもそもアイクもフロアマスターの強さなんてものは知らず、とりあえず最高位闘士とか言う奴らくらいはボコれるようになれという程度の認識しかなかった。

 

 要するにそれは200階級で10勝を経てフロアマスターに勝ってその座を奪えということである。闘士であれば誰もが憧れる偉業を修行の一環程度の気軽さでポイと出したキネティの師匠とやらに、ウイングは嫌悪感を募らせる。

 

「前から思っていましたが、そんないい加減なことを言って弟子を放り出すような人間について行ってもためになりませんよ。あなたには無限の選択肢がある。周りに縛られることなく、どんな生き方だってできるんです」

 

 キネティは必要最低限の生活費を除いてファイトマネーを全て傭兵団に仕送りしているようだった。何も知らない子供を働かせて金をせしめるような連中だ。ウイングにはろくな連中とは思えなかった。キネティに団の名前を聞いてもはぐらかされる。表に名を出せないような組織に違いない。

 

「あっしが自分から頼み込んで入った傭兵団なんでさ。まだ見習いですからこき使われるのは当然ですぜ。それにあっしの師匠が教えてくれたこともちゃんと意味があったんだなって、今なら少しだけ気づけます」

 

 アイクの指導の仕方は例えるなら、問題の計算式を全部すっとばして答えだけ見せると言うようなものだ。どうやってその式を解いて答えに至るのかが、キネティには聞いてもわからなかった。

 

 それがウイングから基礎を学ぶことでようやく公式を理解できるようになってきた。それに伴い、アイクが見せた解答の数々が次元を超えたレベルで探究されていたことに気づき始めている。

 

 まだ解法の全貌はまるで見えて来ないが、もっとウイングの下で修行を続ければ理解の度合いは着実に進んでいくだろう。キネティの揺るがない意思を悟ったウイングは、せめてこの塔にいる間は自分にできる限りのことを教えようと決める。

 

「フロアマスターを目指すというのであれば長く険しい道のりとなることを覚悟してください。最低でも私を倒せるくらいにはなってほしいところですね」

 

 えっ、とズシたちは言葉に詰まった。今の彼らにウイングを倒せるとは到底思えなかった。それほどまでに高い壁なのかと絶句する。

 

 フロアマスターと言っても21人いるため実力に幅がある。その序列を決める闘いが2年に1度開かれるバトルオリンピアだ。冗談めかして言ったがウイングなら序列下位のフロアマスターに後れを取るようなことはない。

 

 だが、上位の闘士となれば苦戦を強いられるだろう。特に、闘士王と呼ばれる序列1位は別格の存在だ。ついでに言えば、新入りの最下位はあのヒソカである。230階以上は魑魅魍魎の巣。迂闊に足を踏み入れようとすれば後悔することになる。

 

 バトルオリンピアでの優勝を目標にしているズシはなおさらだ。フロアマスターになればそこで闘いが終わるわけではない。まだまだ教えることは多いと、ウイングは弟子たちの成長を見守るのだった。

 



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106話

 

 キネティとズシは修練場にて組手を行っていた。だが、その動きは非情に遅い。あえてゆっくりとした動作の中で精密にオーラを制御する技術を磨く組手“流々舞”である。

 

「遅い動作でできないことが速くしてできるわけがありません。焦らず正確に相手のオーラを目測し、それに合わせたオーラ量で互いに攻撃と防御を行うように」

 

 流々舞は『流』を鍛える基礎訓練である。念法の基本にして奥義と呼ばれる応用技だ。これを使うには最低でも『堅』と『凝』をある程度のレベル習得していなければ話にならない。つまり、キネティはウイングの目から見ても次の修行段階に進むに足ると言えるほどの技術を身につけたということだった。

 

 素早く目にオーラを集める凝の技術を仕込み、そこから発展して体の各部に凝のオーラを巡らせる流の修行に入っていた。午前中は流々舞、午後からは堅の持続時間延長訓練というメニューだ。

 

 まだ天空闘技場に来て1か月余りしか経っていない。既に念を覚えており下地はできていたとはいえ恐ろしい成長速度である。スポンジが水を吸うように教えられたことを覚えていく。

 

 普通はどれだけ熱心に修業に打ち込もうと、その日10覚えたことを次の日も10覚えているということはない。一日の特訓で体に沁み込む感覚には限度がある。もちろん個人差はあるが一晩経てば、残っているのは3か4程度だろう。

 

 その3の感覚はさらに日を越せば1になる。技術は絶えず身体から抜け出ていく。はっきりと言語化することも難しいあやふやな身体感覚は、知識を頭に入れるよりも定着させることが難しい。とにかく毎日修行に取り組むしかない。少しでも多く次の日に持ち越すため繰り返し体に覚え込ませる。

 

 その日できたと思ったことが次の日にはできなくなっているなんてことは当たり前だ。進んでは下がり、進んでは下がり、前進と後退を繰り返し、すぐ目の前に見えているような場所にすら到達も困難な途方もない道のりである。武を志す者のほとんどがその苦行に堪えられず楽な方へと流れていく。

 

 キネティはその技術の“定着化”に長けていた。それは彼女が持つ感性に由来するものだろう。日々、自分という作品を見つめ直し、作り直していく。より完成された作品へと生まれ変わる。10覚えたことを10覚えてくるのだ。成長もするはずだった。

 

「ズシ、オーラが乱れていますよ」

 

「押忍!」

 

 ズシにしてみれば嘆きたくもなる。念を覚えてからというもの、血の滲むような修行に明け暮れてきた。ようやく200階級闘士となり、夢の展望が開けてきた頃合いだった。まだまだ未熟さを自覚しながらも、強さに自信を持てるようになってきたところだった。

 

 キネティの成長を喜ぶ気持ちはある。同じ師のもとで学ぶ弟子として誇らしくもあった。だが、人の感情はそう簡単に割り切れるものではない。今のキネティの強さに至るまで、自分がかけた時間を考えれば拘泥たる思いを抱かずにはいられなかった。

 

 ゴンやキルアと出会った時もそうだった。自分が苦労した時間は何だったのかと思うほど簡単に周りの人間は頭上を飛び越えていく。悔しくないわけがない。焦るなと言う方が無理な話だ。

 

「ズシ!!」

 

 ウイングが珍しく怒声を飛ばす。その声に身がすくんだ時には遅かった。雑念に気を取られたズシはオーラの制御に粗が出ていた。

 

 流々舞は同程度の実力者同士で行ったとき最も効果が出やすい訓練法である。いかに急成長を遂げているキネティでも、ズシと比べればまだ実力は発展途上だ。そのためズシはキネティのレベルに合わせてオーラを制御していた。

 

 これではズシにとってあまり有効な訓練にならないのだが、もともとウイングから2か月の念使用禁止を言い渡されていたので、あくまでこれはキネティのための協力だった。だが、キネティがめきめきと腕を上げていることにより、徐々に実力差が縮まりズシも組手中にひやりとする場面が何度か出始めていた。

 

 練習組手と言ってもオーラを使った技の応酬には変わりない。どんなにゆっくりとした技であっても、それを受ける側もゆっくりとしか動けないため不思議とその一手に驚かされる場面がある。まさにこの時、キネティが放った攻撃は、わずかに集中を欠いていたズシの隙を突いていた。

 

 だが、ズシはそれを問題なく防ぐ。しくじったのはその先だ。反撃の一手に力を込めすぎた。ズシの拳がキネティの右肩を捉える。彼女はそれを受けきれなかった。バランスを崩して倒れ込む。

 

「止め!」

 

 ウイングがすぐに止めに入る。ズシの顔は青ざめていた。取り返しのつかないことをしてしまったという実感がある。そんなに威力を込めたわけではなかったのだが、彼の拳には生身の肌を打ったとは思えない、陶器を砕いたかのような異常な感覚が残っていた。

 

「ご、ごめんッス! 大丈夫スか、キネティ!?」

 

「大丈夫、何ともないですぜ」

 

 キネティはすぐに立ち上がって平静な様子を見せた。その言葉に偽りはない。アイクと修行していた頃は原形が崩壊するまで殴られていたので、このくらいのことでは動じなかった。むしろズシはキネティに気を使いすぎる節があり、もうちょっと打ち込んできてくれてもいいのにと思っていたので丁度よかった。

 

「キネティ、その顔……」

 

 だが、ズシとウイングはただならぬ様子でキネティの容体を心配する。それもそのはず、肩口から受けた衝撃により彼女の“念人形”には表面にヒビが入っていた。そのヒビが顔にまで達していたのだ。キネティはそれを触って確認すると、慌てて修復に取り掛かる。

 

 すぐに傷は塞がり、元通りになる。このくらいの傷であれば短時間でなおせた。しかし、ただの人間とは思えないその現象をズシたちは見なかったことにはできない。何と説明すればいいだろうかとキネティは答えに窮していた。

 

 念人形だと明かしたとしても、では術者本人はどこにいるのかという疑問は当然わく。ウイングたちが信頼のおける人物であると彼女も今では思っているが、それでも事情を全て話すことには抵抗があった。

 

「本当に、体に異常はないのですね?」

 

「は、はい」

 

「ならば深くは聞きません。おそらく発によるものでしょうが、念能力者にとって発の情報は軽々しく他人に話すべきものではない。親しい関係でも詮索しないことがマナーです。いいですね、ズシ」

 

「押忍!」

 

 ウイングは話すかどうかの判断をキネティに任せた。すいませんと謝りながら笑ってごまかそうとするキネティの態度に思うところはあったが、無神経に聞き出すようなことはできない。

 

 キネティの内心を占める感情は暗く沈んでいた。それはウイングたちに対する後ろめたさも少しはあったが、ほとんどは自分自身の弱さに向けられたものだった。

 

 半年前の彼女であれば今のズシの攻撃で肌に傷がつくようなことはあり得なかった。それは彼女の体を構成する材質の差によるものだ。今のキネティにオーラを金属化させた『賢者の石』は使えない。それまで主体としていた戦法を捨てざるを得なかった。キメラアントとなり、アルメイザマシンを使えないという誓約を負った彼女は確実に弱くなっていた。

 

 

 * * *

 

 

 それから一週間後。現在、キネティの戦績は150階級付近で落ち着いている。一度190階まで行ったこともあったが、すんなりと上にはあがれなかった。今の彼女なら、手段を選ばず勝ちを狙えば200階に到達してもおかしくない実力があるとウイングは思っている。

 

 しかし、彼女は試合に勝つことよりも試合から学ぶことを重視していた。本気で闘っていないわけではないが、勝ちに拘ってはいない。身のこなし、足運び、視線の動き、攻撃の捌き方、防ぎ方、可能な限り多くのことを学び取ろうとしている。そしてその対処法を一度の経験で体に定着化させていた。

 

 まだしばらくはこの調子で修行を続けるつもりだった。その方が金を稼ぐ上でも都合がいい。今日の試合は150階級で勝利し、1千万のファイトマネーを得ている。いつものように口座に振り込んで修練場に来ていた。

 

「はい、そこまで。休憩しましょう。絶でオーラの回復に努めるように」

 

 今は堅の訓練をしていた。ひたすら堅を維持し続け、使用可能な時間を伸ばす修行である。多くの場合、堅の使用可能時間が戦闘可能時間と言い換えることができる。これを伸ばすためには、ひたすら発動を維持し続ける訓練を積むしかない。

 

 未熟な使い手では2分と持たずオーラ切れを起こしてしまう高度な技だが、実用レベルで使いこなすには最低でも平静状態で30分の持続発動が求められる。さらに戦闘時は堅に加えて様々なオーラの消費が加算されるため、実質的な持続時間は平静時の6分の1程度にまで落ち込んでしまう。

 

 ぶっ倒れるまでオーラを使い切ってしまう方が一度の訓練で得られる効果は高いのだが、それだと体調とオーラの回復に時間がかかってしまうし精神的にも後が続かない。ウイングはキネティのオーラの様子を見ながら適度に休憩を挟み、断続して堅を使わせていた。その間、ズシは拳法の型の練習をしている。

 

「最近はずっと凝と堅と流の修行ばかりですが、他の応用技とかは修行しなくていいんですか?」

 

「まだその段階ではありません。今はひたすら基礎を磨きなさい」

 

 最初の頃は休憩に入ると疲れ切った様子でへばっていたキネティは、今では汗をかきつつもこうして普通に会話ができる程度には慣れてきていた。その持続時間は最大で1時間を超えるようになっている。順調すぎるほどに修行は進んでいるが、キネティはまるで満足していなかった。

 

「そうですね、知識としてどんな応用技があるかくらいは教えておきましょうか。キネティは具現化系でしたね?」

 

 キネティはすぐに玄翁を具現化してみせた。ウイングはそれを見て自分の胸ポケットからボールペンを取り出す。

 

「武器を具現化するタイプの使い手にとって必須と言える応用技が『周』です」

 

 物体をオーラで補強することで威力や頑丈さを高める。その強化率は物に対する思い入れが強いほど高まる。そもそも思い入れが強くなければ物の具現化はできないので、その点では具現化系と相性の良い技である。

 

 ボールペンを周で強化したウイングを見て、キネティも真似してやってみた。『纏』の延長線として触れた物にオーラを纏わせることは比較的容易なため、応用技の中でも難易度自体は低い。キネティは既に感覚的にこの技を習得していたので難なく使用できた。

 

「できましたね。では次は少し難しい技を見せましょう。オーラの気配を消して見えにくくする技、『隠』です。これも具現化系なら覚えておいて損はありません」

 

 キネティはウイングの持つボールペンの気配が希薄になっていく光景に驚く。技を使うところを見ているのでそこにあるとはっきりわかるが、何も言われなければボールペンの存在に気づかなかったかもしれない。まるで意識に空白が生じているかのような捉えがたい現象だった。

 

「眼の精孔が開いた能力者はオーラを目視できますが、これは光学的な現象として認識しているわけではありません。オーラには“気配”があります。それを眼で感じ取っているのです。この気配だけを絶の応用により遮断することで、オーラが有るにもかかわらず無いように見せかけることができます」

 

 オーラそのものやオーラから形作られた物はこの隠により気配を消して見えなくすることができる。具現化系はこの技による恩恵が大きいため習得している者は多い。だが、キネティもさすがにこれを初見で発動させることはできなかった。

 

 ウイングは説明しなかったが、具現化したわけでもないボールペンに隠を施したその技は『実体隠』と呼ばれる。物体を周で強化し、そのオーラにさらに隠を施す高等技術である。術者本人そのものを隠し、絶に見せかけるという使い方もある。ただし、これは隠の本来の使用法である『念体隠』に比べて精度がかなり落ちるため、目くらましなどと併用しなければ実戦では使い物にならない。

 

「隠は恐ろしい技ですが、オーラが隠蔽された状態は非常に不安定で見抜かれやすくもあります。凝を使われれば絶よりも遥かに容易く看破されることでしょう。単体ではそれほど役に立ちません。隠を生かす戦術が重要になります」

 

 隠に限らず、念による戦闘はどこから攻撃が強襲してくるかわからない未知の事態にあふれている。だからこその凝であり、いかにして凝を欺くかにかかっていると言える。

 

「どのような戦術を導き出すかは、あなたの能力次第ですね。さて、そろそろ堅の修行を再開しますよ」

 

 普段のキネティであればすぐにウイングの言葉に従っただろう。しかし、彼女は何か思いつめた様子で具現化した玄翁を見つめていた。

 

「どうかしましたか?」

 

「あの、あっしの能力についてなんですが……」

 

 念人形『自刻像(シミュラクル)』については話せなかったキネティだが、もう一つの能力である『像は石に(ト・キネートン・アキヌーン)』についてウイングに聞いてもらうことにした。

 

 キネティは玄翁と鑿(のみ)を具現化することができる。鑿という刃がついた棒状の工具を玄翁で叩いて敵に打ち込むことにより、これらの道具に込められた特殊能力が発動する。敵の動きを彫像と化したかのごとく封じることができるのだ。

 

 停止させられる時間は敵の抵抗力に比例して短くなる。強敵であるほど拘束時間は短い。しかし、止まっている間に鑿を打ち込めば再度動きを封じられる。鑿を突き立て続けることができれば敵を倒すまで動きを完封できるというわけだ。

 

「なるほど、敵が単独状態なら強力です。一気にオーラをブーストできるような強化系能力者でもない限り、一度捕まれば脱出は困難と。ふむ……」

 

「率直に言って、この能力どう思います?」

 

「別に悪くはないと思いますが、どうやら自分自身納得がいかないところがあるようですね。さしずめ格上相手には通用しない、という点でしょうか」

 

 ウイングは的確に弱点を見抜いていた。まず、鑿を構えてその柄尻をハンマーで叩き、それを敵に当てるという動作は隙が大きすぎるし、明らかに何かを仕掛けてくるものと気づかれる。このような必殺技特有に定めた動作は制約として能力を強化する効果があるため一概に全てが悪いとは言えないが、当然何らかの方法でその隙はカバーする必要が出てくる。

 

 また、拘束時間はキネティと敵のオーラ顕在量の差から算出される。格下が相手なら楽に動きを封じられるが、格上となると途端に難易度が跳ね上がる。まず一撃目を当てることからして難しいというのに、追撃に失敗すればさらに大きな隙を晒すことになる。

 

 強敵であればあるほどに、一度能力の効果が露見してしまえば最大の警戒を払ってくるだろう。二度もおとなしくひっかかってくれるとは思えない。つくづく弱い者いじめじみた能力だった。

 

 実際に、この能力を作った当時のキネティはそうだったのだろう。自覚はしていなかったが、うぬぼれていた。なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかという苛立ちと、特別な力を手に入れたという全能感が混ざり合い、他者を見下し虐げることで歪んだ芸術性を満たそうとしていた。

 

 あの頃とは何もかも違う。賢者の石のオーラ増強効果を使えなくなったキネティは失った力の大きさを思い知った。オーラの出力も念人形の耐久力もがた落ちし、体はちょっとした攻撃でも簡単にヒビが入り砕け散る。

 

 キメラアントの師団長マンティスを相手取った闘いが嘘のようだった。当時は何も考えずに倒していたが、今にして思えばとんでもないレベルの強敵だった。いくら願ったところであの頃の力は戻ってこない。

 

 一度作った念能力を作り直すことはできない。作品を失敗するのとはわけが違う。どうしてこんな能力にしてしまったのか、せめて何も作らず保留にしておけば今の自分に合った能力を作れたのではないかという後悔があった。

 

「まだ修行はこれからなのですから、そんなに落ち込むことはありませんよ。あなたの能力も使い方次第です。傭兵としての強さを求めるのであれば闘士のように一対一に拘ることもない。例えば仲間のサポートに回るか受ける形を取れば十分に活躍できるでしょう」

 

 サポートに回る、あるいは受ける。そんな状況があるだろうか。もしあるとすればそれはただのお膳立てだ。チェルもアイクもメルエムも、キネティの助けを必要とするような使い手ではない。果たして自分がこの傭兵団に身を置く意味はあるのだろうかとキネティは思い悩んでいた。

 

「カキン帝国ってあるじゃないですか」

 

「ええ、ありますね。近年経済成長が目覚ましいあの」

 

「そこで何かあるんですか?」

 

「何か……? うーん、特にニュースになるようなことはなかったと思いますが」

 

 キネティは詳しい話を聞かされたわけではなかったが、どうやらカキン帝国の関係で傭兵団に大きな仕事が入ってきたらしい。あのお気楽団長がいつになく真剣な様子で何度も会議を行っていた。何となく首を突っ込んではいけない雰囲気のようなものをキネティは子供ながらに肌で感じていた。

 

 そんな中、キネティは天空闘技場での初任務を与えられた。自分から志願した経緯はあったが、もしかするとそうなるように仕向けられたのではないかというかすかな疑念が日に日に強くなっていく。

 

 見放された、捨てられたとはさすがに思えなかったが、一時的にキネティを団から遠ざける理由はあったのかもしれない。出立の見送りの際、チェルはキネティに外の世界を見て色んなことを勉強してこいと言っていた。

 

 それは傭兵として以外の生きる道にも目を向けよというメッセージだったのではないか。チェルに悪意はなかったとキネティも信じている。それでもネガティブな方向へ考えずにはいられなかった。

 

 もしキネティが団を抜けたいとクインに申し出れば、きっとその意思は尊重されるだろう。そこで放り出すようなことはせず最後まで世話を焼いてくれるだろう。全くの善意だ。いっそ邪魔者扱いされた方が未練を断ち切れたかもしれない。だからこそ、キネティは辛かった。その最善と思われる選択を取れずにいた。

 

「先ほども言いましたが、あなたの能力が悪いわけではありません。どんな能力にも長所と短所があります。強いて欠点を挙げるとすれば、その未熟さです。誰しもが技を磨き、経験を積む過程で自分の力に合わせた最適な行動を取れるようになっていきます。今を嘆く暇があったら努力しなさい」

 

 ウイングはあえて厳しい言葉をかけた。キネティが慰めや気休めの言葉を求めているのではないと悟ったからだ。その気持ちは理解できた。全ての武人が通る道だ。乗り越えなければならない最大の試練なのかもしれない。

 

 見上げれば、自分よりも強い者などいくらでもいる。決して届くことはないと諦めそうになる壁がある。まるで自分がちっぽけな存在で、これまでやって来たことの全てが無意味だったのではないかと思える瞬間がある。

 

「それでも努力しなさい。何もしなければ、たとえあなたがどんな人生を歩んだとしても必ず今以上の後悔がつきまとうことでしょう」

 

 その先に進むことができた者だけが強者に成り得る資格を与えられる。顔を上げたキネティに、ウイングはどこか抜けたところがあるいつもの笑顔を向けていた。

 

「さあ、堅の修行を続けますよ。まだ先の話になりますが、実戦向けの応用技をある程度使いこなせるようになれば発の系統別修行も追加していきます。具現化系能力の精度も高められるようになるでしょう。修行内容もハードです。そこからが本当の地獄だと覚悟してくださいね」

 

「……はい!」

 

 キネティの練り上げた堅のオーラは心機一転するように力強く滾っていた。その様子を見て、ずっと心配そうに上の空で拳法の練習をしていたズシも一安心して修行に打ち込む。ウイングも自分の言葉だけでキネティの葛藤を払拭できたとは思っていないが、ひとまず前を向かせることはできただろうと安堵していた。

 

 

 * * *

 

 

「はぁ……ついに来やしたか」

 

 その日、170階級の試合で負けたキネティは受付で一通の書類を渡されていた。ファイトマネーは勝者のみにしか与えられないので普通は負ければ何も渡されずに済まされるのだが、今日はなぜか負けた試合であるにも関わらず審判から受付に行くよう告げられたのだ。

 

 その時から嫌な予感はしていたのだが案の定だった。書類の内容は注意勧告文である。数日前に行われた190階級の試合において不当に実力を低く偽り、同階級帯に残留しようとした疑いがかけられていた。

 

 実際にキネティは修行と金目的で試合に臨んでいたため、あわよくば負けたいとは思っていた。そのような試合はこれが初めてのことではない。天空闘技場の審査部はそれを把握していたが、人気闘士ということもあってこれまではお目こぼしを受けていたのだ。

 

 だが、さすがに目に余るようになってきたということだろう。もう一度、同じ警告を受ければ退塔処分が言い渡され1年間の出場停止となる。それが嫌ならまじめに試合で勝って200階に上がるしかない。

 

 書類には重々しい文面が記されているが、要するにちんたらしてないでさっさと上に行けという尻叩きである。それほど深刻に捉えるようなことではない。ウイングからもいつか通知が来るだろうと予告はされていたので動揺もなかった。

 

 今の階級は160階クラスだ。あと3試合分のファイトマネーで稼ぎは打ち切りということになる。さすがに退塔処分にはされたくないので手加減するつもりはない。本気で臨めば負けはないだろうと軽く思えるくらいには実力をつけていた。

 

 キネティにはフロアマスターを倒すという課題があるのでどのみち200階には行く予定だったが、稼ぎも一つの目的だったため一応はクインに報告しておく必要があるだろう。キネティは公衆電話をかけに向かった。

 

「キネティ!」

 

 エレベーターで1階の観客用エントランスに来たキネティは、そこで知らない男から声をかけられた。もっさりとした金髪の男でくたびれたスーツを着ている。闘士として知名度が上がってきたキネティは、たまにこうして見ず知らずの人から声をかけられることがあった。

 

 しかし、ファンというにはどこか異質な雰囲気だった。他の観客たちの目も気にせず大声で彼女の名を呼び止めたかと思うと走ってこちらに向かってくる。

 

「キネティ! ああ、良かった! やっと会えたね! 随分探したよ……!」

 

 いきなり抱き着こうとしてきた男をかわして何事かと警戒心を強める。

 

「ああ、ごめん。そうだね、僕のことは覚えていなくてもおかしくないか。キネティはまだ小さかったからね……パパだよ。僕は君のパパだ、キネティ」

 

 突然の告知をすぐに噛み砕いて飲み込むことはできなかった。キネティはこれまで自分の父親のことを知らずに生きてきた。母親が一人で彼女を育てていたからだ。何も語ろうとしない母親に、キネティも聞き出すことはできなかった。

 

 分別のつく年頃となったキネティは離婚でもしたのだろうと予想はしていた。昔は父親のことを知りたいと思ったこともあったが、今となってはそんな気も起らない。思いもよらない遭遇に戸惑う気持ちの方が強い。

 

「ずっと君のことを探していたんだ。天空闘技場にいるという話を聞いて駆け付けたのさ」

 

 本名で闘士名を登録していたため情報が伝わったようだ。カーマインアームズとのつながりさえバレなければ本名でも問題ないだろうと考えていた。キネティという名前は確かに珍しいし、容姿だっていくらでも撮影されている。

 

 そこまでして探し出そうとしてくれたことに一定の感謝はあったが、しかし今後予想される話の展開を思えば素直に喜べなかった。

 

「今まで苦労させてしまったね。さあ、帰ろうキネティ。これからはパパと一緒に暮らそう」

 

 そうなるだろう。でなければわざわざこんなところに来るわけがない。キネティは首を縦に振らなかった。

 

「ど、どうしたんだい。もしかして、本当のパパかどうか疑っているのかい? それなら安心してくれ。国際人民データ機構に照会すればすぐに僕たちの親子関係は証明できる」

 

 本当に親子であるかどうかは大した問題ではなかった。離婚した経緯についても問いただす気はない。キネティの感情は“今更”という一言に尽きた。

 

「どうして今になって?」

 

「……見つけ出すのが遅くなってしまったことは申し訳ない。本当はママと別れてしまったことも本意ではなかった。これまではずっとその気持ちを押さえつけてきた。それが家族のためだと思っていた」

 

 男は訥々と語る。キネティとその母親がスカイアイランド号事件に巻き込まれて行方不明となったことを知り、その生存が絶望的であると理解しながらも諦めきれなかったことを。男は仕事を止め、二人の捜索に全力で当たっていた。

 

「ママは、どうなったのか、聞いてもいいかい、キネティ」

 

 隠すべきことではない。キネティは正直に母親の死を伝えた。男は顔を伏せ、静かに泣き始める。

 

「そうか……辛いことを思い出させてしまったね。これからは君のそばにパパがいるよ。不自由はさせない。二人でアトリエのある家に住もう。君の作品を待ち望んでいる人たちがたくさんいるんだ」

 

 キネティはその言葉にひっかかりを覚える。彼女は世界的なコンクールで入賞するほどの作品を残してはいたが、まだ子供ということもあり一人の芸術家として広く認められていたわけではない。

 

「そんなことはない! 事実、作品を買い取りたいと願い出る美術商はいくらでもいる。みんなが君の才能を認めているんだ。パパも全力で応援するよ。さあ行こう、もうこんな危険なところにいる必要は……」

 

「お断りしますぜ」

 

 これまでキネティは父親に対して愛情や憎しみと言った感情を持っていなかった。もはや二度と会うこともないだろうと思っていた、ただの他人だ。だが、この男と会うことによって無色透明だった彼女の感情が色付いたことは確かである。

 

 父親を名乗る男にキネティは、ただただ不快げな視線を向けていた。

 

「な、なにを言って……」

 

「下手な演技までしてご苦労なことで。子供だから簡単に騙せるとでも思いやしたか?」

 

 感極まった様子で泣いていた男だが、その目に涙が浮かんでいないことをキネティは見抜いていた。そして男が金の話を匂わせ始めた途端、その感情の揺らぎが頭頂から立ち上るオーラに表れたことも看破している。それは自らの妻の死を知らされた時よりも大きな波だった。

 

 敵を惑わそうと命がけの策を弄してくる闘士たちの試合に身を置くキネティから見れば、粗末な演技と言わざるを得ない。全てが嘘というわけではないだろうが腹に一物抱えていることは見え透いていた。

 

 親子関係については真実だろう。調べればすぐにわかることだ。大方、キネティを引き取ることで彼女の作品を売りさばき、その利益を得ようとしているものと思われる。闘士としての活躍も知っているものと考えれば、そのファイトマネーをついでに自分の懐に入れようと画策していてもおかしくない。

 

「既に一生遊んで暮らせるほどの金があるので、あなたの世話になる必要はありませんぜ。それでは」

 

「ま、待ってくれキネティ!」

 

 ファイトマネーはほとんど団の口座に振り込んでいるのでキネティ個人の金というわけではないが、わざわざそんなことを言うまでもない。けんもほろろに立ち去るキネティを引き留めようとする男だったが、その手が触れるより前に殺気が放たれる。

 

「二度と来ないで」

 

 目の前の少女は背中を向けているにもかかわらず、男はまるで首筋に刃物を突き付けられたかのような威圧を受けて指一本まともに動かせない硬直に襲われていた。纏ができない一般人に受け流せる殺気ではない。

 

 仮にキネティの推察が間違っていたとして、あるいは金の問題は別としてこの男にキネティへの愛情があったのだとしても、彼女の答えが変わることはなかった。今の彼女はカーマインアームズの一員だ。生まれ変わり人間ですらなくなった彼女にとって、その男は血のつながりもない赤の他人に過ぎない。

 

「キネティ……」

 

 男は遠ざかっていく少女の背中を見ていることしかできなかった。その視線は、実の娘に向けたものとは思えないほど薄汚れた執着にまみれていた。

 



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107話

 

「こちらでお待ちください」

 

 キネティの父、ダラッコは豪華な応接間に案内された。高価な調度品で飾り立てられた部屋の中、居心地が悪そうにこの屋敷の主人を待つ。彼の着ているスーツのしみったれた仕立ての悪さが際立っていた。

  

 ここは天空闘技場の247階。一般客が立ち入ることができるのは229階までだ。それより上の階層はフロアマスターの私邸となる。ダラッコもその階層主であるフロアマスターから呼ばれていなければここに来ることはできなかった。

 

 しばらくして応接間に主人が来た。ダラッコは慌てて立ち上がり、ぺこぺこと頭を下げる。

 

「アクエリアスさん! どうもお世話になっております。本日はお忙しいところを……」

 

「まあ、そんなに緊張なさらないで。以前も言いましたが、私のことはアクアと呼んでくださって結構ですよ」

 

 入室してきたのは長髪の美丈夫だった。長い紫色の髪をポニーテールに結んでいる。アクエリアスとは彼の闘士名であり、本名ではない。この247階を手中に収めるフロアマスターだった。

 

「それで、どうでしたか。娘さんとは」

 

「それがなかなかうまくいかず……取り付く島もないと言った有様でして……」

 

「そうですか。離れ離れだった時間が長いですからね。娘さんも難しい年頃でしょうし」

 

 キネティが天空闘技場にいることをダラッコに教えたのはアクアだった。なぜフロアマスターの地位にいるアクアが200階級にも満たない闘士に目をつけたのか。その理由は、この応接室にもある装飾品の数々からうかがい知ることができる。

 

 アクアは無類の美術品コレクターだった。フロアマスターとして得た収益のほとんどを美術品の蒐集につぎ込んでいる。彼は部屋の一角に置かれた彫像を眺めた。それはつい最近、ヨークシンで開かれたサザンピースオークションで競り落とした品だった。

 

「キネティ=ブレジスタの遺作と言われた『七匹のハイエナ像』、素晴らしい作品ですわ。1億5千万ジェニーで買いましたが全く惜しくはない。この匂い立つような生命感、ハイエナの一匹一匹に宿る意思、食らいつく死肉までもが精巧に表現され、生と死の対比を見事に一つの構図へと落とし込んでいる……私、一目見て惚れ込んでしまいましたの」

 

「はあ……」

 

 気のない相槌を打つダラッコ。彼は芸術品に対する審美眼など欠片も持ち合わせておらず、その作品も気味の悪い彫像にしか見えなかった。しかし、アクアが鋭い視線を向けていることに気づき、慌てて賛同する。

 

「確かに素晴らしい! 娘の才能は本物です! なぜ今まで評価されなかったのか不思議なくらいですよ!」

 

「死後、名を上げるは芸術家の常。生きている間は才人も不当な評価を下されやすい。権威に溺れた無能どもが幅を利かせ、他者の成功を認めまいと足を引っ張るのはよくあることです。まあ、それは芸術の世界に限ったことではありませんが」

 

 学歴社会はどこにでも存在する。アカデミーを出ていないという理由だけで見るにも値しないと切り捨てる批評家は多い。いかに才気にあふれるとはいえ、まだ10歳かそこらの少女が評価されないのは無理からぬことだった。

 

 しかし行方不明となったキネティは事故死を確実視されていたため、もう二度と手に入らないという希少性もあって注目が集まった。ここで作者の存命が確認されたからと言って、その評価が覆されるということはないだろう。彼女の作品には間違いなく凡百の芸術家にはない鬼才が表れている。

 

「それだけに惜しい。まさか闘士になっているだなんて」

 

 アクアがキネティの存在に気づいたのは最近のことで、その時には既に150階級の闘士として活躍していた。念を習得していることも確認済みだ。この調子ならすぐにでも200階まで上がってくるだろう。

 

 アクアは『七匹のハイエナ像』のオークション出品者がキネティの父親であることを知っていたので、伝手をたどってどういうことなのか経緯を問いただしたのだ。ダラッコにしてみれば寝耳に水の話だった。

 

 事業に失敗して多額の借金を抱えていたダラッコは、これ幸いと引き取った遺品をオークションで売り払っただけだった。手にした1億5千万ジェニーは返済に充てたため残っていない。そこにきて娘が生きているかもしれないという情報をアクアから得たダラッコは、金の匂いを嗅ぎつけて飛んできたのだった。

 

「なまじ闘士としての力量があるだけに厄介ですねぇ。すぐにでも創作活動を再開してもらいたいのですが、説得は無理そうですか?」

 

「はい……」

 

 ダラッコはアクアの協力を得る見返りとして、優先的にキネティの作品を売り渡すことを約束している。優先するだけで値段については真っ当な価格を支払うとアクアは明言している。芸術家が格相応の報酬を得ることは当然と考える彼にとって、けち臭く値切ろうとする行為はプライドが許さない。

 

「なら、足を切り落としますか」

 

「……はい?」

 

「戦えなくなれば諦めもつくでしょう。彫像を作るだけなら足がなくても、両手があれば十分でしょう?」

 

 最初、ダラッコはアクアの言っていることが理解できなかった。徐々にその意味が頭に沁み込むにつれて、握りしめた手が汗ばんでいく。

 

「まあ、よくあることです。200階に上がった闘士の五体がどこかしら欠けることはね」

 

 毎日のように190階級の試合は行われている。それに臨む闘士のうち半数は勝者だ。その誰もが200階級の闘士になっているのなら、膨大な数にのぼることだろう。

 

 現実は違う。力量を悟り、自らの足で塔を去る者はまだ利口だ。多くの闘士が初心者狩りの洗礼を受けて使い物にならなくなる。そこから這い上がることができる闘士はほんの一握り。190階以下とは比べ物にならない淘汰の末、200階級の在籍者数はほぼ一定に保たれている。

 

 まともな精神で生き残れる世界ではない。恐ろしい現実にダラッコは震える。そしてアクアが当然のようにその現実を享受していることに恐れをなす。この塔に住まう者たちにとってはさして気に留めるほどのことではないのだろう。

 

 キネティはそんな世界へと踏み込もうとしている。むしろ、足の一本や二本で済むのなら僥倖ではないか。娘のためを思えば、ここはあえて心を鬼にしてアクアに任せるべきではないか。

 

 娘のため、娘のためと、念仏のように一つの言葉がぐるぐるとダラッコの頭の中を巡る。それは罪悪感から逃れるための思考の放棄に他ならなかった。了承の意を示そうとしたダラッコを見て、アクアはおかしそうに笑い声をあげる。

 

「冗談ですよ。そんなに真剣に考え込まないで。私だってキネティちゃんには五体満足で創作活動に励んでもらいたいですわ。まずは円満に事が運ぶよう、私の方から説得を試みてみます」

 

「はっ、はい! なにとぞよろしくお願いします!」

 

 頭をテーブルに擦り付けるようにしてダラッコは頼んだ。アクアの言葉に嘘はない。しかし、最終的にはどんな手段を使ってでも自分の望みを叶えるつもりだった。

 

 その最終的な段階はそう時間を置かずに来ることになるだろう。彼の気は短い。キネティの作品を欲してやまないアクアは逸る気持ちを抑えきれずにいた。

 

 

 * * *

 

 

 順調に快勝を重ねたキネティはついに200階に到達した。観客用に開放されているエレベーターでなら何度も来た階層であるが、初めて闘士専用のエレベーターからの入場を許される。閑散とした通路はまるで病院のような言い知れない陰湿さを感じた。

 

 表向きの華やかな風情とは程遠い雰囲気に少し驚いたが、こんなものかとキネティはすぐに割り切った。どれだけ綺麗に飾り立てようと闘争者たちの血で汚れた決戦場には違いない。今日中に参戦登録しないと資格抹消になると言われたので、すぐに受付へ向かった。

 

「昇級おめでとうございます、キネティ様。200階クラスからは名誉のみの闘い、ファイトマネーはなくなりますのでご了承ください」

 

 まずは闘士登録のための署名と、使用する武器の詳細などについての記入を求められる。200階からは原則、試合に持ち込む武器は何でもありだが、ある程度のことは運営側も把握しておくためだろう。

 

 次に渡されたのが参戦の申込書類だ。この階からは申告戦闘制が適用される。1戦につき90日間の戦闘準備期間が与えられ、その期間内において自由に試合の日取りを決められる。

 

 ただし、日取りを絞り過ぎて他の闘士とマッチングしなければ不戦敗だ。そうならないように闘士同士で示し合わせて試合日を決めることもままある。誰がどの日に試合を希望しているかという情報は、この階の闘士にとって大きな関心事である。

 

「へへへ……」

 

 キネティの後ろに並んでいる闘士たちが薄ら笑いを浮かべる。彼らは皆、体のどこかに後遺症を残していた。洗礼を生き延びた200階闘士だ。凛としたたたずまいをしていれば名誉ある負傷に見えたかもしれないが、生憎と誰もが落伍者の風格しかもっていなかった。

 

 キネティが受付に来たタイミングと偶然重なったわけではない。彼女の試合希望日を盗み見るために近づいてきたのだ。こういった露骨な初心者狩りがいることは事前にウイングから聞かされていた。闘いたければ好きにしていいと許可は出されている。

 

「お嬢ちゃん、ここは初めてかい? 色々とわからないこともあるだろう。どうだ、試しにおじさんと一戦してみるってのは? チュートリアルってやつさ、へへへ」

 

 このような連中の実力帯は中の下と言ったところらしい。あまりにも実力が低いと初心者狩り同士の抗争で負けてしまうので表に出てこない。そして、真剣にフロアマスターを目指している一部の実力者はそもそも初心者狩りなどしない。

 

 そんな勝ち方で10勝したところでフロアマスター戦で殺されて終わるだけだ。21人の最高位闘士の名は伊達ではない。挑戦者の9割は負けるのではなく、凄惨な死によって幕を閉じる。

 

 90日間の戦闘準備期間と言われると最初は長いように感じるが、200階の試合に慣れてきた闘士ほど途方もなく短く思えるようになってくる。10勝に近づくにつれ恐怖を抱くようになる。果たして自分の実力は最高位闘士に届くのかと。1日1日が死闘へのカウントダウンなのだ。

 

 試合での勝利をポイント稼ぎ程度にしか考えていない初心者狩りのような連中など高が知れている。だが、腐っても念能力者である。キネティにとって初戦の相手としては十分だ。ウイングからは腕試しに闘ってみるのもいいと言われていた。

 

 ちょうど良かったのでキネティは、すぐ後ろに並んでいた片脚が義足の中年男と試合してみるかと考えていた。そこにどこからか声がかかる。

 

「いやぁねぇ、相変わらずここは辛気臭くて。どいてくださるかしら?」

 

 現れたのは、紫の髪を一つに結った長身の美男子だ。軽装鎧にサーコートを元にしたような騎士風の戦闘服を着ている。

 

「なんだてめぇは。見たことない闘士だが。お前も新入りか?」

 

「これはアクエリアス様。フロアマスターがこのような場所に何か御用でしょうか」

 

「……フ、フロアマスタァッ!?」

 

 じろじろと睨みつけていた義足の男が身構える。フロアマスター戦が行われることは滅多にないため200階級闘士であってもその姿を知らない者は多い。2年に1度開かれるバトルオリンピアも観戦チケットの入手は困難を極め、またその内容は映像として残されることもない。

 

「あなたたちに用はないのです。そこのレディとお話ししたいことがありまして」

 

「ふ、フロアマスターが何だってんだ! 俺たちゃただ受付に並んでるだけだ! とやかく言われる筋合いは」

 

 

「失せろ、クソ虫ども」

 

 

 それまでのなよなよした口調とは一変したドスの利いた声。つつかれたイソギンチャクのごとく男たちは縮こまった。針の筵のような威圧に堪えられず、すごすごと退散していく。キネティも便乗して退散していく。

 

「やだもぉ、あなたはいいのよぉ。キネティちゃん」

 

 しかし、がっしりと肩を掴まれ引き留められる。変な奴に絡まれてしまった。これならまだ初心者狩りの連中と仲良く談笑していた方がマシだったかもしれない。

 

「あっしのことを知ってるんですか?」

 

「ええ、キネティ=ブレジスタ。あなたのことも、あなたの作品のことも知っていますわ」

 

 なるほど、そっちかとキネティは合点がいった。

 

 

 * * *

 

 

 二人は対談を終え、キネティは解放された。特に危害を加えられたり脅迫されるようなこともなかった。むしろ紳士的な対応だったと言えよう。しかしわざわざフロアマスターが出張って来て、ただの世間話で終わるということもなかった。

 

 ひとまずウイングに意見を仰ごうと、いつものように修練場へやって来た。事の次第を聞かされたウイングは難しそうな顔でうなる。

 

「これは少し厄介なことになりましたね……」

 

 アクアの要望はわかりやすい。彫刻家としてのキネティのファンである彼は、金に糸目はつけないので是非とも新たな作品を作ってほしいと願っている。自分に乞われるほどの腕はないと断ったキネティだったが、アクアの気は変わらなかった。

 

 作品を作ると言っても片手間にできるようなことではない。一彫りに魂を込めていく作業だ。その時の調子にもよるが、納得のいく作品が仕上がるまで数か月かかることもある。手を抜いて雑な作品を作ることは矜持が許さなかった。

 

 ウイングもそこは妥協すべきでないと考える。信念の強さが如実にオーラに表れる念能力者にとって妥協は大敵だ。キネティの能力は彫刻と深くかかわっており、その作品作りで自分の矜持を曲げるようなことをすれば能力自体の精度にも影響を及ぼしかねない。

 

 修行の合間に少しずつ取り組んでいけば、早ければ半年ほどで作品を完成させられるかもしれない。だが、キネティはそんなことをしに天空闘技場へ来たわけではないし、アクアもそこまで待つことはできないという。ここで両者の意見は食い違った。

 

 アクアはキネティに闘士を辞めて彫刻家の活動を再開してほしいようだが、いくら金を積まれてもキネティはその要望に応えるつもりはなかった。今の彼女は闘士であり傭兵見習いである。フロアマスターを倒すまでは、この地で一時たりとも修行の手を休めるつもりはない。

 

 だが、それを聞いたアクアはとんでもない提案を持ちかけてきた。誰にも聞かれないようにとこっそり耳打ちしてきた。

 

『キネティちゃんはフロアマスターになりたいの? そう……わかりましたわ。私があなたをフロアマスターにして差し上げます』

 

 通常、200階クラスの闘士は累算10勝することでフロアマスターへの挑戦権を獲得する。挑戦権とは言うが棄権すれば退塔処分となるので事実上の強制試合だ。挑戦者の対戦相手はフロアマスターのうち序列下位10位以内の誰かが抽選によって決定される。

 

 キネティはアクアから『フロアマスター逆指名戦』という制度があることを聞く。その名の通り、フロアマスターが逆に200階級闘士を指名して行う試合だ。この場合、指名される闘士の戦績は問われず、また断ったとしてもペナルティはない。当然、勝てばその闘士が新たなフロアマスターとなる。

 

 つまり、まだ1勝もあげていないキネティであってもフロアマスターと闘うことは可能ということだ。アクアは知り合いのフロアマスターに頼んで席を一つ空けてもらい、そこへキネティが座れるように逆指名戦を手配すると滅茶苦茶なことを言ってきた。

 

「そ、そんなことが本当にできるッスか!?」

 

「もちろん無理ですよ」

 

 逆指名戦という試合自体、滅多に行われることはない。よほど好戦的な性格でもなければフロアマスター側にメリットがないからだ。指名された闘士も実力不足と判断すれば試合を断れるので申し立てがあっても成立しないことが多い。

 

 アクアは簡単に言ったが、それはつまり今いるフロアマスターのうち1人を辞めさせてキネティと入れ替える八百長試合をやらせるということだ。普通なら荒唐無稽と笑って済ませる話だが、ウイングは楽観できずにいた。

 

「しかし、あの男ならやりかねません。序列4位『美しく青き』アクエリアスは……」

 

 21人の最高位闘士にも序列による格の差と派閥が存在する。中でも上位4名からなる闘士王とその配下『三天』の派閥は最大の強権を手にしている。その一角を担うアクアも、他のフロアマスターに対して絶大な影響力を持っていた。

 

「奴は欲しい物のためなら手段を選ばない蒐集家です。時には人の命すら踏みにじる残虐性を持っています。標的にしたフロアマスターに指名戦の約束を取り付けて不戦敗にさせることもやりかねない」

 

「詳しいッスね、師範代」

 

「えっ、いやまぁ……とにかく、奴に一度目を付けられれば逃れるのは容易ではないということです」

 

 アクアはキネティの目的をフロアマスターになることだと勘違いしている。その地位は闘士の憧れだ。一生の富と名誉が約束される特権に満ちている。だからこそ200階クラスの闘士たちはファイトマネーがなくとも勝利を目指して闘い続ける。

 

 しかし、キネティにとってはその地位を得ることも修行の課題でしかない。勝てばこの塔を去るつもりだった。アクアの言う通りにすれば金は稼げるかもしれないが、その生き方は傭兵ではなかった。どのみち作品作りに取り組むつもりはない。

 

 だが、ひとまずはっきりとした返答はせず、考える時間を欲しいとキネティは伝えた。アクアにしても準備に時間がかかるようだったので一週間後に改めて返事をすることになっている。

 

「良い判断です。不用意に断ればどんな手を使ってくるかわかりません」

 

 序列4位のフロアマスターであっても好き放題に何でもできるわけではない。今回の逆指名戦はアクアの強権をもってしても骨が折れる仕事になるだろう。それだけの苦労を買ってでもキネティの作品が欲しいということでもある。

 

「もしこの話を断った場合、私にもどうなるか予想がつきません。闘士同士の試合以外での私闘は禁じられていますが、何かしらの方法で圧力をかけてくることは確実です」

 

 この塔に身を置く限り、アクアの意に従わなければ直接的な危害を加えてくることもあり得る。初心者狩りのような低レベルな小競り合いとはわけが違う。だったら言う通りに逆指名戦を受け、勝利しておさらばするという手もある。

 

 だが、そのやり方でアイクから言い渡された課題をクリアしたと言えるだろうか。勝てばいいという話ではない。真っ当な形で10勝して自力で挑戦権を獲得するまで待ってくれとアクアに言ったところで聞き入れてくれるはずもないことはわかる。とにかくアクアは早く作品が欲しくてたまらないのだ。

 

「仮の話ですが逆指名戦を受けるものとして、あっしが八百長無しでフロアマスターと闘って勝ち目はありますか?」

 

「不可能ですね」

 

 ウイングはきっぱりと断言する。フロアマスターは強い。序列下位なら念能力者として見ればそれほどでもないが、戦闘技術のみを見るならそこらの使い手では比にならない。いずれ劣らぬ武術の達人たちだ。どれだけキネティに才能があろうと今の実力では勝負にならない。

 

 しかし、キネティにはもうこの手しかないように思えた。あと一週間、死ぬ気で修行して逆指名戦を受ける。そして、できることなら自分の実力で勝利をもぎ取る。

 

「無茶です」

 

「やるだけやってみたいんです。アクエリアスならあっしのことを殺すような試合にはさせないでしょう。だから本気で闘い合うと言ったところで対戦相手は手加減してくるはず。自力で勝つのは無理でも、せめて全力を尽くして納得のいく試合にしたいんです」

 

 ウイングはどうしたものかと寝ぐせのついた頭を掻く。試合相手との調整はアクアがやってくれるだろう。もしキネティの体に重傷が残るような試合をすれば、そのフロアマスターはアクアに殺されてもおかしくない。

 

 キネティにとっての勝利条件は、試合の勝敗というよりは課題がクリアできたと思えるかどうかにかかっている。八百長なのだから形式的に勝利することは確定している。あとは自分自身が納得できるかどうかだ。

 

 極論を言えば、本当にキネティが実力で勝利したとしてもそれを不足と感じれば課題の達成とは言えない。それはあくまで極論だが、気持ち一つで決まる問題であるがゆえに難しいということだ。

 

「わかりました。やってみなさい。私もできる限り協力します」

 

「ありがとうございますぜ!」

 

 ウイングは不承不承、頷いた。やはりここでアクアの申し出を断ることは得策ではないと考える。ならば最大限、キネティの意に添うようにやらせてみようと思った。

 

「修行メニューも見直しが必要です。見直し、というか前倒しですね。さっそく今日から発の系統別修行を始めましょう」

 

 六つの系統に分けられる発だが、自分の得意系統だけを練習し続ければ良いというものではない。自系統を中心として相性の良い両隣の系統も鍛えていく方が、長い目で見れば効率的に精度と応用力を高められる。

 

 だが、キネティにそんな時間はない。ウイングはこの一週間、具現化系一本に絞った修行を課すつもりだった。まずは玄翁を具現化するように指示を出す。キネティは難なくその指示に従った。

 

「では、同じ物をもう一つ作ってください」

 

 玄翁を二本、具現化する。キネティは考えたこともなかった。一つしか出せないという意識が当たり前になっていた。事実、その認識は間違っていない。多くの具現化系能力者が同様の思考に至る。

 

 これは『複製』と呼ばれる具現化系の中でも高難度の技術である。初心者にいきなりやらせるような修行ではない。キネティは必死にオーラをもう片方の手に集めるが、形を成すことなく崩れていく。

 

「できませんか?」

 

 しかし、ウイングは手を抜かなかった。後一週間でフロアマスターと最低限闘えるだけの力をつけようというのがそもそも無謀なのだ。それでもキネティを納得させるためには並の修行では間に合わない。

 

「言ったはずです。ここからが本当の地獄だと。これまでの基礎鍛錬、応用技の修行に加え、この『複製』をマスターしてもらいます。睡眠時間も纏と察知能力を鍛えますので悪しからず」

 

「は、はい!」

 

 こうして短期集中型強化訓練が始まった。ウイングは、これ師匠にもやらされたなぁと過去を振り返ってしみじみとした気分になる。自分の弟子にはさせまいと思っていたのでキネティが少し気の毒だったが、妥協は禁物。心を鬼にするのだった。

 



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108話

 

 その夕方、キネティたちはいつもの修練場から離れて郊外の森に来ていた。手入れの行き届いた散策向けの森ではない。鬱蒼と立ち並ぶ木々、下草は生い茂り、倒木や岩がごろついている。すぐ近くに街があると言っても、森の少し奥へ足を踏み込めば荒れ放題の自然が広がっている。

 

 キネティはそこでズシと組手をしていた。流々舞ではなく実戦に近い形式である。キネティは玄翁を武器として使っているが、ズシは無手。しかし、心源流拳法を鍛えてきたズシを相手に武器の差は大したハンデにならない。

 

 最初は手加減する気があったキネティも今では本気でズシに殴りかかっている。鉄の鎚で打たれても物ともしないズシの頑強さは、積み重ねてきた流の鍛錬によるところが大きい。相手のオーラの流れを読み、自分のオーラの流れを変える技。それは一朝一夕に身につくものではない。

 

 ズシの拳を受けたキネティの体には無数の小さな亀裂が生じていた。服の下に隠れる程度の傷だがダメージには変わりない。組手の最中、瞬時に修復するようなことはできなかった。ダメージは蓄積し、その部分の纏は乱れ、流が滞り、さらなるダメージを受けるという悪循環に陥っている。

 

 キネティもズシのようにオーラによる適切な防御が間に合えばこのような亀裂は発生しない。キネティの念人形体が特別脆いというわけではなく、普通の人間であっても受けるであろう妥当なダメージだった。

 

 つまり、両者の差は単純な技量の違いに他ならない。キネティにとって予想はしていた事とはいえ悔しさがないと言えば嘘になる。一方、ズシの方も過剰な手加減はしていなかった。キネティの本気に応える形で実力を見せている。

 

 ズシも余裕綽々とはしていられない。キネティの覚え込みの速さには鬼気迫るものがある。何よりも恐ろしいのは全く怯むことのない勇猛さだ。まるで痛みを感じていないかのように攻撃を受けても平然としている。

 

 事実、キネティは念人形体であるため痛覚は必要最低限しか感じることがない。その利点は戦闘中における精神の安定性という念法使いにとって不可欠な素養と噛み合っていた。技ではズシに及ばないが、全ての点で彼女がズシに劣っているわけではない。

 

 組手であっても気持ちは両者ともに真剣勝負だった。そんな中、二人を狙い撃つように森の茂みから何かが急速に飛来する。

 

「いてっ」

 

「あたっ」

 

 それはオモチャのダーツだった。針はついていないので当たっても傷にはならないが、しっかりと堅の状態を保っている二人の防御を貫くだけのオーラが込められている。さらにそのダーツは隠(実体隠)が施されており、非常に感知しにくい状態にされていた。

 

「師範代、無理ッス! 組手をしながらこれを避けろだなんて!」

 

「避けてもいいし、凝で防いでもいいし、叩き落としてもいい。とにかく対処しなさい」

 

 気配を消しながら二人に向けてダーツを投げたのはウイングだ。夕暮れ時の視界の悪い森で、どこから飛んでくるのかわからない攻撃だ。しかも隠が使われているため目に凝をして注意深く観察していなければ、とてもではないが事前に察知することはできない。

 

「これは凝を鍛える訓練です。今ので実感できたでしょうが、実戦中、常に目にオーラを集めて全力の警戒状態を保つことは不可能です。初見の敵に対し、まず凝で様子を見るのは鉄則ですが、だからと言って100%の精度で凝を使い続ければいいというわけではない」

 

「ではどうすれば!?」

 

「戦闘中における目の凝の精度は全力時と比較して高くとも30%程度だと見積もってください。それ以上のオーラを割こうとすれば戦闘に支障が出ます。低い精度の凝でも敵の攻撃を見破れるように鍛えるのです」

 

 経験を積んだ戦士は、襲撃者の視点から攻撃を受けるポイントを予測できるようになる。どこに目を向け、どんな点に注意すべきかがわかっているのだ。だから最低限の凝で油断なく敵の攻撃に備えることができる。

 

 それはズシとキネティの組手のような近接戦闘における技の読み合いにも言えることであり、またウイングが投げたダーツのような奇襲においても言えることだ。この修行だけで実戦的な戦闘勘まで養うことはできないが、凝の感覚を研ぎ澄ます訓練になる。

 

「さあ、次々行きますよ。完全に日が暮れたらもっと避けにくくなるでしょうから今のうちに少しでも感覚を身につけなさい」

 

「「押忍!」」

 

 

 * * *

 

 

 アクアとの約束の日まであと4日。寝る間も惜しみ、否、寝ている間も飛んでくるダーツに気の休む暇もない日々が続く。ズシもそのハードスケジュールに付き合っていた。

 

 これはウイングから強制されたわけではなくズシ自身が申し出たことだ。兄弟子として自分だけのんびりしていることはできない。それにキネティの修行の相手以外で念の使用が禁止されていることもあって、自分から進んで組手の相手を買って出た思惑もある。

 

 アクアの件にウイングとズシは直接関係があるわけではない。ある意味、キネティのわがままに付き合わせてしまう形となったことを彼女自身、申し訳なく思うところがあった。だが、その好意を無駄にしないためにも今はとにかく修行に励むしかない。

 

「できた……」

 

 そして強化訓練が始まってから3日目にして、ついにキネティは『複製』を習得するに至る。目を閉じて具現化作業に集中していたキネティは、自分の手に2本目の玄翁が握られている感覚を得た。

 

 幾度となく試しては失敗を繰り返した作業だった。オーラを集めるところまでは進むが、それを形にすることができず止まってしまう。そこでキネティは考え方を変えてみることにした。道具を具現化しようとするのではなく、一つの“作品”としてもう一つの玄翁を作ってみればどうかと考えたのだ。

 

 その試みが功を奏した。壁を乗り越えたように一気に複製作業が完了する。鑿についても同じ感覚で複製することができた。さっそくウイングに報告しに行く。

 

「えっ!? できたんですか!?」

 

 ウイングは驚いていた。マスターしてもらうとは言ったが、それはキネティに発破をかけるために言っただけで本当に習得するとは思ってもいなかったのだ。じゃあ何で覚えさせようとしたんだとキネティはチベスナ顔になる。

 

 これは具現化系の系統別修行の一つである。つまりトレーニングだ。覚えられずとも必死に取り組む過程にこそ意味がある。現にキネティの発の精度は上がっていた。以前よりも具現化物の頑丈さや特殊能力の性能も少しだけ向上している。

 

「『複製』は優れた能力者であっても適性がなければ使えない技です。円の展開距離が個人でばらつくのと同じようなものです」

 

 例えば、ウイングが知る中で最もこの技能に長けた能力者を挙げるならダブルのシーハンター、モラウ=マッカーナーシがいる。彼の場合は具現化系ではないが、煙をオーラで固めた念人形を200体以上複製できるという驚異的な能力者だ。

 

 せっかく適性があるというのであれば戦闘に生かさない手はないと思ったキネティだったが、そううまくはいかなかった。玄翁や鑿をいくつも具現化できたところでそれを扱うキネティの手は二つしかない。

 

 投擲武器として使えないかと検討もしてみたが、キネティの手から離れた途端にオーラが急速に弱まった。念能力者を相手にするには威力不足と言わざるを得ない。これは具現化系が放出系と最悪の相性関係にあるためだ。根本的に具現化系能力者は自分の体からオーラを分離して扱う技術を不得意とする。

 

「今は無理に戦術に組み込もうと考えずともいいでしょう。あくまで修行の一環です。二つに増やせたのなら次は三つ、四つと限界まで挑戦を続けてください。そうするうちに具現化能力の基本性能もアップしていきます」

 

 しかしキネティは複製の修行を続けながら他に良い手はないかと考えた。そして思いついたのが自分自身の複製である。武器を持つ手が二つしかないというのであれば、その使い手を二人にしてしまえばいい。

 

「自分自身の具現化ですか……そういえば、そんな能力を持った200階級闘士もいましたね」

 

 フロアマスターの座に目前まで迫った闘士、虎咬拳のカストロという男がいた。彼は自分自身の生き写し(ダブル)を具現化する能力を持っていた。これは分身系念人形と呼ばれる念獣の一種に当たる。

 

「一般的に念獣はその名の通り、鳥獣の形を取るものが多いのですが」

 

「分身系はあまり強くないんですか?」

 

「そんなことはないですよ。単純に戦力がもう一人分増えるわけですからね」

 

 具現化系能力者にとって自分自身の身体とは最も身近な存在であることは確かだが、身近過ぎるだけに客観視が非常に難しいという問題もある。これもまた複製のように独特の適性がなければ発現できない技能と言えよう。

 

「ですが、カストロは試合で命を落としました。念獣は複数の系統を複合しなければ使えない高度な発です。せっかく素晴らしい発を考えてもそれが自分の系統や技能と噛み合わなければ実用化することは難しい」

 

 自分と全く同じもう一人の自分を作り出し、戦闘中に二つの自分を同時に操作しなければならない。リアルタイムで命令を送り操作する『遠隔操作型』として運用するのは至難の業だ。事前にプログラムされた動きを取らせる『自動操作型』ならその点は心配ないが、それだと動きが単調で臨機応変に行動できないという問題が出てくる。

 

 欠点のない能力などないということだ。カストロは確かに稀有な才能の持ち主だったが、それだけに自分の限界を超えた完璧を求めてしまった。キネティに同じ失敗をしてほしくないとウイングは諭す。

 

「あと数日で一気に強くなるなんてことはあり得ません。特別な能力を作らなくてはならないと気負うのは止めなさい。今のあなたに最も必要なことは基礎戦闘力の向上です」

 

 ウイングの言うことはキネティにも理解できる。だが彼女の場合、自分自身を具現化するところまでは既に成功している。後はこれを玄翁や鑿と同じ要領で複製すればいい。これまでに何度もやった作品作りと同じことだ。できるはずだという確信があった。

 

 この短期間でフロアマスターと正面からぶつかるだけの力を得るには、やはり特別な技が必要だ。ウイングの教えに反してでもキネティは諦めきれなかった。

 

 

 * * *

 

 

 それから2日が経過した。明後日にはアクアとの会談を控えている。キネティは隙間なく詰め込まれた修行メニューの中、無理を言って自分だけの時間が欲しいと申し出ていた。

 

 ウイングは最初、そんな勝手は許さないと断固反対した。しかし、女の子だから色々あるんだとキネティが言い出すとウイングはあっさり引き下がって自由時間を認めた。

 

 もちろん遊ぶための時間ではない。『自刻像(シミュラクル)』の複製練習に費やしていた。およそ5分ほど使って彼女と瓜二つの姿を形どる念人形がもう一体作り出された。

 

「……」

 

 だが、動かない。像を触ってみればすぐにわかる。見た目だけは精巧に複製されているが、ただの石像だった。オリジナルの体と同じように動くことはない。何度試しても結果は変わらなかった。これでは何の役にも立たない。

 

 何が間違っているのかキネティにはわからない。ウイングにも相談できず、一人で頭を悩ませていた。そもそも『自刻像』とはどのような能力であるかを再考する。

 

 最初は植物人間状態となった彼女が活動可能な肉体を得るために作った像だった。実は、分身タイプの念人形の使い手にとってこの手の制約を作る者はそれほど珍しくはない。

 

 例えば、本人の行動が制限されている状態(睡眠中など)のみ使用可能という縛りを作ることで、具現化系の念人形であっても放出系の技術を要する活動範囲の拡大や精度の維持が容易となる。キネティの場合は本人が回復の見込みがない意識不明状態であったため、より強力な制約として効果を発揮した。

 

 しかし、どれほど精巧に形を真似ても真実の存在とはなり得ない。外部から強い力が加われば亀裂が入り、石像のように崩壊していく。人間とは程遠い仮の姿だ。その不完全さを否定しなかった。

 

 彼女にとってこの体は自分であると同時に作品でもある。自分の体そのものを忠実に再現し、具現化しようと考えていたわけではなかった。その点は他の具現化系能力者とはスタンスが異なると言える。

 

 いかに自分という存在を作品の中に表現するか。その答えはいまだ出ていない。今の彼女は未完成の作品と言えた。そんな極めて不安定なイメージでありながら彼女が自分を具現化できたのは、類まれなる造形眼によるものである。

 

 作品をより良い形へと導く感覚、物に宿る魂の形を読み取る眼がキネティには備わっていた。芸術家としても念能力者としても、彼女の才能は全てそこに集約されている。『自刻像』とは、その眼をもってしてようやく保たれる奇跡的なバランスの上に成り立っていた。

 

 彼女が複製により作り出した動かざる石像こそが、彼女がその像に表した自己である。彼女の眼は複製された模造品を自分の作品として見ることができなかった。

 

 物言わぬ石像を叩き壊す。整理のつかない感情が頭の中で暴れ回る。このままでは明後日のフロアマスター戦で良い結果が残せるとは思えなかった。着実に成長している実感はあるが、それでも足りない。課題の達成には及ばない。

 

 彼女の心を揺らす最大の不安は、詰まるところ試合の勝敗でも、その結果の良し悪しでもなかった。仮にアクアの思惑通りに事が進んだとして、彼のために作品を制作することになったとする。それでもキネティはアクアに嫌悪感を抱くようなことはないと思ってしまった。

 

 アクアは形振り構わず権力を使って彼女の作品を手に入れようとしている。それだけキネティのことを一人の芸術家として認めている。誰だって自分を認めてくれる人を無下にはできない。昔の彼女は、多くの人から認められる彫刻家となることを夢見ていた時期もあった。

 

 傭兵団に入り、体も生まれ変わり、彫刻家となる夢は諦めていた。自分の生き方は一つしかないと思っていた。だが、外に目を向けてみれば開けて見える可能性があった。その選択肢が自分の手に委ねられていることを知り、急に怖くなってしまった。

 

 父親のことも無関係ではない。お世辞にも親しみを覚えるような人間ではなかったが、ある意味でそれは良かったのかもしれない。もし、父が本当にキネティの身を案じて娘を探すような人間だったならば、彼女は心を動かさずにいられただろうか。

 

 絶対に揺るがなかったとは言いきれない。今もまた、彼女は様々な揺らぎの上に立っている。視線をさまよわせたキネティは部屋の隅に置いていた箱を見る。

 

 その表面に刻まれた文字は、とある神様に関する言葉をもじったものだった。神は何者にも動かされずして万物を動かすと言う。その真逆、何一つ動かすこともできず無為に奔走する者ほど愚かしいことはない。

 

 今の自分の姿そのものではないかと自戒するが、鬱屈してばかりもいられない。キネティは時計を見て、もうそろそろウイングたちのところへ戻らなければまずい時間であることを確認した。部屋を出てエレベーターへと向かう。

 

「おい、見たかよあの動画」

 

「ああ、カキンのやつだろ。俺は信じねぇけどな。アンコクタイリクってなんだよそれ」

 

 その途中、すれ違った誰かの話し声が耳に残った。何のことかと気になったキネティが、その事実を目にするまでさほどの時間はかからなかった。

 

『――というわけで我がカキン帝国は、全人類の夢を背負い!! 暗黒大陸への進出をここに宣言しまホイ!!』

 

 人類最大の禁忌、絶対不可侵領域とされる外世界への渡航。テレビ番組はどの局もその特番が組まれている。カキン帝国が公式に発表したこの宣言動画はアイチューベにて投稿後、1時間で1億回以上も再生されたという。

 

 キネティにとって疑問に思っていた点同士がつながっていく。暗黒大陸の危険性についてはクインから話を聞いたことがある。傭兵団にカキンから持ち込まれた仕事とはこのことに違いない。キネティはすぐに公衆電話のある場所へ向かった。

 

「もしもし、団長!? あの動画は一体……!?」

 

 クインはしどろもどろと言った様子だった。この件については傭兵団に事前にパリストンから話を聞かされていたが、動画のことは全く把握していなかった。

 

 パリストンから傭兵団に調査隊同行依頼が来た時、クインは一も二もなく断った。あんなところに二度と戻ろうとは思わない。むしろ、パリストンを止めようとした。仮に無事調査が終わったとしても、帰還者からどんな未知のリスクが広がるかわからない。

 

 一時は武力介入による調査中止を企てたくらいだった。だが、武力で押さえつけたとてその場しのぎの対処にしかならない。まだ発生してもいない危険を抑え込むためにと、少なくない被害を容認してしまっては自らの手で戦火を広げるようなものだ。

  

 一度手を出してしまえば途中で手を引くことはできない。カーマインアームズは傭兵団ではなく、人類を狭い世界に閉じ込め続けようとする監視者とみなされるだろう。どんな大義があろうと正真正銘のテロリスト集団だ。

 

 どうするべきか何度も会議で話し合ったが結論は出ず、そんな時にカキンの進出宣言という爆弾が投下されたのだった。

 

 時代は動き出した。人類が世界の真実を知ったこの日が歴史の分岐点だ。この流れを止めることはできない。数百年もの間ひた隠しにしてきてなお、止めることはできなかった。

 

 カーマインアームズは息を潜めて成り行きを黙止するのか、それとも積極的に関わり少しでもリスクを減らすために行動するのか。その“行動”とは人類との敵対か、協力か。団の総意はまとまりつつある。

 

 しかし、一応の盗聴対策はしているとはいえ電話で話せるようなことでもなく、クインは説明に窮していた。

 

「とにかく一度、あっしもそちらへ戻ります。詳しい話はそれから……」

 

『ダメじゃ』

 

 電話口の声が変わった。声質は全く同じだが、その口調からクインではないことはすぐにわかる。どうやらアイクがクインから受話器を横取りしたようだった。

 

『まだおぬしに出した任務は終わっておらんのじゃろ。フロアマスターを倒すまでは帰って来るなと言ったはずじゃ』

 

「それは、カキンの件にあっしを関わらせたくないからですか?」

 

『今のおぬしにはまだ早い』

 

 受話器を握りしめる手に力が入る。何も言い返すことはできなかった。それでも。

 

『それでも、ついて来る気があるというのなら、きっちり与えられた仕事を全うしてみせよ。いつまでに、とは言わん。わしらも情勢に合わせて動かねばならんのでな』

 

 期日は未定。間に合わなければキネティは置いて行くということだ。それまでにフロアマスターを倒して帰還すること。それが同行を許される最低条件だった。

 

 話を聞かされたキネティは、自分自身でも不思議に思うくらいに落ち着いていた。心の中にかかっていた靄が晴れたようにすら感じた。

 

「わかりました。では、4日後までには帰還します」

 

『うむ』

 

「それまでに帰れなければ、あっしはこの傭兵団から脱退したいと思います」

 

『うむ、心得た。好きにするがよい。口座の金はいつでも引き出せるようにしておく。おぬしが稼いだ金じゃから遠慮なく使うがよい』

 

 電話口の向こうでクインが何か叫んでいるが、アイクは強引に電話を切った。キネティはその足で闘士専用エレベーターへ向かう。行先は247階、一般客用のエレベーターでは降りることもできないフロアマスターの私有地だ。

 

 アポなしで来たキネティだったが、インターホンで受け答えするとすぐにアクアが出迎えに来た。

 

「まあ! ようこそ、キネティちゃん。確か約束の日はまだ先だったはずだけど、ここに来たということは決心がついたということかしら」

 

 アクアは中に入ってお茶でもと勧めるが、キネティはやんわりと断った。ゆっくりしている暇はない。逆指名戦についての了承を伝える。

 

「そう、良かったわ。試合の手配については何も心配いりません。あなたは念願のフロアマスターに……」

 

「そのことですが、対戦相手はあっしに決めさせてもらえないでしょうか」

 

「……それはちょっと困るわね。いくら私でもそこまでの融通は利かないわ。こちらで用意した相手で満足してもらわないと」

 

「いえ、その相手は他の誰でもない。フロアマスターアクエリアス、あなたにお願いしたいのです」

 

 アクアはぽかんと呆気にとられたような顔をした。次いで何かの冗談か思ったのか上品に笑い始める。

 

「どうか闘士として最後の試合に、あなたと手合わせを願いたい」

 

 だが、キネティの言葉に本気の決意を感じ取ったアクアは笑いを止めた。キネティはアクアの実力を侮り、調子に乗って勝負をけしかけたわけではない。その真摯な態度にアクアは困惑していた。

 

「そんなことをしてもあなたにとって何か利益があるとは思えないのだけれど……フロアマスターになりたかったのではないの?」

 

「地位に拘りはありません。自分の実力がそこに届くか否かを確かめたかっただけです」

 

「だから晴れの舞台の散り様を盛大に飾りたいということかしら? 見た目によらず熱いハートの持ち主なのね……」

 

 アクアにとってはあまり喜ばしいことではなかった。てっきりキネティが最高位闘士の地位に憧れているものと思い込んでいたので、その願いを叶えることで懇意の関係になろうと考えていたのだ。

 

 実力を伴わないフロアマスターがその座につけば周囲から反感を買うことになるだろう。肩身の狭い思いをするキネティの味方として振る舞い、依存させる作戦だった。その後、フロアマスターを辞退するような結果になったとしても恩を売っておいて損はない。

 

 しかし、キネティに執着がないのであればアクアが彼女をつなぎとめておく理由付けも薄れてしまう。さすがにアクアもキネティのためにわざと負けて今の地位を捨てるようなことはできない。試合に負けたキネティがこの塔を去ると言い出せば、強硬な手段を取らない限りそれを引き留めることはできない。

 

「あっしが負けた場合、あなたのために作品を作ると約束します」

 

 アクアはその発言から真意を読み取った。おそらくキネティが求めているものは、闘士としての華々しい幕引きだ。ここで区切りをつけて彫刻家へ転身するため、あえて無謀な挑戦をすることで自分を追い込もうとしているのだと解釈する。

 

 芸術家の道へ進む後押しをアクアとの試合に求めているのだろう。それならば歓迎すべきことだ。適度にキネティが実力を発揮できるよう調整しながら見せ場でも作ってやれば闘いの中に友情じみた関係も生まれるかもしれないと、アクアは皮算用する。

