びじょとやじゅう (彩守 露水)
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第1話「名家の命運」

序盤は主人公の家族の描写が多くなり、原作キャラの本格的な参戦は少し後になります。あと、地の文を書きやすくするために適当につけたので、父の名前は別に覚えなくていいです。


本作の前書きでは毎話、その話に出てくる難しい単語の解説が入ります。

・原級留置……留年の堅い表現

・形骸化……形式として存在しているが、ほとんど、またはまったく機能していない状態になる事


「…………」

 

 真っ白な髪の少年が布団の中で体を起こす。目覚ましが鳴った訳ではなかったが、時計は六時丁度を指していた。

 

「ん……きょう、は」

 

 少年は半目を擦りながら、枕元に置いてあった携帯を手に取り、カレンダー連動のスケジュールアプリを立ちあげる。それはびっしりと打ち込まれ隙間もない程だったが、特別嫌気に溜息をこぼしたりしない。これは普通だ、彼にとっての。

 

(七時から茶道のお稽古、九時からは……。それまでは勉強して、えっと……)

 

 今日一日の予定を頭の中で確認しながら服を着替え、すぐさま勉強机へ向かう。

 朝起きてから初めの稽古までの一時間と最後の稽古からベッドに入るまでの三時間、そこに細々とした休憩時間を合計しておおよそ五時間半。彼に許された自由時間はそれだけだ。もっとも、自主勉強の時間もそこには含まれており、課された量をこなすだけで最低四時間はかかる。つまり、実質的には食事や風呂を含めて一か二時間程度しかないのだ。例え一分でも無駄にできはしなかった。

 

(何から、しようか……あれ?)

 

 机の上に色々な教材を散らかして、おかしいな、と彼は感じた。

 

(だって、おかしい)

 

 朝起きて、着替えて、まず思う事が『なんだか疲れたなぁ』、だなんて誰が考えてもおかしい。おかしいのだが、

 

(何から始めようかな)

 

それでも思うだけ。やることはやる。

 少年の行動は、生活は、人生は、()()変わらない。

 

 

 

――――――

 

 

 

 東京の街のとある一角。そこに、初めて目にする人が十中八九振り返ってしまうような大きな屋敷があった。この街一という訳にはいかなくとも、間違いなく有数の由緒ある名家、その名を祖師谷という。

 その居間で、一人の少女と父親による親子喧嘩が繰り広げられていた。

 

「だから! もっとあの子の事を考えてあげてよ!」

 

 声を荒げて怒りを露わにしている少女の名は祖師谷(そしがや)(ゆう)。この家の長女である。高校一年生であるが身長は一四三センチと低く、長い白髪と赤い瞳はどこかうさぎを彷彿とさせた。

 

「はぁ、こちらの台詞だな。お前はあいつの今だけを見てものを言ってるに過ぎん。数年の我慢で残りの人生が変わる、それを知らない子に成功の道を示してやるのも親の務めだ」

 

 対して、座布団に胡坐をかき、新聞を広げたまま視線も向けずに応えたのは祖師谷家の現当主、博則(ひろのり)。口にしている言葉はもっともらしいものだが、素っ気ないを通り越して、無関心にも近い態度を見ては、それが本心からだと優はとても思えなかった。

 

「やめて、お父さんがそういう事言っても気持ち悪いだけだから。お父さんはただ、都合のいい跡取りが欲しいだけでしょ。別に、あの子個人になんて何にも感じてない癖に」

「知ったような口を利いてくれるな……。あいつは我が祖師谷家の長男だ。本人も望んでいるところだろうさ」

「そんな訳ないでしょ!? 朝から晩まで毎日稽古、稽古、稽古! やりたい事もできないで、学校にも行かせてもらえないで……もっかい言うわよ。もっと! ちゃんと! あの子の事考えてあげてよ!」

 

 言葉に出たとおり、二人が言いあっているのはこの家の長男――更に言えば、優の弟にあたる人物についてだった。

 年は十三。この辺りの人ならば必ず聞いた事があるだろう名門中学に二年生として籍を置いているが、その実、入学してから一度として登校した事は無い。高校なら留年はまず免れないだろうが、中学の原級留置という制度がもはや形骸化してしまっている為、許されている所業だった。

 

「中学校など行くだけ無駄だ。必要無い科目も多いし勉強のペースは遅い。何より、周りから変な影響を受けては困る」

 

 博則の口にした内容は聞く人が聞けば憤慨するだろうもの。だが、学校へ行っていない彼が日々の自主勉強と家庭教師からの指導によって、既に高校卒業レベルの学力を身につけているという事も繕いようのない事実であった。

 

「学校は勉強をするだけの場所じゃないわ。同年代の子たちと友達になって、遊んで、そうやってこみゅに……こみにゅ? コミュニケーション力を高めたり、他にも色々あるんだから!」

「ふん、それで身に付くのは中学生という狭い輪でだけうまくやる方法に過ぎん。大人の世界の処世術を身につけるなら高校を出てからで充分だし、間違った事前知識はむしろ邪魔になる。しかしそうだな、やりたいことか……」

 

 ここにきて、ようやく博則は新聞を下ろし顔を見せる。まだ皺の深くなる年ではなかったが、その顔は見る者に厳格の二文字を思い起こさせた。

 

「なによ?」

「いや、この不毛な時間もそろそろ終わりにしなければ、と思ってな」

 

 二人がしているのはもはや話し合いですらない。相手が意見を曲げないだろう事を察しながらも、平行にある意見を思うがままにぶつけているだけだ。例えば一度や二度なら、将来いつか益に転じる希望もあるが、優の弟が中学に入ってから一年以上、この喧嘩にも近い行為は何度も何度も繰り返し行われているものだった。

 

「はて、あいつは今何をしているかな」

「はぁっ!? ……日曜日の十一時、なら家庭教師の人に勉強を見てもらってる時間ね」

 

 厳しい生活を強いている本人がその現状を把握していないのか、そう激昂しそうになる己を優はすんでの所で律する。口に自由を許せば罵る言葉は無限に湧いて来ただろうが、今ばかりは話を進める事を優先した。

 

「おい」

 

 博則が右手をあげて一言発すると、すぐにサングラスに黒服を着込んだ男が何処からか現れる。そして博則の口元に耳を近付け何かを聞くと、お辞儀をしてその場を去った。

 

「三十分後、もう一度ここに来い」

「何をするつもり?」

「説明は面倒だ。いいから三十分後に来い」

「……わかったわよ」

 

 渋々といった様子で優は言葉に従い、部屋に戻る。

 そして三十分後。優が居間へ戻ってくると、博則は変わらず新聞の上に目を走らせていた。

 

「なによ、これ……?」

 

 しかし、そんな中に一か所だけ異なった点が。

 それは机の上に設置された、一つの大きなディスプレイ。そこには、不安そうな顔を湛えて街を歩く件の少年が映し出されていた。

 

 

 

――――――

 

 

(……、……?)

 

 休日特有の騒がしさを引っ提げて、沢山の人が賑やかな街を形作っている。だからだろうか、独り立ち止り空を仰ぐ存在は少しばかり浮いてしまっていた。

 少年は数十分前の事を思い出す。

 いつもの通り、もう数え切れないほど繰り返した日常の通り、部屋で勉強をしていた時のことだった。突然開かれた部屋の扉から黒服の男が姿を現し、家庭教師にこそこそと何かを告げる。すると、何故か勉強の時間はそこで切り上げられ、続いて男は彼にこう伝えた。

 

『当主様より言伝です。この後の予定はすべてキャンセル、今日は自分の自由に過ごせ、と』

 

 そして口ごたえも、質問さえする暇もなく、ただ財布だけを渡されて家を締め出された。

 

(父様はどうしてこんな……?)

 

 彼の知る限り己の父親は冷徹で合理的な人物だ。感情は確かにあるが、それよりも実利を優先する事が出来るような、そんな。だからこそ、この指示にも何か意味があるはずだと彼は考えた。

 だが、いくら思考を繰り返しても答えへ辿り着ける気配はせず、ひとまずこの問題は保留することにした。

 頭のフリーになった彼が次に捉えたのは『何をするか』という問題。一見悩むまでもないような簡単な問いだが、しかし彼にとってはとてつもない難問だった。ともすればそれは、人の考えを推測する事よりも。

 驚く事なかれ、これは彼にとっておよそ一年半ぶりの外出なのだ。建物という意味での家ならば毎日のように出ているが、祖師谷の敷地を内から跨ぎ出た事は久しくしてなかった。その上、小学生の頃でさえ、学校が終わればすぐに迎えの車が来ており、言うなれば十三年間過ごしていながらここは彼の知らない街だった。

 

(靴屋さん、八百屋さん、アイス屋さん……これは、ゲームセンターってものかな?)

 

 足を進めながら、一歩ごとに首を左右へ回す。その度、目には知識にだけある、見た事の無い物が次々と飛び込んでくる。が、彼はその何処にも足を踏み入れようとしなかった。興味深い、おもしろそう、そう思いはするのだが、入ってそしてその後は? それを考えると足が竦んでしまって実行に移せなかったのだ。

 十分ほど経った頃だろうか、とことこ、とぼとぼと歩き続けていた彼はいつの間にか自分を取り囲んでいた良い匂いに気が付き、足を止めた。

 

(これは……?)

 

 顔をあげると、そこは交差点。そして、先程から彼の鼻孔をくすぐっているものの正体はすぐに見つけられた。

 パン屋、やまぶきベーカリー。彼の左手に角を陣取るその店は、尚も匂いという名の呼びかけを放っており、それに対して一匹の虫が呼応した。

 

「あっ……」

 

 一度鳴いてしまえばもうそれまで。はっきりと知覚された、何かを入れろ、という訴えはここで無視できないものとなった。

 腕時計は無い為、携帯で時間を確認する。

 現在の時刻は十二時過ぎ。昼食を取るタイミングとしては、まさに絶好だといえた。

 そうと決まれば行動は早い。店の前まで移動し、深く息を整える。

 

(お邪魔します……は、おかしいから、失礼いたします……かな? だよね?)

 

 失礼いたします、失礼いたします、と小さな声で何度も呟き、最後に特別大きく息を吐いた。そして、いざ扉を手を掛け――。

 

「お客さん?」

「ひぁっ!?」

「わっ!」

 

 直後、背後から投げかけられた声に大きく体を跳ねさせた。

 反射に任せて振り返ると、そこには一人の少女が立って、驚いた表情とバッグを引っ提げている。そこからは食材やらが覗いており、買い物の帰りだろうことが窺えた。

 

「えっ……あ、え……」

「ちょ、ちょっと、大丈夫!? はい、深呼吸してー……はい、もういっかい」

 

 少年は、予期せぬ事態に半ばパニックに陥いる。息を上手く吸えていない様子の彼に対し、少女は――それが適当な行動かどうかはわからないが――背中を優しくさすった。

 

「……ふー、ふー」

「どう、落ち着いた?」

 

 たっぷり十数秒が経って、少年は落ち着きを取り戻し、軽く頭を下げた。

 

「……ふー。はい、すいません、取り乱してしまいました」

「いやー、こっちこそ急に話しかけちゃってごめんねー……じゃないや、あー、どうもすいませんでした」

 

 ここで少女は、ふと砕けた口調で話してしまっている自分に気が付く。『お客さん?』という言葉から察せられるように、彼女はここ、やまぶきベーカリーの店員だ。常識に当てはめて考えれば、例え相手が子供だったとしても失礼にあたる。

 そういった事で、彼女は言葉を改めた。

 

「…………?」

 

 だが、当の本人は何が何だかわからないといった様子だ。

 

(まぁ、いっか)

 

 それならば、と彼女は態度を元のものに戻し少年の手を引いた。その様子はまるで弟に接する時の様な、それだった。

 

「じゃー、入ろうか」

「は、はい! 失礼いたします!」

「ぷっ、あははは! よーし、一名様ごらいてーん!」

 

 入店時のものとしてはおよそ聞いた事の無い彼の言葉に、少女は同じく普段は口にしないような台詞を放った。

 なんだか、そうしたい気分だった。




普通に留年と書いてもよかったのですが、中学に対して留年とはあまり言わないようだったので原級留置とさせていただきました

ハロハピがメインの話となりますが、彼女たちが登場するのはもう少し先となります


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第2話「未知の地元」

・カルトン……レジにあるお金をいれる小さいトレイ。偶にモジャモジャが敷かれている

・イートイン……店内に設けられた買ったものを食べる場。最近コンビニに増えてきた


「~~♪ ~~♪」

 

 休日故に騒がしく賑やかな商店街。そんな中を、上機嫌を携えて一人の少女が歩いていた。

 

「あら、沙綾ちゃんじゃない。おはようさん」

「あ、下田さん。こんにちは。もうおはようって時間じゃないですよ」

 

 彼女の名前は山吹沙綾。この商店街の一角でやまぶきベーカリーという名のパン屋を営む家族の一人娘である。

 

「買い物かい? 偉いねぇ」

「そんなこと……全然普通ですよ、普通」

 

 そんな彼女に話しかけている朗らかな女性は、この場所の古参といってもいい青果店の店主だ。沙綾も小さな頃からよくお世話になっている店だった。

 

「そんなこと言って。ほら、持っていきな」

 

 そう言って店主が何かを沙綾の手元へ放る。受け取って手を開くと、そこにあったのは真っ赤に熟れたリンゴ。

 

「わっとと……ありがとうございます。夜にでもみんなでいただきますね」

「まだまだご贔屓ねー!」

 

 いただけません、なんて言葉から始まる言い合いは無かった。ご近所さんとして、商店街を共に形作る仲間として、長い付き合いの沙綾にはそれが求められていない事が十分わかっていたから。

 

「~~♪ あ、そうだ、はぐみのとこのコロッケでも買って帰ろうか。おかずが魚だけじゃちょっと淋しいし……うん、そうしよう」

 

 先の青果店を背に帰路をなぞっている途中、右手に掛けたエコバッグの中を見て、沙綾はそんな事を考えついた。

 はぐみ、とは彼女のクラスメイトで友達である北沢はぐみ、なる人物のことだ。その実家は北沢精肉店という名で、沙綾の家の丁度対角に当たる位置に店を開いている。業種はあくまで精肉店であり揚げ物を専門に取り扱う店という訳ではないのだが、仮にそうだと言われてもなんら違和感のないコロッケは、彼女自身を含む家族みんなの好物だった。

 

(んー、どうせなら豚肉も一緒に買っとこうかな? 明後日は肉巻きでも……ん?)

 

 考え事をしながら足を進め、目的地の北沢精肉店へ到着した時、沙綾はあるものを見て首を傾げた。

 

(あの子、どうしたんだろう……?)

 

 視界の端、彼女の(うち)であるやまぶきベーカリーの前で何やら俯いてブツブツと何かを唱えている少年が。何かに困っているのか、それとも体調がすぐれないのか。彼の状況は、離れている彼女には正確には解らなかったが……。

 

(まぁ、なんにせよだよね)

 

 お客様を放っておく事は出来ない。そう意気込んで、沙綾はコロッケの事を後回しに少年の方へ歩み寄った。

 

「お客さん?」

「ひぁっ!?」

「わっ!」

 

 真後ろまで移動した沙綾が声を掛けると、少年は飛び跳ねて可愛らしい悲鳴を上げた。彼女としてもまさか叫ばれるとは思っておらず、連鎖が起こってしまった。

 

「えっ……あ、え……」

 

 更に、少年の方はどうやら驚きのあまり呼吸がうまくできていないようで、目を見開き口をパクパクとさせていた。

 

「ちょ、ちょっと、大丈夫!? はい、深呼吸してー……はい、もういっかい」

 

 そんな少年を落ち着かせる為背をさすってやる沙綾は、その間に目の前の子どもの姿を観察した。

 身長は沙綾より大分低く、恐らくは百四十センチあるかないか。髪色は混じりっけの無い綺麗な白で、赤く澄んだ両目のその淵には今にも落っこちそうな雫がなんとか留まっている。それほどびっくりしたという事だろう。

 

「……ふー、ふー」

「どう、落ち着いた?」

 

 十秒程さすり続けてやれば少年は段々と落ち着きを取り戻し、数回言葉を交わして、沙綾は彼を店へと引き入れた。

 

「いらっしゃいま――あら? おかえり、と……いらっしゃいませ?」

「ん、ただいま、母さん。レジ代わるよ。奥で休んでてね」

 

 二人が扉を潜って初めに出迎えてくれたのは、沙綾の母親、山吹千紘。しかし、その最後には疑問符を添えられていた。お客だと思えば娘……だと思えばやっぱりお客で、しかも娘も一緒という飲み込みにくい状況を鑑みれば当然の事だが。

 沙綾は、体の弱い母を奥へやり、買ったものを冷蔵庫にしまう。そしてカウンターへ入り、エプロンの紐をうなじの辺りで結びながら、少年へと問いかけた。

 

「どう、何にするか決まった?」

「あ、いえ、あの……色々あって迷っちゃって……」

 

 そう答えた彼のトレイには言葉通り何も乗せられておらず、役目は果たせていないトングは手の内でしょんぼりとしている気がした。本人曰く、彼はパン屋を利用すること自体が初めてらしく、トレイとトングを使うことさえ、沙綾が直接それらを手渡すまでわかっていなかったくらいだ。いわんや、即座に買う物を決めることなど、どだい不可能であった。

 

「んー、そうだなぁ。君はさ、食べる方かな?」

「え? うーん、どうでしょう。多分そんな事は無いと思うんですけど……」

 

 沙綾の問いかけに、比較のかなうほど他人と食事を共にした経験のない彼は、その返答を曖昧に濁した。

 ふむふむ、そっかー。そう呟き、彼女は再度レジから出て少年の隣にかがむ。

 

「よかったらさ、選んであげようか?」

「本当ですか? 是非、お願いします」

「うんうん、お姉ちゃんに任せなさい」

(んー……)

 

 沙綾は少年を横目で見ながら、どんなパンを選ぶべきかと考える。

 

(この子……小学校の中か高学年くらいかな? なら、あれだよね。ウィンナーとかカレーとか好きな感じでしょ、多分。あとは一応――)

 

 最後に甘い系のパンが一つ、トレイへと積まれる。完全な彼女の独断と偏見による、しかし同時にほとんどはずれる事の無いラインナップが出来上がった。

 

「こんな感じ、かな。どう、無理なものとか入ってない?」

「えっと……はい、多分ですけど」

「ん、よかった。じゃあ、お会計ね」

 

 レジに入り、パンをまとめて袋に詰める。沙綾は慣れた手つきで袋を留めるところまでを終え、よし、とカルトンへ視線を落とす。

 

「――え?」

 

そして、顔を強張らせた。

 

「……? どうかしましたか?」

「あ、あぁ、ううん、何でもないよ」

 

 様子がおかしい沙綾に、少年が小首を傾げる。沙綾が驚いた原因は彼にあるのだが、それに何かを感じたのは彼女だけだったようだ。

 

(いや、別におかしい事じゃないんだけど……)

 

 心の中で唸りながら、その原因――ピカピカの一万円札を手に取った。

 パンの支払いが万札で済まされることは別段珍しい事ではない。多ければ日に何度かある程である。加えて、少年がそんな大金を持っている事も理論的には無問題だ。

 だから、何もおかしい点は無い。ただただ、意外だったというだけ。

 

「はい、一万円お預かりします」

 

 とは言っても、店側にお客様の事情に踏みこむ権利などありはしない。沙綾は、何でもない風でお釣りを手渡した。

 

「……あ、あの」

「ん? どうしたの?」

 

 お釣りとパンを受け取った少年が遠慮がちに沙綾へ話しかける。

 

「えっと、この辺りに何処かこれを食べれる場所はないでしょうか?」

「え、食べれる場所? うーん……」

 

 初めてされる類の質問に沙綾は頭を捻る。残念ながら、ここやまぶきベーカリーにイートインは設けられていなかった。

 

「うーん……あ、そうだ!」

 

 そして、しばらくウンウンと考えていた沙綾だが、どうやら答えを思いついたらしい。

 

「えっとね、店を出て左側にずっと真っ直ぐ行って突き当たりを曲がって、最初の右側にある脇道をずっと行くと、大きい公園があるんだ。確かベンチとかもあったと思うし、そことかいいんじゃないかな?」

「店を出て左側にずっと……突き当たりを……。わかりました、そこへ行ってみます。何から何まで、その、ありがとうございました」

「いいいのいいの。また来てね。うちのパン、きっと気に入ってくれると思うから」

「また……。はい、そうです、ね。もし来られる機会があれば、必ず」

 

 沙綾の発した何気ない『また』という言葉。何故だかそこを噛み締めるように復唱したのち、何か含みのある言葉を置いて、少年は店を出ていった。

 

「ふぅー。なんだかちょっとおかしな子だっ――ん?」

 

 独りになった店内で、グッと伸びをした沙綾は今まさに窓の外を進んでいる少年を見て何かに気づく。

 

「んー、んんー……むむむ?」

 

 それを確かめる為、指で四角を作り彼の顔へ合わせる。そうして切り取られた彼の横顔に、沙綾はポツリとこう零した。

 

「――優?」

 



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第3話「衝撃の邂逅」

主人公の家族主体の話は今回までで、次話から原作キャラクターとのお話が主体になります。


・ボラード……道路や公園の境にある背の低い石柱 犬にマーキングされるやつ


「あ、ここ……かな」

 

 やまぶきベーカリーを出た後、沙綾に言われたとおりに道を辿っていた少年は、ものの十数分ほどで恐らく目指していただろう場所へ辿り着いた。そこは、脇を通る川と五メートルは優にありそうな一対の滑り台が特徴的な公園だった。

 遊具が少ない故か、それとも他の理由からか人影は見当たらない。

 探してみれば、目当てのベンチは公園の端に置かれており、川がすぐ傍で涼しげだった。

 

「……ん、っしょ」

 

 表面に目立った汚れの無い事を確認して、少年は静かに腰を下ろす。そして、やまぶきベーカリーのロゴが入ったビニール袋を開けた。

 

「あむ」

(結局、父様はどうしてこんな……いや、それよりも今日のこれから――あ、これおいしい。じゃなくて、これから……でも、あんまり人とは――ん?)

 

 初めに取りだしたカレーパンを一口食べながら、少年は思考に(ふけ)る。

 我が父の考えは?

 これから何をすべきか?

 それよりも……?

 そこまで考えを広げた辺りで、彼は何かに気づき、その方向へ顔を向けた。二つある入口の内の一つ、その遠くの方から誰かが走って来ていた。タッタッという音を連れて進むその影は、公園と道路の境目をダンッ! と勢いよく踏み込んで、体操選手よろしく両手をあげてポーズを決めた。

 

「私の勝ち! いえいっ! ……って、あれ? 有咲が見えない」

 

 速く走りすぎちゃったかなぁ、後ろを振り返りながら少女はそう呟く。どうやら競争でもしていたらしい。それからしばらく、手を額につけて、来るべき誰かを探していた彼女だが……。

 

「むむむ!」

「っ!?」

 

 突然、弾かれたように後ろへ振り返った。それが偶然なのかどうか定かではないが、少年は丁度その方向に座っており、何事か、とパンを喉に詰まらせてしまう。

 

「くんくん……くんくん……」

「…………」

 

 視界というのは案外広い。その中に偶々入ってしまっただけ、自分は関係ない。

 そう思い、そうあって欲しいと少年は願った。しかし、無情にも目の前の少女は段々と彼へと近づいて行く。目を閉じ、鼻を尖らせて、まるでそう、犬のように。

 そして、二人の距離がジワジワと縮まっていき、まさに鼻先が触れるという所で、彼女は目をいっぱいに見開いた。

 

「さーやのパンの匂いだ!!」

「ひっ!」

 

 しょうじょのさけぶこうげき。しょうねんはひるんだ! といった感じだろうか。家を出て未だ数時間程度であるが、彼は驚いてばかりだった。

 

「こんにちは! 私、戸山香澄。ねぇねぇ、それさーやのお店のパンだよね?」

「あ……えっと、こんにち――」

「あ、そうだ! 今からさーやのところ行こうと思うんだけど、まだお仕事中かな?」

「え、それはちょっと僕には――」

「うーん、でもそれは行ってみなきゃ分かんないかぁ。そういえば、君は何してるの?」

 

 怖い。マシンガンさながらに言葉を吐き出す彼女に、少年が真っ先に浮かべたのはそんな感情だった。少なくとも彼が今まで会ってきた人達――そもそも母数が小さいが――の中には、初対面でここまで距離を詰めてくる者は一人としていなかった。

 恐怖と困惑とで体を小さくする彼に、しかし原因である本人は何もわかっていない様子だ。

 

「んー、もしかしてお腹痛い? トイレ行く? だったらあっちの――」

「おいいいいい! かあすみいいいいいいいい!」

 

 その時、公園の入り口方向から怒鳴り声が響いた。見れば、そこにはボラードを支えに荒い息をしている金髪の少女が。

 

「お前なぁ、急に競争だとかなんとか言って走りだしやがって……そんなのお前が勝つに決まってんだろ……あ?」

 

 文句をこぼしながら二人のもとへ歩いてくるのは、香澄の言葉を頼れば有咲というらしい。彼女は香澄に近づき、その影に少年の姿を見つけると、眉をひそめた。

 

「……おい香澄。ちょっとこっち来い」

「え、なになに?」

 

 有咲は香澄の首根っこを掴んで少し離れた所に移動させる。そして耳元で小さく話しだした。

 

「なぁ、あの子は知り合いか?」

「ううん、違うよ? さっき初めて会った子」

「はぁー。やっぱりな」

「……? どうしたの?」

 

 大きく溜息を吐いた有咲は、声量に気を付けながらも器用に怒鳴る。

 

「あのなぁ、完っ全に怯えてんじゃん! 怖がられてんじゃん!」

「えー、そうかなぁ?」

「どっからどう見てもそうだろ! 子供に声を掛ける角付き不審者、なんて噂になったらどうすんだよ!」

「もう、有咲は心配性だなぁ。そんなことないから見ててって」

「あ、ちょ!」

 

 そういうや否や、香澄は制止を振り切って少年の元へと戻る。それから目線の高さを合わせて、再度話しかけた。

 

「うーんと、何の話してたっけ……あ、そうそう! 結局、君は何してたの?」

「僕は……そう、ですね。何を考えようか、考えてたんだと……思います」

「何を考えようか、考えてた?」

(なんだぁ? こいつもしかしておたえタイプか……?)

 

 少し考えて述べられた少年の言葉に、一人は首を傾げ、もう一人は内心で訝しんだ。

 

「よくわかんないけど、考え事してたってことかな? ……あ、カレーついてる」

「えっ」

「あ、待って待って。拭いてあげるから動いちゃだめだよ」

「うゅ……」

 

 香澄に指摘され、少年は急いで拭おうとするが、それは止められる。代わりに両頬が、そっと手に包みこまれた。

 

「ん、しょ。よし、取れた……よ?」

 

 口の端についたカレーを親指でピッと取る。そこで彼女はようやく気が付いた。

 少年の顔が尋常でない程赤くなっている事に。

 

「あう……う、あの……」

 

 そもそも、香澄一人と話しているだけでも、あれほど取り乱していたのだ。そこに更に、人が増え、肌が触れ、目線がバッチリ合うときた。そんな怒涛の追加コンボは、到底彼の耐えうるものでない。

 つまり。

 結論。

 限界だった。

 

「ごめんなさい! 失礼しますーーー!」

 

 謝罪の言葉を引きずりながら遠く離れて行くその姿は、彼の容姿も相まって脱兎という言葉が人一倍似合っていた。

 

「…………」

「…………」

「……逃げちゃった」

「ほらな。お前距離の詰め方は、初対面の人からするとちょっとあれなんだよ……ま、まぁ、私は別に嫌じゃなかったけどな? むしろ、嬉しかったて言うか――」

 

 そこから暫し、照れ顔有咲による独白が続く。ただ、それは茫然としている香澄をざるのように吹き抜けていた。

 

「……あれ? 有咲、なんかあるよ」

 

 ハッ、と意識を取り戻した香澄が指差すのは、つい先ほどまで少年が座っていたベンチの上。そこには、なにやら四角い物が置かれていた。

 

「ほんとだ。これは……財布っぽいな」

「えっ、お財布!? 大変だよ、届けてあげなきゃ!」

 

 状況から察するに、十中八九去って行った彼の忘れものだろう。しかし、既に少年の影は彼方にすら見えず追い掛ける事は到底不可能だった。

 

(んー、なんか身元特定できそうなもんとか入ってねぇか――なあああああ!?」

「えっ!? なに、有咲どうしたの?」

 

 何かヒントでもあれば、そんな軽い気持ちでチャックを開いた有咲だったが、その中に何かを見たらしく、今日一番の声を張り上げた。

 

「ま、待て香澄! お前はこっち来るな! ってか、見んな!」

「もう有咲ったらぁ、そんなに言われると逆に見たくなっちゃうで……しょ……?」

 

 必死に隠そうとする有咲の手の隙間から、それが見えてしまった香澄が今度はフリーズする。

 今から十数分前に二人の友達である山吹沙綾がそうなったように、奇しくも、香澄たちは同じものに、同じように、驚かされた。

 

「ねぇ有咲。これ、何枚くらいあるのかな……?」

「さぁ、数えてみないと分かんないけど……少なく見ても三十くらいはあるな」

 

 ただし、程度に関しては比べ物にならなかったようだが。

 

「……これだけあれば、ギターが買えちゃうね?」

「おい、変な気起こすなよ。マジで。マジだからな」

 

 財布は、有咲の懐に深く仕舞われた。

 

 

 

―――――――

 

 

 少年は街の中を走り抜けていた。

 

「はぁっ、はぁっ……」

 

 脇目も振らず、一心不乱に。

 

(失礼な事をしてしまった……!)

 

 見慣れぬ景色が過ぎてゆく中、彼の胸中を占めるのはそんな、ある種自責の念だった。

 実に久しぶりだった他人との接触。それを突然逃げ出すという形で締めてしまったものだから、もしそうできるだけの酸素が体に残っていたなら、きっと彼は誰にでも無く謝罪の言葉を叫んでいただろう。

 

(もう……もう……って、あれ?)

 

 どうにもできない感情に唸りながら走っていると、いつの間にかどうにも見覚えのある建物が目の前にあった。

 荘厳な門。立派な庭。そして、大きな本屋敷。見慣れた、彼の自宅だ。

 動物には危機に陥った時に素早く巣へ戻るものもいると聞くが、彼にもそんな帰巣本能が働いたという事だろうか。

 さて、ここで少年は困ってしまった。父からは今日一日好きに過ごせというお達しをもらったが、果たして(うち)に帰る事は許されるのか?

 少しの間少年はウンウンと頭を抱えたが、やがて一つの結論に辿りついて迷いなく扉に手を掛けた。

 

 もし駄目だったら、その時止められるだろう。

 

 門を潜り、庭を抜け、屋敷へ足を踏み入れたが誰からも声は掛からない。それは彼が自室につくまでも、同じだった。

 

(そうだ、課題を消化しておこうかな。今日ちょっと多めにすれば、明日は少し早く寝られるかも)

 

 結局、彼の自由時間はたったの一時間程度で幕を下ろしてしまった。

 机を見れば、追い出される直前に開いていた教材がそのまま広げられていた。

 さぁ勉強だ、気持ちを切り替えよう。そう思って席へつく少年だったが、やはりどうしても今日の事が頭から離れない。

 

(やっぱり、あれは失礼だったよね。もしもう一度お二人に会えれば謝罪を……いや)

 

 それはきっと叶わないのだろう。自分の思考を自ら遮って、彼は結論付けた。

 あの父がどういった風の吹きまわしで今日の様な事をしたかは不明だが、こんな機会は恐らく二度とない。

 

(それにあのパン屋さんにも……)

 

 彼自身、物思いに耽るという行為は嫌いではなかったが、今日ばかりはするほどに気が滅入ってしまい、がっくしとうなだれた。

 こんな状態では何にも身が入らない。そんな気がした少年は鉛筆を放って、体をベッドへ投げ出した。

 

(なんだか、とっても、疲れた、な……)

 

 物心が付いてから初めての昼寝というものに、彼の意識は重しのように沈んで行った。

 

 

 

 同刻、その階下では。

 

「そんな……」

 

 プッと電源の切られたモニターの前で優が唖然としていた。どうにか作る事の出来た、愛しい弟の縛られない時間。それがまさかこれほど早く、しかも彼自身の手によって終えられるとは夢にも思わなかったようだ。

 

「これではっきりしたな。あいつには、やりたいと思っていることなど無い」

 

 アクションを掛けられた場合を除いて、彼が何をしたかと言われれば、パンを買って食べた。それだけ。その他の店、施設などには何も手を出さなかった。そこから考えれば、博則の言っている事は確かに正しいのかもしれない。かもしれないが、それでも優は諦めなかった。

 

「それが……それが自分の所為だっていう自覚はあるの!? あんな生活してちゃ、楽しみも見つけられなくて当然でしょ!」

「所為とは人聞きが悪いな。私の育て方の結果である事は認めよう。だが、それが悪い事だとは思っていない」

「っ……なら! 私が、私があの子にやりたい事を見つけさせる。もう少し時間があれば一緒に――」

「何を訳のわからない事を言っている。話の趣旨をすり替えるな」

 

 噛みつく優。ただ、皺を深くする博則。火花を散らす両者を止めたのは、新たな声だった。

 

「まぁまぁ、いいじゃないですか」

「え、お母さん!?」

 

 障子をあけ、姿を現したのは優の母親。思わぬ人物の登場に、争いが一時止まった。

 

「して、いいとはどういう事だ?」

「少しは我儘も聞いてあげましょうってことよ。それにあの子ももう、親が全てを決めてやる歳でもなくなっているのかもしれませんよ?」

「何を馬鹿な。それを許して将来苦労するのはあいつなのだぞ?」

「あなたが過去にそれで苦労したのは知っています。妻ですもの。けど、時代と共に求められる物というのも変わってきているのよ?」

「…………」

「…………」

 

 妻の言葉を博則は一蹴する事が出来なかった。

 

「……お前は本当にそう思うんだな?」

「えぇ、もちろん」

 

 最終確認のようにそう問うて、彼は頭を掻いた。

 

「一ヶ月……いや二週間だ」

「えっ?」

「今日から二週間、予定を白紙にする。もしその間にあいつが自分から、やりたい事があると私に言ってくれば、考えてやる。ただし、お前からこの事を伝えぬよう、常に見張りをつけておく」

「……本当?」

「二度言わせる気か。話は終わりだ」

 

 言うだけ言って博則はすぐに部屋を出て行った。

 残されたのは、未だに信じられないといった様子の優と、ニコニコと笑みを浮かべる母だけだった。

 

「ねぇお母さん、私、お父さんがわからない。私やあの子の事をちゃんと考えてるのか、そうじゃないのか……」

「ふふ、あの人はすごく不器用だから。私も昔は苦労したものよ」

「……それ、結局どっちなの?」

「さぁ、どうでしょう。ま、もうすぐわかるんじゃないかしら。そうね、再来週くらいには」

「……?」

 

 颯爽と現れ優に助勢をしてくれた母だが、完全な味方という訳でもないらしい。肝心なところだけは、笑って有耶無耶にされてしまった。

 

「それより、あの子の事よろしくね。必ずよ?」

「うん、まかせて! 私が絶対やりたいことを見つけさせてみせるんだから!」



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第4話「虚偽の少女」

・重奏……二種類以上の楽器による合奏

・連奏……同種楽器二つ以上による合奏


「なんて、意気込んだはいいけど」

 

 暗然たる雰囲気で優は溜息を吐いた。その原因でもある彼女の今いる場所は……。

 

「――こんなザマじゃねぇ」

 

 ずばりベッドの上だった。

 右手の中の体温計が示す数値は平熱そのものだが、彼女は今ひどい頭痛に苛まれている。それはもう、何をする気にもなれない程の。

 

(もう! よりにもよってこんな時に……)

 

 弟の為に色々してあげなければならないというのに、頭がよく回らない。どころか、学校へ行くこともままならない様子だ。

 優は携帯を取り出し、欠席の旨を知らせる為に友人へ電話を掛ける。

 一。二。三。四つ目のコールの途中で相手からの反応があった。

 

「……あ、もしもし、香澄?」

『うん、もしもーし。優、どうかしたの?』

 

 電話越しに聞こえてくる元気な声に、優は自分の状態を伝える。

 

『えぇ、大丈夫!?』『あれ、香澄、誰かと電話か?』『うん、優からなんだけど。なんか体調悪いって』『そうなの!? 優ちゃん大丈夫かな……?』『うん、心配だね』『あー、はいはい。騒がない騒がない。香澄、ちょっと電話貸してね』

 

 体調が悪いと知るや否や、向こう側にいたらしい複数のこれまた友人たちの声が次々と聞こえてくる。しばらくワイワイと言葉が続き、最終的に収集がつかないなと、うち一人――山吹沙綾が電話をかわった。

 

『あーもしもし、優? 沙綾だけど。体調崩したって? 風邪?』

「うーん、どうなんだろ。熱は無いんだけど……一回診てもらわないと分かんないかも」

『そっかぁ。ってことは、もしかして今日学校休む気?』

「え、うん、そうだけど……何かあったっけ?」

『完全に忘れてるなぁ。今日授業内テストあるよ? 小テじゃなくて、結構重要な奴。しかも数、英、社で三つ』

「え゛っ……あれ、それ今日だっけ?」

 

 テストが三つ重なる、そんな日がある事は彼女も知っていた。その事実が明らかになった時に、『魔の三重奏だ!』『いや、同時じゃないし、三連奏でしょ』『いやいや、連奏も同時にやるもんだから』『うそっ!?』などと馬鹿を言い合った事も、記憶に新しい。

 さて、そんな大切な日を欠席する事は、単純に余りよろしいとは言えない。ただ、優の場合に限ってはその深刻度合が桁違いだった。

 

『いやぁ、あんまりこういう事言うのもあれなんだけどさ……大丈夫?』

「うぐっ……」

 

 何が、と沙綾が明言する事こそ無かったが、本人故に優には彼女の言わんとしている事が痛い程わかった。

 

(どうしよう、留年とかそろそろ冗談じゃなくなって来てるかも……)

 

 家の跡継ぎとして弟が厳しく育てられてきた反面、優は教育について何も口出しをされずに生きてきた。ある意味、放っておかれたという言い方もできるかもしれないが、彼女はそれを不満に思った事は無かった。けれど、その甲斐――いや、所為あって優の学力、そして成績は現在ひどいものである。

 考査で赤点は当たり前。寝坊で遅刻、気分で欠席も数知れず。高校一年生で留年というのはなかなかない事だが、その上で『次は無いぞ』と先生からのお達しを貰ったくらいだ。

 

「――行く」

『え?』

「絶対行くから! また後で連絡する。じゃあね!」

『あっ、ちょっと』

 

 沙綾の言葉を途中に電話を切る。そして携帯を握りしめ、静かに呟いた。

 

「これは、あれをやるしか……」

 

 かねてより温められてきた、とある計画が実行に移されようとしていた。

 

 

 

「あ、連絡きた」

 

 突然電話が切れてから約十分後、香澄の携帯が再び鳴った。

 

「優から?」

「うん。えっと、なになに……『風邪じゃないっぽいから学校行く。けど、すっごい頭痛いから教室では放っておいて、お願い!』だって」

「そっかー」

 

 一般に考えて十分は医者に掛かるには短すぎる時間だが、その医者が祖師谷の家には常駐している事を知っている彼女らは、そこへは触れなかった。

 そこから更に経つこと少し。おしゃべりををしながら歩く五人の前に見るからな黒い高級車がやってきて停まった。

 

「な、なぁ、なんかすげぇやばそうな車が――」

「あ、優のとこの車だ!」

「まじかよ!?」

 

 扉が開き出てくる姿に、ただ一人市ヶ谷有咲だけが驚く。彼女だけ香澄たちとはクラスが別になっており、優について詳しくなかったのだ。

 少しうるさめなエンジン音を残して車が去ると、そこには壁に手をついて青い顔をする友人だけが残された。

 

「わわ、優、大丈夫?」

「あ、う……うん、だいじょう、ぶ」

「ほんとに平気?」

 

 電話ではただの頭痛だと言っていた割にはどうにも深刻そうな彼女の様子に、沙綾が重ねて心配した。

 

「大変大変! 優が大変だ! とりあえず鞄貸して!」

「あっ……」

「私、手持つからおたえは足お願い!」

「よし来た」

 

 香澄が優から鞄を取り上げ一度地面は寝かせる。それから二人でその手足を掴み、『せーのっ』と香澄が口にした時点で制止の声が掛かった。

 

「待て待てぇ!」

「有咲、どうかした……?」

「お前らなぁ、そんな持ち方で運ぼうとしたらパ、パ……あれだ、スカートの中が見えちまうだろうが!」

「あ、そっか。さっすが有咲、頭いい!」

 

 重要な部分を濁した有咲の言葉によって、二人の行動は阻止される。そうでなかったとしても、一人が腕を、もう一人が足を持って人を運ぼうものなら関節部に重大な負荷が掛かって大変な事になってしまっていたことだろう。

 

「よし、ならおんぶだ!」

「じゃあ、私は落ちないように支えるね」

「行っくよー!」

 

 自分で渡せと言った筈の鞄をその場に放って二人は駆けてゆく。香澄におぶさる優をたえが後ろから補助する姿は、有咲に何かを連想させた。

 

「あー、なんだっけなぁ……」

 

 喉まで出て来てんだけどなぁ、と頭を悩ませること数秒。

 

「あ、あれだ。三人騎馬戦、しかも死にかけのやつ」

 

 あはは似てる似てる、有咲の呟きに、隣にいた沙綾がカラカラと笑った。

 

 

 

 

 ドタドタ、ドタドタと(やかま)しい音を響かせて死にかけ騎馬が廊下を駆ける。

 

「どーん! みんなおはよー!」

「あ、かーくんおはよー!」

 

 教室の扉は、手の塞がった香澄に代わってたえが開けた。

 クラスメイトの一人、北沢はぐみが挨拶を返したのを皮切りに、皆が続く。されば必然、その視線は一度彼女へと集中する。

 

「あれ、ユウさん、どうされたのですか?」

 

 つまり、クラス全体が優の存在に気付いた。

 

「みんな、聴いて」

 

 優の席へ近づき、刺激を与えないようゆっくりと椅子へ座らせる。伏せられた顔から覗く肌はやはり青っぽく、しかし同時に少し赤ばんでいるようにも見えた。

 優が体調不良だという事。しかし、その上で無理してきている事。そして、一応風邪ではないという事などを香澄が伝え、できるだけ触れてあげないようお願いすると、一同快く了承してくれた。

 

「みんな協力してくれるって、よかったね。あ、しんどいんだったら寝とく?」

「はい……ううん、そうさせてもらうね」

「ん、おやすみ」

 

 一体何処にあったのか、香澄はトイレットペーパーの芯に『お休み中! お触り厳禁!』と書き、それを机に置いて去って行った。

 やがてその席から人々が離れて行き、周囲が静かになる。ようやく一人になる事が出来た優――否、そう思われている彼女の弟は、視界いっぱいに広がる机をぼんやりとさせて、項垂れた。

 

(はぁ、胃が……)

 

 一体全体、どうして彼は女子高の制服に身を包んで、何の為にこんなところにいるのか。これからの振る舞い方を決める為にも、一度記憶を掘り返す事に決めた。

 

 事の発端は起床してすぐ。不自然にまっさらな予定表を手にベッドでボーッとしていると、突然姉である優に部屋へ呼ばれるところから始まった。言われたままに彼が姉の元へ向かうと、そこには上体だけを起こした部屋の主の姿が。そして深刻な表情で言うには、何やら頼みがあるとの事。

 愛する姉の頼みならば、そう考えてウンウンと聞いていた彼だが、話が進んでいくにつれその表情は曇っていった。

 

(まさか、こんな事になるなんて……)

 

 まさに今の状況がその内容を物語っているが、それは自分の代わりに学校へ行きテストを受けてきてくれ、というものだった。もちろん彼は初め断っていたのだが、留年の可能性があるという事実と、姉の数度にわたる懇願の末、最終的には折れてしまった。

 姉の手を借りながら初めての女子制服に袖を通し、ウィッグ、化粧なども施してもらう。それらすべてを終えた後、鏡に映った自身の姿は、彼の目からしても姉に瓜二つ。思わず、はて鏡とは自分を映す道具ではなかったか、と基本的な機能を疑ってしまう程だった。

 しかし、姿が似ただけでは他人になり済ます事は難しい。そこから更に、完全とはいかないまでも不自然に思われない程度に似せた発声を探し、周囲とうまくやる為に姉の特に親しい友人についての情報も教わった。

 ここで一つ衝撃的な事が起こった。優は計五人の写真を見せて名前や関係などを説明したのだが、なんとその半数以上と彼は一日前の外出で面識を持っていたのだ。優はその事を知っていたのだが、外出の様子を中継していた事は秘密なので、素知らぬ顔を貫き通した。

 その後はすぐに黒服に出してもらった車に乗り込み――花咲川女子学院は車による通学を禁止しているので――学校から少し離れた路で降りた。そこに件の五人が丁度居合わせたのは偶然か、それとも黒服の思惑か、なんにせよ彼にとっては予期せぬ事態だった。幸い、その誰からも怪しまれる事は無かったが、それは裏を返せば彼女らの接し方が完全に優に対するものだという事で、躊躇いの無い身体の接触に顔を赤くする事態もあったりなかったり……。

 

(このまま何も無ければ、いいんだけど……)

 

 テストがあるのは二、三、四限目。それまでは、ひたすら顔を伏せてやりすごす腹積もりだった。

 

「ゆ~う、しんどそうだけど、ほんとに平気?」

「うぇ……う、うん、大丈夫、だよ?」

 

 そう考えていた矢先、遅れて教室に到着した沙綾が声を掛けてくる。もう何度も繰り返されたやりとりだが、皆がそれぞれ心配してくれているのだと考えれば、そう悪い気はしなかった。

 

「うーん、ちょっと声が変な感じするなぁ。喉も痛い?」

「ッ!? え、えー、うん、ちょっとだけ」

「そっか。一応これ置いとくから、食べれそうなら食べてね」

 

 ほんとは香澄用なんだけどね、そう言って彼女はのど飴を置いて行った。思わず冷や汗が滲む展開だったが、無事誤魔化しきれた様である。ちなみに、彼の身長は優のものより六センチほど低い。そこが疑われていないのは、壁に手をついていたり座っていたりと、真っ直ぐ立った姿をまだ見せていないからであり、その辺りにも気を配る必要があった。

 

(にしても……スースーだ)

 

 慣れない涼しさを纏う腿周りをモジモジとさせて、少年は一限のチャイムを聞いた。




ハーメルンに誤字報告機能というものがある事を初めて知りました。
報告してくれた方、ありがとうございます。


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第5話「地上の太陽」

「はい、じゃあ答案集めますねー。名前と番号確認するので、それまでは着席しておいてください」

 

 担当教師の声が響き、テスト用紙が後方の席から順々に回されてゆく。

 ただ今、昼の十二時二十五分。三連続の授業内テストがようやく終わった教室内は、死屍累々の様相を呈していた。

 

(うぅ……疲れた……。『五十点くらい取って来て!』って、お姉ちゃんも凄い事言うなぁ……)

 

 優に代わってテストを受けた彼女の弟。大半の者が頭の働かせすぎでダウンしている中、彼だけは違った理由で机に突っ伏していた。もはや大学レベルの知識にまで手を掛けている彼にとっては、高校一年生のテスト程度は苦難に感じられず、むしろ適度に空白を作り、それらしいスペルミスや計算間違いをする事の方がよほど神経をすり減らせた。

 そして神経をすり減らしたと言えば、もう一つ。長時間の性別的孤立に、彼はかなり堪えているようだった。

 

「二十九、三十……はい、オッケーです」

 

 教師の確認が終わると同時に、終業のチャイムが鳴る。四限が終わればやってくるのは当然昼休み。その事実だけで、どんよりとしていたクラス全体が少しだけ明るくなった。

 

「あー、疲れたー!」

「やったー! お昼だー!」

「学食行こ」

「うん」

 

 皆が思い思いに弁当を広げ、或いは教室を出て行く。今なら自然か、そう思って彼が席を立つと、位置的に視界の端の出来事であっただろうに、香澄がそれを目(ざと)く捉え声を掛けた。

 

「あ、優! 体調どう? マシになった? 何処行くの?」

「えっ、あー」

(女の人だらけに疲れたから、ちょっと一人になりたいな……なんて)

 

 心では思えても、言える訳がなかった。今の自分は祖師谷優なのだと、そう自分に言い聞かせて彼は弱々しい笑みを作る。

 

「ちょ、ちょっと保健室に行こうかなーって」

「保健室!? ねぇ、保健委員って誰だっけ?」

「私ですよ、カスミさん。どうかしましたか?」

 

 香澄の問いに名乗りを上げたのはクラスメイトの一人、若宮イヴ。日本人とフィンランド人を親を持つハーフの少女で、ここ花咲川の学生であると同時にアイドルという別の顔も持っている。そういった都合上、彼女が学校にいない日というのもそれなりの割合であるのだが、今日はどうやら登校していたようだ。

 

「あのね、優が保健室に行きたいらしいんだけど、一人にするのはちょっと不安だから……」

「なるほど、そういうことですか! でしたらカイシャクはお任せください!」

「か、介錯!?」

「……? どうかしましたか?」

 

 とんでもない事を口走りながら、しかしイヴ本人は訳がわからないといった様子。彼女、日本語の流暢さはレベルとしてかなりのものだが、このように少しおかしな言葉を使う事がままあった。

 

「イヴ、介錯っていうのはちょっと違う気がするかな」

「そう、ですか……。もっとショウジンしますね!」

 

 ちなみに、今では切腹を補助するという方ばかりが有名になってしまっているが、介錯という言葉は世話をするという意義もきちんと持っている。そういった意味では、イヴの言った事はあながち間違っているとも言えなかった。

 

「あの……」

「あ、すいませんユウさん。すぐお連れしますね!」

「よしよし。あと五、六限だけだから、しっかり休んで頑張ろうね」

 

 女子の園から避難する為に保健室へ行こうと試みたというのに、沙綾が撫でるイヴが手を取る、と(かえ)って接触が濃くなってしまっている。

 嵐の前の静けさならぬ、静けさの前の嵐だった。

 

 

 

 その後、昼休みいっぱいを保健室でやり過ごし、最後の二授業を経てようやく放課後がやってきた。その間、特別語るような事は無かったが、強いて言うならば……。

 

『先生! 優は今駄目なんです。代わりに私が答えます!』

『そうか。なら戸山』

『はい! えーっと……わかりません!』

 

 そんな、先生の指名攻撃に対し香澄が捨て身のインターセプトをする茶番があったくらいか。

 クラスメイトたちが思い思いにグループを作って教室を出て行く。当然、彼の元へも足音は近づいて来た。

 

「優、帰ろー。あ、大丈夫だよ、またおぶってってあげるからね!」

「うん、おぶるよ」

 

 やってきたのは登校した時と同じメンバー。終礼が先に終わっていたのか、クラスの違う筈の有咲もそこにはいた。

 死にかけ騎馬結成の提案をする香澄と、何故かウズウズした様子で同意を示すたえ。

 

「ううん、帰りは車で迎えが来るから皆帰っていいよ。ごめんね」

「そっか……」

 

 彼がそう言うと、たえは何故かシュンとしてしまった。

 

(さてはおたえ、楽しかったんだな?)

 

 その理由を、有咲だけが密かに理解していた。

 ちなみに、車で迎えをよこす事は既に学校へ連絡している為、登校時とは違ってコソコソとする必要は無い。

 沙綾たちが各々別れの挨拶を言って教室を出て行く。

 それから机に顔を伏せること約十五分。携帯に車の到着を伝える連絡が届いた。その頃には、既に教室はがらんどうだった。

 

 校舎を出る。あとは門を出て車に乗り込むだけ。状況は既に危険域を脱したと言っても過言ではなかったが、万一に備え顔を見せないよう下を向きながら歩いた。

 

(『最も大きな危険は勝利の瞬間にある』なんて言葉もありますし)

 

 しかし、しかしである。これから彼の身に起こる事態を実際に目撃すれば、その言葉を残したかのフランス皇帝でさえも同情し、そして理解するだろう。どれだけ備え、油断を排しても、とびきりの危険にとっては関係の無い事なのだと。

 

(……?)

 

 タンッと音がした。

 風が吹いた。

 影が掛かった。

 そして、頭が柔らかな壁に当たった。

 

「わぷっ!?」

 

 何とぶつかったのかもわからないまま、反射的に顔をあげた彼の頭を真っ先に(よぎ)ったのは、驚愕よりも何よりも、一つの疑問だった。

 

 

――はて、太陽とはこんなに近くにあっただろうか?

 

 

 奇妙な事に、陽を遮り影を差したのも、また太陽だった。

 

 

――――――

 

「だああああああ……っせい!」

 

 奥沢美咲は激怒した。それから、しばいた。

 困った友人の数々な奇行を今までやれやれで許してきた彼女も、今回ばかりは助走をつけて(はた)いた。

 

「あたっ! もう美咲ったら、急に何をするのかしら?」

「あ、の、ねぇ! こころの運動神経が凄いのは知ってるけどさ、人の事ジャンプで飛び越すのは危ないでしょ!?」

 

 彼女らは元々もう一人友人を連れて三人で歩いていた。しかし、校舎を出たあたりでこころが急に立ち止ったのだ。そして言うには『駄目、駄目よ!』。

 まーた何か始まった、と美咲が呆れていると『見つけた!』と叫んでこころが走りだした、というのが事の起こりである。

 

「み、美咲ちゃん、こころちゃん、待ってぇ」

 

 ここで、一人置いて行かれた友人――松原花音が二人に追いついた。

 

「あ、花音さん。すいません、急に飛び出しちゃって」

「ううん、それはいいんだけど……えっと、この子は?」

「あ」

 

 言われて視線を向けると、予想通りそこにはポカンとしている姿があった。突然人が三人もやってきて、自分も無視して内輪で話を始めたとくれば当たり前だ。

 

「あー、えっと、祖師谷優さんだよね?」

 

 美咲は目の前の()()を知っていた。もっとも、クラスも違う為に直接的な面識はほとんど無く、『戸山さんたちとよく仲良くしてる人』程度の認識だったが。

 

「は、はい。あなた方は?」

「あたしは奥沢美咲。いやーすいません、うちのこころが」

「ま、松原花音です。よろしくお願いします、優さん」

「えっと、こちらこそよろしくおねがいします……?」

 

 花音たちが挨拶すると、ペコペコと辞儀が返される。だが、やはり状況の理解が追いついていないようで、目に映らないはずの疑問符がはっきりとその周囲に浮かんでいた。

 その様子を見て、美咲は少し首を傾げる。

 

(んー、祖師谷さんってこんな性格だったかな……?)

 

 美咲は記憶を思い起こす。優が騒いでいる場面を何度か遠巻きに見た事があったが、その性格は香澄に近いもので二人一緒になって有咲を困らせていたような気がした。そう考えると、どうにも違和感が残る。

 

(まぁ、今はいっか)

「それで、こころ? 祖師谷さんが一体なんだってのさ?」

「……なんだか駄目な気配がしたの」

(えっ……?)

 

 そう言うこころの眉は下り坂を作っている。それは常日頃から行動を共にしている美咲をして驚愕させる、珍しい光景だった。

 

(にしても、嫌なとか怖いとかじゃなくて駄目な気配ときたか……)

「どういうこと?」

「何て言うのかしら……笑顔じゃないだけじゃないの、笑顔の反対なの! あたしたちが笑わせてあげないといけない。この子は笑顔の反対なの!」

 

 こころの言葉は難解だった。優はおろか、付き合いの短くない花音でさえも、その思いを受け止め切れていない。唯一、ある事情からその解読に慣れている美咲だけが、なんとかニュアンスだけを掬う事が出来た。

 

(簡単に言えば、祖師谷さんが不幸の真っただ中って事なんだろうけど)

 

 彼女の知る限り、優はいつでも元気いっぱいだった。今の様子こそ違うが、それは見知らぬ先輩の前だからという可能性がある。こころの言葉が的を射ているとは、美咲にはお世辞にも思えなかった。

 

「という訳で、とりあえず(うち)に連れて行くわよ!」

「えぇっ!?」

「ちょっと、また急に……」

 

 口では否定的だが、美咲が実際に止めようとする様子は無い。内心で非常に申し訳なく思いながらも、一度何かをすると決めたこころが梃子でも意思を曲げない事を彼女は知っていたから。

 ()にとって不幸だったのは北沢はぐみがこの場にいなかった事だろう。はぐみはこころたちの大切な友人で、同時に優のクラスメイトでもある。彼女がいれば体調不良なのだと説明をして、もしかすればこころの行動を止められたかもしれなかった。ちなみに、不在の理由は宿題未提出による居残りである。

 

「さぁ、行くわよ!」

 

 こころが手を引き、歩きだした。しかし、その行く手はすぐに何者かに阻まれる事となる。見れば、それは黒い服を着た者たちだった。

 

(!? って、なんだ黒服さんたちか。急に出てくるからびっくりし――違う!)

「黒服さん!」

 

 驚き、安堵し、再び驚く。ある事に気がついた美咲は、咄嗟に果たしているのかどうかもわからない存在を呼んでいた。

 

「何をされているのですか?」

 

 そしてどうやら、叫びは無事に届いたらしい。今にもこころへ伸ばされようとして手を、見慣れた女性が横から掴み取っていた。

 美咲が気付いた事とは、ずばり道を遮る黒服が大柄の男だったという点だ。確かにこころの周囲には、何処からともなく颯爽と現れ願いを叶えては消える摩訶不思議な黒服が存在するが、その一つの特徴として女性しかいない。

 よく見るようになって慣れてしまったが、基本的に真っ黒な服に身を包んでいるのは関わらない方がいい人種である。それが弦巻財閥の一人娘であるこころの前に現れるとくれば……。

 

(まさか、誘拐目的とか!)

 

 次々と悪い予想が美咲の頭に浮かぶ。もっとも、それらはまったくの杞憂でしかなかったようだが。

 

「失礼。私ども、こういった者ですが」

「む、これはどうも。私たちはこういう者です」

 

 剣呑な雰囲気は何処へやら。気付けば男女黒服たちの間で名刺交換が始まっていた。

 

「これは祖師谷の……。成程、そういうことでしたか。申し訳ありません」

「こちらこそ謝罪申し上げます。まさか、弦巻のご令嬢だとは露知らず」

 

 この街一番の財を持つ弦巻家と有数の名家である祖師谷家。二者は互いに互いを知っていたらしい。

 

「えー、なにこれ。どういう状況?」

「あの、奥沢さん。あの人たちは僕の家の……えっと、使用人? みたいな人で……」

「あれ、もしかして祖師谷さんも結構お金持ちだったり?」

「どう……でしょう。そうなのかもしれません」

(まじかー)

 

 まさか黒服を日常的に侍らすような家が身近にもう一つもあったとは、と美咲は小さくない衝撃を受けた。

 

「っていうか、祖師谷さん何でさっきから敬語なの? あたしたち同級生だったと思うんだけど」

「えっ!? ……う、うん、そうだね。どうしちゃってたんだろう私。あ、あははは」

 

 外見だけなら十センチ以上の身長差の二人は年上年下の関係に見えなくもないが、優と美咲はしっかりと同級生である。あくまで、()()()()()、だが。

 

(どうしたんだろう?)

 

 そんな少しおかしなやりとりをしていると。黒服がこころたちへ向き直った。

 

「こころ様、相手方の当主様よりお許しを頂きましたので、どうぞご自由になさってください」

「んー、よくわからないけどわかったわ! みんな、行きましょう!」

 

 女黒服が手を鳴らすと突然現れるこれまた黒の車。そこに乗り込んで四人は弦巻家へと出発した。




イヴの保健委員は捏造。

ちなみに花音は親しくないと後輩でも敬語。はぐみも最初ははぐみさんと呼ばれていました。

ハロハピメインと銘打っておいて登場まで二万文字とな?


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第6話「笑顔の魔法」

「最近、何か嫌なことでもあったの?」

 

 こころが疑問を投げかける。車が発進してから十秒も経たない内の事だった。

 

「最近……は、特に何も思い当たらないかな」

「そうなの。困ったわね……」

「あの、結局私はどうして連れていかれてるのかな?」

「あ、実は私もよくわかってないかも……」

 

 嫌な事が無い事の何が困るのか。そういった疑問はあったが、ひとまずは横に置いておいて、彼は問うた。

 

「あぁ、そういえばさっきはこころ語でしか説明してなかったか。んー、なんていうか――」

「あなたを笑顔にする為よ!」

「はい、ちょっと黙ってようねー」

「むぎゅっ」

 

 現在、こころは一番外側に座っており、その隣に美咲が座っている。言葉と共に身体も飛び出させたこころは、ほっぺを潰す勢いで押し込められていた。

 

「まぁ、大雑把にでいいんならこころが言った事で間違いないんだけど。詳しくとなると、まずあたしたちの関係から説明しないとだし……」

「奥沢さんたちの……?」

(さっきから人称と口調が安定しない人だな……?)

 

 そんなことを思いつつ、美咲は大まかに説明をした。こころの事。ハロー、ハッピーワールド! の事。そして、その目的の事。

 

「世界を笑顔にするバンド……なんだか素敵ですね」

「だ、だよね! 優ちゃんもそう思うよね?」

「だから! あなたの事も笑顔にするの!!」

「はいはい、急に叫ばないでねー。耳痛いから」

 

 飛び出しアゲイン。押し込みアゲイン。

 そして特に話がまとまる訳でもないまま、車は目的地に到着する。その間の件のやりとりの数は、実に六セットにものぼった。

 

「…………」

 

 車を降り、ハロハピ組がいつもの足取りが門を抜けると、そこで影が一つ足りない事に花音が気付いた。

 

「あ、あれ? 優ちゃんは?」

 

 その言葉からはいつのまにか堅さが抜けている。ハロハピの理念を肯定された事が、彼女にはよほど嬉しかったようだ。

 振り返ると、探し者は少し後ろで唖然としている。一体何をしているんだと、駆け寄ろうとした刹那、美咲の脳裏をある情景が走り抜けた。

 

(あ……)

 

 そこには、在りし日の自分たちがいた。ここ最近で通い慣れてしまったものだが、初めてこの場所を訪れた時に同じような反応をした、その記憶。

 美咲は思う。当時は四人が大口を開け、こころが一人屋敷側で首を傾げていたものだが、まさか自分が訝しむ側に回る事になるとは、と。

 

(あたしもいつの間にか、しっかりハロハピ色だったって事かぁ……)

 

「わかる、わかるよ。この家初めて見たら、普通そうなるって」

「なんだか、物語のお城がそのまま出てきたみたいですね……」

「だ、だよね。そんな感じするよね! えへへ、なんだか優ちゃんとは気が合いそう。カフェとか好き、かな?」

 

 車の中、そして今と、花音は自分と通ずるものを感じたようだ。

 

「こころに置いてかれちゃうし、行くよ」

 

 花音が何か語り始めてしまう気配を察知し、強引に二人の手を引く。こころは背後を気になどせずにずんずんと進むので、少し駆け足気味になった。

 

(手、ちっちゃ……)

 

 美咲には、左手の中のそれが同い年のものとは思えなかった。

 

 

 

 そして歩くこと数分、四人はとある部屋の前にいた。そこは歌詞や方針を決めたり、演奏の練習までする彼女らの屋敷内の主な活動場所。仮称、ハロハピ会議室。

 

「やあ、みんな。相変わらず見目麗しい……ん?」

 

 扉を開けた四人を出迎えたのは紫髪の麗人だった。彼女の名前は瀬田薫。やはり、バンドメンバーの一人である。

 

(わ、かっこいい……)

 

 薫を一目見て、真っ先に浮かんだ感想はそれだった。それでいて、きちんと女性である事も主張する、不思議な人物。

 

「初めまして、だね、子猫ちゃん。私は瀬田薫というんだ。お名前、聞かせて貰ってもいいかな?」

「は、初めまして。祖師谷……えっと、優と申します」

 

 その芝居がかった大仰な挨拶に、彼はなんとか()()()()()を返す。

 何故、薫だけが先に屋敷にいたのか。その理由は簡単で、ただ彼女が一人違う学校に通っているからだ。こころ、はぐみ、花音、美咲の通っているのが花咲川女子学園で、薫は羽丘女子学園。ちなみに花音、薫の二人が二年生で、あとは全員一年生である。

 

「薫、今日はね、皆でこの子を笑顔にするのよ!」

「今日はここで会議と聞いていたんだが……」

「そうだったかしら? んー、そうだったかもしれないわね。けど、こっちの方が大事でしょ?」

「あぁ、違いないね」

「見て、この子の顔。笑顔にしてあげなくちゃ! って、そう思うでしょう?」

「子猫ちゃんというのはあまねく儚いものだが……なるほど、彼女は特に、それも少し違った儚さがあるようだ」

(なんだそりゃって感じだけど、薫さんの言う事も、ちょっとわかるんだよなぁ)

 

 薫は何に対しても儚いと言ってしまう節があるのでハロハピ内では忘れられがちだが、その意味は本来『今にも消えてなくなってしまいそう』だ。

 美咲は、薫語の『儚い』の意味は未だ理解できていないが、日本語の『儚い』ならば確かに目の前の少女に当てはまるな、と感じた。

 

(にしても、これはあれか。あの流れか)

「黒服さん」

「はい、奥沢さま」

「楽器と()()の準備、お願いします」

「すぐに用意いたします」

「あぁ、あとはぐみが間に合うか分からないので、一応ベースの打ち込みも」

「承りました」

 

 美咲がそう頼むと、彼女たちはさっそく作業に取り掛かった。椅子、楽器、アンプ、果てには明らかに扉の幅を超えるサイズのステージまで、必要なものが瞬く間に揃えられていく。僅か三分という普通にはあり得ない短時間で、会場は整った。

 

「どうぞ、こちらへ」

 

 神業、早業、そう呼ばれる類のセッティングに戸惑う彼へ黒服が着席を促す。金と赤の椅子のフカフカ加減は、普段硬い椅子か座布団にしか座らない所為で、新鮮に感じられた。

 

「みんな、遅れてごめん! って、あれ!?」

 

 と、ここで勢いよく扉が開かれる。視線の集まったそこには、橙色の髪をした少女が。

 

(あの人、確かクラスに……?)

「あれ、はぐみ案外居残り早く終わったんだね。それなら待ってればよかったかな」

「うん、予想以上に早く終わってはぐみもびっくり……じゃなくて! どうしてゆーうんがここにいるの?」

「あー、これもう一回か。えっとね――」

 

 遅れてやってきたはぐみが、見知った面々に混ざる意外な人物に気づいて、驚きの声を上げる。そこから察するに、彼女の口にした『ゆーうん』という文字列は祖師谷優のことを指すものであるらしい。

 その混乱真っただ中といった様子に、美咲は薫にした説明を噛み砕いてはぐみに伝え直す。

 

「え……」

 

 事情を知った途端、どうせ『じゃあ皆で笑顔にしよう!』などと言ってはしゃぎだすのだろう、そんな美咲の考えに反して、話を聞き終えたはぐみは表情を曇らせた。地元で、商店街の元気印とも呼ばれ、いつも笑顔に溢れている彼女が、だ。

 

「もしかしてそれって……今日、しんどそうにしてたのと関係、ある?」

「え、祖師谷さん体調悪かったの?」

 

 ここで突如、美咲の頭の中に雷鳴が閃く。そしてそれは、なんだかんだ平和にも見えていた今の構図を一瞬で塗り替えてしまうものだった。

 つまり、『突然の事に戸惑いつつも、こころのわがままを優しい同級生がきいてくれている状態』から『体調不良で苦しんでいる同級生を、こころがわがままで無理矢理に振り回している状態』へ。

 

「祖師谷さん! 何で早く言ってくれなかったの!? 大丈夫!? 無理してない!?」

「ひっ! も、もう大丈夫です。治りましたから……えっと、肩離して、ください……」

「あ、うん。ごめんね……」

 

 そんな偽りのない声音の拒絶攻撃は、見事に美咲の急所を抉った。

 

(汗のにおいとか、染みついてたりしないよね……?)

「ねぇ美咲、ミッシェルはまだ来ないのかしら?」

 

 しかし、彼女には傷心する暇など与えられない。既に三人は準備万端といった様子だ。

 

「あー、もうすぐ近くまで来てるらしいから、ちょっと迎えにいってくるね。ほら、はぐみも早く準備して」

「う、うん!」

「祖師谷さんも、えーっと……」

(あれ、これ何て言えばいいんだ?)

 

 行ってくる、着替えてくる、また後で。一体どの言葉を口にすればいいのかわからなかった美咲は、苦笑して軽く手を振るに留めた。

 そして数分後、部屋に入ってくる巨大な影。

 

(く、ま……?)

 

 少年が目を点にする。なんと、そこにいたのはピンクの毛にキラリとキュートな瞳という、種族に持たれがちな恐ろしいイメージにはどうも似つかわしくない特徴を持つ、大きなクマだった。

 

「みんなー、お待ちどうさまミッシェルだよー。遅れてごめんねー」

「もうミッシェルったら、遅刻よ!」

 

 どうみてもキグルミのその姿に、しかしこころはまるで旧友のように親しく話しかける。そこに一切の演技が感じられないものだから、もしかしてやって来たのは本物のクマなのか、などという思考が彼を襲ったが、何度目をこらしても、それはやはりキグルミでしかなかった。

 そんな反応は、もはや彼女には慣れたもので。やっぱ混乱するよなぁ、なんて呑気に考えるミッシェルがターンテーブルの前に立つ事で、ようやく演者が揃った。

 

「えー、では。これよりハロハピ緊急特別ライブを開催しまーす」

「いえ~い!」

「い、いえーい」

「それでこころ、何の曲をやるかは決めてるの?」

「勿論! 不思議とね、わかるの。優を笑顔に出来るのは、きっとこの曲なんだろうなって。だから!」

 

 一旦の静寂が訪れ、すぅ、とこころの息の音だけがほんの微かに抜ける。

 

「――行くわよ! 『せかいのっびのびトレジャー!』」

 

 そして、演奏が始まった。

 

 

 

 曲が始まってすぐ、最初に感じたのは驚きだった。それは、彼が今まで()()()()()()()どんな音楽とも違うものだったから。

 

「~~♪」

 

 教養の一環、他者へのステータスの一つ。音楽とはそういう物だと、彼は教えられてきた。

 

(でも、きっと間違いだったのかな)

 

 でなければ、眼前の彼女らがあのように笑うはずがない。ピックを弦に、スティックをドラムに、そして己の声をマイクへ。思い思いに叩きつけるその姿は、とても楽しげだった。約一名、表情こそ窺えない者もいたが、雰囲気は一体だ。

 

 少女は言う。やってもいないのに決めつけてしまうのはもったいない事だと。昨日の外出において彼は、商店街の様々な店に興味を示しながらも結局入る事ができなかった。

 

(もしあの時に勇気があれば、何か変わっていたのかな……?)

 

 少女は言う。変わるのはしんどい事で、すごい力がいるのだと。その通りだろう。彼のように立場という強力なしがらみがある場合は、特に。

 

(僕も、変わる事が出来るのかな……?)

 

 少女は言う。世界は広く、自分の知らないワクワクがたくさんあるのだと。これは自明である。考えるまでもなく、この曲そのものが彼にとってその事実を肯定できる証左なのだから。

 

(僕の、知らない世界が……)

「優!」

 

 少女の――こころの呼び声が響く。どうやら、彼が考え込んでいる間に曲はアウトロに入っていたらしい。

 

「あたしたちの演奏、どうだったかしら? 楽しかった? 何か、見つけられた?」

「僕、は……」

 

 その問いかけに、しかし言葉はするするとは出て来ない。

 

「皆さんの演奏を聴いていると、何かとても大きな感情が湧いてくるんです。けど、それが楽しいというものなのか、僕にはよくわからなくて……」

 

 人は得てして、周囲からの扱われ方によって、自分という人間のあり方を知覚する。その意味で、物心のついた時、彼は既に次期当主だった。敷かれたレールの上に『楽しい』など、一つだった転がってはいなかった。

 

「でも、皆さんは……演奏をしている皆さんは、とても楽しそうでした。笑顔でした。それだけは、わかりました」

「あなたが楽しかったかはわからないけど、あたしたちは楽しそうに見えたって、そういう事かしら?」

「……だと、思います」

 

 申し訳なさげに彼は俯く。こころは顎に手を当てて幾ばく考え、すぐに笑顔を咲かせた。

 

「なら、話は簡単じゃない!」

 

 マイクスタンドを手放し、勢いよくステージから飛び降りる。そして椅子の前までやって来たこころは……。

 

「――あなたもこっち側にくればいいのよ!」

 

 ぐっと、強く手を引いた。

 

「え、ええええ!? そっち側って、一体どういう事ですか!?」

「あたしたちは楽しんでるように見えたんでしょう? なら、あなたも演奏すればきっと楽しめるわ! 楽器はそうね……あ、あそこに一つあるじゃない!」

 

 そう言ってこころが指差した先に視線を向けると、そこにはただ壁があった。少なくとも一瞬、彼はそうとしか認識できなかった。だが、よく見てみればその足元には小さな椅子が置かれており、それが実は壁だと見紛うような巨大なパイプオルガンだったことがわかった。

 

「よーし、次はこれよ! 『ハピネスっ! ハピィーマジカルっ♪』」

「ちょ、ちょっと待ってください! 楽譜は――」

「そんな物はいらないわ! リズムや音程がずれてても、あなたが楽しめる演奏をするのよ!」

「っていうか祖師谷さん、それ弾けるの?」

「クマさん……えっと、ピアノなら弾けるんですけど」

 

 幸いなことに、彼にはピアノを弾くだけの力があった。彼の持つ技能の多くは父の用意した稽古の賜物であるが、これに関しては、母の方が習うよう提案したものだ。

 それでも、目の前にあるのはオルガン。その事実は変わらない。同一視されがちな二つだが、ピアノは弦もしくは打楽器、オルガンは管楽器に分類され、音の出る仕組みがまったく異なる。音の伸びや強弱、更に言えば鍵盤を押す感触などもまったく違うのだ。

 彼が備え付けの椅子に座ると同時に、前奏が始まる。楽器も音楽も、どちらも初見のもの。ぶっつけ本番、ここに極まれりである。

 

(なに、これ……)

 

 しかし、予想に反して指は勝手に踊り始めた。初めこそ、曲調を乱さない事を第一に、確実だと思える音だけを挟むようにしていたのだが、気付けば普段ピアノを引く時のように滑らかに多くの音を刻んでいた。

 それはもしかすれば、時間を置き、落ち着いて聞き直せば呆れてしまうような演奏だったかもしれない。だが、いつまでたっても手の足が止まる気配は、とうとう無かった。

 パイプオルガンの音が一際長く伸びて、曲の終わりが訪れる。辺りが静かになると、額に雫を張り付けたこころが彼に歩み寄った。

 

「どうだったかしら?」

「…………」

 

 少年は喋らない。

 

「楽しかった?」

「…………」

 

 まだ、黙っている。

 

「何か、見つけられたかしら?」

「…………」

 

 三つ目の質問が投げられる。ようやく彼は、まるで久方ぶりにやりかたを思い出したかのごとく大きく呼吸をした。

 

「楽しかった、です。とっても、楽しかったです……!」

「そう、ならよかったわ! ちょっとこっちに来てみて」

 

 こころが再び手を引き、連れていったのは窓張りの前。

 

「ほら、今のあなた、とっても良い笑顔よ!」

 

 映る顔は、確かに笑っていた。それは彼の初めて目にする、自分の笑顔だった。

 

「よーし、じゃあこれからは優もハロハピの一員ね!」

「はい! ……はい?」

 

 こころの言葉に勢いのまま肯定をした後で、彼ははたと気付く。今自分は、何に同意したかと。

 

「どうしてそんな話に……?」

「えっ? だって、優が一緒になった演奏、とってもよかったもの!」

 

 当然でしょう、そんな言葉が今にも聞こえて来そうだ。こころの表情から察するに、彼女の中では突飛なことを言っているという感覚がないのだろう。

 確かに彼はこころたちから笑顔と『楽しい』を貰った。しかし、それとこれとは話が全くの別なのである。

 

(ハロハピに入る。できることなら僕だって……)

 

 例えそう思っていようとも、彼が彼である故に、()()()()()加入する事はできない。

 キュッと、小さな手が胸の前で結ばれる。それから、咳払いを一つして意識を切り替えた彼は、その口調を大きく砕いた。

 

「えっと、申し訳ないんだけど、バンドには入れないの」

「どうして? それは誰が決めたの?」

「自分の楽器とか持ってないし」

「ハロハピの楽器はみーんな黒い服の人が用意してくれるから、大丈夫よ?」

「えー、習い事とかがいっぱいあるから、あんまり時間を取れないっていうか……」

「うーん、頑張れば何とかなるんじゃないかしら?」

 

 色々と理由をでっちあげて断るが、それでもこころは諦めない。まさかここまで食い下がられようとは思いもしなかった彼に、これ以上の嘘をこの場で作り上げる事は難しかった。

 

(なら……)

 

 嘘が駄目なら真実を? 確かに、そうすれば確実に話を無かった事に出来るだろう。しかしそれは、良くしてくれた彼女らに対し裏切りを突き付ける事に他ならない。

 本当にそれでいいのか、他の手段もまだあるのではないか、たくさんの疑問が彼の脳内で起き上がってはすぐに身を沈ませる。

 

「ねぇ、ちょっとの間だけ、目を瞑ってもらってもいいかしら?」

 

 彼がそう口にすると、五人は言われたとおりに目を閉ざす。脈絡のない、本当に突然のお願いであったが、誰もそれを拒むことはなかった。

 周囲の視界から切り離され世界の中で、最後の最後まで彼は逡巡をし続け――そして、頭に手を掛けた。

 

『えっ!?』

 

 初めの一人は正体の分からない物音に、残りの四人はその声に。釣られて瞼を上げた五人は、取り外されたウィッグの存在を認め大きく目を見開いた。

 

「皆さん、騙していて申し訳ありませんでした。僕は……祖師谷優ではないんです。本当はその弟で、今日は事情があってお姉ちゃんのフリをして登校してたんですけど、えっと……」

 

 緊張に言葉が詰まる。やはり幻滅させてしまっただろうかと周囲を確認すると、こころと目があった。他の全員が固まってしまっている中、彼女だけがしっかりと彼の顔を見据えていた。

 

「つまり、あなたは優じゃなくて、優の弟なのね?」

「……はい」

「そうなの……」

 

 彼はキュッと身を固めた。次に出てくる言葉は一体なんだろうかと。叱咤か罵倒かそれとも――。

 

「ところで、さっきまでここにあなたのお姉ちゃんがいたのだけれど、何処に行ったか知らないかしら?」

「……へ?」

 

 思わず、間の抜けた声が出る。こころが何を言っているのか、彼には理解できなかった。

 

「で、ですから。祖師谷優は僕のお姉ちゃんなんですって」

「知ってるわ、あなたは弟なんでしょ? あたしは優を探してるの。何処に行っちゃったのかしら?」

「ですから――」

 

 どうやら両者の間に認識の齟齬がある様子。繰り返し説明する少年と、都度首を傾げるこころ。そんな光景を見て、クマが一人苦笑していた。

 

「まぁ、キグルミの頭取れても理解できない人らですから、ね。あはは」

 

 経験者は、そう語った。



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第7話「勢力の拮抗」

 こころと偽優による口論と呼ぶにもおこがましい(いさか)いは、永遠とも錯覚するような平行線を描いた末にこころの根勝ちで幕を閉じた。その結論内では優は未だ暫定的にハロハピ加入状態であり、いつの間にか家に帰ってしまったということになっていた。

 演奏が終わったという事で、既に楽器などは黒服たちによって撤収され始めている。そんな中、こころたち六人が今何をしているかというと……。

 

「あたしの名前は弦巻こころ。よろしくね!」

 

 ずばり、自己紹介であった。

 

「はい、知ってます……」

 

 言う側と言われる側、両陣営は見事なまでに対照的な空気を纏っているが、それも仕方のない事。何せ相手は、自分を別の人物だと思って一度した自己紹介を再びしているのだ。どんな反応をすればいいのか、少年の心中は複雑である。

 その後、薫、はぐみは当然といった顔で、花音は若干申し訳なさげに、それでも後に続いた。そして、最後に残るは、ふくよかな桃色のクマ。

 

「こんにちはー、ミッシェルだよー。よろしくねー」

 

 とても、気だるげな声だった。そこには種に見合った獰猛さも、見た目にそぐう可愛らしさも無い。

 

「ミッシェルはね、普段は魔法の国に住んでる魔法のクマさんなんだよ!」

「ふふ、それでいて私たちが困った時にはすぐに駆けつけてくれるのさ。儚いだろう?」

「さぁ、あなたの名前を教えてちょうだい?」

「僕の、名前は……」

 

 肝心な部分で、少年は口を噤む。それから少し悩む様な仕草を見せ、意を決したように口を開いた。

 

「祖師谷……えっと、コウ……です。よろしくお願いします」

「コウ……コウね。じゃあさっそくだけど、優に連絡は取れそうかしら?」

「あー、お姉ちゃんはそうですね……今はちょっと忙しいと思うので難しいかも、です……」

「あら、そうなの? それは残念だわ。なら代わりに、伝言をお願いできるかしら?」

 

 こころの頼みを、コウは適当な嘘で断る。しかし、大して気にするそぶりもなく、彼にこう告げた。

 

「新生ハロー、ハッピーワールド! の結成パーティーをするから明日の放課後うちに集まるわよ、って」

「こころん、何それ!?」

「今まではあたし、はぐみ、薫、花音、ミッシェル、美咲で六人だったでしょ? 楽器だって、ギターにベースにドラムと……えっと、変な台だけだったし。そこに優が加わって、あたしたちは新生ハロー、ハッピーワールド! になるの。楽器は勿論オルガンよ!」

「それ良い! とってもワクワクだね!」

「ねぇそれ、ツッコミ待ちなの? ふざけて……ないんだろうなぁ。はぁ」

 

 ミッシェルの呆れももっともで、オルガンなど――それでも黒服の彼女たちならやってしまいかねないが――普通は持ち運べるものではない。後で注文をキーボードにでも変えてもらうよう言っておかないとな、とミッシェルは心のメモに書き加えた。

 

「なら、それは優の歓迎パーティーにもなるわけだ」

「その通りよ! だから、とびきり楽しいパーティーにしなきゃよね! 何をするか、あっちで皆で考えましょう!」

「おー!」

 

 はぐみ達がホワイドボードのある方向へ走っていく。場が平穏を取り戻したところで、ミッシェルがコウへ話しかけた。

 

「いやー、やっと落ち着いて話せるね。まず最初に……、まぁお疲れ様というか、ごめんなさいというか」

「えっと、あはは」

「もし本当に嫌だったら遠慮せずに言ってね? 本気で頑張ればまぁ、なんとかできない事も……無いと思うから」

 

 かく言う彼女も、加入当時は花音と共にハロハピを脱退する事を目論んでいた身である。例え彼の本音が否定的なものだったとしてもそれを責める事はできなかった。

 

「そんな嫌だなんて! 僕なんかを入れてくださると言ってくれるのはとってもありがたいと思ってます。けど……」

「なんか事情があるわけね」

(結構大きい家っぽいし、そういうのも仕方ないか)

 

 実際には見た事も行った事もないが、弦巻家と同じく黒服なる存在を召し抱える程なのだから、今更疑う余地もない。

 

「……あの」

「ん、どうしたの?」

「ちょっとだけずるい……我儘な事言ってもいいですか?」

「巻き込んじゃってるのはこっちだし、全然いいよ。なに?」

「二週間だけ、入れて貰ってもいいでしょうか。抜けるのに入るなんて、無責任だとは自分でも思うんですが……」

「うん、うん」

「この二週間で何か変わるんじゃないかな、なんて希望持っちゃたり……ごめんなさい」

 

 言っている途中で罪悪感やら何やらが湧いて来たのか、コウは言葉の尻をすぼませ、遂には謝罪が飛び出す。だが、常日頃からこころの手綱を握り、我儘処理のスペシャリストと化した彼女は怒る事もなく、むしろ笑った。

 

「あはは。我儘って言うから何かと思えば、なんだ、そんなの可愛いもんだよ」

「本当、ですか? ありがとうございます」

(それに、ハロハピと関わって変わらないなんて方が無理だと思うし)

 

 それが良い方向か悪い方向かはまだわかる事ではないが、きっと前者になるだろうとミッシェルにはある種の確信があった。

 

「あー、一つ訊いておきたい事があるんだけどさ」

「はい、何ですか?」

 

 サイドが替わり、今度はミッシェルが質問を投げかける。それは、ハロハピに人が増えるとなれば、彼女的に必ず事前に確認しておかなければならない事だった。

 

「あたしは、誰でしょう?」

「誰ってそれはミ……み……えっと、何て答えれば……?」

「いや、いい。いいよ。その反応だけで充分だから……!」

 

 それが一体何の『み』なのか明確にはならなかったが、ここで重要なのは一つの答えを即答されなかったことなのだ。

 

(脱、数的不利!)