 

「わかりましたわ。その決闘、謹んでお受けいたします」

 

 無理を言って下位のフロアマスターを一人追放することに比べれば費用も労力も省けるというものだ。アクアは快諾し、キネティの要望で逆指名戦の日取りはこの翌日に決まった。

 



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109話

 

『誰が今日と言う日を予想できたでしょうか! 緊急開催フロアマスター逆指名戦! ただいま両選手が入場しました! その名はフロアマスター、アクエリアスウウウウウ! バーサス! チャレンジャー、キネティイイイイイイイ!!』

 

 開催の予告は昨日であったにも関わらず観客席は超満員だった。滅多に公開されることのない最高位闘士の闘いを一目見ようと集まった観客でごった返している。その中にウイングとズシの姿もあった。

 

「キネティ……どうしてオレたちに黙ってこんなことを!」

 

「……」

 

 ウイングは厳しい表情のまま黙している。昨日からキネティとは連絡が取れなくなっていた。そして唐突にこの試合についての情報を知り、急いでチケットを入手するに至る。

 

 なぜアクアと闘うことになったのか、その真意はわからなかった。だが、他愛もない理由であればウイングとの接触を避けるようなことはしないはずだ。あり得ない対戦相手と早められた試合予定日が、キネティに何か重大なことがあったのだと物語っている。

 

 おそらくそれはカキン帝国の宣言が関係している。先日のキネティの言葉から彼女の所属する傭兵団が今回の騒動に何かしら関わっていることがわかる。

 

 ひとまず今は試合を見守るしかなかった。キネティは未熟とはいえ念能力者同士が同意の上で行われる決闘である。邪魔立てすることはできない。

 

『フロアマスターの中でも上位10名はバトルオリンピアでしかお目にかかれない神秘のベールに包まれた闘士たちです! マスターアクエリアスはなんと序列4位! いったいどんな因縁を経てこの闘いは開かれたのでしょうか!?』

 

 長身痩躯の美丈夫アクエリアスは動きやすさを重視した鎧と、緻密な刺繍が織り込まれたマントを身につけている。ある意味で剣闘士にふさわしい姿と言えた。その装備一式は古美術品である。古めかしくも、見る者に歴戦の風格を感じさせる逸品だ。

 

 そして何よりも目を引くのは彼が用意した武器である。それは身の丈ほどの巨大な丸形フラスコだった。栓がされたガラス容器は謎の薬品らしき液体で満たされている。

 

『対する挑戦者は、つい6日前に200階へ到達したばかりの新人です! 200階クラス初の試合がフロアマスター戦とは何たるラッキーガール……いや、これはどう考えてもアンラッキー! 果敢にも逆指名戦のオファーを受けてしまった少女は果たして生き残ることができるのか!?』

 

 キネティはいつも通りのラフな服装だった。しかし、明らかに異なる点が一つある。彼女は武器として大きな箱を持ち込んでいた。その黒い直方体の箱は刻まれた十字架の彫刻も相まって棺桶のようにも見える。アクアのねっとりとした熱い視線がその箱に注がれていた。

 

「ポイント&KО制、時間無制限一本勝負! あらゆる武器の使用は認められる。互いに誇りと名誉をかけて……ファイッ!」

 

 冷めやらぬ観客たちの熱狂の中、キネティが先に駆けた。手にした箱を担いで一直線に敵を目指す。その棺桶の中に収められたものとは、彼女の本体である虫と、『千の亡霊』として作り出された少女の念人形体だった。

 

 キネティが人間だった頃の肉体はもう存在しない。彼女が病床の上で衰弱死を迎えようとしていたその時、自分自身をアルメイザマシンに取り込んで劇症化させた。そうして渦の中へと落ちた彼女はクインから『王威の鍵(ピースアドミッター)』を分け与えられてキメラアントに転生した。

 

 しかし、無事に産み落とされたはずのキネティに意識が戻ることはなかった。クインが恐れていた懸念が現実となったのだ。キネティは転生した後も念による制約を負い続けていた。植物人間だったその状態を否定せず、あえて死の淵に立つ自己を是とする誓約でもあった。

 

 キネティの虫本体は暗黒大陸航海中のクインのように休眠状態になっていた。『千の亡霊』も発動はしていたが、目を覚ますことも呼吸も心臓の鼓動もない死体に等しい状態で具現化されていた。ただし、『自刻像』は問題なく以前のように発動できたというわけである。

 

 つまりキネティは異なる念人形を二体具現化させていることになる。ただ、そのうち一体は死体も同然で使い物にならない。かと言って制約上、具現化を解除することはできず、放置しておくわけにもいかない。完全なお荷物だった。

 

 そこで死体人形を持ち運ぶための入れ物として箱を作ることになった。その材質はアルメイザマシンの集合体である金属だ。クインがモナドに頼んで作らせた特注品だ。

 

 その昔、クイン軍団が電磁加速砲貝と孤島防衛戦を繰り広げた際に防壁として使用した超高密度オーラ錬成が施されている。千百式観音による嵐のような衝撃耐久テストを無傷でクリアしている。その代わり、重量は尋常ではなくキネティの力では押しても引いても動かせなかった。

 

 その問題はチェルによって解決されている。魔眼で質量を吸い取って軽くしていた。軽すぎても武器としての威力が乗らないため、キネティの力に合わせて調整している。背負ったり振り回しやすいように持ちやすい取っ手もついている。黒い表面は塗装によるものだ。

 

 この箱の中に銀髪少女の死体をぴったりと固定して収容していた。ついでに本体も入れて蓋は接合し、完全密封されている。キネティにも開けることはできない。いくら箱が頑丈でも力いっぱいぶつければ中身は悲惨なことになるのだが、どうせ死体だからとキネティは気にしていなかった。

 

 『千の亡霊』は外見の変更不可という制約のため損傷しても容姿だけは自動的に戻るのだが、それでも生命活動は停止したままだった。死んでいるので痛覚もなく、キネティが痛みを感じることもない。どれだけ粗末に扱ったところで平気だった。

 

『おーっとキネティ選手が先に仕掛けたーっ! 中身が気になる黒い箱をブン回すーっ!』

 

 全力で振り回した箱をアクアに叩きつけようとする。それに対し、アクアは巨大フラスコで応戦した。キネティは振りかざされる敵の武器を見て一瞬考えた。

 

 いくらオーラで強化しているとしてもガラス容器くらいならキネティにも砕けそうに思える。だが、もしそうなった場合、怪しげな溶液が確実に周囲へ飛び散ることになるだろう。フラスコの中で揺れる液体は澄んだ海のように爽やかな青色をしていた。

 

 しかし、その躊躇は一瞬にも満たない。キネティは構わず箱を振りぬいた。

 

『巨大フラスコと棺桶が激突! なんだこの絵は!? オモシロ武器対決かー!?』

 

 意外にもフラスコは硬かった。ガラスではなく特殊強化樹脂製の丸形フラスコはキネティの一撃を受けてもびくともしなかった。その丸みによって受け流された箱は滑らされて地面の石板を打ち砕く。

 

「ちょっと、もう少し自分の作品は丁重に扱うべきですわ。傷ついたら可哀そうでしょう?」

 

「これは箱の表面が殺風景だったんで、手慰みに彫っただけですぜ」

 

「それがいいのよぉ。その気取らない遊び心がいいんじゃない。ぜひ譲ってくださらない?」

 

「だめ」

 

 ちなみに箱に直接彫り込みを入れたわけではなく、彫ったものを後で貼り付けてもらっている。修行が忙しかったキネティにとってはちゃんとした作品として制作したものではなく、本当にただの手慰みだった。それほど脆くはないが、ただの飾りなので欠けても惜しくはない。

 

 キネティとアクアは互いの武器を幾度となくぶつけ合う。大重量の武器同士、重なる一撃はキネティの手を痺れさせるが目もくれずにひたすら攻める。ちゃちな玄翁を具現化して闘うより、破壊力という点だけを見れば頑強な箱の方が優れている。

 

 さらにこの箱にはキネティの『自刻像』の性能を引き上げる効果があった。制約により本体から遠く離れて行動することもできるキネティの念人形だが、本体と近い状態であれば直接オーラのやり取りができるので精度の維持は当然しやすい。体の頑丈さや修復力がアップする。

 

 さらに箱に触れている状態であればオーラの枯渇を気にする必要はなくなる。本体からいくらでもオーラを徴収できるからだ。これには理由があった。キネティの虫本体は休眠状態から目覚めることがない。すなわちそれは『渦』とリンクした状態でもあった。

 

 ネットワークを介して渦から勝手にオーラが流れ込んでくるのだ。これはモナドを除けば渦から脱することで自我を確立したカーマインアームズの他の個体とは明確に異なる特徴だった。ネットワークの管理者であるクインなら自発的に渦とつながることができるのだが、精神的な負担が大きい。

 

 ただ、だからと言ってそれが凄まじいパワーアップにつながるわけではなかった。箱に接している間だけ潜在オーラが底なしに増えるというだけで顕在オーラ値は特に変わっていないためだ。

 

 それでも燃料切れを起こす心配がなくなり、本体との距離が近いことによる具現化性能の向上などメリットは大きい。だからわざわざこの試合に引っ張り出してきたのだ。全てはアクアと本気で闘うためだった。

 

 ウイングとの修行でこれを使わなかったのは、この怪しさ満点の棺桶について説明をはぐらかす必要があったということも理由の一つだが、箱に頼らずとも戦える力をつけたいとも思っていたからだ。

 

 大振りの鈍重な攻撃は破壊力があるが小回りは利かない。全ての局面でこの箱を生かせるとは限らない。玄翁や鑿と言った武器も、せっかく具現化できるのだから戦闘に使えるようになりたいと考えていた。

 

 実際には時間が足りなかったせいで期待するほどの成果は得られなかったが、ウイングの修行は決して無駄ではなかった。彼の教えは全ての念法の基礎である。

 

 天空闘技場へ来る前のキネティと比べれば基礎力の差は歴然だった。『複製』の訓練もその技術が直接的に役立ったわけではないが、結果的にその修行で得た感覚が具現化系能力である『自刻像』の精度を高めている。

 

 ウイングから教えられたことを力の限り発揮した、修行の集大成と言える戦いぶりだった。この短期間でよくぞここまで力をつけたと賞賛に値する。

 

『両者ともに一歩も退かないデッドヒート! これはキネティ選手、予想外の健闘を見せています!』

 

 だが、闘っている本人にも自覚できた。アクエリアスは全く本気を出していない。今のキネティの実力では軽くあしらわれる程度のものでしかない。

 

「なかなかやりますわね。なら少しだけ、レベルを上げましょうか」

 

 フラスコの一撃が迫る。何度も繰り返したようにそれを自分の武器で受け止めたキネティだったが、予想以上の威力によって箱を弾かれてしまった。

 

 きちんと眼に凝をしてアクエリアスのオーラを観察していたはずだった。武器に込められていたオーラ量にそれほど変化は感じられなかったにもかかわらず、格段に威力が増している。体勢を崩したキネティに追撃が打ち込まれた。

 

 かわす余裕はない。キネティはせめて技の正体だけでも掴もうと目を凝らす。そして、フラスコの中で揺れる液体に不自然な動きが生じていることに気づいた。その一打は今度こそキネティの防御を押し返す痛烈な攻撃となる。

 

「クリーンヒット! 1ポイン! アクエリアス!」

 

 なぜ急に敵の攻撃威力が増したのか。キネティは不審点を発見しはしたものの明確な原因を掴むには至らない。その正体は、フラスコ内に満ちた液体の操作にあった。

 

 ギドが独楽を操っていた能力と原理はそう変わらない。ただし、操作系能力者であるアクエリアスはより物体を操る能力に長けていた。自分の筋力による殴りつけの攻撃力にプラスして、フラスコ内の液体運動を操作して二重の攻撃力を生み出したのだ。

 

 もともと液体にはオーラが込められている状態であり、これまでは動きに手を加えていなかった。だから表面上、感じ取れるオーラ量に変化はない。にもかかわらず威力だけが跳ね上がるという結果を導き出していた。

 

『ここでアクエリアス選手、マスターの威厳を見せたああ!! これにはキネティ選手、たまらず防戦一方だ!』

 

 戦況はアクアの方へ有利に傾く。否、もともとこの試合は彼の掌の上にあった。その言葉通り、少しだけ実力のほどを見せたに過ぎない。キネティは箱を盾にして重撃を堪え続けることしかできなかった。

 

「クリーンヒット、アクエリアス! 2-0!」

 

 このままでは少しずつポイントを削り取られてTKОにされてしまう。審判はアクエリアス寄りの判定をしているように見えた。これは選手同士に実力差のある試合においてその危険度に応じ、得点の加算を進めて早期決着を図るテクニカルジャッジと呼ばれる手法である。

 

 キネティは勝負に出た。箱を盾にしてその陰に身を隠す。アクエリアスはそれがどうしたと言わんばかりに武器を叩きつけた。

 

「!?」

 

 だが、思わぬ衝撃を受けたのはアクアの方だった。それまでは力負けしていたはずのキネティが完全にアクアの攻撃を防ぎ切ったのだ。まるで巨岩を殴りつけたようにびくともしない。むしろ、その攻撃の反動がアクアの手に返ってくるほどだった。

 

 キネティが講じた秘策とは彼女の能力の一つ『像は石に(ト・キネートン・アキヌーン)』である。箱の陰に隠れた彼女は、具現化した鑿と玄翁を使い“箱”を対象としてこの能力を発動させた。

 

 生物を対象とした場合は全く身動きが取れなくなる行動停止状態を科す能力だが、厳密に言えばそれは違った。その本来の効果とは“物体の固定”、空間干渉系の性質を持っている。これにより箱はその存在する位置に固定された状態となったのだ。

 

 予想外の事態に直面することでアクアに一瞬の隙ができる。キネティはその隙を見越して既に次の一手へ向け動いていた。鑿と玄翁を手にして箱の後ろから飛び出す。

 

 アクアからすれば突然に持ち出された未知の武器だ。具現化系の疑いは否定しきれず、何らかの特殊能力が備わっているとすれば脅威である。意表を突かれた形になったが、そこで後れを取るようなフロアマスターではなかった。

 

 即座に回避行動を取る。キネティの不意打ちもアクアの俊敏性には敵わなかった。しかし、さしもの彼も鈍重な武器を持ったまま素早く後退することはできない。巨大なフラスコはアクアの手から離れた。

 

 その機を逃さずキネティはフラスコを箱で押しつぶした。周による強化を失ったフラスコは変形し、割れてひしゃげる。中の薬液は流れ出ていった。

 

『おおっと、これは意外な展開! キネティ選手、武器破壊に成功したあああ! まさかのピンチか、アクエリアス選手!?』

 

 しかし、アクアの表情は余裕に満ちていた。不快に思うどころかキネティの実力を素直に認めていた。

 

「さすが、その年で200階に上がってくるだけのことはある……では、こちらも相応の闘いを見せましょう。ここから先は闘士というよりも一人の武人としてお相手致します、ミス・キネティ」

 

 武器を失ったというのに全く臆する態度は見せない。アクアの徒手の構えからは、むしろ先ほどよりも数段高まった気力が感じ取れた。

 

 フロアマスターには様々な特権が用意されているがその中の一つに無条件の新流派開設権がある。武術の流派を独自に作り、道場を開く権利が与えられるのだ。それだけの強さがなければ就くことのできない地位ということでもある。

 

 アクアは狼爪拳と呼ばれるアイジエン中部に伝わる武術を修めていた。見せかけの名誉を求めてオリジナルの流派を作るようなことはなく、古の拳法に学んだ確かな技を身につけていた。それに加えて、アクアはまだ発も見せていない。

 

 がむしゃらに特攻を仕掛けたところで結果は見えていた。気合だけで覆せるような実力差ではない。だが、それでもキネティはこの試合に臨んだことに悔いはなかった。

 

 アクアが見繕っていたフロアマスターと闘っていれば、少なくともここまでの差はなかったかもしれない。だが、それでは納得できなかった。もしアイクがいたならば、アクアと闘えと言ったことだろう。

 

 勝つか負けるか、道は二つに一つだ。キネティはこの試合を岐路と定めた。どちらに進もうと後悔だけはしたくない。だから彼女はありったけの力を尽くすことにする。

 

『両者、睨み合ったまま動かない! マスターアクエリアス、王者の風格で挑戦者を待ち構えている! さあ、どう出るキネティ選手!』

 

 いつもの試合ならどちらの選手が勝つかで賭けが行われているのだが、今回はそんな賭けは成立していない。誰もがアクアの勝利を確信しているからだ。

 

 その不可能を可能にする。キネティは、せめてそれくらいの力を示さなければ自分があの傭兵団に居続ける資格はないと感じていた。

 

 不要な存在のまま居座り続けるつもりも、育つまで待ってくれと言うつもりもない。それはつまり、努力の否定でもある。何の苦労もなく特別な力をいきなり取得するようなことでもない限り、現状を覆す手段など存在しない。

 

 それはウイングの教えに反する考え方だった。ウイングでなくとも認めはしないだろう。キネティはそんな方法で力を手に入れようとしている。彼女は地面に立てた箱にゆっくりと手を置いた。

 

 アクアはこめかみにわずかな刺激が走るような悪寒を覚えた。キネティのオーラに言い知れない不吉さを感じ取る。だが、自分から動こうとはしなかった。この試合はキネティを満足させるために開かれたものだ。有無も言わせず一方的に畳みかけるようなことはしない。

 

 キネティは『千の亡霊』の使い道についてこれまでずっと考え続けてきた。もし他の仲間たちのようにこの念人形も動かせるのであれば『自刻像』と合わせて二体の人形を動かせるようになる。だが、いくら試したところで結果は変わらなかった。

 

 正確に言えば“ためらっていた”。『千の亡霊』には術者と感覚を共有する能力が備わっている。休眠状態にある虫の本体とは全く意識のつながりはないが、『千の亡霊』とならば能力によってその感覚を同調できるのだ。

 

 だが、完全な感覚の同調をこれまでしたことがなかった。それをすれば何か良くないことがおきるかもしれないという根拠のない予感があった。キネティの『千の亡霊』は死んだ状態になっている。死に限りなく近い何かが襲い掛かってくるような不安があった。

 

「嫌な感じね、そのオーラ……」

 

 アクアはこれまでの経験から、キネティの気配に自暴自棄に近い危うさを感じていた。念能力者が時として、敵うはずもない強敵を前に己の全てを懸けんとする最期の足掻きのような気配だ。

 

 追い詰められて誓約による一時的な戦闘力の強化を図ることは稀にある。だが、たとえ成功したとしてもその代償は大きい。能力に大きな欠陥が生じたり、二度と使えなくなったりすることもある。下手をすれば命すら失いかねない危険な賭けだ。

 

 それでも生き残るための最後の手段としてならば一概に過ちとは言えない選択である。しかし、そんな禁じ手を安全が約束された試合で使うなど馬鹿らしいにもほどがあるだろう。

 

『アクエリアス選手、ついに動いた!』

 

 アクアは自分の勘を信じて瞬時に行動を起こした。ここはキネティの身の安全を優先し、一気に勝負をかけた方がいいと判断する。

 

 狼爪拳は強靭な指の力ですれ違いざまに爪痕に似た裂傷を与える奥義を持つ。しかし、キネティを傷つけるつもりはないアクアは裏拳を放った。刀で言えば峰打ちのようなものだ。攻撃を当てるまでの身のこなしは疾風のようだった。

 

 避けられるはずもない。無防備に拳打を受けたキネティは、拳を受けた頭部から砕け散った。

 

「え……?」

 

 これに驚いたのはアクアだ。気絶させるつもりで当てた一撃だったが、キネティの体は見るも無残な有様だった。首はもげ、体には大きな亀裂が入り崩れていく。その材質は石そのものだ。今までそれがどうして動いていたのかと不思議に思える光景だった。

 

『なんということでしょおおおおお!? キネティ選手、まさかの崩壊! これは何かのトリックなのか!? 果たして審判の判定やいかに!?』

 

 審判が恐る恐る駆けよってキネティの状態を調べる。200階以上の試合は念能力者たちによるものなので、このような超常現象はよく起きることだった。審判は壊れた石像に動く様子がないことを確認する。

 

「キネティ選手、戦闘不能により――」

 

 審判の宣言が下されようとしていたその時、アクアは自分の背後に気配を感じ取った。

 

 油断していたわけではない。不測の事態ではあったが、気を緩めたつもりはなかった。破壊された石像が術者本人とは考えにくい。ならばキネティはまだ生きているものと思われる。どこかに本人が潜んでいるのではないかと注意を張り巡らせていた。

 

 にもかかわらず、背後を取られた。この試合中、初めて感じる身の危険。敵を案じる余裕はなく、気が付けば振り向きざまに本気の狼爪拳を叩き込んでいた。

 

 爪先が獲物を捕らえた手ごたえがあった。しかし、生身の肉を引き裂くそれとは程遠い感覚である。堅い石の表面をがりがりと削るかのようだった。それはすなわち、敵への攻撃が有効ではなかったことを意味している。

 

 確かにキネティはアクアの後ろにいた。その姿にアクアは目を見開く。先ほどまでとは明らかに容姿が異なっている。

 

 13歳だった少女の肉体は成熟した大人の体つきへと変貌していた。最も身体能力を発揮できる、人間の最盛期へと強制的に肉体を成長させていた。それは作為のもとに作り上げた姿ではなく、漠然とした力への渇望が彼女の造形眼を通して自然と形を成したものだった。

 

 それは死後強まる念に近い現象だった。念と死の関係性についてはわかっていないことがほとんどだが、念能力者が死に瀕したときや命がけの誓約をかけたとき、己の限界を超えた力を発揮することは事実である。

 

 『千の亡霊』と感覚を共有したキネティは生きながらにして死の状態を同時に体感していた。それは一種の臨死体験と言える。生命力の発露たる『念』と、その対極に位置する『死』の状態が混ざり合うことで劇的な反応を引き起こす。

 

 “死中の念”とでも言うべき力がキネティに宿り、その力を使いこなせる肉体へと至る。それこそが今のキネティに表現できる限界を超えた究極の作品、魂の持つ形へと掘り出された生命の像だった。

 

 鑿と玄翁が振り下ろされる。アクアは体をひねってかわそうとするが無慈悲に刃が差し迫る。当たれば身動きを封じられる一撃だ。万事休すかに思われたそのとき、両者を分かつかのように足場の石板が砕けながら隆起した。

 

 



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110話

 

「試合続行! ポイント2-0!」

 

『な、なにが起きたというのか!? キネティ選手、半壊からの復活! しかも大人の階段を上っているううう!? 対するアクエリアス選手も奥の手を出したか! 地面の下から何かが現れたーっ!』

 

 石板を砕き割って現れたのは青色の液体だった。液体の塊がまるでアメーバのように地中から這い出てくる。キネティは深追いせず、一度距離を取って様子を見ていた。波乱の展開に観客席は沸き立っている。

 

「師範代、キネティはどうしちゃったんスか!? あれはいったいどんな能力なんスか……!」

 

「さながら動く石像、と言ったところでしょうか。カバラ秘術におけるゴーレムなど似たような能力は聞いたことがあります」

 

 しかし、明らかに尋常な念能力ではない。寒気を覚えるほどの異常な密度のオーラがキネティを中心として渦巻いていた。何の代償もなく願えば手に入る力とは思えない。ウイングは見ていることしかできない現状に歯噛みする。

 

 それに念人形ではないキネティの本人はどこにいるのかという問題もある。遠隔操作型(リモートタイプ)だとすれば術者は念人形の近くにいなければならない。

 

 可能性として箱の中にいるのではないかという推論に行き着く。最初はまさかと思っていたが、今となっては否定しきれない。

 

「フロアマスターの方もヤバイ感じッス!」

 

「あれはアクエリアスの能力『染まりゆく青(マッドパープル)』……系統別上位特性の一つです」

 

「上位特性?」

 

「例えば強化系であれば“治癒力強化”、放出系ならば“瞬間移動”、変化系の“エネルギー変換”、具現化系の“念空間”と言ったように特別な適性がなければ使えない能力のことです。アクエリアスの場合は物質操作の上位特性“液体操作”に当たります」

 

 不定形の液体をそのまま操作することができる力だ。戦闘のみならずその応用力は極めて高い。アクアが操作している液体は、フラスコの中から流出した薬液だった。地面に染み込んだ後もこの薬液は彼の操作の支配下にあり、地中に潜伏していたのである。

 

 アメーバ状だった青い薬液は瞬時に姿を変え、狼のような形態になった。アクアは戦闘時、基本的に狼型の念獣形態を取らせている。その動きは獣のように俊敏だ。それに加えて術者であるアクア本人も高い戦闘力を有し、巧みな連携によって数々の猛者たちを葬ってきた。

 

 しかし、アクアの表情からはもはや余裕の色は消えている。当初、キネティを相手にこの念獣を使うつもりはなかった。だが、出し惜しみすべきではないという直感があった。手を抜けば死なずとも負けるかもしれないと思えるほどおぞましいオーラを感じ取る。

 

 ここからが本当の真剣勝負だ。睨み合いから先に動いたのはキネティだった。手にした箱を振りかぶって投げる。その動作は恐ろしく機敏ではあり、投げられた箱は空を切り裂きながらアクアに迫った。だが、目で追えないほどの速度ではない。

 

 投げる動作を見ればどこに向かって飛んでいくかは予想がつく。アクアは難なくこれをかわしたが、同時に不可解にも感じていた。彼もまたウイングと同じく、キネティの“本人”が箱の中にいるのではないかと推測している。その大事な箱を何も考えず、ぞんざいに放り投げるだろうか。

 

 一抹の不安は的中した。アクアの横を通り過ぎるかに思われた箱が空中でぴたりと静止する。その理由は、箱の陰に忽然と出現したキネティによるものだった。まるで瞬間移動してきたかのように現れたキネティが箱を掴み、その勢いのままにアクアへと殴りつけた。

 

 考えている暇はない。アクアは寸でのところで振り回された箱の射程圏内から脱するが、わずかに攻撃がかすってしまった。それだけで自動車が衝突してきたかのような衝撃が走り、アクアは大きく後退させられる。

 

「クリーンヒット、キネティ! 2-1!」

 

 背筋が凍るようだった。直撃していれば、どれだけ防御がうまくいこうと大ダメージは免れなかっただろう。アクアはキネティの強化をかなり高く見積もっていたが、現実はさらにその遥か上を行く脅威度だった。

 

 最初に箱を放り投げたときのキネティの体はいまだ存在している。投げ放った投擲フォームのまま時間が停止したかのように硬直していた。それは魂の宿らぬ像の抜け殻に過ぎない。

 

 アクアに向けて箱を投げた直後、キネティはその体を捨てて新たに自分を作製したのである。以前とは段違いの具現化速度により、いきなり出没したかのように見えたのだ。

 

『キネティ選手、とんでもないパワーアップ! セクシーダイナマイトになっただけではなかったあああ! これは形勢逆転なるか!?』

 

 アクアの隙をカバーするように狼の念獣がキネティに襲い掛かる。それを振り払おうとしたキネティだったが、液体製の念獣に物理的な攻撃は意味がなかった。形は弾け飛んで崩れたものの破壊するには至らない。

 

 さらにその液体は特製の薬品だった。普段は安定しているが、アクアが念じることで急激な化学反応を起こし強烈な酸となる。これを浴びた人間はいくらオーラで防ごうと真皮にまで達する化学火傷を負う。

 

 人体の30%に火傷が広がると、著しい健康被害が全身に及ぶと言われる。まともな人間であれば通常の精神状態は保てず、オーラの制御に大きな乱れが起きる。薬液が目に入れば失明する。戦闘もままならないことは言うまでもない。

 

 さらに火傷が50%を超えるとショック死する危険が急激に高まる。臓器などの生命維持に直結する器官の損傷に比べると軽視されがちだが、皮膚もまた無くてはならない重要な組織だ。仮に生き延びることができたとしても、治療のためには皮膚移植が必要となる。重大な感染症のリスクもある。

 

 そして化学火傷は熱による火傷とは異なる特徴を持つ。火傷の直後は軽傷のように見えても数時間をかけてじわじわと皮膚組織を壊死させていく。その痛みは地獄の苦しみだ。アクエリアスの餌食となった敗者のほとんどが自殺に追い込まれるほどだった。

 

 念獣を破壊しようと攻撃すれば死の強酸がばら撒かれる結果となる。まさしく今のキネティが置かれた状況だった。降り注ぐしぶきがキネティの体を溶かしていく。

 

 いつもならこれで試合終了となる必勝の型。その美しく青い薬液が獲物の流す血と混ざりあい、紫に変色していくことから名付けられたアクエリアスの能力である。彼の残虐性を表すかのように被害者は見るに堪えない姿となる。

 

 しかし、石像に酸を浴びせたとて表面が少し溶かされるだけのことだ。その程度を修復することは今のキネティにとって造作もなかった。一度、箱から手を放したキネティは鑿と玄翁に武器を持ち換えた。

 

 凝によりオーラを鑿に込める。禍々しい死中の念が一点に凝縮されていく。キネティを溶かそうと執拗にまとわりつく狼に、その鑿を突き立てた。それまで一時として定まることのなかった青狼の姿が固定される。

 

 それきり薬液の狼は動きを止めてしまった。鑿に込められた膨大なオーラが尽きるまで固定された状態から脱することはできない。物理攻撃を無効化する液体念獣の相手をしても無駄なのだから、放置して術者のアクアを倒してしまえばいい。

 

 キネティは鑿を数本具現化してアクアへと投擲する。玄翁で打ち付けたわけではないので『像は石に』の特殊効果は適用されない。キネティの手から離れているので強度や威力も落ちている。あくまで牽制のために放った攻撃だった。

 

 元は工具とはいえスローイングナイフに匹敵する武器と化す。馬のいななきの如く風切り音を発するその威力は、突き刺さった壁や地面に深々と着弾の痕跡を刻み込む。続けざまに投げられる鑿の弾丸をアクアは回避していくが、その形相にいつもの優雅さは欠片もなかった。

 

 王者と挑戦者の関係は逆転していた。食らいつく側はアクアになっている。かわし切れなかった鑿の一本がアクアの脇腹をかすった。それだけで鎧が砕け、血が噴き出る。

 

「クリーンヒット! 2-2!」

 

 アクアは自分の動きが封じられていないことを確認し、鑿による攻撃だけでは特殊効果が発動しないことを見抜く。その威力を目にしても降参することはなかった。痺れを切らしたキネティが接近する。

 

『ここで序盤を彷彿とさせる接戦が再び繰り広げられる! 激しい攻防を制するのは果たしてどちらか!』

 

 闘っている当人からすれば接戦とは到底言えない。キネティの猛攻にアクアは必死に抗っていた。唯一彼がキネティに勝る拳法の体術と、液体操作による自身の血流の操作によって。

 

 フラスコの中の薬液を操って攻撃の威力を増したことと原理はそう変わらない。ただし、それを人体において再現しようとすれば凄まじい負担が生じる。外傷よりも先に内側から肉体が損傷していく。

 

「くっ、はははははっ! そう簡単にはいかないわよ、キネティちゃん!」

 

 外から壊されるか内から壊れるか、どちらにせよアクアの闘い方では長くもたない。それでも意地で持ちこたえている。アクアには全く希望がないわけではなかった。やがてその好機は訪れる。

 

「う……」

 

 それまで無表情を貫いていたキネティが苦し気に顔を歪めた。アクアからすれば当然の反応だ。あれだけの力を得ておいて何の代償もないと言うのは考えられない。いつか無理がたたるはずだと思っていた。

 

 隙を晒したキネティにアクアが蹴りを叩きんだ。ダメージがあるかどうかは定かではないが、これは闘技場における試合である。ポイントを重ねてTKОを狙うという手もある。

 

「クリーンヒットアンドダウン! 4-2!」

 

 キネティは箱から手を放して吹き飛ばされていた。そのまま膝をついている。死と隣り合わせとなった精神状態が与える影響は大きかった。これまでは懸命に集中力を維持して抑え込んでいたが、ついに限界が見え始めていた。

 

 何も感じない無の感覚という矛盾に少しずつ支配されていく。その異常を認めざるを得なくなっていく。まるで本当に自分の体が石に変わっていくかのように思えた。

 

 その感覚は初めての経験ではなかったことにキネティは気づく。人間だった頃の彼女が死んだとき、その直後に体験した。黒々とした渦の中に飲み込まれ、その中に潜む無数の何者かと同じ存在になっていく。

 

 その“渦”すら本当の意味での死ではないと感じた。それは飲み込まれて自分を見失ったとき、初めて立ち現れてくるのだろう。キネティはその淵から引き返せなくなる瀬戸際のところまで踏み込んでしまった。

 

『どうしたキネティ選手!? 何やら体が……元の少女に戻りかけている!? 魔法が解けてしまったのか!』

 

 さらに恐ろしいことに、ただ子供の姿に戻るだけではなかった。キネティの髪色は元の金色ではなく、色素が薄れるかのように銀色の輝きを帯び始めている。彼女の造形眼が自己の形を見失いつつあった。自分とは異なるはずの誰かと混ざり始めている。

 

 これならば巻き返せるとアクアは痛む体に鞭打って奮起する。が、その意気はたちまち消沈した。

 

 キネティが手放した箱の近くから、地面より湧き出るように念人形が現れる。今のキネティと同じ姿だった。それも一体ではない。わらわらと増殖する念人形は虚ろな目をして誰何する。

 

 あなたは誰とアクアに問いかける。

 

「なんなの、これは……」

 

 誓約の代償を負ったのなら普通は戦う力を失うはずだ。この念人形たちを作り出すオーラはどこから湧き出てくるというのか。理解できない。脳が現実を直視できなかった。

 

『なんと増えた!? これはブンシンのジツか!? ニンジャガールだったのかキネティ選手!』

 

 それはキネティが編み出そうとしていた念人形の“複製”だった。あれだけ苦労しても実らなかった努力がいともたやすく実現している。だが、それはキネティが望んだ形ではなかった。

 

 その像に宿る魂はキネティではない。代わりに入り込んだ何者かだ。自我を得られなかった無数の個であり、ただ一つに収束していく個である。渦からあふれ出た個たちは各々が鑿と玄翁を手にしてアクアへと群がっていく。

 

「いやあああああああ!!」

 

 アクアは絶叫しながらも諦めてはいなかった。闘士の誇りが彼を突き動かす。敵の群れに囲まれながら、自壊していく肉体を血流操作によって狂い舞わせる。

 

 その一方でキネティもまた己自身との闘いを繰り広げていた。石のように硬直していく身体を立ち上がらせる。ゆっくりと箱へと近づいていく。

 

 こんな終わり方でアクアとの決着をつけるわけにはいかなかった。箱を持ち上げる。その手にありったけのオーラを集めていく。自然に具現化されたその形は、巨大な鎚だった。

 

 直方体の箱をヘッドに使い、そこに具現化した柄を取り付けたハンマーである。キネティはその場で巨大なハンマーを振りかぶる。

 

「――! ――!」

 

 四方八方から鑿を打ち込まれたアクアは、この上ない窮地にあった。体は一切動かせない。必死にオーラで防御を固めて堪えようとも次々に鑿が打ち込まれ、アクアの鎧を破壊し肉を穿つ。

 

 少女たちは、誰だ誰だと意味をなさない言葉を発しながらアクアを嬲り殺そうとしていた。審判は近づくことができず、何が起きているのか見えないため判定を下せない。

 

「こんのぉ……!」

 

 渾身の力を込めてキネティは鎚を投げる。ハンマーは回転しながら一直線に念人形の群れへ向けて飛んだ。

 

「駄作どもがあああ!!」

 

 ハンマーはアクアに群がる念人形たちに直撃した。確かな強度があったはずの念人形はその衝撃を浴びた瞬間、余波だけでガラス細工のように砕け散った。しかし、その中心地にいたはずのアクアには被害をもたらさなかった。

 

 それは何よりも許せないと思うキネティの怒りが、念人形にのみ向けられていた感情だったからかもしれない。ハンマーは地面に横たわっていたアクアの上をすれすれで通過し、闘技場の壁に轟音を響かせて突き刺さった。

 

 会場が沈黙に包まれる。審判がアクアへと駆け寄り状態を確認した。全身に無数の傷痕を残した彼が立ち上がることはなかった。ジャッジが下される。

 

「アクエリアス選手の戦闘不能を確認! 勝者、キネティ!」

 

『なんという快挙! キネティ選手勝利! そして今ここに新たなフロアマスターが誕生したああああ!! 伝説の幕開けだああああ!!』

 

 息を吹き返したかのように会場は歓声に沸く。しかし、その中で勝ったはずのキネティは微動だにせず固まったままだった。不審に思った審判が近づいて調べた。その体は精巧に作られた石像そのものだった。

 

 そしてキネティの像は風化するように砂と化して消えていった。具現化が解けたのだ。石像はオーラに還った。会場に残されたのは戦闘の爪痕と、倒れ伏すアクア、そしてキネティの箱のみだった。

 

『消えた!? マスターキネティ消失! これはもしや……ドロンのジツ! やはりニンジャガールだったのか!? 勝利の余韻に浸る間もなく帰ってしまったというのか! ミステリアスです!』

 

「し、師範代……キネティはどこに……?」

 

 念能力の知識がある者ならおよその事態は予想がついた。ウイングは早急に“箱”の中を確かめるべきだと判断する。リングの上では既に闘技場スタッフによる撤収作業が始まっていた。

 

 こういった場合、ウイングがキネティの身元引受人として登録しておけば所有者不在時の武器などの物品を引き取ることができたのだが、今回の試合は直前のごたごたのせいで手続きができなかった。

 

「ズシはキネティを探してください。私はひとまず彼女の武器を引き取りに行きます」

 

「わかったッス!」

 

 ズシにはあえて説明をしなかった。もし箱の中が“取り返しのつかない状態”であったとき、何も知らずにいた方が良いだろうと。

 

 

 * * *

 

 

「くっそ……重てぇ……何が入ってるんだ……!?」

 

 ダラッコは黒い箱をカートに乗せて運び出していた。アクアが彼をキネティの身元引受人として手続きしており、試合後すぐに武器を引き取ったのだ。ダラッコならばキネティと親子関係にあるので面倒な身分証明が不要だった。

 

 何とかエレベーターに乗せたところで一息つく。行先は1階だ。事前の取り決めではアクアのところに行く予定だったが、もはやフロアマスターの地位から陥落したアクアに頼るべきではないと判断した。

 

 素人目から見ても確実に病院送りにされる重傷だとわかった。あれだけ大口を叩いておきながらまさか負けるとは思っていなかった。結局何の役にも立っていないではないかとダラッコは憤慨する。

 

 わざわざ義理立てするような関係でもないし、これ以上関わっても損しかないと割り切った。キネティがどこに行ったのかという問題もあるが、試合自体が超能力者じみた異常な展開だったため、ダラッコはどこからどこまでが真実なのかわからない現実感覚の麻痺に陥っていた。

 

 最近はVR技術なども高度に発達してきているし、何らかの演出によるヤラセなのではないかと疑っていた。しかし、天空闘技場という巨額の金が動く一大興行に茶々を入れるつもりはない。その闇を暴き出そうという気もさらさらなく、ダラッコの行動は即物的な利益に終始していた。

 

 つまり、この箱を持ち逃げするつもりだった。ドリームオークションの収益で借金についてはほぼ完済している。後はこの箱を売り払って第二の人生を歩むための資金を得る計画だった。

 

 天空闘技場が引き渡しを認めているのだから何の問題もない、この作品は俺のものだという勝手極まる解釈をしていた。今後の人生プランについて思いを馳せていると、エレベーターの扉が閉まる直前で割り込むように誰かが入って来ようとしていた。

 

 

「うふふふふふ。どこに行くつもりなのかしら?」

 

 

 血まみれの手が扉をこじ開ける。ゆっくりと開いていく隙間から化け物が顔をのぞかせていた。ダラッコは悲鳴をあげて閉めるボタンを連打するが仕様上、無効な操作だった。

 

 改めて間近で見たアクエリアスは重傷などという言葉では言い表せないほど無惨な傷を負っていた。生きて立っていることが不思議だった。

 

 だが、実力のある念能力者だけのことはあった。手負いであってもダラッコに万に一つの勝ち目もないと思わせる威圧を放っている。あっさりとダラッコは箱をアクアに渡して逃げた。

 

「負けちゃったわ、キネティちゃん。これからどうしようかしら。もう私、あなたを手放せそうにないわ」

 

 憎しみとも喜びとも言い難い感情を込めて、アクアは箱に語り掛ける。この一般客用エレベーターではアクアの居住フロアである247階には行けない。闘士用のエレベーターに乗り換えるため、カートを押して歩きだした。

 

 血濡れの人間がのろのろと大きな荷物を押して歩いていれば嫌でも目立つ。だが、誰も声を掛けられる雰囲気ではなかった。今の瀕死のアクエリアスであっても200階級の闘士程度に後れを取るようなことはない。それだけの殺気がこぼれている。

 

「三天の一人とも有ろう者が無様よな、アクエリアス」

 

 しかし、その声はかけられた。曲がり角から二人の人物が姿を見せる。一人は巨漢の戦士だった。鎧など不要とばかりに見せつけられた鋼の肉体には大蛇の入れ墨が巻き付くように描かれている。その肩からは魚の骨のような異形の大剣が下げられていた。

 

「っしゃいませー! お客さまー! レギュラー満タンで?」

 

 もう一人は対照的にまるで戦士には見えない。ガソリンスタンドのスタッフのような恰好をした男だった。背中にはビールサーバーに似た装置を背負っているが、そこから伸びる管の先は給油ノズルのような形状になっていた。

 

 アクアはその男たちを見て顔をしかめる。ただの雑魚なら気にも留めなかっただろうが、無視できる相手ではなかった。たとえアクアが万全の体調を整えていたとしても敵わない強者である。

 

 フロアマスター序列2位『竜尾蛇頭のオフュークス』、そして序列3位『大特価リーブラ』。アクアと同じ『三天』の闘士である。アクアはバトルオリンピアにおいて、この二人に力及ばず敗退していた。

 

「何の用よ……笑いに来たの?」

 

「嘲笑にも値しない。お前は負けた。もはや最高位闘士の一人ではない。それも敵に情けをかけられ生かされた」

 

 アクアはキネティが最後に放った一撃を思い出し、屈辱を噛みしめる。オフュークスは剣の切っ先をアクアへと向けた。その両刃の刀身は櫛状に誂えられている。ソードブレイカーと呼ばれる剣だが、通常は盾のようにして用いる補助的な武器だ。しかし、オフュークスのそれは両手剣並みの大きさがあった。

 

 リーブラが交通整理をするかのように折り目正しく周囲の人払いをしていく。場合によってはこれからここが凄惨な処刑場と化す可能性もあるからだ。

 

「お前は昔からそうだった。これまでは目をつぶってきたが今回ばかりは我慢ならんぞ。ここで自死を選ぶか、俺に殺されるかどちらか決めろ」

 

「あんたに何の権限があるのよ! 確かに試合では負けたけど、キネティちゃんは誓約の代償で“このざま”よ! 結果的には私の勝ちみたいなものじゃない! フロアマスターだって十分続けられる実力が……」

 

「貴様という存在が三天に籍を置いていたという事実が、王の顔に泥を塗る汚点だとわからんのか。もはや死をもって禊ぐ他ない。潔く死に方を選べ、アクエリアス」

 

 ただ負けただけで死ななければならないとは不条理だ。しかし、強さを至上とする苛烈な闘士オフュークスはアクアの失態を許さなかった。

 

 何とかして逃げたいところだったが、地上200階のこの場所に逃げ場はなかった。敵勢にはリーブラもいる。先の闘いのダメージもある。戦闘に入れば殺されるのは確実だった。

 

 選択を迫るオフュークス。アクアはその返答を引き延ばしながら藁にも縋る思いでいると、そこに誰かの足音が近づいていることに気づく。オフュークスの強烈な殺気が吹き荒れるその空間に気圧されることなく立ち入ってくる。

 

「なんだ、お前は?」

 

 その男は見るからに平凡だった。だらしなく腰からシャツが飛び出し、寝ぐせも直していない黒髪の、眼鏡をかけた男だった。念能力者であることはわかるが、この込み入った状況にわざわざ首を突っ込んでくる理由まではわからない。

 

「私は“その子”のコーチでして。あなた方の事情に関わるつもりはありませんので、こちらに渡していただけますか?」

 

 ウイングがアクアの持つ箱を指さすことで一行は合点がいった。しかし、オフュークスは唯々諾々と勝手を許すつもりもない。

 

「悪いが、お引き取り願おうか。今回の件に関して我々には闘士王……序列1位のフロアマスターへの報告義務がある。その箱についても調べねばならんのでな」

 

「そうですか。では……実力行使といきますか」

 

 ウイングは練り上げたオーラを発する。その桁違いの闘気に誰もが瞠目した。弾かれたように戦闘態勢に入る。

 

「お客様、素晴らしいお車をお持ちのようですね。ここは私が……」

 

「待て、リーブラ。あのオーラはもしや」

 

 オーラは個人によってわずかに質が異なる。オフュークスはその闘気に見覚えがあった。ウイングが纏う気は、かつてオフュークスたちが肩を並べた闘士王配下『黄道十三天』の一人にして最悪の反逆者である男と酷似していた。

 

「じゅ、13!? 三天ではなかったので?」

 

「新参者のお前は知らずとも無理はない。今や十三天政を知るマスターは闘士王と俺とアクエリアスの三人のみだ」

 

「なんというお客様だ……まさかフロアマスターの半数以上を束ねられた時代があったとは」

 

 しかし、その黄金期は内乱によって終わりを迎える。その原因を生み出した男こそ『一矢九貫』と恐れられた闘士サジタリウス。見た目はすっかり変わってしまったが、オーラの質までは隠せない。オフュークスとアクアはウイングの正体に気づく。

 

「よくもぬけぬけと戻ってきたものだな、サジタリウス……」

 

「できれば私も帰って来たくはなかったんですが、成り行き上仕方なく」

 

 ウイングにとってここは振り切った過去しか残されていない場所だ。ズシと出会わなければ二度とこの地を訪れる気はなかった。ズシの夢はこの塔の頂に立つことだ。フロアマスターとなりバトルオリンピアで優勝することを本気で志している。

 

 ウイングは何度諦めろと諭したかわからない。確かにズシには才能があった。成長すれば自分を超えるほどの資質を感じた。だが、決して叶わぬ夢である。なまじ才があるだけに、この少年なら王のひざ元まで勝ち進むことができるかもしれない。しかしその果てに待つものは死である。

 

 それでもズシは諦めなかった。ウイングはその姿に、自分の過去を重ねてしまったのかもしれない。気がつけば師匠となり面倒を見る関係となっていた。

 

 その選択を間違いだとは思わなかった。心源流師範代として、一度教えると決めた弟子を見捨てることなどできない。それはキネティに対しても変わらず言えることだ。

 

「さっきも言いましたがその箱を渡してもらえればすぐにでも立ち去りますが」

 

「ほざけ! あの時の決着をここでつけてやる!」

 

 オフュークスが吠える。ウイングは静かに眼鏡を外すと、襲い来る敵に心源流の構えをもって相対した。

 



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111話

  

「キネティーッ! どこにいるッスかーっ!?」

 

 ズシはウイングの言いつけ通りキネティを探し回っていた。しかし、試合の前から音沙汰を断つようにいなくなっていた彼女が今どこにいるのか、ズシには見当がつかない。大声を上げながら手あたり次第に駆けまわるしかなかった。

 

「ちょっとそこのキミ」

 

 そんなときズシは見知らぬ少年に声をかけられる。年齢はズシより一つか二つくらい上に見えた。特徴的なのはその容姿だ。白髪に赤眼、肌は病的なほど白い。白兎を彷彿とさせる印象の少年だった。はだけた開襟シャツの首元に、大きな懐中時計が下げられている。

 

 そしてそのオーラは一般人とは違い、しっかりと纏ができている。念能力者であれば200階級の闘士だろうかとズシは予想するが、これまで見聞きしたことはなかった。

 

「ははは、確かにボクも闘士だけどあんまり有名じゃないからね。ボクはアストロって言うんだ」

 

「自分はズシッス! よろしくッス! あ、今はちょっと時間がなくて……」

 

「さっきの試合の女の子を探してるんでしょ? ならボクも手伝うよ」

 

 アストロは先ほどの試合に感銘を受け、ぜひキネティと話がしたいと思っていたそうだ。それならばとズシは協力してもらうことにした。自分がキネティと同じ師の下で弟子として修行していることを話していく。キネティが何も言わずに姿を消してしまったことも。

 

「そうなんだ。じゃあ心配だよね。ボクの知り合いの闘士に声をかけてみるよ。人手は多い方がいいからね」

 

 まずは捜索の人手集めのためにアストロの知り合いのところへ向かうことになった。ズシは少しだけ怪しみもしたが、アストロの提案に危険なことは何もない。ただ人探しを手伝ってくれるというだけのことだ。人の親切心を勘繰るのは止めようと考えを改める。

 

 二人で通路を進んでいると、にわかに沸き起こるオーラの気配を感じた。念能力者の戦闘が行われているものとすぐにわかった。もしかするとキネティが関係しているかもしれないのでそちらへ向かう。

 

 ズシが気を張り詰めていると向こうから怪我人が走ってくるのが見えた。

 

「はあっ、はひぃっ……なんなのよぉ、なんであいつがまたここに……」

 

 それはアクエリアスだった。オフュークスとリーブラが二人がかりでウイングと戦っているその隙を見て逃げ出してきたのだ。愚痴を言っているが、ウイングの乱入がなければ確実に殺されていたので最後に訪れた逃走のチャンスである。

 

 さすがに箱は置いてきた。いくら美術品狂いでも自分の命より価値のあるものはない。何としてでもここで逃げ切ると疲労困憊の体に鞭を打って飛び出したその先で、ズシたちと遭遇する。

 

「ひいああああっ!? あっ、アストロテウス様……!」

 

 アクアはがたがたと身を震わせて足を止める。その視線はズシの横に立つ少年に釘付けとなっていた。アストロは一切動じることなく、にこやかな表情のままだった。

 

「そんなに驚かなくてもいいでしょ。ボクたちの仲じゃないか」

 

「失礼いたしました! この度の失態、誠に申し訳ありません!」

 

 アクアが膝をつき、深々と頭を下げる。ズシはあっけに取られていた。フロアマスターの威厳など微塵もない。怯える子供のように委縮して謝罪を繰り返す。

 

「別にいいよ。気にしてないし」

 

「は、はっ! ありがたき幸せ! このアクエリアス、より一層の砕身をもってお仕えいたします!」

 

「うん、わかった」

 

 アストロはアクアに手をかざした。ただそれだけの挙動だった。次の瞬間、アクアの命は終わっていた。

 

 一瞬にしてアクアは後方の壁へと吹き飛ばされ、叩きつけられ、原形を留めぬほどの肉塊と化していた。アストロは手を触れてさえいない。ズシは一部始終を目にしておきながら何も理解できなかった。

 

「これが本当の粉骨砕身ってやつだね」

 

 目の前の存在が理解できない。ただ、人の命を奪っておきながらそれを何とも思わない邪悪な存在であることはわかる。ゆらりと歩き始めた殺人者の少年とこれ以上関わるべきではないと本能が遅すぎる警鐘を鳴らしている。

 

「さあ、行こう。たぶんキネティはこの先にいるよ」

 

 しかし、ついて行かざるを得ない。もし本当にキネティが近くにいるのだとすれば見過ごすことはできなかった。アストロの背中はまるで隙だらけだ。ズシのことを何の脅威とも思っていない。

 

 ズシはアストロを止めることもできず、しかし逃げることもできず、ただその後ろをついて行くことしかできない。やがて二人は戦場にたどり着く。

 

「……ズシ!?」

 

 ウイングは三天の闘士たちを相手に互角の戦いを繰り広げていた。一対一であったならば既に決着はついていたかもしれない。まごうことなき強者であった。心源流に身を置くことで弛まぬ努力のもとに鍛え上げられたその拳法は、闘士時代の彼の実力を大きく塗り替えていた。

 

「よそ見はいけませんね、お客様ぁ!」

 

「くっ!」

 

 死角から忍び寄るリーブラが一瞬の隙を突き、窓拭き用タオルを差し込んでくる。ウイングはオフュークスの竜骨剣をいなしながら回避する。その動きは先ほどまでと比べてわずかに精彩を欠いていた。ズシと共に現れた少年の姿を見て平静ではいられない。

 

 その少年こそ全ての闘士の頂点に立つ男。天空闘技場の覇者。最高位闘士序列1位。

 

 

 

 闘 士 王 ア ス ト ロ テ オ ス

 

 

 

「苦戦してるみたいだねぇ」

 

「……面目次第もございません。この男、かつて我々を裏切ったあの怨敵『サジタリウス』です」

 

「サジタリウス? 誰だっけ?」

 

 アストロは本心から首をかしげていた。つまり、彼にとっては忘れてしまう程度の些事でしかなかった。

 

 その昔、黄道十三天政を築いたこともそれがいつしか三天にまで縮小してしまったことも、彼にとってはどうでもいいことだった。配下を作ったのは、勝手に服従を誓ったフロアマスターを受け入れただけに過ぎない。

 

 自らが王であるというただ一点。彼の世界はその事実のみで充足していた。他の全ては蛇足でしかない。仮に三天までもがなくなってしまったとしても気に留めるようなことではなかった。

 

 ゆえに自分以外に興味を持たない彼が自らの居城である天空闘技場の最上階から出ることはなかった。ウイングの記憶にある限り、一度として下界に降り立ったことはない。こんな事態は想定していなかった。

 

 アストロが空中で手招きすると、見えない力に引き寄せられるようにキネティの箱が動いた。最悪の敵に箱が渡ってしまうが、ウイングにはどうすることもできなかった。

 

「ボクはここで見てるから適当に片づけて。そのくらいはできるよね?」

 

「はっ! すぐに終わらせます」

 

 三天の闘士二人の相手だけならまだウイングにも厳しいながら勝算がある。しかし、その後に控えるアストロについては絶望するしかない。念法使いたる者、いかなる強敵を前にしても精神において屈してはならないとズシには教えていたが、今のウイングには一縷の望みすら持つことはできなかった。

 

 ウイングはアストロに一度負けている。完膚なきまでの敗北だった。人は皆、平等ではない。決して埋まることのない格差がある。その当然の事実を思い知らされ、打ちのめされた。アストロに指一本触れることすらできず半死半生の傷を負わされ捨て置かれたウイングは、その後にビスケと出会っていなければ武の道から外れていたことだろう。

 

 アストロの能力を目にした者はその正体がつかめずに特質系能力者ではないかと疑うことが多いが、実際にはもっと単純である。彼は放出系能力者だった。その才能は天才を超えていると言わざるを得ない。ゴンやキルアを1000万人に1人の逸材と称したウイングだが、アストロの場合は人口比で例えることは不可能である。

 

 放出系は自身の身体からオーラを切り離して扱う術に長ける。その粋を極めたアストロは、意思一つで自在に超高出力のオーラを操ることができた。闘士王と呼ばれる以前の彼の異名は『念動力者(サイキッカー)』である。

 

 その出力と行使速度は規格外だ。並の使い手ではアストロのオーラの動きを目で追うことはできず、その顕在量によって敵のオーラを払拭してしまう。下手な小細工は通用せず、瞬殺という結果しか残らない。

 

 さらにこれは一つの技というわけではない。アストロにとっては当然のように、手足を動かすようにできることだ。つまり『発』ではない。彼の発はまた別に存在する。

 

 彼は生まれてこの方、何一つとして努力せずこの力を使いこなすことができた。神が与えたかのごとき絶対の力。それを得た者に努力など不要である。ある意味ではそれは救いだったのかもしれない。もしアストロが自身の力に飽き足らず、人並み以上の努力を惜しまなかったとすれば今頃どうなっていたかわからない。

 

 では、そんな絶望的な敵に対し、ウイングの精神はくじけてしまったのか。答えは否だ。

 

 勝てるか否かで言えば勝てない。おそらく死ぬことになるだろう。今回もまた殺さずに見逃してもらえるなどと甘い考えは持っていない。だから自分の命に対する未練はなかった。

 

 ウイングの使命とは、ズシとキネティを逃がすことだ。最悪でも、ズシ一人は逃がしてやらなければならない。それが師の務めである。その覚悟さえ決めてしまえば一切の迷いは晴れた。

 

「気を引き締めろ、リーブラ。ここで手をこまねけば三天の名折れ。王への忠心を示すのだ」

 

「真心全開、フルサービスでおもてなし致します」

 

 強さこそ闘士の証。王の期待に沿うべく二人は動いた。一瞬のうちに繰り広げられる凄まじい攻防が屋内の空間に突風を巻き起こす。その戦いは一流の念法使いにのみ到達可能な武術の高みにあった。

 

「じゃあ、ボクたちはこっちの確認をしようか」

 

 だがアストロはその戦いを一顧だにせず、緊張感もなくズシに話しかけながら引き寄せた箱に手をかける。

 

「何を……」

 

「この中にキミの探し人がいるのさ。さて、どんな状態になってるのかな?」

 

 試合で見せつけたあの力からして本人に許容範囲を超えた反動が生じたことは明らかだ。死んでいてもおかしくなく、仮に生きていたとしてもまともな状態にあるはずがない。アストロはそれを承知していながら確かめるつもりだった。

 

 神の寵愛を受けることができなかった下界の人間とはなんと儚い存在か。アストロは他者に共感する感情が著しく欠けていた。誓約の代償により惨たらしい姿となった少女と、それを目撃したズシがどんな反応を見せるのか。

 

 ただそれだけの他愛もない興味を満たすため、眠れる死者の棺を開ける。固く閉ざされたその蓋は、アストロが少し力を入れると外れてしまった。開いた蓋の隙間から勢いよく赤い煙が噴出する。

 

「っ! げほっ、ごほっ! き、キネティ……!」

 

「これは……何かのトラップかな?」

 

 あっという間に赤い霧状の気体が視界を覆い尽くしていく。換気の悪い空間にガスが充満する。箱の近くにいたアストロたちだけでなくウイングたちまでその煙に包まれてしまった。

 

 毒ガスであれば吸い込むのはまずい。三天の闘士は王に対し、ウイングはズシに対して気を配るものの互いに手を休めることのできない戦闘の最中にいる。しかし混乱をもたらしたその煙幕は、アストロの一息で霧散した。

 

 アストロが軽く放った『練』により全方位に向けて放たれた念波が毒霧を一瞬で吹き飛ばしたのだ。その攻撃は無差別に、逃げ場なくアストロを除く全員に襲い掛かった。

 

「がはぁっ!」

 

 まるで羽虫同然に払われた人間たちは壁に打ち当てられて崩れ落ちる。アクエリアスに当てた攻撃のように威力が一点に集中していなかったため重傷には至らなかったが、それでもすぐさま立ち上がれるようなダメージではなかった。

 

 敵味方の区別もなく物皆全てが膝をつく。ズシは強打により意識までも奪われていた。何人たりとも頭を上げることは許されない。立つことが適うのは王の資格を持つ者のみだ。

 

 ただ“二人”の強者が泰然自若と対峙していた。濃霧が晴れた後、そこには見知らぬ少女が立っていた。古めかしい貴族のようなドレスに身を包んだ銀髪の少女だった。人形のように恐ろしく作為に満ちたその美貌は見る者の恐怖と好奇を掻き立てる。

 

「こんなに驚いたのは久しぶりだよ。元気そうじゃないか、キネティ」

 

「……」

 

 アストロは銀髪の少女がキネティだと思っている。霧によって視界が閉ざされていたあの状況下では、箱の中からこの少女が現れたものと思い込んでも無理はない。

 

 しかし、彼女は瞬間移動能力によって召喚されたメルエムだった。キネティが今回の任務に出発する前に、クインから頼み込まれてキネティのお目付け役を任されていたのだ。

 

「ボクの名は闘士王アストロテウス。序列1位のフロアマスターと言った方がわかりやすいかな?」

 

「……」

 

 メルエムは周囲の状況を見渡す。彼女はクインが思うほど過保護にキネティの面倒を見る気はなく、出歯亀のように常時監視してプライバシーを侵すつもりもなかった。『何者かが箱を無理やりこじ開けようとする』という条件をトリガーとして召喚されるように、自分の細胞を箱に仕込んでおいたのだ。

 

「その調子ならフロアマスターとして今後も問題なくやっていけそうだね。ちょうどいい、キミにはアクエリアスの地位と名を継いでもらおう。ついでにボクの妾になってもらおうかな。普通の女には飽き飽きしていてね」

 

「なるほど、だいたいわかった。貴様は殺してよさそうだな」

 

 メルエムとしても何の事情も把握していない状態でいきなり全員殺戮するわけにはいかないので、まずは様子を見ていたのだ。彼女の言葉を聞き、アストロはこらえ切れないように笑いだす。

 

「はははははっ、面白い冗談だ……いや、本気でそう思っているからこそ面白いのか。本当に滑稽だよ、王の力を理解できない人間の姿というものは」

 

「同意しよう。先刻の霧を吸い込んだ時点で既に決着はついている。貴様の生殺与奪は余の手中にあると思え」

 

「もしかしてあの霧に何が念的な仕掛けがあったのかな? 残念だけど、そんなものは意味がないんだ。ボクに対するあらゆる攻撃は意味をなさない」

 

 アストロは念能力者の生命線である、自身の『発』をつまびらかにする。話したところで対処は不可能だからだ。彼の強化系能力『神域ノ結界(ティオルーハ)』は常時発動型の発であり、彼が言った通り全ての攻撃を無効化する防御壁である。

 

 この能力は『纏』に付随する。アストロの意思とは無関係に、自動的に害となるあらゆる存在の侵入を防ぐ。これにより殴打や銃撃などの直接攻撃を防ぐのはもちろんのこと、不意打ちの毒霧攻撃であっても息を止めることなく有害物質だけを除去するフィルターとしても機能する。

 

 では、どのようにして害があるかどうかを自動的に区別しているのか。それは彼の持つ超感覚『アプライドキネシオロジー』に起因していた。

 

 この感覚はオーリングテストという診断法によって体感できる。自分の体質に“合う物”と“合わない物”を見分ける方法である。まず片方の手で人差し指と親指を使ってО(オー)の形を作る。次にもう片方の手の上に“調べたい物”を乗せる。

 

 例えば、電池のように人体に有害な物質を含むものを手に乗せた場合、もう片方の手で作った指の輪はどんなに固く力を入れようとも他の人から引っ張られるとあっさり開いてしまう。このように筋肉は人体に悪影響を与える物質に対して働きを弱め「話が長い」

 

 

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 

 

 

 突如としてアストロの身に未知の感覚が襲い掛かる。それは物心つく前から擦り傷一つ負ったことがない彼にとって、生まれて初めて感じた“痛み”だった。

 

 アストロの『神域ノ結界』は正常に機能していた。しかし、自分の細胞を疑似量子状態にまで分割できるメルエムにとってその超感覚フィルターをすり抜けることは朝飯前だった。

 

 はらわたを内部から食い散らかされる激痛にもがき苦しむ。彼は見下しの対象でしかなかった他者に初めて恐怖を抱いた。彼自身、出したこともない全力のオーラをメルエムに向けて放っていた。

 

 その念波の集中攻撃は、ただの念能力者なら一撃で百度殺しても余りある威力である。その嵐を受けながらメルエムは、柳に風どころか無風状態だった。空中に漂う霧状の細胞がアストロの念波を掻き消している。

 

「ア゛ッ……」

 

 血流に乗って全身に広がったメルエムの細胞がアストロの中枢神経を破壊するまで、そう時間はかからなかった。ビクビクと数度痙攣を起こして動かなくなる。血の一滴も流れ出ない死体を食い破り、体内で成長した赤い甲虫たちがぞろぞろと外に這い出てきた。

 

「さて、他に始末が必要な者がいれば申し出るがいい」

 

 メルエムの目はウイングたちに向けられる。その直後、リーブラは腕時計を確認した。

 

「あっ、定時だ。お疲れ様っしたー!」

 

 脱兎のごとく全力疾走で逃げていく。一方、オフュークスは剣を収めてウイングを睨みつける。

 

「またしてもお前との因縁に決着をつけられなかったか……だが次こそはその命、この『竜尾蛇頭のオフュークス』がもらい受ける。せいぜい首を洗って待っていろ!」

 

 オフュークスは陸上選手のように理想的なフォームで走り去って行った。残されたのはウイングと、気を失ったズシだけになる。

 

「お前は逃げなくていいのか?」

 

「ええ、まあ。弟子を連れて帰らなければなりません。キネティの無事を確認する必要もある」

 

 メルエムのオーラには触れた者の感情を読み取る能力がある。ウイングの言葉に嘘は感じられなかった。そして目的のためならばメルエムと敵対することもやむ無しと覚悟していることもわかる。その感情図からおおよそのことは察せられた。

 

「どうやら、うちの見習いが世話になったようだな。礼を言おう」

 

「……もしや、あなたがキネティの“師匠”ですか?」

 

 ウイングはこの少女がキネティではないということだけは見抜いている。これまでの経緯を思えば別人と考えた方が自然だった。ならば話に聞いていたキネティの師に当たる人物が助けに来たのではないかと推測する。

 

「違うな。それはまた別の仲間だ。それと、この娘の容体については心配せずともよい。眠りに就いているだけだ」

 

 正確に言えばウイングが心配をしても仕方がないので無用と断じた。キネティの意識は渦の中に落ちている。虫の本体は仮死状態のまま生きているようだが、精神状態を調べたところ自力で意識を取り戻すには長い時間がかかりそうだった。ネットワークにクインを潜らせて連れ戻した方が良いと判断する。

 

「この娘はフロアマスターとやらには勝てたのか?」

 

「ええ、試合には何とか」

 

「そうか。では、これにて任務達成だ」

 

 赤い霧が集結し、一つの個体へと姿を変えていく。それは3メートルにも達する蜂だった。巨大な蜂がキネティの箱を抱えて羽を広げる。

 

 ウイングにそれを止めるすべはない。あの闘士王を指一本動かすことなく殺してしまった相手に何ができるというのか。アストロがこの塔の頂点に君臨する王だとすれば、この少女の強さはまさしく星の高みにある。

 

 比較にすらならない絶対的な差。しかし、ウイングは退かなかった。

 

「待ちなさい。まだ話は終わってません」

 

 確認しておかなければならないことはいくつもある。赤霧の少女やキネティが属する傭兵団とはどんな集団なのか、そしてどのような目的でキネティを扱おうとしているのか。

 

「ただの傭兵の集まりだ」

 

「少なくともカキンが暗黒大陸進出を宣言する以前にその情報を掴んでいたはずです。ただの傭兵にできることじゃない。禁忌の地へその子も連れて行こうと言うのですか」

 

「そのための力を試す任務だった」

 

 まるで悪びれる様子もなくのたまう少女にウイングは嫌悪感を募らせる。本当に暗黒大陸の危険性を理解しているのか疑問である。もし理解した上で敢行するつもりであれば、なおのこと愚かとしか言いようがない。

 

「既に時代は動き始めた。ヒトというものどもの“底知れぬ悪意”を止めることはできん。どれだけ上から踏みつけようと欲望は芽吹く。いくら毟ろうと生え続ける。根こそぎ滅ぼされでもしない限りはな」

 

「だからそれに便乗することが正しいとでも言う気ですか。滅びへと向かう一時の享楽にふけると」

 

「さて、この身は一介の傭兵なれば、団長が命じた通りに動くまでのこと」

 

 ウイングは言葉を失った。当然のようにこの少女が傭兵団のトップだと思っていたからだ。まだこれより上がいるのか。これだけの念能力者を従える存在とは何者なのか。

 

「そこまでしてあなたたちは何を目指しているのです。金ですか、名誉ですか、それとも未開の地への探求心か」

 

「そのどれでもない。我らの目的はお前たちが想像もしていない“何か”だ」

 

 クインは悩み抜いて結論を出した。カーマインアームズは暗黒大陸への調査任務に就く。クインはメルエムすら予想していなかった目的を告げる。

 

 外の世界へ目を向け始めた人々を止めることはできない。ならば、今こそ自分たちも外へと目を向けるべきだとクインは言った。その恐ろしさを理解していないわけがない。それでもなお心を決めた理由とは、急変する情勢に流されただけではない、確固たる信念があった。

 

 クインは暗黒大陸で生まれた。そして人間の世界を目指して旅をした。九死に一生を得る苦難の連続があった。もし旅路の途中でその夢を一度でも諦めていればここにはいなかったかもしれない。安息の地にたどり着くことを夢見続けた。

 

 実は、歴史を紐解けばクインと同じ夢を追いかけた者たちがいた。魔獣と呼ばれる人間とは異なる種族がこの世界に共存している。その祖先は暗黒大陸からやって来た。彼らは過酷な生存競争に敗れ、命をつなぐために安住の地を探して海に出た。

 

 その無謀な挑戦は奇跡のような偶然が重なることで成功した。それは膨大な数の挑戦者たちの、ほんの爪先にも満たない一例である。確率論的に言えば起こるべくして起きた偶然だったのかもしれない。その陰には夢かなわず死んで行った犠牲者がごまんといる。

 

 海の向こうに平和な島々があることを知っていたわけではない。それでも陸を捨て、海に繰り出すしかなかった。自分のため、家族のため、一族のための決断は、どれほどの覚悟と苦悩に満ちていたことだろう。

 

 そして今もまだ、夢を抱き続ける者たちがあの大陸にいないと誰が決めつけられるだろうか。知的生命体の存在を示唆する文明の痕跡はいくつも発見されている。救いを待ち望む者たちがいるかもしれない。手を取り合える未来がないとは言い切れない。

 

 クインの構想は単なる調査の域を超えていた。『みんな仲良く』の輪を広げる。暗黒海域と人類領海域の恒久航路の開拓、そして現地民との異文化交流、交易拠点の確立にあった。

 

 魔獣のように、人間と共存できる外の世界の協力者が絶対にいないとは限らない。限界境界線を見張る門番の魔獣種など、詳細は不明だが一定の関係を築いていることは確かだ。クインたちとて暗黒大陸から来たことを考えればその一例と言える。

 

 だが、いざそれを実現しようと思えば月を目指して階段を作っていくような途方もない話だった。あまりにも巨大な数多くの問題が山積している。十年や二十年でどうにかなる課題ではないかもしれない。百年かけようとたどり着けない恐れはある。それよりも先に死ぬことの方がよほど現実味がある。

 

 それでも、どうせ関わるのならとことんやろうとクインは決めた。彼女は暗黒大陸の旅路を思い出していた。砂漠を越え、山を下り、森を潜り抜け、海を見つけ、そして人間の調査団と出会った。船を見たときの高揚感は今でも忘れることができない。

 

 助かるかもしれないという確かな希望が心に宿った。ギアミスレイニを、そんな希望を乗せる船にしたい。人と人ならざる者たちを結び、夢を運ぶ船にしたい。傭兵団の会議で熱く語るクインの様子をメルエムは思い出して堪えきれないように笑いだす。

 

「くくくく……実に愉快だぞ、我らが団長の発想は」

 

「何を企んでいる……!?」

 

 メルエムの喜悦を噛みしめるような笑いにウイングは警戒を強める。自分たちの欲望を満たすためならば周囲への影響など一切考慮しない、仮にそんな集団であったとすれば放置しておくのはまずい。キネティを預けてはおけない。

 

「知りたければ団長の口から聞くがいい。キネティが世話になった礼もある。団長のことだ、お前たちをこのままにしてはおかない。近いうちにまた会うことになるだろう」

 

「待て、この子は関係ない!」

 

 ズシにまで目をつけられてしまったかとウイングはかばうように身を乗り出す。礼と称して何をされるのかわかったものではなかった。もちろんクインはこの後めちゃくちゃお礼の歓迎会を開くため準備を始めるに違いない。

 

 メルエムはウイングの反応を見て何か勘違いしていることには気づいたが、面倒くさかったので訂正しなかった。巨大蜂の背中に乗り、破壊された外壁の穴から空へと飛び立っていった。

 

 ウイングは携帯から電脳ネットのハンター専用情報サイトにアクセスする。先ほどの少女の顔に既視感があったのだ。わずかな記憶の残滓を頼りに敵の正体を突き止めていく。

 

「もしかするとあれは『NGL革命宣言』の……ということは……あった! A級賞金首『カーマインアームズ』」

 

 法外な情報料を支払って閲覧したページには、とある傭兵団の来歴が記されている。その関与が疑われる事件を見れば危険性は計り知れない。またしても世界を混沌の渦に陥れようと言うのか。

 

「う……師匠? 何が起きて……」

 

 ズシが目を覚ます。ウイングは空を見つめていた。突き抜けるような青空の果てへと消えていった少女を思う。

 

「あれからどうなったんスか!? 闘士王やキネティは……」

 

 王を失った塔は空虚にそびえ立ち続ける。しかし、そのことにどれだけの人間が気づき、悲しむというのだろう。

 

 きっと今日という日常は明日も変わることはない。何千人もの闘士がこの場所で闘い、去っていく。闘士王の死はそれらと何の変りもない。

 

 異常に気づくこともなく人々は日常を続けようとするのだろう。この狭い世界を壊してしまえるだけの存在が身の内に潜んでいるというのに、何も知らずに生きている。

 

 まるで末期の癌のように発覚したときには手遅れだ。ウイングは、ただそれに気づけなかっただけだった。

 

「キネティは無事です。後のことは私に任せなさい」

 

 しかし、ウイングにとっては世界の危機よりも連れ去られた弟子一人の行く末の方が気がかりである。敵の誘いを拒む気はない。カーマインアームズと相まみえるその日に備え、覚悟を決めるのだった。

 

 





天空闘技場編完結です。次は289期のハンター試験を書きたいと思っていますが、原作でほぼ触れられていなかったので情報がないんですよね……更新できるかどうか未定です。


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アルカ救出作戦編
112話


 

 カキン帝国の外海遠征宣言から時を遡ること5か月前。その頃、結成して間もないとある傭兵団はある依頼を受けてパドキア共和国を訪れていた。

 

 パドキア共和国、ククルーマウンテン。ここには知る人ぞ知る観光スポットがある。その地には稀代の暗殺一家『ゾルディック家』の隠れ家があるという。

 

 山のふもとの町からは山景巡りの定期バスが日に一本出ており、物好きな観光客で賑わっていた。移り変わる車窓の情景に合わせ、バスガイドが観光案内を行う。

 

「え、右手に見えますのが、悪名高いゾルディック家の棲むククルーマウンテンでございます。広大な樹海に囲まれたこの死火山のどこかに彼らの屋敷があると言われています」

 

 名は知られているが謎多き一族である。誰も彼らの顔を見た者はおらず、数多くの逸話もどこまでが本当のことか真偽のほどは定かではない。

 

 噂だけが独り歩きしているだけで、実際には大したことのない連中だと侮るやからもいる。このバスには普通の観光客に交ざって、ゾルディック家に喧嘩を売ろうとする命知らずが乗り込むことが多々あった。

 

「ゾルディック家は10人家族、曾祖父、祖父、祖母、父、母の下に5人の兄弟がいます。その全てが殺し屋と言われており……」

 

 バスのガイド嬢はいつもの業務をこなす傍ら、乗客に目を向ける。長年この仕事をやっているだけあり、問題を起こしそうな客はすぐに目ぼしをつけることができた。だが、今日に限っては少しばかり毛色の違う珍客が多いと言わざるを得ない。

 

「おまっ、またリバースじゃと!?」

 

「そっちだってスキップ連打してきたじゃん」

 

 楽しそうにウノをやっている団体客なのだが、その面子が異様だった。子供が7人もいるが、引率と思わしき大人はいない。その子供のうち、6人の容姿が全く同じ銀髪の少女たちだった。一卵性の六つ子と考えるほかない。

 

「……」

 

 まるでさっきまでキッチンに立っていたかのようなエプロン姿の少女は、口数少なく難しい表情をしている。その手には大量のカードがあった。

 

「えっと、その……今更なんですけど、これどういうルールの遊びなんでしょうか……?」

 

 その隣に座る少女は終始おどおどしていた。巫女装束のような格好をしている(させられている)。ルールを知らない割にカードは結構消化していた。

 

「そうか、これはこっちでここは……こう!」

 

 後ろの席に座る、オーバーオールを着た少女は登山用かと見まがう大荷物で通路を塞いでいた。ハンダゴテのような工具を持ち出して謎の機械類をいじっている。周りの声は聞こえていない様子だ。

 

「おい、これから大仕事ってのに遊んでる場合か?」

 

 その隣には軍人の戦闘装備らしき服装をした眼帯の少女が座っている。物々しいが、いかんせん着ている本人の容姿のせいでかわいらしさが先行している。

 

「そう気張るほどのことでもあるまい。おっ、ドローふぉおお!」

 

 そのまた後ろにはTシャツにスパッツ一枚はいただけの少女がいる。Tシャツには『心』の文字がプリントされていた。

 

「いちいち叫ぶな。やかましい」

 

 薄着の少女の隣には、対照的に今の時期としては暑苦しい豪華なドレス姿の少女がいた。バスの座席に座っているが、その構図すら肖像画に落とし込めそうなほど高貴な気配を漂わせている。ウノは一抜けした。

 

「まあ、作戦については散々話し合ったし、今更おたおたすることもねーよ。戦力的には足りてるはずだし。というかこのメンバーで無理ならもう絶対不可能だろ」

 

 六つ子のインパクトのせいでかすむが、銀髪の少年も一人交ざっている。おかしな乗客たちを乗せたバスは山並みに沿った山道を進み、樹海の入口へとたどり着いた。

 

「えー、到着いたしました。ここがゾルディック家の正門、別名『黄泉の門』でございます。ここから先は私有地となっているため見学は以上になります」

 

「オレたちはここで降りるから」

 

 ぞろぞろと子供だけの団体客が降車していく。ここはバスの停留所ではない。見学ツアーの最終地であり、休憩時間はあるものの、門を見た後は帰るだけだ。移動手段もないこんな山奥に観光客が残る理由はない。

 

 ただし、この手の客はさほど珍しくはなかった。無謀にもゾルディック家に挑む者たちは後を絶たない。その誰もがこの門を越えて帰ってくることはなかった。ゆえに『黄泉の門』である。

 

 今回はその対象が子供ということもあってバスの運転手らは引き留めたのだが、なんと彼ら一人がハンター証を呈示して見せた。見た目によらずプロハンターの資格を持つ者がいた。

 

 プロハンターが率いる一団であればこれ以上の説得は無用と判断され、バスは他の乗客を乗せてふもとの町へと出発した。

 

 

「んじゃ、行こうか。『アルカ救出作戦』開始だ」

 

 

 傭兵団カーマインアームズを立ち上げたクインは、シックスの関係者であるゴンたちとも接触し、事の顛末を伝えるに至る。ゴン、キルア、ビスケの三名はシックスの死を悼んだ。

 

 その後ゴンたちは、他の傭兵団のメンバーとも顔を合わせる機会があったのだが、そこでキルアの頭に埋め込まれた針の存在が明るみに出た。

 

 キルア本人ですら気づいていなかった体内の『針』をメルエムが見抜いたのである。それはキルアの兄イルミが弟の思考を強制するために埋め込んだ念の楔だった。

 

 ゴンやクインらはそれを除去するために協力するつもりだったのだが、キルアはこれを固辞し、死の淵に自分を追い込む鍛錬の末に自力で抜き取っている。

 

 これにより覚醒を遂げたキルアは針によって封印されていた記憶を取り戻した。妹のアルカの存在を思い出し、これまでシックスに対して感じていた違和感の正体をようやくつかむことができた。

 

 アルカの力はゾルディック家も最大の警戒を払っている。念能力すら凌駕する規格外の力は、使い方を誤れば自滅に追い込まれる危険を有していた。そのため、アルカに対して感情的に接してきたキルアに余計な行動をさせないよう記憶を封印したのである。

 

 その懸念の通り、針を除去したキルアはすぐにゾルディック家当主シルバのもとへ向かい、アルカの解放を要求した。外界から隔離され、一人ぼっちにされている妹の身を案じたのだ。

 

 その要望は当然のごとく却下されている。残念ながらキルア以外の誰もアルカのことを家族とは思っていない。生物的には人間であっても、その内に“人ならざる何か”が潜んでいることを理解している。野放しにするにはあまりに危険過ぎた。

 

 キルアは完全な解放まで行かずともアルカにいくらかの自由を与えてやりたいと訴えたが、その緩みすらシルバは認めなかった。

 

 シルバがイルミの針による強制を容認したのも、キルアの暗殺者らしからぬ性格を危惧していたからである。なんだかんだでキルアに甘かったシルバもアルカについてだけは譲らなかった。

 

「ならもう、力づくで連れ出すしかない」

 

 そこでキルアはカーマインアームズに依頼を出したというわけだ。依頼金には昔、独り立ちするとき用に溜め込んでいた隠し財産を充てている。その隠し場所はずっと忘れていたのだが、針を抜いた時に思い出した。

 

 この大盤振る舞い、もとい友達のピンチにクインは傭兵団の総力を挙げて依頼に臨む。普段なら一人を派遣すれば大抵の依頼は(成否はともかく)片付くのだが、今回は文字通りの総力戦である。

 

 本拠地の船番を任せたモナド、病床にあるキネティを除く全員が参加している。衣装係のアマンダも、さすがに戦闘には参加しないが、ふもとの町に待機して逃走後の手配など円滑な依頼達成に向け雑務をこなしている。

 

 今回のヤマはそれだけデカい。相手は伝説の暗殺者、それも一人や二人ではない。そのためキルアはゴンにはこのことを隠し、ただの帰省だと言って来ている。アルカのことも話していない。

 

 ゴンなら事情を知れば絶対について行くと言っただろう。現在、ゴンは傭兵団の船でキネティの分身体と共に修行に励んでいる。頭の針が抜けて急成長を遂げたキルアに何とか追いつこうと彼も必死だった。ともかく今回は留守番している。

 

 かくして総勢7人が戦争をしかけるべく集まった。これまでの挑戦者たちと比べれば、数だけを見れば頼りないが、個々の強さの密度は比較にならない。

 

 その奇妙な一行は気配を隠すこともなかったため目立っていた。そこへ正門を見張る守衛の男が詰所を出てやって来る。

 

「これはキルア坊ちゃん。と、そちらの方々はお友達でしょうか?」

 

 この守衛はゾルディック家に雇われているが、あくまで外門の警備人であり、一族の内情にまで深く関わってはいない。一般人よりは強い程度の、ただの気の良いおじさんである。

 

「ああ、こいつらはオレの友達。まあ、ちょっとうちに用事があってさ。大したことじゃないから連絡は入れなくていいよ」

 

「すみません、それが……」

 

 守衛のゼブロはバツが悪そうに口ごもる。現在、敷地全域の警戒レベルが引き上げられているらしい。守衛のゼブロにも、門の通過者に対して通常以上の報告義務が課せられていた。

 

(オヤジめ……勘づかれたか……?)

 

 こそこそ忍び込もうとすれば余計に警戒されるだろうと正面から堂々と踏み込むつもりだったが、予想以上に敵は過敏な反応を示していた。

 

 まさか事前に今回の襲撃に関する情報を漏らすような愚は犯していない。キルアがアルカを外に出そうとしていることは知られているが、だからと言ってキルアにどうにかできる手段はない。普通はそう考える。

 

 だが、シルバはそのような理屈を超えて直感的に強敵の襲来を予測することが過去にもあったことをキルアは思い出す。伝説の暗殺一家、その当主の実力は伊達ではない。

 

「まさかここで打ち止め、などと言い出す気ではなかろうな?」

 

「んなわけあるか。もうそういうビビリは卒業したんだよ」

 

 キルアが試しの門を軽く押し開ける。『5の門』までが開いた。一行は門をくぐり、ついに敷地の中へと足を踏み入れる。

 

「だが、ちょい予定変更だ。プランBでいく。ここからは二班に分かれよう」

 

 アルカ救出班としてキルア、アイク、チェル、メルエムの4名。そして陽動班がクイン、カトライ、ルアンの3名だ。

 

「頼む、妹のためにみんなの力を貸してくれ」

 

 全員が静かに頷く。それは言葉よりも重い信頼を表していた。

 

 

 * * *

 

 

 まず動いたのは陽動班だ。彼女らが先行しなければ陽動にならない。ただし、その呼び名とは裏腹に陽動としての役割はあまり期待されていなかった。ゾルディック家の人間をそう簡単に釣り出せるとは思えない。

 

 いわば、作戦の成功確率を少しでも上げるための前哨戦だった。クインたちはキルアから得た情報をもとに、執事室へと向かっていた。そこは本家の人間が住む屋敷とは離れた別館であり、執事たちの住まいである。

 

「そこの侵入者! 止まりなさい!」

 

 陽動班の接近は既に知られていた。もとより騒ぎを大きくするために気配は消していない。だが、仮に消していたとしても相手はゾルディック家の執事だ。その全てが優秀な念能力者であり、いつまでも気づかれないということはない。

 

 真っ先に駆けつけて来たのは執事服を着たドレッドヘアの少女だ。ゾルディック家の使用人は執事と執事見習いとに分けられ、性別に関わらず男性用の執事服を着用する。

 

 その少女、執事見習いのカナリアは侵入者への応対を任せられていた。『試しの門』と呼ばれる正門は外敵の侵入を阻むものではない。あくまでこの地に踏み込むだけの力を有するか、その資格を量るにとどまる検問であり、明確な敵意を持つ者だろうが通ろうと思えば通れるのだ。

 

 実際に敵を排除する役目は敷地を守る執事にある。敷地内にもいくつかの防衛ラインが設定されており、それを越えようとした者に対して彼らは警告を発する。いかに殺し屋の根城といえども、問答無用で殺したりはしない。

 

 ただしほとんどの場合、侵入者は執事の手によって抹殺されることになる。物騒な用件を抱えていないのであれば、わざわざこんなところまで入ってきたりはしないのだから。

 

 ふざけた格好をした三人組の侵入者は警告を無視して防衛ラインを越えようとしていた。これまでに何度も見て来た無法者たちの反応だ。しかし、カナリアはいつも以上に緊迫していた。

 

 本家当主から直々に発せられていた厳戒態勢の最中、発生した襲撃である。警戒しないわけがない。だが、いずれにしてもやることは決まっている。武器である杖にオーラを流し、敵を待ち構えた。

 

「ひいい!! すみませんすみません!」

 

 泣きそうな顔した少女がしきりに謝りながら急接近してきた。恐怖、迷い、動揺、そう言った精神の乱れは念能力の安定性に直結する。言われるまでもなく念能力者は、それらの邪念を戦闘において極力排除しようとする。

 

 敵の感情の乱れは如実にオーラに表れていた。明らかに未熟。一撃加えてやれば実力差を理解するだろうとカナリアは杖を振るった。

 

 その攻撃が少女に届くことはない。動きにくい巫女装束を翻しながらギリギリのところで回避される。だがその一撃がカナリアに、敵の本当の実力を理解させた。

 

 確かに杖の先は敵を掠めるように通り過ぎた。わずかでも回避が遅れていれば今の攻撃は当たっていた。しかし、それが決して起こり得ない可能性であることに彼女は気づいた。

 

 カナリアもゾルディック家の執事見習いとして重用されるほどの逸材である。そこらの念能力者に後れを取るような実力ではない。ゆえに一度の攻撃で気づいた。あと何百発、杖を振るったところで目の前の敵には届かないと。

 

 その異常性に寒気が走る。現実にしてみれば容易く手が届く距離にありながら、決して到達することはない断絶が両者の間にあった。

 

 いくらカナリアから攻撃しようと無駄。もしその差が埋まる瞬間があるとすれば、敵が攻撃を仕掛けて来た時のみだ。カナリアは待つことにした。下手に手を出さず、敵の動向に注視する。

 

 その読みは当たっていた。カトライの回避術は一級品だが攻めに回った途端、それまでの体術がまるで役に立たなくなってしまう。一対一の勝負であればいつまでも決着がつかないが、それを当の本人が理解していないはずがない。

 

「え?」

 

 カナリアの脚に衝撃が走った。体勢が崩れる。何が起きたのか、瞬時に状況を把握する。

 

「くくくく……我ながら惚れ惚れする使用感ですねぇ、『SS00X(シストショックダブルオーエックス)』」

 

 カナリアは見た。敵の仲間が銃器らしきものを後方で構えている。それだけわかれば答えは明白だ。しかし、彼女は実際に撃たれるまでその射撃に気づくことができなかった。

 

 ルアンが使用したこの自作兵器は分類上、コイルガンと呼ばれるものだ。電磁加速砲の一種である。

 

 電磁加速砲の代表格であるレールガンは電気の流れによって発生するエネルギーを使って弾を飛ばすが、コイルガンは導線を巻いた筒(コイル)の中に金属弾を通すことで磁力によって弾を加速させる。

 

 利点として、磁力のみによる弾体発射のため熱や音がほぼ発生しない。その構造はかなり複雑で制作には高い技術を要するが、制作難易度という面で見ればレールガンよりも遥かにハードルは低い。

 

 ただし、兵器全般の実用性として見るなら普通の拳銃に及ぶべくもない。まず威力からして殺傷能力は高いとは言えず、きちんと弾を飛ばすには電流を流すタイミングやその遮断に緻密な計算を必要とする。内部構造も繊細で故障しやすい。

 

 だが、このクレイジーサイコエンジニアがそんな半端仕事をするはずがなかった。ガチガチの『災厄』仕様である。例のレールガンにも使われている巻貝鉱物を製錬し、コイルの材料にしている。

 

 この異次元の磁力を発揮する四連マルチコイルガンはオーバーテクノロジーと呼ぶにふさわしい威力を獲得した。発光、発射音、硝煙臭、熱源反応と言った発砲の痕跡を一切外に現すことなくトリガーを引いた瞬間、目標に着弾する。音が発せられるのは対象を撃ち抜いた後である。

 

 内部動力はバッテリーによって賄われている。これはリチウムイオン電池等ではなく巻貝鉱物の製錬過程で、副産物的に発明された独自の新技術だ。これ一つ取ってもその分野の科学常識を刷新しかねない代物だった。

 

 ちなみにこの銃は電気制御によって動いているため、念能力は使われていない。が、たとえ念能力者であっても普通の大口径の銃弾を食らえばオーラによるガードを打ち破られる。いわんや、この魔改造コイルガンである。

 

 科学力による暴力だ。だが、この戦闘の最中にカナリアが敵の兵器の詳細なスペックを計り知る余裕はなかった。単に強力な銃器としかわからない。

 

 それより彼女はもっと別のことに驚いていた。いかに目の前にまで迫った敵の対処に追われていたとはいえ、後方にいる敵を全く無視していたわけではない。銃を構える動きがあれば、撃たれる前に気づけたはずだ。

 

 カトライはそれを見越してカナリアの視界を遮るように動いていた。もっと言えば、“銃弾の射線上にいた”。

 

 だが、結果的に弾はカトライには当たらず、カナリアのみが被弾している。つまり、かわしたのだ。射手であるルアンに背を向けた状態で弾丸の接近を察知し、回避していた。

 

 ルアンは最初からカトライごと撃ち抜くつもりで撃っていた。その方がカトライにとってはかわしやすいからだ。悪意を込めた攻撃ほど彼女には見え透いている。

 

 ある意味でそれは信頼だった。一方は女王に仕える騎士として、そして一方は反旗を翻した騎士として、カトライとルアンは幾度となく精神の戦いを繰り返してきた。互いの特性は重々承知している。

 

 だが、それは傍目から見れば異常と言うほかない。ルアンの隣に立つクインでさえ「えーっ!?」という表情でドン引きしていた。

 

 カトライが何をどうやって音速を遥かに凌駕する銃弾をかわし切ったのか目の前で見ていたカナリアにさえわからない。何らかの念能力を使ったものと思われた。実際はただの体術である。

 

「えっ、えいっ」

 

 そして足を撃たれ体勢を崩したカナリアは、カトライの攻撃に対処することができなかった。いくらカトライでもここまで隙をさらした相手くらいは仕留められる。漫画なら☆が飛び出しそうなヘッポコパンチがカナリアの意識を刈り取った。

 

 初戦を終え、何もしていなかったクインが仲間たちにグッジョブのサインを送る。そのまま気絶させたカナリアは放置し、三人はすぐに行動を再開した。

 

 目指すは執事室である。本丸である屋敷を襲撃する前に、まずここを叩く。はっきり言って、執事たちの戦闘力はゾルディック家の人間からすれば低い。最大の脅威は本家の殺し屋たちと言えるだろう。

 

 では、執事を無視していいのかと言うとそうでもない。本家の人間は殺し屋としての実力としてはかなりのものがあるが、実質的にこの敷地や屋敷の管理を行っているのは使用人である執事である。いわば本家の手足となって動く者たちである。

 

 決して無能ではなかった。どんな命令にも忠実で従者としてはこの上なく優秀と言えるだろう。だからこそゾルディック家は執事たちに諸々の管理を任せ、暗殺業に集中できるのだ。

 

 逆に言えば、執事たちを無力化することができれば屋敷としての機能は死ぬ。仮に執事のいずれかがアルカの管理に関わっているとすれば、余計な行動を封じることができるだろう。

 

 執事を尋問して情報を聞き出すと言った手は最初から無理と割り切っている。だから、とにかくできるだけ派手に暴れて片っ端から執事を無力化する。

 

 それはゾルディック家にとって手足を失うことも同然の痛手である。一人二人ならともかく、その数が増えるほどに何らかの対処を迫られることとなるだろう。

 

 キルアはアルカがどこに幽閉されているのか、詳しい場所まではわからなかった。救出対象は敵の手中にある。相手がどう動くかわからない以上、キルアとしては不確定要素をできる限り減らしておきたかった。

 

 敵の手ごまは一つでも多く取り除いておきたい。「このくらいは見逃しても大丈夫だろう」という慢心に足元をすくわれることはいくらでもある。今回の敵はキルア自身もよく知る父親なのだ。それに真っ向から喧嘩を売ろうと考えれば一事が万事、手抜かりは許されない。

 

 ゆえにクインたちに求められた任務はゾルディック家に対する“殲滅”である。しかも、全員殺さずという条件付きだ。裏社会の実状を少しでも知る者なら、この依頼がどれだけ馬鹿げているかわからないわけがない。

 

 まさかそんな依頼を『友達の頼みだから』という理由で引き受けてしまう連中などさらに馬鹿げていると言わざるを得ない。

 

 執事室に近づくにつれ、クインたちの周囲に敵の気配が現れ始める。木々に溶け込むようにしてオーラを絶った手練れたちが獲物を取り囲もうとしていた。

 

 

 * * *

 

 

「来たみたいだね、キル。父さんの読み通りだ」

 

 屋敷では殺し屋の一族が食卓を囲んでいた。見事な出来栄えの料理がテーブルに並んでおり、無論のこと味は保証されている。ただし、常人が口にすれば命の保証はない。全ての料理に致死量を超えた毒が混入している。

 

 いつもなら仕事に出かけている者もいるので、ここまで家族が一堂に揃うことは珍しい。それは偶然ではなく、当主から指示が出されていたためである。

 

「執事室が狙われているようですわ。だいぶ苦戦しているようですわね。ゾルディック家の執事ともあろうものが情けない……」

 

 当主の妻、キキョウが呆れたように嘆息する。彼女にとっては執事が何人死のうが大して気に留めるほどのことでもないが、それによって家の名にわずかでも傷がつくことは許せなかった。

 

 仮に、あってはならないことだが、執事が全滅させられたとしても補充すれば済む。この敷地の外にもゾルディック家が所有する土地や施設は数多く存在し、執事を教育する機関も外部にある。一時的に不便を被るだけのことである。

 

「オレが片づけてこようか?」

 

 とは言え、やられっぱなしというのも癪な話だ。長兄のイルミが席を立とうとしたが、それをシルバは制した。

 

「今はいい。放っておけ」

 

 イルミはわずかに眉をひそめた。父の言葉がキキョウのように執事の存在を軽視しているがゆえに発せられたものではないとイルミはわかっていた。シルバはそんな物の考え方はしない。

 

 シルバは戦力の分散を避けたのだ。敵の誘いに乗らないと言えば格好もつくが、それはこの家の当主らしからぬ臆病な選択にも思えた。今日の厳戒態勢にも言えることだが、イルミにはシルバがそこまで気を張り詰める理由がさっぱりわからない。

 

「ミル、敵の情報は何かつかめたか?」

 

「う、うん。ちょうどオレが個人的に調べてた奴らだったからさ、特定はすぐにできたけど」

 

「ほお、さすがミル坊じゃ。アナクロなわしらじゃスマホもまともに使いこなせんわい。いまだにポケベルが現役じゃし」

 

「親父、ポケベルではない。ゾルディック家専用無線機だ」

 

 シルバがゾルディック家専用無線機(たまごっちみたいなやつ)を取り出してテーブルの上に転がす。

 

「キルが雇ったのは傭兵団『カーマインアームズ』……だけど、こいつらほとんど情報がない」

 

「情報戦に長けた集団か」

 

「いや、それ以前にまだできたばかりでろくに活動してないんだ。オレみたいに最初からマークでもしてない限り、正体にたどり着くのは不可能だっただろうね」

 

 傭兵業に関する情報はミルキにも得られなかったが、その集団がA級賞金首『モナド』の関係者であることはつかめた。モナド自身、あるいはその親族によって結成されているらしい。

 

 その人員規模、保有戦力などについては未知であるが、もし本当に史上最悪の殺戮者(ジェノサイダー)が取り仕切る一団だとすれば脅威度は計り知れない。

 

「わかり切ったこと。キルがそれを雇い、そして勝てると見込み引き連れてきた。であれば、間違いなく“本物”じゃろう」

 

 ゼノは笑いながらワイングラスを空にした。久しぶりに手ごたえのある相手と戦えそうだと上機嫌になる。

 

「お、おれも……」

 

 脂汗をかいたミルキが絞り出すように声を漏らす。

 

「オレも、戦うから」

 

 その言葉に家族全員が呆気に取られてしまった。

 

「どういう風の吹き回し?」

 

「いいだろ、たまには! 監視カメラの映像にはその傭兵団の連中が何人か映ってたし、人手は多い方がいいだろ。オレが捕まえた敵はオレのものにするから、兄貴も手は出すなよ」

 

 ミルキも念能力者ではあるが、その実力はゾルディック家において最弱。まず正面切って敵と戦うような性格をしていない。どうせ今回も部屋にこもって出て来ないのだろうと思いきや、それが自分から戦いたいと言い出したのだ。

 

「まあまあ、いいじゃありませんか! ミルちゃんがヤル気を出してくれてママも嬉しいわ。殺し屋ですもの、急に人を殺したくなる気分の時もあるわよね」

 

「ばかもん、あってたまるか」

 

 ともあれ、これでマハ爺を除く現役の暗殺者たちが出揃った。まさに総力戦。この場にいる誰もが負けることなど毛頭考えてはいない。ただ、シルバだけは考え方が少し違った。

 

「そういえば、俺も子供の頃はキルと同じように親父と喧嘩したこともあったな」

 

「半殺しにしてやったがな」

 

 親子喧嘩をしない親子がいるだろうか。正常な関係があれば誰だって喧嘩くらいするだろう。ただ、この家が少しばかり特殊であるせいで、その喧嘩のレベルが普通とはかけ離れているだけだ。

 

 数日前、交渉しに来たキルアをシルバは追い返した。最終的にキルアは思い通りにならず拗ねたように出て行ったが、その目は決してアルカのことを諦めてはいなかった。シルバはその目を見た時から今日までの展開をある程度は予想していた。

 

 キルアは自分自身の力だけではアルカを助け出せないと判断し、遂行するに足るだけの戦力を用意してきた。それを未熟とは思わない。どんな犠牲を払おうと、どんな手段を用いようと最終的に目的を果たせば何の問題もないのだ。

 

 だからこそあまり期待外れな結果に終わってほしくないと思っている。何ならいっそ、アルカを奪い出すくらいのことはしてほしいとすら思っていた。

 

 それでこそゾルディック家、次期当主の器にふさわしいというものだ。もしそんなことができたとすれば歴代でも最強の実力と、最高の権勢を誇る当主となるかもしれない。

 

 無論、できればという但し書きがつく。アルカの力が危険であることは変わりない。何らかの利用法を探し出せないものかと手元に置いてはいるが、外に出す気はさらさらなかった。キルアの目論見を全力で阻止するつもりだ。

 

家族内指令(インナーミッション)を発令する」

 

 シルバはただ一言だけ発した。それ以上の命令はない。この場に集う全員が、その意味を余すところなく理解する。

 

 家族内指令とは、いわば内輪もめに課せられたこの家独自のルールである。家族同士で意見が対立した際に発生する真剣勝負だ。

 

 各々が自分の希望を押し通すため、最大限の努力をする。いがみ合うもよし、協力するもよし。ただし、妥協は許されない。話し合いの末に折り合いをつける、と言った中道的解決が可能なレベルの対立にはそもそも適用されない。

 

 結果のためなら、どんな非人道的手段を用いようとも構わない。唯一の制限と言えば『家族を殺してはならない』というルールくらいだ。

 

 言葉を交わさずともここにいる全員の意見は一致していた。細かなところで相違はあるものの、概ね一致している。ゾルディック家の威信を懸けた戦いが始まろうとしていた。

 

 






お久しぶりです!
長らく放置してすみません!



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113話

 

 執事長のゴトーは冷静な表情とは対照に、こめかみに血管を浮き上がらせて現場に急行していた。同じく、執事室にいるほぼ全ての執事が駆り出されていた。

 

 この敷地の守護は執事の使命だ。そこへ土足で踏み込み、狼藉を働く不届き者たちに怒りを向けることは当然ながら、それをいまだに阻止できずにいる自分たちにも苛立ちを募らせていた。

 

 既に向かった先行隊は音信不通となっている。敵に殺されたとみるべきだ。実際には意識を奪われただけで死んではいないのだが、彼らにしてみれば戦場における戦闘不能者など死人と同義である。

 

 接敵は予想よりも速かった。それはつまり、想定を上回るスピードで敵の進攻を許しているということでもある。

 

「すみません! ちょっと通ります!」

 

 一人の少女が、まるで満員電車で人ごみをかき分け降りようとしているサラリーマンのような調子で、殺気立つ執事の群れに突っ込んでくる。

 

「止めろ!」

 

 彼らとて念能力者として日々の鍛錬により鍛えられた戦士である。どれだけ敵が強かろうと数の利を活かせば足止めくらいできる。できなければ執事失格だ。

 

 その包囲網の中を、まるで宙を舞う羽のように少女はかいくぐっていく。指一本たりとも触れる者はいなかった。自分たちが当事者でなければ、その神秘的な舞踏に見入っていたかもしれない。

 

 そして、少女に気を取られた者に襲い掛かるのは銃撃だ。銃声もない、静かなる凶弾が執事たちを沈めていく。四肢に狙いを定め、行動不能に陥れる。命を奪う方がよほど簡単だっただろう。敵はそれだけの射撃技術を有していた。

 

 しかし、数の優位は依然として執事側にあった。撃たれる者ばかりではなく、後方の射手を仕留めに向かう者もいた。

 

 それを食い止めるのはエプロン姿の少女だ。頭には三角巾をかぶっている。銃撃を突破してきた執事たち相手に、多勢をものともせず徒手空拳で迎え撃った。その間も、後方からは援護射撃が続いている。

 

 前衛カトライ、中衛クイン、後衛ルアン。その鉄壁の布陣を前に、なすすべもなく次々と執事たちが倒れ伏していく。ゴトーはまず、この連携を切り崩しにかかった。

 

 彼の執事服の袖には専用のコインホルスターが忍ばせてあった。そこから素早くコインを手に取ったゴトーは銃弾のごとく指で弾き飛ばす。比喩ではなく、文字通り銃弾に匹敵する威力が込められていた。

 

 これが彼の念能力だ。硬貨は古くから暗器として活用されることもあった道具である。単純ながら威力は高く、応用範囲は広い。

 

 飛び道具をオーラで強化する能力は、『強化系』『放出系』『操作系』のどれを主軸に置くかによって性能が変わる。遠距離攻撃手段としては念弾に比べて扱いが難しいが、使いこなすことができれば武器そのものの攻撃力をオーラで引き上げることができるため威力を増幅させやすい。

 

 ゴトーの場合はやや放出系よりだが、他の二系統をバランスよく複合している。それを眼にもとまらぬ速さで連射できるとなれば、相当な手練れと言って間違いない。ゴトーはマシンガンのように両手からコインを射出した。狙いは敵陣の後方である。

 

 カトライの身のこなしから、先に相手をすべきは後ろ側だと見切りをつける。ただ、撃ち出したコインはクインに防がれてしまった。不気味な赤い籠手を振るい、必要最小限の動きで狙撃手を守りぬいている。

 

 だが、足止めすることはできた。カトライは後ろに構わずどんどん前に進んでいく。ひとまず前衛と後衛の分断には成功した。

 

 ルアンの射撃技術は高いが、総合的な戦闘能力自体はそれほどでもない。それを守るため張り付いているクインも、ルアンを狙い撃ちにされれば必然的に足を止めざるを得なかった。

 

 ゴトーは単に直線的な攻撃だけでなく、コインに回転を加えた変化弾も織り交ぜて追い打ちをかけるが、そのことごとくが弾き落とされる。まるでどこに攻撃が来るのかわかっているかのような勘の良さだった。

 

 しかし、ゴトーに焦りはなかった。上空から何かが高速で飛来してくる。それは小型ミサイルだった。コインの連射でクインたちを釘付けにしているところに爆撃機がミサイルを投下した。

 

 爆発の轟音と粉塵に周囲が飲み込まれる。その攻撃をなしたのも執事の一人である。空を駆けて到着したその人物はツボネ。執事たちの教育係を仰せつかった古参の老婆である。その実力だけならゴトーを凌ぐ。

 

 ツボネの能力『大和撫子七変化(ライダーズハイ)』は、自身の肉体を乗り物に変化させる具現化系能力である。これによりヘリに変身して空を飛んできたのだ。さらに、その乗り物に合わせた武装まで具現化でき、ヘリ形態ならばミサイルを発射可能だった。

 

 とはいえ欠点はあり、乗り物に変身はできても自分自身を操縦することはできない。運転手となる念能力者が別に必要であり、乗り物の動力となるオーラも運転手が負担しなければならない。今回は孫娘の執事見習いアマネが操縦していた。

 

 ツボネたちの到着を見届けたゴトーは、この場を彼女らに任せてカトライの追跡に向かった。

 

 カトライは現在も一心不乱に前進している。仲間たちを待つそぶりは見せていない。つまり、後衛とは別に何かしらの目的をもって行動しているものと思われる。

 

 カトライは回避に専念しており、群がる執事たちをすり抜けて先に進んでいた。それもこれ見よがしに怪しげな手荷物を提げてだ。見るからに爆弾と思われる物体を抱えていた。野放しにしてはおけない。

 

 だが、捕獲には相当の困難を要することは予想できた。クインとルアンだけにかまけていられる状況ではない。ゴトーは直接指揮を執るためにカトライを追いかけた。この先のトラップ地帯にうまく誘導して行動を封じる算段である。

 

 後を任せられたツボネとアマネは地上に降り立つ。ミサイルは強力だが、その分オーラの消費も激しいので多用はできない。遮蔽物の多い森の地形では、確実に敵を仕留めるためには変身状態を解除した方が適している。

 

 爆風が晴れ、砂埃の中から姿を現したクインは、エプロンに焼けこげが見られるものの無傷だった。ツボネはミサイルが着弾する直前、クインがルアンをかばうために自ら前に進み出たことを確認していた。

 

 しかし、ダメージ無し。その事実に動じることなく執事たちは次の行動に移っていた。ツボネはクインを、アマネはルアンをそれぞれ受け持つ。

 

 ツボネの高齢にそぐわぬ屈強な肉体はオーラによって強化されることにより、その全身を凶器と化した。彼女は戦闘技能も含めた執事たちの教育係を務めている。タイマン勝負では使用できない発を持つが、それが足かせとなるような鍛え方はしていない。

 

 そのツボネの動きに合わせるようにクインが拳を突き出す。敵の素早い身のこなしを見たツボネは回避は困難と判断してガードする。クインのボクシングに似た軽いフットワークは威力よりも速さを重視していると一目でわかった。

 

 クインは籠手を着けていない方の手でジャブを放つ。そのパンチを防いだツボネはカウンターを仕掛けに出る。だが、そこで予想外の事態が発生した。

 

 ガードしたツボネの腕にビリビリと振動が走ったかと思うと、なぜかその箇所の自分のオーラが膨れ上がった。攻防力の移動をコントロールできず、瞬間的に顕在オーラ量を超える高まりを見せ、そして風船が破裂するように霧散した。

 

 そこでツボネが意識まで散らさず、瞬時に退避を判断できたことは僥倖だった。一瞬でも判断が遅れていれば勝負は終わっていただろう。ガードに使った左腕に外傷はないが、オーラを巡らせることができず、強制的に絶の状態にされていた。

 

 クインの攻撃に込められたオーラはわずかなものだった。攻防力に換算すれば10程度だ。たったそれだけのオーラがツボネの精孔と命脈に影響を及ぼし、流れるオーラをオーバーフローさせていた。

 

 クインよりも強い傭兵がいるせいで影が薄くなりがちだが、彼女もまた暗黒大陸を生き抜き、脱出を成し遂げた到達者だ。最終的にモナドと戦い得るまでに成長したシックスの戦闘技能も、元を辿ればクインから受け継がれたものである。

 

「やれやれ、私も耄碌しちまったね」

 

 ツボネの腕はあと1時間ほどは絶のままとなる。加えて無駄にオーラを使わせられてしまったため、潜在オーラ量もかなり消耗していた。ここから戦況を覆すことは難しいと言わざるを得ない。

 

 唯一、勝機があるとすればクインに殺意がないことだろう。その甘さにつけこむしかない。これについてツボネはキルアの指示だろうとあたりをつけていた。時に非情になりきれないキルアの性格を、ツボネはまだまだ未熟と思いながらも好ましく感じていた。

 

「あ゛あ゛あ゛あ゛! 私のかわいい子供たちがあああ!!」

 

 ツボネが苦戦を強いられる一方で、アマネの方はと言うと善戦しているようだった。ルアンは苦手な接近戦を兵器の力でカバーしながら戦っているが、それも鍛え抜かれた念能力者相手には限界があった。

 

 ルアンの周囲には用途不明の機械類が散乱している。アマネがルアンのバックパックを切り裂いて中身をぶちまけたのだ。それだけでルアンは気が動転している様子だった。

 

「そんなに大事なものなら、わざわざ持って来なければ良かったでしょうに」

 

 美少女にあるまじき汁を顔じゅうから垂らして悔しがっているルアンにアマネが冷たく言い放つ。こちらはこちらで勝負の行方は明らかになりつつあった。

 

「団長、すみません……こうなることは最初からわかってました。私が戦場に立っても足手まといにしかならないって……」

 

 ツボネは頭の中で作戦を組み立てる。正直なところ、ツボネたちが二人がかりでクインと戦っても勝ちは見込めないと判断する。ここは一人でも多く敵を減らすため、ツボネが死ぬ気でクインを止め、その隙にアマネにルアンを仕留めさせることにした。

 

「そうわかってたんです。じゃあ、

 

 なんでここにきたとおもいます?」

 

 ルアンの表情は理解しがたいものだった。さっきまで泣きじゃくっていたかと思えば、何かのタガが外れたように笑い出す。まるで気がふれているかのようだった。

 

「ぼさっとしてんじゃないよアマネ!」

 

 ツボネは言い知れない忌避感に見舞われていた。さっきまではクインの方こそ脅威だと感じていたが、それは違う気がした。真に警戒すべきだったのは、もう一人の狙撃手であると直感が訴える。

 

「もう遅い」

 

 ルアンの足元に落ちていたジャンク品の一つが破裂する。そこからの反応は劇的だった。ダムが決壊したかのように大量の水があふれ出す。たまらず全員が一斉に退避した。

 

 真っ先に念能力を疑ったツボネだったが、それにしては規模が大きすぎる。これだけ大量の水を呼び出す能力ならそれに見合ったオーラが必要なはずだが、凝をしてみてもさほどのオーラは感じ取れなかった。

 

「なんだいこれは……!?」

 

 その液体は、一定の形を成していた。きのこである。ただし、見上げるほど巨大な、水でできたきのこである。それは次々に増殖し、同じ大きさのきのこを周囲に作り出していく。

 

「ほう! 実験は成功ですね。どうです? 世にも珍しい暗黒海域の深海生物は」

 

 それを聞いたクインの顔は青ざめた。つまり、事前に何の相談もなくルアンがやらかした独断である。この作戦に参加したルアンの真の目的はククルーマウンテンを生物兵器の実験場にすることだった。

 

 傭兵団カーマインアームズの団員は非常識な人間も多い。モナドがなりを潜めた現在、団の中でも最も狂気じみた思考を持っているのがルアンだった。自身の研究のためならば危険な実験も躊躇せず、災厄の拡散に対する抵抗感も著しく低い。

 

「 Happy birthday to you! 」

 

 ルアンの声に反応するように遠方で二発目の爆発が起きた。ここと同じように半透明の巨大きのこが森の木々を押しのけて成長している様子が確認できる。それはちょうど、執事室がある地点だった。

 

 カトライに持たせていた爆弾の中身である。これを用意したルアンはただの爆弾とクインたちに説明していたが、実際には生物兵器だったのだ。

 

「暗黒海域ぃ!? でたらめ言うんじゃないよ!」

 

「今回の依頼、かの暗殺一家ゾルディック家が相手とあれば相応の準備が必要かと思い、スペシャルなサプライズを用意させていただきました。信じるか信じないかはあなたの自由ですが」

 

 正真正銘、暗黒海域産の生物である。だが、ルアンも人類滅亡級の災厄をここでぶちまけるつもりはもちろんない。検証を重ねた危険度の低いものを選んでいる。

 

 このきのこはギアミスレイニが暗黒海域航行中に発見した『海藻の森』で採取されていた。深海にも関わらず数十メートルにも成長した海藻が生い茂る地帯である。

 

 このきのこの胞子嚢を乾燥させたものに水をかけると一気に成長する。その成長の度合いは乾燥させた期間に応じて大きくなる。ただ、きのこ自体はなんら特別な脅威はない、ただのきのこである。

 

 体組成の99%が水で構成されており、驚くべきはどこからともなくそのほぼ全ての水を自力で合成してしまう生態である。その原理についてはルアンにも解明できていない。

 

 このきのこの安全な培養に成功すれば世界の水不足問題を解決することができるだろう。そう、これは人類全体の利益のために必要な実験という建前のもと、ルアンは何の罪悪感も抱いていなかった。

 

 やがて急成長したきのこに続いて第二の変化が現れ始める。押し倒されたきのこ周辺の木々が歪な成長を遂げ始めた。きのこに倣うかのように一緒に巨大化していく。

 

「ほうほう! これは新発見だ。なるほど、このきのこには周辺の植物の生長を促進させる効果があるのかもしれません。共生関係というやつでしょうか。現存する菌類にも似たような生態を持つものはありますね。であれば、あの海藻の大繁殖も納得がいきます」

 

 船内で行った実験では取れなかったデータだった。やはり実験室の中だけで行う検証には限界があると、ルアンは喜々としてメモを取り始めた。

 

 やがて、木々は樹齢何千年もあろうかという巨木に成長し、それでも止まらず樹木同士で融合するように膨れ上がる。地中から飛び出した根がのたうち回り、生い茂る葉が空を覆い隠した。

 

 その光景を目にしたルアンは、水不足問題だけでなく食料問題まで解決してしまうかもしれないと興奮していた。クインがちょっと待てやと肩を揺さぶるが、全く気に留めず夢中でメモを取っている。

 

「ほうほうほう! なんだあの変化は!? 今度はきのこの傘の部分が……分離した!? ふわふわと空中を漂っている! まるでクラゲだ! もしや、きのこと思っていたあの構造体はクラゲの成長過程におけるストロビラでは!?」

 

 きのこの形は花びらを何枚も重ねたような形に変わっている。直径20メートルはあろうかという、その巨大な花の一つ一つが本体から分離し、まさにクラゲのように空中を漂っているのだ。

 

 暗闇に閉ざされた異常成長する森の中に無数のクラゲが泳ぎまわる。

 

 

 キシャアアア

 

 

 鳴き声を発し、触手を振り回しながら。

 

「ほうほう! ほうほうほうほうほうほうほうほうぼへあっ!?」

 

 興奮しすぎてウホウホ言い始めたルアンに、もはや会話は不可能と判断したクインがドロップキックを叩き込んで黙らせた。その後、クインとカトライ、執事たちはこのクラゲ魔界と化した樹海を何とかするため奔走することになる。

 

 

 * * *

 

 

 作戦ではまず陽動班が執事を処理、時間稼ぎをした後、うまく敵を誘い出せれば本邸に攻撃の手を伸ばすことになっていた。主力部隊である救出班はそこで加勢に入り、一気に敵を叩く手はずだった。

 

「おいおい、うちの庭に何してくれてんの……」

 

 キルアが魔境と化していく森の一部を見てつぶやく。確かにできるだけ大暴れしてくれとは頼んだが、ここまでやれとは言っていない。

 

 陽動班とは連絡も取れない状態だった。これは実験に茶々を入れさせまいとしたルアンが通信機に仕込んだ細工である。

 

「あんなものは所詮、海の藻屑だ。災厄と呼べるほどの危険はない」

 

「我が傭兵団ではこの程度のことをトラブルとは言わんのじゃ」

 

「ごめんな、キルア。こいつら頭おかしいんだ」

 

 不測の事態も考慮に入れて柔軟に対応できるように班を分けたが、こんなことなら一緒に行動した方がよかったと言えた。ルアンは作戦会議で自分の実力などを踏まえ、役割を分担した方がいいと提言していたが、今思えばそれも実験のための誘導だったのだろう。

 

 しかし、起きてしまったことを悔やんでも仕方ない。本邸の動きを見張っていた救出班は、作戦を変更して出撃の用意に取り掛かっていた。

 

 これだけの騒ぎが起きているにも関わらず、本邸には一切の動きがなかった。ゾルディック家の面々は依然として建物の中から出て来る様子がない。

 

 それはつまり、アルカが本邸内のどこかにいる可能性が高いということを示していた。キルアの目的がアルカにあることが露呈している現状において、その急所に厚い守りを置くことは当然と言える。

 

 これについてはある程度予想できたことでもある。この広い樹海のどこかにぽつんと隔離施設を作っている可能性もありはしたが、管理がしやすく守りやすい本邸に閉じ込めておいた方が都合はいい。

 

 敵に動く気配がなければ、こちらから向かうしかなかった。とはいえ、アルカが本邸にいる以上、そこに乗り込むことは最初から十分に想定していた事態である。キルアたちはこそこそと隠れるのを止め、屋敷の正面玄関へ堂々と近づいていく。

 

 本邸の周辺は監視カメラや光学センサーを始めとする多種多様な侵入者の探知装置がミルキによって仕掛けられている。隠密に長けた能力者であっても、よほど特殊な発でも持たない限り気づかれずに侵入はできない。

 

 この接近も既に家族に知られていることだろう。構わず、キルアはドアを開けた。通常であれば出迎えるはずの執事はいない。代わりに家族が総出で温かく迎え入れてくれた。

 

「おかえり、キル」

 

 この玄関ホールはもともと招かれざる客をあしらうために用意されている。暗殺一家ならではの屋敷の作りと言える。少々派手に戦闘をしても支障がないように広く、頑丈に作られていた。

 

 高祖父と祖母の姿は見当たらないが、彼らは家族間の諍いに関して不干渉を貫いているため、およそ考えうる最悪の戦力が集まっていると言えた。ミルキまでいる。

 

「ただいま。もう言わなくてもわかってると思うけど、アルカを渡してもらうよ」

 

「ならば、こちらの返答も言わずともわかるな?」

 

 キルアとしても家族と戦うことだけは避けたかった。しかし、アルカを救い出すにはもはや他に手がない。事前交渉における失敗が響いていた。

 

 シルバがアルカの危険性を承知した上で、それでも手元に置いている理由はその有用性を知っているからだ。キルアには彼だけが知るアルカの秘密があった。アルカの能力にはまだ家族に知られていないルールが存在する。

 

 そのことを慎重にほのめかせば、シルバならば検証のためにアルカとの接触を認めてくれるかもしれないと考えていた。アルカと会うことさえできれば後は簡単だ。“ナニカ”に命令すればどこにだって逃げられる。

 

 そのキルアの内心から生じる逸り気をシルバに見抜かれてしまったのだ。具体的なことまではわからずとも、何かあると勘繰られてしまった。妹を助けたいと急くあまり、自分では冷静でいるつもりでも他者から見ればそうではなかったのだ。

 

 結果的に暴力的な手段に訴えることになってしまったが、そのこと自体は特に何とも思っていない。悔やむことがあるとすれば、まだ自力で家族全員に立ち向かう力がなかったことだけだ。

 

 そんな小さな見栄にこだわってまで妹の救出を後回しにしようとは思わない。やるからにはどんな手を使ってでも成功させる。全力で、徹底的に、潰す。そのための戦力は用意した。

 

「して、メルエム。あとどれくらいかかりそうじゃ?」

 

「そうだな……5分と言ったところか」

 

「ほっほ。お前さんにしてはなかなか手こずっておるようじゃのう」

 

「黙れ。“真正の”災厄が相手だ。今回ばかりは我とて勝手はいかぬ」

 

 メルエムは確率操作の能力を用いてアルカの場所を暴き出そうとしていた。それが最もアルカを安全に助け出せる方法だからだ。

 

 家族全員を叩き伏せてアルカの居場所を吐かせて救出する、という作戦は絵にかいた餅のようなものだ。殺されたところでシルバが口を割るはずもない。ミルキあたりならあっさりしゃべりそうだが、そもそも場所を教えられていないだろう。

 

 それ以上に警戒すべきは、アルカを人質に取られ脅されることだ。最悪、アルカが解放されるような事態になりそうなら、能力を封じるため殺してしまうことも考えられる。正規の手段以外の方法でアルカの幽閉が解かれれば自動的に抹殺するくらいの仕掛けは講じているだろう。

 

 そこまで行かずとも脅しのために遠隔操作で傷を負わせるくらいのことはされかねない。キルアがそれを一番嫌っていることは家族にもわかっている。だから今回は、ただ勝てばいいという戦いではない。メルエムの能力が作戦の要だった。

 

 アルカの場所まで安全にたどり着く可能性が1%でも存在すれば、メルエムの力で実現できる。そして実際に現地に赴き、調べたメルエムの見立てでは可能とのことだった。

 

 だが、想定外の誤算もあった。メルエムによれば、この地に張り巡らされた“因果の糸”は複雑に絡み合っており、確率操作の能力はいつも以上に使いにくくなっている。それはアルカに寄生しているガス生命体アイの影響だった。

 

 メルエムは自身の能力を上位の災厄に肉薄するまでに高めてはいるが、完全な昇華には至っていない。災厄の格としてはアイの方が上である。その存在に関わる能力の行使において影響を受けていた。

 

 メルエムをしても屋敷の中に入り、この位置までアルカの居場所に近づかなければ存分に力を発揮することができなかった。別動隊に課せられた陽動や時間稼ぎも、この制限や調査に関係していた。

 

「5分、5分か……なんならもう少し手間取ってくれてもよいぞ? その方が楽しめる」

 

 アイクたちはメルエムの準備が整うまでの間、時間を稼ぐことができればそれでいい。むしろ、苦戦しているように見せかけた方が無難と言えた。

 

 そろい踏みのゾルディック家を相手にたった4人で、しかも手加減して戦えとは正気の沙汰とは思えない。依頼主であるキルア自身でさえそう思う。

 

 実際に彼女たちの強さを体感していなければ頼みはしなかっただろう。キルアは最近までグリードアイランドにてビスケから修行の手ほどきを受けていたが、その師であるビスケですら及ばないほどの強者がそろっている。

 

 ついに傭兵団のトップスリーが動き出そうとしていた。

 



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114話

 

「よお、大将。あんたはしばらくお休みだ」

 

 先手を切ったのはチェルだった。この警戒態勢下において、よもや凝を怠る者はいない。当然、ゾルディック家の全員が目を凝らしていたにも関わらず、チェルの攻撃を察知することはできなかった。

 

 シルバの足元に亀裂が入る。チェルの左目による時空歪曲が重力の圧となりシルバに降りかかっていた。怪訝そうにゼノが目を向ける。

 

「ふむ? 何かされておるのか? オーラは何も感じなかったが」

 

「ああ。俺か、この場所に対してか、重力の強化が働いているのかもしれん」

 

 しかし、シルバは仁王立ちの体勢のまま、少し眉を動かしただけの反応だった。その現象を不可思議に感じているが、動揺はしていない。むしろ、その涼し気な反応と分析力にチェルの方が冷や汗を流したくらいだった。

 

 ゾルディック家と一口に言っても個人の戦闘能力には大きな差がある。キルアが最大の脅威と感じている人物が、現当主であり父であるシルバだった。その念能力はキルアも知らない。

 

 と言うより、キルアが他の家族が習得している念について知っていることは少なかった。なにせ、彼が念の存在を知ったのは最近のことである。

 

 だが、念の特性や相性などを一切考慮しなかったとしても、純粋な身体能力だけでシルバは強いとわかる。そしてゾルディック家に伝わる全ての暗殺術を体得している。もしゼノよりも弱ければ家督を譲られてはいないだろう。最大の警戒を払うにふさわしい相手と言えた。

 

 だから真っ先にここを封じる。チェルの能力は見抜かれはしたが、シルバはその場所から動けずにいる。きちんと効果は働いているのだ。シルバの体からは恐ろしいほどのオーラの気配が蒸気のように噴出しているが、それだけの力をもってしても重力の枷に抗いきれないという証拠である。

 

「じゃが、その様子だと一度に複数の対象に向けて発動はできんようじゃの」

 

 ゼノが確かめるようにゆっくりと前に歩き出す。その目はもちろん、チェルに向けられていた。厄介な能力者から先に始末しておくべきだ。しかし、それを遮るようにアイクが前へ躍り出た。

 

「待て待て、おぬしの相手はわし! そういう段取りじゃ!」

 

 自信満々な少女をゼノは胡乱げに眺めた。実はキルアたちがここへ来た段階から、ゼノはアイクのことが個人的に気になってはいたのだ。正確に言えば、彼女が着ている服についてである。背中に張り付かせている大きな虫よりも、気になったのは服の方だった。

 

「“心Tシャツ”か……何のつもりでそんなものを着ているのか知らんが、紛い物を見せられても不快なだけだ」

 

 ゼノにとって人生最大の強敵、かつて幾度となく手合わせをしてきたネテロが、生前に愛用していた服だった。全力を尽くして戦うと決めた時のみ着用したという勝負服である。ゼノは一度として、これを着たネテロと戦ったことはなかった。

 

「何じゃ? これはわしがデザインしたオリジナル漢字Tシャツじゃ。他にも色々と作ったが、これが一番の出来なのじゃ。イカすセンスじゃろ?」

 

 アイクはTシャツを見せびらかすように、下着もまだ不要なほど平たい胸を張ってドヤ顔を決める。胸を張っているせいで残念なふくらみが浮き出て余計にあわれなことになっている。

 

 ネテロが使っていた心Tシャツは特別な素材で作られたというわけでもない、ただの服だ。レプリカを作ろうと思えばいくらでも作れる。かつての強敵も今は亡き故人となった。その遺品に込められた思いもまた、死体と同じく風化していくものなのだろう。

 

 くだらない感傷だったとゼノは気持ちを切り替えた。さっさと敵を減らすため、目の前の少女に襲い掛かる。この屋敷に踏み込んできた時点でデッドラインは越えていた。女子供だろうと殺しの対象だ。キルア以外は全員殺すことになる。それが確定事項だった。

 

「それでよい。そうこなくてはな」

 

 隙だらけでドヤ顔をさらしていたアイクは、ゼノの攻撃に一瞬で迎撃を合わせた。ゼノは目を見開く。まさか止められるとは思いもしなかった。

 

 強く優れた使い手であるほどに、その実力を隠すこともまた上手い。ゼノは敵を見誤っていたと悟る。どうやらただの紛い物というわけではないらしい。そこから両者の応酬が繰り広げられ始めた。

 

 キルアは緊張しつつも、ここまでは予定通りの展開に持ち込めたことに安堵していた。キルアの実力ではまだ敵わないと思われる敵はシルバとゼノ、そして兄のイルミである。この三人は傭兵たちに受け持ってもらう必要があった。

 

 そのイルミが目をつけているのはキルア、ではなく最後方にいるメルエムだった。キルアのことは後でどうとでもできる。それよりも先に周囲のゴミを片付けようとしていた。

 

 キルアの性格を考えれば、ここまで連れてくるほど深い関係を持った者たちに相応の情を移しているはずであるとイルミは考えていた。その協力者たちを惨殺し、キルアに見せつける。その方がキルアにより大きな精神的ダメージを与え、反抗心を叩き折ることができるだろう。

 

 メルエムは微動だにせず後方で待機していた。敵地であるにも関わらず戦意は全くない。オーラの流れから見ても無防備そのものである。それどころか、目を閉じて周囲を見てもいなかった。

 

 針の一撃で容易く仕留めることができるだろう。それだけに怪しくもある。一体何をしに来たのだという話だ。こうもあからさまに隙をさらしているとカウンタータイプの念能力者ではないかという疑いもあった。滅多にないことだが、絶対にないとは言い切れない。

 

 だが、イルミはそれを承知の上で躊躇なく針を放った。注視していたとて、いつ投げたのか見失うほどの速度だ。しかしその攻撃は、間に割って入ったチェルによって止められる。

 

「危ねぇ!? こいつにだけは手を出すんじゃねぇって!」

 

 間に合ったとはいえ、ギリギリだった。チェルが焦ったような声をあげる。それはメルエムに対してではなく、イルミを心配しての忠告である。

 

 カーマインアームズは『みんな仲良く』という、なるべく不殺を重んじる団則を掲げているが、それを一番守らない団員がメルエムである。彼女は普通に殺した敵を食う。一応、それでも彼女なりに守っているつもりらしいが。

 

 メルエムは人間の道徳観を理解しているが、それは理解しているというだけで、彼女の精神構造がまず人間とは異なっている。他の団員は前世で人間だった者ばかりだが、メルエムの生まれは特殊だ。生物としての感受性が同じではない。

 

 これが『全部メルエムに任せとけばよくね?』では済ませられない最大の理由でもある。

 

 ゆえに、今回の作戦ではクインから敵を殺すなと強く言い含められていた。どんな非道な敵であろうとキルアの家族である。殺していいわけはない。クインが心配のあまり口を酸っぱくしてメルエムに付きまとったくらいだ。

 

 それでもいざとなれば何をしでかすのかわからないのがメルエムである。特に強い念能力者が相手だと食欲を抑えきれなくなるきらいがある。それに比べればルアンの暴走など可愛いものだ。作戦の要であると同時に爆弾でもあった。

 

 だが幸か不幸か、メルエムは確率操作に難航しており、戦闘に意識を割く余裕がない状態になっている。5分でできると言ったが、それは全神経を集中させて彼女の精神内部に存在する軍儀盤のごとき演算装置をフル稼働させようやく成し得る数字である。

 

 それだけナニカの影響力が大きいのだ。ナニカは別にメルエムを邪魔しているわけではないのだが、ただそこに存在するだけで因果律を乱している。人間の感覚でそれを感じ取ることはできないが、メルエムの能力はその起源がアイに由来することもあり、特に影響を受けてしまっていた。

 

 さらにアイクに茶化されたこともあってメルエムはむきになっていた。現実における感覚は完全に切り離され、意識は精神内部に没頭した状態である。通常であればあり得ないことだが、今ならばイルミの攻撃も通る。

 

 通ったからと言ってそれで倒されはしないのだが、後で怒ることは間違いなかった。確実にイルミを食おうとするだろう。他の傭兵団員が束になっても怒ったメルエムを止められはしない。

 

 そんな事情を露とも知らないイルミは、メルエム目掛けて次々と針を放つ。チェルが必死にメルエムを守ろうとするものだから、余計にそこが敵の弱点であると勘違いしていた。ある意味、弱点ではある。

 

「バカっ、マジでやめろ!」

 

 イルミは、チェルの反応から見て敵がカウンタータイプではないように感じた。もしそうならかばう必要はない。であれば、単純に能力を高めるための制約か誓約だろうとあたりをつける。これだけ大きな隙をさらしたままにしているということは、相応に強力な発の行使に及んでいるのかもしれないと。

 

 チェルはコンバットナイフで高速飛来する針を捌いていくが、その様子は危なげだ。イルミの攻撃は速度と精度、威力、連射力、いずれの要素も群を抜いている。チェルはシルバの方にも気を配らなくてはならないため、全く余裕がない状況だった。

 

 しかし、それを見ているキルアにも助太刀に入る余裕はない。シルバとイルミの相手はチェル、ゼノはアイク、メルエムは置物、となれば残りの敵を受け持たなくてはならないのがキルアとなる。

 

 キキョウ、ミルキ、カルトの三人がキルア目掛けて殺気を放つ。

 

「鋭いオーラを練るようになったのね、キル。とても嬉しいわ。ぜひ、ママにもそれを感じさせてちょうだい」

 

「ハーレムゆるすまじ! 爆発しろ!」

 

「兄さん、ボクというものがありながら……」

 

 オレだけ相手が多くね? と、納得がいかないキルアだった。当初の計画では陽動班も戦闘に参加する予定だったし、メルエムも一応は戦力に数えられていた。キルアは自分の出る幕はないかもしれないと思っていたくらいだ。

 

 とはいえ、ここまでお膳立てをされたのだから文句を言うつもりはなかった。戦闘を他人に任せきりというのも気が引けると思っていたところだ。

 

 キキョウとミルキについては、念を覚えていなかった頃のキルアでもあっさり刺して逃げおおせたくらいの強さである。協力されたとて高が知れているだろう。

 

「速攻で片づけさせてもらうぜ」

 

 キルアの全身から小さな放電現象が発生する。それを見て、まずカルトが動いた。

 

「兄さんはボクが止めます! 『蛇咬の舞』!」

 

 カルトは扇子を振るう。その一動作から生じたとは信じられない強風が吹き、その風に乗って大量の紙片が舞い上がった。

 

 その紙の全てにオーラが込められている。一つ一つに込められたオーラは微弱。武器と呼ぶにはあまりにも頼りない存在だ。しかし、それらの紙片は一糸乱れず統制され、一つの生き物のように形を描く。

 

 紙片は鱗となり、鱗は一匹の大蛇となった。紙切れと言っても、同時にそして無数に操るためには途方もない精度の操作系技能を要する。

 

 末っ子であるカルトはキルアより年下ながら、既に念を教え込まれていた。キルアの場合は特別に才能を見込まれ、基礎を固めるため念について教えられていなかったという理由はあるが、単純に念の修行に費やした時間だけを比べるならカルトに軍配が上がる。

 

 カルトはキルアを傷つけたくはなかったが、少しだけ痛い目を見てもらわなければならないと心を鬼にした。それが兄のためである。無謀にもゾルディック家に逆らったところで良いことは一つもない。

 

 それもこれも、キルアが家の外に飛び出してしまったことが原因だ。キルアはずっとこの家にいるべきだった。家族以外の存在と触れ合う機会など、暗殺対象を始末するときだけで十分ではないか。

 

 カルトの攻撃には、そんな兄に対する不満も込められていた。キルアはなすすべなく紙の大蛇に飲み込まれてしまった。

 

「『神速(カンムル)』」

 

 そしてカルトは見た。確かに捕捉したはずのキルアが、なぜか自分のすぐ隣に立っている。瞬間移動したとしか思えない現象である。だが、それはただカルトの反応速度が追い付いていないだけだ。キルアは単に走って来ただけに過ぎない。

 

「『雷掌(イズツシ)』」

 

 対処は間に合わない。カルトの胸に叩き込まれた掌底から電気が生じた。心臓を鷲掴みにするように雷撃が襲う。

 

「あああああっ!?」

 

 カルトの全身に壮絶な痺れが駆け巡った。意識が白く染め上げられていく。

 

 

「あああっ、あっ、あああ

 

 

 ああっ、ああああああああ

 

 

 あっ♥ あっ♥ あああああん♥ ああああ♥ ああああああ♥」

 

 

 キルアは途中で攻撃を切り上げた。カルトの反応が思ったより激しかったからだ。ゾルディック家の人間は日常的に拷問耐久訓練が課せられ、そのメニューには電気椅子なども含まれる。カルトもこの程度の電撃でどうにかなるほど、やわな鍛え方はされていないはずだった。

 

「これでわかっただろ。お前じゃオレには勝てない」

 

 言外に、退けと命じていた。倒れ伏したカルトは圧倒的な力を見せつけた兄を、とろけた目で見上げた。女物の着物を着せられたカルトは一見して美少女のように見える。はだけた着物や紅潮した表情など、その幼さに釣り合わない妙な艶っぽさを醸し出していた。

 

「カルトちゃん、どうしたの!?」

 

「はあ、はあ……にいさんのオーラが……ボクのなかに……」

 

 キルアとしても、なぜここまでカルトがダメージを受けているのかわからず困惑していた。加減を間違ってしまったのかと心配になったくらいだ。

 

「兄さん、ボクは……ボクは……っ! ごめんなさい、ちょっとお花を摘みに行ってきますっ!」

 

「カルトちゃん!?」

 

 そう言うとカルトは不自然に前かがみな姿勢で部屋を出て行ってしまった。ミルキはその後ろ姿に、戦慄と軽蔑の目を向けていた。

 

 キルアは何が起きたのかよくわからなかったが、説得に成功してカルトが身を引いてくれたのだろうと解釈する。戦わずに済むのならそれに越したことはない。

 

 とにもかくにも、カルト脱落。これで後はキキョウとミルキを倒せばいいだけだ。キルアにとっては以前もやったことである。まずはミルキに殴りかかった。

 

「待て待て!? オレに攻撃しても無駄――」

 

 瞬速の一撃がミルキのだらしないどてっ腹に突き刺さる。悶絶は避けられないレバーブローだ。しかし、キルアの拳が捉えた柔らかな脂肪を打つ感覚は、すぐに硬質な金属を殴りつける感触へと変化する。

 

『だから言っただろ。無駄だって』

 

 ミルキの姿が霞む。映像が乱れるようにしてそこに現れたのは武骨なロボットだった。だが、細部を観察する間もなく、先ほどまでのミルキの姿に戻ってしまう。

 

「本人じゃねぇのかよ。臆病なブタくんがやりそうなことだ」

 

 それは『即席愛玩人形(パペットコーティング)』という操作系能力だった。一言で表せば、念人形の劣化版である。念人形を作ろうとして、それができないまでも似たものを作ろうと努力した末路だった。

 

 物体操作の中でも『人形遣い』と称されるタイプの能力で、その名の通り実物の人形を操る。実は生物操作より地味に難易度が高い。脳に命令を与えれば一律に対象の体を操作できる生物操作とは異なり、人形の各部を操り主がマニュアル操作していかなければならないからだ。

 

 よって、技術を要する割に使い物にならない場合が多い。これを戦闘可能な『オートマタ』の領域にまで極めることができる使い手はごくわずかである。残念ながら、人形遣いとしてのミルキの腕はごく平凡だ。日常生活レベルの動作なら遜色なく動かせる程度である。

 

 彼の能力の特徴は、人形に“ガワ”を着せられる点にあった。表面だけを具現化したオーラでコーティングすることにより、見た目を自由自在に変化させることができるのだ。

 

 使い方次第では活かす手もある能力だが、ミルキ自身の基礎能力の低さも相まって、総評としては二流である。その戦闘力を補うために最新鋭の対人兵器を搭載してきたのだが、それでもキルア相手には分が悪い。

 

 先ほどのカルトとの一幕を見て、早々にミルキは戦うことを諦めていた。キルアの才能を知ってはいたが、たかが念をかじって1年程度でここまで強くなっているとは思わなかった。

 

「まあ、それでもお前に勝ち目はない。頭を下げるなら今のうちだぜ、キル」

 

「言ってろ。とりあえずぶっ壊すわ」

 

 構わず殴りかかろうとするキルアに対し、ミルキは露骨に焦った反応を見せた。確かに人形なので攻撃されても本人にダメージはないのだが、苦労して作った戦闘用人形である。できれば壊されたくはない。

 

「キルちゃん、兄弟仲睦まじいのもいいですけど、そろそろママとも語り(ころし)合いましょう?」

 

 ぞくりと悪寒が走ったキルアは、すぐさまその場を飛び退いた。一拍後れて仕込み扇子が床に突き刺さる。キキョウが繰り出した攻撃だった。

 

 豪華なドレスに大きな帽子をかぶり西洋貴族のようなその姿はひと際目立つ。目元を完全に覆うスコープには単眼を表すような光が灯り、その顔は包帯でぐるぐる巻きにされている。

 

 回避したキルアにキキョウは追随した。その足捌きにキルアは驚く。『神速』を発動した彼は全身の神経を走る電気信号を操り、脳が命令を下すよりも速く身体動作を実行することができる。キキョウは、その速度に追いついてきたのだ。

 

「くっそ……! おふくろ、こんなに強かったのかよ……! この前はあっさり刺されたくせに!」

 

「あれはキルの成長に感激して手が止まってしまっただけですわ。今日はせっかくキルがこうして技をお披露目してくれるんですもの、手加減しては失礼よね」

 

 果たして、凡百の強さしか持たない女がこの家の当主の妻として迎え入れられるものだろうか。キキョウはそれに見合うだけの強さを持ち合わせていた。

 

 キルアは高速の連撃を打ち込んでいく。キキョウはそれを見事にあしらっていた。打ちつけるキルアの拳に走る感覚は、鉄の塊を殴りつけているかのようだった。ちょうど先ほどミルキを殴ったのと同じような感覚である。いくらオーラで防御を固めていると言っても人間の肌とは思えない。

 

 さらに殴ると同時に電撃を加えているのだが、全く効いている様子がなかった。それは電気に対する耐性うんぬんと言うより、そもそも電気が通らないのだ。ますます人間の体とは思えない。

 

「おふくろの能力って何?」

 

「ストレートに聞いてくるのね! じゃあ、ヒントをあげましょう。念能力者の得意系統は遺伝しやすいと言われています」

 

 親が強化系なら子も強化系になりやすいということだ。イルミ、ミルキ、カルトは操作系、キルアは変化系能力者である。

 

「えーっと、つまり……おふくろは変化系か操作系ってこと? たぶん操作系だろ」

 

「正解よ」

 

 キキョウの体が変形していく。ドレススカートの中から計8本もの多脚走行機が現れた。その姿は、下半身は蜘蛛、上半身は人間という怪物アラクネを連想させた。

 

「はあっ、なんだそれ!? ミルキと同じような能力か!?」

 

「似てるけど、違うわね。不正解。お仕置きよ」

 

 キキョウの左腕が変形し、内部から機関銃が現れる。ばら撒かれる弾はオーラで防御すれば無傷で堪えられる程度の威力だが、弾幕に巻き込まれたキルアは足止めを食らう。

 

 その隙にキルアへ接近したキキョウは右の拳を突き入れた。速い、そして重い。ガードしたキルアの腕が軋む。簡単に骨くらいは折れる威力だ。まともに食らえば一撃で戦闘不能にされかねない。

 

「これは『鉄の操(アイアンメイデン)』。機械の体を操る能力よ」

 

 類型的に言えば、この能力は操作系の『物体操作』に該当する。基本的な原理はミルキと同じだ。しかしキキョウの場合は少し特殊だった。

 

 厳密に分類すると『自己操作』と呼ばれるタイプの能力になる。自分自身の身体を操る能力だ。それ自体は珍しくもない。問題は彼女が自分の肉体を改造し、埋め込んだ機器の数々を『自己』と認識した上で操っていることにある。

 

 例えば、腕を失った念能力者が義手を取り付けて修行を積んだとする。鍛えればその義手を武器として活かすことができるようになるかもしれないが、当然ながら義手はどこまでいっても義手だ。本物の腕にはなり得ない。

 

 だが、キキョウの場合はそれを本物にしてしまう。“本物と思い込むことができる能力”と言い換えられる。

 

 剣の達人は“剣を自分の手足のように操る”が、彼女は“剣が手足”となるのだ。似ているようで全く異なる。他の誰かがキキョウの真似をしたところで、それは全身に機械を埋め込んだだけの人間である。

 

「昔のママは今よりもずっと弱かったわ。生身の部分が多くて……でも、敵に殺されかけて大怪我を負うたびにその負傷を機械の体に取り換えた」

 

 フィクションの中でしか登場することのないサイボーグを念によって実現する能力と言えるだろう。ただの物質を自己の一部とし、機械の体に疑似的な精孔を作り出している。

 

 能力の性質だけを見るなら操作系であるが、その異常な自己認識力は特質系の域に片脚を突っ込んでいた。

 

「中でも一番死にかけた傷はね……パパに内臓を握りつぶされた時よ。5割くらいは持っていかれたわ。その一撃で恋に落ちたの」

 

 キルアは親の馴れ初め話に吐き気を催した。もちろん、その間も戦闘は続いている。キキョウのスコープから発射されたレーザーがキルアの肌を焼いた。

 

「ビームて、おま……漫画かよ……!」

 

 火傷にもならない威力しかなかったが、光の速さの攻撃はさすがのキルアでもかわせない。威力はないので無視できればいいのだが、一つだけ問題がある。目に食らうことはまずい。オーラで防御しても網膜を焼くくらいのことはできそうだった。

 

 そのため視線のやり場に窮することとなった。これが有象無象の敵なら多少視界を制限されたところで何の障害にもならないが、相手は格上の使い手である。視線の行先一つで行動に隙が生まれてしまう。

 

「見たか、キル! これがゾルディック家の力だ!」

 

「なんでお前が偉そうにしてんだよ! てめぇは何にもしてないだろ!」

 

「ちっちっち、ママをここまで作り変えてやったのはこのオレだ。つまり、ママの戦果はオレの手柄。お前の敗北はオレの勝利ということだ」

 

「ママが頼んで改造してもらったのよ。ミルちゃんはよくやってくれたわ」

 

「こいつらマジでいかれてやがる……! だからこの家が嫌いなんだよ!」

 

 ミルキはハッキングによって得た新型軍事兵器の情報を、キキョウの伝手で流星街にある研究施設にリークして様々な武器を都合してもらっている。キルアの特殊合金ヨーヨーもここで作られたものだ。

 

 キキョウの現在の装備は最新鋭の科学兵器によってカスタマイズされ、日々バージョンアップを遂げている。お古の装備を搭載した汎用量産型キキョウロボが倉庫を圧迫しているくらいだ。これはミルキがたまに仕事をするとき使われる。

 

 そのため洒落にならない戦略級兵器も組み込まれているのだが、さすがにキキョウはそれをキルアに対して使うつもりはなかった。インナーミッションで家族を殺す気はない。

 

 ただ、この『家族は殺さない』という一見単純に見えるルールはなかなか匙加減が難しいところがあった。なにせ家族同士、殺すつもりでかからなければ到底止められない相手だ。戦闘は徐々にヒートアップしていく。

 

 キルアは苦戦を強いられていた。こざかしい兵器も厄介だが、最大の脅威はキキョウの身体強化にあった。

 

 物体の表面にオーラを流して強化する応用技を『周』と呼ぶが、キキョウの場合は改造された肉体までも自己と認識することにより『周』以上の効率でオーラを内部にまで浸透させ全身を強化している。まさに鋼でできた肉体そのものである。

 

 防御力のみならず、攻撃力、速度ともに尋常ではない。しかも電撃が全く通用しない。機械なら電気に弱そうなものだが、逆に機械だからこそわかりやすい弱点は対策済みということだろう。

 

 長期戦は不利だった。キルアの神速は事前に外部から体内に蓄えていた電気を使い切ると能力も使えなくなるという制約がある。神速無しで戦える相手ではない。

 

 まだキキョウは手を抜いている。油断している今が最大の好機だ。時間をかけるほどに勝算は低くなる。確かにキキョウは強敵だが、倒す手立てはあった。

 

 キルアが最初に家出を決行したとき、彼はキキョウの顔をナイフで刺して逃げ出した。あの時は間違いなく人肌を刺し貫く手ごたえがあった。つまり、改造されていない生身の部分であれば攻撃は通る。

 

 問題は、それがどこかという点だ。生身の部分に当てなければキルアの攻撃力ではダメージにならない。見た目だけでは判断できず、もしかすると全身改造済みという可能性もあった。

 

 賭けに出るしかないだろう。キルアは大きく踏み込んだ。下半身の多脚走行機を起動していることにより、キキョウの身長は見上げるほど高くなっている。化け物の懐に自ら飛び込むような無謀な突撃だ。

 

 そのミスをたしなめるように強烈なカウンターが来る。それは8本もある走行機の内、前足2本を使った蹴りだった。蹴りと言うよりも、まるでシャコの捕脚から繰り出されるパンチである。

 

 シャコの捕脚は拳銃並みの加速力を持ち、周囲の水を瞬間的に沸騰させると言われる。それを人間大の大きさで実現すればどうなるか。不用意に飛び込んでしまったキルアに見てかわすことなどできるはずもない。強烈な一撃が叩き込まれる。

 

「――!?」

 

 だが、驚きをあらわにしたのはキキョウの方だった。捉えたと思ったはずが、何の手ごたえもない。2本の捕脚はキルアの残像を貫いただけに終わる。

 

 それは神速に備わるもう一つの型だった。今まで使っていた型は電気信号を任意に操り限界を超えた反応速度を得る『電光石火』、そしてもう一つが敵の攻撃に反応してプログラムされた回避行動を自動的に起動する『疾風迅雷』である。

 

 電光石火よりも使いどころは限定的になるが、回避行動に関してのみさらなる加速を得られる。キルア自身、発動中は身を任せることしかできないほどの速度である。

 

 この技を使えばキキョウの攻撃を回避することは可能だった。しかし、敵を警戒させないためにギリギリまで出し渋っていたのだ。回避が成功した今、キルアはカウンター返しのチャンスを得る。

 

 アッパー気味に繰り出された拳はキキョウの顔面に直撃していた。その勢いを過剰な電光石火によりさらに高める。神経が焼き切れるような痛みが走るが、構わず拳を振り抜いた。

 

 もしキキョウの顔が鋼鉄の装甲でできていたならば、逆にキルアの手の骨は粉々になっていただろう。そうはならなかった。殴り飛ばされたキキョウの体勢が崩れる。多脚走行機はガチャガチャと忙しなく動き、やがて停止した。

 

「アアアァ、がぴ、かんげきしたわ。きるちゃ、こんなにガガガガガ、ままのことあいしてくれ、うれうれエエエエエエエエエエ ピポッ」

 

 キキョウのスコープから明りが消え、完全に沈黙した。

 

 キルアは家出するまでずっと家族たちのもとで育てられてきたが、その中で一度も母親が負傷したような姿を見たことがなかった。本人の弁によれば怪我はしていたが、改造して傷ごと修理していたのだろう。

 

 それならば顔に包帯を巻くなんて治療行為は必要あったのかと疑問に思ったのだ。もちろん、顔の傷も含めて改造済みで包帯は無意味に巻いていただけという可能性もあった。その場合はさらに戦闘が長引いていただろう。

 

 キキョウは顔面を改造できずにいた。その傷を残していたかったのだ。大切な息子が刻み付けてくれた成長の証である。どうして簡単に消し去ることができようか。歪んだ愛情しか持たないが、彼女は確かに母親だった。

 

「悪ぃ、おふくろ。ミルキに新しいアゴ作ってもらえよ」

 

 ともあれ勝利したキルアは、ムカついたのでミルキ人形を木っ端みじんになるまで撲殺した。これにより残る敵は、シルバ、ゼノ、イルミの三人となった。

 

 



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115話

 

 さてキルアが連れてきた助っ人の実力はどの程度かと、ゼノは小手調べをするつもりだった。その雲行きは怪しくなりつつある。

 

(試されておるのはわしの方か……?)