 

 ミッシェルもとい美咲は、心の中で盛大なガッツポーズを決めた。

 

 

 

――――――

 

 時は過ぎて、時刻は午後六時。はぐみが家の手伝いをしなければいけないという事で、今日の集まりが解散となったところだ。

 

「みーくん、かのちゃん先輩、こーくん、バイバイ! また明日」

「みんな、気をつけて帰るんだよ」

「ん、そっちこそね」

 

 家の方向の関係で、はぐみと薫、そしてそれ以外に別れて帰路に就く。女子高生二人の間にコウが入る凹陣形で、何故か花音はコウの手を握っていた。

 

「うんうん、気をつけて帰らないと。ね、コウくん?」

 

 花音は少年へ笑いかける。彼女、コウが正体を明かしてからずっとこの調子である。

 

「花音さん、ご機嫌ですね」

「えへへへ――あ! ごめんね。美咲ちゃん達と同い年の女の子じゃなくて、実は中学生の男の子なんだって思うと急に可愛く思えちゃって……。手なんか握って、嫌……だったよね?」

「いえ! 嫌だなんてそんな……。ただ、ちょっとびっくりしましたけど、むしろ、ちょっと嬉しかったくらいで……」

 

 普段、周りに助けられてばかりだと自分で思っている彼女だから、己を頼ってくれそうな雰囲気をしているコウを特に気に入ったのだろう。感性に似通ったものを感じた、というのも拍車をかけているかもしれない。

 

「あー、そういえばさ、結局コウくんは何でお姉さんの恰好して学校来てたの?」

「う……誰にも言わないでくださいね?」

 

 そう前置いて、コウは事のあらましを伝える。話を聞き、事情を理解した美咲は何とも言えない、苦い顔をした。

 

「なるほど、テストがねぇ」

「僕も今日の朝急に言われて、ほんとにびっくりしました」

「あ、あはは、大変だったね」

「何にせよ、お疲れ様」

「美咲さん……ありがとうございます」

 

 体育などの着替える科目がなかったのが、まさに不幸中の幸いである。

 ちなみに、コウの呼び方が名字から名前に変わっているが、これは彼がこころを『弦巻さん』と呼んだ時に『こころでいいわ。あたしも名前で呼んでるでしょ?』と言われた事に起因している。実は、全く同様のやりとりを花音は過去にしており、こころと初めて出会った時の事を思い出して、一人笑ったとか。

 

「今度は僕が訊いてもいいですか?」

「ん、どうしたの?」

「美咲さんは、その、どうしてピンクのクマさんに入っていたんですか?」

「あ、やっぱり気になる? あれはね――」

 

 他愛ない話に花を咲かせて、三人は仲良く進んでいった。

 

 

 

「あ、僕の家こっちなので」

 

 ある別れ道で、コウは言った。既に松原宅は過ぎており、現在はコウと美咲の二人きりである。

 

「そうなんだ。じゃ、ここでお別れだね」

「はい」

「あれ、ちなみに明日はどうするの? お姉さんの体調がどうなってるかわからないけど、また変装して登校する?」

「……どうなるんでしょう」

「なにせ複雑だし、まぁすぐにはわからないよね……。そうだ、コウくんさ『ROW』ってやってる?」

「何ですか、それ?」

 

 『ROW』とはスマートフォンを持つ者なら、大半は入れていると言っても過言ではない連絡用アプリである。複数人でのチャットや通話もでき、相手が読んだ事が送り手側にわかるという機能で一気に普及を果たした。

 

「んー、簡単に言えば連絡用のアプリなんだけど。入れてないなら、この際入れちゃった方がいいかもね」

 

 ハロハピ内での連絡なども、普段はこのアプリが使われている。明日の歓迎会はもちろん、それを抜きにしても暫定で優が加入状態である問題などの事も考えると、何らかの連絡手段を持っておくことは絶対に必要だった。

 

「そうですか? じゃあ――あ」

 

 ポケットから携帯を取り出し、画面をつけたコウの顔が強張る。何があったのかと、美咲が画面を覗きこめば、そこには膨大な数の着信履歴が。

 学校が終わったのは四時前後。それから時間はかなり経ち、今は六時をまわっている。

 

「お姉ちゃんに連絡するの、忘れてました……」

 

 少年の顔から血の気が引いて行くのが、美咲には面白い程わかった。




誤字報告感謝です。


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第8話「真正の少女」

いつもこの作品をお読みいただきありがとうございます。
読者の皆様のおかげで、この度うちのバーさんも綺麗に色づきました。
精進を続けていこうと思いますので、今後ともよろしくお願いします。


「……遅い」

 

 少し仄暗くなった自室の中、祖師谷優は呟いた。体調は既に全快している。

 現在時刻は午後六時。今日の花咲川女子学園一年生の時間割は六限目までで、その終わる時間は三時四十分。祖師谷宅から学園まで車で約十分で、授業後にSHRがある事を考慮しても四時半には帰ってきていなければおかしい。

 それでも何せ初めての事な為、トラブルはあって然るべきだろうと、五時までは黙って待った。

 

「いくらなんでも遅すぎる!」

 

 しかし、許容限界を一時間も過ぎれば、さすがに我慢ならなくなったようで、優はいきり立ち部屋を飛び出した。

 一階へ駆け下りた彼女が向かったのは父親の私室。そこに、求める答えがあると考えたから。

 

「ちょっと父さん、まだ帰って来ないの!?」

「……はぁ。ノックをして返事を待って、それから扉を開けろ愚か者」

 

 ドアを開け、最初に視えたのは相変わらず新聞を前面に広げる博則の姿。しかし、彼が両手を下げると、その顔には何処か疲れが浮かんでいた。

 

「ねぇ、どうせ盗聴とか監視とか色々させてたんでしょ。何か知らないの?」

「その事か……今私も頭を悩ませているのだ」

 

 彼にしては珍しい苦虫を噛み潰したようなその表情は、どうやら優と同じ理由で作られているようだ。

 

「あいつはな、どうやら弦巻家にいるらしい」

「弦巻……あぁ、こころちゃんの」

 

 優自身、クラスが違う事もあってこころと深い面識は無かったが、その存在はよく知っていた。

 

「大丈夫かな……?」

 

 弦巻こころ、通称『花咲川の異空間』。その家柄は勿論の事、突拍子もない考え方や行動が噂になり、学園内では関わるべきではない人物をして有名だ。

 

(香澄とかはぐみがよく仲良くしてるから、悪い子ではないと思うんだけど……)

 

 共通の友人を根拠に、悪人ではないことまでは予想ができたが、それでも完全に不安を拭いとる事は出来ない。如何せん優の中のこころ像は、噂で構成されている割合が大きすぎた。

 

「それで、今はどうしてるの?」

「……わからん」

「は? なんでよ」

「私が許可を出した後、車に乗り込んだ事まではわかったのだが、そのタイミングで仕掛けていた機器が全て取り外されたようでな」

 

 迎えに遣った者の報告によれば、その場にはこころのSPと思しき者がいたらしいので、おそらくは彼女らによるものだろうと博則は踏んでいる。

 

「結局、何もわからずって事ね……」

 

 優はがくりとうなだれる。彼女の期待に及ぶ情報は此処には無かった訳だ。帰ってくる目処はなく、複数回に渡る連絡にも反応なし。これ以上今できる事を思いつかなかった優は、せめて玄関でその帰還を待つ事に決めた。

 

 冷える床に無視を決め込み、携帯をいじって気を紛らわそうと試みても、やはり弟の事を考えずにはいられない。いっそこちらから探しに出てしまおうか、そう考えて靴箱に手を掛けたその時。

 ガチャリ、待ち望んでいた音が響いた。まるで何かを恐れているかのようにゆっくりと開いて行く扉。僅かな隙間から赤い目が覗いた瞬間、優は思わず駆けだしていた。

 

「あの、ただいま戻りま――」

「ちょっとこんな時間まで連絡も無しに何してたの!? 心配したんだからね! もう、おかえり!」

「わわっ、お姉ちゃんなんで玄関に!?」

 

 消え入るような小声でただいまを言った辺り、誰にも気付かれずに帰ろうとでも画策していたのか。予想より遥かに早い姉の登場に、面喰っている様子だ。

 

「えっと……怒ってる?」

「えぇ、勿論。そりゃあもうプンプンって感じよ? 詳しい事はお姉ちゃん署で聴くから、ついてきなさい」

 

 優は有無を言わせずその細い手首を掴みあげ、聞いた事もない謎の場所へ弟を連行する。それから揃ってベッドに腰かけ、話をした。

 

「それで、一体何してたの?」

「実は、こころさんっていう――あ、お姉ちゃんの同じ学年でC組の人でね。その人の家にお邪魔して、えっと……何をしてたってなると、一言では言いにくいんだけど」

「うーん、そうなの。じゃあ、あった事を順々に話してみてよ。朝から」

「朝……まず、戸山さんたちと合流して、おんぶで運んでもらって――」

 

 ポツ、ポツと記憶を掘り返しながら彼は言葉を紡いでいく。

 

「あ、そうだ。テストは多分うまく言ったと思うよ」

「テスト? あぁ、そういえばそんなのもあったっけ」

「あったっけって……そもそもの目的を忘れちゃ駄目でしょ?」

「う……そうなんだけどさ」

 

 本題を忘れてしまう程心配していた、という事か。彼も、責めるような口調でいながら、本気で怒っている感じではなかった。

 それからも語りは続く。都度、質問を挟んだり相槌をうったりしている内に、優は違和感に躓いた。

 

「こころさんが僕を飛び越してきたんだけど、そしたら美咲さんが急いでやってきてポコッ、なんて」

(あれ、なんだか表情が……)

 

 明るい。そう感じた優は、さらに観察を続けてそれが勘違いなどではない事を確信した。今ほんのりと浮かんでいる笑みは、昨日までの彼には絶対に見られなかったものだと。

 

「それで、車で家に行く事になったんだけど。こころさんたち、『ハロー、ハッピーワールド!』っていうバンドをしているらしくて――あ!」

「ん、どうかした?」

「実は、お姉ちゃんに謝っておかないといけない事があって……」

「へー?」

 

 表情が一転。今度は神妙な面持ちで長い告白が始まった。

 

「――それで、お姉ちゃんと勘違いされたままバンドに入っちゃって。僕自身ならともかく勝手にお姉ちゃんを入れる訳にもいかないでしょ? こころさんには正体も明かして説明したんだけど、結局解ってもらえなくて」

「そっか……」

 

 話を聞き終えると、優は口に手を当て考え込んだ。その姿は一見、すべてを理解して、起こり得る問題について熟考しているようでもあるが、実は状況の複雑さについていけず脳内がはてなで埋まっているだけだ。

 

(うん? つまり、なんか三人位の中では私がハロハピに入ってて、それで……ん?)

「待って。僕自身ならって事は、ハロハピ加入自体は嫌じゃなかったのね?」

「え、そこなの? 勝手に入って怒ったり――」

「いいから答えて! すごく大事な事だから!」

 

 突然の優のものすごい剣幕に思わず彼は気圧される。姉が怒る。それ自体は彼の予想通りだったが、その着眼点は意外な部分だった。

 

「会ったその日に何を言ってるんだ、って言われるかもしれないけど……。正直、ハロハピの皆さんと演奏したりおしゃべりしたりするのはとっても楽しかったし、出来る事なら入りたかったとは思うけど……」

「そっか……そっか、そっか! 楽しかったのね!」

「……?」

 

 怒りを露わにしたかと思えば、今度は喜びを。安定しない姉の表情に、彼は首を傾げざるを得ない。

 

「ん、コホン。じゃあ改めて、私がハロハピに入っちゃってる事についてだけど」

「…………」

「ぜんっぜんオーケー。問題ないわ! むしろ、協力するから何でも言ってって感じ!」

「え……え?」

 

 そして飛び出したのは、予想だにしない答え。首の傾げすぎで、ねじ切れてしまいそうだった。

 

(楽しかったって! 楽しかったって!)

「ねぇ、もっと詳しく話聞かせてよ。ハロハピの事とか、どんな事思ったのかとか」

 

 始動の途端から実は難航しかかっていた『やりたい事を見つけさせる計画』、そこに光明が自ずから差し、優は心は弾みに弾んでいた。

 

 

 

―――――――

 

 

 次の日、花咲川女子学園の朝。白い髪の小さなその存在は、いつもの通り友人たちと校舎を歩いていた。

 

「ねぇねぇ優、ほんとに体調はもう大丈夫?」

「ふふ、ありがと香澄。心配しないでも、もうバッチシって感じ!」

「よかったぁ。あれ、ねぇ皆。あそこにいるのって美咲ちゃんだよね?」

 

 登校中にも何度もした会話を二人が繰り返していると、りみがA組の前を指差して、そう言った。六人が視線を向けると、彼女の言うとおりそこには黒髪セミロングの少女の姿が。その元へ、香澄は一人駆けだしていった。

 

「ほんとだ。おーい、美咲ちゃん」

「あ、どうも戸山さん」

「んー、美咲ちゃんってC組だったよね? A組の誰かに用? 呼ぼうか?」

「そうなんですよー。いやー、なかなか来ないから焦っちゃった」

「あれ、私たちだった? なんだろ、ガルパの話かな」

 

 ガルパとは、香澄たち属する『Poppin'Party』や『ハロー、ハッピーワールド!』、その他三つの計五バンドで合同開催を予定されているイベントの事である。これまでにも何度か美咲はハロハピ代表として、他バンドとの連絡を取っており、今回もその件かと香澄は思ったのだ。

 

「や、今日は戸山さんたちじゃないんだ――祖師谷さん、いいかな?」

「え、優なの?」

 

 まさか指名に、ポピパの面々が軽く驚く。昨日、コウとハロハピが接触する前に帰ってしまった彼女らの中では、美咲と優は知り合いではないのだから。

 

「うん? 確か、美咲ちゃんだったっけ? いいけど、何かしら?」

「いえいえ、そんな大したことじゃないので。ちょっとついてきてくれる?」

「ん。香澄たちは先に教室入っておいてよ」

「わかった。また、あとでね」

 

 言われたとおりに五人は教室に向かい、美咲たち二人は並んで廊下を進んだ。彼女らが向かったのは中庭。

 

「……そろそろいいかな」

「そうね」

 

 理由は一つ、場が開けており声量に気をつければ密談をしやすい場所だから。

 

「えっと、あなたはどっちの祖師谷さん?」

 

 傍からすれば意味のわからない質問。対して白は、快活に笑った。

 

「改めて、ほとんど初めましてかな美咲ちゃん。昨日は弟が本っ当にお世話になったみたいで。ありがとうね!」

「あぁ、お姉さんの方だったか。いやー、コウくんにはむしろ迷惑かけたというか……」

 

 果たして、それは祖師谷優であったようだ。両者、ほぼほぼ初対面だという事で挨拶をしたのだが、美咲が弟の名前を出した時、優がピクリと反応した。

 

「……コウ、くん?」

「あれ、何か変な事言ったかな?」

「へー、ふーん、コウくんなんて呼んでるんだ。へー」

「な、なんですかね?」

 

 上機嫌そうにニンマリとする優に、美咲は困惑する。

 

「ううん、あの子今まで友達とか出来た事無かったからさ。そんな風に呼ばれてるのが、なんか新鮮で」

「えぇ……」

 

 美咲は驚いた。確かに話題の少年はやや内向的で、積極的に友達をつくりに行くような性格だとは思えなかったが、それでも友達の一人もできないだなんて事があるだろうか、と。

 まるで『楽しい』そのものを知らない様子だったり、二週間という期限が存在する事だったり。昨日の時点で、ただならぬ家庭環境なのかと薄々感づいてはいたが、本人に直接聞くのは憚られ結局それをしなかった美咲。今がチャンスなのではと、そう思った。

 

「差し支えが無ければでいいんだけど、コウくんの事をもっと教えてもらえないかな? どんな子なのかとか、どうやって育ったのかとか、問題無い範囲だけでもいいからさ」

「……驚いた。そっちから言ってくるんだ」

「う、だよね。たった一日関わっただけなのに図々しいか」

「違う違う、そういう意味じゃなくてね。実はさ、私も元々あなたにあの子の事色々を知ってもらいたかったんだ」

「え、そうなの?」

 

 それは紛れもない本心だった。昨夜、弟の口からハロハピについて詳しく詳しく話を聞き考えた結果、美咲こそが願いを託すに適任だと、そう判断したのだ。

 

「美咲ちゃん、あなたにお願いがあるの!」



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第9話「紛物の事情」

 二人きりの密会から大分経ち、教室では本日四度目になる授業が催されていた。

 科目は数学。小気味良い音を響かせて数式がチョークによって書き連ねられていく傍ら。奥沢美咲は机に頬杖をついてぬぼー、と解説の吹き抜ける筒と化していた。その態度がこの授業だけなら『あぁ、数学が嫌いなのかな』ともなろうものだが、何を隠そう彼女、一限目からここまでずっとこの調子である。

 その頭の中では、ある言葉がただただリフレインしていた。

 

(『いっぱい楽しい事を教えてあげて欲しい』って。何それ、抽象的すぎない……?)

 

 それは優が美咲に託したたったひとつの願い。その具体性の皆無さに軽い文句を垂れるが、同時に、それも仕方がないと納得している彼女もいた。コウの事情を知ったが故だ。

 数時間を共にした美咲は、しっかりと知識面の教養を感じさせる反面、対人に慣れていない様子だったり世間について疎かったりするな、と彼を評価していた。

 

(しっかし、本物の箱入り娘なんてのが今どき実在してるなんて思わなかったな……あ、娘じゃないか)

 

 致命的で、しかし仕方ない間違いを正しながら、美咲は思考を続ける。あーだこーだと言いながらも一度引き受けた以上、彼女は頼みを無下にするつもりは毛頭なかった。

 

(楽しい事ねぇ……。それ聞いて真っ先に思い浮かぶのは……)

 

 顔は動かさず、目線だけをある人物へ向ける。『楽しい』のスペシャリストこと弦巻こころは、実に楽しげにノートに何かを書きなぐっていた。角度の問題でその詳しい内容は見えないが、黒板を写し取っている訳ではない事だけは確かだった。

 

(こころは感性特殊すぎだし無しでしょ)

 

 脳内でこころの名前にバツ印を付け、思考の枝を再び育てる。

 

(そもそも男子中学生が何を楽しめるかなんて知らないし。あ、でも花音さんとかいいかも。なんか通ずるところもあるみたいだったし。後はそうだなぁ、他のバンドの人たちにも――)

 

 そこまで考えたところで、チャイムが鳴り響き授業が終わる。いつのまにか四限まで終わってたなぁ、などとまるで他人事のように呟いて美咲が礼を済ますと、瞬間、教室の扉が勢い良く開かれた。

 そこにいたのは二つ隣のクラスのはぐみ。授業終了から即飛び出して来たとしか思えない早さでやってきた彼女は、声を大にしてこう言うのだった。

 

「みーくん、こころん、大変だよ! ゆーうんが記憶喪失になっちゃった!?」

 

 内容こそ荒唐無稽だが、はぐみの言動は真剣味で溢れており、心の底から困惑している事がわかる。その様子に美咲は、若干の申し訳なさを覚えつつも内心で安堵の息を吐くのだった。

 

(よかった。祖師谷さんの方もうまくやってくれたみたいだ)

 

 

 

――――――

 

 

 

 北沢はぐみは走っていた。幼年からソフトボールで鍛えてきた脚力を遺憾なく発揮し、仲間に重大な、ともすればハロハピ結成以来最も深刻かもしれない問題を伝える為に。

 その事が発覚したのはつい一時間ほど前、三限と四限の間の十分休みにはぐみが優へ喋りかけた時だった。本当は朝から話す機会をずっと窺っていたのだが、香澄や沙綾と楽しそうにしている間に割って入るのも忍びないと一人になるタイミングを待っていて、結果そんな時間になってしまったのだ。

 『ねぇねぇゆーうん! 今日のパーティーの事なんだけど』と、話しかけられた優は困惑顔で、何の話か、とそう返した。その時にはぐみが受けた衝撃と言えば、まるで雷にでも打たれかと思う程だった。

 そして、何かの間違いだと懸命に懸命に説明を続けた彼女は、衝撃の事実を知る事となった。

 

『え、それ本当……?』

『うん。昨日の学校終わった後、何してたのか記憶が全くないのよね。気付いたら家で寝てたって言うか――』

 

 その後もしばらく優は何かを話していたような気がするが、はぐみの耳には微塵も入って来なかった。そのまま、始まった次の授業をまるで案山子の如く過ごし、終業の挨拶がすむとクラスの誰が着席するより前に教室を飛び出したのだ。

 

「みーくん、こころん、大変だよ! 優が記憶喪失になっちゃった!?」

 

 C組中の視線が扉付近へ集中する。しかしそれも、叫んだ人物がはぐみだとわかった途端にパラパラと散っていった。彼女、こころのように奇行で有名なわけではないが、時たまおバカな事を言う奴程度には周囲に知られており、皆『またか』と思うだけだった。

 

「優が記憶喪失? それは本当なの、はぐみ」

「うん。さっきね、歓迎パーティーの事を話そうと思ったら、ゆーうんが『昨日の事は何も覚えてない』って!」

 

 そう言いながら、心中の不安などがどんどん膨らんできたのか、はぐみは遂に涙までを浮かべてしまう。このまま事態が大きくなってしまう事を危惧した美咲は、早々にはぐみを落ちつけに掛かった。

 

「あー、はぐみ? その事なんだけどさ、あたしが詳しく知ってるから、花音さんも呼んで一回皆で話をしよう」

「そうなの!? じゃあ、早速かのちゃん先輩呼びに行こう!」

「あー、待った待った!」

 

 話を聞くや否や、気持ちが(はや)り手を取って走りだすはぐみに対し美咲は全力で踏ん張る。肩の抜けるような痛みと引き換えに橙の暴れ馬を引きとめる事に成功した。

 

「花音さんはあたしが呼んでくるから、はぐみは祖師谷さんをお願い。こころは……そうだな、中庭に適当に場所とっといてくれる?」

「了解だよ、みーくん」

「わかったわ、美咲」

 

 三人が各々別の場所へ向かう。

 

 

 

 それから約五分後、優と花音を加えた五人はこころが確保しておいた中庭の一角で落ちあっていた。

 

「……あ、繋がった。もしもし薫さん、聞こえますか?」

『もしもし、聞こえているよ。美咲が学校から掛けてくるなんて珍しい。どうかしたかな?』

「えー、ちょっとハロハピ緊急会議が開かれることになりまして」

『緊急……だって!? 一体何があったんだい?』

「薫くん、大変なの! ゆーうんが記憶喪失で昨日の事全部忘れちゃったって!」

 

 悠長に話している場合か、とばかりにはぐみの横槍が飛び出す。その振る舞いは、一秒でも早く真実を知りたいと言外に語っていた。

 

「でも、みーくんが色々知ってるらしくて、今から話してくれるって」

「はいはい注目。じゃあ説明するよー」

 

 パンパンと手を叩き、美咲は優の横へ移動する。そして肩に手を置いてこう言った。

 

「昨日確かにハロハピには新メンバーが入ったけど、その人は祖師谷さんであって実は祖師谷さんじゃなかったんだ」

「どういうこと……?」

 

 美咲の珍妙な言葉に、はぐみは首を傾げる。彼女の知る中で祖師谷という名字を持つ人物は二人いるが、その内で美咲が『祖師谷さん』と呼ぶのは姉の方のみ。まったく訳がわからなかった。

 

「って言っても解んないよね。つまり解りやすく言うと、祖師谷さんはね」

『…………』

「――二重人格なんだ」

『えぇぇ!?』

 

 美咲が短く核心に触れる。これにばかりは薫、こころ、はぐみ、そして昨日の真実を認識している花音は殊更(ことさら)に驚いた。

 更に説明は続く。

 

「昨日私たちといたのは今と違う人格の方で、その間のことは覚えてないんだって」

「じゃ、じゃあ、ゆーうんの中にはもう一人違う人がいるって、そういうこと!?」

「うん、そういうことかな」

「……言われてみると昨日のゆーうん、なんかちょっとヘンな感じだったかも」

 

 今更言うまでもないことであろうが、これは勿論ウソ、今朝に密会にて急遽決まった雑な設定である。故に、花音には初耳なのだ。

 細やかな部分を二人で考えなどはしたが、その原案は美咲のもの。これを聞かされた優ははじめ、もしやふざけているのだろうか、と考えたものだ。それくらい、美咲のアイデアは現実味のないものだった。

 故に、いま目の前で疑いではなく驚きを表すこころたちのことが、優にはとても信じられなかった。

 花音が美咲へ、ひっそりと耳打ちをする。

 

「ねぇ、美咲ちゃん。一体どういう事なのかな?」

「花音さん。いえ、本人と色々話してみて、この設定が一番やりやすいかなって事になったんですよ」

「えっ、じゃあそこにいるのってコウくんじゃないの!?」

「あれ、そういえば言ってませんでしたっけ」

 

 どうやら彼女、優の事をコウと思っていたらしい。学年的に優は後輩という事になるのだが、例えそうだとしても初対面の人という事で花音は身を固くしてしまった。

 

「えっと、優ちゃん……って呼んでいいかな? 初めまして、松原花音って言います」

「初めまして! 松原先輩の事は聞いてます。昨日は弟がお世話になったみたいで」

「ううん、そんな。むしろ私たちの方が迷惑掛けちゃったっていうか……」

「ぷっ、あっははは」

 

 花音の言葉を聞いて、優が何故か我慢ならなかった様子で笑いだす。

 

「も、もう、何で笑うの!?」

「いや、先輩が美咲ちゃんとまったく一緒の事言うからおかしくって」

「そうなの?」

 

 問いを乗せた花音の視線に、頬を搔きながらにへらと崩れた笑顔で美咲がうなずく。常日頃ハロハピでストッパー役をしている二人だからこそ、考える事が重なったのだろう。

 

「ねぇ、美咲」

「ん。どうしたの、こころ」

「ん-っと、言葉にしにくいのだけど、二人は二人とも優なの?」

「えっ?」

「だって二人とも優だと、どっちを呼んでいるのか判らないじゃない?」

「あー、そっかぁ。そうだよねぇ……」

 

 こころが出した素朴な疑問に、美咲は目を泳がせた。見ると、優も『しまった』という風な顔をしている。こころの疑問に対する答えは、今朝打ち合わせた内容の中には存在していなかった。

 

『そういえば、昨日私に名前を教えてくれた時、少し言い淀んでいたような気がするね。もしかして、本当は別の名前があったりするんじゃないかな?』

「……!」

 

 澄ました顔をしてこそいるが、その裏で美咲は話をどう持っていこうか脳を今までにないほど回転させていた。そして、そんなタイミングで発された薫の何気ない言葉が彼女に天啓を授けたようだ。

 こそこそと優の傍に寄った美咲が、小さく耳打ちをする。はじめ、訝し気な表情を露わにしていた優だが、やがて覚悟を決めたような顔になると耳目を一手に引くように大きく声を上げた。

 

(信じるからね、美咲ちゃん!)

「そ、そうなの! 信じてもらえないことが多いから、普段は私の名前を言うようにしてもらってるんだ!」

『なるほど、ね。なら改めて、あの子猫ちゃんの真実の名前を教えてほしいな』

 

 『本当にこれでいいの?』と優がアイコンタクトを送ると、美咲はおもむろに深く頷いた。任せてくれ、そう言っているように優には感じられた。

 

「コウ」

「……?」

「優の中にいるもう一人の名前はね、コウって言うんだ」

「美咲、コウは確か優の弟の名前じゃなかったかしら?」

「そうだよ。優の弟の名前はコウ。それで優の中のもう一人の名前もコウなの」

 

 したり顔で、美咲はめちゃくちゃな事を言う。普通の人なら絶対に、何かおかしいと感じるような、違和感の塊の様な台詞だ。優は思わず囁く。

 

「ちょっと美咲ちゃん、さすがにそれはおかしいでしょ。バレちゃったんじゃ?」

「あ、やっぱそう思う? っていうか、普通はそうなるはずなんだけどね……」

 

 まぁ見ててよ、と親指でこころたちの方を指す。そこにいた彼女らの表情に困惑などは少しも浮かんでいなかった。

 

「そうなの。姉弟で同じ名前だなんて、一緒にいる時はちょっと不便かもしれないけど、それ以上にとっても素敵な事だと思うわ!」

『名前というのはその人を表す最たるもの。そう考えると、同じ名を持つ君たちはきっととても強固な繋がりで結ばれているのだろうね……。あぁ、実に儚い』

「え、えぇぇ」

 

 納得している、というよりは何も疑わず言われた事すべてをそのまま受け止めている様子。それが優には、とてもではないが理解できなかった。

 

「そもそも、これくらいでバレるんならあたしも苦労してない訳で……」

「うーん。この人たちに任せたの、ちょびっと早計だったかも……?」

 

 期待を寄せてから僅か一日、早くも後悔一歩手前まで来てしまっている優であった。



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第10話「秘密の交代」



以下、例のもの

・膝行……膝をついて移動する事。古文単語で『ゐざる』 受験で出ない事もない



「なーんか、新鮮」

 

 いつもとは違う周囲を見渡して、優は呟いた。

 現在彼女たちは、話が完全に片付いた訳ではなくとも一段落はついただろうと、各自弁当を持ち寄って食事タイムに入っていた。

 

「そっか。祖師谷さん、いつもは戸山さんたちと食べてるもんね。よかったの? こっち来て」

「うーん。美咲ちゃんとの朝の件もあってさ、訊かれるんだよね。何があったのって。私も話したいのは山々なんだけど、まだややこしい状態でしょ? だから色々ちゃんと決まるまでは避けたかったっていうか……まぁ、問題ナッシングよ」

 

 たはは、と笑ってサムをアップする優。それを聞くと、彼女の交友関係に実際的な影響を与えてしまっているのだと、美咲は改めて申し訳なく思った。

 

「なんか、ごめんね……」

「もー、それ聞き飽きたよ? その代わり、例の件はよろしくね?」

「あはは、それも耳たこだね……まぁ、期待せずに待っててよ」

「うん、期待して待ってるね! じゃ、ちょっとこころちゃんと話してくる」

 

 弁当片手に優は、膝行(しっこう)のような動きでこころに寄って行く。

 

「こころちゃん、おかずの交換しましょ」

「あら、優。素敵な提案ね。なんでも持っていっていいわよ? いーっぱいあるもの!」

 

 そう言うこころの周りに広がっているのは、段ごとに分けられた重箱。彼女、何のこともない普通の日でもこのような量を持ってくるものだから、消費にはいつも花咲川のハロハピメンバー総出である。おかげで美咲などは最近、朝弁当を作るときにおかずを減らしているとか。

 

「ありがとう! 今まで機会がなかったけど、こころちゃんとはずっと話したいって思ってたんだ」

「そうなの? とっても嬉しいわ。あたしにも優の事、もっと教えてちょうだい!」

 

 こころと共にきゃいきゃいと盛り上がる優を見て、美咲は感嘆した。

 

(祖師谷さん、すごい人だなぁ……)

 

 

 彼女が知る限り、弦巻こころに物怖じせず接することができるのは、香澄然り、はぐみ然り何処かぶっとんだ人ばかりだった。香澄やおたえと一緒になって有咲を疲れさせている場面を知っている美咲は、優にも密かにやばい奴の嫌疑をかけていたのだが、実際に話してみることでその認識は打ち砕かれていた。

 時には高いテンションで周囲とばか騒ぎし、美咲のように騒がしいのが得意ではない人には落ち着いて話ができる。

 

「ねぇねぇ、優。あなたの中のコウはどうすれば出てくるのかしら?」

「うーん、あんまり早い時間から出てくることって滅多に無いのよね……。ちょっと寝たりしたら出てくるのが多いかなぁ」

 

 加えて、このような誤魔化しを自分で咄嗟にしてくれるところも、美咲にはとてもありがたいこと。

 『メイビーぶっ飛びガール』から『人付き合いうま子』へ。美咲の中の優の印象はいつの間にか、そのように移り変わっていた。

 このあと優が意外な健啖ぶりを披露して、めでたくすべての箱はすっからかんとなった。

 

 

 

 特に何事もなく時間は過ぎ、やってきた放課後。香澄たちやはぐみに捕まる前に、急いで教室を脱出した優は普段生徒が使うことはない裏門へ走っていた。

 

「よっ、ほっ!」

 

 鞄は教室に置いてきている。これ以上ない身軽な身体で優がスカートの翻りも気にせず門横の塀を飛び越えると、その先には予定通りに黒の車が止まっていた。周りに誰の目も無いことを確かめ、彼女は車に乗り込む。

 

「よし、じゃあ今日あった事を簡潔に言うよ」

 

 挨拶やら前置きやらをすべて吹っ飛ばして、車内にいた人物へと話しかける。その相手はなんと、もう一人の優だった――。

 

「ん、お願いお姉ちゃん」

 

 というのは傍から見れば、の話。本人同士は互いに相手が誰なのかきちんと理解している。優は弟に向かって、学校での出来事を掻い摘んで説明した。

 

「二重人格、それに名前も一緒って……。それ、よくバレなかったよね?」

「うん、私もそう思う」

 

 ミッシェルの事といい、こころたちは鳥類のインプリンティングに近しい何かでも持っているのだろうか。

 名前が同じ方がコウが対応しやすい事は確かであるのだが、そう疑わずにはいられなかった。

 

「そろそろ教室に戻らないとね。『ちょっと野暮用!』って言って逃げてきたから、あんまり遅いと疑われちゃうし」

「う、うん。そうする」

 

 スライド式の扉を開け、地面を足をつける。一見すればただ優が車に乗って降りただけ。かくして、祖師谷姉弟の入れ替わりマジックは完了したのだった。

 

 

「お、おまたせしました……?」

 

 コウが教室へ戻ると、ハロハピかつ花女の面々が勢ぞろいしていた。対して、ポピパ組の五人の姿はなく先に帰ったのだろうと思われる。

 

「あ、おかえり! ……ん? 『しました』?」

「優は敬語なんて使わないし。もしかして、あなた……」

「はい、コウです。皆さん、昨日ぶりです」

 

 言葉の節々におかしさを感じ取ったらしく、何も言われるまでもなくはぐみたちはその正体を看破した。

 

「ねぇ。ねぇねぇ! 昨日はぐみたちと一緒に演奏して、ハロハピに入ったよね!?」

 

 昨日ぶりという言葉に反応して、はぐみがコウの肩をガッと掴む。昼前に優に『知らない』と言われたことが余程堪えているように見えた。

 

「はい、そうですよ」

「……! だよね! よかったぁ~。あ、そうだ。さっきの授業中にずっと考えてたんだけどね、君のこと何て呼ぼうかなって」

(や、授業はちゃんと受けなって……)

 

 はぐみは同学年以下の友達をあだ名で呼ぶ傾向がある。例をあげれば香澄や有咲をかーくん、あーちゃんと呼んだり、ハロハピ内でもこころん、みーくんなどの名が日常的に使われている。一応、山吹沙綾だけは『さーや』と呼ばれているが、これも『さあや』ではないため、厳密にはあだ名のようなものだ。

 

「『こーちゃん』なんてどうかな? 最初は『こーくん』かなって思ったんだけど、それじゃ弟くんの方と被っちゃうから」

「こーちゃん……。はい、いいと思います」

「ほんと!? 気に入ってくれたならよかった!」

 

 心の底から嬉しそうな様子で、はぐみはコウの名を何度も呼ぶ。昼休みの時の消沈ぶりが嘘のようだった。

 

「全員揃ったし、そろぼち行こっか。また薫さん待たせちゃうし」

「それもそうね。行きましょう」

 

 そこに異論のあるものは誰もおらず、五人は学校を出た。



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第11話「其々の贈物」

「やぁ、みんな。待っていたよ」

 

 なんやかんやで辿り着いた弦巻邸。薫は昨日とは違い、五人のことを門の所で待っていた。

 

「すいません薫さん、待ちました?」

「いいや、今来たところさ。気にしなくていいよ、美咲」

 

 晴れてメンバー全員がそろったということで、一同は屋敷へ入る。幅が広く、かつ長い廊下を六人仲良く進む。その光景といえばもう、誰が見ても仲良しだと思うだろう。

 

「あの、美咲さん。昨日は流されちゃって訊けなかったんですけど……」

「ん、どうしたの?」

「えっと、どうして僕たち手を繋いでいるんでしょう?

 

 何故なら、六人全員で手を繋いでいるのだから。まるで『はないちもんめ』しながら歩いているようだ。

 

「あぁ、そうか。コウくんもうちに入るなら知っておかなきゃいけないか。ハロハピにはね、絶対にしちゃいけないこと……まぁ禁止事項みたいなものかな、そういうのがあるの」

「き、禁止事項……?」

 

 自分の左手を握る少女からの神妙な言葉にコウは思わず息を呑む。基本的に陽気で楽しげな雰囲気があるハロハピだというのに、()()事項とは穏やかでない。それは一体どれほど重大なものなのか、と彼は次の言葉を待った。

 

「例えば『広い場所では、花音さんから目を離してはいけない』とかね。それであたしが花音さんの手を握ってたら、こころたちが便乗してきたのが習慣化したというか……」

「……へ? あぁ、えっと、なんといいますか……」

「拍子抜けした?」

「禁止事項っていうくらいですから、もっとこう怖くて厳しいものかな、と……」

「まぁ、そう思うのも無理ないよね。けど、実際花音さんの方向音痴は偶に本気で洒落にならない時あるから……」

 

 美咲の脳裏に浮かんでいるのは、それを破った為に大惨事一歩手前にまでなった事態の数々。例をあげれば、電車で出かけたときに気づけば花音一人が新幹線乗り場にいたり、弦巻邸で行方不明になり黒服達による捜索でもなかなか発見されなかったり。

 ちなみに禁止事項には他に『はぐみの父にこころが建てたバッティングセンターに関することを知らせてはいけない』やそこから連鎖的に生まれた『こころの前で安易に規模の大きい望みを口にしてはならない』などがある。もっとも、この事項を認識し守っているのは美咲と花音の二人だけで、他の三人はそんなことなどお構いなしなのだが。

 その後も他愛ない話をしながら歩き続け、六人はハロハピ会議室を目前にしていた。

 

「じゃあコウ、ちょっとここで待っててくれるかしら? いいよって言ったら入ってきてね」

 

 扉をあける直前、こころがコウへそんなことを言った。それから肩をグイッと押して後ろを向かせ、部屋へと入って行く。他メンバーもこの事は予め知っていたらしく、何も言うことなく続いた。ただ、その最後に美咲がコウの耳元でこう囁く。

 

「部屋前で待機なんて、いまどき言われても色々丸わかりだろうけど。ま、付き合ってあげてよ」

 

 バタンと背後で扉が閉まる。それから数分、扉一枚を隔てた向こうから、許可を示すこころの声が届いた。

 取り決めに従って、コウは扉に手を掛ける。恐る恐るといった様子で彼が力を込めてゆくと――パァン! と。突然に、破裂音が鳴り響いた。三つも、四つも、連続して。

 

「ひゃぁっ!?」

 

 さらに同時に、頭上から正体不明の何かが降りかかってくる。光を反射させながらヒラヒラと舞い落ちるそれを振り払うこともできず、コウはただ茫然としていた。

 

「……? へ? え……へ?」

「ちょっと、大丈夫?」

 

 前振り有りのサプライズでまさかここまで驚くとは、と逆に驚く美咲が手を差し伸べる。が、まだ頭が回っていないようで、彼はそれを取ることなく見つめるだけ。もしこれが事前に頼んだ通り、こころたちの為の演技だとすれば、彼はとんだ役者ということになる。

 

(いや、本気で驚いてる……?)

 

 もっとも、そのような可能性は見るからに皆無であるが。

 

「えー、そこまでびっくりする事だった?」

「み、美咲さん、さっきのは一体何ですか……!?」

「何って、普通にクラッカーだけど――あー、なるほど」

 

 言っている最中に美咲は感づいた様子だが、果たして、コウはクラッカーという物を見たことがなかった。その存在自体はかろうじて知識に中にあったが、具体的なことは、形状すら未知なくらいだ。

 いつまでも動かないコウを美咲は能動的に引っ張り起こし、きちんと立たせる。

 

「じゃあ改めて。コウくん、ハロハピへようこそ」

「あ、そうだったわ。コウ、ようこそ!」

「こーちゃん、よろしくね!」

「初対面ではないのだが……初めまして、と言っておこうか。ハロハピへようこそ」

「これからよろしくね、コウくん」

「本当はクラッカーの直後に言う予定だったんだけど……しまらないなぁ」

 

 しかし、そこがまた彼女たちらしい。そんなこんなで、なんとかパーティーは始まった。

 

「じゃあ、早速だけどプレゼントにしましょう!」

 

 料理の並ぶテーブルや、たくさんのおもちゃが部屋にはあるというのに、こころはまず最初にそう言った。

 

(えっ!?)

 

 その言葉に、またもびっくりしたのはコウ。何の話かわからず自分以外の反応を窺ってみるが、四人は『そうする?』などと、当たり前のように話を続けているものだから、混乱はさらに極まった。

 

(プレゼント……ぷれぜんと……?)

 

 思えば、昨日の帰り道。優からの着信履歴の発見によって、『ROW』を入れるという話が有耶無耶になってしまっていたが、もしや彼が知らないうちにそのアプリで話し合いがされていたのか。パーティー定番のイベントとして、互いに贈り物をし合うプレゼント交換なるものがあると、これまた知識の上でだけは知っていた彼は頭を抱えた。

 

(えっと、えっと……)

「あー、コウくん? 見るからにすっごい慌ててるけどさ、いま考えてるだろう事は多分、杞憂だよ」

「……へ?」

「だって今言ってるの――コウくんへのプレゼントだから」

 

 ズイと箱がコウの目の前に差し出される。それは彼が両手で抱えられるほどの大きさで、差出人はこころだった。

 

「あたしからはこれよ!」

「これは……?」

「その箱にはね、私が今まで『楽しい』って感じたものがたーっくさん入ってるの! コウに、幸せのお裾分けよ」

 

 コウは箱の蓋を開けてみる。そこには数冊の絵本に、ルービックキューブ、他にもよくわからない玩具が多数入っていた。

 

「私からはこれは贈らせてもらおう」

「これは、哲学書?」

「あぁ、数ある中でも特に私が気に入っているものだ。ニーチェという人物の本なのだが……ふふ、知っているかい?」

 

 薫が手渡したのは一冊の本。日本語で書かれた表紙はところどころ端が傷んでおり、深く読み込んできた事がわかる。それを受け取ったコウは薫の言葉に、少しだけ考える素振りをした。

 

「ニーチェ……確か、プロイセン生まれの哲学者でしたっけ?」

「プ、プロ……? んん! あぁ、そうだったかもしれないね」

 

 先の事を見越して学んだ倫理の単元の知識を引っ張り出してコウが答えると、薫は何故か少し狼狽し、それから取り繕ったように相槌を打った。まるで、お気に入りだと言いながら、実は著者について何も知らないかのような反応だ。

 

(まぁ、そんなことはないでしょうけど……)

「こーちゃん、ごめーーん!」

 

 次にコウの前へ躍り出たのははぐみ。しかし、その手には何も握られておらず、涙目で勢いよく頭を下げた。

 

「はぐみもね、何か用意しなきゃって昨日一日ずっと考えたんだけど……結局何も思いつかなくって。ほんっとごめん!」

「いえ、そんな。お気持ちだけでとっても嬉しいです」

「――だからね! 代わりにとーちゃんに頼んで厨房借りて、メンチカツ作ってきたんだ。ゆーうんが好きって言ってたからこーちゃんもきっと気に入ると思う!」

 

 そう言ってはぐみが手を向けた先には、鮮やかな色の料理が並ぶ一角に遠目からでもわかる茶色いワンコーナーがあった。話を聞く限り揚げたのは大分前の筈だが、何かしらの方法で温めなおしたのか、湯気を立ち昇らせている。

 

「じゃあ、次は私だね。はいどうぞ、コウくん」

「あ、花音さん。ありがとうございます」

 

 四番手。花音は中腰になって、小さな箱を渡した。促されるままコウが開けてみると、中にはさらに小さな縦長の袋が。彼に見覚えはない。

 

「えっと……」

「これはティーバッグだよ。私、紅茶にはちょっと拘ってて、お気に入りのをいくつか見繕ってみたんだ」

「紅茶、ですか。そういえば飲んだ事なかったかも……。ありがとうございます、おうちでゆっくりいただきますね」

「そうなの? じゃあ私の選んだのがコウくんの初紅茶になるんだね……ちょっと緊張というか、でも嬉しい」

 

 えへへと花音が笑うと、コウもつられて笑んだ。

 

「んじゃ」

 

 そして、この場にいる最後の人。コウの事情に最も詳しい人。奥沢美咲が、声をあげた。

 

「あたしの番か。はい」

 

 今までの誰よりも淡白に、美咲は何かを手渡す。コウが手を開いてみると、それは小型の音楽プレイヤーだった。イヤホンも付いている。

 

「そこに今あるハロハピの曲、全部入ってるから。操作方法は……まぁ、わかんないだろうし、あとで教えるよ」

「あ、ありがたいですけど、こういう機械って高かったんじゃないですか?」

「ん、まぁ買うとそれなりにするけど、これは父さんのお古だから気にしなくていいよ」

 

 値段でいえば高価かもしれないが、あくまで貰いもの。他のメンバーの事を考えれば、むしろ申し訳ないくらいだと美咲は考えていた。だから、

 

「じゃ、次はこれね」

 

さらなるプレゼントを、彼女は用意した。

 

「え、二つですか?」

「まぁ、ある意味ではそうなんだけど。こっちはミッシェルからだよ」

「あ、なるほど」

 

 もう言うまでもない事だが、ミッシェルと美咲を別の存在だと認識できているのはハロハピ内で半数だけ。残りの三人の中では、ミッシェルは今日はお休みということなっている。ここで事前に美咲が受け取っておいた事にして、後日ミッシェル状態の時にとやかく言われるのを避けようというわけだ。

 美咲からの第二の贈り物は、紙の束だった。

 

「あ、楽譜ですね。これ」

「そ。紙かメモリースティックかで悩んだんだけどね。コウくんならこっちのがいいかなと思って」

 

 果たして、彼女の判断は大正解である。祖師谷家にパソコン自体はあるが、あいにく彼の手の届く範囲にはない為、もし電子媒体で受け取っても見ることは叶わなかったはずだ。

 

「皆さん……ありがとうございます。すごく嬉しいです」

「何を言っているの? まだ終わりじゃないわよ」

「え?」

 

 コウが礼を述べると、しかしこころは『どういたしまして』とは言わなかった。言うには、美咲で最後ではないらしい。彼女がパンと手を鳴らすと、これまでで最大の大きさの箱を持って黒服の人達が奥の部屋から現れた。

 

「これは、あたしたちみんな――ハロハピからのプレゼントよ!」

 

 声に合わせて、見事な手際で包装が解かれる。ピカピカのキーボードが、そこには居た。

 

「わぁ、小さなピアノですね」

「コウくん、これはキーボードっていうんだよ」

「本当はオルガンを用意したかったのだけど、ミッシェルがこっちの方がいいって」

「もう、まだ言ってるの?」

「だって――」

 

 わいわいと。少しでも何かあればすぐに騒ぎが起こる。しかし、そこにいる誰もが楽しげに笑顔を浮かべていて――。

 

「今度こそ、皆さんありがとうございます」

 

 コウの言葉に、皆一様に動きを止め彼の方へ顔を向ける。それから揃ってこう言った。

 

『どういたしまして!』

 




はぐみの父の呼び方がガルパラだと『父ちゃん』で、運動会星4のメモエピだと『と-ちゃん』なんですが、どっちなん……


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第12話「足元の探偵」

「あー、疲れた! 休憩、休憩!」

「お疲れさまー。はい、タオル」

 

 ハロハピが歓迎パーティーを催している同刻。『Poppin'Party』の五人は市ヶ谷宅にある蔵の地下で練習に励んでいた。

 近々披露する予定の曲を一通り練習し終えたということで、一同は休憩に入る。有咲などは、傷んでしまわないか心配な位の勢いでソファへ腰を投げ出していた。

 

「ああ~、茶がうめえ」

 

 ポピパがここに集まると、練習を始める前に茶菓子などを用意して少し駄弁る事が習慣になっている。その時に入れておいた熱い緑茶が時間を経ることで冷め、疲れた体には丁度良い温度になっていた。

 

「ねぇねぇ有咲~、なんかお菓子ないの?」

「菓子ぃ? 上に行けばあるけど――いや、飴ならあったな。りみ、そこの棚のどっかに入ってると思うから、ちょっと探してみてくんね? あ、一番上は工具だから」

「うん、わかった」

 

 有咲が、菓子の所在に一番近かったりみに頼む。彼女はそれを快諾し、まず棚の二段目を開けた。

 

「うーん、ないなぁ」

 

 しかし、目当てのものは見当たらない。ここではないようだ、とりみはめげずに次の段に手を掛けた。

 だが、またも目標は存在しない。そこには畳まれた古びた布や、よくわからない置物など、年季の入っていそうなばかりが入っていた。

 

(……あれ?)

 

 その中に、りみは一つだけ違和感を纏う物を発見した。

 それは財布。周囲の物が等しく埃を被っているのに対し、その上だけが何も降り積もっていなかった。

 

「ねぇ、有咲ちゃん」

「ん? あったか、りみ?」

「ううん、そうじゃないんだけど。このお財布だけ綺麗なのが、なんだか気になっちゃって」

「あー、それな……」

 

 有咲は首だけをりみの方へ向けて何の事を言っているのか確認すると、途端に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

 

「あー! 有咲そんなところに隠してたの!?」

「……香澄の目の届くところに置いておいたら、どうなるかわかったもんじゃねぇからな」

「もう有咲そんなこと言って、いくら私でも他人の物に変なことなんかしたりしないよ!」

「うるせー! お前自分がこれ拾ったときに言ったセリフ思い出してみろよ!?」

「え、えー? 何か言ったっけなぁ……?」

 

 毎度のことながら、まるで漫才かのように会話する二人。状況の飲みこめていない三人から、たえが先んじて割って入った。

 

「二人とも、何の話をしてるの?」

「いやな、この前の日曜の話なんだけど――」

 

 有咲は呆れ混じりに香澄の仕出かした事を説明する。話が終わる頃には、沙綾とりみは口元に乾いた笑みを浮かべていた。

 

「有咲、ねこばばは駄目だよ?」

「ちげー! 香澄が変な気起こさないように私が持ってるだけで、ちゃんと返すつもりだっつーの!」

「どうやって?」

「う……」

 

 言葉が詰まる。たえの口にした至極もっともなその疑問は、既に有咲の中で何度も繰り返されたものであったから。

 

「にしても、香澄は相変わらずだね」

「うーん、私は普通にしてただけなんだけど……あ、そうだ! その子ね、さーやのとこのパン食べてたの。日曜、来なかった? ちっちゃくて白い髪の子なんだ」

「うん、来てたよ」

 

 沙綾は即答する。彼女としてもその少年の事は濃く記憶に残っており、思い出すのに数秒もいらなかった。

 

「じゃあじゃあ、その子の事何か知らない? 住んでる所とか、よく居る場所とか」

「いや、知らないなぁ。知り合いってわけじゃないし、お店に来たのもその時が初めてだしね」

「えー、ほんとちょっとの事でもいいから、何か知らない?」

「そう言われてもなぁ……」

 

 件の少年と沙綾との関係は、たったの数分一緒にいただけのもの。何も成果は得られないだろうな、と何処かで感じながらも沙綾はあの日の事を回想した。

 

(買い物から帰ったら、あの子が店の前にいたんだよね。話しかけたらすごいびっくりしちゃって……ふふ、あれはちょっと可愛かったな。それからおすすめのパンを見繕ってあげて、買って、それだけだよね? お会計はちょっとびっくりしたけど。その後はすぐに店を出て行っ――あ)

 

 そして、思い出した。彼が出て行った後、そぞろに覗いた指の枠に映った光景を。

 

「どう、何かわかった?」

「……ううん、ごめんね」

「そっかー。じゃあ前会ったのも休日だったし、今度の土日にでもあの辺探してみるしかないなぁ」

 

 香澄はそう言って、いつの間にかりみが見つけていた飴を口に放り込む。有咲の好みかそれとも祖母か、味の濃い塩レモン飴は疲れた体によく染みた。

 

「……で、何かわかったんだ?」

 

 財布の事を過去に皆が思い思いの事をする中、ボソリと有咲が沙綾にだけ聞こえる大きさで問いかけた。

 

「あー、まぁね。けど、かもしれないってだけだから。不確かな事言う訳にもいかないし、確証が持てたら話すつもりだったよ?」

「ふーん、いいけど」

「ふふ、にしても、有咲は周りの事よく見てるねー?」

「……るせー」

 

 再会のときは、きっとそう遠くない。

 

 

 

――――――

 

 

「ただいまー」

 

 辺りが仄かに暗くなってきた頃、沙綾は自宅の扉をくぐっていた。

 

「姉ちゃんおかえりー!」

「おかえりー!」

「はいはい、ただいま」

 

 出迎えてくれる弟、妹の頭を撫でてやり、階段を上がって自室へ入る。いつもならすぐに着替えて店の手伝いに行くところだが、今日はその前にすると決めていた事が一つだけあったのだ。

 

「…………」

 

 携帯を取りだし、ある友人に電話をかける。少しの間を経て、電話の向こうから()()の声が届いた。

 

『ちょっと待ってね。そ、友達……もしもーし。沙綾? 珍しいね、掛けてくるなんて』

「えー、そうかな」

 

 その相手とは、祖師谷優だった。通話の初めに極めて小さな声が入っており、どうやら誰かと話していたらしい。

 

「誰かと話してたみたいだけど、もしかして今忙しかったかな」

『いや、まぁ確かにちょっと大事な話してたところだけど、別に今じゃないとって訳じゃないから問題ないわよ』

「そっか。あ、ちなみに、それって優の弟くんの話だったりする?」

『あれ、よくわかったわね。そうなの! 今ね、今日あった事をたっぷり聞かせてもら――んん?』

「優、どうかした? ……ふふ」

 

 優の間の抜けた声が聞こえた。電話の向こう側できっと浮かべているだろう表情までもが容易に想像でき、沙綾は失笑してしまう。今自分はずいぶんと意地悪く笑っているのだろうと、彼女はそう思った。

 

『……私、沙綾に弟がいるって話したことあったっけ?』

「いやー、どうだろうね? 少なくとも私の記憶にはないかなぁ」

『え、えぇ? あれ、どういう事? なんで沙綾が……?』

「わぁ、待った待った、落ち着いて! ちゃんと説明するからさ」

 

 優の混乱を極めた様子に、沙綾は思わずそれを鎮め、説明した。

 

「前の日曜ね、ある人がうちの店に来たんだ」

『へ、へぇ。そうなんだ』

「……その辺も知ってたね?」

『うえ!? ……まぁ、知ってたけどさ』

 

 途中、その声色から沙綾が指摘をすると見事に的中する。『なんでわかるの、こわ』という声が微かに聞こえた。

 

「まぁ、私もそれなりに長いこと店の手伝いしてるし、しかも商店街の交差点じゃない? この辺の人はだいたい顔わかるんだけどさ、その子は見た事が無くって」

『……それで?』

「結局その時は特に何も思わなかったんだけど。今日、香澄たちがその子を探してるって知ってさ、色々考えてみたらなんとなく思っただけ。要するに、ほとんど勘みたいなものかな」

『え、それだけでわかったの?』

「髪とか目の色、一緒でしょ? 顔もかなり似てたし。それに、優ってば最近なんか振る舞いが変だったから。見た感じ学校に原因があるわけではなさそうだったし、家で何かあったのかなーって。あと、優の家がお金持ちって事も一つかな」

『…………』

 

 自分が手掛かりにした事象を並べて告げると、しばらく無言の時間が続いた。そしてやっと捻出された言葉は、なんというか、疲れた様子だった。

 

『沙綾、あんた探偵になれるんじゃない?』

「名探偵沙綾ちゃん、調査に携えるはやまぶきベーカリーのおいしいあんぱん! ……なんてね」

『たまにそういうとこあるわよね、沙綾って……。ま、いいや。白状するとね――』

 

 優は沙綾の茶番を適当にいなし、その事情を細かく話した。長く、それでいて普通の人からすれば突飛な説明だったが、沙綾は何も言わず最後まで静かに頷いていた。

 

「そっかぁ。それで最近ハロハピの人たちといたんだね」

『うん、最初はさ、沙綾たちに力を貸してもらおうと思ってたんだけどね? たくさん協力者がいればいいって訳でもないし、なりゆきで……』

 

 その言葉の通り、優は初めは弟についてポピパのメンバーを頼るつもりでいた。香澄が周囲を引っ張ってバンドが作られていく様を間近で見ていた故に、彼女ならなんとかしてくれると、そう考えて。

 

『ごめんね、隠してて。でも、沙綾たちが信用できなかったとか、そんなんじゃ絶対ないから!』

「ふふ、わかってるよ。その代わり、今回の事はいいからさ、他に何か困った事とかあったら遠慮なく相談するんだよ? 友達に、一人で抱え込んでほしくないからさ」

 

 それは実際に自分がそうだったからこその言葉。そこに乗せられた想いは、過去を知っている優に真っ直ぐに響いた。

 

『うん、約束する。色々落ち着いて、来週くらいになったらこの事も話せると思うから。それまで香澄たちには秘密にしておいてくれない?』

「しょうがないなぁ。わかった」

『ありがと、沙綾!』

 

 こうして優に、気の置けない協力者が一人ばかり増えたのだった。




『話した』って『はなした』か『はなしした』かわかりませんよね


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第13話「親情の自覚」

短め


 夕陽が照らす住宅街の道。美咲とコウの二人は手繋ぎで歩いていた。花音がこの場にいないのは、帰りに直接バイト先に向かって行った為だ。

 

「やー、疲れたね」

「こんなにクタクタになったのは初めてです……」

 

 歓迎会が終わったのは六時頃。平日の学校終わりということでおよそ二時間という短さであったが、彼らがこうなってしまう程度には濃いパーティーだった。

 初めの内こそ立食会のように料理を摘まみながら皆でおしゃべりをしていたのだが、途中から舞台は広い庭に移り、その場でこころが考案した意味不明な遊びをしたり、鬼ごっこではぐみが一人無双したり。思い返せばこうして長いが、パーティー終了直後の彼にはまさしく一瞬に感じられた。

 

「しんどかったけど、まぁ楽しかったよね。しんどかったけど!」

「そう、ですね。とっても楽しかったです」

 

 タハハ、と美咲が笑いかけるとコウはえへへ、と笑み返した。誰にも違和感を受取らせない、至極自然な笑顔。

 

「…………」

「……美咲、さん?」

 

 それを見て、美咲には思うところがあった。

 

――果たして、自分はこの子のために何かしてあげれているのだろうか?

 

 『いっぱい楽しい事を教えてあげてほしい』とは彼の姉からの訴えだが、美咲の考えでは、そもそもこれは一つの頼みとしては完結しているが、一つの願いとしては不完全なのだ。例えるなら、詳細不明のスイッチを渡されて『押してくれ』と言われているような、そんな代理行為じみた何かを感じてしまう。

 きっと優はコウに対して『してほしい何か』や『辿り着いてほしい何処か』を持っていて、その為に楽しい事を知ってもらおうとしているのだろうと美咲は思うが、そういった優の願いの本質がわからない以上、先の彼女の疑問への答えは見つかりそうになかった。

 

(祖師谷さんはあたしに何を求めてるんだろう……?)

「――さん。美咲さん?」

「……ん?」

 

 突然――彼女からすればだが――横側から声を掛けられた美咲はおもむろに発生源の方向へ顔を向ける。そこでは、下がり眉のコウが心配そうな表情で美咲をじっと見つめていた。

 

「……あ、かわいい」

「か、かわっ!?」

 

 深い思考から引き戻された直後だったからか、美咲はポロリと心内の言葉をそのまま口から零してしまう。当然、コウはおおいに慌てた。

 

「あれ、あたし何言ってんだろ? ……や、ごめん。道端でさ、散歩してる犬とか猫とかいたらつい言っちゃう時あるでしょ? そんな感じで」

「急に黙っちゃうから、心配してたんですよ? それなのに……もう」

 

 そして今度は上がり眉。小さく頬に袋を作るコウを見て、美咲の口はまたも勝手に動いてしまった。

 

「……怒ってもかわいいとか反則じゃない? ――あ」

「美咲さん! もう、もう!」

「ごめ、ごめんって。だからそんなにポコポコ叩かないでよ……かわいいだけだから」

「ッーー!?」

 

 謝ると見せかけての追いうちに、コウは袋をさらに大きくしてポコポコと抗議をする。だが、痛みはまったくない。そんな彼の愛らしさにモヤモヤとしていた美咲の心は、すっかり晴れ模様を呈していた。

 

(祖師谷さんが最終、何を望んでるのかは結局わからないけど……まぁ、いいかな)

 

 小火山は依然として小火(ぼや)の如く怒っているが、それも軽く微笑んで撫でてやると完全に鎮まる。思わず、かわいいと口にしてしまいそうになったが、それは何とか留めた。奥沢美咲は二度した事を三度せずにいられる女なのだ

 

(この子を、もっともっと笑顔にしてあげたい)

 

 それは優の協力者としてでも、ハロハピのメンバーとしてでもなく。ただ一人の、奥沢美咲という人間としての想いだった。

 

 

――――――

 

 

「た、ただいま」

「おかえり!」

 

 祖師谷宅。優は、扉を開けた己の弟の挨拶に間髪いれず返事をした。彼女はどうやら、昨日の出来事を踏まえて帰りを玄関で待ち構えていたようだ。

 

「もうお姉ちゃんったら、こんなところでずっと居たらお腹痛くなっても知らないよ? 体は足から冷えるんだからね?」

「う、わかってるわよ……。けど、どうしても我慢できなくって」

 

 そのもっともな言葉に優はたじろいだ。靴下を履いてこそいるが、確かに足が少し冷たくなってきている事は否めなかったから。

 その事を誤魔化すように彼女は、弟が靴を脱ぐとすぐに手を引いて自分の部屋まで引っ張った。優命名、おねえちゃん署である。

 

「さーてさてさて、それじゃあ今日の取り調べといきましょうか!」

「お姉ちゃん、そのテンション何なの……?」

 

 二人がベッドに腰を掛けると、優は早速目を輝かせてぐい、と顔を迫らせる。見るからに高揚している姉に彼は、少しばかり冷めた目を向けた。

 

「まぁまぁ、いいじゃない別に。ふふ、今日は一体どんな事が――あら?」

 

 弟の口から楽しい話を聞く。そんな優の幸せな時間が始まろうというそんな時、彼女の携帯が電子音を鳴らした。手にとって確かめてみると、その発信元は優の友達の一人、山吹沙綾。

 

「ちょっと待ってね」

「お友達?」

「そ、友達……もしもーし、沙綾?」

(山吹さん?)

 

 優は一言断りを入れた後、着信ボタンを押して電話を寄せた。

 

(山吹さんがお姉ちゃんに……一体どうしたんだろう?)

「今ね、今日あった事をたっぷり聞かせてもら――んん?」

 

 沙綾が電話をしてきた理由について彼なりに考えていると、優が突然素っ頓狂な声をあげた。

 

「え、えぇ? あれ、どういう事? なんで沙綾が……?」

 

 考え事をしていたため会話を聞き逃してしまった彼は、何があったのか優へ問おうとしたが、それより先に彼女は小さく耳打ちをした。

 

「ごめん、話は一旦中止。ちょっと自分の部屋に戻っておいてくれる?」

「え、え? ……うん」

 

 背中を押され、何が何だかよくわからないまま彼は言葉通り自室へ戻る。電話なんて長くても精々十分ほどだろう、そう考えた彼は姉が再び迎えに来る事をひたすらに待ったが、ついに彼女が訪れる事はないまま夕食の時間が先にやってきてしまった。

 

(あ、そういえばメンチカツ美味しかったな)




この物語は作品内時間二週間で完結する予定なんですが、まだその内の二日目なんですよね……。
二日目で約五万五千文字と考えると、完結するのは……





      \ 三十八万五千文字 /



いけるかな?


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第14話「美咲の趣味」

「じゃあ、また後で。楽しんでくるのよ」

 

 花咲川女子学園の裏、相変わらず人気の無いその場所で祖師谷姉弟は今日も入れ替わりを行っていた。

 

「えっと、お姉ちゃん。僕、今日は何をするのかまったく聞かされてないんだけど……?」

 

 車内で、扉の方向へグイグイと背中を押す姉にコウは言う。言葉の通り、彼は部屋で昨日渡された音楽を聞き耽っていたところ、突然黒服に連れ去られてここにいた。おそらくは優が事前にそう指示していたのだろうが、それならば自分にも一報あってよかったのでは、とコウは思わない事も無かった。

 

「まぁまぁ、今日は向こうから迎えに来てくれるみたいだから。そっちで聞いてよ、じゃ!」

「あ、ちょっと!」

 

 まだ会話の途中だというのに、彼が地に足を着けると優はさっさと扉を閉め行ってしまった。

 

(慌ただしいというか、なんというか……)

 

 今に始まった事でもないけど、と溜め息を零してコウは壁に身を預ける。聞き間違いでなければ姉は『迎えが来る』と言っていたはず。彼はその言葉を信じて、ここを動くべきではないなと判断した。

 それから待つこと約五分。彼の視界の端に、角を曲がって人影が入ってきた。

 

「あ、いたいた。やっほ、コウくん」

「美咲さん、こんにち――は?」

 

 彼も薄々感づいてはいたようだが、やはり迎え人とは美咲だった。知りあって日こそ浅いが、家族を除けば最も交友のある人物の登場にコウは挨拶をしながら小走りで駆け寄り――気付いた。

 美咲の後ろ、彼女が今まさにやってきたその角を、曲がってくるもう一人がいた事に。

 

「こんにちは、三日ぶり……いや、実は二日ぶりなんだっけ?」

 

 青い瞳、スラリとした肢体、そして一つくくりにされた髪。それは『Poppin'Party』のメンバーが一人、山吹沙綾に違いなかった。

 

「え、えーっと……?」

 

 沙綾の言葉への返答をコウは口の中に留めた。彼女の口ぶりはまるでその正体を知っているかのようだが、そんな事実を彼は聞いた覚えがない。どう判断すればよいかわからなかったコウは、美咲へSOSを示す視線を送った。

 

「あー、うん。何があったのかは知らないけど、山吹さんには全部バレちゃってるみたいだよ?」

 

 目だけでその意を汲み取った美咲が説明をしてくれる。その表情は少し呆れ気味だった。

 

「ん? 優から聞いてなかったんだ……。それじゃ、知ってるとは思うけど改めて。私は山吹沙綾、高校一年生だよ。よろしくね」

「祖師谷コウ、中学二年生です。こちらこそよろしくお願いします」

 

 自己紹介に続いて沙綾が手を差し出す。最初はその意味がわからない様子のコウだったが、次第に理解が及ぶと少し遠慮気味おずおずとそれを()()で包んだ。

 

「なんだか私がすっごい偉い人みたいな感じなんだけど……?」

「あ、気にしないであげて。その子ちょっと、世間とズレてるところあるから」

「なるほどね。話は聞いてたけど、こういうことか……」

 

 握手もそこそこに、場が静けさを取り戻すとコウは一番気になっている事を尋ねた。

 

「それで、今日は何をするのでしょう?」

「いや、私は知らないなぁ。奥沢さんが知ってるんじゃない?」

「実は決まってないんだよね。そこは歩きながら決めるってことで、一つ」

 

 言外に回答を求められた美咲は、人差し指を立てて苦笑する。それはすぐに二人にも伝染し、何とも言えない空気ができあがった。

 

「ま、とりあえず歩きましょ」

 

 美咲の声をきっかけに、三人はその場を去った。

 

 

 

 それから少し経ち、三人は商店街近くの道を歩いていた。

 

「にしても、まさかこんな組み合わせになるとはなぁ……」

 

 今も隣でコウに話しかけている沙綾を横目で盗み見て、美咲は小さく呟いた。

 というのも彼女、もともとはコウと花音と三人で活動するつもりだったのだ。ハロハピの練習予定が無いとはいえこころたちは依然フリー、だというのに敢えて人数を絞ろうとしたのには美咲なりに一つ、大きな思惑があった。

 

(あれが普通の事だと思われても困るし)

 

 優に頼みごとをされ、ハロハピで過ごし、コウが『楽しい』を知った。そこまでは良い。だが美咲は、その為に彼の中の常識が歪んでしまう事を危惧していた。

 ハロハピ、ひいてはこころと時間を共にすることが楽しいというのは、不本意ながら美咲も認めるところであるが、それは一般的に見ればはちゃめちゃな、あくまで非日常的な楽しさ。コウに正しく『楽しい』を知ってもらいたいならば、もっと身近で日常的なものも、と美咲は考えたのだ。

 そういった訳で、学校が終わると美咲はこころたちに適当な理由をつけて別行動をとったのだが、ここで一つ誤算だったのは花音が部活で同行できなかった事。

 計画が崩れ、どうしたものかと教室で途方に暮れていた美咲に声をかけたのが沙綾だった。この時点では、彼女が事情を把握している事は美咲にも伝わっていないので、何故話しかけられたのかわからなかったが、話を聞いて一つ強く思う事があった。

 

(祖師谷さん……一報くらいあってもよかったと思うなぁ!?)

 

 ()しくも、コウが優に抱いた感想とまったく同じものだ。

 

(ま、助かったっちゃ助かったんだけどね)

 

 花音が部活という事で空いた穴を補ってくれた、というのは確かであるが、何せ美咲と沙綾は交流が浅い。ガルパの合同練習をしたり、こころ主催の花見に参加したりと面識自体はある程度あったのだが、そのような場でも二人で会話した事はほとんどなかった。沙綾はそんな事を気にしない様子で親しげに話しているが、美咲の方は少し遠慮気味だ。

 

「それで奥沢さん、何をするか決まった?」

「あー、そうだね……」

 

 美咲は悩んだ。彼女自身、別段不幸の中に生きているとか、日常に楽しみが無いとか、そのように思った事はないが、いざ『日常の中の楽しい事』と言われてもすぐにこれといったものは思い浮かばなかった。

 

「山吹さんは、普段どんな事が楽しいって感じる? 趣味とかさ」

「そうだなぁ、カラオケとか?」

 

 カラオケ。中高生の間に広く人気で、実際美咲も偶に行く事があるし、楽しいとも感じる。

 

「コウくん、多分歌とかあんまり知らないだろうしなぁ……。他には?」

 

しかし、美咲は首を横に振った。彼の今までを鑑みれば、歌に触れる機会がそうあったとは思えず、よしんば歌えたとしても精々が国家など形式的、儀式的なものくらいだろうと予想できたから。

 

「……野球観戦とか?」

「うーん、悪くはないけど。まぁ、今からは無理だよね」

 

 次なる案も、即棄却された。

 

「じゃあ逆に、奥沢さんの趣味とかは?」

「え、あたし?」

 

 問われて、美咲は考え込んだ。最近している事と言えば、もっぱらハロハピに関する事が多い。しかし沙綾がそう答えなかった事からも分かるとおり、バンドという回答は今求められていない。そうなると、彼女の頭に残ったのは一つだけだった。

 

「……羊毛フェルト、かな」

「羊毛フェルトっていうと、編み物?」

 

 言葉を聞いて沙綾が思い浮かんだイメージを口にするが、美咲はそれを否定した。

 

「いや、編み物ではないんだけど……」

「あー、あれかな。なんか毛を針でぷすぷすって刺しまくるやつ?」

「そうそう、それ」

「テレビで見た事あるよ。そっかー。奥沢さん、そんな趣味があったんだ。いいんじゃない? それしようよ」

「……そうする?」

 

 賛否を尋ねる意味で、美咲は二人に顔を向ける。沙綾はどう見ても賛成。コウに関してはおそらく、どのような意見であっても否定するという選択肢がそもそも無いように見えた。

 

「んじゃ、そうしようか」

 

 少し道を引き返すことにはなるが、美咲は行きつけの手芸店がある方向へ歩き出した。

 

 

 

 そうしてやってきたのはショッピングモール。その二階の一角に目的の店はあった。

 

「ここだよ」

「へー、あんまりこういうお店は来た事なかったなぁ」

 

 慣れた足取りが店気が進む後ろを、キョロキョロとしながら二人が続く。どうにも年輩の方が多く、沙綾たちくらいの歳の人はあまり見受けられなかった。

 

「羊毛フェルトってなると、この辺一帯になるかな」

 

 いつの間にか目当てのコーナーに辿り着いていたようで、一行の足が止まった。

 立札には確かに『羊毛フェルト』の文字があり、色とりどりの羊毛が袋詰めで掛けられている。またその隣には針やよくわからない器具など、とにかく多用な物が売られていた。

 

「実際に来てみて思ったけど、羊毛フェルトってまず何から始めればいいの……?」

「そうだね、慣れてくると自分でイメージして合う羊毛を買ったりするんだけど。二人は初めてだし、セットになってるのを買う方がいいかも」

 

 そう言って、美咲は二つの袋を手に取った。片方は何も書かれていない、ただの色のついた羊毛が入っているだけのもの。他方は『羊毛でひよこを作ろう』とパッケージに記されており、まん丸にデフォルメされたひよこのイラストが貼り付けられていた。

 

「こういうセットは芯となる部分が予め用意されてたりするからおすすめかな。自分で作ってもいいんだけど、初めてだと綺麗に球にならなかったりするから。後は羽とか嘴とかパーツごとに刺し固めてジョイントする――あー、ひっつけたりするだけだから」

 

 と、そこまで説明したところで、美咲は二人が口を半開きに硬直している事に気がついた。まるで、何か信じられないものでも見たかのような表情だ。

 

「え、どうしたの?」

「なんか奥沢さん、すごい活き活きしてるなって思って……」

 

 沙綾が言うと、コウはコクコクと頷いて同意した。はて、と美咲は落ち着いて数秒前の自分を振り返ってみる。すると、確かに普段よりは少し饒舌だったと自覚でき、途端に体の底から羞恥が湧きあがってくるのを感じた。

 

「も、もう! そんなのいいから、早く自分が好きなの選んでよ!」

「ふふ、はいはい」

 

 きつめの言葉が美咲からぶつけられるが、照れ隠しに毒を吐かれる事は有咲と友達をやっている沙綾には慣れたもので、軽く受け流して選び始めた。最終的に、沙綾はスズメ、コウはペンギンのセット、美咲は白を中心に幾つか羊毛を選んでレジに向かった。

 

 会計を終えた三人は店内に置かれていたお洒落なテーブルの上に買った物を広げていた。手芸店というのは往々にこういったコーナーが置かれているもので、アクセサリー作りの体験などがよく行われている。

 

「ねぇ奥沢さん。道具とかって買わなくてよかったのかな」

 

 内容物を一覧して沙綾は疑問に思った。セットの中に入っていたのはほとんどが羊毛で、後は目となるプラスチックに説明書程度のもの。道すがらに話していた事によれば、羊毛フェルトは針を使うものの筈だが、そういった形をしているものは見当たらなかった。

 

「普通はそうなんだけどね。とりあえずフェルティングニードルは私の予備があるんで貸すとして、目打ちとか待ち針とか皆で使えるものはそうしよう」

 

 美咲が鞄から次々に道具を取りだしていく。

 

「よ、よくそんなに持ってるね」

「ん? まぁ、一応趣味でやってるからね。楽器とかと違って嵩張らないし、持ち歩けるってのもこれのいいところだよ。最後にマットだけど――」

 

 ただ一つ、問題だったのがフェルティングマット。これは刺した際に貫通してしまったニードルを受け止める役割を持つもので、厚さはおよそ四センチ、長さは十センチ越えと諸道具の中で一際大きい。よって、さすがの彼女も複数は持っておらず代用できる発泡スチロールなどもこの場にはなかった。このままでは作業に入れない、そんな状況は美咲は――。

 

「こうしちゃおう」

 

 なんと、鋏を手にとって、にわかにマットを切り裂いてしまった。

 

「……よかったの?」

 

 突然の狂行に二人は肩を跳ね上げたが、ここは店内。驚きで溢れそうになった声を咄嗟に抑え、代わりに不安そうな表情で沙綾が小さく尋ねた。

 

「フェルティングマットはさ、私のはこんだけ大きいけど実際そんなに面積もいらないんだよね。それに、そろそろ買い替え時かなって思ってたから」

 

 

 だから気にしないでいいよ、美咲は笑う。

 こうして、多少の無茶はあったが必要な道具はすべて揃い、彼女たちは作業に入る事が出来た。

 

「…………」

「…………」

 

 そこからは静かなものだった。

 初心者の二人が各々説明書を読み、慎重に針を動かす様子を美咲が無言で見守る。何から何まで彼女がつきっきりで教えるという選択肢もあったが、より『楽しい』を感じられるような気がするという理由で、敢えて説明書頼りに自力でやってもらうスタンスを取った。もちろん、それでも理解できないところはしっかりと教えるつもりだが。

 時には。

 

「美咲さん、さっきから何度も刺してるんですが全然固くならなくって……何か間違ってるのでしょうか?」

「ううん、そんなことないよ。まだ実感できてないだけでちゃんとできてるから、もうちょっと根気よく刺してみて」

 

 またある時には。

 

「うーん、フレンチナッツステッチって何……?」

「簡単に言うと、裁縫の玉どめして同じ場所にもう一回刺しなおすんだけど……ちょっとコツがいるから実演しようか」

 

 時偶の会話をアクセントに、ひたすら針の突く小さな音が響き続ける。作業開始から二時間ほど経って、ようやく全員が手を置く時がやってきた。

 

「……ふぅ」

「やー、疲れたねー」

「うん、二人ともお疲れ様」

 

 三人はそれぞれ、できあがった作品を見つめる。形が少し(いびつ)だったり、表面の毛羽立(けばだ)ちが激しかったり、見本より劣る点は多々見られたが、自らの手で作り上げたのだという達成感が、それらを大変素晴らしい物として彼女らに瞳に映した。

 

「どう? 悪くはなかったでしょ?」

「悪くはないだなんて……とっても楽しかったです」

「私も同感かな」

 

 共有したのが自身の趣味だという事で美咲は少し捻くれて問うたが、二人が述べたのは素直で綺麗なありのままの気持ち。その輝きに()てられたようで、美咲は少し紅潮した頬を隠すようにプイッとそっぽを向く。

 そんな彼女の手の中では、赤い瞳の白ウサギが整った造形で、在った。




該当シーンを描くにあたって、実際に手芸店に行ってスターターセット他を購入して参りました。小さな鳥のキーホルダーを作ったのですが、それだけで四時間ほど。けど、なかなか楽しいものでした。

一つわかったのは、ミッシェルの中に自分自身を入れて作った美咲はそうとう凄いってことですね(*´-ω-`)

何か間違ったことなど書いてしまっていれば、ご報告ください。


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第15話「好意の程度」

 何の変哲もない住宅街。夕飯時ゆえ、辺りに良い匂いが立ち込めるその道を、奥沢美咲は歩いていた。

 今日の夕飯は何かな、と取り留めなしに考えていると、いつの間にか目の前には自宅が。ポケットから鍵を取り出して、美咲は扉を開けた。

 

「あ、お姉ちゃん。おかえりー」

 

 それを、そうそうに出迎えてくれたのは彼女の妹。ここにいたのはどうやら偶然のようで、ラフな部屋着でお菓子を咥えながら廊下を歩いていた。

 

「ん、ただいま」

「もうすぐご飯できるってお母さん言ってたよ」

「……それなのに菓子食ってんのか、あんたは」

「えー、いいでしょ。こんくらいじゃお腹膨れないって」

「はぁ、だといいけど」

 

 どうにも未来を予期させるような言葉を流して、美咲は階段を上がる。自室が隣、ということで妹もその後をついて行った。

 

「今日も遅かったね。部活?」

「ううん、今日はちょっと手芸店に寄ってきただけ」

「えっ、じゃあ何か作ってくれたの!?」

 

 何でもない会話の途中、遅くなった理由を知り、美咲の妹は目を輝かせた。

 美咲は羊毛フェルトが趣味だ。しかし、更に詳しく言えば羊毛フェルトで何かを()()()に、特に楽しさを見出していた。

 細かな動作を毛嫌いする人からは共感を得られないかもしれないが、細い針を振るって纏まりのない羊毛を少しづつ確かな形にしていく、あの過程が楽しくてしかたないのだ。完成品はどうだっていい、とは言わないが、求められれば与えてしまうくらいには、執着を抱けずにいた。その結果、妹の部屋には既に美咲の作品が数十を超えて一つの棚を占領してしまっており、口にはしないながらも姉が何かを作ってくれるのを日々楽しみにしていた。

 

「あー……」

 

 対照的に、美咲は表情を曇らせた。何か、困った事でもある様子だ。

 

「……お姉ちゃん、どうかした?」

「……いや、何でもない。ごめんね、今日は道具に買い足しに行っただけで、作ってきたわけじゃないんだ」

「そっかー、残念。そうだ、その内でいいからさ、今度はリス作ってよ」

「ん、その内ねー」

 

 部屋に辿り着き、それぞれ自室へ入る。リボンを外して鞄を置くと、美咲は着替えもせずある物を引っ張り出した。

 それは今日、コウ達と共に作り出したウサギだった。赤い目。白い毛。それを見つめていると、気づけば美咲はいつの間にかその頭部へ触れていた。歪みなどが生じぬように、ゆっくりと、優しく指先を這わせると滑らかな感触が返る。わずかな毛羽立ちもないそれは、美咲の頑張りの顕れそのものだった。

 数秒触れて、ハッと我に返った彼女はウサギを机の上に置いき、ベッドに身を投げ出す。腕で視界を塞いで、小さく息を吐いた。

 

(なんか変だ……)

 

 前述の通り美咲は作る事をより好んでおり、生み出した作品それぞれに思い出はあっても、深い何かを感じた事はあまりなかった。だというのに、このウサギにはどうしようもなく愛着が沸く。それは、初めての感覚だった。

 

(いやまぁ、理由はなんとなく……ん?)