 

 対峙する少女の実力は底が知れない。傍から見れば戦いは伯仲しているように見える。まずそれがあり得ない。

 

 加齢により全盛期と比べればオーラの潜在量や顕在量は落ちたゼノだが、技のキレは衰えていない。暗殺術だけならシルバをも凌ぐ老練な技の数々を身につけている。どれほどの才能があろうと一朝一夕に身につく技術ではなかった。

 

 では、そのゼノと対等に渡り合っているこの少女は何者か。確かにまだ全力を出したわけではないゼノだったが、侮りは完全に消失していた。

 

 ゼノが腕を伸ばす。『蛇活』と呼ばれるその暗殺技は、腕の関節を一時的に外すことで、人体の構造上あり得ない攻撃を可能とする。蛇のごとくしなる腕は敵の四肢を巻き取り、末端から絞め殺していく。

 

 実戦において互いの攻撃射程を推し量る感覚は、1ミリの認識誤差さえ命取りになりかねない精密性を要求される。関節を外して伸びた腕の射程はわずかなものだが、それが敵の計算を大きく狂わせる奇手となる。

 

 実際にその技を受ける者からすれば、まるで吸い込まれるかのように体を絡めとられる。しかしアイクへと迫る二匹の蛇は、標的を捕えるに至らなかった。

 

 横合いから叩き込まれた蹴りがゼノの腕を払う。一瞬にしてほぼ垂直の高さまで振り上げられた上段回し蹴りである。だが、不可解にもその脚を元の位置に戻すことなく振り上げた体勢で止まっている。

 

 大股開きの片足立ち状態から動かない。明らかに隙だらけのはずだが、ゼノは安易に近づけずにいた。

 

「それはまさか、心源流・弧月足掴の構え……!」

 

 その極意は、片脚を失おうとも戦闘を続行させることを想定し生み出された構えである。

 

 腕を負傷することはよくある。二本のうち一本の腕が使えなくなったとしても即座に戦闘不能となることはない。だが、脚の場合は同じようにはいかない。全ての行動の基礎となる土台の欠如を意味している。

 

 だからこそ、心源流師範ネテロは片足立ちの姿勢からでも戦える構えを作ったという。当然ながら念能力者だろうと常人に使いこなせる構えではない。一般の門下生は名さえ知らないだろう。

 

 だが、アイクの佇まいは只者ではなかった。そのオーラは無風の湖面を思わせるかのごとく静かに澄み渡っている。ゼノは何となく予想はしながらも、まさかあり得ないと思っていたアイクの正体に確信を抱きつつあった。

 

「居たというのか、心源流の神髄……『心』の継承者が」

 

 数合のやり取りのうちにわかったことではあった。アイクの戦い方は、かつてゼノがネテロとの戦いにおいて目にしたものだった。

 

 無論、差異はある。体格からしてネテロとは全く異なる少女である。同じ技を身につけていようと使い手が違えば別物だ。それでもゼノは少女の背後にネテロの影を感じ取っていた。

 

 心源流の門徒多しといえども、ネテロが直接育てた弟子の話をゼノは聞いたことがなかった。皆伝を授けるに足るだけの才ある弟子は見つからなかったのだろうと思っていた。それほどまでにネテロは一線を画した武人だった。

 

 この少女はネテロの直弟子か、それに類する存在だろうとゼノは予想する。まだこんな置き土産を残していたのかとほくそ笑んだ。

 

「あのジジイめ、全くもって死んだ気がせん。では、こちらもそろそろ本腰を入れようか!」

 

 これまでは相手に先に手札を切らせようと能力の使用を控えていたゼノだったが、つまらない拘りは捨てることにした。練り上げたオーラを解き放つ。

 

 ゼノの変化系能力『龍頭戯画(ドラゴンヘッド)』は自身のオーラを龍の形状に変えて操ることができる。

 

 念獣のように複雑な命令を実行できるわけではなく、あくまでもオーラの形を変えているだけだ。純粋な力の塊に近い存在と言える。念獣のような運用も不可能とまでは言わないが、変化系は放出系や操作系と相性が悪すぎる。

 

 しかし、余計な機能が備わっていないからこそパワーがあった。ゼノが放つそれはまさに彼自身の拳の一撃に匹敵する。

 

 『蛇活』による数ミリ程度の射程の延長であっても、達人が使いこなせば戦いを制するほどの利となる。それが龍の顎を作り出し、敵に襲い掛かる一撃であれば圧倒的だ。手も足も出せない。

 

 『龍頭戯画』を用いたゼノの突き『牙突(ドラゴンランス)』がアイクに向かって飛び出した。

 

「むっ」

 

 ゼノの能力を知っていればまだしも、初見でこの突きを見切ることは不可能だ。事実、アイクも初めて目にする。彼女の前世の記憶には大きな欠落があり、ゼノのことも覚えてはいなかった。

 

 しかし、ネテロが生涯をかけて研鑽を重ねた技の数々は彼女の体に余すところなく染みついていた。記憶になくとも、体は動く。

 

 ほぼ無意識の行動である。ゼノの牙突を自然にかわし切っていた。ゼノは眉をしかめるが、なぜか回避に成功したはずのアイクも憮然とした表情だった。

 

「わしの『I字バランスの構え』を崩すとは。やはり流行に乗るだけではダメじゃったか……」

 

 アイクは姿勢を崩して両足で地面に立ってしまった。しかも、戦闘が始まってからこれまで一歩もその場から動いていなかったのに、大きく後退させられてしまった。

 

「たわけ! それはあのジジイが遊びで作ったエセ奥義じゃ」

 

 弧月足掴の構えだの大層な名前を付けているが、ネテロ本人は『心源流の奥義とか言って、チチのでけー門下生にこの構えを教え込んでやるのじゃ! うひょひょ!』と供述していたことをゼノは知っている。

 と言うか、それをこんな年端もいかない少女に教えたネテロの性癖に疑惑の目を向けたゼノだったが、ひとまず置いておく。

 

 問題は、そのふざけた体勢から『牙突』を完璧に回避されてしまったことにある。気を引き締めるどころの騒ぎではない。全力をもってかからなければならない敵と認識する。

 

 対するアイクも、ゼノの能力を見て感心していた。敵の実力を見誤っていたのはゼノだけではなかった。初撃はたまたまかわせたものの、『龍頭戯画』の効果は単純ながら絶大だ。アイクの技量をもってしても、いつまでも当たらずやり過ごせるほど甘くはない。

 

 ゆえに双方は笑みを深める。互いの実力をぶつけ合う好敵手を求めることは武人のさがと言えるだろう。戦いは白熱の一途をたどっていた。

 

 アイクは私情を挟みながらも順調に当初の作戦通り行動している。だが、その一方でチェルはと言うと、誰か早く加勢に来てほしいと思うくらいに追いつめられていた。

 

「ちょっと待て! 話を聞け! いったん針を投げるのを止めろ!」

 

 イルミは構うことなくメルエム目掛けて攻撃を続けていた。チェルは自分の周囲に『明かされざる豊穣』を用いた円を展開してオーラの支配領域を作っていたが、イルミの針は大して威力を落とすこともなくその中を突き進んで来る。

 

 これは針が実物の武器であることが大きな要因だった。念弾などの100%オーラに依存した攻撃であれば滅法強いチェルの能力も、現物に対しては効果が薄い。凄まじい速さで飛んでくる何本もの針を完封するような余裕はなかった。

 

 それでも多少は威力を減らすことができたのか、何とか針の迎撃に間に合っている。円のオーラを通していなければ針を受け止めた衝撃の反動を抑え込めず、数手後には攻撃をまともに食らっていただろう。

 

「しぶといなあ。あの円、何か仕掛けがありそうだし……確かめよう」

 

 イルミが指を鳴らすと扉の外から複数の人影がなだれ込んでくる。執事たちだ。しかし、その顔面にはいくつもの針が突き刺さり、全員が理性の感じられない虚ろな目をしていた。

 

 イルミの針には人体操作の触媒としての機能も備わっていた。これに刺された者は意思を喪失し、イルミに強制操作されてしまう。

 

 一斉に襲い掛かってくる執事たちを見てチェルは舌打ちしつつも躊躇なく攻撃に転じた。近づかれる前に数を減らさなければ、さすがに手に余る。銃では制圧しきれないと判断し、オーラを込めたナイフを数本放った。

 

 強化系能力者であるチェルにとって、投擲武器にオーラを纏わせるような攻撃はあまり得意ではないのだが、『元気おとどけ』の効果が及ぶ円の範囲内であれば高い攻撃力を付与させることができた。

 

 ナイフは執事たちの急所にさっくりと突き刺さり、即座に行動不能に陥れる。その多くは命を落としていた。そうでもしなければ針人間を止めることはできない。致命傷を負おうと死なない限り動き続ける肉人形である。

 

 この針人間について、チェルたちはキルアから事前に聞かされていた。イルミは手駒として執事を操り使ってくるだろうと。わざわざ用意せずとも身近にあり、屈強な肉体を持つうってつけの素材である。

 

 執事たちはゾルディック家の人間の決定に逆らうことはできない。イルミに命じられれば己の全てを差し出すしかないのだ。しかも、針を刺された人間は脳内に注入されたオーラによって例外なく廃人と化す。針を抜いたところで元には戻らない。

 

 キルアは、もしイルミが針人間を使ってきたら躊躇わずに殺してやってくれと頼んでいた。下手に生かされたところで彼らに未来はない。そのため普段はなるべく不殺を心がけるチェルも情けはかけなかった。

 

 しかし、得物であるナイフを投げてしまえば当然そこに隙ができる。それを見逃すイルミではない。今度こそ防御不能の攻撃がチェルに向かってくる。

 

「イッ!? いってぇ……」

 

 だからチェルは自分の体を盾にしてメルエムを守るよりほかになかった。何本もの針が防弾チョッキを紙のように突き破ってくる。

 

「ん……?」

 

 いつもならこれで片がつくはずだった。針が刺されば即座に人体操作の能力が発動する。だが、チェルに操られる様子は見られなかった。念人形であるその体は、他人の操作系能力の対象とはならない。

 

 仕方がないのでイルミは次の一手を打つ。ポケットに忍ばせておいたスイッチを押した。その直後、チェルの体が爆発する。

 

「ばほっ!?」

 

 それは針に仕込んでいた超小型爆弾による攻撃だった。ミルキが開発したもので、メスの蚊に取り付けて飛行させることができるほどの小型化に成功している。イルミの針に仕込んだ爆弾はそれよりは少し大型で、殺傷力を高めたタイプだ。

 

 爆発の規模は小さかったが、体内から爆破されればいくら念能力者でも防げない。臓器の一部が弾け、腕の一本が千切れ飛んだ。

 

 チェルを始末したイルミは立て続けにメルエムを仕留めにかかった。針は容易に目標へと届く。それを邪魔する者さえいなければ。

 

 立ち尽くすままのメルエムに針が突き刺さる直前、忽然と現れた何かがそれをつかみ取った。手のような形をした機械が空中に浮かんでいる。

 

 『玩具修理者の腕(Dr.ブライスMKⅡ)』だ。ネフェルピトーの死後強まる念により生み出されたその能力は、宿主であるメルエムの意思とは関係なく自動的に発動する。

 

 具現化された機械の腕はメルエムに迫る数本の針を素早く受け止めた。さらに人差し指の先を銃口のように変形させ、キャッチした針をイルミに向けて発射し返す。

 

「防げたのかよ!? 心配して損したわ!」

 

 今まで必死こいて守っていた苦労は何だったのかとチェルが憤慨するが、その声は意識を集中しているメルエムには聞こえていない。

 

 そのツッコミを入れているチェルもまた、イルミから見れば異常だった。致命傷を与えたはずが何の怪我も見当たらない。千切れた腕まで元通りに治っている。装備は破損しているので攻撃が当たったことは確かなのだろうが、瞬く間に回復されてしまった。

 

 撃ち返されてきた針をかわしながらイルミは作戦を練り直す。敵の能力は非常に危険かつ未知数だった。このままちまちまと遠距離攻撃に徹していても埒が明かない。

 

 イルミは待機させていた残りの針人間に命令を下した。大勢の執事がチェルたちへと殺到する。その隙にこの場は一時放棄し、ゼノの戦闘に加勢することにした。

 

 見ればゼノも苦戦している様子である。ここはゼノと協力して戦力を集中させ、一人ずつ確実に敵を抑え込む方が効率的だと判断する。すぐさま行動に移ったイルミは、アイクに向けて針を構えた。

 

 それに気づかないゼノとアイクではない。互いが死に迫る攻防を繰り広げながらも、研ぎ澄まされた感覚は敏感に周囲の状況を感じ取っている。

 

 ゼノは『龍頭戯画』を使いながらも、自身の身体を覆うオーラの流れに乱れはない。『流』を淀みなく保った上で、それに加えて変化させた荒れ狂うオーラを引きずられることなく御している。

 

 その拳にはまさしく龍が宿っていた。突きを放てば威力をそのままに、敵目掛けて体を伸ばし食らいつく。一直線に伸びるだけではなく、自在に方向を変えることもできる。回避は困難を極め、無事に防げたとしてもその先に待つは怒涛の連撃である。

 

 能力による威力だけに頼ってはいない。脈々と受け継がれてきた暗殺拳法を使いこなし、そこに合わさる『龍頭戯画』の相乗効果は計り知れない。これを操作系や具現化系と言った搦め手なしに正面から相手をするのは無謀というものだ。

 

 例外があるとすればゼノを上回る圧倒的なオーラの顕在量で叩き伏せるか、それを技術によって補い対抗するか。

 

 もしこれがカトライであったなら、ゼノの攻撃を回避しきるか受け流して無効化していただろう。受けに関する『流』の技術だけならアイクも同じことはできるが、敵を無意識に誘導する場の支配力まではさすがに真似できない。

 

 では、いかにするか。ゼノの攻撃を受けたアイクは全身のオーラをコントロールしていた。この全身とは体表を覆うオーラの操作技術である『流』だけに留まらない。体内にまで制御の範囲を広げていた。

 

 通常、オーラは精孔から体外に発せられることにより力を得る。筋力強化のように体内で働く力であっても、まず一度オーラを精孔に通して利用可能なエネルギーの状態に変えなければならない。念の基礎技能だが、これも立派な強化系の発である。

 

 もし体内にある状態で大きなエネルギーを持っていれば危険極まりない。精孔とは安全にエネルギーを取り出すための反応室のようなものだ。だから精孔が機能していない人間はいくら生命エネルギーを持っていてもそれを力として使うことはできない。

 

 ネテロが行う『勁』は、この危険行為に該当する。身体能力をオーラで強化することとは異なり、内部や外部から生じたエネルギーを直接体内で受け入れて利用する。普通は意図してこのような技を使うことはできない。内臓を自分の意思で動かせと言っているようなものだ。

 

 仮にできたとしても体内がずたずたに引き裂かれて絶命するだろう。それを可能とするネテロの技術が『勁』だった。

 

 同じエネルギーであっても“力”と“勁”では伝わり方が異なる。力は発生したその場所で作用するが、勁はエネルギーを保ったまま別の場所に動かせる。正しく勁を運ぶことができれば身体中で無駄なロス(損傷)を発生させることなく様々な箇所へと移し替えることができるのだ。

 

 ゼノの攻撃を受け流したアイクは直後に反撃を繰り出す。勢い止まらず再度食らいつこうとする龍の頭を、アイクの手刀が真っ二つに切り裂いた。二枚におろされた龍の中を衝撃波が伝わり、ゼノに襲い掛かる。

 

 しかし、それを食い止めるためゼノの手から放たれた二匹の龍が空中で絡み合った。龍たちは衝撃波に巻き込まれ、すり潰されて爆散する。その間にも二人の戦士は一瞬たりとも動きを止めることなく数十の拳を交えていた。

 

 ゼノは自分が劣勢にあることを悟る。龍頭戯画の全力行使により何とか体裁を保てているが、それもいつまで続けられるかわからなかった。

 

 かすった攻撃だけで全身が悲鳴を上げ、わずか1分足らずの攻防で息が上がるほどに疲弊している。龍頭戯画のオーラを通さず直接攻撃を受けていれば、たとえ防御できたとしても発勁により一撃で昏倒させられていた。

 

 その上、ゼノは発を使わなければ勝負にもならないというのに、対する少女はいまだ発の片鱗すら見せていなかった。ダメージがないどころか体力すら消耗していないだろう。ゼノは少女が技術のみで自分を圧倒していることを知っていた。

 

「『心勁』までも使いこなすか……! ネテロでもここまでの無茶はしなかったぞ!」

 

 今では四大行の応用技として広く知られる『流』だが、それは弟子たちがネテロの技の表面をなぞっただけに過ぎない。彼は体外におけるオーラの運用を『流勁』と表し、それと対を成す奥義として体内のオーラ運用法『心勁』を考案した。

 

 無論、これを実行することがどれほど困難か言うまでもない。自身の動作や敵の攻撃から勁を取り出し、それをオーラに乗せて体内に巡らせ、蓄積して反撃に利用する。運勁がわずかにでも狂えば、たちまちエネルギーは勁から力の伝達へと変わり、肉体は内部から破壊されるだろう。

 

 強力ではあるが、失敗した際のリスクを考えれば釣り合わない。生前のネテロでさえ多用はしなかった技である。アイクがそれを考え無しに使えるのは、別に内臓が破裂しようがどうということはないからだ。

 

 念人形であるアイクの体はすぐに修復できる。筋肉のつかない華奢な体も、勁を通す上では何の問題もない。ネテロの体と比べれば自力で発せられる膂力は大幅に落ちているが、それを技で補填することは可能だった。

 

 『流心勁』を使いこなすまでに至ったアイクの技は、ネテロが極めた心源流を超えている。最高峰に立っていた使い手が新たな肉体を得てさらなる研鑽を積めば、それも当然の道理だった。

 

 その境地は明鏡止水。もはや焦りや怒りと言った感情の起伏とは無縁だった。悟りを開いたかのように迷いなきオーラの流れである。心理的要因からその制御を乱すことはあり得ないことだった。

 

 そんな二人の戦いに水を差すようにイルミが針を投げ込んでくる。

 

 

「くらぁ! 外野はひっこんどれぃ!」

 

 

 せっかく気分よく戦いを楽しんでいたところに邪魔が入って、思わずアイクはぶちギレていた。条件反射的に両手が合掌の形を取る。

 

 あっ、しまったと焦った時には既に攻撃が終了していた。床から半身を乗り出した巨大な仏像がイルミがいた場所に拳を叩き込んでいた。仏像が消え、床にめり込んだまま起き上がらないイルミの姿が確認できた。

 

 その光景を見て絶句していたゼノは一転して笑い始める。

 

「くっくっくっく……はははははは! そういうことか! まさか最初から“お前”だったとはな!」

 

 その『発』をゼノは目にしたことがある。どれだけ正確にネテロの技を再現することができる優秀な弟子がいたとしても、『百式観音』を真似できる者はいないはずだ。

 

 目の前の少女がネテロ本人であると疑う余地はなかった。あの妖怪じみたジジイが簡単にくたばるとは思っていなかったゼノだったが、やはりその悪い予感は当たっていたらしい。

 

「発を使うつもりはなかったんじゃがのう。ついお前との戦いで興を乗せられてしまったようじゃ。いかにもわしはアイザック=ネテロ……今の生はアイザック=アルメイザじゃ」

 

 アイクが吐血しながら正体を明かす。ちょっと心理的要因によるミスで勁道がずれて腹の中がシェイクされてしまったが、気にするほどのことではない。

 

「もう少し戯れ合いを続けていたかったが、この期に及んでそれも無粋か」

 

「遠慮はいらん。百式観音を使え。そうでなければ張り合いがない」

 

 ゼノにとって、ネテロが生きていたことやここに来た理由などに興味はない。ただこの一戦に全力を投じるのみ。『一日一殺』と書かれた道着を脱ぎ捨てる。小柄ながらその肉体は老人とは思えないほど引き締まっていた。

 

「ホオオオオオオオオオッ!」

 

 気合の一声と共に渾身のオーラを絞り出す。それは一匹の巨大な龍となり、ゼノを中心として守るようにとぐろを巻いた。

 

 『龍神の加護(ドラゴンソウル)』

 

 人間の進歩は目覚ましい。それは念能力の研究についても言えることだ。ゼノの龍頭戯画は、エネルギーの性質変化を主流とする現代の念能力に照らしてみれば原始的だった。オーラを鋭く尖らせるなどの発は今でもよくあるが、それ以上の複雑な形状をあえて変化系能力として作ることはない。

 

 オーラの形をごく小さな動物の形などに変える変化系の修行法はあるが、どれだけ鍛えたところで手遊びの範疇だ。戦闘に利用できるだけの精度を得るには絶望的な難易度となる。

 

 この形状変化能力は念獣の概念が確立する以前に普及していた発の一つである。その当時はまだ念と宗教観が混同されており、神霊や精霊をその身に宿す祈祷術の一種と考えられていた。

 

 現代の念能力者たちの感覚からすれば、なぜ龍の形にする必要があるのかと疑問に思うところだろう。その発を習得するまでに至る血の滲むような修練を真の意味で理解することはない。

 

 時として念は、余人には計り知れない孤独な追究の果てに完成する。狂気にも近い情熱が精神を煮立つまでに溶かしたその中に立ち現れてくる。

 

 今のゼノの姿を見て変化系能力者だと思う者はいないだろう。極限の修行の果て、念獣と見まがう領域にまで昇華された龍が睥睨する。その肉体は膨大な力の塊だ。尾を翻すだけで災害のような破壊をもたらす。

 

 膨れ上がったオーラが周囲の気流を乱した。その風に銀の髪をたなびかせながら、少女は何の気負いもなく微笑む。

 

 

「一つ訂正してやろう。今のわしは

 

 千百式じゃ」

 

 

 少女の小さな白い手が合わさる。その“心の所作”もまた、ゼノの技と同じく狂気の果ての領域にあった。

 

 『壱弐参乃掌(ひふみのて)』

 

 ネテロの能力『百式観音』についてはゼノも知っていた。感謝の正拳突きから生まれた不可避の速攻。ゼノが知る限り、物理的な破壊力や速度に関してこれを超える能力はない。発動されたが最後、敗北が確定する恐るべき技である。

 

 その脅威は幾度となく味わってきた。対策を講じなかったわけではない。そのために気力を振り絞って発動させた龍頭戯画の最終形ドラゴンソウルがある。数十メートルにも達する龍神がゼノの体を包み込んでいた。

 

 それを取り囲むようにして三体の仏像が現れる。千百式に成長したアイクの能力は、最大で四体の仏像を同時に顕現させることができた。

 

 不可避の速攻三連撃は、まず参乃掌から始まる。両手を打ち合わせ、挟み込む。もともと回避できるはずもない速度ではあるが、さらに逃げ場がない。衝撃は両の手の中に閉じ込められ、対象を圧殺する。

 

 しかし、ゼノは周囲に巻き付かせた龍の体内に高速でオーラを循環させ、全身を守る緩衝材の役割を持たせていた。挟み込まれたオーラの塊は油を塗ったゴムまりのようにつるりと掌の間から滑り、上空へと抜けだす。

 

 このとき、ゼノは既に重傷を負っていた。抜け出せたからと言って衝撃を全て無効化できたわけではない。オーラごと捻り潰さんとする圧力が内部のゼノにまで達していた。むしろ、それだけの負傷で済ませたことは神業と言えた。

 

 だが、アイクの攻撃はそこで終わらない。上へと逃れた敵を再び地に落とすべく『弐乃掌』が迫る。広げた掌による叩き潰しだ。振り下ろされた面による制圧。

 

 先ほどと同じように滑り抜けられれば良かったが、今度はそうもいかなかった。攻撃を受けた直後、ゼノの体が床に沈み込んでしまう。頑丈に作られていた床も常軌を逸する念能力者同士の戦闘に耐えられる強度ではない。

 

 一撃目を凌ぎ、まだ戦えるだけの力を温存していたゼノだったが、脆くも潰える。逃げ場もなくまともに攻撃を受けてしまい、龍の守りがあってなお瀕死の状態に追い込まれていた。いつ意識を失ってもおかしくなかった。もはや勝負は決したと言っても過言ではない。

 

 しかし、終わらない。上空から振り下ろされる手刀、『壱乃掌』は弐乃掌により地に伏した対象を確実に仕留める。衝撃が広範囲に広がる弐乃掌とは違い、手刀は範囲が小さくなる分、威力が一点に集中する。

 

 三連撃と言うが、そのうちどれか一つであっても人間個人に向けて放つような攻撃ではなかった。それを三回も受ければ、どんな念能力者だろうと原形を留めぬ肉塊と化すだろう。

 

 怒涛の連撃が繰り出された時間は一瞬にも満たない間であった。観音像たちが姿を消す。だが、その中心にはいまだに煌々と力強くオーラを輝かせる龍神の姿があった。

 

 ゼノは堪え切った。そしてこのとき、ようやく百式観音が三体同時に出現していた事実に気づく。攻撃を受けている最中は、それを認識することもできなかった。それほどの速攻である。

 

 それはある意味で幸運だった。もし途中でその絶望的な事実を認識してしまえば心が揺らいでいたかもしれない。オーラの制御が少しでも狂っていれば命を落としていただろう。無心でいられたことに助けられた。

 

 しかし、もはや風前の灯だった。肉体は活動限界を超えている。立ち上がれたことが奇跡のような状態である。それを可能としているものが何かと聞かれれば一言、意地だ。

 

 その最後の矜持に応えるように龍が吼える。守りを解いた龍が、敵へと向かい飛び立った。それを打ち払うべくアイクは両手を合わせる。

 

 刹那の迎撃を回避するすべはない。観音像の巨大な掌が無慈悲にも龍の頭を叩き潰し、そのオーラを霧散させる。アイクですらそれで終わりだと確信していた。

 

 

 『龍星群(ドラゴンダイブ)』

 

 

 砕かれた龍は何頭にも分岐し、散り散りになって敵へと襲い掛かる。これにはアイクも度肝を抜かれたが、すぐさま反撃に入った。

 

 

 『九十九乃掌(つくものて)』

 

 

 一体の観音像が全ての手を用いて繰り出す連打が、次々に龍を消し去っていく。そのわずかな間隙を潜り抜け、生き残った龍も次第に数を減らしていく。

 

 その殺意の暴風を抜け切った龍はたった一体だった。1メートルほどの大きさに縮んだこの龍では、アイクに届いたとて武術で十分対処可能である。

 

 しかし、むしろアイクは感服する。よくぞここまで迫ったものだと。その敬意と共に放たれた正拳突きが龍を掻き消した。

 

 そして戦慄する。この戦いが始まって初めて感じる寒気だった。それもそのはず、突きを放ったアイクの背後にゼノが立っている。

 

 その距離に近づかれるまで気づけなかった。確かにゼノは暗殺者として名を馳せた名手であり、その絶の技巧は常人を遥かに凌ぐ。それでもアイクならば気づけただろう。勝利を確信して気を抜くような失態を犯すはずもない。

 

 アイクですら気づけない別次元の絶だった。ゼノは全身のオーラを使い果たし、生命力が欠片も残っていない状態に追い込まれていた。死体も同然。極限まで希薄となった生命反応だったがゆえに、アイクの目を掻い潜れた。

 

 そんな状態で動けるということが、まず人間には不可能な所業である。ゼノの精神力が動くはずもない体を突き動かした。『龍星群』の対処に当たっているアイクの隙を突き、気配を消して接近するという不可能を成し遂げた。

 

 その拳が無防備なアイクの背後へと突きつけられる。

 

「あいや、見事。これは一本取られたわい」

 

 だが、そこまでだった。生命力がほぼ残っていないということは攻撃に必要なオーラもないということだ。ゼノの拳は強化もなにもされていない状態だった。アイクを傷つけることは叶わない。

 

 しかしその拳には、確かに一人の武人としての生き様がありありと表れている。アイクは、崩れ落ちるように倒れかかったゼノの体を抱きとめていた。

 

 

 





ちせ様よりアイクのイラストを描いていただきました!


【挿絵表示】


ビヨンドに見せたいですね。パパの雄姿。


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116話

 

 ゼノとアイクによる壮絶な戦闘の余波により、屋敷は随分と風通しが良くなっていた。さらにその外、いつもは専属の庭師が欠かさず手入れしている庭も異常生長した植物による進攻が始まっていた。

 

 ゾルディック家始まって以来の危機だ。しかしその渦中にあり、シルバは依然として腕を組んだまま悠々と構えていた。そこへイルミが近づいてくる。

 

「父さん、殺るなら今しかない」

 

 千百式観音の一撃を受けて重傷を負ったイルミだが、自分自身を針で操作することにより強引に行動を可能としていた。そしてシルバにアルカ殺害を示唆する。

 

 もはやイルミもゾルディック家の戦力でキルアが連れて来た手勢に太刀打ちできないことを承知していた。今、彼らに残された唯一のアドバンテージは敵の目的であるアルカを管理下に置いているということだけだ。

 

 しかし、イルミの提案は人質として利用する脅迫の域を超え、殺害にまで及んでいる。それではキルアの目論見を潰すことはできても、崩壊寸前にまで追い込まれた現状を食い止める抑止力にはならない。人質は生きているからこそ価値がある。

 

 だが、脅迫によって一時的に膠着状態を作り出せたとて解決には至らない。アルカを傷つけて怒り狂ったキルアがどんな行動に出るかイルミにもわからない。思考を矯正していた針の呪縛は解かれてしまっている。

 

 散々、話がこじれた挙句、どのような結果に転んだとしても、そこに至るまでに発生するゾルディック家の損害は計り知れない。ならばいっそのこと、面倒を後に引き延ばそうとせず今この場で結論を出してしまうべきだとイルミは考えていた。

 

「アルカを殺す。その憎まれ役はオレが引き受ける」

 

 イルミは彼個人の判断でアルカを殺したことにするつもりだった。そのように振舞えば、さすがにキルアも他の家族を殺すことまではしないだろう。自分の命を差し出すことについて毛ほども惜しくは感じない。

 

 仮にその予想が外れて、他の家族まで全員殺されるという結果となったとしても、イルミはそれはそれで仕方ないと思っていた。

 

 キルアさえ生き残っていればゾルディック家は存続する。だが、アルカを外に出してしまえばそのキルアが最も大きな危険にさらされてしまう。それくらいならば自分一人や他の家族の命がどうなろうと犠牲にすべきだとまで思っていた。

 

 その考えを全て口に出したイルミではなかったが、シルバは察していた。息子の考えていることくらい簡単に推測できる。

 

 イルミは出来の良い子だった。もちろん、それは暗殺者としての出来だ。シルバが施した教育をスポンジのように吸収した。本来ならば、それは人として当たり前に備えるはずの倫理観を破壊するため過剰気味に与えられる毒のようなものだったのだが、イルミはそれを素直に受け入れ過ぎていた。

 

「アルカは殺さない。その結果、死後強まる念が発動する恐れもある」

 

「アルカは念能力者じゃない。それは心配しすぎなのでは?」

 

「だからこそだ。念の道理すら超えた未知の存在だ。殺せばかえって取り返しのつかないことにもなりかねない」

 

 素直に“家族だから”という理由でかばってやれないことに、シルバは自嘲する。

 

 イルミはまだ納得できない様子だった。だが、許可なくアルカを殺しに行くことはできない。なにせイルミもアルカがどこにいるのか知らされていないのだ。そこにたどり着くまでのセキュリティを解除する方法もわからない。

 

 やがて周囲に鳴り響いていた轟音が終息する。ゼノたちの戦いに決着がついたようだった。結果は一目瞭然である。これで残るはシルバのみとなった。

 

「下がれ。後のことは俺に任せろ」

 

 見た目だけなら平然としているイルミだが、その肉体は早急に治療に当たらなければ命が危ういほどのダメージを負っていた。この場に残ったところで役には立たない。不承不承、引き下がっていく。

 

 それと入れ替わるようにキルアが近づいてきた。殺気はない。それは勝利を確信した足取りだった。

 

 事実である。今のシルバがどう足掻いたところで結果は見えていた。戦闘によって状況を打破できる段階ではない。否、初めからこの結末は決まっていたと思える戦力差だった。

 

「親父、アルカを解放してくれ」

 

「それはできないと言ったはずだ」

 

「今だから話すけど、アルカには親父たちの知らない秘密がある。オレがアルカに殺されることはないし、家族に危険が及ぶこともない。これは誓って本当のことだ。その場しのぎのでまかせじゃない」

 

「なるほど。だが、それでも許可はできない」

 

 しかし、譲らなかった。負けそうになったから意見を変える、そんな覚悟でここに立ってはいない。キルアの言うことを親として信用しているシルバだが、ゾルディック家の当主として取るべき判断はまた別である。

 

 キルアは顔をしかめた。たとえ殺されようとシルバが意思を曲げることはないと理解できたからだ。仕方なくキルアはメルエムの方へと視線を向けた。彼女はしっかりと目を開けている。

 

「所要時間4分47秒……既に未来は確定させた」

 

「……」

 

「4分47秒だ」

 

「わかったから」

 

 すなわち、今すぐにでもアルカを助け出せることを意味している。

 

「アルカを守るセキュリティに自信があるのかもしれないけど、無駄なんだ。オレたちはそれを突破する方法を用意してきている」

 

「そうか。だが、それならばわざわざそんな説明などせず助けに行けばいいはずだな。今もこうして対話を望んでいるということは、まだ心残りがある。違うか?」

 

 キルアも殴り込みをかけておいて円満に事が収まるとは最初から思っていなかったが、それでも後腐れなく話がまとまるならその方が良かった。アルカをずっと閉じ込めていた家族に憤りを感じるところもあるが、そうしなければならかった理由もわからないではない。

 

 世間一般の感覚からすればこの家の教育方針はろくでもない。それに反感を覚えて家出したキルアだが、いまだに父親を尊敬していた。

 

 強く、たくましく、畏怖の対象だった。憧れていた時もあった。ずっと、その背中を見て育ってきた。

 

 自分でやっておいて矛盾した感情だが、今のような父の姿を見たくなかった。どんなに硬い意思をもって抗おうと力が及ばなければ虚勢も同然だ。

 

 それが自分自身の力でやり込めたというのなら文句はない。実力で勝ち取った勝利である。だが、今回は人の手に頼って得た成果だ。

 

 キキョウを倒す活躍はしたが、別に負けたとしても何とかなっていただろう。頑張れば自分一人で成功させられたと己惚れる気は全くないが、それでももやもやとした気持ちが残っていることは事実だった。

 

「今は家族内指令の発令中だ。お前は“自分が望む結果”を得るために“最大限の努力”をしなければならない」

 

「……だから?」

 

「お前にチャンスをやろう。サシで俺と戦え。お前が勝てば、アルカの解放を認める」

 

 滅茶苦茶な提案だった。アルカを助ける確実な手段が既にあるというのに、わざわざ必要のない許可を得るために戦闘をする意味はない。そもそも一対一でシルバと戦うというのが無理な話だ。実力の差を見抜けないほどキルアも馬鹿ではない。

 

「まあ、互いに対等な条件で戦うというのは酷だ。ハンデをくれてやる。俺は“このまま”でいい」

 

 並みいる強者に取り囲まれながらも傲岸不遜に言ってのけるその胆力にキルアは呆れた。だが、その方が親父らしいと快くも思っていた。

 

 シルバが言う“このまま”とは重力による枷を負った状態である。キルアは実際にその負荷を体験したことがあった。力技でどうにかできるような生易しい拘束ではない。

 

 チェルにも協力してもらうことになるため純粋なサシの勝負とは言えないだろう。これも人の手を借りた結果と言えばその通りだが、勝てば認めるとシルバ自身が言ったのだ。互いにこれ以上の落としどころはない。

 

 いくら何でも舐めすぎだとキルアは軽く苛立った。そう思わせられた時点で半分以上相手の思惑に乗せられてしまったようなものだ。それを自覚しながらも受けて立つことに決める。

 

「わかった。勝負だ、親父。だけど、もしオレが負けたとしてもアルカは仲間に助け出してもらうからな」

 

「今から負けた時の心配をしてどうする。この勝負は、お前が俺を認めさせるための戦いだ。それ以外の意味などない」

 

 アルカを巡る戦いについては既に決着がついていた。ゾルディック家の敗北に他ならない。アルカは解放されることになるだろう。

 

 ゆえにここから先の戦いは、キルアの個人的な感情を満たすためだけの“遊び”である。言うなれば、家族内指令(おやこげんか)だった。

 

「なんか、仲が良いのか悪いのかわからん奴らだな」

 

「まあ、乗りかかった船じゃ。見守ってやろう……ん? 誰か来たな」

 

「えっ、なにこの状況は……父さんと兄さんが対決してる!? ボクはどっちを応援すれば……」

 

 カルトがやけにすっきりした表情で戻ってきた。最初は絶をしていたが秒で見破られた。あたふたしているだけで特に害はなさそうなので放置される。

 

「ついでじゃし、こそこそ隠れとる輩もあぶりだしておくかの。ホッ」

 

 千百式が発動し、床のある箇所に鋭い突きを叩き込んだ。床下まで大穴が空き、観音像の手は地下に作られたシェルターの壁までも破壊して食い込んでいた。

 

「ブヒッ!? なんでバレた!?」

 

 そこにいたのはミルキである。人形ではなく本人だ。なぜそんな場所にいたのかと言えば、彼の能力が『自動操作型』ではなく『遠隔操作型』だったためだ。あまり離れた距離からだと人形を操作できなくなってしまう。

 

 戦場が建物の内部であったこともあり、アイクは振動を足の裏から感知する『陽脚』という歩法を用いて罠などがないか調べていた。地下にある不自然な空間のことは最初に踏み込んだ時からわかっていた。

 

 ゼノとアイクが派手に暴れ回ったせいでミルキの隠し部屋にも影響が及び、シェルター内は無事だったが地下通路のドアが歪んで開かなくなっていた。閉じ込められてしまったミルキはじっとしているしかなかったのだ。

 

「とって食いやせんから、おとなしくしておれ」

 

「はい……」

 

 引きずり出されたミルキは従うしかなかった。観衆も出揃い、ついにキルアたちの対戦が始まる。しかし、合図もなく両者が静かに睨み合う構図が続いていた。

 

「……」

 

「……」

 

 互いに位置につく。と言っても、シルバはその場に立ち尽くしたままだ。魔眼に押さえ込まれ身動きは取れない。対するキルアの身は自由だ。『神速』を使えば圧倒的な機動力の差と言える。

 

 だが、考え無しに近づくことはできなかった。シルバの念能力が不明という点が大きな不安要素だ。重力操作は念弾などの遠距離攻撃まで未然に防げるものではない。何かしらの有効な攻撃手段を隠している可能性はあった。

 

(親父の系統は何だ? 息子のオレが変化系だから、同じ変化系か? いやでも、じいちゃんのさっきの攻撃は放出系っぽかった……系統が遺伝しやすいって言っても絶対じゃないだろうし、断定はできない)

 

 悩みどころではある。しかし、キルアには勝算があった。彼の持つ技の一つに『落雷(ナルカミ)』という遠距離攻撃手段がある。文字通り、電撃を雷のごとく敵に降らせる技だ。

 

 キルアの電撃はオーラによる念の性質を併せ持っている。電撃であると同時にオーラの攻撃でもある。雷に匹敵する高エネルギーの直撃が回避不能な速度で襲い掛かるのだ。流の防御もろくに間に合わない。

 

 キキョウには通じなかったが、あれは特殊すぎる例だ。いかに電気耐性を持っていようと、生物である限りシルバでも全くの無傷というわけにはいかない。

 

 先の戦いでキルアは『落雷』を使っていなかった。消費電力が大きい技であるためなるべく使いたくなかったからだが、その節制が功を奏した。シルバはまだ『落雷』の存在を知らない。知っていれば、重力の枷という致命的なハンデを認めはしなかっただろう。

 

 つまり、下手に近づかず離れた場所から落雷を撃ち続けていれば勝てる。問題は体内に充電している電気だけでシルバを仕留めきれるかという点だが、それも対策はあった。足りなくなったら補充すればいい。電源ならそこらへんのコンセントからいくらでも引っ張って来られる。

 

 ハメ技のようで少し気が引けるが、全力で畳みかけなければどんな形で覆してくるかわからない相手である。手を抜くつもりはなかった。キルアは組み立てた作戦を実行に移す。

 

「来ないのか? ならばこちらから行くぞ」

 

 だが、そこで合わせてきたようにシルバが動いた。ここは少し様子を見るかと敵の出方をうかがったキルアは、衝撃的な光景を目にする。

 

 シルバはすたすたと歩いていた。その歩みは至って正常である。何の不自然さも見当たらない。それがキルアには信じられない。

 

 超重力の中は背筋を伸ばして立っているだけで強化した全身の筋肉を酷使する環境である。今までずっと仁王立ちの体勢を保っていたシルバを大したものだと感心していたくらいだ。

 

 間違っても平然と歩けるはずはない。しかしそのキルアの驚愕は次の瞬間、恐怖という感情で塗り替えられることになる。シルバの体がブレた。そこから分身するように彼の体が何体にも分かれていく。

 

「ばっ……! し、肢曲だと!?」

 

 無音歩行術『暗歩』の応用技『肢曲』だった。緩急をつけた移動速度によって残像を生み出し、敵の目を欺く暗殺歩法の奥義である。

 

 今のシルバに重力の枷は効いていない。そうとしか思えない光景だった。そのとき、チェルはキルアと同様にあり得ないものを見た表情をしていた。

 

 チェルの能力はずっと正常に発動し続けている。確かにシルバの周囲の重力は変化しているはずが、どんなトリックを使ったのか。効いていない。チェルの魔眼は災厄から生じた産物だ。それを易々と跳ねのけることができるだろうか。

 

 わかることは、シルバが現に自由を得ているという事実のみだ。底知れぬ怪物である。されどキルアも、まさかここで引き下がるわけにはいかない。すぐに感情を切り替える。

 

 肢曲はキルアもよく使う技だ。その特性も熟知している。いくら残像を作り出そうとそこに実体はない。よく見れば本人がどこにいるのかオーラでわかる。たとえ絶を使っていようと凝を使えばこの距離で惑わされるということもない。

 

「うっ!?」

 

 しかし、目にオーラを集中させたキルアが見たものは、残像の全てに残されたオーラの痕跡だった。これはキルアも教わっていない暗殺技『分霊(わけみたま)』という。

 

 残像を作り出すと同時にそこに放出系技能を用いてオーラを残していく。さらに自身のオーラの出力を押さえ霞ませ、巧みに残像の中に身を隠していた。

 

 確かによく観察すれば見破ることは可能なのだが、目まぐるしく状況が推移する戦闘中のことである。キルアとシルバ、両者の間に横たわる実戦経験の差は如何ともしがたい。

 

「「「怖気づいたか?」」」

 

 危険を感じて距離を取ろうとしたキルアの背後から声がする。思わず足を止めてしまった。

 

 特殊な発声法により敵の耳の内部で音を籠らせる『囁々蟲(せせらむし)』という暗殺術だった。これは音の発生源を特定させずに声を発することを目的とした技だが、極めればその方向を自在に変えて錯覚させることもできる。

 

 視覚と聴覚を翻弄し、キルアの思慮外から迫る一撃。それだけでも脅威だというのにさらなる不運が重なる。シルバの接近を許してしまったがゆえに重力の変化圏内にキルアの体の一部が入った。

 

 肢曲まで使って元気に動き回るシルバに対し、チェルはそれを捕捉し続けるだけでかなりの集中力を要していた。敵を警戒させないためにと円を自分の周囲でしか使っていなかったことも痛手だった。重力場の制御に乱れが生じている。

 

 互いの手が届く距離まで近づかれてしまえば、シルバだけに狙いを絞って重力場を展開することは難しい。キルアにも重力の負荷が襲い掛かる。

 

 

 ――『落雷(ナルカミ)』!――

 

 

 すんでのところでその事実に気づいたキルアは自身を中心として全方位に向けて落雷を放つ。さすがのシルバもそのスピードに対処することはできなかった。電撃をまともに受け、周囲の残像も消し飛んだ。

 

 高圧電流を受けたことによる筋肉の反射により、シルバに一瞬の隙が生まれた。キルアは『神速』にて辛くもシルバの攻撃圏から脱する。

 

 何とか仕切り直しに持ち込んだキルアだが、冷や汗が止まらない状態だった。接近戦は不利であると再確認する。技術の差もさることながら、重力の枷が痛い。

 

 シルバが何事もなく行動しているので忘れそうになるがチェルの重力操作は継続している。にもかかわらずキルアだけが大きく重力の影響を受けてしまう。一方的に不利な条件を背負わされているように思えてならなかった。

 

 しかしだからと言ってチェルの能力を取り払ってしまうことは、それはそれで怖い。実際はシルバも重力に苦しんでいるはずだとキルアも考えていた。抑え込まれた上で、なおキルアを圧倒するだけの力をもっていると考えるべきだ。

 

 もはや安全に攻撃する手段は『落雷』しかなかった。しかし、そのために必要な電力が心もとない状況だ。

 

 とっさのことだったとはいえ先ほどの落雷全方位放射は、本来想定していない使い方だった。威力が中途半端になる割に消費電力はかなり増える。残された電気量を考えれば、本気の落雷が撃てるのは後一回が限度だった。

 

 もっとも、仮にマックスの充電量が残っていたとしてもそれでシルバに勝てるかと聞かれれば疑問だった。実際に戦ってみてわかった。シルバの実力はキルアの想像の遥か上を行く。

 

 “安全に”とかいう考え方で乗り切れる相手ではない。リスクを冒さなければこの差は到底埋まらない。キルアは覚悟を決め、チェルにアイコンタクトを送る。

 

 事前の打ち合わせなどしていないチェルにキルアの正確な意図はわからなかった。だが、彼女はここしばらくキルアの修行に付き合い、彼の能力の詳細も知っている。そこからキルアがどんな判断を下したのか推測することはできた。

 

(自分から仕掛けに行くつもりか、キルア……!)

 

 キルアはおそらく、シルバに接近戦を挑むつもりだと思われた。『落雷』だけではシルバを倒せない。最高威力の技をシルバに直接打ち込まなければ勝機はないと、チェルにもわかった。

 

 しかしそのためには重力場が邪魔になる。キルアの要求は、彼の技が決まる絶好のタイミングでチェルに能力を中断してもらうことだった。

 

 シルバの能力についてチェルもわかったことは少ないが、何らかの方法で重力の負荷を軽減しているものと思われた。おそらく完全に無効化する類の念能力ではない。シルバが“ハンデ”と言った通り、重力の枷は彼の行動を制限している。

 

 重力操作を解除するということはシルバの制限を解き放つことに等しい。果たして、その判断は正解と言えるだろうか。

 

 逡巡する暇さえ与えられない。キルアとチェルの思惑などいざ知らず、シルバは動き出す。先ほどと同じく、無情にも恐ろしい威力を秘めた拳打が迫る。

 

 暗殺術を極めたシルバの絶技。その攻撃が繰り出されるまでの過程には巧みな虚実が織り交ぜられている。当たる直前まで察知することは困難だった。

 

 いかにスピードに自信があろうと、闇雲に逃げ回ろうとすれば逆に足を掬われる結果に終わるだろう。キルアはあえてその場にとどまった。臆することなく、待ち構える。

 

 傍から見れば思考を放棄したかのようにも思える態度だった。あながち間違ってはいない。キルアは複雑に考えることを止めた。ただ一点、敵の攻撃が到達する瞬間を捉えることのみに集中する。

 

 どれだけ感覚を狂わせようとしたところで、最終的に敵の攻撃が届く瞬間だけは正確な情報がさらけ出される。現実には、それがわかったところで手遅れも甚だしい限りだが、キルアの場合はそうとも言い切れない。

 

 彼の体表には分厚いオーラの膜が張り巡らされていた。性質上は円に近いものだが、その有効範囲はわずか半径57センチである。たったそれだけの感知範囲が生命線だった。

 

 待ちに徹するキルアに対し、シルバは構うことなく攻撃した。まさにその拳がキルアへと振るわれる直前、突如として重力のくびきから解放される。

 

 真っ先にシルバの脳裏によぎった思考は、なぜこのタイミングなのかという疑問だった。キルアの攻撃に合わせて重力を解除するのであればわかる。だが、それとは全くの逆。シルバの攻撃時に合わせて解除してしまっては敵に塩を送るようなものだ。

 

 とにかく予期せぬタイミングで重力から解放されたシルバは、その環境の変化に即応するというわけにもいかなかった。わずかに生じる隙。されどその拳はキルアを戦闘不能に陥れるに十分な威力を持ったまま振り抜かれる。

 

 だが、ここまではキルアが思い描いた想定通りに進んでいた。キルアのオーラにシルバの拳が食い込む。その刹那、『疾風迅雷』の型が作動する。

 

 この半径57センチの円が敵の攻撃を正確に察知し、その動きに合わせて自動的にプログラムされた回避行動が選択、実行される。

 

 しかし、この『疾風迅雷』の真価はただの回避に留まらない。相手の攻撃を捌くということは、自らの攻撃の機を得ることでもある。超高速のカウンターが発動する。この反撃までを含めて完全な疾風迅雷の型だった。

 

 それだけでは終わらない。キルアはそのカウンターに『電光石火』の効果を上乗せした。二つの型の同時行使である。

 

 これはキルアが頭の中の針を抜くため、過酷な修行によって体得した技だった。操作系能力の影響下に置かれた状態で、その当人が自らの意思で念の強制力から脱することなど普通はできない。未熟な能力者の念ならまだしも、あのイルミが仕掛けた呪縛である。

 

 傭兵団の船にてアイクやチェルの主導のもと行われたブートキャンプがキルアの才能を開花させた。

 

 意識の型『電光石火』。

 無意識の型『疾風迅雷』。

 そしてこれら二つが混然一体となった第三の型を編み出すに至る。

 

 今のキルアが使える最速にして最強の技だった。あのアイクをして速いと認めさせるほどである。キルアはこの技を父親にぶつけてみたかった。

 

 それもハンデをもらった状態ではなく、本気の父にだ。今のシルバは重力の影響を受けていない。今この瞬間だけは正真正銘、双方ともに全力を発揮できる状態にある。

 

 今の自分がどこまでシルバに通用するか試してみたかった。決して超えられることはないと思っていた壁が目の前に立ちふさがっている。その壁の前で踏みとどまり、諦めてしまった過去の自分はもういない。

 

 

 ――『紫電一閃』――

 

 

 その一撃はシルバに届いた。ゾルディック家当主の本領を発揮してさえ、回避も防御もできない速度。間違いなくシルバを上回っていた。筋肉の装甲の内部にまで確実にダメージを通した手ごたえがあった。

 

 しかし、足りない。シルバは倒れない。全力で殴り飛ばすつもりで放ったキルアの一撃を、微動だにせず受け止める。勢いよく血反吐をこぼしながらも清々しい笑みを浮かべていた。

 

 一筋縄ではいかない。それはキルアも最初からわかっていたことだ。それでも落胆することはなかった。『紫電一閃』の型ならばシルバを倒せるとわかったからだ。

 

 この型は強力である反面、肉体に大きな負担がかかる。一つの戦いで二回と使えるような技ではないのだが、まさかここでギブアップできるはずもない。重い反動を受けながらも気力は充実していた。

 

 ひとまずキルアはすぐにシルバから距離を取る。拳を叩き込むと同時にシルバの全身に強烈な電撃を浴びせていた。電気への耐性訓練を数限りなくこなしてきたシルバはその隙を最小限にまで抑え込めるだろうが、それだけの隙があればキルアなら離脱できる。

 

(あれ、なんだ……?)

 

 距離を取ろうとしたところで違和感に気づいた。高揚していた気分が急落していく。何かがおかしいと思いつつも、その異変の正体にまですぐに考えが及ばない。

 

(て、手が離れない!)

 

 見事にシルバの腹部に拳を打ち込んだ、その状態のまま動かない。まるで吸い寄せられるようにその場から離れられない。

 

 

 重力とは、引力だ。

 

 

 シルバの変化系能力『奈落(ナラク)』は、自身のオーラに触れた物質に対し、そこに働く重力の影響までも変化させる。奇しくも、チェルと同類の能力者だった。

 

 ゆえにチェルの重力操作を相殺できたわけだが、完全に打ち消すには至らず、肉体のパフォーマンスレベルは通常時の半分程度に抑え込まれていた。加えて常時、多大な潜在オーラを消耗させられていた。

 

 裏を返せば、半分程度の実力でキルアと渡り合っていたことになる。そもそも最初からそれ以上の力を出そうとは思っていなかったのだ。だが、キルアが最後に打ち込んできた攻撃を受け、シルバの闘争者としての血が騒ぐ。

 

 その表情はこれまでにキルアが見たこともないほど獰猛だった。残酷なまでの強さを見せて来た父だが、普段の彼はいつも理知的に振舞っていた。その下に隠された荒ぶる本性が顔を覗かせる。

 

 理性とはかけ離れた亡者の形相。全てを我が物にしたいと望む、尽きぬ強欲。その引力がキルアを捕えて離さない。

 

 完全に逃げる機を逸したキルアは、自分に向けて放たれるシルバの貫手を見た。その手の爪は異常に太く伸び盛り、まるで鬼の手を思わせるかのように恐ろしい変化を遂げている。

 

 その技は何度も見たことがあった。シルバが得意とする暗殺術の一つである。己の手を武器と化す肉体操作を用いて一瞬のうちに敵の臓物を摘出する『心臓盗り』。その妙技がキルアの胸の中心めがけて差し迫る。

 

 その光景をやけにゆっくりとした時間の中で目撃していた。キルアの思考だけが目まぐるしく脳内を駆け巡る。それは走馬灯だった。

 

 捕まった状態では『疾風迅雷』も使えない。何度シミュレートしても対処する方法は見つからない。確実な死という最悪の結末だけが浮き彫りとなる。

 

 死ぬ。まさかこんなことになるとは思っていない。家族内指令のルールは家族を殺さないのではなかったのか。シルバの攻撃にそんな配慮は微塵も感じられなかった。

 

 もはや自力での生還は不可能である。仲間に助けてもらうしかない。だが、頼みの綱だったチェルの重力操作ではシルバの攻撃を止められない。それはこれまでの戦いの中で証明されてしまっている。

 

 チェルには空間歪曲というもう一つの大技があるが、高速の貫手は既にキルアの胸に触れるところまで来ている。たとえシルバを即死させようと攻撃は止まらない。貫手そのものに空間歪曲を当てようとすればキルアまで巻き込まれて死ぬ。

 

 アイクとメルエムならばこの状態からでもシルバを止めることができるかもしれない。が、それも望み薄だった。彼女らの性格を考えれば男の決闘に部外者が水を差すことを良しとはしない。たとえそれがクライアントだろうとだ。

 

 クインたち陽動班のメンバーなら助けてくれるかもしれないが、そもそもこの場にいない人間に何かできるはずもない。

 

 終いには、敵であるはずのイルミ、ミルキ、カルトにまで淡い期待を寄せる。そのどれも現実的ではない。仮に助けが入ったところでここまで迫ったシルバの攻撃を止められるはずがない。

 

 あらゆる可能性が否定されていく。そのうちキルアは全く関係のない思考に陥る。ふとゴンのことを考えた。クラピカとレオリオの顔も頭に浮かんだ。

 

 この家を出てハンター試験を受けた日々のことを思い出す。ゴンたちと様々な体験をした。宝物のような記憶があふれ出てくる。思い出せること、忘れていたこと、全ての記憶が濁流のように押し寄せる。ただその流れに身をゆだねることしかできない。そして終着点にたどり着く。

 

 

『だから何度も言ったじゃないか。勝てない敵とは戦うなって』

 

 

 思い出したくもなかった兄の言葉が、なぜか最後に再生された。

 

 







ゾル家流暗殺奥義『ジョネス殺し』!

シルバの能力が重力操作ではないかという説はどこかで考察されていた気がします(ヂートゥを倒したときの描写がそれっぽい)

それだとチェルとモロにかぶるから別のにしようかと思ったんですが、ここはあえてかぶせてみました。



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117話

 

 絶体絶命の窮地。死を間際にして起きた最後の奇跡とは。

 

 チェルの重力操作だった。否、正確に言えば引力操作である。重力とは地球に発生する引力を指す。いつもチェルはこの重力の方向に合わせる形で能力を使っているが、この下方向以外に向かって引っ張る力を発生させることもできる。

 

 その基点をキルアたちの真横に置いた。シルバの体が横に引かれる。チェルが普段このような力の使い方をしない理由は、狙った対象だけでなく周囲全体に力の影響が及んでしまうからである。シルバだけでなくキルアまで巻き込まれていた。

 

 しかし、今は緊急事態だ。シルバの意表を突くためにあえて使用した。まるで横に滑っていくかのような浮遊感。キルアの胸を貫こうとしていた手が体ごと揺らぐ。これに対し、シルバは『奈落』を用いて自身に降りかかる引力の影響を軽減した。

 

 シルバとしても予期していなかった事態である。相殺には成功したものの体勢は崩れ、キルアをつなぎ留めていた吸引力も弱まる。だがそんなシルバとは異なり、キルアはチェルの能力を知っていた。この差が明暗を分ける。

 

 このときキルアの心理はただ一つに集約されていた。生きたいという原初の本能である。皮肉にも暗殺者として刻み込まれたイルミの教えが無意識に体を動かしていた。

 

 体内の電力を残らず使い果たして『落雷』を撃つと同時に『神速』による回避を図る。チェルの介入、シルバの対処、キルアの回避。その一つでもわずかに結果が異なっていれば、キルアは順当に殺されていた。

 

 シルバの爪がキルアの胸を抉った。しかし、貫くには至らず。鮮血をまき散らしながらも、爪は肋骨で食い止められた。三本の爪痕を深々と残すにとどまる。キルアは離脱に成功した。

 

「はーっ、はーっ、は、ははは……」

 

 生き延びた。どっと、安堵と疲労が押し寄せてくる。傷の痛みすら全く感じないほどだった。その姿を見たシルバは追撃をかけてくる様子もなく、どことなく申し訳なさそうな表情をしていた。

 

「お前があまりにも良い動きをするものだから。つい殺してしまうところだった」

 

「ついで息子を殺そうとすな!?」

 

「まあ、生きていたのだから問題あるまい」

 

 キルアはちょっと泣いた。家族内指令のルールは『家族を殺してはならない』だったはずだ。『死ななかったからОK』ではない。

 

 キキョウや他の兄弟たちの感性がぶっ飛んでいる分、相対的にシルバやゼノはまともな人間に見えていたキルアだったが、どうやら思い違いだったらしい。

 

「あーもーやめやめ! やってられっか! 勝てるわけがねー!」

 

「何を言う。お前は俺の本気を乗り切ってみせた。引力操作の介入はあったが、それは勝負の前から織り込み済みの条件だ。まだ反則は起きていない。ここで投げ出すというのか?」

 

 命を賭して生きるか死ぬかの瀬戸際を繰り返すような自殺願望をキルアは持ち合わせていない。それにさっきの『落雷』で体内の充電量はゼロになっている。このまま戦ったところで勝負にもならないとわかり切っていた。

 

 キルアはため息をつき、シルバに一つ確認を取る。

 

「じゃあ、聞くけど。この勝負のルールはハンデ付きのタイマン。それ以外は何をしてもいいんだよな?」

 

「そうだが、あまり見苦しいことをされても興ざめだ。こちらも終わらせにかかるが?」

 

「いや、そんな大したことじゃない。武器を使ってもいいのかと思ってさ」

 

「構わん」

 

 ステゴロしか認めないなんて流儀はこの家にない。むしろ暗殺者ならそんな確認など取らず、不意打ちで使ってこいとすらシルバは思っていた。

 

 キルアが特殊合金製のヨーヨーを武器として使っていることをシルバは知っていた。なにしろミルキが作ったものである。それを持ち出してくるのかと思いきや、キルアがポケットから取り出したものは一枚のカードだった。

 

「なら、遠慮なく使わせてもらうぜ。加減はできないんで“つい殺しちゃう”かもしんないけど、悪く思うなよ」

 

 その金属質な光沢のある青いカードは、充電機だった。それもルアンがコイルガンのバッテリーとして組み込んでいるものと同じ巻貝鉱物式である。薄っぺらいカード一枚で膨大な電力を供給できる。

 

 ただ一つ欠点があるとすれば、これをキルアが念能力による充電に使おうとすると、内部の電気が一気に流出してしまう。小出しにして使うことができないのだ。

 

 これはルアンが調整を重ねたが改善することのできない問題だった。艦内で製造されている巻貝鉱物はオーラに反応する性質があるため、これがキルアのオーラに反応して過剰に作用するためではないかと考えられている。

 

 だが、この問題は一回分の電力を貯めたカードを何枚も用意しておけば解決できる。わざわざキルアのキャパシティを超えた大電力を入れておく必要はない。

 

 キルアが今回用意したカードは、そのキャパシティを遥かに超えた最大値までパンパンに充電されたものだった。

 

 雷光が輝く。キルアの体に流れ込んでくる電力は、もはや彼の体に収まり切らず、地面を伝って放散される。

 

「あばばばばばばば!!」

 

「あっ、あああああん♥」

 

 観戦していたミルキやカルトまで電撃を受けて悶えていた。しかし、最もダメージを受けているのはキルア自身である。

 

 キルアはオーラを電気に変える能力により電気によるダメージを受けない体質になっているが、その限度を超えた量が流れ込んできているのだ。

 

 充電によって使用可能になるという能力の制約はあるが、これは溜め込んだ分の電気量しか利用できないというわけではない。それなら単に電気を出し入れできるだけの能力だ。神速が使えるキルアには十分利点があるが、それだけでは終わらない。

 

 その能力の真価はオーラを電気に変えられる点にある。力の源泉はオーラだ。オーラを燃料にした発電と言い換えることもできるだろう。

 

 外部から充電した電気はその能力を引き出すための呼び水のようなものだ。これが切れたからと言ってオーラまで全部なくなってしまうわけではないし、充電したからと言ってオーラが回復するわけでもない。制約として能力を高めるため、自らに課した条件としての意味合いが強い。

 

 しかし、そのきっかけに過ぎない外部の電力が、体内に溜め込んでおけないほどの高電圧・高電流だった場合どうなるか。

 

 自滅は必至である。人間の体は水とタンパク質の塊だ。それを焼き尽くすほどのエネルギーが流れ込めばいくら念能力でも防ぎきれない。電気が効かない特殊体質だろうと限度がある。

 

 キルアは自身を守るために電気を無害化して外へ逃がさなければならなかった。流れ込んでくる大電力を自身のオーラと混ぜ、体外へ放出する。このとき得られるエネルギーは、通常時キルアが全力で放てるオーラの顕在量を凌駕する。ただでさえ強大な電撃が、さらにオーラによって何倍にも強化された状態となる。

 

 

 ――『落雷・雷霆万鈞(らいていばんきん)』――

 

 

 視界を白く塗りつぶす稲妻がキルアの手から放たれた。幾重にも重なる光の奔流。耳をつんざく轟音が鳴り響く。音よりも速く落ちる雷に遅れてくる音が追い付くということは、それだけの時間、雷撃が続いていることを意味していた。

 

 全ての電気を放ち終えたキルアはその場に倒れ込んだ。もうオーラは残っておらず、出せる力を絞り尽くした状態だった。

 

 ダメージは体力の消耗に留まらない。体中から煙が上がっている。ショックを起こした筋肉の痙攣は止まらない。一番まずいのは心臓が自分でもヤバイと思うレベルで不整脈を起こしていることだ。そのまま心停止してもおかしくない。

 

 こうなることはわかっており、だからこそ使いたくない技だった。正真正銘、最後の手である。まさか傭兵団の面子がこれだけそろって使う機会があるとは思っていなかった。

 

 何よりも、人に対して使う技ではない。オーバーキルだ。肉塊どころか消し炭すら残らないだろう。それはたとえ、伝説の暗殺者であってもだ。シルバがどれだけ強かろうと、もはや一人の人間が抗える力ではない。そんなことができれば人間ではない。

 

 自分が殺されそうになったからこその意趣返し。そう言った感情はキルアになかった。自分でもよくわからないが喧嘩のルールを破るつもりはなかった。

 

 言うなれば、信頼だ。シルバならこの攻撃を何とかしてみせる。そうできるはずだという期待があった。確実に殺してしまったという後悔がありながら、なぜかそれでもシルバは生きているはずだという根拠のない矛盾した感情が湧き起こる。

 

 やはり、親子ということなのだろう。キルアは震える視界の先に、壮健な父の姿を見た。

 

 シルバは堪え切ったのだ。それは到底、気合だけで為せる技ではなかった。彼は全てを焼き尽くす破滅の雷撃を前にして『奈落』を使用する。

 

 重力を操作して自身の周囲に漂う空気を変化させた。電気は気圧が低い空間を流れやすい性質がある。自身の周囲の気圧を高め、その外側の気圧を低くし、気圧差によって電気を逃がす道筋を作ったのだ。

 

 とはいえ、完全な無効化はできなかった。外からはわからないが、大きな深手を負っていた。平然としているのは子供の前で無様な姿は見せられないという見栄だ。戦えるだけの力は残っていない。

 

 だが、立つこともままならないキルアに比べればまだ動ける。悔しそうに顔を歪めるキルアのそばまで近寄ると、そこにしゃがみ込み、頭の上に手を置いた。

 

「よくやったな、キル。お前の成長には驚かされた。お前にならアルカを任せられる。解放を認めよう」

 

 その言葉をキルアは噛みしめる。これまでにも褒められたことは何度もあった。ゴンたちと一緒に外の世界で暮らしたいと言い出したとき、最終的にシルバはその外出を許可してくれた。

 

 許されただけだ。与えられた課題の中で残した成績を褒められ、自由を許されただけだった。だが、今のシルバの言葉は違う。キルアは初めて“認められた”のだと実感できた。にもかかわらず、彼の表情は晴れない。

 

「別にオレ一人の力でここまで来たわけじゃない。仲間に頼って得た力だ」

 

 チェルがいなければ勝負にもならなかっただろう。予備のバッテリーもルアンが作ったものだ。素の実力では到底、シルバには及ばない。当たり前だとわかっていても悔しかった。

 

「何を恥じることがある。どんな凄腕の暗殺者だろうと体は一つだ。仲間に頼ることもあるだろう。それが、お前をこの家の外に出した理由でもある」

 

 個人の戦闘力だけが暗殺者の資質ではない。人材を結ぶコネクション、組織力が物を言う局面もある。それもまた一つの力だ。がむしゃらに鍛錬を積むだけでは得られない。

 

 家の中に閉じ込めておくだけで育つ資質ではない。組織の一員としての役割を果たすだけならそれでも十分だが、キルアはいずれこの家の当主に立つ人間である。いずれは外の世界を見せ、学ばせることが必要だろうとシルバは考えていた。

 

 そしてキルアは仲間を得て立派に力をつけ、イルミにつけられていた手綱まで引きちぎり、ここまで実力を示した。これ以上言うことはない成果だ。

 

「誇れ。お前は俺の息子だ」

 

「親父、オレ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「決着はついたな。話を先に進めるぞ」

 

 メルエムがぱちりと指を鳴らす。そこからの変化は劇的だった。劇、というより本の世界の出来事とでも例えようか。

 

 間違ってページをめくり間違え、何ページか先を読んでしまったかのような感覚である。ただ、その本の内容自体は既に知っているため、ページが飛んでも筋書きがわからなくなることはない。

 

 例えようがないのだが無理やり言葉として表現するならそんな感覚だった。全員があっけに取られる。キルアたちはアルカが囚われている監禁部屋の前にいた。

 

「おまっ!? てめぇ、親子の感動シーンになんてことを!」

 

「たわけが。くだらん茶番にいつまで付き合わせる気だ」

 

 あのままキルアとシルバの会話が続けば、この監禁部屋の場所もセキュリティをパスする解除コードも漏れなく教えてもらえていた。

 

 別にメルエムが力を使わずとも良かったのだが、それだと彼女が必死こいて頭を働かせた4分47秒の仕事が無駄になる。メルエム的には堪えがたい屈辱だった。

 

「とんでもねぇ、普通あの流れをぶった切ろうと思うか……?」

 

「べ、別に良いって! オレはアルカさえ助け出せれば文句ねぇよ!」

 

 キルアとしてはむしろ助かった気分だ。あの流れに任せていたら、何か恥ずかしいことをみんなに聞かれてしまったような気がしてならない。うやむやになってホッとしていた。

 

 ともあれ一件落着。大団円を飾るように役者はそろっていた。キルアたちだけでなく、クインとカトライとルアン(拘束中)の陽動班も途中で合流したことに“なっている”。

 

「は、え、なにが……?」

 

「ど、どこだよここ!? いや知ってるけど、オレなんで知ってんだ!?」

 

 ついでにミルキとカルトまでいた。事情を知らない者からすればメルエムの能力は恐怖でしかない。動揺を隠しきれずにいる。

 

 メルエム自身はこの能力をアイの下位互換と語るが、問答無用で結果を改変するアイとは違い、メルエムの未来を確定する能力はそこに至るまでの過程を改変してしまう能力と言えた。だからこそ結果が決まっている未来については手が出せないと言うべきか。

 

「なんでこいつらまで連れて来たんだよ」

 

「それだけ強固な因果がこやつらをここまで導いたということだ。排除した未来を確定することも可能ではあったが、計算が面倒になりそうだったので省いた」

 

「強固な因果?」

 

「簡単に言えば、何かまだしたいことがあるからここにいるということだ。ここまでついてくるという意思が弱ければいくらでも他の未来を探し出せるからな」

 

 まさかまだアルカ救出を阻止できるとでも思っているのだろうか。傭兵団の戦力が揃ったこの大所帯についてきて打つ手があるとは思えない。

 

「ボクはまだ、認めたわけじゃない……! 兄さんは間違ってるよ!」

 

「だからどうした? 止められるとでも?」

 

「くっ!」

 

 何もできないことはカルト自身、骨身にしみてわかっていた。あまりにも大きな戦力差だ。だからメルエムも同行させることを気にも留めなかった。

 

「つーか、カルトはともかく、なんでブタくんまでいんだよ? お前真っ先に逃げるタイプだろ」

 

「いや、なんでって聞かれてもオレもわかんな……ちょ、待て、電気バチバチさせんな!?」

 

 キルアは最後の戦いで枯渇寸前までオーラを使い果たしていたが、チェルの『元気おとどけ』でオーラを分け与えられ、行動できるようになっている。まだ体の方は本調子ではないが、ミルキをいたぶることくらい造作もない。

 

「そもそもさっきの戦いの時も、引きこもりのお前が最初から出張ってきたこと自体がなんか怪しいよな。何か企んでるんじゃないのか?」

 

 現状においてキルアはカルトよりもミルキの方を危険視していた。念能力者としてはしょぼくとも、兵器の開発や情報技術の分野では飛びぬけている。オーラを見て詳しく探ることができないそれらの技術はある意味で厄介でもあった。

 

「別にオレは何も……」

 

「そういえばミル兄、『オレも今回の戦いには参加するぜ。カーマインアームズはオレの獲物だ。捕まえて好き放題してやるぜ。グヘヘ』とか言ってたよ」

 

「カルトさん!?」

 

「へーそう、お前そういう趣味ありそうだもんなぁ……」

 

 まさかの内部告発により窮地に立たされるミルキ。キルアにとってカーマインアームズは雇用関係を超えた大切な仲間たちだ。ミルキがどうにかできるわけないとわかっていても、腹は立つ。

 

 いよいよキルアの全身が音を立てて電気のオーラに包み込まれる。ミルキの方は人形の用意もない生身の本人だ。青ざめるしかない。

 

「ち、違う! 誤解だ! 別に何もやましいことは考えてない!」

 

「言い訳はお前を丸焼きにした後で聞いてやるよ。喋れたらな」

 

「オレはただっ、シックスのことを助けたかっただけだ!」

 

「あぁ……?」

 

 ミルキはコフーコフーと荒い息を立て、自分の腹肉に苦しみながら体を折りたたんで土下座する。キルアはなぜミルキがシックスのことを知っているのかと疑問に思った。

 

 しかし、シックスが過去にアイチューバーとして活動していたことを思い出した。ミルキならそのくらいのことを調べ上げていてもおかしくないと気づく。

 

「カーマインアームズはシックスの関係者なんだろ。それがゾルディック家に盾突いたらどんな目に遭うか……だからオレが割って入って助ける気だったんだ! 全員は無理でも、できるだけ……!」

 

「なんでお前にそんなことする理由がある? お前とシックスの関係は?」

 

「その、知り合いっていうか、と、友達?」

 

「はあ? ブタくんに友達ぃ?」

 

「なんだよ! オレにだって友達くらい腐るほどいるわ! ……ネット上でだけど!」

 

 キルアが知っているミルキは断じて他人を気遣おうなんて考え方をする人間ではない。どうせ我が身可愛さでその場限りの嘘をついているのだろうと決めつける。

 

「まって」

 

 電撃を浴びせて黙らせようとしたキルアをクインが止めた。土下座の体勢から頭を抱えて震え上がっていたミルキはおずおずと顔を上げる。

 

 クインはカトライに目を向けた。巫女服姿のカトライは、這いつくばって拘束衣を着せられたルアンのリードを飼い主のように握っていた。それはともかく、他人の悪意を可視化できる彼女ならばミルキの話の真偽を判定できる。

 

「その人は嘘を言っていません」

 

 にわかには信じられないキルアだが、カトライが言うことを否定もできない。クインはミルキの手を取って立ち上がらせた。

 

「この中に、シックスはいるのか?」

 

 そのミルキの問いにクインは固まった。あまり軽々しく口にできる話ではない。だが、シックスの身を今も案じているミルキには知る権利があるだろう。彼女は真相をかいつまんで話した。

 

「そうか、死んだのか……」

 

 暗殺者として育てられたミルキにとって死は日常だ。シックスの死も彼にとっては道端を転がる死体の一つと変わりない。そう自身に言い聞かせる程度には感傷的になっていた。

 

「意外だね、ブタくんが見ず知らずの誰かのために行動を起こすなんてさ。ネットで知り合っただけなんだろ?」

 

「ネットだから何だ。直接会って話さなければ友達ではない、とでも言う気か?」

 

「ぐっ、言うじゃねぇか、ブタくんのくせに……」

 

 ミルキはここ十年余り、ずっと自宅に引きこもっていた。外部とのつながりは家族とネットしかない。たかがネットと吐き捨てることはできなかった。

 

 そして、そんな人間がこの世には大勢存在することを知っている。この情報社会の中で、誰しもが多かれ少なかれネット上の関係を築き、そこに拠り所を求めているのだ。

 

「クイン、と言ったか。シックスにはまだやり残したことがある。あいつにはアイチューバーとして多くのファンがいた。今もまだ、いる」

 

 シックスはスカイアイランド号のオフ会を機に姿を消した。何の報告もなく放置されたそのチャンネルには、まだ多くの登録者が残っている。

 

 モナドの犯行声明が世に出回り、シックスも含めて極悪人のレッテルを張られたが、顔が同じというだけで両者が同一人物であるという証拠はない。映像しか残っていないこともあり、偽造しようと思えばできることだった。

 

 根強いファンは、シックスがそんなことを言うはずがないと信じていた。もしくは、世界征服系アイチューバーとして復活することを待ち望む者たちもいる。銀じゃがスレは細々とだが、王の帰還を待ち望む狼藉犬たちによって存続していた。

 

「シックスの後を追ってアイチューバーを続けろとは言わない。だが、あいつがもういないことを伝えるべきだ。あいつの夢を、このまま置き去りにすることは同じアイ……同好の士として見過ごせない」

 

 全ての真実を包み隠さず話すわけにはいかないだろうが、何らかの形で幕引きをしてやるべきだとミルキは諭した。確かにその通りだと、クインは自分の考えが及んでいなかったことを反省する。ミルキは一枚の名刺を差し出した。

 

「その気になったらそこへ連絡しろ。一人で発表しても信憑性を疑われるかもしれない。オレの知り合いの有名アイチューバーが何人かいるから、手を回して場を整えてやる」

 

「でも……」

 

「勘違いするな、これはあいつへの借りみたいなもんだ。ま、オレにできることはお膳立てだけ……後はお前らの好きにすればいいさ」

 

 そう言うとミルキはクールに立ち去って行く。太い後ろ姿のシルエットが遠ざかる。去り際のポーズを決めて。

 

「ブタくんのくせに……!」

 

 その背中に向けて『落雷』を無性にぶち込みたくなったキルアだが、クインの手前何とか思いとどまった。それよりも今はやることがある。

 

 当初の目的を果たすため、ついにキルアはアルカのもとへ向かう。物々しい扉の施錠はシルバから教えられたコードにより解除されたことになっており、生体認証システムもキルア自身で解除できるように設定が変更されたことになっている。

 

 改めて恐ろしい能力だと恐怖を感じたキルアは思わずメルエムを見ていた。

 

「何だ?」

 

「いや、親父のはともかく、妹の再会シーンは飛ばさないでくれよ」

 

「誰がそんな面倒なことを」

 

 いくつもの隔離壁を開け、たどり着いた先は保育施設のようにかわいらしい子供部屋だった。おもちゃやぬいぐるみで溢れた部屋の中に、まるでそのうちの人形の一つであるかのように一人の少女が座っている。

 

「アルカ!」

 

「……お兄ちゃん?」

 

 二人は抱き合い、心から再会を喜んだ。もう誰も邪魔する者はいない。キルアはすぐにここから出ようと伝える。これからは一緒だと。この場にいる者たちは温度差こそあれ、誰もがアルカの解放を祝福していた。ただ一人を除いて。

 

「兄さんはいつもそうだ。アルカのことばっかり構って……」

 

 仲睦まじい兄妹の再会を見たカルトの感情は、堰を切ったようにあふれ出した。

 

「ボクだってもっと兄さんと!」

 

 キルアのアルカに関する記憶が封印されたとき、カルトはそれを清々しく思っていた。キルアは他の家族よりも人一倍アルカに気をかけていた。それに嫉妬していた。これでキルアを兄と呼ぶ存在はこの世に一人しかいなくなったと安堵した。

 

 その平穏な日々もキルアの家出を境に崩壊していく。キルアは外に出たまま家に帰って来ない。父もそれを不問に処す。カルトは何とか兄を連れ戻そうと画策していた。

 

 ただ、カルトはキルアのことが大好きなのだが兄に対して素直になれないところがあった。面と向かって直接話すなどもってのほかだ。そのため力づくで兄を取り戻すべく、まずは武者修行のため幻影旅団に入るという回りくどいやり方しかできずにいた。

 

「な、なんだよお前、急に泣き出して……」

 

 キルアは戸惑いを隠せない。カルトのことは嫌いではなかったが、大きくなるにつれ疎遠になったように感じていた。何を考えているのかわからず、もっと言えば嫌われているような気さえしていた。

 

 今回は家の方針に従ってアルカの救出を邪魔しに来ているだけと思いきや、それだけではないらしいとさすがに気づく。

 

 何を思ったのか泣きじゃくるカルトはキルアに突進した。キルアは敵意を感じなかったで避けはしなかった。前はアルカ、後ろはカルトから抱き着かれサンドイッチされる。

 

「兄さんがアルカと出て行くつもりなら、ボクも一緒に行く!」

 

「はあ!? なんでそうなる!?」

 

「それは……とにかくついていくのぉ! それともアルカは良くてボクはダメだって言うの!?」

 

「い、いや、そうは言わないけど……」

 

 本音を言えば連れて行きたくはない。ゾルディック家がアルカの監視役としてカルトを傍に置くつもりなのではないかと疑う気持ちもあった。

 

 しかし、いつもは冷静でそっけないカルトがここまで感情的になった姿はなかなか見たことがない。キルアは、まだ自分によく懐いていた頃のカルトを思い出していた。

 

「なら『取引』だ。こちらは同行を許す。その代わりお前は絶対にアルカへ危害を加えてはならない。情報も漏らすな」

 

「わかった、それでいい」

 

 ゾルディック家において取引に関する虚偽は極刑に値する。殺したいくらいアルカのことを憎んでいるカルトだが、甘んじて受け入れるしかない。

 

 取引の強制力はカルトだけでなくキルアにも働く。カルトがアルカに危害さえ加えなければ同行を拒否できないということだ。

 

「それじゃ二人とも仲良くしろよ」

 

 だからと言ってカルトに仲良くする義理はなかった。暴力的な手段は使えなくなったが、どうにかしてキルアとアルカを引き離せないかと策を巡らせる。

 

 そこへアルカの方から、すっと手を差し出された。にこやかに求められた握手。敵視しかしていなかったカルトはその相手から差し伸べられた友好を見て取り、なんだか負けた気がして屈辱と羞恥を覚える。

 

 

 

「カルトー、着物の帯ちょうだい」

 

 

 

 しかし、その手は握手を求めたものではなかった。キルアとカルトに緊張が走る。アルカによるおねだりだとすぐに気づいた。

 

 アルカに潜むナニカはおねがいを叶えた後、その代償を別人に負わせる。アルカがこの部屋に閉じ込められる直前、ミルキが当時最新式のパソコンをおねがいによって得ていた。その清算がまだ終わっていない。

 

 アルカが代償であるおねだりを課す人間は、彼女が名前を知っている者でなければならない。キルアは対象外となり選ばれることはなく、また傭兵団のメンバーもアルカとは初対面だ。必然的にカルトにおねだりが来てしまった。

 

「いや焦ったけど、着物の帯なら全然大丈夫だろ。カルト、早く脱げ」

 

「う、うん」

 

 何か嫌な予感がしながらも、カルトは帯を外して渡す。おねだりは同じ人間が三回こなさなければならない。すぐに次のおねだりが来た。

 

「カルトー、着物ちょうだい」

 

「いや、それは」

 

「バカ、断るな! 命がかかってんだぞ! 脱げ!」

 

「待って! まだ心の準備があああ!? 兄さんやめてえええ!!」

 

 アルカのおねだりを4回連続で断ると、その人物と最愛の人の最低二人は確実に死ぬ。キルアは容赦なくカルトの服を脱がせにかかった。

 

 その光景を眺めているアルカは笑っていた。しかし、顔は笑っているが心中ではブチギレ寸前だった。

 

 長期間に渡ってこんな場所に閉じ込められ、ようやく会えた兄と愛の逃避行に繰り出す矢先のことだ。二人きりの時間は束の間、そこに割り込んできたカルトを良く思うはずがない。お姉ちゃんでも腹に据えかねる三角関係が修羅場に突入しようとしていた。

 

 裸にされたカルトは胸を隠しながら、堪えがたい羞恥に顔を染めうずくまる。それは誰が見ても乱暴された美少女の姿そのものだった。そこへ最後のおねだりが来る。

 

「カルトー、パンツちょうだい」

 

 キルアからすれば、なんだそんなことか。カルトにしてみれば、あまりに非情な要求である。これにはたまらず逃走を図ったが、『神速』を使ったキルアに速攻で捕まる。

 

「やだああああああ!」

 

「恥ずかしがってる場合か! あ、そうか。みんな、ちょっと向こう向いててくれ!」

 

 キルアが傭兵団に指示を出す。家族同士ならいざ知らず、衆目にさらされた状態で丸裸にしてしまうのはかわいそうだと思ったからだ。そのキルア本人に一番見られたくないものとは思ってもいない。

 

 そのやり取りを見た傭兵団は、ある者は微笑ましいものを見る表情で、ある者は付き合いきれんと投げやりに、ぞろぞろと部屋から退出していく。

 

「さあ、これで問題ないな。脱がせるぞ」

 

「大アリだから!? 一番の問題が残ってるから!?」

 

「カルトー」

 

「ほら早くしろ! 死にてぇのか!」

 

 ビッ、ビリ……

 

「おねがい、パンツだけは! パンツだけは、あっ」

 

 ビリビリビリィッ!

 

 

 

「 ア ア あ ア ア ア ア 嗚 呼 ア あ あ あ ア ! ! ! 」

 

 

 

 魑魅魍魎うごめく樹海に甲高い絶叫が響き渡る。カーマインアームズ、壮大な後片付けを残しながらも今回の依頼はまあ何とか達成。後にこのゾルディック家襲撃事件は、かの傭兵団を語る上で必ずと言っていいほど引き合いにだされるのであった。

 

 



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番外編:大解剖ギアミスレイニ!

 

「うわぁ、真っ暗で……何も見えない」

 

 海底深度1000メートル付近を航行中の潜水艇『マクマイヤ号』の中には、クイン、ルアン、そしてゴンとキルアの4名が乗り込んでいた。外の映像を見ながらキルアがつぶやく。

 

「最初は潜水艦っていうからワクワクしてたけどさ、実際乗ってみたらなんか普通」

 

「ナニィ!? ロマン感じるでしょ!? 君たちもっと子供らしくはしゃいでもいいのよ? 私なんか嬉しくて三日くらいここで泊まったんだよ?」

 

 本艦の整備ほっぽり出してな、とクインがルアンにツッコむ。

 

「だってなんか白いゴミがいっぱい浮かんでるだけじゃん」

 

「……少し待ってください。潜水艇らしさを演出するため、適当な岩にぶつけて浸水させます」

 

 やめろとクインがツッコむ。飽きた様子のキルアと違って、ゴンは食い入るように映像を見つめていた。

 

「十分、楽しんでるよルアンさん。海底の世界って地上に比べればわかっていることはほんのわずか。気づいていないことにも気づかない未知があふれてる」

 

 

 

 

 ゴンとキルア、ビスケの三人はグリードアイランドをクリアした後、消息を絶ったシックスの行方を捜していた。手がかりを求めて大破壊の爪痕を残すオチマ連邦ジャカール諸島を訪れる。

 

 そのとき彼らのホームコードに意味深な連絡が入ったのだ。世界中を忙しなく飛び回ることが多いハンターは、仕事の依頼などを受け取る受信専用ダイヤルを持っている。

 

 その連絡を入れた人物こそクインだった。パリストンに協力してもらいシックスの足跡をたどる過程でゴンたちの存在を知る。真っ先に、彼らには真実を伝える必要があるとジャカール諸島へ潜水艇を向かわせたのだった。

 

 しばらく同じ時間を過ごした彼らはシックスの死を受け入れ、クインらと友誼を交わした。そして現在、GIをクリアして他にやることもなかったゴンとキルアは潜水艇に乗って深海へと来ていた。

 

 ちなみにビスケは来ていない。選挙とかハンターの仕事が立て込んでいるらしい。無理をしてシックスの捜索に時間を割いてくれていたようだ。暇になったら改めて行くと言っていた。

 

 潜水艇は南アイジエン大陸の西岸部をなぞる大海溝を進む。人類はまだその場所の多くを知らない。深海探索艇による局所的な調査が関の山だ。人類領海域の中でさえ、そんな場所はあふれていた。

 

「さあ、見えてきましたよ! あれが私の海底戦艦『ギアミスレイニ』です!」

 

 おまえのじゃねぇとクインがツッコむ。自慢するルアンだったが、潜水艇のライトしか光のない深海では船の全容はわからない。近づいてもわかるのは巨大な壁があるということだけだ。

 

 だが、その禍々しい巨大な姿は動画の中で何度も見ていた。ゴンとキルアは思わず息をのむ。潜水艇が近づくと、壁の一部が動き出した。格納室のハッチが開いたのだ。

 

「おぉ~」

 

 艦内に潜水艇が帰還する。ハッチが閉まり、格納室を満たしていた海水が外へ排出されていく。これにはつまんねーと言っていたキルアも少年心をくすぐられたのか、そわそわしていた。

 

「お待ちしておりました、ゴン様、キルア様。わたくしは当傭兵団の使用人、アマンダ=ロップと申します」

 

「おじゃまします!」

 

 外に出るとスーツをかっちり着こなした女性が一行を出迎える。生まれた時から身の回りに執事がいたキルアにとっては使用人と言っても物珍しさはない。ゴンは律儀にお辞儀を返している。

 

「差しつかえなければ私が艦内を案内させていただきます」

 

「いいよ。堅苦しいの嫌いなんだよね」

 

 キルアは少し邪険な態度だった。というのも、アマンダの視線に何か妙なものを感じたのだ。実はゴンも同じ違和感を覚えていた。例えるなら、背後からヒソカにケツを見られた時のようなぞわぞわする感覚である。

 

(お二人とも可愛らしいお洋服が似合いそうな少年ですね。キルア様なら素材の味だけで十分イケます。ゴン様の方はヘアスタイルをセットし直して……)

 

 目測でミリ単位まで正確な採寸を可能とするアマンダの計測眼がゴンたちを舐め回す。その不穏な空気に気づいたクインが変態使用人を追い払った。

 

 ルアンも船の計器のチェックに行くということで一度別れることになった。客人の案内はクインが引き受ける。

 

「へー、外観は不気味だったけど、中は意外とまとも」

 

 内部は至って普通の構造だった。大型飛行船の旅客部と大して変わらない。普段暮らしに使う区画なのだからそんなアトラクションじみた造りにされても困る。クインは主要な部屋を案内していくことにした。それと平行して出会った団員の紹介をしていけばいい。

 

 まずは事務室。傭兵団の仕事はこの部署なくして成り立たない。経費の処理、顧客の対応、仕入れ、外部機関との交渉、その他諸々の裏方仕事は全部ここにぶちこまれてくるぞ。そのほとんどの仕事はカトライが担当する。

 

 だが、所詮は小規模な傭兵団なので事務仕事もそれほどなく、忙しい時はクインやアマンダがヘルプで入る。ブラックな環境ではない。

 

「あぁ~……パリストンさん……あぁ~、パリストンさん……」

 

 書類が山積みになっている事務室の中にはデスクで頭を抱えたカトライがいた。うわ言のように誰かの名を口にしている。恋する乙女のつぶやきではないことは、その疲弊しきった顔を見ればすぐにわかった。パリストン案件だ。

 

 ちなみに今日はナース服姿だった。むしろ看護が必要な立場だろう。使用人に遊ばれたその姿は謎の郷愁をそそる。クインは静かにドアを閉めた。ゴンたちの案内が終わったら手伝おうと。

 

 カトライはちょっと取り込み中のようだったので紹介は後回しにすることにした。気を取り直して次は食堂へ向かう。

 

 みんな大好きな食事の要所、コックのクインにとってはメインの仕事場である。広々としたダイニングキッチンになっており、気分を和ませる観葉植物もそろえてクインが世話していた。

 

 そんな憩いの空間には先客がいた。誰かが冷蔵庫を漁っている。片目を眼帯で覆い隠したミリタリ系の少女が数本の魚肉ソーセージを取り出して頬ばっていた。

 

「ギョニソギョニソギョニソー♪ おいクインー、あれ作ってくれよー、ギョニソ油で揚げたやつ作ってくれよー」

 

 誰かが部屋に入ってきたことには気づいていたチェルだったが、どうせクインだろうと気を抜いてた。冷蔵庫の中を物色し終えて、顔を上げた先にいる少年二人の姿をようやく確認した。

 

 完全にオフの気分だったチェルはぎょっとする。誰!?と思ったがその疑問を口に出すこともできず空気が凍る。

 

「ぎょ……ギョニソいる?」

 

「いや、別に」

 

「う、うまいよね、これ」

 

「そうだね」

 

 クインはそっとドアを閉めた。チェルはいつもカッコよく団を引っ張ってくれる頼もしい存在なんだ。団長はクインだが、もし副団長を決めるとすれば真っ先に彼女を選ぶことだろう。ただ、ちょっと今は間が悪かった。

 

 落ち着くための時間が必要だろうと、チェルの紹介は後回しにすることにした。まだまだ他にも案内する部屋はある。次は鍛練場に行くことにした。

 

 居住区画の中でも最も広い部屋で、隣には射撃場も併設されている。傭兵として戦闘力を磨くことは当然。日々の鍛錬に欠かせない施設である。当初は様々なトレーニング器具が設置されていたが、全部ぶっ壊されたため、今はただ広いだけの空間になっている。

 

 この時間帯ならばアイクがサッカーでもしているだろうと予想する。ゴンたちの遊び相手になってくれればすぐに打ち解けるかもしれない。クインは鍛練場の入口を開けた。

 

「「「――!?」」」

 

 その瞬間、部屋の内部から噴き出す殺気。キルアなど、それを感じ取るや否や逃げ出して蜘蛛のように天井際の壁に張り付いていた。

 

 アイクは鍛練場の奥で静かに座禅を組んでいる。その表情は、こころなしか、劇画タッチ。彼女を中心として広がる威圧は、加減しなければ数里先まで届き深海生物たちを退けていただろう。

 

 クインはすぐに入口を閉じた。金縛りから解かれるようにゴンとキルアの体に自由が戻ってくる。

 

 クインが時計を確認すると午後3時をわずかに過ぎていた。サッカーで遊んでおやつを食べ一息ついたアイクはその後、目もくらむ恒星のごときオーラをその身に宿した精神統一の業に入る。その日課をすっかり忘れていた。

 

 あと2時間はあのまま動かない。紹介は後回しにするしかなかった。どっと疲れた様子のゴンたちを引き連れ、次は団員の個室エリアを案内することにした。

 

 団員には一人一人、プライベートに使える私室が与えられている。もちろん、団員不在の部屋に勝手に入るわけにはいかないが、メルエムなら自室にいるだろうと思い、ノックしてドアを開けた。

 

 そして広がる異次元の気配。先ほどのアイクの精神統一を膨大な広がりを見せる宇宙に例えるなら、メルエムのそれは小宇宙的だった。

 

 少女が盤面に駒を打っている。軍儀というボードゲームだ。一人将棋ならぬ一人軍儀である。ただそれだけの遊戯であるにも関わらず、尋常ではない気迫があった。

 

 駒が並ぶ盤上に構成された世界。少女の一手がその世界を作り変えていく。ルールを全く知らないゴンたちでさえ、魂を吸い込まれるかのような深淵の一端を垣間見た。

 

「何用で参った?」

 

 その淡々とした物言いとは裏腹に、下手なことを言えばその瞬間くびり殺されるかのような殺意が感じ取れる。クインはそっとドアを閉めた。後回しだ。後回しにするしかない。

 

 だがもう残る団員はというと、この艦のオーナーこと、引きこもりのモナドしかいない。モナドが今日訪ねてきたばかりの他人と顔を合わせる光景が想像できないのだが、仲間外れはかわいそうだ。

 

 ここまで来たらダメ元で行ってみようと、クインはモナドの部屋に向かった。この個室エリアはゲストルームを兼ねているので団員の数以上の空き部屋がある。モナドの部屋はその突き当りにあった。クインはノックしてドアを開ける。

 

「偉大なるルキフゲ・ロフォカレ閣下! なぜお越しくださらないのですか!? どうかすぐにその姿をお見せください! さもなくば72柱の悪魔を従えし王の呪文が閣下を苦しめます! XYWOLEH・VAY・BAREC・HET・VAY・YOMAR・HA・ELOHE・ELOHIM・ASCHER・TYWOHE・HYTHALE・CHUABOTAY・LEP・HA・NAWABRA・HAMVEYS・HA・HAKLA・ELOHIM・HARO・HE・OTYMEO・DY・ADDHAYON・HAZZE・HAMALECH・HAGO……」

 

 ダメだった。ちらっと見えた部屋の中ではモナドが床に赤い染料で魔法陣らしきものを描いていた。クインはドアを閉める。

 

 どうやらモナドは悪魔召喚の儀式の最中のようだ。アニメか漫画の影響だろう。彼女は現実とフィクションを区別する脳の機能が死んでいるのだ。結局、団員の紹介はままならなかった。

 

「話には聞いてたけど、ある意味すごい人たちだったね……」

 

「おまえんち、やべーやつしかいないじゃん(ブーメラン)」

 

 しかし、何も今すぐ全員と顔合わせしなくてはならないわけでもない。一度食堂に戻ってお茶でも淹れようと、来た道を戻っているとちょうど通りかかったキネティと出くわした。

 

「ああ団長、そう言えば来客があると言ってやしたね。傭兵見習いのキネティです」

 

「オレ、ゴン! よろしくね!」

 

「やっとまともそうなヤツがいた……!」

 

 キネティは年頃もゴンたちと同じくらいで、人間性もごく普通のものだったのですぐに打ち解けた。ゴンとキルアは普通が一番なんだなと実感していた。

 

 しかしその安らぎの時間も束の間、突如としてけたたましいサイレンが艦内に鳴り響いた。

 

『エマージェンシーコードR! 第7区画にて敵性反応確認!』

 

 よりによって来客中に敵襲かとクインは眉をひそめる。

 

「敵襲って、ここ深海なんだよね?」

 

「ダイオウイカがぶつかって来たとか?」

 

 暗黒海域ならまだしも、人類領海域の深海生物はギアミスレイニの脅威足り得ない。この船はもっと厄介な問題を抱えているのだ。ひとまず詳しく説明するよりも先に中央管制室へ急行する。

 

 ギアミスレイニのメインコントロールルームである。団員の生体情報を読み取って自動開閉する隔壁を抜けると、大小さまざまなモニターが置かれた広い部屋に出た。ここでは艦内のあらゆる情報を集積し、解析している。

 

 艦外の情報も集めてはいるが、もっぱらその役割は内部の監視にあった。生物に例えるなら免疫系に相当する。クインよりも先に来ていたルアンは既にトラブルの解析処理を進めていた。カトライもその隣で補佐している。

 

「おかしいですねぇ。殺虫剤『メルサン』ならこの前散布したばかりなんですが……映像出します」

 

 ルアンがキーボードを操作し、モニターに映像を拡大表示した。そこには岩のような歪な形をした白い何かがもぞもぞと動く姿が捉えられている。

 

「形状はだいぶ変異していますが、これはアンコクグソクムシですね」

 

 深海には地表付近に生息する同類と比べて生物が巨大化する現象がみられる。例をあげればダイオウイカなどがある。その中で、世界最大の等脚類とされるダイオウグソクムシもまた有名な部類だろう。ダンゴムシやフナムシの仲間だ。

 

 環境が変わればそこに棲む生物の生態も、強さも変わる。ルアンが命名したこの等脚類、アンコクグソクムシは暗黒海域原産の生物だ。この虫だけでなく、様々な暗黒海域の生物が艦内に乗り込んでいた。

 

 もともとはギアミスレイニが交戦した生物の一部をモナドがアルメイザマシンによって封印して持ち込んだものだった。それが時間をかけて自力で活動を再開したり、ルアンが実験に失敗して外に出したりして艦内に居座り始めたのである。

 

 傭兵団は全力でこれらの駆除に当たったのだが、それでも完全に死滅させるには至らなかった。奴らは当然のようにアルメイザマシンに対する耐性を獲得していた。徐々にその生態系は拡大し、甲板を除く艦内全12区画のうち、人間がまともに生活できる環境は第1区のみとなっている。

 

 今クインたちがいる居住区だけが何とか平穏を保っていた。あとは人外魔境、バイオでサイバーな空間になってしまった。これが抑えきれなくなり、万一外へ流出する事態となれば第二、第三のキメラアントの悲劇へ発展しかねない。

  

「安心せい、そうならないためにワシらがおる」

 

「金稼ぎの依頼をこなすだけが傭兵の仕事じゃねぇのさ」

 

 アイクとチェルが中央管制室に入って来た。緊迫した面持ちのゴンとキルアに心配はいらないと声をかける。世界の平和を守っているっぽい雰囲気を醸し出しているが、元はと言えばお前らのせいだろとキルアは思った。

 

「概念汚染係数0.001未満、評価に値する点は殺虫剤への耐性を獲得したフィジカルくらいのものでしょう。推定危険度C++と言ったところですね」

 

 要するに雑魚らしいが、ゴンたちから見れば強さの問題以前に異質だった。生物は遺伝子の中に設計された種の形を持っている。その多様な形態は時に美しく、時に恐ろしく、自然界の理を表現している。

 

 だが、目の前に映る存在はその均衡が致命的に崩れていた。歪んだ甲殻の隙間から無節操に生えた多脚を動かし、複眼の塊が痣のようにいくつも浮き出ていた。しかもそれが俊敏に動き回る。白く透き通った殻の内側でグロテスクに脈動する臓物の様子が観察できた。

 

 見ていて気持ちのいいものではないことは確かだ。このような生物が他にも艦内をうようよと徘徊している。だが、その全てが駆除の対象となっているわけではなかった。

 

 一度は艦内に取り込まれ封印されていた生物たちはアルメイザマシンの影響を強く受け、この環境下に適応している。中には害をもたらすばかりではない種や、他の危険生物と戦い合って個体数の制限に役立っている種もいた。

 

 いわば艦内フローラとでも呼ぶべき生態系が成り立っている。人間の体にも膨大な数の微生物が住み着いており、その中には善玉菌もいれば悪玉菌もいる。傭兵団の役割は、この生態系の自浄作用を超えた有害種の排除にあった。

 

 今回のアンコクグソクムシ変異種は放っておけば新たな耐性個体の増加を引き起こしかねない厄介な生物である。弱いからと言って見過ごすことはできない。クインは早急な駆除に乗り出すことを決定する。

 

「『強制終了システム』起動準備」

 

「了解」「了解」

 

 ルアンとカトライが忙しなく装置を操作する。クインは部屋の中心に位置する団長席に颯爽と座る。するとその席が一段高くせり上がり、頭上から柱が降りてくる。クインは何本ものケーブルにつながれたヘッドギアを装着した。

 

「タリスマンアブソーバー起動、意識集合体ネットワーク『渦』との接続を開始します」

 

「敵対象の因果力測定中……暫定値160cep、捕捉完了。疑似量子演算装置『王の盤戯』は判定に成功。確率の計算に入ります」

 

 クインの頭上に降りてきた柱に光が灯る。ヘッドギアからケーブルを通して流れ出た光が柱へと注ぎ込まれ、満たされていく。

 

「なんか……ジャンルがちがくね?」

 

 キルアの素朴な疑問をよそにクインたちの作業工程は佳境に突入する。

 

「因果律分離シークエンス……まもなく再結合が完了します」

 

「バタフライエフェクト防止プログラム動作、良し。過程改竄ルート、計測誤差±0」

 

「システムオールグリーン」「システムオールグリーン」

 

 

 

「強制終了システム【デウス・エクス・マキナ】、実行」

 

 

 

 クインの指示と共に装置がひと際強い光を放った。ゴンたちはその閃光の中で、これまでに体験したことのない感覚を覚える。テレビ画面の映像がフリーズしたかのような、そんな感覚が現実の世界そのものに生じてしまったかに思える現象だった。

 

 だが、それも一瞬のことである。すぐに光は消灯し、大掛かりな装置は元の形に収納されていく。モニターに映っている敵の姿に変わりはないように見えたが、よく観察すると動いていなかった。透けて見える体内の臓器の鼓動も完全に停止している。

 

 それはメルエムの能力である確率操作と、渦のネットワークを利用できるクインの協力によって成し得る技だった。ギアミスレイニの艦内のみという範囲の制限と、もたらす結果は「死」のみという制約はあるが、発動に成功すれば敵は死ぬ。

 

 特別な代償もなく敵を即死させる脅威の性能である。ただし、この技の成否は敵の『因果力』によって左右されるところが大きく、確率を歪めるほどの概念汚染力を持つ生物に対しては効果が低い。

 

 今回の変異種に対しては問題なく効果があったようだ。無事に駆除を終えたかに思われた。しかし、そこで計器から異常を知らせるアラームが鳴り響く。

 

「なんですと!? 同種と思われる変異体の反応が複数出現! 卵から孵化したものと思われます!」

 

 敵は既に繁殖し、いくつもの卵を産み落としていた。次々に反応は増えていく。強制終了システムで処理できる範囲を超えていた。

 

「ふん、ならば現場に直接おもむいて試合うしかあるまい。チーム・ゴラッソアルメイザ、出場じゃ!」

 

 結局、いつものやり方で駆除することになった。アイクとチェルが出張る。自分たちの船なのに、まるで未開の地の探索に当たるかのようだった。

 

「あの、良かったらオレもついて行っていい?」

 

「何言ってんだ、ゴン!? ここの連中はオレらとは違う……ジャンルが!」

 

 居住区から一歩外に出れば別世界だ。いかにゴンが才気にあふれた念能力者だと言っても命の保証はない。さすがにキルアもクインも引き留めた。

 

「でも本当の暗黒大陸はこんなものじゃないんでしょ。いつかオレはその場所に行ってみたい。軽い気持ちでは決してないけど、予行練習として体験しておきたいんだ」

 

「ほっほっ、なかなか肝の据わった坊主じゃ。来たければ来い。ちょうどチーム要員が一人足らんかったところじゃ。わしとチェルのそばから離れなければ問題ないじゃろ」

 

 それでも危ないとクインは止めたがゴンの決意は固いようだった。それを見たルアンがごそごそと何かを取り出す。

 

「では、これを着てください。こんなこともあろうかと準備しておきました」

 

 ルアンが開発した一般人向け暗黒大陸調査装備だった。質量軽減処理を施したアルメイザマシン合金を使用した全身アーマーだ。さらにアーマーと肉体の隙間はヌタコンブ成分由来の衝撃吸収ジェルで埋め尽くされており、防御力は折り紙付き。酸素ボンベを搭載し、外気までシャットアウトできる。

 

「なんかジャンルがちがくね?」

 

 ついでにプロトタイプの改造コイルガンも装備させた。やたらカッコいい近未来的デザインのフルアーマーに、物々しい銃器のセット。ここに完全武装形態ゴン=フリークスが完成する。

 

「ジャンルがちがくね?」

 

 そのキルアの心配を払拭するように、アイクは持ち出したサッカーボールを華麗にリフティングし始めた。

 

「わしらの超念力フットサルに不可能はない。チームとボールを信じるのじゃ!」

 

「ジャンルがちがくね?」

 

 その後、アイク、チェル、ゴンの三名からなるチーム・ゴラッソアルメイザは第7区画へ向かった。1分間に約2500個の卵を産む巨大ダンゴムシ変異種の驚異的繁殖力によって一時は区画全域が占拠されかけたが、ダンゴムシをボールに見立てた発想の転換により敵そのものを強力な武器としたアイクのスーパーシュートが炸裂。大量得点を重ね、見事チームを優勝へ導いたのだった。

 






ダイオウグソクムシはダンゴムシよりフナムシ寄りの生き物みたいです。
それはさておき、鬼豆腐様より支援絵を描いていただきました!

【挿絵表示】

ウイングさんかっけぇ……たぶんこの後アイクのおもちゃにされそうだけど、かっけぇ……



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番外編:メルエムの休日

 

 暖かな日差しが降り注ぐ、のどかな田園風景が続く。田畑には農作業を行う村人たちの姿があった。舗装もされていない道の上を、一人の少女が歩いていく。メルエムである。

 

 その姿はあまりにも牧歌的な風景と噛み合っていなかった。目が覚めるように鮮やかな赤色のドレスは貴族の風格を思わせる。服だけでなく、それを着こなす少女の美貌も浮世離れしていた。日傘の下に垣間見える、結い上げられた銀色の髪は幻想的だった。

 

 しかし、不思議なことに村人たちは誰もその少女のことを気にするそぶりは見せなかった。まるで普段と変わらぬ日常をなぞるかのように、目もくれず仕事に打ち込んでいる。

 

 道なりにゆるりと歩を進めたメルエムは、やがて丘の上に立つ一軒の家の前に到着する。簡素な造りではあるが、その家は村の中でも一番立派だった。入口には『ハクリキ商店』と書かれた看板が立てられている。

 

 メルエムが店の中に入ると店主の女が出迎えた。男手は畑仕事に出かけている。女はその客の姿を見るなり目を点にして固まってしまった。凍てつくような触れ難い気配を持つ少女に、何と声をかけていいのかわからない。

 

「あ、ええと……」

 

 まごついている店主をよそに、メルエムは店の中を見回す。品ぞろえはお世辞にも良いとは言えなかった。食料品や日用品が棚の上に、申し訳程度に並んでいる。どれも古ぼけて使えるかどうかも怪しい商品だ。

 

 どうやら茶店を兼ねているらしく、建物の奥には飲食ができそうな空間があった。彼女は初めて口を開く。

 

「茶も出しているのか?」

 

「は、はい。しかし、とてもお嬢様にお出しできるようなものでは……」

 

 メルエムは構わず店の奥へと進んだ。軒先に近い席に座る。机も椅子も、日に焼けてボロボロだった。唯一、褒められる点を探すとすれば景色の良さくらいだ。庭に植えられた柿の木と山々の遠景が合わさった構図は情緒を感じさせる。

 

 客を追い払うわけにもいかず店主は精一杯のもてなしをするしかなかった。少女は差し出された薄い緑茶と味気ない団子を無言で食べ始める。表情に変化はなく、機嫌が悪いのかどうかもよくわからなかった。

 

「お嬢様はペイジンからいらしたのでしょうか? さぞかし名のある良家のご令嬢とお見受けしますが、こんな田舎にどのようなご用向きでしょう?」

 

「この村に軍儀王がいると聞いてな」

 

 軍儀とは、この東ゴルドー共和国発祥のボードゲームである。経済的に苦しい国であるが、金のかからないこの遊びが庶民の間でも娯楽として広く親しまれていた。世界大会も開かれるほど、それなりの知名度があるゲームである。

 

「なるほど、そうでございましたか。確かに世界大会の覇者……コムギという娘がおります。と、言いますのも、実はこの家の娘でして」

 

 15年前から開催されている世界大会において現世界王者である東ゴルドー代表は5連覇中である。公式戦において確認されている戦績は無敗。ただの一度も負けたことがない神童だ。

 

 口さがない言葉で卑しい生まれを罵られることもあったが、そういう身分とプライドの高い軍儀うちほど彼女に対戦を挑むことはなかった。一人で何世代分もの新たな戦略を生み出した天才である。腕に覚えがある者ほど信じがたい実力だった。

 

「ならば話が早い。余はそやつと一局交えに来た。ここへ連れてまいれ」

 

 確かに噂を聞いたもの好きがコムギとの対局を望んでこの村を訪ねてくることは稀にあった。しかし、上流階級の人間がわざわざこの田舎くんだりまで足を運んできたことはない。

 

 しかも、十代かそこらの少女が供もつけずにである。あまりにも不自然だ。狐か何かに化かされているとでも言われた方がまだ納得できた。だが、現実に生まれも育ちも高貴としか思えない人間が来ている。そこらの住人をどれだけ着飾ったところでこうはならない。

 

 とにかく気味が悪かった。できれば早く帰ってほしかったが、本当に特権階級の人間であれば無下に扱うわけにもいかなかった。

 

「わ、わかりました。少々お待ちください」

 

 店主は家の奥へと向かう。娘のコムギはいつも自室にいた。一日中、そこで盤と向き合っている。彼女は全盲だった。軍儀以外にできる仕事はない。だがそれでも十分以上の稼ぎがある。

 

 プロの棋士であっても国内王者程度では雀の涙ほどの収入しかない。プロと言っても普通はそれ一本で生計は立てられず、国の代表として選ばれ世界レベルの対局を制して初めてまともな金が得られるようになる。

 

「コムギ、すぐに身支度をし。お前と軍儀をうちたいと言う客が来た」

 

「へば! わかたす!」

 

 コムギは鼻声で元気よく答える。彼女はあまりにも強すぎるため、対戦相手になってくれる人が周りにいなかった。こうしてたまに現れる挑戦者の存在は数少ない楽しみの一つでもある。

 

「いいかい、コムギ。今日の相手はかなり身分の高いお方だ。政府高官のご令嬢かもしれん」

 

「そ、そうだすか。失礼のないようにしばす!」

 

「それだけでは足りないよ。次の勝負、勝ちを譲ってやりな」

 

 コムギは母の言葉が理解できなかった。煩わしそうに店主は説明する。

 

「ご機嫌取りだ。公式戦でもないただの一局、勝負にこだわる必要はない。ああいう手合いはとにかく自分が勝たなければ納得しないからね。もしお前が勝って恥をかかせられたと親に泣きつかれたらどうする。この家は破滅だ」

 

 仮にその少女が偉くもなんともなかったとしても、怪しい人物であることに変わりなく、どちらにせよ関わり合いたくなかった。この国の国民は指組という住人同士の監視体制下に置かれており、スパイ容疑などの密告を推奨していた。あらぬ勘繰りを受けることは避けたい。

 

 あまり露骨な負け方をしても逆に機嫌を損ねるかもしれないが、コムギほどの名手なら調整はいくらでもできるだろう。とにかく早急に、接待して、気分よくお帰りいただく。店主は何度もコムギに言い聞かせる。

 

 しかし、先ほどまで嬉しそうにしていたコムギの表情はどんどん曇っていった。

 

「で、でも、ワダす、軍儀で負けたら……」

 

「何をぐずぐずしてるの! 早く! 鼻もかめ! みっともない!」

 

 杖を手に持ちよろよろと立ち上がったコムギを、店主は転がすように押していく。

 

「お待たせいたしました。これが娘のコムギです。挨拶しな」

 

「えっ、え~~っ、こっ、この度はおひらが、おらひがもよく……」

 

 畏まった口上を述べ始めたコムギを見て、メルエムはくつくつと面白そうに笑い始めた。それを見て勘違いした店主は自分の娘をこれ見よがしにこき下ろす。

 

「まったく馬鹿な娘で申し訳ありません。なにぶん軍儀をうつこと以外は何もできないアカズでして」

 

「もう貴様に用はない。下がれ」

 

 さっきまでにこやかにしていたメルエムは急転直下、眉間にしわを寄せて店主を睨みつけていた。幼い少女とは思えない迫力に気圧された店主は口を閉じてすごすごと引き下がり、店先に「閉店」の立て札をかけた。

 

「座れ」

 

「は、はい」

 

 席に着いたコムギとメルエムは盤上に自陣の駒を並べていく。何千、何万と繰り返してきた作業だ。目が見えずとも淀みなく配置は終わった。

 

「先手はそちらに譲ってやる」

 

「へば……4-4-1兵」

 

 コムギは自分の差し手を読んだ。目が見えない彼女の対局は、読み駒をしてもらわなければ捗らない。手番が終わったコムギは相手がうつのを待つ。

 

 だが、なかなかその声があがらない。メルエムは盤上ではなく、コムギの顔を見ていた。普段となんら変わらない表情だ。コムギの目は閉じたままだった。

 

「あの……」

 

 局面が煮詰まって来てからならわかるが、最初の一手でここまで長考することはあまりない。さすがにコムギも不審に思った。

 

「どうやら調子が乗らんようだな。眠気覚ましにこの一局、何か賭けるか」

 

「いっ、いえお気遣いなく! それに賭けと言われますても、ワダすにはお渡しできるようなものは何も」

 

「命だ」

 

 メルエムは互いの命を賭けようと言い出した。ただの遊戯に命を賭ける。酔狂などという言葉ではとても表せない。冗談としか受け取りようがなかった。

 

「そちが負ければ命をもらう。よいな?」

 

 有無を言わさぬ口調だった。もし昨日までのコムギであれば、はっきりと答えただろう。私の命でよければどうぞ、と。

 

 彼女はこれまでの対局においてその全てに自分の命を賭けてきた。プロ棋士さえ頂点に立たなければ食っていけない世界である。一度の負けでも地位から陥落すれば収入はない。『軍儀王、一度負ければただの人』という格言もある。

 

 コムギに至っては親から負ければゴミだと言われていた。彼女はその言葉を胸に刻み棋士となった。軍儀で負ければ自ら命を絶つ覚悟があったからこそ勝ち上がれたのだ。

 

 しかし、今日に限っては胸を張ることができなかった。先ほどの母の言いつけが頭にこびりついて離れない。この勝負、彼女は負けなければならない。真剣勝負ではなくなってしまった。

 

「無論、こちらも負ければ命を差し出す」

 

「滅相もありません!」

 

「とはいえ、余の命などもらってもお前に何の得もないだろう。お前が勝ったら、望むものを何でも与えることにしよう。余の命が欲しければそれでもいいが」

 

 どこまで本気で言っているのかコムギにはわからなかった。賭けの内容を一方的に言い終えたメルエムは、ようやく駒をうち始める。ついに盤面が動き始めたのだが、手番が進むたびにコムギは苦し気な唸り声をあげていた。

 

「9ー9-1師」

 

「1-5-1師」

 

 メルエムのうち方がコムギを唸らせるほど優れていたわけではない。むしろ逆だ。少しでも真っ当に勉強していれば、まずやらないお粗末な手を使ってきた。

 

 それは十年も昔に流行った『孤狐狸固(ココリコ)』という戦術だ。左翼の隅に師を離し、そこに攻め入らんとする敵の攻防を制する一手。槍三本に対する『中中将(ナカチュウジョウ)』という一連の戦法が当時もてはやされていた。

 

 それを考案したのがコムギである。そして、その戦法を殺したのもコムギだ。当時の名人戦において孤狐狸固を使ってきた相手に対し、一戦の最中に返し手を編み出した。それ以降、公式戦からは姿を消し、参考書の片隅に載せられるだけの過去の遺物となる。

 

 既に検討され勝ち目がないことが確定している『死路(シロ)』だった。

 

「8ー1-1忍」

 

「……2-3-1砲」

 

 勝とうと思えば勝てる。もはやその先の駒の動きは決まり切っていた。だからこそ息苦しい。うつ手が止まりそうになる。

 

 左翼に寄せた師を狙う攻防から、敵左翼に生じる隙。犠牲を払いつつもこじ開けたその隙を突く、と見せかけて盤面を支配するメルエムの一手が中央に食い込む。

 

「5-5-1中将」

 

 そこで完全にコムギの手が止まった。ここが分岐点だ。正道を選ぶなら次の一手で勝負が決する。しかし手を誤れば一転泥沼。正着のつかない長引く盤面を、終局まで相手に牽引されることになる。

 

 相手はこの手が死路であると知らずにうっているのか、それとも知った上でコムギをもてあそんでいるのか。目の見えない彼女には相手の表情をうかがい知ることもできない。

 

 勝つか、負けるか。苦渋の選択を強いられたコムギ。その答えは。

 

「9ー2-1…………中将新」

 

 勝つことだった。絞り出すように駒を読む。負けて殺されるのが怖かったからではない。軍儀において不義を働くことは、軍儀に生かされてきた彼女にとって死ぬことも同然だった。

 

 手を抜くことはできなかった。きっちりと敵を仕留めにかかる。そうする以外のうち方を、彼女は知らなかった。

 

 だが、同時に母との約束を破ってしまったことを悔やむ。勝ってこれほど後悔した対局も今までなかった。

 

 その一手で勝敗は決した。たとえ死路であったことを知らずとも、頭の良いうち手なら敗北に気づくだろう。命まで賭けると大言壮語を吐いた相手を負かしてしまい、何と言ってなだめようかとコムギはそちらに頭を悩ませていた。

 

「4-6-2忍」

 

 メルエムは間髪入れずに次の手を指していた。これは既に勝負がついていることにも気づいておらず、相手が投了を宣言するまで付き合うしかないとコムギは思っていた。

 

 しかしそのとき、彼女が頭の中に思い描いた盤上に異変が生じていた。中中将を封じるコムギの中将新、それを受けて繰り出された忍の一手が形成を塗り替えていく。

 

 死んだはずの局面が息を吹き返す。十年も前に廃れたはずの定石を覆す新手だった。

 

 コムギも中中将を封じられた先の展開を考えなかったわけではない。だが、いくら検討を重ねてもたどり着く先は死路か、いたずらに無駄な手を増やすばかりの近死路しか浮かばなかった。

 

 この指し口、偶然成ったものではない。目の前に座る対戦相手は、孤狐狸固に命を吹き込むこの新手を考えてきたのだとようやく気づく。

 

「目は覚めたか? いつまでも寝ぼけたままでいられては、余も退屈だ」

 

 コムギは見えないはずの目を開けていた。それが本来の彼女の対局姿勢である。頭の中に渦巻いていた雑念は全て掻き消え、ただこの一局にのみ意識を集中させていた。

 

 

 * * *

 

 

 飛ぶように時間は過ぎる。じっくりと互いの手を鑑賞し、吟味する戦いだった。対局が始まり三時間が経過している。傾いた陽光が柿の枝にかかり、盤上に木漏れ日を落としていた。

 

 二人の様子は真逆と言っていい。片や、優雅に腰かけた少女は冷めた茶をすする様すら絵になるほど気品にあふれ、その対面では軍儀王の名をほしいままにした世界王者が目から鼻から汗腺から、汁という汁を垂れ流して困憊していた。

 

 しかし、その両者の様子と盤面の状況は全く噛み合っていない。開始から156手、メルエムが声をあげる。

 

「ない。詰みだ」

 

 そして、心底おかしそうに腹を抱えて笑い出した。その姿を傭兵団の仲間が見ていれば、天変地異の前触れかと恐々としたことだろう。それくらい普段の彼女からすれば考えられない感情の表し方だった。

 

 緊張の糸が切れたコムギは机に伏す。一生分、脳みそを酷使したかのような心境だった。勝ちはしたが、生きた心地はしない。一手違えれば勝敗は容易に逆転していただろう。

 

 両者ともに想像を絶する棋士の実力を持っていた。新手に続く逆新手。この一局が公式に記録されていれば、軍儀の歴史を揺るがす一戦となったことは間違いない。

 

 とどのつまり、このような盤上遊戯において勝敗を分かつ最たる要因とは、いかに相手よりも先の手を読めるかにかかっている。局所的な戦術と、大局的な戦略をどう組み合わせ、相手に合わせて手札を切るかだ。

 

 メルエムは今のコムギが知らない狐狐狸固から先の定石を知っていた。それはもはや覆しようがないほどの有利だった。そこに彼女の超人的思考能力が加われば、勝てない方がおかしい戦いである。

 

 だが、蓋を開けてみれば歯が立たない。窮地にあえぎ、苦しみ抜いて指したコムギの返し手は、その紆余曲折の過程に反して見事に完成されていた。

 

 初手から156手、全てを読み切らなければ描けない棋譜である。例えるなら、無造作に投げ落としたガラス瓶が砕けて飛び散った、その破片が偶然にも床の上に規則正しく整列し、美しい絵画を描きあげるかのごとく、あり得るはずもない奇跡だった。

 

 コムギは対局の最中に成長していた。自ずと芽生えた念の一種と言えるだろう。命を賭けたその誓約が軍儀という限られた条件下においてのみ、彼女を最強の棋士へと至らしめたのである。

 

 コムギはその成長を実感していた。自分の中に秘められていた可能性に気づき、喜び、その力を引き出してくれた好敵手に感謝していた。気づけば自然と、彼女も笑っていた。

 

「これほど心躍る時間は久方ぶりだ。礼も兼ねて約束通り、そちの願いを叶えてやる」

 

 この申し出に対し、コムギは既に答えを出していた。彼女の望みは一つしかない。もう一局、この凄腕の棋士と戦ってみたかった。

 

「それは駄目だ」

 

 しかし、無情にも断られる。

 

「どうしてだす!? なんでも叶えてやると言ってたのに……」

 

「軍儀をうつか否か、それを決めるのは余だ。そちに決定権はない」

 

 敗者の弁とは思えない傲慢さだった。しかし、その口ぶりからしてこの先もコムギと軍儀をする気がないわけではなさそうだった。

 

「まあそれはそれとして、約束自体を反故にするつもりはない。改めて願いを言え。一つだけ叶えてやる」

 

「でしたら軍儀を!」

 

「それ以外だ」

 

 そう言われても、コムギには他に望むものなどなかった。うんうんと唸り、考えを巡らせるが、先ほどまで使いっぱなしだった頭はなかなかうまく回転してくれなかった。

 

「悩むことはない。金が欲しければいくらでもくれてやる。それとも、自由が欲しいか?」

 

 今の暮らしに不満はないかとメルエムは問うた。その言葉を聞き、コムギよりも大きな反応を示したのはその母だった。店主の女は対局中、二人のただならぬ剣幕を前に静観するしかなかったが、これには聞き捨てならないと割って入ってくる。

 

「お、お待ちください! その子は軍儀のこと以外何もわからない世間知らずでして! 褒美を下さるというのであればわたくしがお話をお聞きします!」

 

 金をもらえるというのであればもちろん大賛成だが、他にも色々と娘には必要ない情報を吹き込まれそうな気配を感じ取っていた。

 

 コムギはこの家にとって大事な稼ぎ頭、金の卵を産む鶏だった。だからこそ大事に家の中に閉じ込めて余計な気を起こさないように縛り付けていた。どこぞから引き抜きにあってはたまらないと気をもんでいた。

 

「貴様に用はない。二度言わすな」

 

 威圧を受けた店主の心臓が縮みあがる。その人間業とは思えない殺気を受けた店主は、震え上がって退散した。これは悪霊の仕業に違いない、悪霊が人の姿に化けて来たのだと思い込み、部屋にこもって念仏を唱えた。

 

 何が起きているのかさっぱりわからないコムギだったが、ひとまずメルエムに返答した。

 

「ワタすには自由とか、そういうのはよくわからないす」

 

「こんな待遇を受けていながら何の不満もないと?」

 

「はい。あるはずないす」

 

 ハクリキ家は10人家族だ。他の多くの村人と同じく、元は貧しい農民だった。この店も最初からあったわけではない。コムギが軍儀で得た報奨金によって建てることができた。

 

 障碍を背負って生まれてきたコムギは幼い頃からずっと虐げられてきた。軍儀王となる前は人としての扱いすら受けていなかった。それが賞金を得るようになるや否や、掌を返したようにもてはやした。

 

 他人から見れば、なんとひどい家族かと軽蔑するかもしれない。だが、それが普通なのだ。

 

 子供とは、賃金をかけずに増やすことができる労働力である。首都ペイジンの他に学校はない。地方の農村では大人も子供も一日中汗水垂らして働き、ようやくその日の糧を得ることができる。

 

 我が子だろうと、働くことのできないごく潰しを養う余裕はない。ゆえに障碍者は生まれたその直後に殺される。生き地獄を味わわせるくらいならと勝手な理由をつけ、罪もない赤子の命は奪われる。

 

 では、なぜコムギは殺されなかったのかと言えば、ある程度成長するまで親にも目が見えないことがわからなかったからだ。母親は、一度情を注いでしまった娘に手をかけることができなかった。

 

 コムギは愛憎の中で育てられた。ただでさえ苦しい生活の中で生きるため必死に働く兄弟たちから見れば、家族といえども許しがたい。お前は何のために生まれてきたのかと責めずにはいられなかった。

 

 それでもコムギは見捨てられずに育てられた。目が見えない彼女にとっては、家族だけが世界の全てだ。頼ることしかできず、何も返せない自分を恥じ、苛まれていた。そして彼女は軍儀と出会う。自分が生きる意味をようやく知った。

 

『お前はゴミだ! 負けたらゴミに逆戻りだ! だから勝て! 勝って証明し続けるんだよ! あんたにはそれができる!』

 

 その言葉に支えられ、コムギはついに世界王者の地位にまで上り詰めた。家族は皆、涙を流して勝利を祝福した。その時の喜びは一生忘れることができないだろう。

 

 報奨金によってハクリキ家の暮らしは変わった。小作していた畑を地主から買い取り、牛や農機を買う余裕もできた。長男は、今では仕事の指揮を執るまでに成長し、近々嫁をもらう予定もある。

 

 先進国の諸外国と比べれば貧しいことには変わりないが、それでもこの国の水準からすれば遥かに豊かな暮らしができるようになった。コムギは自分の軍儀が家族の役に立てたことを誇りに思っている。

 

 メルエムはその話を聞き、否定することができなかった。

 

 言葉だけならいくらでも言い様はある。コムギは外の世界を何も知らないだけだ。コムギだけではなく、家族も同様である。搾取することしか考えないこの国は、過剰な言論統制と情報操作によって国民を洗脳している。

 

 何かがおかしいと心の中で思っていても、それを口にしたからと言ってどうにもならない現実がある。何も見えないふりをして、その現実から目を背けようとしているだけではないのか。

 

 メルエムは自身のオーラを放っていた。その光子状のオーラは付着した対象の心理を読み解く。コムギの感情は穏やかだった。何か特別な変化を欲しているわけではない。今の生活に満足している。

 

 彼女は幸せだった。ならば、それで十分だ。そこに首を突っ込んでかき回す必要などない。メルエムの心は次第に冷えていく。

 

 余計なお世話だった。コムギに対して、ありもしない虚像を押し付けていた。自分が手を差し伸べてやらねばと、勝手に息巻いていただけだった。

 

 そもそも、この世界のコムギはメルエムの過去に存在するコムギとは異なる。彼女にしてみれば、今日軍儀を一戦しただけの関係だ。会わなければならない理由はメルエムにしかなかった。

 

 ここに来たことは間違いだったかもしれない。席を立ったメルエムは、きっとこの盲目の少女の前でしか見せないであろう表情をしていた。

 

「……では、願いは金、ということにしておくか。その方がお前の家族も喜ぶだろう」

 

「い、いえ、少し待ってください」

 

 コムギは金が欲しくないわけではなかった。それが人生を左右するほど大事なものであることはわかっている。だが、彼女にとってそれ以上に大切なものが家族であり、軍儀だった。

 

 金が欲しければそう言えば良かったはずだ。それをしなかったのは、対戦相手が抱えた覚悟の重さを感じ取ったからという理由もあった。

 

 互いに命を賭けるという条件だ。お茶を濁すように願いを叶えるという内容に取って変わったが、もし今からでもコムギがメルエムの命を欲すれば何の躊躇いもなく彼女は自らの命を絶つだろう。

 

 軍儀をしている最中のコムギは念的に覚醒した状態となっていた。対戦相手の心の機微を、駒のうち筋から感じ取ったのである。自分と同じだけの覚悟を持っていると根拠はないが確信していた。

 

 言ってしまえば、その命がけの覚悟を金で買おうとしているかのように感じてしまった。棋士として、あまりにも礼を欠いた侮辱である。

 

「お金はいりません」

 

 コムギの望みは軍儀だけだった。だが、その願いは叶えられないと言われてしまった。別の何かを求めなければならない。

 

 何もいらないと言っても別に構わないのだろうが、そう言ってしまえば二度とこの気難しい少女がコムギの前に現れることはない気がした。それもまた彼女の覚悟をないがしろにする行為である。

 

 それは嫌だ。コムギはまた彼女と軍儀がしたかった。今日ほど素晴らしい軍儀ができたことはなかった。初めて負けるかもしれないと思った強敵だった。

 

 彼女にとって敗北とは死に他ならない。首元まで刃を突きつけられたかような対局だったが、全く恐怖はなかった。互いの思考を読み合い、呼吸を重ね、心を通わせ、同じ時間を分かち合った。

 

 もう一度、軍儀がしたい。そのためには何か彼女の心を引き留める願いを言わなくてはならない。しかもそれはコムギ自身が望む願いでなければならない。その場限りの取り繕いや、おためごかしでは見抜かれるとわかっていた。

 

 必死に考えた。軍儀とは違う頭の使い方であったが、もしかすると対局中よりも悩んだかもしれない。そしてコムギはメルエムに望みを伝えた。

 

 

「名前を、教えていただけませんか?」

 

 

 

 

 それからメルエムは人知れずこの村を訪れるようになった。そのたびに二人は命を賭けた軍儀に興じた。いつも決まってメルエムが負ける。すると彼女は、何か願いを一つだけ叶えてやるとコムギに言うのだ。

 

 もちろん、軍儀のこと以外の願いである。常勝無敗の軍儀王も、これには困り果てた。次はいったいどんな願いを用意しておこうかと頭を悩ませる日々だ。

 

 それまで軍儀と家族のために尽くすことしか考えていなかったコムギが初めて他の物事に目を向け始めたのである。傭兵の少女は、その小さな変化の行く末を見守っていた。

 



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継承戦編
118話


 

「さて、全員そろいましたね」

 

 ハンター協会本部が置かれるビルにおいて『十二支ん』による会合が執り行われていた。

 

「今日は何について話し合うんだ?」

 

「資料読んで来いよボケカス。今年のハンター試験に関する会議だ」

 

「おー、もうそんな時期だったな」

 

 十二支んは、会長によってその実力を認められた十二人のハンターにより構成される。協会を取りまとめる組織の意思決定機関である。だが、この場に集まった面々の数は十二に満たなかった。

 

「例年通り、289期ハンター試験は1月7日に実地予定です。しかし、今年の試験に限っては何もかも“いつも通り”の試験にするわけにはいきません」

 

 第十三代会長チードル=ヨークシャーを含め、招集された面子は全部で十人だった。かつて副会長を務めたパリストン=ヒルの除名、そしてジン=フリークスの辞任により欠員が生じている。

 

 キメラアントが引き起こした世界規模の大災害によりハンター協会も大きな転換を余儀なくされた。そして、その傷も癒えぬうちに新たな問題が発生している。ともすればキメラアントの一件を凌駕する危険な問題だった。

 

 カキン王国の暗黒大陸進出宣言から2カ月が経とうとしている。カキンは着々と渡航計画を進めているようだった。V5改めV6の協定により、もはやカキンを阻止することはできなくなった。

 

 その調査隊の代表たるビヨンド=ネテロの身柄はハンター協会により確保されているが、それさえもカキン側が仕組んだ計画の一部であることは明白だった。ハンター協会は身の内にビヨンドという爆弾を抱えたまま、暗黒大陸の調査と災厄(リスク)の回避を図らねばならないという最高難易度『A』の指令を受けている。

 

「調査に向けた人員の選出や、十二支んの穴埋めもまだできていないというのに、頭の痛い問題ばかりだ」

 

「十二支んは別に焦って新入りを選ぶこともないんじゃないの?」

 

 現在は10名しかいない十二支んだが、それによって運営能力に支障をきたすようなことにはなっていない。当然ながら協会の実務的な仕事は他に任せられる人間がいくらでもいる。あくまでハンターの代表者たちによる内閣のような機関に過ぎない。

 

 しかし、それが正常な状態でないことは確かだ。チードルもこのままでいいとは思っていない。何人かは候補をあげて検討会議をしてみたが、これと言った人材がいなかった。

 

 下手に素性の知れない人間を引き込めば取り返しのつかない事態になる可能性もある。パリストンがどこまで組織の内部に根を伸ばしていたか、現在もその全容はつかめていない。

 

 NGLの件で責任を取らされて十二支んから除名されたパリストンだったが、今になってはそれも布石の一つに思えてくるほど周到だった。パリストンは元よりビヨンドと通じており、協会を去ったその足で今はカキンに身を寄せている。

 

 それを追う形でジンも十二支んを脱退した。チードルはジンから知らせを受けなければいまだにパリストンの行方を把握できずにいただろう。何年も前から彼は暗黒大陸を視野に入れ、協会を内側から食いつぶす計画を進めていたのだと思われる。

 

 協専ハンターのみならず、どこにパリストンの協力者が身を潜めているかわからない。それが十二支んだけでなく、調査隊の選出に難航している理由の一つでもあった。

 

「もういっそのこと今度のハンター試験で暗黒大陸に行きたい奴を集めるのはどうだ? ビヨンドの動画みたく『集え! ハンター協会! 行こう! 新天地!』つってさ」

 

「バカンザイ……それこそカキン側のスパイを引き込むようなもんでしょうが」

 

 戦闘力極振り、腕っぷしだけで十二支ん入りしたカンザイの弁に他の面々がため息を吐く。しかし、本人は大して考えずに発言したことだったが、それがなかなかどうして核心をついていた。

 

「だが、現実的にそうならざるを得ない状況であることに違いない。渡航に必要な人材を今期のハンター試験で募ることになるだろう。受験する側もそれを見越して来る」

 

 国や民間組織に頼らずハンター協会が単体で動くためには、既存の協会員から渡航者を選出することはもちろんだが、それだけでは足りなかった。なにせ資格を持つプロハンターもその総数は600人程度である。当然、その全てを動員できるわけではない。

 

 むしろ、協会からの協力要請に対して難色を示すハンターの方が多かった。それだけ暗黒大陸は危険な場所だとプロハンターだからこそ認識している。夢に命を懸けようとする冒険者ばかりではない。

 

 もし、ネテロが生きていれば現状は変わっていたかもしれない。彼が指揮を執るのであればついて行こうと考えるハンターは今よりも大勢いただろう。

 

 就任したばかりの新会長であるチードルにはまだ求心力がなかった。仕方がないこととはいえ、彼女は自分の至らなさを恨まずにはいられなかった。

 

「特に、調査に不可欠な知識や技術を持つ専門家が全く足りていない」

 

「例年なら腕っぷしだけが合否の基準になることも多かったけど、今年はそういうわけにもいかないでしょうね」

 

「アマチュアとして実績のあるハンターや、戦闘分野だけでなく研究者も含め広く募集の対象とすべきだ」

 

「なら、試験官が好き勝手に課題を出す従来のやり方は問題が出るんじゃないー?」

 

「選考委員会が一括して試験を作ります。ペーパーテストや面接も導入しましょう」

 

「うげぇ、最悪な年だな」

 

「様々な視点から受験者の能力を評価する必要がある。そして、同時に何よりも注意すべきはスパイの存在だ」

 

「嘘発見器を含めたバイタルチェック等、厳正な審査と検査は無論実施するが、相手が特殊訓練を受けた念能力者であれば100%の精度は保証できない」

 

「それらのスパイを抱えたまま危険な暗黒大陸の調査に臨むこともあり得るのか……ビヨンドの監視もあるってのに……」

 

「……正式な協会員として取り込むにはリスクが高すぎます。そこで今年は特例として『準協会員』という制度を作ろうと考えています」

 

 チードルは提案した。試験を合格した段階で与えられる資格を『準協会員』として正式なプロとは区別する。渡航に関し、与えられる任務や行動にも制限を設ける。

 

 それまで活発にかわされていた意見も一旦静まった。果たしてそれだけの区別でスパイの活動を抑え込むことができるだろうか。実際の現場で任務や予期せぬトラブルに対処する者全てを統制することは難しい。

 

 だが、たとえ名ばかりであろうと何の首輪もつけずに野放しにするよりはマシだ。良い代案も浮かない。その他、チードルの用意した新制度ハンター試験の概要が資料として配布されていたが、どこも修正すべき点は見当たらない。

 

 現実的で効率的。しかし、十二支んたちはどこか心の奥底で感じていた。ネテロならばこのような選択をしただろうか、と。

 

 ハンター試験とは志を持つ若者たちが集う場所だ。ネテロは毎年、この試験を楽しみにしていた。自ら選考委員会の長を引き受け、才気あるハンターの卵たちをその目で見定めてきた。

 

 今期はこれまでと全く質の異なる試験となることは確実だった。ハンターが本来目指す境地からはかけ離れた、その場しのぎの人材確保。準協会員という渡航中だけ有効な期間限定の資格。そのためだけにハンター試験を利用することになる。

 

 

 “それはちと、つまらんのう”

 

 

 カタリ、と会議室の壁にかけられていた額が動いた気がした。それは前会長、ネテロの写真が収められた額である。

 

「い、今……」

 

 全員が弾かれたようにそちらを見る。何か胸騒ぎを覚えた。虫の知らせなどという曖昧な感覚ではない。はっきりとした違和感を、この場にいる全員が察知する。

 

 

「破アアアアアアア!!」

 

 

 そして、それは壁を突き破って現れた。ちょうどネテロの写真が提げられていた壁をぶち壊し、コンクリートの破片をまき散らしながら一人の少女が姿を見せる。

 

 あっけに取られるしかない。どうやって厳重なセキュリティを突破し、地上85階の壁を外から突き破って来たのかという疑問はあったが、真っ先に気を取り直したミザイストムが尋ねる。

 

「警告する。『動くな』。誰だ、お前は」

 

「わし、アイザック=アルメイザ! 1歳6か月!」

 

 外見は10代そこらの少女である。整った容姿に銀色の長髪、そして着ている服はTシャツにスパッツ。Tシャツには『かりぅど』とひらがなで書かれている。

 

 ミザイはカードを提示して『動くな』と警告している。その警告に逆らえば彼の念能力『密室裁判(クロスゲーム)』が発動し、即座に不審者は行動不能に陥るだろう。

 

 派手な登場をしておきながら、少女はそれ以上暴れるそぶりを見せなかった。敵意は感じられない。仁王立ちのまま、大人しくその場でじっとしている。

 

「まあ、そう警戒するでない。わしはただの一般ハンター志願者じゃ」

 

「そうかよ。お前がこれで不合格だってことはハッキリしたぜ」

 

「ついでに十二支んに空きがあるそうじゃから、わしがなってやろうと思っとる」

 

「図々しいにもほどがある!」

 

 どうやら今年のハンター受験生らしいが、先ほどのチードルたちの会話を立ち聞き(?)しているうちに気が変わったと言う。

 

「どうせまともに応募しても書類審査で落とされそうじゃしの。ならばいっそ、この場で直接売り込もうと思った次第じゃ」

 

「お前のような危険人物を合格させるはずがないだろう。『カーマインアームズ』」

 

 この場にいる十二支んのほとんどは少女の素性に気づいていた。まさか忘れるはずもない。協会としても最大級の煮え湯を飲まされた、あのモナドと同じ顔をした少女である。

 

 モナド本人であるかどうかまで確認できないが、関係者であることは間違いない。カーマインアームズについても、最近は知名度が増してきている。

 

「なんだカーマインアームズって」

 

「A級賞金首の傭兵団だ。はした金のような依頼料でゾルディック家や幻影旅団とも大規模な抗争を起こした戦闘狂集団と聞く」

 

 犯罪者だろうと受験できるのがハンター試験だが、今年に限っては少しの不穏分子でも排除しておく必要がある。たとえ準協会員資格だろうとA級賞金首に与えられるはずがない。

 

「ひとまず余罪は後でたっぷり追及するとして、器物損壊および不法侵入の罪で逮捕させてもらおうか」

 

「さすがは天下のハンター協会、警備が厳重でのぅ。スマートに潜入というわけにはいかなかったのじゃ。わびと言っては何だが、面白いものを見せてやろう」

 