 

 その時、美咲の携帯が電子音を響かせた。取り出して確認してみると、画面には文字ではなく数字が表示されている。つまり、彼女の電話帳に登録されていない人物からということだ。

 

(090……家の電話じゃなくて、携帯からか)

 

 むむむ、と唸った美咲は相手の出方によってはすぐに切ろうと決めて、電話に出た。

 

「はい、もしもし。どちらさまでしょうか?」

『もしもしー? 山吹ですけど』

「あ、山吹さん?」

 

 携帯の向こう側から聞こえてきたのは、今日放課後を共にした少女の声だった。

 

「山吹さんから電話なんて、どうしたの?」

『いや、特別何かって訳でもないんだけどさ。ちょっと話したいなって思って。今、大丈夫だった?』

「もうちょっとしたら晩御飯なんで、それまでなら……」

 

 聞くに、電話の目的はただおしゃべりをすることのようだ。美咲は顔と肩の間に携帯を挟んで、制服を脱ぎながら応対をした。

 

『とりあえず。今日は楽しかったよ、ありがとうね』

「別に。お礼を言われるようなことじゃないよ。ちょっと言い方は悪いけど、山吹さんの為って訳じゃないしね」

『あはは、そうだった。じゃあね……うーん……』

 

 沙綾はそこで言葉の流れを切り、結果沈黙ができあがる。『話をするという話』を持ちかけたのは彼女の方だというのに、もう話題が尽きてしまったのか。普通ならばそう考えるかもしれないが、僅かに聞こえてくる息使いなどから、美咲は沙綾の考えがなんとなく透けて見える気がした。

 

「何か言いにくい事でもあるの?」

『えっ……あー、わかっちゃうか。うん、そうなんだ。……奥沢さんと私ってさ、知り合いではあったけど、そこまで仲良かった訳でもないでしょ?』

「……まぁ、ぶっちゃけちゃうと、ね」

『思い返してみるとさ、ちょっとグイグイ行きすぎたかな……って考えちゃって』

「…………」

 

 電話の向こうから申し訳なさがまざまざと伝わってくる。否定しようにも、実際少し引いた立ち位置から接してしまっていた美咲はすぐにその言葉を吐く事が出来ず、それを沙綾は『無言の肯定』と受け取ったようだ。

 

「やっぱ、そうだよね――」

「あー、待って待って! 確かにちょっと遠慮してる部分はあったかもしれないけど、それはあたしが距離詰めるの下手ってだけで、山吹さんは何も悪くないから!」

「……ありがとう。そう言ってくると嬉しい」

 

 深呼吸に、続いてパンッと乾いた音が鳴った。次に聞こえてきた沙綾の声からは暗い雰囲気は払拭されており、彼女が何を一体何をしたのかは想像に易かった。

 

『よし、切り替えた! ねぇねぇ、下の名前で呼んでもいいかな?』

「え、別にいいけど……急だね」

『ん、ありがと。さっきの話だけどさ、美咲ってどことなーく有咲に似てるんだよ。だからつい、ね』

「市ヶ谷さんと?」

 

 明るくなった沙綾の口から判明した意外な理由に、美咲は思索する。

 有咲と美咲。二人はどちらもぶっとびガールに振り回されているという事で、たまに学校で会うと互いに愚痴を言い合う仲だ。共に花見に行った時も有咲が隠している本性に一人だけ勘付いたり、美咲は確かに有咲に自分と通ずるものを感じていた。しかし……。

 

「そんなことあるかなぁ……?」

 

 あくまで似通っていると思うのは境遇だけ。性格などに関しては、重なる部分を美咲は自覚できなかった。

 

『えー、似てると思うけどな。……好きな事となると口数が多くなっちゃうところとかね?』

「もう、その話は勘弁してよ……」

『有咲ったらね、盆栽と香澄の事になると喋るのなんので』

「盆栽はわかるけど……戸山さん?」

『そう。有咲は香澄の事大好きだからねー』

 

 そこから有咲がいかに香澄が好きかという話が始まった。沙綾は次から次へと語るのだが、その貯えは一向に尽きる様子がない。有咲の愛がいかに深いかを理解できてしまったところで、美咲が我慢ならずストップをかけた。

 

「もういいです、もういいです。市ヶ谷さんの戸山さん愛はじゅーぶんわかりましたから」

『え、そう? まだまだいっぱい話したい事あるんだけど……』

「まだあるの……。コホン。つまり、市ヶ谷さんでいう盆栽と戸山さんが、私の羊毛フェルトだと。そういう訳ね……」

『うん、後はコウくんの事とかね』

「――はい?」

 

 気の抜けた声が、美咲の口から漏れ出た。彼女の頭の中で、急速に思考が流れだす。

 今、沙綾は何といった? 『後は』とは対象に何かを付け加える時に使う言葉だが、果たして彼女は今何に『コウくん』を添加したのか。まだまだ話したい事? それとも、少し飛んで有咲が好きな事?

 などと考えたところで、無駄な時間だな、と美咲は知らんぷりをやめた。頭は明らかな一つの答えを導き出していて、この時ばかりは美咲は自分がバカでない事を呪った。

 

「いやいや、確かにコウくんとは仲良くなれたと思ってるけど、別にそういうんじゃないよ」

『じゃあ、あの子の事嫌い?』

「……その訊き方は大分ずるいんじゃない?」

『ごめんごめん。それは別にしても、実際大好きでしょ? 今日も『私のコウくんがどんだけ可愛いか』を熱弁してくれたじゃん』

「その言い方は非っ常に悪意を感じるんですが……。それに、熱弁って程でもないでしょ」

 

 確かに帰り道でコウについて話した覚えが美咲にはあったが、『私のコウくん』などと言ってはいないし、沙綾の話を聞いた後で有咲にとっての香澄と並ぶ存在かと言われると、こう答えるしかなかった。とてもとても。

 

『じゃあさ、美咲がコウくんの話してる時、本人が後ろから『もうやめてください……』って裾引っ張ってたの気付いてた?』

「……え、何それ本当?」

『ほら、熱弁だ」

「むぅ……」

 

 語っているときに他の事に注意が向かなくなるのは、まさしく熱弁の証だ。言い逃れのできない証拠が出てしまい、美咲は反論ができなくなってしまった。

 

『それと今日奥沢さん、羊毛フェルトでうさぎ作ってたのよね。何でうさぎにしたの?』

「……あー、妹にね。そう、妹に次はうさぎ作ってって言われててさ。それだけだよ」

『なるほどねー、わかるよ、似てるもんね。おたえもさ、初めて優に会った時は急にうさ耳付けようとしてもう大変だったんだからー』

「……山吹さん? お願いだから、話聞いてくれない?」

『やだなー、聞いてるよ。けどそれ、嘘でしょ』

「…………」

 

 もはや、何もかもがお見通しのようだ。二人の舌戦は、美咲の完全敗北という結果になった。

 

「ちょっとー、ご飯できたわよー!」

 

 そこへ、階下から母の呼び声が届く。苦しい状況に陥っていた美咲には、それは天からの授け物に等しかった。

 

「あ、ご飯できたみたいだから行ってくる」

『わあ、すっごいグッドタイミングだったね』

「……おかげさまで。じゃあ、電話切るけど最後に何か言っときたい事とかある?」

『ううん、特にないかな。そういう美咲の方は?』

 

 最後に言っておく事。短く、しかしとても濃かった今回の電話を振り返って、美咲はこう言った。

 

「……あんまり市ヶ谷さんの事いじめないであげてね」

『んー、それは代わりに私をいじめてっていうサインかな?』

「ち、が、い、ま、す! また明日、ばいばい!」

 

 勢いよく指を落として、電話を切る。美咲の中で、沙綾に対するイメージがガラッと変わった一日だった。

 

 

 

―――――――

 

 

 日は巡り、現在は木曜日。学校も終わり、既に入れ替わりも果たしているコウを含めてハロハピの六人は行きつけのライブハウス『CiRCLE』に向かっていた。

 

「――まぁ、簡単に言うと今説明した四バンドとの合同イベントかな」

 

 その道の途中、彼女たちが今何をしているかというと、コウに対するガルパについての説明だ。今日は本番に向けて、参加する他の四つの内の二バンド、『Afterglow』と『Roselia』との合同練習。それを伝えたところ、コウは首を傾げ、ガルパについて知らせ忘れていた事に気付いたという流れだ。

 

「それ、僕も参加するんですか……?」

「もちろん」

 

 美咲個人としてもコウには是非ガルパへ参加してほしいと思っている。いや、仮にそうでなくとも、一人だけ欠席なんてことはこころが許さないだろう。

 しかし、そうなると重大な問題が一つ発生する事になる。

 ガルパ。その正式な名前を『()()()()バンドパーティ!』と言い、文字通りガールズバンドのためのイベントである。

 今の『ハロー、ハッピーワールド!』は見た目の面で考えればガールズバンドの体裁を保ってはいるが、その実態は異なる。そんな現在のハロハピがガルパに参加するには、運営はもちろん、他の参加バンドにも許可を取る必要があった。

 

「でも、ガールズバンドのイベントなんですよね? 僕、男ですけど……」

「言っても、外見は完全に女の子だからなぁ。ま、何かしらトラブルは起きるかもしれないけど、その時は任せてよ。コウくん、あんまり口達者じゃないしね」

「うぅ、非常に情けないですが……お願いします」

「ん、任せて」

 

 そう言って美咲は、コウの頭を撫でる。赤らむ彼をこころたちの方へ遣り、花音に近づくと、さっきまでのかっこいい様子を潜めて自信無げに言った。

 

 

「大丈夫かなぁ……」

「き、きっと大丈夫だよ、美咲ちゃん」

「でも、紗夜先輩とかそのあたり厳しそうじゃないですか?」

「紗夜ちゃんは厳格ってだけで狭量な訳じゃないから、きちんとお願いすれば……多分」

「だといいんですけど」

 

 同級生である程度関わりのある花音ならともかく、一年生である美咲には紗夜はひたすら厳しい先輩という印象しかない。まだ事は始まってすらいないのに、美咲は胃がはちきれる思いだった。

 

 

 

 そうして一同は『CiCRLE』へ到着した。扉をくぐると、予定の集合時間はまだのはずだが既に全員が揃っていた。

 

「あら、あたしたちが一番最後みたいね? 遅刻しちゃったかしら?」

「別に、そんなことはないよ」

「ええ弦巻さん、時間はまだ大丈夫よ。さて、全員集まった事だし、早速練習を始めましょうか」

 

 こころの言葉に各バンドのボーカルである美竹蘭と湊友希那が応える。そして余計な話をするつもりはないとばかりに、すぐさま確保しているスタジオの方へ向き直った。

 

「あー、すいません。練習に入る前に、少しだけ皆さんお時間いただけますか?」

「……なにかしら?」

 

 しかし、それでは困る美咲が声をあげてメンバーを引きとめる。そういった事を滅多にしない人物の行動に、一同の視線がハロハピへ集中した。

 

「ほら、こころ。言う事があるんでしょ」

「あ、そうだったわ。皆、実はねハロハピに新しいメンバーが入ったの!」

「新メンバー……この時期に?」

「紹介するわね、コウ!」

 

 ここに来てからずっと、ひっそりと美咲の陰に隠れていたその人物をこころは引っ張り出す。小さな、白い()()が姿を現した。

 

「ご、ご紹介にあずかりました、祖師谷コウと申します。皆さん、どうぞよろしくお願いします……」

 

 十人の、それも初対面の人を前に、コウはガチガチに緊張しながら自己紹介をする。声が裏返らなかったのは奇跡と言ってもいい。

 

「ふーん、あたしは美竹蘭。まぁその、よろしく」

「湊友希那よ。よろしく」

「私上原ひまり。よろしくねー!」

「アタシは――」

 

 コウに対し、それぞれ短く自己紹介を返していく。

 新メンバーの加入、それは確かに当事者たちからすれば大きな出来事かもしれない。だが他バンドの者にとっては、言ってしまえば対岸の出来事だ。ガルパの大部分は対バンの形式であり、合同での演奏がほとんどないことも相まって、コウについて深く言及する人物はいなかった。

 ただ、一人だけを除いて。

 

「あなたは……祖師谷優さんではありませんか?」

 

 果たして、その人物とは美咲が警戒していた氷川紗夜、その人であった



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第16話「決死の懇願」

「うぇ……紗夜先輩、この子の事知ってるんですか?」

 

 最も警戒していた人物からの疑念に、美咲はひどく動揺した。まさかこの場に祖師谷優を知る人物がいようとは夢にも思っていなかったから。

 『Afterglow』のメンバーは全員が羽丘女子学園の生徒で、『Roselia』も内三名が羽丘で残りは花咲川だがいずれも二年生。花咲川の一年生で、特に部活にも入っていない優と接点があると予想できる人物は一人もいないのだ。だというのに、紗夜は一体なぜ優の事を知っているのか。美咲は次の言葉を緊張の面持ちで待った。

 

「えぇ。ご存知かと思いますが、私は風紀委員をやらせてもらっています。その仕事の関係上で祖師谷さんとはよく会うんですよ。何せ遅刻の常習犯で制服の着こなしも杜撰、私が服装チェックの担当の時なんて毎回注意していますよ? 顔も覚えるというものです」

「あ、あー、なるほど……。うわっ」

 

 そういえばあの人結構不真面目だったっけ。そんな事を内心で思っていた美咲は、あるものが目に入ってしまい意図せずを声を出した。咄嗟に視線を逸らし、その後ゆっくりと元の方向へ戻すと、そこにはやはり険しい表情を湛えた湊友希那が。その口は固く結ばれ動いていないが、音を伴わない大声が彼女の顔からビシビシと伝わってきた。すなわち、そんないい加減な人間が私たちと同じステージに立つのか、と。

 

(…………)

「それに祖師谷さんが楽器を演奏できるという話は聞いた事がありません。白金さんのような前例もありますから一概に言う事はできませんが、腕前の方は大丈夫なのですか? まさか楽器は始めたばかり、なんてことはないですよね?」

 

 オブラートを何処かに忘れてきたらしい、刀のような鋭い言葉が襲いかかる。その圧力に完全にひるんでしまっているコウだったが、そんな彼の前に遂に、黄金の少女が庇うように躍り出た。

 

「コウがどのくらいやってきたのかあたしは知らないけど、キーボードはとっても上手よ? コウが加わったあたしたちの演奏、前よりずっとずーっと楽しくなっているから、紗夜にもぜひ聞いてほしいわ!」

「……はぁ、技術に関してはいったん保留としましょう。それより、さっきから口にしているその『コウ』とは一体何の事なのですか? その子の名前は祖師谷優でしょう?」

 

 こころの言う上手が自分たちの中のそれと基準を同じくするものなのか、など言いたい事が紗夜には山程ある。だがここは敢えてそれらを飲み込み、先程から違和感を発し続ける二文字の言葉へ言及した。

 

「……?」

 

 それに対しこころは可愛らしく小首を傾げたが、数秒考えて何かに思い至ったようで、パンと手を鳴らした。

 

「さっきから何かおかしいと思ってたら、紗夜ったらコウの事を優だと勘違いしていたのね!」

「何を言っているのですか?」

「でも、無理ないと思うわ。あたしも最初はびっくりしたもの。ふふ、実はね、優の中にはもう一人の違う人格がいて、それコウなの! だから、この子はコウで、優じゃないの!」

『……はぁ?』

 

 美咲がたったの数十分ほどででっち上げた紛い物の事情。それを自信満々に説明して見せたこころに、全員が揃って――。

 

「そ、それは封じられし第二の人格みたいな……!? 何それすごい! カッコいい!」

「あ、あこちゃん? 多分嘘だと思うよ……」

「えー! そんなぁ……」

 

 否、若干一名を除き、揃って茫然としている。もしもこの場を切り取った写真が手元にあれば、ポカンと言う文字をマジックで書きいれてしまいたくなるような、そんな空気であった。

 

「弦巻さん、今私は真面目に話をしているのですが――」

「あーっと、すいません。ここからはあたしが代わりに説明しますんで」

 

 とうとう言葉の節々に怒りが滲み始めたのを感知した美咲が、急いでそこに割って入る。紗夜が優と面識があった事はともかく、こころがコウの事を説明してこうした空気を作り上げるというのは、実は彼女が立てていた計画の通りだった。

 

「こころ、ちょっと先にスタジオ入って準備しておいてくれない?」

「どうして?」

「いいからお願い、ね?」

「うーん、美咲がそういうならわかったわ」

「はぐみと薫さんも、こころを手伝ってあげて」

「でもみーくん、今大変な場面じゃないの? なんだかよくわからないけど、こーちゃんが疑われてるんだよね? はぐみも力になりたいよ!」

「はぐみに同感だね。仲間の危機だと知っていながら、それを置いて去るなんて、私にはできないな」

「いやー、うーん、気持ちはありがたいんだけどね……。大丈夫だよ。ちょっとした行き違いが起きちゃってるだけで、少し説明したらすぐ解決するからさ」

「それならいいんだけど……。でも、何かあったらすぐにはぐみたちの事呼んでね? 絶対だよ!」

 

 ちょっとした問答の末に、美咲は三人をこの場から離れさせる事に成功する。そして頭の中でこれから話す事を整理して、紗夜たちが居る方向へ向き直った。

 

「あの三人を行かせたという事は……また何か厄介事でも抱えたみたいですね、奥沢さん?」

「いや本当、いつもご迷惑かけてすいません」

「……別にかまいませんよ。きちんと納得のいく説明をしてくれるのであれば」

 

 美咲とミッシェル。目の前の少女が普段からハロハピというぶっとんだバンドの中で一人二役で苦労している事は紗夜も知るところであり、そんな彼女がこの場に残った。その意味を考えると、先程の怒りを押しのけるように、同情の念が湧いてくる思いだった。

 

「なかなか複雑な事情ですんで、全部この場でとはいきませんが。まぁ、結論から言わせてもらいますと、さっきのこころの言葉、実は半分くらいは本当なんですよ」

「半分が……? 失礼、続けてください」

「はい。それで一体何が本当なのかと言いますと、この子が祖師谷優じゃないって事です」

「またそれですか……」

 

 人が変わっても、主張される内容は同じ。呆れから顔に手をかざした紗夜は、ツカツカと歩み寄ってコウの顔を間近で見つめる。一秒、二秒、三秒とそれを続けたところで、彼女は小さな相違を拾い上げた。

 

「祖師谷さんあなた……少し縮みましたか?」

「そこが違い、ですよ。じゃ、コウくん、もう一回自己紹介しよっか」

「わかりました……。では改めて。付け加えて自己紹介させていただきます。僕は祖師谷コウ。今は訳あってこんな格好ですが、お姉ちゃんの……えっと、祖師谷優の弟です」

「おと……うと?」

 

 二度目の自己紹介。飛び出したその言葉に、紗夜は己の耳を疑った。もしや聞き間違いでもしたか、と周囲を見渡すが皆彼女とまったく同じような表情をしている。その線は、薄いように思われた。

 

「にわかに信じられないのはわかります。でも、本当なんです。あたしとミッシェルの関係はもう皆さん知ってると思いますけど、この子もまぁ、同じ感じの被害者でして。あの三人の中では、コウくんが弟じゃなくて同居する別の人格だってことになってるんですよ。それを誤魔化す為に学校が終わったら、こっそり入れ替わってもらってるんです」

「そんな事が……?」

「どう思う……?」

 

 美咲の補足を聞いて、十人はそれぞれバンドごとに集まった話しあう。普通ならば『あり得ない』と一蹴するところなのだろうが、ハロハピには実際の前例がある。心の底から信じることはなかったが、彼女らは一先ずそれを事実として受け入れることにした。

 

「わかりました。一応、信じましょう。しかし、そうなると……」

「言わんとしてることはわかります。…… 『()()()()バンドパーティ!』ですもんね」

 

 紗夜の言葉を途中に、美咲はその先を語る。それが正解だったかどうかは、紗夜の反応を見れば瞭然だ。

 

「なるほど。既に自覚していて、その上で言っていると。そういう事ですね」

「ガールズバンドのイベントに男子は相応しくない、あたしにも理解できます。その上で! お願いします、コウくんの参加を許してもらえませんか……!」

 

 美咲は必死で頭を下げた。ただ床だけを見て、自分の思いが紗夜に届く事をひたむきに信じて。

 

「しかし――」

「わかってるんです。この件について非はすべてこっち側にあって、頼めるような立場じゃない。全部、わかってるんです……! だからこれは、取引でも、提案でも、何でもない。ただの懇願です。皆さんが許してくれるその可能性に賭けて、縋って、お願いするしか、こちらにはないんです。どうか、どうか、お願いします……!」

「お、お願いします!」

「まだ入ってたったの数日だけど。それでも、もう大切な仲間なの! ハロハピにはコウくんが必要で、コウくんにもハロハピがきっと必要なんだと思う。この子を一人だけ、除けるなんてできない!」

「…………」

 

 後半敬語も忘れて感情を叩きつける美咲。普段は冷静で落ち着いた雰囲気の彼女の激情に、紗夜は面を喰らってしまった。

 

「……私は何も聞きませんでした。ここでは弦巻さんからハロハピの新メンバーである祖師谷()さんを紹介された。それだけです」

「紗夜さん……」

 

 紗夜は厳正な性格の持ち主だ。悪を許さず、常に正しく。例え美咲の言葉が自分の胸を打ったとのだとしても、不正を知りながら見て見ぬふりをする事はできない。だから彼女は、そもそも知らないと、そういう事にした。知らなかったのなら、許すも何もない。紗夜は信念を曲げずにコウもガルパに参加できる、一つの妥協点だった。

 

「ありがとうございます!」

「……正直に言いますと、あなたはもう少し冷めた人間だと思っていました」

「そう、ですね。自分でもびっくりしてます。あと、それを言うならあたしも。実のところ、紗夜先輩は許してくれないだろう、と思っていました」

 

 互いに腹の底を明かして、二人はフフと笑いあう。

 

「おかしな事を言いますね。ガールズバンドに新しく女性が入るのを咎める必要など、ありますか?」

「……いえ、そうですね。すいません変なこと言ってしまって」

 

 そこには普段通りの雰囲気を纏った、美咲と紗夜がいた。

 

「ところで奥沢さん、祖師谷さんはどういった経緯でハロハピに入る事になったのですか?」

「んんんん! やー、それはですねー、んん――」

 

 一件落着。そう思いきや、最後の最後で特大の爆弾は投げいれられた。

 コウの加入の経緯を説明するならば、必然的に一緒になって明らかになる事がいくつかある。彼が身分を偽って女子高に入った事。そして、姉の代わりにテストを受けた事だ。もしこれらがバレてしまえば、紗夜が許す許さないどころの話ではない。下手をすれば罪に問われる可能性すらある。

 

「ちょっと紗夜」

 

 まさに絶体絶命。そんな危機的状況の美咲を救ったのは、長らく黙っていた『Roselia』のボーカル、友希那だった。壁に掛けられた時計を指さして、彼女は言う。

 

「もう予約していた時間よ。絶対に今必要な事以外は後にしてちょうだい」

「……そうですね。わかりました、スタジオに入りましょう」

(よ、よかったぁ~)

 

 廊下の奥に消えていく五人の背を見て、美咲は安堵の息を吐いた。乱れていた呼吸を整え、振り返る。そして、若干の置いてけぼりをくらった異なる五人に話しかけた。

 

「『Afterglow』の皆さんも、大丈夫ですかね?」

「別に。私はもともとどうでもよかったよ。他のバンドに誰が入ったかとか関係なく、あたしたちはあたしたちの演奏をするだけだから。いいよね、つぐみ」

「え、えぇ!? そこで私に振るの!?」

「いや、だってあの子の担当キーボードみたいだし。つぐみが一番関わる事になるでしょ」

 

 蘭に問われ、慌てたのは羽沢つぐみ。これまた美咲には面識がほとんど無かったが、幼馴染たちと接しているのを遠巻きに見たところ、真面目な娘という印象が強かった。

 

「わ、私は全然気にしないし、いいと思うんだけど……」

「どうかした?」

「いや、その子って本当に男の子なのかなぁって思ってたり……」

『あぁ、確かに』

 

 今のコウの外見はまさしく、誰がどう見ても少女のそれ。紗夜は仮に事実として話を進めたが、場が落ち着いてみればつぐみの疑問ももっともな物である。とはいっても、彼女らにその正誤で対応を変えるような気は見られず、ただ単純な興味からの質問のようであった。

 

「男……なんですけど。こんな格好で言っても説得力ないですよね……」

「あー、あたしいい方法思いついちゃったー」

 

 と、ここで初めて声を発したのは青葉モカ。間延びした独特なリズムと口調で、彼女は続ける。

 

「この方法ならー、この子が男の子なのか女の子なのか、もう一発だよー」

「……なんかすごい嫌な予感がするんだけど、一応訊いとこうか。モカ、その方法って?」

「んふふー、そんなの勿論、スカートにお手手を突っ込――」

 

 モカがそれを言い終える前に、蘭がその頭を小突いた。たいして痛くも無いはずだが、その箇所を大げさに擦りながら抗議の声を上げた。

 

「もう蘭ってば、急に叩かないでよー。いーたーいー」

「どうせそんな事だろうとは思ったけど、何しようとしてんの!?」

「やだなー、軽いモカちゃんジョークじゃーん?」

「いやモカ、お前蘭が止めなかったらなんだかんだやるつもりだっただろ……?」

「トモちんまで。そんなことないってば、ほんとだよー?」

 

 モカはそう言うが、長い時を共に過ごしてきた彼女達はわかっていた。こいつはマジでやるつもりだった、と。

 突然悪寒が体を走ったコウは、何故か足をキュッと閉じた。そうしなければならないと、そう感じたのだ。




ゲームではアフロの面々が、三馬鹿がミッシェルの中身を知らない事を知るのはホワイトデーイベの時なんですが……まぁ、いいでしょう。
まだツンツンの頃のろぜりあ


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第17話「食物の万屋」

『ありがとございましたー!』

 

 合同練習を終えた一同は、礼を言ってスタジオを出た。

 

「うぅー、疲れたね」

「そ、そうですね……。お疲れ様、です……」

「あの、お二人とも、ご指導いただいてありがとうございました」

「ううん、私もいい練習になったから、お互い様だよ!」

「わ、私も……! そう、思います」

 

 担当がキーボードということでコウは、各バンドのキーボード担当である燐子とつぐみの二人と、特に関係を深めた様子だ。彼女らとコウには『もともとピアノをやっていた』という共通点もあり、キーボードとの差異や癖の治し方まで、細かく指導してもらった。

 

「あ、そうだ! ねぇねぇ、この後皆でファミレスでも行かない?」

 

 道を歩いている途中、『Afterglow』のリーダーである上原ひまりが声を上げた。

 

「ひまり? 急になんでさ」

「えー、だってさ、ハロハピに新しく入ったその子、最初に名前言ったくらいで全然話せてないから懇親会……みたいな? 休憩中につぐに聞いたんだけど、すっごいいい子だって!」

 

 曰く、彼女はコウともっと話したいらしい。その持前の明るさでひまりは、自バンドとハロハピ、そして『Roselia』のメンバーにまで詰め寄って、是非を訊いた。

 

「はぐみ、この後はお店の手伝いしなきゃなんだ。ごめんね……」

「……実は私もなんだ。この時間帯って特にお店が忙しくなっちゃうから……ごめん!」

 

 つぐみとはぐみの家が店をやっている二人が、同じ理由で申し訳なさそうに不参加を伝える。そこから更に、今度は『Roselia』から二人が手を挙げた。

 

「私は帰って自主練をする予定なので、ここで失礼します」

「そうね、私も。参加する意味がわからないもの」

 

 友希那と紗夜。練習前のやり取りからもわかるが、彼女らはストイックな気がある。言葉もどこか刺々しいところがあり、コウは若干の苦手意識を持ち始めていた。

 

「白金さんは、どうですか?」

 

 丁度隣にいた燐子にコウが尋ねる。だが彼女は、すぐには答えを返さず困った表情を浮かべた。

 

「う、参加はしたいけど、今日は八時から緊急クエストが……」

「緊急……急ぎの頼まれ事ですか? 白金さんともっとお話ししてみたかったですけど、それなら仕方ありませんね」

「そうじゃ、ないんだけど……。ごめんね」

 

 そんなズレたやりとりを、苦笑いをしながら一人の少女が見つめていた。

 彼女は今井リサ。『Roselia』のベース担当で、バンドのムードメーカー。思わず周囲の世話を焼いてしまう癖があり、二人の事もスタジオを出た時から人知れず気に掛け続けていた。

 

(緊急クエストって……わかんないけど多分ゲームだよね? 燐子がゲームで無理だって言うんならあこも一緒だろうなぁ)

「うーん、となるとうちのメンバーは皆無理みたいだねー? 『Roselia』がフルで欠席ってのもあれだし、アタシは行こうかな」

「……今井さん、あまりこういった事は言いたくないのですが――」

「アタシが一番自主練が必要だってんでしょ? わかってるって。帰ったらちゃーんとやるからさ」

「なら、いいんですけど……」

 

 紗夜が彼女の事を言い咎めるが、それは軽く躱された。リサの参加が決定し、ひまりはおおいに喜ぶ。ちなみに、残りの『Afterglow』の三人も参加である。

 

「うちははぐみ以外全員参加かな?」

 

 合意を得る意味合いで美咲はそういったが、今度は薫が一人前に出て首を振った。

 

「いや、わたしははぐみとつぐみちゃんを送っていく事にするよ。確か、二人の家はすぐ近くだったね? できることなら全員送っていきたいところなのだが……『Roselia』の四人も気をつけて帰るんだよ?」

「薫さんが不参加、と……。そうなると、えっと――」

 

 順々に指を折り、美咲は参加する人数の合計を求める。彼女の手は最終的に、九という数値を示した。

 

「減ったと言えば減ったけど、それでも九人って結構な大所帯だよね。大丈夫かな?」

 

 美咲のそんな疑念は、『Afterglow』の中でも同様に浮かべられていたらしい。行動の早いもので、ひまりは既に携帯を耳にあてていた。

 

「……はい、九人なんですけど。えっ、ここからですか? 多分十五分くらいです。はい、本当ですかっ! わかりました、ありがとうございます。お願いします。……みんなー、大丈夫だって!」

 

 無事、店側の承認を得られたようだ。ならあまり待たせるわけにもいいかないと、一同が歩き出すが、ひまりがそこで幼馴染四人に待ったをかける。なにやら嫌な予感のした蘭は、警戒をしながらひまりに問いかけた。

 

「……ひまり、なに?」

「ふっふっふー、今日こそは皆にも言ってもらうからね!」

 

 予想が寸分違わず的中し、四人は『あぁ、またか』と溜め息を吐いた。

 説明をすると、ひまりには何かにつけて号令をとりたがる癖があるのだ。ライブの前は当然として、今のようにただファミレスに行くだけでも。もっとも、彼女のそれがきちんと成功した事は未だ嘗て一度も無いのだが。

 

「ひまりも懲りないよね。毎度毎度さ」

「それは皆がちっとも乗ってくれないからでしょ!? いいじゃん、一回くらいさー。やってくれたら今度からもうしないからー!」

「もう、そこまで言うなら一回だけね」

「本当!? よーし。じゃあ、これから皆でファミレスに、れっつらー――」

 

 ひまりが拳を固く握って胸の高さで矯める。そして、四人が同じくしたのを確認すると、勢いよく天へと手を突き出した。

 

「ごー! ……って、もおおおおおお!!」

 

 もちろん、声も手も、数は一人分だけである。

 

「ご、ごー……?」

「うわああああん、ありがとおお!!」

「ふきゃっ!?」

 

 その少し後ろ、断片だけを聞きとって、よくわからないまま続いたコウへ、ひまりは思いっきり抱きついた。

 

 

―――――――

 

 

「こちらの席へどうぞ」

 

 それから特に何事も無くファミレスへ着いた一行は、店員に席へ案内されていた。九人が座る席などあるのかと皆は思っていたが、壁際の六人席に隣の四人席を移動させ、むりやり用意をしたようだ。

 適当な席にそれぞれ腰を下ろした九人は、三つ置かれていたメニューを別れて手に取る。

 

「……?」

 

 そしてコウは、そのとりどりの内容に驚愕した。ご飯物だけを見ても和、洋、中が並び、さらに細かく見ればイタリアンにフレンチまで。この店は、彼の知るレストランというものから、どうにもかけ離れていた。

 

「美咲さん、ここの何屋さんなんでしょう……?」

「んー、ファミレスっていう、なんだろ……食べ物界の、万屋さんみたいな? そこそこのお値段で普通においしい料理が食べれるから、あたしは気に入ってる」

「よ、万屋ですか……なるほど」

「それより、ご飯食べて帰るってちゃんと家に連絡入れた?」

「はい、さっきお姉ちゃんに」

「ん、なら良し。ちゃっちゃと決めちゃおっか」

 

 ファミレスに行き慣れている美咲は気分でチキンソテーセットに、コウは脂っこいものは苦手という事で温そばに決めた。

 ベルを鳴らす。やってきた店員は実に九人分もの注文を取ると、長々と内容を繰り返して席を去って行った。これで後は料理が運ばれてくるのを待つのみ。彼女らはここに来たもう一つの目的を、果たしにかかった。

 

「うーん、何から始めよっか。とりあえず、もう一回自己紹介でもしとく?」

「ひまりに異議なし。結局名前くらいしか言えてないしね」

「よーし、じゃあ私から! 私は上原ひまり。好きな食べ物はチョコで、嫌いなのはシイタケ! 趣味は……なんだろ、コンビニスイーツ食べ比べ的な? あと、『Afterglow』のリーダーだよ、よろしくね!」

「はい、よろしくおねがいし――え、リーダーですか?」

 

 初めに出てくるのが食べ物関連なことや、趣味と言えるか微妙な趣味はまだいい。だが、その最後の言葉だけは、コウもすっと受け入れることができなかった。十数分前、必死に頭を下げた挙句、適当にあしらわれていたあの姿がリーダーのものだというのか。

 

「一応、ね」

「そうだな、一応」

「皆して何さ、もう!」

「あの、上原さん、周囲をひっぱるだけがリーダーではないと……えっと……」

「くぅ、その優しさがつらい! リサさん、バトンタッチ!」

 

 コウに気遣い(追撃)の言葉を掛けられたひまりは、その胸の傷を一層深くし、隣にいたリサの肩を叩いた。

 

「りょーかい。アタシは今井リサ。『Roselia』でベースやってるんだ。趣味は編み物だよ、よろしくね」

「編み物、ですか?」

「あー、今ギャルが編み物? って思ったでしょー!」

(リサさん、またやってるなー)

 

 問い返したコウへ、リサは極めて軽く不平を言う。それを見て、『Afterglow』のギター担当モカがそう心中で呟いた。

 この中ではバイトの同僚であるモカだけが知ることだが、このくだりはある種リサの持ちネタのようなものだった。彼女が趣味を編み物だと言うと、初対面の人は大概が困惑する。リサは外見だけの話をすれば、とても編み物をするような人種には見えないから。そこを軽く茶化す事により、ぐっと距離を縮める事が出来るのだ。

 しかし、今宵の相手は世にも珍しい正しい意味での生粋の箱入りである。現実はリサの予想する通りには、ならなかった。

 

「その、ギャル? というのはよくわかりませんが……編み物、とっても素敵な趣味だと思います」

「ッ! じゃ、じゃあ、アタシ筑前煮が好きなんだけどさ、どう思う?」

「どう思う、ですか? えっと、とってもおいしいですよね、筑前煮」

「~~ッ!」

 

 漫画、アニメ、ドラマ、映画。あらゆるホビーから隔離されて生きてきたコウは、ギャルなどという世俗の言葉は知らない。故に先入観や色眼鏡を無しに話すことができ、それがリサの心に刺さったようだ。彼女は目を輝かせ、身を乗り出した。

 

「やだ、すっごいいい子じゃん! 美咲、うちに頂戴よー」

「いやいや、何言ってんですか。駄目ですよ」

「えー……でも、そっかぁ。コウくんとハロハピはお互いに必要なんだもんねぇ?」

「うっ、それ掘り返しますか? もう、いいじゃないですかぁ」

 

 リサが仄めかしているのは、もちろん『CiRCLE』で美咲がきってみせた啖呵の事である。彼女としては、本来もう少し穏やかに事を済ませる予定だったというのに思わず熱が入ってしまい、黒歴史までは行かなくともあまり思い出したくない出来事となっていた。

 

「いーじゃん、いーじゃん。あの時の美咲、かっこよかったよ。ねー、コウくん?」

「えっ!? えっと……はい。美咲さん、かっこよかったです……」

 

 話を振られたコウは目線を下に、顔を赤くして答える。その色は美咲にまで波及し、してやったリサは満足げに頷いていた。

 

「美咲、顔が赤いわよ? 風邪かしら?」

「あーもう、いいから! 次の人!」

 

 何もわかっていない様子で心配をするこころを脇に、美咲は強制的に話題の転換を図る。リサの隣にいた者、それは美竹蘭だった。

 

「ん、あたし? 名前は美竹蘭……よろしく」

「おい蘭、お前それだけか!?」

「別にいいでしょ」

「もう、それじゃ一回目の時と変わらないでしょ」

「って言っても、これ以上言う事ないし。そっちが何か訊いてよ」

「訊きたい事……。あ、さっきスタジオで自己紹介していただいた時、美竹って名字なんだか聞いたことあるなって思って、練習中に考えてたんですけど……もしかして華道などやっていらっしゃいますか?」

「――は?」

 

 瞬間、空気が凍る。つれない態度をとりながらも、ただそれだけだった蘭が、コウの口から『華道』という単語が出た途端に敵意にも近いものを露わにした。

 美竹家は長い歴史を持つ華道の名家である。そこに一人娘として生まれた蘭は当然後継ぎとして華道の技術を仕込まれてきた。それだけならば特に悪い事はなかったのだが、厳格な蘭の父は彼女のしているバンド活動を認めなかったのだ。それが原因で蘭は現在、父との冷戦状態を貫いており、直接何かを言われなくとも関連単語だけで気に障ってしまう程に敏感になっていた。

 蘭を除く三人が『あちゃー』と言いたげな顔をしている。

 

「……なんで?」

「いえ、たまに家に来て僕に華道を教えてくださる方が美竹という名字でしたので……」

「ふーん……え、待って、父さんが?」

 

 繰り返すことになるが、蘭の父は由緒ある華道の名家の現当主である。その関係上確かに華道の教室を開いたり、指導員を送るサービスなどは展開しているが、そういったものに当主が直接出向くだろうか? 普通なら、門下生などを送るはずだ。

 

「ねぇあんた、もしかして結構いい家の出?」

「普通……とは、ちょっと嘘でも言えないかもです、正直」

「そしがや……祖師谷……思い出した!」

 

 最近はもっぱらバンド活動ばかりだが、それまでは次期当主として教育を施されてきた蘭であるから、その名には聞き覚えがあった。曰く美竹家より遥かに歴史があり家としての格も高い街有数の名家。いずれ関わるかもしれない相手の一つとして、蘭の頭には入れられていた。

 

「あんた、よく親がバンドなんて許してくれたね」

「親は許してくれたわけでは……」

 

 コウははっきりとした言葉は吐かなかった――いや、吐けなかった。何故なら、彼はハロハピに入っている事を自分の口から親に伝えられていないから。食事の時など、顔を合わせる機会自体はそれなりにあるのだが、父がコウに対して口を聞くことは無く、蘭の問いには曖昧にするしかなかったのだ。

 しかし、その態度から蘭はコウに自分と似た境遇を見たようだ。纏う雰囲気が急速にやわらかくなるのがわかった。

 

「まぁ、なに? もし何か困った事とかあったら言いなよ。ちょっとくらいなら協力してあげないこともないから」

「わお、蘭やっさしー」

「うるさいな。次、モカの番だよ」

「おっけー。あたしはね――」

 

 四人目、青葉モカが自己紹介をしようとしたところで、店員が料理を持ってきた。数が数だけに大きめのトレイを使っている。

 

「んー、料理も来ちゃったし食べる前にちゃっちゃと自己紹介しとくね。あたしは青葉モカ。食べる事が好きで、特にパンが大好きだよー。気軽にモカちゃんって呼んでね、いえーい」

 

 そう言ってピースを決めるモカの前には、三人分はありそうな料理が並んでいた。



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第18話「思惑の錯綜」

「ちょっと、それ本気で言ってんの!?」

 

 祖師谷宅。食事は一般に家族間の交流の場となるものだが、そこには一家団欒とは口が裂けても言えないような状況が広がっていた。

 事の発端は博則の言葉だった。その内容がどういったものだったかは、もはや口撃の最中(さなか)に優の記憶から薄れていってしまったが、確か生まれて初めての友達との外食をしている彼女の弟を、よく思っていないものだったはずだ。

 

「もういいわよ! ごちそうさま!」

 

 空になった食器を乱暴に机に置き、優は席を立つ。そして、部屋を出る間際に、ありったけの怒りを込めた視線を光らせていった。

 

(ほんっと信じらんない!)

 

 それでも鎮まる事を知らない激情を心中で持て余しながら、優が向かったのは玄関。今日も今日とて、いち早く弟を迎えてやろうと、そう思っていた彼女だが、残念なことにそれは叶わなかった。

 

「……あれ?」

 

 優の辿り着いた玄関。そこには小さな靴が既に綺麗な状態で揃えられていた。

 彼女の記憶では夕食を食べ始めた時点では彼はまだ帰ってきていなかった。つまり、その帰宅は夕食中の出来事。父との口論に熱が入りすぎて気付かなかったと、そういうことだろうか。

 

「おーい……?」

 

 ならば、と優がすぐに弟の部屋に向かう。相変わらずノックをする習慣はないようで、断り無しに軽く扉を開け、小さく暗闇へ呼び掛けた。しかし、数秒待てど返事は来ない。

 

(……寝てるみたい?)

 

 そもそも電気が消えているのだから、考えられるのは寝ているか、今は部屋にいないかのどちらかだ。

 優がグッと目を凝らし続けると、次第に深い黒は薄れ、布団から覗く微かな白が浮かび上がった。果たして、彼は寝ていた。

 

(もう、ちゃんと歯磨きはしたのかしら――って、私じゃないんだし、大丈夫か)

「おやすみ。また明日、ちゃーんとお話聞かせてね」

 

 起こしてしまわぬように、小さな慈しみの声でもって優は言い、部屋を去った。その裏で、一対の赤がずっと煌めいていた事など露ほども知らずに。

 

「…………」

 

 

 

――――――――

 

 

 時は過ぎ翌日、花咲川女子学園の放課後。

 遊びに行く者、バイトに向かう者、家へ帰る者。校舎からは様々な目的地を持つ人たちが溢れているが、ハロハピの五人はそのどこにも属さずにただ屯している。

 

(遅いなぁ……)

 

 彼女達は今、六人目の存在を待ちこけていた。本来なら学校の裏手ですり替わりを果たしたコウがやってきている頃合いなのだが、何故か彼はまだ来ない。授業が終わってからどれほどの時間が経ったかは、他校の生徒である薫が既に到着している事からも瞭然だ。『昨日までは五分かそこらだったのに』、首をかしげる美咲はとうとう携帯を取り出して、電話を掛けた。

 

「……もしもし。いやに遅いけど、何かあった?」

『あ、美咲ちゃん? ちょっとトラブルっていうかなんていうか……とにかく、ごめんだけど先に行っておいてくれる?』

「うん、了解。一応、『CiRCLE』っていうライブハウスね。コウくんは知ってると思うけど」

『わかった。ありがと!』

 

 そこで通話は切られた。携帯の向こう側から拾えた音から判断するに、優は車の中にいたようだ。何かしらのトラブルが起こったらしいが、声色はそこまで焦っているという感じもしなく、深刻なものではないだろうと美咲は推測した。

 

「優ちゃんはなんて?」

「んー、なんかちょっとトラブルだとか。けど、後から行くって言ってたんで、もう出発しちゃいましょう。薫さん、その人だかりどうにかしてくださいねー」

「ふふ、すまないね子猫ちゃんたち。どうやらお別れの時間がやってきてしまったようだ……」

 

 律儀にも、不満の声を上げる女子たち一人一人に別れを告げる薫。おかげで彼女らが出発したのは十分も経ってからだった。

 

 程なくして、五人が到着したのは昨日と同じく『CiRCLE』。そこには既に今日の合同練習相手である二バンドが揃い踏みしていた。片方は昨日に引き続き『Afterglow』。

 

「あ、こんにちは。ハロハピのみんな、今日はよろしくね!」

「はい、こちらこそよろしくおねがいします。彩先輩」

 

 そして他方は、絶賛活動中のアイドルバンド『Pastel*Palettes』だ。実質アイドルと化したバンド、などではなく事務所からきちんと、そう銘打って売り出されている。デビューにこそ少し問題があったが、今ではそれなりの人気を獲得していた。

 リーダーで、且つボーカルの丸山彩が一歩前に出て挨拶をする。無名の頃から付き合ってきたが故、ガルパのメンバー内でその印象は掠れてしまっていたが、屈託のないその笑顔は彼女がアイドルなのだということを再認識させるものだった。

 美咲は壁に掛けられている時計をちらりと盗み見る。予約しておいたスタジオが使える時間まで後五分ほどあり、彼女は練習が始まる前に例の件を話しておく事にした。

 

「パスパレの皆さん、少しお話があるんですが……いいでしょうか?」

「あら、美咲ちゃん。別にかまわないけど」

「なになに、おもしろい話ー?」

 

 ベース担当の白鷺千聖、ギターの氷川日菜。前者が美咲の応対をしていると、そこに後者が好奇心を丸出しに駆け寄ってきた。

 

「簡単に言うと、うちに新メンバーが入ったていう話なんですが。この新メンバーの子っていうのが――あ、ちょっとすいません」

 

 その瞬間、美咲の言葉を途中で遮るようにポケットの中で携帯が鳴った。一言断りを入れて彼女が画面を確認すると、そこには丁度今の話題に関係の深い人物の名前が。通話ボタンを押すと、一瞬の間も置かず大音量の声が電話から美咲の耳を貫いた。

 

『美咲ちゃーーーーん!!』

「痛っ!? ちょ、祖師谷さん、耳痛いって。ちゃんと聞くから落ち着いて落ち着いて」

 

 優の声は非常に危機迫っており、どころか涙ぐんでいるようにさえ聞こえる。少し前に電話した時は『ちょっとトラブル』としか言っていなかったのに、状況が変わってしまったのか。

 

「で、一体何があったの?」

『あの、あのね、いつものとこに行ったら何か来てないからおかしいなって電話したんだけど出なくて! 帰ったら閉じ籠っちゃってて、返事なくてー! 反抗期だよー!?』

「おおう、もっかい言うけど落ち着いて……?」

 

 やっと話したと思えばその内容は支離滅裂で、美咲は思わず苦笑した。時間を掛けて優を落ち着かせ、改めて話を聞き直した。

 曰く、優はコウと入れ替わる為に学校の裏手に行ったのだがそこに彼の姿はなかった。黒服の人が仕事を違えるとは考え難く、どうにも不審に思った彼女は急いで家へと駆けた。ここで連絡を取らずに敢えて足を使った事に特別な理由はない。ただ、彼女がそれを思いつかなかったというだけの話だ。

 そうして辿り着いた自宅。すぐさま弟の元へ馳せ参じようとした優は、しかし部屋のカギにその身体を阻まれた。普段は施錠をすることなどないのに。仕方なく、扉を強く叩きながら大声で彼女は語りかけた。

 訪れたしばしの静寂。そして返ってきた言葉は……。

 

『『今お姉ちゃんとは話したくない』ってええええええ!! 美咲ちゃん助けてええええええ!?』

「いや助けてって言われても、こっちもすぐ練習始まるんだけど……」

 

 電話を耳につけたまま前にいる二人を確認すると、案の定様子は呆然としたものになっている。優の声が大きすぎて、その内容が断片的に届いてしまったようだ。

 

(うわぁ、ややこしくなってきた……)

「ねぇ」

 

 状況が複雑化してき、何から対処したものかと美咲が頭をフル回転させていると、意外なところから助け船が入った。

 

「なんか困ってるみたいだね。昨日のコウ……だっけ? その子に何かあったの?」

「あぁ、うん、そうなんだ。いや、困った……」

「呼ばれてるんでしょ、行ってきなよ」

「いや、でも」

「少し話って、パスパレの人にも昨日と同じ説明するつもりだったんだよね。あたしが代わりにしといてあげよっか?」

「えっ、いいの……?」

 

 それは『Afterglow』の美竹蘭からのものだった。美咲の記憶ではほとんど話したことも無く、彼女にそんな義理はないはずであるが……。

 

「ありがとう、美竹さん。それじゃあお願いしていいかな?」

「ん。ただし、あくまで説明するだけだからね。擁護とかそういうのは一切なしだよ」

「充分! ごめん皆、ちょっと行ってくる!」

 

 感謝の念を背後の蘭に送りながら、美咲は『CiRCLE』から飛び出した。

 

「今からそっち向かう! 祖師谷さんの家って――いや、ごめん。なんでもない」

 

 彼女はその場所を知らないはずなのに、質問を途中で止めた。何故なら、建物から一歩踏み出した瞬間、前に停まる車に気がついたから。

 

「まったく、黒い服の人はどこの家のも優秀だ……!」




初案は五バンドの合同練習で全員集合して説明をするというものでしたが、ポピパとだけ面識があったり、そもそも二十五人も同時に動かす自信がないということでバンドごとに説明をすることに。しかし、同じようなシーンを複数回描写するのもなんだと思い、このような形になりました。


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第19話「暗雲の霧散」

「着きました、奥沢さま」

 

 停められていた車に乗り込み、無言のまま揺られること数分。予想していたよりもはるかに早く、彼女らは目的地に到着した。

 

「ありがとうございました」

「いえ、これも仕事ですので」

 

 外側から扉を開けてくれた黒服に礼を述べ、美咲は前方を見据える。目線の先には、荘厳な雰囲気を醸す屋敷があった。それは見るものすべてを気圧すような大きさを誇っているが、不思議と美咲は平然とした様子を保っていた。

 理由は二つ。まず、初めに美咲はこころの邸宅に毎日のように行っており、巨大な建造物に耐性がついてしまっていた事。

 

(あ、あー。コウくんの家ってここだったんだ……)

 

 そして次に、実はこの屋敷を日常の中で頻繁に見ていたから。

 その外見の所為で、祖師谷邸は非常に目立つ。その目立ちようと言えば、近くに住んでいる者たちからは『今あのでっかい家の角曲がったとこ』などと、現在位置や約束の場所のすり合わせに使われる程である。美咲もその経験を持つ者の一人で、その過去が驚きを緩和させていた。

 

「あ、美咲ちゃん! ほんとに来てくれたんだ、ありがとーー!!」

 

 門が勢い良く開かれ、優が美咲へと飛びついてくる。電話越しの声からもわかっていたことだが、その目は涙を引っ掛けていた。

 

「いやいや、呼んだのはそっちでしょ? まったく」

「そうなんだけどー! うぅ、とにかくありがとう!! 案内するから、入って入って」

「はいはい」

 

 三バカのおかげで飛びつかれる事には慣れていた美咲は、なんとか持ちこたえた。そして優に誘われるまま、門をくぐる。

 その間際、美咲の耳だけに背後から小さな呟きが届いた。

 

「奥沢様、どうか坊ちゃまのことをよろしくおねがいします」

「……別に、あたしはあたしの好きなようにするだけですよ」

 

 

 

「ここ、ここよ!」

 

 手を引き、引かれ、二人はとある部屋の前に立っていた。

 

「というか、あたしは勝手に上がっちゃってるけどいいの?」

 

 この場に来るまでの途中、美咲は誰とも会っていなかった。普通、友人の家に遊びに行った時などは、その親御さんなどに一言挨拶を入れるものなのだが。

 

「うーん、お父さんは何か出かけてるみたい。お母さんは家にはいると思うんだけど……どこかわかんないし」

「えぇ……」

 

 そんな聞いたことも無い理由に美咲は呆れる。だがこの屋敷、庭などまで含めればその面積は小さめの学校程もあり、仕方のない言い分だともいえた。

 

「で、なんだっけ。コウくんが部屋から出てこないんだっけ?」

「そうなの! 中にいるのはわかってるんだけど、全然口きいてくれなくて……」

「えー、それあたしが来ても状況変わらなくない? 返事くれないんでしょ?」

「そう、なんだけど……私じゃなくて美咲ちゃんならもしかしたら、と思って」

「そんな事ないと思うけど……」

 

 事態の好転する未来絵図を頭に描けないまま、それでもとりあえず、美咲は部屋の扉をノックする。コウくーん、と間延びした声を投げかけると、意外にも中からは返球がなされた。

 

「み、美咲さん?」

(あれ、返答きた)

 

 ただ、驚きが隠せておらず、そのコースはユラユラとぶれていた。

 

「ん、コウくん昨日ぶり」

「ど、どうして美咲さんが……?」

「なんでって……。まぁ、その辺も話したいし、ここ開けてくれない?」

「…………」

 

 少しの間だんまりを決め込んだ彼だが、今度は先ほどよりも近くなった声で、こう尋ねた。

 

「お姉ちゃん、そこにいますか……?」

「祖師谷さん? うん、いるけど」

「……美咲さんだけなら、入ってもいいです」

「えー……」

 

 どうする? という言葉を視線に乗せて、優の方へ向ける。その当人は、首を何度も細かく縦に振っていた。

 

(行け、って事ね)

「わかった。それでいいよ」

 

 美咲が了承の旨を伝えると、扉が少しづつ開いていく。その隙間が人一人分程度まで広がってきたところで、ニュッと伸びてきた小さな手が美咲の袖を引っ張った。

 

「わっ、暗っ! 電気付けないの?」

「あ、忘れてました……」

 

 部屋に入った美咲が最初に触れたのは、その暗さだった。建物の構造とその位置の問題で、この部屋には陽があまり差さない。だというのに、天井の電気は付けられておらず、目が慣れないと細部が見えないほどに中は暗かった。

 

「いや、忘れてたって……こんな中、一体何してたのさ?」

「少し、考え事を……」

「そっか」

 

 その返事に少し重苦しいものを察し、美咲は敢えて一度、淡白な相槌を挟む。それからベッドに並んで、腰かけた。

 

「…………」

「…………」

 

 いきなり切りこむ事はせず、美咲は相手から話すのをただ、待つ。その甲斐あって、十数秒後にはコウの方から美咲に、ポツポツと話し始めた。

 

「今日は朝からずっと悩んでて……あの、相談に乗ってもらえますか?」

「もちろん。その為に来た、みたいなもんだからね」

「昨日、皆さんとご飯を食べて帰ったら、お姉ちゃんと父様が言い合いをしていたんです」

「うん」

「なんとなく、わかるんです。今僕が自由に過ごせてるのは多分、お姉ちゃんが何かしてくれたから。父様に何か掛け合ってくれたから」

「……かもね」

「お姉ちゃんはあれで結構しっかりしてますし、その場しのぎとか、意味のない事はしないと思うんです。だから、本当は僕は何かしなくちゃいけない事があるんじゃないかって……」

「なるほどね」

 

 奇しくも、コウを悩ませている種は、美咲の頭に根を張っているものと同じようだった。この五日間、彼がした事と言えばバンド活動やパーティーをしたり、手芸をしたり……一般的には『遊び』にカテゴライズされるものばかりだ。

 

 

「果たして、こんな事をしていて良いのか?」

 

 あえて悪い言い方を美咲がすると、コウの肩がびくりと跳ねた。

 

「そんな――」

「違う? あ、ハロハピを『こんな事』って言っちゃってるのは気にしないでいいよ。そりゃ確かに気持ちいいんもんではないけど、コウくんの境遇考えれば、無理ないと思うし」

「……では、大体そんなところ、です」

(さて、何て答えたもんかなぁ)

 

 二人は同じ悩みを抱えているなか、情報の面では美咲の方が多くの事を知っているが、それもすべてという訳ではない。優の最終的な目的までは、依然不明のままだ。

 

「――いいんじゃないかな」

「えっ?」

(……あ、口がすべった)

 

 答えはまだ纏まっていない筈なのに、彼女は自然とそう口に出していた。こうなりゃ自棄だ、美咲は反芻もせずにできあがっていく言葉を次々に紡ぐ。

 

「仮にそういうのがあるんだとしてさ、言ってこない方が悪いでしょ」

「……確かに」

「それに、コウくんの行動が間違ってるのかどうかは、祖師谷さんの反応を見ればなんとなくわかるんじゃない?」

「………」

 

 コウは真剣な顔をして、記憶を掘り起こしていく。毎夜、お姉ちゃん署に行ってその日の出来事を話している時、優は――。

 

「笑顔、でした。僕の話をお姉ちゃんは、すっごく幸せそうに聞いてくれてて……」

「なら、それが答えなんじゃないかな。祖師谷さんは、感情誤魔化すのとか苦手そうだしね」

「そう、でしょうか……?」

「ん、きっとそうだよ」

「そう、かもしれませんね。えへへ」

 

 結局、望んでいた明確な答えを見つけられた訳でもなしに、しかしコウは淡く笑んでいる。鬱屈とした彼の雰囲気は、すっかり取り払われていた。

 

「一件落着――とは言えないかもだけど、一応割り切れたようでよかったよ」

「美咲さん、えっと……ありがとうございました。相談に乗ってもらって」

「いいのいいの。あーでも、祖師谷さんとはちゃんと話しときなよ? 結構凹んでたからさ」

「う、お姉ちゃんには悪い事をしてしまいました……」

「あと、この後はどうする? あたしは『CiRCLE』に戻るつもりだけど、今日は休む?」

「いえ、行きます。お姉ちゃんに、お土産話をいーっぱい持って帰らないといけませんから!」

 

 元気を取り戻したコウは胸の前で拳をつくって、ふんすと意気込む。それを見た美咲は、思わず例の四文字を口にしかけたが、今回ばかりは努めてそれを我慢し、扉を開けた。

 果たして、そこには不安げな顔の優の姿。しかし、部屋から二人が出てきたのを目にすると、途端に表情を転がして詰め寄ってきた。

 

「うわあああああああああん!!」

「ぴぇっ!?」

 

 言いたい事も色々とあっただろうに、先行してきた叫びを上げながら優が飛びつく。ただし、今回の目標は美咲ではなかった。

 その勢いのまま弟を床に押し倒した優は、ただただ泣きながら胸に顔を擦りつけていた。

 

「お姉ちゃん、ごめんね。ひどい事言っちゃって……」

「ううん、いいの。いいのよ」

 

 初めての仲違いからの仲直り。感動のシーンは家族水入らずであるべきだろうと、美咲はそっとその場を離れた。それに、今から彼女に同行するのなら着替えなども必要で、少々の時間がかかるであろうから。

 行きに通った道を思い出しながら、美咲は玄関へと向かう。屋敷自体は冗談じゃなく広いが、幸い部屋へのルートは単調で、迷うことなく目的地に辿り着いた。

 

(家の中はちょっと落ち着かないし、門の前で待って――あ」

「む?」

 

 門の前で待っていようと美咲が玄関扉に手を掛けようとすると、それは彼女の手を借りる事なく独りでに開く。そして、美咲は今丁度外から入ってきた人物と対面することになった。

 

「なんだね、君は」

 

 先に声を発したのは対面相手、祖師谷家現当主の博則。彼は皺の深いその顔で、少々威圧的に問うた。

 

「あ、どうも。祖師谷さんの――じゃややこしいか。優さんのお父様でしょうか? (わたくし)、友人の奥沢美咲といいます。お邪魔しています……っていっても、今から帰るとこなんですが」

「友人……。なるほど、君が例の協力者というやつか」

「あー、確信はないですけど、多分そうだと思います」

 

 美咲が答えると、博則は顎に手を当てて彼女の事をじっと観察するように見詰める。一か二秒程度ならどうという事はなかったが、そこを超えたあたりで美咲は『あの』と声を掛けた。

 

「失礼、不躾だった。協力者というのが、どんな人物なのか気になってな」

「いえ、別に構いませんが……」

 

 博則はきちんと一度座り込んで、靴を脱ぎ揃える。段差を上がり、そのまま家の奥へ消えていくかと思われたが、その足が一歩を踏み出したところで止まり、美咲の方へ振り返った。

 

「協力しているという事は、君もあいつの現状を不幸せだと思っているのか?」

「不幸せかどうか……。それを決めるのって、たぶん本人なんじゃないでしょうか。どんなに過酷な状況でも、本人が幸せだと感じてるんだったらそれでいいんじゃ、って思いますし」

「……ほう」

「ただ、まぁ。そういうのを無視して自分の意見を言わせてもらいますと、初めて会った時のあの子は少なくとも幸せだと感じてるようには見えませんでした……かね」

「そうか」

 

 美咲の吐露を聞いた博則は、それだけ短く言うと。後は黙って、歩いて行ってしまった。

 

「あれが、コウくんのお父さんか……」

 

 震える指先を抑えながら、美咲は呟く。彼女の覚えている限り、ここ最近では間違いなく最も緊張した時間だった。



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第20話「無垢の口撃」

「あ、美咲ちゃん。おかえりなさい!」

 

 すっかり気分も持ち直し、『CiRCLE』へと帰ってきた二人は一歩足を踏み入れたところで、雑務中の女性に声を掛けられた。

 彼女の名前は月島まりな。一応、名目上はこの店のスタッフということになっている。だが、もはや仕事の大半は彼女によって管理、遂行されており、実質的な店長のような人物だった。最近でこそ、新人のスタッフが入り手伝っているが、それまではどうやって仕事をさばいていたのか不思議なくらいだ。

 

「それから、こんにちは、コウくん」

 

 そんな彼女であるから、当然彼の事も把握し、また認可している。

 実は昨日(さくじつ)、『Roselia』と『Afterglow』との合同練習の休憩時間中に美咲が、こっそりまりなの元に話をしに行っていた。その時のやり取りがこうだ。

 

 

『すいません、まりなさん。さっきはロビーで騒がしくしてしまって……』

『あぁ、いいのいいの! 別に他のお客さんがいたわけでもなかったしね』

『ありがとうございます。それで、その内容なんですけど……聞こえてましたよね? いや、よく考えたら紗夜さんに許してもらっても、そもそも店側に許可貰わないと意味ないな、と思い至りまして……どうでしょうか?』

『うん? 全然おっけーだよ。っていうか、ぶっちゃけウチの経営状況考えたら選り好みなんてできる立場じゃないし。むしろこっちとしても、そんな程度の事で大事な出演者を失う訳にはいかないよー』

『え、えぇ……』

 

 と、なんともあっけなく、しょうもなく、許しを得たわけだ。

 

「すいません、スタジオ何番ですかね?」

 

 現在の時刻は五時四十分。スタジオを取っているのが四時半から七時までなので、ほぼ練習時間の半分が過ぎている事になる。ただでさえ回数の少ない合同練習を少しだって無駄にはできない、と二人は教えられた番号のスタジオへ急いだ。

 

 

 

「すいません、遅れました!」

 

 二重扉の固いノブを上げ、二人はスタジオへ入る。

 

「あ、帰ってきた」

「もう美咲、今まで何処に行っていたの? ミッシェルも来ないし、連絡がとれるのあなただけなんだから!」

 

 辺りを見回すと、メンバーは誰も楽器を手にしておらず、集まって談笑をしていたり一人で携帯をいじっていたりと、各々自由に過ごしていた。時間的に考えて、丁度休憩中に当たったらしい。

 

「さっきぶりね、美咲ちゃん」

 

 美咲がやいやいと何か言ってくるこころを捌いていると、その元にある人物が歩み寄ってきた。

 白鷺千聖。『Pastel*Palettes』のベース担当で、小さい頃から子役として芸能活動をしてきており、五人の中で芸能人という印象が最も強い。バンドのリーダーというわけではないのだが、その経験豊富さと頭が切れるという点で、難しい話の時には彩に代わって彼女が出てくる事が多々あった。

 

「こんにちは、白鷺先輩。美竹さんから話は聞いてますか?」

「えぇ。この子が美竹さんの話していた子かしら。初めまして、白鷺千聖よ。よろしくね」

「は、初めまして、祖師谷コウです。よろしくおねがいします、白鷺さん。それから、練習に遅れてしまって申し訳ありません……」

「何か事情があったんでしょう? いいのよ、気にしないで」

 

 千聖は極普通に受け答えをしていた。その様子はとても朗らかで、何かマイナス的な感情を抱えているようには見えない。

 

「えっと……その反応を見る限り、受け入れてもらえたということでいいんですかね?」

「えぇ。私だけじゃなく、パスパレ全員ね。別に、私達に不都合がある訳でもなさそうだったから」

「はぁ、よかったぁ……」

 

 懸念がまた一つ杞憂と変わり、美咲はほっと胸をなでおろした。パスパレのメンバーは総じて良い人だと彼女は思っているが、美咲の知らない芸能界特有のしきたりなどが存在する可能性もあり得たのだから。

 

「日菜ちゃんとイヴちゃんは今飲み物を買いに行っているから、先に後の二人を紹介しておきましょうか。おーい、彩ちゃん、麻弥ちゃん」

 

 千聖がスタジオの奥の方へ呼び掛けると、今度は二人の人物がやってきた。

 

「どうもです、奥沢さん」

「こんにちは美咲ちゃん。……と、確かコウくん、だったかな? 初めまして」

 

 一人は『Pastel*Palettes』のリーダー、丸山彩。他方は、ドラム担当の大和麻弥。二人は、中腰になってコウと目線の高さを合わせて挨拶をした。

 

「初めまして、祖師谷コウといいます。えっと、丸山さんと大和さん……ですよね?」

 

 事前に美咲に聞かせてもらっていた情報をもとに、コウは二人の名前を当ててみせる。実は半分推測混じりで確信を伴っていない言葉だったのだが、それを受け取った彩は突然舞い上がった。

 

「ち、千聖ちゃん! 私まだ名前言ってないのに……知ってくれてるみたい! えへへ、私たちも有名になってきたってことかな」

「え、えぇ。そうかもしれないわね……?」

 

 もちろん、生まれてこの方テレビなどまともに見たことがないコウに限ってそんなはずはないのだが……それを彩に知る由はなかった。

 

「ただいまー! って、あれ? 知らない子がいるー、こんにちは!」

 

 そこで突然、扉から人影が飛び込んできた。その腕の中には、ジュースが複数抱えられている。

 

「わっ……は、初めまして。氷川日菜さん……ですよね?」

「うん、そうだよ。そういう君は……ふんふん」

 

 ギター担当の氷川日菜。こころに似た突飛なところがあり、バンド内のトラブルメイカーだ。大抵の事は一目見ればできてしまう、一般に天才と呼ばれる類の者で、それ故に無意識のうちに他人を攻撃してしまっているという事態が起こる。一部で、天災と呼ばれている事は秘密だ。

 そんな彼女はなんの遠慮もなし、コウの身体を上から下までじっくり観察した。

 

「蘭ちゃんが言ってた子だね? 話聞いた時から、ずっとおもしろそうって思ってたんだよー! ねね、ちょっとお話ししよーよ」

「あ、えっと……休憩時間中でしたら――」

「うーん、あたし事情知ってるんだよ? っていうか、ここの全員知ってるんだし。演技じゃなくて、普通に喋ってよくない?」

「演技、ですか……? すいません、何の事を言っているのでしょう?」

「えー」

 

 意味不明な日菜の言葉にコウが首をかしげると、彼女は不服気に再度目の前の少年の姿を視線で舐めまわす。それから、落胆を隠そうともしない溜め息を、堂々と吐いた。

 

「ちょっと日菜ちゃん、目の前で溜め息なんて失礼だよ!? いきなり、どうしたの?」

「だってさー? 女の子の恰好してる男の子だって聞いてたから楽しみにしてたのにさ、話し方も態度も全然男の子っぽくないし……。これじゃ本当にただの女の子みたいで、ちっともるんっ♪ とこないよ」

「うぐ……」

 

 包み隠さぬ日菜の尖った言葉が突き刺さり、コウは思わず呻いた。姉に頼まれ女装をするようになって五日。その内容は彼自身、少しばかり自覚していることであった。

 

「……ごめんなさい」

「別にいいけどさー? もう、私行くね。はい彩ちゃん、パース」

「わっ、と、と……って、何これ!?」

 

 日菜はすっかりコウへの興味を失くしたようで、謝罪もなおざりに流す。そして、彩にトマトミルクと書かれた缶を放って、去っていった。

 

「ご、ごめんね! 日菜ちゃん、悪い子じゃないんだけど、たまにああいうところがあって……。で、でも、私も君はすっごく可愛いと思うし! 女の子みたいでも、全然大丈夫だよ思うよ!?」

「彩ちゃん? それ、フォローになってないどころか、追い打ちになってしまっていると思うのだけれど……」

「あ、あー確かに! ごめんね!?」

 

 わたわたと、彩が空回る様子を美咲は、麻弥と顔を合わせて苦笑いをした。

 

「パスパレの皆さんも、賑やかで楽しそうで……色々大変そうですね」

「あはは、ハロハピの皆さんほどではないですよ」

 

 そんな会話をする二人は、背後で顔を半分だけ覗かせてコウを見つめる何者かに、気付いていなかった。



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第21話「忘憂の日常」

「ほんっとにごめんね! さっきのは日菜ちゃんに流されてつい言っちゃったっていうか、言葉の綾というか……」

「いえ、いいんです……。どう言い繕っても、事実なのは変わりませんから……」

「あっと、えっと……あ、そうだ! パスパレに、まだ君に紹介してない子がいるの。イヴちゃんっていうんだけど」

 

 迂闊な失言からコウを落ち込ませてしまった彩は、先程からずっと謝罪を続けていた。ただ、それはどうにも効果を現していないようで、彼女は話題を転換を図った。

 

「って、あれ、イヴちゃんは? 麻弥ちゃーん、イヴちゃん何処いったか――え」

 

 思えば、イヴと共に飲み物を買いに行ったはずの日菜は何故か、腕いっぱいに飲み物を抱えて帰ってきていた。普通に考えれば、二人が分担して持ってくればいいはずなのに。

 本来訊くべき相手である日菜は既に何処かへ行ってしまったので、代わりに麻弥に尋ねようと彩はその方向へ向き……気付いた。

 

「イヴちゃん……何してるの?」

 

 その探し人が、開けっ放しに扉から顔を半分覗かせてこちらをじっと見つめている事に。彩が呼びかけるとイヴは、おずおずと全貌を顕にし、二人の元へ寄ってきた。が、顔にはまだ怪訝の念が残っている。

 

「皺、寄っちゃってるよ。イヴちゃん、一体どうしたの?」

 

 尋ねると、イヴはポツポツと事情を話し始めた。

 まず、日菜と二人で飲み物を買いに行ったイヴは、スタジオに戻る途中で最近『CiRCLE』に加わった新人スタッフを見つける。ガルパについて運営側に確認しておきたい事があった彼女は、飲み物を日菜に任せてしばらくその場で話をした。そして、話を終えたイヴがスタジオへ戻ると、そこにいたのはこの場にいるはずのない人物。思わず、隠れてしまったのだと。

 

「本当はすぐに出ていこうと思ってたんですけど、ヒナさんの事などでタイミングを逃してしまいまして……」

「なるほどね。それで、あんなところに。……ん? その説明をし方だとイヴちゃん、この子の事知ってるの?」

「そう、それです! どうして、ユウさんがここにいるんですか?」

 

 状況を正しく把握した彩が、浮かんだ疑問を口からこぼすと、イヴは食い気味に声を上げる。

 

「もう、蘭ちゃんが説明してくれたでしょ? ハロハピに新しい子が入るって」

「その話は覚えていますけど……はっ、まさか!?」

 

 その瞬間、彼女の中の散り散りだった二つの要素が糸で繋がった。

 

「もしや、ユウさんではないのですか……?」

「美竹さんから聞いていたのでは……?」

「そう、なのですが……なにぶん、大雑把にだけだったので」

 

 つまり、女装をした男子がハロハピに入る、と聞いてはいたが、詳しい名前や容姿などは聞いていなかったのだ。彼女としても、まさかそれだけの情報で、その人物が知り合いにそっくりだと予想などできるはずもない。

 

「では、初めましてになりますね。どうも、若宮イヴです! よろしくお願いしますね」

「……そう、ですね。初めまして、祖師谷コウといいます。お姉ちゃんがいつもお世話になっています」

 

 一瞬の逡巡の後、その違和感がこびり付いた挨拶をコウは受け入れた。そこには、彼からすればイヴが既に会ったことのある人だとしても、相手にとっては完全な初対面だという事に加えて、もう一つとある事情があった。

 

「むむむ、どこからどう見てもユウさんですね」

 

 じっくりと、コウの事を見つめたイヴは感嘆を漏らす。そこで、今まで話を聞いていただけだった美咲が、やってきた。

 

「若宮さんはコウくんのお姉さんと知り合いだったんだね」

「あ、ミサキさん。はい、ユウさんとはクラスメイトで、結構お話もするんですよ?」

「へー、クラスメイトでも見分けがつかないなんて、本当にそっくりなんだね」

 

 彩の驚く通り、もしも優と女装したコウが横に並んだならば、双子を名乗っても誰ひとり疑問に思う事はないだろう。それ程、二人の容姿は似通っている。

 

「はい! これなら二人で入れ替わって、変わり身の術ができそうです!」

「んんん!? そ、そうだね。できるかもね」

(まさか、ほんとにやってたとは言えないよね……)

 

 数日前、具体的に挙げれば沙綾と三人で遊んだ日あたりまで、美咲は特に何も考えずに事情のバレた者へは姉弟の入れ替わりの件を伝えてきた。だが、昨日の紗夜とのやり取りを経て、それが非常に不用意な行為だと、考えを改めていた。美咲からすれば友達がしてしまったおちゃめで、『おいおい』くらいにしか思わないが、客観的に見ればそれどころではない。

 現状、優とコウの事情を、テストを代わりに受けたことまで知っているのは美咲、沙綾、花音の三人だけだ。優曰く、ポピパのメンバーにも近日中に暴露する予定だそうだが、どういった経路で紗夜まで情報が回ってしまうかわからない以上、話す相手は人柄の良さだけでなく口の堅さまで考える必要があるだろう。先ほどコウがイヴに初対面の態度を貫いたのも、これが理由だ。少しおっちょこちょいな気のある彼がきちんとやってくれるか、美咲はその実、内心冷や汗が滲む思いであった。

 

「あー、それよりさ。この子、若宮さんと一緒でキーボードの担当だからさ、是非色々教えてあげてやってよ」

「そうなのですか? もちろん。私にお任せください!」

 

 好奇心旺盛なイヴにこれ以上言及されるのを避けるため、少し強引に美咲は話を反らす。

 と、そこでスタジオ内にギターの音が響く。見ると、『Afterglow』の青葉モカがチューナーをとりつけて音を合わせていた。たったそれだけで誰が何を言った訳でもないが、皆一様にそれぞれの楽器へ手を伸ばす。

 

「再開、みたいね」

「えぇ、そうですね」

 

 

 

 練習も既に終わり、帰り道。コウは、美咲と花音とあるY字路にいた。

 

「なんだかんだ、皆さん受け入れてくれてよかったです」

「うん、そうだね。昨日の紗夜ちゃんの件は、ちょっとだけハラハラしたけど……」

「それはまぁ、正直心臓が飛び出るかと思いましたよ……あはは」

 

 その当時の事を考えて、美咲は苦笑した。今でも、思い出すだけで心臓が早鐘を打ち始める。

 

「あ、そろそろ行かなきゃ。ちょっと話しすぎちゃったね」

 

 このY字路はコウ、美咲と花音の帰途が丁度分かれる場所なのだ。ここに着いた時点でしていた話が切りの良いところではなかった為、こうして立ち止まって話をしていた。

 

「じゃあコウくん、美咲ちゃん、また明日」

「花音さん、また明日」

「はい、また明日」

 

 去っていく花音に、角を曲がって見えなくなるまで二人は手を振る。そして、その影すら曲がり角の向こうへ消えていったのを確認すると、顔を合わせ笑み合った。理由なんてものは、特になかったはずだ。

 

「……行こっか」

「そうですね」

 

 足を再び進め、とりとめのない話を始める。他愛のない話をするという、どこまでも普通な行為が、今の二人にはとても楽しく感じられた。

 

 

 楽しい時間はすぐに過ぎる、とは言われ古した言葉だが、美咲は今それを実際にその身に痛感していた。数時間前に居た大きな屋敷、コウの家が二人の目前にはあった。

 

「それじゃ、バイバイ」

「はい、さようなら」

 

 短い言葉で別れの挨拶をして、美咲は再度自分の帰途に就く。背後では、どうにもよく似た二つの声が、実に楽しげに交わされていた。

 

『さぁ、お姉ちゃん署に連行よ!』

『うん。僕もお姉ちゃんに聞いてもらい事が、いーっぱいあるから!』

 



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第22話「休日の恰好」

 日は変わり、土曜日がやってきた。

 休日故、外に見える人の数が倍増したかと見紛うような都内。その内のとある駅の改札から、一人の少女が姿を現した。彼女は自分の左手首を一瞥して溜め息を吐くと、帽子のつばに手を掛けて日光を避けるように角度を深くした。

 

(……はぁ、早く着きすぎたなぁ)

 

 その少女――奥沢美咲は、すっかり自分に呆れた。決めておいた集合時間までにはまだ約四十五分ほど。約束事には時間の余裕を持って行動するよう心掛けている美咲だが、いくらなんでもこれは早すぎる。普通なら十分、重要な案件でも精々が二十分前というところであろうに。

 

(ちょっとの間、暇になるな……。ま、いいけどね。だって――あれ?」

 

 待ち合わせ場所に歩いて向かいながら、美咲は心の中で自分に言い訳をしようとする。だが、目的地が一定まで近付いてその地点の様子が目に映った時、彼女の思考は乱れた。まるで何か信じられないものでも見たような様子で再度手首へ目をやると、美咲はその者の元へ足を動かした。

 

「おはようございます、花音さん。随分と早いですね」

「あ、あれ、美咲ちゃん? おはよう。美咲ちゃんこそ、早いね?」

 

 視界の外から声を掛けられて驚いた花音は、挨拶をして広場の時計を見る。

 

「花音さん……もしかして大分前からいました?」

 

 美咲が、怪しむようにそう言った。見ると、花音の首元などは薄く汗が滲んでいる。彼女が美咲と同じように今駅から出てきたところなら、内部は冷房が強く効いていたのでそうはならないはず。よって、おそらくこの太陽が燦々と輝く中で、それなりの時間を過ごしたということだろう。

 

「集合って、十二時で合ってますよね? いつからここにいるんですか?」

「えっと……十一時前くらい、かな?」

「えぇ……」

 

 誰もの度肝を抜く、まさかの一時間前行動である。四十五分前にやってきてしまった美咲も大概だと言えるが、上には上がいたようだ。

 

「ちゃ、ちゃんと理由はあるんだよ? コウくんってすごい真面目だから、時間に余裕をもって行動しそうでしょ? だから、それより早く着いておきたいなって考えてて、気付いたら……」

「……ふふ。あぁ、なるほど、そういうことですね」

「もう、あんまり笑わないで」

 

 花音のその理由を聞いて、美咲は失笑をしてしまった。ただそれは、花音の事を馬鹿にしているだとか、そういった類のものではなく……。

 

「いえ、私もまったく同じ理由で早く来てしまったものですから、おかしくって」

「そ、そうなの?」

 

 美咲がそう言うと、花音はほっと胸をなでおろした。

 

 さて、彼女たち二人が何故こうして、外で落ちあっているのかというと……ずばり、三日前の埋め合わせである。その日といえば、美咲がコウと沙綾と共に手芸店に出向いた日。当日、本来二人に同行する予定だった花音は部活で同行できなかった。

 そして後日、花音は美咲からその日の様子を聞き、反射的に今日の事を提案したのだ。

 

「えへへ、楽しみだね?」

 

 彼女の今日したい事はもう決まっている。だからこそ、昼過ぎという遊びに行くには少し遅い集合時間を設定した。もっとも、その意味はあまりなかったようだが。

 周りに立っている、そちらもまた待ち合わせをしているのだろう人の邪魔にならないよう気をつけながら二人が話していると、にわかに美咲の携帯が鳴った。画面をつけてみると、『11:25』という時刻の下にコウの名前と通話マークが光っていた。

 

「ちょっとすいません……はい、もしもし。コウくん、どうしたの?」

『美咲さん、助けてくださいぃ……』

 

 花音に断りを入れて美咲が電話に出ると、耳にはコウの助けを求める声が届いた。若干のデジャヴを感じながらも美咲は事情を伺う。

 

「はぁ? 服がねぇ……なるほど、確かに」

 

 聞けば、この外出に着て行く服がないらしい。最初一瞬、何を言っているんだ、と思った美咲だったが、考えてみればそれも納得なものだと気付いた。

 彼は小学生の頃から、私用で外に出たことがない。ここ数日になってその機会が訪れたが、それらはすべて姉の制服を着てのこと。家の中で過ごす為の衣服ならいくらでもあるのだが、今の身体に合う外行きの服を持っていなかった。

 

『どうしたらいいでしょう……』

「って、言われてもなぁ。正直私が今何かして、すぐどうにかなる問題じゃないし」

 

 男子中学生と抽象的に考えれば、その成長具合によって父親の服を借りるなどの選択肢を取れる可能性もあるが、彼個人に焦点を合わせるとそれは望むべくもない。美咲が今から服を買って届ける事も可能であるが、それでは集合時間に間に合わないだろうし、彼の望むところでもないだろう。はてさてどうしたものか、と美咲が頭の悩ませていると、電話の向こうにもう一つの声が加わった。

 

『ちょっと、もうすぐ出るって言ってた時間だけど……って、まだ着替えてもないじゃない!』

『あ、お姉ちゃん。実は――』

 

 姉、優の登場である。心配から部屋の様子を確かめに来た彼女に、コウは事情を説明し始めた。

 

『ふんふん、そういうことなら任せて! お姉ちゃんに良い考えがあるから!』

『えっ、お姉ちゃんのその表情ちょっと不安なんだけど』

『いいからいいから。急がないと間に合わなくなっちゃうわよー?』

『あぁ、もう、引っ張らないでってば!』

 

 その話が終わるなり、姉弟のドタドタコメディーが始まり、すぐにフェードアウトする。離れたその場所の事など何も見えはしないが、美咲の頭にはその情景がありありと浮かんでいた。

 

「美咲ちゃん……? コウくん、何だって?」

「あー、なんかもう大丈夫みたいです」

「そ、そうなの?」

 

 結局、解決策がなにもわからないまま電話は切れてしまったが、多分大丈夫だろう、と美咲は漠然とそう思った。

 

 

 

 それからおよそ二十分後。少し人の減った広場で美咲と花音が変わらず話していると、駅とは反対の方向から二人のいる方向へタッタッと軽い足音が近づいてきた。その存在に先に気がついた美咲が、服を少し引っ張って花音をその方へ向かせる。

 

「はぁ、はぁ、すいません、遅れてしまいました……」

「ううん、私たちが早く来すぎちゃってるだけだから、気にしないで?」

「そうそう。なんだかんだ、まだ集合十五分前だしね。にしても……」

「うん……」

 

 一般に理想と言われやすい十五分前行動を知らずに実行していたコウは、しかし二人を待たせたという事実にのみ着目して謝罪をした。だが二人は、強いて言えば自分たちが悪いということを自覚していた為、それを受け取らない。と言うよりも、美咲と花音にはそれより気になりすぎる事が目前にあった。

 

「コウくん、かわいい……!」

「うん。花音さんに同じ、かな」

「い、言わないでください!」

 

 実を言うと美咲には電話の時点で若干の予想が出来ていたのだが、果たして、現れたコウはここ数日美咲たちが見慣れた姿をしていた。今日はハロハピとして活動するわけではないので、コウが姉のフリをする必要は微塵もないのだが、髪を一つに括りワンピースを纏う彼の恰好は、どこからどう見ても女の子のそれである。

 二人がコウの姿に素直な感想を述べると、彼は抗議の声を上げた。初犯の花音はともかく、もう一人にはその褒め言葉を使ってコウをからかった前科がある。美咲の方だけに、コウはひっそり不満の視線を送った。

 

「いや、待ってよ。男の子がかわいいって言われて複雑なのは、理解できないこともないけどさ? その恰好じゃ、言われても文句言えないと思うよ?」

「うっ……」

 

 コウは反論ができない。美咲の言い分は至極もっともなものであり、完全に丸めこまれてしまった。

 

「そ、それより、今日は一体何をするんですか?」

「ん、三日前と同じだよ。コウくんに楽しい事を教えてあげようってね。今日の先生は、花音さんです」

「その、参考になるかは不安だけど、私の『楽しい』を精一杯教えるから、よろしくね」

「花音さん……はい、よろしくおねがいします」

「それじゃ、出発しましょう」

 

 太陽を丁度真上に、三人は歩きだした。




今回の話、ただ集合しただけ! 進むの遅ぇ!