 クライムハンター、ミザイストムが通告すると意外にも少女はバツが悪そうな顔をしていた。その背後に巨大な影が現れる。

 

「まさ、か、これは……!」

 

「おいおいおい! うそだろ!?」

 

 オーラから生み出されたその巨大な観音像を、十二支んの全員が知っていた。知ってはいたが、信じられない。なぜならその『百式観音』は、今は亡き前会長ネテロの念能力である。

 

 武の極致と呼ぶにふさわしいその能力は、真似して再現できるようなものではない。考えられる可能性としては他者の能力を奪う特質系能力者などが挙げられる。

 

 だが、それも現実的ではなかった。たとえ特質系だろうと簡単に他人の能力を手に入れられるわけではない。それも死人から奪う能力など聞いたこともない。

 

 別の可能性が頭をよぎる。それはある種、願望にも近い感情から導き出された答えだったのかもしれない。

 

「か、会長なのか……?」

 

 少女は微笑み返す。確かに見た目は全くの別人だが、その身に纏う気迫は彼らのよく知るネテロに酷似していた。

 

「残念ながら同一人物とまでは言えんがの。お前たちのこともぼんやりとしか覚えておらん。わしはアイザック=ネテロの生まれ変わりじゃ」

 

 その言葉を即座に否定することはできなかった。ネテロの死因は現在も究明中だが、キメラアントの一種から受けた攻撃によるものであることは確かである。

 

 少女が肩に乗せる不気味な甲虫や、キメラアントの特殊な繁殖能力『摂食交配』を考えれば、生まれ変わりもあり得るのではないかと、生物学に精通する一部の十二支んは推測する。

 

「かいちょお……がいぢよおおおおおおおおお!!」

 

 そのメンバーの一人、ギンタが動いた。ネテロの死後、十二支んの誰もが彼の死を悲しんだが、その中でも特に感情的だったのがギンタだ。大の男が人目もはばからず大声で泣き続けていた。

 

「こ、これ! ひっつくな! わぷっ!」

 

「がいどおおおおおお!! よがっだああああ!!」

 

 抱き着いて頬ずりしてくるギンタのアフロに少女は飲み込まれていた。純粋な喜びゆえの行動と思われるため、少女も無下に引きはがせずにいる。

 

「落ち着きなさい→未。もし本当にネテロ前会長の生まれ変わりであるなら喜ばしいことですが、手放しに歓迎できる状況でもありません」

 

 新生ネテロを名乗る少女は協会員となるどころか、十二支ん入りを目論んでいる。暗黒大陸の調査に一枚噛もうとしていることは明白だ。

 

 確かにネテロとの類似点は見受けられるが、同一人物ではないと本人が述べている。A級賞金首にも数えられる素性も知れない人間を仲間に引き入れるわけにはいかない。

 

「まあ、そうじゃろうな。わしも無理に頼むつもりはない。あくまでこれは提案じゃ。わしを連れていくか否かはお前たちで協議してくれて構わんぞい」

 

「もし否定された場合は?」

 

「パリストン経由で別ルートから暗黒大陸へ向かうことになるじゃろう」

 

 少女は自らパリストンとのつながりを暴露した。完全にビヨンド側の人間である。それを十二支んに迎え入れるなどあり得ない。

 

 親子そろって正面から我が物顔で敵地に踏み込んでくる度胸に呆れて何も言えなかった。だが、それが同時に少女のネテロらしさを強く認識させる。

 

「あまり我々を侮らないでいただきたい。そんなことを許すと思っているのですか? あなたはこの場で拘束させてもらいます」

 

「それも構わんよ。できるものならな」

 

 少女から、その小さな体に収まり切れるとは到底思えない闘気が放たれる。ミザイは依然として警告のカードを提示し、ギンタを抱き着かせているというのに、まるで安心はできなかった。

 

 一対十という人数差がありながら、少女は指一本動かすことなくこの場を膠着させている。百式観音を発動させる『心の所作』はいつでも可能。ここにいる誰よりも早く行使することができる。

 

 ビヨンドの場合はあっさりと協会に捕まったが、それはV5とカキンの足並みを揃え、最速で暗黒大陸へ行く許可を得るための計画だった。この少女は捕まりに来たわけではない。

 

「やめだ。じいさんに勝てるわけがねぇ。俺は賛成するぜ」

 

「……何を言っている、サイユウ。まさかこの者を旅に同行させるとでも?」

 

「それしかねぇだろ。もし拒絶すれば、こいつは必ずこの場を逃げおおせる。そして次会う時は明確な敵として俺たちの前に立ちはだかるだろう」

 

 ビヨンドはおそらく優秀な手勢を何十人も抱え込んでいる。その脅威の中に目の前の少女も加わり襲い掛かってくるとは考えたくもなかった。それならばビヨンドと同じく、敵とわかっていながらも目の届く場所に置いていた方がいいのではないか。

 

「わしは確かにビヨンドに雇われてはおるが、奴の脱走を幇助するつもりはない。積極的に阻止するつもりもないが。このことはパリストンも承諾済みじゃ」

 

「お前の目的は何なんだ!?」

 

「暗黒大陸調査の成功。それだけじゃ」

 

 常識で考えれば自ら敵の内通者と公言する人間を信用する道理はない。しかし、既に十二支んの内二人を篭絡してしまった。ギンタとサイユウだ。

 

 それ以外のメンバーについても、少なからず動揺を与えている。それだけ前会長のカリスマは大きかった。選挙を経て新たにチードルが会長となった今でも、彼らの中ではまだ“会長”と言えばネテロの姿を想起してしまうほどに。

 

 十二支んに亀裂が生じようとしている。暗黒大陸という最高難易度の狩場に向けて、全員が結束しなければならないこの状況で見過ごすことはできない危機だ。ここで少女を拒絶すれば、亀裂は決定的なものとなるだろう。

 

「空席は『子』と『亥』じゃったか。どちらにするかのぅ」

 

 少女は既に結論が出ているかのように振舞っている。生前のネテロは自分にも他人にも無理難題を吹っ掛ける、そんな人間だった。これからしばらくはこの少女に振り回されるような気がしてならない。いかにして主導権を握るべきかとチードルは頭を悩ませていた。

 

 

 * * *

 

 

 ところ変わって、カキン帝国某所。プロハンターだろうと普通なら見つけ出すことはできないパリストンたちのアジトに、招かれざる客の姿があった。

 

「よぉ、俺も混ぜろよ。来るもの拒まずなんだろ?」

 

 ジン=フリークスである。部屋にはパリストンを始めとして、暗黒大陸探索を任務とするハンターが集まっていた。

 

 ビヨンドに雇われたハンターだが、そのほとんどは金だけが目的で参加しているわけではない。彼らが目指すは暗黒大陸。そのために今日まで爪をとぎ、協専ハンターとして息を潜めていたスペシャリストたちである。

 

「やはり来ましたか。ですが意外でした。てっきり止めに来たのかと思っていましたが」

 

「別にビヨンドを止める理由はねぇよ。旅先でくらい自由にさせろって考え方には同意する。だがパリストン、てめぇは駄目だ」

 

 パリストンが副会長の座を追われたように見せかけ、協会を離れてよからぬことを企んでいることは調べがついていた。キメラアントとのつながりだ。

 

 ミテネ連邦で発生した亜人型キメラアントの群れは騒動のうちに崩壊したが、生き残った個体が保護されている。その保護区となったNGLは世界治安維持機構によって管理されているはずだが、ジンが調べたところによればその限りではなかった。

 

 巣の崩壊と共に大人しく投降したキメラアントは適切に移送されたが、一部の好戦的な残党集団が包囲網を突破して周辺国に流出した形跡がある。それらは派遣されたハンターによって処理されたことになっているが、そのハンターを派遣している組織が『協専』である。

 

 かなりの数のキメラアント戦闘兵がパリストンの手駒となったものとジンは見ている。キメラアントの個々の戦闘力は強大だが、力のみで人類相手に対抗できるはずはない。追い詰められた彼らが説得に応じる余地は大いにあった。

 

 ジンがパリストンの後を追うように十二支んを脱退したのはその企みを止めるためだ。暗黒大陸へ行くためにチードル主導の現ハンター協会の体制が肌に合わなかったという理由もあるが、一番はパリストンとの因縁に決着をつけるためである。

 

「オレとお前は似た者同士。思いつくのは外の道ばかり」

 

 パリストンはキメラアントの残党をハンター協会に差し向けるつもりだ。その理由は副会長の座から放逐された恨みによるものではない。むしろ、彼は協会を愛している。

 

 愛しているからこそ壊したい。彼は人に憎まれることで幸福を感じ、愛しいものは無性に傷つけたくなる。到底常人の感覚からはかけ離れた歪んだ人間性の持ち主だった。

 

「仮にそうだとしても、僕には無理なことですよ」

 

 ジンの予想はある程度当たっていた。NGLでキメラアントが発生した当時はパリストンもそのつもりで計画はしていたのだ。当初の予定では5000体近くの戦闘兵捕獲を見積もっていたが、結果的に見ればその十分の一ほどしか集められなかった。

 

 亜人型とは“別種のアリ”が予想を遥かに上回る規模で世界を震撼させる破壊と混乱を巻き起こした影響だ。そのおかげで残党兵の説得がスムーズに進んだという利点もあったが、計画は大幅に変更せざるを得なかった。

 

「『カーマインアームズ』だろ。だが、それも結局はお前にとって遊び相手の一つにすぎない」

 

「あれを遊び相手だなんて言えるジンさんが羨ましいですね」

 

 同じキメラアントといえども、その脅威度は亜人型の比ではない。災厄としてのレベルはさらに上位、Aクラスであることは確実だった。人類を滅ぼし得る危険度である。

 

 だが、それを理解した上でパリストンは恐怖しているわけではない。ジンの言う通り、今のハンター協会よりも歯ごたえのありそうな遊び相手をみつけられた喜びの方が大きいだろう。依存する相手を乗り換えただけの話だ。

 

「その様子じゃまだ御しきれてはいない段階か。いずれにしてもお前の好きにさせるつもりはないがな。ひとまず、今日からこの集まりの№2はオレだ。文句がある奴は前に出ろ」

 

 それはこの場に集まる全員に向けられて発せられた言葉だった。パリストンに権力を握らせないために自分がビヨンドに次ぐ探索隊の№2になる。理屈はわかるが、すんなりとそれを受け入れられるわけがない。

 

 いきなりアジトに踏み込んで来て勝手にリーダー面をし始めた部外者である。困惑する者、呆れる者、憤る者と様々だが好意的な反応は一つもなかった。短気な性格のウサメーンなど殴りかからんとする勢いだった。

 

「おう、骨のある奴がいるじゃねーか。出てこいよ、相手してやる」

 

 しかし、ウサメーンは立ち上がらなかった。ジンは彼のことなど眼中にない。それよりもはっきりと、禍々しい気迫が奥の部屋から漂ってくることに気づいていた。ゆっくりとそのオーラの持ち主が近づいてくる。

 

 疑う余地もなく、この隊の中で最も強いと悟る。ジンをして油断を一切捨てさせる強大なオーラを感じ取る。現れたのは筋骨隆々の巨漢だった。対峙するだけで本能が警鐘を鳴らす殺意の暴風。その発生源たる男の鍛え抜かれた肉体は山一つほどの存在感さえあった。

 

「会いたかったよ。ジン」

 

 ぴちぴちに張り詰めたタンクトップと短パン。怒髪天を衝くかのごとく天井にまで逆立つ長髪。しかし、その表情は怒りに染まっているわけではない。ただ覚悟のみを感じさせる、漆黒に塗りつぶされた瞳をしていた。

 

「相手をしてくれるんだね。うれしいよ」

 

 その男は「最初はグー」とつぶやいた。その直後、集まる。彼の右手の拳に。まるで吸い込まれるかのようだった。生命エネルギーから生じたとは思えない邪悪な波動を放つオーラがそこへ凝縮されていく。

 

 そして凪いだ。絶をしているかのように静かになる。あれだけ吹き荒れていたオーラの嵐が止んでいる。事実、男の全身から溢れんばかりに生じていたオーラは感じ取れない。だが、消えてなくなったわけではなかった。

 

 その技は『硬』と呼ばれる。全身を覆うオーラを凝によって体の一か所に集めることで最大威力の攻撃、あるいは防御とする技である。

 

 だが、この技を一般的な『硬』と一括りに扱うことができるのだろうか。男のオーラは拳の一点に、感知できないほど極小の一点に収束されていた。

 

「ジャン、ケン」

 

 そして噴き出す。耳をつんざくような甲高い異音は空気が軋む音だった。技を繰り出す前段階であるにも関わらず、極圧縮された膨大なオーラの波動が部屋の窓ガラスを叩き割った。

 

 その技の威力を理解できた時、この世から一つの命が消えていることだろう。ジンですらそう思った。

 

 これに対処するためには出足をくじく以外に方法はない。最初の動作に現れた隙を突き、オーラを凝縮される前に封じるしかない。または空間転移などの正攻法以外の手を用いるか。技を受けるより先に発動が間に合えばの話だが。

 

 しかし、ジンはそうしなかった。彼のオーラは纏のまま、堅すらしていない。至って平常心のまま立ち尽くしている。

 

「……まさかそう来るとはな。これは予想できなかったオレが悪いな……しょうがねぇ。来いよ、ゴン」

 

 ジンは目の前の男が自分の息子であることに気づいていた。姿は変わり果てているが、直感的に悟る。そして、ゴンを相手に闘うつもりはなかった。

 

 ジンは我が子を捨てた身だ。もう二度と会うつもりもなかった。その機会があるとすれば自分が息子にハントされた時だ。大人しく捕まってやる気もなかった。

 

 それがこうしてまんまとおびき出されたわけだ。パリストンあたりの差し金だろうと推測するが、それを読み切れなかったことも含めて負けを認めるしかない。

 

 自分が親として道を外れたことをした自覚はある。もしゴンが自分を許せず攻撃してくるというのなら、ハントされた手前、抵抗するつもりもなかった。

 

「冗談だよ、ジン」

 

 それに対して、ゴンは構えを解く。最初からジンを殺そうとは思っていない。それにしては迫真の殺気だったが。

 

 ゴンは初めて会うジンを試したのだ。色々な人からジンの話を聞き、ちょっとした冗談のついでに自分の手で確かめてみたいと思った。

 

 おそらく、ゴンが本気でジャジャン拳を放っていたとしてもジンは避けも防ぎもしなかった。自然体のまま受けていただろう。それで無事ということもない。死んでいたはずだ。その事実を当然のように受け入れていた。

 

「オレがゴンだって気づかなかったら軽く殴ってたかもしれないけどね」

 

「は? その時は返り討ちにしてたと思うぞ?」

 

 先ほどまでの緊張が嘘のように二人は打ち解けていた。ジンの死を確信していた他の面々は何が起きているのかわからず首をかしげている。パリストンは腹を抱えて笑い転げていた。

 

「しばらく見ねぇうちにデカくなったな。成長期か?」

 

「こっちも色々あったんだよ……」

 

 ゴンの身長は重力に逆らう髪の毛を抜きにしてもジンを超えていた。その年齢は14歳。その姿を見てゴンだと気づくジンの方が異常と思えるほどの成長を遂げていた。

 

 より具体的に言えばカーマインアームズのせいだ。彼女らの母船に滞在していたゴンは、ビヨンドから暗黒大陸の調査に関わる依頼が傭兵団に入ったことを知る。

 

 そして、自分も暗黒大陸に行きたいと言い出した。当然、クインはその申し出を突っぱねたが、もともと一度決めたことを絶対に曲げない性格をしているゴンの決意は固かった。

 

 もしクインが船から叩き出したとしてもゴンは諦めない。プロハンターの資格を持つゴンならば、協会員としてカキン帝国の巨大輸送船ブラックホエール号に乗り込めるだろう。

 

 それならばいっそ自分たちに同行させた方が安全ではないかと考えたクインたちは、ゴンを修行という名の地獄に放り込んだ。彼が根を上げてやっぱり行くのやめますと言いたくなるほどの苛烈な修行をつけた。

 

 これもゴンを思ってのことだ。決して面白半分にエスカレートさせたわけではない。アイクの千百式組手を耐え抜き、ルアン謹製プロテインの投薬試験を乗り越え、メルエムによって『いずれ至るはずの因果』を少しずつ引き寄せられ、ついにゴンは完全体となる。

 

 

 強制的に成長したんだ……!! 暗黒大陸を調査できる年齢(レベル)まで!!

 

 

「お前それ髪切らないのか?」

 

「切っても練したら伸びてきちゃうんだ。毛根が強化されるからかな?」

 

「……ホントに良かったのか? そんな人間かどうか疑われるレベルの体になっちまってよ」

 

「後悔はないよ。たぶん、オレがこれから行くところは、これでも足りないくらい危険な場所だろうから」

 

 普通の人間がゴンと同じ目に遭っていれば確実に死んでいる。才能と覚悟があったからこそ堪えられた。それもゴンだからこそ至ることができた覚悟の境地である。おそらく彼と同等の才能を持つキルアであっても死んでいたはずだ。

 

 もし強さにかまけて半端な気持ちのまま暗黒大陸へ向かおうとしているのであればジンは認めなかっただろうが、それは杞憂だった。ゴンはきちんと理解している。単純な強さだけで制すことができるなら、全盛期のネテロが入口で引き返してはいない。

 

 ちなみにキルアとアルカとカルトのハーレムチームは暗黒大陸調査なんて命知らずなことはせず、ゴンたちとは別れることになった。完全体となったゴンを見てキルアは「俺たちずっと友達だぜ」と震え声で別れを告げて去っていった。

 

「まあゴンのことは心配いらないとしても、その傭兵団とやらは要注意だな」

 

「別にみんな良いひとたちだよ?」

 

 自分が受けた仕打ちを全く気にせずゴンは言い切る。いくらゴンの言葉であってもすんなり信用はできなかった。出会って数分しか経っていないが、ゴンの感性が割と狂っていることをジンは見抜いている。問題児は敵であるより味方である方がなお厄介だ。

 

「少なくともアイツはそう思ってないみたいだぜ?」

 

 ジンは視線をパリストンに向けていた。彼は何のことやらわからないと言った様子の作り笑いを浮かべている。

 

 ただの“良いヒト”の集まりなら、どんなに力を持っていようとパリストンが遊び相手に選ぶはずはない。彼にとって“面白くなる”と期待させるほどの何かがあるのだ。

 

 このまま何の問題もなく暗黒大陸に向かえる、ということはないのだろうなとジンは思った。

 

 



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傭兵団員ファイル

 

 

 

 クイン=アルメイザ(女王/団長/操作系)

 

 キメラアントの女王。出身地は暗黒大陸。現在は『みんな仲良く』をモットーに傭兵団の団長兼料理長をしている。

 

 ●戦闘技能

 

 ・我流念法

 『共』などの応用技の域に迫る技をいくつか編み出した。

 

 ・ボクシング

 フットワークやステップを意識した戦闘スタイル。

 

 ・統率力

 ちょっとはある。

 

 ●念能力

 

 ・操作系『精神同調(アナタハワタシ)』

 無限増殖する自意識の集合体『渦』のネットワークを管理下に置き、制御している。

 

 ・具現化系・寄生型『千の亡霊(カーマインアームズ)』

 クインとその子供に発現する、少女の姿の寄生型念獣。ネットワークでつながる群れの上位個体から複数の特性を得ている(高速修復、思考加速、良い匂いなど)。寄生対象と感覚を共有し、意のままに操れる。

 

 ・放出系『犠牲の揺り籠(ロトンエッグ)』

 ごんぶとビーム。

 

 ・具現化系『王威の鍵(ピースアドミッター)』

 シックスが自らの魂を王位として鍵の形に具現化したもの。群れ(渦)から自我を独立させるために必要となる。有限だが、分割は可能。現在はクインがその多くを所持している。シックスの誓約も引き継ぐことになるため、アルメイザマシンは使えなくなる。

 

 

 ―――――

 

 

 モナド=アルメイザ(王/オーナー/特質系)

 

 王位を簒奪した騎士。推定死傷者3000万人の被害を出したNGL革命未遂の首謀者としてA級賞金首に指定された。傭兵団の拠点船ギアミスレイニのオーナーにして引きこもり。

 

 ●戦闘技能

 

 ・海底戦艦

 戦艦一隻まるごと本人。主砲『青錆槍(ケラウノス)』は大陸の形を変える。

 

 ・なり替わり

 渦に取り込まれている人間の技や念能力までもコピーできる。頭は良くならない。

 

 ・アルメイザマシン

 災厄。生命エネルギーを金属化させるウイルス。

 

 ●念能力

 

 ・特質系『終わり無き転生(ノーザデッド・ノーライフ)』

 渦と完全に自我を同化しながら己を失うことなく保ち続ける特異な精神性から生まれた能力。死後強まる念をアルメイザマシンにより有形化することで、自我を複製して何度でも再発生する。

 

 

 ―――――

 

 

 ルアン=アルメイザ(騎士/メカニック/強化系)

 

 元軍人であり、前々回の暗黒大陸調査隊の一人。今は傭兵団の整備兵。兵器開発も手掛ける。マッドサイエンティスト。

 

 ●戦闘技能

 

 ・発明

 災厄を材料とした兵器を作る。多大な弊害も生じる。

 

 ・ハッキング

 渦と電脳ネットをつなげる異次元のITによりモナドを生体コンピュータ化させた。

 

 ・精密射撃

 熟練兵の腕前。

 

 ●念能力

 

 ・強化系『思考演算(マルチタスク)』

 脳を強化して思考力を高める。単純そうに見えて、自分の脳の働きを外から観察するという超能力レベルの技術を要する。クインの『精神同調』の発達に大きく貢献した。

 

 

 ―――――

 

 

 カトライ=アルメイザ(騎士/事務/放出系)

 

 サヘルタの調査隊『クアンタム』の元隊員。着せ替え人形にされながら傭兵団の事務仕事をこなしている。貴重な常識人枠だが押しに弱い。

 

 ●戦闘技能

 

 ・人畜無害

 強者の風格はない。油断を誘える。

 

 ・心源流

 防御、回避に関する身のこなしだけは師範代級。

 

 ・悪意看破

 相手の嘘や攻撃を読む。コンディションにもよるが、ほぼ読心術レベル。

 

 ●念能力

 

 ・放出系『蛇蝎磨羯香(アレルジックインセンス)』

 他者の欲望を引き出すオーラの香。戦闘時はこれを応用することで、敵の害意を誘導する。扱いが難しく、自身の精神にまで影響を及ぼしてしまうため、不完全な形でクインらに引き継がれた。渦を生み出した原因でもある。

 

 

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 チェル=アルメイザ(雑務兵/戦闘員/強化系)

 

 戦闘員その1。元クアンタム隊員。男勝りな苦労人。情に流されやすいところが長所でもあり短所。

 

 ●戦闘技能

 

 ・魔眼

 災厄。質量を特殊なエネルギーに変換し、重力を操作したり、空間を捻じ曲げる。

 

 ・軍用格闘術

 銃器が効きにくい対念能力者戦を想定したサヘルタ式白兵戦術。

 

 ・均質隠形

 『円』の内部において、自身のオーラを環境に溶け込ませ、気配を消す。

 

 ●念能力

 

 ・強化系『知られざる豊穣(ナイトカーペット)』

 感覚を強化し、半径300メートルに及ぶ円に『隠』を施す。また、内部におけるオーラの流れを感知しにくくさせ、敵の集中力を削ぐ。

 

 ・変化系『明かされざる豊穣(ミッドナイトカーペット)』

 円内部の光の屈折率を変化させる。暗闇にすることも可能。

 

 ・変化系『落陽の泡(バブルジャム)』

 シックスから受け継いだ『落陽の蜜』の応用。円のオーラに粘性を付加し、膨張破裂させることで瞬間的に捕捉範囲を半径500メートルにまで拡げる。

 

 ・特質系『元気おとどけ(ユニゾン)』

 左眼に宿るジャスミンの死後強まる念。オーラの性質を他者に合わせて強制的に混ぜ込む。味方にオーラを分け与えたり、外部から敵の攻防力を操作したりできる。円と併用することで敵の攻撃や防御を溶かす。

 

 

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 アイザック=アルメイザ(雑務兵/戦闘員/強化系)

 

 戦闘員その2。元ハンター協会会長。武術の達人。切れ者だが、自由奔放。昔のことはあまり覚えてない。

 

 ●戦闘技能

 

 ・心源流

 開祖。『最強の武人』と呼ばれた時代もあった。

 

 ・心の所作

 気を整え、拝み、祈り、構え、突く。その一連の動作からなる超音速の精神統一。

 

 ・発勁

 エネルギーを損耗なく伝える体術。筋力以上の破壊を生む。

 

 ●念能力

 

 ・強化・放出系『千百式観音』

 心の所作が発として形を成した技。千百の型からなる不可避の速攻。観音像が技を繰り出しているように見えるが、術者の心象であり具現化はされていない。アイクの肉体の延長線上にある、巨大なオーラの塊から放たれる打撃のようなもの。

 

 

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 メルエム=アルメイザ(雑務兵/戦闘員/特質系)

 

 戦闘員その3。傭兵団の最終兵器。気品を持つが、倫理観に難があり、人間のことを餌として見ることもしばしば。

 

 ●戦闘技能

 

 ・軍儀

 盤上遊戯に基づく思考体系。敵の呼吸を読み、常に最善手を導き出す。

 

 ・王

 生まれながらの王の気質。本能に訴えかける、生物としての格の違い。

 

 ・愛

 コムギ……?

 

 ●念能力

 

 ・特質系『生命の樹の実(アイン・ソフ・オウル)』

 食べた生物のオーラを吸収して自分のものにできる。念能力者ならその能力を奪い、恒久的に使用できる。

 

 ・特質系『過去視(サードアイ)』

 並列世界に転生することで得た、自身の過去を見通す心眼。また、その情報から因果律を解析し、局所的な予知も可能。

 

 ・特質系『光を手にする(アレーテウエイン)』

 肉体を疑似量子レベルにまで細分化することで災厄『ガス生命体アイ』の力を限定的に再現したもの。確率を操作する。

 

 ・特質系・寄生型『玩具修理者の腕(Dr.ブライスMk-Ⅱ)』

 護衛軍ネフェルピトーの死後強まる念が念獣化したもの。片腕や猫の姿を取る。メルエムの意思によらず自動で攻撃を防御し、念攻撃であればそれを解析して自身に取り込む。その他、様々な改造や修復が可能。

 

 ・操作系『赤霧の城壁(ベルゼブブ)』

 護衛軍シャウアプフの能力。虫の肉体を分割して操る。細胞単位で分割でき、そこから分裂することで増殖が可能、復活もできる。霧状にした細胞の群れをオーラで強化して嵐を起こしたり、敵の体内に送り込んで食らい尽くす。

 

 ・変化・操作系『念光子(スピリチュアルメッセージ)』

 シャウアプフの能力。光子状に変化させたオーラを放ち、付着した対象の感情を読み取る。催眠効果を持ち、大量に付着させることで対象の操作もできるが、メルエムの性格上、あまり使われることのない機能。

 

 ・操作系『甲虫図鑑(バグズライブラリ)』

 シャウアプフとモントゥトゥユピーの複合能力。細胞レベルで肉体を組み換え、蜂にして空を飛んだり、蟻だけでなく様々な虫の形態にできる。主に複数体を合体させ、禍々しい武器状にして投擲する。 

 

 ・強化・放出系『誉れ高き血潮(バーニングブラッド)』

 護衛軍モントゥトゥユピーの能力。怒りを糧として一時的にオーラ顕在量を数倍から数十倍に引き上げる。念弾として放出したり、そのまま体に纏って戦う。

 

 ・放出系『あなたの隣に(メリーサン)』

 誰かから奪った能力を応用したもの。遠隔地であっても本体(分割体)が付随している人間の近くにワープできる。ただし、あらかじめワープの条件を設定しておき、対象となる人間が移動先でその条件を満たさなければ発動できない。

 

 ・他多数

 

 

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 キネティ=アルメイザ(雑務兵/見習い/具現化系)

 

 新進気鋭の彫刻家。作品は売ったり船の居住区に飾ったりしている。精神年齢の割に達観しているダウナー系。

 

 ●戦闘技能

 

 ・審美眼

 存在そのものに内包された最も美しい形を見抜く眼。魂の形を感じ取る力。

 

 ・植物状態

 芸術家としての感性を高めるための死に迫る誓約。本体が目覚めることはなく、『千の亡霊』も発動はするが動かせない。

 

 ・死中の念

 生きるとも死ぬともつかない境地。クインやモナドに続く、渦とつながったまま自我を保てる存在。

 

 ●念能力

 

 ・具現化系『自刻像(シミュラクル)』

 眠り続ける本体の代わりに活動する念人形。一つの作品として絶えず完成に向けて作り替えられる。人間の成長を美として掘り出される念人形。

 

 ・具現化系『像は石に(ト・キネートン・アキヌーン)』

 具現化された鑿と玄翁。二つを使って攻撃することで敵の動きを制止する。物体の動きも止められる。効果時間は相手の抵抗力による。

 

 

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 アマンダ=ロップ(服飾/操作系)

 

 傭兵団唯一の人間。パリストン派のハンターだが、今はクインたちに忠誠を誓っている。ハウスキーピングや衣装係を担当。変態。

 

 ●戦闘技能

 

 ・小児愛好

 女のロリコン。

 

 ・糸使い

 実物の糸をオーラで強化し操る。

 

 ・針使い

 鍼灸術の使い手。攻撃の他、味方の気を整える。いかがわしい目的は、ない。

 

 ●念能力

 

 ・操作・具現化系『少女専属裁縫師(マイリトルニードル)』

 オーラを込めた糸を使って一針一針丹念に衣装を仕上げる。完成品は強靭な耐久性を有し、破損しても執念のオーラである程度は復元する。少女が着ていなければ防御力は激減する。

 

 

 

 



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119話

 

『いよいよこの日がやってまいりました! 人類の! さらなる発展に向けての新たな門出です!』

 

 テレビやラジオでは飽きるほど同じ内容の番組が繰り返し放送されていた。ブラックホエール号は既に出航し、今は大海原の上を進んでいる。クジラを模した巨大輸送船は20万人が収容可能で、カキン帝国はこれと同じものを年内に20隻造ると宣言していた。

 

 そして、5年以内に1億人を暗黒大陸へ運ぶことができると謳う。危険生物がいるとしても現代兵器や防疫技術があれば十分に対処可能だと言う。メディアは情報操作されているのか都合の良い内容しか話さない。夢のような話だ。

 

 だが、この船に乗り込んだ人間は、特に下層に押し込められた貧民ほど夢と現実の落差を実感していた。すし詰め状態だ。人口密度を考えれば仕方ないのだろうが、さながら現代の奴隷船である。

 

 BW号は全5層構造となっている。1層はカキンの王族や要人、2層はそれに次ぐ富裕層で占められている。一般乗客は3層以下となっており、2層とつながる通路は固く閉ざされている。

 

 その3層以下にも暗黙のルールというべき格差があった。表面上は平等に扱われるはずだが、基本的に下へ行くほど環境は劣悪になる。万が一浸水した場合、真っ先に危険にさらされるのが下層だからか。そして、ただの一般人は容易に階層をまたぐことができない障害が存在する。

  

「なんでマフィアがこんなに乗り込んでるんだよ……」

 

「国は乗船客の身辺調査とかしてないのか!?」

 

 無作為に抽選された20万人もの人間を一人一人調査して回ることは実務上不可能だった。一般客に紛れ込んだ大量のマフィアが実質的に各階層を取り仕切っている。それを取り締まるカキンの兵士もいるが、圧倒的に数が足りていない。

 

 そもそも紛れ込んでいるというレベルではなかった。これはカキンの王子たちによって工作された事態である。第3、第4、第7王子がバックについた三つのマフィアがそれぞれの階層を支配できるように最初から話がついている。カキンの兵士でさえ迂闊に手は出せない。

 

 無法地帯と言って過言ではなかった。しかし、新大陸到着まで3週間の旅程だ。短くはないが、我慢できないほど長くもない。人々はストレスを感じながらもフロンティアに向けた夢と希望を抱くことで気持ちを紛らわそうとしていた。

 

「おねぇちゃん! おねぇちゃん、しっかりして!」

 

「……」

 

 乗客の中に双子の少女の姿がある。銀色の髪をした美しい少女たちだ。幼い年相応に、二人とも大きなぬいぐるみを抱きかかえている。一つはウサギ、一つは眼鏡をかけた犬のぬいぐるみだった。

 

 二人は容姿を隠すようにフード付きのコートを着ているが、この人ごみの中にあって別段目立ってはいなかった。隠す理由もうかがえる。無法地帯と化した下層域では、女というだけで好奇の視線を向けられる。女性客は自然と身を寄せ合うようにして集団を作っていた。

 

「どうしたの? 具合が悪そうだけど……」

 

「おねぇちゃんが元気ないの!」

 

 クインは白目を剥いてグデッていた。双子の妹が介抱している。近くにいた他の女性客はその様子を見て心配そうに気遣っていた。

 

「おくすりがあればよかったのに……船に乗るときに取り上げられちゃった……」

 

「まぁ……荷物の検査だけは厳重だったからねぇ」

 

 一般客は乗船に際してチケットの有無を確認されるくらいでガバガバのチェックしか受けずに済んだため、クインたちも潜入するだけなら簡単だった。だが、荷物は別だ。武器などの危険物を持ちこめないように徹底的に検査を受ける。

 

 そのためクインの本体をそのまま持ち込むことができなかったのだ。ぬいぐるみの中に隠す程度では通過できない。今抱きかかえているぬいぐるみは乗船した後で使うための偽装用である。

 

 ではクインの本体はどこにあるかというと、絶状態で闇物資の中に潜ませていた。こちらはマフィアが非合法品などの表に出せない物資を大量に仕入れていたため、チェックも甘かった。クインと本体は別々の経路から乗船している。

 

 しかし、まだ合流はできていなかった。現在、本体は人目につかないようにダクト内部を移動中だが、あまり音も立てられず、かなりの広さと複雑に入り組んだ構造もあって手間取っていた。

 

 クインは遠隔操作型の念人形に分類されるため能力者(本体)と距離が離れすぎるとオーラの消耗と制御が難しくなる。クインの不調の原因だった。『渦』からオーラを引き出せば消耗は抑えられるが、それでもグロッキー状態だ。

 

「おねぇちゃん、私がついてるからね!」

 

 いや、お前は元気なんだからさっさと本体を回収しに行ってくれないかとクインは思った。もともとそういう段取りになっていたはずだが、相棒は自分の役に徹してるのかクインのそばから離れようとしない。

 

 傭兵団が受けた今回の依頼主はクラピカ。任務にあたる人員はクインと、モナドである。

 

 

 

 モナドである。

 

 

 

 事の発端は、半年ほど前にネットに流出した動画だった。人体収集家を始めとした猟奇趣味の人間が集う闇サイトに『緋の眼』の映像が公開された。それはクラピカがまだ回収できていない眼だった。

 

 方々手を尽くして動画の発信元を探したクラピカだったが、手がかりを得ることはできなかった。そして最後に頼った先がカーマインアームズというわけだ。

 

 電脳世界の住人と化しているモナドはあっけなくその情報を掴む。というより最初から知っているようだった。緋の眼の持ち主はカキン帝国の第4王子ツェリードニヒ=ホイコーロである。クラピカも改めて被疑者を調べたが、間違いないと思える情報だった。

 

 当初、クラピカの依頼はそこまでだった。彼が欲したのは情報だけで、その後の回収についてまで頼るつもりはなかった。傭兵団としてもビヨンドの依頼があるため余裕はない。だが、そこに待ったをかけたのがモナドである。

 

『友達が困ってるのに黙っていられるかよ!』

 

 傭兵団の誰もが懐疑的な目を向ける中、クインだけは感動の涙を流していた。クインはモナドの将来を案じていた。いつまでも引きこもってばかりでは駄目だ。傭兵の仕事を手伝わせようとしたこともあったが、見向きもされなかった。

 

 そんなモナドが自分から依頼を買って出たのである。これを機に、モナドが更生してくれることを期待していた。これから暗黒大陸の調査が始まり、傭兵団の仕事はさらなる多忙を極めることになるだろう。モナドを戦力として活用できるようになれば心強い。

 

 今はまだ使いどころが難しい最終兵器メルエムも、モナドを抑止力として機能させることができるようになる。というわけで、むしろクインはクラピカに頼んで手伝わせてもらうことになった。

 

 しかし、相手は一国の王族である。容易に接触できる相手ではない。暴力的な手段を用いるのであればできないこともないが、それはクラピカが却下した。

 

 その接触の機会こそ今回の新大陸渡航である。カキンの要人たちはBW号1層に多くの護衛を招き入れた。プロハンターもその勢力の一つだ。ハンター資格を持つクラピカたちノストラード組もこれを利用した。

 

 残念ながら指名手配されているモナドでは1層に直接乗り込むわけにはいかない。そこでまずは一般客として潜入することになった。モナドだけに任せるのはさすがに不安だったので、クインも一緒に来ている。

 

 ビヨンドの依頼についてはクインがいなくても、ギアミスレイニに残る他の傭兵たちに任せておいて心配はない。アイクは独自に動いているようだが、それも直接の雇い主であるパリストンから許可を得ているようなのでとやかく言うことはなかった。

 

 クインがぐったりしていると誰かが医療班に知らせてくれたのか、看護服を来た人物が足早に近づいてきた。その容姿はちょっと犬っぽい。

 

「チードルゥ!?」

 

 ハンター協会のトップに立つからと言ってのうのうとVIP待遇を受けてくつろいでいるということはなかった。難病ハンターであり、優秀な医師の腕を持つチードルは現場をその足で駆け回っている。

 

「医療班です! 患者はどこですか!?」

 

「こっちに具合の悪そうな子が……あれ、いない?」

 

 チードルが到着したときには既に双子の姿はなかった。しばらく周辺を探したが、それらしき人影は見当たらない。

 

「すみませんが、こちらも手が回らない状況なので。これで失礼します」

 

 少しばかり刺々しい態度になってしまったチードルだが、それも仕方ないと言えるほど忙殺されている。事前の計画書が全くのでたらめと思えるくらい3層以下の施設管理体制は杜撰だった。

 

 診療所が3層では3か所、4層と5層では2か所、5層には存在すらしていない。医者の数も当初予定の15分の1という有様だった。

 

 さらに犯罪も横行している。チケットの盗難・偽装、人種衝突、暴行、窃盗、中には重傷者を出す騒ぎも見られた。怪我人は増える一方だ。カキン軍はもはや機能しているとは言えず、十二支んのミザイストムとボトバイが軍と民間警備を統率することになった。

 

 正直なところ、目の敵であるカキンの尻ぬぐいをなぜハンター協会がしなければならないのかと怒りをぶつけたくもなったが、それによって現に苦しめられている乗客たちが救われるわけではない。

 

 この場を放棄して見て見ぬふりをすることはできなかった。せめてこれ以上の暴動が起こらないよう全力を尽くし、祈るしかない。

 

 

 * * *

 

 

「ふぅ、そろそろ潮時か。一般人のふりを続けるのも疲れるからな」

 

 クインを背負ったモナドが気配を消して人ごみの少ない場所へと移動する。クインはようやくモナドが動き出したことに安堵していた。このまま本体のいる場所へと移動してくれるはず、と思っていた。

 

 クインの体が結晶に包まれていく。攻撃されていると気づいた時には遅かった。意識が薄れる。やがて完全に結晶化した。

 

「殺したわけじゃない。俺たちにアルメイザマシンは効かないからな。だが、ちょっと眠っていてもらおう」

 

 モナドはクインに対し、渦のネットワークからハッキングをかけていた。クインが弱っており、油断していたからこそできたことだが、渦の管理者たる女王をこのままいつまでも眠らせておけるわけではない。いずれは目を覚ますはずだ。

 

「ヨシ! ここからは時間との勝負だぞ! うおおおお! モナド行きます!」

 

 これだけの数の人間がいて人ごみの少ない場所というのは、それなりの理由があるものだ。人が近づきたがらない理由である。周囲には明らかに堅気には見えない男たちがたむろっていた。

 

「なんだあの子供?」

 

 モナドは絶をしていなかった。人ひとり分もある結晶を背負った子供が歩いていれば嫌でも目に留まる。一方、モナドが向かう通路の先では何か一悶着起きそうな気配がしていた。

 

「おおっと、お兄さん方、ここはプオール一家の特別警戒区域に指定されていましてね~。通行料5千ジェニーが必要なんですよ~」

 

 見れば、狭い一本道の通路の真ん中を塞ぐように強面の男たちが検問を設けている。末端マフィアのあこぎな商売であることは目に見えていた。この通路の先には食堂があり、一般客は食事を得るために通行料を払うしかない。軍の担当者を買収してやりたい放題だった。

 

「お得な回数券もありますぜ~」

 

「どけ」

 

 しかし、そこに立ち止められた集団は物怖じしない。総勢9人。数で押せば強引に通れると思われたかとマフィアの男たちはいきり立った。だが、その判断は甚だ愚かしいと言わざるを得ない。彼らの前に立つ者たちはA級賞金首『幻影旅団』である。

 

「誰に向かって口きいてんだコラ! 俺たちゃ泣く子も黙るプオール一家の――」

 

「うおおおおお!! うォン! うォン!」

 

 誰が見ても首を突っ込もうとは思わないその状況に、一人の子供が奇声を上げながら近づいていく。走っているわけでもなく、歩いているわけでもない微妙な速度で。

 

「あ……!? あいつまさか!」

 

「知り合いか?」

 

 振り返ったノブナガが最初に気づいた。フードで見えにくいが、その顔には見覚えがあった。ヨークシンで戦い、そして敗北を喫した苦い記憶がよみがえる。

 

「カーマインアームズ!」

 

「ほう、あれが」

 

 旅団長クロロは興味深そうに観察していた。話は聞いていた。団員を殺されたわけではないので個人的な恨みはなかったが、戦闘となれば容赦はしない。容赦できるほど易い相手でもなさそうだと。

 

「……まいったな。もうあれの相手はしたくないところだけど……」

 

 イルミが珍しく愚痴をこぼす。表情はいつもと変わらないが、ひたすら面倒そうな感情が言葉に込められていた。

 

「オッス、幻影旅団のみんな! 食堂に行けば誰かいるだろうと思っていたが、全員集合とは。これは探す手間が省けた」

 

「目的は俺たちのようだな。何か用か?」

 

「おい無視すんじゃねぇ! いいか、俺たちゃ泣く子も黙るプオール――」

 

 団員全員が戦闘態勢に入る。もはや外野のざわめきなど耳に入らない。ノブナガとフェイタンなど、自分から飛びかかりそうなほどの殺気を放っていたが、生憎武器が手元にない。闇物資に紛れ込ませた二人の得物は倉庫にある。

 

 だが、相手は一人だ。背負っている結晶の中に白目を剥いた少女が閉じ込められているが、それを勘定に入れなければ敵は一人。対して、旅団は現在のフルメンバーが揃っている。負けることはあり得ない。

 

 モナドはぞんざいに結晶を脇に転がした。結晶の中には同じ容姿をした少女が閉じ込められている。仲間割れでもしたのか不明だったが、モナドに敵意は見られなかった。戦いに来たわけではなさそうだった。

 

「そう、目的か……その説明をする前に今の銀河の状況を理解する必要がある。少し長くなるぞ」

 

 モナドは一冊の雑誌を取り出す。今週号のジャンプだった。そして銀河とは全く関係ないことを話し始める。

 

「俺は思った。毎週毎週楽しみにジャンプを読みながら思ったんだ。どうしてハンターハンターの連載は再開しないのか。その理由を考えた」

 

「何の話をしている?」

 

「今のジャンプにそんな漫画連載してたか?」

 

「そしてようやく答えにたどり着いた。継承戦の登場人物が多すぎる!」

 

 ジャンプを地面に叩きつけた。回が進むごとに十人、二十人と増えていく登場人物。どんどん広がる風呂敷。念能力者のオンパレード。この伏線を全て回収して綺麗に物語をたたみ切ることなど、まさしく神の御業である。

 

「神よッ! どうかこの崇高な物語に私が手を加えることをお許しください! 連載を再開し、暗黒大陸編を始めるためにはテコ入れが必要なのです!」

 

 モナドはイヌのぬいぐるみを抱きしめながら号泣していた。ゆるキャラっぽい微妙なかわいさのぬいぐるみである。それはモナドが引きこもり中に自作したものだった。旅団はその様子を見てドン引きしていた。

 

「真性だぜ、こいつぁ」

 

「オレたちがヨークシンで会った奴とは違うな」

 

「関わる必要はない。今はそれよりもヒソカだ」

 

 旅団はモナドを無視してぞろぞろと食堂に入っていく。

 

「おいちょっと待て!? 何勝手に通ろうとしてんだぁ!? 俺たちゃプオール――」

 

 その最後尾に位置していたマチは、ただならぬ殺気を感じ取った。さっきまで泣きじゃくっていた少女が笑いながら疾風のごとく駆け寄ってくる。これだから狂人は、と舌打ちした。

 

 迎撃は容易だ。狭い屋内は、地形的にも糸使いのマチにとって有利な環境である。瞬時に念糸を張り巡らせようとした。

 

 だが、躊躇する。なぜか自分でもわからない。理由なき危機感。強いて言うならば直感だ。その判断がマチの動作にわずかな硬直を生んだことを、隣にいたフィンクスは気づいた。マチに代わり前へ出る。

 

「そいつに触るな!」

 

 マチは叫んでいた。だが、既にモナドは接敵寸前の距離にまで迫っている。フィンクスは構わず、オーラを込めた拳を振り抜こうとした。

 

 しかし、拳は空を切る。少女の姿が目の前から消えた。気づけば少女の位置が移動している。動揺しているのはモナドの方だ。なぜか一瞬にして場所を移動させられていた。

 

 他の団員はこの能力が団長のものであると気づいた。前に一度使ったところを見ている。正確に言えば“盗んだ能力の一つ”と言ったところか。団員たちもクロロがどれだけの数の能力を持っているのか予想はつかない。

 

 クロロはマチがとっさに叫んだ注意を軽視していなかった。マチの勘は当たる。そう信頼できるほどの直観力を持っている。フィンクスから遠ざけ、戦闘を仕切り直すために能力で位置を操作した。

 

「だが、念能力には違いない。ならば感染の条件は満たした」

 

 クロロはモナドに対して能力を使ってしまった。『盗賊の極意(スキルハンター)』に触れていた右手から発症する。赤いサボテンがぼこぼこと生えていく。

 

 クロロにマチほどの勘の良さはなかったが、それでもこのサボテンが死に至るほど危険な代物であることには気づいた。毒が身体に回る感覚もあった。瞬時に決断する。

 

 サボテンが生えた自らの腕を、手刀により切り落とした。何でもないことのように。しかし、それは彼の念能力『盗賊の極意』を使う上で生命線となる手の一つを失ったことを意味する。

 

「団長!」

 

「近づくな。奴の言う感染の定義も判明していない」

 

 クロロは額に汗を浮かべていた。腕を切り落とした痛みより、わずかに体内に残った毒素による痛みの方が大きい。だが、汗をかいているのは代謝反応であって精神的動揺によるものではない。

 

「この能力の効果は何だ?」

 

「俺のオーラに触れた念能力者のオーラは『感染』する! うまく逃れたと思っているかもしれないが、今もまだお前の体内にはウイルスが潜伏している。俺の意思一つで、ほれ、あの通りというわけさ」

 

 モナドがクインを指さした。想像以上に厄介な能力と言わざるを得ない。系統は特質系かと思われた。解除するためには術者を殺すのが手っ取り早いが、そのためには団員が何人か犠牲になる必要がありそうだった。無論、クロロにとってその犠牲の一つに自分が入っている。

 

「一応言っとくが、これは念能力ではない。『盗賊の極意』で盗もうとしても無駄だ」

 

「……よく知っているな。どうやらただの狂人というわけでもないらしい」

 

 能力の名前まで知られているとはさすがのクロロも思わなかった。発動条件についてもバレているものと想定すべきだ。

 

「だが、お前の言っていることが果たして本当か。疑いはあるな」

 

 言い換えればオーラが触れただけでその相手を殺すことができる能力ということになる。あまりにも理不尽だ。どれほどの制約と誓約が必要になることか。とてもではないが現実的ではない。念能力ではないということも含めてどこまでが真実かわからない。

 

「例えば、お前は俺の生殺与奪を」

 

「生殺与奪の権を他人に握らせるな!」

 

「俺をいつでも殺せると言うが、それが真実であるという保証はない。事実、こうして生きているということは即死させることまではできないんじゃないか?」

 

 そう言ってクロロはこれみよがしに『盗賊の極意』を具現化する。『栞のテーマ(ダブルフェイス)』を使えば片腕でも戦闘は可能である。

 

 まるで、できるものならやってみろという挑発行為だ。クロロにとっては仮に本当にこの場で殺されることになっても、それはそれで構わないとすら思っていた。命を一つ犠牲にしても検証すべき情報だからだ。

 

「やめろッ!」

 

 そこに待ったをかけたのはマチだった。クロロをかばうように割って入る。しかし、それ以上手を出すこともできなかった。敵の能力の底が知れない。

 

「今すぐここでお前たちを殺してもいいんだが……まあ、それはクラピカと相談してから決めるとするか」

 

 クラピカという名を聞いて、旅団は自分たちが襲われた理由がわかった。傭兵を雇ったということだろう。ヨークシンの一件を踏まえれば接点はあった。

 

 だが、予想されるクラピカの性格から考えてこのような手段を用いるとは思っていなかった。なりふり構わず復讐に本腰を入れて来たということか。

 

 敵の勢力が判明したことによって事態の深刻さは一段と大きくなる。説得が通じる相手ではないとわかった。賞金首とは言え、曲がりなりにも傭兵を名乗る集団だ。金で寝返るとも思えない。

 

「ここは見逃してやる。その代わり、お前たちにはヒソカを殺してもらう。それができれば団長にかけた俺の能力を解除してやってもいい。奴を見つけ出すところまでは俺が面倒を見てやろう」

 

「ヒソカを見つけられるのなら、自慢の能力とやらで殺せばいいんじゃないか? それとも何か制約でもあるのか?」

 

「これは俺なりの優しさなんだよ。山場を作るためにも幻影旅団VS奇術師ヒソカという最期の激闘を用意する必要があるんだ」

 

 ヒソカとの戦いぶりを観戦したいらしい。どこまで本気で物を言っているのかわからない。クラピカを雇い主とした傭兵の行動だけでなく、それ以外の目的をもっているように思えてならなかった。

 

「もう一度聞こう。お前は何者だ?」

 

「俺の名は『1(モナド)』! 一にして全、全にして一! 全てを呑み込む一なるものども!」

 

 史上最悪の殺戮者が名乗りをあげる。活動が確認された期間はわずかながら、その悪名だけなら幻影旅団も霞んでしまう。長らく息を潜めていた悪魔が、新大陸渡航という世界的偉業を機に再び表舞台に立とうとしている。

 

 モナドは去った。クロロはそれを黙って見送る。ここで争い、たとえ仕留めることができたとしても甚大な被害を被ることになるだろう。後ろに控えるクラピカの思うつぼだ。ひとまず感情的になっている団員を落ち着かせ、今後の作戦を練り直す必要があった。

 

「そこの君、聞きたいことがあるんだが」

 

「お、俺か……?」

 

「血液型は?」

 

「O型だが……いや、そんなことよりここはプオール一家の縄張りだって――」

 

「すまないがちょっと手を貸してくれ」

 

 クロロは近くにいたマフィアの男に話しかけた。プオール一家の構成員である。いきなりドンパチやり始めた連中を前にして声をかけられずにいた。クロロは具現化していた本の栞で、おもむろに構成員の右腕を切り落とす。

 

「ありがとう」

 

 悲鳴を上げる男を無視して、マチがクロロの右腕を縫い合わせる。臓器移植などに比べて、腕や脚の移植手術は世界的に見ても成功例はわずか数件という難しさだ。だが、念糸縫合というこの技なら、切断された血管や神経、筋繊維に至るまで正確に接合することができる。

 

「でも、拒絶反応まではどうにもできない。他人の腕だからね」

 

「しばらく持てばそれでいいさ」

 

 殴り合いの戦闘はできないだろうが、本を開いたまま持っていることくらいはできる。

 

「さて、面倒事が増えたな。敵はヒソカ一人ではないらしい」

 

「いつものことね」

 

「もともとヒソカは殺すつもりだったが、指図されて動くのは癪だな。どうするよ団長?」

 

「モナドの能力も言うほど万能ではないのだろう。何かしらの縛りはあるはずだが、それでも現段階で正面から相手をすることは得策ではない。やるなら搦め手だ」

 

「それなら一つ、案があるよ」

 

 手を挙げたのはイルミだった。彼はクラピカという人物が旅団にとって最重要の抹殺対象であることを仲間から聞いている。そして、そのクラピカが弟キルアの友人であることも知っていた。キルアの交友関係についてはプライバシーなどお構いなしに詮索する男だ。

 

 傭兵を雇ったとしても、旅団との因縁を考えれば必ず自らの手で決着をつけようとするはずだ。クラピカがこの船に乗り込んでいる可能性は高い。どのような立場から、どのような手段で乗船したのか。

 

 クラピカと親しい人物から直接聞き出したりしない限り、調べることは難しいだろう。キルアに電話したところで答えてくれるとは思えない。

 

 イルミはポケットから一枚の紙を取り出した。人型に切り抜かれた、ただの紙だ。そこに自分のオーラを流し込み、話しかけた。

 

「もしもし、カルト? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 

 

 

 



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120話

 

 拡大する混乱を鎮めるため警備団体を率いていたミザイストムは、各所から殺到する苦情の処理に追われていた。全力を尽くしても一向に鎮静化に向かう様子はない。全ての問題を解決するためには、あまりに人手が不足していた。

 

「私はただ、身を隠していることしかできませんでした。すぐそばで知り合いが殺されそうになっているというのに……!」

 

 ミザイは泣き崩れる女性から話を聞いていた。カシューという名のその女性は、殺人事件の関係者として聴取を受けていた。事件現場に居合わせたが、運良く殺人犯の魔の手から逃れていた。

 

 このような事件は既に多発していた。民衆の諍いは軽微なものから殺人に至るまで、到底把握しきれない数が生じている。中でもこの一件は念能力者の関与が疑われていた。

 

 事件は3層上部階一人専用客室で起きた。殺害された被害者とカシューは当時、同じ部屋におり、カシューはそのときトイレにいた。押し入って来た犯人は一人を殺した後、なぜか目撃者であるカシューを襲わず逃走している。

 

 しかも、カシューの証言によれば犯人は密室状態であるトイレに立てこもり、兵士が駆けつけた時には姿を消していたという。状況だけを見ればその証言の信憑性は低い。

 

 だが、特別捜査官として数々の難事件を請け負ってきたクライムハンター、ミザイストムの鼻はごまかせない。現場検証と検死を終えた所感としては、カシューの証言が全くの嘘とは思えなかった。

 

 すなわち、念能力者の殺人犯がいた可能性があった。密室から空間を移動できる能力となればかなり厄介だ。カシューの目撃情報も精査した上で犯人の特定を急がなければならない。

 

「捜査のご協力に感謝します。また何度か話をお聞きすることになると思います。新たにこちらで部屋を手配しますので……」

 

 そこで対応していたミザイの携帯に着信が入った。指揮していた民間警備団体からの一報である。

 

『こちら巡回警備班! 5層最下部において未確認生物を発見しました! 巨大な甲虫らしき生物を多数発見!』

 

 まだここは海の上だ。危険生物からの攻撃の危険も想定はしており、最新鋭のセンサーを使った索敵設備が常時海中を警戒しているはずだった。

 

 送られて来た画像を見てミザイは戦慄する。外部からの侵攻ではないことを悟った。その甲虫には見覚えがある。

 

「とうとう尻尾を出したか、カーマインアームズ……!」

 

 次々に各所の警備班から連絡が入る。5層だけでなく、艦内のあちこちで甲虫の存在が同時多発的に確認された。畳みかけるように艦内放送が流れる。

 

『え~、本日はBW号にご乗船いただき、誠にありがとうございます。私は当艦の艦長を務めております、モナドと申します』

 

 公共施設や客室に設けられたモニタ、端は個人が所有するスマートフォンに至るまで電波をジャックされたのか、同じ映像が流れ始めた。そこに現れた人物は以前にも同じようなことをやらかしている。

 

 銀髪の少女だった。エンブレムがあしらわれた艦長の制帽をかぶり、ヨルビアン・ヴィルシュター連邦の東西分裂時代を思わせる古めかしい軍服を着ている。

 

『現在、当艦では下層部を中心に様々な犯罪が頻発する危険な状況が続いております。このまま事態が加速し、万が一にも乗客20万人を巻き込む暴動に発展などしないように、緊急措置を取らせていただきました』

 

 それが艦内を隈なく網羅できるように配置された虫の群れだと言う。大量の不気味な虫が排気管を通り、2層以下の全域に及んでいる。ここまでのことをされているということは既に船の制御システムについてもモナドの支配下にあるものと思われた。

 

『恐れる必要はありません! この虫は完璧に調教されています。マフィアに買収されるような腐ったカキンの兵士などよりも遥かに優秀です。皆さまの安全をお守りします。ただし……いたずらに騒ぎを起こすような輩についてはその限りではありません』

 

 

 早急にミザイは全警備班に連絡を取ろうとした。虫に対して余計な手出しをさせないように周知しなければ凄惨な被害が発生しかねない。だが、電波ジャックの影響か、通信機器が一時的に使い物にならなくなっている。

 

「甘かった……やはりA級賞金首を信用なんてするんじゃなかった!」

 

 そうこうしているうちにミザイのいる場所にも赤い虫がどこからともなく現れ始めた。カキン兵が警戒して銃口を向ける。

 

「発砲はするな! おそらく銃はきかない!」

 

 20センチほどの体長だが、全ての個体がオーラを纏っている。そのオーラの力強さと分厚い装甲を見る限り、防御力はかなりのものだ。念能力によって具現化されているとは思えなかった。相互協力型(ジョイントタイプ)でもこれだけの数を一度に生み出せるはずはない。

 

 実際に、一つ一つが生命体なのだ。それが艦内で孵化し、増殖している。キメラアントの繁殖力を考えれば不可能ではない。どこかにいる女王アリを探し出さない限り、まだ増え続けるだろう。

 

 またキメラアントの繁殖には大量の食糧が必要になる点も気がかりだ。いったい女王アリは“何を”食べてここまで群れを拡大させているのか。もうすでに“暗黒大陸は始まっている”。到着してからが本番ではないと気づかされた。

 

『新大陸到着まであと2週間。それでは皆さま、安心安全な船旅をお楽しみください』

 

 放送は終わるが緊迫感は依然として続いていた。幸いにも、目に届く範囲にいる虫が攻撃してくる様子はなかった。モナドの言う通り、しばらくは監視役に徹するつもりか。だが、それもいつまで続くかわからない。

 

 ミザイの不安は早くも的中した。それまで敵意を感じなかった虫たちが一斉に押し寄せてくる。

 

「う、撃て! 近づけるな!」

 

 カキン兵が自分たちの判断で発砲し始めた。ミザイが指揮を執っていると言っても、プロハンターと一国の軍人では所属が異なる。命の危機を感じた兵士たちは冷静でいることなどできなかった。

 

 数人がかりの自動小銃による掃射は念能力者であっても無傷で防ぎきれるものではない。だがそれは人間を基準とした話だ。銃弾は虫たちを殺すどころか、吹き飛ばすことすらできなかった。

 

 ミザイからすれば想像通りの防御力である。その代わり、機動力はそれほどでもない。数匹程度なら対処はできるだろうが、問題は数だ。ミザイの『密室裁判』でも全てを止めることはできそうになかった。

 

『まあ、そう警戒しないでくれたまえ。こちらの目的はそこにいる女一人だ。抵抗しなければ他の者に攻撃はしない』

 

 唐突に、ミザイのスマホに映像が流れた。また先ほどと同じ少女の姿が映る。モナドの要求とは、その場に居合わせたカシューの身柄の引き渡しだった。

 

『その女はカキンマフィア、エイ=イ一家の構成員だ』

 

「だから何だ」

 

『エイ=イ一家の組長、モレナ=プルードは特殊な念能力を持つ。サイキンオセン、だったか? その力で20人以上の組員を念能力者にして艦内で大量殺人を行わせている』

 

 虫たちから情報を集めでもしたのか、ミザイもまだ把握していない情報だった。真偽のほどはわからない。

 

「なぜわざわざここで騒ぎを起こす必要がある? 逃げ場もない船の中だぞ。エイ=イ一家と言えばカキン系3大マフィアの一角だ。下手をすれば他の二つの組が黙っていないだろう」

 

『さぁな。頭のネジが外れた奴の考えることはわからないよね』

 

 お前が言うなと怒鳴りたかったが、憤慨したところで状況は変わらない。カシューは怯えきり、逃げようとするが周囲は虫たちによって包囲されていた。

 

「マフィアなんて知らない! 助けて! 助けてよぉ!」

 

 実はミザイもカシューのことを完全に信用していたわけではなかった。というより、普通は疑う。なにせ殺人事件の第一発見者であり、アリバイはなく、支離滅裂な犯人像をまくしたてていた。真っ先に犯人として疑われるべき人間である。

 

「それでも確定的な証拠がない以上、彼女に危害を加えることは許されない! 仮にお前の言うことが本当だったとしても、この場で処断する理由にはならない!」

 

 ここでモナドにカシューを引き渡せば無事では済まないだろう。たとえ悪人だろうと、そもそも人間に人を裁く権利などありはしない。それを承知の上で人は不完全ながら、争いを最も公平に解決するため、司法という制度を作った。

 

 せめて裁かれる場だけは整えられるべきだとミザイは思う。ただ力によって悪を叩くだけならクライムハンターを名乗ってはいない。罪を狩る者としての矜持。しかし、モナドはあざ笑った。

 

『その判断を下すまでに、こいつは一体何人を殺すんだろうな?』

 

 天井から異音が響いた。絶で気配を絶っていた虫の群れが天井を食い破り、カシュー目掛けて落ちてくる。

 

 逃げ場はない。ここに至り、ようやくカシューは本性を現した。その身にオーラを纏う。弱弱しく泣き崩れていた女の顔ではなかった。降りかかってくる虫たちを殴り飛ばす。だが、二本の腕で捌ける数ではなかった。

 

「ちくしょうがあああああ!!」

 

 虫の群れに埋まる。能力を発動するためカードを提示しようとしていたミザイにも虫が殺到していた。

 

 カシューは叫んだ。噛みつかれたことで毒を送り込まれた身体は満足にオーラも出せないほど麻痺してしまった。そのおかげか痛みはない。ただ体が欠如していく喪失感のみに襲われる。

 

 怒りの声はやがて悲痛な絶叫に変わっていた。ミザイは体中に張り付いてきた虫を引きはがして拘束から脱する。無傷である彼に対し、カシューは食い散らかされた肉と骨の破片になっていた。

 

 役目を終えた虫たちがぞろぞろと撤退していく。追撃を加えようとする者はいなかった。茫然と立ち尽くしている。それはつまり、本来治安維持を担うべきカキン兵が職務を放棄したことを意味していた。

 

 カシューは確かに一般人を装った念能力者だった。結果的に見ればモナドがやったことは間違いではなかったのかもしれない。

 

 ミザイはそれを正義と認めることはできなかった。だが、ミザイとて周りにいる兵士たちと何ら変わりはない。モナドの暴挙を見過ごすことしかできずにいる。

 

「ここに居たか、ミザイ!」

 

 そこへ十二支んの一人であるボトバイが訪れる。連絡が取れないミザイのところへ直接出向いていた。絶望感を拭いきれずにいたミザイに、さらなる試練が言い渡される。

 

「4層にてA級賞金首、幻影旅団が複数人確認された。隠れもせず凶行に及んでいる。そして問題がもう一つ。『亥』がビヨンドと接触している」

 

 

 * * *

 

 

 富裕層や角界の著名人のみが2層エリアの乗船を許されている。そこに接する3層では、エイ=イ一家によって特権階級との闇取引が斡旋されていた。カキンの上層部がこの事実を把握していないわけはない。暗黙のうちに違法物資の闇取引が認められていた。

 

 カキン軍の兵力が下層部にあまり割かれていない理由は、マフィアによる人民のコントロールを当てにしているからだ。たとえ騒ぎが起きたとしても、マフィアが睨みを利かせていれば大ごとにはならない。これが幅を利かせている理由でもある。

 

 それを考えれば、エイ=イ一家の動きは一見して理に適っていない。自ら秩序を乱す側に回り、一般市民だけでなく他のマフィアにまで攻撃の手を広げている。マフィア同士の抗争に発展することは時間の問題だった。

 

『なぜそんなことをする必要がある?』

 

 VIPルームの大型テレビに映ったモナドが問いかける。それに対面するようにモレナがソファに腰掛けていた。両脇に控えた護衛がテレビに向けて銃口を構えるさまは滑稽だ。

 

「いずれは誰かが口火を切ることになる戦いでした」

 

 新大陸における裏社会の勢力図を決めるため、三大マフィアが今回の船に乗り込んだ。だが、そのシマの配分が話し合いによって平和に解決するとは誰も思っていない。最大の原因は王位継承戦である。

 

 新大陸に到着する頃には次代の王が決定していることだろう。つまり、他13人の王子は死ぬ。必然的に、三大マフィアの後ろ盾も最低2人は死ぬことになる。国とのつながりが断ち切られれば、そのマフィアは確実に落ち目となる。

 

 勢力が拮抗していたからこそ三つ巴の膠着関係を保っていたが、そのバランスが崩れる。どこかで抗争が起きることは避けられなかった。ならばとモレナは、その前に先んじて攻勢を取ったわけだ。

 

 これにもデメリットはある。シュウ=ウ一家とシャ=ア一家は一時的に協力関係を結ぶだろう。エイ=イ一家は一度に二つの組を相手取らなければならないということだ。

 

 それでも勝てるという公算があったからこそ行動に出た。モレナの念能力『恋のエチュード(サイキンオセン)』にはそれだけのポテンシャルがあった。

 

 モレナの唾液を通じて『発症者』を最大23人まで生み出せる。発症者は人を殺すごとにレベルが上がり、レベル20で独自の能力を取得、100に達すると自分の唾液から新たな発症者のコミュニティを形成できるようになる。まずは乗客を糧として発症者を育成するつもりだった。

 

 凶悪な点は、独自の能力の発現が本人の念能力とは別枠で生じることだろう。もともと念能力を持っていた場合、新たにもう一つの能力を大した苦も無く手に入れられてしまう。

 

 一般人が発症者となった場合はさすがに修業を積んで来た念能力者と比べれば戦闘力は見劣りするが、代わりに平常時のオーラの気配は素人同然という利点もある。精孔は閉じたままだが発だけは使える状態だ。一般人に成りすます上では適している。

 

 カシューは殺されてしまったが、それだけで計画を中止するほど追い詰められてはいない。と、モレナは楽観していなかった。

 

『なるほど、単なる自暴自棄ではなくちゃんとした理由があったと。なら、話し合う余地はある。俺の言うことを聞いてくれるなら、悪いようにはしない』

 

「フフフフ……それは無理でしょう? あなたには誰も生かす気なんてないのだから」

 

 モレナは理解していた。モナドという少女の根底には自分と同じ性分がある。何となく、何気なく、ふと思いついたようにこの世界を嫌悪し、壊したくなる。そういう人間なのだと。

 

「私たちは皆、どうでもいいのです。だから、あなたが代わりに壊してくれるというのなら、別にそれでもかまいません。むしろ、私たちよりもうまくやってくれると思っています」

 

『……残念ながら、世界はそう簡単に壊せるようなものじゃないんだ』

 

 それはモレナの歪んだ願いを否定したいがための言葉ではなかった。モナドは仕方なさそうに、心底残念そうにしていた。

  

 モレナの体が多肉植物の結晶に包まれていく。モナドはモレナに直接触れたわけではなかったが、サイキンオセンの影響下にあったカシューを殺している。そのオーラのつながりから、モレナを含めた23人の発症者全てにウイルスが感染している。船内で殺人を続けていた組員も全てが一度に殺されていた。

 

 護衛たちが慌てふためくが、モレナを助け出すことはできなかった。結晶の中に閉じ込められていく彼女の表情は安らかだった。やっと肩の荷が下りたかと言うように。

 

『さて、これで無差別テロの実行犯はいなくなった。平和ってサイコーだよね! というわけで、今後も問題を起こす不穏分子は躊躇わず粛清する。たとえそれが一国の王であろうとな』

 

 その映像は艦内に一斉配信されていた。カキン防衛軍本部にいた将校たちは怒りに顔を赤くするどころか真っ青になっていた。音を立ててくずれゆく均衡を前に身震いする。軍の兵士は下層部の警備を既に諦め、2層につながる通路の防衛線に回されていた。それがもはや意味をなさないことも承知の上で。

 

 シュウ=ウ一家組長オニオール=ロンポウとシャ=ア一家組長ブロッコ=リーの自室にも映像は届いている。仇敵の死を喜ぼうにも、あまりにあっさりしすぎていた。

 

「無事に……旅が終わることを祈るか……」

 

 いつの時代も礼節をわきまえない輩は現れる。ただ無礼なだけならただの愚か者だが、それが力を持つとなると厄介だ。オニオールたちからすれば、それはモレナだった。常に起爆する危険性を抱えた爆弾のような存在だった。

 

 だが、モレナさえも遥かに凌ぐ爆弾がどこからともなく転がり込んできた。二人は全ての組員に通達する。絶対にモナドと敵対してはならない。面子を気にしていられる段階ではなかった。マフィア同士の衝突はもちろん、一般客への威圧的な態度すら禁止するように厳命した。

 

 

 * * *

 

 

 第1層は、国の中枢を担う限られた要人たちのために作られた大型豪華客船である。BW号の最上部に浮かべられており、自立して運航できるようになっている。何かあった時は下層部を切り離して逃げるための巨大な救命ボートというわけだ。

 

 VIPのための階層と言っても、実際にそこに乗り込んでいる人員の多くは防衛軍や王妃所属部隊、王子の施設兵、ハンター協会員、各種使用人など裏方の人間たちである。

 

 王族の王位継承問題については事前に危険視されており、過剰なほどの護衛が配置されていることは仕方なかった。出航する以前であれば、争いを避けて安全に航海するためにも妥当な措置と思われた。

 

 だが蓋を開けてみれば、血で血を洗う殺し合いの始まりだ。比喩ではなく、文字通りの『継承戦』。所属がはっきりしている人間はまだしも、仮資格を得て乗り込んでいる準協会員などは素性の知れない者が多い。

 

 ハンター試験の段階ではまだ継承戦の詳細を誰も知らされていなかったため、スパイも嘘発見器などの検査をパスしている。実際にパリストン陣営として乗船しているハンターも困惑していた。1層内部の治安は有名無実化しているに等しい。

 

「もはや誰が敵か味方か区別もつかん。その分、わしは立場を明言しているだけマシとは思わんか?」

 

「開き直らないでくれ」

 

 十二支んの一人、サッチョウ=コバヤカワが釘をさす。男性用の黒スーツを来た少女がその隣を歩いていた。アイクである。このスーツは協会から着用が義務づけられた制服であり、胸につけられた『H』のバッチには発信機が仕込まれている。

 

 彼らは1層のある部屋を目指していた。何重もの隔離壁を抜けてたどり着いたその部屋には、複数の人間がいた。十二支んのカンザイとサイユウ、そして牢獄に閉じ込められたビヨンド=ネテロである。

 

「おい、サッチョウ!? なんで会長連れて来てんだよ!?」

 

「前会長な」

 

 ビヨンドとアイクを会わせることはまずいと、あのカンザイでも理解して驚いていた。

 

「アイクが面会を希望し、監視付きでそれを認めることにした」

 

 アイクとビヨンドがこの場で共謀して脱走を図ることはないと思われた。今のビヨンドにとっては捕まっている状態にこそメリットがある。ただ暗黒大陸に行くだけなら自力でどうにでもなるのだ。それならわざわざ捕まりに来ていない。

 

 カキン帝国と結託して暗黒大陸進出を計画する一方で、V5に向けた融和策である。完全な敵対関係にあるよりも利をちらつかせて交渉の条件を引き出す。身柄を拘束させるという圧倒的に不利な立場に置かれることで便宜を図らせた。

 

「だとしても、いずれ脱走する気満々なわけだろ。内通者なら、俺たちにわからないような符号を使って情報をやり取りする危険もあるんじゃないか?」

 

「何度も言うが、ビヨンドの依頼とわしは無関係じゃ」

 

 サイユウが苦言を呈する。本人の証言だけでは信用ならない。今のアイクの立場はネテロ会長の生まれ変わりであるという一点で支えられていた。

 

「別に内通者の疑いがあるのはわしに限った話でもあるまい。他の十二支んの中にも一人か二人程度はおるのではないか?」

 

「んなわけねーだろ」

 

「言い逃れしてんじゃねーぞカスが」

 

「女の子じゃぞ」

 

「カスは言い過ぎたわ」

 

 カンザイとサイユウは即座に否定しているが、探偵を生業にしているサッチョウはその可能性も疑っていた。現に、ミザイストムと協力して身内の身辺調査も行っている。ビヨンドの渡航計画が50年以上も前に始まっていることを考えれば、裏切り者がパリストンだけだったと断定することはできない。

 

 全てを疑った上で今回は、ビヨンドの反応を探るためにもアイクと面会させることを決めた。サッチョウは注意深く牢獄の中を観察している。そこに閉じ込められているひげもじゃの囚人は、眠そうにあくびをしていた。