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第23話「奇跡の落合」

「ところで、これは何処に向かってるんですか?」

 

 駅から歩きだして数分、コウは相変わらず自分の手を握る二人に問いかけた。彼女たちは迷いなく何処かに向かっているようだが、コウはただ手を引かれるままに進んでいるだけ。

 その問いかけに答えたのは花音の方だった。

 

「その事なんだけど……コウくん、あの時あげた紅茶はもう飲んでくれた?」

「あ、そういえば言い忘れてました……。はい、まだ全部ではないですけど、少しづついただいてますよ。どれも新鮮で、違った味で、とってもおいしかったです」

 

 あの時、とはずばり新生ハロハピ結成パーティーの事だ。コウ()の歓迎の面も兼ねていたあの場で、花音がプレゼントに渡したパックの紅茶は、既に数を少なくしていた。紅茶を美味しそうに()()()で飲む彼を、優が複雑な面持ちで眺めていた、という話はこの場においては蛇足だろう。

 

「私、紅茶とかが好きでね、休日にはよくカフェ巡りなんかをしてるんだ。それで、今日はおすすめのお店なんかを紹介したいなぁって……」

「カフェ……といいますと、確かコーヒーや紅茶と一緒に甘味を食べるお店ですよね?」

「う、うん。大体合ってるんだけど、普通そんな言い方はしないかな……」

 

 コウの独特の言い回しに、花音も思わず苦笑いをする。直接体験が伴わず、知識だけが先行した結果であった。

 

「それでは、今はカフェに向かっているんですか?」

「いや、違うよ。カフェに行くには先に腹ごなしをしておかないとね……ってことで、今目指してるのはファミレス」

「ファミレス? 一昨日も行きませんでしたっけ?」

「ま、ファミレスだからね。色んなメニューがあるから、むしろ連日でも問題ないくらいだよ」

 

 わかってないなぁ、と美咲はファミレスがいかに素晴らしいかを解説をしてくれる。好きな食べ物と訊かれて『ファミレスの料理』と答える程、彼女はそれを気にいっていた。

 

 そうしてやってきた有名ファミリーレストラン。一昨日に親睦会が開かれた時とはまた別の店舗だ。

 昼時という事で店内には客が溢れかえっており、どころかお待ちまでもがいる様子だった。軽く見ただけでも三組、予約だけとって外で待っている組もいる可能性を考えると、どれだけ早くとも十五分は掛かりそうだ。

 

「名前書かなきゃ――っと、ごめん。代わりに書いておいてくれる?」

「え、名前を書いてくればいいんですか……?」

「うん、一番上の空欄に書いてくれたらいいから」

 

 美咲が予約板に名前を書きに行こうとしたところで、彼女の携帯がポケットで鳴る。そこで、何の腹積もりも無く、一番近くにいたコウへその役目を託した。

 

(こころからか。なになに……『明日皆で何処かに行こうと思うのだけど、何処がいいかしら?』か。はぁ、もう今更だけど事前に許可取ってほしいもんだよね。明日空いてなかったら、どうするつもりだったのさ……)

 

 大きく溜め息をつき、美咲は『何処でも、任せる』とだけ返信して画面を消す。またいつもの思いつきなのだろうが、こころの行動の突飛さにも困ったものである。

 

「急に溜め息吐いて、美咲ちゃんどうかしたの?」

「あー、多分その内グループトークの方でも言いだすと思いますけど、こころが明日何処かに行こうって……」

「あはは、また急だね」

「まったくですよ」

「あの、名前書いてきました……よ?」

 

 無事に任務を遂行してきたらしいコウに、美咲はありがとうと述べて頭を撫でる。

 

「あ……わ、私も!」

(なんなんでしょう、これ……)

 

 すると、一体何に対抗心を燃やしたのか花音もコウの頭へ手を伸ばした。自分の頭の上で二つの手が縄張り争いを繰り広げられて、本人は居心地が悪そうだ。

 それからおよそ十分。予想以上にするするとお待ちは捌けていき、遂に三人の順番が次というところまでやってきた。

 

「三名でお待ちの祖師谷……えっと、こう様? はいらっしゃいますか?」

「はい」

 

 少しつまりながら、店員がコウの()()を呼んだ。

 

「コウくん、もしかしてフルネーム書いてきたの?」

「……? 美咲さん、名前を書いてきてって言いませんでしたか?」

「いや、言ったけど……。まぁ、いいや。行こ」

 

 それが、店員が一瞬口ごもった理由。こういった時には名字だけを平または片仮名で書くのが一般的で、漢字で氏名両方を記すような輩はそういないだろう。

 店員が誘導する方へ三人そろって進んでいく。その途中で美咲は、件の板をちらりと盗み見た。そこに特別な思惑はなく、他人がやらかした場所に自然に目がいってしまった、という程度。

 

(祖師谷……幸?)

 

 そこで美咲は意外な情報――コウの名の漢字を、偶然にも知った。

 姉が『優しい』と書いてユウ。弟は『幸せ』と書いてコウ。なるほど、姉弟らしい似た名前だ。

 

(そっか、コウくんってそんな漢字書いたんだ……)

 

 (コウ)とハロハピが邂逅して六日目。それなりに濃い日常が過ごしてきたにもかかわらず漢字を知らなかったのは、一見不可思議なようで、よく考えたら妥当な事だ。

 名前を記す機会の多い学校の友人などならいざ知れず、幸との関係は放課後だけのもの。当然それを目にするタイミングなどないし、もしかすれば彼も美咲の事を『岬』だとか『三咲』だとかだと思っているかもしれない。

 

(ちょっと驚いたけど、まぁ別に、だから何? って感じだよね)

「この後カフェ行くんだから、あんまりお腹一杯まで食べないようにね」

 

 取り乱すことも無く、美咲は普段通りの様子で注意をした。

 

 

 

 昼食をとり終え、三人は再び街を歩いていた。辺りの景色は幸にとって見慣れぬ街から若干知れた様子に移ろっている。端的に言えば、そこは商店街だった。

 

「花音さんのおすすめのお店は商店街にあるんですか?」

「うん、もうちょっとで着くよ」

 

 そんな話をしながら更に足を進める事およそ十分。とある交差点に差し掛かった辺りで花音が足を止め、言った。

 

「ここだよ」

(……?)

 

 その言葉を聞き顔を前方に向けたコウは、その目に映ったものに首を傾げた。何故なら、そこにあったのは彼のよく知るある店だったから。

 

「ここ、パン屋さんですよね?」

「あ、そっちじゃないんだ。こっちだよ」

 

 やまぶきベーカリー。コウが数年ぶりに家を飛び出て初めて入った店だ。だが、彼女の言葉が指していたのはその建物ではないらしい。改めて花音が、今度は指で指したのはその向かいに建っていた店。

 

「ここが私のおすすめのお店の一つ、羽沢珈琲店だよ」

「はざ、わ……? 羽沢というと、確か……」

「うん、ここはつぐみちゃんの実家なんだ。けど、別に知り合いだから贔屓してるとかじゃなくて、本当に美味しいんだよ」

「あたしも何回かだけ来た事ありますけど、確かに美味しかったですねー」

 

 あまり店の前で居座っていても迷惑が掛かるという事で、三人は店へ入る。

 

「……あ」

 

 その際に、幸は店のガラス越しに手を振ってくる沙綾の姿を視界の端に見た気がした。

 

 

 

「いらっしゃいませ! 何名様で――あ、花音さん」

「こんにちは、つぐみちゃん。今、席空いてるかな?」

「えっと、三名様ですかね? はい、大丈夫ですよ。ご案内しますね!」

 

 店内はそれなりに混んでいたが満員という程でもなく、運よく空いていた窓際のテーブル席へ三人は着いた。

 

「ご注文が決まりましたら、またお呼びください」

 

 今は従業員モードだとでも言うのか、普段から先輩などに使うものより更に堅い敬語で言い残し、つぐみはメニューを置いて去っていった。

 

「うーん、今日はどれにしようかな?」

 

 メニューを開き、花音はむむむと唸る。だが、この悩む時間こそがカフェ巡りとする上で、彼女の最も楽しいと考える時間でもあった。

 

「あたしはなんか今重めが良い気分なんで、このベイクドチーズケーキにしましょうかね」

「じゃあ私はさっぱり系のレモンのムースケーキにしようかな」

「あー、それもいいですねー。コウくんはどうする?」

「えっと……」

 

 美咲と花音の二人がパパッと食べる物を決めてしまう間、幸はずっとメニューを見つめていたはずだが、まだ決まらない様子。

 

「って、そうか。コウくんケーキとかあんまり食べないだろうし、そもそもよくわかんないか」

「すいません……」

「ならもう、いっそのことこれでいいんじゃない?」

 

 そう言って美咲が指さした先には『本日のおすすめ』の文字が。その下には『内容は店員までお尋ねください』と書かれている。選べないならば、いっそ選ばない。それを二人は妙案だと、すぐに受け入れた。

 

「あと、セットのドリンクはコーヒーと紅茶から選べるけど……どうする? 私は紅茶だよ」

「コーヒーって、苦いんですよね……? 実はあんまり得意じゃなくて……」

「私はどっちも好きだけど……苦いのは確かだから、初めて飲むんだったらびっくりしちゃうかも」

「……紅茶にしておきます」

「んー、あたしはコーヒーですかね」

「美咲さん、なんていうか大人ですね」

「いやいや、ブラックで飲むならそうかもだけど、あたしちゃんとフレッシュとか入れるから、そんなことないよ」

 

 そこを素直に白状して認められるところがまた大人なんだけど、二人のやりとりを見た花音はそんなことを思ったが、口に出すことはなかった。

 

「じゃ、これで全部決まりましたかね? すいませーん」

「はい、ただいま! ご注文はお決ま――えぇっ!?」

 

 美咲がつぐみを呼んで注文を取ってもらおうとしたが、何故か彼女はその途中で驚きの声を大きく上げた。何事だ、と三人がつぐみの視線の向く場所へ目を移すと……。

 

「えー、何やってんの……?」

 

 そこにはガラスに頬をべったりと貼り付けてこちらを見つめる戸山香澄と、通行人の目を気にしながらそれを必死に引きはがそうとする市ヶ谷有咲の姿があった。




参考:超電磁砲の某シーン




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第24話「落橋の危機」

「いや、ほんっとに申し訳ない!」

 

 有咲が、心の底からの声で謝る。現在、窓の外の二人を加えて、美咲たちは五人でテーブルを囲む事態になっていた。

 

「あ、有咲ちゃん、顔を上げてよ。別に謝る事なんて何もないから」

「そうだよ、有咲。さっきから何で謝ってるの?」

「うるせぇ! お前はちょっとの間黙ってろ!」

 

 花音に便乗して口を出す香澄を有咲は軽く(はた)いた。彼女からすれば、特別行く必要もない先輩を含むグループに友人が突撃をかましたという構図なのだ。確かに自分たちの友人である()()、あまり親しくはないはずの先輩たちと共にいた事は有咲にとっても気になるが、それでも事情を聴くだけなら後日でよかっただろうと、有咲は胃が痛む思いだった。

 

「ったく、沙綾のやつ。何が『羽沢珈琲店に行くと良い事あるかも?』だよ……」

 

 小声で有咲が何かを呟いたようだが、生憎、それは誰の耳にも届かなかった。

 

「ところで珍しい組み合わせですね? 美咲ちゃんとは最近話してたけど、優は花音先輩とも面識あったんだ?」

「あぁ、えっと、まぁ……」

「……優?」

 

 ずばずばと直球に素朴な疑問を投げかける香澄に、返ってくるのは言葉少なな回答だけ。というよりその本人は、口より頭を全力で動かしていて、そんな余裕がなかった。

 

(えっと、えっと……)

「あぁうん、それは後で説明するとして。あたしたちは見ての通りお茶してたんだけど、戸山さんたちは?」

「私たち? 私たちは人を探してたの。あ、そうだ! 美咲ちゃんに優に花音先輩、これに見覚えありませんか?」

 

 美咲の助け船によって危機は遅延される。返しの質問に対し、香澄は答えながら鞄からある物を取り出した。

 

「うーん、あたしは無いかなぁ。結構何処にでもありそうなは感じするけどね」

「私も、見た事ないかも」

 

 それは一つの財布だった。丸ではなく長方形のもので、外から見ても分かるくらいにパンパンに膨らんでいる。

 

(……うーん)

 

 美咲と花音の二人はそれを即座に見たことがないと否定したが、唯一(コウ)だけはそれに見覚えがあるような気がした。

 

(僕のではないけど、ちょっとだけ見覚えがあるような、ないような……)

「これ落とし物なんです。丁度優くらいの身長の白い髪の男の子のなんですけど。先週の日曜日にこの辺りにいたみたいなんで、今週もいるかなーって思って探してたんですけど、なかなか見つからなくて」

「あ……」

 

 その香澄の説明で、彼の心の中のもやもやがピンッと一つの答えに収束した。その財布は確かに彼の物ではないが、彼が持っていたものだった。

 家を放り出される前に持たされ、帰ってくる頃にはいつの間にか消えていて、そのまま記憶からも消えてしまった物。公園で香澄から逃げ出してしまった時に、置いてきてしまったのだろうと、一般人からすれば重大すぎる事実に彼は今更辿り着いたのだった。

 その幸の様子を目敏く感じ取ったらしい隣の美咲が、そっと顔を寄せて小声で尋ねる。

 

「もしかしてあれ、コウくんの?」

「はい……」

「そっか」

 

 それっきり、美咲は顎に手をやって考え込む仕草で黙りこくってしまった。

 

(財布がコウくんの。ってことは二人の探し人はコウくんって事になって、それを抜きにしても今二人はコウくんを完全に祖師谷さんだと思い込んでるだろうし、それを誤魔化しながら財布の事も……)

「……もう言っちゃうか?」

「えっ?」

 

 急に静かになった美咲が、これまた急にそんな事を呟き、幸は疑問符を浮かべた。

 

「いや、もう無理じゃない? この場を切り抜けるだけでもすごい大変だし、その上財布の事も絡んでくるし、あと市ヶ谷さんさっきからすごいこっち見てるし、もう全部吐いちゃった方がいいのかなって」

「……でも」

「それにもう他のバンドには全部バラしてるし、もともとポピパも次に合同練習があった時に言うって予定だったから、ちょっと時期が早くなっただけって考えれば……」

「……確かに?」

「大丈夫、もし祖師谷さんが納得してくれなくても責任は私がとるから」

「いえ、お姉ちゃんならきっとわかってくれると思います」

「ん、かもね。……よし、戸山さん、市ヶ谷さん、ちょっといいかな?」

「なになに、美咲ちゃん?」

 

 ヒソヒソと、小声での相談を完了させた美咲は前方の二人に呼びかけた。話している姿をずっと怪訝そうに見つめていた有咲に、相手があたふたしているのもお構いなしに花音に言葉を連射していた香澄。両者の顔が正反対な表情で、美咲の方へ目を向ける。

 

(さて、どう説明すれば一番すんなりいくかな……? いや、それよりまずは)

「今から結構びっくりな事言うけど、驚いて大声出すとか勘弁してね。一応、ここお店だから」

「……? うん、わかった」

(うわ、不安だ)

 

 これから起こるだろう事態を見越して予め忠告をした美咲に、香澄は迷いなく頷く。だが、その様子に彼女はそこはかとない不安を感じ、有咲の方にだけ追加で『よろしく』とアイコンタクトを送った。吐きだされた溜め息は『しゃーねーなぁ』という言葉の代替に思えた。

 

「えーっと、まず、祖師谷さん――じゃ分かりにくいし、ここはもう優って呼んじゃおうか。優の家族、というか兄弟構成は知ってる?」

「んー、そういえば知らないなぁ。有咲は?」

「私も。沙綾とかりみとかのなら知ってるけど」

「そっか。優には下が一人いるんだけど……はい、こちらがその弟になります」

「ど、どうも。祖師谷コウと申します。いつもお姉ちゃんがお世話になっています」

 

 その気になれば色々と前置きをすることもできたが、美咲は敢えて速攻を仕掛けた。まるで商品紹介でもするかのような手ぶりに合わせて幸が自己紹介をすると、香澄と有咲は一度顔を見合わせた後、幸へと視線を戻した。

 

「……ん? んー、んんん……ええええ――むぐっ!?」

(市ヶ谷さん、ナイス!)

 

 右に、左に、またまた右に。繰り返し何度か首を捻った末に、香澄は驚きの声を上げ、その瞬間に隣から伸びてきた手に口を塞がれた。

 

「お前なぁ、言われたばっかの事をすぐに忘れんなよ。……まぁ、気持ちはわかるけど」

 

 友人の行動に呆れながら、有咲は目の前の『優の弟』を名乗る人物を観察した。

 パッと見では彼女にも、完全に友人である優だ。目鼻立ちなどに小さな違いがあるような感じはするが、それも表情による変化の範疇だと思える程度。

 

「ううん……?」

「多分、市ヶ谷さんが今疑問に思ってるだろう事を、先に答えちゃうとね……弟だよ。妹と聞き間違えたとかじゃなくて」

「……まじ?」

「まじもまじ。それから、これ聞いて更に疑問が浮かんだだろうけど、なんで女の恰好してるのか、っていうのには深い事情があってね……」

「いや、思ったけどさ……。なに、奥沢さんエスパー?」

 

 もう何回もしたやりとりですから、とは言わず美咲は幸の置かれている状況を説明した。例の如く、テストの代行や優のお願いの件は伏せて、概要だけを。それを聞いた二人は、きっと驚きやら何やらもあったのだろうが、真っ先に飛び出したのは納得を示す言葉だった。

 

「最近優と美咲ちゃんが一緒にいたのは、それだったんだね」

「本人は最初は戸山さんたちに相談するつもりだったらしいんだけど……ごめんね、なんか成り行きでこっちが抱えちゃって」

「ううん、理由がわかってすっきりした!」

「ちなみに、探してるって言う財布の持ち主もコウくんだよ」

「あ、そういえば、確かに優と色々似てた気がする」

 

 この公共の場で突然ウィッグを取る訳にもいかないので、ここではそのまま。香澄は親指と人差し指で小さく円を作って、幸の顔に縁を合わせて覗きこむ。視界から首下の髪が切り取られた。

 

「ほんとだ! 先週の公園の子!」

「ど、どうも。先週はえっと、戸山さんから急に逃げてしまってその……すいませんでした」

「いいよいいよ。よくわかんないけど、有咲が私が悪いって言ってたから。それより、はい、お財布!」

「ありがとうございます」

「もう落としちゃ駄目だよ?」

 

 香澄の手から、財布を幸は受けとる。すると、そこでつぐみが皿とカップのいっぱいに乗ったトレイを持って、現れた。

 

「おまたせしましたー!」

 

 コトリ、コトリ、と五人の前へ順番にケーキを置いていく。ちなみに、香澄はチョコケーキと紅茶、有咲は抹茶のケーキとコーヒーを注文していた。

 

「おぉ、来た来た! じゃあさっそく、いただきまーす」

「ちょっと待てえ!」

 

 それなりに重大な話をしていたはずなのだが、どうやら香澄にとってはケーキの方が重要な存在ならしい。話の流れを断ち切り食器に手を伸ばした香澄は、しかし有咲に怒鳴られてその動きを止めた。

 

「食べる前に、ちゃんと手洗ってこい」

「えー、お手拭きじゃ駄目?」

「駄目だ。ちゃんと洗ってこい」

「……はーい」

 

 一度だけ駄々が通らないか試してみた香澄だが、すげなくそれは一蹴され、彼女は渋々お手洗いへと歩いて行った。

 

「市ヶ谷さんはいいんだ?」

「私は公園の水場で一回洗ってるから、お手拭きで充分。それにあいつ、公園でベンチとか色々触ってたし。ったく、石なんか持ち上げても、そんな所にいる訳ないのにさぁ」

 

 ほんとしょうがないやつだよ、とぼやく有咲は、言っている内容の割に軽い笑みを浮かべている。その様子を見て、美咲は数日前に沙綾と電話で話した事を思い出した。

 

「市ヶ谷さん、本当に戸山さんのこと好きだよね」

「は、はぁ!? 奥沢さん急に何言っちゃってんの!? べ、別に香澄の事なんて……いや、普通に友達としては好きだけど、そんだけだし! 普通だし! 普通だし!?」

「おおう、市ヶ谷さん落ち着いて。どうどう」

 

 息を乱す程の長い言い訳をなんと一息で言いきってみせた有咲。その慌てぶりを見ていると美咲は、沙綾が普段から有咲をからかってしまう気持ちが、なんとなく理解できてしまった。

 

「市ヶ谷さん、信じられないくらい嘘下手だよね」

「はぁ、はぁ……それ、沙綾にもたまにも言われるんだけどよ、そんなにか?」

「声上ずってるし、急に舌が回るし、聞いても無い事言いまくるし、なんていうかもうね……」

「だ、大丈夫だよ有咲ちゃん。私もよく千聖ちゃんによく嘘が下手だ、って言われるから!」

 

 おそらく花音としてはフォローのつもりなのだろうが、残念な事にまったくそうなってはいない。

 有咲はどうにか平静をとり戻し、初めて幸へ話しかけた。きっと、バツの悪いこの流れを変えたかったのかもしれない。

 

「コウ、だっけ? 私の勘違いかもしんないんだけどさ……月曜、学校来てなかった?」

「え、えぇ!? い、市ヶ谷さんは何を仰っているのでしょう!? 確かに僕はお姉ちゃんの恰好してますけど、別に代わりにテストを受けたりしてませんよ!?」

 

 つい最近秘密にしていこう、と美咲との間で決めた事をいきなり指摘され、幸はおおいに狼狽した。その様子は、まるで先程の有咲を鏡に映したようで……。

 

「あ、なるほど。すげーわかりやすいわ、これは」

「でしょ?」

 

 未だ一人ふためいている少年を見て、二人は破顔した。

 

「にしても、よくわかったね?」

「んー、まぁあの日の優はなんかおかしかったしなぁ。ってか、何で入れ替わって学校に――いや、あれか。月曜っていうとテストがあった日か」

「ご名答。けど、できれば秘密にしておいてほしいかな」

「あぁ、それは別にいいんだけどさ……それでも普通、弟に受けさせるか? 兄とかならともかく」

「それね、この子実は結構頭良いみたくて。聞いた話だと、もう高校の範囲は全部できるらしいよ?」

「……まじ?」

「ただいまー! あれ、何の話してたの?」

 

 そこで、お手洗いから香澄が戻ってきた。石鹸まで使ってピカピカに洗ってきたのだろう、手からは水滴がポタポタと垂れている。

 

「おい、ちゃんと手洗うのは良いけど、ちゃんと拭いてもこいよ。店に迷惑掛かるだろうが」

「えへへ、ごめんごめん。それよりもう食べていいよね? いただきまーす!」

『いただきます』

 

 香澄を先陣に、皆が手を合わせる。

 

(危ない橋だったけど、なんだかんだ大丈夫でよかったよかった)

 

 チーズケーキの重厚な甘みが、舌を通して疲れた心にまで染み渡るような感覚がした。





最近気づいたんですが『山吹ベーカリー』じゃなくて『やまぶきベーカリー』なんですね。修正箇所がいっぱいだぁ!?

あと、主人公の名前の表記が混合して出てきますが仕様です。何か気付いたり、予想がついたりしても、できれば胸の内にとどめてくださるよう、お願いします。


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第25話「花音の欠点」

「ありがとうございましたー!」

 

 つぐみの声を背に受けて、五人は店を出る。普段あまり話さない組み合わせで、なおかつ店がそれ程混み合わなかった事もあり、かなりの長居をしてしまった。

 

「いやぁ、あたしカフェにこんなに居たの初めてです」

「うん、つい話しこんじゃったね」

「楽しかったですね」

 

 幸と出会った事で今日一日の予定がまっさらになってしまった香澄と有咲の二人は、そのままやまぶきベーカリーへ向かった。より厳密にいえば、若干頬を引きつらせた有咲が香澄の手を引いて店に突撃をしていった、だろうか。彼女は『一言言ってやる』と気張っている様子だったが、先程の事も相まって、美咲には逆に手玉に取られている未来が容易に想像できた。

 

「さーて、今からどうしますかね」

 

 店の邪魔にならないように、ひとまず商店街をあてなく歩きながら、美咲は言った。

 三人がおよそ一時に羽沢珈琲店に着いてから一時間半が経ち、現在の時刻は二時半。解散とするには少し早く、かといってあまり大きな目的を持つには遅い微妙な時間だ。

 

「よかったらなんだけど、水族館に行ってみない?」

 

 美咲の言葉に、花音はすぐさまそんな提案をした。というより、そのはやさは初めからそういう計画だったように思える。

 

「水族館……最近暑いですし、涼しそうでいいですね。あ……けど、時間平気ですかね? 水族館ってあんまり行かないから、よくわかんなくて」

「うん、私は結構行くけど、だいたい二時間くらいあれば一通りは見て回れる感じ、かな」

「あー、なら大丈夫ですね」

 

 美咲の知る限り、この周辺では水族館は一つしかなく、そこまで電車で約十五分ほど。花音からの情報を加えて考えても、遅くなりすぎるという事は無さそうだった。

 

「じゃあ私に付いてきてね?」

「……大丈夫、ですよね?」

「い、行き慣れてるから平気だよ! ……多分」

 

 若干の不安を胸の内に、二人は花音の後に続いた。

 

 

 

「つ、疲れたぁ……」

 

 新たな目的を掲げてからおよそ三十分後。三人の姿は水族館の最寄り駅にあった。ただ、内一人は今にも疲労で倒れそうになっていたが。

 

「ご、ごめんね、美咲ちゃん」

「うぅ、ごめんなさい、美咲さん」

 

 幸が初めての電車に切符を買うのに手間取り、そのフォローを美咲がしている間に、今度は花音が駅内で行方不明になったり。そんな風に一悶着も二悶着もあり、当初の予定の倍近い時間が掛かってしまった。

 

「いや、花音さんが無事でよかったです。さ、行きましょうか」

 

 美咲は放っておけば永遠に謝罪を繰り返していそうな二人を落ち着かせて、ついでに自分も乱れた呼吸も落ち着けせる。見上げれば、水族館のその大きな姿が自然と目に入り、三人は足を踏み出した。

 

 いざその傍まで寄ってみると、その建物は見上げる首が痛くなる大きさだった。チケット売り場では恥ずかしさこそありながらも、同じ轍を踏まない為に、しっかりと三人で手を握り合いながら入場券を買い、並んでいる間もそれは同様。順番が回ってくるまでの間、暑い中ひと時も手を離さない三人は、少しばかりの好奇の視線に曝されていた。

 

「確認できました。では、いってらっしゃいませ!」

 

 三枚の入場券をまとめてスタッフに渡し、確認を経て彼女らは水族館内部に足を踏み入れる。通路を少し進み角を曲がると、三人の眼前ににわかに『青』が広がった。

 

「……わぁ」

「おぉー」

 

 幸は初めて見る光景に、美咲はその壮大さに、感嘆の声を意図せず漏らした。唯一、ここに来慣れていると語っていた花音だけは平静を保っており、むしろその横で呆気にとられている二人の様子を楽しんでいるようだった。

 

「すごい……とっても綺麗です」

「圧巻、だね」

「えへへ、そうでしょ?」

 

 目の前の巨大な水槽には大から小まで、様々な大きさ、種類の魚が悠々と泳ぎ回っており、幻想的な光景を作り出していた。特に、こういったものを初めて目にした幸の心には、その魅力がよく沁みた。

 深く印象を残す為、一番インパクトのあるものを最初に持ってくるのはよく使われる手法だが、それは見事に効果を(ふる)っていた。

 

「……コウくん? そろそろ進むよ」

 

 五分ほど、ガラスに鼻が着くほどの近さで幸は水槽に張り付いていた。まるで瞬きによって暗転するたったの一瞬さえも惜しいとばかりに、目をいっぱいに開いて。

 美咲としても、この光景はいつまでも見ていられる魅力があると思ったが、ただでさえ電車関係で時間をロスしているのだ。時間は押し気味であり、ずっとここにいる訳にはいかない。

 後ろ髪を引かれる思いで幸がその場を移動すると、次に現れたのは、先程のものとは打って変わって小箱サイズの小さな水槽の数々。そのそれぞれの縁には、中に居る魚の名前と簡単な説明が記されており、それが彼の興味を更に刺激した。しかし……。

 

「……ん、んー!」

 

 様々な高さに位置する水槽の内、高所のものを、幸は身長の問題で覗けないでいた。どうにか届かないかと必死につま先立ちをするが、それでもなお高さが足りていない。

 

「……んー……よし。はい、ちょっと後ろから失礼しますよっと」

 

 それを美咲はすぐさま手助けする事なく、たっぷり可愛い姿を目に焼き付けてから、救いの手を差し伸べた。一度姿勢を低くし、右手を幸の身体と腕の間に差し込み、回す。そして、今度は左手をお尻のあたりに添えると、ぐっと自分の方へ体重を寄せるように抱き上げる。普段から取り回しのきかないキグルミを着て、はぐみのタックルを受け止めたり逆に抱きかかえたりしている美咲からすれば、それより遥かに小さく、軽い身体を持ち上げることなど、造作もない事だった。

 

「わっ、美咲さん!?」

「ちょっと暴れないでよ。上の方見えなかったんでしょ?」

 

 美咲の突然の行動に幸は驚いたが、その理由がわかると、恥じらいを一旦脇に、素直に水槽の中を見つめた。

 

「……ふぅ。美咲さん、ありがとうございます」

「…………」

「……美咲さん?」

 

 その中身をじっくりと堪能し満足した幸が、もういい、と美咲に告げるが、視界は下がらない。どころか、彼は自分の身体に回された手に入る力が増した感覚さえした。

 

「美咲さん?」

「……はっ! ごめん、ボーッとしてた」

 

 再度呼びかけることで、彼女はようやく我を取り戻し、幸のことを下ろす。美咲が放心した状態になる事は珍しく、彼は心配をした。

 

「大丈夫ですか?」

「うん、ちょっと考え事してただけだから」

 

 だが美咲はそう言って、更に進む事を提案した。ところどころ、小さな水槽が壁に現れる度に足を止めながら、三人は進む。そして三叉路に差し掛かったところで、彼女らは一度完全に立ち止まった。

 

「次どこいきますか?」

 

 入り口で配布されたパンフレットを開いて、次なる目的地を相談する。

 

「あ、私くらげを見に行きたいなって思うんだけど……」

「好きですね、くらげ。そうしましょうか」

 

 花音のくらげ好きは以前から公言を憚らず、美咲も知るところであった。一度、好きの意味を取り違えたこころが花音にくらげアイスをご馳走して、微妙な顔をするという事件があって、よく記憶に残っている。

 三つの内、右の通路を進んでいくと、ただでさえ淡かった電灯が光量を下げ、どんどん暗くなっていく。そのまま歩いていくと、お目当ての生物は、やがてそのゆったりとした姿を見せた。

 そこは落ち着いた雰囲気の場所だった。カラフルな訳でもない統一された青白い光で照らしだされた水槽の数々では、たくさんのくらげが意思なさげにゆらゆらとたゆたっている。

 

「わぁ……なんというか、さっきとは違うベクトルなんですけど、綺麗です」

「だよね、えへへ」

 

 初めの大水槽のように壮大さこそないが、こちらの持つ魅力も深く幸の心を打った。自分の好きなものを褒められて、花音もとても嬉しそうだ。

 

「すいません、あたしちょっとお手洗いに……」

 

 三人でしばらくくらげを見ていた途中、美咲は尿意を感じて用を足しに行く、と二人に伝えた。その上で、耳元に顔を近づけて幸にだけ追加でこう伝えた。

 

「コウくん、花音さんの事よろしくね。ちゃんと手握って、迷子にならないよう。お願い」

「わ、わかりました……!」

 

 そう彼が意気込むのを確認して、美咲はトイレに向かう。

 この時、きっと彼女は油断していた。一人でも傍に誰かが付いていれば、いくら花音が方向音痴でも勝手にいなくなる事はないだろう、と。

 

「……いない」

 

 だが、お手洗いから戻って、そこから二人がいなくなっているという事実に直面して、美咲は少し前の自分の判断を後悔した。

 彼女には、もう嫌になるほど実体験で理解している事だが、幸は気が弱い。それも、恐ろしく、と初めにつけてしかるべきなほどに。もし花音に付いていたのが自分ならば、絶対に迷子を阻止できたという自信が美咲にはあったが、幸の場合はそうはいかなかったようだ。きっと、無意識のうちに移動する花音を止める事も出来ずに、そのままずるずると引っ付いていってしまったのだろう。

 美咲は一度深呼吸をして、携帯を取り出した。静けさも雰囲気の一端を担っているこのコーナーで電話をするわけにもいかず、『ROW』を使って連絡を図る。送ったメッセージにはすぐ返信がされ、二人は今ペンギンのコーナーにいることが分かった。

 

「……ふぅ」

 

 美咲は安堵の息を吐く。よく考えればそう慌てることでもなかったな、と。そもそも、迷子とは非常事態という括りの中では断然軽い部類に入るもの。場所が雪山や無人島であったり、何かの間違いで動物の脱走が重なったりしない限り、そう大事になるはずがないのだ。

 そのまま、こまめにメッセージでやりとりをしながら移動し、三人はほどなく合流を果たすのだった。



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第26話「欺瞞の腕前」

二話同時投稿の一話目です。


「楽しかったですね」

「本当? なら、よかった」

 

 帰りの電車。行きのような失態を犯すこともなく乗り込む事に成功したその中で、三人はぐったりとしながら談笑していた。花音の提案から行く事になった水族館だが、他の二人もおおいに楽しめたようである。

 そのまま感想などを言い合っていると、三人の耳に乗車してから何度目かのアナウンスが届いた。

 

「あ、次か」

 

 告げられた駅名は、聞き落としがないよう軽く心に留めていたもので。

 

「では花音さん、また明日」

「さようなら、花音さん」

「うん、またね。コウくん、美咲ちゃん」

 

 家の所在の関係で、花音を一人残して幸と美咲は、車上からホームへ足を移した。

 電車が遥か遠くに去っていくのを確認して二人は階段を上がる。美咲は預かっていた切符を幸に手渡し、何かやらかさないか最後までハラハラしながら改札を抜けた。

 

 最近めっきり高くなってきた気温に少々辟易しながら、二人は並んで道を往く。時刻は夕過ぎで暑さのピークは既に去っていたが、それでも空気はじっとりとしていた。

 

「やー、暑いね」

「もうほとんと夏ですから。しょうがないですよ」

「それは分かってるんだけどさー? ……あ、ちょっと寄ってっていいかな?」

 

 天を仰ぎながら愚痴をこぼす美咲は、その視界の端にある物が入り、寄り道を提案した。

 

「いいですけど、お買い物ですか?」

「ん、ちょっと夕飯の材料をね」

 

 了承を得て美咲はその建物――スーパーの扉をくぐった。

 

 外の暑さがまるで嘘だったかのように、一瞬で冷えた空気が二人の身体を包む。それを彼女らは心底心地よく感じたが、身体は突然の温度差に驚いたようで、一つ、身震いをした。

 

「ひゃー、涼しー。……けど、これは後々寒くなってくるやつだなぁ」

 

 そう悟って、美咲は早めに買い物を済ませようと密かに決めた。

 入口の脇にあった籠を取り、カートへ乗せる。そしてポケットからメモ用紙を取り出して、書かれている物の置かれているコーナーを順々に周って言った。

 まずは卵。八個入りの百八円のパックを二つ籠へ放り込む。割ってしまわないよう、優しくだ。

 

「お(うち)では美咲さんがよくご飯を作るんですか?」

「いや、そうでもないんだけど」

 

 次はキュウリ。残っている物の中から、できるだけ形の崩れていないものを選び、取る。

 

「いつもは親が作るんだけどさ? 今日はなんか会社に泊まり込みらしくて、妹と弟にご飯作ってやんなきゃいけないんだよ」

「美咲さん、兄弟がいたんですね」

 

 最後にトマトを入れて、レジへ向かう。会計を終えると、取りだしたエコバッグにそれらを詰めていった。

 

「それだけでいいんですか?」

「うん、残りの材料はもともと家にあるから」

 

 予想していた通りに少々冷えてきた手を繋ぎ直して、二人はスーパーを出る。うんざりするような暑さが再び二人を襲った。外はこれだが、先程まではその逆が過ぎる。自分で温度を調節できる我が家が、美咲は恋しくなった。

 スーパーからは、美咲よりも幸の家の方が近い。適当な話をしながら歩き続けていると、先に祖師谷宅が遠目に見えてきた。

 

「あれ、もうこんな所まで来てたんだ」

「本当ですね、気付きませんでした」

「それじゃあ、また――ん?」

 

 幸の家の前まで来て別れの挨拶を美咲が告げようとしたところで、彼女の携帯がポケットの中で鳴った。

 

「もしもし。……はぁ? え、二人とも? いや、別にいいけどさ。誰のところ? ……あぁ、あの子ね」

 

 電話に出た彼女は非常に親しげな口調で話し始める。そこから考えるに、相手は家族だろうか。

 

「はいはい、いいよ。もうちょっと早く言って欲しかったってのはあるけどね。お母さんには? ん、了解。あんまり失礼ないようにね。……はぁ」

 

 半ば投げやりに電話を切った美咲は、疲れた様子で溜め息を吐いた。

 

「どうされたんですか?」

「いや、なんか妹と弟が友達の家に泊まるって、急にさ。お母さんには許可貰ってるみたいだからいいけど」

「な、なるほど」

「はぁ、どうするかなぁ」

 

 右手に掛けられたバッグに視線を落とし、美咲は呟いた。スーパーで買った材料は三人分なので、これでは二人分が余ってしまう。卵ならば人数の分だけ使う事も簡単だが、トマトやキュウリなどの水分の多い野菜は、冷蔵庫を使っても長く持たせる事は難しい。そもそも、美咲が夕飯を作るのだって妹弟がいたからであり、必要なのが一人分だけだったなら出来合いの物か外食で済ませるのが彼女だ。

 

「あー、うーん――あ」

 

 少しの間だけ美咲は唸り、唐突に何かを思いついたようで幸へと視線を向けた。

 

「美咲さん?」

「ねぇコウくん……今から、うち来ない?」

 

 その提案は、当然に幸を呆けさせた。

 

 

 

「お、お邪魔します……」

「誰もいないけどね。いらっしゃい」

 

 あの後、幸は着替えなどの必要なものを黒服に取ってきてもらい、現在奥沢宅の玄関をくぐっていた。果たして出るかどうか怪しかった外泊許可は、いざ電話をしてみると驚くほど簡単に出た。優が何か手を回してくれたのか、それとも父親が自ら許したのかは定かでないが。

 

「んじゃ、パパッと作っちゃうから適当に寛いでてよ」

「は、はい。精一杯寛ぎます!!」

「……なんか矛盾してない、それ? ふふ」

 

 初めての宿泊の緊張からか、支離滅裂な言葉を発する幸を微笑ましく感じながら彼女は台所へ入る。買ってきた材料と、冷蔵庫から取り出した鶏ささみその他を器具と一緒に並べ、美咲は調理を開始した。

 

「あ、そうだ。何か飲み物とかいる?」

「い、いえ! 大丈夫です!!」

 

 調理の途中、リビングのソファーで像のように姿勢を崩さないでいる幸に美咲は何度か声を掛けたのだが、いずれも短い答え以上は返ってこず、大半の時間はただ器具を振るう音が響いているだけだった。

 おおよそ二十分。それだけの時間で美咲の料理は完成した。

 

「おまたせ」

 

 美咲が両手に運んできた皿に盛られていたのは、俗に言う冷麺という品だった。キュウリにトマトに鶏ささみ、卵は錦糸卵とゆで卵の二種が乗っており、彩も良い。ただ、三人分の量を二人で分けているので、若干具が多いように見える。

 

「わぁ、美味しそうです」

「いやぁ、夏の冷麺は美味しいよ? いただきます」

「はい、いただきます!」

 

 忘れずにそう言い、二人は食事を始めた。その間、特筆するような事は何も起こらなかったが、ただ幸は大袈裟なくらい何度も『おいしい』と料理を褒めていた。

 

 夕食を食べ終えると、そこからの時間が流れるのは早かった。食器の片付け、入浴、歯磨きなど、やらなければいけない事をこなしただけで、気付けば時刻は九時を過ぎていた。帰宅した時点で既に七時近くになっていたので、妥当ではあるか。

 

(さて、今から何しようか?)

 

 無難にテレビを見てもいいし、カードやボードゲームに興じるのも悪くない。相手の意見も聞いておこうと、美咲はソファで隣に座る幸へ目を向ける。

 

「…………」

 

 そこで彼は眠たげに目を擦っていた。

 

「コウくん、眠たい?」

「……ぅ? はい、家ではいつも布団に入っている時間なので……」

「そうなの? だいぶ早いね……」

 

 平均的な就寝時間が十一時以降である美咲からすればそれは、驚きの情報だった。彼女の感覚では、まだ今から何かできる時間なのだが。

 

「そういうことなら、もう寝ちゃおうか?」

 

 ここは彼に合わせて健康的な生活をするのもいいか、そう美咲は考えた。

 コクリコクリと舟を漕ぐ幸の手を引いて美咲は階段を上がっていく。朦朧としていた意識が次に浮き上がった時、彼はいつの間にか狭い部屋に立っていた。

 

「大丈夫? 立ったまま寝ちゃう勢いだけど」

「へっ? あぁ、えっと、すいません……。何のお話をしていましたっけ? それに、ここは……」

「ん、あたしの部屋だよ。あんまり眠そうにしてるもんだから、もう寝ようかって話になって」

「そう、でしたっけ……?」

「さ、おいで」

 

 眠気のあまり、記憶まで曖昧になってしまっている幸を、美咲はベッドの前まで引っ張って行き、自分は先に横になる。それから自分の横の相手スペースをポンポンと叩いて、そう言った。

 

「はい……はい?」

 

 判断力の低下していた幸は言われたとおりにベッドの縁に寝転ぼうとしたが、腰を掛けた時点で、なんとか違和感に気付く事が出来た。はてさて、今自分は何をしようとしていたのか、と。

 

「どうしたの、コウくん?」

 

 冷や水でも掛けられたように、幸の頭の中がすっとクリーンになっていく。その、もともとは明晰な頭脳で以って状況を分析し終えると、途端に顔を暗い部屋の中でも分かるほど真っ赤にした。

 

「な、何を自然に一緒に寝ようとしてるんですか!?」

「……? コウくんちっちゃいし、ちょっと狭いかもしれないけど大丈夫でしょ」

「そう言う事を言っているんじゃないんですけど……」

 

 美咲は、彼の言葉の真意を理解できていない様子で首をかしげる。幸の知る限り彼女はもっと聡く、このような天然な発言をするような人物ではなかったはずなのだが……。

 

「って言っても、親とか妹とかのベッドで寝るのもあれでしょ?」

「う、そうですけど……。お布団とかないんですか?」

「布団は……うーん、確か無かったと思うんだよなぁ」

「そんな……」

 

 美咲の言葉に、幸の顔が強張ったが、それでも必死に案を考えている。今度はソファで寝ると言い出しそうな雰囲気を目敏く察知した美咲は、彼が口を動かすよりも前に、その胴に腕を回すとベッドの上に優しき引き倒した。

 

「わっ!?」

「まぁまぁ、いいでしょ。別に一緒に寝るだけ。寝るだけなんだからさ」

「……そういうものでしょうか?」

「そういうもんだよ。じゃ、おやすみなさい」

 

 そのまま、抱き枕よろしく足まで絡めてガッチリとホールドする。それでも疑念を捨てきれない様子の幸の言葉を、しかし美咲はこれ以上は口を利かないとでも言うように遮った。

 

(市ヶ谷さん、どうやら……あたしは嘘が上手いらしい)

 

 押入れには触れさせないようにしないと、そう心のメモに書き加えると、美咲は意識が落ちるその瞬間まで腕の中の感触を楽しんだ。



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第27話「恋情の自覚」

※この話は二話同時投稿の二話目です。一つ前の話を読んでいるか、確認してから下へお進みください。




 あたしは自己分析が得意な方だと思う。

 自分の事なのに『思う』なんて曖昧にしか言えないのは、そもそも他人がそれをしている様子なんて見れるものではないので、想像で語る他ないからだ。だから、今のあたしも所詮は、自分が自己分析が得意だと自己分析しているに過ぎないわけで。

 なんて、無意味に難しい事を考えて、目を逸らすのはここまでにしておこう。

 

「……完っ全に『ほの字』だよねぇ」

 

 隣に寝ている少年を見て、あたしはポツリと呟いた。

 祖師谷幸。『コウくん』と呼んでいるこの子のことを、あたしは好きなのだ。多分……いや、きっと。

 昨日の時点で『もしかしたら……?』とは考えていたものの確証はなかった。けど、朝起きて一番に目に入ったのがコウくんの可愛らしい寝顔で、その瞬間、すごく幸せな気分になったんだ。

 恋には二種類、何処かを起点に一瞬で始まるものと、いつの間にか始まっているものがあるらしいが、あたしの場合は後者のようだ。ただまぁ、強いて言うならば、好きを自覚した今この時こそが、あたしの恋の始まりなのだろう。

 『Roselia』との合同練習で湊さんがコウくんを悪く思った時、ムッとした気分になった。昨日の水族館でコウくんを抱き上げた時、思わず離したくないと考えてしまった。こんな風に兆候自体はあったようだけど、今といったら今なのだ。

 

「けど、意外だなぁ」

 

 一応、あたしだって女子の端くれではある。昔から、いつか恋をしてみたいな、なんて考えて、けど、恋をしている自分を想像できなくて。憧れているあたしのすぐ傍に、なんだかんだ恋をしないまま生きていくんだろうなぁ、って考える冷めたあたしがいて。

 そんな、心を覗かれるような事でもあれば、一発で面倒な女認定を受けるだろうあたしが、まさか出会って一週間にも満たない相手に恋をするとは思ってもみなかった。

 存外、あたしは惚れっぽい人間だったということだろうか? いや、でも仮に恋する早さの原因があたしにあるのなら、高校生になるまでの間に一度くらい恋をしてなければおかしい。だからそう、きっとこれは、コウくんが魅力的なのが悪いのだ。

 

 あたしは今日の今日まで自分が恋をするだなんて思っていなかった。けど、いざ実際にその立場になってみると、あれをしたい、これもしたい。あぁなりたい、こうなりたい。そんな気持ちがあふれて止まらない。

 

(けど……)

 

 あたしは、小さな寝息を立てているコウくんへ、目をやる。確かに、乙女な思考をしている間は胸が温かくなって、幸せな気持ちになる。けど、どうしても脳裏に居座って、姿をちらつかせる事があるのだ。

 

――果たして、この子はあたしの事をどうおもっているのだろう?

 

 少なくとも現時点で両想い、なんて事は絶対にないだろう。あたしはそこまで自惚れていない。だから、大事なのは今後そうなれる可能性があるのか、ということ。

 自惚れていない、なんて言った直後ではあるけど、客観的事実をもとに少しだけ驕らせてもらうなら、あたしはおそらくコウくんに一番接している家族以外の異性だ。可能性は十分にあると思う。

 けど、その客観的事実っていうのも、あくまで自分がそれを客観的だと分析しているにすぎないのであって、本当に客観的なものなどというのは――。

 

(って、やばいやばい。なんだこれ、あたしの心内は哲学書か?)

 

 恋を自覚した影響か、思考がめちゃくちゃになってしまっていた。一度、深呼吸をして落ち着こう。

 

 ふぅ……よし。とにかく、あたしはコウくんに恋をしている。これが重要だ。ここまで色々考えてきたけど、正直それ以外の事は全部どうだっていい内容にすぎない。

 今まではただ、祖師谷さんに頼まれて一緒に過ごしている。ただそれだけの関係だった。けど、これからは違う。コウくんと、そして何よりあたし自身の為に、この子と時間を共にしていきたい。その為にも一先ず、祖師谷さんにはもっと色々尋ねる必要がありそうだ。

 

 一週間後から、コウくんの生活はどうなってしまうのか?

 そもそも、何故この二週間が用意されたのか?

 

 頼まれて動いていた間は必要に感じず放っておいたが、今はどんな些細な情報だって欲しい。なんとしても、聞きだしてやらねば。

 

「……んぅ」

 

 あたしが一人、決意を固めたところで、コウくんが目を覚ましたようだ。小さな身体で大きく伸びをして、不思議そうに頭を捻っている。寝ぼけているせいで、ここがあたしの家だという事を思い出していないみたいだ。

 

「コウくん」

 

 いつまで経ってもこちらを向いてくれない事に痺れを切らして、あたしはコウくんの頬へ手を添えて自分の方へ顔を向けさせる。彼に触れた掌には、温もりが感じられた。体温の移動だとか、そんな科学の理論では絶対に説明なんてできないだろう、明るくて、優しい温もりだ。

 そうまでしてようやくあたしの存在に気付いたコウくんは、でもやっぱり理解が追い付いていないようで、ポカンとした表情を浮かべている。

 あぁ、こう言うと君はきっと、頬っぺたふくらませて怒るのだろうけど、

 

「おはよう」

「ふぁい、おはようございます……?」

 

――私の好きな人は、こんなにもかわいい。




一人称ってこんな感じ……?
ワカリマセンฅʕ•ᴥ•ʔฅ


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第28話「客船の事件」

「いやー、ね? なんだかんだ色々あって連絡の確認を怠ったあたしも悪いとは思うよ。けどさぁ……」

 

 幸を家に泊め、次の日の朝。

 

「返事ないのに、突然家まで来る? 普通」

 

 美咲は、自分の家の前で満面の笑みを浮かべている少女に対して、蹴っ飛ばしてやろうかと考えた。

 

 こころがやって来たのは、午前七時というまだ早い時間だった。目を覚ました幸と、朝食と食べた後にリビングで適当に過ごしていると、何の前触れもなくインターホンがなったのだ。しかも、その車内には既に花音、薫、はぐみの姿まであり、全員を拾って来たのなら、かなりの早朝に出発したに違いない。

 よくもまぁそんなに早くから活動するな、けど誘いに来るにしてももっと遅くにしてくれ。そんな感嘆と辟易の二感情を抱えて、美咲は話を続けた。

 

「だいたい、もしあたしがいなかったらどうするつもりだったのさ」

「んー、その辺りはあんまり考えてなかったわね! けどまぁ、いいじゃない。実際に美咲はいたんだもの!」

「……はぁ。それで? 今日は一体何の用で来たの?」

「そうだ、言い忘れていたわ。美咲、今から皆でフネに乗りましょう!」

「はぁ!?」

 

 ふね。その書き方には舟と船の二種類があるが、ここで言われているのはきっと後者なのだろうな、と美咲は口頭だけで予想がついてしまった。すなわち、動力を人の手に頼らない、機械のものだ。

 

「っていうか、何で急に船なのさ。ちょっとでも、そんな話してたっけ?」

「理由? 今日はとっても天気がいいでしょう? だから、船に乗ると絶対に気持ちがいいって思ったの!」

「あ、そう。……はぁ、着替えてくるから、ちょっと待っててね」

 

 それは、あまり関係があるとは思えない理由だったが、美咲が反論する事はない。どうせここで自分が何を言っても、同行する未来は変わらないだろう。そんな諦めの感情が、彼女からは見て取れた。

 踵を返して家の扉に手を掛けるが、そこで背後からこころの声が追加で投げられた。

 

「この後、コウも迎えにいかなきゃだから、なるべく急いでちょうだいね!」

「あー……」

 

 一瞬、『何を言っているんだ』と疑念を持った美咲だったが、それを口に出す前に、なんとか気付く事が出来た。

 

(そっか、うちにコウくんがいるの、皆知らないんだっけ)

「その必要は、ないんじゃないかな」

「……?」

 

 特に理由はないが、敢えて意味深な言葉を残して家へ入った美咲は、数分後に幸と共に同じ場所から現れ、四人を驚かせた。

 

 

 

 そして、黒服の女性が運転する車の中。まるでホテルの一室かと錯覚するほど設備の整ったそこで、六人は思い思いの時間を過ごしていた。

 

「コウくんは、美咲ちゃんのお家に泊まってたんだね……」

 

 船は初めてだと興奮するはぐみにその良さを薫が語る傍ら、花音がそう口にする。ただ、その雰囲気は何処か明るくなく、叱責や非難という類ではないが、暗い空気を纏っていた。

 

「あの、花音さん。なんて言いますか……」

 

 その正体がなんとなくわかってしまい、美咲は気まずそうだ。

 半日程を三人で共に過ごし、その後きれいに別れたと思えば、実はその二人はお泊まりをしていた。

 

(羨ましいやら妬ましいやらで、自分も、と言いたいけど図々しいかな、とも考えて言いだせない……ってところかな)

 

 そんな完璧に近い分析をしてみせた美咲は、拙い弁明をする。

 

「もともとそんな予定はなかったんですけど、なんか急に決まっちゃって……」

「ううん、いいの。別れてすぐにお泊まりの話なんて、しにくいもんね」

 

 だが、そこは先輩。自分の気持ちを割り切り、花音は笑って許した。

 

「みんなー、楽しんでるかしら?」

「あれ? こころん、かわいい服着てるー!」

 

 そこで、奥の部屋から――車内で部屋というのもおかしな表現だが――こころが姿を現す。その服装は、はぐみが驚いた通り、いつの間にか真っ赤なドレスに変わっていた。普段から服装は一般人と変わらない物を身につけているだけに、ドレスを纏った彼女はお嬢様だという事を強く主張している。

 曰く、こころは船に乗る時は決まってこの服を着ているのだと。

 

 車に揺られ、かれこれ数時間。太陽がかなり高くなり、トランプをする事にも飽いてきたところで、ようやく車が停止した。

 運転手とは別の黒服が外から扉を開けると、しばらくぶりの風が一気に中へ吹き込んでくる。日光避けに、額に手を当てながら美咲が車を降りると、そこは何処かの港のようだった。

 

「うっわぁ! おっきー!」

「ん? あの船、『スマイル号』と書かれているね。あれに乗るのかな?」

「うーん……みたいですね、はは」

 

 薫が言って指差す先には、今まで映画でしか見たことも無いような、巨大な客船が停泊している。実はこの船、かなり遠くの時点でも車の窓から見えていたのだ。実際に近くに行って、小さめのクルーザーなどが他に泊まっていないかを確認するまで希望を捨て切らないぞ、と心に決めていた美咲も、この光景を目の当たりにして認めるしかないようだった。

 

「こ、これに今から乗るんですか?」

 

 案の定、幸は美咲の隣で、船体を見上げて唖然としている。船、どころか海を見たことがあるかさえ定かでない彼の境遇を考えれば当然の反応だろう。

 

「驚いた? ……って言ってるあたしもびっくりしてるんだけどさ。まぁ、ハロハピにいる以上はこれくらいの事は日常茶飯事みたいなもんだよ」

「これが日常茶飯事……」

「はぐみがいっちばーん!」

 

 その時、はぐみが一人、船の入口へ突撃して行った。美咲、花音、幸の三人が衝撃に動けない中、動じずに一番槍を飾ってみせるのは、さすがはぐみと言ったところか。

 

「あぁ、ずるいわ! 皆も早く行くわよー!」

「あはは。美咲ちゃん、コウくん、私たちも乗ろう」

「は、はい!」

「そうだね、いきますかー」

 

 いつも通り過ぎる二人の言動に、すっかり硬直を(ほぐ)された三人は、こころの後に続く。

 

「みんな乗ったようだね。よし、それじゃあ私も――ん?」

 

 その後ろ、誰の目も向いていない殿で薫に声を掛ける存在がいたようだが、それに気付く者は一人もいなかった。

 

 

 

「すっごいすっごいすっごーい!」

「確かに……これはすごい」

 

 ぞろぞろと、並んで船に乗り込んでいく六人。そのまましばらく歩いていき、美咲たちはようやくホールに相当する場所へ辿り着いた。

 中央にはいかにもなグランドピアノが鎮座しており、天井は二階、三階へ、吹き抜けている。細部の細部まで装飾の行き届いた壁をシャンデリアが照らす様は、見る者の語彙力を奪い、シンプルな賞賛以外を吐けなくするような魔力を持っていた。

 窓から遠方に見える街並みは、残念な事に今はそうでもないが、夜になれば惚れ惚れする夜景に早変わりすることだろう。

 

「ねぇ、こころん、これから何をするの?」

「そうね……今はお日様がとっても気持ちいいから、とりあえず甲板に出てみましょうか。何をするかは、それから考えればいいわ!」

「わかる! 今甲板に行ったら、はぐみも絶対気持ちいいと思う!」

「よーし、そうと決まれば早速――」

 

 甲板に行くわよ、そうこころが続けようとした瞬間――世界が暗闇に覆われた。

 

「わぁっ!!」

「きゃっ!?」

「ひっ?!」

 

 停電でも起こったのだろうか。先程までは空いていたはずの窓も、()()()気付かぬ間にシャッターが閉められており、おかげで辺りは一筋の光さえ存在しない完全な黒だ。

 わーわーと騒ぐはぐみを適当になだめながら、美咲はきっとあるだろう予備電源が機能するのを待った。

 

「……あ」

 

 果たして、彼女の予想は的中し、一分も経たずに電気は再び点く。

 

「復旧早いなぁ。さすが豪華客せ――は?」

 

 正常な視界を取り戻した美咲は、驚嘆の言葉を吐いたが、それは途中で切られる事となる。何故なら……。

 

「ようこそ! 豪華客船『スマイル号』へ」

 

 暗転する直前までは確実にいなかった何者かが、目の前に立っていたから。

 

「だ、誰!?」

「うーん、あたしの知り合いではないわね!」

 

 黒を基調に、アクセントとして金のあしらわれた外套を羽織り、同じく黒の、花飾りが目立つハットを被っている。マスカレードマスクから覗く瞳は澄んだ赤色で、紫色の髪が……。

 

「私の名前は、怪盗ハロハッピー。今宵、あるものをいただきに参上したのさ」

(名前ださっ!? ってか、声といい見た目といい、服装以外完全に薫さんじゃん)

 

 その色々と残念な感じに美咲は内心でツッコミを入れるが、はぐみとこころの二人は正体がまったくわかっていない様子だ。どころか、怪盗をハロハピに勧誘さえしてしまう始末で、状況を理解できている美咲からすれば、バンドメンバーをバンドに誘うというおもしろくもない茶番にしか見えなかった。

 

「ところで怪盗さん、その『あるもの』って一体なにかしら?」

「それは……ふふ、今はまだ教えられないね」

 

 こころの問いに答える事なく、怪盗は含み笑む。それから外套を派手に翻し、よく通る声で美咲たちへこう語りかけた。

 

「それと、綺麗な水色のお姫様をさらわせてもらったよ!」

『……!?』

 

 『水色のお姫様』と言われてこころたちの頭に一人の人物が浮かび上がる。慌てて振り返って探してみるが、怪盗の言う通り目当ての姿は何処にも見つけられなかった。

 

「本当だ、かのちゃん先輩がいないよ!?」

「怪盗さん! 花音をいったい何処へやったの?」

「ふふ、ここではない何処か、さ。心配しなくても危害は加えないよ。もし君たちが私を捕まえられれば、お姫様は返そう。まずは、カジノで待つ!」

 

 怪盗は居場所を言い残し、走り去っていってしまった。

 

「急いで追いかけるわよ!」

「あ、こころん待ってー!」

「やれやれ……。何で薫さんがあんなことしてるのかは知らないけど、とりあえずは言う通りにしておこうか。ちょっとー、二人ともカジノはそっちじゃないよ! ……はぁ」

 

 全力で駆けていく二人が、見事なまでに反対方向へ向かっている事に気付いた美咲は急いで、それを呼びとめる。そして、これから起こるだろう事を想い、溜め息を吐くのだった。

 

「行くよ、コウくん。……コウくん?」

 

 幸からの返事がなく、おかしいと感じた美咲が振り返る。

 そこに幸の姿は――なかった。

 

 

―――――――

 

 

「……ふぅ」

 

 怪盗ハロハッピー、もとい瀬田薫は、ある部屋の前に立っていた。

 船に乗る直前、黒服の人たちに一芝居打つよう頼まれた彼女は、見事その役を演じきってみせた。おかげで、『こころを楽しませる』という目的は既に十分以上に達成されている。

 

「十分に楽しませる。それも悪くはないが、どうせなら十二分に観客を楽しませるのが、一流の役者というものだ」

 

 誰に言うでもなく一人呟いた薫は、そこで待ち人の到来を察した。

 

「やぁ、お疲れ様。首尾はどうだい?」

「それが、実は……」

 

 やってきたのは、いつもこころの周囲に控えている黒服。彼女たちは起こした停電の内に花音をさらう役目を担っていたはずなのだが、どうにもその表情は芳しくない。何か問題が起こったのは明白で、その口が説明をしようとする。だが、それを薫は手を突き出して、制止した。

 

「いや、何も言わなくていいさ。なに、多少の問題くらいなら私がどうにかしてみせよう」

 

 そう言って、薫は自信満々に扉を開ける。そこには、予定通り可憐な恰好へ着替えさせられた、まさにお姫様が椅子に座っていた。

 

「……ふむ」

 

 ただし、()()

 

「うん、まぁ……そうだね……。お姫様が二人というのも、えぇっと……一興さ?」

『ふ、ふえええええ』

 

 花音と幸の情けない声が、部屋中に響き渡った。




美咲と花音とばっかり絡んで、ハロハピ全体の描写が最近薄かったなー、と感じたので『怪盗ハロハッピーと豪華客船』編スタートです。話の都合上、原作ストーリーと何点か相違があります。現時点では

・時間が夜→時間が朝
・停電後、薫が花音をさらう→停電中に黒服がさらう
・怪盗の去り際に美咲が正体に気付く→すぐ気付く
・花音がさらわれる→花音と主人公がさらわれる


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第29話「事態の裏側」

 それは一瞬の出来事だった。はぐみやこころたちに続いて幸が客船に乗り込み、その内部の絢爛さに唖然としていたその時。

 辺り一帯が唐突に闇に包まれ、視界が黒一色に染まった。それは、一般に停電と呼ばれる珍しくも無い現象であったが、生まれてこのかた体験をした事の無かった彼は、ただ一生物として恐怖に対する本能的行動をした。

 すなわち、一番近くにあった存在へしがみついた、ということだ。

 それが一体何なのかもわからないまま、何か柔らかい感触を知覚した直後、今度は全身を浮遊感が襲い、幸は足がきっちりと地面を踏むまで堅く目を瞑った。

 

「…………?」

 

 およそ十秒が経ち、自分の身体が安定したのを認識した幸が目を開けると、そこは暗転前とはまったく違った場所だった。

 先程のホールにも見られた煌びやかな装飾がされた天井に、ふかふかのカーペット。四方にある壁の内一面は鏡張りになっており、そこに幸は……。

 

「――へ?」

 

 引けた腰で、花音の胴周りに抱きついている自分の姿を見た。

 

「ひゃあああああ!? ご、ごめんなさい花音さん!」

「あ、あははは……」

 

 苦笑いをする花音から、幸は過剰なまでに声を上げて腕を離す。これまでもそれなりに親しく接してきた二人だったが、それでもあったのは精々手を繋ぐくらい。体を広く使った接触はこれが初めてで、それも要因の一つだった。

 花音は、狼狽える幸に深呼吸をさせて、その間に改めて周囲を見渡した。

 やはり、部屋の様相には見覚えはない。隅にはたくさんの服がぎっしりの衣装掛けと、垂れる帳によって作られた着替えの為と思われるスペースが、そして中央には椅子がたったひとつポツリ。その上に花音は、紙切れのようなものが置かれているのを発見した。

 

「……なんだろ、これ?」

 

 花音がおもむろに近づいて手に取ってみると、それは手紙だった。裏面の封を解き、中身を取り出してみる。

 

「えっと……」

 

 書かれている文は、このような内容だった。

 まず初めに、無礼をしたことへの謝罪。そして、しばらくこの部屋で待機しておいて欲しいという旨が続く。

 文の最後まで目を通してみた花音だったが、その何処にも差出人の名前は見られない。だが代わりに、通常ならばそれが書かれているはずの、紙面の右下辺りには短く、一文が記されていた。

 

「『その間に、用意しておいた衣装に着替えておいてください』……?」

 

 花音と幸が顔を見合わせ、部屋の隅に見つけていた衣装掛けの傍へ寄る。

 

「こ、これを着るんですか……?」

 

 ゴシック、メルヘンから、舞踏会に着ていくような大胆に背中の開いたものまで。古今東西、あらゆる種類のドレスを集めたのかと思う程のレパートリーがそこにはあった。

 それら一つ一つを細かく(あらた)めていく幸は、自分の手が進むにつれて次第に眉が下がっていった。

 手触り、デザイン、見えないところの作り込み。どれもが完璧の、人によっては垂涎間違いなしの代物ばかりなのだろうが、彼からすれば何とも言えない。今更何を、という言葉が目に見えるが、彼はこれらを自ら着ることで男として大切な何かが崩れてしまうような気がしていた。

 

「あ、これかわいい……でも、こっちもいいなぁ……」

 

 だが反対に、花音は両手いっぱいにドレスを重ねてウキウキ顔をしていた。とりわけ、レースなどの付いたメルヘン志向な物が彼女の好みにハマったようで、最終的に水色を主体にしたシンプルなデザインのドレスを選んだ。

 ちょっと着替えてくるね、と幸に告げて花音が帳の向こうへ消えていく。途中、衣擦れの音に混じって『あれ?』や『うーん』と困ったような声が聞こえてきたが、三分ほど経つと無事に幸の前へ現れた。

 

「ドレスなんて初めて着るから、ちょっと手間取っちゃった。……わぁ、えへへ」

 

 普通の女子高生から一変、物語のお姫様のような姿へ変貌を遂げた自分が鏡に映り込み、花音は顔を綻ばせた。体を右へ、左へ、しまいにはターンまで。反射する、生まれ変わった己を存分に楽しんだ花音は、不意に後ろに映る幸に気付き、首をクルリと回した。

 

(あ、何だか嫌な予感が……!?)

 

 優しさのあふれる花音の瞳。自分を見つめるのは、いつもと変わらないそれの筈なのに、幸は悪寒が背中を走るのをはっきりと感じた。

 

「コウくんにはどれが似合うかな? これもいいと思うけど……あぁ、でもこっちも絶対かわいいよね」

「あの、花音さん……?」

 

 幸の声も届いていない様子で、花音はあれでもないこれでもないと衣装掛けを物色する。彼女が慣れない着替えに費やしたよりも長い時間を使って、なんとか二つにまで絞った花音は、両手を掲げたまま幸の方へと歩み寄った……のだが、彼の視点からすればそれは、迫ってきたという言葉の方が合っている気がした。

 

「私的には、このどっちかがいいかな、って思うんだけど……あっ、でもコウくん女の子の服の着方とか多分わからないよね? 着替え、手伝ってあげるね!」

 

 心配も、手助けも、なんだって。自分はずっとされる側だったと、そう花音は思っている。美咲を初めに、周囲の人が聞けばきっと否定するのだろうが、少なくとも彼女は信じて疑ってこなかった。

 だから彼女は、こうして世話を焼いてあげられる存在を心のどこかでずっと欲していたのかもしれない。花音が幸の正体を知ったその日から、異様なまでに彼の事をかわいがってきたのには、そういう理由もあるように思えた。

 ぎゅっと体を丸くする幸に、花音の手が迫る。まずは着る前に、と彼女が服をその体にあててみようとした瞬間……。

 

『えっ!?』

 

 ガチャッ、と二人の背後にあった扉からノブの回る音がした。

 衣装に夢中で忘れてしまっていたが、彼女たちは正体不明の何者かに連れ去られてここにいるのだ。考えてみれば、楽しくわちゃもちゃしている場合では、まったくない。

 扉が少しづつ隙間を広げていく様を、二人は固唾を呑んで見つめる。そして、それが開ききった時、立っていたのはいかにも怪しい恰好をした人物だった。

 肌面積の少ないスーツに似た服、屋内だというのに着けられた外套、そして目元を隠すようなタイプのマスクは、いかにも怪盗といった風貌で。

 

『ふ、ふえええええ』

 

 部屋に一歩立ち入った位置で止まっている怪盗が何かを言っていたが、そんな事にも気付かず、二人は情けない悲鳴を上げた。

 

「お、落ち着きたまえ、別に何かしようってわけじゃないさ」

(……あれ? この声って)

 

 身を固くして相手を警戒していた幸だったが、その声を聞いて、首を(かし)げた。

 どうにもその声質には覚えがある。加えて、冷静になって観察してみると、服装こそ見知らぬものだが、それを纏っている本人にも幸は既視感がある気がした。

 

(薫、さん?)

 

 いや、覚えがあるだとか、気がしただとか、という域ではない。彼は目の前の人物を、明らかに知っていた。

 

「花音さん、あれって薫さ――」

「あ、あなたは誰!? 私たちをどうするつもりですか?」

 

 幸の言葉を遮って、花音が怪盗へ大きな声で問いを投げる。その正体が薫である事は誰にだって一目瞭然だと思って彼は話しかけたのだが、どうやら彼女の方は勘付いていないようだ。

 

「私は怪盗ハロハッピー。以後、お見知りおきを。ふむ、どうするつもり……か。別に、今すぐ何かをして欲しいという事はないよ。引き続き、ここでゆっくりしておいてくれたまえ」

 

 さらっておいてなんだがね、と付け加え怪盗が指を一つ鳴らすと、ティーワゴンが運ばれてきた。そこには二人分の紅茶と多種多様の菓子が乗っており、これでゆっくりしておけ、ということだろう。

 

「ただ、少しだけ協力してほしい事があってね。お願いできるかな?」

「な、内容も聞かないでお受けすることはできません……!」

 

 怪盗がウインクをして問いかけるが、花音は幸を庇うように前に出て、努めて気丈な態度でそれを突っぱねた。

 

「ふ、それもそうだ。詳しく話す事に異存はないのだが、今は時間がなくてね。また来るよ、逃げようなどとは思わない事だ……さらばっ!」

 

 笑みを崩さぬまま怪盗はそう言うと、マントをはためかせた。途端、どういう仕掛けか、足元から煙が巻き起こる。

 

「わっ! けほっ、けほっ」

 

 それが晴れた時、怪盗の姿はそこにはなかった。

 

「消え、た? あっ、コウくん、大丈夫? 怖くなかった?」

「はい、怖くはなかったですけど……」

(だってあれ、薫さん……)

 

 そうは思っても、口には出せない。もしかしたら怪盗の正体が薫だという事自体、幸の勘違いの可能性もあるのだ。いや、共に過ごした時間の総計を考えれば、その可能性の方が高いとさえ言える。

 いざ言って、それが間違っていれば掻く必要のなかった赤っ恥であるし、口を噤んでいるのが安牌というものだろう。

 

「なら、よかった。あ、紅茶とお菓子はどうしよう……。食べても大丈夫だよ、ね?」

「大丈夫だと思いますよ」

 

 ワゴンが部屋に入ってくる際、扉の縁から一瞬だけ覗いた黒の袖を思い出して、幸は肯定する。

 意見がまとまったことで、紅茶に手を着けた花音は、見ただけでわかるその上等さに気分が昂る。菓子も同様に高級品な事がうかがえて、彼女の瞳には棚から出てきた牡丹餅に映った。

 なんだかんだと色々あり、幸の着替えの事は有耶無耶になってしまっていた。

 

 ……と、彼は思っていた。



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第30話「勝負の行方」

「カジノに着いたわ!」

「わー、金ピカだ!

「はぁ、ようやくだよ……」

 

 三人が怪盗の指定した場所になんとか辿り着いた時、美咲は既にげっそりとした様子だった。原因はもちろん左右にいる二人なのだが、かと言って彼女らが元気を吸い取ったなどということではない。

 まず、こころ。そもこれは自家用の客船で過去に何度か乗った経験があるという発言をしながら、てんで的外れな方向へ何度も走りだし、その度に美咲が追いかけて捕まえた。

 そして、はぐみ。船に乗るのは初めてだと堂々と宣言しておきながら、謎に自信満々な様子でこころとはまた別の方向へ駆けだす。

 二羽を追って結局は……。そんなことわざもあったはずだが、そもそも片方を得ることさえ困難な状況では一体どうする事が正解だったのか。

 いつまでも進まないどころか、むしろ戻っていく一行を見かねた黒服がわかりやすく札を立てた事で事態は収束したが、それがなければどうなっていたことやら。

 

(にしても、この船広すぎでしょ。こんなのを気持ち一つでポンポン動かせるんだから、ほんっとこころは――)

『怪盗さん! 花音を返しなさい!』

「うわっ、急に叫ばないでよ。びっくりするなぁ」

 

 乱れた息を整えながら美咲が考え事をしていると、突然はぐみとこころがそんなセリフを叫ぶ。それは完全な不意打ちとして、美咲に耳を叩いた。

 

「……って、あれ? 怪盗いないよ?」

「本当ね。場所を間違えてしまったかしら? カジノって言ってたと思うのだけど……」

(あたしも聞いたし、それは間違いないはずなんだけど……)

 

 その時、絶対にそうあって欲しくない仮説が美咲の頭に思い浮かんだ。

 先程も彼女が考えていた通り、この船は広い。二人に振り回されて美咲もいくらか探索をしてみたが、きっと船内の一割だって踏めていないだろう。なら、同じ機能を持つ施設が複数あってとしても決して不思議ではない。

 

(もしかして第二カジノとか第三カジノとかあって、集合はそっちとか――)

「待たせたね。ちょっとトラブルがあったんだ」

 

 だが、その懸念は嬉しい事にただの杞憂へと成った。

 声のした方へ顔を向けると、いつのまにか現れた怪盗が得意げな顔で台の傍に立っている。するとこころが、その姿を目にするなりピッと指を突き出して、こう言い放った。

 

「カジノに来たわよ! さぁ、花音を返してちょうだい!」

「ふふ、残念だけど、すぐにという訳にはいかないね。お姫様たちには今、別の場所で待ってもらっている。返してほしければ、少しだけ私に付き合ってもらおう」

(ん、()()()()()……?)

 

 何気ないこころと怪盗との会話の中に、美咲は耳聡くある部分を切り取った。

 

「その言い方、やっぱりコウくんもあんたがさらったんだな、怪盗」

「あ、あぁ、そういえばさっきは言い忘れていたね。そちらのお嬢さんの言う通り、純白の姫君も私の手の内、さ」

(言い忘れてた……あの薫さんが?)

 

 美咲の強い物言いに怪盗はそう答えたが、彼女にとってその回答は少しだけ違和感を覚えるものだった。

 普段は何処か抜けており、こころとはぐみと一緒くたに美咲から三バカと呼ばれている彼女だが、こと演技に関しては完璧超人と称しても過言ではない程のものを持っている。

 

(いや、セリフ自体は結構勝手に変えたりはあるけど、そうそう内容を間違えたりはしないと思うんだよな……)

 

 なら、考えられるのは万一を引いてしまったか、或いは……。

 

(あの時点では把握してなかった……花音さんをさらったら、一緒にコウくんもついてきちゃったとか? いや、ないか、そんなリアル一石二鳥みたいなこと)

 

 荒唐無稽なようで、その実かなり正確な推理をした美咲は、しかしそれが事実であると気付く事も無く思考をやめた。

 

(過程は分からないけど……まぁ、コウくんの安全がわかっただけ良しとしよう)

「いったい、どうしたら二人を返してくれるの?」

「そうだね。ここは一つ、私と勝負でもしてもらおうか!」

 

 怪盗の言葉に釣られてカジノ内を見渡してみると、スロットからルーレットまで、一般に賭け事へ言い含められるものが多く目に入る。美咲は、一番近くにあったルーレットテーブルの上に山と積まれたある物を、一枚手に取った。

 

(なるほど、いらない心配はしなくて良さげかな)

 

 それは両面に大きくスマイルマークの描かれた、おもちゃ感の強い銀のメダルだった。きっと何処へ持っていっても貨幣価値は生じず、また換金も叶わない代物に違いない。

 聞きかじりの知識となるが、世界的には未成年の入場、そして日本ではそもそもカジノという存在自体が禁止されていたと彼女は記憶している。だが、メダルを見る限り、このカジノは子供のお遊戯の延長のようなもので、法に引っかかる事はなさそうだ。もっとも、仮にそういった事態に陥っても、弦巻家の力でどうにかしてしまいそうな気がするが……。

 

「勝負ね、わかった! ソフトボールでいい?」

「…………」

 

 いつもは一緒になって馬鹿をやっている二人。だが、いざはぐみが敵に回って、怪盗()はその厄介さを苦く噛みしめている様子だ。

 

「そうだね、せっかくカジノにいるのだからルーレットなんてどうかな。私に勝てればお姫様を返そう」

 

 彼女が一体どう切り返すのか、内心で少しの期待を美咲は寄せていたが、怪盗ははぐみの意見をまるでなかったかのような態度を取った。

 

「ルーレットって何? どうすれば勝ちなの?」

「ちょっと、ルーレットなのは構わないけどはぐみがこんがらがるようなルールはやめてよね」

 

 判明した種目に、美咲ははぐみの頭のできを思って釘を刺した。なにせ、歴史のテストで『わからないところは織田信長で埋めれば一つは合う』などと、冗談抜きで言ってしまうような彼女だ。ルールに微塵でも数学的要素が混ざれば、それだけで敗色濃厚になってしまうだろう。

 

「大丈夫。赤か黒からどちらかを選んで、ボールの落ちた方が勝ちの簡単なものさ」

「どっちか選ぶだけ? ならはぐみ、赤がいい! 勝利の炎の色だからね!」

「そ、即答!? ……いや、まぁいいのか」

 

 幸いな事に、その内容は至極単純なものであった。ルールを理解してからノータイムで赤を選んだはぐみに、もっとよく考えるよう美咲は注意しようとしたが、直前で思いなおした。ここにいるのは知識も経験も皆無な者ばかりで、ない考えを捏ね繰り回しても時間を無駄に消費するだけだろうから。

 

「なら、私が黒だね。ディーラー、回してくれ」

「ドキドキするわね! どっちになるのかしら?」

 

 怪盗の指示を聞いて、一体いつからそこにいたのか、黒服の女性がルーレットへボールを放った。

 それは放物線を描きながら盤へ着地し、まだ赤と黒をごちゃ混ぜにしながら回る中心部の外周を、それとは逆方向へ走る。

 次第に、ルーレットが勢いを無くしていくとボールは円内へ入り込み、何度か体を跳ねさせながら赤と黒に冷やかしを繰り返した。

 一同が緊張の面持ちでルーレットを見守る。未だ中心が余韻の小走りを続ける中、ボールが一足先にカランと軽い音をたてて立ち止まった。

 

「決着だね。さて、ボールは……」

「あ、黒……」

 

 果たして、勝利の女神は怪盗へ微笑んだようだ。黒服と怪盗からは安心の、美咲たちからは落胆の息が漏れる。

 

「ふふふ、私の勝ちだ。というわけで、お姫様はまだ返せないな。次は……そうだな、シアターで君たちを待っているよ。さらば!」

 

 怪盗はそう言い残して、さっとカジノを出ていってしまう。

 

「あ、また行っちゃった! 次はシアターだって。早く行こう、こころん、みーくん!」

「えぇ、花音たちを助けなくちゃ!」

「もう、二人に付いてくの大変なんだから走んないでって……」

 

 駆け足で扉から出ていく二人を、美咲は必死になって追った。

 




『おだのぶなが』で変換したら最初に『小田信長』って出て、『あぁ、うちのパソコンははぐみレベルか……』ってなりました。


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第31話「告白の演技」

「シアターとうちゃーく! すっごい広いね、一万人くらい入りそうじゃない?」

「いや、そんなに入らないでしょ。一万人も船に乗ってたら沈んじゃうよ……」

(けどまぁ……)

 

 辿り着いたばかりのシアター内を美咲は見回してみる。はぐみの言葉は誇張が過ぎるとしても、そこは確かにとてつもない広さを持つ場所だった。一学生として、舞台がある場所となれば学校の体育館や講堂が彼女の頭には浮かんだが、それらとはまるで比較にならないレベルの。

 

「怪盗さーん、来たわよ! 次は一体何の勝負なのかしら?」

「ふふ、次が何の勝負かはすぐにわかるよ」

 

 相変わらず、先に向かった癖をして姿の見えない怪盗。こころがその名前を呼ぶと、声だけが何処からともなく聞こえてきた。

 何処だ何処だ、とはぐみとこころがいるはずのない椅子の下にまで捜査の手を広げようとした辺りで、三人の前方からガコン、と大きな音が響く。見ると、ステージの床がぽっかりと開き、奈落から新たな床がせり上がってきているところだった。

 ここは船内の筈なんだけど、よくもまぁ限られたスペースの中でこんな仕掛けを造ったもんだと、美咲は感嘆する。

 そして、床が完全に上がりきり、明らかになったステージ上には怪盗と、加えて可憐なお姫様がその両脇で椅子に座っていた。

 

「かのちゃん先輩にこーちゃん! よかった、無事だったよ、こころん!」

「二人とも、待ってなさい! 今助けるわ!」

(……よかった)

 

 他二人のように声にこそしなかったが、美咲も内心で呟く。怪盗の正体が薫だと察せられた時点で身の無事は確信していたが、それでも実際に自分の目でみると改めて安心する事が出来た。

 

「さぁみんな、ショータイム……ならぬショーブタイムを始めようか」

(え、つまんな!?)

「今回は囚われのお姫様たちにも手伝ってもらうよ」

「な、何をさせる気ですか……!?」

 

 怪盗の宣言に、花音が立ちあがって気丈に言い放つ。

 

「なに、手伝ってもらうと言っても、君たちはそのまま椅子に座ってくれているだけでいいのさ」

「え? は、はい……?」

「そして、今回勝負に挑戦してもらうのは……君だ、綺麗な黒髪のお嬢さん」

「え……あたし!?」

 

 己の隣で『負けないわよー!』と意気込んでいるこころへ、まるで他人事のように密かな応援を送っていたた美咲は、唐突に指をさされて目を見開いた。

 

「な、なんであたしなのさ!? ほら、こころとかすごい気合い入ってるし、そっちでいいじゃん!」

「もちろん、そちらのお嬢さんにもいずれ挑んでもらうつもりさ。今回は君の順番だった、ただそれだけのことさ」

「美咲ちゃん、お願い……」

「……はぁ、わかった。で、あたしは何をすればいいの?」

 

 理由はもっともで、花音からもお願いをされてしまった。更に、怪盗の言葉を聞く限り、ここで突っ張って拒否をしたところで後々何かしらをすることが決まっているらしく、それならば、と美咲は不承不承にだが勝負を受け入れた。

 

「ここにいるお姫様に、愛の告白をしてもらおうか」

「は? ……はあああああああ!?」

「さぁ、ステージの上へどうぞ。ここで演じてみせてくれ」

「断固、お断りです」

 

 ただし、一瞬だけ。

 告白相手に指名された花音本人も当然その情報は初めて耳にするもので、美咲と同様に驚きの表情だ。

 

「いやいや、皆が見てる前で愛の告白とか。勝負でも何でもなく、ただの晒し上げじゃん……。勝ち負けもないしさ」

「そんな事はないよ。君の演技が私の心を打ったなら、その時はお姫様を返そう」

「そのルールだと、あたしがどんな告白をしてもそっちの意思次第で絶対に勝てないんだけど……。あぁもう、そもそも! 何でそんな事しなくちゃいけないわけ?」

(稚拙なお遊びはもう終わりだ)

 

 溢れ出た苛立ちを乗せて、美咲が怪盗へ指先を突き付ける。ここまで空気を読んでこころたちに付き合ってきた彼女だったが、遂にここで我慢の限界を迎えたようだ。

 

「その声、喋り方、それから振る舞い。正体は最初からわかってたんだ! 怪盗、あんたは――」

「みーくん、お願い! かのちゃん先輩に告白して!」

「そうよ、これで二人が戻ってくるかどうか決まるの! 告白の演技、頑張ってちょうだい!」

「はぐみ、頑張って応援するから!」

「うぐ……」

 

 いつのまにかちゃっかり席について観客モードに切り替わっている二人が、背後から美咲に激励をする。その目は心底二人が心配をしている事を疑わせない眩さを湛えており、純真すぎる言葉は美咲をたじろがせた。

 

(なんだよもう、お目目キラキラさせちゃってさぁ!? まるで、あたしが悪いみたいに思うじゃん……)

「はぁ、わかった……やるよ。やればいいんでしょ、もう……」

 

 少し前と同じセリフを、今度は妥協ではなく諦めから吐く。

 

「ふふふ、君なら最後にはそう言ってくれると信じていたよ。君はお姫様に愛を伝える王子様という設定でやってみたまえ。では、演技……スタート!」

 

 開演を大きく手を鳴らして示し、怪盗は後ろへ飛びずさった。

 

(花音さん、緊張してるなぁ)

 

 きっと裏で黒服が操っているのだろう。照明がうまく角度を変えて、二人だけの世界が形作られる。相対する花音の口は真一文字に結ばれており、その心境が容易に窺えた。

 

(けど、相手が花音さんだったのは……なんていうか、不幸中の幸いだったかな)

 

 対して、告白する側である美咲が幾分か相手より落ち着いているのは、彼女の頭の中に現状よりも避けたい状況が描かれていたからだ。

 もし指定されたのが花音ではなく幸だったなら? 彼への恋情を今朝に自覚したばかりで、未だ完全に心の整理がついたとも言えない彼女からすれば、それは考えうる限りで最悪のシナリオだった。

 

「あー、うーん……え、えと……麗しいお姫様……。あ、あなたの事が好き、です……」

(うわ、これ恥ず!?)

 

 とはいえ、状況が最悪でない事と美咲の演技の巧拙には、少しの因果関係も無い。なんとかひり出した告白の言葉は、ぶつ切りで、ありきたりで、お世辞にも響くとはいえない物だ。

 

「そんなものかい? もっと愛を伝えてごらん」

「うー……一目あったその時から……心を奪われ……」

「まだまだ気持ちが伝わらないよ。もっと真剣に」

「あなたを常に想っています、とにかく好きです……。も、もうこれでいいでしょ!? 演技なんて経験ないんだから、わかんないし!」

 

 それらしい台詞をなんとか絞り出して連ねていく美咲だったが、その途中で羞恥が爆発したようで、投げやりにそれを終了して、開き直った。

 

「はぐみ、演技とかあんまりよくわかんないけど……多分ダメダメだったと思うな」

「心にぜーんぜん響かなかったわ。これじゃあ勝負は負けかしらね……」

(そんなに言う……?)

 

 怪盗からならばともかく、味方のはずで、その上普段から大抵の事には好意、肯定的な意見を述べるはぐみとこころの二人からの容赦のないダメ出し。花音と幸は美咲の健闘をたたえる言葉を投げかけたが、それが気遣い十割で構成されている事は誰の目にも瞭然だった。

 

「告白というのは、もっとスマートでなければならないものさ。こんな風にね……」

 

 美咲と花音の間に割って入った怪盗が、椅子の前で片膝をつき優しくその手を取る。そして真っ直ぐと目を見て、言葉を紡ぎ始めた。

 

「麗しのお姫さまよ、私がどれほどまであなたの事を想っているかご存知ですか? 寝ても覚めても、頭の中はあなたのことばかり……。私の心を掴んで離さない罪なお方……愛しています」

「……! す、すごい、演技だってわかってるのに思わずドキッとしちゃった……」

 

 言葉選びから、間の取り方まで。どれをとっても怪盗の告白の美咲のそれを凌駕しており、花音は思わず何かを確かめるように自分の胸へ手をやった。

 

「さて、これで勝負は私の勝ち……と言いたいところだが、初めてでわからないという君の言い分も理解できる。だから、ラストチャンスをあげよう」

「え、それはまさか……?」

「今度はこちらの純白のお姫様に告白をしてみてくれ。私の演技を参考にしてくれて構わないよ」

(やっぱりー!?)

 

 ラストチャンスという単語に美咲は嫌な予感を覚え、そしてそれはすぐに彼女の頭から現実へとやってきた。

 照明が切り替わり、見事に合ってしまった幸の目。そこには驚きと、戸惑いと……そして僅かな期待までもがあるように見えたのは、もしかすれば美咲の無意識的な願望がそうさせただけかもしれない。

 

「さっきは王子様とお姫様という設定だったから今度は……そうだね、昔からの幼馴染に密かに抱いていた好意を打ち明ける、なんてシチュエーションはどうかな」

(あぁ、これは……)

 

――やらなきゃいけない流れだ。

 

 ゆったりとした足取りで、美咲が幸の前まで進む。

 する事は同じで、今しがた一度経験したばかりの筈なのに、心拍の加速がどうしようもなく、止まらない。

 客席との距離はほんの数メートルのはずなのに、背後から聞こえてくる『頑張ってー!』という声援が、遥か彼方に聞こえる。

 このまま放っておけば限界を超えて破裂してしまいそうな心臓を、拳で叩き、彼女は――。

 

「やっぱ無理!!」

 

 その身を、大きく翻した。

 一体いつからか、息をする事を忘れていた体が、美咲に深い呼吸を求める。何度もそれを繰り返し、なんとか息も整ったところで、美咲は怪盗へ向き直った。

 

「もういいよ、あたしの負けで。次以降に託すから、もう勘弁して……」

「美咲ちゃん……」

「みーくん、どうして!?」

 

 花音やはぐみがそれぞれ声を掛ける。美咲にも、ここで諦める事がみんなの期待を裏切る行為だという自覚はあったが、どうしても自分に言う事を聞かせる事が出来なかった。

 

「ふむ、やはり自信が持てないのかな? 仕方がない、もう一度だけ手本をみせてあげるから、それで――」

「待った。やっぱり、やる」

「そ、そうかい?」

「えっ? あ……」

 

 ほんの数秒前まで泣き言を言っていたはずの者がまったく逆の事を口にし、一同は面喰ってしまう。だが、その中の誰よりも、主張をした本人が一番戸惑っている様子だった。

 

「美咲! やってくれるのね、信じてたわ!」

「えー、あたし今やるって言った? ……うん、言ったなぁ」

 

 その口ぶりから察するに、どうやら先程の言葉は自分の意志ではなく、思わずだとか反射だとか、そういった要領で発してしまっていたらしい。

 

(だって見本見せるって、薫さんがコウくんに告白するってことでしょ……?)

 

 例え演技で、本気ではないのだと理解していても。告白を受けてときめいてしまった記憶の中の花音に、僅かでも幸の姿が重なる可能性があると思うと、胸中穏やかでいる事は美咲には難しかった。

 

(っていうかこれ、本格的に逃げ場ない感じじゃない?)

 

 何せ自分の口で『やる』と言ってしまったのだ。場も落ち着きを取り戻し、全員の視線が美咲のいる場所へ集まっている。

 

(腹決めるしかないか……)

 

 今度は、しっかりとした歩みで、幸へと近づく。

 少し前の自分では、移る前から混乱していたはずの行動をしようとしているのに、焦りが沸いてくる気配はない。

 感覚がクリアになり、美咲には数十センチは離れているはずの彼の呼吸音がどこまでも鮮明に聞きとれる。

 静かで、しかし力強い鼓動を確かめるように、胸に手を当て、幸の瞳を見詰めた。

 

「ねぇ」

「は、はい!」

「あたし、さ……実はあんたの事、ずっと好きだったんだ」

「……はい」

「いつ好きになったのかとか、正直自分でもわかんないし、そもそも明確な転機があったのかも不明なんだけど」

 

 なんの前準備も無い、初心者によるぶっつけ本番の演技だというのに、そうである事をまったく匂わせない、滑らかなセリフ。

 

「もっと一緒にいたい、もっと触れていたい。気付いた時にはそんな事考えるようになってて……びっくりだよね? 自分の事だけど、あたしもそうだったもん」

「美咲さん……」

「突然の事だからさ、急に返事なんかできっこないと思う。それが普通だって……うん、わかってる。けど、もし……もしさ、ちゃんと考えて、考えて。それで、あたしとってのも悪くないな、と思ってくれたなら、その時は――あたしと付き合ってくれませんか?」

「……はい」

 

 身をかがめ、セリフの最後に合わせて差し出された手。

 美咲の言葉に()てられたかのように、茫然自失になっていた幸は思わずそれを取ってしまっていた。

 

『…………』

「コウくん?」

「…………」

 

 自分のセリフの終わりから微動だにしなくなってしまった幸を美咲は揺するが、正気は何処かに行ってしまって帰ってくる気配がない。いや、彼だけではなく、この場にいる美咲以外の全員が、まるで時が止まったかのように静寂を守っていた。

 

「ちょっと皆も、せめて何か言ってよ。沈黙は辛いってば」

「あ、あぁ、すまない」

 

 美咲が軽く茶化すことで、場は再び時の流れを取り戻す。途端、少ないながらも大きな拍手が客席から舞台へ向けられた。

 

「す、すごいよ、みーくん! 何がすごいのかはよくわかんないんだけど、とにかくすごかった!」

「はぐみの言う通りだわ。あたし、感動しちゃったもの!」

「あぁ、とても素晴らしい演技だった」

 

 一度目がボロクソに言われていたとは思えない、手放しの賞賛が吹き荒れる。

 

「一度の見本でこうも化けるとは、君には演技の才能があるのかもしれないね」

「なら、この勝負はあたしの勝ちって事でいいのかな?」

「もちろん。その素晴らしい演技に免じて、純白のお姫様を君たちに返そう」

「……は?」

 

 勝利が判明し喜んだのも束の間、怪盗の言葉の意味を正しく認識した美咲は、抗議の目線をその方へ向けた。

 

「ふはは、君たちと勝負するのは面白いね! 次はこの船内で、唯一儚いものが手に入る場所で待っているよ!」

 

 だが、時すでに遅し。怪盗は丁度、花音をお姫様だっこしたまま舞台袖の闇に消えていくところだった。

 

「逃げられた……。もう、これまだ続くの?」

 

 美咲は溜め息を吐く。今の彼女の心境は、苦労してパズルを完成させたと思えば、躓いてひっくり返してしまったかの如し、だった。

 

「花音さんも助けなきゃだし、行くしかないかぁ――って、ちょっと」

 

 なんだかんだと言いながらも、次なる目的地へ歩き出そうとして、美咲は気付いた。

 自分の目の前の少年だけが、まだ時を取り戻していなかった事に。

 ずっと同じ姿勢で、美咲の手をきゅっと握って、ただ虚空だけを見つめている。

 

「……大丈夫?」

「……へ? あっ、あの、えっと……」

「あんまり深く考えないでね。さっきのは演技なんだからさ」

「演技……そう、ですね。演技ですもんね、あはは……」

 

 二人の手が解かれ、幸が作った笑いを浮かべる。

 

(うーん……)

「ほら、行くよ。って言っても、儚いものが手に入る場所って何処なんだろ……」

 

 美咲が踵を返して、シアターの出口の方へ向かう。

 その視界から外れた位置、思いつめた表情で胸の前に両手を重ねる幸の姿は、まるで自分に何かを問いかけているように見えた。

 

(脈なしではない……のかな?)



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第32話「怪盗の目的」

「コウくんはさ、あの怪盗の正体の予想付いてる?」

「予想と言いますか……薫さん、ですよね?」

「だよねー。やっぱわかるよねー」

 

 船内の長い廊下を歩きながら、美咲は幸へもはや確認に近い質問をしていた。

 現在二人は、鼻歌を(すさ)みながらスキップで進むはぐみたちの後をついて回っている。目的地は怪盗の言い残していった船内で唯一儚い物の手に入る場所――こころ曰く、ギフトショップらしい――なのだが、歩けど歩けど、一向に着かない。

 

「花音さんが意外にも分かってない感じだったから、もしかして……って思ったんだけど」

「そういえば、そうでしたね……」

 

 この船の広さを改めて実感しながら進むこと更に五分。ようやく辿り着いたそこには、これまでとは違って既に怪盗の姿があった。

 

「ようこそ、迷わずここまで来れたようだね」

 

 涼しい顔をして、怪盗は四人に歓迎の言葉を投げる。一応、彼女たちもここまでまっすぐやってきたはずなのだが……美咲はその移動手段が一体どうなっているのか、気になって仕方がなかった。

 

「ここではどんな勝負をするのかしら? できれば、楽しいのがいいわ!」

「そうだね……。では、ここのギフトショップで私が気に入りそうなものを選んでくれるかな?」

「まーたそういうタイプ……」

 

 この『そういう』とは、つまり勝敗が完全に怪盗の一存で決められてしまう種類のものだ。実際に一つ前の勝負で美咲は勝利を収めているので、勝ちの可能性が存在するのは確かなのだが、きっちりとした彼女の性格上、極めて不明瞭な条件を持つそれを勝負と認める気にはなれなかった。

 

「怪盗さんが好きそうなもの? ねぇねぇ、どんなのが好きなの?」

「私が好きなものか……それは、儚い物だよ」

(隠す気あるのかなぁ、この人……)

 

 美咲の周りではもちろん、そうでない範囲を見渡しても『儚い』なんて言葉を日常的に使うのは薫くらいなものだろう。

 容赦のないツッコミを内心でしながら、美咲は仕方なく商品棚の物色を始めた。

 

(パッと見た感じ当てはまりそうなのは……この水時計とかビードロみたいなやつかな?)

「あ、このぬいぐるみとかどう?」

「なにその深海魚みたいなの……。顔面の主張が激しすぎて、なんか見てるだけでうるさいんだけど」

「えー、いいと思ったんだけどなー」

 

 顔面うるさい魚(美咲命名)を名残惜しそうにはぐみが手放す。その隣ではこころが、紐で連なった不細工なアヒルのおもちゃを振り回しており、美咲はこの二人は宛てにならないな、と早々に見切りをつけた。

 

「あの二人はダメだ……。コウくん、なんか儚そうなの見つかった?」

「これなんて、どうでしょう?」

 

 振り返って美咲が見てみると、幸が手にしていたのは小さな花の髪留め。全体が淡い桃色のガラスで造られており、頭上から降ってくる光を内部で乱反射させてキラキラと輝いていた。

 

「おー、儚い儚い。いやー、ガラス製品は全体的にそれっぽいね」

 

 感性の正常な二人で着々と、琴線の触れそうな品を集めていく。

 

「ねーねー! はぐみ、もうちょっと何かヒントが欲しいよ、さっきから選んだのぜーんぶみーくんにダメって言われるし……」

「儚いもの……つまりはそういうことだよ」

「それじゃさっきと変わらないよー!?」

「仕方ないね、少しだけヒントを上げよう。かのシェイクスピアはこう言っている……。『ひとつの顔は神が与えてくださった。もう一つの顔は自分で造るのだ』とね。いいかい? 『もう一つの顔』というのが重要だ」

「何それ、ますます分かんないよー!?」

 

 はぐみの要求に対して出されたヒントは果たして、薫の十八番であるシェイクスピアの言葉だった。しかし、折角長い歴史の中で語り継がれてきた名言も、この場においてはただの迷言――その文字通り、ギフトショップの中を混迷へと誘う言葉でしかない。

 

「『もう一つの顔』って……なに、生えてくるの!?」

「……前半ではなく後半を強調したという事は顔という単語が重要なのかな……? ダブルミーニングの方向から……薫さんの趣向を考えると、レヴィナスの……?」

 

 こんな風に。

 

「コウくん? 薫さん多分、あんまり考えないで言ってるから、考えても無駄だと思うよ」

「……? でも薫さん、ヒントだって言ってましたよね?」

「言ってたっちゃ言ってたけど、むしろ言ってるだけというか……」

 

 美咲はこういった突発的な薫の引用は大概用法の間違っているものだと知っているが、ハロハピに入ってまだ日の浅い幸は随分と真剣に考え込んでしまっていた。

 

「でも、ヒントが当てにならないんだったら、結局何を――」

「わかったわ!」

 

 その時、ショップの奥の方まで探索に行っていたこころが、大きく叫びながら四人の元へ走り寄って来た。

 

「儚いものってこれでしょう! どう!?」

 

 そう言って掲げられた右手には、何処かの部族の儀式で使われていそうな華美なお面が握られている。

 存在感がありすぎて儚いとは正反対なことも美咲は指摘したかったが、何より客船内のギフトショップにそんなものが置かれている事をこそ、おかしいと叫びたかった。

 

「それでいいのかい?」

「えぇ! これなら怪盗さんも気にいるでしょう! ヒントにもぴったりだし、もう一つの顔よ!」

「いいな、はぐみもそのお面欲しい!」

 

 美咲と幸がせっせと集めた儚そうな品々を差し置いて、禍々しい雰囲気さえ持つお面が代表に選ばれる。

 

「さぁ、花音を返してちょうだい!」

「ふむ……」

 

 こころの持つお面を見つめる怪盗は、すぐに答えを出さず、難しい顔をして額を押さえていた。それははまるで、お面に合格を出すかどうか迷っているようにも見えたが、まさかそんなことがあり得るというのか。

 

「悪くはないチョイスだが……おしいね、実におしい。もう少しで合格をあげられたのだが。やはり、まだお姫様は返せないな」

「あー! 怪盗、今度は行き先言わずに行っちゃったよ!?」

「急いで追いかけましょう!」

 

 四度目。角や煙に消えず、はっきりと後姿を晒しながら去っていく怪盗を、四人は全力で追いかけた。

 

「っていうか、薫さん基準の儚いって、ああいう感じなの……」

「あ、あはは……」

 

 

――――――

 

「あれ、怪盗どこいっちゃったの?」

「うーん……あ、いたわ、あそこよ!」

 

 怪盗の背中を追って、入り組んだ通路をぐにゃぐにゃと進んでいた四人はいつの間にか船のデッキへ。一気に広がった視界の中に目を走らせると、目的の姿は船首と呼ばれる部分に佇んでいた。

 

「はっはっはー! よくぞ追いついたね!」

「ここまでよ、花音を返しなさい! 花音はあたしたちの大切な仲間なんだから!」

「大切な仲間……か。いい言葉だね」

「感心なんてしてないで、早くその手を離しなさい!」

「かのちゃん先輩を絶対に取り返すもん!」

「ここまで付き合ったんだから、いい加減にして欲しいんだけど……」

 

 最後に誰にも聞こえないように『暑いし……』と付け加える。ここまでとは違ってデッキは船外に位置するので、彼女らの頭上では夏の太陽が燦々と照っており、美咲はこの茶番をさっさと終わらせて早く涼しい船内に戻りたかった。

 

「なにより、もうすぐでお昼ごはんの時間なの。花音を返してくれないと、みんなのお腹がペコペコになっちゃうでしょ!」

「そ、そういう問題なんですか……?」

「そうなんじゃない? こころ的に」

「ほんとだよ! はぐみももう、おなかぐーぐーなんだから!」

「確かに、あまり長い時間付き合わせてしまうのも悪いね……。囚われのお姫様、君は仲間たちの元へ帰りたいかい?」

 

 怪盗の問いかけへ、花音が当たり前に肯定の返事をする。ようやく身柄が解放されるかと思いきや、そこにおそらく最後になるだろう壁が立ちはだかった。

 

「わかったよ、お姫様。では、最後に一つだけ、クイズに付き合ってもらおうか」

「わかったわ、なんでも答えるわよ!」

「はぐみも、頑張って考える!」

「一応言っとくけど、シアターとかギフトショップの時にみたいに判定の曖昧なやつはもう勘弁だからね」

「…………」

 

 ここまでの経験から、展開がグダグダにならないよう美咲が予め釘を刺す。対して怪盗は、一瞬ギクリを顔を強張らせた後、涼しげな表情を無理矢理に貼り付けてこう答えた。

 

「ま、まぁまぁ、二度ある事は三度あるということわざを知っているだろう?」

「いやー、知らないですねー。仏の顔も三度、なら知ってるんですけどー」

「……コホン。では、いくよ」

(無視かい!)

 

 美咲の皮肉たっぷりな言葉に、うまい切り返しが浮かばなかったようで、怪盗はこころとはぐみの方向へ向き直って、直前のやりとりを無に帰すようにクイズへ移った。

 

「はたして……私が欲しかったものとは何でしょう?」

 

 それを聞いた時、美咲は答えどころか、質問の内容自体が一瞬理解できなかった。詳しく言えば、花音と幸の奪還戦ばかりが記憶に残って、怪盗が『あるものをいただきにきた』という目的を持っていた事自体を、彼女はすっかり忘れてしまっていた。

 

「はぁ、そんなの知る訳――」

「わかったわ!」

「えっ、こころんもう分かったの!?」

 

 そんな正解の当たりをつける事すら難しい問題に、なんとこころが一瞬でわかった、と手を上げた。

 

「えぇ! あたしは皆で追いかけっこが出来てすごく楽しかったわ! 怪盗さん、あなたもきっとそうでしょう?」

「ふっ、さすがは私のソウルメイトだ。鋭いね」

「怪盗さん、あなたが欲しかったものは『みんなと楽しく過ごす時間』よ!」

「……すばらしい、正解だ! とても楽しい時間を過ごす事が出来たよ、ありがとう。お礼にお姫様は返そう。さ、仲間の元へお戻り」

「は、はい」

 

 ここまでずっと囚われだった花音の身柄は、驚くほどあっさりと解放される。体に掛かる衝撃を最小限にするように配慮し、優しく足元からデッキへ下ろされた花音は、ゆっくりとこころたちの方へと戻っていった。

 

「じゃあね。子猫ちゃんとの逃避行……とても楽しかったよ」

「……え?」

 

 その去り際に、かろうじて花音の耳へ届いた背後からの小さな呟き。何処か聞き覚えのある単語がそこには含まれており、彼女は慌てて振り返ったが……。

 

「それでは良い旅を! また何処かで会える事を楽しみにしているよ!」

 

 その瞬間、怪盗の足元から煙が立ち上がり、視界を白く染めてしまった。

 

「わっ、何この煙! なんにも見えないよ~!?」

「こほっ……まさか、ここまで凝った演出するなんてね……」

 

 突然の出来事に、その場にいた全員が次々に咳き込む。しばしの時間が経ち、煙が晴れた時には怪盗の姿は何処にも見あたらなかった。

 

「あら、怪盗さんがいないわ」

「えぇ、消えちゃったの!?」

「せっかくここまで追い詰めたのに、捕まえられなかったわ……!」

「ま、別にいんじゃない? それより、花音さんも疲れてるだろうし、とりあえず中に戻ろう」

「ありがと、美咲ちゃん」

 

 美咲の意見に反対する者はおらず、一同は階段を下りて、涼しい船内へと引き返した。

 昼食を誰よりも楽しみにしていたはぐみが、待ちきれないとばかりに独走を始める。もうお決まりとなりつつある光景に、美咲たちは少しだけ、足を速めた。

 

「にしても、『皆と過ごす楽しい時間』が欲しかったもの、ねぇ。めちゃくちゃだけど、まぁ、あたしたちらしいっちゃあたしたちらしいよね」

「ふふ、そうですね。ハロハピの皆さんらしくて、とっても素敵だと思います」

「…………」

 

 自分の何気ない呟きへ同意する幸の言葉に、美咲が顔をしかめる。だが、それはほんの一瞬の事で、彼がそれに気付く前に美咲はいつも通りの表情で愛らしい小さな手を引くのだった。

 

()()()()()()()()()()()、か。……気にいらないなぁ)



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第33話「海辺の邂逅」

・渚……海の砂浜の波が寄せる部分。波打ち際と同意。


 怪盗を取り逃がしてしまってからしばらく。食事を終えた後四人は、船内各所に用意された様々な設備で遊んだりデッキで海風を浴びたりして、その内に、気付けば一度は離れていった陸地が再び近づいてきていた。

 ちなみに、薫は食堂への道すがらに何食わぬ顔でしれっと四人に合流している。その時に口にされた、『ずっと一緒にいたよ。怪盗を追うのに必死で気付かなかったようだけどね』という無理のありすぎる言い訳には、やはり常識人組の三人が苦笑をしていたが。

 

「みなさま、そろそろ下船のお時間となります」

「あら、もうなの? 楽しい時間が過ぎるのはあっという間にね!」

 

 黒服が六人に船旅の終わりを告げに来た時、彼女たちはビリヤード場で――ルールに則ってかはともかく――遊んでいるところだった。その言葉に従い、道具を片付けを済ませてから、移動を始める。

 一同が最初のホールへ再び辿り着いたタイミングで船体がガタンと大きく揺れる。どうやら、ぴったり停泊のタイミングに合ったらしい。

 

「この船旅も、もう終わりなんだ……。疲れたけど、すごく楽しかったね」

「まぁ、なんだかんだ……そうですね」

「はぐみもはぐみも! すっごい楽しかった!」

「もちろん、あたしもよ!」

「はは、あんたら二人はまったく疲れてなさそうだね……。そろそろ下船みたいだけど、みんな忘れものとかはない?」

 

 まるで学校の先生が校外学習の最後にそうするかのように、美咲は周囲へと呼びかけた。各々が鞄やポケットの中などをさらりと確認するが、誰も慌てる様子はない。大丈夫そうかな、と美咲が安心をしかけたその時だった。

 

「――あっ!」

 

 そうは問屋が卸さないとばかりに、ある一人が突然に声を上げた。当然というかやはりというか、その人物は……。

 

「……こころ、どうしたの?」

「大変よ、美咲! ミッシェルにお土産を買っていこうと思っていたのに、すっかり忘れていたわ!」

「あー、そういうことね」

 

 それは今日の朝、船着き場に向かう途中の車内で話していた事だった。ミッシェルを呼ぼうと提案するこころに、美咲があれこれ理由をつけてその乗船が無理だと説明すると、なら代わりにお土産を買っていこうという言い出したのだ。

 さて、と美咲は考えた。

 船が停泊したとはいえ、すぐさま降りなければならないという決まりはない。今からでもギフトショップに戻ってお土産を買う事も可能と言えば可能だ。

 

(正直、面倒くさいよなー……)

 

 だが残念な事に、その場所までの距離が、さぁ行こう、と気軽に言うには少しばかり遠かった。

 かといって美咲がこの場所に残ってこころだけを行かせてしまうと、何かしらのトラブルが起きる可能性が高い。何かいい案はないものかと彼女が頭を捻っていると、隣にいたはぐみがとんでもない発言をかました。

 

「こころん、()()をあげればいいんじゃない?」

「はっ⁉︎ いい考えね、はぐみ! 怪盗さんは選んでくれなかったけど、ミッシェルならきっと気に入ってくれるわ!」

(えぇ……)

 

 はぐみが指さしたのはこころの右手。そこには、三度目の勝負の時に彼女が選んだ、奇妙なお面が掴まれていた。

 このお面を、こころはショップで初めて手にした時から、ずっと携えていた。デッキやカジノで遊ぶ時はもちろん、食事の時にいたっては、きちんとそれ用に席を一つ用意して鎮座させるものであるから、その存在感の強さも相まって、美咲などは今にも動き出すのではないかと心配したくらいだ。

 そんな物体が自分(ミッシェル)の元へ届くのか、と考えると美咲は今から辟易する思いだったが、それでもお土産はお土産。邪魔だから、鬱陶しいから、で捨ててしまう気は微塵も無く、彼女の頭の中ではお面をどのように部屋に飾るかが考えられ始めていた。

 ともあれ、これで問題はすべて解決され、ここに足を止めておく理由は無くなった。六人が揃って船の出口へ向かうと、その途中で黒服の一人がこころに声を掛けた。

 

「こころさま、そのお土産は私どもで先に屋敷へ送っておきますので、こちらへ」

「あら、そう? なら、お願いするわね! そうだ! 折角だし、かわいくラッピングもしておいてくれるかしら?」

「了解いたしました」

 

 そう言って、黒服はこころの手からお面を受け取った。いやに民族的なそれは縦に長く嵩張る。あの広い車内で置き場所に困るということはないだろうが、それでも手荷物が少ないに越したことはないはずだ。

 

「美咲さん、ちょっとすいません……あの、黒服さん!」

「はい、なんでしょう」

 

 その様子を見ていた幸、何か思いついた事があったようで、美咲に断りを入れるとお面を手に持つ黒服の方へ、トテトテと歩いていった。そして、その場で何度か言葉と握手を交わし最後に深く頭を下げると、すぐに美咲の元へ帰ってくる。

 

「コウくん? 何話してきたの?」

「えっ!? ……えっと、黒服の人達には色々お世話になったので、お礼を言っておくべきかなって思いまして……?」

「えぇ、律儀だねぇ……」

 

 美咲の問いに、返答は何故だか少しぎこちない。

 彼は演出の為に攫われた側だというのに。その心の広さと言うべきか、邪心の無さと言うべきか、とにかく幸の心の在り方に、美咲は感嘆するばかりだった。

 

 

 

 無事に下船が済み、久方ぶりのしっかりした地面へ六人は足を下ろす。

 

「おっとと、ずっと船にいたから何か変な感じするな……」

 

 まるでトランポリンで遊んだ後のように、足の裏を通じて伝わってくる感覚の違いが少し気持ち悪くて、美咲が呟く。こうして落ち着いてみると、疲労が全身の隅々までいき渡っている事が自覚でき、彼女は一秒でも早く車に入って体を休めたかった。

 

「こ、こころちゃん、危ないよ……!」

 

 いざ快適な車内へ入ろうか、というその時、美咲は背後から花音の震えた声を聞いてしまい、反射的に振り向いた。

 

「ちょ、ちょっとちょっと!」

 

 そこには、あと一歩で海に落ちてしまうような淵に立つこころ、そして、下手に触れると事態が悪化しかねない、とその少し後ろでオドオドしている花音の姿があった。

 すぐさま美咲はその傍まで駆け寄り、羽交い絞めのように脇下から腕を通して自分ごと後ろへ倒れ込ませる。ひとまず、海に落ちる心配のない姿勢になった事を確認し、美咲はこころへこの狂行の意図を問いただした。

 

「こ、こ、ろー? ちょっと目を離した隙にあんたは何やってんのさ!?」

「なにって、あたしは海を見てただけよ? 波がザァーってなると水面(すいめん)がキラキラーってなってね、とってもキレイだったの!」

「見てた……だけ? はぁ、よかった。あたしはてっきり、あんたが海に飛び込もうとしてるのかと思ったよ……」

 

 この場所はあくまで船着き場なのであり、生身の人間が海に入る場所としては設計されていない。彼女たちの立つ地点から水面までにも二メートル以上の高さがあり、入水する場としてはあまりにも不適切だ。

 美咲は、自分の想像がただの杞憂であったことに安堵の息を吐く。あたしの心配を返せ、そう文句を言ってやろうとした彼女は、しかしそのこころの表情が輝いているのを見てしまい、顔を強張らせた。

 

「海に……飛び込む……? 美咲、それとっても素敵ね! これから皆で海に入りましょう!」

「はぁ!?」

 

 こころが突然に、とんでもない事を言い出す。しかも、その原因は直前に聞いた言葉にあるようで、美咲は余計な事を言ってしまった、と自分の言動を後悔した。

 

「あのねぇ、ここは海に入る為の場所じゃないの。船に乗る場所なの」

「んー、なら何処なら海に入れるのかしら?」

「え、そりゃビーチとかそういう……」

「なら、そこに行きましょう! 黒い服の人!」

「はっ、ここから車で十五分程度の所に一般開放されたビーチがございます」

「いや、でも水着とか持ってきてないし……」

「黒い服の人!」

「はっ、こちらに全員分用意してあります」

(あぁ、もう!)

 

 なんとか海に入るのを阻止しようと美咲は理由を並べ立てるが、それらはことごとく憎いほどに有能な黒服の人たちによって一瞬で崩されていく。彼女らのこころの願いを全力で叶えようとする姿勢は尊敬しているし、実際何度も助けられている美咲だったが、その融通の利かなさだけが今は恨めしく仕方なかった。

 

「いや、でもほら、夏だからまだ明るいけどさ、もう夕方近いんだし、こんな時間から海に入ったら風邪ひいちゃうよ」

「……この時間から海に入ったら風邪をひいてしまうの?」

「え、まぁ絶対とは言わないけど、可能性は低くないんじゃない?」

「そう……」

 

 風邪をひくという話を聞いて、こころは表情を真剣なものにする。それから少しだけ考え込むと、わかったわ、と素直に頷いた。さすがの彼女も、体を壊す可能性があるとなれば、我慢をできるようだ。

 

「けど、やっぱり海には入りたいわ! そうだ、足だけ! 足だけならいいでしょう?」

「うーん、それならまぁ……」

 

 美咲は頭の中に、波打ち際で水遊びをしている情景を思い浮かべる。多少服が濡れることなどはあるだろうが、着替えが用意できているのなら、水着で泳ぐよりは風邪をひく可能性は低くなるだろう。

 一つの妥協点として許可が出されると、こころは飛び上がって喜んだ。それから真っ先に車の中へと駆けこんでいく。美咲はこころの為に車に乗らずに駆けつけたというのに。まったく本当に自由な子だよ、と呟いて彼女も車に乗り込んだ。

 

 

 

 車のエンジン音が小さくなっていき、やがて車体が完全に静止する。船着き場から発車してから丁度十五分。一同はビーチ近くの駐車場で、地面に足を着けた。

 

「さぁみんな、海で遊ぶわよー!」

「とっつげきー!」

 

 一体何処から湧いてくるのか、こころとはぐみが無限の元気を纏って海の方へ走っていく。貝殻やガラス片を踏んで怪我をしないよう、ビーチサンダルは美咲が履かせたが、あのはしゃぎ様ではいつ脱げてしまってもおかしくなさそうだ。

 

「まったく、あの二人は……」

「にしても、夕陽と海のコントラストが実に美しいね。まるで一枚の完成された絵画のよう……そこへ飛び込んでいく私たちは、さながら――」

「あぁ、こっちにも困った人が一人いた……」

「あ、あはは、私たちも行こっか。美咲ちゃん、コウくん」

 

 もう夕方になろうかという時間帯の所為か、見渡す範囲に人影は少なく、ほとんど独占のような形で遊ぶ事ができた。

 

 

――――――

 

 

「いやー、疲れた疲れた」

 

 美咲が柔らかな砂浜にボスッと腰を下ろす。小一時間前の時点で彼女は自分の体が疲労困憊だと思っていたのに、海を目の前にしてしまうと、思わず遊び耽ってしまった。

 

「おつかれさま、美咲ちゃん」

 

 美咲より先に戦場(遊び場)を離脱していた花音が、隣から声を掛ける。日が照っている訳でもないので、パラソルは立てられていなかった。

 

「もう、あの二人はほんとお化けだよ。体力お化け」

 

 未だ渚ではしゃぐこころとはぐみを遠目に見て、美咲がボソリとこぼす。今も二人は幸を目掛けて海水を跳ねあげており、目標とされた本人は足の疲労も相まってバランスを崩したところを、間一髪薫に支えられて転倒を免れていた。

 

「コウくんと薫さんも、大分疲れてきてるみたいですし、一旦呼び戻しましょうか」

「そうだね――あっ」

 

 二人でそんな会話をしていると、不意に花音のお腹辺りから音が鳴った。それが自分の腹の虫の鳴き声だと理解すると、その顔が急激に熟れていく。

 

「あ……え、えっと、これは、その……」

 

 本人は恥じているようだが、船での昼食からそれなりに時間が経っており、さっきまで海で遊んでいた事を考えると、それも仕方のない事。美咲はあはは、と小さく笑った。

 

「丁度あたしも、お腹が空いてきたところだったんですよ」

「み、美咲ちゃん……」

「あっちに海の家的なのがあるみたいなんで、何か食べましょうか」

 

 店が見えるのはかなり遠くで、それが開いているという確証はなかったが、美咲はそう口にした。

 おーい、と遊ぶ四人に声を掛け、美咲は食事をしに行く旨を説明する。こころとはぐみは空腹、後の二人は助かったという思いから、すぐに賛成し、六人は歩いて海の家へ向かって足を踏み出した。

 

 五分ほど歩き、目的の場所が詳細まで鮮明に見える距離にまでやってきた。見るに、人の姿は少ないが、きちんと店自体はやっているようだった。

 

「よかった、ちゃんとやってるみたい」

「本当!? はぐみ、もうお腹がすっからかんだよー!」

「あの、美咲さん……」

「ん?」

 

 営業中であった事にはぐみが喜びの声をあげる。その様子を、実にはぐみらしいな、と美咲が見つめていると、逆側の裾を引っ張られる感触があった。

 その方を向いてみると、幸が何か不思議そうな表情を浮かべている。そして、海の家の方を指さし、言った。

 

「あそこにいる人……こっちに手を振ってませんか?」

「……え?」

 

 そう指摘され、美咲は目を細めてじっと見つめる。果たして、幸の言っている事が真実なのだと、わかった。

 

「あれは……リサさんとあこ?」

 

 お遊び、馴れ合い、そんな言葉とは無縁のイメージを持つ実力派バンド『Roselia』。そのメンバーが、そこにはいた。




水面はルビ振るほど難しい漢字では無いんですが、こころは『みなも』って言葉は使わないだろうなあ、ってことで振ってます。


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第34話「年少の少年」

 海の家、と言われればどういった様相が思い起こされるだろうか。おそらく多くの人の頭の中には、日に焼かれて肌を黒くした木でできた、開放感のある建物が現れることと思われる。事実、美咲もそこに漏れない者の一人であり、それ故、今目の前にあるものに対して若干を違和感があった。

 『食事&休憩所 Sea&Tea』。先述のイメージとはかけ離れた、仮にこのまま街中へ移動させても難なく溶け込める外装を持つ海の家だ。

 

「やっほー、美咲にこころに……って、ハロハピ全員集合じゃん!」

「こんにちは、リサさん。そっちも『Roselia』の皆さん――では、ないみたいですね?」

「あはは、実はそーなんだよね」

 

 扉をくぐり、話しかけてきたリサと美咲は軽い挨拶をする。

 その途中で彼女は、リサの背後を見やり、意外な顔ぶれがそろっている事に気がついた。

 まず、白金燐子。リサたちと同じく『Roselia』に所属しているのだが、美咲の知る限り彼女は究極の人見知りかつインドア派であり、まさか海などという人の大勢集まる場所へ繰り出してきているとは思いもしなかった。

 次に、上原ひまりと丸山彩。同じ桃色の髪を持ち、性格なども何処となく似通った部分のある二人は、そもそもとして『Roselia』とは違うバンドのメンバーだ。リサ、あこ、燐子の三人が目に入った時点で美咲は、てっきりいるのは残りのメンバーである湊友希那と氷川紗夜だと思ったのだが、その予想は見事に外れてしまった。

 

「上原さんに彩先輩……なんだか、珍しい組み合わせですね。皆で海に遊びに来たんですか?」

「そうそう、遊びに……来てたはずなんだけどなぁ……。ちょっと一言じゃ事情説明できそうにないかも。そういう美咲たちこそ、遊びに来てたの?」

「いや、遊びにといいますか……。こっちにもちょっと色々あるんですよ」

「あぁ、そういう感じなんだ……」

 

 揃って困り顔をして、リサと美咲の二人は情報交換を始めた。

 

 

 

「えー!? あの豪華客船、ハロハピの皆が乗ってたの!?」

「うぇ、見えてたんですか?」

「遠くにちっさくって感じだったけどねぇ」

 

 互いにある程度あった事を話し終えると、リサの言葉からそんな事実が発覚する。あの大きさから考えれば不思議なことではないのだが、美咲は改めて弦巻という家の特異さを実感するのだった。

 ちなみに、リサたちはもともと現メンバーから彩を除いた四人で海に来ていたらしい。一通り遊んだ後に燐子の要望で海の家へ行くと、偶然そこで一日店長をしていた彩と鉢合い、人手の足りないという事情から臨時の店員として働いていたのだとか。

 

「遊びに来たのに気付いたら働いてたって……なんていうか、災難でしたね。ちゃんとバイト代はいただきましたか?」

「あはは、美咲ってばがめついね? お金はもらってないけど、代わりに色々食べさせてもらったから」

「なるほど……」

 

 美咲がテーブルの上を見てみると、そこにはラーメンの残り汁やら、微妙に野菜の残った紙皿など、とにかくたくさんの品を食べただろう痕が。こういった場所の料理は総じて高めの値段設定がされていることもあって、少なくとも四人の給料分は平らげていそうだ。

 

「ねぇねぇコウ、ポテト! ポテトあげる! はい、口あけてー」

「わっ! ちょ、ちょっと宇田川さん……!?」

「う、宇田川さん……。なんかそれ、ちょっとヤダ! あこ、って呼んでよ!」

「え、えっと――んぅ!? んむむー!? ……ちゃ、ちゃんと食べますので、突っ込まないでください、あこさん……」

 

 話の途中、隣のテーブルから姦しい声が聞こえた美咲がその方を向くと、丁度あこが、幸の口へ向かってポテトランスを打ち込んでいるところだった。その上、勢い余って指先まで口内へ侵入してしまっている。

 

「リサさん、あこってあんなでしたっけ? いや、すごい元気ってのは知ってるんですが」

「あー、あれねー……」

 

 美咲の覚えた、あこの言動に対する違和感。その原因を、リサはなんとなく察することが出来ていた。

 あこは中学三年生である。これは『Roselia』内部、更にはガルパに参加する五バンドのメンバーの中で唯一かつ最年少。おかげで彼女は今まで、周囲の誰からも年下扱いをされてきた。

 だが、そこで突如として現れた新メンバー。そして、その学年は中学二年生だときた。

 

「多分、ちょっとお姉さんぶりたいんじゃない? 部活とかで後輩ができた気分……って言っても、美咲は一年生だから伝わんないかー」

「いやまぁ、中学の頃があるんで、一応理解はできます」

 

 ちなみに、この場の誰も知る由はないが、あこが幸の『宇田川さん』呼びを嫌ったのは、単純に距離を感じるという事もあるが、何よりその呼称が『Roselia』の一人である氷川紗夜を連想させるからだった。せっかくお姉さん気分を味わっていても、名前を呼ばれる度にあの厳しい顔が脳裏を過っては、たまったものではない。

 

「にしても、残念だったね~」

 

 唐突に、リサが口元をにやつかせてそんな事を言った。脈絡のないその言葉に、美咲は訳のわからないといった様子で首を傾げる。

 

「もうすこーしだけ早く来てたら、あの子はアタシらの水着姿を拝めたってのにさ」

 

 自分の服の裾をピラピラとさせるリサ。

 彼女たち、海の家で働いていた間はずっと水着を着ていたのだが、営業時間が終わり、店長の計らいで料理を食べながら駄弁っている間に気温が下がってき、今は既に私服へ着替えてしまっていた。ハロハピ一行がやってくる、わずか十分程前の出来事である。

 

「……むしろ、よかったですよ。皆さんの水着姿なんて、コウくんには刺激が強すぎて、もはや目に毒ってやつなんで」

「あっれれ~? 美咲ってば、もう彼女面かな~?」

「か、かのっ!? ……んん、そんなつもりは微塵もありませんが、まぁ――」

 

――この場の中では、一番あの子のこと理解してると思ってますよ。

 

 『そんなつもりはない』。そこで言葉を終わらせる事はできた。会話の流れ的にも、違和感のない返答になったはずだ。

 けれど何故か、リサの挑発的な視線を受けていると、美咲はそう言ってやらねばならないような気がした。

 

「あくまでこの場では、ですけどね。さすがに家族とかとなると――って、何ですか、その顔は」

 

 言い繕うように美咲は追加の言葉を繋ぎ、しかしその途中でポカンと呆けるリサの顔が目に入って、口を止めた。

 

「いや、美咲にしてはすごい素直だなって……。ははーん、なるほどねぇ。アタシは応援してるから、困ったことあったら何でも言いなよ?」

「何を一人で勝手に納得してるのか知りませんけど……」

「んー? 素直じゃない美咲が戻ってきちゃったかぁ」

 

 何かを察したようで、目を輝かせるリサに美咲は目をそらして白を切る。もっとも、それが効果が発揮しているようには、どうにも見えなかったが。

 

(なんかよくわかんないけど、この人には敵う気がしないんだよなぁ)

 

 二人の間の面識はたった数回しかないはずなのだが、そういった印象が染み付いてしまっていた。

 

「あ、あの、今井さん、奥沢さん……」

 

 と、そこで、別のテーブルから燐子が弱々しい足取りで二人の元へやってきた。だが、その両手は肩を抱いており、心なしか顔色も悪いように見える。

 

「燐子先輩、大丈夫ですか? なんか顔、青白くなってますけど……?」

「す、すいません。ちょっと弦巻さんから逃げてきた、といいますか……」

「あぁ、それは……。すいません、うちのこころが」

 

 実際に現場を見ていた訳ではないにも拘わらず、こころが無遠慮に燐子に言葉を乱射しているその光景が、美咲には易々と想像でき、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 

「きちんと言って聞かせておきますんで……」

「いえ、そんな……。それより、お二人は何のお話をされていたんですか?」

「っ!? えぇっと……」

「あはは……」

 

 返しの燐子の質問。それがクリティカルとなり、美咲とリサは言葉を詰まらせた。

 まさか素直に白状する訳にもいかず、何かいい案はないかとそこかしこに目をはしらせる。

 そして、その中で激しく自己主張するあるものが目に入ってしまったからだろうか。

 

「あー、燐子先輩ってそのー、うーん……すごくいい体してますよね、って」

(美咲……。いや、水着のくだりを考えれば嘘ではないけどね……?)

「……へ? ……え、ええぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 

 咄嗟に美咲の口から飛び出た誤魔化しは、それはそれはひどいものだった。



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第35話「聴取の時間」

 ガタ……ガタ、と。六人の乗る車が、振動を不定期に繰り返す。きっとタイヤに何か仕込まれてでもいるのだろう、普通のものよりその揺れは小さい。

 美咲の目の前に広がる現状。その原因の大部分は今日一日の疲労にあるのだろうが、きっとその事も一枚噛んでいるに違いなかった。

 

「……静か、ですね」

「さもありなん……元気あふれるお姫様たちがおねむなようだからね」

 

 海から帰っている途中、今この場にて意識のはっきりしているのは美咲と薫の二人だけだった。

 こころは座席を広く使ってのびのびと寝っ転がり、はぐみと花音は薫の両肩へ頭を預け、そして、幸は美咲の腿を最高の枕にして、安らかな寝顔を晒している。ただし、自然とそうなった前三者と違い、ただ一人幸の状況だけは人為的に作られたものだが。

 

()()()って……役が抜けきってないんじゃないですか? 怪盗さん」

「おっと、私とした事が……。ここにいるのはかわいいかわいい子猫ちゃんだったね」

 

 外からの雑音がまったく届かない静かな車内。膝元に広がる髪を優しく梳きながら、美咲は視線は下のまま、意識だけを向けて箱の隅をつついた。隠すべき相手が皆眠っているからか、薫は少しも誤魔化すような素振りは見せなかった。

 

「薫さん、何で怪盗の振りなんてしてたの? ……や、別にどうしても聞きたいってわけでもないんだけどさ」

「残念だけど、語れないような深い事情がある訳ではないんだ。ただ、船に乗る直前、こころたちを楽しませるために一芝居打ってくれないか、と頼まれたのさ」

「なるほど、ね。ま、大方予想通りですけど」

「……んぅ。美咲……さ、ん?」

「大丈夫、まだ着かないからもう少し寝てなよ。疲れたでしょ」

「は、い……」

 

 話しながら、髪を触りすぎたのか。幸は薄く目を開いたが、美咲が優しく声を掛けてやると、再びトロンと瞼を落とす。今度は起こしてしまわないよう、彼女は髪を諦め、手をそっと握ってやるに留めた。

 

「美咲は、随分とコウの事を気に掛けているようだね」

「そう、見えます?」

「……あぁ」

 

 その短い言葉を最後に、薫は口を閉ざした。

 眠ったわけではない。ただただ、儚げな表情をして窓の外を流れていく景色を眺めている。

 ハロハピが全員集まった上での静かな時間は、まるで天然記念物のように貴重で。こんなのもたまには悪くない、なんて小さく呟いて、美咲は自分の意識が沈み始めたのを、おぼろげに感じた。

 

 

――――――

 

 

「…………?」

 

 ぼんやりとした意識の中、何か体の外側から力が加えられる感覚がして、幸は目を覚ました。

 光の方々へ伸びた視界を、数度目元を擦る事で正常に戻すと、そこではここ数日ですっかり見慣れてしまった一人の少女が、自分の顔を覗き込んでいた。

 

「……おはよう、ございます?」

「ん、おはよう。着いたよ、コウくん」

 

 目を覚ました時点で、自分の真上に誰かの顔がある事は普通あり得ないのだが、まだ頭の働いていない彼は、何の疑問も持たずにゆっくりと上体を起こす。

 幸が車内を確認すると、こころ一人がシートの上に体を大きく広げて寝ているだけで、そこにはぐみ、薫、花音の姿は既にない。今度は窓の外へ視線をやると、海などはすっかり彼方へ消え失せ、自分の家の立派な門がすぐそこに立っていた。

 

「ほら、降りるよ」

「あっ……」

 

 スライドしたドアから先に降りた美咲は幸の手を取って歩きだそうとした。が、その瞬間に、背後からちっぽけな抵抗と声を感じ、足が止まる。振り返ってみれば、幸は二人の手の重なった部分に目を落として固まっていた。

 

「コウくん、どうかした?」

「……い、いえ、ちょっと腰が痛くって」

「そういえば、ちょっと無理な姿勢で寝てたもんね」

「は、はい。そうなんです」

 

 いたたた、と腰をさする幸。だが、その動作にはどことなくぎこちなさがあるように見える。

 

 現在、時刻は午後九時。いくら陽が落ちるのが遅くなる夏だとはいっても、さすがにこの時間となると辺りはすっかり真っ暗だった。

 

「お、か、え、りー!」

「わっ、お姉ちゃん!?」

 

 そんな闇の中を、一際目立つ白が猛スピードで二人に駆け寄ってくる。いわずもがな、その正体は幸の姉である祖師谷優だ。

 いつもの如く、彼女はその勢いのまま弟へ飛びついたのだが……。

 

「冷たっ!? ……お姉ちゃん、まさか外で待ってたの?

「え……あ、あはは?」

「もう!」

 

 今の今まで快適な車内にいた自分との体温差を感じとって幸が、非難するような視線を向けた。

 この姉、以前に足が冷えるから玄関先で待つな、と注意を受けていたくせをして、今度は身体全体の冷える門先で待機するという愚行に走ったらしい。

 幸はぷくっと頬を膨らませた。

 

「だ、だって! 一日ぶりなんだもん! ちょっとでも早く会いたいって思うじゃん!」

「……仕方ないんだから。風邪ひいちゃうし、早く入るよ。美咲さん、今日はありがとうございました」

「お礼ならあたしじゃなくてこころに言いなよ。……って言っても、今は寝ちゃってるか。うん、後で伝えとくよ」

 

 握っていた手を、美咲は名残惜しくも離すと、車内へ戻る。

 運転席の黒服は、その様子をバックミラーで確認すると無言でエンジンを入れた。ゆっくりと進みだす車の窓から幸たちを見やると、彼は姉をグイグイと引っ張りながらも、もう一つ手を美咲の方へ、いつまでも振っていた。

 

 

――――――

 

 

「さーさーさー! お待ちかねよ、お待ちかね!」

「うぅん……お姉ちゃん、ちょっとうるさい……」

 

 通例どおり、幸と共に家へ入った優は彼をお姉ちゃん署に連行する。一日ぶりの事情聴取という事で、いつもに増して騒ぎ立てる優に、幸は煩わしげに文句を垂れた。

 

「あ、ごめん。そっか、もう九時だもんね。いつもならもう寝るって時間か……いける?」

「うん、さっきまで寝てたから、ちょっとなら……大丈夫だと、思う」

「よし、なら早く始めましょ!」

 

 気の置けない姉相手だとはいえ、温厚な彼の口が少し悪くなっていたのは、眠気も原因の一つであったらしい。

 ベッドの淵に並んで腰をかけ、幸はこの二日間でできあがった記憶の層を掘り返した。

 

「えっと、何処から話そうかな……」

 

 一日目。この長い長い土日の彼の記憶は、朝起きて着ていく服がないと困っている自分に始まる。姉の助けによって待ち合わせ自体には問題なく間にあったが、その解決方法へ彼は未だに不満を持っていた。

 

「お姉ちゃんのおかげで、その、なんか……すごい優しい目で見られたんだからね! 感謝はしてるけど、もうちょっと何かなかったの?」

「優しい目って……それ別に悪くないんじゃ?」

 

 もっとも、仮に優の案以外で事態を解決していたとすれば、後日に美咲の家から優としてハロハピに同行する事が出来なかったので、結果論的に語るなら最善の策であったのだが。

 

「それで、それから?」

「その後は確か……ファミレスでお昼ごはんを食べた後に、花音さんのおすすめのカフェに連れてってもらったんだ」

「あー、なるほど。そこで香澄と有咲に会ったわけね」

 

 カフェ、という単語を聞いて、脳内で線のつながった優が声をあげる。

 何故、現場にいなかったはずの彼女が知っているかといえば、それは昨日の時点で幸が局所的な報告を行っていたからだ。

 優がこの事情聴取を毎日の楽しみにしていることもあり、土産話を潰してしまわないように幸は逐一報告することは控えていた。だが、美咲との相談の末に、香澄と有咲に秘密の共有をした事だけは知らせておくべきだという結論を出していたのだ。

 

「そのカフェが羽沢さんって方のお店だったんだけどね、ケーキも紅茶もとっても美味しかったの」

「っていうと……あ、確かキーボードを教えてくれたって子よね?」

「うん。羽沢さん、すごく丁寧に教えてくれてね――」

 

 そこからしばし、カフェ内部での出来事が話題を占め続ける。だが、その途中で幸のあくびによって時間が限られている事が思い出され、話は次の段階へ進められた。

 

「カフェを出た後は、花音さんのおすすめで水族館に行ったんだ」

「水族館……か。結構遠かった気がするんだけど電車で行ったの? ちゃんと乗れた?」

「ちゃんと乗れたかは……ちょっと微妙なところだけど、無事に辿り着けはした、よ?」

「移動するだけで『無事』なんて単語が出てくるのがおかしいと思うんだけど……」

 

 幸の語る内容が、今度はいかに水族館が素晴らしかったか、というものに変わる。その途中にあった花音の迷子事件なども含めて、幸がその場所をおおいに楽しんだだろう事が、優にはしっかりと伝わってきた。

 

「昨日行った場所はこれくらい、かな。後は美咲さんとお買い物をして、そのまま……えっと、うん。お家に泊まっただけだよ」

「ちょっと、何? 今の間。美咲ちゃんの家で何かあったんでしょ!?」

「べ、別にそんな、何もなかったよ!」

「嘘おっしゃい! さぁ観念して、玄関くぐった瞬間からおねんねの時までの事、ぜーんぶ吐きなさい!」

 

 幸は努めて平静を装って話し、この話題を終わらせようとしたのだが、ほんの少しの不自然さを優は目敏く拾い上げて追求した。噤む弟と割らせに掛かる姉。その小さな戦いは、最終的に優が勝利をもぎ取って幕を閉じた。

 

「晩ご飯を作ってもらって、一緒に食べて、洗いものして、お風呂入って、歯磨きして……」

「して?」

「……一緒に寝ただけ」

「えぇぇ!?」

 

 した事を列挙していった幸が歯磨きまでを口にして黙る。そして、最後の大事な部分を早口でボソッと呟くと、案の定、優が驚きの声をあげた。

 

「え、なに!? 一緒に寝たの? うそ、ほんと!?」

「し、仕方ないでしょ! 家族のを使わせていただくわけにもいかないし、お布団もないみたいだったから……」

「それでも他に何かあったでしょ?」

「僕も色々考えたよ……。けど、美咲さん僕をベッドに倒して、ぎゅってして寝ちゃったからどうにもできなくって……」

「……へぇ? 美咲ちゃんの方からだったんだ」

 

 それは、優にとって意外な事実だった。二人が寝床を共にしたと聞いた瞬間、彼女が予測として立てたのは、初めてのお泊まりで不安になった幸が甘えて、もしくは寝ぼけてそのまま、というもの。まさか美咲の方からアクションを起こすとは、優の知る彼女の性格上、考えられなかった。

 

「あ、でも美咲さん、寝る直前はちょっとズレた受け答えをしてたから、もしかしたら寝ぼけてたのかも……?」

「ふむふむ……。ま、いいわ。一緒に寝ただけで、別に変な事は何もなかったんでしょ?」

「へんな、こと? うん、何もなかったけど……。あ、でもいつもよりちょっとだけ起きるのが遅くなっちゃったかも」

「じゃあ、いっか。ただ寝るだけの事に良いも悪いもないしね。それで、今日はこんな時間まで何してたの?」

 

 年頃の男女が共に寝るという、何処かの風紀委員などが知れば憤慨間違いなしの出来事は、しかしそれほど大きくは取り上げられずに流されていく。……それが事実かどうかはともかく、少なくとも幸は視点からは、そう認識されていた。

 

「それで今日の朝は、美咲さんとゆっくりしてたら急にピンポーンってね、こころさんたちがやってきて――」

 

 話は次に豪華客船『スマイル号』での出来事に移った。自分の目で見た船の大きさ、華美さ、そして闖入者(ちんにゅうしゃ)が現れたことや、モニターで確認していたカジノの様子などを、覚えている限り事細かに話す。

 

「はぇー、豪華客船に怪盗にって、やっぱりこころちゃんはやる事が違うねー」

「あはは、ほんとだよね」

「それで、次の勝負はどんなだったの?」

「えっ、あー……うん。今度は美咲さんが花音さんに告白の演技をするっていう勝負だったんだ」

 

 優が話の続きを催促すると、何故だか幸の語りが一瞬だけ止まった。それは明らかに、ただ言葉が詰まったのとは違う確かな間であり、優が目が再びギラリと光った。

 

「へー。で、それだけじゃないでしょ? 白状しなさい」

「べ、別に何も――」

「もっかいさっきと同じ事やる気?」

「……言います」

 

 実際に一度敗北を喫してしまっている彼は、無駄に粘る事も無くおとなしくすべてを語った。

 一度目の美咲の演技がダメダメだった事。最後のチャンスとして自分への告白が課せられた事。一度は拒絶したはずの勝負を、何の心変りがあったのか進んで受けた事。そして――。

 

「で、どうだったの?」

「どうだったのって……何が?」

「もー、わかってるでしょ? 美咲ちゃんに告白されて、どうだったのかって聞いてるの!」

「……告白って言っても、演技……だから。けど、それでも、正直ね、すごくびっくりした。演技だって頭ではわかってるのに、まるで本当みたいに思えちゃって……続きを聞くたびにドキドキして、最後に手を伸ばされた時なんか……胸とか頭とかが、わぁーって熱くなって、実はちょっとだけ泣きそうになっちゃった、えへへ」

 

 当時の事を思い出しているのか、顔をこれ以上ないほどに真っ赤にしながら、口元を手で覆って幸は赤裸々に内心を吐露する。その感情の昂りといえば、家族として今まで生きてきた優をして、過去一番だと言わざるを得ないほどだった。

 

「へぇ~、ふ~ん?」

「……な、なに」

「い~や、別になにも?」

「絶対嘘! なにをニヤニヤしてるのさー!」

(一緒に寝たのは、美咲ちゃんから。告白を急にやる気になったのも変だし、なんなら布団がないってのも怪しい。それで、人が変わると急に演技が上手くなる……?)

 

 頬っぺたを膨らませて、幸はポコポコと抗議する。だが、彼はまったく相手にされておらず、優はそれを片手であしらいながら、空いた他方の手を彼からは見えない位置に持っていって携帯の画面を叩いていた。

 

『美咲ちゃん、明日はたーっぷりお話しましょ♡』

 

 送信、と小さな声で呟いて、優は弟に話の続きを要求した。



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第36話「嗜好の思考」

注意:今回、少し原作キャラのイメージを崩すだろう発言があります。


「――ちゃん。ねぇ、お姉ちゃんってば!」

「……んぁ?」

 

 ペチペチ、ペチペチと。頬を叩かれている感触によって、美咲はおもむろに目を開けた。

 上体だけを起こして、一度大きくあくびをする。そうして、ようやくそこにいるのが自分の妹なのだと理解した。

 

「……なんでいんの?」

 

 冷静に状況を考えれば美咲を起こしに来た以外には見えないのだが、彼女の覚えている限り、幼少の頃から妹が自分を起こしに来た事など、ただの一度も無い。そういった訳で、美咲は目の前にいる家族へ疑いの目を向けた。

 

「いや、目覚ましずっと鳴っててうるさかったから」

「あ、そういう? それは素直にごめん」

「いいけどさ、珍しいね。お姉ちゃん、いつもはすぐ起きるのに」

 

 昨日、美咲はきちんと黒服に自宅まで送り届けてもらった後、すぐに自室へ直行し、そのまま泥のように眠った。こころや幸たちとは違って車内でずっと起きっぱなしだった彼女の体には、そうなるだけの疲れが溜まっていたのだ。

 直接の原因である枕元の目覚まし時計を止めて、起こしに来てくれた事にお礼を言う。妹は、朝食がもうすぐできるという事を伝えると、部屋から出ていった。

 

 一人になった自室で、美咲は大きく伸びをして息を吐いた。

 目覚ましの音に起き損ねるというのは彼女にとって久しくやっていなかった行為であり、予想以上に疲れていたようだ、と自分のことながらに思う。

 ベッドから降りてシーツと布団を整えると、美咲は自分の携帯を手に取って画面をつけた。これは彼女が起きると毎日やっている事で、おもに寝ている間に入っていたメッセージや天気の確認などが目的だ。

 専用のアプリによれば、今日は終日晴れであり、降水確率は限りなく低いらしい。続いて彼女はメッセージアプリ『ROW』を開いた。

 

「……あれ?」

 

 この画面ではチャットの来た時間が近い順に上から表示されるようになっており、美咲が朝のチェックをすると大抵はこころの他愛もない言葉かクラスグループで誰かが時間割などを訊いているのが最上にやってきている。なのだが、今日はその場所に、また違った名前が表示されていた。

 

「『美咲ちゃん、明日はたーっぷりお話しましょ♡』……ね」

 

 祖師谷優。ファーストコンタクトの時に互いに登録をしたが、あまり頻繁に連絡をすることはなかった相手だ。

 これまでも何度か学校で話をする事はあったが、そういった時は彼女が自ら休み時間などに美咲を訪ねてきており、わざわざ事前にメッセージを送ってくる事など無かったはずだ。にも拘らず、こんなハートマークまでついたものを送ってくるという事は――。

 

「……よし」

 

 短く呟いて、美咲はいつもより二十分遅く家を出る事を決めた。

 

 

―――――――

 

 

 時は過ぎ、現在は昼休みの始まったところ。美咲は足音を殺して周囲をキョロキョロと見回す不審者スタイルで、校内を歩いていた。

 一体何故彼女がそのような事をしているかというと、ずばり、ある人物から逃げる為である。

 

 あの後美咲は、通常なら始業の三十分前に教室へ着いているところを、遅れて家を出る事により見事三分前に到着した。これにより彼女は最初の関門を突破した訳だが、優が美咲と話したがっている以上、もちろんそれだけでは事態は解決しない。

 授業が一つ終わるたびに自分のいるC組へとやってくる優から逃れるため、美咲は終了と共にトイレへ逃げ込み、開始の直前へ戻ってくる事を繰り返した。おかげでクラスメイトの数人からお腹の調子を心配される羽目になってしまったが、それによってどうにか昼休みを迎える事が出来たのだ。

 

(話したくない訳じゃないんだけどなぁ……)

 

 美咲は内心でごちる。むしろ、本音としてはまったく逆で、彼女も優とは話しておきたい事が山ほどあるのだ。ただ、それらを話すには細々(こまごま)とした休み時間では短いと考えており、放課後にでもきちんと場を設けて話したいというだけである。その旨を美咲は優へメッセージで送ったはずなのだが、休憩の度にやってくるという事は読んでいないのだろう。

 

 さて、そんな事情を抱えた不審者美咲だが、彼女が今しているのは昼食をとる場所探しである。せっかく優から逃れられたというのに、食堂や中庭など探せばすぐ見つかるような所で食べていては、彼女に捕まるのも時間の問題。そうして美咲は歩きまわった末に、校舎の裏という絶好の場所を見つけるのだった。

 ここなら誰もいないだろう、そんな思いを持って美咲は足を進める。何せそこは、本当にただの校舎の裏である。自転車置き場や焼却炉など、なにか設備があるわけでもない。ただ僅かな自然があるだけで見える景色も一面、敷地を区切るフェンスばかりだ。

 頭に浮かべた校内マップで、校舎裏の中でも特によさげな場所をピックアップする。そこに見える角を曲がれば目的地、というすんで、美咲は唐突にその足を止めた。

 

「――ん。ふふ」

(っ!?)

 

 声が、聞こえた。

 一瞬、優が自分を追いかけてきたか、と美咲は周囲を確認したが、誰の姿も目には入らない。落ち着いて耳を澄ませてみると、どうやらその声は今美咲が曲がろうとしていた角の先からのようだった。

 

(……ん? っていうか、この声って)

 

 美咲はさらに聞き耳を立てる。

 

「えへへ、あこちゃんはやっぱり――」

(燐子先輩じゃん)

 

 そこからの数言をしっかりと耳に入れ、彼女は声の主の正体がはっきりとわかった。

 白金燐子。花咲川の一年上の先輩で『Roselia』のキーボード担当、というのが美咲の中での彼女の印象だった。

 先日海で偶然にも話す機会があったが、それ以前は何度かガルパの合同練習で顔を合わせていただけ。赤の他人の域はとうに脱しているだろうが、進んで話しかける程の間柄だとも思えず、美咲は違う場所を探す事にした。

 

(にしても、燐子先輩ほんとあこが大好きだよね)

 

 燐子とあこの仲がいい、というのは違うバンドのメンバーである美咲から見ても、一目瞭然であった。『CiRCLE』でどちらかを見かけた時はかなりの割合で二人揃っているし、そもそも『Roselia』に入る前からの仲だという話も噂に聞いているくらいだ。

 

(あの二人、違う学校なのにどうやって知り合ったのか――え?」

「っ!?」

 

 そんな二人についてぼーっと考えていた美咲だったが、その枝がある事実へと至り、表情を強張らせた。

 白金燐子は花咲川女子学園の生徒。

 宇田川あこは羽丘女子学園の生徒。

 つまり、二人はそれぞれ違う学校へ通っているはずなのだ。なら一体、今燐子が話していた相手とは――。

 体を強烈な悪寒が走りぬけ、美咲は思わず声を出してしまった。そして、重ねて残念な事にそれはしっかりと燐子の元へと届いたらしい。

 肩を跳ねあげて、警戒しながら自分の方を見つめるその姿に、美咲は仕方なく両手をあげて陰から歩み出る。

 

「その、こんにちは、燐子先輩」

「お、奥沢さん……? どうしてこんな場所――キャッ!?」

 

 恐れていた正体が美咲だったとわかり、燐子は警戒を緩めた……のだが次の瞬間に、なんと彼女は尻餅を着く形で後ろへ転倒してしまった。これは、美咲が礼儀として先輩に挨拶をするため足を一歩踏み出すと同時に、ほぼ条件反射で同じだけ後ずさり、小石に躓いてしまったためだ。

 幸いにもお弁当は燐子の傍らへ置かれていた為に無事であったが、代わりに彼女の手の中にあった『何か』が盛大に宙を舞った。

 

「えぇ!? わっ、とっと……」

 

 それは綺麗な放物線の軌道を描いて美咲のいる方へと飛び、危なげなくとはいかなかったようだが、無事にキャッチされた。

 

「危ない危ない、ってこれ携帯? 燐子せんぱ――い?」

 

 美咲の顔が凍る。

 果たして、それはよく見るスマートフォンであった。だが、ただそれだけの代物であったなら、彼女がこのような反応をするはずがない。

 

「これ全部……あこ?」

 

 果たしてその原因は、画面に表示されているおびただしい程のあこの写真の数々であった。スクロールしてもスクロールしても、次々に現れる写真はやはり被写体にあこを含んだものだけ。おそらく、そういった風に作られたフォルダなのだろう。その中のあこはきちんとカメラ目線をしており、どれも堂々と撮ったものなのだろうことが救いと言えない事も無いが、それでも美咲は絶句するほかなかった。

 

「ふ、ふふふ……。見てしまいましたね、奥沢さん……」

「り、燐子先輩これは……」

「み、み、見られたからには、生かして帰すわけには――」

 

 ユラリと、まるで幽鬼の如く立ち上がった燐子は、その目をグルグルと回してゆっくり美咲との距離を詰めてゆく。一歩、また一歩とその足が踏み出され、二人の距離がおよそ半分ほどになったところで……。

 

「――きゃっ!?」

 

 燐子がまたも盛大に転げた。

 今度は前のめりに。

 顔から。

 

 

――――――

 

 

「大丈夫ですか?」

「は、はい……なんとか。その、先程はお見苦しいところを……」

 

 予期せぬ事態でパニックに陥ってしまった燐子だが、物理的な衝撃によって正気を取り戻し、今は美咲と並んで座りこんでいた。

 美咲が心配をし、燐子が謝罪をし、そして、会話が終わる。

 燐子はもともと極度の人見知りで、美咲は先輩の知りたくなかった秘密を望まず知らされてしまったばかり。そんな二人の間で話がうまく続かない事は、明らかな事だった。

 

「あ、あの! 奥沢さん」

 

 ともすれば昼休みが終わるまでずっと続く事も考えられた静寂は、なんと燐子の側から破られた。絶賛気まずい空気に困り中だった美咲は、喜んで話に乗る。

 

「その、えっと……ロリコン、というものについて、どう思われますか……?」

「え……。ロ、ロリコン、ですか……」

 

 だが、その内容は思ってもみないものだった。

 美咲は頭を唸らせる。()()()()()により彼女はその言葉についてよく知っていたが、何故それをいま訊く必要があるのか。

 

(ロリコンって確か、小さい女の子を恋愛か性的な対象に見る人のことだったよね。それを今聞くってことは、まさか――)

「燐子先輩、あこと恋人になりたいんですか?」

 

 ストレートに、思いついた文面をそのまま口に出す。美咲的に考えた結果、そういうことではないか、と問うたのだが、燐子の反応は否定であった。

 

「こ、恋人ですか!? そんな気持ちはぜ、全然ありません。むしろ……あこちゃんとは今の……友達というか、仲間というか、とにかくそんな関係を変わらずにずっと続けられたらな……なんて」

「うーん、それなら別に、そもそもロリコンではないのでは……?」

 

 美咲は、その返答にどうにも納得がいかない。タイミングから彼女はてっきり、燐子がロリコンと呼ばれる人種で、質問はそのカミングアウトの前段階なのだと考えていたのだが違ったのか、と。

 

「あ……えっと、元の意味は確かに奥沢さんの考えてるもので合っているんですけど……。その、最近では恋愛だとか考えなくても、どういったベクトルであれ好き、というだけで呼ばれる事も多いんです……」

「……そう、なんですか」

 

 言葉というのは使う人々の認識のずれなどで、徐々に意味が変わってしまう事があるが、ネット上ではそれが特に顕著である。おそらく、今の時代にネット上でロリコンを自称し、他称される人々の中に原義としてのそれに当てはまる者など半分もいないのではないだろうか。

 その燐子から新しくもたらされた情報を加味し、美咲は考え直してみる。

 

「なら別に……どうとも思いません、かね。いや、そりゃ犯罪とかはダメですけど。そんな特徴一つを取り上げて人を判断するなんてのもあほらしいですし。もっと他に見るところあるでしょ、っていいますか」

「…………!」

 

 返答を聞いた燐子はしばらくのあいだ目を見開いていたが、やがて嬉しそうにはにかんだ。

 

「優しいんですね、奥沢さんは……」

「……ま、優しいかどうかはさておき、参考になったみたいでよかったです」

 

 あまり慣れていない褒め方をされて、美咲はおもわずそっぽを向く。

 二人の間に再び静寂が訪れる。会話が綺麗な形で締められ、ここでおさらばかと思いきや、今度は美咲の方から燐子へと質問を投げかけた。

 

「あー、逆に、といいますか……。燐子先輩はその、ショタコンってどう思いますか?」

「ショタコン……ですか? どうしてそんな――あぁ、そういえば、あの子は男の子なんでしたっけ」

 

 まさか美咲の口からそのようなネット色の強い言葉が出てくるとは露にも思わず、燐子はしばらく困惑したが、頭のいい彼女はその質問にどういった意図が込められていたのかを瞬時に見抜き、声をとても優しげなものにした。

 これが、美咲のロリコンなどという縁遠そうな言葉を知っていた原因である。自分の恋情に気付いた彼女は、少しばかり客観的に見た場合の己と幸の関係がどうなっているのか気になり、帰りの車内でずっと携帯で調べていたのだ。何せ、二人の実年齢差はたったの二つだけだが、彼の外見は小学生と偽っても通せてしまいそうなほど。それは仕方のない事だった。

 

「えぇ、まぁ……はい」

「私は、良いと思いますよ? どんなものであれ、人を好きだって思う気持ちは、その……とっても素敵なものです、から」

 

 恥ずかしいのだろう、あまり多くを語らない美咲へ、燐子は優しく微笑みかけた。その表情に、いっつもオドオドしてるけど、やっぱり先輩なんだな、と美咲が考えてしまった事は秘密だ。

 互いに質問をしたことでなんとなく気心も知れてきた二人は、お弁当を食べながら、それぞれ大好きな人の事についてたくさんの話をするのだった。

 

 

 

 

「――なんですよ。ほんっと、コウくんってば世間知らずで」

「た、確かにそうですね……」

 

 それからおよそ十五分後。未だに燐子と美咲は、同じ題でずっと、会話に花を咲かせていた。

 

「ですよね?」

「けど、ちょっと羨ましいな、とも思います」

「……? どうしてですか」

「あこちゃんにもちょっとそういう部分があるんですが……その子ほどではありませんから。もし、それくらい世間知らずなら現実に光源氏計画が――あっ、すいません、何でもないです……」

「……はぁ」

 

 急に燐子が、ぶつぶつと何かを呟きだす。その最後にあった『光源氏』という言葉が、美咲には確かに覚えがあったのだが、どれだけ頭を働かせても『何か古文でやったやつ』以上の事を思い出す事は出来なかった。

 

(後で調べとこ)

「そ、それより! その、コウくん? でしたっけ。その子は、ガルパに出るんですよね?」

「はい、そうですよ」

 

 焦った様子の燐子がまるわかりの話題転換をして、話がガルパのものへ切り替わる。

 美咲が紗夜へと啖呵を切ってみせた現場には、燐子も同席していたはずなのだが。

 

「その、すごいですね」

「何がですか?」

「あの子は、失礼なんですが……私と一緒で人見知りの恥ずかしがり屋さんだと思ってましたから……」

「……? すみません、話が繋がらないんですが」

 

 今、燐子の口にした幸の印象は、すべて彼の実態を一致しているもので、なにも間違っていない。美咲は、首を傾げた。

 

「あ、えっと……だってハロハピに入ったのはつい最近の事なんですよね? でしたら、ガルパが初めてのステージという事で……」

「……あ」

「私なんて、初めての『Roselia』のライブの時なんかは、とても緊張してしまいましたから……」

「あ、ああああああああ!!」

 

 燐子の何気ない指摘を受けて、美咲は驚愕の叫び声をあげた。何故そんな当たり前の事に今まで気付かなかったのか、自分を責める念がとめどなくあふれてくる。

 頭の片隅の、かろうじて落ち着いている部分で美咲はシミュレーションを行った。場所は『CiRCLE』のステージ。演者は幸を含む『ハロー、ハッピーワールド!』の面々。これが彼にとっての初舞台である事、性格、これまでの言動、それらを吟味した上ではじき出された結果は……。

 

(いや、絶対無理!)

 

 どうしようもなく無情なものだった。

 

「ありがとうございます、燐子先輩。おかげで大事な事に気付けました!」

「え、え? はい、どうしたしまし……て?」

(ガルパ本番までは後六日……。それまでに、一回はライブの経験させとかないと……!)

 

 そこで、タイミングよく予鈴が鳴り響いて、二人はお弁当をしまってその場を離れた。

 

 

 

『え……怖っ! 燐子先輩、怖っ!?』

 

なお、教室に戻った後『光源氏』について調べた美咲が、そんなことを言ったとか言わなかったとか。



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第37話「感情の清濁」

 両開きの大きな扉が、重々しい音を立ててゆっくりと開かれてゆく。目前の景色が完全に開け、部屋内の状況が一望に収められるようになると、その人物はこの場にいる全員へ届くよう、いつもより少し張った声をあげた。

 

「みんな、遅れてごめん」

「あら美咲、いらっしゃい!」

「みーくん遅かったね、何してたの?」

 

 美咲の到着に、部屋の奥で何やら遊んでいたこころとはぐみの二人が先んじて駆け寄ってくる。

 現在、学校が終わってからおよそ一時間ほどが経っているのだが、見るに、まだ練習は始まっていなかったようだ。

 

「いや、優と――んん! じゃないや、まぁなんていうか……うん、人と話してたんだ」

 

 はぐみの問いに流れで返答しようとした美咲は、しかし途中で己の過ちに気付き、不自然に息を整える。

 もっとも、これまでを鑑みるに美咲が無理に言葉を差し替えず素直に答えたところで、二人はそれをただの言い間違えか何かだと判断した事だろうが。それでも彼女がそうしたのは、一応、というやつである。

 その様子にこころとはぐみは見えない疑問符を頭上に浮かべていたが、それ以上の追及はなかった。

 

「それより! 皆にちょっと聞いてほしい事があるんだ」

 

 彼女から見て二人のその奥。遅ればせながら薫、花音、幸が近づいてきているのを確認した美咲は、手を一度パンと鳴らして注目を、一手に集めた。

 

「改まって、一体どうしたんだい? 美咲」

「えー、実はですね……コホン。ライブをしたいなって……その、思いまして」

『…………?』

(……ま、でしょうね)

 

 一息を置いて、満を持しての美咲の告白は誰も驚かせず、納得もさせず、むしろ一同にキョトンと首を傾げさせる始末だった。

 彼女らの頭の中にある疑問が浮かんでいる事は見えて明らか。しかしその反応は、美咲が予想をしていた範囲のものでしかなく、次に口から出て来るだろうその内容も、彼女には手に取るようにわかった。

 

「んー、週末のガルパの事よね? もちろんあたしも楽しみだけど……。ふふ、待ちきれないなんて、美咲ったらせっかちさんね!」

「いや、そうじゃないんだ。それとは別にライブを……えっと、できれば明後日くらいに……」

「あ、明後日!?」

 

 美咲の、こころを正す言葉を聞いて花音が驚きの声をあげた。しかしそれも当然で、ライブの予定をそれ程までの近日に入れるなどという話は普通はありえない事なのだ。

 演奏する曲を決め、練習をし、パフォーマンスを仕上げる為には、最低でも一月。そうでなくともせめて週単位の時間は必要になってくるがゆえ。

 過去にも数度、こころの思いつきが突っ走った結果、ライブ立案から実演までの期間が短く、練習を詰め込んだ事があったが、その例と照らし合わせてみても、今回の日取りは異例極まりなかった。

 

「すいません花音さん、事前に相談も無く突然……。やっぱり駄目、ですよね……」

 

 心底申し訳なさそうに、美咲が勢いよく頭を下げる。『すいません』という言葉は、日頃から美咲が花音などによく口にする中の一つであったが、これほどに想いの籠った謝罪は、彼女にしては珍しかった。

 

「あ、頭をあげて、美咲ちゃん! 確かにびっくりはしたけど、別に嫌ってわけじゃないから……」

「花音さん……。ありがとうございます」

「美咲ちゃんにはいつも助けてもらってるから。きっと大変だとは思うけど、力になれるのなら、私は協力したい! みんなは、どう……かな?」

 

 決意を固めた顔で宣言をして一転、不安の差さった表情で花音は残りのメンバーに問いかけた。

 こころたちの性格からして、返答がなされるまでの時間はそう長くなかったのだろうが。そのちっぽけな時間が、美咲には千秋を過ぎて余りあると錯覚する程に感じられた。

 

「それは……そう、愚問というやつさ」

「もちろん、賛成だよ! はぐみもいっぱい、いーっぱいライブしたいもん! 薫くんが言ってるグモン……? ってのはよくわかんないけど!」

「えぇ、美咲が自分からライブしたいって言い出すなんて二回目か三回目か……? とにかく、とっても珍しいもの。断る理由なんてないわ!」

「ぼ、僕も! 美咲さんの力になりたいです! ……なんて、そんなこと言える立場なのか怪しいですけど……」

 

 三者三様。それぞれ言葉は違えど、込められた意思はみな同じ。一点の曇りも、一片の邪念もない、ただどこまでも純粋な肯定だ。

 唯一、幸だけは経験の浅さから美咲の提示した条件がどれほどの難題なのか判別がつかずに、曖昧な返事となってしまったが。それでも、美咲の助けになりたいという気持ちに関しては、少しの偽りもなかった。

 

(あぁ、もう、嫌になっちゃうな……)

 

 普通なら到底受け入れられないような、無茶なお願いが聞き届けられた美咲。そんな彼女の胸中では、二つの混じり合わない感情が大きく渦巻いていた。

 一方は言わずもがな、快諾してくれた事に対する感謝や嬉しさなどの、正のもの。

 そして他方は負の方向へ傾いたもので、それを的確に表現している言葉を『自己嫌悪』といった。

 一つの事実として、美咲はライブの件を打ち明ける事を、実行するその直前まで躊躇っていた。一般に考えれば、それは受け入れてくれるかどうかという不安に起因するものだ、と予想がされるだろう。

 しかし、実際はその真逆。

 美咲の躊躇は、きっと全員が全員、嫌な顔一つせずに受け入れてくれるという確信があったからこそだった。

 こころを筆頭に、ハロハピのメンバーの心は、底抜けに広く、優しい。きっと、どんな願いであったとしても、無下にする事はないに違いない。

 では、そんな彼女たちの美しい心の性質(たち)をよく知った上で無茶な相談をする事は果たして、付け入るだとか利用するだとか言われる行為と、どう区別することができるだろうか?