 

「さっきからごちゃごちゃと何の騒ぎだ?」

 

「ビヨンドよ。わしが、おぬしのパパじゃ」

 

「……は?」

 

 いきなり何の世迷い事かと訝しむビヨンド。しかし、十二支んたちは至って真面目だった。その反応に歴戦の冒険家もさすがに少しは動揺する。サッチョウは簡潔にこれまでの経緯を説明した。ビヨンドは半信半疑でその話を聞いていた。

 

「しばらく見ない間に随分とかわいらしくなっちまったなぁ、親父殿。それで?」

 

「うむ、我が傭兵団はパリストンと契約し、おぬしはクライアントということになっておる。しかし、契約内容はあくまで暗黒大陸についてからの調査がメインじゃ。脱走を手助けするつもりはない」

 

「うん、構わねぇよ? 俺が自力で抜け出して現地集合、それ以外のことはまだ何も決まってねぇからな。確認したいことはそれだけか?」

 

「いや、ここからが本題じゃ。ハンター協会に協力しろとは言わん。停戦協定を結ばぬか?」

 

 その提案の意図は誰もが理解できた。このまま協会とビヨンドの探検隊が暗黒大陸で潰し合うような事態となれば調査の難航は必至である。それを回避するためにも互いに不干渉、というスタンスを取ろうという話だ。しかし、十二支んたちは呆れていた。

 

「……おいおい、本気で言ってんのかよ? お前がネテロのじいさんの生まれ変わりだって話、正直怪しくなってきたな」

 

 サイユウが馬鹿にするような口調でまくしたてた。そもそもビヨンド狩り(ハント)の指令を出したのはネテロである。自身の死を契機として世に解き放たれることになるであろう息子より先に、暗黒大陸調査を成功させてみよという遺言を残していた。

 

 それがまさか戦う前からハントを諦めて迎合しようとは、生前のネテロの性格を知る者であれば納得はしない。

 

「わしもこの眼で実物を見極めるまでは明確な答えまでは出さずにいた。じゃが……」

 

 アイクはテーブルに肘をついてビヨンドを眺める。眼の奥に焼き付くような、その獰猛なオーラの気配を感じ取る。

 

「こやつは檻に捕まっておるのではない。獲物のはらわたを貪り、その中に居座っておるだけじゃ。その気になれば食い破って出て行くじゃろう。おぬしたちに止められはせん。既に協会は敗北しておるのじゃ」

 

「ああ!? だからそれをこれから阻止しようって話だろうが!」

 

「そういう発想しかできない時点で負けておるのじゃ。本気で勝つ気なら、全てをなげうつ覚悟で初動を制するべきじゃった。ハンター協会の威信も含め、全てを捨てるつもりでな」

 

 ビヨンドの誘いに乗らず、V5も許可庁の要請も無視し、協会が独自に暗黒大陸へ先行、希望(リターン)を取得する。それくらいのことができなければ、ビヨンドにまいったと言わせることはできないとアイクは語る。

 

「できるわけがないだろう。そして、停戦協定についても認めるわけにはいかない。我々はV5から許可庁を通して、調査が終了するまでビヨンドの身柄を拘束し続けるように依頼されている。これは決定事項だ」

 

「その場合、良くて全滅。悪ければ災厄を抱えて帰還。奇跡が数十重なってようやく、一人か二人、無事に生還できるかどうか、と言ったところじゃな」

 

 ビヨンドたちとの戦闘が直接の原因でなくとも、暗黒大陸という環境は人間が生きることを許さない。万全の準備を整え、死に物狂いで精神を研ぎ澄まし、襲い掛かる災厄の群れを回避し、ようやく生き残ることができるか否か。人間同士で争っている余力なんてものがどこにあるというのか。

 

 過去の渡航データから見ても、アイクの言うことには説得力があった。十二支んも自分たちだけは特別だと己惚れる気持ちはない。だが、想定が甘いと言われればそれを覆すこともできずにいた。

 

「それでいいのか? わしは嫌じゃ。こうして十二支んにも入ったんじゃからな、おぬしらを死なせるつもりはない」

 

 最初は勝手にアイクが十二支んに乗り込んできただけで彼女を認める者は少数だったが、交流するうちに皆がネテロの面影を重ねるようになっていた。そうでなければ乗船を許可されてはいない。

 

 そしてアイクも欠けていた記憶を取り戻すように十二支んのメンバーたちとの絆を感じ始めていた。熱のこもり方は最初と異なる。真剣に、十二支んの一人として調査を成功させるつもりでいた。

 

 その意気込みはありありと察することができた。カンザイたちは同じ仲間として頼もしくさえ思う。それでも現実は理想通りにはいかないものだ。

 

「そりゃあ、俺も好き好んでビヨンドと敵対したいわけじゃねぇよ。会長の言いたいこともわかるけど……もう許可庁の依頼は受けちまったんだ。今更それをなかったことにはできないだろ」

 

「できるじゃろ」

 

「マジで!? どうやって!?」

 

「バックれろ」

 

 今度こそ三人は天を仰いだ。この依頼を失敗するということは許可庁の、5大陸の主要国家からの信頼を完全に失うということだ。失敗ならばまだしもアイクの言う通りにするなら放棄だ。糾弾されかねない。協会の屋台骨は崩れ、ハンターたちはこれまで有していた特権と仕事の基盤を失うことになる。

 

「まあ、別によくね?」

 

「よくねーよ! このじいさん、他人事だと思ってムチャクチャ言いやがるぜ!」

 

「依頼、特権、ライセンス、それがなければおぬしらは狩りもできんのか?」

 

 露骨な挑発だが、そのオーラは狩人たちの気概を問うていた。何をもってハンターはハンターたるのか。その真意を問いかける。

 

「良きにしろ悪しきにしろ、必要とされる場所に人は集う。許可庁なんぞこれまでさんざんハンターに無理難題を押し付けてきた連中じゃ。泣きつく先がなくなれば困るのは向こうの方じゃて。自分で狩るものも選べんようでは、おぬしらもまだまだひよっこじゃのう」

 

 時代は移り変わろうとしている。未知を隠蔽し、独占しようとしていた世界の旧制度はもうすぐ通用しなくなる。カキンの後を追う者たちは必ず現れ、もはや許可庁の抑止が機能する時代ではなくなるだろう。ハンター協会も従来の体制に依存してはいられなくなる。

 

「よくわかんねーけど、やっぱ会長は会長だな! 許可庁とかビヨンドとかどうでもよくなってきたぜ!」

 

「今の話聞いたらチードルが発狂しそうだけどな……」

 

「キレ散らかすけど、なんだかんだで最終的にはあいつも納得するんじゃねぇか? ネテロのじいさんがいた時もだいたいそんな感じだったし」

 

「おい、会長とかネテロとかじいさんとか呼ぶのは止めるのじゃ。女の子じゃぞ」

 

 ひとしきり話を聞いていたビヨンドは豪快に笑った。アイクが自分の父親の生まれ変わりかどうかまではわからないが、交渉するに足る人物ではあると思えた。

 

「オーケー、停戦協定だな。了解した。俺たちのモットーは『来るもの拒まず、去る者追わず、邪魔する奴はぶっ潰す』だ。そちらから仕掛けてくることがなければ、こちらから手を出すつもりもない。だが……拍子抜けだな」

 

 ビヨンドは宣戦布告のつもりで協会に乗り込んだ。トラブルが起きないならそれも結構だが、張り合いのなさを感じていた。

 

「むしろなぜ協会が子供(おぬし)のお守りなんぞせにゃならん。親に甘えたい年頃というわけでもあるまい? 遊びたいのなら構わんが、もしそちらが協定を破り、危害を加えてくることがあれば容赦なく叩き潰すので、そのつもりでな」

 

「くくく、ならせいぜい俺たちの邪魔にならないように端っこでおとなしくしておくことだ」

 

 二人は檻越しに殺気をぶつけながら笑い合う。ああ、これは確かに親子だと十二支んの三人は妙に納得してしまった。

 

(と、ここまでは何とか順調に事を運べたようじゃな)

 

 不敵に笑いながらアイクは内心で別のことを考えていた。彼女は傭兵の立場から、ハンター協会とビヨンドの衝突を避けるための調整役としてここにいた。

 

 そのために十二支んに入り込み、停戦協定を結ばせたのである。敵対関係にある双方をとりなす非常に難しい役割である。アイク以外に適任はいなかった。

 

 協会と打算ありきの関係を築いていることは確かだが、完全に騙すつもりはない。アイクが協会の調査成功に全力を尽くそうとしていることは事実だ。十二支んたちを本当の仲間だと思っている。その自分の感情の変化すら勘定にいれた策だった。

 

 とはいえ、まだ課題は多く残されている。現会長チードルやそれに続くまとめ役のミザイストムなど、説得に骨が折れそうなメンバーを言いくるめなければならない。それがうまくいったとしても不安は残る。

 

 なにせ探索隊には“あの”パリストンがいるのだ。むしろビヨンドよりそちらが厄介かもしれないとまで思っていた。まだ一息つくことはできそうにない。

 

 

『え~、本日はBW号にご乗船いただき、誠にありがとうございます』

 

 

 そして聞こえてくる間抜けな放送。1層においても、下界で発生した混乱と無縁ではなかった。サッチョウはすぐにその放送の意味を理解した。

 

「カンザイ、サイユウ! 何を呆けている!」

 

 サッチョウは二刀の得物を抜く。その切っ先はアイクに向けられていた。敵はモナド、そしてその背後には傭兵団カーマインアームズとのつながりがある。アイクもまた無関係ではない。

 

 冷たい汗が首筋を伝う。もし、これが最初から仕組まれた計画であったなら、敵の目的とは何か。カキンの要人にまで被害が及びかねない事件を起こす理由とは何か。

 

 例えば、この騒動自体が敵の狙いという可能性もある。ハンター協会ですら対処不可能な異常事態であれば、そのゴタゴタに乗じて色々とやれることはある。ビヨンドの監視にかかりきりになってはいられないという状況である。

 

 ビヨンドが自分から捕まりに来ておきながら、その足で脱走するのはV5に対してあからさまに喧嘩を売るようなものだ。しかし、騒動の最中に巻き込まれる形で“事故として”姿をくらませる。そんなシナリオならば詭弁を弄することもできなくはない。

 

 もし、そうであれば今の状況はすこぶるまずい。ビヨンドのそばにアイクがいる。脱走を手助けするには絶好の機会だ。口ではビヨンドに協力しないと言っているアイクだが、この状況で信じ切ることはさすがにできない。

 

「一体何を考えている……!?」

 

 焦りを募らせるサッチョウに、アイクの心理をうかがい知ることはできなかった。その時アイクは、FXで有り金全部溶かしたみたいな顔になっていた。

 

 



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121話

 

 ここは4層の一角。人々は徘徊する虫の群れから逃げるように距離を取っている。しかし始めこそその薄気味悪い光景に恐怖していたが、次第に混乱は落ち着いていた。放送で伝えられた通り、大人しくしていれば攻撃してくる様子は見られなかったからだ。

 

「おお、見ろ。食べたぞ……」

 

 一人の男が虫に近づき、餌を与えていた。砕いたクラッカーを床にまき、それを食べにきた虫の背中を撫でていた。

 

「やめろって! 何考えてんだお前!」

 

「大丈夫だ。説明通り、ちゃんと訓練されてるんだきっと」

 

「さっき発砲した兵士が殺されてたぞ!」

 

 正確には殺されたのではなく麻痺毒によって体の自由を奪われていた。そのカキン兵は助けを求めてうめき声を上げていたが、近くにいた者たちは遠巻きに眺めるだけだった。近づくのは怖いし、何より余計なことをするなと非難する視線の方が多かった。

 

「荒事を起こすからだ。自業自得だ。カキン兵もマフィアもな」

 

 エイ=イ一家の組長がモナドの手によって殺害された映像は艦内全域に流されている。モナドとは何者なのか、当然調べようとする者はいた。

 

「この船、乗っ取られてるんじゃないか? モナドと言えば前にニュースでやってたオチマの殺戮者だろ」

 

「まだそんなデマ信じてるのか。個人で一国を滅ぼせるような規模の兵器を持ってる奴がいるわけないだろ。ただのアイチューバーが売名目的で馬鹿やっただけさ」

 

 世界治安維持機構は先の一件を、オチマ連邦の周辺に位置するいずれかの独裁小国家が開発した新型兵器の暴発事故と発表している。モナドの犯行声明がネットに流れていたがそれは無関係な便乗者だと、一般市民には報道されていた。

 

「だとしても不安だぜ。どう考えてもこの状況、普通じゃない」

 

「そうか? 俺はこれで良かったと思う」

 

「はぁ……?」

 

「今までと同じだろ。お偉いさん方にしてみれば大問題だろうが、結局、俺たちみたいな底辺の人間にとっては大した違いじゃない」

 

 夢の新大陸。未来ある開拓者。耳に心地良い言葉ばかりが飛び交うが、国民も馬鹿ではない。それが誇大広告であると気づいている。カキン本国で安定して生活している基盤を持っていれば、わざわざ未知の新大陸に足を突っ込もうなんて考えない。

 

 つまり、この船に乗り込んだ者の多くがそれ以外に行き場のない難民のようなものだった。高倍率の乗船チケット抽選に当たり、夢も希望もない本国を離れイチかバチかの賭けに出ようとしていた。手つかずの土地を開拓すれば財を成すことも不可能ではない。

 

 だが、それも結局は最初から手広く事業を展開していけるだけの資産力を持った2層以上の人間の話だ。下層の労働者は使い潰されるだけ。誰も教えてはくれないが、これまでの人生の経験から皆が何となく理解している。

 

 国に搾り取られ、富裕層に搾り取られ、そして最後の残りカスをマフィアに搾取される。余すところなく利用されるためだけに仕入れられた家畜だ。

 

「だから正直、スッとしたぜ。大マフィアの組長がいともたやすく殺されちまった」

 

 虫に餌をやっていた男は静かに笑う。マフィアにしろカキン兵にしろ、一般市民からしてみれば逆らうことのできない存在だ。兵士も味方ではない。少しでも体制に批判的な言動を取れば暴力をちらつかせてくるような連中だ。マフィアとも裏でつながっている。

 

 そう言った権力に守られた人間が殺されることに歪んだ快感を覚えていた。これで少しは上から押さえつけられる人間の痛みがわかるだろうと、せいせいした気分だった。

 

「モナドを名乗る何者かは、カキンを潰す気なのかもしれない。ここだけの話……俺は『反体制派』の策略じゃないかと睨んでる」

 

 近年、カキン帝国では君主制の転換を求める市民運動が活発化していた。その一因が第9王子ハルケンブルグの存在である。彼は王族政治を根本から変えようとしており、国内外から多くの支援者が集まっている。

 

「まさかそんな……ハルケンブルグ様はこんな強硬手段に訴えるような方ではない」

 

「確かに直接本人が指示を出しているとは考えにくい。だが、その方が都合が良くないか?」

 

 反体制派も一枚岩ではなかった。これまでの行き過ぎた言論統制や武力制圧により反感を募らせたタカ派の中には玉砕も辞さない覚悟で政権打倒を企てている者もいるという。また、ハルケンブルグを利用して裏から実権を握ろうとしている勢力もある。

 

「『モナド』という凶悪犯に責任を押し付けてクーデターを成功させれば、第9王子は潔白な身分のまま玉座につけるというわけさ。本人はむしろ、何も知らない方がいい」

 

「なるほどな。そう考えると、わざわざ姿をさらして悪行をひけらかしているモナドの意図も読めてくる」

 

「逃げ場のない船の中に王族が全員集結している今の状況はクーデターにうってつけだ。いや、そうとしか考えられない!」

 

「何でもいいからぶち壊してくれ……! 今よりひどくなることはないだろう!?」

 

 実際はより複雑な権力闘争が渦巻いており、現時点で反体制派のクーデターと断定することはできなかったが、一般客にとっては自分たちに最も見返りがありそうな展開に思いを馳せることで精神の安定を図ろうとしていた。

 

「イイネ! ソレ!」

 

 突如として機械的な声が割り込んできた。金属の嫌な接触音にも似た、辛うじて言葉のようにも聞こえる音だった。それが足元にいた虫の鳴き声だと気づく。

 

「しゃ、喋った……?」

 

 餌をやっていた男が茫然としている。虫はその場を離れてトコトコと歩き始めた。

 

「ハルケンブルグルートカ」

 

 この無数の虫たちはモナドの本体の一つというわけではない。モナドの目となり手足となるよう作り出された傀儡である。

 

 ヒソカを探すため手始めとして下層部に虫を放ったわけだが、その先のことは深く考えていなかった。民衆の愚痴を聞いて自分の行動方針を変えてしまうほど計画性は皆無である。今もまた、人を探すだけならもっと良い方法があったことに気づく。

 

 全ての虫たちを基点として『共』が行使された。強烈なオーラの波動が船内全域を駆け抜けていく。凝によって目視される感覚を何十倍にも強めたかのような索敵のオーラが、一瞬にして乗員全員の体を隅々までスキャンしていく。

 

 一般客すら正体不明の悪寒に襲われる感覚。念能力者であれば誰もが警戒心を最大まで高めることだろう。モナドは流れ込んでくる膨大な情報の中から目的の人物を探り当てた。

 

『はい、ヒソカくんみっけ!』

 

 3層の個室にて発見された。その見た目は老人だった。腰は曲がり、杖をついている。ごく普通の男の老人のような外見をしているが、携帯に入ったモナドの着信を見て表情を変えた。

 

「困るなぁ♠ まだ仕込みの途中なんだ♣ ショーの前にバラさないでくれるかい♥」

 

 『薄っぺらな嘘(ドッキリテクスチャー)』で変装したヒソカは一般客に紛れて乗船していた。全ては幻影旅団との殺し合いのためだ。彼の心構えはこれまでとは違う。

 

 ずっと幻影旅団をつけ狙ってはいたが、今までは“戦う”ことを楽しんでいた。その結果、団長との一戦では敗北を喫した。万全の準備を整えた相手に仕掛けた一対一の勝負では、残念ながら力が及ばなかった。

 

 それはそれで楽しめたので不満はない。むしろ歓喜したヒソカの遊びは次の段階に進んだのだ。すなわち“殺す”こと。互いに示し合わせ、場を整えた決闘ではなく、本当のルール無用。生死をかけた全力の殺し合いである。

 

 彼の目的は旅団の殲滅だった。敵の怒りを買うためにコルトピとシャルナークを殺し、マチを通して団の全員を挑発した。旅団にそこまで思い入れがないイルミに対しても自分を殺すように依頼する念の入れようである。

 

 しかしさすがにどれだけヒソカが強かろうと、一度に旅団を相手取れば負けるに決まっている。持てる力と策を出し切らなければ勝てない。だからこそ燃える。かつてないほどヒソカは昂っていた。

 

 そのあふれる殺意を何とか抑え込み、収穫の時に向けて動き出そうとしていた矢先に現れたモナドである。

 

「ところでキミってナインの知り合い?」

 

『どうでもいいだろうが! そんなことは!』

 

 いきなり不機嫌になり始めたモナドの反応を見る限り、あまり触れられたくないことのようだった。

 

『余計なこと聞いてんじゃねぇ。お前にはこれから幻影旅団を追って2層に行ってもらう』

 

 モナドの計画では下層部でヒソカと旅団を戦わせ、適当に数を減らすつもりだったのだが、なぜか旅団は人目をはばからず上階を目指していた。ヒソカのことなどお構いなしだ。

 

『原作でも最終的には1層に乗り込むみたいだったけど、なぜ今? って感じではある。お宝目当て? まあ、俺のテコ入れが効いたってことだろう』

 

「キミってボクらのこと戦わせたいの? なんで?」

 

『うーん、ほら、あれだ。虫カゴの中にさ、カブトムシとかクワガタとか入れて戦わせたら面白いじゃん』

 

「なるほどね♥」

 

 ヒソカはモナドの性格をだいたい理解した。他者の不幸を面白がり、それを隠そうともしないタイプ。それも自分は絶対に安全な場所から見物したがる人間だ。ヒソカも似たところはあると思っているが、彼の場合は自ら積極的に手を下し、かつ敵が強ければ強いほど良いという点で違いはある。

 

 旅団と自分を潰し合わせることが目的と思われた。ならば、序盤から邪魔しにくることはないだろう。今回は純粋に旅団との死闘を楽しみたかったのでそこに水を差されなければ、敵が増えることに関して文句はない。

 

『2層はともかく、1層は激やば能力者の巣窟だ。クラピカもいるしな。旅団でも無双できるほど甘くはない。パーティーに乗り遅れると、せっかくのケーキの取り分が減っちゃうぜ?』

 

 しかし、現状は否応なしに邪魔者が乱入する混戦の様相を呈していた。ヒソカは、モナドのように手法はどうあれ敵の勢力を削れれば構わないという考え方は許容できない。そんなことをして何が面白いというのか。自らの手で命を摘み取るからこその快感である。

 

 さらっと流されたが、クラピカがいるとなればさらに戦闘は激化するだろう。うかうかしているとモナドの言う通り、自分の取り分がなくなりかねない。キレイに9等分されたホールケーキの一片だって他人に渡したくはなかった。

 

「これもキミの思い描いた通りのシナリオってわけか♦」

 

『えっへん!』

 

 モナドは得意げにしているが、ヒソカの言う「キミ」とはモナドを指していなかった。幻影旅団の団長クロロのことである。

 

 ここに至るまでの一連の流れは確かにモナドの影響によるところが大きいが、それだけではない。幻影旅団はヒソカとのかくれんぼを止め、鬼ごっこに切り替えてきた。ヒソカを鬼として誘い出すためだ。

 

 自分たちの命をカードに、もはや誰にも戦場をコントロールすることはできなくなるところへとヒソカを引きずり出そうとしている。ヒソカは頭を抱えてうつむいた。

 

 当初のターゲットである幻影旅団。突如として現れた殺戮者モナド。そして1層にいるという破格の念能力者たち。その存在は、この場所に居てもヒソカのセンサーが感じ取っている。時折、強く発せられるすさまじいオーラがあった。

 

 もうやめてくれないか。せっかくガマンしていたのに。これ以上、おいしそうなご馳走をちらつかせるのは……

 

 興奮しちゃうじゃないか♥♥♥

 

「クククク……♥」

 

『なにわろてんねん』

 

 奇術師は勃ち上がる。その顔は壮絶な笑みに歪んでいた。

 

 

 * * *

 

 

 3階層、連絡通路。2階層へとつながる唯一の道である。現在、この場所へと幻影旅団が向かっている。その知らせを受けて集結した警備兵が厳戒態勢を敷いていた。

 

「先行していた偵察隊からの連絡は!?」

 

「あ、ありません……」

 

 音沙汰無し。応答しないという反応が物語っている。敵は近い。緊張は限りなく高まっていく。

 

「何がカーマインアームズだ……! これが傭兵のすることか? ただのテロリストだろ……!」

 

 カキンの防衛軍に交じり、独自に隊を率いていたミュヘルが悪態をついた。彼は今期ハンター試験に合格し、準協会員の資格を得たばかりの新人ハンターだ。しかし、培って来た経験は並みのプロハンターにも引けを取らない。

 

 傭兵ミュヘルと言えば、界隈ではそれなりに名の知られた男だ。ビヨンドの探索隊においても重要な立場にある。内通者でありながら嘘発見器等の検査を自力で突破しハンター試験に合格した猛者である。

 

 1層へは他の協専ハンターが多数潜入しているため、ミュヘルは3層以下の警護任務を引き受けた。ここで十二支んに顔を売っておき、信頼を得る予定である。試験の段階からミュヘルの能力は買われていたため、すんなりと馴染むことができた。ここまでは事前にパリストンと計画していた通りの展開である。

 

 ミュヘルはボトバイからカキン兵の援護を頼まれていた。そのボトバイら十二支んはここにいない。どうやら幻影旅団の襲撃よりも重要な用事があるらしい。ハンター協会のトップ連中が聞いて呆れるというくらい各所で対応に追われているようだった。

 

 はっきり言ってミュヘルはハンターが好きではない。彼にはプロハンターと同等以上の戦闘力がある。試験だってこれまでに受けようと思えば合格することは難しくなかっただろう。その必要がなかったので取得しなかっただけだ。

 

 しかし、もっと嫌いなものがある。それはタガの外れた同業者だ。傭兵の名を騙り、何のためらいもなく自ら戦火をばら撒く戦争屋。金さえもらえば後はどうなろうと構わない、そんな矜持もない武装集団には殺意が湧く。

 

 傭兵としてミュヘルはカーマインアームズのことも当然聞き及んでいた。良い噂はない。賞金首ということもあり回される依頼が悪質なものばかりという事情もあるのだろうが、それにしても物騒なトラブルばかり起こしている印象だった。

 

 今回の暗黒大陸調査依頼にカーマインアームズが絡むことに関し、ミュヘルは真っ先に反対した。パリストンの顔を立てるために何とか不満を飲み込んだが、全く信用はしていない。その不信感はモナドの登場により、明確な敵意にまで悪化していた。

 

 モナドによる船の掌握など何も話は聞かされていない。さらに幻影旅団まで出てくる始末だ。トラブルはあるものと想定はしていたが、ここまでデタラメな事態はさすがに想像もできなかった。

 

 これから仕掛けてくる相手は悪名高い盗賊団だ。全員が念能力の達人と思われる。武装した程度の一般人が主体である防衛軍にどこまで対抗できるか不安は大きい。

 

 こういった事態が起きないように三大マフィアが治安維持の働きをするはずだった。表向きの武力を見せつける役割が大きな防衛軍とは違い、マフィアは裏の世界を生き抜く念能力者の戦闘員を多く抱え込んでいる。

 

 それら表と裏の抑止力が正常に機能すれば暴動が起きるはずはない。だが、現実にはマフィアは沈黙、カキン兵は委縮。ここでいよいよ2層の防衛ラインが突破されることになれば、取り返しのつかないことになる。

 

 現在、船内の大部分を徘徊する虫の群れも2層以上に姿を見せてはいなかった。だがそれは厳重に警備しているからではない。モナドは瞬く間に5層から3層までを制圧してしまった。ダクトは船内全域につながっているのだ。やろうと思えば2層以上も同じことができないとは思えない。

 

 それはモナドのなけなしの配慮だろうか。2層以上は国家の威信にかけ安全が確保されていなければならない領域だ。この一線が破られた時、BW号は破滅に向けて転がり落ちていくことになる。辛うじて保たれている秩序の崩壊が本格的に始まってしまう。

 

「近くに虫は確認できたか?」

 

「いえ、この周辺には一匹も見当たりません」

 

「……いなけりゃいないでムカつくがな」

 

 他の場所には有り余るほど虫たちが徘徊しているというのに、なぜか今最も警戒が必要であろうこの場所にいない。騒ぎを起こす不逞の輩は許さないとの弁は何だったのか。

 

 幻影旅団に恐れをなして手を引いたとは考えにくかった。モナド本人が出向くのならともかく、大量の虫たちを差し向ければいいだけの話だ。数の暴力に物を言わせればどうとでもなるだろう。

 

 それとも幻影旅団は虫の群れを退けるほどの力を持っているというのか。あるいは、モナドは最初から旅団を攻撃する意思がないのか。どちらにしてもろくなことではない。

 

 そこでミュヘルの耳が異変を感じ取る。敵の姿も気配も感じないが、音が聞こえる。

 

「注意しろ! 来るぞ!」

 

 兵士たちが弾かれたように銃を構えた。見晴らしのいい直線通路だ。先に進むにはここしかない一本道。強行突破などしようものなら銃火器による洗礼が待ち受けている。

 

 銃弾の一発や二発程度なら凝で防がれるだろうが、いかに念の達人だろうと高威力の弾丸を雨のごとく掃射されれば死ぬ。何らかの念能力を使って対処されることも考えられるが、手の内も明かさず通過することは不可能だ。

 

「な、なんだこの音は?」

 

「何かの曲か?」

 

 兵士たちも異音を感じ取り始めた。それには確かに作為的な旋律がある。ミュヘルは聴覚を強化し、あえてその音を意識の外へと送る。

 

 音による念の攻撃は滅多にみられるものではないが、厄介なものが多い。何しろ凝で危険性を推し量ることもできず、それが攻撃であるかどうかも判断を要する。音楽には暗示などの精神作用を伴う効果が乗りやすい特徴もある。

 

 ミュヘルはその音を聞いてはいるが意識はしない状態になっている。彼の耳は種族柄、高性能だ。聴覚には聞き取りたい音とそれ以外の雑音を聞き分ける能力があり、その選択的受容性を強化していた。

 

 具体的に言えば自前のノイズキャンセラーだ。不審な曲を雑音として意識外へ排した。これはミュヘルの発ではなく、あくまで技能の一つである。だが、敵の攻撃はミュヘルが警戒したような精神に訴えかける能力ではなかった。

 

 それは物理的な、わかりやすい暴力だった。旅団の一人、ボノレノフの能力によって具現化された曲の化身。彼が奏でる音には精霊が宿る。

 

 『戦闘円武曲(バト=レ・カンタービレ)・木星(ジュピター)』

 

 曲を奏でる上で他者の認識や理解は求めていない。それは舞闘士(バプ)による精霊との交信であり、ボノレノフの内から生じる現象の具現化である。戦闘中に一曲を奏で続けなければならないという重い制約はあるが、だからこそ強力な技となる。

 

 それは球だ。広義でなら念弾に分類されるのかもしれないが、あまりに巨大。通路を通り切れない大きさの球体が壁や天井を破壊しながら迫ってくる。道が狭すぎた。前方に逃げ場はない。

 

 それが逆に幸いした点もあった。球体の進行速度が若干落ちている。もし何の障害物もない場所で同じ攻撃をされていたら、ミュヘルでも避け切れなかったかもしれない。後方へ逃げる道は残されていた。

 

 だが、ここにいる全ての兵士が即座に反応し、撤退することなど不可能である。ほとんどの兵士は迫り来る攻撃に対し、身を硬直させ見ていることしかできずにいた。

 

 轟音、そして圧殺。一瞬にして地獄と化す。衝撃でミュヘルは吹き飛ばされたが、何とか退避が間に合い無事だった。そんな一部の人間を除き、ほとんどの兵士が原形をとどめていない。

 

 そして地獄はそこで終わらなかった。兵士たちに現状を理解させる暇さえ与えず、旅団は追撃を放つ。無数の念弾が撃ち込まれる。その光景は、数十秒前まで防衛軍の誰もが思い描いていた戦場の予想図だった。ただし、皮肉にも攻守が逆転しているという違いはある。

 

 『俺の両手は機関銃(ダブルマシンガン)』

 

 その念弾は最初の特大級の一発とは異なり、一般的なサイズと言える。だが、あまりに激しい弾幕だった。回避は困難。ミュヘルも被弾してしまう。

 

「がはっ!?」

 

 彼の防御はおよそ完璧と言えた。銃弾に匹敵する速度の念弾を見切り、やむを得ず被弾する箇所に凝でオーラを集めていた。その凝も硬に近いほどのオーラ密度だった。体の他の部分の攻防力が著しく落ちるという不利を度外視してでも、それだけの防御をせざるを得なかった。

 

 一発一発が致死の威力である。そして驚くべきは念弾に込められたオーラの均質性だ。もし複数の使い手が分担して弾を放出しているのであれば、こうはならない。信じられないが、これだけの威力の念弾全てを一人の能力者が発しているものと思われる。

 

 ミュヘルは逃げた。損傷を最小限に抑え、戦闘力を保持する余裕はまだあったが、勝算はゼロであることを悟ってしまった。ミュヘルが万全の装備と傭兵の仲間を揃えていたとしてもA級賞金首と言えば相手をしたいとは思えない敵である。実際は、その認識を大きく上回る強さだった。

 

 彼の任務は、ここで勝てもしない強敵に挑み命を散らす英雄的自己犠牲ではない。ハンター協会内部での潜伏と暗黒大陸調査にある。わかってはいるが、憤懣やるかたない思いを抱えずにはいられなかった。

 

 3層連絡通路が陥落する。モナドの出現により始まった異常事態はさらなる危険分子を呼び起こした。決定的な崩壊の時が訪れようとしていた。

 

 



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122話

  

 BW号出航から七日目。継承戦の真の目的が明らかとなった第1層船内では濃密な時間が流れていた。

 

 第12王子モモゼ、第8王子サレサレの謀殺。念能力の氾濫によりいつ何が起きてもおかしくない状況である。念についての知識を持たない王子陣営はクラピカの講習会に参加していた。オイト王妃のために用意された1014号室に多数の参加者が集まっている。

 

「クラピカ、話がある」

 

 それは講習の最中のことだった。第3王子チョウライの私設兵サカタが藪から棒に中断する。クラピカら第14王子陣営はチョウライと表面上の協力関係を築いてはいたが、さすがにぶしつけな干渉とも取れる行為だ。

 

「今は……」

 

「緊急事態だ」

 

 この講習会の重要性の高さは言うまでもなくサカタも理解している。それを中断してでも早急に伝えなければならないことがあった。クラピカを連れて奥へ下がる。

 

「下層部にて“敵”が発生した。まだこれが継承戦に関わる謀略の一つなのか、判断することは難しいが……人類全体の敵であることは間違いない」

 

 キメラアントの大量発生。それも極めて高い殺傷能力を持つ変異種である。これにはクラピカも動揺を隠すことがなかった。

 

「このバイオテロの主導者は国際指名手配犯『モナド』だ。君もプロのハンターなら、どれだけマズイ相手かわかるだろう」

 

 クラピカの顔が蒼白になる。知っているも何も、それが船内に乗り込んでいる理由の一端はクラピカにあった。

 

 カーマインアームズとの取引によってクラピカは緋の眼の在り処を知り、この船に乗り込んでいる。その過程でモナドと知り合った。

 

 その人物像についてクラピカはあまり良い印象を持っていない。経歴を考えればそれも当然だが、過去の過ちだけを見て人を判断すべきでもない。今回は保護者であるクインがモナドの更生の名目のもと、クラピカのサポートに当たる依頼を出していた。

 

 クラピカが出したと言うより、クインに頼み込まれた形である。彼にとって特に必要な依頼ではなかったのだが、クインの人格については信頼を置いており、色々と世話になっていることもあって任せることにした。

 

 実際、サポートと言っても何か具体的な指示を出しているわけではなく、重要な1層の王子護衛任務はノストラード組を中心としたメンバーに当たらせている。クインとモナドは最悪の事態を見越した保険の意味合いが大きかった。

 

 その最悪の事態を身内が引き起こしてしまったことになる。足元から地面が崩れ去っていくかのような感覚に襲われる。

 

「そこまで動揺しなくていい。キメラアントも2層の隔壁通路を突破することまではできていない。万が一、1層に到達したとてこの警備体制だ。むしろ、その場合は騒ぎに乗じて王子暗殺を企む輩の動きに警戒すべきだろう」

 

「……キメラアントの発生が確認された時間は?」

 

「今から1時間ほど前だ」

 

 情報の伝達が恐ろしく遅い。モナドの艦内放送は1層にまで届いていなかった。これはBW号と1層のクルーズ船が別個の管理体制に分けられているためである。1層乗客は一部の人間を除いて真実をまだ知らない。混乱をきたさぬよう意図的に情報が統制されていた。

 

 序列の高い王子やその勢力であればいち早く情報を得ていることだろうが、クラピカたちワブル王子の警護班は末席に位置する。サカタからの知らせがなければもっと遅れていただろう。

 

 他勢力からの刺客が次々と襲い来る危険な王子の護衛任務に加え、ツェリードニヒとの接触という個人的な使命、そこへさらに降ってわいた災厄の発生である。

 

 クラピカは考える。彼個人の力で事態を収束できるか否か。モナドが何を考えて行動しているかによるだろう。何としてでも調べる必要があった。

 

「ひっ、だ、誰!?」

 

「貴様、何者だ! どうやって入って来た!?」

 

 騒がしい声がクラピカの耳に入ってくる。何かあったのかと、サカタとの話を切り上げてリビングへ戻る。講習会の参加者たちの中には武器を取り出して構えている者もいた。彼らが視線を送る先へとクラピカも目を向ける。

 

 

「 来 ち ゃ っ た 」

 

 

 軍服を着た少女がドアから半身を覗かせていた。

 

 

 * * *

 

 

 幻影旅団は2層と3層とを遮断する隔壁を破壊した。ついに取り返しのつかない領域へと踏み込む。なぜこのような暴挙に及んだのか。イルミはカルトと連絡を取ることで確認したのだ。クラピカがBW号の1層に乗り込んでいることを。

 

 カルトは現在、キルアと共にいる。そのキルアがクラピカの友人であることはイルミも知っていた。カルトならばキルアを経由してクラピカの情報を聞き出すことができるのではないかと予想したのだ。

 

 情報を売ることについてカルトは難色を示したが、キルアを追って勝手に旅団に入っていたことなどを追及して強引に吐かせた。イルミが旅団に入ることになった理由も最初はカルトを連れ戻すためだったりする。

 

 今のカルトは旅団に全く興味がない。BW号への招集命令も無視してキルアといちゃついているくらいだ。今回の情報提供の見返りとして旅団を脱退させることを団長とカルトの双方に約束させている。

 

 かくしてクラピカの所在は判明した。旅団の宿敵であり、モナドの雇い主と思われるクラピカを生かしておくことはできない。モナドへのアプローチとしても有効なはずだ。もともと盗賊団として1層の財宝を狙うつもりだったので予定を早めて向かうことにした。

 

 隔壁を抜け、豪華な内装となった船内を駆け抜ける。既に避難指示がなされているのか、人影は見当たらない。

 

「いや、いるな」

 

 しかし、団員たちは感じ取っていた。そこかしこに隠れた人間の気配がある。一応、絶はしているようだが練度は低く、簡単に見抜くことができた。気づかれていることを察してか、その敵の一人が姿を現した。

 

「やぁ、待ってたよ♠ 全員そろって相手をしてくれるなんて、こういうの気持ちが通じ合ってるって言うのかな♥」

 

 その嫌悪感を掻き立てる口調はまさにヒソカだったが、姿は全く異なっていた。上流階級のような身なりの良い男である。恰幅も比例するように良く、肥え太っていた。

 

「さあ、始めようか♣ 最高のパーティー――」

 

 言い終わる前に男の眉間を弾丸が撃ち抜いた。フランクリンの念弾である。その一発で脳を破壊された男は恍惚の表情のまま絶命する。

 

「ヒソカ死んだよ。フランクリンお手柄ね」

 

「んなわけねーだろ」

 

 これで片が付くような敵なら苦労はしない。どう考えても本人ではなかった。それを証明するようにぞろぞろと隠れていた者たちが姿を見せる。

 

「楽しいパーティーの始まりだ♦」

 

「曲は何をかけようか♣」

 

「宴を彩る食事も要るね♠」

 

 年齢も性別もバラバラの人間たちは、手に一枚のトランプを持ち、旅団を取り囲む。1層に到達する前にヒソカが仕掛けてくる可能性は考えていた団員たちだったが、ここまで大がかりな舞台を用意しているとは思わなかった。

 

「奴は変装能力を持ってる。それをうまく使えば2層に侵入することもできなくはない」

 

「だがそれにしたってこれはどういう能力だよ。操作系か?」

 

「確かめてみよう」

 

 イルミが針を投げた。刺さった人間は攻撃の反動でもんどり打ったが、すぐに起き上がった。イルミの能力が発動していない。

 

「操作系は早い者勝ち。オレの針が効かないってことは既に別の操作系能力で操られてるってことだね」

 

「ヒソカは生粋の変化系能力者だ。相性の悪い操作系能力を持っているとは考えにくい」

 

「なら、協力者がいるってことだな」

 

 自らの手でターゲットを屠ることにこだわるヒソカのスタンスを考えれば意外だった。とはいえ、さすがに一人では旅団全員を相手に太刀打ちできないことは明白である。このような策を用意していても不思議はない。

 

「さあどうする? 御覧の通り、ボクたちのほとんどはフェイク♦ 念で強化されただけの一般人だ♠」

 

「でも、その中に一人だけ、本物のボクが混ざってる♥」

 

「雑魚の相手をするつもりで不用意に近づけば……どうなるかな?」

 

 凝をして観察したところ、どれも似たり寄ったりの素人の集まりにしか見えない。巧妙に擬態しているのか、それとも見える範囲に本物はいないのか。旅団の戦力を分散させ、その隙に乗じて仕掛けてくる算段と思われた。

 

「近づくまでもねぇ。まとめてぶっ飛ばす」

 

 フランクリンが両手を構える。それを見たフェイクたちは一斉に包囲の輪を狭めてきた。距離を取った状態ではなすすべもなく撃ち殺されて全滅するとわかっているからだ。

 

 遠距離戦においてフランクリンに敵はいない。必然的に近づかざるを得ないのだ。だが、近づかれたからと言って、そこで何もできなくなるような使い手ではない。徒手空拳も当然のように強く、弾を無作為にばら撒く以外にも精密射撃の腕も持っている。

 

 また、冷静に戦況を見極める観察眼も有している。感情的な理由からパフォーマンスが上がり下がりすることはない。むしろ念能力の強さよりも、ヒソカはその合理的な思考能力を高く評価していた。

 

 次々とフェイクが撃ち殺されていく。ただ、周囲に味方が多くいるため全方位射撃はできず、敵の接近を許すこともあった。それについても他の仲間が対処しているので全く危なげはない。フランクリンはその状況に、警戒を強めていた。

 

 フェイクが全滅するのも時間の問題だった。このようにお粗末な策を仕掛けてくる理由が釈然としない。ヒソカの狙いとは何なのか。そして、これほど高度な操作系能力を使って大量の人間を操れる協力者とは何者なのか。

 

 まさか……

 

「一手」

 

 フランクリンは気づきかけていた。銃口を“ヒソカ”へと向ける。

 

「遅かったね♠」

 

 それよりも先にフランクリンの体内へとカードが侵入していた。スペードのキングが心臓を貫く。

 

 そこでフランクリンは止まらなかった。心臓を破られてなお、体は動く。力を振り絞り念弾を放った。それを受けたヒソカは吹き飛ぶ。そこでフランクリンは自らの失策を悟った。

 

 確かに彼が込め得る全力を投じたはずの念弾だったが、殺した手ごたえがない。吹き飛ばしたのではなく、逃げられた。至近距離から放たれた念弾を回避する速度からして、『伸縮自在の愛』を使った弾性力の利用と思われる。

 

「フランクリン!」

 

 そばにいた団員たちは何が起きたのか理解できずにいた。なぜ優勢だったはずの旅団側がいきなり攻撃を受けたのか。結果だけを見ればその理由は明らかだ。

 

 イルミがフランクリンを殺した。混戦中、手が離せない状態で身内から攻撃を受けたフランクリンに対処は不可能だった。

 

「わり、ぃ……少し、休む……」

 

 フランクリンが倒れる。それきり動くことはなかった。手が届くほど近くにいながら何もできなかった団員たちは怒りを噛みしめながらイルミを探す。だが、既に身を隠したのかどこにも見当たらない。

 

「イルミが、ヒソカだったってわけか……!」

 

 ヒソカの協力者とはイルミだった。互いを殺し合う婚前契約とは、旅団を出し抜くための真っ赤な嘘である。イルミは手駒として多数の一般客を針人間化させて操作しており、旅団もそれを把握していた。ゆえに針人間の中にヒソカを紛れ込ませ、入れ替わる機会を作ることは難しくなかった。

 

 クロロはこれがいつから計画されていた作戦かと考えを巡らせる。クモの手足としてゾルディック家のカルトを引き入れ、そのつながりからイルミを引き込んだ。その過程で仲間として最低限の信頼がおけるか確かめたはずだった。

 

 事実、イルミが旅団に入った理由とヒソカには何の関連もない。ヒソカの依頼を受けたのは天空闘技場での一戦が終わった後のことである。その時点で既にイルミは盗賊業には参加していなかったものの、旅団に加入していた。

 

 仮に最初からつながっていたとしても、イルミがクロロの前でボロを出すことはなかっただろう。ゾルディック家長兄の肩書は伊達ではない。場合によっては針で自分の記憶すら改竄することもある筋金入りのプロフェッショナルだ。

 

「いつから入れ替わってやがった! あれは変装能力なんてレベルじゃない。まるで別人だったぞ!」

 

 ただ『薄っぺらな嘘』で顔を変えただけなら入れ替わりに気づかれただろう。ヒソカはイルミから針による肉体矯正術を受けていた。効果は短時間しか持たないが、髪型から骨格レベルまで肉体を作り替えることができる。

 

 さらに針を使って能力を発動させるところまで披露していた。これは針そのものに自動操作型の操作系能力を仕込んだものだ。一度仕掛けさえすれば誰が使っても同じ効果が発動する。

 

「まずは前菜、フランクリン=ボルドーの心臓薄切り肉♥ お気に召してもらえたかな?」

 

 フィンクスが拳を振り抜き、おしゃべりな肉人形を黙らせる。

 

「お次はスープだ♦ 誰の血をもらおうかな?」

 

 ヒソカの完璧な擬態により初手はしてやられた。モナドが現れるようなことがなければ、旅団はヒソカ捜索のため数班に分かれて船内をなるべく静かに探索するつもりだった。もし、そうなっていた場合は何人もの被害者を出していたことだろう。

 

 だが、もう次はない。予定外のハプニングに巻き込まれ、追い込まれているのはヒソカの方だ。イルミとの入れ替わりというタネが割れた奇術師にこれ以上の見せ場はなくなった。

 

「下がれ。俺がやる」

 

 クロロが能力を発動した。『盗賊の極意』が具現化される。それはヒソカにとってフランクリンの能力を遥かに上回る脅威だった。幻影旅団の象徴と言っても過言ではない。一度は敗北を喫している。

 

 最初にフランクリンではなくクロロを刺す手も考えていたが、それは却下した。彼はヒソカにとって特別だ。今夜のメインディッシュと言っていい。それを前菜の前にいきなりかぶりつくなんてはしたないことはできなかった。

 

 物事には順序がある。初手で王手をかけるわけにはいかない。すんなり殺せるとも思っていないが、仮にそんな手で殺せてしまった日には絶望するしかないだろう。趣向を凝らす必要があった。

 

 本を開こうとしたクロロに向けて針が飛び出す。イルミが気配を消して投擲していた。ここにはヒソカだけでなくイルミ本人も待機していた。

 

 この場でヒソカから受けている指示は『クロロの足止め』である。報酬としてヒソカが殺した団員の死体をもらい受けることになっている。

 

 イルミが裏切り、フランクリンが死んだことで残る団員は7名になった。それでもまだヒソカ一人の手に余る。特にクロロの存在は放置できない。渋々ながらイルミに受け持ってもらうことにした。

 

 死角を縫うように飛来する数本の針に対し、クロロは能力の行使を中断して対処せざるを得ない。尋常ではない攻撃の威力と精度である。片腕がろくに使えない状態であることが痛かった。

 

 クロロも操作系能力としてシャルナークの死後強まる念によって『盗賊の極意』に刻まれた『携帯する他人の運命』を使えるが、その触媒としてアンテナ(計2本)を対象の肉体に刺し、携帯電話から命令を出すというプロセスが必要となる。

 

 それに比べてイルミの場合は無尽蔵と言えるほどの針を有し、刺さりさえすればその場で遠隔・自動切換え可能な操作が即発動するというとんでもない性能だ。単純に武器としての威力も破格だ。生物操作においては極限の完成度に位置する能力と言える。

 

 イルミは直伝の隠形を駆使しながらクロロだけを標的として的確に行動を阻害していた。もちろん、他のメンバーもそれを黙って見過ごすことはなかった。団長の補助に回ろうとする。

 

「構うな! 自分のことだけに集中しろ!」

 

 クロロが叫ぶ。イルミの攻撃に気を取られているということは、ヒソカの攻撃に対しておろそかになっているということだ。普段の敵であれば相手が達人だろうとその程度のことで後れを取るような団員たちではない。だが、今回ばかりは違った。

 

 ヒソカの接近を真っ先にノブナガが感じ取る。彼の間合い、4メートルの円に反応があった。それは逆に言えば、その距離に近づかれるまで誰も気づくことができなかったことを意味する。

 

「動く――」

 

 動くなと、ノブナガは声を発しようとした。その間さえない。ノブナガの能力はタイマン専用である。常人の千分の一単位でオーラの流れを感知し、あらゆる物を切り裂く分境剣『一門一刀(ソモサン)』。

 

 その感覚結界に敵を招き入れるための門は一つしかなく、今のように大量の雑魚に身を隠しながら迫り来る敵に対しては打つ手に乏しい。ヒソカはノブナガの能力を知っていたわけではなかったが、その円の厄介さから優先的に狙いをつけた。

 

 ノブナガが気づいた時、ヒソカは背後にいた。常時円を展開していた自分に覚られることなく後ろを取られた。いくらヒソカが強いと言っても、あまりに異常な速さだった。

 

 剣は間に合わない。ノブナガは自らの命を諦めた。ただひたすらに円に神経を集中させる。敵の異常性を暴くことだけに全力を注ぐ。このヒソカは何かがおかしい。それを読み解かなければ仲間が死ぬ。自分が攻撃を食らい、死ぬ前にその秘密を仲間に伝えなければならない。

 

 クラブのジャックが背後からノブナガの脇腹を切り裂いた。覚悟していたよりも傷は浅い。ノブナガを守るようにマチが糸の結界を張っていたからだ。

 

 だが、完全に防ぐには至らなかった。あまり守りを固め過ぎて糸を張り巡らせると自分たちの身動きまで制限されてしまうため、糸の本数は抑える必要があった。

 

 ヒソカの体にぞぶりと糸の刃が食い込む。だが、ヒソカのゴムのオーラが斬撃を軽減していた。致命傷には至らない。振り抜かれたトランプがノブナガの腹をかすめる。かすっただけで彼の着物を切り裂き、出血を起こすほどの傷を生じさせた。

 

 なおもヒソカは振り抜いたトランプを、勢いよく宙に走らせる。それは手品師が万国旗の結ばれたヒモをずるずると引き出すかのように、ガムのオーラにからめとられたノブナガの大腸を。

 

「イイイイイィィィィヒイイイイィィィィ♥」

 

 マチは見た。それは人間ではなかった。イルミから受けた肉体矯正術が解けかけた状態のヒソカは二つの人間が混ざり合ったかのような歪な形をしていた。ヒソカはクロロとの一戦により全身にひどい火傷を負っていた。何よりも、その崩れかけた見た目よりも、ドス黒く濁ったオーラに気圧される。

 

 跳ねる。消える。目を凝らしていたマチの前から一瞬にしてヒソカが姿を消す。追撃が間に合うはずもない。何が起きたのか理解することもできない速度である。

 

「聞け」

 

 ノブナガが口を開いた。血を吐きながら話す。その腹部からは大部分の臓物が持ち去られていた。長くは持たない。自分が知り得た情報を最期に仲間へ託す。

 

「奴の能力は強化されている」

 

 ヒソカは一度死んでいる。クロロに爆殺されたヒソカは、死後強まる念によって心肺蘇生を施すという狂気の賭けによって生き返ったが、その際に文字通り“強まった”のだ。以前と比べて格段に念の性能が向上している。

 

 爆風で吹き飛んだ手の指や右足はゴムで型どりし、『薄っぺらな嘘』を張りつけて見た目を取り繕っている。このゴム足の反動を利用することで踏み込みは人間離れした初速を実現していた。

 

 さらに無事だったはずの左足まで自分で切除してゴム足に置き換えている。左右のバランスを取るためだ。これが誓約としても働きさらに性能を高めている。フランクリンが自分の指を切り落としたケースと同様である。

 

 『ただの念能力者』から一歩進んだステージ『死後強まる念を使いこなせる能力者』へと到達していた。特殊な精神性や血筋、常軌を逸する死の危険や犠牲を経てようやく手にできる力だ。ヒソカクラスの達人がこの域に至ることはまずない。

 

 これは単純に念能力者の絶対数と確率の話である。死後強まる念の修行ともなればどんなに技を磨いた達人だろうとほぼ間違いなく死ぬ。つまり、そこに至るまでの試行回数は凡人の命の数に及ぶべくもない。

 

 その並みの能力者でさえ至れば破格の力を手にすることができるのだ。1層にはこの手の能力者が何人かいるが、それと比べてもヒソカの場合はもはや別次元と言える強化を遂げていた。クロロと天空闘技場で闘った時のヒソカとは根本から強さが異なる。

 

「そしてもう一つ。奴の強さの秘密は“偽装力”だ」

 

 団員たちは『薄っぺらな嘘』の効果を断片的にしか知らない。薄く延ばしたオーラの表面に様々な見た目の質感を再現することができる能力だ。見た目だけだし、触ればわかる。だから円を使っていたノブナガは気づくことができた。

 

 ヒソカはこれまでに何度も『薄っぺらな嘘』を使って旅団を欺いてきた。団員の証である背中の蜘蛛の入れ墨も偽物だ。だが、日頃から凝を習慣化している達人たちを相手にそんな小細工が通用するだろうか。

 

 するのだ。この能力の真骨頂は“凝を無効化していること”にある。見ただけでは嘘を見抜くことはできない。変装に使ってもすぐにバレることはない。だが、その真の恐ろしさは戦闘時においてこそ発揮される。

 

 全身のオーラの表面を『薄っぺらな嘘』に置き換えてしまえば、表面的なオーラの流れを凝で確認することができなくなる。絶と同様の状態であらゆる念戦闘を十全にこなすことができてしまう。

 

 念の近接戦闘においては、敵の体表に流れるオーラを見て自身の攻防力をコントロールする必要がある。相手のオーラを見ることができない状態とは例えるなら、自分だけ手札を晒した状態でポーカーをさせられるようなものだ。ゲームが成立しない。

 

 以前のヒソカであればここまで滅茶苦茶なことはできなかった。これもまた死後強まる念。ヒソカの臨死体験により全ての能力が覚醒した。

 

 今では光学迷彩のように全身を背景に溶け込ませることができる。団員たちがヒソカの動きを見失う要因の一つである。オーラで感知もできず、肉眼での捕捉もしづらい状態では、ヒソカの高速弾性移動を目で追うことは困難極まる。

 

 情報を伝え終えたノブナガが息絶える。残るは、あと6人。

 

「歓談は済んだかい♦ ボクの本気がわかってもらえたかな? 次はそろそろ、キミたちの本気を見せてくれないか♠」

 

 認めざるを得ない。ヒソカは一枚上手だった。団員たちはヨークシンで戦ったアイクやチェルとの一戦を思い出す。まるで相手にならない強敵だった。その水準に踏み込んでいる。

 

 仲間の死を言い訳に感情を荒立てている場合ではない。もはや、そんな浮ついた覚悟では到底仕留めきれない敵だった。6人が一心同体となる。蜘蛛という一つの存在としてヒソカに立ち向かおうとしていた。

 




一時期話題になっていたヒソカ=イルミ説を採用してみました。これ最初に思いついた人はすごいと思います。


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123話

 

 蜘蛛の武器と言えば糸だろう。先手を打ったのはマチだった。その全身から噴き出すオーラは数万本もの糸となり床を伝って張り巡らされていく。ヒソカを探し、あぶりだすための罠だ。

 

 確かにその目的は果たされた。肉人形の群れが切り刻まれ、その中からヒソカが飛び出してくる。だが、その程度の罠にかかったからと言って弱ることは決してない。獰猛に蜘蛛の巣を食い破り、逆に捕食せんとマチへ飛びかかる。

 

「『念糸縫製』!」

 

 マチは待っていた。膨大な糸を瞬時に縒り合わせ、全身を包み込む鎧とする。その姿は白無垢を着ているかのようだった。

 

 強靭な繊維が折り重なることで生まれる防御力は桁外れだ。かつてのウボォーギンの堅に匹敵すると言えばその規格外な強度の程がうかがえる。

 

 ヒソカに絡みつく糸は、彼の肉体に深い傷を負わせることまではできないが、無数に絡みつき、獲物を手繰り寄せる。それでもヒソカがトランプを振るうたびに吹き荒れるつむじ風が、いとも容易く拘束を振り払ってしまう。

 

 ただの糸ではヒソカの動きを止めることはできない。マチは自らヒソカに組み付いた。直にヒソカの体に触れることで理解する。マチが糸の鎧で身を守っているように、ヒソカもまたゴムの鎧で防御を固めていた。これではまともに攻撃が通るはずもない。

 

「ああ~♥ まさかキミの方から抱擁してくれるなんて、夢みたいだよマチ♦ ガ、マんんんんんんん! できないッ!!」

 

 

 全 力 怒 張(フルボッキ)

 

 

 マチの行動に応えるようにヒソカは抱きしめ返した。その腕の筋肉が異常なほど膨れ上がる。膨張した『伸縮自在の愛』を『薄っぺらな嘘』で筋肉のように見せかけているだけだが、増強された力は嘘ではない。

 

「おおおおおおああああああああ!!」

 

 ゴムの収縮によってかかる凄まじい外圧により、マチの体が軋む。力技で押しつぶされる。抗うようにマチは叫んだ。自分一人の力ではヒソカに敵わないとわかっていた。彼女は時間を稼ぐためだけに自分の命を使い果たそうとしている。

 

 マチが命を削るその裏側で、団員たちは各々が自らの役割を果たそうとしていた。ボノレノフは舞い、作戦の要となる曲を奏でている。クロロは依然としてイルミから陰湿な妨害を受けていたが、それによってイルミの攻撃が他へ及ばないように囮の役目を果たしていた。

 

「いくぜ、フェイ」

 

「わかたね」

 

 フィンクスが腕を振り回し、パワーを溜める。その横にフェイタンが立っていた。フィンクスの『廻天』により増大したパンチ力をその小柄な体で受け止めた。

 

 何も知らない者がその光景を見れば裏切ったのか血迷ったのかと思うことだろう。強化系能力者であるフィンクスの拳の破壊力は、一撃でフェイタンを瀕死の重傷に追い込んだ。これはフェイタンの能力の発動条件を満たすためだ。

 

 普段は自分の攻撃威力の調整に気を遣うことのないフィンクスだが、今回ばかりは細心の注意を払った。抜かりなく、フェイタンの命を生かさず殺さず首の皮一枚でつなぎとめた。フェイタンは傘を杖替わりにしながら何とかその場に立っているが、実際には死の間際にいた。

 

 自分が受けた痛みによって攻撃のオーラを増大させるフェイタンの能力『許されざる者(ペインパッカー)』は、受けたダメージが大きいほど威力も高まる。そして無差別攻撃という特性上、敵から受けたダメージでなくても技を発動させて巻き込むことは可能である。

 

 ヒソカからの攻撃を堪え切って発動させるという方法ではリスクが高い。高火力を安定して出すためには仲間に攻撃してもらう方が確実だった。狂気の沙汰と言うほかない。だが、そうまでしなければ勝機の見いだせない戦いでもある。

 

「できればこのタイミングがベストだったが……」

 

 フェイタンの準備は整ったが、まだボノレノフの演奏が続いていた。今、この場で『許されざる者』を発動すれば旅団全員が巻き添えを食らうし、ヒソカに逃げられる可能性も高い。確実に殺すためには演奏の完了を待たなければならない。

 

 そう都合よく事は運ばなかった。マチの糸の結界がほころび始める。ヒソカの抱擁を受けていたマチの体は既に原形をとどめていなかった。血で濡れた真っ赤な糸玉の中に、コンパクトに収納されてしまっている。

 

 マチは十分すぎるほど頑張った。むしろ、よくここまでできたと賞賛されるべき戦果だった。念糸が完全に消えてなくなる。ヒソカは返り血でずぶ濡れになっていた。そのバケモノが愛おしそうに、腕の中で小さくまとまったマチの残骸に頬ずりしている。

 

「いや、ちょうど良かったぜ。俺もお前をぶん殴りたいと思ってたところだ」

 

 フィンクスが指を鳴らす。演奏が終わるまで少なくともあと数秒はかかるだろう。途方もなく長く感じる時間だった。

 

 しかも、フィンクスはマチと違ってまだ死ぬことができない。『許されざる者』の発動前に死ぬとフェイタンに与えたダメージのカウントがリセットされてしまう。形式上フェイタンはヒソカではなく、フィンクスに対して技を発動しなければならないのだ。

 

 だが、この場においてフィンクス以外に手が空いている者はいない。命の優先順位から言っても彼が身体を張らなければならない状況だった。

 

「それは楽しみだ、フィンクス♣ ところで、その腕でどうやってボクを殴るつもりだい?」

 

 次の瞬間、フィンクスの両腕が切り飛ばされていた。ヒソカが投げたカードに当たったのだ。ただの投擲ではない。あらかじめフィンクスの体にヒソカのオーラを付着させていた。その収縮により吸い込まれるようにカードはフィンクスへ向かった。

 

 だが、いつオーラをくっつけられたのか。フィンクスにはわからない。彼が認識できたことは結果だけだ。気づけば両腕を失っていた。全く笑えない冗談である。

 

「上ォ等ォオオ!!」

 

 彼は止まらなかった。腕がないことなど構わず、ヒソカに向かって走る。刹那の躊躇も見られないその精神力は見事なものだが、結局は自殺となんら変わらなかった。

 

 旅団の一員だけあってフィンクスの戦闘力はもちろん高い。強化系能力者であり、そのフィジカルは現状において最上位にある。だが、ヒソカは彼の能力『廻天』にそれほど魅力を感じていなかった。

 

 腕を回せば回すほどオーラが増え、パンチ力が上がる技だ。その破壊力だけを見れば確かに強力だが、どうしても動作に隙が多くなる。フィンクスの強さは圧倒的な念の基礎能力にあり、今やそれを容易く上回ってしまったヒソカにとってはいまいち光るものを感じない。

 

 その評価は覆されることになる。

 

 

 最大威力『廻天(リッパーサイクロトロン)』

 

 

 フィンクスの傷口からオーラがほとばしる。腕がなくなっているにも関わらず、まるでオーラそのものが腕の形を作るように収束している。その輝きは2倍、3倍と限りなく増大していく。

 

 何が起きているというのか。腕を回すという動作がなければこれほど異常なオーラの増幅は得られないはずだ。それともヒソカの知らない別の能力を隠し持っていたと言うのか。そこでようやくヒソカはトリックに気づく。

 

 フィンクスの腕は回っていた。狂い回る。トランプによって切り飛ばされ、宙を舞いながら高速で回転していた。

 

 それは偶然の出来事ではなかった。フィンクスはヒソカから攻撃を受ける際、とっさに角度を調整し、うまく腕が回りながら上へ飛ぶように仕向けていた。

 

 腕を切り飛ばされるという絶体絶命の状況を逆に利用する。それも切られる寸前でそれを思いつき実行する。その閃きと行動力に感嘆する。

 

 ヒソカは胸中で謝罪した。素晴らしき闘争者を讃え、その攻撃を一身に受け止める。フィンクスの拳と化したオーラの塊が叩き込まれる。

 

 この戦いが始まって以来、初めてヒソカへの有効打となる。全身の骨が砕けそうになっていた。ゴムの鎧でほとんどの衝撃を和らげたにも関わらずこの威力。歓喜にうち震える。

 

「おかわりだ。クソピエロ」

 

 切り飛ばされたフィンクスの腕は二本ある。つまり、パンチはもう一発放てる。一撃目よりもさらに重い衝撃がヒソカを襲った。今度こそ堪えられない。体がひしゃげる。変形し、床に体液をまき散らす。

 

 

 戦闘演武曲『最後の審判(ラストジャッジメント)』

 

 

 そこでボノレノフが演奏を終えた。周囲の光景が切り替わる。場所は、天高く聳えたつ塔の頂上に変わっていた。

 

 この曲の効果は念空間の具現化である。曲が聞こえる範囲にいた者全てを現実とは異なる念空間へ強制的に移動させる。術者であるボノレノフ本人は必ずこの中に入らなければならないが、それ以外の者の移動についてはボノレノフが自由に選べる。

 

 今回はボノレノフ、フィンクス、フェイタン、そしてヒソカが念空間に引き込まれた。イルミを取り込むこともできたが、欲張るのは止めておいた。確実に、ヒソカを殺すことだけに集中する。移動の直後、フェイタンが能力を発動させた。

 

 

 許されざる者『太陽に灼かれて(ライジングサン)』

 

 

 特大の火球が空へと放たれる。この念空間は開けているように見えるが、実際の大きさは意外に狭い。どこまでも続いているように見える空にも行き止まりがある。フェイタンの技の効果は隅々まで届き、逃げ場はない。

 

 これはカーマインアームズとの一戦を経て考案された連携の一つである。もし同じ敵に遭遇した時、同じ敗北の結果で終わるようではならない。自分たちよりも強大な敵への対抗手段を講じていた。

 

 灼熱の炎が気温を急激に上昇させる。水分が蒸発する。干からびていく。地獄の業火が全てを焼き尽くす。

 

 その中でボノレノフは舞っていた。炎に全身を蝕まれながらも踊りを止めることはない。舞闘士は儀式においていかなる事情があろうと途中で演舞を止めることは許されない。悪しき邪霊を祓うまで、祈りを捧げ続ける。まだ戦いは終わっていない。

 

「アアアアアァ♥ アツイ……デモネ……ボクノココロホドジャナイ♠」

 

 炎の中から怪物が現れる。フィンクスの攻撃を食らった時点で死んでいなければおかしい状態だった。だが、現実には真逆。ヒソカは生き、フィンクスは殺されていた。

 

 骨は折れ、四肢は不自然な方向へ曲がり、体中にまとわりつくゴムのオーラはどろどろに溶けて異臭を放ちながら流れ落ちる。呼吸をするたびに肺胞が焼かれていく。その姿も声も、人間とはかけ離れていた。

 

 ボノレノフの演奏が終わる。その曲『序章(プロローグ)』は演奏時間の短さもあり、彼が最もよく使う技でもある。ギュドンドンド族の伝統的な狩猟装束を具現化する。仮面、鎧、槍といった武装一式を身につけることで戦闘力を上げ、熱によるダメージも多少は軽減できる。

 

「さっさと焼け死ねよ……!」

 

 ボノレノフの隣にフェイタンが並んだ。この焦熱地獄の中でも活動可能となる防護服を具現化して着用していた。しかし、既に重傷である。それでも剣を構えてヒソカと対峙する。

 

 この念空間から脱出する方法は二つしかない。術者であるボノレノフが死ぬか、それ以外の全員が死ぬかのどちらかだ。たとえ術者でも能力を途中で解除することはできない。

 

 ボノレノフもフェイタンも、この期に及んで生に執着してはいなかった。彼らの目的はヒソカの死を見届けることだ。その後でなら死んでも構わない。ヒソカより1秒でも長く生きていられればそれでいい。

 

 焦熱地獄がヒソカを焼き尽くすまで、この念空間を維持し、閉じ込め続ける。

 

「ダイジョウブ、フタリトモ、シナセナイヨ♣ ボクガコロスマデハネ♦」

 

 

 * * *

 

 

 念空間にヒソカと団員3人が消え、クロロとシズクが残された。シズクは貴重な能力を持っているが、身体能力の面では他の団員に劣る。イルミが相手では分が悪い。

 

 クロロがかばう形になり、どうしても行動が制限されてしまう。それがイルミの狙いでもあった。わずかな意識の間隙を縫うように迫る針がクロロの右腕を貫いた。

 

「私がデメちゃんで針を吸い込みましょうか?」

 

「やめておけ。お前の能力はイルミにも知られている。対策はされているはずだ」

 

 シズクが具現化する掃除機の『デメちゃん』は彼女が生物と認識する物や念の産物以外なら何でも吸い込む。クロロの言う通り、イルミはこの対策として超小型爆弾を搭載した針を準備していた。無暗に吸い込もうとすれば至近距離で爆発する。

 

 クロロはシズクと話しながら刺さった針を引き抜いて捨てる。操られている様子はない。こちらも既に対策済みだった。『盗賊の極意』により『携帯する他人の運命』を発動させている。クロロとシズクは自身にそれぞれアンテナを刺していた。

 

 シャルナークの携帯電話から命令を出していないので二人とも自分の意思で動けるが、この状態でも能力の効果自体は発動している。ゆえにイルミの針に刺さっても操られることはない。

 

「それに、今しがたこちらの能力の発動条件も整った」

 

 クロロが『盗賊の極意』を開く。そうはさせじとイルミが針を投じるが、予知していたかのように弾かれた。イルミは眉をひそめる。この短時間の内にクロロは敵の行動を分析し、身を隠して絶えず移動するイルミの攻撃を予測できるようになってきている。

 

 

 『禿鷹の止まり木(スターリィヘブンズキーパー)』発動。

 

 

 クロロのそばにトーテムポールのような物体が出現する。これは設置型の念獣で、術者が敵から攻撃を食らうことにより発動する。

 

 イルミが様子見のために投げた数本の針が、空中であらぬ軌道を描いた。全ての針が念獣の方へと方向転換する。針は念獣に刺さるとその中に取り込まれて消えた。試しに爆弾付きの針を投げてみたがそれも念獣にダメージを与えることができず無効化される。

 

 同じ敵からの遠距離攻撃を完全無効化する念獣である。一度攻撃を無防備に食らわなければならず、また一定距離以上離れた場所からの攻撃しか防げないという制約はあるが、強力な能力だ。これでイルミは姿を現さずにはいられなくなった。

 

「さて、では反撃開始だ」

 

 クロロは『携帯する他人の運命』のページから栞を抜き、『禿鷹の止まり木』のページに挟み直す。栞を抜いたページの能力は使えなくなる、ということはない。シャルナークの死後強まる念である『携帯する他人の運命』は、能力が発動している最中であればページを閉じても解除されることはない。

 

 つまり、三能力の同時行使が可能である。クロロはイルミを始末するための能力を吟味していく。

 

 劣勢に追い込まれたイルミは一旦、攻撃の手を止めた。針の投擲を封じられ、針人間の数もかなり減らされ、クロロはイルミの隠形を見破り始めている。

 

 対クロロ戦を見据えて超小型爆弾(モスキートボム)や集束粒針弾(クラスターニードル)など、ミルキが開発している最新兵器も用意していたが、それもわけのわからない念獣によってどこまで通じるか怪しくなってきた。

 

 割に合わない。ターゲットの殺害が目的ならこのまま殺し合いを続けているところだが、今回の依頼はただの足止めである。それもヒソカはイルミになるべく手出しをしないように言い含めていた。

 

(ここは一旦退こう)

 

 仕事分の働きはしただろう。ヒソカとイルミの関係はあくまでビジネスライク。これ以上イルミが体を張る理由はない。

 

 というか、死体を報酬にしたくせにまともな原形をとどめている死体の方が少ないことにちょっとキレていた。闇市場で売りさばくために後で回収しなければならないが、今は一時撤退する。

 

「……逃げたか」

 

 敵の逃亡を感じ取ったクロロは本を閉じる。群がってくる針人間たちを片手間に処分していく。だが、その攻撃にはいつも以上に余計な力がこもっていた。苛立ちをぶつけるかのように針人間を破壊する。

 

 まだボノレノフの『最後の審判』は解除されていない。その開始と共に『太陽に灼かれて』が発動したと考えれば相当の時間が経過していることになる。その威力の高さはクロロも知っていた。念能力者だろうとあの熱波の中では数秒と持たず命尽き果てるだろう。

 

 だが、まだ誰も帰ってこない。どれだけの苦しみを背負い戦い続けているというのか。クロロは血がにじむほど手を固く握りしめる。これだけの犠牲を出さずとも、もっと他にやりようがあったのではないか。

 

 それは後だからこそ言える考え方だ。あの時点では仕方なかった。クロロが指示を出したわけではなく、団員たちが自ら考え、できる限りの役目を果たそうとした。そうでもしなければヒソカは瞬く間に旅団の命を食い尽くしていただろう。

 

 ゆえに待つしかない。クロロたちには備えることしかできない。最悪の結末が訪れようと、それに対処できるように。

 

 

「 オ マ タ セ ♥ 」

 

 

 空間に裂け目ができた。粘液にまみれた何かがしたたり落ちる。全身の皮膚が焼けただれたヒトガタ。それは羊水に浮かぶ胎児を彷彿とさせた。しかし、決して生まれてきてはならないものだ。そのオーラは生命力の源でありながら、対極にある死の気配にまみれていた。

 

 仲間たちはヒソカを倒せなかった。認めたくはないが、その可能性は検討していた。クロロは“最後のプラン”を実行するか否か、選択を迫られる。

 

「団長、命令を」

 

 シズクは促す。マチが、フィンクスが、フェイタンが、ボノレノフが、それぞれの務めを果たした。次は自分の番だと覚悟していた。

 

「いや……ここは俺に任せろ」

 

 クロロはそれを否定する。確かにヒソカは生き延びた。だが、死んでいなければおかしい状態であることは間違いない。あと少しで殺せる。もう誰かを犠牲にする必要はない。

 

「まぁ、そう言うだろうと思いました」

 

 それは希望的観測というものだ。ヒソカのオーラは明らかに増している。いつ死んでもおかしくない状態でありながら、相反するようにオーラは高まっている。死に近づくほど強まる念の力だ。戦闘力はさらに上がっているだろう。

 

「すみません、団長。その命令は聞けません」

 

 単純な五系統の能力と違って、シズクの能力は替えがきかない。だからこれまではいつも守られる側にいた。しかし、幻影旅団において最も替えがきかない人物は誰かと言われればそれはシズクではない。

 

 この急場に何を言い出すのかとクロロはたしなめようとした。そのシズクが、携帯電話を手にしていることに気づく。

 