 これが、美咲の中に(わだかま)っていた思い。本人たちが知れば、考えすぎだと笑い飛ばすこと請け合いであるが、残念ながら彼女は、そこに素直に甘えられるような性格をしていなかった。

 

「はぁ……馬鹿。ほんと馬鹿だよ。あたしは皆に迷惑かけようとしてるってのにさ」

 

 目を伏せ、自嘲気味に美咲は小さく口にする。

 

「ふふ、物は言いようだね。美咲は私たちを頼ってくれているんだろう? それをわざわざ悪く繕うこともないんじゃないかい」

「物は言いようって……。もう、それ完っ全にあたしのセリフなんですけど」

 

 だが、それでさえも、彼女たちはなんでもないとばかりに受け止めてしまう。

 

(まったく、たまーにかっこいんだから、この人は……)

 

 いつもいつも的外れに言葉を引っ張って来て、ズレた事を言って、三バカだなんて不名誉な括られ方をしている薫。だというのに、今ばかりは彼女の言う事が美咲の心を、どうしようもなく震わせた。

 

(なんか、前にもあったなぁ、こんな事……)

「よしっ!」

『っ!?』

 

 突然、美咲が自分の両頬を勢いよく張った。パンッと、大きな音が響き渡って、一同は奇行に走ったその人物へ目を向けた。

 

「やい! この残念イケメンめ! それから――」

 

 美咲は、暗かった表情をすっかり何処かにやったようで、薫に指を突き付けて声をあげた。

 

「優しい馬鹿! 元気な阿呆! いい人! いい子!」

 

 そのまま、こころ、はぐみ、と次々に矛先を変えながら一言づつを合わせていく。

 

「皆さん、よろしくお願いしまぁす!!」

 

 そして、それを全員分まで終えると、何故か少し怒ったような表情で、深く頭を下げた。

 

「美咲……。あぁ! よろしく」

「改めて言うのも何か変な感じだけど、よろしくね、美咲ちゃん」

「よーし、早速ライブの計画を立てましょう!」

 

 そのバンド名を象徴するかのように、幸せそうな笑顔を咲かせる美咲を中心に、ホワイトボードのある方へ五人が駆けだそうとする。

 

「あ、ちょっと待って」

 

 だが、そこへ美咲が待ったをかけた。

 振り返って首を傾げるこころたちへ、彼女は言う。

 

「実はさ、会場についてはもう目星をつけてるんだ。セトリに関しても、週末のガルパのから選んで組み直してみたから、新しく曲の練習とかはしなくていいようになってるよ」

「なるほど、美咲のことだから何か考えあっての事だとは思っていたが、そういうことだったんだね」

「で、でも、よく会場を見つけられたね? 明後日に突然、かなり大変だと思うんだけど……」

「そうなんですよ……」

 

 これが、優との会談に加えて、美咲のここに遅れてやってきた理由の半分だった。ライブハウスなどの目ぼしい場所は当然、かなり前からの予約が必要な場合ばかりで、彼女はこれまでの活動でできたコネなどを存分に使ってライブのできそうな場所を片っ端から探る羽目になった。

 

「それでそれで、結局どこでライブをする事になったの?」

「あぁ、それはね――」



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第38話「魔法の言葉」

ながめ


 あっという間に時は過ぎ、美咲の急遽企画したライブの開始時刻もとうとう目前にまで迫って来ていた。

 

「突然の無茶なお願いでしたのに受けてくださって、本当にありがとございました!」

「いえいえ、そんな。こちらこそ、感謝の言葉を送らせていただきたいくらいです」

 

 黒服の人たちが機敏な動きでステージのセットを組み立てていく傍ら、美咲はハロハピメンバーの代表として、今回の会場にする事を許してくれたこの施設の者と話をしていた。

 まず初めに礼儀として感謝を述べ、そのまま一つ二つほどの世間話を交わす。方々へ駆けまわり、また掛け合いまわった末に美咲が見つけたこの人物は、しかし無理を聞いてくれたにもかかわらず、嫌な顔一つすらなしに、むしろ礼謝を返しさえした。

 そのあまりの腰の低さに、よもや目の前の人物は弦巻の威光を恐れてこのような対応をとっているのでは、と美咲の中で疑念が生まれたが、相手の表情を窺ってみても穏やかな笑みには裏があるようには思えない。

 

「……納得いっていない顔ですね」

「えっ!? あー、その……まぁ」

 

 そんな内心を見透かされたのか、本人としてはおくびにも出していないつもりだったのだが、相手がそう切り込んできた。それは彼女の予想だにしないタイミングであって、美咲は咄嗟に言い繕う事も出来ず、正直に内心を曝す。

 

「ちょっとあたしたちに都合が良すぎる展開だなぁ……と、思いまして」

「なるほど、そういう捉え方もあるのですね……。心配しないでも、特に邪な考えはありませんよ。ハロハピの皆さんには是非ともまた来てほしいと私どもも思っていましたから……そう、利害の一致というやつです」

「そう、ですか」

「はい」

 

 その言葉に、美咲は頬を少し赤くする。普段から彼女たちの主な活動場所となっているライブハウスでは、そういった専用の施設が故に演者と観客との隔離がしっかりとしており、あまり生の声を聞く機会がなかったからだ。

 にこやかな表情を崩さない相手を直視できなくなり、彼女はふい、と顔をそらす。

 そのおかげで、ガラリと変わった視界の中で美咲は意図せずあるものを見ることとなった。

 

「おーい、みーくーん!」

「……はぐみ?」

 

 それは景色の奥、野外に設けられたステージの裾から二人の方へ手を振るはぐみ。

 

「お友達に呼ばれているようですね」

「ええ、みたいです。それでは、かさねがさねになりますけど、今日は本当にありがとうございました」

 

 最後に深く頭を下げ、美咲はその場を後にした。

 

 

 

「おまたせ、みんな。設営終わった感じかな?」

 

 誘われるがまま、メンバーの集まる元へと駆けつけた美咲はきちんと整えられたステージを見て、確信的にそう言う。

 

「うん! いつもパパーッとやっちゃって、すごいよね黒い服の人たち!」

「いや……まぁ、そこに関しては全面同意かな。……よし、行こうか」

「……え? も、もう始まるんですか?」

 

 呼び掛けに応じ、各々メンテナンスをしていた楽器を置いて立ち上がる面々。だがそこに一人、幸だけが虚を突かれたような表情で声をあげた。

 それもそのはずで、前日に取り行っていた会議で定めたスケジュール上では開始はまだ二十分以上も先の事なのだ。

 今から舞台に上がる事も不可能ではないのだが、準備の完了を本番の直前に持ってくるよう計画だてていた幸は大きく慌てた。

 

「あぁ、ごめんごめん、ややこしかったね。まだ本番って訳じゃないよ」

 

 そして、美咲は言う。

 曰く、これから行うのは最終確認のようなものだ、と。リハーサルではない。それは昨日のうちに通しで実行済みである。

 

「……?」

「なんていうかな……実際に一回舞台に上がってみて、自分の目で確かめてみるみたいな?」

 

 それは例えば楽器を置く角度であったり、或いは音量であったり……。

 黒服の者たちは確かに図面上での最適な配置をしてくれるが、逆を言えば、あくまでそれだけ。

 客足の伸びやその場の空気など、そんな何処か感覚的な、演者にしか理解できない現場の細かな機微は考慮してくれないのだ。

 

「だからさ、もう少し楽器を動かしたい……とか。気になる事があったら、ちゃんと言いなよ? そういうのは全然、恥ずかしい事でも遠慮する事でもないんだし」

「は、はい……」

 

 こころが、はぐみが、続々と軽い足取りで舞台へ上がっていく。そして、幸へと話しかけていた美咲も次いで。

 一人残された幸はおずおずとした動作で脇幕を小さく捲り、即席の客席を覗き見る。まだ開演時間には少しばかりがあるはずなのに、そこには既に多くの観客がひしめきあっていて。

 

(…………)

 

 ただ、純粋に、彼は怯えた。当然だ。ほんの数日前までは大人数の前に出るどころか、限られた数人としか顔を合わせないような生活を送っていた者が、このような場に平気な様子で出ていける道理などない。

 

「……コウくん?」

 

 足を踏み出せず、立ち往生をしている幸を不思議がるように、美咲が振り向いて声を掛ける。ほんの数十センチ程度の、しかし絶対的にそこに存在する()()()から。見下ろすかたちで。

 幸は考える。目の前にいる美咲、そして今ドラムの調子を確かめている花音。この二人、なかでも後者は、決して人前に進んで立つような性分ではない筈だ。他の三人と比べるなら、どちらかと言えば彼寄りの、そんな。

 だが、現実はどうだろうか。花音は観衆の視線の真っただ中で取り乱すこともなく座っているし、美咲の顔にだって特別、焦りなどはみられない。数度の帰り道で聞いた話では、ハロハピ結成当初の花音は緊張で幾度も失敗を繰り返したとの事であったが、そんな話を疑わしく思ってしまう程の落ち着きぶりだ。

 

――慣れたのだろうか?

 

 ふと彼はそう考え、いや、違うだろう、とすぐにそれを否定した。

 

――きっと変わったのだ。

 

 慣れると変わる。どちらに進んでもそれらは、おそらく今の花音へと辿り着く道ではあっただろうが、実態はまるで違う。

 慣れるとはつまり、ライブに耐性ができ、ステージという限定されきった環境で平気に振る舞えるようになるだけ。

 それだけではきっと、気弱ながらも頼れる先輩である彼女はできあがらない。行動が、心が、そして松原花音というヒトが変わらねば、きっと。

 嫉妬の情も羨望の念も、彼は持たない。キラキラと眩しい五人を見上げて、ただ内に思う事は……。

 

「……くん? …………、ほら…………」

(やっぱり僕は……)

 

 美咲が何やら言っている事も耳に入らず、幸は意識外から手を引かれる。

 たった三段ぽっちの果てしない階段を、彼は重く踏みしめながら、上った。

 途端。

 

「……あ」

 

 そこかしこに散らばっていた何気ない視線が、幸のもとへと殺到する。突き刺さるように。容赦もなく。

 衆目にさらされる様子を『針のむしろ』などと表現する事があるが、冗談じゃない、と幸は思った。

 この言葉を造った者はきっと、とてつもない巨人か何かで、だから視線を針だなんて細くてちっぽけな存在に例えられたのだ、と。少なくとも彼にとっては、今自分の身を取り囲んでいるそれは、もっともっと大きな質量を孕んだ、恐ろしい何かに他ならなかった。

 いつの間にか滲みだしていた雫も意識の外に、彼は両の手で堅く自らの口を塞いだ。そうしなければ何かが、たくさんの何かが溢れてしまうような気がしたから。

 まるで心臓が太陽にでもすり替わってしまったかが如く、胸の内が不自然なほど急速に熱を帯びて立っていられなくなる。

 

「……や、だ」

 

 ぺたりと座りこんだ事によって、幸へと向けられる視線が一層濃いものへとなった。そこに込められているモノが興味や好奇、心配など、悪感情とはかけ離れていた類なのだと理論は言っていても。

 

「コウくん?」

「――ごめん、なさい」

 

 圧し掛かるナニカに耐えられなくなって、祖師谷幸はその場を逃げ出した。

 

「……えっ?」

 

 手を払うという初めての拒絶的反応に呆けたのも一瞬。観衆含め周囲の人間も自分と同じく唖然としている事をすぐに察した美咲は、状況は理解できていないながらもフォローへ走った。

 

「すいません、少しトラブルが発生してしまったみたいで……ライブは時間通りに開催する予定ですので、皆さまもうしばらくお待ちください!」

 

 ざわざわと色めき立つ客席に行き渡るように、美咲は声を大きく張って伝える。中には邪推をする者もいたかもしれないが、ひとまず会場単位では落ち着きを取り戻させる事が出来た。

 

「うーん、コウったら一体どうしちゃったのかしら?」

「あー、なんかあれだよ……そう、お手洗いを我慢してたみたいでさ。コウくんが場所知ってるか不安だし、あたしちょっと追いかけてくる!」

「美咲ちゃん……」

 

 状況を理解していないこころ達を適当な嘘で誤魔化し、不安げな表情で見つめてくる花音へは深く頷く。

 そして美咲は、去っていった幸の後を追うように病院へと走り出した。

 

 

――――――――

 

 

『惚れた?』

 

 息を切らせる勢いで走りながら、美咲は思い出す。

 二日前、ハロハピ会議に遅れてまで設けた優との話し合い。ホームルームの関係で集合場所へ先に着いて待っていた美咲に、その姿を見せるより先に投げかけられた言葉は、そんな極々短い問いかけだった。

 

『第一声がそれって……どうなの?』

 

 声に遅れて校舎の陰からひょっこりと現れた優に、美咲は溜め息をつきながら冷ややかな視線を向けた。実は狼狽えに狼狽えているその内心を、悟られないように気をつけながら。

 対して、冷たく対応をされたはずの優は、それでもニマニマと笑みを崩さずに美咲へと詰め寄る。

 

『ま、いいじゃんいいじゃん! ……それで、そこんとこどうなのよ? 私気になるなぁ!』

『……ノーコメントで』

『ふーん、否定しないんだ?』

『肯定もしないけどね』

『もう、捻てるなぁ』

『性分なもんで』

 

 本当のところを語る気はないという内容のテンポよい応酬が、逆にそのあたりを浮き彫りにしてしまっているのだが。彼女がそこを言い繕ったり、弁明をする事はない。それは言外に真実を語ると大差ないし、なにより、優が既に自分の本心を見抜いているだろう事を、美咲はなんとなく理解できていたから。

 

『だんまりするなら別にそれでもいいけどさー。お姉ちゃん公認だよっ! とだけ、私からは言っとくね』

『何の事を言ってるのかはさっぱりだけど……うん。まぁ、了解……とだけ言っとくよ。っていうか、もしかして今日の呼び出しって、これを訊きたかっただけ?』

 

 それ以上の追及を避けるように、美咲は話題の転換を図った。もうそうであるなら今度はこちらが質問攻めをしてやろう、そんな思惑を心に秘めて。

 

『ううん、違うわよ? 美咲ちゃんの気持ちについてはほとんど確信してたし、本題は他にあるんだけど……うーん……』

『……?』

 

 だが、返ってきたのは否定。語るに、彼女にはまだ本当の目的が残っているらしい。話の流れから美咲は優がこれからそれについて話すのかと予想したが、その快活な語り口が突然に籠った。

 美咲の知る限り、目の前の少女は思った事をズバズバと言い放ってしまえる性格をしていたはず。一体何を言い淀む事があるのかと美咲が首を傾げると、優は頭を掻きながら申し訳なさげに口を開いた。

 

『あの、さ……実は美咲ちゃんたちにまだ話してない事があるんだよね……』

『話してない事って……それは、コウくんの関連で? 例えば、二週間の制限の理由とか』

『……! 美咲ちゃん、すごいね。ドンピシャって感じだよ』

 

 その的確すぎる予想に表情を驚かせた優は、一度息を整えてまさしく美咲の欲していた情報を明かしだした。

 まず、初めに口にされたのはその訳。

 

『秘密にしてたのには二つ理由があるんだけど……。一つはハロハピのことを完全に信じれてなかったから、かな。こっちから頼んどいてほんとに申し訳ないな、とは思うんだけど……』

『それはまぁ……ちょっと思うところが無い事もないけど、しょうがないよ』

 

 そういって優は目を伏せるが、美咲が気にする様子はない。

 そもそも、ハロハピは――主に一匹の――外見や掲げる目標などから奇天烈に見られがちな上、その個々人の実態も知れば知るほど曲者揃いだ。

 一クラスメイトとしてはぐみの言動を間近で見て来、こころの『花咲川の異空間』という異名も認知している彼女が、関わって間もないうちに全幅の信頼を置くようでは、美咲はむしろ心配に思ってしまったことだろう。

 そういった理由から、美咲は自分たちに対して信じきれないと述べた優に対し、文句を言うどころか同意を示しさえした。

 

『それで、二つ目の理由は?』

『んー……後味、かな』

『……後味?』

『うん。この秘密を知ったら、美咲ちゃんたちはきっと二週経ったときに綺麗な気持ちでバイバイできなくなっちゃうから』

 

 知るとお別れに支障をきたす。たったそれだけの概要ではどんな内容なのか欠片も想像がつかないが、美咲は既に幸に対して真剣に向き合うと決めた身。その結果として優の言うような未来をなぞる事になろうとも、彼女には聞かないという選択肢はなかった。

 

『いいよ、覚悟――って言うとちょっと大袈裟かもしれないけど。とにかく、大丈夫だから。聞かせて欲しい』

『……いいのね?』

 

 そう確認をするが、美咲の意思は言葉なくともその目が語っている。優は、硬い表情で徐々に語りだした。

 優が父親に訴えて、弟の稽古漬けの生活に一時の自由を作った事。しかし、それは期待していた程の効果を上げなかった事。そして、彼が自らの意思で抗議をしなければ、元の生活へ逆戻りしてしまう事。

 そこまで話を聞いて、美咲はようやく優の『綺麗な気持ちでバイバイできなくなる』という言葉の意味が理解できた。事実、その実情を知ってしまった為に美咲の中では、『期日が来て幸とお別れをする』が『幸に行動を起こさせるまでの変化をもたらせなかった』と同義になってしまったのだから。

 比較的おとなびた性格をしている彼女だからこそ取り乱さずに受け入れる事が出来ているが、これがもし花音やはぐみなどの耳に入ったならば、きっと美咲以上に気に病んでしまったに違いない。

 

『っていうか、それあたしに言ってよかったの? 伝えちゃダメってお父様との約束だったんじゃ?』

『それはあくまで本人には、って話。昨日お父さんに確認したから、そこは間違いないはずよ。……あっ、もちろん美咲ちゃんから伝えるってのも無しだからね!』

『それはわかってるけど……』

『……どうかした?』

 

 先ほどとは対照的に今度は美咲が言葉を詰まらせ、優が疑問を抱く側に回る。そのまましばらくのあいだ思い悩んでいた美咲だったが、意を決したように息を吐いた。

 

『どうして話そうと思ったの?』

『……え?』

『いや、優がコウくんについて隠し事をしてた理由は聞いたし、納得もしたよ。じゃあ逆にさ、なんでこのタイミングでそれを打ち明けてくれたの?』

『…………』

 

 顎に手を当て、優は考える。美咲の言う通り、どうして自分は情報を明かす気になったのか。

 一つの理由として『美咲への信用が増したから』がある事は間違いない。関係も当初と比べれば親密になり、なにより我が弟へ思いを寄せている今の美咲なら、彼の抱える問題に真摯な態度で取り合ってくれるだろう、と。

 だがそれより、知らぬうちに逸っていたのだろう心を落ちつけて冷静に思考してみると、優は己を行動に移させた最大の理由へすぐに思い至った。

 

『たぶん私、焦ってるんだと思う』

『……まぁ、期限ももうそんなにないしね』

『私も毎日お話を聞いてるからさ、あの子が変わってきてるんだっていうのはすごく感じてるんだ。――あっ、実際に一緒に行動してる美咲ちゃんたちほどじゃないかもだけどね?』

『いや、その微妙なフォローみたいなのはなんなのさ……』

 

 稽古漬けだった頃の幸は笑う事もなく、どころかほとんど表情の変化すらなかった。ただ機械的に、親から課せられた行為だけを淡々とこなす。そのような生活の中でどうして、喜び、怒り、悲しむ事があろうか。

 そんな頃が基底にあるものだから、優は近頃の幸がコロコロと表情を変えるようになっている事がえも言われぬほど嬉しかった。

 

『その日あった事を教えてくれる時にね、すっごく楽しそうに笑うの。内容によっては困り顔の時とかもあるよ? ……けど、そんなのでもやっぱり愛しくてさ。ほんっと、ハロハピの皆には感謝してるんだ』

 

 その実際の現場を思い出しているのか、優は幸せそうに瞼を落として語る。しかし、だからこそ次に彼女が浮かべた表情の悲痛さが際立って見えた。

 

『けど、このままじゃ多分ダメ……。あの子はずっと他人に言われるままに生きてきたから、自分自身で何かを変えるだとか、そんな考え自体が欠けてるんだと思う』

 

 行動を起こせば、何かを変えられる。そんな当たり前の事すら彼は知らなくて。だから、課せられ、与えられたものだけが絶対なのだ。

 稽古に行けと言われれば行くし、期間を二週間と定められれば、ただそれに従う。自分がどう思うかなどは、二の次、三の次にして。

 

『だから、あの子の中の常識とか考え方とかそういうのを、全部ぶっ壊して、ひっくり返して、ぐっちゃぐちゃにしちゃうような……そんなナニカが必要なの』

 

 ただ特徴を捕まえて曖昧に言うだけならば、それは易い。だが、優には具体的な心当たりなど微塵もなく、そんな無力な自分が恨めしくて仕方なかった。

 

『……なんとかなるよ、きっと』

 

 ぽつりと、美咲がそう口にする。それは、優の暗い雰囲気を穿つような、明るい声音だった。

 弾かれたように、優はその方向へ顔を向ける。

 

『何事もほどほどが一番。セーシュンとか、がんばろーっとか、むずかゆい。なんて一人で捻くれてたくせして、ハロハピにそんな考え方とか全部ぶっ壊されちゃった人を、あたしは知ってるから』

『……! そっか、それは心強いわね!』

 

 そこには、何故かそっぽを向いている美咲の姿があった。

 

『信じるよ、『ハロー、ハッピーワールド!』』

『ん、期待して待っててよ』

『うん、期待して待ってる!』

 

 いつかこの場所で話した時とは打って変わって、美咲は胸を張ってそう言った。

 

「だから」

 

 軽く頭を振り、美咲は焦点を今へと合わせる。

 

「あたしは君を、引きずってでもステージに連れていくよ」

 

 その瞳は、真っ直ぐに前を見据えていた。

 

 

 

――――――

 

 

「はぁっ……はぁっ……」

 

 息を乱し、必死な様子で幸は走って――否、逃げていた。

 今の自分が果てしなく愚かで、裏切りの街道を駆け抜けているのだと、そう彼の歳不相応に聡い頭は正確に状況を理解していたが、足はどうしても止まってくれない。

 恐ろしいと感じる対象から逃亡を図るのは、あらゆる生物に生来備わっている本能なのだから。

 ステージの上で彼が感じたのは、初めての恐怖だった。数年ぶりに家を飛び出たあの日、公園で出会った香澄を大声を上げながら真っ直ぐに襲いかかってくる恐怖とするならば、先程体験したのは静かに、しかし着実ににじり寄ってくる種類のもの。

 周囲に人の影などはとうに消えて、恐怖の根源は何処にも見当たらなくなっても彼は駆け続ける。そんな、もはや何からなのかも定かでなくなってしまった逃走劇は、壁に突き当たり、己が袋小路に入ってしまっていたのだと気付くまで続いた。

 

「……! ……はぁ」

 

 勢いよく背後を振り返ってみるが、当然そこには誰もいない。その事実を自身の目で確認してようやく、幸は隅っこへ座り込んだ。すぐ隣には丁度良い長椅子があったにもかかわらず、小さく、膝を抱えて。まるで、自分にはそんな資格はない、とでも言うかのように。

 

(……気持ち悪い)

 

 水分が足りていないのか、それとも酸素か、塩分か。喪失感と安心感と、そして罪悪感のごちゃ混ぜになった胸に手をやり、ゆっくりと撫でる。しばらくそうする事で、身体の方は少しづつ落ち着きを取り戻していった。もっとも、心の内は依然、曇り渡っているようだったが。

 

「逃げ、ちゃった……」

 

 ここまで走る事に割かれていた思考力が戻ってきた事で、幸は犯してしまった事の重大さを改めて認識する。

 会場はどうなっているだろう。

 皆はどうしているだろう。自分を探しているか、それとも連絡を取ろうとしているかもしれない。

 考え始めれば、気がかりな事はいくらでも湧いてきた。

 生憎と携帯端末は会場へ置いてきてしまっていた為に正確な時間は分からないが、それでも彼の体感ではライブの開始までまだ十分以上の猶予があるはず。闇雲に走ったせいで現在位置がわからない事を考慮しても、今すぐにここを発てば充分に間にあうだろう。

 それができるのならば、だが。

 

「わかんないよ……」

 

 気を抜けばすぐに震えだしてしまう膝を固く抱き、幸は小さく、本当に小さく零した。

 誰かに来て欲しかったし、誰にも来て欲しくなかった。

 こんな惨めな自分を誰にも見て欲しくなかったし、こんな救えない自分を誰かに助けて欲しかった。

 そんな相反する感情を抱えていたから、彼にとって()()が幸であったか不幸であったのかは誰にもわからない。

 

「ちょっと、あんた!」

 

 ずっと静かだった空間に、突然響く怒鳴り声。ビクリと肩を跳ねあげた幸が顔をあげると、そこには一人の少女がいた。幸と同じ程度の身長の彼女は、ここまで走ってきたのか、肩で息をしながら壁に手をつけてこちらを睨みつけていた。

 

「はぁ……はぁ。新しくハロハピに入ったコウって、あんたよね?」

「そう、ですけど……。どうして僕の事を?」

「ふん、はぐみちゃんに聞いたの」

 

 どうやらはぐみから彼の事を聞いたらしい少女は、深呼吸をして息を整えると、ダンダンと力のこもった足取りで幸へと詰め寄ってきた。二人の間の距離がほぼゼロになると、その体勢の違いによって自然と幸が見下ろされる形となる。はっきりと近くで見えるようになった彼女の瞳には、怒りと軽蔑の念が見て取れた。

 一体目の前の少女が誰で、どうして自分に話しかけてきたのか。諸々の状況が何も理解できない幸が何かを尋ねるだけの隙もなく、少女は立て続けに大きくまくしたてる。

 

「ねぇ、ライブももうすぐ始まるっていうのに、こんなところでなにやってるの?」

「……………」

「飲み物買いに来たわけじゃないでしょ。もっと近場の自販機なんていっぱいあったし」

「…………」

「――なんとか言ったらどうなの!?」

「……っ!」

 

 彼女の詰問に、幸はただ黙ることしかできなかった。

 

「はぐみちゃんが新メンバーが増えたんだって、嬉しそうに言ってて。あぁ、きっとその人も素敵な人なんだろうなぁって、そう思ってたのに! それがこんな、偽物のヒーローにだって成れない弱虫だなんて、あかりは納得できないよ!」

「…………」

「なんで……なんであんたみたいなのが……。ハロハピは、かっこいいヒーローなのに……そうじゃなきゃ、いけないのに……」

 

 それは、目の前の少女――あかりの心からの叫びであると同時に、幸も心の何処かでずっと考えていた事だった。

 人々に勇気を与え、世界を笑顔にする『ハロー、ハッピーワールド!』に、自分のような存在が混じっていていいのか、と。

 意識し、答えを探してしまえばすぐに否と自答してしまうが故に、努めて考えないようにしていた問いを外から投げつけられて、幸は目を伏せる。

 

「そう、ですよね。僕も、そう思いま――」

 

 自嘲を含んだ彼の言葉を、パンッと乾いた音が遮る。遅れてやってきた頬の痛みに、それを引き起こしただろう少女に目をやって、そこで初めて幸はあかりが涙を流している事に気付いた。

 

「その先を言ったら、許さないから……!」

 

 めちゃくちゃだ、幸は思った。あかりの言った事を、同じく言おうとしただけなのに。けれど漠然と、この少女にはそうするだけの理由と、資格があるのだろうとも、同時に。

 

「ハロハピに救ってもらってあかりは、自分もこのバンドに入りたい! って、そう思った。けど、皆は高校生なのにあかりは小学生だし、楽器だって弾けないし……なにより、魔法のコトバを唱えても何もできなかったから。だから、あかりは諦めた」

「…………」

「けど、バンド以外の方法でだって勇気を分け与えられるヒーローになれるはずだって、次は看護師さんと一緒に病院で働こうと思った」

「あかりさん……」

「ずるい、ずるいよ……。お願いだから、ハロハピを諦めたあかりを惨めにしないで……。あかりの中のかっこいいハロハピを壊さないで――そんな、あの時のあかりみたいな目をしないでよ……!」

 

 力なくその場に崩れ落ちて、あかりは消え入るような魂の声を紡いだ。

 

(あ……)

 

 その光景に、幸は自分の頭がスッとクリアになっていくのを感じた。

 自問する。

 目の前で一人の少女が悲しみに暮れて涙を流しているというのに、ただ見ているだけなのか。世界を笑顔にするのではなかったのか。

 

「泣かないで、ください……」

 

 気付けば幸は、あかりの身体をそっと抱きとめていた。

 こころなら、薫なら、はぐみなら、花音なら、美咲なら――『ハロー、ハッピーワールド!』なら、きっとそうしたに違いないから。

 

「……急になに」

「僕にもわかりません……。けど、泣いてるあかりさんを見たら、こうしないといけない気がして」

「……そんな震えてる手でギュッってされても、頼もしくないし、全然かっこよくもない」

「そう、かもしれませんね……」

 

 鼻をすすりながら拗ねたように口ぶりのあかりの言葉は、しかし先程よりは少し柔らかい雰囲気をしていた。

 

「……でも、目だけはちょっとマシになったんじゃない」

「えっ?」

「周りを全部、ほんとくだらないものまで何もかもを怖がってる。さっきまでのあんたは、そんな目だったから」

「……よくわかりますね」

「そりゃわかるよ。あかりも、そうだったんだから……」

 

 車の事故で足を怪我したあかりは、手術が成功してもずっと車椅子に頼っていた。リハビリをすればきちんと歩けるようになると、そう言われても、もし地に足を着けた時に足がうまく動かなかったら? そんな『もしも』を想像してしまうだけで、怖くなってしまって、動けなくなってしまって。

 

「そのあかりさんを救ってくれたのは、ハロハピの皆さんなんですね」

「あかりはそう思ってるよ。はぐみちゃんたちは、あかりを救ったのはあかり自身で、自分たちは気付かせてあげただけ、なんて難しい事言うけどね」

「自分を救うのは自分……?」

「あかりたちみたいな子供にはわかんないんだよ、きっと。もっと大きくなったら、わかるといいなぁ」

「……あかりさん、よかったらその時の事、色々教えてくれませんか?」

 

 そこから、あかりは色々な事を話した。まだ結成されたばかりで、決して今のような姿ではなかったハロハピの事を。

 時間にすれば五分ほどだっただろうか。初めの剣呑な空気はどこへやら、二人はある程度打ち解けあってきていた。

 

「見つけた、コウくん! ……と、あかり?」

 

 そこへ、通路の角から美咲がその姿を現す。ずっと幸の事を探しまわっていたらしく、あかりと同じくその息は上がっていた。

 

「美咲さん……どうして探しに来てくれたんですか?」

「どうしてって……。え、逆に探しに行かない選択肢があるの?」

 

 ズレたキャップを直しながら、言葉と同じく『当然でしょ?』という態度で美咲が訊き返す。

 

「で、でも! ハロハピはもともと五人だったんですよ? 論理的に考えれば僕を探す為に美咲さんまで間にあわなくなる可能性もあったんですし、僕の事は放っておいた方がよかったんじゃ……」

「あんた、まだそんな事言って……!」

「ごめんなさい、あかりさん! けど、これだけはどうしても訊いておきたくて……」

 

 この場での二人のやりとりを台無しにするかのような質問をあかりが言い咎めようとするが、それは幸の強い言葉によって止められる。見るに、今の彼の眼に宿る想いは、少なくとも悲壮なものではなく、前向きなものであると思われた。

 

「んー。まぁ、確かにコウくんの言う事は正しいんだけどさ。一つ、大事な事を忘れてるよ?」

「大事な事……ですか?」

「うん。ハロハピは結成以来、一度だって論理的に行動したことなんか無いって事をね」

 

 あかりと幸は揃ってポカンとし、それからクスリと小さく笑った。言い放たれた美咲の言葉が馬鹿馬鹿しくて、それでいてどうしようもなく真実であったから。

 

「っていうか、なんで二人は一緒にいたの?」

「えっと、まぁ色々ありまして……」

「気になる……けど、今はそれどころじゃないか。行くよ、二人とも」

 

 まるで接点などなかったはずの組み合わせが気になりつつも、時間を優先して美咲は両側の手で幸とあかりの手をそれぞれ引く。

 

(……って、あれ?)

 

 早足で駆けながら、美咲は内心に疑問符を浮かべる。彼女の中では、きっと抵抗するだろう幸を説得しながら引っ張っていく計画だったのに、それがなかった為だ。ライブ会場へ向かう美咲に迷いなくついていく彼の姿は、ほんの少し前にステージから逃げ出した者と同一人物とはとても思えない。

 

「コウくん、ちょっと間で変わったね。あかり、何かした?」

「……別に、ちょっと怒鳴って叩いて、お説教してあげただけだよ」

「えぇ……あかり、すごいね」

「……なにが?」

「あー、あかりはたぶんはぐみ経由で知ってたんだよね? 断片的にしか聞いてなかったのかもだけど……この子、こう見えてもあかりより結構年上だよ?」

「え……? ええええええええええええええええ!?」

 

 その衝撃的な情報に、あかりの大きな、ともすれば怒鳴った時以上の声が、病院内に響き渡るのだった。

 

 

――――――――

 

 

「みんな、おまたせ!」

「すいません、おまたせしました!」

 

 あかりと客席の近くで別れてミッシェルに着替えた後に、なんとかステージ裏へと辿り着いた二人。時間を確認してみれば、ライブの開始はもうほんの四分後にまで迫っていた。

 

「美咲ちゃん! コウくん!」

「もうミッシェルったら、遅刻ギリギリよ!」

 

 ぷくりと頬を膨らませるこころを尻目に、幸は急いで楽器の準備に取り掛かった。キーボードからチューニング用の機器を取り外し、音の種類を確かめる。

 全員がステージに立てる状態になり、残りの時間が二分を切ったあたり。メンバーを一か所に集めたこころは、あるものを取り出しながらこんな事を言い出した。

 

「やっぱり、この場所でライブをするならこれが必要だと思うの!」

 

 彼女の手に乗っていたのは、色とりどりのお面。あかりから話を聞いたばかりの幸は、それがあかりを励ます時に使ったハロハピレンジャーのものであると、瞬時に理解できた。

 

「わぁ、懐かしい! ハロハピレンジャーのお面だ! 確か、こころんがレッドだったよね? それで、ブルーが薫君。みーくんの分のグリーンはミッシェルが被るとして。ピンクが……あれ?」

 

 当時の記憶を頼りに担当色のお面をメンバーに配っていく途中、はぐみはある事に気がついたようで眉を下げた。

 

「これ、五人分しかないよ……」

 

 それは当然のことだった。あの時の『ハロー、ハッピーワールド!』は五人のバンドで、幸が加入したのはつい最近の事。彼の分が用意されているはずがない。

 

「あー、だったらミッシェルのグリーンをコウくんに譲るよー。……あたしはもともと、お面被ってるみたいなもんだしね」

「でもそれじゃ、ミッシェルだけが仲間外れになっちゃうわ! そんなのダメよ!」

 

 実は、キグルミにさらにお面、という奇抜なファッションを避けたいという思惑も密かに抱えていたミッシェルがそう提案するが、こころがそれを認めない。

 それから数秒ほど、むむむとこころは唸っていたが、突然、妙案を思い浮かんだとばかりに手を叩いた。

 

「そうだ、黒い服の人! あれを持ってきて!」

「はっ、ここに」

 

 こころの呼びかけに応じ参じた黒服の一人が、やけに細長い箱をミッシェルへと手渡す。それはまるで誕生日プレゼントかのように可愛らしくラッピングされており中身がわからなかったが、彼女はとても嫌な予感がしていた。

 

「ミッシェルはそれをつけてきてね! 時間だし、あたしたちは先に上がっておくから!」

「え、ちょっとこころ! ……はぁ、しかたないなぁ。箱の中身は――って、これは……!」

 

 包装を解き始めるミッシェルを背後に、五人はステージへ向かう。一様に笑顔を浮かべた仲間達に囲まれて幸は、たった三段ぽっちの短い階段を一足とびに駆けあがった。

 

「みんな、おまたせー! あたしはハロハピレンジャーのここレッド! これから、『ハロー、ハッピーワールド!』のライブを始めるわよー!」

 

 こころがマイクを持ってそう呼びかけると、観客席が一気に沸く。

 

「……さすがにまだ始まってないよね?」

 

 そんなざわめきの中、ひっそりと一匹遅れてやってきたミッシェル。

 

「み、美咲さん……それ……」

「あははは。まぁ、こころに倣って言うなら、ミシェトライブってところかね」

 

 その顔には、いつかの豪華客船を思い起こさせる、いやに民族的な縦に長いお面がつけられていた。

 

「っていうか、コウくん。今更聞く事でもないと思うんだけどさ……大丈夫なの?」

 

 何が、と彼女は具体的には言わないが、幸には簡単に察せられた。一度恐怖に負けてこの場を逃げ出した彼が、わからないなどとは口が裂けても言えるはずがない。

 

「はいっ! あかりさんに、とっておきの魔法の言葉を教えてもらいましたから!」

 

 不安げに尋ねる美咲とは裏腹に、幸は笑顔を浮かべてそう答えた。

 

「それじゃあ一曲目よ! 『ハピネスっ! ハピィーマジカルっ!』」

 

 こころの宣言で、ライブが始まった。

 

 

 

――――――――

 

 

「ふぅ。いやー、疲れた疲れた」

 

 ライブが無事に終了し、舞台裏へ捌けたミッシェルは美咲へと成り、顔を手で煽いでいた。それは三バカが揃って、都合よく観客席の方へとお喋りに行ってしまったからできる芸当だった。幸もこころに無理矢理引っ張られる形でいなくなってしまっていたが、そこは気にしない。

 

「お疲れ様、美咲ちゃん」

 

 唯一、美咲以外のメンバーで彼女と共に退場していた花音がそんな労いの言葉を掛けた。

 

「あ、花音さんもお疲れ様です」

「ライブ、楽しかったね――って、あれ?」

 

 通例どおりに、美咲と感想を言い合おうとした花音が、ある物に気付いて驚きの声をあげた。

 

「……ん? どうしました?」

「美咲ちゃん、髪留め変えた?」

「あー、その事ですか……」

 

 花音の指摘に、美咲は右の前髪のあたりへ手をやる。何の変哲も無いU字型の髪留めがあったはずのそこには、いつもと違うものがついていた。

 

「そうなんですよ、綺麗でしょ?」

「うん、とっても似合ってるよ。いつの間に買ってたの?」

「あー、いえ、貰ったんですよ。とっても大切な――宝物です」

 

 桃色の硝子の花飾りをキラリと煌めかせて、美咲は空を望んだ。

 

 



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第39話「優勢の確認」

 シュッ……と軽い擦れたような音が鳴る。それは、制服の胸元を締めるリボンが勢いよく引き抜かれた時のものだった。

 続いてボタンも外され、上下一体になっている制服もパサリと床に落ちる。

 

「よい……しょっと」

 

 棚に仕舞いこむ時のようにきっちりとではないが、皺にならない程度に軽く折りたたんでそれらを洗濯籠へ納める。

 そのまま最後に下着へと手を掛けると、丁寧に両足を抜き取って同じく籠へと放った。

 脱衣所から浴室へ移る際に、鏡に映る華奢な自分の像。そんな見慣れたものには一瞥もくれずに、少年は扉を開けた。

 その先にあったのは、いくつも設けられたシャワーに大きな浴槽。その広さは六か、七人程度なら余裕を持って全員が寛げるだろう程であり、生まれた時から慣れ親しんできた彼は何も思う事はないが、そうでない者ならば旅館か何かの風呂場かと騒ぐこと請け合いだった。

 

「お風呂、かぁ……」

 

 顔、頭、体を順番に洗って湯船に肩まで浸かり、その(へり)に腕を重ねて顎を寝転ばせた幸はポツリ、と一人呟いた。

 彼が漠然と頭に浮かべるのは、四日前に美咲の家に泊まった時の情景。彼女の家は一般的な一軒家で、その風呂場もいたって平凡な造りをしていたのだが、それが幸にはかえって新鮮で、よく記憶に焼き付いていた。

 そこから連想して、次に彼は父親の嗜好へと考える対象を移した。

 幸の父である博則。彼は『和』というものを重んじていた。それが単なる好みなのか、もしくは伝統やしきたりなのかは不明だが、とにかくそのようであった。

 

「服とか……」

 

 例えば衣類。家にいる時も、外へ出る時も、彼が身に着けるのはいつだって甚平衛などの和装ばかりだ。

 

「ご飯とか……」

 

 例えば食事。これも、彼は和食を好んで食べる。和食でなければ口にしない、などと言うほど頑固な拘りでもないのだが、あまりいい顔はせず、おかげでそこに勝手に配慮をした幸の母によって、祖師谷宅での夕食は洋風のものがあまり出てこない。

 

「あと話し方とかもだよね……」

 

 例えば言葉づかい。博則は話す時に、どこか堅苦しい表現や古風な言い回しをよく使う。それは、横文字を使えば短く的確に表現できるところを、無理して日本語で表わそうとするからだ。そんなたちが祟って本や新聞を読んでいる途中、突然登場する片仮名表記の和製英語に苦虫を噛み潰したような表情を浮かべている、というのは彼の自室でよく見られる光景だった。

 

「けどまぁ、一番は――っと」

 

 ハッ、と何かを零しかけたところで、幸は口元に両手をあてて自分の行動を戒める。

 

(最近、独り言が増えた気がする……)

 

 今度は、実際にではなく内心で口にする。それは、ここ数日で自覚できる程に顕れた彼の変化の一つだった。

 ほとんど会話の無い生活を送ってきた故に、彼は最近の口も体も休まらない慌ただしい日々の中で、確実にお喋りというものが好きになってきていた。それが行き過ぎた結果、ということだろうか。

 そんな事を考えながら、たっぷりと百二十秒ほど経った後。しっかりと身体が芯まで温まった事を確かめた幸は、風呂場を後にし、床へと就くのだった。

 

 

――――――

 

 

「いらっしゃいませ! 何名様でしょうか?」

「あ、六人です」

「六名様ですね、少々お待ちください。……はい、ご案内しますね。こちらへどうぞ」

 

 日は変わって、本日は木曜日。放課後になり、無事に入れ替わりも済ました幸を含むハロハピのメンバーは、揃ってファミレスチェーン店へやってきていた。

 人数を訊いた後、条件に合う席が空いているかを確かめた店員は、慣れた動作で六人の事を先導する。案内されたのは窓に面する六人席で、彼女らは椅子に腰を下ろすと、すぐにメニューへと手を伸ばした。

 

「では、ご注文が決まりましたら、そちらのベルでお呼びください」

「あ、すいません。先にドリンクバー六人分だけ、お願いします」

 

 定型文を残して下がろうとする店員を、美咲が呼びとめて既に確定している分の注文だけを済ませる。それは他のメンバーへの確認なしの彼女の独断であったが、ハロハピがこういった店を訪れた際にドリンクバーを頼むのは常であった為、誰も口を出す事はなかった。

 

「こころん、早速ドリンクバー行こ!」

「えぇ、行きましょう。はぐみ!」

「はぐみ、この前ね、すっごい美味しいジュースの作り方見つけたんだ! こころんにも作ってあげる!」

「本当!? それは、とっても楽しみね!」

 

 なんとも嫌な未来を予想させる不穏な言葉を口にしながら、こころとはぐみの元気はつらつコンビが店の奥へ駆けてゆく。

 

「じゃあ私は、ここで荷物みてるね」

 

 置き引きなんてめったにないとは思うけど、そう言って花音は、一人残留を表明する。進んで嫌な役を引き受けてくれる先輩に感謝を述べて、美咲は幸の手を引いてこころたちの後を追う。

 

「すまないが、私は少しお手洗いに……」

 

 同時に、薫もそう言って席を立った。

 

「なら、あたしついでに薫さんの分も入れてきますよ。何がいいですか?」

「本当かい、美咲? なら……紅茶、だね。とびっきり儚いのを頼むよ」

「はいはい、とびっきり普通の紅茶ですね……」

 

 慣れたやり取りを溜め息交じりにこなして、美咲は改めて席を立つ。薫とは通路の途中で別れた二人がドリンクバーに着くと、そこでは既にはぐみの手によっておぞましい怪物が造りだされてしまっていた。

 

「は、はぐみ……それは?」

「あ、みーくん! これはね、はぐみが発見した特製ちょーうまドリンクだよ!」

 

 若干引き気味な美咲の問いにとびっきりの笑顔で答えるはぐみ。

 確かに機械に表示されているジュースはどれも美味しいものばかりで、それらをどう混ぜ合わせたところで、元が良いのだからそう悪い味になるとは思えない。だが、彼女の手もとの液体は、暗い緑や濃い紫などに順々に色を変えつつブクブクと泡を立ち昇らせており、見た目だけの話をするならば、はぐみがつけた名前がどこまでも似つかわしくない代物だった。

 そんな珍事も美咲には今更おおげさに驚くほどの事でもなくて。彼女は、それが何かの間違いで自分に回ってくる事だけはないように、と祈りながら薫と併せて二人分の飲み物をいれた。

 

「あ、コウくんは花音さんの分もいれてきてくれる?」

「はい、わかりました。……って、花音さんは何がいいんでしょうか?」

「んー、いつもはリンゴジュースとか飲んでるのが多いから、それでいいんじゃないかな」

 

 美咲に言われるがまま、リンゴジュースと自分の分のぶどうジュースをいれた幸はすぐに席へと戻る。

 二人が席に着いた時、薫はまだ戻ってきておらず、こころとはぐみはメニューを大きく広げて、品物をいちいち指さしてはどうのこうのと言い合っていた。そのページには、見間違いでなければがっつりのセットメニューが載せられている。

 

「うーん、どれがいいか迷っちゃうなー」

「はぐみ、もしかしてお昼食べ損ねたりした?」

 

 数度こすって、自分の目が正常である事を確かめた美咲は、はぐみに一つの可能性を問う。というのも、今は学校が終わってすぐの午後四時。昼休みの時間はおよそ一時なので、昼食をとってから四時間も経っていない。今の段階でそこまで腹が減ることなどあるとは思えなかった。

 

「ううん、ちゃんと食べたよ。でも今日の六限、体育で持久走だったから。思いっきり走ったら、お腹すいちゃって!」

「あぁ、なるほど……」

 

 理由を聞いた美咲は、短く納得の思いを示す。はぐみとは違うクラスの為タイミングは違うが、彼女もまた同じ事を午前中の授業で行っていたからだ。走る事がそもそもあまり好きではなく、記録にもこだわっていない美咲はそこそこのペースを維持するだけだったが、対照的に、走る事が大好きで何事にも全力投球なはぐみが、そこで多大なエネルギーを消費しただろう事は想像に難くなかった。

 

「カレーかハンバーグか……。どうしよう、決められないよー!」

「カレーもハンバーグも食べたいのなら、どちらも頼めばいいんじゃないかしら? あたしならそうするわ!」

「……! 確かに! さすがこころん、あたまいい!」

「こらっ」

 

 最終的に二つにまで選択肢を絞ったはぐみに、こころがとんでもない事を吹き込んだ。これはドリンクバーの惨劇をもスルーしてみせた美咲でも、看過する事が出来ず、あまり気のこもっていない声ではぐみを叱った。

 

「はぐみ、スキーの時の青空カレー……忘れたわけじゃないよね?」

「う、それは……」

 

 はぐみの脳裏をよぎるのは、少し前に他バンドのメンバー数人と異色の組み合わせで人工スキー場へ赴いた時の事。はぐみはスキー休憩中にロッジで頼んだカレーに、あこと日菜と悪ノリをして頼めるすべてのトッピングを盛ってしまったのだ。食べても食べてもカレーは底を見せず、後から駆けつけた美咲と麻弥の救援もあってなんとか事態は収束したが、『青空カレー』という単語はその時の苦しみと共に、しっかりと彼女の中に根付いてしまっていた。

 はぐみはお腹をさする。その内には確かな空きが感じられたが、それが丸々二人分の食事が入る程かどうかは怪しいところだった。

 

「でも、やっぱりはぐみどっちも――」

「あら、薫が誰かと話してるわね?」

 

 悩ましげな言葉を遮って、こころが店の奥を指さす。見れば、化粧室前の通路で薫が四人の女子生徒に話しかけられていた。彼女らは皆ひとしく羽丘の制服に身を包んでおり、その態度からもおそらく薫のファンなのだろう事がうかがえる。

 薫がファンと交流をする。これ自体はなんて事はないのだが、問題はここが店の中だという点だった。憧れの人に会えた興奮のあまりか、彼女らは黄色い声量を抑える事が出来ておらず、端的に言ってしまえば、少しうるさい。その上、このまま放置すればファン独自のネットワークなどから更に人が増える危険性もあった。

 

「うわぁ、薫さんまたファンの人に囲まれてる……」

「あれはきっと、薫のお友達ね? お話ししてみたいし、あたしちょっと行ってくるわ!」

「あー、あー! こころ待って! お願いだから、ほんと待って!」

「み、美咲ちゃん、私が行ってくるから……」

 

 推定十割の確率で事態をややこしくするだろうこころを美咲が必死に引きとめていると、その間に花音が薫の救出に向かった。これで薫の方はどうにかなるだろうが、まだ問題が一つ手つかずのまま残っている。

 なおも思い悩みを深くしているはぐみを横目で見つつ、まずはこころを落ち着かせてからだ、と美咲が考えたその時。

 

「――あ、あの! はぐみさん!」

 

 ここまで目立った発言の無かった幸が、()()()()声を張った。

 

(……コウくん?)

「あの、よければ僕とはんぶんこしませんか? そうすればどちらも食べられますよね」

「こーちゃん……いいの?」

「もちろん、はぐみさんさえよければですけど……」

「いい! いいに決まってるよ! こーちゃん、ありがとー!」

 

 幸からの提案を、はぐみは快諾して飛び跳ねるように喜ぶ。

 その様子を美咲は、内心に隠せる程度の驚きと共に見ていた。まさか幸が――まだ"よければ"を重ねるほどに遠慮がちではあるが――はぐみに助けを求められるでもなしに、自分からそう持ちかけるとは思いもしなかったから。少なくとも、出会ったばかりの彼では到底できなかったに違いない。

 美咲は幸の方へ顔を近づけ、ヒソヒソ声でお礼をした。

 

「ありがとね、コウくん」

「いえ、そんな! 美咲さんには、いつも助けられてばかりですから……」

「けど、大丈夫だったの? メニュー二つを半分にしても結局一人前はある訳だけど」

「えっと、実は今日、練習に夢中になりすぎてお昼を逃しちゃってまして……」

「ふーん?」

 

 美咲は幸の顔を見る。その表情からは、彼の言葉が真実なのか、それとも気を使わせない為の虚栄なのかは判別がつかなかったが……。

 

「ま、いいか。もしダメでも、六人いればなんとかなるだろうしね」

 

 そんな結論で、美咲は話を締める。

 丁度そのタイミングで薫が花音に連れられて戻って来、残りの四人はサイドメニューなどの中から、比較的軽いものを幾つか見繕って注文するのだった。

 

「ところで、今日はどうしてファミレスにやってきたんだったかしら?」

「いや、忘れてるんかい」

 

 店員が席を去ってすぐ。人差し指を顎に当てたこころが、唐突にそう言い出した。

 

「あんたらが昨日ライブ後にどんちゃん騒ぎしたせいでできなかった反省会をしようって、あたし言ったよね?」

「反省会! そう、あたしたちは反省会をしに来たんだったわ!」

 

 とても嬉しそうに、美咲の言った事を復唱するこころ。反省会ってあんまり感じ良い言葉じゃないんだけど、とこと弦巻こころに対しては無駄な事を美咲は考える。きっと彼女にとっては、ハロハピのメンバーが集まってするのなら、どんなことだって楽しく感じられてしまうのだろう。

 

「私は昨日も、華麗で儚いギターを披露する事が出来たと、そう自負しているよ」

「はぐみは実は二曲目の途中でちょっとだけ失敗しちゃったんだ……。けど、それ以外はちゃんとできたよ!」

「ぼ、僕は自分ではミスなくできていたと思うのですが……。何か、皆さんから見てダメなところなど、ありませんでしたか……?」

 

 薫、はぐみ、幸、と。段々と自己申告に自信がなくなっていくが、喜ばしい事に、最後の問いには誰も具体的な答えを持ち合わせていなかった。

 

「特別ここが、っていうのはなかったんじゃないかな? むしろ、コウくんは譜面とかも貰って全然経ってないのに、もう弾けるようになってるなんて、とってもすごい事だと思う!」

 

 花音の手放しの賞賛に、幸は思わず頬を緩めてしまう。彼女の言う通り、決して難易度の低いとは言えないハロハピの楽曲を、ほんの一週間足らずで演奏できる段階まで持ってきている彼の成長スピードは、通常の学生バンドの観点からは異常の一言に尽きた。

 

「ありがとうございます。……けど、セットリストに入ってる曲を重点的にやっているので、全部を弾けるようになったわけではありませんし……。なにより、僕は皆さんが学校に言っている間も練習ができますから」

「そういうことか。ちなみに、ちょっと気になったんだけどさ。コウくんって、一日どれくらいキーボードの練習してるの?」

「そう、ですね……。だいたい八時間から……多くて十二時間くらいでしょうか?」

『じゅ、じゅうっ!?』

 

 ふとした拍子に浮かんだ素朴な疑問。幸は回答の最後に、他の三人に聞こえない程度の音量で補足をしたが、それは美咲と花音には衝撃的すぎた。

 彼の言う通り、こころたちが学校に行っている間の時間を練習に充てれば、それだけを確保する事も出来るだろう。ただそれは、あくまで理論上の話であって、実際には飽きや疲労などの問題もあり、口にするほど簡単な事ではないはずだ。もっとも、語る際の表情を見る限り本人に無理をしているという感覚はなさそうだったが。

 

「次はあたしね! あたしは昨日は――」

 

 そんなこんなで続く反省会。それは、何度も何度も脱線を繰り返しながら、およそ夕方頃まで続いた。

 

 

 

――――――――

 

 

「あー、疲れたー」

「あ、あはは。お疲れ様です、美咲さん」

 

 反省会も終わり、帰路の途中。幸と美咲の二人は夕陽を背に受けながら、仲良く坂道を上っていた。

 

「まったく、反省会で疲れるって普通に考えたらおかしいでしょ……。そうだコウくん、今日は色々ありがとうね」

「いろいろ……? 僕、何かしたでしょうか?」

「してくれたよ。はぐみを助けてくれたり、こころを止めてくれたり――ま、いいや」

 

 反省会の始まる前から、その最中まで。幸がしてくれた事を列挙しようとした美咲だったが、彼の性格から無理にお礼を言われるのも苦手だろうと、その口を途中で止めた。

 おかげで、あたりは静寂を取り戻して。そのまま数分ほど、ただ共に歩くだけの関係を続けた二人だったが、そろそろ幸の家も見えてくるかというあたりで、美咲の方がポッと口を開いた。

 

「コウくんはさ、ハロハピに入ってよかったって、思う?」

「……え?」

 

 それはなんというべきか、とにかく漠然とした問いだった。

 美咲自身も、一体どんな回答が欲しくてこんな質問をしたのかはわからなかったが、二人きりの静かな空気の中、彼女はそう問わねばならぬような気がした。

 

「あたしはね、コウくんが入ってくれて嬉しかったし、おかげで楽しくなったし……うん、よかったなって、思う」

 

 しみじみと、空気の中へ溶かしていくような雰囲気で、美咲は呟く。

 

「ぼく、も……。そんなの、僕もです。ハロハピに入ってよかったなって、そう……そう、思います!」

「……ん。そっか」

 

 幸の力強い同意に、美咲はくしゃりと破顔した。

 もう、角を曲がれば祖師谷宅が姿を現す。

 彼との別れは、すぐそこにまで迫ってきていた。

 だから、彼女は言うのだ。

 

「――また明日、コウくん」

 




しれっとスキー周りの情報が改変されてますが、つじつま合わせです。申し訳ない。


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第40話「幻惑の花園」

「……。あっ、時間」

 

 長く伸びた最後の音を、ずり落とすような動きで指を鍵盤から離して切る。それから、ふぅと息を吐いて、ふっと時計に目をやった幸は、忘れないよう努めていたとある時間が迫っている事に気がついた。

 忙しない動きでキーボードを専用のバッグに詰めて、コードやアンプ、スピーカーなども片していく。犯人よろしく、その部屋から自分のいた痕跡をまるっと消し去った彼は、時間がギリギリ過ぎていない事を確認し、扉に手を掛けた。

 

「……お世話になりました」

「あっ、出てきた!」

 

 そんな大袈裟な言葉を礼として吐き彼が躍り出た先は、ずばり、『CiRCLE』のロビー。何故彼が、ハロハピのメンバーとではなく一人ここで練習をしていたかと言えば、それは美咲の提案によるものだった。昨日、反省会の途中で予期せず発覚した幸の家での練習時間を受けて、彼女がそう勧めたのだ。

 幸は自宅と違って他の楽器の打ち込み音源を流せたり、スピーカーに繋いでの練習ができ、『CiRCLE』側はどうしても空きがちな午前中のスタジオを埋める事が出来る。どうしてもっと早くに思い至らなかったのか不思議なほどの両得さに、彼らの間の関係は持ちかけてみれば、ものの一瞬で成立した。

 スタジオから姿を現した幸を見つけるや否や、受付をしていた月島まりながカウンターを飛び出して、彼の元へと駆けてくる。その様子だけを切り取れば労いの言葉でも掛けるのだろうか、とも思うが、何故か彼女の顔には危機迫る表情が張り付いていた。

 

「あ、月島さん。どうかされましたか?」

「もー、どうしたじゃないよ! 一回も休憩に出てこないんだもん、心配しちゃったよ」

 

 頬をぷりぷりとさせて、まりなは語気を強めた。

 彼、このスタジオをなんと朝の八時からずっと借りていた。現在が午後四時なので、時間にして実に八時間である。

 初め、しめしめとんだ上客だ、とほっこり顔をしていたまりなだったが、二時間、四時間と経つにつれて、閉じた状態を保ち続けた扉に不安を募らせていった。監視カメラを通して倒れたりしていない事だけは確認できていたのだが、それでもやはり心配で、彼女の映像のチェック頻度がいつもの数倍になってしまっていた。

 

「様子見てたのは三十分おき位だったからわかんないけど、ちゃんとお昼ご飯とか食べたの?」

「え、お昼――あっ!」

 

 しまった、とでも言いたげな反応に、まりなは頭を抱える。どうやら、彼女の危惧していた可能性が現実になってしまったようだった。

 

「まったく! しかもキミ、この後も五時からまた練習でしょ? そこのカフェテリアはご飯系もあるから。何か入れとかないと、身体もたないよ?」

 

 窓の外を指し示して、まりなは食事をとるよう促す。

 彼女の言葉の通り、幸は長時間したばかりだというのに、少しすればまた練習が控えていた。しかも、ただの練習ではない。ガルパ前日という事で執り行う、最後の合同練習だ。

 その内容は五バンドそれぞれと、最後にボーカル五人とはぐみ、麻弥、つぐみによる合同バンドの演奏という、通しのリハーサル。よって、普段の練習よりも演奏する時間自体は短いのだが、それでも万全でない体調で臨むなどという、共演者に失礼な事は出来ない。

 既に業務に戻ったまりなの背中にお礼を放ると幸は、急速に空腹を主張し出したお腹に手を当てて、店から出た。いや、出ようとした。

 

「あれ……優」

 

 だが彼が扉をくぐるより早く、逆に正面から店へ入ってきた者に呼びとめられた事で、その思惑は中途に終わる。

 幸は、声の元へと顔を向けた。長い艶のある黒髪に、ライトグリーンの瞳。身一つで、クールビューティーという単語を連想させるその容姿には、幸も見覚えがある。『Poppin'Party』のリードギター担当、花園たえその人だった

 

「え、優ちゃん?」

 

 ひょっこりと。たえの言葉につられてその背後から新たに少女が顔をのぞかせる。赤い瞳に、軽く跳ねた髪を持つ彼女は、その名を牛込りみといった。

 

「――あ、違うんだった。有咲がなんか言ってたのは……そうだ、キミは優の弟なんだよね?」

「お話、通ってたんですね。はい、はじめまして。その……いつもお姉ちゃんがお世話になっています」

 

 目の前に現れた二人へ、幸は挨拶の後に深々と頭を下げる。この二人と会うのは二度目であるが、やはりここでも、彼は初対面を装う必要があった。

 

「わわ、は、はじめまして! こちらこそ、優ちゃんにはいつもお世話になってるというか……」

「お世話……? 私たちと優は友達だから、お世話してるわけじゃないし、されてもないよ?」

「お、おたえちゃん、それはそうなんだけどね……? 言葉の綾って言うかなんていうか……」

 

 使い古された決まり文句に、とつぜん正論を突き付けられて、りみは口ごもる。どう説明したものか、と彼女が言葉を組み立てていると、それほど大きな興味はなかったのか、完成より前にたえは違う話を切り出した。

 

「そういえば、キミの名前なんだっけ? 有咲から聞いてたんだけど……ごめん、忘れちゃったや」

「おたえちゃん、失礼だよ? もう。えっと……確かコウくん、っていうんだったよね?」

「はい。お二人は花園さんと牛込さん……で合ってますか?」

「う、ん……合ってはいるんだけど……」

「なんか、変な感じだね」

 

 名前を呼ばれたたえとりみは、肯定の返事をしながらも、しかし何とも言えない表情をしている。優が普段、二人のことを『おたえ』、『りみ』のようにあだ名や呼び捨てで呼ぶため、その瓜二つの容姿で丁寧な呼び方をされるという違和感が尋常ではないようだ。

 そんな微妙な空気を引きずったまま、数十秒の静寂が流れる。幸とりみは人見知りが激しい部分があり、たえは沈黙が苦でないタイプかつ、ペラペラと話す性格でもない。そんな三人が挨拶というお手頃なタネを使い果たせば、こうなることは当然の結果だともいえた。

 そんな状況を打破しようと、幸とりみは話題を探して必死に頭を回す。そして、先に口を開いたのはりみの方だった。

 

「にしても、本当に優ちゃんとそっくりだよね?」

「そ、そうですか?」

「そうだよ! 優ちゃんと一緒で、すごくかわいい!」

「か、かわいい……ですか」

「うん、とってもかわいいよ!」

 

 だがその内容が、今度は幸の表情をなんとも言えないものへと変えた。

 幸のことを褒めちぎっている。りみとしてはそういった感覚なのであろうが、きちんと男であるという自覚のある彼にとっては『かわいい』という言葉は、それが褒めるものであったとしても、素直に喜べるものではなかったようだ。

 そんな彼の内心も露知らず、話が繋がったということに喜んでいる様子のりみは、笑顔でさらに話の輪を広げようとする。

 

「おたえちゃんも、そう思うよね?」

「うん、わかる。飼いたい」

「か、飼い……へっ?」

 

 そして飛び出た、理解を追いつかせないようなおたえの言葉。幸はもちろん、この時ばかりは、事務作業をしながら実は密かにカウンターで三人の会話に耳を傾けていたまりなまでもが、身体を硬直させた。

 おかまいなしに、たえは続ける。

 

「うーん、でもキミが入れる小屋がないから、やっぱり飼ってあげられないや。ごめんね?」

「い、いえ、大丈夫です……よ?」

「でも、いつかもっと大きいお家に買い換えたら、飼ってあげるから。その時は優も一緒でいいよ? あ、そうなったらお世話することになるね」

「あはは、おたえちゃんは冗談が上手だね」

「……? そうかな、自分ではそんな感じはしないけど」

 

 噛み合っているような噛み合っていないような、そんな会話が繰り広げられて、場が混迷を極める。脳がキャパシティオーバーを起こしそうになり、助けてくれ、と幸はそう内心で神に祈った。

 

 

「――お前ら、なにやってんだ?」

 

 そして、その受取先が神であったかはともかく、祈りは届いたようだ。

 

「あ、有咲だ」

「私もいるよー!」

 

 その救世主――有咲の姿をおたえが認めると、数分前の焼き直しのように、香澄が背後から現れる。

 そのまま香澄が幸の方へと話しかけにいく傍ら、有咲は難しい顔をして目の前の状況について考えていた。

 これがもしもたえと幸だけだったなら、彼女は躊躇なくたえが一方的に迷惑をかけているものと断定した。だが、常識人であるりみもいたとなれば……。

 

「なんにせよ、こんな入口の目の前で固まってちゃ邪魔でしょうがねぇ。ほらっ、お前ら寄れ寄れ」

 

 結論を後回しに、有咲は一同を通行人の邪魔にならない端へ押しやる。そのついでに有咲はりみから事情を聞こうとしたが、見れば彼女は香澄に捕まってしまっており、標的を幸へと変えた。

 

 

「よう、なんか状況よくわかってねぇからこの言葉で合ってるのか知んないけど……大丈夫だったか?」

「は、はい! 一応、なんとか……? そういえば、今日は別々でいらっしゃったんですね?」

 

 ポピパの五人はいつも一緒。優から話を聞く中でそんなイメージができあがってしまっていたがゆえ、幸は物珍しそうに有咲へと尋ねた。

 

「あー、まぁいつもは一緒に行くんだけどな」

 

 そこから続けて曰く、どうやら一日前に練習をした際に、香澄がピックを有咲の家の蔵に忘れたらしい。それを取りに帰るために、持ち主である香澄と家主である有咲は別行動をとったのだと。

 

「あと沙綾はオリジナルスイーツの関連で、なんか一旦家に帰るとかなんとか」

「オリジナルスイーツ……ですか?」

「あれ、知らないっけ?」

 

 有咲の言うオリジナルスイーツとは、まりなの考案した、ガルパの時だけ隣のカフェで提供するスイーツのことだ。会議中のりみの何気ない一言から、それを沙綾が担当することになり、彼女もパン屋の誇りに掛けて一度引き受けた以上は、ととても真剣に取り組んでいる。

 ちなみに、スイーツの他にオリジナルドリンクを提供する計画もあり、こちらは実家が喫茶店であるつぐみ、カフェ巡りが趣味の千聖や花音などが中心となって進めていた。

 

「なるほど、オリジナルのスイーツやドリンクを。そんなこともしてたんで――あっ」

 

 そんな飲食物の話をしたせいだろうか、幸の言葉を遮って、彼の腹の虫が唐突に声をあげた。不幸中の幸いで、その小さな音は近くにいた有咲にしか届かなかったようだが、それでも幸は瞬く間に顔を赤くする。

 

「ん? お腹すいてんのか?」

「はい、実はお昼を食べそびれてしまっていまして……。練習までに何か食べようかと思ったんですけど……」

「あー、なるほどな」

 

 どうしてたえたちがあのような傍迷惑な場所で立ち話をしていたのか。彼の言葉を聞いて、有咲はおおよその事情を察することができた。

 

「飯に行こうとしたところをおたえに捕まったと……」

「あ、あはははは……」

「マジですまんかった。行ってくれ」

「そ、それでは失礼します!」

 

 恥を原動力に逃げ出す幸は、それでも律儀に最後の一礼をしていくことを忘れない。やがて彼の姿が見えなくなると、有咲は大股でたえの前まで歩み寄ってこう言うのだった。

 

「おたえ、正座」

「え、やだけど?」



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第41話「結成の秘話」

 パチパチパチ、と。軽く乾いた拍手の音がまばらに響く。

 ガルパ前日ということで行われた、通しの練習。その締めを飾る合同バンドの演奏も今しがた終わり、一同はその場の空気が数段やわらかくなるのを感じた。

 

「はぐみ、よかったよー」

「ふぅ、ふぅ……あ、みーくん! ありがとー!」

 

 ガラリと空いた観客席から、美咲がステージ上のはぐみに労いの言葉を掛ける。それを受けたはぐみは滴る汗を拭い呼吸を整えると、演奏の時の真剣な表情からは一転、元気印の笑顔を咲かせて舞台の袖へ駆けていった。

 そして舞台の上にもう一人、美咲の発した言葉に目敏く反応する者が。

 

「あ、美咲ちゃんだ! コウくんもいる!」

 

 ボーカルを勤めていた五人のうちの一人。この合同バンドの中で唯一のポピパメンバー、戸山香澄だ。

 

「――よっ、と!」

 

 ステージと観客席を分ける仕切りに手を掛けて、軽い動作でそれを飛び越える。あのはぐみでさえ客席へ向かう時は一度袖へはけてから向かうというのに、彼女でさえしなかったことを香澄はなんなくやってのけた。その際、危うくギターを蹴り上げそうになっていたが、本人は気付いていない様子だ。

 

「戸山さーん? 仕切りの乗り越えは禁止行為だよ」

「あ、そうだった!? 有咲には秘密にしてて、お願い!」

 

 うがー、と火を噴くメンバーが脳裏に浮かんで、香澄は頭を下げる。規則を破ったとはいえ、実際には何の被害も出ていないこともあって、美咲は『まぁ、いいけど』と呟いた。その背後では、まだ舞台の上に残っていた数人も苦笑いを浮かべている。

 

「それで、戸山さんはなんで急にこっち来たのさ?」

「あ、それはね二人に感想を聞きたくって!」

「感想? そりゃ別に構わないけど、どうしてあたしたちに?」

 

 首を回して後ろを見、美咲はそう疑問を零した。

 合同バンドの人数は総勢八人、よって残りの十八人が観客に回るということになる。ライブハウス側の計らいで、彼女らは正面からか横からか――つまり客席か舞台袖、どちらから見ることも許されており、事実、客席から観ることを選んだ者は美咲の他にも数名いた。その中から迷いなく自分たちの元へとやってきたのには、何か理由があるはず、というのが美咲の考えだった。

 

「美咲ちゃんたちというか……本当のこと言っちゃうと、コウくんがお目当て、かな。ほら、キミって私たちのライブを観るのは初めてでしょ? どんな風に思ったのかなー、って気になっちゃって!」

「ぼ、僕ですか!?」

「うん! 改めて聞くけど……どうだった? 私たちのライブ」

「えっと、そのライブというのはどちらのでしょうか……?」

 

 香澄の質問に、幸が問い返す。彼女は『Poppin'Party』と合同バンドの二つにギターボーカルとして出演しており、彼の口にした『どちら』とはそれらのことを指していた。

 幸の指摘で、己の言葉足らずに気付いた香澄は、すぐに『Poppin'Party』の方であると付け加える。幸は顎に手をあて、少しの間考え込んだ。

 

「『Poppin'Party』の皆さんは何といいますか……とっても、仲がいいんだなー、って感じがしました」

「仲がいい……?」

「――あっ、他のバンドの皆さんが仲良く見えなかったとか、そう言う訳ではないんですけど!」

 

 思ったことをそのまま素直に話しているうちに、失言をしてしまっていたことに気付き、幸は慌てて訂正をした。彼の放った言葉は、取りようによっては他バンドを貶しているようにも聞こえるものだったから。

 気分を害してしまったのでは、そう考えながら幸は香澄へと顔を向ける。だが、そんな彼の心配はまったくの無用であったようだ。

 

「えへへー、仲がいい……かぁ。えへ、えへへ」

「と、戸山さん?」

 

 香澄は、両頬に手を添えて一人の世界に入ってしまっていた。おそらく、幸の取り繕った言葉などは耳にも入っていないだろう。

 

「あ、ごめんね? 初めて観てくれた感想が『仲がいい』だったっていうのが、なんだか嬉しくって」

「…………?」

「ああ見えてポピパは、結成までにいろいろ衝突があったらしいからね。意外かもしれないけど」

「えっ、そうなんですか!?」

 

 奇妙な言動の訳を補足する美咲の情報に、幸は驚愕を顕わにする。短い付き合いながらも、彼の中で『Poppin'Party』は友情という言葉の権化のような存在だった。彼女たちはきっと初めからそうだったのだ、とそう思っていたから。

 

「うんうん、私たちもさー、最初は全然だったんだよ。りみりんは恥ずかしがり屋さんだし、有咲は蔵から出てこないし、おたえは厳しいし、さーやは……うん、素直じゃなかったしね」

 

 湧きあがる思い出を一つ一つ噛みしめて、懐かしんでいるのだろうか。胸の前で両手を固く結ぶ彼女の表情は慈しみに溢れていた。

 それから香澄は、いかにして『Poppin'Party』ができていったかを、事細かに幸へ語った。

 恥であったり、理想であったり、はたまた過去であったり。その原因は様々であるが、メンバーの誰もが、それこそあのりみでさえも簡単に加入とはならなかった。一度ぶつかって、共に音を奏でて、今の彼女たちに至っているのだ。

 

「――それでね、もう演奏を始めようってピックを構えた瞬間にね、来てくれたんだよ、さーや。あの時の演奏は今でもはっきり思い出せるんだぁ」

「…………」

「って、ごめん、ちょっと話しすぎちゃったね! とにかくそんなわけでさ、キミが言ってくれたこと、すっごく嬉しかったの。ありがとう!」

 

 話に区切りがつき、香澄が満面の笑みで感謝を述べる。そして、その時を見計らっていたかのように、小走りで駆けてくる人物がいた。

 

「おーい、コウ! あっちでりんりんがシャツの――ってあれ、なんか話してた?」

 

 足を止めた宇田川あこが小首を傾げる。彼女は舞台袖から演奏を観ていたはずだが、何やら幸に用があってここまでやってきたようだ。

 

「ううん、ちょうど終わったところだよ。なんだろう、ポピパの結成秘話……的な?」

「えー、なにそれずるい! あこも! あこも『Roselia』の結成秘話する!」

「いやいや、あこ? そんな競争みたいに……」

 

 別に何もずるくはないし、しなければ損ということもないのだが、美咲のツッコミもむなしく、あこは得意げになって話を始めた。

 初めに友希那と紗夜が出会い、そこへあこが何度も頼みこんでようやくオーディションを受けさせてもらえたこと。そして、ヘルプとして入ったはずのリサが加入し、最後にあこの友人であった燐子がピアノを引けることが判明したこと。

 『Poppin'Party』が香澄に集められた――引き寄せられたとも言えるかもしれない――ことで生まれたバンドだとすれば、『Roselia』はまるで運命によって導かれてできたかのよう。何気に初めて知る『Roselia』の始まりに、美咲は漠然とそんなことを考えた。

 

「あ、ちなみにね、『Roselia』って名前は友希那さんが考えてて、薔薇のローズと椿の――って、コウ?」

「…………」

 

 話も終わりにさしかかったあたり。あこはそこで、幸が表情を暗くさせている事に気がついた。ただ、その雰囲気は悲しいだとか苦しいといった風ではなく、強いて言うならば、何か真剣に思い悩んでいるような雰囲気だった。

 

「コウくん?」

「――あっ、すいません。少し考え事をしてしまって……。そんな大したことではありませんので、気にしないでください」

「大したことない、って感じには見えなかったけど? いいじゃん、そんな隠さなくてもさ?」

「あこの話、何か変なところあったかな……?」

「あ、えっと……」

 

 彼はそのことを流そうとしたようだったが、二人に追及されて、再びうつむいてしまう。それからしばらく幸は黙りこくっていたが、、顔をあげると、意を決したように訥々(とつとつ)と言葉を紡いだ。

 

「……どうして、諦めなかったんですか?」

「どういう、こと?」

「『バンドはやらない』って、山吹さんはそう言ったんですよね? 『ダメだ』『諦めて』って、湊さんに断られたんですよね? なのに、どうしてお二人は……」

 

 彼はそう口にするが、その内心を付け加えて表すなら、おそらくこうなるだろう。

 

――どうして、諦めないでいることができたんですか?

 

 もしも香澄の、あこの立場に自分がなったとして、彼女たちと同じことができただろうか。幸はそう考えて、瞬時に断じた。否、と。

 彼にとって二人の話は、まるでよくできた御伽噺(おとぎばなし)のように感じられた。それはただの、目の前に実在する少女の過去(ものがたり)でしかないというのに。

 幸が必死にひねりだした心からの問い。対して、香澄とあこの二人はキョトンとした表情で顔を見合わせると、声をそろえて、言った。

 

『後悔したくなかったから』

 

 聞くまでもない、とてもいいたげな口ぶり。幸は呆ける。

 

「もしさーやがホントのホントにバンドが嫌いになって、絶対に組みたくないって思ってたのなら、たぶん何も言わなかった。けど、どうしてもそうは思えなかったんだ。さーやは自分に優しくなれてないだけで、バンドが大好きなんだって、そう感じた!」

「あこも、あの時のオーディションで、友希那さんがそれでもダメって言うなら、本当に諦めるつもりだったよ? でも、もし一回断られただけで諦めてたら、そこにすら辿り着けなかった。あこの音を聞いてすらもらえないまま終わりなんて、嫌じゃん!」

「もちろん、いい結果になる確証なんてなかった。さーやと友達じゃなくなっちゃうかもしれなかった。けど、あそこで諦めたら、きっとさーやはずっと一人で抱え込んだままで……そんな後悔はしたくなかったから!」

「…………」

 

 諦めないことが、一概に正しいとは言えない。幸いなことに香澄たちはよい方へ転がったが、人によってはその行動を図々しいや厚かましいと批難し、幸の行動こそがカシコイ選択だと言うこともあるだろう。

 それを頭で理解しているというのに、彼には香澄たちがどうしようもなく眩しく感じられた。

 

「……すごい、ですね」

「くっくっくっ、汝もわらわのように闇の力を身につければ、こう、えっと……いい感じになれると思う!」

「ふっ、ふふ。もう、なんですかそれ」

 

 いつのまにやら真剣な空気はなりをひそめ、失笑をする彼の顔は明るさを取り戻していた。

 

「よーし、次は『Afterglow』の結成秘話でもしよっか! お姉ちゃんから聞いてるから、だいたいは知ってるんだよねー」

「いや、それはいいんだけどさ。あこ、ここ来た時に何か言いかけてなかった? 確か、燐子先輩がなんやらって」

 

 ここで、場を見守ることに徹していた美咲が口を開いた。話を聞いている間も、実はずっと気になっていた点を指摘してやると、あこは表情をハッとさせる。

 

「あ、あー! そうだった! りんりんに頼まれてコウを呼びに来たんだった! すっかり忘れてたよ」

「僕を、ですか……?」

「うん。コウはガルパのTシャツ、まだもらってなかったよね?」

 

 あこが言っているのは、ガルパに参加するメンバー全員が着るおそろいのシャツのことだ。前面には『GIRLS BAND PARTY!』という文字にギターとミッシェルのイラストが合わさった、見事なロゴがプリントされている。

 ロゴのデザインこそリサがまとめたが、それ以外のおおよそは発案者である燐子が担当をしており、その関係で唯一まだシャツを受け取っていないコウを探していたのだろう。

 

「早くいかないと! 『Afterglow』の話は歩きながらね!」

 

 そう言うや否や、あこは出口の方へと歩き出した。

 ちなみに、『Afterglow』の結成秘話は案外さらりと終わった。語り部が当事者でない上、そもそもとして、他のバンドと違って彼女らは初めから五人組の幼馴染であったがゆえ、あくまで結成に至るまでの道のりに限っては、話すべき事柄があまりなかったのだ。

 

「先に言っとくけど、パスパレは事務所がメンバーを集めてできたバンドだから、結成秘話とか、そういうのはないと思うよ」

「あ、そうなんですね」

 

 もっとも、『Pastel*Palettes』の場合はむしろ、結成前より結成後の方がよほど大変であったが、美咲がそれを口にする事はなかった。いくら事務所の意向とはいえ、あまり外聞のよい出来事ではなかったし、わざわざ伝える必要もないだろうという判断だ。

 

「なら――ハロハピは?」

「ん?」

「ハロハピは、どういう風にできたんですか?」

「あー……」

 

 答えようとして、美咲はそれが難しい問いである事に気がついた。

 

(どういう風にできたとか以前に、ハロハピっていつ完成したのかな……?)

 

 こころがバンドをしようと決めた時だろうか? これは違うだろう。その時はまだ、こころと花音の二人だけしかいなかった。

 メンバーが五人揃った時だろうか? 美咲は、これも正しくない気がした。あの頃は、ただこころの見初めた人間が集まっているだけで、『ハロー、ハッピーワールド!』という名前もついていなければ、音楽活動をする気配もなかった。

 では、バンド名が決まった時だろうか? 少なくとも間違いではないだろう。だが、自信を持ってこれだと言うことは、美咲にはできなかった。

 なら、『キグルミの人』が『奥沢美咲』となり、ハロハピが六人になった時か? 少々自惚れているようで気恥かしくはあるが、これが一番近いかもしれない、と美咲は思った。

 

(あるいは……)

 

 美咲は顔を横へ向ける。その視界には、次の美咲の言葉を待っている祖師谷幸の姿がしっかりと映っていた。

 

「……実は、まだ完成していなかったりなんてね」

「へ? すいません、何ていいましたか?」

「何でもないよ。この話はまた今度」

 

 小さな呟きを誰にも届かないように空気に溶かし、美咲は誤魔化すように彼の頭を軽く撫でた。



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第42話「前夜の静寂」

「よーし、みんなお疲れ! 今日は家でゆっくり休んで、明日に備えてね! では、解散!」

 

 ライブハウス『CiRCLE』のロビー。そこに、五つのバンドのメンバーたちが円をなして並んでいた。

 時刻は午後九時。リハーサル自体はもう少し早く終わっていたのだが、その行為の本質は実行をすることではない。そこで明らかになった問題点を改善したり意見を出し合っているうちに、このような時間になってしまっていた。

 時間と、そして疲労を考慮したまりなが、話を短く切り上げると、一同は自然とバンドごとに別れていく。

 その様子だけを切り取ってもそれぞれの特色が現れていて、例えば『Roselia』などは、まりなの言った通り明日に備えることを重要視してか、そそくさと扉から出ていく。

 

「うわーーん、疲れたよ有咲ぁぁ」

「だぁー! 重い! ってか私だって疲れてんだよ!」

 

 『Poppin'Party』の方を見れば、香澄が有咲にのしかかるように抱きついていた。そのままわちゃわちゃとじゃれあいを続けた後、いつのまにか彼女らの間ではお泊まりをする話などが持ち上がっていたようだった。

 その内に『Afterglow』や『Pastel*Palettes』の面々も建物を出ていき、そこへハロハピも続くことにした。

 帰り道、もうすっかり暗くなってしまった街の中をゆく彼女たちの様子は、ハロハピにしては静かなもの。周囲の迷惑を考えて、というよりもその原因は疲れや眠気にあるように見えた。特に、はぐみなどは今にも眠ってしまいそうだ。

 猪突猛進で無鉄砲、はぐみの普段の言動はそんなイメージを持たせるものだが、本当は誰より責任感も強く繊細な心を持っている。合同バンドのベースを任された時も彼女は不安がっていたし、リハーサルだとはいえ今日の演奏も神経を摩耗させたに違いなかった。

 そのまま歩いていると、ついに彼女は足をもつれされてしまう。転びこそしなかったが、このままではいつ本当に転ぶかわからないと、薫ははぐみをおぶった。初めは遠慮をしていた彼女も、いつしかその背で眠ってしまい、そのまま薫は家へ送り届けるために道を別にした。

 次いでこころも、一つの別れ道で違う道に進むことになり、メンバーは花音、美咲、幸の三人となる。一人になったと同時に、こころの隣には黒服の女性が現れ、話をしながら彼女たちは消えていった。

 

「いよいよ、明日ですね」

「……そうだね」

 

 ポツリ、と幸が呟き、美咲が淡白に返事をする。

 今、三人の間には何処か重苦しい空気が漂っていた。それは、こころのような明るさを振りまく存在がいなくなった影響もあるのだろうが、どうにもそれだけではないように見える。

 

「まだ明日のことなのに、私もう緊張してきちゃったかも……」

「あはは、大丈夫ですよ花音さん。今日のリハでもバッチリ叩けてたじゃないですか」

 

 彼女たちは全員、その正体に気付いていながらも、そこに触れることなく進んでゆく。触れるのが怖くて、触れられないで、そのまま、進んでゆく。

 表面上はまるで何ともないような様子で、他愛ない話をして笑う。そんな空気は花音が道を分かった後も続き、どころか、美咲が幸と別れ自分の家の着いても消えることはなかった。

 

「……ただいまー」

 

 気だるげに帰りを告げ、美咲はすぐに二階の自室へ行く。鞄を置き、胸元のリボンを外すと、彼女は制服のままベッドへと倒れ込んだ。

 お腹は空いてるけど、ご飯は明日に回そうか、とか。このまま寝たら制服が皺になるなぁ、とか。そんなとりとめのないことを考えていると、今にでも瞼が落ちて来そうになるのを美咲は感じる。やがて身体が眠る態勢に切り替わると、彼女はそれに抗うこともなく目を閉じた。

 

「――っ!?」

 

 だがその瞬間、ポケットから鳴り響いた着信音が、美咲を現実へと引き戻した。優あたりだろうか、とあたりをつけて携帯の画面を確認する。

 

「……花音さん?」

 

 そこに表示されている名前を見て、美咲は怪訝そうな顔をした。それにはもちろん、きちんとした理由がある。

 彼女の記憶では、松原花音という人物はあまり突然な電話を掛けてこない。例えばメールなどは、送ってしまえば返信のタイミングは相手に委ねられるものだが、電話は相手に即座でかつ纏まった時間を要求する。そういった点が、気使い性な彼女には申し訳なく感じられてしまうのだろう。もちろん、迷子になった時など、緊急を要する場合はその限りではないが、とにかく、花音が事前の確認などをなしに電話を掛けてくるのは珍しいことであった。

 

「はい、もしもし」

『あ、美咲ちゃん。今、大丈夫だったかな?』

 

 電話越しで姿が見えないにもかかわらず、美咲はだらしのない体勢を改め、ベッドに腰かけて応対する。なんなら眠ってしまおうとしていた彼女であるから、時間がないはずもなく、肯定の意を即座に伝えた。

 

『よかったぁ。実は、美咲ちゃんとちょっとお話ししたいことがあって……』

「あー、そうですか……」

 

 花音の言葉に、美咲はその内容の予想がついた。その予想はおそらく十割の確率で的中するだろうと思いながらも、相手の次の言葉を待つ。

 

『うん。コウくんの……ことなんだけど』

 

 それこそが、帰り道で付き纏っていた空気の正体。気にはなっても、決して触れられなかった話題。

 美咲のように優から情報を受け取ってはいないながらも、花音は花音なりに幸のことについて思い悩んでいたのだろう。

 

『コウくんがハロハピにいられるのは、今週いっぱいなんだよね……?』

「…………」

『変な話なんだけど――』

 

 そう前置いて、花音は語る。曰く、いま自分の中には、幸と共にライブをできる明日が楽しみで早くやって来て欲しいという思いと、時が経って欲しくないという願い、その矛盾する気持ちがどちらも存在するのだ、と。それを聞いて、美咲はおおいに同意した。

 

『私は、やっぱりコウくんとお別れなんてしたくない……。ハロハピにいて欲しいよ……。コウくんは、そう、思ってないの、かな……』

 

 彼の態度や性格からそんなことはないだろうと思いながらも、花音はついついそんな弱気な言葉を零してしまう。リミットがすぐそこまで迫っているというのに、脱退についてなに一つ触れないという事実が、彼女のその行動をとらせてしまった。

 

「そんなはずはないです。きっとあたしたちなんかよりも、誰よりも、本人が一番思い悩んでると思います」

 

 口にしないことは、悩んでいないということと同義ではない。幸の境遇を知る美咲だからこそ、そう強く断言をした。

 彼は気付いていない――いや、まだ知らないだけなのだ。彼自身の思いこそがその行く末を決定づけると言うことを。

 分単位で管理された、当主になる能力を育むためだけの生活から一転、何一つ行動を強いられない現在への急激な変化。彼は今『自由の刑に処せられている』状態だ。伸びるにしろ縮むにしろ、刑期について決めるのは執行する側であり、受刑者の意思は関係がない。彼は、そう信じて疑えない。

 

「……だと、いいな」

 

 その元気のない声に、美咲は花音に事情を伝えていないことをもどかしく、そして申し訳なく感じる。

 そんな感情を抱いていたから。次に飛び出した花音の言葉は、美咲の眠気を一瞬にして吹き飛ばしてしまった。

 

『もしかして、どうにかする方法を、美咲ちゃんは知ってるんじゃない?』

「っ! そ、それは……」

 

 美咲と話しているうちに、花音は気付いてしまったのだ。美咲も、同じく幸のことに頭を悩ませているようだが、その内容が自分のように『どうすればいいかわからない』ではなく何かゴールがあって『どのように達成するか』と、違うものであったことに。

 想定外な方向からの切り込みに、美咲は繕うための言葉を探すが、パニックが祟ってなにも出てこない。

 その沈黙は、もはや花音にとっては答えと等しかった。

 

『やっぱり、そうなんだね……。美咲ちゃんは優ちゃんとも色々お話してたみたいだし、もしかしたら……って思ったの』

「…………」

『あっ、勘違いしないで! 別に美咲ちゃんを責めてるとか、そう言う訳じゃないの。ただ……あぁ、悔しいなぁって。美咲ちゃんたちの頼れる先輩になれなか――』

「それは違います!」

 

 言い訳を探す行為も放棄して、気付けば美咲は滅多に出さないほどの大声で、花音の言葉を否定していた。

 

「花音さんに相談しなかったのは、頼りないからとか、そんな理由じゃないんです……。むしろ、あたしにとっては、誰よりも頼れる先輩です。花音さんが自分のことをどんな風に思っても、どんな風に言っても……それだけは、絶対の絶対です!」

『美咲ちゃん……』

 

 美咲の嘘偽りない本心に、花音が名前を呟く。その言葉の先には『なら、どうして?』という言葉が隠れているような気がした。

 優との話し合いで彼女も言っていたことだが、幸の事情を知ってしまえば、別れの持つ意味がまるで変わってしまう。あまりに優しい心を持つ花音に、それによって傷ついて欲しくない、というのが美咲の情報を隠した一つの理由。

 

(けど……)

 

 美咲は自分の胸に手をあてる。自身の感情だからこそ、彼女にはよくわかった。それがすべてではないということが。

 

「いろいろ理由はあります。でも、そのほとんどは……」

『……うん』

「あたしの、ワガママです」

『美咲ちゃんの……ワガママ?』

 

 予想していなかったまさかの回答に、花音は呆ける。そして、その言葉の裏に何を感じとったのか、しばらくすると『ふふ』と小さく笑い声をあげた。その声色は、憑物の落ちたような透明さをしていた。

 

『美咲ちゃんがワガママだなんて、それじゃあしょうがないね。ワガママ言ってくれるっていうのは、頼ってくれてるみたいなものじゃない?』

「まぁ、確かに……?」

『どんなワガママなのかは訊かないよ。けど、それを貫き通すんだって言うなら――コウくんのことお願いね、美咲ちゃん』

 

 ブツリ、と。その言葉が終わると同時に、通話は強制的に終了された。

 あの花音が返事も聞かずに電話を切るなど、まさか実は美咲が相談してくれなかったことに怒っていたのだろうか。

 もちろん、違う。

 

――返事を聞くまでもない。

 

 ただ、そういうだけに、違いなかった。



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第43話「解呪の美女」

「スイーツの搬入終わったのでサインお願いしますー!」

「すいませーん、真ん中のドリンクサーバーが故障してるみたいなんですけどー!」

「まりなさん、まりなさーん! 千聖ちゃんから連絡が――」

 

 バタバタと忙しない足音がいたる所から響いている。

 ガルパ本番もあと数時間となった今、現場の統括的な権限を持つまりなは方々から求められ、まさにひっぱりだこ状態。

 

「えっと、皆さんとても忙しそうですけど……」

「うん、そうだねー」

 

 そんな中、美咲と幸を含むハロハピのメンバーはロビーで、揃って椅子に座っていた。

 周囲の様子を見渡しながら、幸が美咲に話しかける。その態度は遠慮がち、言葉は尻切れトンボで、後ろに『手伝わなくていいのか』という旨が続くだろうことは想像に易かった。

 対して、美咲は気の抜けた返事をする。

 他の人たちが動いている中、何もしていないという居心地の悪さ。幸を苛むそういった類の感情を、彼女の方はどうやら抱いていないようだ。

 というのも、彼女たちはやるべきことを放っておいて談笑をしているわけではない。単純に、することがないから待機しているだけである。

 機材のセットなどを初めに、純粋なマンパワーが必要とされる仕事は午前のうちにあらかた終わっているのだ。いま各所で行われているのは、それぞれの担当でしかこなせないような業務ばかり。

 『むしろ、こころたちをこの場にとどめることで、いらぬトラブルを未然に防いで貢献しているくらい』とは、美咲の言だ。

 

「ふふ、美咲さんらしい考えですね」

「ん、そうかな?」

 

 そんなトンデモ理論を聞いて、幸が小さく笑む。その表情はとても柔らかく、何も悪くない、むしろ良いことなのだが、そこに美咲は少し違和感を覚えた。

 

「コウくん、調子よさげというか何ていうか……機嫌いい? てっきり、本番当日だから緊張してるかなって思ったんだけど」

「へっ!? そ、そうですか……?」

 

 そう指摘されて、幸は思わず両頬をムニムニとあらためる。もちろん、そんなことをしても自分の表情などわかるはずはないのだが。

 

「まだ時間があるから……ですかね?」

「直前になったらガチガチになってたりして」

「あら美咲ったら、そんなことを心配しているの? 大丈夫よ! そういう時はみんなで魔法の言葉を唱えるの! そうすれば、緊張なんてどこかに飛んでいっちゃうに違いないわ!」

「はいはい。まったく、能天気と言うか気楽と言うか……」

 

 ずずい、と。話に反応したこころが、その身体ごと話へ割り込んで来る。飛び出る言葉は相も変わらずなもので、美咲は呆れを通り越して感心さえ覚えるほどだった。

 三日前にあった、幸にとっては初のライブ。たしかに魔法の言葉は、彼をステージに立つことを助けた。他にも、ずっと引っ込み思案だった花音が、それのおかげで勇気を出して困難を乗り越えた場面だってたくさんあった。その力は、美咲も認めるところである。

 だがライブの件は、実際にはあかりという不測の要因によって偶然なんとかなったという面が大きい。

 ハロハピの一員としてずいぶんを過ごし、思考が染まってきたと言えども、やはり安定志向で現実主義な性格は彼女の根底を成すものであり、そういった部分が『安易に過信をすべきではない』と囁いていた。

 もちろん、こころの言う通りになるのならば、それに越したことはない、とわかってはいるのだが。

 

「おーい、みんなー! お願いしたいことがあるんだけど、ちょっといいかなー?」

 

 そのまましばらく談笑を続けていると、奥の扉からまりながやってきてロビーにいる者へ声を掛けた。その口ぶりは、美咲たちハロハピだけでなく、今ここにいる全員に対してのようだった。

 その内容は、周知しておきたいことがあるため、この場にいないメンバーを集めてきて欲しいというもの。なんでも、『Pastel*Palettes』のメンバーの一人である白鷺千聖が、急な仕事が入って本番に間に合わないかもしれないのだとか。

 依頼を承諾した美咲はまず、無駄手間を極力減らすために、グループチャットでメッセージを送った。わざわざここにいない全員を探さなくとも、これに反応の無かった人物だけを探せばよいという寸法だ。

 この広くはない施設の中。いくら方々に散らばっているとはいっても高は知れており、テラスで(たむろ)していた香澄、ステージで機材の様子を見ていた麻弥などを含む数人はすぐに呼び集められ、全員集合はすぐに叶った。

 

「――ということで、千聖ちゃんが遅れちゃう可能性があるから、『Afterglow』と順番を替わってもらいたいんだけど……どうかな?」

「問題ないよ」

 

 まりなからの提案に、蘭は短く返答をする。

 無事、目先の問題に一先ずの片がついたことで、ミーティングの題目はライブ本番周りの細かなことへ移る。

 途中、荷物を届けに来た業者の応対をするためにまりなが場を離れてしまったが、唯一の大人がいなくなっても、生徒会役員の経験を持つ紗夜がうまく場を取りまとめていた。

 ミーティングを終え、浮き上がった事項などを確認、調整し、準備においてすべてが万端だと言えるようになった頃。遂にライブの開始時間は四十分後にまで迫って来ていた。

 この時間にまでなると、気が早かったり、最前列を求める客などの姿がちらほら見え始めてきた。

 最近ようやく、まりなの他にも入ったたった一人の新人スタッフがチケット周りの業務を、人手不足から急遽雇った数人のバイトがドリンクの注文どりと提供をこなす。

 客が入り始めたとなれば、バンドのメンバーがいては騒ぎになる可能性があるため、一同はそそくさと楽屋の方へと移動した。

 内へ入ると、皆は各々で楽器の最終調整に着手する。作業中にも変わらずおしゃべりはしているのだが、そこはやはり本番直前。平時通りに振る舞っているように見えて、辺りには何ともいい難い緊張感が漂っていた。

 そして、ついに始まりの時がやってきた。

 

「よーし、じゃあ行ってきます!」

 

 一番手である『Poppin'Party』のメンバーが元気よく楽屋を出ていく。ふと気になって、部屋の角に取り付けられているモニターへ幸が目をやると、映っているのは空っぽのステージ。そして、それを一際目立たせる満員の客席だった。

 これは美咲以外の誰も知らないことだが、病院でのライブにあたって彼女は、意図的に宣伝を控えていた。それは幸を気遣ってのことであり、おかげで当日やってきていたのは、偶然居合わせた人や口コミでやってきた人などが主だった。もっとも、熱心にハロハピの情報を集めているような人には、それでも察知されてしまったようだが。

 それに比べて、今日ここへ来ているのはライブを、ひいてはバンドそのものを目的としている者たち。モニター越しにもかかわらずありありと感じられる熱意のようなものに、幸は画面に釘付けになった。

 

『ポピパパピポ――』

『パ~!!』

 

 そんな彼を現実に引き戻すように、香澄たち五人の声が耳に届く。それは、モニターと併設されたスピーカーからではなく、舞台袖での掛け声が通路を跳ねかえって直接やってきているようだった。

 

「お、香澄たちいい声出してるな!」

「見てください、戸山さんたち出てきたみたいッス!」

 

 麻弥の言葉に反応して全員の視線が集中する中、画面の向こう側で『Poppin'Party』のライブが始まった。

 

(わぁ……)

 

 この中でただ一人、リハーサルではない『Poppin'Party』の本当のライブを初めて見た幸はえも言えぬ感動を覚えた。見ているだけで心も身体も勝手に踊りだしてしまいそうなポップな音楽。そして何よりライブを――ともすれば観客よりも――楽しんでいることが一目でわかる笑顔。

 この演奏を直に見ることができないのが惜しい、そんな考えが自然と浮かんでくるほどに、彼は心惹かれていた。

 そして、その演奏に心を動かされていたのは彼だけではない。

 

(メンバー間で差はあれど、やはり演奏技術はそこそこ止まり。見たところ花園さんが最も腕前が高いようだけど、それでも完璧には程遠い。だというのに、一体これは……? 自己紹介の時も、ミニライブの時も、彼女たちは私たちにはないナニカを持っていると感じてしまうのは何故?)

「紗夜」

「湊さん……」

「しっかりと目に焼き付けておきましょう。きっと、頂点へ至るために必要な経験になるはずよ」

 

 ある者はその眼差しを真剣なものにする。

 

「……へぇ、悪くないね」

「蘭ってばメラメラしてきちゃったー?」

「別に、ポピパがどんなでもあたしたちはいつも通りやるだけだし。……って言いたいところだけど、正直、ちょっとあるかも……」

「おぉー、それならモカちゃんも、本気を出さなきゃいけませんなー」

「何言ってんの? あたしたちのライブでモカが本気じゃなかったことなんて、一度もないでしょ」

「え、あー……うん。でへへ、まーそうなんですけどもー?」

 

 またある者は、心の中で熱い炎を燃やしていた。

 

「かーくんたち、すっごい楽しそう!」

「そうだね、とても儚い演奏だ……」

「うーん、もう我慢できないわ! あたしたちも行きましょう!」

「さんせー! 行こう、こころん!」

「わぁ、それはダメだよぉ! 二人とも待って、待ってぇ!」

 

 また一部では、そんなやりとりもあった。

 

「ふぅ、まったく……。どう、コウくん、緊張しちゃってる?」

「あ、美咲さん。緊張は……どうなんでしょう?」

 

 幸は自分の胸に手をあてる。その奥では鼓動がドキドキとうるさいほど鳴っているが、そこに不快な感覚はなく、むしろもっと前向きなものに彼は感じた。

 

「それは多分、早くライブしたいー、ってコウくんの身体が言ってるんだと思うよ」

「そう、なんでしょうか?」

 

 美咲にそう言われて、それがなんとなく正しいのだと直感して。自分のことを自分の方が理解していないというのもおかしな話ではあるが、彼はとかく嬉しく感じた。

 

 そのうちに、『Poppin'Party』が最後の曲を奏で始めると、今度は『Afterglow』の面々が楽屋から出ていく。ステージ上の主役は代替わりをし、また趣向の違う熱い音楽が激しく世界を叩いた。

 その熱は聴く者へ伝播し、楽屋内全体のボルテージが高まる。しかし、演奏を終えて気分上々で帰ってきた香澄の一言が、その空気に一滴の冷たい雫を落とした。

 

「ただいまー! あれ、白鷺先輩はまだ来てないんですか?」

「はい、実はそうなんです……」

「千聖ちゃんなら仕事に穴を開けるようなことはしないだろうし、もうすぐ来るよ! ……たぶん」

 

 イヴを初め、『Pastel*Palettes』のメンバーは千聖を信じているようだが、同時にもしかしたら、という考えも捨てきれないようだった。

 

「千聖なら大丈夫さ。彼女は絶対に間にあう。私が保証するよ」

 

 続いて、昔からの付き合いだという薫もそこに同意する。

 白鷺千聖は絶対に仕事に穴を開けない。彼女に関わりのある人物の全員がそう思うのは、それだけ普段の振る舞いが素晴らしいものだからなのだろう。しかしそれが通じるのは、この場においては少数だというのが事実。現に美咲などは、もしもの時は自分たちと更に順番を入れ替えることも視野に入れていた。

 

「『Afterglow』の演奏が終わったら次のバンドまで十分の休憩時間がありましたよね? その開始時点で白鷺先輩が来てなかった場合は、あたしたちが先に出ようかなって思ってるんですが……どうです、彩先輩?」

「え、それは、えっと……」

「それより美咲! 千聖が遅れそうで大変なのはわかってるのだけど、それを言うならミッシェルもまだ来ていないわ! 何か聞いてないかしら?」

「あー、ミッシェルはね……。うん、順番がどうなるにしろライブが始まる五分前までには来るはずだから、心配ないよ」

 

 美咲の提案に答えが返されるより前に、こころが会話に割り込む。美咲が誤魔化しをする必要に駆られ、彩は彩で千聖の名誉を考えるとどう答えたものかと悩み、場がてんやわんやとしてきたそんな時。

 

「ごめんなさい、遅れたわ! まだ時間は大丈夫かしら?」

 

 まさしく、いま話題にあがっていた少女が楽屋の扉を勢いよく開けた。

 

「ち、千聖ちゃーん!」

「お疲れ様です、千聖さん。出番まであと十五分程ですけど、大丈夫ですか?」

 

 決して軽くはないはずのベースを背負って、きっとここまで走ってきたのだろう。肌の上に汗を滲ませながらも、しかし千聖は、どこまでも凛々しい態度でこう口にした。

 

「大丈夫。私は『Pastel*Palettes』の白鷺千聖よ。ステージに穴を開けたりしないわ」

 

 ちょうど、画面の奥では『Afterglow』の最後の曲が始まろうとしていた。

 

 

 

「いよいよだね、大丈夫?」

 

 時は少し経ち、いま美咲たちの目の前では『Pastel*Palettes』による演奏が繰り広げられていた。

 この曲が萎んで、溶けて、消えてしまえば、次は彼女たちの番がやってくる。もちろん、ミッシェルは装着済みだ。

 

「はい! ……でも、やっぱり緊張はしてます」

 

 脚を震わせながら、えへへ、と幸は力なく笑う。先の荒療治は完璧な効果をもたらしたとまではいかなかったようだが、それでも彼が今ここで地に足を着けているというだけで大きな意味があったといえるだろう。

 

「ありがとうございました! それでは、次は『ハロー、ハッピーワールド!』のみなさんです!」

 

 ボーカルとして精一杯歌いきった彩は、今度はアイドルとして、場の熱を逃がさないように言葉を残して捌けていく。

 その際彼女は、振り返って美咲たちに向かって可憐なウィンクとピースを決めてみせた。『繋ぎは完璧だよ!』とでも言いたいのだろう。その気遣いには素直に感謝する美咲だったが……。

 

(彩先輩、前……)

「え、わっ、わわっ――きゃん!」

 

 足元にあった機材に引っかかって転ぶ姿には苦笑いを浮かべるしかない。位置の問題で見えないにもかかわらず、客の大半――特に、丸山彩ををよく知る者たちは何が起こったかをおおよそ察しているようだった。

 

「はは、彩先輩ってば、ほんとにアイドルやってるっていうか……」

「でもおかげで、ちょっと緊張がほぐれたような気がします」

「そりゃいいや。よし、いこっか」

 

 幾分か軽くなった足取りで、六人はステージへと上がる。そして、それぞれの定位置につくと、アンプを繋いだり、高さを調節したりなど、テキパキと準備をする。

 

(うぅ……)

 

 その間、客席の多くの者の視線は、やはり幸へと注がれていた。今までずっと四人と一匹だった『ハロー、ハッピーワールド!』、そこに五人目が突如現れたとなれば、むしろ注目しない方が無理という話だ。一人で首を傾げる、隣にいる友達と推察をする、さまざまな行動が客席には見て取れた。

 

「みんなー! ハロー!」

『ハロー!』

「すごくいい声だわ! きっとこれまでのライブがとっても楽しかったからね!」

 

 マイクの高さを調整し終えたこころが、一足先に自由になり観客へ語りかける。純粋な作業量の問題で、こういった直前準備の時はドラムが一番時間を食うものであり、その差を埋めるためにこころが話をするのはハロハピの常であった。

 

「そうだ! 今日はみんなに紹介した人がいるの!」

「こころ、待った」

 

 一瞬の迷いもなく、開口一番にこころは幸を紹介しようとしたが、それは眼前に伸びてきた大きな手によって中途にされた。

 

「……? ミッシェル、どうかしたの?」

「その紹介、あたしがやってもいいかな?」

「んー……」

 

 だらしなく間延びした、普段の声ではない。それはどこまでも真剣な、()()の声だった。

 こころはミッシェルの顔を見つめる。目も、鼻も、口さえも、絶対に変化するはずのないその表情から、しかし彼女は何かを読みとったらしい。

 嬉しそうに笑って、それから大きく頷くと、マイクをギュッとミッシェルの手に握らせてこころは後ろへ下がった。

 

「あ、あー、コホン。えー、お騒がせしました。こころちゃんからマイク変わりまして、どーも皆さん、ミッシェルでーす」

 

 謝罪と挨拶、両方の意味を込めて頭を下げる。ただし、首の稼働域の問題でほんの僅かにだ。

 そのミッシェルの声は、まさしくミッシェルのものであった。

 

「こころちゃんも言ってたけど、今日はみんなに紹介したい子がいるんだー。この子は――っ!?」

 

 幸の両肩に手をのせ紹介をしようとしたミッシェルの言葉が不意に途切れる。タイミングだけを見るなら正体を強調するための溜めとも取れそうだが、それにしては沈黙があまりに長く、どうにも違うように思われた。

 

「美咲さん……?」

「――あ、失礼。この子はねー、ハロハピの()()()()()なんだ! みんな、仲良くしてあげてねー。ほら、自己紹介」

「は、はい! ご紹介にあずかりました、祖師谷……コウと申します。皆さま、よろしくお願いします!」

 

 心配をした幸が声を掛けると、ミッシェルはすぐに我に返って言葉を続ける。その沈黙が一体何だったのか、それを問いただす間もなく催促をされ、幸は丁寧すぎる言葉で自己紹介をした。

 その最後に合わせて彼がペコリとお辞儀をすると、会場には歓声が響き渡った。正直な話、幸が新メンバーであることは、こころたちと一緒になって現れた時点で観客もほとんど予測できたいたはずだ。それでも、演者が何か発表をすれば沸く、いわゆるお約束というものの一つである。

 

「コウちゃんはね、キーボードを弾いてくれるんだよー」

「コウはピアノがとっても上手なの! あたしたち『新生ハロー、ハッピーワールド!』の演奏で、みんなをとびっきりの笑顔にしてみせるわ!」

 

 『ね?』とこころがメンバーへ呼び掛けると、それぞれ肯定の返事をする。

 すると、花音の準備もようやく終わったようで、全員が楽器を構え、演奏の態勢にはいった。

 

「それじゃあ一曲目、いくわよー!」

 

 スティックによる軽快なカウントの後、演奏は始められた。

 

 

 

――――――――

 

 

『かんぱーい!!』

 

 コップ同士のぶつかる小気味よい音が、そこかしこから同時に鳴る。

 結果として、イベントは大成功であった。客の入りは普段の倍ではきかず、また今日限定のオリジナルメニューやドリンクの売り上げも上々。

 もともと関わりのあまりなかったバンド間でも関係が生まれ、金銭的な意味でも、そもそもの目的である『ガールズバンドを応援する』という意味でも、文句のつけようがない成果だと言えるだろう。

 現在は、あらかた片付けも終わり、ささやかな打ち上げを始めたところである。音頭のタイミングが合わないという小さなハプニングがありつつも、香澄の二度目の相図がきれいに決まり、一同は思い思いに行動をしだした。

 

「うぅ、疲れました……」

「お疲れさま、コウくん」

 

 身体の求めるまま、設けられた丸椅子に座った幸が飲み物を一気に呷ると、続いて花音がやってきて、その隣に腰を下ろした。

 

「花音さんも、お疲れさまでした」

「うん、ありがと」

「他の皆さんはどうされたんですか?」

「みんな、色んな人と話してるみたいだよ」

 

 例えば、と花音がある方向を指さす。

 

「こころーん! 今日のライブ、ドキドキで楽しかったね!」

「えぇ、そうね香澄! とってもドキドキで、すっごく楽しかったわ!」

「えっへへ、だよねー! あ、有咲は? 有咲もドキドキで楽しかったよねー?」

「あぁもう、うぜぇうぜぇ! 気にいったのはわかったから連呼すんな鬱陶しい!」

 

 そこには、楽しそうに騒ぐ香澄、有咲、こころの姿が。また、少し離れたところでは、三人の様子を見て沙綾がカラカラと笑っていたりもした。

 イベントのトリを飾る合同バンドが演奏した、『クインティプル☆すまいる』という曲の最後の歌詞。そこはずっと空欄で、本番の直前になって香澄が『ドキドキで楽しい!』と考案し、通ったのだが、どうやら彼女、そのフレーズがとても気に入ってしまったようだ。

 また別の方向を、花音が指差す。

 

「薫先輩、すっごくかっこよかったです!」

「ありがとう。君は確か……ひまりちゃん、だったかな? 先輩という事は……なるほど、君も羽丘の生徒だったんだね」

「はい! いつも遠巻きに見てるだけしかできませんでしたけど、それでも、ずっとファンでした!」

「ふふ、遠慮することなんてないさ。学校でも見かけたら、気軽に話しかけてくれていいんだよ」

「わぁ! ありがとうございます!」

 

 そちらでは、ひまりと薫が楽しげに話をしていた。

 

「はぐみちゃんは、あっちかな――って、え?」

「こーちゃん、これ見て見てー!」

 

 花音がはぐみを探し当てて指さそうとすると、本人は何かを片手にこちらへ駆けよって来ている最中だった。

 

「は、はぐみちゃん待ってぇ……っていうか、返してぇ……」

 

 その後ろを疲れた様子の彩が追って来ているのが、どうにも気になったが。

 

「これは、何ですか……?」

 

 はぐみが幸に差し出したのは一つの携帯端末。見れば、その画面にはSNSのものと思われる画面が映っていた。

 

「なんかね、彩先輩がえごさ? っていうのをしてて、今日のライブの感想とかが見れるんだって! こーちゃんのこと、いっぱい書かれてるよ!」

 

 はぐみが画面をスライドさせていくと、下から上に、どんどんと呟きが流れていく。彼女の言う通り、その中には幸について言及している内容のものが多く見受けられた。

 

(『ハロハピの新しい子めっちゃかわいかった!』『何か新メンバーの白い子、すごいちっちゃくてかわいかった! ぎゅーってしたくなる感じ。何歳くらいなのかな?』……)

 

 などなど。

 この恰好をするようになって、既に二週間弱。最初は抵抗のあった『かわいい』という褒め言葉にももはや慣れ始めてきたが、代わりに今度は姉に何か影響がいってしまわないかが心配になっていた。

 

「こら!」

 

 なおも色々な呟きを流し見していると、そんな声とともに、端末が突然消え去る。

 顔を上に向けると、携帯は彩の両腕の中に大事に抱えられていた。

 

「はぐみちゃん、見るのは別にいいけど、勝手に持っていっちゃダメでしょ!」

「う、ごめんなさい……」

「ううん、別に怒ってるわけじゃないの。あ、でもでも、次やったらほんとに怒るからね?」

「……はーい」

「うん、わかればよろしい」

 

 そう言うと彩は、はぐみの頭を優しく一撫でしてまた元の場所へ戻っていった。

 

「うぅ、はぐみやっちゃった……」

「だ、大丈夫ですよ。丸山さんも怒ってないって言ってましたし……。そうだ、はぐみさん、少しお話ししたいことがあるんですけど」

「……? お話しなら、はぐみたち今してるよ?」

「えっと、そういうことではなくて……。打ち上げが終わった後に話したいことがあるので、ちょっとだけお時間いただけませんか?」

「うーん、父ちゃんに訊いてみないとわからないけど、たぶん大丈夫だと思う!」

「花音さんはどうですか? できればハロハピの皆さん全員でお話ししたいんですけど……」

「私なら平気だよ。けどそれなら、こころちゃんたちにも確認しないとね」

「……あれ?」

 

 ここで幸はあることに気がつく。

 

(美咲さんは……?)

 

 奥沢美咲を見ていない。

 一度至ってしまえば、逆にどうしてここまで気がつかなかったのかが不思議なほど。いつだって隣にいて、それが当たり前になっていたその人物を、幸は周囲を見渡して探そうとする。

 だが、どうにも見つかる気配がない。次第に彼は、この部屋の中に美咲はいないのでは、と考えた。実際、『Afterglow』の蘭やモカなどは、打ち上げが始まってすぐ『騒がしい』と言って外へ行ってしまっていたし、他にもいつもまにか姿の見えなくなっている人物がちらほらといる。

 

「花音さん、美咲さんがどこに行ったか知りませんか?」

「えっ! み、美咲ちゃんは、その……えっとね……」

 

 花音なら知っているのでは、と幸は質問を投げかけるが、その返答は芳しくない。その態度を『知らない』と彼はとり、次はこの場で一番知っている可能性が高いまりなの許へと尋ねに向かった。

 そして、彼は衝撃の事実を知ることとなる。

 

「え、美咲ちゃん? 美咲ちゃんなら、大事な用事があるって帰ったよ?」

「……え?」

 

 曰く、それは打ち上げが始まるよりも、もっと前のことだったと。

 

 

 

 

――――――――

 

 

 東京のとある一角。住宅街の範囲内でありながらも、薄暗く、人通りも少ない寂れた路地。そんな辺鄙な場所にポツンと居酒屋が一つ、そして、その扉をくぐる二人の男の姿があった。

 どちらか、あるいは両方という可能性もあるが、この店には来慣れている様子。店内に入り、自分たち以外の客が誰ひとりとしていないことを確認すると、迷いない動きで店主と対面する位置にあるカウンター席へと座った。

 間もなくお手拭きが置かれると、そのまま適当にメニューのいくつかを注文する。そして店主が背を向けて調理を始めると、ようやく彼らは話をするのだった。

 

「お久しぶりです」

 

 先に口を開いたのは和服を着た、四十程度の男性。その名は祖師谷博則。つまり、優や幸の父親にあたる人物であった。

 

「そうですね。お久しぶりです、祖師谷さん」

 

 対するは、同じく服装は和風で、縁を上側にとった眼鏡が特徴的な男性。こちらの名字を、美竹といった。

 

「驚きましたよ。しばらくの間の稽古をすべてキャンセルなどと、突然言われるものですから」

「その節は、本当にご迷惑をおかけしました」

「いえいえ、きっと何か事情があったのでしょう?」

「えぇ、まぁ、そうなのですが……」

 

 事情ならば、確かにあった。だがそれは、祖師谷という家の中では大きく意味のある内容だとはいえ、外部の者からしてみれば、スケールの大きい親子喧嘩にすぎない。

 それに、内容だって家全体の将来に決して小さくない影響をもたらすものであったがゆえ、あまり深くまで話したくないというのが彼の本音であった。

 そんな内心を、どうやら相手方も感じとってくれたようで、それ以上の言及はなく、話題は異なるものへと移った。

 

「にしても、祖師谷さんとあのような場所で会うとは露ほどにも思いませんでしたよ。こういうのを何というのでしたかな、青天の霹靂……は少し違いますか」

「……瓢箪から駒、あたりでしょうか? 私もまったくの同感です」

 

 運ばれてきた酒をお猪口に移しながら、二人は笑いあう。

 この、互いに知り合いではありながらほとんど顔を合わせることはないという、絶妙な関係の二人を巡り合わせたのは、ライブハウス『CiRCLE』という場所。

 すべてのライブが終わり、散らかされた胸の内に苦しみながら建物を出た時、驚いた顔で博則に声を掛けたのが蘭の父親だった。ただの街中ならば、きっと軽く挨拶だけをして別れただろう。

 しかし、この場所、このタイミングで。気がつけば博則は、彼へ誘いを持ちかけていた。

 

「まさか美竹さんのご息女がバンドというものをしていたとは」

「お恥ずかしい話、それが原因で少し前まで娘と関係がギクシャクしていましてね」

 

 そう前置いて、話が始まる。運ばれてきた品を適度につまみつつ、話を最後まで聞き終えた博則は、入りの時点で予想した流れが、実際の展開とは程遠いものだったことに驚愕した。

 バンドが原因でいざこざがあったと聞いた時、彼が初めに思い描いたのは『バンドなどというチャラチャラしたものなど』だとか『華道の妨げになるようなものは』などと叱りつける構図だった。

 少なくとも自分が目の前の人物の立場――つまり、名家の現当主であり、たった一人しかいない子どもがバンドを始めた、という状況ならばそうしたはずだと彼は思う。

 彼の思考回路に則れば、それこそが正しい選択肢であったがため、相手の語った『中途半端だから』という理由には、目から鱗が落ちる思いであった。

 

(…………)

 

 酒にも肴にも手を着けず、博則はただ黙り、考え込む。いつもの彼なら、相手に失礼だと絶対にしない行為であったが、今そこまでの余裕はないようだった。

 

「……では、私はこの辺りで失礼します。少し用事がありますので」

 

 その様子を蘭の父親はしばらく静かに見守っていたが、やがておもむろに席を立つとそう告げた。

 

「えっ。……あぁ、わかりました。私はもう少しいるつもりですので、お会計はこちらが持ちましょう」

「そうですか? すいません、ご馳走になります」

「いえ、とても有意義なお話をきかせていただきましたから」

 

 世辞でも社交辞令でもなく、これは彼の本音だ。出入り口へと歩いていく背中に、わざわざ立ち上がって向き直ると深く頭を下げた。

 

「……一応、礼は受け取っておきます。けれど、何か意図があったわけではありませんよ。ただ私が聞いて欲しかった、それだけの話です」

 

 では、と最後に残して扉の向こうへ姿が消える。

 その言葉が事実なのかはわからない。実は何者かから事情を聞いていた可能性もあるし、更に言ってしまえば、短い時間で店を出たのも、本当は一人で考える時間が必要だ、と博則を気遣ったのかもしれない。

 その真偽を知るすべはないが、別にどちらだとしてもかまわない。彼は、心の中でもう一度感謝を述べた。

 

『のわっ!?』

 

 席に戻り、追加の注文でもしようと彼がメニューへ手を伸ばした時、扉の向こうから何かに驚いたような声が聞こえた。それは、たったいま出ていったばかりの人物のもの。

 まさか転げでもしただろうか、と急いで店を出ていこうと博則は、腰をあげたところでその動きを止める。固定されたその視線の先では、向こう側のうまく見通せないすりガラスに大きく影が掛かっていた。

 

「…………」

 

 そして扉が滑りだし、一定の所まで行くと一気に開け放たれる。その先に立っていたのは――。

 

「あ、どーもー。まだやってますー?」

 

 あまりに場違いな空気を纏い、陽気な言葉を吐きだす、桃色の獣だった。

 

「……は?」

「あ、やば、つまった。ん、ぬぉ……ふんっ!」

 

 あまりに突飛な展開に博則が呆けている間にも、ソレは身体に対して若干小さい入り口を、自身の頭部をいびつに歪めながら無理矢理に押し通り、ごく自然な動作で彼の隣に腰かけた。

 

「すいません、何かジュース類をもらえますか? できればストローつけて欲しいです」

「……ふぅ」

 

 椅子二つにまたがって座る獣が軽いノリで注文をすると、店主はまるで何も起こっていないかのように、オレンジジュースとストローを供した。訪問のことを事前に聞いていたのか、それともただ単に動じていないだけなのか。もしも後者なのだとすれば、その胆力は相当なものだ。

 そういった光景も手伝って、博則の中にも落ち着きというものが取り戻されつつあった。

 急な出来事だったが故に面を喰らってしまったが、冷静に考えればどうということはない。ソレは未知の存在でも何でもなく、ほんの数時間前に目にしていた者、ミッシェルなのだから。

 

「これはどういう真似だね? 奥沢美咲」

「えー、美咲ちゃんはここにはいないよー?」

「……この時間に未成年が、それもこのような場所に来ることは感心しないな」

「魔法のクマさんのミッシェルはたぶん百億万歳くらいなんで、問題ありませーん」

「…………」

 

 あくまで奥沢美咲として、彼はたしなめるように話しかけたが、そのどれにもまともな返事はされなかった。

 

「はぁ。悪いが一人でよく考えたいことがあるのだ。ふざけたいだけなら、私は帰らせてもらおう」

「――お話をしに来ました」

 

 付き合いきれないとばかりに博則が席を立とうとすると、途端に口調の鋭くなった言葉が飛び出して、彼を縫い付けた。

 

「なので、ね? 一旦座りましょう」

 

 言われるまま、彼は座り直す。その気になれば強行して店を出ることも可能であったが、この因縁はここで絶っておくべきだと、そう感じた。

 先に口を開いた――もっともミッシェルの口はいつだって開いているが――のは美咲の方。出された飲み物にはまだ口を着けず、無機質な瞳を隣へ向けた。

 

「どうでした? 今日のライブ」

「ライブ……か。それが話題なら、初めに一つ言っておきたいことがある。あの紹介は一体なんだ?」

 

 博則の目が険しいものになる。彼が言っているのはもちろん、ライブの初めに行った紹介のことだ。

 あの時、美咲は幸のことを『新しい仲間』であると大々的に発表した。それは、バンドをする許しを正式に出したわけではないことを考えると非常に身勝手な言動であり、そのことが彼は気にいらないようだ。

 

「あー、あれはですね……正直、素直に謝るしかないです。すいませんでした。最初はあんなこと言う予定じゃなかったんですけど……」

 

 果たして、これは本当のことであった。

 絶対にそうはさせないと意気込みながらも、やはりどこかで最悪のパターンを想定せずにはいられない性分の美咲は、大事をとって幸のことはサポートメンバーであると紹介する腹積もりだった。

 サポートメンバーとは、簡単に言えば人員が足りていない場合に臨時で入れる、仮のメンバーだ。

 こう言っておけば、悪い方に転んでも言い訳がきき、また良い方に進んでもサポートから正式なメンバーになったとすればいい。サポートメンバーが後になって正式に加入するというのは、バンド界隈では珍しくもないことであり、余計な疑いをもたれることもない最良の選択肢だとさえ言えるだろう。

 

「けど、そう言おうとした時に観客席にあなたのことを見つけたんです。その瞬間、イラッとした……というわけではないんですけど、なんかこうムキになっちゃったというか……。軽率だったな、とは思います」

「……なるほど、言い分は分かった」

「あ、でも安心してください。もしものことがあってコウくんがバンドを抜けなきゃいけないことになったら、あたしが責任もってどうにかするので」

「む……」

 

 『もしものことがあって』という、まるで幸がバンドに残ることの方が可能性として高いかのような物言い。

 その裏には自信と、覚悟と、そして少しの敵意が感じられ、ここでようやく彼は、目の前の少女がただ『お話』をしにきたわけではないことを理解する。

 抗議、談判、少しおおげさな表現なら『戦い』に来たと言ってもいい。博則は、いま自分がこの場ですべきことがわかった気がした。

 

「楽しかった、いい思い出になった……それではいけないのかね? 出会いがあれば別れがあるのは当然のこと。まさか知り合ったすべての人と、死ぬまでずっと一緒にいられるとは思っていないだろう?」

「もちろん。さすがにあたしたちも、そこまでバカじゃありません。ただ、とある人の言葉を借りるなら『弱いものを救い上げるだけでは十分ではない。その後も支えてやらなければ。』と、まぁ……つまり、そういうことです。あっ、その人も借りてるだけなので、正確には『また借りすれば』ですかね」

「……何を言っている?」

「別に完全にはわからなくても、なんとなくニュアンスは伝わったんじゃないですか?」

 

 もっとも、救ってあげたなどという意識は美咲の中にはなく、外聞を気にしない言い方をするなら、彼女がこうして行動をしているのは純粋に己の願望を叶えるためだ。だが、これくらいの意味のすれ違いは、言葉を引用する上ではよくあることだろう。

 博則の問いは続く。

 

「以前に会った時、君は言ったね。幸せかどうかは自分か決めるものだ、と」

「……そんなことも言ったかもしれませんね」

「そして、初めて会った時のあの子は幸せそうには見えなかった、とも。ならば、君から見て今のあいつは――」

「それ、意味あります?」

 

 初めて、美咲が言葉を遮るように声を発した。目上の大人に対してはあまりに無礼なことだって頭ではわかっていても、彼の言葉が美咲にはとても聞いていられないもので、そうせずにはいられなかった。

 

「そりゃあたしも人間ですから、そんな風に訊かれたら自分が有利なように答えるにきまってます。そんなのは無駄です。他人の意見なんかどうでもいい。あなたには、どう映ったんです? 今日のライブの、あの子の姿が」

 

 畳みかけるような勢いで、美咲は尋ねる。

 その理論は納得のいくもので、その問いは自分がうまく形にできなかった心の靄そのもので、博則は安易に答えを出せず、黙りこくった。

 まだ鮮明な記憶の中、固い表情で現れ、必死の様子で話し、とびきりの笑顔を湛えて指を動かす我が子の姿。

 それを形容できる言葉は、きっとそう多くはない。

 

「……きみは頭がいいな」

「はい?」

 

 沈黙の末に出てきた言葉に、美咲は首を傾げる。

 彼女の学校の成績は中の上程度であるし、これといって何か天才的に秀でた技能がある訳でもない。そして何より、それは問いの答えになっていなかったから。

 

「あぁ、勉強ができるとか、点数がとれるとか、そういうことを言っているわけではないのだ。考える力……とでも言うべきか。誰かに示してもらわなくとも、自分の力で答えを探してみせる能力がきみは高いように見える」

「……はぁ」

「そういう意味では、私は昔から頭がよくなくてな。親の示すまま、家を背負ってここまで生きてきて……。それが正しいことであると、ずっと信じて疑わなかった」

 

 厳しい生活管理も、稽古漬けの日常もすべて、必要だと思ったから課したこと。

 厳格に接してきた自覚はあったが、冷酷になったつもりはなく。

 彼はいつだって、誰よりも我が子のことを想っていた。

 

「はは。そんなだから、『自由が欲しい』と本人に直接言われるまで、何も気づいてあげられなかったのだろうな」

「――はい? え、ちょっと、今なんて言いました?」

 

 重い独白の中、サラリと軽く出てきた言葉に、美咲は目を剥いた。

 ここまでの真剣な雰囲気をすべて無に帰すほどの慌てぶりに、博則がくつくつと笑っているのが見えた。その笑みは普段の巌のような表情からは想像もできないほど無邪気なもので、美咲は強く思った。

 

――やられた!

 

「初めはてっきり、既に聞いていると思っていたのだがね。そうではないようだったので、少し意地の悪い真似をしてしまった。すまない」

「なーるほど、なるほど……。そういうこと。あー、もー! これ完っ全に骨折り損じゃないですか! ここに来るの死ぬほど緊張したんですよわかります!?」

 

 うがー! と、まるで本物のクマのごとく怒り狂う姿は、それでもやはりファンシーな外見のせいで微塵も怖くはない。

 美咲はひとしきり喚き散らすと、力なくカウンターに突っ伏し、ここまで手付かずだったオレンジジュースを一気に飲み干した。

 

「しかし、完全に草臥れ儲けというわけでもないぞ。きみはここで一つ、いいことを知れるのだから」

「……なんです?」

「いいか。あいつの――」

 

 囁かれたその情報は、確かに折った骨ほどの価値を持っていた。



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第44話「野獣の王子」

 祖師谷幸は、自宅の縁側に腰かけ、ただ夜の空の見上げていた。

 虫の声も、車の音も、何の騒がしさもない静かな世界。わだかまった内心を整理するには絶好に思える、そんな場所で。

 彼は、来るべき人を待っていた。

 

「や、コウくん」

「……お久しぶりです、美咲さん」

 

 足音なんかを忍ばせようともしないで、門の陰からひょいと現れた美咲は、いつも通りな彼女で以て声を掛ける。

 ただそれだけのことが、どうしようもなく、無性に嬉しく感じられて。ほんな数時間前には顔を合わせているというのに、幸は気付けばそう返してしまっていた。

 なにそれ、なんて小さく笑って、美咲は幸の隣にやってくる。肩が触れるだとか、そんな程度ではなく、腕も、腿も、ぴったりとくっついてしまう程の距離。

 夜の肌寒さに曝されていた二人には、互いの温もりが、とても心地よく感じられた。

 

「……ぜんぶ、ぜーんぶ聞きました。お姉ちゃんのこと、父様のこと、そして、美咲さんのこと」

「そっか、ぜーんぶか。なんだか小っ恥ずかしいね、それは」

「自分が情けないとか、やるせないとか、色々思いました。でもなにより、嬉しいって気持ちが溢れてきて。だから――ありがとうございます、美咲さん」

「……ん、どういたしまして」

 

 真実を知った時からずっと言いたかったこと。イベントの前に余計な事情は挟ませまいと、我慢に我慢を重ねた分の感情のすべてが、そこに詰まっていた。

 悲願という言葉が決して過剰ではないくらいに、幸が内で押さえつけていた望み。それが叶い、彼は胸がすく思いだった。

 

「ねぇ知ってた? あたしたちって、まだ出会ってから二週間も経ってないんだよ」

「言われてみれば、まだそれだけなんですね。なんだか、もっとずっと一緒にいたような、そんな気がしちゃいます」

「だよねー。あ、そうだ。あたしパクチーってすごい苦手なんだよね、コウくんはどう?」

「パクチー……ですか? すいません、食べたことがないので」

「そっかー。あたしはてんびん座なんだけどさ、コウくんは何座?」

「うお座ですけど……急にどうしたんですか?」

 

 何の前触れもなく、至極どうだっていいような内容の質問を何度も投げかけてくる美咲に、幸は首を傾げる。

 別にそれが悪いということはないのだが、その意図がどうにもわからなかった。

 

「この二週間、コウくんと色んなことをやったり話したりもしたけどさ。それは条件のためにやってたって部分が、やっぱり少なからずあったんだよね。もう難しいことなんてなーんにも考えなくていいんだって思うと、なんか逆にどうでもいい話がしたくなっちゃって」

「……なんだか、素敵ですね。それ」

「でしょ?」

 

 顔を見合わせ、同時にはにかむ。

 それから二人は、思いつく限りの他愛ない話をしつづけた。それは血液型だったり、はたまた目覚ましの時間であったり。

 

「……ふあぁ」

 

 もういくつ目になるかもわからない話題へ移ろうした時、幸がそれはそれは大きなあくびをした。

 

「あ、眠い?」

「そう、ですね……。少し眠たい感じがします……」

 

 それも無理はない話で。現在の時刻は午後十一時、いつもの彼ならとっくに眠りについている時間だ。

 眠りを求める身体と、まだまだ話していたい心。その両者の間で揺れているのだろう。数秒ごとに瞼を落としては目を擦る彼はどこからみても隙だらけで、美咲はその姿を見て何か思いついたらしく、にっと口角を釣り上げた。

 

「はい、どーん」

「へっ?」

 

 幸の肩を掴んで、美咲は自分の方へと引っぱる。ふわふわと、まるで力の入っていなかった彼の身体はされるがままにゆっくりと倒れ込み、美咲の腿に頭をのせるという形で収まった。

 

「美咲さん……?」

「眠いんでしょ。遠慮せずに寝ちゃっていいよ」

「僕がこのまま寝ちゃったら、美咲さん動けなくなっちゃいますよ? どうするつもりですか?」

「んー、その時は一晩中コウくんの寝顔でも眺めてようかな」

「もう、そんなこと言って!」

 

 不意の出来事があったからか、眠気が少し飛んでいる様子の幸だったが、それも束の間。しばらくすればまた、意識はまどろみに沈み始めたようだ。

 ところで、人間、半覚醒な状態では脳がうまく働かなかったりすることがある。思考が単純になったり、物事をすぐに忘れたり。

 だからそう、霞む視界が捉えた景色に、彼がこう口にしたのは、何を考えてということもないのだった。

 

「あー……美咲さん、月がとっても綺麗ですよ……」

「えっ」

「……?」

 

 素っ頓狂な声をあげて、美咲が動きを止める。

 その表情は、幸の中にあるいつだって年上の余裕を崩さないでいた少女のものとはかけ離れたものだった。

 

「あ、あの、さ……そ、それって、えっと……そういう?」

「そう……いう? あの、そういうとは一体どうい――あっ!!」

 

 美咲の言葉が指すことに気がついた瞬間、勢いよく起き上った幸は肝がスーッと冷えていくのをはっきりと感じる。かと思えば今度は急激に顔が熱くなり、彼は俗に言うパニック状態に陥っていた。

 

「え、ちっ、ちがっ! ほんと僕、何にも考えてなくて……! 確かに言ったんですけど、違くて! で、でも違うって言っても美咲さんが好きじゃないというわけではなくて、むしろ美咲さんのことは大好きですけど! だからっ、違うけどほんとは違くなくてっ! えっと、あの――美咲さんが好きです!」

「……?」

 

 人は、自分より慌てている人を見ると、逆に落ち着くと言う話がある。それはどうやら本当だったらしい。

 いっそ笑えるほどに慌てふためく幸を見ていると、段々と美咲は落ち着きを取り戻したが、その状態であっても彼の言葉を受け止め理解することは、容易にはできなかった。

 

(え、待って? もしかして今、あたし告白された?)

 

 そんなまさか。そう思って顔を横へ向ける。

 そこにいたのは身体を震わせて、目を固くつむった幸の姿。それが示すのはつまり、やはり、そういうことなのだろう。

 

「……ぷっ。あはは、あは、あははははははっ! そんな、そんな告白あるぅ!? どさくさにまぎれて、もののついでみたいにって、そんな……あははは!」

「わ、笑わないでくださいよ!」

「だって! あれはさすがにないでしょ! 百点満点で十点もあげられないよ! けど……うん、すごくらしかったとは思う、あははっ!」

 

 よほど彼女のツボにはまったのか。美咲はさらに二分ほど、笑っては深呼吸を繰り返して、ようやく落ち着きを取り戻した。

 

「あー、笑った笑った。……さてそれじゃ、形はどんなだったであれ、返事をしないとね」

 

 美咲の真剣なまなざしが、幸を射抜く。不意に恐怖が心の底から押し寄せて思わず目をつむってしまいたくなったが、彼は寸でのところでそれを耐えた。

 美咲が口を、開く。

 

「あたしも、キミが――祖師谷みゆき()のことが好き。大好きだよ」

 

 今の彼の表情は、果たしてなんと表せばよいのだろう。

 幸せに顔を染めて、跳ねるように驚いて、けどまたすぐに幸せ一色へ。そんなめまぐるしい変化が一瞬のうちにあって、最終的にはほっぺだけがぷくりとふくらみ、小さなお山をこさえていた。

 

「……その名前は女の子みたいで、ちょっとやです」

「そう? あたしは好きだけどなぁ。男はかっこよくて、女はかわいいもの……なんてのは、ただのステレオタイプだよ」

「でも……」

「でももなにもない! そんなかわいいキミに惚れちゃった人間が、ここにいるんだけど?」

 

 ジトリと、美咲の目が静かに抗議をする。それを言われてしまえば、幸には黙る以外に道があるはずもなかった。

 

「それは、お姉ちゃんから聞いたんですか?」

「ううん、お父さまの方だよ。意外かもしれないけどね」

(そういえば祖師谷さん、初めて会った時『コウくん』って呼び方にやけに驚いてたな)

 

 あの場ではそれらしい理由を説明されたが、実はそういうことだったのだろう。思い返してみれば、優が(みゆき)のことを名前で呼んでいるところを、美咲は見たことがなかった。

 それがわかると、今度はどうして教えてくれなかったのかと協力者に対し怒りがこみ上げてくるが、今はそれは置いておいて、美咲は一つ気になっていることを幸へ尋ねた。

 

「それで、なんだって幸は最初に『コウ』なんて名乗ったの?」

「それは――」

 

 幸は語る。

 彼は初め幸と書いて『コウ』と読む名前を持って生まれてくる予定だった。姉が優と書いて『ユウ』と読むことを思えば、なんらおかしくない名だ。ただしそれは、彼の母親が考えた名前であり、父の方は気にいらないものであったらしい。結果、話し合いの末に漢字をそのまま『幸』とし、代わりに読みを父の考案した『みゆき』としたのだとか。

 とは言っても、名前は名前。それによって何か不都合が生じることもなく、事実、本人もそれを気にすることのないまま生きてきた。

 変化があったのは本当に最近。稽古漬け生活をずっと続け、無意識のうちに不満が蓄積していったのか。気付けば彼は父親に対して苦手意識とも嫌悪感ともとれない微妙な感情を抱くようになっており、それと同時にその父親の意思によって決まったという自分の名前にも少し嫌なものを感じるようになってしまっていた。

 

「ハロハピの皆さんと出会ったのはちょうどそういう時期で……。あの時は正直、一日だけの関係だろうと思っていたので、つい……」

「なるほど……ね」

 

 美咲はそう相槌を打つだけで、それ以上深くは何も言わなかった。

 現時点で自分に言えることは何もないと彼女は感じていたし、なにより、今日の記憶から察するに、その問題はそう遠くない未来に消えてなくなってしまうものだろうから。

 

「そういえば幸は、この名前のことハロハピの皆に伝えるの?」

 

 名前、という話題から思いついたのか。美咲がそんな疑問を投げかけた。

 

「そのつもりでしたけど……」

「えっと、提案というかなんというか……。別に言う必要はないんじゃない? この二週間『コウ』って名前は結構定着しちゃったし、なんなら言ってもたぶん理解してもらえないだろうし。それに、万が一にでも変な風に受け取られたら、これ以上呼び名が増えちゃったりするかもでしょ?」

 

 何故か若干慌て気味に、美咲がそんなことを言う。

 確かに主張は的確だ。幸本人としても『コウ』という呼び方にもかなり慣れてしまっていたし、実際『コウ』と『優』の使い分けに頭が混乱したことも何度かあった。彼女の言う通りに、何かの間違いで一人三役でもこなさなければならなくなった日には頭が沸騰すること間違いなしだ。

 

「あとは、えっと……まぁ、今のところみゆき()って呼ぶのはあたしだけじゃん? ちょっと特別感が欲しいというか……うん」

 

 だが、最後に小さく口にしたそれこそが、まぎれもない彼女の本心に違いなかった。

 

「ふふ、そうですね。それもいいかも知れま――」

「みいぃぃゆきぃぃぃぃぃ!! おめでとう! お姉ちゃん嬉しいいぃぃ!!」

「わっ、もうお姉ちゃん!」

「あー……」

 

 しかし、突然背後から乱入してきた存在で美咲は思い出す。

 残念。彼女は家族の存在を算段に入れ忘れていた。

 

 

 

――――――――

 

 ガルパから一日が経ち、現在は日曜日。

 今日は、学校もないということでハロハピのメンバーは朝から弦巻邸に集まっていた。

 

「今日はみんなで宝探しをするわよー!」

「おー!」

 

 と言っても、バンドらしく演奏の練習をするというわけではない。一同は現在、こころの思いつきによって彼女の自室へ集められていた。

 

「こころん、宝探しっていうけど、何を探せばいいの?」

「今回みんなで探す宝物は、ずばりこれよ!」

 

 そう言って、こころが右手を高く掲げる。よく見てみれば、そこには一つの黄色いビー玉が握られていた。

 曰く、それは小さい頃にもらった宝物のビー玉で、同じデザインの色違いがあと六つ、この部屋の何処かにあるらしい。

 対象が小さなビー玉だというだけでも捜索は難航しそうだというのに、加えて、こころは楽しいと思った物や思い出の品をすべて置いておく癖がある。そのせいで部屋の中には季節も産地もバラバラな様々な物が散乱しており、それがミッションの達成をさらに困難にしていた。

 

「それじゃあ宝探し、スタートよ!」

 

 だが、難しいということは、ハロハピにとってそれをしない理由にはならない。

 こころの号令によって、六人はいくつかのグループに別れて捜索を開始した。

 

「ふんふふーん……あら、これは?」

「こころん、もう見つけたの⁉︎」

 

 それからおよそ五分。何かを見つけたような反応をしたこころのもとへ、はぐみが勢いよく駆け寄ってくる。

 

「いいえ、ビー玉ではないのだけど」

 

 だが、こころが手にしていたのはお目当てのビー玉ではなく、一冊の絵本だった。

 

「見てはぐみ、この表紙とあの二人、そっくりじゃないかしら!」

「えっ? ……わぁ、ほんとだ! そっくり!」

 

 無邪気に騒ぐこころたちが指さす先にいるのは、美咲と幸の二人。そして、その絵本の題名は『美女と野獣』といった。

 

 

 

「美女だってさ、幸。よかったじゃん」

「むぅ、それを言うなら、美咲さんは野獣らしいですけどね」




『の』という助詞には様々な用法があります。はたしてどちらが『解呪の美女』で、どちらが『野獣の王子』なのでしょうね。






ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。
『びじょとやじゅう』これにて完結です。

評価や感想などを残していってくださると、とても嬉しいです。
あなたの一手間、どうかお恵みください。
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特別話「美咲の誕辰」

イベストくらいのサクサク感を意識して書きました。


 コツン。

 

「痛っ」

 

 ひどく軽い音に続いて、気の抜けた声。

 それは、口に放り込んだ飴玉が見事、前歯にクリティカルヒットをした、その結果であった。

 

 本日は十月一日。年にたったの一度だけやってくる、奥沢美咲の誕生日である。

 朝は起きるなり両親に妹、弟、と家族総出で祝いちぎられ。気恥かしさと嬉しさを引きずりながら学校へ向かうと、今度はクラスメイトから。

 もともと、美咲は仲がいいとまでいえる友達がクラスにそれほど多くなかった。また、目立つことを避けたがる本人の性格上、今日が誕生日だとやたらに触れまわることもなく、学校では気の置けない友人からのみ細々と祝われて終わる、彼女はそう思っていた。

 しかし、である。

 

『美咲ー! 誕生日おめでとう!』

 

 そんな予定を粉々に砕く者がいた。うげ、と思っても既に後の祭り。教室中に響き渡ったこころの大声のおかげでその事実は周知のものとなり、次々と席までやってきたクラスメイトたちは、祝福の言葉とともに何かしらを置いていくのだった。

 もっとも、その場で知った誕生日のプレゼントなど用意しているはずもなく、大半の者がくれたのはその時に持っていた適当な何か。たった今、小さな悲劇の引鉄になった飴玉もその一つである。

 

(……で、これは一体どこに向かってるんですかね)

 

 学校での記憶を振り払って、美咲は現実に意識を戻す。

 ここは車内。こころと移動する際にはたびたび乗ることになる真っ黒な高級車の中だ。

 ただ一つ違う点があるとすれば、窓から景色がまったく見えなくなっているところだろう。

 

『わー。太陽がまぶしくて、はぐみ、目がちかちかするよー』

『そ、それは大変だね! はぐみちゃん、大丈夫!?』

『黒服さん、どうにかならないかなー』

『かしこまりました、対応します』

 

 これは、そんな棒読みにも程がある茶番によって遮光カーテンが隙間なく掛けられたためだ。

 美咲は察しの悪い性質(たち)ではない。むしろ、どちらかといえばいい方といえる。誕生日に限ってこのようなことが起きれば、自身を何処かに連れて行きたいのだろう、と予測するのは難しいことではなかった。

 そこまではいい。問題は、その目的地が彼女にはまったく想像できないことだった。

 これがただの友達であったならば、無難にパーティーでも催してくれるのかとあたりをつけることもできる。

 

(けど、こころ……というか、ハロハピだからね……)

 

 彼女たちが自分の想像の範疇に収まってくれるはずのないことを、美咲はこれまでの経験からよく知っていた。

 

「ねぇ、コウくん」

 

 なればこそ。受けるだろう衝撃を少しでも軽いものにしようと、美咲は幸から何か情報を貰えないか声を掛ける。

 

「美咲さん、言いたいことは分かります……。けど、せめて到着するまでは何も言えません……! 大丈夫です、僕も一緒に頑張りますから……!」

「えー……」

 

 だが、帰ってきた反応は拒否。手を固く握ってそう告げる彼の姿は、まるでこれから戦にでも行くかのようだ。

 不安を小さくしようとした結果、逆に大きくなってしまった美咲。なるようになれ、と彼女はそう言うしかなかった。

 

 

――――――――

 

「いやね、確かに『なるようになれ』とは言ったよ? けど、これは……」

 

 あれからおよそ数十分。遂に目的地に到着し、少しぶりの陽が照らす大地へ足を着けた美咲は、目の前に存在するソレを見上げ、見渡し、そこで思考を停止させた。

 ここに来てしまうまでの短くはない時間。その間に美咲は、覚悟を決めてみせたつもりだった。

 過去にバッティングセンターを建てたり、ビルにも迫るサイズのペンギンを贈ったり。そういった事例を思い出して、最悪の場合それらと同程度の何かが待っていても大丈夫なように、気を強く持ったつもりだったのだ。

 

「お誕生日おめでとう、美咲! そして――ようこそミッシェルランドへ! ここは、あたしたちハロハピから美咲へのプレゼントよ!」

 

 満面の笑みを浮かべて、こころが祝いの言葉を口にする。その名前から悟れる通り、彼女の後ろにはミッシェルのあしらわれた巨大な門に、その姿を模したジェットコースターや観覧車など、どこまでもテーマパーク然とした光景が広がっていた。

 視界に入れた瞬間になんとなく理解はしてしまっていたが、それでも改めて言葉にされたことで嫌でも現実を受け止めなければならなくなり、美咲は頭を抱えた。

 

「はぁ……まじか」

「どうしたの、美咲? もしかして嬉しくなかったかしら?」

「あーいや、そんなことないよ。めちゃめちゃ嬉しいのは嬉しいんだけど……。うん、できれば『ここ』じゃなくて『これ』で表現できるものがよかったなー、なんて……」

 

 『これがプレゼント』ならば異常はない。ありふれた、極々普通のフレーズだ。だが、『ここがプレゼント』など、美咲は聞いたことがない。

 本当に自分のためだけにわざわざ建てたのか。

 今日が終わったらこの施設はどうなるのか。

 美咲がそんな疑問に苛まれている傍らで、こころたちは主役であるはずの彼女を置いて入口へと駆けていく。

 

「あー、コウくん? たぶん中に入ってからも色々用意してるんだろうし、そういうのは言わなくていいからさ……何でこうなったのかだけでも、教えてくれない?」

「あ、あははは。実は――」

 

 まだ足を踏み入れてすらいないのに、問いかける美咲の雰囲気は既にお腹いっぱいといった様子。

 苦笑いを浮かべながら、幸は原因となるある日の出来事を語った。

 

 

――――――

 

 曰くそれは、美咲の誕生日から二週間ほど前のとある平日のこと。

 

「それじゃあ、今から『美咲の誕生日プレゼントを考える会』を始めるわよ!」

『おー!』

 

 美咲に気付かれぬよう、秘密裏にハロハピ会議室に集まった五人は、一枚のホワイトボードを前にそんなものを開催していた。

 会は、こころがボードの前に立ち、それぞれが出した案をまとめていくという形式で進められたが、なかなかどうして、成果はあがらない様子だった。

 

「美咲が好きなものって何かしら?」

「はいはーい! 確かみーくん、ファミレスの料理が好きだって言ってたよ!」

「うーん、だったら、ファミレスの料理をみーんな並べてパーティーをしたら、美咲は喜んでくれるかしら?」

「それは、えっと……どうだろうね?」

 

 美咲がファミレスの料理を好きだということは確かであったが、その理由が『ハズレがなくて無難』という消去法に近いものだと知っている花音は曖昧に笑う。

 喜ばないということは絶対にないであろうが、同時に微妙な表情をしている美咲の姿が、彼女には容易に想像できた。

 

「やはり、美咲と言ったら羊毛フェルトじゃないかい?」

「それだわ! 教室でもよくやっているし、お山ができるくらいのフェルトをあげたら、きっと喜んでくれるわよね!」

「そ、そんなにたくさんだと、逆に困っちゃうんじゃないかな……?」

 

 といった具合で。こころたちの出す案は間違ってこそいないものの、極端すぎるきらいがあった。

 その後もあれやこれやと意見を出していくのだが、いまいちこれだと言えるものが見つからない。パッと思いつくものは粗方出尽くして、ここまでの中から妥協案をとろうかとなりかけたその時、はぐみの口にした言葉が場の流れを大きく変えた。

 

「あっ! ミッシェルはどうかな? みーくんとミッシェルって、すっごい仲良しだったよね?」

「そうね、連絡先を知ってるのも美咲だけだし、二人はとっても仲がいいのだと思うわ!」

「あの、二人とも……? それはミッシェルが美咲ちゃんだからで……」

 

「うんうん! それに、みーくんってミッシェルの話をする時、いっつも笑ってるよね!」

「確かにそうね。この前『ミッシェルはまだかしら?』って訊いた時だって笑ってたし、名前が出るだけで笑顔になっちゃうくらい大好きなのね!」

「こころさん、あれはおそらく苦笑いだと思うんですけど……」

 

「けれど、美咲とミッシェルはいつも入れ違いになってしまうのが――はっ!? そうだ、私たちが二人を引きあわせる、いわばキューピッドになるというのはどうだい?」

「それだわ! 薫、ナイスアイティアよ!」

「それは物理的に無理が……ふえぇぇ……」

 

 はぐみの案を皮切りに、話し合いは急加速してゆく。その勢いといえば、合間合間に口を挟もうとする幸と花音の二人が一瞬で置いてけぼりにされてしまうほど。

 感性の一般的な、美咲の言う常識人である二人だが、この場における進行方向へ影響を与えるには、いかんせん持ち合わせるパワーが足りていないようだった。

 今までの停滞が嘘だったかのように、議論はどんどんと進められていく。

 その途中で、こころの発した一つの疑問、そして対するはぐみの回答が、ある意味で未来で美咲の頭を悩ませる、直接的な原因だったと言えるかもしれない。

 

「なら、美咲には秘密でミッシェルと連絡を取らないといけないわね……。ミッシェルってどこに住んでるのかしら?」

「はぐみ知ってるよ! この前みんなでお茶してた時に、みーくんが言ってたんだ。確かミッシェルランドっていう――」

 

 そんな会話に物陰から密かに聞き耳を立てている存在がいたとは、この場にいる誰もが、気付いていなかった。

 

 

―――――――

 

 というわけです、そう、幸の語りが締めくくられる。

 すべての話を聞き終えた美咲の表情は、それはもう何とも言えないものだった。

 

(あたしか……? あたしが悪いのか? これは……)

 

 幸の話を聞く限りでは、今の美咲の状況を『身から出た錆』という言葉が的確に表しているように思える。だが、お茶会の最中に適当に流した言葉を拾い上げて錆とするのは、どうにも彼女には納得がいかなかった。

 加えて、もしも相手がこころたちでなければそれは錆足りえなかったのだから、尚更だ。

 

「はぁ、でも仕方ないか。もう起こっちゃったものは」

 

 一つ、美咲は大きく溜め息を吐くと、それがスイッチであったかのように、すぐさま気持ちを切り替える。

 わざわざ自分の為だけに建てられた。その情報にさえ目をつぶれば、こころたちのプレゼントはテーマパークのチケットをくれたようなもの。

 こういった施設には久しく来ていなかったということもあり、美咲は今日はここを目一杯遊んでやろうと心に決める。それはまさに現実逃避という他なかったが、そうせずにはいられなかった。

 

「見て! ミッシェルがいーっぱいいるわ!」

「ほんとだ、すごーい!」

 

 こころたちの後を追いかけて大きな門をくぐった美咲たちを出迎えたのは、言葉の通り、数え切れないほどのミッシェルの大群。

 一体一体の姿はどれもかわいく作られているのだが、それがこうも多量に並ぶと、無機質な瞳も相まって美咲にはどこか不気味ささえ感じる光景に思えた。普段は内に入る立場で、外側からのミッシェルを見慣れていないというのも原因の一つかもしれないが。

 

「よーし、じゃあさっそくアトラクションに乗りましょう!」

 

 風船をくれるミッシェル、握手をしてくれるミッシェルなどなど。言葉は発しないながらも、テーマパークのマスコットとしての働きをみせるミッシェルの相手もそこそこに、こころたちが最初に向かったのは汽車のアトラクションだった。

 先頭部分にミッシェルのプリントされた汽車が、敷かれたレールの上をゆっくりと進む。アトラクションとは言ってもこれは、スリルなどがあるわけではない、少し子ども向けのもののようだ。

 

「美咲、お誕生日おめでとう!」

 

 二人づつに別れたシートで、美咲の隣に座るこころが不意にそんなことを言った。

 

「それ、さっきも聞いたよ」

「いいじゃない。おめでとうなんて、百回でも、千回でも、きっと言うだけハッピーな気持ちになれるわ!」

「……さいで」

 

 身じろぎでもすれば触れてしまいそうな寸での距離で、こころの笑顔はまるで花のように咲くものであるから、美咲はそれがどうにも眩しくて、思わず顔をそらしてしまった。

 それからもずっと汽車は進み続ける。その間に何度か、美咲は顔を向けずに目線だけでこころの方を盗み見たりもしたが、どの瞬間も彼女は美咲に向かってにこにこと笑顔を向け続けていて。

 ついぞ美咲は、汽車がレールを一周してガタンと車体を揺らすその時まで、一度も向き直ることができなかった。

 けれど。

 

「あら、もう戻って来てしまったの。楽しい時間というのは一瞬ね」

「そう、だね。うん。今日はありがと、こころ。あたしも、精一杯楽しませてもらうよ」

「……! えぇ! いーっぱい楽しんでいってちょうだいね!」

 

 無垢の化身のような友人に、そのまま終わってしまうのも悪い気がしてしまって、美咲は普段なら内にしまったまま漏らさないような言葉を少しだけ漏らすのだった。

 

 つづいて一同が向かったのはコーヒーカップ。こちらも造り自体は何の変哲もないものだが、やはりカップの外側はミッシェルの顔をイメージしたデザインになっていた。

 一様に停止したカップの一つに美咲が乗り込むと、続いてはぐみがその対面に腰を下ろした。

 

「すごーい、ほんとにカップの形してるんだね! はぐみ、実はコーヒーカップって乗るの初めてなんだ。みーくんは?」

「あたしは……小さい頃に妹と一回だけ乗った、かな」

 

 もはや薄ぼんやりとなった記憶を、美咲はなんとか掘り起こす。テーマパークへやってくることはあっても、美咲にはコーヒーカップはあまり楽しそうなものに見えず、思い当たったのは本当に幼少のころのものだけであった。

 そんな話をしているうちに、残りの四人も無事に搭乗を終えたようで、静寂を守っていたカップが一斉に滑るように動き出した。ちなみに、あまったカップにはミッシェルが乗りこみ、もの寂しさを感じないように配慮されている。

 

「わ、動きだしたよ! たしか、真ん中のこれを回すんだよね?」

「そうだけど……あんまり回しすぎないようにね?」

「うん! あ、そうだ。みーくん、お誕生日おめでとう!」

「うぇ? あ、ありがとう……。どしたの、急に?」

「えへへ、汽車でこころんとみーくんが話してるのが聞こえてね、何だか言いたくなっちゃった。よーし、回すぞー!」

「あ、ちょっとはぐみ、回しすぎないでって――」

 

 果たしてそれは耳に届いていなかったか、もしくは右から左に流れていってしまったらしい。

 初めはゆっくりと回転していたカップは、次第にそこそこ、かなり、と速度を上げていくことになる。途中からなどは、楽しそうな表情でカップを回すはぐみと、必死な顔で逆向きに力を込める美咲との戦いとなってしまっていた。

 

「あっ、終わりかぁ」

「……ぜぇ、ぜぇ。終わり……かぁ」

 

 そんなことがあったものだから、規定の時間が経ってカップが停止する頃には、美咲は疲労困憊といった様相を呈していた。隣で汗一つかかずにアトラクションの終わりを残念がっているはぐみとの対比が、その体力の差を如実に表している。

 

「楽しかったね、コウくん」

「はい!」

「薫、とっても楽しかったわね!」

「は、はは……そう、だね……」

 

 もっとも、その身にダメージを負ったのは彼女だけではなかったらしい。美咲とはぐみに続いてカップを降りてきた二組の内、こころのいた方では同じような光景が見受けられた。

 そして不幸なことに、薫の身に降りかかる不幸は、それで終わりではなかった。

 

「次はあれに乗りましょう!」

 

 そう言ってこころの指さす先には、とあるアトラクションが。

 それは、こういった場所の代名詞ともいえるもの――つまり、ジェットコースターであった。

 

「……そうだ、コウ。君はジェットコースターは乗ったことはあるかい?」

「い、いえ、こういう場所自体あまり来たことがなくって……。ジェットコースターも初めてなんです」

「いいかい、ジェットコースターというのは非常に危険な乗り物なんだ。怖くないかい? もし怖いなら、みんなが乗っている間、私がここで一緒にまってあげても――」

「さぁ、薫。いっくわよー!」

「あ、あぁ、こころ……ちょっと待っ――あぁぁぁ」

「……?」

(薫さん、高所恐怖症だったね……)

 

 引きずられていく薫。首を傾げる幸。そして、それを見て心の中で合掌をする美咲。

 普通のテーマパークならジェットコースーターのような人気アトラクションに乗るには、それこそ数時間単位で待つ必要があるが、今日ここを利用しているのは彼女たちだけ。

 並び列なんてものは存在せず、六人はすぐに機体の発着場に辿り着いた。これも当然、機体はミッシェルデザインだ。

 

「美咲は今日の主役なんだから、一番前に乗るといいわ!」

「えー、何か怖くない? 一番前って」

「ううん! ビューンってなる景色が一番よく見えて、きっと楽しいと思う!」

「そ、そう?」

 

 その熱意に押されて、美咲は一番前の席へ座る。隣には、花音が腰を下ろした。

 

「えへへ、なんだかドキドキしてきちゃった」

「あぁ、わかります。こういうのって、初めが一番緊張しますよね」

「うん、勢いが乗っちゃったら、後はもう一瞬だもんね。……あっ、動き出すみたい」

 

 花音の言う通り、機体が一度大きく振動して、ひどく急な角度のレールを重力に逆らいながらのぼってゆく。まるで、高度と鼓動がリンクしているがごとく、空が近くなるたびに心拍は早まり、頂点に達する頃にはバクバクという音が自分で感じられるほどになっていた。

 

「花音さん、『ふわっ』が来ますよ」

「そう、だね。『ふわっ』だね」

 

 ずっと上だけを見ていたミッシェルが、その鼻先を下にする。

 

「美咲ちゃん――」

 

 そこから先は、特に語るべきこともない。強いて言えば、黄色い声をあげていた者が二名、悲鳴をあげていた者が二名、特に声をあげなかった者が一名に、声をあげられなかった者が一名いた、というくらいか。

 

「ふぅ、すっごい楽しかったね! 何回でも乗りたいくらいだよ!」

「そうね! けど、それじゃ他のアトラクションに乗る時間がなくなっちゃうわ! また今度みんなで来ましょう!」

「うん、絶対来よう!」

「あぁ……儚い」

 

 騒ぐ二人の隣、薫はなんとか自分の足で立ってはいるものの、その顔は若干青い。

 さすがにかわいそうに思った美咲が肩を貸してやりながらしばらく歩いていると、視線の先に何かを見つけたようで、薫が震える手である方向を指さした。

 

「つ、次はあれなんてどうかな?」

 

 そこにあったのは、いわゆるメリーゴーランドと呼ばれるアトラクション。上下に揺れ動きながら馬が進む裏では、ハロハピの楽曲が流されている。その曲調とメリーゴーランドの雰囲気は非常にマッチしており、とても楽しげであった。

 外と内、二列に並んだ馬の中からどれに乗ろうかと美咲が悩んでいると、その横合いから目の前にスッと手が伸びてくる。そちらへ視線を向けると、それは薫のもので。彼女は既に白馬に跨って、気障な笑みを浮かべていた。

 

「こちらへどうぞ、子猫ちゃん」

「え、二人乗りなんです? これ」

 

 そんな現実的な思考が先に来て、美咲は薫の手を取るよりも先に、案内板に目をやってしまう。

 それによれば、必ずしもそうあるべきとまではいかないが、二人で乗ることも可能であるらしかった。

 視界の端ではこころやはぐみが一人で馬に跨っているが、折角だから、そういう理由で美咲は薫の手を取ることにした。

 

「ほっ……よっ、と」

「無事に乗れたかな? しっかりと私につかまっておくんだよ、振り落とされないようにね」

「そんな、本物の馬じゃないんだから……」

 

 美咲は呆れの声を出す。少なくとも彼女の知るメリーゴーランドは、人が振り落とされるような速度を出すアトラクションではなかった。

 

「ははは、すまない。ついシルバーに乗っている時のことを――おっと」

 

 薫の話が愛馬のものに移ろうとしたタイミングで、メリーゴーランドが稼働を始める。

 薫の言ったような『振り落とされる』というほどではないが、それでもツルツルとした表面の馬はすべりやすく、少しバランスを崩した拍子にでもずりおちてしまいそうだ。

 前側に座る薫と違って取っ手がない美咲は、言われたとおりに前にある身体へぎゅっとつかまらなければなかなかった。

 

「へー、メリーゴーランドってこんな感じなんですね」

「おや、美咲は乗ったことがなかったのかい?」

「さっきのはぐみじゃないですけど……まぁ、そうですね。ぶっちゃけ、見てる分にはぜんぜん楽しそうな感じがしなかったもんで」

「ふふ。なら、実際に乗ってみた感想はどうだい? とても儚いだろう?」

「儚いかはともかくとして……まぁ、悪くはないってくらいですかね」

 

 もっとも、仮に独りでテーマパークへ行く機会があったとしても、美咲がメリーゴーランドに乗ることはないだろう。

 楽しく感じられるのはきっと、ハロハピのみんなと一緒にいるからである、と心のどこかで彼女は理解していた。

 それからおよそ一分。周回を五度ほど繰り返したところで、馬はその動きを停止させた。

 

「あ、終わりみたいですね」

「そうか、この子ともお別れの時間がやってきてしまったのか……」

「この子って、その馬は作りものなんですけど……」

 

 本気なのか冗談なのか、普段の言動のせいでどちらか判断しかねるようなセリフ。

 愛おしそうに馬の頭を撫でる薫を放って、美咲が先へと戻って歩きだす。

 

「誕生日おめでとう、美咲」

「……薫さんもですか。はいはい、ありがとうございます」

 

しかし、その矢先に耳元でそんなことを囁かれて、美咲は足を止めた。

 もう今日になってから十では利かないほど言われているはずの彼女が口元を手で隠している。それを見るに、汽車の上でこころの口にした言葉は真理であるように思われた。

 

「もうそろそろいい時間になってきたね」

 

 日のすっかり沈んだ空を見上げて、美咲が呟く。

 彼女たちは学校が終わってからここへやってきているため、時刻はもうじき七時に迫ろうとまでしていた。さらに、夜には家族で夕食を食べるという予定が美咲にはあり。そんな諸々を考慮すると、乗れるアトラクションはあと一つがいいところだった。

 

「なら、最後はあれね!」

 

 そう言ってこころが指さしたのは、ずばり観覧車。それはこういった施設の締めとしては定番のものだと言えよう。

 そこに異存がある者は誰もいないようで、一行は観覧車に向けて歩きだすのだが、その道半ばで、美咲が声をあげた。

 

「すいません、ちょっとお手洗いに」

「あ、実は私も……」

 

 お手洗いに行きたい旨を伝えると、便乗して花音も同じく声をあげる。

 話し合いの結果、四人は先に観覧車のもとへ向かい、乗り場で直接合流をすることとなった。

 一旦四人と別れて、花音と美咲は立札の案内に従ってトイレへ向かう。

 

「えぇ……」

 

 できたばかりというだけあって、その清潔具合は結構なものであったが、便器やトイレットペーパーまでもがミッシェルを模して作られていることには、美咲は何といえばいいかわからなかった。

 手早く用を足した二人は、すぐに待たせている四人のもとへと歩き出す。

 どのような道を通ってここまで来たか覚えてはいなかったが、目的地は園内のどこからでも見える観覧車。二人の足が惑うことはなかった。

 

「そういえば花音さん」

「なぁに、美咲ちゃん?」

 

 その道すがら、美咲は一つ疑問に思っていたことを花音に尋ねた。

 

「ジェットコースターで花音さん、急降下の瞬間に『お誕生日おめでとう』って言いましたよね?」

「あ、ちゃんと聞こえちゃってたんだ……」

「えぇ、それはもうばっちり。それで、同じようなことはぐみたちからも言われたんですけど……もしかして、まだ何か企んでます?」

 

 それは、美咲がずっと怪しんでいた可能性だった。

 ここに来てから、既に何度も言われた『お誕生日おめでとう』の言葉。こころや花音はともかくとして、はぐみや薫の場合タイミングがどこか不自然な感覚が美咲はしていた。

 そういったわけで、美咲はまだ自分が気付いていない画策が何かあるのではないか、とそう花音に問うたのだが、彼女は一瞬ポカンと呆けた後、クスクスと笑うのだった。

 

「ふふ、企むってほどではないんだけどね。実は、今日ここで乗ったアトラクションはね、私たちが一人一つづつ考えたものなんだ」

「えっ?」

 

 衝撃の情報に、美咲は思わず声をこぼす。

 確かに、この施設は例の会議の後に造られたものなのだから、そういった芸当も可能ではあるのだろう。とはいっても、こころたちからすればミッシェルランドは元から存在するミッシェルの住む場所という扱い。よって直接的にこれを設置したいと声を聞いた訳ではないが、彼女らの希望を反映させたアトラクションであることは確かであった。

 

「となると、ジェットコースターはこころかはぐみとして、メリーゴーランドは薫さんかな? コーヒーカップは花音さんで、汽車は……どっちだ?」

 

 今日乗ったアトラクションを思い起こして、それを考案しただろう人物をあてはめてゆく美咲。汽車以外に人をあてはめて、最後のそこで悩んでいる彼女を見て、しかし花音はまたも小さく笑った。

 

「そう思うでしょ? でもね、アトラクションを考えたのは、それぞれで美咲ちゃんの隣にいた人だよ」

「えー……えっ?」

 

 花音に言われたことを受け止め、噛み砕き、呑み込んで、美咲は理解できないといった顔をした。

 なぜなら、その法則に従えば美咲の予想ははずれもはずれ。これがテストなら赤点確定だ。

 

「はぐみがコーヒーカップで花音さんがジェットコースター……すごい意外だ」

「最初はちょっと違ったんだけどね」

 

 続けて曰く、本当は花音は初めコーヒーカップを考えていたのだとか。その理由は、きっとこころやはぐみが激しい動きをするアトラクションを好むだろうから、せめて自分は休憩ができるものにしようというもの。

 

「けど、いざ蓋を開けてみたらはぐみちゃんがコーヒーカップでこころちゃんは汽車でしょ? そうなると逆に、テーマパークらしいのが一つは必要かなって思って」

「それは何と言うか……いつも気を使ってもらって、ほんとありがとうございます」

「ううん、私の方こそ、美咲ちゃんにはいつも助けてもらってるから」

「ん、こころが汽車ってことは……?」

 

 花音とお礼合戦をしている途中で、美咲はあることに気がついた。

 花音が言うには汽車を選んだのはこころ。ならば、今向かっている観覧車を選んだのは一体誰か。

 

「花音さん、ちょっと急ぎましょうか」

「ふふ、そうだね」

 

 その問いの答えには、美咲の足を少しだけ速める力があるようだった。

 

 

 

「ごめん、遅くなっちゃったね」

 

 早歩きで進むこと数分。美咲と花音は、無事に四人と合流することができた。

 

「それじゃあ、さっそく乗りましょうか!」

「ん、そうだね」

 

 こころの声に従って、美咲は一番乗りでゴンドラへと乗り込む。

 ここまでもアトラクションでは、何気ない流れでその考案者が美咲の隣へ収まって来ていた。今になって考えればジェットコースターの時にこころたちが無理に美咲を先頭に座らせようとしたのには、そういった意図もあったのだろう。

 だが、事情を知った今となっては、美咲は逆にこの後の流れを読むことさえできる。彼女が一番に乗り込んだ時点で、次に出てくる人物は決定したのだから。

 

「さ、おいでコウくん」

「は、はい!」

 

 美咲の声に反応して、幸がミッシェル型のゴンドラへ乗り込む。そこは四人程度ならば余裕を持って座れる空間だったが、美咲と幸の二人が入った時点で扉は閉まり、ゆっくりと回転を始めた。

 

「……この観覧車は、コウくんが考えてくれたんだってね?」

「えっ!? あの、えっと……花音さんから聞いたんですか?」

「うん、聞いちゃった。ごめんね」

 

 ガコン、と音を立ててゴンドラが停止する。おそらく次のゴンドラにこころたちの内の誰かが乗り込んでいるということだろう。

 

「なるほどねぇ、ミッシェルランドはハロハピの皆からで、それぞれのアトラクションが一人一人からのプレゼントだったと」

「まぁ……そうですね」

「ねぇ、コウくん。これさ、何かを思い出さない?」

 

 ガコン。ゴンドラが再び動き出す。

 美咲の問いかけはひどく曖昧で、幸は何を言っているのかと頭を悩ませた。

 

「あー、『これ』じゃ何のこと言ってるのかわかんないか」

 

 ガコン。

 

「ハロハピ全体からのプレゼントと、個人からのプレゼント。こんな感じの渡し方、何か思い出さない?」

「――あ」

 

 そこまで示されてようやく、幸は美咲の言っていること、そしてそれによって更に伝えようとしている思いに考えが至った。

 その渡し方は、まさに幸がハロハピに入った時のプレゼントと同じ。

 そして――。

 

「あの時、コウくんはいくつプレゼントをもらったっけ?」

「……七つ、ですね」

 

 ハロハピ全体で一つ。残りはこころ、はぐみ、薫、花音、美咲、そして――ミッシェル。

 美咲とはミッシェルであり、ミッシェルとはつまり美咲である。

 

「だからさ……うん。あたしもプレゼントが欲しいなって思うんだよ、みゆき()

 

 ガコン。

 この観覧車は多くのものがそうであるように、ゴンドラの上半分だけがガラス張りで外を覗けるようになっている。

 それはつまり、二人の乗っているゴンドラが頂点を通過すれば後続から中が見えるが、それまでは誰の目にも入らないということ。

 観覧車は、既に三度目の始動を終えている。残された時間は、もう僅かだ。

 だから、(コウ)()であることを許されているうちに――。

 

「美咲さん、お誕生日おめでとうございます」




登場するアトラクションはすべてピコの六話に映ったものです。


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閑話「火の花の 美しく咲く 香と音に 心うはぐみ 幸は世に降る」前編

バンドリの花火大会があると聞いて



・うはぐむ……呆然とする、呆気にとられる


「……では、時間も近いですし今日はこのあたりにしておきましょうか」

「あ、本当ですね。ありがとうございました、先生」

 

 幸とハロハピの激動の二週間からしばらく。それ以前と比べて、現在の彼の生活はまったくと言っていいほど違ったものになっていた。

 

 美咲と幸が互いに思いを打ち明けたあの日。彼の父親は約束に則り、自ら変化を求めた幸に対して真摯に向き合って、その意志を尊重した。

 

 家督を継ぐための稽古は変わらずあるが、これまでのように生活の中に他の要素を許さぬような多忙さはない。ハロハピの練習やライブにだって――事前の申告や予定の調整が必要ではあるが――顔を出すことができているし、休日にはなんと、遊びにいくことだってあった。

 彼の境遇を争点にたびたび言い合いをしていた優と父親の仲も、そこに対立を感じるようなものではなくなった。もっとも、気持ちよく良好であると言うにはまだ隔たりがあるかもしれないが、ともかく、そういった点も含めて、彼を取り巻く環境はことごとくが好転しているよう見えた。

 

 

 

 稽古をつけてくれていた先生に深く一礼をして部屋に戻った幸は、机に置いていた携帯の画面が光を放っていることに気が付いた。

 

『今って大丈夫?』

 

 手に取って見てみれば、そんな内容のメッセージが画面の中央に表示されている。詳しく確認するに、その送り主は美咲で、送信されてきたのはほんの五分ほど前のことであるらしかった。

 

 稽古の予定が重なり彼は参加することができなかったが、今日ハロハピは『CiRCLE』でバンド練習をしていた。近々あたらしい曲を作るって話もあがってたしそのあたりのことかな、と心当たりを洗いながら幸は、今しがた稽古が終わったという旨のメッセージを返す。するとものの数秒で、彼の携帯が着信に震えた。

 

『もしもし?』

「はい、もしもし。こんばんは、美咲さん」

『さっきまでお稽古だったんだって? お疲れ様』

「ありがとうございます。それでその、どうしたんですか? 今日の練習で何かありました?」

『んー、いや、練習中にってわけではないんだけど、実はさ――』

 

 そう前置いて、美咲は本題について話し始めた。

 

「……花火大会、ですか?」

『うん、そうなんだよね。今日の練習の後、宿題の話からその場のノリで決まっちゃって』

 

 彼女の話をまとめれば、まず、美咲たちの学年では夏休みの宿題の一つとして俳句を作ってくることが課せられていたらしい。その作成がうまくいっていないことを聞いた花音が、俳句をつくる一助として花火大会に行くことを提案したのだと。

 

『日付は来週の日曜なんだけど……どうかな、予定空いてない?』

「ちょっと確認してみますね。……えっと、午前はお稽古が入ってるので厳しいですが、お昼以降でしたら大丈夫そうです」

『ほんと? あくまで目的は夜の花火だし、屋台とかまわるにしてもそんなに早くは集まらないだろうから、いけそうだね――っと、ごめん。夜ご飯できたみたいだから行ってくる』

 

 幸の参加が決まった途端に、ちょうどよいタイミングで美咲がそう切り出した。直前、彼の耳は電話の向こう側に聞きなれない声をとらえており、きっと妹か弟でもが彼女を呼びに来たのだろう。

 

『――あ、そうそう』

 

 そうして電話は切られようとしたのだが、どうやら何か伝え忘れたことでもあったらしい。美咲が再び口を開いた。

 

『当日、浴衣だからね。よろしく』

「……へ?」

『それじゃ、今度こそ行ってくるね。ばいばい』

「み、美咲さん!? 浴衣ってそん――あ、切れてる……」

 

 最後の最後で見舞われた特大の置き土産に、幸は咄嗟に声を上げようとしたが、きっと彼女には届いていなかったに違いない。

 

 

 

――――――――

 

 

 

 祖師谷幸は祖師谷優の皮をかぶり、祖師谷コウと成る。

 字面はまったく複雑怪奇なものであるが、それが彼のことを端的に言い表す一文であることも確かであった。

 

「うん、これでバッチシって感じ!」

「ほんと? 変なところとかない?」

「変なもんですか! めっちゃくちゃかわいいわよ!」

「……それ、あんまり嬉しくないんだけど」

「えー、でも本当にかわいいわよ! 香澄とかが見たら秒で抱き着くレベルね!」

 

 あっという間にやってきた、花火大会の当日。

 午前中の稽古を、若干ソワソワとした心持ちでこなした幸は今まさに、花火大会へ赴くための身支度をしているところだった。とはいっても、女性用浴衣の着方などを彼が知っているはずもなく、こうして本来の持ち主である優に着付けを手伝ってもらっている。

 帯から、髪飾り、足袋まで。姉の手によって完璧に仕上げられた己の姿を鏡越しに確かめて、幸は嘆息をする。甚だ遺憾ながら、先の『嬉しくない評価』は自分の口でも否定ができそうになかった。

 

「そろそろ時間ね。ほら、いってらっしゃい」

「わっ、わわっ……ちょっと」

「楽しんでくるのよー!」

 

 ぐいぐいと強く背中を押されて、幸は半ばつんのめるような勢いで玄関を飛び出る。そして、姉のその強引さに呆れつつ、すぐそこに立っていた人物へ声をかけた。

 

「お待たせしました」

「ううん、ちょうど今来たところだよ……なんて」

 

 定番、などと一般に言われるやりとりを交わし、奥沢美咲はにへらと笑う。

 幸が休日に遊びに出かけるようになったのはほんの最近のことであるが、そういった時に彼女がこうして家まで迎えに来ることは、もはや常となりつつあった。

 

「……にしても(みゆき)、浴衣似合ってるねー」

「そ、そうですか?」

「うん、すっごいかわいいよ」

「……もう! それはこっちの台詞ですっ!」

「あはは、冗談――ではないんだけど、そう怒んないでよ。それとまぁ……ありがと?」

 

 からかうような表情で、しかし、嘘偽りのない言葉を口にする美咲。そんな彼女もまた、落ち着いた藍色の生地にところどころ花柄のあしらわれた浴衣に身を包んでおり、幸の口からこぼれた本音は、意図せず反撃の一手となった。

 なんとなくお互いの顔が見れなくなり、微妙な空気が流れること数秒。なにをやっているんだと、どちらからともなく笑いがあふれ、二人は笑顔のまま花火大会へと歩き出した。

 

 

 

 電車で数駅、徒歩で数分。それだけの道のりを経て二人は、花火大会の会場に到着した。

 

「わぁ、すごい活気ですね!」

「うん、これは……ちょっと予想以上かも」

 

 目玉である打ち上げ花火まではまだ時間があるというのに、屋台の並ぶ通りは数えきれないほどの人がごったがえしており、二人は圧倒されてしまっていた。

 花火が近づいてさらに人ごみの増すことがあれば、身体の小さな幸などはすぐに逸れてしまいそうだ、と美咲は思った。

 

「にしても、ちょっと早く着いちゃったなぁ」

 

 携帯で時間を確認して、美咲は小さくつぶやく。

 事前の話し合いで、花火の前に屋台を楽しむために少し早く集合しようと決めていたのだが、二人はそれよりも早く会場についてしまった。他のメンバーがやってくるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。

 

「そういえば、花音さんは大丈夫でしょうか? ここに来るまで結構距離がありましたけど……」

「あー、花音さんならはぐみが迎えに行ってくれてるよ。だから大丈夫じゃないかな」

「そうなんですね。ふふ、それならよかったです」

 

 時間をつぶすため、そんな他愛のない話を二人はしていたのだが、その途中で美咲はふと、幸の視線がある方向をしきりに気にしている様子であることに気が付いた。

 

「……気になる?」

「へっ!? な、何のことでしょう!?」

「いや、さっきからチラチラあっちの方みてるじゃん? なんか気になる屋台でもあったのかなーって思って」

「……なにぶん、こういったお祭りに来るのは初めてなので、色々と気になってしまって……すいません」

 

 美咲としては単純に疑問を投げただけのつもりだったのだが、対して幸は、何故だか申し訳なさげに顔を伏せ、謝罪の言葉を口にした。

 その意味がわからず彼女が事情を聴けば、曰く、他のメンバーが到着していないというのに早く屋台を楽しみたいと思ってしまったことを申し訳なく思った、のだと。

 

(……あほかな?)