 シャルナークの携帯だ。それはクロロが持っていたはずだった。シズクに渡した覚えはない。すられていた。世界有数の盗賊団の頭である彼が、全く気づくこともできずに盗まれていた。

 

 平静を装っていても、それだけクロロは追い詰められていた。注意するだけの余裕がなかった。全幅の信頼をおいていたシズクに対して一縷の疑いも向けていなかったのだ。

 

「よせ、シズク――!」

 

 シズクが携帯電話から命令を発信することで“最後のプラン”が発動する。彼女は自分自身に命令した。

 

 

 『ヒソカを吸い込め』

 

 

 意識を失ったシズクの体が自動的に動く。完全強制型の操作系能力である。身も心も都合よく作り替えられた人形と化す。この状態であれば、認識すら書き換えることも可能というわけだ。

 

 たとえ対象が生きていようと、無生物だと思い込むことができる。

 

 クロロはそれを即座に止めようとした。『携帯する他人の運命』は彼が発動している能力だ。本来であれば問題なく解除できるはずだった。

 

 だが、無理なのだ。死後強まる念として『盗賊の極意』に刻まれた能力は本を閉じても消すことができない。たとえそれが術者の意に反する効果をもたらそうと、自分の意思では解除できない。

 

「オッ、オオオオオ!? オォォホオオオオ♥♥♥」

 

 デメちゃんがヒソカを吸引する。その粘りつくオーラごと汚物をキレイに掃除していく。その光景を、クロロは茫然とした表情で見つめていた。

 

「スッ、スバラシイ♠ サイゴノイッテキマデ、シボリトラレチャイソウダ……♥」

 

 ヒソカはガムのオーラで何とか貼り付いて抵抗しているようだが、既に体の半分は掃除機の中にもぎ取られている。それはシズクの能力が世界に及ぼすルールだ。たとえヒソカでも逃れることはできない。

 

「……お前の負けだ。ヒソカ」

 

 クロロは淡々と、感情のない声で告げる。

 

「チガウヨ♣ ボク ノ カチ ダ ♦」

 

 奇術師は嗤う。それは負け惜しみではなかった。ヒソカはシズクが壊れてしまったことに気づいていた。

 

 操作系能力によって自分の認識を改変し、制約を無視して能力を使う。こんなことは普通できない。制約とは能力を行使するための条件だ。たとえ意識を作り替えようと、前提となる条件を満たさなければ能力は発動しない。

 

 ただシズクの場合はその制約が「自分が生物と認識している物は吸い込めない」と定義されていたため、認識さえ変われば破ることが可能であり、そしてそれは操作系能力によってクリアできたというわけだ。

 

 これが自由にできるならこれまでに何度も使っていただろう。甘くはない。それは結果的に彼女の中のルールを破壊していることと同じだ。相応の代償を払うことになるだろうと、シズクは予感していた。

 

 彼女はまだ肉体的には生きている。だが、精神が死んでいた。今は体を操作されて命令に従い動いているが、直に止まる。そうなればもう二度と目覚めることはない。

 

「ボクハ、キミヲコワシタカッタ♦ アタマヲサキニツブシテモ、イミガナイ♣ ソレジャ、キミハ、キズツカナイ♠」

 

 クロロは旅団の存続のためなら自らの命を惜しむことはない。仲間たちのためならばいくらでも命を懸けられる。

 

 ウボォーギンやパクノダ、コルトピやシャルナークが殺された時、誰よりもその死を悲しみ、敵への憎しみを募らせていたのはクロロだ。感情を表に出さないように努めていたが、胸中では嵐のように荒れ狂っていた。

 

 最優先されるべきはクモの存続、そのためなら個の犠牲は厭わない。という、理念とは大きく矛盾している。だが、もしクロロが何の躊躇もなく部下を使い捨てにできるような人間だったならば、今の旅団があっただろうか。

 

 その事例が流星街だ。まさしくあの街の人間は個の命に頓着しない。家族より太く、他人より細い絆で結ばれた集団だ。長老たちは平気で仲間を自爆テロに使い、使われる方もそれを不幸とは感じない。当然のように受け入れる。

 

 彼らは何も求めない。ただ自分たちの世界を維持することにのみ終始する。大量のゴミに埋もれた投棄地という最悪の環境下にありながら、驚くべきことに内部ではほとんど犯罪が起きていない。幸福の価値観そのものが違う世界だ。

 

 その中において、個の欲求を優先するということは、誰かの物を盗もうとすることはひどく異常だ。幻影旅団は流星街の本質に縛られながらも、馴染めなかったはみ出し者の集まりだった。

 

 初めはただ欲しかった。彼らにとっては、その当たり前の感情が特別だった。正しい世界の中で自分たちだけが狂っているのではないと証明するために盗賊団は結成された。仲間を集め、新たな秩序を作り、そこに生きる意味を見出そうとした。

 

 その先に行きついた場所がここだと言うのか。クロロには断じて認めることができない。

 

 シズクの足がふらつく。デメちゃんに亀裂が入っていく。やがて具現化を維持できなくなり、砕け散った。そのままシズクは倒れ、動かなくなる。

 

 ヒソカはまだ完全に吸い込まれていなかった。頭部と心臓、肺の一部しか残っていないが、生きていた。正真正銘、団員たちが死力を尽くしてなお、ヒソカを殺し切ることはできなかった。

 

「モウイチドイウヨ♠ ボクノカチダ♥」

 

 もしクロロが先に死に、他の誰かが生き残る結末であったなら、幻影旅団は存続したかもしれない。深い悲しみはあるだろうが、立ち直り団長の遺志を継ごうとするだろう。彼が死んでもクモは生き続ける。それが掟だ。納得はいかずとも受け入れる理由にはなる。

 

 しかし、皮肉なことにもうその目はない。団長を除く幻影旅団の全団員を殺すこと。それがクロロを、ひいては旅団を本当の意味で壊すために必要な条件だった。旅団最強にして誰よりも矛盾を抱えたクロロの弱点を突き崩す。かくしてそれは成る。ヒソカは勝利を宣言する。

 

 その言葉はクロロの耳にまともに聞こえてはいなかった。ヒソカはまだしぶとく生きている。それが良かった。掃除機にでも吸い込まれて勝手に死なれては困るのだ。

 

 オーラを滾らせる。仲間を殺された復讐を果たす。それにどれだけの意味があるのか今のクロロにはわからないが、それ以外のことを考える余地はなかった。

 

「アアァ! イイ! イイヨォ♦ ソノカオガ、ミタカッタ……♣」

 

 クロロの幻影旅団団長という仮面が剥がれかけている。このまま憎悪の一撃をぶつけてくれるのなら言うことはない。本望だった。

 

(いや、やっぱり心残りはあるかな♦)

 

 できることなら最期に、五体満足でクロロと死合いたかった。そして殺してあげたかった。さすがに負傷しすぎている。もう悪あがきすらできそうにない。その点は大きく減点だ。50点。

 

 ただ、それだけ団員たちの実力がヒソカの予想を上回る素晴らしさだった。大満足だ。ここは加点しておく。プラス30点。

 

 またイルミの助けを借りてしまったことも惜しまれる。自分一人でこの結果を勝ち取れていたなら最高だった。マイナス20点。

 

 しめて60点。まあ、及第点と言ったところか。最後の締めくくりだ。クロロの熱い想いを一身に受け止める。待ち遠しくてたまらない。最高のフィニッシュ、その時が訪れた。

 

 ヒソカが一瞬にして赤い結晶に包み込まれていく。

 

 アルメイザマシンの劇症化である。ヒソカが狙ってやったことではない。モナドの仕業である。ヒソカはいつウイルスに感染したのか。

 

 モナドは船内の探索のために『共』を使っている。2層以下のほぼ全域がこの範囲に含まれていた。その時、ウイルスに感染したオーラが付着した。ヒソカに限った話ではない。一般乗客のほとんどが感染してしまった。

 

 そのウイルスを活性化させるスイッチはモナドの意思一つというわけだ。そうはさせるかとクロロが動いた。

 

 凄まじい形相でクロロが結晶を殴りつける。全力を込めた一撃だが通じない。ただでさえ硬い金属がヒソカを苗床にオーラを吸ってさらに硬化している。

 

 全ての仲間を殺され、その仇を自らの手で討つこともできず、どこの誰とも知れない輩に奪われる。行き場を失くしたこの激情をどうすればいいというのか。手の骨が砕けることも厭わず殴り続ける。

 

 

(ひゃ、100点……!!♠♣♦♥)

 

 

 その様子をヒソカは見ていた。まさかの特大加点に興奮する。人生最大の絶頂に溺れながら、幸せな最期を迎えた。

 

 やがて何の音もしなくなった。煌びやかなフロアの内装は苛烈な戦闘によって無惨に壊れ、点滅するシャンデリアが床に転がる大量の死体を波間に浮かぶかのように照らし出す。微動だにしないクロロもまた、その死体の中の一つのようだった。

 

「シズク……」

 

 思い出したかのように、緩慢に動き出す。シズクの心はもう死んでいるだろうが、まだ生命活動は止まっていない。いや、精神の死についても確かなことはまだ言えない。目を覚ますことがあるかもしれない。

 

 そのわずかな希望の火は潰えるかのように、クロロの目前でシズクの体が結晶に包まれる。

 

 その実行犯であるモナドは特に深く考えていなかった。アーカイブにシズクの能力を保存できるかもしれないと考えたが、精神が死んでデータが壊れている可能性が高く、それほど期待もしていない。

 

 ヒソカについてはちょっとした目的があって殺されてしまう前に渦の中に取り込んだのだが、シズクの場合は“もののついで”だった。もう目覚めることはないと直感したので、整理しておいた。

 

「ふふ……ははは……ははははハハハハハハ!!」

 

 12本の脚を持つクモは、たとえその脚を全てもがれようと頭さえ残っていれば復活する。場合によっては頭より手足が重要になることもあると、かつてクロロは団員たちに語っていた。

 

 それはどこまで真実なのだろうか。1本や2本程度の損失ならまだ立ち直ることはできるだろう。だが全ての脚を失い、頭だけ残されたとて、そんな虫がどうやって生きていけるというのだろう。

 

 クモの頭は天を見上げる。ここは2層。その上にはもう一人、同胞の仇が待ち受けている。たとえそれが滅びへの道であろうと構わなかった。もはや、彼を止める“脚”は一つもない。

 

 

「はじめてだ。ここまで俺が欲しいと思ったものはない。クラピカ、お前の命……盗らせてもらおう」

 

 




鬼豆腐様にイラストを描いていただきました! モナド、クイン、カトライ、チェルの一幕。

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124話

 

 クラピカたち集まる1014号室は沈黙で満たされていた。突如として現れた謎の少女。それに対する人々の反応は大きく二つに分けられる。

 

 一つは無知。念という怪しげな術を眉唾と思いつつも、とりあえず情報を集める目的で講習に参加している各王子派閥の私設兵や従事者たちだ。少女のことは何も知らず、不審者とも思っていない。なぜならここは王子居住エリア。不審者が廊下を堂々と徘徊してくることは想像もしていない。

 

 一つは警戒。高位の王子直属の私設兵や、王妃所属兵の一部は下層域で発生している事態をある程度把握している。少女の正体についても知っている。必然的に、彼らは当然の行動を取る。

 

「通報しろ」

 

 だが、彼らはまだ自らの身に迫る危機を感じる段階にはなかった。警戒止まりだ。なぜ少女が厳重な警備が行き届いているはずのこの場所に誰にも気づかれることなく現れたのか、その点をまだ重視はしていない。

 

「なんだ……電話が通じないぞ」

 

 モナドは複数の人間から銃口を向けられた状態にある。既に確保したも同然と判断し、施設兵の一人が内線電話を取ったが、受話器からはノイズしか聞こえない。いや、その雑音の中にかすかに人の声のようなものが聞こえた気がしたが、気味が悪くなり受話器を置いた。

 

「ヒュリコフ、俺の無線もやられたようだ。敵の能力の傾向はつかめるか?」

 

「……」

 

「ヒュリコフ?」

 

 第1王子施設兵、バビマイナとヒュリコフは念能力者だ。ハンター協会員のベレレインテなど確かな腕を持つ念使いが何人かいるが、彼らはモナドに対して警戒以上の明確な危機感を抱いていた。

 

(念を使えることは間違いないが……オーラの対流に若干の不規則性があるな。通常は心臓の鼓動と同期して血流のように体表を巡るものだが……これほどの不整脈を起こすような精神的動揺は確認できない。それとも“心臓”がいくつかあるのか……?)

 

 ヒュリコフは他者の行動やオーラの兆候から念能力の傾向を読み解く特殊技能を持つ。念能力者であれば誰でも他者のオーラの性質を感じ取る能力は持っているが、彼の場合は特別だ。彼でしか気づけないようなほんの些細な差異から多くの情報を得ることができる。

 

「おそらく特質系だ。それ以上のことはわからん」

 

 六つに分類される系統のうち、五つははっきりとした特徴がある。強化、変化、具現化、操作、放出、そしてこれら五つ以外の特徴を持つ系統が『特質系』だ。言ってしまえば何でもあり。いかにヒュリコフでも能力の詳細までは特定できない。

 

「動くな!」 

 

「まあまあ、そう固くならずに。レモネード飲む?」

 

 敵地にありながら全く戦意は感じ取れない。その場で射殺されても文句は言えない状況であるのに、缶ジュースを取り出して飲み始める始末だ。

 

 何を考えているのかわからない。クラピカは最も強くそう思った。崖下へと続くレールの上をトロッコに乗って駆け下りている気分だ。モナドとのつながりがあることが露見すれば終わる。これまで王子の護衛として綱渡りにも等しい心労をかけ築き上げてきた信頼関係が全て壊される。

 

 余計なことを言うなと目でモナドに伝える。クラピカにできることはそれくらいしかなかった。モナドは何かを察したように頷いてサムズアップする。そういうことをするなと叫びたくなるクラピカの葛藤は、すぐに解消されることになった。

 

「皆さんご存じ、俺はモナド……クラピカに雇われたさすらいの傭兵さ。というわけで、これより第14王子警護に着任します!」

 

 爽やかな敬礼と共に爆弾は投下された。クラピカ、終わる。その顔から表情が消えた。

 

「一体これはどういうことだ、クラピカ。まさか君はあのテロリストの仲間だとでも?」

 

「……残念ながらその通りだ」

 

「それは確かに……残念だな。君への評価を180度転換せざるを得ない」

 

 クラピカはモナドにかき回されるくらいならと自分から正直に白状することにした。最良の結果は一つしかないが、最悪の事態とは常に悪い方向へと更新され得るものだ。歯止めをかけなければどこまでも深く転落する。

 

「私は傭兵団カーマインアームズと面識があります。しかし、この状況が私自身、全く不本意なものであることをどうか理解していただきたい」

 

「ええ、もちろん話は聞かせてもらいますよ。あなたの身柄を拘束し、収監した後でね」

 

「ま、待ってください! 彼は私たちにとって必要な護衛です!」

 

 安全のため寝室に遠ざけられていたオイトだったが、護衛のビルを連れ立ってリビングに来た。現在、ワブル王子とオイト王妃の護衛はクラピカとビルだけだ。その中心的役割を果たしてきたクラピカをここで失えば継承戦を生き抜くことはできない。

 

 短い間ながらオイトはクラピカの人間性について信頼がおけると判断している。ここで切り捨てるような真似はできなかった。

 

「テロリストとつながりのある人間に要人警護の任務を引き続き任せろと? いかにオイト王妃本人の希望であっても、国防法上看過できません」

 

 バビマイナが冷静に告げる。その上官、軍事最高副顧問であるベンジャミンは治安維持に関する強い実権を持つ。クラピカの処遇については軍の管轄に置かれるべき案件だ。もともとクラピカの存在を厄介に思っていた第一王子にとっては望ましい展開だろう。

 

 そのほかの王子陣営については、クラピカから得られる念の情報に期待していたり、あるいはクラピカ本人を協力者として引き込もうとしていた者たちもいたので、ここで中途半端に講習会が終わることには不服がある。

 

 だが、さすがにかばいきれない。致し方なし、誰もが口をつぐむ中、渦中の人物が声をあげる。

 

「まあまあ皆さん、どうも誤解があるようなので訂正しておきましょう。我らカーマインアームズのモットーは『みんな仲良く』! 争うつもりは全くありません」

 

「3層から5層を実効支配しておきながら何をほざく!」

 

「それは人命を第一に考えての必要な措置です」

 

 下層域ではストレスを抱えた民衆の軋轢から治安が悪化していた。それを利用する形で継承戦の延長線上にあるマフィア同士の抗争が勃発する寸前の状態だった。そのまま放置しておけばカキン軍や民間警備組織にも止められない規模の暴動が発生していただろう。

 

 海の上、狭い船内で20万人が暴徒と化せばどれだけの被害が生じることか。モナドは暴動の原因となる危険分子を実力で排除し、その恐怖をもって民衆の行動を抑制した。手段は強引だったかもしれないが、被害を最小限に抑え込めたと主張する。

 

「何一つ根拠のない主張だ。自分を正当化したいだけの言い訳にしか聞こえん。現に何の罪もないカキン兵が何十人も殺されている。2層では多くの民間人を巻き込んだ大量殺人が発生しているとの連絡も入っているぞ」

 

「俺が殺したのはマフィアの一部だけですよ。他は幻影旅団の仕業でしょ」

 

「待て、幻影旅団だと……!?」

 

 クラピカの血相が変わる。まさかその名をここで聞くことになるとは思わなかった。想像もしたくなかった。特大級の問題が処理する間もなく次々に積みあがっていく。

 

「さすがのモナド様でもあの幻影旅団を抑え込むことはできないのだった。いやぁ、面目ない! でも、奴らが暴れたのは2層でしょ? それは管轄外だから。自国の兵の無能さを棚上げして責任を押し付けないでもらえます?」

 

 モナドは治安の安定している2層以上に公然と支配の手を伸ばそうとはしなかった。5層にて幻影旅団の存在を確認し、これを捕獲しようとしたが失敗。2層に逃げ込まれたのだと言う。

 

「ですが、幻影旅団はどうやら仲間割れを起こしたようです。12のメンバーの1人、4番ヒソカ=モロウが乱心。他の団員をほとんど一人で殺し回り、自分も死んだようです。現在、旅団の生き残りは団長がただ一人。まあ、ここまで弱体化すれば優秀なカキン軍なら取るに足らない相手でしょう?」

 

「我々の知らない情報を……随分と詳しいじゃないか。まるで見てきたようだな」

 

 クラピカはモナドに『導く薬指の鎖(ダウジングチェーン)』を向けていた。鎖の反応からして嘘ではない。少なくともモナドに嘘を言っている自覚はない。コンタクトレンズの内側で緋の眼が色付いていく。眼の奥に疼くような痛みが走る。

 

「まあ、旅団の話はひとまず置いといて、本題に戻しましょう。俺がここに来た理由をお話します。クラピカと合流し、ワブル王子の護衛に当たる。これも仕事の一つではありますが、俺はもっと根本的な問題を解決したいと思っています」

 

「もったいつけずに言え」

 

「『壺中卵の儀』の中止です」

 

 カキン王、ナスビ=ホイコーロが直々に『壺中卵の儀』を執り行い、次代の王を決める継承戦が幕を開けた。もはや王自身にさえ取り消すことはできないのだ。14人の王子のうち、最後の一人となるまで殺し合わなければならない。

 

「でも、それは王様と上位王子たちの“本音”でしょ? 建前では誰も殺し合いなんて望んでいない。じゃなきゃ『王族殺人は極刑』なんてルールに王子たち自らが縛られてる意味ありますか?」

 

 現実に即さないからと言って好きにルールを作り替えていいわけはない。それが国事であればなおさら建前は重要だろう。たとえ暗黙の掟があろうとそれを公然の事実とするわけにはいかない。血塗られた玉座につく王が求められるような時代ではないのだ。

 

「この継承戦がデスゲーム化した諸悪の根源が『壺中卵の儀』だとは思いませんか? もうやめにしましょうよ。こんな怪しげな儀式にみんな踊らされて……王族の姿かこれが? 念獣ブッパし、ヤル気満々の私設兵をけしかけ、勝手に自衛権の行使を主張する醜さ…… 生 き 恥 」

 

「王がお決めになられた聖戦に覚悟をもって臨むことこそ王族としての正しき姿だ! その壺中卵の儀が何かは知らないが、何にしても一度始まった継承戦が収まるわけがないだろう!」

 

「だからそれはヤル気のある人たちで話し合いなり、殺し合いなりすればいいじゃないですか。王位に就くつもりのない下位の王子まで皆殺しにする必要あります? 命を何だと思ってるんですか! けがらわしいですわ!」

 

「ぐっ……!」

 

 権力者が後の台頭を危惧して自分の兄弟を殺すことは独裁国家でまま見られることだが、それもまた公言できない事実だ。まさかオイト王妃の前でそんな発言をするわけにもいかない。

 

「ぶっちゃけですね。他の王子の相手をするだけならポテチ食いながら5分でできるんですよ。実力行使がお望みであれば別に全く構わないんですがね。先ほども言った通り、俺たちのスローガンは『みんな仲良く』です。そのために継承戦を平和的に終結させたいと思っています」

 

「随分な自信だが、具体的にどんな手段を使うつもりだ?」

 

「まずは王子に憑りついた寄生型念獣を除念します」

 

 千差万別の念能力の中には敵に直接的な危害を加える攻撃ばかりではなく、対象に憑りつき何らかの効果を発揮し続けるタイプの能力もある。除念とは、そういった他者からつけられた悪意ある念を取り払う能力のことである。

 

 しかし、この能力に目覚める『除念師』は非常に少ない。また、除去した念はすぐさま無効化されるわけではなく、除念師はこれを抑え込むリスクを負う。個人の力量によって取り除ける念の強さは違う。

 

 今回の場合は寄生型の守護霊獣だ。ホイコーロ一族に代々伝わる死後強まる念の編纂術式である。これを外すことができる除念師がいるとは思えない。

 

「まあ、論より証拠。今ここで実際にお見せしましょう」

 

 モナドが一歩踏み出す。その先にはオイトと、その胸に抱かれたワブルがいた。恐怖を感じたオイトは後ずさる。護衛のビルがかばうように前へ出た。

 

「やめないか! それ以上近づけば発砲する!」

 

「邪魔だよ、球根くん」

 

 そのとき初めてモナドが敵意を発した。オーラによる威圧が室内に満ちる。それは蜃気楼のように視界を歪ませた。

 

 これまで十分に警戒を払っていたものと思っていたバビマイナらは戦慄する。彼らが最強と信じて疑わない第1王子ベンジャミンですら、そのオーラの気迫には届かないだろう。何よりも命令と規律を重んじる軍人であるはずの二人が、瞬時に全ての思考を閉ざしたくなるほどの絶望的な力の差。

 

 念をまだ使えない者たちも肌で感じ取っていた。使えないからこそ直に骨まで響いてくる。これが継承戦に加われば途轍もない障害となることは明らかだった。

 

 そしてその害意にさらされたワブルは、ついに守護霊獣を発現する。あまりに幼い身であったためこれまで眠り続けていた念獣が、宿主の危機を感じ取りモナドの殺気に呼応するように姿を現した。

 

 それは4メートルにも達する巨人の形をしていた。異常に頭と両手が大きく、倒れそうなほどバランスが悪い。顔のパーツの一つ一つがまた大きく、顔面に収まり切らないくらい詰め込まれている。それが満面の笑みを浮かべていた。

 

 

 お ぎ ゃ

 

 

 短く鳴き声を発した巨人はモナドを片手で掴み上げた。顔の半分以上を占める口が大きく開き、モナドはその中へ放り込まれた。ぐちゃぐちゃと肉や骨のすり潰される咀嚼音が響く。

 

 壺中卵の儀によって発現する守護霊獣には特徴がある。憑りついた対象の人間性によって能力は変化するが、それ自体は積極的に他者を攻撃することのないサポートタイプの念獣が多い。

 

 しかし、ワブルの場合はまだ念獣の形成を確固とするほどの自我が芽生えていなかった。そのため複雑な能力はなく、非常にシンプル。幼く何もできない自分の代わりに戦ってくれる力を欲した。

 

 そのモデルはオイトだ。母親である彼女の存在が念獣のベースになっている。その巨体は赤子の自分から見た世界の尺度である。死後強まる念ゆえに邪悪な姿に歪められてしまったが、ワブルが庇護者として無意識に求めた造形だった。

 

 余計な機能はなく、ただ力のみに特化している。その咬合力は見る間にモナドを噛み砕き、胃の中へと収めてしまった。

 

「はい、おぎゃあ」

 

 そして、何事もなかったかのようにモナドは巨人の腹を突き破って現れる。切開されたように綺麗な切り口からすたすたと外へ出た。ようやく形を得たばかりの守護霊獣は無惨な姿のまま、標本にされるように赤い結晶の中に閉じ込められていく。

 

「御覧の通り、ワブル王子は儀式の呪縛から解放されました。これで戦わなければならない理由の一つはなくなりましたね?」

 

 アルメイザマシンによるオーラの金属化である。これを使えば、体外における念的産物に限定はされるが、守護霊獣だろうと除念が可能だ。これまでワブルからわずかに感じ取れていた、漏れだすような念の気配は綺麗になくなっている。

 

 ワブルの守護霊獣の発現は短かったが幼い体に負担がかかったのか、オーラを消耗して今は眠っている。だが、それ以外に体調の異常は見られなかった。オイトは胸をなでおろす。

 

 しかし、念を使えない者たちにとってはモナドが何をしたのかいまいち理解できないことも多い。精孔が開いていなければ守護霊獣の姿も目には見えない。

 

 ただ、そのせいでモナドが突然空中に浮かび上がり、ひき肉にされたかと思いきや元の姿に戻るまでの信じられない光景を目撃している。どこからともなく現れた巨大な結晶と、その中に閉じ込められた巨人も確認した。改めて念能力者の異常性を痛感する。

 

「除念能力か。それだけではなさそうだが」

 

「壺中卵の儀を崩壊させ、継承戦の存続を危うくするつもりじゃないか?」

 

 バビマイナとヒュリコフが密かに意見を交わす。この場にいる者たちの多くは、なぜモナドがこれほど『壺中卵の儀』に拘っているのか不可解に思っていた。

 

 確かに念獣を授かる重要な祭事らしいが、もう終わったことだ。除念に成功しても継承戦と無関係になるわけではない。むしろ、念獣の力を失うのだから戦力としてはマイナスだろう。しかし、中には壺中卵の儀の真の目的に気づきかけている者もいる。

 

 継承戦は国王の正室子14人がBW号に乗船し、その航海中にて行われる。それ以前に死者が出た場合、継承戦そのものが中止される。そして生き残った唯一名が王位を得る。以上のことに同意し、王家縁の壺に血を一滴注ぎ誓いを立てる。

 

 ただこれだけの行程で14もの念獣を一度に発現させてしまう儀式がまず異常だった。初代カキン王が具現化したというこの壺は、間違いなく最高位の呪物と言えるだろう。強大な力には相応の対価が伴う。

 

 この場合、対価とは殺し合いによって流れる血だろう。百種の虫を一所に集め、共食いさせ、最後に残った虫から取り出した毒をもって願いを叶える『蟲毒』がその原点とされている。

 

 念獣を授かるだけでなく、殺し合う工程まで含めて『壺中卵の儀』なのだ。無自覚であろうと継承戦に同意した時点で候補者は『誓約』を立てたことになり、その見返りとして念獣を得たようなものだ。モナドはこの儀式を無効化し、継承戦の根拠を揺るがそうとしている。

 

(馬鹿め。除念に成功したからと言って儀式に影響はない。その可能性は検証済みだ)

 

 守護霊獣の除念を試みた者はモナドだけではなかった。第1王子私設兵の一人リハンの能力『異邦人(プレデター)』により第8王子サレサレの守護霊獣は排除されている。これも除念の一種と言えるだろう。だが、継承戦は支障なく継続している。

 

 念獣自体は儀式における一つの要素に過ぎない。重要となるのは候補者の死だ。戦いは、選ばれた候補者が最後の一人になるまで続く。平和的に解決する道などありはしない。

 

 モナドが桁違いの実力者であることは確かだが、付け入る隙はあるとバビマイナたちは考える。倫理的なしがらみに囚われているようならばそれを利用する手もある。

 

 とはいえ、心してかからなければならない。継承戦が始まる以前、第14王子ワブルと言えば最も容易く片づけられる候補者と思われていたが、もはや無視することは到底できない勢力になっている。それはバビマイナらだけでなく、他の王子陣営からしても言えることだ。

 

「ああ、そうそう。ついでにワブル王子以外、“全員分”の除念もここで済ませておきましょうか」

 

 決意を固めていた矢先のことだった。聞き間違いかとヒュリコフは眉を動かす。全員分、残り全ての王子の守護霊獣を除念すると言ったのか。それもこの場で。

 

 どういうことかと聞き返す間もない。モナドが指を鳴らす。ウイルス起動の信号は放たれた。部屋の時計は8時22分を指していた。

 

 






鬼豆腐様よりイラストを描いていただきました!

【挿絵表示】

前回のイラストの続きです。まだみんなに話を聞いてもらえた頃のモナド。


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125話

 

 PM8:22。

 

「ホ?」

 

 王の居室にて、秘蔵のワインを開けくつろいでいたナスビ=ホイコーロは陶器が割れるような異音を聞いた。壮絶な悪寒に駆られ、億は下らないワインボトルを倒すことも気にせず確認に向かう。

 

「何が起きたホイ……!?」

 

 わななく両手に一つの壺が抱えられる。それはカキンの創設期、太古より伝わる王家の秘宝。どのような手段をもってしても傷一つつけることは叶わない。はずだった。

 

 ひび割れ、今にも砕け散りそうになっていた。壺の中から小さな赤い石がいくつも転がり出る。多肉植物のような形をした金属質の結晶だ。

 

 モナドはワブルに寄生していた念獣を介して、壺中卵の術式にウイルスを送り込んでいた。その基点となる壺を破壊することがモナドの本当の狙いだった。これにより壺中卵の儀は崩壊、結果的に王子たちの守護霊獣もいなくなるというわけだ。

 

 ただここで、モナドが想定していない事態が発生する。

 

 モナドはワブル王子に行ったような、守護霊獣を結晶化させて宿主から分離する方法を、他の王子に対しても施そうとはしなかった。

 

 なぜかと言うと、王子の身に危険が及ぶからだ。基本的に寄生型念獣は宿主と密接な関係にあり、この除念にはモナドも精密な能力の行使を要求される。適当にウイルスを使えば念獣だけでなく寄生対象の王子もそれに巻き込まれて死んでしまう。

 

 ワブルの場合はモナドが直接手で触れて能力の制御を行ったので問題なかったが、離れた場所にいる他の王子についてはウイルスを使わずとも、儀式の術式全体を破壊することで念獣を消滅させれば事足りるだろうと判断した。

 

 モナドは見誤っていた。無念にも王となれず、殺されていった王族たちの怨嗟を。死後強まる念が凝縮され、壺の中へと封じられていた負のエネルギーがあふれ出す。詰まった排水管のように闇が噴き出す。

 

「ホ、ホホホ……」

 

 ナスビは不意に気配を感じ取った。自分しかいないはずの部屋の中に何かがいる。背後に立っている。恐る恐る、振り返る。

 

 そこには化け物がいた。女性の身体的特徴をおぞましく並べ立てたような悪鬼がいた。前回の王位継承戦にてナスビが獲得した守護霊獣である。兄弟の血を吸い、肉を喰らい、完成した蟲毒である。

 

 ナスビは今までその姿を見たことがなかった。守護霊獣は宿主の目に見えない。そのルールを破り、姿を現している。儀式の制約から解放された念獣は、消えるどころか死後強まる念をもって宿主に牙を剥いた。

 

「ほほほほほほ!!」

 

 カキン国王ナスビ=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1001号室にてベンジャミンはトレーニングに励んでいた。500キロのウエイトリフティング用バーベルをダンベルのごとく片手で扱っていた時、それは突如として現れた。

 

「ぬ!?」

 

 背後からの完全な不意討ちであったにも関わらずベンジャミンは反応してみせた。オーラで強化した腕で攻撃を受け止める。そこにいた敵は人間ではなかった。虫に似た手足と羽を持つ、魔獣のような怪物だった。頭部には複数の小さな眼と、剥き出しの歯茎を見せる口がついている。

 

「刺客が放った念獣か!」

 

「いえ、違います!」

 

 私設兵のリーダー、バルサミコが答える。彼はその念獣の存在を知っていた。継承戦が始まり、ベンジャミンに発現した守護霊獣である。しかし、これまでは何の動きも見せていなかった。それがなぜか突然、暴走している。

 

「ふん、これが守護霊獣だと? おとなしく従っておけばいいものを。オレ様が直々に屈服させてやろう」

 

 ベンジャミンが全力の戦闘態勢に入った。小細工は不要。鍛えぬかれた筋力に物を言わせた殴打が念獣に叩き込まれる。しかし、ベンジャミンの表情は浮かなかった。

 

 殴った瞬間、攻撃の威力が落ちたことを感じ取る。自身のオーラが吸い取られた。寄生型念獣の特性である。さらにそれがベンジャミンの守護霊獣の能力でもあった。

 

 強化系に属するこの念獣は、宿主であるベンジャミンの肉体を強化するサポート能力を持つ。オーラの増幅器である。こと戦闘にかけては念能力も含め、王子たちの中では最も惜しみない努力を注いできた彼にとって、このサポートは多大な相乗効果を生むはずだった。

 

 だが、念獣が暴走した今となっては真逆の効果を発生させている。宿主からオーラを吸い取り、力を増した念獣がベンジャミンに襲い掛かる。

 

「我々も加勢を!」

 

「お前たちは手を出すな! 自分の霊獣も躾けられない軟弱者に王の資格は無い! これは王の器を量るための試練と見た!」

 

 これも継承戦の一環。国王ナスビが王子たちに課した試練の一つと推測する。ならば自らの力で乗り越えなければならない。

 

 しかし、どれだけ攻撃を加えようとも、念獣はベンジャミンのオーラを吸収して回復してしまう。無論、念獣は彼を殺そうと反撃してくる。傷を負っているのはベンジャミンの方だ。

 

 彼は傷ついていく自分を許せなかった。カキンを守り、ゆくゆくは世界統一を為す強き王となるのではなかったのか。

 

「必ずや跪かせてやろう……!」

 

 ベンジャミンは打撃では効果が薄いと判断し、念獣に掴みかかる。ライオンの首すらもぎとる締め技をかける。だが、その間にもオーラは吸われ、力は衰えていく。

 

 失ったエネルギーは補給しなければならない。ベンジャミンは念獣に噛みついた。その硬い外皮を歯で噛み千切り、肉を喰らう。力の奪い合いが始まる。

 

 私設兵たちはその常軌を逸した光景を見守ることしかできない。ぶつかり合う両者のオーラを見れば、有象無象の能力者がそこに割って入る余地などないことは明白だった。深い忠誠を誓うからこそ、これが決して手出ししてはならない一戦であることを理解している。

 

(だが、それでも……)

 

 バルサミコは私設兵たちに命令した。直接戦闘に使える発を持つ念能力者に自刃を命じる。ベンジャミンの能力『星を継ぐもの(ベンジャミンバトン)』は、死んだ仲間の能力を受け継ぐことができる。

 

 彼の人間性を表面的にしか知らない人物がもしこのことを知れば、自分が強くなることしか考えていない傲慢な能力者と評するかもしれない。だが、それは全くの誤りだ。

 

 一人でいくつもの能力が使えるようになったからと言ってそれを扱える体は一つだ。ベンジャミンは個人としての強さを欲する求道者ではなく、軍を束ねる群れの長。軍の戦闘は多くの人員があってこそ真価を発揮する。

 

 仲間が生きて支え合えるのであればそれが良いに決まっている。だが、死に急ぐこともまた軍人の性である。だからその死を無駄にせず、遺志を受け継ぐ者がいなければならない。そのための能力だ。

 

 烈火のごとき武断主義者ながら、仲間に対する情は厚く、部下の進言にも耳を傾ける度量を持つ。バルサミコの指示をベンジャミンが知れば憤るだろう。

 

 だが、この国の未来を背負う王となるべき傑物はベンジャミンただ一人。私設兵たちはそう確信している。決して死なせることのできない人物だ。その覇道の礎となるため、命令を受けた兵たちは自ら命を絶つ。

 

 ただ、遠所にいる私設兵の全員と連絡が取れたわけではなかった。第1王子は軍事特例として各王子の護衛の名目で私設兵を派遣している。その多くが何らかの異常に巻き込まれているようだった。

 

 異変はこの部屋でだけ起きているわけではない。継承戦に暗雲が立ち込めていた。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1002号室にて、カミーラは食事をとっていた。最高級フィレステーキにナイフを滑らせていた時のことだ。その右手が顔の高さまで持ち上がった。

 

「?」

 

 エイリアンハンド症候群という病気がある。脳の機能障害により、意思とは関係なく自分の手が勝手に動いてしまうのだという。単なる痙攣などではなく、まるで腕自体が別の生き物になってしまったかのように動くのだ。

 

 カミーラの気分はちょうどそれと似ていた。自分の右手が、自分の顔へとナイフを突き刺す。

 

「ああああああああ!?」

 

 絶叫を聞いたカミーラの私設兵たちが一斉に動いた。それまで普通に食事をしていたはずのカミーラが自分の目に深々とナイフを突き入れている。すぐに駆けつけて取り押さえた。

 

「いたいいたいいたいいい!! はやくなおして!」

 

 意識はしっかりしているが、なおもナイフを眼孔の奥深くへと突き入れようとしている。その様子を確認した従事者の一人が銃を取り出し、失礼しますと一言断って、カミーラに向けて発砲する。

 

 カミーラは急所を撃ち抜かれ即死した。これにより彼女の能力『百万回生きた猫』が発動する。死後強まる念によって現れた化け猫の念獣が、カミーラを射殺した従事者を殺し、そのオーラを抽出。死体となったカミーラに与えることで蘇生させる。銃創だけでなく眼球の負傷まで元通りに治った。

 

「はあっ、はあっ……なんなの!? 今のなに!?」

 

「おそらく操作系能力による攻撃と思われます。何か心当たりはございませんか」

 

「カミィが聞いてるのよ! 答えなさいよ!」

 

 錯乱しているのか会話にならない。カミーラもベンジャミンと同じく念能力者だが、彼女の場合は発が使えるというだけで、基本的な念の修行は大して積んでいない。武人ではなく、一国の王子にふさわしい生き方をしてきた。

 

 何もかも望むがまま。自分の願うことが実現して当然という考えの持ち主だ。他者から縛られることを何よりも嫌う。自分自身の身体が思い通りに動かせない状態とは、カミーラにとって堪えがたい苦痛だった。

 

「早く犯人を見つけな、さ……い……!」

 

 カミーラの体が硬直する。またしても手が勝手に動き始めた。今度は傍にいた私設兵がすぐに拘束したため大事にはならなかったが、彼女の異常は収まらない。半狂乱に陥っている。やがて異常は手だけではなく、彼女の体の内部にまで及んだ。

 

「あ、むね、くるし……! とまる……とまるっ……」

 

 心臓の鼓動がゆっくりと遅くなっていく。不随意筋によって動くはずの心臓が操作され、心拍数を落としていく。

 

「なにしてるの……しにたくない……はやくころして!」

 

 命令通り、従事者の一人がカミーラを殺害した。蘇生能力が発動し、一時的にだが彼女の体は正常に戻った。しかし、根本的な原因がわかっていない。このままではまた同じ結果が生じてしまうだろう。

 

「恐れながら申し上げます。この攻撃が敵の手によるものであれば、あえて受け入れることでカミーラ様の能力により返り討ちにすることが……」

 

 カミーラは話している途中の私設兵を殴り倒した。そんなことは彼女にだってわかっている。

 

 死後の蘇生という特殊な能力は、彼女の精神性に由来する。カミーラは自分が死ぬということを絶対に認めることはない。たとえ殺されようと、死ぬはずがないと心の底から信じ切っている。死んだら終わりなどという理不尽は到底許容することができなかった。

 

 だから、死ぬことに対してこれまで恐怖を感じたことはなかった。その確信が揺らぎつつある。何かまずいことが起きる予感があった。

 

 またしても体の自由が利かなくなる。心臓が緩やかに停止していく。カミーラは部下に自分を殺すよう命令する。ついには長い時間と労力をかけて用意した私設兵の命にまで手をかけようとした。

 

「カミーラ様、ご命令とあらば我々一同、この命を捧げることにためらいはありません。ですが……」

 

 ここに集められた私設兵や従事者たちはカキン帝国において「不可持民」と呼ばれる差別階級出身者だった。生まれだけを理由に人に非ずと迫害を受けてきた彼らをカミーラは保護し、仕事を与えた。

 

 私設兵として取り立てられた12人は『つじつま合わせに生まれた僕等(ヨモツヘグイ)』という念能力を持ち、自らの命と引き換えに王子一人を呪うことができる。継承戦のために用意された暗殺呪詛部隊である。

 

「うるさい! カミィに指図する気!?」

 

 癇癪を起した子供のようなカミーラに執事長のフカタキが対応する。私設兵ではなく戦闘力は低いが、カキンの因習に精通する呪術師だ。その知識と経験から部隊の相談役を任せられている。

 

「ウマンマ、除霊を」

 

 除念師のウマンマがフカタキの指示でカミーラに能力を使う。その体内からずるりと何かが飛び出す。房を束ねたウミユリのような生き物の形をしていた。フカタキはそれが守護霊獣であり、カミーラを操作している原因だとすぐに見抜く。

 

「早くそれを殺して!」

 

 外に出しはしたが、これほど高位の念獣はウマンマの能力では除念しきれない。人の手の及ぶ存在ではないのだ。依然としてカミーラは操られたままだった。

 

「はやく……は、やく……!」

 

「いと気高き王の霊獣に対抗できる者は、同じく王の資質を持つ霊獣のみでございます」

 

 カミーラが衰弱していく。フカタキは何もしなかった。ここでカミーラの延命のために私設兵を犠牲にしても意味がない。ついにその心臓が止まった。能力が発動する。

 

「総員、戦闘態勢!」

 

 巨大な猫の念獣が守護霊獣へと飛びかかった。それに続き、私設兵たちが援護に入る。そこから先は、壮絶な死闘だった。

 

 崩壊した壺中卵の儀により暴走した守護霊獣は宿主を殺すまで止まることはない。カミーラは確かに死んだ。だが、まだ終わりではない。『百万回生きた猫』を完全に破壊しきるまで彼女の命は死後も消滅しない。

 

 双方が、どちらも死後強まる念によって強化された念獣である。その戦いの余波に巻き込まれ、私設兵たちは死んでいった。フカタキも含め、室内にいた全員が死亡する。

 

 だが、人間の力は微力ではあれど援護には意味があった。猫が互角の戦いを制する。ボロボロにされながらも勝利し、うごめく房の塊を手中に収める。

 

『ねる! ねるネるねるねルネるねるねるねるネルねるねル……』

 

 凝縮された命のソースが、とめどなくカミーラの口へと運ばれた。

 

 

 * * *

 

 

 PM8;22。

 

 1003号室にて、読書をしていたチョウライは一枚の硬貨が床に落ちた音を聞く。それが守護霊獣の仕業であることは知っていたが、続いて濁流のように襲い掛かる硬貨の雨までは予想できなかった。

 

「なにっ!?」

 

 真っ先に行動を取ったのは第1王子私設兵のコベントパだ。チョウライの守護霊獣からの攻撃を確認。大量に降り積もる硬貨の勢いから、脱出路の確保を優先した。出入り口の扉へと直行する。

 

 しかし、既に隣の部屋でも硬貨の雨が発生していた。扉は開かない。『硬』により数発の拳を叩き込み、ドアや壁を破壊して脱出する。

 

「外が安全か確認してきます!」

 

「ま、待てっ!」

 

 チョウライが引き留めるが無情にも置き去りにされる。第1王子私設兵は護衛の名目で派遣されているが、実際は監視要員だ。他の王子周辺の情報収集と、隙あらば暗殺を狙う身中の虫。助けてくれるわけがない。

 

 既に硬貨の水深は首元にまで達している。このままの勢いが続けばすぐに天井まで埋まるだろう。それでもなお増え続けるようであれば圧死は確実。生身の人間ではとても堪えられない。身動きは全く取れず、他の取り残された護衛たちも当てにならない。

 

「こ、こんなところで死ねるものか! 私こそが次代の王……! カキンをさらなる繁栄へと導く指導者なり!」 

 

 チョウライはコベントパが出て行った穴に向けて手を伸ばそうとする。その願いが通じたのか。穴の向こうに人影が見えた気がした。必死に助けを求める。現実的にそれが可能か否かを考える余裕すらなかった。

 

 次の瞬間、チョウライは部屋の外にいた。

 

「はあっ、え、な、た、助かった、のか!?」

 

 何が起きたのか全くわからなかったが、硬貨の海に埋まりつつあった部屋の中から一瞬にして移動していた。見れば近くに男が一人立っている。チョウライが先ほど助けを求めた人物に違いない。

 

 念能力者なのだろう。何らかの念を使って、チョウライを移動させたのだ。目の前にはコベントパが開けた壁の穴がある。その穴の先では今も硬貨の雨が続いていた。

 

「危ないところだった……礼を言わせてくれ」

 

「別にいいさ。ただの気まぐれだ」

 

「それにしても一体何が起きたのだ。あれは私の守護霊獣の力のはず……なぜ私を巻き込もうとする!?」

 

「寄生型なら、まあ、そういうこともある」

 

 少し冷静になって考えてみると、その男は不審だった。額に十字のタトゥーを入れた、黒いコートの男だ。どこかの王子の私設兵や王妃の所属兵には見えない。

 

 ハンター協会員だろうかと思ったが、その予想はすぐに否定した。ここから少し離れた廊下の先に血を流した死体が一つ転がっている。コベントパだ。誰に殺されたのか、状況から見れば容疑者は一人。

 

 ぞっとするような目をしていた。チョウライは高貴な身分を持つがアンダーグラウンドの人間とも付き合いは深い。おそらくその類である。命の恩人だが、あまり関わり合いにならない方がいいかもしれないと思う。

 

 男の視線は終始、硬貨の降りしきる部屋の中へと向けられていた。チョウライには見向きもしてない。その視線の先に異変の原因たる怪物が現れる。

 

 燃え盛る炎を纏う、巨大な車輪だ。十字があしらわれた幾何学的な文様と形状は、生物というより機械を思わせる。その中央にある単純化された顔はチョウライを見ていた。それに正や負の感情はなく、ただ宿主を機械的に殺すことを目的としていた。

 

「ひいいいっ!?」

 

 男はコートから一冊の本を取り出す。

 

「面白い念獣だ。オレがもらってもいいか?」

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1004号室にて、ツェリードニヒはテータ監督のもと念の修行をしていた。瞑想鍛錬を兼ねた絶を中心的に訓練しているが、これは明日決行する予定の“ツェリードニヒ暗殺”に向けたテータの布石である。

 

 この男は危険すぎる。これまでツェリードニヒに忠義を尽くしてきたテータだったが、その過去を振り切ってでも暗殺を決意する。これ以上、彼が念を習熟してしまえば恐ろしいことになる。暗殺した後、自分も死ぬつもりだった。

 

「……」

 

 ツェリードニヒは静かに目を閉じたまま、自然体で立っていた。その状態から動かない。最初は動揺を誘うためにテータがちょっかいをかけていたが、今では全く動じることなく絶を継続できるようになっている。たとえテータが目の前で銃口を向けたとしても。計画は順調だった。

 

 何もせずただじっとしているだけ、という時間は人間にとって辛い。暇に感じ、早く別の修行に移りたいという気持ちもあったが、そういう雑念が最も絶を妨げる要因となる。というわけで、無心になる感覚は既に習得した。

 

 ツェリードニヒは次の段階に進んでいた。肉体は絶の状態を保ったまま、精神だけを切り離す。テータに言われてしていることではない。自分の思い付きだった。そして彼の極まった念の才能は、その思い付きを実現してしまう。

 

 彼の脳裏にノイズが走る。まるで幽体離脱をしているかのように自室の映像が現れた。絶をしている自分と、それを見つめているテータがいる。肉体の目は閉じているはずなので、現実にこの映像を見ているわけではないし、そもそも視点が異なる。

 

(オレの妄想か? だが、念の可能性を考えると一概にそうとも言い切れないな)

 

 よくわからなかったが、面白いので観察を続けることにした。すると、いきなり化け物が出現した。馬と人間の女を掛け合わせたような見た目をしている。

 

(うわ、キメェ……なにこの、なに?)

 

 テータも化け物の存在に気づく。少し驚いて何かを考えている様子だが、戦闘態勢には入らなかった。ますますわからない。その怪物の首が伸びる。顎が裂けるように開き、無防備なツェリードニヒの頭を食いちぎった。

 

(ヤベェ! 避けろオレ!)

 

「ハッ!?」

 

 目を見開き、絶が解ける。ドッと汗が噴き出し、心臓が動悸する。まるで現実のような悪夢だった。夢には違いないのだろう。現に自分は無事だ。

 

 ツェリードニヒはしきりに周囲を見回していた。テータはその様子をじっと見つめている。

 

「……」

 

 彼女の指示に反して絶を解いてしまったが特に何の反応もしていない。いつもなら小言の一つは言ってくるはずだ。ツェリードニヒは違和感を募らせる。

 

「テータちゃん聞きたいことがあんだけど」

 

 先ほどの現象について意見を求めようとしたツェリードニヒの目にデジャブが映った。視線の先に、化け物がいた。

 

「うおおお!?」

 

 反射的に回避行動を取る。その直後、化け物の首がツェリードニヒ目掛けて射出された。空を切り、壁に穴を開けて突っ込む。デジャブがなければ避け切れなかっただろう。

 

「王子!? 大丈夫ですか!?」

 

「反応おっせぇよ!?」

 

 ようやくテータが動く。いつもの彼女であれば考えられない反応の鈍さだった。

 

「これは、守護霊獣が暴走している……!?」

 

 どういうことだと問いただす時間はなかった。壁から首を引き抜いた化け物がツェリードニヒに向き直る。もう一度同じ攻撃が来れば、避け切れる自信はない。いくら才能があっても念を覚えてたかが数日でこなせる戦闘のレベルではない。

 

 ここは念能力者として経験を積んでいるテータに任せるべきだ。その間にツェリードニヒは安全な場所へ逃げればいい。時間を稼げば増援も来る。誰が見てもそう判断すべき状況だろう。

 

 しかし、テータは動かなかった。守護霊獣は明らかにツェリードニヒを狙っている。理由はわからないが、暗殺のチャンスだ。見殺しにするだけで彼女の目的は達成される。その後、念獣に殺されたとしても彼女は別に構わない。

 

 彼女の足が止まる。その反応を見たツェリードニヒは即座にテータの裏切りを理解した。

 

(テータちゃんさぁ……)

 

 初動の遅れについてはミスで済ませていいかもしれないが、今の挙動は明らかに故意だった。テータはツェリードニヒを見捨てた。女の裏切りほど腹の立つことはない。だが、今は後回しだ。

 

 生まれて初めて念を知り、彼は大きな関心を持った。爆発的に成長する。そして今、彼は生まれて初めて命の危機を感じている。死に迫ることで念はさらに成長する。

 

 持てる全ての力を発揮しなければならない敵を相手にして、ツェリードニヒが取った行動とは『絶』だった。次の瞬間には死ぬかもしれない極限の窮地にも関わらず、彼は完璧な絶を遂行した。再び、彼の脳裏にノイズが走り映像が流れる。

 

(やはり、これがオレの“発”!)

 

 絶をすることで発動し、少し先の未来を見ることができる能力。体感にして10秒ほどだろうか。現実では一瞬のことだが、ツェリードニヒの中では10秒の時間が経過している。

 

 ただ、いくら未来が見えたからと言って、敵の攻撃に対してツェリードニヒが何もできなければ意味がない。しかも予知をしている時の彼は絶状態で眼を閉じていなければならない。

 

 最大で10秒の猶予は生まれるが、それは絶に入るまでの行程を極めてスムーズにこなし、かつ一瞬で未来の戦況を把握することを前提とした時間だ。実際にツェリードニヒが未来を見てから行動に移るまでの時間はもっと短くなる。

 

 念獣と思われる馬の化け物の戦闘力を見れば、数秒程度のアドバンテージを得たところでツェリードニヒに勝てる相手ではなかった。銃すら所持していない今の装備ではまともに攻撃することもできない。

 

 考えているうちにも主観時間の10秒が無為に過ぎていく。念獣の攻撃が迫る。とにかく何とか避けるしかない。そう思った彼の目の前に突然、二体目の化け物が出現した。

 

(新手の敵!? 嘘だろ!?)

 

 それは球根のような頭をした巨躯の怪人だった。背中から羽のように根が広がり、下半身は養分を蓄えた地下茎のようにこぶだらけだ。その禍々しさ、絶望するしかない。二体の敵を同時に相手取れというのか。

 

 だが、その怪人は思わぬ動きを見せた。まるでツェリードニヒを守るかのように、飛んでくる馬の首を受け止める。そこで『刹那の10秒』が終わった。眼を見開き、未来視の能力が解除される。ツェリードニヒからすれば数秒時間が巻き戻った状態だ。

 

 予知の通り、馬の化け物がその伸縮する首をフレイルのように振り回した。広範囲に及ぶ回避困難な攻撃。それをツェリードニヒの隣に現れた植物怪人がガードする。

 

(こいつ味方か! あ、もしかしてこれがオレの守護霊獣ってヤツか……? てか、いたんならもっと早く出ろウスノロが!)

 

 ツェリードニヒは壺中卵の儀によって得た自分の念獣だと解釈するが、実際には誤りだ。彼自身が無意識に作り出した念獣である。

 

 念獣によって薙ぎ払いの直撃は免れたものの、勢いを完全には殺しきれない。ツェリードニヒは自身の念獣もろとも弾き飛ばされる。

 

(しかも弱っ! 力負けしてやがる!)

 

 本来なら念獣というものは多数の系統を同時に制御しなければ発動できない非常に高度な能力だ。無意識にポンと生み出せるものではない。それも即席で作り出されながら死後強まる念によって強化された守護霊獣の攻撃に堪えている。ひとえにツェリードニヒの才能だった。

 

 そして本人は絶をしているにもかかわらず、彼が新たに得た念獣は問題なく発動できていた。ツェリードニヒはそういうものだと最初から思っているが、絶とは体外へ向かうオーラを絶った状態であり、念能力の行使に大きく制限がかかるものだ。その点も異例である。

 

(こいつオレの意思とは関係なく動くのか。オレが絶ってる間も勝手に動くみたいだし、それなら使い道はある。とりあえずお前の名前は『ゴミ』だ)

 

 ツェリードニヒは『刹那の10秒』を発動する。念獣の助けが入ったことで絶に専念する精神的余裕が生まれた。敵との力の差はまだ埋まっていないが、格段に戦いやすくなっている。

 

 その過程で『刹那の10秒』の効果についても新たに検証できた。未来視ができる時間は10秒間だけだと思っていたが、別にそんなことはなかった。目を閉じたまま絶を続けている限り、常に10秒先の未来を見続けることができる。

 

 最初の10秒だけツェリードニヒの中で感じ取る時間が先行し、それ以降は現実の時間と同時進行する。彼と他の全ての生物とでは、時間を感じ取る感覚の精度が異なっているのだ。

 

 現実時間にタイムラグが生じているような状態だった。そして、ツェリードニヒ以外、誰もこのラグの存在を認識できない。

 

 ツェリードニヒが目を開けて能力を解除すると未来を見続けることはできなくなり、肉体が現実時間に引き戻されるが、このラグはなくならない。自分だけが他の生物の感じている時間を無視した行動を取れる。

 

 例えるなら、ネットゲームだ。回線の速さの違うネット環境同士で対戦ゲームをするようなもの。当然、より速く情報を送受信できる方が有利である。回線が遅いと、画面上では敵が止まっているように見えるのに、実際には動いているのでやられてしまう。

 

(オレだけが他人よりも先よりに『未来』という情報を知り、『現在』に戻って変えることができる! 低能な豚屑どもはオレが改変する以前の腐ってカビが生えた『現在』しか見ることができない!)

 

 ツェリードニヒは能力を使いこなし、敵の攻撃を回避していく。そこへ別室にいた他の護衛たちがようやく駆けつけた。王子が念の修行をするので多少大きな音がしても入ってこないようにとテータが言いつけていたせいだ。

 

「こ、これは何事だ!?」

 

「テータ! 何があった!?」

 

 私設兵のサルコフが確認する。その戦闘光景はあまりにも現実離れしていた。おぞましい気配を放つ二体の巨獣が激闘している。ツェリードニヒはそのただ中にいるにも関わらず、静かに目を閉じオーラを絶っていた。

 

「わからない……あれは何なの……?」

 

 テータはひどく憔悴していた。その視線は念獣ではなく、ツェリードニヒに向けられている。

 

 馬の念獣がツェリードニヒ目掛けて突進した。怪人の念獣が止めようとするが撥ね飛ばされる。ツェリードニヒはあっけなく轢き殺されたかに見えた。

 

 だが、彼らが見ているその『現在』は既に古い遅延した情報だ。ツェリードニヒの時間認識には何者も追いつけない。瞬間移動とか、残像とか、幻覚と言った次元の話ではない。存在の在り方そのものが人間の域から外れている。

 

 しかし、傍からすれば余裕に見えても、実はかなり追い詰められていた。未来がわかるからと言って、その改変のために使える時間は数秒しかない。その間も敵が攻撃の手を緩めることはなく、一歩間違えば死んでもおかしくない場面は何度もあった。

 

(この守護霊獣(ゴミ)もただ正面から殴りかかるだけだし……脳筋かよ。オレが集中的に狙われてなかったらとっくに死んでるぞ? 特殊能力とかないの? 完全にビジュアル負けじゃん……)

 

 寄生型念獣は宿主の人格に強い影響を受けて育まれるものらしい。自分からこんなアホみたいな念獣が生まれたことにツェリードニヒは納得できなかった。

 

(なんでこんなゴミばっかオレの周りに集まってんの?)

 

 ツェリードニヒは茫然としている護衛たちを見て呆れかえる。

 

(こいつらオレの護衛だろ? なに突っ立ってんだよ。少しは役に立とうとしろよ。ホンット使えねぇ)

 

 ツェリードニヒには政治的手腕もある。優秀な人材を抱え込むためなら金は惜しまなかった。報酬面では好待遇を与えていた。しかし結局、彼の近くにいるほどその内面が透けて見えてしまう。その内面を知った上で近づいてくるのは下衆ばかりだ。

 

 唯一、テータだけが高い能力とまともな人格を持ちながらツェリードニヒに忠誠を誓っていた。だからこそ彼はテータを重用し、特別目をかけていた。信頼のおける数少ない臣下だ。だが、裏切られる。彼はテータの本性を見抜けなかったことになる。

 

(どういうことだよオイ……)

 

 度重なる能力の行使により、彼のオーラは底を尽き始めていた。念獣を具現化しながら未来の改変という異常な能力を使い続けているのだ。そのオーラの消費量は膨大だった。このままでは枯渇する。『刹那の10秒』がなければすぐにでも殺されてしまうだろう。

 

 だが、ツェリードニヒは気にしていなかった。その心中に溶岩のように煮えたぎる怒りが湧き起こる。それに反応するかのごとく、彼の念獣が変化し始めた。

 

 念獣とは通常、特殊な能力を兼ね備えているものだ。しかし、彼の念獣は急造だった。命の危険が迫っていたために即戦力として形だけは作られたが、能力は未分化。その役割が与えられようとしていた。

 

 根が翼を広げるように大きく伸びていく。足からも同様に張り巡らされ、部屋全体を覆い尽くそうとする勢いだった。馬の念獣を絡めとる。引きちぎられるが、絶え間なく成長を続ける根がまとわりつく。

 

 ツェリードニヒは念の存在を知ってからわずか半日で凝を覚えた。洗礼による精孔の強制解放もされず、ただ教えられただけで使えるようになった。普通ならあり得ない。その習得速度の秘密は、彼の時間感覚にあった。

 

 超越的な速度で彼の念は成長する。念獣の根に絡めとられた馬の化け物は養分を吸い取られていく。死後強まる念を吸収し、己の力に変えていく。これまで彼が培ってきた人生の時間全てが圧縮され、行き場を失い、そして未来へと押し出される。

 

 そして彼のフラストレーションは昇華された。球根だった念獣の頭は花開く。美しい手足が無数の花弁のごとく活けられ、その輪の中に守られるように、苦悶の表情に満ちた生首が詰め込まれていた。それはかつて彼が芸術作品とした女たちの首だった。

 

「いいね、ようやくオレ好みになってきた。お前の名前は今から……『使えるゴミ』だ」

 

 ツェリードニヒは勝利する。ベンジャミンやカミーラのように、死後強まる念獣を自身の力として取り込む方法に至る。これは偶然の一致ではなかった。

 

 他者を食らい、その力を得るが蟲毒の法。壺中卵の儀が崩壊しようと、その本質は失われていない。脈々と受け継がれたその血統にこそ刻み込まれた宿命だった。

 

「悪かった、テータ。オレはお前を理解していなかった」

 

 ツェリードニヒが謝る。これまでに一度として彼から謝罪の言葉を聞いたことはなかった。テータは何も答えを返せない。彼女に限らず、護衛全員が絶句するしかない。この魔界のような空間に、自分たちがいることが不自然でしかない。

 

「ようやくオレは気づくことができた。この世には、ゴミしかいない。オレを除いてな」

 

 もちろん、彼が自分の非を認めることはなかった。

 

「ゴミに何かを期待してはいけなかった」

 

『警告スル。警告スル。警告スル』

 

 ツェリードニヒの念獣は守護霊獣の力を吸収している。馬の化け物もその一部とされていた。その頭部が言葉を発しながらテータたちのもとへと詰め寄ってくる。逃げ道を絶つように、生い茂る根によって部屋の扉が締め切られた。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1005号室にて、無味無臭の毒ガスが発生。異変に気づいた時、室内にいるほぼ全員が全身麻痺により身動きの取れない状態だった。やがて意識を失い、死に至る。

 

(クラピカ……あなたが……必要……)

 

 第5王子ツベッパ=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1006号室にて、明日の晩餐会に向けて私設兵によるアカペラ合唱のリハーサルが行われていた。その最中、メダマジャクシの母体がタイソンに襲いかかり、排出口に頭部を取り込まれ窒息する。

 

「ガボボボッボハァ!」

 

「王子ィィィ!?」

 

 第6王子タイソン=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1007号室にて、ハーブをキメていたルズールスは何かを思い立ったかのように調理を開始。

 

「チャーハン作るぜぇ!」

 

 お手製のチャーハンを部下に振舞うが、隠し味に大量のドラッグが使用されていた。幸い、バショウがこれに気づき食事会は中止されたが、ルズールスは味見をしていたので手遅れだった。

 

 第7王子ルズールス=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1009号室にて、ハルケンブルグは床にねじ伏せられていた。いつもは彼の肩にとまっているはずの守護霊獣が主に牙を剥く。一つ目の鬼のような念獣の姿がハルケンブルグにも見えていた。

 

「すぐに助けます!」

 

「ダメだ! 1014号室に電話がつながらない! どうしてこんな時に限って……!」

 

 私設兵たちが手を尽くして救助に当たる。しかし、念の素人である彼らにはどうすることもできなかった。

 

「いいんだ。これでいい……これが私の受けるべき報いなのだろう」

 

 ハルケンブルグは死期を悟る。いつ殺されてもおかしくない状況にありながら、その声は非常に落ち着いていた。

 

 彼は最初から継承戦への参加を望んでいなかった。兄弟姉妹たちと決して良好な家族関係を築いているわけではないが、殺し合うつもりは毛頭なかった。だが、状況は否応なく彼を戦いへと巻き込んでいく。

 

 王は民を蔑ろにしている。この船を20万人の贄積む箱舟と称し、狂気の儀式を敢行した。ついに彼は我慢の限界を越え、国王へ継承戦の中止を求めて強硬手段を取った。

 

 従わなければ殺害も辞さない覚悟で臨んだが、守護霊獣に守られた王に銃弾は効かず、自死しようと発砲した弾までも自分の霊獣によって防がれてしまう。

 

 思えばその時、死んでいたはずの命だ。結局彼は王にそそのかされ、犠牲を増やさないためと理由をつけて戦うことを決意する。人が人を殺していい理由など、あるはずがないというのに。

 

 第1王子から派遣されていた私設兵の一人を殺したのが今日の出来事だ。正確には霊獣の力によって、部下の命を念弾に変え、意識を奪い上書きする能力。その死者への冒涜は、ただ殺すよりもよほど残酷と言える。

 

 どれだけ清廉潔白を気取ろうともハルケンブルグにはホイコーロの血が流れている。その本能に駆られ、取り返しのつかない罪を犯してしまった。もはや彼に正義を語る資格はない。命をもって償う時が来たのだと悟った。

 

「私は行く。だが、私たちの夢はここで終わりではない」

 

 王政廃止に向けて立ち上げた反体制派組織はハルケンブルグの死によって旗頭を失うだろう。だが、その基盤はなくならない。民は待ち望み続けている。そのために今日まで奔走してきた。

 

「我が国に自由を」

 

 部下たちは引き留めたかった。死んではならないと、あなたの代わりはいないのだと言いたかった。だが、そんな言葉をハルケンブルグが望んでいないこともわかっていた。

 

「はい……! 必ずッ! 私たちが成し遂げてみせますッ!」

 

 別れは唐突に訪れ、過ぎ去った。誰もが涙を流し、敬愛する主君の手をいつまでも握りしめていた。

 

 第9王子ハルケンブルグ=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1011号室の寝室にフウゲツはいた。まだ寝るような時間ではないが、護衛に干渉されることに慣れず、ここへ逃げ込むことが多かった。ここにいれば多少のプライベートは許してもらえる。特に継承戦が激化してからは警護も厳重になり、息がつまるような毎日だった。

 

 だが、憂鬱な気分に浸ってばかりもいられない。明日はいよいよ晩餐会。演奏プログラムのトリを務める大役を任せられている。そして、それ以上の大勝負が待っている。センリツとキーニ、二人のハンター協会員の協力を得てこの船から脱出するのだ。

 

 クリアすべき課題は多い。センリツの能力がどこまで通用するのか、追手がかかった場合の対処、無事に船から脱出できたとしてもハンター協会が手配してくれる救助船と合流するまで安全とは言えない。それまで救難ポッドで未開海域を漂わなければならない。

 

 緊張のあまり、明日の演奏会で使う予定の衣装をもう着ていた。カチョウとおそろいで気に入っているという理由もあるが気が早すぎる。

 

(大丈夫、カーちんがいれば平気だよ)

 

 カチョウとのわだかまりが解けた今ならどんな困難だって乗り越えられる気がしていた。カチョウのことを考えれば不安な気持ちも落ち着いていく。そんな時のことだった。ベッドのすぐ横の壁に魔法の扉が現れる。

 

(えっ、なんで? 今日はもう使えないはずなのに)

 

 その守護霊獣『魔法の抜け道(マジックワーム)』は、フウゲツが望む場所へとつながる道を作る能力を持つ。その使用限度は一日一回。能力の検証のため、今日の分は既に使ってしまったはずだった。

 

 しかし、使用限度が増える分には問題ない。特に行先を指定せずに能力を発動した場合、扉の先はカチョウのいる場所へとつながる。現れた扉を前にして、フウゲツはカチョウのところに行くか悩んだ。

 

(カーちんからは、怪しまれないためにも不用意に会いに来ないように言われてるけど……)

 

 能力が2回使えるようになったのであれば今後の作戦でも活用できる機会が増える。カチョウやその護衛であるセンリツ、キーニと情報を共有するためにも会いにいくべきだろう。フウゲツはいそいそとマジックワームの中へ入っていくのだった。

 

 第11王子フウゲツ=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:23。

 

 1010号室の寝室にカチョウはいた。緊張のあまり居ても立っていられず、明日の晩餐会で使う予定の衣装に袖を通していると、そこに『魔法の抜け道』の扉が出現する。

 

(ちょ、まっ、今着替えてるから!)

 

 扉からフウゲツが出てくる。慌てふためいていたカチョウだったが、様子がおかしいことに気づいた。フウゲツはどこか無表情だ。

 

(……何かあった?)

 

 心配になったカチョウはフウゲツに近づいた。その首に手が添えられる。ぎりぎりと締め上げられる。

 

「あっ……!?」

 

 凄まじい力だった。本気で殺そうとしてることがわかる。だが、なぜこんなことになっているのかカチョウにはわからない。思い当たる節はない。

 

 いや、そう思い込んでいるだけかもしれない。フウゲツがカチョウを襲う理由はあった。彼女たちは継承戦における敵同士。カチョウはわざと妹に暴言を吐き、遠ざけていた。そうすることでフウゲツを守ろうとした。

 

 結局、その作戦はうまくいかず仲直りした。だが、そう思っているのはカチョウだけだったのではないか。本当は許されていなかった。

 

 これまでフウゲツがどんな辛い思いをしていたのか、カチョウは理解していなかった。悪意を向けられて初めてわかる。じくじくと痛む心に比べれば、首を絞められる苦しみなんて大したことはない。

 

(ごめん……ごめんね、フーちん……)

 

 このとき護衛のセンリツは仮眠を取っていた。交代で見張りに当たっていたキーニが異変に気づき、駆けつける。発見されたカチョウの頚椎はへし折られていた。

 

 第10王子カチョウ=ホイコーロ、死亡。

 

 

 * * *

 

 

 PM8:22。

 

 1013号室は静かだった。異変はここと重なる念空間で起きている。

 

「クソ! どうにか助けられねぇのかよ、ビスケ!」

 

「できるならとっくにやってるわさ!」

 

 マラヤームの守護霊獣は念空間を作り出す能力を持つ。1013号室の『裏側』とも言える別空間にマラヤームは保護されているはずだった。

 

 ドラゴンのようなその守護霊獣が『表側』からこちらに入ってきたのが先ほどのことだ。突然、守るべき対象であるはずのマラヤームを触手のような器官で縛り上げた。

 

 護衛たちが救出に当たったが、敵はこの空間を自由に操る。攻撃は全て『表側』へ飛ばされてしまい、守護霊獣にかすりもしない。『表側』に出てしまったものは二度と『裏側』へは戻れない。護衛の人間も何人か飛ばされていた。連絡はできるが移動はできない。

 

 そして現在、この『裏側』の念空間は消滅しようとしていた。解除ではなく消滅だ。空間が端の方から粒子状に砕けながら分解され始めている。このままここに居続ければ巻き込まれて死ぬとわかった。

 

 脱出することは簡単だ。ドラゴンに向かって突っ込めばいい。そうすれば『表側』に飛ばしてもらえる。だが、それではマラヤームを助けられない。

 

「守護霊獣なんだろ!? 何か理由があって主を守るために行動してるんじゃ……」

 

「あいつの殺気を見ればわかるでしょ!? あたしたちのことなんて眼中にない。間違いなくマラヤームの命を狙ってる!」

 

 ハンゾーとビスケは何もできずにいた。その近くではセヴァンチ王妃が固唾を飲んで見守っている。その様子を見ていたマラヤームは首を横に振った。幼い子供がパニックを起こすこともなく、じっとしている。

 

 姉のモモゼの死を察し、せめて自分の目の届くところまでは安全な場所であってほしいと思う気持ちがこの空間を作り出した。それは自分の身を守りたいがためだけではない。

 

『もういいよ、ママ』

 

 彼は籠の中の小さな動物のように生きてきた。自分が王族という名の目に見えない檻の中に捕らえられていることを知っていた。この霊獣の能力も、そんな彼の人間性を体現したものだ。

 

 彼は昔、飼っていたハムスターを不憫に思ったことがある。ペットとして飼いならされるその境遇に自分を重ねたのかもしれない。ケージから出して逃がしたことがあった。しかし、そのハムスターは死んでしまった。人に飼われることを望まれて生まれた彼らは、檻の外では生きられないのだ。

 

 しかし、野に放たれてこそ輝く命もある。鳥たちが羽ばたく空にも、木々が緑の葉を広げる森にも、青き輝きを讃える海にも。自然は強かに生きる者たちで溢れている。ゆえに世界は美しい。彼はその光景を、檻越しに眺めるだけで十分に満たされていた。

 

『ビスケ、みんなを連れて逃げて。ハムラスカのことも忘れずにね』

 

 空間の崩壊はすぐそこまで迫っていた。セヴァンチは泣き叫ぶ。

 

「嫌よ! 置いていけるわけがないでしょう! ママもここに残るわ……最後までずっと一緒にいるから……!」

 

 愛する我が子を見捨てることはできない。たとえ道連れになろうともその傍にいてやりたいという親心をどうして否定できようか。どちらが正解という答えはない。だが、ハンゾーは歯を食いしばってセヴァンチを抱え上げた。

 

「放して! 私はここに……」

 

「ばかやろう! 男の覚悟を汲んでやれッ!」

 

 ハンゾーはセヴァンチを抱え、守護霊獣へと突き進む。残されたビスケはハムスターが飼われているケージを持って佇む。せめてこの小さな英雄に恥じないようにと、笑顔で別れを告げる。

 

『ばいばい、ビスケ』

 

「ええ、マラヤーム」

 

 檻の扉は開け放たれた。

 

 第13王子マラヤーム=ホイコーロ、死亡。

 

 

 

 

 






『刹那の10秒』ラグ説は思いついたとき、うおおおおこれだああああと思いましたが検索したら既に同じ考察がありました orz


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