 

 きっとそれは、彼の清らかで尊い、そんな精神の顕れであって。とても素晴らしいことではあるのだろうが、美咲の心に浮かんだのは、そんな感想だった。

 この場にいないメンバーの誰もが、そんなことは気にするはずがなく、むしろ幸が自分の気持ちを押さえつけることこそを許さないだろうことを、美咲は知っているから。

 

「よし。じゃ、行ってみよっか」

「えっ? そ、そんな、ダメですよ! 他の皆さんに悪いです!」

 

 そしてそれは、彼女も同じ。生まれて初めてやってきたという大きなお祭り。幸にはめいっぱい楽しんでほしいと、美咲は心の底から思っていた。

 

「まぁまぁ、考えてもみなって。こころたちと合流した後はさ、きっと楽しいんだろうけど、絶対どんちゃん騒ぎになっておちおち屋台もまわれないよ」

「…………」

「こんなに落ち着いてられるのはたぶん今だけだし、少しくらい自分に正直になっても、みんな気にしないよ」

「……そう、でしょうか?」

「もちろん。なんなら、そっちの方が喜ぶかもしれないくらい。だからさ、みんなが来るまでのちょっとの間だけ、一緒に……ね?」

 

 そう言って美咲が手を差し出すと、彼はしばらく葛藤をしている様子であったが、やがておずおずと手を伸ばして、そしてキュッと握るのだった。



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閑話「火の花の 美しく咲く 香と音に 心うはぐみ 幸は世に降る」中編

「いたいた。おーい、花音さーん、はぐみー!」

 

 時刻は美咲と幸の到着してからおよそニ十分が経ったあたり。何かを買うでもなく、文字通り屋台を『見て回った』二人は、既にこころ、薫とは合流しており、残る二人の姿を遠方に見つけ、大きく手を振った。

 美咲たちの存在に気づいた途端、はぐみは歩行のギアを数段引き上げて全速力で四人のいる方へと向かってくる。

 

「は、はぐみちゃ――ふえぇぇ!」

 

 必然、手を引かれていた花音は同じ速度を強要され、目を回すこととなっていた。

 

「みんなお待たせー! 花火はまだ上がってないよね?」

「えぇ、大丈夫よ。けど、きっと今にでもお空に上がると思うの! みんな集まったことだし、さっそく花火を見に行きましょう!」

「いやいや、待ちなさいって。あんたたち、いったい何のために早く集まったのか忘れたの?」

『…………?』

「そんな揃って首をかしげないでよ、もう……」

 

 二人とも昨日の話し合いにいたはずなんだけど、そんな言葉を飲み込んで、美咲は頭を抱える。

 花火だけでなく、お祭り自体も俳句の題材としてよく取り上げられること。雰囲気を満喫するために、先に屋台を回ろうと決めたこと。

 それらを懇切丁寧に説明してやる美咲の背中を横目に幸は、膝に手をついて、乱れた息をなんとか整えようとしている花音の方へと歩み寄った。

 

「……あの、大丈夫ですか?」

「は、はぁ、はぁ……ふぅ。うん、なんとか。心配してくれて、ありがとう。えっと――」

 

 何度かの深呼吸の末、ようやく落ち着いた彼女は感謝の言葉をいったん区切り、キョロキョロと周囲の確認した。そして、他のメンバーの意識がひとしくこちらに向いていないことを確認すると……。

 

(みゆき)くん」

 

 そう、続けた。

 この言葉の示す通りであるが、彼の名前のついては、既に花音も知るところとなっている。

 想いを伝えあったあの日、高じた気持ちのまま『自分だけの呼び名にしたい』などと企てた美咲ではあったが、それはあくまで魔が差しただけの、ほんの一時のもの。次の日には花音に、またこころたちにも――こちらはダメ元で――それとなく伝えられた。結果は言わずもがなであったが。

 そういった事情から、美咲と花音の二人は、周囲にいる人物次第で幸の呼び名を変えているのだ。

 

「そういえばそうだった気もするわね? なら、まずはお祭りを全力で楽しみましょう! あたし、わたあめが食べたいわ!」

 

 そんなやりとりのうちに、美咲のお話が終わったらしい。目的を思いだしたこころが、真っすぐに挙手をして、声を上げた。

 

「じゃあじゃあ、はぐみはりんご飴が食べたいな!」

「ふふ、それなら私はお好み焼きを……」

「見事にバラバラですね」

「だ、だね……。うーん、全部まわりきれるかなぁ?」

 

 メンバーそれぞれのお目当てを聞いて、そんな一抹の不安がよぎる。いくらか時間に余裕を持たせているとはいえ、それぞれ別の店を一つ一つまわることができる程かと言われれば、怪しいところではあった。

 どうしたものかと花音たちが頭をひねっていると、横からこころがある提案をする。

 

「まずは二手に分かれてお買い物をしましょう! みんなが好きなものを買ったら、それから集まって、ゆっくり楽しむの!」

 

 それは、なんとも理にかなった解決策で。五人の誰も反対することはなく、こころの提案通り彼女たちは二手に分かれることにした。

 

「よーし、それじゃあ出発よ! 行きましょ、花音!」

「こ、こころちゃん!? わかったから引っ張らないでえぇ……!」

「……やれやれ、では私は花音たちについていくとしようか。三人とも、またあとで」

 

 まるで数分前の焼き直しのごとく。手を引かれてグングンと遠くなっていく後ろ姿に美咲は、花音の体力がもつことを、強く願った。

 

 

 

 

「あ、見つけたよー! あっちあっち!」

 

 はぐみ、美咲、幸の三人グループは、当然とでもいうべきか、最も活力にあふれるはぐみが行動の中心であり、また先頭であった。今だってこうして、まさに見つけたお目当ての屋台へと、二人の手を引っ張っていっている。

 別行動になる前にも言っていた通り、彼女のお目当てとはずばり、りんご飴だ。三人の目の前には、真っ赤に輝くそれらが綺麗に並べられている。

 

「これが……りんご飴、ですか?」

「えっ!? もしかしてりんご飴のことを知らないの!?」

「あ、えっと、言葉としては知ってたんですけど実際に見るのは初めてで……。こんな、りんごが丸々入っているものだったんですね」

 

 その名前から、てっきりりんごの味がする飴なのだと思っていた幸は、予想を全力で裏切ってくる、大きく丸い姿に驚きを隠せなかった。

 

「りんご飴はねー、すっっごいおいしいんだよ! おじちゃん、ひとつください!」

 

 一瞬の迷いもなく購入を決めたはぐみは、お代を手渡して、飴を受け取る。そのまますぐ、手の中のそれを一舐めすると、後ろで待つ美咲たちの方へと振り返った。

 

「えへへ、甘くておいしい! みーくんたちはどうする? りんご飴買う?」

「あー、あたしはパスかなぁ……。りんご飴は別に嫌いじゃないんだけど、なんていうか、ちょっと食べにくくない? 舐めても全然減らないし、かといって噛むのは難しいし……」

「そうかなぁ? ……あ、でも! はぐみも昔、よく口の周りべたべたにして兄ちゃんに怒られてた気がする」

 

 そう言ったそばから、はぐみは大きく口を開けてりんご飴に歯を立てる。大好物というだけあって、その動きには慣れがうかがえ、特に口の周りを汚すということもなさそうだ。

 

「りんご飴……ちょっと気になるけど、食べるのが難しいのならやめておいた方がいいのかな……」

「えー、もったいないよ! 気になるんなら、絶対買った方がいいって!」

「……お? ねぇ見て、これとかならコウくんでもいけるんじゃない?」

 

 悩む幸と、勧めるはぐみ。そこへ、何かを見つけたらしい美咲が割って入った。

 彼女の指さす先にはあったものは、りんご飴と同じく赤く、しかしその大きさは一回りも二回りも小さい。

 

「これは……いちごですか?」

「いちご飴って言うんだって。これなら一口サイズだし、食べやすそうじゃん?」

「すごーい! りんご飴のいちご版なんてあったんだ! はぐみ、初めて見た!」

 

 りんご飴の存在感が大きく目がいかなかったが、よく見てみれば、このお店は他にも、ぶとう飴やみかん飴など様々な種類が置いてある。ここはどうやら、りんご飴ではなくフルーツ飴の屋台だったようだ。

 美咲と幸と、それからはぐみも。揃って仲良くいちご飴を買った三人はひとまず、迷惑にならないよう場所を移した。

 

「……ん、おいしい。あんまり食べたことなかったけど、果物と飴って意外に合うんだね」

 

 少し離れた場所で、いちご飴を口に放り込んだ美咲が、そんな感想をもらす。

 ちなみに、買い物を済ませて集まる約束にもかかわらず彼女たちがすぐに食べているのは、いちご飴が一口サイズで、また持ち運びがしにくいからだ。焼きそばやたこ焼きなどのように、パックに入って売られている商品なら袋に入れて手に下げることもできようが、フルーツ飴は否が応にも片手が塞がることになる。

 唯一、りんご飴を買っているはぐみだけはそれを持ち続ける必要があるが、その分は美咲が多めに荷物を持ってやるつもりでいた。

 

「それでは僕も、いただきます」

「あ、噛んだ時に割れた飴が刺さるかもしれないから、気を付けてね」

「わかりました」

 

 そして幸は、ゆっくりと飴を口に入れる。それから恐る恐るといった様子で噛みしめると、次の瞬間、パッと目を輝かせた。

 

「……! おいしいです!」

 

 飴の食感が小気味よいだとか、飴の甘さが果物の水気のおかげで丁度良い濃さになっているだとか。

 淡々と味を評した美咲とは対照的に、幸の口からは好意的な感想が止まらない。

 たった一つ、小さな飴を食べただけの彼の顔が、あまりにも幸せそうなものだから。美咲とはぐみは思わず、つられて笑顔になってしまうのだった。

 

 

 

 それからしばし時間は過ぎ、再び合流して各自で買ったものもあらかた消費し終えた彼女たちは、それでも残った花火までもわずかな時間を適当に散策することでつぶしていた。

 

「ふふ。にしても、さっきのコウくんはおかしかったなぁ。開けてないラムネを飲もうとして首かしげてるんだもん」

「もう、美咲さん! その話はいいじゃないですか……!」

 

 そんな他愛のない会話をしながら、時たま目についた屋台に寄ってみたり。

 そろそろ場所の確保でも、などと美咲が考え始めたその時、突然あしを止めたこころがある方向を指さしてこんなことを言った。

 

「あれは何かしら? なんだか小さい船が並んでいるわ」

「あぁ、あれは屋形船だね」

 

 こころの疑問に、隣にいた薫がそう答える。

 

「やかたぶね……?」

「えっと、中がお座敷みたいになっててね? みんなでご飯を食べたり、ゲームをしたりしながら景色を見て回れる船のことだよ」

「そうなの? なんだかすっごく楽しそうね!」

「うげ、嫌な予感が……」

「……美咲さん?」

 

 屋形船について、花音のいれた補足を聞いたこころが目を輝かせる。

 そして、その様子を横から見ていた美咲の表情が、一気に苦々しいものへ変わった。

 古今東西、弦巻こころの発した『楽しそう』という言葉が『けど、また今度』と続いた例を、彼女は一つとして知らなかった。

 

「よーし、みんな! 今からあれに乗りましょう!」

「……ですよねー」

 

 常識に照らし合わせた話をするのであれば、屋形船などは事前に予約をしたうえ利用するもので、急に乗りたいと言って乗れるものではないはずだ。もっとも、そんな『普通』がこころに当てはまるはずなどなく、どこからともなく現れた黒服の人に先導されて、六人は屋形船へと乗り込んでいくのであった。




最近、若いもんの間でフルーツ飴を作るのが流行っとるらしいの・x・


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閑話「火の花の 美しく咲く 香と音に 心うはぐみ 幸は世に降る」後編

「これが屋形船……中は案外広いのね」

 

 六人のうち、真っ先に船の内部へ足を踏み入れたこころが、そう呟く。

 なんの準備もなく思い付きで乗り込んだため、普通に利用するなら用意されるだろう食事や遊具はない。その分すこしがらんどうな印象が先行するが、船自体の造りはとても立派なものであった。

 

「ほんとだ! これだけ広いと楽器とかも置けちゃいそうだね!」

「楽器が置けるなら、もちろんライブもできるわよね!」

「うーん、カラオケセットなんかも置いてるし、やろうと思えばできちゃうかも……?」

 

 まだ軽く船内を見回しただけだというのに、こころたちの中ではもう既にライブの構想が湧いてきているらしい。こっちから登場しよう、あそこに楽器を置こう、などなど。そこらを駆け回りながら、二人ははしゃぐ。

 

「あたしがそっちに向かってジャンプして……」

「そしたらはぐみが、こっちからドーン! だね!」

「わぁ! 待って待って! 危ないから! コウくん、花音さん、はぐみの方お願いします!」

「は、はい! はぐみさん、そっちは窓なので危ないですー!」

 

 わちゃもちゃわちゃもちゃ、と。今にも何か仕出かしかねない二人を、美咲たちはどうにかこうにか落ち着かせる。

 

「まったく……二人とも? あたしたちは一体、ここに何しに来たんでしょーか? ……これ、さっきも言った気がするなぁ」

「何って……」

「なんだっけ?」

 

 そしてその返事も、少し前とまさしく同じものであった。

 

「なんだっけ? じゃないでしょ。ほら、もっとよく思い出して」

「えっと、えーと……あっ! そうだ、俳句!」

「ああ! そういえばそうだったわね! すっかり忘れてたわ!」

「はい、よくできました。……このペースだとあたし、今日のうちにもう二回ぐらい言わなきゃいけない気がするんだけど……や、考えるのは止そう」

 

 嫌な予感に震える美咲の横で、目的を思いだした二人はさっそく俳句作りに取り掛かる。

 今日のお祭りに来てから、楽しいと思えることは山ほどあった。ならば、あとはそれらを言葉にまとめるだけ。

 などと気楽に考えていたはぐみたちだったが、現実にはそううまくはいかなかった。

 

「……あれれ? なんか難しいかも」

「そうね、うまく言葉が出てこないわ」

 

 内容が思いつかない、というわけではない。俳句に盛り込みたい出来事はたくさん思いつくのだが、それを短くまとめることに、彼女たちは手間取っているようだった。

 

「あー、花音さん、何かコツとかあります?」

「コツかぁ……。えっと、景色を見ながらお互いに感想を言い合ってみるのはどうかな?」

「なるほど。そこから話を膨らませて、ふさわしい言葉を引き出すというわけだね」

「とってもいい作戦ね! さっそくやってみるわ! はぐみ、風が気持ちいいわね!」

「うん、それに川もキラキラしててすごくきれい!」

 

 花音のアドバイスに従って一同は、おのおの、くちぐち、思うまま、好きなように感想を投げあった。

 途中、怪盗ハロハッピーの話になったり、遠くに見えた『CiRCLE』の話になったり。

 何の変哲もないただのおしゃべりが、この六人ですれば、素晴らしく楽しいものに思えて。

 

「……『暑き日に 風と語らう 友の声』。一句読むなら、こんな感じかな?」

 

 いつの間にか頭の中で出来上がっていた俳句を、花音は静かに詠んだ。

 

「おおー! かのちゃん先輩、カッコイイ!」

「本当ね! あたしたちも素敵な俳句を作りましょう!」

 

 花音の俳句が端緒となって、こころたちのやる気にポッと火が灯る。ほんの少し前に難しいと嘆いていたことが嘘のように、二人はすぐさま俳句を作りだした。

 

「『ふわ~りふわふわ 浮かぶわたあめ 夏の雲』!」

「いや、最初のとこどうなってんの。字余りってレベルじゃないでしょ」

「『船料理 メインディッシュは コロッケで!』。どうどうっ!? うまくできてる!?」

「あー、うん。さりげなく宣伝入れてくるあたりとか、逆にものすごい才能感じるよ……季語ないけど」

「ホント!? やったー!」

 

 もっとも、それが学校の宿題に起用できるようなものであるかは、また別問題であったが。

 

「それじゃあ、次は花音の番ね!」

「うん。『楽しげに 弾ける笑顔と ソーダ水』……どうかな?」

「いいじゃないか! 今日の雰囲気をよく表しているよ! なら私は……『儚いな 浴衣姿の この私』」

「『さすがです 晩夏に響く 薫節』……」

「ふふ、『夏詠んだ 詩をバトンに リレーする』……なんて」

「あははっ! 俳句でお話ししてる!」

 

 きっかけさえあれば案外うまくいくもので。ほんの一分もかからずに、それぞれの俳句を詠んでみせた彼女たちはおおむね明るい顔であったが、ただ一人、こころだけは何故か満足のいっていない表情を浮かべていた。

 

「あれ? どうしたの、こころ?」

「……不思議だわ。今のあたしたちの俳句には、何かが足りない気がするの」

「何か……?」

「ええ。パッとなるような何かが。でも何が足りないのかはわからないの……」

『うーん……』

 

 ひどく抽象的なこころの言葉に一同は考え込むが、彼女の言う『何か』はそれでも謎のまま。

 宿題として提出する必要がある以上はひとまず完成でいいのではないか。

 釈然としない思いはありながらも花音がそう提案をし、皆が賛成しようとした、その瞬間。

 

「――あっ」

 

 六人の前方。もうすっかり昏くなった空の向こう側で大きく咲いたそれは、瞬く間に彼女たちの意識を明るく染め上げてしまった。

 

「みんな見て! 花火が見えるわ!」

「ほんとだ! すっごくきれい!」

「二人とも、あんまり乗り出すと危な――え、待って。今すごいミッシェルっぽい花火なかった?」

「は、はい。僕も見た気がします。……わっ、今度はえっと……なんでしょう? パンみたいな……?」

「見て! あっちはお花でこっちはスマイルマークよ! いろんな形の花火があるのね!」

 

 絶え間なく打ち上げられ続ける花火が、次々に空を彩り、消えてゆく。

 そのうち、しばし間隔があいて静けさが戻ってきたかと思うと、今度は今までの比ではないほどの大きな花火が単身、夜空を独り占めした。

 

「うわっ! 今の花火、すごかったね! ドンって音がお腹に響いて、かのちゃん先輩のドラムみたいだった!」

「花火が……ドラム? それってつまり、花火に合わせて演奏すればお空とセッションができるってことじゃないかしら!」

「……! す、すごい! こころんってば天才!?」

「お空と一緒に演奏はまだしたことがないけれど、みんなが笑顔になること間違いなしね! 今日は楽器がないからできないけれど、今度もし何処かで花火があったら、楽器を持ってみんなで見に行きましょう!」

 

 こころにしか思いつけないだろうその自由な発想に美咲は感嘆する。そして同時に、今からやろうと言い出さなかったことに安堵も。

 彼女がそれを理解しているかは定かでないが、実際、こころが鶴の一声を発せば、すぐにでも黒服の人たちが現れてステージを整えただろうことは想像に難くなかったから。

 そうこうしているうちに、花火も一つの区切りを過ぎたような。ここまでは形の様々な『楽しい』花火が多かったが、シンプルな形状だがそれゆえに『美しい』花火へと、いつの間にか趣向が移っていた。

 

「きれい……」

「ほんと、きれいですね……」

「……『キラキラと 胸に瞬く 夏花火』」

「……花音さん?」

「あっ。思いついた俳句、思わず口に出しちゃってた」

 

 まさか無意識のうちに俳句を詠んでしまうとは思わず、花音は頬を赤くして、恥ずかしげにはにかむ。

 しかし、意図せず口に出たということは、いわばそれは、文字通り心からの俳句ということ。何がどう違うのか、正確に理解は誰もできていなかったが、五人は花音のそれが、今日聞いたどの俳句よりも心に沁みるのを確かに感じた。

 

「あら、とっても素敵じゃない! ならあたしは……『それぞれの 輝き集う 天の川』ね!」

「はぐみもやる! えっと……夏、なつー。うーん……『空高く 響く花火と 笑い声』。これだっ!」

「では私も。『くらがりに 花とひらくは 笑顔かな』。……うむ、我ながら実に儚い俳句だ。次はコウかな、どうだい? 何か思いついたかい?」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね! えーっと……」

 

 薫からバトンを渡されて、幸は狼狽える。

 なにぶん俳句を詠む流れになるのが急すぎたため、必死に考えはしたのだが、いまだにこれといったものを思いつけていなかったのだ。

 何かないものか、と彼はわたわたと辺りを見回す。そして……。

 

「『祭り夜を 照らす若芽の 晴れ姿』……」

 

 まるで天啓を得たとでも言わんばかりに、訥々と俳句を口にした。

 

「おおー、なんかすごく俳句っぽい! ねえねえ、それってどういう意味なの?」

「これは、その……さっき丁度はぐみさんの浴衣と同じ色の花火が上がってて、それがとってもきれいで、思わず詠んでしまったといいますか……」

「はぐみの俳句を作ってくれたの!? ありがとう、すっごく嬉しい! ……でも、ワカメ? はぐみの浴衣、確かに緑系だけど、そんなに濃くないよ?」

「……?」

 

 己の浴衣の袂をつまんで、はぐみは不思議そうに言う。

 最初、幸は何を言われているのかわからなかったが、しばらく考えて、彼女が疑問に思っていることを理解すると、慌てて説明を始めた。

 

「その、ですね……。僕が言ったのは海藻の方のワカメではなく、『若い芽』と書く若芽で、うぐいす色を淡くしたような色のことなんです」

「へえー、そうなんだ。すっごく物知りなんだね! はぐみ、自分の浴衣のことなのに、なんか黄緑っぽいのっていう感覚しかなかったよ」

「そ、そうですか……? えへへ。あっ、ちなみに海藻の方のワカメは春の季語なんですよ」

 

 真っすぐに褒められたことがよほど嬉しかったのか。訊かれてもいないことを説明するその顔は、彼にしては珍しくとても自慢気なものだった。

 

「なんか詳しいじゃん。コウくんも花音さんみたいに俳句かじってたりしたの?」

「かじってたといいますか……。実は少し前に、お姉ちゃんの宿題のためにお父様が俳句の先生を招いたことがあって。その時に少しだけ同席をさせてもらったんです」

「お、おおぅ。なるほどね……」

「……? どうかしましたか?」

 

 こころのせいで忘れかけるけど、この子の家もたいがいお金持ちなんだよなぁ。

 そんなことを今さら再認識した美咲はそこで、他のメンバーの視線がそろって自分へとむけられていることに気づく。

 

「最後は美咲ね!」

「わくわく♪ わくわく♪」

「いや、そんな期待されても困るんだけど」

 

 突き刺さる期待のまなざし。帽子のかぶっていない今日は、つばやらでそれを遮ることもかなわず、美咲はふいと顔をそらす。

 

「大丈夫よ美咲! 感じたままを言えばいいの!」

「そうさ。自分を解き放ってごらん」

「がんばれ、みーくん!」

「あーもう! そういうこと言われると余計に緊張するから!」

 

 あれでもない、これでもない、と。美咲は目に入ったものを、手当たり次第に題材にしようとしたが――。

 

 

 

――――――――

 

 

 

「結局あたしだけ、何も思いつかなかった……」

 

 時は移って、現在は帰路の途中。

 屋形船から降りたあと六人は、再び人のあふれる祭りの方へ戻る気にもならず、こうして人気の少ない河原を仲良く歩いていた。

 そんな彼女たちの頭上で、大きな花火はまだまだ上がり続けているのだが、これは美咲の提案によるもの。

 花火が終わってから帰り始めては、同じ考えを持つ多くの人の中を進まなければならない。ならば、道のすいている今の間に出発して、帰りながら終わりを見届けよう、と省エネ志向の彼女らしい考えだ。

 

「まぁ、思いつかなかったのは仕方ないし、帰ってからゆっくり考えるよ」

 

 ここにいる全員が、俳句を思いつけなかった程度で悪く言ってくるような人物ではないことを、美咲はよく知っている。だがそれでも、一人だけ後に続けなかったという点に彼女は、言いようのない居心地の悪さをどうしても感じてしまっていた。

 この嫌な空気を払拭したくて。何かきっかけになるものでもないか、と美咲が歩きながら周囲に意識を向けてみると、ほどなくしてあるものが、彼女の目に留まった。

 

「……お?」

「あら、どうかしたのかしら? ……あ! さては俳句を思いついたのね?」

「いや、別にそういうわけじゃないんだけど……」

 

 たった一文字の、もはや呟きとも言えないような短い声を、耳聡く拾い上げたこころが美咲へと詰め寄る。

 

「そんなことを言って、本当は俳句を思いついたのだろう? なに、恥ずかしがることはない。美咲の作った俳句ならきっと素敵なものに違いないさ」

「そうよ! だからお願い、聞かせてちょうだい?」

「いや、だから言いたくないとか、ほんとにそういうのじゃ――あぁ、もう! 花! そこに花が生えてたの! それがちょっと気になって声出しちゃっただけで、別に何もないから!」

 

 違うのだという主張があんまりにも信じてもらえないものだから、仕方なく美咲は、できれば誤魔化したかった真実を投げやりに伝えた。

 彼女がそれを言い渋っていた理由は二つ。

 一つは、あまりに些細で本当に言う必要がないだろうと考えていたから。

 そして二つ目は、端的に言えば柄でないと思ったから。普段の振る舞いを鑑みれば、自分が路傍の花に惹かれるような少女だと思われているはずはないだろうと。

 

(今までそんなキャラでもなかったのに急に、お花が~、とか。なんか気恥ずかしいし……)

「そんだけだから、わかった? はい、もうこの話おわり! 立ち止まってないでさっさと歩く!」

「こんにちは、お花さん! あなたの名前を教えてくれないかしら?」

「――って、話きかんかい!?」

 

 さっさと話題を切り替えたいという美咲の思惑をまるで裏切り、くだんの花の元へ歩み寄ったこころは、ちょこんと座りこんで元気に話しかける。はたから見れば奇行の誹りは避けられようもないが、彼女が植物に話しかける程度、ハロハピの中では慣れたもの。むしろ対象が有機物である分、いくらかマシとさえ言えるだろう。

 問いかけの後、こころはしばらく耳を傾けて返事を待っていたが、もちろんそんなものがされるはずはない。どうかしたのかしら、なんてかわいく首をかしげても、返ってこないものは返ってこないのだ。

 

「これは……シクラメンですね」

「…………!」

「確か和名は……篝火花(かがりびばな)だったかな? 逆向きの花弁が由来でその名前になったって、聞いたような気がします」

「へぇー、詳しいじゃん」

「一応、華道のご指導もしていただいてましたので……」

「すごいわ、コウ! あなたはお花さんの声を聴くことができるのね!」

 

 現実としては、ただ元から持っていた知識を幸が披露したというだけ。しかしタイミングも手伝ってこころの目には、自分の聴き取れない花の声を彼が受け取ったのだと映ったようだ。

 

「えっと、そういうわけではないんですけど……」

「あたしもお花さんとおしゃべりがしてみたいのだけど……。どうすればできるようになるのかしら……?」

(華道ねー。……あ、そういえば)

 

 こころに困らされている幸をしり目に、美咲の中で華道という単語からある人物のことが思い起こされる。

 美竹蘭。『Afterglow』のギターボーカルを務め、また由緒正しい華道の名家の一人娘でもある。

 学校が違うということもあって美咲個人としてはたいした繋がりもないのだが、同じ羽丘に通う薫や、クラスメイトである市ヶ谷有咲からたびたび話を聞くことがあった。

 

(なんか市ヶ谷さんが言ってたなぁ。『蘭ちゃん、花についてすっげー詳しくて、花言葉とかも訊いたらすぐ答えてくれんのな』……みたいな)

「ね、コウくん。ちなみに花言葉とかってわかったりするの?」

 

 別段どうしても知りたいという訳でもなかったのだが、流れで何となく気になった美咲が、幸に向かって軽く問う。

 

「花言葉ですか? シクラメンは確か……遠慮とか内気、あとは気後れとか。これも花が逆向きに咲くことが由来だったと思います。本当は色によって違ったりもするんですけど……ちょっとそこまで覚えてなくて、すいません……」

「いやいや、それだけわかるってだけで十分すごいって」

「内気、遠慮……? つまりこのお花さんは、とっても恥ずかしがり屋さんということかしら? なるほど、だからぜんぜん声が聞こえなかったのね!」

 

 納得、といった表情でうんうんと頷くこころ。実際は的外れもいいところだが、おかげで『どうすればお話しできるのか』という追及が止み、幸はホッと胸をなでおろした。

 

「けど、こんなにいい匂いで花びらもきれいなのに、ずっと下を向いてるなんてすごくもったいないわ。恥ずかしがらずに上を向いたら、もっと素敵でしょうに……」

「あ……。そ、その、確かに消極的な言葉が多いですけど、前向きな言葉もあるんですよ! 例えば、絆とか『想いが響きあう』とか……」

 

 そういった意図ではなかったとはいえ、自分の言葉が原因でこころがシュンとしてしまった事実に、幸は声を張る。

 咄嗟に切り出した話ゆえ、そこには構想も何もない。意味だの由来だの、途中から自分でも何を言っているのかわからなくなるくらい、とにかく必死に彼は話を続ける。

 そしてその甲斐あって、こころの顔にはすぐまた笑みが咲いた。

 

「ふふ、ありがとう。直接おしゃべりはできなかったけど、コウのおかげで、このお花さんについていーっぱい知ることができたわ!」

「ど、どういたしまして!」

「うーん、なんだかとってもいい気分だわ! このまま帰ってしまうのも何だかもったいない気がするし、何かもう一つくらい楽しいことが――あら?」

 

 すっかり笑顔を取り戻したこころが、上機嫌なままその思いを口にする。

 するとまるで神が遣わしたかのように、ベストなタイミングでそれはやってきた。

 

「楽しみだね~」

「うん! 早くやろう!」

 

 立ち止まっていた六人の前を数人の子供たちが通り過ぎてゆく。その手には一つのパッケージが握られていて、それは俗にいう手持ち花火というものだった。

 トテトテと河原の方へ移動した彼らは興奮冷めやらぬままに包装をむくと、すぐさま花火を火をつけ始めた。色鮮やかな火花が、まるで柳の葉のように地へと落ちる。

 

「あははっ、きれーい!」

 

 時折顔を上げて空の花に見惚れては、今度は落として、地の柳を味わう。

 その姿はとても楽しそうで、彼女がこう言い出すことは、誰にでも予想できることだった。

 

「あたしたちもやりましょう!」

 

 そう言うや否や近くにあった屋台へ走り出したこころは、その腕に手持ち花火のセットを抱えてすぐに戻ってくる。

 加えて、いつのまにか彼女たちの足元には、何故か水の張ったバケツとガスマッチが置かれており、すぐにでも花火を始めることができた。

 そんな不思議な不思議な現象ではあるが、花音や美咲はおろか、加入してそう経っていない幸でさえももはや慣れてしまっており、誰も声を上げることはなかった。

 

「見て、はぐみ! この花火、青から黄色に色が変わったわ!」

「ホントだー! こっちの花火は何色かなー?」

「こっちとこっち、どちらに火をつけるべきか。それが問題だ……!」

 

 さっそく数本の花火を持ち出して楽しむこころたちを眺めながら、美咲たちもゆっくりと自分の花火を選んでゆく。といっても、手持ち花火というのはおおよそが火をつけるまでどんな色なのかわからないものであり、結局は持ち手の柄などから適当に決めるしかなかった。

 

「お、コウくんのは黄色だったか」

「わぁ、こっちの花火もとってもきれいですね!」

「ふふ、大きな花火の迫力には負けるけど、手持ち花火もまた違った風情があっていいよね」

「確かに、そうですね」

 

 花火から花火へ火を継ぎ、時にはただ眺めて、時には軽く振るってみたり、久しく――幸に関しては一度も――体験していなかった手持ち花火を彼女たちは精一杯楽しむ。

 火花を完全に出し切った花火をバケツへ入れ、四本目になる花火へ美咲は手を伸ばす。それはどうやら線香花火だったようで、今までのような勢いの良さはないが、パチパチと静かに火花を落とす姿はどこか心を落ち着かせてくれた。

 

「……ハロハピって、なんか花火っぽいですよね」

「え? 私たちが……?」

 

 それをボーッと見つめながら、彼女は何となく頭によぎった感想をそのまま外へこぼす。

 

「こころとはぐみ、それから薫さんが打ち上げ花火。特にこころは、特大の目立つやつって感じしません?」

「そう、ですね。何となくわかります」

「それなら、私たちは手持ち花火かな?」

「まぁ、そんな感じです」

「あら、素敵なお話ね!」

『うわっ!?』

 

 ふと思ったそのままの美咲の考えは、しかし意外にも共感を得られるものだったようだ。

 そんなたとえ話を続けていると突然、三人の間へ花火を持ったままのこころが入り込んできた。

 

「そうだ三人とも、ちょっとこっちに来てちょうだい? 今の話を聞いて、思いついたことがあるの!」

「こっちって、川の方に? どうして……?」

「それは見てのお楽しみよ!」

『…………?』

 

 その意図の読めないまま、三人は手招きをしながら川へ近づいていくこころの後ろへ続く。

 まもなく畔にまで辿り着いたこころは、腕を伸ばして花火を川の上に来るような位置に掲げる。彼女の行動の意味がわからず三人は首をひねったが、その疑問は、次の打ち上げ花火が空に咲いた瞬間に氷解することとなった。

 

「わっ。川面に、大きな花火と手持ち花火が並んで光って……」

「とってもきれいです……」

「さっきの美咲の話を聞いて思ったの。大きい花火も小さい花火も、どっちもみんなを笑顔にする花火だもの。なら、二つを一緒に見られたらもっともーっと素敵だって!」

「一緒に、かぁ……。なるほど、そうくるかー」

 

 こころらしいその捉え方は、美咲を感服せしめるものだった。

 大きな花火が別にいて、自分たちは小さな手持ち花火。

 人によっては自分たちを卑下しているとも取られかねない――もちろん、美咲にハロハピ内で優劣があるなどという意識は微塵もない――言葉から、これほど前向きな発想に繋げることは、そう簡単ではない。

 美咲たちは、改めてこころという存在の大きさを知ったような、そんな気がした。

 

『……あっ』

「どうしたの、二人とも?」

 

 その時、まさに寸分の狂いもなく、美咲と幸が同時に声を上げた。

 

「その顔、さては俳句を思いついたのね? 聞かせてちょうだい!」

「なになに? 二人とも、俳句を思いついたの?」

「素晴らしいじゃないか! ぜひ聞きたいな」

 

 こころの大きな声に反応して、少し離れた位置で花火に興じていたはぐみたちまでが駆け付け、そしてせがむ。

 

「すいません。閃いたって思ったんですけど……よく考えたらこれ、俳句じゃなくて短歌でした……」

「たんか……? よくわからないけど、俳句は思いつかなかったってことかしら。それは残念ね」

「じゃあじゃあ、みーくんは? どんな俳句を思いついたの?」

「んー、今は秘密」

「えー!」

 

 少し前に、期待に曝されて緊張してしまっていた彼女はどこへやら。なぜか若干勝ち誇ったような表情を浮かべている美咲は、ただし、と続けて条件をつけた。

 

「夏休みが終わって宿題が帰ってきたら、その時に教えてあげる」

「えー! 気になるー!」

「大丈夫よはぐみ。美咲はきっと約束を守ってくれるわ。夏休みが終わるのを楽しみに待ちましょう!」

「その時は、私たちにも教えてね」

「楽しみに待っているよ」

 

 笑顔を咲かせる六人の頭上で、今日のうち一番大きな花火が負けじと開いた。

 

 

 

 

――――――――

 

 

「ふー。なんだかどっと疲れたなぁ」

「そうですね。けど、とっても楽しかったです!」

「それはまぁ、うん……」

 

 家までの帰り道をゆったりとなぞる美咲と幸。

 つい先ほどまで賑やかな場所で、さらに騒がしい仲間に囲まれていたのだ。家族と行った時よりもずっと顕著に感じられる祭りの後の静けさが、けれど美咲には心地よくもあった。

 

「あっ、もうこんなところか」

 

 ふいに目に入る一本の標識。歩行者優先を示すいたって一般的なそれは、帰り道のさなかに何度も目にしたことがあるものだ。そして、美咲の中では別れが近づいているということを意味するシンボルでもあった。

 

「……ねぇ、幸。あたしが思いついた俳句、聞きたい?」

「どうしたんですか、急に……? それはもちろん聞きたいですけど……宿題が帰ってきたらって約束でしたよね?」

「まぁそうなんだけどさー。幸には聞かせたい……ううん、これを聞いた幸の感想が聞きたいな、って思っちゃったんだよね。あたしが」

 

 どうする? と続きを促す美咲。あくまで判断は幸に任せる、という立場であるらしい。

 少しの間だんまりだった幸は、やがて顔を上げ、伝えた。

 

「聞かせてほしいです、美咲さんの俳句」

「ん、わかった。……『川風に 六つ寄り添う 花火かな』。……なんて、どう?」

 

 そのたった十七の音に、彼の心はどれだけ動かされたのか。

 真剣な表情で数秒考えこみ、ほろりと頬を緩め、それに気づいて小さな手で顔を隠す。

 うー、とか。あー、とか。そのままの状態で何度か声に出して、それからようやく、彼は美咲の方へ顔を戻した。

 

「感想は、言います。……ただ、その、もし僕が意味の分からないことを言ったら、どうか無視してくださいね。……なんていうか、その……自惚れているかもしれないので……」

「なんか、ずいぶんな保険だね。いいよ」

「……とってもいいなって、そう思いました。すごく陳腐な言葉になっちゃうのは、それは、言いたいことはいっぱいあるのに……その、嬉しいなって思いが大きすぎて――ご、ごめんなさい! 意味不明でしたよね!」

 

 蚊の鳴くようなか細い声で、顔を真っ赤に、幸が口を開く。けれど、最後の最後で――彼曰く――意味の分からないことを言ってしまったようで、言葉の末は謝罪の中へ消えてしまった。

 だが。

 

「――大丈夫だよ。幸の言いたいこと全部……まぁ、あれだ。こっちこそ自惚れてなければってやつだけど、うん、全部わかったよ」

 

 まるまる、みんな、伝わった、と。

 彼女のはにかむ顔は、それが嘘などではないことを証明しているようだった。

 

「にしても嬉しい……嬉しい、ね。あたしとしてはむしろ、この俳句を嬉しいって思ってくれるようになったことが、すごく嬉しい、かな。変わったね、幸は」

 

 ハロハピの内にいて、けれどハロハピの外にいる。そんないつかの日の姿を思い出して、美咲はつぶやく。

 彼女の言葉も普通に考えればひどく抽象的なものであったが、それが相手にとって意味のわからないものである可能性を、美咲は少しも考えなかった。

 

「……『夏の夜に へんか浮かばす みずかがみ』」

「へんか……へんか、ね。あたしは俳句とか詳しいわけじゃないけど……上手なんじゃない? たぶん」

「えへへ、ありがとうございます」



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閑話「幸せ模様クッキング」前編

 やかましい鳴き声で朝の到来を告げる目覚まし時計。その頭を叩き、黙らせて、美咲は大きく伸びをした。そのまましばらく体内に残った眠気と格闘をし覚醒を勝ち取った彼女は、枕元に置いてあった携帯端末を手に取った。

 慣れた動作で画面に指を滑らせて、就寝中のメッセージ履歴、今日の天気予報などを確認していく。こうして寝起きに情報の整理を行うのは、彼女の朝の習慣だった。

 

「んー……お?」

 

 日課をこなす最中とあるものが目に飛び込んでき、美咲は短く声を漏らした。

 それは祖師谷優からの一つのメッセージ。受信時刻は今から数十分ほど前、まだまだ美咲は夢の中を生きていた時間帯だ。

 

『今って何処にいる? 返信は手が空いた時でいいよ』

 

 まず美咲は小さく首を傾げ、それから二度三度と内容を読み返し、再度同じ動作をする。

 それは、どうにも妙なメッセージであった。まるで、いま美咲が何かに従事していることを前提としているような、そんな。

 しっくりとは来なかったけど別にそこまで変でもないか。しばらく考えたのちにそう思いなおした美咲は優にメッセージを返した。

 

『今は家だけど。どうしたの?』

『家っていうと美咲ちゃんの家かな? そうなんだ。ちなみに何してるの?』

『何してるのって言われたら何もしてないというか、今起きたばっかりっていうか……』

 

 すぐさま成された優の更なる返信はまたも、両者の間にズレを窺わせるものだった。

 訊かれたとおりに美咲が起きたばかりということを伝えると、十秒と経たずに手の中の携帯が電子音を鳴らす。しかしそれは、ここまでのものとは違い着信を示す音だった。

 

『も、もしもし! 美咲ちゃん!?』

「はいもしもし、なんか慌ててる感じだけど……どうしたの?」

『今起きたばっかりっていうのは、ちょっと前までぐーすかぴーで起きたのはまさに今だと、そういうことでいいの!?』

「うん、そうだけど。っていうかそう言ってるじゃん」

『ど、どど、どうしましょう!?』

「……ほんとにどうしたの?」

 

 完全なパニックに陥っている優を電話越しに落ちつけて、美咲はあれほど慌てていた事情をきき出す。

 曰く、優が目を覚ました時、弟の(みゆき)の姿が家になかったのだと。そのことに気が付いた彼女は母親にその所在を尋ね、『ちょっと前に出かけたみたいよ』という回答を得た。

 この時点ではまだ、優は特に慌ててはいなかった。

 隙間なく稽古の詰まっていた彼の生活に休日の概念が取り入れられてからしばらく、このように幸が外出をすること自体は近ごろ珍しくないことだったから。

 ただしそれは、美咲や花音、あるいは優などの誰かしらと一緒に、である。さらに言えば、これまでにあった彼の外出は必ず他者からの誘いが発端となっていた。

 こういった過去の事実から、優は母親の言葉を聞いても『あぁ、また美咲ちゃんとどっか行ってるのかな』としか思わず、メッセージを送ったのだって、『所在だけは一応把握しておこう』程度の気持ちだった。

 しかし、美咲からの返信は予想していたものとはかけ離れていた。その内容をどうにかかみ砕いた時には、優は思わず美咲に電話をかけていたというわけだ。

 

「あー、なに? つまり一人で出かけてる可能性が高いってことかな?」

『た、たぶん……。うぅ、怪我とかしてないといいけど』

(なるほどね。それは確かに慌てもするか)

 

 優のように取り乱しこそしていないが、美咲も胸内では心配を隠せないでいた。

 現状、家族である優を除けば美咲は、幸と最も繋がりの深い人物であると言える。ハロハピで活動をするときはもちろんのこと、それ以外の彼の外出も基本的には彼女が傍にいることが大概だ。

 そんな彼女の目から見ても、彼が一人で出かけたというのは意外が過ぎていた。出会った当初よりは幾分マシになったものの、人見知りの激しさが消えたわけではないし、何より、他者に誘われてではなく幸が自ら何かをしたいと口に出した場面を、美咲でさえもあまり見たことがなかったから。

 

『やっぱり心配だわ! ちょっと確認してくる!』

「確認するって、心配なら普通に電話すれば――」

 

 言葉が出し切られる前に、優は行動を開始したようだ。美咲の電話は音を吐き出さなくなり、そのまま一分ほど静寂を守り続けた。

 ミュートにしただけで通話自体は切れていないことから、戻ってくる気があるのだろうと考えて美咲は反応を待つ。そして、その推察通りに優はやがて通話へと復帰をした。

 

『もしもし。確認してみたんだけど、なんかあの子、今は商店街にいるみたい』

「へぇ、商店街……。ん? そもそも、確認ってどうやったの?」

『え? 適当に黒服さん呼んで幸に付いてる人に連絡とってもらっただけだけど』

「……あぁ、そう」

(やっぱりいるんだ、そういう人)

 

 家が裕福で、それに合った価値観が育まれているこころなどと比べると、幸は言動も考え方もまだ一般的な部類。それゆえ美咲はいつも忘れてしまいそうになるが、彼も立派なお金持ち、それも一人息子で跡取りなのだ。

 優が普通のこととばかりに示した方法でそのことを再認識させられた美咲は、なんとも言えない相槌を打つしかなかった。

 

『それで美咲ちゃん、この後って暇?』

「別に今日は予定入ってないけど……。え、祖師谷さんもしかして」

『よかった! じゃあそっちの家まで迎えに行くから、着替えとかの準備済ましておいてね!』

「待った待った! なに? 行方がわかってよかったー、で終わりじゃないの?」

 

 先ほどまでとは一転、今の優の言葉から滲んでいるのは心配ではなく、好奇だとか興奮だとか、その辺りのもっと明るいものだった。

 早口にまくしたてる彼女へ美咲が抗議をすると、優はとんでもないとばかりに声を大きくする。

 

『何を言ってるの美咲ちゃん! これはあの子が自分からする、いわば初めてのお出かけよ? 見守るしかないでしょう!?』

「それはまぁ、うーん……?」

『じゃ、よろしく!』

 

 そう元気よく言い残して、優は美咲がはっきりとした返事をする前に通話を切ってしまった。

 その性格や声色からも察せられる興奮具合を考えるに、優はきっと間もなくやってくるだろう。そう予測ができた美咲は、おもむろにベッドから腰を上げるとクローゼットを開いた。

 

(まぁ、幸があたしに何にも言わずに出かけた目的が気にならないこともないしね)

 

 もっとも、『優が強行したから仕方なく』が理由の十割かといえば、きっとそんなことはないのだろうが。

 

(……今の考え、我がことながらちょっとキモかったかも)

 

 

 

――――――

 

 

 休日が人を呼び、平時以上の賑やかさを孕んだ商店街。その中を幸は、一人ふらふらと歩いていた。

 ここは、彼が久方ぶりに家を飛び出したあの日、はじめにやってきた場所だ。

 当時のことを思い起こしながらもしかし、彼は少し、ほんの少しだけあの頃よりも行動的な様子を見せていた。

 駄菓子屋で買い物をし、話しかけてきた八百屋の店主になんとか返事をし、なんとゲームセンターの敷地に一歩だけ足を踏み入れたのだ。そのどれもが他の人からすれば何でもないような行動かもしれないが、彼にとっては勇気を振り絞っての一手だった。

 

 そんな彼だが、なんの目的もなくこの商店街にやってきたという訳ではない。ここまでにしてきた細々(こまごま)とした行動とは別に、目的地とも呼べる場所が彼の中にはあった。

 パン屋『やまぶきベーカリー』。彼にとって大きな意味を持つあの日の中でも、特に記憶に残っている場所だ。

 まっすぐと進む彼の足は、やがて目的地の前にたどり着いて動きを止める。

 その扉へと手をかける前に、幸は大きく深呼吸をしガラス張りの外側から店内の様子を覗き見た。

 ちょうど客のいない時間に居合わせたようで、店内は閑散としている。存在しているものといえば数多くのパンと、それらに囲まれてレジ台を守る山吹沙綾だけだった。

 まだまだ人見知りの激しい彼としては訪ねるのに好都合な状況だ。改めて気合を入れなおし店に入ろうとした幸であったが、その直前でふと沙綾の様子がおかしいことに気がついた。

 普段の人懐こい笑顔はなりをひそめ、その表情は険しい。今も虚空を見つめては時折ため息をこぼしており、見るからに思い悩んでいるという感じだった。

 

「えっと、お、お邪魔します……」

「あっ、いらっしゃいませ!」

 

 彼が控えめな声とともに扉をくぐると、沙綾は瞬時に表情を明るいものに差し替える。それから、入ってきた人物が祖師谷幸であることに気づくと、そこに驚きの色を浮かべた。

 

「あれ、キミは……」

「こんにちは、山吹さん」

「なんていうか……久しぶり、だね? や、ほんとはそうでもないってことは解ってるんだけどさ」

「そう、ですね。ふふ、最近そとに出る時はだいたいお姉ちゃんの恰好でしたから」

 

 なんとなく情けないような気分になって、幸は力なく笑う。

 近ごろ二人が顔を合わせたのは、美咲と三人でショッピングモールに行った日、そしてガルパの練習や本番の日くらいなものだ。そのすべてが彼は女装をしての外出だったため、こうしてきちんと祖師谷幸として沙綾と会うのは実は初対面のとき以来であった。

 

「時間的に今日もお昼ごはんを買いに来たのかな? あ、前みたいにさ、今回も選んであげよっか?」

「いえ、それには及びません! 今日という日のために、パン屋さんの利用方法についてはしっかり勉強してきましたので!」

「そ、そっか……」

 

 前回やってきた時はトレイとトングを使うことさえ理解していなかった幸が、今日は迷いない動きでそれらに手を伸ばす。そしてパン屋の標準装備二点を身に着けた彼は、したり顔を沙綾へと向けた。

 もちろん、彼女は反応に困る。まさかその程度のことで誇らしげにされるとは露ほども思っておらず、沙綾は面食らって覇気のない返事をするしかなかった。

 そんな彼女をしり目に、幸がパン選びに移る。あちらこちらに視線を動かし、様々なパンに興味を引かれながらも、自分の胃の容量を考慮して彼は最終的に三つのパンを選んだ。

 トレイをレジの沙綾へと手渡すと、彼は小銭を使ってぴったりの金額を支払う。そしてお店独自の紙袋に詰められたパンを受け取ると礼を言い、小さくお辞儀をした。

 その態度は、ともすれば店側が客へ対してするものよりも丁寧な可能性すらあるほど。なんだかなぁ、と沙綾は苦笑いを浮かべるのだった。




夏祭りイベを書いた時点で今更ですが、本編以外の話は季節順がくるったり、(学年が重要なファクターでもないかぎり)進級後のイベントが進級前に起こっていたりします。


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閑話「幸せ模様クッキング」中編

みじかい


「はい、お買い上げありがとうございます。にしても、また来てくれたんだね。嬉しいよ」

 

 ありがとう、と沙綾はレジから幸のいる方へと抜け出て話しかける。他に気にかけるべき客がいないのだから少し話でもしよう、彼女はそう考えたらしかった。

 

「その……約束、しましたから」

「約束? んー、それは私と、だよね?」

「はい。絶対にまた来ますって、その……したと思うんですけど」

「あっ、あー! したした、したね。うん、覚えてたよ」

 

 その態度が語るようにもちろん忘れていた沙綾だったが、何のことを言われているのかは間もなく思い出すことができた。

 

『また来てね。うちのパン、きっと気に入ってくれると思うから』

『また……。はい、そうです、ね。もし来られる機会があれば、必ず』

 

 沙綾にとってそれは、本当に何でもないやりとりだった。なにせ一種の決まり文句だ。再度の来店を望むという文面通りの思いがなかったとまでは言わないが、それが約束であるとは認識していなかった。言われてすぐにピンとこなかったのはそのためだ。

 

「ふふ、そっか。それで約束守るために来てくれたってわけだ。律義だね」

「そんな、何なら遅かったくらいで……。もっと早く来られればよかったんですけど」

 

 申し訳なさそうに彼はそう言うが、事情を考慮すればそれも仕方のないこと。

 雁字搦めだった頃と比べてゆとりが増えたことは確かだが、それでも彼の生活はまだまだ制限が多く残っている。いくらかある休日もハロハピのバンド活動などに充てられることがほとんどで、ようやくここに来る時間を確保できたのが今日だったという訳だ。

 

「もう、大袈裟だなぁ。でも……うん。それならさ、代わりと言ったらなんだけどちょっと訊いてもいいかな? 軽いアンケートというか、そんな感じ」

「もちろんです、何でも訊いてください」

「たいしたことじゃないからそんなに気負わなくても……まぁ、いっか。じゃあ質問なんだけど、キミの趣味って何かな?」

 

 感じている責任をやわらげよう。そんな気遣いが背後に見え隠れする沙綾の質問は、本人の説明通りたいしたことのないものだった。

 補足として語るに曰く、沙綾は現在、新しい趣味を探しているらしい。その一環で、少し前に友達や先輩が時間を取って協力もしてくれたのだが結果は揮わず。せめて何か取っ掛かりだけでも掴めないか、と彼女は色々な人に趣味を訊いてまわっているようだ。

 

「もしかして、なんだか元気がなさそうだったのって……」

「えっ! なに、私そんな感じだった?」

「その、お店に入る時に外から見えた様子が少し」

「うわあ、そうなんだ……。気を付けてたつもりだけど、一人だったから油断してたかな……。それで、どう?」

 

 恥ずかしさを誤魔化すように、沙綾は改めて幸に回答を促す。なんだかんだと話している間、それなりに考える時間はあったはずであるが、彼は難しい顔で首を横に振った。

 

「バンド以外で、ですもんね……。その条件となると……ごめんなさい」

「いやいや、気にしないで! むしろ、こっちがごめんね? 訊いてから気づいたんだけど、この質問はちょっと無神経だったかも……」

 

 言葉尻をすぼませ、顔を俯かせる幸。それを目にし、沙綾ははじめて自分の問いの持ち得る意味に気づいた。

 趣味なんて言葉とは無縁の世界を生きてきた彼にそれを問うなど、下手をすれば皮肉と捉えられても不思議ではない、と。

 無論それは、可能性があったというだけの話で実際にそうなったわけではないのだが、それでも沙綾は配慮が足りなかったことを反省した。

 

「いえ! そういうつもりじゃないのはわかりますし、それに……最近は毎日、すっごく楽しいですから」

 

 だがしかし、相手のことを思うあまりまるで腫物のように扱うことを、逆に配慮が足りないという人もいる。このあたりはもはや各々の価値観の問題で正解のない領域であるが、少なくともこの場においては、傷ついたものは誰もいないようだった。

 

「……余計な気遣いだったっていうんなら、まぁそれが一番だね。よかったよ――あ、いらっしゃいませー!」

 

 そんな話をするうちに、新たな客が店内へとやってきた。

 それを契機に、二人はただの店員と客という立場へと戻る。

 

「また来てね!」

「……! はい、必ずまた!」

 

 いつかと同じ言葉を交わして、幸は明るい表情のまま店を後にした。

 

 

 

 そして、そんな彼の様子を少し離れた場所からじっと観察する影が二つあった。

 

「うぅ、幸ぃ。いつの間にか一人でお買い物ができるようになっていたのね……」

「いやいや、いくらコウくんだってそれくらいできるしょ」

 

 言わずもがな、それは奥沢美咲と祖師谷優だ。通話の後に急いで準備をし、落ち合った二人が幸の姿をとらえたのは彼がちょうど店に足を踏み入れる時だった。

 二人が身を隠しているのはやまぶきベーカリーの対角、北沢精肉店の傍に立つ電柱の影。距離の問題で声が聞こえるはずはないのだが、万が一のことを思ってか、その大きさは控えめだった。

 

「っていうか美咲ちゃん、(みゆき)のことまだコウくんって呼んでるんだね」

「え? あー……いや、二人きりの時とかは幸って呼んでるんだけど、周りに他の人がいる時はそう呼ぶくせがついちゃっててさ。そっか、祖師谷さんだったら普通に呼んでいいのか」

 

 美咲の語った通り、彼女はその時々の状況によって幸の呼び方を使い分けていた。だがそれは、周囲の人間と認識の齟齬から余計なトラブルを起こさないように、というのが主な理由である。

 従って、幸のことをよく知る優に対してはそこに気を付ける必要はなく、そのことに気が付いた美咲はポンと手を打った。

 

「それにしても、ここにいるとお腹がへって仕方ないわね……」

「あぁ、うん……。それは同感」

 

 優がお腹をさすると、美咲は困り顔でそこに同意を示した。

 現在の時刻は午前十一時半。人によっては昼食をとっていてもなんらおかしくない頃だ。

 そこに、起きてすぐに家を出たせいで朝食を食べていない事、この交差点にやまぶきベーカリー、羽沢珈琲店、北沢精肉店といい匂いをばら撒く店舗が集中している事が加わり、二人の腹の虫は今にも鳴きだしそうだった。

 

「けど、どっかお店に入る訳にもいかないし、尾行しながら片手で軽く食べれるものないかしら?」

「パンとか? ちょうどそこに売ってるよ」

「おばか! それじゃ見つかっちゃうかもでしょ!」

「ま、それは冗談として。真面目な意見だと、コロッケとか?

 

 そう言って美咲が北沢精肉店の方へ顔を向けると、そこに立つ店主と目が合った。どうやら二人の会話が耳に届いていたようで、その顔に朗らかな笑みを浮かべると、『どうだい』とばかりにコロッケを両手に掲げた。

 精肉店らしく牛肉のふんだんに使われたコロッケは、それだけを昼食とするには物足りないかもしれないが、追跡のあいだ空腹を紛らせる程度であれば充分そうなボリュームがあった。

 

「いいわね! 私はあの子のこと見てるから、美咲ちゃん私の分も一緒に買ってくれる?」

「ん、わかった。了解」

 

 優から料金を受け取ると、美咲は店主の前に出てコロッケを購入する。紙袋に入れてもらっている間に美咲は軽く店内を覗いてみたが、どうやらはぐみの姿はないようだった。

 

「あ、幸が歩き出したわ! ついて行くわよ、美咲ちゃん急いで!」

「あーもう、わかったから。すいません、騒がしくして。ありがとうございました」

 

 美咲がコロッケと買っているうちに動きがあったようで、優がその背中を見失わないよう駆けていく。美咲は店主に頭を下げると、優の後に続くのだった。

 




北沢精肉店の前に電柱は本当にあります(アプリ画面参照)


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閑話「幸せ模様クッキング」後編

ほっぽる……放っておくこと。筆者は方言ではないと思ってる。


 やまぶきベーカリーを出た幸は、今しがた買ったパンを食べるため落ち着ける場所を探した。

 とは言っても、そもそも知っている場所自体がそれほどない彼に選択肢は少なく、最終的に選ばれたのは近くにある公園だった。

 朧げな記憶を頼りになんとか目的の場所までたどり着いた彼は、まず水道で手を洗い、それから人のいないベンチを見つけて腰を下ろすと紙袋からパンを取り出した。

 彼が手に取った一つ目のそれは、カレーパン。前回やまぶきベーカリーを訪れた際に買ったものの中で、ひときわ彼の舌に合ったことが記憶に濃く、思わず買ってしまった一品だった。

 

(趣味……趣味、かぁ……)

 

 もぐもぐと口を動かしながら、幸が頭の中で転がしているのは先ほど沙綾との会話。

 あの場ではいくら考えても答えの得られなかった問いを、彼は改めて真剣に考えていた。

 

(趣味、あるのかなぁ? バンド活動は、多分そうだと思うんだけど……。他にも何か一つくらいもっておくべきなのかも)

 

 その自問に、まず浮かんできたのは当然バンド活動だ。

 それは、いまや幸の生活になくてはならない存在であるが、同時に彼がこれまで趣味というものに意識が向かなかった原因でもあった。

 要するに、余暇時間のうちハロハピの占める割合が大きすぎたのだ。

 まれにある休日は大概バンドにまつわる予定が入り、稽古日のこまごまとした休憩時間も演奏の練習に充てられる。このように彼の生活はほとんど塗り残しなく二つの色で埋められていたため、それ以上の要素が入り込む隙間がなかった。

 彼がそこに何か不満を感じたことはなかったが、沙綾の話を聞いてその考えは変化を迎えようとしていた。

 

(そもそも、趣味ってどういうものなんだろう? 山吹さんはヘアアクセ集めって言ってたな……。美咲さんは羊毛フェルトで、花音さんはカフェ巡りだっけ……? それから――)

 

 何かについて考えるのならば、まずはその定義から。

 そんな考えに従って幸は、覚えている限りの知り合いの趣味を列挙し、帰納的にその輪郭を浮かび上がらせようと試みる。

 

(うーん、よくわかんないなぁ……)

 

 しかし、結果は芳しくない。

 どの具体事象も趣味の一例であると言われれば納得ができるが、それらすべてにあてはまる包括的な概念が浮かばない。

 そんなもやもやとした感覚に、幸は襲われていた。

 

「あれ? おーい!」

 

 彼の思考がドツボにはまろうかというそのタイミングで、視界の外からどこか聞き覚えのある声が彼の耳を叩いた。

 その言葉はただの呼びかけで名前が含まれていたわけでもなかったが、不思議と彼はそれが自分に向けてのものであることが理解できた。

 呼び声の元、彼から見て左手にある出入り口の方へ幸が顔を向けると、そこには見知った人物が二人立っていた。

 

「戸山さんと市ヶ谷さん……?」

「こんにちは! こんなところで奇遇だね?」

「あ、はい! こんにちは」

 

 それは戸山香澄と市ヶ谷有咲。姉である優の知り合いということもあって、ハロハピのメンバーに次いで彼とは面識の多い人物だ。

 かけっこの末に飛び込んできたあの日と違い、二人は並んでゆっくりと彼のもとまでやってくる。

 それから断りを入れて幸の隣に座ると、さっそくとばかりに言葉を投げかけた。

 

「ねね、ここで何してたの? というか、今日は一人なんだね」

 

 休みなく押し寄せる香澄の言葉に、幸はたじたじながら一つ一つ答えていく。

 ひとしきり話をして話題が一時尽きると、香澄は目を輝かせて『それにしても』と新たに言葉を続けた。

 

「私は今日たまたま有咲と二人で遊んでたんだけど、キミもたまたま今日ひとりでお出かけしてて、それであの日みたいに偶然この公園で出会うなんて……なんだか運命感じちゃうね!」

「ひぇっ……そ、そうですね……」

「詰めすぎ詰めすぎ、距離感バグってんのかお前は!」

「えへへ、ごめんなさーい」

 

 興奮のあまりずずいっと寄せられた香澄の身体を、有咲が肩を引いて彼から離す。

 それに対する香澄の謝罪は本当に反省をしているのかわからない軽いもので、有咲はため息をついて、顔を赤くした幸へ優しく話しかけた。

 

「あー、それで? 結局ここでは何してたんだ? また考え事か?」

「えっと……そうですね。ちょっと趣味について色々と考えてまして」

「へー、そうなんだ。ちょうど同じような話をこの前みんなでしたなぁ。私はね、あっちゃんと一緒に新しく家庭菜園はじめたんだよ! 最近は水をあげるのが毎日の楽しみなんだー」

「はっ、そのうち水のやりすぎで妹さんからもう野菜に触るなって言われたりしてな」

「もう、そんなことしないよ! あ、ちなみに有咲は今度、盆栽のコンクールに出るんだって」

「ちょっ! お前なぁ、余計なことは言わなくていいんだよ!」

「きゃー! ごめんってばー!」

 

 自分のことに限らず次々と話をしだす香澄へ、ついに有咲の雷が落ちる。

 わーきゃーとじゃれあう二人の空気は口論とは裏腹にとても楽しそうなもので。付き合いの浅い相手のどこか緊張気味だった幸だったが、いつの間にかすっかり肩の力が抜けてしまった。

 

「ふふ、仲良しさんですね」

「……ん? なんか言ったか? っていうか、ごめんな、ほっぽっちゃって。なんだっけ、趣味についてだっけ?」

「はい。趣味って何なんだろうって考えてて……」

「何なんだろう、っていうと定義の話になんのか。改めて考えると難しいな」

 

 幸の抱えていた問いを聞いて、二人は考え込む。ウンウンと頭を悩ませて、やがて先に声を上げたのは香澄の方だった。

 

「そうだなぁ、楽しいことじゃない?」

「それだとお前なんかやる事なす事ほとんど趣味になっちまうんじゃねえの?」

「確かに! 楽しいことっていっぱいあるもんなぁ。うーん……」

「考えてみたけど、万人共通の明確な定義ってのはないんじゃねーかな? あぁは言ったけど、香澄の考え方も間違ってはないと思うし」

「難しいですね……」

 

 二人の意見を新たに聞いては見たものの、依然として疑問の答えは霧がかったまま。

 

(二人はどうやって趣味を見つけたんだろう?)

「あの――」

「あ、やべ」

 

 次なる質問を彼が二人へと投げかけようとしたとき、不意に携帯の画面を見た有咲は短くそう漏らした。

 

「香澄、そろそろ行かなきゃまずいぞ」

「えっ!? もうそんな時間?」

「まぁ、もともと寄り道する予定じゃなかったしな」

 

 有咲の言葉に、香澄も自分の携帯で時間を確認すると慌ててベンチから立ち上がる。

 どうやら二人はこの公園ではなく、他に行くべき場所があったらしい。おそらく、本当はただ横切るだけのつもりだったが、幸の存在に気づいて足を止めていたというところだろう。

 そのことを目の前のやり取りから読み取った幸は、こちらも大慌てといった様子で頭を下げた。

 

「す、すいません! 余計なお時間とらせてしまったみたいで……!」

「そんなことないよ、気にしないで!」

「そうだぞ、こっちが勝手にやったことだしな。むしろ最後まで相談乗ってやれなくて悪いな」

「いえ、とっても参考になりました。ありがとうございます」

「ならいいんだけどさ。よし、香澄いくぞ」

「……んー? ねぇ有咲、ちょっと待って」

 

 話を終えて有咲が出発をしようと香澄の手を引くが、彼女はそこに待ったをかけた。

 見るに、何か気になることがあるようで、香澄は目を閉じてすんすんと鼻を鳴らしていた。

 

「なんだよ、まだギリギリってわけじゃないけど余裕あるわけでもないんだからな?」

「すごくいい匂いがするの。こう、なんか香ばしい感じの……」

「香ばしい匂いだぁ? それ普通にパンの匂いじゃねぇの?」

 

 呆れ気味に有咲は幸の方を親指でさす。彼の傍にはまだパンの残っている紙袋が置かれており、その匂いではないかという、そういう指摘だ。

 

「いや、それは最初からずっとあったもん。それとはちょっと違う感じの……」

 

 だが、パンの存在は香澄も忘れていなかったようで、それを否定する。

 そのまま彼女はふらふらと少し離れた茂みの方に歩いて行き、とつぜん手を打った。

 

「思い出した! これコロッケの――おぉ?」

 

 言葉を途中で切った香澄が、素っ頓狂な声を上げる。

 その視線の先、茂みの裏にはまるで人目を忍ぶかのように身を屈める奥沢美咲と祖師谷優の姿があった。

 

「ど、どうも」

「えっとね、香澄? これは、その――」

「ええぇぇ!? 美咲ちゃんに優! こんなところで何してるの!?」

 

 制止も言い訳もする暇なく、香澄は感情のまま大声で二人の存在を言い放つ。

 その大声は幸や有咲のもとにもばっちり届いており、彼らも驚きの表情を香澄の方へ向けている。

 もはや誤魔化しはきかない。即座にそう判断した美咲たちは、まるで自首をするかのように両手を上げてその姿を現した。

 

「もー! 袋空けた瞬間に気づくとか、香澄ってば鼻よすぎ!」

「ほんとね、まさかこんな気づかれ方するとは思わなかったよ……」

「えっ、美咲さんとお姉ちゃん!?」

「うお、マジでいたんだ」

 

 予想もしていなかった人物の登場に幸は愕然とする。

 有咲も少しびっくりしたが、すぐに幸の可愛がられ具合を思いだして、むしろ納得の方を強く感じていた。

 

「ねーねー、二人とも何してたの? ねぇってばー」

『…………』

「あー、うん。よし。香澄、行くぞー。時間ないしなー、うん」

 

 しつこく問いただす香澄と、何を言っていいのかわからなくなっている他四人。

 そんな微妙な空気を打ち破り、有咲は香澄の腕をぐっと掴んで強引のその場を離れにかかった。

 それは何があったのか気になる気持ちと、本当に時間がないという実状、そしてものすごく面倒くさそうという予感がせめぎあった末の行動だった。

 

「あっ、ちょっと待ってよ有咲―! みんなバイバーイ、またねー!」

 

 有咲と香澄、二人の後ろ姿がどんどんと遠ざかってゆく。そして、それが住宅路の曲がり角に消えたころにようやく、幸はおずおずと言葉を発したのだった。

 

「えっと、偶然では……ないよね?」

 

 それは質問ではなく、確認。

 責めているような雰囲気こそなかったが、それでも二人は居心地の悪さを感じざるを得なかった。

 

「まぁ、そうね。幸が珍しく……という初めて? 一人でお出かけしたみたいだから、気になっちゃって」

「あたしは祖師谷さんに付き合わされただけでーす」

「あ、ちょっと美咲ちゃん! それはないんじゃない!?」

 

 しれっと潔白を主張する共犯者に、しかし優はそれが事実であるために反論することができない。

 その後、一度落ち着いてベンチに腰を並べた三人は、色々と話をして互いに知りたがっている情報を交換した。

 

「はー、沙綾と約束ねぇ。それで急に一人で出かけたんだ」

「にしても、言ってくれたら別に付き合ったのに」

「個人的な事なので、やっぱり悪いかなって思ってしまって……」

 

 そんな中、今しがた去ったばかりの香澄や有咲のことが話題になると、美咲たちはある事実に驚きの声を上げた。

 

「え、あの二人が来たのって偶然だったんだ」

 

 気づかれないように尾行をするという関係上、美咲たちはそこそこの距離を常にあけた状態で幸のことを観察していた。

 必然、彼女らには話している内容などは聞こえず、幸が公園について二人と合流するまでさほど間がなかったことも相まって、美咲たちは彼が自分で連絡を取って香澄たちと会ったと思っていたのだ。

 

「ちなみに、戸山さんたちとは何の話をしてたの?」

「話というか相談というか、内容は趣味についてなんですけど……」

 

 幸は、香澄たちにしたのと同じように、優と美咲にも説明を施す。

 沙綾に意見を求められたこと。そこから、趣味について考えるようになったこと。

 

「美咲さんは、趣味ってどうやって見つけましたか?」

「うーん、難しいなぁ。趣味はいつの間にかあったって感覚で、見つけようって自分で意識したことなかったし……」

 

 たとえば美咲の趣味といえば羊毛フェルトであるが、彼女がこれをはじめから『これを趣味にしよう』という意識のもと手を付けたかといえばそうではない。

 何かの機会に作った羊毛フェルトの作品を彼女の妹がいたく気に入り、そのように喜んでもらえるのが嬉しくて繰り返し作るうちに、いつしか趣味と言えるようになっていたのだ。

 

「そうですか……。趣味って、どうやって見つければいいんでしょう」

「ん-、そもそも一回やっただけで趣味になることってあんまりないだろうしなぁ。例えばだけど、最近やったことのなかで楽しかったこととか嬉しかったことがあれば、それを何度かやってみると趣味になるかも。何かない? そういうの」

 

 美咲の提案に、幸は必死に記憶を掘り起こす。

 稽古の中で新しく習ったこと。ハロハピに連れられた先でやったこと。美咲や花音、優などから教えてもらったこと。

 様々なことが頭をよぎるうちに、幸は一つピンとくるのを感じるものがあった。

 

「あ、このまえ体育祭があったじゃないですか?」

「体育祭って花女(うち)の? うん、確かにあったけど」

 

 体育祭と聞いて美咲は、少し前にあった自分の学校のそれを思い出す。あの時は、ハロハピメンバーの一人である北沢はぐみの関わるなんやらがあり、まだまだ美咲の中では記憶に色濃い出来事だった。

 しかし、自分自身ではなく他人の学校の体育祭がどう今の話に関わってくるのか、それが理解できず美咲は言葉の続きを待った。

 

「その時に母さまと一緒にお姉ちゃんにお弁当を作ったんですけど」

「へぇ、そうなんだ。あ、なるほど。その料理が楽しかったってことね?」

 

 何それ聞いてない、見に来てたのなら声かけてくれればよかったのに、飛び出そうになるそんな言葉を胸にしまい込んで、美咲は話の続きを予測する。

 だが、対する彼の反応は純粋な肯定ではなかった。

 

「料理自体が楽しかったっていうのも、その、あるにはあるんですけど。お弁当を食べたお姉ちゃんがとっても喜んでくれてたのが……えっと、嬉しかったというか、その……」

 

 話している相手が美咲だけだったならばそんなこともなかったのだろう。しかし、本人が目の前にいるということで、心情を述べる彼の顔は耳の先まで真っ赤に染まっていた。

 

「どうよ、美咲ちゃん。うちの弟かわいかろ?」

「あー、うん。まじで、うん」

「もう、お姉ちゃんうるさい! なんでそういうこと言うの! ほんとにやだ!」

 

 揶揄うような優の言葉に、幸は頬を膨らませて文句をぶつける。

 砕けた口調で遠慮のない彼の様子は、美咲からすればあまり見慣れないもの。美咲は、なんだか新しい側面を見たような気分になって小さく笑みをこぼした。

 

「幸って、お姉さん相手だとそんな感じになるんだね。なんかちょっと意外かも」

「そういえば、姉弟でそろって美咲ちゃんと会うのってあんまりなかったっけ。個人同士では結構会ってるんだけどね」

「そうだね。だからちょっと驚いてる」

「も、もうそれはいいじゃないですか! 話を戻しましょう!」

 

 家族に対する、いわば気の抜けた自分の態度について言及をされるのがなんとも恥ずかしく感じられて、幸は赤い顔のまま話題の転換をする。

 その様子があまりにも必死なものだから、二人は思わず顔を見合わせて、はいはい、とそれに応じた。

 

「にしても、料理か。いいんじゃない? 趣味としても普通に聞く部類だし」

「そうだ! どうせならこの後、みんなで一緒にお料理しましょうよ!」

「え、今から?」

「いいじゃない、二人とも別に予定ないでしょ?」

「いやまぁ、そうだけどさ」

「お姉ちゃんがごめんなさい、美咲さん……」

 

 どこでやるのか、何を作るのか、まだ何も決まっていないままではあるが、三人はひとまず食材を買いに商店街の方へ戻ろうと公園を出るのだった。




題名は「私模様テクスチャー」から。
この後に商店街でチラシを見つけて、つぐみのお菓子教室にお邪魔するルートもあったけどやめました。


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